おおくぼまちづくり館と洞村跡地

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■■ おおくぼまちづくり館と洞村跡地 ■■

 

 

 

 

 

 橿原市に今年3月に開館した「おおくぼまちづくり館」を見てきた。大正時代に神武天皇陵の拡張整備に伴い、被差別部落がまるごと集団移転させられた旧洞(ほら)村の歴史を伝える貴重な資料館である。

 留意しておきたいが、もともと天皇陵より前に洞村はすでに存在していた。歴史の彼方に消えていた神武陵が現在の地に比定されたのはやっと幕末の頃である。「畝傍山の東北陵」という書紀の記述より、近在の塚山、丸山(洞村の最上部)、神武田(じぶでん・ミサンザイともいう)の3カ所が候補地とされ、当初は塚山が比定されたがこれは後に二代綏靖陵へ変更され、結局、神武田が神武陵となったが、丸山もなお可能性が残るということで「宮」の文字を入れた石柱で囲まれ祀られていた。しかしこの神武田にしても、洞村の古老の話では「ここは直径10mくらいの小塚が2つ並んでいて、もともと地元では糞田(くそだ)と呼んでいた。ひょっとすると牛馬の処理場で、掘ると牛や馬の骨が出るかも」というくらいで、そもそも紀元前660年に即位して127才まで生きたなどという伝説上の人物の墓がどこにあるかなんて分かるはずもない。現在ではうっかりすると、二千年以上の神代の昔からあの地に鎮座していたように錯覚してしまうが、亡き住井すゑ氏がかつて言っていたようにまこと「嘘も長いことつき続ければ本当になる」のである。

 この江戸時代にはささやかに祀られていた神武田が、俄に現在のような立派な形に整備されていくのは明治維新後であって、そこには無論、天皇制を軸とした国家権力装置としての象徴的な目論みがあったことは言うまでもない。俄仕立ての神武陵に隣接する形で畝傍山の北東山麓に位置していた洞村が、天皇陵よりやや小高い地勢にあったことから「御陵を見下ろすのはけしからん」という声が出始めたのは、大正天皇の神武陵参拝がきっかけであったらしい。以下に資料館の展示より書き抜きした、当時書かれた「皇陵史稿」なる研究書の一部くだりをあげる。

 

 ... 驚くべし。神地、聖蹟、この畝傍山は無上極点の汚辱を受けている。知るや、知らずや、政府も、人民も、平気な顔で澄ましている。事実はこうである。畝傍山の一角、しかも神武御陵に面した山脚に、御陵に面して新平民の墓がある。それが古いのではない、今現に埋葬しつつある。しかもそれが土葬で、新平民の醜骸はそのままこの神山に埋められ、霊山の中に爛れ、腐れ、そして千万世に白骨を残すのである。どだい、神山と、御陵の間に、新平民の一団を住まわせるのが、不都合この上なきに、これを許して神山の一部を埋葬地となすは、ことここに至りて言語道断なり。聖蹟図志には、この穢多村、戸数百二十と記す。五十余年にして今やほとんど倍数に達す。こんな速度で進行したら、今に霊山と、御陵の間は、穢多の家で充填され、そして醜骸は、おいおい霊山の全部を浸蝕する。

後藤秀穂「皇陵史稿」(1913・大正2年)

 

 こうした世論の圧力に押され、旧洞村の住民たちは長年住み慣れた村を土地ごと宮内省に「自主的に献納」する形で移転を決める。(御下賜金として当時の金額で総額31万5千円が支給され、住民はそれを移転費用に充てた) はじめは隣接する山本村への移転を希望したが同村より拒否され、最終的に約1キロ東の大久保地区と四条地区にまたがった1万坪の土地に移り住んだ。しかしこれらの地区から「墓地ハ両大字領ニ設置セザルコト」との条件をつけられ、村の墓地は別に前記の山本村内に移された。この墓地の移転に際しては「一片の骨さえも残してはならない」といった徹底さで掘り返されたという。

 「おおくぼまちづくり館」の建物はこのときに旧村より移築したもので、築100年を超すなかなか立派な木造2階建てである。移転に伴い村の面積は約4分の1に激減したために、多くの家は規模を縮小せざるを得なかったらしい。館内ではDVDによる映像の他、1階に移転に際する資料、2階に村の主産業であった草履表や皮靴づくりの様子が展示されている。一見するとパネル展示の解説などは移転がおだやかに、あるいは環境改善のために進められたかのように書かれているが、よくよく資料に目を凝らせば、やはりそこには不条理な言いがかりによって住み慣れた村を追い出された者たちの恨み、そして天皇制への複雑なまなざしがしずかに滲み出ている。たまたまどこかの小学校の教師たちが団体で見学に来ていたのだが、案内をしていた男性の言葉の端々にもそれらは嗅ぎとれた。実際に、昭和天皇崩御の際には機動隊が村中を巡回したり、天皇が参拝のときに乗ってくる「お召し列車」の線路沿い(現在の部落に接している)に警官と近鉄の職員が立ち並んだりと、いまもこの村が権力の監視の対象となっているという話なども聞く。「ここほど天皇制を日常的に感じられる場所はない」とも。

 村内のほぼ中央にある、旧村より移築された生魂神社に立ち寄ってから、その足で旧洞村の跡地を訪ねてみた。資料館の受付にいたおばちゃんの話では、現在は神武陵の一部であるため、団体の見学のときにはいちいち宮内庁の事務所に連絡をするのだそうだが、一人くらいなら別段構わないだろう、とのことであった。資料館から歩いてもほんの数分、橿原神宮に隣接する神武陵の入り口からだだっ広い砂利道の参道を右へカーブするようにしばらく進むと、神武陵の鳥居が正面に見えた頃に、左へ入っていく小径がある。これは陵をなぞるように山本村へ続くひっそりとした道で、仮にここでは「山本道」としておく。山本村にじきに抜け出る手前左の「危ない」という注意板が木にくくりつけられた小径を上るとすぐに、水不足で苦労した旧洞村の住民たちが自力で造成した広い溜池に出る。私はこのほとりにしばらく佇み、近くのスーパーで買っておいたおにぎりの昼食を食べた。これだけの池をせっかく苦労して造りながら村を捨てなければならなかったのはさぞ無念であったろう、と思わず当時の村人たちの気持ちが偲ばれるような立派な灌漑用池である。池の場所が分かったので、村の方向も目星がついた。もういちど「山本道」の起点に引き返して、そこからすぐと、しばらく先のやはり左手の、少々薄暗い小径が旧洞村跡地へ続く道で、後で知ったことだが奥で合流するのでどちらを行っても良い。地面が湿気を帯びた、何となく薄気味の悪い鬱蒼とした道であった。10分ほど行くと、資料館の映像で見たレンガ造りの村の共同井戸があった。草履表に使うシュロの木もいくつか見た。それらは住居の跡であるという。資料の記述では茶碗のかけらなども落ちているというのだが、残念ながらそれらは見あたらなかった。ともかく、すでに80年の歳月が流れている。村は見事に消失し、後に植えられた樹木がまるで原生林のように、かつてあったろう日々の賑わいの痕跡を埋め尽くしていた。ともあれ機会があったらもう一度、こんどはもう少し丹念に歩き回ってみたい。

 せっかくだからと、帰りしなに神武陵も見ておくことにした。かつて「糞田」と呼ばれた小さな塚が、いまでは巨大な権力の衣を幾重にもかぶって、神々しく鎮座している。もちろん、それは空虚でひどく愚かしいまぼろしである。立ちつくした私の目の前で、それらの空間はたちどころに色褪せてかき消え、代わりに山のふもとの樹の間から、共同浴場の湯が沸いたと村中に告げる威勢のいい声が聞こえてくる。神武陵地に隠された旧洞村の静謐な跡地は、この国の闇を照らし出す貴重なスポットである。機会があったらぜひ一度、立ち寄られたい。

 「おおくぼまちづくり館」は住宅地内にあるのでやや分かりにくいが、近鉄橿原線・畝傍御陵前駅より北西の方角(徒歩5分)、橿原神宮前の大通りの「農業試験場前」バス停付近から現在の大久保町へ入った辺りにある。住所は橿原市大久保町40-59 tel 0744-22-4747 午前9時より午後5時まで 休館日は月曜(祝日の場合は翌日)と年末年始(12月25日より1月5日) 入館料100円(18才未満無料) 参考まで。

2002.6.12

 

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 「洞村の強制移転 天皇制と部落差別」(辻本正教・解放出版社)という本を見つけ、借りてくる。例の神武陵の拡張にともない村ごと移転した洞村(現大久保町)の顛末である。陵のある橿原の地名について「“橿原”とは、遺棄された遺体が累々とした地のことであり、流された血があたり一面を覆っている地のことである。その上に帝宅を築くということが、征服者にとってふさわしい行為と考えられていた」と推論するくだり。また洞村の洞(ほら)とはもともと「まほろば」の「まほら」であり、かつて同所が「ひじり垣内」とも呼ばれていたことなどから、古くは祝・屠・葬にかかわったハフリの民が住んでいた、とするあたりが面白い。ここにも聖と穢れの奇妙なねじれの風景が透けて見えてくる。また、確たる史料はないのだが、大正時代にある貴族議員が述べたという「かつてのミサンザイ(現在の神武陵)は、洞村における牛馬の皮の乾場であった」という言葉も紹介されている。続けて筆者は「洞村に太鼓張りが存在したことは明らかであり、そこから斃牛馬処理権があったことを類推することは充分に可能である」と書いている。現在では神聖なる国家的空間として祀られている場所に、かつては死んだ牛馬から剥ぎ取った生皮を天日干しにするようなのどかな時間が流れていたと想像することは極めて痛快である。その程度の土地であった、ということだ。

2002.11.8

 

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■ 付記

 

 上記の「洞村の強制移転 天皇制と部落差別」(辻本正教・解放出版社)を図書館で見つけ、はじめておおくぼまちづくり館と洞村跡地を訪ねてからも、わたしは幾度か親しい友人を連れてこの場所を案内した。案外とこの村の歴史のことは奈良に住む地元の人たちでさえも知らないことが多い。古都である奈良には数限りない遺跡や寺社があってたくさんの人が足を運ぶけれど、わたしはこの、捏造された巨大な天皇陵とそのはたの雑木林の中でひっそりと眠っているかつての被差別部落の村の跡地ほど、じつにたくさんのことを考えさせられる場所はないと思う。神武天皇陵と洞村跡地は、この国の「聖と賎」の鮮やかな対比と複雑に絡み合った深層文様を孕んで屹立している。天皇制について、差別について、ここほど語るにふさわしい場所はない。飛鳥や斑鳩や平城京もいいけれど、ときにはこんな場所を訪ねて、いつもと違った奈良を「観光」するのも面白いのではないだろうか。まるでナウシカに出てくる腐海のように、鬱蒼とした木々やツタ類の植物に覆われてひっそりと佇んでいる洞村の跡地を歩くたびに、わたしにはかつてこの場所で貧しいながらも懸命に生きていた名もない人々の日常の声が樹の間から聞こえてくる。

 面白い、行ってみようかと言う奇特な方のために簡単なガイドを。既述に重複するが、神武天皇陵の参道のカーブが終わりかけた左手に、一部植栽が切れて数段の石の階段があって、参道に平行している溝をまたいで入って行くのが、かつての洞村の本村であった旧山本村に続く幅3〜4メートルほどの地道である。この溝をまたいですぐ左手に、鬱蒼とした樹木の間をぬって行く小道があり、それが旧洞村への入口だ。畝傍山の方角へゆるやかな傾斜をうねうねと辿っていけば、あちこちにかつて下駄表の材料として使われた棕櫚の大樹がそそり立っていて、ああ、このあたりに人家があったのだな、と想像される。背の低い道端の棕櫚はおそらく種が飛んだものだろう。10分ほど歩いて、さいしょの勾配をのぼり終えると、やがてレンガで固められた立派な共同井戸の前に出る。古墳の石室のような中に、いまもたっぷりと水がたまっている。ここで女たちが井戸端会議に花を咲かせたのだろう。共同井戸から左手の、さらに上へとのぼる道をすすんでいくと、前述したもともと神武陵の本命であった丸山古墳に出る。いや、古墳というはっきりとした形は分らないのだが(山麓の傾斜地の盛り上がりにしか見えない)、「宮」と刻まれた低い石柱が点在しているのでここがそうなのかと分る。かつて洞村の鎮守であり現在は移転先の大久保町にある生玉神社跡地はまだ確認していない。幾つかの礎石が残っているということだ。丸山宮址からさらに畝傍山の北東斜面にそってすすむ道は途中で熊笹に覆われて途切れている。いちど共同井戸のところまで戻り、もと来た道を引き返してもいいし、共同井戸から神武陵方向へ下る道をすすんでも旧洞村領を抜けて神武陵参道ー旧山本村を結ぶ地道の中ほどに出る。そのまま旧山本村方向へしばらく行くと、左手に洞村住民が自ら造成した感慨用池の堤が見えてくる。堤にのぼり、池の対面側付近が警官立会いのもと「一片の骨さえも残してはならない」といった徹底さで掘り返されたという洞村の墓地があった場所だと聞く。さて、こうして小一時間の「洞村ツアー」を終えてからは、やはり参道まで戻って偉大な神話世界の英雄・神武天皇の巨大な陵を「参拝」して欲しい。先日、はじめてここへ連れて来た子は、わたしの簡単な説明を聞いてからこの神武陵の前で「王さまのお墓だったら、村のまんなかに作ったらよかったのにね。そうしたら王さまもひとりぼっちでさみしくないのに」と言った。

 

 

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 最後に、参考資料についてごく簡単に紹介しておく。

 辻本 正教「洞村の強制移転―天皇制と部落差別」は部落解放の運動者であり、父祖の代が洞村強制移転を経験した地元民である立場の著者による基本文献。吉田栄治郎「洞村移転考序論」はこの辻本論文を含むこれまでの洞村移転について交わされた議論と変遷をまとめ、検証したもので、補助的な資料として読まれたい。邪馬台国の会の講演記録「神武天皇陵の謎」は明治政府による神武陵の治定の経緯について分りやすく説明されている。ここで興味深いのは旧洞村上部にある丸山を神武陵と推論し、洞村の住民はもともとその陵を守る律令時代の陵戸(墓守)であったという伝承を紹介している点と、神武陵治定に際して本命であった丸山から現在の神武田にその決定が変更されたのは、孝明天皇の大和巡幸が急遽予定されて丸山に近接する洞村住民の移転が時間的に間に合わなかったという政治的な判断が働いたという説である。2000年に発表された高木博志「近代における神話的古代の創造」は神武陵や橿原神宮の整備においては洞村の以前においても、いわゆる一般の村も強制移転の対象となっており、必ずしも部落問題のみに特化できない部分があると指摘する。高木によれば幕末から明治期の王政復古と明治政府による天皇制による体制作りの過程において、「天皇制にかかわる清浄なる空間・景観」として神武陵・橿原神宮・畝傍山を三位一体とする「畝傍山神苑」の形成が、1880年代以降の京都御苑・伊勢神宮・熱田神宮・皇居の整備と連動して行なわれたという。たとえばアカマツの天然林に覆われていた畝傍山一帯について、ドイツ留学を経た近代造園学の担い手たちは神社を「郷党を愛し国を愛する思想を培う源泉」の場でなければならず、ために「社寺の後方と両脇は、一面に木を植えて幽翠荘厳神聖にして所謂神々しき状態」を理想としてスギ・ヒノキ・カシ・アカマツ・クロマツ等を配置し、出雲大社や吉野神宮等と共に「歴史的参考として“なつかしみ”を覚える場」とする意見を上梓している。橿原神宮や神武陵に参拝して「思わず手を合わせてしまう」といった人たちは正にこの国家的計画の従順なる模範人だろう。また当論文において、近世までの朝廷はみずからの始祖を天智天皇までしか遡らず(「たとえば10世紀の延喜式以降、天智天皇を始祖としていたし、近世宮中のお黒戸から引き継がれた泉湧寺霊明殿の位牌は“天智天皇とその子孫の光仁・桓武以後の天皇たちだけ”に限られている)」、「神武創業」は明治の新体制における政策で急遽、神話の彼方から担ぎ出されたものであったという指摘も甚だ興味深い。

 

 

おおくぼまちづくり館 http://www.city.kashihara.nara.jp/okubo/

生国魂神社(神奈備) http://kamnavi.jp/as/taketi/ikutama.htm

「神武天皇陵の謎」(邪馬台国の会・第225回講演会記録) http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku225.htm

「神武天皇陵の謎(その2)」(邪馬台国の会・第226回講演会記録) http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku226.htm

高木博志「近代における神話的古代の創造」(PDF) http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/48548/1/83_19.pdf

吉田栄治郎「洞村移転考序論」(PDF) http://www.pref.nara.jp/jinkenk/siryou/kiyou/data/k101.pdf

辻本 正教「洞村の強制移転―天皇制と部落差別」(アマゾン)

「続・天皇陵を発掘せよ―日本古代史の真実をもとめて」(アマゾン)

「天皇陵の真相―永遠の時間のなかで」(アマゾン)

 

2008.11.12 (ゴム消しより抜粋・加筆)

 

 

 

 

 

 

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