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□ 日々是ゴム消し Log61

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 冬になると葛城山の山稜がうっすらと雪化粧をしているのが望める。「チビに雪を見せてやりたいなあ」と思い、Yや本人にもそんなことを言っていたのは数日前だ。土曜日。仕事のはずの父がやおら、今日は葛城山に行こう、と言い出した。「今日は天気で、明日は雨の予報なんだ。明日の休みを今日に振り替える」 Yは慌てて教会の土曜学校に欠席の報を入れ、子は万歳をしている。それから大慌てで身支度を始めた。当初は軽い雪遊び程度でもできたらくらいに思っていたのだが、ネットであれこれ検索をかけてみると、山頂付近は例年そこそこの積雪があるようで、子供連れの写真はみなスキー・ウェアに身を包み、中には本格的にアイゼンを装着させている家もある。プラスティック製の簡易な雪ゾリで遊んでいる写真も多い。「これはちょっと、舐めてかかったらいけないかも・・」 わが家はスキーなどは行ったことがないので、本格的な雪山用の装備は何もない。わたしやYはジーパンに長靴でいいだろうが、雪ゾリで滑るなら子にはスキー・ウェアが必要だろう。それで出掛けにいちばん近い国道沿いのスポーツ店に立ち寄り、子供用のスキーウェア(上下、約1万円)とプラ板の雪ゾリ(千円)をクレジット・カードで購入して一路葛城山を目指したのだった。「もうちょっと経ったら、値段も下がるんだろうけどなあ」とYは悔しがるが、緊急事態なので仕方がない。そういえば以前幼稚園でスケートに行ったときも、同級生のお古を一時的に貸してもらったのだった。

 葛城山にのぼるロープウェイ駅のある御所市へは、郡山から現在、部分無料開通の京奈和道〜南阪奈道路につながる高田バイパスを経由して行くと40分ほどで着いてしまう。近鉄御所駅の横から集落を抜ける細い道を山の方へ向かう。「この辺はみんなすごい家ばかりだねえ。造りが違うよ」とY。「櫛羅」と書いて kujira と読む。幕末に大和新庄藩主がここに陣屋を移して櫛羅藩を名乗ったらしいが、その地名の由来は相当に古いのではないか。櫛は古代の象徴的事物でもあり、実際にこれを冠した神さまの名もある。何といってもこの辺りは東の三輪氏に対して、かの役行者を生んだ葛城氏の本拠でもあるのだから、どんな歴史が潜んでいるか分らない。やがて道はうねうねとのぼって、ロープイウェイの駅に着く。数日前にはうっすらと雪をかぶっていた山並みを見上げると、白い部分が見られない。不安に思って車を降りたYが駅のおばちゃんに本日の積雪状況を訊きに行くと「雪遊びができる程度はある」と言うので、一日千円の有料駐車場に車を停めた。車の内外でおのおの身支度である。わたしはYのスキー用の赤い手袋を借りた。長靴は酒蔵で働いていたときに履いていたものだ。真新しいスキーウェアに身を包み、じぶんで選んだ真っ赤な雪ゾリを満足そうに手にした子は一丁前に見える。

 ロープウェイは1時間に二回ほど、およそ30分間隔くらいで出ている。全山が紅に染まる春のツツジの季節にはこのロープウェイが一時間待ちの混雑を呈するらしい。今日は閑散とした感じだが、発車時刻まで10分ほど待っていたら、下の駐車場からぱらぱらとのぼってきた家族連れや年配の登山客などで函内はほぼ満員になった。料金は往復で大人1220円・子供610円。子の障害者手帳でいくらか割引になった。手元のチケットを見れば昭和42年の営業開始で、山上駅までの1421メートルを毎秒5メートルの速度で約6分ほどでのぼる。考えてみれば、子はロープウェイは初体験である。窓から真剣な顔で外を眺めている。徐々に高度があがり、眼窩の青い大和盆地に海に浮かぶ島のような大和三山が見えていく様はやはり感動的だ。イヌイットたちのワタリガラスの視線、古代で言えば神の視線。当地に倣えば葛城山から大峰山に橋を渡したという役行者の視線、だろうか。観覧車もそうだが、こういう感覚というのは好きだなあ。山上に近づくにつれて、山肌や谷間に積雪が多く見えるようになった。麓からだと木々に隠れていたのだ。やがて山上駅に着いた。駅から続く山道はどこもかしこも白い雪で覆われていて、ほんの数分ロープウェイに乗車しただけで、まるで別世界に来たかのようだ。木々の梢や葉もそれぞれの形状に合わせて雪を抱いていて、ときどきそれらがばさばさと落ちてくる。森とした樹の間からときおり微かな野鳥の足音が聞こえてくる。

 山頂へ向かう幅の広い遊歩道を白い息を吐きながらしばらくのぼっていくと、やがて売店を兼ねたロッジ風の食堂の前に出て、そこから細い杉林をはさんだ向こう側は山頂までの広い、なだらかな傾斜地である。数組の家族連れが三々五々散らばって雪ゾリを愉しんでいる。子の目が輝く。「行こうよ、お父さん」 それから小一時間、雪ゾリに興じて、食堂でやや遅い昼食(鴨蕎麦・きつねうどん・五平餅)を食べてから、また雪ゾリである。これが大人がやっても案外と愉しい。山頂にほど近い傾斜地のてっぺん辺りから、長いところで40〜50メートルはあるだろうか。子と二人でソリに乗り込み、最初は真ん中くらいから始めていたのだが、徐々に慣れてくるともっと上からもっと上からと移動していく。ロングコースのときにはソリの削る雪煙が顔にかかる程で、そのまま止まらず故意に杉林へ突入するのも面白い。ただ準備不足だったのは子の足元対策で、ふつうの雨用の長靴を履いていたため、長靴の中に雪が入り込んで靴下やタイツを濡らし、いったん足が濡れると冷たいのも勿論だが、足首が麻痺しているために只でさえ入りにくい長靴に足を収めるのが困難になることであった。一度食堂のストーブで乾かしたものの焼け石に水で、霜焼けから以前のように酷い褥瘡(じょくそう)になるのが心配だったので、足を早く温めようと若干急ぎ足で帰ってきたのだった。神経の麻痺に伴って血流が悪いから、こうした状況については厄介だ。

 標高959.2メートルの葛城山頂は雪解けをした泥だらけの南極基地のようで吹きさらしの風が冷たい。大阪側は煙っていて眺望が悪かった。二上山も途中の尾根道の茂みが邪魔をして見えないが、竹之内峠から約4時間ほどのコースである。時間があればもう少し山頂付近の、特に人気の少ない散策路をしみじみと味わいながら歩いてみたかったが、これほど本格的に積雪があるとは予想していなかったから子はきっと大満足だったことだろう。ロープウェイと駐車場代で家族三人で4千円ほどかかるが、家から小一時間で行ける手軽さも含めて、わたし的には遊園地やテーマパークへ行くよりもずっといい。季節によっては行きは下道をのぼって(途中で滝などもある)、帰りをロープウェイで下ってくるのもいいかもしれない。これまで何故か足を伸ばさなかったけれど、葛城山は四季愉しめる穴場スポットになりそうだ。

 帰りの車の中で子が急に「お風呂屋さんに行きたい」と言い出したので、いったん家に帰ってから、わたしと子の二人で郡山の旧市街にある銭湯・大門湯へ浸かりに行った(Yは大衆浴場が嫌いである)。商店街の入口にある一見和風旅館のような銭湯だが、小さいながら露天風呂もある。二人で520円。子はわたしに似てこういう場所は大好きだ。べらべらとひとりで喋りながら露天風呂や泡風呂、水風呂などを移動し、わたしの入っているサウナの扉を開けては「うわ、これはガツンとくる」とまたどこかの浴槽へ消えて行く。そうかと思えばどやどやと入ってきた土方のおっちゃんたちの会話にじっと耳を澄ましている。家に帰ってから、Yの焼いてくれるお好み焼きをつまみながら発泡酒のグラスを傾ける。まなうらにまだ銀世界の残像が残っている。佳き一日哉。

 

国民宿舎・葛城高原ロッジ http://www.katsuragikogen.co.jp/

大門湯 http://www5b.biglobe.ne.jp/~manimani/report/nara/koriyama-oomon.htm

2009.1.17

 

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 「紫乃が浣腸をしながら小さい頃のビデオを見たいんだって」 Yが苛ついた声でわたしの部屋に来て言う。「ビデオが出ないと浣腸もしないそうだから」 捨て台詞のように呟いてYは出て行く。わたしは居間へ行ってテーブルの横に不服気に立っている子を強く叱りつける。父に怒鳴られながら子は床に横になって泣き始める。Yが子の下着を脱がせ、浣腸の用意をする。いったん姿を消した父が戻ってきてテレビの前にしゃがむ。手にDVDを持っている。「駄々をこねたもん勝ちだわ」 Yが呟く。やがて始まったのはフィリピンのスモーキー・マウンテンでゴミ拾いをして暮らす子どもたちの記録映画だ。「おまえはお母さんにいろんなことを手伝ってもらわなきゃ満足にじぶんのことすらできやしないのに、そのお母さんに我が儘を言って困らせるとはどういことだ。そんなにビデオを見たいのならこれでも見ておけ」 

 浣腸が終わる。換気のために窓を開けたのに、子はお尻を出したままテレビの画面に見入っている。

 

□忘れれらた子供たち 〜スカベンジャー〜 http://scaven.office4-pro.com/

2009.1.18

 

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 満員の通勤列車と風呂の中で図書館で借りてきた広河隆一「パレスチナ・新版」(岩波新書)を読んだ。

 わたしは現在の中東問題の「概要」は大体理解していると思っていた。第一次世界大戦の折のイギリスの二枚舌外交から始まったイスラエル建国に至る経緯から幾度かの中東戦争、PLOの創立、インティファーダ(民衆蜂起)、オスロ合意、もちろん「神が約束の地を与え給うた」とされる二千年のユダヤ人の流浪と迫害の歴史、ナチスによる大量虐殺、イスラエルの社会主義的な共同農場・キブツなどのことも。

 著者の広河隆一氏は大学を卒業した23歳のときに、理想的なコミューンやユートピアといった言葉に惹かれ、共同農場・キブツを研修するためにイスラエルを訪れた。だが理想郷であるはずのキブツの外側で行なわれている、イスラエルの対パレスチナ政策に次第に疑問を抱くようになり、やがてフォト・ジャーナリストとして深く中東問題に関わっていく。

 目の前に破壊されたキャンプがあり、妙にさびしく広々と視いえる。すぐ手前では、壊れた水道管から水が流れ出している。水の一滴が血の一滴より貴重だといわれたベイルートで、のどをうるおすべき人間が一人も見えない今、美しい水が湧き出ていた。左の丘の上にイスラエル軍の監視所があり、そこからヘブライ語なまりのアラビア語が拡声器を通して聞こえてきた。あとで聞くと「住民は投降せよ」と呼びかけていたのだという。確かにDFLPともレバノン共産党ともいわれる少数のゲリラが、絶望的な戦いをいどもうと試みた記録がある。しかしそれはキャンプ住民、特に病院の医師たちによって制止されている。その後キャンプの人民委員会の長老たちが、白旗をかかげて、包囲するイスラエル軍およびレバノン右派民兵と交渉するため、シャティーラの入口の近くに歩いていった。そして彼らは、このユーカリの樹の左の坂のところで、至近距離から射殺されたのだ。白旗をかかげた老人を射殺する者の呼びかける「投降」とは、一体何を意味するのか。

 サブラ通りで、瓦礫とともにぐしゃぐしゃに砕けた男の死体が二つあった。その先に杖のころがったわきで、手を胸のところに固く握りしめる老人が一人、その近くのもう一人の老人の体の下からは、安全ピンを抜いた手榴弾が見えた。この死体にふれると爆発する仕掛けになっていると理解するまで、かなりの時間がかかった。道いっぱいに脳漿が吹き飛んで、そこにハエが群がる中で、私はぼうぜんと立ち尽くした。

 一人が、路地にうつぶせに倒れていた。男か女か分らないが、ハンカチを頭の上にかぶせてある。のちの証言によると、この人は頭をオノで割られたのだという。男たちが折り重なって倒れていたのは少し丘に上った土の壁の前で、そこには無数の弾痕が見えた。そして一軒の家の庭には、その家の住民と思われる女と子どもたちが、やはり瓦礫の上に投げ出されていた。一番上に幼児が、うつぶせになっているのは、おそらく叩きつけられたのだろう。さるぐつわをかまされた女性が、服をひきさかれて死んでいた。チェックのスカートの女の子が、手を差し伸べるようにして殺され、その隣りに歩いているような姿勢で殺された男の子は、首を針金のようなもので縛られていた。別のガレージには、縛られてトラックにひきずられてきた人々が殺されていた。背の低い小柄な老人が、胸の上に鍵を置いて死んでいた。パレスチナ人たちは、いつか故郷に戻る日のために、かつての自分の家の鍵をいつも持ち歩いている、という話を私は思い起こした。別の扉の前には、バドワイザーやコーラの空缶と一緒に、杖をついた義足の老人が体を丸めて死んでいた。

 しかし私が入ったときはまだ、キャンプの奥では虐殺事件が進行中だった。

 

 わたしは現在の中東問題の「概要」は大体理解していると思っていた。だがこの本を一読したいま、わたしは中東問題について何も知らなかったと言うほかない。あまりにも理不尽な理由で土地も仕事も生活も人間の尊厳さえも踏みにじられ、素手で投石をするしかないような人々を、イスラエルの国家は如何に非道に、狂信的に、虫けらの如く扱ってきたことか。そしてそれらの人々を60年以上も、この世界は結果として見捨ててきたということだ。

 ガッサン・カナファーニというパレスチナ人の作家(1972年、車に仕掛けられた爆弾で死亡)が「彼岸へ」と題した作品の中でひとりのパレスチナ人男性にこう語らせている。

なにがいまわしいかって、自分に“それじゃあ”っていう先のことが、からっきし与えられてねえってことがわかったときくらい、無残なことはねえですよ。気が狂うんじゃないかと思うくらい、うちのめされちまいますよ。そのときその人間の口からは、ほとんど聞きとれぬくらいの声の独り言がもれてくるんですよ。「これで生きてるっていえるか? これなら死んだほうがましだ」

それから何日かたつと、その声は大声に変わってわめきはじめるんですよ。

「これでも生きてるっていえるか、死んだほうがまだましだ」ってね。人間ってのは普通、死ぬことを、それほど好きじゃあないもんですよ。それで、俺たちは他のことを考えざるを得なくなるんですよ」

 

 羽根も手足ももがれた蝶のように、ことごとくの権利を蹂躙され続けてきた者が、絶望し、絶望し、さらに絶望し果てた末に洩れ出る言葉。安全な場所に立って、「どんな理由であれ、自爆テロはいけない」と言うことはほとんど詐欺に等しいし、事の本質をすりぬけてしまう。絶望し、絶望し、さらに絶望し果てた精神が「“それじゃあ”っていう先のこと」を希求したその先に出現する唯一の選択肢としての「行為」。10代のうら若き少女が自爆テロで自らを粉砕することの絶望と希求に、いったい世界のだれが、届けるだろうか。

 テルルメイダ入植地の周囲には、軍の基地があった。ヘブロンではほんの400人のユダヤ人入植者を守るために、2000人の軍隊が動員されていた。その裏側に旧約聖書時代のユダヤ人ルツの墓があった。ここからイブラヒム・モスク(マクベラの洞窟)が見渡せた。

 私に付いてきた入植地の男の子に聞いた。イェディディヤ・ベンイツハック、10歳である。

-----もっと静かな暮らしをしたいと思うかい。

「うん」

-----それには、どうしたらいい?

「アラブ人をここからおっぽり出してしまえばいいのさ」

-----でも、ここに住んでいるユダヤ人は400人で、アラブ人は12万人なんだよ。どうやってアラブ人を追い出すつもりだい?

「やり方は、いろいろあるさ。例えば、みなが逃げて行くように、何人か殺してやるとか」

-----でも、人を殺すのはいいことかい?

「人を殺す奴を殺すのは、いいことさ」

-----でも、みなが人殺しというわけじゃないよ。

「みなが、その共犯さ」

(以上引用はすべて広河隆一「パレスチナ・新版」(岩波新書)より)

 

 あの9.11のときにも記したが、いわゆる先進国の冨と繁栄の象徴であるツインタワーが世界の大いなる偽善のもとに聳え立っていたのであれば、ニセモノの平和よりも瓦解してしまった方がいっそ、良い。わたしは以前にも増して、そう確信する。同時にこの「パレスチナ・新版」を読んだわたしは、これから読もうと本棚に並べていたあのナチスによる強制収容所でのユダヤ人の絶望と希求の物語を読み続ける気が急速に萎えてしまったことを告白する。あれほど悲惨な運命を負わされ、それに耐え、ときには人間性の気高い光を輝かせたイスラエルの人々が、いまはほとんどナチスと同然のことをパレスチナの人々に対して行ない続けているという現実を、わたしは容易に理解できない。きっとわたしはアウシュビッツを訪ねて老いたユダヤ人から当時の体験を聞かされたとしても、心の隅でしらけてしまうと思うのだ。所詮、人間はその程度のものか、と絶望する。

 最後に広河氏が自ら編集しているフォト・ジャーナル誌「DAYS JAPAN」のサイトに掲載していた一文を引いておく。世界は嘘のかたまりだ。

 

●メディアとガザ報道


ガザ報道に携わるメディア関係者及び
その報道に接する人々へ

私はこの40年間、中東問題を専門に取材・発表してきました広河隆一といいます。岩波新書「パレスチナ新版」、「広河隆一アーカイブス・パレスチナ1948NAKBA」DVD(30巻・45時間)を発表し、月刊誌「DAYS JAPAN」の編集長をしています。
私は今回、メディアのガザ報道について、看過できない点が多くあり、大勢の人々が亡くなっている事件でもあるため、それについて私の意見を申し上げたくて、この文章を書きました。

1 イスラエルによるガザ攻撃の原因はハマスが作ったという報道について。
「ハマスは自爆テロで90年代から数百人のイスラエル人を殺害、ガザからイスラエルへのロケット弾攻撃をくり返し、イスラエル軍の報復攻撃を招いた」(朝日新聞2009年1月6日 時時刻刻 きょうがわかる 「なぜガザを狙ったのか」)
2  地球防衛家のヒトビト(朝日新聞4コマ漫画2009年1月8日)
内容は、まず小さな子が大きな子に「コノヤロー ポカ」と殴り、次のコマで大きな子が「あっ いてー やったなー おかえしだーっ ポカ」と殴り返し、それを大きな子の父親が見て「ワッハッハ」と笑い、3コマめでその父親が「相手が手を出してきたら100倍にして返してやれ」「ワッハッハ」と笑い、4コマめで、ポカポカ殴り続ける大きな子とあおる父親を見て、「まるでアメリカとイスラエルのような親子だな」と夫が言い、妻が「笑ってないで止めてやりなよ」というと言うものです。
この漫画はよくできていると思いました。しかし最初に手を出すのが「パレスチナ側」と描かれています。

こうした考えは、朝日新聞だけでなく、ほとんどのメディアに共通しています。イスラエルは自爆攻撃やロケットの攻撃で大変な犠牲を払い、たまりかねて今回の空爆と侵攻に及んだ、となっています。しかし事実はその通りなのでしょうか。アメリカ政府も「ロケット弾攻撃が中止されない限り、イスラエルは攻撃を停止する必要がない」と言ってきました。
朝日の解説記事では、自爆攻撃がハマスのせいのように書かれていますが、実際のところ自爆攻撃はハマスだけでなく、ファタハやそのほかの勢力によっても行われました。
またそれらの自爆攻撃も、いつも理由なしに殺戮を目的として行われているわけではありません。日本のメディアは「自爆テロ」と呼びますが、「自爆テロ」という言葉は、日本の造語で、英語では「自爆攻撃」「自殺攻撃」と呼びます。攻撃対象が占領地の中のユダヤ人入植地や検問所のイスラエル兵であった場合などは、海外では「テロ」とは呼ばない場合が多いのです。もちろん市民を対象とした自爆攻撃も多くあり、それがテロであることは言うまでもありませんが、その引き金をイスラエルが引いた例も多くあります。つまりパレスチナ側がイスラエルに殺害されて、その復讐で自爆攻撃を行った場合が多いのです。
だからイスラエル人が一方的にハマスの暴力にさらされてきたという解説のし方は、占領という暴力の中で、大勢のパレスチナ人が殺害されてきた事実関係を調べていないことになります。

次にロケット攻撃の問題です。今回のガザ攻撃の理由となったのが、ハマスのロケットであると、各紙、テレビ局が報道しています。しかしイスラエルがロケット攻撃を一方的に浴びたかのような朝日新聞の解説に反して、ガーディアン紙、AFP通信、ロイター通信などは、砲撃がイスラエル軍の挑発によるものだった例を報じています。たとえばAFP通信を紹介しましょう。
「イスラエル軍が(2008年11月)4日夜から5日朝にかけてガザ地区に侵入し、ハマスと戦闘になり、ハマス6人が殺害された。その後イスラエル軍の空爆により、ハマスにさらに5人の犠牲者が出た。ハマスは4日から5日にかけて、ガザ地区からイスラエル南部に向けて、ロケット弾と迫撃砲弾合わせて53発を発射したと発表した」(2008年11月5日、AFP通信)
「(2008年12月)23日夜にパレスチナの戦闘員3人がイスラエル軍に射殺されたことを受け、パレスチナ自治区のガザ地区を実効支配するイスラム原理主義組織ハマスなどが、23日から24日にかけて、イスラエル領内に向けてロケット弾70発以上を発射した。イスラエルとパレスチナ当局者によると、ロケット弾の一部はガザの北13キロのイスラエル・アシュケロンの住宅などに着弾したが、負傷者はいない」(2008年12月25日、AFP通信)
 
ではロケット弾で、イスラエル側に大変な犠牲が出ているために、今回のガザ攻撃が行われたかのように伝えられている点については、正しいのでしょうか。それほどハマスのロケット弾はイスラエルに多大な犠牲を与えたのでしょうか。

パレスチナ側の犠牲者について述べると、2006年1月のガザにおけるハマスの政権支配以降、今日のガザ空爆直前までのイスラエルの攻撃によるガザのパレスチナ人死者数は、446人です(英ガーディアン紙)。一方のイスラエル側は、ロケット弾でどれだけの犠牲者を出したのでしょうか。
 同じ時期、2006年1月以来、今日のガザ空爆直前までのガザからのロケット弾によるイスラエル人の死者数は、イスラエル首相官邸ホームページを見ると次のとおりです。http://www.pmo.gov.il/PMOEng/Communication/IsraelUnderAttack/attlist.html(場所の名前をクリックすると、詳細が表わされます)
 2006年11月21日 1人
 2007年5月21日 1人
    5月27日 1人
 2008年2月27日 1人
    5月12日 1人
    計 5人  
このほか迫撃砲により2004年から2008年12月までに2人が死亡しているということです。また同時期の負傷者数は、同じイスラエル首相官邸のホームページでは1人でした。特筆すべきは、イスラエル空爆までの半年間に、ハマスのロケット弾による死者は1人も出ていないということです。

ロケット攻撃がイスラエル人にとって恐怖でないと言うつもりはありませんが、それを記事にするなら、大勢の犠牲者を出し続けたイスラエルのミサイルや砲撃、爆弾にパレスチナ人がどれほどの恐怖を抱いてきたかについても言及すべきでしょう。パレスチナ人446人が殺害されているときにイスラエルのロケット被害が5人であった情報を得ることは困難ではありません。イスラエル首相官邸のホームページを見ればいいのですから。それなのにハマスのロケット攻撃がイスラエルをガザ全面攻撃に踏み切らせたと解説するのは正しいのでしょうか。パレスチナ側に千人近い犠牲者を出さなければならないほどの被害をイスラエルは受けたと言えるのでしょうか。
「ロケット弾攻撃を繰り返し、イスラエルの攻撃を招いた」という解説、すべてハマスがまいた種、責任はハマスにあるといわんばかりの解説を、大手メディアが行っていいのでしょうか。

さらに言えば、ガザの報道をするときに、そもそもなぜこんな問題が起きたのかを、きちんと解説するメディアが非常に少ないことは、残念です。この間のガザ封鎖がどれほど非人道的なことで、人々はどれほど追い詰められた生活をしていたか、1967年から始まるイスラエルによる占領支配、そしてさらに1948年のイスラエル国家建設とパレスチナ難民発生(アラビア語で「大惨事」を意味するNAKBAという)から問題を説き起こす記事が非常に少ないのにも驚かされます。
ガザの犠牲者たちのことを正しく伝えなければならないメディアが、攻撃する側に追随したと思われても仕方ない報道をし、しかも問題の原因を無視している状態では、情報を受け取る側は、正しい判断ができなくなると思うのです。このような状態では、攻撃による被害者をどのように報じようと、大手メディアはイスラエルの攻撃と殺戮をどこかで後押ししているといわれても仕方がないのではないでしょうか。

ガーディアン紙の報道(2009年1月12日GMT7時49分)によるとパレスチナ人死者は少なくとも884人(うち半分は女性と子ども)、イスラエル人死者は13人(うち市民は3人)となっています。

この文章は、DAYS JAPANブログに掲載するとともに、メディア各社報道部・外信部にファックスさせていただきました。



2009年1月12日
DAYS JAPAN編集長 フォトジャーナリスト
広河隆一

 

HIROPRESS.net 広河隆一通信 http://www.hiropress.net/

DAYS JAPAN http://www.daysjapan.net/

DAYSから視る日々 http://daysjapanblog.seesaa.net/

2009.1.21

 

*

 

 寝袋持参・泊り込みで現場指導へ行った明けの帰り、大阪に立ち寄って、阪急梅田の百貨店で個展を開いているはるさんの絵に会いに行った。古代の地層のような洞窟の暗がりの濡れた岩盤のようなキャンバスに、鉱物の来歴を物語るために湧き出て来たかのようなさまざまな人物たちがいた。縄文のビーナスのような太った女もいれば、一輪車の上の危ういバランスを保っている道化師もいる。楽器を奏でる孤独な漂泊者もあれば、眠っているようなインカの少女たちのミイラもある。いちばん大きなキャンバスの中央には、染みのような放射能で焼きついたヒトガタのような妙に背の高い人物が浮き出ている。画家はさいしょ、ここにはマリア様を描いたのだと教えてくれた。けれど明確なマリア像がしっくりとこなかったので削り落としていった。するとこんなふうになった。ある老人の客は仏様だと言った。画家は天を見上げる男性だと言う。わたしにはどう眺めてもうつむいた優しげな女性にしか見えない。つまり、ひとはきっと、作品の中にじぶんの心のかたちを見つけるのだ。はるさんの絵の描き方は一風変わっている。キャンバスの上に粗布や絵の具や木片や襤褸切れなどを塗りこめて、それらを削り、また塗りこみ、また削り、その果てしない繰り返し(格闘)のうちにキャンバスの中からやがて何かの形らしいものがぼんやりと見えてくる。まるでハレの日にいずこより訪れるまろうど(客人)のようだ。世界にはそのようにしか得ることのできないものがある。じぶんを削り落としていきながら、最後には、受け取るための手を差し出すだけでいい。気がつけば、それは手のひらに、乗っている。はるさんの絵は、自転車を颯爽と乗り回す人物も、楽器を抱いた楽師も、互いに寄り添う人物も、樹や白壁や窓、緑や真紅や金色の顔料さえも、すべては祈りのかたちなのだと思う。祈る、その始原の場所をさがしているもとめている絵だ。「こたえてください」のタイトルも画題も、それを端的に顕している。ひとは画家の絵を見つめながら、知らぬうちにじぶんの祈りのかたちを探し始めて、ときにもがく。その日、わたしはついに祈りのかたちを見つけられなかった。夜、家に帰ってからネットで見つけたガザの空爆で死んだ子どもたちのむごたらしい写真を子に見せた。子は思わず顔をそむけた。彼女には大きな負担だったかも知れない。それでもわたしは堰を切ったダムの水のように、風呂の中で、布団の中で、子に、ユダヤ人の歴史からアウシュビッツの惨劇、そしてイスラエルの建国、パレスチナの長くいまだ終わることのない絶望の風景を深夜の11時まで喋りつづけ、日頃就寝が遅いことを気に病んでいる彼女の母親にひどく叱られた。どうしたらいいの? と訊いてくる子にわたしは、どうしたらいいか分らない、としか答えられなかった。「こたえてください」とは、天に唾するようなものだ。それでもひとは祈る。所詮、祈りつづける。

 

画家・榎並和春 http://www2.journey-k.com/~enami/topindex.html

2009.1.22

 

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 もとの職場の会議のついでに、先に退職したYくんの家の近くにある田原本の洋菓子店「ら・くら」でシュークリーム15ヶ、プリン15ヶ、スイートポテト10ヶ入り二箱を買って、管理事務所・警備・設備・清掃・ゴミ処理・インフォメーションに挨拶回りをした。ぜんぶで一万円近くしたが、6年近くこの店でお世話になったお礼の気持ちだから気にしないことにした。事務所の女性のNさんやGさんは「わあ、ら・くらのプリンだ」と歓声をあげるが、マネージャーのEさんは「手切れ金だから受け取っちゃだめですよ」と笑う。「でも、欲しい〜」とNさん・Gさん。「手切れ金ですので、どうぞ受け取ってください」とわたし。

 年末から館内の新人隊員として入ってきてみなに叱られ続けてきたKさんが昨夜、奈良の営業所に電話をかけてきて「じぶんには無理なので辞めさせて欲しい」と言ってきた。その前の晩に、電話で依頼されたトイレの照明場所を何度も間違えて事務所のマネージャーから「そんなことで緊急時に動けるのか」とひどく叱られたという話も聞いた。夕方の会議が終わった頃に出勤してきたKさんと営業所のOさんがしばらく話しをして、今月一杯、ということになった。Kさんはひどく暗い顔をして、わたしに「すみません」とだけ言って黙りこくった。いまの時代に新しい働き先を探すのはきっと大変なことだろう。かつてのじぶんを見ているようだ。いったん帰ったはずの営業所のOさんが戻ってきて、「これを、Oさんに」と手にした袋を差し出す。ディズニーのキャラクターの紙箱に入った菓子詰めふたつは、まだ幼いKさんの二人の娘さんへのOさんの心遣いだ。Oさんが帰ってから、巡回から戻ってきたKさんに渡した。Kさんは袋の中を覗いた姿勢のまま立ち尽くした。「Oさんの気持ちだから、もらっておきなよ」とわたしは言った。

2009.1.23

 

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 不況の波がショッピング・センター(SC)に常駐する警備員にも届き始めている。つまり警備員の削減要請だ。しかも「可能な限り」。昨日の夕方、巡察先の現場から急遽呼び戻されて、部長から少々複雑な隊員の時間単価計算の説明などを聞いた。24時間勤務を削減のため日勤や夜勤のシフトに変えると、仮眠時間や残業・深夜手当ての諸条件が変わるために単価が上がる。つまり単純に時間を削っても単価も上がるので、隊員の稼働時間が減って金額はそれほど下がらない、というわけだ。契約先とどこで折り合うか、という話。どう転ぶにしろ、人員削減は免れないし、現場で働いている人たちは単価を下げられるか、あるいは幾人かが仕事先をなくすことになる。

 昨日は大阪府内の某SCで定例会議だった。以前書いた記憶があるが、息子さんが北海道の富良野塾に行っているというTさんが昨年末、夫を介護している母親が交通事故で突然亡くなり、家を継ぐために古里の長崎に帰るということで退職していた。代わりに入ったAさんはわたしとほぼ同世代で、長年システム・エンジニアの仕事に関わってきたが、ここ数年関西ではぱったりと仕事が入らなくなり、警備員になったという。別れた奥さんと暮らす小学校6年生になる子供さんがいる。そのAさんとひとしきり、会社のアナログな現行システムについて盛り上がった。こういうスキルのある人がSCの、ほとんど守衛さんのような単純な受付業務をしているのは実にモッタイナイことだと思う。アバウトに計算してAさんの給料は月額20万円前後程度だ。そこから保険や税金を引かれたら生活はかつかつだろう。

 

 辺見庸の記した「思考が戦闘化する」ということについて考えている。といっても、常時というわけには行かない。日常のこまごまとした事柄が感覚をすり減らしてしまい、気がつけばガザで死んだ子どものことなどすっかり忘却している。あのひりひりとした痛みの感覚を、つり革にぶら下がった満員電車のなかでふたたび思い起こすには、努力が必要だ。感覚が麻痺することによって、中心概念はいともたやすく目先の事象へと移行し、視野は狭まる。中心概念のずれた、狭窄的視野の中で、人はじきに充足を覚える。

 だがそれはきっと、ほんとうの意味での充足ではないのだ。ぼんやりとしたイメージしかないのだが、人は同時にもっと大きな存在につながっている必要がある。心の隅のどこかで、実はそれを切実に欲求している。そんな気がする。ガザの空爆で死んだ子どものことを考えるのは、じつはほんとうの意味での充足を求める心の働きなのかも知れない。

 狭窄的視野から脱するためには、ある程度の余裕が必要かも知れない。ではガザの空爆で脳漿を吹き飛ばされた子どものことを考えるのは、たとえばトットちゃんのような親善大使でしかありえないのか。ブラジルのあるインディオが言っていたこんな言葉を思い出す。「貧しい人々がやさしいというのは不思議だよね。バナナを二本持っている人は、請われればその一本を分けてくれる。だけど、トラックいっぱいに持っている人はバナナを分けようとしない」 「わたし」はトラックいっぱいのバナナは持っていないが、二本のバナナくらいならあるだろう。

 じぶんに子どもができてから、子どもの悲惨な場面にひどく敏感になった。子がまだ赤ん坊であった頃、図書館のカムイ伝で百姓一揆の見せしめに処刑される赤子のシーンを読んでいて、あわてて家に帰ってわが子の無事を確かめた。理不尽な、何の云われもない空爆で、一瞬にしてもう二度と笑うことない存在となり果てた幼いわが子を抱える父親は、わたし自身である。わたしは怒りで息が止まりそうになる。わが身が粉々になったような絶望が腹の中で渦を巻く。そのとき、子は子でありながら同時に多面的存在である。わが子から伸びたシナプスのような細い神経細胞が中東の名も知らぬ哀れな少女につながっている。シナプスは狂ったように電気的情報を送りつけてくる。

 行為が戦闘化するのではない。思考が戦闘化するということは、どういうことだろうか。おそらく意識の中で、あの阪神大震災のような天変地異が起きて整然と広がっていた町並みはすべて焼け野原となって灰燼に帰してしまう。ライフラインは止まり、行政は機能せず、誰も何も肩代わりをしてくれない。判断も価値も与えてくれない。かつて60年代にディランはこんな歌を歌った。“But to live outside the law, you must be honest” このアウトロー(無法者)の意識はこのとき戦闘化せざるを得ないないのではないか。だとしたら、意識の戦闘化とは、無法地帯の誠実さと裏表ではないだろうか。すべての楔が反古となったとき、人は何によって立つのか?

2009.1.27

 

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 火曜は子の半年に一度の泌尿器の検査だった。撮影のための液を膀胱に注入してのX線撮影と、子宮内の胎児を見るのとおなじ造影機器での検診。検査は前回と同じく「悪くはない」。「できたらもう少し膀胱の壁が柔らかかったらいいけれど」現在服用している薬の量はこれ以上増やせないから仕方ないな、というのも前回と同じ。今回、M先生の申し出で、毎月の尿の検査をこれまで大阪の病院で診てもらっていたのだが、わが家の近所で二分脊椎症の経験も多い、先生の後輩にあたる医師がいるので、そこで受診が可能なら紹介状を書いてくれるということになった。これはYにとっても大助かりだし、子もわざわざ平日に学校を休まなくていい。(後日、Yが子の通っていた幼稚園の近くのその病院へ訊いてきて、カテーテルや薬などの手配があるので3月くらいから受診可能との返事を頂いた) 待合室でYに話しかけてきた、以前に面識のあったおなじ病気の子どもを持った若い母親がいた。子どもが1年生にあがるときに自己導尿を覚えるための入院を申し出たら、M先生に「〇〇紫乃ちゃんを知ってますか? 〇〇さんとのころはお母さんが教えてひとりで出来るようになりましたよ」と言われたとの由。それで挑戦をしてみたのだがうまくいかず、結局トレーニングのための入院をしたそうだ。その母親が立ち去ってから「なにか、苦労して教えたことなんてあったっけ?」とわたし。「ううん、紫乃はいちど教えたら、もう次からはじぶんでできた。“ほら、そのしっぽ(陰核の事也)の下だよ”って言ったら、(カテーテルが)するっと入った」とY。

 今日は一日デスクに張り付きPCと睨めっこ。夜遅くにようやっと部長から依頼されていた名古屋の物件の警備計画書を作り終えた。昨日は昼に最寄の警察署へ所用があって、ぽかぽかとした淀川沿いを散歩して、河川敷でひとり家から持参したおにぎりを頬張った。しゃがんだ姿勢のまま凍りついて死んでいる子犬が横倒しになっていた。蝋人形のようなその硬直が、逆に生々しかった。ディランの Cold Irons Bound はある種の気分を的確に現している。鉄を呑み込むことで立つことができるような。疲れているはずの深夜の電車の中で、何故かしっくりと肉体に馴染む。鍛冶屋が熱い鋼を叩いているようなリズムは、「おれのハンマーが風を吸い込んでいるだけさ」と言ったジョン・ヘンリーかも知れない。この曲はディラン・ナンバーのなかでもっと評価されていい。おれたちはもっと鋼を叩いたらいい。ハンマーが風を吸い込むほどの激しい、喰らいつくようなリズムで。

 アマゾンから中沢新一「聖霊の王」(講談社)が届いていた。はからずもこの国の芸能の始原をさまよい出した頃に、図書館で偶然見つけた水本正人「宿神思想と被差別部落 被差別民がなぜ祭礼・門付にかかわるのか」(明石書店)を経て(著者が教職を務める愛媛の県立高校の紀要に掲載した論文は、わたしの求めているコアな部分をそのままかき集め凝縮したような内容で、名著というに相応しい。何とか手に入れたいのだが、現在絶版。古書で1万円の値がついている)、猿楽や能、翁面、後ろ戸の神、ささら説教、猿回しといったキーワードからこの中沢氏の話題の著書にたどり着いた。

 

2009.1.29

 

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 子が風邪を引き、昨日は38度、今日は39度の熱。Yも咳が酷く、どうも道連れらしい。昨日からほとんどYの拵えた粥しか食べていないが、案外と本人は元気そうで、なかなか大人しく寝ていない。寝かしつけようと昼は内田百閧フ「冥途」の掌編を三つほど、夕方にチャペック氏の「園芸家12ヶ月」を、夜にカザンツァキの「アシジの貧者」を読み聞かせたが、「面白くて眠れないよ〜」なぞと仰る。

 昼間はデスクトップのPCを御開帳して、メモリの型などを調べる。マザボからの予想通りSDRAM/DIMMの168pin(PC100/CL2)と判明。これを元にメモリ増設のため、ヤフオクに参入する(512MB×2枚)。現在の128MB×3枚はちと厳しいのだ。ついでにアドビのAcrobatの古いマニュアル書をアマゾン古書で注文する(561円) 。そんなことをしているうちに、Yのノートが無線LANを検出しなくなった。あれこれと調べて、ヤフーのサービスへ電話を入れ、結局、ヤフー提供のルーターを交換することとなった。半年前に取り替えたばかりだぞ、おい。

 昼間はYが肉味噌うどんをつくり、夜はわたしが鶏肉のステーキをつくる。切らしていたニンニクを買いに行った車の中で、ライヒの美しいヴァイオリン曲を聴く。

 昼間、「今夜、辺見庸さんがテレビに出るよ」とYが教えてくれる。新聞の番組欄で確認して「これは録画しなくちゃな」と呟く。夜、風呂の中で思い出して、慌ててパンツを履いてビデオをデッキに放り込む。ピースケの鳥籠に就寝用の布をかぶせてやるのを忘れていたことに気づいて、かぶせた布の隙間から暗くなった籠の中の様子をしばらく眺めていた。

 こんどは石川県への火消し役出張の話が浮上している。どうも、行くらしい。

2009.2.1

 

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 送料込み約5千円で落札した1G(512MB×2枚)のメモリを早速夜中に入れ換えたところ、何やら見たことのないXPのエラーが続出して、一時はOS起動不能状態にまで陥った。何とか元のメモリで立ち上がるまでにはなったが、それでも起動中に何度か止まってしまう。メモリの相性が悪いのか、取り付け方が悪いのか、BIOSをいじったり、メモリをクリアしたり、復元ポイントを実行したり、あれこれと試行錯誤が続いている。が、休日でもなければまとまった時間を割くことも難しい。一度、どうにも起動しなくなったときは、まあいいか、このまんま生活からいちどPCがなくなる(職場は別として)のも、それはそれでいいきっかけかも知れないな、なぞと思ったりした。ほんとうに書きたいことだけを、誰も知らない場所で爪に火をともすように、紙と鉛筆で書き続けたらいいんじゃないかとも思ったりした。どこぞのいっぱしのプログラマーのように毎日PCの画面を見つめて図面を作成しているような職場を離れて、チェーンソーで樹を刈ったり土を耕したりする生活の中から生まれてくる言葉の方が、いっそましではないかと考えたりもした。

2009.2.4

 

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 やっとPC環境が回復した。冥府の底を漂うような果てしない迷走の旅であった。話せば長くなって面倒なので簡単に云えば、ヤフオクで落札したバルク品メモリ二枚のうち一枚が不良品であったこと、PC内蔵のCD-ROMが逝ってしまっていたこと、ワイヤレス・マウスの電池が切れていたこと、電源ボタンの接触不良が起きていたこと、同一メーカー製の外付けHDDと外付けDVDがデバイス上でバッティングを起こしていた(らしい)こと、XPをCD起動するために(どうやら)USBキーボードは不可であること、もともとウィンドウズのシステム自体が少々不安定になりかけていたこと、これらの諸要件が機を一にして重なり発生したため、作業はひどく難航したが、昨年末に退職したわがPCマスターのY君が新しい内臓DVD持参で駆けつけてくれ、半日つきあってくれたお陰で最終、XPを新規インストールし直して、512MBの新規メモリ一枚も取り付け、どうやら元の状態にまでこぎつけたわけである。不良品のもう一枚のメモリは一週間の保証期間内であるため交換をしてもらい、うまくいけば予定通り、1Gのメモリ増設もかないそうだ。せっかくの貴重な連休がほぼこれらの作業で消費されてしまったけれど、ま、PCを使っている限り、こうした手数は致し方ないのだろうな。嫌な顔ひとつ見せず馳せ参じてくれたY君にはひたすら感謝・感謝である。これだけ辛酸を舐めながら、Y君の話を聞いているうちに、こんどは新しいマザーボードから組み直してみようかしらん、などと思い始めているわたしは実に単純なものだ。PCというものは深みに嵌るほど中毒になる。

 夜、風呂の中で子と「神さまはほんとうにいるのか?」という話をした。世界中にイエス様やアラーの神や仏さまやインドの神さまや、いろんな神さまがいるがそれについてはどうかと問えば、「前にお父さんとお母さんが見ていた映画に、たくさんの男の人にいろんな名前で呼ばれていた女の人が出ていたけど、あれみたいじゃないかとわたしは思う」と子が答えたのには驚いた。

 昨日は昼に家族三人で「いごっそう」のラーメンを食べに行った。汁を一口呑んだとたん、体中から「ほーっ」と湯気のような声が沁み出す。これだよ、これ、と腹の内から知らず喜びが湧き出てくる。いつものように「一生懸命(一生命を懸ける)」の親父さんの動きをカウンター越しに見やりながら、麺を啜り込む。本気の心はラーメン一杯で伝わる。本気の伝わらない、寒いだけの食い物がどれだけ巷に溢れていることか。矢野顕子が「ラーメン食べたい」と歌うとき、ラーメンは一篇の気高い詩なのだ。食べ物とは本来、そういうものだ。一篇の詩を、本気を、食べる。

2009.2.8

 

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 ----と思ったら、交換で届いたもう512MBメモリを挿したところ、またもや起動不能状態に。マスターY君によれば、ひょっとしたら電力供給が両面実装1Gではオーバーだったのかも、と。あるいは電源スイッチの不良も考えられるが、再度512MB一枚に戻してCmosをクリアをしても復活せず、もはやわたしに出来ることはない。次の休日にまたマスターY君の到来を待つ。とりあえず、埃まみれだったMacを久しぶりに立ち上げ、削除してしまっていたHP作成とFTPのソフトを入れ直して、やっとサイトの更新ができるようになった。

 ここ数日は終日PCの前に座り、名古屋の新店の計画書をこせこせとつくっている。名古屋にも本部があり、担当者がいるのだが、経験者がおらず一向に進まないので、お前すこし手伝ってやれとの部長からのお達しである。一日の仕事を片づけて会社を出て、地下鉄の駅までいつも淀川沿いの遊歩道をしばらく歩いてくるのだが、このときにふり返って見る淀川の光景は、昔の石造り風の橋の下に高層ビルの明かりが色とりどりのビー玉のように映って揺らぎ、かつての水都の面影を彷彿とさせて美しい。

 ところでしばらく前から愛読しているサイト「おっとせいのきらひなおっとせい」。この管理人氏の勤めているらしい職場が最近新聞紙上で槍玉にあがっているのだけれど、それについて特別感慨といったものはない、なぜなら職場は職場であって己の実存に重なっている部分が殆どないからだ、と書いていた、そのあっけらかんとしたスナオさを面白いと思った。しかしよく考えてみればそれは至極当たり前のことであって、職場が己の実存と多少なりとも重なっている人は寧ろ仕合わせだといえるだろう。わたしにしたところで現在の職場は、まあまあ面白い部分もあっていまのところ続いているけれど、生活の保証と家族の同意とほんのすこしの勇気と気概があれば、明日から山仕事で汗を流したり、茅葺き職人になったって別段にいいわけだ。その方がおそらくわたしの実存に近しい。けれどそれほどの勇気も気概もわたしには欠如しているので、いわば場当たり的な惰性で現在の職場にいるのが正確な実状といえる。そもそも一握りの幸運な人を除いて、世間の大方の人は「職場は職場であって己の実存に重なっている部分が殆どない」のだろうし、逆に云えば「重なっている部分が殆どない」職場にわずかな実存を無理くり重ねようとするから詰まらぬ錯誤が発生するのではないかとも思えてしまう。そういう意味では「職場は職場であって己の実存に重なっている部分が殆どない」と言い切るのは大切なことだし、それを見失わないことによって日々見えてくる様々な風景もきっとあるだろう。そういう意味でわたしは「おっとせいのきらひなおっとせい」氏の物言いを好ましく思ったのだった。

 

おっとせいのきらひなおっとせい http://ottosei.com/

2009.2.11

 

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 今朝起きたら、PCモニタにマザーボードの画面が映っていた。夜中のうちに人知れず起動したものらしい。やはりスイッチの接触不良か。CPUが更新されているからCmosSpeedのSetUpにてBeforeで保存をせいなどといった命令文が出ていたが、これは電池を抜いてCmosをクリアしたからだろうと勝手に判断して、いつものようにBIOS画面の設定をしたらふつうに立ち上がった。いったん電源を落としてスイッチ・ボタンで再起動しても正常に動作する。もう一枚の512MBのメモリの方は、これ以上のトラブルはうんざりなので試みにMACの方へ装着したところ、両面実装の片面分(つまり256MB)で認識してくれた(MACは他に64MB×3枚)。かくてウィンドウズのメモリ1ギガ計画は潰えたものの、ウィンドウズとMAC仲良く500MBになって、ここらで手打ちとしようか。

 水本正人「宿神思想と被差別部落 被差別民がなぜ祭礼・門付にかかわるのか」(明石書店)を読了し、松岡正剛「白川静 漢字の世界観」(平凡社新書)を読了し、図書館のリ・ブック・フェアでもらった松本哉「永井荷風という生き方」(集英社新書)をいま週刊誌のように読んでいる。言問橋、南千住、青砥、荒川、懐かしい名前が出てくる。荷風が下町の川べりを歩いている風情が好きだ。かれはモネの絵のような感性の持ち主だったのかも知れない。荷風のような散策をしたくなった。

 朝7時、駅の改札口前でこのごろよく政治屋が演説をぶっている。こんな出勤の最中にゆっくりと耳を傾ける余裕のあるサラリーマンなどいるはずもない。おそらく片言しか耳に入らぬだろう。ではかれらは誰に何のために喋っているのか。不思議で仕方ない。今日も終日せっせとPCをいじくって、夕刻にやっと計画書を仕上げて名古屋の本部にメールで送信する。明日の定例会議で使うのだ。解説はまた明日の午前に電話で引き継ぐこととする。6時になってコートを片手に「お先に」と挨拶すると、え、もう帰るの、といったいくつかの顔に出食わす。やることを終えたらさっさと定時で帰るのだ。だらだらと居続けるだけが能じゃないだろ。それほど仕事好きでもないし。帰りの御堂筋線でモノノケ中川サミットの歌う「インターナショナル」「アリラン」「ダンチョネ節」「安里屋ユンタ」「もずが枯木で」「カチューシャの唄」「有難や節」に耳を傾ける。「革命」ということばは春の隅田川か、ミシン台の上の狩猟ナイフか。だがこれらの歌には誤魔化しようのない、ずぶとい反骨の動脈が紛れもなく波打っている。「荷風先生、一言・・・」と言い寄った文学愛好者の名刺を目の前で破って捨てたというエピソードは痛快だね。イメージ世界を打破せよ。

2009.2.12

 

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●2年生保護者のみなさんへ ・ 生活科の学習についてのお願い

 厳しい寒さが続いていますが、お元気でお過ごしのことでしょうか。さて、先日は、小さかったころの写真や思い出の品物などいろいろ持たせていただきましてありがとうございました。

 子どもたちは、写真や品物、そしてお家の人にいろいろ聞いてきたことをもとに、成長の様子を「ぼく・わたしのものがたり」として、現在まとめる活動をしています。

 つきましては、お願い事が続いていて誠に恐縮でございますが、今日持って帰りました用紙に、お家の人からお子さんに温かい励ましのメッセージを書いてあげていただきたいと存じます。

 主に書いていただくのは、次のような内容です。

 ・お子さんのことをどれだけ大切に思っているかをエピソードなどを織り交ぜながら具体的な言葉で書いてあげてくだあい。

 ・今後、お子さんにどのような人になってほしいかと願っておられることも入れてください。

 ・その他、励ましの言葉など。

 お忙しいところ申し訳ございませんが、この学習の主旨をご理解いただきまして、なにとぞよろしくご協力のほどをお願いします。

 

 

 

○愛する紫乃へ

 紫乃の病気のことがわかって、お父さんとお母さんは世界で一番偉いお医者さんにみて頂こうと死にものぐるいであちらこちら探しました。どんなに遠くても、たとえ外国であっても行こうと思っていました。

 幸い、国内それも大阪に先生が見つかり手術をしてもらうことになりました。最初の手術は12時間かかりました。小さな紫乃のために何人もの先生が12時間もかけて難しい手術をしてくださったのです。終わったときにはお母さんは感謝の気持ちで胸がいっぱいで涙があとからあとから流れ出、先生方に何度も何度も頭を下げました。

 赤の他人の先生方がこんなに懸命に手術をしてくださった、この先、お母さんに出来ることがあるならなんでも、どんなことでもしようと心にちかいました。それは今でも、そしてこれから先も変わりません。

 お父さんも同じ気持ちです。

 

 だけどね、紫乃。

 覚えておいてほしいのは、紫乃は病気だけど、他の人に出来て紫乃に出来ないということはなにもないということ。

 もし出来ないことがあるとしたらそれは工夫が足りないのです。

 柔軟な頭と心を持ってください。

 

 病院の先生、看護婦さん、学校の先生、お友達、おけいこごとの先生、家族、紫乃はたくさんの人にささえられて生きています。

 喜びと感謝を忘れず、いつも清い心でいられるよう心がけてください。

 

 まわりをよく見てください。

 世界の中で何が起きているのか気にかけてください。

 そして神様の声に耳をすまし、紫乃がするべきことは何なのかを考えてください。

お母さんより

 

 

 

○紫乃へ

 お前がまだ小さかった頃、お父さんの実家へ泊りに行った。茨城の海へみんなで遊びに行った時、大きな波が来た。一瞬、お父さんは波打ち際で遊んでいたお前を置いて、自分だけ逃げ、妹から「それでも父親か」と叱られたのだ。何といっても人間は自分が一番可愛い。だからお前も自分を可愛がりなさい。でも人間は、他人のために自分の命を捨てる事もある。お前の好きなイエス様がそうだね。そういう人に憧れなさい。

父より

 

 

2009.2.13

 

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 休日。午前中、習字教室の終わった子を拾って家族で図書館へ行く。わたしは永井荷風の「ぼく東綺譚」とPCの「自作・拡張・増設」の関連書二冊を借りる。それから二階の児童室へあがって、子が借りようとしていた本の籠にエンデさんの「魔法教室」、カンボジアの地雷で片足をなくした子どもたちの本、関野吉春さんのグレートジャーニー・シリーズのモンゴル篇を加える。

 昼はほうれん草のパスタをつくり、PCのバックアップとメンテナンスなど。アマゾン古書で岩波文庫の「荷風随筆集・上下巻」を300円で注文し、ソファーに寝転がって「ぼく東綺譚」を読む。

2009.2.14

 

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 貧しい乍らもそれなりの生活を享受している後ろめたさもあって、免罪符、というわけでもないけれど、責務といったほどの大袈裟なものでもないけれど、こそっと、ほんの心配りのような程度でいいから、やっぱり何かをしたい、しなくちゃという気持ちがあって、しばらく前からNGOやNPO団体のサイトをあれこれと眺めている。対象はやっぱり子どもたちだ。しかもできれば、わが子にも何らかの形で、世界の子どもたちについて考えるきっかけになるような形式であったら、とも思う。プラン・ジャパンワールド・ビジョン・ジャパンセーブ・ザ・チルドレン・ジャパングッドネーバーズ・ジャパン、調べればいろいろあるものだ。役員に大企業のお偉いさんや外務省の天下りの面々が並んでいるのを見たりすると、首を傾げずにいられない面もあるのだが、この際深く考えないことにしよう。恵まれない一人の子どもをかれ・彼女が成長し自立するまで継続的にサポートして、その間に本人と手紙で交流できるというサポート方法を子に話して聞かせたら、それがいい、と言う。ただ月額4,500円は、Yいわく経済的に少々厳しい額だという。ではその4,500円を捻り出すために、各人が何を我慢したらいいか。子は家のお手伝いをもっとすると言う。Yは二ヶ月に一度の美容院を三ヶ月に一度に減らすと言う。お父さんは? お父さんは煙草とビールをやめたら2万円くらいすぐに節約できるが、うーーむ。と考え込んだ。じゃあ月にいっぺん回転寿司に行くのを我慢したら? うーーむ。内容的には国境なき医師団の活動にも心惹かれるものがあり、こちらは一月1,500からの金額設定もある。かつてはCDの一枚さえ滅多に買えなかった。Yの実家で頭を下げて生活費を借りたこともあった。あの頃に比べたらどれだけ余裕ができたことだろうか。もうすこしあれこれと考えてみたい。

 子は学校から帰ってきてから、夕方に浣腸をしたあとしばらくしてからソロバン教室へ行った。教室へ入る前にじぶんで臭いと思ったらしい。スカートをめくってみたら粗相をしていたため、教室の先生にそれを伝えた。先生からの電話を聞いて迎えに行ったYといっしょに帰ってきた。忙しい日常では浣腸のタイミングが難しい。

2009.2.16

 

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 登校した子が導尿に使う脱脂綿を忘れたというのでYとふたり学校へ届けに行ったその足で、奈良市の百貨店へわたしの手袋を見に行った。義父のお古の上等な黒い革手袋があちこち糸がほつれてきてばらばらになり始め、じぶんで縫い直すつもりでいたのだけれど、「もう年代物だから、新しいのをひとつ買いなさいよ」とYに言われて従ったのである。動物園の擬似山の途中で口をもぐもぐと動かしているカモシカのような顔をした売場の女性は、百貨店よりも下町の八百屋あたりが似合いそうなおばちゃんで、指の短いサイズの黒いシンプルな羊皮の革手袋を、それがあんまり柔らかくて手にぴったり合うと賞賛すると、もぐもぐとやっていた口を嬉しそうにほころばせて「これはこの間の日曜日に取り置きしていたお客さんが来なくって、ひとつだけ残っているんです」なぞと言う。値段は一万円がバーゲンの値下げで7千円。ちょっと高いなと思ったので「もう一回り見てきます」と離れてからユニクロやスーツ屋などを覗き乍らYと、安物をいくつも買うよりも良い品を長く使った方がよいとの結論に至って、30分ほどで舞い戻った。「戻りました。これを頂きます」とわたしが言うと、カモシカのおばちゃんは前よりもいっそう嬉しそうな顔をして、急に声をひそめて「わたしの社内割引を使って、もう1割引いてあげます」と言い、結局6千円にしてくれたのだった。それから二人でミネストローネとサラダの付いたランチを食べ、本屋でエクセル関数のマニュアル本を買い、子のタイツとディズニーのお姫様の絵がお尻に付いたパンツを買い、地下の食料品売場で今夜の獅子肉鍋の材料を買い(冷凍の獅子肉はYの実家が知り合いから貰ったもの)、お八つに御座候を買い、百貨店を出た。子の下校時間まで30分ほど時間があまったので図書館へ行ったところ休館日で、仕方なくYがクリーニングを頼んでいたスーパーの駐車場に車を止めて、わたしはシートを倒して昼寝をし、Yは持ってきた生協の注文カタログを見て過ごした。家に帰ってきた子はお八つを口に放り込んで、すぐにヴァイオリン教室。ヴァイオリンから戻ってきたら宿題を片付けて、またソロバン教室と忙しい。わたしはソファーに寝転がって「ぼく東綺譚」を読み終えた。こんな一節を近しく覚えた。「わたくしは元来その習癖よりして党を結び群をなし、其威を借りて事をなすことを欲しない。むしろわたくしは之を怯(きょう)となして排けている。治国の事はこれを避けて論外に措く。わたくしは芸林に遊ぶものの往々社を結び党を立てて、己に与するを揚げ与せざるを抑えようとするものを見て、之を怯となし、陋(ろう)となすのである」 荷風の小説は情感が批評であり思想だと思う。暗くいやあな匂いのする世上にあっても、顔を歪めてひとり淋しく唾を吐いている頑固な美しい戯作者の思想である。

2009.2.17

 

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 昨日から大阪環状線内の某所に、警備員指導教育責任者資格講習なるものを受けに行っている。朝9時から5時まで、土日を除いた延べ6日間の講義で、最終日に試験がある。警備員ははじめて警備員になるときの「新人教育(ふつう30時間)」と、半年に一度の定期的な「現任教育(ふつう8時間)」というものを受けなくてはいけない決まりになっているのだが、そうした教育を行うことのできる資格である。眠気と闘いながら、警備業法やら刑法やら刑事訴訟法やら群集心理などといった退屈なテキストのページをめくっている。

 今朝、子は奇妙な夢を見た。ヘンな顔をした一人のおじさんが、頭から火の玉を飛ばしてきて、それが子の片目に当たったのだ。当たった瞬間、おじさんは「あっ」という声を出したので、どうもほんとうに当てるつもりはなかったらしい。とにかく子は急いで片目を水ですすぎ、すすいでいるところで目が覚めた。そして布団の上に半身起こして、横でまだ寝ていた父に「わたしの目、変じゃない?」と心配そうに訊ねた。朝食の席で夢の話を聞いた父は「それは夢が何かを伝えているのかも知れないな。今日は目を怪我することが起きるから注意した方がいいよとか」 そして「そのおじさんはどんな顔だった?」と更に訊こうとするのを、「もうその夢のことは考えたくない」とさえぎった。

 

 「豚のPちゃんと32人の小学生---命の授業900日」(黒田恭史・ミネルヴァ書房)を読んだ。何年か前にテレビでドキュメンタリーとして放送されたようなのでご存知の人もいるかも知れないが、わたしはたまたま(たぶん、映画化の流れで載っていた)新聞の囲み記事を目にして「こんな授業はいいねえ」と呟いたのをYが覚えていて、先日図書館で見つけてきてくれたのである。大阪の郊外の小学校に赴任した大学を卒業したばかりの新任教師が受け持ちになった4年生のクラスで豚を飼うことを提案する。それから子どもたちは豚小屋をつくったり、隣の老人ホームへ残飯をもらいに行ったり、食肉センターを見学したり、豚足料理をつくったり、Pちゃんと名づけた豚を通してさまざまな経験をする。やがて卒業式が近づき、Pちゃんをどうするか? といった話し合いが時に保護者も交えて持たれる。ある子どもは「飼いたい」と言っている3年生に引き継いでもらおうと言う。別の子どもは、じぶんたちが始めたことだからじぶんたちで終わりにしなければと言う。実際、豚はすでに100キロを優に超え、安全面や衛生面等もろもろの問題も出始めていたのだ。食肉センターへ連れて行く派と3年生に引き継ぐ派のふたつにクラスは分かれ、「可哀想だ」「食べてやったほうがいっそPちゃんのためにいい」「飼えないというのは問題から逃げている」とそれぞれ本気の意見をぶつけ合う。一方で教師は保護者の父親から「先生が始めたことだから先生が決断を下すべきじゃないか」と詰め寄られる。卒業式の前日まで話し合いを続け、最後に教師はPちゃんの豚小屋の前に子どもたちを集めた。

 

「先生なりに結論を出しました」

「食肉センターに持っていこうと思います」

 32人の子どもたちは身一つ動かずに聞いていた。誰も何も言わないでいた。沈黙の時間だけが流れていた。

「先生が出した結論です」

 授業の終わりを告げるチャイムの音が向こうの方で流れていた。森浦悟紳と水出奈津美はずっとPちゃんの方を見ていた。「それでいいか」 私は磯野佑介に最初に聞いた。絶対に食肉センターに持っていってほしくないと最後まで頑張り通した磯野佑介は黙って頷いた。私は、一人ひとりに同じ質問をしていった。みんな涙がこぼれ落ちそうになるのを必死で堪えていた。浜口真由美にも聞いた。彼女は答えないでいた。私は、お願いだから答えてほしいと思っていた。もうそれ以上、一人で重い荷物を背負わなくてもいいと願っていた。「はまちゃん、もう十分やったんと違うか。もうそんなに頑張らなくてもいいよ」 彼女の目から大粒の涙がこぼれていた。私の目からも、涙がこぼれ落ちてしまった。小屋の中では、Pちゃんが何事もなかったかのように「ブヒ−、ブヒー」と鳴いていた。

*

 ・・・一日ぶりの餌にPちゃんは無心に食べ続けた、その餌箱に、31人の子どもたちはトマトを一つづつ入れていった。水谷元則は「Pちゃん、トマト食べたって」とPちゃんに最後の言葉を送っていた。トマトをあげた子どもたちは、トラックの鉄格子越しに、Pちゃんの頭や耳を触っていた。耳の後ろを触ってやると気持ちよいことは、八木修さんから教わったことであった。「Pちゃん、Pちゃん、Pちゃん」という呼びかけだけが、むなしく響いていた。鉄格子越しにPちゃんを見る橋村佳奈の目には涙が溢れていた。しばらくして、、その目は鉄格子の下に消えてしまった。もう、Pちゃんを見ていることすらできなくなってしまっていた。

 いよいよ小屋を出発するときがきた。みんな「Pちゃん、Pちゃん」と叫びながら、トラックを追いかけた。涙は止まらずに流れ続けていた。トラックは次第に小さくなっていった。あんなに大きかったPちゃんの姿も、小さくなって見えなくなってしまった。

 3年間が終わった。

 

 そうして放送までの過程でこのフィルムは、「これは間違った教育だ。間違っているものを放送するわけにはいかない」とNHKのプロデューサーに蹴られ、フジテレビでは放送直前に番組キャスターから「俺は、子どもたちがかわいそうで、見るに耐えない。今夜の放送はナシだ!」と言われ、放送後も「命をナンダと思っているんだ」「あの先生の名前を教えろ。豚の代わりに殺してやる」といった視聴者からの抗議が殺到した。実際に、この実践記録(テレビも本も映画も)については、賛否両論が起きたらしい。

 だがわたしは、この先生の授業を断固として支持する。こんなに素晴らしい、そして体当たりの、必死な教育は滅多にない。「命の大切さと食の大切さを混同している」と書く人は、それこそ「食とは真実命そのものなのだ」ということを混同している。「事前に動物と人の関係の専門家に相談して方法の検討が必要だったろう。この本には、やるべきではないトライ&エラーが書かれている」と書いた人は、常に「正しい方法」があり「正しい答え」があるべきだという悪しき幻想に囚われている。「子どもの中には、これをきっかけにもう本気で何かを愛さなくなった子がいたかもしれない」などという意見に至っては、豚小屋のヘドロに顔を突っ込ませたくなる。多摩川へ行って「タマちゃん、かわいい!」と叫んでいたら満足なのか。

 この奮闘の日々にあって、先生も子どもたちも、共に行き先の分からぬ舟で海上を漂っている。羅針盤もGPSもない。けれどもどこかへ流れ着こうと、懸命にオールを動かしている。生きるというのは、そもそもそういうことじゃないのか。Pちゃんがトラックに乗せられ去っていく場面で、わたしは不覚にも涙してしまった(電車の中だったので、鼻を啜るふりをした)。それは豚のPちゃんが可哀想だったからでも、子どもたちが可哀想だったからでもない。子どもたちがそれぞれ、たくさんの経験のなかで「命」のことを懸命に考え続け、悩み、格闘し、そうしていま舟がひとつの小島を見つけて近づいていくことに感動したからだった。その島は最終地点でもないし、目指していた理想郷でもない。舟はやがてまた出港して、大海原を漂い始めるだろう。そして舟はこの先もたくさんの島々へ寄留することだろう。

 わたしもわが子を、そんな旅に出してやりたい。

2009.2.19

 

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 東京の友人が大量の音楽CDを送ってきた。はじめはブライアン・フェリーの全曲ディラン・カバー・アルバムや、アイルランドのトラッド・グループのチーフタンズが豪華ゲスト陣を迎えた愉しいアルバムなどを聞いていた。それからソウル・フラワー・モノノケ・サミットの“アジール・チンドン”の二枚----「アジール・チンドン」「レヴェラーズ・チンドン」の虜になった。(その合間に「武道館の野坂昭如」、大城美佐子の素晴らしい「唄ウムイ」、古謝美佐子の「廻る命」、レッドベリーのベスト盤なども聞き齧った) けれども、いまハマっているのは、何といっても大工哲弘の二枚のアルバム「オキナワ・ジンタ」と「ジンターナショナル」だ。かれの歌は、そうだな、こう言っても構わないか。時に死んだ親父が歌っているような、そんな不思議な感慨が押し寄せてくる。大工哲弘の声には、そんな狂おしい眩惑がある。親父の後ろには、かれとおなじように精一杯働いて生きて死んでいった無数の名も知れぬ人々の想いが控えているのだ。つまりわたしはそうしたものを、身近で遠い記憶をつてに大工哲弘の歌の中に聞くのである。そうして何故だか泣けてくる。精一杯に働いて生きて死んでいった無数の名も知れぬ人々の想いが、草原の上を撫でていく優しげな風のように感じて泣けてくるのだ。 「美しき天然」を満員電車の中で聞いているとき、はたと、この曲を子どもの時分に見た上野公園の傷痍軍人の一団が演奏していたことを唐突に思い出した。

 大工哲弘 ジンターナショナル http://ironbridge.exblog.jp/132993

2009.2.20

 

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 休日。子が朝のミサの進行役をやるというのでYと子について教会へ行く。子は昨夜、仲の良い学校の友だちに、じぶんが進行役をやるので見に来ないか、と電話で誘った。友だちが出たら友だちに、母親が出たらその母親にじぶんで説明するのである。ヴァイオリンの発表会の類ならいざ知らず、教会のミサとなるとちと事情が異なってくるが、わたしは放っておいた。子が友だちの家の固定電話で話している間、Yは別室に行って携帯でそのお母さんの携帯に電話をかけて「無理しなくていいですからね」と念押しをしている。三人にかけて、二人は断られ、一人が「朝になってみないと分からないが前向きに検討する」みたいな返事をもらった。そうして懸命にダイヤルをしておきながら、翌朝には「わたし、なんであんな一生懸命にみんなに電話したのか。いまになったら、それほどのことじゃなかったような気がする」などと苦笑いしている。結局、幼稚園からいっしょの親友のTちゃんがお母さんといっしょに来てくれた。

 今日の司祭による説教はマルコの福音書の一節であった。有名な「起き上がって、床を担いで家に帰りなさい」だ。ある家にイエスが来て、大勢の人がその話を聞こうと集まった。身体の不自由な病者が家の中に入れなかったので、4人の男が手伝って、病人の寝ている床(簡易ベッドか担架のようなものだろう)ごと天井から降ろしてやった。

 

 イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました。」と言われた。ところが、その場に律法学者が数人すわっていて、心の中で理屈を言った。「この人は、なぜ、あんなことを言うのか。神をけがしているのだ。神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう。」彼らが心の中でこのように理屈を言っているのを、イエスはすぐにご自分の霊で見抜いて、こう言われた。「なぜ、あなたがたは心の中でそんな理屈を言っているのか。中風の人に、『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言ってから、中風の人に、「あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われた。すると彼は起き上がり、すぐに床を取り上げて、みなの見ている前を出て行った。それでみなの者がすっかり驚いて、「こういうことは、かつて見たことがない。」と言って神をあがめた。(マルコ福音書 2章)

 

 要はここで「イエスは物質ではなく、霊について語っている。物質は霊の現れに過ぎないのだから」といった話をわたしは心の中で期待し、それがさらなる深みへと錐揉みして下降していく様を思い描くのだが、メキシコ出身の若い司祭は「主はこのようにみなさんの罪を赦してくださる。わたしたちはこの奇跡を強い信仰によって賛美しましょう」といった凡庸な話でまとめてしまうので、わたしの期待は裏切られる。賛美歌の合唱の合間、わたしは教会の天井を仰いで、ここに神はいるのか、何か超越的な存在は居ますのか、と自問する。残念ながら、わたしにはなにも感じられないのだ。

 

 PCソフト二種の導入を検討している。二種ともフリー・ソフトの限界を感じているため。ひとつはOCRの「読んdeココ」。個人的な趣向からさまざまな文章をスキャナでPCに読み込ませることが多いので、エプソンの古いスキャナのCDに付いていたお試し版をいままで使い続けてきたが、やはり精度が低いためテキストに移してからの更なる手直しが必要で二度手間が多い。で、そろそろ製品版を購入しようかと調べてみたら、通常一万円ほどしている「読んdeココ」の最新版。エプソン・スキャナ付属のCD版のユーザーは(そのバージョンを問わず)ほぼ半額のアップデート版の購入で最新版へ移行できることが分かった。もうひとつは主に、子の溜まりに溜まったビデオ画像をまとめるためのDVD Movie Writer 。こちらはソフトの動作環境を見ると、わたしのデスクトップはビデオ・キャプチャー・ボードもあり、グラフィック・カードも優秀なのだが、いかせん古いCPUがついていけない。そこで動画編集はビデオ・カメラをDVコードでつないで、Yと子のVistaノートに任せることにした。古い8ミリ・ビデオからVHSに移した赤ん坊の頃のものは、わたしのデスクトップで取り込んだファイルをVistaに移して再度DVD化することとした。こちらは一万円以上するので、できたらひとつ型落ちくらいの中古品をオークションで、なるべく安価で落札できたらと考えている。

 

 夜、床の中で荷風の「日和下駄」の数頁をめくることは、わたしにとっての一日の終りの慰み、眠りを安らかにするためのささやかな儀式である。「日和下駄」の第二節、“淫祠”と題されたその全文を引こう。ここには江戸の戯作者たらんとした荷風のスタンスが凝縮されているような気がする。淫祠に宿る“愚昧なる”人々の心根に荷風は慰められ、その荷風の心持に“愚昧なる”わたしがまた慰められるわけである。けれども、この“愚昧なる”は、無論反語である。馬鹿馬鹿しいと言って“目こぼし”する手合いに、荷風は逆に馬鹿馬鹿しいとそっぽを向きながら抗っているわけで、わたしも同じだ。

 

     第二 淫 祠

 裏町を行こう、横道を歩もう。かくの如く私が好んで日和下駄をカラカラ鳴して行く裏通にはきまって淫祠がある。淫祠は昔から今に至るまで政府の庇護を受けたことはない。目こぼしでそのままに打捨てて置かれれば結構、ややともすれば取払われべきものである。それにもかかわらず淫祠は今なお東京市中数え尽されぬほど沢山ある。私は淫祠を好む。裏町の風景に或趣を添える上からいって淫祠は遥に銅像以上の審美的価値があるからである。本所深川の堀割の橋際、麻布芝辺の極めて急な坂の下、あるいは繁華な町の倉の間、または寺の多い裏町の角なぞに立っている小さな祠やまた雨ざらしのままなる石地蔵には今もって願掛の絵馬や奉納の手拭、或時は線香なぞが上げてある。現代の教育はいかほど日本人を新しく狡猾にしようと力めても今だに一部の愚昧なる民の心を奪う事が出来ないのであった。路傍の淫祠に祈願を籠め欠けたお地蔵様の頸に涎掛をかけてあげる人たちは娘を芸者に売るかも知れぬ。義賊になるかも知れぬ。無尽や富籤の僥倖のみを夢見ているかも知れぬ。しかし彼らは他人の私行を新聞に投書して復讐を企てたり、正義人道を名として金をゆすったり人を迫害したりするような文明の武器の使用法を知らない。

 淫祠は大抵その縁起とまたはその効験のあまりに荒唐無稽な事から、何となく滑稽の趣を伴わすものである。

 聖天様には油揚のお饅頭をあげ、大黒様には二股大根、お稲荷様には油揚を献げるのは誰も皆知っている処である。芝日陰町に鯖をあげるお稲荷様があるかと思えば駒込には焙烙をあげる焙烙地蔵というのがある。頭痛を祈ってそれが癒れば御礼として焙烙をお地蔵様の頭の上に載せるのである。御厩河岸の榧寺には虫歯に効験のある飴嘗地蔵があり、金竜山の境内には塩をあげる塩地蔵というのがある。小石川富坂の源覚寺にあるお閻魔様には蒟蒻をあげ、大久保百人町の鬼王様には湿瘡のお礼に豆腐をあげる、向島の弘福寺にある「石の媼様」には子供の百日咳を祈って煎豆を供えるとか聞いている。

 無邪気でそしてまたいかにも下賤ばったこれら愚民の習慣は、馬鹿囃子にひょっとこの踊または判じ物見たような奉納の絵馬の拙い絵を見るのと同じようにいつも限りなく私の心を慰める。単に可笑しいというばかりではない。理窟にも議論にもならぬ馬鹿馬鹿しい処に、よく考えて見ると一種物哀れなような妙な心持のする処があるからである。

(永井荷風・日和下駄)

 

2009.2.22

 

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 シケンというのは昔から苦手だな。高校時代には下から三番目くらいだったし、駄目もとの格好だけで明治大学を受験した日は朝からひどい下痢だった。まあ、あの頃の繊細さはとうに失って、逆にうとうと居眠りをするくらいふてぶてしくなったわけだけれど、どちらにせよ退屈極まるテキスト、丸暗記、の類は昔から身体が拒否反応を示してしまう。それでも述べ6日間も通いつめて滑るのも癪なので、最後の三日間はちょっと気合を入れて何とか合格、無事終了証をもらってきた。今回の講習費用が3万8千円。加えて更にこの終了証に住民票やら「禁治産者・破産者でない」証明書、法務局の「成年被後見人・被保佐人に登記されていない」証明書、「アルコール・麻薬・大麻・あへん・覚せい剤の中毒者ではない」医師の診断書等々に手数料1万円を添えて提出して、やっと正規の資格者証が公安委員会から交付されるわけだから、手間もそうだが、ナンボ金とるの?といった感じで、まあ全部会社持ちだからいいけれど、あれやこれやと面倒臭い。荷風先生くらいの資産があったら、わたしもこんなこメンドイことしまへんが、資格手当てで給料もちょびっとあがるし、Yがお祝いだからと今夜は近所の回転寿司を奮発してくれた。今夜はひさしぶりにのんびり出来そうだが、来月もまた別の検定試験(施設警備1級)の予定が入っている。(警備員の資格や業法については、興味あればこんなサイトをどぞ→http://tombow1973.blog56.fc2.com/blog-date-200512.html

 ところでPCソフト。DVD Movie Writerはひとつ前のヴァージョン6をヤフオクにて4200円にて落札した。Vistaでも使える上に、ブルーレイにも対応。最新のヴァージョン7が15000円ほどしている現状では、なかなかよい買い物ではなかったかと思う。本日朝に届いて、Vistaノートにインストールして動作確認してみたが異常はなさそう。ぼちぼちマニュアルを読んで、始めようかと思っている。OCRの「読んdeココ」はこれもひとつ前のヴァージョンのアップグレード版をやはりヤフオクにて入札したのだが、2500円になったところで手を引いた。ネットのダウンロード版が5千円弱ほどだから、送料込みで3千円以上ならあまりメリットはない。こちらは諦めて製品版を購入しようかと考えている。もうひとつ、いま悩んでいるのが車載のFMトランスミッター。車の電源ソケットにつなげて、iPODを車内で聴けるというものだが、車通勤をしているような人ならともかく、現状CDでも充分なので、果たして買うほどの必要があるだろうかとやや消極的になりつつある。iPODに入れたアルバム数十枚をいつでも手軽に車に持ち込めるというのは結構魅力なんだけれどね。

 永井荷風をもうひとつ。「蝙蝠傘を杖に日和下駄を曳摺りながら市中を歩む時、私はいつも携帯に便なる嘉永板の江戸地図を懐中にする」で始まるやはり「日和下駄」の一節である。こうしたアナクロなすね者の言はまったくわたしの意に適っている。

 

‥見よ不正確なる江戸絵図は上野の如く桜咲く処には自由に桜の花を描き柳原の如く柳ある処には柳の糸を添え得るのみならず、また飛鳥山より遠く日光筑波の山々を見ることを得れば直にこれを雲の彼方に描示すが如く、臨機応変に全く相反せる製図の方式態度を併用して興味津々よく平易にその要領を会得せしめている。この点よりして不正確なる江戸絵図は正確なる東京の新地図よりも遥に直感的また印象的の方法に出たものと見なければならぬ。現代西洋風の制度は政治法律教育万般のこと尽くこれに等しい。現代の裁判制度は東京地図の煩雑なるが如く大岡越前守の眼力は江戸絵図の如し。更に語を換ゆれば東京地図は幾何学の如く江戸絵図は模様のようである。(日和下駄・地図)

 

2009.2.25

 

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 はるさんもブログに書いていたけれど、映画「おくりびと」がアカデミー賞を受賞して話題になっている。この原作でもある青木新門「納棺夫日記」(文春文庫)を、わたしは文庫化になってから読んだのだけれど、もう何年も昔のことで内容はほとんど覚えていない。ただYいわく、わたしが読了後に「この本はいい」と絶賛して、彼女にも読むようにとしきりに勧めていたらしい。そう言われると、何だかそんなこともあったような気もする。

 葬儀専門の花屋で二年ほど働いていたことがあった。葬儀会社の下請けで、シキビや葬儀看板、花壇などをセッティングする仕事だ。葬儀屋から仕事の連絡が入ると、間取りや注文に合わせた祭壇作りの様々な小道具や菊・色花などを軽トラックの荷台に満載して現地でセッティングする。翌日は出棺の前あたりから待機して、棺に納める花を切って参列者に手渡し、棺を運ぶのも手伝う。参列者が火葬場へ出発すると、たちまち戦場だ。葬儀屋が一気に外していく垂れ幕の画鋲をときに踏みながら、荷物を次々に撤収していく。なべて葬儀屋の人間というのは野卑でちんぴらヤクザのような手合いが多くて、個人的には好きになれなかったな。「ことしは暖冬だから、なかなか死んでくれなくて困るわ」なぞと霊柩車の運転手が戸外で喋っているのを何度か耳にした。納棺夫という特化した仕事は、いまもあるのだろうか。わたしは見たことがない。

 そんなわけで二年間は毎日、じぶんとは縁もゆかりもない他人の死と接していた。天寿を全うした老人の葬儀はまだどこかのんびりとしているが、事故や病気で若く亡くなった人の式場はいたたまれない。そのうちに気が重くなってきた。あるときは棺を狭い公営団地の階段の5階から下ろすのを手伝ったこともある。遺体から漏れ出た体液が棺の隅を濡らし匂いたっていた。また誂えた棺に収まりきらず(俳優のように背の高い老人だった)、無理やりに押し込んだこともあった。祭壇の菊のスロープを挿していると、故人の老妻がいつの間にかうしろに来て「こんなに素敵にしてくれて、わたしからもお礼をいいます」とひとしきり故人の思い出を聞かせてくれたこともあった。いまにして思い起こせば、貴重な体験だったかも知れない。

 ほぼ日刊イトイ新聞で、この「納棺夫日記」に惚れ込んで映画化を思い立ったという主演の本木雅弘と、糸井重里、中沢新一の三者による対談が読める。この中で藤原進也の「メメントモリ」に触発されてインドへ旅立ったという本木氏こともっくんの、こんな言葉が印象に残った。(糸井・中沢両氏の合いの手は省いている)

 

 このあいだ、先生の『ミクロコスモス』を読んでいたら、ぼくがインドへ旅したときに感じたことが、そのまま、書いてありました。岡本太郎の『明日の神話』について書かれた文章のなかで、現代では、「死の要素」を、できるだけ日常生活から切り離しておこうとするけれど、神話の思考方法では、生と死は分離できないと考えてる、と。つまり、生と死は一体であって、この世界の、もっとも奥ふかいところには、生でもなければ死でもなく、あるいは、生でありまた死でもあるような、そんな、名付けようもない何かがうずまくように、存在しているんだ‥‥と。そして人間は、そういう領域に触れようとしてさまざまな冒険をしてきた‥‥んですよね?

 

 これは中沢氏の著書の内容を語ったものだけれど、わたしはそのとおりだ、と思う。かつてのわたしたちは(それが古代に遡れば遡っただけ)、生と死の不可分の領域への回路を通じて、ときにそこから生きる智慧を、そして精神のバランスの取り様のようなものを学び取っていた。生と死の不可分の領域への歩みは、まさに冒険であった。その残滓が、翁であり、春駒であり、もろもろの漂泊者たちの伝えた名もなき芸であったともいえる。わたしたちはそれらを「非近代的で役に立たないもの」として棄てて来た。「橋の向こう側」へ至る回路が切断され、死や汚物を他者として斥け、写実するものを失くした精神は、もはやバランスを失うしかない。そうして心を閉ざすか、暴走するしかないのが現代だ、ともいえる。

 

 

 バックアップ用に年末にネット購入した I-O Data の外付けHDD(160G)だが、どうにも調子が悪いのでサポート・センターへ電話して症状を伝えたところ、保証期間内なので無償修理をしてくれるという。但しこちらからの送料は自己負担。ちと解せぬ気もするが、言われたとおりに簡易小包で送ることとする。

 もうひとつ。待望の沖浦和光先生の講演会。当日の来月6日が何とか休みを取れそうなので、当の「沖浦塾」を主催している「人間文化芸術研究所」なるところへ電話を入れてみた。開催地は大阪市内だが、連絡先は住所を見ると奈良市内なのだ(どうも主催者の自宅を兼ねているらしい)。年配の女性が出て、今回はいつもの民俗学的な内容ではなく、オバマ大統領誕生の影響からリクエストの多い「黒人差別について」をテーマにした話になる予定という。ナマの先生のお話を聴講できるなら何でも結構です、ハイ。数ヶ月に一度くらいの不定期で、先生の講演会を企画しているとのこと。参考までに連絡先をここに書いておく。興味があればご参加あれ。

◆人間文化芸術研究所:沖浦和光氏講演会
◆〒631−0012 奈良市中山町38−10 TEL0742-41-1391(FAX兼用)
◆受講料:一般会員¥700/学生会員¥500/ビジター¥1500/学生ビジター¥1000

 

 今日は休日。昼間、Yと馴染みの修理工場へ方向指示器の修理及びオイル交換へ行き、帰りの地場野菜の店で吉野産の芋蒟蒻、葉わさび、芽キャベツ、ごぼうスープの素、稲荷寿司などを買って帰った。

 

 夕方。机に向かっている子に声をかけて、わたしの部屋に誘った。「宿題はいったん一休みして、ちょっとこの歌を聞いてくれないか。終わってからクイズを出すよ」 大工哲弘の「ジンターナショナル」に収録された、夫人の歌う八重島の子守唄をかけた。

 

坊やの父ちゃん どこへ行った ツンダラホイ
あの海こえて 南の小島におはします ホイヤーホイ
良い子はねんねしな ねんねしな

坊やは良い子だ 泣かずにね ツンダラホイ
ニコニコ父さんのおかえり みやげはなんでしょね ホイヤーホイ
良い子はねんねしな ねんねしな

坊やは良い子だ ねんねしな ツンダラホイ
まぶたに浮かぶ 父さんのおもかげ 夢見ましょ ホイヤーホイ
良い子はねんねしな ねんねしな

坊やが大きくなったなら ツンドラホイ
島のあゆみの 明るい男となりましょね ホイヤーホイ
良い子はねんねしな ねんねしな

大工哲弘「愛の子守唄」

 

 「さあ、質問。この子のお父さんはどこにいるんだろう?」 子は小首を傾げて「山・・・? 町・・・?」なぞと呟いている。しばらくしてから「このお父さんは、ほんとうに帰ってくるのかな?」と訊くと、はっとした顔になり「死んじゃっ・・ た? ・・・天国?」  「そう。この子のお父さんは、たぶん戦争か何かで死んじゃったんだ。でもそんなことは、この歌の文句には一言も出てこない。この子はきっと“お前の父さんはあの海のずっと向こうの島にいるんだよ”って誰かに言われて、それを信じているんだね。それで、この歌を歌っているお婆ちゃんかお母さんも、やさしく“何をお土産にもってきてくれるかな”と答えている。お前の国語のテストの、たとえば“スーホーはそれからどうしましたか?”とか、“馬頭琴を聞いた人々はどうなりましたか?”とかいうのはさ、答えは探したら必ずどこかにちゃんと書いてあるじゃないか。でもこの歌には“戦争”という言葉も、“死んだ”という言葉も何も出てこない。隠れているから余計悲しいわけだ。お父さんはこの歌をはじめて聞いたとき、涙が出てきて仕方なかった。書いてあるものより、その裏でじっと我慢しているものが大事なんだ。それがこの歌のすごいところだ。分かるだろ?」 子はうなずいて、長いこと何かを考え続けているようだった。「さあ、クイズはこれで終り。机に戻って宿題の続きをやっておいで。今日は夕飯を食べたら、あのお風呂屋さんへ行くんだろ?」

 

 

「おくりびと」公式サイト http://www.okuribito.jp/

ほぼ日刊イトイ新聞・死を想う http://www.1101.com/okuribito/2008-11-25.html

「納棺夫日記」(アマゾン) http://www.amazon.co.jp/%E7%B4%8D%E6%A3%BA%E5%A4%AB%E6%97%A5%E8%A8%98-%E6%96%87%E6%98%A5%E6%96%87%E5%BA%AB-%E9%9D%92%E6%9C%A8-%E6%96%B0%E9%96%80/dp/4167323028

2009.2.27

 

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 施設1級資格の勉強に加えて、昨日までの三日間ほどは、一年に一度開催される拡大隊長会議なるものの資料づくりに追われて忙しくしていた。ふだんは各営業所・支社単位で毎月行っている松江や米子、鳥取、四国、奈良、京都などの関西エリアの現場隊長も合流して、総勢30人ほどが出席する勉強会だ。昨日はその当日で、夕方6時に会議が終わってから、わが古巣の現場隊長である奈良のTさんと難波の地下街、Tさんがかつて大阪に勤めていた頃に立ち寄っていたというカウンターだけの小さな串かつ屋で一杯やって、10時半頃に帰宅した。

 一週間ほど前だったか、子の装具のかかと部分に亀裂が入っているのを発見した。軽量化のために材を薄くしたのだが、やはり体重のかかる部分への負荷が高かったのだろう。左足の側面から後方へかけて亀裂が発生した。とりあえず装具屋さんに送って見てもらうことにした。その間、子は装具なしで、「ふつうの子みたいでいい」と喜んで登校した。40人近くの先生やクラスメートに装具はどうしたのかと訊かれて、答えるのに大変だったそうだ。さて、戻ってきた装具は足首全体を囲うような形で、もう一枚薄い材を貼り合わせて補強されていた。確かに丈夫にはなったが、当初の軽量化という意味では後退したと言わざるを得ない。もともとかかとの部分にジョイントを入れて足首が曲がりやすいタイプだったのを、ジョイント部分のパーツが重いために足首の曲がりを犠牲にして軽量化を図ったわけだから、ジョイント有りの重さと、今回の補強を含めた重さと、どれくらいの差があるのかないのかはっきりとした数値はないけれど、足首の自由が奪われ、さほど軽くもないということであれば、メリットがほとんど見出せないような気もする。ともあれ、近いうちに整形外科の担当医師と装具屋さん、そしてわが家の三者協議をもって再検討をする予定となった。成長に従って体重は重くなり、それを支える装具も畢竟重くならざるを得ないのは仕方がないけれど、どこで折り合いをつけるかといったところなんだろうな。、

 

 以下、最近よく聴いている音楽の寸評。

ブライアン・フェリー「Dylanesque」
 枯れた味わいが深い全曲ディラン・カバーのアルバム。あの Positively 4th Street を極端にテンポを落として、まるで懺悔録のように歌っているのナンバーが、個人的にはブライアン・フェリーらしさがよく出ていて秀逸だと思う。他にもJust Like Tom Thumb's Blues、Simple Twist Of Fate などの軽快な曲も心地よいけれど、The Times They Are A-Changin や 'Knockin' On Heaven's Door、All Along The Watchtower といった定番ナンバーはアレンジが凡庸でちと残念。選曲はもうちょっと意外性で攻めてくれたらよかったのに、とも。でも「ディランがとっても好きなんだよ〜」というブライアン・フェリーの想いがたっぷり詰まっている好盤。YOUTUBE でも見れる映像版はバンドの臨場感が味わえて愉しい。

チーフタンズ「The Long Black Veil」
 スティング、ローリング・ストーンズ、シンニード・オコナー、ヴァン・モリスン、マーク・ノップラー、ライ・クーダー、トム・ジョーンズら豪華ゲスト陣が入れ替わり立ち代り舞台に現れる競演盤で、スナオに愉しめる。個人的にはシンニード・オコナー、マーク・ノップラー、ライ・クーダーあたりの演奏が好きだけれど、あのモリスンとの名盤 Irish Heartbeat のめくるめく精神性には届かない。Irish Heartbeat は、やっぱりひとつの奇跡なんだろうな。

安東ウメ子「イフンケ」
 老樹の洞で響いているような、アレンジが秀逸。単調でありながら安らいでしまう、この懐かしさはどこから来るのだろう。失くしたものは、はじめから失われていた。わたしもいつかの世で熊送りの歌を歌っていたのかも知れない。

野坂昭如「武道館の野坂昭如」
 1975年、2,000枚が通販でのみリリースされたという幻の武道館ライヴ。永六輔、小沢昭一らが乱入するスペシャル・ライブ・トロピカル・ショーの実況復刻盤。いやあ、時代を感じるな〜。

大城美佐子「唄ウムイ」
 大城美佐子さんの歌ははじめて聴きました。この歌声は「特別」だ。直球、ど真ん中。アリラン峠を往くかつての巫堂(ムーダン)たちのように、彼女の声には確実に何かとてつもないものが憑依している。

大工哲弘「ジンターナショナル」
 いまいちばんの愛聴盤。狂おしくも心に沁みる「美しき天然」「ゴンドラの唄」「愛の子守唄」、高田渡カバーの浮浪者ソング「生活の柄」(詞は沖縄出身の詩人・山之口獏作)、いざ闘わんいざ奮い立ての万国革命歌「インターナショナル」、軽妙な「ストトン節」にPositively 4th Street の「復興節」。肝腎なことは、これらの歌はどれも現在進行形であるということだ。歌は荒唐無稽の脳細胞から発生するわけでない、男の腹の底や女の胸の谷間から生まれてくる。そうしたことを大工哲弘は歌っている。

2009.3.6

 

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 子は母の膝にしがみつきながら、目だけはテレビの画面を凝視している。魚の行商をして歩くガーナのスラム街の少年。父を撃ち殺され母を刻み殺されたときの光景を物語るシエラレオネの少年。どちらも子とほぼ同い年だ。どんな痕跡をその幼い心に刻みつけるのだろうか。わたしは子に、ディランのアルバム The Times They Are A-Changin' のような心を持った人間になって欲しいと願う。

 

フジテレビ「世界がもし100人の村だったら」 http://wwwz.fujitv.co.jp/sekai100/index.html

2009.3.7

 

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 蒲団のなかで、わたしの腕を枕にした子と囁き合っている。やがて、どちらかともなく声がやみ、子がすっと眠りに落ちる。それは、ある種の軽い喪失だ。目を開いて笑っていた、問えば答える子はもうそこにいない。その瞬間、わたしはひどく後悔して、思わず子を揺り起こしたい気持ちに駆られる。それは、一瞬の死だ。また朝が来れば子は目を覚ますのに、その朝をあてにできない。何気ない日常のなかにも死の影はひそんでいる。

2009.3.9

 

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 明日・あさってと予定されている施設1級検定の試験が終わるまでは、どうも落ち着かない。ふだんは電車の中で読むためにカバンに忍ばせているのも、検定用のテキストだ(あまり熱心には読んでいないが)。2級検定は現場の隊員でも持っている人はちらほらいるが、1級となると大阪でも1人しか合格者がいない。露骨に落としてやろうというひねくり問題が多くて、それが高じて日本語だか何だか分からない奇怪な文章を形成している。警備業には条件によって配置義務というものがあって、たとえば国道などの主要幹線に接して車の誘導を行う場合は現在、交通2級の有資格者1名の配置が義務づけられている。施設1級はいまのところ原子力発電所や空港保安業務といった特殊な現場で義務づけがあるが、今後、こうした配置義務は増えていくものと思われる。何年か前の明石市の花火大会での悲惨な歩道橋上の事故や昨今の無差別殺人などの世情が、そうした流れを後押ししている。先日は山陽道沿いの某現場絡みで、あまり詳しいことは書けないが、実際に週刊誌の三文記事に載っちゃったダンナと愛人と同僚が絡まったドロドロ人間模様の特殊捜査に行ってきて、とりとめのない雑念を浮かべてライトアップされた明石大橋を眺めながら帰ってきた。1級検定の試験が終わると、来週から名古屋行きが始まる。週に一度、新店オープン前の定例会議にサポートとして出席するため新幹線で日帰り。来月のオープンが始まったら、1週間くらいは泊り込みで行かなくちゃならないのかな。計画書をわたしが作った段階で予想していたことだけれど。名古屋の新店にはわたしのいた奈良の店から移動になった事務所のスタッフが2人ほど行っているので、多少は心安い。

 というわけで、今日の休日も試験勉強のために設定したので、ほとんど手をつけていない問題集に一日費やす予定である。学科の筆記テストの他に実技が6科目あって、たとえばいちばん長ったらしい防災機器に関する項目は、人感センサーが発報する→現場確認→センサーの誤作動→センサーを調整する→火災感知器が発報する→現場確認→火災発見→消火栓による消火・館内放送→鎮火といった一連の動作を監視盤の前にいる警備員と現地確認へ向かう警備員の役に分かれて、それぞれの動作や監視盤の操作、無線によるやりとりを丸暗記してこなさなければならないので、子に相手役をやってもらって家の中で練習したりしているわけだが、子は学校の発表会の劇の練習のように嬉々として手伝ってくれる(わたしより熱心なくらいだ)。なるほど、こうやって愉しんでやったらいいのかな、と思ったりもする。他にも1メートルほどの木製の棒を使った肩打ち・胴打ち・すね打ちなどの科目もあって、こういうのは剣道や合気道の型にも通じるところがあって、案外気持ちよさを感じているじぶんを見つけて驚いたりする。

 ま、そんなわけで、いまは何を書いてもこんな内容になってしまう。

2009.3.11

 

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 資格試験がやっと終わって一息。試験の前日は家へ帰る時間を惜しんで、携帯電話の i-mode で探した安いビジネスホテルに投宿した。駅前の王将で夕食を済ませ、チェックインした7時から深夜まで、翌朝も5時頃に目が覚めて、テキストや問題集をさらったのだった。殺風景なホテルの部屋は気を引くものは何もないし、訪ねてくる者もいないから、嫌でも集中してしまう。作家が缶詰になることの効用がよく分かったような気がした。逆を言えば、わたしたちの日常には気を引くものがやたら多すぎて、意識が拡散してしまうんだな。エリック・サティやウォーホールの部屋はこんなだったのかも知れない。物がないと、人の意識はシンプルになって、よく見えるようになるのかも知れない。

 大阪環状線の天王寺に近いその駅周辺は、雑多な雰囲気でわたしの好みに合っている。入りの悪い古いオフィスビルの横に、店主自らペンキを塗ったような古着屋が並び、歩道に置かれた木のベンチに餃子やたこ焼きのテイクアウトを待つ人がぽつぽつと座っている。無料の朝食へ向かうエレベータの中でアジア系の若い女性と一緒になった。はじめてのインド旅行のときにバンコックでフルーツをご馳走してくれたタイの女性に似ていた。チェックインのときに渡された朝食券を喫茶店の入り口の籠に入れるのが分からなかったので教えてあげた。窓辺の席で戸外の雨をぼんやり眺めている彼女は今日はどこへ行くのだろうかと考えた。いろんな人が、それぞれの事情を抱えて生きている。偶然の「点」だけにおいて、ぼくらはすれ違う。大抵の「点」はふだん、重なることなく流れていく。

 試験の結果は今回は一ヵ月後だ。先の指導教育資格とは種類が異なるので、答案は東京に送られてそこで採点されるのである。「たかが警備員の資格に、物々しい」と苦々しく呟いていた奴がいた。かつてのじぶんのようだ。確かにこの警備業協会という団体はある種の権力をかさにきて上から物言いをするようなところがたびたびあるが、このごろはそうしたことはこだわらなくなった。実技(6科目)はまあ何とかやれたと思うのだが、学科の方はやはり曲者だ。90点が合格ラインで、出題が20問だから、3問目を間違えた時点でアウトだ。1問はかなり怪しい。1問はやや怪しい。他に予想外のもう1問があればお仕舞いで、微妙なライン上。「○個目の出題は何番にしました?」 講習中に何度か言葉を交わした若い男性が、試験の後で話しかけてきた。鼠のようなその男はあちこちでそんな声をかけて回っている。「いや、もうぜんぶ忘れた。何も覚えていない」

 

 アマゾン古書で沖浦和光・徳永進編「ハンセン病 ---排除・差別・隔離の歴史」(岩波書店)を購入した。値段が下がったところを注文したのだ。21冊目の「沖浦本」である。そういえば書く暇がなかったけれど、先日の沖浦先生の講演会は愉しかったな。聴衆は40人ほどで、50代以上の年配の人がほとんど。半分近くは常連の人たちのようで、中には先生とインドネシアなどの旅に同行した人たちもいるらしい。ボイスレコーダーを持っていったので「録音は可能か?」と受付で尋ねたところ、当の先生ご本人に訊いてくれた。返ってきた答えは「どうぞ、好きなだけ録ってください」との由。はじめて間近で見る先生は、精力的で、骨があり、ときに歯に衣着せず、また関西の人らしく笑いのつぼも押さえていて、気取ったところがひとつもない、河内の悪党の子孫のような人(実際は村上水軍の末裔を自称している)。今回は「黒人差別の歴史」ということでレジメが用意されていたのだが、話は芝居小屋や悪所、インドネシアの島の話、バチカン批判、人類大移動、天皇制、アニミズム、芸能、役者村、アンクルトム、風立ちぬ、奴隷貿易、朝鮮通信使、あちこちと飛んで、二時間ほど喋った頃に「さて、ここからが本論だけれど、もう時間がないな・・」と。二時間半を、テーブルに用意された水一口呑むことなく喋り続けた。

 「みんなはヨーロッパに行って、巨大で荘厳な教会建築なんかを見上げて“おおー”なんて感動したりするが、あれはみんな奴隷貿易で儲けた財なんだ。だから、そういう歴史をちゃんと勉強していかなくちゃ、たんなるうわっぺらで終わってしまう」 「歴史と地理は物を考える基礎」というのは何度か言っていたな。「バチカン、ローマ法王。・・・あれはもう、パクリの親分みたいなものですな。歴代の法王の墓を見たことのある人はいますか? 夥しい金銀の財宝に囲まれて・・・」 いろんな話が飛び出したが、内容的には「ネグロイド・モンゴロイド・コーカソイドといったこれまでの人種区別は、たんなる自然環境の順応による結果的なもので、国際学会では近々これらの名称を廃止することになっている」という話に集約されると思う。つまりはホモサピエンス誕生からの人類史における「区別・差別・差異化」をひとつづつ解体していくような話のモザイクで、そのひとつひとつが卓越した知識に裏付けされ、言葉の襞々から気骨な反抗精神が覗いている。数年前に風呂場で死んだ伯父を思い出した。その人格の肌触りがとてもよく似ているような親近感を覚えて。

 次回の講演は4月の24日(金)の予定だそうだ。できるだけ都合をつけて参加したいと思っている。ビジターは1500円だが、年会費の1000円を納めたら毎回参加費は700円になるというので、1700円を払ってきた。ほんとうの学問、ニーチェ風に言えば「華やぐ知恵」といった講演であった。ほんとうは子どもたちにこそ、こうした授業が必要ではないか?

 

 今日はひさしぶりにのんびりできる休日。昼から子のソロバン教室の表彰式(子は小学校2年生以下の「優良児童」として先生が推してくれた)があるので、教会のミサへ行ったYと子を車で拾って、大和高田市の会場へ走る。そして子のリクエストで帰りにいごっそうのラーメンを食べてくる予定。

2009.3.15

 

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 昨日、買い物途中に立ち寄った本屋でふと手に取った森達也「死刑 ---人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う」(朝日出版社)を貪るように読んでいる。

2009.3.16

 

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 系列会社の合併を4月に控えて、いろいろと忙しくしている。ここ数日はリニューアルする会社のパンフレットのデータの追加・修正、また印刷会社とのすり合わせなどに追われた。今日はこれから近鉄特急に乗って名古屋へ行く。新店のオープン前の定例会議にサポートとして出席するためだが、状況によっては泊りもあるやも知れない。

 昨夜、森達也「死刑 ---人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う」(朝日出版社)を読了する。これを読んだら、辺見庸「愛と痛み ---死刑をめぐって」(毎日新聞社)も読まなければいけないような気がして、すでにアマゾンに発注している。まだ、容易には感想はかけないし、いまはそれに費やす時間もないのだが、たとえばわたしは、中学校で死刑制度についての授業(上から下ではない)を持つこともいいんじゃないかと思ったりする。それだけ死刑制度というものには、いのち・社会・他社への想像力等々の根深い問題がひそんでいると思う。国家によって執行するということは、わたしたちもその執行する側の一員であるということだ。

 数日前、子は休憩時間にトイレへ行こうとして粗相に気づいた。パンツからはみ出ているほどだったが、本人も、まわりの子どもたちも気がつかなかったようだ。いつも用意している下着に着替えたが、次のトイレのときもまたおなじだった。担任の先生に言うと、養護学級の先生が替えの下着を持っているからと言われて貰いにいった。汚れたパンツは二枚とも、担任の先生が洗ってくれた。日にしかも続けざまに出るというのは滅多にないことだけれど、食事や運動や体調などの諸条件もあるのかも知れない。成長にしたがってそのへんが変化する可能性もあるが、しばらく様子を見るしかない。そのときのことを書いた連絡帳を友だちに覗かれて嫌だったと、半分冗談めかして話していた。

2009.3.18

 

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 名古屋滞在が三日間に伸びて昨夜、同宿のFさんと名古屋駅前「世界の山ちゃん」で一杯やって、近鉄特急で深夜に帰宅した。今日は喜び寄ってくる子のリクエストにも身体が動かず、ほぼ半日をソファーに寝転がってうとうとと過ごした。

 名古屋のレオパレスで沖浦和光編「日本文化の源流を探る」(解放出版社)を読み始める。

 辺見庸の二冊、「愛と痛み ---死刑をめぐって」「たんば色の覚書 ---私たちの日常」(共に毎日新聞社)が届く。

 日本民際交流センターの「ダルニー奨学金」参加を申し込む。タイの子どもの中学3年間を支援するプログラムで(つまり3年ごとに1人の子ども)、毎年1万2千円(プラス事務局への寄付千円を含む)を振り込む。タイの子どもたちは中学ではじめて英語を習うそうだが、うまくいけば英語で文通ができる。

 

 深夜、部長より連絡があり、明日からまた数日、名古屋応援との由。

2009.3.21

 

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 22日からふたたび3泊4日で名古屋滞在。

 最終日の夜はわたしより一回り若い相部屋のFさんと韓国風中華の店で遅い夕飯を食べ、レオパレスの部屋でケルアックやクレージー・キャッツ、ディラン、RCサクセション、ブルーハーツ、ビートルズの話などで夜半まで盛り上がった。

 毎朝6時に起きて、殺風景な国道沿いをてくてくと歩いていき、商品搬入のためのゲート開放やポスト配置が計画通り行われているかをチェックして回る。昼間は味気ない弁当を食べる。ばたばたの防災センターで持参したノートPCを広げて、あれこれの資料を作成する。ときにクライアント側や建築業者やメーカー側も交えて、鍵のチェックや防災機器の打ち合わせなどをする。やっぱり現場が愉しい。

 「折角子どもが春休みだから」と部長に連休の約束を取り付け、名古屋駅地下の「矢場とん」で味噌カツを食べて、深夜に近鉄特急で帰宅する。「ひさしぶりだからたっぷり甘えたいのよ」と擦り寄ってくる子から、終業式の前日に1年生の担任の先生がくも膜下出血で急逝した話などを聞く。

 明日は朝から大阪の病院で装具の調整後、そのまま和歌山のYの実家へ泊りに行く。明後日の朝に義父母を乗せて奈良へ戻り、義父母のリクエストで飛鳥・石舞台の桜を見に行く。名古屋でもう桜が咲き始めているのを見かけたが飛鳥はどうだろうか。翌日、わたしは三度名古屋へ戻り、義父母はしばらくわが家に滞在する。

 4月頭くらいには一度は帰れるとは思うが、その後、中旬のオープン前後までほぼ詰めっ放しと思われる。

 沖浦和光編「日本文化の源流を探る」(解放出版社)をぽつぽつと読み継ぐ。韓国の様々な大衆芸能を見に行きたく思う。

2009.3.25

 

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 木曜は大阪の病院で整形外科の受診をして、その足で和歌山のYの実家へ泊りに行く。

 かかと部分に亀裂の入った装具はもういちど作り直しをすることになった。結局、固定ではもたないとの認識で、以前とおなじジョイントのついたものにする予定で、型取りをした。もうひとつ。1歳の入院時からずっと診てくれたH先生が事情により、病院を移ることになった。こちらも病院を代わってH先生の診察を継続するか、いまの病院で別の整形の先生に引継ぎしてもらうかの選択となる。Yは先生が代わるのも残念だが、子の装具の作成を親身にしてくれた装具メーカーのKさんが代わるのも大きなデメリットだという。次の受診時まで、回答を考えることになった。

 今日は午前中、海の見える義父母の畑で子が蜜柑狩りを愉しんだ。キヨミと呼ばれる柑橘類を子がハサミでひとつづつ摘んでいく様を眺めた。

 義父母を乗せて、昼過ぎに奈良へ戻った。

 夕方、近所の家電屋でYと子が使う電子辞書を買った。カシオのEx-word (XD-SF4800)。子は「わあ、わたしのDSだあ!」と大層喜んで、もちろんDSとは別物という認識はあるのだが、世界の湖の名前や漢字の部首の解説などを引き「明日の朝から、もうこればっかしで勉強もせんと思うわ」と興奮して寝床についた。

 明日からまた名古屋へ。

2009.3.27

 

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 一週間ぶりに名古屋から一時帰宅。

 夕食後、子のおはじき遊びにつきあった。以前、納豆工場見学の折に立ち寄ったマリーナシティで子が買ってきた「宝石」がおはじきだ。途中から「宝石」に名前をつけようということになった。

 どれがどの石の名前か、分かるかな。

 

涙のしずく  魔法の鏡  海のはじまり  草原の風  桜のつぼみ  紫の智慧  大地のはじまり  金色の露  炎の氷  未来の孤独  導きの小道  ゆるすこと・受け入れること  銀のカワウソ  世界の時間

 

2009.4.4

 

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 朝からママちゃりを車で運んでタイヤとチューブを交換してもらい、子のヴァイオリンのアンサンブル練習の送り迎えをし、わたしの長期出張用のキャリーバックを買いに行った夕方。お城祭りで賑わう郡山城を避けて、いつもの矢田山の「こどもの森」でささやかな花見をした。いつしか足元のつくし取りに夢中になり、100本ほどを収穫してつくだ煮にした。

 明日からまた、名古屋へ。

2009.4.5

 

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 昨夕、三週間ぶりに名古屋から「一時帰宅」する。徒歩30分のレオパレスへ帰って貪る3〜4時間の睡眠、あるいは拾得物倉庫のコンクリの床に敷いたダンボールの上で横になる「日常」から帰還すれば、一瞬、わが家が別人の家のような錯覚を覚える。「今夜は何が食べたい?」と訊くYに、「ふつうのご飯に味噌汁、冷奴、納豆、キンピラゴボウとか、そんなもの」と答えたのだった。

 今日は半日をほとんど寝てすごした。夜、近所の回転寿司屋へ食べに行った。久しぶりに立ち上げたインターネットでメルヴィルの「代書人バートルビー」を注文した。寿司屋へ行く途中の本屋で兵藤 裕己「琵琶法師―〈異界〉を語る人びと 」(岩波新書 ) を買い、付録のDVD(最後の琵琶法師・山鹿良之の俊徳丸)を子といっしょに見た。

 明日は子と二人でお弁当をもって天川の川原と温泉に行ってくる。

2009.4.28

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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