• ゴム消し 5/5 ゴムログ BobDylan 木工 Recipe others 沖浦和光 BBS link mail
     

     

     

     

     

     

     

     


    A ten year old child is killed when Israeli war planes target his home.

     

     

     

     

      ソマリアに行く前は、世界というものをひとつの場だとしたら、ぼくは中心概念というものを無意識に持ってたわけです。中心とは、たとえば東京だったり、 ニューヨークだったり、ワシントンDCだったり、ロンドンだったりしたわけですね。しかし、飢えて死んでいく子供たちを見て、中心概念は全部崩れました。 餓死したって新聞に一行だって記事が出るわけじゃない。お墓がつくられるわけでもない。世界から祝福もされず生まれて、世界から少しも悼まれもせず、注意 も向けられず餓死していく子供たちがたくさんいます。ただ餓死するために生まれてくるような子供が、です。間近でそれを見たとき、世界の中心ってここにあ るんだな、とはじめて思いました。これは感傷ではありません。これを中心概念として、世界と戦うという方法もあっていいのではないかと考えました。餓死する子供のいる場所を、世界の中心とするならば、もっと思考が戦闘化してもいいのではないかとも考えました。

      世界はもともと、そして、いま現在も、それほど慈愛に満ちているわけではない。そして、すべては米国による戦争犯罪の免罪の上に成り立っている。じつにお かしな話なのですよ。情報の非対称の恐ろしさというのは、これだと思う。アメリカで起きた屁のようにつまらないことが、まるで自国のことのように日本でも 報道される。けれども、エチオピアで起きている深刻なことや、一人あたりの国民総生産がたった130ドルのシエラレオネで起きている大事なことは、まず日 本では報じられない。この国では、どこのレストランが美味いか、どこのホテルが快適か、どこで買うとブランド商品が安いか、何を食えば健康にいいのか、逮 捕された殺人容疑者の性格がいかに凶悪か、タレントの誰と誰がいい仲になっているか....といった情報の洪水のなかでぼくらは生きています。伝えられる べきことは、さほどに伝えられなくてもいいことがらにもみ消されています。アフガンもそうやってもみ消されてきたのです。

     そのときに、言説、情報、報道というものはこれほどまでに不公平だ、こ の土台をなんとかしない限りは、ものをいっても有効性は持ちえない、どちらかというと無効なんだと思いましたね。同質のことをいま、ぼくはまたアフガンで 見ざるをえない。若い人は、まだ報じられていない、語られていない、分類されていない人の悩みや苦しみに新たな想像力を向けていったり、深い関心をはらっ てほしい。ブッシュやラムズフェルドやチェイニーの貧困な想像力で暴力的に定義されてしまった世界、しかもその惨憺たる定義が定着しつつある世界を、新し い豊かな想像力でなんとか定義しなおしてほしい。それには相当の闘争も覚悟せさざるをえない。でも、そうしないと、ブッシュたちの定義にならされていくと 思います。

    反定義 新たな想像力へ(辺見庸+坂本龍一・朝日新聞社)

     

     

     

     

     

     

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     アリランとはなにを指すのか。じぶんを見捨ててはなれていく者が、十里も行かずに足が痛む、と歌う。後悔なのか、呪詛なのか。痛む足はほんとうは泣いて いるのか。捨てられた者の最後の矜持なのか。それでも愛するということか。口ずさめば口ずさむほど分からない。口ずさめば口ずさむほど狂おしくがんじがら めになる。生きていくことはのっぴきならない。この世は橋か峠かさみしい鉄路か。アリラン アリラン アラリよ。おれもおれのアリラン峠を越えていきたい。

    아리랑 아리랑 아라리요
    アリラン アリラン アラリよ

    아리랑고개로 넘어간다
    アリラン峠を越えて行く

    나를 버리고 가시는 님은
    私を捨てて行かれる方は

    십리(十里)도 못 가서 발병(-病)난다
    十里も行けずに足が痛む
    2020.9.7

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     灯ともし頃の心斎橋に安藤さんの個展を見にいった。始原の石ころのような木っ端。さかなのような木っ端。見たことはないけれど、カンブリア紀のこの星の ような生命のたまごたち。歴史の断層。氷の厚い塊にとじこめられた太古の空気のひだ。脳髄のような厨房ほどの空間をうろうろとあるきつかれてかたすみの丸 椅子にすわりこみ、ああ、ここはどんな場所だろうかとつぶやいた。一体のひとがたが、オレハコレダ、オマエハナンダ、と迫る。わたしはこたえられない。ど うでもいい見てくれとこの世のパンばかりの皮を幾層もかぶって、わたしたちはじぶんが、かつてどんなかたちであったかすらもわすれてしまった。うごかない ものたちが始原のいのちたちであった。所在なくうろつきまわるわたしたちは生暖かい硫黄の臭気のしみついた鳥獣剥製所のあわれな剥製であった。燃え上がる 花よ、鋳型に注がれた草よ、毛皮よ、鱗よ、遠いかなたの祭日よ、思い出せ。
    2020.9.18

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     肩の高さほども群生した羊歯植物をかき分けて、にんげんがいない臭いすらしない場所が落ち着くんだ。蜜蜂が絶滅すれば人類は数年で死に絶えるとアイン シュタインが言ったとか、にんげんが死に絶えたらこの惑星の調和がもどるだろう。風がわたり、水がそよぎ、葉がこすれあい、光がはじける、鳥たちのさえず りのあいだを。じつにわたし自身もまごうことなくにんげんなのだが、わたしはここではにんげん以外のものになりたい、花でも樹木でも蜜蜂でも。(「咲くや 遅しとザクッと切られ / 風に打たれ 割れて裂かれて / 血まみれにくずおれた / 花びら」でもいいが、いまは違う) わたしはたとえば地中に沈潜 して微生物に分解され水滴のひとつぶとなって、賢者たる老木の根毛から維管束を一気にかけのぼり光のかなたへ飛び出したい、わたしのほんとうのかえるべき ばしょへ。ニコルさんの「ティキシィ」では極北の世界に魅せられた白人の青年がひとりきりの世界でつぶやく。「たしかに。ティキシィは無にちがいない。人 間のなかの魂だけだ。人間との結びつきが一切ないのだから、ティキシィは独りだ。おれはほかの人間がこわiい」  青年の魂はワタリガラスにのりうつり飛 翔する。「アイヤー! アイヤー! わしの魂は石のなかに閉じこめられはしない アイヤー! アイヤー! 風にのって、わしの魂は 墓地の塚の間を 目印 の石塚のほとりを そして湾の水を越え 海の空の灰色が沖の開水路に 浸るところまで 吹かれ吹かれて行くであろう アイヤー! アイヤー!」  そんな ふうにわたしは古代の羊歯のまどろみのなかでおもいだす。
    2020.9.26

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     「家族遺棄社会」(菅野久美子・角川新書)を読んでいる。人知れぬ無数の孤独死の現場に圧倒される。内閣府は平成30年12月、全国から無作為に抽出し た40歳から64歳の本人と同居人への調査で、広義のひきこもり推定は61万3千人とはじき出した。じっさいはもっと多いだろう。2011年におこなわれ たニッセイ基礎研究所の調査では日本全体の孤独死者数は約2.7万人にのぼるともいう。社会からはじかれ、あるいはみずから社会を遮断し、強烈な悪臭と熱 と寒さと孤独のなかで疲弊してやがて身体も衰え、ゆるやかな自殺を遂げて部屋の片隅のシミとなって消えていく。年2.7万人であれば毎日74人がシミとな る計算だ(2020年の現在はさらに多いだろう)。シミは自業自得なのか。シミは自己責任なのか。くそったれめ。そんなこというお前らこそがかれらを哀し いシミへと追いやったんじゃないのか。おれは空想する。シミとなって消えていった何十万ものかれらがこの忌まわしい世によみがえって何百万ものアイヌの花 矢を地上に放ち輝かしく行進していくさまを! 

    この国はいったい、どこへ流れていくのだろう?
    2020.10.5

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     京都・八坂神社の南、親鸞の墓所である大谷本廟からつらつらと尾根筋をのぼって清水寺へ至るあいだにひろがる東山の広大な墓域はかつて化野や蓮台野とな らぶ平安京の三大葬送地のひとつであった。身分の高い者は荼毘に付され墓がつくられたが多くの死者は野ざらしであった。一説には山の枝に遺体をかけて鳥が 食べやすいように処理して風葬にしたことから鳥辺野とよばれたとも聞く。その鳥辺野墓地の入口に堂々たる軍人墓に囲まれた自然石の肉弾三勇士の墓がある。 「然るに三勇士は実に吾真宗門に出づ。亦以て宗門の栄誉と謂ふべきなり」  沖仲仕や炭鉱夫などの貧しい家の出の若きいのちが四肢四散し軍や坊主や部落解 放の宣伝に担ぎ出され人びとは熱狂し歌舞伎や映画はてはレコードやグリコのおまけにまでなってそのままの電通姿で眠っている。男根の如くそそり立つ軍人墓は 参道沿いに多かった。三勇士から5,6年後のいわゆる「支那事変」で斃れた奈良の耳成村の兄弟の墓もあった。歩兵38連隊である。「資性温厚篤ニ シテ慈愛ニ富ム」  「昭和13年11月1日英霊凱旋同月6日村葬」  いつものように報われぬ死者たちの名を読み上げながら鳥辺野一帯をさまよって清水 寺のはたにたどりついてアテルイ・モレの碑に挨拶だけしていこうかと歩をすすめれば拝観料エリアだったために引き返して親鸞御旅所ならぬ御荼毘処など覗い てこんどは鳥辺野の火葬・野辺送りの地であったと伝わる六道珍皇寺門前の六道の辻をくぐればおりしも特別公開中で冥土にくだりて閻魔大王にも仕えたという 小野篁(たかむら)像やかれが使った冥府への井戸も間近に見れてますますこの世とあの世の境が溶けていく心地であった。そのままギャラリー白川を訪ねれば 画廊主の女性と彼女の38年間のギャラリーの歴史をつらぬくジョン・ケージの銅版画やマルセル・デュシャンのサイン便器との馴れ初め話で大いに盛り上がり 人為を排した偶然はめぐりめぐって必然なのだそれが宇宙のリズムなのだと拝聴していたら本個展の今尾さんご本人もやってこられてはるさんの ギャラリーCreate洛以来。今尾さんの作品について画廊主は抽象の奥に具象がひそんでいると言ったがさらに言えば山川草木が細胞レベルの始原にたちも どりもういちどなにかを企てようとしているのだった。つまり肉弾三勇士も阿弖流為も小野篁も親鸞もみな解き放たれた光の粒子であってこの世とあの世を自由 に行き交い明滅している。それはジョン・ケージが企てたチャンス・オペレーション=あそびなのかも知れなかった。気がつけばおよそ一時間半をわたしは今尾 作品であそび、もう一時間半をケージの偶然の必然宇宙の会話であそんですでに昼飯も忘れて3時になっていた。菊乃井本店の裏に道元の荼毘跡を見つけたのよ という画廊主の言葉にさそわれて舗装の果てた草道の奥に道元禅師荼毘御遺跡の碑を見つけ思い出していたのは以前に松本の美術館で見た細川宗英の自由なのか 不自由なのか豊饒なのか欠損なのかすべてをつきぬけて存在が対峙する道元の立像だった。道元のこの世の肉体が炎につつまれてくずれおちる。わたしたちは解 き放たれた光の粒子にまいもどりふたたびのあそびをはじめる。
    2020.10.16

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     「民衆暴力 一揆・暴動・虐殺の日本近代」(中公新書)の冒頭で藤野裕子は、近代国家とは「ある一定の領域のなかで、レジティマシー (legitimacy:正統性)を有する物理的な暴力行為の独占を要求する(そして、それを実行する)人間の共同体」であるというマックス・ウェーバー の定義を紹介する。続けて藤野は次のように問う。「暴力の正当性を独占するのが近代国家の特徴であるなら、日本で近代国家が樹立される以前はどうだったの だろうか」  明治維新を経て廃藩置県・徴兵令・学制・賤民廃止令・地租改正といった新政府による政策が次々と断行された頃に各地で「新政反対一揆」が起 こっていた明治の始まりは、武士による暴力の独占が終焉し、まさに明治という近代国家が「暴力の正当性を独占する」ために諸々の制度を整えつつあるときで あった。軍隊組織は1871(明治4)年、廃藩置県に先立って薩摩・長州・土佐の献兵約6千人によって親兵が設置され、1873(明治6)年の徴兵制度に より全国を六軍管に区分して鎮台と営所が配置された。一方、警察制度については1871年に東京で邏卒3千人の取締組が創設され、「翌年には司法省保寮に よる全国警察の統合が図られ、その後、1873年に設置された内務省が全国警察を管理し、府県地方公吏が警察運営にあたる制度が整えられていった」  そ のため「新政反対一揆」の鎮圧においては旧藩の士族の力に頼らざるを得なかったり、一揆側も強権的に鎮圧を試みる邏卒を襲撃し、官吏を殺害するなどした。 藤野は記す。「警察権力に対して民衆がかくも容易に暴力を向けたことは、国家の暴力の正当性が確立していなかった証しといえる」 「正当的な暴力の集権化 が未確立であるがゆえに、新政反対一揆の暴力は激烈なものになった。それと同時に、一揆が鎮圧される経験をとおして、国家の暴力が正当・正統なものとし て、民衆に認知されるようになったのである」  つまり、国家の暴力とはけっして自明のものではない。それは暴力的に奪い得た「正当性」に過ぎない。わた しは夢想するのだ。辺野古基地反対ですわりこむ地元の老婆たちが機動隊や自衛隊とおなじ暴力、武器を所有していたら国家権力は老婆たちをあのようにやすや すと持ち上げ引き倒し排除できるだろうか。きな臭い、もと来た時代の匂いが立ち込めている。思えばあの「戦争法案」の頃からこれは憲法違反だと多くの学者 や有識者や野党の政治家たちが異を唱えたが何も変わらない。法がないがしろにされるのであれば拠って立つものはなにか。明治のはじまりの空白期といまは何が違うのか。いまや憲法違反は日常に埋もれかけている。女性をレイプした政権寄りのジャーナリストが許さ れ、文書改竄を指示され自殺した国家職員の真実が闇に葬り去られる。わたしたちと奴らの違いはどこにあるのか?  それは究極のところ、「レジティマシー (legitimacy:正統性)を有する物理的な暴力行為の独占」だ。すべて(Dignity:尊厳)を奪われたわたちしたちは<暴力>を みずからの手にとりもどすべきじゃないか。草取りの鎌や書類整理のカッターでやつらの喉首を掻き切って生暖かい返り血をこの身に浴びるような<暴力 >を。自明でない者たちの手から正当性のない<暴力 >をとりもどせ。
    2020.10.19

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     わたしが軍人墓をめぐるようになったのは、例の「戦争法案」反対の国会前デモに参加した翌日に生涯ではじめて訪ねた靖国神社・遊就館でこちらを見つめる 無数の「英霊」たちの写真を目の当たりにして立ちすくみ、この「英霊」たちをやつらの手からとり戻さなければいけないと思ったからだ。目に入った共同墓地 を訪ねて軍人墓をさがし、名前を読み、墓石に添えられた履歴を読んで、わずかな時間だが失われたいのちに思いを馳せる。記録を残すわけじゃない。いやむし ろ記録など残さない、一期一会の出会いでいい。そうやって何百の「英霊」たちを訪ねたか。シベリア抑留で亡くなった4万6300人の名前を1人ずつ読み上 げて47時間がかかった。米粒で300万ともいう戦没者を数えて掌ですくえば指の間から漏れ落ちる一粒ひとつぶもその残像が眼裏(まなうら)にのこる。わ たしはまだほんのひとにぎりの「英霊」たちに出会ったにすぎない。
    2020.10.22

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     昨夜、仕事帰りに近所の駐車場に葬儀屋の軽トラックが止まっているのを見てもしやと思ったら、やっぱりそうだった。町内最高齢のAさん、97歳の大往 生。もともとわが家に隣接した三軒長屋の最後の住人でだいぶ以前にご主人を失くしてからずっと一人住まいだったのだが、その長屋が取り壊しになってやはり おなじ町内の空きのあったべつの長屋に移り、ことしの春頃までは一人でキャリーをついて駅前のスーパーまで買い物へ行っていたのだけれど、その後寝たきり になってしまい、息子さんのお嫁さんがニット工場の仕事の合間に毎日、早朝・昼・深夜と世話をしに来ていた。昨日の夕方、様子を見に来たら布団の中ですで に亡くなっていたという。むかしのアルバムを探したらちょうど9年前の夏、まだ引っ越して間もない頃の何もないわが家の庭にAさんが来てくれて、つれあい に鉢植えの指南をしてくれたときの写真があった。娘はまだ小学生で、いまはもう伐採されてしまった緑地公園のさるすべりの樹木もまだ当時は白い花を咲かせ ていた。わたしが近くの古い歴史を持つ浄土真宗のお寺に作家の高史明さんの講演会を聴きに行ったのも、そのおなじ日だった。葬儀は近親だけで執り行い、弔 問も香典も辞退ということだったが昼間、つれあいが近所の人とお線香をあげに行って来た。布団にくるまったAさんの腰のあたりに飼っていた三毛猫が寄り 添って動かなかったそうだ。年寄りばかりの町になるというけれど、年寄りが櫛の歯のように一本づつかけてゆく町もまたさみしいものだ。
    2020.10.27

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     昨夜から死んだもののことばかりを考えて死んだものがこの世に残した音楽ばかりを聴いている。米国大統領選は世界の経済やその他もろもろに影響するのだ ろうがわたしはそんなことよりも真鶴の海岸でおぼれ死んだたこ八郎のことを歌った友川カズキの歌詞のうしろをふらふらとついてあるく。「そうだ友よ 愛しきものらは傷つき汚れてさえあんなにヒョイと無防備に立っている」 愛しきものらをぼくらはこんにちいったいどこに持ちえるのか。今日は仕事の帰り JR伊丹駅に併設された観光案内所と物産店を兼ねたブースを電車の待ち時間までと覗いた。「猪名の露」なる純米酒を一本レジへ持っていくと、「これ、おす すめです」と中年の女性がこっそり言って微笑んだ。「今夜、さっそくいただきます」とお辞儀をして店を出た。世界が明日どうなろうとわたしは明日もやっぱ り死んだもののことを考え続ける。1986年のまだ寒いフロリダのモーテルの浴室で首を吊ったたましいがこの世に置いていった抜け殻を羽織のようにまとっ て杯を重ねる。生きているものはみな見苦しい。
    2020.11.4

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     わがソウル・メイト嶽本さん作の大逆事件二部作(『太平洋食堂』『彼の僧の娘』)の東京公演まで一ヶ月を切った。嶽本さんが主宰する劇団メメントCでの 本作の公演はこれが最後だという。大逆事件に連座し山形の監獄で縊死した新宮の僧侶・高木顕明の娘を追った芝居をわたしが縁あってまさに新宮の老舗旅館で 観たのは4年前の夏だった。そのときドングリのような淋しい眼をした高木顕明の魂魄がわたしの頭上をくるくると飛び回っているのをわたしはたしかに見たの だった。帰り道の真っ暗闇の熊野の山中でそれはわたしの車から飛び出ておそらくシシ神さまにでもなったんだろうねっとりと息づく植物たちの闇のなかへと飛 び出していった。熊野の深い山中へ行けばいつでもかれらに会える。百年も前に起きた明治の世の弾圧事件をいまなぜ考えるのか。それはいまも終わっていない からだ。平等でモラルを湛えたあたらしい世の中を願った者たちの生が突然、理不尽にも断ち切られた。それは先の見えない混迷の極に達した現在にあって百年 前の古いアルバムではない、まさにいまだ。わたしたちはじぶんたちみずからがこの歴史の実時間にあって大石誠之助を高木顕明を生き直すことができる。すで に自殺した財務省職員の赤木さんがいるじゃないか。明治44年は令和2年である。古い建物が取り壊されて更地になると、そこに何があったのか思い出せなく なる。わたしたちは大地に杭を打たねばならない。この国の腐った根茎は鵺のようなざらついた空気は相互監視の愚民体質は一切合切何も変わっていない。みず からがどこに立ち位置を据えるのか、そろそろ覚悟しておいた方がいい。コロナ第三波の予兆もあるが、ひとの精神的な活動は止められない。この時期に大勢の 人々を動かし会場を押さえ予行練習に励む演劇の上演を企画すること自体が大きな賭けである。わたしはすでに公演チケットを購入した。東京の腐れ縁の友人と 見てくるつもりだ。できれば応援、お願いしたい。劇場まで足を運べない方はネット配信のチケットもあります。よろしく。
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    メメントC+『太平洋食堂』を上演する会
    明治百五十年異聞『太平洋食堂』『彼の僧の娘』
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    公演スケジュール
    12月2日(水)18:00「太平洋食堂」
    12月3日(木) 13:00「太平洋食堂」
    12月4日(金) 13:00「太平洋食堂」/18:00「太平洋食堂」 
    12月5日(土) 13:00「太平洋食堂」/18:00「彼の僧の娘」
    12月6日(日) 12:00「太平洋食堂」/ 17:00「彼の僧の娘」
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    場所:座・高円寺1 JR高円寺駅 北口徒歩5分
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    ◆明治百五十年異聞『太平洋食堂』『彼の僧の娘』
    https://www.facebook.com/events/781179542698177/
    2020.11.7

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     フランス在住の舞踏家であり映画監督である岩名雅記さんが体調を崩し、検査の結果、胸膜の悪性腫瘍であることを告白したのが2020年の9月初旬だっ た。今日11月12日、その岩名監督が亡くなったという友人たちのメッセージをタイムラインで読んだ。わたしが監督と知り合ったのはSNS上、2018年 6月に facebook のメッセージで監督みずからの友人申請を頂いた。それからお互いのタイムライン上でときおり、コメントをやりとりしていたと思う。2019年1月、やはり メッセージ添付でワードで打たれた監督の手紙が送られてきた。次回の映画作品として準備している、孤独なテロリストの物語のシナリオについて参考意見を訊 きたいという内容であった。それから何度か、メッセージで手紙のやりとりをした。暴力について、テロリズムについて、深淵について。そして奇しくもこの国 のあたらしい元号とやらが「事前公表」された2019年4月1日、松島新地にちかい大阪・九条のシネ・ヌーヴォでわたしは監督の「シャルロット すさび」 を見たのだった。きな臭い時代の幕開けのその当日に、わたしは叛乱する岩名作品とまさに添い寝をしたように思った。おのれとよく似た魂の形状をしていると 感じたのだった。上映終了後に狭いチケット売り場で監督の旧作のDVD三枚を買い、「シャルロット すさび」のパンフを記念に求め、そのままそそくさと表 へ出ようと思ったら売場の女性から「監督のサインももらえますよ」とかたわらに控えていた岩名監督の方へ押し出されてしまった。パンフレットの表紙にサイ ンをしてもらいながら「この映画をどこで知って頂けましたか?」みたいなことを監督に訊かれて、わたしは観念して名前を名乗った。すると監督から映画館の 向かいの喫茶店に誘われて約一時間ほど、二人きりで膝をつきあわせて話をしたのだった。監督から「あなたの思想形成についておしえて欲しい」と言われて、 わたしは閉口した。結局、わたしはその日、じぶんのことばかりをしゃべって、あとで後悔をした。監督に直接会ったのはそれっきりだ。あの、あたらしい「元 号」が発表され、鵺のような有象無象の手が押し合いへし合いそれを伝える新聞の号外に手を伸ばした空虚な祭のようなあの日、わたしはシネ・ヌーヴォの向か いの水出しコーヒーがおいしい喫茶店で孤独なテロリストの次回作を企てる映画監督にわたし自身のどうにも格好のつかない過去について語っていた。それだけ なのに、なぜかわたしは、歴史の実時間としての分岐点とわたし自身の人生のある部分がホチキスか何かでパチリと嵌められたような、そんな気がした。帰って 記した映画についての駄文を監督はいたく気に入ってくれて、あちこちに貼りつけてくれた。あっという間だ。人は彗星のように過ぎ去っていく。わたしは家に 帰って娘に「人の一生は短い。好きなことだけを、やれ」と言ったのだった。岩名監督がたった一本の映画と喫茶店での一時間によってわたしに残していったも のは案外と大きいのかも知れない。孤独なテロリストの次作を見て、ふたたびどこかの喫茶店で一時間、もういちど監督と話をしたかった。ひとはいつも間に合 わない。いまごろ彗星のようにこの惑星の外を内を地中を水面を雑木林を尾根を深い霧に閉ざされた沼地を飛び交っているだろう。本来であれば私信なのだろう けれど、忘れがたい記念に監督との手紙のやりとりをここに再掲しておく。さようなら、さようなら。またどこぞの銀河の果てで、心地よい草葉の陰で。


    Aida Yosuke 様。

    まずは明けましておめでとうございます。
    FBではいつも貴重な投稿を拝見しております。

    さて新年早々おさわがせします。
    実は次回の映画作品のシナリオを準備しています。
    孤独なテロリストの物語です。
    私はどちらかと言うと<物語>が好きで<思想>に疎い人間です。特に哲学領域が超えられません。て言うことは才能がないということになってしまいますが^^。

    この二ヶ月、以下の5つの文章(この2年間くらいで注目した文章)を何度も見返して
    ドラマの思想部分を耕しているのですが、情けなやーー出来ません。
    そこでもし幸いにもお力添えくださるなら、以下の設問にお答えくださいませんか。

    (質問1)Aida さんが引用された宮内氏の「受け皿がない」と、4)辺見庸さんのハイデガーの引用「根底が見出せない」は同じことを言っているのでしょうか?
    (質問2)辺見さんの文は時折わかったようでわからない。『以来、この根底のない時代はずっといっかんして「深淵に懸かっている」。世界の夜の時代には、世界の深淵がいくども経験され、耐えられねばならない。』とは何を言おうとしているのか。
    もしお時間があり、ご助言いただけたら深く感謝です。その限りではないということでしたら
    決して<逆恨み>はしませんのでご遠慮なく「NO」とおっしゃってください。
    どうぞ、この一年、良い年となりますよう、ノルマンディの寓居より祈っております。
                                      岩名雅記

    1)  暴力を外へ向ける者も、内に向ける者も、世界を否定するという意味ではおなじではないか。そのなだれのような崩壊は、いつものっぴきならぬ始原の場所か ら発生する。かつて作家の宮内勝典はオウムの事件を評して「意識や精神の営みに、なんらかの意味をあらしめようとしても、この社会には受け皿がない」と記 した。わたしにはもう、それだけで充分だ。「この国には金と快楽以外に何があるんだ?」と叫んだというかれらは、たしかに道を踏み誤った。だが「一歩」を 踏み出すことすらしない者たちが、果たしてかれらを嗤い、断罪できるだろうか。世界に対してノーと叫んだかれらは、麻原という巨大なカオスに呑み込まれ た。何を言われたっていいんだよ。どうせ一度しかない人生だ。おれはこの世界に何の違和感も感じないで飄々と生きている多数の人畜無害の「善人」たちより も、トコロテンのように押し出されたとりかえしのつかないおまえたちのこころの闇を 愛するよ。(Aida Yosuke)

    2)今も右翼はテロを容認するのだろうか。
    事務所で向かい合った榎本さんは「正当化できるかできないかで言うと、(テロは)正当化できない」と言った後、「ただし必要だと思う」と続けた。
    「そ れがなかったら誰も議員さんを止められなくなるでしょう? 悪政に対する抑止力として、僕らはいなきゃいけない。必要悪。(そういうものが無いと政治家 は)言いっぱなし、やりっぱなし。思い付きで政治をやっていると、苦しむ人がいっぱい出てくる」大日本愛国党/榎本隆生氏(45歳)
    2016/11/9(水) 10:41 配信

    3)中村敦夫氏『私は忖度なしに言うことにプライドを持っている。プライドとは自身の宝である。勝ち負けはあくまで結果であり、大切な事は己のポジションを貫くこと。一匹狼には忖度はない。忖度するということは「いじましい」ことであり、自分を軽蔑することである。』
    『社 会で生きるということは一種の枷(かせ)や取り決めを持つということである。その枷や取り決めとは「いつくしみや悲しみの共感、同情」を生きることで ある。これらを持つということは<暫定的>人間として至上のものである。その取り決めを破壊しようとする力には「怒り」をもって対峙する』

    4)◎ トランプの脳天にMOABを投下せよ!
    ――誤爆ではなく、正確に直撃せよ
    世 界にとっては基礎づけるものとしての「根底」がみいだされなくなっている。と、ハイデガーがかたったのは1950年あたりだったか。以来、この根底のない 時代はずっといっかんして「深淵に懸かっている」。世界の夜の時代には、世界の深淵がいくども経験され、耐えられねばならない。そのためには、まずもって 「深淵にまで到達する人びと」を要する。
    世界の夜――乏しい時代は長い。「…そして乏しき時代にあって、なんのための詩人か」。あるいは、なんの ためのテロリストか。乏しき時代にあっては、暴力 はなるたけただしく行使されなければならない。トランプの頭にMOAB(Mother of all bombs)を投下せよ!誤爆ではなく、正確に、目的意識的に、直撃せよ。クソのつまったあのおぞましい金髪頭を吹き飛ばせ。
    Yo Hemmi weblog 14/04/2017
    http://soba.txt-nifty.com/zatudan/2017/06/201703170617-ed.html

    5) 自身の両眼の奥に逆に社会/宇宙を捕獲、射止めること、すなわち「誰がやる?お前か俺か?」などという戦略戦術としてのテロではなく、まさしく<自分>が 行うことによってあらゆる世間的良識や道/非道や善悪を乗り超えてしまう(自己の両眼の奥に世界を封印する)という実存的意思またはその存在を描く。目取 間 俊(主旨)

    以下の千坂恭二さんの投稿も思考の根拠になっております。
    Chisaka kyouji  アナキストを称する人は、まず、アナキズムが主張する自由とはどのようなものなのか考えるべきだ。それは資本主義の、自由主義のいう自由とどのように違 うのか。単に、より自由なだけなら、アナキズムは過激な自由主義にすぎない。アナキズムの自由は、自由主義の自由とは敵対することを考えるべきだ。  たとえば、バクーニンは、自由の全体性をいう。バクーニンによれば、アナキズムの自由は部分的なものではなく、また、自由は全体的なものであるため、そ の一部が否定されたならば、自由そのものが否定されたことになる。このようなアナキズムの自由は、思想・言論の自由のようなものとは異質だろう。  もう一つ、バクーニンは、アナキズム的な自由の神話的な先駆として、人間に神への反抗を説いた悪魔を名指し、悪魔を自由の先駆として肯定するが、この場 合の悪魔とは何か。いうまでもなく、それは神の外部だが、神の外部とは何なのか。そこには存在論的な問題があるといえる。

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    Masaki Iwana さま

    お 返事、おそくなりました。さて、最近の新聞紙面でわたしのこころにひっかかったのはノーム・チョムスキーが引用していたグラムシの、ヨーロッパにファシズ ムが台頭した1930年代の獄中での次のような言葉です――「古い体制が崩壊し、新しい体制がまだ形づくられていない。その空白期に多くの病的な兆候が表 れる」。わたしは高卒の無学な徒にすぎないので、「哲学」についてご質問をされたMasaki Iwanaさんの人選は甚だ間違いであったと思わざるを得ないのですが、ハイデッガーが愛したヘルダーリンはなぜかむかしから好きです。辺見庸がブログに 記した文章については「根底」「深淵」「乏しき時代」といった独特の語句に於いてハイデッガー哲学の読み込みが必要であるように思います。けれども何とな く感覚はわかるような気がします。たとえばハイデッガーがリルケについて書いた「●「乏しい時代の詩人たち」の特徴は、自分たちにとって言われるべきもの への痕跡を、彼らが詩人として辿っているがゆえに、詩の本質が問われるという点にある。●もしリルケが「乏しい時代の詩人たち」であるなら、何のために彼 は詩人であるのか、彼の歌はどこに向かって途上にあるのか、という問いに答えてくれるのは、やはり彼の詩だけである。」というような言葉。わたしの認識で はハイデッガーは「神は死んだ」と宣言したニーチェ後の哲学者であり、Ab-grund(底無しの深淵)に於いていまや、神はとおざかり、「残された者た ちは、徹頭徹尾「神去り」の後に佇む広大な「底無しの深淵」に対峙すること」しかない。「神の死後、残されているのは、「大いなる火の突然の消滅」という アポカリプス的な出来事を看過して、静寂に世界を俯瞰することである。」 無根底(根底が見出せない)とは、そのような寄る辺ないわたしたちのこの世界 ――まさにグラムシのいう「多くの病的な兆候が表れる」空白期のことではないでしょうか。「絶望の底を抜く」という言葉をわたしはまたFB友の塩崎さんか ら聞きました。その言葉について最近ずっと考え続けています。そのような意味に於いてご質問の、わたしが引用した宮内氏の「この社会には受け皿がない」と 辺見が引用したハイデッガーの「根底が見出せない」は、あるいはつながっているのかも知れません。「絶望の底を抜く」ためには、絶望の底にみずから降り 立って地面を叩き続ける者が必要なのかも知れません。そしてわたしは、先のリルケについてのハイデッガーの思考を考えます。「詩人たちは、救いなきものを 救いなきものとして経験しているがゆえに、聖なるものの跡をたどる途上にある。彼らの歌唱は、有ることの球という無傷のもの、無垢のものを寿ぐ。」 ある いはその「途上」にあって暴力、持たざるものの最後の抵抗としての暴力の噴出があってもいいのではないかとわたしは夢想します。聖も穢れもある古の都より 今後一層のご活躍を祈念しております。
    會田陽介

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    會田陽介さま。

    いただいたお手紙、何度か読ませていただきました。
    大変不埒な私の質問に誠実なお答えをいただき、先ずはそのご厚情に深く感謝します。
    はじめに感じたことは安易に「答え」を求めようとした私自身に恥ずかしさを覚えたということです。こうした事柄には答えがないということ、その上で、さらには答えがないことに安住しないこと、自分自身で探すことだということです。

    そ の上でやはり底無しの深淵/無根底(根底が見出せない)/絶望の底を抜く、といった言葉使いにはある程度の哲学的な思考方法がすでに込められていて、その 上で初めて考えなければならないということのようです。辺見さんの言葉使いも明らかにハイデガーやニーチェが前提になっていて、それを読破していないとわ からない、けれどそれを読者に説明する責務はとりあえず彼にはないというところから始まっているように感じました。

    僕の一番大きな誤解も しくは無知はこうした「底なし/無根底」は、明らかにキリスト教以前/以後(神は去った/神を追放した)が関わっていることを理解できていなかったことの ようです。それを抜きにして言葉としての「世界」や「世界の根底」を理解しようとしても無理だということでしょう。無論どこかでこれらの言葉は個人の生活 意識や社会的な認識とも関連してくるのでしょうが、やはりクリスチャニズムの只中にはいない自分にとって、なぜニーチェやハイデガーがあえて著作をものに しなければならなかったのかを理解しなければならないのだろうと思います。
    幸い僕もリルケの詩集が好きで彼の汎神論的な思考を弄んだりしたことも ありますが、もう一度読み返してみます。ともかくスクリプトを書くために<にわか勉強>をしても追いつかないということがよくわかりました。スクリプトの 内容を改めるか、もっとじっくりと時間をかけてみます。
    塩崎さんのお名前も會田さんの投稿でよくお見かけしています。できれば友人申請させていただきます。
    取り急ぎの御礼となってしまいましたが今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
                                感謝。
                                岩名雅記  1月18日

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    岩名さま
    頂 いたお返事をまだ咀嚼し続けています。「自分と同じ生命を保ち、いのちが終わるまでは永遠に呼気吸気して息づく者を殺すためには、全身全霊で「他者を愛す る」のと同様に「他者を殺す」ことの意味を自身に問わなければ」ならない、にはどこか戦慄を覚えました。「にもかかわらず他者を殺さなければならないとい う想い/決意に至るのは、愛してやまない対象が突然、あるいは次第にその存在を断ち切られていく場合の巨大な「忿怒/理不尽」に限られると思うのです」と いう件でわたしが思い出したのは、かつて愛読していた勝目梓の小説でした。足抜けをした元ヤクザが恋人を殺されて組織に復讐するのですが、死んだ女のすで に硬直して乾燥した陰部にいとおしく口づけする場面は、どんな文学作品よりわたしの臓腑に染み付いています。テロリストとは異なりますが、「無明の穴ぼ こ」というわたしの中に巣食う仄暗い風景のひとつとして、岩名さんにぜひ読んで頂きたい拙文があります。これは1997年に奈良県の月ヶ瀬村で起きた少女 殺人事件に関する小さなレポートで、わたしはひょんなことから東京の雑誌編集をやっている知人よりこれに関する地元記事のコピーを依頼されて興味を持ち、 現地を訪ねてみました。この拙文はこれまでわたしがWeb上で書いた中でいちばん読まれているものだと思います。この殺人犯・丘崎誠人の「無明の穴ぼこ」 も、わたしがいまだ拭い切れないもののひとつです。なんとなく岩名さんに読んで頂きたいとふと思ったもので、失礼ながら。
    http://marebit.sakura.ne.jp/oni.html

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    Yosuke Aida様。 今、大阪に来ております。以下、ちょっと埋め草的な駄文で失礼ですが、お許しください。 『幼い頃には無邪気にかれの車に乗り込んできた少女が、ある時から「世間」という得体の知れぬ皮をかぶり、他の大人たちと同様にかれに冷淡に背を向け る。』 頂いた貴文の中のこの部分が一番自分にはこころ響いてきました。無垢な少女がやがて「世間」という衣装を纏っていく過程、それが良い衣であれば良いが、ま さに「世間」という暗黙のお仕着せ衣装を着込まされていくーー。 私はごく中流のサラリーマン家庭で育ち、父親は新発田から出てきて横浜の夜間中学に通いながら中級製薬会社の三等重役を全うして、今の私と同じ年齢で身ま かりました。私は父も母も敬愛していますが、こと社会的な意識については我が家庭についてものごころつくうちに次第に違和感を感じ始めました。 例えば母は何の疑いもなく「あの人は朝鮮だからねえ」「朝鮮人と結婚するなんてねえ」とか「最近は黒ンボも見かけるようになった」みたいな言動をごく普通 に吐くのです。兄弟たちは全くそれに違和感を感じていないようでしたし、今でもそうでしょう。 こんな中で育った自分が社会意識を陶冶していくことは出来ず、親や兄弟の意識の荒波の中で自分の純な?意識をかろうじて守り抜く程度のことしか出来なかっ たのです。なぜ自分だけが我が家庭の中で異質な意識を持ったのか?時折不可思議も感じながら反芻しております^^。 今回、来阪前は練馬の兄の家に二泊しました。歓待はしてくれるのですが既に兄の言動の端々に「こいつだけはおかしい」と私に対して注視の視線を解くことは ありません。私にとっては驚くべきことですが、朝鮮や中国への明らかな(差別意識と言ったら言い過ぎでしょうが)区別意識があり、それはあらゆる議論の根 底にあるのです。こうした意識が日本人の大勢を占めると仮定するならば、この日本の社会がどう動くのか、どの方向へと進みゆくか暗澹たる思いです。 駄文で失礼しました。 岩名雅記

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    長 堀橋は災難でした(^^) わたしは会社が中之島なので、あのあたりも取引先があってよくうろうろします。今日は別件で京都に来ていますが。。 辺見庸が件の障害者施設大量殺人事件をベースにした小説を出したようですが、わたしはまだそれを読み込むだけの覚悟がありません。あの事件が起きた時、い までも覚えていますが何かじぶんでもよく分からない感情の波に呑まれて、わたしは夜中に車を出して紀伊半島の山中を夜通し走り続けていました。意味もな く。オウムやら何やらあったけれど、この国の意識はついに喫水線を超えてしまったのだ、という気持ちでした。あの事件についていつか書いてみたいと思いな がら時間が流れ、ですから辺見がそんな小説を出すと知ったときはさもありなんといったところでした。うちの現在不登校中の一人娘は生まれつき脊髄の神経の 不具合で軽い障害があります。そのことによって彼女が社会から受けている空気のような差別というものも、わたしはヒフ感覚で感じます。そのヌエのような 「善意の人々のある種のおそろしさ」が、この国の朝鮮人やハンセン病者や被差別部落といった人々への目線に拡大していきます。辺見がいうようにそこに世界 を見る中心を据えるならば、思考は戦闘化せずにいられない。やまゆり園で解き放たれたものは、じつは一見ふつうのこの国の人々の総体であるように思いま す。この国のテロリストはそうしたのっぴきならぬ裂け目から生まれ出でるような気がします。仕事の合間にこっそり急ぎ足で書きました。拙文をお許し下さ い。


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    ●「シャルロット すさび」再掲

      たとえばわたしの頭部を切り開いて指をつっこみ、ひっかかった端くれをひっぱり出したとしよう。ずるずるずるとさまざまなものが糸をひいて飛び出し、なら べてみれば、それはそれでひとつの物語を構成するかも知れない。わたしの場合であれば、たとえば障害者施設で殺された子どもや、鳶口を眉間に受けて倒れて いる朝鮮人工夫や、劣悪な環境のもと15歳で死亡した紡績女工や、不登校児や、動画中継をしながらホームに飛び込んだ高校生や、あるいは癩者となった小栗 判官を乗せた土車や、石もて追われる春駒や鉢叩き、処刑されたキリシタンや、公園の樹で首をくくった原発事故避難民の母親などが、未分化な細胞が集散をく りかえしながら徐々にかたちをなしていくように、奇妙な物語の糸を織る。そこでは時間も、空間も、感覚すらも独特なものだ。わたしたちが夢のなかで不思議 を不思議とも思わないで受け入れるように。奇しくもあたらしい「元号」が発表されるその日その時間に、大阪・九条のシネ・ヌーヴォで岩名雅記監督の「シャ ルロット すさび」を見たことは、わたしにとってひとつの抗いとなった。世間が新「元号」の発表にむなしく騒いでいる頃、わたしは岩名雅記という「昭和」 の最後の年に日本を飛び出したまま「平成」日本を知らない一人の男の頭の中を経巡っていたのである。それは心地のいい幻想であり、もうひとつの現実であっ た。フクシマの帰宅困難エリアの廃墟の建物で、水の入ったグラスに支えられた厚さ6ミリの硝子板の上ですべてを棄ててまぐわう男女。跳ね上がった男の精液 が硝子の上の蝿を浸し、獄中死した大道寺将司の句「実存を賭して手を擦る冬の蝿」がオーバーラップする。激しい交わりの果てに硝子は砕け、女の手に喰い込 み血がながれる。「まだ生きているのね、あなたも私も」 「ああ、充分生きてる。ガラスは僕たちの外にあっただけさ」 「私のからだも私のものじゃないの ね」  二人の交わりを自主避難エリアに取り残された被差別者が覗き込む。そしてもう一人。人狩りの果てに下半身をなくして据えつけられた台座の上で物乞 いをさせられているシャルロットだ。蝿は実存を賭して手をする。だがわたしたちには、すでに賭すべき実存すらもないのではないか。あるとすれば実存のひり ひりとした呻きのみ。崖っぷちの実存が呻き、疾走し、慟哭する。「私は砕かれたカケラ、小さくされたイノチ」 岩名監督はパンフレットのなかで、じぶんは この作品を「是非とも多くの方々に」観ていただくのではなく、「観る人を選ぶ」特権的な映画として売っていきたいと思っている、と語っている。要するに、 分かる人には分かるし、分からない人には永遠に分からない。「シャルロット すさび」は確実にそんな作品だ。まるでロベスピエールのように不遜で、ダント ンのように挑発的だ。どうせ夢の中だ。流れに乗っていけばいい。美しい風景と残酷ななみだに細胞の管という管を全開放して存分に味わえばいい。すると笑い もあり、随所にあそび心が隠されていることにも気づく。延々とくりかえされる二人の肉の交わり。それは気味の悪い明るさに占拠された現代日本への反逆でも ある。わたしたちはそれぞれの思想夢に於いて世界に抗う。たとえその思想夢を他人に覗かれたらギロチン台送りになるとしても。恍惚な三時間はあっという間 に過ぎた。テロリストは現世に帰還した。だがのっぴきならない現実は残る。おのれの思想夢のごとく生きよ。いわばこの作品は「正しい思想夢の見方と世界の 抗い方」とでもいったものだ。まるで梶井のすがすがしい檸檬のように、九条駅のどこかに爆弾を仕込んできた。(2019.4.1  大阪・九条シネ・ヌーヴォ)

    2020.11.12

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     岩名監督のたましいがこの地上を去ってから、何やら世界がひとり分だけさみしい。昨日までいた人が、今日はいない。世界がひとり分、足りない。埋め合わせるものがない。今夜、わたしは庭で、ひいらぎの花の匂いをはじめて嗅いだ。
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     Director Iwana's soul has left the ground, and the world is lonely. No one was there until yesterday. The world is not enough for one person. There is nothing to make up for. Tonight, I smelled the holly flower for the first time in the garden.

    2020.11.15

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     夜の枝にしがみついた枯葉に鼻を近づけるとほのかに死の匂いがする。だがそれは地に落ちてふたたび豊穣をなす甘美な死の芳香だ。一方でひとの死はただの 孤独な腐臭だ。豊かさは天にもたくわえず地にも落ちず資本に蓄積される。いつからそのようになったのか? ひとは一葉の落ち葉の豊かさにもとどかない。収 奪者は権力をもっている。

     
     When I bring my nose close to the dead leaves clinging to the branches at night, there is a faint smell of death. However, it is a sweet fragrance of death that falls to the ground and regains fertility. On the other hand, human death is just a lonely rotten odor. Abundance is accumulated in capital without falling into the heavens or the earth. When did that happen? A person does not reach the richness of one fallen leaf. The robber has power.
    2020.11.17

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     かつて全き孤独のうちにいたとき、世界から脱落していたわたしは、ただ神という存在と語るよりほかにすべがなかった。思えばそれはもっとも甘美な季節であった。


    When I was in total loneliness, I had fallen out of the world, and I had no choice but to say that I was a god. If you think about it, it was the sweetest season.
    2020.11.19

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     「生物学の知見によれば、ダウン症候群を発現する人間の染色体の中で、二十一番染色体に形態と数量の異常が見られる。正確に言い直せば、二人の人間の二 十一番染色体の間に、形質の差異と数量の差異がある」  ジル・ドゥルーズはそう言ってから、次のように記す。「繰り返すが、顔面の差異を認知すること と、染色体の差異を知覚することは、まったく等価である。したがって、染色体の差異を理由として胚細胞を流すことと、顔面の差異を理由にして人間を殺すこ とは、まったく等価である。もちろん人びとは、理屈を並べて両者の道徳的価値の違いを言い立てるだろう。そのとき何が見失われるか。染色体の差異を発生さ せる場、顔面の差異を発生させる場が見失われる。差異を発生させて二つの個体を分化する原理、二つの個体を個体化する原理、要するに、生きる力が見失われ るのだ。」(小泉義之『ドゥルーズの哲学・講談社現代新書』より)   差異。人と人を切り離すもの。いつからかわたしはそれらが発生する場にこころを寄 せるようになった。被差別、カースト、朝鮮人、癩(らい)病、障害者、そして共同体から排除され、周縁を醜く漂い、時には惨殺され、卑しめられ、放逐され 続けてきた古くは乞食者(ホカイビト)や賤民・河原者・芸能者・六部・流浪の聖や一処不在のものたち。わたしにとってかれらの存在は「にんげん」を映し出 す鏡であった。突出したものが、かくれた顔を暴き出す。かれらはつねにあやうい場所にいる。それをいとも容易に切断したのが、くだんの「津久井やまゆり園 事件」の植松聖であった。「自分が何者であるかもわからず、意思疎通がとれないような障害者は、生きていても社会に迷惑をかけるだけであるので殺害しても よい」  この社会はある喫水線を越えてしまったのだ、と思った。足元をすくわれ宙ぶらりんになったわたしはその日、朝まで車で冥府のような熊野の山中の 夜道をひたすら走りつづけた。「顔面の差異を理由にして」46人ものいのちを否定した植松聖に抗い、かれが切断した<生きる力>を力強くとり 戻そうとする試みが貞末監督のドキュメンタリー作品「普通に死ぬ 〜いのちの自立〜」である。「津久井やまゆり園事件」に、「普通に死ぬ」は屹立する。冒 頭から正直、わたしは馴染めなかった。もとより「障害は個性」なぞということばにも反吐が出る。そんなことは簡単に言いたくない。何よりもなぜみんな、良 い人ばかりなのか。24時間かれらに付き添い、よだれを拭い、口元へ食事をはこび、排泄を手伝い、重たい裸の身体をかかえあげる。親を亡くしたかれらをわ が家に迎え入れる。わたしにはとてもできそうにない。それらが氷解したのが、後半に登場した西宮の青葉園元園長の清水氏のことばであった。学生時代に出 会った一人の重度障害者の強烈な存在感に圧倒され、相手の「こころのふるえ」がこちらの「こころのふるえ」であることに気づいた、といったようなことをか れは語った。こころふるえることの豊かさ。それは何物にも代えがたい豊かさ。ああ、このひとはそれを体験したのだ。一見豊かな生活を投げ捨てて癩(らい) 病者たちの世話をし始めたフランチェスコもまさにそうであったろう。こころふるえることの豊かさ。「普通に死ぬ 〜いのちの自立〜」はこころふるえること の豊かさについての作品だ。こころふるえる豊かな人たちを、おなじくこころふるえる豊かな貞末監督が撮った。フランチェスコが神さまの美酒と歌った豊かさ である。ある重度の障害者が親元をはなれて自立生活をはじめ、やがて親が年老いて死期を迎えるとき、かれは病院へおもむき看取りをする。親はすべてやり 切ったという満足した顔で子の手を取りながらこの世をはなれる。そしてかれは親の葬式を喪主として行う。「それが、ふつうのことじゃないですか」と清水氏は問う のだ。障害を持った子どもの行く末を最後まで案じながら親が死んでいかねばならない社会はどれほど貧しいのだろう。かれらが<生きる力>を取 り戻すことは畢竟、わたしたち一人びとりを含む社会が<生きる力>を取り戻すことである。すべてわたしたち一人びとりにはねかえってくる。い のちの自立。大阪・九条のシネ・ヌーヴォでの終映後、わたしは天王寺までながれていって満州開拓民の慰霊碑や強制徴用された朝鮮人の無縁仏や軍人墓などを 見たがそれらはなべて「予期しない不幸な死」ばかりである。こころふるえる豊かさを見失った時代には「予期しない不幸な死」ばかりが増える。わたしたち自 身のことであり、わたしたちのいま生きている時代のことだ。植松聖の事件に抗えるのはわたしたち一人びとりの「こころのふるえ」しかない。「こころのふるえ」は、見えるか?
    2020.11.28

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     2020年11月22日(日)の旅の記録。ジオス他を車に積んで7時半に自宅を出発、BGMは藤圭子(iPodをつなげたら、たまたま始まった)。高速 を使って9時前に東近江平田町の福山さん宅に 到着、車を置かさせて頂く。ちょっとそこまでいっしょにと、福山さんも自転車を出して武佐めぐり。宿場本陣跡の馬頭観音や明治19年築の旧八幡警察署武佐 分署庁舎建物、そして福山家の菩提寺・浄厳院へ。墓地の入口の六地蔵の前掛けを交換しているおばちゃんがいて「毎年、替えているんですか?」と訊くと、 「半年にいっぺん。ほら、模様も季節に合わせて」と見ればかわいいモミジの前掛けだ。近江守護の佐々木六角氏の菩提でもある浄厳院は田圃のなかにぽつんと 建ってい る広い境内を有する。墓地も広大で、「ここでテント張って、一日でも過ごせるなあ」と笑う。じっさいに、陽だまりの中で時間が止まっているような空間だ。 この立派な歴史ある寺もいまでは無住だという。福山さんとはここでいったん別れて新幹線の高架をくぐり、近江八幡の中心部をめざす。繩手町、博労町などの 町名を見ながら八幡山ロープウェイ乗り口の八幡堀へ。有名な和菓子屋のたねややクラブハリエの洒落た店が並び、警備員が駐車場の誘導に立ち、観光客が多 い。堀に浮かべた小舟には脇差を差した武家姿のアルバイトが腕組みをしてじッと立っている。一日いくらくらいになるのだろう。十数名のサイクリング・グ ループに もすれ違う。群れるのは嫌だね。混雑を避けて裏手へ回ろうとすれば「シキボウ八幡工場」の額。どこかに赤煉瓦でも残っていないかと見るが痕跡もなし。右手 山中の八幡 山城は叔父の秀吉によって一族郎党を処刑されてみずからも三条河原で晒し首にされた秀次の居城であった。赤煉瓦の煙突が見えて立ち寄る。その名も「赤煉瓦 の郷」という介護施設に隣接した煉瓦造りの窯跡は、江戸期より「八幡瓦」で有名だった同地に明治16年頃、ドイツ人技師フリードリッヒ・ホフマンによって 設計されたホフマン窯で、ここで焼かれた煉瓦が“富国強兵”“殖産興業”の建物に使われていった。貴重な史跡と思うが説明版ひとつないのが勿体ない。同じ ように写真を撮っている折り畳み自転車の夫婦がいたので声をかけると、京都の木津から近江八幡めぐりに来たのだという。いよいよ湖岸だ。八幡公園を横切 り、メインのさざなみ街道からはずれて長命寺港から岬沿いのサブルートへ。これがアップダウンの連続で、けっこうへろへろになった。途中からは湖岸という よりは山道で、木々の間からわずかに湖面の輝きが見える程度。それにしても長命寺、さらに山中に天之御中主神社奥宮を祀るこの津田山一帯は磐座めいた巨岩 が山中 にごろごろしているのが道沿いからでも見てとれる。行者のように琵琶湖を見下ろす山ふところを徘徊したら面白いだろう。地底人や金星人とも交信できるかも 知れ ない。御所山を巻くように厳しい岬越えから下ると、そのまま大同川の河口から伊庭内湖へ向かう土手沿いの広い道で、橋の上から小舟の上の釣り人などを見て いると、こちらもうとうとと眠気を覚えるような心地だ。近江はこんなふうにすっきりとひろがる平地と丸みを帯びた低山、そしてあちこちにつながる水路が魅 力的だ。茶色の大豆畑に分け入って安土城址のある丘にとりつく。このあたり、飛び出しボーヤも信長風。そろそろいい時間になってきたんで西の湖近くの「海 坊 主」で車で来た福山さんと合流。田圃のまんなかにぽつねんと建っている店は、おばちゃんが一人だけで回していて、しかもなかなか流行っていて忙しそうだ。 注文から小一時間ほど待たされるがだれも文句を言わない。福山さんはラーメン、わたしは迷ったのだがちょっと珍しいせせり丼、そして餃子を二人で半分こづ つで。 せせり焼き定食もそそられたが、あまりお腹いっぱいになると走れなくなる。ふたたび福山さんと別れて、あらためて安土城址へ。ただし福山さんいわく、むか しは野趣があってよかったけれど、いまは整備されて登山料も取るので面白くないということで今回は下から見上げるだけにしておいた。じっさいに時間もな かったし。安土城址手前の集落内で新宮大社なるものを発見、茅葺が分厚い土間形式の拝殿が見事であった。拝殿が土間というのは、神に捧げる踊りか芸能をこ こ でやったんじゃないだろうか。もうひとつ、1580年に信長から土地を与えられて開設されたセミナリヨ(神学校)跡を訪ねる。ここでラテン語や声楽などの 勉強に励んだ士族の息子たちは、のちに秀吉のキリシタン弾圧によって九州で処刑されている。階段のついた水路以外は往時を偲ぶものは何も残っていないが、 しばし佇んで聞こえない声に耳を澄ませた。ひこね道からきぬがさ山トンネルを五個荘側へ抜ける。福山さんおすすめの石馬寺へ寄る。高い石段を前に少々めげ る。ここは、墓石が良い。百年千年の時を経て磨り減り玉石のようになった有情無情が苔むしてほとんど地層と化している。あまり人もあがってこない。五個荘 の集落を抜けて福山さんと約束していた小幡地区のサンマイを目指す。サンマイはもともとサンスクリット語の samadhi(サマーディ)が由来で、本来は心を一処に定めて動くことがないの意であるが、中国を経て日本へ伝わった段階で三昧という字をあてられ、や がて墓場を意味するようになった。わたしは墓地を訪ねると心を一処に定めて動くことがないので、正しい三昧をしているわけだ。五個荘の駅前で福山さんの軽 自動車と偶然会い、車について走る。行った先は近江鉄道の五個荘駅から二三百メートル南東に位置する、52号(栗見八日市)線沿いの雑木林のような一画で ある。近江の墓制について調べていたわたしがWeb上で写真を見つけて、福山さんがここじゃないかと目星をつけて連れて行ってくれた。この小幡地区サンマ イについてはあとで別稿を設けるつもりだが、一言でいえば放置された埋め墓の風景、である。かつての木の墓標は倒れて朽ち、自然石で囲った地面があちこち に散在し、もはやどこが墓域の外でどこが内なのか分からない。こんな墓の方が自然なのかも知れない。死んで人は石ころや土く れにかえっていく。それを忘れた頃から人は狂い始めたんじゃないか。その後、薄暮が近づいてきてわたしは自転車を福山さんの車に乗せてもらい、おなじ小幡 地区のもうひとつのサンマイを訪ねた。こちらはわたしがグーグルマップで偶然見つけたもので、現在も使われている埋め墓だ。直立した背の高い木の墓標がま るで 浜に打ち上げられてそのまま腐った鯨の骨のように林立しているさまは、かなり圧巻だ。場所は先のサンマイから南へ三百メートルほど下ったあたりの田圃のま んなかにある。このサンマイでいちばん最近のものは元号が変ってからの94歳のおばあちゃんの墓で、生前使っていたのだろうステッキが墓標のわきに立てら れて いた。わたしたちはこのアラスカの原野の古代イヌイットたちの聖なる墓域のような風景の中をしばらく思い思いに歩きまわり立ち止まりしていた。これでわた しの今回の旅は終わった。車で平田町へ戻る頃にはすでに夕闇だった。福山さん宅で自転車を積み替え、頼んでいた近江米30キロ(玄米)と カッパを受けとり、大根を三本もらい、車の陰でサイクルウェアを着替えてから、いつもの御澤神社までいっしょに行って夜の境内で「神の水」を汲み、そこで 福山さんと別れた。17時半頃。帰りは高速代を節約して信楽から山城へ抜ける山あいの下道をうねうねと。途中のフレンド(スーパー)で近江の納豆「豆力」 を仕入れ、それから半額のお稲荷さんと豆腐の総菜を車内で食べて夕飯とした。以前にこの店で滋賀県でしか売っていないサラダパン(沢庵とマヨネーズがはさ まっている)を置いていたはずなのだが見当たらなかったのが残念。家にたどりついたのがほとんど22時頃であったか。贅沢な旅でした。福山さんも、おつき あい感謝。
    2020.11.29

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     生まれてはじめて靖国神社を訪ねたのは2015年8月の戦争法案反対の国会前デモに参加した翌日だった。物言わぬ戦死者たちの無数の視線に見つめられ慄 然とした。5年後の2020年のコロナ禍中、大逆事件を舞台にした嶽本あゆ美氏の「太平洋食堂」並びに「彼の僧の娘 −高代覚書」を東京・高円寺の座で見 た翌日にふたたび靖国神社を訪ねたのも、だから奇縁である。幸徳秋水事件ともいわれる大逆事件が(時の権力者たちによって)謀られたのが1910(明治 43)年。まさに後ろ向きに、見えない未来に向かってあとずさりをするようにすすんで行くじぶんを感じる。百年前の明治の「大逆」の風景がおのれの眼には しっかりと映っているか。見えない背中には何を感じているか。靖国の「英霊」たちは深夜の招魂斎庭で名を呼ばれその霊璽簿と共に御羽車(おはぐるま)に乗 せられ本殿へすすむ。「あの白い御輿が、靖国神社へ入りなはった晩な、ありがとうて、ありがとうてたまりませなんだ」と感涙する母たちの言葉を、かつて政 治思想史家の橋川文三は「なにか古代原始の妖気をさえたたえた表現」と記した。高円寺・座の舞台でわたしがその日目撃したのは、「逆徒」とされた大石誠之 助や高木顕明たちのためのいわば「招魂斎庭」であった。わたしは最愛の子どもを失った母親のように感涙し、だが怒りに顫えている。まさに歴史の実時間であ る現在 において大石が、高木がたちあがる。縊られようとしているのはわたしであり、わたしの愛する者たちだ。2013年にはじめて「太平洋食堂」が、そして 2016年に「彼の僧の娘 −高代覚書」が上演されてからそれぞれ幾回の舞台を経て、嶽本氏の脚本もまた誠之助や高代を演じ続けた間宮啓行さんや明樹由佳 さんといった俳優陣たちの演技も肉付けが加わりさらに影が濃くなっていったのではないか。新宮は若い頃からの縁深き土地であり、大石や高木たちの墓も何度 か訪ねた。2016年に新宮市内の老舗旅館の二階座敷で演じられた三人だけの「彼の僧の娘 −高代覚書」を観劇したとき、あの哀しいどんぐり眼の高木顕明 の霊魂がまさにいまここに来て浮遊していると思わず天井を仰いだものだが、今回の高円寺・座でも、それはもっと明瞭に感じられた。「この明治42年が此の 世の終わ りでない限り、この先も失敗、敗北が繰り返される。だが負けて、負け続けて、いつかは正義が来る。勝てなくても前に進まなくては! ただ、声を上げる、そ の 瞬間、瞬間にだけは、我々は刹那の勝利を手に入れる、それだけは誇れるはずや。」  仄かな灯りのなかで誠之助演じる間宮啓行さんが刑場の階段をしずかに のぼっていくとき、わたしはまさに110年前にそうして縊られるために歩みをすすめた大石誠之助その人を目の当たりにしていた。胸がちぎれそうだった。 110年前も、多くの人々にとっては「大逆事件」など無縁のものだったろう。それからわずか30数年の間に幾百万といういのちが予期せぬ無残な死を強要さ れた。愛する者を奪われてありがたいと思う者などほんとうはひとりもいないはずだ。あれからわたしは「英霊」たちをとり戻すためにあちこちの墓地にのこる 軍人墓を巡りつづけている。死んだ兵士の名前を読み、死んだ場所と年齢を読み、ときに遺族が石に刻んだ来歴を読む。もっと生きたかった者の無念がわたしの うつろな臓腑に無数に溜まって、いつかおのれが邪鬼のような存在に変じることをじつはこころの奥底で願っているのかも知れない。「太平洋食堂」の最後で大 石は、もしイエスが死なずに生きのびたら鰹節の出がらしのようなものだったかも知れない、と笑う。大石自身はみずからを鰹節の出がらしではないと分かって いた。わたしたちはじぶんが鰹節の出がらしではないと果たして言い切れるか。110年前に自由や平等の社会を夢見て、戦争や遊郭や差別に異を唱えたものた ちが捕らえられて「逆徒」とされた。自由や平等の社会を夢見ることは抗うことである、暴力や差別や貧困やその他もろもろの不条理を容認している者たちに対 しては。大石たちが縊られた1911(明治44)年は、まさに「現在(いま)」ではないのか。わたしたちは、抗いつづける。声を上げる、その瞬間、 瞬間にだけ刹那の勝利を手に入れ、負け続けながらも。おのれが出がらしでないことを証明するために。24人の死刑判決後、弁護人の平出修は次のように記した。「彼等は国家の権力行使の機関として判決を下 し、事実を確定した。けれどもそれは彼等の認定した事実に過ぎないのである、之が為に絶対の真実は或は誤り伝へられて、世間に発表せられずに了るとして も。其為に真実は決して存在を失ふものではないのである、余は此点に於て真実の発見者である、此発見は千古不磨である」(「大逆事件意見書」後に書す)   つまり今回の舞台は、演劇による真実の発見の試み、ということになる。幕があがる。わたしたち一人びとりが真実の発見者となる。
    2020.12.7

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     夕暮れの九段下の坂をぶらぶらと下っていく男ふたり。約束の時間には早かったから雉子橋通り沿いのタリーズで珈琲、Sさんはコンビニへ煙草を買いに走っ た。こころふるえるものが共有されればそれがコモンになる。コモンには、だから物語が必要だ。時間になってさくら通りへ。硝子張りの扉が放たれた光の中に 含(Gon)さんが待っていた。やあ、どうぞどうぞ、やっとお会いできたと、柄にもなく握手などして。すっかり夜の帳が下りた神保町さくら通りの、その小 部屋だけが妙に明るく、不思議に華やいだ樹木の呼気に満ちている。それは作家の素朴な手刀、よく研がれた数本の手刀だけでなぞられた有機生命体のリズム だ。針金や石を呑み込み除(よ)けてねじれた造形を愛おしそうに語る。それは松、桜、欅、山毛欅(ブナ)。作品を語る含さんのことばを聞いていると、この 人は樹木の精ではないのかと思われてくる。多摩川の川べりで拾った流木は言祝ぐまれびと(来訪神)である。刃先が呼気を感じ、吸気をなぞる。含さんの彫り 上げた丸太のベッドはさぞ寝心地がいいことだろう。ひとにやさしいのではなく、大地天空にやさしい。「どれかひとつ、お好きなのを」  含さんに頂いてき た小品を家へ持ち帰って、若き行基が戒を授かった葛城山中の高宮廃寺跡でひろってきた古瓦の上に置いてみた。土と樹のあわひから8世紀行基の声が聞こえてきそうだ。
    2020.12.10

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     日本橋の大安楽寺、浅草の浅草寺、赤坂の円通寺、上野の寛永寺、築地の築地本願寺、新宿の天龍寺・・・。「東京という街が江戸と呼ばれていた頃から持っ ている記憶」を、「時の鐘がある(または、かつてあった)寺を訪ねながら」呼び起こそうとする試みについての書評を読む(アンナ・シャーマン「追憶の東京  異国の時を旅する」早川書房)。日本人ではない異邦人の著者はそのために圧倒的な量の文献を読み込む。評者はこんなふうにつづける。「・・あまたの本 (そこには、河竹黙阿弥の『四千両小判梅葉』、川端康成の『浅草紅団』、さらには石川淳の『焼跡のイエス』までもが含まれる)を通してかつての江戸または 東京の姿をしっかりと目に焼き付けているからこそ、たとえ時の鐘がいまはもうそこにない場合でも、「そこにないことが、なぜか鐘に重みと質感を与えてい た。もしもこの目で見たり、この耳で聴いたり、あるいはこの手でふれることができたなら感じることのなかった存在感だ」と著者は書けるのだ」  わたしに は、もうこの本はこの文章だけで充分だ。「そこにないことが、なぜか鐘に重みと質感を与えていた」  「非在」が「存在」を彫琢する。見えないからこそ、 聴こえないからこそ、もはやふれることがかなわないからこそ、わたしたちはある瞬間に出会うこともできる。時空の紐の端をひっぱったら、もう一方の端がゆ らいだかのように。百年前に死んだ無名の女工や兵士を、いつかそんなふうに書いてみたい。
    2020.12.26

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     2020年の師走に、アフガンに半生を捧げた日本人医師の番組を見る(「良心を束ねて河となす 〜医師・中村哲 73年の軌跡〜」NHK-BS)。あのニューヨークのツインタワーにハイジャックされた旅客機が突っ込んだとき、そのもっと以前からかれは日本から何千キ ロも離れたあの石だらけの大地でまともな医療さえない最底辺の人々と格闘していたのだ。そして復讐心に燃えたアメリカを主とする多国籍軍がその貧相なアフ ガンの大地に爆弾を雨あられの如く降り注いでいたときも、やはりかれは米軍のヘリが飛び交うその真下でアフガンの人々を飢餓から救うための用水路をみずか らショベルカーを操縦して掘削していた。そしてみずからの最愛の息子が病で死の淵にいるときも、かれは空爆や飢餓のためにおなじように死に瀕している多く の「息子」たちのために駆けずり回っていた。そのかれが最後にたどりついたのは、奇しくも足尾銅山事件で消滅した谷中村のために半生を捧げた田中正造が心 した治水論であり水の思想であった。「治水は造るものにあらず。治とは自然を意味、水は低き地勢によれり。治の義を見れば明々たり」(1944年8月30 日日記)。みずから大地を削り、アフガンの人々とひとつひとつ石を運び、自然と格闘し汗したかれには、水によってこの世の本義が見えていたと言えるかもし れない。「彼らは殺すために空を飛び、我々は生きるために地面を掘る。彼らはいかめしい重装備、我々は埃だらけのシャツ一枚だ。彼らは暗く、我々は楽天的 である。彼らは死を恐れ、我々は与えられた生に感謝する。彼らは臆病で、我々は自若としている」(ペシャワール会報・2005年度を振り返って)。あの頃 (世界がテロとの戦いと称して世界でも最貧国のひとつだったアフガンを空爆していた頃)、わたしはフランスに住むじぶんより年長の日本人女性と長いメール のやりとりをしていた。ある夜、彼女がアフガンの人々について書いてきた。「しかし、なんであそこの男たちはこんなに sexy なのか? 何であんなに笑えるんだ? なんであそこの子供たちは本当の子供たちなんだ? なんでみんな詩を歌い上げるのだ? 体を張って生きているからだ ね? 違うかな。 でも私たちはいったいどこに行こうとしているのか?」  わたしは彼女に請われて、オーデンの詩をひとつ苦心して訳した。

    夜のもと、無防備に
    ぼくらの世界は呆然と横たわっている。
    それでも、 そこかしこで
    光のアイロニックな粒が
    どこであろうと、正しき者たちが
    そのメッセージを取り交わすのを一瞬
    浮かびあがらせる。
    かれらとおなじように
    灰とエロスからできているこのぼく、
    おなじ否定と絶望に苛まれているこのぼくに
    もしできることなら、
    ひとつの肯定の炎を見せてやりたい。

    (1939年9月1日  W.H.オーデン)

      その世界はいまも変わらず継続している。むしろあの頃よりもっと大手をふって、堪えがたい腐臭を強めて。鋼鉄製の軍用ヘリが無言の暴力で威圧して頭上を飛 び交うその真下で、かれはシャツに貼りついた汗をぬぐい、大きな河原の石を人々と運び、そして水を浴びてわらう。人の一生などは一瞬だ。その一瞬のなかで わたしたちは一瞬を超える価値をときに手にする。
    2020.12.28

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     標高900mの葛城山頂がきのうはマイナス8度だったそうだから、標高700mの国見山頂もきっとおなじくらいはあったのだろう。加えて横殴りの強風 だ。雲がぐんぐんと奔(はし)り、陽はうばわれ、吹きさらしの塔の上に立つ歩哨のようだ。ここへあがってくる山中、だれにも出くわさなかった。その孤独、 ひとりで在ることがすがすがしい。話し相手はかさこそと乾いた落葉の上をあるく鳥くらいで、それもこちらから一方的に声をかけるだけだ。枝がこすれてぎい ぎいと鳴る音がときにひとの話し声にも聞こえる。そういえばむかし、高野山のふもとでログハウスづくりの手伝いをしていたとき、チェーンソーで杉の樹を切 り倒したことがあった。樹は聖なる叫びをあげながら地面に突っ伏す。樹をつかうものは、いちどはあの声を聞くべきだな。野生の鹿や狼だけではない、世界は そんな無数の聖なる声に満ちている。なかば雪に埋もれかけた熊笹が足元にしのび寄る小径をいく。熊笹は百年ものあいだ枯れることなく地中の養分を吸い続け 冬の寒さにも耐える。野生動物はその生命力を食らう。熊が冬眠前に大量のササを食べるのは冬眠中、腸や血液が老廃物で汚れるのを解毒するためだとも言われ る。わたしには山中の熊笹はいざなう存在のようにも思われる。ずっとそう感じてきた。にんげんの世界を捨てて異界のモノ<鬼>となることをさ さやく。その熊笹をよけながら雪でおおわれた小径をのぼっていく。あえぐ息がしろい。まだ<モノ>になるのは早いけれど人界では<鬼 >、石つぶてを投げられる<鬼>のようでありたい。それはわたしの矜持である。ころされるものは、まず尊厳をうばわれる。斜面をすべ り、枝をつかみ、石ころを踏み、あるいていく。ひとりであることが成就されている。
    2021.1.10

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     娘の成人式で配られた「新成人のための 人生とお金の知恵」(金融広報中央員会)パンフ。人生のデザイン(夢)を描くためには、まずお金!! 「教育・ 住宅・老後」の人生三大費用には1億円以上必要!!  夢や希望を実現するためにはもっとお金!!  貴重な時間を有効に使って、能力を高めて、収入を得 る・収入を増やすために邁進!!  お金の運用、複利の力、余裕資金を蓄え、お金の価値を守ること!!  コモン(Common)へ船出する若者たちへ、 こんなことしか言えない貧しい国と社会。

     ア メリカのネイティブたちに「ビジョンクエスト」(Vision Quest)という通過儀礼がある。ラコタ族の言葉では ”ハンブレチア” という。ハンブレ(=夢) チア(=泣く) つまり夢に泣く、だ。たった一人で聖なる山の頂きに行き、四日と四晩の間、水も食べ物もないままそこで過ご す。「おまえは、子どもであることの恐怖と対面し続けることになる。気の遠くなるなるような孤独と退屈さ、喉の渇き、飢え。そうしたものに耐えながら、お まえは心の底から、じぶんとじぶんに連なるものたちのためのヴィジョンを求める」(北山耕平「ネイティブ・マインド」) 

     わたしが信じているのは、そういう世界だ。だからわたしは成人式なんか行かなかったし、あらゆるものから脱落していった。いまは、間違っていなかったことが分かる。

     若きひとたちよ、世界は金でも資産運用でもない。そういう虚仮に騙されてはいけない。おのれの夢に泣け。この糞のような世界に唾を吐きかけよ。


    おお父よ、わたしはあなたの声を風のなかに聞き、あなたの息はこの世界中のすべてのものに生命を与えています。
    お聞きください。
    わたしはあなたの前に、あなたのたくさんいる子供たちのひとりとして、今、立っています。
    わたしは小さくて弱く、あなたの力と智恵とを必要としています。
    どうかわたしを、美のなかに歩ませ、なにとぞこの眼に、赤と紫の夕陽をお見せください。
    この両手が、あなたの創られたものを、尊敬させるようにしてください。
    この耳を、あなたの声が聞こえるように、鋭くしてください。
    そうすればきっと、あなたがわたしの一族に与えられた教えを、
    一枚一枚の木の葉や、ひとつひとつの岩のなかにあなたが隠された教訓を、このわたしも、理解するかもしれません。
    父よ、わたしは力を求めています。
    偉大なる敵と戦うことができるようになるための力ではなく、その力で、汚れのない手と、濁りのない眼をもって、わたし自身があなたのもとを訪れる準備をさせてください。
    もしそれがかなうのなら、日没の太陽が姿を消すように、わたしの生命が終わりを迎えたとき、いささかも恥いることなく、わたしのスピリットはあなたのもとを訪れることができることでしょう。
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    アクエサスネ・モホーク・ネーションのセント・レジス・リザベーションのなかに立つ「トム・ホワイトクラウド」という名前のひとりのネイティブの墓に刻まれている祈りの言葉
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     「虹の戦士」  北山耕平 翻案 太田書店 より
    2021.1.11

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     すでに5千人の人が亡くなり、死者のペースも急上昇している。昨日元気だった人が、今日とつぜんに亡くなる。じぶんは大丈夫だと思うなよ。5千粒の米粒 を、親しい人たちの顔ひとりひとり思い浮かべながら数えてみな。どれだけ重い数字か実感するだろう。公園の支援センターは食料を求めて並ぶ人々であふれて いる。職を失い、住む場所を失い、行政のセーフティネットから漏れて、じっと耐え忍んでいる人々がいる。ごめんなさい、迷惑をかけてすみませんと言いなが ら、自殺したり、深夜のバス停のベンチで殴り殺される人たちがいる。そんなさなか、負担や義務や責任だけ押しつけ、感染が拡大しつつあるタイミングに GoToで人々の移動を煽って感染を拡げ、いまだにオリンピックだ何だとかわめいてる連中が、国の政策にいちいちいちゃもんつけるなとか、カネはもう出さ ないなぞと息巻いている。可笑しすぎてへそで茶が沸くぜ。5千人の死者はこいつらの私利私欲のまさに犠牲者だろ? 永山則夫は4人殺して死刑になったが、 こいつらはすでに5千人だ。永山基準の1,250倍だぜ。その殺人者が「いちいちおれのすることにケチをつけるな」と言っているわけだ。なぜ、だれも逮捕 しない?  水木しげるの漫画では腕をもがれた兵士が恨むぞ東條恨むぞ東條とつぶやきながら手りゅう弾で自決する。そのうちコロナで死んだ人間も靖国に英 霊として祀られたら、おれたちはまた有難い有難いと手を合わせて拝むのか?  裸の王様に「王様は裸だ」と言ってやるように、殺人者には「この人殺し」と 叫んでやったらいいんだよ。はっきり言って、こいつらは人殺しの犯罪者だぜ。
    2021.1.24

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     今日は終日、体調がすぐれないから、とベッドで横になっていた。夕飯のときはふつうだった。どこから始まった話しだったか、古代にもっとも身分が高い色 を示す紫は、もともとある種の貝の成分から採っていて、何百の貝から染料が数グラムしかできない。そのためにその貝が乱獲されて、やがて禁止された。日本 ではいちばん下層の官位は黒だったが、それがどんな人たちだったかは記録が残っていない。そんなことを娘がWebで調べながら、三人でパスタを頬張りなが らしゃべった。食後にいちばんで風呂に入って、娘が出たからとつれあいがわたしの書斎に言いに来た。風呂のなかでいろんなことが思い出されたらしい。そし てじぶんは何もできない、学校も行けないし、部屋の片付けもできない、と風呂から出てきて泣き出して、そのまま二階の自室へあがってしまった。ことしの春 の卒業を目指していた高校は結局、単位が足りなくてもう一年延びることになった。最後の一年だ。10月頃までは週に二日三日と出かけていい感じだったのだ が、途中から行けなくなってしまった。ユングはおのれを傷つける矢は「下から」、みずからの深みからやってくると記した。それは20代で実家にこもってい たわたしが分厚い精神医学書からノートへ書き抜いたものだ。かわいそうだけれど、父親のわたしにはもう、おまえにしてやれることは何も残っていない。そこ から先はおまえが苦しんで、みずから這い上がってこなければいけない。わたしにできることは何もない。それはおまえの「下から」、だれも手が届かない昏い 深みからやってくる。
    2021.1.24

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     思いもかけずSNSの縁で近所の寺に無縁墓の残る「島村先生」(「チベット旅行記」の河口慧海の親友であり、有吉佐和子が「複合汚染」で描いた五條の医 師・梁瀬義亮にも多大な影響を与えた大和郡山の数学教師・仏教者)の縁者の方とめぐり会い、昨夜から恋人同士のようにメールのやりとりを交わしている。向 こうは現在から過去の先祖を遡上して、わたしは百年前の無縁墓から現在へ流れ着いて、そうしてちょうど出会ったんだねと昨夜、つれあいがわたしに言った。 どんなきっかけでもいい。身近な百年を見つけて穴を掘っていけば、この国のいろんな姿が見えてくるよ。わたしの場合はたまたま近所の寺で見つけた紡績工場 の女工たちの供養碑と「島村先生」と書かれた無縁の墓石だった。この数年、百年をめぐる旅はわたしをさまざまな場所へ連れて行ってくれた。そこでわたしは 教科書や歴史の大舞台には出てこない歴史の実時間を生きた人々の生温かい吐息に触れたのだった。そしてまだまだこの旅は終わらない。

    そ んなふうに恰も百年前に向かってメールを書いているような錯覚をおぼえながら、ふと密林で20年前、飛鳥の古い造り酒屋の建物で開いたつれあいとの入籍報 告会で、当時大阪の人権博物館の理事長をやっていたKさんから頂いた球磨焼酎「六調子」を見つけてなつかしくなって注文した。あの頃はこんなお酒は高価で とても買えなかった。おいしいおいしいと言っていたら、Kさんは後日にもう一本持ってきてくれたのだった。その「六調子」で、今夜はいろんなことを思い出 しながら、とりあえず「島村先生」と百年の旅に祝杯だ。
    2021.1.26

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     まるで経文のようなモリスンの Lord, If I Ever Needed Someone のデモ版に耳を傾ける。声はさびれた堂宇に残響して壁をすべり落ちる。この曲を下手なギターをつま弾いて深夜にうたっていた頃、わたしはこの世を落ちて落 ちて親しいものはだれもいなかった。だからこの曲をうたった。神とは、さいごにゆるされたこの世のよすがである。「わたしの名においておまえは愚かなまね をし、ひとに笑われた。だが、わたし自身がおまえの中で笑われ、愛されたのだ。 わたしがおまえといっしょに体験しなかったようなものは何ひとつ、おまえ は味わいもしなければ、苦しみもしなかったのだ」  思えばわたしはそうやってさみしさのなかでひとり語るのが好きだったかも知れない。そうして思いもか けず、喉元からとびだした無防備な声がまぎれもないじぶん自身なのだった。ひとに囲まれて、得意気にわらっているじぶんは嘘なのだ。だから森の奥にのがれ て、森のさみしさを身にまとって、暗い岩の陰にくずれて落ちる。そのときわたしはほんとうのじぶんの声を持つ。だれかがひつようなときは、あなただけでし た。
    2021.2.4

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     梅田の東方、天六(天神橋筋六丁目)からもほど近い長柄地区はかつて、いわゆる貧民窟と呼ばれる一帯であった。町の中央に大阪七墓の一部を統合した長柄 墓地が広がり、鶴満寺(かくまんじ)は近世の一時期にコレラ患者を受け入れた。斎場があり、隣保館があり、内鮮協和会があり、戦後は「罹災者、復員者、外 地引揚者の世話を目的として」宿泊所が設置された。Yさんはその長柄で生まれ、地元の豊崎小学校に通った。長柄墓地と斎場に隣接した小学校はよく焼場の匂 いが窓から入ってきたという。墓地の西側に面した南北の道は「ハカスジ(墓筋)」と呼ばれ、南下したあたりには遊郭があり、街娼が立っていたという。早くにつれあい を亡くしたYさんの父親は日雇い人足で、毎朝西成へ仕事をもらいにいった。ふだんはやさしい父親だったが、大の酒好きで、日当が入ると呑んで景気よく使っ てしまう。Yさんは兄と姉の三人で食べるものがないと、近所の祖母の家へ行き、祖母があつらえてくれた食事を家に持ち帰って食べた。毎日が、そんな具合 だった。祖母は父親の兄にあたる長男と暮らしていたが、王冠の内側にポリエチレン樹脂のライナーという裏張りを貼りつける内職をしていたそうだ。ときどき 祖母がやってきて、呑んだくれている父親を「いったいどうすつつもりだ!」と叱った。その祖母はのちに自転車に乗っていて長柄墓地へ向かう野辺送りの車に 轢かれて死んでしまった。Yさんの兄や姉が父親を捨てて出て行ったように、Yさん自身も父親が嫌で豊崎中学校を卒業してから家を出て、最初は生野あたりで 数年を暮らした。それから知り合いにすすめられて八尾の空港近くにあたらしく出来た豆腐やうす揚げの製造工場で働いて、やがて結婚をして子どももできた。 30歳を過ぎた頃、疎遠になっていた兄から父の死を聞いた。54歳で、お酒がもとで死んだという。晩年は兄が面倒を見ていた。父も祖母も一心寺に納骨して骨仏になり、ときどきお詣りに行く。40代のときに豆腐の製造工 場が倒産して、つてを頼ってこんどは豆乳の製造工場に就職した。だが誘ってくれた社長が死んで会社を継いだ息子との折り合いが悪く、退職してタクシーの運 転手になった。そして65歳で定年退職。そんなYさんの話を聞いていたら、いまはすっかり様変わりしたそうだが、俄然長柄を歩いてみたくなったぞ。
    2021.2.12

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     神戸・塩屋の古い洋館に井波さんのピアノと歌、熊澤さんのヴァイオリンを聴きに行ったときは、演奏の前に裏山へ平家の落人たちの苔むした五輪塔をたず ね、ひだまりのなかで数百年前の死がころころと音符のようにころがり撥ねた。あのときは欠伸が出そうなまったりとした青い水平線が見えたものだが、今回、 高橋アキさんの公演をコロナ禍で10ヶ月延びた三重県津市の会場で聴く前に立ち寄った伊賀山中の「旧青山トンネル工事」犠牲者の供養碑は昼なお薄暗く、青 ざめた石と土くれ、荒れた樹木の世界だった。1928(昭和3)年から1930(昭和5)年にかけて、現在の近鉄の前身にあたる参宮急行電鉄が大林組に委 託して行った青山隧道(トンネル)の工事で16人の作業者が作業中に命を落とし、そのうちの8人が17歳から38歳までの朝鮮半島出身者であった。こうし た 話はこの国で、じつは無数にあるのだが、たいていは息をひそめて忘却のうちにしずんでいる。17歳で異国で死んだ少年の魂はどこへ昇っていくのか? 巨大 な自 然石の供養碑は昭和5年に大林組が建てた。刻銘された「大林義雄」は1916(大正5)年に創業者を継いだ二代目。台座には死んだ犠牲者の名一人びとりが 刻まれる。大林組に限らない。戦後、繁栄して現在に至るこの国の企業の多くは贖うことのないこれらの血を吸って巨大なビルを築いた。原発が放射能を撒き散 らす以前に、すでにこの国の国土は大量の異国の血を蛭のように吸っている。「日帝」に抗った孤独な狼たちが思われる。わたしは犠牲者の刻銘をひとりづつ指 でなぞり、供養碑の上から保温ポットのお茶をかけ、そして石と土くれのあいだの声なき声に耳をすませ、「南無大師遍照金剛」の旗がばたばたと風にさわぐの を聞いた。前方の過去を見失ったまま、わたしたちは背中から未来へ入っていく。そんな心持ちをかかえたままコンサート会場の座席(最前列ど真ん中)にす わったものだから冒頭、バッハの「主よ、人の望みの喜びよ」は幾重にも折重なった歴史の実時間のらせん階段をのぼったりおりたりするような心地であった。 つづいて「4つの即興曲 Op90 D899」はシューベルトの晩年、「冬の旅」と同じ頃の作品で通奏低音も似ている。戦場で回想する夢のなかの出来事のように美しい。石と土くれに沁みわた る。後半は演奏者みずからの解説を含むサティだ。20代の頃、この風変わりな作曲家は音楽から生きざままで、あらゆるエッセンスを投げかけた。純粋な魂が この世のすきまを諧謔を武器に駆け抜けてゆく。それがわたしのサティだった。かれの音楽がもてはやされ、CMにまで使われるようになってしばらく離れてい たけれど、ジムノペディ、グノシェンヌ、手を伸ばせばとどきそうなほどの距離でアキさんが奏でる音は、原初のサティを思い起こさせてくれた。生身のサティ がそこにいた、蝙蝠傘を持って。彼が生まれた2年後に日本では戊辰戦争が始まり、かれが死んだ年にこの国では治安維持法が成立した。「かくれて生きよ」  兄である高橋悠治氏の青土社『ロベルト・シューマン』に爆弾のように収められた小文は若きわたしの軍事マニュアルでもあった。どこか、サティにも似てい る。プログラム最後のジュ・トゥ・ヴー(Je te veux)は天上の音楽だった。この音楽はこの世の塵芥をまとっても華麗におどる。毅然とした娼婦のように。かれがモンマルトルのカフェ・コンセール『黒 猫』でこの曲を書いた1900年、中国(清)では義和団の乱が起こり、やがて日露戦争が始まる。わたしの暮らす大和郡山では綿花の暴騰や経済不況によって 紡績工場の操業が短縮され、虐待を受けた女工が逃げ出すケースが相次いだ。サティのジュ・トゥ・ヴーはそのような歴史の実時間の上にも響きわたる。偏屈 で、皮肉屋で、孤独な、古代の魂の卵! アキさんのサティを聴きながらわたしはなぜかそんな言葉を繰り返していた。アンコール一曲目はバレンタインにちな んでサティのユニークな「アーモンドナッツ入りチョコレートのワルツ」。二曲目は武満徹の「死んだ男の残したものは」。谷川俊太郎の詩に武満が曲をつけた ものでベトナム戦争さなかの1965年、「ベトナムの平和を願う市民の集会」のためにつくられたものだが、歌のないピアノ演奏だけのバージョン。これが、 響いた。「旧青山トンネル工事」犠牲者の供養碑をかかえてやってきたわたしは、この一曲で“片づけられてしまった”のであった。演奏が終わっても、わたし は拍手も忘れてただ瞑目していた。17歳で異国で死んだ少年の魂は昇っていっただろうか? 薄暗い伊賀の山中で命を落としたかれが残したものは、現在に生 きるわたしたち一人びとりであった。アンコール最後は「わたしこの曲、好きなので」と始まった意外なビル・エヴァンスの Walts for Debby。音の豊穣。ゲームはつづく。先週末、古代縄文の八つ岩から見下ろした夜の名阪国道を時速120キロで駆け抜けて帰ったよ。

    (高橋アキの世界・三重県文化会館大ホール)
    2021.2.15

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     奈良県川上村白屋地区。50年の歳月を費やして完成した大滝ダム沿いの斜面に立つこの集落は、ダムの試験湛水の際に亀裂が発生し、全戸の移転を余儀なく された。2003年のことだ。いつか単車で訪ねたことがある、縄文時代よりの来歴をもつ丹生川上神社上社もこの大滝ダムの完成によって水没した。限界集落 の果てに、建物だけが残され朽ちて行き、茶碗や農作業の道具や車のタイヤなどが散在している廃村風景とは異なり、白屋の集落跡は日当たりの良い斜面にかつ て家々を抱いていた石積みとせまい道と石段だけが枯草になかば包まれて整然と佇んでいる。まるで日常のある日にマグマがすべてをきれいに燃やし尽くして流 れ去っていった後の集落のようなのだ。あるきまわっても、生活の残り香はあまり匂わない。ところが集落の北の尾根筋にある墓地は別だ。37戸のうち十数戸 はダムに近い新たな造成地のあたらしい白屋地区へ移転したが、その他は奈良や大阪の都市部へ四散した。住民たちが起こした訴訟のなかで求めた墓地の移転費 用は最終的に認められなかった。そのためか、川上村に残った住民の墓に交じって、おそらくこの地をはなれた元住民の墓や無縁墓はかつての墓域の片隅に墓石 のおもてを上にして一列に並んで倒されているのだった。おさない子どもを祀った石仏もおなじように仰向けに、枯草のベッドの中の赤子のように横たわりほほ 笑んでいる。墓地のいちばん奥に建つ明治時代の立派な英霊塔の前にもいくつかの軍人墓が陪塚のように仰臥していた。祀られる墓と、もはや祀られることを放 棄された墓が、姿勢によって分かれていた。かつての寺と神社の跡地前に車をとめて、テーブルと椅子を出し、昼食とした。祭の日には、この場所も集落の人々 で賑わったことだろう。アルコール・ストーブで湯を沸かし、コーヒーを淹れる。集落の南端のこの場所からは、斜面にへばりついた石積みも、ダムによって堰 き止められた吉野川の紺碧の水面も見える。白屋地区の歴史は800年とも千年とも言われるそうだ。じっさいは丹生川上神社上社のように縄文時代から、この あたりには人々が住んでいた。縄文の人々の住居跡は二千年前には、このいまの白屋集落跡のようだったろうか。そんな古代のマボロシを夢見ながら、組み立て チェアにすわってわたしは先日届いたばかりのもうこの世にはいない岩名監督の「第3舞踏論集 孤独なからだ」の数ページを読んだ。「・・以上のような内容 の踊りであるということになるとなかなか簡単に世間的にアピールしたり有名になったりお金儲けをすることは出来ません。なぜなら世の中というものはいつで も規範を作ってその規範のなかで優劣を作りたがるからです。つまり商売や商品として踊りに値段をつけるのが社会です。ですから私たちの踊りを志す人たちは 有名にならなくてもいい、評価や競争の外にいても構わないという雄大な決心と覚悟がなければ出来ません。それでもこういう踊りをやってみたいという方があ れば一度尋ねて来てください」(2009年2月16日 アテネ)  この古代縄文のマチュ・ピチュのような白屋集落跡で、岩名雅記の踊りを見てみたかっ た。あの世へ、別の空間へ旅立ったあとでも、かれのあたらしいダンスを感じることは可能か? あの仰臥した露光童女の無縁墓のようなダンスを?
    2021.2.15

    *
     
     何だっておまえは百年も遠いむかしの、しかも見知らぬ朝鮮人の人夫や女工たちの死をそれほど気にかけるのか。そんなふうに訊くやつがいたら、いや、かれ らの死はいまだ死ですらない。踏みつぶされ、ほうり出され、見棄てられ、穿った昏い深い穴に死んだ馬や木材やごみ屑と共に投げ捨てられいまなおこの地上に 腐臭を放ち続けて地表には墓標代わりの石くれひとつもない野花のひと差しも供えられない。どこのだれだか分からず、いったいいつどこでどんなふうに死んで いったかも分からない。それは死ですらもなく汚辱に満ちた生ですらもなくただの一点の地面のシミだシミと分かればまだましだがすでに遠い忘却滅却抹殺の彼 方の南無阿弥陀仏すらもはや届かぬ。1932(昭和7)年に発行された「工事実例青山隧道編」(西畑常・大正商工社)という小冊子を国立国会図書館関西館 に見つけた。ここにそのシミのような死の記録がわずかに記録されている。わたしがたずねた伊賀上野の山中の道路からさらにくだり降りたさみしい穴倉のよう な空間にひっそりと立つ供養碑では分からなかった一人びとりの死に様がおぼろに見える。わずか17歳だった朝鮮慶尚南道蔚山郡斗西面仁甫里出身の洪海龍は 当日の朝体調がすぐれず休んでいたところを人員不足で駆り出されモルタルを練るミキサーにあやまって足を踏み外し歯車に右胸を挟まり大林組員と下請けの森 崎亀太郎に付き添われて車で近くの尾上医師宅へ向かう途中に死亡した。事故報告書は事故の原因を「本人の過失」とし加えて「本事故は洪海龍の不注意により 起りたるも本人とても予期せざる過失にて誠に同情す」と記す。シミがようやく死と成る。17歳の洪海龍の当日の死がおぼろな影となってわたしの肉に煙のよ うに沁み込みわたしは知らず胸に手をあてて慟哭する洪海龍の顔になっている。ふざけるなと言いたいような「同情」だが、1930(昭和5)年には日本人と 朝鮮人労働者を並列して曲がりなりにもその死を供養したそんな「同情」ですら、この国では1940(昭和15)年にはすでに影も形もなかった。かれらの死 はもはや数ですらなく、そしてシミですらなかった。シミにされる前にひとはまず尊厳を奪われる。わたしはささやかながらもかれらの尊厳をとり戻すためにい までは失われかけているかれら一人びとりの死の記録をここに起こし直しておく。


    第十節    青山隧道事故 死亡者

    第一項    死亡者

    青山隧道工事中事故として記載すべきは第一に人事自己なり、故に其の大要を表示すれば次の如し。

    青山隧道工事殉難者一覧

    東口・号令 佐藤久次郎(42歳 大分県大分郡日岡村大字原)
    昭和3年9月9日 3:30 隧道580尺の箇所に於て擔取外し作業中岩石落下即死。


    西口・人夫 洪 海龍(17歳 朝鮮慶尚南道蔚山郡斗西面仁甫里)
    昭和3年12月18日 16:00 ミキサー歯車に巻き込まれ応急手当を施したるも遂に死亡(明り工事)


    東口・土工 金 元植(36歳 朝鮮平安南道江西郡浅松面三府里) 
    昭和4年1月17日 9:15 隧道100尺の箇所に於て碿トロ脱線し後トロの下敷きとなり死亡


    東口・坑夫 高野 政雄(28歳 三重県阿山郡府中村大字佐那具) 
    昭和4年5月18日 14:40 隧道2,200尺の箇所に於て支保工修繕中材料墜落の為め即死


    東口・工夫 李 珍和(31歳 朝鮮慶尚北道迎日郡延日面槐亭洞) 
    昭和4年7月12日 8:40 隧道2,600尺の箇所に於てハンドポンプ修理中大立と鍋トロとに挟まれ負傷遂に死亡


    東口・運転手 瀬川信太朗(27歳 岐阜県揖斐郡小島村大字廣樫) 
    昭和4年10月1日 7:30 機関車脱線下敷きとなり即死


    東口・坑夫 曹 一龍(31歳 朝鮮慶尚北道慶尚郡西面毛良里) 
    昭和4年12月9日 21:40 隧道内に於て爆破装填点火して避難せるも岩石破片飛来足首負傷に基因し死亡


    西口・号令 高橋 傳四郎(44歳 愛媛県新居郡橘村禎瑞) 
    昭和5年2月5日 4:30 隧道4,500尺附近に於て発破にて支保工倒壊の為め即死


    西口・人夫 金 京賢(25歳 朝鮮全羅南道須天郡海龍面狐頭里) その他 同上

    西口・人夫 朴 三伊(22歳 朝鮮慶尚南道普州郡美川面美谷里) その他 同上

    西口・人夫 李 徳順(34歳 朝鮮慶尚北道具東郡江北面起在洞) その他 同上

    西口・人夫 全 岩伊(19歳 朝鮮慶尚北道高美郡茶山面平里洞) その他 同上


    以 上12名の尊き犠牲者に対しては、参宮急行電鉄株式会社主任技師西畑常・主任技師補山口義夫・株式会社大林組監査役安井豊・主任多賀保・久野二男・大林組 配下上村圓治・岩田文八の7氏発起人となり、青山隧道工事殉職者の弔魂碑を青山隧道西坑門上部附近の青山地蔵尊(通称青山大師)の傍に建立し、永久に其の 霊を祭ることとなし、上津村の善福寺に永代供養基金を納め依頼せり、其の弔魂碑は写真第三参照。尚昭和5年3月21日には除幕式を兼ね殉難者追悼会を催 し、其の英霊の永へに冥福することを祈願せり。


    「工事実例青山隧道編」西畑常(大正商工社・昭和7年)
    2021.2.27

    *
     
     帰宅するとリビングで娘が一人、先に夕飯を済ませている。二階で着替えをしていると、娘があがってくる。「なんだ、調子わるいのか」 「うん、ちょっと ね」 自室に入ってドアがしまる。降りて行って、つれあいと二人で食事をする。今日は午後に学校へ行って、4月からのスケジュールを調整する予定だった。 ほんとうは十数人の生徒たちがあつまってみんなでするのだが、その日は行けなかったので先生が個別に都合をつけてくれた。仕事を終えて帰宅したつれあい が、いつもは玄関で待っているはずなのに姿がないので二階へあがって声をかけると、今日は行けそうにないというピリピリした声が返ってくる。ドアを開けよ うとしても内側で家具をかましているのか開かない。いつもと違う様子を察したのか、犬のジップが階下からあがってきて娘の部屋のドアをかりかりとひっか く。娘はそれでもドアを開けない。しばらくドアをひっかいていたジップは、やがてあきらめて、つれあいと階下へもどる。そんなことがあったと、夕飯を食べ ながらつれあいから聞く。
    2021.3.1

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     "Everything will be okay(きっとうまくいくわ)"  2021年3月3日、ミャンマーのマンダレーでデモの最中、軍のスナイパー(狙撃手)によって首を撃ち抜かれて死ん だ19歳の少女 Ma Kyae Sin が着ていたTシャツに書かれていた言葉。その言葉を彼女の死とともに呑み込もうとするのだが喉元につかえてしまう。首が灼けるように痛い。一発の銃声は あふれるほどたくさんの思いを無慈悲に終了させる。きっとうまくいくわと震えるじぶんに言い聞かせてみながあつまる路上へ飛び出した19歳の少女の死。英 雄でも殉教者でもない、どこにでもいる平凡なきみやわたしの日常のなかの決意。肉と骨がくだける。呼吸ががらんどうの風のように響く。ひかりが遠ざかる。いつかおなじようなことに直面したら、おれもおなじように路上へ飛び出して いくよ。約束する、Ma Kyae Sin。ちっぽけでばらばらのようでもひとつのあかりをめざしてつらなっていく波のような列が見える。やつらの暴力は圧倒的だが、やつらの銃では殺せない ものがこの世にはある。首元が灼けるように痛む。一瞬だ。あふれるほどたくさんの思いが暗闇に投げ棄てられる。その闇の深さにたちすくむ。やつらの銃には 真理がない。"Everything will be okay(きっとうまくいくわ)"  言葉は闇の底でほのかなひかりをたたえている。約束する、Ma Kyae Sin。2021年3月6日、日本。
    2021.3.6

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     明け方に奇妙な夢を見て目覚めた。二上山の山頂だ。じっさいの二上山とは違ってがれ場の荒涼とした頂に粗末な小屋をつくったのだが、不注意から火を出して しまう。土づくりの塀の上で炎がちろちろと燻ぶっているのを見ながら、おれはあわてて山を下った。あとで小屋にガリ版刷りの冊子を置いてきてしまったこと に気がついたが、もう遅い。それは(おそらく)反体制的な文書で、だれかが二上山の反権力的な歴史について考察した文章に続いて、無記名だがじぶんが檄文 を添えて、それは最後に「これは無名の人々の墓碑だ」と記していた。ニュースでその二上山についての文章を書いた学者が今回の山火事の参考人として警察に 聴取を受けたと聞いて、じぶんの身元が判明するまでにそう時間はかからないだろうと思い、しくじった、これからどうしようかと思案しているじぶんがいる。
    2021.3.8

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     ジップ散歩。春がちかづいてきて、田圃のへりには色とりどりの野の花々が咲き始めた。タンポポを一本摘んで来世墓の、郡山紡績工場寄宿舎工女・宮本イサ ちゃんの無縁墓をひさしぶりに訪ねた。ずいぶんと手を尽くしたけれど、120年前に死んだたった一人の女工の来歴さえわたしたちは届かない。年老いた女性 がついてきたキャリーカートにすわって田圃をながめている。むかし産婆さんをやっていたという近所のおばあさんだ。たしか90歳に近いともつれあいが言っ ていたけれど、彼女の年齢を遡上しても工女・宮本イサの生きていた時代には届かない。じっと動かないおばあさんは風景に同化してまるで山川草木ほとんど遍 照金剛南無阿弥陀仏のようだ。紡績工場で死んだ工女・宮本イサはきっとおばあさんの1/3の時間も生きられなかっただろう。でも彼女はたしかにこの土地を あるき、この空をながめた。昼間はうごいていれば汗ばむような陽気だけれど、陽が傾けばまだ空気は冷たい。でも植物たちはきたる春を予感して華やぐ。あま ねくひかりというのはきっときみやあのおばあさんたちのことをいうのかもしれない。
    2021.3.14

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     ブレンダ・リーの声には「それ以上の何か」がある。陽炎のような夏草の陰で石ころの姿になってまだ見ぬ夢を見続けている朝鮮人女工の魂のようなものだ よ。夜になるとそうしたものにからめとられてしまう。それで彼女の声を聞きながら会話をする亡者との会話。夜中にいつもぎりぎりでこの世にかえってくるの さ。草いきれに逢瀬して。この世では会えないから。
    2021.3.16

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     生がつねに死を孕んでいるように死もまた生とたわむれている。茫々とした墓地にひとり佇めば地面の下で瞑目しているかれらと地上でまなこを見ひらいてい るわたしのどちらが生に近くどちらが死に近いのか、もう分からない。生とたわむれている死はときに生き生きとしているように見える。死を孕んでいる生もま た死に負けじと急いてときどき転げ落ちそうになる。桜のつぼみが内なる生のリズムでふくらみかけている小春日和、かつて奈良のみやこと異界とを隔てる奈良 坂の古い共同墓地の墓石と墓石のはざまにしゃがみこんで線香の束に火をつけていた老人がこうべをあげてわたしに、ようお詣り、と声をかけた。老人は生とたわむ れる死であったかあるいは桜のつぼみをふくらませている何ものかであったか。猿沢の池にほどちかいギャラリーにならんだ Left behind heart (置き去りのままの心)と題された安藤さんの作品たちも生き生きとさんざめいているように見えるがじつは死者たちの世界なのだった。作家は津波で流された 愛犬の「感触を思い、瓦礫をどけながら見つけ出すように彫った」という。そこから生とたわむれる死者たちが生き生きとたちあがった。かつて作家が暮らしてい た福島県いわきにもほど近い北関東の田舎にいっとき住んでいたわたしはいわきの海も山もそこに吹いていた風もながれていた雲も知っている。死はときおり生 によって置き去りにされる。わたしは慄然とする。やわらかな陽の射し込む居心地の良い空間(ギャラリー)が突如津波がひいたあとの黒々としたはてしない瓦 礫の原に変化(へんげ)する。作品はその瓦礫の原からふいと幽体だけがぬけ出たかのようにうきあがりゆれている。まるで剥がれ摩耗し苔むした石のほとけの ようにあたたかい。 かつて作家の堀田善衛は、古代ギリシアでは過去と現在が前方にあるものであり、したがって見ることができるものであり、見ることのできない未来は、背後に あるものである、と考えられていた―――という、ホメロスの『オディッセイ』の訳注をみつけて、「これをもう少し敷衍すれば、われわれはすべて背中から未 来へ入って行く、ということになるであろう」(『未来からの挨拶』)と記した。そうであるならわたしがいま夢幻している黒々とした瓦礫の原は前方にあるも のであり、幽体のようにやわらかにただよう作品たちは未来の生とたわむれる死者たちの姿なのかも知れない。かれらのほんとうの姿をわたしたちはまだ、この ような作品というかたちでしか見ることができないというわけだ。だからわたしたちはこれらの作品がどうしようもなくいとおしく、切ない。
    2021.3.20

    *
     
     和歌山の義父母の介護施設への転入がきまった。あっという間のことだった。つれあいと妹のTさんがそろそろ見つくろっておこうかと探しはじめたのが先月 で、そうして今月になって「将来的な話」として説得をするつもりで行ったところ、翌週に現地へ見学となり、その日の夜には「5月から行く」という返答が あったのだった。なんとか二人でつづけていた生活も限界だったのだろうと思う。台所での調理ですらお義母さんは立つことができず、床の上で包丁をつかって いたくらいだったから。場所は娘のTさん夫婦とその長男のY君とおなじ岩出市内で、わが家からも一時間は近くなる。わたしは見ていないが、まだ出来たばか りでホテルのようだという。昨日の土曜は仏壇から魂を抜く儀式とかでお坊さんが来るというので、わたしたちもひさしぶりに家族で実家を訪ねた。施設へ大き な仏壇は持っていけないから、小さな仏壇へ移して妹のTさんの家に引っ越しするのだ。ほとんど近所の隣人のような会話を交わして住職が帰っていってから、 わたしはジップを連れて集落内を散歩した。つれあいは妹さんとさっそく義父母の保険の見直しやら、施設入居の手続きの確認やら、持っていく荷物の仕分けな どで忙しい。わたしの娘も二階から古いアルバムを十冊ほどはこび下ろしてきて、おばあちゃんに大事な写真をチェックしてもらい、それらを施設へ持っていく 一冊のアルバムにまとめるのだという。つれあいは前の晩、何げない話をしていて、「おばあちゃんはお風呂が好きだったのに、施設に入ったらもうゆっくり入 ることもできないだろう」と言って泣いた。ジップと波止場へ出る。海は凪いで、深い碧に染まっている。万葉の時代からの風待ちの港だ。『古義名処考』に 「紀伊国の船、大方この港につく。今も土佐の船の往来に常に泊まる所なり。古も土佐にかよふには、かならず此の大崎を通りしならむ」とある。それから、尾 道のような家と家の間のせまい石段をのぼって裏手の小学校の跡地へ出て、そこからまた海を眺める。わたしがこの桃源郷のような土地をはじめて訪ねたのはも う二十数年前のことだ。略奪婚のような恰好でつれあいと奈良で暮らし始めていたから、決心してひとり単車で走ってきて近所の人に家を訊ねて辿り着いたのだ が、家にはあがらせてもらえず、土間でわたしは義父母たちに土下座した。そんなさえない出会いではあったけれど、すぐにここはわたしの故郷になった。東京 にいた子ども時分は夏休みに田舎へ帰るともだちが羨ましかったが、わたしにも田舎ができたのだった。娘が小さい頃、正月の港にはまだたくさんの漁船が色と りどりの大漁旗をあげて繋留されていた。大晦日には集落の人々が除夜の鐘をつきに並び、高台の神社では餅が投げられ、小学校には子どもたちの声が響いてい た。郵便局も、魚屋も、床屋も、雑貨屋もあった。「20年も30年もかからないよ。もう5年、10年もしたら、このあたりは猫だけになるだろうよ」と義母 がわらって言ったのは数年前だったろうか。この国の山や海で、何百年も人々が継いできた暮らしが蝋燭の火のように消えようとしている。空き家が増え、やが て小動物が入り込み、廃屋のまま放置されている。古代にはこの港から謀反の罪を負わされた者たちが四国へ流され、またかの紀伊国屋文左衛門が蜜柑を積んだ 船を江戸へ向けて出港させた。何百年もの暮らしが廃絶する時代とは、何だろうか。人口が減ったというなら、古代や江戸時代の方がもっと少なかっただろう。 ジップの散歩からもどると、義母が畑のエンドウを採って欲しい、とわたしと娘にいう。手押し車をついてゆっくりとあるく義母のうしろにつづく。もともと裏 の山の上にミカン畑と野菜の畑があったのがもうそこまで上れなくなって、家のほんの目の前の親類の空き地を借りて再開したのだ。けれどその畑も、もう耕さ れることはない。近所の誰々さんちへあげると言っていた小屋の肥料を義母は、やっぱり、いままで世話になった畑にさいごに撒いてあげよう、とわたしに何袋 かの肥料や赤玉土を畑のあちこちに撒かせた。つれあいは連休が取れたので、いろいろの準備に残って二晩泊まる予定だった。わたしと娘は車で帰る。夕飯は朝 獲れたばかりだというもらいもののハマチを義母が捌いて刺身にしてくれた。でも途中から、わたしももうしんどいよと言い出して、あわててつれあいが代わっ た。わたしもアラで味噌汁をつくった。ここでこうしてみんなで食事をすることも、もう何度もないだろう。梁の太いこの家はどうなるのだろうか。家を継いだ 妹のTさんも、もう誰も要らないと言う。風待ちの良港があり、山にはミカン畑があり、ゆったりとした時間が凪いだ海と共にながれていく。こんなに良い土地 なのに、すこしづつ人がいなくなっていく。夜になって、つれあいを残して家を辞した。娘がよびもどされて、しばらくしてからもどってきた。もう施設に入っ たらお金を持たしてもらえないから、と最後の小遣いを義母がくれたという。
    2021.3.28

    *
     
     たとえば、百年の人が生きた痕跡さえたどるのがむずかしい。それでは百年前、二百年前のゴッホやセザンヌのような画家たちの作品はどのように残されて現 在に至ったのか。花曇りの京都御所の堺町御門を見下ろすギャラリーの二階でそんな話をしたのは画家の大作15点がこのたび、地元山梨の大学に寄贈されたこ とを受けてであった。画家みずからが選んだそれらの作品は校内の教室やホール、図書館などに飾られた。それと併せて、間もなく古希を迎えようとする画家は 倉庫にのこされた他の多くの作品をまた裁断した。ゴッホは生前、一枚の絵も売れなかったというのは、どうも正しくはないらしい。弟のテオと専属契約を交わ していたゴッホは描いたすべての作品を弟へ渡す代わりに月決めの報酬を受け取っていた。やり手の画商であったテオは兄の作品の価値を確信していて、作品を 貯め、その価値が高まる頃合いを見て高く売るつもりでいた。実際にゴッホの死後、テオは兄の作品をあつめた個展を開いて成功させるが、その半年後に病没し てしまった。戦死した画学生たちの「慰霊」美術館である無言館の作品たちはどうであろう。戦死という異常死によってはからずもかれらの作品は後世に伝えら れている。かたやおのれの来歴をこの地上に何ものこさず摩耗する無縁墓にかろうじてその名を刻んだ紡績女工もあれば、石くれひとつも置かれずこの国の大地 に眠っている朝鮮人坑夫もある。百年前は知らぬものがいなかった流行作家がいまではほとんど忘れ去られ、逆に夭逝の詩人が遺したわずか数編の詩がいまも人 々の心を照射しつづける例もある。演劇や舞踏などの舞台上でのパフォーマンスは本来一回性のものであり記録には残らないが、わたしたちはいにしえの世で 舞っただろう白拍子や傀儡たちの業(わざ)を夢想することはできる。イエスのことばはどうだろう? かれのことばは新約聖書に記録されたが、記録されな かったことばが千年後二千年後にだれ かの心の内にふりそそぐこともあるいはあるのではないか。ついに書かれなかった詩が、うしなわれた絵が音楽が、人のこころにふと到来することもあるのかも 知れない。

      はるさんの絵を購入するのは二度目だ。いちどめはまだ娘が赤ん坊でわが家がいちばんお金がなかった頃で、画家に頼んでたしか十回くらいの分割払いにしても らった。もちろん複製でないほんものの絵を買うなどというのははじめての経験だった。毎月の振り込みが終了したときにはほっとした、とつれあいはいまでも 言う。それくらい余裕がなかったけれど、不思議なことに、人はパンのみに生きるわけではない。ナチスによる強制収容所やシベリアの日本人捕虜収容所のよう な絶望的な場においてこそ詩や歌や絵は真に渇望される。つまり、豊かになると、人は見えなくなる。はじめの絵は生きる糧であった。二度目の絵はそれとはす こしばかりちがう。雑多な書籍に埋めつくされたわたしの書斎に画家の絵をひとつ、置きたいと思った。本のなかにあってそこだけ空気がかようような場所だ。 「ピエロとユニコーン」というドローイングの一点を決めていた。娘にそれを買うつもりだと耳打ちすると、彼女はわたしはこっちの方がいいと思うと言う。そ れは woman という作品で腕で円を描くような長身の裸婦が林檎を落としているかひっぱり上げているかのような絵だった。三時間ほど滞在したギャラリーで娘はその作品を 見ていた時間がいちばん長かったと言った。するとそばで父娘の会話を聞いていた画廊主の女性がわたしもこれが大好きなのよと娘に言った。この裸婦のライン はじつに魅力的で、絵じたいも見ているとさまざまなものがあふれ出してくる。そういえばみずからの詩句に添えたブレイクの色鮮やかなデッサンにも似てい る。二人の女性は意気投合して笑い合っている。わたしはじぶんが抱いている従来のはるさんの作品のイメージからある意味自由になれなくて「ピエロとユニ コーン」という具象に誘われたが、娘はもっと自由な感覚でこの絵を選んで気に入ったのだと思った。それで購入額の6割をわたしが出して、4割を娘が出し、 絵は娘の部屋に飾ることになった。いちどめにはるさんの絵をわたしが選んだときは赤ん坊だった彼女が、成人になってわが家で二度目の画家の作品を目の肥え た画廊主のように選んだ。絵はそんなふうに空間や時間や人のあいだをいきかう。

     夕方に帰宅してさっそく娘の部屋の壁に飾られた作品は、 京都のギャラリーの自然光のもとで見ていたより部屋の暖色系の照明でまたすこしちがって見える。明日の朝はまたちがって見えるだろう。いつも眺めていたい から、と娘はじぶんの机の真横のそう高くない場所に設置した。いろんなものが浮かんでくるからこの作品が好きなのだと彼女は言う。立派な美術館に収蔵され る作品もあれば、こうしてささやかな場所で呼吸しつづける作品もある。画家やわたしがこの世を逝ったあとも、絵は娘のそばにありつづけて、見るたびに彼女 のときどきの思いを映して生きつづけるのだろう。
    2021.4.4

    *
     
     県立図書館へ120年前の娼妓の証文を撮影に行った折、「観光地・奈良の姿」と題した資料展示を見た。1900(明治33)年。奈良公園の大改良計画の 許可が下りる。若草山の山焼き、夜間実施に変更。大阪鉄道、関西鉄道へ合併。帝国奈良博物館、奈良帝室博物館に改称。奈良公園内に春日山周遊道路完成。ど れも郡山紡績寄宿舎工女・宮本イサが死んだ年のことだ。彼女の無縁墓を見つけて以来、1900(明治33)年がわたしのなかの基点となった。1900(明 治33)年。パリでは万国博覧会が開かれ、中国では「扶清滅洋」を掲げる義和団の外国人排斥運動(義和団の乱)が起きた。日本では足尾銅山鉱毒事件の被害 者農民らが東京へ陳情へゆく途中で警官隊と衝突した川俣事件があり、東京市がペスト予防のため鼠の買上げを開始し、 治安警察法公布された。愛知県の光明寺村の織物工場では女工31名が焼死する事件が起きた。その年、郡山紡績工場は綿糸価格の暴落により操業短縮を余儀な くされ、女工三人が「会社の虐待を恨み」脱走する事件も起きている。すべて郡山紡績寄宿舎工女・宮本イサが死んだ年、彼女が生きて、呼吸し、最後の風景を 見ていた歴史の実時間だ。1900(明治33)年を軸に世の中を考えると、たいていのことはたどれない、と気づく。宮本イサはどこの出身で、どんな生い立ち で、なぜ死んだのか。どんな人生を送ったのか。なにも分からない。1900(明治33)年を軸に世の中を考えると、わたしはこの世にだれも知り合いがいなくなる。そのくせ、 世の中のすえた匂いはどことなく似ている。わたしはそのまま、2021年の日本で生活しながら1900年にはまだ生きていた郡山紡績寄宿舎工女・宮本イサ と彼女があるいたかも知れない紡績工場のはたの天満宮や佐保川の堤を二人だけであるく。イサちゃん、百年経ったって人間なんぞは猿のままだよ、いやいっそ 猿の方が賢いかも知れないな。わたしの横で彼女はだまって土手の草を抜いている。ぼくは百年前に死んだきみのことをいつも考えている。ぼくはまるで記憶を なくしたにんげんのようだ、じぶんがどこのだれで、いったいどこからやってきたのかすら分からない。きみの顔すら思い出せない。風がわたる。過去からも現在からも切りはな されてわたしは立ちすくむ。
    2021.4.11

    *
     
     「しばらくたった今、私はだんだん平静を取り戻してきたので、こうして書き始めている。私がこれを書いているのは、殉教した私の6人の兄弟たちに賛辞の 念を表すためである。たぶん、私の賛辞など取るに足りない、不用なものだろうが。私がこれを書くもうひとつの理由は、この残酷な世界――貧しい人々やかれ らと運命を共にする人々の命を奪う世界、生きている人々に対してはかれらの希望を殺して、生きながら殺す世界――に生き続ける人々に、光と励ましをもたら すためである」

    「・・ かれらが危険を十分覚悟の上で、まるで熱狂的に働いていたのは、かれらが道端で苦しんでいる人に出会って、善きサマリア人やイエス、天の御父のように、は らわたから応えたからである。かれらは決して、善きサマリア人のたとえ話の祭司やレビ人のように、道の反対側を通ることによって、苦しんでいる人々と出会 い、その苦しみに心動かされることを避けようとはしなかったのだ。人々がどんなことを頼んでも、それがかれらにできることなら、決していやとは言わなかっ た。かれらは、大学の学問は基本的には大衆の叫びに応える道徳的・実践的義務を負わされていないとして、人々のニーズを避けて学問の仕事に逃避するような ことは決してしなかった。すなわち、かれらのあらゆる仕事や奉仕の源とは、かれらが生涯持ち続けた共感とあわれみであった。かれらが大学人として語った言 葉は、「正義」、「構造の変革」、「解放」であり、的確な意味での「革命」もそこに含まれていたが、それはイデオロギーや政治学の冷たい学問用語ではな かった。その言葉の背後には、エルサルバドル人への真の愛の言葉、あわれみの言葉があったのだ」

    ジョン・ソブリノ「エルサルバドルの殉教者 〜ラテン・アメリカ変革の解放の神学」
    2021.4.12

    *
     
     1932(昭和7)年6月、郡山紡績工場にて朝鮮人職工が作業中に感電死して補償問題で紛糾したという一節を見つけたのは、たまたま Web で出版を知り取り寄せた奈良朝鮮学校の創立50周年記念誌「奈良の朝鮮学校 奈良同胞100年に向かって」(ハンマウム出版)の巻末に資料として付された 川瀬俊治氏の「在日朝鮮人はどんな歴史を歩んだのか 奈良の地から考える」のなかであった。その瞬間、わたしの頭には近所の誓得寺に残された紡績工場の過 去帳のなかにたしかそんな頃の朝鮮人男性の名前があった、と記憶が動き出した。徐錫縦、38歳。昭和7年6月7日死亡。戒名は釈得忍。県立図書館のマイク ロフィルムに眠っていた当時の新聞記事がつたえている男は、たしかにかれだった。15年間をこの紡績工場で働き続けたかれはある日の夕方、工場内の天窓を 閉める際に誤って高圧線に触れて感電、その後適切な治療も受けられずに破傷風を併発し死んだ。遺族やおなじ朝鮮人の同僚が補償を巡る会社側の誠意のない対 応に怒り、遺体は梅雨の時期に葬らないことが抵抗の証であるかのように一週間置かれ、腐敗し、臭気を放った。遺族や同僚たちは最終的にわずかな補償金で涙 を呑み、故国へ帰っていった。「一先打切り 鮮人工帰鮮」と書かれた彼に関する最後の記事のおなじ紙面に、畝傍町の工事現場で怪我をした朝鮮人が運び込ま れた医院で前金でなければ治療しないと断られたという記事が載っているのは、まるで物語が終わらないことを匂わせるホラー映画のエンディングそのものだ。 もちろん、かれのような使い捨ての「鮮人」労働者はその後、いくらでも続いた。無数の徐が、この国の地面という地面のそちこちに拭っても消えぬシミのよう にこびりついている。38歳で15年間というから、23の歳から郡山紡績で働いてきたのだったら90年前、徐の姿はこの町のあちこちで見れたことだろう。 わたしがジップと共にあるくあの田圃のはたや、自転車でわたっていくあの橋や、紡績工場にも近かったあの神社にもかれの姿はあっただろう。ふと腰をおろし た境内の石段にかれも腰をおろしてわたしとおなじように青い空を仰ぎ見たかも知れない。わたしはかれの魂を呼び覚ましてしまったのだろうか、とふと思う。 それならそれで構わないさ。無縁墓で眠っている寄宿舎工女・宮本イサとこの徐錫縦と、それに1920(大正9)年1月に18歳で死んだ朝鮮慶尚南道出身の 金占順(김점순、Kim Jeom Sun)。異国の地で眠るかれらの寄る辺なき魂は、生まれた国でありながらどこにも居場所がないわたしとおんなじだ。この国の屍にはこころやすらぐ臥所がない。



    (1932(昭和7)年6月11日 奈良新聞)
    日紡郡山分場 暗雲に包まる
    職工の死に冷淡なりとて 或は争議に入るか

    日 紡郡山分工場での職工鮮人徐錫縦(42)が客月23日午後5時頃工場内の天窓を閉めに行った際誤って高圧線に触れ感電したのが動機で其後ハシヨーフ病を併 発して遂に去る7日絶命したが15年以上も勤続した同人の扶助料問題に端を発し会社側の冷淡から遂に労働争議が持揚がらんとする不穏な形勢を示している。

    職 工徐が絶命すると共に葬儀もそこそこに同僚鮮人等が遺族に対する扶助料問題について会社側に交渉した處会社側では会社の手落ちによって絶命したものではな いからと単なる包み金で済まさんとしたで鮮人等は承知せず双方の間に紛糾を続けていたが突如9日朝関西労働連盟寺西執行委員が郡山町に来て前記鮮人等と会 合今後の対策につき鳩首協議を続け不穏なる形勢にあったので斯くと知った所轄郡山署では万一を憂慮して直に所在地の非番巡査数名を招集して警戒する一方高 等係巡査は極力鎮撫に努めた結果同夜は事なく散会したが徐が絶命する迄の経路について聞くに

      客月23日高圧線に触れて約一時間程人事不省に陥っているのを知った同僚が早速医務室に連れ込み高宮工場医の応急手当を受て以来舎宅で療養していたが其後 ハシヨーフ病を併発し去る4日夜病勢急変したる為め早速高宮工場医の来診を求めたが同医師は当日高田に出張して不在の為め町内の医師に来診を求めんと諒解 を求めたが会社側では外部の医師に診断を求める場合は治療費は自弁で会社から支払う事が出来ぬと主張し為めに金に不足する徐方ではやむなく高宮医師の帰場 を待って手当を受けたが時既に手遅れとなり高宮医師では治療至難と見てか翌5日に至り市内高田町深瀬外科病院に入院応急手当を施したが入院後僅二日目に絶 命したものである

    以 上の点から鮮人同僚は徐の生命を早からしめたのは会社側に充分手落があると強硬に出張し労働組合の加勢を得て扶助料4,300円を請求しつつあるものだが 同工場では先に数名の職工解雇によって労働組合員の潜行的運動が続けられている矢先とて今後の成行は一般職工に重大視されているが現三品工場長は争議の中 心地支那上海に於て鍛えて来た器であるからと啖呵を切り労働争議の如きものは屁とも思っていないと豪語しているので勢い会社側はあく迄も冷淡な処置に出る であろうとみて職工側の激昂を買っているので今後の成行は頗る注目されている。


    (1932(昭和7)年6月12日 奈良新聞)
    宙に迷った屍一つ 暑いときに四日間の曝し
    争議が済んだら今度は因習 話題を生む鮮人の死

    死後四日も経った屍を其の儘捨て置いて扶助料問題で紛糾を極め労働争議さえ持上らんとした日紡郡山分工場対鮮人職工の内紛は昨報の如く其後郡山署峰岡高等巡査部長等の仲裁的斡旋によって10日午後7時半に至り漸く双方の間に表面円満なる解決を見るに至った。

    感 電したのが原因となってついにハシヨーフ病を併発して絶命した日紡郡山分工場職工鮮人徐錫縦(38)の死体は自宅に持帰ると共に遺族親類等は会社側に対し 相当の扶助料を要求したが会社側では単なる包金で処置せんとした為め葬式費用に窮する家族親類達はその冷淡に憤慨し遂に大阪労働組合に加勢方を依頼し茲に 事件は争議化さんとし蒸暑い梅雨期に死体を其儘に会社側に扶助料4,300円を強硬に要求したが会社側では

     腐敗して行く死体を何時迄も捨て置く訳には行かずやがては家族達もその臭気に困じ果て降伏して来るであろう

    との見解からか交渉を長引かせ容易に解決の燭光すら見えなかったので郡山署では万一の争議を憂慮し双方の中に入って居仲調停に努める一方関西労働連盟寺西執行委員が出張交渉を続けた結果会社側から800円を出そうと云う事になった、一方遺族親類達では硬軟両派に分れ硬派は

     僅800円位では遺族の今後の生活すら困るから当初の要求を飽迄も主張せねばならぬ

    と主張し軟派は

     死体の臭気の困じ果て附近の住民に申訳がないから800円でも貰えばよいではないか

    と 主張し硬派の全七用(31)は憤慨して交渉から手を引くなどのゴタゴタあって更に労働組合から安倍が来町会社側と交渉を重ね扶助料800円と別途に20円 を支出して貰いたいと種々折衝の結果820円を会社側から支出する事になって一先づ事件は一落を告げ午後7時半臭気紛々の死体を火葬に附さんとしたが鮮人 間では流行病意外は全部土葬とするので葬式間際に至って火葬、土葬の両派に別れ遂に殴り合を演ずる騒ぎに郡山署の鎮撫で死体は一先ず火葬場に運んだが前記 の睨み合で火葬場では死体を焼く事も出来ず臭い死人を抱えて困じ果てている。

    然 して会社側の支出した扶助料800円の中70円は労働組合の収入となり20円は死亡主に30円は葬式費用で残金700円は遺族に渡されたものであるが事件 解決後に至って軟派組は今更の■卒に更に幾何かの追徴金を会社側に要求せんと策動し弁護士に交渉を続けている模様であるから本事件は今後再び持出されるに 至るのではないかと看られている。


    (1932(昭和7)年6月13日 奈良新聞)
    硬派鮮人を 検束に附す

    感 電死した鮮人紡績工徐錫縦の遺族扶助料を挟んで日紡郡山分工場で紛糾を重ねて居た鮮人工は昨報の如く820円の扶助料で一先ず解決したが之を不服とする硬 派の全七用(31)外5名は更に会社から幾分でも支出せしめんと昨12日午前10時頃会社に出頭工場長等に面会を強要し不穏の形勢を見せたので警戒中の郡 山署でその6名を検束処分に附した。


    (1932(昭和7)年6月14日 奈良新聞)
    益々紛糾する 郡山紡績の揉め
    朝鮮相互会に持出して 黒白を争うと敦圉(いきま)く鮮人

    郡 山日紡分工場対鮮人職工の扶助料問題に端を発し死体曝しと云う同町初めての珍事件を惹起した事は本紙続報の如く遂には検束騒ぎまで演じ益々紛糾するの形勢 にあるが一方郡山署では如何に火葬場に放置してあるとは云え死後一週間にも近い悪臭紛々の屍の事であり一朝伝染病患者を出した暁はそれこそ一大事であると の見地からこれが焼却方を強硬に迫っていたが朝鮮の因習から容易に焼こうとはせず町当局は警察に対し督促する等屍を中心に持て余していたが12日朝親代わ りとして郡山町に来た朝鮮慶尚南道昌原郡鎮東面元朝鮮巡査除錫天(52)が親族の者数名と共に紡績工場に至り当時の事情を聴取せんとして遂に面会強要で一 時郡山署に検束されたが単なる謝礼の面会であると云う事が判って除のみが面会を許され同時に12日夜問題の死体を火葬に附し全部落着を思わしめた處茲に新 なる問題が起って来た。

      それは会社が扶助料として出した700円(郡山署峰岡部長保管)は除錫縦の内縁の妻西村キミに手交する様になって居たのである、處が同人は戸籍上の正妻で なく除には老える親があるので前記扶助料は当然祖母のものであり而も会社はキミとの間に和解したに過ぎぬから前記の和解は何等効力が発生せないと敦圉(い きま)き、会社の執れる行為は我れ々鮮人を侮辱したもので日鮮融和の矢釜しい今日甚だ遺憾でこの上は警察当局等にたよらず会社の侮辱的行為は帰鮮後朝鮮相 互会に持出し堂々と対抗すると出張し

    扶助料問題は更に会社と交渉すべく準備を進めて居るので形勢は益々紛糾するものと一般に観測されている。


    (1932(昭和7)年6月15日 奈良新聞)
    一先打切り 鮮人工帰鮮 問題は今後に

    続 報日紡郡山工場対鮮人職工の扶助料問題は其後両者の間に紛糾をかもしていたが会社側は最初の解決案をたてに交渉に応ぜず職工側も最早この上は取り付く島な しとして一先づ打切り帰鮮後朝鮮相互会に依頼して今後の対策を講ずる事になり、会社側の出した700円は除の内縁の妻西村キミに手交し同時に今15日鮮人 職工数名と家族同伴帰鮮する事になった、これで郡山町に於ける紛糾は一段落を告げるに至ったが今後の成行は如何に進展するか或は有耶無耶に葬り去られるか 頗る注目されている。

    2021.4.12

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     「だれでも肉体をぬぎすてるとき、こころで憶念している状態にかならず移るのだ」 古代インド人は、よく云ったものだ。かれらにとって、この世のいのち とは地上にもれ出た草いきれのようなものだ。 「クンティーの息子よ、これが自然の法則―― 常に思っていることが死時にこころに浮かぶ」  生きたよう にしか、人は死ねない。のこされた生者の風景もまた死者の生きざまにふさわしい。 「この世を去るにあたって、明るい道と暗い道があり、明道を行くものは もどらず、暗道を行くものはもどってくる」  肉体をぬぎすてるとき、人はこの世のすべてを手ばなす。つたえたいもののすべて、のこしたいもののすべてが 手わたされるわけではない。はからずも、つたわったものがすべてなのだ。それ以外のものはあの昏い草いきれのなかにただよっている。そこへは鬼となってこ とばを拾いにゆく。
    2021.4.20

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     韓国人のキム・ミレ監督が東アジア反日武装前線を撮ったドキュメンタリー作品「狼をさがして」を大阪・九条のシネ・ヌーヴォで見る。「日本人であること の加害者性」。いまではそのカケラすら見出せないこの国で、しかし百年の遡行が日常と化したわたしにはこの映画は不可欠であった。百席も満たない客席は予想以 上に埋まっていた。やはりわたしより一回り以上、年長の世代が多い。わたしからひとつ置いていちばんうしろ端の席に苦労して着座した杖をついた男は、一 時間ほど前に地下鉄九条駅付近でわたしが1939(昭和14)年に建てられた「八紘一宇」の国旗掲揚塔を探していたときによろよろととおりすぎていった男 だ。その男とわたしの間に上映開始間際に飛び込んだ白髪の小男は上映中、耳元で「ほー」「そうか」「けっ」「あー これは」やたら独語が多くて五月蠅かっ たが許してやった。主に事件の経緯を淡々とたどる前半は単調ですこしばかり眠気にさらわれかけた。いやふたつの世界のあちらとこちらをさまようていたか。 かれらの軌跡を追った松下竜一の「狼煙を見よ」を読んだとき、もうひとりのじぶんがそこにいるような気がした。それにしてもなぜ韓国人の監督なのか。もう ひとつ見たいと思っている沖縄の島の炭坑での強制徴用を描いた「緑の牢獄」も台湾人の監督による作品だ。この国の歴史をこの国の者がとりあげない対峙しな い。池田浩士という京大名誉教授が云った「この国では司法の公権力やそれによる死者も含めてすべての暴力は国家権力が持っている。権力側がすべて持ってい て、わたしたちには何も持たない。そういう状況にあって、わたしたちが持ち得る暴力など、かれらの有する暴力に比べたらどれだけちっぽけでささやかなもの か。暴力は圧倒的にこちら側にない。まずはその再認識から始めなくてはいけない」はいちばん印象的だった。「大地の牙」に参加し、後にダッカ事件によって 海外の日本赤軍に合流した浴田由紀子は出所後、「テロリスト」として故郷にもどれなかったという。大逆事件の明治でなく2007年の話だ。絞首刑にされた 「国賊」の大石誠之助はどんな暴力的武器を持っていたか。フライパンか? 「さそり」のメンバーだった桐島聡はいまも「極左暴力集団 指名手配」のポス ターが全国に貼られている。しかしこの国の国家権力が直接的にも間接的にも殺めてきた「殺人」の方が、じつは桐島聡の犯した罪よりも数百倍も重いのではない か。辺野古デモのおばあを羽交い絞めにしたり、財務局職員の赤木さんを自殺に追い込み済ましているやつらの方がいっそ許しがたい「暴力集団」なのではない か。しかしこの国の家畜は見事に飼い馴らされてしまった。わたしはひそかに東アジア反日武装前線(のこころざし)を継ぎたいと願っている。中心もセクトも持たない自発的散 発的遊撃的組織もわたしには近しい。かつて五木寛之がかれの作品のなかで主人公に「暴力は持たざる者の最後の武器じゃないか」と語らせたそのことばを、わ たしはいまも旨の内によく研いだナイフのように隠し持っている。狼は絶滅してしまったのだろうか。百年前に十代で死なねばならなかった紡績工場の女工か ら、虐殺された朝鮮人や被差別民から、炭坑を脱出して極寒の穴の中で震えていた中国人労働者から、自由を求めて縊られた者から、この国の真実の暴力を語 れ。狼はなんどでも立ち上がるだろう積み上げられた無数の死の深みからなんどでも。
    2021.4.24

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     落剝した墓石を前におれは知らず会話をしているわけだ。ドラッグで逝っちまった男が残した曲なんていかしてるじゃないか。むかしからこの世が嫌いだった からあの世と話をしていたんだ。あちら側はもう変わることがない、こちら側はふらふらとあてどなく醜いばかりだ。醜くたっていいじゃないの、あたしたちに は音楽があるわと、じゃにすじょぷりんが云っていた彼女の尖った乳首が好きだった。死者は裏切ることがない。かれらはみずからの死をもってかれらが生きた 真実を語る。イエスがそうしたように、だよ。かれらが残したかったもの・ほんとうにつたえたかったものに目をこらせ。そうでない連中は抜け殻でしかないこ の世の遺体のまわりをうろついては現世の利益に花を咲かせる。おれはうんざりだね、もっとしずかなところへいってひとりですわっていたいんだよ。苔むした 墓石は生者よりもたしかだ。ほんとうはじぶんたちが死んでいて、かれらの方が生きているんじゃないか。そう思うことがあるよ。長い時間、だれもいない共同 墓地にすわって、露の光や幻の夢などと刻まれたわらべの墓石をながめているとそんな気持ちになる。百年前など一瞬だった。おれたちは永遠にじぶんを含むこ の世界が続くと勘違いしている。富をこの世に積むことの卑しさよ。おのれの死の瞬間になにを手離し、なにを残し、なにが伝わるのか。あの世へ持っていくも のなどなにひとつない。古い伝承歌にうたわれているだろ、切符は要らない、ありがとうの気持ちだけだ。もとの星屑へもどるだけ。墓場でひとりすわっていると、もともと手離すものなど、はじめからなにもなかったのだという気がしてくる。
    2021.4.27

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     それは目には見えないきこえない気配のようなものだ。日帝下、炭坑の手配師として雇われた養父に連れられて台湾から西表島へわたってきた10歳の少女。 「炭坑もの」「炭坑の蛮人」と蔑まされ、学校へも行かず、排除され続けてきた。必死の思いでこどもをそだて、こどもをなくし、ふかい皺の刻まれたおばあに なったかつての少女はかろうじて台湾人の本名を残した墓の前へのろのろとやってきて、今日は火もお線香も持って来てないから手だけ合わせるよ、とひとり残 された日常をこらえる。わたしもかえるから。あの世にかえってご先祖さまに会うから、どうぞご加護を。手足がうごいて一人でやっていけますように。映画は そのおばあの永遠のような日常を淡々と映し、おばあのことばによってものがたられる。台北まで200キロ、那覇まで400キロ。はざまのようなこの西表島 で台湾人にも日本人にもなりきれなかったおばあの80余年は、そのまま歴史の深い断層のようだ。そのくらい裂け目からときおりぽつぽつと浮き上がってくる ことば。あっち入らんよ、あっち行かんよ、あっちこわいもん。みんなが「死人の島」ってよんでた。むかしの炭坑の人、かわいそう、惨め。しばって吊り下げ られて袋叩きに。むかしのことはみんな忘れたよ。それは目には見えないきこえない気配のようなものだ。鬱蒼としたマングローブの森。ひとの血管のような葉 脈。水。林のなかで目をこらせば、そちこちの薄暗がりにふんどし一丁の昏い眼をしたもの云わぬ坑夫たちがうかびあがってくる。おばあが口をつぐみ、黙した その先にかれらの姿はたちあらわれる。あすこの岩の陰に、むこうの黒い窪地に。わしね、戦後は骨の上でねむった時あるよ。流れ板ひろってね。ねむっている ね、おかしいことにはよ、これはみんなが3,4名ねむってるだから、みんな聞いたからよ、ものゆうてるのさ。ああ、それ(骨)のことばよ、日本語か台湾語 か英語か、何もわからん。ただよ、声だけある。それは目には見えないきこえない、けれど濃厚な気配のようなものだ。その声を聞こうとすれば、見えてくるも のがある。聞くこともしなければ、ひとはやがて狂うだろう。目には見えないきこえない気配によって。いつしか、おばあが参っていた墓の前の花が枯れて茶色 くなっている。わたしたちはおばあが亡くなったことを知る。1926(大正15)年―2018(平成30)年、 橋間良子(台湾名・江氏緞)。おばあはただ、どうにもならなかったみずからの来し方を語っただけ。雑草のような気高い彼女の一生から、わたしたちは、どこ にも記されることのなかったこぼれおちた歴史の断片をすくいあげる。

    (ドキュメンタリー映画「緑の牢獄」を大阪十三の第七芸術劇場で見た)
    2021.5.2

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     万葉集にも謳われたのどかな潮待ちの集落に抱かれたその家を訪ねたのはもう20年以上も前、わたしは250ccの単車で長い道のりを走ってきて彼女から おしえられた苗字をあちこちで訊ねせまい路地の奥にあるその家にやっとたどり着いた。それがその家にはじめて来たときのさいしょの記憶。家のなかから出 てきた年老いた夫婦を前にしてわたしは玄関先で土下座をして謝罪をした。なぜなら平和な結婚生活をしていたかれらの長女をわたしが夫から奪い取ったから だ。わたしは当時、定職を持たないプータローだった。。それからありとあらゆることが起きて、やがてわたしは許されて、しばらくして娘が生まれた。赤ん坊の頃の娘はなかば、和歌山のその海沿いの集落で育て られたようなものだ。当時はまだ集落には床屋も宿屋も駄菓子屋も電気屋も魚屋も小学校も郵便局もあって、年末には除夜の鐘をつきにたくさんの人がお寺の鐘 つき堂に並び、正月には小さな湾に色さまざまな旗を掲げた船が繋留され、高台の神社では餅がばらまかれた。釣れたばかりの新鮮な魚の刺身が食卓にならび、お義 母さんが天草で寒天をつくり、裏山の蜜柑畑で娘は鈴なりの蜜柑をもいだ。高台の村の共同墓地にのぼれば陽のきらきらと反射する海がまぶしかった。梁の太い 家の二階で布団を並べてみんなで寝た。以来、その家はわたしにとって第二の古里になった。小学校の時分、東京近辺の親類しか知らなくて夏休みに海や山のあ るイナカへ帰省する友だちが羨ましかったわたしにとって、そこははじめて持った「イナカ」だった。義父母とも妙に気が合って、じぶんの母親よりも仲がよ かった。その桃源郷のような集落も、魚屋がなくなり駄菓子屋が店を閉じ、小学校や郵便局までなくなって、「十年も持たない、数年でここらはもう猫しかいな い町になるよ」と言っていた義父母がついに自力での生活が限界にきて、とうとう介護施設へ入所する日がやってきた。かつて多くの潮待ちの船が逗留し二階に 博打用の隠し部屋があったという近所の駄菓子屋もおばさんが亡くなって店を閉じ、戦前に裏山の砕石場で働いていた朝鮮人の住まいがあった場所をおしえてく れた親類のおじさんも先にホームへ入所し、正月の大漁旗もさみしい風景になってすでに久しい。千数百年もの歴史を有するこの集落がこんな空き家だらけの さみしい姿になる日が来ることをだれが予想しただろうか。お義父さんがアルツハイマーを患い、お義母さんが腰を痛めて台所の床の上に置いたまな板で魚を裁 くようになって、つれあいと岩出市に住む妹さんがあれこれと手を尽くして妹さんの家の近くの真新しい介護施設を見つけ、義父母を見学に誘ってから、話はと んとん拍子に進んだ。つれあいは連日、実家の整理のために和歌山まで通い続け、大量の荷物が捨てられ、着物や布団や洗濯機などがもらわれ、畑の小屋が撤去 され、かつてわたしとつれあい、幼かった娘、妹さん夫婦や親戚たちの多くで賑わった家はすっかりからっぽになった。仏壇も整理され、家を継いだ妹さん夫婦 の家で小さな仏壇に買い替えられた。岩出市の介護施設はこれまでよりは奈良寄りになって距離が近くなる分、義父母のいない潮待ちの集落にはある程度の片付 けが終わればもうあまり行くこともなくなるだろう。将来、娘が結婚したら二人に郡山の家をあげて、わたしはつれあいと二人でこの家をリフォームして住むと いうのはどうだろうか。裏山の蜜柑畑も親類に云ったら貸してくれるだろう。何かあたらしい仕事を始めてもいいかも知れない。おととい、実家の整理を終えて から(義母の嫁入り道具の鏡台をはじめ、いろんな粗大ごみを運び出した)、介護施設へ届け物をした。コロナ対策で直接は会えないので、受付で依頼してか ら、裏へまわってベランダ越しにまるでロミオとジュリエットのようにあたらしい携帯電話で呼び出した義父母とはなれたところで会話をした。つい先週は実家 で好きなだけ話ができたが、施設へ移った途端に面会もできなくなる。コロナはほんとうにたくさんの限られた貴重な時間を奪ってしまう。
    2021.5.5

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