そのとき誰かが十字架をステージに投げ、かれはそれを拾った。次の町へ行き、気分がすぐれなくて「いままで持ったことがないもの。今夜はそれが必要だ」と思った。そして、とかれは続けた。「ポケットを見たら、その十字架があった。だから、あれを投げた人が今日ここに来ているなら、ありがとうと言いたい」
初の日本公演を含む長期の世界ツアーを終了した後、ディランはイエス=キリストに帰依して熱心なクリスチャンとなり、極めて宗教色の強いアルバムを発表し始めました。本作から「Saved」「Shot Of Love
」と続く三作は俗に“キリスト教三部作”ともいわれ、その愚直なまでにストレートな信仰告白から多くの反発と非難の対象となり、低い評価をされてきました。
しかし私はこの時期のディランを-----おそらく '60年代と
'70年代半ばの活動に続く三度目のエポック・メイキングな-----精神的に非常に昂揚していて、かつ優れた作品を生み出していた時期だと思っています。いつもディランに関する様々な文章を目にするたびに、「宗教的」というだけでこの時期の作品が適切な批評もされず(その俎上にもあげられず)、ないがしろにされているのを歯がゆく思っていました。それはいわゆるロック批評家と称する書き手側に、宗教的な事柄を論ずるだけの力も知識もなかったためではないでしょうか。ほんの一握りの例外を除いて、この時期のディランの歌の真意を正面から真摯にとりあげた批評を、私はほとんど目にしたことがありません。
ともあれ、ディランのこの時期の信仰についての私の意見は「Saved」のコメントにまとめて書きましたので、ここでは主にアルバムのサウンド面について記しておきます。
おい、これはプロのレコードだぜ。ぼくがこれまで作ってきたのは趣味のレコードだったんだ。
レコーディング終了時のディランのこの有名なコメントのとおり、このアルバムはひと言で形容するなら、入念に練られた設計図をもとに完璧に仕上げられた、気品と優美さに勝る石組みの古典建築物とでもいったらいいでしょうか。同時に音楽的にはとてもファンキーで、深い味わいと体温を感じる、そう、たとえばバッハのカンタータの形式とストラヴィンスキーのリズムが交錯するような、そんなホットなサウンドに満ちています。
アレサ・フランクリンなどのR&Bを手がけてきたアトランティック・レコードの立役者ジェリー・ウェクスラーと、南部のマッスルショールズ・サウンドのキーボード奏者のバリー・ベケットをプロデューサーに迎え、当時まだデビューしたての
Dire Straits
からマーク・ノップラーとドラムスのピック・ウィザーズを抜擢し、ニール・ヤングとの活動でもおなじみのティム・ドラモンドをベースに配して行われたレコーディングで、ディランはおそらく生涯唯一の忍耐強さで緻密できめ細やかなレコーディング作業につきあい、それは非常に質の高いサウンドとして見事に結実しています。おそらく完璧さから言ったらディランの全アルバムの中でも随一で、そのあたりはもう少し素直に評価されてもいいのではないでしょうか。
個人的にはレコードでいう特にA面が充実の力作揃いで、このアルバムの象徴ともいえるヒップな
Gotta Serve Somebody
から始まり、ノップラーの爽やかなギターが冴え渡る Precious
Angel、感動的な決意表明の I
Believe In You、そして緊迫したダイナミックなタイトル曲の
Slow Train
までほれぼれするようなプレイが続きます。そしてラストを締めくくるピアノ伴奏のみの荘厳で敬虔な
When He Returns
は、やはりディラン究極の名唱のひとつでしょう。またこのアルバムは、ニール・ヤングの下手上手(へたうま)ギターにも匹敵するディランのボーカル・コントロールが危うくも絶妙なバランスの中でその極みに達している、そんな醍醐味が愉しめる作品でもあります。
もともとこれらの作品は、当時ディランのバンドの女性コーラスを務めていたキャロライン・デニスに全曲を歌わせ、ディラン自身がプロデュースをするつもりだったのが途中で変更され、結局ディラン自らがレコーディングすることになったものだそうです。収録曲以外に数曲のアウト・テイクがあり、そのうち
Trouble In Mind は Gotta
Serve Somebody
のシングル盤のB面に収録され、後の「Shot Of Love
」に入っていてもぴったりな生気溢れるリズムの Ye Shall Be
Changed は「bootleg series vol.1-3」で公表されました。
またディランはこのアルバムの Gotta Serve Somebody
ではじめてグラミー賞(ロック部門・最優秀男性ボーカル)を受賞し、授賞式の会場でずっしりと重いパンチの利いたイカした演奏を聴かせてくれました。さまざまな意味で、ディランの節目といえる重要な一枚だと思います。