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 子とYの「よき友人」、近所のDさんが店を開いた。もともと近くの畑の一部を借りて野菜作りをしていたのを、隣接する駐車場にじぶんの軽トラックを置いて、その荷台に畑でとれた収穫物を並べたささやかなお店だ。荷台の片方が50円で、もう片方が100円。営業時間はDさんが畑にいるときで、不在のときは「電話をしてください」と自宅の電話番号が貼られている。さっそくYと子は50円のインゲンを買ってきたが、開店セールか、Yいわく「買うものより“つけてくれるもの”の方が多いのよ」 「Dさんはあのやさしさが、じぶんの身を滅ぼしかねないね」と、家に帰ってから子は母に言ったとか。

 Willie Nelson の How Great Thou Art を歌いながら夜道を帰ってきた。この特別な歌の喚起するものが、パウル・シュナイダーの行為にもつながっているだろうかと自問しながら。「夫であり父である」以前に存在するものとは、わたしのような非キリスト者にあってはある種の狂気に過ぎない。それは現世を跳び越えてしまう狂気だ。

2008.10.28

 

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 日本列島への文化の伝来は大陸沿岸づたいのルートだけではない。もう一つ 「北赤道海流→黒潮・対馬海流」という強力なベルト・コンペアーがある。西に向かって流れる北赤道海流はミクロネシア、インドネシアを洗い、それに付随してメラネシアの文化も運ぶ。そして大陸の東毎岸に衝突して北上する。すなわち、フィリピン付近の東南アジア島嶼群を始源とする黒潮となって北上し、台湾の東沖を通り、一部は台湾と大陸南岸との間を通って北上する。黒潮の本流はさらに奄美の北西方で二つに分かれ、本流と対馬海流となって日本列島を包み込むように北上する。本流は平均流速3ノット、対馬海流の平均流速は0.5〜1.5ノットといわれる。これらの、ベルト・コンペアーが運ぶ漂流物は、ニューギニア海域、ソロモン群島、フィリピンなどの東南アジア島嶼群、福建・浙江両省などの大陸沿岸、金門島、馬祖島、台湾、近くは朝鮮半島などが主な出航地である。ココヤシやトウゴマ・ニッパヤシ・カシューナッツらは無論、ルソン島西岸に生息するノーチラス・ポンピュラスというオウムガイの殻、さらにはニューギニア海域とソロモソ群島にしか生息しないヒロベソオウムガイの殻、江南あたりからはヒョウタンが、あるいはさまざまな生活用具やラワン製の丸木舟さえ、日本列島に漂着する。風向きも七月頃には、ミクロネシア・メラネシア・インドネシアの海域では日本列島に向かう風向きが生じている。加えて、ポリネシアの人々などは、カヌーで何千里も航海して移住するという能力を持っていた。

 この強力な、ベルト・コンベアーは、縄文時代の昔からさまざまな人やものを日本列島にもたらしたのである。特に、人が渡来すればそれにともなってさまざまな地域の言語が流入する。安本美典氏によれば、日本語は、最も古い層に日本語祖語と朝鮮祖語・アイヌ祖語としての共通する言語があり、そこへ6、7000年前頃、インドネシア系・カンボジア系の言語の波が加わって変形し、さらに紀元前2、3世紀頃までに稲作とともにビルマ系江南語が入ってきたと推察している。カンボジア系というのはおもにクメール語であるが、クメール語やモン語とは、現在では、ビルマ語やタイ語・、ベトナム語などに圧迫されているが、かつては、インドシナ半島を二分して栄えた民族の言語であったという。こうした言語の流入のうち、インドシナ系やカンボジア系の流入はおもに今述べた、ベルト・コンペアーに乗って直接的に伝来したのではないか、と私は考える。無論、大陸沿岸のどこかに寄港しつつである。先頃、ベトナムからの難民の船が九州に漂着するケースが多かったが、まさに同じルートをたどったのではないだろうか。

 このようにして伝来した言葉の中に、クメール語の精霊をあらわす「カモーイ」という語があったのではないか。この語は 「カムイ」となって今でもアイヌ語に残っているが、これこそ「カミ(神)」という語の遠い源ではないだろうか。「カムイ」 は縄文期においては精霊一般を指す言葉であったが、弥生時代を通じて人格化されはじめ、鬼神を経て人格神にまで成長していったと推測できる。特に、別の言葉である 「カミ(上)」という言葉との相乗効果によって上昇の契機をつかんだのだろう。

 さらに、「オニ(鬼)」という言葉も外来であると思う。すなわち、南方のミクロネシア語の霊魂をあらわす「アニ」という言葉に関連があるのではないか。台湾の東南端の島である紅頭嶼のヤミ族は死者の霊魂を「アニト」という。沖縄では鬼のことを「オニ」とか「ウニ」というが、ここでは『おもろさうし』にみられるように、立派な神力や武力を意味する言葉として用いられている。要するに「アニ」→「アニト」→「オ二(ウニ)」という流れが感じられるのだ。ミクロネシア語の 「アニ」あるいはヤミ族の「アニト」に類する言葉は、おそらく縄文時代に入ったのであろう。

 ところで、縄文時代も晩期頃となると、渡来人などの混入を通じて地域集団内の機能分化がいくらか出てきたとみえて、後で詳しく考察するように、特に首長が 「エ(兄、姉)」と 「オト(弟、妹)」 のペアによって構成されていたケースが多かったようである。「エ」にあたる首長が巫覡であって、巫女の場合は 「ヒルメ」、男巫(覡)の場合は 「ヒルコ」 と称されていた。これらは後に 「ヒメ」 「ヒコ」という名称に変わっていく。「エ」 による神的な命を受けて 「オト」としての首長が集団生活における実務的なマツリゴトを行うのである。こうした状況において、外来の 「アニ」とか 「オニ」という霊魂あるいは祖霊をあらわす語は、次第にその霊魂や祖霊にかかわる 「エ」 そのものを指す名称としても用いられるようになったに違いない。このとき霊魂あるいは祖霊をあらわす「オニ」と 「エ」をあらわす「アニ」(後には「兄」の読みとなる)とが分離したのであろう。だから、「ミコ (巫覡)」 は祖霊の 「ミコ (御子)」 でありしかも「カミ(上)」すなわち長兄でなくてはならず、本来的に 「アニ(兄)」が 「カミ(神)」を祭ったのである。この 「アニ」 に女性をあらわす「ネ」 のついた短縮形が 「アネ(姉)」 である。

 「オニ」としての霊魂あるいは祖霊は、弥生時代を通じて祭るものと祭らなくなるものとの違いが出てきて、祭るものは祖霊=鬼神さらには神としての性格を強め、祭らなくなったものは得体のしれない恐ろしい 「モノ」としての性格を強めていったのであろう。おそらく鬼神は、そのような神への上昇と「モノ」 への下降との分岐点にあったと考えられる。特に弥生時代にあっては、鬼神は金属神であり、雷神であり、一つ目とか、一本足とか、角があるとか、あるいは弥生人が身体に赤い顔料を塗る風習があったこともあいまって、赤身の鬼神の姿が成立していったであろう。いずれにしても、「オニ」 は祖霊神としての性格を保持し続けていたと考えられ、その過程で、「ヒト(霊処あるいは霊者)」=人といった観念も出てきたに違いない。「オニ」 はあくまでも祖霊であり、死者の霊魂であるが、「ヒト」 の場合は、生きている者に 「ヒ (霊魂)」が入っている状態であったといえる。 今、「モノ」 という言葉が出てきたが、この言葉の源は何であっただろうか。私は、例のベルト・コンペアーによってメラネシアから運ばれてきた「マナ」という土語であったと考える。「マナ」の特徴は、その非人格的・超自然的勢力の.強い転移性あるいほ伝染性である。そういう勢力の中核にあるのが 「マナ」 である。「マナ」 ほ日本に伝来するにつれて変質するとともに名称も「モノ」となり、その転移・伝染するものを「ケ(気)」といったのである。そのうち無害なものはいわゆる「物」となり、畏怖すべきものは地位ある者に付加する「生きみたま」となり、危険なものは祭られない 「オニ」と同質化し、なかんずくある種の言葉の持つ伝染力・転移力から言葉そのものをも「モノ」というようになる。「ケ」 の方は、やがて「ケガレ(穢)」を分化していく。つまり「モノ(マナ)の気(ケ)を離れる」というところから「ケガレ(穢)」が生ずる契機があったのである。                                    ,

 縄文時代には本来祖霊としての動物を共食する 「アヘ (饗)」という祭祀があり、それに加わらない、あるいは加われないことを 「ケガレ (食離れ)」 といったのであるが、それが同じ釜の飯を食わない者、つまりよそ・者を意味し、外来者わけても外来の神を指すようになっていた。そしてそのような神が身につけてみずから 「マナ」と称したものの畏怖して避けるべきものが縄文古来の 「ケガレ」と融合したものであろう。

 「鬼」 という文字と 「オニ」が結びつくのはずっと後世になってからである。また 「鬼」 を 「モノ」と訓むのも後世のことであるが、万葉の時代にはすでに定着していたようだ。「縁西鬼尾」 は 「寄りにしものを」 と訓み、「可死鬼乎」を 「死ぬべきものを」と訓む例がある。五世紀中葉から後半とされる千葉県市原市稲荷台一号墳出土の 「王賜」銘銃剣では、「鬼」 の字は 「キ」 と字音そのものとして用いられており、これが 「モノ」と連結した気配はない。五世紀という時期ほ、新羅や百済の字音仮名の影響を受けながら日本語を表記する方法が模索された時期であったのだ。したがって、「鬼」を 「モノ」と訓むようになったのは仏教の影響があったからと考えられる。そのことを示唆しているのが聖徳太子の 『勝鬢経義疏』 である。その中では衆生のことを 「物」という文字で表現しているが、迷える衆生の行き着く先は地獄であり餓鬼畜生の世界であったのだ。「鬼」 と 「物」とは結びつく必然の中にあり、一方で 「物」 ほすでに 「モノ」 でもあったからだ。

 こうみてくると、日本語の源はすべて外国語になってしまうではないかという非難も出ようが、それは偏狭というものだ。日本人は遥か昔に狸得していたアルタイ語系の音韻と文法は意外にかたくなに守り続けてきたのであって、流入するさまざまな南方系・北方系の言語の影響は主として語彙関係であって、その点では根源はしっかりと保持しながら、外に対してはオープンな包容力をもった民族であったといえるからである。根源はしっかりとしていながら意外な柔軟さをもっていたのだろう。それはゆっくりと咀嚼する時間が与えられていたということもあって、その点、文化が豊かに発展するだけの資質を育てる余裕があったといえるのである。

西宮 紘「鬼神の世紀―「いさなき」空間と弥生祭祀」(工作舎)

 のっけからこんな文章がすらすらと出てくるのだから、この人の著作はいつも読み応えがある。前著「縄文の地霊」は縄文土器や土偶の文様のパターン解析から縄文人の深層や世界観を読み解くというスリリングな内容で、わたしにとっては縄文を思うときの忘れがたい一冊となった。西宮紘がここで辿る言の葉の源流への遡行は、たとえば沖浦和光氏がこの国の大道芸人のルーツを求めてアジアの国々を経巡る風景と重なる。

 今日は朝から京都の東寺にほど近い京都市市民防災センターにて一日、5年で期限が切れる防災センター要員なる資格の再講習を受けてきた。iPODでニック・ロウのベスト盤を聴きながら行く。かれの初期の楽曲はまるでビートルズのようだね。ポップで、とても瑞々しい。講習の方は京都の百貨店で実際にあったボヤ火災の実例検証や消防法改正の話、消火器や消火栓の実技訓練と、メインの火災対応の訓練。防災センターや商業ビルを模した模擬室で4人一組に分れ、シュミレーションに従って防災盤の操作や消防への連絡、現場での消火活動等々を行なうのだが、人によってはもうボロボロのグループもある。わたしは相棒にも恵まれてそつなくこなせ、お褒めの言葉も頂けた。この施設は一般にも常時開放されていて、地震や土砂災害のミニ・シアターや、子どもが愉しめるシュミレーション・ゲームなどもたくさんある。ディズニー・ランドも面白いかも知れないが、ときには家族でこんなところで休日を過ごして防災意識を高めるのもいいんじゃないかしらん。展示されている京都の大火を報じる江戸期の瓦版や錦絵などを休憩時に眺めた。

 夕方に帰宅して、夕食はおでん。ソファーに寝転がって新聞をひろげ、ソロバン教室の間に録画しておいたおじゃるまると忍たま乱太郎のビデオを子が見ている姿を、新聞紙の端から眺める。うとうとしかけた頃に素っ裸の子がお風呂の時間だと飛び乗って来る。

 注文していたブルーノー・アーピッツ「裸で狼の群のなかに(上・下)」(新日本文庫)レーオンハルト・シュタインヴェンダー「強制収容所のキリスト」(日本基督教団出版局)が届いた。

2008.10.31

 

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 あたかも強制収容所のような高くそびえた塀、至るところに設置された監視カメラ、24時間常駐の私設警備員、モニター付インターホン、カメラによる車のナンバー・チェック機能、数箇所に限定されたゲート(出入口)。強制収容所と異なるのは、監視の対象はその内部ではなく外部に対するものだということだ。しばらく前に新聞で「ゲーテッド・コミュニティ(Gated community )」に関する記事を読んだ(2008年10月13日・朝日新聞「ルポにっぽん」シリーズ【囲われた街買う安心】)。内容はこのアメリカ発祥の「要塞都市」が日本でもひろがり始めているというものだが、紹介されていた住民である主婦の言葉がふるっていた。「価格が高いことで住人がふるいにかけられ、安心できる。」 「収入が高い者同士だから価値観も同じだし、人付き合いも疲れない」 いや、参りました。わが家のような低所得者層はふるいから落とされる「油断できない」「価値観の共有できない」人種というわけですな。まあ、こんな殺伐とした時代だから「ゲートの中でなら子どもを遊ばせても安心」という気持ちは分らなくもないけれど、わたしが子どもの頃は給食費も払えない貧乏な家の子もいたし、逆に最新のおもちゃがいつも揃っている裕福な家もあった。狭い長屋暮らしの家もあれば、二階に立派な子ども部屋を与えられている子もいた。父親が酒飲みの家もあったし、母子家庭の家もあった。でもそれで友だちを区別したことはなかったな。いろんな家や家庭や事情があるのがふつうのことだった。わたしはじぶんの子どもにはそうした「ふつうの環境」で育って欲しい。在日の人もいれば、部落の子もいれば、ブラジルから出稼ぎに来て全国の自動車工場を転々としている転校生もいて欲しい。それは子どもながらにそのまま世界の縮図であり、子はそこからたくさんのこととぶつかり、たくさんのことを学ぶだろう。ゲーテッド・コミュニティになんか住みたくない。ゲーテッド・コミュニティを謳った不動産会社のサイトでにやけた建築家が「日本の古来の風景を目指した」なんて喋っているのを読むと吐き気がする。強制収容所のゲートには「働けば自由になる」 という文字が掲げられていたそうだが、ゲーテッド・コミュニティのゲートにはどんな文字が掲げられるのだろう。さしずめ「All You Need Is Money」か。ゲーテッド・コミュニティのゲートとは21世紀の the wall じゃないのか。堅牢なセキュリティの壁をわが家の回りに幾重にも張り巡らせて、身内から無差別殺人者でも出たら、かれらはいったい、こんどはどこに壁をきずくのだろうか。

ゲーテッドコミュニティ - Wikipedia

アメリカ、郊外の果てにみえるもの http://www.tnprobe.com/extra/iga_r3.html

世界四季報 http://4ki4.cocolog-nifty.com/blog/2008/10/post-cb91.html

2008.11.1

 

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 休日。教会と幼稚園のバザー。ミサの後、子は幼稚園の屋上でビンゴ大会の手伝いをし、Yは教会の前庭で販売を手伝い、わたしはカメラをぶら下げてその間を往復しながらカレーとブラジル風・フィリピン風ニ種の焼鳥、パステルなるブラジルの「揚げ餃子」、シスターがつくったという生姜の利いたフィリピン風おじやなどを食べまわった。パステルや焼鳥は週に一度ある英語によるミサに出席している様々な国の信者さんたちの手製だ。特にピロシキに似たパステルは香ばしくて食べ応えのある衣がおいしい。バザーが終わるとすぐに車に飛び乗って、ヴァイオリンの合奏練習へ。ふだんはばらばらで習っている生徒たちが、先生の提案で近くの公民館の一室を借りて、みなでいくつかの曲を合奏することになったのだ。幸福な味でお腹の満たされたわたしは、折畳み椅子に座ってわが子の演奏を聴きながら、やがてうとうとと・・・

□パステルのレシピ

本場の生地をつかったレシピ http://www.latinyamato.com/pastel.htm

餃子の皮で代用したレシピ http://www.univer.net/3_event/brazilfood_18.html

2008.11.2

 

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 夜の8時前。子がヴァイオリンの練習を始める。「何でこんな時間になるんだ? ヴァイオリンは(近隣への配慮から)8時までと決めたはずじゃないか」 するとYは亡者が乗り移った巫女のように呪詛のことばを漏らし始める。お母さんはずっとやることをやっちゃいないさいって言い続けていたよね、なのにシノは何にも聞かないで好きなことばかりやっていたんだよね。「言い続けたってやらなきゃ意味がないじゃないか」 そんなわたしの言葉がYの中で溜まっていたものの堰を切ったのだろう。Yはひどく年老いたようなやつれた顔で我慢していたもろもろの塊を吐き出し、わたしは子にそのとおりなのかと訊ね、最後には何度も同じことを言われて直らないのならランドセルに大事なものを詰めて30分以内に家を出てひとりで気ままに生きろと宣告した。Yは老婆のような顔のまま浴室へ消え、わたしは自室にこもり、しばらく腕をもがれた猫のような悲痛な鳴き声が居間から響き続けた。明けて翌朝。今後の子育てのことでYと話がすれ違い、わたしは苛立ってコーヒーを壁にぶちまけ、シンクの扉を脚蹴りして損壊させた。Yは子の鉛筆立てを床に放り投げて、そのまま獣のような声をあげて子の机に突っ伏して泣いた。修羅場である。それからわたしは仕事を昼出勤にすることにして、Yと長い話を交わした。弁当を家で食べ、玄関を出るとき、彼女は壁についたコーヒーのシミを雑巾で懸命に拭き取っていた。

 宿題やヴァイオリンやソロバンをやらないのはまだいいが、生活習慣が乱れているのが我慢できないとYは言う。本を読んだり、ノートに好きな物語を書くのに夢中で、母親の注意は上の空か、怒って何かを言い返すか、どちらにしろ効果がない。学校から帰ってきた玄関先で靴を履いたままもう本を読み始め、お八つを食べながら読み、トイレで自ら導尿をしながらも読んでいるのだから、事がさっぱり進まない。他にもたくさんのことがあるのだろうし、わたしが思っている以上に、Yのストレスは相当に溜まっていたものと思われる。腕をもがれた猫としばらく話をしてから、「お前のことを世界中でいちばん思っているのはお母さんだし、世界中でいちばん世話してくれているのはお母さんなのだから、お母さんと話をしてきなさい」と諭して背中を押してからも、Yは100年も生きた老婆のようなやつれた顔のまま「もうお母さんはシノといっしょにいたくないから、出て行って欲しい」と言ったのだった。

 夜。今日は少し遅くなりそうだから夕飯は済ませて帰るとYの携帯に電話を入れると、滅多にないお灸が効いたのか、今日は子は学校から帰ってからさっさといろんなことを片付けて、いつも楽しみにしている通信教材の科学雑誌が届いていたのも後回しにして我慢したとか。Yの声も心なしか老婆の雰囲気が消えかけていた。深夜に帰宅すると、居間の机の上に、わたしが叩き台にしようと提案した、Yが子の問題点を書き綴った紙片が置いてあった。

 

・ご飯やおやつの最中に横になったり、新聞や本を読むのをやめる。

・帰ったらすぐに着がえ、かたづけ。

・手は石けんで洗う。

・鼻をかむ。

・お友達の家に行っても、帰る時間になったらすぐに帰る。
 そこのお家の人の言うことを聞く、
 →おかたづけと言われたらすぐにとりかかる。

・お風呂のお湯が入ったら、すぐにお風呂に入る。
 また、だれかの後の場合も続いてすぐ入る。

・机をはなれる時はスタンド、部屋を出るときは電気を消す。
(自分達が便利な生活をするために、地球上でどんなことが起こっているのかをよく考え、むだづかいをしないようにする)

・人に注意されたら態度をあらためる。
 ・口ごたえをしない。
 ・怒って物を投げたりしない。
 ・大きな声で怒らない。
  →おかあさんに同じことをされて気づくのではなく、そうしないよう努力する。

・9時前にはおふとんに行って、必ず9時に寝る。

・朝はお母さんが一番忙しい時なので、目覚ましで自分で起きるか、起こされたら一回目で起きる。

・人の体形や性格を冗談にして笑わない、たとえ家族でも。
 よい冗談を言えるように心がけること。

 

2008.11.4

 

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 今月末にリニューアルオープンを迎える職場の方も、そろそろせわしなくなってくる。700本もの新しい鍵を預かり、それらを整理・管理する。防災機器・ITV・駐車場管制・蓄熱・その他諸々の設備に関する取説をJVの各業者から説明を受ける。新規に入店するテナントの商品搬入の段取り、必要な書類や図面の作成、オープン前の消防訓練の計画、オープン時の計画、その他もろもろ。

 

 ブルーノー・アーピッツ「裸で狼の群のなかに(上・下)」(新日本文庫)がまだ読みかけなれど、続いて届いた川元 祥一「旅芸人のフォークロア---門付芸「春駒」に日本文化の体系を読みとる 」(農山漁村文化協会)をついつい読み始める。一冊まるごと春駒というのがじつに嬉しいのだ。本文中に引用されていた盛田嘉徳「中世賤民と雑芸能の研究」(雄山閣)もアマゾン古書で半額の値がついていたため思わず注文してしまう。

 

 北関東から母が泊まりに来る。列車でひとり南紀をまわり、新宮での一泊を経て奈良へ来た。彼女の長年の親しい友人の、わたしの小学校の同級生Yの母親が、胆のう癌で手術が不可能との話。詳細を調べてくれと言われてネット検索をすると、最終段階の平均的予後(余命)は7ヶ月との解説。PCのモニタを覗き込み、母は深いためいきをついた。Yの母親は大の北杜夫フアンで、わたしが中学の頃に北杜夫を愛読するようになると「将来の作家への投資だから」と冗談めかして彼女の蔵書をすべて進呈してくれたのだった。「楡家の人々」も「夜と霧の隅で」もそうして読んだ。彼女はその後、もろもろの事情があって夫と別居をして、女手ひとつで二人の息子を育てた。わたしの父が死んだ後は毎夏に欠かさず墓参りをしてくれ、わたしが関西へ移り子が生まれるとその成長をいつも愉しみにしてくれ、わたしもときおり子の写真などを送ったりしてきたのだった。いまの仕事が一段落したら----来月くらいになろうか、子を連れて東京へ見舞いに行こうかとも考えている。

 

 土曜日。わたしも休日をとって、みなで車で橿原市のおふさ観音おおくぼまちづくり館などを回る。「バラの寺」とも呼ばれているおふさ観音は、大和三山のひとつ耳成山より南西の方角にあたる小房町の昔ながらの狭い路地を進入していくのだが、1800種のバラで埋め尽くされた境内は山門から見たよりも意外に奥へ深く、「円空庭園」と呼ばれる日本庭園を眺めながらバラのジュースやハーブ・カレーを賞味する茶房もある。まあ、それはわたし的にはじつはどうでもよくて、今回訪ねてみようと思ったのは明治時代の有名な生き人形が本堂で展示されているという記事をネットで目にしたからであった。天才人形師といわれた初代・安本亀八(1826〜1900年)が明治時代初め、おふさ観音本堂の建立に尽力した地元の有力者・飯田喜八郎を表現したという高さ36センチの木製人形は、なかなか丁寧につくられてそれなりに面白かったけれど案外地味で、わたし的にはもう少し無機物と生物との境界を踏み越えてしまうような倒錯感を期待していた分、多少物足りなかったかな。ネットで検索していたら、熊本市現代美術館で2006年に開催された「生人形と江戸の欲望 −反近代の逆襲II」のカタログが欲しくなったぞ。さて、明治期に神武天皇陵の拡張工事に伴って強制移転を余儀なくされた洞村の歴史とおおくぼまちづくり館については、過去にも記しているので(ゴムログ24・2002.6.12)ここでは端折るけれど、母はともかく、以前からYと子にも見せてやりたかった。モニタで下駄表づくりや靴づくり、それに強制移転に関するビデオをみなで見てからゆっくりと展示を見学し、ついでに小雨そぼる中、靴を泥だらけにしてかつての洞村の跡地も訪ねたのだった。いまは原生林のようになっているその杣道の端で、子とYはいくつかの陶器の破片を見つけた。Yに言わせれば模様から最近のものではないという。洞村の人々が移転の際に残していったものだろうか。記念にいくつかを拾って帰った。かつての共同井戸跡や村の上手にあった「もうひとつの神武陵参考地」である丸山宮の境界を示す石柱群、村人が水不足を解消するためにみずから造成したため池などを見て、最後に神武陵の前に出た。立派な自然石の手水場(ちょうずば)でみなで靴を洗い、わたしはそばの植栽の陰で立小便をした。

 

おふさ観音 http://homepage3.nifty.com/ofusa/

おおくぼまちづくり館 http://www.city.kashihara.nara.jp/okubo/

2008.11.8

 

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 others にゴム消しより加筆しておおくぼまちづくり館と洞村跡地(マップ付)をアップした。興味のある方はドゾ。

 

 夕食後、トイレでみずから導尿をしていた子が急にみぞおちの辺りが痛いと騒ぐ。本人いわく連続的に我慢できない痛みが走ると背中をまるめてひどく痛がるので、念のために近所の救急病院へ連絡をとって車を走らせた。夜の病院は赤ん坊を抱えた若い夫婦だらけで、8人の順番待ちだという。受付の事務局の男性はひっきりなしの忙しさのようだ。34歳の男性が昼間、指の第一関節と第二関節の間に痛みを覚え、夜になって赤みを帯びてきたので念ため診て欲しいという電話を受けている。病院側はどうぞ来てくださいと言っているのに、治療費は幾らくらいかかりそうだとか、いま電車に乗っているのだが場所はどこかだとか、そんな話が長々と続いている。待合の前に席で待っていた赤ん坊が「ココアちゃん」と呼ばれるのを聞いて、思わずYと顔を見合わせる。続いてわが家が呼ばれる。「さあ、行こうか。カフェオレちゃん」とYが笑って子に言う。診断の結果は神経痛で、子どもでもときおりある症状で、放っておいてじきに治ってしまうとのこと。念のため脊髄の手術や導尿による感染の話などもしたが、今回のケースはそれに当たらないだろうとの回答。貰った痛み止めの薬をその場で飲ませたら安心したのか、帰りの車の中で熟睡してしまった。赤ん坊のときよりはかなり重くなった子を抱き上げて、布団に運んだ。今日は昼間、学校で「秋を見つける」と題して歩いて30〜40分ほどの城内の公園へ移動した。みなは歩くのが早いので、途中から養護学級の先生と二人で歩いたという。どんな秋を見つけたのかと訊けば、「奈良信用金庫の前の花壇とお花屋さんの店先の花が変わっている」と書いたと言う。帰りはおなじ養護学級の先生と、発達障害のあるDちゃんと三人で帰ってきた。明日は大阪の病院へ装具の仮合わせの予定。

2008.11.12

 

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 BBSでアキンさんが紹介してくれた Kurt Nilsen が良い。レナード・コーエンの Hallelujah を他の歌手たちと歌うバージョンもいいし、ウィリー・ネルソンと共演しているカントリー・ソング Lost Highway も味わい深い(どちらも YouTube で見れる)。ノルウェーの出身らしいが、個人的にはこの人にモリスンがアイリッシュ・トラッドを歌った Irsh Heartbeat のような根っこのアルバムをつくって欲しいな。

 リニューアル・オープンを間近に控え、職場はさながら戦場のようだ。いつも誰かが叫んでいて、会話はすぐに寸断され、紙切れが舞い、やりかけの仕事があちこちに散らばったまま散乱している。

 深夜、帰宅するとポストに二冊189円で買った北杜夫の文庫「さびしい王様」と「さびしい姫君」が届いていた。ぱらぱらと頁をめくり、ちょっと難しいかな、と思いながら子の机の上にそっと置く。

2008.11.14

 

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 (おそらく)臨戦終了まで最後の休日。

 じぶんより小さい子が乗っているのを見て悔しくなったという子の要望で、近所の公園で自転車の練習をする。ただでさえ足首の制御ができずにペダルから足が滑り落ちてしまう上に、以前なら補助輪が支えてくれた重心も支えなくてはならないから状況は厳しい。ペダルに滑り止めのテープを巻いたが、雨上がりの地面に何度も転んで泥だらけになっても、歯を食いしばって続けている。

 レナード・コーエンの Hallelujah の歌詞をプリントしてギターで口づさんでいたら、部屋にやってきた子が「シュレックの音楽だ」と興奮した顔で言う。ふたりで Hallelujah をいっしょに歌う。

 The Kinks のI'm Not Like Everybody Else のように、ぼくはたぶん、あなたたちとは違う考えを持っている。日常の上に何かを築きたいのではなく、この日常をいつも突破したいと願っている。一瞬でもそれをつかまえることができたら、それがこんどは日常になるのだ。

2008.11.16

 

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 夜の10時に子と眠った。子ども用の聖書をふたりで代わる代わる朗読してから、眠ったのだ。明け方に目が覚めると、Yが子の布団に寝ていて、子がごろりと寝返りを打ってわたしたち夫婦の布団を引っ張るのでわたしも引っ張り返しているのだ。するとお前は、目覚めているみたいなはっきりとした口調で「お父さん、やりすぎだよ」と言うのだ。起きているのかと覗き込むと、やっぱり巣穴の熊の仔のようにすやすやと寝入っている。わたしはお前の柔らかなほっぺにそっとキスをする。それからわたしは布団を抜け出して、お前の甘い吐息の匂いから離れて、部屋でビールを呑みながら iTunes のイアホンでニック・ロウが (What's So Funny 'Bout)Peace, Love And Understanding を歌うのを聴きながら、お前がこれから生きていく世界の行く末について考えている。

2008.11.17

 

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 1日平均2〜3時間、ひっそりとした明け方の機械室の床に転がって眠り、4日ぶりに帰宅して、風呂に入りビールを呑んで、倒れこむようにひさしぶりに柔らかな布団の中にもぐりこむ。閉店作業中に倒れて意識不明になった隊員といっしょに救急車で病院へ行った明け方、誰もいない吉野屋で喰いそびれた夕飯代わりに牛丼の大盛とけんちん汁をひとり黙々と食った。

2008.11.23

 

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 ボロキレノヨウナ身体を布団にすべり込ませる。隣でYが教会の交流会で子を連れて行ってきた四日市の志願院のパンフレットをめくっている。一日家事をして、寝る前に5分だけでも何かを読みたいのよ。ぬくもりのかたまりが、そんなことをつぶやく。わたしの耳にはそれがこんなふうに聞こえる。この世のことに関わりすぎると魂をなくしてしまうよ。なぜなら、魂はもともとこの世のものじゃないんだから。静かな日の出。浄土の写真家が撮ったような畑の風景がひろがっている。真夏のようにクリアな物の影。ブルーシートや板やプラシチックのバケツの色がひらめく旗のように見える。Rank Strangers To Me や Lonsome Town のような曲を聴きながら、宙ぶらりんのじぶんの足を地面に下ろそうとしている。

2008.11.30

 

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 運動場を六周するマラソン大会。子は二週目で先頭走者に抜かれ、四週目で他の子どもと交錯して転び、五週目の途中で運動場を走っているたったひとりの走者になった。子どもたちも先生たちも見学に来たお母さんたちも、みな子に応援の声をかけてくれる。校庭のすみの桜の木の下にいたわたしの前の男の子が「しのちゃん、ぼくを思い出して!」と叫んだ。お母さん同士が仲良しで、ピアノを習っているYくんである。穏やかでない声援に、父は眉間に皺を寄せた。最後の一周は担任のH先生が予備の装具を入れた袋を持って伴走してくれた。馴染んだ装具の方がいいだろうからと亀裂の入りかけた古い装具を履かせたのだが、万が一途中で破損したときのために作り直した新しい方も用意したのである。やっと子がゴールをして走るのをやめると、わたしの前の男の子から「え、もう終わり?」という声が聞こえた。去年は二週半を子はひとりで走ったのだが、ことしは一週半だった。運動場の真ん中の女の子たちの列の最後尾に座り込んだ子は、うつむいて、すこしだけ涙をこぼした。あとで母が訊くと、みんなが応援してくれたのが嬉しかったから、だという。

2008.12.1

 

*

 

 Yと小学校の授業参観へ行く。道徳の時間。ライオンに尻尾をちぎられた猿が、互いの尻尾をつかんで電車ごっこをしている友だちを木の上から眺めて悩んでいる話。みんなが友だちの猿になって、尻尾のない猿に美しき善意を表明する。「こっちへきていっしょにあそぼうよ」「でも、ぼくは尻尾がないから・・」「電車のいちばんうしろになればいいよ」 感動の余り、わたしは教室の後で立ったまま寝てしまいそうになる。ここで子どもたちが学ぶのは何だろう? たんなる処世術じゃないのか? そうでなければ、あまりにも退屈だ。だいたい、この国の教育は、子どもというものをなめている。小学二年生の「心の教育」にはこの程度がふさわしいとでも思っているのかも知れないが、子どもはもっと複雑なことを考えることができるし、大人が思っている以上に大きな能力を有している。小学二年生程度なら、猿蟹合戦や花咲爺さんあたりでも与えておけば充分だろうと思っていたら大間違いで、宮沢賢治だって夏目漱石だって寮美千子だって読んで、かれらなりに理解することができるんだ。子どもをなめちゃあいけないよ。道徳の時間。わたしが教師だったら、たとえばナチスの強制収容所で死んでいった子どもや、そこで繰り広げられた様々な人間心理のドラマを話してやるな。そしてかれらが思ったこと・感じたことを聞いてみたい。人間の醜悪な部分。人間の聖なる部分。それはわたし自身も持っていて、それをかれらにぶつけてみるのだ。利口な大人が子どもに答えを教えるという構造は、たぶん決定的に間違っている。そんなのはたんなる馴れ合いの猿芝居で、そこに本物の感動はないから、子どもたちの心には何も残らないさ、きっと。心に残るには、あるいはそれへと辿りつく道ばたで、震えるような目眩が必要だろ。

 

 高橋悠治が訳した「教室の犀」(全音楽譜出版社)の中で、音楽家のマリー・シェイファーはかれが自らにかかげた「教育者のための規範」を紹介している。

1 教育改革実践の第一歩はそれを採用することだ。

2 教育では、失敗は成功より重要だ。成功物語ほどみじめなものはない。

3 危険をおかして教えよ。

4 先生たちはもういない。学習者共同体があるだけだ。

5 他人のために教育哲学をあみだすな。自身のためにそれをせよ。何人かがそれをわかちあいたいと思うかも知れない。

6 5歳児にとって、芸術は生活であり、生活は芸術だ。6歳児にとって、生活は生活、芸術は芸術だ。最初の学年はこどもの一生の分水界だ、深い傷あとだ。

7 古いアプローチでは、先生は情報をもち、生徒の頭はからっぽ。先生の目標は、生徒のからっぽの頭に情報をおしこむこと。観察----はじめは先生がバカ、最後は生徒がバカになる。

8 反対に、授業は無数の発見の時間であるべきだ。このことがおこるためには、先生と生徒はまずおたがいを発見しなければならない。

9 ある学科に出ても決して点がとれないのはそれをおしえる先生だけなのはなぜか?

10 おしえられることがらは間にあわせのものにすぎない。たしかなことは神のみぞ知る。

 

2008.12.3

 

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 居間のCDラジカセが壊れたので買い替えを検討。同じようなCDラジカセ→USBやSDカード機能付のCDラジカセ→MP3データのみに特化したサウンド・システムと移行して結局、CDを減らしたい(物を減らしたい)というYの意向もあって iPOD shuffle 1G と専用のスピーカー・システム Creative TravelSound i50 iPOD shuffle用 TS-I50 をセットで注文した。ついでにYの Vista ノートに iTunes をDLして、Podcast の英会話番組や東大の公開講義などをしばらく二人で覗いた。Yいわく「ツールはあるが、PC前に座っている時間がない」。TS 150 につないだ iPOD shuffle を台所にぶら下げて、ネイティブ英語を流したいというのが彼女の希望だ。その他、ヴァイオリン教室での練習音源を録音している Sony のボイス・レコーダー(ICD-SX56)のデータをMP3に変換して iPOD に取り込む予定。

 

 「もののけ姫の衣装が欲しい」と子が言い出したのは2年前のクリスマスのときで、それから彼女はサンタさんにその旨を記した手紙を書き続けている。昨年のクリスマス。Yは英語で「ごめんね。来年にはきっと用意しておくから」というカードを書いて、子はそれをサンタの手紙だと信じた。「あんなこと書いて、今年はどうするんだよ」 わたしはYに迫った。前にネットでコアなファンが手製のもののけ姫衣装をつくり数万円の値段で販売しているのを見つけたが、そこまではしたくない。衣装もともかく、特に子はアシタカがもののけ姫にプレゼントした黒曜石の守り小刀に執着しているのだ。それでネットをあれこれ探していたら北海道の工房でまさにイメージぴったりの小刀ペンダントを製作・販売しているところを見つけた(十勝工芸社 http://www.h2.dion.ne.jp/~isi/page7/sub7.htm)。値段は6千円ほど。「ダ・ビンチの画集をプレゼントしたかった」というYを「あなたには無用な物にしか見えないかも知れないが、黒曜石は古代各地に流通した貴重な石器材料であり、ネイティブ・アメリカンたちは黒曜石のナイフを魔除けとして身につけているし、子どもにはそうした象徴的なものも必要だ」とか何とか力説して説得し、注文メールを送信したのだった。黒曜石のナイフ販売では、北海道でシーカヤックのガイドツアーしている積丹カヤックス(http://www.shakotankayaks.com/index.html)のサイトも愉しい。

2008.12.4

 

*

 

 

十勝工芸社様

「もののけ姫」に出てくる黒曜石の守り刀を探していてこちらのサイトを見つけました。
山歩きが好きな小学2年生の子ども(娘)へのクリスマス・プレゼントです。
写真では微妙な違いが不明ですが、注文が重複するようでしたら、NO.45〜47のうちのどれでも結構です。
NO.46がいちばん幅広で、全体のバランスが落ち着いているように見えたもので。
可能でしたらサンタが来る日までに届けていただけたら嬉しいです。

よろしくお願いします。

まれびと

 




まれびと さま


「黒曜石の世界」ごらん頂きありがとうございます。

46「小刀のペンダント」(クリスマスプレゼント包装)のご注文承りました。
明日(12月5日)お送りいたします。
配達は 12月 7日の予定となります。
なお、交通事情等により遅れる場合もございますので、あらかじめご了承下さい。

お支払い金額の合計は、6,775 円です。
(内訳 商品5,775円+送料1,000円)

お支払い方法は、代金引換となりますのでよろしくお願いいたします。

ありがとうございました。

 

 


紫乃ちゃんへ (※商品同封の手紙)

この「小刀のペンダント」は北海道の大雪山が噴火した時に生まれた「黒曜石」という石で作りました。

小さな石ですが、近くの河原でみつけた原石1ヶ、いっしょに入れました。原石はおじさんからのプレゼントです。

ひみつのお話ですが、〇〇〇さんも、このペンダントと同じものを持っています。おじさんと〇〇さんのふたりだけの秘密なので内緒にして下さいね。

小刀の先はかけやすいので気をつけて下さい。

すてきなクリスマスを!

陶守

 




陶守さま

本日、荷物受け取りました。
品はまだ見ていませんが(折角の包装なので、子といっしょにクリスマスの日に・・)、ご親切な子への手紙とプレゼントを拝見、大変感激しております。
ありがとうございました。

子は生まれつき下肢に障害があり、学校でも補装具をつけています。ですので運動会でも散々ですが、そんなときは走りながらじぶんが山犬に乗ったもののけ姫のような空想をしているようです。届けてくださった小刀は、きっとそんな彼女の心の糧となってくれることでしょう。

また父親がよく近郊の低山に連れ出すので、山歩きが好きで、石ころを拾ってくるのも好きです。
父が20数年前に上野の博物館で買った鉱物の標本集を大事に持っています。
お心遣いで頂いた黒曜石の原石も小刀と並んで大事な宝物になるに違いありません。

重ね重ね、御礼申し上げます。
ありがとうございました。

まれびと拝

 

黒曜石の世界 http://www.h2.dion.ne.jp/~isi/index.htm

十勝工芸社 http://www.h2.dion.ne.jp/~isi/page7/sub7.htm

「小刀のペンダント」 http://www.h2.dion.ne.jp/~isi/page5/sub5.htm

 

2008.12.7

 

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 休日。雨。Blind Willie Johnson を聴いている。Blind Willie Johnson は幼少の頃、継母が彼の父親との夫婦喧嘩で投げた洗剤が目に入り、失明した。それからかれはストリート・シンガーになり、牧師にもなった。朝から、年賀状を印刷する。Yに iTunes の使い方を指南する。PDFで落とした「奈良の被差別民衆史」の目次をワードで作成する。中断していた遠藤ケイ「熊を殺すと雨が降る」(ちくま文庫)をふたたび読み始める。炭焼きの章。分け入った山中でつくる窯や小屋掛けをじぶんでもつくってみたくなる。

 

 炭焼きの煙は、山国の冬の風物詩でもあった。里の人々にとって風見の役にもたった。また、炭焼き人の家族にとっては、離れて暮らす肉親の安否と、作業工程を知る手だてでもあった。白濁した煙がもうもうと立っていれば、まだ窯に火入れをして間もない。煙は次第に白が抜けていき、青さを増していく。窯全体に火が回り、焚き口を閉め、煙道を塞ぐのは三日目あたりである。やがて青が抜けて透明になると、縁なき人々には煙は見えないが、家族には凛とした山の冷気を押し分けて陽炎のように揺れる熱気を見てとれる。

 それを見て、里の家族は、

「いまごろ父ちゃんは窯の前で寝ずの番をしていらっしゃるだろう」

「火が回ったころだから、張っていた気がゆるんで大あくびでもしていらっしゃるだろう」

 などと話し合って寂しさを紛らわす。

 

 また、熊狩りの章。熊猟は、晩秋から冬、そして春先にかけて行なわれる。冬眠前の熊を「秋熊」と呼ぶ。岩穴や木の洞などで冬眠している熊を獲る猟を「穴熊狩り」といい、冬眠から覚めて寝穴から出た熊を獲る猟を「出熊狩り」と呼ぶ。「穴熊狩り」は山と熊を知り尽くした熟練の猟師が寝穴近くの立ち木に残された疵痕や、雪で埋まった穴口のかすかな呼吸のための穴などで熊の居所を探し当てるわけだが、見つけた熊を寝穴から誘い出す方法が面白い。あらかじめ岐のついた枝を何本も切っておき、それを熊のいる穴へ入れて行くと、熊は手前に引き込むだけで外へ押し出すことを知らぬから、尻の方へ尻の方へと回した木の枝が次第に溜まってきて、自然と熊は穴口へと出てくるのだそうだ。この習性を利用して、豪胆な猟師の中にはみずから熊のいる穴へ潜り込む者もあった。

 

 熊をおどかさないように静かに穴に入ると、熊は邪魔者の人間を引き寄せ、後ろへ回す。背中に回った人間は、今度は後ろから熊を前に押し出す。狭い穴の中は、熊も人間も身動きする余裕がない。熊の後ろに回れば、熊を穴口に押し出すことができるが、よほど度胸が据わった者でなければできない芸当だった。

 

 狭い寝穴の中で交錯する獣特有の匂い、口臭、人間と熊の脈動、互いのごつごつとした骨と、鼻先で触れる熊の毛皮の肌触りが錯綜している。いのちがせめぎ合っている。殺して喰う者も、殺されて喰われる者も、背中合わせだ。

 炭焼きにしても熊猟にしても、自然との格闘である。のっぴきならないせめぎ合いだ。そうやって長い間、人間はいわば、自然からいのちの在り方を写実してきた。

 そういう場へ、わたしは還りたい。

2008.12.9

 

*

 

 「正月明けまで奈良の店舗に専念して宜しい」という部長のお墨付きを頂いて、毎日バイクで馴染みの道を走る。新人隊員にちょこちょこと物言いをしながら、リニューアルのどたばたや一部改修工事などで混乱している鍵やデータの整理をぼつぼつとしている。九州の新店に行っている部長から「イラストレーターのフロアガイド・データをいじってくれないか」などとメールで依頼が来たりする。夕方、奈良の支社長なども同席してクライアント事務所にて、わたしが抜けた後の後任人事についての協議。現在の副隊長二人の相性がうまくなくて、多少錯綜しているのだ。で、新隊長に選んだのは穏やかな性格でみなの人望も厚い年配のTさんだった。支社長の説明の後、どう思います?とマネージャーのEさんからふられ、「ビートルズがですね、解散の危機にあるわけです。で、この困難を乗り越えるために新しいバンド・リーダーを、ジョンでもポールでもなく、あえてリンゴ・スターで行こうという、そういう話です」などと答える。

 

 先週末、教会で配られたプリントと子の回答。

 

22 イエスさまをまつ

 ことしも クリスマスが 近づいてきました。クリスマスは、イエスさまの たんじょう日です。この 大きな おいわいの 日を むかえるために、四しゅうかんの じゅんびの ときが あります。この 四しゅうかんのことを、「たいこうせつ」と いいます。

 教会の 中の うまごやは、おとなの 人が つくってくれるでしょう。子どもたちだけで つくるところも あるかもしれません。どちらにしても、おさな子 イエスさまを むかえるための うまごやを、じゅんびしなければなりません。

 自分のうちに うまごやを つくるのも いいことです。しかし、それよりも もっと 大切なことが あります。それは、わたしたちの 心の 中に、うまごやを つくることです。心の 中の うまごやとは、いったい 何でしょうか。

 教会の 中の うまごやは、まめでんきゅうや いろいろなもので、きれいに かざられています。しかし、ほんとうの うまごやは そんなに きれいなものでは ありません。いやな においが したり、さむかったり、どうぶつの ふんや おしっこで よごれていたりします。

 もしかしたら、わたしたちの 心の うまごやも、こんなに よごれているのかもしれません。おとうさんや おかあっさんを かなしませたり、友だちを いじめたりして、心が くらく よごれていたら、少しでも きれいに そうじをして、きれいな うまごやに して、イエスさまを むかえるように しましょう。これが わたしたちの うまごやづくりです。

 

□ しつもん

1 クリスマスを むかえるための 四しゅうかんの じゅんびの ときのことを、何と いいますか。

(たいこうせつ)

2 教会の中の うまごやは、だれが つくりますか・

(大人や子ども)

3 わたしたちが つくらなければならない うまごやが ありますか。

(心のうまごやをつくらなければならない)

4 心の うまごやづくりとは どんなことですか。

(親をかなしませたり友だちをいじめたりしないこと)

5 ほんとうの うまごやと 教会の うまごやは どこが ちがいますか。

(きれいかきたないか)

6 わたしたちの 心の うまごやは、今 どうなっているでしょうか。

(だいじょうぶ ちゃんとなってる!! そんなの自分はどうなのよ! なんでそんなこときくの!?)

                                        ↑ ×をつけられている

 

 町田宗鳳の「人類は「宗教」に勝てるか 一神教文明の終焉」(NHKブックス)を読み始める。この人が感じている既成宗教に対する苛立ちはじつにまっとうなもので、わたしの心根とも近しい。

2008.12.11

 

*

 

 休日。午前中は子のヴァイオリン教室のクリスマス会のプログラム作成などを手伝って(子の書いたヴァイオリンの絵をイラレでトレース、加工)、午後から子と二人で三輪山へ登りに行く。三輪山の神さまは蛇で、参道の樹の根元には生卵が供えられているなどという話をすると、わたしも卵を持って行く、と言う。ついでに空き箱に溜めていた、子の抜けた歯計6本も持って行く。ところが三輪山の登拝口のある狭井神社の社務所で、入山は午後2時で終了の旨を伝えられる。15分ほど過ぎている。子は思わず泣きそうな顔をする。不憫に思って、わたしは社務所の気の弱そうな若い神官に食い下がる。「2時というのは下山制限時間の夕刻4時から逆算したものですよね。三輪山へは何度も登っているので勝手は知っているし、必ず4時には帰ってきますから」 ところが神官氏も「わたしの一存では何とも仕様がありません。これは“神さまとのお約束”ですから」と一向に引かない。分りました、とわたしはとうとう諦めて、子の手を引いて社務所を離れた。どうするの? 子が訊いてくる。しばらくすすんで狭井神社の鳥居をくぐってから、わたしは振り向いて子に宣言した。「心配するな。山には道はいくつもあるもんだ」 駐車場の車まで戻って地図を確認し、三輪山の裏手へ回る。JR巻向駅付近から名阪国道の針インターへ向かう狭い山道である。三輪山の背後に回った辺りで「奥不動寺」の標識のあるさらに狭い林道へ入ってみる。暗い裏林道といった舗装も荒れた、道幅ぎりぎりの山中をすすむ。ハンドルを切り損ねようものなら即崖下へ転落しかねないようなカーブをあえぎあえぎ登ると「奥不動寺」に出て、道はそこで行き止まりである。こんなところに? と思うような人界果てたさみしい山寺である。車を停めて、折角だから参って行こうか、と子と石段を登る。「どうする? 無人の食べ物屋なんかがあってさ。お父さんが豚になっちゃったら、お前は“ここで働かせてください”って(千尋みたいに)頼まなきゃならないぜ」 「もう、お父さん! そんな話はやめてよ!」 子は怒って声を荒げる。こじんまりとした境内は人気もなく、ひっそりとしていた。鹿威しがコーンと打ち鳴る。「いい音だねえ」 しばらく二人して眺めていた。お不動さんが祀ってあるらしい本堂は閉まっていた。この「奥不動寺」については、帰宅してからネット検索してみたのだがあまり目ぼしい資料が見つからなかった。何でも神体は背後の巻向山だそうで、三輪山とおなじ古い山岳信仰の形態を残している寺と思われる。山門に戻って、駐車場からさらに東へと続く林道(チェーンで塞がっている)は巻向山の道標がある。一方、寺のわきを伝って西の方角へ向かう山道には「黒崎」の道標がある。「こっちへ行ってみようか」と、「黒崎」へ向かった(後に黒崎は長谷寺沿いの165号線へ下った付近の集落と判った)。登り始めて、じきに二股に出た。片方は「黒崎」だが、もう片方はやや奥まった樹に三輪神社と桜井警察署連名の板がかかっていて、「三輪山は境内地に付、入山と狩猟を禁止する」との文言があった。「そらみろ。三輪山に行けるぞ」 子は心配そうな顔で足を止める。「大丈夫だよ。後ろからすみません、入らせて下さい、と神さまにお願いしよう」 落ち葉が玉座に続く敷物のように広がっている稜線の道だ。子はいつの間に拾った杉の枝を杖代わりにして、それで地面の落ち葉を掃きながら「すいませんねえ。この親子は、どうしても登らなきゃ気がすまない性質(たち)なもので」などと喋りながら、歩いている。しばらくすすむと、三輪山の「奥津岩磐」に着いた。小高い尾根の平坦部に岩磐が車座に並んでいるような場所で、榊か何かがお供えしてある。「ここは大昔の人が、神さまにお祈りをした大事な場所さ」 子はその岩の上に砕かれたどんぐりの殻をいくつも発見する。動物が齧った歯の跡もついていると言う。「いまではリスかなんかのダイニング・キッチンになっているのかも知れないな」 子が笑う。冬の山道は好きだ。雑木林がすっきりとしていて、落ち葉が心地よく、それに空気が凛としている。しずかな奥津岩磐で、わたしは持参したティンホイッスルでモリスンのアイルランド曲やアメイジング・グレース、主は冷たい土の下などを吹き、子は麓のコンビニで買っておいたチョコレートのお八つを食べてから小刀で枝を削ってペーパーナイフをつくった。それから生卵を岩磐の陰に供え、子が抜けた歯を「熊のように丈夫な歯にしてください」「虎のように美しい歯にしてください」などと言いながら放り投げてから、暗くなりかけた山道を下山した。

 

巻向山・外鎌山 http://www1.kcn.ne.jp/~n-k01717/makimuku-tokama.html

裏三輪オフ http://homepage2.nifty.com/musou-ann/uramiwa/uramiwa.htm

 

2008.12.13

 

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 ひとは、だれもがみな、志なかばで倒れる。眠れない夜。布団の中で目を開けて、隣で眠っているYの尻に手を当て、足をこすりあわせてぬくもりを確かめる。耳に挿したiPODでリック・ダンコの You Can Go Home を聞いていると、ひとはだれもがみな志なかばで倒れる、でもそれでいいのだ、と思える。

2008.12.15

 

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 休日。午後から春日大社・若宮祭の中心神事である「お旅所祭」を見にいく。若宮祭というのは春日大社の末社である若宮神社に祀っている御子神を一日だけ、お旅所と呼ばれる仮の宮にうつしてさまざまの神事を執り行なう行事であり、一般には古式を伝える伝統行列が市内を練り歩く「お渡り式」が有名で数年前にわが子もその稚児行列に参加したものだが、これらはもともと若宮神のもとへ参ずる芸能集団の社参の列をあらわしている。近鉄奈良駅前でその「お渡り式」の見学を終えたと思しき人々とすれ違う。小雨ふる興福寺境内を抜けて、一の鳥居を抜けたすこし先。参道沿いの雑木林の一角に「お旅所」はあり、萱葺きのつましい行宮を前に約五間四方の芝舞台が設けられ、両端で篝火が燃やされている。一説にはこの御子神、春日大社の背後の三蓋山に住まうとも謂われる。もう十年も昔であったが、鹿の群に誘われてわたしは神域であるその三蓋山の山中を徘徊し、あとで山蛭の巣窟であると聞かされて思わず背中がむず痒くなったものだった。「お旅所祭」は神遊(かみあそび)とも謂い、もろもろの芸を人間が舞い、歌い、演奏し、神さまに愉しんでもらう一夜だ。午後3時半頃、春日大社の巫女たちが「しずしずと舞う」神楽からこのスペシャル・ショーはスタートする。このあたりは雅(みやび)すぎて、不粋なわたしには少々退屈だ。わずかに、白拍子やアルキ巫女といった春もひさいだだろう漂泊者たちを連想し、「神秘を宿した女たちをものにしたいという欲望が、古代の男たちにもあったろうな」と思ったくらいだ。続いて東国の風俗舞といわれる「東遊(あずまあそび)」。そして猿楽とも縁が深く、世阿弥が12歳の折にこのおん祭で見て感服したといわれる「田楽」と続く。わたしが最も感じ入ったのは、その後の「細男(せいのお)」と「神楽式」である。細男は筑紫の浜で海中から現れた磯良という神が舞ったとされる。そのとき顔面に貝殻が附着していたので、顔を布で覆って舞ったのだ。磯良は海人系の阿曇氏の祖神とも伝わり、また傀儡やその後の人形浄瑠璃のルーツともいえる夷舁(えびすかき)とも深いかかわりがある。白い浄衣を身にまとい、目の下からやはり白布を垂らして退きながらしずかに単調に拝舞を繰り返す舞はやはり独特の不思議さ、仄暗い謎を秘めた威厳がある。面をつけない略式の翁舞「神楽式」を舞うのは、6世紀後半に活躍した秦河勝を遠祖とし、大和猿楽の源流を伝える金春流の能楽者だ。これも厳かな佇まいとストイックな所作が、何か心根に響くものが多分にあった。翁というのは宇宙との合一を司る象徴であるという話を以前にどこかで読んだ記憶がある。風俗舞のひとつである「和舞(やまとまい)」を経て、「舞楽」へと移る。約3時間が経過した。舞楽は飛鳥時代頃より朝鮮半島や中国大陸から伝わったもので、いわばオリエンタリズムの芸である。原色のきらびやかな装束や仮面、鉾等が目を惹くが、「細男」や「神楽式」のような、彫琢された厳かさがない。「振鉾三節」「萬歳楽」「延喜楽」と三つほど見て、退屈になってきた。半身雨に濡れた身体も、そろそろ寒さがこたえてきた。午後7時頃、まだ宴たけなわのお旅所を後にした。暗い芝生の中を抜けて登大路へ出ると、テキ屋の男女が歩道につけたトラックに屋台を仕舞いこんでいるところだった。車のナンバーを見れば「北九州」の文字。かれらもまた神遊の端役たちである。

 

若宮神社とおん祭 http://www.kasugataisha.or.jp/onmatsuri/wakamiya.html

おん祭 〜雅楽を中心として〜 http://www.cam.hi-ho.ne.jp/nobuchi/onmaturi.htm

海人と俳優(わざおぎ) http://homepage2.nifty.com/amanokuni/ama-wazaogi.htm

能・金春流 http://homepage2.nifty.com/komparu/

2008.12.17

 

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 ボーナスが出た。大企業やお役所勤めの人に比べたらはした金だが、師走に職も家も失った人には大金だろう。松岡正剛が薦める『日本芸能史』全7巻(法政大学出版局)をネット古書店で探し、注文する。一万円。

 

 林屋辰三郎の学術的な成果としては、なんといっても『中世芸能史の研究』(岩波書店)が圧巻。ほかに『南北朝』『近世伝統文化論』(創元社)、『町衆』(中央公論社)、『中世文化の基調』(東京大学出版会)、『文明開化の研究』(岩波書店)などがあるが、ぼくとしては芸能史研究会が総力をあげた『日本芸能史』全7巻(法政大学出版局)をぜひ推挙したい。ぼくの芸能文化のアーカイブはほぼここを出発点にしている。

 

松岡正剛の千夜千冊 http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya.html

2008.12.19

 

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 休日。午前中、奈良県立同和問題関係史料センターが編纂、ネット上でPDFを公開している奈良の被差別民衆史を製本する。A4二つ折りサイズでプリントしておいたものを、ページ数が多いので(全320頁)「中世編」「近世編」「近代編」の三部に分け、自前で目次頁も作成、表紙・裏表紙は色付の模造紙を切って作り、タイトルも印刷しておいた。製本の仕方はネットのこんなサイトを参考に、我流にアレンジした。百円均一店で買ってきたクリップ型のクランプで背側を固定、下穴用のドリルで穴を開けてタコ糸で縛る。背表紙側はノコギリで数箇所切り込みを入れ、木工ボンドを塗布する。この切り込みは頁の内側までボンドを浸透させるためのものだ。ボンドが乾いたらグルーガンで背表紙とタコ糸の穴を固定し、背表紙用の製本テープを貼り付けて完成。もっと凝ろうと思えばできないこともないが、わたし的には見栄えより強度的にこれで充分満足。こんなふうに身近なものを自らの手でつくるというのは、好きだなあ。なんか、とてもまっとうな時間を過ごしているように思えるから。

 昼食後、ソファで昼寝を貪っているところを子に起こされ、公園で子の縄跳びを見る。20回連続で跳べるようになったというが、せいぜい8回止まりだ。足の影響で中心が傾いているせいか、縄をもつ手がどうしても右肩上がりになってしまう。夕刻から三人で図書館へ行く。土曜日は夜の9時まで開館している。入口に入ったところで、三々五々に分かれる。わたしは郷土資料のコーナーでしばらく先日の巻向山周辺の古代祭祀について何か資料がないかと物色し、それから能関係の本をいくつか漁り、結局新書二冊----湯浅誠「反貧困---「すべり台社会」からの脱出」(岩波新書)北川忠彦「世阿弥」(中公新書)を借りた。Yは岩波文庫のダ・ビンチの手記。子は二階の児童書のコーナーでおなじクラスの女の子と顔馴染みの図書館司書の女性に頼まれて「本のパトロール」をやっていた。場所の違う本や飛び出している本を整理して回るのだ。同級生の女の子は毎週土曜日は夕食を食べてからひとりで図書館へ来て、閉館の9時に母親が迎えに来るのだそうだ。「わたしもお弁当を持って、(毎週土曜日に)来たいなあ」と子は羨ましげに言う。この時期は年末年始の休館で、ひとり30冊まで借りられる。20冊近い子の本を抱えて、郡山の麺屋あまのじゃくへ夕食。とんこつ塩ラーメンと餃子を食べて帰宅。

 寮さんから子に小包ニ種が届く。ひとつは寮さんの著書「ラジオスターレストラン」(パロル舎)(サイン入り)、もうひとつはクリスマスまで開封厳禁と伝言の付いたハートの小箱。

手作り製本・BindUP http://www.geocities.jp/ryou_tanoue/

2008.12.20

 

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 朝から宅急便で巨大な小包が届く。子が親の知らぬうちに父親の妹の旦那にひそかに電話注文していたクリスマス・プレゼントであった。歓声をあげて子がほどいた包みからは、おもちゃの毛糸編み機「あみりん」(バンダイ)が出てきた。仲良しのKちゃんが持っていたものだという。ふだん、おもちゃの類はほとんど買わないものだから、やはり女の子はこうしたものが欲しいのだろうか、となぜかまぶしそうに子の姿を眺めている。縦糸を固定して、横糸を絡めながら織っていく。見ればいたって単調な工程なのだが、子は愉しくて仕様がないらしい。まったくあんたはちゃんとしていなさいよなどと毛糸に話しかけながら手を動かしている。

 昨夜布団の中で子と学校の好きな男の子の話になった。おなじクラスのR君が好きなのだが、R君は昨日図書館でいっしょだったYちゃんと両思いなのだという。それは残念だな、紫乃のことを好きな男の子はいないのか? と訊くと、いない、と答える。それから、わたしは足が悪いからでしょう、みたいなことをそそくさと言って、ふいと布団をかぶってしまった。わたしは一瞬沈黙し、そんな考え方は馬鹿げているよと怒り出し、ほら、この間テレビで見たホーキング博士だって病気のことを知っても結婚してくれた女の人がいたじゃないかなど言って、イエスさまの前ならどうだい? 足が悪いのと、心が醜いのと、イエスさまの前ならどちらが消えてどちらが残るだろうかなどという話をした。布団のかたまりはじっと動かない。「お父さんがもし〇〇小学校の二年生だったらさ、あの紫乃ちゃんはなんて可愛くて、明るくて、笑顔が素敵で、チャーミングなんだろうって、ぜったいに好きになっちゃうけどなあ」 「それは“お父さん”だからだよお!」 照れ笑いをしながら、子はやっと布団から顔を出した。子がわたしの腕を枕にして寝入ってからも、わたしはしばらく眠れずにいた。

2008.12.21

 

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 たとえばぼくが竹細工の筌(うけ)づくりの職人であったとする。竹を狩り出し、細かく割り裂いて、簾(す)に編む。箍(たが)状の輪を入れて筒状に仕上げる。さて、苦労して出来上がった筌は、ひとつ2000円で売ろうか。100個売れたら、20万円になる。ところが新品の車をつくって754万台売ると、1500億円の赤字になる。そこのところがよく分らない。「昨対比」という言葉もそうだ。どうして一昨年よりも、去年よりも、もっともっと売らなくちゃいけないのだろう。果てしなく成長し続けなくちゃいけないのだろう。20万円あったら、贅沢をしなければ、何とか暮らしていけるだろう。そこのところがよく分らない。たとえば、エンデさんはこんなことを言っていたよ。

 

 ‥だって、そうでしょう、すべてはこの経済システムをめぐっているんですよ。どうしても言っておきたいのですが、現在の体制を続けるという枠内でのあれかこれかの考え方というのは、私にはできません。消費、消費、もっと消費、という今日の経済システムの内部にとどまっているかぎり、解決はできない。このシステムは、いつも今年より来年のほうが消費量をふやせるという条件付きでしか存続しえない。これで進んでいくかぎりは、どうしても次に来るエネルギーとして、もっ危険なエネルギーを考えるしかないという、宿命的な強制につながっていく。

 彼らはメリーゴーランドに乗っている。それぞれが前にすわっている人を追いかけるという形でね。まさにこれは競争原理にもとづいた経済の本質なんだ。だれひとり、このメリーゴーランドから降りることができない。たとえ降りたいと思ったとしてもね。ぐるぐる回りながら、おたがいに敵となって追いかけあう。競争から脱落しないためには、まさに何%かの成長をしなくてはならない。

 この悪循環の中では二つに一つを選ぶしかない。世界を破滅させることではあるけれども今のままの方向で進みつづけるか、それとも大量の失業者と経済破局を覚悟するか。私が見ている唯一の克服の道は、本当に理性的な洞察によって、お金の制度自体がその内部ですっかり変わらなければならないことに、経済界の人たちが気づくことです。利益を当てにするのではないお金のあり方が生まれること。

 

 エンデさんのいう「本当に理性的な洞察」ではなく、図らずしも、世界中はそのシステムが抱えていた「狂い」によって自壊を始めてしまった。でもその「狂い」はそもそもぼくら全員が享受し続けてきたものの中に存在していたんだ。それをたぶん、エンデさんは「本来量としてとらえられないものが、量として考えられて、そのために、そのものの価値がまるごとうばわれる」と表現していた。それはいったい何のことなのか? とぼくらはいまこそ真剣に考えなくちゃいけないんだろうな。

 年の瀬の町では、仕事も住む家も失った人々があふれ出している。ぼくの乗っている車のハンドルやギアを毎日作り続けてきた人たちだ。政治家や行政は何も手立てがない。とうか、かれらはもともと、そんな能力は持ち合わせていないんだな。ちょうど3年前の冬、京都の河川敷で認知症の母親を殺して自らも死に損ねた男のことを考えている。男と母親が明かしたまんじりともしない最後の夜の河川敷での風景を。

 

 京都市伏見区河川敷で2月1日、無職の片桐康晴被告が認知症の母親を母を殺害し無理心中を図ったとみられる事件の初公判が行われた。 事件の内容は認知症の母親の介護で生活苦に陥り、母と相談の上殺害したというもの片桐氏は母を殺害した後、自分も自殺を図ったが発見され一命を取り留めたとの事。

 片桐氏は両親と三人暮らしだったが、95年に父が死亡。その頃から母親に認知症の症状が出始め、一人で介護していた。母親は05年4月頃から昼夜逆転、徘徊で警察に保護されなど症状が進行した。片桐被告は休職してデイケアを利用したが、介護負担は軽減せず9月に退職。生活保護は、失業給付金を理由に認められなかった。『死ねということか』 介護と両立する仕事は見つからず、12月には失業保険の給付がストップ。カードローンの借り出しも限界額に達し、デイケア費やアパート代が払えなくなり、06年1月31日に心中を決意した。『最後の親孝行に』と片桐氏はこの日、車椅子の母を連れて、京都市内を観光。市内のコンビニで被告は、財布に残っていたわずかな小銭で菓子パンを買い二人で食べたという。

 2月1日早朝同市伏見区桂川河川敷の遊歩道で片桐被告が「もう生きられへん、此処で終わりやで」などと言うと。母は、「そうか、あかんか。康晴、一緒やで」と答えた。 被告が「すまんな」と謝ると、母は「こっちにこい」と呼び、片桐被告が母の額にくっつけると、母は「康晴はわしの子や。わしがやったる」と言った。この言葉を聞いて片桐被告は殺害を決意。母親の首を絞めて殺し、自分も包丁で首を切って自殺を図った。

 冒頭陳述の間、片桐被告は背筋を伸ばして上を向いていた。肩を震わせ、眼鏡を外して右腕で涙を拭う場面もあった。裁判では検察官が片桐被告が献身的な介護の末に失業を経て、追い詰められていく過程を供述。殺害時の母子のやりとりや、「母の命を奪ったが、もう一度母の子に生まれたい」という供述も紹介。陳述の最中に、検察官が涙で声を詰まらせるという異例の雰囲気の中で裁判が進行した。

 目を赤くした東尾裁判官が言葉を詰まらせ、刑務官も涙をこらえるようにまばたきするなど、法廷は静まり返った。「痛ましく悲しい事件だった。今後あなた自身は強く生き抜いて、絶対に自分をあやめることのないよう、母のことを祈り、母のためにも幸せに生きてください」 と最後に語りかけると「ありがとうございました」 と頭を下げた被告。

(産経新聞) - 7月21日

 

 湯浅誠「反貧困---「すべり台社会」からの脱出」(岩波新書)によれば、かれは心中の際の遺書に「(生活保護を拒否する)こんな国に生まれたことが恥ずかしい」と書いていたそうだ。そんな恥ずかしい国の一年が、ことしも暮れようとしている。

2008.12.23

 

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 夕方からYと子は教会へ、クリスマスのミサの準備へ出かけて行く。ミサが始まる7時頃に、わたしはひとりバイクで教会へ向かう。聖歌の合唱の後、子どもたちでポニョの主題歌を歌う際に、子は後半からヴァイオリンを弾く。案内された席は途中から入ってきたブラジル人の家族に譲って、いちばん後方に立ってミサを見学する。やはりじぶんには神を賛美することはできないなと改めて思う。善意の人々には加われない。聖体拝領の間に、そっと教会を抜け出る。Yと子はミサのあとに立食パーティーがあるから、途中のオークワに寄って半額の刺身を買って帰り、ひとり夕飯を済ます。ソファーに寝転がって、ビートたけしが東條英機を演じているテレビドラマを眺めている。

2008.12.24

 

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 朝、子は枕元にクリスマス・プレゼントを見つける。黒曜石の小刀と原石。サンタからの手紙が入っている。こんな英文だ。

 

To Shino

The friend in Japan helped because there was no The Princess Mononoke in my country.
Were you able to like it?
Please wonderful Christmas!

Sant-Claus

 

 それからもうひとつ、寮さんのクリスマス・プレゼントは「自然がつくった十字架の景色」で、箱庭的な結晶岩のはしっこに小さな十字架の形の水晶が立っているもの。そういうわけで、ことしのクリスマス・プレゼントは「石づくし」である。どちらも子が興奮して、目を輝かせたのは言を待たない。森羅万象に子が神の似姿を見んことを。

 半年に一度の整形外科H先生の診察で朝から家族三人、車に乗って大阪の病院へ行く。腹筋力もあるし、(装具を付けての)歩き方もかなりいい形だとのこと。縄跳びや自転車のことを相談すると、腰を中心にした前後左右のバランス移動の練習がポイントらしい。要するに左足が弱いので、ずれている中心線を体験的に修正することが必要とのことだ。補助輪を外した自転車は確かに難しいが、不可能ではない、どんどんやらせてみたらいい、と。先月作ってもらった新しい装具はいまのところ順調だが、左足の親指が人差し指に乗っかる形になりがちなため、ちょうど親指の付け根の骨の部分を数ミリほど底上げ加工してもらって、ふたたび様子を見ることになった。

 谷町の交差点近くのラーメン屋「封」で遅い昼食を食べ、それから近所のスーパーでクリスマスのケーキや夕食の食材、Yの好きなアイリッシュ・ミルクなどを買って夕方に帰った。

 注文していた藝能史研究會編『日本芸能史』全7巻(法政大学出版局)が届く。古代から現代までの日本芸能の流れを、たんなる芸能史にとどまらず民俗学や考古学の視点からも俯瞰する中身がたっぷり詰まった感のシリーズで、頁をぱらぱらと捲りながら思わず生唾がわいてくる。またアマゾンで注文していた「能楽囃子・至高の四重奏」のCDも同時に届く。そういえば父も時折、仕事場でラジオの能楽番組を流したりしていた。いまも生きていたら、きっといろんな話ができたろうにと思う。わたしの内なる何物かが、これらのものにわたしを引き寄せる。底へ底へと降りて行くのだ。

藝能史研究會のホームページ http://www5b.biglobe.ne.jp/~geinoshi/

2008.12.25

 

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 九州に続いて広島のSCの計画書を作成している。来春オープン予定で、計画書の提出期日は正月明け。年明け早々に、あるいはまた東京へ出張してプレゼンをしなくてはならないかも。メールで送られてきた20数枚に及ぶ図面を眺めていると、防災センターの感知器が鳴る。トイレの炎感知器だ。防災盤を眺めていた新人のKさんが「確認に行ってきます」と出て行こうとするのを止める。「どこ?」 「えっと・・・ 二階の東トイレです」 「東トイレって、どっちの?」 「え。・・・」 立ち上がって防災盤を見にいく。「Kさん。全然違うじゃない。これは〇〇の北側のトイレでしょ。〇〇に電話して確認させて」 「トイレで煙草を吸ったくらいならいいけどさ、Kさん。これが本当の火災だったり急病人だったりしたら、あなたは全然あさってのところをうろうろしているわけだよ。もっと落ち着いてしっかり確認しなきゃ」 「はい、すみません・・・」 防災盤の履歴からあちこちの感知器や防火扉などを表示させてKさんに練習させていると、Yから電話がかかってくる。毎年恒例の、お気に入りのアパレル店の福袋の予約に来たのだ。「いまどこ?」 モールへ出て行って合流する。黒の余所行きのコートを来た子は胸にぶら下げた黒曜石の小刀を自慢げに見せる。新しくできた広い本屋の店頭で映画「ウィリー」のストーリー本を真剣に読み始める子の横顔をじっと眺めている。昨夜は死んだ飯島愛のブログをWebでたまたま見つけてしばらく読んでいた。彼女がAV女優としてデビューしたのは、ちょうどわたしが実家の隣町のレンタル屋でアルバイトをしていた頃だ(80年代のAV女優はちと詳しいぞ)。夜中におでんが食べたくなって行きつけのコンビニへ買いに出た。わざと卵をふたつ買ったのに、顔馴染みの店長は割り箸をひとつしかつけてくれなかったのが悔しい。それから、ローソンのツナマヨのおにぎりが大好きだけれど、他にも美味しいコンビニのおにぎりがあったらみんなぜひ教えて欲しい・・・ 死ぬひと月ほど前のそんな他愛のない記述を読んでいたら、何だか妙に切なくなって眠れなくなってしまった。だれもがいつかは死ぬ。死ぬときの風景はさまざまだ。「ウィリー」のストーリー本を夢中で読んでいる子の横顔をじっと眺める。ローソンのツナマヨのおにぎりをわたしも食べてみたくなった。

2008.12.26

 

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 ベツレヘム、エルサレム。イエスが生まれ、イエスが死んだとされるまさにその土地で、ある種の人々は二千年のトラウマという楔を穿たれた狂気に駆られ、かつての誇り高い遊牧の民たちは21世紀のゲットーに囚人のように幽閉されている。恐ろしい砲撃の鳴り響く町で、「死ぬときは家族いっしょだ」と電灯も途絶えた暗闇の中でじっと息を凝らしているというのはどんな気持ちだろう? おなじ旧約聖書を聖典として崇め、おなじアブラハムという先祖を共有しているユダヤ人とアラブ人が憎悪を増幅するだけというならば、この世にもう宗教などというものは要らないのではないか? 砲弾の飛んで来ない町にいるわたしは、じぶんに砲弾が飛んで来ないというそのことがなぜかひどく苛立たしい。砲弾よ、このぼくに飛んで来い。このぼくに飛んで来い。

2008.12.29

 

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 昨日の昼、妻子と別れて倉のある広い一軒家に住んでいるTさんがお寿司の詰め合わせを食べていた。「お、豪勢ですな」と覗き込めば、一年間がんばったじぶんへの御褒美だ、との返事が返ってきた。その夜の帰り、わたしも閉まりかけていたコープの店頭で半額の巻き寿司を1パック買って、Yが作り置きしていったおでんといっしょに食べた。それから焼酎のお湯割をすすりながらネットで、中東問題の歴史や、先にテレビで放映されたペトロ岐部に関する記述などをつらつらと漁った。明けて大晦日。薄い雲間で濾過されたようなまったりとした光が充満している、魚のいない水槽の中のような閑かな空間。奈良盆地のぐるりを囲んだ山々は蒼く沈み、心なしか山稜がいつもより低く感じる。どこかへ出かけようかと思うが、どこへ行ってもあまり愉しめないような心持がする。仏像のお身拭いは終わったらしいが、人間たちのお身拭いはどうか。わが身は相変わらずの塵芥(ちりあくた)でいっぱいだ。部屋に戻ってモーツァルトの晩年のクラリネット五重奏曲をかける。レオポルド・ウラッハのクラリネットは、ときに雲の切れ間から射し込んでくる一条の光のようだし、ときにほの暗い影を湛えた魂が冬の路地裏を徘徊しているようにも響く。地上から数センチだけぽっかりと浮かんだ、その重心の振る舞いが心に沁みる。そういえば数日前、職場のYさんがテレビで見た「文明の衝突」の著者サミュエル・P・ハンティントンの話をしてくれた。人間は自然の中に在って自然との格闘により生命としてのバランスを学んできたが現在は人間が自然を超えてしまった、地球上の生命の中で人間だけが異質な存在になってしまった・・・ という見解だ。どこで読んだか忘れてしまったけれど、能の古態を伝える翁面とその所作は、あれはもともと人間と自然との交流・接触の原初の姿を伝えているのだという。種を蒔き、実が成るまでの大地の神秘的な俳優(わざおぎ)に対する畏怖と賛美の念である。藝能はまず、そのような場所から発生した。その人間側の思いを神に伝えるのが翁の舞である。マタギが山中で熊を解体するときの所作も同様だろう。刃物を熊の腹に乗せ、塩を振って呪文を唱える。あるいはクロモジの木でつくった串に熊の心臓三切れ、背肉三切れ、肝臓三切れを刺して山の神と共に饗応する。人は見えない橋のこちら側にいて、その橋を渡ってくるものの存在を念じている。南無阿弥陀仏とおなじだ。ところで夕べ、ネットで清志郎の元気な姿を見つけた。喉頭癌が腰に転移した療養中の身で、ブッカー・T&ザ・MG’Sのステージに上がり「イン・ザ・ミッドナイト・アワー」を熱唱したというスポニチの記事だ。その中で(MG’Sと共演したアルバム)「HAVE MERCY」のジャケットで赤ん坊だったかれの娘がすでに17歳になっているという一文が、なんか印象に残ったな。清志郎がMG’Sといっしょにつくったアルバムを聞いたのはほんの少し前だったような気がするが、実は赤ん坊が高校生になるほどの歳月なんだ。命は光速だ。光の早さで銀河や星雲を経巡っていく。うかうかなんて、してられないぜ。

 

 Yの実家へ行った子の書置き。呪文のような走り書き。

 

おとうさんへ

ピースケ つれてく

あたしのダイモン
ほんとに いる

でんわこっち かけない。かけて。

小刀かけてく

ピースケ よろこんだ
ピースケ それで うんち もらした

しのより

げんせき(原石)に つたえて ここのこと。

2008.12.31

 

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 大晦日。ひとり家に居てもどうも淋しい心地がして、夜になってバイクで職場に出掛けた。それで蕎麦が売り切れていたため買ってきたうどんのカップ麺を夜勤の連中に年越しだと配り、じぶんのPCの置いているデスクに腰かけて広島の物件の計画書の手直しなどをしながら、ときどき他愛のない冗談を言ったり、新人隊員に後からお節介じじいのような小言を言ったりしているうちに年が過ぎた。明け方近くに計画書を済ませて、椅子を四脚並べて二時間ほど寝た。そうして六時にはもう、まだ暗い駐車場に福袋目当ての家族連れの車がぽつぽつと現れ始めた。まだ小さな子どもの手を引いた若い夫婦が二時間も三時間も寒空の下にじっと並んで、年明けの消費生活に胸を膨らまして、よーいどんのかけっこをするわけだ。むかしのお正月はこんなふうではなかったな。いろんなことが休んでいた。日常が休みだった。せめてむかしのお正月を子には味わいさせたくて、ほんとうは淋しくて仕方ないのだけれど、今年は居ようかと言う妻を制して毎年妻と子を実家へ送るいいから行ってきなと送り出す。蜜柑山に囲まれた鄙びた漁村のじいちゃんばあちゃんの家で、子は餅つきをしたり、大漁旗を掲げた舟の休む小さな港を散歩したり、竹馬や凧揚げや羽根突きをしたりして遊ぶ。

2009.1.1

 

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 たとえばショッピング・センターの車の出入口があるとする。夕刻、出庫はピークで1時間に二千台もの車が出ようとしているから、駐車場は大混雑だ。出口へと並んだ車の列はシリンダーをぎっしりと埋め、立体駐車場のなかでとぐろを巻いている。いまは携帯電話という便利なものがあるので、「30分も待っているのにぜんぜん進まないぞ!」「冷凍食品が溶けるじゃないか、弁償しろ!」「身重の妻が出産しかかってる、どうしてくれるんだ!」なぞといった怒りの声がすぐに管理事務所に殺到する。さて、出入口だ。信号機のついていない、側道へ出る片道一車線づつのサブ的な出入口。まんなかにゼブラゾーンがあって扇形を縁取るようにゴム製のオレンジ・ポールが立っている。道のはたに立った警備員が寒さで鼻水を拭いながら「左折にご協力ください!}と叫び続けている。「左折でお願いします」「右折禁止」といったもろもろの矢印看板も設置してある(これらは「右折出庫が危ない!」という近隣住民のクレームで一つづつ増えていったものだ)。左折方向は比較的スムースに車が流れている。右折方向は幹線道路が近いものだから、他の出入口からの出庫とも重なって並んだ車列がのろのろとしか進まない。左折をすれば比較的すんなりと出れるのに、どうしても車線をまたいで右折方向へ出たいから、車を停めて、タイミングを窺い、ときにはオレンジポールをよけるために二度三度と車体を切り返してようやっと出て行く。その間、みんなが「この状況じゃ仕様がない」と右折を諦めて左折してくれたら、10台、20台もの車がすいすいと出て行けた。そんな具合に30分も経てば渋滞列も解消して、身重の奥さんも車内で出産せずに済むかも知れない。入庫のピーク時もおなじ風景だ。立体駐車場の上階には空車表示がわりと出ているのに、目の前に見つけた空きスペースにバックから入れようとハザードを点け、何度も切り返しをして後続の車列を止める。やっと入ったと思ったら次の車もそのまた隣のスペースの前で車体を切ってハザードを点ける。入口で鼻水を拭う間もない警備員が「上の階が空いています。上の階にお進みください!」と叫んでいてもそ知らぬ顔だ。だって上の階へ行くにはシリンダをぐるぐると上らなくちゃいけないし、店内の入口へ歩くのも遠くなるじゃないか。かくて上階には空きスペースがたくさんあるのに、車列は立体駐車場の入口で止まり続け、後ろの待ち列がどんどん増えて行く。その先の出入口か交差点あたりでは、鼻水の凍りついた警備員が車の窓を開けたお客から「30分も待っているのにちっとも動かないじゃねえか!」「お前らこんなにたくさん立っててちゃんと仕事してるのか!」「いますぐ空いている場所を見つけてこい!」「せっかく子どもが愉しみに来たのに『ポニョ』が始まっちまうじゃないか。おまえがそこで『ポニョ』を歌え!」なぞと怒鳴られ続けている。そうして怒鳴っているおなじお客が、出庫のときには5分くらい後続車を停めて悠々と右折で帰って行くわけだ。だってもう帰るだけだしな、後ろの車がいくら渋滞しようとおれにはケンケイねえよ。

 こういうことっていうのは案外、世の中のいろんなことの縮図に当てはまるような気が、いつもするんだな。道徳めいた話は柄じゃないが、たとえ雨の日だろうと、後ろに車列が溜まっていたら目の前の空きスペースには目もくれずにわたしはいつも屋上まで一気に駆け上っていく。みんながそうしてくれたら、時給850円で働いている警備員のおじさんももうちょっとカッコよく見えるよ。そして誰もがみんな、もうちょっとづつ心地よくなる。

2009.1.2

 

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 休みなしで働いた年末年始がやっと終わって、5日は子のMR検査。正月明けのせいか撮影室前でだいぶ待たされた。「痒いところを掻けない」と出てきた子がぼやくので座禅の話などを披露する。「でもお父さん、小学生で15分だよ。褒めてやってよ!」 結果はとくに異常なし。脂肪腫も増えていないし、成長における神経のひっぱりも見られないとのこと。輪切り状の脊髄にぽっかりとあいた空洞が、何やらもの淋しい。脳神経外科のY先生の旦那氏が英語の本の読み聞かせなどをしている大阪の貸本喫茶「ちょうちょぼっこ」の話などを聞く。東京の方のメディアにも紹介されたとか。この「ちょうちょぼっこ」のHPを見つけて、そこからリンクを辿っていったら、以前に子の漢字検定の際に前を通りすぎた、雰囲気のある奈良市の古本屋「ならまち文庫 古書喫茶「ちちろ」」のHPに辿り着いた。よくみればこの古書店主、河瀬直美監督の映画「殯の森」に主演している。世間は斯様に通じている。夕方、私の職場のSCに立ち寄って、ノートPCや大量の書類ファイル、スーツなどを回収してくる。6日はひさしぶりに大阪の本部へ出社し、プレゼン資料のすり合わせ・再調整など。淀川沿いの緑道には浮浪者の姿が多い。以前から多かったが、前と異なるのはくるまっている寝袋がまだ真新しかったり、身なりがそれほど年季の入っていない新参者が明らかに増えているということだ。冷たい路上に敷いたダンボールの上で寝袋にくるまっているかれと、スーツ姿のわたしと何が異なるのか。たいした違いはないのだと思える。ほんのすこしの「運命のいたずら」なのだと思える。あまった時間に他の古株社員にエクセルのレクチャーなどを行い、いたく感謝される。7日は広島の新規物件のプレゼンで千葉・幕張へ出張。花粉症のせいか体調が不良で、新幹線の往復はほとんど寝ていた。連休(正月代休)初日の8日に行きつけの耳鼻科へ行って診て貰う。鼻と喉をみて医者は「あきらかに花粉症の症状です」と言い、薬を出してくれる。図書館で年末に借りた新書二冊湯浅誠「反貧困---「すべり台社会」からの脱出」(岩波新書)北川忠彦「世阿弥」(中公新書)を読み終える。当時の猿楽能において世阿弥の目指したものが如何に異端であったか、そして世阿弥がとくにその晩年に、如何に世間から孤立して現在の能楽の原テキストといえる能楽論を深化させていったか。一方で最後まで地方の民衆の目を忘れなかった父・観阿弥の立ち位置も捨て難いものに思える。つまり世阿弥が記した「舞歌二曲を以って本風とすべし」から削ぎ落とされてしまった、古来大和猿楽の源流ともいえる物まね的・劇的な要素である。要するに、至高性を帯びた世阿弥のストイックな芸風(つもり現在に伝わる“能楽”だ)も魅了されるが、侠雑物を残した「田舎芝居的」な観阿弥の芸風にもそそられるものが存在するわけだ。自立生活サポートセンターを自ら運営している著者による「反貧困」は、この国におけるセーフティ・ネットが如何に崩壊しているか、そして「自己責任」の名のもとにそれらが如何に正当化されているかを看破する。そこには著者いわく、教育課程(親世代の貧困)・企業福祉(非正規雇用・雇用保険等への未加入など)・家族福祉(親や子に頼れない)・公的福祉(生活保護行政)と続き、最後に自分自身からの排除(自分のせい・生きるに値しない)に至るまでの五重の排除が存在するという。そこで問われるのは社会的な「ため」、個人的な「ため」の必要性である。「ため」がゼロに近いほど、落ちて行くのはあっという間だ。これについては最近、はるさんもブログで「就職しないで生きるのは覚悟がいる」といったことを書いており、それはそれでわたしも賛成なのだけれど、問題ははるさんのように自らの意思でドロップアウトを選択して非正規雇用になったわけではなく、選択の余地もなく選ばざるを得なかった人々というのが確かに実在していて、その過程はほんとうに自己責任という言葉で済ませられない社会の「ため」の無さに起因しているものだと、この本の様々なケースを読むと納得させられる。ちなみに「自立生活サポートセンター もやい」のサイトで配布している「生活保護費の自動計算」関数の組まれたエクセル・ファイルをダウンロードして試してみたら、わが地域の生活保護費(憲法25条で保障されている最低月額生活費)は184,830円であった。これを見たYは「うちはこれ以下だったときもあったよね〜」と言った。確かにそれはそうであり、そのときは車も所有していなかったし、外食もほとんどしなかった。つまり「最低の生活費」を考えるということは必然、真の豊かさとは何なのかといった問題につながっていく。8日の夕刻はレンタル屋へ行って、Yが末期癌に侵された老人二人をジャック・ニコルソン、モーガン・フリーマンが演じる「最高の人生の見つけ方(直訳は「棺おけリスト)」を、わたしが周防正行監督の痴漢冤罪裁判の「それでもボクはやってない」を借りてきて、子の寝静まった深夜に二人で見た。前者はいつものハリウッド映画の例に忠実で、適度に愉しめ、適度に感動でき、見終わったらあまり残っていない、昔の粉末ジュースのようなもの。最近はアメリカの映画はあまり見る気がしない。後者は警察の杜撰な捜査と、検察と裁判所の癒着を描いたもので、Yが「警察の取り締まりって、ほんとうにこんな酷いのかな〜」 信じ難いと漏らしていたが、わたしに言わせれば警察というのは所詮やくざと同じなのであり、国家権力というバックボーンを持っているだけやくざより性質が悪い。それにしてもこの映画の通りの論理の破綻した裁判がまかり通っているのだとしたら、まったく酷い話だな。いよいよ判決が出るというクライマックスで、寝ていたはずの子が起きてくる。親が映画に夢中で夜中の導尿を失念していたため、おしっこが漏れてしまったのだ。導尿をして、パンツとパジャマを着替えさせ、いっしょに映画を見させた。Yによると、夜中に目覚めて隣に誰もいないと漏れてしまうことがよくある、とのこと。9日、相変わらず体調不良で試みに熱を測ってみたら38度ある。行きつけのいつも空いている内科医(いつも空いているので行きつけなのだ)で診て貰うと、インフルエンザではないが、風邪ですなと言う。抗生物質などの薬を貰って大人しく寝ることにする。Yが湯たんぽを入れてくれる。寝汗をたくさんかいて、パジャマを着替える。その夜、奇妙な夢を見る。Yが精神に失調をきたし記憶もなくしたのだ。彼女は若い男を恋人にしていて、わたしのことは召使のように思っていてあらゆる我儘や注文を押し付けてくる。時にはひどい癇癪も起こす。わたしはそんな姿になったYが可哀想で、彼女の要求をすべて受け入れる。そんな耐え難い日々が続いたある日、何かの拍子にYがわたしのことを思い出す。じぶんの夫を思い出したのだ。わたしは「思い出したんだな。よかったなあ」とYを抱きしめたところで目が覚めた。妻への深い愛情を示す非常に美しい物語である。10日。熱は若干下がったが、念のためもう一日養生することにする。病気のときはちょっと昔の作家の書いた随筆、とくに旅行記のようなものが、布団の中で読むのにふさわしい。武田泰淳の「私の中の地獄」(筑摩書房)に収められた「泰淳日本行脚」の頁をめくる。そばでYがベランダ側の窓の結露を拭いている。

 

貸本喫茶ちょうちょぼっこ http://www.geocities.co.jp/chochobocko/

ならまち文庫 古書喫茶「ちちろ」 http://www2.odn.ne.jp/~cdl17850/

「殯の森」公式ホームページ http://www.mogarinomori.com/index.html

特定非営利活動法人 自立生活サポートセンター もやい http://www.moyai.net/

2009.1.10

 

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 休日。Yと車でわたしの職場のショッピング・センターへ買物に出かける。BGMはリッキー・ネルソンのベスト盤。葛城山がうっすらと雪化粧しているのを見て、ロープウェイで子を連れて行きたいなぞと話す。膝が破れたジーパンの代わりを一枚、松岡正剛「白川静・漢字の世界観」(平凡社新書)を一冊、新しい店のラーメンを食べて、TVチャンピオンになったという話題のロールケーキを一本買って、学校帰りの子を迎えに行く。女の人はとくに何も買わなくても、あれこれの店を眺めて歩くだけで愉しいらしい。一方のわたしは、人気のない山道ならいくら歩いても爽快なのに、ショッピング・センターでは少し歩いただけでひどく疲れてしまうのはなぜだろうと考えてしまう。子は家に帰るなり、そのままヴァイオリンを積んでYと教室へ向かう。わたしは夕食のパスタをつくる。

 Yと愛し合ったあとで、眠ってしまった彼女の寝顔を眺めている。かつてはどこか異国の王妃のようであった彼女も、豆電球の薄明かりが年相応の陰影を刻んでいる。けれどもこの人は世界中でたったひとり、我が儘で支離滅裂でどうにも喰えないこのゲテモノにもう十年以上も黙って連れ添ってくれているのだと思うと無性にいとおしい。そんなふうに彼女の寝顔を眺めていると、遠い異国の地で爆弾に頭を吹き飛ばされて死ぬ見知らぬ子どものことが思われ、あるいは余命幾許もない孤独と絶望の中で焦燥しきった同級生の母親のことが思われ、そうしていまここで安らかに眠っている彼女と目を覚ましているわたしと、どれもいにしえの久遠の旅路ではひとつにつながったりはなれたりしていた命だろうに、この見えない壁を取り払って互いの個を超えた感覚が蘇るというようなことはおよそ不可能なのだろうかと考えたりする。

2009.1.13

 

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 奈良の現場での勤務を離れ、毎朝、満員電車に揺られて大阪中心部にある本部へ通う毎日である。昨日は昼から京都の現場を巡察した。今日は午前中報告書を書いて、午後からは各現場の隊長クラスが集う会議を主催して、PCで議事録を打ったらはや一日が暮れた。朝よりかは幾分空いている電車に揺られて、夜遅くに自宅に帰り着く。駅前の駐輪場に留め置いた自転車にまたがり走り出したら、耳に挿し放しのイアホンからリチャード・マニュエルの歌う Tears Of Rage が流れ込んできて、冷たい冬の夜空に満点の星の煌き。

2009.1.15

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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