ホテルの部屋に、イエス・キリストととしか考えられない存在が現れた。そして、イエスの手が私の肩に触れた。実際に私の肩に手をお置きになったのだ。そのとき私は・・・・全身が震えるのを感じた。神の至福が私を打ち砕き、そして拾い上げたのだ。
20代の長い一時期、わたしにとってディランのこのアルバムとヴァン・モリスンの「No
Guru, No Method, No
Teacher」は、ロック・ミュージックなどとという枠を超えたところの、心にもっとも近しい得難い糧のようなものでした。私は何度も二つのアルバムに立ち返っては、そこから殺されることのないある種の感情のようなものを汲み上げて来ました。
私は個人的にいかなる既成の宗教とも関わりを持っていないし、明確な意味での形ある信仰も持ちませんが、人がこの世で生きていくためにはある種の“宗教的なもの”が必要だと考えています。宗教という言葉が嫌いな人なら、レイチェル・カーソンの記した
Sense Of Wonder
という言葉に置き換えてもいい。見えるものだけが世界のすべてではないし、むしろ目には見えないさまざまな要素によって人は生かされている、と。その点においては、私の立場は昔からずっと一貫しています。
ボブ・ディランが熱心なクリスチャンになってイエスの歌を歌い出した。人々はかれを非難し、顔をそむけ、冷笑した。ではなぜ Staple
Singers が信仰の歌を歌うのはいいのだろうか。Aretha Flanklin
や Tom Waits がジーザスの歌を歌ったり、George Harrison
がハレ・クリシュナを歌ったりするのは? あるいはネイティブのインディアンが聖霊(Great
Spirit)に向けて草笛を奏でたり、アイヌの人々が熊の魂を彼岸へ送るための唄と踊りは?
いまはすべてのものが歪んでいる時代で、すべてのサインは間違った方向を指している。だから私は私の価値観を聖書の言葉に基づいておきたい------変化することのないものの一部でありたいのだ。
「人がどこに向かっていくか(Wohin)という問いは、確かに量り知れない重要性を持ってはいるが、しかし、そこに向かっていくのは一体誰なのか(Wer)という問いも同じくらい重要であるように私には思われる。そして“誰なのか”という問いは常に、その人間は“どこから
Woher”来たのかという問いに結びついているのである」(C.G.ユング) 私はディランがイエスについて語るのは、たとえば私自身が親鸞や中世の悪党について考えたり、縄文土器の文様に心を震わせたりするのと同じことだと考えています。自分はどこから来たのか-----もちろんその背後には、いつもあの死の存在があります。その問いと恐怖に晒された精神は、自らの神話のふかみへと降りていくのです。
ディランがキリストの身体に触れた、というのは、私は確かにそのような体験があったのだろうと思います。ユングの心理学風に言うなら危機に晒された魂が帰還する聖域(テメノス)、“薄明の領土に、いっさいの期待がまどろみ眠っている”地中の暗い王宮------集合的無意識のかけらに触れた、となるでしょうか。キリスト教文化圏に生まれたディランにとって聖書とイエスへの遡行は、一度は辿らなくてはならない必然の道のりであったように思います。そして恐らくその体験は、分裂病者が治療過程において見せるようなダイナミックかつリアルで、圧倒的な感情の渦に身を浸されるような忘れがたいものだったろうと思います。
人は誰も自分の真理を心にもっているという偽りが、多くの害をもたらし、人々を狂わせた。
多くの人がディランの信仰について語っていますが、なかでも私には「あれはボブの博愛精神なんだ。かれは昔から倫理観の強い人間だった」というクラプトンと、「かれの信仰は人類のすべての人に対する愛情のようなものだ」というロン・ウッド-----ディランを心から理解している二人のソウル・メイトの言葉がいちばん核心に近いと思っています。「キリスト教」や「聖書」といった言葉は、いわば表面を包んでいる卵の殻のようなものです。同じように聖書に親しんだ太宰治が破壊と道化の仮面をかぶりながら実は純朴なまでのモラリストであったように、ディランも愚直なまでにモラル(倫理)というものを追い求めた、と私は思っています。その姿勢は、Lonsome
Death Of Hattie Carroll のディランと同じです。
これより以降、私はディランの内面で何かが決定的に変化したと思っています。何が、変わったのか。それはディランが、自分は無力でつましい、生かされているちっぽけな存在だと気づいたことです。人々はディランに肥大化した自我とそこにまとわりつく強大なペルソナを求め、かれがその磁力で引っ張ってくれることを絶えず望みます。だがここでのディランは、そうした自我を脱ぎ捨て、美しいまでに赤裸々で弱く無防備で、同時に確信と情熱に満ちています。前作の「Slow Train
Coming」では、まだ自分の信仰に対する非難への「構え」がありましたが、このアルバムはただもうひたすら心のままにというピュアな姿勢で、サウンドも一層シンプルでタイトなものになっています。
ひとりの死にいく存在としての人間として、多くの非難と冷笑を覚悟しながらも、ディランが生涯においてこのようなアルバムを発表したことを、私は非常に嬉しく思い、また共感します。What
Can I Do For You ?
のすべてを投げ出したボーカルと荘厳なハーモニカの演奏を前に、私たちはいったい何が言えるでしょうか。しかしかれはここにさえ、とどまってはいません。教条的な信仰告白の歌詞にはとまどいや抵抗感を感じる方もいるかも知れませんが、どうぞその奥にある何かに耳を澄ませてみてください。古くて新しい、清冽な地下水のようなディランが-----いや、「ディラン」はここにはいないのです。寄る辺なく名もない、ひとつの裸の魂がここにあるだけです。
ほんとうに、ほんとうに、あなたにいいますが、水と霊から生まれるのでなければ、天の国へはいることはできません。肉から生まれたものは肉、霊から生まれたものは霊です。上から生まれなくてはいけない、とわたしがいったことに驚いてはいけません。(ヨハネ・第3章)
....リビドに新しい方向を提供して解き放ち、精神的な形へと導く。つまり人間は精神的存在者として、もういちどこどもになり、新しい兄弟の輪の中へ生まれてくる.... (ユング・変容の象徴)