■日々是ゴム消し Log53 もどる

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 深夜1時に帰宅する。いよいよ明日もう一日仕事へ行ったら、明後日はキャンプだ。明日の夜、東京から腐れ縁のAが車で到着する。昨夜は山岳地図をすがすがと眺めて、いくつか野営地の目星をつけた。いっそ弥山まで登りたいとも思ったが、子の足ではまだ難しいだろうな。まあ早めにテントを張って、人智の届かぬ深奥でのんびりと呼吸するさ。縄文人のように火をおこし、できたら焼け石を放り込んだ味噌汁にも挑戦してみたい。生(き)の自然のなかで、弛緩したナマコのようにだらだらとしたい。エリック・サティの家具の音楽の響きのように。そして夜ふけにはそっとテントを抜け出して、満天の豪奢な星空を仰ぎ見たい。漆黒のような闇と、森と、どうどうと鳴動するホメオカオス的な川の流れをわが身に浴びて瞑目したい。頭(こうべ)を垂れたい。まじわりのない無垢な驚きに。あらゆる混濁をひとつに統ぶる者の名をそこで呟きたい。

2007.8.6

 

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 知識でも探求でも行為ですらもない。ぼくらに欠けているのは、ただ感情の修復である。

2007.8.13

 

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 漲(みなぎ)り、膨(ふく)らみ、迸(ほとばし)って、水は竜の背びれのような白波を立ててどうどうと流れてやまない。ぼくらは水であろうか? まるで太古の徴のような静謐をたたえて、まっしろな巨岩が石化した行き倒れの行者の魂のようにそちこちに横たわっている。ぼくらはそのひとつであったか? カミを祀るものたちが語るように、魂というものが岩に附着しているわけではない。そういうわけではないだろう。岩という、いわゆる全き無機物のなかに、ある古い形質を備えた何か共通の因子のようなものが存在し、それがぼくらの内なるなにかを呼び覚ます。モリスンがアイルランドの古い伝承曲である Laglan Road を歌うのを聴くとき、わたしのなかで激しい郷愁にも似た感情が堰を切って渓流の水の流れのように波立ち、錐揉みをして、渦を巻く。そこにある共通の因子のようなものとは何か? わたしは何故、異国のその曲の調べに心を乱されるのか? 調べは、まるで極北のワタリガラスがイヌイットの人々の死んだ魂を運んでいくように、存在の本来の居場所を示している。わたしに居場所はないのだ。わたしにあるのは深い喪失である。何を聴いても、何を見ても、そればかりがある。わたしは水ではない。わたしは岩でもない。何者でもないわたしは、ただ果てしない狂おしさのなかにいる。いつもそこにいる。

2007.8.14

 

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 ときどき、じぶんにはもっと別の生き方もあったかも知れない、と思う。きな臭い新興宗教団体の信徒にまぎれて神を呪っているじぶんというのはどうだろう? 廃屋の工場跡で雨露をしのいで深夜に絶望的な歩行を繰り返すじぶんというのはどうだろう? 汗くさい日雇いの木賃宿の薄暗い裸電球の下で誰も読むことのない分厚いノートを書き綴っているじぶんというのはどうだろう? うらぶれた鉛のような重たい空の広がる最果ての町のはずれでスナックの醜い年増女のヒモになってかろうじて生きながらえているじぶんというのはどうだろう? どれも本来の自分であるような気がして、そう考えてみると、いまのじぶんはありうるべきじぶんからいちばんほど遠いじぶんであるような気がする。ありうるべきたくさんのじぶんたちがそんなじぶんをさかさまの天井の穴からじっと覗き込んでいるような気がして、ときおり冷水を浴びたような心持ちを覚えて思わず声にならない小さな叫び声をあげる。口をふさいだ手のひらの隙間から悪臭に満ちたどす黒い血がとろりと流れ出る。

2007.8.16

 

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 「今度のお雛祭りに、ようこは欲しいものはあるかい」 小学生の女の子が祖母にねだったのはリカちゃん人形だったのだけれど、雛祭りの日に送られて来たのは「りかさん」と名付けられた古い市松人形だった。ところがその人形が来てから、少女は人形と話ができるようになって、古びた雛壇の男雛や三人官女や五人囃子たちがかつての持ち主の身の上やみずからの境涯を語るのを聞く・・・。そんな筋立ての小説・梨木香歩「りかさん」(新潮文庫)----半年の保管期限を過ぎて処分する拾得物の中から見つけてなにげに持ち帰ったものだったが-----を語ってやると、子はもうヴァイオリンの練習も手に付かず「それで、それで?」とこちらに身を乗り出してくる。わたしはソファーに横になっている。うだるような暑さの昼間だから、こんな日はなんにもしないで扇風機の風に吹かれまったりとしているのがいい。人形たちの話に心と耳を傾ける多感な少女をわたしはすっかり好きになった。

 「親父が400ccのバイクを買った夢を見たよ」 数日前、起き抜けに言ったわたしに「今日は13日だよ。お盆にちゃんとお父さんが帰ってくるなんて、すごいね」とYは驚いた顔をしたものだ。

 「人形の本当の使命は生きている人間の、強すぎる気持ちをとんとん整理してあげることにある。木々の葉っぱが夜の空気を露に返すようにね」 少女の祖母はそんなことを言う。

 

暦と天文の雑学・お盆(盂蘭盆) http://koyomi8.com/directjp.cgi?http://koyomi8.com/reki_doc/doc_0735.htm

2007.8.19

 

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 昨日はYの友人のTちゃんが来宅した。わたしも休みだったので、昼にミネストローネなどをつくってもてなした。Yよりもわたしよりもさらに若いTちゃんは、実はわたしがYとはじめて知り合った和歌山の博物館で彼女といっしょに働いていたときからの知り合いだ。だからわたしとYのけっして穏当ではない馴れ初めからのぜんぶを知っている数少ない友人ともいえる。Tちゃんもなかなかに可愛らしい女の子だったのだが、Yの美しさには敵わなかったのだな。可愛いより美しいの方がやっぱり上なのだよ。まあ、それはいい。Tちゃんがわが家に来るのはとてもひさしぶりだ。3、4年くらい前、妻子を抱えて仕事につきもせずうだうだと暮らしていたわたしに愛想を付けて怒って帰っていったのが最後で、それから何となく連絡も来なくなった。数日前、ひさしぶりに電話をかけてきたTちゃんは、何やらわたしたちに報告することがあると言う。さてはと予想していたとおり、年末にケッコンするのだという。相手は同じ職場でTちゃんより六つ若い地理の教師だ。Tちゃんは小学校の先生をしているのだ。乗物酔いをして、いつも疲れたと寝てばかりいて、それでいて昔の古道や街道跡を探し訪ねて歩くのが趣味の男らしい。Tちゃんはわが家のあちこちにあるわたしの木工家具をほめちぎって、ぜひ新婚の家に置くテーブルをつくってほしいと言う。わたしはつくってあげたいなとも思ったけれど、まあどうなるか分からない素人の作品より、こんないい家具をつくっているところもあるよ。値段は少々張るけれど一生ものだからと、奈良市にある「木の家 木の家具 AIDA」を紹介して、こんど秋になったらみんなで見に行くことになったのだった。

2007.8.21

 

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 深夜。ヘルメット越しに空を引き裂くような稲妻を横目にバイクを走らせ家に帰ると、台所のテーブルの上に子の描いた絵が一枚、ひろげられていた。長靴下のピッピが南の島で黒人の子どもたちと遊んでいる絵だ。何物にも縛られていない幼子の自由な心に幸あれよ。「いま、なにがしたいですか?」「きみと離れたいな」「それはどうしてですか?」「こんな会話に疲れたからさ」「じゃあ、会話を消しましょう」 精神科へ通院しているという大学生とわたしが今日、店内で交わした会話だ。かれはインフォメーションで「心の充電器はどこで売っていますか?」と訊ねた。

2007.8.22

 

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 私は神話学の「研究者」でもないし、文化人類学者でもない。心理療法家である。しかし現在において心理療法を続けてゆく上で、神話に関心をもたざるを得ないのだ。それをごく簡単に言うと次のようになるだろう。

 近代の科学・技術は、人間とその対象とする現象とが切断されていることを前提としている。だから、誰にも通用する普遍的な理論や方法が得られる。これは、人間が外界を自分の欲するように支配し、操作する上で極めて有力なことである。しかし、人間が自分と関係のある現象に対するときは、それは無力である。月に向かってロケットを発射するときは、近代科学は有効だが、十五夜の秋の名月を家族とともに見るとき、お互いの心と月とをつなぐ心の内面を語るのには、月で兎が餅つきをしているお話の方がピッタリくるのだ。しかし、科学技術の発展した今日に、今さら月の兎でもあるまいとつながりを否定してしまつたために、現代人の多くは「関係喪失」の病に苦しみ、孤独に喘いでいるのではないだろうか。

 科学の知のみに頼って世界を見るとき、人間は孤独に陥るが、関係回復の道を示すのが「神話の知」であると、哲学者の中村雄二郎が指摘している(『哲学の現在』岩波新書、1977年)。彼は「神話の知の基礎にあるのは、私たちをとりまく物事とそれから構成されている世界とを宇宙論的に濃密な意味をもったものとしてとらえたいという根源的な欲求で」あると言う。そして、神話の知は「ことばにより、既存の限られた具象的イメージをさまざまに組合わすことで隠喩的に宇宙秩序をとらえ、表現したものである。そしてこのようなものとしての古代神話が永い歴史のへだたりをこえて現代の私たちに訴えかけるカがあるのも、私たち人間には現実の生活のなかでは見えにくく感じにくくなったものへの、宇宙秩序への郷愁があるからであろう」と述べている。

 短い説明であるが、これで現代の心理療法家が神話に関心をもつ意味がわかって下さったと思う。われわれは常に現代人の「関係回復」の仕事を助けねばならず、そのためには「神話の知」が必要なのである。

河合隼雄「ナバホへの旅 たましいの風景」(朝日文庫)

 

2007.8.24

 

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 団地の夏祭り。テントの下のYにかいてもらったかき氷を食べてから、子は太鼓の演奏を見る。もっと近くに行こうよ。舞台の袖から食い入るように見上げている。わたしは一人の中学生風の少女に魅せられている。たぶん昼間、私服でそこらを歩いていたらどこにでもいる平凡な女の子なのだろうが、懸命に鉢でリズムを刻む彼女は今夜、魔法のように輝いている。卑弥呼から王国を継いだ壱与のようにも思える。少女の不思議が始源のリズムによって増幅されている。

 深夜。子と、祭りの片づけを終えたYと、鳥籠のピースケを乗せて出発する。名阪国道、伊勢湾岸道路、東名高速。空が白ばんできた頃、正面にバベルの塔のような巨大な山塊が聳え立っているのを見る。「しの。見ろ、富士山だぞ」 後部座席でもぞもぞと動いていた子に思わず声をかける。早朝の首都高を抜けて四つ木インターで下り、水戸街道を北上する。約8年ぶりの墓参。いつもの花屋で花と線香を二セット買う。花屋は立派になって、人も代わり、花の値段も高くなっていた。父と伯父の墓を詣でる。二人ともわたしにとっての棟を支える太い梁柱のような存在だったと思う。雑草を抜き、墓石に水をかける。Yと子は蚊に喰われたと騒いでいる。夏の強い陽差しに背筋が凍る。下道をだいぶ走ってから常磐道に乗り、昼前に実家へ着いた。

 庭の物語。二十数年前、この庭に父は物置をつくり、ガレージの屋根をつくり、濡れ縁をつくり、藤棚をつくり、もうひとつのプレハブの物置に電気を引いて(当時細々と小遣い稼ぎ程度に続けていた)鞄作りの仕事場にした。当時はまだ残っていた裏山に入って自生していた樹木を引いてきたりしていた。そのうちで残っているのは、いまでは床板ががたついて使われていない物置と、母ですらどれか分からぬ移植した樹木だけだ。父の死後、ガレージの屋根はアルミ製のものに代わり、キウイの枝が絡みついていた藤棚は二階のベランダをつくるときに取り壊され、仕事場だったプレハブの物置は二代目に置き換えられた(父の鞄作りの道具はかれの仕事仲間の一人に譲られた)。今回、わたしが取り壊したのは材が腐って波打っていた濡れ縁だ。基礎の石材に乗っかっている立派な仕様のそれを、金槌と釘抜きとでばらした。近所のホームセンターでアルミ製の縁台を買ってきて代わりに据え、ばらした材でせめてもの名残にと、台所と仏間からそれぞれ庭へ下りるところへサンダルを置く広めの踏み台をこしらえた。夜、わたしはたびたび庭に出てあたらしいアルミ製の濡れ縁に腰を下ろし、庭の樹木を眺めながら煙草をくゆらせた。二十数年前の夏の夜もこんなふうに、ここにすわって、物言わぬ父の骸が運ばれるのをひとり待っていた。

 Yと、母と、妹と、それに子も加えれば、すでに姦しいという字を超えている。フライパンから石鹸まで、女たちは世界を語り尽くしたいみたいだ。後半はずっと雨の天気が続いた。わたしはよく二階のかつてのじぶんの部屋にひとりあがって、敷きっぱなしの布団の上でまどろんだ。狩撫 麻礼の漫画「ボーダー」 「ハード&ルーズ」「天使派リョウ」などを読み耽り、石坂啓の「下北なあなあイズム」を読み、ジョン・クラカワーの「荒野へ」を読んだ。むかしの写真帳を眺め、むかしのカセット・テープの音楽を聴いて過ごした。いまでは何処にいるのかも知れないTがクラシック・ギターでアニマルズの「朝日のあたる家」を弾いている。本棚から本は溢れて平積みにされ、レコードのビニール袋は乾いてくずれ、伯父にもらったイギリス製のスピーカーはつなぐアンプもないまま向き合わせで部屋の隅に畳まれている。

 海へ行った。古代人の住居跡が崖上にぽっかりと空いている岩だらけの海岸だ。風が強く、薄曇りの空は寒かった。妹はバスタオルをほそい身体にまきつけ立っている。子は蟹を拾い、砂で蟹の城やプールをつくって遊んだ。長い棒を持った地元の消防団がそちこちに散らばり、漂着するかも知れない土左衛門を探していた。モウカエロウヨ、と妹は子どものように怯えた。

 一日だけ、わが家と母、妹夫婦のみなで福島方面へ遊んだ。いわき市石炭・化石館は地元で発見された8千万年前のクビナガリュウ、4百万年前のイワキクジラを展示し、また常磐炭坑の最盛期を伝える珍しい模擬坑道などの展示がある。最近公開された映画「フラガール」はこの常磐炭坑を舞台にしている。昼はなぜかフラミンゴの群を眺めながらカニ・ピラフを食べるメヒコのフラミンゴ館で、子は大喜び。午後から立ち寄った小名浜港に面した環境水族館・アクアマリンふくしまは規模も大きいが、展示内容に様々は創意工夫があって愉しめた。ヒトデをつかんだり干潟や磯を再現したビーチで水と戯れるのもいいし、シーラカンスやカブトガニを眺めて瞑想するのもいい。おなじいわき市にある草野心平記念文学館もそうだが、福島には独創的なミュージアムが意外と多い。

 黄ばんだガリ版刷りの小冊子を束ね、素人細工だが厚紙と和紙で丁寧に装丁している。タイトルは「曠野の愛」。1951年1月から翌年の12月まで、内村鑑三の無教会の流れを汲む小池辰雄氏の主催する武蔵野幕屋(後に東京キリスト召団と称する)が発行したものだ。幕屋(まくや)とは聖書に登場する移動式の神殿、つまり遊牧民の原初の祈りのかたちをいう。古びた紙の匂いが漂う頁をぱらぱらとひらけば、全文を埋め尽くすかの如き勢いで引かれた無数のアンダーライン。それはそのまま、死を目前にした者の急ぎ足のいのりのかたちである。冊子は近藤昭二という若い結核患者へ小池氏みずからが贈ったものだ。真摯な読者の書き込みに交じって、ときおり「贈呈。近藤昭二君」「ここは精読してください」「エホバ・エレです。あなたのような読者が相応しいです」といった小池氏自身の筆が残っている。H牧師がかれと出会ったのは慰問のために訪ねた茨城県の山中にある診療所でだった。まだ20代のかれはすでに死の今際にいて、信仰がかれの全身を輝かせていた。当時はまっ白な色であったろう冊子が、その拠り所だった。「近藤君はベッドでわたしのために祈りを捧げてくれました。それはとても感動的で、わたしははじめて真の信仰のかたちを見たように思ったのです。かれが死んだ後で、その診療所で洗礼を受けた人が何人も出たそうです」とH牧師はいう。かれがどんな経歴の持ち主であったか、特攻隊員の生き残りで、終戦のときにはすでに死の病に冒されていた、年齢は20代、という事の外はH牧師も知らない。冊子はかれの死後、かれのたった一人の弟からH牧師へ譲られた。その弟も、かれの母も、だいぶ前に亡くなって、いまでは近藤昭二という人のこと知っている者は誰もいないだろう、という。「わたしはもう年老いて、いつ召されるか知れない。わたしが死んだら、この本も処分されることでしょう。いつか小池先生のご子息にでもこれを届けたいと思っていながら、わたしはじきに先生とは別の教会へもどり機を逃してしまった。ですからこれを、あなたが最近訪ねられた京都の召団のO氏のもとへ届け、由来を話し、こうして小池先生の書き込みもある貴重な本ですから、できたらそこで大事に保管して頂けたら有り難いのです」 そう言われて、わたしはH牧師から冊子を預かり帰ってきた。

 

狩撫麻礼作品リスト<暫定版> http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Theater/5493/ListFrame.htm

道新マンガコラム http://www.d3.dion.ne.jp/~yumeya/doushin-13.html

いわき市石炭・化石館 http://www.sekitankasekikan.or.jp/

シーフードレストラン・メヒコ http://www.mehico.com/index.html

「環境水族館」アクアマリンふくしま http://www.marine.fks.ed.jp/

いわき市立草野心平記念文学館 http://www.k-shimpei.jp/

 

2007.9.4

 

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 帰省後はじめての休日は連休。

 昨日は子が学校へ行ってから、Yの眼鏡屋巡りにつきあった。そう。麗しの奥様もとうとう老眼鏡が要る季節になってしまったのですな。近所の店を二軒ほど見て、某メジャー店でフレンチ風のしゃれたデザインのフレームをかけたところでわたしが「それだ」と断言。結局、Yはそれを購入した。レンズを入れて、しめて2万5千円。医師の処方では軽い白内障にもかかりかけているとのことで、他にサングラスもひとつ購入して、こちらは半額セールで2千円。眼鏡のうんちくをあれこれ聞いて面白かった。

 夕方は子のヴァイオリン教室へ同行する。片耳で練習を聞きながら、教室の隅に置いてあった筒井順慶と筒井城址発掘の郷土資料などを読む。

 夜、寝床で子が「いちばん大事なのは、じぶんがしたいことをじぶんで知っているってことだよ」とスナフキンがミーに言った言葉を教えてくれる。

 深夜、新聞の書評で見た沖浦和光「旅芸人のいた風景―遍歴・流浪・渡世 」(文春新書) を ネット検索したら、知らぬ間に面白そうな沖浦本がたくさん出ていて、まとめて三冊も注文してしまった。上記の他に「幻の漂泊民・サンカ」「日本民衆文化の原郷―被差別部落の民俗と芸能 」(共に文春文庫) 。読む速度がなかなかおっつかないのだが。

 今日は半日かけてベランダのウッドデッキ制作。二年ほど前に購入した市販のウッドパネル(60センチ×60)二枚が、そろそろ雨と日焼けでだいぶがたついてきた。よく見れば材は薄いし、造りも案外チープなんだよね。おなじ市販ものを再購入して敷いた方が安上がりなんだが、そういうわけでじぶんでつくることにした。といってもホームセンターで60センチと122センチにカットしてもらったSPF材6本をネジで打ち付けただけの単純なスノコ・スタイルだが、長くもつように塗装は念入りに三度の重ね塗りをして仕上げた。夏場はベランダも暑いので木工は避けているのだが、やはり汗がとめどなく吹き出してきて、ひいひい喘ぎながら作業をして、昼過ぎにやっと完成した。

 昼、自転車で子を迎えに行った帰り、とうとう念願の旧城下町にあるDeepなたこ焼きを買ってきた。狭い、地元の人間しか通らないような路地の途中にその店は陽炎のように立ち現れる。詳細は下記サイトを参照して頂きたいが、はやる心を抑えて家に帰って袋を開けた途端、思わず「うおおっ」と声が出た。「おおっ」ではなくて「うおおっ」なのである。「200円 10個入り」という店頭の小さな張り紙を見て家族三人の昼食に三舟買ったのだが、なんとデカイこと。小さなトラフグの如きたこ焼きがプラスティックのトレイから溢れんばかり二段重ねのてんこ盛りになっていて、おまえけに数えたら14個もある。味は飢田マサヲ氏も書いているとおり「非常に駄菓子的で美味い」。子も「これはオイシイ!」とパクついている。家にいながらわたしはまるでじぶんが奇妙な異次元空間のよじれに入り込み、謎めいたアジアの巣窟で金塊を手にしたような歓喜を覚えた。そんな興奮を呼び覚ますたこ焼きを、わたしはかつて食べたことがない。なんてすさまじいたこ焼きなんだ。そして郡山は、なんてディープな町なんだ。

 

DEEP NARA&究極の一品 http://www3.kcn.ne.jp/~s-heads/dog/deep/tako.html

 

2007.9.5

 

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 ナバホの人たちにとって、生活がすなわち宗教なのだ。毎日の日常生活はすべて宗教性を帯びている。このため逆に、ナバホの人は、キリスト教のことを「パートタイム宗教」と言ったりする。つまり、教会にいる時間だけ宗教をやっている、というのである。

河合隼雄「ナバホへの旅 たましいの風景」(朝日文庫)

 

 1850年代にナバホの人々と三年半の歳月を共に暮らしたジョナサン・レザーマンなる博士は、かれらの宗教について「ほとんどなにも知られていない。あらゆる調査結果を総合したところ、宗教らしき宗教は皆無のように思われる」とレポートに記している。

 日々の生活に染み込み日常と同化した宗教は、見えないのかも知れない。転じれば、偶像を崇拝したり、寺や教会や洞窟へ赴いて祈る宗教というのは、まだほんとうの宗教ではないのかも知れない。宗教とは空気のようなもので、いま存ることがそれ自体で、歩くこと、花を摘むこと、食べること、そのすべてがいのりのかたちだ。

2007.9.6

 

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 関東の実家から帰ってから、子は何やら書き出した。シナモンのノートにぎっしりと、急ぎ足の筆跡で書かれたそれは、ソロバンや学校の宿題やヴァイオリンの練習の合間にすこしづつ書き継がれ、結局、24頁にもわたる長い物語になった。タイトルを見て分かるように「親指姫」の話を下敷きにしているが、いわば古い伝承歌の焼き直しのようなもので、細部は子の勝手な空想のようだ。「お姫さまが魔法使いやモグラにさらわれるところを書いているとね、(ぞくぞくして)おしっこが漏れそうになるのよ」とある日、子はこっそりとおしえてくれた。はじめ、母親には話の内容を内緒にして欲しいと言ったのは、彼女にとって禁断の物語なのかも知れない。父は多少、面食らった。すべて書き終わってから、子に校正をしてもらいながらワープロにおこしていった。一般に読みやすいように子が読める範囲内での漢字の置き換えをしたが、それ以外は触っていない。なお、冒頭に出てくる「きょうりゅうのたまご」は、福島の博物館で買ってきた、水に漬けていると殻が割れてゴム製の可愛らしい恐竜が出てくる卵のことである。それをかたわらに置いて、彼女はこれを書き出したわけだ。

 

 

■こゆび姫

 

 いま、たまごを、いいえ、きょうりゅうのたまごを、水につけました。24時間したら、ひびがはいり、24分したら、生まれて、24秒したら、そとにでて、数日たったら、巨大になるそうです。さて、そのあいだに、わたしは、ひとつ、こわい話をしましょう。わたしだったら、きっとおしっこをもらしてしまうでしょう。わたしも、そんなふうになりたいなあと思うでしょう。

 

 ある日、姫が、白馬にのって、庭を歩いていると、白馬は、きれいな、声を出し、歌い出しましたので、姫は、ねむってしまいました。ここまでは、いつものとおりだったのです。姫は、いつものとおり、白馬の歌のさいごのいななきで、目をさまし、花をたくさんあつめてつくった、ベッドでねむりました。ここまではよかったんです。そして姫がねむると、大きなウシガエルがとびだしてきました。そのウシガエルは、ウシガエルのなかでも、いちばん、大きな、ウシガエルで、大きな、ウシガエルの中の三匹の中の二匹が、とてつもなく大きくて、その一匹がもう一匹より、大きいのです。それは、ウシガエルの王でした。ところで、姫は、とても、きれいでした。おっぱいまでたれる、きんぱつ、ブルーのひとみ、雪のような肌、バラいろのくちびる、バラのつぼみのようなほお、ふわっとふくらんだ、ドレス。ひとりで、どこかにいくとき、姫は、青いきぬの上に赤いオーバーをき、赤いずきんをかぶり、はでなソックスをはき、ビロードの青いくつをはいていました。ウシガエルたちは、それをいつも、見ていたので、娘が姫だってことは、知っていました。ウシガエルの王は、「姫の娘を息子の嫁にしよう」ときめつけていましたし、それに、王は、ふつうのにんげんのおとなぐらいの大きさだったのです。「娘を息子の嫁にしよう」とばかり、ベッドごと、もっていってしまいました。

 朝になりました。姫は、じぶんが、大きなハスのはっぱに、のっているのでびっくり。それをみて、ウシガエルたちは、わらいました。ひめはそれを見て、ベッドへころげこみました。王の息子はそれをみて、ネズミをつまみあげ、「びっくりしなくてもいいよ。それに、こわがらなくてもいいよ、ほら、ここに、あんたにあげるものがある。これでおあそびよ、ぼくの花嫁さん。」といって、ネズミを、ベッドの中に入れました。

 「キャッ!」

 姫は大声をあげました。姫は、いつも、ネズミをこわがっていたのです。息子はそれを知っていて、わざとやったのです。ふるえあがらせてやろうと思ったのです。そして、「帰りたい帰りたい」と言わせてやりたかったのです。そのとおり。姫は、こわがり、帰りたがり、しかも、息子から「ぼくの花嫁さん」といわれたとき、ベッドのはしから、逃げだそうとしました。そして、草の茎にはいあがったとき、先っぽを、手でつかみ、足をバタバタさせました。息子は、姫の足をつまみあげました。(じっさい、姫は親指姫みたいなものだったのです) そして言いました。

「逃げようとしてもダメだよ。パパは、あんたをさらってきたんだ。きょう、ぼくとあんたの結婚式があるんだ。それまで、おとなしくしていないとダメなんだ。ぼく、きみを見はっとくね。それに、こんなにきれいなんだもん。離れられないし、逃げられたら困るもん。あんたが、動くんなら、ぼくも動く。ぼくが、行かなきゃ、ならないときは、ぼくは、きみを、ぼくのポケットの中にいれていく。」

 そして、ロープで、姫をしばってしまいました。そして、ひざに姫をのせると、てじょうをはめ、棒を立てて、てじょうのくさりをつないでしまいました。姫は、カエルの息子が、見ていないとき、ロープをほどいてにげようとしました。が、てじょうがはめられているので、うごけません。やっとてじょうをはずし、にげだしました。ウシガエルの王は、それを見ていました。そして、姫が、池に飛び込んでにげるのを待っていました。姫は、水にとびこみ、しずまないように、いっしょうけんめい水をかきました。そしてやっと、むこうぎしの草の茎につかまりました。が、王が、茎を、そっと折り、姫を、つかまえました。ぎゅむむむ! ウシガエルの王は、姫をつよくにぎりました。

 「息ができないわ! はなして! わたし、カエルの花嫁なんかになり・・・・」

 「だまれ!」

 「わたし、カエルとけっこんしたくないわ! はなして!」

 「いいだろう。でも、じぶんが言ったことを忘れぬようにな。ハハハ! いいか、はなずぞ!」

 姫は、水の中に、ポチャンとおちてしまいました。

 「ひどいわ。わたし、水の中におとしてなんていってないわ。たすけて! しずむわ! ゆるして! あなたの息子と結婚します。」

 姫はもがきました。

 「いいだろう。ゆるしてやろう。(このとき、たまごにひびが入りました。) でも、こんどこんな無礼をはたらいたら、ゆるさんぞ。」

 王は言って、姫をつよくにぎったまま、きしにあがり、てじょうをはめ、ロープをさっきよりもつよくしめました。王は、いじわるく、にやりとし、息子は、姫が戻ってきたのを見て、よろこびました。

 「ぼくの花嫁さん、逃げても、だめだよ。つかまえちゃうから。」

 息子は言って、姫をポケットにつっこみました。それがすごいいきおいだったので、姫はひっくりかえりました。その姫の足を、ウシガエルの王は、つまみあげ、「おとなしくするというのなら、てじょうをはずしてやろう。そして、息子のいうとおりにするというのなら、これをはずしてやろう。そして、息子と結婚するというのなら、ロープをはずしてやろう。けれど。」 王は、せきばらいをしました。「それまではぜったいだ! 」と叫ぶと、息子のポケットに姫をいれ、「いいか、言ってみろ!」とどなりました。姫は、目かくしをされていたので、首をつき出しはしませんでしたが、ポケットの中から、「おとなしくします! 息子さんのいうとおりにします! でも、息子さんと結婚は!」と叫びました。

 「息子のことを、グンゴーグズグとよべ。」

 「ちがうよ。ぼくの名は、エミーンだよ。父さん、かってな名、つけないで。」

 王が笑いました。「ハハ、もういちど、ほんとうのことを言ってみろ」

 王が姫をどなりつけました。姫が、ふるえる声を、大きな、おちついた声にしようとしても、ふるえはとまりません。(きょうりゅうのたまごにほとんどひびがはいり、しっぽとめが見え始めました。) 姫は、小声で、「おとなしくします! 息子さんの言うとおりにします! でも、結婚はいやです!」

 このとおりなので、いえ、そのあいだに、一日はすぎていきました。

 

 夜になったので、息子は、姫を、ロープでひきずって、ベッドにねかせました。

 「ぼく、きみのこと、なんて呼んだらいいかな? 」

 「コーデリア・サラって呼んだらいいわ。」

 二人は、ねむりました。

 

 ところで、この一日のあいだの、朝に、一羽の雀が、まいおりてきて、泣いている姫をみると、かわいそうになり、仲間をあつめて会議をはじめました。

 「ぼくはね、いつものとおり、さんぽにいっただよ。そしたら、コーデリア・サラっていうお姫さまが、ウシガエルさんにいじめられていただよ。かわいそうに。」

 「それって、いつもわたしたちに、パンをくれる姫じゃない?」一羽のハトが言いました。

 「そうそう。助けてやらなきゃ。」

 仲間はとんでいき、水を飲んでいるふりをして、姫に、「サラ姫、おのりなさい。そこまで行きますから。」と言って、姫を乗せて、飛び立ちましたが、そのとき、それを魔法使いが見ていたのです。悪い魔法使いは、姫を一目見るなり気に入って「よし、オレのお嫁にもらった!」と言うと、さっそく、一羽のカラスを出し、姫をさらってきてしまいました。

 「オレの姫になれ。」魔法使いは言いました。

 「いやです。」姫は、がんこに言いはって、いいと言いません。(きょうりゅうのタマゴのピンクのところがぬけて、白いところが出てきました。) 魔法使いは、姫を部屋に閉じこめ、「おれといっしょになると言うまで、出たらダメだ。」と言い、鍵をかけてしまいました。そして、一日に、ネズミを、百匹づつ入れました。

 

 ところで、サラ姫には、一人の好きな王子がいました。それこそ、アリア・ペリー王子でした。サラ姫は、ペリー王子が好きで、王子はいつも、日曜にやってきます。今日はその日曜日なので、王子がやってきました。それで、姫がいないのを知ると、姫が何でいないのか、と女中にたずねました。女中のひとりの、リェノーが、ふるえながら、「夜、ウシガエルが、やってきて、さらって・・・ 姫を・・・ 」 もう王子は、外に出ていました。王子は夜の光・風の精を呼んで、「おまえたち、サラ姫をみなかったかい?」 とたずねたかったのですが、夜の光・風の精は夜しか出てこれないと言ったことを覚えていたので、ウシガエルの池に行くと、カエルの息子が「ぼくの花嫁さあ〜ん。」と泣いていて、王は「あのうすのろめのトンチキめ!」と怒っていて、王子を見ると、「鳥たちがさらっていった。」と言い、鳥たちのところへ行くと、「魔法使いがさらっていった」と言いました。リァノーとリィノーとリェノーとリォノーが、「みんなしずかに! 」と騒ぎ合っている仲間をどなりつけました。

 「しずかにしないと魔物がくるぞ、食べられちゃうぞ。」とリァノーが言いました。

 「ほら、ベッシー。」とリィノー。

 「言わない方がいいよ。あとできっと仕返しされるから。あの、みんなが、うすのろのトンチキ! とか、いや、うすのろのトンチキめ! やら、ううっー、もうがまんできん! やら、言っている『さんばし』のお馬鹿さんよ。あんなやつにしか(このとき、ボキッといって、黄緑のところが出てきました。)えしされ・・・」

 「だまれ! サラ姫が、いまごろ、オレと結婚しろと言われて、家来たちに、汽車のうしろにつけられて、じぶんの思うところに行けなくて、手足を前に伸ばし『おかし国のあな』のボタンを押されて、おまえが、バラの花のまんなかに、すわったらサイアクのことになるぞ、と言われているぜ!」

 

 こんなことが起こっている間中、魔法使いは、こう考えました。「あんなかわいい姫を、どうしてどこへやれよう。そうだ、海賊へやっちまおう。モグラの家にやって、海賊にやろう。」と思い、さっそく、モグラに、こういう手紙を書きました。

 

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モグラのゴンゲーグル・バッドグラインへ

 すばらしいことがおこった! みんなが欲しいと思うような、姫を、このオレさまが見つけたんだぜ! すごいできごとだろ。あのな、オレ、つくづく考えてみたんだよ。おまえさんの近くのネズミたちが住んでいる、穴があったろう。オレさま、じっさい、百匹のネズミを入れてみただよ。すばらしくかわいい姫さんはさ、とびあがって「キャッ! ネズミ! あたし、ネズミはきらい! きらいの大の大の大のだいっきらい!」とさけんだよ。だからオレ、まよったんだよ。でも、きみんとこに、やることにきめた! あした、うちに来てくれよ。

大魔法使いのボーグル・バシマン より

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(編注■ あんまり姫がかわいいので、汚してしまえば欲しくならなくなると魔法使いは考えた。)

 

 これをみて、魔法使いのともだちのモグラは、「じぶんのを『大』とつけているのに、オレさま、ゴンゲーグル・バッドグラインは、『大』とつけていないんだ。」と怒りましたが、つぎの、『きみんとこに』を読み始めたとき、にやにやし、さいごまで読み終わると、にやにや顔が顔中にちらばって、「すばらしくかわいい姫か! オレさまの花嫁! オレさまにキスをして、かかえきれないほどの花をくれ、キスをいっぱいして、その上オレと結婚する女! 王! 女の王! モグラの!」とモグラ。

 

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 で、それは、モグラなんだろうな。きみはいつも、オレさまになんで、人間をつかまえられないんだと言ってたろ。きみは、大魔法使いなのにさ。女の子がつかまえられないんかい。きみは、スカンクやリス、ネズミの女ならつかまえられるだろう。どうして人間となるとダメなんかい。おしえてくれよ。な、なあ。

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 いや、冗談言うなよ。それがわかるかい、人間なんだ。親指ほどのな。それが、すばらしくきれいで、おそろしくかわいいんだ。肌はビロードで、ふかふかの金髪、いやカールをしていた、そして、ああ、あのバラ色のほおとくちびる。きれいなあの青い目。おりゃ、目玉がとびだしちまったよ。いまにみてろ、グラインモグラさんよ。おりゃ、いまに、おそろしくうつくしく、かわいい姫を、袋の中に、閉じこめちまうから。いいな、3時にオレのうちにこいよ。な。

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 こうして、つぎの日、二人は机にすわっていました。

 「おまえ、うつくしいって言ったが、ほんとうか。」と、モグラがききました。

 「いや、ほんとうだ。わあ、おそろしくだ。おまえだって目をまるくするよ。」

 「こりゃ、どこで見つけたんかね。」

 「ああ、小鳥がせなかにのせてただ。」

 「ああ、それなら、きれいでかわいいのも、もっともだ。いや、おそろしくだ。」

 「どうして。」

 「どうしてとは、ええと、オレさんはね、ある日、『こゆびひめおしろ』、つまり、ジャクルイタイパルンおしろに行って、おそろしくかわいい姫を見たぜ。」

 「ああ、そうか。じっさい、見てもらわないとな。」

 「まてまて。」魔法使いが行きかけたのを、モグラがとめました。

 「どうした?」魔法使いがききました。ききながらも、あるいています。

 「たちどまれよ。」 モグラがぶっきらぼうに言います。

 「おい、お前さまの花嫁が見たくないんかい。」魔法使いが振り返って、立ち止まり、ききます。

 「オレさまの花嫁、見たいけど。」モグラがどもりながら言いました。

 「おめえの嫁さんだぞ。」 魔法使いは、にやにやしてききました。

 「もうちょっと、オレさまの花嫁のこと、きかしてくれよ。」 モグラはなお言います。

 「いいだろう。」とうとう魔法使いは言いました。「おまえさんの花嫁はなあ、おそろしく、かわいいだ。」 魔法使いは話しました。

 「絵に描いてくれよ。ことばじゃ、とても想像つかないよ。」モグラがうめきました。

 「こんなふうだ。」魔法使いはメモ帳に姫の姿をを描きました。

 

■ 姫の絵

 

 「きみの絵、へたくそだな。」モグラが言いました。「色を塗ってくれよ。」

 「色は塗れないよ。まあ、見たまえ。」魔法使いは言って、『おそろしくかわいい姫の部屋』と書いたドアのとってを回しました。モグラは息をとめました。「逃げるなよ。」 魔法使いに言われて、モグラはビクッとしました。魔法使いはドアを開けました。

 「あらまあ、昼間だというのに、まだ、寝ている。」 モグラは言って、その寝顔を見つめました。

 「おお! きれい! おそろしい! きみの絵とぜんぜんちがう! オレの花嫁! キスの女! キスの王! 女の王! おそろしい! おそろしすぎる! ああ、すばらしい! こんな姫と結婚!」 モグラは叫びました。

 「どうだ。いまから、オレのとっておきで、起こしてやるよ。」魔法使いは、ネズミを何匹もベッドの中にいれました。

 「キャッ! 」 姫はたちまち悲鳴をあげて、とびおきました。

 「こいつをなわでしばるんだ。」魔法使いのひそひそ声に、モグラはうなづいて、首をしばりました。姫はあまりのことに、気絶してしまいました。二人は、姫を、屋根の上から、吊してしまいました。そして、首のまわりや、あごの下をくすぐるのです。そのつぎに、どすんとばかり、姫のロープを落とし、落とした姫の首にかけられているロープをひろって、ひきづってあるくのです。姫はもう悲鳴ばかり。ふせごうにも、ふせげません。

 「オレの花嫁になるんだ。いやなら、何日も何日もくすぐってやるぞ。」 姫はとうとう承知してしまいました。モグラは大喜び。さっそく結婚式の準備にかかりました。

 姫はブルーのドレスを脱いで、白のベールとドレスを着ました。結婚式は、はじまり、終わりました。姫は、泣きに泣きましたので、涙がほろりと落ちるたびに、涙がいっしゅんキラリとひかるのです。

 「あたし、モグラとなんか、結婚したくなんか、なかったわ。」 姫は泣きました。

 「オレの花嫁、オレの花嫁。」 モグラは、姫にキスしようとしました、

 「うう。やめて! チューはやめ! ああ、注射するのとおなじだわ!」

 「チューウ。」 モグラはむりやり、姫にチューをしました。「食事をつくれ。」 モグラは姫に言いました。「でないと、チューを千回もだぞ。それも長いのを。それでもダメと言うのなら、一日中、チューをしているぞ。」

 「いやです。なんでも、つくれるけど、あなたにつくるのは、いやです。」 姫が断ったので、モグラは、チューと一回しました。姫は悲鳴を上げて、「お料理もしません。それにキスをしないでください。」と、叫びました。モグラは怒って「じゃあ、これでもか!」と怒鳴るなり、「チューチューチューチュー」とやりはじめました。

 「チューはやめて、いったいいつまでやってるの?」

 「一年中だ。」モグラはこたえました。「ああ、チュー。ぼくの花嫁さんよ。はやく、料理を作れ。でないと、千年ずっと、チューをやってるぞ。」

 モグラはチューをずっとやりました。しかたなく姫は、オムレツ、ウィンナー、サラダ、カボチャ・スープを、つくり、つめたいお茶をいれました。モグラはそれをすっかりたいらげました。

 「さあ、デザートを出せ。」モグラはうなりました。姫は、ブドウとメロンとピーナッツ・クリームが入っている、パンをつくりました。モグラはそれをたいらげて、姫を外に放り出しました。

 「また働けよ。あしただけどさ。」 モグラはそうどなってよこしました。

 

 朝になりました。ところでこの林を歩いていた、ベーゼという女の子がいました。林の向こうには、家が、二軒ありました。そのうちの一軒が、ベーゼのおうちです。ベーゼのお母さんのなまえはゲーリン。お父さんはバークでした。さて、そのベーゼは、家族でタケノコ狩りにきていました。ぜんぶで三人です。いえ、もう三人いました。一人は、ベーゼのお姉さんです。ベーゼのお姉さんはゲーゼル。もう二人の男の子のガーブルとケーリンは、ベーゼの弟です。ゲーリン・ママは、タケノコを、3本切ったところでした。バーク・パパは、5、6本、ゲーグル姉さんは6本で、ガーブルとケーリンはいっしょに6本見つけたので、3本づつ、分けたところでした。ベーゼは、木の実を探していました。「中の女は、木の実だ。」とお父さんのバークが言いはったからです。

 

(編注■ 「中の女」とは次女のことなり)

 

 そのときです。ベーゼが姫を見つけたのは。姫はあわてて、人形のふりをしました。

 「あら、お母さん、お父さん、お姫様の人形が、ここにおちてるわ。いったい誰のかしら? とりあえず、わたしの家にきたらいいわ。」と、ベーゼは嬉しそうに叫びました。やがて、三秒間くらいすると、みんながあつまってきました。

 「それ、だれのなの?」ゲーリン・ママがききました。

 「どこに落ちていたんだ?」 バーク・パパもききました。

 「心当たりはないの?」と、ゲーグル姉さんがたずねました。

 ガーブルとケーリンは、「心当たりって何?」 とききました。

 「心当たりっていうのは、あんたのともだちにいないかっていうようなものよ。」ゲーリン・ママが言いました。

 「だれのか、分からないのよ。みて、この林の入り口に落ちていたの。それに、友だちはこんなきれいなの、もってないわ。」ベーゼは答えました。

 やがて、姫は、ベーゼのうちに連れて行かれました。ベーゼたちがいなくなると、人形たちがしゃべりだしました。

 「あんたはだれ?」 きれいな王子さまが聞きました。

 「わたしはコーデリア・サラ・ベル・ヘレン。よろしくね。」姫は答えました。

 「ぼくはジャイアン・ゴットのいとこで、ジャイアン・クリーン・ゴールフ・ペリーっていうんだ。」 王子はにっこりしました。

 「ペリー? ペリー王子ね? ペリー王子さまね?」姫はききました。

 「うん。そうだよ。で、お姫様、あなたはベル、サラ、どっちなの?」王子が聞きました。

 「わたし、ベルとしか呼ばれたことないわ。でもちょっとは、サラと呼ぶ人もいたわ。あなたが好きな方にして。」 姫は答えました。

 「おや、もう夜だよ。しっー、ベーゼがお休みをいいにくる。はやくしゃんとするんだ。」王子さまが命令しました。

 「お人形さんたち、よく寝てね。わたし、とってもうれしいの。王子さまだけはなくて、お姫様もできたんだもの。」 ベーゼは寝に行きました。

 「ぼくは・・・ 」 マクシェイが言いかけたとき、またもや、ドアがあいて、ベーゼがはいってきました。「お姫様、お人形がまた、着いたのよ。バベットって言うの。わたしね、いま、アラジンを読んでいてね、あなたの名前を思いついたのよ、ベルっていうのはどう?」 ベーゼがきれいなお姫様を見せてくれました。「ね、ベル姫。あたし、眠りにいくわ。」 ベーゼは、眠りました。ふかく、ふかく。

 「ね、わたしって結婚したくないの。あなたのお友達になりたいの。ね、そこの王子さまと結婚して。」バベットは頼みました。

 「いいわ。それより、名前をおしえとかなくちゃね。こっちの王子さまは、ぺりーっていうの。わたしはベルっていうの。」 ベルは、バベットと、人形の家に寝かされました。

 「紹介するよ。こっちがマクシェイ。こちらはアンリ。こっちの棚の人形は、アンとワルターとグレーテとロッティだよ。さ、結婚式をはじめろ。」

 王子が命令を下しました。姫はきれいな、ドレスを着せられ、結婚式をあげましたとさ。

 

 (2007.9.8 しの) 

2007.9.9

 

*

 

 さて、最近の(時流からかけはなれた個人的な)音楽をいくつか。

 もうだいぶ以前になるが、Kさんから頂いた Eliza Gilkyson 「Hard Times in Babylon」はこころのすきまにぴったりとはまった。女性の、ただきれいなだけではない、やや癖のある荒れ気味の声はむかしからわたしの好みだ。オフィシャルサイト(http://www.elizagilkyson.com/)を見るとニール・ヤングなんかと同じくらいの世代なのかな。かなりオバサンなわけだが、こんなオバサンとならわたしは一晩添い寝をしてみたい。どこにも触れなくても、声だけで、わたしはいい心地になるだろう。何よりこの人の音楽には、あの、いつもわたしが追いかけてきた、麦畑の上を吹き抜ける風がある。痛みや悲しみをかかえ、うしろむきで前進していける。そんな不思議な風だ。

 Brenda Kahn「Epiphany in Brooklyn」は夜釣り&潮干狩りに行く深夜の車の中で職場のK氏がかけてくれた。アコギ一本で歌うニューヨーク・パンクとでもいったらいいのかな。10代・20代のひりひりとした感触がはちきれんばかりで、いかにもニューヨーク的な歌詞も秀逸。樹のうろのような四畳半の部屋から世界のあらゆるものを呪っていたあの頃を思い出す。それほどむかしのことでもないさ。

 おなじK氏より頂いた張懸(チャン・シュエン)は台湾のシンガー・ソングライターで、「My life will ... 」は台北のライブハウスで演奏していた彼女のメジャー・デビュー盤とか。ハード路線へ向かったセカンドも後に聞かせてもらったけれど、わたしはやっぱりアコースティックな雰囲気のこっちの方がいいな。透き通るようなアジアの声がいい。すだれをおろした畳の部屋で、縁側に置いたカルピスの氷がころんと音をたてたような。ああ、金鳥の夏、日本の夏。いまでは台北のCDのなかにある。

 以下は先月来泊した東京の友人Aより頂戴した数十枚のCDから一部。

 Hirth Martinez「Hirth From Earth」は1975年にザ・バンドのロビー・ロバートソンのプロデュースにより発売された一枚。詳しいプロフィールはこちらのサイトを参照して欲しいが、かれの音楽はなんて形容したらいいのかな。AOR と Jazz と R&B と ニューオーリンズとフォークソングと古い映画ソングがちりばめられた、ドクター・ジョンとトム・ウェイツを混ぜてバニラアイスを乗っけたパフェみたいな、無国籍ちゃんこ鍋ミュージックとでもいったらいいか。それでいて落ち葉に埋もれている枯れ枝のようなどこか奇妙に懐かしい、あたたかなサウンド。もちろん、全編でロバートソンのギターが聞けるのもザ・バンド・ファンには愉しい。

 いまいちばんのお気に入りはDan Penn「Do Right Man」。ライ・クーダーの Dark End of the Street (切ない不倫の歌。要するに"But to live outside the law, you must be honest" ということ)ばかりか、オーティスの You Left the Water Running までこの人の曲だったとは知らなかったぜ。声がすべてだ。まるで大台ヶ原で白骨のように立ち枯れた他の木々に囲まれてなお、瑞々しさを失わず屹立する老樹のようだ。そいつが言う。「立ち上がって、男らしく泣け」 枯死したはずの周囲の梢が枝をかさかさとふるわせて泣き始め、それが波紋のように森全体へと広がっていく。下から魂をつかみあげるような、こんな歌をうたえるやつは滅多にいない。Boomer's Story でライ・クーダーがインストゥルメンタルの演奏をしてみせた Dark End of the Street のバージョンは、わたしのベスト・ソングのひとつだ。密会する男女の深い闇は、逃げ道なしの全アウトロー闘争宣言でもあった。それがこのアルバムのすべての曲とつながった。

 タージ・マハールというミュージシャンはどうも落ち着かない。何というか、あの全身がバネのような筋肉がブルーズマンというより健康な陸上選手のようで、鯨の髭でできた仕掛け人形じゃないかと思えてしまうのだ。それにかれの音楽には、レイ・チャールズが What would I do without you でヘロインをやっているあの声のくぐもりがない。明瞭で、溌剌で、健康体なのだ。もともと1964年の出発地点でライ・クーダーとバンドを組み、ブルース、フォーク、カントリー、R&B、ジャズ、カリブやアフリカ・ミュージック等の広範囲な音楽を手がけてきたかれの音楽は充分わたしの好みのはずなのだが、長いこと食指が動かなかった。それがこの Taj Mahal「Giant Step / De Ole Folks at Home」は冒頭のプリティな口笛小曲からすっと入ってきた。メロディアスで素朴かつ魅力的な曲が満載で、へえ、タージ・マハールってこんな歌い方もできるんだ、と驚いた。疾走感あふれる Six Days on the Road もどうにも最高でしびれるね。

 

 昨日から子は膀胱炎に罹ったらしい。お腹が痛いと言いだした。導尿の際に(あるいは他の何らかの要因で)菌に感染する。昨日は症状がとくにひどくて、一時間に何度も尿意をうったえ、紙おむつとカテーテルを入れたゴミ袋はすぐに一杯になる。休日診療の病院へ行ったが、そこは検査もロクにできずに、出してもらった薬もあまり効果がないようだ。今日は学校を休ませて朝からかかりつけの小児科へ連れていくと、菌はもうほとんど流れ出てしまったようだという。抗生物質を三日分もらって帰ってきた。

 夕方、北向きの部屋の畳に寝ころがって沖浦氏の「幻の漂泊民・サンカ」を読んでいるうちに眠ってしまった。奇妙な夢を見た。わたしと子は死んだ人々の集団にまじって、地獄巡りのような供養のコースをまわっているのである。「そういえば、しのちゃんは“ひとがた”を持ってましたか?」と列にならんでいた年輩の女性がうしろから訊いてきた。わたしが持っていないと答えると、「ああ、だからこの子はときどき怖がるような叫び声をあげるんだな。あれを持っていないと悪い霊の感化を受けてしまうのだけれど、でもいたずら程度だから、まあ大丈夫でしょう」と言う。そばにいる子と同い年くらいの少女の手元を見れば、紙で切ったそんなものを手にしている。そこの入り口近くの売店で売っているが、今日はもう売り切れてしまったと言われた。それに連なる別の夢なのだろうが、またこんな光景も見た。海岸の波打ち際に大きな箱船のような土盛りがしてあって、周囲を注連縄で囲っている。土盛りの真ん中に老年の神主が埋められていて、祝詞をあげる声が聞こえる。祝詞が終わると、神主は船の櫂のような木の棒で殴り殺されてしまう。土盛りのてっぺんからわずかに覗いた頭部が血みどろになっている。

 夜、寝床で子に、柳田国男が「山の人生」に書き記した、困窮の果てに二人の幼子の首を斧で刎ねた炭焼きの男の話を聞かせる。「西日の当たる玄関の土間に、その子どもたちは頭を並べて横たわったそうだよ。それを刎ねたお父さんは、どんなに悲しくて気が狂いそうだったろうね。」そんな話をしているうちに、子は眠ってしまった。

2007.9.10

 

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 YOUTUBE の小さな再生画面の中でその小柄なソング&ダンスマンはひょいひょいと軽快に飛び跳ねながら歌っているように見えた。この男のそんな何気ない仕草はむかしから妙に気をそそる。それが能う限り最良の追悼の儀式であるように思えてくるから不思議だ。「ねえ、Johnny 俺は心から挨拶したい。俺たちはそこへ行けなくて残念だけどやむを得ないね。あんたの列車の歌を1曲歌おうと思う。俺がまだ自分で歌を書いた事も無かった頃、何時もこの歌を歌っていたよ。それとひとつあんたに感謝を捧げたい。遥かずっと昔に、俺のために立ち上がってくれた事に対して・・」 歌は空中に溜めて、吐き出される。空中に溜めて、投げ出される。かつてこの男が若かりし頃に受け取ったものを、次の受け手へ放り投げるように。一方で、年老いた大木のような男がいる。男と男の物語だ。“蠅の王”だ。大木の男は、死んだ魚の上にワインを流す。切ない。何もない空っぽの空間を伸ばした腕がすくい取ろうとする。干物のようにひからびた両手が閉じたピアノの鍵盤蓋の上で死ぬ。この男はいまだ何かを求めている。1969年、この男が刑務所で開催したコンサートを目撃した囚人の一人は後にこう語っている。「みんな感じていた。もしじぶんでも Folsom Prison Blues を歌うことができるようになれば、刑務所の世話にならなくてすむかも知れないと」 これこそが、すぐれた歌が成し遂げられる奇跡の瞬間だ。それは細胞の奥、タンパク質の奥、微細な原子のゆらめきのなかでショートする。男の手は干涸らびて萎える。男の目は沖合を泳ぐ魚のように油断なく自信に満ちて光る。小柄なソング&ダンスマンはそれらすべてを喉に刺した短剣のように踊り、歌う。歌は空中に溜めて、投げ出される。こんな感情を表現できる言葉など、どこにもない。

2007.9.13

 

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 休日、朝。自転車で子を学校へ送って戻ってきたらYが、水筒を忘れたから持っていくと言う。ああそうか、と汗を拭いながら応じると「今日は一時間目から体操で喉が渇くだろうから」なぞと言うので、「体操? ならおれが持って行くわ。ついでに見学させてもらうから」と子の水筒を肩に引っかけ、こんどはバイクで。担任のT先生にことわり、ちょうどグランドで全校生徒による運動会の予行練習(入場と退場・準備体操)をしているのを桜の木の下で見させてもらった。入場行進のしょっぱなから列の先頭の子は足をもつれさせ転んでしまう。波が子を巻き込み、枠外へはじき、置き去りにする。二度目からはT先生が両手をひろげて前列を抑えながらゆっくりとすすんでくれる。代わりに前を行く二年生との距離はだいぶひろがってしまう。「集団になると抑えが効かなくなってしまうんです。だから急がずゆっくり行くようみんなに言ってます。その方が上手にいくので。」「ただ全体の流れもありますしねえ。うちの子のためだけにあまりみんなが遅れちゃってもなあ」 練習が終わってからグランドの片隅で、そんな会話を先生と交わした。アウシュビッツなら真っ先に「処分」されるんだろうな、となぜかそんなことを考えた。

 日曜日。子は膀胱炎にかかったようで、Yは30分おきに紙おむつを取り替えた。休日診療の病院へ行ったが、そこはおしっこを検査する能力がなく、抗生物質の薬も一日分しかもらえない。翌月曜、学校を休ませて近所のかかりつけの医者で診てもらったところ、「膀胱炎だが、菌はほとんど(尿といっしょに流れて)なくなっている」という。だが次の火曜の朝になってもお腹が痛むと言い、頻繁に尿意を訴えるので、また学校を休ませて念のためM先生の勤める大阪の泌尿器科へ行って診てもらうった。膀胱自体の異変を案じたのだ。M先生の所見では、症状から診て膀胱炎に間違いない、導尿のとき以外でも体力が落ちていたりすると身体の抵抗力も弱り感染しやすくなるという。お腹を冷やさないこと。早寝早起きを心がけること。そんなアドバイスをもらって帰ってきた。わたしはよく子と、布団で遅くまで長話をしていてYに叱られる。

 新聞をひらくと安部総理退陣あれこれの記事の片隅に、奈良・壺阪寺で高さ15メートルの石の釈迦如来像がインド人の石工の助けを経て完成したとの記事が目に入る。「仏つくって魂入れず、とならぬようですな。仏の教えを実践して・・」云々の住職のコメントが載っている。もう何年もむかし、「石工募集(見習可)」の求人を見てわたしはこの寺をたずねたことがある。「この壺坂ブランドをですな、みなさんに大いに広めて欲しいのです」 面接の場で多数の無職者を前にこの住職はそう語った。僧侶ではない、たんなる経営者の顔だった。何やら嫌気がさして、わたしはそっと面接会場を抜け出た。「豚は馬である、少女は少年である、戦争は平和である」 木を切り、水を運ぶ。どこかにそんなシンプルな言葉はないか。高取城址へ続く山中の苔むした五百羅漢の前に佇み呆然としていた。

 学校の帰りにスーパーに寄り、夕食のパスタ・ソースの材料などを買い込む。家に帰ってソースをつくる。市の「子育てサロン」なる集まりから帰ってきたYと二人、ありあわせの菜で昼食にする。アジの干物の残りを半分づつと、冷や奴と、Kさんが呉れたという韓国のジャガイモの煮付けと黒豆風の料理、それにキムチ。今日は友だちのKちゃん宅からお誘いがあって、子は学校が終わってからKちゃんの家に遊びに行き、そのままソロバン教室へ直行するとの由。ソファーに寝ころがり、「幻の漂泊民・サンカ」を読んでいるうちに眠ってしまった。鳥籠のセキセイインコが「シノチャン」と喋り、いまの聞いた? とYが声をあげるのを眠りのとば口で聞いた気がした。

 夜。家族三人で、Yがレンタル屋で借りてきた映画「ミュージック・オブ・ハート」を見る。寝床で子に寮美千子「星兎」(パロル舎)を読み聞かせる(じぶんで半分くらい読んでしまった)。

2007.9.14

 

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 月刊「部落解放」2001年11月493号の在庫を出版社にメールにて問い合わせする。

 広島・府中市のある集会場についてWebであれこれ調べるが手がかりなし。そこはかつてサンカだった人々が住み着いた集落で、集会場の二階にかれらの生業であった川魚漁や棕櫚箒つくりについての展示があるという。沖浦氏評して「日本で唯一のサンカ民俗資料館なり」と。一般に開放しているものかどうか分からねど、訪ねてみたいと思う。週明けに向こうの役所あたりに訊いてみるか、それでだめなら、かつて人権博物館に勤めていたつれあいの筋をつかって調べてもらおうかとも思う。

2007.9.16

 

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 どこの者とも判らないが、昔は毎年幾組もやって来た。ヒトリボシ(独り者)もいたが、たいがいは女房子連れだった。カメツリの語源は判らないが、しまいにはウナギツリともいった。

 春になって一寸ぬくもって来ると「もうカメツリや来た」などと言って見ていた。テンマク(天幕)を川原に張って付近を転々し、主にウナギを目当てに、ガブやギンタ(ハヤ)を餌にしてナゲヅリし、また網でアメ(アメノウオ)やウグイを捕って、捕った魚は女房や売子がダンナシや宿屋などへ売りに来た。

 オチウナギ(死んだウナギ)などちゃんとリョウッて(料理して)焼いて売りに来た。よう魚を捕らん家へばかり来たから結構捌けた。魚を米や品物と取り替えることもあれば、お金を貰って行くこともあった。

 子供が生まれると川原に大きい穴を掘ってその中で焚火をし、そのあとへ水を入れて沸かしたり、岩のクボケ(窪み)に湯をとったりしてユアミさせた。余計捕れる所では半月も一月も、長い人は三か月もいて、大川や小川を渡り歩いたが、冬はウナギが捕れないので、カンゴ(籠)を作って売りに来た。

 この人たちの天幕は蒲団皮のような縞や碁盤などいろんな布をツギサガシたもので、竹を二本組み合わせて両方に立て、上に竹の棟を渡してその布を掛けた簡単なものだったが、結構雨も漏らなかったらしい。天幕を張るには山と川との境の良いタイラなどを選び、場所が悪いと自分で平地を作った。

『下北山村史』(奈良県下北山村役場、1973年)

 

 沖浦和光氏の「幻の漂泊民・サンカ」(文春文庫)を読了する。

 定住する家を持たず、河原で「瀬ぶり」---天幕を張り、山野を漂泊するサンカについて、この国ではじめて(おおやけの研究対象として)言及したのは民俗学者の柳田國男であった(『「イタカ」及び「サンカ」』1911年)。柳田はかれらの存在を「古代ヤマト王朝が制定した律令制に基づく農本主義的同化政策を忌避して、山中に入って隠れ住むようになった」この国の先住民の末裔でははないか、と考えた。大正天皇の大嘗祭に大礼使事務官として参列した日、京都の山手から一筋二筋の白い煙があがるのを見て「ははあサンカが話しをしているな」と思った柳田の心の内奥には、いわば「王化に浴することを拒んだ化外の民」の悲哀と矜持に対する羨望と夢想がひっそりと、だがある種の狂おしさを湛えて沈殿していたのではないか。

 その柳田の秘め事の如き仄かな情欲を原色の絵筆で塗り増しし、さながら江戸川乱歩が描いた帝都の闇に蠢く怪人二十面相の如きあやかしを加えて人々の前に投げ出して見せたのが三角寛であった。1930年代、新聞記者から転身した三角は猟奇的な山窩(サンカに"山の盗賊"の字義を当てはめた)小説を毎月のように雑誌に発表し、「昭和前期では屈指の売れっ子作家になった」。それによって「ましらのように山野を疾走する異能生活者、食に窮すれば何をやるか分からぬ無産無宿---そういうサンカ像が市民社会に広く流布されていった」のであった。現在のサンカ像には、この柳田の「秘め事の如き情欲」と、三角の「原色のあやかし」の二種が、複雑にからみ合い共存しているようにも見える。

 沖浦氏の「幻の漂泊民・サンカ」は、あたかも廃船に付着した貝殻や海草のようなこの柳田と三角のそれぞれのサンカ像を、いったんきれいに洗い落とす。そして(おそらく)生(き)のままのサンカたちの姿にしずかに寄り添う。私的なロマンも、大仰な身振りもなしで。

 サンカは果たしてこの国の古層から由来する<山人>の末裔であろうか。沖浦氏は、幕末より以前に遡るサンカを示すような記録が一切見当たらないことを皮切りに、文献を丹念に読み直し、歴史的考証を加え、その発生を18世紀末、天保・天明期の悲惨な大飢饉を経て食うや食わずで村を捨て---いわば「帳外れ」となり「さまよいありく徒」となった大量の窮民たちの一部が、わずかな自然の糧を求めて山に入り、山野河川で小屋掛けして「しのぎ」の生活を過ごし、「元手がほとんどいらず努力次第で技術の習得も可能だった川魚漁と竹細工」で暮らすようになったのではないかと推測する。そして三角寛がサンカ自身より入手したと書いている独自のサンカ文字も、厳格な縦割りの全国的組織もその掟も、あるいはかれらの神代からの出自を語る伝承も、その多くは三角の創作であったろうと喝破する。

 「サンカの主たる生業は、春から夏場にかけては川魚漁だった。そして冬場は、蓑作りなどの竹細工や棕櫚箒作りがおもな仕事だった。都会へ出て、「世間師」として働くこともあった。正月のハレの日には、春駒などの門付け芸に出ることもあった。その地方のサンカが、何を主として生計を立てるかは、この地方の環境と季節によって異なっていたのである。」 一所不住のかれらはときに「サンカホイト」などと呼ばれて差別された(ホイトは乞食の意)。そんな中にあって、かれらをいちばん許容していたのは同じ差別の苦しみを受けていた被差別部落の人々であったろう、とも沖浦氏は記している。

 沖浦氏が直接聞き取りをしたあるサンカの老女は、その生活を次のように回顧する。

 

「この辺りのもんは、明治の始め頃からかのう、川魚漁に行ったもんじゃ。わしゃあ十五、六ん頃からやりようた。秋に亥の子がすんだら、春駒の稽古がはじまるんよのう、これが辛うてのう。ええかげんにやりようりゃ、四つ竹がとんでくるけえ、しかたなぁけえやりょうた。」

「おまえが何回も話をせえ言うけえ、思い出しとうもなぁものを思い出したぁ。わしが根まけしたぁ。ほいでも思い出すと、楽しいことはなんにもなかったなぁ、辛ぁとばかりじゃったなあ。」

「一つ所でそう売るところがないでしょうが。毎日まいにちは買うちゃあくれんけえ、遠くまで売りに行くようになるんよの。川魚売りん行くときにゃあ、モモヒキをはいて、尻からげしての、ここらへんまで(とふくらはぎを指さして)こう靴下はいて、地下足袋をはいてのう、四角いカゴへいっぱい魚をつめて、孟宗や檜の葉でおそうての、抱えて行ったもんで。暑いし、荷は重たいし、えらかったのう。毎日じゃけえのう。町じゃお金じゃけえど、田舎へ行きゃあお米とかえたりの、物々交換よの。わしらが来るんを、夏が来たけえ来るじゃろういうての、心待ちしてくれとる家もあったけえど、むずかしい家が多かったのう。田舎の人は余計むずかしかったのう。塩を撒く家もあった・・・」

 

 維新後の明治政府が打ち出した「入籍定住」政策により、ゆるやかな速度ではあるが、山からサンカの人々の姿は徐々に減少していった。ある家族は都市の貧民窟へと流れ込み、またある家族は地味の悪い村はずれや被差別部落の周辺にぽつぽつと住み着いたのだろう、と沖浦氏は述べている。そしてまた著者はかれらの民俗が「農山村の民衆生活と深い関わり」があった点を指摘し、そのために「1960年代からの高度成長の波がやってくると、大自然の生態系に拠ったその職業は、もはや成り立たなくなった」と記している。サンカに限らず、諸国をさすらいながら特定の生業で生活した人々の姿は1950年頃を境にしだいに消えていき、1970年代に入る頃には「この列島からすっかり消えた」。

 20代の半ば、じぶんの居場所を見出すことのできずに実家に閉じこもっていたわたしの最愛の書はC.W.ニコルさんの「ティキシィ」だった。極北の地で、己を動物とも人間とも分からなくなった孤独な青年は不慮の事故で命を落とす。魂はワタリガラスに移り飛翔する。そんな頃、わたしは毎日のようにバイクで近くの山懐まで走り、人気のない河原によくぽつねんと佇んでいた。茂みの向こうからサンカの少女が現れて、わたしをかれらの国へ連れて行ってくれることをしばしば夢想した。それこそ疲れ果てた、狂おしいほどの想いの中で。山野を漂泊するサンカの姿には、そんな、この地上で破れた者の夢想を受け入れ慰撫する“あやかし”がある。

 ではこの“あやかし”は間違いであるのか。かつて柳田国男は『遠野物語』の序文において「国内の山村にして遠野より更に物深き所には、又無数の山神山人の伝説あるべし。願はくば之を語りて平地人を戦慄せしめよ」と記した。困窮によって在所を失い、河原で「瀬ぶり」を張り、山野を漂泊するサンカの人々の姿を通じて、わたしたちはいまなお「豚は馬である、少女は少年である、戦争は平和である」というこの世を呪い、アウトサイダーたる決意をあらたに胸にする。それは差別され、辱められ、石もて追われた者にしか分からぬ“恨み節”である。店先で差し出した銭を一度として素手で受け取ってもらえなかったかれらは、わたし自身でもある。それが古代山岳ゲリラたちの末裔へ残された檄文だ。「願はくば之を語りて平地人を戦慄せしめよ!」 

 一処不住のかれらは、やはりこの国の深き古層より立ち現れた幻影をまとっている。それは鏡に映ったわたしたち自身の「もうひとつの」顔でもあるのかも知れない。

2007.9.19

 

*

 

 

 研究会場の小さな集会所の二階は畳の間になっていて、川魚漁に用いるさまざまな漁具が展示されている。棕櫚箒作りもその製作工程が理解できるように工夫されていて、いろんな種類の箒の実物が並べられている。

 二階への階段と廊下には、小学生の感想文がズラリと張り出されている。地元の小学校の先生が、先祖たちの苦労が理解できるように、この地区に伝わる川魚漁と棕櫚箒作りを授業に取り入れて実習させたのである。子どもたちの作文を読んでいくと、懸命にそれに応えようとしていることがよく分かる。

 先にみたパンフに記載されていた1998年度の解放文化祭の展示物がそのまま残されているのだった。たった一部屋の小さなものだが、今日では、日本唯一の「サンカ民俗資料館」である。

沖浦和光「幻の漂泊民・サンカ」(文春文庫)

  

 奇しくもメールで注文していた月刊「部落解放」2001年11月493号が届いたその日の朝、広島の府中市役所(商工観光課)へ電話を入れた。役所の人はどこの馬の骨とも分からぬ者の依頼に、とても熱心に動いてくれたというべきだろう。いくどかのやりとりの後、集会所の場所が分かりました、これから見に行ってきます、またこの件にくわしい地元のSさんという人にもお話が聞けるかあたってみます、という返事が来たのは昼頃だった。ずいぶん行動派の人だなと半ば苦笑しながら、ほのかな期待にときめきながら、わたしは受話器を置いたのだった。

 電話を待っている間、わたしは「部落解放」に掲載されたSさんの手記「漂泊民からの逆照射 古老たちのアイデンティティ」を読んだ。それは沖浦氏の言葉を借りれば「自らサンカと呼ばれた小集団の末裔であることを正面から名乗る宣言、すなわち、サンカとしてのカミングアウトであり、歴史の闇の中に沈められてきた山の漂泊民のアイデンティティを求めての思想的宣言」である。沖浦氏がはじめて目にした小冊子の中でSさんは次のように記している。

 

 「私のルーツをさかのぼっていけば、『サンカ』にたどりつくのではないか」 これが私の脳裡にうごめいていた疑問であった。それは同時に得体の知れない不安と、漠然とした畏れの感情を育て上げていった。

 私は、川魚漁と棕櫚箒づくりを生業としている父母の姿に、尊敬の念をもちつつも、また一方では恥かしく感じるという矛盾性を抱き続けてきた。

 「いったい自分は何者なのか、なぜ差別を受けるのか」という問いは、私を解放運動に向かわせ、「差別の根源を問う」という手放せぬテーマを、自らの課題とした。

 父母とともに同じ生業をしていた人々は、どのような歴史の位相の中で現在にたどり着いてきたのか・・・

沖浦和光「幻の漂泊民・サンカ」(文春文庫)より孫引

 

 村々でときに塩をまかれ石もて追われたサンカの人々を比較的、寛容に受け入れてくれたのが、同じ苦しみを受けていた被差別部落の人々であったことは前述した。しかしその部落内にあっても差別は存在した。被差別部落の人々からすれば「かれらは血筋が違う」のである。そして「サンカ」という名称が現在でもなお陰湿な「差別語」として生き続けていることは、2チャンネルなどのWeb上の書き込みを見れば容易に分かる。「サンカ」とは主に川魚漁や竹細工などの生業をもち里山を経巡った回遊型の非定住民の総称であるが、かれら自身が自らを「サンカ」と名乗っていたわけではない。「エスキモー」や「ジプシー」と同じく、与えられた蔑称なのだ。

 私の敬愛する父母は「サンカ」という蔑称で呼ばれた者たちである。私の自己は否定すべき「サンカ」と敬愛する父母の二つに切り裂かれている。「サンカ」と呼ばれた父母は、なぜそのような蔑称で呼ばれなければならなかったのか。そしてその父母の血を継ぐ私はいったい何者なのか。そのような激しい葛藤と自問のなかでSさんは、「『サンカ』という言葉は賤称語であると定義すべきだ」と宣言した上で、一説にいう「困窮極まった末に村を捨てて山に逃げ込んだ」というネガティブな姿だけではない、まつろう諸々の先入観を拭い去った上での、いわば敬愛する父母の生きようの「光」の部分を紡ぎ出そうとする。

 

 時折、私が川に出かけ、スッポンをとって帰ってきても、一目見ただけで「あの辺にゃあ、まだまだおるじゃろうが」と、古老たちは啖呵を切る。父にとってその生業は、単に生活の糧にするためだけではなくて、期待と落胆、工夫と挑戦、喜びと自負といった、人間の精神を高揚させてくれる何ものにも代えがたい「なにか」であった。自然が父に与えてくれたくれる恵み、それを手にした時の興奮を常に手応えとして受け取ることのできる、生き生きとした世界であったのだ。

 そうしてゴクリと酒を喉にし、「川はええどぉ」と頬をゆるめて語る姿には、「非定住」「無所有」なるがゆえに厳しく苛酷な差別を受けてもなお、手放さなかった人間としての意地が感じられる。

 権力の支配・締めつけを拒否し、搾取と収奪から自由になるということは、とりもなおさず被差別者としての烙印をその身に受けることである。そのような烙印を焼きつけられても、しょせんは権力のつくったシバリに過ぎぬと歯牙にもかけず、ただ悠然として川底に立ち、そこから見える風景とともに世間の人間絵巻を望遠していたのである。

 人間が到底太刀打ちできぬ自然界の荘厳さと常に対峙しながら生きてきた。それはすなわち、すべてを手中に収めきろうとした権力への無言の抗いであったのである。

 その高らかな誇りにつながる自然体を、わが父の身体と精神は今でも記憶している。

月刊「部落解放」2001年11月493号>作田清「漂泊民からの逆照射 古老たちのアイデンティティ」

 

 ついでSさんは「かつての漂泊生活にまつわる苦い思い出を疎ましく感じて、多くを語ることはしなかった」叔父が、その死に際に「川へ行きたい」という言葉をつぶやき、死んでいったことを記している。

 

 その葬儀には私の父も参列している。しばしすれ違った時を経ての、真実のそして最後の再会は、「川へ行きたい」という末期の言葉の中にあった。故あって故あって島に生きる道を選び、川のない地に生きた弟の亡骸の前で、座して崩れる父を見た。

 その生を全うさせぬ差別のシバリが、若き日の叔父の躍動を、定住の枷(かせ)に封じ込めたのだ。しかし、川から離れ、一切を語らぬ沈黙の時間の果てにあっても、自分がもどれる場所は、最後まで手放していなかったのである。

 「川へ行きたい」。実に険しき遺言をみる。

 

 Sさんの文章はわたしをぎりぎりと締め上げる。それは「サンカ」に勝手な夢想を寄せ自己陶酔していたわたしに対する呪詛である。と同時に、もっとやわらかな、どこか霧でぼうっと霞んだような広い川面の風景へわたしを押し出していく。それは故なき差別に苦しみながらも、いまやわたしたちの多くが失ってしまったしずかな喜びをその胸にとどめながら、寡黙に、律儀に、自然に日々の暮らしを続けてきた、どんな「名称」からも逃れた人々のいる仄かな「光の風景」である。

 

「サンカ」と呼ばれた位置から、この社会を眺めてみることは、とりもなおさず「定住・所有」の軛(くびき)に沈められ、結果として近代天皇制国家にからめとられてしまった私たちの精神性とその現在を、逆照射することになるであろう。

 それは権力支配によってつくられた価値観を、根底から覆すことである。真実を覆い隠していた虚像を、あばくことである。被差別民衆の暮らしの中には、このような逆照射の視点が必ずや内在化されている。解放思想の源泉は枯れず湧き出でている。

 

 父もまた、八十を超えた今なお、春暖かくなれば川へ行く。父を育て、ともにその時をすごした生命たちが、そこには生きている。父の行く先には、私が定住生活を常態として受け入れることで見失ってしまった精神の気骨が、そこで待ってくれているのだ。そのことに私は今、痛恨の念をもち、父の後ろ姿を見つめる。

 これまでの歴史の中で、蔑視し沈黙したはずの「漂泊者」の側には、帰る場所がある。揺るぎないアイデンティティーがそこにはある。

 私は疑う。定住者には住む場所こそあるが、そこは確かに自分の帰る場所なのか------。さらに問う。「サンカ」と呼ばれた人々はいかにして、自分の精神の拠り所となる場所を、築きあげてきたのか。

 私が求心すべき場所は、漂泊者として生きた父たちの、遺産の内奥にある。

月刊「部落解放」2001年11月493号>作田清「漂泊民からの逆照射 古老たちのアイデンティティ」

 

 夕方に、電話が鳴った。府中市役所の返答は、教育委員会の人が集会所を見に行ったがすでに展示はされていなかった。Sさんにも電話で訊ねたが「棕櫚箒も何もかも、どこへいったか分からない」という。そして(展示についてのお話を伺えたら・・という申し出については)「話をしても、誤解をされないように上手に話せる自信がないので、いまはそうしたお申し出はすべてお断りしています」というものであった。

 沖浦氏が「日本唯一の『サンカ民俗資料館』」と評した展示は取り払われ、多数の貴重な展示品もどこへいったか分からぬという。もともと「1998年度の解放文化祭の展示物がそのまま残されている」ものであったそうだから、あるいは一定の期間を過ぎて予定どおりに撤去されたのかも知れない。しかしひょっとしたら、「サンカ」であった印の品をわざわざじぶんたちの集会所に展示することはないと一部の者たちから声が上がったか、あるいは展示に対する無理解や嫌がらせ行為があったのではないだろうかと、わたしは疑ってもみたりする。そして何より、Sさんが答えたという言葉に含まれた微妙な言い回しに、わたしはとまどったのだ。どこの馬の骨か分からぬ者の申し出をたんに断るだけなら想定内だ。だが、Sさんの物言いにはそれ以上の影がある。それは「話しても理解してもらえない。もうたくさんだ」という深い絶望である。

 しょせんはわたしも鈍感な烏合の衆ではなかったか。手前勝手な空想を抱き、興味本位で嗅ぎ回る犬畜生ではなかったか。川魚漁や棕櫚箒つくりの展示を見、話を聞き、Sさんのいう「逆照射」の何たるかを己の目と耳と頭で考えたいと欲求し、呑気に広島への汽車賃の勘定さえしていたが、いまわたしは、じぶんがひどく軽率で、嫌らしい人間であったような気がしてならない。固く苦いしこりのように、残っている。

2007.9.23

 

*

 

 「うんどうかいのかけっこのれんしゅうで、5位になってうれしかった」と、子が日記に書いた。

 「何人ではしったの?」と母が問えば、「4人」という。後発の組に一人しか抜かされなかったから5位だという。いつもはもっと抜かされるのだけど、今日は一人しか抜かされなかったのだという。

 次の日、迎えに行った子を自転車の後ろに乗せて走りながら「今日は何位だった?」と父が訊けば、う〜んと口ごもる。「8位くらいか?」「うん。そんなもんかな」「そうか。また5位になれたら、いいな」 垂れている稲穂が背中の子の姿に重なって見える。

 

 病院の帰り、子のリクエストで猿沢池に釆女祭を見てきた。高台の興福寺の五重塔あたりから見下ろすと、真っ暗な池は、仄かに光る金平糖を数珠つなぎにまとっているように見える。その縁を王朝絵巻さながらの衣装に身を飾った人々を乗せた竜頭船が、闇夜からひょいと現れたまぼろしのようにゆっくりとすべっていく。岸辺からあちらを見ているのに、まるでじぶんたち家族三人だけを乗せた小舟が夜の霧の中から現れ、さみしくすすんでいくような気がしてくるのが不思議だ。

 

 

九月25日(水曜日)

 きょう、うねめまつりにいきました。なんまん人もの人がきていました。いや、なんおくもの人ざかりでした。

 はじめ、わたしとおかあさんはびくびくしていました。じぶんのおしゃれをだれか、一人でもきにいってくれなかったら、どんなにふこうへいになるかしら、とかんがえていたのです。おかあさんがおとうさんにはなしかけました。「だれかが、わたしたちのこと、きにいってくれなきゃどうしましょう。」しかし、おとうさんは、あっさりこういっただけで、ちっとも、みかたでもなんでもありません。「しんぱいなんかないさ。きみたちがきちんとすわってりゃ、そんなことになりゃしまい。」と。

 おかあさんとわたしは、じっさいへんなかっこうでした。おかあさんは、ピンクのかばんをもち、くろいシャツをき、うすむらさきいろのスカートをはき、しろのソックスをはき、はだいろのバラのくつというかっこうで、わたしはラベンダーいろのワンピースをき、しろのソックスをはき、かみのけはたらし、みずいろのリボンをむすび、カールしていて、あたまにはぼうしをちょこんとのせた、というかっこうです。くるまをおりると、ふたりともじょうひんにすわりました。たいまつをつけたふねがちかずいてきます。お姫さまがのり、けらいがのり、王女さまがのり、王さまがのり、王子さままでがのっていました。わたしはおもわずあたまをさげました。おかあさんはくちをパタンとあけ、みとれています。

 おとうさんはカメラにむちゅう。すばらしいながめでした。

2007.9.26

 

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 「いつか、できたら小説をひとつ書いてみたい」 狩撫麻礼のマンガの主人公は言う。「その冒頭は朝、足を洗うための最後の仕事に赴く殺し屋が偶然、通りがかった小学校の運動会に出くわす場面から始まることにしよう・・・」 昨日から泊まりに来た義母とYがきれいな漆塗りの重箱に海老フライやおにぎりや卵焼きを詰めている。わたしは自転車で子を学校へ送り、そのまま校庭にレジャー・シートを敷いて、その上に寝そべって「日本民衆文化の原郷」(沖浦和光・文春文庫)を読む。生憎の曇り空で肌寒いくらいだが、仄かに地熱がぬくい。子はかけっこを4人中の4位で、嫌な顔ひとつ見せず駆けきった。列にもどってから先生に「ああ、これですっきりした」と言ったとか。昼前、豆パン屋のご主人と本部席裏の階段で話し込んでいたら、PTA役のお母さんが来て「保護者の綱引きの人数が足りないのですが、出てもらえませんか」と言う。「この人なら」と豆パン主人に押しつけかれの鞄を預かってから、何やらじぶんも出たくなった。駆け足で鞄を義父母のところへ預けに行くとYも出るという。三人とも子と同じ紅組だ。一回戦。「勝ってる勝ってる」と呻く豆パン主人の言葉とは裏腹にじわじわと引かれていき、結局完敗。負けたことで熱くなった。二回戦は途中から知らず声が出た。「よいしょ! よいしょ!」 足裏に、腕に、握る綱に、満身の力を込める。徐々にタイミングが合ってきて、ぐいっ、ぐいっと一回ごとに確かな手応えを感じるその歓喜。笛が鳴り、勝利が決定した瞬間、「よおっしゃあ!」「やった、やった!」と豆パン主人と二人、相好を崩し、手を打ち、跳ね、まるで悪ガキのように喜び合った。いかんな。子の運動会をすっかり食ってしまったわい。こんな運動会を見たら、どんな殺し屋もきっと足を洗えるだろう。

2007.9.29

 

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 運動会が終わって日曜日。雨のなか、泊まりに来ている義父母らと車で買い物に出る。人混みは苦手だ。檸檬のテロ爆弾を据えつけたくなる。子が言ったようにこんな日は家でのんびりしてりゃあよかった。イトーヨーカドーの本屋で室生犀星の「動物詩集」(日本図書センター)を子に買ってやる。

2007.9.30

 

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 沖浦和光氏の本をどんどん読む。近所の本屋にはなかった「「悪所」の民俗誌―色町・芝居町のトポロジー」(文春新書)「天皇の国・賎民の国―両極のタブー」 (河出文庫)をアマゾンで注文する。結局それはわたしが、賤民たらしめている機構を憎み、賤民であることに抗う悲痛に同調し、賤民として落とされているその位置を愛するからだろうと思う。

 母から携帯にメール。過日に「託され物」を預かった老牧師氏が「心臓の動脈の一部が細くなっていたため」入院をした、と。早く京都に持っていきたいと思うのだが、なかなか「聖日集会」のある日曜に休みがとれない。無礼を覚悟で平日に押しかけるか。

 Yと子が二人して風邪ひきで寝込んでいる。運動会の日の雨と寒さがたたったようだ。明日は遠足だが、どうだろう。深夜に帰って子の机の上を見れば、ノートに「きつねものがたり」の文章を大量に書き写しているから、少しは快復したのだろうか。

 あまりPCに向かっている暇がない。

2007.10.3

 

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 子は予定通り遠足へ行く。以前に住んでいた町に近い馬見丘陵公園に隣接する竹取公園。名前のとおり、かの「竹取物語」発生の候補地のひとつで、沖浦氏も「竹の民俗誌」(岩波新書)に記している。艶やかな物語の低層には、竹細工を生業とした賤民の抗いが秘められている。午前中、風邪ひきのYに代わって自転車で市役所、社会福祉施設、図書館などをまわる。昼食に件のディープなたこ焼きを買って帰る。注文をしてふと見れば棚の上に100円玉がふたつ乗っかっている。「なんかここに200円、置いてますよ」と差し出せば、婆ちゃんは「ああ、さっきの人のだ・・」と苦笑して受け取る。お昼にYと食べたたこ焼きは相変わらずボリューム満載でおいしい。

 

 

 それでは、何を基盤として、近世賤民制が形成されていったのか。賤民制は、死・産・血の三不浄に基づくケガレ観念を中心に、<浄−穢>という宗教的なイデオロギーによって政治的に構築された制度であった。つまり、支配者の権力支配を合理化するために、乍為された統治システムであった。

 だが、いかに強力な権力が出現したとしても、それまで民衆の生活を規制していた文化風俗や宗教思想などの民俗的土壌を無視して、一朝一夕に上から賤民制をつくり出していくことはできない。幕藩権力にしても、中世以来の特定の職能集団に対する賤視観を拡大再生産しながら、近世的な賤視観をつくり上げていったのだ。

 中世末の社会にすでに胚胎していた一定の基盤をテコとして、近世賤民制を強引に創出することができたのだ。

 中世末期の芸備両国には、「長吏」「かわや」「河原者」「茶筅」「鉢屋」「非人」、さらには「下級陰陽師」「琵琶法師」などさまざまの遊芸者がいたことが史料的にもはっきりしている。いずれも中世末期の卑賤視されていた人たちの系譜を引くもので、それぞれが町や村の片隅で小集団を形成していた。

 このような集団を再掌握するかたちで、広島藩における近世賤民制が形成されていったのである。そのさい、漁労・狩猟・山仕事に従事している人びと、馬借・車借、渡守、船頭などの運送業、寺社などに奉仕しながら祭礼のさい雑役や清目(清掃)の仕事に従事していた下級の神人や寺奴など---これらの人びとをも囲い込みながら、近世賤民制の枠組をつくり上げていったと考えられる。

沖浦和光「日本民衆文化の原郷---被差別部落の民俗と芸能」(文春文庫)

 

 支配のための作為があり、それをならしめた土壌があったわけだが、いちばん深い問題はそれらを「必要とした」人の心の闇である。それらはいまも形を変えてつづいている。

 ところでこの「日本民衆文化の原郷---被差別部落の民俗と芸能」の後半は、広島のある地方に残る鵜飼い漁についてなのだが、そのなかに「かつて鵜飼いに用いる鵜は山陰で獲っていたのがいまは獲れなくなり、茨城県高萩市の海岸で摂った鵜を一羽3万千円で購入している」という記述があって驚いた。なんと、わたしの実家の近所じゃないか。さっそくWebで調べてみると「高萩市」というのは間違いで、日立市の十王町にある伊師浜海岸だと判明した。ここに日本で唯一、保護鳥である鵜の捕獲が許可されている捕獲場があるという。10年近く暮らしていたのに知らなかったなあ。ちょっと鵜飼いに興味が出てきて、来年あたり、Yの実家に近い有田川の鵜飼い風景など子に見せてやろうかとも考えている。

鵜獲場 http://kkws.blog1.fc2.com/blog-entry-1714.html

「新ウミウ物語」 http://www.jcp-ktib.com/ht/2004/0906u.html

「好きこそ上手なれ! 宇治川の女性鵜匠」 http://www.bunet.jp/world/html/18_8/491_neokyoto/index.html

2007.10.4

 

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 桜井市立埋蔵文化財センター纒向遺跡出土の木製仮面を見に行く。農具である鍬(くわ)の刃を仮面に転用したというのが、なるほど、いかにもおもしろい。鍬の柄孔がそのまま、なにかを叫んでいる口である。隆起部を利用して鼻を削り、不整形な目を穿ち、眉を線刻した。わずかに付着していた赤色顔料は、あるいは今回おなじ遺跡から花粉が大量に発見されたベニバナの染料かも知れない。農具は古来、呪物であった。鍬は収穫のために神聖なる大地を「侵犯」する。その「呪」を顔にまとい、舞った踊りとは、如何様なものであったか。ちなみに纒向遺跡は一般の生活用品が出土しない「王国」の領域である。ここには無数の祭祀的用途を思わせる土抗が確認され、この木製仮面はそうした土抗のひとつから「土器類や籠状製品」「長さ約47.5cmを測る鎌柄」「モミ製の盾」などと共に掘り出された。

 夕方、会社の野暮用で大阪へ登城する。「社長」なる人と面談し、「現場の評価が高いのはすぐれた能力を有する同僚たちのお陰で、じぶんはそれをただまとめているだけ」などと「解説」する。通勤ラッシュの電車の中、MP3プレイヤーでジョニー・キャッシュを聴きながら帰ってくる。子が跳びはねながら玄関に迎えてくれる。着慣れぬスーツを脱ぎ、Yが支度した夕餉のシチューを食す。

2007.10.5

 

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 子は朝からYに連れられて、奈良市内で催された“こども向け体験学習プログラム”へ参加。奈良NPOセンターなる非営利団体が主催しているもので偶然、三条通の観光センターのチラシからわたしが見つけてきた。劇団員の講師の指導のもと、子どもたちがパペットなる手袋人形をつくり、物語を考え、つくった人形を使ってその物語を演じるという数回のワークショップで、もちろん子は飛びついた。参加費は各回500円。会場はJR奈良駅に隣接するホテル内の部屋で、午前中の二時間を母親は近くのテラス席で読書にいそしんで待つ。他にも様々な企画が年間を通じて催されていて、こんな授業の学校があったらいいのになと思う内容ばかりだ。子は帰って昼食を済ませてから、こんどは教会の土曜学校で、忙しい一日だった。

奈良NPOセンター http://www.naranpo.jp/index.html

奈良NPOセンター>もうひとつの学び舎 http://www.naranpo.jp/manabiya2006/index.html

「もうひとつの学び舎」とは http://www.naranpo.jp/manabiya2006/info.html

2007.10.6

 

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十月四日(木よう日)

 きょう、えんそくにいきました。すべりだいやかっしゃで、ピューといくような、そんなゆうぐがありました。

 はじめわたしは、そりすべりのまえにきたとき、もう、しんぞうがとまるかとおもいました。だって、みんな、あんなにたかいきょりからズズッーっと下まですべっていって、ちゃんととまって、またてっぺんからスイスイいって、やっていて、その子がうまくちゃんとそりをあやつっているから、みごとおちていくのです。(だめだ。あたし、あんなふうにはできない。ぜったいにだめよ。) そうかんがえるのですが、なにかみえない手がわたしの気もちをひっぱるのです。(しかたがない。とにかく、やるだけでもやってみなきゃ。)

 しかたがないので、とうとうわたしは、あおいそりをかりて小さいほうのすべるとこでやってみることにしました。わたしは先生といっしょにかいだんをのぼりました。サンタクロースがのるそりみたいなそりをひきずりながら。(そりちゃん。)わたしはこころのなかでそっと、そりにはなしかけました。(あたしはしのっていうのよ。) とうぜん、そりはへんじをしませんでした。くつのうしろに、そりがすこしあたっただけでした。(そりちゃん。) こえにだしていってみました。でも、それは小さな小さな、とりのはねがふわっとおちたのよりも小さかったので、子どもたちのワイワイいうこえにかきけされました。わたしはかいだんがおわっているのに気がつきました。そこでそりをおき、そのなかにさんかくすわりをしました。

 先生は、わたしの気もちがわかったみたいにちからずよくそりをおしてくれました。ピュー! かんがえるひまもありません。きずいたときはもう三かいめ、てっぺんの大きいほうでそりにのったときでした。先生は、さっきよりも力ずよく、おしてくれました。(かみさま! おほしさま! たすけて! たすけて!)それっきり、なにもわからなくなってしまいました。きがついたのはばんごはんのときでした。

 そこでわたしはおかあさんにいいました。

 「わたしね、こわかったの。」

 

 

 日曜。子は母親と城ホール高嶋ちさ子のヴァイオリン・コンサートを聴きに行く。愉しいおしゃべりがたくさんで、「いままででいちばん楽しかった」コンサートだったらしい。

2007.10.7

 

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 午前。テレビで録画しておいた映画「フラガール」をYと見る。舞台になった町はわたしの実家にほど近い、実際の常磐炭坑跡地にいまも残る炭坑住宅で撮影された。そんな気軽な興味から見始めたのだけれど、ところどころで涙が出て止まらなくなり困った。小用のふりして入ったトイレで涙を拭った。主人公の少女(蒼井優)の瑞々しさが沁みる。昔気質で妹思いの炭坑夫の兄(豊川悦司)が沁みる。女手ひとつで兄妹を育てた母(富司純子)の凛々しさが沁みる。時代遅れの炭坑(ヤマ)の男たちや女たちの懸命さが沁みる。どこかわたしたちの古い記憶の琴線をはじくような、不思議な魅力を湛えている。在日の監督による撮影というのも、さしずめ妙か。

 

 学校から帰ってきた子がしょんぼりうなだれている。夏休みのキャンプのことを書いた作文を切られてしまったとぽつぽつ言う。訊けば、オモテの升に書ききれなかった子は続きを裏に書きなさいと言われて書いた。国語のノートに貼りつけるために先生がまとめて裁断機で外枠を切り落としたときに裏書きの部分が削られてしまった。どうも、そういうことらしい。切り落としたのが学校のゴミ箱に残っているかも知れないから探しに行こうとなだめて担任のT先生に電話をすれば、「申し訳ないことをしました。裁断はだいぶ以前なので残っていないんです」と言う。先生の電話もこばみ、子は泣き出してしまった。かねてわたしが読みたい読みたいと子に言っていた作文だから尚更だったのだろう。子の頭を撫でながら、平城京の木簡の話をした。残った文字から欠けてしまった文字を考えてパズルのように組み合わせる。それをやろうじゃないかと言って、ノートを取りに子と学校へ行った。教室の明かりがついていて教壇でT先生が一人、子の作文をコピーした紙に推理のペンをぽつぽつと走らせていた。「しのちゃん、ここで先生と作文を“フクゲン”しようよ」 三人で残された文字の断片や完全に失われてしまった部分の推測をあれこれ言っているうちに子は少しづつ思い出して、とうとう全部が“フクゲン”された。「いい勉強になりました」「どうにも親馬鹿の我が儘ですみません」 子は田圃のはたの彼岸花の一枝を折って持ち帰った。

 

映画『フラガール』オフィシャルサイト http://www.hula-girl.jp/index2.html

スパリゾートハワイアンズ http://www.hawaiians.co.jp/index.html

2007.10.9

 

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 授業参観は数学。というか各家庭から持ってきた空き箱で形の名称と分類の授業。持ち寄った空き箱はそれぞれの家庭を反映しているようで面白い。お菓子の箱だらけの子もいるし、洒落た洋風の箱ばかりの子もいる。「うどんのだし」を手にした子もいれば、肩こりシップの箱を黒板に貼る子もいて。先生との懇談会はYを残して、子と二人で先に帰ってくる。宿題をして、明日の時間合わせをして、子が「公園に龍の涙を探しに行こうよ」と言う。公園の地面に顔をつけんばかりにしゃがみ、やがて小さな砂粒ほどのガラス片を大事そうに掌にのせて持ってくる。わたしはガラスのカケラだと言い聞かせるのだが、子は「これは龍の涙だ」と譲らない。姉と弟の二匹の龍がこの世界に迷い込み、家が恋しくて泣いた涙が地上に落ちて地面にもぐった。そのカケラが子どもたちのスコップの先などに当たって地表に出てくるときがある。瓶の水に入れると、ガラスは光らないが、龍の涙はきらきらと光る。そう言うのである。「お父さんもいっしょに探してよ」 夕暮れ前の公園で子と二人、地面に顔をつけんばかりにしゃがんで「龍の涙」を探す。わたしの探しものはもうここにある。

2007.10.10

 

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 「ほら、おれの札入れの中のあの子の写真を見てくれよ。おれの腕には、おれの名前といっしょにあの子の名前が彫ってある。おれはいつもあの子のことばかり。あの子はマックヘンリーのはずれで育ったのさ。イリノイ州のジョーンズバーグだよ」 トム・ウェイツの Johnsburg,Illinois は1分30秒ほどの短い曲だ。この歌の中の男はおそらく、すでに恋人を失っているのだろうが、歌はそのことには触れない。ただ美しい、夢見心地にも似たメロディが溜息のように吐かれるだけだ。揺籃の中で男は眠るのだろう。「室町の時代から一千曲以上の猿楽能の詞章が作曲されているが、そのうち、今でも芸術的生命力を保って上演されるのは230あまり。これらはほとんど観阿弥、世阿弥、宮増、元雅、禅竹らの手になった」と沖浦和光氏が「天皇の国・賤民の国」の中で記している。「賤視されながら諸国を回って興行し、懸命に生きてきた時代のものがやはりすぐれている。扶持をもらって安定した生活を送るようになってからは、作品もダメになって、芸術的生命力を喪失してしまっている」 一人、夕闇に沈む屋上階へあがった。鋭い切っ先を構えた月が昇り、夕焼けの神聖な儀式を終えた赤黒い空の下に黒い闘牛の胴体のような葛城・金剛山の峰が臥していた。

2007.10.16

 

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 「えぇ、バイクで通ってはるんですかあ。気をつけてくださいよお。うちのパパさん、大工なんです。わたしのお給料なんて知れてますからねえ。パパさんが倒れちゃったら、わたしも子どもももう食べていけないから、体だけは大事にねっていつも言ってるんです。だからパパさんは誰でも、頑張って、気をつけなきゃいけませんよお。ほんとに気をつけてくださいね。」 職場の喫煙所で、同い年の娘を持つアパレル店の女性からそんな言葉をかけられて、何やら面映ゆいのだけれど、どこか懐かしい言葉を聞いたような気がした。同い年といえば昨日、兵庫の加古川で無惨に殺された女児も子と同じ7歳だった。自転車を置きにいったわずかの間に正面から刺された。理不尽な暴力が無力な者へ向けて暴発する。そんな傾向が日々顕著になっていくような気がする。人ごとではない。悲鳴を聞いて駆けつけた母親の前に、血だまりの中にうずくまる女児がいた。無明の穴ぼこがぽっかりと口を開けていた。わたしの子でなかったのは、たんなる偶然でしかない。穴ぼこはそこら中に開いていて、無邪気な笑顔を一瞬のうちに呑み込むのだ。昭和の初期頃まで、この国の街道筋のそちこちを「六部」と呼ばれた遊行者が歩いていた。うらぶれた鼠木綿を身にまとい、大きな数珠を手に、金剛杖をつき、箱形のつづらである笈(おい)を背負い、鈴を鳴らし、家々の門でわずかな喜捨を求めた。子どもの背丈ほどの笈には厨子が安置され、そこには地蔵菩薩の仏画が祀ってあり、そのまわりに幸薄く死んでいった幼子の写真がたくさん貼られていた。巡礼もできない貧乏な親たちがいくらかの布施を払い写真を貼らせてもらう。つまり「六部」と呼ばれた遊行者は、そうした親たちに代わって諸国の霊場を経巡り、子らの霊を弔うのだった。幼い頃にかれらを見た沖浦和光氏はその姿を「物貰いとして人にさげすまれ、流浪の乞食僧として卑しめられながら、仏の影を背負って街道筋を歩いていたのだ」と愛おしく記している。わたしになりたい職業があるとしたら、そうしたものかも知れない。そんな狂おしく懐かしいものになりたい。

2007.10.17

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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