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 父へのクリスマス・プレゼントにと、子が羊の毛で紡いだマフラーを買ってくれた。習字教室を終えてからYと二人でナイショで買いに行ったのだが、クリスマスまで待ちきれずに喋ってしまったのだ。「ホリベクミコ・ぐるぐるマフラー展」はアポロの二階で明日と明後日もやっている。

 昼からお弁当(ベーコン巻き)を持って三人で矢田の大和民俗公園へ行く。

 帰りの車の中で子はわがままを言って父に叱られる。しばらく泣いて、途中の生協へYが買い物へ行っている間に仲直りをする。

 「お父さんって、泣いたことないよね」
 「そんなことないさ。お父さんだって泣くことはあるさ」
 「へえ、わたし見たことがない。どんなときに泣いたの?」
 「ほら、あれだよ。赤毛のアンのおじさん」
 「マシュー」(とY)
 「そう、マシュー。マシューが死んでしまうところ。あの場面にはお父さんは弱い」

2007.12.8

 

*

 

 相変わらず廣瀬久也「人形浄瑠璃の歴史」(戎光祥出版)を愛読している。四角四面のお堅い教科書かとも思ったが、この本は案外、いいぞ。人形浄瑠璃の深く面白きルーツの話はいつかゆっくり記すとして、わたしがいま夢見るのは、日本中の鄙びた山村に残されている農村舞台(村人の自前の歌舞伎や人形浄瑠璃の芝居小屋)を尋ね歩いて、運が良ければその野掛け舞台で催されるさまざまな地元の民俗芸能に触れる、そんな旅をすることだ。要するにあの淡路島での人形浄瑠璃の舞台を見て、すっかりはまってしまったわけだ。文楽も、芸術としては高度に洗練された形なのかも知れないが、わたしは地面にこぼれたどんぐりの実がどこにでもあるような山間で樹に成ったような、そんな素朴な形が好きだな。ブルースや古いカントリーソングもそうだが、この歳になって、どんどんじぶんの根っこが掘り下げられていくような気がする。そして20代の一時期に浮世絵にはまった時のような仄かな高揚感を覚えている。そういう意味では関西というのは、アメリカの南部のような場所かも知れない。それと東北。

 職場の休憩時間にMP3プレイヤーで、モーツァルトのレクイエムを大音量で聴いているこの頃。モーツァルトの死の観念は、暗く、激しく、ゆったりとして力強い。

 

阿波農村舞台の会 http://www.nousonbutai.com/

徳島大学デジタルミュージアム http://dmuseum.ias.tokushima-u.ac.jp/~ksdms/nouson/index.html

2007.12.9

 

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 休日。

 朝、子を学校へ送ったその足で電車に乗り、大阪の病院へ行く。子のオシッコの検査をしてもらい、脳外科にてY先生から結果を聞く(待合いで「異端の民俗学・差別と境界をめぐって 」(礫川全次・河出書房新社)を読み始める)。マラソン大会の話、学校で粗相をした話、また再生医療の話などをする。「車椅子の彼女に付き添って病院へ来る彼氏などを見ると、未来は明るいような気がする」と先生は仰る。

 午後から隣の大阪歴史博物館をはじめて見学する。学芸員のガイド付き地下遺構の見学ツアーも含めてほとんど閉館まで、古代・中世・近代の大阪の歴史をたっぷりと堪能する。上町台地というひとつ場所に、古墳時代の大倉庫群、7世紀の難波宮、そして中世の石山本願寺(蓮如)、近世の大阪城(秀吉)と重層的に遺構が折り重なっているのがすごいね。江戸時代の商都大阪の活気、またかつての道頓堀の芝居小屋の賑わい、ルナパーク(新世界)の古びた写真など、どれも興味が尽きない。それにしてものっけから復元された実物大の難波宮大極殿が出現したり、文楽の人形がスクリーンで再現された江戸時代浪速の町を案内したり、モニタ・照明・音響、それと様々な仕掛けを潤沢に使った「ごっつい」贅沢な博物館だ。移動の際のエスカレータ越しに見える実際の大阪城を見下ろす大パノラマの景色など、建物自体の構造もよく考えられている。これで前述の学芸員の解説が付いた地下遺構及び高床式倉庫内部の見学ツアーまで参加したら入館料600円は格安といえる。また発掘現場を模した子ども向けの体験フロアもあって、子どもたちが土器の破片を張り合わせたり重なり合う柱穴から年代を推測したり井戸の中に古銭を見つけたり愉しめるようになっている。。ちなみに隣のNHK大阪との間に横たわる地下遺構は地上部と地下2階駐車場に挟まれた地層をパイプシャフト工法なる技術でいわば「宙吊り」のまま保存しており、これも珍しいかも。

 天王寺でシュークリームを買って電車に乗る。

 

大阪歴史博物館 http://www.mus-his.city.osaka.jp/

2007.12.10

 

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 先々月であったか、社長面接というものを受けたのである。現場の責任者はすべて社員登用をして自覚を持たせるという社の意向で、半ば仕方為しに受けた。一月ほどしてから来た通知は「合格」で、見慣れぬ「○○業務部主任」という肩書き付きであった。新設された本社直轄の組織で、大阪にデスクを置き、関西ブロックのお目付といった役柄だ。社長の鶴の一声。これぞ大抜擢というのだろう。その後担当部長が業務内容の説明にもやってきた。わたしは「二三日、考えさせて下さい」と返答をした。まず第一にわたしは「ハイソサエティ」な人々とあまり交流を持ちたくない。組織(それが大きければ大きいほど)の中枢に深く入り込みたくない。これはわたしの性癖であり、我が儘である。出世はできるかも知れないが、いまのように自分で自由に休日を組んで子の病院や学校行事に参加できる機会は極端に奪われるだろう。どこぞで新店の立ち上げでもあれば一月くらい家を空けなければならない。家族、とくに子の成長に付き添う時間は金や地位では買い戻せない。それにわたしはいまの現場が案外、好きなのだ。スーツを着てクライアントのお偉いさんと話したり、現場を巡察したりするより、POPをつくったり、車を停めた場所が分からなくなったというお客さんを案内したり、閉店作業でシャッターを閉めて回ったりすることの方が愉しい。ユニークな同僚たちとの毎日も結構気に入っている。プログラムが得意な若いY君(といっても30代後半だが)を除けば、たいていはやむを得ぬ事情で会社を辞めたり、リストラされたり、事業の失敗で借金を負ったりした経験のある人間ばかりで、その分、深みがある。痛みを知っている。思いやりとハートがある。ときに些細な喧嘩もあるが、わたしは基本的にかれらが好きだ。組織の中枢にいる妖怪たちに比べればずっと。そんなあれこれを考えて、わたしは「○○業務部主任」を辞退することに決めた。現場を管理する営業所の所長は大歓迎である。これから店舗面積がおよそ倍になる増床工事も始まるので、さまざまな懸案があるからだ。Yは当初「すごいね〜」と喜んでいたが、最終的な判断はわたしに任せると言ってくれた。まあ、本音を言えばちょっと残念だろうけどな。とりあえず現場に残ったままでも社員登用になりそうな気配なので、万が一将来、いまの現場の契約が切られることがあっても最低限の身分保障は有したわけで、それがYへのせめてもの慰みである。

2007.12.14

 

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 少々風邪気味なのか、喉が痛い。飯を呑み込むときに痛むのでよく咀嚼すればいいのだろうが、痛いと思うとあまり噛みもせず急いで呑み込んでしまい、それでどうかというとやっぱり痛い。昨夜は休日だったけれど、夕方から電車で出かけた。天理の商店街でふらり立ち寄った骨董屋で件の「わらいもの」の土人形が手頃な値段をぶらさげて飾られていたのだが、それは表面がお多福の大きな顔で、もう少し愛嬌のある、小振りなものが欲しかったので見送ることにした。京風の洒落たおでん屋で男三人集まったのは、今回のわたしが現場を離れるかもしれない一件から露わになったチーム内のしこりを解決する話し合いのためであった。おでんの盛り合わせと、地鶏の刺身と、牡蠣フライをあてに熱い麦焼酎を啜った。「あなたが隊長になることに全員が反対しています。このままではわたしたちは空中分解です」 そんな言葉を伝えなくてはならなかった。話は4時間も続いた。充分ではなかったが、不充分でもなかった。天理は石上神宮の地でもある。ふるふると古代の魂がふるえる場所だ。がらんとした人気の絶えた商店街の入り口で「ではまた、あした」と三々五々に分かれた。家に帰ると子がまだ寝ずにいた。わたしが茶漬けを喰らっているテーブルの端で、今日遊びに行ったKちゃん宅での事柄を湯水のように身振り手振りで話して止まらないガウンをまとった姿を眺めながら、わたしの心は和んだ。そして、この愛おしくて仕方のない気持ちはどこから由来するものだろうと考えた。飯が子であれば、急いで呑み込んでもわたしの喉は少しも痛まないだろうと思った。

 

 「異端の民俗学・差別と境界をめぐって 」(礫川全次・河出書房新社)を読了する。図書館で頼んでいた「ニューエイジについてのキリスト教的考察」(カトリック中央協議会)を読み始める。

2007.12.15

 

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 泌尿器科のM先生が常勤している大阪・枚方市の病院にて年に一度の膀胱検査。子は学校を休み家族三人、車で富雄川沿いの下道をうねうねと北上する。レントゲン検査、尿道から造影剤を入れて満杯になるまでの膀胱の動きを調べる検査、胎児画像とおなじような3Dスキャンで膀胱の形を診る検査。結果は良好で、膀胱の動きもきれいだし、変形も少ない、壁の硬さは(まだ正常値ではないが)だいぶ柔らかになってきた、一日4mgから6mgに増やしたポラキス(呑み薬)は現状維持でいいとの由。朝9時に出て、帰宅は夜の6時過ぎ。病院で一日を過ごした。

2007.12.17

 

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“純真”を掘る坑夫として
ぼくは在りつづけたい この身を捧げたい
言うに言われぬ何かが
このぼくを“純真”探しに駆りたてる
年を重ねていくなかで

Hollywood にもいたし、Redwood にもいた
“純真”を求めて海を渡りもした
心の中も覗いたけれど、どれもたいした違いはなかった
それらがこのぼくを“純真”探しに駆りたてる
年を重ねていくなかで

Heart Of Gold・Neil Young 1972

 

2007.12.18

 

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 Yと古本屋二軒を回る。Yは子の図書(主に科学図鑑やなぜなに書の類)を大量に4000円分購入する。わたしは便乗して赤坂憲雄主催の「季刊・東北学」第13号(柏書房)を1000円で買ってもらう。特集は「岡本太郎」で、巻末にある谷川健一氏「御窟(みむろ)考」にも惹かれた。もうひとつ「フォトサイエンス・科学図録」(数研出版)なるものを100円で。物質の構成、化学反応、実験、応用までをビジュアルに描いた一冊で(じつはわたしにも難しい)、これで子に物質の成り立ちから実験の意味を教えてやろうと思ったわけで、つまり彼女の好きなニュートンにつながっている。

 夜、アマゾンで「瀬戸内の民俗誌―海民史の深層をたずねて 」(沖浦和光・岩波新書)「日本の聖と賎 ・中世篇」(沖浦和光・野間宏・人文社)の古書が手頃な値段で出ていたので注文する。またYが子のクリスマス・プレゼント用に古本屋で集めて欠けていた「ナルニア国ものがたり」(岩波少年文庫全7巻)の4・6・7巻もまとめて注文する。「ナルニア国」はそれぞれ20円とか43円とか69円とかナンボ安イノという感じだが、アマゾンの場合、大口出品者には独自の配送料を含む手数料+重量課金のシステムがあって、それらを含めると三冊で締めて1152円。それでもブックオフあたりに並んでいる値段より若干は安い。

2007.12.18

 

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 寺の回廊のような長い廊下を歩いている。片側は板塀で、もう一方は藁で編んだ格子になっていて、その格子越しから冬日に照らされた土饅頭の墓や古代の風葬の景色が見える。ひどく懐かしい気持ちがしながら歩く。

 

 風邪で寝込んだ日の昼間、体中から熱を発しているような苦しいうたた寝の中で、そんな夢を見た。古代の風葬は枕元で読んだ谷川健一氏の「御窟(みむろ)考」の影響だろう。

2007.12.20

 

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メモ

□絵金(1812〜1876)の屏風絵 http://www.town.akaoka.kochi.jp/ekinf.html (映画「陽炎座」に使われていた無惨絵は絵金の作品であったか?)

 絵金蔵公式サイト http://ekingura.com/

 絵金祭り風景 http://www.works128.jp/fromkochi/s40.htm

 サムライ・ニッポンの異端画家 絵金絵金 http://www.i-kochi.or.jp/Ekin/

□「新猿楽記」(藤原明衡・川口 久雄訳注・東洋文庫)

□「説教節」(東洋文庫)あるいは「説教正本集」(角川書店)

 www.hdever.com 日本語の Site Map http://www.hdever.com/wwwhdevercomsitemapj.html

□「宴の身体」(松岡心平・岩波書店) http://saturniens.air-nifty.com/sennen/2005/10/post_83a1.html

□奈良・田原本周辺の観阿弥・世阿弥父子の関連地若しくは猿楽発祥地(糸井神社・補厳寺・村屋坐弥富都比売神社)

□林家辰三郎「中世芸能民の研究」(岩波書店)

□奈良豆比古神社(奈良坂)で行われる翁舞(毎年10月8日夜・能狂言以前の古式を残す)

五来重「高野聖」(角川書店)

□「平家物語」の音曲CD(朗読ではなく、できれば古式に近いもの)

□京都・空也堂の念仏踊り(10月)

□法然--親鸞の再勉強(法然は旧仏教勢力との闘いについて、親鸞は特に賤視された下層民との思想的なつながりにおいて)及び源信の「往生要集」を読むこと

□石山本願寺一揆と村上水軍(信長の軍勢を突破して本願寺へ兵糧を送った点・賤民とのつながり)

 木津川沖の海戦(その1) http://www7a.biglobe.ne.jp/~echigoya/ka/KidzukawaokiKaisen.html

 木津川沖の海戦(その2) http://www7a.biglobe.ne.jp/~echigoya/ka/KidzukawaokiKaisen2.html

2007.12.20

 

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 分銅のような熱の苦しみを満喫した翌日、すこし楽になった布団の中で終日かけ(ときどきうつらうつらとしながら)、届いたばかりの「日本の聖と賎 ・中世篇」(沖浦和光・野間宏・人文社)を一気に読んでしまった。時が経つのも忘れる。いや、じぶんがいつの時代に生きているのかも忘れる。こんな道の辻々に、わたしはかつて、確かにいたように思う。夜には続いて「瀬戸内の民俗誌―海民史の深層をたずねて 」(沖浦和光・岩波新書)も手に取る。

 まったりとした至福の時間を終えて職場に復帰すれば、決着がついたと思っていた件(くだん)の「栄転話」が Boss の一声で又振り出しに戻っている。わたしが辞退の理由にあげていた長期の出張応援等は一切是を課さない。子の通院・介護については全的なサポートを確約する、と言うのである。利害一致で共闘を密約していた営業所長も「そこまで言われては」と匙を投げ、どうやら避けることは困難な雲行きとなりつつある。これも運命、或いは家の経済のためと腹をくくるときなのかも知れぬ。

 一日、しとしととした雨が降り続いた。煙感知器の誤報が一度、気分が悪くなったお客さんに担架を運ぶこと二度、それから出入り口で車両同士の接触とそれにまつわる交通誘導へのもつれたクレーム対応などがあった。それに年末年始体制の容易に進まぬ打ち合わせと。

2007.12.22

 

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 図書館で毎年一度催されるリ・ブック・フェア。市民から寄せられた不要な本を無料で一人30冊までもらえるという企画に、今年も家族三人で応募・参加。といっても、子は去年の人混みに嫌気が差したのか視聴覚ブースで「ジャングル大帝レオ」のビデオを見て待っているという。で、Yが子の本の担当となった。開場と共になだれ込んでサテと平棚を見わたせば、まず目に付いたのが「折口信夫全集」のバラが4、5冊。う〜ん中途半端にあってもなあ・・と迷っていたら、足下のダンボール箱いっぱいにおなじ「折口信夫全集」がたんまり詰まっているではないか。思わず棚の上の4、5冊をそのダンボール箱の上に載せ、そのまま重たい箱ごとずずっと会場の隅まで引きずっていって、やってきたYに「おれはもうこれだけでいいわ」。昭和42年に編まれた全31巻もので、数えたところ2巻だけ欠けているが無論、文句はない。わたしはきっとひどく仕合わせそうな顔をしていたはずだ。一瞬のうちに折口のほぼ全業績が手に入ったのである。ついでに言えば、通りかかった図書館員の人に「全集ものは一揃いで一冊でカウントしていいですよ。どうぞもっと持っていってください」なぞと言われて、次の数冊も漁ってきた。何とこれまた「中世篇」を読んだばかりでネット注文をしようと思っていたところの「日本の聖と賤・近世篇」(沖浦和光&野間宏・人文書院)。それから「同志社大学考古学シリーズ」と題された分厚い「考古学と技術」「考古学と信仰」(共に森浩一編)の二冊。新潮世界文学シリーズのこれも分厚い「リルケ」。新書で「蝦夷の末裔・前九年/後三年の役の実像」(高橋祟・中公新書)「戊辰戦争から西南戦争へ・明治維新を考える」(小島慶三・中公新書)「歴史の道を歩く」(今谷明・岩波新書)。Yはじぶんの本2冊と子の児童書を十数冊。すでにわたしも子も本棚から本が溢れ、至急に棚の増築が急務となった。

 クリスマスはことしは教会のミサへは参列しなかった。子が「行かなくていい」と言ったので。代わりに家で子がセッティングした宝探しゲームにつき合い、サンマルクのケーキを食べ、スーパーで買ったチキンとピザとサラダの盛り合わせとシャンパンでお祝いし、ポテトチップスをつまみながらNHKテレビでやっていたフィンランドのサンタクロース村の番組を見ながら家族でしずかに過ごした。番組の中でサンタが橇に乗って出発したものだから、子は慌ててテレビのスイッチを切って布団にもぐり込んだというわけだ。

2007.12.24

 

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 沖浦氏の一連の「賤民史」を読んでいると、この国の仏教について改めて考えさせられる。わたしたちがふだん「知っている」と思っている歴史は、じつはごく薄い上澄み(表層)の部分だけをすくったものに過ぎないのではないか。聖徳太子や徳川家康や明治天皇がどんな人物で何をしたかということはよく知っていても、無数の無名の人々、ましてや歴史の記述から疎外された最底辺の人々についてはほとんど知らない。残された「文字」とは、ここでは「権力」である。教科書だけをみれば恰も「文字」に残った上澄みの人々だけが歴史をつくってきたように見える。

 法然や親鸞、日蓮、一遍らが登場するいわゆる鎌倉新仏教の時代の到来まで、この国の仏教とはつまり、「国家鎮護」を主目的とした貴族階級のための宗教であって、一般の人々とは無縁なものであったことは覚えておいた方がいい。法隆寺も東大寺も宇治の平等院もその成り立ちは国家や貴族階級のものたちのための「私的な」場所であって、もともと一般の民衆には無縁なものであった。当時、正式な得度僧たちは僧尼令なる律令によって民衆の中に入って布教することを禁じられていた。かれらはいわば、国家に仕える「官僚僧」であった。

 代わりに民衆の間に分け入って仏の教えを伝えたのは私度僧と呼ばれる、官の正式な認可を受けていないモグリの「聖(ひじり)」たちであった。かれらの形態は上は山岳霊窟で修行する隠遁僧から、下は食べるために僧形を装った者まで様々だった。空也のように諸国を遍歴して橋や堂宇を改修し、乞食や癩病者を助け、市井に立って名号を唱える者もいれば、散所の乞食法師のように門付け芸や大道芸をやって諸国遊行する者たちもいた。かれらは権力の側からは疎んじられ蔑まれ、ときに「民衆を惑わす異形の者」として厳しい弾圧を受けたが、寺院に閉じこもっている得度僧と異なり、底辺の人々の間に分け入り、その悩みや苦しみと添い寝をしたのは正にかれらのような存在であった。真言宗の高野山にしても熊野信仰にしても、それを諸国に流布したのは決して高位の僧侶や神官なぞではなく、高野聖や熊野比丘尼のような貧しい遊行者たちであったのだ。野間宏は沖浦氏との対談「日本の聖と賤・中世篇」の中で、「その点をはずして、日本の大衆が呼吸している、あるいは生きて死んでいくリズムをとらえられないのではないか」と的を得た指摘をしている。わたしもそう思う。それこそが伝え難いが豊穣な、真の歴史の脈動である。

 はじめにもたらされたのは、随・唐より導入された律令制による「貴・賤」観(貴種・良民・賤民)をベースとした古代の身分制度であった。7世紀頃のことで、これらは儒教思想を基盤とした中国律令制の良賤観から来ている。その後、仏教の伝来とともに「浄・穢」観が入ってくる。こちらは仏教思想に付着したインドのバラモン教=ヒンドゥー教のカースト制度が源である。沖浦氏は「鎮護国家仏教の〈貴・賤〉観」(「天皇の国・賤民の国 両極のタブー」河出文庫)において、カースト制差別観念は密教を媒体として日本へ入ってきたのではないか、と推測している。密教はご存じのようにヒンドゥー教やインドの土着信仰の残滓をきらびやかな秘儀的装飾のようにまとっている。「この密教が日本へ入ってきて、すぐさま朝廷と結びつき、鎮護国家思想として国家の手篤い庇護下に入ったことはよく知られている。」

 

 空海は、仏法と被差別民とのかかわりについてどのように考えていたか。その問題について、しばしば指摘されているのは『遍照発揮性霊集』の一節である。続篇の『補闕鈔』巻第九において、真言の弟子に対して大日如来のもとでの法を説いて次のように言う。

 

 「若し能く悟解し巳るをば、即ち是を仏弟子と名づく。若し斯の義に違するをば即ち魔党と名づく。仏弟子は即ち是れ我が弟子なり。我が弟子は即ち是れ仏弟子なり。魔党は則ち吾が弟子に非ず。吾が弟子は則ち魔の弟子に非ず。我及び仏の弟子に非ざるは所謂旃陀羅悪人なり。仏法と国家の大賊なり。大賊は則ち現世には自他の利無く、後生には即ち無間の獄に入る。無間重罪の人は諸仏の大慈も覆蔭すること能はざる所、菩薩の大悲も救護すること能はざる所なり。」

(「高雄の山寺に三綱を択び任ずるの書」、空海全集第六巻、筑摩書房)

 

 旃陀羅(せんだら)は梵語チヤンダーラの音写であるが、『マヌ法典』にあるように、バラモン教の法を侵犯し穢れとされた不可触賤民をさす。彼らは「仏法と国家の大賊」であって、諸仏の大慈悲も及ばず無間地獄に堕ちるべきものと空海は断定しているのである。

 しかも空海は、なぜ旃陀羅が無間地獄に落ちねばならぬのか---その問題については一切論証していないのだ。つまり、理屈抜きで「自他の利なく、後生には無間の獄に入る」と断定する。ということは、その生まれによつて定まる生得的な罪業とみなしていたのであろう。無間地獄は、八大地獄の中でも最も罪業の重い者が落ち行くベき極苦の地下世界である。源信の『往生要集』によれば、その罪人は頭を下にして二千年もかかって落ちてくる。しかも、その苦しみは前の七つの地獄の苦しみより千倍も大きい阿鼻地款である。

 さらに注目すべきは、仏法と国家を等置する空海の論法である。古代や中世の世界において、武力による覇者が国家権力を掌握するのは東西の通例である。国家を建てると、覇道を王道に転化するために、天の予言・神の啓示・神話的虚構・英雄伝説などさまざまのイデオロギー的術策が講じられる。つまり、いろんな宗教的外皮をまとって、その支配の正当性と神聖な血統性を立証しようとする。政治力・軍事力による支配だけでなく、カリスマ的支配を永続化しょうとするのだ。

 そのような人為的営為と政治的工作によって建てられた国家、そこに君隠する王----それらが宗教の本義とどうかかわりあうかという問題は、まさにそれぞれの宗教の存立根拠を問う根本問題であろう。空海が唐を訪れた頃は、仏教は国家権力によつて保護統制され、皇帝の側も護国イデオロギーとして仏教を利用した。『金光明最勝王経』をはじめとする護国三部経は大々的に活用されていたが、とくに真言密教系は不空の『仁王護国般若経』の漢訳にみられるように、その秘法によって国家と皇帝を護るという「鎮護国家」思想をはっきり正面に掲げていた。

 一口で言えば、いずれの古代国家も、基本的には身分制を背景とする階級社会である。とくに侵攻してきた外来民族による征服王朝という性格が色濃い国家では、〈支配−被支配〉という政治的関係が、そのまま先住民族に対する〈差別−被差別〉という社会的関係と重なる。

 そういう場合、〈支配−被支配〉〈差別−被差別〉といった問題に、仏教はどう対応するのか、いかに対処すべきなのか。“自利”を小乗とみなし、自らを“利他”の立場とする大乗からすれば、〈一切衆生悉有仏性〉の根本義からしても、これらの問題は看過できぬ最重要課題の一つであろう。

 ところが空海は、そういう根深い重たい問題に切り込むこともなく、いとも簡単に仏法と国家を等置して、旃陀羅は「仏法と国家の大賊なり」と切って捨てる。巻九のこの一節は、空海の死後に弟子が偽作した部分ではないかという説もあるが、いずれにしても『補闕鈔』三巻(第八巻〜第十巻)は、仁和寺慈尊院の済暹が編んだことだけはたしかである。彼は長治元年(1104)には、高野山における弘法大師御影供の導師を勤めた真言密教の当時の代表的学匠である。かりにこの部分が空海作でないにしても、真言密教の伝統的思想体質と全く無関係に挿入された一節であるとは言えないだろう。

沖浦和光「天皇の国・賤民の国 両極のタブー」河出文庫

 

 密教を媒体としてもたらされたものは不可触賤民だけではない。ヒンドゥー教の「マヌ法典」では女人であること自体がすでに穢れに極めて近い存在であるとされ、そのような「血と産」に関わる穢れもまた時同じくしてもたらされたのである。穢れといえば古代より、貴族たちは自らの家屋敷内に犬の死骸ひとつ見つけただけで大騒ぎであった。触ることはおろか、それを見ることさえ恐れた。死の穢れが伝播すると信じていたのである。それを片づけるのはキヨメと呼ばれた賤民の仕事であった。そのような触穢(しょくえ)の観念が「延喜式」「諸社禁忌」「触穢問答」「神祗道服紀令秘抄」などで具体的に制度化され、さらに「日本の神道的な穢れと忌みの思想として習俗化されて、民衆レベルにおりてくる。それが仏教の殺生を禁じる思想と結びついて「屠沽の下類」に対するケガレ意識が社会全体に広がって」いく。「屠沽の下類」とは、殺生をはじめとした「十悪五逆」を犯した悪人は無間地獄に堕ちるとした仏教思想の広まりによって卑賤視された漁師や猟師、あるいは皮産業に従事する者や葬送に関わる者たちなどを指す。それらの賤視観が拡大され、「各地を漂泊しながら物を売り歩いている貧しいワタリたち、さらには「人に非ず」としてまわりから蔑みの目で見られている遊行民や念仏聖たち」、つまりはコメをつくる「良民」以外の職業差別へと固定化されていく。

 この仏教の「十悪五逆」から発生した差別観は、歴史における仏教教団各宗派の拭いきれない大きな罪科といえよう。「三卑賤」と呼ばれる猿楽能の「鵜飼」「阿漕」「善知鳥」といった作品はどれも、そうした卑賤視されていた職能民の暗い呻きのような鎮魂歌である。「鵜飼」では、殺生禁断の川でひそかに漁をして見つかり簀巻きにされて川中に放り込まれ死んだ猟師の亡霊が旅の僧の前に現れ、懺悔のために鵜飼いの様の舞を踊り、自らの回向を僧に願って闇に消えていく。かれらはその貧しき生業故に生涯を蔑まれ、仏教思想によって罪深い悪衆生とされ、仏の慈悲からも見捨てられた者たちであった。「それでいいのだろうか。そういう見方は、釈尊本来の〈仏法〉に即しているのだろうか」---親鸞はそのように考えた。「悪人正機」の「悪人」とは、そのような見捨てられた者たちを指した。(全国に何百も残るという「穢多寺」のほとんどは浄土真宗に属しているが、それらの被差別部落の寺さえ本山からは長い歴史の中で差別されてきたのである。〈一切衆生悉有仏性〉など反吐が出る。) また日蓮は自らの出自を「海辺の旃陀羅の子也」と宣言した。これらはなべて、当時としては革命的な言説であった。

 有名な寺院の大伽藍の前に立つ。「当寺は聖徳太子創建の由来をもち云々・・・」といった解説文を読むが、わたしにはひどく空疎なものに思える。むしろわたしの心根は苔むした一片の名もなき遊女の朽ちた墓石や、「仏の姿を背負いながら」夕闇のむこうへ消えていく笈を背負った淋しい六部の姿に添いたいと思う。あるいはかすれた蓮如の御文が書かれたぼろぼろの片袖を大事に仕舞っている地方の「穢多寺」を訊ねて話を聞いたり、失われつつあるかつての遊行民の声や舞や音曲に触れてみたい。そうした場所にこそ、歴史の中で懸命に生きて死んでいった者たちの心根があるように思えるからだ。わたしもまた、一人の名もなき乞食聖のようでありたい。官位も大伽藍も要らない。戒ももたず、組織ももたず、ときに石もて追われてもいい。「われ、旃陀羅の子也」と仁王立ちで立ち尽くしてもいい。だがかつて沖浦氏がインドのある不可触賤民の村で見た、大道芸人の父の抱いた棒の先できらきらと顔を輝かせて曲芸を演じていた子どものような歓びだけは持ち続けていたい。

 

 ところで、谷川健一氏の「御窟(みむろ)考」は次のような沖縄の習俗の話から始まる。

 

 日本列島の先史古代の墳墓の在り方を知るには南島の例が大いに参考になる。そのいくつかの事例を見ることにする。

 伊波普猷(いはふゆう)は「南島古代の葬制」の中で、沖縄本島の東海岸にある津堅(つけん)島では明治の中頃まで、人が死ぬと筵(むしろ)で包んで、後生山(ぐしょうやま)と称する薮の中に放ったが、その家族や親戚朋友たちが屍が腐爛して臭気が出るまでは、毎日のように後生山を訪れて、死人の類をのぞいて帰った。死人がもし若い者である場合には、生前の遊び仲間の青年男女が毎晩のように酒肴や楽器をたずさえ、一人ひとり死人の顔をのぞいた後で、思う存分に踊り狂ってその霊を慰めたと述べている。これは『日本書紀』の天稚彦(あまわかひこ)が死(みまか)りし時、その親族等集ひて、喪葬の式を行ひ定め日八日夜八夜(ひやかよやよ)の間、遊びたりきという内容を連想させるものであると伊波は云っている。それをさらにさかのぼれば、『魂志倭人伝』の「始め死するや停喪十余日、時に当りて肉を食わず、喪主哭泣し、他人就いて歌舞飲酒す」という記事にいきつく。これからすれば弥生時代の倭国でも南島と同じような葬制があったことはたしかである。死人の傍で歌舞したというのは、死者がまだ生けるがごとく振舞うことで、死者のよみがえりを期待する行為であった。近親者が死者の葬られた場所を訪れて死者の顔をのぞくことを「ナーチヤミ」という言葉で沖縄本島に残っている。

谷川健一「御窟(みむろ)考」(「季刊・東北学」第13号(柏書房)

 

 親しき人の「屍が腐爛して臭気が出るまで」その顔を覗き続けるという行為は、現代人にはあまりにグロテスクな光景かも知れない。だがわたしはあえて、その屍をわたしの愛する妻や子の姿に置き換えて、じっと思い描いてみるのだ。死は途方もない痛苦である。ふるえる手で筵をめくるたびに皮膚は膨れ、破れ、腐り、蛆が湧き、耐え難い臭気が鼻を刺す。それらをまじまじと凝視する。狂騒ともいえる精神ののっぴきならぬ場所で。そうしてその場に佇み、あるいは酒を飲み、語りかけ、唄を歌う。屍はやがて腐爛を終え、白骨だけを残す。どうだろう。わたしはそこに、グロテスクだとかおぞましいだとかいったチャチな感覚を超えた、ある意味で「死者とその死を共有する」ずぶとい、突き抜けた愛情を感ずるのだ。そこには死を穢れと見る感覚もない。腐爛だとか臭気だとかいうもの一切合切を抱え込み昇華した、川の流れのような寛容で豊かな精神がある。わたしにはそう思える。そしてそのような場所からはもはや、賤視や差別といったものが発生する気配もない。

2007.12.26

 

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 ヴァイオリンがこわれてしまった。夕方、職場にYよりメールが来た。練習中に足下に置いたヴァイオリンを誤って子が踏んづけてしまったらしい。電話をかけてYから詳細を訊いたが、子は頑として電話口にでようとしない。深夜、帰宅してケースに仕舞われたヴァイオリンを見た。本体と駒と呼ばれる竿をつないでいる部分がぱっくりと裂けている。弦を張ったときにいちばん力の掛かる部分だ。おそらく修理は無理だろう。ふと見ると、子の机の上に書きかけのノートがひろげたままになっているのに気づいた。

 

 もう、むねがはりさけそうになった。あんなにだいじにしていたものが・・・。いや、だいじにしていただろうか。ほかの人から見たら「こわそうとしていた」というのにちがいはあるまい。だがわたしはわたしなりの心でだいじにしていたにちがいない。あのときは、いや、あのときの自分は自分ではなかった。そんなかんたんなことすら自分はしらなかった。つまり、わすれられていることもわすれられている、ということだ。そのこともわすれていた。すっかりわすれていた。いや、わすれているといわないで知らないといったほうがいいかもしれない。こんなはずかしいことをかいたうえにわすれるといったら、この日っきはお母さんやお父さんにとりあげられてしまうだろう。そう思ってえんりょし、わすれたと書かないでしらないと書こう。そんなことをかんがえているとお母さんがふと顔をあげてこういった。「お父さんにメールをうちましょう。」 わたしは出るだけのあらんかぎりの声を出してさけんだ。「ああ、おねがい、お父さんにれんらくをおくらないで! しかられるから。でんわがかかってくるにちがいないと思うの。ね、おねがいだから。おねがいってば!」 むがむちゅうでお母さんにすがりつくわたし。すまなそうにわたしを見つめる母。わたしは母を見つめ、母はわたしを見下げる。しーんとしていた。世にもない、やさしい気持ち。心。わたしはお母さんが「わかった。できることはする」というのをまった。でも、今の母はちがった。わたしをながい時間、みつめていると小さな声で、「おくらないわけにはいかないのよ。あとでしかられるより、かなしんでいる今、元気ずけてくれるんじゃないの。」 それもそうね、というこたえをのみこんで、わたしはうなずいて見せた。わたしの、自分なりのれいぎをはじめて見せたのだ。わたしがお母さんのおなかの中にいるころ、お母さんはこうおしえてくださったのだ。「しの、ひとがかなしんでいるときはしゃべらないことね、いいわね。」と、なんどもなんどもなきながらおっしゃっていた。今、そのやくそくをあかしたのだ。わたしはどうどうとしてりっぱな母を見あげた。

  

2007.12.27

 

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 金曜は家族揃っての今年最後の休日だった。夜、子のリクエストでいごっそのラーメンを車で食べに行った。途中の夜道で小さな白いものがするするっと道を横切るのが見えた。「たしかにネズミだったよ」「轢いたかも知れないな」「来年の干支だよ」とY。「そいつは縁起がいい」とわたし。正月に玄関先で“穢多”が唄う祝言は縁起がいいのか悪いのか。要は人の胸先三寸だ。

 ところで小沢昭一のCD7枚組BOX「日本の放浪芸」を先日、ついに購入した。これはわたしの今回の社員登用による給与の締め日のズレによって今月はすこしばかり実入りがよかったのを口実にYにおねだりをした成果である。「う〜ん、○○さんも頑張ってるんだしねえ」とYの認可を得た晩にいそいそとアマゾンで注文し、年内に間に合って届いた。1万4千円もしたがそれだけの価値はある。というか、これはCDに永久保存された「世界遺産」ではないか。MP3プレイヤーに入れて、いまはひたすら聴き浸っている。

 ヴァイオリンは結局、折しも買い換えの時期でもあったし、買い直すこととなった。翌日、子はなかなか布団から出てこなかった。出てこれなかったのだ。しずかな朝食を終えてから、子と話をして彼女の意志を再確認した。「続けたい」と彼女が真摯な顔で言うので、正月明けに天満橋のバットさんのところへ行くことにした。30〜40万円は覚悟しなければならないが、懸命に働けばいい。翌日、Yと子は和歌山の義父母宅へ小鳥のピー介も連れて出発した。

 深夜に帰ってから弁当箱を洗い、翌日の米を洗っておく。Yがおでんを鍋いっぱいに作り置きしてくれている。今年も、あと一日。寝床に就いて「日本の聖と賤・近世篇」(沖浦和光&野間宏・人文書院)をめくる。

2007.12.30

 

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 風呂の湯もさすがに三日も使い続ければ匂ってくる。湯が腐るとはおのれの身体から剥離した諸々の有機物や菌が湯の中で繁殖するからで、悪臭とはこの場合、おのれのカルマ(業)が発する腐臭であるとも言える。Karma とはサンスクリット語で「なすことそれ自身」を意味する。「人は欲よりなる。欲にしたがって意志を形成し、意志の向かうところにしたがって業を実現する。その業にしたがって、その相応する結果がある」(ブリハド・アーラヌヤカ・ウパニシャッド) いわば悪臭はおのれ自身であり、おのれ自身の腐敗臭に満たされて二度目の追い炊きした湯に浸っていると、何やら愛おしい心地すら覚える。腐敗とは、浄化ではないか。ともあれその腐った湯を翌朝、バケツで洗濯機に運んで溜まっていた洗濯物を洗う。ほとんどがわたしのワイシャツ、下着、靴下、タオルなどで、わたししか家にいないのだからこれは当たり前のことだ。Yがアイロン掛けをして大量に吊していったワイシャツもそろそろ足りなくなってきた。靴下や肌着、パンツも同じく。腐敗した湯で汚れた衣類を洗うのは異なる気もするが、濯ぎもするからいいだろうという論法である。どのみち腐敗からは逃れられない。大晦日は職場でTさんがみなに買ってきてくれた鍋風ラーメンを食べて年越しとした。バイクで正月気分の車をいくつか追い抜きしている間に年が変わった。年が更新されてもおのれが変わったわけでもない。相も変わらず、ネックウォーマーを鼻下まで被ったヘルメットの中でジョニー・キャッシュの I Walk The Line なんぞを口ずさみアクセルを回しているしょぼくれたじぶんがいるだけだ。更新というならば、身体中の細胞は日々更新されているらしい。細胞を構成する水素・炭素・酸素・窒素などの主要元素は日々入れ替わり、そのうちの幾ばくかは風呂の湯の中に落ちて腐る。つまり、そこにあるのは固定した物質ではなく、固定した物質の形に見える「流れ」だけだ。「身体構成成分の動的な状態」を著した科学者のルドルフ・シェーンハイマーはそれを「秩序は守られるために絶え間なく壊されなければならない」と表現している。「流れ」の中に在るはずなのに、停滞しているものがある。それがカルマ(業)であり、腐敗の元である。いや、腐敗とはそもそも「流れ」の一過程であるのだから、悪臭は心地よいと言うべきか。腐敗するものはなべて、腐敗しない純粋要素を憧憬している。そしてわたしたちが日頃しがみついているのはこの「腐敗する方のもの」である。「流れ」のことを涅槃とか天国とか言うのだろう。ベランダに洗濯物が並び風にはためく。遠く、二上から葛城・金剛に連なる浅葱色の山並みが見える。部屋のCDプレイヤーが門付き万歳の調べを響かせている。新年の言祝(ことほ)ぎはかれらのような漂泊するまれびと・異人からもたらされた。新年とは「流れ」のターニングポイントのようなものか。言祝ぎは腐敗することへの賛歌かも知れない。新年おめでとう。源流を遡行し、悪臭を愛でよ。

2008.1.2

 

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 昨日。一日だけの正月休みの水曜。談山神社の翁舞奉納を見に行こうかと思案していたのをやめて、家にこもってホドロフスキーの「エルトポ」山田洋次の「故郷」を見る。どちらもすでに幾度も繰り返して見た原点のような作品。「故郷」は瀬戸内の小さな島で石船(砂利運搬船)に乗って働く家族の話だ。海が近ければ魚も捕り放題だろうと思うのは間違いで、ある種の人々は漁業権から締め出され、沖仕事などの雑用で暮らしていかなくてはならなかった。「故郷」の家族も砂利を遠く広島の埋め立て地まで運び、魚は行商の男(渥美清)から買う。舞台となった島には実際に昭和の初期まで多数の石船が稼働していたらしい。いつか訪ねてみたい場所。夕飯は正月なのだから何か豪華な菜でも買ってこようかとも思ったが外へ出るのが億劫で、冷蔵庫にあった大根葉と油揚げとミンチ肉で丼をつくり生卵をかけたら実にうまかった。

2008.1.3

 

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 家族揃っての新年はじめての休日。遅めの朝食はYに頼んで関西風の雑煮をつくってもらう。午前中は年賀状の返事を書いたり、子が義父母宅で書き綴った日記をワープロに起こしたり。子は学校の宿題が溜まっているらしい。昼はお節料理の残り物。それでも正月をテナントが売り残して呉れたパンやおにぎり、元旦に配られた弁当、それ以外はほとんど冷凍のレトルト食品などで凌いできたわたしには大変なご馳走だ。食べながら子が先日テレビで見たという、温暖化で氷が溶けた大地で見つかった油田のために金を湯水のように遣い贅沢をするようになったイヌイットの人々の話を聞く。他にも餌のなくなったシロクマや、海草や苔がなくなって海種と陸種の交配が始まっているイグアナなどの話をして「どうしたらいいんだろう」とやけに憤慨している。午後、子と近くの公園で縄跳びの練習をする。前回し何回、後ろ回し何回、それに一本足やスキップ、交差など段階毎のチェック表があってクリアしたらシールを貼るようになっているのだが、子のものは紙が分厚い。じつは担任のT先生が子の仕様にランクを落とした表を別に印刷して上から貼ってくれたのである。それでも縄跳びはやはり、子には難しい。一定の個所で跳ぶというのではなく、歩きながら縄をくぐるといった態だ。いつも右足がひっかかるのは左足が役に立たず、唯一の軸になる足だからどうしても遅れてしまうのだろうと思う。夜、近くの賣太神社へ初詣にいく。芸能の始祖であるアミノウズメと語り部の始祖である稗田阿礼命の祭神(それともう一柱・猿田彦)は子に相応しいかも知れない。夕食はそのまま車で回転寿司屋へ。

 先の図書館の古本リサイクル市で頂いた折口信夫全集のうち欠けていた二冊----「16巻 民俗学篇2」と「20巻 神道宗教篇」をそれぞれネット古書で見つけて注文する。これで全31巻(+索引一巻)が揃った。

 

 

 

□ 12月31日(月曜日) (しの)

 

きょう、だいこんひきにいきました。おばあちゃんとです。かよさんもいました。

「これひいて」

と、あばあちゃんがいうだいこんをつぎつぎにひいていきました。

 くっついてきた小さいだいこんはわたしのにしました。すごかったです。わたしがみつけた大きなだいこん。あまり大きかったので、しりもちをついてしまいました。だいこんをかかえたまま、コロコロコロ・・・ ほかのだいこんめがけてコッロコロ。ちょうど、そこには、おばあちゃんがだいこんのはっぱやにんじんのは、花のはっぱがたくさんあつめてあったのでとまりました。

 とまったのはいいですけど、どろまみれ。

 あおいリボンで小さなだいこんをまいてもらうと家へいちもくさん。はずかしくてだいこんをまいたリボンをふりふりはしりました。

 だいこんひき、おもしろかったです。

 

 

 

□ たこをあげたこと (しの)

 

 わたしはでかける前に、糸がゆるんだらおもいっきりひくこと、糸がはったら糸をだすことの二つをまなんでおきました。「しの、けいたいどこいった?」母がききました。「あそこ。ほら、あのつくえの上のふでばこのよこ。」わたしはこたえました。「ふんふん。」母はけいたいをとりにいきました。わたしがきのうの日っきののこりをかいていると、「しの、おしっこにいきなさい。」 またです。わたしみたいな子はいつでもツイてないのです。大人っていうもんは、大きなムシバみたいなもんなんです。マ、トキドキイイとこもありますけどネ。ワルイというもんは大人とくらべものになりマセん。ピッピみたいな子が母さんだったらいいのです。イイとワルイはチョットはクラベモノにナリマスけどネ。ダメなんです。ホントにダメなんです。大人ってモンは、トッテモオモシロクナインです。オモシロクナインです。わたしはためいきをついて、オシッコのどうぐをもちました。わたしはトイレにむかい、母はカバンの中にタクサンなにかをいれ、おばあちゃんはシンブンをみ、おじいちゃんはタコのしゅうりをしました。トイレの中でわたしは、イロイロなしつもんを考えだしましたが、今はトイレの中。かといって、外にいってからじっけんの本にかくことはできません。いや、ゆるされるはずがありません。だって今はでかける前! どんなにかきたくても、できません。「へ。」わたしはかなしくなりました。ルルンルンとはなうたをうたって自分をはげますしかありません。「ルールルールー、ルールルルー。ルールルールールルー。ルールルールルルールルン!」 いつしか自分の声は水しょうのようなすきとおった声になっていました。よけいにかなしくなったので、タコのことを考えました。まっ白なタコがこわれたら、プーさんのをかうんだ。しおりちゃんのお母さんやしおりちゃんがつかっていた三かくのタコを。あれはビニールだから、さくらの木へひっかかったり、うみへおちたりしても、そうかんたんにはやぶれまい。やぶれたとしても、ヤスイからまたかえばイイんだ。ソンナコトを考えているマに、オシッコはゼンブでました。トイレからでると、お母さんがマタいいました。「シノ、テ、アラッタラ、コートきて、ボーシカブッテ。」 イツマデモ、チャカシつづけるのが、この、わたしの大好きなお母さんです。「シノ、テ、アラッタ?」 そして、わたしだけにキキつづけるのが、大の大好きなおばあちゃん。タコはじょうずにのぼりました。

 

 

 

たこをあげ、はたけでだいこんをひいたこと・12月31日 (しの)

 

 わたしは、あさ、おじいちゃんと、たこあげにいきました。たこの名はマリー・アントアネットとなずけました。あまりどうどうとりっぱにとぶのでそういうのです。「さあ、マリー・アントアネット、とぶのよ、空を。やすらかに、王ひのように、どうどうと。あなたのでばんがきたわよ。」 わたしはいいました。「どこいく?」たこがいうので、わたしはあとじさりしました。「どこいくの?」たこはききました。「もののけ姫のじだいへ。もののけ姫んとこにつれてって。」わたしはいいました。「わかった。ついてきて。」たこははねをひろげました。「うん。」わたしはうなずいてたこをもちました。おじいちゃんがあごであいずをおくりました。わたしはあいずをかえすと風がきたときにひょいととばしました。たこはぐんぐんあがっていきました。そして、左へとんでいきました。はじめわたしはボーッとしていましたが、すぐにおいかけました。むこうのほうから山犬の子がおいかけてきました。ハ、ハァといきをついています。「おまえはさきにおいき。おまえはわたしといこう。おまえははしってって、母さんにこのことをつたえて。」 かたほうの子ははしりさっていこうとしています。「はやく。ね、いい子。」 その子は体をぎんいろに光らせて太ようをあざわらうかのように太ように近ずいてからとんでいきました。下をむいてにっこりほほえんでとんでいったのです。「むりもない。」 わたしのとなりをはしっていた山犬の子がつぶやきました。「えっ?」わたしはききかえしました。「ああやって、よろこぶのもむりもないよ。いまは二どめのイノシシのたたかい『ゴナのたたかい』がはじまっているんだよ。ナゴ神のたたかいのつぎには、ゴナのたたかいなんてね。ゆめにもおもわぬ。ナゴがしんだのを見とどけて、おとうとのゴナがおこってたたかいをいどん・・・」 「ちょっとまってて。」わたしは口をはさみ、その子の足もとをちらりと見つめました。たしかに、山犬の足あとがその子のあとにはつづいていました。そしておじいちゃんのところにいって、糸をまいているとこを見ました。糸はもうすくなくなっています。「・・だのだよ。」 子がわたしにもういいかとでもいうようにわたしをのぞきこみました。「へー。」「神というものは人間をみまもっているのに、人間はしかえしをしようとする。まったくバカな人間がいるものだ。すみにくい世の中のもんだ。あんたも母さんのみかたをするんだったら、せいぜいおぼえておくことだ。」 わたしはいみがわからぬというように、くびをかしげました。「あの、シシ神ごろしのとき、アシタカがぜんぶ、さいかいさせたんじゃないの。それに、モロはシシ神ごろしのときに、しんじゃったんじゃないの。」 子はあきれたようにいいました。「あんたにゃわかってないな。でも、サンだって、はじめはわかんなかったんだ。このチビスケだって、わかるようになる。母さんのところへいって、ききな。おれたちゃ、ちゃんとせつめいできん。」 それからすこしかんがえて、「うん、こうしててもあかんな。よし、母さん、よんでくっから、まってな。」 そして、ゆめはさめてしまいました。たこあげも、だいこんひきも、ゆめだったのです。

 

 

 

□ 12月30日(日ようび) (しの)

 

 きょう、おもちつきを、おばあちゃんちでしました。さいしょに、おじいちゃんが、きかいをもってきました。

 わたしは、おばあちゃんに、

「これ、なににつかうきかい?」

と、ききました。おばあちゃんにかわっておじいちゃんがこたえてくれました。

「これは、おもちをついたりねったりするきかいさ。」

と、おじいちゃんは口ぐせのように、いったものです。(ふうん、これが、もちをつくのか。)と、わたしはおもいました。

 まず、わたしたちは、おもちつきのじゅんびをしました。おばあちゃんが、おもちをならべるためのフキンをひいて、おかあさんが、きかいをふいて、その中にお水をいれてかまにもち米をいれました。

 おじいちゃんは、やりかたの本をよみ、わたしはしんぶんしをへやいっぱいひろげました。なぜしんぶんしをひろげたかというと、おばあちゃんが、

「しんぶんしをひいていたほうがいいよ。だって、たたみにこながつかなくて、おそうじがらくだもの。ちなみに、しんぶんしは古いのがいいね。」

と、いったからです。

 三十分間、みんなはきめられたしごとにむ中でした。あかるいきもちでいたわたしも、だんだんしんぶんしにはらをたてはじめました。りゆうは、ひこうとすると、もうひいてあったしんぶんしがひっかかってドスン! もうれつないきおいでひっくりかえってしまいます。なんかいそれをくりかえしたかしれません。もう、しんぶんしをひくのをやめてしまいました。でも、またやりはじめました。すこしやすんだだけなのです。ようやくしんぶんしがひけました。

 おばあちゃんが、テープをはってくれました。で、つまずかなくなりました。わたしは赤いバラがとけて、その風がとおったようなきがしました。その空気をすいこんだわたしの心に、バラの花がさきほこりました。それで、わたしは、すばやく元気になりました。

 きかいは、むしはじめました。42分間も。

 わたしはすみっこにいって、ものがたりをかきました。かくときに、なににしようかまよいました。まよってまよってまよったあげく、とうとう、しずくの話をかきあげようとけっしんしました。べつのベンジャミンの話でも、名がなかなかきまりませんでした。ロジャリー、いや、ベッジャリーだ。友だちは・・・ マリー、ジャッファー、リセ、クリー、ミーチンカ。一ばんの友だちはミーチンカよ。いたずらっこだけども、とってもやさしいの。ミーチンカとベッジャリーとリセとクリーが美しいベンジャミンの花をもって、大ぼうけんをするの。そんなことをかんがえているまに、42分がすぎました。

 おばあちゃんが、【つく】のボタンをおしました。

 わたしはワクワクし、体をかためました。おかあさんも、おばあちゃんもしんけんなかおをしています。

「みんな、いるかね?」

 おばあちゃんがききました。

「いるとおもうわ。」

 そういってわたしはあたまのかずをかぞえだしました。

「一、二、三、と。一、二、三、あっ、おじいちゃんがいない!」

「たぶん、ねにいったんでしょ。」

 おかあさんがいったとたん、

「こんにちはー。かよでーす。」

 おばあちゃんちのドアがひらいて、お母さんのしりあいがはいってきました。

「みにきましたあ。」

 お母さんのしりあいは谷もとのかよさんらしい。谷もとでなんべんかあっている。かよさんは、わたしのとなりにすわりました。

 つくのがおわりました。わたしはもちに手をのばしてまるめようとしました。

「あっち! あついよー。」

 あつくてたまらなくなって、

「水! 水!」

と、さけんだあげく、手をあらういれものの中に手をつっこみました。すばやく手をひきぬくとタオルでふきました。

 それから、もちをまるめました。わたしのが一ばんへたでした。

 わたしはみんながまるめたもちをのせているぼんがいっぱいになったら、おばあちゃんがはじめにひいていたフキンの上にのせて、またおぼんをもってくる、というかかりでした。

 できあがって、かよさんはかえり、ほとけさまにもおもちをあげました。かよさんも、すこしおもちをもってかえりました。そのあとでわたしたちもたべました。とってもおいしかったです。ほんとうにおもしろかった。

 

 

 

□ ゆめを見たこと  (しの)

 

 ゆめの中で、わたしはめざめました。ひろいはらっぱにいました。はってゆくと、少年にあいました。名をたずねると小林だんちょうの一ばんでし、井上くんでした。小林くんに会って話をしたいのだがというと、少年はすこしかんがえて、「うん、いいさ。それに小林先生ならあそこにいておいでになってるよ。」といってはっぱや草で見えないところをゆびさしました。「ありがとう。」 わたしは手をひらきました。なんと手の中には金いろの石っころがありました。さぁっと青みがかったダイヤモンドです。ひっしでわたしは光をかくすと小林くんに会いにいきました。「小林さん。わたしからいいます。わたしをでしにしてください。いまは黄金ひょうをおいかけているのでしょう。ダイヤをぬすまれないために。少年さん、あなたは明ち先生の手下の小林さんでしょう。井上さんとノロ一平さんとほかの少年たちとともに黄金ひょうをびこうしているのでしょう。わたしもいれてください。」 小林くんはふりかえると、青ざめたかおでわたしを見つめました。「いいですよ。はい、黄金のあいつをびこうしているのです。よくそこまでおさっしになりましたね。あなたを少女たんていだんいんにむかえいれましょう。」 そして少年たちをよびあつめるとしょうかいしてくれました。「こちらはぼくの一ばんでしの井上くん、こっちは二ばんでし、ノロ一平さん、そして三ばんでし、正一くん、四ばんでしの・・・」 三十八ばんでしまでしょうかいしてくれると、みんなにいいました。「こちらははじめて少女たんていとしてはいられるものだよ。」 そして、おくでなにやらゴソゴソやってから、二少年がでてきて(小林をいれて三少年ですが)、 井上くんがいいました。「よび子のふえだよ。」そしてたまごくらいの四かくいつつみをわたしてくれました。「水にとけるメモようしだよ。」ノロ一平くんが、大きなずかんぐらいの大きさのつつみをくれました。「これは、とってもやくにたつものだよ。」小林少年が小さな本みたいなものをわたしてくれました。「しょるい? それとも二十めんそうのいろいろなことがかいてあるの?」 わたしはききました。「ま、ね。あけてごらん。」 小林くんがくれたつつみをひらくと、小さなノートがはいっていました。みなさんはウソだとおもうでしょうが、少年たちはこんなものまでもっていたのです。「できごとをくわしくかくんだよ。日っきみたいなものさ。そして、あけち先生にほうこくできないときに、かいといて、あとで先生に見せるんだよ。」 小林少年がせつめいしました。つぎにノロちゃんがくれたつつみをひらくとことばどおり、うすいメモがたくさんありました。ぶあつく見えるのは、メモようしがかさなりあって、ずかんのようになっていたのでした。井上くんがわたしたつつみをひらくとよび子の小さいふえがはいっていました。「さあ、しゅっぱつだ!」 小林少年がさけぶとどうじに、ポンという音がしました。なんだかおもちゃのピストルをうったようなはじける音です。こんどは井上くんがせつめしてくれました。「あつまれとか、うごきだすときとか、ここにいるということを知らせるピストルだ。ほかにももっとつかいようがあるけど、いまはいえないね。とにかく、うちかたによってちがうから。パからポまでうちかたがあるんだ。ほら、ぼくがわたしたはこの中にあったろ?」 ありました、ありました。くろいピカピカしたあたらしいやつが。小さなかみといっしょにそえてありました。それをよんでみるとこうかいてありました。【パンはここ、ピンはあつまれ、プンはうごけ、ペンはあそこだ、ポンはしゅっぱつ】 読みあげてから、小林少年のところにいって、「わたし、あそこに先にいって、見はってるから。」といいのこして金いろに光るほうへいそぎました。みをかがめて前を見ると、とびだしたのは金いろの前あしのかたほう! くろいはんてんが見えます。そっと上を見ると、黄金ひょうの頭がそこにありました。青いダイヤモンドのようなまぶしい目。金いろにかがやく耳やはだ。わたしのけはいをかんじて、耳をピクッとうごかし、ふりむいたにちがいありません。しぜんと空気がはりつめていました。少年たちが黄金ひょうがふりむいたのに気がついて、わたしのことをしんぱいしているからだと、わたしは思いました。黄金ひょうににらまれて、わたしはひめいをあげそうになりました。でも、やっとのことでひめいをのみこんで、黄金のやつをにらみかえしました。わたしは少年たんていだんいんだよ。黄金ひょうにまけてたまるか。わたしは黄金のあいつをにらみながら、いい考えがうかびました。気づかれぬようにちゅういしながら、ソッとあのピストルをうったのです。「ピンペン!」 金ピカのやつはおどろいたように、みをひるがえしてにげました。「えへへへへ・・・」とわらってにげたのです。小林くんがかけつけてきて、おききになりました。「黄金めはどこへ?」 わたしは、南の方がくをゆびさしました。「さあ、さがせ、さがせ! いるかも知れないんだ。早く、早く!」 小林だんちょうのめいれいに、井上くんたちは石をなげつけられたメダカのようにちらばっていきました。でも、わたしはこわくなって石のように小林くんにすがりついて、ガタガタふるえていました。小林くんはわたしをだいたまま、じっと考えこんでいました。なにかしら、考えていました。うまれたときからこんなんにかしこいなんて、わたしは考えてもみませんでした。少年たちぜいいんでさがしても、黄金ひょうは見つかりませんでした。また、あの金ピカのやつはじゅつをつかったのでしょうか。そうです。そして、あれからわたしは目がさめてしまったのです。なぜだか知りませんが。そうだった。

 

2008.1.6

 

*

 

 年明け初のヴァイオリン教室。木工ボンドで接着したヴァイオリンは駒や弦の調整もネット資料を参考にわたしが素人なりに誂え、何とか練習も再開できるようになった。しかし先生は「木工ボンド」がお気に召さなかった模様で、少々不満顔(と、わたしには感じた)。本来は膠(にかわ)を用いるので、木工ボンドでは「木が呼吸できなくなる」との由。まあダメもとでやった素人所業だからその辺は大目に見てやってくださいと言いたいところだが、プロの先生にしてみたら楽器への愛情が深いだけ、喩えるならば愛犬に腐った餌を喰わされたような感覚なのだろうとも得心する。今日の昼間、Yは子を連れて奈良市内の某楽器店で次のサイズのヴァイオリンを見てきた。もう、あと2センチ背が伸びたら適当で、先生の見解では何とかやれるのではないかとのこと。それで明日、行きつけの大阪のヴァイオリン工房へ先生が同行してくれ、楽器選びにつき合ってくれることになった。予算は30万円だがこれは本体の金額で、弓とケースを入れたらかれこれ40万円近くになるのではないか。病院の一時立替金が最近まとめて還ってきたのや義父母たちが和歌山へ帰るときに「高速代の足しに」とくれたりしたものなどを貯めていたのが十数万円あり、わたしの母が5万円カンパしてくれ、あとは子のこれまでのお年玉や障害者手当、入院のときの見舞金等々を預けていた分で何とか足りるだろうとYは言っている。要するにわが家の「余剰金」のほとんど全部なわけだけれど。

2008.1.8

 

*

 

 9日。工房には7台のヴァイオリンが並んでいた。一台づつ、子は先生といっしょに試し弾きをしながら、二台を残した。それから先生は「おいくらですか?」とはじめて値段を訊いた。残った二台がいちばん値のよいものだった。一台は100年前にフランスでつくられたもので、森の老樹のような深い、味わいのある音が出る。工房主いわく「このヴァイオリンは音楽を知っている」というやつだ。もう一方は工房の若いヴァイオリン職人のかつての同僚がはじめて制作した作品で、二人の奏者の手に渡ってきた。新芽のような、かっちりとした、やや硬めの音だ。「このヴァイオリンは、これから音楽を教えてやらなくちゃいけない。ちょっと大変だけど、弾き甲斐はある」 最終的に、子は後者を選んだ。本体50万円、弓13万円、それにケース、首当て、松脂をつけてもらって35万円にまけてくれた。次もこの工房で購入するという条件で。そして通常の使用であれば、次回の買い換え時に購入時の8割の値段で下取りしてくれるという約束。何年使うのか分からないが、約7万円のレンタルであるともいえる。

 11日。過日に図書館でもらった折口信夫全集を収納するため、わたしの部屋の机上に天井までの書棚を作成する。朝から夜まで一日がかりで完成。わたしの部屋の分は見てくれはどうでもいいのでネジ止めだけの簡単な構造で塗装もなし。材料費、約4千円也。実際に全集を載せてみたら少々強度に不安を覚えたのと、モニタの両サイドに細かな仕切りをつくりたいと思いついたため、後日にもうすこしばかり改良する予定。「お父さん、マリー・アントワネットは天国に行けたと思う?」 夜、マリー・アントワネットの処刑の話から、風呂の中で子と死刑制度の話をする。子は現代の日本にも死刑があると知ってひどく驚き、じぶんはそんなことはぜったいにはんたいだ、と語気を荒らげる。「マリー・アントワネットは贅沢をしたかも知れないけど反省して、最後は堂々と立派に死んでいったから、わたしはきっと天国に行ったと思う」

 13日。Yと子、それに関東から泊まりに来ている母と妹を乗せ、朝から車でならファミリーへ。平城京との境の道端にカメラの三脚がずらりと並んでいるので、何かイベントでもあるのだろうかと思ったら、若草山の山焼き撮影のための席取りらしい。女性陣が買い物に興じている間、わたしは本屋で買った「被差別部落一千年史」(高橋貞樹・岩波文庫)をベンチでめくり、うたた寝する。鰻料理の「江戸川」で昼食。子がべったりの妹がすこし店を見たいと言うので、子を屋上の遊園地に誘う。ゲーム・センターなど行ったことのない子にあれこれ機械の説明をして300円ほど遊ぶが、ほとんど見よう見まねだ。やがて、五月蠅くて頭が痛くなってくる、と外の芝生へ逃げ出す。そして「わたし、走りたいな」と言って芝生の上を駆け出す。小山の上を転げ回る。「おいおい、いま買ってもらったばかりの新しいコートだぞ」「まあ、いいじゃない」 いつの間にか寒空の下で小山やデッキ風の舞台を利用してルールを決め、二人で鬼ごっこをしている。「おもしろいね。たのしいね」とけらけら笑いながら駆け回る。そういえば年末に学校で、子どもたちが「お正月にやりたいこと」を書かされた。「DSをやりたい」と書いた子がいちばん多かったそうで、それを子は「BS(衛星放送)」と勘違いして帰ってきた。子が書いたのは「凧揚げ、羽根つき、お餅つき、竹馬」だったとYに聞いた話を思い出した。子は冬のコートとマリー・アントワネットの学習漫画を買ってもらった。

2008.1.13

 

*

 

 子どもの質問に答えるのは、ときにひどく難しいことだ。「電気はどうしてつくの?」とか「雨はどうしてふるの?」とかなら、何とか答えられるかも知れない。けれど「石はなにでできているの?」と訊かれたら、さて、どうだろう。たとえば折口信夫は「石に出で入るもの」の中で「玉・石・骨・貝などには、共通の原因があります。それは、神或は人間の“たま”といふものと同じ、といふ所から来てゐます。人間の體に内在してゐるものが“たま”で、それがはたらき出すと“たましひ”です」などと言っている。それと同じように、マリー・アントワネットは天国に行けたか、あるいは死刑制度についてどう思うか、なぞという子の質問にはそうそう容易には答え難い。何か言おうとする言葉がじぶんに跳ね返ってきて自らの暗闇の中で一瞬、方向を見失うからである。矢は深々と刺さっている。ジムという名のネイティブ・アメリカンの少年が勇気を出して祖母に尋ねたのも、そのような質問だった。「いちばん古い母親であるおばあちゃん、どうして、なぜ、天におられるわたしたちの偉大なる曾祖父は、白人たちがこの大地を奪い去っていくことをおゆるしになられたのですか?」 ならファミリーにあるヴィレッジ・ヴァンガードの店頭でその本------「虹の戦士」を開いていた。この本はむかし買って読んだのだけれど、誰かにあげてしまった。けれどもういちど子に読み聞かせてやりたいと思いその夜、ネットで古書を見つけ注文した。いやほんとうは、わたしがこの祖母であったら少年に何と答えられるだろうかと思い、その本がいままたじぶんに必要であると思えたからだった。

 花が種子を残して枯れるように、答えはまたひとつの問いへと変わるだろう。

 

 

「お前は自分の心を語った。だから聞くがよい。お前がわたしに尋ねてきた質問は、とても大きい。普通それは少年の聞くような質問ではない。それは戦士の発する質問だ。お前ぐらいの年の少年がそういう質問をすると、昔だったら、賢いチーフがその質問にこう答えた。
『ホ! これはこれは小さいのが、なんとまあ大きな質問をしたものだ。答えを出す前にお前を確かめなくてはならん。この子が自分のスピリットを見つけるよう、どこか人気のないところに連れていくことにしよう。偉大なる人間だけが、その質問の答えを手に入れることができる。この子がどれくらい偉大なのか、ひとつ見てみることにしよう』とね」

「いちばん古い母親であるおばあちゃん、ではぼくはなにをしたらいいのですか?」

 少年にこう聞かれて老婆はうろたえた。
 まさかそんなことを聞かれるなどとは考えてもいなかったからだ。

 老婆は眼をしばたたかせると、声を立てて笑いだした。
 だがその笑い声は、どう聞いても、年老いた女性のものなどではなかった。

 呼吸にあわせて山の風も笑った。

 老婆のその笑い声のなかに、よく聞くと鷲の鳴き声とかマウンテン・ライオンの叫びが混じっていた。自らの血を受け継ぐひとりの少年によって、かくも偉大なる質問が発せられたことにたいする喜びとプライドが、その笑い声の奥深くには感じられた。

「虹の戦士」(北山耕平・太田出版)

 

2008.1.15

 

*

  

 

大会ぎニュース  大ちらし

 

 13年前、はんしんあわじ大しんさいというものがおきました。大じしんでした。○○先生が中学生のころでした。先生は、ナラにすんでいて、すぐにゆれがつたわってきたといいます。そして、たくさんの人のいのちがふっとばないために、このちらしをつくりました。

 

先生がいったこと

 まず、先生がいったことをいいます。先生はあさ早くから、こたつにもぐってべんきょうしながらねていました。と、とつぜん、家じゅうがガタガタッとゆれて、こたつの足がボキッとおれて、こたつが先生の足の上におっこちてきたので、先生は目をさまし、足をこたつの下からぬきだし、こたつの上にのっかりました。はしごと本だながおちてきて、もうすぐ先生のあたまがつぶれそうになっていましたが、先生はうまいこと、こたつにのっかっていたので、こたつのはしっこがうけとめてくれたそうです。先生は、とってもこわかったそうです。

 

おかあさんがいったこと

 おかあさんのことを話します。おかあさんはゆれで、しょっきだながバッとあいて、ガラスのコップやおさらがたおれたというのです。

 

 どこでもこんなことがおきるので、1月17日はしっかりしといて、ふざけてはなりません。もしかしたら、どこかの家でいたずらぼうずがあばれて、おしおきにと神さまがしたのかもしれません。ちゅういしてください。

 それで、1月27日にはんしんあわじ大しんさい大会ぎをすることにきめました。あさの5じはんから会ぎをします。というのは、5じにおきて、ごはんを5じはんまでにたべて、5じはんから会ぎです。早おきをがんばってしてくださいね。

 

ちゅういにちゅういをかさねて、1月17日をすごしてください。

ちゅうい!

1. ぐににげる

2. けぶ

3. しらない、早あるきをする

 この三つのおやくそく、す・さ・は にげかたをしっかりみにつけ、まもってください。ルールをまもりましょう。

 

大しんさいはこわいので、からかわないでください。

きをつけてください!

(しの) 

 

2008.1.17

 

*

 

 机の上の本棚をようやく完成させる。追加で棚受け部などを増設したが案外うまくいったようだ。今回はホゾ穴も木組みもダボも一切使っていないが、木工ボンドとネジだけでもだいぶ頑丈だ。そもそも洒落っ気を考えず、本を収納するという実利だけを求めるのであれば、そんなもので充分かも知れない。ただ今回のような大型の作品で難儀するのは作業場の都合だ。倒したり裏返したりをするにはベランダは手狭で、寝室にかなり大きなブルーシートをひろげて組み立て作業を行うのだが、周囲に工具や材料を運び、また片づけ・掃除などをする前後の段取りが結構時間がかかるし、手間でもある。作業を途中で終了しなければならないときは尚更だ。四畳半でいいから木工専用の作業小屋があったらいいのになあと思うが、贅沢なことだろうな。設置した本棚に改めて折口信夫全集を並べれてみれば、うん、じつにいい眺めだ。まだたっぷり余裕があるので、しばらく書棚不足は解消されよう。宿題を終えた子が覗きに来る。「ここには折口信夫という人の仕事がぜんぶ入っている。けどね、この最後の一冊は違うんだ。これはこの一冊がぜんぶ、31巻の本のためのサクイン、それだけのための本なんだよ」 ええっ、と子は驚く。実際に二人で「人形」や「石」などのキーワードを探してめくってみる。「・・そうだ。おまえが幼稚園で二上山の麓へお芋掘り遠足に行ったときに話してあげたお話があったね。殺された王子さまがお墓の中で目が覚める話だよ。あれもこのなかにあるんだよ。ちょっと読んであげようか」 「第24巻・作品4 創作」を棚から取り出して「死者の書」の冒頭を声に出して読みきかせる。

 

彼の人の眠りは、徐かに覚めて行った。まっ黒い夜の中に、更に冷え圧するものの澱んでいるなかに、目のあいて来るのを、覚えたのである。

した した した。耳に伝うように来るのは、水の垂れる音か。ただ凍りつくような暗闇の中で、おのずと睫と睫とが離れて来る。

膝が、肱が、徐ろに埋れていた感覚をとり戻して来るらしく、全身にこわばった筋が、僅かな響きを立てて、掌・足の裏に到るまで、引き攣れを起しかけているのだ。

そうして、なお深い闇。ぽっちりと目をあいて見廻す瞳に、まず圧しかかる黒い巌の天井を意識した。次いで、氷になった岩牀。両脇に垂れさがる荒石の壁。したしたと、岩伝う雫の音。

時がたった――。眠りの深さが、はじめて頭に浮んで来る。長い眠りであった。けれども亦、浅い夢ばかりを見続けて居た気がする。うつらうつら思っていた考えが、現実に繋って、ありありと、目に沁みついているようである。

折口信夫「死者の書」

 

「死んだ王子さまが長い眠りから目が覚めて、まっくらなお墓の中に横たわっている。ここからお話がはじまる。これがドウニュウブだ」

 

 

 昨日は昼間、YとレンタルDVDを借りてくる。Yが「戦場のピアニスト」トム・ハンクスの「ターミナル」を借りて、わたしは邦画の「阿弥陀堂だより」を借りる。夜、子を寝かせてからワインとチーズで「戦場のピアニスト」を見る。重厚で、重い作品であった。とくに前半のユダヤ人のゲットーでの光景は、人間というものにとめどない絶望を覚える。「どうしてこんなことになるの!?」とY。「人間はこんなこともできるのさ」とわたし。数日前、ならファミリーの書店で立ち読みしたルドルフ・ヘスの告白録(アウシュヴィッツ収容所・講談社学術文庫)を思い出し、あれを読まなきゃなと思う。森達也が言っていたように「被害者」でない「加害者」の側を、「悪魔」として切り離すのではなく、自らに連なる同じ人間として思考し煩悶することが必要だ。人間は残酷な怪物にもなれるし、崇高な無私の光を放つこともできる。その振り子の揺れの間に、このわたしも間違いなく存る。

 

 今日は夕方、子の同級生の見舞いに天理の病院へ行く。Yと子が病室へ行っている間、わたしはロビーで「虹の戦士」(北山耕平・太田出版)を読み終える。帰りの車で子に本を手渡し「これはおまえにあげるよ」と言う。「よかった。わたし、これ欲しかったの」 子は後部座席に寝そべってさっそく読み始める。

 

 

願わくば
偉大なる精霊が 明日も
あなたのこころに
日の出を もたらさんことを

 

2008.1.18

 

*

 

 日曜。昼12時から夜12時の勤務。8時頃から雪が降り始め、夜半には数センチの積雪となった。しばらく見る機会のなかった一面の銀世界だ。屋上から長いスロープを下る途中で立ち往生している車を見つけたのが始まり。水掻きと融雪剤で除雪をして後退させ、別の雪の少ないシリンダーへ案内する。屋上にはまだ(おそらく映画を見ているお客さんだろう)車が数台残っていたので、車に戻るのを待っておなじように対応した。わたしは帰宅を諦めて残ることにした。広い駐車場の残留車を確認してから、スロープを閉鎖し、翌日に備えて駐車場の動線を変え、誘導看板の準備をする。深夜1時頃、それらの対応をだいたい終えてから、近くのコンビニへ夜食の弁当を買いに行った。人気のない銀世界を長靴でさくさくと踏みながらひとり歩いた。静かで、清らかな世界だ。監視モニターの前で弁当を食べた。純白のシーツのような雪の上を、じぶんの踏んだ足跡を戻ったり飛び越えたりしながら、コートのポケットに両手をつっこんで何か文字のようなものを一生懸命に描いている女の子がカメラの中にいた。わたしはそれを読もうとしたが結局あきらめた。深夜の雪上に描かれたメッセージは人が読むものではないのかも知れない。読めなくていいのかも知れない。簡易ベッドの上で少しばかり仮眠をしてから翌朝、6時からスロープの雪掻きをした。何十メートルもある長いスロープを上から下まで、25キロの融雪剤をいくつも運んでスコップで散布し、シャベルと水掻きで除雪するのだ。雪はもう、やんでいた。スロープの上から雪化粧をした二上・葛城の峰々がぐっと間近に望めた。やあ、素敵な眺めじゃないか。ときどき手を休めては眺めた。9時に作業を完了し、スロープを開放。10時の開店を見届けて、そのまま車で奈良市にある営業所へ。今日は昼前から隊長会議の予定だった。会議はいいから、重要な相談をしたいので来て欲しいとのことだ。雪で京阪奈の高速道は閉鎖されていた。その影響か国道がやたら混んでいて、いったん帰宅し着替えをして、昼も食べずに出たが、営業所へ着いたのは1時を回っていた。話の内容は分かっている。例のわたしの人事異動の件だ。クライアントである事務所のMgとうちの本社のS部長が先日、少々感情的な言い合いになったのだ。そろそろ閉幕の時間だった。すでに外堀はぜんぶ埋まりかけていた。わたしは本社直轄の部署で働くことを受諾する旨を営業所長に伝えた。所長は肩の荷が下りて安堵したようだった。社長の鶴の一声で誰もが板挟みだったのだ。「それで、これからのことですが」と問えば、「もう○○くんは本社の所属で、いわばわたしと同格だから、わたしからどうしろという指示は出せない。今後のことはS部長と相談して進めて欲しい」と言う。それから小さな社員バッジを抽斗から出してきて、わたしが受け取るのを見ると「さあ、これで○○くんも悪の一団の仲間入りだな」と所長は冗談めかして言うのだった。営業所の全員が立って鄭重に見送ってくれた。雑居ビルの薄暗い階段をわたしはひどく憂鬱な気分で下りた。これまで組織というものを嫌ってきたからこそ迷走してきた。いまの現場のチームはそんなわたしにとって最良の同僚たちだった。みなで出勤予定を組み、クライアントと交渉し、問題を解決してきた。口に出してこそ言わないが「信頼」というものが成り立っている、いわば治外法権の小さなヴィレッジのようなものだった。わたしは小さな場所が好きだ。だがいまの契約もけっして永続的なわけでない。わたしが本社の所属になることはYや子にとっては安心なことだろう。営業や挨拶回りや微妙な人間関係など、これからの諸々のこと考えると気が重いが、それが与えられた運命なら受け入れるべきかも知れない。もともと大した指針をもっている人間でもないのだ。見えない何かによってずっと流されてきたのだから、これからもそうしていくのだろう。「本社というのは“魂を抜かれるところ”」だと事務所のある人が苦笑いをして言っていたが、わたしはわたしのままでしかいられない。気に入らなかったらいつでも戻してくれたらいいさ。家に帰ってYと子に「さあ、今日はお父さんの昇格祝いだ。何かおいしいものを食べに行こう」とわたしは宣言した。わたしは気持ちを切り替えることにした。それからみなで着飾って、いつもよりちょっと値段の高い店でフル・コースの料理を食べた。ピアノの生演奏をしているところだ。Yと子はピアノ奏者の女性にそれぞれ「風と共に去りぬ」と「ゲド戦記」の曲をリクエストした。子は食べ放題の焼きたてのパンをいくつもお代わりした。

2008.1.21

 

*

 

 数日前から子は、新しい装具用の靴を履いて学校へ行っている。これまで使っていたオーダーもの(現在、整形外科を受診している病院の装具メーカーの製品)がだいぶぼろぼろになり、「サイズさえ合えば既製品の方が安いよ」と同じ障害を持つ子のお母さんから教えられて、Yがネット注文をしたものだ。検索でヒットしたいくつかのメーカーから、サイズや仕様、デザインなどを考慮して、株式会社サスプランニングの商品「サスウォーク」のピンクを外履き用、白を中履き用として購入した。二足で約一万二千円。オーダー品一足分の値段である。履き心地は上々のようで、いつかなどはいつも自転車で帰ってくる道を小一時間かけて歩いて帰ってきたという。参考までに、参照したサイト(オーダー・既製を含めた装具メーカー)も併せて以下にあげておく。

サスプランニング http://www.sass.jp/

橋本義肢製作会社 http://www.hashimoto.co.jp/hashimotogisi/index.html

ムッカ http://homepage3.nifty.com/mutka/

有薗製作所 http://www.arizono.co.jp/top/index.html

洛北義肢 http://www.rakuhokugishi.co.jp/index.html

日本義肢装具学会 http://www.jspo.jp/

 

 「アジアの聖と賎 被差別民の歴史と文化」( 沖浦和光:野間 宏・人文書院)をアマゾンの古書で500円で購入する。また「ケガレ 差別思想の深層」(沖浦和光:宮田登・解放出版社)をヤフー・オークションで300円で落札する。

2008.1.22

 

*

 

 学校へ子を迎えに行く。下駄箱の横をすりぬけ出てきた子は自転車の後ろに乗って走り出す。帰宅方向別のグループに集められた子どもたちが三々五々散っていく。「ばいばい〜」と自転車の上から、子は見知った顔に手を振り過ぎ去る。でもほんとうは、みんなとおなじように、喋りながら遊びながら歩いて帰りたかったのだ。「みんなといっしょに、歩いて帰りたい」 子の要望を聞いて、Yは豆パン屋さんに頼むことにした。豆パン屋のNちゃんといっしょに帰ってきて、お店で待たせてもらう。もちろん商売の邪魔になっては申し訳ないから、予め子よりも先に親が店の前で待つようにし、子にも店の前で待つように言う。5分待っても迎えが来ないようだったら、お店の中に入って待たせてもらう。けれど親は遅れそうな場合は予め学校に連絡を入れて、学校で留め置きしてもらうよう伝える。ざっとそんな段取りを決めた。「Nちゃんはそれでいいのかい?」と子に訊けば、これからいっしょに帰ろうと伝えたNちゃんは「やったあ」と答えたと言う。一日目の昨日。Nちゃんと迎えに来たNちゃんのおばあちゃんは二人してさっそく、子がトイレに行っている間をたっぷり待たされた。いろいろ面倒をかけるかも知れませんが、よろしくお願いします。

 

 

 職場で弁当を食べながら沖浦氏の「“部落史”論争を読み解く」を読み継いでいる。大逆事件について思いを馳せる。憲兵の監視下のもと、赤塗の箱車に人民解放の思想書を積んで東京から下関まで売り歩いた平民社の「伝道行商人」たち。不敬罪によって刑場の露と果てた新宮の医師であり人道的なキリスト者であった大石誠之助。与謝野鉄幹は苦々しい、こんな詩を書いて友人を悼んだ。

 

大石誠之助は死にました、
いい気味な、
機械に挟まれて死にました。
人の名前に誠之助は沢山ある、
然し、然し、
わたしの友達の誠之助は唯一人。

わたしはもうその誠之助に逢われない、
なんの、構うもんか、
機械に挟まれて死ぬような、
馬鹿な、大馬鹿な、わたしの一人の友達の誠之助。
それでも誠之助は死にました、
おお、死にました。

日本人で無かった誠之助、
立派な気ちがひの誠之助、
有ることか、無いことか、
神様を最初に無視した誠之助、
大逆無道の誠之助。

ほんにまあ、皆さん、いい気味な、
その誠之助は死にました。

誠之助と誠之助の一味が死んだので、
忠良な日本人はこれから気楽に寝られます。
おめでたう。

誠之助の死・与謝野寛(鉄幹)

 

 大石の墓には墓標を建てることさえ許されなかった。後に友人の一人が死を覚悟してこっそりと、貧相な木の柱にその名を刻んだ。戦後、だいぶ経ってからも、しばらくその墓は雑草に覆われ荒れ果てていたという。また徳富蘆花は-----それは当時の知識階級のほとんど唯一の反旗であったが-----第一高等學校( 新渡戸稲造校長)において「新しいものは常に謀叛である」という「謀反論」を講演し物議をかもした。

 

 諸君、幸徳君等は時の政府に謀叛人と見做されて殺された。が、謀叛を恐れてはならぬ。謀叛人を恐れてはならぬ。自ら謀叛人となるを恐れてはならぬ。新しいものは常に謀叛である。「身を殺して魂を殺す能はざる者を恐るゝ勿れ」肉體の死は何でも無い。恐るべきは靈魂の死である。人が教へられたる信條のまゝに執着し、言はせらるゝ如く言ひ、爲{さ}せらるゝ如くふるまひ、型から鑄出{いだ}した人形の如く形式的に生活の安を偸{ぬす}んで、一切の自立自信、自化自發を失ふ時、即ち是れ靈魂の死である。我等は生きねばならぬ。生きる爲に謀叛しなければならぬ。古人は云ふた如何なる眞理にも停滯するな、停滯すれば墓となると。人生は解脱{げだつ}の連續である。如何に愛着する所のものでも脱ぎ棄てねばならぬ時がある。其は形式殘って生する所のものでも脱ぎ棄てねばならぬ時がある。其は形式殘って生命去った時である。「死にし者は死にし者に葬らせ」墓は常に後にしなければならぬ。幸徳等は政治上に謀叛して死んだ。死んで最早復活した。墓は空虚だ。何時迄も墓に縋りついてはならぬ。「若{もし}爾の右眼爾を礙{つまづ}かさば抽出{ぬきだ}して之をすてよ」愛別、離苦、打ち克たねばならぬ。我等は苦痛を忍んで解脱せねばならぬ。繰り返して曰ふ、諸君、我等は生きねばならぬ。生きる爲に常に謀叛しなければならぬ。自己に對して、また周圍に對して。

 諸君、幸徳君等は亂臣賊子として絞臺の露と消えた。其行動について不滿があるとしても、誰か志士として其動機を疑ひ得る。西郷も逆賊であった。然し今日となって見れば、逆賊でないこと西郷の如き者がある乎。幸徳等も誤って亂臣賊子となった。然し百年の公論は必其事を惜むで其志を悲しむであらう。要するに人格の問題である。諸君、我々は人格を研{みが}くことを怠ってはならぬ。

謀反論 徳富蘆花・明治四十四年二月一日 第一高等學校に於る講演草稿

 

 かつてボブ・ディランは「いまの流行りの音楽を聴くより、ウディ・ガスリーやロバート・ジョンスンのような古い音楽に耳を傾ける方がずっといい」と言った。あるいは「モーゼが生きていた時代、できるなら、かれらが砂漠をさすらっていた時代にいっしょに生きたかった」とも言った。今日は何曜日だ? イエスが殺されたのは先週の水曜だ。わたしたちはその場にいて、血だらけのかれを見あげた。強制収容所へ向かう列車にわたしはこの手でユダヤ人の家族をおしこめた。それは日曜のことだった。月曜にはいつもの街角で、大逆事件の連座者たちが引かれていく囚人馬車とすれ違った。

2008.1.23

 

*

 

 24日。子が学校へ行っている間、Yとわたしの背広用のコートを買いに行く。わたしが持っているコートはもう二十年前の古い代物だ。いまでもはっきり覚えているが、東京で一人暮らしを始める際に「コートを買うように」と母から渡された金を持って、上野駅近くの路地裏にひっそりと開いていた小さな洋装店で買ったものだ。狭く薄暗い、戦後の闇市のような店だった。そういう店の方が入りやすかったのだ。「これは素材がとてもいい」と言う店主の言葉を信頼して買うことにした。そういえばその近くでいちど、妹の誕生日にルビーの指輪を買ったこともあったな。六本木でも渋谷でもない、上野は汎アジア的なところが好きだ。Yはわたしのコートはもうだいぶ型が古いと言う。量販店の青○は値段もそこそこの割にはデザインがどれもぱっとしない。ならファミリーに移動。スーツを買った某専門店のはコットンが主流で、お洒落だがパリッとしていて持ち運びには気を使いそうだ。百貨店の冬物セールはセールとはいえどれも大した値段。手頃な値段のを見つけて「おお、これくらいなら・・」とよくよく見れば、マネキンが下に着ているシャツの値段であった。結局、ジャスコで売っていた1万円のコートに決めた。5千円の値引き品で、ジャスコにしてはデザインも少々洒落ているし、くしゃくしゃと平気で折り畳めそうなところがいい。ナイフや木工具ならいざ知らず、服は高価なものが欲しいとは思わない。

 夜、「阿弥陀堂だより」をYと見る。心を病んだ都会の女医(樋口可南子)が売れない小説家の夫(寺尾聰)とかれの実家である信州の山村へ転居し回復していく物語だが、こらえてこらえて撮ったといったふうの、空の大きな自然が何より美しい、美しすぎる作品。そして山の中腹に建つ阿弥陀堂の堂守をしている老婆(91歳の北林谷栄!)がこの映画の御柱である。いわばこの世とあの世との回路で、人々はここを通じて呼吸をする。メイキングで樋口可南子が何度か言葉を変えて話しているように「ああ、こんな当たり前のよいものがあった」というような、そんな静かな深い情感に満ちている。つまり本物の、心のISOみたいな映画だな、これは。ひそかにおすすめ。

 

 27日。朝から粉雪舞う京都、鴨川の川べり。1年ぶりにO先生の聖日集会へ参加させて頂く(ゴム消しlog50・2007.1.22参照)。「半年ぶりでしょうか」「いえ、ちょうど一年ぶりです。すみません・・」「いやいや、あなたのことを忘れていたわけではありません。いつかまた来てくれると思っていました」 前回も同席されていたが、四国から来たという中年の女性の方がこんな話をする。病床の知り合いが最近「“ハツメさん”のおにぎりが食べたい」と言いながら亡くなった。その“ハツメさん”が、青森の岩木山麓に「森のイスキア」と称する癒しの場を開いている87歳のカトリック信者・佐藤初女さんのことだと後日に知り、お会いしたいと思っていたら偶然、徳島の知人の集まりに来られるという話を人づてに聞き参加させてもらった。“ハツメさん”はとても小さな、物静かなお婆さんで、何か訊かれたときだけ青森弁でぽつぽつと答える。彼女はたとえば「料理は命の移し替え」だと言う。収穫された食物はいったん死ぬが、調理するときに“人に差し出す命”として生まれ変わる。そのとき-----お米の一粒一粒を慈しんで洗うとき、野菜を湯がくとき、それらの食材が浄化されるのが分かる、と言うのである。四国の女性は“ハツメさん”に会って、もてなしに忙しくしていてイエス叱られたマルタのような毎日だが、朝だけは彼女のように心を込めてお米を洗うことに決めた、と言って話を締めくくった。次いでO先生の講筵は「光の中を歩む」と題したもので、主にトマス・ア・ケンピス「キリストにならいて」(岩波文庫)をなぞりながら。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」 「隠れたものに、現れないものはない」 「かの諺をしばしば憶い起こすがいい。目は見るものに満足せず、耳はきくものにみたされない。それゆえあなたの心を、見えるものへの愛着から引き離し、見えないものに移すように努めなさい」 相変わらず、ここにはわたしの心の深部を魅了しゆさぶる何かがある。だが相変わらず、わたしは賛美歌も祈りもこの口から発することはできないのだ。黙って頭を垂れているだけだ。確信も確認もいまだに遠い。集会が終わって、先ほどの四国の女性が今朝つくって持ってきたというおにぎりを一つ頂いてから、わたしはO先生へ、昨年夏にH牧師より預かってきた小冊子(ゴム消しlog53・2007.9.4参照)を手渡し、その来歴を物語った。黄ばんだページをめくり「ほう、これは貴重なもんだ」「小池先生がいちばん勢いがあったときのものだよ」と奥様と話しながらO先生はやや興奮気味だ。小池先生から頂いたルターの大きな聖書があるが、それといっしょに大切にさせて頂く、と嬉しそうに仰った。部屋の隅に置きながら、わたしにはまだ重くて読み切れない魂であったから、やっと肩の荷が下りたような心地がした。それにしても不思議な縁だ。ネットで知り合ったKさんからO先生を紹介された無信仰のこのわたしが、関東に住む老牧師氏より依頼されて、60年前に結核で死んだ若きキリスト者の心の糧を、その送り手の志を継ぐO先生のもとへ運ぶ。そのような不思議の存在することなら、わたしも信じているのだけれど。

 夜、Yの借りてきた映画「サウンド・オブ・ミュージック」を家族三人で見る。

 

 28日。子の左足が全体にしもやけのように変色していて指の付近にいくつか水泡のようなものが出来ているため、朝からYが病院(整形外科)へ連れて行く。しもやけか低温火傷との診察で塗り薬をもらってくる。最近使っている湯たんぽが考えられるが、何しろ特に左足は感覚が鈍いので、事前に布団を暖めておいて子が入るときは布団から抜くなど注意しているつもりだったけれど、とY。とにかくしばらく湯たんぽを使うのをやめて様子を見ようかということにした。子は昼から学校へ行く。

 数日前にネット古書で300円にて購入した佐木隆三の「小説 大逆事件」(文芸春秋)を息をひそめて読んでいる。

 

□ Amazon > 佐藤初女さんの本

2008.1.28

 

*

 

 

□ 1月25日 金ようび

 きょう、おみせやさんごっこをしました。

 わたしとKちゃんは、本やさんでした。

 まず、わたしがおかいものにいきました。

 さいしょに、文ぼうぐやさんにいきました。くだものやさんからちらしをもらったけども、先にいきたかったのです。なんでかというと、わたしがほしい、「まほうシャーペン」がうりきれると、ダメなのです。イヤなのです。わたしは、ブルブルッとふるえました。こわかったのです。かといって、おばけやしきに行くようなこわさではありません。もっとこわい、こわあいイヤなものがまちかまえている・・・ わたしにはそうおもえました。Kちゃんにわかれをつげると文ぼうぐやさんへいそぎました。文ぼうぐやは、本やの前の大きな店です。おもい足で一ぽてまえへ。右、左、右、左。あるいているうちに、足がおもくなりました。一ぽあるくとおもくなりました。

「チェッ。」

 わたしはしたうちしました。あと三ぽ! わたしはおもい足をひきずりひきずり、文ぼうぐやさんにむかいました。いっても、足のおもみにかわりはありません。ですが、「まほうシャーペン」というカードを目にしたわたしはぱっとひょうじょうをかえました。自分にもよろこびがわかります。おもわず、

「やったーあ!」

と、さけんでなみだをながしたかったのですが、やめました。大ぜいの友人の中でそんなことはできません。わたしはやっとこさ、なみだをのみこみ、まほうシャーペンとねがいごとがかなうラッキーペンとえがうまくなるペンとシールとやりたいことができるえんぴつと文がすぐかけるペンとえんぴつけずりをかいました。つぎに、カモシカのような足どりでくだものやさんにいき、ゆず三ことイチゴ一こをかいこみました。わたしはお金もちというわけじゃありませんが、うれしくてたまらなかったのです。イチゴをかうととつぜん、プリキュアの音楽がながれました。いそいで、本やへもどるとKちゃんが、しずかにK家のお店をたたんでいるところでした。

「よう、Kちゃん。」

「ん、しのちゃん。」

 わたしはお金をならべはじめたKちゃんにいいました。

「どう、古本は。この店はさ。ねえ、きっとひょうばんがよかったんでしょ。」

 わたしはKちゃんを見つめました。Kちゃんの手には、一まい、のこっていました。

「わかった。みといて。」

 わたしは自しんまんまんでこたえました。Kちゃんはお金をそろえると、さいふをもって、でていきました。わたしははりきっていました。

「くるものがきたわ。」

 わたしはつぶやきました。マリー・アントアネットがしぬまぎわにのこしていった、あの手がみ・・・ しりたくてたまらないことを、今おもうのでした。ちょうどそのとき、お父さんがラジオでよくきかせてくれた、あのバナナのたたきうり! わたしはまねをしようと心をきめました。はじまるとわたしは大きくいきをすいこんで声をはりあげました。

「いらっしゃいませ、いらっしゃいませ。日本の本はよくうれるでごじゃる。ところでところで、さあ、みなさんは本がお好きかな? えびすさまをしっているかな? ハアイ、いらっしゃいませ、ぜったいこわれないといいまする本。わたしたちのせいかつが美しくなる本。なんでもどこでもやっているそうや。」

 わたしは手をとめ、口もとめ、あごもとめ、くびもとめて、手でつくえの上をたたきました。らくごにかえたのです。

「へえ、そんなのどこにあるんというとんねん。あんな、あんな古いさけぐらにおばけはいるで。おばけてどんなしゅるいのおばけや。天才少年おばけちゅう、おばけがいんのか。アホなこといいなさんな。むかしばなしやわ。そやかゆうて、天才あくとうおばけチビスケなんてでてくるかしれんぞ。」

 おみせやさんごっこはおわりました。おみせのしなものはからっぽ。

 おもしろかったです。あっそれから、二人で大金もちになりました。

(しの)

 

2008.1.30

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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