• ゴム消し 7/21 ゴムログ BobDylan 木工 Recipe others 沖浦和光 BBS link mail
     

     

     

     

     

     

     

     


    A ten year old child is killed when Israeli war planes target his home.

     

     

     

     

     ソマリアに行く前は、世界というものをひとつの場だとしたら、ぼくは中心概念というものを無意識に持ってたわけです。中心とは、たとえば東京だったり、ニューヨークだったり、ワシントンDCだったり、ロンドンだったりしたわけですね。しかし、飢えて死んでいく子供たちを見て、中心概念は全部崩れました。餓死したって新聞に一行だって記事が出るわけじゃない。お墓がつくられるわけでもない。世界から祝福もされず生まれて、世界から少しも悼まれもせず、注意も向けられず餓死していく子供たちがたくさんいます。ただ餓死するために生まれてくるような子供が、です。間近でそれを見たとき、世界の中心ってここにあるんだな、とはじめて思いました。これは感傷ではありません。これを中心概念として、世界と戦うという方法もあっていいのではないかと考えました。餓死する子供のいる場所を、世界の中心とするならば、もっと思考が戦闘化してもいいのではないかとも考えました。

     世界はもともと、そして、いま現在も、それほど慈愛に満ちているわけではない。そして、すべては米国による戦争犯罪の免罪の上に成り立っている。じつにおかしな話なのですよ。情報の非対称の恐ろしさというのは、これだと思う。アメリカで起きた屁のようにつまらないことが、まるで自国のことのように日本でも報道される。けれども、エチオピアで起きている深刻なことや、一人あたりの国民総生産がたった130ドルのシエラレオネで起きている大事なことは、まず日本では報じられない。この国では、どこのレストランが美味いか、どこのホテルが快適か、どこで買うとブランド商品が安いか、何を食えば健康にいいのか、逮捕された殺人容疑者の性格がいかに凶悪か、タレントの誰と誰がいい仲になっているか....といった情報の洪水のなかでぼくらは生きています。伝えられるべきことは、さほどに伝えられなくてもいいことがらにもみ消されています。アフガンもそうやってもみ消されてきたのです。

     そのときに、言説、情報、報道というものはこれほどまでに不公平だ、この土台をなんとかしない限りは、ものをいっても有効性は持ちえない、どちらかというと無効なんだと思いましたね。同質のことをいま、ぼくはまたアフガンで見ざるをえない。若い人は、まだ報じられていない、語られていない、分類されていない人の悩みや苦しみに新たな想像力を向けていったり、深い関心をはらってほしい。ブッシュやラムズフェルドやチェイニーの貧困な想像力で暴力的に定義されてしまった世界、しかもその惨憺たる定義が定着しつつある世界を、新しい豊かな想像力でなんとか定義しなおしてほしい。それには相当の闘争も覚悟せさざるをえない。でも、そうしないと、ブッシュたちの定義にならされていくと思います。

    反定義 新たな想像力へ(辺見庸+坂本龍一・朝日新聞社)

     

     

     

     

     

     

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     郡山へ来る前に住んでいた河合町の介護施設へ、昼から母と、母のいとこにあたるおばさんを訪ねた。おばさんは当年84歳。もともとは十津川村の出身で、おばさんの母親がわたしの母の父親の妹になる。若い頃からずっと小学校の先生をしてきて十津川村で6年、結婚をして河合町へ嫁いできてからも54歳まで教師を続けた。おばさんの嫁ぎ先が地主であちこちに土地とアパートを持っていた。和歌山のつれあいを追って関東から単車に乗ってやってきたわたしは、とりあえずそのおばさんのアパートに転がり込んだわけだ。さいしょに入った線路沿いのアパートは木造の古い二階建てで、草だらけの空き地を耕してトマトや胡瓜や茄子を植えたりした。つれあいと正式に籍を入れて次に高台のハイツに移って、そこで娘が生まれた。つまりおばさんはわたしたち家族の恩人といえる。そのおばさんも15年ほど前に脳溢血で右半身が不自由になってしまった。ホームを訪ねると、おばさんは車椅子に乗ったまま廊下で他のお年寄りたちと簡単な体操をしている最中だった。終わるのを待って、母と三人でおばさんの入っている四人部屋へ移動した。ひとしきり四方山話をしてから、じつはねおばさん、と先日の東大寺念仏堂で見せてもらった分骨名簿の一部のコピーを唯一動く左手に手渡した。そこに記された「昭和19年1月13日に亡くなった歩兵79連隊伍長・十津川村の切畑屋彦九郎」はおばさんの父親の末の弟だった。「父・虎彦」と書かれた人はおばさんの祖父である。おばさんの記憶では「切畑屋彦九郎」はニューギニアで餓死したと。もちろん遺骨も還ってこなかった。戦争へ行く前は本宮あたりで学校の先生をしていたという。もう一人、おばさんの父親のキンペイと彦九郎の間にヘイゾウという兄弟がいた。ヘイゾウは医者として朝鮮半島に渡っていたが、腸チフスで昭和15年頃に現地で亡くなった。還ってきた遺骨を引き取りに、当時5歳くらいだったおばさんは父親に連れられて新宮へ行ったことを覚えているという。おばさんの母親が、仲の良かった義弟の死に泣き暮れた。彦九郎もヘイゾウも、やんちゃで村でも優秀な人間だったそうだ。「そんな人間ほど先に死ぬ」とおばさんはさみしく微笑んだ。独身だった二人の墓は十津川の山間にある。20代のわたしはいちど単車でそこに泊めてもらい、静かな山道を歩いてシキビを供えてきたのを覚えている。けれどおばさんは「切畑屋彦九郎」が東大寺の念仏堂に分骨されていたことは知らなかった。よくそんなものを見つけたものだ、と笑った。わたしは寺の堂守のおばあさんが引き出しから出してくれた分骨名簿のすべてをめくったわけではない。そのうちの一冊を何気なくぺらぺらとめくっていて偶然、「切畑屋彦九郎」の名前が目に飛び込んだのだった。それからおばさんの十津川村での教員生活についてすこし話を聞いた。おばさんが小学校の先生になったのは20歳。6年間で村内の三つの小学校を異動したそうだ。どの学校も家から遠かったのでそれぞれ学校の近くの教員用宿舎に泊まって、週末に自転車で実家に帰った。「おばさんの青春時代だね」と言うと、そう、とても楽しい6年間だったと、おばさんはうなづいた。ところで、昭和31年の消印があるからおばさんが教員生活をスタートしたばかりの頃だ。十津川村のおばさんが東京にいるわたしの母の二番目の兄(省くん)に書いた手紙を最近、死んだ叔父さん(わたしとシベリアを旅行した叔父さんだ)の遺品の中に見つけた。母によれば、おばさんはこの省くんのことが好きだったという。そう言われてみれば便箋二枚に記された当たり障りのない文面の中にほのかな好意の若芽が感じられないでもない。手紙を見つけたときに「おばさんに見せてあげようか」と言ったわたしに母も、わたしのつれあいも、「そんな手紙ならなおさら、もういまさら見せない方がいい」と断言した。「省くん」はその頃、結核で療養中だった。戦争中、和歌山の北山村の母の実家に疎開をしていたときに母親から感染したという。わたしの見知らぬ母方の祖母は祖父を戦争にとられ、女手一つで生活を支えるために馴れない土方や運搬などの重労働をして体を壊し、やがて結核の病に臥せって、わたしの母が幼いうちに亡くなったのだった。「省くん」もその後、後を追うようにして亡くなった。叔父さんの遺品の中には、「省くん」が通っていた治療所のカードや、家計簿のように当時の買い物をこまごまと記した手帳や手紙などが遺っている。そのおばさんが「省くん」に送った手紙を、わたしはこっそりリュックの中に忍ばせてきたのだった。そしておばさんの四人部屋を辞してエレベーターの前まで戻り、母がトイレに行った隙に、廊下で車椅子にすわってまだわたしたちを見送っていたおばさんのところへ走った。「あれ、どうした?」といぶかしむおばさんの左手に、わたしは封筒を握らせて「おばさんが書いた、むかしの手紙。あとで見て」と目で合図を送ってまた走って戻り、ちょうどトイレから出てきた母とそのままエレベーターに乗り込んだ。今夜、おばさんのベッドの上では64年前の馥郁とした風が舞っているかも知れない。

    2019.7.6

     
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      日曜は娘とミキ・デザキ監督の「主戦場」を京都四条の京都シネマへ見に行く予定だった。しばらく前にわたしが朝鮮学校を主題にした「アイたちの学校」を見た大阪十三の第七藝術劇場も上映しているのだが、京都シネマの方が建物があたらしく、待ちスペースも広く、客席に車椅子スペースもあり、トイレも広く洋式(カテーテルを使うので和式だと難しい)であることをわたしが確認済みであることなどの理由から京都シネマを選択した。四条烏丸はさすがに一等地で周辺のコインパークも料金が高く、近鉄電車の竹田乗り換えでそのまま地下鉄に乗って駅の真上という利便もあり、今回は車椅子に乗って電車で行くことにした。上映開始は18時10分。人気上映でもあるので15時ごろの電車で出発して早めにチケットを買っておき、どこかで夕食を済ませてから見に行こうという段取りだった。ところが当日、娘は朝から体調が悪そうだ。このごろ不安定な頻尿が気になるらしい。2階から降りてきたつれあいが「せっかくお父さんと約束しているから」としんどそうだと言うので、頃合いを見て娘の部屋へ行き、「体調が悪いのはおまえのせいじゃないんだから、無理しなくてもいい。大阪の十三なら今月一杯はやっているからまだチャンスはあるよ。それでおまえがダメだったら、そのときはお父さん一人で行くから」と言うとちょっぴりほっとした表情で、「でも、映画、見たいから、もうすこし様子を見て判断する」と言ったものの、お昼を食べ終えた頃に「お父さん、やっぱり今日は無理だわ」  「ああ、いいよ。じゃあ、今日はやめておこう」とわたしも応えて、そのままジップと寝そべって庭を眺めながらシエスタをむさぼった。車椅子で電車に乗る、というのがひとつのハードルらしい。あとで夕飯のときにそんな話になって、車で行くのは大丈夫だが、電車に乗るのはまだ恐怖を感じると言う。人の目がこわい。「そんなふうに自己分析ができるようになったんだから上等だよ。前は“分からない、分からない”って頭を抱えて叫んでいたんだからな」  電車のトラウマは中学時代の通学の記憶もあるのかも知れない。それに加えて、わたしが同行したときなどはよく駅員の理不尽な対応や、配慮に欠ける車内の他人に向かってわたしがよく文句を言っていたから、そういうのを聞くのも嫌だったのかも知れないとも思っている。娘は人と争うのが嫌いだ。わたしは人に唾を吐きかけるのが好きだ。娘の電車恐怖症にはわたしも一役買っている。とまれ、このごろはわたしもあまり唾を吐かなくなった。娘も外出をしてだれかがエレベーターを譲ってくれたり、手助けをしてくれたりすると、素直に喜ぶようになった。「とても親切にしてくれた」 「あの子、ずっとわたしが通るのを待っててくれたんだよ」 世界の好意をわたしも素直に信じられるようになりたい。まだまだだけど。けれども、娘を追い立てることはしなくなったと思う(たぶん)。急かしても、叱っても、リードを無理にひっぱっても何もならない。いいよ、またこの次はきっとうまくいくよ。そんなわけでその日はどこにも出かけず、家であれこれと小さな用事を片付ける一日になった。庭の草取りをして、一角にはびこっていたドクダミでドクダミ茶の支度をして、母から頼まれていた椅子の修理をして、ついでにわが家のステップ用のミニ椅子も直して、つれあいと買い物をして、夕飯の味噌汁をつくって、大根と白菜をポン酢に漬けて、娘の壊れたデスクトップPCのハードディスクからデータを救出していくつかの映画をDVDに焼いたり、そして夜は録画をしていた「大草原の小さな家」を家族三人で見た。雹で畑の小麦が全滅して出稼ぎに行った父さんが見つけた石切り場で、友だちになった男が発破作業で最後に死んでしまうのだった。和歌山のつれあいの実家の裏山で戦時中に発破作業をしていた朝鮮人労働者のことをわたしは考えていた。夕方、ジップの散歩がてらに修理した椅子を抱えて母の住む団地へ持って行った。その途中で舗道のわきにカラスが一羽、死んでいるのを見つけた。鳩が死んでいると無残な敗者のようだが、カラスがまっくろい大きな体をまっすぐに伸ばして横たわっている様は、まるで英雄の死のように見えるのが不思議だ。近づくと大量の蝿や羽虫が飛び立った。家に帰ってそのことを娘に言うと、日ごろからカラスを敬愛している彼女は「カラスは警戒心が強く頭もいいから、病気や寿命でなければ滅多に死なない。ふつうのカラスは体が弱ると、森の茂みのようなところへ身を隠すから、カラスの死体は滅多に見られない」とまるでカラス学者のように教えてくれた。

    2019.7.8

     
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     奈良から大阪で地下鉄に乗り換えて職場へ向かう。通勤時間帯の地下鉄は人間のてんこ盛りだ。車内はときにすし詰め状態で、むかし赤ん坊の娘をベビーカーに乗せて法円坂の病院へ通うときに「こんな時間帯に乗るな」とスーツ姿の男から言われたことを思い出す。おまえもおまえのさえない職場へ向かうのだろうが、こっちだって今日はMRIの大事な検査があるのだよ。好きでおまえの間抜けな尻に触れているわけじゃないさ。職場の駅に着くと開いた扉からトコロテンのように人が押し出されホームにあふれる。通路が狭くなっているところではうっかりすると誰かがホーム下へ転落してもおかしくない。津波のように分厚い人の壁がうねりながらとぐろを巻く。ときに障害を持った人がその波に呑まれそうになりながら懸命にすすんでいることもあるが、どれほどタフでなければならないだろうかといつも詠嘆する。そんな風景のなかにいてわたしはいつも中学の半年間(というのは彼女が不登校になるまで)、電車通学を続けた娘のことを思い出す。郡山の駅から京都行の電車に乗り、西大寺で大阪行に乗り換えて、さらにバスに乗り換える。改札の手前で車を停めて、杖をついておぼつかない足取りで人の波に埋もれていく娘をなんども見送った。電車が走り去って娘がホームにぼつねんと残っているときはぎゅうぎゅうの車内に乗り切れずに諦めたからだ。足が悪いから座席に座ったらいいと言っても、降りるときに降りられないからいつもドア近くの手すりに必死にしがみついていた。車内で、乗り換えのホームで、バスの停留所で、きっとわたしが知らないいろんなことを体験したのだろうと思う。小さなことが放射能の灰のようにしずかに降り積もっていった。彼女はいまも車での移動を好み、電車に乗ることには抵抗がある。「学校に行ってたときのトラウマがあるのかなあ」と最近つぶやいた。そういうことはたくさんある。先日の高野陽子さんのアイリッシュ・ソングの演奏をわたしが撮ってきた動画を見て、ライアーという楽器に興味を持ったらしい。「弾いてみたいなあ」などと言うので楽器の購入はさて置いて、教室を調べてみたら大阪の阿倍野にある。けれど娘の足では駅から少々距離がある。以前に50万円の入学金を払って背水の陣で臨み、結局行けなくなった梅田の声優学校の二の舞にならないかと不安もある。トイレは洋式だろうか。エレベーターやエスカレーターはあるだろうか。車椅子は通れるだろうか。急にお腹の調子が悪くなったらどうしようか。つまりハンディがあるということは習い事ひとつでもハードルが高いということだ。すべてのことにそれらが付いて回る。ふつうの人は分からないだろうけど、いろいろなことがすべて狭き門だ。そして結局、じつに多くのことを諦める。ハンディがあっても五体不満足でも十分に社会参加できるなんてのは独裁国家の理想を描いたポスターみたいなものだ。嘘だと思うならじぶんで車椅子に乗って家から駅までの道をたどってみたらいいよ。ふだんは気がつかない路面の微妙な傾斜や小さな穴ぼこや排水溝が魔法の国の妖怪たちのようにあなたの前に立ちふさがるだろう。近所のコンビニへ行くことすらも嫌になってくるよ。そうしてどこへも行けないハンディを持った人々が自然と押し出されて集まった施設に刃物を持った男が現れる。「社会に不要」だと見做す人を次々と刺し殺し、「世界が平和になりますように。beautiful Japan!!!!!!」と嬉々として叫ぶ。れいわ新選組の比例区特定枠1位で立候補している難病ALS患者のふなごやすひこ氏の当選が現実を帯びてきて永田町が慌てているそうだ。障害者にやさしいなぞと謳いながら国会などのてめえのところのバリアフリーは何も考えてこなかったんだからいい気味だ。大いに慌てろよ。そうしてこれまでの政治というものが如何にお題目だけのハリボテだったか、ちまちました言説を飛び越えて見事に顕わになる。こんな言い方をしたら失礼かも知れないけれど、これは「肉弾テロ」だよ。ハンディを持った人間がどれだけ生きづらいか、国会で見せてもらおうじゃないか。それはそのまま、この国の実相だ。母子家庭で必死に生きようと努力した挙句に生活保護すら拒まれ愛するわが子をみずからの手で殺めなければならない、反吐が出るようなこの国の腐臭そのものだ。この国は生きづらいんだよ。弱者であったり、こころがやさしい者ほど生きづらい。それをこの国の政治は長いこと見殺しにしてきた。そんな政治はいらねえ。死んでくれ。

    2019.7.18

     
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     明日は投票所の立会人をするため、はじめて期日前投票を役所で済ませた。選挙区は野党統一候補の西田一美氏、比例区はもちろん山本太郎氏のれいわ新選組。ところで今日は朝から話題の映画「新聞記者」をユナイテッドシネマ橿原へ見に行ってきた。雨模様だったので車で行こうかと思っていたら娘の歯医者とかちあって車が使えず、電車で行くことにした。ちょうど一年前のこんな暑い日に高校1年生の少女がスマホで生中継をしながら特急列車に飛び込んだ近鉄のホームから乗っていく。映画「新聞記者」は、それなりに愉しんだけれど、ひとことで言えばわりと平凡だった。スターウォーズの帝国軍との戦いのようで、骨が軋んだり、小さな無数の縫い針が全身に差し込んでくるような痛みはなかった。それよりもわたしは前日の仕事帰りの電車内でやっと読み終えた「満州暴走 隠された構造」(角川新書)で安富さんが「私たちは今、満州国に住んでいる」と書いていた方がずっと刺激的だった。また「日本立場主義人民共和国」の方が、映画の安っぽい内閣調査室の描写よりもリアルな薄気味悪さを感じる。


    『 その日本立場主義人民共和国の憲法、これが私が「立場主義三原則」と呼んでいるものです。

    前文、「役」を果たせば「立場」が守られる。
    第一条、「役」を果たすためには何でもしなければならない。
    第二条、「立場」を守るためなら、何をしてもよい。
    第三条、他人の「立場」を脅かしてはならない。

     この三つさえ守れば、日本では平和に生きていけます。

     かくして日本の陸軍・海軍は、特に陸軍は、暴走し始めました。この暴走システムを止めるには、だれかの立場を脅かさなければなりません。自分の立場も危うくしなければなりません。それは日本立場主義人民共和国では不可能なことなのです。できません。
     その結果、暴走は止まらず、
    「いやあ、私は止めたいんだけど、走っちゃうんですよ」
     などと他人事のように言う。止まりませんから中国大陸奥深くへのめり込んでいきます。どんどん人が死にます、人を殺します。それも仕方ないのです。
     こうなるとさらに死んだ人の手前、止められません。「あいつは犬死した」などと口が裂けても言いたくないのです。なので、もう止めましょうとだれも言い出しません。本当はだれかが言ってくれるのを待っているのですが、だれも言わないのです。

     結局このようにして、日本国民全体が戦争に引きずり込まれて、そのツケはすべてごく普通の人々が払わされました。親・子・兄弟を戦地で喪う。国内にいても空襲で原爆で沖縄戦で殺される。家を焼かれ職や商売を失う。
     ところが原因をつくった暴走エリートたちは、(いくらかは戦犯などとして処罰されましたが)戦後ものうのうと生き残っていきます。皆で互いの立場を守ったのです。たとえば開拓団を推進した加藤完治は戦後も大活躍しました。勲章をもらって、園遊会に招かれています。
     こうした「立場上、あるいは自分の立場を守るために暴走した」連中は、実は結構生き残っているのです。そしてそれに引きずり込まれて酷い目に遭わされた人々が、保証も何もしてもらえないのです。


     人々は己の立場を守るためになんでもしました。その行動にどういう意味があるのか、効果があるのかよりも、「その行動によって自分の立場がどうなるか」を優先して動いたのです。その結果、他人の土地を蹂躙して傀儡政権を作り、そこにまるで無駄な資金と資材と、そして人間をせっせと突っ込んですべて失う、そういうシステムができあがり、それが暴走し続けました。 』

     安富さんは上記の本で日本と満州国が交わした「日満議定書」と戦後に岸信介がアメリカと結んだ新安保条約を重ね合わせて、「ガンディーが自分を含めたインド民衆に感じた心性、「植民地化された魂」」について記しているのだけれど、映画「新聞記者」は残念ながらその深みには達していない。つまりこんな映画などは「かれら」にとってはおそらく痛くも何ともない、市井でばらまかれる世情を面白おかしく書いただけの瓦版に過ぎない。本気で敵を撃つのなら最深部から、そしてわたしたち自身の暗闇の鏡像にむかってこそ矢を放たねばならない。映画館を後にしてまたぞろ電車に乗って高田へ出て、駅前のダイソーでアイルランドのお守り用に皮ひもを買って、例の善正寺さんへお借りしていた「島村先生」関連の資料をお返しした。帰りのさびれた商店街で見つけた地元のスーパーの入口に「キムチ・チヂミ 韓国の総菜」の看板を見つけて入ってみたら肉の棚にはさいぼしや油かすなども売っていて、さいぼし(バラ)、煮こごり、鶏皮湯引き(ポン酢)、そしてきゅうりと大根の自家製キムチを買って昼も食べずに帰ってきた。前の晩に値切り品の豚ブロックと鯛のあらを買っていたのでそれから休む間もなく台所に立って豚トロの大根煮と鯛のあらとごぼうの甘辛煮をつくって、ジップの散歩に行き、はじめに書いた期日前投票のために自転車で市役所へ行き、娘と二人で夕飯を食べたそんな一日。さすがに疲れていてソファーで寝転がって新聞を見ていた寝入ってしまい、目が覚めてからユーチューブで森達也監督のれいわ応援演説を見たらかれは「集団化」ということを話していた。みんなおんなじなんだよな、感じていることは。「集団の中では主語である一人称を失う。でもれいわ新選組は一人ひとりがその一人称を持っている。わたしたちは一人称を取り戻さなくてはいけない」 そんなことを森監督はしゃべっていた。「一人称」ならまかせてくれよ、そいつを手放したくないためにオイラはずっとキヨシローの歌のように笑われて、はじかれて、干されて、こぼれてきたんだから、オイラの「一人称」は筋金入りだよ。たとえこの先、れいわ新選組の全員が逮捕されて監禁されてナチスのような世の中が来たとしてもぜったいに手放しはしないさ。

    2019.7.20

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      ふだん家ではテレビってほぼ皆無に近いくらい見ないんだけど、今朝はコーヒーを淹れてベーコンエッグをつくりながらリビングのポータブル・テレビをかけていたら、NHKが今日が参院選の投票日であることをさらっと伝えていた。でもさ、「最終日まで各党、激しい論戦が交わされました」とか「改正の発議に必要な3分の2の議席を維持できるかどうかが焦点です」とか、ことばがすでに死んでるんだよね。だから面白くもなんともないし、若者も聞く気が起きない。ことばが臓腑に着地しない。逆に定型を食い破ってことばが生き生きとしてやたら面白いのが、今回の山本太郎と仲間たちだ。SNSやユーチューブ、そして各地の街宣会場であれだけ盛り上がりを見せているのも、かれらが生きたことばを発しているからだ。映画監督の森達也氏がメディアに噛みついたのも爽快だったな。塩崎さんの「名翻訳」では「おい、そこでカメラまわしてる奴、この映像いつ放映するんだよ。終わってからか?あ〜ん?終わったあとの選挙特番か?ここに集まったみんなを悔しがらせるために撮りだめしてるんか?おい、黙ってカメラむけてんじゃあねえよ、こらぁ、答えろよ、このぼけ。お前らなにもんだよ、ジャーナリスト?サラリーマンか?おまんまくえないから困るのぉって、家族と子供の前で言ってるんか。報道と、サラリーマンとどっちが大切なんだよ。お前の子供が、このざまあみて、お父さん、お母さん、尊敬しますって、口がひんまがっても言わねえよな。この野郎、お前らみたいなのをペン乞食っていうんだよ!」とそんなことを喋ったらしいが、その塩崎さんが「言葉は革命なんだ」と言うのもよく分かる。ミヒャエル・エンデさんが「あたらしい価値観、世界を言い当てる呪文を見つける」と言っていたこともおなじ。言い当てれば、呪いは嘘のように氷解してしまう。それが、ほんとうのことば。いわば新聞もテレビも職場も学校も役場もぼくらのまわりは嘘のことばばかりだったんだな。死んでることばが珊瑚のように積み重なってなんだか立派な形だけ見せていたわけだ。でもそれも崩れ去ろうとしている。安富さんの現在のこの国の教育現場についての話を聞いていたら、学校に行けないままのうちの娘はじつにナイスな選択をみずから選択して手に入れて東大や京大に行くよりも正しい最先端の道をまさに歩いているんだと確信するよ。そしてそれはたぶん、間違っていない。氷に閉ざされていたナルニア国に希望がもたらされた途端、氷が解け、川が流れ、植物が一斉に芽吹き、どこからともなく森の動物たちが現れ、鳥たちがあつまってくる。世界は色を取り戻す。希望は生きたことばによって語られる。「なんでこれを報道しないんですか? ここにいるあなたたち、社にもどってプロデューサーと喧嘩してくださいよ」と森監督は言っていたけど、それはじつはわたしたちひとり一人のこと。作曲家の高橋悠治氏はかつて「かくれて生きよ」という文章のなかでこんなふうに書いた。「自立の道をえらんだとしたら、きみに起こるのはせいぜい、イノチがなくなるか、牢屋にはいるか、離婚されるか、コジキになるかでしかないだろう。大きなくるしみはながくつづかず、ながくつづく苦しみはたいしたことはない。では、出発だ。」  生きたことばをとりもどそう。生きたことばを話す人を信じよう。イノチをなくして、残るのはなにか。希望、だよ。2019.7.21

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