ゴム消し 4/21 ゴムログ 背中からの未来 体感する BobDylan 木工 Recipe others
 

 

 

 

 

 

 

 


A ten year old child is killed when Israeli war planes target his home.

 

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  ソマリアに行く前は、世界というものをひとつの場だとしたら、ぼくは中心概念というものを無意識に持ってたわけです。中心とは、たとえば東京だったり、 ニューヨークだったり、ワシントンDCだったり、ロンドンだったりしたわけですね。しかし、飢えて死んでいく子供たちを見て、中心概念は全部崩れました。 餓死したって新聞に一行だって記事が出るわけじゃない。お墓がつくられるわけでもない。世界から祝福もされず生まれて、世界から少しも悼まれもせず、注意 も向けられず餓死していく子供たちがたくさんいます。ただ餓死するために生まれてくるような子供が、です。間近でそれを見たとき、世界の中心ってここにあ るんだな、とはじめて思いました。これは感傷ではありません。これを中心概念として、世界と戦うという方法もあっていいのではないかと考えました。餓死する子供のいる場所を、世界の中心とするならば、もっと 思考が戦闘化してもいいのではないかとも考えました。

  世界はもともと、そして、いま現在も、それほど慈愛に満ちているわけではない。そして、すべては米国による戦争犯罪の免罪の上に成り立っている。じつにお かしな話なのですよ。情報の非対称の恐ろしさというのは、これだと思う。アメリカで起きた屁のようにつまらないことが、まるで自国のことのように日本でも 報道される。けれども、エチオピアで起きている深刻なことや、一人あたりの国民総生産がたった130ドルのシエラレオネで起きている大事なことは、まず日 本では報じられない。この国では、どこのレストランが美味いか、どこのホテルが快適か、どこで買うとブランド商品が安いか、何を食えば健康にいいのか、逮 捕された殺人容疑者の性格がいかに凶悪か、タレントの誰と誰がいい仲になっているか....といった情報の洪水のなかでぼくらは生きています。伝えられる べきことは、さほどに伝えられなくてもいいことがらにもみ消されています。アフガンもそうやってもみ消されてきたのです。

 そのときに、言説、情報、報道というものはこれほどまでに不公 平だ、こ の土台をなんとかしない限りは、ものをいっても有効性は持ちえない、どちらかというと無効なんだと思いましたね。同質のことをいま、ぼくはまたアフガンで 見ざるをえない。若い人は、まだ報じられていない、語られていない、分類されていない人の悩みや苦しみに新たな想像力を向けていったり、深い関心をはらっ てほしい。ブッシュやラムズフェルドやチェイニーの貧困な想像力で暴力的に定義されてしまった世界、しかもその惨憺たる定義が定着しつつある世界を、新し い豊かな想像力でなんとか定義しなおしてほしい。それには相当の闘争も 覚悟せさざるをえない。でも、そうしないと、ブッシュたちの定義にならされていくと 思います。

反定義 新たな想像力へ(辺見庸+坂本龍一・朝日新聞社)

 

 

 

 

 

 

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 とても大事なものを、遠くへ置き忘れてきてしまったような気がする。
 目に見えるものばかりを追い求めて、気がついたらからっぽだった。

 彼女が図書館で借りてきた『星野道夫と見た風景』(新潮社とんぼの本)をめくって、ボブ・サムの写真を見つける。
2022.10.11


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 彼と最後のインタビューする約束をした数日前、梁健輝という男が警官を刺したあと自殺するという事件が発生した。私たちは期せずしてこの事件について話すことになった。

「こ れは抵抗闘争にとっては、AED(自動体外除細動器。突然正常に拍動できなくなった心肺停止状態の心臓に用いる医療機器)みたいな事件だ。『反送中』はす でにしばらくの間、心臓が動いていなかったけど、この事件で電気ショックが走って、一部の人は痛みを感じて蘇生したかもしれないけどね。俺もスイッチが 入ったよ。

 俺のような覚悟を決められない人間は、連続して何十回も刃を抜く過程を練習する。刃を抜いたあと、チャンスを捉えて一気呵成に(相手を)斬るために、腕を磨く必要があるからね。いったん刃を抜くと、そう簡単に引き返せない。

  香港にいるときに、刃物を持って斬りつける対象を探して出歩いたこともあるけど、適当な相手を見つけられなかった。しばらくして気づいたよ。事をなしとげ たあと自刃するつもりだったけど、そんな覚悟は自分にはなかったんだ。だから斬る相手を見つけられなかったわけで、もし本当に覚悟があったら、対象も簡単 に探せたと思う。

  あいつ(梁健輝)のすごさがわかる? 警官を刺したことではなく、刺したあとすぐに自分を刺したこと。自分も刃物を手にしていたし、万一この刃物で自分を 刺したらどうなるか、空想もした。実際に自分の体をちょっとだけ刺してみたこともあるよ。でも、己の内側にある抵抗力がすごく大きくて、自分を刺す勇気な んかとても持てないことがわかった。

  人を刺すことは簡単じゃないし、自分を刺すことはもっと難しい。自分なら決行する前に深く深呼吸するだろう。だけど、あいつが警官を襲った際の映像を見る と、彼は(警官を刺したあと)刃物をすぐに、思いきり自分の胸に突き刺している。映画『レオン』に出てくるプロの殺し屋かと思ったよ」

 彼は警官襲撃事件について語った際、光城者の中学生たちが尖沙咀(チムサーチョイ)賓館内で爆弾を製造していた容疑で逮捕・起訴されたことについても、独自の見方を示した。「こんな爆弾を作るなんて、勇気が足りないよ」と言うのだ。

「本 当に勇気があるのなら、梁健輝のように直接刃物を使うよ。刃物で人を殺すのも自殺するのも、どちらも大変な勇気がいるし、実行は容易ではない。それにくら べると、隠れて爆弾作りをすることなんか、勇気のいることじゃない。俺はガキのころから『コールオブデューティ』なんかの戦争ゲームをやっているし、汚れ 仕事の必要性を心底理解しているんだ。

『反 送中』の最初から、黄色支持者がとてもクリーンなのは知っているけど、汚い仕事も結局は誰かが引き受けないといけない。なら誰がやるのか。俺たちがやろう じゃないかということで、俺の隊友は全員が命を賭けて勝負していたんだ。だから、あの中学生たちが逮捕されて残念だねとあなたに言われたとき、俺はこう 思ったんだ。騒ぎを起こすために立ち上がった以上、代償を払うことも覚悟しておくべきなんだとね。やるべきことをやると決めたのなら、それくらいの覚悟を 持つべきなんだ。俺たちは(警察に対抗するための)充分な武器を持っていない。だから賭けるのは自分の命しかないんだよ」

楊威利修『香港秘密行動 「勇武派」10人の証言』(草思社)

  穀象虫の日に国会近くで焼身自殺をはかったじーさんは、その後どうなったんだろう? どんな人間でどんな来歴を有して、あの日どんな心持ちでガソリンをか ぶったのか、いまなにを思っているのか、だれも報じない。2021年7月に50歳の梁健輝が香港で警官を刺し、みずからの胸にナイフを突き立てていのちを 断ったことももちろん、この国のマスコミはなにも伝えない。おれにも痛みを感じて蘇生するためのAEDを装着してくれ。簡単に引き返せないための刃を引き抜かせてくれ。忘れてはいけないいのちのために。賭けるのはじぶんのいのちしかない場所で。
2022.10.12


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 2014年の雨傘革命のさなか、「學民思潮」のかれらは高揚していたことだろう。2019年の大規模な民主化デモのさなかですら、希望は失われなかっ た。Everything will be okay だ。体を張って、だれもがそれを信じていた。けれどすべてはケストナーの『エーミールと探偵たち』のような冒険譚にすぎなかったのだろうか。幾数十万もの 体を張った人々が路上に繰り出しても敵わないもの。殴り倒され、撃ち殺され、蹴散らかされるもの。もういまではだれも語らない。もうだれも「シビック・ス クエアを占拠しよう!」とは叫ばない。監獄のなかのかれに届かない。恐怖による完全な支配。暴力がもたらす沈黙。ある日を境に町中の灯りが全消灯される。 当たり前だと思っていた日常が光を失う。暗闇のなかで息をつめて、うごめく目。闇のなかでも凝っと目をこらせば、そのあえかな輝きは見えてくるだろうか。 その微かな光でわたしたちは何を見るのか。希望、は残っているか。
※Netflix「ジョシュア:大国に抗った少年」を見る。
2022.10.15


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 講談師の甲斐淳二(織淳)さんは、思えばわたしがディランの東京公演で上京するに併せて谷中村を訪ねてみようと思い立ったときに、FB上で田中正造関連 の助言をいろいろとして頂き、当時はほとんどロクな知識もなかったわたしが佐野市の田中正造展示室までたどり着くことができた。またその前後だったか、嶽 本さんの大逆事件に関する演劇にはじめて触れるきっかけになった情報も、たしか偶然に流れてきた甲斐さんのFBで教えてもらったと記憶している。いろんな意味で先達です。

字や映像だけでない、肉声を通じて歴史を語り継いでいくことの得難さがここにある。古事記も平家物語も説教節も、かつては肉声によって伝えられ、連綿といのちを繋いできた。そういう意味では講談は、歴史語りの真骨頂なのだ。

 いつの日か、甲斐さんの生の講談を聴いてみたい。

(甲斐淳二・プロフィール
ア マチュア講談師。1952年、大分県生まれ。東京商船大学(現・東京海洋大学)卒業後、22歳で国鉄青函連絡船の航海士として函館に着任。石川啄木の住ん でいた近くのアパートに暮らし始める。1988年、連絡船の終航と共に上京。1912年神田香織の講談教室に入門(甲斐織淳)。創作講談「田中正造伝」 「三面記事の由来」「平民社の誕生」「石川啄木と大逆事件」「福島・夜ノ森の桜」等。古典は「西行の歌日記」「花筏」等。国際啄木学会会員。千葉県柏市在 住。)
※三郷啄木祭メーリングリストから

◆あるくラジオ第22回 :民衆の抵抗史を語り継ぐー甲斐淳二(織淳)さんに聞く
https://www.youtube.com/watch?v=ET2do1nyYQY
2022.10.17


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 山辺の長岳寺まで、往復約30キロはまあまあ走ったのかな。裏手の共同墓地に、先に高野眞幸さん(奈良県での朝鮮人強制連行等に関わる資料を発掘する 会)から伺った、戦前、柳本飛行場の工事に携わってそのまま住み着いた朝鮮の人々の墓があるというのを確かめに来たのだった。「清州韓氏之墓」「全州李家 之墓」などと刻まれた墓石がそうだ。半島の出身地も併せて記されている。1940(昭和15)年に19歳で亡くなった丁奎舜、1939年に47歳で亡く なった姜性女などは、周辺の土木工事などに従事していた者か。1918(大正7)年に亡くなった母と、1944(昭和19)年に亡くなった父の墓を 1976年になってやっと建てた息子もまた、現在では相当の年齢のはずだ。これまで墓地をあるいていても朝鮮半島出身者の墓というのは気づかなかったけれ ど、意識をするとけっこう目につくものだ。かれらの墓がなぜここにあり、どんな来歴を秘めているかに思いを馳せることによって、また違った風景が立ち上が る。だれもいない山ノ辺霊園、隣接する長岳寺墓地の墓石の間をまるで人魂のようにゆらゆらと気散じに徘徊したあとは、黒塚古墳と無料の古墳展示館をひとし きり見て、暗くなる頃に帰宅した。
2022.10.19


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 奈良と京都の県境の山あいにあるその墓地は、ひっそりとあかるく、調和に満ちた、じつに美しい墓地だった。墓地に“美しい”という形容はふさわしくない のかも知れないが、道沿いの六地蔵から石段をあがると苔生した石の鳥居があり、1298(永仁6)年の妙にゆがんで立つ十三重の石塔が優雅に天を指し、南 北朝時 代の双体地蔵、1560(永禄3)年の種子十三仏板碑、室町時代の阿弥陀三尊などの石造物にかこまれたひらけた空間に、多くの死者を乗せた棺台と石机を擁 したまるで農村歌舞伎の小屋掛けにも似た掘っ立て柱様の葬祭施設が立っている。吹き抜けの構えは、風の行き交う神殿のようだ。そのまわりをあたらしい死者 たちと古い死者たちが小奇麗に身を寄せ合って幾重にもとりかこんでいる。その佇まいが、どこか奥床しく、もの静かで、好ましいのだ。10月にしてはあたた かい陽の光が金剛遍照とでもいったふうに降りそそいでいる。風はなく、音もない。そんな場所に呆けたようにひとり坐していると、一羽の黄蝶がふわふわと草に埋も れかけた光背墓のあたりを飛び交っているのが、まるでたったいまそこいらの地面から抜け出してきた魂のような気がして、じぶんも何やらこの風景のなかに融 け出していくような心地がする。わたしもあの黄蝶になって、と思ったときにはすでに十三重の石塔を眼下にして、あの朴訥とした彫りの童のような石仏の頭へ翅を休めようかなぞと考えている。

※木津川市加茂、千日墓地を訊ねた。
2022.10.21


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 話題の『教育と愛国』(斉加尚代監督)をようやく、地元の城ホールの上映会で母と見る。「歴史から学ぶことなど何もない」とうそぶく東大名誉教授、自由 な教師たちの活動を窒息させる「維新」の松井・吉村、研究費助成をネタに大学教授の発言を脅す国会議員、検定を傘にして「自主修正」を強要してはばからな い文科省の官僚、「従軍」慰安婦など存在しなかったと断言してやまない駐在大使、「国を蔑ろにするこんな教育で子どもたちを育てていいのですか!」と叫ぶ アヘ、あまりに糞ばかりがウィンナーソーセージの如くつらなり登場するので、殺人リストをつくるべきだと画面を凝視しながら呪詛のようにつぶやいていた。 そしてアヘが犬のように殺されたのは至極当然の報いだったと改めて得心した。かれらこそがまさしく「反日」であるのだが、わたしはもはや「国」などどうで もよい。「国家」なんぞといったものがあるがために、その糞に群がりたかる蛆虫や蠅どもが如何に絶え間ないことか。「国境」などどうでもよい。「民族」な ど、ない方がいっそよい。それらはみな、蛆虫や蠅どもを肥やす糞でしかない。マルコムXの「X」は「青い目の悪魔が父方の先祖に強引に押しつけた、奴隷の 主人リトルに代わるもの」だとマルコム・リトルは喝破した。であれば、日本人○○でなく、X国○○でよい。世界中がX国になればよい。辺野古も尖閣も北方 領土も従軍慰安婦も強制連行も在日も残留孤児もウクライナもロシアも消滅する。国旗は「X旗」で、国家などは「X唄」でよい。レノンはかつて「神は苦痛を 測る尺度にしか過ぎない」と歌った。であれば「国家」とは所詮は集団を生きやすくするための「方便」でしかないのだ。もともと命を捧げるような大したもの でもない。内なる「国家」を死滅させよ。方便が日常を侵食し出したらおしまいだ。方便が至上の存在で、方便を死守するものが英霊なのだなぞと言い出した ら、そいつは相当イカレている証しだ。
2022.10.27


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 終日、つれあいと二人で市内のデイサービス施設にて現地見学・研修。要介護1・2あたりがメインなので、ほとんどはお上品で可愛らしいおばあちゃんたち だ。最初にケア・マネージャーの方に施設や日常業務の説明をしてもらい、その後はいっしょに体操をしたり、お茶を運んだり、レンジで温めたタオルを袋に入 れて腰やひざの温めに使ったり、トイレ利用者の補助やおむつ交換、入浴場での注意事項などを教えてもらったり、シーツ交換を手伝ったり、あとは塗り絵をし ているばあちゃんから「トナカイの帽子は何色にしたらいいだろう?」と質問を受け、あるいは別のばあちゃんの探し絵をいっしょに探したりしながら雑談をし たり。もともとわたしは、若い女性には一向にモテないが、ばあちゃんには昔からなぜか好かれるタイプなのだよ。一人のばあちゃんは小泉神社のそばでコケて すっと亡くなった「お父さん」が長年郵便局に勤めて喧嘩一つしたことがない良い人で、家にかかっているその「お父さん」の額に入った大きな写真に帰ったら 塗り絵を見せてやるんだと言い、そしてよくできた長男が京都で大学教授をしていて、嫁が奈良の県立病院に勤めていて、長女はシャープで働いているというの を10回くらい聞いた。「お父さん」が死んで立派な墓を建てたというので、いったいどこの墓地なのかをしきりに聞き出そうとしたのだが、話はすぐに額に 入った「お父さん」と大学教授の長男と嫁と長女の話になって、ついに墓地にはたどり着けなかったのだった。そんな話をしていたら向かいのテーブルのばあ ちゃんが「わたしもダンナが死んで、一人暮らしだ」と言うので「いつ頃ですか?」と訊くと「二日前だ」と言う。ええっ、そんな最近の、と驚いていると、 「死んでしまったから、もうどうしようもない」なぞと可愛らしい声でつぶやいているのだ。パートだけれどもう20年近く子どもを育てながら働いてきたとい うアンドレ・ザ・ジャイアントのような女性のスタッフは、「入浴はわたしたちの特権だと思うんですよ」と言う。家族では気づかない身体の異変(アザや鬱 血、褥瘡など)を発見できる。感覚が麻痺していてじぶんですら気づいていないこともある。それをいち早く見つけて、次につないであげられるのがわたしたち の特権なのだと誇らしげに言う。その女性スタッフが見せてくれた個人ファイルの中に、施設へのリクエストとして「たくさん話をしたい」と書いているおばあ ちゃんがいた。塗り絵をしていたあるおばあちゃんに「ここに来るのは愉しいですか?」と訊いてみると、「うん。わたしはけっこう気に入ってるよ」と答え る。お風呂に入って、マッサージをしてもらって、フィットネスバイクを漕いで、体操をして、お昼とお八つを食べて、塗り絵をして、少しばかりスタッフや他 の利用者たちと会話をするがそれは他愛のないものや微妙にすれ違ったような会話ばかりだ。人はいのちの終着にどんな場所が必要なのだろう。夕方、予め渡さ れていた用紙に一日の感想を書いてケア・マネージャーに提出すると終了だ。「なんか、手慣れた感じで」と言われて、「いやいや、そんなことはないですが、 ちょっと名残惜しいですね」と笑いながら施設をあとにしたのだった。帰ったら、ソファーで横になっているジップに添い寝して、そのまましばらく眠って しまった。ばあちゃんたちとのんびり過ごしてきたと思っていたけれど、けっこう気が張っていたのかも知れないな。
2022.10.29


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 3年振りの開催という京都・東九条マダンを見に行った。朝鮮学校の生徒たちの愛らしいカヤグム併唱や舞踏を見ていると彼女たちの守りたいもの、民族、 ルーツ、dignity(尊厳)といったものがこの国で置かれている場所にあって、健気ということばがまっさきに浮かんできてしまう。まさにかつて、会場 からほど近くにあった彼女たちの学校は不合理なヘイトによって移転を余儀なくされたのだ。そして最後のワダサム――和太鼓とサムルノリの共演だからそう呼 ぶのだそうだが、チャンゴを叩く民族衣装に身をまとった在日の人々と、和太鼓を叩く法被姿の日本人たちの掛け合いは、互いに微笑み合い、相手を尊重し、ゆ ずり合い、競い合い、ひっぱりひっぱられ、音が国や民族などといったものを呑み込んで高揚していくさまは、喜納昌吉ではないけれど「世界中の武器を楽器 に」と言いたくなって、迂闊にも涙が出てきそうな感動を覚える。だから、だれもがこの東九条マダンを見に来るべきだ。
2022.10.30


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  微笑んでいるだけ、脅迫文句を言っているだけ、非暴力で情愛を示しているだけじゃあ、パワー(権力)は何もしてくれない。パワーの前でしか、パワーは援助の手を出さない、というのがパワーの本質だ。
(マルコムX 1965)

 マーティン・ルーサー・キング・ジュニアよりも、カミソリのようなマルコムXの言葉の方が渇きを癒してくれるように感じる。わたしには。
2022.10.31


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 アメリカ南部の黒人が「ホワイト・オンリー」や「カラード」などの表示で公然と差別されていた時代には、カミソリのようなマルコムXの言葉はある意味、暴力であり、武器であった。持たざる者の、それこそ命がけの最後の武器だ。

  この国がゆがんだヘイトに満ちているのは、上から下まで、言葉を装飾品のようにジャラジャラと弄ぶ連中が何の覚悟も責任も矜持もなくただ己の欲望や愉悦の ためだけに垂れ流し、それに「いいね!」をする無数のカオナシどもが病原菌のように蔓延るからだ。寄生するしかない病原菌はみずからの存在だけでは生存で きない。
2022.11.2


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 ジョニー・キャッシュ晩年の American Recordings のシリーズは、まるで迫りくる死に対する勝ち目のない抗いのようだ。1994年のかれが62歳のときから、2003年に71歳で亡くなるまでに5枚のアル バムが録音された。その間、糖尿病と関連する自律神経失調症や、重度の肺炎などを患った。かつてわたしは聖書に馴染んでいたとき、イエスはきっとジョ ニー・キャッシュのような声をしていたに違いないと信じた。堂々とそびえ立つ大樹のようだったかれの歌はここでは、あえかな悲鳴のような悲哀、贖罪、救済 の叫びに満ちている。声はひび割れ、悲しみは波うち皿から溢れ出そうだ。それらの歌はほんとうにすべて虚しい抵抗だったのだろうか? 死の恐怖に怯え、降伏の白 旗をあげたのだろうか? 空いっぱいに広がった緑の葉は、ただはらはらと塵芥のように散っていったのだろうか? 死はゆるぎない最後の勝利者なのか? わ たしは、ちがうとおもう。もともと、生きることはあらがいなのだ。うまれてきたことが、あらがいだった。死はそのあらがいをはかる尺度にすぎない。癌細胞 の原因が生きることであったように、死にあらがうことがよく生きることだった。ジョニー・キャッシュのこれらの歌は、深い森のなかで枯死する大樹のさいごの吐息のよう だ。倒れたかれの肉体に無数のキノコが生え、森はあらたな養分を得る。個はあらがい、森を生かす。イエスはきっとジョニー・キャッシュのような声をしてい たに違いない。
2022.11.4


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 つれあいと仲良く介護講座、最終日。

 世間は狭いもので、本日の講師の日下氏はなぜかわたしとFB友でいる“介護界のシー ラカンス”(自称)三好春樹さんの友人だということですでに指名手配の名前が流れていたようで、帰り際にそのことを伝えると「知ってましたよ〜 “面白い 人がくるから”と聞かされてたんで」って、わたしはごくふつうかそれ以下の人間です。

 日下氏の講義は終日、認知症について。最後の「自 立は、依存先を増やすこと」という話がとくに面白かった。「じつは厖大なものに依存しているのに、“わたしは何にも依存していない”と感じられる状態こそ が、“自立”といわれる状態なのだろうと思います」 認知症や重度の障害者の行き着く果てに、じつは健常といわれるわたしたちの裸の状態が在る。

 最後の時間に受講者一人づつが1分間感想スピーチを行ったのだが、わたしが喋ったのは以下のとおり。
「介 護についてはわたしは経験も知識もなく、じつは興味すらありませんでしたが、今回嫁さんがこの講座を受けるというのでついてきました。ところが講師の先生 たちの実体験に基づいた話がとても面白かった。目線が変わるというか、価値観が変わる、あたらしい価値観を与えられるような感じで、介護の仕事っていうの は、じつはすごい魅力的で、深い人間学のようなものじゃないかと思い始めています。じっさいの介護施設へ研修へ行ったことも、これまでは建物を外から眺め るだけでしたけれど、そのなかで日々何が行われているかというのがすこしばかり見えて、敷居が低くなったのが良かったことかなと思っています。ありがとう ございました」(拍手)

 終了証を頂いて、これで講座はすべて終わりなのだが、欲が出てきたわたしはもう一ヵ所、前回のお年寄りたちのデ イサービスの施設にプラスして、障害者の介護施設も一日見学させてもらえるようリクエストをしてきた。初日の午後に「障害の理解」と題して講義をしてくれ た喜多学志氏の施設である。日程を調整して、追って連絡をくれるとのこと。

 最後に、今回の資料としても取り上げられていた三好春樹さん。来年年明けに奈良県文化会館で講演があるそうだ。興味がある方は如何ですか。
2022.11.5


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 奈良・下市の共同墓地。じつに170基もの軍人墓が整然と立ち並ぶ中に混じっていた「水本芳松家族四名之碑」。側面に「昭和20年3月9日  帝都空襲 家族四名焼死ス」と刻む。Wikiによれば「「ミーティングハウス2号作戦」と呼ばれた1945年3月10日の大空襲(下町大空襲)は、超低 高度・夜間・焼夷弾攻撃という新戦術が本格的に導入された初めての空襲だった。その目的は、木造家屋が多数密集する下町の市街地を、そこに散在する町工場 もろとも焼き払うことにあった」 墓碑に9日と記されているのは「日付が変わった直後の3月10日午前0時7分に爆撃が開始された」ためであろう。この一 夜の殺戮で一説では10万人以上の死者・行方不明者が出たとされている。下市出身の水本芳松一家は故あって当時、東京の下町で暮らしていたのだろう。父が 49歳、母が37歳、かすれて読みにくいがまだ小学生だったろう長男と次男がいっしょに亡くなっている。一家全滅だったろうか。隣には昭和20年3月に比 島で戦死したおなじ「水本」姓の兵士の墓が並び、どちらも「水本巳之吉」が建立している。今宵はこの「水本芳松家族四名」の死に思いを馳せたい。
2022.11.8


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 人間としての尊厳を貶めるものであるなら、それは国家であっても犯罪者で非合法だという視点は持っておくべきだ、とおれは思うよ。「今の犯罪的状況に対して責任ある者が犯罪者だ、非合法だ」と言うマルコムXは正しい。

「私 たちの手段は、必要なあらゆる手段でということだ。それがモットー。これやあれや限定されたり、束縛されたりしない。人間としての尊厳を守るため、私たち を世間が人間として尊敬するように、必要なあらゆる手段を使う権利を確実にする。必要なあらゆる手段で。だからといって非合法な手段を意味するのではな い。私たちは犯罪者として扱われている。だが非合法な者が犯罪者だ。今の犯罪的状況に対して責任ある者が犯罪者だ、非合法だ。犯罪があなたがたに対してな され、不利を及ぼすのを阻止するために何をしても、私の考えではそれは犯罪ではない」(Malcolm X. 1965)
2022.11.10


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 愛知県立芸術大学主催の「芸術講座《災害と文化財》講座シリーズ第7回「原爆の図」−よみがえる想い−」をZOOMで視聴参加、「原爆の図」丸木美術館 の岡村幸宣さんの話が滋味深いものであった。丸木位里と丸木俊夫妻が描きつづけた『原爆の図』は絵=<物体>である。岡村氏はそこへ「身体 性」ということばを添える。「『原爆の図』は過去の記憶を現実にむすびつけるメディアであった」  合わせ鏡のように、絵を見ているわたしたちの< 時間>もそこに流れ込む。1950(昭和25)年に二人の共作によって完成した第一部の《幽霊》から、『原爆の図』は過ぎた過去ではなく、常に現在 とクロスしながら描かれていった。第一部の《幽霊》が描かれた1950年は、朝鮮戦争の始まりだった。1955(昭和30)年の第九部《焼津》には、前年 にビキニ環礁で被爆した第五福竜丸が描かれた。1971(昭和46)年に第十三部《米兵捕虜の死》が描かれたのはベトナム戦争のさなかである。翌年 1972年、第十四部《からす》には石牟礼道子氏の文章を添えて被爆した朝鮮人の人々の無残な死が描かれた。二人の絵は、リアルタイムで抗いつづける。 1982(昭和57)年、第十五部《長崎》。『原爆の図』は最後まで完結されなかった、いまも閉ざされていない、読み直されれつづける、と岡村氏は言う。 「原爆を考えているうちに、それだけでは済まなくなった」  《南京大虐殺の図》(1975年)、《アウシュビッツの図》(1977年)、《水俣の図》 (1980年)、《沖縄戦の図》(1984年)。二人の絵はまるでやまにやまれず増殖する奇怪な細胞のようにとめどなくひろがってゆく。絵とおなじように、埼玉の 長閑な川沿いの地に建てられ、絵が完成するたびに増築が繰り返された「ツギハギの美術館」もまた有機的な二人の作品のようだ。『原爆の図』について最後に 岡村氏が宣べたことばは、軍人墓や紡績女工や在日コリアンの隠された歴史などをめぐってばかりいるわたし自身をあたかも代弁してくれたかのようだ。「過去 の歴史を呼び起し、現在につなげ、未来への予兆を感じとる」  まさにそのように、わたしもあるいているのだった。
2022.11.16


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  高齢の母のリクエストで娘と三人で、週末に小谷城周辺の浅井めぐりの日帰り旅に行ってきた。ちょうど近江に住む友人の画家が装丁画を描いた浅井三代の 物語を読み終えたところだったので、奇しくもタイミングが良い。戦国期に北近江を統治した浅井家は、信長の妹であるお市とその三人の姉妹をめぐる物語でも 有名だが、今回はそれらの歴史話は省略する。

  娘は生まれつき下肢の麻痺があり、短い距離であれば杖をついて移動することもできるが、長時間は難しいので外出の際は状況に応じて車椅子を車のトランクに 積んで持って行く。奈良から、いつものように瀬田南付近の自然渋滞に加えて、彦根周辺の工事による車線規制の渋滞にも巻き込まれて、滋賀県長浜市の小谷城 跡の麓に建つ小谷城戦国歴史資料館にやっと着いたのはお昼手前だった。

 戦国歴史資料館は平屋で、入口からの距離も短かったので、車椅子 は使わずに見てまわった。展示を見てから小谷城跡の本丸に近い番屋跡まで車であがって、娘には車で待っていてもらい、老母と二人で20分ほど登った本丸跡 や長政が自刃した赤尾屋敷跡くらいを見てこようかと目論んでいたのだが、シーズン限定で麓から出ているシャトルバスが今日は運行しているために番屋跡まで の林道は一般車は走れないということであった。有料のバスは30分おきに出ているが、それに乗っていくとなると娘を1時間半以上は車内に残しておくことに なるので、残念だが登城は諦めた。これはこちらのチェックミスでもあるので仕方がない。

 小谷城跡から南東へ下った草野川沿いの、街道筋 のような鄙びた集落の古民家を利用したカフェのランチはヒットだった。飛騨牛入りのパティをはさんだバーガーセットは絶品で、ボリュームも充分。娘は女性 の店員さんとハリー・ポッターの話で盛り上がり、わたしは純和風な庭の陽だまりに置かれたハンモックやマウンテンバイクなどを眺めながらほっこりとした時 間を過ごした。

 ランチ後に立ち寄ったのが、浅井文化 スポーツ公園や市立図書館に隣接した浅井歴史民俗資料館である。ここは敷地が広そうだったので、はじめてトランクから車椅子を出してわたしがついた。入口 を入ると、菖蒲池のぐるりに浅井三代をメインとした「郷土学習館」、江戸期の庄屋の屋敷を移築した「七りん館」、戦国期の鍛冶屋の作業場を模した「鍛冶部 屋」、地域の主産業であった養蚕を説明する「糸姫の館」などが配置されている。

 「郷土学習館」へはU字にターンする形のスロープで入 る。風除室に備え付けの車椅子も置いてある。入館料300円、障害者手帳を持つ本人と付き添い1名は無料である。1階の展示「浅井三代の間」を見てから、 浅井三姉妹の再現人形などの展示がある2階展示室へあがろうと思ったところ、エレベーターがどこにも見当たらない。受付の女性に、車椅子はどこから2階へ あがるんですか? と訊くと「あ、ここ、エレベーターないんです」 それで終わりだった。

 仕方がないので娘には階段だけ自力で上がって もらい、車椅子は折りたたんでわたしが抱えて持って上がった。2階に上がって気づいたのだが、2階の展示ケースは1階のそれと仕様が異なるようだ。縦長の ケースは展示部分が車椅子の視線よりも高く、展示物が見えない。横の平棚タイプの展示ケースは車椅子の目線になる前上部の角に分厚い枠があって目線を遮っ てしまうため、車椅子に座った状態では下から覗き込むような形でかろうじて中が見えるような具合だ。これまで娘といっしょに多くの博物館や美術館を訪ねた が、これだけ車椅子から見えにくい展示ケースははじめてである。どうせエレベーターがない2階だからか、と思わず邪推もしてしまいたくなる。

  2階の展示を見終えて、ふたたび車椅子を抱えて1階へ下りる。最後に別室の「姉川合戦絵巻物シアター」を見て帰ろうかと入りかけたら、何とベンチが邪魔を して車椅子が入れる幅がない。「ベンチ、動くようだから、どかしたら入れるよ」と言ったのだが、娘は、ここで見るから構わない、と入口の手前から映像を見 始める。わたしは以前の施設管理の職場で、障害者の権利を必要以上に振りかざして不合理な要求をしたり、平気で迷惑行為をするような人たちも多く見てきた ので、たとえば駐車場のブルーゾーンなんかでもほんとうに必要でなければ使わないし、障害者の権利主張といったこともふだんはあまり声高には言いたくな い。けれど、このときはさすがに何かがぷっつりと切れてしまった。

 受付の先ほどの女性スタッフのところへ行って、さすがにこれはおかし くないか、とクレームを入れたのであった。「入口のところはスロープがあって、風除室には館備え付けの車椅子もあって、それなのに2階の展示へ向かうエレ ベーターがないって、矛盾してませんか?」と言うと、彼女は先ほどのそっけない表情と違って「そうなんですよ。わたしも、いつもそう思って言ってもいるん ですけど、なかなか難しいらしくて・・」と困ったように答える。ああ、この人もおなじように感じてくれているんだなと思ったら、わたしの態度もきっと、 ちょっと和らいだかも知れない。

「まあ、建物も古いでしょうから、新たにエレベーターを設置するのもお金がかかることですしね。でもね、 エレベーターは百歩譲って諦めるとしても、それだけじゃないんですよ」とわたしは、2階の展示ケースが如何に車椅子の目線を遮っているかを説明した。「そ して車椅子を抱えて階段を下りてきて、最後にシアターを見ていこうと思ったら、これですわ。車椅子が通れない入り口の幅。物理的あるいは予算的に仕方がな いだけじゃなくて、心がないっていうかね。わたし、娘といっしょにこれまでいろんな資料館や美術館・博物館など行きましたけど、ここまで車椅子に配慮のな い施設ははじめてです。あまりにも、ひどいですわ」 もちろんあなた個人を責めているのではなくて、こういう意見があったということをぜひ上の人に伝えて 頂きたい、とわたしは言って資料館を出たのだった。

 入口には車椅子用のスロープがあり、風除室には備え付けの車椅子を置いているのに、 車椅子の者が2階に上がれる手段はなく、1階のシアタールームですら車椅子の進入を阻んでいる施設とはいったい何だろうか? とわたしは考える。「バリア フリー」の「バリア」とは障壁のことである。以前に障害者施設の現場で働く人の講演を聞いたとき、こんなたとえ話をしてくれた。

質問) 住んでいる人の9割が「目の見えない人」という町があった。町の住民たちに「あなたが市長になったらどんな条例をつくりたいですか?」と訊ねた。

答え) 「まずは、街中の電気をぜんぶなくします」

  目の見えない9割の多数の総意で町中から電気が撤去され、1割の目の見えるひとたちが暗闇で暮らさなければならないのが、いまの社会の有り様ではないだろ うか。バリア(障壁)は何も障害者だけではない。目が悪くなっていくと、わたしたちはメガネをかける。メガネがないと困ってしまう。 これは一般によくあ る「社会に参加するための道具」である。車椅子も白杖もスロープも駅のエレベーターも視覚障害者誘導用ブロックも、じつはみなおなじことで、バリア(障 壁)は障害者だけに存在するのではなくて、多数の人のバリアフリーが進んでいるだけのことなのだ。

  そう考えると、バリアフリーを考える 目線が変わってくるし、バリアフリーは(いまは)障害を持たないわたしたち一人びとりにも深くかかわってくる問題なのだと気づく。わたしたちの社会にはさ まざまなバリア(障壁)がある。糖尿病の人のバリア、不登校の子どものバリア、目の見えない人のバリア、日本で働く外国人のバリア、お年寄りのバリア、年 金生活者のバリア、独身者のバリア、女性のバリア、在日コリアンのバリア・・  そうしたさまざまなバリアをなくしていって、だれもが平等に参加できる居 心地の よい世の中をつくっていくことが、ほんとうのバリアフリーだとわたしは思う。

 浅井歴史民俗資料館を後にして、わたしたちは姉川の古戦場 跡と江戸時代に灌漑用水の争いを解決するためにつくられた底樋(地下水路)跡などを見てから、ほんとうは国友鉄砲ミュージアムにも立ち寄りたかったのだが 時間切れで、東近江の知人から近江米30キロを買い、それにたくさんの取れたての野菜を頂いて、いつものように御澤神社の名水を汲んで帰途についた。小谷 城跡へは残念ながら登れなかったけれど、こころに残る浅井めぐりの旅となった。長浜市にはぜひ、ほんとうのバリアフリーについて、もういちど再考してみて いただきたい。

2022.11.19


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 西成で2009年に殺された(おそらく)信仰深い女性医師のあまりにも無残な死が頭にこびりついて離れない。医療ビジネスの闇が横たわっていると言われ るが、そういう社会問題的な意識よりもむしろ、何と言っていいか、のっぺりとしたその死。ざらざらとした余韻のようなもの。木津川の眼鏡橋のそばの渡し場 で水に垂直に立ち、両腕を直角に曲げた状態で浮いていたという非現実的なイメージ。西成の鈴成座に市川おもちゃ劇団を幼い娘と見に行ったのは、あれはいつ だったろうか? どこかで生前の彼女とすれ違ったこともあったかも知れない。永遠に取り戻せないいのちが大学病院のひっそりとした倉庫のホルマリン漬けの 胎児のように白く浮かび上がっている。あまりにも純心が一方向にひた走り、薄汚れた無慈悲な悪意に鶏のようにひねられた。冷たい冬のあの渡し場で佇めば、 いまでは語らぬ水中の亡骸と交信できるだろうか。何気ない日常の風景に蒸気をあげて噴き出す間欠泉のように思われるのだ。噴火口の硫化水素の匂いにも似て 思わず鼻をつまむ。彼女の死とわたしの生。彼女の生とわたしの死。永遠のすれ違いが、いっそ苛立たしい。死者よ、立ち上がれ。直角に曲げた水中の両腕でわ たしを誘え。あなたの無垢な首に手をかけ、あなたの旺盛な真心を裁断したのはいったい誰なのか。そいつらはいまも自由にあるきまわり、わたしとおなじこの惑星 の空気を吸っているのか。わたしの肺を汚し、あなたの死を汚すために。この屈辱からわたしたちはいったい何をとり戻せて、何を永遠に失うのか。死の前に彼 女の手帳に残されたミサの記録、マルコ12章38節〜44節、「隠れていて尊いもの」。あなたよ、まだ昇天してはいけない。魂魄はいまだこの地上にとどま り、まつろわぬことばを語るべきだ。

12:38 イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、
12:39 会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、
12:40 また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」
12:41 イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。
12:42 ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。
12:43 イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。
12:44 皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」

大阪西成女医不審死事件

2022.11.22


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 大阪城の南、JR鶴橋駅からもほど近い真田山はかつて真田信繁(幸村)が1614(慶長19)年、大阪冬の陣の折に出城(真田丸)を築いた と伝えられることでも有名だ。その丘陵地に1871(明治4)年、日本ではじめて設置された軍用墓地が旧真田山陸軍墓地で、後に小学校の建設によって一部 の敷地が縮小されたが、いまでも広大な敷地に5千を超える墓標が整然とならび、訪れる者を圧倒する。

 ここには西南戦争から日清・日露、 第1次世界大戦、第2次世界大戦における戦没者が眠り、中には戦時で捕虜になったドイツ人や清国人の墓標も混じっている。軍人だけではない、軍によって雇 われた馬丁・職工・船乗り・看病人・通訳などのさまざまな職種の民間人も「軍役夫」として眠っている。「生兵」といわれる入営したばかりの初年兵が病気で 亡くなったり、訓練中の事故で命を落としたと刻まれた例もある。コレラなどの伝染病で亡くなった兵士も多い。

 つまり、明治からの150年のこの国の戦死者たちの声なき声が、この旧陸軍墓地には満ちている。まだ行かれたことがない人は、機会があればぜひ行ってみて欲しい。そして無数の墓標の前でしずかに佇んでみて欲しい。たくさんのことが思われるはずだ。

  長年、この墓地の維持・管理に努めてきたNPO法人「旧真田山陸軍墓地とその保存を考える会」が主催するシンポジウム『軍事・戦争遺跡を未来に生かす道― 近代遺跡保存の条件とエコミュージアムの可能性―』が、大阪歴史博物館で開かれるということで、祝日の午後に出かけてきた。

 基調講演は 京都国立博物館副館長の栗原祐司氏が従来のハコモノ、専門家による「テンプルとしてのミュージアム」の枠を超えた、生活環境へ飛び出し、地域の住民が参加 するひらかれたミュージアム=エコミュージアムの概念を説明し、各地に残る軍事・戦争遺跡などを地域ごとのエコミュージアムとして活用・保存・継承してゆ く可能性について語ってくれた。

 その後は6人のパネラーによる各15分枠のショート講演である。

 在日コリアンや戦争 遺跡などで、様々な会場やZOOMですでに何度か拝見している「十五年戦争研究会」の塚崎昌之氏。かつて朝鮮人の強制労働があった軍艦島(端島)では現 在、強制連行を否定する展示がなされ、また旧⽇本海軍の練習航空隊の飛行場跡として加西市が「鶉野フィールドミュージアム」として整備を進めている展示 が、なにやら戦争賛美の匂いを放ち始めていることなどを指摘した。

 かつて本土防衛のための陸軍の拠点基地であった大正飛行場(現在の八尾空港)の保存運動をしている大西進氏からは、八尾空港周辺に現在も残る飛行機を隠すための掩体壕、分厚いコンクリートでつくられた戦闘指揮所、玉手山や屯鶴峯の地下壕などの説明があった。

  関西でも有数の軍事拠点であり、3千人の戦死者を祀る信太山忠霊塔については和泉市教育委員会の森下徹氏で、この人の論文はかつて『陸軍墓地がかたる日本 の戦争』(ミネルヴァ書房 2006年)で拝読した。陸軍の演習場や野砲兵連隊などがあった信太山の経緯、耐震補強の必要性のために一時は撤去も検討され た忠霊塔、そして遺族会の高齢化などによる今後の管理上の課題は全国共通のことだろう。

 戦後、荒れ果てていた旧真田山陸軍墓地の整備・ 継承を日本史学者である小田康徳氏と共に地元住民として尽力してきた「保存を考える会」の吉岡武氏。戦前は軍人が襟を正して参っていた軍人墓地は子ども心 にも気軽に立ち入れない静粛な空気があったが、敗戦後は草が伸び放題、墓石も倒壊して無残な姿に変じたという。

 博物館の側から軍事・戦 争遺跡とのかかわりあいを語ってくれた大阪歴史博物館の船越幹央氏。『博物館研究』にて「負の歴史を伝える博物館」の特集を組んだ際、公害資料館について 林実帆氏が言及した「公害の負の経験は、マイノリティの意見がマジョリティの利益に押しつぶされるところにある」という言葉が印象的だった。

 それぞれの方が「軍事・戦争遺跡」のからみに於いて、とても興味深い内容を語ってくれたのだが、なかでも個人的にもっとも印象深かったのは紅一点、「保存を考える会」の岡田祥子氏であった。

  岡田氏は旧真田山陸軍墓地の近所に住み、「保存を考える会」の人たちが熱心に活動している様を見て入会したという。仕事を定年退職してから大阪大学のアー ト・プラクシス人材育成プログラムに参加、その受講生企画として「旧真田山陸軍墓地のエコミュージアム化」を応募、採用されて創作を演出家・劇作家の筒井 潤氏に依頼した。

 旧真田山陸軍墓地を訪れた筒井氏は、整然と立ち並ぶ無数の墓標を「生きた人間が、軍隊によって石に変えられた姿だ」と 思ったという。そして「無数の墓標のどれかだけを取り上げることはできない。全員の名前を呼びたい」と思った。『墓標を視聴する』と名付けられた作品の構 造は以下のようなものである。当日のレジメから引く。

・埋葬されている人の名前を時系列で読みあげ、録音する。

・1日を0.08秒にして、同じ日に亡くなった人の名前は同時に再生されるようにプログラムを組む。

・0.08秒では1人の名前が読み切れないので、連続して亡くなっていたら、名前の最後と最初は重なる。

・大量に亡くなった場合は膨大な数の名前が同時に再生されるので、個々の名前は全く聞き取れず、羽音のような爆音だけが0.08秒の間に聞こえる。

・最初の埋葬者から最後の埋葬者の逝去日までの年月を、1日を0.08秒に換算したものが上映時間。

・戦況が激しくなるにつれ、個人の名前は聞き取れなくなる(=個人が消される)。観客は死の歴史を墓地で体験する。

  参加者は墓標の間に立ち、各自のスマホからイアホンへ流れ込む音を体験する。はじめは聞き取れた一人びとりの名が、時系列と共に重なることが増え、最後は 多くの名前が分厚いコンクリートのように重なった爆音が耳を打つ。わたしも各地の共同墓地で軍人墓を参ったときには、やはり一人びとりの名前を読みあげて 手を合わせるようにしているが、それは、名前はときにその人間の生きた証であり、命でもあるからだ。だから宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』で、千尋もハ クも湯婆婆から名前を奪われる。

 生きた人間としての無数の名前が分厚いコンクリートの塊のようになって響くというのは、そのまま人間が 石(墓標)にされることである。石にされた人間たちがいま、わたしたちの前に無言で坐している。それはすごい体験だと思うのだ。物言わぬ墓標が、はじめて 「声」を与えられた瞬間であったかも知れない。

  ちなみに旧真田山陸軍墓地に立つ5千を超える墓標は明治から日中戦争の頃までのもので、戦況が悪化するにつれて一人びとりの墓標を立てる余裕もなくなり、 以降は納骨堂(忠霊堂)に収められた。1943(昭和18)年に大阪府仏教会により寄進された堂内には、「1937年7月に始まる日中戦争から1945年 9月降伏文書調印によって終結するアジア太平洋戦争まで、大阪に拠点を置いた第4師団管区の戦没者8249人分の分骨が合葬されて」いるが、年代別には敗 戦直前の2年間が突出して多い。岡田氏らは5千の墓標につづいて、この堂内の8千の骨壺に記された名前も『墓標を視聴する』で読みあげた。

  ところで基調講演の栗原氏、パネラーの6名、司会役の小田氏を交えたディスカッションの終わりかけの頃、観客席から「ひとこと、言わせて欲しい」と声をあ げた者がいた。見ると足もともやや覚束ない、高齢の男性である。「どうぞ」と小田氏から促された男性は通路に立ったまま、「わたしはね、今日は一人で来た んじゃない。大勢の英霊たちといっしょに来たんだ」と声をはりあげる。

「・・わたしはね、般若心経を唱えながら、あの国立医療センターの 歩兵8聯隊のところへ埋めに行ったんだよ。むごたらしいものだった。みんな、そうやってお国のために死んでいったんだ。それをなんだ、おまえたちは。陸軍 墓地を未来に生かすとか言うから来てみたら、こんなだらしない内容を聞きにきたんじゃない! ミュージアムなんかつくってどうするんだ!」

  ぬきさしならぬ男性の声に、おなじくらい性急な女性の声が反論し、客席をはさんでお互いに叫び合い、とうとう壇上の小田氏が「ここは喧嘩をする場所ではな いので」と止め、「そういうご意見も含めて、これからいろいろと考えていきたいと思っています」とまとめて、会場の時間も迫っていたこともあってシンポジ ウムは何やらざらざらとした雰囲気のままお開きとなり、そのまま壇上の片付けへと移行していった。

 わたしは当初、場を乱した件の高齢男性に対し て不愉快な気持ちを抱いたが、国立医療センターの歩兵8聯隊――現在の難波宮公園のあたりへ般若心経を唱えながら埋めに行ったという男性の言葉をあらため て想起した。空襲で亡くなった兵士の遺体を仮埋葬したのだろうか。そのときの死者の記憶はいまだにかれの脳裏から離れ難い。たしかに男性は礼をわきまえぬ 闖入者であったが、かれのような思いをこそ、これからの活動は取り込んで、昇華させていかなければいけないのだろうと思った。

 負の遺産を、未来へ生かす。つい数日前、ZOOMで参加した愛知県立芸術大学主催の「芸術講座《災害と文化財》講座シリーズ第7回「原爆の図」−よみがえる想い−」のなかで、「原爆の図」丸木美術館の岡村幸宣氏が最後に言った言葉がふたたび思い出される。

「過去の歴史を呼び起し、現在につなげ、未来への予兆を感じとる」ために。

 そういう意味でも、印象深い一日であった。
2022.11.24


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 午後からHiroshi Kamedaさんのお誘いで日本社会文学界例会のZOOMミーティングに参加させて頂いた。

    〇 中谷いずみさん「住井すゑ展がもたらしたもの」
    〇 日野範之さん「識字運動とその表現」

 住井すゑは20代の頃に愛読したけれど、『向かい風』や『野づらは星あかり』といった農民文学が好きで、奈良の被差別部落を描いた『橋のない川』はじつはまだ読んでもいない。

  住井すゑとは逆に関東から奈良へやってきたわたしだが、ノートPCで写した中谷いずみさんの話を、デスクトップマシンで関連する項目を調べながら聞いてい た。戦時中に軍部を賛美するような作品があり、戦後に「何を書いたか忘れた」云々のコメントも、同時並行で読みながら驚いていた。

 住井 すゑは奈良県田原本の満田という集落の大和木綿の製造業と農業を営んでいた比較的裕福な家に生まれた。作品の中で「戦争はありがたい。戦争は価値の標準を 正しくしてくれる。そして、人間の心に等しく豊かさを与えてくれる」などと語らせていた彼女が、戦後になって『橋のない川』を書き始めた。やはり作家であ る夫の犬田卯が闘病の末に亡くなり、「夫の遺骨の一部を東京・青山墓地の「解放運動無名戦士の墓」に納めたその足で部落解放同盟を訪ね、今日から運動に参 加させてほしいと申し出た」。55歳だった。
https://nordot.app/513924894760109153

  「盛り上がりに水をさしたのは95年8月の『RONZA』戦後50年特集「表現者の戦争責任」。戦時中の住井が忠君愛国物語を書き、戦争を賛美したではな いかと責めた。これに対して住井は「書いたというより、書かされちゃうんですよね、あの頃は」「それ書かなくては生活できない」と釈明した。さらに、責任 のとり方を追及されると、「『橋のない川』を書くことがいっさいの自分の反省であり、もう、ここにすべてを書き込めると思って始めた」と応じている」

田原本町の図書館には住井すゑの実家から預かっているすゑに関する資料があるそうだ。そのうち訪ねてみたい。

も うお一人、真宗大谷派の僧侶でもある日野範之氏の被差別部落での識字運動の話も面白かった。絵金の資料館がある高知・赤岡の女性が記した「夕やけを見ても あまりうつくしいと 思はなかったけれど じをおぼえて ほんとうにうつくしいと思うようになりました」という詩は、じつに美しい。

正月のつらい門付けの模様を記した広島・尾道の部落の女性の詩をひとつ、最後に引いておく。

  春駒      みずた 志げこ(広島・尾道市識字学級)
                   (一九二七年生まれ)
.
「はよう おきんか!」
母の声にとびおきた
破れ戸のすきまから
ヒューン ヒューン
木枯らしが 音をたたてふきこんでくる

弟らは まだ寝とるのに
うちゃあ そんばあじゃ

たのしいはずの正月三日
まっくらな山みちを行く
ギュッ! ギュッ!
しも柱をふむ音だけが
あとからついてくる
淋しゅうて 暗い夜空を見上げた
やけに星がこまかった

はよう 夜が明けてほしい
じゃけど……
あかるうなったら
春駒を おどらにゃいけん
それなら
いっそ夜があけんほうがええ

夜もしらじらあけるころ
町はずれのこうまい社(やしろ)で
つめとうなった にぎりめし一つ
ふるえがとまらんかった
赤いしごきを たすきにかけて
あさぎいろの手拭いでほおかむり
「寒いか」
「足が痛いんか」
うちはだまって くびをふるだけ
つぶやきながら支度をしてくれる母は
「さあ この角の家から踊ろうかのう……」
「………」
あとずさりする うちの背中(せな)を
かるうにおした

 〽お家も繁盛と祝いましょう
思いきって云うてみた
声がふるえた
駒の赤い手綱をふりあげた手もふるえる
 〽春のはじめにゃ 春駒なるぞ
  夢に見てさえ 良いとや申す
よつ竹に調子をあわせて母は唄う
 〽こなたのお座敷ながむれば
  鶴と亀とが舞をまう
はやしをいれて踊りつづける

「可哀想にのう 遊びたいさかりじゃが……」
三銭のひねりをにぎらせた おばあさんもおった
「お通りっ! お通りじゃっ!」
塩を投げつけた おっつあんもおった

踊りつかれて腹がへった
 〽こなたの奥さん じょうきりょう
はやす声がかすれてくる
「元気のええ駒にならにゃあ」
母はおこるけど
 〽右の手綱が三尺三寸
  左の手綱も三尺三寸
唄う母の声もかすれとった

母の背中(せな)で乳のみ子がほそうい声で泣きだす
しっかり泣いてくれ
お前が泣いてくれたら ひとやすみでけるんじゃ
もっと泣いてくれ
夕やみがそこまで来ても 踊った
銭をもろうた
米や餅で袋がおもとうなったが……
なんにもいらん!
何里も 何里も夜みちをもどる
「お母ちゃん あしたも行くん
もう 春駒なんか行きとうない
餅なんか食わんでもええ
もう行くとうないっ!」
「――あと一日だけじゃ がまんせえ」

「父(てて)さんにのう……
せめて父さんに
ちいとでも 仕事(もうけ)さえありゃあ
おまえらにまで なんぎはさせんのに……」
.
みずた 志げこ『詩集 春駒』(一九八一年一月刊)

2022.11.27


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 今日は昼前から介護講座を受けた県の福祉人材センターを訪ねて就業相談。人材登録をして、こちらの希望や、施設の種類や資格などあれこれ教 えてもらって、担当の女性に「いまね〜 山本病院から始まる医療ビジネスの闇みたいな本を読んでいて、いまは介護がまさに「旬」だと思うんですけど、“そ の筋”でないところでおすすめ教えてください」なぞと無駄話もして、いくつか求人ファイルももらって、事業所のパンフももらって、来週に予定されている某 商業施設での就職フェアに予約を入れて、いまのところ知的障害者施設での支援員にターゲットを絞ろうと考えている。じぶんが植松聖になるかどうか試してみ たい。1時近くまで滞在して、近くの王将で久しぶりに餃子定食でも食べようかと思っていたのだけど何となく通りすぎてそのまま二駅分、大和八木駅までぶら ぶらと歩きながら飲食店を横目にするけれどお金を払ってまで食べたい気にもなれず結局、郡山までもどってきて駅前のキリン堂でずっと気になっていた98円 のカレーメンチカツバーガーと4個98円のコロッケを買って、これが本日の遅いランチ、税込み210円。さぞかし旨くないだろうと思っていたけれど、そこ そこ満足しているじぶんがいた。
2022.11.28


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 昨日。心斎橋の福山さんご夫婦の個展を見に行く前に、2009年に不審死を遂げた医師・矢島祥子さんの遺体が発見された千本松渡船場へ立ち 寄った。かつては石堤と三保の松原を思わせるほどの松が植えられ、ハゼ釣りに興じる釣り人で賑わったという木津川口は、すでにコンクリートで固められて昔 の風情はないが、それでも空と川のゆったりとした風景はその名残を思わせる。この渡船場の南側の柱の近くに矢島祥子さんの遺体は両腕を前に突き出し垂直に 浮かんでいたそうだ。渡船場へ下りていく欄干の下にはたぶん彼女へのものだろう枯れかけた花束がならんでいた。待合のベンチには自転車を止めた高校生の女 の子がすわっていて、この舟は無料なのかな? だれでも乗れるの? と訊くと、耳のイアホンを外して「はい、そうです」と答えてくれた。やがて15分おき に両岸をピストンしている舟がやってきて、女子高生と後から来た男性の二人を乗せて大正区の南恩加島側へわたっていった。あとにはひだまりと光の反射だけ がのこされた。わたしはすでに死体となっていた彼女が浮かんでいたというあたりの水面をいつまでも凝視した。友川カズキの曲の一節が唐突に浮かぶ。
「そうだ友よ 愛しきものらは
あんなにヒョイと無防備に立っている
傷つき汚れてさえ
あんなにヒョイと無防備に立っている」
堪えがたい世界の裂け目がここにある。魂魄がまだここにとどまっているのなら、わたしをして語らしめよ。
2022.12.3


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 「学びほぐす」というのは言い得て妙。一部に「解放同盟寄り」といった批評もあったのでどうかと思っていたが、とても丁寧につくられた好感 の持てるドキュメンタリーと言える。被差別部落史が専門の黒川みどり氏の解説を軸に、京都・大阪・三重の当事者たちがみずから語り合っていく織布とでもい おうか。個人的には既知の断片を織り合わせ、もういちど学びほぐすには良い機会だった。最近グーグルによって動画を削除された鳥取ループの宮部龍彦氏の登 場も良い。かれの根底にあるのは(おそらく)部落差別というよりも解放同盟や同和行政に対する反撥であるのだということが図らずも写し出されている。部落 差別などというすでに複雑怪奇に絡み合った糸を学びほぐすには白紙の目線で入り込んでいく直截さが良い。それよりも驚きだったのは「融和」から変遷した 「同和」の言葉自体、天皇主義色が濃いものだったという事実だった。「同和」という言葉は、昭和天皇即位の際の詔勅にある「人心惟レ同シク民風惟レ和シ」 から生まれ、その後の水平社をはじめとした部落運動が天皇制のもとでの戦時体制へ合流・消滅していったことを暗示するように、まず天皇があった。この作品 はおそれずに天皇制まで駒をすすめているが、中上健次が1980年代にジャック・デリダと語った対話での「天皇も部落も文化的産物である。だからどうしよ うもない」という中上の発言がわたしに突き刺さる。「 天皇、それと同時に下にあるアブジェクション〔おぞましさ〕として、ほとんど天皇と同じような資質を持ちながら下に行ってしまうという、そういうアブジェ クション、アウト・カーストの人びと――天皇もアウト・カーストですよね、カースト外ですから。そういう、両方を補完し合っている。しかし何度も言います が、このカースト外というのも、ツリー状ではありません。霜降り肉状です」(中上健次、ジャック・デリダ「穢れということ」(柄谷行人・絓秀実編『中上健 次発言集成3 対談V』所収、第三文明社、1996年) この中上の発言にどうこたえていくか、ということを考えている。

※ドキュメンタリー『私のはなし 部落のはなし』を【2022 橿原人権ネットひゅうまんフェスタ】で見た。
https://buraku-hanashi.jp/?fbclid=IwAR0RRbZ_mA5ZxACwkNc8nsM8RWkuugDt0y1izjgvnNAWDdkW2i98MuI6rHg
2022.12.3


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 さあ。ホテルも予約したし、新幹線の切符も買ったし、全国旅行支援割引のための抗原検査も予約したし、初日の昼は三原のたこ料理、夕飯は駅 近くで牡蠣か広島焼きか、翌日は三越のあなごめしかはたまた広島県民酒場 か。ちなみに行きは三原から呉線、帰りは広島から新幹線で直帰のルートだけど、「山陽本線(西条または新幹線の東広島経由)と呉線(竹原・呉経由)の選択 乗車が認められている」とかで乗車券は往復で買えて、呉線での途中下車も可能だそうだよ浅沼さん。ガ島から奇跡的に帰った母方の祖父が江田島の海軍学校で 敗戦を迎えたものから、呉でちっとばかし海軍風景も覗いてこようかとも思っている。ところで広島の平和記念公園は「大東亜共栄圏確立ノ雄渾ナル意図ヲ表象 スルニ足ル記念営造計画案ヲ求ム」という趣旨の元、1942年の日本建築学会「大東亜建設記念営造計画コンペ」で1等入選した丹下健三の「大東亜道路を主 軸としたる記念営造計画–主として大東亜建設忠霊神域計画」が下敷きになっているって知ってた? わたしはこのことをFB友でもある小田智敏さんの「軍都 =学都としての広島」(『忘却の記憶 広島』月曜社)でおしえてもらった。老母同伴の旅だからいつものように自由には動きまわれないけれど、そういう目線 でもヒロシマを見てきたい。
2022.12.5


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 昨夜はふたご座流星群とやらで、もう10時を過ぎてたけどコートを着込んで、近所の三軒長屋が駐車場になって空が広くなったところで30分 ほど夜空を見上げていたんだな。いちどだけ、短い流星がちょうど真上をすっと筆先のように走ったのが見えて、流星はそれだけだったけど、でもあれだけ長い 時間、星空をじっと見つめているのはすごくひさしぶりで、なんだか使っていなかったからだの中の回路がすこしだけよみがえったような気がしたんだ。そして 今日の昼、台所に立ってBluetoothスピーカーにつなげたiPhoneでビートルズ全曲をシャッフルにして聴きながら調理をしていたら、この曲 (Let it be)が流れたんだよね。その瞬間、ぼくは昨夜の流星とビートルズは直結していると感じたんだな。おなじものなんだ、と。ああ、そういうことか、と何だか いろんなことがはっきりしたような気がした。それをきみに伝えたかったんだよ。それだけさ。
2022.12.15


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 午後から自転車で25分ほどの「放課後等デイサービス」事業所の半日体験へ行ってきた。小学校1年生から5年生くらいまで。ここの子どもた ちはみな、ほとんど会話はない。こちらの言っていることはある程度は理解しているようだが、みずから言葉を発することはほぼなく、短音による表現だけだ。 机の上で一心に粘土をいじっている子、バランスボールに乗って飛び跳ねて延々と回り続けている子、おもちゃのブロックをそこらじゅうにばらまく子、物を投 げるのが好きな子、爪切りが嫌いな指先で他人のマスクや眼鏡をねらって引っ掻いてしまうために両手にスキー用の手袋を装着させられている子、大人の隙を見 て玄関の鍵を開けて外へ飛び出そうとする子、呑み込みが弱いために粉末でとろみをつけた水をスプーンで呑ませてもらっている全介護の男の子。分厚いヘッド ホンを両耳に装着しているのは聴覚過敏の子だ。小学2年生くらいだろうか、近くの公園へ行っても砂場で脱いだじぶんの靴をくるくるとまわしているだけの大 人しい女の子は、ときどき癲癇の発作を起こすことがあるという。教室で別のお転婆な女の子と遊んでいたわたしの横にやってきて、そのまますっとわたしの膝 の上にすわった。手には「いろいろバス」というタイトルの絵本を握っている。その絵本が大好きだそうで、ページのいくつかはやぶれてしまっている。けれど 絵本を読んだり、絵を追ったりするわけでもない。手にした絵本を顔につけ、ハードカバーの表紙だけをめくって、ひっくりかえし、また鼻につけて、本の端を 齧る。それでもその絵本の何かが好きなのだ。わたしの膝の上でそれらの動作をだまってくりかえし、ときどきあたりをじっと見つめ、それから、身体を預けた まま頭をうしろへ反らして目を閉じる。わたしは彼女のソファーのようなものだ。絵本が彼女の手から落ちる。絵本の代わりにわたしの手をとってにぎってくる。気がつくと耳元で寝息が響いていた。ツインテールのゴムひもがゆれている。その寝顔を眺 めながら、まるで天使のようだと思う。
2022.12.16


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日出而作 日入而息
鑿井而飲 耕田而食
帝力何有於我哉

(日出でて作し 日入りて息ふ
井を鑿ちて飲み 田を耕して食らふ
帝力何ぞ我に有らんや)

  君主の堯が、天下を治めて50年になるが「世の中が治まっているのか、治まっていないのか、万民が自分が天子であることを望んでいるのか、自分が天子であ ることを望んでいないのか」知りたくて、身なりをやつして市井へ出た。ある老人が「口に食べ物をほおばり腹つづみみをうち、足踏みをして調子を取り歌いな がら」かれに答えたのが上の漢詩だ。

 現代文にすれば
「日が昇れば仕事をし、日が沈んだら休む。
井戸を掘っては水を飲み、畑を耕しては食事をする。
帝の力なぞどうして私に関わりがあろうか、いやない。」
となる。

 以下のサイトでは、老人の歌の真意について
「老人の歌は一見すると帝をけなしているように聞こえるが、これを聞いた尭は、「自分の政治は、国民に自分を意識させることなく、国民が豊かな生活を営むことを実現できている。」ことを知ったとされている」と説明している。
 ソローの「まったく干渉しない政府が最もいい」に通じるものだろうか。

 一方で、この漢詩を吉田一穂の詩の中に見つけたと紹介していた鎌田 一邦さんによれば、
「これは琉球の「物呉ゆすど我御主(むぬくゆすどぅわーうすう)」といふ故事に似ている。「物をくれる人が自分の主人」と誤訳されているが、実は、「民に人間らしい生活をさせえない国主は追放してもよい」との“放伐”の意が本来のこと」という。

 そろそろ、“放伐”したいもんだぜ。
2022.12.21


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 「飢えた人、裸の人、家のない人、体の不自由な人、病気の人、必要とされることのないすべての人、愛されていない人、誰からもケアされることのない人のために働く」。
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この言葉ほどラディカルな思想はない。これに始まりこれに帰する。この思想ほど「危険」を孕むものはない。ここに始まりここに帰する。今ほどこの思想を(ニタニタ笑いつつ)完璧に排除している時代はかつてなかった。
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辺見庸ブログ Yo Hemmi Weblog

  アブサンのような毒性の強いアルコールが欲しくなる。「明日の未知こそ、汗して耕す史前領土である!」と詩人の吉田一穂は記した。生の原体はいったいどこ に漂っているか。生まれないまま堕胎児のように殺されているのか。疱瘡墓に眠る死者たちのように封印されているのか。植松聖は正しかったのかも知れない。 抗いは、何処より出ずるか。
2022.12.21


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 韓国のイ・ウォンシク監督からうれしいメールが届いたので、こちらも翻訳ツールを使って英文で返信を書いた。朝鮮人女工を巡るドキュメンタリー作品、完成が待ち遠しい。「お兄ちゃん」はちょっとこそばゆいけどな。

hello.
This is Wonsik Lee, whom I met in June while working on a documentary(chosun factory women) .
I hope you understand because it is a letter using Google Translate.
How are you? We will contact you with regards.
I'm doing post-production in Korea and I'm doing well.
I was sorry that I couldn't talk much with the teacher at the time while filming.
So I thought of it and sent an email.
How are you?
When I go to Japan next year, I would like to meet and talk.
I can't guarantee when that time will be, but I'm looking forward to it.
We don't speak each other's language, but there is a translator, and there will be another interpreter.
Since I'm younger, I'll call you big brother.
End the year well and stay healthy.
I look forward to seeing you again.
thank you

こんにちは。
6月にドキュメンタリー制作中に知り合ったイ・ウォンシクです。
Google翻訳を使った手紙ですので、ご理解いただければ幸いです。
元気ですか? つきましては、ご連絡いたします。
私は韓国でポストプロダクションを行っており、順調に進んでいます。
撮影中、当時の先生とはあまり話せなかったのが残念でした。
そう思い、メールを送りました。
元気ですか?
来年日本に行くときは、会って話したいです。
その時がいつになるかは保証できませんが、楽しみにしています。
私たちはお互いの言語を話しませんが、通訳者がいて、別の通訳者がいます。
年下だからお兄ちゃんって呼ぶよ。
元気で一年を締めくくりましょう。
またお会いできることを楽しみにしています。
ありがとうございました
FROM LEE WON SIK


To Director Lee Won-shik
I read your mail and was very happy to receive it.
I am glad to hear that the post-production is going well.
I too am looking forward to the day when I will be a star in Korea.
The other day, as you may know, I visited an underground bunker in Donzurubo, located on the border between Nara and Osaka prefectures.
It was a military facility built by the Japanese army at the end of the war, and it seems that it was intended to be a place to conduct suicide attacks against the U.S. forces landing on the mainland.
Many Korean soldiers were employed there, and the old elementary school building where they slept still remains.
There is a story that Yi Eun(李 垠이은), the last prince of the Yi Dynasty of Korea, was seen here.
If you are near someone who understands Japanese, please refer to the following link. If you know Japanese, please refer to the following link.
https://note.com/marebit2022/n/n0525b188a298
I will use a web translation tool to convert this into English and send it to you as well.
I would love to see the finished work in Japan, and to eat Korean food with you again.
Please contact me anytime.
Have a happy holiday season!
Yosuke Aida
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To イ・ウォンシク監督
うれしいメールを拝読しました。
ポストプロダクションも順調なようでよかったです。
わたしも韓国でスターになる日が待ち遠しいです。
先日、ご存知かも知れませんが、奈良と大阪の県境にある屯鶴峯というところの地下壕を見てきました。
日本の陸軍が戦争末期につくった軍事施設で、本土に上陸する米軍への特攻作戦を指揮する場所にしたかったようです。
多くの朝鮮人兵士が働かされていて、かれらが寝泊まりした小学校の古い校舎もまだ残っています。
朝鮮・李王朝最後の皇太子といわれる李 垠(イ・ウン 이은)をここで見たという話もあります。
もし日本語が分かる方がそばにいらしたら、以下リンクに書きました。参照ください。
https://note.com/marebit2022/n/n0525b188a298
こちらもWebの翻訳ツールで英語に変換して送ります。
完成した作品を日本で見て、またいっしょに韓国料理を食べたいですね。
いつでもご連絡ください。
どうぞよい年末を!

 すぐに返事が来た。

Big bro〜
Do you want to be a star?
I am sure that you will be the star.
Hahaha.
Have a healthy and happy Christmas.
God loves you

先生はスターになりたいですか?
ぜひそんなことになるでしょう。
ハハハ。
健康で楽しいクリスマスになります。
神はあなたを愛しています。

Dear Director
Please edit the film well so that I can be a star.
Hahaha
Have a wonderful Christmas!
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親愛なる監督
わたしがスターになれるように、上手にフィルムを編集してください。
ハハハ
ステキなクリスマスを!

2022.12.22


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 戦勝国によるニュルンベルク裁判から20年後。ドイツ人自身が内なるアウシュビッツ収容所での犯罪を裁いた試みは、経済復興のもとで当初は 国民の半数以上が「古傷に触れるな」と反対するなかで行われ、6人に終身刑、11人に最長14年の懲役刑が言い渡されて結審した。日本はすでに奇跡の復興 を遂げて「もはや戦後ではない」と宣言し、まだ横井庄吉さんが潜んでいたグアムでは間もなく能天気なテレビコマーシャルや映画のロケが行われようとしてい た。

 おれたちもやるべきだったよね。日本人自身による「過去の検証」。やらなかったツケが、いま来ている。

◆アウシュビッツ裁判(YouTube)
https://www.youtube.com/watch?v=RcMf2W_5wF4
2022.12.23


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 さすが、ディラン。おれとおなじこと感じてるじゃねえか。

ブレンダ・リーはよく聴いている。何度聴いても、発見したばかりのような気がする。彼女は古い魂を持っている。

◆ボブ・ディラン 印象に残っている現代アーティストたち/名曲とは/SNS/健康維持などについて語る
https://amass.jp/163280/?fbclid=IwAR2sxUf2x_qPT6PcepqM-rsrgQpD9rXxv6YY4ouWEnegMOYgfRCDlh5ji3A
2022.12.23


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 日本はアメリカの準州なんだから、この修正第二条が適用されるんじゃないか。

  アメリカ市民は一人ひとり「武器を持つ権利」がちゃんと保証されている。合衆国憲法の修正第二条に明記してあるからだ。建国の父たちが1791年に、わざ わざその権利を確立させてくれたことを、ぼくはアメリカ人としてありがたく思う。ピストルを持ち歩きたいわけではない。武装するつもりも毛頭ない。憲法を つくった先人の意図に対して、感謝の念を抱くのだ。

  そもそも憲法は権力を縛るための装置だ。もし権力者が市民から武器を取り上げ、武力がすべて政府にコントロールされたら、今度は暴走して市民の財産を奪っ たり、人権を踏みにじったりする可能性が高い。したがって自由を抑圧されないために、市民はいつでも政府を倒せるくらいの武器と組織力を持つべきだ。つま り「革命権」をしっかり握って特権階級と張り合い、歯止めをかけることが大事――それこそジェファーソンやワシントンが考え出した the right of the people to keep and bear Arms の「武器を持つ権利」の奥にある意図だった。

 なんといっても当時の「武器」は、火縄銃が最先端の技術で、あとは弓矢とか剣が使われていた。もちろん、回転式連発拳銃のリボルバーはまだ存在していなかったので、市民が政府と張り合うことが可能だった。日本語でいえば「百姓一揆」が成立していた時代だ。

  ところが、のちに機関銃だの手榴弾だの潜水艦、魚雷、地雷、戦闘機、化学兵器、弾道ミサイル、核弾頭、無人偵察機まで開発されてしまい、市民は葉が立たな くなった。ぼくの故郷ミシガンのガンショップで入手できるのは、せいぜい機関銃程度だ。しかも最先端の「武器」は常に国家機密のベールに包まれ、市民から 集めた税金を使って開発しているというのに、その技術は権力者だけが掌握する、市民の持てる武器と、国防総省の飛び道具と、次元が違いすぎて修正第二条は もはや現実とかみ合わない。もしジェファーソンたちが21世紀にタイムスリップして憲法をつくってくれたら、今度は逆の発想で歯止めをかけることになるだ ろう。

 要するに、政府の「武器を持つ権利」を厳しく制限し、軍備も交戦権も思いっきり縛って、市民が再び太刀打ちできる関係に是正する必要があると思う。そんな修正を合衆国憲法に加えることができたら、まさに革命だ。日本国憲法第九条がその修正条項の原案になる。

アーサー・ビナード『知らなかった、ぼくらの戦争』(小学館 2017)

2022.12.24


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 クリスマスに奈良県立図書情報館企画「六斎念仏 実演と講演」を見に行く。奈良県内に現存する三つの講「大宝寺六斎講」(安堵町東安堵)、 「八島鉦講」(奈良市八島町)、「東佐味六斎講」(御所市東佐味)の実演。六斎念仏のルーツをたどれば、疫病で都に累々たる屍がひろがっていた風景のなか で空也が始めた踊躍念仏や、一遍の融通念仏などへたどりつくそうだが、それって当時のブルーズやパンクロックだったんじゃないか。最古の六斎念仏資料は つれあいの実家に近い、海南市下津町上の「文安四年」(1447年)と刻まれた南無阿弥陀仏の名号碑だそうだ。念仏鉦を撞木といわれるT字型のスティック で叩きながら唱える奈良の鉦念仏の四曲(シヘン・ハクマイ・バンドウ・オロシ)は、平安期の円仁が唐からもたらした五会念仏を源流とし、比叡山常行堂で伝 承された念仏の末裔ともいわれ、いまでは失われた中世融通念仏の曲調=「引声」をもっとも保持していると言われるが、あとは想像力でまぼろしの空也や一遍 を動かしてみる。百万遍念仏、融通念仏、大念仏、六斎念仏、双盤念仏、それらはみなビートの種類であった。空也も一遍も、念仏を踊った。念仏がロックン ロールだった時代だ。権力に対する刃でもあった。
2022.12.25


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 SNSではいろいろ不思議な縁があるもので先日、老母と呉線に乗って広島へ行くという投稿をアップしたところ、大阪・豊中の小学校の先生が 旧陸軍の毒ガス製造の大久野島について書かれたこの本をすすめてくれた。地元の図書館にあった本を借りてきて、毎日すこしづつ読み継いでいたのだが、これ はとても良い本です。ミシガン生まれで日本語で詩を書くアメリカ人の著者が、さまざまな立場で戦争を体験した日本人を訪ねて話を聞いた記録。アメリカの日 系人強制収容所にいた人、真珠湾攻撃に参加したパイロット、北方領土にいた人、毒ガス島で働いていた女学生、多くの戦友が死んだニューギニアへ移住して遺 骨収集をつづけた人、硫黄島で捕虜になった通信兵、戦艦大和の最期を見た駆逐艦の少年兵、漫画家のちばてつや、与那国で生まれ台湾で育ち戦後は「日本」東 京と米国領「沖縄」を密航して勉学に励んだ人、千数百人の疎開児童が海に沈んだ対馬丸の生還者、「軍隊は国民を守らない」と語る元沖縄県知事の太田昌秀、 「戦争に勝ったら修学旅行でニューヨーク」と教師にそそのかされて英語を勉強し戦後に渡米し詩人となった郡山直、落語家の三遊亭金馬、広島・長崎のそれぞ れの被爆体験者、全国に投下された模擬原爆を調べた名古屋の中学の先生、戦後GHQで朝鮮戦争の兵士の家族との連絡事務をしていた女性、「みんなが戦争に のっていった」と語る映画監督の高畑 勲。そのだれもが大仰ではない等身大の目線で「日常」のなかの戦争を語る。そしてそれを聞くアメリカ人の著者は自国の偽善にも厳しく、広島を訪れ平和ス ピーチをしたオバマを「岩国の米軍基地の激励のついでにちょっと立ち寄っただけの時間」と喝破する。戦争を語れるひとはまだまだ生存しているし、残さなけ ればいけない話はまだ無数にある。ほんとうなら日本人であるわたしたちが聞き取らなければならなかった話をアメリカ人の著者が聞き取り残してくれた。なら ばこんどは日本人であるわたしたちは、在日コリアンをはじめとした日本人以外の人たちの日本での戦争体験を聞き取る番ではないかと思った。そうしていつ か、歴史は相対化されていくのかも知れない。巻末に著者はこの日本では「戦後」と「平和」がほとんどセットになって語られるが、「たとえば朝鮮半島がすさ まじい戦場と化し、米軍が空から海から攻撃を繰り返し、その出撃基地も補給も含めて兵站上、必要な拠点をすべて日本が提供している状態」を、果たして「平 和」と呼んでいいのか? と問い、アメリカの詩人、エドナ・セントビンセント・ミレーの「平和」の定義を紹介する。いわく「平和とは、どこかで進行してい る戦争を知らずにいられる、つかの間の優雅な無知だ」 

 いや、単なる「優雅な無知」だったら、70年はつづかないだろう。
 たとえ人口的に「優雅な無知」ですごしている者が多くても、中にはあの戦争を背負って後始末しながら日々、「平和」を生み出している人がいる。その営みがあって「戦後」という日本語は、現在も意味をなしているのじゃないか。
「戦後70年」のとき、ぼくは先人たちの「戦争体験」を聴こうと決め込んで、マイクを片手に出発した。が、実際に向き合って耳をすまし、歴史の中へ分け入ってみたら、一人もそんな「戦争体験」の枠には収まらず、みんなそれぞれの「戦後づくり」の知恵を教えてくれた。
 後のことを放置せず、大事な仕事として引き継ぎたい気持ちで、ぼくは胸がいっぱいだ。
「戦後づくり」以外に、たぶん生き延びる道はないと思う。
アーサー・ビナード『知らなかった、ぼくらの戦争』(小学館)
2022.12.27


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 毎年変わり映えのしない糞ったれの年末に何か一曲をと思ってこいつを選ん でみたがことしこの曲をじぶんは十分に生きたかといえばけっしてそうではなく、やっぱりおれはなんの変化も進歩も展望すらもなく来年こそはこの曲を十分に 生きてやるそしてそれを妨げるものは敵であっても親しい者であっても切り捨てるつもりだと夜空の星に誓った。この世は橋だ、渡って行け。主よ、一人を怖れ ないこころを与えてください。

風は吹くだろう 心は流れさまようだろう
どこにいても 道はあるだろう
雨も降るだろう 心は戸を閉ざし腐るだろう
橋の上にも明日は来るだろう

(DIESEL ANN/泪橋)
2022.12.27


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 天皇が良い人だろうと悪人だろうとおれには興味はないんだな。天皇(それに付随する皇族)個人の人間性とは無関係に天皇制というシステムは 不要だし悪だと思っている。アヘももしかしたら親しい人間の間では「良い人」だったのかも知れないよ。でもそれと、かれが政治の世界でしてきたことは別 だ。内海氏がここで指摘しているように、そういうことをごっちゃにして、前の投稿で紹介した共同通信記者のように「自由で解放された思考」を欠いたまま、 みずからの人間関係や情やあるいは好き嫌いで物事を容易に判断してしまう場面が、ほんとうに度々ある。わが家のつれあいや娘は「雅子さん」とか「愛子さ ん」とかには好意的なんで、彼女らのニュースがテレビで出たりすると、おれはひとりでイライラする。で、そのイライラの大元は何かっていうとさ、先日紹介 したアーサー・ビナードさんのインタビューで映画監督の高畑勲氏が言っていたけど「みんなが戦争にのっていった」っていうことにつながっていくと思うんだ な。ナチスに協力したドイツ人の全員が根っからの悪人だったわけじゃないんだよ。たいていの人はこの写真のナチ親衛隊女性看守のように、ふだんは無邪気に はしゃいで笑ったり笑わせたりするような人たちだった。でもかれらは「加担」していた。戦時中の日本人の多くもそうだったんだろうよ。「戦争中、自分たち はだまされていたと多くの人は言うが、おれがだましたという者は一人もいない」とこれも映画監督の伊丹万作が喝破したように、特攻隊員の尻を熱心に叩いて いた国防婦人会のおばちゃんたちも、敗戦と共に哀れな戦争の被害者へと転進した。今日の夕食時に、家族でテレビを見ていたら「親が子どもになってほしくな い職業」の三位が「自衛隊員」で、「戦争はして欲しくない」「平和がいちばん」云々の親たちの意見がならんでいる。でもわが奈良県では昨年の衆院選で「9 条を改正して自衛隊を国防軍に」と宣う高市早苗が、立民・共産の二候補を向こうにまわして実に65%を得票した。ここに日常における「乖離」がある。おそ らく、お腹はいっぱいだけどデザートは別腹、みたいなもんなんだろう。そしてもうひとつ、「戦争反対」や「あやまちは二度と犯しません」等々にへばりつい た「誤魔化し」がある。そこをすりぬけていくもの。その深度まで到達する思考でなければ現実は変わらない。そういういろんなことを、この笑顔の写真は考え させてくれる。かれらはわたしたちの身近な隣人であり、わたしたち自身でもある。みんながのっかった。

  人の良さ、優しさや明るさ、楽しさが普遍的な思考回路を経て問われない、思考の停止があるが故に、自由で解放された人間として生きることを恐怖して、自由 で解放された人々を憎み、蔑み、サディスティックに虐待し、大量虐殺することに何の躊躇いもなかったことを理解してください。

 自由で解放された思考をしないこと、自由で解放された人々に劣等感を抱き、憎悪に溢れた残虐行為を行う、制度化されたサディズムは、今日の日本社会の隅々に組織されています。

内海 信彦氏のFB(2022年12月28日)
2022.12.29


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 志葉さんのところへは志葉さんに同調し伊勢崎さんをおとしめる発言ばかりが集まり、うっかり伊勢崎さんを擁護しようとすれば袋叩きにされか ねない。逆もまたしかりで、おそらく双方共に反戦ということでは真摯に考えている人々が大勢いるだろうに、こうして分断されてしまうことが悲しい。深い思 考や議論が必要なナイーブな問題はこうして分断され、一方で人々が容易にのっかりやすい単純思考は雪だるまのようにふくれあがり坂道を転げ落ちていく。 SNSはほんとうに便利なツールなのかな?
2022.12.29


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 ニール・ヤングのカバーで知った Four Strong Winds はカナダの季節労働者を歌った名曲だ。“四つの風と七つの海”は過酷な自然、同時に雄大な自然のなかで翻弄され、愛する者と離れ離れになり、けれどもふた たび再会することを夢見て生きていく人々のことを歌っている。ぼくらはみんなこの曲が大好きだった。

 R.I.P. イアン・タイソン
2022.12.30


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  今日、すでに戦争は終ったという。しかし、どこに戦争があって、いつ戦争が終ったか、身をもってそれをハッキリ知るものは、絶海の孤島で砲煙の下から生き 残ったわずかな兵隊ででもなければ、知りうるはずはない。誰も自主的に戦争をしていたわけではないのであるから、戦争というから戦争と思い、終戦というか ら終戦と思い、民主主義というから民主主義と思い、それだけのことで、それは要するに架空の観念であるにすぎず、われわれが実際に身をもって知り、また生 活しているものは、四囲の現実だけだ。

私 は帝銀事件の犯人に、なお戦争という麻薬の悪夢の中に住む無感動な平凡人を考える。戦争という悪夢がなければ、おそらく罪を犯さずに平凡に一生を終った、 きわめて普通な目だたない男について考える。終戦後、頻発する素人ピストル強盗の類いが概ねそうで、すべてそこに漂うものは、戦争の匂いなのである。道義 タイハイを説く人々は、戦争は終った、という魔法の呪文を現実に信じつつある低俗な思考家で、戦争といえば戦争、民主主義といえば民主主義、時流のカケ声 の上に真理も実在していると飲みこんで疑らぬ便乗専一の常識家にすぎない。
 戦争はけっして終っておらぬ。四囲の現実は今こそ戦争中よりも戦争的であり、人々の魂はそれ自ら戦争の相を呈しているではないか。

坂口安吾「帝銀事件を論ず」1948(昭和23)年
2022.12.30


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 2022年も暮れる灯ともし頃、120年前に死んだ郡山紡績工場寄宿舎工女宮本イサの無縁墓の前でひとり佇む。「令和」はかすれて、工女宮 本イサの死んだ1900(明治33)年のやりなおしのなかにいる。だからわたしにとって、新年はいつも1901(明治34)年だ。まだ日露戦争も、朝鮮併 合も、大逆事件も起きていない。これからだ。
2022.12.31


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 元旦、つれあいと娘がつくったお節を詰めて、和歌山の義父母たちのグループホームへ車で。相変わらず玄関のシールド越しでの短い会話につれ あいは、蜜柑などむかしは箱一杯に送ってもらって腐らせてしまったものだが店で買うとなると高いものだ、なぞと。規制の目安を管理者に訊けば、県内感染者 が500人切れば3日隔離の条件で外出可、100人切ればフリーかも知れないが先はまだ見えないと。駐車場でつれあいの妹さんが、和歌山の家は要りません か?と。万葉の潮待ち港の家は売るにもいまさら売れず、車が入れない路地奥のために解体費も数百万という。電気と水道はまだ使えるが折しも給湯器が壊れて 風呂は入れない。水道の基本料金が2ヶ月ごとに3千円かかるので、水を停めるかどうか春に決めるという。改装して宿泊施設や店にするには条件が悪いが徒歩 30秒で海、裏山は蜜柑畑。文筆で食っていけるなら執筆には最適だがサテどうしたものか。キャンピング道具を車に積み二三日泊まり込んで利用方法を考えて みたものか。かつて朝鮮人労働者が働いていた砕石場があり、海を見下ろす高台に古い墓地があり、尾道のような坂道の路地があり、わたしの古里でもないが愛 着がある。グループホームの近くで軽くお昼でもと思ったが元旦は営業しているような店もなく、コンビニでそれぞれ買った肉まんやカレーパンやアメリカン ドッグなどをおいしいおいしいと頬張りながら帰ってきた。
2023.1.1


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 河合香織さんという方の本はまだ読んだことはないが、日曜日の毎日新聞に載っていたこの文章は、深くわたしの心根に響いて沁みた。「いつで もどこにでも出せる言葉として用意されたものではない、心の奥底にある言葉を聞くまでにはどうしても時間がかかる」 それを聞き取る耳とこころを持った人 がすぐれた伝承者になるのだろう。もちろん、このなかには死者のことばも、ある。

「もう戦争は語り尽くされたと思われてきたが、まだ聞かれることのなかった苦悩、そして伝えられることを待っている戦争の真実はそこにあることを知らされる。」

「物事を単純な善悪に、そして白黒に分けることは、簡単であり、時間もかからないことかもしれない。しかし、真実は割り切れない、複雑なものの中にある。その声を粘り強く聞き続けることに、ドキュメンタリーやメディアの役割があるのだと再認識した。」
毎日新聞 2023年1月8日
2023.1.10


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 最近、国会図書館のデジタル閲覧資料がすごくてさ。以前はわざわざ国会図書館まで足を運ばないと見れなかった資料がログインしたら自宅で見 れるようになって、今日は午後から下北山の村史や朝鮮の筏流しの資料を求めて朝鮮総督府の官報なんかをずっと見てたんだよね。奈良の下北山ってわたしの母 方のルーツの和歌山の北山村とは隣同士で、明治の時代に筏師の組合長をしていた曽祖父が歯を抜いた出血で死んじまったのもこの下北山村だった。筏つながり で深い関係があるから、この下北山の村史から北山村が見えてくるんじゃないかと探してたら、あったんだよ。

この1907(明治40)年の 「筏夫騒動」とタイトルされた文中、「なかでも北山村大沼の筏夫の要求はきびしく」って、わが曽祖父「為三郎」が大沼筏方総代になったのが1905(明治 38)年、新任組合長になったのが1907(明治40)年だから、これはまさに曽祖父の交渉に間違いない。PC画面の資料からじぶんの曽祖父の活躍が飛び 出してくるって興奮するよね、なんか本人の息遣いまで感じられるようで。それにしても賃金50%増し要求って強気だな、曽じーちゃんよ。
2023.1.11


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 朝から1932(昭和7)年の奈良をさまようていた。亀の瀬の地すべりに端を発した大和川の災害復旧工事での朝鮮人労働者の事故記事をマイ クロフィルムを回しながら拾い集めていたのだけれど、女郎と心中とかカルモチン自殺とか無銭飲食で親子丼二杯をぺろりなぞといった記事に混じって、爆弾三 勇士に憧れてとか、共産党一味の総検挙とか、ルンペン・レプラは充分取締れとかいった記事が目の端を通りすぎていく。そのうちに奈良の歩兵第38聯隊が上 海から帰還して演説会などが始まる。戦う前に停戦してしまったのが残念です、などと聴衆の前で将校が喋っている。よく考えてみたら大変な時代だ。1932 (昭和7)年というのは前年に満州事変があって、2月に爆弾三勇士が爆死し、3月にはもう傀儡・溥儀を立てた「満州国」が建国されている。4月には尹奉吉 が上海の天長節祝賀式典に爆弾を投げつける。5月に五・一五事件が起き、チャップリンが来日し、6月には特別高等警察部(特高)が設置される。7月のドイ ツの総選挙でナチスが第1党となる。10月には大日本国防婦人会が結成される。そんな時代なのだ。そしてどうも紙面に見覚えがあると思ったら、わが郡山で は紡績工場で感電死した朝鮮人職工の徐錫縦(ソ・ソクチョン)の遺体が紛糾する補償問題のために腐臭を放っていたのだった。わたしが犬のジップとよく散歩 に行く、寄宿舎工女・宮本イサの無縁墓がある共同墓地沿いの佐保川の工事に従事していた朝鮮人労働者もまた、紡績工場のグランドに集まって賃金未払いの訴 えを起こして騒いでいた。そんな時代に亀の瀬の地すべりの復旧工事に集められた数百人もの朝鮮人労働者が土砂に生き埋めになったり、トロッコの下敷きに なって死んだりしているのだった。そんな時代をさまようていた。
2023.1.12


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 彫刻家の含さんにおしえられて、チョイと奈良町の十輪院を見てきた。このチョイと行ける、というのが良い。「十輪院の石窟本尊は鎌倉時代の 地蔵で、当初は露座であり棺据石と呼ばれる平石が、常には野辺送りをこの上で行ったものか。などという興味深い考察もあった。極楽坊も十輪院も街中にあり 埋葬にまつわる寺の機能を果たしていた。」という一文である。正式には「引導石」というらしいが、中世都市奈良の葬送のための地蔵霊場を象徴する珍しい石 組みの石仏龕(がん)とその前に設置された座棺を置くための石を見に行ったのだ。これはわたしの役割だろう。十輪院は境内に多くの古い石造物があり、また 裏手には墓地がある。それらを先にゆっくり見てから、500円を払って本堂の拝観をお願いした。拝観者はわたし一人で同世代くらいの僧侶がマンツーマンで いろいろと説明をしてくれて、500円の価値は優にあったんじゃないだろうか。本尊である地蔵ができたのが鎌倉前期、左右を扉状に囲むその他の石造物や天 井部などはそのあとにつなげられた。当初は露座であったのが覆いがつくられ、渡し廊下を挟んで礼拝場所だった建物が後に合体して、いまの本堂の形になった という。古い時代にはこの引導石に棺を置いて地蔵による供養を経て墓へ納骨されたらしいが、もともと周辺の寺の住職による持ち回り制の管理をされていた十 輪院にとってこの地蔵の前の引導石は同時に僧侶が受戒を授かる場でもあったという。本堂内は撮影禁止で引導石の手前までしか立ち入れないが、十輪院で月曜 以外の毎朝行っている8時半からの勤行に参加すれば、お勤めのあとで引導石に坐ってお祈りができるそうだ。いちど座棺になった気分で坐ってみたい。その他 にも境内に墓と伝わる古墳のような塚の残る開祖で書家であった魚養(朝野宿彌魚養/あさのすくねなかい)が、じつは吉備真備が唐でこしらえ置いてきた隠し 子で、愛人が育てられないからと名札を付けて海に放り込んだら難波の津で偶然真備に拾われたなぞというステキな言い伝えが残っていたり、また魚養が空海に 書を教えた先生で残されたかれの書経が空海のそれによく似ているなどという話も聞いた。寺務所で売っていた「ならまちの地蔵霊場 十輪院の歴史と信仰」な る本が面白そうで買って帰ったのだが、これを読むと地中から複数の骨灰がつまった中世の常滑焼の甕が出土したり、これらの納骨施設が地蔵信仰と相俟ってこ のあたり一帯が元興寺の勢力下で重要な都市霊場だったことが偲ばれて興味深い。これからじっくり読むよ。お昼は紀寺町の大好きな和廣飯店で、今日は中華丼 500円をいってみた。そして元興寺塔跡や率川神社などをぼちぼち覗いて、JR奈良駅近くの福村米穀店で豊澤酒造の吟醸酒粕(500g400円)を買って 帰ってきたってわけさ。含さんのために十輪院の石造物をたくさん撮ってきたので丸ごとアップする。十輪院については以下のホームページを参照されたし。

■南都 十輪院
http://www.jurin-in.com/index.html
2023.1.20


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 森々と雪がふりつもっている。10年にいちどの大寒波だそうだ。人知れず地上にふりそそぐ雪は潔いものだ。ことばも、そうありたいものだ。 紙パックの安酒をレンジで熱燗にして肺腑にそそぐ。ぼくらはみんな宇宙意識のようなものへ帰っていくんですよと、だれかが雪のなかでしゃべっている。幻燈のようなものかね、ともうひとりがこたえている。あし あとだけが雪のなかにつづいている。
2023.1.24


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 ある人が紹介していたので読んでみた。「最先端量子科学」ということでオツムが試されるかもと多少は覚悟したが、湯船のなかで毎日一話づ つ、すいすいと読めた。この世界を構成しているのは物質ではなくすべては波動で、ビッグバン前の量子真空にはもともと宇宙のすべての出来事が波動情報とし てホログラムの原理で記録されており、それは現在も記録し続けている。それが著者のいう「現代の最先端科学が示す」ゼロ・ポイント・フィールド仮説であ り、わたしたちの意識は死後もそのゼロ・ポイント・フィールドのなかで生き続け、進化をし、最後は自我をぬぐい捨てて宇宙意識と合一するが、わたしたちは もともとその宇宙意識自身であったのだ、というものだ。科学的な記述はほとんどなく、ゼロ・ポイント・フィールド仮説はたしかに「最先端量子科学」の仮設 のひとつなのだろうが、そこから先の著者の言うゼロ・ポイント・フィールドのさまざまな仕組みや役割は「仮説の上の仮設」であって根拠は何もない。それら の縦糸に対して横糸のように織り込まれていくのがブレイクや宮沢賢治の詩であったり、スタニスワフ・レムやクラークのSF小説だったり、ユングの集合無意 識やインド哲学や仏教の唯識思想であったりする。そして最後にクリシュナムルティの「世界はあなたであり、あなたは世界である」といった言葉が出て来たと ころで、ああ、この本はわたしにも書けたかも知れない、と思ってしまう。いわゆるニューエイジ思想やスピリチュアル系といわれるものをひとしきり齧ってき た者にはおさらいのような内容で、「最先端量子科学」という新味の衣をまとってはいるけれど、世界観としてはアメリカのネイティブやアイヌ、イヌイットと いった先住民たちの知恵と変わりないもので、わたしにはずっと前から親しいものだ。「宇宙意識への帰還」も、衝撃度としてはわたしが10代のときに足りぬ 頭脳をフル稼働して読んだ品川嘉也の『意識と脳 精神と物質の科学哲学』(紀伊国屋書店1982)のなかの一節「意識そのものが、宇宙の情報構造のひとつ であり、その情報構造が宇宙を認識している。意識とは宇宙の自己認識であるということもできる」には及ばない。でもそれなりに面白かったです。この人は 「喩え」が上手なんだな、ある意味。量子科学もひとつの世界の喩えだ。アーヴィン・ラズローの『創造する真空』やリン・マクタガートの『フィールド 響き合う生命・意識・宇宙 』はちょっと読んでみたいかも。

※田坂広志『死は存在しない 最先端量子科学が示す新たな仮説』(光文社 2022)を読んで。
2023.1.25


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 2月から大阪の知的障害者の事業所で働くことになった。じぶんでもいろいろ探していたのだけれど、最後に決めてくれたのは佛大の通信教育の スクーリングで知り合って以来のつきあいのEちゃんだった。わたしはよく覚えていないのだが彼女いわく、「車椅子に乗ってて何だか面白そうだから話をしよ うよ」とわたしから話しかけてきたのだそうだ。そのときはまだ龍野で実家暮らしだった彼女は、その後いろんな葛藤を乗りこえて一人暮らしを始め、いまは神 戸の障害者自立支援の事業所の代表をしている。娘が障害をもって生まれてきたこともあって、ときどき会ったり電話やメッセンジャーで話を聞いてもらったり してきたけれど、いつも彼女にはかなわない。娘が不登校になって部屋に閉じこもっていたときも、「紫乃ちゃんはじぶんでじぶんの道を選んでるんだから、す ごくいいことだよ」と言ってわたしを驚かせた。そんな彼女から仕事まで紹介してもらうとは夢にも思わなかったけれど、だいたい介護や介助といった仕事にこ んなこわれた人間であるじぶんが就くというイメージもまた夢にも抱いていなかった。わたしはじぶんで探し出すというより、山道をあるいていて落ちている木 や落ち葉がなんとなく矢印を形づくっているような方向へあるいていったらここへやってきた、という感じだ。もちろんわたしは、あのやまゆり園の事件に抗う ような場所でおのれのことばをもっと試したいのだ。昨年、ある人の厚意で朝日・論座の編集長を紹介してもらって何本か記事を書いてもらうと言われていた直 後に編集長が異動になってしまったのは、まだもうすこしことばを磨いてこいという啓示なのだろう。世界にはそういうしるしがときどきおりてくる。勤務は平 日の9時〜5時15分で、月に1〜2度だけ泊りがある。土日祝日は原則休みなので、いろいろと動きやすいし休みも多い。その分、給与はまあ、前職から比べ たら相当ダウンだけれど、この一年間で贅沢病もだいぶ削がれたから、家族三人で頑張ればなんとかやっていけるだろう。来年、図書館の定年を迎えるつれあい も先を見据えてしばらく前から週に二日、発達障害の子どもたちを見る施設で指導員として働きはじめ、あらためて資格取得の勉強などもしている。20代を無 為に過ごしたわたしの年金などはあまりアテにならないので彼女には苦労をかける。そう言うとつれあいに代わって娘が「ほんとにそうだよ!」と答えるのだ。 まあ、そういう家族もいいじゃねえか。
2023.1.29


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 民主党政権時の農水大臣が書いた近未来小説。異常気象による世界的な農作物の不作を受けてアメリカをはじめ各国が食糧の輸出を禁止するな か、日本では数日にして全国のスーパーやコンビニの棚から一斉に食品が消え、町では強奪や暴動、無差別殺人が頻発し、暴力団と結託した闇市場がはびこり、 弱者である老人はひっそりと餓死してゆき、社会的機能を果たしている公務員にわずかな備蓄食料を優先的に配給することを発表した政府に対して、人びとは国 会を取り巻き、政府の備蓄米倉庫を襲い、警官や機動隊を取り囲む。飢餓列島と化した日本に対して、アメリカは小麦やトウモロコシの輸出を餌に遺伝子組み換 えの米と稲の種子の受け入れを要求する。2009年に書かれた作品だが、ウクライナでの戦争が長期化し日常のありとあらゆるものがじわじわと値上がりしつ つ現在ではさらに現実味を帯びている。日本でほぼ100%自給できている食料は米くらいで、食料自給率の国際比較を見てもカナダ266%、オーストラリア 200%、アメリカ132%、フランス125%、ドイツ86%に対して日本は37%しかない(農林水産省、2018年、日本のみ2020年度、カロリー ベース)。食糧危機が発生した場合のマニュアルを農林水産省は「食料自給率及び食料自給力の検証」(2019年)としてまとめているが、それは休耕地や使 わなくなったゴルフ場を利用してみなで芋をつくり芋類中心の食生活で乗り切るという、相変わらずの戦時中の一億火の玉とおなじ発想でしかない。それによれ ば牛乳は4日にコップ一杯、卵は一ヶ月に一個、焼き肉は21日に一皿だ。アメリカから大量の食料を買い、不要な武器を買い、その裏で離農し廃業する農家や 酪農家や漁師たちが増えていくのは、これはもう政治の問題であり、それに携わってアメリカのポチ公よろしく安穏としている連中こそ、すべて「非国民」では ないのか。政府の備蓄米倉庫を襲撃する日がおれにはいまから待ち遠しいよ。

※山田正彦「小説 日米食糧戦争−日本が飢える日」(講談社 2009)
2023.1.30


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 娘の送迎の送と迎の間をぬって、天理の杣之内にあたらしくできた道の駅に併設された「なら歴史芸術文化村」で開催中の「発掘された日本列島 展 2022 調査研究最前線」「物部氏の古墳 石上・豊田古墳群と別所古墳群」を覗いてきた。縄文土偶っていうのはさ、やっぱり命の躍動なんだよね。あの文 様には人の生命や植物や大地を活性化させるシステムが仕組まれているようにいつも思うんだな。そんな縄文土偶に会いに行ったのだけれど、その他の特に江戸 期の製鉄炉や明治の鉄道遺跡なんかも案外と面白かった。後半の物部氏関連は天理市によるまさに現地周辺の古代遺跡を並べた展示で、地味だけれどあたらしい 発見があってこれも面白い。いまならアンケートに答えると60頁のカラー図録がもらえるよ。この「なら歴史芸術文化村」は杣之内古墳群のなかに位置してい て、展示資料のあるいて行けそうな距離に「杣之内火葬墓」というのを見つけ、「情報発信棟」の女性に訊いたのだけれどよく分からないらしい。それで 「じゃ、ちょっと調査してきますわ」と池のはたを歩いていくと、やがて天理教の親里競技場というところへ出て、どうも「杣之内火葬墓」はこの敷地内にある らしいんだな。「関係車両以外 進入禁止」というゲートが開いていたんで「車じゃないからいいか」と入っていって、管理事務所に声をかけたけれど不在のよ うで、ちょっと見せてくださいね〜とか言いながら奥の競技場の方へ進んで行って、ああ、あのへんだなと見えているのだけれどあちこち鉄扉やフェンスでたど り着けない。仕方がない。途中から植込みの隙間に入り、道なき道をかきわけてよじ登り、無事到着した。8世紀(奈良時代)の貴族を葬った火葬墓で、グラウ ンドの造成のために削られて墳丘のように高くなっているが、もともとはなだらかな丘陵地のてっぺんあたりだった場所のようだ。被葬者について天理の観光サ イトでは「奈良時代に中央官僚として正二位大納言となった石上家嗣(いそのかみのやかつぐ)」と記しているが、藤原不比等と共に当時の政権を担った石上麻 呂だろうという説もある。せっかく立派な説明表示もあるのに勿体ない。将来的に「なら歴史芸術文化村」とつなぐ散策路でもできないのだろうか。帰りはいま さら管理者の目につかないように忍者道を抜けて「なら歴史芸術文化村」まで帰還したってわけさ。というわけで良い子はきちんと親里競技場の管理課に問い合 わせてね。そうそうお昼は昨日、農産物直売所 旬の駅トドロキタウン店で買った半額240円のお魚弁当を持っていって池のはたで食べた。今日はぽかぽかと暖かな日中だったな。
2023.1.31


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 日本の敗戦から9年が経った1954年の夏にシベリア・ハバロフスクの矯正労働収容所で死んだ父の遺書が、その後解放され帰国した収容所仲 間によって分担して暗記され、家族の元へ届けられる。しかしこの一冊の文集は10歳のときに生き別れたその著者の父について直接的に記したものではない。 半分近くは満州での思い出や戦後の自身の生きざま、学問や音楽やフランス留学の思い出、母の生きざま、そして不遇だった弟の生きざまを丁寧に記したものだ が、記せば記すほどそこに<不在>の父が濃厚に匂い立つ。著者が父の墓参のためにハバロフスクを訪れたのは2011年、76歳のときであっ た。<不在>の父は、仮にかれが戦後を生きのびて身近に生きただろうことよりも、逆説的だが際立っている。そこにひとの生き死にの不思議があ るように思う。この国を覆っている無数の<不在>はいまだ語られぬままだ。そんな濃厚な<不在>の密度を、森々と雪が降り積もる ような2023年のあたらしい冬の幾日かに、PCの電源も落したまましずかに読み耽った。わたしがいちばんこころにのこったのは「弟の屁」と題した第十一 章―――優秀な長男である著者を追いかけるように東大に入学したものの精神的ストレスから放屁恐怖症となって世間を疎み、ときに酒に溺れ、家庭を持つこと もなく、最後は肝臓癌によって壮絶な最期を闘った弟・誠之についての一文で、それは「私が自然死のときは区役所へ届けてください」と書置きして見事な孤独 死をした横浜の叔父の姿が思い重なったからでもあった。著者はその章の最後に記している。「彼を知る者にとって、彼の生の軌跡は強い光芒の印象を与える。 この印象が存続する限り、彼の一生は空しいものだったとは言えないであろう」。これもまた濃厚な<不在>の密度なのであって、生者の何気ない ふるまいがじつは<不在>の死者によってあらしめられることを、この文集はとつとつと語っている。

山本顕一『寒い国のラーゲリで父は死んだ  父、山本幡男の遺した言葉を抱きしめて』(バジリコ・2022)
2023.2.4


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 『やまゆり園事件』(神奈川新聞取材班 2020)を通勤の合間に読んでいる。
 じぶんは果たして植松聖になるだろうか、というのがわたしの身を挺した実験である。
 今日は当事者のHさんとAさんと三人で、ユニバーサル・シティウォークのモスバーガーでお昼を食べた。
 「意思疎通」とは何だろうか。
 植松聖は意思疎通のできない知的障害者を「生きるに値しないいのち」だと断じて殺害したわけだが、意思疎通は何もことばだけとは限らない。むしろことばがそれを阻害することだってあるし、ことばが悪臭を放ち糜爛することもある。
 「意思」はいったい何に対して、だれに向かって示されるのか。
 ひとか? 神か?
2023.2.8


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 基本、平日勤務で土日祝日はカレンダー通りの休みだが、雇用契約には加えて月いちどの土曜の開所日と、月二回ほどのグループホームでの泊ま り勤務が含まれている。昨夜はそのはじめての泊まり勤務だった。木曜の朝に出勤して、夕方に作業所の利用者と共にグループホーム行きの車に乗って、そのま ま泊りの夜勤勤務となる。翌朝はふたたびグループホームから事業所へ出勤して、そのまま日勤に入る。定時の夕方17時15分まで、32時間超の連続勤務と いうことだが、福祉の現場ではごくふつうのことであるらしい。昨夜泊まったホームは全介護の利用者二人が共同生活をしているので、それこそ食事の支度や洗 濯、着替え、食事介助、そして排尿、排便、入浴、歯磨き、髭剃りから目ヤニ取りまで、何から何までを介助する。車椅子から床へ下ろしたり、床から持ち上げ て室内のポータブルトイレへ坐らせたり、素っ裸の身体を持ち上げ、互いの胸を密着させて抱きかかえ浴室へ運び、頭から股の間から尻から足指の間まで、丁寧 に洗う。はじめてのわたしも大変だが、はじめての人間に全身を晒しゆだねる利用者の方も大変だ。意のままに動かぬ肉体を口の中から尻の穴まで見知らぬ他者 にさらけ出しゆだねなければ生きてゆけぬのだ。どれほどの決意だろうかと思うのだ。他人の陰部に尿瓶を当てたり、尿切りのために陰茎をちょいちょいと弾い たりするのはもう馴れた。ポータブルトイレの中身をトイレに流し、排便後の肛門を汚れが落ちるまでトイレットペーパーとウェットティッシュで確認しながら 拭くこともおなじで、いまではじぶんのいじけた陰茎を見るとかれらの陰茎を思い出し、じぶんが垂れた糞尿を見るとかれらのそれをまた思い出すのだが、所詮 ひとが生き続ける間に排出し続けなければならない生理的現象に、いったい彼我の違いがどれほどあるというのだろうか。尻をぬぐった落とし紙についたシミは わたしのそれでもありかれらのそれでもある。そう思えてくる。Kさんはわたしより幾つか年下だろうか。ことばを発することは出来ないけれど、「Kさん、 コーヒー飲みますか?」と声をかけると、「うん!」とうれしそうな顔をして弾んだ声が返ってくる。左右の奥歯でしかものを噛めないので、食事介助の際には その左右の交互に食事を入れていくのだが、それでも口からは呑み込めなかった食物の切れ端が唾液と共にだらだらと流れ落ちてしまう。昨夜はそんなKさんの 身体のすみずみをきれいにして、夕食後にKさんがテレビに映したユーチューブの古いドリフターズのコントを、布団の上で横になっているKさんの後ろにこち らも添い寝をするようにいっしょに寝ころがって見ていっしょに笑った。そうして今日はKさんといっしょに作業所へ来て、「Kさん、ドリフが好きなら、クレージー キャッツは知ってますか?」と訊くと、「うん!」とうれしそうに答えた。そしてそれが果たしてクレージーキャッツのものかどうかは分からなかったけれど、 何かのメロディらしきものを延々と、とてもうれしそうにくりかえしくりかえし首をふりながら歌ってくれたのだった。夕方、送迎車のリアリフトにKさんの重 たい電動車椅子を載せたとき、Kさんは不自由な左手をさかんに動かし始めた。何か訴えているのだろうかと驚いて駆け寄ると、それは「今日は泊りには行きま せんよ」と言ったわたしへのKさんの「さよなら」の合図だった。「Kさん、好きな人が一人増えたんだね」と送迎車のドライバーさんがやさしくKさんに言っ ている。けっこうヘロヘロな二日間だったけど、それですべてが報われたような気がしたな。
2023.2.10


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 昨夜は夕食後、映画館で数日前に「アバター2」を見てきたばかりの娘のリクエストでテレビ録画しておいた13年前の前作を家族で見た。映画 館に迎えに行ったときに娘は「ナルニアに匹敵するくらいかも知れない」と大層興奮していた。ああ、わたしもアバターになって、パンドラで暮らしたい、と夢 見心地に言うのだ。元海兵隊員で車椅子の主人公ジェイクがはじめてアバターに意識を移す場面。ジェイクが自由にあるける足に狂喜しながらスタッフの制止を ふりきって走り出すと、娘はぼろぼろとなみだを流した。「ジェイクが走れるようになってうれしいんだよね」と困ったつれあいが声をかけると、ちがうちがう と首を振る。そんなとき、泣くなとも言えないし、思いっきり泣けとも言えない。ただ黙って彼女の悲しみを前に立ち尽くすことしかできない。ことばなどとい うものは所詮、その程度のものだ。
2023.2.12


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古来人類の最大迷信は即ち国家崇拝なり

木下尚江「国家最上権を排す」
2023.2.12


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 その人はいつもみんなからはなれた長机でノートにぎっしりの文字とも判別しにくい羅列を一人書きつづけているので近寄りがたい雰囲気があっ た。今日ははじめて「いつもたくさん書いてますね」と声をかけたら、すっと自然にそのノートを見せてくれたのでよくよく見せてもらうと、いくつかの人の名 やことばがあぶり出しのように見えてきて確認をするとことばにはならない発声でひとつづつ、そうだそうだとおしえてくれた。しばらくして別の場所に移動し ていたわたしを彼女が呼びに来た。彼女が指し示す先に「あいだ」の文字が。「ぼくの名前を書いてくれたんですね!」おもわず声を上げると、うんうんとうれ しそうにうなずいている。
2023.2.14


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 空席     ジャン・タルデュー

死者たちが戻って来なかったからには、
いまさら何を生者たちは知りたいのか?
死者たちが不満を言うすべを知らないからには、
誰を、何を生者たちは不満とするのか?
死者たちがもはや黙っていられないからには、
生者たちも沈黙を守っていてよいのか?

(詩集『化石した日々』 より  安藤元雄 訳)


Vacances      Jean Tardieu
Puisque les morts ne sont pas revenus,
que reste-t-il à savoir aux vivants ?
Puisque les morts ne savent pas se plaindre,
de qui, de quoi se plaignent les vivants ?
Puisque les morts ne peuvent plus se taire,
est-ce aux vivants à garder leur silence ?
(Jours pétrifiés 1946) 
2023.2.17


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 いまのわたしにはKさんの硬直した下半身の溪谷から粘着質の便を拭きとることが革命だ。
2023.2.17


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 雨の日の週末、立教大学「詩人尹東柱を記念する立教の会」主催による講演:戸田郁子『尹東柱の故郷・間島を語る』をZOOMで聴講する。尹 東柱が福岡刑務所で27歳で獄死したのは1945年の2月16日であった。尹東柱(ユン・ドンジュ)が生まれ育った間島(かんとう)は朝鮮半島の付け根、 豆満江以北、そして鴨緑江以北の朝鮮民族居住地であり、清を統一した女真族ヌルハチの祖先の地として長らく封禁地とされていた歴史を有し、尹東柱が物心つ いた頃には日本の「満州国」の一部であり、抗日運動が盛んであった朝鮮でも中国でもない特殊な地域であったといえる。その間島の歴史的経緯から始まり、 1886年に尹東柱の曽祖父尹在玉(ユン・ジェオク)が半島から豆満江を渡って間島へ移住してきた頃からの、この間島というどこでもない土地から見た歴史 の上で語られる龍井(間島の中心地)での日本総領事館の設置や憲兵隊の駐屯、開拓民管理のための「安全農村」と匪賊討伐、3.13の万歳示威(抗日デ モ)、北間島地域の青年秘密結社「鉄血光復団」による日本の鉄道敷設資金の強奪事件など、どれも日本では教えられることのない歴史の場面ばかりだ。そして ZOOM画面に次々と写し出される当時の間島の風景、町並み、人々の表情。それらはみな若き尹東柱が呼吸しあるいた風景だった。わたしたちはみずからの記 憶に、遅かれながらそれらの「歴史」を上書きすることができる。教会での追悼礼拝を含めた2時間半はそのような滋味深い時間だった。このような貴重な講演 を自宅にいて聴講したり、場合によってはオンラインで参加者と交流したり質問したりする機会が増えたのは、思えばコロナによる唯一の収穫なのかも知れな い。今回の模様は後日に立教大学の「平和・コミュニティ研究機構」により、期間限定で一般配信されるそうだ。
2023.2.19


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  ついニ、三日前、ふっと思いたって“お盆”という言葉を広辞苑で引いてみた。広辞苑には“お盆”とは盂蘭盆会のことで、それは梵語 ullambana からきた言葉であり、その梵語の意味は“甚だしい苦しみ”と書いてあった。そんなことをはじめて知り、胸の衝かれる思いがした。 (中略) 1975年5 月19日、あの東アジア反日武装戦線の人々の逮捕のときに、青酸カリ入りのカプセルを飲んでよだれを垂らしながら苦悶のうちに死んでいった斉藤和。その後 一週間ほどして東北線の電車の便所の窓から飛び降り自殺し、発見されたときには、頭、肩、首の骨が折れていて、顔面も識別がつきかねるほどに損傷していた という荒井なほ子。そして6月13日には、長野県中野市の自宅近くの林道で乗用車の中に排ガスを引き込んで、「とうちゃん、かあちゃん、許して下さい」と いう遺書を残して自殺していった藤沢義美。そしてさらには6月25日、東アジア反日武装戦線への支持を表明しつつ、皇太子の沖縄訪問に抗議して、ガソリン をかぶり自ら火を放って焼身自殺を遂げた船本洲治。 私たちの戦争による戦死といってもいい彼らの死。彼らの死も、死それ自体は“甚だしい苦しみ”であっ ただろう。
加藤三郎『意見書 「大地の豚」からあなたへ』(死者と残された者との間を架橋するために)

  ある人から預かった、いまは亡き人のかつて蔵書であった荒々しい鉛筆の線引きが随所に刻まれた背表紙のはがれかけた本のそんなくだりを読んだ後の風呂あが り、これもかつてウトロの平和祈念館のイベント劇の広場ではじめてお会いしたチェ・サンドンさんから手交された済州島四・三事件の死者を歌うCDを聴きな がら、尹東柱の詩「蝋燭一本」の美しい一節にかなしばりになっている夜。

光明の祭壇がくずれるまえ
私は清らかな供物(くもつ)を見た。


2023.2.21


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 終日天気のはずで朝から中ノ川(奈良市)の廃寺跡や共同墓地、山中の牛塚などを訪ねるつもりにしていたのがじきに雨が降り出して、午後に日が射し出してからジップを連れて城のぐるりをあるいてきた。

  「死者と残された者との間を架橋するために」のなかで著者は、東アジア反日武装戦線“狼”のメンバーたちと『きけわだつみのこえ』のなかの特攻隊員たちが 残した言葉を、「神聖な、偉大な目的」のために「個を滅却し自己投棄」し、「それを信じれば信じるほど、死の恐怖や苦痛をものともしないで、そこに“大き な誇りと喜びを感じる”」感受性として並置して、「闘いに向けた理念の把み方とその心情に、深く通底するものがあると思う」と記す。そして小此木啓吾の 『日本人の阿闍世コンプレックス』を引いて、源義経、真田幸村、山中鹿之助、大石内蔵助らの「少年講談の英雄」たちが「自己が価値あるものとみなした対象 に対して、自己犠牲的に生きようとする無私なあり方が人間にとって美しいあり方だといった意識」を連綿と帯びており、「今もなお、わが国の社会機能も家庭 生活も教育も、すべてこの種のマゾヒズム的な人間の存在によって支えられているのではないだろうか」という小此木の一節と共に、「そうした心理がかなりに 広く現在の日本人の深層にも横たわっていることは、“狼”たちでさえ認めるに違いない。しかし“狼”たちもまた、彼ら自身そのような心のあり方を持った大 人たちによって、その社会の中に生み落とされ、そうした感性を深く呼吸してきた日本人ではなかったろうか」と指摘する。

  こうした“狼”たちは、戦後の民主主義や、またマルクス主義やそれに依拠する党派の抑圧民族性といったものをはっきりと認識するにいたった、戦後の革命派 の最も急進的な部分であった。彼らは天皇制を否定し、戦後民主主義の担い手たちを否定し、マルクス主義を否定し、党派を否定し、日本の人民をももはや依拠 する人民ではないと否定してしまうところまでたどりついてしまった人たちだった。そして自分自身をもそのあるがままの存在としては生きるに値しない人間と して否定してしまっていた。しかしそうであったからこそ、もはやマルクス主義の体系とか組織とか、人民に依拠するとかいった媒介項は一切なしに、ただただ 直接的な被侵略者人民との関係(それも幻想的な関係でしかなかったが)の中で、彼らが、自分が倫理的に誠実に、そして純粋に、美しく、したがって自分のす べてを賭けて闘っているかどうかだけが問題だといったところに、自らの問題意識を凝縮していったとき、逆にそれは、天皇制を支えてきたマゾヒスティックな 心理構造を、心情を、それとは正反対の方向で鏡に写したかのように、純化した形で示してしまうことになったのではないだろうか。だからこそ、“狼”たちに 対して、あろうことか右翼の人たちまでが激しい共感を寄せたのだろう。

 そしてその
“狼”たちの闘いに、日本人の新左翼の周辺にいた人々の、少なからぬ部分が共感したのも、同じ心理的な傾向、感受性からだろう。彼らが“狼” たちを“この上もなく誠実であった”とか、“美しい心を持った若者”だったとか、“国家権力に攻撃を挑んでいるゲリラ戦士なのだ”とかいって、その行動に 深く心をうたれているのは、彼らの深層心理に、やはり日本人特有の、弱者のために、あるいは自分が心を寄せている人々、共同体のために、個としての自己を 殺して自己犠牲的に闘うことを美しいことと感じるような意識が、とうていかなわぬまでも闘って滅びていくことそれ自体に価値をおくような滅びの美学が、そ んなふうに現実に命をかけて闘った人々にどうしようもなく罪悪感を感じてしまう感性が、根強く生きているからのことなのだろう。そしてそれはかっての皇国 日本の、アメリカに対する真珠湾攻撃による宣戦布告や、特攻隊攻撃を美化し、それに酔い痴れた人々が、決してその闘いの現実の悲惨さと、戦士たち一人一人 の具体的な存在のどうしようもなく無残な姿を見ようとしなかった態度と同じなのだ。

加藤三郎『意見書 「大地の豚」からあなたへ』(死者と残された者との間を架橋するために)

 そうしてわたしはいま、あの山上徹也のことを考えている。
2023.2.23


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 じつに愉しみにしていた来る3月5日、グランドサロン十三での高野陽子さん、熊澤洋子さん、きしもとタローさんらによる音楽とダンスで巡る 「欧州ロマンティック・エクスプレス」。今日、職場にて「重度訪問介護従業者」の資格講習の話が突如飛来して、木っ端みじんに粉砕されてしまった。残念至 極、断腸の思いだが、いまの時期は仕方がない。来るものは拒まないつもりだ。代わりに「いつのまにこんな本が出ていたのか」と先日知ってメルカリで購入し た村薫『作家は時代の神経である』(毎日新聞出版)と、井波陽子さんのあたらしいミニアルバム『やまなし』が届いて、井波さんの宇宙的日常のステキなピ アノと歌を聴きながらこころを慰めている。
2023.2.24


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 中川寺は1112(天永3)年頃、平安時代後期に比叡山で天台を学び忍辱山円成寺にいた実範上人が「仏に供える花を探して中ノ川に入った とき、そこをただならぬ場所だと感じたため」に法相、天台、真言の道場として寺を開いた、という。現在高野山に伝わる声明「南山進流声明」のルーツでもあ り、声明発祥の地のひとつともされている。しかし応仁の乱後の1481(文明13)年、大和の覇権争いのなかで古市氏の軍勢により本堂を残して一山をこと ごとく焼き払われ、明治の神仏判然令によって廃寺とされたのちに完全に破壊された。般若寺から浄瑠璃寺、岩船寺へとつづく笠置街道沿いの山中に、かつての寺 領はことごとく草木に埋もれ、いまではたしかな場所ですら判然としないが、わずかなよすががそちこちにひっそりとちらばっている。球技場近くの路肩に車を停めて、 下中ノ川の暗い林道沿いの忘れ去られたような中ノ川墓地、そこから中ノ川の集落の中央――バス停前のお堂に坐した「永正十四年(1517) 六月二十四日」と刻 まれた中川寺地蔵堂安置と伝えられる辻堂地蔵石仏、岩船寺方向の雑木林に案内板もなく眠る伝実範上人廟塔と伝わる五輪塔、中川寺の鎮守とも伝承される中折 れの回廊の石段を上がる三社明神(十所権現)などをめぐって集落の北方、獣除けのフェンスを抜けると旧大和街道にもつづく尾根筋にある集落の共同墓地へ出 た。鎌倉期の様式ともいわれる立派な五輪塔を中心に埋め墓の卒塔婆が寄り添うように立ち並んでいる。こうした五輪塔を中心とした墓地の形は、狭川真一『中 世大和の葬送と墓制』(奈良県立同和問題関係史料センター「研究紀要」第16号、平成23年 所収)によると中世にはじまる古い形式をとどめているそうだ。「二世代」にわたる古い六 地蔵が墓地の入り口で迎え、ついで軍人墓が立ちならび、現代の墓石の間に中世までつらなる古い墓石や梵語を記した光背型の石碑などが点在している。幾世代 もの生き死にが、山中の尾根道に重なり合っている。いったんバス停までもどり、笠置街道と柳生街道が交差する際から未舗装の林道としてのぼっていく旧大和街 道をしばらくすすむと、見晴らしの良い峠の高台に牛塚と伝わる十三重石塔に出た。その足元には板状の石材を組んだ龕の中に、なぜか首と両手首を失った石仏が円い光背を背に坐している。十三重石塔は南都焼き討ちからの復興のための石材運搬で死んだ牛を供養するために建てら れたと説明板は記すが、全国に残る牛を祀る信仰、牛頭天王、そして亡者達を責め苛む獄卒としての牛鬼や牛頭獄卒馬頭羅刹といった異形の姿には、牛を屠り生贄 として捧げた禁忌(タブー)の祭祀の匂いがする。そんな牛塚の足もとで持参したドリップコーヒーを淹れて歴史を浮遊するような不思議なひとときをを過ごした。
2023.2.25


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 子ども食堂のあと午後に、図書館司書を目指している男子大学生の質問に答えるという「会合」を、つれあいの元同僚で現在は別の地域の図書館 で働いている人にも参加してもらって天理駅前のPark Side Kitchenで集い娘も同行するということから、アッシーも兼ねて予定時間の90分(駅前広場駐車場の無料時間)ほどで見て回るものはないだろうかと急 遽考えて、冷泉為恭(れいぜい ためちか、1823(文政6)年 - 1864(元治元)年)という幕末の絵師をめぐる小さな旅を企画してみた。公家召抱えの復古大和絵の才能ある絵師であり王朝文化に深く憧れたかれは、 「『伴大納言絵詞』を所有していた小浜藩主である京都所司代・酒井忠義に、閲覧の許可を得るために接近していた」ことなどから「幕府方の間諜」という風聞 が立ち、討幕派の浪士たちに命を狙われ」、僧形に身を変えて紀伊の粉河寺、堺と居場所を転じ、最後に潜伏していた大和の内山永久寺に近い現在の天理市内で 長州藩の大楽源太郎らによって殺害された。40歳であった。逸木盛照『冷泉為恭 : 為恭と願海の生涯』(大正14)によると、潜伏の手助けをしていた肥料米問屋・辻本徳次の裏切りで籠に乗せられ、現在の天理市永原町と三昧田町の境の「鍵 屋の辻」で襲撃されたという。首は持ち去られて大阪の南御堂の石灯籠の火袋のなかにさらされ、残された遺骸は天理市勾田町善福寺の境外墓地に「誰一人顧る ものもなく草の繁みに捨てられていた居た」のを大正11年になってその場所に碑が建てられたという。天理参考館にも近い善福寺の墓地を参り、庭園跡という 池を残すのみの為恭の最後の棲み処であった内山永久廃寺跡、最後に手探りで見つけたJR桜井線沿いの草になかば埋もれるように建つ「岡田為恭遭難之碑」 (※また蔵人所衆である岡田氏に養子入りしたため、岡田 為恭(おかだ ためちか)とも言われ、絵にしばしば岡田氏の本姓である菅原姓で署名している。)を訪ねて天理駅前にもどり、ちょうど会合が終わる頃であった。大学生の主 な質問は、図書館の仕事をしたいがはたしてそれで食べていけるか、というもので、答えは「現実はかなり厳しい。正規職員の募集は県内では田原本しかなく、 月額15万円程度。あとはほぼ非正規(パート)」というようなものであったそうだ。非正規、やめよう。
2023.2.26


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 週末の土日に「重度訪問介護従業者」の資格講習が発生したために急遽飛び込んできた代休。気持ちよく晴れた暖かな天気で、近場の、たまには 唐招提寺あたりでも自転車で見てこようかとも思ったのだけれど、娘の送迎などもあるので先日一部部材だけ切っておいたこちらを先に片づけてしまうことにし た。ガーデン・ゲートの看板が十数年を経過してかなり傷んできたので、代わりの看板製作。これまでは上部の穴にひっかけたプランターハンガーに小さめの植 木を乗せていたのだが、風の強い日は倒れることもあったので、こんどはもうすこし重心を低くしようと思った。Webで拾った写真を参考に、材料もペンキも 余りもの残りものを使ったので材料費はゼロ。従来のはねじ止めだけだった脚の部分が先に壊れてきたので、こんどはルーターでホゾも削って強度を増すことに した。ペンキを塗っていたら、あやうくバイトへ行った娘の迎えを忘れるところだった。5分遅れて到着。さあ、明日からは講習三日間(土日+土)と泊りをは さむ32時間(日勤+夜勤+日勤)勤務1回を含んだ9日間連続勤務だ。がんばれよ、おれ。
2023.3.1


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 一人びとりの生活のなかでそれぞれが、「生き延びるための再編と再構築」を試みていくしかない。勇気と覚悟をもって。落ちていく岩にしがみつかない。

 ・・自らを刷新してゆく力をすでに失って久しい政治と大企業の保身が、こうしていまなお、この国の革新と再生を阻害しているのである。

 感染が終息すれば経済はV字回復する、などという政府の弁を信じてはならない。私たちの暮らしも経済も、コロナ以前から十分に老いていたのであり、生き延びるための再編と再構築は不可避だが、これは苦しみではなく希望の作業である。勇気を持ちたいと思う。

村薫「作家は時代の神経である」
2023.3.2


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 ひょんな偶然の積み重なりから知的障害者の事業所を見学し就業に至る以前は、知的障害者、あるいは発達障害などを抱えた子どもたちの存在は わたしにとってある意味、「見えない壁の向こうの世界」だった。壁の向こうでどんな人たちが、どんな会話をし、どんな日々を送り、どんなことを考え、また 望んでいるのか、見ることも知ることもない。ここに登場する多くの人たちと、わたしはいま毎日のように顔を合わし、いっしょに食事をし、いっしょにすごし ている。まだまだ到達できないこころの領域は多いけれど、「見えない壁の向こうの世界」は「壁のこちら側」と何ら変わることはなかった。わたし自身とおな じように笑い、怒り、妬み、哀しみ、ときに不安を感じ、ときに燦然と輝く、個性のある一人一人の「にんげん」だ。「壁」をつくっているのは社会の方だと思 う。あたかも「日本という国は単一民族だ」と歴史を歪める政治家の発言にも似て、見た目やわずかな差異を区別し、「壁」の向こうへと排除する。在日コリア ンや、アイヌや、沖縄や、ハンセン病者や、被爆者や、被差別部落や、入管で殺される「不法残留」の外国人のように、「壁」の向こうへ追いやられた声は「壁 のこちら側」には聞こえないし、姿は見えない。残るのは負性を帯びたイメージのみだ。作家の村薫氏が「忘れまい、やまゆり園 目指す社会のために」と題 したエッセイのなかでいみじくも書き記している。「私たち人間の差別意識の多くは、単純に見馴れていないことから生まれる。障害者が近隣で顔を合わせる存 在になったとき、私たちはごく自然に彼らの喜怒哀楽に気づくことだろう。いのちが尊いものであろうとなかろうと、障害者も健常者も、生きるときは精いっぱ い生きるだけのことである。」
2023.3.3


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 東日本大震災のときは身も切られるような痛苦と共に「この国はもう根本から変わらなくてはいけない。変われるのではないか」と思ったものだが、いまや「コロナ後の展望」など微塵の影すらも予兆出来ない。すでに3年が経とうとしているが、末法の世の混迷は深まるばかりだ。

 ・・ しかしそれならば、私たち日本人はいま、どんな「コロナ後」を展望し、どんな新しい社会を思い描いているのだろうか。新たな感染症という人類史的な出来事 の途上にあるいまは、同時代を生きる老若男女がそれぞれに思いを言葉にし、言葉と言葉をすり合わせて新しい生き方の道筋をつけてゆくべきときであるが、政 治を筆頭に、ここまで言葉に信を置かなくなった近年の日本人にとって、こうした言葉による思考実験ははなはだしく困難なのではないかと思う。
 当たり前のことながら、言葉は論理であり、言葉の軽視はすなわち論理の軽視であり、論理の軽視は社会秩序の解体である。

(中略)

  思えば、集団的自衛権の行使を容認した閣議決定も憲法という大前提を無視するものであったし、「ご飯論法」のように日常的にほとんど質疑の体をなしていな い昨今の国会の問答は、もはや日本語の解体と言うべき事態であろう。さらに度重なる公文書の改ざんや議事録などの破棄を見ても、いまやこの国は記録や文書 の意味を解さない未開国であり、多くの場面でいちいち国民に嘘をつく手間すらかけなくなった烏合の衆が政治ごっこをしているのだと言ってよい。そんな末法 の世に、私たちは汗水垂らして生きている。

村薫「末法の世に生きる 公共の言葉の復権を」2020.6.7
2023.3.4


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 土曜夜の深酒が祟ったのか翌日曜、資格講習二日目は朝からひどい下痢と胃の痛みで、それでも脳性麻痺の当事者さんと文字盤をつかったゲーム などをそれなりに愉しんでいたのだけれど、帰ってから熱が38度も出ていて、今日は仕事を休んで朝から近所のS医院へ。「発熱の方は入らずに電話を」と入 口に何枚も貼ってあるのでその場で電話をしたところ、「検査は24時間後でなければ分からないので、できたら発熱外来をやっているところを探してくださ い」 ふたたび家に帰って市のホームページなどで病院探し。インフルエンザもいっしょに結果が分かった方がいいんだがといろいろ物色しながら、身体がしん どいのにあれこれと面倒ですわ。午前中に電話予約をして12時から一時間限定での、駐車場に停めた車内対応での検査ははじめてだ。結局、コロナでもインフ ルでもなく、「熱は胃からくるものでしょう。さあ、入って下さい」と病院内への立ち入りが許可されて何だかやっと人間として認められたような奇妙な気分に なって待合室に入り、胃腸の薬を出してもらった。というわけで地獄の9日間連続勤務はいともたやすく崩壊したのであった。明日まで休みをもらった。
2023.3.6


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 天災と人災が入り混じって無責任に投げ出されたままのあの日から12年目の翌朝の新聞をひらけば、原発推進に舵を切り汚染水を海へ垂れ流そ うとしている首相が「復興は着実」と言い、「放射能は無主物」と宣っていまだに誰一人責任をとらない電力会社社長が「改めておわび」を言い、それらのコメ ントをこの国のメディアが悲しみと希望の感動記事にしれっと添えて済ましている。「新しい戦前」などというものはじつはもう疾うのむかしに通りすぎてい て、それはじっさいに武器を持って戦う目に見える「戦争」ではなくて、じつはことばやモラルの崩壊といったような(ある意味でもっと深刻な)ものでだから 植民地も治安維持法も特高警察もことさら必要ではなく、そしてその目に見えない「戦争」はもう相当の末期的状況でだれも気がついていないけれどじつはもは や「国土」はすっかり焦土と化し敗戦間際なのではないかと、ふと思った。わたしたちが目前にしているのは、やがて到来する「新しい戦後」の気配なのかも知 れない。言語もモラルも崩壊した創世記に語られるバベルの塔のようなディストピアか。
2023.3.12


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 ディランが「ブルーにこんがらがって」を書いたのはきっとこんな夜だろうな。鎖から解放されるわけではないが、がらくたをふりきってあるき 始める。グレート・ノース・ウッズで臨時雇いのコックの仕事を見つけたが首を切られ、ニュ−オ−リンズまで流れていってデラクロワの沖で漁船の仕事にあり つく。昼日中にランプをかかげてあるきまわっていたディオゲネスは、人から何をしているのかと訊かれ「誠実な人間を探しているのだ」と答えた。「しかし、 ろくでなしと好かない野郎しか見つからなかった」。まともなにんげんになりたいから、さよならをするんだよ。ブルシット・ジョブにまつわるような吹き溜ま りを越えてにんげんの顔をとりもどすために。天上から与えられたほんとうのなまえをわすれてしまうくらいなら、公衆便所の糞まみれの便器をぴかぴかに磨く 方がよほど気高い。にんげんとして生れてきたからには、にんげんのままで死んでいきたいのだ。大事なことは朝起きたらそれ以上上流に人が住むことのない流 れの源流に行って一杯の水を朝日と共に飲み干すことだ、それだけでひとの精神は整えられる。くちからむんと蒸れるそのいきの臭(くせ)えおっとせいの嫌い なおっとせいなら、そう言う。
2023.3.14


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 重度訪問介護従事者研修の4日目(最終日)は、二人一組で車椅子の当事者役と介助者役を交代しながら、若江岩田駅から電車に乗って布施で乗 り換え、近鉄八尾駅へ移動。八尾アリオのフードコートでお昼を食べ、買い物などのミッションをいくつかこなし、ふたたび電車で研修会場までもどってくると いうもの。

 まず、車椅子は寒い。長時間乗っていると乗り物酔いをする。けっして居心地の良い乗り物ではない。尻が痛くなる。

  ヴィレッジ・ヴァンガード店内、障害競走のようにせまくて通れない場所が多数。フードコート店舗前の並び列用のパーテーションも狭すぎて入れない。イトー ヨーカドー店内、せっかく充分な通路幅があるのに買い物カゴのストッカーで通れない。本屋やレコード屋の上方の棚、高くて届かない。ATMコーナーや店に よってはレジのカウンターも高くて不便。

 携帯会社の兄ちゃんたちが配布しているティッシュ。車椅子を押している介助者には渡そうとするが、車椅子に乗っている当事者にけっして渡してくれないのはなぜか。

 子どもはじろじろと眺める。大人はさりげなく目をそらす。小さい子どもが車椅子に近寄ろうとすると母親は「〇〇ちゃん、危ないからだめよ」と制止する。

 エレベータの函内。アリオは車椅子の目線に横型の押しボタンがあるが、隣接するリノアスには健常者用の縦型のボタンしかないので車椅子からは届かない階数が発生する。

 車椅子が4台も連なるとホームにエレベーターが1台しかなく、しかも中が狭いと、じぶんたち以外の車椅子やベビーカーなども集中して待ち時間がかなり長い。健常者ならとっくに乗り換えて次の電車でいびきをかいているところを延々と寒いホームで待たなくてはならない。

 電車内も今回は空いている時間帯だったから良かったけれど、これが通勤時間帯だったらきっと身の置き所もなかっただろう。満員電車に車椅子が4台も乗り込んできたら「いい加減にしろ!」と怒鳴るやつも出てくるかもしれない。

 幹線道路の歩道は横切る車道への乗り降りの段差が多い。路地に入るとうしろからくる車を気にしながらで疲れる(どちらかしか通れない)。商店街のレンガ歩道はがたがたと揺れて少々気分が悪くなる。

 以前は段差や何かの理由で入店を断られたりすることもあったけれど最近はほとんどなくなったものの、まだまだ町中には「見えないバリア」が数多くあると、今日一日わたしたちのチームに同行してくれた講師役のSさんのことばだ。

 講師の方たちともだいぶ親しくなって、愉しくも名残惜しい最終日でした。
2023.3.18


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 天理のなら歴史芸術文化村「開村一周年記念」イベント、寿三番叟の前に行われた公開ワークショップ。ウクライナの若い女性たちに元文楽の人形遣 い・勘緑氏が木偶を教示するというもの。たのしそうに木偶(でく)をあやつる彼女たちの姿はいかにもほほえましいが、彼女たちがここにいることの理由を考えると痛 苦がともなう。同時にまた、ではミャンマーやシリアやトルコのクルド人たちはなぜ招待されないのだろうかとも思ってしまう。善意もまた政治的だろうか。彫 刻家の安藤栄作氏と勘緑氏の縁側対談をはさんだのちの「天と地の和解」と題された音楽人形劇では、屹立する安藤作品の「鳳凰」と対の「天と地の和解」、さ らに中里繪魯洲氏の卵型オブジェを舞台に配し、元「鼓動」の篠笛奏者・阿倍一成氏、キーボードの住友紀人氏、ボーカルの高瀬麻里子氏らの演奏に勘緑氏らの 木偶、そして安藤氏の手斧が叩く生木の音がまじわり、馴れない仕事での疲れが休日でもなかなか取れないわたしは知らず知らずのうちに目を瞑り、まなうらに見えてき たのは先に文化財修復・展示棟の地下展示室で見てきた長岳寺の六道絵の場面場面で、餓鬼道畜生道らに堕ちた亡者たちが地獄の鬼たちにさいなまれるのがまる でじぶんの醜い指先や脚や臓腑のようで、それらが分厚い海水にもまれ錐もみしていると思われたところでふと目が覚め、目の前ですべてを赦し洗い流すような 浄化の心地よいサウンドが鳴り、勘緑氏の操る妖しの木偶が舞台の安藤作品にからみ、そこに安藤氏の振りおろした手斧が生木を刻むコーンという音が天上の鳴り物のように響いて、わたしはまた六道絵に描かれた 蓮華を手にこちらへやってくる飛天を見たような気持でふたたび目を閉じる。なにやらそんな不思議な夢を連続して見たような時間であった。わたしは亡者のように洗われた。
2023.3.21


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 わたしは基本「にんげん嫌い」なので、積極的にひとの輪をひろげていこう・交わろうという気概は、ほぼない。加えて見知らぬひとに会う場 合、相手の期待にこたえられるような価値をわたしが何ら有していないという妙な自信があるので、それも一歩がすすまない理由だろうと思う(そのくせ自意識 は強い)。だからSNS上でときにことばを交わすアーティストの個展やコンサートなどに出かけても、たいていはだまって聴いて・見て、だまってひとりか えってくる。深沢七郎が書いているように「勿論悪人たちの集団に入っていることはできないのだが、私は善人たちの仲間入りもできないのである。どんな善意 の集合へも入っていられないのである」 わたしはひとりがここち良く、ひとりが安心なのだ。そんなわたしだが、ごくまれに見知らぬ人にお会いすることもある。それは手違い で会ってしまったとか、うっかり遭遇してしまったとかもあるのだけれど、わたしはごみ溜めのなかに棲む一匹の甲殻虫のような存在だがこの人はそんな甲殻虫 とかつて知り合ったことがある、あるいはかつてこの人自身がそんな甲殻虫だった時期があったと感じられるようなときかも知れない。京都で育ちいまも京都に 暮らす dandy な青山さんは立原正秋の雑木林が似合うような人で、ごみ溜めのなかの甲殻虫など一見無縁のように見えるが、じつは腹のなかにひっそりと一匹くらい棲まわせ ているのかも知れない。昨年、琵琶湖畔の福山さんの個展を訪ねてくださった縁もあったので、画家自身もさそって、もどってきた観光客で賑わうならまちの路 地で待ち合わせをしたのが16時30分。青山さんおすすめの「蔵」は開店30分前を設定したもののすでに予約客で満席との貼り紙があり、人気の店らしくそ の貼り紙を見て残念そうにかえっていく組も散見された。近くのギャラリーを併設した勇斎の立ち飲み処も覗いたがぎっしりで、ギャラリーの「原田 要展」を 見て庭のミツマタの花の匂いを嗅いで、ならば「ならまち醸造所」の地ビールでまずは乾杯しましょうかとここへ来る前に福山さんが買ってきた古梅園の墨の話 を聞きながら元興寺をすぎてから道を間違えて、わたしが先日訪ねた十輪院が目の前にあったものだからちょいと境内にお邪魔して俄かに中世の葬送拠点ガイド がはじまり裏手の墓地にも歩をすすめて、「ならまち醸造所」のしずかなテーブルに腰を据えたのはそのあとだった。福山さんはスタンダードな「ならまちビー ル」、青山さんは「白 haku」、わたしは「玄  kuro」ときれいにならんだ。お会いしてみれば今日の三人には共通項が案外とあるのだ。三人とも水俣病センター相思社の永野 三智さんと直接の知り合いで、わたしも福山さんも大学は京都で、そして青山さんはわたしとおなじ佛大の通信学課で共に中退組。ビートルズ好きでおそらくレ ノンのファースト・ソロ「ジョンの魂」にはひとかたならぬ思いを抱えている青山さんは、社会保険労務士・行政書士の資格をお持ちで京都市のある福祉施設 (支援センター)の責任者もされている。その後ふたたび「蔵」に寄ったものの席の空く気配がなく、わたしはあまり外で飲み歩くタイプではないので特に懇意 の店もなく、以前に福山さんと行った近鉄奈良駅近くの「奈良の酒蔵全部呑み うまっしゅ」に移動して、そこで福山さんの終電にあたる21時頃まで愉しい時間を過ごした。もともとSNS上で互いの考えや好み、バックボーンなどを交換 しているので、よくあることだけれどお互いに「はじめて会った気がしない」。話題は音楽の話、お互いのなれそめ、被差別部落、在日コリアン、福祉、印度、オートバイ、中国、水俣、あれこれ。次回は青山さんご夫婦を福山さんの地元・東近江にお招きして太郎坊宮登拝と鶏 肉バーベキュー、そして三回目は青山さんの地元・京都のディープ案内をして頂くお願いをして店を出た。ほんとうならもう一軒くらい立ち寄って福山さんには わが家に泊まってもらおうとも思っていたのだが、生憎と昨日から娘の体調がすぐれないこともあって、西大寺駅のホームで京都行の特急に乗り込むお二人を見 送った。そしてわたしはまたごみ溜めのなかの一匹の甲殻虫にもどった。
2023.3.25


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 終日、つめたい雨。昼に鶏肉と白菜としめじのうどんをこしらえて体調のすぐれない娘と食べてから、SNSで拾った奈良国立博物館学芸員・山 口隆介氏による「南山城の仏像」と題した講演(木津川市加茂文化財愛護会主催)を加茂文化センターへ聞きに行った。郡山からJRで奈良、平城山、木津、加 茂と4駅、その先は2両のディーゼルカーに乗り換えて伊賀上野、亀山とつづく。わずか20分ほどの電車旅だが、鄙びた山あいの風景と相俟ってちょっとした 旅行気分だ。5年がかりの浄瑠璃寺九体阿弥陀修理完成を記念して今夏 、奈良国立博物館で「聖地 南山城(みなみやましろ)−奈良と京都を結ぶ祈りの至宝−」展が開催され、今回の講演はその前ふりといったものらしい。南山城といってもエリアはひろく、 今回の出展は木津川市、笠置町、南山城村から、北は和束町、宇治田原町、城陽市まで及ぶ。土葬の習俗が残る古い墓地めぐりから、奈良と隣接するこの南山城 地域は最近、わたしのなかでひそやかなブームとなっているが、この一帯は京都というよりも古代から興福寺、東大寺をはじめとした奈良の都に縁が深い。そし て行基が橋を架けたとも伝わる木津川の水運がある。山口氏の話はふだんあまり目にする機会のないローカルな寺の持仏についてが多くだが、それでも奈良の有 名寺院の仏像との類似(おそらく仏師がおなじ)、海外へ持ち出されてふたたびもどってきた十二神将、四天王の広目天に酷似した神像、残された願文から一切 経と共に奉納されたもとは文殊菩薩像だったと思われるぼろぼろに朽ちかけた菩薩像や、CTスキャンを駆使して仏像胎内の巻物を画像データとしてひろげてい く話など、滋味深い。この加茂の町中から南へ下れば、一説に弥勒道などとも呼ばれる山中の道沿いに以前にわたしが訪ねた千日墓地や岩船墓地、中の川廃寺跡 などが点在し、やがて奈良の都のあの世の入口である地獄谷石窟仏に至り、北上すれば木津川、海住山寺、恭仁京跡などへつらなる。加茂駅は1897年(明治 30年)に奈良経由で大阪と名古屋を結ぶ関西鉄道の駅として開業した。駅舎のかたわらにそのときにつくられた強固な煉瓦造りの「ランプ小屋」が現存してい る。ランプ小屋というのは「鉄道の客車及び駅務や保線用の照明用ランプ、燃料等を収納していた倉庫のこと」(Wiki)で、全国の20ヵ所ほどに残ってい るそうだ。駅の東の丘陵には古い共同墓地が二か所ほどあり、御霊神社があり、藤堂高虎供養碑などがあってそそられる。今日はほぼ講演だけの短時間の滞在 だったけれど、つぎは晴れた休日に朝から半日ほど周辺を歩きまわりに来るのもいいかも知れない。
2023.3.26


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 フォレの音楽がさいしょにわたしのこころ根に入ってきたのは『田舎の日曜日』という1984年のフランス映画だった。とにかく映像が美し い。ひんやりとした室内の暗がりも、そこで響くひとの靴音や吐息も、そして沁み入るような光あふれる木々や水の風景も。そこにフォレの晩年のピアノ五重奏 が千年の古木のように疾走した。映画のなかで、ひさしぶりに訪ねてきた娘が屋根裏部屋で父親の若い頃の作品を見つける。「とても魅力的な絵だわ。綱渡りの 芸人が、バランスをとってる。風と雨と太陽と・・・」 自由奔放な彼女は道ならぬ恋をしていて、老画家はそれを知っているがたずねることはしない。かわり にかれはこたえる。「そう。そして見てごらん。これを描いた画家の、この周囲の人たちへの無関心を」  そんなことを、桜の花びらがそちこちでいまにもあ ふれかえりそうな京都で、二年ぶりの画家の個展をながめながら思い出した。老画家は娘につづける。「さっきお前が起こしに来たとき、夢を見ていた。笑うだ ろうが、モーゼの夢だ。モーゼが死ぬところだ。約束の地を目前にして、この世に別れを告げるが、後悔はしていない。なぜなら、彼は愛するものを理解し、心 から愛していたからだ。分るかい?」  つまりオーボエを吹く人も、泉の水を汲む女性も、垣根の上の猫も、コーヒーミルも、裸の男女も、腰かけるピエロ も、音楽を奏でる天使たちも、羊も自転車も、手水舎も、すべて画家が愛し理解してきたものたちで、わたしにはすべてフォレの晩年のピアノ五重奏のように響いてく る。画家はそれらの作品のはざまをいまや飄々とした足どりでわたっていくのだけれど、来しかたをふりかえるというか、そこにはどこか濃密な“のすたるじ あ”の香りすらして、映画の後半部分でダンスをしながら「私は思い通りに生きるわ」と言う娘をだまって見送る老画家のまなざしが、これらの作品ひとつひと つに生れ変ったかのようにわたしには思われる。だれもいなくなった夕暮れのアトリエでかれはふたたび、ひとりキャンバスに向かう。思いは光のように花のよ うにあふれて、いずこへ向かうだろうか。画家は今回、京都にながく滞在している間にあちこちを墨でスケッチした。東寺五重塔や河原町四条大橋、八坂の塔と いった名所はすでにいくつか売約済みになっていたが、娘が気に入ったのは六角堂のかたわらの手水舎を描いた作品だった。ニ年前も好みが合ったギャラリーの オーナー(女性)がこんどもまた娘とおなじ意見で、たいていの人はすっととおりすぎるのだけど、わたしもほんとうはこれがいちばん好き、あなたはとっても 良い感覚をしている! と大層褒めてくださって、そして今回はこのオーナー氏ともずいぶんたくさんのお話をして、すでに二時間半を画廊ですごした娘はいち どランチを食べに外へ出てからふたたびもどってもういちど作品の前に立ち、購入を決めたのだった。画家と知り合って24年ちかくになる。はじめのとき、娘はま だこの地上にいなかった。
2023.4.1


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 おれが坂本龍一だったら、残された時間はあと13年だ。やりたくねえこと、やってるヒマはねえ。
2023.4.2


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 今日は週の始まりのミーティングでサービス残業も含めて帰宅は夜8時。夕飯を済まし、新聞を読み、書斎のロッキンチェアで三昧聖の本を捲っ ていたら知らぬ間に眠ってしまい、つれあいに起こされて深夜の風呂。明日も仕事で、しかも泊りで32時間連続勤務なのだが、過去のじぶんの墓地の文章など 読み返しながら、ハイボールの杯を重ねてある程度酔いがまわらないと眠れない。70年など一瞬の夢だ、くそったれ。この不様なおれにいったい何ができると いうのか。ほんもののいのちは、どこにあるか。酔っ払いが手を伸ばしても、指先はむなしく空を切るばかりだ。
2023.4.2


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 【福祉現場の労務管理を検証する】

知的障害者の通所施設に勤め始めて2ヶ月が経った。
ここで経験することは現在も日々、驚きであり、ときに苦闘であり、ときに神聖ですらあって、そのうちに少しづつ、何らかの形で書いて行こうと思っているが、それとは別個に冒頭の件で、疑問に感じる部分もいくつか出てきた。
以下に簡単に併記してみたい。

わたしが事業所と交わした雇用契約(正規職員)では
基本勤務時間は 9:00〜17:15 (休憩1時間を含む)である。
土日祝日は休日だが、月に二回土曜日に「開所日」といわれる施設を運用する日があって、このうちの一日は出勤しなければいけない。
それ以外に毎週月曜日の夕方は全体ミーティングがあって、勤務時間は 9:00〜18:30 となる(これは事前説明には無かった)。
また月に二回程度、グループホームの泊まり勤務に入ってもらうことになっている、と入社前の事前説明で言われ、その程度であるならと了承した。

以上を踏まえての
疑問点@
勤務開始はじっさいは 8:50〜 である。
→当初、10分前くらいに出社していたが、数日してから「そこは事業所の“精神”でもあるから」と、利用者の送迎車が到着する10〜15分前には迎えに出られるようにして欲しいと言われた。

疑問点A
「休憩1時間」は存在しない。
→ 昼食時も見守り時間である。食事介助をしながらその合間にじぶんの食事を掻っ込む。食後にスマホの家族LINEを確認していたら「お昼は利用者と交流する ように」と言われた。もちろん買い物などにも行けないし、終日トイレに行くタイミングも難しいのでトイレ介助のときに利用者と多目的トイレでいっしょに用 を足している。

疑問点B
〜17:15 で勤務が終わることは少ない。
→ 何やかやと打ち合わせやミーティングが長引く。ときに知能テストの先生が来て急遽講座が始まり、20時近くに及ぶこともある。月曜のミーティングもほぼお なじような感じだが、それらは勤務時間にはカウントされない。全体的に「勤務時間内に終わらせる」という意識が、あまり感じられない。

疑問点C
「月二回の夜勤」は日勤の間に挟まった8:50〜翌日17:15の32.5時間連続勤務だった。
→ はじめてこの体制を知らされたとき、「え、そこか」と絶句した。前職の警備業でもなかなか、ここまでの体制はなかった。一日目の泊まり勤務の内2時間を除 いた勤務時間は「基本給に含まれている」 32.5時間の内、「労働から解放される時間」は睡眠中の5〜6時間のみである。あとは実質「休憩時間」は存在 しない。
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疑問点D
イレギュラー勤務として早朝の送迎車の運転を担当した。朝5時に起きて実質 7:00〜9:00 の二時間の早出残業だったが、これは時間外勤務にはカウントされず、「一時間遅れて出勤するか、一時間早く帰るかでチャラにしてもらっている」と説明された。
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先に資格講習で訪ねた別の事業所の講師の人たちもそうだったが、福祉の現場で働いている人には「利用者のためならボランティアも厭わない」という熱心な人が多いように感じている。
先 日、年度末の研修で来られた長年入所施設解体の運動をしてきた講師が最後に挙げたのが、1946(昭和21)年に滋賀県湖南市の知的障害児、孤児収容施設 =近江学園を創立した糸賀一雄の「近江学園職員三条件」で、その@の「四六時中勤務」を講師は愛おしく褒め称えたものだ。
わたしはそれらを全否定するつもりはないし、いまはまだ見習い中でもあるので、ある程度のことはとりあえずいまのところ、受け入れよう・我慢しようと考えている。
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た だし前職では現場を管理する立場から労務管理をしてきた人間としては、福祉の現場はどこか従来からのボランティア精神と労働がないまぜになってグレー〜ブ ラックの部分が当たり前として残存しているようにも思える。障害者の権利が大事なのと同じように、そこで働く職員の権利も大事なはずなのだが・・ と首を ひねってしまうことが多いのも事実だ。
人手が足りないという声もよく聞くけれど、ならばなおさら働く側の労働環境の改善も必要なのではないだろうか。
2023.4.5


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 読みたい本、読まなきゃいけない本は、さながら獄舎の塀のように日々高くそびえているのだけれど、そして読むことのできる時間は限られているのだけれど、いまはこれを数日前から風呂場で少しづつ読み継いでいる。これまで読まなかったことを恥ずかしいと感じながら。

 すべては、こうした発想で処理された。沖縄の指導者たちが、県民の「尊い犠牲」を称賛し、県民大衆の多くが、一種の感激でもってそれを肯定する事態は、その後も一貫してつづいた。戦時下では、異常が正常となり、正常が「異常」に変わる。

(中略)

 異常が正常に転化したとき、人びとはより異常な事件やより残酷な事態に接することで、逆に心の平静さを取り戻すかのようであった。

大田昌秀『沖縄のこころ 沖縄戦と私』(岩波新書 1972)
2023.4.6


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 よりにもよって、こんどは和歌山・雑賀崎の漁港で選挙応援中の岸田が爆弾テロルを受ける。鉄パイプ爆弾は60年代学生運動最盛期の抵抗道 具だが、現場で取り押さえられたのは24歳の男だ。折しも昨日の毎日新聞の夕刊で筒井清忠(帝京大学)による連載「近代日本暗殺史」(月刊誌 「Voice」)についての記事があった。

 明治時代の暗殺は、西欧化推進の士族が、ナショナリストの士族から狙われたケースが多かったそうだ。大久保利通内務卿が暗殺された「紀尾井坂の変」は代表例だろう。

 だが、大正時代になると、その傾向に変化が表れるという。大正編の掲載はこれからだが、教授に話を聞くと、農村や下町出身者の生活や家庭への不満からの暗殺が増えていくのだという。

  原敬暗殺事件、昭和初期の血盟団事件、5・15事件、2・26事件は、軍人が動いたか否かなど事情は異なる。ただ、背景には、富裕層を守る政党政治への不 満といった格差問題があった。山上被告の事件も、大正時代からの暗殺史の延長線上にあるのではないかというのが、教授の分析だ。

暗殺史と山上被告=佐藤千矢子

  「大正時代からの暗殺史の延長線上」とつぶやいてみて、いまが「あたらしい戦前」であるなら、なるほどそれもむべなるかなと得心する。なんにせよ、この国 はすべり出している。急坂を無数の小石が滑落していくように。これはこれで「あたらしいテロルの時代」なのかも知れない。
2023.4.15


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 ヤフーニュースのコメントでどこぞの阿呆が「メディアはこれがたんなる犯罪でなくて、テロだとはっきり報じて断罪しろ」と書いていた。もち ろん、これはテロだよ。そして、暴力は持たざる者の最後の武器だ。夕方のテレビのニュースでは、すでに終わっている政治家どもが与野党揃って「民主主義を 暴力で破壊することはできない」と合唱し、コメンテーターが一端な顔をして「どんな理由があろうと、わたしたちは言論でもって社会を変えていくことができ るんだということを忘れてはいけない」などと宣っていた。夕飯のスープの最後のひと匙を飲み干しておれは「おまえらのいうその健全な民主主義の社会がいっ たいどこにあるんだ、このノータリンの糞野郎どもめ」と毒づく。容疑者を取り押さえた漁師のおっちゃんが着ていた生産終了のワークマンのベストの問い合わ せが殺到しているそうだ。結局、一年前の山上徹也のあの事件を、この国はなんにも消化してこなかったわけだ。永遠にまじわることのないラインをおれはこの 国で明確に感じる。ほんとうに残酷なことをしてのけるのは追いつめられた者の絶望を想像することもできずに断罪する「ふつうの人たち」なんだよ。おれはあ の無抵抗な容疑者のように幾人もの漁師のおっちゃんたちに組み伏せられて罵倒され足蹴にされる側だ確実に。犬のようにくたばるのか、一矢をむくいるのか。 あらゆる暴力を腐敗した国家権力が独占しているとき、疑いようもなく暴力は持たざる者の最後の武器だ。罵倒されようが、足蹴にされようが、手放すな。
2023.4.16


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 弱者を見ない政治や社会への匿名の個の暴発は、間欠泉のようにこれから幾度でも噴きあがるだろう。
2023.4.17


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 アンモニア臭を放つ多目的トイレを掃除しながら、これを終えたら今日は心斎橋の作家の作品を見に行くのだと考えていた。トイレが臭うのは当 事者たちが小さな便器の枠内に小便を収められないからであり、それはそのままこの社会に於けるかれらの不自由さを表しているようにおれには思える。前後左 右と自由に飛び散ったかれらの腎臓によって無害化された尿素は、この世の雑菌によって分解され、ふたたび強烈なアンモニア臭を放つ。「うずくまる自由」と は 妙なタイトルだ。作家はこれを「自由がうずくまっている。わたしたちは一人一人が自由というエネルギー体なのだ」と説明している。わたしは「人はうずくま る自由も有している」と受けとめていた。そのことによって幾分か救われる思いのじぶんがあった。作家はこの作品の枠型に溶かした鉄を流し込んで固める、そ んなイメージでつくったと言った。見知らぬ惑星の未知の鉱物がひたすら内に向かって何かの結晶を蓄積している。人はうずくまる自由も有している。そのおな じ空間に「気高き魂に捧ぐ」や「傷つかない魂」と題された作品がそれぞれやわらかな気を外へ向けて放散していて、ふたつの流軸のあいだに空間のたしかなふ くらみがある。わたしには後者の作品たちの手斧でこまやかに刻まれたボディがまるで、グループホームでその衣服を脱がせ、洗い、拭きあげる当事者たちの肉 体のように見えて仕方がない。不自然に反り上がり、ねじれ、硬直したかれらの肉体はときにかなしく、ときにいとおしく、そしてくるおしい。<わたし >と<他者>を分け隔てる境界はまぼろしだろうか。<わたし>は何によって構成されているのか? ユングは『赤の書』に記 している。「深みに入っていきなさい。…(中略)…また退路も確保しておきなさい。あたかも臆病者であるかのように、注意深く進み、そうして魂の 殺害者の機先を制しなさい。深みはあなたたちを完全に呑み込み、泥で窒息させようとしている。地獄に行く者は、地獄にもなる。それゆえに、あなたたちがど こから来たかを忘れないように。深みはわれわれよりも強い。…(中略)…深みはあなたたちをとどめておこうとし、これまでにあまりにも多くの者を 元に返さなかった」  溺れそうな馬を助ける夢を見て「大きなる池は禅観にして、馬は意識なり」と明恵はかれの夢記に記した。うずくまる自由とは深みには まらず、泥で窒息させられないための孤独な覚悟でもあった。自由に飛び散ったしばられない尿素をブラシでこする。

MU東心斎橋画廊「安藤栄作展」
2023.4.21


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 今日、娘が母と田原本の県警察本部の運転免許センターへ。いきなり教習車 を運転させられて、障害者用の改造車や補助装置を付けなくても通常の車両で運転できますよとお墨付きをもらった。教習所向けの証明書類を作成してくれるら しい。左足は麻痺がやや強いが、アクセル・ブレーキを踏む右足は支障がないようだ。アルバイトへ行くのに忙しい母親に送迎を頼んでいるのが心苦しく、免許 を取る心づもりになった。わたしが20代で中型バイクの免許を取って単車に乗り始めたとき、世界が変わったと感じたように、じぶんで好きなところへ自由に 行けるようになればおまえもきっと世界が変わると思うよ。それでも本人はどきどきだったようで、グアムで操縦したセスナ機の方が簡単だった、空では他の車 にぶつけたり壁にこすったりする心配がないから! と少々興奮して言っていたが、<空飛ぶ車>を買えってか。
2023.4.26

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 森近運平が、せめて死刑執行までにと娘に自伝を書き継ごうとしたその吐息の深さで。両手を錠でくくられた病室で、まだ見ぬ句をしぼりだそうと抗っていた鶴彬の痙攣する肉体のように。
2023.4.27


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 朝からひさしぶりの自転車で興福寺まで走り、北円堂の運慶作とつたわる無著(むじゃく)、世親(せしん)の像を見てきた。9時の開扉と同時 に入って、堂内のポジションをあれこれと変えながら二つの像を眺めつづけ、辞するときに手元の時計を見ればきっちり一時間を過ごしたことになる。濃密な時 間であった。お腹がいっぱいになって、他に寄り道をする気になれず、臓腑でゆれる何物かをこぼさないよう、まっすぐに帰ってきた。ふつうの仏師であれば、 魂のふたつやみっつくらいは取られてしまってもおかしくない像だ。無著と世親は5世紀の頃、インド西北に位置したガンダーラ国(現在のパキスタン、ペ シャーワル地方)の兄弟僧。一説では兄の無著が過酷な修行の果てに兜率天へ昇り、そこで弥勒菩薩から唯識のおしえを伝授されたともいわれている。じっさい に、無著が両手にささげ持った布で包まれた箱は、あれは何が入っているのでしょう? とそばの寺の者に訊くと、骨壺か、もしくはブッダが托鉢に使っていた 容器との説があるとの返事がかえってきた。「弥勒下生(みろくげしょう)に際して礼拝供養されると説かれる仏鉢(無著分、袋に包む)と仏舎利(世親分、宝 珠または宝塔に入れる、亡失)」ではないかという説は近年出てきた解釈らしいが、それがほんとうであるなら、56億7千万年後に下生して人びとを救う未来 仏・弥勒からブッダのおしえを引き継いだという無著にふさわしい。老貌の無著はほそい顎とひきしまった口元に一見厳しさを感じるが、目元は「56億7千万 年」を見据えた哀しみをたたえているようにも見える。伏し目がちの目線は「心のほかには実体はない」とする唯識のおしえのとおり、もはや見るものは内なる 真実のみだという諦念を感じる。一方で兄よりも若い壮年の僧をあらわした弟の世親はふくよかで力がみなぎり、その視線もずっと遠くを見つめているが、わた しにはその瞳が何やらこの人のある種の不器用さをあらわしているようにも感じられた。武骨で、ひたむき。だが、迷いがある。大逆事件で獄中自死した僧・高 木顕明の瞳に似ている。「心のほかには実体はない」とする唯識のおしえは、その心の存在も「一瞬のうちに生滅を繰り返す(刹那滅)ものであり、その瞬間が 終わると過去に消えてゆく」。わたしは老貌の無著を長い時間、見つめ続けた。かれが生きた時代、ブッダが死んですでに千年の時間が経っている。それでもか れと弟は、兜率天で弥勒から預かったというブッダの依り代である仏鉢と仏舎利をささげ持つ。56億7千万年の時間のなかでは、ブッダが死んだのは先週の水 曜日だ。
2023.4.29


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 午後。庭のアップルミントでコーディアルをつくってから、アルコール度数96%のスピリタスでミントを漬けてみた。一ヶ月ほどでミントリ キュールができる(らしい)。「いちど飲んでみたい」とグループホームの当事者Uさんから依頼されて買い置きしていたやつだが、また「やまや」で買ってこ よう。

 庭で「ルシファーエフェクト」を読み継いでいる。模擬刑務所は急速に殺伐としてきた。
2023.4.30


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 就業3ヶ月の新米のわたしだが、正式に3人の当事者の支援担当を拝命仕った。支援担当者は支援計画というものを作成するのである。Iさんは 御年81歳。戦時中の昭和17年に三重県の名張で生まれ、家が貧しかったために小学校もなかなか通えずに母親の手伝いで魚を売り歩いたり、その後、豚に餌 をやる仕事や、墓掘り人夫や土方、何でもやった。学校はじきに特殊学級に変わった。川と線路にはさまれた家は伊勢湾台風で流されてしまったそうで、大阪へ 出て学校の教師の斡旋により石鹸工場に勤めるが「アホウにようけお金をやったらアカン」と親族経営の社長から差別をされ、給料も胡麻化されていたという。 Iさんはそんな工場で20年近くも働き続けるが、やがて石鹸工場は失火が元で閉鎖される。失業したIさんは現在の福祉施設の前身である「自立の家」を紹介 され、その後カナダで知的障害の当事者による権利運動と出会い、みずからも様々な運動にかかわっていった。今回、支援計画を作成するにあたって、そんな貴 重なIさんの人生を「自分史」にまとめて、記録として残すべきではないかとわたしは提案した。昼休みにIさんから生まれ育った町の様子を聞き取りした上 で、連休初日、名張を訪ねたのだ。まずはわたし自身の下調べで、Iさんの生まれ育った町を歩いてみたかった。

 ※Iさんの話をこうして記すことは本人の承諾を頂いている。一般公開されている動画上では実名で当時の思い出を語っているが、とりあえずここでは「Iさん」のままにしておく。

◆24:46〜 | わたしの歴史
https://www.youtube.com/watch?v=TlL2L7GeoUg&t=2423s
2023.5.3


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 諸君、幸徳君らは時 の政府に謀叛人と見做されて殺された。諸君、謀叛を恐れてはならぬ。謀叛人を恐れてはならぬ。自ら謀叛人となるを恐れてはならぬ。新しいものは常に謀叛で ある。「身を殺して魂(たましい)を殺す能わざる者を恐るるなかれ」。肉体の死は何でもない。恐るべきは霊魂の死である。人が教えらえたる信条のままに執 着し、言わせらるるごとく言い、させらるるごとくふるまい、型から鋳出した人形のごとく形式的に生活の安を偸(ぬす)んで、一切の自立自信、自化自発を失 う時、すなわちこれ霊魂の死である。我らは生きねばならぬ。生きるために謀叛しなければならぬ。

(中略)繰り返して曰(い)う、諸君、我々は生きねばならぬ、生きるために常に謀叛しなければならぬ、自己に対して、また周囲に対して。

謀叛論(草稿)・徳冨蘆花
2023.5.4


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 夕方、ジップの散歩がてらに駅前のスーパーまで買い物へ行った帰路、思いがけず強い雨に降られて、あわてて紺屋町の「きもの 丸洗い しみ ぬき」と書かれた丸い看板の出た旧家の軒先にジップと逃げ込んだ。こんなふうに雨宿りをしている時間というのもずいぶん忘れていたなあ、何だかいい感じだ なあ、とジップと二人、ぼんやり雨を眺めながら考えていたら、折しもその家の玄関からトイ・プードルを連れた主人がまさに出てきて、あわてて「すみませ ん。ちょっと軒先をお借りして雨宿りをさせてもらってます」と挨拶をすれば、人の好さそうな老齢の主人はただにこにこと笑って「お、降ってきましたなあ」 とビニール傘をひろげる。軒先を借りているものだからお追従ではないが「ワンちゃん、いくつですか?」と訊けば、4歳と答えた主人の後ろから奥方が現れて 5歳ですよと訂正した。「預かってる犬でしてね。慣れないから大変ですわ。散歩もしなきゃいけなし」 訊けば旅行に行った息子夫婦から数日委託されたお犬 様らしい。そんな話をしていたら雨もやみはじめて、いい塩梅になってきた。さあ、そろそろ行きましょうか、と挨拶を交わしてそれぞれ別の方角へそれぞれの 犬を連れて歩きだしたその風情も、何やら一昔前の懐かしい風景のようで。
2023.5.6


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 昼に新聞屋さんが来て、値上げをお願いされた。わが家は親の代から長らく朝日新聞だったが、朝日の記事に苛立つことが多くなり、そんな折に 別の販売店から毎日新聞の朝・夕刊で月2,500円という提示を受けて、毎日に乗り換えたのだった。それから何年かして、販売店が後継者難で他の販売店に 引き継がれることになり、その新しい販売店から「前の販売店があまりにも安すぎたんで」と泣きつかれて2,800円に値上げされたのがちょうど2年前のこ と。去年もふたたび値上げをお願いされたのだが、毎年はないだろうと突っぱねて、そして今回。

 6月度から朝日新聞の公式料金が500円 の値上で4,900円、毎日も600円値上げして同じ4,900円になるという。3,300円にプラスいくらか・・ と先方が言い出したのを「それはキビ シイなあ」と遮り、状況も分からなくはないから、「その代わり、来年はもうなしにして下さいよ」と念を押した上で、200円アップで切りのよい月 3,000円で手を打ってもらった。これでもおそらく、一般的にはだいぶ安い方なのだろう。

 聞けば今回の値上げを機に新聞購読自体を止 める人も少なくないようで、販売店としては値上げによるメリットよりデメリットの方がじつは大きいのではないか。若い世代は新聞などあまり購読していない だろう。新聞に未来はあるのか。わが家ではふだん新聞は、ほぼわたししか読まないが、たまに置いてある新聞をつれあいや娘が読んでいることもあるし、また おすすめの記事をリビングで家族に向けて読みあげることもある。取っておきたい記事は切り抜きもする。デジタルになったら、そういうアナログな魅力は消滅 するだろう。けれど月5千円になったら、いい加減に考える。

 それにしても新聞社は巨大になり過ぎた。この危機を逆手に、もういちど平民新聞あたりから始めなおしてみるのも良いのかも知れないよ。
2023.5.6


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 わたしの母のルーツ(両親)が和歌山県の飛び地(三重と奈良に包囲されている)の村・北山で、1873(明6)生れの曽祖父・中瀬古 為三郎が筏師の組合長をしていたという話は以前にも書いた。「中瀬古」という姓について、『北山村史』は次のように解説している。

〇中瀬古家
  この辺独特の姓の様に思はれる。明治初年は仲瀬古に作る。瀬古は土地により、太地は脊古、敷屋は世古、三輪崎は瀬古、新宮は勢古に作るのが普通である。太 地の脊古、三輪崎の瀬古は職業からの姓、即ち、捕鯨の勢子船の羽刺(はさし)であった家が、名誉の記念として脊古瀬古を名乗る。山地では両方から山の迫っ た所を指し、街並では狭い路地をセコと云ひ、世古、勢古を名乗る。
 中瀬古の中は瀬古の中央を占める意もあるが、瀬古を本家とした分家の義もある。中瀬古は幕末、大台ケ原山の山伏の宿をしたと云はれるが、北山川一帯は山伏との関係は深く、山伏自身も土着した家が多いのである。
浜畑栄造「和歌山県北山村の姓氏考」

  中瀬古為三郎は44歳の男盛りのときに峠ひとつ越えた下北山村上桑原で歯の治療をしてもらい、出血が止まらずに亡くなったと云われている。筏師はあらくれ 者が多かったようだから大方、大酒でも喰らって出かけたのではないか。その曽祖父の最期の地となった上桑原には小さな歴史民俗資料館があって、平日の一日 のみの開館(要事前連絡)ともあってわたしはまだ未見だが、3人の著名な村出身者が顕彰されていると聞く。建築家の西村伊作(大石誠之助の甥)、書家の杉岡華邨、そして化学 者の中瀬古六郎である。

 この中瀬古六郎の名前をはじめて聞いたのは、大逆事件のからみで劇作家の嶽本さんから紹介してもらった新宮在住 の中瀬古 友夫さんとのメールでのやりとりのなかで、長年熊野で教員をして現在は郷土史を研究し講演活動などもしている友夫さんは次のような話をメールで披露してく れた。

昭和50年頃、吉野郡の下北山村上桑原にある中瀬古家から父に、「中瀬古会」を作らないかとの連絡がありました。
今回貼付の系図の写しが、その時父がもらってきた物です。
現在、下北山村では同志社の中瀬古六郎博士が郷土の偉人として紹介されています。
私の父も京都に弟子入りする際、何かあれば頼っていくように母から言われたそうです。
しかし一度訪ねて行ったところ、余りにも立派な門構えに驚いて、そのまま帰って来たと言っていました。


  この「中瀬古会」については、じつはわたしの祖父(為三郎・次男)の兄――つまり本家の長男(故人)の伴侶が偶然、現在奈良の橿原に住んでいて、これも メールでのやりとりのなかで、「もうずいぶんとむかしの話ですが」と前置きをして、夫婦で瀞峡へ遊びに行った折に川原で中瀬古を名乗る男性から「中瀬古 会」の誘いを受けたというエピソードを思い出してくれたことにも重なる。

 『同志社人物誌』(末光力作)のなかで中瀬古六郎は3頁を費やして紹介されて いる。それによれば六郎は1869(明治2)年下北山で生まれ、その後、同志社普通学校で晩年の新島襄の薫陶を受けたという。新島はクリスチャンの教育者 で、21歳のときに密航により渡米し、帰国してから現在の同志社大学を創設した。中瀬古六郎は開設されたばかりの同志社ハリス理科学校の助手を務めた後に 渡米し、メリーランド州のジョンスホプキンス大学、エール大学大学院などで学び、帰国してから同志社の教育に貢献。同志社女学校の校長などを務め、 1945(昭和20)年、76歳で亡くなった。墓は京都・南禅寺の背後の若王子山墓地の新島襄の墓のそばにあり、墓石には「死すともなほ活く」と刻まれて いるという。

 ところでこの中瀬古六郎の次女として1908(明治41)に生れた中瀬古和は日本で唯一、ヒンデミットに師事した音楽家で あった。同志社女学校を卒業してから渡米し、その後ベルリン国立高等音楽院でヒンデミットに作曲を学び、エール大学ではクレーンビュールに師事してストラ ヴィンスキーの作曲技法を研究。帰国してからは同志社女子大学教授を務めながら、作曲や音楽書の翻訳などを残した。1973年に64歳で亡くなり、墓は父 とおなじ若王子山墓地にあるそうだ。2019年には『中瀬古和生誕110年 メモリアルコンサート Resurrection 復活「われは主を見たり」』が同志社大学で開かれている。そのパンフレットから一部を引く。

 日本でも数少ないヒンデミットの弟子として、その存命中は広く知られた作曲家であった中瀬古和。その作風は、深い信仰心に根ざしたもので、特に、日本語の持つ抑揚をどのようにメロディーに表すかをテーマの一つとしていました。

(中 略)この度、女子大学史料センターから直筆の楽譜が数多く発見されました。ぜひ、音にして先生の偉業を多くの方に知っていただきたいと、このコンサートと なりました。先生の生誕の地であり、終生の仕事場であった栄光館で、その演奏会を行なうことを意義深く思っています。

 中瀬古和が作曲し た作品は YouTube でも少しばかり聞くことが出来るが先日、ヤフーオークションで珍しいアナログ・レコードが出品されていたので落札した。『われ黎明をよびさまさん 中瀬古 和 作品集』と題されたそのレコードは1974年、やはり同志社の栄光館で行われた追悼演奏会での音源を収録したものらしい。中瀬古和が亡くなった翌年であ る。ベルト交換をして復活したプレーヤーからUSB経由でデータ変換して i Tunes で聴いている。ヒンデミットに学び、ストラヴィンスキーを研究しただけあって、なかなかいいんだな、これが。

 これも「中瀬古」がらみ、北山村の筏方組合長だった中瀬古為三郎から伸びて遡上する根がまたもどってきて現在につながるような、そんな不思議な縁を感じる。いつか若王子山墓地の二人のお墓も参ってこよう。
2023.5.7


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 雨の匂いが庭に満ちている。植物が濡れた触手をひろげている。緑の光は葉のなかで反射と屈折をくりかえし、その過程で葉緑素と幾度も反応し て光合成を起す。その際に漏れ出した一部の光が葉を緑色にまとうのだ。緑の波長は可視光の波長域のちょうど中間のため、人間の視覚の感度が最も高い。人の 眼は緑を見るためにできたようなもの、とある植物学者が云っていた。だが、降り続ける雨の音と、雨に濡れた植物の匂いは、きっとそれ以上だ。水と植物はた ましいの臥所(ふしど)にちがいない。緑の光が葉のなかで光合成をうながすように、雨の音と匂いは人を覚醒させる。濡れて光る石畳。葉陰の暗がり。地面の 水たまり。約束。葉の弾ける音。水たまりのなかの光の反射。ずっとむかしにわすれていたこと。ねむったきみの頬に落ちる葉影。あふれだす。
2023.5.7


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 村に着いた伝道師は ある家を訪れ、病気で寝込んでいた40歳くらいの女性にキリスト教について話したところ、女性は「デウスの宗教は確かに人間のどんな愛情にもふさわしいも のであり、すべての人間がそれに従うべきである」「この宗教について教えてくれる人は誰もいなかったので自分はほとんど何も知らなかったけれど、昔は周辺 の村も千提寺もみんなキリスト教を信じていた」などと話したという。

 この女性は「ガラサみちみちたもうマリア様」「女人の中においてわけてご果報いみじきなり」「アーメン サンタマリア様」などとオラショを暗唱したとある。ガラサは神の恵みという意味だ。

 この時の様子を「伝道師たちもその女性も涙を流していた。何世紀もの流浪の後に、新しい世代が古い世代に加わって神の栄光を共に歌うという崇高な出会い」だったなどと、感動的に伝えている。

「オラショ暗唱「アーメン サンタマリア様」 大阪、明治の「信徒発見」 宣教師の書簡」(毎日新聞 2023.5.9)

◆<資料紹介>茨木・千提寺の隠れキリシタン初発見 --1880年のマラン・プレシ神父の書簡(翻刻・邦訳・解題)--
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/281926?fbclid=IwAR0a-PPTMuEl290PqcQ8s4jjh1M-r-EE60MqjoEiPh1AVZpRaizJtbjHjuA
2023.5.9


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   沖縄の古い墓は海岸の洞窟を利用した風葬墓である。洞窟の入口は完全にふさがれてはいない。うすぼんやりとした黄色い外光が洞窟の内部に差しこみ、死者 のまぶたをやさしくこすり、死者をまどろみにみちびく。死者たちは黄昏に似たおだやかな薄明の中で、ひとときの休息をたのしんでいる。沖縄では墓のことを 「ようどれ」と呼ぶが、この語はもともと夕凪を意味する言葉である。そこには“高級宗教”が発明した死者の歯がみする暗黒の世界はなかった。

  そのことを痛感したのは、宮古島の島尻の山の中腹にある自然洞窟の墓を訪れたときであった。洞窟の中に風葬された無数の人骨はもはや古ぼけ、苔むしていた が、引き裂かれた岩の隙間から、大神島が真向かいに見えた。神の島として宮古の人たちに尊崇されてきた大神島に、死者たちの視線がいつも向けられているこ とに、私は死者たちの幸福を感じた。それはやがてその場所に自分たちも葬られるという生者たちの幸福につながっているとも思われた。死者の視線は生者にと どき、死者と生者の連帯は失われていない。


  奄美黄島では生後一年たった子どもをユノリがあったという。ユノリは世直りのことである。世直りというのはこの場合、あの世からこの世に直ることを意味す る。九州から南では「直る」といえば移ることである。逆にいえば、生まれて一年たたないあいだは、まだ確実にはこの世に生まれかえっていないと考えられて いた。生まれることが再生にほかならないことを、このようにはっきりと示すことばはない。そこであの世からこの世に生まれ移るためには、産屋は、あの世と この世との境目にあたる海の渚にもうけられねばならなかった。

  沖縄では青は死、白は生を象徴する。人は死んだら青(おう)の島にいく。そうして生まれかえる。それがシラである。刈りとった稲を穂のまま積んでおくのが シラであり、産屋のいろりに燃える火がシラビである。青から白へ、白から青へ、人間の魂は循環をくりかえす。それは蝶の変態と何ら異なるところはない。

谷川 健一『日本人の魂のゆくえ―古代日本と琉球の死生観』

2023.5.9


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  武田 惇志、伊藤 亜衣『ある行旅死亡人の物語』(毎日新聞出版)

 ちまたで話題になっていたから、図書館に予約して読んでみたけど、うーん。イマイチだったかなあ。
結局、肝心の謎は何も分からないまま残され、ちらほらと辿り着いた生きた証にいちいち感動するだけで、そんなもん言ってみたら誰にだってあるわけだし、それらをつらぬいて人のこころをとらえるものがあんまりないんだよな。
1970年代に書かれた元祖「行旅死亡人」の方がずっしりと重いぞ。
それにしても以前にアヘ一周忌で幼稚な作文を書いてたのも共同通信社じゃなかったかな。何だか文章が予定調和的で幼稚なんだよな。新聞が衰退していくのも分かるわ。
2023.5.12

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 連休初日に記したIさんのこと。
わたしが訪ねてきた名張の写真――橋、小学校、町並み、お寺、墓地を見てもらいながら話をした らとてもうれしかったようで、「ひさしぶりに訪ねてみたい」と言うので、「ぼくが車を出しますから、いっしょに行きましょう。お母さんのお墓にもお線香を あげないとね」と答えると次の日、近くのコンビニで買ってきたとベストのポケットから何やら出してきた。百円で買ってきたというお線香(二本組)だ。ライ ターはいっしょに暮らしているNさんが貸してくれるという。もうすっかり行く気満々だ。
「そうだ、お寺に行くなら、お礼もちょっと持っていった方 がいいかも知れませんね」と言えば、お金はあまりない、と言う。するとその日の夕方。グループホームの世話人の職員からいま小遣いをもらった、こんどのお 祭りの分三千円もあるが祭りは行かないからと言うので、「じゃあちょうど、それをお寺のお礼に回したらいいじゃないですか。新しい封筒に入れて持って来て くださいね」と言うと、うん、それがいい、とうなずいている。
はじめは6月くらいかと考えていたが、梅雨に入ると鬱陶しく、Iさんはもう行きたくてうずうずしているので、来週の週末あたりに天気が良ければIさんを乗せて、ふたたび名張へ走ることにした。
む かしの話をしていたら、八百屋をやっていた小学校の同級生の家や、親戚だという看板屋など、いろいろ思い出してきて、グーグルマップで見ると看板などはま だ残っている。「じゃあ、このへんの家も訪ねてみましょうか。同級生がまだいるかも知れないしね」 名張はあんころ餅が有名だけど、まだ売っているだろう か、と早くも事業所へのお土産まで考えている。
前回は迂闊なことにIさんのお母さんの名前を聞いてくるのを失念していたので、たくさんあったI家 の墓でそれらしい年代の女性の墓をほぼぜんぶカメラに収めてきたのだが、あらためて聞くとそのどれでもない。ひょっとしたらIさんと同じく知的障害のあっ たらしいお母さんは墓石をつくらず、お骨だけお寺に納めたのかも知れない。こころある住職だったらいいのだけれど、とも思っている。
2023.5.14

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 大好きなハン・ヨンエの「大全集」をYouTubeで見つけて流しながら。
 そろそろ「連載 植松聖に抗う」の続編も書きたいのだが、こんどの土曜日にいよいよIさんを車に乗せて二人で「名張ふりかえり旅」に行くのでここ数日、夜はグラスを傾けてあれこれと下調べを。
 Iさんが暮らしていて伊勢湾台風で家が流された集落はIさんが覚えていた地名(字)を地図上のバス停名で見つけて目星がついた。Iさんの同級生の八百屋や、親戚だという看板屋なども地図に落として印刷した。
暮らしていた集落、通った小中学校とその周辺の旧市街の町並みや商店街、母親が葬られた寺。81歳のIさんはわたしのように半日歩きつめることはできないから、要所要所の車の駐車場所(無料)なども見当をつけた。
  事業所で以前に聞き取りをしたIさんの記録、そしてIさんの父親が亡くなってから支援をしてきた叔父の細君からの聞き取り記録がそれぞれ、サーバ内にあっ たのでプリントして読み込んだ。父親や兄が母親と異なる琵琶湖の西岸に葬られたのは妙道会教団なる霊友会から分派した宗教上の理由らしい。
 事業 所のファイル内に2011年に亡くなったIさんの弟の「死体火葬許可証」の写しがあり、それでIさんたちの名張での本籍地が判明した。グーグルマップで検 索すれば、母親が祀られている寺とおなじ黒田の集落内で、昔ながらのどっしりとした構えの古民家が写っているがいまも親類筋の者が暮らしているだろうか。
  その他、名張に於ける伊勢湾台風の被害の記録(夏見橋のたもとには「伊勢湾台風乃碑」がある)、中世には東大寺の寺領であり、その後現地の豪族が悪党とし て勢力を持つようになった黒田荘の歴史などWeb検索であれこれと調べ、Iさんが名張の銘菓だといっていたあんころ餅(おそらく「さわ田一休庵」の赤ころ だと思う)を販売している和菓子屋も確認した。
 Iさんと二人の昼食をどこで取ろうか、かなり廃れてしまっている名張の街でなかなか適当な店が見つからないのだけれど、グループホームでもふだん食の細いIさんだから、まあそのへんは行き当たりばったりでもいいかな。
 明日は泊り勤務なので、実質、今日までにまとめておいた方が良い。
 朝、わが家から大阪のIさんの暮らすグループホームまで高速を使って30分強、そこからもどる形で名張まで1時間半くらいだろうか。
 きっと有意義な旅になりそうだ。
2023.5.17

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 仏壇寺にあづかる、とは廃棄ということである。Iさんを連れて、ふたたびの名張。わたしはさしずめ81歳のかれの、存在したかも知れない息子の幻だった ろうか。影のように連れ添って二人して名張の旧市街を半日、時間のねじれをさまよった。1959(昭和34)年の伊勢湾台風で流されたIさんの茅葺の家の あった集落あたり。弁柄工場があったと当初は主張していたIさんは、帰路にはじっさいにあった瓦製造の窯にそれがとって代わり、すでに記憶が混とんとして いる。名張中心部とかつて中世の東大寺領であった黒田荘にかこまれたた中州のように分岐したふたつの川(名張川と宇陀川)にはさまれ、二つの橋(名張川の A、宇陀川のB)がVの字に架かったIさんの古里はさらにもうひとつ、宇陀川に合流する支流と近鉄電車の鉄路に四方を包囲されたいわば陸の孤島のような場 所だった。そのような場所が孕む意味はすでに知らされている。奈良の月ヶ瀬湖を経て京都の木津川へと名を変えるそのAの上流の橋が損壊してAに重なり、あ ふれた水が名張の町の中心部を襲った。同時にIさんの古里へも三方から水が押し寄せた。Iさんたち家族が消防署からの勧告で避難したのが川の対岸の宇流冨 志禰(うるふしね)神社である。その境内の儀式殿で家財道具の一切合切を失ったIさん他の数世帯がしばらく暮らし、本殿前で火を起し飯を炊いた。A橋に近 い食料品店では偶然居合わせた同級生と再会した。おお〇〇君か、と返した店主は手元の計算機からほとんど顔を上げようとしなかったが、あいつ、おれのこと をちゃんと憶えていた、とIさんは至極うれしそうだった。名張の駅前で土産を買った饅頭屋はIさんの記憶のとおりにかつてはラムネと葛饅頭が売りだった。 そんなことを知っている人は滅多にいません、と中年の女性の店員は驚いていた。当時は旅館だったという駅前の別の店は定食の看板を残し閉じていた。小学校 の裏口にあった魚屋、いちどだけ掛かったという町医者、人一人がやっと通れるような路地、坂道の町名、いろんなものをIさんは思い出して、そのたびに「こ こは知っている」と立ち止まった。母親と従兄で台風の被災後にも一時身を寄せたという路地裏の看板屋はすでに独り者の孫の男性しか残っておらず、むかしの ことは何も分からないと応えた。かれの祖父の名前だけがいまにも切れそうな細い糸だった。亡くなったIさんの弟の死体埋火葬許可証に記された母親の実家と 思われる本籍地の住所も訪ねた。前庭で田植えの道具を水洗いしていた三人の女性のうちの一人はやがてIさんの母親を、マンちゃんと呼ばれていた、丸顔で、 よく喋った、おもしろいことを云う人、たしか魚を売っていたねえ、と思い出した。そしてわたしよりも隣のNさんちがもっと知っているだろうからと教えてく れたが、生憎とNさんは田植えの作業中で、広い玄関の土間の暗がりにすわっていたよく肥えた女性は「わたしは留守番しているだけだから何も知らない」をく り返し、Nさんのいる田圃を訊いても「作業中だからいまは忙しいだろう」とにべもない。昭和50年3月1日の母、昭和52年1月14日の父の寺の過去帳を 留守の住職に代わって人のよさそうな細君が見つけ出してくれた。すでに長兄は亡く、Iさんとおなじく知的障害のあった弟は施設に入っていて、施主は当時大 阪の石鹸工場で働いていたIさんだった。枠外に鉛筆書きで何やら記してあって、「ぶつだん、・・なんとかにあずかる、とあるけど、なんて書いているの か・・」と目をこらす細君から過去帳を借りて、「佛壇 寺にあづかる」ですね、とわたしが答えた。あづかる、という記載はこういう場合はたいてい、寺の方 で自由にしてくれて構わないということだと細君がおしえてくれた。葬式は寺で執り行われたが、遺骨も墓も寺にはなかった。酒飲みの母親は脳溢血でとつぜん 倒れた。船のボイラーに石炭を放り込む仕事をしていた父親も喘息があり、心臓麻痺で亡くなった。どちらの葬儀の日も名張は深い雪に閉ざされていたという。 これはどうしよう? とIさんが手にした寺への謝礼の封筒をわたしはそっと手で止めた。その封筒のお金で事業所のみんなへの土産の和菓子を買ったのは、台風で流 されたIさんたちの集落跡地に後年建った店だった。Iさんがコンビニで買った線香は結局、火をつけることがなかった。
2023.5.20

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 どん底に落ちても何も変わらないいまのこの国は、まさにこの模擬監獄の実験室とおなじなんだろう。

「ぼくが気づいたいちばん顕著な特徴は、実験に参加した人の大多数が、じぶんの内面ではなく、その場その時の環境に、アイデンティティや快適さのよりどころを求めていることでした」(囚人番号5486=ジェリー)

『ルシファー・エフェクト ふつうの人が悪魔に変わるとき』
2023.5.21

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 大きな国よりも(領土を失って)小さくなってしまった国にむかしから興味があった、そこにはなにかがあるんじゃないかと。そんなことばからはじまった大 阪・心斎橋、島之内教会での「はるかなる アルメニア 〜南コーカサス、アララト山のふもとに伝わる、いにしえの旋律」と題したコンサート。幾世紀にわ たって国土を蹂躙され、聖なるアララト山も隣国に奪われ、戦争や迫害によるディアスポラ(離散・移民)により全アルメニア人の6割以上が現在も国外で暮ら すという。そんなかれらにとって音楽を含めた文化は「じぶんは何者か どこから来てどこへいくのか」という問いに対するよりどころである。世界最古級の遺 跡や史跡が現存し、西暦301年に世界ではじめてキリスト教を国教としたアルメニアは、それ以前は太陽信仰・自然崇拝の時代が長く、その伝統はいまも多く の儀礼や祝祭に色濃く残っていると、ブルール(アルメニアの縦笛)を奏したきしもとタローさんは解説に書いている。音楽は人の身体がもっとも躍動する5拍 子7拍子でリズムを刻み、小指をつないで踊るひとびとは風にそよぐ丘の草葉のようにひるがえり、地面を踏みしめるステップは大地にエネルギーを送る所作で あるという。円環のなかに存る音楽、そんなことばがふいと浮かんできた。歌われる緑の土地や山々は、かれらにとってうしなわれたものばかりだ。だからこ そ、歌は希求し、一見陽気なリズムでも拭い難い悲しみを帯びている。コンサートの後半に演奏された Erzurumi Shoro のエルズルムも、オスマントルコによる迫害によって失われた古里である。「あなたはわたしの渇きを潤す唯一の清らかな水。緑深き山の尾根、茨とアザミに囲 まれたエルズルムにつづく道。あなたと共に歩く夢をわたしは見た」 清らかで冷たい豊かな水は、泉のいちばん深いところからあふれだすことをかれらは知っ ている。プログラムの最後の曲 Tamzara では幾人かのオーディエンスが、アルメニアでじっさいに踊りを習ってきたという若いカップルと共に輪になって踊りを体験したが、その円環は閉じることはな く、次第に中心へむかって渦を巻いていった。じっさいにアルメニアでは踊りの輪は、いつでも途中から人が加われるように両端は切れて渦を巻くのだという。 アルメニアの音楽はまさにそのような円環だ。にんげんと大地、現在と過去と未来が、草木や風や水や森などによってつながり、渦を巻くようにまわっている。 わたしにはその円環は、どこかなつかしく、狂おしく、心地よい。小さくなってしまった国とは、いわば敗者の国である。わたしたちの国でいえばアイヌや沖縄 の人々かも知れない。小さくなってしまった国には傲慢なわたしたちが奪い、捨て去ってしまった息遣いがまだ残っている。
2023.5.28

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 代休。アルバイトの娘を車で送っていった帰り道、カーナビのテレビでゲスト・コメンテーターが容疑者は相手が死亡後も執拗なほどナイフを突き立てている、これは目立ちたい、何か大きなことをやって世間を見返してやるという自己顕示欲の現われだなぞと喋っていた。

お れが20代で働きもせず実家でなかばひきこもっていたとき、隣家の主人は会えば笑って挨拶を返したが瞳の奥にはあきらかな冷笑があった。それはお前の気に し過ぎだろうと言うかも知れないが、何げない仕草や声のトーンや体から発散しているものがあるんだよ。知的障害者が施設やホームの職員に対して敏感なよう に、ある意味社会から離脱した者はそうしたものを感じ取り、すぐ見抜く。いわゆるふつうの善意の人たちの秘められた悪意を、おれはその期間に学んだ。

親父が市議会の議長で、代々の名家で資産家で、低迷する息子の名前をつけた果樹園やスイーツ店を立ち上げたりするような家なんだろ。近所の冷笑、ほほえみの背後の隠れた嘲りのようなものは絶対あったと思うよ。だから殺していいってわけじゃ、もちろんないけどね。

おれが言いたいのは、こころが弱ってはみ出したり墜ちていきそうな者を、励ましたり見守ったりするのではなく、追いつめて嘲り差別するような社会の空気がこの国にあるということだよ。
2023.5.29

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 わたしは今日は職場でRDI(対人関係発達指導法 ※自閉症児をはじめ、対人関係において生きづらさを抱える子どもと、その家族のための療育方法)のレ クチャーがあり、帰りが遅かった。娘は夕方から、教習所の入所式へ行っている。しばらく前、県の免許センターで見てもらい、車に補助装置を取り付けなくて も運転ができるというお墨付きをもらった(そのために免許取得時の補助金は出なくなったが)。その認定書を持って、近所の民間の教習所へ申し込みに行った のが一週間ほど前だったか。いまはアルバイト先の送迎を頼んでいる母親の負担を軽減するために、みずから言い出したのだった。車で自由に移動できるように なれば、世界も変わるだろう。それにしても父親のわたしは夕飯の席などで思わず、そうか〜 紫乃が車の免許を取るようになったとはなあ、と感慨深くつぶや いて、最初の頃は苦笑していた母も娘も、この頃はほとんど反応すら示さなくなった。それでも父はやっぱり時々、ひとり感慨深くつぶやいている。
2023.5.31

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 昨夜は連続32.5hの泊まり勤務だった。冷蔵庫を開けたら事業所の畑で獲れた無農薬野菜の小玉ねぎ、葉付きの大根や蕪がころがっているが、葉っぱはそ のまま萎びていきそうだ。グループホームの朝食はほとんどマンネリだ。玄米ご飯と味噌汁の他は、出し巻き卵、カット野菜のサラダ、冷凍のミニコロッケ、バ ナナ。せっかくなので、すでに作り置きしていた出し巻き卵の他に、野菜をふんだんに使った豪勢な朝食をこしらえてみた。小玉葱のそぼろ煮(蕪の葉っぱ付 き)、大根と薄揚げの炒めもの、味噌汁にも人参や蕪、大根葉を加えて具材を増やした。いつもはあまり箸をつけない81歳のIさんが大根葉の炒めものをぺろ りと平らげてくれたのがうれしかった。かなりボリューミーな朝食だったが、みんなほとんど残さずに食べてくれた。やっぱり人間は食いもんだよ、まずは。旨 いものを食わなきゃ。
2023.6.2

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 久々の取り立てて予定もない連休。午前中はスピリタス製ハーブ・リキュールの移しかえ、玄関先のオリーブの枝の剪定、買い物と漬物二種の仕込みなど、あ れこれ家のことをやって、午後は小屋から自転車を引っぱり出してちょいと走りに行きたい気持ちを抑えて、こんなシンポジウムにZOOMで参加した。書斎の PCを前に揺り椅子で見ていたために前半は少々うつらうつらとしてしまったけれど、金平さん、青木理さんらが登壇した後半はしっかり見て、なかなか興味深 かったぞ。主催は新聞労連。事前に送られてきた資料では諸注意として、「このシンポジウムは言論統制を強める経営側も注目していることから無用な弾圧を回 避し慎重な取り扱いを」するために、許可なくネットやSNSへの投稿や引用しないこと、とのことで具体的な内容はここには書けないけれど、要は経営難にあ えぐ新聞各社が記者の社外での活動に対して近年、規制を強めていることを含めて、大きく舵を切ってしまったことへの警告と危機感が語られた。金平さんや青 木さんによれば、「個があってこその組織」が、いまではすっかり「組織のための個」となってしまったのはじつに嘆かわしいことだというわけで、そのあたり は「個があってこその国家」が「国家のための個」に変容してしまったこの国の現状としっかりリンクしている。ではどうすればいいか? ということについて 青木氏は、◆個人でつながっていくこと ◆市民・読者・視聴者と記者が直接つながっていくこと ◆具体的に作品・著作・番組をのこしていくこと しかない と言う。「マスゴミ」の中にも現状に異を唱え、地味に戦っている人たちが少数ながらいるのを知ったことは少しばかり良かったかな。そしてひとつ伝達してお きたいことは新聞社に対して読者ができること。批判や非難はあまり有効でないので、良かった記事のリアクションをしてくれたらとても助かりますとは、朝日 新聞の労組委員長でもある『地図から消される街』(講談社現代新書)の著者でもある青木美希氏の言葉である。

青木 美希 5月23日 18:31 

「承認しない」「削除しろ」
一部の言論機関で、社員が外に発信することを禁じる動きが強まっています。社員の言葉を封じる動きは紙面上でも顕著で、お読みになられている皆様から「新聞はいったいどうしたんだ」という声をよく聞くようになりました。
なぜ、言論機関は自滅していくのでしょうか。
このまま再び、大政翼賛的になっていいのでしょうか。
現場で何が起こっているのか、私たちに何ができるのか。
金平茂紀さん、青木理さんらと登壇し、いま言論機関で起こっていることをお伝えします。
2023.6.3


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 サミット・ショー主役のゼレンスキーに「戦争を終わらせるための和平に向けて話し合いをした方がいいのではないかという声もあるが」と質問した広島のテ レビ局RCCの記者を「平和の敵」だとか「日本人として恥ずかしい」云々と口角泡を飛ばして罵倒する馬鹿どもが多すぎて閉口する。
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******************* RCC記者の質問、全文 *************
広島のテレビ局RCCです。
今回、あの、広島に来られてですね、広島の原爆資料館、ご覧になったわけですけれども、その原爆資料館の中で印象に残った資料などありましたら教えて頂きたいと思います。
も う一点はですね、あの、広島の被爆者の中には、ゼレンスキー大統領にとって、今回のサミットに参加することで、ま、国を守るための兵器などを要請すること も大事なのかも知れないが、せっかく被爆地広島を訪れているんだから、もっと戦争を終わらせるための和平に向けて話し合いをした方がいいのではないかとい う、広島で行われるサミットで違和感があるという声があります。その声にどう答えますか?
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※YouTubeからの書き起こし。ゼレンスキーの返答はほとんど何も答えていないので、ここには記さない。
2023.6.4


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 このあいだ、ふと思ったこと。

前職は曲がりなりにも20年近くも続いて、それなりのキャリアも積んで、そこそこの肩書 もあって、そのまま上手にレールに乗れていたらいずれどっかの支社長にでもなって、ぬくぬくと「ブルシット・ジョブ」(クソどうでもいい仕事)に浸れたか も知れないけれど、そんなふうにならなくて良かったかも知れない。

還暦を前にペーペーの新米にもどって、人様の便をぬぐい、尿瓶で尿をとり、不自由な身体を全身で抱えて、おれは真っ当にもどるチャンスを与えられたのかも知れない、と。
2023.6.4


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 和歌山・岩出の病院へ娘と、緊急入院した義父を見舞う。病室へいちどに入れるのは二人まで。時間外出入口でおちあい、先に面会をしてきた義母とつれあい の妹さんがもどってきて、昨日は話もできたけれど、今日はぼんやりとしていてだれが来たのか分からないようだ、せっかく来てもらったのに、と告げられた。覚 悟をして、入れ替わりに娘と4階の病棟へあがる。三角部屋のようなせまい個室。義父は栄養剤を注入する管を鼻に入れられ、それらを外さないように両手に白 い手袋をつけられ、ベッドによこたわっている。とてもちいさく見える。口はなかばひらき、目はどこか見知らぬ場所へつれてこられて不安がっている小動物のようだ。 紫乃といっしょに奈良から車できたんだよ。枕もとでそう声をかけると、目でこちらを追う。じっと見ている。もうてっきりこちらのことが判別できず、見知 らぬ者のように見られるかも知れないと覚悟していたという娘は、おじいちゃんはちゃんとじぶんたちのことが分かっている、そう思ったら安心して涙が出て来ちゃった、 とあとでわたしに言った。娘とバトンタッチして枕もとで義父のほそい、皺だらけの腕をさすりながら話しつづける。しんどかったね。ゆっくり休んで、栄養をとって、 お義母さんもひとりでさみしがってるからさ、リハビリをして、また元気になってケアハウスへ帰ろうね。おじいちゃん、泣いてる。娘がとつぜん言う。物言わ ぬ右目からちいさな一滴が伝いながれている。わたしが渡したティッシュをうけとって娘がそれをそっとぬぐう。こんなとき、ことばはまるで役に立たない。大 事なものは、ことばを手放したあとにのこるものだ。けれどことばは、ひとのなかをかけめぐる。じゃあ、そろそろ帰るね。またすぐ、こんどはヨシミさんと、 紫乃と、家族三人で来るから、それまでにもっと元気になっていてね。そう言って立ち上がると、はじめて、白い手袋をはめた右手がばいばいというように一 瞬、動いた。長年タンカー船に乗ってきた義父は90歳になり、パーキンソン病を患い、儘ならぬ肉体を抱えていま、なにをおもうか。ひとはことばをうしな い、ことばを放擲し、さいごに、ことばを必要とした一切から解放されるのだろうか。
2023.7.2


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 前回ビニール袋を詰まらせて苦しんだときもそうだったように、五分搗きに精米して書斎に置いていたコメを奮闘努力して米袋から解放し自らの胃にたんまり と放り込んだジップ(犬)が白い泡を吹いて苦しみ出したのもやはりわたしが泊り勤務の晩で、おなじように家族LINEに次々と流れてくる文字を仕事の間に 目で追うしかない。翌日はいつものように明けのまま日中勤務で、その日は障害者団体らでつどうデモ行進が大阪・堺筋本町から府庁前まであったものだから、 連続32.5時間勤務中のわたしは雨のなか車椅子の利用者の合羽を着けたり外したりしているうちにもはやどうでも良くなった己の雨対策の果てにびしょ濡れ に なった髪をときどきかき上げながら「大阪府庁はわたしたちの声を聞け!」 「障害者の権利を守れ!」といったシュプレヒコールのはざまで何やら「介助者の 労働環境を守れ」と呟きたい気持ちにもなってくる。終了後は車で利用者を自宅やグループホームに送り届けてガソリンが半分を切っていると翌朝の送迎ドライ バーの老齢運 ちゃんの機嫌が悪いからと事業所指定のスタンドまで給油に走り、結局2時間のサービス残業を含む連続34.5時間勤務で疲労もこびりつき雨と暑さで汗臭く なった身体を電車に揺らして帰宅すれば、義父が入院によって認知症がすすむようだからもう義母のいるケアハウスには戻れないという話があり、消化しきれな い生米を爆弾のように腹に抱えたジップ(犬)は小規模な嘔吐や下痢を繰り返しているがもし生米が腸内で固まって腸閉塞にでもなれば開腹手術をしなければい けない。その場合は手術代は50〜60万円、今回の初診が夜間料金で1万円、入院は一泊3万円と聞いて先日就業半年未満なれど予想以上に多かったわたしのボー ナスに(といっても上級市民からしたら知れているが)みなで喜んでみなが喜んでくれるのがわたしもうれしくて「折角だから一人一万円づつ小遣いをもらおうか〜」なぞとはしゃいでいた風景がすべて土砂崩 れに呑み込まれていくような思いがして、加えて雨に濡れた疲れも重なり思わず「ジップも自業自得だな」と父が呟けば、娘は「そんなところに置いていた人間 が悪い。ジップは何も悪くない のに!」と泣き出して二階の自室へ上がり家の中まで土砂が流れ込んだような有様だ。オマケにレギュラス(猫)も餌を吐いたりして相棒の不在にストレスを募 らせているらしい、やたらにゃあにゃあと鳴いてすり寄ってくる。明けて昨日は母と娘が夕方に病院へ行って医師と相談し、生米は嘔吐と下痢ですこしづつ出て きているがまだ腸内で固まってしまう危険が あるから予断を許さない、水を飲むと生米がふくれて固まりやすくなるので水は与えず点滴をしている、またひどい胃腸炎を起しているから経過観察が必要等々 の説明があって、もう一日預かってもらって明日にふたたび様子を聞いて考えることになった。わたしは当初、土曜日から三連休ということもあっていま内なる 旬の下北山村へわが曽祖父・中瀬古為三郎が歯の治療による出血で死んで戸板に乗せられて北山村へ帰ってきたと伝わる峠越えの筏師の道を新宮在住のHさんの 案内 で歩いてくる計画を段取りしていたのだが、わが家に一台しかない車がいつ必要になるかもしれないの状況ではすべていったん白紙に戻さざるを得ない。7時の ニュースが終わったあとでつけっぱなしだったテレビで1年前のアヘ暗殺をふりかえり作家の村薫が一切を棚の上にあげたまま一年が過ぎただけ、「公正」さ を求める社会のためにひとり一人がより善く生きていくしかないと喋っている。
2023.7.15


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 片言のニホンゴすら喋れないじぶんが、こんなふうに日本人であるあなたと共に作品をつくろうとしていることがじぶんでも不思議です。なぜ、撮るのか。わ たしはクリスチャンだから、神さまがじぶんを通じてそうしたいのだとしか言えない。大学教授でも政治家でも研究者でもない、一市民であるあなたがふだんの 日常の中でこういうことをこつこつと積み重ねてきたという風景を描きたい。過度に重い作品にはしたくない。政治的な主張をしたいわけではない。それは一部 のマニアの人しか見ないだろうから。多くの人に事実を事実のままに手渡して考えるきっかけになるような、そして断罪や告発でなく、ふたつの国のよりよき未 来につながるような作品にしたい。そのためには明るい風景、あなたが家で料理をつくったり、家族とドライブしたり、犬と散歩しているような場面も撮りた い。あなたはわたしに堀田善衛の『時間』という小説をおしえてくれて、わたしはそれを読んで深い感銘を受けた。「時間」はこの作品に於ける大きなテーマで す。「時間のなかの異邦人」といったようなタイトルを考えている。百年前の少女がご機嫌ようと挨拶し、百年後の少女がお元気ですかと問いかける。そういっ た「時間」。あなたがカメラの前をあるいているその後ろに百年前の彼女が一瞬、とおりすぎる。そのような「時間」。そしてこの種の作品はいつも微妙な問題 をかかえている。不要なトラブルが起きないために撮影が完了するまでは外へ持ち出さないように。それまでは、ここにいるわたしたちだけの話にしておきま しょう。

 わたしの宿題。過去帳の撮影許可の交渉(寺)。図書館の休館日での撮影申請(再度)。自分史(年表)づくり。語りたいことをまとめておく。大手銀行の口座。一方の端に触れたら、他方の端がゆらぐ。時間。
2023.7.30


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 毎年夏が来るとこの国は過去の痛みを語り継ぐことの大切さを語り出す。しかしそこには自らの国が他国へ与えた痛み、戦死した兵士が嬲ったかも知れない者 の記憶は見事なほどに排除されている。今朝の新聞が語っていた、ナチスから逃れて森の中で数年を生きのびた少女と家族の物語。しかし老人となった彼女が暮 らす国はいま砂漠の民にどんな酷い所業を行なっているのか。熟練のスナイパーが無防備な少女をオモチャの的のように射殺す。人間は愚かさの塊だ。わたしはといえば百年もむかしにわたしの住む町で死んだ18歳の異国の少 女や38歳で死んだ異国の職工の細い糸のような記憶を招ぎ寄せようとしながら「一方の端に触れたら他の端が揺らいだのだ」という体験をわが身に写実してい る。寄る辺なき二人はまさにイエスの云うこの世の寄留者ではないか。思うのだが寄る辺なき寄留者でしか語れない世界の実相というものがある。<真性 の絶望>は何処に在るか。

  蓋し、絶望はかつて、いかにもあるようなふりをして、その実、さっぱりなかったのではないか。絶望は究極の<個>のみが、身を剪るほどに冷た い真水のように、身体の深奥に湧かせる最も高度な水だ。究極の<個>がなければ絶望もない。真性の絶望なんかなかった。人びとはテレビジョン とともに同じ笑いをゲラゲラ笑っていた。いまも笑っている。精々、笑いやがれ! 即ち、究極の<個>もいまだかつて在ったためしがなかったの だ。 『入江の幻影 新たなる「戦時下」にて』(辺見 庸)
2023.8.7


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 「お盆休み」初日は、いろんな意味で中身の濃い休日であった。●近鉄けいはんな線の荒本駅着がお昼頃。駅から近い府立中央図書館で、かねてから見たいと 思っていた館所蔵の『大日本紡績聯合会月報』を閲覧した。1889(明治22)年から1915(大正4)年までは目次をまとめた小冊子程度だが、1916 (大正5)年から1942(昭和17)年までは毎年12ヶ月分の月報、厚さが7〜8センチはある。これらをすべて、こまめに見ていこうとすれば優に丸一日 は必要だ。経営に関すること、収支に関すること、海外の動向などが多いが、それらにまじって時々、当時の女工の労働問題、衛生環境、募集状況などに触れた 記事や講演録などが載っている。1894(明治27)年に操業を開始した郡山紡績が大阪の摂津紡績に吸収合併されたのが1907(明治40)年でその後、 摂津紡績と共に大日本紡績に合併されたのが1918(大正9)年なので、この月報に含まれるのはそれ以降ということになる。何しろ厖大な量なので半分にあ たる昭和初期までを移動式ブックトラックの二段に並べて出してくれたが、本日はさすがにざっくりと見ることしかできない。それでも折角だからと、1934 (昭和9)年の499号にあった特別調査と題した『我が国紡績女工の集散に就て』(京都帝大・小島教授研究室)なる数ページをコピーしてきた。原本がかな り痛んでいて「セルフコピー不可」なので、通常一枚10円のコピー代がスタッフコピーとなって一枚25円かかる。●閲覧資料が地下倉庫から運び出されてく る間に1階の片隅でやっていたミニ企画展『続「今東光と河内」展』を覗いてきた。かれは横浜の生まれだが、32歳で出家剃髪し、53歳のときに大阪・八尾 の寺の住職となった。併設されていた田中幸太郎の昭和30年代の河内の風景を撮った写真につい魅せられて(近鉄列車の鮮魚商人、年末の瀬戸物露店、覗きか らくり、常光寺の盆踊りなど)、写真集『シャモとレンコン畑 日本の原風景・河内』(1993)をWeb中古でその場で注文してしまった。もらってきたパ ンフ『今東光の「小説 河内風土記」を歩く 河内山本・天台周辺MAP』を手に、またいつか歩きに来るのもいいかも知れない。●東大阪市役所すぐ、かねて から阪神高速高架沿いで気になっていた「中華そば 九兵衛 本店」で遅いお昼は、すでに3時頃。醤油の「進化系高井田ラーメン」の惹かれたが、ここはシンプルに塩そば、750円とした。若い兄ちゃん姉ちゃんの店員 たち。まあまあ、それなりにおいしいけれど、やっぱり「いごっそう」のあの塩ラーメンの幸福度には遠く及ばない。何かが違う。人生の年季か。●大阪王将の 先のあたりから路地を南下して、古い団地に囲まれた共同浴場や人権センターなどを横目に過ぎて、斎場を取り囲む荒本墓地、隣接する春宮墓地を覗く。荒本墓 地の散在する軍人墓。春宮墓地の一角に並んだ小ぶりな軍人墓は安い石材なのだろう、劣化がひどくて文字が読み取れない。死後も格差は埋まらない。春宮墓地 には1697(元禄10)年を開基とする墓地の沿革を刻んだ石碑があった。どちらの墓地の六地蔵も味わいがあって良い。●荒本駅=若江岩田駅間が思ってい たより近すぎて、あっさりと踏破してしまった。駅周辺の商店街ははやくも露店が立ちならび客を呼び込んでいるが、肝心の岩田墓地周辺はまだ準備もまだらと いった様子だ。この時間を利用して、そろそろ長さが気になっていた散髪をしておくことにした。頭に浮かんだのは、9月の撮影を前に「こんどは千円カット じゃなくて、もう少しマシな美容院でもうちょっとイカした髪型にしてきなよ」と言った娘の言葉だった。それでもうちょっとマシな女性ばかり数人が鏡の前に 並んでいた硝子張りの美容室を見つけて勇気を出して入ってみたのだった。長身細身でちょっとおネエ的な喋り方をする店員にどんな感じで? と訊かれ、これ も勇気を出して「あの、最近若い人がやってる、後ろも横も刈り上げで、そこに上から髪がふわっと乗っているような」と言うと、「はい、ツーブロックです ね」とにこやかに返されて、あのチャンポンのような髪型が「ツーブロック」と呼ばれるものだとはじめて知る。おネエ店員の手さばきは見事で、シャンプーを して、ドライヤーをかけて「いつもはワックスとジェル、どちらをお使いですか?」と訊かれて、いや、そういうものは何も使ってないと答えると、おネエは一 瞬目を丸くしたあとですぐに立ち直り、うふふと謎の笑みを浮かべてワックスを手に取り「ちょっとあそんでみますね〜」と楽し気にわたしの髪の毛をつんつん と立たせていくのだった。2,800円は案外と価値があったかも知れない。●それでもまだ日暮れには間があったので、容赦ない直射日光から逃れるために駅 前のベーカリーカフェに入った。「東大阪」と謳ったわりには特に特徴もないカレー・ドーナツにホット・コーヒーを添えて、コピーしてきた『我が国紡績女工 の集散に就て』を読む。 ・・・既にして、我々は紡績女工の現象にありて、主として労働を供給する地方と、主としてこれを需要する地方と、大体に於て自給 自足する地方との別あることを知り得たのである・・・  ●灯ともし頃が重たい緞帳のようにゆっくりとおりてくる。竿石の立ち列ぶ広い空間が仄かに澱ん で、地熱がゆらゆらと瘴気のように立ち昇る。墓地の入口の天幕に吊るされた無数の提灯が彼岸の祝祭のように目に眩しく、そこから線香や供花やバケツをそれ ぞれ手にした老若男女がぽつろぽつりとやってきて、たしかあのあたり、このあたりもずいぶんと変わった、なぞと言葉を交わしながら先祖の墓を詣り、それか ら墓地のいちばん奥の焼場の前に屹然と立つ地蔵菩薩に頭を垂れ、裏手の水子供養と納骨堂の前で掌をあわせ、最後に墓地のヘソのような場所にいるふくよかな 行基像を詣って、此岸の祝祭へともどっていく。杖をついてたった一人の老婆がいる。車椅子の祖母を押す少女がいる。知り合いと立ち話で高笑いをしている父 親がいる。夜店で買ってもらったキツネ面を頭に乗せた子どもと若い母親がいる。少女たちのグループ、少年たちのグループがいる。みなが夜のとばりのなかで 家々の墓を訪ね、焼場や納骨堂の見知らぬ死者たちにあいさつをする。だれも訪れない焼場裏の無縁墓にはわたしが掌を合わせた。そして長い時間、そのように 人々を迎える「墓場」を眺めていた。ひとは墓地という臓腑をたどる。●帰りかけた墓地の入口で若い男女に声をかけられた。いや、声をかけられたのはわたし の「お墓Tシャツ」であった。小柄な女性の方は「お墓Tシャツ」にひとしきり感嘆し、長いこと墓地にいらっしゃいましたよね、声をかけようかどうしようか と迷ってたんです、と笑顔で言う。そして「わたしはこういう者でして」と「お墓女子」と書かれたシールと、そのお墓女子が来週水曜のABCテレビに出演す るという告知を取り出して手渡してくれた。お二人は東大阪の石材店の営業マンで、今日の岩田墓市も深く関わっているのだった。そして何より「お墓」が大好 きで、奈良の古墳を埋め尽くした墓や、南山城エリアの両墓制の古い墓地の話などで盛り上がり、名刺交換もして(わたしは娘の埋め墓の絵をあしらった「フ リーライター」名刺)、FB友達にもさせて頂いた。さらに驚いたのは東大阪店の店長でもある男性は、わたしが長年FBでこのお盆の時期に拝見させてもらっ ている大阪七墓巡りの生配信などをしている陸奥 賢さんと昵懇で、帰宅してあらためて見ればこの陸奥氏の友だちにわたしのじっさいの知り合いも何人か入っていたりして、Web世界はほんとうに狭くて怖 い。●そんなわけでヘアースタイルも刷新し、墓市も満喫し、若い女性と墓話で盛り上がるというオマケまでついて、かなりご機嫌で若江岩田の駅まで行って、 さあ改札を抜けようかとしたら、なんと、南都、ナント、ICOCAの定期を入れたパスケースが見当たらない。わたしは職場でウェストポーチしか持たないの で、最近はこのパスケースに免許証も入れているのだった。さてはさっき、岩田墓地の入口で名刺交換をした際に落としたかと、雑踏密度5人/uの嫌気がさす ほどの露店が立ちならぶ商店街を忍耐力を試されながらもどり、付近を探すが見当たらず、教えられた運営テントへ行って訊いてみるが届出はなく、うつろな目 をしてふたたび駅へもどったのだった。待ち時間を過ごしたベーカリーカフェもすでに消灯し、疲れ果てて電車に乗ってから「ああ、最寄りの交番で遺失届を出 しておくべきだった」と気がつき、西大寺の乗り換えで鹿児島から大和八木の友人を訪ねていくというベトナム青年を案内し、終着の近鉄郡山駅前の交番にアヘ を撃ったのはわたしですと出頭すれば、腰の低い実直そうな警官は遺失物届けを作成してくれながら、そもそも運転免許証の類は拾得物であがってくれば警察の システムと照合して本人へ連絡することになっているし、わたしもそうしていますが、人によってはしない人もたまにいるので・・なぞと雑談で滑らせて、おい おい後ろにさっきから不機嫌そうに一言も発しない上司らしいやつがいるがそんなことを言っちまって大丈夫なのかと要らぬ心配をしたりした。というわけでこ の話はもうこれ以上書きたくない。終わる。
2023.8.11


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 今日の毎日新聞の文化欄で臨床心理学者の河合俊雄氏が明恵の夢について文を寄せていた。主題である明恵の「象徴性を確立したうえで、それを超した直接性 に到達」した「身心凝然の夢」もなかなか面白いのだが、わたしは冒頭で紹介されていた『宇治拾遺物語』の中の「信濃国筑摩(しなののくにつくま)の湯に観 音沐浴(もくよく)の事」と題された夢の話が興味深かった。

  信濃のある湯治場付近で暮らす者が夢を見た。明日の正午に観音が「綾藺笠(あやゐがさ)を被り、黒漆の矢を入れた胡籙(やなぐひ)を背負い、皮を巻いた弓 を持って、紺地の裏付きの狩衣を着た」「三十歳ぐらいの黒髭の男」にやつして「鹿の夏毛の行縢をはき、葦毛の馬に乗って来る」というものである。

  それを伝え聞いた人々は湯治場に集まり「観音様をを迎えるため薬湯の湯を入れ替え、あたりを掃除し、周辺に注連縄を張り巡らし、花を捧げ、香を焚いて、集 まって観音のお出でをお待ち申し上げていた」ところへ、夢のお告げどうりの姿の武者姿の男が現れたものだから、みなは一斉に拝み始める。

  事情が分からずに驚く男は、群集の中にいた一人の僧から夢の話を聞くと、「自分は、先ごろ狩りをしているときに落馬したが、その際、右腕を骨折したので、 湯治して治そうとやって来たのだ」が、「我が身はそれでは観音であったのだ。かくなるうえは法師になるしかないであろう」と「弓、胡籙(やなぐひ)、太刀 (たち)、刀を投げ捨てて」出家し、のちに比叡山の横川で「覚朝僧都の弟子」になった、というものである。

 わたしがこころを惹かれたのは、河合氏も書いているが、一人の人間が見た夢が多数の人々に共有され、たまたまそこへやってきた見知らぬ者ですら、その夢に従っておのれの人生を変えてしまうことである。

  「多くの歴史書や物語からわかるように、古代において神のお告げであった夢は、中世においても現実の結果と直結していたし、また夢は多くの人で共有されて いた」「この物語で夢は多くの人の間で共有され、他人の見た夢に従うというように自他の区別がなく、直接的に現実に結びついている」

 夢の共有。現代のわたしたちに欠けているのは、まさにそうしたものかも知れない。

(生誕850年 明恵上人の魅力/下 日記に残る象徴性超えた夢=河合俊雄 毎日新聞8月20日朝刊)
2023.8.20


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 これからの百年を先に祝う。それが予祝であり、わたしたちの「百年芸能祭」なんです、とその人は云って、東日本大震災の津波で一切が流された南三陸の集 落につたわった300年前の石碑、「奉一切有爲法躍供養也(生きとし生けるものの供養のために躍る)」と刻まれた石碑の話をした。そして、国家に役立つ芸 能以外はいらないと宣言したのが明治政府なのだ、と。けれどもほんとうの文学(芸能)とはあたらしい世界をひらくものだ、と。だから体制側にしてみればそ もそも「文学(芸能)は役に立たない」のだ、と。「社会的人間」を脱して、私人になれ、詩人になれ。頂いてきた百年タブロイド紙をひらけば、すでにことば がおどっている。「荒ぶる者、野に生きる者、この世の果てに流された者、足の立たぬ者、外から来たりて豊穣をもたらす異人(まれびと)、大きな力にまつろ わぬ者、すべての海の賜物、イルカもクジラも無縁仏も、もしかしたら津波さえも、これすべて恵比寿、生きとし生けるすべての命のつながりを想って」 百年 前のまれびと殺戮を語るシンポジウムの会場で、その人の話だけがほのかな光をたたえて風が吹いていた、野にわたる風が。奉一切有爲法躍供養也。あまりしな いことだけれど、休憩時間に買った著書『忘却の野に春を想う』(姜 信子, 山内 明美)を持ってサインをねだった。會田陽介さま 命はびこれ! とその人は記した、まるで300年前の石碑に刻まれたことばのように。
2023.8.26


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 中瀬古が中瀬古をつないで、まだ見ぬ座標にたどりつく。明治の北山村筏方組合長だった曽祖父・中瀬古為三郎の次男の娘であるわたしの母、為三郎の長男の 亡き息子の伴侶でおなじ奈良・橿原に住む中瀬古さん。はじめて出会う二人の中瀬古老女が共通の懐かしい親類のこと、北山や新宮や十津川のことを京都・上賀 茂のよしむら北山楼で語り合う。思えば銘木で知られるこのあたりもまた「北山」なのであった。1939年生まれの母は83歳、橿原の中瀬古さんは77歳。 食事のあとでコーヒーも呑んでから、白髪の二人の小柄な老女はさながら映画『楢山節考』のおりんのように「楢山詣り」へとむかう。「楢山」は植物園に隣接 する京都コンサートホールであり、そこには50年前に惜しまれて亡くなったもう一人の中瀬古を顕彰するコンサート、『中瀬古和 歿後50周年レクチャーコ ンサート 「捧げまつる感謝の歌を」 ―神と共に生きた作曲家 中瀬古和―』が開催されるところであった。和歌山の北山に接する奈良県下北山出身で新島襄 と共に同志社大学のなりたちに尽力した科学者・中瀬古六郎の娘は1926(大正15)年に渡米、その後ヨーロッパにわたってパウル・ヒンデミットから作曲 を学ぶ。当時としては珍しかったろう女性の作曲家として生きる道を選んだ中瀬古和は、「鳥のカタログ」や「世の終わりのための四重曲」で知られる現代音楽 の作曲家オリヴィエ・メシアンと同い年である。メシアンは83歳、1992年まで生きたが、中瀬古和は1973年に64歳で亡くなった。プログラムは2部 に分かれ、前半は中瀬古和研究者で同志社女子大准教授の筒井はる香氏による「中瀬古和の生涯」ではじまり、ついで今日が初演の可能性も高いという1944 年頃に作曲されたピアノ曲、そして聖書から材をとった声楽曲、合唱曲へとすすむ。休憩をはさんで後半の冒頭は音楽学者の椎名亮輔氏と作曲家・中村滋延氏に よる「1950,60年代の音楽の動向、器楽作品の聴きどころ」と題した対談。お二人によれば中瀬古和が活躍した時代、音楽家は「西洋音楽の歴史の中で数 世紀の時間をかけて築き上げられた「調性」という名の調的な主従・支配関係に基づく音組織」(Wiki)によって作曲をすることが不可能な時代であったと いう。そのような時代にあって、後期ロマン主義からの脱却を目指しゲッベルスによって「無調の騒音作家」と糾弾されながらバッハの対位法を好んだヒンデ ミットに師事し、戦後の二度目のアメリカ留学で「調性音楽を脱し無調に入り「十二音技法」を創始」(Wiki)したシェーンベルクの音楽に出会った中瀬古 和の作品は、同世代の国内の作曲家たち(松平頼則、大澤壽人、早坂文雄、伊福部昭等)が影響されたプーランクなどのフランス6人組に代表される新古典主義 や、あるいは日本の土着の音楽へ回帰していこうという流れと共に、「どうやってみずからのアイデンティティを確立していくか、といったところが中瀬古和の 音楽にはまったくない。非常に独創的な音楽」だと椎名氏は指摘する。では中瀬古和にあって音楽とは何であったかを考えると、それはやっぱりキリスト教の信 仰であったのではないか、と氏は言うのだった。それで思い出すのは、1944(昭和19)年9月に和が作曲したメゾソプラノとピアノのための『過越の祭り の前に』である。ここには「ヨハネ福音書第13 章第1 節の「過越のまつりの前に、イエスこの世を去りて父に往くべき己が時の來れるのを知り、世に在る己の者を愛して、極まで之を愛し給へり」というイエスの最 後の日を描いた場面から始まり、ルカ福音書第24 章第1 節〜6 節のイエスが復活した場面」(筒井はる香「中瀬古和小伝と音楽作品」)などが登場する。後年、聖書から作品の材をとるようになった理由を彼女は述べてい る。「聖句を歌詞として選ぶようになつたのは、戦争が始まつて他のものでは心の支えにならなくなつた時からである。そして今もなお聖句は私にとつては切実 で新鮮である」(『世界音楽全集日本歌曲集III』音楽之友社、1958年 199p)。「戦争が始まつて他のものでは心の支えにならなくなつた」 わた しは中瀬古和の音楽の基底にあるのは、シンプルな、ただこの念ひとつだけだと思う。「ああ神よ しかの溪川をしたひ喘ぐがごとく わが魂も汝をしたひ喘ぐ なり」 (詩編42。1957年9月に作曲され、翌月に京都の「第1回邦人作品演奏会」で初演された)  後半のプログラムは器楽曲である。魅力的な響き の弦楽四重奏(String Quartet U)、弦楽六重奏曲(String Sextet T)とつづき、最後は山本裕樹氏によるヴァイオリン独奏曲(Movements for Violin Solo)によってしめくくられた。暗がりの中でスポットライトを浴びて中瀬古和作品を弾く山本氏の演奏を聴きながらわたしは、和にとって音楽とは、この 世のどこにもない空間のなかでイエスと共におのれの心根をひびかせるためのツールだったのではないか、とふと思った。中瀬古が中瀬古をつないで、まだ見ぬ 座標にたどりつく。このつながりはこのあとも和の父である中瀬古六郎の出身地、奈良県下北山村上桑原へと遡上していく。老女の一人、橿原の中瀬古さんはも ともと新宮の出身で、共に社会科の教員だった夫君と共に一時期下北山村で暮らした。その縁をたよって今回、郷土史に詳しい歴史資料館の学芸員の方に中瀬古 六郎について調査を依頼していて、その結果を伺いに今月末、橿原の中瀬古さんと共に下北山を訪ねることになっている。歴史資料館につないでくれた、中瀬古 さんがいまも親しく交流している上桑原のHさんが現在暮らす家は、かつて筏師組合長だったわが曽祖父・中瀬古為三郎が北山村大沼から不動峠を越えて歯の治 療を受けて出血のために亡くなった医師の住んでいた家なのだった。まだ44歳の壮年だった為三郎の亡骸は板戸に乗せられて不動峠をふたたび家族のもとへ 帰っていったと伝わる。為三郎は1873(明治6)年生れ。中瀬古和の父・中瀬古六郎は1869(明治2)年生れ。当時は頻繁に行き来されていた峠のこち ら側の中瀬古とあちら側の中瀬古は、幼少時代はきっと親しく野山を駆け回ったに違いない。中瀬古和の音楽はそんな彼女が生まれる以前の150年前の山里の 風景にも響き遍く。

2023.10.1


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 関東大震災の混乱のさなかに讃岐の被差別部落出身の行商人一行が朝鮮人と間違われておなじ日本人によって無残に殺された「福田村事件」のことを知ったの は、もう何年も前のことだ。唯一の取材者である辻野弥生さんの小冊子を買い求め、Webでも資料を漁り、グーグルマップで現地の目星もつけて、いつか訪ね てみたいと思っていた。じっさいに東京に所用ができた際に足を延ばせないかと時間調整をしたこともあったけれど、かなわなかった。森達也監督がその「福田 村事件」を映画にするというニュースに接したとき、わたしは時代的にも内容的にも深く重なる別のドキュメンタリー作品の制作に足を突っ込んでいたので、あ まり考えないようにしていた。その映画『福田村事件』を今日、三連休の最後の日にようやく見てきた。予想していたよりも、ずっとおもしろかった。たくさん のことを考えさせられた。森監督をはじめとする制作陣も、きっとたくさんのことをつめ込みたかったのだろう。加害者・被害者を含めた多くの人々の複眼的な 横糸があり、日清・日露、シベリア出兵、三・一独立運動、水平社宣言といった歴史の縦糸があり、それらが被差別部落、朝鮮人、癩病者、遍路、行商人、在郷 軍人、社会主義者、新聞記者、英霊、大正デモクラシーなどのさまざまな模様を織り成していく。その重層的な自在に伸縮する複眼がからみあって最終の40分 間に及ぶ虐殺シーンへ収斂していく構成は見事だ。しかし、これはフィクションなのだ。上映後に買い求めた90頁にも及ぶ多くの貴重な対談や寄稿、資料、脚 本をまとめたパンフレットでも描かれているように、史実としての「福田村事件」とは異なる部分が多々ある。映画では、事件後に殺人罪で起訴され「国家を憂 いて殺人を行った」と証言した加害者を村が義捐金を集めたりしてバックアップし、中心人物の一人はその後村長にもなり、逆に殺された被差別民たちへの謝罪 も補償も何もなく、地域の歴史にもこの事件は封印され続けてきたことなどは描かれていない。わたしはやはり、いつか福田村を訪ねたい。かれらが殺された神 社の境内や利根川のほとりにみずからの足で立って、山川草木に身を置き、風の匂いを嗅ぎ、死んでいった一人びとりの魂を招ぎ寄せたい。一家惨殺されて子孫 も途絶えて墓すら残らなかった者たちの魂に手を合わせたい。加害者の側を描きたかったとは森監督が常々語っていたことだ。それはそれで良いし、その意図は 達せられていると思う。わたしはきっと、違うだろう。わたしはきっと表現者ですらない。平安期、荒れ果てた京の都で捨て置かれた夥しい死者たちを回向して まわった無名の阿弥陀聖のような者でありたい。その一人びとりの報われぬ死を世界の中心に据えて、思考を先鋭化したい。はからずもおなじ日本人の手によっ て殺された「福田村事件」の被害者たちの此岸には、6,000人ともいわれる関東大震災の混乱のさなかに殺された朝鮮人や中国人、この国の社会主義者たち の累々たる屍が横たわっている。かれらの魂魄は2023年の現在にあってもいまだ癒されない。むかしあったことではなく、すべてはいまをゆびさしている。
2023.10.9


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 はじめてお会いした下北山村歴史民俗資料館の元管理人だった巽さんは、かつて谷川雁が熊野は農民のいない国だとして「稲作が意味を持ちえない社会に響き わたる石の音」と記した、その響きのような存在だと思った。平地人としての私たちの目と耳を「たちまちのうちに不具にする」交換に、下北山村という深い小 宇宙に偏在する祖霊たちへの道しるべをさりげなく提示する。

  大石誠之助の甥・西村伊作が1925(大正14)年に設計した旧桑原医院の建物を移築した歴史民俗資料館の一室に集った面々は前述の巽さん、現在の資料館 の管理・運営に携わる神奈川出身の若い女性・松村さん、六郎の中瀬古家とつながりの深い大里の東(ひがし)家の邦雄さん、そしてわたしと同行した元下北山 住民でわたしの母の従弟の奥さんである中瀬古きぬ恵さん(橿原市在住)と、今回のこの集まりを段取りして下さったきぬ恵さんと仲良しの地元・地原の浜田さ ん、わたしの計6名である。

 お茶やコーヒー、茶請けの和菓子などを前に、事前にわたしが依頼していた質問事項――下北山村に於ける中瀬 古六郎のこと、北山筏方組合長だったわたしの曽祖父が亡くなった上桑原の「西村医者」のこと、そして下北山村の中瀬古と北山村の中瀬古のつながりについ て、巽さんが用意した資料などを配って話をしてくれながら、わたしたちが質問をする形で予定通り午後の1時から始まり、最後にわたしから六郎の娘である中 瀬古和について紹介をした時点で3時頃。一室はさながら、なごやかな地域住民たちの郷土史学習会といった風情であった。わたしもそのなかに交じって違和感 がない。

 中瀬古六郎はみずからの出自に強い興味を持っていたようで、かれの古里である「下北山村字上桑原小字小井」部落の成り立ちから 中瀬古家の続柄までを幅広くつづった『小井部落の由来(付中瀬古家、続柄』と題した文章を大学ノート8頁にわたって残していた。それを巽さんが松村さんの エクセルの手を借りてA3版の厖大な家系図として読み出してくれたのだった。

 のっけから興奮したのは下桑原小井の中瀬古家、下桑原大里 の東家、上桑原の西村家の三家は深い縁戚関係にあることだった。西村家はもちろん、北山郷きっての山林家である西村伊作の家筋である。中瀬古六郎の母親 「せき」は、東家の「嘉平治」と西村家の「しも」との間に生まれた娘だ。そしてこの「せき」の兄弟におなじ「六郎」の名前を持つおじ「東六郎」がいて、子 どもの頃から聡明だったといわれる中瀬古六郎はこのおじに可愛がってもらったらしい。のちに星野姓を名乗り「星野六郎」となったこのおじは若くして長崎で 「大井卜新」らと共に蘭方医、堺で漢方医を学び、郷里に帰って開業した。現在の熊野市紀和町に生れた「大井卜新」は医師、薬剤師などを経て政治家、実業家 になり、渋沢栄一率いるアメリカ実業界視察旅行「渡米実業団」にも参加した人物である。「星野六郎」の妻「かよ子」は尾鷲の旧家で薬種商の辻本家から嫁い でいる。

 下北山の中瀬古、東、西村は歴代の庄屋の家柄で、中瀬古六郎の時代にあっても下北山村の村長などを各家から輩出している。六郎の兄、長男の傳一郎は第4代と8代の村長を務めている。

  大逆事件を題材にした嶽本あゆ美さんの『太平洋食堂』の舞台ではたしか明治の代、新宮の町にはじめて電気の街灯が設置されるという場面があったように記憶 しているが、これは1899(明治32)年のこと。「三重県の鮒田(ふなだ・現紀宝町)に、県下初と言われる50キロワットの水力発電所が完成し、熊野川 をまたいで、お城山に送電して、街中に配電された」 この「新宮電灯(資)」を設立したのが中瀬古六郎の兄、中瀬古傳一郎であった。資本金12.5万円は 現在に換算すると5億円近くになるのか(※3800倍計算)。これを支えたのが江戸時代からの林業に於ける蓄財である。新宮の町に電灯を灯したのは下北山 の中瀬古だったのだ!

 もうひとつ、わたしの曽祖父の中瀬古為三郎が亡くなった場所について。為三郎の戸籍謄本には「大正6年5月16日 午前6時奈良県吉野郡下北山村大字上桑原220番地の1ニ於テ死亡」と記されている。当時の為三郎はまだ働き盛りの44歳。歯の治療のために北山村大沼か ら隣接する下北山村上桑原の医者へ行き、治療中に血が止まらず出血多量で亡くなり、亡骸を戸板に乗せて不動峠を運ばれて大沼へ帰ったと伝わる。そのとき、 長男の英雄は17歳、次男でわたしの祖父の一益は14歳であった。

 下北山村史にかつての旧道などを記した手書きの地図が掲載されており その地図上、上桑原小字田戸に「西村医者」と記されたあたりが、グーグルマップで「上桑原220番地の1」を検索してヒットするまさにおなじ場所である。 ここは西村家の分家筋で下北山の戸長もした徳九郎の息子、徳太郎が「西村医院」として開業をした場所で、それ以前は何と今回お話をしてくださった巽さんの 祖父の代の敷地であったのを、病院に適した立地だから譲って欲しいと請われて立ち退いた土地なのだというからびっくりだ。徳太郎の「西村医院」は繁盛して さらに敷地を拡張して、最終的には現在の熊野市へ移った。イザナミの墓ともいわれる花の窟神社の参道奥の巨大な石灯籠は徳太郎が寄進したもので1935 (昭和10)年の年号が刻まれているという。中瀬古為三郎が死んだ1917(大正6)年は熊野市へ移ったあとのことで、巽さんの話では息子の清彦が同地で 歯医者をやっていて、みんなは「ヒスさん」と呼んでいたという。その子孫の方が現在は熊野市内で、やはり歯医者を経営しているそうだ。

  歴史民俗資料館は通常、毎週木曜日の半日だけの開館だったのでなかなか訪ねることができなかったが、今回は特別に開けて頂いた。思っていたより広い間取り に、村にまつわるさまざまな資料が小奇麗に展示されていて、その一画に書家の杉岡華邨、西村伊作らと並んで「下北山村ゆかりの偉人たち」として中瀬古六郎 が使った顕微鏡、扇子、著書などといった遺品が並んでいる。今回はそれ以外の展示をゆっくりと見ている余裕もなかったが、筏流しなどの資料も残っているよ うだ。そして六郎の娘の中瀬古和については、どうも下北山村ではほとんど知られていない様子だった。

 わたしが中瀬古和の音楽に出会った 経緯、和の簡単な経歴と業績、同志社主催の没後50年の記念コンサートのこと、独特な作風のためにこれまで同志社内でしか作品が継承されてこなかったが、 ここにきて演奏会で和の作品を取り上げてくれる動きもあること、そして中瀬古六郎や和を慕っている同志社大学の関係者が六郎の古里である下北山村を訪ねた がっていること、近いうちにわたしがふたたび彼らを案内するつもりであることなどを説明してから、村内の現地を見学するために揃って館を辞した。

  ここから同行するのは巽さん、東邦雄さん、そしてわたしと中瀬古きぬ恵さんの四人である。三台の車に分乗してまず向かったのは田戸の「西村医者」。ここは 同じ姓だが、現在は別の西村さんが住んでいて、あまごや鮎などの養魚場を営んでいる。役場のある寺垣内や資料館のある上桑原など、下北山村の中心部は北山 川から分岐した西ノ川沿いに点在しているが、田戸は蛇行する川がもっとも南へせり出して、ここから北山村へと続く不動峠の筏道が発する。

  不在であったが、ここの西村さんの息子さんは同行した中瀬古きぬ恵さんの亡き夫君――中瀬古為三郎の長男・英雄の息子・宣夫さんの教え子だったというか ら、きぬ恵さんも玄関先で長いこと老齢のご両親と喋っている。長く下北山村で教師をしていた宣夫さんはサッカーの教育者としても全国的に有名で、いまでも その人徳を慕う教え子たちが各地に多く、途中で昼食を済ませた下北山スポーツ公園にはきぬ恵さんが「父ちゃんの碑」と呼ぶ宣夫さんの功績を讃えるサッカー ボールを頂いた記念碑が建っている。

 山を背後にかかえ立派な石垣に囲まれた「西村医者」の敷地は石垣も大きな母屋もややくたびれてきた 蔵も、当時のままだという。つまり曽祖父・中瀬古為三郎が見ていた風景とおなじだ。母屋の前を蔵の方へ入っていく前庭にかつては渡り廊下があって、蔵の裏 側――いまは息子さんの住居のところにあった病院の建物へと続いていたという。立派な石灯籠がぽつんと残っていて、その手前に飛鳥資料館にでもありそうな 丸い穴の穿たれた石造物が立っているので何かと訊くと、この横に手洗いがあって、手洗いの水がこの石造物から流れていたのだとのこと。蔵をぐるりとまわっ てかつての病院の玄関側には両サイドに大きな石の門柱が立っていたと巽さんがおしえてくれた。

 為三郎も触れたかも知れない苔むした石垣 に手を添え、ふりかえって目の前の不動峠あたりの青い山の稜線を仰ぎ見る。北山筏方組合長とオトノセ(音乗)の紀念碑に名前を刻む曽祖父・中瀬古為三郎は ここで、この場所で44年の短い生涯を終えた。来るときはきっと修験の行者のように颯爽と越えてきた通い馴れた筏道を、帰りは物言わぬ亡骸となって戸板に 揺られてわが家へ帰っていった。百年前のことだ。郡山紡績の女工だった金占順(キム・ジョンスン)がわずか18歳で亡くなったのがその3年後の1920 (大正9)年。曽祖父がこの下北山の「西村医者」でこと切れたその日には、彼女はおなじ奈良の大和郡山の紡績工場で糸を紡いでいたかも知れない。そんなふ うに考えれば、それほど遠い歴史でもない。先週の水曜日のような心地すらする。

 つづいて移動したのは上桑原に残る西村家の建物である。 ここはわたしは以前に訪ねていて特にリクエストもしていなかったのだが、巽さんが気を利かしてくれたのだろう。資料館から川を渡った集落のいちばん高台、 おそらく上桑原の一等地にある西村の本家は跡継ぎが途絶えたために、大石余平(誠之助の兄)に嫁いでいたふゆの息子である4歳の伊作を西村家の当主とし て、祖母もんのもとで育てられた。現存する建物はもんや伊作が住んでいた当時のもので、南側へすこし下ると伊作夫婦をはじめとした西村家一族の墓地もあ る。前述したように西村家は、中瀬古六郎にとって母方の祖母の実家にあたる。

 ついで瀧厳寺に隣接する大里の東家の墓地を見せて頂いた。 中瀬古六郎と同時代の東富蔵は下北山村第2代と5代の村長を務めた人物で、村内で唯一の銅像が小口橋のたもとに立っているそうだ。本家の邦雄さんにとって は分家筋にあたるのだが、富蔵翁の来歴を物語る真新しい石板は邦雄さんがつい一週間前に建てたばかりのものだという。六郎の母親の実家にあたる東家は墓地 から川向いの集落のいちばん上方にある。東家は六郎の母の実家であり、長崎で医学を学んだおじの東(星野)六郎は大きな影響を与えた。

  山あいの夕暮れは早い。5時前なのに傾いた西日がはやくも山の端に隠れそうになっている。トンネルをくぐって、蛇行する川と背後の山にはさまれて細長く家 々が立ちならぶ小井の集落が中瀬古六郎の生家である。このあたりに人が住み始めたのは上桑原に比べると後年のことだという。「その昔、中瀬古、中谷、植村 の三人が遠方より来て此の山奥に侵入し、目測にて山林平野を三等分して各これを占領したるなりと云う」と六郎は「余が出身」に記している。道からすこし間 を置いた石垣の上に平屋の家が乗っかっているが建て替えられたものだという。巽さんは、下北山の家の格は石垣を見れば分かるという。中瀬古六郎の生家は敷 地こそ「西村医者」や西村本家ほど広くもないが、立派な切り石で城のようにきれいな傾斜(カーブ)をつけて積まれた石垣はやはり財力を示している。下北山 では石垣に贅を尽くし過ぎて屋敷を手放してしまうこともあるのだそうだ。中瀬古六郎の生家は石垣だけが当時のまま残されている。六郎の生家であるという説 明は何もない。

 最後に行ったのは集落のはずれにある小井の墓地である。山の斜面を石垣で三段ほど平坦にしているが、じっさいに墓石が並 んでいるのは一段だけで、上の段はくずれて墓地の痕跡も失われている。そして整理されて集められた無縁の竿石のグループもいくつか。下北山の中瀬古の本家 の墓はもう、ここにはないのだそうだ。中瀬古六郎と、生涯独身であった和の墓は京都の若王子山墓地で新島襄ら同志社の盟友たちとともに並んでいるが、兄の 傳一郎や両親の墓はどこかへ行ってしまったのだろうか? ここにあるのは魂を抜いた古い墓石を背後に整理して束ねた平成7年に建立された「中瀬古家先祖代 々之墓」だけで、おそらく分家筋なのだろうが、いまではもう参る人もいないのではないか、という。

 むかしの土葬の話になり、富蔵翁の墓 を整備した東邦雄さんが座棺を入れる墓穴を掘っていて出て来た古い骨を整理してまた埋めたなどという話をしている。このあたりは古くは鳥葬や風葬だったの ではないか、新宮である男が生前「俺が死んだら狼にくれてやる」と言っていたのに遺族が墓に葬ってしまい狼が悔しがったという話もある、と巽さん。かつて は獣に墓を掘り返されないように、大きな石を土葬の上に置いたのだそうだ。わたしが本宮の旧社地は古代には十津川などで流した遺体が流れ着いた場所だった と言うと巽さんもその説を知っていて、だいたい花の窟なんかも、あれは上の方の穴は鳥葬用だし、下の穴は乞食が暮らしていたわけですよ、熊野は冬も暖かく て住みやすいからいろんな人間が流れてくる、などと言って笑っている。

 じっさい下北山村には、旅の途中で行き倒れたか殺されたかした六 部の墓などと伝わるものや、難所で命を落とした筏師を弔うための川中の岩に刻まれた摩崖仏、山の神や狼を祀った社、また那智滝に捨身して修行を完結させた 実利(じつかが)行者の足跡など、まだまだ見るものが多い。この日も、ここにはすべて書き切れない由来、言い伝え、家系図、習俗、山仕事、筏流しなどの話 がいろいろと出て、わたしにはなにもかも興味深くこころ踊るものがあったのだが、なによりも地元出身の巽さんがまるで古事記を暗唱したかの稗田阿礼のよう に、まさに「目にしたものは即座に言葉にすることができ、耳にしたものは心に留めて忘れることはなかった」かのごとく、現在から過去百年二百年にわたる下 北山小宇宙の人びとを覚えていて、まるで昨日その人と会って話をしていたかのように即座に教えてくれる不思議が心地よかった。

 このごろ はどんどん時間の垣根が融解していって、巽さんがエッセイのなかで記していた「村の祖霊」たちのように、百年前の中瀬古六郎も中瀬古為三郎も、かれらの息 遣いや、笑い、話し、沈思する表情までもがまざまざと感じられるような気がしてくる。息絶えた最後の場所で、生家の苔むした石垣の上で。祖霊たちは村のあ ちこちを自在に経巡り、わたしたちとすれ違い、ときにわたしたちをじっと見つめている。岩窟墓に立ち並び生者を見守り続けているインドネシア・トラジャの 死者を模した木彫りの人形たちのように。

 わたしの最後の質問。わが為三郎たちの北山村の中瀬古と、六郎たちの下北山村の中瀬古に接点は あるだろうかという問いに巽さんは、もうすこし時代を遡れば可能性は大いにあるだろうと答える。むしろ古くには、中瀬古は北山から下北山へ流れてきたのか も知れない、とも。ほぼ同年代の北山村の為三郎と下北山の禄郎は、きっと子どもの頃はいっしょに野山を駆け回って遊んだに違いないとわたしは勝手に思って いる。

 またもうひとつの空想は、大逆事件である。中瀬古為三郎、1873(明治6)年。中瀬古六郎、1869(明治2)年。大石誠之 助、1867(慶応3)年。三人の生年をならべれば同時代である。大石誠之助が43歳で国家によって縊られたとき、中瀬古六郎は42歳、中瀬古為三郎は 38歳。筏師ともつながりが深い山林王の西村家がらみであれば為三郎も身近な話題で会ったろうし、京都にいた中瀬古六郎は祖母の実家に縁深い大石のことは 一層感慨深かったに違いない。かれれはおなじ時代を共有し、わたしもまたいま、かれらとおなじ空気を呼吸している思いがする。

 小井の墓 地の前で三々五々に分かれて、じきに暗闇に包まれた山中の夜道を車を走らせながら、きぬ恵さんが「下北山は上下の隔てのない、つながりの良いところだと思 う」とわたしに言う。外部からの来訪者である「六部」のわたしはまさに今日一日、そのことを感じながら、すっかりじぶんが百年二百年の下北山村大字上桑原 の亡者も含めた一員であるかのような錯覚をおのれに許しながら過ごしていた、そのことが何よりもいちばん心安く愉しいことであった。
2023.10.29


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 チマチョゴリを切られた少女が舞台の上の白紙に墨汁を叩きつけながら叫び、くずれおちる。差別、嘲り、暴力、無関心、みんな消えてなくなれ!  朝鮮学 校無償化訴訟を追ったドキュメンタリー映画『차별 チャビョル 差別』(キム・ジウン、キム・ドヒ監督 2021年)を、上映最終日に大阪・十三のシアターセブンで見た。東京、名古屋、大阪、広島、福岡、全国5か所の 朝鮮学校と生徒たちが起した裁判は高裁での「除外の適法」が確定した。その連敗の記録はそのままこの国の「あったことをなかったことにする」盲目の歴史観 そのものの姿であり、政治と司法の根腐れであり、道徳(モラル)の墜落であり、その冷徹な足元で生徒たちは歯を食いしばり、涙をぬぐう。不当判決の垂れ幕 の前でうなだれるかれらに一人のコリアン女性が叫ぶ。「これは間違った裁判だ。あなたたちが否定されたわけじゃない。分かってくれる人たちもいる。だから 今日はみんな、正々堂々と胸を張って帰って下さい」  判決はたんに学校の無償化を退けるだけではない。存在を否定するのだ。日本で朝鮮人として生きる尊 厳(Dignity)を否定される。否定される側にならなければそうしたことには気づかないのもまた、この国の末期的現状である。画面に登場するのは、ご く少数の日本人活動家や弁護士を覗けば、ほとんど在日コリアンの母であったり生徒であったり卒業生であったりする当事者ばかりだ。チマチョゴリ芝居の少女 役であり大阪朝鮮学校の生徒でもあった劇団タルオルムの女優カン・ハナさんの紹介テロップには“『映画・鬼郷』のヒロイン役”と記されていたが、ほとんど の日本人は日本軍慰安婦を描いた韓国の『映画・鬼郷』のことなど知りもしないだろう。じっさいに森達也監督の『福田村事件』が全国の映画館で上映されてい るのに比して、この『차별 チャビョル 差別』の上映館は少ない。関東大震災後の戒厳令下で朝鮮人と間違われて殺された被差別民の行商人というのはぎりぎりのセーフ・ラインで、テレビ出身の森監 督はその計算も見えていたのではないかという邪推すら、つい浮かんでしまう。ストレートに朝鮮人差別を描いたものはこの国では忌避される。パレスチナの民 が長年“天井のない牢獄”に押し込められているのが欧米列強の歴史的責任であるのとおなじように、日本に多くの朝鮮人が暮らしているのもこの国の歴史的責 任に由来する。その歴史と向き合うのであれば過去を謝罪し、歴史に学び、現在に報いるのが人の道であろう。ところがこの国はあった過去をなかったものにし て、なかったものにするために国内に残った朝鮮人の人びとを、その歴史を、言語を、文化を、尊厳を否定し続けてきた。在日コリアンたちが除外されているの は学校無償化だけではない。幼児教育・保育の無償化も除外され、通学定期の割引額すら異なり、さまざまな教育助成や資格取得にもハードルが設けられ、最近 ではコロナ禍の支援給付金も対象外とされた。映画では日本の朝鮮学校や朝鮮大学は学校として認可されていないので、弁護士の資格を取るためには朝鮮大学と 並行して日本の大学にも通わなくてはならず時間もお金も倍以上かかると語る在日コリアンの若い弁護士が登場する。国際人権規約委員会が国際人権規約27条 の「自己の文化を享有し、自己の宗教を信仰しかつ実践し又は自己の言語を使用する権利」について何度となく是正勧告を出しても、日本政府職員の答弁はのら りくらりとにべもない。国家が過去の歴史を否定しているのだから、政府職員はその態度を正しく踏襲しなくてはならないわけだ。アイヒマンの「悪の凡庸さ」 さながらに。くりかえすが政治によって司法によって否定されるのは存在であり、生きる尊厳である。最終日の祝日であったけれど、大阪・十三シアターセブ ンの座席にすわったのはわずか十数人ほどだった。残念ながら、この秀逸なドキュメンタリー映画が現在の日本に於いて、多くの日本人の目に触れることはない だろう。「見られることのない映画」であるまさにそのことに、この作品が現在の日本に穿たれた楔(くさび)である意味がある。「差別、嘲り、暴力、無関 心、みんな消えてなくなれ!」と人知れず叫ぶガザの人々の永遠とも思われる否定の上に欧米先進国の日常の秩序があったように、在日コリアンたちへの戦前の 植民地時代から連綿とつづく否定の上にわたしたち日本人の日常の秩序があり続けたきたのだし、それはいまもなお、あり続けている。不当判決を出した裁判所 の前で思わず「いつかおまえたちにも、おなじ目にあわせてやるからな! 覚えておけよ、この糞野郎!」と叫び続けていた男の声がいまも聴こえてくる。
2023.11.3


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 ガザ。子どもたちの墓場。非寛容の世界。グループホームでKさんの粘着質の便を拭きとっている間、テレビからは人気店の抹茶スイーツを頬張る女性アナウ ンサーの声が締まらぬ孔から漏れ出る唾液のようにだらだらと流れていた。おそろしいほど非対称の世界。この世界のあらゆる負荷が一極集中したかの地に人間 の極限の声が間欠泉のように噴きあがり、こちら側には正しい意味での人間の声はすでに絶滅した。Kさんの粘着質の便くらいで、あとはおよそ語るに足らな い。惨鼻なる子どもたちの墓場、もげた女の四肢、黒焦げの老人の燃え滓の前では。
2023.11.8


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 世の中には「肩書」に対して喋っている人っているよね。おれなんか何の肩書もないどこぞの馬の骨だからふだんは世の中で幾ばくの価値すら有していないわ けで、たとえば昔のことを調べる過程で知らない人や組織に手紙やメールを送ったりときに直接訪ねて行ったりするとたいていそっけない対応をされたり返事も くれないことの方が多いのだけれど、後ろで海外の撮影チームが4Kのカメラをまわしていたりすると驚くほど異なるということを先日リアルに体験した。ある いはこのおれが「朝日新聞社 社会部記者」とか「東京大学名誉教授」なんて名刺を持っていても同じなんだろうな。人はじぶんやじぶんの所属する組織に対す る有用性で態度を変える。何の「肩書」も持たない人間には目もくれないという人って結構いるんだよ。一方で何の肩書も実績もないどこぞの馬の骨のような存 在に白紙で対等に対峙してくれる人も、世のなかにはわずかだけれどいる。「肩書」が不要な、ちょっと変わった種類の人だ。WebやSNSなどでそういう不 思議な出会いをすることもたまにあるわけだけれど、おれなんかもともとじぶんがうすっぺらなハッタリ野郎だって知っているから、直接に会ったりした後でき まって「ああ、きっと(相手は)がっかりしているだろうな」と思ってひどく後悔したりするんで、やっぱり馬の骨は馬の骨らしくひっそりと生息している方が 相応しいと再認識するわけだ。だからやっぱり世の中の「肩書」というものは必要なのかも知れない。
2023.11.12


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 「祭文」とは、見えぬが感じることのできる存在へつながろうとする仕草である。「そもそも祭文とは祭祀に当って、神や仏あるいは死霊に向かって祈願・祝 呪・賛歎の心を奉る文章のことであり、古代以来神道・仏道・儒教・陰陽道等各方面で行われ、やがて平安時代には修験道の世界にも伝わり、法会・護摩供養等 の際に盛んに読誦されたのであった」(小山一成『貝祭文・説経祭文』(文化書房博文社・1997) つまり祭文は古代からさまざまに姿かたちを変えてきた 語り芸のルーツであり、一説では中世に盛んだった説経節が江戸時代に山伏たちによる祭文語りとして再興され、やがて江州音頭や浪花節へつらなっていく。阿 波浄瑠璃、祭文、春駒、四ツ竹節、ほいと節・・  それらはまた、なべて被差別の人々の生きる糧でもあった。法螺貝を口にあて、語りの間にデロレン、デロ レンと合いの手を入れ、錫杖で拍子をとる貝祭文の実演を生で見れるというので、大阪・西成区玉出の寿光寺へ行ってきた。主催されたのは日本の伝統芸能を愉 しみ且つ応援する「花福座」代表の花岡京子さんで、Facebookにながれてきた情報で知った。前述の小山一成『貝祭文・説経祭文』にも登場する貝祭文 宗家・桜川雛山師と最前列にすわったわたしとの間は一メートルもない。芸題は「壷坂霊験記」。祭文語りについてうんちくを語るほどの知識はわたしには皆無 だけれど、安聖民さんのパンソリを生で聴いたときとおなじように、その語りの魅力、節の魅力、声量の豊かさに身体中が満たされるようで、こうした語りの文 化というものが人々の間で息づいていた時代があったのだと、まるでこころの中のすっかり渇ききった部分がじわじわと潤っていくような心地に酔い痴れた。デ ジタルでは欠落を埋めようもない肉の充溢である。下北山村史に出てくるような仏像を入れた巨大な厨子を背負って山奥の村々を廻国した六部たちもこんな祭文 語りを聴かせただろうか。そんな空想もはべらかしていた。実演後のトークで、後継者は?と訊かれ、出羽、伯耆、彦山、大峰、かつて山の下に散在していた祭 文語りたちもいまではすっかり少なくなって、さて、じきに消えていく存在ではないでしょうか、と苦笑しながら答えていた。そういう意味では今日、わたしは 近代の最後の燭光を目撃したのかも知れない。
2023.11.19


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 その間中、ずっと考えていた。存在を否定される国で生きるということ。心ない者から「ゴキブリ」よばわりされ、民族服であるチマチョゴリを切り裂かれ、 学校の敷地は「レイプして虐殺して奪った土地」だと広言され、なにかあればすぐに「国へ帰れ」と吐き捨てられ、それらを政治も警察も行政すらも傍観し、む しろかれらをそそのかしているのではないかと思えるようなこの国で生き続けるということを。この国の朝鮮学校に対する差別やヘイトクライム、裁判闘争につ いての本や映画に触れながら、朝鮮学校を知らないじぶんに気がついた。それで見に行こうと思い立ったのは、東大阪にあるこの大阪朝鮮中高級学校の文化祭行 事 が一般公開されていることをSNSで知ったからだった。じつはわたしはこの学校の前をわりと日常的に車で通りすぎる。朝鮮学校だということは知っていた が、生徒の姿を見かけることもなかった。わたしがいま働いている知的障害者施設と、そういう意味ではよく似ているのかも知れない。そこに障害者施設がある のは知っているが、中でどんな人間がどんな日常を送っているのかは知らない。知的障害者施設がそうであるように、日本の朝鮮学校もまた、過去から連綿とつ らなる現在進行形の歴史である。知り合いも伝手もなくたった一人で朝鮮人学校を訪ねるのは、じつはちょっぴり心構えが必要だった。勝手が分からない不安で ある。校門から分からないままに入っていって、グランドで準備をしていた女性に声をかけるとわざわざ受付まで案内してくれた。名前と連絡先を記し、スリッ パを借りて、待っていると当日のパンフレットを持ってきてくれた。写真を撮っても構いませんか? と訊くと、先生らしい中年の女性は大丈夫だと云う。生徒 さんは顔が映らないようにしますので・・ とのわたしの言葉に、そんなことは気にしないで、もう全然自由に撮ってください、と笑う。じっさいに、そんな雰 囲気だった。咎められることは何もなかった。ぜんたい、学校を、教師や生徒たちを、保護者や関係者の枠を超えてここまで自由に公開して見ず知らずの人間も 受け入れる、それを必要とさせているものは何だろうか。日本の一般の学校がここまでするだろうか? しないだろうな。必要がないからだ。では朝鮮学校に於 いて必要とさせているものとはなにか? 階段ですれ違う先生たちはみんな挨拶をしてくれる。9:05からの公開授業。さいしょは勝手が分からずに、「時間 に なったら教室に入れるんですかね?」と廊下で声をかけた若いお母さんといっしょに入ったのが中学生の国語の授業だった。その後、手元のパンフレットで確認 して高校生の現代史の授業の教室へ移動した。授業はすべて韓国語なので、わたしはもちろん理解できないが、モニターや黒板の内容からどうやら戦後の日本で の民族教育の変遷についての授業だと理解した。言葉は分からないが、先生の熱意、生徒たちの真剣さや笑いや息遣いは伝わる。校舎はとても古い。男子トイレ で使用不可の貼り紙がいくつも貼られていた。ベニヤが剥がれたままの扉もあった。冷暖房もおそらく充分ではないだろう。高校生のかれらが座っている椅子や 机はまるで廃校になった小学校に残されたアンティークのようだ。それでもかれらにとって、かけがえのないウリハッキョ(わたしたちの学校)なのだ。黒板の 横には朝鮮半島の地図がひろげられている。それは世界各地に散ったアルメニア人たちにとってのアララト山のようなものだろう。窓から外を見ると、見慣れた 東大阪の街並みがひろがっている。外の世界の多くの日本人はここを知らない。そしてここで韓国語で語り合い、みずからのルーツを確認し合った生徒たちはす こしだけ心を硬くして外の世界へ出ていく。10:10から多学科総合探求の発表。わたしは中学生の「全国の日本の方々にウリハッキョを知らせる方法と は?」や、高校生の「社会にまん延する「lookism」について」などを覗いて回った。その隣接する文化会館へ移動、生徒たちによる舞台公演の前に主に 保護者へ向けてだろう「新校舎建設に関する説明会」があった。約20億をかけて年末から新校舎の建設が始まるにあたって、周辺住民への説明会の段取りや、 また落札した中堅ゼネコン会社が朝鮮学校の受注をおおやけにしたくないために別の会社を間にはさんでいるなどという話もあった。舞台発表は愉しかった。わ ずかに設置された灯油ストーブはほとんど機能していなかったけれど、会場は熱気に満ちていた。朝鮮舞踊は愛嬌があって慎ましい。「岸田さん、これがわたし たちのウリハッキョ。バイデンさん、これがわたしたちのウリハッキョ」と皮肉も効かせた韓国語、日本語、中国語、英語の4か国語による舞台も予想以上によ かった。合間にスクリーンに写し出される戦後のGHQと日本政府による民族教育弾圧の場面。日本にはじぶんの国がアメリカと戦争をしたことも知らない学生 もいるらしいが、この朝鮮学校の生徒たちはみんな、じぶんたちの学校がかつて背負い、そしていまも背負い続けているものをしっかりと受け継ぎ、抗ってい る。最後の「民族衣装疲労舞台」も優美であった。たっぷり堪能してグランドへ移動したら、お待ちかねの模擬店だ。どうやら食券を購入しなければならないよ うだと並ぶと、購入は千円単位だという。一人で千円もいらないけれどと思ったが、愉しませてもらった舞台のチケット代わりだと思って結局、オモニ会のキー マカレーとパン、塩豚丼、生徒店舗のホットドック、最後にプルコギ・トルティーヤと使い切って、もうお腹がはち切れそうだよ。予想していたより日差しが温 かく、グランドいっぱいに並べられた長机に家族連れやじーちゃん、ばーちゃん、卒業生などがそれぞれ集って、ステージのバンド演奏をBGMに楽し気に語り 合っている。わたしはここで語り合う相手は誰もいないけれど、ここでの半日の滞在をしずかに受け入れてくれた朝鮮学校に感謝をしたい。わたしにとっての今 日いちばんの収穫は、朝鮮学校が未知=見えない存在でなくなったことだ。見えない存在でなくなるということは、一人びとりの顔が見えるということ。かのナ チスの忠良なるアイヒマンが言った「百人の死は悲劇だが、百万人の死は統計にすぎない」。わたしたちが抗うことができるのは、百人であっても百万人であっ ても、「朝鮮人」というある種抽象的なイメージの先に一人びとりの顔を、一人びとりの息遣いをとり戻すことではないだろうか。わたしは今日見てきた大阪朝 鮮中高級学校のたくさん生徒たちの顔をいま、思い出すことができる。京都の朝鮮学校襲撃事件の民事裁判に於いて、あるオモニは「わたしの願いは、この日本 社会で『朝鮮』という言葉が何の違和感もなく使えるようになること」だと語った。「朝鮮人」という属性からあらゆる負性が取り除かれ、生徒たちの朝鮮舞踊 のように誇らしく朗らかに舞う日が来ることをわたしも夢見る。
2023.11.26


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 土曜、休日。先週の歯医者で、根っこを切除して縫ったので血が止まらなくなったらこれを20分間当てておくようにと脱脂綿をもらったときは歯の治療で出 血が止まらずに死んだ曽祖父・為三郎のことを思わず想起して、まさか百年前の因果が巡り巡ってと本気で身震いしたものだが、幸いに本日の抜歯まで何事もな く10時の予約が5分くらいで済んでしまって、これなら行けるとJR郡山駅前の交流館にてやや遅れて参加したのが「立花春吉(全虎岩)の事績を偲び語る 会」主催の講演「歴史のなかの全虎岩とその社会進歩促進運動 ープロレタリア国際主義の殉教者」とタイトルは物々しいが、要はかの関東大震災の際の「亀戸 事件」の生き証人である在日朝鮮人のかれがその後、奈良の三郷町、大和郡山と拠点を移してなんと郡山紡績や高田紡績の女工の労働争議に深く関わっていたと いうからオイラも思わず身を乗り出すじゃないか。立花春吉(全虎岩)については治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟・奈良県大和郡山支部発行の貴重な小冊子 「立花春吉(全虎岩)物語」を頂いてきて、その他資料などももう少し読み込んでからまた後日に紹介したいが、とにかく講演者の奈良県近代史研究会事務局長 の竹末勤氏が戦前の紡績工場の劣悪な環境と女工たちの境遇について熱く語るのを聞いて、会の終了後にわたしの調べてきた郡山紡績、特に来世墓の寄宿舎工 女・宮本イサの無縁墓について話しかけたところ「それはぜひ見たい」と仰るのでそれから約一時間、「お昼はお好み焼きになったのでもうそろそろ焼きはじめ ますよ〜」とのつれあいのLINEメッセージにも気づかずに、来世墓の宮本イサの墓と紡績工場跡地を案内して回って「いやあ、面白かった。やっぱり足で歩 かなきゃね、あなたのような人に講演を聞いてもらってよかった」と竹末氏にはだいぶ喜んでもらって1時過ぎに帰宅して、急いでお好み焼きを口に放り込み、 それからならまちまで出ていってギャラリー勇斎での安藤さんたちのグループ展を覗いていたら偶然、新宮川邉筋の遠い親戚かも知れない歌人の勺 禰子さんにお会いして、そのままいっしょに連れ立って叙友舎の福山さんの個展へ。ネコさんと階下の中国茶で十津川出身のオーナーと談笑していたら新宮=北 山村=十津川謎ラインでやたら盛り上がってしまって、気がついたら福山さんの絵をまったく写真に収めていなかった。その後、福山さんと二人でわたしの大好 きな町中華「和廣飯店」でモルツの瓶ビール片手にコスパ最高でかつ旨い餃子、から揚げをつまみ、焼き豚を追加注文しようとしたら「もう80歳なんで体が持 たない。6時半で閉店」とにべもなく、それでも可哀想に思ったのか焼きそばを最後につくってくれて、それからならまちの暗い路地を抜けて三条通をぶらぶら と歩いてきたらJR奈良駅で7時半。つれあいが9時まで仕事なので、帰ってジップの散歩をしなければならないわたしはそろそろ帰ります。ああ、愉しくもや たら密度の濃い一日であった。明日は京都で中瀬古和歿後50年メモリアルコンサートだよ。
2023.12.2


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 2023年12月の日曜。京都府民ホール「アルティ」での「中瀬古和歿後50年メモリアルコンサート」は同志社女子大音楽科OB会の張本さんからのお誘 い。旧姓中瀬古の84歳の老母を連れて出かけた。プログラムは「中瀬古先生」の想いに添ったバッハのオルガン曲とヘンデルのメサイア、そして和自身の合唱 曲「聖画」で二時間ほど。「聖画」は1957年に出版された『白馬に乗れるロゴス』(三浦アンナ)に寄せてとの副題を持つ。三浦アンナは1894(明治 27)年ドイツに生まれ、1926(大正15)年に建築学者の三浦耀と結婚して来日し、同志社大や京大の講師を歴任した「キリスト教図像学を日本に最初に 紹介した」美術史家と云う。興味を覚えてこの『白馬に乗れるロゴス』をネットオークションで入手したが30枚の白黒の聖画が納められたこのエッセイ集を著 者は「言葉が肉体の形をとるという、独創性と神秘に充ちた変転の過程を観ること」それが狙いだと冒頭に記す。「聖画」はいかにも中瀬古和節といった、まさ に「聖句が音楽の形をとるという」独特の一度聴いたら忘れ難い魅力に充ちた作品であった。わたしはどんどんこの中瀬古和の信仰と音楽に魅せられていくじぶ んを見ている。出版されたばかりの『白馬に乗れるロゴス』をめくりながら中瀬古和がめぐらした思考をたどりたいと思った。そして週末はふたたび、こんどは コンサートを主催したOB会の張本さん、中瀬古六郎とおなじ科学者で六郎についての文章も書いている元同志社大教授の森一郎教授(80歳)を乗せて下北山 村の中瀬古六郎巡りをご案内する。
2023.12.3


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 朝8時半。近鉄郡山駅に同志社女子大音楽科OBの張本さん、同志社の森先生のお二人を迎えて出発。談山神社越えで宮滝経由。土倉庄三郎銅像に森先生が反 応して車を停め、ついでに大滝茶屋で柿の葉寿司を求めると今年は今日で最終日とのこと。色かたちの良い柿の葉が取れなくなったら生産終了。黄色や緑、赤な ど紅葉した柿の葉をひろげながら、下北山のうつくしい明神池でお昼を食べた。「葉っぱを持って帰りたいくらいだわ〜」と張本さんが子どものように感嘆して いる。むかし、単車で十津川・玉置山のふもとを抜けてだれもいないこの明神池とほとりの池神社にぽいと出たとき極楽浄土かと思った。池神社の苔むした日露 戦役紀念碑に「中瀬古寅三郎」、本殿の御幕に「中瀬古博」の名を見つける。下北山村歴史 民俗資料館で学芸員の松村さんと再会。張本さんから中瀬古和の楽譜、CD、DVD、その他資料を資料館へ贈呈。中瀬古六郎の展示ブースでは額入りの写真に 「ああ、これは大工原さん。この人がデントン先生」なぞとさっそく。遺品の品で顕微鏡のはたに何気に置かれていて松村さんも何かの部品かと思っていたブツ も、「これは科学の実験で、ゴム栓にガラス管を通す穴を開けるための器具(コルクボーラー)です」と身元が判明した。餅は餅屋である。松村さんの話では六 郎の遺品が資料館に収められている経緯は記録が一切ないとのことだが、今回はガラスケースの扉を開けてくれてご自由に状態だったのでいろいろと手にとって 眺めてみると、『ドクトル中瀬古六郎著 世界化学史』(1928年)の見返しには「下北山中学校 学校用図書」の印があり、『微量分析化学』(中瀬古六郎 著 1926年)には六郎の独特の字体で「唯一滴! 蚊の涙!」で世界が解明できるといったユーモラスな一筆が見返しに記され、著者から贈呈されたものだ と分かった。車中で森先生に化学者としての中瀬古六郎の功績をあらためて訊くと、特に微量分析については世界的に秀でたもので、明治期に乳幼児が亡くなる ことが多かったのが母親のおしろいに含まれた鉛成分が原因だと特定したのも中瀬古六郎の実績のひとつだという。同志社や京大ではその微量分析と化学史が六 郎の専門だったようだが、同志社の昔の授業記録などを調べると六郎が神学の講義も行なっていたことが分かったともいう。「そういえばここにも載っています ね」と松村さんが出してこられたのが下北山村立桑原小学校の『創立100周年記念誌』(昭和51年)で、三頁にわたって「人物誌 中瀬古六郎博士 その人 となりと業績」を記している川村松雄なる人物について訊くと、近くの龍岩寺(下桑原)の住職さんです、いまいらっしゃるかどうか電話してみましょうか?  と松村さん。ちなみにこの龍岩寺には1875(明治8)年に桑原でさいしょの小学校が設置されて、中瀬古六郎はさいしょの入学生であった。幸い住職は在宅 で、20分後にいらしてくださいとのお返事だったので、その間に中瀬古家と所縁の深い西村家の本宅や西村伊作の墓などを案内して、「住職は話が長いから切 るのが大変です。わたしもいっしょに行って切るお手伝いをします」と言って下さった松村さんと龍岩寺で合流することになった。龍岩寺の住職はわたしが以前 に母と過去帳を調べてもらった北山村の寺の住職の父親であった。住職と二人の息子の三人が北山エリアの無住となった寺々をカバーしている。新しい発見は、 中瀬古六郎の長兄の本家筋がいま奈良の大和高田にいるというという事実だ。下北山村から奈良の田原本へ移り、その後大和高田へ転居して、墓も最近高田の墓 地へ移したそうだ。明治の時代に水力発電の会社を興して新宮の街灯を灯した六郎の兄・傳一郎の曾孫にあたる方が現在70歳で、その息子が陸自の自衛官の幹 部で、結婚して子どもさんもいると。ただ中瀬古六郎について継承しているものはなさそうな感じであった。他にもいろいろと中瀬古や村のこと、後南朝の話な ども伺ったのだが、六郎の小井の生家跡がまだ残っているので暗くなる前にと、「じゃ、最後に六郎さんが学んだ本堂を見せていただいて・・」とタイミングを 見計らって腰をあげる。増築はあるものの、本堂はほとんど1870年代に小学生の中瀬古六郎が学んだ頃のままだという。1875(明治8)年の授業はまだ 寺子屋とそれほど代わり映えはなかったのではないか。小井の自宅から、当時はトンネルもなかったので山の端をひとつこえて六郎少年は龍岩寺の小学校へ通っ た。寺の裏手からつづくその峠越えの道はいまもかすかに残っているというが、機会があれば登ってみたい。そろそろ日が蔭ってきた。最後は中瀬古六郎の生家 跡。庄屋の財力を示す立派な造りの石垣の上に建つ後年の建物は、前述した大和高田の中瀬古本家の所有で、下北山へ来た際には利用することもあるという。長 年、中瀬古六郎について調べてこられた森先生が、六郎の生れた生家跡を、小井の集落をながめる。あとで「どうでしたか?」と訊くと、もっと山奥かと思って いたが、意外と広い集落だなと思った、と。資料館の年表によると、中瀬古六郎は13歳で故郷を出て大阪で医者になる修行を始め、15歳で同志社英学校に入 学、19歳で新島襄から卒業証書を受け取り、同志社で英語、ドイツ語、化学、地理などを教えた後に26歳のときにアメリカへ渡って理学博士の学位を得た。 帰国して同志社の教頭や校長を歴任し、敗戦直前の昭和20年4月に76歳で逝去した。中瀬古六郎がいなければ作曲家・中瀬古和も存在しなかっただろう。 父・六郎がつくりあげ整備した滑走路から中瀬古和は戦前、女性の作曲家を志して欧米の最先端の音楽を学ぶために飛び立っていったのだ。その和が亡くなっ て、はや50年。最近になって同志社大の資料室で長年眠っていた中瀬古六郎の資料段ボール一つ分、中瀬古和の資料段ボール三つ分が発見された。和の資料か ら見つかった少なくはない数の手書きの楽譜は張本さんによって整理され、その他の音楽資料は同志社大の資料室にて整理され、また中瀬古六郎の段ボールの中 身は森先生がこつこつと調べられている最中であるという。けれどもその間に、ヒンデミットの血脈を受け継いだ和の作品は高度の演奏技術と分かりにくさから 同志社大内でも敬遠され、すこしづつ忘れ去られようとしている。すでにとっぷりと日も暮れた夜の山道をすべるように走る車内ではもっぱら、その和の残した 音楽をどのように伝えていくか、広めていくかという話がつづいた。わたしは彼女の音楽は、それだけの価値があるものだと信じている。1973年5月、中瀬 古和は64歳で亡くなった。生涯独身で、父・六郎が残した広い洋館に一人暮らしだった和は食事も偏っていたのではないかと張本さんは言われる。大学の定年 を控えて、本人はこれから落ち着いて作品を残していこうと思っていた矢先ではなかったか。張本さんによれば、和は最後に合唱とソプラノ、ヴァイオリン・ソ ロによるオラトリオの大作を準備していた節があるという。じっさいにタイトルなども決まっていたそうだ。題材はイエスを裏切って慟哭するペテロである。和 は三度イエスを知らないと言ったペテロの激しい慟哭を音楽にしたかった。夜7時に橿原市内へ着いた。国道沿いのチェーン店で森先生が牛すき鍋をご馳走して くれた。近くに住むもう一人の中瀬古さんが店に、亡き夫が北山から自宅へ移植したというじゃばらと柚子をたくさん持ってきてくれて、京都のお二人にも手土 産に持ち帰ってもらうことができた。とっても愉しい一日でした、と張本さんは声を弾ませた。80歳と70歳と58歳の仲間は、次回は京都で中瀬古六郎・和 親子の墓参、そして同志社大周辺の新島襄や六郎ゆかりの建物などをめぐる予定でいる。
2023.12.10


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 20代の頃、高橋悠治フリークの知り合いの影響で、わたしも憚りながら現代音楽に浸ってきたから、まさかクセナキスの難曲を軽々と弾きこな す高橋アキさんと後年、Web上で個人的にお話ができるようになるなんて夢にも思わなかったけれど、そのアキさんに送らせてもらった中瀬古和の楽譜や資料 を「わたしよりもっと若い世代でふさわしい人がいるから」と中継してくれたピアニストの杉浦菜々子さんが来年、コンサートで中瀬古和の作品を三曲、弾いて くれることが正式に決まったとアキさんから連絡があったのが「中瀬古和歿後50年メモリアルコンサート」の数日前のこと。東京だけど、これはもう行かない わけにはいかんだろと昨日、チケットを予約しました。いろんなものが、空間をまたいだ糸の端と端のようにつながってゆく。中瀬古和再評価のきっかけになっ てくれたらと、わくわくしてくる。高橋アキさん、杉浦菜々子さん、ありがとうございます。

◆公開録音コンサートのご案内(日本人作品の夕べ 出演:杉浦菜々子先生)
https://research.piano.or.jp/topics/2023/12/entry_931.html
2023.12.12


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 仕事帰りで、明日の土曜も出勤日、日曜は職場研修でZOOM講演と続くのだけど、見に来てよかった。タイミングが合わなくてなかなか見るこ とができなかった作品を、やっと見ることができた。韓国併合後の朝鮮人差別から技能実習生、入管制度まで、ほとんどはすでに周知の事柄だけれど、あらため て見直して、すべてはつながっていることを再認識する。そしてFBや講演会、著作などでよく見知っている顔や名前もたくさん。たぶん大阪朝鮮学校の高校生 だった劇団タルオルムの姜河那さんの姿もあったな。
約2時間のドキュメンタリーを見ながら、これらはすべておれたちの足裏にある、と思った。おれ たちの足裏にあって、おれたちが日々踏みつけているものだ。真夏のアスファルトから容赦なくつたわってくる熱のように、怒りはふつふつと足裏から立ち上っ てくる。おれがイスラム教シーア派組織ヒズボラだったらさ、収容者全員を退去させた後の入管施設にミサイルを撃ち込んでやりたいよ。これは政治の怠惰とい うよりも、政治による明確な悪意だ。中国の朝鮮族、旧ソ連の高麗人、アメリカの在米コリアンを取材した監督はインタビューで、どの国でも偏見や差別はあっ たが「日本が際立っているのは、国が定めた法律や制度によって公的に差別が行われていることだ」と語っている。やつらがそのつもりなら、おれもかれらの側 で抗い続ける。

◆「ワタシタチハニンゲンダ!」公式サイト
https://ningenda.jp/#header
2023.12.15


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 『クラム:天界の力学、ツァイトガイスト、異世界の響き』(Pf:清水美子)を i Tunes に入れて街へ運び出すことの効用。はじめはイアホンのなかの音と外の風景は分離している。風景は音に無関心で、音は風景を拒絶する。あるきつづけると すこしづつ、何かがクラッシュするような気配を感じる。音と風景がたがいに、ちいさな化学反応を起こしはじめたような。音は見馴れた風景に徐々に喰い込 み、風景はもはや抗うことができない。やがて風景のあちこちで、ちいさなかけらが剥がれ出す。腐食して浮き出た赤錆がぼろぼろと落剝するかのように。する と剥がれ落ちた断片のむこう側に見えてくる世界の実相は、無機的で、それでいて神秘的で、熱的死となった宇宙か、あるいは古代の写本の上をさまよう幽霊の ようだ。生命にみちみちた虚無。枯死した樹木から落ちた干からびた種子。それは台風一過のあらゆるものがふきとんだ後の空間のようでもあり、また岩と金属 の冥府の暗がりのような場所だ。そこで音は、ほとんど深海のプランクトンのように孤独で、強靭で、凛とした美しさを湛えている。

◆清水美子: ピアニスト
https://www.yoshikoshimizu.com/
2023.12.17


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 元旦に巨大地震、二日に旅客機炎上と、なにやらきな臭いことしのこの国の正月だ。作家の平野 啓一郎氏は「これが今年の日本の先行きを暗示している、といった具合に象徴化するのは良くない」と記した。だがそれでもやはり予兆を感じてしまう。年のは じまりなのか、日本のおわりなのか、と。北海道からの着陸機に接触・炎上したのは地震の被災地へ救援物資を運ぶ途中の海上保安庁の航空機だったというか ら、それもまた因縁めいている。やはり作家の姜 信子氏は「ちっともおめでたくない世が、幸多き年になりますよう、植民地主義、シオニズム、優生思想、死の商人、権力の亡者、理不尽な死がこの世から消え ますよう、この願いが達せられた世界を思い描いて」この先の百年を予祝する、と額安寺の十一面観音を見て記した。祝うといえば、和歌山のケアハウスの義母 に会った帰りに立ち寄ったのどかな紀伊葛城山系のふもとの産土社で、つれあいと娘が引いた神籤はともに大吉だった。正月に引く神籤もまたこの先の一年の予祝 だろうか。二人の大吉を見て、わたしはもうじぶんの籤を引かなかった。二人が大吉であればそれでよい。地震のニュースを流していたテレビ画面が突然、燃え上がる羽田空港の滑走路の映像に切り替 わった瞬間、わたしは新年早々の連続性にてっきり人的な作為だと勘違いした。正月三日目はきっとどこかの原子力発電所が炎上するのだろうと確信した。十一 面観音の十一の顔はどこを向き、なにを見ているのか。世界の実相なのか、それともこの世のあぶくのようなまぼろしか。いのちはびこる大地はいずこにある か。
2024.1.2


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 放っておけば時のながれに埋もれてしまって二度と見つけられないが、それでもたしかにこの世の空気を吸い、生きた肉体と思いが泥の層の下で薄明りを湛え てひっそりと沈んでいる。海岸の無数の石ころのなかのたったひとつがこちらを見返すように、だれかが手をのばし指先に触れると語り出すのだ。

「100 年前の出来事を取材する過程で、主人公の人生を追体験しているような不思議な感覚にとらわれた。まるで“旅”をしているような感覚だった。未知の対象をあ てなく探訪して、知らないことを教えてもらい、その事実に驚き、そのたびに「会ったこともない人物の生涯を今、自分は旅している」と感じた」
『「反戦主義者なる事通告申上げます」 反軍を唱えて消えた結核医・末永敏事』(森永 玲・巻末の「取材経緯」から)
2024.1.4


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 朝9時半予約の歯医者と夕方の娘の教習所送迎の合間をぬって、かねてから訪ねたいと思っていた平群町・船山神社の元宮跡や山中の古代祭祀の巨石磐座など を彷徨してきた。自転車でも行けないことはないのだけれどジップの散歩なども控えているので、今回は平群町のスーパーに車を置いてお弁当などを買っての ぼった。あるきはじめた途端に小雨。のっけから、集落のすぐ上の船山神社へ行く道が狭隘な田圃のあぜ道が斜面になっているような具合でとても参道とは思え ない廃れよう。ひっそりと仄暗い境内はどこかうらぶれた感じで、雨漏りのブルーシートをかぶった社殿も崩壊しかけている。神社から元宮跡へつづく杣道があ やしげだったので、Webサイトの解説どおりにいったん集落までもどって東光寺を巻くようにして再度のぼりはじめたが、この東光寺も無住で廃墟感がただよ う。黒澤映画の平安時代セットのようだ。山中のコースは距離はそれほどでもないが、わりと急坂で、ときどき現れる樹木に巻かれた色褪せたカラーテープの他 は道標はひとつもない。目的の旧社地と思われる礎石、巨大な馬糞が三つ転がっているような磐座を見つけた帰路は目印を見失って、道なき尾根筋をどうも反対 の白石畑の集落の方へ向かってしまっているようだと気づいたのはスマホの登山地図アプリのお陰。しばらく落葉に埋もれた尾根筋・谷筋をさまよいあるいて、 やっと来た道にもどって何とか下山できた。低山とはいえ、山はあなどれない。にんげんの気配すらない山中でそのまま落葉に埋もれて消えてしまいそうなじぶ んが心地よい。ほんとうはじぶんはにんげんが嫌いなのではなく、にんげんが嫌いなじぶんというものが嫌いだから、こうしてにんげんに出会うことのないじぶ んが心地よいのだと知った。
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◆平群  船山神社の背後 宮山にある船上神社跡と船石
http://ikomakannabi.g1.xrea.com/heguri-funagami.html
2024.1.6


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 四両ワンマン運転の鄙びた近鉄生駒線。南生駒から一分まで、行基菩薩の面影を慕いてあるいた。往生院は行基の亡骸を火葬した場所と云う。小高い丘の上、 まるで時が停止したような質素な堂のぐるりを無数の苔むした墓石が大小、積み重なり、ころがり、草に埋もれて取り囲んでいた。わたしは隠亡のようなものだ から、卑賤なおのれのよすがをこうして行基菩薩にもとめてやってきた。何百年もかれらが墓穴を掘り、遺体を焼き、五百年千年と行基の名を石に刻んできたよ うに。はじめて訪ねた竹林寺はこざっぱりとしずかで清廉な廟所だった。行基の墓はものものしさのかけらもない熊笹に覆われたただの土盛で、隣接する雑木林 の中の4世紀後半の古墳と何ら変わらない、むしろ葬送儀礼にたずさわった土師氏集団と所縁の深い行基にふさわしい。そうした死者の眼をたずさえたまま生駒 山を越えて、高校ラグビーの決勝戦で賑わう花園ラグビー場横の東大阪市民美術センターへ米山より子展「水の遠景」を見に行った。米粒をつないだ数珠はまる で不合理な死者たちのたましい(光)のつらなりに見え、反故紙に重ねた白居易の漢詩の文字は摩耗して判読できない墓石の文字のように見えた。水もことば も、ただとおりすぎるものであって、わたしたちはふだん実体ではなく、とおりすぎたその痕跡を見ている。行基菩薩を慕い集った隠亡たちも、寺の過去帳にだ けその存在を残した朝鮮人女工も、無縁墓の寄宿舎工女宮本イサもみな、そうした痕跡の先に追い求め、たしかな実在として触れようとしているものたちだ。水 であり、ことばであり、実体だ。ずっと、そんなことを考えていた。
2024.1.7


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 伊藤野枝や森崎和江が好きだという変わった事業所の理事長氏がわたしがお薦めした嶽本さんの「まっくらやみ 女の筑豊(やま)」(椿組)のDVDを購入 して貸してくれた。斯くいうわたしは、やはり嶽本さんお薦めの山代巴全11冊をヤフオクで1,100円+送料600円で落札して、手始めに「荷車の歌」を 読み出しているが、この明治〜昭和初期にかけての農村女性の語り口がなんとも魅力的で、わたしはもうすっかりセキさんにぞっこんだ。まさに行動に影響しな いぶら下げた勲章のような「知性」ではない、ささくれ汗ばみ波打つ肉体が刻んだ文章だ。
2024.1.10



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 「理屈のクツは馬も履かぬ。癇癪のシャクでは水が汲めぬ」
 これは『荷車の歌』でも出て来た文句だけれど、さしずめ、前者は理論武装で、後者は暴力革命か(笑)
 『荷車の歌』を読み終えて山代巴、ひきつづき『囚われの女たち』全10巻へ。
2024.1.14



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 いまもむかしも信じているもの。
 レノンの「ロックンロール」のLPを買ったのは中学一年生のときだ。あれから45年経った が、なにも変わっちゃいない。そしていま、おれの横には彼女がいて、二人の愛の結晶の娘がいる。スバラシイことじゃないか。そうしておれはいまもレノンの シャウトを信頼している。45年前からずっとおなじこの場所に立っている。
2024.1.20



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 ことしも大阪・柏原国府由来の蝋梅が満開で、窓を開けると庭が馥郁とした薫りで満ちている。ジップの散歩を早めに済ませて夕方、わたしは散髪、つれあいはショッピングで、ふたりで近所のショッピングモールに来ている。娘は自室で教習所のオンライン講習。おだやかな休日。
2024.1.21



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 晴れてコロナ感染者となりました。
 追わないでください。
2024.1.24



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 熱も下がってきたが、まだ外出もできず、体の芯がどこかぼんやりとした違和感が残っているので、こんなときこそと曽祖父・為三郎の長男・英雄が戦後のダ ム建設をめぐり、大沼区長として電源開発側と補償問題について交渉した際のノート7冊分の記録を、ディランの「バイオグラフ」を聴きながらぼちぼちスキャ ン→データ化している。

 このダムの建設によって筏師たちが活躍した川は完全に没してしまったわけだが、つい数年前、ダムの故障で水を流しっぱなしにしたときに、かつての川の風景がいっときよみがえった。
 そのときに当時の北山村村長が寄せたコメントを、新宮在住の平野さんがおしえてくれた。

◎去りし日の思い出
いま、ダムゲートの補修工事の為、昔ながらの川がよみがえっています。
朝 出勤してから窓のブラインドをあげて川を眺めながら、あそこの岩から飛び込んだり、向かいに渡るときは途中のあの岩で休んだりとか、社協の前の川原では “ウナギ釣り” を置いたとか、非常に懐かしく思い出しながら、つくづく自然のありがたみを感じています。  
この状況がもし、夏の時期であったならばひょっとしたら泳いでみたい気持ちになるかも知 れないし、竹原の下あたりから筏を流してみようか、ボートで下ってみようかと言う気持ちに なるかも。  
こんなことを思う方がいるとすれば、川で泳いで育った私か、私より上の年代であろうと。
別の思いを持たれている方もおられるでしょうが、時代の流れを感じています。
 3 月頃には、また湖水の底になってしまいます。51 年前にもゆっくりと底に沈んでいったよ うに、寂しい思いをするかも知れません。
2024.1.26



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 極右国家権力には尻尾を振る日和見の狆ころどもが「死に際に本名なぞとふざけるな」と息巻くこの国なんかにわざわざ帰って来なくても、バラナシあたりで印を結んでひとりオレハ桐島聡ダとつぶやき、くたばってもよかったんじゃないか桐島さん。
2024.1.26



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 1月28日(日)にコロナ自宅養生の喪が明けて、翌月曜から職場復帰したのも束の間。泊り勤務を経た火曜に頭痛が始まり、水曜には謎の嘔吐。自宅や病院 のトイレの便器に膝をつき、もはや胃液しか出ないのを涙目になりながら日に幾度か嘔吐を繰り返したのがいちばんつらかった。今回、はじめてコロナに感染し てから日に一錠のイベルメクチンを飲み続け、職場復帰後もコロナ後遺症を抑えるためにと服用を続け、さすがに嘔吐が始まってからはやめてしまったが、延べ 1週間はイベルメクチンを飲み続けた。コロナによるダメージなのか、イベルメクチンの副作用なのか、医者は「これがコロナの後遺症かどうか判断は難しい」 とつぶやき、真相は神のみぞ知るだが、何にしろ重症化は防いだからあとはリスクの問題かとも思う。とにかく先週はほとんど食欲もなく、ただ薬を飲むために 経口補水液オーエスワンを食事代わりに流し込むといった体で、今週はいいかげん大丈夫だろうと思った2月5日(月)に至っても、ベッドで横になっている分 は落ち着いているのだけれど、いざ立ち上がって何かをしようとしたりするとまだ軽い吐き気が蘇ってくるという始末で何とも情けない。結局、今週いっぱいは 休暇をもらって(すでに有給休暇も使い果たした)、その間、これまでつまみ読み程度だった大部の『三昧聖の研究』を貪り読み、中世以来のこの国で賤視され ながら葬送に従事しつづけたかれらの面影を追いながら、疲れたらそのままうつらうつらとする、じつに不思議な時間に浸っていたのだった。その間はPCを開 くこともなく、FBを閲覧することもなく、人びとからはおんぼう(隠亡)とさげすまれ、みずからは行基への信仰をよすがにひじり(聖・日知り)と名乗った かれらとともにいた。それは肉体的にはしんどかったが、精神的には濃密で幸福な時間であった。読んでいる間に、乏しい小遣いを投入した『近世三昧聖と葬送 文化』が届いた。より近い近代のかれらの姿を知りたかったから。時代が時代であったら、わたしも三昧聖であったかも知れない。かれらの物語を書きたいと 思っている。

 さらに、『政基公旅引付』閏6月2日条には、和泉郡の信太三昧堂をめぐる次のような話も記されている。
  これより先、6月17日に佐野市場に出かけた大木村の農民二人が守護方に捕らえられるということがあった。そのうち一人は、堺の守護所に連れていかれた が、昨夜堺から逃げ、故郷に向かって熊野街道を走った。ところが、信太において追っ手の武士に追いつかれ、三昧堂に引き込まれて切られようとした。助命を 乞う農民に、守護方の武士は科銭を払うなら放免しようと持ちかけたが、その場に居合わせた三昧聖は、私儀で科銭を取るとは何事かと武士に意見した。そこ で、武士は農民の身柄をこの三昧聖に預けて去り、三昧聖は農民を大木村まで付き添って帰してきた、というのである。
 三昧聖が農民の命を助けたこの記事には、三浦圭一が注目して、「卑賤視されるなかで生きていたこの三昧聖の、人間の尊厳さ・人命の尊さ・政治の厳正さを求めた理念と作風は、新たな伝承として語り伝えたいものである」と述べている。
2024.2.6



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  シトカに生まれたボブは、多くのアラスカ先住民の若者がそうであるように、新しい時代の中で行き場を失い、酒におぼれながらアラスカ中を転々としてい たという。しかし、10年ほど前にこの町に戻ってきたボブは、誰に頼まれたわけでもないのに町外れの森にある古いロシア人墓地の掃除を始めてゆく。誰も目 を向けなかったこの墓地は、長い歳月の中で足の踏み場もないほどすっかり荒れ果てていた。ボブは10年という月日をかけて、たった一人で黙々と草や木々を 取り払っていった。ボブはその時間の中でいつしか遠い祖先と言葉を交わし始め、少しづつ癒されていったのだ。その場所は、19世紀の初めにロシア人がやっ て来る以前、クリンギット族の古い神聖な墓地だったのである。

星野道夫 『森と氷河と鯨』
2024.2.6



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 その行き着いた果てが歌舞伎町のホストやかれらに身も心も食いつぶされていく心の拠り所がない若い女性たちじゃないのか。かれらはこの社会をAIのよう に「正しく忠実に」学んだ者たちだよ。「私たちは、資本主義以外のあり方を想像する力を奪われているのです。どうすればこの世でより良く、効率的に生きら れるか、現状に迎合的な考え方しかできません」

  私たちは、資本主義以外のあり方を想像する力を奪われているのです。どうすればこの世でより良く、効率的に生きられるか、現状に迎合的な考え方しかできま せん。例えば新NISA(少額投資非課税制度)を始めて自分の資産を資本主義の未来に託して老後を株価と一蓮托生(いちれんたくしょう)にしてしまう。自 発的に資本主義に隷属しているのです。
 一方、「成長しかない」という価値観が覆るような社会的規範が広がれば、選挙の投票結果や政治家の発言も 変わってくるはずです。政治家が環境問題に関心がないから日本の気候変動対策が遅いのではなく、社会全体が気候変動に関心がないからそういう政治家がのさ ばり続けているのです。
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 トマトスープをゴッホの絵にかけた欧州の環境活動家らのような訴え方は、日本では受け入れられないと思います が、革命的な出来事も起こりました。ジャニー喜多川氏から性被害を受けた元ジャニーズJr.らが声をあげ、圧倒的な力を持つジャニーズ事務所が解体されま した。ジャーナリストの伊藤詩織さんや元陸上自衛官の五ノ井里奈さんがバッシングにさらされながらも声をあげ、性暴力や性加害に対する人々の意識を変えて きたこともベースにあるでしょう。
 不可視化されてきた不公正や暴力を可視化し、批判してこそ、価値観の転換は起こります。それはマジョリティーにとっては不快なことだし、ハレーションも起きるのです。
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  私は、入会費を原資として仲間と森を買い、それを誰のものでもない「コモン」として管理する一般社団法人「コモンフォレストジャパン」を設立しました。こ の活動が世界を変えるとは思いません。でも、実際に仲間と体を動かしていると、必ずしも貨幣や効率性では測れない領域があると身近に感じられるのです。こ うした主体性を「自治」と呼んでいます。その力を取り戻していくことは、私たちが新しい社会を作ったり想像したりする最初の一歩になるはずです。
  強いリーダーが社会を変えていく20世紀型のトップダウン的運動ではトップダウン的社会しか作れません。そうではない社会を目指すには、そうではない社会 の萌芽(ほうが)を自分たちの運動のなかで示していく必要があります。リーダーを固定するのではなく、いろいろな人がそれぞれの専門や能力をその時々で発 揮する「リーダーフル」な運動のあり方を模索していますし、提唱したいです。

2024年にのぞんで 複合危機への処方箋 インタビュー 斎藤幸平・東京大准教授 毎日新聞
2024/2/9 東京朝刊
2024.2.9



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 今日は朝から一人で、かつて大きなシュク(夙)があった東九条の共同墓地、そして久しぶりに再訪したい京終地蔵院の無縁墓などを巡ってJR奈良駅まであ るいていくつもりで家を出たのだけれど、郡山紡績寄宿舎工女・宮本イサちゃんの無縁墓のある佐保川沿いの来世墓で何となく長居してしまって、時間切れでそ のまま引き返して近くの良玄禅寺、慈眼寺の墓地をじっくり見て帰宅してしまった。お昼にうどんをつくって、午後からはガーデンハウス書庫化計画が立ち上が り、あれこれと夕方まで。充実した三連休だったな。
2024.2.12



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 わたしたちは、いつまで彼女に名前を書かせ、息子がそれを語らざるを得ない状況を見ているのか。

  僕の母はわたしたちをテントの中に呼び、書斎に隠しておいたペンを握り、『アフマド、来なさい』といい、何度もキスをしながら、わたしの名前をわたしの左 右の手のひら、腕、背中、左右の太腿、お腹、足の裏、胸に書きました。次に妹のヒバを呼び、同じ名前と5歳という年齢を書きました。次に3歳のラシードが 呼ばれましたが、彼の小さな体には文字は書ききれませんでした。彼女はため息をついて言いました。『ラシードは誰なのかわかるわ。わたしの膝にいるから』 (中略)彼女は小さく微笑みながらわたしたちを見て言いました(中略)『これはわたしたちを一緒にしてくれる。たとえわたしたちの体がバラバラになろうと も。

「彼女は子どもの手足に名前を書く フォーラム〜ガザ・中東・世界〜」
2024.2.15



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 就業一年が経って昇級試験なるものがあるそうで、明日期限で提出する「論文」。わりと真面目に書いたので、せっかくだからここにも載っけておく。


〇〇〇〇(※事業所名)で学んだこと

  〇〇〇〇に勤め始めて、というよりは福祉の現場で働き始めてちょうど一年が経ちました。58歳にしてまったくの異業種から転職をしたわたしにとって、一年 前は、知的障害者の通所施設も、グループホームでの生活も、それまで覗いたことすらもない未知の世界でした。いまはそれが毎日の「日常」となっています。 かつて電車の中などで突然奇声をあげる人を見ると避けたいような気持だったのが、いまでは「ちょっと声をかけてみようかな」という気持ちすら沸いてきま す。

 まったく異なる職場で長いこと働いてきたわたしの心が福祉の現場に向かうきっかけになったのは、やはりあの悲惨な津久井やまゆり園 の事件でした。のちに「新しい戦前」などと言われるようにもなる、きな臭い社会の予兆をずっと感じてきたわたしは、この国はとうとう喫水線を越えてしまっ たのだ、と思い強い衝撃を受けました。

 その一方でわたしは、重度の障害者とその家族の「生きる力」をとり戻そうとする試みを撮ったド キュメンタリーの中である施設の園長が、学生時代に出会った一人の重度障害者の強烈な存在感に圧倒され、相手の「こころのふるえ」がこちらの「こころのふ るえ」であることに気づいた、といったようなことを話すのを聞き、深い感銘を受けました。

 障害という「差異」によって46人もの命を否 定した津久井やまゆり園の事件に抗うことができるのは、わたしたち一人ひとりの「こころのふるえ」しかない、と思ったのです。同時に、じぶんは果たして植 松聖になるだろうか、ということも、わたしがじぶん自身に課した課題でもありました。

 この一年間の中でまず、いちばん思い知らされたのは、わたしたちが如何にふだん「ことば」というものに依存しているか。「ことば」によってこの社会を成立させているか、ということでした。

  ある種の人々にとって「ことば」は、分厚い海水を抜けてぼこぼこと浮かびあがってくる泡のようなものに過ぎない。けれども「こころのふるえ」というもの は、何も「ことば」に限らない。表情や、仕草や、身体の変調や、声のリズムや、差し出される指先や、ありとあらゆるものがかれらの「別のことば」であるの だけれど、わたしたちの社会はそれをキャッチする術を往々にして持たない。

 就業してはじめの頃、わたしは例えば反響言語(エコラリア) を発する当事者に対して「こちら側のことば」を使ってコミュニケーションを図ろうとして、振り回されました。目の見えない人たちにとっての「文字」のよう に、わたしはじぶんの「ことば」を過信していたわけです。やがて、「ことば」は「こころのふるえ」を表す無数にあるうちのたったひとつのツールに過ぎない のだ、と気づくようになりました。
「ことば」なんかよりも、黙って横にすわり続けていることのことの方がずっと「こころのふるえ」に近づけるのだ ということを、かれらから学んだような気がします。植松聖は「ことば」を返さない入所者を刺し殺していったわけですが、かれもまた、わたしたちの社会が孕 んでいる「ことばの権力」に搦めとられていたわけです。

 もうひとつ印象的だったのは、もっと直截的で身体的なことです。

  わたしが就業したときは新型コロナウィルスの渦中だったため、食事介助と介助者の食事は別々でした。それが5類移行に伴って、いっしょに食べる従来のスタ イルにもどりました。正直に言って、わたしはとても抵抗がありました。口の端から伝い落ちる唾液や食物を目の当たりにし、ときにはそれを拭い、拾ったりし ながら食事をすることがとても耐えられない、とすら思ったのです。

 けれども、それらはじきに馴れて「抵抗感」は薄れていきました。要す るにふつうの「日常」となっていったわけです。グループホームで当事者の排便の介助をするときも、一年前であれば「そんなことは、とてもできそうにない」 と言っていただろうじぶんが、Kさんの便も、じぶんの便も、飼犬のJの便も、所詮はみな等しく生きとし生けるものたちの落し文、とすら思えるようになって きました。そしてそれは、相手との距離と正比例しているような気もします。Kさんの「こころのふるえ」に近づいていくと、不思議なことにかれの身体から仄 かに漂ってくる唾液の匂いも、何やら甘い猫の体臭のように思えてくるのです。

 しかしわたしはまだ当然ながら、あの植松聖から自由になっ たわけでもありません。反響言語を発する当事者に対して、わたしがみずからの「ことばの権力」を行使しようとしたのと同じように、日中の通所施設という集 団の活動の中で、時としてわたしは、かれらを従わせたい、従属させたいという気持ちをはからずも抱いてしまっていることがあります。そんなときにわたしの なかで植松聖的なるものがむくむくと立ち上がってきます。

 じぶんの内なる植松聖に抗うための「こころのふるえ」に近づいていくための学びは、まだまだその端緒についたばかりだという気がしています。
2024.2.18



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 日中戦争で敗戦。それも、いいかもな。
 性懲りもなく、耐え難きを耐え忍び難きを忍ぼうぜ、「国家」のために。

  島田さんの目に怒りの火が宿る。「米国の間接統治の受け皿として自民党は機能してきた。そういう日本の政治方針は永久に変わらないという前提が、彼らをつ けあがらせている。米国に服従し、貢いだ見返りのように私利私欲をむさぼる構造がある。保守を掲げてはいるが、単なる保身なのです」。野党が台頭しない一 因も対米従属路線にあると言う。「安全保障も経済も外交も、野党は米国の思惑から外れた政策を打ち出しにくく、自民党の政策との差異化がしづらい。日本の 真の独立を掲げるカリスマが登場したとしても、国民の圧倒的支持によって守られない限り短命に終わる危険がある。日本独自の政治風土は内側から変わらず、 変わる可能性があるとしたら、外圧が高まった時です。あまり想像したくはないが、日中戦争で敗戦するといった絶望的な状況に陥らないと変わらないのではな いか」
.島田雅彦さん、自民党にガツン 対米従属、保守でなく「保身」 「公益への奉仕」置き去り
毎日新聞 2024/2/19 東京夕刊
2024.2.19



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 仕事帰り、ひさしぶりに駅前の本屋に立ち寄った。小遣い月5千円のわたしには少々高価だったけれど、財布に忘れていた500円の図書カードを使って1,260円。
 冒 頭の金城美幸+早尾貴紀+林裕哲三者の対談『パレスチナと第三世界 歴史の交差点から連帯する』を読むだけでも、充分に価値はあるよ。「悪魔化が歴史の消 去から始まる」という意味で、パレスチナ人を動物呼ばわりするイスラエル政府も、在日朝鮮人の歴史を否定し入管施設で殺戮を繰り返す日本政府も、地続きな んだということがよく分かった。
 さあ、100年の暴力を考えながら、あらたな反日帝闘争を始めようじゃないか。これを読んで、堪えがたい腐臭を放 つ「テロや人道や和平や民主主義」を激しく憎悪し、桐島聡や大道寺らの意志を継ぐ若者たちが出てくることを、おれは願っているよ。

現代思想2024年2月 号 特集=パレスチナから問う
-100年の暴力を考える-
2024.2.20



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 今朝の毎日朝刊。

 『現代思想』の対談「パレスチナと第三世界 歴史の交差点から連帯する」の冒頭で早尾貴紀氏は、 2023年10月7日のハマスによる攻撃とその後のイスラエルの報復について「「武装勢力による民間人虐殺は不当で許しがたいものだが」と前置きをしてか ら、今回のロケット弾攻撃と陸上進撃について語り始めることには抵抗があります。これはあたかも10月7日が始まりのような言い方だからです」と言ってい る。つまり「この暴力は10月7日に始まったわけではありません。10・7以前そして10・7以降がある」のだと。

 翻って、この毎日新 聞「編集編成局次長外信部長」の肩書を持つ記者が書く「「自由な世界」守るために」とか、「力づくで領土を奪うことが許されるのであれば、法の支配の順守 を前提とする国際秩序は崩壊しかねない」とか「この戦争は、民主主義国家の課題に焦点を当てた」とか「自由で開かれた世界が魅力的であることが、権威主義 国家の台頭を抑止することにつながる」などという旧態依然の思考停止脳にはヘソで茶が沸く。

 ロシア政府が悪ぶった悪人であるなら、アメ リカ政府は良い子ぶった悪人で、どちらも他国の無数のいのちを蹂躙してきた。10.7以前に「法の支配の順守を前提とする国際秩序」による「自由な世界」 があったわけでも、平等な民主主義による「自由で開かれた世界」があったわけでもない。少なくともパレスチナの人々にとって、世界はずっと暴力に満ちた残 酷な場所であり続けていたよ。守るべき「自由な世界」なんて、どこにある? とかれらなら言うだろう。あんたは何て答えるんだ、古本。

ウクライナ侵攻2年、見えぬ出口 「自由な世界」守るために=毎日新聞編集編成局次長兼外信部長・古本陽荘 毎日新聞 2024/2/24 東京朝刊
2024.2.24



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 町内会のために命を捧げる人はいない。足立区のために死んでもいいという人も、東京都を守るために死にに行くという人もいない。なぜ「国」になると「英霊」なんてのが出てくるのだろうか。「国家」なんて単なる便宜上の行政区分みたいなもんだろ。
2024.2.24



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 22.シオニズムは世界のすべての進歩と解放活動に敵対し根本的に世界的帝国主義と関連のある政治活動である。それはその目的において人種差別者で本質 的に狂信的で,攻撃的,膨張主義者,植民地主義的であり,その方法において,ファシストである。イスラエルはシオニスト運動の道具であり,アラブの解放と 統一と進歩の希望と戦うために,アラブの中央に戦略的に設置された世界帝国主義の基地である。イスラエルは,中東と全世界の平和に直面する脅威の源であ る。(パレスチナ国民憲章 1968.7)
2024.2.24



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 アメリカポチ公でカネまみれの日本政府をみずからの代表と認めない日本人であるわたしは、ナチス同様のホロコースト(民族絶滅政策)を進行中のイスラエ ル政府と、その親玉で同様に国際法違反・他国勝手蹂躙を繰り返してきたアメリカ政府、そしてイスラエル批判=反ユダヤ主義と断定して自国内のパレスチナ連 帯デモすら禁止する思考停止の独仏政府、さらに内なるユダヤ人問題を中東という「外部」へ放り出して澄まし顔の真の悪役欧米帝国連中を唾棄し、パレスチナ やアフガンやイラクで不条理に殺された幼いいのちと共にあり続けることをここに誓うよ。糞ったれの世界め反吐が出る。
2024.2.24



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 昨日、土曜日の午前は自転車で県立図書情報館へ。「屯鶴峯地下壕を考える会」の田中さんのお誘いで奈良38聯隊兵士の従軍アルバムを見る会に集まったの は、他に帝塚山大学教授のSさん、「河内の戦争遺跡を語る会」代表のОさん、「多文化共生フォーラム奈良」のTさん、「ひなぎくの会」のHさん。用意して くださった別室で、資料保管箱に収められたたくさんの従軍アルバムや従軍手帳、切り抜き、死亡通知などをめいめい広げて、ときに語り合った。

  元々は田中さんが家にあったおじさんの従軍アルバムを寄贈したのがきっかけで、他にも個人から寄贈された奈良38聯隊にちなんだアルバムや資料があること を知ったのが始まりで、二日前の平日には奈良教育大学の学生さんと閲覧する席も設けられた。個人から寄贈されたこれらの貴重な資料は、ふだんは閉架に眠っ ているのでその存在を知る人もほとんどいないだろうし、残念ながらきちんとした整理もされていない様子だ。

 奈良38聯隊は南京攻略にも参加した後、北満の守り――「国境」での「馬賊・匪賊」掃討が主な任務だったから、多くの中国人を殺したことだろう。戦争末期には南方へ転戦し、圧倒的な数の米軍を迎えたグアムで全滅した。

  一枚一枚の写真が語りかけてくるものは、ほんとうに無尽蔵だ。今回は二時間余りの駆け足だったけれど、修学旅行のような若い兵士たち、中国人の少女や家 族、凱旋帰国を熱狂的に迎える内地の人々、埋葬、並んだ位牌、死亡通知などを見ていると、いまのパレスチナやウクライナの戦場が思われて、いろいろな感情 がこみあげてくる。

 日本人が犯した残虐な場面はあまりの生々しさに控えめにした。もっとえげつない写真もたくさんある。こういうものを個人が持ち帰って、家族や村人に戦場での話をしたのだろうかと思うと何とも複雑な気持ちだ。

 田中さんは、これらの眠っている貴重な資料をだれかがきっちりと整理して伝えていかないとなあ、とつぶやいていた。一人びとりの兵士の目線が、これらの資料から蘇ってくる。
2024.2.25



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 なぜとなく、久しぶりに夕方からずっとかれの音楽を聴き続けている。Shot The Sheriff でも No Woman No Cry でも Exodus でもなく、たとえばこんなさりげない曲だよ。まるで水に浸したタオルを渇いた唇にあてられたように、じんわりと沁みてくる。あるいてゆくことは、余計なも のを削ぎ落して、どんどん単純になっていくことだという気がしてくるんだよ。
2024.2.25



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 昨夜は泊り勤務だったのだけれど、股関節の怪我で3ヶ月の入院から復帰したばかりのKさんがトイレの失敗で夜中の2時過ぎにシーツの入れ替えと着替え、 3時間後の早朝5時半にも再度の失敗があって、洗濯物が一気に増えたせいで相方のTさんはぴりぴりしているし、わたしはわたしで寝不足のまま日中活動へ流 れ込み、夕方の送迎が忙しい時間帯に軽作業の業者さんがブツを搬入しに来たものだから急いで代車を転がして受け取りに行ったら、もうあと5分で昇級試験の お時間ですわ。筆記試験と面接を終えて一晩でもなつかしいわが家へ帰れば、つれあいは娘の教習所の送迎で二人とも不在。用意されていた夕飯を一人掻っ込ん で、わたしはわたしで近くのショッピングモールへ3日前に画面が哀れひびだらけになったスマホの修理へ行って、百均で保護フィルムと赤鉛筆を買って、リ カー売り場で豊祝の安酒を一本買ったらあとはもうとくに見たいものもなく、ソファーで「現代思想」の続きを読みながら修理の出来上がるのを待っていたって そんな夜さ。
2024.2.28



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 あらためて、ボブ・マーレイのこの曲が沁みるよ。光の見えないこの世界で。

●ウォー(われらが讃えるハイレ・セラシエ一世、演説より)/ War

”人生が私に何を教えてくれたか―
学びたいと思っている人々に
私はぜひ話して聞かせたい”
優性人種と劣性人種とを
わけへだてている社会の規律が
ついに そして永久に
葬り去られるその日まで
(戦争は留まることを知らずに広まっていく
Mr. War… Mr.War…)

人類のあいだに
一流とか二流とかの人種差別が
すべて失くなるその日まで
人間の肌の色の違いが
瞳の色と同じように
たいして重要なものでなくなるその日まで
(戦争は留まることを知らずに広まっていく
Mr. War… Mr.War…)

すべての人間が
人間としての基本的権利を
平等に保証されるその日まで
(戦争は留まることを知らずに広まっていく
Mr. War… Mr.War…)

永遠の平和 世界の市民権
そして 世界共通道徳へのあこがれが
求めても得ることのできない
束の間の幻想ではなく
現実のものとして得られるその日まで
(戦争は決して留まることを知らない
Mr. War… Mr.War…)

アンゴラ モザンビーク
そして 南アフリカで
人間以下の扱いをされているわれらの仲間
彼らを縛る下劣で不当な政治組織が
完全に崩壊されるその日まで
(戦争は到る所にはびこっている
Mr. War… Mr.War…)

その日がこなければ
アフリカ大陸は平和になれない
私たちアフリカンは
いざとなれば 立ちあがる
そして 私たちは必ず勝ってみせる
なぜなら 私たちは確信している
善は必ず悪に打ち勝つと…
善は必ず悪を制すると…

(東芝EMIのアルバムBob Marley & The Wailers
「Rastaman Vibration」より山本安見さんの訳文より)
2024.2.28



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 「帝国」や「植民地主義」などというものが教科書にだけ載っている過去の事柄だと思っている奴がいたら余程オツムがお花畑だ。おれたちは糞玉を甘い砂糖 でコーティングしてしゃぶっていただけだよ。百年、百五十年、そうやっておれたちみんなが糞玉をしゃぶり続けてきたことがいま露わになっている。餓死して 息絶える生まれたばかりのいのちの光景は、そのままおれたちが吐く臭え息そのものだ。//そのいきの臭(くせ)えこと。くちからむんと蒸れる。

  欧米先進国が積み重ねてきた過去を見て、現代の入植者植民地主義を徹底させようとするイスラエルは、「西洋」の歴史と伝統を汲んで「先住民」パレスチナ人 を抹殺するのは必然である、と自己正当化する。ロシアはウクライナへの侵攻を、正当化する。イスラエルの行動を見た世界の支配者たちは、統治に不都合な集 団を排除するのは非人道的なことではない、と正当化する。

 ここに、パレスチナ問題をきちんと解決しようとする必要性がある。植民地支配 の継続を次々に正当化しようとする勢力の出現を、きっぱりと止めなければならない。そのためには、過去と現在進行中の植民地支配が生んだ惨劇を、きちんと 終わらせ、きちんと反省しなければならない。ガザで進行していることは、我々が放置してきた植民地主義の最終形態であり、それに終止符を打たないことに は、非人道と規範の欠如が国際社会に蔓延、定着し、我々はこれから無制限の暴力が支配する世界を目撃することになる。

酒井啓子「ひとつの「民族」を抹殺するということ」(現代思想・パレスチナから問う)
2024.2.29



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 昨日は当事者のUさんと極寒の甲子園球場、今日は娘と大阪・扇町ミュージアムキューブで観劇でした。あのアカデミー賞主要部門を総なめにした幻の名作 『郡山女工と墓守』で墓守役のわたしと共演した劇団タルオルムの趙沙良(チョウサリャン)さんが出演する『自慢の親父』(作・演出:平塚直孝)。嶽本さん の大逆事件シリーズや劇団タルオルムの在日をテーマにした作品など、わたしがこれまで見てきた舞台はどちらかというと硬派な内容が多かったけれど、今回は ちょっと違う。(おそらく東大阪の)ネジ工場の日雇いで働く林さんの元へ20年前の離婚以来会っていなかった息子が会いたいと言ってきて、こんな日雇い姿 の父親を見せたくない、だれか代わりに父親をやって欲しいという林さんの申し出に職場の人たちが巻き込まれていくという、何だろうね、往年の筒井康隆の シュールな短編にでも出て来そうな不条理喜劇で、定員わずか55名の小劇場の最前列は底上げした舞台の役者さんが手を伸ばせば届きそうなくらいの目の前 で、娘もわたしも最初はくすくす、やがてはけらけらと大いに笑わせられ、愉しませてもらった。大道具も小道具も何もないカーペットを敷いた十畳ほどの板の 上が、ネジ工場の休憩室になったり、高野さんの不倫相手のマンションになったり、沼田さんの行きつけの小料理屋になったりして、小気味よい言葉のリズムと やりとりが観客を見事に心地よくこの不条理喜劇にひっぱり込んでくれる。娘の言葉じゃないけど、演劇の秘めている力ってやっぱりすごいな。終わってみれ ば、そう。上質な落語を聞いたような、そんな満足感に二人とも浸っていた。終演後、昨年の夏以来のサリャンさんと会って記念撮影などをした父娘はその後、 近くの「エスプレッソにこだわる「海辺の秘密基地」がコンセプトの小さな」カフェ、THAT DEPENDS (ザットディペンズ)の公園を見下ろす2階席でパニーノとおいしいコーヒーを頂きながら、劇の感想などをしずかに語り合ったのでした。
2024.3.6



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 もうはっきりと言おうじゃないか。

 かつてナチスがユダヤ人に対して行ったホロコーストを、いまイスラエルのユダヤ人がパレスチナの人びとに対して行っているのだと。

 80年もの長きにわたって、世界はそれを見捨ててきた。

 正義面したアメリカもドイツもフランスも日本も、どの政府もファシストで、極右で、恐ろしい偽善者だよ。おれたちの手は血で汚れている。

 かつてキング牧師はこんなことを言ったそうだ。「いかなる場所にあろうとも、不正義は、あらゆる場所において正義への脅威となる」 遠いガザで起きていることが、おれたちの精神を蝕み、魂を腐敗させる。おれたちはしずかに死んでいく。

  ディランがこんなふうに歌うのをおれは聴いた。「おれが見たものは、かれらが見せてくれたものだけ(I only saw what they let me see)」 ファシストで、極右で、恐ろしい偽善者の側にいる限り、おれたちは間抜けな腰を振って踊っていられる。

 イスラエル軍 が使っている弾丸――「バタフライ・バレット(蝶の弾丸)」は「着弾した衝撃で銃弾の先が羽根のように開いて、周りにある血管や神経をズタズタにしてしま う」 やつらはそれでパレスチナの若者の足を狙う。かれらの足は麻酔なしの手術で切断される。殺さない、見せしめだ。

 ガザの若者や赤ん坊や女たちだけではない。おれたちもまた、みなしずかに死んでいく。
2024.3.6



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 おれにとって音楽は娯楽なんかじゃないんだぜ。
 イエスのパンだ。
2024.3.5



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 今日は仕事帰り、深江橋のあたりまでちょいと足を伸ばしてパレスチナ・ガザを憂える公開上映会及びゲストトーク『占領の囚人たち』〜演劇によるパレスチ ナ連帯の可能性 を全身で受けとめて、心ばかりのパレスチナ支援寄附を落とし、さらにこんな「命はびこれ・百年の予祝」スペシャルTシャツと「現在のガザ にも共振する」という『被災物 モノ語りは増殖する』まで買ってきちまったってわけさ。おまけに「命はびこれ」の首謀者、作家の姜 信子  (Kang Shinja)さんが会場でわざわざ声をかけてきてくれて少しばかりお話ができたもんで、深江橋から帰りの電車に乗ったのが10時前、帰宅が深夜11時に なっても、おれのこころは若いイヌワシのように充実しているよ。明日もまた仕事だから今夜はもう遅い、詳しい内容はまたあとで。
2024.3.12



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 青山 敏夫さんから教えて頂いた記事。読み応えたっぷり。
 さまざまな歴史の欺瞞と酷似。忘却と繰り返し。
 イスラエルは21世紀の満州国であり、帝国は繁栄している。

  シオニズムは、西欧植民地主義が結晶化したものだ。かつて日本が中国東北部につくった満洲国では、日本から「未開の地を切り拓く」というプロパガンダで農 民たちが渡っていったが、そこにはすでにきれいな田んぼがあったといわれている。なぜか? それは朝鮮の移民たち、場合によっては日本の植民地主義のなか で追われた人々がその地を切り拓いていたからだ。その地を二束三文で買い叩き、武力で奪い、そこへ日本の貧農を入植させた。そのとき、その地の中国人、朝 鮮人を「土匪」「共匪」と呼び、これらの暴力が怖いからと言って銃を持って入植を進めていった。これはパレスチナでユダヤ人がやっていることと重なる。

  イスラエル人の政治経済学者サラ・ロイは『ホロコーストからガザへ』という本のなかで「イスラエルはホロコーストと向き合ってこなかった」と言ったが、以 上述べたように、実はドイツもホロコーストと向かい切れていないのではないか。もし真剣に向き合えていれば、ドイツ現代史研究者や哲学者はコソボの空爆を 支持したりしなかっただろうし、長年のイスラエルの民族浄化を自分たちの研究の言語から批判できたであろう。

  以上のことは、ナチスの罪を相対化するものではなく、実はナチスの罪がどれだけ深いかをもっと知るということだ。さまざまなナチス的な、あるいはそれにつ ながるような世界的な現象を無視したことによって、ナチスの罪を相対化しているのは、むしろドイツの「記憶文化」を今でも死守しようとしている人たちなの ではないだろうか。

ドイツ現代史研究の取り返しのつかない過ち――パレスチナ問題軽視の背景 京都大学人文科学研究所准教授・藤原辰史
2024.3.13



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 久しぶりの休日に新聞をめくれば、奈良版の片隅に「元NHKアナウンサーが自宅で死去」の記事。渡辺誠弥氏は藍染に魅せられてNHKを早期退職し、飛鳥 の造り酒屋を借りて藍染織館を開いた。和歌山のつれあいを追って関東から奈良へ移住したばかりのわたしが単車で明日香村を訪ねた際、たまたま染織館を覗い たのが出会いだ。館内の書棚に魅力的な本がたくさん並んでいて、そこでしばらく立ち話をした。あちこちの聖地を巡っているみたいな話をしたんじゃなかった か。当時はオウム事件冷めやらぬ頃だったので、渡辺さんはわたしのことをオウムの残党だと思ったそうだ。それから職の定まらぬわたしは蕎麦懐石を出してい た染織館でときどき皿洗いなどの手伝いをするようになった。らっきょうの皮を剥いたり、染織の手伝いもした。十津川出身の詩人・野長瀬正夫や、奈良にも縁 深い保田與重郎、それから土鈴人形の魅力などもおしえてもらった。わたしとつれあいがいっしょになることは「うまくいきっこないから、やめておいた方がい い」と反対したが、はじめてつれあいを連れて行った日はかれの守り神だという物部を祀る石上神宮へ参拝してから、大皿の料理がずらりと並んだ老舗の居心地 の良い居酒屋で馳走してくれた。わたしたちが結婚式を兼ねた「蕎麦懐石の席」を藍染織館で設けたのは1999年5月のことだ。双方のごく少数の身内、そし て大事な友人たちなどが飛鳥に集まった。当時リバティ大阪の理事長だった木津さんや、わたしのいまの福祉現場を紹介してくれた悦ちゃんもガイドヘルパーと いっしょに参加してくれた。渡辺さんは配膳を終えた席で「さいしょに出会ったとき、わたしはかれのことをてっきりオウムの残党だと思ったんですよ」などと 言ってみなを笑わせた。翌年に娘が生まれたときも連れて行って、双方の親兄弟と共にやはり染織館で蕎麦懐石を頂いた。赤ん坊を見て「良い人相をしている」 と言ってくれたのを覚えている。その後は子育てや仕事が忙しかったりして、徐々に疎遠になってしまったんだな。そのうちに藍染織館を閉じて東吉野の方へ移 住するみたいな風の噂を聞いた。ときどき、どうしているだろうかと思い出すこともあったけれど、最後にもういちどくらい会って話をしたかったかな。まあで も、ひとの縁というのはそういうものか。出会うときに出会い、別れるときに別れる。ところで渡辺さんは飛鳥川の源流の稲渕にある古社・飛鳥川上坐宇須多岐 比売命神社の宮守でもあり、当時は神社脇の古い宮守の家に住んでいた。深い山林に囲まれた峯の頂きに坐す古社は古代の雨乞いの儀式をした記録があり、渡辺 さんは強い霊力をもった巫女を葬った墓だと考えていた。まだつれあいといっしょに暮らす前、わたしはときどき単車でこの古社を訪ね落葉や枯れ枝の落ちた長 い石段を登って、ひと気のない境内の草抜きをしたりして終日を過ごした。しずかな、とてもしずかな時間だった。ひとりであったが、充足していた。充足には 一片のさみしさが伴う。そういうこともわたしの原風景のひとつかも知れない。冥福を、祈る。
2024.3.17



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 12日火曜の夕方。仕事を終えてから訪ねた深江橋のこぢんまりとした「スペースふうら」で見た『Prisoners of the Occupation(占領の囚人たち)』は、ユダヤ系イスラエル人作家のエイナット・ヴァイツマンがパレスチナ人の囚人らと作り上げたドキュメンタリー 演劇だ。三人の日本人役者、一人のイスラエル人役者が「囚人や看守、尋問官などをかわるがわる演じ、入獄、尋問、拷問、ハンスト、独房監禁、日々のルー ティーン、刑務所間の移送、家族の面会など、さまざまな獄中の場面が再現される」。イスラエルの運営する刑務所や拘置所などの施設にはかつて6千人以上、 現在は1万人以上ものパレスチナ人が政治犯として違法に拘禁され、中には20年30年も刑務所で過ごしたパレスチナ人もいるという。演劇はかれらの果てる ことのない日常であり、ガザが「天井のない世界最大の野外監獄」であるとしたら、こちらもまた同じようにイスラエルという「国家」の植民地主義的な侵略と 暴力的な民族浄化がもたらした「エデンの園」――わたしたちの世界の縮図であり、まったき現身(うつしみ)である。舞台の演者はときおり外部の演出者から 寸断され、虚構と現実に亀裂が入る。それが観客のために用意された「空隙」であり、「私たちは劇場にいる。彼らは刑務所にいる」という台詞がそこで木魂す る。パレスチナ民族評議会(PNC)等によれば1967年の第三次中東戦争以来、投獄されたパレスチナ人は百万人に及び、パレスチナ人男性の4人に1人は 収監されるという。何十年にもわたって土地を収奪され、銃を突き付けられ、移動の自由も奪われ、ときには理不尽に殺されるパレスチナの日常に於いて、囚人 はさらに見えない領域だ。「占領」ということを、この日からずっと考えている。「占領とは辱めです。絶望です」とユダヤ系アメリカ人のサラ・ロイ氏は「ホ ロコーストとともに生きる――ホロコースト・サヴァイヴァーの子供の旅路」(岡真理訳、「みすず」2005年3月号)のなかで記している。「そして、恐ろ しい忌むべき自爆行為が立ち現れ、より罪なき者たちの命を奪っているのは、広く忘れられていますが、まさにこの剥奪と窒息状態という情況(コンテクスト) においてなのです。なぜ、罪のないイスラエル人たちが――そこには、わたくしのおばや彼女の孫たちも含まれます――、占領の代価を支払わなくてはならない のでしょうか。入植地や、破壊された家々や、封鎖用バリケードは自爆者に先立って存在しているものですが、それらとてもとからそこに存在していたわけでは ないのと同じように、自爆者もまた、最初からそこに存在していたわけではありません」  「占領」に抗うこと。遠いガザの地で無抵抗の子どもや年寄りや女 たちが殺されていくたびに日々、わたし自身のなかで何かが死んでいくような気がする。口をひらけば、魂が腐敗したような匂いが嗚咽とともに喉元にせりあ がってくる。パレスチナがわたしたちの世界の縮図であり、まったき現身(うつしみ)であるならば、わたしたち一人びとりもまた辱められた囚人であり、 『Prisoners of the Occupation(占領の囚人たち)』はそれをわたしたちに気づかせてくれる断片なのかも知れないと思うようになった。魂の領域に於いてわたしたちも また、眼には見えない入獄、尋問、拷問、独房監禁を課せられている。この 「占領」に抗うこと。スイス・ジュネーブとZOOMでつないだ翻訳者の渡辺真帆 さんらのゲストスピーチの合間に、主催者の百年芸能祭によって供養された『パレスチナ殉教者名簿』が回ってきた。折りたたみの過去帳のようなそれをぱらぱ らと開けば1歳2歳3歳4歳の潰えたいのちがそれこそ数珠つながりにつづいてわたしは思わず、ああこれは百年前の郡山紡績工場の過去帳とおなじだ、無数の 寄宿舎工女・宮本イサや朝鮮人女工キム・ジョンソンたちがここにもうごめいていると震撼したのだった。
2024.3.17



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 奈良は朝から大粒の雹がばらばらと落下して、冷たい風の吹きすさぶ、凍てつくような一日。遠出をするのは億劫なので午前中、郡山城址にある柳沢文庫へ企 画展「柳沢文庫資料でめぐる大和国・郡山」を覗いてきた。自宅から歩いて数分で城址って、佳い環境だよね。展示はいつも和室三室ほどの小さなもので、戦前 の「勝地漫画・大和めぐり」に描かれた佐保川の羅城門礎石があるらしいので、ひょっとして隣接する来世墓の風景なども載っていないかと思ったのだけど空振 りだった。それでも「大和名所図会」に描かれた佐保川の「晒し場」や、貝原益軒が1696年「大和廻り」で記した「町ひろし、もろもろ売り物多し」との郡 山城下の叙景、1813年の「五機内産物図会」に紹介されている御城之口餅などいろいろ面白く、明治30年代の城址本丸から遠望した郡山紡績の煙吐く煙突 とギザギザ屋根の工場の写真を「ああ、寄宿舎工女・宮本イサがいた頃の写真だ」としばらく凝視したり。それにしてもこの柳沢文庫はやっぱり「最後の郡山藩 主 柳澤」家の収蔵品を継いだ財団法人だから、企画の多くはお殿様と城に関することばかりなんだな。そしてこの国の多くの人々は「お殿様」が大好きなんだ。で もおれはそっち方面はあんまり興味がなくて、晒し場で働く人や、墓守や、名もない女工たちの残滓をいつも探しているんだよ。企画展を見た後は、いつも館内 でかかっているんだけど郡山城の天守石垣の復旧工事の動画を改めてじっくりと見てしまい、それから寒い閲覧室で書棚の資料なんかをしばらく漁ったりしてい たらもうお昼だ。岸田定雄「大和のことば 民俗と方言」(現創新書)、「奈良県民俗地図」(奈良県教育委員会)など、ちょっと欲しいな。柳沢文庫を出て、 駅前のスーパーで食材などを買って帰宅。一人だけの昼食は何となく面倒でつくる気が起きず、カップスター関西出汁バージョン125円とアジの大葉巻き揚げ 98円で済ませた。夕飯は山形の芋煮をつくるぜ。
2024.3.20



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 埋葬することができない思い。根の生えた(樹木のような)直立する抗い。死んだように生きること。生きながら死んでいくこと。どちらもそれほど違いはな いのかも知れない。もうひとつ、第三の道がある。死を恐れずに生きること。思いは埋葬できない。墓石を建てて手を合わせることは、死だ。

 彼が床についた時、彼は心の奥底で、逃げ道はないと悟った。二十年間もその想いは生き続け、もう埋葬することは出来なかった。(中略) 朝になると、彼女は静かに言った。「もし、あなたが行きたいのなら、私も連れて行ってね、サイード、一人で行こうとしないでね」
 (カナファーニー「ハイファに戻って」)
2024.3.21



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 雨続きの休日、昼食後にあるいて近くの城ホールへ。たまたまチラシを見た奈良アマチュアウィンドオーケストラの創立25周年記念演奏会と銘打った入場の 無料のコンサートを覗きに行った。吹奏楽のオーケストラだ。朝から子ども食堂の手伝いに行くつれあいが、間に合えばいっしょに行こうかなと言っていたのだ が、わたしがYouTubeで見つけた、今回初演という委嘱作品を作曲した高昌師氏の別の作品を演奏した動画を見たら、ちょっとわたしにはよく分からない からやめておく、とキャンセルに。わたしは逆に、このYouTube映像を見て聴きに行く気になった。高昌師(コウ・チャンス)氏を改めてWebで調べる と、朝鮮半島にルーツを持つこの大阪生まれの作曲家は関西の朝鮮学校吹奏楽部などにも作品を提供していて、「朝鮮半島の伝統音楽に用いられるリズムパター ン」を用いた作品なども作曲している。プログラム前半の RENAVIS はわりとオーソドックスな作風だったが後半、大阪交響楽団のプロ奏者であるゲストの潮見裕章のために書かれた TUBA Solo と吹奏楽のための Concertino は現代風の不協和音満載で、わたし的には好みだった。アンコールで潮見氏が重たいチューバを抱えあるきながらソロで吹いたモンゴルのホーミーを思わせるよ うな怪演 Fnugg も愉しかった。何より管楽器の音って、シャープで、目が覚めるような爆弾テロの炸裂音のようでちょっといいんだな。視覚的にはよろしくないが、最前列のか ぶりつきでそんな音のシャワーを浴びていたわたしが高校時代、単に部室に置いてあるギターを触りたくて放課後の音楽室に寄り付いていたときに、人出が足り ないからと吹奏楽部のシンバルを手伝わされてコンクールにまで出てしまったのを知る人はあまりいない。奈良アマチュアウィンドオーケストラが高昌師にはじ めて委嘱した Mindscape for Wind Orchestra はいまでは吹奏楽コンクールの定番曲だそうだが、こちらもいつか生で聴いてみたい魅力のある作品だ。

  カナファーニー『ハイファに戻って』を読み終える。 「パレスチナを暴力的に追われた夫婦が、20年後に旧居をたずねる気になった。帰ってみると、幼児の まま置きざりにしなければならなかった息子は、いまやイスラエル軍人としてかれらに敵意のまなざしをむけている。これが人間にとって解決可能の困難であり うるか?」(アラブのエクリチュール・大江健三郎)  主人公のサイード・Sは涙に暮れる妻に言う――「おまえには祖国とは何だかわかるかい、ねえソフィ ア。祖国というのはね、このようなすべてのことが起ってはいけないところのことなのだよ」  『ハイファに戻って』は1969年に書かれた。車に仕掛けら れたダイナマイトによってカナファーニーが爆殺される3年前だ。そして55年後の現在のガザがある。「わたし」をさげすみ、冷淡な目で銃口を向ける若者 は、55年前にこの手から無残にももぎ取られた「わたし」の赤ん坊だろうか? そのような世界は、かつても、そしてこれからも継続していくのか? 「彼は 力むように笑った。彼はそのかん高い哄笑によって、胸中の緊迫感と怖れと無念と不幸とを外に吐き出しているように感じた。彼は突如、世界中が覆るか、眠り こむか、死に絶えるか、あるいは自分が外にある車へと飛び出して行ってしまうまで笑いに笑い続けたいという衝動に襲われた」  その笑いの衝動に、わたし たちの世界は耐えうるのか? わたしたちは自身の赤ん坊を、かれらに差し出さなくてはいけないのではないか? わたしたちに銃口を向ける<未来 >として。
2024.3.24



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 犬がお腹をこわしまして、それはもう30分おきに便意を催して外へ出してくれと吠えるようなひどい下痢で、わたしが寝た後に朝までつき合っ てほとんど睡眠がとれなかった奥様は翌日、さっそく犬を車に乗せて動物病院へ連れて行ったのですが、まあ、もう歳だからちょっとしたことでお腹をこわすこ ともある、と医者が言って注射を一本打ってくれたその後、昨夜はほとんど眠れずになんだか頭が痛いし、今日はもう家でピーナッツでもつまみながらのんびり しようと奈良では有名な「中西ピーナッツ」まで足を伸ばしたその帰り道、信号のない十字路で一時停止線を見逃して右側からの直進車と衝突、犬は哀れ自走不 能となった車と共にレッカー車で車屋まで運ばれたそうです。幸い双方(相手は若い女性とか)に怪我はなし、わが家の車は足回りがイカレて修理には50万は かかるので年数を考えたら買い替えた方が良いとの車屋の言。娘が免許を取ったら保険の条件も手厚くした方がいいなと話していた矢先のことでございました。
2024.3.26



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 つれあいが遅番の日はわたしと、どちらか早く帰宅した方がジップ(犬)の散歩に行くことになっている。今日はつれあいが先だったので、わた しは台所で夕飯の支度をしていた。帰ってきた彼女が「中国人の若い人がそこの道端で、バイクのシートに鍵を入れたまま閉めてしまったらしくて一生懸命開け ようとしているから、懐中電灯を持っていってあげる」とジップのリードを外す間もなくまたぞろ出て行った。もどってきて詳しい話を聞けば、近所のハイツの 二階に昨年入居したばかりの外国人の若いカップルで(向かいのNさんが中国人と言っていたというがじっさいは不明)、男が毎朝スクーターで出ていくのをい つも女性が見送っている、という。バイク屋が閉まっていて合鍵も持っていない、と木の棒を使って二人でシートをこじ開けようとしていると言うので、娘に粕 汁を出したわたしがこんどは庭のガーデンハウスへ行って、バールと長いマイナスドライバを手にして家を出た。見ればハイツの前の街灯の下で、横倒しの古び たスクーターを前にアジア系の顔をした若い男女が腰をかがめている。「これ、よかったら使う?」と差し出すとうれしそうに受け取る。「なんとか隙間をつ くって手を突っ込むしかないようだけど、あんまりやりすぎるとシートを壊しちゃうしね」と言うと、日本語は分かるらしく男の方は白い歯を見せてにっこりと わらってうなづいた。「あとでうちの玄関の前に置いといてくれたらいいから」 そう言って、戻ってきて家族と夕飯を食べた。つれあいは夕飯を口に運びなが ら「可哀想に、明日仕事に行かなきゃいけないから必死なんだわ。わたしが車を出して乗せていってあげるって言えたらいいんだけど」などと言っている。夕食 を済ませた後でつれあいは、懐中電灯もうひとつ持っていってあげようかしらと二階から持ってきたそれがもう電池が切れていて、おなじくらいに電池を入れた はずだからあっちももう切れているかも知れない、とじっとしていられない様子でふたたび出ていく。夕食を終えたわたしがふたたび庭へ出て、キャンプ用の電 池式ランタンを持っていってやろうか、それとも外部電源を引っ張っていってもっと強力な照明をつけてやろうかと考えていたら、リビングから「開いたよ、開 いたよ」とうれしそうな声が響いた。つれあいが懐中電灯とバールとドライバを手にして立っている。つれあいも含めた三人で、つれあいが懐中電灯で手元を照 らし、カップルの男がシートの隙間をひろげ、そこに女が手を差し入れて何度か探っていたらチャリンと音がした。「いま、触ったんじゃないの!」とつれあい が高ぶった声を出せば、女の方はもう少しと答える。バイクを傾けて、わたしが持っていった長いマイナスドライバで奥をかきまぜる。そんなことをなんどか繰 り返して、やっと鍵をつかんだ女の手が出て来たときは、つれあいは思わず「やった、やった」と歓声をあげた。そんなさなかに訊いたらしいがベトナムから来 たという二人も、もちろん大喜びだった。この際仕方なかったのだろう、シートは隙間を広げるために部屋から持ってきたらしい包丁で一部を切り裂いていた。 それでもかれは明日、無事に仕事へ行ける。「あ。何か困ったことがあったら、いつでも言ってきてねって言うの、忘れてきたわ」と興奮冷めやらぬ彼女は言う のである。
2024.3.27



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 新車を買ったことがない。それどころか30代の半ばまで、わたしは中型バイクの免許しか持っていなかった。関東から関西の地へやってきたのも 250ccのホンダ・スパーダで、おいぼれ馬の背に乗った西部のアウトローのように辿り着いたのだ。つれあいといっしょになって、家賃の安い県営団地の抽 選に応募するにあたってそのおいぼれ馬に彼女を乗せて二人で奈良県内の団地をいくつも見てまわった。風に吹かれてわたしの背中にしがみついていた彼女の感 触はいまでもおぼえているよ。法隆寺の教習所へ免許を取りに通い出したのはその頃だったろうか。わたしは乗り気ではなかったのだけど、いつか役に立つから とつれあいが勧めたのだ。そういうとき、いつも彼女が正しい。県営団地に移ってからも、わが家にあるのはバイクと自転車だけで、つれあいはまだ幼い娘を 自転車の後ろに乗せて3キロ先のスイミングスクールや、駅ひとつ先の町のヴァイオリン教室まで走った。それでいよいよ車を買うことになって、京都南部で中 古車屋をやっているつれあいの従妹の店に頼んだ。込み込み10万円という激安価格で嫁いできたわが家の初代は、ワインレッドの可愛いマツダのキャロルだっ た。やってきてじきに和歌山へ向かう高速道路上でタイヤが破裂したが、これも堺でタイヤ屋を営むつれあいの従弟の店で格安で代えてもらった。以来、車は京 都、タイヤは堺という定型ができた。キャロルに乗ってつれあいや天使のような娘といっしょに山深い天河や大台ケ原の方へ、お弁当を持って走ったっけな。貧 しかったけど、豊かだったよ。そのキャロルも国道高架上で急ブレーキをかけた際に足回りがイカレてしまって、その頃には少しばかり余裕が出来ていたから、 60万円くらいで新古のマーチを購入した。都内の、おそらくいいとこの奥様専用車みたいな感じで走行距離もちょびっと。オリーブの車体は駐車場でも目立っ て見つけやすかったし、何より山の風景に溶け込んでいい感じだったな。それから娘の車椅子を乗せる必要が出てきて、乗り換えたのがワインレッドのノート だ。90万くらいだった。ノートになって、車中泊であちこち遠出をしたり、クロスバイクを積んで遠方を走りに行ったり、いろいろと活用の幅が広がった。そ んなノートが思わぬ事故で廃車になって、わたしはまた同じ型のノートを30万くらいで買ってそれで充分だったのだけれど、つれあいは、わたしも歳をとって きて車椅子を担ぎあげてトランクに乗せるのも大変になってきたし、古い車を買っても車検や修理でどうせお金がかかってしまうし、これから娘も乗るわけだか ら紫乃が乗りやすいような車を頑張って買うべきだと言うんだな。娘もおばあちゃんが積み立ててくれたお金やお年玉を貯めていた分などで少し出すという。い つも彼女たちが正しいんだよ。ふだんは車にはまったく興味のない家族三人がにわかにWebなどであれこれと調べ出して、条件は車椅子が積めること、クロス バイクが積めること、車中泊に適していること、そして今回、将来的に娘がじぶんで車椅子を積んで出かけられるようにと、床面の低い、電動式のスライドドア もそこに加わった。もちろん値段もあるけどね。そうしてみんなが選んだのが某メーカーの、コンパクト・ワゴンカーとでもいうのかな。昨日は朝から近所の メーカー自販中古車店へブツを見に行って、じっさいに見に行ったら内装も上質な高級タイプがいいとか、スライドドアの電動は片側だけでもいいけど娘の車庫 入れのために全方位モニターはあった方がいいだろうとか、いろいろ要望が出てきて、午後から三人で出かけた京都南部のつれあいの従妹の屋で中古車のセリ用 のシステム画面を見つめながら結局、「あれこれオプションが付いた3年落ちくらいの状態が良いもの」を探してもらうことになった。カラーはわたしはノー タッチで、女性陣が希望候補の色をいくつか伝えていた。予算は諸費用も含めて200万以内。これは老後資金などかけらもないわが家にとってはぎりぎり精一 杯の金額だ。10万からスタートした初代からじつに20倍にもなったわけだ。これはアホノミクスや無用な戦争の影響もあるのだろうけど、20年前のノート だってどこかアジアの国へでも持って行けばまだまだ10年20年30年、修理しながら大事に乗れるはずなんだけど、2〜3年おきの買い替えが定着したこの 国(そのために高値で売れる白黒にこだわるとか)の文化や価値観はわたしにはいまだに馴染めない。でも分かっているよね、いつも彼女たちが正しいんだ。こ れはわたしとつれあいが買ういわば「最後の車」で、半分は「娘の車」でもある。「もうすこしノートのままだったら、少しばかりこすったりぶつけたりしてか ら、そろそろ新しいのに買い替えようかだったのに、免許取っていきなり新しい車を運転しなきゃならないんだから、まったく!」と娘は母親にぼやいていたけ ど、満更でもなさそうだったよ。わたしはわたしで、まだ時給850円で家族三人で生活していたときに引っ越した県営団地で購入しなければならなかった風呂 釜と浴槽をWebで安く購入して、人生でいちばん高い買い物だったとつれあいに言ったことなどを、なぜか思い出したりしていた。
2024.3.30



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 カナファーニー『太陽の男たち』を読了する。赤錆びた給水車のタンクにころがった物言わぬ三つの亡骸と、灼熱の砂漠に谺することば「なぜおまえたちはタンクの壁を叩かなかったんだ。なぜ叫び声をあげなかったんだ」はそのまま、この世界のむなしき中心だ。  

さて多くを語らぬものは
多くの中絶をもつものだ
死はいつも豊富なヴイジヨンをせきたてて
時間の外へつれてゆく
それをさぐることは
世界をさぐることだ

(吉本隆明・時のなかの死)

2024.4.3



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 世界に無数に横たわる死や慟哭に見合うだけの身体を持たないので、変りばえのしない日常を送りながら休日に家族とハンバーガーやフライドポテトをその口 に放り込みながら、精神はどこか宙ぶらりんのまますっかり所在を失って途方に暮れているのだ砂の中にゆっくりと沈んでいく錆びた錨のように。ひとがひととしてこ われてゆく、そんな世界にわたしたちひとりびとりは生きて、殺しての後の行くべきみちをだれも知らない。なにを読んでも、なにを聴いても、なにに触れて も、どれも生気をなくしたつまらぬ断片のようにしか感じられない。なによりわたし自身、じぶんの足がどこに直立しているのかすら分からないのだ。それは死 臭のこびりついた瓦礫の上か、首を切り落とされた猫の死骸の上か、無残に倒された墓石の上か。足はいずれそれらの上に立っているが、身体は実体の失われた 虚仮をさまよっているので、わたしはその乖離に耐えられない。じきに内側からばらばらと自壊するのだらう。そんな状態で、わたしはいったい何処へあるいて いこうとしているのだろうわたしのあわれなこの足は。舐めた口元の血を拭い『もとの純白にかえる』ことの出来ぬ存在としてのにんげん。岩と金属の冥府をさまようているにんげん。き みよ、よみがえれ。きみよ、よみがえれ。きみよ、よみがえれ。飢えで膨れた腹も死して膨れた腹もどちらもいとおしい。わたしの身体が、わたしの首を求めて さまようている。 「おそろしく基本的な時代だ、いまは。人間自体とひとしく、あらゆる価値や道 徳が素裸にされてぎゅうぎゅうの目に遭わされている。ひょっとすると、いまいちばん苦しんでいるもの、苦しめられているものは、人間であるよりも、むしろ 道徳というものなのかも知れない」 堀田善衛『時間』
2024.4.9



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 休日、午前。自転車で散髪に出かける際に来世墓へ立ち寄ったら、ちょうど一週間前に郡山紡績寄宿舎工女・宮本イサに手向けた桜の一枝が茶色くなって無縁 墓の上に平たく張り付いていた。あの瑞々しかった薄紅色の生気を124年前に死んだ彼女があちらの世界から吸い上げたこれはその残滓だろうと、わたしはな ぜか得心して、少々うすら寒くもあり、また同時に妙にうれしくもあり、その押し花のようになってこちら側の世界にもどされた茶色い一枝をそっと拾 い上げてかいなにいだくように、ウェストポーチに入れていた一冊、姜信子さんたちの『被災物 モノ語りは増殖する』(かたばみ書房・2024)の見返しに はさんで持ち帰ったまるで顔も知らぬ宮本イサとの時空を超えたひそやかな交換日記のように。枯れ果てた桜のちいさな一枝は百年の死者と生者をつなぐモノ語りであっ て、わたしはそのとき宮本イサのやわらかな細い指先にたしかに触れたような気がしたのだ。

 「記憶」とは、言うまでもなく過去の単なる「記録」ではないのだということ。
 私たちにとって大切な記憶とは、そこに共に在った「人」「モノ」「出来事」そのものよりも、そこに宿っている歓び悲しみ痛み怒り苦しみ温もり楽しさ切なさ寂しさ恥ずかしさ愛しさ恋しさといった感情なのだということ。
 生きているひとりひとりの記憶の風景の襞々に染みわたっている、言葉にはしがたい感情。それこそが記憶の芯にあるものだということ。(中略)

 私たちは東日本大震災には関わりのないことを語りだしたかのようでありながら、モノ語る私たちの声や体や言葉や記憶の芯のところには、「被災物」の「モノ語り」に脈打つ感情、命の声がどっと流れ込んでいます。
  思うに、大きな声で語られる、いわゆる「大きな物語」には、そういう芯のようなものがないですね。浄化された記憶、あるいは、わかりやすく一本化された感 情に貫かれた物語、とでもいいましょうか。みんなが似たような声、似たような感情、似たような言葉で、饒舌に経験や出来事を語るとき、あるいは、そう語る しかないとき、命の記憶は口を塞がれてじっと息を潜めている。とても切ない、苦しい、危うい。

  気がついてみれば、私たちにとって「モノ語り」に応答するとは、他者のひそやかな命の記憶に耳を澄ましつつ、みずからもまた命の声で語りだすことなのでし た。記憶を継承するとは、命の声、命の言葉を忘れぬ者たちのつながりを形作っていくであり、命の記憶をモノ語ることをけっして忘れぬ者でありつづけること なのでした。
 それはおのずと、私たちの命や記憶や言葉を、私たちではない別の何かのために使いまわしたり、斬り捨てたりする大きな力への抗いとなるでしょう。
 人は太古よりそうやって命の記憶をつなぎ、他者の命も自身の命も生かし合おうとしてきたはず。
 なにより、そうして命の記憶を「モノ語る」とき、きっとそこには命への祈りがある。

(姜信子他『被災物 モノ語りは増殖する』 かたばみ書房・2024)

  そのように、郡山紡績寄宿舎工女・宮本イサが死んだ124年後の2024年の葉桜の季節にわたしは、いやわたしたちは交感し合えるのだということをたしか に知ったのだった茶色く枯れた桜の一枝を通じて、「口を塞がれてじっと息を潜めている」記憶を命をモノ語ることを通じて。わたしたちは交感し、命をモノ語 り、「大きな物語」に抗うことができるこんなちいさな一枝の残滓から。
2024.4.13



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 休日。コロナ感染から無事ケアハウスへ帰還した義母と、長らく病棟にて経鼻経管栄養を継続中の義父を訪ねる。前回、意識混濁として視線定まらぬ義父は、 こちらの話にも明瞭にうなずき、なお且つ何かを語ろうと発語を試みるのだが遂に聞き取れず。四人部屋の他のベッドもみな鼻に管を付け、口を開けて眠る者、 うなりつづける者、看護師に何かを哀願する者。ごぼごぼという痰吸引の音が発語に代わって病室に響きわたる。覗けば4階はそんな様態の老人たちばかりで、 人はどこまで生きなくてはならないのかという問いさえ、吸引カテーテルの奥から痰と共に吸い上がってくるような錯覚を覚える。途中で立ち寄ったつれあいの 妹さんの家のほど近くに、かねてから訪ねたかった小さな集落と古堂(こやた)があり、一人で急ぎ歩いてきた。『紀伊続風土記』に「村民行基の教を奉して専 ら火葬の事をなす、因て聖の教をなす村といふ義にて聖村と呼ふなり。即隠坊村なり、今は隠坊を職とする者は村中にて家を別にして、其ノ余は皆農民なれとも 尚他村よりは婚を通せす」とある、その集落の背後の小山に無住の阿弥陀寺があり、1390(明徳元年)年の宝篋印塔が立っている。背後の竹林は「廟所山」 とも言い三昧所、中世からの墓地である。「土葬する者棺を半ハ露はして埋めとも、禽獣の類発掘の憂なし、此ノ地葛城の山麓にて豺狼の類時として来る事あれ とも、古より発掘せることなき故、今に至りて土葬する者棺を半ハ露すを例とすいふ」 古堂の裏手には夥しき無縁墓石仏多数列をなし。ところでわたしたち家 族三人が義母のケアハウスの面会に入ったとき、玄関前のロビーのソファーで迎えてくれた老婆たちが「四人さん」と呼ぶのを娘が聞いて父がもう一人連れて来 たのかと思ったらしいが、それはその聖村を訪ねる前のことであったから、連れて来たのであれば奈良・郡山からということになる。
2024.4.20



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 はじめに、笊に載せたたくさんのおにぎりとゆで卵が観客たちに配られる。「梅干しとキムチ、どっちがいい? わたしには分からん」 「あんたゆで卵みた いな顔をして」 それは虐殺から山中へ逃れた者たちへ麦飯を運んだエピソードだ。その笊は運よくわたしの席にも回ってきて、キムチだったらいいな、と思い ながらラップにくるまれた小さなむすびをひとつ手にした。それから、紙と棒でこしらえた人形たちがやってくる。いまは亡き済州島の人々であり、日本へ逃れ てきた人々の似姿でもある。密航船でみなを日本へ連れてきたシンさんが日本で亡くなったときにシンさんの葬式にはだれも来なかった。葬式に出ればじぶんが 密航してきたことが分かってしまうから。そんな語りのあとで、紙と棒の人形たちがやはり前列の観客たちに手渡される。「社長さん、済州島から来たこの子た ちを雇ってください。働かせてください」 観客はそれぞれ人形を手にして劇を見つづける。舞台では、生きるために文字すらも読めない国で必死にはたらく人 びとが一人びとり、椿の台座に据えられていく。「わたしはキムチ屋」「わたしはパチンコ屋」「わたしは廃品回収」 舞台いっぱいに立ったそれらの似姿は、 やがて済州島に残った人々の運命となる。容赦ない軍人や警察官が手にした竹竿によってかれらはなぎ倒され、宙に飛び散る。銃声。叫び。日本へ逃れてきた幼 い少女を抱きしめながら胸が張り裂ける。アイゴー(아이고〜)。大地に飛び散った人形たちは前列の観客たちの手も借りて和紙の船に乗せられて退場してい く。朝から冷たい雨。午後に、当初は奈良のギャラリー勇斎で開かれている安藤栄作さんの個展を娘と二人で見に行くつもりで、娘は奈良演劇のチラシの打ち合 わせをそのために午前中に変更してくれたのだが、JR奈良駅から車椅子でぶらぶらとあるいて隣の立ち飲みスタンドで利き酒して気に入ったやつを買って帰ろ うなぞと話していたのだが雨ではそれも厄介で、利き酒は我慢して車で近くまでとも考えたが杖をついての歩行は濡れた路面も危うく、娘の方から「やっぱり今 回はやめておく」と言ってきた。それでわたしは急ぎ夕飯の粕汁とお昼に皿うどんをつくって、天王寺行きの電車にぎりぎり飛び乗った。在日本済州四・三76 周年犠牲者慰霊祭。コロナ禍のZOOMではなんどか見たけれど、やはりいちど現地で参加してみたかった。北口の交差点を渡ったラブホテル街の路地には少々 太っちょの立ちん坊が三人ほど、さびれたホテルの軒下に傘をさして立っていた。統国寺はそこからじきだ。冷たい雨のなか、テント下のパイプ椅子にすわっ た。読経があり、追悼の辞があり、在日コリアンのグループによる追悼演奏があり、会場を屋内に移しての第二部が劇団石(トル)による「きむきがん済州四・ 三鎮魂劇 流民哀歌 ―四月よ、遠い日よ―」であった。会場で頂いた四・三事件を説明した小冊子のなかに作家の金石範の言葉が引かれていた。「記憶が抹殺 されたところには、歴史がない。歴史がないところには、人間の存在がない。つまり、記憶を失った者は、人ではなく死体のような存在である。半世紀近くも記 憶を抹殺された「四・三」は、韓国の歴史に存在してこなかった。口にしてはならないこと、知っていても知ってはならないことだった。私は、これを「記憶の 自殺」と呼ぶ。恐怖におののいた島民たちが、自ら記憶を忘却の中に投げ込んで殺した「記憶の自殺」だった」  わたしはこのごろずっと、死者の記憶と交わ ることばかりを考えている。その手法について模索している。それはやっぱり124年前に死んだ郡山紡績寄宿舎工女・宮本イサや、104年前に18歳で死ん だ女工・金占順(김점순、キムジョンスン)のことである。わたしは彼女たちの記憶をどうやって現在に蘇らすことができるだろうかと考えている。済州島から 密航船に揺られてわたしに手渡された人形はキムジョンスンであった。帰り道に傘を差しながら食べたおにぎりはキムチだった。韓国海苔に包まれたそれはまだ ほのかに温かかった。米と麹だけでつくってきたけれど劇中に使うタイミングがなかったらぜひ呑んでいってくださいそれも死者の供養になると思いますからと ふるまわれたマッコリも酸味が利いて美味しかった。食べ物と飲み物が死者の記憶と交わる。ラブホテル街の立ちん坊は一人に減っていた。帰宅して、家族が寝 静まった自室で、人形のキムジョンスンと語り合っている。
2024.4.21



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