• ゴム消し 4/28 ゴムログ BobDylan 木工 Recipe others 沖浦和光 BBS link mail
     

     

     

     

     

     

     

     


    A ten year old child is killed when Israeli war planes target his home.

     

     

     

     

      ソマリアに行く前は、世界というものをひとつの場だとしたら、ぼくは中心概念というものを無意識に持ってたわけです。中心とは、たとえば東京だったり、 ニューヨークだったり、ワシントンDCだったり、ロンドンだったりしたわけですね。しかし、飢えて死んでいく子供たちを見て、中心概念は全部崩れました。 餓死したって新聞に一行だって記事が出るわけじゃない。お墓がつくられるわけでもない。世界から祝福もされず生まれて、世界から少しも悼まれもせず、注意 も向けられず餓死していく子供たちがたくさんいます。ただ餓死するために生まれてくるような子供が、です。間近でそれを見たとき、世界の中心ってここにあ るんだな、とはじめて思いました。これは感傷ではありません。これを中心概念として、世界と戦うという方法もあっていいのではないかと考えました。餓死する子供のいる場所を、世界の中心とするならば、もっと思考が戦闘化してもいいのではないかとも考えました。

      世界はもともと、そして、いま現在も、それほど慈愛に満ちているわけではない。そして、すべては米国による戦争犯罪の免罪の上に成り立っている。じつにお かしな話なのですよ。情報の非対称の恐ろしさというのは、これだと思う。アメリカで起きた屁のようにつまらないことが、まるで自国のことのように日本でも 報道される。けれども、エチオピアで起きている深刻なことや、一人あたりの国民総生産がたった130ドルのシエラレオネで起きている大事なことは、まず日 本では報じられない。この国では、どこのレストランが美味いか、どこのホテルが快適か、どこで買うとブランド商品が安いか、何を食えば健康にいいのか、逮 捕された殺人容疑者の性格がいかに凶悪か、タレントの誰と誰がいい仲になっているか....といった情報の洪水のなかでぼくらは生きています。伝えられる べきことは、さほどに伝えられなくてもいいことがらにもみ消されています。アフガンもそうやってもみ消されてきたのです。

     そのときに、言説、情報、報道というものはこれほどまでに不公平だ、こ の土台をなんとかしない限りは、ものをいっても有効性は持ちえない、どちらかというと無効なんだと思いましたね。同質のことをいま、ぼくはまたアフガンで 見ざるをえない。若い人は、まだ報じられていない、語られていない、分類されていない人の悩みや苦しみに新たな想像力を向けていったり、深い関心をはらっ てほしい。ブッシュやラムズフェルドやチェイニーの貧困な想像力で暴力的に定義されてしまった世界、しかもその惨憺たる定義が定着しつつある世界を、新し い豊かな想像力でなんとか定義しなおしてほしい。それには相当の闘争も覚悟せさざるをえない。でも、そうしないと、ブッシュたちの定義にならされていくと 思います。

    反定義 新たな想像力へ(辺見庸+坂本龍一・朝日新聞社)

     

     

     

     

     

     

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    ◆ ◆ ◆   日付は上から下 ↓   ◆ ◆ ◆

     

     

     

     

     
     

     

     郡山へ来る前に住んでい た河合町の介護施設へ、昼から母と、母のいとこにあたるおばさんを訪ねた。おばさんは当年84歳。もともとは十津川村の出身で、おばさんの母親がわたしの 母の父親の妹になる。若い頃からずっと小学校の先生をしてきて十津川村で6年、結婚をして河合町へ嫁いできてからも54歳まで教師を続けた。おばさんの嫁 ぎ先が地主であちこちに土地とアパートを持っていた。和歌山のつれあいを追って関東から単車に乗ってやってきたわたしは、とりあえずそのおばさんのアパー トに転がり込んだわけだ。さいしょに入った線路沿いのアパートは木造の古い二階建てで、草だらけの空き地を耕してトマトや胡瓜や茄子を植えたりした。つれ あいと正式に籍を入れて次に高台のハイツに移って、そこで娘が生まれた。つまりおばさんはわたしたち家族の恩人といえる。そのおばさんも15年ほど前に脳 溢血で右半身が不自由になってしまった。ホームを訪ねると、おばさんは車椅子に乗ったまま廊下で他のお年寄りたちと簡単な体操をしている最中だった。終わ るのを待って、母と三人でおばさんの入っている四人部屋へ移動した。ひとしきり四方山話をしてから、じつはねおばさん、と先日の東大寺念仏堂で見せても らった分骨名簿の一部のコピーを唯一動く左手に手渡した。そこに記された「昭和19年1月13日に亡くなった歩兵79連隊伍長・十津川村の切畑屋彦九郎」 はおばさんの父親の末の弟だった。「父・虎彦」と書かれた人はおばさんの祖父である。おばさんの記憶では「切畑屋彦九郎」はニューギニアで餓死したと。も ちろん遺骨も還ってこなかった。戦争へ行く前は本宮あたりで学校の先生をしていたという。もう一人、おばさんの父親のキンペイと彦九郎の間にヘイゾウとい う兄弟がいた。ヘイゾウは医者として朝鮮半島に渡っていたが、腸チフスで昭和15年頃に現地で亡くなった。還ってきた遺骨を引き取りに、当時5歳くらい だったおばさんは父親に連れられて新宮へ行ったことを覚えているという。おばさんの母親が、仲の良かった義弟の死に泣き暮れた。彦九郎もヘイゾウも、やん ちゃで村でも優秀な人間だったそうだ。「そんな人間ほど先に死ぬ」とおばさんはさみしく微笑んだ。独身だった二人の墓は十津川の山間にある。20代のわた しはいちど単車でそこに泊めてもらい、静かな山道を歩いてシキビを供えてきたのを覚えている。けれどおばさんは「切畑屋彦九郎」が東大寺の念仏堂に分骨さ れていたことは知らなかった。よくそんなものを見つけたものだ、と笑った。わたしは寺の堂守のおばあさんが引き出しから出してくれた分骨名簿のすべてをめ くったわけではない。そのうちの一冊を何気なくぺらぺらとめくっていて偶然、「切畑屋彦九郎」の名前が目に飛び込んだのだった。それからおばさんの十津川 村での教員生活についてすこし話を聞いた。おばさんが小学校の先生になったのは20歳。6年間で村内の三つの小学校を異動したそうだ。どの学校も家から遠 かったのでそれぞれ学校の近くの教員用宿舎に泊まって、週末に自転車で実家に帰った。「おばさんの青春時代だね」と言うと、そう、とても楽しい6年間だっ たと、おばさんはうなづいた。ところで、昭和31年の消印があるからおばさんが教員生活をスタートしたばかりの頃だ。十津川村のおばさんが東京にいるわた しの母の二番目の兄(省くん)に書いた手紙を最近、死んだ叔父さん(わたしとシベリアを旅行した叔父さんだ)の遺品の中に見つけた。母によれば、おばさん はこの省くんのことが好きだったという。そう言われてみれば便箋二枚に記された当たり障りのない文面の中にほのかな好意の若芽が感じられないでもない。手 紙を見つけたときに「おばさんに見せてあげようか」と言ったわたしに母も、わたしのつれあいも、「そんな手紙ならなおさら、もういまさら見せない方がい い」と断言した。「省くん」はその頃、結核で療養中だった。戦争中、和歌山の北山村の母の実家に疎開をしていたときに母親から感染したという。わたしの見 知らぬ母方の祖母は祖父を戦争にとられ、女手一つで生活を支えるために馴れない土方や運搬などの重労働をして体を壊し、やがて結核の病に臥せって、わたし の母が幼いうちに亡くなったのだった。「省くん」もその後、後を追うようにして亡くなった。叔父さんの遺品の中には、「省くん」が通っていた治療所のカー ドや、家計簿のように当時の買い物をこまごまと記した手帳や手紙などが遺っている。そのおばさんが「省くん」に送った手紙を、わたしはこっそりリュックの 中に忍ばせてきたのだった。そしておばさんの四人部屋を辞してエレベーターの前まで戻り、母がトイレに行った隙に、廊下で車椅子にすわってまだわたしたち を見送っていたおばさんのところへ走った。「あれ、どうした?」といぶかしむおばさんの左手に、わたしは封筒を握らせて「おばさんが書いた、むかしの手 紙。あとで見て」と目で合図を送ってまた走って戻り、ちょうどトイレから出てきた母とそのままエレベーターに乗り込んだ。今夜、おばさんのベッドの上では 64年前の馥郁とした風が舞っているかも知れない。

    2019.7.6

     
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      日曜は娘とミキ・デザキ監督の「主戦場」を京都四条の京都シネマへ見に行く予定だった。しばらく前にわたしが朝鮮学校を主題にした「アイたちの学校」を見 た大阪十三の第七藝術劇場も上映しているのだが、京都シネマの方が建物があたらしく、待ちスペースも広く、客席に車椅子スペースもあり、トイレも広く洋式 (カテーテルを使うので和式だと難しい)であることをわたしが確認済みであることなどの理由から京都シネマを選択した。四条烏丸はさすがに一等地で周辺の コインパークも料金が高く、近鉄電車の竹田乗り換えでそのまま地下鉄に乗って駅の真上という利便もあり、今回は車椅子に乗って電車で行くことにした。上映 開始は18時10分。人気上映でもあるので15時ごろの電車で出発して早めにチケットを買っておき、どこかで夕食を済ませてから見に行こうという段取り だった。ところが当日、娘は朝から体調が悪そうだ。このごろ不安定な頻尿が気になるらしい。2階から降りてきたつれあいが「せっかくお父さんと約束してい るから」としんどそうだと言うので、頃合いを見て娘の部屋へ行き、「体調が悪いのはおまえのせいじゃないんだから、無理しなくてもいい。大阪の十三なら今 月一杯はやっているからまだチャンスはあるよ。それでおまえがダメだったら、そのときはお父さん一人で行くから」と言うとちょっぴりほっとした表情で、 「でも、映画、見たいから、もうすこし様子を見て判断する」と言ったものの、お昼を食べ終えた頃に「お父さん、やっぱり今日は無理だわ」  「ああ、いい よ。じゃあ、今日はやめておこう」とわたしも応えて、そのままジップと寝そべって庭を眺めながらシエスタをむさぼった。車椅子で電車に乗る、というのがひ とつのハードルらしい。あとで夕飯のときにそんな話になって、車で行くのは大丈夫だが、電車に乗るのはまだ恐怖を感じると言う。人の目がこわい。「そんな ふうに自己分析ができるようになったんだから上等だよ。前は“分からない、分からない”って頭を抱えて叫んでいたんだからな」  電車のトラウマは中学時 代の通学の記憶もあるのかも知れない。それに加えて、わたしが同行したときなどはよく駅員の理不尽な対応や、配慮に欠ける車内の他人に向かってわたしがよ く文句を言っていたから、そういうのを聞くのも嫌だったのかも知れないとも思っている。娘は人と争うのが嫌いだ。わたしは人に唾を吐きかけるのが好きだ。 娘の電車恐怖症にはわたしも一役買っている。とまれ、このごろはわたしもあまり唾を吐かなくなった。娘も外出をしてだれかがエレベーターを譲ってくれた り、手助けをしてくれたりすると、素直に喜ぶようになった。「とても親切にしてくれた」 「あの子、ずっとわたしが通るのを待っててくれたんだよ」 世界 の好意をわたしも素直に信じられるようになりたい。まだまだだけど。けれども、娘を追い立てることはしなくなったと思う(たぶん)。急かしても、叱って も、リードを無理にひっぱっても何もならない。いいよ、またこの次はきっとうまくいくよ。そんなわけでその日はどこにも出かけず、家であれこれと小さな用 事を片付ける一日になった。庭の草取りをして、一角にはびこっていたドクダミでドクダミ茶の支度をして、母から頼まれていた椅子の修理をして、ついでにわ が家のステップ用のミニ椅子も直して、つれあいと買い物をして、夕飯の味噌汁をつくって、大根と白菜をポン酢に漬けて、娘の壊れたデスクトップPCのハー ドディスクからデータを救出していくつかの映画をDVDに焼いたり、そして夜は録画をしていた「大草原の小さな家」を家族三人で見た。雹で畑の小麦が全滅 して出稼ぎに行った父さんが見つけた石切り場で、友だちになった男が発破作業で最後に死んでしまうのだった。和歌山のつれあいの実家の裏山で戦時中に発破 作業をしていた朝鮮人労働者のことをわたしは考えていた。夕方、ジップの散歩がてらに修理した椅子を抱えて母の住む団地へ持って行った。その途中で舗道の わきにカラスが一羽、死んでいるのを見つけた。鳩が死んでいると無残な敗者のようだが、カラスがまっくろい大きな体をまっすぐに伸ばして横たわっている様 は、まるで英雄の死のように見えるのが不思議だ。近づくと大量の蝿や羽虫が飛び立った。家に帰ってそのことを娘に言うと、日ごろからカラスを敬愛している 彼女は「カラスは警戒心が強く頭もいいから、病気や寿命でなければ滅多に死なない。ふつうのカラスは体が弱ると、森の茂みのようなところへ身を隠すから、 カラスの死体は滅多に見られない」とまるでカラス学者のように教えてくれた。

    2019.7.8

     
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     奈良から大阪で地下鉄に 乗り換えて職場へ向かう。通勤時間帯の地下鉄は人間のてんこ盛りだ。車内はときにすし詰め状態で、むかし赤ん坊の娘をベビーカーに乗せて法円坂の病院へ通 うときに「こんな時間帯に乗るな」とスーツ姿の男から言われたことを思い出す。おまえもおまえのさえない職場へ向かうのだろうが、こっちだって今日は MRIの大事な検査があるのだよ。好きでおまえの間抜けな尻に触れているわけじゃないさ。職場の駅に着くと開いた扉からトコロテンのように人が押し出され ホームにあふれる。通路が狭くなっているところではうっかりすると誰かがホーム下へ転落してもおかしくない。津波のように分厚い人の壁がうねりながらとぐ ろを巻く。ときに障害を持った人がその波に呑まれそうになりながら懸命にすすんでいることもあるが、どれほどタフでなければならないだろうかといつも詠嘆 する。そんな風景のなかにいてわたしはいつも中学の半年間(というのは彼女が不登校になるまで)、電車通学を続けた娘のことを思い出す。郡山の駅から京都 行の電車に乗り、西大寺で大阪行に乗り換えて、さらにバスに乗り換える。改札の手前で車を停めて、杖をついておぼつかない足取りで人の波に埋もれていく娘 をなんども見送った。電車が走り去って娘がホームにぼつねんと残っているときはぎゅうぎゅうの車内に乗り切れずに諦めたからだ。足が悪いから座席に座った らいいと言っても、降りるときに降りられないからいつもドア近くの手すりに必死にしがみついていた。車内で、乗り換えのホームで、バスの停留所で、きっと わたしが知らないいろんなことを体験したのだろうと思う。小さなことが放射能の灰のようにしずかに降り積もっていった。彼女はいまも車での移動を好み、電 車に乗ることには抵抗がある。「学校に行ってたときのトラウマがあるのかなあ」と最近つぶやいた。そういうことはたくさんある。先日の高野陽子さんのアイ リッシュ・ソングの演奏をわたしが撮ってきた動画を見て、ライアーという楽器に興味を持ったらしい。「弾いてみたいなあ」などと言うので楽器の購入はさて 置いて、教室を調べてみたら大阪の阿倍野にある。けれど娘の足では駅から少々距離がある。以前に50万円の入学金を払って背水の陣で臨み、結局行けなく なった梅田の声優学校の二の舞にならないかと不安もある。トイレは洋式だろうか。エレベーターやエスカレーターはあるだろうか。車椅子は通れるだろうか。 急にお腹の調子が悪くなったらどうしようか。つまりハンディがあるということは習い事ひとつでもハードルが高いということだ。すべてのことにそれらが付い て回る。ふつうの人は分からないだろうけど、いろいろなことがすべて狭き門だ。そして結局、じつに多くのことを諦める。ハンディがあっても五体不満足でも 十分に社会参加できるなんてのは独裁国家の理想を描いたポスターみたいなものだ。嘘だと思うならじぶんで車椅子に乗って家から駅までの道をたどってみたら いいよ。ふだんは気がつかない路面の微妙な傾斜や小さな穴ぼこや排水溝が魔法の国の妖怪たちのようにあなたの前に立ちふさがるだろう。近所のコンビニへ行 くことすらも嫌になってくるよ。そうしてどこへも行けないハンディを持った人々が自然と押し出されて集まった施設に刃物を持った男が現れる。「社会に不 要」だと見做す人を次々と刺し殺し、「世界が平和になりますように。beautiful Japan!!!!!!」と嬉々として叫ぶ。れいわ新選組の比例 区特定枠1位で立候補している難病ALS患者のふなごやすひこ氏の当選が現実を帯びてきて永田町が慌てているそうだ。障害者にやさしいなぞと謳いながら国 会などのてめえのところのバリアフリーは何も考えてこなかったんだからいい気味だ。大いに慌てろよ。そうしてこれまでの政治というものが如何にお題目だけ のハリボテだったか、ちまちました言説を飛び越えて見事に顕わになる。こんな言い方をしたら失礼かも知れないけれど、これは「肉弾テロ」だよ。ハンディを 持った人間がどれだけ生きづらいか、国会で見せてもらおうじゃないか。それはそのまま、この国の実相だ。母子家庭で必死に生きようと努力した挙句に生活保 護すら拒まれ愛するわが子をみずからの手で殺めなければならない、反吐が出るようなこの国の腐臭そのものだ。この国は生きづらいんだよ。弱者であったり、 こころがやさしい者ほど生きづらい。それをこの国の政治は長いこと見殺しにしてきた。そんな政治はいらねえ。死んでくれ。

    2019.7.18

     
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      明日は投票所の立会人をするため、はじめて期日前投票を役所で済ませた。選挙区は野党統一候補の西田一美氏、比例区はもちろん山本太郎氏のれいわ新選組。 ところで今日は朝から話題の映画「新聞記者」をユナイテッドシネマ橿原へ見に行ってきた。雨模様だったので車で行こうかと思っていたら娘の歯医者とかち あって車が使えず、電車で行くことにした。ちょうど一年前のこんな暑い日に高校1年生の少女がスマホで生中継をしながら特急列車に飛び込んだ近鉄のホーム から乗っていく。映画「新聞記者」は、それなりに愉しんだけれど、ひとことで言えばわりと平凡だった。スターウォーズの帝国軍との戦いのようで、骨が軋ん だり、小さな無数の縫い針が全身に差し込んでくるような痛みはなかった。それよりもわたしは前日の仕事帰りの電車内でやっと読み終えた「満州暴走 隠され た構造」(角川新書)で安富さんが「私たちは今、満州国に住んでいる」と書いていた方がずっと刺激的だった。また「日本立場主義人民共和国」の方が、映画 の安っぽい内閣調査室の描写よりもリアルな薄気味悪さを感じる。


    『 その日本立場主義人民共和国の憲法、これが私が「立場主義三原則」と呼んでいるものです。

    前文、「役」を果たせば「立場」が守られる。
    第一条、「役」を果たすためには何でもしなければならない。
    第二条、「立場」を守るためなら、何をしてもよい。
    第三条、他人の「立場」を脅かしてはならない。

     この三つさえ守れば、日本では平和に生きていけます。

     かくして日本の陸軍・海軍は、特に陸軍は、暴走し始めました。この暴走システムを止めるには、だれかの立場を脅かさなければなりません。自分の立場も危うくしなければなりません。それは日本立場主義人民共和国では不可能なことなのです。できません。
     その結果、暴走は止まらず、
    「いやあ、私は止めたいんだけど、走っちゃうんですよ」
     などと他人事のように言う。止まりませんから中国大陸奥深くへのめり込んでいきます。どんどん人が死にます、人を殺します。それも仕方ないのです。
     こうなるとさらに死んだ人の手前、止められません。「あいつは犬死した」などと口が裂けても言いたくないのです。なので、もう止めましょうとだれも言い出しません。本当はだれかが言ってくれるのを待っているのですが、だれも言わないのです。

     結局このようにして、日本国民全体が戦争に引きずり込まれて、そのツケはすべてごく普通の人々が払わされました。親・子・兄弟を戦地で喪う。国内にいても空襲で原爆で沖縄戦で殺される。家を焼かれ職や商売を失う。
     ところが原因をつくった暴走エリートたちは、(いくらかは戦犯などとして処罰されましたが)戦後ものうのうと生き残っていきます。皆で互いの立場を守ったのです。たとえば開拓団を推進した加藤完治は戦後も大活躍しました。勲章をもらって、園遊会に招かれています。
     こうした「立場上、あるいは自分の立場を守るために暴走した」連中は、実は結構生き残っているのです。そしてそれに引きずり込まれて酷い目に遭わされた人々が、保証も何もしてもらえないのです。


     人々は己の立場を守るためになんでもしました。その行動にどういう意味があるのか、効果があるのかよりも、「その行動によって自分の立場がどうなるか」 を優先して動いたのです。その結果、他人の土地を蹂躙して傀儡政権を作り、そこにまるで無駄な資金と資材と、そして人間をせっせと突っ込んですべて失う、 そういうシステムができあがり、それが暴走し続けました。 』

     安富さんは上記の本で日本と満州国が交わした「日満議定書」と戦後に岸信介がアメリカと結んだ新安保条約を重ね合わせて、「ガンディーが自分を含めたイ ンド民衆に感じた心性、「植民地化された魂」」について記しているのだけれど、映画「新聞記者」は残念ながらその深みには達していない。つまりこんな映画 などは「かれら」にとってはおそらく痛くも何ともない、市井でばらまかれる世情を面白おかしく書いただけの瓦版に過ぎない。本気で敵を撃つのなら最深部か ら、そしてわたしたち自身の暗闇の鏡像にむかってこそ矢を放たねばならない。映画館を後にしてまたぞろ電車に乗って高田へ出て、駅前のダイソーでアイルラ ンドのお守り用に皮ひもを買って、例の善正寺さんへお借りしていた「島村先生」関連の資料をお返しした。帰りのさびれた商店街で見つけた地元のスーパーの 入口に「キムチ・チヂミ 韓国の総菜」の看板を見つけて入ってみたら肉の棚にはさいぼしや油かすなども売っていて、さいぼし(バラ)、煮こごり、鶏皮湯引 き(ポン酢)、そしてきゅうりと大根の自家製キムチを買って昼も食べずに帰ってきた。前の晩に値切り品の豚ブロックと鯛のあらを買っていたのでそれから休 む間もなく台所に立って豚トロの大根煮と鯛のあらとごぼうの甘辛煮をつくって、ジップの散歩に行き、はじめに書いた期日前投票のために自転車で市役所へ行 き、娘と二人で夕飯を食べたそんな一日。さすがに疲れていてソファーで寝転がって新聞を見ていた寝入ってしまい、目が覚めてからユーチューブで森達也監督 のれいわ応援演説を見たらかれは「集団化」ということを話していた。みんなおんなじなんだよな、感じていることは。「集団の中では主語である一人称を失 う。でもれいわ新選組は一人ひとりがその一人称を持っている。わたしたちは一人称を取り戻さなくてはいけない」 そんなことを森監督はしゃべっていた。 「一人称」ならまかせてくれよ、そいつを手放したくないためにオイラはずっとキヨシローの歌のように笑われて、はじかれて、干されて、こぼれてきたんだか ら、オイラの「一人称」は筋金入りだよ。たとえこの先、れいわ新選組の全員が逮捕されて監禁されてナチスのような世の中が来たとしてもぜったいに手放しは しないさ。

    2019.7.20

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      ふだん家ではテレビってほぼ皆無に近いくらい見ないんだけど、今朝はコーヒーを淹れてベーコンエッグをつくりながらリビングのポータブル・テレビをかけて いたら、NHKが今日が参院選の投票日であることをさらっと伝えていた。でもさ、「最終日まで各党、激しい論戦が交わされました」とか「改正の発議に必要 な3分の2の議席を維持できるかどうかが焦点です」とか、ことばがすでに死んでるんだよね。だから面白くもなんともないし、若者も聞く気が起きない。こと ばが臓腑に着地しない。逆に定型を食い破ってことばが生き生きとしてやたら面白いのが、今回の山本太郎と仲間たちだ。SNSやユーチューブ、そして各地の 街宣会場であれだけ盛り上がりを見せているのも、かれらが生きたことばを発しているからだ。映画監督の森達也氏がメディアに噛みついたのも爽快だったな。 塩崎さんの「名翻訳」では「おい、そこでカメラまわしてる奴、この映像いつ放映するんだよ。終わってからか?あ〜ん?終わったあとの選挙特番か?ここに集 まったみんなを悔しがらせるために撮りだめしてるんか?おい、黙ってカメラむけてんじゃあねえよ、こらぁ、答えろよ、このぼけ。お前らなにもんだよ、 ジャーナリスト?サラリーマンか?おまんまくえないから困るのぉって、家族と子供の前で言ってるんか。報道と、サラリーマンとどっちが大切なんだよ。お前 の子供が、このざまあみて、お父さん、お母さん、尊敬しますって、口がひんまがっても言わねえよな。この野郎、お前らみたいなのをペン乞食っていうんだ よ!」とそんなことを喋ったらしいが、その塩崎さんが「言葉は革命なんだ」と言うのもよく分かる。ミヒャエル・エンデさんが「あたらしい価値観、世界を言 い当てる呪文を見つける」と言っていたこともおなじ。言い当てれば、呪いは嘘のように氷解してしまう。それが、ほんとうのことば。いわば新聞もテレビも職 場も学校も役場もぼくらのまわりは嘘のことばばかりだったんだな。死んでることばが珊瑚のように積み重なってなんだか立派な形だけ見せていたわけだ。でも それも崩れ去ろうとしている。安富さんの現在のこの国の教育現場についての話を聞いていたら、学校に行けないままのうちの娘はじつにナイスな選択をみずか ら選んで手に入れて東大や京大に行くよりも正しい最先端の道をまさに歩いているんだと確信するよ。そしてそれはたぶん、間違っていない。氷に閉ざされてい たナルニア国に希望がもたらされた途端、氷が解け、川が流れ、植物が一斉に芽吹き、どこからともなく森の動物たちが現れ、鳥たちがあつまってくる。世界は 色を取り戻す。希望は生きたことばによって語られる。「なんでこれを報道しないんですか? ここにいるあなたたち、社にもどってプロデューサーと喧嘩して くださいよ」と森監督は言っていたけど、それはじつはわたしたちひとり一人のこと。作曲家の高橋悠治氏はかつて「かくれて生きよ」という文章のなかでこん なふうに書いた。「自立の道をえらんだとしたら、きみに起こるのはせいぜい、イノチがなくなるか、牢屋にはいるか、離婚されるか、コジキになるかでしかな いだろう。大きなくるしみはながくつづかず、ながくつづく苦しみはたいしたことはない。では、出発だ。」  生きたことばをとりもどそう。生きたことばを 話す人を信じよう。イノチをなくして、残るのはなにか。希望、だよ。

    2019.7.21

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      気温33度、湿度70%の中ツ道を自転車で南下する。首がもたげ、足元がゆらぐ。夢で逢ったような気がするのだが、それが誰で、ほんとうに逢ったのかどう かさえ記憶が熱にかすむ。軽い吐き気がして、じぶんが夢から醒めていることを確認する。長柄の駅前をぬけて、たどり着いたのは大和(おおやまと)神社だ。 鳥居のはたに日清戦争の記念碑があり、「約束に背いた清人を皇帝が成敗した」と刻む。この国のあまねく社にヘイトスピーチが息づいている。また別の場所の 忠魂碑には昭和の戦時に亡くなったこの地区の260柱の御魂が息をとめてひそんでいる。八月七日戦艦大和みたま祭。境内の戦艦大和展示室。長大な参道 270メートルは大和の全長とほぼおなじで、幅は参道の5倍と宣う。祖霊社に祀られているという沈没時の死者2,736名はいまもまだ南の海の深海で腹を 食われ眼窩をねぶられているのだろうか。大和(おおやまと)神社はけだし荒唐無稽のまぼろしのような社だ。そこからふたたび西へ移動し、かつて海軍の滑走 路がつくられたというあたりを見当で走る。道幅がむやみに広く、物流の会社が軒を連ねる。スポーツ公園に面した老人ホームの東側の児童公園。その入口近く に顔を剥がされたカオナシが立っている。飛行場の建設のために朝鮮人を含む多くの人々が駆り出され、また朝鮮人の女性が慰安所で働かされていたと書かれた 説明版が「国の見解と合わないから」と市長が撤去したのが2014年だ。全身を包帯で巻かれたかのようなかつての説明版の台座はそのままこの国の恥部をさ らけ出している。そこからさらに南の畑のはたに偶然見つけた三界萬霊供養尊の地蔵がすっくとそびえ立つ。滑走路造設の際に移転した寺の墓地諸霊を供養する と記す。これも夢で逢ったような記憶かも知れない。柳本の駅に出る。駅の南側周辺は海軍施設部が在った。その中央に慰安所が在った。その場所は暗渠のよう な用水路がゆるやかに蛇行する北側の、住宅地に囲まれた畑だった。胡瓜やトマトが成っていた。乾いた土が熱を放射していた、天に向かってあの世の風景に向 かってそれらはゆらゆらと立ち昇った。水筒のハーブティーで唇を湿らせた。この国には英国人兵士や独逸人兵士の墓はあるが朝鮮人労働者や朝鮮人慰安婦や朝 鮮人女工の墓はない。それでもわずかに残った罪悪感のカケラのようにこの場所に家を建てることはできないから畑にするわけだ朝鮮人慰安婦の流した血と汗と 涙が畑の作物を実らせる。もうひとつの「大林組慰安所」と推測された場所にはすでに一般の戸建てが立ち並んでいた。けれどその東側でバラックのような、低 い軒にトタンを張り合わせたような崩れかけた家々が並ぶ一画が在った。家と家が身を寄せ合い、そのすきまに人ひとりがかろうじて通れるような路地が在っ た。閉鎖されたはなれの便所も在った。なかを覗くとなつかしいぽっちゃんの便所が三つ、仕切り板をはさんでならんでいた。ほとんどは空き家のようだったけ れど、一軒だけ洗濯物を出しているところと、それから真新しい発泡スチロールの函を玄関横に積み重ねた家が在った。その家の表札は創氏改名で朝鮮の人がよ く選んだ姓だった。かつて海軍施設部があった場所に敗戦後の混乱期に徴用された朝鮮の人々がバラックを建てて住み着いたというのはあながち見当違いな推測 とも言えないだろう。家々は夏草に占領されていた。ナウシカの腐海のような植物たちが血を吐くような思いを吸い上げ天にもどすのだろう毒気を地に散じなが ら。2014年に撤去された説明板はことし2019年に市民の活動グループの人々によって土地を提供してくれた協力者の田んぼのはたに装いをあらたにふた たび建てられた。それを探しに来たのだが、走り始めてはやくも3時間以上が経つ。この広大な田園風景のどこかにと自転車を闇雲に走らせてそれはようやく見 つかった。けっして通行量が多いとは言えない小さな用水路にかかった橋ともいえない橋のそばの田んぼのへりだった。ともかくそれは在って、慰安婦のまま亡 くなって近在の寺に葬られた女性たちのことも記されていた。こんな広い田園風景の中でこれに気づいて立ち止まってくれる人はどれだけいるだろうか。なぜか の国の人々が徴用工のことも慰安婦のこともいまだこの国を許さないのかおれには分かるよ。だれも弔わないからだ。じぶんたちの国の死者には立派な供養碑や 忠魂碑や慰霊碑を建てて記憶を刻むが、それ以外の死者たちの記憶は打ち棄てられ夏草が生い茂っている。ああ、おれは夢ですらさだかでない記憶のはしくれ で、 一方の端に触れたら他の端が揺らいだようなそのあえかな空間のねじれのなかで、記憶が熱にかすむその場所で、もうとりかえしようもないかれやかのじょたち のいのちにひざをついてただだまっててをあわせたいんだよ。うそにまみれたこちらがわのにんげんどもよりけんめいにいきてそんざいすらけされてしまうかれ やかのじょたちのそばにいるほうがいっそここちよい。

    2019.7.29

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      ひさしぶりに皿を割った。詰まらぬ言い合いから激高して、食卓の菜を庭に叩きつけたのだ。白い食器が夜目に砕けた。世界が安定している姿は嘘だと思う。 ジャニスは言ったものだ。わたしたちは醜いけど、音楽があるわ。神は汚物の地下の黄金だ(ひょっとしたら汚物自身かもしれない)。わたしはわたし自身の荒 ぶる神をどうすることもできない。荒ぶる神をたたえよう。わたしは部屋の揺り椅子に身を沈めてヘッドホンのボリュームを最大にする。そして待つ。静脈に 打った薬が全身にまわってくるのを。だれかがこの身を十字架に打ちつけてくれないかと思いながら。昼間は東大寺の念仏堂の前で催された盂蘭盆(英霊供養) を見てきた。世俗にまみれた坊主どもが高揚するひちりきの響きとともに「散華」と題された声明を唱える。低く高くそのうねりのような波が背後の英霊殿の冷 たいコンクリートに囲まれた地下の遺骨やそれすらもない小石や紙切れだけのかれらに押し寄せるのを感じながらおれたちはこれに勝てないと思った。いくらし たり顔で「英霊」を否定してもおれたちは勝てない。死者は嘘でも慰謝されることを望んでいる。いや生き残ったものたちがそれをいちばん必要としている。わ たしはじぶんが冷たいコンクリートの地下室に置かれて忘れられた小さな木箱のなかの喉仏のような気がする。坊主どもの声明がかわいたこころを浸す。木箱の なかでまるで父や母の声のようにがらんどうのように反響する。気にすることはない、醜くてもおれたちには音楽(声明)がある。おれは木箱のなかの英霊なの かも知れない。ずっとこんなふうにだれかがやってくるのをまっていたのかもしれない。荒ぶる神をたたえよう。 おれたちはどうせだれもが朽ちていく。

    2019.8.12

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      8時40分、南海線七道駅前。お目当ての堺市立市町家歴史館・清学院の開館は10時だ。朝、つまらぬことでつれあいと喧嘩して予定よりはやく家を出てきて しまった分だ。まあ、見るものはなんでもあるだろう。まずは駅前ロータリーの天上に屹立する河口慧海の像にあいさつする。前回、もう何年か前にこの七道駅 から始めた旅はかつての七堂ヶ濱にあったまぼろしのハンセン病者の救済施設とかれらにクロスする堺のキリシタンたちの影をもとめての旅だったが、今回は河 口慧海とこの堺で深くむすびついていたわが「島村先生」(島村清吉)の影を追うちいさな旅だ。おなじ駅前にある「鉄砲鍛冶射的場跡」の碑もちらりと見てか らまず目指すは七道駅の南、環濠をわたってすぐにある菅原神社御旅所だ。ここの石の灯篭の台座に慧海の父親の屋号「樽善」の文字がいまものこっている。御 旅所ということでふだんは参る必要がないのだろう、ぐるりをフェンスで囲まれていて中に入れない。見ると「御花御芳名」と書かれたボードに商店名や個人名 を書いた紙がたくさん貼られ、昨日と今日が菅原神社の「八朔祭」だときらびやかなポスターが宣っていた。「海船濱」と大きく書かれた背の高い倉庫が社地内 に見える。ここから布団太鼓も繰り出すのだろうか。さいわい、道から近い方の灯篭の足元をフェンスに顔を圧しつけて凝視していたら「樽善」の文字を見つけ た。灯篭には「天保」の年号があるそうなので古くから桶樽製造を営んでいたことが分かる。その「樽善」があった場所、慧海の実家があったのが御旅所から直 線距離で100メートルほどの北旅籠町西の路地で、間口のせまい家と家の間をブロック塀でコの字に切り取ったスペースに「河口慧海生家の跡」と刻まれた石 碑と案内板が設置されている。ちなみにそこからさらに東へ筋をふたつほど抜ければ幼少期の慧海が通った清学院内にあった清光堂という寺小屋である。有名な 堺の鉄砲鍛冶の屋敷なども並び、この界隈がいわば幼少期の慧海ワールドの舞台といえる。もちろん、まだ島村清吉とは出会っていない。清学院の開館までその 後、鉄砲鍛冶の屋敷跡や、紀州街道沿いに残る珍しいグレーの煉瓦の紡績工場社屋(現在、SPinniNG MiLLというイベント・スペースで再利用されている)、行基が開いたといわれる「千日井」(近泉紡績会社社長建立の行基石像板や、水難者の供養碑があ る)、そして七道駅前にあたらしくできたイオンモールの敷地内に残された堺セルロイド工場の赤煉瓦社屋などを見て回った。「堺大絵図」に「山伏清学院」と も記された清学院はかつて醍醐寺の当山派に属する修験道の寺院であった。清光堂は江戸後期から明治初期まで敷地内に営まれていた寺子屋で、清学院第11世 が教師を務め、慧海が「入学」した明治4年には「男子48名、女子35名の合計83名が在籍」していたという。その後、慧海は岸和田藩の漢学者だった土屋 弘(鳳州)の私塾「晩晴書院」へ家業を終えた夕刻から通い、そこで島村清吉のほか、正木直彦(東京美術学校(現東京藝術大学)の校長を長年勤め、明治初期 の美術行政に関与。自ら郡山尋常中学校(現郡山高校)校長時に島村清吉を堺から呼び寄せた)、肥下徳十郎(慧海のチベット行の資金援助をした堺の町年 寄)、河野学一(浄土真宗本願寺派・萬福寺の長男で、後に帝大へすすみ植物学を専攻)、河井醉茗(堺出身の詩人)らと知り合ったわけだが、明治4年の廃藩 置県につづき翌年に学制が公布されて私塾寺小屋が廃止されたこの頃から島村清吉が堺市内の熊野(ゆや)小学校の教師として赴任する明治10年代までは、い わば試行錯誤で学校の中身、教科書や授業内容に至るすべてが形づくられていっただろう時代で、いろんな意味で面白い。島村清吉はそんな「学校創成期」を教 師として駆け抜けた、ともいえる。清光堂はそんな成り立ちから不動明王を本尊とするお堂をエル字に囲むようにささやかな玄関と土間があり、畳6畳ほどの座 敷が二間つらなっている。ちいさな文机のならんだ座敷はかつての寺子屋の子どもたちの風景が目に浮かぶようだ。残された当時の墨書の教科書を見ると、たと えば町人の子どもたちの学習用に編まれたという「世話千字文」などは漢字を使いながら、内容は「市店交易、廻船運送、荷物米穀、駄賃員数、勘定算用、商売 繁昌」と現実的だ。もともとこの堺市立市町家歴史館・清学院に目をつけたのは2016年にここを拠点として近在の店舗スペースを利用した【慧海と堺展】が 開催され、そのうちのひとつに「・八花堂:島村清吉(竹馬の友 数学教師で歌人)」という記載があるのをネットで見つけたからで、当時の資料でも残されて いないかと思って訊いてみたのだが、ボランティア・ガイドのおじいさんは手持ちの虎の巻以上の知識はなく、3年前なら市役所の企画だろうからこちらでは何 も分からないとの返答だった。清光堂を辞してから、路地の角に薫主堂なる風情のある店を見つけてふらふらと入った。店のおばさんの解説をひとしきり聞き、沈 香のお線香を自分用に、手づくりのにおい袋を和歌山の義母に購入した。白檀はそのままでもよく匂うが、沈香は火をつけないと匂わないので人工の香料のもの と騙されると言う。あとで調べてみれば伝統工芸士の店主を擁する明治20年創業の老舗であった。沈香の香りは気を落ち着かせる効能があるから寝る前に焚く といいとおばさんが言うので、「夫婦喧嘩になりそうなときもいいですね〜」とリアルタイムな発言をわたしがして、事情を知らぬおばさんもいっしょにそうそ うと笑ってくれたのだった。こういう店が何気にあるから堺はやはり、懐がふかい。北旅籠町を東へ抜け、阪堺線の路面電車も越えてJRの浅香山駅を目指す。 電車で三国ケ丘駅へ。駅舎の屋上が展望広場になっていて大山古墳(旧仁徳天皇陵)が間近に見れるが「展望」とは言い難い。古墳があまりに巨大すぎて全体が 臨めないのでこんもりしたちょっと大きめの神社の杜くらいにしか見えない。折しも帰宅した夕刊のトップで世界遺産登録を機に空からの古墳見物が企画された ものの騒音の苦情が多くストップがかかっているという記事が載っていたけれど、写真で見るような全体像を俯瞰するためにはあべのハルカスとおなじ300 メートルの高さが必要で、当初企画された気球では100メートルしか上がらないそうだ。駅の西口に降りて、古墳を周回する遊歩道を時計逆回 りに半周する。旗を持った団体の観光客やランニングをする人たちと行きかう。遊歩道から見えるのは緑色に濁った濠の水面と林だけで、訪れた人々はきっと一 周40〜50分を回って「やっぱり大きかったねえ」なぞと話して土産話にするのだろう。わたしは歩きながら五木寛之の「風の王国」をまた読み返したいと 思っていた。「風の王国」の物語はこの大山古墳から始まる。当時は最大の天皇陵とされていた古墳のすそ野にまつろわぬ山の民の遺体を葬ったというストー リーの設定自体がテロリストの爆弾のようではなかったかと思える。昼過ぎに隣接する大山公園の北端にある堺市立中央図書館に着いた。大きいが全体的に古び た図書館。100年の歴史があるらしい。堺にゆかりの人びとの棚があって、与謝野晶子をはじめ、阪田三吉、河井酔茗、安西冬衛などらのパネル写真が並んで いるが、もちろんそこに島村清吉の名はかけらもない。「資料調査」と書かれたカウンターでスタッフの女性に「河口慧海と親しかったおなじ堺出身の島村清吉 について調べている」旨を伝えるのだが、やはりあんまりぴんとこないようだ。しばらくはその女性が集めてきた当たり障りのない慧海に関する書籍や冊子を渡 されてなかば放置されていたのだが、昼休みに行っていたという地域資料の男性の担当者が戻ってきてから目的はスムースに回り出した。収穫は昭和5年 (1930)に刊行された『堺市史』のための元資料を綴った「堺市史 史料」(百三十 教育)に収められていた「明治天皇堺行幸記」。すでに郡山中学の嘱 託の身分であった島村清吉から寄せられた原稿を写したものだという。明治10年は西南戦争の年だ。この年の2月、堺を行幸した明治天皇は創立間もない熊野 尋常小学校を訪ね、授業を「天覧」した。堺県700校から優等生487名が選抜されて模擬授業を行い、このとき正木直彦が生徒を代表して天皇の前で書を読 んだという。島村清吉は当時堺師範学校に入学したばかりの15歳で、この「優等生487名」に選ばれていたらしい。おそらく堺市からの要望でそのときのこ とを回想して小文を寄せたのだろう。大正13年8月、島村清吉が逝去する二年前のことだった。これはそのまま『堺市史』の「堺市史 第六巻(資料編第 三)」731頁に「明治十年 主上堺臨幸熊野小學へ行幸之概略」として一頁半を占めている。もうひとつの収穫は前掲の正木直彦が半生をふりかえった「回顧 七十年」で、これは天理大学付属図書館に在庫があるのを確認していたが幸いにも一足早く見ることができた。そのなかの奈良県尋常中学校(郡山中学校のこ と)での校長時代の思い出として島村清吉について書き残している。少々長いがここに引く。「斯うして外部に対して強気で行く一方、私は内部の充実に大童で あった。先づ、それには第一に、良い教員を集める事である。そこで招聘した偉い先生の第一が、島村清吉という人であった。此の人は、私とは堺の河泉学校時 代の同窓であったが、私とは異なって数学の天才で、殆んど独学でもって英独の書物を原書によって研究し、文部省で初めて中等教員の検定試験と云うものを 行った際、算術、代数、幾何、三角、解析幾何、微分、積分まで一遍に受けて免許状を取ったという人であった。当時は、藤澤喜太郎訳の「クリスタルの代数 学」という本が大学あたりで用いられていたのであるが、島村清吉はそれを研究して、それに一二ヶ所誤訳のあることを指摘し、藤澤さんもそれを訂正されたと いうような事もあった。此の人は一方国文学をも研究し、その方の中等教員の免許状も取ったし、更に学校関係以外のことでは仏教を相当深く研究され、大阪の 寺院等に招かれて仏教の講義を連続して行った事などもあり、儈俗の聴講者が常に堂に溢れる、という有様であった。更に又一方では、耶蘇教の研究もし、大分 深い処まで研究されて居った模様で、実に珍しい篤学者であった。  非常に謹厳な人で、家に居る時は、机の前に終日起坐し、机の上には線香をたて、線香の 煙が真直ぐに立上るのを見ながら読書する、というような人であった。此の人があったが為に、奈良県尋常中学校の初期の卒業生には、数学の出来る者が多かっ た」  余談だが後の薬師寺管主になる橋本凝胤は中学の校長であったこの正木から慧海の話を聞き、中国に渡ってチベット行を目論むが成就できなかったとい う。その橋本凝胤は若き頃、西山光明院の最後のハンセン病者・西山ナカの最後を看取った。糸の端をひっぱると、どこでどうしてつながっているのか分からな いもう一方の思わぬ端がゆれる。歴史というのはこういうところが面白い。いろいろ資料を探してくださった堺市教育委員会事務局副主査のOさんと名刺を交換 し、中央図書館を辞したのはもう2時を過ぎていただろうか。まだ昼飯を食べていない。とりあえず最後の目的地である島村清吉が両親と住んでいただろう実 家、南海本線堺駅にほど近い車之町東を目指して歩き出す。以前は南海高野線の堺東駅から戎之町にある島村清吉の菩提寺である智禅寺やかれが教師として勤め ていた前述の熊野小学校などを訪ねてから南海本線の堺駅へぶらぶらと歩いていったわけだが、今回は大山公園の端から何となくそちら方面を追いながらザビエ ル公園に近い、かつて島村清吉の実家があっただろう車之町東二丁四十九番地が最後の目的地。この住所は明治12年に島村清吉・藤野幸重名で出版された「下 等小学一級課用 筆算四則雑題集」の巻末に島村清吉の自宅として記されていたものだ。ときおり手元のグーグルマップを確認しながら祭りの屋台が準備をして いる開口神社のわきをぬけて、途中「泉州・水なす」に誘われて入った商店街の店で水なすといっしょに娘に与謝野晶子一筆箋(文豪ストレイドッグス版)など を買い、これまた祭りの装いの菅原神社前を抜けたらその先がもう車之町東のエリアだ。あらかじめ下調べをしていた「創業200年」を謳っている和菓子屋・ 八百源来弘堂で江戸時代からつくり続けているという肉桂餅を買った。いかにも老舗といった薄暗い店内で包装をしてもらっている間に、じつはむかしのことを ちょっと調べていましてと女性の一人に車之町東二丁が書かれた「筆算四則雑題集」の巻末コピーを見せると一瞬奇妙な沈黙が店の空気をこわばらせ、しばらく して若主人らしい男性が奥から出てきて、「昭和7年作製」と書かれた古い手書きのこの付近の住宅図のコピーを差し出しながら「古いことはなにもわかりませ ん。これを差し上げますからじぶんで調べてください」とにべもない。それでもすこしだけ食い下がって、このあたりも昭和20年の空襲でほとんど焼けてし まって、一部を残して古い建物は何も残っていない。いまの店舗も戦後になって建てたものだ、ということは教えて頂いた。きっと堺で老舗の店なぞをやってい ると、いろんな人からさまざまなことを訊かれるのだろう。お礼を言って肉桂餅の紙袋を手に店を出て、すぐ近くの公園のベンチに腰を下ろして水筒のお茶で喉 を湿らせた。そして、このあたりの路地を島村清吉が百年前にあるいていたのだと想像してみた。ここからザビエル公園はもう目と鼻の先だ。かつて戦国期にフ ランシスコ・ザビエルを歓待した堺の豪商・日比屋了慶の屋敷があったその同じ場所に、こんどは明治の世に岸和田藩の漢学者だった土屋弘(鳳州)が私塾「晩 晴書院」を開き、島村清吉や河口慧海らが交流した。その距離感が身近に感じられる。ひょんなことから無縁墓の存在を知った島村清吉という一人の個性的な教 師の影を追うことによって、わたしはこの国の百年前のもろもろの場面を思いもかけず遡行している。いまはもう影も形もない百年前の人びとがまるで影絵のよ うに町の辻々に出現しては生き生きと動き出す。その影絵たちにわたしはいつからか魅了されるようになって、いつしかかれらはわたしのこころのなかに棲みつ いている。


    ◆堺市立市町家歴史館・清学院 https://www.city.sakai.lg.jp/smph/kanko/rekishi/bunkazai/bunkazai/seigakuin.html
    ◆堺探検クラブ「七道まち歩きマップ」 http://mutsu-satoshi.com/2007/11/16/%E4%B8%83%E9%81%93/
    ◆SPinniNG MiLL https://www.spinningmill.info/
    【慧海と堺展】https://www.facebook.com/sakaishimachiya/photos/a.1796909770568773.1073741828.1794364307489986/1807167119543038/?type=3

    ◆薫主堂 http://www.kunsyudou.jp/
    ◆みくにん広場 http://osakacityview.blog.fc2.com/blog-entry-388.html?fbclid=IwAR3R7Ar8iG9lj_EWpAcnOT5hy72MONnRAyan68V1-Iqbj-PCSHKl7RvSc9M
    ◆堺市立図書館地域資料デジタルアーカイブ https://www.city.sakai.lg.jp/kosodate/library/index.html
    ◆八百源来弘堂 http://www.yaogen.com/
     

    2019.9.12

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      昨日はピースおおさかの映像資料室で、敗戦後に樺太で日本人に虐殺された朝鮮人労働者の遺族についての長いフィルムを見た。だれもいない視聴覚ブースでぼ くはひとり泣いた。徴用工はどうの慰安婦はどうのとかいうやつらは相手になってやるから全員おれのところへ来いと怒りに泣いた。今日はそのことを書きたい と思ったのだがことばが熟してこなかった。午前中はぼんやりと過ごし、午後はユーチューブで浮島丸事件についての映画「エイジアン・ブルー」を見た。それ から車にジップをのせて山の中をあるきまわった。食事当番だったから早めに帰って夕飯をつくった。日常のこうしたひとつひとつがつながっているんだと思 う。ことばがみつからないときは手をうごかす。

    2019.9.29

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      水をたっぷり吸ってぶよぶよに膨らんでひきのばされた段ボールのような半透明の膜の向こう側にうめきながら水底にしずんでいく家族の姿があるそうかと思え ばふりかえった反対側の膜の向こう側には(おそらくかなわなかった時間のなかで)飯を炊き粗末な台所で菜を刻み一家団欒をしている別の家族の姿がゆらめい ているそのどちらも音はない冷徹な無音のなかでそれらが鈍い鐘の音のようにごおんごおんと響いてめりこんでくる臓腑に眼裏に脳漿のうしろのほうに。

    2019.10.1

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      10月なのにまだ湿気をまとった確かな日差しがふりそそいでいる。すでに心やすい夙川沿いの遊歩道を横目に下っていくとしずかな住宅街の一角の画廊に着い た。娘を先におろして、駐車場をさがしにいった。「満車」の表示に手こずって疾うに娘はひさしぶりに会う画家と白い壁にかかった作品たちにかこまれてしず かな会話をしているのだろうともどってきたら、阪急線で人身事故があってすこし遅れるという。名も知らぬそのひとは花のようにちらばったこれらの絵をもう 見ることもできない。黒い鉄路の上にモクレンの花弁のようにひるがえる。「水の生まれ出ずる青い山中で/待つのみでいい/どこへも行くな/こちら側へもも う来るな」とかれ(歌手)はうめいた。はじめて会ったのは、いつだったかな。遅れてきた画家がいつのまに娘のとなりに座って訊いている。娘は覚えていない と答える。おまえがまだとても小さいころだな。ピンクの装具を足につけてよちよちあるいていたころだ。その頃のわたしは太古の地層から沁み出してきた行き 場のない影のような画家の作品がすきだった。でも今日、わたしがいちばん長い時間をすごしたのは「数え歌」というタイトルのついた朱を基調とした作品だ。 ふたりの大人がもつ縄のうえをちいさな子どもがとんでいる。三人はほんとうの家族なのかも知れないし疑似家族なのかも知れない分からない。プラスティック のピンク色の装具をはめてよちよちとあるいていた娘がもう19歳になった。その分、わたしも歳をとったからだろうか。絵は画家が描いたものではなくてじつ はわたしたちがもういちど書き直すものだ。日本の敗戦を迎えて下北半島から故郷の釜山へ帰る途上の舞鶴湾で船とともに沈んでいった無数の家族たちの顔顔顔 がはりついてはなれないのだ。うずまく水の叛乱ににぎりしめた手と手はちぎれてやがてふかくくらい水底に白いモクレンの花弁のようにしずかに舞い落ちた。 それらはすべて夢マボロシのことでかれらはこの絵のなかにもどってなわとびをしている。ひょろりと背の高い父は子のすがたを見つめ、子はとびながら母の顔 を見あげている。モクレンは肉ではなくただの花弁であった。そう思ったらわたしはその絵の前をはなれられなくなった。「水の生まれ出ずる青い山中で/待つ のみでいい/どこへも行くな/こちら側へももう来るな」 絵はその水の生まれ出ずるどこか別の世界でわたしの心根もそこに封印されようとしていたあるいは そこは遠い古代の水銀(丹)を塗った石棺のなかの薄明の世界かも知れない。 こちら側ではない。

    2019.10.5

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       酔って深夜に下手なギターでドントシンクトゥワイスを歌っているのはだれなのか百年前の女工のヒモ野郎か秋の気配とそれにせんそうの気配がうっすらと。 いのちは惜しくはないがこのたましいは口惜しい。たましいは三つのコードと真実だ。かみでもほとけでもてんしでもなんでもいいおれのてんしは二人だけこの 世に彼女たち以外おれには親しい人間もいない。方舟のように流れに運ばれていくだけ。思えばいきあたりばったりその場限りの好き放題めくらましいい加減な 彷徨だったけれどヘルダーリンのようにおれのたましいは正しく希求していた。おたちはみんな星のかけらでだれもが星のかけらに還っていく運が良ければね。 そのときには分かるだろうあのときあのばしょでこのうたをうたっていたことを思い出してくれよ銀河の果てでブラックホールの中心でおれのたましいを正しい 地軸の上に置いてくれ安息所に行く道をおしえてくれ。墓の上に墓を建てよだれも傷つくことのない花矢が飛び交うあの北の大地であざらしの皮膚を断ち肉を食 らう血だらけの顔でわらう。太陽がいつのぼったのか分からないとはにかんで笑うあのイヌイットの少女はいまもおれの胸に宿っているよ。さみしいこの世の枯 草を踏んであるいた道なきけもの道で思えばおれはこの世のいろんなものを捨てた人びとの善意や善意をまとった悪意を。おまえに同意するものは狂っているお まえに同意しないものは権力をもっているおれはこの世界を理解したおれたちはみずからの狂気でこの世界の深度をはかるそしてそここそがおまえの正しい立ち 位置だゆめゆめ忘れるなゆめてふものはたのみそめてき。みんな消えていくわけだたとえば花のひと色をときにあざやかな記憶にのこして今日はそんなことを考 えたこの世は橋だ立ち止まるなわたってゆけ。

    2019.10.7

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      日曜の朝。車の運転席にひとり乗り込み、舞鶴の引揚記念館をナビで設定する。USBでつないだ iPod でかけたのは新村ブルースの歌姫、ハン・ヨンエ(Han Young Ae)が2003年に録音した Behind Time だ。1925年から1953年、関東大震災の朝鮮人虐殺から朝鮮戦争に至る朝鮮半島の人びとが「尋常でない辛酸を舐めた時期にテーマを絞って歴史的意味の 濃い大衆歌ばかりを集めた」アルバムは重苦しいが今回の旅にふさわしい。「うしろの実時間」に目隠しをされて走り出すわけだ。数日前に舞鶴の話をしたつれ あいが「いいなあ、行きたいなあ」と言っていたので、今朝は彼女が仕事に出かけるまで言い出せずにいた。今回は慰霊の旅だからひとりでいく。慰霊とは 1945年に舞鶴湾内で沈没して多数の犠牲者(主に朝鮮の労務者たち)を出した浮島丸のことである。1965年に慰霊碑建立を呼びかけた舞鶴市民の声名を ここに引く。 「日本海を平和に海にしよう。海の向こうの国々との貿易を、もっと盛んにしよう。アジアの諸民族との友好を深めよう。 取り組みをいろいろ すすめているこの京都の舞鶴の港に、大変悲しい出来事が、今からちょうど20年前の1945年8月に起こりました。 浮島丸事件がそれなのです。36年間 の日本の植民地支配の結果、土地も仕事も一切の民主的な権利も奪い去られて、日本の炭坑等に強制的、半強制的に狩り出され、牛馬のような生活と労働を強い られていた朝鮮人労働者も、続々と本国へ引き揚げはじめました。 東北、北海道方面の炭坑やドッグで働かされていた朝鮮人労働者とその家族、あわせて 3,735名もとるものもとりあえず、青森県大湊港から浮島丸(4730トン)に乗船し朝鮮に向けて出港しましたが、その途中舞鶴港に寄港することになり ました。 8月24日午後5時頃、舞鶴港に入って間もなく、浮島丸は大爆発を起こし、瞬時にして幼児、小学生を含む524名が死亡し、多数が重軽傷を負い ました。それだけではなく、敗戦のどさくさにまぎれて ・・・・とは言いながら、遺体は、スクラップにして売るために船体が引き揚げられるまで、その後十 年間海底に放置されていましたし、遺骨は今も日本のどこかにあって、故郷へは帰っていません。また舞鶴港の底深く、今なお幾柱の殉難者の遺骨がうずもれて いるかも確認されていないのです。生前は勿論、死後においてさえ、人間としての待遇をうけていない、これらの殉難者のことを忘れて、日本海を平和の海に、 日朝両民族の友好と親善を ・・・といっても、それは意味のない、白々しいものとなってしまうでしょう。(後略)」(浮島丸殉難者追悼実行委員会「浮島丸 事件の記録」) 浮島丸に乗船した朝鮮人のほとんどは下北半島で働かせられていた労務者とその家族たちだった。公式の記録ではその数3,700名と言われ ているが、これを逃すと次の船はないと言われて駆け込みで乗船した者も多く、実際は6,000から7,000名近く乗っていたという説もある。またその沈 没原因には不審な点も多々あり、大湊出港前からこのまま目的地の釜山へ行ったら日本へ戻ってこれないと危ぶむ船員たちの不穏な行動を伝える証言もあったり して、当初は寄港予定になかった舞鶴で自爆させたという説も根強く残っている。敗戦と共にそれまで牛馬のように酷使されてきた朝鮮人労働者の暴動を恐れた 軍が釜山へ帰すと船に乗せて・・・ という算段である。この浮島丸沈没の真相については過去にNHKが「爆沈」という番組で当時の乗組員たちの証言も交え て検証している(1977(昭和52)年8月放送)。  朝の8時半に出発して高速道路をひたすら走り続け、11時頃に舞鶴湾の東に位置する舞鶴引揚記念 館に着いた。ここに引揚記念館が出来たのは館の北側、いまは工場群が立ち並ぶ海岸沿いの敷地にかつて海軍の平海兵団から転用された舞鶴引揚援護局があり、 戦乱を経て帰国した人々を(あるいは死して無言の帰国をした人々を)迎えた桟橋があったからだろう。記念館の裏手の小高い丘の上にのぼればその全景が見え る。つらい体験を経てあの日、やっと踏んだ故国の地とその思い出を偲ぶにはまさに絶好の立地というわけだ。ここに立ち寄ったのは舞鶴港やかつての軍都に関 する資料や古い図面でもないかと期待して来たわけで、それらを確認してから先にある浮島丸の殉難碑へ行くつもりだった。それでも折角来たものだから展示は 丁寧に見ていく。入口の「赤紙きたる」から始まり、敗戦によって海外に残された660万人の日本人、ソ連の侵攻と逃避行、シベリヤのラーゲリ(収容所)で の過酷な環境、セメント袋を切ってつくったメモ帳や白樺の皮に書かれた日記や死亡者名簿、そして待望の故国、引き揚げ船、岸壁の母。ひとつひとつが重た い。何よりもわたしのこころをいちばんつらぬいたのは、図書閲覧コーナーで見つけた一冊の写真集の引揚げをめぐる風景だった(「在外邦人引揚の記録 ―こ の祖国への切なる慕情」毎日新聞社.1970)。逃避行のさなかに死んだ母の遺骨を抱きかかえて立つ断髪の少女。引き揚げ船の中で死に、水葬された夫の遺 体が沈んでいった海面をいつまでも見つめて動かない母と子の後ろ姿。舞鶴港に着いた日に息絶えた母の枕もとで泣く幼女。遺骨になって帰ってきた息子を両手 をあげて慟哭し迎える年老いた母。一枚一枚のモノクロの写真がわたしを凍り付かせる。引揚げの当時の記録フィルムがリピートで流されている薄暗い部屋の片 隅でわたしはそれらを息をつめながらめくり続けた。そして思った。この“慟哭”ということばすらもするりと滑り落ちてしまう耐え難い記憶を感情をこの国は いったいいまどこに有しているのだろう? この忘れがたい一人ひとりをわたしたちはすっかり忘却してしまったのではないか? そしてなお思った。ここには なぜこんなことが起きたのか、なぜこんな目に会わねばならなかったのか、なにが起きていたのか、隠されていたのか、責任を問い、過去を裁こうという意志が 何ひとつとして見当たらない。戦争だから仕方なかったんだ。大変な目に会ったけれど、みんな頑張ったんだ。悲しいことつらいこともたくさんあった戦争が やっと終わって、必死の思いで生きのびて、この舞鶴の桟橋でたくさんの心やさしき人々が温かく迎えてくれた。そうやって何も問わず、過去の実時間を見つめ ず振り返らず、悲しみや怒りをカタルシスのように浄化して日常へ投げ返す場所、それが引揚記念館。無謀な国策であった満州開拓団や、国策にもろ手をあげて 協力した人々や国防婦人会・青年団・在郷軍人会、ソ連兵の慰みに自国の女性を差し出して帰国してからもそれを嘲笑した男たち、同じように樺太や日本に残さ れたアジアの人びととその後の生きざま、そうしたことには何ひとつとして触れない。触れることなどできないだろう。触れればこのカタルシスが自壊してしま うからだ。だから申し訳ない。極寒のラーゲリで酸っぱく硬い黒パンを齧りながら白樺の皮を剥がして故郷を思いながら歌を書き綴った記録が世界遺産に認定さ れましたああそうですかそれはよかったですねごくろうされましたとどこか背中がうすら寒い。わたしとおなじくらいだろう年代の父親が学生くらいの息子に 「むかしはこんなことがあったんだよ」と教えている。息子はあまり興味がなさそうに形だけうなずいている。なぜ、目と鼻の先の湾内で起きた悲惨な浮島丸の ことはこの記念館にひとことも記述がないのだろう? 引揚げの年表にもない、「思い出の引き揚げ船」の一覧にもない。戦争のために多くの人々が大変な思い をしてこの舞鶴の港に引き揚げてきた。戦争のために無理やり狩り出されて日本の炭坑や危険な工事現場で働かされてきた朝鮮人を乗せた船が舞鶴で沈んでもう 少しで故郷へ帰れるはずだった人たちが何百人も海の藻屑となった、それは記憶しないのか? せめて小さなコーナーでも設けて然るべきなんじゃないか?  「岸壁の母」や「抑留者救済の父」や引揚者の情報を家族へハガキで知らせ続けた男やシベリヤからついてきた犬の黒などの美談の連続にどうにも白けてしまう わたしは非国民なんだろうか。まあ非国民でもいいさ。わたしはわたしの内なる国家を滅ぼしたい。こんなひどい目にあって奴隷のままでいつづける事には耐え られない。大変な苦労をして帰国しました、ふざけるな、だ。わたしだったら「天皇はおれのまえで土下座しろ!」と奥崎謙三のように咆哮するよ。愛するつれ あいと娘が引き揚げ船のなかで死んで日本海のどこかの海域で遺体が沈められてしまったとしたらおれは一生涯、国家というものを呪って生き続けるよ、そうだ ろ? でもこの国の人びとはそうしないんだ。愛する息子が戦場で無残に殺されて石ころの入った白木の箱だけで還ってきても靖国神社に英霊として祀られてあ りがたいことですと涙を噛み締めて絶望を噛み締めて耐えてしまうんだよ。だからきっとまたおんなじことが繰り返されるだろうおれは覚悟している。記念館の なかのレストランの「海軍カレー」や「元祖肉じゃが定食」などのランチ・メニューにはいまいち誘われなかったから、浮島丸殉難者に供える花を買いにいくの もあって、町の方へもどって地元のスーパーを探した。わたしは旅先で地元のスーパーを見るのが好きだ。フクヤというスーパーで小さな花束と、港町だけあっ てネタが良さそうな海鮮丼、そして地元手づくりの平天などを買って戻った。ふたたび引揚記念館までもどり、現在の平工場団地の敷地の南端(実際の場所から 20メートル南側)に1994(平成6)年に復元された「引揚桟橋」を見に行った。橋のたもとに「招魂の碑」というのがあり、「死没者の鎮魂のため、各収 容所跡、墓地、自決地付近の小石を蒐集、納石し」たと解説にある。たくさんのむごたらしい死が、その死を抱えた生者がこの地を行き交ったのだ。桟橋の先ま で行き、かつての舞鶴引揚援護局の敷地を眺める。敗戦後の10月7 日、朝鮮半島の釜山から陸軍軍人2,100人を乗せた引揚第一船雲仙丸はここではなく舞鶴の西港へ入港した。翌1946(昭和21)年3月に舞鶴引揚援護 局がこの平海兵団跡の庁舎を利用して設置された。それより半年以上前になる1945(昭和20)年8月25日、浮島丸が沈没した頃はここはまだ海軍の海兵 団の敷地だった。救助されて何とか生き永らえた人々はこの海兵団まで歩かされて収容された。死者の遺体については当時の証言がいくつか錯綜していて、旧舞 鶴海兵団(引揚記念館より南の、現在の海上自衛隊・舞鶴教育隊)敷地に仮埋葬した(昭和28年の第二復員局残務処理部資料)、また教育隊のボートダビット 付近と大浦中学校の海寄りの畑に仮埋葬した(池田淳郎「舞鶴海軍始末記E浮島丸事件の真相(昭和53年舞鶴よみうり)」)、あるいは「毎日のように浮き上 がってくる遺体は軍の指示で(沈没した浮島丸の)水面に出ているマストに結わえておけ」「そして多くなると(現教育隊の)北側の空き地で荼毘に付していた が、やがてそれも出来なくなって平海兵団のところに埋葬した」(当時救助活動にあたった地元佐波賀住民)という証言などがある(いずれも前掲「浮島丸事件 の記録」収録)。一方「報告・浮島丸事件訴訟」(日本国に朝鮮と朝鮮人に対する公式陳謝と賠償を求める裁判をすすめる会)の訴状では「事件当時、海岸に打 ち上げられた遺体は、舞鶴海兵団敷地に仮埋葬され、船とともに沈んだ遺体はそのまま放置された」とある。舞鶴と平の旧海兵団はどちらもいまとなっては中に 入れないし、おそらく当時の痕跡など残ってもいないだろうが、わたしは両海兵団敷地、そして「大浦中学校の海寄りの畑」の三か所とも実際に埋葬されたのだ ろうと思う。それらのすべてかは今となっては確認しようもないが、仮埋葬された遺体は後に掘り出されて火葬にされ、後にスクラップとして引き揚げられた船 体から見つかった多数の遺骨と共に舞鶴の東本願寺別院で1955年まで保管されていたがその後、広島の呉地方援護局、東京の厚生省援護局とたらいまわしに され、1971年から東京目黒の祐天寺で保管されていることが関係者の調査で判明した。1970年代に身元が判明した遺骨は韓国に返還されたが、身元不明 の遺骨はそのまま残され、2010年に身元不明のまま残りの遺骨も韓国へ返還されて無縁仏のまま忠清南道天安市の「国立無縁墓地・望郷の丘」に安置され た。のちに1980年代になって「発見」された犠牲者の名簿(大湊海軍施設部による「浮島丸死没者名簿」のガリ版刷り写し。日本政府は一貫して名簿は存在 しないと言っている)は「浮島丸事件の記録」巻末に収録されているが、その多くは創氏改名された日本名が多く、元の朝鮮名は書かれていない。以前にピース おおさかで見た戦後樺太に残された朝鮮人がつてを頼って見つかった唯一の親せきと電話で会話した際に「日本名は分からない、朝鮮名を言って」と言われてい たが、創氏改名された日本名だけでは朝鮮側の遺族の手掛かりにもならない。海の見える場所に停めた車の中でスーパーで買った昼食を食べてから、いよいよ浮 島丸殉難の碑を目指す。引揚者でにぎわった平の入り江を巻くようにして、ひなびた海岸線をミヨ崎灯台から佐波賀の集落へすすむ。記念館から車で十数分ほ ど、上佐波賀、下佐波賀の集落を過ぎて夏は賑わうのだろう牡蠣小屋を過ぎたあたりの海の前の小さな棚地にその公園はあった。スピードを出していたら気づか ずに通り過ぎてしまうかも知れない。かつてはほとんど知られていなかった浮島丸の事件を後世につたえるために舞鶴市の学校の元教員たちが活動を起こして町 の人びとや市にも協力を募り、趣旨に賛同してくれた人が土地も提供してもらって出来た公園だ。その中央に建つ殉難の碑の像は市内の学校の美術の教師たちが ボランティアでつくりあげたものだ。日本人みずからが、日本の負の歴史のなかで犠牲になった朝鮮の人びとの記憶を後の世に残していくために市民の協力を得 てつくった。その経緯は「爆沈・浮島丸 歴史の風化とたたかう」(浮島丸殉難者を追悼する会・品田茂 高文研)に詳しいが、わたしはじつにうらやましいこ とだと思う。奈良では天理・柳本飛行場の建設に伴った朝鮮人慰安婦を物語る説明版が行政により撤去されたが、ここ舞鶴では殉難の碑を抱いた公園はいまもき れいに保たれている。敷地内に建てられた説明版には植民地支配と強制連行にも触れられている。これが引揚記念館の展示の片隅にでもあったら、わたしはあれ らの展示をもう少しすなおに見れただろうと思う。けれどたいてい日本人以外のこと、日本が他国の人々にしてきた負の歴史については、なかったことにされて いるか、撤去されるか、あるいはどこかの目立たぬ繁みに朝鮮やチャモロや台湾などの遺族の人びとによってひっそりと祀られ、悼まれている。だからわたしは それを露わにしてやりたい。この国の偽善を、嘘といつわりを、誤魔化しを。そうでなければ自国の犠牲者たちを悼むことすらもできないだろう。嘘といつわり の「英霊」たちをとりもどすために、この国の非道によって犠牲になった朝鮮やチャモロの人びとを悼み、記憶を露わにしたい。殉難の碑の前に、わたしはスー パーで買ってきた花束を供えて、それから手元の iPod でハン・ヨンエが歌う「哀愁のセレナーデ(애수의 소야곡)」を流した。これは1938(昭和13)年に流行った悲恋のトロット(韓国演歌)だから、あるいは浮島丸の犠牲者も耳にしたことがあったかも知れ ない。故郷の調べをかれらに聴いてもらいたかった。それからわたしは道路をまたいでガードレールの向こう側に海を正面にして腰を下ろした。足元には波止の 石がかたちばかり並んでいるが、海はたゆとうばかりにしずかで穏やかだ。手近な場所で釣り人が三々五々に竿を垂らして世間話をしているから余計にここで、 いまじぶんが目の前にしている波一つない海で何百人もの人々が死んでいったことがなかなか想像できない。先に紹介した当日救助活動にあたった地元佐波賀の 住民の証言をふたたび引こう。「浮島丸に近づくと、径50メートルくらいにわたって海面がふくれ上がり、坊主のようになっています。すでに息絶えた人の体 が爆風でうち上げられたのか、「砲座」のあたりに折重なっていました。一度目は波が洗う浮島丸の甲板から自分の船へ移して磯へ。二度目は泳いでいる人を引 き上げて陸へ、と何度も繰り返しました。でも厚さ1センチにもわたって海面をおおう重油のために、手がすべってなかなか引き上げられません。なかには見つ からない子どもを求めて、いくらすすめても船に乗ろうとしない人もいました」 「磯へ揚げられた人々は、軍の指示で平海兵団(現合板の所)へ収容されるこ とになり、人々は恐怖と不安に疲れ切った体で、海岸伝いに平まで歩いたのです。その列がきれる間もなくズーッと海岸道に続いていました。たいていが着のみ 着のままの素足で、村の年寄り達は冬の間に作った草履をあげていました」 「予期せぬ惨禍に、必死に叫ぶ「アイゴー!」の声がいまだに耳から消えません し、また祖国帰還の夢をもちながら不遇の事故で亡くなられた人々のくやしさが、ほとんどの人が両方のこぶしを固くにぎって水面に突き出していた遺体の有様 からもうかがわれ、これまたまぶたの裏から離れません」  もうひとつ、「浮島丸 釜山港へ向かわず」(金賛汀・講談社)にある元乗組員のこんな証言も引 く。「 艦内も大混乱で、カッターを降ろす者、走り回る者、叫んでいる者、朝鮮人たちが必死で甲板まで上がろうとしている。アイゴー、アイゴーと叫んでい る女性や泣き叫ぶ子供。もう混乱の極みにありました。艦から降ろされていたカッターを吊っているロープが切れ、カッターが海の中に転覆するという事故も目 撃しました。その時、私は地獄を見ました……。爆発で甲板にあった船倉の蓋が吹っ飛んだんでしょう。その近くにいた私は、ふと船倉の底をのぞき込んだので す。なんと水がごうごうと渦を巻いているんです。その渦に朝鮮人の女・子供が巻き込まれ、必死になって手を上げて「アイゴー!」と叫んでいるんです。そし て水の中にのまれていきました。地獄でしたね……」  他にも「お宮さんに固まっていたが、重油がベットリ、生きた顔をしていなかった」 「何日も死体が 流れ着いた」等の証言も残されている。それらの当時の証言を思い出しながら平方面へ向かう海沿いの道をしばらくあるいてみたりした。下佐波賀の集落には年 季の入って傾きかけた納屋があって、ひょっとしたらこの建物は当時のままかも知れないと思ってみたりした。新しそうなトンネルの横に位置した天満神社は台 座があたらしく、おそらくトンネルの開通に合わせて移設されたのではないかと思われた。「重油がベットリ、生きた顔をしていなかった」かれらが固まってい たというのは、あるいはこの神社の境内だったろうか。若しくは上佐波賀の宮谷神社か、平の八幡神社の境内だったかも知れない。このあたりからかつての平海 兵団まで、徒歩であれば優に一時間以上はかかるだろう。まさに「恐怖と不安に疲れ切った」無数のまっくろな顔が切れる間もなく海岸沿いの道に続いていたの だ。すでに日はとっぷりと暮れていただろう。「死没者名簿」によれば犠牲者の多くは20代から30代の働き盛りの若者がいちばん多い。家族と共に働いてい た者もいたから妻や幼い子どもたちもその名簿には載っている。かれらの多くは遺骨になってさえも故郷の肉親たちの元へもどれなかった。もう何度か書いてき たことだけれど、作家の堀田善衛はかつて、過去と未来は見えることができる前方にあり、未来は見ることのできない背後にあるというホメロスの「オディッセ イ」の訳注を見つけて、「これをもう少し敷衍すれば、われわれはすべて背中から未来へ入って行く、ということになるだろう」(「未来からの挨拶」)と書い た。未来は背後(過ぎ方)にあるが、わたしたちはその背後すら持ち得ていない。とにかくわたしはその日の午後、いつまでもいつまでもそのとろりと微睡んだ ような海を眺めていた。ときどき眠たくなって後ろのガードレールの根元に頭をぶつけそうになったりしながら。いちどだけ、それまでそよとも波ひとつ立たな かった海が急にざばんざばんと波打ち、荒れ出した。海面が手を叩いて、まるで深海から無数の存在がおいでおいでとこちらに手招きをしているかのようだっ た。嫌な感じはしなかった。それはほんの数分だけのことで、また海はなにもなかったのようにとろりと微睡み続けたのだけれど、あのときわたしは、ああ、 行ってもいいかも知れない、過去も未来も見えず、寛容さを失っていくばかりのこの世界に残っているよりもかれらといっしょに深海の竜宮で「夜叉ヶ池」の魔 物たちのようになって暮らすのも悪くはないかもしれない、とふと思った。


    ◆ハン・ヨンエ Behind Time ・1925-1955 https://blog.goo.ne.jp/lunaluni/e/101d1126340d8eedd949860eae0b9d6c
    ◆舞鶴引揚記念館 https://m-hikiage-museum.jp/
    ◆映画「エイジアン・ブルー 浮島丸サコン」全編 https://www.youtube.com/watch?v=s8tE8-qdWsY
    ◆在外邦人引揚の記録―この祖国への切なる慕情  https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001218733-00
    ◆哀愁のセレナーデ http://kazenomatataki.blog133.fc2.com/blog-entry-216.html
    ◆演劇『荷(チム)』で初めて知った歴史事実 http://www.doi-toshikuni.net/j/column/20120324.html
    ◆浮島丸の史実を次世代に https://www.sankei.com/region/news/150627/rgn1506270046-n1.html
    ◆浮島丸殉難の碑 http://hasiru.net/~maekawa/mine/maizuru.html

    2019.10.21

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      ジップと矢田丘陵の北の端の森にでかけた。暗い谷筋に真っ白なキノコをびっしりと古代の王家の衣装のように全身にまとった巨木が二本、屹立していた。葉は すでになく枝も枯れ果て、王はみずからの富をいまいのちあるものへ委譲しているのだ。やがてかれが倒れれば、あたりには日が射し込み、幼木たちが光合成を するためにはなやぐだろう。物言わぬ気高い二人の王をジップとともにしばらく見あげていた。

     ・・ペーター・マファイの曲に“私が死ぬとき、この世を去るのは私の一部だけ”という歌詞があった。まるで樹木のために書かれたような言葉だ。というの も、森林という生態系にとって、死んだ木の体は、生きた木と同じように貴重だからだ。木は数百年もの時間をかけて養分を地面から取り込んでいる体内にため る。これが子どもたちにとってかけがえのない遺産となる。

    ペーター・ヴォールレーベン「樹木たちの知られざる生活」

    2019.11.10

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     今朝、夢のなかで、つれあいが先に死んで、娘が自立して家を出ていったら、おれは墓地の真ん中に小さな堂を建ててそこで墓守として暮らそう、それがじぶんのやりたかったことだ、と思っているじぶんがいた。

    2019.11.12

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       昼下がり、映画「野火」を見た。 戦場での兵士の遺体処理、死者儀礼、霊魂の物象化、そんな本ばかりを読んでいるといつか白々と河原に屹立す る骨の夢まで見る。腹が裂け、脳漿が飛び散り、腕や足がもがれ、皮膚がめくれ、蛆が湧く映画のなかの兵士たちはだれもが平和な日常のなかでは滅多にないま さに野辺送りの死者儀礼とは真逆のだれにも看取られることもない無残な亡骸を野に晒して打ち棄てられるだけの「非業の死者」たちばかりだ。かれらが「うつ くしき眞砂(留魂砂)に天下った英霊」になったとはおれにはどうしても思われない。白骨は屹立したままどこへも辿ることもできぬ鬼となるだろう。その鬼か ら目を背けてうつくしき眞砂を白木の箱に入れ神として祀ることで手を打ったのがこの国の為政者たちでありおれたち卑しき臣民どもだ。その白木の箱を地面に 叩きつけて夢から醒めよ。流浪する鬼を呑み込め。眼裏から気泡のような黒い血を流せ。そして現在につらなるあらゆるからくりから脱出せよ。「野火」はふた たび近い。おれは喰らうよ。

    2019.11.14

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      3日は短くなく、むしろ長い、それで充分なのだ。

     生前、星野道夫は、わずか3日間で、卵から孵化して変態、成虫となって交尾し、そして産卵していく“ミッジ”というハエについて「3日は短くなく、むしろ長い。それで充分なんだ」と語ったという。

      このエピソードを紹介した後、スクーラーは「シャケは2−3年、クマは2−30年、人は5−70年という“それぞれの時間”がある。ミチオの死は哀しいけ れど、家族を大切にしていた彼には妻も息子もいる。次世代を遺し、“飛ぶことも覚えて”(*)からミチオは亡くなった。充分だったのかもしれない」と語っ た。」

    (* 星野道夫が生前、アラスカの大自然を空撮もしたことの比喩・氷が山谷を削ったアラスカの大自然は、空撮でないと撮影できない場所も多い)

    2019.11.21

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      JR阪和線富木(とのき)駅南一番踏切はいつか行かなければと思っていた。たまたま手にした友川カズキ「一人盆踊り」(ちくま文庫)にかれの弟の覚(さと る)が大阪行きの上りの回送電車に身を投げたときのことを書いていた。それを読んで、行かなくてはいけない、という気がした。

      車から降りるのももどかしく駆け込むと、花が飾られ線香けむる中に棺があった。 叔父さんは父母に気遣ってか、見なくてもいいんでは、という風に私にまず 見るように促した。 母は「見ねば信用でぎね」と、私のあとをついて来た。 「覚」であった。 顔は半分しかなく眼球も飛び出していたが、ほっぺたと鼻と 唇で確かに「覚」だと判った。 首から下の方はあまりにもバラバラでつなぎ合わせることもままならず、拾い集められたまま詰められていた。 みんなで泣い た。  母は今産み落とした赤子をあやすように「よしよし、よしよし」と何度も頬をさすり、覚をずっと慕っていた弟の友春は目を真っ赤にしながら口に酒を 含み口移しに覚へそれを浸していた。  ガンコで生前覚を叱ることしかできなかった父はハンケチをずっと目頭にあて低い声で「覚、覚」と何度も、何度も呼 び続けていた。 母が「覚、オラ方来たがらもう安心して逝げ、何も心配すな」と言った。 やがてゴオウという炎の音がし、「覚」は旅立った。

      生きている者はふわふわとさだめなく、とりとめがない。死んでしまった者は夏の陽射しに射抜かれた濃い影のように凛として動かない。残された者たちが何を 言おうともゆらぐことがない。わたしはだから、生きている者よりも死んでしまった者が好きなのかも知れない。及位覚(のぞき さとる)が日雇いをしながら 書いて蒸発したアパートの部屋に残されていた詩編をいくつか鞄に入れてきた。それらをほおずきのように口中にふくみながら、わたしは土曜日の昼のさびれた 富木駅南一番踏切にいた。そしてあの枕木に血に染まった頭髪が貼りつき、あの砂利石はそれをみていただろうか、などと考えていた。その間にもその日とおな じように電車の幾本かが駆け抜け、わたしは青い空をなんども見上げ、とりとめのない生者であるわが身をいぶかしんだ。後ろ髪をひかれるように富木駅南一番 踏切からとぼとぼと立ち去りながらわたしの頭にめぐっていたのはやっぱりあの「無残の美」の一節だ。「詩を書いた位では間に合わない / 淋しさが時とし て人間にはある / そこを抜け出ようと思えば思う程 / より深きモノに抱きすくめられるのもまたしかりだ」  詩がかれを呑み込んだのだが、かなしい 苦しい身もだえするような肉体は膨張してクジラの腹から飛び出したヨナのように弾けた。詩を書いた位では間に合わない淋しさとはなんだ。わたしはそれをど れだけ親しい人間よりもよく知っているような気がするのだ。あとはもうただひたすら歩くしかない。「詩を書いた位では間に合わない / 淋しさが時として 人間にはある / そこを抜け出ようと思えば思う程・・・ 」とつぶやきながら歩いた。踏切から西へ西へと歩き続けて、南海本線のガードをくぐったあた り、かつての行基の社会事業に従事した工人たちの子孫の集落でその行基の生誕の地なる碑をさがした。「宮前通」という標識のまま進んでいったらひっそりと 明るい高石神社に出た。その裏手、高師浜駅前で日露戦争の時代の広大な捕虜収容所がこのあたりにあったという説明版を読み、高師浜、伽羅橋、羽衣とワンマ ン電車にゆられて東羽衣からJRで鳳へ。三国ケ丘で泉北高速鉄道に乗り換えて光明池までやってきた。紅葉が目に映える広大な人工池のぐるりを歩きまわって 探したのは、戦前にこの池の造成工事に従事して死んだ朝鮮人労働者のための慰霊碑だった。工事完成後に元請けの大林組が慰霊碑を建てたのが後に四散してい たのを復した、という。ここでも死者たちはゆらがないゆらぎようがないこの国の不実な歴史に於いて。二時間近くさがしまわってすでに日は暮れかけていた。 駅前のスーパーで買ってきたカップ酒を石碑の前に置いた。そしてもう夕焼けがすっかり消えた薄暮の暗い池の水面をじっと眺めながら相変わらず「詩を書いた 位では間に合わない」が頭の中でぐるぐると呪文のように回転しているのをもう一人のわたしが見つめていた。もう一人のわたしはひょっとしたらすでに死んで しまったわたしであるのかも知れない。生者は死者のことを考える。生者は死者に見つめられてゆらぐ。ふわふわとさだめなく、とりとめがない。兄が弟に書い た、「おとうと / 死はあるか / 死よりも近く / 生はあるか」。  それは死んだ弟に書いたのだろうか。すでに死んだ弟では間に合わないか。生者 と死者のあわいはどこにあるだろうか。わたしたちは無数の死者たちに見つめられている。そしてときどきわたしたちはこっそりと入れ替わる。より深きモノに 抱きすくめられる。帰り道はすでに夜の闇だった。雑木林の暗闇をくぐった。生者はついに、死者たちには届かないかも知れない。それでも届けよと必死にその手を暗闇のなかでのばし続けることが生きることかも知れない。

    ◆たかいしを歩く〜史跡ガイドマップ(PDF) http://www.city.takaishi.lg.jp/ikkrwebBrowse/material/files/group/31/takaishiwoaruku2.pdf

    2019.11.23

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      アフガニスタンでペシャワール会の代表であり医師の中村哲氏が何者かの銃弾を受けて死んだ。73歳。その日の夜、国際学習到達度調査とやらで日本の15歳 の読解力が急落したという記事中の「本読まずスマホ没頭」 「気になるのは、休憩時間になると、友達と会話をするよりもスマホを取り出し1人で動画を見る 子どもが目に付くこと」 「文章を書く能力や能動性は人と話す中でつくられていくが、そうした時間がスマホに取られている」云々に娘が、そうじゃないんだ よ。人に関わると辛いことばかりだからゲームをするんだよ。スクールカーストで最下位の人間がゲームでは英雄になれるんだよ。それを棚上げにしてゲームや スマホを悪く言うのは間違ってるよ、と憤慨した。そうしたことすべてがきっと地下茎でつながっているこの世界では。

     アフガニスタンでい つも思い出すのはニューヨークの高層ビルに旅客機が突っ込んだ頃、メールでやり取りをしていたフランスに住む年上の日本人女性がある日、わたしに書いて寄 こしたこんなことばだ。「しかし、なんであそこの男たちはこんなに sexy なのか? 何であんなに笑えるんだ? なんであそこの子供たちは本当の子供たちなんだ? なんでみんな詩を歌い上げるのだ? / 体を張って生きているか らだね? 違うかな。 / でも私たちはいったいどこに行こうとしているのか?」  彼女のこのことばをときどき思い出す。マスードをはじめアフガンの男 たちが sexy に輝いていたように、アフガンの子どもたちがほんとうの子どもたちであったように、会ったことはないけれど中村哲氏の目もきっときらきらと輝いていたに違 いない。そしておれたちは、そこから遠く離れたゴミ屋敷のような腐海にいたんだよ、中村哲が36年間アフガンで奮闘している間ずっと。sexy な男になりたいと、あのときおれは心から思ったけれど、いまでは腐った炭酸ガスを放つ醜い生き物のようだこのおれは。目は何も見るものがない。開いている が盲者(めしい)のようだ。そして「私たちはいったいどこに行こうとしているのか?」

     どのように死んだかではなく、どのように生きたかだ。訃報を聞いた瞬間、そんなことばが浮かんだ。

    2019.12.4

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      東近江、蒲生岡本。さいしょにこの土地を訪ねたのは画家の福山さんが連れて行ってくれた梵釈寺だった。苔生した墓石がこの世から遊離して会話している場所。 そのときに寺の近くに「伝病焼屍場跡」(明治10年ごろから発生したコレラ患者の死体を焼いた山中の火葬場)の案内板を見て、二人で薄暗い共同墓地の裏手 を探したのだけれど道が分からなかった。そうだ、あの場所をもういちど探してみよう、と思ったのは菩提寺SAで、急遽ナビを設定しなおした。休日をとった 金曜日。ほんとうは娘と二人で、事前に調べていた八日市の洋食屋・ABC食堂でランチを食べて、瓦屋寺と太郎坊宮に寄り道して、それから五個荘の福山さん の個展を見に行く予定だったのだが、娘が体調不良でキャンセルとなり、白紙になった。人気のない梵釈寺の前に車を停めて、前回は見れなかった周辺の史跡を たどった。田の神、山の神、また天智天皇の皇子が宮を造営したという碑があり、裏山には行基にまつわる壺焼き・水晶磨きの渡来系工人たちの伝承があり、壺 焼谷・鋳物師などの地名も残る。わずかなエリアに民俗、伝承、歴史がコンパクトに寄り添い、重なり合っている。そこがひとつのちいさな宇宙のように。寺の 奥の落ち葉が美しく積もったしずかな道をたどって溜池の端にあたりをつけたのだが、その場所は見当違いだった。高御産巣日神(たかみむすびのかみ)を祀る高木神社を経て、八日市の路地に見つけた萬膳食堂で昼食に焼きそ ばを食べた。くたびれたカウンターやテーブル席にすわっているのはみんな常連客ばかりで、だれもがどこかで会ったような懐かしい顔に見える。やっぱりこう いう店が落ち着くよ。近くの市立図書館で少しばかり資料を漁ろうかと思ったら、ずいぶんと長居してしまった。三人の女性の司書さんが熱心につきあってくれ た。見つけたのは明治の伝染病の流行と「火葬兼汚穢物焼却場」設置について書かれた町史の記事と、八日市にかつてあった遊郭に関する詳細の資料(新参の遊 女の客取りから葬儀に至るまで)。五個荘の福山さんの個展会場へ向かったのはそろそろ日も暮れ始めようかという頃だ。古民家の壁や濡れ縁や床の間に配置さ れた風景に人の姿はない。川や道や草原や鉄路や井戸や住宅すらもあるのだけれど、人の姿はまったく見えないし気配すらもない。まるですべての人間が風景の 中に融け交じってしまったかのようだ。そして風景はけして特別なものでもなくて、ついこの間にじぶんも通りかかったかも知れないような何げない場所ばか り。ならんだ二枚の作品に湿度があって、くぐもった体温のようなものを感じた。画家はその二枚がいちばんあたらしい作品で、なにも下処理をしていない和紙 に、ほとんど現地で仕上げたものだとおしえてくれた。その二枚はやっぱりだれもいないのだけれど、目に見えないたくさんの人があるいているのだった。わた しは画家にいつかお墓を描いて欲しいとこのごろ言っている。わたしの訪ねあるく墓地は、このくぐもった体温のある絵のようなのだった。その晩は画家と、木 工作家である智子さんご夫婦の家に図々しくも泊めて頂いた。親しげに膝の上に乗ってくる猫の額を撫でながら、地元の酒と近くの被差別部落の精肉屋で求めたもつ 肉のおいしい鍋をつつき、八日市の旧遊郭地内にある手強い大衆食堂の話から、大正時代の遊郭地図に載っている延命湯がいまも営業しているというので福山さ んと二人で、智子さんが手洗い桶に用意してくれた手拭いと石鹸をもって車に乗り込んだ。延命湯は残念ながら休業日だったのだが、もうひとつのこれも古めか しい福助湯の湯に浸って、それから夜の太郎坊宮に行って参道の石段をのぼり、巨岩の磐座から八風街道がよこぎる眼下の夜景をしばらく愉しんだ。天狗に律せ られた山域は清浄で邪気もなく、暗闇が肺に気持ちよく流れ込む。20代の頃、台風一過の弥山からの山道をハイになって駆け下った、あんな感覚だな。翌朝は見晴らしのいい平地に坐す御澤神社の湧水を汲んでから、福山さんが個展会場へ行くま での時間をぬって、二人で「伝病焼屍場跡」をあらためて探した。梵釈寺からすぐ南の砂利道をイノシシ除けのフェンスを開けて進むと大きな溜池に出て、道の端に「壺焼 谷」に関する案内板が立っている。そこから道をさがして斜面をのぼると池を見下ろす高台に「史跡行基菩薩壺焼谷」の石碑が立っている(昭和49年建立)。 さあ、それから暗い藪と熊笹に囲まれた杣道をあちこちとたどり、地図上ではどうもこのへんだろうと思われる場所に出たのだが何もない。ひょろひょろと細い 雑木と薮にすっかり埋もれてしまっていた。少しばかりの棚地のあたりにそっと手を合わせた。座棺に入れた病死者をここまでかついできて、木を組み、火をつ けた。そのとき暗がりに赤々と照らし出された人びとの顔はどんなふうだったろうか。忘れてしまいたい悲しい記憶だろうけれど、これはこれで貴重な歴史の記 録だと思うのだ。梵釈寺の前で福山さんと別れて、わたしは近くの蒲生町の図書館へ寄ってみた。そこでも若い司書の方が三人、嫌な顔も見せず親切に付き合ってく れたけれど、出てきた資料は少ない。壺焼谷に関する古老の言い伝えと、それから江戸時代の小脇で火炙りにされた彦左衛門に関する当時の覚書。梵釈寺前の案 内板は、平成17年のまだ蒲生町が東近江市に合併する直前に町の補助金で各地で企画された「夢プラン」のひとつだと判った。岡本のその企画の責任者はオカ ダさんという岡本の人だった。八日市の図書館で見つけた伝染病に関する資料にあった市子殿の共同墓地にやはり設置された「火葬兼汚穢物焼却場」、あるいは ここだろうかという佐久良川沿いの墓地が図書館に近い中学校の北側だったのでそれを覗いて帰ろうかと思ったのだが、先に司書の女の子が教えてくれたスー パーの店内で食べられる海鮮丼のお昼を食べに行った。店の奥の鮮魚売場で注文をしてレジでお金を払うと、イートインコーナーに持ってきてくれる。500円 で海鮮丼、焼き魚、フライなどの定食などなど。猿田彦神社のすぐ近くの川沿いの墓地は、昭和初期の軍人墓もいくつか建っているが、明治から続いているわり には数が少ないようだ。河川敷は十分に広くて、あるいは他の墓地は別の場所へ移動したのかも知れない。「火葬兼汚穢物焼却場」があったかも知れないあたり はスポーツ公園のようなグランドになっている。そんな河原の景色を眺めていたら福山さんから、「夢プラン」のオカダさんが今日、岡本のガリ版伝承館前で催 されているマルシェに出店しているから話が聞けるかも知れないとメッセージで伝えてきた。ガリ版伝承館はガリ版刷り印刷機を私財を投げ打って発明した、岡 本出身の堀井新治郎父子の明治期の本家を利用した資料館だ。せっかくなので伝承館を見学してから隣の敷地のマルシェに行ってみると、オカダさんはテントの 下で自家製の豆菓子と甘酒の元を売っていた。午前中、福山さんと二人で「伝病焼屍場跡」を探して薮の中を歩きまわっていた話をすると、そうか、それはうれ しいなあ、と喜んでくれた。溜め池からの道も「よく見つけたなあ」とうれしそうだった。「伝病焼屍場跡」はオカダさんより20歳年長の人が伝え聞いていた話 で、二人でその場所をじっさいに見に行った。だから案内板の地図に記した場所は等高線など、まさにぴったりの位置に丸印をつけているという。「3〜4メー トル四方の地面が一段低く掘り下げられていた。でもいまではもう草に覆われて見つけにくいだろう」  そこで焼かれた伝染病者の人は、そのあとはみんなと 同じ墓地に葬られたんでしょうか? 「いやあ、どうだろうなあ。それは分からんなあ」  そしてあれこれ話を伺って「夢プラン」のことになり、案内板の元 資料のようなものはないのですか? と訊くと、まとめて町内の希望者だけに配ったと云う。見たいなあと云うと、その資料をあるいて30秒ほどの自宅から持ってきてくれて「いつ でもいいから」とあっさり貸してくれた。A4のファイルで項目別に仕分けられた大部のものだ。「伝病焼屍場跡」を示した古い絵図や、オカダさんが調査したときの写 真などもある。思わぬプレゼントに小躍りしそうな気持をおさえてお礼を言い、ガリ版伝承館の駐車場に停めた車の中でしばらくページをめくった。それから福 山さんちの近くの精肉屋へカッパ(さいぼし)を買いに立ち寄り、カッパとゆぎりを手に入れて、暮れてきた8号線を南下した。帰りは節約のため高速は使わず に下道を走ろう。行きも帰りも車内のBGMは中国のアーティスト、趙雷と房东的猫だ。岡本の山間に暮らした渡来系の人びともあの大陸からやってきたんだか らね。宇宙を内包したちいさな山里をあとにして夕暮れの道を行基に従う渡来人のように紫香楽へ。
    2019.12.15

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      数日前、夕食を済ませてから娘のリクエストで映画を見た。「パン」はやがてピーターパンになる孤児院の少年の物語(ファンタジー)。いまでは彼女は父親の すすめる映画はほとんど見ない。内容が重い作品にはこころが耐えられない、と言う。畢竟、彼女の見たい映画にはつれあいがつきあうことが多くなり、たまに わたしがいっしょに見ると言うと娘はとてもよろこぶ。2階のテレビの部屋で、こたつの上にポップコーンとそれぞれの飲み物。悪役の黒ひげにヒュー・ジャッ クマン、若きフック船長や、女戦士のタイガー・リリー、道化役のサム。もちろん幼い頃から原作も読んでいるから登場人物が現れるたびに狂喜する。孤児院か らさらわれてきた少年ピーターが飛翔するすべを学んで仲間のために成長していく。ポップコーンをつまみながら隣の娘を見ると、すでに画面に夢 中になっている彼女の顔は上気して目は輝いている。それから二三日して休日、リビングで娘と遅い朝食を共にしているときに「ああ、大人になりたくないな あ」と彼女はつぶやいた。「このままファンタジーの世界にずっといたい。大人になると、そういうこころをみんな失っていくんだよ。わたしはそうはなりたく ない」  大人になってもそうじゃない人はいるし、そういう場所をじぶんでつくりあげていくんだよ。かろうじてわたしの口から出たそんな有体のことばも、 思いつめたような彼女の前ではまるで安物のおとぎ話のように失速して墜落する。娘が学校へ行けなくなった中学一年生の秋から、もう5年以上が経つ。すでに 選挙権もあるし、車の免許もとれるし、最近はどこから情報を得るのか来年の成人式に向けて艶やかな振袖の広告が頻繁にポストに舞い込む。けれど彼女はまだ 通信制高校の高校生のままだ。かつての友だちはみんなキャンバス生活をエンジョイしているけれど、娘は毎日犬と猫といっしょに自室で暮らしている。通信制 高校もすでに行けなくなって3年が経つ。彼女が外の世界へ出るのは、週一回の県の教育機関によるカウンセリングと「居場所づくり」への参加。ときどき歯医 者と美容院。そして家族やわたしの母や妹たちと行く外食や買い物、カラオケ、映画館、その他あれこれ。生理痛がひどいので月の1/3は臥せっている。カ テーテルの導尿によって軽い膀胱炎になることもある。排便の薬の調整が難しく、トイレが心配で外出できないときもある。人混みが怖い。ときどき怖い夢を見 てうなされたり眠れなくなる。電車に乗るのは嫌いだから移動はいつも車。杖をついてみじかい距離ならひとりで歩けるけれど、ショッピングや展覧会などは車 椅子を車に乗せていく。疲れやすい。一日にふたつ以上の用事はこなせない、こころがいっぱいになるから。午前中がんばったら、午後は犬猫たちと自室にとじ こもる。コンサートなどの予約はできない。当日気分的に行けなくなるかも知れないし、もし行けなかったらたくさんの人に迷惑をかけると考えて余計に行けなくなってしまう。じぶんは無価値で、だれの役にも立てない、ダメな人間なんだと確信している。

      くだんの相模原の障害者施設殺傷事件には慄然とした。こころがあらぬ方向へふわふわと浮遊し出してたまらなくなって夜中に車で紀伊半島の山中を狂ったよう に走りまわった。その日、朝までいにしえの山の地形をわが身になぞることで何とか正気を保とうとした。この国の何かが(そしてあらゆるものが)溶解しつつ あった。江戸時代の古めかしい写本に描かれた鵺(ぬえ)のような実体のない瘴気が人びとの核膜孔から侵入しつつあった。「社会の役に立ちたかった」 作家 の雨宮処凛は「インターネットでランダムに流れてくる悪意」を自己学習したAI(人工知能)が植松被告かも知れない、と書いた。一方で「自衛のためやむを 得ず」父親である元農水省事務次官に殺された引きこもりの長男は、じつは「障害者は生きている価値がない」と無抵抗な19人を刺殺したこの植村被告の見事 な裏返しではないかと思ったとき、腐海の瘴気にさらされたようなこの国のリアルな姿がくっきりと立ち上がってくるような気がした。息子をみずからの価値観 でしばりつけ最後に手に負えなくなるとみずからその存在を抹殺した父親に世間の同情が集まる一方で、最後まで父の姿を仰ぎ見て悲鳴をあげていた殺された長 男のいのちは誰も惜しまない。小学校まではいつも笑いが絶えず、重たい装具を付けながらもみなとおなじ運動会の長距離走を歯を食いしばって走り通した娘の その後の苦闘は確実にこれらのものと密接にリンクしている、と思う。障碍者施設の建設に地元住民が反対の声をあげ、障害をもった児童が保育所などの施設か らはじき出され、教育現場からはじかれる。それらはすべて、ふつうの人びとのふつうの日常のおだやかな顔の裏でしずかに成されるのだ。障害者だけでない。 在日朝鮮人、被差別部落、ハンセン病者、出稼ぎの外国人、ホームレス、そしてフクシマの避難生活者。炭坑のカナリアのように瘴気はこの国の弱者から襲いか かりいのちを削ぐ。いちばんやわらかでちいさくゆたかなものたちがまっさきにたおれていく。

     .「ああ、大人になりたくないなあ」と娘が嘆息したその日の夜。夕食の席で子ども食堂の話が出た。わたしが最近、職場近くで見つけた福祉センターの経営するランチの店が子ども食 堂もしているが、母子家庭で夜の仕事をしているような母親は学校や地域からの案内など見ないので、ほんとうに必要なこどもたちが食べに来ないという、そん な話だ。するとつれあいが、郡山にも子ども食堂をやっているところがあるよ、と言う。スマホでホームページを探し、あれこれと見ていたら「ボランティア募 集」の項を見つけた。子ども食堂の手伝いやイベントの同行などの他、子ども食堂に来る小学生の学習援助、本の読み聞かせなどもある。そう言うと、「それな らわたしにもできるかも知れない。やってみようかなあ」と娘が言い出した。つれあいもわたしと同様に驚いたはずだ。つれあいの職場によく来る市議会議員が その子ども食堂の活動に詳しいようなので、こんどきたらつれあいが「さりげなく」訊いてみることになった。ボランティアに娘が参加できるかどうかは分から ない。うまくいくかも知れないし、行けなくなるかも知れないが、どちらでもいい。この5年間、わたしとつれあいが試行錯誤はあったにしろ、二人でいちばん こころを砕いたのは「娘をまもること」だった。世界がどれだけ恐怖に満ちて、つめたく、あらゆるいのちをおしつぶそうとしても、家のなかはぜったいに安全 なのだ、と。武装解除してねむれる場所なのだ、と。それだけを心がけてきた。学校なんか行けなくてもいい。友だちがいなくてもいい。ひととおなじでなくて も構わない。いつか、彼女は殻をやぶって飛び立つだろうと信じている。なぜならひとは結局、ひとをもとめるものだし、だれかの役に立つことによってじぶん というものを確かめていく生き物だから。そういう欲求をいつまでも封印しておくことはむずかしい。王蟲を愛したナウシカ自身はすでに清浄な空気のなかでは 生きられない身体になっていた。わたしはこころの闇と格闘する娘にナウシカの姿を重ねてみる。瘴気に侵されながら抗いつづける。AI(人工知能)では見つけられない山中の杣道を彼女とあるいていく。A Happy New Ear(幸福なあたらしい耳)を澄ましながら。

    2019.12.30

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      葛木(古代でいう葛城・金剛の峰を云う)はいにしえの修験の山である。一方、行基は渡来系の父と母を出自に持つ。どちらも国家にとって“内なる他者”と云 える。それを「異能」と呼ぶ者もいる。もともと山は「異能」が巣食う場所だ。葛城の賀茂の出身である役小角は人々を言葉で惑わすとして流罪となった。行基 もまた「道路に乱れ出てみだりに罪福を説いて、家々を説教して回り、偽りの聖の道と称して人民を妖惑している」として国家の弾圧を受けた。高鴨神社にもほ ど近い御所の、五條市に接する西佐味の集落から金剛山山頂へ向かう小和(こわ)道はかれら修験の古道であった。その道筋、標高550メートルの森閑とした 山中に位置する高宮寺(現・高宮廃寺跡)には山林修行によって修験の法を修める僧たちがいた。「行基菩薩伝」によれば24歳の行基はここで高宮寺徳光禅師 より具足受戒した、とある。691年(持統天皇5年)のことである。「日本霊異記」(上巻第4)には百済の僧・円勢がこの高宮寺に住んでいたとの記述があ り、また「日本書紀」(神功皇后5年3月条)には葛城襲津彦が新羅から連れかえった捕虜が桑原・佐糜(さび)・高宮・忍海(おしみ)の葛城周辺の村の漢人 (あやひと)らの始祖であるという伝承を記している。葛木は「異能」の者たちであふれていた。わたしは、そのような地の山中で戒を受けた24歳の若き行基 に会いにいきたくなった。わたしも国家に抗う「異能」を授かりたいと思ったから。高宮廃寺跡はいまでは杉の植林にとりかこまれている。が、それがかえって 榛摺(はりずり)一色が天空を目指すような空間を成していて心地よい。往時の金堂の礎石である自然石が物言わぬ戒律のように列びたたずむそのしずかな場所 で、わたしは持ってきたインドの香を焚き、ながいことひとり坐していた。あるいはさらに古道を登った標高750メートルに位置する石寺で修業した僧たちの 山中のつましい墓石に挨拶をして思いを馳せた。ときおり鳥が枝を踏む音がまるでくさむらから熊が現れたかのように響くほど音がない。樹の間から射し込む陽 のあえかな温度まで実感できる。わたしはこのまま石になって落ち葉の衣をまとうだろうか。1300年前、青年だった行基はどんな目をしてこの山道をあるい たろうか。どんな表情で草を食み、乾いた落葉を踏み、水を呑んだか。亡きひとの墓の前で祈ったか。その後のかれがしたことはみずからを「境界」に置き、底辺の人びとと共に飽くなきこ の世の変革を望んだことだ。

    ◆巡礼の町石道 (小和道) http://enyatotto.com/mountain/kongouzan/owa/owa.htm

    ◆小和道(天ヶ滝旧道) http://www.kongozan.com/kongo/owa.html
    2020.1.4

    *
     
       ここが世界の中心だ、思考の中心だ、とあらためて思う。空爆の破片で「頭がパックリと開いて」何かをつぶやき続けながら「真っ白になって」死んでいった 少女の命は、今日の夕飯の席で子どもの頃に大好きだった絵本の原書の英語を一生懸命に読みながら思わず泣いてしまって母親に笑われていたわたしの娘の命と 等価であり交換可能だ。であるなら、捨ててしまって構わないものが己の周辺にどれほどあることか。ほとんどは価値のないゴミ屑や糞どもだ。今朝、通勤電車の中のイ ヤホンで友川カズキが呻いていた。「花咲くさるすべりの樹に ガソリンかけてまむしを追っぱらう」(順三郎畏怖) いのちのゆらぐもうひとつの端をにぎり しめたおまえに何が必要か。

     その時期はラマダンだったのですが、陽が上がっているあいだは食事も飲料もできないラマダンのときは、日没後に食べる夕食が彼らの楽しみになりますよね。それで、夕方になると買い物をする人たちがたくさん市場に集まる。

      アサド政府軍はその時間帯の市場をねらって、空爆や砲撃を仕掛ける。人が集まる場所・時間帯をねらえば殺戮の効果が大きいからです。「お前たちが殺される のは、反体制派のいる場所に暮らしているからだ」という恐怖を与えるという理由で。「テロリストをかくまう者もテロリストだ」というのと同じ理屈ですね。

      私はその時間帯に、反体制派側で唯一稼働している救急病院にいたのですが、市場への空爆でたくさんの市民が死傷し、運ばれてきていました。その中に、三歳 ほどの小さな女の子がいました。父親が毛布にくるんで運んできたその子は、破片によって割られた頭がパックリと開いていました。でもまだ息があり、聞き取 れないほどの小さな声で何かをつぶやき続けていました。

     手術台に運ばれても、ろくな薬もなく、手術のための器具や装置も壊れたまま修理 もできない政府軍に包囲された病院では、医師も何もできない。その子は手術台の上に寝かされ、何かをつぶやき続けている声は途切れ途切れになり、やがて口 の動きは止まり、体中の肌の血の気が失せて真っ白になって亡くなりました。私は「ああ、人間って死ぬ瞬間はこんなに真っ白になるんだ」と思いました。その とき父親は崩れ落ち、静かに、でも狂ったように泣き崩れました。

     人がいま死んでゆくという、その瞬間に立ち会うのは初めてのことでし た。私はそのことを記事にしましたが、人が死ぬ、ということをどう書けば人にわかってもらえるのか、わからなかった。こんな幼い子どもが、ただ父親と夕飯 の食材を買いに行くために道を歩いていただけの子どもが、国家というものによって殺される。国家にいかなる理由があるとしても、こんなことは許されていい はずがないです。

    「戦争取材と自己責任」第二章 紛争地のリアル 藤原亮司
    2020.1.8

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       思い出したのは9年前のあの地震と津波と原発事故が起きたときに思ったのと同じこと。「わたしたちの一人ひとりが“生き方”を変えなくてはいけない」。 何のために生きるのか、何のために働くのか。何のために投票するのか、何のためにものを買うのか。たくさんのお金は要らない。たくさんの電気も要らない。 お金ではこころの豊かさは買えない。お金で買えないものを分かち合う。そういった、身近なもろもろのこと。“生き方”を変えなければおそらく世界も変わら ない。そんな感じのこと。そして山本太郎は果たしてロベスピエールになるのかどうかまだ分からないけれど、少なくともやつはそのために最前線で孤独で危う い闘いをしているということ。50年後、100年後の歴史のなかでいったいどんなふうに山本太郎は語られるのだろうかと考えていた。こころがいっぱいに なった。鎖でつながれた囚人のようだった。この足枷をはずすことはできるのか。原発事故賠償訴訟でずっと闘ってきたが結局、政治的なものを変えなければ何 も変えられないという思いに到達したという声があった。フクシマは終わっていない、ループしているだけ、という話もあった。フクシマでは生まれてからいち ども地面の上で遊んだことがない子もいるという。奈良県産のしいたけにも時として微量のセシウムが検出される、なぜなら東北地方から取り寄せるしいたけの 原木が汚染されているから。そうした報告にいちいちおどろいた。あらゆるものが破壊されているのに、あらゆることが何もなかったことにされている。正しい とか間違いだとかはすでに意味をなさない。強いものの側にいるかいないかだけ。“生き方”を変えるとは、そのループから脱け出すということ。糞ったれの輪から勇気を出して飛び出すということだ。目の前にある のもは、どれもひとつでも欠けたらもう生きていけないと思うかも知れないが、じっさいは失くしてもどうでもいいようなごみ屑や糞どもなんだ。「これは山本 太郎の映画じゃない。ベルギーの映画監督が山本太郎の目を通して映し出したいまの時代の日本の姿」とビデオ・メッセージで山本太郎が言っていたが、まさに そうだと思うよ。映像は合わせ鏡のように見ているおれたちひとりびとりに跳ね返って突き刺さる。あたかも起動スイッチの付いた何かを身体の中に埋め込まれ たようだ。

     ※やまと郡山城ホールで午後、Beyond the WAVESを見た。
    ドキュメンタリー映画 Beyond the WAVESについて
    2018年 日本語、英語字幕 65分 ベルギー制作
    監督:アラン・ドゥ・アルー
    出演:山本太郎
    「福島へようこそ」の撮影中に山本太郎と言う男の存在を知ったアランは、彼が原発を告発する発言を繰り返すことで、生業である俳優業が継続できなくなったという事実に衝撃を受けカメラを回した。
    日本社会の排他主義に抗う波を作り、その波に市民とともに乗り、大きなうねりを作り出そうとする山本太郎を主人公に据えながら、ベルギー人監督の目を通した「日本の今」を描くドキュメンタリー作品
    2020.1.11

    *
     
       JR奈良駅で降りて、三条通りをあるき出した。冬の澄んだ青空。多くの観光客にまじって成人式の振り袖姿の女の子たちも見える。みんな愉しそうだ。まる でこの世界にはこの国にはなにひとつ問題などないかのようだ。爆弾で脳味噌を吹き飛ばされる赤ん坊などいない。「原発さえなければ」と書き残して自殺する 人もいない。話し声や笑い声でさんざめく東向商店街の路地をまがり、奈良基督教会横の坂道をのぼって興福寺の境内に入る。再建されたまあたらしい金堂。鹿 とたわむれるグループ。自撮りのカメラをかかげる恋人たち。楽しげに五重塔をみあげる家族。目深にかぶった帽子の下でけれどもわたしの目はそれらの風景に なじめない。鹿せんべいのおばちゃんの前を通りすぎて大宮通りを渡り、わたしの足は奈良県文化会館へ吸い込まれていく。ひとむかし前のさびれた教室のよう な二階の集会室AB、そこはまるでそこだけこの国ではない場所のようだ。成人の日の祝日をたのしむ多くの人びとはそのはるか上空を飛ぶようにすぎていく。 「たった9年前のことなのに、何も伝わっていないことを思い知らされた9年間だった」 二日前は山本太郎を描いたド キュメンタリー映画 Beyond the WAVESを見た。二部の原発事故賠償訴訟で闘っている人や民間の放射能測定所を設けている人の話も聞いて今日の「原発ゼロをめざす学習講演会」を聴きに 行こうという気になったのだった。そこでわたしが見たのは孤独な闘いをするいわばもうひとりの山 本太郎だった。フクシマの郡山市で福島第二原発の事故を知った森松明希子さんは当時0歳と三歳だった子どもを連れて大阪へ「自主避難」した。「放射能は体感 できないんですよ。皮膚がちりちり痛むわけでもない」  「あのとき、蛇口をひねったら水が出て、たぶんこの水は放射能に汚染されているだろうと思ったけ れど、仕方なく三歳の子どもにも飲ませたし、わたしもその水を飲んで0歳児に母乳を与えた。水道水からセシウムが検出されたと報道されたのはその後のこと です。どこかのお母さんが調べてもらった母乳からも出た」  「“3.11を忘れない”って、みんな津波が来たらいそいで逃げろって言うけど、放射能はそ うはならない。みなさん、隣の家が火事になったら急いで逃げるでしょ。わたしが裁判を起こしたのは“わ たしには逃げる権利がある。それを認めて欲しい”という闘いなんです。そんな当たり前のことのために裁判をしなくちゃいけないのがいまの日本の国なんで す」  2018年3月に国連の人権理事会にてスピーチをした彼女は、日本国憲法に書かれた「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ平和のうちに生 存する権利」について触れた。フクシマは9条ではなく、この条文だけで充分だと思ったから。それはエネルギーの問題じゃない、経済の問題じゃない、環境の 問題じゃない、「人権の問題」なんだ、と。生命・身体への危険、それが共有されていないことがいちばんの問題なのだ、と。「安倍総理は“フクシマは完全に アンダーコントロールされている”と言ってオリンピックを招致したけど、ア ンダーコントロールされているのはわたしたちの言論ですよ。声をあげたら非国民と叩かれる」  「――避難の権利。逃げたいけどフクシマに残っている人は 胸が痛いんです。だれも安全だと思って残っているわけじゃない。夫の理解、家族の理解、嫁姑の関係、いろんな事情があって、逃 げられる人と逃げられない人がいる。わたしが関西へ母子避難すると決めたとき、仲の良かったママ友にそれを伝えた。恨まれるかと思ったけれど、彼女はわた しに「ありがとう」って言ったんです。「あなたが決断してくれることで、わたしはもしまたフクシマで何かあったらあなたを目指して逃げていけるから」と。 この国はどこまで不平等なんでしょうか!」 このエピソードを語ったときの森松さんは半泣きだったな。空也の口から飛び出す数珠つながりのちいさなほとけ たちのように間断なく吐き出される彼女の一言一言が眼裏に沁み、臓腑にすとんとすべりおちる。まるで0歳児用のおなじ形のパーツを組み合わせる知育玩具のように。 復興省は「2020年に原発事故避難民ゼロ」を目標として掲げているそうだ。全国で20万人を超える人々が現在も避難生活を続けているという。帰宅困難地 域を解除し、住宅支援を打ち切り、人々はばらばらに四散し、20万人は「見えなくなる」。「2020 年に原発事故避難民ゼロ」は見事達成されるんだろう、クソ野郎め。でも彼女は言っていた。おれはこの言葉を何度も胸の内で呪詛のように繰り返した。「手ば なしてはいけないものを手ばなそうとしているのが2020年、オリンピック」  そしてこの糞の国は完結する。不平等と、差別。言論はアンダーコントロー ルされ、いのちは軽んじられ、かつて百万人に数人だった子どもの甲状腺癌が200人を超えても「関連はない」と大人たちがしらを切り目をそらす国。でも大 丈夫さ、大晦日には馬鹿アーティストどもが能天気なお祭り騒ぎで歌って腐った果実のようなこの国を盛り上げてくれるからな。おれは文化会館を出て大宮通り の歩道を下って行った。もう誰の顔も見なかった。鉛のように重い臓腑からせりあがってくるのはただ冥い呪詛のようなことば。
    2020.1.14

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      どうでもいいガラクタ以外のすべてのものはみずからの力で手に入れたものではない。「まさにね、プレゼントをされなければ手に入らないものがある」とエン デさんが言っていた、「そういうとき、人はプレゼントを受け取るにふさわしい態度を示すだけでいい」と。「日没」に向けて暮れていく「人生の午后」にあっ て、これまで手にしたもの、価値観、それらがなべて無用になることはそれほど大したことでもない。「太陽は、予測しなかった正午の絶頂に達する」 「人生 の真昼に潜む秘密の時間に放物線が向きを変え、死が生まれる」 すべてを手放すこと、この世のものをこの世に置いていく予習かも知れない。そのなかで残さ れる価値観、手にしたいものは絶頂へと上昇していく「午前」のときは異なるものであるに違いない。この世でしがみついているものはすべてかりそめだけれど も、とにかくこれまでしがみついていたその「午前」の石くれはもう無用のものになった。「午后」の石くれをさがしてふたたびしがみつけ。必要なものはまたそこでプ レゼントされるいずこかから。この頃、よくそんなことを考えている。

    人生の半ばを過ぎると、生とともに死ねる人間だけが
    はつらつとした人生を送れる。なぜなら、人生の真昼に
    潜む秘密の時間に放物線が向きを変え、死が生まれるのだ。

    人生の後半を象徴するのは上昇、進展、増大、繁栄ではなく、
    死である。終わりが目標なのだから。

    充実した人生を送ろうとしないのは、
    終わりを受け入れようとしないのと同じことである。
    どちらも生きようとしないのだ。
    生きようとしないことは、死のうとしないことである。

    『Gesammelte Werke』(Jung, C. G. (Carl Gustav)
    2020.1.29

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      真の闇のなかで、荒ぶる自然のなかで、人がいちばん待ちのぞむものは火だ、始原の到来。火によっていのちが興り、火によっていのちが滅する。熊野の火まつ りとは、みずから死装束をまとい、火によっておのれを滅し、火によって黄泉還(よみがえ)る再生の古代儀礼である。山上にそそり立つ太古の磐座の膝元にま るで胎児のようにうずくまり寒さに耐えている。足指がちぎれるように痛い。満月にわずかに足りない月が仄かな光を地上に照射している。透徹としてすがすが しい光。眼下の街の灯りが奇怪な生物の巣穴のようにも見える。しかしここは冥く冷たい、そして森厳だ。まるで死者の国のようだ。大きな石棺のなかに置き去 りにされたように感じる。めくらであり、つんぼであり、おしである。火が恋しい。火はまだか。到来が待たれる。すると、磐座の膝元で突如として火柱があが る。奈辺の空間が朱に染まる。おおお、おおお、おおおおおおお。どこからともなくだれともなく地中から腹の底から声が響きわたり沸き起こる。われわれは太 古の原始生命である獣である。畜生であり、魚であり、河原に屹立しらあらあと唱和する一本のまったき白骨である。火はまるで王の行進のように鳥居をくぐ り、やがて巨大な松明にうつされてまた駆けもどってくる。カンナ屑があつめられ、そこへうつされた炎がまた四方八方へところがり、先々で男たちがわれさき と松明を重ねる。熱が頬を嬲る。煙が目鼻を刺す。熱がもどり、色がよみがえる。無機の鉱物から細胞を抱えた死すべき存在へ。だが気をつけろ。明滅した灰が 最後のモールス信号のように宙を舞っている。松明が秘匿した種火をぽろりと落とし足元をすくう。下半身を炎につつまれた少年が無言のまま岩場にくずれる。 相撲取りのような男がその体躯を圧しつけて炎を圧殺しようともがく。無数の掲げられた松明の火が蛇身のようにうねっている。おれたちはいま出口をもとめて いる! この熱と煙から解き放たれる刻を熱望している囚人のようにあらたに飛翔する夜の蛾のように。「熊野とは、農民のいない国である」と谷川雁は看破し た。「稲作が意味を持ちえない社会に響きわたる石の音は、たちまちのうちに私たちの目と耳を不具にする」 鳥居下の門が開け放たれた。めくらであり、つん ぼであり、おしであるおれたちは松明を掲げ、ただ黙々と暗がりの乱杭歯のような石段をころがりおちていく。火によって滅し火によって黄泉還ったわが身はあ の土車に乗って引かれる小栗のような餓鬼阿弥であった。見えるけれど見えないめくら、聴こえるけれど聴こえないつんぼにされることの至福。畜生から、魚か ら、一本のさみしい白骨からこの世にもどった餓鬼阿弥があああ、あああああと言葉にならぬうめきを発しながら神倉の石段を果てしなくころげおちていく。は じまりの母音。
    2020.2.11

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      かねてからの念願がかなって先日、新宮の御燈まつりに参加してきた。足袋に草鞋、白装束に身を包み、カンナ屑をライオンのたてがみのように垂らした松明を かかげ、新宮の町をねり歩きながら「たのむぜー」とすれ違う上がり子同士で松明を叩きあう。古代の磐座でもある神倉山のゴトビキ岩の膝下で寒さに耐え、火 の到来を待ち望み、煙に燻され、解放されて暗い石段を駆け下りる体験も格別のものだったが、白装束を着て山に登れば誰だろうが隔てなくまつりの一員になっ て町の人びとが見守ってくれる、あの一体感がいまも忘れられない。

     その新宮の町で百年前に国家権力のでっちあげによって命を奪われ、存 在を踏みにじられた者たちがいた。この嶽本あゆ美さんの手になる戯曲集には、そのうちの二人の人物が登場する。一人は洋行帰りの医師であった大石誠之助。 もう一人は浄土真宗の末寺の住職であった高木顕明。大石は幸徳秋水らと共に絞首刑に処され、高木は本願寺によって僧籍を剥奪されて秋田の独房でみずから縊 れた。片や紀州の資産家の家に生まれ、片や浜松の菓子職人の息子だった両者は来歴こそ違えど、二人とも貧者に寄り添い、遊郭設置に反対し、日露戦争で昂揚 する社会のなかで反戦を唱え、海外の知識なども積極的に取り入れる開明的な人々であった。それが「国家」により縊られた理由であった。では、「国家」とは そもそも何をまもるものなのか。

     新宮の南谷墓地にある大石の墓は昭和の戦後になってようやく建立された。高木家の墓(竿石)は1996 年に浜松にて発見され、のちに新宮の南谷墓地で顕彰碑となった。共に遺族は事件後に新宮の町を離れ、とくに寺を放逐された高木の妻子は辛酸をなめた。九つ で芸者に売られた養女の加代子が晩年に天理教信者として弱者の「お助け」に生きる道を見つける過程が本書の「彼の僧の娘―高代覚書―」に描かれている。一 方、平和主義者(パシフィスト)にかけて大石が明治37年、新宮市内に開設した洋食レストラン(The pacific refreshment room)が戦争景気に沸く町内で荒波に揉まれ座礁してゆく様を描いたのが「太平洋食堂」である。その終盤で大石は次のように語る。

    「この明治42年が此の世の終わりでない限り、この先も失敗、敗北が繰り返される。だが負けて、負け続けて、いつかは正義が来る。勝てなくても前に進まなくては! ただ、声を上げる、その瞬間、瞬間にだけは、我々は刹那の勝利を手に入れる、それだけは誇れるはずや。」

      新宮の御燈まつりは一説によれば、死に装束をまとって火によって滅し、ふたたび蘇る再生の儀式であるともいう。凍てつく冬に山上へのぼり、炎と煙でいぶさ れ、その火をかかげて地上へおりてくる。そんなシンプルなまつりを古来からくり返し、共有している町は、火と共に人々もまた更新されていくのだろうと思 う。男たちは松明を叩きあい、ときに喧嘩をして血だらけになり、女たちはそんな阿呆のような男が暗がりの石段を駆け下りてくるのをきらきらと輝いた顔で出 迎える。大石誠之助や高木顕明が生きた新宮はそんな町だ。そこには見かけとは別の溶鉱炉のような底流が脈々とあり、それが「国家」というものとぶつかり弾 けたのが大石や高木たちの大逆事件だったかも知れない。この町は火まつりのたびに更新される。この戯曲集もまたそれらと同期している。

    (遅ればせながら嶽本さんの戯曲集「太平洋食堂」のレビューを書いた)
    2020.2.13

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      市谷駐屯地での三島由紀夫の檄文に重ねたような映画「皇帝のいない八月」をひさしぶりに書斎で一人見返す。クーデターの首謀者である「軍国主義に酔った」 元自衛官役の渡瀬恒彦が口角泡をとばして言う「日本古来の伝統」 「美しい調和に満ちた文化」など何とも感じぬが、「おまえは狂っている。じぶんに酔って いるだけだ」と山本圭に詰め寄られた渡瀬が返す「引き金を引いてみろ。ふやけたおまえの平和などあっという間にふっとぶぞ」 「おまえのいう平和はくず だ。くずどものなかに機関銃を撃ち込め」と言った台詞やあのひりひりとした空気には正直に言おうわたしを捉えて離さない何物かがある。大道寺将司もクーデター兵士も現実を唾棄する点ではわたしのなかにさほど差異はない。百年前のこの国で筵 にくるまれて打ち棄てられ忘れ去られた兵士たちを追った澤地久枝「火はわが胸中にあり  忘れられた近衛兵士の叛乱 竹橋事件」を読み始める。
    2020.2.14

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      年度末になって、わが家の栄光なる町内会自治会長の二年の任期も残りわずかである。町内会経費を圧迫していたもろもろの寄付金を圧縮し、掲示板や消火器を 交換し、敬老の日や子供の日にはささやかながら和菓子や図書券を配り、災害時の要配慮者支援マップや緊急連絡先リストなどを整備し、町内会の会則も大幅に 刷新・追記し、夏の地蔵盆の当番等作業を簡素化し、神社の祭りの手伝いや選挙の立会いもこなし、たいてい定年退職後のじーさんしか想定していない日時に設 定されるもろもろの集まりや研修会などにも極力出席し(ほとんどつれあいだったが)、掲示物を貼り換えたり市の広報誌や各種ゴミ袋などを定期的に数えて配 布したり(ほとんどつれあいと娘だったが)、役所の窓口で喧嘩をしたり(ほとんどわたしだったが)、まあ、あれやこれやと、それなりによくやった二年間で あったとわれながら思う。十数年間に及び自治会長を丸投げされていて最後は短い闘病生活を経て亡くなってしまった前任者のT さんが病院のベッドで回覧内容を見て、「じぶんたちのような年寄りと違ってあたらしい考えで、よくやってくれているなあ」と奥さんに話していたというの が、わたしには何よりも嬉しい「勲章」である。ところが次の二年の三役をそろそろ決めなければいけない時期になって、早くも暗雲が立ち込めている。町内を 三つに割った三班それぞれ設定した順番で会長、副会長、会計の三役を選出しなければならないのだが、わが家の一班はすでに副会長を決めたものの残りの二班 は尻を押さなければ動かず、とくに二班にあっては調整役の現班長の家がまず隣家との人間関係のトラブルで町内会を抜けたいと言い出し、ならばと二班で副会 長のSさんが依頼したUさんはある日わが家にやってきて、じぶんが喉頭がんであることを病院の予約票などを持参して説明にしに来て、そして昨日、Sさんが 次に依頼したWさん宅の息子氏(わたしより数個年長らしい)がやはりわが家の玄関ベルを押した。むかし大工だったというWさんは時折家の前で見かけたり、 どこかの家の工事などがあると職人さんと立ち話をしている姿をよく見たが、最近はちょっと痴呆が始まってきてあまり外にも出してもらえないとも聞いてい る。奥さんは数年前に亡くなって、息子氏に会うのははじめてだ。Sさんから次の会長をと頼まれたのだけれど母親も亡くなって、父親もそのような状態で、じ ぶんは仕事の日はほとんど家には寝に帰るだけのような生活で、休日は大抵出かけているので、とても町内会の役などはできない。そんな状態なのでみ なさんに迷惑をかけても申し訳ないし、じつはこれは前々から考えていたのだけれどこの際、町内会を脱退させて頂きたいと思っている。そんな内容であった。 つれあいと二人で玄関に立ち、わたしも当初ははじめて会う人物でもあるし至って紳士的に話をしていた。二班には(会則で決めた)75歳以上を除くと役員を やってもらえるのはわずか数軒しかない(他の班も似たり寄ったりだ)。うちも夫婦共働きだしそれぞれの高齢の親もいる。それでも自治会長の集まりも含めて なるべく出席してきたし、ときには三役でカバーし合ってきた。自治会の加入はあくまで任意で強制ではないので辞めたいという人を引き止める権限はない。で も役ができないからと町内会を抜ける人がこうして増えたらどうなるのか。個人的な気持ちからしたら、できれば残って頂きたいと思う。「公・私」というもの があると思う。人が地域に根差して集まりがあれば、いろいろな部分で関わりが生じる。決めごとや助け合いが必要となる。それの最大限が政治や国家であろ う。「私」がほどほど安定していれば「選挙(公)」には行かないし関心もない、というのがいまのこの国の姿だ。「私」はもちろん基本だが、全体を考 えて「公」をそれぞれが分担することもやはり大事なことではないか。W息子氏との会話でいくらわたしが「公」の話をしても、息子氏から返ってくるのは 「私」の話ばかりである。わたしはだんだん腹が立ってきた。W息子氏には可哀そうだったけれど、こいつが、こんな立ち位置と価値観のやつがいまのアホ政権 を野放しにさせているまさに元凶なのだと思えてきた。あなたは母親が生きていたときはお母さんが班長で集金をしたりとかしてるのを見たことがあると言った けれど、せいぜい班長の役しか回ってこなかったんですよその頃は。だれもやりたがらないから会長はずっとT さんが亡くなる直前までやり続けて、みんなはそれにおんぶにだっこだったわけですわ。それで神社の修繕費の寄付を勝手に町内会から出してとか文句言われた りして。T さんはほんとうに可哀想だったと思いますよ。T さんが急に入院して、だれもやる人がいなかったから8年前によそから引っ越してきたわたしたちが会長の役を受けました。総会で二年の任期と今後の役回りの 表も設定してみなさんに同意していただきました。それがどうですか。すでに破綻しているじゃないですか。みんな、じぶんはできないじぶんはできないって。 いや、総会に出席できなかった人は委任状をちゃんと書いてもらいましたよ。75歳以上の後期高齢者は役回りから除外するって、回覧で回した会則に書いてま す。ちゃんと読んでくださいよ。みんなで決めたことなんだから。前から脱退を考えていたって、二年前に役回りのあれこれを決めた総会で委任状を書いても らったとき、二年後にあるいはじぶんが役をやらなきゃいけないということなんか何も考えてなかったでしょ。とりあえずは二年はだれかがやってくれる、と。 そして二年後になっていざじぶんに役の話が回ってきたら「前々から考えていたことだけれど迷惑になるから町内会を抜けたい」って、ちゃんちゃらおかしいで すわ。そういう一人ひとりのいい加減な態度がT さんに十年以上も誰もやりたがらない自治会長を圧しつけてきたんですよ。Wさんのとこは古くから町内に住んでるんでしょ。うちなんか、わずか8年しか住ん でいない、いわばよそ者ですよ。でも二年間、この町内のためにいろいろやってきましたよ。休みの日や、平日に休みをとって役所と交渉したりとか。神社の寄 付金を減額してもらうときだって、わざわざ氏子総代のところへ行って二時間三時間喋って根回しをしてからですね・・・  そんな話をしている間合いに、W 息子が「で、脱退は受けていただけるんでしょうか?」と言ったものだからわたしはついに切れて、ああ、いいんじゃないですか、みんなでそうやって面倒だか ら出来ないからと町内会を抜けて、だれもいなくなって町内会も解散したらいいんですよ。うちも、じゃあ3月末で抜けますわ。そう言い捨てて自室へもどり、 昼から現場の仕事があったのであわてて支度を始めたのだった。W息子は当初、わが家の玄関チャイムを鳴らしてたまたまリビングにいたわたしがインターホン 超しに返答したもので、じっさいにつれあいが玄関に出て話を訊こうとしたのに「ご主人にお話が」と言ったもので、わたしが呼ばれた。娘にいわせれば、W息 子はすでにそこで「地雷を踏んでしまった」そうだ。「そのまま、お母さんと話してたらよかったのにね」  しかし風邪気味で二階の自室まで鳴り響いていた 父の声を聴いていた娘いわく「今回はお父さんの言うことは正論だ」と。じっさいに自治会を解散したところも全国にはあるらしい。高齢化、少子化、空き家ば かりが増え、ライフスタイルや価値観も変わりつつあり、町内会というもの自体が大きな曲がり角に来ているのかも知れない。町内会を解散したら何が困るだろ うか? いちばん困るのはきっと、もろもろの広報やたとえば赤十字の寄付の類などを末端機関である町内会に丸投げしてきた行政だろう。われわれ自身でいえ ば市の広報誌などは役所でも配布しているし、自治会で回収していた資源ごみや自治会を経由して行政に依頼していた粗大ごみなどはじぶんで清美センターへ運 べばいい。たぶんいちばん困るのはそうしたことすらもが困難な町内のお年寄りたちだ。「公」がなくなれば、いちばんしわ寄せがくるのはいつも社会的な弱者 の立場にいる人たちだ。W息子は痴呆が始まった父親の世話も役ができない理由のひとつとしてあげていたけれど、「家はほぼ寝に帰るだけ」の仕事中に災害が あったらかれは父親のためにジェット機で飛んで帰ってくるのだろうか。行政で作成した「災害時の要配慮者支援マップ」の中身があまりにもひどかったのでじ ぶんたちであらたに作り直したが、「要配慮者」のいる赤点がマップに落とされた家は町内の6割以上を占める。じっさいに昨年の大雨の時は、町内にいた者だ けで手分けして近所のお年寄りの安否確認をしたり、避難先の環境を見に行って一人暮らしの高齢者に意思確認をしたりしたのだった。役ができないから・やり たくないからという理由だけでは割り切れないものがある。W息子はそこまで考えていないだろう。さて、どうなる町内会は次回に続く。
    2020.2.16

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      たしかガンジス川での沐浴のシーンだったと思うが、藤原新也が「かれはいま、自然をわが身に写実している」という文章を添えた写真集があった。それに倣っ ていえば、道をたどるということはわたしにとってその土地を、その土地の記憶をわが身に写実することである。歩きでも、自転車でも、車でも、たどれば知ら ず、何かが肉体に映(はえ)る。細胞に記憶が転写される。道もまた、自然を写実しているのだ。自転車で奈良盆地を走っていると、心地の良い道というものが ある。知らず、その道をたどっている。川によりそい、集落をゆるやかにぬけて、丘陵地をまく。そうした道のはたには古い道祖神や神社や墓地などが点在して いる。行き倒れになって葬られた行商人を祀ったちいさな石仏もあるだろう。たとえ人知れぬ山中であっても、道はふみしだかれ、土地の記憶を蓄積していく。 かつて四国の山中には“かったい道”といわれる、ハンセン病者だけが通る道があったという。柳田國男は汽車よりも早い、山の民がつかう山中のハイウェイに ついて記している。それらは多彩な道のゆたかさでもある。山道をあるいていて詰まらないのは、いかにも重機で穿ったという味気ない林道だ。町中のバイパス や高速道路もおなじで、便利で早いけれど、何も写実できない。たしかに効率はいいだろう。けれどそんな道ばかりをたどっていると、ひとはいつか狂うのでは ないかと思うのだ。わずか50年か100年のうちに、ひとは写実することをしなくなった。ほんとうの豊かさが、きっとうしなわれた。

     岐 阜の県美術館で開催されている、安藤さんの作品と円空仏が添い寝した「第10回 円空大賞展」を、ずっと足踏みしていた。コロナ・ウィルス騒ぎもあるし、 それに岐阜はやはり遠い。役員をしている町内会のばたばたも重なった。前の晩にベッドで寝つくときもまだ迷っていて、けれど翌朝に目が覚めたとき、「この 国がそしてわたしたち自身があやういヘアピンカーブを抜けようとしているいま、安藤作品と円空仏の夢の共演に会いに行く以上に大事なものがあるだろうか」 と天啓が降(くだ)って、朝の7時に車を走らせたのだった。名阪国道をぬけて、長良川の堤を北上し、10時の開館直後には抜けるような青空の下の岐阜県美 術館の前庭にわたしは立っていた。

     「死んだのは、そしてこれからまだまだ死ぬのは、何万人ではない。一人一人が死んだのだ。一人一人の 死が、何万にのぼったのだ。」  「何万人、何十万人の不幸には、堪える方法がない。だから結局は堪えることが出来るということになる。小さな不幸には堪 えることが出来ず、大きな不幸には堪える法がない。人間は幸福か。」  南京での虐殺を一人の中国人の独白によって描いた堀田善衛の小説「時間」の、もう 何度も頭のなかを経巡らせている一節を思い起こしながら、足元の波のような「人型」を見つめる。「何万人ではない。一人一人が死んだのだ」  それは見知 らぬ他人ではない、わたしの妻であり子でありそのほか親しい人たちだ。無数の人型のなかから親しいものの姿をさがし始める。津波で流されたわが子を冷たい 遺体安置所の床に必死にはいつくばってさがす父親のように。福島の原発事故を描いた横何メートルもの大きなドローイングを背景に、飛騨高山・素玄寺の不動 明王(円空作)が立ち、その足元から川のように無数の「人型」があふれだし、「鳳凰」や「空気のはざま」と題された背の高い安藤作品がそのそちこちに屹立 している。わたしはなにも考えずにただ、「小さな不幸」と「大きな不幸」が折り重なるように、小さくも感じ、果てしなく大きくも感じるその空間を、ひたす らあるきまわり、たちどまり、手斧の刻みの一筋一筋をわが身に写実しようと思った。一時間以上もそんなことを繰り返していたら、あるときふと、足元に“な がれ”を感じたのだ。円空の不動明王から発した「人型」の波がこちらへあふれ出てくる先端の二箇所ほどに立つと、それをはっきりと感じた。それは前へ向 かって引きずり込まれるようでいながら、同時に後ろへ押し流されるような運動だった(あとで、津波の引き潮と上げ潮かも知れない、と思った)。その不思議 な矛盾する流れのなかにいると、「鳳凰」や「空気のはざま」と題された背の高い安藤作品は、渓流釣りでいう淵やトロ場といった場を磁力のように形成してい るのが分かる。流れのなかのエアスポットであり、空間に於いてはなにかを断ち切り、見えないシグナルを発信する塔のようにも思われた。また、こんな思いも 浮かんできた。前向きに引きずり込まれるのは過去だろうか。後ろ向きに押し流されるのは未来だろうか。ここでもやはりわたしは堀田の「時間」のあとがきで 辺見庸が記したことばに足元をすくわれている。「言うなれば、未来は背後(過去)にあるのだから、可視的過去と現在の実相をみぬいてこそ、不可視の未来の イメージをつかむことができる、というわけだ。 あったものがなかったと改ざんされた時間では、背中からおずおずと未来に入っていっても、なにもみえない はずである」

     もうひとつ、「第10回 円空大賞展」でわたしを魅了したのは、映像作家の羽田澄子さんが1977年に、岐阜の山あいの集 落に守られてきた樹齢千数百年の桜の老木を中心に、それをとりまく村人たちの生活を描いた42分の詩的映像作品「薄墨の桜」であった。会場内の片隅に暗幕 を垂らした小さな上映スペースでわたしはその作品をはじめて見た。きらめき流れる川の水、そのはたで山川草木南無阿弥陀仏のようにゆれている墓石、草いき れ、おそなえの飯と薬缶の水を手に観音堂の石段をのぼる村人、板敷きの吊り橋、桜の根元から掘り出された古い人骨、百年は生きる人もいるだろうが千年はも うだれも分からない、雨は生者の上にも死者の上にもひとしく降る。逼塞した息が吹き返すような思いであった。桜はまだ咲いていないだろうが、この集落の風 景のなかをあるいてみたいと思った。そうして、さらに一時間の道のりを車で走ってたどりついたロケ地の風景に唖然とした。あのつつましく風情のある集落の 景色はすっかり破壊され、大型バスが幾台も止まれるほどの広大な駐車場が村の傾斜地にいくつも造成され、桜とその一枝から彫ったという観音像を祀った堂を 囲んだ周囲は巨大な花見公園と化していた。コンクリートで固められた野外劇場があり、桜の資料館があり、「薄墨桜」を小説に書いた宇野千代の関連グッズの 売店があり、みやげ物や食事を売る店が並び、屋根付きのベンチや公衆トイレが立ち並んでいる。ある人がそれについて解説してくれた。「歴史を手触りとして 認識するには“読む”という媒介が不可欠だが、歴史を遺物というモノにしか見れない人には「消費」の対象でしかない。媒介的な思考がなければ歴史は存在し ないのと同じで、消費的な日常に回収されてあらゆる風景が荒廃していく」(塩崎春彦・文章は編集した)  別の撮影で岐阜県根尾川の上流の村を訪ねた羽田 が偶然、「人気のない山麓で絢爛たる花をつけている巨木の姿を」見つけたのは1960年代の終わりころで、撮影を始めたのはその3年後と書いている。わた しはじぶんのなかで何かがぼろぼろと落剝していくのを感じながら、空虚な桜のテーマパークと成り果てた集落を後にした。わたしが魅了され、訪ねもとめた風 景は、永遠にフィルムのなかに閉ざされてしまった。わたしがまだ幼少の時期であった1970年代の頃からきっと、この国はすこしづつこわれはじめていった のだろう。四季のうつろい、ひとびとの暮らし、つましい信仰、生と死、そうしたもののつながり(円環)のなかに数千年の桜の老樹は立って花を咲かせていた のだが、円環は断ち切られ、桜は大型バスで乗りつけて村を潤す観光客相手のあわれな見世物に成り下がった。そこには、写実するものはなにもない。

      桜の花の時期しか開いていないらしい、さびれた「桜資料館」のうすぐらい玄関先を覗き込んで見えた周辺の観光マップに「人形浄瑠璃の芝居小屋」という文字 を見つけて、帰りがけに立ち寄ることにした。山ぶかい根尾からもと来た道をひきかえし、並行する樽見鉄道がひらけた平野部にたどりついたあたりの集落の物 部神社の境内にあった。大きな倉庫ぐらいの建物で、親子がキャッチボールをしていた手前の敷地には興行日にはテントが張られ桟敷席になるのだろう。あいに く今年はコロナ・ウィルスの影響で中止になってしまったようだが、毎年、春分の日のあたりに地元の小中学生や保存会の人たちにより上演されているらしい。 鳥居近くには小さな公民館を兼ねた建物があり、そこで子どもたちが練習をするのだろう、スケジュールを書いたホワイトボードが据えられていた。すこしだ け、すくわれる思いがする。閉じられた芝居小屋をあれこれと覗いているうちに5時になって、子どもたちの帰宅をうながす放送が流れた。わたしは車に乗って 走り出す。大垣の市内を抜けて、揖斐川をさらに南へ。じきに夜になった。桑名からは行きかう車もすくない、山裾の丘陵地の暗いバイパスを無言で走っている と、まるでこのじぶんが円環を断ち切られ見世物にされたあの桜の老樹になったような心地がしてくる。路地をはなれた新宮のおばあたちは巨大なトレーラーに 乗って都市をさすらう。あの円空と安藤作品の展示会場で足元をすくわれそうになった流れについて考えてみる。数千年の根を断ち切られた老樹はいまさらどこ へさすらうのか。こうして闇夜のなかを走っているこの道ですらもわたしたちは、わずかな土地の記憶を写実することがもはやできない。根を断ち切られた人間 は、狂うだろう。暴力的に過去に引きずり込まれたわたしたちは、手足をもがれ、目や耳や鼻や口に砂をたっぷり詰め込まれた状態で、こんどは不可視の未来へ 向かって背中から押し出され奔流に流される。そのときに、古い呪文を解き放つあたらしいことばが必要だ。
    2020.3.8

    *
     
      風のない、おだやかな連休の初日。生流里(ふるさと)村もまた、ねむりのなかにまどろんでいるような集落だった。東大寺転害門前をぬけ、般若寺の手前あた りから柳生街道へと曲がる。手つかずの原生林が残る奥山ドライブウェイの、さらに東方の奥といったらいいだろうか。満州開拓の夢潰えていのちからがら帰国 した人々がたどりついた第二の開拓地がここだ。村内をぬける標高四百メートルの等高線は、若草山の山頂よりさらに百メートル高い。平地の少ない山あいに ぽつりぽつりと距離をおいて点在する家々はさながら「開拓民の村」といった風景だが、その広さに比べて村を周回する道路が車一台が精いっぱいの狭い道なの は集落がけっして裕福でなかったことを物語っているのかも知れない。「険しい山道を、荷車を押しながら数々の資材を運んだ。ようやく家族が安心して食べて いけるようになったのは、世間が“もはや戦後ではない”と騒いでから十年以上経った、1970年前後のことだ」(エイミー・ツジモト「満州天理村「生流 里」の記憶」えにし書房より)  

      教祖:中山みきの存命中にいくたびの弾圧を受けてきた天理教は、天皇を頂点とする国家神道を掲げる「大日本帝国」の下での生き残りをはかり、本願寺をはじ めとする仏教各宗派やキリスト教団とともに国家への忠誠の姿勢を明確にしていく。日清戦争の際には軍資金1万円(現在の数千万円相当か)を国に献上し、 「東・西本願寺合して一万円を戦費に献上ぜしに、天理教会は独力一万金を献ず、迷信の勢力亦驚くべし」と新聞(東京日日新聞)に報じられもした。 「1940(昭和15)年には、信者組織「一宇会」を発足させ、中国大陸侵略の一大スローガンとなる「東亜新秩序建設」に応えるかのように「天理教興亜 局」を設置している」(前掲書)。天理教団が満州移民、満州天理村の建設といった国策に教団をあげていち早く乗じたのも、これら一連の戦争協力の流れにつ らなっている。1934(昭和9)年、関東軍の全面的なバックアップのもとで、教団は最初の開拓団を満州・ハルピン郊外の土地へと送り込む。そこは武力を 背景に 地元民から安い値段で収奪した土地であり、教会や学校のある村の境界は城壁のようなゲートで囲まれ、各角にトーチカ(陣地)が設置され、鉄条網には五百 ボルトの電流が流れていた。新天地で汗を流しながら教祖の教えを伝道しようと夢見ていた人びとはやがて隣接する731部隊の施設建設にもたずさわり、敗戦 のソ連侵攻時にはマルタと呼ばれた人体実験の犠牲者たちの遺体を焼却する作業をさせられた。「自分たちは、人間を救うために満州に行ったのではなかったの だ。広い土地をもらいたいばかりに、先祖から託されたわずかな土地を売って天理教に入信した。満州人をこき使い、人間扱いしなかった。それでも都合のいい ときには、“天理教の親神様”よ・・・」

      山あいの猫の額ほどの休耕田のはたに車をとめて、集落の墓地へ向かう道をのぼっていった。やがて「満州天理村 一宇・大和 開拓団 拓友の碑」と刻まれた 赤錆色の石碑がなにやらものさびく、ひっそりと屹立している。昭和53年の建立だ。すでに時代から忘れ去られたか、しかし花台には真新しい色花が飾られ、 無数の魂魄はいまだここにとどまっている。その端に数百名の合祀者名が刻まれた銅板がコンクリートの台座にはめられ鎮座している。すべてみな、家族単位 だ。何十という家族の名前。ソ連参戦後、731部隊をはじめとする軍人たちだけが用意された軍用列車で内地へ帰国し、軍からも国家からも見捨てられた開拓 団の逃避行は筆舌に尽くしがたい。さながらそれまで日本人が中国やアジアの人びとにしてきたあらゆる悪が揺り戻されたように、殺し尽くし、焼き尽くし、奪 い尽くされたのだった。

      天理村民の逃避行は《涙無くして語ることをえない》という言葉に値するほど、どの開拓団より凄惨をきわめたといえる。ソ連の開戦と侵攻は、近隣の満州人を 暴徒化させ、これまでの憤怒を晴らすかのように各開拓団を襲撃させた。先に述べたように、天理村は相次ぐ襲撃や戦闘によって、殺戮、略奪、暴行の修羅場と 化した。
      そして、帰国のめども立たないまま、天理村ではこうした悪夢の日々が続き、諦めて満州人の妻となった女性たちや、満州人の家庭にもらわれていく子どもたち もいた。天理村に隣接する福昌号(村)には匪賊が住み着き、危険極まりない状況のもと、人々は息を潜めて日常に耐えていた。

      8月18日、大本営の軍使として満州や朝鮮駐在の軍、開拓者の引揚げなどを善処するためにハルビンにもどった朝枝繁春中佐はその「関東軍方面停戦状況に関 する実施報告」に「内地ニ於ケル食糧事情及ビ思想経済事情ヨリ考フルニ、規定方針通リ、大陸方面ニ於テハ在留法人及武装解除後ノ軍人ハ蘇聯「ソ」ノ庇護下 ニ満鮮ニ土着セシメテ生活ヲ営ム如ク「ソ」聯側ニ依頼スルヲ可トス」と記した。かれらは国によって遺棄されたわけだ。

     銅板の合祀者名簿 の最後に寄せられた文言。「天理教青年会事業にて大東亜戦争の最中 昭和18年3月より大天理村の建設を夢に渡満 昭和20年8月終戦となるや ソ連兵や 匪賊の犠牲 飢と病気に倒れ母国を夢にみつゝ大陸に眠る拓友の霊を鎮め永遠に祀る」  もとよりここには「大天理村」建設の夢と侵略戦争の一端を担わされ た、冥府のような裂け目から立ち上がる声は記されていない。しかし記されていなくとも声は空間に、かれらが生きて二度と帰れなかった山川草木に満ち満ちて いる。

      何百人という人が死んでいる―――しかし何という無意味な言葉だろう。数は観念を消してしまうのかも知れない。この事実を、黒い眼差しで見てはならない。 また、これほどの人間の死を必要とし不可逆的な手段となしうべき目的が存在しうると考えてはならぬ。死んだのは、そしてこれからまだまだ死ぬのは、何万人 ではない。一人一人が死んだのだ。一人一人の死が、何万にのぼったのだ。何万と一人一人。この二つの数え方のあいだには、戦争と平和ほどの差異が、新聞記 事と文学ほどの差がある…

     何万人、何十万人の不幸には、堪える方法がない。だから結局は堪えることが出来るということになる。小さな不幸には堪えることが出来ず、大きな不幸には堪える法がない。人間は幸福か。

    堀田善衛「時間」(岩波現代文庫)

      ねむりのなかにまどろんでいるような山あいの集落の、子どものお椀のような谷筋のひと気のない墓地に立っているわたしにいったい何ができるだろう。石田伊 勢吉、初枝、小夜子、利信、秋子。銅板に刻まれたひとりひとりの名前をわたしはゆっくりと読んでいった。かつて笑い、泣き、食べ、眠ったひとりひとりとそ の家族の姿を、山川草木に満ち満ちた声なき声からわが身に転写するように読み上げていく。上符初治、捨子、君子、アキヱ、富子。ひとりひとりの名を読み上 げて いくと、会ったこともないかれらの姿がぼんやりと立ち現れて、動き出すようなかすかな気配がする。渡辺政吉、ハルミ、政幸、房子、清江、賢一。岸本政次 郎、ミヨ、加代子、満、浩三。春のおだやかな日の光がまるでどこかにある大樹の花びらのように音もなくふりつもる。かなしみともおえつともていねんともわ からぬような思念がゆらゆらとかげろうのように地面のうえでゆらいでいる。西条知男、たつ、一男、美代子、貞男、悟、公夫。布施猪之吉、イソ、あや子、和 子。何万人ではない、一人一人が死んだのだ。一人一人の死が、何万にのぼったのだ。交わされた会話、着物の袖、指先、肌におちる月の光。くたびれた騾馬の ような徒手空拳のわたしにできることは、せめて、かれ らを一人一人にもどしてやることだ。ひとりひとりの名前を生きていたときに呼ばれていたその名前を、もういちど読み上げて一人一人をよみがえらせること だ。 そしてひとりひとりのことを想う。この花びらのようにふりそそぐおだやかな春の日の光のなかでわたしは立つ。井上小太郎、たつ、節子、昭子。鈴木壮平、仙蔵、すえ、幸 一、昭司。中野一三、門二、ヨウ、武夫、清江。吉田庄吉、ヤヱ子、スゞ子、敏一、義輝。高橋イネ、一男、ヒロ子、フミ子。たちつくす。

    ◆『満州天理村「生琉里」の記憶』書評 証言が問いかける、宗教と個人
    https://book.asahi.com/article/11585549

    ◆満州天理村拓友の碑
    〒630-1123 奈良県奈良市生琉里町195

    ◆満州「天理村」異聞(池田士郎) PDF
    https://opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/3744/JNK001503.pdf
    2020.3.28

    *
     
      まるで皮膚が鞣(なめ)されたようなあの感覚はまだおぼえている。20代ではじめてインドを旅して、剥き出しの国でもみくちゃにされて日本へ帰ってきたあ の日。成田空港から乗ったバスの窓からひさしぶりに眺めるこの国の景色はなにやら空気がうすい、奇妙に現実感を喪失したのっぺりとした明るいビニールの気 球のなかの世界のようだった。もうひとつの感覚もはっきりとおぼえている。一年後にふたたびインドの地を踏んだときのことだ。やはり空港から夜のカルカッ タの市街へ走るオートリクシャーの上で、あらゆるこの世の夾雑物をたっぷりと含んだような湿気に満ちた生ぬるい風に髪をなびかせて、ああ、おれはかえっ て来たんだ、息のできる場所へ、とこころが叫んでいたあの日。以来、わたしはこの国にそぐわなくなった。皮膚に刻まれた刺青のような違和感がいつもこびり ついてはなれない。額に貼り付いた逆三角形だ。そうして数年後、嗤われて、はじかれて、干されて、こぼれ落ちたわたしは北関東の実家に引きこもり、夜は明 け方までひとり自室のスタンドの灯りの下でユングや聖書をノートに書き写し、昼すぎに起きてバイクで山へ行って道なき山中をうろつきまわり、夜の渓流で焚 き火の炎を見つめて家に帰る、そんな毎日を送っていた。隣家の老齢の主人はそんなわたしにいつも挨拶をしたが、目は冷たくわらっていた。わたしにとって世 間と はその冷たいわらいだった。あのジャック・フィニイのSF『盗まれた街』(The Body Snatchers)のなかの人間の皮をかぶった未知の生物だった。わたしはかれらを憎んだ。そしてフィリップKディックの『ヴァリス』に出てくるこんな 言葉。 一、おまえに同意する者は狂っている。 二、おまえに同意しない者は権力を持っている。それはわたしの鉄の玉条であった。わたしは古い墓地をめぐるのが好きだ。死者は裏切らないからだ。あやふや でも ないし、ひとを冷笑したりもしない。はるか遠い南の島で飢え狂い死にをした兵士、国家権力によって縊られたもの、朝鮮人というだけの理由で嬲り殺されたもの、 紡績工場で死んだ身寄りのない女工、満州の開拓村で殺された家族たち、昏い海の底で引き揚げ船とともに眠っているひとびと、墓石にさえ差異の刻印を畜生と して刻まれたひとびと。かれらを数としてではなく、生であった存在として肉に刻みつけるために、わたしはそのひとつひとつの墓石を訪(おとな)う。見舞い で あり、弔いであり、告解である。そうしてわたしはやはり、あたりまえのなかで挨拶を交わしながら目は冷たくわらっているかれらを許さない。許すわけにはい かない。善人たちのつどう風景とは<悪>である。なぜならかれらは歴史に背を向け、歴史を簒奪するから。真実をやさしい善意で鞣すから。かれらがおだ やかに語り、微笑むその 日常の連続に不合理な屍が累々と横たわっている。反吐が出る。この腐った果実のような日常のなかで、アフガンで米軍の爆撃を受け脳味噌を飛び散らかせて 死んだ愛らしい少女ナジーラのことは忘れられる。反吐が出る。蒸気がもうもうとこもる紡績工場で使い捨ての部品のように酷使され無縁墓の山に積み上げられ た寄宿舎工女・宮本イサのことは忘れ去られる。反吐が出る。コロナウィルスがあぶり出すもの。それは一見あかるく取り繕い、豊かに見えて、ニセモノだらけの世界 が背後に隠し 持っていた本物の<悪意だ>。それは黴のように、腐海の胞子のように、ひとのこころをゆっくりと詰まらせる。 近江の古い集落の裏山に伝わる百年前の伝病焼屍場跡を叢のなかにさがした。目に見えぬウィルスによっていのちを奪われた肉親の亡骸を人々はかついでこの昏 い杣道をたどった。遺体を焼く炎が人々の頬を赤く照射した。百年前のそのときの人びとといまのわたしたちは何が違うのか。かれらは世界の終わりを見ていた か ?世界はいつか良くなるだろうと信じていたか?  あれから百年の歳月を経て分断はさらに深く進行したのではないか。今回のコロナ禍によってあぶりだされる風景は、どれもこれも百年前から厚いコンクリートの石棺を侵食していた腐海の臭いだ。政治も官僚も司法 も、 教育も暮らしも階級も、差別に満ちたひとの心も、どれも耐え難い腐臭を放っている。わたしたちの肺はすでにその汚染された空気に侵されている。清浄な空気 の中でわたしたちはもう、生きられない。ウィルスがあぶり出したものはそれらすべての実相である。微笑みの奥の冷たい目が秘めていたものたちだ。腐臭を隠した花よ りも、剥き出しにされた汚濁の方がいっそ良い。多くの人々が理不尽に死んでいく。パレスチナでもアフガニスタンでもずっとそうだったさ。殺される前に <尊厳>を剥ぎとられて。きみが見てきたものはかれらが見せてくれたものだけだ。あの巨大な津波も原発事故の惨劇もいまではもうすっかり忘れ 去られてしまった。百年前から繰り返してきたように、いとも容易に歴史を簒奪する。300万人が死んでも何も変わらない。だからこんどもきっと<元 の反吐の出る日常>へ還っていくだろうよ。コロナウィルスに有効な薬が見つかったかも知れないという記事を見ると、ほっとすると同時に、いやいや、 まだ足りない。まだまだ、だめだ。もっともっと多くが死んで、野に焼かれ穴に投げ込まれ、混乱し騒擾し欲望し阿鼻叫喚し、あらゆるものが二度と蘇らぬくらい徹底的に破壊し尽くされるべきだ、ともうひとつの声がしずかに確実に耳元でささやく。
    2020.4.12

    *
     
      わたしはいつも、こうした寄る辺ない魂と寄り添いたいと思う。なぜならこうした場所が、じぶんにふさわしいと感じるから。わたしの生はつねに、死刑を間近にして「祈りにも似た気持ちで、活用するあてもない朝鮮語の勉強を始め」ることでありたい。

      さらに宮城刑務所に移送された後の、翌62年9月15日の手紙になると、死刑が近いことを感じながら、李が祈りにも似た気持ちで、活用するあてもない朝鮮 語の勉強を始めたことが分かる。彼は、言葉を「国の息吹き」だと認め、「大事なことはそれによって私の心がその民族的なものを吸収していくことなのだ」と 言いながら、こうつけ加えている。

    「私はこの残された生をきちがいのように愛している! 最後のそのような時に私は自分を『진우』と認めたのだった。私は『鎮宇』として生きるよりも、『진우』として死ぬ自分を誇りに思う。私はなんだか悲しくて、今涙を流してしまった」

     この手紙が書かれたのは、死のわずか二か月前だった。

     鈴木道彦「越境の時 1960年代と在日」

    2020.4.28

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