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 相変わらず佐木隆三の「小説 大逆事件」(文芸春秋)をとつとつと読み継いでいて、わたしの精神は明治42〜43年あたりをふらふらとほっつき歩いている。どこか青白い、死に神のような影が人気の絶えた淋しい路地裏の壁にゆれている。すでに「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラズ」と謳った大日本帝国憲法が発布され、日清・日露の戦争が始まっていくきな臭い時代だ。徴兵、莫大な戦費の調達が国威高揚の雰囲気の中ですすめられ、権力による統制は日増しに厳しくなっていく。そんな時代のさなかに、大逆事件とはつまり、一握りの暴力革命を夢見た若者による天皇弑逆(しぎゃく)計画の発覚を利用して、平等・非戦を語る社会主義者どもを十把一からげに処罰してしまおうという謂われのない、権力による大弾圧であった。ところでこの大逆事件に連座して絞首刑となった新宮の医師・大石誠之助がなかなかユニークな人物で興味を引かれる。以下、やや長くなるが佐木氏の著書から抜粋したい。

 

 1867(慶応3)年12月4日生まれの大石誠之助は、紀州新宮で育った。父親の増平は商業をいとなみ、船をつくって材木を東京へ運ぶなどするかたわら、謡曲や三味線に親しむ趣味人として知られた。子どもは男三人、女二人で、誠之助は末っ子だった。

 13歳上の長兄の余平は、キリスト教に帰依し、23歳で家督を相続すると、自分の土地を提供して、新宮教会を建てた。新宮小学校に通った誠之助は、大阪へ出て医師の書生になり、京都同志社英学校の英語普通科に入学し、大阪西教会で洗礼を受けた。

 18歳のとき東京へ出た誠之助は、神田の共立学校で英語を学んだが、クリスチャンらしからぬふるまいがあり、おなじ下宿の友人の洋書を売り払い、吉原遊廓で遊んだ。この窃盗で告訴され、東京地方裁判所で、重禁錮50日・監視6カ月に処せられた。しかし、出獄したあとも不良学生ぶりは変わらず、「監視違反」で重禁錮一カ月になり、郷里の新宮へ護送されて、ようやく釈放になった。

 1890(明治23)年5月、アメリカヘ向かったのは、前科者になった屈辱から逃れるためで、長兄が旅費の50円を工面した。船内では食堂の皿洗いなどして、太平洋に面したワシントン州に上陸すると、アメリカ人の家庭に下男として住み込み、アルセントポーロ中学校に通い、ドイツ語、フランス語、ラテン語などを学んだ。

 渡米して2年半後、オレゴン州立大学医学部の2学年に編入学し、コックや窓ガラス拭きのアルバイトをしながら学び、1895(明治28)年3月に卒業し、ドクトルの学位を得た。さらにカナダのモントリオール大学に入り、4カ月の講習を受けて、外科学士の称号を受けた。7月にブリティッシュコロンビア州スティヴストン市で開業したが、9月に母親が死亡したので、11月に帰国した。

 5年半ぶりに新宮に戻った大石は、内務省から医術開業免状を受けて、熊野川の近くに開業した。しかし、医院の看板をかけずに、「ドクトル大石」の表札を出しただけなので、町の人たちは「毒取るさん」と呼び、初めは梅毒や胎毒を取る医師と思いこんだ。

 こうして開業してまもなく、こんどは父親が死亡した。長兄は名古屋市へ出て、燃料を商いながらキリスト教を伝道していたが、明治24年10月28日朝方の濃尾大地震で、ミサのさなかに教会のレンガの下敷きになり、妻とともに即死している。独身の大石は、長兄の遺児三人に経済的な援助をしながら、狂歌をつくるようになった。

(中略)

 1899(明治32)年1月、大石誠之助は、伝染病を研究するため、インドのボンベイ大学に留学し、シンガポールで医院を開業しながら、植民地病院で脚気とマラリアを研究した。インドの植民地経営の実態にふれた大石は、社会主義に関心をもつようになり、ボンベイ大学の教授との交流によって、汎神論の哲学(万物は神の現れであり、万物に神が宿って、一切が神そのものであるとする)にも、深い興味を示している。

 明治34年1月、インドから帰国した大石は、ふたたび新宮で開業し、11月に結婚した。妻エイは士族の三女で18歳、大石は34歳だから、年齢差も評判になったが、わざわざ仏滅に挙式して、町の人たちを驚かせた。家庭では洋食のつくりかたを妻に教え、患者に生活改善を指導するなどして、ドクトル大石は、西洋的な合理主義者として有名になる。

 明治36年4月、『万朝報』記者の堺利彦が、出版社をつくり『家庭雑誌』を創刊した。社会主義は、まず家庭において実現し、発達させなければならないとする趣旨である。その『家庭雑誌』に、大石が「和洋折衷料理」「牛乳の話」「フライの話」「シチューの調理法」「サラダの話」など料理の原稿を送り、堺と文通するようになった。11月15日、対ロシアの開戦を社是にした『万朝報』を辞めた堺と幸徳秋水が、週刊『平民新聞』を創刊すると、大石は定期購読をはじめた。

(中略)

 明治37年10月、大石誠之助は、医院の前の空き地に木造の建物を完成させると、「太平洋食堂」の看板をかけ、洋食の料理法から、食べ方までを指導した。正面には「パシフィック・リフレッシュメント・ルーム」と英文で記し、日露戦争のさなかに、平和主義者(パシフィスト)であることをアピールしたのだ。

 同年5月初め、遼東半島に上陸した日本軍は、クロバトキン将軍がひきいる22万のロシア軍と大消耗戦の末に、9月4日、要衝の藩陽を占領した。この戦闘で、日本軍の死者は5千5百人、負傷者は1万8千人に達したが、国内では戦勝ムード一色だった。

 週刊『平民新聞』第48号(明治37年10月9日)に、「紀伊 大石禄亭」の記事が掲載された。

 

《私は先月の初めから急に思い立って、当地に太平洋食堂というレストランを設けました。自分の本業を捨てるほどの勇気はありませんが、もっぱら薬売りをするような今日の医者の仕事は、あまりにも単調でおもしろくないので、そろそろ飽きてしまい、なんとか地方人に多き利益を与えようと、これを思いついたのです。もっとも、レストランとはいえ、ふつうの西洋料理とは違い、家屋の構造や内部の装飾などに、いちいち西洋風の簡易生活法の研究を目安にしています。新聞や雑誌を閲覧するところもあり、青年のための清潔な娯楽と、飲食の場にするようにつとめました。その他、日を定めて貧民を接待することや、家庭科理の稽古をさせることなども、主な仕事の一つにするはずです。ともあれ、自分もカウンターに立ち、テーブルにはべり、レンジの前で働かねばならぬわけで、ここ三、四ヶ月は、てんてこ舞いしなければなりません》

(中略)

 

 日露戦争のさなかに「太平洋食堂」をひらいた大石誠之助は、客と一緒に食事をしながら非戦論を説いたりしたが、社会主義系の新聞・雑誌はことごとく発禁になったので、もっぱら『家庭雑誌』に、「菜食の話」「サンドイッチ数品」「臓器料理」「貧者の心得」などを書いた。

 明治40年1月15日、アメリカ帰りの幸徳秋水が、堺利彦らと日刊『平民新聞』を創刊すると、大石誠之助は、「いわゆる正義の人」「実業と人権」などを書いた。しかし、日刊『平民新聞』は、4月14日付の第75号を出したところで、「社会主義者の硬流の機関紙」とみなされ、廃刊に追い込まれる。

 同年6月1日、半月刊『大阪平民新聞』が創刊されると、大石誠之助は、「煽動論」「ストライキ論」「社会主義者はこぞって無政府主義者なり」「汝の敵を憎め」などを書いたが、この新聞は途中で『日本平民新聞』と改題したあと、41年5月、発行する大阪平民社が解散した。

 明治42年5月23日付の『日出新聞』に、大石は「無門俺主人」のペンネームで、「家庭破壊論」を発表した。

 

《いまの夫婦というものは、真の愛情はなくてもよい。趣味は一致しなくてもよい。ただ経済的に利益をおなじくして、自己の利益になる行動をとればよい。夫婦の多くは、夫と別れたら明日から食うに困るとか、妻に逃げられたら煮炊きや洗濯にさしつかえるとかで、慢性の夫婦という関係を維持しているのみだ。それで僕らは、いまの社会を改革する手段として、まず第一に家庭に手をつけ、破壊することである。現在の家庭は、その形式や精神を破壊し、自由な男女の関係をつくらねばならぬ。たまたま家庭の不和とか紛争とかおこった場合は、ためらわずに離婚を決行することを奨赦すべきである。姦淫だの野合だのと排斥してきた行為を是認し、私生児を生むということなどは、もっとも自然な出来事とみるべきだ。どこやらの牧師は、キリストがマリアの私生児だと言われ、ムキになって怒ったという。こんな滑稽な話は、私生児という侮辱の文字を冠することが神の聖旨だと思う、あわれな馬鹿者から出る。われわれは理論において、これらの偏見を打破するとともに、実行においても旧道徳に逆らうことを奨励すべきである》

  

佐木隆三「小説 大逆事件」(文芸春秋)

 

 何とも愉快なオッサンではないか。閉鎖的村社会の日本にあって、大石のこのスケールの大きさ・ある種の朗らかな闊達さは、やはり海洋民族たる紀州人気質を彷彿とさせるし、おなじ熊野の出であるあの深遠なる巨人・南方熊楠をも連想させる。わたしがもし当時の新宮に住んでいたらさっそく尋ねて行って友人となり、意気投合したことだろう! しかしこの日本という物差しでは測りきれなかった稀代の人物が逮捕されたとき、新聞は次のような見出しでこれを報じた。「和歌山県で逮捕された大石らの素性 / 土地の嫌われ者 / 不穏なる宗教家 / 新宮の社会主義者」(明治43年6月9日付・東京朝日新聞) わたしが最も憎むべきもののひとつ、無能者による思考停止のレッテル貼り・異端者狩り・排除の儀式。しかし当時大逆事件はもっぱらこのように報じられ、人々はそれを見事に鵜呑みにした。もしもボブ・ディランがこの時代の日本に生まれて、日比谷公園あたりで「マギーの農場ではもう働かない」と歌ったらどうだろう? かれも過激な社会主義者として大逆事件に連座したかも知れないね。檻の中で飼われている鼠はレノンの歌うところによれば「セックスとテレビとクスリで」じぶんは幸福なんだと思っている。飼い慣らされた鼠が最も恐れるのは「はみ出し者」であり「じぶんには理解できない異端者」だ。この居心地のいい檻の中の秩序を乱す者を血祭りにあげろ! 権力に盲従するマス・メディアの垂れ流すプロパガンダに煽られて鼠どもは牙を剥く。毛色の異なる鼠は無惨に殺され、或いは見殺しにされ、よって鼠どもは永遠に檻の中の生活を保障される。

 

誠之助と誠之助の一味が死んだので、
忠良な日本人はこれから気楽に寝られます。
おめでたう。

誠之助の死・与謝野寛(鉄幹)

 

2008.2.1

 

*

 

 

 屋久島の或るおばあさんの話を三郎さんから聞いたことがある。或る日、おばあさんが通りかかった人にたずねた。

「時計の時間は何時でしょうか」

 おばあさんは日頃、時計というもので示される文明の時間を生きてはいない。おばあさんにはおばあさんの時間がある。たまたまその日は、時計の時間での約束があったため、ほかならぬその文明の時間をたずねたのだ。

(中略)

 だが、縄文杉の下の一夜は、ほんとうに時計のいらない時が流れていた。星が光りだし、赤い月が上ってやがて黄色から銀色に輝き出し、空のへりに明るみが見えはじめるとまもなく朝焼けに変り、鳥たちが一斉に鳴きはじめる。それが、時間というものだった。

高田宏「木に会う」(新潮社)

2008.2.4

 

*

 

 同僚のNさんがリサイクル店で見つけたUSB2.0の拡張カードが不要になったので譲り受けることにした。もともと交通隊用にとNさんが自腹で購入した中古PC(三千円)に付けるつもりだったのだが、USBドライバのインストールでメモリー・スティックが認識されたので不要になった。同僚のY君がロハで呉れた自作マシンのわがウィンドウズはいまだUSB1.1。DVDは外付けだし、2.0でないとiPODも対応していないのでUSB2.0はかねてから望みだった。サテ、PC本体のパネルを外してさっそく取り付けた。4つある拡張スロットのうち、ひとつはグラフィック・ボード(画像処理能力を高める)、ひとつはキャプチャー・ボード(テレビやビデオを取り込む)、ひとつはLANボード(ネット接続)で、残りひとつのスロットに取り付けたのである。ところがOSが立ち上がらない。USBカードを取り外しても元に戻らない。Y君の説明ではどうもデバイス設定がバッティングしているか、電力が足りないか、といったところらしい。朝から携帯電話を介したY君のご指導で、拡張スロットの部品をすべて取り外し、マザーボードの電池を抜いて初期化、バイオス画面での設定など、あれこれ試してみたのだが結局、グラフィック・ボードだけどうにも認識してくれないようで、モニタ接続をオンボードに移し、キャプチャー・ボード、LANボード、USB2.0カードだけの運用でとりあえず何とか起動するところまで修復した。やれやれ。グラフィック・ボードを外した影響だろうと思うが、DVD再生で若干、画像処理がおっつかず一部画像が乱れるような症状があるが、他は問題なし。ネットもユーチューブの動画くらいなら支障なく見れる。外付けDVDにつないだUSB2.0もちゃんと動作しているようで、あとは外したグラフィック・ボードを大事に保管してY先生の来宅を気長に待つしかない。わたしには、ここらが限界ですわ。しかしPC音痴・機械苦手のわたしもY君ら周囲のプロフェッサーたちの影響でいつの間にか些少の対応はできるようになったけれど、それでもこうしたPCトラブルに費やす時間と苦労はいつも馴染めないなあ。そこが醍醐味、という人もいるんだろうが、わたしなどはとっとと川にでも放り込んでしまいたくなる。しかしPCの世話になっているのも事実だ。

 今日は休日。過日の今年二度目の積雪と屋上駐車場の雪掻き(なんと広大な!)の疲れか、はたまた件のアレルギー症の仕業か、朝から少々頭が重くて昼食後にホットカーペットの上で寝そべり沖浦氏の著書をめくり半ばうとうとしていたら、美容院に行っているYからの電話が鳴った。子の迎えに行って欲しいというのだが、すでに学校の下校時間は過ぎている。まったく、美容院が長引くようだったら早めに連絡をくれよと言っていたのに、とぶつぶつ言いながら車を飛ばして豆パン屋・アポロへ入ると、レジ横の狭い階段下でNちゃんのおばあちゃん、Nちゃんと巣穴の中のリスの家族のようにくっついて座り込んでいた子が立ち上がり「まったくもう。こうたびたびじゃ、わたしもいい加減参るわ!」と叱られて、どうもすいません、とお詫びする。姫さまのご機嫌とりにスーパーで菓子をひとつ買い与え、ついでにYに依頼されたおでんの材料などを買って帰宅した。お八つを食べて、学校の宿題を済ませ、ヴァイオリンを練習して夕方、子は近所の公民館のソロバン教室へ行く。このごろは「まだ明るいから、ひとりで行ける」と送りを拒否するのだ。それでドアがパタンと閉まった数秒後にYがこっそりと後を追い、物陰に隠れながら公民館まで見届けるのだ。子はカバンを持ってすたすたと小走りにすすむ。ベランダから見ていると、まるでケストナーの「エミールと探偵たち」の光景のようだ。この場合、子どもと大人が逆なわけだが。

 夜、子を寝かしつける。「何かお話をしてよ」 それで子とNちゃんが学校から帰ってくると、Nちゃんのお父さんが試作でつくった「パンうさぎ」が動き出して、三人で冒険をする話を披露する。子が眠ってからYとロビン・ウィリアムスの「パッチアダムス」を見る。映画を見終わってから、主に子についての様々な話(明るい未来の話)を夜中の1時頃まで話し込む。

2008.2.5

 

*

 

 休日。午前中、リビングの本棚の寸法がだいたい決まり、パーツのカット図面をイラストレーターで作成する。ホームセンターに置いているSP材の基本サイズ枠(1820×89、1820×152等々)を作成し、別レイヤーに必要なパーツ枠をつくって基本枠に当てはめていくやり方だ。基本枠からどのように部材を切り取るかというのがいつも店先で鉛筆片手に計算をしながら苦労することで、こうして予め図面をつくっておけば、これを店のおっちゃんに渡してそのとおりカットしてもらえば済む。木工のサイトなどを見るとエクセルで図面を引く人も多いようだが、わたしはもっぱらイラストレーターの方が扱いやすい。

 昼はわたしがカチャトーラ(鶏肉・ピーマン・しめじをトマト缶で煮込んだもの)をつくり、ご飯とコロッケの上にかけて食べたらYにも大好評であった。

 午後は子の学校参観。子はスピーチで正月にYの実家へ行ったときの話だったが、はじめに書いた面白い語りが「スピーチには長いから」と修正を言われ、次に書き直した簡略版を、今日は緊張のあまりにさらにすっ飛ばして喋ったものだから、子にしては何とも凡庸な出来映えであった。他にも詩の朗読や算数や縄跳びや楽器の演奏など盛り沢山の発表会で、まあ結構愉しめました。懇談会に出席するYを残して、子を自転車に乗せて先に帰り、ヴァイオリンの練習などを見る。

 夜、子が眠ってからYと二人で「明日の記憶」を見る。布団に入ってから二人でもろもろの死にまつわる話をする。死は不敗の勝利者だが、それでも人は死に向かう態度を選び取ることができる。死に向かう態度を選び取るための訓練が生なのかも知れない。人の死に様とは結局、その人の生き様であるのだろうとも思う。

2008.2.6

 

*

 

 朝。ウィンドウズのグラフィック・ボード装着に再トライ。とりあえず取付をしてモニタ接続をオン・ボードから移し、BIOS画面での再設定をするつもりだったのだが、そのままするすると起動してしまった。Y君に教えてもらった「じぶんのPCのCPUの情報を表示する」フリー・ソフトで確認すると、取付前には表示のなかった「AGP Infomation」がきちんと認識されている。前回乱れのあったDVD再生も問題なし。USB2.0も動作している。何やら狐に化かされた気分で、何がどうなったのかよく分からんが、考えてもどうせ分からないから良しとする。ちなみにY君が教えてくれたこのフリー・ソフト「WCPUID」はCPUやマザーボード、拡張スロットの詳細情報が分かってなかなか有り難い。参考までダウンロードはこちらから。

 PC処理を終えて、習字教室へ行った子を車で迎えに行く。そのまま子を乗せてホームセンターへ。車のワイパーの換えゴム、洗面所の切れた管球と点灯管、木工ボンド、二畳用のブルーシートなどを買う。子は窓辺のテラスに座って自動販売機で買ったホットココアを飲んでいる。朝からちらちらと舞っていた雪がいつの間にか本格的になってきた。「このまま雪を見に山へ行こうよ」 子と交わしたそんな内緒話を見抜いているかのように携帯にYから電話がかかってくる。「もうじきオシッコを摂る時間ですからね」 いちど家へ帰ってから、近くの公園で子と雪合戦をして、ベンチの上に小さな雪だるまをこしらえた。

 夕食のあと、Yが3月の教会の復活祭のときに洗礼を受けようと思っているがどうだろうか、と言う。わたしは「それはあなた個人の問題だし、いわば“神の思し召し”というやつだろう。あなたがそう思うんであれば、おれは賛成だよ」と答えた。すると話を聞いていた子が、じぶんも洗礼を受ける、と当然のように言う。そして「お父さんは受けないの?」と訊くので、「お父さんはイエスさまも好きだけど、ブッダさまも好きだし、アイヌの神さまも好きだし、たくさんあってひとつに決められないんだよ」と答える。Yは、子の洗礼はもうすこし大きくなってじぶんで考えられるようになったら・・ と言うのだが、「いま受けたいと言うのなら、それでいいじゃないか」とわたしが言い、Yも「じゃあ、そうしましょう」と頷いた。というわけで、3月に母と娘で洗礼を受けることになるらしい。

2008.2.9

 

*

 

 「こどもに100のしつもん」というのをネットで拾った。試しに「100の質問」で検索してみれば、知らなかったが世間は「100の質問」ブームらしい。みんな、じぶんのことを聞いて欲しいのかな。「自爆テロ犯への100の質問」、「マンホールで暮らす子どもたちへの100の質問」、「交わりたくない人への100の質問」、いろいろ出てくる。質問自体はあまり魅力的でもないのだが、試みに子に訊いてみた。

 

□ こどもに100のしつもん

 

1 おなまえと、おとしを、おおきなこえで?

 ○○しの、です。え〜、つぎの9月で、え〜、8才です。

 

2 おげんきですか?

 はい。(くくく・・ へんなしつもん)

 

3 あさごはんをちゃんとたべていますか?

 はい。

 

4 しんちょう・たいじゅうはわかりますか?

 いいえ。

 

5 おおきくなったらなんになりたいですか?

 科学者か作家です。

 

6 はみがきはまいにちしてますか?

 はい。

 

7 なんじにねますか?

 9・・・ え〜 え〜と、と、と・・・ いろいろです。

 

8 いちりんしゃにのれる?

 いいえ。まだ練習してないもん。一輪車だってないし。

 

9 じてんしゃにのれますか?

 はい。

 

10 くちぐせはなんですか?

 「わかってるよ」です。

 

11 いつもどこであそんでますか?

 家の中です。

 

12 いつも、なんてよばれてますか?

 しのか、しのっちです。

 

13 こわいものはなんですか?

 トイレです。学校のトイレ。

 

14 いま、なれるなら、なにになってみたいですか?

 作家です。

 

15 だれにあってみたいですか?

 ニュートンとエジソン。

 

16 これからいってみたいところは?

 ほっかいどう。

 

17 こどもでそんしたことは?

 ありません。

 

18 こどもでとくしたことは?

 いっぱいあります。いっぱいありすぎて言えません。

 

19 じまんできることはなんですか?

 お話を書くことです。

 

20 いじめたことはありますか?

 いいえ。そりゃ完全にない。

 

21 そらをとびたいですか?

 はい。

 

22 ポケモンいえるかな?(はいかいいえで)

 ひとつ言えます。「ピカチュー」

 

23 とっておきのギャグをいってみてください。

 「ピー介を逃がしちゃったよ」

 

24 テレビにでたいですか?

 いいえ。

 

25 べんきょう…いやじゃないですか?

 はい。いやじゃないです。

 

26 じぶんのなまえはきにいってますか?

 はい。(日本語でだったら気に入っています)

 

27 じぶんのなまえ、どんななまえにかえたいですか?

 「リーリィ」

 

28 おとうさんとおかあさんはなかがいいですか?

 ときどき口喧嘩します。

 

29 おかあさんのおならはおおきいですか?

 いいえ。ちいちゃいです。

 

30 おとうさんのおなかはおおきいですか?

 はい。ゾウを丸ごと食べたくらい大きいです。

 

31 おとうとといもうと、どっちがほしい(ほしかった)?

 いもうと。

 

32 おとうといもうととなかがいいですか?

 いません。

 

33 おにいちゃんおねえちゃんとなかがいいですか?

 いません。

 

34 ぬいぐるみはいくつもっていますか?

 10こです。

 

35 どうぶつをかっていますか?

 はい。(ピー介もどうぶつなの?)

 

36 ともだちなんにんいますか?

 多すぎて言えません。

 

37 まわりではやっているあそびは?

 「そんなのカンケイねえ、そんなのカンケイねえ、ハイ、オ・パ・ピー!」

 

38 じぶんのいえは、なんかいにありますか?

 ○階です。

 

39 きゅうしょくはでますか?

 はい。

 

40 どんなかみがたですか?

 ポニーテールか、長く垂らしちゃってるか、三つ編みです。

 

41 どんなびょうきをしたことがある?

 風邪。(いまやってる病気、なんだっけ?)二分脊椎。・・あっても、どうゆう名前かわかんない。

 

42 どんなわるくちをよくいいますか?

 言ったことがありません。

 

43 なにかスポーツしてますか?

 いいえ。

 

44 おとこのことおんなのこと、どっちがすきですか?

 どっちもです。

 

45 はなからぎゅうにゅうをだしたことはありますか?

 いいえ〜!

 

46 だれと、けっこんしたいですか?

 言えません。

 

47 さいきんよんだごほんは?

 「マリー・アントアネット」です

 

48 さいきん、ないたことはありますか?

 はい。

 

49 さいきんいたかったことは?

 ありません。

 

50 さいきんくさかったことは?

 く・・ お父さんのオナラです。

 

51 さいきんくやしかったことは?

 ありません。

 

52 さいきんはずかしかったことは?

 はい。発表会でスピーチをしたこと。

 

53 きらいなやつの、どこがきらいですか?

 嫌いな人はいません。

 

54 おかねもちになったらかいたいものは(ひとつ)?

 先生が持っているようなお人形です(フランス人形)。

 

55 あついのとさむいのとどっちがすき?

 寒いのです。

 

56 じぶんがもうひとりいたらどうしますか?

 どっちかが遠くにいないとダメだと思います。・・人がびっくりするから。

 

57 ひとしゅるいだけ、すきなだけ、おかしをたべてもいいなら、なにをたべつづけていたいですか?

 ミルク入りのアイスクリーム。

 

58 モーニング娘。では、だれがすきですか?

 そんなの知らない。

 

59 ジャニーズ系では、だれがすきですか?

 それ、なに? 知らないわ。

 

60 おでかけはすきですか?

 いいえ。

 

61 あめのひはいつもなにをしていますか?

 家でいろいろ遊んでいます。

 

62 やきゅうせんしゅでだれがすきですか?

 いません。

 

63 すきなうたはなんですか?

 どれも好きです。もののけ姫。

 

64 すきなおみせはどこですか?

 ありません。

 

65 すきながっきはなんですか?

 ヴァイオリンです。

 

66 すきなにおいはなんですか?

 イチゴの匂いです。

 

67 すきなおとこのこはいますか?

 います。

 

68 すきなおんなのこはいますか?

 います。

 

69 すきなおちゃはなんですか?

 ふつうのお茶です。

 

70 まわりのひとでだれがいちばんすきですか?

 お母さんです。

 

71 はげのひとの、はげをさわってみたいですか?

 いえいえいえ!

 

72 たべものはなにがすきですか?

 イクラです。

 

73 どうぶつはなにがすきですか?

 リスです。

 

74 どんなおんがくがすきですか?

 分かりません。

 

75 いちばんいやなおいしゃさんは?

 注射さんです。

 

76 いつもかみさまにおいのりすることは?

 いつもいろいろです。

 

77 おこられるときは、どうおこられることがおおいですか?

 「はやくしなさいよ」です。

 

78 おりょうりはできますか?

 いえいえ。

 

79 ゲームきはなにをもっていますか?

 ありませんよ、そんなもの。

 

80 ならいごとはなにですか?

 ヴァイオリンとソロバンと習字です。

 

81 ファッションにこだわりはありますか?

 いいえ。

 

82 おとなっぽいところはなにかありますか?

 プリキュアが嫌いなところ。

 

83 にほんでいちばんえらいひとは?

 そんなもん、知りませんよ。

 

84 むしはてでつかめますか?

 つかめる虫もあるし、つかめない虫もある。

 

85 やってはいけないといわれたのに、してしまったことは、なんですか?

 覚えていません。

 

86 さけんでみてください。

 あーっ!

 

87 なにかひみつはありますか?

 あります。

 

88 ほめてもらいたいのにほめてもらえなかったことは?

 いいえ。

 

89 タモリについてひとこと?

 知らない。

 

90 どうしてもわかんないことはなに?

 ありません。

 

91 インターネットでどんなことをしらべてますか?

 そんなもの、調べません。

 

92 すきなポーズはなんですか?

 でんぐりがえりです。

 

93 「理不尽」のいみはなんでしょうか?

 ?? ナニ?

 

94 へんなひとをみたことはありますか?

 はい。「チェクモウ」と言ったおじさんです。

 

95 サンタクロースっている?

 います。

 

96 ふしぎなちからをなにかもってますか?

 いいえ。

 

97 いくらいじょうもっていたら「おかねもち」だとおもいますか?

 100万以上。

 

98 あかちゃんはどこからきますか?

 お腹の中から。

 

99 おとなってたいへんだ…とおもうことはなに?

 えっと・・ 子どもをしつけることです。

 

100 100てんまんてんをとったことはありますか? ?

 はい。

 

 

2008.2.10

 

*

 

 火曜。奈良の営業所にての会議の後、大阪支社へ行き今後のわたしの仕事の段取りについて夜までS部長と話し合う。今回のわたしの人事異動についてクライアントの本社側より「異動は他社のことなので最終致し方ないが、二期工事が終わるまでは現場から外さないで欲しい。外すようであれば次回の契約を結ばない」旨の告知があったとの由。折衷案として、鳥取・姫路・大阪・京都・奈良の(わたしが担当する)現場への月1回の巡察及び各営業所単位で行われる隊長会議への参加で月約9日を本社所属部の業務としてこなし、残りは現在の現場に直行直帰にて指導及び二期工事の窓口として常駐する、というS部長からの説明。その関連で水曜に(会社にPCを所望したが現在経費削減で苦しいからしばし待って欲しいと言われたため)子のノートPC(職場のK氏より頂いたWin98)を職場に移設して、新しい仕事の日報ファイル作成やデータの移動、紙資料のファイリングなどをしたりして二日ほど忙しかった。本宅と妾宅が同居しているようなものか。巡察は来月あたりからぼちぼち始めようかと思っているが、しばらく慣れるまではあれこれと忙しくなりそうだ。

 

 昨夜は帰宅したらテーブルに子とYからのチョコレートと子の手紙が置いてあった。

お父さんへ。

お父さん、この赤いつつみが、バレンタインのチョコでーす。わたしがえらんだんだよーん。とっおっても、かんわいーいチョコばっかりだよ。食べてねーえ。お父さんの好きだった子にもらったチョコみたいに、何年もほったらかしにしといたらダメよーん。それから、ホワイトデーには、チョコちょうだい。やくそく。ゆびきりげんまん、うそついたらはりせんぼんのーます。ゆびきった。べー。お父さん、大すきです!

 「なんねんもほったらかしにした」というのは、わたしが小学校のときに好意を寄せていた女の子からもらった義理チョコを食べられず、二十歳すぎまで大事に持っていたことで、わたしはそんなじぶんの思い出を子に話するのが好きだ。20代になってもわたしはその子のスケッチをノートの裏表紙に描いたりした。

 

 いま読んでいるのは「アジアの聖と賎 被差別民の歴史と文化」( 沖浦和光:野間 宏・人文書院)。かつて旅したインドへの思いも再沸騰するが、特に不可触民改革運動の指導者:アンベドカルと、ブッダの原思想をよりどころとした戦闘的な不可触民解放運動グループのダリット・パンサーに興味を引かれる。

 

 今日から三連休。子が学校から帰ってきたら日曜まで、和歌山のYの実家でのんびり骨休みの予定。沖浦氏が「日本民衆文化の原郷」(文春文庫)で紹介している湯浅のかつての被差別部落にて、かつての門付け芸で実際に使われた「春駒」の衣装や駒首などを保存している資料室があるというので、役所に電話をしてその(同和運動の推進拠点らしい)公共施設につないでもらったところ、「会議室みたいな部屋のすみに置いているだけなんでいつでも見れますけど、展示などといった特に大層なものでなくて、10分も居られないような、そんな程度のものですよ」と相手はやや恐縮気味な返答。ただ残念なことに役所の施設のため土日は閉館だという。蓮如の時代にかつて熊野街道を流していた漂泊の宗教的芸能者であったろう若太夫なる者を始祖に持ち、沖浦氏が前掲書の約80頁を割いて詳細に書いているこの町はずれの集落を一人ぶらぶらと歩いて、集落の拠点であった浄土真宗の寺とその春駒の残り香、そして町の図書館あたりで何か資料でも漁る一日をすごそうかと思っていたのだが、別の機会に譲った方がいいようだ。あとは有田川沿いにある明恵ゆかりの浄教寺とその裏山の山中にあるかれの修行地跡でも訪ねようかとも考えたが、調べたら和歌山県立博物館でも明恵関連の企画展をやっているんだな。さて、どちらにしようかな。

 

 アマゾン古書にて渡辺建夫「インド反カーストの青春」(晶文社)を注文する。

2008.2.15

 

*

 

 田殿丹生神社のどかで鄙びた有田川の河川敷に建つそこは往古には広大な森林がひろがっていたというぬっくと屹立する巨岩を背後の山中に抱えたその宮は古代の水銀採掘の伝説を秘めていまは風ばかりが通りすぎるさっぱりと気持ちのいい風だいっそ嬲って欲しいくらいの山よりもくすんでやけに大柄な宮守の住居に何か土蜘蛛の子孫どもがいまもうじゃうじゃと住んでいるのではないかと訝しんだわたしは道端で一人の老婆を見つけて道を訊ねた饐えた蜜柑の匂いに満ちたせまい農道をぐねぐねとのぼっていくとそこは30歳の明恵が静かな革命シンパたちと庵をあんだ山麓の桃源郷でやあこんにちわあなたに会いに来ましたその苔むしたお顔の故郷にと話しかけながら一体の石仏に向けてシャッターを切るそれからは息もぜいぜいと喘ぎときに心臓が凍りつくような尿道のように細い崖っぷちの山間の道をうねうねとさまよいいつのまにか心地よい小さな滝の前にひとり立っていた水の落ちる音岩に砕けてはじけ飛散してまた集合する音は何とわたしの心根にシンクロすることかまるで自然からメロディを簒奪するネイティブのフルート奏者のようにわたしは夢幻のうちに忘我の内に酩酊して立ち尽くしたいまは果たして何曜日でわたしはどこから来てどこへ向かっているのか過去には笈を負った六部であったか路地裏のシミであったか濡れた木の枝陽差しの中で蒸れた枯れ草そんなもののうちにいるとむかしから抵抗しがたい性欲を覚えるのだ覚えてわたしは木の虚に頬ずりをしながら溶け入りそうに泣き出しそうになりながら草木の中に射精をしている放物を描いてスローモーションのように落下するわたしから溢れた精液で草木は原罪の刻印のように汚れるがわたしは孤独な猿のようにひどくさびしいそのまま滝壺へずぶずぶと沈んでしまえたらと願っている。

 

田殿丹生神社 http://kamnavi.jp/ny/tadono.htm

いにしえの糸野 http://www.micocoulier.com/itono/inishie/

滝巡り日記メモ・「釜中滝」への旅 http://www.geocities.jp/merksumi52/kamanaka-taki/kamanaka-nikki.html

和歌山県立博物館 http://www.hakubutu.wakayama-c.ed.jp/

和歌山ラーメン・井出商店 http://www.geocities.co.jp/Foodpia-Olive/9987/wakayama-ide.html

2008.2.20

 

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 子は学校で縄跳びの前回し連続10回に成功したが、先生の前では9回までしか出来なかったので合格のシールはもらえなかった。他の子たちはみなそれぞれもっといろいろな事が出来るようになってシールをもらえ、今日シールをもらえなかったのは子だけであった。けれど先生は他の子たちよりもたくさん9回飛べた子を褒めてくれたので、「シール一枚よりもうれしいことだった」と子は帰って母に言った。

 その子は学校から帰ってきて夕方、ヴァイオリンを練習の最中にうっかり落としてしまった。本体を首で挟みながらゆるんでいた弓の弦を張ろうとしたのだ。落ちたヴァイオリンはネックの指板(弦をおさえる黒い板部分)が外れて位置がずれている。「もうヴァイオリンをやめろとお父さんに言われる」と子は泣いた。Yから職場にメールが来てとりあえず明日、子が学校へ行っている昼間の内に大阪の工房へ持っていき修理見積もりをしてもらおうかと話していたが、本人に持って行かせてじぶんから説明させた方がいいとの父の主張で明日、学校がひけた子を乗せて三人で大阪へ行くことにした。幸い父も久しぶりの休日だ。見たところヴァイオリンは指板以外の箇所での損傷はなさそうだ。接着だけで済めばいいのだが。

 

 和歌山で義父母が「昇進祝いに」と5万円を包んでくれた。これに少々金額を足して仕事用のノートPCを購入しようかと考えている。代わりにというわけでもないのだが、滞在中に義父母宅にDVDの再生機を購入・プレゼントして設置してきた。子の写真や動画をCDやDVDで送れるようにとのこちら側の利便のためである。近くのブックオフで中古のNHK世界遺産シリーズのDVD数枚を操作の練習用にと買って置いてきた。ついでに仕事用にUSBのメモリー・スティック1GBを1400円で購入する。ずいぶん安くなったものだ。

 アマゾン古書で笠原 芳光「イエス 逆説の生涯 」(春秋社)を注文する。

 就寝前に枕元で少しづつ渡辺建夫「インド反カーストの青春」(晶文社)を読み継いでいる。じぶんも若い頃にインドでこんな旅ができていたらと悔しくも羨ましい。

2008.2.21

 

*

 

 ハイビスカスが今年はじめての花を咲かせる。「丘の上に差すお日様みたい」と言ってから子は「わたしはこういう喩えが上手でしょ」と母に。

 午前中、ウィンドウズのFTPフリーソフト「FFFTP」、それにY君から貰った「Front Page」などの設定をしていじくり、ホームページ作成のインフラの整備・確認をする。これでウィンドウズ・マシンでもサイトの更新ができるようになった。

 午後からYと図書館へ行く。来月末に計画している義父母との淡路島方面旅行のためのガイドブックの他、プログラミングの初歩的入門書、FLASH(Y君からソフトを貰った)のマニュアル書などを借りる。

 そのまま学校を終えた子を拾って車で大阪・天満橋のヴァイオリン工房へ。店先で先に入ろうとするYを止め、「じぶんで行って説明してこい」と子の背中を押す。ヴァイオリンを店主に差し出し、何やらもそもそとセツメイしている。指板の剥がれたヴァイオリンを眺めて店主は「接着が弱かったのかも知れないな」と、ロハで修理してくれると言う。その上、接着して一昼夜固定する必要があるからと、別のヴァイオリンまで貸してくれた。購入候補のひとつだった100年前のフランス製のものだ。月曜の泌尿器科の検査のときに取りに行くことになった。

 夕方、苦肉の策として机下の奥上部に簡単な棚を設置する。義父母宅から回収してきたビデオデッキをそこに置いて、ウィンドウズのキャプチャ・ボードにつなげる。従来のアナログ・ビデオ画像を取り込み、DVDに焼くため。

 夜、ひさしぶりに子と風呂に入り、寝床で「お話をして」と言うので、パンナコッタという死んだおじいさんの名前をつけられた男の子が、屋根裏部屋にある古いタンスの抽斗に吸い込まれておじいさんと七つの海を冒険する話を即席ででっちあげて物語る。

2008.2.22

 

*

 

 

ケガレ  投稿者:さわ  投稿日:2008年 2月10日(日)16時32分7秒

御無沙汰しております。あけおめことよろ〜。
2/5の写真に「ケガレ」があったので、ちょっと。

先日、近所の百ン歳の御老人が亡くなった葬儀の折、会葬御礼と書いた封筒を渡された。そういうのは香典返しとは別に、その日焼香した人々に挨拶状を渡すもので、たいていハンカチなどが同封されているものです。また、お塩が入っていたりしますが、その封筒には、お寺さんの名前で「もともと仏教ではお清め塩などという風習はないので、会葬者に塩は渡さない。死は穢れたもの不浄なものではないので清める必要はない」という趣旨の短い書きつけが入っていました。

なるほどなあと思ったけれど、わたしとしては、なんとなく違和感もあった。
「死」そのものに汚れたものとか呪われたものとかいう特性があるとは思わないが、だからって、生者の側からみて、めでたいことでもないだろう。
だからこそ、ふだんはじっさいに「死」がいかに近くにあろうとも、とりあえず生者とは関係ナイということにして、日常(ケ)を営んでるわけでしょう。
「死」は、やはり、便宜上、非日常(=ケガレ)ってことでよいのでは。塩くらい、撒きたきゃ撒いたっていいんじゃないの。。。そんな気分。

わたしが、そんなコトをたまたま友人へのメールにちょこっと書いたら、すぐに、その人から
「葬式の塩は、葬式仏教が始めた過ち。神道の人はしっかり批判しますよ。部落差別とも無縁ではない
風習ですよ」とピシリと返信が。それで、また、わたしは以下のような返信をした。

わたしも「死」がキタナイという意味でのケガレがあるとは毛頭思っていないですが……っていうか、「清め塩は(みんなで)やめよう!」っていうようなスローガンがヤなわけ。葬式の折に、ついでに坊さんがそういう主張すんのがヤなわけ。

わたしの知る限り、仏教の寺院は清め塩など使わないですね。六曜の迷信も僧侶は無視する。そういうのは葬儀屋が始めたんでしょう、たぶん。
じゃ、なぜ葬儀屋がそんなことをサービスするようになったかというと、酒やら塩やら毎日バラまく神道方面がアヤシイとわたしは思ってるし、葬式仏教というよりも修験方面のほうがアヤシイと思う。
死と血を関連づけたり、血と女性を関連づけたり、特定の職業と関連づけたりすることにより、清め塩と被差別者の存在は無関係ではなくなるでしょうが、だから悪しき風習、っていう文脈は、どーなの。。。

 

 

re:ケガレ  投稿者:まれびと  投稿日:2008年 2月15日(金)09時38分57秒

さわさんもご存知のように、わたしのつれあいは大阪の人権博物館ちゅうところで数年働いていたことがあります。その縁でその方面の人たちとわたしも交流する機会があったわけですが、あのおぞましい差別戒名はともかくとして、そういう人たちがよく神社仏閣にある、たとえば「ニンニクを食べたり酒を飲んだりした者は立ち入るべからず」みたいなことを書いた古い石柱(結界石:「不許汚穢不浄之輩入境内」「忌穢不浄輩禁登山」等々)を「差別=ケガレの根源だから、建立している社寺を片っ端から調査している」みたいなことを言うと、何やら重箱の隅をほじくるような違和感を感じていたことはありますね。それから意見が合わなかったのは大峰山の女人禁制。わたしはそもそも男と女は違うものだし、その古層には実は「山」でもある女が男を修行の場へ送り出すような両者暗黙の心性があるはずで、それまでは否定したくないという持論でした。

カースト制度の根拠となったインドの「マヌ法典」では、人の体内から分泌されるあらゆるもの---精液・血液・垢・大小便・鼻汁・痰・涙・汗・・・ が不浄とされ、それが転じてそれらに触れる医者・産婆・洗濯屋・散発屋といった職業が賤視されることになった。死のケガレに触れる葬儀・墓掘り・死刑執行人あるいは牛馬の屍骸を処理する皮革産業に従事する者たちへの賤視もおなじような構造でしょう。

さわさんの仰るように死というものは、日常の意識を揺るがす非日常の事件です。それを日常に揺りもどすための儀式というものは別にあったっていい。清めの塩を撒いたっていい。わたしもそう思います。そのこと自体に<悪意>があるわけじゃない。問題はそれを上手に利用して差別の構造へ組み込んで行く抑圧する側の<悪意>ではないか。で結局、それを煮詰めていくと「差別化したがる人間の心性」みたいなものに辿りつくんじゃないか、と。そこを撃たずに、些末的な部分にそれらを転嫁するのは方向が違うんじゃないかと思ったりします。


ただ前述した神社等の禁忌については、たとえばかつては「五体不具穢」という文字もあったそうで、これは身体障害者のことを示すと言い、確かに過去の歴史においては身体障害者はただそれだけの理由で「不浄の者」として非人の身分に落とされたことなどを考えると、じゃあわたしの子どもも時代が時代なら非人にされたのかと腹も立つ。その辺の構造が非常に複雑に、そして微妙に絡み合っていて、じゃあどこでラインを引くかということが難しいし、差別される側からしたら、そのような要素を根こそぎ消滅させたいと願う気持ちも分かるような気もする。

まだまだわたしには明確な答えは見つからないし、もっといろいろ考えなきゃいけないと思うのですが、どうでしょう、さわさん?
わたし的には聖と穢れが分化する以前の始原の場所を覗き込みたい。そこから何かが見えてくる・あるいは取り戻せるのではないかと思ったりしています。


ケガレと同和問題
http://www013.upp.so-net.ne.jp/Isemori-jinken/newpage3-5.htm


偏見、風習、ケガレと差別について考える
http://www009.upp.so-net.ne.jp/kobako/jinken326.html

 

 

re:ケガレ  投稿者:さわ  投稿日:2008年 2月16日(土)15時19分59秒

まれびとさん 非常に役に立つリンクをふたつも紹介してくださって、本当にありがとうございます。やはり、この掲示板に書いてよかった。わたしは見つけられなかった。

「清め塩」については、前項に書いたように「神道方面がアヤシイ」と思ってましたので、友達の神主さんにきいてみました。この人は古い友人ですが、神主になったのは最近なので、まだ新米です。
酒と水と米と塩は神式の定番アイテムであり、また神道はとても「ケガレ(を祓う)」にこだわる傾向があると感じているので、たぶん、モトはこっちのほうからだろうね、と言っていました。
江ノ島神社で塩のパックを売り出したところ、そこそこ売れるそうで、このたび、自分の勤務している神社でも塩のパックを発売することになったそうです。
ちなみに、本人は知人の葬式から帰っても清め塩は使わないとか。理由は、べつに意味ないしメンドだから……と。

わたしに「葬式の塩は、葬式仏教が始めた過ち。神道の人はしっかり批判しますよ。部落差別とも無縁ではない風習ですよ」と書いてきた人も古い友人で、この人は以前、チマタでは進歩的という風評のある週刊誌の編集長をしていた人。

わたしの祖父と叔父と従弟は真言宗の僧侶で、現代の六曜はなんの根拠もない迷信であることとか、釈迦は輪廻転生するなどとは言ってないとかは、昔、叔父から聞きました。
この人たちは常に死者とまみえる仕事をしているわけですが、清めのために塩をつかうようなことはなく、彼らが「死」を忌むものケガレたものと感じていないことは知っていました。

もとより、清め塩に意味がないと思う点は、まれびとさんもそうでしょうが、わたしやわたしの友人達や親戚もおなじなのだから、「清め塩廃止ウンドー」に異を唱えなければならないわけもないのですが、どうしても「なんだかなぁ……」感が否めなかった。

まれびとさんがお書きになっているように「差別される側からしたら、そのような要素を根こそぎ消滅させたいと願う気持ちも分かる」のです。わたし自身、あらゆる差別に反対するゾという決意は相当強固にあるのです。
でも、わたしは無理クリに国技館の土俵にあがってみたいとは思わないし、大峰山に絶対に登山しなければならないとも思わない。
(わたしの前夫は「男性のお客様はご遠慮ください」と看板を掲げた甘味店に行って「男性差別じゃないか」と談判したことがあり、さぞお店の人も困ったでしょう)

「葬式の塩は……過ち。部落差別とも無縁ではない風習」だから良くないんだ、と言われ、そうか、それは大変だ、やめなければ、と思ってしまうのだったら、それは愚かなことではなかろうか。旧弊なもの、意味のないもの、迷信、イコールただちに「過ち」とはいえないだろう。あらゆる寓話には意味があり、それはひとつではないのだから。
右へ倣えで、表面的な差別現象を消していけば非差別的世界が成就し、安心だとするのであれば、おそらくそこからダダ漏れしていくものがあるだろうと思う。
端的にいえば、表面的な現象を見えなくする運動にエネルギーをつかうよりも、よくものを考える次世代の人々を育成することにエネルギーをつかうべきだ。

一方で、まれびとさんがおっしゃる《「問題はそれを上手に利用して差別の構造へ組み込んで行く抑圧する側の<悪意>ではないか。で結局、それを煮詰めていくと「差別化したがる人間の心性」みたいものに辿りつく》ということは重要です。
わたし、最近、「私家版・ユダヤ文化論」という本を近所の奥さんから貸してもらって読んだのですが、著者の内田樹氏いわく、簡単にいいますと、
1. ユダヤ人という特定の国民はいない(イスラエル人と同義ではない)
2. ユダヤ人という人種はない
3. ユダヤ人はユダヤ教徒と同義ではない
そして、ユダヤ人とは、自分はユダヤ人ではないと思っている人々から「お前はユダヤ人だ」と名指しされる人々のことであると。
説明されると、たしかにそういうことのようなのです。。。ユダヤ人という実体はナイ。わたし、びっくりしちゃった。

≫わたし的には聖と穢れが分化する以前の始原の場所を……

始原の場所には、まれびとさんのおっしゃるように、聖もなく穢れもないと思いますが、それ以降にも、おそらく現代にも、じつは聖=穢れ=聖であることが往々にしてあるのではないかと思います。マクベスの魔女が言ったように。

 

 

さわさん  投稿者:まれびと  投稿日:2008年 2月20日(水)01時52分11秒

「ユダヤ人とは、自分はユダヤ人ではないと思っている人々から「お前はユダヤ人だ」と名指しされる人々のことである」というのは、まさに言い得て妙ですね。差別なんてものは案外みな、そういうものかも知れない。

いま沖浦和光氏と野間宏氏の対談集「アジアの聖と賤」を読んでいますが、カースト制を生んだインドでは身分制の根源に「浄・不浄 / 聖・穢」という価値観があり、それはアプリオリな拭いがたいものであるのに対して、中国の律令制には「貴・賤」という逆転も可能な価値観のみでいわゆる「人外の人」というアウトカースト的な意識がもともと存在しなかったのではないか、という議論はとても面白くかつ分かりやすいと思いました。法制的な中国に比べてインドのカースト制はひどく宗教的な意味合いを帯びているのですが、宗教的であることが「血の伝播」のような強烈な差別を生み出したことに、わたしは何やら人間の暗部を覗き込むような気もします。

六曜にしろキヨメ塩にしろ、人間はきっとそういう余計なモノが好きなんですね。ブッダにせよ、イエスにせよ、本来の彼らの思想というかシンプルな存在から、時を経るにつれて人は様々な夾雑物をそこへ附着させてきたような気がする。聖書というのは結局、イエスの思想を最後まで理解できなかった弟子たちによって書かれたもので、だからほんとうのイエスの姿というのはもっと別のところにあるんだと主張している人のイエス論を以前に読みましたが、極論だけれどわたしはひどく魅せられました。フランチェスコのような単純なものを憧れながら、人はもろもろの夾雑物をそこに附着させずにはいられない。反面、わたしは案外、そうしたやむにやまれぬ形で生み出された夾雑物も好きだったりします。

現代の「聖=穢れ=聖」を見出して、いつか書いてみたい。それはたぶん「人外の人」からもたらされるのでしょう。そういう気がします。

ところでまた奈良にいらして、奈良在住の寮さんも交えて一杯やりませんか、そのうち。
タケノコもお見せしますよ(^^)

(BBSより転載)

 

*

 

 日曜の休日。子とYは朝から教会の日曜学校へ行く。洗礼の正式な申請はまだ出していないが、子はミサで「聖餐式」のパンを運んだそうだ。今日は復活祭の前の「赦しの秘蹟」とかで、子どもたちはみなこれまでした「悪い行い」を手紙に書いてきて神父さんに読んでもらう。子も急遽その場で手紙をしたためて別室にいる神父さんに持っていったそうだが、手紙の内容も神父さんと交わした会話も「ひみつ」だと言う。ネット電話でよく話をしているというその家族思いのメキシコ出身の神父さんが何やら妬ましい。

 わたしはといえば、先日注文していた笠原 芳光「イエス 逆説の生涯 」(春秋社)が昨夜、郵便受けに入っていた。帯に「イエスはキリストではない」「イエスは終生、自由な人間の生き方を求めた永遠の離脱者である」「新説を駆使し、著者の全思想を賭して「福音書のイエス」から解き放つ衝撃のイエス伝!」等々の文句が並ぶ。頁をめくればこんな文章が飛び出してくる。「もっとも、イエスはキリスト教の開祖でも、教祖でもない。イエスはキリスト教とはかなり異なった宗教思想の創唱者であったからである」 おそらく純朴な教会の信者の方々には耐え切れない言説であろう。母と娘が教会の洗礼を受けようかとしている頃に、父はそんな本を読むのである。

 ときおり小雪が乱れ舞う風の強い日だったが、かねて約束をしていたので子と民俗博物館のある公園に行ってドッジボールをする。それから駐車場の裏山のジャングルのような道なき斜面に二人で分け入ってまるでサンカの父と娘のように丘陵の雑木林を彷徨する。草に埋もれた廃屋やむかしの池の痕などを見つける。「ほら、そこの木の枝につかまって登って来い」「大きな石ころに気をつけろ。落ち葉の下に隠れてるときがあるぞ」「枯れてる木につかまったら危ないぞ。つかまるときは根がしっかり張った木をえらばなくちゃだめだ」 山では父は案外厳しいことを言ってさっさと先へすすむ。「お父さんったら、もう。生きて帰れないかと思ったよ」 子は負けずに文句を言うが、顔は愉しそうだ。長いポニーテールの髪に枯葉をはさみ、体中をひっつき草の種で飾って笑っている。

 夕食はシシ肉鍋。食前のお祈りで十字を切らないわたしを見て「お父さんはイエスさまのほかにも好きな神さまがいるから決められないんだよね。でもそう言っているお父さんも神さまがつくったんだし、お父さんが好きなほかの神さまもおなじなんだよ」と子が言う。そんな子に、わたしはブッダでさえヒンドゥーの神々に取り込んだインドの話をしてやる。「だからみんな、じぶんの神さまがいちばん偉いと思っているわけさ」 「こまったもんだねえ。どうしたらいいんだろう」と子は途方に暮れた顔をしている。「そうだな、神さまっていうのは、けっきょくはひとつなんじゃないかな。ひとつの神さまをみんなはいろんな名前で呼んでいるじゃないかな」

2008.2.24

 

*

 

 風邪気味のYに代わって大阪の病院へ子のおしっこを持って行く。9時半の電車に乗って、窓の外の大和盆地を眺めながら、MP3プレイヤーのBGMは清志郎の「夢助」だ。清志郎は突き抜けたのかも知れない。じぶんより先に行ってしまったのかも知れない。ずっとそんなふうに感じていた。RCの頃の湿った、くぐもった、複雑なねじれのような感覚が好きだった。でも「温故知新」 の頃から徐々にフィットしてきたぞ。“365パーセント、完全に幸せ”と歌う「毎日がブランニューデイ」 で思わず笑ってしまった。そして「オーティスが教えてくれた」にしみじみとうなずく。10時半に病院に着いて受付を済ませ、おしっこを検査に出す。そして脳神経外科の前で待つ。先日、和歌山の県立博物館で買った「親指と霊柩車・まじないの民俗」(常光徹・歴博ブックレット)を読む。会話の最中に二人が偶然同じ言葉を発したとき「ハッピーアイスクリーム」と先に言った方がアイスクリームを奢ってもらえるという90年代に流行った言い伝えを取り上げ、著者は「同時に同じ」という差異を失った緊迫感とそれを忌むべきある種の危険(ケガレ)として回避しようとする感覚について語る。「ケガレ」はこんなところにも登場する。2時間待って、ようやく診察室へ呼ばれる。おしっこは異常なしとのこと。「どうですか、シノちゃんは?」と訊かれ、「こんど母と娘で教会の洗礼を受けるそうですよ」と言うと、Y先生はちょっと驚いた顔を寄せてくる。そして「実は私もカトリックの信者で・・・」と言うので、こんどはこちらが驚く。先生は大学生の頃にいろいろあって洗礼を受けたらしい。それから長いこと教会からは遠ざかっていたが最近、ある20代の二分脊椎の患者さんがやってきた。かれは病気のケアもほったらかしで、両親との関係もうまくいっておらず、閉じこもり気味であったのをある人(その人も偶然、教会の関係者であった)が先生のもとへ連れてきたのだ。はじめは心を閉ざしていたかれが、小学校ではじめて障害者であるかれを受け入れてくれた恩師の先生が教会を通じたY先生の古い知り合いであることが分かってから治療を受けるようになって、かれ自身も洗礼を受け、見違えるほど明るくなった。そんなことからY先生も懐かしくなってかれの恩師を久しぶりに訪ねたところ、その人はいまは西成の教会で浮浪者の人たちへの炊き出しや様々な支援活動をしているという。そんなところへYと子の洗礼の話を聞いて、何やら不思議な縁をY先生は感じたらしい。診察はほとんどそんな教会(というか宗教)の話で終わってしまった。ちなみにY先生はいま淡路島の洲本でお年寄りのケアを地域で行うこんなNPO法人の仕事も立ち上げ、代表として活動されている。脳神経外科の受付で導尿用のカテーテル5箱とカット綿などを受け取り、箱はかさばるので看護婦さんに処分をお願いしてスーパーの袋に移し変えてリュックサックに詰め込む。会計を済ませ、膀胱の薬の処方箋をFAXで家の近所の薬局へ送り、病院の用事はこれで終わりだ。午後1時。谷町筋をぶらぶらと歩いていって、天満橋近くの路地をひとつ入ったところにある(予めネットで調べていた)香月なるうどん屋さんへ入る。ふだんカレーうどんなぞというものは滅多に食べないのだが、ここのカレーうどんはなかなか凄いぞ。ハーブとざらざらとした舌触りの残るスパイス、それに葛のとろみが絶妙で、さながらあのインドの混沌を味わえる気分。「丹波の黒豆うどん」が売りのようだから、こんどは素うどんも食べてみたい。ちなみに無垢板をふんだんに使った店内の個性的な椅子やテーブルも魅力的。滴る汗を拭ってからヴァイオリン工房にて修理を終えたヴァイオリンを受け取る。剥がれた指板の他は異常はなかったとのことで、「今回はいいですよ」と代金は受け取ってくれなかった。リニューアルした天満橋の駅ビルでPC用の電源タップとCDのリング・ファイル、それと子に「創作用」のノート2冊を買って帰途についた。帰りはこれもAが送ってくれた「自選サンボマスターベスト集」。「言葉でうまく言えないからギターを弾くんですよ」と喋りながら歌う曲がよかったな。郡山まで辿り着けば、子は豆パン屋さんのNちゃんと店で宿題をしていたとか。

2008.2.25

 

*

 

二月二十四日 (日よう日)

 きょう、おかあさんと日よう学校にいきました。○○かなこちゃんという、ようちえんのときの友人の女の子とよこになりました。

 はじめに、わたしが一人だけせきをたって、パンをもちました。あとからかなこちゃんもきて、ブドウしゅをもちあげました。うしろにいて、だれもいません。しずまりかえっています。

「早くいこ。しんぷさまとみんながおまちかねよ。十じかのパンとブドウしゅ、もってかなきゃ。あすこいったら、しんぷさまのまえで、おじぎしながら、小さい声で、『アーメン。』ていうんよ。しんぷさま、いっつもブドウしゅからとるから、みといて。」

かなこちゃんがささやいて、わたしとかなこちゃんは、クスッとわらってあるきはじめました。かなこちゃんは、ブドウしゅをわたしながら、アーメンといいました。わたしも、おなじようにパンを渡すと、

「あー、びっくりした。きたん、はじめてやから、ほんまにホッとしたわ。」

 と、せきにもどってかなこちゃんにいいました。すると、かなこちゃんは、

「ふふふ、ほんまや、ほんまや。はじめての子や、びっくりするん、きまっとるわ。あたしも、入ったばかりのときは、あんなんやってん。あしはがくがく、体はぶるぶるで、心の赤ハートがまっ青になってて、ふるえる手でブドウしゅとパン、わたした。ふ、ふふー。」

 と、へらへらクスクスわらいました。きょう会がおわり、日よう学校がはじまりました。今日は、みつからないように、手紙をかき、しんぷさまにわたすこと。わたしは、けしゴムで何回もけし、ていねいな字で、ことばにし、やっと

しんぷさま、おゆるしください。
わたしのつみをおゆるしください。

 と、かいて、もう一文をしずかにかくと、かなこちゃんがでていって、かえってくるまでまちました。ええ、そして、かなこちゃんが出てくるときに、わたしは入りました。

「あなたをゆるします。気をつけてくださいね。」

 しんぷさまはそういわれると、やさしい目でわたしにかえれといいました。わたしはへやを出ると、かなこちゃんの手をしっかりつなぎました。

(しの)

 

*

 

 朝まだき。玄関先でYが身支度をしている。「あ、いいよ、おれが送っていくから」 「ほんと? ありがとう」 「車でいいんだよな」 「でもシノは自転車の方がいいって言ってるよ」 そこまで聞いていた子がかぶりをふって言う。「わたしねえ、いくら車の中があたたかくて、早くても、自転車の方がいいの」 「何で自転車の方がいいんだい?」 「自転車だと空気に触れられる、色に触れられる。そこんとこが大事なのよ」 やれやれ、こんなふうに育てたのは確かにわたしです。「じゃ、きみのその風景論を尊重して、自転車でいきましょうか」

 ここにきて本社付けの業務があれこれ増えてきて、大阪方面へ出ることも多くなってきた。よその店舗のメンテナンス会議に出てマネージャーに名刺を渡して挨拶する。わたしの生涯の中でこんな場面はこれまでほとんどなかったな。革の名刺入れは職場の同僚のTさんがかつて造船会社で使っていたときのものを呉れた。無数の人々が行き交う地下街を抜け、地下鉄の中でもろもろの会話を聞き、淀川べりのテントや植栽の中を漁る野宿者を横目で見ながらすたすたと歩く。これはこれで新鮮な感覚がする。窓に映ったじぶんの姿を見れば、ナニ、立派なサラリーマンに見えるよ。耳に差したイアホンからはザ・バンドをバックにしたディランが Highway 61 Revisited を歌っているのが響いている。ワイルドで、ぎらぎらとしている。“ハイウェイ61に何でも持っていけ” 黙示録のような曲だ。わたしは黙示録の世界を歩いている。

 「シノはいつもにこにこして元気なところがお父さんは好きだよ」 昨夜、寝床の中で子と抱き合いながらそんな話をした。「でもいちどだけ、しょんぼりして学校から帰ってきたことがあった。あれは珍しいことだったね」 「なに、それ?」 「何だ、忘れたのか。小学校に入ったとき、よそのお兄ちゃんに“大きな靴”とか言われたときのことだよ」 「ああ、あれかあ。わたし、そんなのふっとばして、全然忘れてたわ」 「いまはそんなこと言ってくる子はいないんだろ?」 子ははっきりとうなずく。「装具を履いているとか大きな靴だとか、じぶんがいつもくよくよ考えているとさ、きっとまわりの子はそういうことを言いたくなるんだな。でもじぶんがそんなこと大したことじゃないやってふだんは忘れていると、まわりの子も忘れてしまう。不思議だけど、人間っていうのはそういうものだ」 「この間テレビで見た、目の見えないテノール歌手の人もそうだったね。あの人もさ、じぶんは目が見えないから何にも出来ないってくよくよしてばかりいたら、まわりの人も目が見えないことを中にはからかったりする人も出てくるだろう。でもあの人はあんなに立派な歌を歌って、たくさんの人がそれを聴きにやってくる。そうしたらさ、その歌の大きさに比べたら、目が見えないことなんてちっぽけなことに見えてしまう。そうだろ? その人にとっては、大変なことだけど、でもちっぽけなことなんだ。お父さんはおまえもそんなふうになってくれたらと思っているよ」

 ネット古書で注文していた安宇植「アリラン峠の旅人たち」(平凡社ライブラリー)が届く。以前に図書館で見かけて、これは手元に置きたいと思って書店で探したがすでに絶版であった。それがいま読み継いでいる「アジアの聖と賎 被差別民の歴史と文化」( 沖浦和光:野間 宏・人文書院)の朝鮮半島の被差別民を語るくだりで語られているので、また欲しくなってネット検索をしたら500円で出ていたので注文したものだ。

 

沖浦 いずれもすぐれた聞き書きで、それぞれが“人の世”のなさけとはかなさを感じさせるものですが、とくに深い感銘をうけたのは、「市を渡り歩く担い商人」の褓負商(ポプサン)、「朝鮮の被差別部落民」白丁(ペクチョン)、「放浪する芸能集団」男寺党(ナムサダン)、「魂を鎮める喪輿の挽歌」喪輿都家ですね。読み終ると、なんといってよいか、名状しがたい厳粛な気持ちになりました。牛の霊魂が安らかに極楽世界へ昇天することができるように、屠殺場で僧侶が念仏を唱えて牛に引導を渡すところなんか、じーんときますね。暗い世界におし込められている人の世の本当の心を垣間見たような感じで・・・

野間 この聞き書きをのせた雑誌の名は「根の深い木」というそうだが、その名の通りの、根の深い、人の世の物語ですね。しかしこのような聞き取りがよくできましたね。本当に“たそがれに立つ人びと”で、近代化の進んだ70年代といえば、もう最後の段階ですね。

「アジアの聖と賎 被差別民の歴史と文化」( 沖浦和光:野間 宏・人文書院)

 

 こういう本はきっとわたしの胸を突き刺すだろう。すると不思議なことに、わたしの胸奥にぶら下がり並んでいた肉袋のあちこちが時を一斉にして吠え立てる野犬のように破れて、濁った赤い肉汁が幾重にも噴き出すのだ。

2008.2.29

 

*

 

 家の近くで木を伐り皮を剥ぐ。昼にはきみができたての弁当をもってきてくれる。そしてまた木を伐る。日が暮れたら軒先で鳥の声を聞く。夕闇に沈んでいく森を眺める。おが屑だらけの身体を子どもと風呂で洗い流す。そんな仕事をしたい。

 ディランの Workingman's Blues #2 を聴いている。なみだがあふれてくる。

 眠りの中で目覚めている。

2008.3.1

 

*

 

 「シノの洗礼名が決まったのよ」 ひさしぶりの休日の朝、自室でパジャマを脱いでいると、朝食のテーブルの方からYが声を投げる。「ん、テレちゃんじゃないんかい?」 マザー・テレサの名がいいと子は言っていたのだ。もっともそれは、彼女が知っている唯一の聖人の名前であったわけだけれども(わたしはフランチェスコと寄り添った聖クララをリクエストしたが「そんな人、知らない」と却下された)。 「ひみつだけど、ヒントはこの本にあります」 テーブルの上に子は「マリアさまを見た少女・ベルナデッタ」(女子パウロ会)という一冊の古びた本を出してみせた。有名なルルドの泉を見つけた少女の物語だ。昨日の日曜学校で信者のHさんという人が貸してくれた教会の本だという。子は家に帰ってからさっそく読んでしまい、「(洗礼名は)ベルナデッタがいい」と宣言した。そして「わたしもルルドに行って病気を治したい」と言った。「けがれなきおんやどり(それは“QUE SOY ERA IMMACULADA COUNCEPCIOU=私は無原罪の御宿りである”という意である) ・・・ベルナデッタは、そう言ったの」子はそう呟いてから、「ベルナデッタはね、じぶんの病気だけじゃなくて、みんなのわるいことを苦しんだの。だからイエスさまとおんなじなのよ。それでベルナデッタが35才で死ぬときにね、シスターがきて“神さまが楽にしてくれるように祈りましょう”って言ったら、ベルナデッタは“楽になるのではなく、どうぞこの苦しみに耐えられる力を与えてくれるようにと祈ってください”って答えたの」 Yがそれを受けて子に言う。「そう、お母さんもね、前に神父さまに聞いたことがあるの。ルルドの泉は病気を治してくれるわけじゃなくて、病気に負けない力を与えてくれる。だから病気が治るんだって」 子はその母の言葉を反芻するかのように黙して聞いている。

 キリスト教における聖母信仰というのは、ユング風にいえば、裁きや倫理(モラル)、教理といった意識の背後に隠れている地母神につらなっている。それらはいわばキリスト教という正規のテキストから排除され隠蔽されたものの変形(正規のテキストからすくい上げた負のテキストの代替)であり、弥生の地層の下に埋もれた縄文の記憶、正史からこぼれ落ちた草の根の人々の心根のようなものとでも言ってもいいかも知れない。そういう意味でわたしにとって、子が、ルルドの泉で聖母マリアを幻視した貧しい少女:ベルナデッタの名をじぶんの洗礼名に選んだことはひとつの正しい暗喩である。

 子が学校へ出かけてから父はさっそくネットで、中古の「マリアさまを見た少女・ベルナデッタ」(女子パウロ会)、それとベルナデッタの生涯を描いたモノクロの古い映画「聖処女」のDVDを注文した。

◇ 聖母に出会った少女、ベルナデッタの歌 http://homepage3.nifty.com/oouo/index.htm

 

 

食前の祈り

神よ、あなたのいつくしみに感謝して

この食事をいただきます。

ここに用意されたものを祝福し、

わたしたちの心と体を支える糧としてください。

わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

 

食後の祈り

神よ、感謝のうちに

この食事を終わります。

あなたのいつくしみを忘れず、

すべての人の幸せを祈りながら。

わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

 

2008.3.3

 

*

 

 夕の6時に仕事をあがって、ひさしぶりに一家団欒を過ごした晩。風呂上りに子の落語をYと聞きながら笑い転げていたら携帯電話が鳴った。職場で従業員駐車場を巡回中のTさんが、パトカーに追いかけられて入ってきた原付バイクにはねられて頭を打ち救急車が呼ばれているという。バイクは逃走したらしい。心配そうな顔の子に見送られて車に乗り込み、職場の手前まできたところで反対車線の救急車とすれ違った。搬送先は郡山だという。急いでUターンをして救急車を追いかけ、病院で合流した。店のSCマネージャーが同行してくれていた。後頭部に巻いた包帯が真っ赤に染まっている。CTスキャンをとり、レントゲンを撮り、異常はないと思うが念のため今夜は誰かついていた方がいいと医者が言ったという。案外と元気そうだが、足元がまだふらつき、胸が若干痛む。倒れた瞬間の記憶はなく、当初は一時的な記憶喪失のような状態だったが徐々に記憶も回復してきた。病院からの帰途、車内で別居している細君に電話をしなよと勧める。最初は渋っていたTさんだが、私が何度も言うので根負けして後部座席で携帯を開けた。「・・・元気?」 会話を聞くともなく聞きながら助手席のマネージャーと黙っていた。細君は仕事があるので来れないが、高校生の息子が翌朝に行けるかも知れない、とのこと。「向こうも働かなきゃ喰っていけないから仕方ない」 Tさんがぼそっとつぶやく。職場へ戻ってTさんの荷物を受け取り、ちょうど仕事が終わって明日も朝から勤務のあるSさんが(Tさんの自宅が職場に近いので)いっしょに泊まってくれると言うので、三人でTさんの家に行く。庭に松を揃えたかつては立派であったろう旧家だ。玄関を開けると広い土間があり、奥は座敷童子でも大量に棲んでいそうなほどの部屋数だ。そのうちの一室にカップラーメンの器が重ねられ、洗濯物が山をつくり、寝床代わりの炬燵がある。麻雀仲間のSさんは手馴れた風に庭の飼い犬に餌をやっている。「頼むから今日は控えめにしといてよ」 酒好きのSさんに後を託して、車で夜中に帰ってきた。

2008.3.5

 

*

 

 午前中、Tさん宅にて警察の事情聴取に同席する。昼から場所を移して簡単な現場検証。Tさんを自宅に送り届けてから職場にて報告書など作成。そのまま夜10時まで勤務。明日は休日だが、足のないTさんを乗せて病院を往復、労災申請と診断書を貰いにいく予定。7時半にTさん宅へ迎えに行く。

 疲れた車の中でレイ・デイヴィスの新譜 Working Man's Cafe を聴いている。

2008.3.6

 

*

 

 朝6時に起きて、7時にTさん宅へ着く。香芝にあるTさんの母親が入所している養護施設へ、預けている健康保険証を取りに行く。「待ってるから、ちょっと会ってくれば?」と言えば、「どうせ(痴呆で)分からないからいい」と。車で10分ほどの道を、Tさんは自転車に乗って母親に会いに来るのだ。車は家の近所の土手の上に、もう何年も前に壊れてそのまま放置してある。車内で介護保険や養護施設の話などを聞く。受付の始まる8時半にちょうど病院へ。労災申請をする旨を伝える。Tさんが診療待ちの間、わたしは近鉄駅近くの耳鼻科へ花粉症の薬を貰いに行く。4針縫った頭部は経過も順調との由。近くのコンビニで保険証と診断書をコピーする。ふたたび養護施設へ寄って健康保険証を預ける。母親がよく怪我をするので預けておいた方がいいらしい。朝は事務方しかいなかったので分からなかったが、ちょうど二日前に指から血が出て病院へ行っているらしい。「Tさんと二人で」とYが今朝、昼食代をくれたのだが、病院も案外早く済んでしまったため昼食にはチト早い。「カレーでも作っておこうか」 ふだん外食ばかりで何もないというTさんとスーパーで食材を買い込む。ジャガイモ、人参、玉葱、トマト、ニンニク、牛肉、ルー、ガムラマサラ、ローリエ。包丁はどこ? 皮むきは? ボールはこれ綺麗なの? ナンじゃこの炊飯器は汚ねえなあ・・ Tさんが作り置きしている大根・人参・きゅうりをスライスしたサラダを付けて、二人で炬燵に入って食べる。立派な母屋にはかつてTさんの両親が暮らしていた。蔵と隣接している裏の離れに、Tさん夫婦と子どもたちが暮らしていた。不動産の仕事をしていたTさんは訳あって離職し、しばらくバッティングセンターでアルバイトをしていた。そんな頃に細君は子どもをつれて家を出た。いまこの広い屋敷に住んでいるのはTさんと飼い犬のコロだけだ。コロははじめての人にはしばらく吠えるそうだが、わたしには初めから尻尾をふって擦り寄ってくる。「珍しいことだ」とTさんは言う。「じゃ、カレー食って生きのびてください」 昼過ぎ、Tさんの家を辞して車に乗り込む。レイ・デイヴィスが Working Man's Cafe を歌っている。

2008.3.7

 

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 朝の習字教室を終えた子と二人で大阪歴史博物館へ行く。谷町4丁目のホームを降りたところで韓国人の中年の牧師夫婦に大阪城への道を尋ねられる。朝鮮を侵略した秀吉のこと、韓国の学校でのいじめ問題、戦争と平和の話などを聞き、博物館の前で別れる。10階(古代)〜9階(近世)までを見終えてから谷町筋のラーメン屋「封」へ昼食を食べに行く。二人でラーメン大盛・餃子・卵かけご飯・柚子シャーベットで1100円。再入場して8階の「歴史を掘るフロア」で子は大ブレイク。土器を張り合わせ、ワークシートを手に擬似発掘現場を歩き回り、PCの発掘調査ソフトに熱中する。その後大阪城の売店でソフトクリームを食べ、場内をぶらぶらと抜け石狭間や蓮如の袈裟がけの松などを見ながら森ノ宮の方角へ。運動公園の遊具施設でしばらく遊んで夕方6時頃に帰ってきた。パーフェクトな一日。

2008.3.8

 

*

 

 休日の大阪城の端のガラスで仕切られた安っぽい売店。焼きそば、480円。親子丼、600円。新世界あたりで揃えた服を着込んだような初老の夫婦がプラスティックの器に盛られたキツネうどんを啜りながら談笑している。小学生の男の子と女の子を連れた若い夫婦は会話もなく、漫然と焼きそばとフライドポテトをつまんでいる。灰皿とタバコをきっちりと並べて水だけを呑んでゆったりと座っているくたびれた旅芸者のような男がいる。大阪万博の70年代の頃の人々がそのままこのくすんだガラスの箱の中に閉じ込められて時に置き去りにされたかのようだ。そうした人々に交じって、わたしはテーブルの向かいで子がソフトクリームを愉しげに頬張っているのを眺めている。午後の光がゆったりと放散している。この先、何か用事があるわけでもない。そんな感じがいい。「行こうよ。外へ出て、身体を躍らせたいのよ。そうしたら元気がもどってくるから」 ソフトクリームのついた口元をハンカチで拭って、わたしたちは光の中へ出て行く。何の変哲もない小石や、木の枝や、石垣の溝や、枯れて茶色くなった椿の花が、彼女の魔法の道具になる。椿の花を彼女は蓮如の袈裟がけの枯れた松の根の上に秘密の暗号のように乗せる。それから石狭間に身を横たえて鉄砲を撃つ真似をして小さな石を石垣の外へ放る。時間はたっぷりある。帰るのが遅くなったら、ちょっと鶴橋のガード下にでも寄って、おいしいキムチを食べながら彼女の酌で一杯引っ掛けようかなどと父は企んでいる。

2008.3.9

 

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 営業所での会議と現任教育を終えて夕方、帰宅すると、Yが疲れた顔をしている。子が最近、やることをやらない。注意をするとすぐに怒って、今日はYを叩いたり蹴ったり、消しゴムを投げたり、Yが畳んでいる洗濯物を奪い取って放ったり。玄関で「もう警察を呼ぶ」という会話まであったらしい。「すごい怒りん坊」なのはわたしに似たんだろうな。わたしの前ではあまりそんな酷い暴れ方をしないが、それは「お父さんは恐いから」らしい。Yと喧嘩をすると、大抵わたしが理詰めで彼女を言い負かすので(といっても本当はわたしがいつも“負けている”のだけれど)、子もおなじ態度を母親にする、という説もある。本を読んだり物語を書くことに熱中して、他のことを言われるのが疎ましい。といってヴァイオリンも通信教材もソロバンもみなじぶんの意思で始めたもので、やめてもいいよと言ってもやめないと言う。つまりは時間の観念と処理能力がないのかな。そんなものを所有している小学1年生がいるとも思えないが。病気もあるからとついつい親が手をかけすぎて、じぶんで考えて物事をこなしていく力が育っていないのかも、なぞとあれこれ考える。そんな時期なのかも知れないが。

 ソロバン教室へ行ったという子を自転車で迎えに行く。窓越しに覗くと、時折“おばあちゃん先生”と愉しげに会話をしながら、うなずいたり頬杖ついたりして、古びた机に向かっている。まるで天使のようで、母親を叩いたり蹴ったりするような子にはとても見えない。授業が終わって出てきた子に訊く。「おまえ今日、お母さんに何をした? 何でも好き勝手にしたいんなら、構わないから、ここからどこへでも行ってひとりで生きろ。家に帰ってこなくていい」 いやだ、と言って子は自転車の補助席にしがみつく。しばらくして子を乗せて、自転車を走らせる。暗い路地を、いつもと違う方角へ曲がる。「どこへ行くの?」 「いいから黙ってろ」 売太(めた)神社の鳥居の前に自転車を止め、子を下ろし、鳥居をくぐる。暗い人気のない参道がトンネルのようにぽっかりと口を開けている。「神さまのところへ一人で行ってな、今日おまえがした悪いことをぜんぶ話してこい」 そう言って子の背中を押す。子は一瞬、闇に満ちた参道を前に立ち尽くすが、決心をしたようにやや小走りで歩き出す。豆粒のような子の姿が、ぼんやりと明るい拝殿の前にゆらいでいる。やがて子はまた小走りで戻ってきた。二人で自転車に乗る。「・・お父さん」 「家に帰るまで黙ってろ。黙ってじぶんの心の中を覗いていろ」 しずかにペダルをこぐ。後ろの補助席で子はもう何も言ってこない。

2008.3.12

 

*

 

 子豚が4匹遊びに来た。こっちで子豚を拾い、あっちで子豚を拾い、車で拾い集めて帰れば、わが家の子豚と合わせて計5匹だ。「子豚じゃない! じゃあそっちは大豚だ!」と子豚どもは大変な騒ぎなのである。宿題をやって、お八つを食べて、折り紙をして、子豚ごっこをして、その間にときどき大豚は乱入しては子豚どもの反撃にあう。「子豚が5匹も集まれば姦しいな」 私がそうごちると「なに言ってるのよ。ふだんは大人しく遊んでいるのよ。あなたが煽っているからでしょ」と彼女はそっけない。「おれは大豚じゃない! 王子さまだ」 夕刻、王子は子豚の姫たちを鄭重に、また一軒一軒の子豚小屋に送り届けるのである。笠原芳光氏の「イエス 逆説の生涯」を読んでいると、イエスが神の子でないとしたらひょっとしてわたしは生きる支えを失うのかも知れない、なぞと一瞬、キリスト者のような錯覚に目眩する。Aが掲示板で、ニルヴァーナがレッドベリー曲をカバーしたライブの Where Did You Sleep Last Night なんぞを持ち出してくるので、ユーチューブの映像を見たら眠れなくなってしまった。明日は京都へ巡察に行く予定だったのだが、何だかどうでもよくなった。京都は月末に伸ばして、Yが神父氏の洗礼の話をいっしょに聞いて欲しいといっているのでそいつに付き合うことにしようか。神を信じていない者が神の話を聞くってのは、クラスター爆弾を作りながら環境を語る企業のようなものか。おれたちは最早そんなふうにしか生きていけないのか。カート・コバーンは実際、カッコいいな。何とも暗くてゾクゾクするぜ。だが醜くても生きのびるべきだったとおれは思うね。だが、ああ、おれはこんな音楽があるのを忘れていたかも知れない。

Nirvana・Where Did You Sleep Last NIght lyrics

2008.3.14

 

*

 

 昼。Yと二人で教会に行き、メキシコ出身の(二コルさんのような柔和な目をした)神父氏から洗礼式の説明を聞く。

 子とYの洗礼式は来週の復活徹夜祭にて執り行われる。ローソクを灯して“イエスの光”の到来を待つ「光の儀」。イエスの復活までの場面場面を聖書の朗読でたどる「み言葉の儀」。そして「洗礼の儀」。

 神父氏から聞いた洗礼式の流れは以下のとおり。

○聖歌の合唱。過去の聖人の名が次々と現れて取次ぎをしてくれるようにと歌われる。

○水の祝福。教会の中央の床下(ふだんは青と赤の強化ガラスの蓋がしてある)に大人の背丈くらいの深さの浴槽のような空間が設けられていて、石の階段を降りていったその場所で司祭と共に水に浸かって祝福を授かる。これは罪を払い、聖霊が水によってつかわされることを意味する。死んで、また新たに生まれてくること。

○悪霊の拒否。司祭との問答形式で悪霊に抗うことを宣誓する。

○信仰宣言。その名のとおりイエスが神の子であり、その復活を信じると宣言する。

○洗礼。司祭から洗礼をさずかる。

○聖香油の塗油。額に油を塗る儀式。

○白衣の授与。カトリック教会では初聖体や結婚式などの重要な節目でこの特別な白衣を着用する。当日は教会から、頭からかぶる白衣を貸して頂く。

○ロウソクの授与。ローソクをじぶんの前に置く。暗闇のなかで“イエスの光”をあてて進む。

○洗礼名の授与。新しい“神の子”としての名前をもらって、洗礼式は終わる。

 

 子の洗礼名が、有名なルルドの洞窟で聖母マリアを幻視した少女ベルナデッタになったことは前述した。Yの洗礼名については、本人も教会から聖人名リストの本なぞを借りてきたりしてずいぶん難航していた。困った挙句、彼女はわたしに助言を求めた。最終的にわたしがあげた名前は「ソフィア(Sophia)」である。これは智慧や叡智などを意味する古代ギリシャ語のソピアー(Σοφια)から派生した言葉で、グノーシスなどの神秘思想でも女神の象徴として使われてきた。つまり古代思想の擬人化であって聖堂や女神像の名に使われ、厳密にいえば「聖女ソフィア」という名の聖人は存在しないわけだが、Yが借りてきた本の中に女子教育のための修道会創立に尽力した「聖マグダレナ・ソフィア・バラ」という人物が載っており、ちょうどいいじゃないかということで「ソフィア」に決まったのであった。

 ちなみにYは「もし○○さんが洗礼をうけるようになったらね、わたしがぴったりだと思った名前があるのよ」と言う。「おれは洗礼を受ける気はないが、もし受けたとしたら“ユダ”かな、ふさわしいのは」 わたしがそう返すと、彼女はそれは「シモン」だと言う。「シモンというのはね、イエスが処刑されるときに他のみんなが嫌がった十字架をひとり運んだ人なの」 あとで実際に聖書を見てみたら、どうも彼女の説明とは微妙に異なっていて、イエスの処刑が決まり、たまたまその場にいたシモンが(自ら望んでではなく)担ぎ役を命ぜられて仕方なく運んだような書き方をされている。むしろそっちの方がわたしに合っているかも知れない。

2008.3.15

 

*

 

 16日。朝、Yと子といっしょに教会のミサに参列する。Yがメキシコ出身の神父氏の話をわたしにもいちど聞かせたいと言うので。イエスがエルサレムに入城した際に人々が棕櫚の葉を振って出迎えたという聖書の話に倣って、教会の庭で棕櫚の葉を持って神父氏の話を聞く。わたしはいちど渡されかけたのをやんわりと断わったが、二度目にすすめられ仕方なく受け取る。ミサが終わってから、子とYが洗礼式で着る白衣の試着をしているあいだ、一人の初老の男性が近寄ってきて「奥さんと娘さんの洗礼、おめでとうございます」と話しかけてくる。「ご主人もそのうちに」なぞと言うので、いやわたしは聖書も好きなんですが、学生のときに仏教も勉強して好きでして・・・ なぞと曖昧に答える。午後は家で家族三人、ベルナデッタの映画「聖処女」を見る。古い映画のせいか日本語の吹き替えがなく、子に字幕を読んでやろうとすると「読めるからいい」と言う。そうして2時間40分のモノクロの長丁場を子は最後まで見きった。夜は交通隊で大学卒業・就職する学生たちの送別会に参加する。会場の大和八木駅前の古本屋でリカルド・ローホ「わが友ゲバラ」(早川書房)と栗田勇「われらは美しき廃墟をもちうるだろうか」(TBSブリタニカ)をそれぞれ300円と800円で購入する。隣のIさんのチューハイ・グラスにビールや枝豆やユッケや海苔を放り込んで酩酊、最終電車で帰宅する。

 今日は子が「足が痛い」と言い出し、Yが学校帰りに大阪の整形へ連れて行く。医者が診断したがどこも異常は見当たらなく、考えられるのは「成長痛」という一種のストレスから来る痛みではないかとの由。湿布をしてもらい、医者が子に「これでもう治るよ。先生はこんな子はたくさん診てきたからすぐに良くなるからね」と言うと、帰りには「もう全然痛くない」と言ったとか。今日はYが迎えにいくと大好きな担任のT先生に手を引いてもらって出てきたそうで、あるいは1年生の終わりで先生ともお別れが近いことも遠因となっているのだろうかと職場の携帯電話でYと話した。

 明日は巡察で京都。

 

 

■ 3学き どうとく

○キャラクターが出てきたつぎのばめんでは、みなさんはどのようにしますか。

 

(1) かえりの会で、先生がみんなに話をしているばめん。

(回答) 先生の言うことをよくきいて、ゆびきりでやくそくをして、やくそくをまもってかえる。

 

(2) ゆきが、知らない人から「車にのって道をおしえて」とさそわれるばめん。

(回答) 「すみませんね。わたし、今日はお母さんに『今日は友だちのたんじょう日だから早くかえってきてね』っていわれたし、お母さんのたんじょう日だもん。あしたね」とウソをついてごまかす。

(先生)うそよりもほんとうのことをいってことわりましょう! たとえば「おかあさんや先生にしらない人の車にのってはいけないといわれているので、のれません」という!

 

(3) りょうたがわたろうとするおうだんほどうのしんごうが、赤色になっているばめん。

(回答) 「ぜったい、赤のときはわたるもんか」とおもって、しんごうのせいにしないで、どこかのスパイのわるだくみだと思いこむ。青までまつ。

 

(4) がっこうからのかえり、りょうたに「あたらしいカードをかったからあそぼう」とさそわれるばめん。

(回答) 「あのね、ちょっと家にかえってランドセルおいてきがえてくる。お母さんにもきいてくる」といって、「あんた、子どもどろぼうちゃうん」と、まをあけてから言う。

(先生) ?

 

(枠外に) こぺんなちゃい

 

2008.3.18

 

 

 

 

 

 

 

 

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