• ゴム消し 5/12 ゴムログ BobDylan 木工 Recipe others 沖浦和光 BBS link mail
     

     

     

     

     

     

     

     


    A ten year old child is killed when Israeli war planes target his home.

     

     

     

     

     ソマリアに行く前は、世界というものをひとつの場だとしたら、ぼくは中心概念というものを無意識に持ってたわけです。中心とは、たとえば東京だったり、ニューヨークだったり、ワシントンDCだったり、ロンドンだったりしたわけですね。しかし、飢えて死んでいく子供たちを見て、中心概念は全部崩れました。餓死したって新聞に一行だって記事が出るわけじゃない。お墓がつくられるわけでもない。世界から祝福もされず生まれて、世界から少しも悼まれもせず、注意も向けられず餓死していく子供たちがたくさんいます。ただ餓死するために生まれてくるような子供が、です。間近でそれを見たとき、世界の中心ってここにあるんだな、とはじめて思いました。これは感傷ではありません。これを中心概念として、世界と戦うという方法もあっていいのではないかと考えました。餓死する子供のいる場所を、世界の中心とするならば、もっと思考が戦闘化してもいいのではないかとも考えました。

     世界はもともと、そして、いま現在も、それほど慈愛に満ちているわけではない。そして、すべては米国による戦争犯罪の免罪の上に成り立っている。じつにおかしな話なのですよ。情報の非対称の恐ろしさというのは、これだと思う。アメリカで起きた屁のようにつまらないことが、まるで自国のことのように日本でも報道される。けれども、エチオピアで起きている深刻なことや、一人あたりの国民総生産がたった130ドルのシエラレオネで起きている大事なことは、まず日本では報じられない。この国では、どこのレストランが美味いか、どこのホテルが快適か、どこで買うとブランド商品が安いか、何を食えば健康にいいのか、逮捕された殺人容疑者の性格がいかに凶悪か、タレントの誰と誰がいい仲になっているか....といった情報の洪水のなかでぼくらは生きています。伝えられるべきことは、さほどに伝えられなくてもいいことがらにもみ消されています。アフガンもそうやってもみ消されてきたのです。

     そのときに、言説、情報、報道というものはこれほどまでに不公平だ、この土台をなんとかしない限りは、ものをいっても有効性は持ちえない、どちらかというと無効なんだと思いましたね。同質のことをいま、ぼくはまたアフガンで見ざるをえない。若い人は、まだ報じられていない、語られていない、分類されていない人の悩みや苦しみに新たな想像力を向けていったり、深い関心をはらってほしい。ブッシュやラムズフェルドやチェイニーの貧困な想像力で暴力的に定義されてしまった世界、しかもその惨憺たる定義が定着しつつある世界を、新しい豊かな想像力でなんとか定義しなおしてほしい。それには相当の闘争も覚悟せさざるをえない。でも、そうしないと、ブッシュたちの定義にならされていくと思います。

    反定義 新たな想像力へ(辺見庸+坂本龍一・朝日新聞社)

     

     

     

     

     

     

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     週末が仕事が入ったため、今日は代休。かねてから娘とねらっていた市内国道沿いのボーリング場駐車場に設営されているサーカスに行ってきた。新聞屋でもらった自由席券は500円。ところがじっさいに座っていたのは正面最前列のBOX席でプラス1500円の指定席で計2千円。しかし、この2千円は充分に価値があった。平日とあって500円の自由席は8割方埋まっているが、他のSS席、S席、BOX席はそれぞれ数名づつ、ぜんぶで百名弱くらいだろうか。でもこれから行くみなさん。ぜったいBOX席だよ、けちけちすんな。臨場感がぜんぜん違うから。

     演目は吊るしたロープにぶら下がる曲芸、倒立、ピエロ、火を吹く男、空中ブランコ、大車輪、バイクショーなどなど、古典的なものばかりで新味はないが、やはり体を張った芸は新味などなくても手に汗握り、ひきこまれる。ニンゲンはやっぱり脳味噌だけじゃなくて、身体がいっしょなんだよな。向こうも命張ってるんだ。こっちも命張ったつもりで見るんだ。シルク・ド・ソレイユがいくら進化しても、こうした古典的なショーがすたれることはないだろう。ショーマンたちはロシア、メキシコ、ブラジルなどの混成部隊。一時間半の演目、たっぷり愉しませてもらった。

     サーカス、最高!

    2018.6.14

     
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     とつぜんの地震である。もとい、突然でない災害などない。親しかった人の死のしらせも、たいていは思いがけずにやってくる。通勤電車の車両内で四時間近く閉じ込められ、降りたことのない駅のホームに放り出され、見知らぬ町から見覚えのある町へとひたすらさまよいあるき、また乗ったことのない路線の電車に乗って、この世の果てのような暗闇を覗きながら、夜遅くにやっと自宅まで帰りついた。たのしかった。わたしは非日常が好きだ。サーカスもそうだし、祭りもそうだし、台風一過の荒れ狂った空模様がふしぎな静謐さでうつくしくクリアに停止しているさまも好きだ。とくに非日常が思いもかけず、唐突に、ときには暴力的に日常を食い破り、侵入してくる瞬間がわくわくして興奮する。それはわたしが「日常」というものを憎んでいるからかも知れないが、とにかく誤解を怖れずに正直に告白すれば、あのジャンボジェット機がツインタワーに突っ込んだ9.11のときも、そして阪神淡路大震災で高速道路が横倒しになっているのをテレビの画面で見たときも、胸がふるえた。やっとのことで運行している地下鉄の南端にかじりついて天王寺へ出てきたら、混乱する改札の前で若いアベックが、どうする? とりあえず梅田まで行こうか、どうせヒマだし、と語り合っていた。若きかれら彼女らを嗤うことなかれ。われわれも所詮はこのかれら彼女らとおなじように既知の「日常」にしがみつき、目の前の「非日常」を見ない。戦争もきっとおなじように始まったんだろう、と思う。若いアベックが、どうする? とりあえず梅田まで行こうか、どうせヒマだし、と語り合っていた最中に、かれらとおなじ田舎っぺの兵隊たちは朝鮮で中国でシベリアで老人を突き刺し、女を犯し、子どもを焼き殺していた。わたしたちは「日常」にしがみつき、目の前の「非日常」を見ないし信じない。「日常」はそれほどふてぶてしく、冷酷で、強固だ。そうして「日常」に背中を押され、震源に近い会社にあるいてでもはってでも自転車に乗ってでもたどり着いて、もっとでかい余震に飲み込まれて見事さよならするのだよ。危険を察知して常ならぬ形相でソファーの下で唸り続ける犬猫の方が生物としてはずっとマシだ。死もまたとつぜんやってくる「非日常」で、見慣れた「日常」を食い破る。あの瞬間、手触り、書割の空をナイフで切り裂いたようなつめたい感覚も、わたしは好きだ。ほら、おれたちの「日常」なんてこんなにうすっぺらなものだったぜと笑い飛ばすような、あののっぴきならぬ厳粛さがたのしい。思いがけない「非日常」が「日常」を食い破るとき、おれはまともな人間のままで生き延びたいと思っているよ。

    2018.6.20

     
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     草さえそよともなびかない。日はまるで熱い霧のようにふりつもる。石も土もじっとこらえている。青々としげった草だけが陽炎のように一瞬ゆらいで、人には見えない瘴気がたちあがる。どこまでもどこまでもはてしなくつづく、この奇怪な磐座のような大小不揃いの墓石の散在のなかをさまよいあるいているうちに、わたしはじぶんが何者であるかをわすれる。熱の放射によろめき、時の堆積にたえかねて、おもわず足元の黒ずんだほとけを蹴とばしそうになってすわりこむ。草いきれのむこうにだれかの熱い吐息がある。堺の街中にある智禅寺を訪ねたのは十時頃だった。熊野、と書いて「ゆや」と読む町だ。かつて河口慧海とも親しく交わり仏教にも造詣が深かったという郡山の数学教師・島村清吉は大正15年、この寺に葬られた。もし子孫がいるのなら、郡山のある寺にもかれを偲ぶ生徒たちが建てた墓がいま無縁仏になりかけていますよ、と伝えたかったのだが、境内の数少ない墓地には「島村」の名は見つからなかった。母屋の呼び鈴を押した。高齢の住職は不在だったが、娘さんらしい女性が親切に話を聞いてくれ、当時の過去帳まで見てくれたが名前はない。昭和20年の空襲で堺の中心部だったこのあたりはほとんど焼けたそうだ。それから区画整理や道路の拡張などで無縁仏80体ほどを、南の鉢ヶ峰墓地にうつしたという。あるいはそこに眠っているかも知れない。ああ、すでに「島村先生」はその古里ですら無縁仏となっていた。わずか百年の間に。かれが生きていた明治の時代にはじまったこの国の紡績産業の現場では、かれが死ぬる頃にはすでに多くの朝鮮やこの国の被差別民、そして遠方の貧しい山村から働きに来たうら若き女工たちがぼたぼたと腐った果実のように落ちて草葉の陰に臥したのだ。持参した「島村清吉」に関する資料と連絡先を置いて、何か分かったらお願いしますとつたえて、南海本線の堺駅まであるいていった。ザビエル公園の裏手のUR団地の角に「明治3年、日本で二番目に建てられた」という堺紡績所跡の案内板を見つけて、それから南海本線で岸和田のひとつ先、蛸地蔵で降りた。そこから20〜30分、海の方へあるいていけばかつての寺田紡績工場の当時の赤煉瓦がそのまま、現在はユニチカ(旧大日本紡績株式会社)の子会社である合成樹脂加工会社の工場として使われている。いまはなき郡山紡績工場のたたずまいを思い描くために、その赤煉瓦を見にきたのだ。ぐるりと工場の周囲を一周してから、そのまま近くをとおる紀州街道に沿って春木をめざした。かつての商家が立ち並ぶ趣きのある旧道は岸和田城のはたを通り、やがて、かつて朝鮮人集落の町だったという一角をぬけて、そうしてたどりついたのが下野町にある岸和田市管理の共同墓地だ。入口わきに紀州日高出身の徳本上人筆による名号塔がそびえているのを横目にすぎて、それからかれこれ一時間、広大な草葉の陰を徘徊した。一万基は優にあるだろう大小さまざまな墓石の中から、そしてついに見つけ出した。青味をおびた小ぶりな自然石に「咸月」と刻まれた、紡績工場で亡くなった朝鮮人女工のものといわれる無線仏を。「咸」は朝鮮半島の咸鏡道を指すのではないかとも言うが、朝鮮人の「姓」のひとつでもあるらしい。「月」は朝鮮半島でよく女性にあてられるそうだ。墓石を見つけてから、そういえば向こうの墓地のはしっこにきれいな野花が咲いていたと取りにいって、雨水がたまっていた花立に挿して、水筒のハーブ茶を墓石にかけた。それからしばらく、放心したようにそこにすわっていた。おまえはどうしてこんな見も知らぬ異国の女工の墓なんぞを探しにきたのか。そう誰かに問われても、わたしにもよく分からない。ただ、来たくて仕方がなかった。そして百年前、多くの彼女たちが歩いただろう土地の上をじっさいにあるいてみたかった。なにも考えずに、汗をぬぐい、足をひきずり、わが身に写実したかった。「海を見に行こうか」 ふと思いついて、そう墓にむかって言っていた。そうだ、海が見たい。金賛汀氏の「朝鮮人女工のうた」には、過酷な環境の中で月に二回の休みの日に、「二銭か三銭ぐらいのお金で」「野菜の揚物などを二つ三つ買って」、それを持って浜辺に行ったという思い出話が出てくる。彼女たちが見た海を見たい。そう思って「岸和田渡船」の看板のある海岸沿いまで歩いていったけれど、当時の景色とはきっとすっかり変わってしまったのだろう。埋立地の工場や倉庫群に囲まれたその先に、きらりと白い海面が光った。それは何だかとても遠く感じた。遠い、遠い海だった。湾岸沿いの味気のない広いバイパスからふたたび春木の住宅街の路地にもどって、最後に春木中学校にたどりついたのはもう3時をすぎていた。半日、昼飯を食うのも忘れてあるきまわっていた。ここはかつて岸和田紡績の春木工場の跡地で、当時、紡績工場を囲っていた赤煉瓦の塀がいまも一部、学校の塀としてそのまま残されている。現在の校舎のあたりがかつて工女たちの寄宿舎があった場所だという。その赤煉瓦塀をぐるりと見てから、近くの八幡山公園の木陰で小休止する。公園に隣接する弥栄(やえい)神社に寄った。「玄界灘を渡った女性信徒たちの物語 岸和田紡績・朝鮮人女工・春木樽井教会」によるとこの弥栄神社のわきに1941年まで伝染病の隔離病舎、避病院があり、専用の焼き場と高い煙突があったという。労働環境の劣悪な紡績工場ではコレラやチフスなどの伝染病が多発した。最盛期で春木工場に働いていた朝鮮人女工の数は200名ともいう。多くの女工たちが故郷へ帰ることもなく亡くなり、焼かれ、身寄りのない無縁仏として共同墓地へ葬られた。そのうちのひとつがあの「咸月」と刻まれた無縁墓だろう。それ以外の多くの女工たちは、忘れ去られ、路傍の石くれとなった。

    2018.7.2

     
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     はるさんとの付き合いはもう何年になるのだろう。娘が小さかった頃からだから、もう十年はとっくに超えている。はるさんの絵を一枚だけ買ったのは、あれはそんな頃、わが家がいまよりもっと貧しかった時代だ。不思議なもので、ひとは豊かで余裕があるから絵を買うわけじゃないんだな。明日のパンさえ買えないようなときでも、いや、そういうときだからこそなおさら人の心は絵や音楽や詩を欲求する。たぶんあのとき、画家は大出血のサービスで値引きをしてくれて、さらに分割払いを受けてくれた。いまその絵は、わが家のリビングにあって、一億円の値がつくのを待っている。いまもその絵を見るとあの頃、じぶんがなにをこの世界に対して望んでいたか、なにを守りたかったのか、思い出せる。じぶんが変わってしまっても忘れてしまっても、絵はそれをずっと保持しているのだ。そういうことはコンピュータでは、できない。はるさんの絵を、梅田の阪急へ見に行った。昼休みの時間にこっそりと。このごろの画家の絵について、わが家の娘は「ちょっと、変わってきたよね」とのたまう。「前は茶色い感じで、こう、四角い枠の中にぎちぎちって押し込められた感じだったのが、なんか明るくなって、ふわふわっとしてきたんだよね。わたしはいまの方が好き」  きっとそれは青の「ディキシー」や「旅人」、「夢の続き」などをさしているのだろう。あるいは朱と黄金の「羊飼い」や「牛飼い」や「親子」などかも知れない。わたしも娘の意見とほぼおんなじだ。前者の青の作品はどこか突き抜けた軽やかさがあって、飄々としている。後者の朱と黄金は日常の何気ない風景の中に画家が見つけた至宝だ。尊厳といとおしさに溢れている。そのふたつの色の作品に囲まれて、祝い人やたためる翼を持った茶色のまれびとたちは、以前よりいっそ闊達にわが道をたたずんでいる。そんな風景が、居心地がよかった。絵も音楽も詩も、魂のパンだ。

    2018.7.3

     
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     立つ。わたしはなぜ立つのだろう。トンネル工事の朝鮮人労働者が鳶口を頭に突き刺されたまま打ち棄てられた海沿いの町の暗闇に立つ。グアムのチャモロの村人たちが日本軍に殺され埋められた青空の下の尾根道に立つ。「極楽には戦争はない」とより良い世の中を願ったばかりに国家によって屠られた僧侶の墓の前に立つ。異国の危険な砕石現場で汗を流していた朝鮮人家族の生活があった山中の飯場跡に立つ。そしてかつてハンセン病者が暮らし祈りうめいていた救癩施設跡をもとめてあるき、名も知れぬ紡績工女の無縁仏をさがして炎天下の墓地をさまよいあるく。

     いつかの金曜。 はからずも大雨の影響で、仕事を終えた帰途、いつものJRではなく近鉄のホームに降り立った。ちょうど数日前に、16歳の少女がみずからの死をスマホで生中継した場所だ。スマホの画面にむかって最後のメッセージを残したあと、スマホをホームに据えて、やってきた特急列車の前に身を投げたのだった。他の降車客たちが通りすぎるのを待って一人、夜のホームに立ちつくした。 それほど年齢も離れていない娘は彼女の行為を、復讐だ、と言った。残された者たち、残されるこの世界に対するさいごの復讐なのだ、と。「わたしなら、そうするね」。  何が見えただろう。飛び散った肉片すらも残されていない。まるで何事もなかったかのような世界のたたずまい。突出した者の痕跡を、世界はまるで消しゴムのように消し去ろうと目論む。

     またある日の昼には、国家によって縊られたオウム信徒の最後の地である拘置所の前に立っていた。梅雨が明けたばかりの頭上の抜けるような夏空をジャンボジェット機が巨大な古代生物のように滑空していった。かれらの教団が世間を騒がせていた頃、わたしはかれに似ているとよく言われたものだ。250ccの単車とほとんど身ひとつで関西へながれついた頃、ふらりと訪ねてきたわたしを明日香村の藍染織館の主人ははじめ、オウムの残党だと思っていたらしい。じっさい、そんなようなものだった。彼我の差異は薄い細胞の一膜にも等しい。塀の向こうの名も知れぬ建物を見上げ、かれもおんなじこの大阪の空を見上げたか。縊られる寸前、どんな思いが走馬灯のように駆け巡ったか。嗚咽のひとつも漏れたか。獣のような絶叫を残したか。わが身に思い重ねた。

     暴力を外へ向ける者も、内に向ける者も、世界を否定するという意味ではおなじではないか。そのなだれのような崩壊は、いつものっぴきならぬ始原の場所から発生する。かつて作家の宮内勝典はオウムの事件を評して「意識や精神の営みに、なんらかの意味をあらしめようとしても、この社会には受け皿がない」と記した。わたしにはもう、それだけで充分だ。「この国には金と快楽以外に何があるんだ?」と叫んだというかれらは、たしかに道を踏み誤った。だが「一歩」を踏み出すことすらしない者たちが、果たしてかれらを嗤い、断罪できるだろうか。世界に対してノーと叫んだかれらは、麻原という巨大なカオスに呑み込まれた。何を言われたっていいんだよ。どうせ一度しかない人生だ。おれはこの世界に何の違和感も感じないで飄々と生きている多数の人畜無害の「善人」たちよりも、トコロテンのように押し出されたとりかえしのつかないおまえたちのこころの闇を愛するよ。

     イエスが殺されたのも、信長が一向宗徒たちを皆殺しにしたのも、かつてこの国でキリシタンが根絶やしにされたのも、権力の側が宗教の持つ反社会的・反現世的な力を怖れたからだ。ほんとうの宗教というものは、じつはそうした「狂気」を内包している。日常世界を呑み込み、元の混沌に帰せしめる津波のような波動だ。そうした内ポケットに隠し持ったナイフのような「狂気」をとっくに放棄してしまったこの国の既成の宗教などは、わたしに言わせれば所詮は腑抜けの集団にすぎない。だから「受け皿」にならなかったんだよ。この国のいわゆる宗教家たちはそのことについて一抹の危機感でも感じたか。何も思っていないだろうな。だからあんたらは駄目なんだよ。もう死んでるんだ。そのことひとつをとっても、麻原という男に負けた、ということだ。

     先の毎日新聞夕刊でマルクス・ガブリエルなるドイの哲学者が、この国のスマホを抗うつ剤に喩えていたのが面白かった。「地下鉄でもどこでも指先を動かすのは、内省から逃げている。精神が自分を食い尽くそうとするのを必死に防いでいる」(「広がる「21世紀型ファシズム」2018年7月6日) 特急電車に身を投げた少女は、まさにその「抗うつ剤」の画面にみずからの自死を中継させたのだ。それが彼女の、この世界に対する命を賭した最後の復讐で、でもそれすらも世界は「抗うつ剤」の画面の中に消費してしまう。乾いたホームには花束の一輪もなかった。オウムの事件もおなじだ。この国には生きる意味も真のよろこびも見出せない。そう思い悩み行き場をなくした若者たちは鬼子となって母(社会)を食らう。かれらを鬼子にしたのは、おれたちだよ。受け皿を用意してやれなかったおれたちなんだ。そうしてこの国はなぜ、かれらがそのような場所に追いつめられてしまったのかをろくに考えもせず、ただ殺人に対する刑の執行という表層だけの手続きを済ませて、完全にかれらを抹殺してしまう。みずから分泌したものを切り落とす。かれらはこの世界によって「二度、殺される」。

     立つ。なんどでも立つ。記憶を掘り起こすように、閉ざされた扉を無理やりこじ開けるかのように。かつて「かれら」がたしかに呼吸し、希求し、空を見上げ、汗をぬぐって詠嘆したその場所で、いまは深い草いきれであってもその向こうに見えない気配を感じ、生温かい吐息を感じるために立つ。難しいことは考えない。頭は裏切るから駄目だ。容赦ない日の光や、唇が乾いて割れるような寒さや、じっとりと血のように生臭い汗を感じ、この肉体に沁み込ませるためにわたしは立つのだろう。なにもかんがえない。ことばは臓腑から、骨から、やがてじわじわと滲み出してくる。世界は鬼子をけっして認めない。否定し、抹殺し、漂白する。洗濯剤のCMのような明るい風景からそして、鬼子は幾度でも再生産されるだろう。わたしたちはまたいつか、みずからが産み落とした鬼子たちによって殺されるのだ。

    2018.7.11

     

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     大和郡山の現在の城下町は豊臣秀長(秀吉の弟)の時代に整備され、ほぼ現在の形を整えたそうで、「奈良町」「本町」「今井町」「柳町」「堺町」「茶町」「豆腐町」「材木町」「雑穀町」「綿町」「紺屋町」「魚塩町」「藺町」などの中心となるエリアを箱本十三町と称して町人たちによる自治の制度があったという。わが家もこの十三町に入っている。さて、このなかに「奈良町」があるのだが、あれ? と思われた方はそこそこの奈良通か。そう。ここはもともと現在の奈良市の奈良町から移住してきた人たちが住んだから「奈良町」という。同じように「今井町」も橿原の今井町から移住してきた人たちのエリアである。

     この「奈良町」を奈良市のそれと勘違いして、ほぼ毎週のように国外からの観光客の人たちがうろうろしている。今日も夕方、ジップの散歩でJRの駅からかつての紡績工場へ至る道あたりを歩いていたら、アジア系の若い男性2名に道を訊かれたのだが、いつものパターンでスマホのグーグルマップを手にして「ならまちはどこですか?」  ああ、きみたちもまたか! 問題は奈良市の「ならまち」はエリアの総称であって、わが大和郡山の「奈良町」は正式な町名であることに拠る。ちなみにグーグル検索で「naramachi」と英語表記で入れて検索してみて欲しい。

    すべての1位 ◆Nara Travel: Naramachi - Japan guide
    https://www.japan-guide.com/e/e4108.html

    すべての2位 ◆ならまち、そぞろ歩き | 奈良市観光協会サイト
    https://narashikanko.or.jp/feature/naramachi/

    画像検索の場合
    https://www.google.co.jp/search

     すべて奈良市の「ならまち」がヒットするわけだが、いちばん上のMAP部分に出てくる地図は大和郡山市の「奈良町」である。
    https://www.google.co.jp/search

     国外の観光客はこの地図を頼りに、ここ大和郡山のさびれた空家の並ぶ「奈良町」へ迷い込んでくるのだった。

     今日の二人組みは訊くと、日本語が達者な一人は西宮に暮らす日本の大学生に通っている中国人で、もう一人は日本語がまったく喋れないようだから日本へ遊びにきたのだろうか。ひとしきり「ならまち」と「奈良町」の違いを説明して、今日はどこを見てきたのかと問えば、「東大寺や奈良公園を見てから、(JRで)ここへ来た」と言う。「そのまま、南へ歩いていったらよかったのに!」 それでもこの狭い路地は何百年もむかしからおなじ町割りだと聞くと、「ここはここで良い雰囲気だ」とほめてくれるので、せっかくだからと、「何にもないけど、この次の筋にむかしの造り酒屋の旧家がそのまま残っているし、あっちの大通りに出たら昔の火消しの物見櫓を復元したものがある。それからこの筋をずっと南へ行ったらつきあたりの神社で今日はお祭りをしていて、かき氷とか焼餅とかお店も出ているから寄って行ったらどうか」とすすめたら、とても喜んでくれて、「間違って来たけれど、ここはここで面白そうだ」と言いながら、なんども丁寧にお礼を言って物見櫓の方へ歩いていった。ジップの散歩の最中でなければ、車で「ならまち」まで案内してもよかったなあ、と思ったり。

     それにしてもこのグーグルマップは何とかならないものか。 

    2018.7.16

     

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     今日は自転車で県立図書館。自転車で走りたくて堪らないのだけど、図書館の往復だけで溶けてしまいそうだ。

     本日のメインは明治初期の郡山藩士に関する公文書。「 明治二十年 貧民施与願綴」は貧困にあえぐかつての藩士たちに支援して欲しいと訴える柳澤元藩主の嘆願書。紡績工場の設立が明治26年で、元藩主も資金援助をしているので、やはり当初は相当数の旧藩士の子女が工女として雇用されたのは間違いない。無縁墓の「宮本イサ」もそのひとりだったかも知れない。ついで「 明治四年 士族卒禄高人名其他」はその藩士たちの名簿。墨書なんで癖もあったりでかなり見づらいが、「宮本」らしい名字はいくつかあった。けれども家族の名前までは書いていないので、そのうちの誰かが「イサ」の身内の者であったかどうかは推測の域を出ない。かなり分厚い綴りを一枚づつ丹念に見ていった。

     もうひとつは幼年期に大和郡山に暮らしていたという詩人の小野十三郎。

    「そのことは、小野にとっての第二の故郷ともいうべき大和の自然が「すべて、そこから伝わってくるおそろしい倦怠感で、わたしの意気を沮喪させる以外のなにものでもなかった」と回想されている点からも、よくうかがえる。たとえば「郡山城趾の夜桜のながめも、梅雨時に一日ふりしきる雨に煙っている金魚池の風景も、わたしにはなにかしら暗いやりきれない記憶としてしか残っていない」。「郡山からのぞくと、頂がややコニーデ状をなしている富士山の亡霊みたいな山」にいたっては「ためいきが出るほど退屈したことをおぼえている」。反対に、小野が大和の自然のなかで「自由になり、開放的な気分になった」と感じるのは、その穏やかで風光明媚な自然によってではなく、あくまでも「国鉄の大和郡山駅のすぐ近くにある大日本紡績の工場」構内に咲く「真黒な菊」と出会った瞬間だけである。「その時間には異常に明るい光があたっている」。」

     この自伝的エッセイが収められた「奇妙な本棚 詩についての自伝的考察 」もひとつの目的だったのだが、なんと書庫の機械のトラブルで閉架の本が出せず、いつ復旧するか分からないというから途中で帰ってきた。かれは明治の終わり頃の紡績工場を間近に見ているので、何か書き残しているかも知れない。郡山城跡にかれの「ぼうせきの煙突」の詩碑がある。

    たそがれの國原に

    ただ一本の煙突がそびえてゐる。

    大和郡山の紡績工場の煙突である。

    ぼうせき。それはいまは死んだやうな名だが

    私は忘れることあ出來ない。

    明治も終りの夏の夜である。

    七十六年の週期をもつハリー彗星の渦が

    涼しくあの紡績の裾齒状屋根の

    紺青の空に光つてゐたのを。


     最後は「平城京羅城門跡発掘調査報告」 ここに「宮元イサ」の無縁仏のある野垣内の共同墓地である「らいせい墓地」について短い記述がある。「ここ、佐保川にかかる橋は「来世橋」とよばれている。また、第三次発掘地である金魚池の南西には市道をへだてて、「らいせい墓」とよぶ墓地がある。この墓地の一角には、かつては小さな草堂があり、周囲に土塀がめぐっていたといわれるが、現在はない。墓石は年紀のあるものでは元禄年間のものが一番古い」  「らいせい」は羅城門の「らじょう」が時を経て訛っていったもの、というのが定説らしい。

     まだつくり出したばかりだが、エクセルで簡単な年表を作成した。こうして表にしてみると、宮本イサが亡くなった明治33年は郡山紡績の経営が悪化し、世界的な状況下で在庫がだぶついたために操業時間短縮に踏み切った、まさに社長交代の前年だし、誓得寺にさいしょの「亡工手之碑」が建てられた明治40年はついに摂津紡績に吸収合併されたその年であることが分かって、いろいろと面白い。

    ◆小野十三郎と「抵抗の科学」
    http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/4111/onob.htm

    ◆近鉄電車と生駒山。新緑の大和郡山で川崎彰彦と小野十三郎をおもう。
    http://d.hatena.ne.jp/foujita/20120619/p1

    2018.7.16

     

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     薬園神社、自治会長お務めデビュー。

    当日、18時集合だったので自宅からぶらぶらと歩いていって5分前には着いた。境内でFB友だちで同じ市内に住むのAraiさんから声をかけられた。郷土史のことでいろいろと意見交換をしていたが、じつは直接お会いするのははじめて。市内で観光ボランティアもされているAraiさんは本日、氏子総代のNさんと共にやはり今日がお祭りの八幡神社から移動してきたのだという。いっしょに境内奥の集会場へ入って町名を伝え、教えられて半被や団扇の入った町名が書かれた袋を取ると、網にかかった獲物に近づく蜘蛛のように宮司さんがやってきて捕獲されてしまいました。学校の先生を退職して宮司を継いだばかりというからわたしよりは年上だろう。小柄で人当たりがよさそうな、のび太くんがそのまま白髪交じりになったような感じのひと。「今回の寄付金額があまりに変わったもので」と言うので、先日寄付を持参した際にいらしたお婆さん(宮司氏の母親と思う)には説明させてもらったのですがと前置きをして、町内の収入の8割が寄付で内6割をこの薬園神社が占めていたこと、その一方で町内の掲示板は古くなってぼろぼろのまま放置され、消火器は10年前のまま、かつてはあった町内の親睦行事なども予算がなくて出来ない状況であること、これはあまりに酷いので総会及び役員会でみなの総意の下、適正な割合(3割内)に是正する事にしたこと等々を説明した。宮司氏は聞くだけは聞いてくれて「いろいろ事情はあって大変でしょう」と言いながらも、「わたしたちも決して利益を出しているわけじゃない、ぎりぎりなんです。お祭りもお金がかかるもので、このままではお祭りができなくなってしまう。何とかまた考えて頂きたい」と仰る。あとはおなじ繰り返し。町内会が破綻しても神社のお祭りが大事ということらしい。わたしの中ではもう論争をする気は失せているので、まあまあ、がんばります、みたいなテキトー煙幕で幕引きを計ったのであった。(払っちまえばこっちのもんだ) 気がついたらAraiさんは遠慮したのだろう、いなくなっていた。やがて各自治会長も揃って、氏子総代のNさん、ついで宮司氏が挨拶に立ち、この40年間で最高の気温らしいのでみなさ注意してもらって、などと話して食事の席になった。ビール瓶も並んでいるが、大抵の人はみずからお茶を注いでいる。食事は升目に区切られたやや小洒落た仕出し弁当でそこそこ美味しい。うちの町内でも頼もうかと思って会社名をスマホで撮影したりする。はじめての人はこの末席に集まってきたようで、みなあまり会話はない。たまたま隣に自治連合の役をしていて先日相談に行った隣町のMさんが座っていたので「この間はどうも」と挨拶をして、「この半被といっしょに入っているのは、これは鉢巻ですかね?」と訊いたところ、Mさんは表情を変えず「それは半被を締める紐だよ」と返答。それで会話も終わってしまった。テーブルの上座の方は古参の狸たちで、お酒も入り、それなりに会話も弾んでいる。宮司さんはその間をビール瓶を持って回り、狸の一人の肩を揉んだりして、営業活動に忙しそうだ。そこへ市内の一見ヤンキー兄ちゃん風看板でよく見かける自民党系の市議会議員が腰を落とし手をすりすりやってきたものだから、ああこれ以上はちょっと堪え難い、外へ出てAraiさんと話をしてこようかと境内を探したけれど、もう帰ってしまったようだった。すでに参道の両側には色とりどりの出店が並び、盛況だ。本殿から集会場の前にかけて、すでに輪投げを待つ親子連れが列をなしている。町内会経由で神社から配られた券と引き換えに輪が数本もらえる。ブルーシートを敷いた地面にビール瓶が立ち並び、そのビール瓶に「スナック菓子」「パン」「昆布飴」「うどん」「日用品」などと書かれているのが景品だ。目玉は「スイカ」(一玉)と「お米」(5キロ)。目玉以外の景品はみな地元の企業からの寄付の自社製品である。わたしは景品を渡す係になった。それぞれの景品名が書かれた紙を持ってやってきた親子に、紙と引き換えに景品を渡す。(他に輪投げ自体の係、現金を金券に換える係、駐輪係などがあるが、町によって従来から割り振られている) 「スナック菓子」と「パン」(菓子パン)はやっぱり人気だ。幾種類かの中から選ぶのだが、なかなか選べないで迷っている子どもや親もいて、見ていて面白い。すべてのパンをひとつづつ手に持って重さを量っている中学生の子もいた。いちばん重量があるのを食べたいらしい。新参もののわたしは、立ち位置的に自然といちばん奥の「日用品」担当となった。「日用品」は人気がない。置かれているのは水色のプラスティックのコップ、企業ロゴの入った手ぬぐい、プラスティックの鉢、ピンク・水色・白のプラスティックの洗面桶、そしてプラスティックの積み重ね式書類ケース、である。毎年おなじもののようで、「また、これか」という溜息も何度か聞いた。確かに魅力があるとは言い難い。きょうび百均でももう少しマシなものを売っている。いわば「どれも大して欲しくないものから選ばなければいけない」究極の選択である。「お母さんは手ぬぐいがいちばん使えていいんだけどなー」 「こんな会社名の入った手ぬぐい、いや」 そうして女の子は積み重ね式書類ケースを手に取る。「それはひとつじゃ、意味がないよ」 「これがいいの!」 わたしはもう苦笑するしかない。それでも何とかこの欲望指数ゼロ度に近い景品たちを少しでも良く見せようと、例えば洗面桶を選びやすいように色別にきれいに分けて、なおかついちばん上の桶を斜めに起して置いて見栄えをよくしたりとか、いじましい努力を続けていたのであった。やがて本日分のスナック菓子とパンがな底をつき、どうやら輪投げが終了したようだ。パンの券と実数がどうも合わなかったようで後半、パンがもうないのにパンの券を持ってきた人に「すみません〜 パンがもうなくなっちゃったんんで、他のもので」とお願いする。はじめパンが底をついたとき「どうしますか?」と近くの古狸に訊いたところ、その隣町の狸は「どうするんだろうなあ〜」と歌でも歌うように闇の中へ消えて行ったのだった。あれが自治会長かね。どうしようもない狸だ。そんな状況になっても、わが愛する日用品は相変わらず人気がない。殆どの人は仕方なくうどんや昆布飴を持っていってくれるのだが一人だけ、パンの券を5枚持ってやってきた小さな男の子を連れたお母さんがどうしても納得してくれず、最後はのび太くんの宮司氏が自宅の方からおそらく明日の分で用意していたパンを持ってきて渡し、子どもの頭を撫でながら「これに懲りず、また明日も来てね〜」と懸命のクレーム処理を続けていた。最後までむすっと不機嫌そうな顔を続けていたその女性をよくよく見れば、わが家の隣家のOさんの娘さんだった。わたしたちの仕事が終わったのを見て、屋台のおばちゃんがカキ氷をもってきてくれた。風をほとんど通さない半被がクソ暑いので、その冷たいカキ氷のおいしかったこと。紙コップを捨てに行って、何の指示もないので山のように詰まれた日用品をぼんやりと眺めていたら、先ほどの歌うたいの古狸がすっかり私服に着替えて、涼しげに帰っていくのが見えた。少し離れた場所で煙草を吸っている別の狸に「まだ居たほうがいいんですかね?」と訊くと、「ん? もう、帰ってもいいんじゃないか。分からんけど」 さっさと集会場へもどり、だれかと雑談をしていた氏子総代のNさんに「明日は副会長が代わりに来るんでこの半被、汗だらけなんで持って帰って洗濯しても構いませんか」と尋ね、それからどこかの町の自治会長らしいおっちゃんが案内してくれた拝殿のところで景品の「うどん」と「昆布飴」をもらってやれやれ帰宅したのだった。

     なお寄付金については後日談があって、翌月曜の祝日に交替で行ってくれた副会長のSさん(わたしより年長だが、わたしよりガタイのいい元車屋の地元のおっちゃんだ)が集会所に入ったところ、またしても例ののび太宮司氏がやってきて、おなじ話をし出したという。それに対してわが副会長は「なら、はっきり言わせてもらいますけどな。うちが町内の総会で場所を借りたいと言ったとき、さいしょは一万円と言われて、それは高いと言ったら次に5千円になって、なにが氏子かと思いましたわ。神社もいろいろあって大変でしょうが、うちとこも年寄りにいろいろやってやりたいし。まあ、お金があまってあまって仕方なくなったら、考えさせてもらいますわ」と言ってやったそうな。(ここで話を聞いていた娘が「よっしゃ!」と手を打った) そして輪投げが始まってからも「日用品」景品係のSさんのところへ宮司氏はたびたびやってきて、「場所代についてはわたしも継いだばかりで紙に書いてあるとおりに言ってしまって」「今後はお金はもらわないことにしましたので。代わりに気持ちだけ頂くということで」云々としゃべり続けていたそうな。

     薬園神社、只今緊急事態宣言発令中(たぶん)。

    2018.7.18

     

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     明治33年に死んだ「寄宿舎工女 宮本イサ」の無縁墓がある「来世(らいせい)墓」の真ん中に、かつて小さな堂があって墓守が一人住んでいた。むかしは土葬だったから葬式が出るとその墓守が穴を掘って埋めた。その墓守は死んでからどこへ葬られたかったって? そういう身寄りのない人間はみんな、火葬場の無縁さんの供養碑に祀られただろうな。そんな話を互いの犬を連れて散歩をしながら副会長のSさんから土曜に訊いて、さっそくその火葬場を見に行ってきた。郡山城址の北側、いまもさびれた金魚池ののこる谷筋に古くから稼動している火葬場があって、その入口付近に無縁供羪塔が青空にさみしくつきささっている。自転車をさらに南へ下らせて、ついで訪ねたのはかつて新木町にあった屠畜場跡だ。むかしの写真集の説明と1970年代の空中写真からめぼしをつけた場所は、いまは田んぼと池にはさまったフェンスで囲まれた何もない更地だ。平成22年にある建設会社が「と畜場跡残土回収」で入札をしている記録があるから、それほど遠いむかしのことでもない。もともとはここにあった屠畜場が県の中央卸売市場に近い場所に「食肉センター」として移転したのは昭和の終わり頃だろうか。場所は変わってもそこで働く人の多くはいまも郡山で有名なNという同和地区の人々であることは変わらない。その屠畜場のあった土地が、かつて古代の神武東征神話に於いて土蜘蛛として殺された新城戸畔(にいきとべ)を祀る新城神社及び新木山古墳に重なるのはたんなる偶然か。それからのどかな田圃の道を南へ下ってJRの線路をわたって、これもやはりKという同和地区の北のはずれにぽつねんと切りとられたような小さな森が残っているのが「牛の宮」だ。年季奉公先で死んだ少年が牛になって残りの三年を務め終えてその牛も死んだという伝説は何を意味するのか。その牛の亡骸を葬ったのがこの「牛の宮」だというのだが、屠畜場からそう離れてもいないことも考えれば、かつての賎視された人々が斃れた牛馬を処理した聖なる草場でありその記憶であるのかも知れない。日曜の昼のちいさなちいさなツアー。距離は短いけれど暑さでとろけそうなおれの脳味噌は百年も千年もすっとんでいくぜ。教科書にはけっして出てこないようなにんげんの生き様に触れたいんだよ。

    2018.7.22

     

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     「前(さき)を訪(とぶら)う」ということばを、FB友の山内さんが送ってくれた「遠松忌法要講演録」(明治の大逆事件で死刑判決を受け、秋田の監獄で縊死した新宮の僧侶・高木顕明を想うつどい) のなかで知った。親鸞が「教行信証」のなかでひいている「安楽集」に出てくることばだそうで、「何となれば、前(さき)に生まれん者は後(のち)を導き、後に生まれん者は前(さき)を訪(とぶら)え、連続無窮にして、願わくは休止(くし)せざらしめんと欲す。無辺の生死海を尽くさんがためのゆえなり、と」  またおなじFB友の塩崎さんがコメントで記していた。過去を告発するものはもうだめだ、現在の自らを磔にするものでないとだめだ、と。気がつけばいつの間にやら53度目の夏が来て、ブルーハーツが歌った沁み入るような青空の下で、いまのわたしはそんなことばに躓きそうになる。いや躓きそうになりながらも、そんなことばをみずからに招(お)ぎ寄せようとしている。みずからを磔刑に処するために、前(さき)を訪(とぶら)う。のこされたわずかな時間を、そのために生きていこう。三輪車と共に被爆し庭先に埋められた幼子の記事を読みながら、癌細胞によって意識が混濁するまで抗い続けた沖縄県知事の死去のニュースに接しながら、そしていまは無縁仏として眠る紡績工場の女工の墓を思いながら。 

    2018.8.9

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     小学生のときにいっしょに住んでいた祖父が死んだ。明け方、まだ暗いうちからなにやら家の中がばたばたとあわただしい。おぼろな気配のなかでそう思っていたら、朝にはもう祖父は動かない人になっていた。バスに乗って、はじめて火葬場というところへ行った。高い煙突からうっすらとした半透明の煙が天へ立ち昇り、祖父はしろい骨のかけらになった。その火葬場を自転車でさがして、後日に訪ねたのだ。コンクリートの壁の向こうの煙突から煙が立ち昇るのを、そうして長いこと眺めていた。小学3年生くらいのじぶん。

     夜中の墓地はさすがに行く気にならないが、昼間の墓地はなぜかむかしから親しい。とくに夏だ。強い日差しを浴びて、むっとするような草いきれに、なにかやわらかな存在が偏在していて、がらんどうのわたしに寄り添うような心地がする。欲望にまみれた、生臭い息の生者どもの世界よりも、わたしにはいっそ心地よい。かれらはもうきっとこの世には未練はないのだ。永い永い年月がおだやかに少しづつ、花弁が閉じるようにあらゆるものを諦めさせたのだ。その代わりといってはなんだけれど、かれらにはすこしだけ伝えたいことがある。がらんどうのわたしに、放心したように墓石にもたれて腰をおろしたわたしに、そのしずかな半透明の思念のようなものがはいってくる。がらんどうのわたしのなかで、ことばが反響する。

     「存在の深みから、亡き者を含む『神さま』たちに照らし出される」ことが石牟礼道子のいう「荘厳」であるなら、百年も前に死んだ見知らぬ紡績工場の女工や殺された朝鮮人や大逆の刻印を穿たれて縊られた者たちの、いまでは粉塵のように宙を舞っているにすぎないかすかな足跡をたどりながら、わたしが浴びている光はまさにそれだ。

     

     代表作『苦海浄土 わが水俣病』には「杢(もく)」という名の少年が登場する。彼は水俣病を患い、言葉を発することができない。しかし、耳はよく聞こえる。当然、良いことばかりが聞こえるのではない。差別の声も聞こえてくる。杢少年の心に、声にならない微細なおもいが蓄積する。だから、彼の祖父は杢少年のことを「ひと一倍、魂の深か子」と語った。

     若松は言う。「『苦海浄土』には杢少年と同様、語らざる者たちのおもい、言葉になろうとしないうめきの声が響きわたっている」

     石牟礼にとって、書くことは沈黙という声なき声を聴くことだった。彼女の執筆作業は、「語ることを奪われた者たちの言葉をわが身に宿し、世に送り出すこと」に他ならなかった。だから、彼女は言葉の「器」になろうとした。言葉にならないものに出会うことで、彼女は作家となった。

     石牟礼は、若松と最後に会った別れ際に「どうしたら自分の心を空(から)にできるか考えています」と言ったという。何かを表現することは、自分の思いを吐露することでも、自分の考えを主張することでもない。大切なのは思いや考えを鎮めること。そして、無音の「声」を聴くこと。そうすることで、人は言葉の通路になる。言葉は過去や彼方からやってくる。

     『苦海浄土』について、石牟礼は次のように書いている。「(水俣病)患者さんの思いが私の中に入ってきて、その人たちになり代わって書いているような気持ちだった。自然に筆が動き、それはおのずから物語になっていった」

     だから、彼女は『苦海浄土』が第一回大宅壮一ノンフィクション賞に内定した時、これを辞退した。真の作者は自分ではない。自分は言葉の器であるに過ぎない。そんな実感があったのではないかと、若松は推察する。

     若松は、石牟礼がしばしば使う「荘厳(しょうごん)」という言葉に注目する。「荘厳」とは仏教用語で、仏像や仏堂を美しくおごそかに飾ることを意味し、また智慧(ちえ)や徳によって仏の身を包むことを言う。しかし、石牟礼がいう意味は、仏教用語に限定されない。「それは存在の深みから、亡き者を含む『神さま』たちに照らし出される」ことを意味する。

     私たちのいのちは儚(はかな)く、悲しい。しかし、その悲しみは世界を「荘厳」する。私たちの苦しみに満ちた世界に光が差し込み、聖なるものに包まれる。

     「荘厳」に包まれた者の悲しみは、語り得ない。この言葉にならないものを言葉によって表現することこそが、石牟礼にとっての文学だった。だから、『苦海浄土』は「詩」として存在した。そこにあったのは「自らの心情を語ることができないまま逝かねばならなかった者たちの声をどうにか受け止めようとする営み」だった。

     石牟礼は、常に死者と共にあることを大切にした。私たちの世界は、生者だけで成り立っているのではない。死者を含むメンバーによって構成されている。私たちの日常は、死者たちが紡ぎあげてきた経験知や暗黙知によって支えられている。死者たちが保持し、歴史の振いにかけられた叡知(えいち)によって、世界は存立している。

     しかし、私たちは傍らにいる不可視の死者を忘れがちである。声なき声を存在しないものとして扱い、生者によって世界を独占しようとする。だから、私たちは沈黙に堪えられない。常に雄弁によって時間を埋めようとする。

     石牟礼は、いつも沈黙の中で死者たちと対話していた。沈黙は空白の時間ではない。そこには「ある意味のうごめきが存在」している。沈黙こそが、彼女の語りだった。

    (今週の本棚   中島岳志・評 『常世の花 石牟礼道子』=若松英輔・著 毎日新聞2018年8月12日 東京朝刊)

    2018.8.14

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     材は椨(タブ)。タブは遡れば、タモ、タマ(魂)となるだろうか。イヌグス、タマグスともいわれるこの照葉樹林の代表的高木は、全国各地の鎮守の森に大樹として坐する。万葉集で大伴家持が「磯の上の都万麻を見れば根を延へて年深からし神さびにけり」(磯の上にそびえ立つタブノキは根を深く広げて年数が経ちなんと神々しいものだ)と歌った都万麻(ツママ)もまた、一説にはこのタブノキだと言われるそうだ。作家の話ではこの椨(タブ)はかつて琵琶湖の西岸、高島市新旭町の西近江路である旧道沿いに建つ大國主神社の樹であったという。台風かなにかでその大木が倒れて、勿体ないと引き取った作家の当時の師匠の宮大工が丸太のまま乾燥させたものを神社の材として使った。そのときの三角の端切れを大事にもっていた作家が、そこから頬ずりをしながら相対する不思議な狐か狼(大神)かの二対の像を見つけ出し、ふたたびのいのちを彫琢したのだった。東近江・五個荘の「廃市」のような、大きな本堂の伽藍と植物に侵犯された朽ちかけた邸宅が残るしずかな集落の展示会場で、娘がそれに出会ってタマ(魂)を寄り添わせた。そういえば作品は、寄り添うふたつの魂が天上に向かって唱和しているようにも見える。南無阿弥陀仏だろうか。いや、そうではないだろう。そんな手垢にまみれたものよりも、もっとあたらしい、もっと原初的(アプリオリ)な、まだ地上のだれもが聞いたことのない、氷の世界を溶かす呪文のようなうたにちがいない。いつかこの椨(タブ)が高々と枝を繁らせていた高島の神社を訪ねてみたい、と父と娘は話したのだった。

    2018.9.15

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     名古屋での同僚の送別会がてらに立ち寄った津の三重県総合博物館MieMu(みえむ)で見た企画展「幕末維新を生きた旅の巨人 松浦武四郎 ―見る、集める、伝える―」はじつに圧倒された。「軽くお茶でも」と思って入った店がやたら旨いカレー・ステーキ・スイーツ食べ放題のバイキングで、出てくるときには苦しいほどお腹がぱんぱんに膨れてあがっていた、とでも言ったらいいか。幕末の伊勢国(いまの松阪市)で和歌山藩領の地士の三男として生まれ、16歳で家出をして江戸へ出奔、17歳で習いたての篆刻で路銀を稼ぎながら諸国放浪。一時、幕府老中・水野忠邦の屋敷で奉公したものの、翌年には四国八十八カ所霊場を巡り、21歳の折に出家して長崎平戸で寺の住職になったのもつかの間、イカ釣り漁船に便乗して壱岐や対馬を遊歴。母の死をきっかけに古里へもどって還俗し、蝦夷地踏査を志したのが27歳。その後、北海道6度の踏査を含む全国を行脚し、見たもの聞いたものを書きとめ記録し、畳何畳分もの地図やいまでいうガイド本を出版し、土地土地でさまざまなものを蒐集し、また北方の国防意識の高まりから幕末の志士や明治の官僚たちとも交流を持ち、新政府から「開拓判官」を命じられて北海道の道名・国名・郡名の選定に寄与したものの、アイヌ民族に対する行政を批判して職を辞し、あとは悠々自適。東京の神田五軒町に居を構えて著述に専念、古物展を開いたり、60歳を越えて大峰修験道や大台ケ原、富士山にいくども登拝し、71歳で大往生した。「武四郎涅槃図」という絵がある。武四郎の依頼で河鍋暁斎が足かけ6年を費やして完成させた作品で、死にゆくブッダならぬ「昼寝する武四郎」がみずから集めた古画、古神仏像、郷土玩具などの蒐集品たちに囲まれ、満足げに片肘をついて寝そべっている「涅槃図」である。またおなじ頃にかれが自宅庭に建てた「一畳敷」なる、まさに畳一枚の広さの書斎がある。かつてじぶんが旅した各地の友人・知人から提供された神社仏閣の古材を用いて立てられ、その畳一枚の上で武四郎はみずからの旅の人生を思い、訪問客を遇しては旅の思い出を語った。そしてじぶんの死後にはこれを取り壊し、古材で亡骸を焼いて遺骨を大台ケ原に埋めて欲しいと遺言したという。まさに、好きなことを好き放題やりきって死んだ。パーフェクトな人生ではないか。こんなかっとんだ奴が三重にいたとは恥ずかしながら知らなかった。松阪市にはこの武四郎の生家と記念館がある。妻子を質に出してでも、行かねばなるまいて。

    ◆三重県総合博物館MieMu http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/MieMu/

    ◆松浦武四郎記念館 https://takeshiro.net/

    ◆武四郎涅槃図の世界 http://sada.la.coocan.jp/ta/nehanzu/nehanzu.htm

    ◆012 一畳敷 | 建築ノ虫 http://archinsects.jp/012/

    ◆北海道の名付け親「松浦武四郎」生誕200年。NHKでドラマ化決定!松阪市出身の探検家の生涯を詳しく紹介します
    https://www.kankomie.or.jp/report/detail_266.html

    2018.9.25

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     大塔の山中の夜道で立派な角をもった雄鹿を思わず轢きかけた。道を横断しかけていたその鹿は、道路の中央で立ち止まり一瞬、不敵にもこちらをすっくと見据えた。その視線に射抜かれて、わたしはかれに負けていた。カミ(異形のもの)に出逢うとはこういうことだろうか、と思った。雄鹿は石くれでも見たかのように向きを変え、そのまま暗い斜面を駆け上っていった。台風の影響で土砂降りの夜の山中を走り続けて、仕事から帰って家で夕飯を済ませてから出発したものだから流石に疲れ、その晩は足湯のある十津川の道の駅で車中泊。雨が車の屋根をまるでシンバルのように激しく連打する音をうつらに感じながら眠った。翌朝は6時に目が覚めて、小雨の中を新宮へ。速玉大社の参詣者用駐車場に車を入れて、佐藤春夫記念館で大石誠之助に関する小さな展示を見る。それからガソリンを満タンにしておこうと走り出した途中で偶然、目についた大逆事件に関する臨時資料館に立ち寄り、かつて高木顕明が布教のために訪ねたろう熊野川沿いの炭鉱跡地へ行く道を訊ねたりした。ガソリンを入れ、スーパーで中上健次が愛した「太平洋」(地酒)を二本買い、三個入りのサバ寿司を買ってふたたび激しく降り始めた雨の中、市役所の駐車場に停めた車の運転席で食べてお昼とした。そうしてちょっと、うとうとしていたら、そろそろ時間だ。名古屋からの南紀3号は台風の影響で15分遅れて新宮駅へ到着した。はじめてお会いする嶽本さんと連れの方々を車に乗せて、本日の「大逆事件サミット」の会場である新宮福祉センターへ。前回、2年前は大阪市内の、菅野スガが通っていた古い教会だった。わたしは後日に、そこに集まった人々をアンモナイトと評した。それは残念ながら、今回も変わらない。国際啄木学会・伊藤和則氏による基調講演「石川啄木と大逆事件」。佐藤春夫記念館館長の辻本氏と新宮市議会議員による「大石誠之助の名誉市民に関して」。日本全国の大逆事件にまつわる活動をしている代表者の挨拶と報告。赤ら顔の市長。サミットに続いての懇親会では、わたしは警護役の騎士(ナイト)の如く嶽本さんの隣にぴったりはりついていた。左隣は丸山眞男を専門とする都内の私立高校の社会科の先生だった。継いで最近「国権と民権」 (集英社新書)を出した元朝日新聞記者の早野透氏。嶽本さんと同じFB友で、真宗大谷派の解放運動推進本部の山内さんの姿もあったので挨拶をした。山内さんがそばにいた「大逆事件 死と生の群像」などの著者である作家の田中伸尚氏に「前回の大阪サミットのときに長い感想を書いてくれた」とわたしを紹介してくれ、田中氏は「ああ、あのアンモナイトのやつだね。あれは面白かったから出版社の連中にも回したんだよ」と笑った。アンモナイトは如何にして形成されるか。懇親会の最後の方で嶽本さんにも指名がかかりマイクを持って話をした。「アンモナイトたちが現実にコミットする言葉を持たない」という内容で、塩梅よく酒宴がすすんでいた会場の空気からは少々浮いていた。「5分の2くらいは聞いてましたね」とさいごのラウンドを戦って判定待ちのボクサーのように席に戻ってきた嶽本さんにわたしは言い、胸の内でなお「伝わったのはせいぜい10分の1くらいだろうけれど」とひとりごちた。「だめですよ、“アンモナイトたちよ、目覚めよ!”で締めないと」  アンモナイトたちもかつてはこの惑星の王者のように俊敏に動き回っていた。大逆事件という国家権力によって強殺された理想家たちに思いを馳せたとき、重苦しいボール&チェインと、ひりひりするような驚愕と危機感を感じていたはずだ。だが年月と地層がかれらをゆるりと包み始める。大逆事件は自己目的化し、閉ざされた同窓会の案内状に変わる。同時に人は長く生きれば生きるほど複数の膜を張るようになる。組織の膜だ。政治の膜だ。交友関係の膜だ。膜が何重にも重なり、さいしょの核心がぼやけて霞む。半世紀に及ぶ地道で根気のいるかれらの活動をわたしは素晴らしいと思うし、貴重だと思う。だからこそ逆に勿体ないとも思う。同窓会に集う愛しきアンモナイトたちよ。あなた方の費やした貴重な時間、労苦、調べ上げたもの、つくりあげたもの、記録した言葉はどこへ消えていくのか。かつて「歴史としての実時間」と辺見庸は言ったが、この国の「実時間」のどこへあなた方の活動は突き刺さるのか、継承されるのか。5年間不登校を続けているわたしの一人娘にあなた方の言葉は届くだろうか。処刑された哀れなオウム信徒たちの魂にあなた方の熱は届くだろうか。この国の入国管理局に無期限に拘束されて家族とも引き離されたまま絶望するクルド難民にいま、あなた方の想いは届くだろうか。「知らない間に戦争が始まっていた」と多数の人々がうそぶく歴史の実時間においてわたしが熱望するのは、ひりひりするようなのっぴきならない場所で大逆事件によって縊られたかれらの首の骨がへし折られる音、そのときに無辺の空間に弾け飛んだかれらの最後の想念を、かなうことならわが身に写実し、幾度でも繰り返し、わが身自身の臓腑の危険な毒として呑み込み、内なる国家に悲鳴をあげ、抗いながら、いまを生きる歴史の実時間のなかにまざまざと蘇らせることだ。追憶の記念碑でも「太平洋」にたゆとう赤ら顔の同窓会でもない。同窓会が終わって、若干の居心地の悪さを奥歯で噛みしめながらふたたび山中の闇に沈むもののけたちの世界へ戻っていく。鬼ノ城を抜けてしばらく行ってから山間のルートに入り、下北山村のいつものスポーツ公園で疲れ果てて二泊目の車中泊。しずかな暗がりに沈み、寝袋にくるまって眠りに落ちた。翌朝も6時に起きて走り出したら途中の道で村の職員らしい男性に止められ、奈良へ向かうこの先の国道が深夜に土砂崩れが起きて通行止めだと言う。訊けばわたしが眠っていた深夜の2時ころに崩れたらしいから、巻き添えにならなかったことを感謝すべきか。最短ルートの下北山村から十津川村へ抜ける車一台がぎりぎりの狭い425号線は路面に砂利や木の枝が堆積し、崩れた路肩に危険防止のカラーコーンが並び、湧き水がときに川のようにあふれているような、まさに山の尾根にしがみつくような心細い道だった。途中から「8キロ先、大雨のために通行止め」を繰り返していたカーナビもそのうちに何も言わなくなった。このあたりは修験のルートも近いだろう。小刻みな暗いカーブを繰り返していた道が、ふと視界を開けた。車をとめて、外へ出て立ちつくした。墨絵のような幾重もの重畳たる山並みの襞から蒸発した水分が雲海のように湧き出し、それを朝日が照射している。いや、まるでこの惑星自身の熱がマグマのように地表から沁み出し、みずからの細胞の襞をしずかに明滅させているようにも見える。昨夜見た、あの大鹿の世界のものたちだ。人間はこの単純さ・荘厳さからだいぶ離れてしまった。「幸福(happiess)とは、あらゆる事物の中に単純さ(simplicity)を見つけだすことなのだと気がつくに違いない」と、かつて愛読した「遊歩大全」のなかで“なぜ歩くのか?”と題してコリン・フレッチャーはそう書いた。みずからの足であるいて世界をとりもどす。嫌らしい人間の膜を脱ぎ捨てて、もっともっと軽身になりたい。目の前の圧倒的な大地の単純さ(simplicity)を凝視しながら、これでよし、とわたしは一人じぶんに言った。どうせまた下界に戻れば元の木阿弥なのだろうが、とりあえずいまはこれでよし。

    2018.10.7

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     全国各地で大逆事件の犠牲者を顕彰・研究してこられた活動家の方々へ。わたしは何の肩書きも持たない平凡な一市民ですが、みなさんに提言をしたい。二年前、わたしはひょんなことからみなさんの活動を知り、大阪・天満でのサミットにはじめて参加させていただきました。そして大いなる刺激と共に、大いなる失望と苛立ちをもまた感じたものです。刺激はみなさんが半世紀に及ぶ長きにわたって地道に、粘り強く、そしてきっと何ものかに抗いながら継続してきたものに対して。そして失望と苛立ちはその旅路の果てにみなさんがいま充足して立っておられる枯山水の庭園に対して。わたしはこの国の「歴史における実時間」に生きる平凡な一市民として、いまから百年前に冷たい処刑場で縊られ、あるいは暗い独房でみずからを縊った者たちのさびしい、頚椎のまさに折れる音、その瞬間に無数の小さな泡のように無辺へ弾けとんだかれらひとりびとりの想念に思いを馳せ、それはいま此処なのだ、まさにこの時間なのだと感じながら、うめきたい気持ちで、それらをわが身に呑み込もうとしてもだえます。みなさんもかつては、そうだったに違いない。そういうのっぴきならない、ひりひりとした皮膚感覚と共に始められたのだろうと、わたしは思います。けれども二年前の大阪と今回の新宮と、二度のサミットの末席に座らせていただいてわたしが見たものは、熱い蒸気をもうもうとあげていた薬缶の中身がすでにぬるま湯となり、「やあ、お元気でしたか」「なんとおひさしぶりで」と言った会話がもてなしの酒で赤らんだ顔と顔の間でのどかに行きかう年に一度の同窓会の風情でした。怒りが、足りない。縊られ、へし折られる音が聞こえない。そう語ることは不遜でしょうか。今回のサミットに参加するために、わたしは前の晩に仕事を終えてから、暗い熊野の山道を延々と車を奈良から走らせてきました。そうまでして得たいものがあったわけですが、それは残念ながらあまり満たされることはありませんでした。形ばかりの講演と、形骸化した報告と、みなさんの和やかな同窓会をはたから眺めていただけです。大逆事件サミットと平行してここ数年、わたしは戦前の朝鮮人に対するこの国の残虐な行為を糾弾する在日の人々の集まりにも幾度か出席してきましたが、まだかれらにはもう少しひりひりする怒りがありました。それはいまもかれらが「在日」という容易にぬぐえぬくびきを負っているからなのかも知れません。甲府で宮下太吉の墓が無縁仏として整理対象になっている、という報告がありました。わたしもいま地元の大和郡山でやはり百年前に死んだ紡績工場の女工たちの名が記された過去帳と、かつて河口慧海とも親交があった地元の名物教師の無縁墓を後世に残したいと、役所の教育委員会などに話を持っていっていますが、人間としての愛と知識に欠けるかれらには一片の興味さえ湧いてこないようです。百年という歳月に思いを馳せるとき、ひとつの象徴的なサイクルとして墓場の整理というものも回ってきているのだろうと思われます。そして失礼ながら、半世紀を絶え間なく歩んできたみなさん自身がいま、 宮下太吉の墓石と同じなのだと思うのです。墓石を保存するか整理するかは、墓石自身であるみなさんには決められない。奈良盆地ではかつて海軍の飛行場建設の地に強制的に連れてこられた朝鮮人女性の慰安婦たちがいたと記された案内板が近年になって市の判断で撤去されました。みなさんが懸命の思いで全国各地に建てた顕彰碑も将来、どうなるかは分からない。みなさんは次の世代へ継いでいかなくてはいけない。みなさんが積み上げてきたものをある意味、手放していかなければいけない。すこしづつ、「かれら」へ。みなさんという無縁墓をどうするかは、「かれら」でなければ決められない。だからみなさんは、みずからの手で積み上げてきたあらゆるものを手放していかなければいけない。引き渡していかなければならない。みなさんの長い旅路の果てがちいさな閉じられた円として完結してしまう前に、全方向に開放して明け渡していかなければいけない。なぜなら、みなさんが顕彰・研究してきたその成果は、みなさんのものではないからです。それは次の世代を担っていくこの国の見知らぬ「かれら」のものです。そこで何の肩書きも持たない平凡な一市民のわたしは、今後のサミットについてみなさんに勝手な提言をしたい。まずは、若い年齢層をもっと取り込む必要があります。40代、50代でもまだ駄目だ。20代、ことによっては中学生や高校生たちを招いたっていい。みなさんの言葉はいじめやスクール・カーストなどのシビアな世界で生き抜いている中高生たちに果たして届くだろうか。どんな対話が成り立つだろうか。上から下へおろすのではない、相互の対話として。中高生のかれらから新しい視点を授かることもたくさんあるに違いない。そもそもサミットのスケジュールすらネット上で見つけることが難しい。ろくなホームページすらない。これで若い世代の目にとまるわけがない。SNSでもなんでも利用してもっと積極的に若い世代に発信するべきではないか。基調講演についていえば、40〜50分の枠を三つくらい。ひとつは大逆事件に関する内容の濃い発表。あとのふたつは大逆事件そのものではないが現在につらなる発表。嶽本さんが触れていた横浜事件でもいいし、かつてのオウム信徒たちの話だっていい。大石誠之助や高木顕明たちが大逆事件で有罪となったとき、残された遺族はこの新宮の町でどのような扱いを受けたのか。そのときの新宮の町といまの新宮の町はまったく違うのかおなじなのか。大逆事件はそんなふうに粘菌のように、いまもわたしたちのふつうの日常にひろがり増殖しているはずです。それがいまの「歴史における実時間」のなかでかれらを思うとき、百年後のわたしがひりひりと火傷のように皮膚が痛む理由です。基調講演の三つの枠はそのように、お互いがそれぞれの菌糸を伸ばし、暗がりを食い合うようなものであった方がよい。活動報告は特筆すべきものだけとする。どうせこれからお悔やみの報告が多くなる。そしてそんな時間よりも、懇親会のときもいろいろな肩書きや経歴を持った方々が前に呼ばれて喋っていたけれど、それよりもこれからは例えばわたしのようなはじめて顔を見る新参者、どこの誰か素性の分からぬ者、誰も知り合いがいないのにこのサミットにのこのこやってきた者、そうした者たちに前へ出て、ひとりづつ喋ってもらった方がいい。なぜここへやってきたのか、どんな思いを抱いてきたのか、ここへ来てなにを感じたのか。みなさんは一歩も百歩もさがって見知らぬ「かれら」の話をだまって聞く。そうして懇親会の席はシャッフルする。おなじ匂いの者同士で群れない。80歳の爺さんは中学生と喋り、大学教授は自転車で日本一周を目指している正体不明の若者と相席し、仏教者はクルド難民と語り、市長は浮浪者と抱き合い、脚本家はアイドルおたくと激論を交わし、政治学者は不登校児と杯を交わす。もちろん、それぞれの大逆事件についての思いを語るのだ。政治や組織や団体や肩書きは持ち込まない。名刺などいらない。だれかの立場でなく、じぶんの孤独な言葉で喋ったらいい。絞首台の前の孤立無援のはだかの個として語り合うのだ。いやあ、いいサミットだなあ。そうしてみなさんはいつか整理対象の墓石になる。あのとき熱く語り合ったアイドルおたくの息子があなたの墓石を保存してくれるかも知れない。あなたの残した研究や思いと共に。これがわたしからの真面目な提言です。如何でしょうか。ぜひご検討ください。

    2018.10.9

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     おまえはいったいなにを、だれにむかって、書きたいのかとつきつめてみたら、だれでもない、ただじぶんひとりに向かって書きたいだけなのだとわかった。オーディエンスは必要でなかった。ほんとうに、覚悟した孤独なことばだけがとどくんだよ。あの急峻な山肌がエメラルドのディープ・リバーにつきささる河原にさみしい白骨のようにつきささる。石は亡者であり、魂魄ここにとどまらずの覚悟だ。河原でひろった丸い魂をふところにころがしてあるいてゆく。「大晦日の夜に何者かが殺されたSomebody got murdered on New Year's Eve
     / まず最初に奪われるのが尊厳だと 誰かが言っていたSomebody said dignity was the first to leave」とディランがうたっていた。この国はますます弱者が生きていくのが難しくなるだろう。それは間違いない。このおれが愛する娘に残してやれるものいといえば一抹の青酸カリで、せめて尊厳を奪われる前にこいつを盛れと言うくらいだろうなと思っているよおれが死んじまった後には。やつらを、屠れ。

    2018.10.22

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     だれが読んでいるのか知らないが、グーグルで「まれびと」をググるとたいてい、上から三番目とか四番目に表示される。ホームページを始めたのはまだ娘が生まれる前で、友人から古いマッキントッシュをもらったのがきっかけだった。さいしょはニフティだったな。そのコミュニティで吉野で林業をやっている人と知り合い、バイクで話を訊きに行った記憶が懐かしい。結果は「林業で食っていくのは難しい」というものだった。娘が生まれて、彼女が寝静まった夜ふけに、内なる毒を吐き出すような思いで少しづつ書きついでいった。だれのためでもない、じぶんが書きたいから書いたんだなきっと。その頃に何人かの人とホームページを経由して知り合い、その縁はいまも続いている。ネットがなければ出会わなかった縁だ。数年して、ニフティからヤフーのジオシティーズへサイトを引っ越した。それから、おそらく15年くらい。来春にヤフーがホームページのサービス一切を終了するという一方的な告知が来て、ちょうどいい機会だからいまどきのADSL契約を結んでいるソフトバンクを見限って、いよいよわが家も光回線へ乗り移ることにした。しばらく前からあれこれと物色をして結局、光回線はいま売り出し中のNURO光(So-net)と契約し(キャンペーンで1年間は月額1980円)、光電話も併せて申し込んでNTTの回線使用を停止、So-netの無料ホームページが10MBの容量しかないのでホームページは別途、さくらインターネットのレンタル・サーバを使うことにした。10GBで月額139円ほど。というわけで、およそ20年分のしがないデータをあたらしいサーバへアップロードして、案外と簡単に引越しも完了した。ドメインはおなじ marebit にしたので、http://marebit.sakura.ne.jp/ となりました。だれが読んでいるのか知らないが、お知らせまで。

    2018.10.31

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     脳外科の山崎先生の死を、引越しのアップロードを終えてひさしぶりに見返していたホームページの古いリンク頁をたどっていて、数年ぶりで開いた先生の夫君のサイトで知った。昨年2017年の6月に亡くなっていたのだ。67歳は若すぎる。つぎの日はこの頃ちょっと元気を取り戻しつつある娘のリクエストで白浜のアドベンチャー・ワールドへ遊びに行く予定だったので黙っていた。白浜から帰った、翌日の夜につれあいと娘に伝えた。家族三人で、先生の夫君が公開していた「お別れの会」での十分弱の動画を見た。抗がん治療の影響だろうか、丸坊主ですこしむくんだ顔の先生が写っていた。娘の脊髄を三度も開いた医師がそんな姿になっているのを見るのは奇妙な気分だった。生々流転のこの世では、人の立場などすぐに入れ替わる。

     この世に出現して一年足らずの、みなの愛情を一身に集めている最中、二分脊椎症という聞いたこともない病名を宣告された娘のために、わたしたちはそれこそ日本国中の病院を調べた。そうして出会ったのが当時、国立大阪病院に勤めていたこの山崎先生だったのだ。当時のわたしの日記の一部を少々長いがここに引く。

     

     朝から大阪・中央区の法円坂にある大手前整肢学園へ行く。大阪府が赤十字に委託して設立した下肢に障害をもつ小児のためのセンターで、見ると院内学級のような施設も隣接している。玄関口で5,6歳児らしい男の子が膝立ちの姿勢でぺったんと座っている。母親らしい女性が入ってくると、嬉しそうな顔をして女性の後をカエルのように四つん這いのまま跳ねてついていく。靴箱の前にもう少し小さな女の子も立っているが、よく見るとその両足の形は幾分奇妙に歪んでいる。しばらく待たされてから、尿の検査と、レントゲン写真、エコーなどを撮られた後、泌尿器科の先生の前に通される。泌尿器についていえば、いまのところ顕著な異常は見当たらないと言う。二分脊椎の場合、失禁などはまだ良い方で、重いケースになると尿を排泄することができずに腎不全を起こし命を落とす危険もある、と。手術後にもう一度診てもらい、場合によっては奈良県内の二分脊椎の子供の処置に長けた医師を紹介してくれると言う。短くはない話の最後に、手術をする病院を迷っているのであれば、と整肢学園の真向かいにある国立大阪病院に二分脊椎を専門にやってきた知り合いの医師がいるから相談してみたらどうか、とその場で電話で連絡を取り、紹介状をしたためてくれた。婦長さんが寄ってきて、ふだんは滅多に紹介状なんて書かない先生なんですよ、とそっと耳打ちをする。

     指定された午前中の受付がぎりぎりだったので、私だけ先に走って初診の手続きを済ませる。建物は新しくはないが、さすがに国立だけあって広く堂々としている。あとでつれあいの父が、作家の司馬遼太郎がここで亡くなったという記念のプレートを見つけて教えてくれた。脳神経外科のY先生は50歳くらいの女医さんである。はじめに妊娠中と出生時の状況を詳しく聞き、両足の太さをメジャーで測る。右足より左足の方が2センチ細い。ゴムの金槌のようなもので足のあちこちを叩く。次に紫乃さんを腹這いにして遊ばせ、両足の動きをしばらく観察する。持参したMRIの画像を指しながら、説明してくれた。

     二分脊椎を介在した脂肪腫脊椎、というのが正式な病名である。脂肪腫自体は良性のものであるが、この脂肪腫が脊椎の神経を巻き込んだ形で癒着しているため、成長するに従って神経を引っ張り様々な障害を引き起こすことになる。この子の月齢ではそうした成長過程にはいまだ至らないので、現在出ている、とくに左足の膝下部分の神経麻痺による運動障害などの症状は、形成時に脂肪腫が神経の発達を阻害したためと思われ、先天的なものである。故に発見がもっと早かったとしても避けられない類のものであったし、現在は分からないが今後このような異常がさらに見いだされる可能性もありうる。これらはリハビリによる回復の可能性もあるが、完治は望めない。この子の場合は、おそらく軽い歩行障害は避けられないと思われる。足に装具(補助具)を取り付けることにもなるかも知れない。また脂肪腫脊椎の場合、排尿排便の困難も同時に見受けられるケースが多い。排尿は失禁、排便は便秘の形で現れる。水頭症を併発した場合は知的障害などの脳神経への影響も出るが、一般に脂肪腫の場合は水頭症の併発は少なく、この子の場合も見たところたぶんないだろうと思う。つまり手術は、すでに発症している症状を治すものではなく、これ以上の症状を出さないための予防処置だと考えて欲しい。手術の時期は医者によっても様々な見解があり、個々のケースにもよるが、すでに症状が現れ始めている現状を見ると、私はもうすぐにでも処置をした方が良いと思う。

     某医大の医師が「手術自体はそう難しいものではない」と言っていたことを告げると、とんでもない、と頭を振った。肉眼で絡み合った神経と脂肪を判別しながら取り除いていくので、医師には細心の注意が要求されるし、通常7時間近くかかる大変難しい手術である。脂肪腫をあまり後追いしすぎても誤って神経を切断してしまう危険がある。そこまで進んで、ふと話の間合いが空く。背後で立って聞いていたつれあいの母が、“私に任せてください”と言ってくれやんのかね、とそっと私に耳打ちする。そんな空気を感じとったのだろうか、一瞬の沈黙の後、「もしこちらに任せてもらえるようでしたら、私としても精一杯やらせてもらうつもりです」とのY先生の言葉。これはあくまで、しろうとの直観のようなものである。私はなぜか、この先生ならきっと、と思った。経験に裏打ちされた真摯な姿勢を感じたのだ。つれあいと顔を見合わせて肯き、「では先生、お願いします」と言っていた。そう口にしたとたん、何か得体の知れない感情がぐいと喉元へこみ上げてきて、思わず噛みとどめた。それが悲しみなのか、祈りなのか、一抹の安堵であったのか、よく分からない。ただオネガイシマスという無音の言葉をもう二つほど、震える奥歯で噛みしめて、それは去った。

     

     さいしょの手術はじつに11時間半に及んだ。脊髄の神経にからんだ脂肪腫を取り除くためにそれだけの時間を要したのだが、脂肪腫の周囲への癒着がかなりひどく二週間後に再手術となった。二度目の手術も10時間半。精魂尽き果てたといった感の山崎先生が集中治療室に迎え入れてくれて、うつ伏せのまま固定されて意識もまだおぼろないたいけなわが子の顔に再会したときのことはいまでも忘れ難い。それから十数年間、娘の脳外科の担当医師はずっと山崎先生だった。入口中央のエスカレーターで上がって二階の脳神経外科で受付を済ませ、親子でそれぞれ持参した本の頁を開く。国立大阪病院は第二のわが家のようなものだった。診察室での先生はどこかほんわかした天然の人だった。世の中に悪態ばかりついていたわたしも、突っ込みようがなかったのかも知れない。

     先生はさいしょは小児科の医師であったらしい。小児科の医師として子どもに接しているうちに脳神経の分野、発生異常や水頭症、その後の障害を抱えて生きていく子どもたちに心を寄せるようになって脳神経外科の医師になったと、どこかで書かれていた。娘が手術を受けたときには、先生はすでにその分野では日本でも有数のキャリアを持っていて、たくさんの二分脊椎や水頭症の子どもたちを手術していた。そうして先生を囲む患者の会の企画で琵琶湖西岸に先生や看護婦さんたちと一泊旅行をしたこともあった。先生の紹介で神戸の方へ二分脊椎の学会報告を聞きに行ったこともあった。またわたしのホームページを覗いてくれた先生がなぜか「気が合いそうだから」と先生の夫君を紹介してくれて、大阪のうつぼ公園で一度だけお会いしてイタリアンのランチを共にして、音楽の話などをした。無名のうちに死んだ中国のロバート・ジョンソンのような二胡奏者の阿炳(アーピン)を教えられたのも、そのときだ。クリスチャンだったらしい先生は、おなじように娘と洗礼を受けたつれあいに「西海の天主堂路」(井出道夫・新風舎)という本を呉れたこともある。主に長崎の隠れキリシタンについて書かれた長い本だが、著者は先生の義理のお兄さんだとつれあいは聞いたらしい。

     もう歳をとって長い手術に耐えられなくなった、と先生が言われたのは、娘が小学生の頃だったろうか。その頃に高槻の病院のいまのN先生にバトンタッチされたのだ。娘が1歳のときに国立大阪病院に集っていた最高のスタッフたち、脳神経外科、整形外科、リハビリ科、泌尿器科のそれぞれの先生たちはみなその頃には、よその病院へ移ったり、病院長などの管理職になったりしていた。世代交代だ。手術のたびに病室から眺めた大阪城天守閣や、車椅子を押してお弁当を食べた隣接する難波宮跡の公園など、第二のわが家同然だった国立大阪病院も次第に行くことが少なくなっていった。だから、先生が亡くなったことも知らなかったのだ。

     「お別れの会」で流されたという動画の最後あたりに、NHKのラジオ番組に出演したらしい先生が「いのちについてどんなふうに考えているか?」と問われて、つぎのように答えているのをわたしたち家族はほとんど涙をこらえながら聞いた。

     童地蔵ってご存知ですか? あの大原の三千院にある、ちょっと頭が大きくって、うつぶせでこうやって、あの、あごに手をあてて、ゆったりした顔で、笑っているんですよね。あの、脊髄髄膜瘤の子どもって手術したときにこう、うつぶせで寝かせるんですけど、それをちょっと思い出したんですね。ほんとうに気持ち良さそうで、ゆったりしてて、なんかこう、そんなに急がんでいいやんって、言われているような気がして。だからそういう、亡くなった子どもとか、障害持った子どもとか、まあわたしたちに「そんなに急がんでいいやん」と、「そんなに怒らんでええやん」って、そう言われているような気がするんですよね。

     山崎麻美先生。娘がまだ一歳になる直前の11時間半に及ぶ手術からはじまった、たくさんの言葉にならないことをありがとう。あなたがこんなに早く逝ってしまうとは思ってもいなかった。娘はきっと、あなたに手術をしてもらったことを一生、誇りにすると思います。あなたが汗をぬぐい、目をこらえ、一本の神経すら傷つけまいと慎重に脂肪腫を切り離していったメスのひとつひとつの捌きは、娘の身体のなかにいまも刻まれている。いつかあなたのように、たくさんの子どもたちをたすける人になりたい、と思うに違いない。

     

    ◆小児脳神経外科医 大阪医療センター脳神経外科 山崎麻美先生(日経メディカル)
    https://medical.nikkeibp.co.jp/inc/all/blog/nozaki/gallery/gallery07.html

    ◆インタビュー(pdf) http://www.kpu-m.ac.jp/j/miyakomodel/support/files/5236.pdf

    ◆山崎麻美「子どもの脳を守る」(集英社新書)
    https://www.amazon.co.jp/%E5%AD%90%E3%81%A9%E3%82%82%E3%81%AE%E8%84%B3%E3%82%92%E5%AE%88%E3%82%8B-%E2%80%95%E5%B0%8F%E5%85%90%E8%84%B3%E7%A5%9E%E7%B5%8C%E5%A4%96%E7%A7%91%E5%8C%BB%E3%81%AE%E5%A0%B1%E5%91%8A-%E9%9B%86%E8%8B%B1%E7%A4%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%B1%B1%E5%B4%8E-%E9%BA%BB%E7%BE%8E/dp/4087203948/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1541342887&sr=8-1&keywords=%E5%AD%90%E3%81%A9%E3%82%82%E3%81%AE%E8%84%B3%E3%82%92%E5%AE%88%E3%82%8B

    ◆YAMKINへようこそ! (先生の夫君のサイト)
    http://ss7.inet-osaka.or.jp/~agorisy/

    2018.11.4

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     朝だ。お線香と、畳と古い木の匂い。こころなしかそれに潮の匂いもまじっている。曇り硝子の格子に盆栽の影が映っている。そうだ。いつものように朝寝坊はしてられない。昨日、ニトリで買った簡易布団をたたんで、着替えをする。台所でおばあちゃんが起きて、朝ごはんの支度をしている。トイレに行って、顔を洗って、いそいで手伝わなきゃ。そうして彼女のあたらしい一日が始まる。

     和歌山の義母が夜中に嘔吐したのは一週間ほど前のことだ。その二ヶ月前には畑で急に意識をなくして倒れていた。そのときに県立医大でMRIなども撮ったのだが、吐き気が収まらないのでもういちど紀の川の河口に近い一族が懇意にしている医者のところであらためて検査をしてもらうことになった。義母はいまでは手押し車をついて歩くのが精一杯だ。胃の検査をしている最中につれあいの妹さんに頼んでその他全員でお昼を食べに行ったのだが、義父も杖をついて牛歩の進みだ。病院近くのカッパ寿司の階段がきつかったので、帰りは荷物用のエレベーターを使わせてもらった。朝一番でMRIと胃カメラを撮って、すべてが終わったのは昼もとうに過ぎていた。検査では異常は見当たらず、医者の診断は逆流性食道炎。前かがみの姿勢と、老化による食道の働きの低下が原因とのことで、薬を処方してもらった。途中のスーパーで買い物などをして、義父母宅へ着く頃には日が海に沈みかけて、鉛色のくすんだ光がタールのように海面を流れていた。

     娘が義父母宅へ泊まって手伝いをしたいと言い出したのは一ヶ月ほど前、義母が倒れてしばらく経った頃だ。わたしと二人で様子を見に行って、わたしは建てつけの悪いふすまを削ったり、時計の電池を交換したりした。義父は元々足が衰えていたけれど、義母もいつものような元気がなく、暗いひっそりとした家の中でサンショウウオあたりの生物が音もなく棲んでいるようだった。「わたしでも手伝えることがあるような気がする」 家に帰ってから、娘はそう言った。

     中学一年の秋から不登校になって5年に近い。ずっと診てきてもらった学校紹介のカウンセラー(精神科)の診察を、ことしになってやめた。「月に一度ほど、わずか15分程度の会話が何になるのか」と、最後の頃は噛みついて診察室で喧嘩になった医師だ。ずっとその医師に会うのを娘自身は愉しみにしていたのだが、ことしになって「もう、いいかな」とやめることにした。代わりに母親が探してきた田原本にある、県立教育研究所教育相談室の「来所教育相談」を受けることにした。毎週一回50分、親と子どもが別室で固定された相談員と話をする。娘には20代の若い女性の相談員がついてくれた。娘がどんな話をしているのかは分からない。時々、「お父さん、娘さんの部屋に入るときはノックしてあげてくださいね」とか、「お父さん、食事のときに家族で話をするのがつらいときもあるみたいです。食事の席でテレビを見ることを許可してあげてくれませんか」とか、「お父さん、フェイスブックに娘さんの写真を勝手に載せないようにしてあげてくださいね」とか、「娘さんが家族でカラオケに行きたいそうです」とかの「宿題」が出る。翌週、「宿題はどうですか」と微笑みながら訊かれるのだ。敵はなかなかつわものだ。

     娘はすこしづつ変わってきた。「人間が嫌いだ」とか「小さな子どもは苦手だ」とか言っていたのだが、「わたしはほんとうは人が好きなんだと思う」と言ったり、道端の幼児を見て「かわいい」とつぶいやいたりするようになった。以前は家の外に出ると、自分がいかに世の中の足手まといになるかとか、じぶんはどうせ何もできないとネガティブな発想しかしなかったのが、エレベーターのところであの女の人がボタンを押して待ってくれたとか、ミュージアムショップで買い物をしていた人が場所を空けてくれたとか、そういうことを肯定して、素直に嬉しいと受け止められるようになった。それでも彼女の心の闇はまだ深いようで、「やはり“障害”というのが大きな壁になっているところがある。でもわたしたちも、その辺のことは逆に勉強していかなくてはならないくらいで」と相談所のすすめで、やはりおなじ県立の施設である、奈良市にある養護学校へときどき行くことになった。といっても、教室などで多数の同年代と席を並べるのはまだまだ抵抗があるので二週間に一遍ほど、学校の先生たちと話をしてくるのだ。先日は三人の先生たちと話しをしながら、百円均一の箱に貝殻などを貼りつけていく「工作」をした。また次回は、同じように不登校の子どもを持つ先生と話をする予定だとか。「やはり最後は、じぶんとおなじようなハンデを持つ友だちとの出会いが彼女を変えていくだろう」と言ったのは、わたしが罵倒したカウンセラーの医師であったか。

     娘がまだ幼かった頃に一時通っていた市の社会福祉施設で、発達障害の子どもを持つお母さんが「この子の好きな(テレビの)キャラクター・ショーを見るためなら、わたしは日本全国どこへでも行きます」と言っていたのが、いまも忘れられない。先週は京都の龍谷ミュージアムで「水木しげる 魂の漫画展」を見た後、娘がかねてから「お母さんも連れて行きたい」と言っていた八瀬の鯖寿司の店(店主の体調不良で休みだったが)。先々週は「小さいときに行ったのに何も覚えていない」という白浜のアドベンチャー・ワールドで終日。その前の週は京都国立博物館で刀剣女子たちの集い「京のかたな展」に述べ6時間。さらにその前の週は東近江へ「鶏絞め作戦」。毎週のように車でどこかへ出かけているが、娘が行きたい・見たいというところなら、どんなところでも連れて行く所存である。以前は一月に一遍がせいぜいだった。それも行けなくて、「行けない」ということでさらに自室に閉じこもって数日はベッドの上だった。それがいまではどうだろう? 火曜日は田原本の相談所、水曜は美容院、木曜は歯医者、金曜は養護学校、そして土曜におばあちゃんち。ふつうの人には何でもないスケジュールだが、連日のこんなスケジュールはかつての娘だったら考えれれなかった。それがいまは、ひとつづつ、こなしている。

     とりあえず、三泊四日。出発する前夜に母親に摘便をしてもらって、あとは薬で調整するが、どうしてもお腹が痛くなったら夜中でもつれあいが走る。義父母の家はスマホの電波状態もあまりよろしくない。たまにはそんなのもいいか、と娘はノートをしこたま鞄に詰めていった。義父母宅に着くと、娘はさっそく台所に立って義母の手伝いを始めた。スーパーで買ってきた魚を捌くのだ。「じゃあ、ジップがオシッコしたくて待ってるから、もうお母さんたちは行くよ」 「ジップとレギュラスの動画を、帰ったら送ってね」  万葉の潮待ちの暗い夜道をうねうねと走りながら、病院の手術以外で親とはなれてよそへ泊まるのはいつ以来だろう? とつれあいと話した。じぶんがだれかの役に立つ。足手まといになるばかりで、じぶんはだめな人間だと思い続けてきた彼女が、それを知ることは大きな大きな変化に違いない。

     

    ◆奈良県教育委員会事務局 生徒指導支援室 教育相談係 http://www.nps.ed.jp/nara-c/soudan/raisyosoudan.html

    2018.11.18

     

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     わが郡山紡績株式会社が設立されたのは明治26年。その後、明治40年に摂津紡績株式会社に合併され、その摂津紡績が大日本紡績株式会社(現ユニチカ)に合併されたのが大正7年、つまり変転の果ての郡山紡績工場の終の住処が大日本紡績だったわけだから、明治33年に本社事務所として竣工した赤煉瓦造りの建物をそのまま利用した「ユニチカ記念館」は永らくわたしの行ってみたいリストの上位を占めていたのだけれど、平日の水曜日のみ開館という敷居は案外と高かった。尼崎市はご存知のように大阪湾の河口で切りとられたパズルのピースのように大阪市の西淀川区と接している。明治22年に有限責任尼崎紡績会社としてスタート、明治30年には敷地面積17,903坪、工場建物計140棟を擁する大規模紡績工場の先駆的存在であった。かつて阪神電鉄の大物駅から杭瀬駅まで広がっていたその敷地の残滓は、広大な小田南公園や大物川緑地として一部の名残をとどめている。記念館はその大物駅から徒歩5分ほどの距離だけれど、駅周辺には何の表示も見当たらない。じっさいに2時間ほどを費やしたわたしの滞在中、訪問客はほとんど皆無であった。2016年のNHK連続テレビ小説「あさが来た」の主人公・広岡浅子の夫がこの尼崎紡績の設立に関わっていたことから一時期、来場者が増えたこともあったようだが、事務所の人は「最近の若い人はユニチカといっても、名前すら知らない」と嘆いていた。二階建ての内部はいくつかの展示室に別れていて、1階は戦後の昭和天皇行幸写真を飾った「玉座の間」、そして「肖像権があるので、ここだけは写真を撮らないで下さい」と言われたユニチカの歴代マスコットガールのポスター展示の部屋、二階にかつて「東洋の魔女」と謳われた女子バレー(ニチボー貝塚)のトロフィーやユニフォームなどが飾られた部屋、そしていちばん大きな展示室が明治から大正・昭和にかけての紡績工場に関する資料が、まるで大昔の博物館の岩石標本でも収めたかのようなガラス張りの陳列台のなかで息をひそめている部屋だった。もともとが明治の建物で、古式めいたクロスオーバーのカーテンに囲まれた静かな部屋にたった一人でいると、そのうちにいったいじぶんがいつの時代に生きているのかおぼろになってくる。合併時の郡山紡績の社長の顔写真、郡山工場長の辞令、稼動人数を記した帳面、昭和39年の郡山工場閉鎖決定を伝える新聞記事など、いくつかの小さな断片(資料)は見つけたものの、いわば大正時代に合併した摂津紡績の、そのまた合併された紡績工場とあれば、巨大企業となった大日本紡績株式会社からしてみればほんとうにおまけのような存在に過ぎぬ。それでも大量の資料が残されているだろうからと事務方に訊いてみたのだが敵もさるもの、「展示してあるもの以外はお見せすることはできない」の一点張りであった。しかもこの記念館の今後の展望も含めて、古い資料はこれから徐々に整理されていく予定だと言う。やっぱり革命でも起こして無理やりに接収をしなくてはダメなんじゃないか。この国はほんとうに過去から学ばない。曇り硝子の向こうの立ち入り禁止の部屋にはたくさんの古めかしい資料が棚につまっていたが、あれらの中には貴重なものもたくさんあるだろう。手放したら、二度と戻らない。歴史を残そうというつもりなんかないんだよ、ましてや都合の悪い「影」に関するものなど。展示室に並べられている資料は「光」と、当たり障りのない選ばれた資料だけ。ほんとうの歴史はそんなところにはないんだよ。おれたちがこれから「もどされていく」歴史も。「影」を見つけに阪神電車で千船駅へもどって下車した。尼崎市側の左門殿川と西淀川区側の神崎川にはさまれた糸杉のようなかたちの中州だ。駅から北西の住宅地の一角にある佃墓地に、その悲しみの記憶はひっそりと立っている。大正2年11月2日、現在のJR尼崎駅南東の杭瀬団地のあたりにあった大阪合同紡績神崎工場の仕事を終えて帰宅途中だった男女31人の労働者を乗せた渡し舟が沈没し、女工のみ18人全員が亡くなったという痛ましい事件があった。巨大な自然石に刻まれた慰霊碑は新聞を通じた義捐金などを元に遺族が建立したものだが、いまでは地元以外はほとんど知る人もいないだろう(だいたいブロック塀で囲まれた墓地の入口は引き戸があって一見住宅の玄関のようだし、周辺に解説版もないのでふらりと訪れてもまず分からない)。この事件に関するWeb上の情報も乏しい。『尼崎市史』第13巻所収年表に「神戸又新日報を典拠として記載されている」ようなので、国立国会図書館東京館にあるらしいマイクロフィルムの該当記事の遠隔複写を頼んだところだが、さてどうだろう。浅学なわたしがかろうじて判読できた碑文をここにあげておく。末尾に記されている「源應」は明治36年天台座主となり、のちに四天王寺住職も兼ねた吉田源應という僧侶らしい。

     

    人事常なく禍福忖りかたし古人巌牆(がんしょう)乃戒め畏れさるへからず兵庫 縣川
    邉部小田村なる大阪合同紡績株式會社神崎支店工場乃男女工手三十一
    人が去る大正二年十一月二日の昏已に其日乃労を終へ欣然隊●為●
    家路に就き佃津を渡らむとて虞ら●小艇沈没乃難に遭ひ同行乃内女子
    のみ十八人是に死を●載量乃過重なりし小因ると云ふ噫傷きかな是に
    依りて工手乃母新聞社ハ為●同志に訴へて義捐を募り●て遺族を慰め
    傷者を恤みかつ此碑を神崎川の畔に建て予をして其由を識さしむ


    [遭難者西成郡千船村大字大和田] 田中せい 西條やす 井上そよ 佐藤やえ 村上よね 井上みさ 藤原ゆい 岸本まつ 井上むめ
    [大字佃] 森岡みね 森岡ちえ 廣●いよ 八木はな 梶とせ 堀すえ [大字大野] 樋口まさ 大字百島 北田ちよ [稗島村] 善やく


    大正三年孟夏 四天王寺大僧正源應篆 釋坤陸選書

     

     花台にはまだそれほど日も経っていない墓花が挿されている。犠牲になった18人の、おそらく年若い少女たちの名を一人ひとり、声に出して読んでいった。おなじ苗字が続くのは、姉妹であった可能性もある。佃墓地をはなれて、左門殿川の川沿いに出た。川沿いといってもくすんだ灰色のコンクリートの堤が遮って川自体は見えない。歩道もろくにない堤防の道を北へすすむと、やがて左門橋に出る。Webで事前に明治後期頃の付近の地図を見つけて印刷してきた。国道2号線をまたいでさらに北へすすむと、糸杉の先端近くに田蓑神社がある。かつては住吉明神と呼ばれていたという境内には徳川家康から特権を与えられたという佃漁民の由来や、謡曲「芦刈」の舞台であるという説明版などが立っている。この田蓑神社の「北方向100メートルには左門殿川を尼崎方面へ渡る「渡し船」あった」と伝える資料がある。「大正期の地形図には神戸酢酸工業今福工場(塩野義製薬杭瀬工場の前身)から対岸の佃に渡る渡しの名称が「横渡」と書かれて」おり、これが往古の「宮の渡し」ではないか、とも。おそらくこのあたりだろうと思われる付近もやはりコンクリートの高い堤で閉ざされ、川は臨めない。仕方なく元の左門橋南詰めへもどって、橋の欄干からようやく女工18名を呑み込んだ川の風景を眺めることができた。明治の地図では左門殿川は現在よりもかなり蛇行している。おそらく暴れ川だったのではないか。11月の、仕事を終えた「昏已」といえばすでに日没後だろう。風はふるえるほど冷たく、闇は不気味なほど深かった。わたしは波間に没していった少女たちの無念の思いに瞑目する。わたしたちはけっして「光」のなかだけをあゆんできたわけではない。むしろ「影」の方がずっと多かった。無数の「影」に支えられた「光」がおぼつかない足元を照らすのだ。たくさんの「影」を吸収して、その思いにふるえあがって、ときには立ち尽くして、慄然として、仄かな「光」をおびる。そうでない「光」などすべてうすっぺらなニセモノだ。糞のまがいものだ。ニセモノの「光」が大手をふって輝けば輝くほど、おれはほんものの「影」が欲しくなる。そんなことをおだやかな左門殿川の橋上で風に吹かれながら考えた。

     

    ◆ユニチカ記念館 http://www2.city.amagasaki.hyogo.jp/bunkazai/siseki/unitika/unitika.html

    ◆女工さん遭難の碑(佃) http://www.aozora.or.jp/ecomuse/archives/765

    ◆レファレンス事例詳細(尼崎市立地域研究史料館) http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000179473

    ◆明治末期の佃地区 http://elmopc.lolipop.jp/tsukuda_tizu.html

    2018.11.29

     

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     昨日は娘の年にいちどの脳神経外科の定期検査。家族三人、車に乗って生駒の山間を大阪へ越えていく。朝8時に出発して、10時頃からMRIを撮って、レントゲンを撮って、間の待ち時間を入れたら先生の診察はもう昼過ぎの1時頃だ。結果は背中の脂肪腫も、脊髄の形も良好で、もう18歳になったから身長もそろそろ打ち止めだろうし、このままいってくれるんじゃないかな、とのN先生の見立てであった。成長期が終わるまでは脂肪腫にからんだ神経がひっぱられたりして悪さをする。それがもう安定期に入ったようだ、ということだ。1歳からなんどか重ねてきた手術はいつも「予防」のためであって、「完治」のためではなかった。娘のような先天性の神経障害を持った患者は「良くなる」ということはない。「これ以上悪くならない」ために治療をする。ところがいま時折ニュースなどでとりあげられる「iPS細胞」や「ES細胞」なぞというものは、それを(ひょっとしたら)飛び越える可能性を秘めている。これまでの臨床研究では脊髄損傷をして間もない個体への治験であったが先日、「脊髄損傷のけがから時間がたった慢性期のマウス」を使った実験で、慶応大学の研究チームがリハビリなしで運動機能を回復させることに成功したという記事が新聞に載った。それでわたしはN先生に訊ねたのだが、脊髄損傷のけがから「間もない時期」、「慢性期」、娘の場合はさらにその先の「先天性」というわけだ。いちどは機能していた神経が切断されたのと、いちどもつながったことのない神経では、回復の可能性もさらに遠い。わたしも最近は患者さんからよく訊かれるんですが、これからもっと研究を重ねて、安全性を確かめて、じっさいに手術ができるようになるのはまだ十年も二十年もかかるんじゃないでしょうか、とN先生はおっしゃった。せめて、排便だけでも治ってくれたら、と思うんですが。そうですよねえ。二十年は長すぎます、先生、5年くらいで何とかしてください。N先生はおだやかに笑ってこたえた。人間の身体はほんとうに微妙なバランスで成り立っている。たった1本の神経に信号が流れなくなっただけで、動きがままならず、筋肉が弱り、骨が変形していく。娘の肉体はそんなふうに脊髄以外でも、筋肉を入れ替え、骨を削り、なんどもメスが入ってきた。それらを元に戻すのはもう無理だろう。だからせめて日常生活で負担が大きい膀胱直腸障害の神経だけでも回復して欲しい。それが治れば、たとえ不自由な足が残ったとしても、どれだけ彼女の生活が楽になることだろう。診察の終わりにまた来年の検査日の予約をして、やっとお昼だ。おととしくらいからお昼は病院に近い関西外大のキャンパスのカフェ・レストラン「アマーク・ド・パラディ ICC」と決まっている。娘はクアトロ・フロマージュのピザランチ、つれあいはマルゲリータのピザランチ、わたしは鶏肉のバジルとトマトソースの日替わりランチを食べて、また生駒の山間の道をのんびり走りながら帰った。途中のスーパーに立ち寄って食材やジップたちのおやつなどを買っていたら、じきに夕暮れだ。病院だけで一日が過ぎてしまう日が、むかしはもっともっとたくさんあった。そのために娘はいつも車に10冊くらいの本を積み込んで出発したものだ。

    アマーク・ド・パラディ ICC https://www.hamac-de-paradis-icc.jp/

    2018.12.6

     

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     寄宿舎工女・宮本イサがまさに息絶えたそのとき、おれはいったいどこにいたのだろうかということは考えるな。この世界とは異なる世界にいたのか、この世界にはいたがまったく別の感覚器官を有していたのか、あるいは世界が生成し破壊する一大劫の果てを漂っていたのか。おれが愛する家族とささやかなひとときをいとおしんでいる刹那は、寄宿舎工女・宮本イサが感じていたいとおしい刹那と重なるのだろうか。いつか重なる。おれがこの世界の感覚をはじめたとき、彼女はすでに冷たい墓石の下だった。ではおれがおなじようにいつか冥府のつちくれとして永遠の眠りを貪るとき、だれかがまたおなじような刹那を感じて向こう側からおれの墓石を覗き込んであああああああと声にならぬ深い嘆息を吐き出すのだろうか。そのときおれは寄宿舎工女・宮本イサともおれの墓石を覗き込んでいるやつともおなじ刹那を共有しているのか。おれの手元をはなれていったいとおしい家族との刹那はおれのもとにもどってくるのかそれともその見知らぬ男がうばっていくのかもともと寄宿舎工女・宮本イサのもとにあったものなのかそのどれとももうおれには分からない。寄宿舎工女・宮本イサがささやかな恋をしたり夕空を見上げたり母の手を握ったりしていたときにこのおれはちゃんとそこにいたんだな彼女のそばに。無限とも思える一大劫の果てを漂いながらおれはちゃんとそのことを知っていた。おれが幼い娘にかけたことばはつい数日前に寄宿舎工女・宮本イサの父親が彼女にかけたことばとおなじものなんだ。寄宿舎工女・宮本イサが死んで遠い大和の地で葬られたという便りを聞いて獣のように絶叫した父親はおれだったんだよ。そのことをおれは久しいあいだ忘却していたがいまは思い出せる。おれたちはときに一大劫の漂流の果てで立ち尽くす。刹那は落ち葉のようにこぼれるが、根が地中でうけとめる。記憶せよあらゆることを語りつづけよ。記憶されるものは生き続ける。

    2018.12.11

     

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     昭和4年建立、と刻まれたその「大日本紡績高田工場・合墓」は町の東のはずれの、どこかものさびしい川べりの市営墓地に大昔の遺失物のように建っていた。道向かいには古びた葬儀屋が間口を構え、その背後にはひと気のない殺伐とした二戸一の住宅が軒を並べている。町の墓地はたいてい、そんな場所にある。そそり立った墓石の裏の赤錆びた鉄扉には南京錠がかかっている。このなかにどれだけの寄る辺ない遺骨が眠っているのか、遺骨すらもない魂が暗闇でいまもまんじりともしない顔と顔をつき合わせているのかと思うと足元が底なし沼に吸い込まれていくような錯覚を覚える。錯覚ではないだろう。わたしたちのこの国はこれまでいったいどれだけのものを蔑ろにしてきたのだろう。穴を掘り、蹴り落とし、埋めてきた。忘却してきた。わたしのなかにはたくさんのそのような寄る辺ない魂が堆積してまるで放射能を浴びた皮膚のように焼き爛れ膨れ上がり、わたしはじぶんがいつか見たこともないような奇怪な生物に変わり果てるのではないかと思うのだ。無数の腕や足や人面を呑み込んで流動する可変動物のような存在になってビルを覆い尽くすほどに巨大化してこの世のあらゆるものに復讐をする。それもいいかも知れない。そのためにわたしはこうして歩きまわっているのかも知れない。毒を溜め込み、おのれがいつか本物の毒になることを夢見て。それでもわたしはこのごろ人間どもの間にいるよりもこうして死者たちの中に佇んでいる方がいっそ心がやすらぐのだ。日は翳っていて、師走の空気は指先に冷たい。斎場のひっそりとした受付で合墓について訊ねたが「シルバー人材」のジャンパーを着た老人は何も分からない、役所の環境衛生課に訊いてくれと答えた。紡績工場のことは覚えている。むかしの女工はほら、遊郭みたいなものだったんじゃないか。それであなたはいったい何が訊きたいのか、とかれは言った。わたしがほんとうに訊きたいこと。わたしがほんとうに訊きたいことを知ったら、あんたの命は縮まるだろうな。墓地からほど近い土手沿いのラーメン屋に入った。ふつうの人なら横目で通りすぎるかも知れない掘っ立て小屋のような店だ。土曜日のお昼どきなのに客はわたし一人だけで、芯の強そうなおばちゃんにわたしはテール・ラーメンを頼んだ。メニューはほかにホルモン・ラーメン、油カス・ラーメン、油カス・チャーハン、フクの天ぷらなどなど。途中からおばちゃんの娘が小学生くらいの孫娘を二人連れて入ってきて、おばちゃんは彼女らにもラーメンをつくりはじめた。骨付き肉が乗ったテール・ラーメンは旨かった。骨の髄まで温もった。勘定をする際に「すごくおいしかったです」と言うと、おばちゃんははじめてにっこり笑って「また寄ってくださいね」と応えた。何の気取りもないが、人間の顔のあるラーメンだった。合墓に眠る女工たちにも食わせてやりたい。

    2018.12.15

     

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      奈良や京都とおなじように近江(滋賀県)も驚くほど被差別部落が多いと知ったのは画家の福山敬之さんと知り合って東近江の地を訪れるようになってからだ。末広町はかつて「稲盗人ヲ御座候ヘバ打殺シ、右野ヘ捨置キ候ヘバ何方ヨリモ構イコレナク候」と古文書に書かれたような土地であったという。古くは久保村と呼ばれた町は皮革業で発展し、いまも大きな食肉センター(屠場)があり、幹線道路沿いには肉屋が多い。数年前に惜しくも閉館してしまった「末広町歴史資料館」の展示室(現在の八幡東子どもセンター2F)を、福山さんのつてで特別に見せていただいたのは2018年5月だった。子どもたちが間違って入らないようにと1Fと2Fをつなぐ階段のシャッターを下ろして閉じ込め状態になったわたしたちは、かつての展示がそのままひろげられている学校の教室ほどのスペースにつまった貴重な町の記録をたっぷり堪能し、それからかつての共同墓地や共同浴場の跡地、反差別運動の拠点となった寺や神社などの町内を半日かけて回ったのだった。末広町の郷土料理である「どろ」のことはその資料館に展示していた、いまでは入手困難な「どろぉ 食文化・・屠場のある街」(田中政明)という小冊子で知った。フライドチキンはかつては白人が食べずに捨てていた手羽を腹持ちがいいように油で揚げた黒人の奴隷料理だった。ロマのハリネズミ料理、ネパールの不可触民サルキの牛肉料理、黒人奴隷料理から国民的料理となったブラジルのフェジョアーダ、そしてこの国の関西のさいぼしや油カス、これら“抵抗的余り物料理の文化”を上原善広は「抵抗食」と呼んだ(「被差別の食卓」新潮新書)。以前は流通価値のなかったスジ肉とくず米といわれる小米を炊き込んだ「どろ」も、被差別部落の人々の抵抗食といえる。

     9月に福山さんの伴侶でもある彫刻家の智子さんの作品展を娘と見に行った帰りに、福山さんが手伝いに行っている地元の営農組合で「くず米」をもらう機会があった。さて、こいつをどうやって食べるか。くず米ではないがJAのサイト「やってみよう! バケツ稲づくり」に脱穀・もみすり・精米の解説があり、すり鉢に軟式野球ボールを押しつけて籾殻をはずし、瓶に入れた玄米をすりこぎ棒でつつく精米方法なども紹介されていたが、野球ボールはないし、すり鉢も小さいものしかないしで結局、まずは庭でザルを振って小さなかけらを飛ばし、もみすり・精米をかねて口の広い瓶に入れてすりこぎ棒でしばらくつついて再度ザルで振り、あとはよく水洗いをしていつもどおりに鍋で炊いてみたら、少々硬いがいわゆるふつうの玄米ご飯で、噛むと香ばしくお八つのようでおいしい。特に小石などが混ざっているということもない。これで無事「くず米」は食べられるという目途がついたので、ジップの散歩がてらにスジ肉を買いに行き、「どろ」に挑戦してみた。

     レシピの詳細は末尾の引用に譲るが、スジ肉は一応ネギと生姜片で一時間炊いて脂を切った。とりあげて熱をさましたスジ肉をこまかく切り、あたらしく水を入れた鍋で炊き、野菜は今回は人参、サツマイモ、大根、白菜。人参、サツマイモ投入後に水洗いしておいた小米(2合)を加えたが、生米のためにやはりやわらかくなるのに結構時間がかかったので、最初にスジ肉といっしょに小米を入れておいた方がいいかも知れない。味つけは各家庭ごとで微妙に違うようなのでわたしは顆粒の和風だし少々と塩、そして醤油。かなり長い時間ぐつぐつと煮込んで、小米がやわらかめになってスープが白濁してきたら食べごろだ。精米がいい加減なので玄米雑炊みたいな感じだがそれが独特に香ばしく、スジ肉の出汁にあいまってじつに旨い。わたしもつれあいもお茶碗についつい幾膳もお代わりをしてしまった。太刀魚を骨ごとすりつぶした和歌山の練り物「ほねく」を魚焼き器であぶって醤油を垂らして添えたのも見事にはまっている。「好きなだけ持ってけ」と言われたくず米は米袋にまだたっぷりと入っている。理屈じゃなくてこうやって食い物から差別を体験するとよく分かる。食べ物ってのは直接的だからね。町の子どもたちはきっと他所の白米のご飯がとてもまぶしく見えたことだろう。でも「くず肉」と「くず米」でこしらえる「どろ」は最高に旨いんだ。差別されても人はそう簡単には負けちゃいられないということだよ。

     

     古くからこのむらに受け継がれている料理に、やはりスジ肉を使った「どろ」がある。スジ肉を煮て、そこに小米と野菜を入れて食する料理である。語尾を少し上げて「どろぉ」という感じで発音するのだが、炊きあがりが「どろどろ」になるところに、その呼称の由来があるといわれている。

    (中略)

     「どろ」の主な食材である小米は、それだけでも貴重な食料であった。

     臼すりという工程をへて籾が精米される。その際、白米とあわせて米の粉や割れた米もできる。白米以外を丁寧にふるいにかけ、残った細かい米が小米である。また、不合格米だけを集めて脱穀したものも小米になる。米穀業を営んできた人が「豊作のときは小米は少ないわ」と経験的に語っている。不作のときであればあるほど、粒の小さい米がたくさんできるので、必然的に小米も多くなる。いまでも小米は店で販売されている。手間がかかるわりにはとれる分量は少なく、利用する人も少なくなったため、いまでは小米の入手はむずかしくなっている。

    (中略)

     「どろ」はどのようにしてつくられるのかを見てみよう。まず、スジ肉を水炊きする。二、三度炊き込んで脂を切る。そして、煮立ってきたところで、大根、小芋、人参、白菜といった野菜を入れる。火の通りにくいものから順番に入れていく。火が通ったところで、あらかじめザルなどで洗っておいた小米を入れる。数分煮たところで小米がひらくと、火をとめてから醤油や調味料を入れ味つけする。

     このようにつくることが多いようだが、小米を先に入れてから、煮立ったところで野菜を入れることもある。家によってつくり方はいくらか異なる。ある女性の説明を聞くことにしよう。

     水にスジを入れて炊いてな、ほんで脂が出るで、ほかすにゃ。ほて、今度、柔らこうなるまで煮あげて、ほんで、野菜の煮えにくいものから順番に入れていくにゃ。大根、小芋と。水とスジを入れといて、沸騰した中へ、ほんで、ほれ入れて、ほんで醤油とか調味料入れて。野菜はもう少し米が煮えてから入れる。人参とか大根とか、野菜もんをみな入れはるんです、ほの中へ。ほんで、クツクツクツね。小米を洗って、野菜が煮えたらね、入れますにゃ。ほんで、グツグツ煮えてきたら、ちょうどお米がひらきますやろ。そのときに、後から味つけしますにゃ、お醤油と、ほんで、ちょっとだしの素をね。もうそんで溶けるやろ。ほんで、ちょっと大きいやつは残るやろ。具は、好きなもん入れたらええにゃ。

     (中略)

     最近では、小米が少々手に入りにくくなってきているので、「どろ」が食されることは減ってきたが、「今日は寒いし、あれやったら熱くておいしいし、今日はほれしょうかなぁってゆうて」というようなことで、「どろ」をつくることもある。また、何人かが集うと、「いっぺんどろしょうか」というぐあいに会話がはずむ。このむらでは、店によっては、ときおり発泡スチロール製トレイに入れられて「どろ」が売られることがある。

    桜井厚・岸衛「屠場文化 語られなかった世界」(創土社)

     

    ◆近江の食文化 そのルーツを探って http://www.pref.shiga.lg.jp/feature/13_9/feature02/index.html

    ◆脱穀(だっこく)、もみすり、精米(せいまい)の方法 https://life.ja-group.jp/education/bucket/column/advice08

    2018.12.16

     

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     映画の女優さんなどの好みについて、いつか娘と話をしたことがあった。娘は強い女性、個性的で、彫りの深い顔つきの女性が好きだ。「お父さんの好みはもう分かるんだよね。清楚で、可愛いタイプ。でしょ?」 そして「まだまだ修行が足りないな」とぽんと人の肩を叩いてわたしの部屋を出て行った。否定はしません。

     なんてったって、この頃のシャルロット・チャーチはとても魅力的で、おじさんはついにこの教会ライブのDVDを買ってしまったほどだ。少女が一人前の女性になる直前の微妙な魅力と輝きに包まれた短い季節。もちろんキャスリーン・バトル やジェシー・ノーマンといったプロの歌手たちに比べたらとてもかなわないのだけれど、また別の地平でこころをくすぐるものがあるのだよ。

     それはともかく今日は仕事で姫路まで移動する途中、iPodでずっとこのシャルロット・チャーチのWhen a Child Is Born を聴き続けていた。このクリスマス・ソングの「Child」はつまり救い主キリストのことなわけだが、わたしはそんなことはどうでもよくて、つまり世界中でこれから生を受けるすべての子どもたちのことだと思う。

     「しずかな願いが七つの海をわたり / 変化の風が樹々の内でささやく / そして疑念の壁は砕け 崩れおちる / 子どもが生を受けるそのとき」 シリアでも、エチオピアでも、パレスチナでも、北朝鮮でも、そしてこの日本でも、新たな命がこの世に生を受けるときは、みんな、そうなる。そうなって欲しいのだが、わたしたちの現在の世界は残念ながらそうではない。たくさんの幼い命が、希望が、不条理に殺されていく。だからいっそう、この曲がこころに沁みる。

     ことしもそんな一年の終わりだな。

    ◆Charlotte Church - When a Child Is Born
    https://www.youtube.com/watch?v=7SbPhWaQEGo

    ◆When A Child Is Born(子供が生まれる時 クリスマスソング)和訳付き
    https://www.youtube.com/watch?v=G4dtn5jmH7Q

    2018.12.21

     

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     10代か20代の頃に聴いていたあの沁み入るような狂おしい天上の音楽は何だったろうかとここ数日ずっと考えていて、それはイエスのいうパンにも似た飢えのような情動だったわけだが、やっとそれがフォレのレクイエムのなかの Sanctus だと今夜、思い出したのだった。たゆたう薄明のなかに幾筋かの光が差し込み身体が魂が射抜かれる。束の間でいいから、わたしはそういう場所にもどりたい。

    2018.12.22

     

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     15年前、兵庫県のある施設でわたしに仕事をおしえてくれたTさんが癌で入院をしたと知ったのは最近のことだ。退院をして、いまは自宅で小康を保っていると聞き、年が明けたら見舞いに行きたいとTさんと親しい同僚にお願いしていたら昨日、亡くなったという連絡がメールで届いた。ムガル帝国の皇帝によって建設されわずか14年で放棄された北インドの都市・ファテープル・シークリー(Fatehpur Sikri)の城門には、つぎのような碑文が刻まれているという。「イエスが言った。“この世は橋である、わたっていきなさい。しかしそこに棲家を建ててはならない”」 橋はひとによってさまざまだ。ながいながい橋もあれば、ひょいと跨げるようなみじかい橋もある。豪華絢爛に飾った橋もあれば、質素などぶ板のような橋もある。どんな者であれ、わたしたちはそこをとおりすぎていく。わたりおえてしまえば、どんな橋であったかなど忘れてしまうし、もはや何の価値もないだろう。けれど橋をわたったその痕跡のようなものがきっと、わずかな匂いか光のささやかな明滅のようなものとして風の通い路にとどまる。残されたわたしたちはそれを感じることができる。痕跡も、ひとさまざまだ。

     わたしの住む町にかつてあった紡績工場の「寄宿舎工女」として明治33年に死んだ宮本イサとの出会いについてふりかえりたい。というのも、わたしのささやかな生にあって彼女の存在はいつも中心を占めているからだ。「亡工手之碑」という紡績工場で死んだ人たちの供養碑が残る隣町の寺で、紡績工場の死亡者だけをまとめた過去帳を見せてもらったのはことしの初夏の頃だったか。本堂の後戸に祀ってあったというその過去帳には明治後半から昭和初期にかけて延べ96人の戒名などが並んでいた。そのなかで出身地や年齢が分かっているのは30人に満たない。住職によれば引き取り手のない死者は町の火葬場で荼毘に付し、共同墓地の無縁の納骨所に収めるのだという。96人うち59人が女性で、年齢が分かるほとんどは20代前後の若い女性たちだ。なかには13歳の少女もあり、多くは九州の山間部の(おそらく貧しい山村の)出身であった。18歳の「朝鮮慶尚南道」出身の少女の名も記されている。

     宮本イサの無縁墓は、かつて平城宮の羅生門があったという佐保川沿いの古い歴史のあるその共同墓地で見つけた。墓地の片隅に積み上げられた墓石の側面に偶然、「株式会社郡山紡績」の刻字が覗いていたのだ。両隣の墓石にかくれていた部分に「寄宿舎工女 宮本イサ」と「明治三十三年」という文字をかろうじて読むことができた。彼女の名も戒名も寺の過去帳にはなかった。明治33年というのは明治27年に操業を開始した郡山紡績が業績悪化や社長交代などを経て操業時間が短縮された年だ。翌年には工場での虐待に耐えかねて脱走した女工2名が大阪にて保護されたという記事が警察の資料として残っている。引き取り手のない「寄宿舎工女」であれば墓石もつくられずに無縁の納骨所

    へ収められただろうが、わざわざ会社が墓を建てたということは特別の事情があったのか。寄宿舎住まいであれば近在の出身ではないだろうと思いながらも、この地元資本で設立された紡績会社がそもそも禄をうしなった旧郡山藩士の窮状対策として旧藩士の子女を雇ったという記述を読んで、幕末の藩士名簿をめくったりもしたが手がかりはなかった。120年は遠すぎるのか。わたしは犬の散歩の折にはこの宮本イサの墓に立ち寄り、ときには野辺の花をたむけ、ひさしぶりだねとか、寒くなってきたねとか、墓石に語りかけるようになった。さながら恋人のようだ。もう会うことのできぬ。

     わたしのなかに見知らぬ「寄宿舎工女 宮本イサ」の存在があって、それを胸の奥にしまいながら、岸和田の広大な共同墓地に眠る朝鮮人女工の墓といわれるちいさな自然石をさがしたり、尼崎の川で渡船が沈んで死んだ女工たちの供養碑を訪ねたり、あるいは「悔恨と激憤の現場で、いま、わたしたちの行くべき道を問う」と刻まれた名古屋の軍事工場で地震で生き埋めになった朝鮮人の少女たちの亡くなった現場を歩き、そっと手を合わせた、そのひとり一人が宮本イサであり、多くは父や母のもとへかえれないまま無縁のほとけとなった寄る辺なき魂である。休日のたびにわたしは自転車で、あるいは電車に乗って、そんな見捨てられたような場所や墓地を歩きまわった。わたしはなぜ、そんなことをするのだろう。いつしかわたしは「悔恨と激憤の現場で」死んでいった無数の彼や彼女たちの痕跡を巡礼しながら、その寄る辺なき魂がわたしのなかに澱のように蓄積していって、いつかじぶんは人間でない奇怪な生物に変化(へんげ)するのではないか、それを望んでいるのではないかと思うようになった。

     120年前の明治、100年前の大正、80年前の戦前の昭和すら、いまではたどることが難しい。旧藩士名簿、地方新聞、警察資料、古地図、もろもろの行政資料、企業資料、個人の手記、埋火葬許可証、県立図書館や国立国会図書館関西館に幾度も足を運び、黄ばんだ資料をめくり、ぼやけたマイクロフィルムをまわし続けても、出てくるものはほんとうにわずかな断片だけだ。「寄宿舎工女 宮本イサ」がどんな女性で、明治33年にどのような事情で亡くなり、古里の地ではなく「寄宿舎工女」として参る者もない無縁墓になって忘れ去られたのか、だれもなにも分からない。「金壬守 妹」と過去帳に記された18歳の「金◆順(戒名:釈尼妙順)」が大正9年に郡山紡績で死んでから遺骨は故郷の「朝鮮慶尚南道普州郡普州面」に帰れたのだろうか。姉妹はどのように異国の地にやってきて、なぜ18歳という年齢で橋をわたりおえてしまったのか。なにも分からない。無数の「寄宿舎工女 宮本イサ」や「金壬守 妹 金◆順」がこの国のあらゆる場所に金剛遍照のようにあまねくただよっている。けれどわたしたちはそれを見ない。記憶もしない。死者を送ろうともしない。一輪の花をたむける者もない。「悔恨と激憤」を溜めたわたしは、いつか人間でない奇怪な生物に変化するだろう。

     夢をたずさえてこの国へやってきた外国人技能実習生が3年間で69人も亡くなっていたというニュースに接したとき、わたしのなかで120年の時空がストレートにつながった。郡山紡績についてある大学のゼミの学生が戦後の従業員たちに聞き取り調査をして「郡山紡績に“女工哀史”はなかった」と記したが(住田文「女の街―大和郡山と紡績工場をめぐる人びと―」関西学院大学社会学部 島村恭則ゼミ)、わずか13歳から27歳までの若い女性たちが毎年10人単位で死んでいく過去帳のデータは、まさにこの技能実習生たちの異常な実態と同じだ。150年の明治のこの国の負の記憶から、この国の現在がまさに透けてくる。朝鮮人徴用工問題についても戦前・戦時中にこの国へ強制的に連れてこられたアジアの人々の「悔恨と激憤」の記憶が、過去も現在もどのように扱われてきたか扱われているか、現地を歩いてきたら分かる。「女子挺身隊」と呼ばれた朝鮮人少女たちの遺体が瓦礫に埋もれたまま放置された工場跡はいまは明るいショッピング・センターになり、奈良天理柳本の海軍飛行場にあった朝鮮人慰安婦に関する説明板は「国の意向に合わない」とする市長によって撤去された。人々は口をつぐみ、多くの記録を処分し、墓石を始末し、土地を整地し、供養碑を拒み、記憶を消そうとしてきた。「悔恨と激憤」はもはや、行き場もない。

     かつて作家の辺見庸はソマリアで見た餓死する幼子について「餓死する子供のいる場所を、世界の中心とするならば、もっと思考が戦闘化してもいいのではないか」と記した。わたしはみずからの中心に120年前に郡山紡績工場で死んだ「寄宿舎工女 宮本イサ」を置く。そうして見えてくるものは、この国が明治と称した時代からの百数十年の歴史の実時間の実相だ。無名のまま死んで無縁墓地へ積まれた寄る辺ない「寄宿舎工女 宮本イサ」から見えてくるのは、現在日本の沖縄、フクシマ、マイノリティへの差別、政治腐敗、教育現場の崩壊、だれも責任を取らない「和」の精神、ヌエのような隠蔽体質、天皇制、歴史改変、そういったもろもろの諸相である。明治から150年、この国は過去をいちども清算してこなかった。だから150年前と現在と、本質的にはなにも変わらない。外国人技能実習生が明治の紡績工場の女工たちのように毎年数十人ベースで命を落としていても驚かない。「寄宿舎工女 宮本イサ」もきっと、驚かないだろう。わたしもそうして殺されたのだから、と言うかも知れない。そしてやがてだれもがわたしのことなど忘れていったのだから、と。

     いろいろ思うことはあるけれど、わたしは橋のことを考える。じぶんの橋のこと、そして「寄宿舎工女 宮本イサ」がわたった橋のことを考える。考えながら歩いているうちにふと、じぶんの橋と「寄宿舎工女 宮本イサ」の橋が交差する瞬間がある。わたしは「寄宿舎工女 宮本イサ」の橋を思いがけずにあるいている。これでようやく彼女に会えるとよろこんでいると、やっぱりそれはわたしの橋なのだった。「餓死する子供のいる場所を、世界の中心とするならば、もっと思考が戦闘化してもいいのではないか」と辺見は書いた。しずかな年の暮れに「寄宿舎工女 宮本イサ」の墓のたもとにひっそりとたたずんでこよう。ほかのだれにもきこえぬささやきのようなことばをかのじょとかわそう。わたしは、そんな大晦日がいい。

    2018.12.31

     

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     その町は室町時代より栄えた潮待ちの港を持ち、遊郭が繁盛し、やがて紡績工場も立ち並び、工場から港まで鉄道も敷かれ駅もあった。地元近くに住むS君から、遊郭の女郎たちが産み落とした父なし子たちの子孫が多く住むから、あのあたりはいっとき精神薄弱などの子どもも多く、独特の雰囲気を持っていたという話を聞いた。それらはおそらくいろんな意味で、人間の醜さの鏡のような話だ。けれどもわたしはその一方で、そのように語り継がれる町に不思議な親しみを覚えてやまない。○○駅の南東のあの一画が、とかつて鉄道マニア少年だったというS君が指をさす。

     

     西の港町から帰宅して、風呂につかりながら読んだ今日の大事なことば。ヴェイユはやはり近しいな。

    「キリスト教が地上で受肉することには、絶対に超えられないひとつの障害があります。それは《破門》という言葉の行使です。言葉があるということではありません。今日までそれが行使されてきたという事実です。私が教会の敷居をまたげないのはこのためでもあるのです。(中略) 全体主義的であったローマ帝国が没落して後、アルビ宗派戦争を経て13世紀のヨーロッパにはじめて全体主義体制の下ごしらえを仕上げたものは教会だったのです。この木は多くの実を結びました。そしてこの全体主義体制の原動力というのが、この《破門》という言葉の行使なのです」

    「とにかく新しい宗教が必要だ。変貌して別の姿になったキリスト教か、さもなければ別の新しい宗教が必要なのだ」

    シモーヌ・ヴェイユ「超自然的認識」

    2019.1.3

     

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     娘がまだ小さくて、時給850円のアルバイトで生活をしていた頃、フランチェスコを実際に知っていた人たちが書き残した断片を集めた本の頁を深夜、つれあいと娘がしずかな寝息をたてている隣の部屋でめくるのが幸福だった。ことばは窓から差し込む月の光のように臓腑に沁みた。積み上げた宝の置き場所はこの世ではなく天上だった。わたしは、フランチェスコの云う神の酒で満たされた。「This Joy That I Have,The World Didn't Give It To Me(このわたしの歓びは、この世がわたしに与えてくれなかったもの)」ということばを噛みしめていた。なぜならこの世で唯一のわたしの歓びであるつれあいも娘も、通り過ぎていくこの陽炎のような世界にあって、まさに天上からあらわれたような存在だったからだ。あれから、わたしのこころは貧しくなってしまったのかも知れない。この世にすこしばかり富を積んで満足し始めているのかも知れない。この世の教会へは行かない。川へ下って、つめたい水に足をひたそう。積もり溜まったほこりを払おう。厚い樹皮に耳を押し当てて樹木が地中から水を吸い上げる音を聴こう。ほんとうに必要なものは、わずかなものだけ。

    2019.1.10

     

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     大阪・十三の風俗店に囲まれた繁華街の雑居ビルで、朝鮮人学校の歴史と現状を描いたドキュメンタリー「アイ(子ども)たちの学校(ハッキョ)」を見た。予定よりも早く着きすぎてしまったために昭和の匂いのするアーケードの商店街などを見てまわり、十三公園の寒空の下でジャンパーを着込んだおっちゃんたちの将棋をしばらく観戦して、上演40分前くらいに6Fの「第七藝術劇場」へ上がっていったらすでにたくさんの人だかりで、当日券に並んだわたしの三人前のおばちゃんグループが「ここから立ち見になります」と宣言されたのであった。公園のおっちゃん将棋を一瞬悔み、テロルの如き赤色壁の階段で並んで待ちながら「日本人は立って見るのが逆にふさわしいだろう」と思いなおしたけれど結局、最後のひと席にありつけた。客席のぐるりを囲む通路に立ち見が30〜40人ほど。「もう入れないと言われた」と帰っていった人もいた。上映初日で、監督のトーク・ショーも企画されているからだろう。やがて照明が落とされ、スクリーンに映し出される光景は、日本なのに日本人のわたしたちが見たこともない光景ばかりだ。「4・24(サイサ)阪神教育闘争」、はじめて聞いた。大阪城大手門前の広場で16歳の朝鮮人の少年が警察官の発砲により命を落としたことも知らなかった。国を蹂躙され、家族を引き裂かれ、ことばも文化も奪われ、日本の炭鉱や工場で牛馬のように使われ捨てられてきた朝鮮人たちが「解放」されたのは日本の無条件降伏の日であった。希望に胸を膨らませ公園や墓地や粗末な建物で始められた朝鮮語による子どもたちの学校は、しかし1948年(昭和23年)に早くもGHQと日本政府により閉鎖命令を受ける。子どもたちは校舎から放り出され、学校は鉄条網で囲われた。抗議のために大阪府庁前に3万人もの在日朝鮮人が集まったのが「4・24阪神教育闘争」である。人々に向けて消防隊が放水を行い、警官隊が実弾を発砲し、16歳の金太一(キム・テイル)少年が頭に銃弾を受けて死亡した。この発砲については長いこと「威嚇射撃の数発の流れ弾がたまたま金少年に当たってしまったのだろう」と朝鮮人側も思っていたと上映後のトークで高監督が語っていたが、最近の調査で第8軍司令官アイケルバーガー中将の残した記録にこの日、日本の警官隊が20発の実弾を撃ったと記された報告書が新たに発見された。この国の警官隊は徒手空拳の朝鮮人たちを殺すつもりで撃ったのだ。繰り返すが日本の敗戦からわずか3年に満たない日のことだ。そして現在もこの国は教育制度から朝鮮学校だけを排除し(朝鮮学校は現在でも一条校(通常の課程)としてではなく、自動車教習所などと同じ各種学校としてしか認められていない。ために高校を卒業しても大学受験資格が保証されない)、教育無償化からの除外や補助金の停止といった圧力を各自治体にも迫り、それに乗じた一部の馬鹿どもが「キムチくせえんだよ。日本から出て行け」といったヘイト・スピーチを校門で繰り広げ生徒たちが泣き出すといった事件も起きている。それがこの国。映画の終わり頃で弁護団の一人の日本人が言っていた「過去の過ちに向き合うこと」を、いちどもしてこなかった国。シモーヌ・ヴェイユのいう『根を持つこと』から背を向け、過去を破壊し魂を殺す集団の国。わたしは近所の無縁墓で偶然見つけた「寄宿舎工女・宮本イサ」を中心として世界を見る、と書いた。同時にわたしはおなじように近所の紡績工場の過去帳に記された、大正9年にわずか18歳で亡くなった「朝鮮慶尚南道普州郡普州面」出身の「金●順」もまたこの世界を考える中心に据える。異国からはるばる海を越えてやってきた彼女はなぜ18歳という若さで死ななければならなかったのか。

    「金●順」は30年後の金太一である。そして現在のこの国の朝鮮学校に通い、校舎の中でひっそりとチマチョゴリに着替える女生徒である。映画の中の彼女は演劇部の舞台で警官隊に撃ち殺される金太一を演じる。根を持つ人たちは時を越えてなんどでも甦り、魂はつながっていく。朝鮮学校を出てから苦学して東大に入学した男子学生の言った話が印象的だった。ひとはみんなじぶんの袋を持っている。朝鮮人であるわたしの袋。朝鮮人学校はそのわたしの袋にいいことをいっぱい入れてくれた。日本の社会は入れてくれなかったものを。だから朝鮮人学校はわたしは必要だと思う。チマチョゴリを着て父や母の国のことばや文化を学ぶことがゆるされない子どもたち。靴磨きの仕事場から朝鮮人学校閉鎖の抗議に加わり警官から撃ち殺される子どもたち。異国の地で過酷な労働を強制されて無縁仏となって忘れられていく子どもたち。かれや彼女たちはハンディを背負って苦しんでいるわたし自身の娘の姿にも重なる。だからわたしの胸はぎりぎりと締めつけられる。頭を撃ち抜かれていままさに死にゆくわが子に慟哭する。根を持つものは、つながるのだ。このドキュメンタリーはわたしにその思いを一層つよくさせた。

     

    ◆朝鮮学校年表 https://seesaawiki.jp/mushokamondai/d/%C4%AB%C1%AF%B3%D8%B9%BB%C7%AF%C9%BD

    ◆阪神教育闘争70周年!朝鮮学校の歴史と現状を描くドキュメンタリー映画を制作します
    https://a-port.asahi.com/projects/kochanyu/

    ◆高賛侑監督ブログ http://blog.livedoor.jp/ko_chanyu/

    ◆大阪)朝鮮学校、映画でエール 作家の高賛侑さん撮影中 https://www.asahi.com/articles/ASL4952ZRL49PTIL00Y.html

    ◆在日韓人歴史資料館 http://www.j-koreans.org/index.html

    2019.1.13

     

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     FB友の貞末さんがプロデュースした映画「ゴンドラ」のなかで、不安定な世界に生きる少女は孤独な部屋の中でたびたび音叉を鳴らす。その反響はまるで世界の「純音」を取り戻したいと望む彼女のこころの渇きを埋めるようにひびく。基本周波数の整数倍の周波数成分(倍音)を一切持たない「純音」は、じつは自然界には存在しない音だという。であれば「純音」は彼岸、ほとけの世界の音だろうか。しかし、狂った弦を整えるために音叉を鳴らすように、人は狂った世界にあって「純音」をもとめる。これは以前にも書いたことだけれど、安藤さんの作品展で垂直に屹立するいくつもの作品群を見たときに、わたしは巨大な音叉の群れがこの世界に「純音」を鳴り響かせているのだと思ったのだった。「純音」は目には見えない。しかしその見えない音は未来や過去に反響し、あるいは宇宙の果てに電波を飛ばして未知の生命体とこの惑星の行く末について語り合っているのかも知れない。だからのどかな小春日和の休日につれあいと山の辺の道をあるき下って天理商店街の Art-Space TARN で「安藤榮作・長谷川浩子 二人展」を覗いたときにも、わたしは「空気の狭間」と題したあの映画「2001年宇宙の旅」で猿人が首をひねって対峙するモノリスのような作品の前に長居した。わたしは言語を持たない猿人のようにあらゆる角度からそれを凝視する。そして今回見えてきたのは、かつて樹木であった材の刻まれた薄さであり、木屑として削ぎ落とされた消失した存在であった。「手」が母の胎内で形成される際に指と指の間の細胞が自死することによって「手」があらわれる。そんなことを思い出した。「自死」したものは「雑音」だろうか。ひとの世は所詮、さまざまな煩悩に染まったノイズで成り立っている。作家のふりおろした手斧によって刻まれ弾け飛んだそれら木端がわれわれの日常なのだ。細胞の自死によって「手」が形成されるように、われわれの日常を削り飛ばしたあとに出現したものがこの「空気の狭間」であり、「純音」を発する音叉だ。それはわたしたちに聴こえない音を聴かせ、見えない風景を見せてくれる。

    2019.1.17

     

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     治療中の患者が黄金虫の夢の話をしているときに窓からまさにその黄金虫が入ってきたというユングの話は有名でかれはそれを共時性(synchronicity)と呼んだわけだけれど、そのような奇妙な偶然の一致というのはわたしたちの身近に案外とあるもので、じつはもっとあたりまえにあるのをわたしたちが気づかないだけなのかも知れないと、ときに思ったりする。古代人が交わしていた夢の通信手段をわたしたちが失って久しい。マナスルのブラスストーブ(加圧式液体燃料ストーブ)を奇妙な縁からある人より頂いて試しにあれこれといじっている頃に、積読のまましばらく置いていた本の続きをまた読み始めたら次の章が「火を持ち歩くということ」と題したブラスストーブがメインの話だった(服部文祥「百年前の山を旅する」)。著者は冬の南アルプスの山小屋で棄てられていたブラスストーブを持ち帰ったのが出会いだったが、わたしは思いがけずじぶんの前に出現したこの真鍮の光り輝く聖食器のようなストーブの歴史をはからずもその本で知ることとなった。ブラスストーブがヨーロッパで発明されたのは1892年(明治25年)、日清戦争が始まる2年前のこと。その翌年にナンセンがこのブラスストーブを携えて極北探検に向かった。以降、アムンセン(「南極点制服」)、スコット(「世界最悪の旅」)、シャクルトン(「エンデュアランス号漂流記」)といった名だたる探検家の記録の片隅にこのブラスストーブは登場する。ブラスストーブ以前に「持ち歩く」ことができた火は植物油や鯨油(前出のシャクルトンたちはアザラシの脂も利用した)、アルコール・ストーブなどがあったが、いずれも灯心によって燃料を吸い上げて燃やす構造で、熱効率が悪く不完全燃焼により盛大に煤が発生した。ブラスストーブが革新的だったのは「バーナーヘッドを加熱し、タンクに空気を送り込んで圧力をかけることで、気化した灯油を勢いよく噴出させて燃焼させるシステム」で、「エネルギー効率も良く、限りなく完全燃焼に近い状態で、強い炎を出すことができた」。しかも圧力と予熱というシンプルな構造で成り立っているため、現在の主流のストーブやコンロのようなゴムパッキンや圧力を制御する針や針穴といった精密部品がなく、本体に穴でも開かない限り「ここが壊れたらおしまいというボトルネックがない」。著者の服部は「サルベージ」したそのブラスストーブを鹿島槍ヶ岳の北壁登攀に携行してじっさいに火を燃やしながら人間と道具について考えをめぐらすが、その章の中でわたしがとりわけて興味深かったのは「シロクマ、アザラシの脂を燃料に、肉を食料にしながら探検行や脱出行をつづける」かつての探検家たちが目の当たりにしただろう体験に思いを馳せて「殺す側と殺される側」について考え、記した部分だ。「彼らは、動物たちを見下してもいなければあがめてもいない。ただ同じ地平で共に必死に生きる生き物として扱っていた。時に殺し、自分たちの食料にするが、自分がミスすれば人も彼らの食料になる」 「撃ち殺される瞬間だけを見れば残酷だが、狩猟は鹿の“鹿性”を踏みにじる行為ではない、というのが狩りをとおして私が感じてきたことだった。狩猟は一方的な殺戮ではなく、鹿はその存在に狩られる可能性を含んで、かつしたたかに生きている。 狩られる可能性を含めて、鹿が自分の生き方(鹿性)を肯定しているとしよう。ならば人の人間性はどうなのだろう」  ―――週末、ジップとブラスストーブを連れて家からほど近い矢田丘陵の山道をのぼった。夕飯の支度があるから昼食を調理して、食後のコーヒーを愉しむだけの低山散歩だ。道からすこしばかり谷間へ引っ込んだやや粘土質の棚地に荷物をおろした。小さな源流もながれている。組み上げて地面に置いたブラスストーブのヘッドの受け皿部分にアルコールを注いで火をつける。予熱が済んでぶすぶすと火が途切れそうな頃に調整弁を閉めておく。気化した灯油に火が移り、落ち着いた頃にポンプを押して圧力を高めてやる。その間、わたしは炎に目を凝らし、燃焼する音に耳を澄ませ、ポンピングのタイミングを推し量る。やがて炎が落ち着いてきて、その上に鍋をかける。近江の平田町でもらったクズ米、切り刻んで塩・胡椒をしておいた鶏のささみ、人参、白菜、玉葱、出汁の元を少々。気がつけば、来た頃はどこかよそよそしかった斜面や木立や落ち葉に埋もれた地面などが、まるでじぶんの庭のように親しく感じられる。幾種類かの鳥の声、風が抜けて枝と枝がこすれあう音、かさこそと何かが地面をつつましく移動していく音。そして目には見えないもの、耳に聞こえない音。一方の端にふれたら、他の端がゆらぐような気配。時間。ブラスストーブの清廉な青い炎と気化した灯油が燃焼する心地よい響き。それらにかこまれてわたしは、じぶんがとりもどしたいいのちについて、とりもどしたい世界について考える。

    ◆ブラスストーブ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AA%E3%83%A0%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%96

    2019.1.20

     

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     骨まで凍る日曜の午前。おれは早朝から大阪市内の路上に立っていた。この国はもう出鱈目の域に達しているからな。テロリストのおれがこうして路上に立つことがいまだ許されているわけだ。いつか間抜けなやつらの寝首をかいてやるよ。やがてこの国の忠実な犬たちによって交通規制が始まり、車の波が消えたみょうにのっぺらとしたアスファルトの上をランナーたちが疾走してくる。先頭グループの躍動的なフォルムはそれは美しいものだ。頭よりも信じていいのは肉体だよ。餓えるのも爆弾で吹き飛ばされるのも尊厳を奪われるのも頭よりも肉体なんだ。ほんとうの寒さは足の底からはいあがってくる。そのときだ。ライライライライ! いいよいいよいいよ! 前が見えてる前が見えてる! まだまだいける! ジャンパーにジーパン、赤い毛糸の帽子をかぶった小太りの男が規制用テープから身を乗り出して叫ぶ。そばの植栽の壇に男の肩掛けカバンと缶チューハイのロング缶。ときおりそいつをすすり、別の銀色の袋からなにかをつまんで口に放り入れて、男はランナーが走るたびに対面のビルの高層階まで届くほどの声で叫ぶ。ライライライライ! まだダイジョウブ! まだダイジョウブ! 右肩がすこし下がっているな。右肩をもうすこしあげていこうか。手のひらはピンポン玉をかるく握るくらいがいい。そうそうそう! まだまだいける! がんばっていこう! 類は友を呼ぶじゃないが一人のじいさんが乗ってきたがらくたのような自転車をそばに停めてこの男と話し出す。男の会話は国会のように一方通行だ。おれさあ、いまはこんなに太くなってるけどじつは短距離選手だったんだよね。おれ、あの娘たちがむかしから好きで好きでたまらないんだ。だからこうして応援に来るんだよ。なんていうか、これはおれのけじめみたいなもんなんだ。じいさんがなにか返事をしかけるが、男はもう走ってきたランナーに前傾姿勢で叫んでいる。ライライライライ! まだダイジョウブ! まだダイジョウブ! いつもの調子でいこー 前は見えてる前は見えてる! まだいけるぞー ライライライライ! 男は二本目の缶チューハイをすすると、歩道の際のマンションの角に立小便をし始めた。折りしもタイミング悪く自転車で帰ってきたそのマンションの住民に「おまえ、迷惑だろ。こんなところで」と怒鳴られるのが可笑しい。飛び上がり、チャックをしめながら男は「すみません! 掃除します!」と叱られた中学生のような声をあげるが、住民がマンションの中へ消えていくのを確認して舌打ちし、場所を5メートルだけ移動してふたたび、ライライライライ! まだダイジョウブ! まだダイジョウブ! を叫び続ける。男のカバンの横に潰れて置かれていたチューハイの缶が風で飛ばされてコース上にころがっていったのを、スタッフがあわてて拾う。わたしは男に軽く注意をする。この菓子の袋もカバンの中にしまってくれと。そのときにわたしは見たのだ。男の深緑のカバンの中に沖浦先生と三国連太郎が対談した「芸能と差別」の文庫本が背表紙を上にして収まっているのを。世界とはまあ、そういうもんだ。驚きに満ちている。ほんとうの敵は意外なところにいておれの寝首をかこうとしているんだ。ほんとうの味方もじつはそんな敵陣にまぎれているのかも知れない。ライライライライ! まだダイジョウブ! まだダイジョウブ! その調子で走っていこー! ライライライライ! 

    2019.1.28

     

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     フィリピンに行きたいな。24時間無料開放のバクララン教会の石のように冷たく硬い木のベンチの上でまんじりともしない夜を過ごし、玉子揚げ売りのおばちゃんの露店まわりを掃除してわずかな食事をご馳走になってからおばちゃんが呉れたビニールのパイプベッドに身を横たえたら、すこしは世界というものが見えてくるかも知れない。レニー・トリスターノ(Lennie Tristano)が古いタイプライターを叩くように弾くピアノはまるで会津のさざえ堂のようにまるで友川かずきの歌のように螺旋にこの世からあの世へと駆けのぼる。過去を持たないこの国がナウシカの巨神兵のように棄てられた赤ん坊のようにどろどろに溶けながら崩れ落ちながら背中向きに未来へすすんでいくよ。「うそをつくんじゃない。でっちあげるんじゃない。きみらは苦しみと狂気がからまりあって、うなり声をあげてのたうちまわるさまをみなかったのか」  築きあげたなにか美しいものが崩れおちていくわけじゃない。じめんの下に埋めて土をかけて素知らぬふりをしてきた足元が溶解して底なし沼のように沈んでいくのだ呑み込んでいくおれたちみんなを。きれいな青い芝生の広場だったと思っていたが、じつは無数の天に昇れぬ腐乱死体が醗酵する酷(ひどい、むごい、ようしゃない)のようにぷすぷすと悪臭を放つガスをたぎらせている。小金を貯めてこの国を脱出しよう。70ジジイのおれの腰を若くてやさしいフィリピン娘が揉んでくれる。金の切れ目が縁の切れ目だが、そんときゃ露店のおばちゃんが残飯をめぐんでくれるのさ。イエスさま、おれに欠けていたものはいったい何で、やつらはおれに何を望んでいたのだろう。レニー・トリスターノはバッハのようだなかれはあたらしい世界の平均律を響かせたかったのかも知れない。腐り果てた土壌は棄てて、あたらしい地平で鳴り響く音半年振りに昇る極北の太陽のような音。そんな音楽を聴きたくはないか。

    2019.2.5

     

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     このごろ死について意識するようになった。じぶんの父親が思いがけぬ事故とはいえ死んだ歳におのれもなったのだ。死は浪の上にたわむれる光のきらめきのようなものだろうか。あるいは葉のかたちをそのままたもった枯葉が敷きつめられた地面のそちこちにとどまる風のなごりのようなものだろうか。思えば塩屋の町のあちこちからひとり海を見ていたのだった。降り立ったJRの駅のホームから。源平合戦のつわものたちを悼む苔むした五輪塔がひっそりとねむる丘の裏山の山道から。猫とかくれんぼうをした高台の塩屋若宮神社の境内から。昼めし代わりに駅前で買ったコロッケをほおばった肌寒い漁港から。そして旧グッゲンハイム邸の二階のサンルームのようなだれもいないベランダから。ベランダのまんなかあたりに置いてあったアンティーク風の椅子に腰をおろして海を眺めていると、公演前の練習にはげむ井波さんのピアノの音が階下から漏れつたってくる。そのかすかなピアノの音を聴きながら五連のアーチ窓のむこうにひろがるおだやかな海を眺めながらわたしはうつらうつらとしてしまう。駅をおりて、ちいさな迷路のような路地の商店街をぬけて「右毘沙門」の道標を横目に急な坂道をのぼっていくとやがて丘のうえに戦災孤児の施設としてはじまったという「神戸少年の町」の古びた施設があらわれ、その芝生のグラウンドの裏手の山道をのぼっておりていくと苔むした供養塔がちらばったちいさな空間が藪のなかにひらけていた。だれもいないひみつのひだまりのような、しずかでとてもいい場所。わたしはそこでしばらく、きざまれた文字すらとっくにかすれて形自体もちいさくすりへったような石くれたちといっしょにたたずんだ。施設のグランドから子どもたちの「はないちもんめ」の歌が聴こえてくる。勝ってうれしいはないちもんめ負けてくやしいはないちもんめあの子がほしいあの子じゃわからん。はないちもんめはかなしい人買いの歌だろうか。旧グッゲンハイム邸の二階のベランダでうつらうつらとしながら、階下から聴こえてくるピアノはひだまりのなかにたたずむそんな石くれたちの間できらきらとはじける光のように思うのだった。歌は光だろうか。無限の深みをたたえた海は死でその死の水面をきらきらととびはねる光のかけらが歌だろうか。やがてコンサートがはじまる。旧グッゲンハイム邸の一階のピアノの置かれた部屋で、さいしょの歌が何という曲なのか知らないが、光は数百年も前に死んだつわものどもの墓標をすべりおち、堆積した落ち葉のもう光合成をすることのない葉脈をつたい、かわいた土の上をころころところがる。わたしは五輪塔の立つひとけのない陽だまりの草むらにたたずんでそれをみつめていた。熊澤さんのヴァイオリンとおなじように井波さんの歌もながれていくのだ。光がしずかにたわむれる場所を。最前席で曲がはじまると決まって目をつむっている男性がいた。目をつむると見えてくるもの。目をつむるとはこの世とあの世のあわいに目をこらすことではないか。五輪塔の裏山の山道をしばらくすすむと木陰のあいだからのっぺらとした浄土のような海が見える棚地があってそこにだれかが置いたのか古いパイプ椅子が樹の根元にぽつねんとあったのでわたしはそれにすわって海を眺めた。ながれて立ち止まることがない。ながれつづけていく、そんな場所に存る歌。光のように風のように枯れ草のように石くれのようにヴァイオリンもピアノもうたも山川草木悉皆成仏が骨に沁みる。

    ◆井波陽子 Website http://cuorelife.net/

    2019.2.17

     

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     わずか数百キロ先の東の舞台で昭和11年、二・二六事件前夜の歴史が遡行しているのだが辿り着けそうにない。それでわたしはアントン・ウェーベルンのオーケストラのための六つの小品なぞを聴きながらすばる3月号に掲載された中国の堀田善衛をなんどもめくっている。わずか6頁ほどの文章なのにわたしはそこにも辿り着けそうにない。「今日あらゆるものが私には或る精神の死を物語る。新しい或は二番煎じか三番煎じのような言葉や、その言葉のもたらす未だ不明瞭な観念と、その現実化に多く接すれば接するほど、ここで或る一つの精神が死んでゆくのだということが明らかになるばかりである」と冒頭に作家は記す。それだけでわたしの日常は重たい錆だらけの楔を穿たれたように顫える。作家はまた「我等の精神の中に重く横っている死者を風化し、これをみのり多かるべき精神の土壌と為し得る残酷な風の吹き来たる日」を熱望する。死者を風化する残酷な風とは、なんだろう? かれはつづけて「人間は生きているものよりも寧ろ死んだものから成り立っている」という実証主義者コントの言葉をひく。さらにこうも記すのだ。「人はつねに「意味」のある世界に住みたがるものである。戦時ならば戦時らしい意味のある世界、ともあれ意味のある世界に住み日々の生活を基礎づけてほしいのであるが、文学を業とする者は、一切が意味を失って了う世界の瀬戸際までもって行ってみてしかも尚その意味が意味として存在し得るかどうかを試さなければならぬ」  「戦時ならば戦時らしい意味のある世界」 そう、いまはまさに戦時といえるかも知れない。女たちの陰部に竹やりを屹立させ、刎ねた男たちの首を高々と掲げることが意味となり得る世界だ。「一切が意味を失って了う世界の瀬戸際」を凝視している。風がふいている。風立ちぬ いざ生きめやも・・・  詩人ポオル・ヴァレリーがそう歌ったのは海辺の墓地であった。そのとき、まさに死者たちは生者を凌駕している、「しかし 大理石でずしりと重たい夜のなかで 樹木の根に住まうぼんやりとした人々は すでにゆっくりしずかに汝に与する者たちとなっている」・・・  死者を風化する残酷な風とは、なんだろう?  

    「死者たちは隠されて まさにこの地の中に在る 彼らを再び熱し、彼らの神秘を干すこの地の中に」・・・
      無数のカブトガニの死骸をがつがつと踏みつけてあるくように、わたしはきっと現在のこの歴史の実時間のなかを寄る辺なくさまよっている。生きてあるように思えるものはみんな死だ。わたしたちは死者の中からもういちど蘇えらなければならないとわたしはかんがえる。わたしたち自身が縊り、引き裂き、投げ捨てた死者たちのうらめしい、どろどろととけてつぶやきつづけている、おそろしいほどの湿気のあいだからわたしはもういちど生まれてこなければならない。1946年の中国の堀田善衛はわたしにそんなあれこれを考えさせる。わたしはわたしを峻別するものが欲しい。たしかに風が立つのを感じられるように。 「閉じられ、聖別され、非物質の火に充たされた、 地上の断片 光に供された、 この場所は私の意に適う、おびただしい燭光に圧倒され、黄金と石と暗い樹木で構成された場所、 たくさんの大理石がたくさんの影の上で震えている; 忠実な海がそこに眠っている 私の墓標たちの上で!」

    2019.3.1

     

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     今日はちょっと、うれしい日だ。近所の誓得寺がまとめた郡山紡績工場関係の過去帳のなかで、大正9年1月に亡くなった18歳の朝鮮人少女。「金 ●順」の名前の一文字がなかなか判別できなかったのだが、思い切ってFacebook友だちの魯 炳浩(ノ ビョンホ)さんにじっさいの過去帳の画像を見て頂き、(おそらく)「金 占順」、ハングルでは김점순、キム ジョンスン(Kim Jeom Sun)だろう、という返答を頂いた。「占順(점순)」という名前はかつてはよくあった女性の名前だそうだが、現代の韓国では「あまり良いニュアンスの名前ではない」そうだ。試みにWebで検索をしてみたら、韓国ドラマ「직장의 신」(オフィスの女王)のなかでこの「점순」という名前をからかう場面があったがなぜか? なぞというヤフー智恵袋の質問を見つけた。過去帳には他に「全 壬守 妹」という但し書きがあるが、「全」は「金」の明らかな間違いで、「金 壬守」は김주수、キム ジュス(Kim Ju Su)と読む男性の名前だそうだ。「金 壬守」もおなじ郡山紡績で働いていたのだろうか。かれが悲しい妹の骨を抱えて古里へ帰ったのだろうか。住所は「朝鮮慶尚南道普州郡普州面」。現在の普州市と思われるが、魯 炳浩さんによると「普州面」につづく「●●里」という住所があるはずだそうで、普州市普州面をグーグル・マップで見るとかなり広大なエリアで、これだけの住所と名前だけでは現地を訪ねて探すのも広い砂浜でイアリングひとつを見つけるくらいきっと難しいことだろう。

     しばらく前、関東に住むやはりFB友だちである彫刻家の含さんが与謝野晶子の「私の生い立ち」という回想録の中に「明治11年堺生まれの彼女が「紀州のおふかさん」という7頁の章で大石誠之助の令嬢のことを書いている」と教えてくれて、さっそく図書館でその岩波文庫を見つけてきたのだが、そのなかの「堺の市街」という晶子が幼い頃の町の風景を思い出しながら記したこれも数ページの章のなかに、いつかわたしが南海電車の堺駅近くの団地の一角で案内板を見つけた紡績工場のことも出てきた。それはこんな数行だ。 「停車場の横に泉州紡績の工場があります。赤煉瓦塀の上に地獄のような硝子かけを立てた厭な所です。夕方と朝に髪へ綿くずを附けた哀れな工女が街々から通って行く所は其処なのです」 ちなみに大石誠之助の「太平洋食堂」を芝居にした脚本家の嶽本さんによれば、大逆事件で誠之助と連座した新宮の僧・高木顕明の日誌に西村伊作が描いた与謝野晶子の似顔絵があることなどから彼女は大石誠之助の招きで新宮を訪ねた可能性が高いのだけれど、公式には大逆事件以前に晶子は新宮を訪問したことはないということになっていて夫の鉄幹もそう断言している、おそらく事件の影響を避けるためだったのだろうということだ。「私の生い立ち」には少女時代に晶子が新宮に来て、牧師の沖野岩三郎宅に泊まって誠之助の娘のふさと交流したことなどが描かれている。

     ところで誓得寺の過去帳には全員で96人の名前があり、そのうち住所(出身地)の記載があるのはわずか24人だけで、そのなかでいちばん多いのは長崎県の南高来郡、いまでいう島原半島のあたりである。今日は昼間、国会図書館のデジタル・データなどをあれこれ漁っていて、福岡地方職業紹介事務局による昭和3年発行の「出稼女工に関する調査」なる資料を見つけたのだが、やはりこの地方はむかしから出稼女工の「優良なる供給地」であったことが記されている。一部を引く。「是は帰村当時病体であるというのは少ないが、帰郷半ヶ年或は一年間の中に発病するというのは可なりある様であった。統計的に調査することは出来なかったが其の地の医師の言う所を総合すると病名は呼吸器、消化器病が多い、次に花柳病に懸かって居るのが少なくない。一般に医師に診察を乞う事をせず自宅で姑息療法を施して居る状態で花柳病罹病者の如きはもっと多数にあると思われると称して居た。其外医師の言葉として病気に罹って居るのを知りつつ解職帰郷せしめるという工場側の態度と、僅か尋常小学を終えるか終えない少女を工場に入れて毎月送金を手にして生活して居る父兄を無理解なものであるとして非難して居る向きが多かった。尚父兄を訪問して話を聞いた中に次ぎの様なのがあった。「今より四ヵ年程前、娘が15才の春近所の15、6人の娘と共に、大阪地方某紡績会社募集人に募集されて(募集人は土着者にして其家より約十町を距る箇所にあり)上阪し、二ヵ年半其工場に従業し、其間毎月欠かさず17,8円の送金をなし、其の時同時に上阪した者の中で一番成績が良く(工場を休まない事、着物を着ない事、買食いをしない事が成績の良い事の説明で中には情夫が出来て子供を流産したという様な話もあった)他家から羨れていた。帰村後一ヶ月を経て身体がだるいと称していたが其儘数月を経て医師の診察を受けた所肋膜という事で非常に心配した。後に腹膜となって帰郷後一年ぶらぶらして19才を一期に死去した。其の間に費消した金額は紡績会社で得た賃金の約三倍を要した」というのである。そこで一般病気帰郷という事には時間の許す限り可なり具体的に聞いて見た。結果は若年の女で多方面に出稼して病気となり帰村して居るもの例えば旅館料理家女中、女給等に従事中罹病したもの等も多数にあって、特に女工出稼者が多い様にも思われなかった」(五、女工出稼が供給地に及ぼす影響>病気帰)  古里の地で死ねた者はまだいくらかはましであったということか。見えぬ死者の分、過去帳はさらに重みを増したようだ。

     明治から大正、昭和初期にかけて長崎の島原半島から出稼ぎに来て死んだ哀れな女工たちが供養されたのが誓得寺であったら、誓得寺の西を流れるかつての外堀をはさんだほぼ対面にあるのが良玄禅寺(かつての雲幻寺)で、本多忠勝の孫・正勝の菩提寺であったこの寺に大和郡山藩に流配された長崎の浦上キリシタンたち76名がしばらく収容されたのが1870年(明治2年)暮れのことであった。そんなことも、何やら時間をへだてた偶然のからまりのようにも思える。この島原半島から来て遠い大和郡山の地で亡くなった女工たちは、わたしの手元の過去帳写しでは13歳から26歳に至る少女ばかりだ。その8人は小字までの住所、名前、死亡日、戒名などが分かっている(過去帳のなかには戒名だけで、名前も年齢も死亡日すら分からない者も多数いる)。 当時の住所なので、現在の市町村から名称が変わったところもあるが、調べれば何とか地図上に洗い出せる。この島原半島にしぼって能う限りマッピングをして資料をつくり、いつか彼女たちの古里をじぶんの足で巡ってみたいと考えている。郡山で死んだ彼女たちが最後に見たかっただろう故郷の風景を彼女たちの目に代わって見て歩く。そのことによってわたしも、百年前に死んだ彼女たちの無念の思いをわが身に肉化したい。そんな旅をしてみたい。なぜなら、百年まえから現在に至るまで、この国の根本はなにひとつ変わっていないからだ。百年前に死んだ女工たちの目でわたしが見るこの国の風景はけっして百年前の風景ではない。わたしはそのことを確信している。

     もちろん、いつか韓国の普州市も訪ねて「金 占順(김점순)」の古里を探し求めたい。そのためにはもっと下調べもして、韓国のことも勉強する必要があるだろう。けれどこれまで「金 ●順」としか書きようがなかったが、ようやっとキム ジョンスン(Kim Jeom Sun)と声に出してその名前を読んであげることができる。「金 占順(김점순)」と正しい名前を書くこともできる。そのことがひどくうれしい、今日という一日。

    2019.3.3

     

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     「歴史」というものをわたしたちは「知っている」つもりでいる。たとえば本能寺で明智光秀によって討たれた織田信長はこんな性格だったとか、ハルビン駅で伊藤博文を射殺した安 重根(안중근)はこんな思想をもっていたとか。それは教科書や書物にそんなふうに書いてあるからだ。でももうひとつ、人々のこころのなかに生きて、つたえられていく「生(なま)の歴史」というものもある。五條市の梁瀬義亮(やなせ・ぎりょう)記念資料室を訪ねたのは先週の水曜日のことだ。水曜と金曜だけが開館日で、休みを工面するタイミングを計っていた。古びた商業施設の屋上に車を置いて、JR五条駅から南下する交差点を川沿いにあるいて下った。梁瀬義亮が晩年、有機農業と安全な食の普及のために創立した財団法人「慈光会」の自然食品の店に声をかけると、資料室の鍵をもって案内してくれたのが義亮氏の息子さんの奥さんである。わたしは、島村外賢(清吉)さんのことを調べていまして、と訪問の理由を伝えた。ネットであれこれと検索していて、この梁瀬義亮が講演の中で島村外賢のことを「法然上人や道元禅師と並ぶわが恩師」と語っているのを見つけたのだ。小さな町医者の診療室程度の広さの展示室(じっさいに「昭和の華岡青洲」と後に有吉佐和子に称された当人の診療室が片隅に再現されている)には、すべてが忘却の彼方に沈んでいる大和郡山と違って「島村先生」の名前が貴重な鉱石のようにあちこちに散らばり輝いていた。黄ばんだノートの中の「島村先生遺訓 真宗要約」、「島村外賢先生追悼法話」の礼状葉書、そして法話からテープ起こしをされた冊子に記された思い出話など。梁瀬義亮は1920(大正9)年、浄土真宗本派寶満寺(奈良県宇智郡五條町)の住職・梁瀬齊聖(さいしょう)の三男として生まれた。この父の齊聖が「島村先生」に仏教のおしえを乞い、生涯恩師と仰いだのであった。1991(平成3)年の義亮の「仏教会講話禄」にその出会いが語られている。少々長いが一部を引く。

     

     そんなわけで、非常に欠点がよくわかるから、人が信じられないのです。確かに悪い癖だと、私も思った事がある。どの偉い先生の噂をしても「あれか。うん、大したことはない」とすぐに言うのです。同じように学んでいたので、当時の偉い学者を大勢知っているのです。私もその偉い先生方の教えを受けて、それで帰って父にその先生の話をすると「うん、あれか、あれは大した事ない」ちすぐに言う。父を尊敬はしておったけれど、反面「なんと冷たい人だな、あの人は」と思った事がある。人を褒めて「そうか」と言った事がない。だから、どうも信心が上手くいかなかったようです。人を信じることが出来なかったのです。

     それでも、親鸞聖人は信じようと一生懸命になるけれども、何やら信じられない。やはりお言葉しか残ってなくて、直にお目にかかれない。そうすると、何か言葉の欠点が見えて来るというのです。と云うのは、父が勉強していたのは真宗学です。真宗学というのは、徳川時代からずっと来て、私がいつも言いますが、明治以来ずいぶん変形したのです。人間が変形したから、その欠点が見えるのです。だから、そうも信じられないと、非常に悩んでおったのです。

     それが、島村先生が五條の桜井寺さんに講演に来たのです。例によって私の父は「そんな、大したことない」と思って行ったのです。そしてその講演を聞いて、後で島村先生にお目にかかって話をして、それ以来一生、島村先生のことは菩薩の化身として疑わなかったのです。

     その時の話は面白いのです。ちょっと申しますと、「ワシはともかく、問答して負けた事がないのだ」というのが自慢だったのです。先生の講演を聞いてから「後から出会って、講演の話は皆にする話だから、ひとつ立ち込んだ話をして、あの人をいっぺん、問答でやっつけてやろう」と思って行ったらしいです。そしてちょっとやりかかると、もう話にならない。レベルが違うのだそうです。これは偉い人だなあと思ったけど、それでもまだ負けん気を出しておった。そしたら島村先生が「貴方は、なかなか偉いお方だけれど、一体どういう態度で仏法のご勉強をしているのですか?」と言うので「私は、やはり仏教者として偉くなろうと思ってやっています」というと、「そこですよ、仏法は偉くなろうと思ってやったのでは、絶対に分かりません。仏法は信者になるためにしなければいけないので、学者になろうと思ってやったら、絶対に分からないのですよ。お分かりでしょうか」と、こう言われた。

     その時にハッと自分に応えて、思わずひれ伏した。その時の先生のお顔は、あまりに、やっつけるのではなく慈悲に満ちていて、そのお姿を見て、もう思わずひれ伏した。「先生、申し訳ありませんでした。ワシこれからもう一度、仏法のやり直しをさせて頂きます。今まで愚かな事をして、おごった事をして、何とも申し訳ありませんでした」と言って謝ったそうです。そうして謝っても、先生は何も言われない。あまりに長いこと頭を下げていても、先生は何もおっしゃらないから、ちょっと頭をあげたそうです。そしたら先生は合掌して、ぽろぽろ涙を流してうちの父のことを拝んでおられたそうです。そして「新発意の菩薩が、大願を起こした姿でございます、ほんとうに有り難い事です」と言ったそうです。

     それ以来先生は、毎年一回夏休みに、父を郡山までお呼びになるのです。そして行ったら、たくさんの本が積んであって、全部に栞が入れてあるのだそうです。そして父を上座に据えて、先生は下座に座って、そして、教えないのだそうです。「これはどういうご意見でございますか?」と言って、父がそれについて言うと「私はこう思うのですけれど」と先生がおっしゃる。「あ、なるほど。それは先生のおっしゃる通りです」と言ったら、「いや、ご賛同頂きまして有り難うございます」と言って次の本を出す。「たくさんの本が積んであって、そりゃもう、冷や汗の出づめだった」と言っていました(笑)。その後ご馳走して、人力車でわざわざ郡山の駅まで送り届けてくれたそうです。それで「そんなにして頂かなくても、こちらから出かけて参ります。もうしないで下さい」と頼んでも、必ずきちんと呼ばれるのだそうです。それは立派な学者でした。

     あれほど信じる事の出来なかった人が、直にお目にかかったら、いっぺんにそれほど信じられた。我々には、全く仏法と違う近代思想、人間が最高であって仏陀なんて人間と変わりがないのだ、生命なんて死んだらお終いだ、自他断絶だ、エゴを主張するのは当たり前なのだと云うような思想、これが叩き込まれてあるのです。だから信じられないのです。

    (梁瀬義亮先生 第439回 仏教会講話禄 1991年8月11日 「父と島村先生との出会い」)

     

     島村清吉が大和郡山で死去したのは1926(大正15)年、梁瀬義亮はまだ6歳であった。のちに京都大学で医学を学び、フィリピン戦線に軍医として出征し九死に一生を得て帰国する。復員後、県立尼崎病院に勤務するも一帯の粉塵公害により呼吸器系統を患い、郷里の五條に戻って開業し(その間一時、大和高田の紡績工場の医務室に勤務している!)、それから森永砒素ミルク中毒をいち早く告発、医者としての仕事を続けながら農薬の害を訴え、有機農業や食育の活動を広めていく。その義亮が大和高田の善正寺に於いて「第1回島村外賢先生追悼法要」を始めたのは1963(昭和38)年、「島村先生」が亡くなってすでに37年後のことである。この「島村外賢先生追悼法要」は以降、1987(昭和61)年まで毎年二回行われた。白木がふんだんに使われた居心地のいい資料室にわたしは一人っきりで長居した。収穫は予想以上だった。そして義亮の生家であり、父の梁瀬齊聖が住職をしていた寶満寺をおしえられて訪ねてみることにした。梁瀬義亮の資料はすべてこの資料室に移動しているが、「島村先生」とじっさいに親しかった父・齊聖の遺品などは、もしあるとしたらその寶満寺だろうというのだった。寶満寺はかつての五條の中心であったろう紀州街道沿いの古い町屋の並ぶ新町の真ん中あたりにある。雨が降ってきたので車で移動した。車がやっとの曲がりくねったせまいむかしの路地だ。洒落た太鼓楼の建つ寺の前では、水路が弧をえがいて小さな橋がかかっている。この場所を島村清吉も訪ねたことだろう。寺は留守のようで、裏手の墓地にまわってみた。入口近くに「陸軍歩兵大尉 梁瀬義諦墓」が建っていた。昭和14年、中国大陸で戦死。36歳。あとで訊いたら梁瀬齊聖の長男、義亮に「戦地に来るなら医者の資格を持って来い」と助言したという兄の墓であった。そんなものを眺めているうちに車の音がして、お寺の人が帰ってきたようだった。さっきはなかった軽自動車が車庫に止まっている。あらためて呼び鈴を押すと、どうぞ、おはいりください、と返事をして迎えてくれたのが坊守の75歳になる尼僧さんであった。義亮氏を「おじさん」と呼んでいたから従妹になるのだろう。夫君が幼くして両親を失くして老僧(梁瀬齊聖)の弟子となって後を継いだ。その夫君も数年前に亡くなって、もともと僧侶の資格を持っていた彼女がいまは坊守として寺を守っているらしい。どこか気品のある、やさしい目をした尼僧であった。そして「島村先生」とこちらが言ったとたんに、その人の口から島村清吉の詠んだ句がすらすらと飛び出してきたのに驚いた。この尼僧も、夫君も、義亮氏とおなじようにじっさいの島村清吉に会ったことはないのだ。老僧である梁瀬齊聖の思いを継いでいるにすぎない。それにしてはかれらのなかにすでに百年近く前に死んだ「島村先生」はいまだ清々と生きている。そういえば、と尼僧が奥から一冊の本を持ってきてくれた。「島村自責居士語録集」と題された非売品で526頁、1975(昭和50)年に「在世中を知る遺弟達」によって出版された。わたしが古書で入手した郡山中学による追悼冊子に、講演録などを追加したものである。亡くなった夫君(前住職)がはさんだままというボールペンもそのままで、その頁には「先生最後の御病気の時、宝満寺様等と一しょに御見舞申し上げました。御病気の話は全然なく信仰のお話でした。宝満寺様にお向ひなされ、“高祖が七高祖をお択びになった標準は何ですか”。宝満寺様御返事なし。先生は、“宗乗学者は申して居りません。島村一家言として聞いて下さい、之は本願念仏を中心としてお択びになったのです”。」という件が記されている。前住職は法話の際などにしばしばこの本を捲ってメモを取り、それを元に檀家の人たちに話をしていたという。また老僧から聞いたと言うこんな話もしてくれた。「島村先生」が亡くなるしばらく前に老僧が郡山の自宅を訪ねたところ、奥さんが出て「今日は具合が悪くて臥せっている」と言う。それではまた出直しますと帰ろうとしかけたところ、奥から「島村先生」が呼び、入ると「あなたは明日も変わりなくわたしがいると思っていたのですか。明日のことはだれも分からないから、今日訊きたいことがあれば今日のうちに訊きなさい」と言って話しを聞いてくれたという。わたしは「島村先生」の詣り墓を偶然見つけたこと、その無縁墓が市道の拡張工事による寺の本堂の立替と住職の代替わりで今後どうなるか分からないこと、堺の菩提寺のあたりは空襲で焼け野原となり過去帳も何も残っていないこと、郊外の共同墓地にある無縁墓の中に「島村先生」の父親の墓石だけが残っていること、大和郡山での「島村先生」宅には昭和40年頃まで「腰の曲がった老婆」が一人住んでいたがその後は分からないこと、などを伝えた。尼僧は「島村先生」のことが忘れられてしまうのはとても悲しいことだと言った。そんなふうに気がつけばかれこれ2時間近く、薄暗い玄関の上がり框にわたしは腰をおろし、正座する尼僧と向き合って百年もむかしに死んだお互いに会ったこともない「島村先生」の話をしていたのだった。それはとても不思議な感覚だった。この寺の玄関先の薄暗がりだけ、時間が停止しているのか遡行しているのか。それまではある意味、紡績工場工女慰霊碑の「おまけ」くらいのつもりで調べていた「島村先生」が、この五條の町にきて何だか懐かしい叔父さんのようにその面影が動き出してくるのだった。ここでは「島村先生」がいまも生きていて、廊下の端や境内の松の下などをゆったりとあるきまわっている。わたしは、ほんとうの歴史というのはこういうことなのかも知れないと思った。人を信じることができず、親鸞の言葉すら信じる確信が持てなかった若き僧侶が、間近に接した人間の放つ存在に激しく打たれる。そうしたものはついに文字には残らないものではないか。それは人から人へこころからこころへのみ、つたわるものなのかも知れない。百年もむかしに、二日に一度銭湯へ行く時間がきっちり決まっていて町の人が時計代わりにした、あるいは仏教の戒を厳しく守り帰宅して夫人が出かけて家の中にお手伝いさんしかいないときはずっと玄関で立っていたなどの話が伝わる名物教師がいて、深く仏教のおしえに帰依していたその講話はたくさんの人々のこころに強固な根を下ろした。その目には見えぬ歴史のつながりの端にわたしは触れたのであった。前述の「語録集」をお借りできないかと尼僧に頼むと、どうぞお持ちくださいとあっさり渡してくれた。そして、ほかに「島村先生」に関するものがないか、この次までに探しておきます、と言ってくれた。わたしはどこか満ち足りた気持ちで寺の門をくぐった。ふたたびこの町を訪ねる理由ができた。

    ◆梁瀬 義亮記念資料室
    http://www.jiko-kai.org/about/material.html

    ◆五條新町ルート
    http://www3.pref.nara.jp/miryoku/masumasu/2482.htm

    2019.3.10

     

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     その画家とはじめて出会ったのは近江鉄道のちいさな無人駅のホームでだった。その日は一日、お椀を伏せたような太郎坊宮の頂きからなだらかな尾根筋をたっぷりと縦走して里へくだり、30分に1本の電車を逃したために近くの共同墓地で休んだのだが、そのときにFBにアップした写真をたよりに画家はやってきてくれたのだった。墓地の写真を見て会いにきてくれるひとを、わたしはかつて知らない。それから画家は、画の道具を積んだ軽トラックにわたしを乗せて田圃のまんなかにある野神さんに案内してくれた。そこは心地よい風の通い路だ。風の又三郎だ。二人で満足顔で突っ立っていた。一月ほどして、わたしたち二人はこんどは半日ほどかけて東近江のある集落をあるきまわった。そこは往古には「稲盗人等御座候へば打殺し、右野へ捨て置き候」という土地で、近世には皮革産業が栄え、また村の中に屠場があった歴史をもつ村だった。かつての共同墓地は公園になっていた。共同浴場の跡、屠場の跡、くずれ落ちそうな路地裏の廃屋、立派な八幡宮、用水路にかかる橋。そんなものを、まるで掌(てのひら)で影をすくいとるように二人であるきまわったのだった。それもたのしい時間だった。時間は垂直でもなく水平でもなく、そういう数学的な概念ではなくて、風や日だまりや草いきれのようにしずかにただ在って、かすかに光ったり、吐息のように明滅したりしているのだった。けれど風景はたくらみもかかえている。裏庭の銀杏の実が宇宙の星々のようにまたたいている。駅前の店を閉じた印刷屋がかつてどこかの詩人がよんだ遠い国の遺失物係のカウンターのようにも見える。しろい光の充満に包囲された影が叛乱する。つまり、福山さんの絵はそういうものだ。八風街道とよばれる古い街道筋のとおる水と田と山と池のひろがる土地と画家の作品は共謀していて油断ならない。

    2019.3.27

     

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     レディとはるさんの京都の個展を見に行った。高村薫の「レディ・ジョーカー」ではレディは企業恐喝で大金をせしめた犯人グループのトラック運転手・布川の知恵遅れの聖なる娘のことだが、京都駅で待ち合わせていっしょに地下鉄に乗り込んだ今日のレディは和歌山を代表する淑女である。けれどもわたしは心の中で「おれたちはレディ・ジョーカーなんだ」とうそぶいていた。「おれたちはこれから一世一代の勝負をするんだ。このクソのような人生に終止符をうつために」。木蓮の花びらが遠めに見える御所に向かってひらかれた明るい画廊にはすでに、やはり画家のTさんご夫婦が来られていた。はじめてお会いするTさんはわたしの横のレディを見て「奥さまですか?」と訊ねた。思わず「ぼくの嫁さんはもっときれいです」と言ってしまって、わたしとレディの関係はそこで破綻したのだった。「レディ・ジョーカー」は解散した。はるさんの画を見つづけて、もう何年が経つのだろう。あの頃はまだ小さかった娘がいまは免許も取れる年齢になって、ひさしぶりにはるさんの画を見たい、と言う。彼女に言わせれば「以前はぎゅっと詰まっていた画が、いまは軽やかにあかるくなって、いまの方が好き」と言うのだ。たしかに、画家の絵筆はかろやかになったのだ。以前は地層のようなざらざらとした土色と、古墳の石棺内部のような朱が印象的であったのが、青や白があふれ、登場する人物たちがそれぞれ動き出すような気配さえするのだ。かつて画家は「遊び」について書いていたが、古代のあそびべ(遊部)の役割はそもそも、魂(たま)をふって活性化させたり、殯(もがり)の際にその魂(たま)をしずめることだった。山川草木、画家のことばでいえば「永遠のかけら」がおなじ地平でかろやかにふるえている。姿は違えど、おなじ波長でふるえているのだった。そしてわたしは相変わらず、「吟遊詩人」や「シンボル・ツリー」などの深い地層から沁み出した「ぎゅっと詰まっている画」が好きなのだった。画はそれを見る人のこころを映し出す、とかつて画家は言った。おなじ画を見ながら、人はそれぞれちがうものを見つけ出す。それはもともとじぶんのなかにあって気がつかないでいたもの。はるさんの個展会場を辞してから、わたしとレディは三条通りまでぶらぶらとあるいていって、高野山で自害させられた豊臣秀次一族の墓を見に行った。処刑された39人の幼児を含む妻妾たちの骸(むくろ)を投げ入れた穴の上に秀次の首を収めた石櫃が三条河原の中洲に建てられ、橋を行きかう人々に晒された。かつて石櫃が立っていたその場所に瑞泉寺は建てられた。しばらくそんな場所にたたずんでから、わたしたちはまた四条通りまでぶらぶらとあるいていって、路地裏に見つけたヒッピーの隠れ家のような喫茶店の二階のソファーに沈んで二人でそれぞれの100年の物語を語り合ったのだった。生老病死、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五陰盛苦。前の晩、わたしは仏教の苦聖諦について記した書をひらいていた。「人生を正しく見よ。この人生には永遠につづく、清らかな、真実の幸せのないことを正しく知れ。そして清浄、永遠、真実の幸せを求める心を起こして、それを仏陀に尋ね求めよ」  あそびがはじまった。わたしの眼は遡行する。おりていかなければいけないとおもう。

    2019.3.31

     

    *
     

     たとえばわたしの頭部を切り開いて指をつっこみ、ひっかかった端くれをひっぱり出したとしよう。ずるずるずるとさまざまなものが糸をひいて飛び出し、ならべてみれば、それはそれでひとつの物語を構成するかも知れない。わたしの場合であれば、たとえば障害者施設で殺された子どもや、鳶口を眉間に受けて倒れている朝鮮人工夫や、劣悪な環境のもと15歳で死亡した紡績女工や、不登校児や、動画中継をしながらホームに飛び込んだ高校生や、あるいは癩者となった小栗判官を乗せた土車や、石もて追われる春駒や鉢叩き、処刑されたキリシタンや、公園の樹で首をくくった原発事故避難民の母親などが、未分化な細胞が集散をくりかえしながら徐々にかたちをなしていくように、奇妙な物語の糸を織る。そこでは時間も、空間も、感覚すらも独特なものだ。わたしたちが夢のなかで不思議を不思議とも思わないで受け入れるように。奇しくもあたらしい「元号」が発表されるその日その時間に、大阪・九条のシネ・ヌーヴォで岩名雅記監督の「シャルロット すさび」を見たことは、わたしにとってひとつの抗いとなった。世間が新「元号」の発表にむなしく騒いでいる頃、わたしは岩名雅記という「昭和」の最後の年に日本を飛び出したまま「平成」日本を知らない一人の男の頭の中を経巡っていたのである。それは心地のいい幻想であり、もうひとつの現実であった。フクシマの帰宅困難エリアの廃墟の建物で、水の入ったグラスに支えられた厚さ6ミリの硝子板の上ですべてを棄ててまぐわう男女。跳ね上がった男の精液が硝子の上の蝿を浸し、獄中死した大道寺将司の句「実存を賭して手を擦る冬の蝿」がオーバーラップする。激しい交わりの果てに硝子は砕け、女の手に喰い込み血がながれる。「まだ生きているのね、あなたも私も」 「ああ、充分生きてる。ガラスは僕たちの外にあっただけさ」 「私のからだも私のものじゃないのね」  二人の交わりを自主避難エリアに取り残された被差別者が覗き込む。そしてもう一人。人狩りの果てに下半身をなくして据えつけられた台座の上で物乞いをさせられているシャルロットだ。蝿は実存を賭して手をする。だがわたしたちには、すでに賭すべき実存すらもないのではないか。あるとすれば実存のひりひりとした呻きのみ。崖っぷちの実存が呻き、疾走し、慟哭する。「私は砕かれたカケラ、小さくされたイノチ」 岩名監督はパンフレットのなかで、じぶんはこの作品を「是非とも多くの方々に」観ていただくのではなく、「観る人を選ぶ」特権的な映画として売っていきたいと思っている、と語っている。要するに、分かる人には分かるし、分からない人には永遠に分からない。「シャルロット すさび」は確実にそんな作品だ。まるでロベスピエールのように不遜で、ダントンのように挑発的だ。どうせ夢の中だ。流れに乗っていけばいい。美しい風景と残酷ななみだに細胞の管という管を全開放して存分に味わえばいい。すると笑いもあり、随所にあそび心が隠されていることにも気づく。延々とくりかえされる二人の肉の交わり。それは気味の悪い明るさに占拠された現代日本への反逆でもある。わたしたちはそれぞれの思想夢に於いて世界に抗う。たとえその思想夢を他人に覗かれたらギロチン台送りになるとしても。恍惚な三時間はあっという間に過ぎた。テロリストは現世に帰還した。だがのっぴきならない現実は残る。おのれの思想夢のごとく生きよ。いわばこの作品は「正しい思想夢の見方と世界の抗い方」とでもいったものだ。まるで梶井のすがすがしい檸檬のように、九条駅のどこかに爆弾を仕込んできた。

    2019.4.1

     

    *
     

     新「元号」の発表が黄沙の如くこの列島に舞い狂った翌日。大阪駅前第三ビルのいきつけの店で450円の鶏カツ丼をつついているとテレビが昨日の映像を流し出した。街の広場を埋め尽くす有象無象の鵺のような群れが押しあいへし合いしながら必死の形相で号外に手を伸ばしている。くしゃくしゃになった紙面を伸ばした号外を誇らしげにかかげ「時代の大事な記念だから、もらえてほんとうによかった」と興奮気味に若者が語る。わたしはまるで反吐が出そうになる。沖縄で人々の希望が圧殺され、フクシマで土地と人間がゴミのように棄てられ、入国管理局で留学研修生たちの現場でいのちが消しゴムのように消され、密室の中で国家によって殺人が行われ精神病者が断種され、100万もの人間がひきこもり毎年万単位の自殺者が出るこの国で、この空虚なさながらテーマパークのパレードのような明るいさわぎにまといつく熱狂はいったい何だろうか。わたしの胃は目の前のテレビの映像を呑みこむことを拒否する。異物として吐き戻すだろう地面にぶちまけたそれらをわたしは絶望的にながめ苛立つだろう。だれかこのおれに「チョーセン野郎はとっとと国に帰りやがれ」と言ってくれないか。じぶんが生まれそだった国のはずなのに、まるで見知らぬ国のように思える。スタンレー・ブラザーズの The Rank Stranger To Me でも歌おうか。「ともだちを探したが 見つけられなかった / まったく見知らぬ人々ばかりだった / いつか佳き日に 天国でみんなに会うだろう / そこでは わたしを知らぬ人は誰もいないだろう」  前日。松島新地にちかい大阪・九条のシネ・ヌーヴォ前の喫茶店で、上映を終えたばかりの「シャルロット すさび」の岩名監督から「あなたの思想形成についておしえて欲しい」と言われたけれど、うまく喋れなかった。まあもともと、喋るような内容もないのだ。 (中断)

    2019.4.4

     

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     (岩名雅記監督へ 私信)

     おつかれさまでした。監督にお話したいと思っていて言い忘れたことがひとつ、ありました。アメリカがアフガニスタンの地を蹂躙していた頃、ある日わたしはフランスに住む見知らぬ日本人女性(たぶんわたしよりも年上の)から一通のメールを受け取りました(当時はSNSはなかったので)。彼女はわたしがネット上にアップしていたディランの曲(Masters Of War)の訳詞を見たようで、当時彼女が翻訳をしていたアメリカの月刊誌(The Progressive)に乗っていたオーデンの詩“1939年9月1日”を「あなたならどんなふうに訳すのか、見てみたい」というものでした。それからわたしたちはメールでたくさんのやりとりを交わしました。ある日、彼女はアフガンの男たちについて、こんなことを書いてきました。


    しかし、なんであそこの男たちはこんなに sexy なのか? 何であんなに笑えるんだ? なんであそこの子供たちは本当の子供たちなんだ? なんでみんな詩を歌い上げるのだ?

    体を張って生きているからだね? 違うかな。

    でも私たちはいったいどこに行こうとしているのか?


    最後の頃に彼女は、(ひょっとしたら酔っ払っていたのかも知れませんが)じぶんの携帯電話の番号を送ってきて、フランスに会いに来て欲しい、どこどこ駅に着いたらここに電話して欲しい、と書いてきました。わたしは返事を書きませんでした。娘がまだ生まれたばかりだったもので(^^) 彼女とはそれきりになりました。

    彼女から依頼を受けて、辞書を片手に必死になって訳したオーデンの詩をときどき思い出します。拙い訳ですが、監督の「シャルロット すさび」がオーデンのいう「光のアイロニックな粒」となって人々の心を照らし出すことを祈念しております。

    *****************
    .
    夜のもと、無防備に
    ぼくらの世界は呆然と横たわっている。
    それでも、 そこかしこで
    光のアイロニックな粒が
    どこであろうと、正しき者たちが
    そのメッセージを取り交わすのを一瞬
    浮かびあがらせる。
    かれらとおなじように
    灰とエロスからできているこのぼく、
    おなじ否定と絶望に苛まれているこのぼくに
    もしできることなら、
    ひとつの肯定の炎を見せてやりたい。

    2019.4.5

     

    *
     

     

    法隆寺の裏手、中宮寺墓地で見つけた二基の無縁墓。大きい方は息子(上羽正)の軍人墓。寄り添って小さな両親の墓。仔細を見れば父・上羽兵太郎は大正10年10月に53歳で亡くなっている(いまのわたしと同じ年齢だ)。その12年後の昭和8年5月、母・キクが42歳で亡くなっている。夫の兵太郎が亡くなったときにキクは30歳の計算になる。(おそらく一人息子の)正は母が亡くなった6年後の昭和14年に中国へ出征し、翌年の15年1月に「壮烈無比の戦死」を遂げている。不思議なのはこの上羽正が戦死した翌年に「正」名義でかれの両親の墓が建てられ、また昭和15年に戦死した正本人の墓は勤め先だったのかも知れない「昭和食料品株式会社」の社長の辻利三郎氏が建立している。あるいは「正」が戦死後に、この辻利三郎氏が「正」名義でかれの両親の墓もいっしょに建てたのかも知れない。墓石には享年が記してないので分からないが、仮に上羽正が戦死したのが28歳だったとしたら、父・兵太郎が死んだときにはかれはわずか9歳、母は女手ひとつで忘れ形見の正を育て、その母・キクが30歳という若さで亡くなったとき、上羽正は21歳であった。とにかくそうして「上羽家」はみんな死んでしまった。刻字によれば両親の墓を建てた上羽正は、すぐにまたおのれも死んで墓となったわけである。そうしておいて「放置すると無縁墓になります。連絡してください」という(状況を現出させている)国家に対して、おれはほんとうに怒りを覚えたよ。春うららかな斑鳩の丘陵地で。
     
    追記) あらためて読み返して、30歳の母に息子21歳はさすがに無理だろうと気がついた(^^) 息子(上羽正)の出征が18歳だったとして母30歳のときに12歳だったらぎりぎりか。しかし、それはそれで若すぎる戦死は、なんて薄幸な家族であったのだろうと思わざるを得ない。もうひとつは母・キクが後妻であった可能性だろうか。

    2019.4.6

     

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     ディズニーランドに居てディズニーランドを批判する。

    2019.4.19

     

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     「1209年かあるいは1210年頃、増え続けた仲間が運命的な十二という数に達した」ころ、フランチェスコの小さき兄弟団はローマへ向かい、教皇インノケンティウス3世に謁見して伝道活動の許可を求めた。公式な記録ではないが、信憑性の高いあるベネディクトゥス会士の書き残した記述では次のように書かれている。 「教皇は、くだんの者の奇妙な服装、不快な容貌、伸び放題の髭、乱れた髪、黒々と茂った眉毛をしげしげと眺め、この者の誓願を読み上げさせたが、それはあまりにも大胆で実行不可能なものであった。教皇は蔑んで言った。『行って豚どもを探せ! おまえには人間よりも豚の方が似合いじゃ! いっしょに泥の中を転げ回り、おまえの会則と注釈を渡してやれ! そして、豚に説教してやるがよい!』 」  従順なフランチェスコは言われたとおりにし、悪臭と泥をまとってふたたび教皇のもとへもどった。たしかにそうだったのだろう、と思う。時間を飛び越え、イエスと使徒たちがさすらっていた原始キリスト教団にただ憧れ、じぶんもそのように生きたいと願うフランチェスコの単純な生き様はそのまま、教会の権威と権力と富を全否定するものであったから。のちにフランチェスコ会の組織が大きくなるにしたがって、フランチェスコはみずからの小さき兄弟団からも孤立していった。大きくなったフランチェスコ会に加わるものたちは、フランチェスコ自身よりも「大きくなったフランチェスコ会」に魅せられてやってくるのだ。小さき兄弟団はすでに変容していた。「かれら」が待っていたのはあとはもう、フランチェスコが死んで「聖人」となることだけだ。晩年のフランチェスコにはそれらすべてが分かっていた。フランチェスコは死に、毒は抜かれ、教会はかれを聖人として称える。偉大なる教会の歴史の一頁にかれは添えられる。権力はそのように(みずからを滅ぼすものでさえ)すべてを取り込み、その死骸を毛皮のように身にまとい、醜く太っていく。

    現代のフランチェスコ会へ行っても、フランチェスコはどこにもいないよ。イエスも、フランチェスコも、法然も、親鸞も、日蓮も、体制から疎まれ、蔑まれ、放逐され、ときに殺された。ほんとうの宗教というものは、じつはそういうものだと思うな。この世ではない天上に富を積むのだから、現世の権力者たちと相容れるわけがない。権力者たちはかれらを怖れる。みずからの権威や権力や富を全否定し場合によっては滅びつくしてしまう強烈な毒を内包しているから。教皇インノケンティウス3世をしてフランチェスコに「お前には豚の方が似合いじゃ!」と激昂させたのはその毒を怖れたから。つまり、イエスもフランチェスコも、かれらにとっては「テロリスト」である。「テロとの戦い」を世間に喧伝したらそれでいい。いつの時代も真の宗教者とはテロリストだとわたしは思う。

    2019.4.22

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     ホテルの部屋でNHKスペシャル「日本人と天皇」を見たが、タイトルとは違って結局は「このままでは天皇制が自然消滅しかねない皇室規範をみんなで考えて何とかしなきゃ」という後半の着地見え見え路線だったな。前半の大嘗祭などの儀式の再現はそれなりに面白かったが、もちろん今回供えられる神饌は農薬たっぷりのアメリカ産の米や肉、放射能たっぷりの海の幸山の幸などなどなんだろうな。それにしてもテレビの中の皇居に集う人々の様子を見ていると、この国はもういちど300万人を殺さないと気が済まないんだろうなと思えてくる。何だろうね。おれはだんだんこの国の「気分」から確実にこぼれ落ちていくじぶんというものをひしひしと感じているよ。まあ、いまに始まったことでもないが。

    2019.4.30

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      泥の中で見つかったわが子の口や鼻や耳をみずからの服で拭い、拭うものもなくなって最後に半開きのわが子の目をみずからの舌で舐めて清める。動かない半開きの目から泥は舐めても舐めても出てくる。そんな夢をホテルの部屋で見た。巨大な津波が通過してみれば、この世界は生も死もふくめて案外と単純なものだ。娘が生まれたばかりの頃は毎日、こんなふうだった。雨の日も風の日も立ち続けた。時給850円でね。おれは路上のニジンスキーのように舞う、と書いたことがあったな。はるさんはよく覚えてくれている。たとえば熱はアスファルトから足裏をつたって脳味噌を直撃する。たとえば道端の平凡な一本の街路樹を眺めながら何時間でも黙想していられる。おれたちの仕事はたとえればこんな具合だ。空っぽのマス目を風や雨にさらされ灼熱の陽に炙られながら埋めていき、帰るころにはマス目はもとの空っぽにもどっている。来る日も来る日もおなじ繰り返し。何かが残るわけでもない。だけどおれはこの仕事が案外と好きなんだな。路上のニジンスキーみたいなところがだよ。この頃はすっかりスーツ姿でデスクワークばかり、ときにはクライアントのお偉いさんと契約の話なんかいっぱしにしているけれど、でもおれはこの単純な世界の方が好きなんだ。毎日9時間、路上に立ち続ければ疲れも熱も肉体に蓄積する。家に帰ってまだ赤ん坊だった娘をお腹に乗せたまま疲れて寝てしまうこともあった。一日カッパの中で雨に打たれたりしていればね。そんなとき、シモーヌ・ヴェイユのことを考えるんだな。彼女は非人間的な工場で働いていたじぶんを「ひとがモノになる」=「奴隷の状態」だと言い、あるいはまた「従属の形式が払拭されない限り」とも書いた。一日の肉体的な労働を満足して終えた夜には、ささやかなこと、シンプルなことしか頭に入らない。妻が用意してくれたささやかな夕食で腹を満たし、寝入ったわが子のあどけない頬に月明かりがさしているのを見るとか、そういったものだ。たぶんいま世の中で(ネット上も含めて)黴のように繁殖している言葉や思想というものたちは良いものも悪いものもほとんど、きっとそういう人たちの言葉じゃないんだな。頭でっかちのあぶくのような言葉だらけ。だから革命は起こらないんだよ。おれはとりもどしたい。あぶくではない言葉を。一日雨に打たれ続ける倦怠感や脳味噌を直撃するアスファルトの冷酷な熱の放射に抗えるような言葉を。眠ったようなわが子の半開きの目の泥をみずからの舌で舐めるときの臭い、触感、味覚、頭蓋骨が空っぽになってふるえているような悪寒と熱に対峙するためにぼくらができることしなければいけないこと。それはいまここにあることばではない。

    2019.5.3

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     「シャルロット すさび」の岩名監督が紹介してくれた秩父困民党を描いた映画「草の乱」(神山征二郎監督)をきっかけに始まった、映画プロデューサーの貞末さんとの対話が何やらコメントで埋もれさせてしまうのはもったいないような内容だったので、ここに別途再録して保存しておく。「たまたま秩父を散策していたら、秩父事件困民党の無念の思いが自分の肩に乗った」渡辺 生さんの思いがこんどはわたしの肩に乗ったのかも知れないなぞとうそぶきながら。永遠に失われてしまった8mmフィルムはわたしたちにもういちど撮り直せと言っているようだ。粥新田峠の地蔵をわたしはいつかきっと訪ねるだろう。

     

     「シャルロット すさび」の岩名監督のTLから。  「神山征二郎監督の「草の乱」が期間限定のユウチューブで現在見られます。是非この機会に! 「草の乱」はご存知かと思いますが今から140年ほど前に起こった秩父困民党による一斉蜂起(農民たちは「革命」と言っています)を描いた力作です。 この映画を見ると時代が変わったとはいえ、いかに権力構造が強固に人々を弾圧/差別してきたかがよくわかります。薩長政府権力の横暴、高利貸の擁護、司法との結託、軍事費調達のための容赦ない税の強制など、まさに今の日本社会を彷彿とさせます。違うのは現在の人々が全く「動かない」ことです。140年前の農民たちも決して英雄ではありません。権力の暴力/搾取におののき、それでも戦ったのです。司馬遼太郎の「坂の上の雲」がいわば権力側から明治を見たとしたら「草の乱」はまさしく地べたに這いつくばった人々の「抗いのアングル」で明治を描いています。多分伊藤博文や山県有朋の実像はこの映画の描写の方に’よりリアリティ’があるのでしょう。(画像に多少問題がありますがそれでもご覧になりたい方は是非!)
    https://www.youtube.com/watch?v=oRHEtySO3q8&list=PLQim8m606m2v4B9Z_RBVby4i0ZgZIXZw7&index=379&fbclid=IwAR1S_BaytA3yKZ7QdICKbA-F4sTDB41LxoG9Q7Yv-9WKGimq-vlMaZUozHQ

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    貞末さん「貴重すぎ」

    わたし「とりあえず裏DLしてまだ見てませんが、こういう映画はいまつくっても上映してくれるところがないでしょうね・・」

    貞末さん「「草の乱」俳優陣も素晴らしいですね。編集の手が思わず止まってしまいました。秩父事件に関する劇映画はほんとうにめずらしいと思っていましたので、見ることができてよかったです。 拙作の照明技師だった渡辺 生さん(故人)という方が、ドキュメンタリー作品で、40年ほど前、「秩父事件 山襞の叫び」という映画を8mmで制作されました。ひとりで秩父の山々を8mmキャメラを担いで撮影して制作されたものです。 ナレーションは佐藤英夫さんで、わたしは上映のお手伝いをさせていただいたのですが、制作者のたいへん深い想いと情熱を賭けた作品でした。撮ることになったきっかけは、たまたま秩父を散策していたら、秩父事件困民党の無念の思いが自分の肩に乗ったのだと話しておられました。 そこから私費を投じて、こつこつと数年かけて渡辺さんはこの映画を完成されたのです。生さん齢60歳の頃です。 主には事件の詳細を、秩父の山々を歩きながら記録してゆく手法でしたが、制作者がとらえようとする困民党の情念が写っているようで、見応えのある作品でした。 まさにそれは「不在」を追う作業だったのだと思います。
     「不在」現在にもいろいろな意味で大きなテーマではないかとわたしは考えています。 もう観ることができないのが残念です。 それと、その渡辺さんが、秩父事件の重要な地である粥新田峠にお地蔵さんを建てられているのです。主には渡辺さんが、自分の撮影したフィルムに写った(ていると思われる)霊を供養するために建てられたものです。 ここにも実は深い「不在」のテーマが隠れています。 秩父事件について詳しい方にはわりとよく知られているお地蔵様なのですが、フィルム供養の地蔵としては一部の映画人にしか知られていないと思います。」

    貞末さん「粥仁田峠(現在は粥新田峠)地蔵建立碑」
    https://www.google.co.jp/maps/place/粥新田峠/@36.0424151,139.1542144,15z/data=!4m12!1m6!3m5!1s0x601ecf15149bcd57:0xcbd4637574ec3698!2z57Kl5paw55Sw5bOg!8m2!3d36.042732!4d139.154713!3m4!1s0x601ecf15149bcd57:0xcbd4637574ec3698!8m2!3d36.042732!4d139.154713

    わたし「「たまたま秩父を散策していたら」肩に乗った。渡辺氏のフィルム、見たいです。もうどうにも見れないんでしょうか?」

    貞末さん「残念ですよね。見られないです。おそらく不可能だと思います。8mmはすでに世に一本しか完成できないものなのです(デュープというのですが、いわゆるコピーが作れない)16mmだったらまだ可能性があったのですが。」

    わたし「唯一のその8mmが損失されてしまった、ということですね。」

    貞末さん「損失はしなかったと思うのですが、度重なる映写会でフィルムはボロボロでした。おそらく故人が処分されずに保管されていたと思うのですが、わたしたちが故人宅におじゃましたときには、フィルムはありませんでした。」

    わたし「映画に使わなかったフィルムをこの峠の地蔵の下に埋めたと書いてますね。それだけが残されたわけですね。永遠に日の目を見ることもないでしょうが。」

    貞末さん「この場所に、フィルム供養のお地蔵さんがあることを知る者もそう何人もいないのです。なので、生さんが亡くなったとき「山襞の叫び」をここに埋められないかと思ってフィルムを探したのです。 8mmなのに、当時きちんと16mmフィルムのケースに入れて、生さんが保管されていましたから。 それが見つからなかったときはがっかりしましたが、もしかしたら生さんがご自身でここに本篇フィルムの一部を埋めて(すでにお地蔵さんの完成時にNGフィルムを埋めていたので)処分されたのだろうと思いました。 埋まっていたとしても、フィルムの一部がということだと思います。」

    わたし「だれかが遺志を継いで撮りなおすということですかね。紡績女工の無縁墓などを追いかけてばかりのわたしにはこの渡辺さんの思いはひとしお迫ってきます。いまお話をきいただけで。「不在」の穴ぼこを埋めたいと願ったんです、きっと。いや〜 見たかったな・・」

    貞末さん「會田さんに、この話しをいつかしたいとわたし、思っていたのですよ。チャンスがあってよかったです。わたしは当時、こうした映画を上映できるスペース(自主上映会場)を持っていましたので、生さんのこの映画を毎週土曜日数年間、上映し続けました。 それで生さんとはすっかり仲良くなって、やがて映画作りを一緒にする仲間となっていただいたのです。 で、上映する際に、映画のパンフレットを制作しました。(もちろん手書きのパンフレットです)探せばどこかから一部くらいは出てくるのではないかと思うのですが。 出てきたら見ていただけるようにしますね。 いろんな意味での「不在」の穴ぼこ、これを埋めていかねばならない使命をわたしも背負っているのだと思っています。 いや〜 お見せしたかったです。 わたしの中でもすでに40年前の記憶でしかない「不在」の映画なのですが。」

    わたし「そうか! すみません、うっかり。貞末さんの「老いて生きる」の渡辺生さん、ですね!ここに出てきますね、映画作りの話も。うっかりしていて、いま気が付きました(^^)」
    http://sharaku.sugoihp.com/shosan.html

    貞末さん「そうですそうです。「おてんとうさまがほしい」と「風流れるままに」はわたしが制作しましたので、ご覧になっていただくことができます。たぶん「おてんとうさまがほしい」は、「不在」をテーマに語ったらとんでもない作品です。見ていただける機会をつくりたいです。こちらのURLでご覧ください
    http://www.motherbird.net/~otentousama/

    わたし「「鉱山の足跡」などの他のフィルムももう見れないんですね。思えばわたしの家が北茨城に引っ越して、たまに日立の本屋やレコード屋なんかに立ち寄っている頃、渡辺生さんは近くにおられたんですね。あるいは日立駅あたりですれ違ったこともあったかも。 貞末さんが撮られた二作、いつか拝見したいです。きっと「散歩していて肩に乗っかった」人の生きざまが描かれているんだろうと思います。映画は見れなくても。」

    貞末さん「折に触れて山々や史実を追って歩かれ、忘れ去られた無縁墓や碑にさまざまな「不在」を探されている會田さんの投稿を読ませていただくと、いつも生さんの姿が思い出されていました。 生さんも秩父の山々を歩くようになったのはちょうど、會田さんの年齢くらいでした。 こつこつと時間を見つけては秩父を訪ね、肩にその使命を背負って以来、史実を追って村に当時まだ住んでおられた困民党の遺族の方などとも訪ねて、多数関係をつくっていかれました。 その方たちとの関係からお地蔵様が建立されることになっていきました。 粥仁田地蔵の開眼供養のときは、粥仁田峠の道ばたに案山子をたくさん飾り建てて、村の衆が総出で建立を祝っておられました。わたしたちはその後も幾度か訪ねているのですが、お地蔵様の建立祝いが何年後かまで度々あって、生さんについてゆくと、村の方のお宅におじゃまして、さんざんごちそうになったものです。その桃源郷のような山の居住まいの美しさが忘れられません。 生さんは「自分は小学校しか出ていないのでフィルムを使って表現するしか方法がないんだ」とよく話しておられましたが、會田さんは類い希な筆力をお持ちです。 多くの史実が時間に隠されてしまった「不在」の穴ぼこを、ぜひ埋めてください。それができる方はそうそういませんので。 そんな生さんのお話ができて、今回はそれだけでもほんとうに財産です。生さんのことを知ってくださってありがとうございました。映画みていただけるようにします。少々お時間ください。」

    ◆秩父事件を追ってF 粥仁田峠
    https://blogs.yahoo.co.jp/nonki_harumi/10043157.html

    ◆渡辺 生(しょう)さんの 横顔
    http://www.motherbird.net/~kaze/_info/syousan.html

    2019.5.11

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     斑鳩法輪寺の甍はしろい陽光のふもとにあった。ほとけたちはひんやりとした講堂のくらがりに列んでいた何百年もいや何千年も。わたしは一体づつのほとけの顔をのぞきこんでは沈思した。にらみつけてはまなこをとじた。日曜の午後の寺には間延びした静寂をやぶってときおり人がやってくる。ひとことふたこと同行者とことばをかわしてものの5分ほどで出ていく。ふたたびしずけさがもどってくる。受付ですわっている尼僧もいつのまにかこっくりこっくりと頭をゆらしている。そんな時間だ。わたしは座敷の上に座してときには足をなげだしてほとけたちを見あげている。うつらうつらとしてしまうこともある。みじかい夢を見ていることもある。また目を覚まして、こいつらは、と不逞にも考える。いったい何をおもっていることやら。かれらはなにも応えない。そうだけっして応えないものをにんげんは信仰する。そうだ目の前で母と娘が犯されてもほとけは何も言わない。無実の男の首が断たれてもほとけは何も言わない。けれども、とまたわたしは考える。見ているのだろう。聴いているのだろうあらゆることばを。それらを何百年もいや何千年も腹の中に溜めつづけてあるときぽっきりと胴が折れてしまうそんなほとけもどこかにあるにちがいない。かれらはなにも応えないが、なにかを言いかけるときがある。こうしてだれもいないしずけさのなかでひたすらまっているときだ。それはあきらめかけたころにふいとむこうからなにかのけはいがゆらめくようにうごく。まぼろしかもしれない。まぼろしかもしれないが胴が折れる寸前のほとけのゆらめきをどうせなら見たいものだ。それはきっとおれじしんのくさった臓腑の反射どうせそんなもの。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

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