俗にいわれる“キリスト教三部作”の完結編ともいうべきこのアルバムは、'80年代の、たとえば次作の「Infidels」やその後の「Oh
Mercy」などに比べると評価が著しく低いというか、どうも影の薄いアルバムに見られがちですが、実は私は、けっこう大好きな作品のひとつです。
私はもともとディランのレコードに付いている解説は、ヘンに細部にこだわっていたり、的はずれだったり、あるいは逆に手放しで持ち上げすぎ(最近の菅野ヘッケル氏)だったりであまり信頼していないのですが、このアルバムのレコード盤に添えられていた天辰保文氏の評は、珍しくなかなか的確なものだと思っています。ちょっと引用します。
この新作に関して言えば、ロックの気品というようなものを、ぼくは感じている。それは漠然としたものであり、ロックに対する姿勢とも呼ぶべきある種の認識にすぎないが、同時に、ロックの近代化を意味するほど素晴らしく、大きなものであるような気がしている。
サウンド的にいえば南部の黒人音楽をベースにした、非常にずぶとく、骨太で、同時にどこか伸びやかなリズムと簡素なフレーズ、そして素朴な歌心が溢れ、あわせてそのごつごつとした感触のすき間から、やわらかな繊細さが自然とにじみ出てくるような、そんな感じでしょうか。
それらを端的に表しているよい見本が、シングルとなった愛らしい
Heart Of Mine
のサウンドだと思います。ここでは天辰氏のいうように、セッション風の一見雑然としたごった煮的なリズムの中から、何とも
Sweet
なかぐわしさが匂い立ってくる。ディランの下手ウマのピアノもいい味を出しているし、特にこのどったんばったんしつつもヒューマンな温りある独得のリズムを刻めるのは、やはりジム・ケルトナーしかいないでしょう。そうしたすべてを含めて、この曲はディラン自身が理想とする魔法のサウンドを作り出しているような気がします。荒削りでいて、限りなくやわらかい。
作品としても味わい深い曲が並んでいて、一方に Shot Of
Love
の贅肉をそぎ落とした簡潔なリフと張りつめた緊張感があり、もう一方の
In The Summertime
ではゆったりとしたランボーの歌う海にとけ込むような大きな喜びのうねりがあり、それらがアルバム全体を交差しています。個人的には麻薬の異常摂取で死んだ希有な風刺家を悼んだ
Lenny Bruce
も好きですし、またラストをしめくくる非常に荘厳で告白的な
every grain of sand
は、ある意味でディランの偽りなき裸心の結晶ともいうべき歌でしょう。旅路の果てに立っている、ひそやかな墓碑銘と言ってもいい。自身の宗教的告白に対する嘲笑に身構えいたディランが、ここではもうそんなことすらどうでもよいと静かに諦念して、ただ己の心にだけ耳をすまし(but I'm listening only to my heart)
対峙しています。
おそらくディランがこのアルバムで目指したのは、大衆的な新しいロックの形、のようなものだったと私は思います。同時にもっと内的な意味でいうなら、世俗的なモラルのようなもの。山の頂で思索を重ねてきたツァラトゥストラが地上に降りてきて、路上の野菜くずやボロ切れのようなもののひとつひとつに神の雛形を見出し、それらとともに歩み始めるような、そのような精神のあり方。そのかれの狙いは、見事にここで結実していると思います。
ディランはここで「'80年代の新しいBlonde On
Blonde」をつくったのです。それは素朴で豊かで、雑然としていてまとまりがあり、粗く繊細で、喜びに弾みかなしみに跪き、河原の石ころや鍋や釜のような、そんな音楽です。
ゲスト参加としては、前述した
Heart Of Mine
にリンゴ・スターやロン・ウッドなど、またいくつかの曲でハートブレイカーズのベモント・テンチがキーボードを弾いているようです。ほぼ全曲で、トム・ウェイツのアルバムなどでも知られるフレッド・タケットのごっついギター・プレイが聴けるのも味わいどころ、かな。
このアルバムが発表される以前、ディランがLP3枚組の新作を考えているといううわさが一時流れたそうです。実際に当時、ディランはそれに見合うだけの大量の(しかも充実した)作品のストックを抱えていて、アルバムに収録されなかったそれらの素晴らしい作品の数々は、後に別の企画などで公表されていますので、ぜひそちらの方も聴いてみてください。
「Biograph」には、暑い真夏の白昼夢を歌ったような、溌剌として魅力的なサウンドの
Caribbean Wind と、Heart Of
Mine
のこちらもみずみずしいライブ・バージョンが収録されています。またアメリカではシングルのB面として発売されたソリッドな
Groom's Still Waiting At The Alter
も入っていますが、これは後にアルバムのCD盤に追加収録されました。
「bootleg series
vol.1-3」には、犬の鳴き声も入っている素朴な
every grain of sand
のレア・バージョン、たたみかけるような迫真に満ちたサウンドの
You Changed My Life、ライ・クーダーもカバーした(Ry Cooder「The Slide Area」)
南部的な重量感のある Need A
Woman、シュールな長編映画のようなこれも聴き応えのある素晴らしい
Angelina、などが収録されています。