■日々是ゴム消し Log49 もどる

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 月曜日。新聞をひらく。「フセイン元大統領に死刑」。「人道に対する罪」。豚が豚を裁く。

 夕方、頂いたNHK「映像の世紀」の第8集をソファーに寝そべって見る。冷戦時代の核開発競争。子はじぶんの机で、お風呂でつくった空想のお砂糖を入れる皿を折り紙で折っている。失脚した晩年のフルシチョフが森でキノコを摘んでいる。

 夜、子が寝てからYと、職場のNさんに借りた映画「アイランド」を見る。顧客の“パーツ用製品”として管理・生育されていたクローン人間が反乱を起こすストーリー。

 子はいま、教室のクリスマス会で先生と合奏するモーツァルトの「魔笛」の曲を練習している。これまでのように単純にメロディをなぞるだけのものとは異なるので難しそうだ。先生の模範演奏を録音するために、あらたにステレオのICレコーダーを購入した。これまでわたしのMP3プレイヤーのボイス・レコーディング機能を使っていたのだが、楽器の演奏録音となるとさすがに音質が悪いので。SONYのICD-SX56。ラオックスのネット通販で送料無料・代引き手数料込みで1万6千円ほど。標準装備のスピーカーでその場で再生ができ、PC上の付属ソフトで取り込んだファイルをWAV形式へ変換できる。ためしに子とビートルズの Octopus's Garden なぞを録音して遊んでいる。

 下手くそなギターをぽろぽろと弾いてジョニー・キャッシュの曲をいくつか歌ってみる。The Green Green Glass Of Home、I Still Miss Someone、Train Of Love。わたしの知っている数少ないコードだけで歌える。こういう歌はやっぱりいいね。歌いながら風の通い路を整える。整体マッサージのようなものか。この記事がいい→ http://www.bounce.com/article/article.php/2883/ALL/

 BBS情報。「四季・遊牧―ツェルゲルの人々―」ダイジェスト版がDVDで発売。8時間のフィルムを神戸で見たのは、子が生まれる前だ。いつか子にも見せてやりたい。制作した小貫雅男氏が滋賀の山里から「終わりなき市場競争から、心育つ共生社会への転換」を発信している。里山研究庵ノマド→http://www.geocities.jp/nomad1935jp/index2.html

 エンデさんのことば。「そう、弱まっています。そしてますます弱められる方向にむかっています。ありとあらゆる現代の諸要素が、そうさせる。人間が人間になろうとするほんとうの成長の力、それが現代社会によって罰を受けているようにみえます」

 

 

 1980年代に、吉本・埴谷論争というのがあった。かつて日米安保闘争に加わった詩人、吉本隆明が、あろうことか、女性誌にコム・デ・ギャルソンを着て登場、作家、埴谷雄高がこれをなじったことに端を発する議論だった。資本主義的生活スタイルを否定的に語る埴谷に対し、吉本は高度成長それ自体は悪ではないと主張し、生産と消費の価値はいつの日か逆転するだろう、と予言してみせた。

 幸か不幸か、吉本の予言は当たった。生産、労働、刻苦精励、終身雇用、労組、年功序列といった価値が退潮し、消費資本主義ともギャンブル資本主義とも呼ばれる資本の全域制覇の時代を迎えた。「資本主義は必然的に窮乏化する」といったマルクス主義理論はかつての輝きを失い、「社会主義は必然的に窮乏化する」と言いかえられたりしている。

 問題は、人が生きることの内奥の重みや光が果たしてここにあるのか、ということだ。他者の悲しみや苦悩はそれとして感じられているのだろうか。風景は満目、プラスチックのように軽く、嘘っぽくなった。いわゆる小泉チルドレンなど語るも虚しい。罪ならぬ罪、無意識の倒錯が実は氾濫しているようだ。2003年のイラク開戦日、テレビの株番組が過去最高の視聴率を記録したという。この傾向はいまさらに勢いを増している。戦争、地震、津波、ハリケーンのたびに被災者を慮るのでなく、株価とにらめっこする人々が増えてきた。その中には、高校生や大学生の「投資家」もいる。

 おそらく人倫の基本がかつてなく揺らいでいる。旧式の価値体系は資本に食い破られたけれど、新しい価値観が人の魂を安息に導いているとは到底言いがたい。正気だつた世界に透明な狂気が入りこんできて、狂気が正気を僭称するようになった。この世には生きる真の価値があるのか、と訝る内心の声は老若を問わずこれからも減りはしないだろう。

「世界の涙の総量は不変だ」。ベケットの戯曲『ゴドーを待ちながら』に出てくる台詞だ。昔はうなずいて読んだものだ。いま、そうだろうか、と首を傾げる。世界の涙の総量は増えつづけているかもしれない。

辺見庸「自分自身への審問」毎日新聞社

2006.11.7

 

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 夜中に帰宅。わたしの部屋のすみのサイド・テーブルの上にハード・カバーの本が一冊、ページをひろげたまま置かれている。数日前、子はひょいとこの部屋に入ってきて、なにげにわたしの本棚から一冊の本を取りだし、しばらくページをめくって眺めていた。それから、ふふんと鼻の穴をひろげて、「むずかしいけど、かんたんに読めるよ」と言ってまた本棚にしまった。今夜ひろげていたのも、おなじ本だ。ウディ・ガスリーの自伝「ギターをとって弦をはれ」だ。20年前に京都の古本屋で見つけた。

2006.11.8

 

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 休日。子を幼稚園のバス停へ送ってからYと車で出かける。まずレンタル屋でDVD(映画「ヘレン・ケラー」とアニメ版「小公女セーラ」)の返却。併設された本屋の店頭で前田良一「役行者 修験道と海人と黄金伝説」(日本経済新聞社 @2500)なる本を見つけて思わず購入。タイトルはややミーハーちっくだが、吉野に3年住み修験道を取材したという著者ならではの、たっぷり読み応えのありそな一冊だ。前書きで著者は“役行者を知ることは「日本の国のカラクリ」を知ることだ”と記している。銀行のATMに寄り、たまたま見つけた地元農産物の店で白菜・冬瓜・ブロッコリー・富有柿などを買う。電気屋で炊飯器の釜部を取り寄せ注文。リサイクル・ショップでYが実家から持ってきた陶器セットを200円で売り、わたしが「UKロックヒーロー伝説」なるオムニバスCDを10円で買う。昼は温そば。ソファで「役行者」を読んでいるうちに寝てしまう。夕方、子と団地の周りを散歩。夜は猪肉鍋。子と風呂に入り、寝床で宮沢賢治の「どんぐりとやまねこ」を読む。子が寝てから居間で、Yと職場のYさんに借りたケビン・コスナー主演の映画「コーリング」のDVDを見る。ハラハラどきどき、夫婦で結構楽しめたが、何やら「オーメン」と「大霊界」がごっちゃになってどっちつかずの宙ぶらりん、みたいな複雑な後味で。「死んでもこんな出方はしないでね」とYにくれぐれも依頼した。はるさんから個展のDMが届いた。

2006.11.10

 

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 連休二日目。

 午前中は主に子の写真(アルバム)の整理。何か行事があっても、あとで幼稚園やお婆ちゃんなどからそれぞれ自前で撮ったのが追加されるので、それを待っていると大量に溜まってきて、次第にどれがいつのものやら収拾がつかなくなる。それにこの頃はメディアが多岐に渡りすぎる。昔ながらのフィルムのカメラはたまにしか使わないので(でも、フィルムも捨てがたいんだな)、なんかアルバムだけ見ると穴だらけだ。デジカメで撮ったデータはある程度溜まってからCDへ保存しているが、これはPC上でしか見れない。ほかにビデオで撮影したのもあって、そのうち整理して順次DVD化をするつもりだが、どうも面倒でまだ手をつけていない。むかしの8ミリで撮ってVHSに移している動画もあるんで、これも最終的にはDVDで統一したいが。業者発注の幼稚園やヴァイオリンの発表会はいまではみなDVDだ。加えてわたしとYのそれぞれの実家、わたしの妹などへの写真・動画の分配の責務もある。フィルム写真は従来通り適当に焼き増しをすればいいが、デジタル・データは撮り溜めたものからチョイスしてメモリー・スティックに入れて写真屋へ持っていかなければならない。面倒なのでヤフーの「Yahoo!フォト」なる機能を利用し、サーバ上に撮った写真をアップしていって「気に入ったのをそっちで勝手に焼き増ししてくれ」と妹に説明し、これは焼き増し代も要らないしラクだわいと思っていたら、しばらくして「操作が大変だし、やっぱり適当に焼き増しして送って」と言ってきた。もちろんPCがあるのは妹宅だけで、わたしとYの実家はDVDの再生機さえない。こちらとしては今後、動画はすべてDVDで統一してデータとして手軽にPCでコピーしたいのだが、両実家には個別にVHSへ移して送らなければならない。Yがやっている幼稚園の役員同士の連絡網もいまだにFAXか、せいぜい携帯メールくらいで、EメールやPDF等の添付書類をもっと活用できればいいのだが、どうも便利なツールがあっても、まだ世の中全般への浸透度は低いようで、それがかえって物事を複雑化しているように思えてならない。まあパソコンなんかは実際、まだまだ複雑で使いづらい部分があって、それはPCメーカーの課題だろうけどもね。先日、ICレコーダーを見に電気屋へ行ったときも、おなじ売り場に並んでいるMP3プレイヤー、ボイスレコーダー、MDウォークマン、テープレコーダーなどの区別がYにはまったくつかなくて、メディア、ファイル形式、USB接続等々をいちいち説明しなければならなかったが、大方はそんなものだろう。なにやらむかしのセピア色のアルバム写真が懐かしい。

 無駄話をもひとつ。先日、子のやっている通信教育(進研○○)にて新しくインターネット・サービスを始めたというチラシが教材に入っていた。子どもがネット上で教材の進み具合をじぶんでチェックし、ポイント毎に「ごほうび」がもらえるという企画である。子がこれを見て「やりたい」と言うので、申し込み画面の操作に関して窓口に電話質問をした際、ついでにシステム部の若い男性に「マックのOS9を使ってますが使えますか?」と訊くと「OSは関係ありません。大丈夫です」と宣ったので、子には「もうじき出来るから」と伝え申し込みをした。一週間後、パスワードの記入されたハガキが届いて、さて子といっしょにモニタを眺めながらログインしてみると「フラッシュ・プレイヤーのプラグインが入っていないか、バージョンが古い」というメッセージが出て表示されない。窓口に再度電話をして訊ねると、別の若い男性が出て杓子定規な調子で「それはアップルか、プロバイダに訊いてみて下さい」なぞとぬかしやがるので、わたしはチト切れたのだった。要は、表示のためにはネット上で無料配布しているフラッシュ・プレイヤーの最新版「9」が必要で、マックOS9で使えるブラウザは「7」までしか対応していないというのが原因であった。だいたいマイクロソフトは今後マック版のインターネット・エキスプローラーのバージョンアップをやめると言い出し、もうひとつのブラウザであるネットスケープもほとんど終わっているし、代わりにアップルがこれを使ってくれと言っているサファリなるブラウザはマックの最新OS-Xにしか対応していない。つまり、マックOS9以下のユーザーはマイクロソフトはおろかアップルにさえも見捨てられたのであった。それはさておき「インターネットったって色んな環境の人間が使っているのだから最低、動作環境くらいは確認して、それを明示するのは当たり前だろう。じぶんとこで作ったシステムのくせに、PCメーカーやプロバイダに訊けというのは何事か。こっちはマックOS9でも問題ないとおたくが言うから申し込みをして、子どもは子どもなりに楽しみにしているのに、子ども相手の商売ならなおさら配慮が足らないんじゃないか。至急に動作環境等を確認して連絡せい」と、わたしは若い担当者にまくしたてたのであった。数日して最初に出た担当氏より「調べた結果、マックOS9ではご利用できないことが分かりました。今後は配布物すべてに動作環境を明示するようにします」と謝罪の言葉を頂いた。どっちにしろ、もう「マックでインターネット」というのは限界かもね。Yや子は多数派の Windows の方が使いやすいだろうし、クラシック環境のユーザーを安易に切り捨てするアップルにもチト愛想が尽きた。iPODは順調なんだろうが、アップルのOS自体は今後、DTP業界のような一部ユーザーの間だけでほそぼそと生き延びていくんじゃないだろうか。来年あたり、職場のY君に貰ったデスクトップのXPをメインにつなげて、Windows のノートをYと子ども用にひとつ買って無線ランでつなぎ、マックは(まだ動いているとしたら)オフラインで使うようになるのかな・・

 子はしばらく前から通っている公民館の合唱団の発表会。昼は小松菜とキャベツのトマトソースのパスタ、夜は冬瓜と肉団子のスープをつくった。

2006.11.11

 

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 今朝の高架上から目に飛び込んできたふたかみ・葛城・金剛の峰々は叫びたくなるような絶景だった。雲の切れ目から漏れた陽が山々をだけ照射して、まるでそこだけ桃源郷のような淡いのどかな緑、そして谷筋の皺の一本一本が目前にくっきりと浮かんで見えるような鮮やかさで、わたしは吸い込まれてしまいそうだった。わたしの母方の祖父母の出身地である熊野の山間の集落はかつて山伏たちとも交わり深かったと聞く。わたしにはかれらの血が流れているに違いない。そうでなければ山への、ときに狂おしいほどのこうした憧憬は説明し難い。わたしはかつてあの尾根筋を、平地のくだらぬ重力から逃れて風のように疾走していた。さて葛城の中腹にある高天原なる神社の雑木林の暗がりに蜘蛛窟という遺跡がある。天孫族が殺めた先住民の住居であったという。かれらは葛(かずら)の網で捉えられ殺されたので、その地は葛城と呼ばれるようになった。わたしはいつかその場所を訊ねて、血塗られたテロリストのように、正史より抹殺されたかれら山の民の御霊(みたま)をこの地上に解き放ちてやりたい。

2006.11.12

 

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 深夜、帰宅する。風呂に入ってから、子のおしっこを摂る。尿道が探しにくいので、眩しくないよう顔の上に布団をかぶせてから部屋の灯りを点ける。条件反射なのだろう、寝ていても身体が摂りやすい格好をしてくれる。ズボンとパンツを脱がせるときは自然と腰をあげてくれる。紙おむつを尻の下に敷いて、消毒薬で手を拭き、カテーテルという管を尿道に挿して紙おむつに流す。尿が溜まっているときは数分。おしっこが終わってからは装具を両足に装着する。起きているときは窮屈で嫌だと言うので、寝てからつけるのだ。皺ができないようにソックスを伸ばし、踵がぴったりと着くように、膝を立てるような格好に足を起こしてマジックバンドを締めていく。部屋の灯りを消し、紙おむつをベランダのダスト・ボックスに入れる。手を洗い、台所で昼間の弁当箱を洗っておく。発泡酒か焼酎のお湯割りをつくって、煙草に火をつけ、煙をくゆらせながらリビングの周囲を見回す。ベランダの土だけのプランターの上に、昼間Yが買ってきたのだろう葉ボタンの苗がポットに入ったまま数個並んでいる。テーブルの上に「長靴下のピッピ」が読み差しのページをかぶせたまま置いてある。ソファの肘掛けに、クリスマスに幼稚園でやる聖劇の子のセリフ(馬小屋の母屋の女将さん)を書いた紙が置いてある。子の机の上に書きかけの絵がある。そんな残された昼間の残滓を見ながら、今日の二人の様子を想像するのが愉しい。

2006.11.15

 

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 世間では何やらまた「いじめ」が新聞紙上などを賑わせている。先日のはるさんのブログの文章に、うん、そうそう、と思わずうなずいた。無断転載で紹介しよう。

 

 まぁ我々の小さい頃だってやっぱり弱いものは、いじめられていたな、質のいい「いじめ」なんてなくて、「いじめ」はみんな陰湿なものだ。

 社会とは強いもの、弱いもの、真面目な人もいれば、とんでもない不真面目な人もいる。お年よりもいれば、今生まれた子もいる。体の弱いひとも、障害を持った人も、男も女もいる。種々雑多、混沌としたものなんだ。

 何か一つだけ取り上げてスポットを当てれば確かに異常なんだな。「いじめ」はあってはいけないことだとは思う。けれど社会とは冷たいけれどそういったものを含んでいるんだな。そういった中でやっぱり戦いっていうのか、負けないでしぶとく生きて行かなければならないのだな。

 それもそうだけれど、学校の校長が問題があるとすぐに自殺してしまうことの方が異常だな。弱すぎるというのか、今までどんな人生を送ってきたのかと疑いたくなる。かん難辛苦、人生の荒波を乗り越えてそれなりの人物になったから校長になったのじゃないの?

 管理職という職業は先生ではない。感触としては行政の役人に近いかな。ことなく滞りなくスムースに事が運ぶことが全てであって、事が起こったら自分の責任を極力回避する。心掛けているのは自分の保身でしかない。

 だから、今回のように事件が起きたらすぐに自殺してしまうのだ。

 生きて行くことはカッコ悪いものなんだな。汚点一つなく生きて行くことなんて出来ないんだな。かっこ悪くて、惨めで、辛くてもそれでも生きて行かねばならないのだな。

 なぜならそれ以上に素晴らしく楽しく感動的な日々があるからだ。生きていてよかったと思える瞬間が必ずあるからだ。

 我々は、そんなことを子供たちに伝える義務があるだろう。

画家・榎並和春 > ブログ「ここだけの日々」(はる 1972)

 

 最近読んだ「いじめ」の新聞記事の寸評には、大学教授か精神科医かなんかの「いまの30代・40代の親や教師の世代は、いわば「デジタル世代」とでもいったもので、0か1かの思考に馴らされていて、それ以外の夾雑物に対応する能力が欠如している」みたいなコメントが載っていた。ショッピング・センターで勤めている身として日々強く実感するのは、「子どもより親が壊れている」ということだな、はっきり言って。飲み終えたジュースの缶を子から受け取って駐車場の植え込みに放り投げる母親。トイレの前で子どもが撒いた吐瀉物をそのままにして立ち去る母親(このときは気づかずに通りかかったお婆さんが滑って転んだ)。わが子の便を包んだ紙おむつをベンチ下に捨てていく親。ゲーム機を足蹴りした子どもを注意した店員に食ってかかる父親。そんなのは枚挙に暇がない。こんな親に育てられた子どもは確実に狂うだろうと、そのたびに思うね。そして、そういう親が実に多いのだ。前述の「いじめ」の記事の下には、交際相手の女性の連れ子に暴行して死なせた高校の非常勤講師の記事が載っていた。そんな教師ばかりでもないのだろうけれど、分かる気もする。むかし、ある現代音楽の作曲家が学校の「授業」について書いていた。「さいしょは先生がバカで、さいごは生徒もバカになる」 現代はもっと切迫しているかも知れない。生徒に「いじめ」の指導をする教師が週末に精神科に通う。生徒も大変だし、教師も親も大変だ。

 わたしはいじめられた記憶というものはないが、わたしの場合、いわばトコロテンのように押し出されたとでもいうべきか。いつのまにか厚い貝殻の中に閉じこもり、深海魚のような目でゆらゆらと漂う彼方の海面を眺めていた。わたしにはいちど、堕ちることが必要だったのだ。だが、他人や世間の圧迫によって死を望んだことは一度もない。わたしが、もう死んでしまおう、と(これまでの生涯で一度だけ)思ったのは、誰のせいでもない、じぶんが何も感じられない骸(むくろ)のようになってしまったと思ったときだけだ。隣家の「善良なる市民たち」から白眼視をされようと奇怪な冷笑を浮かべられようと、わたしは「生きているだけで上等だ」とうそぶいていた。

 「いじめられる」というのはほんとうに辛いことだろう。いつも、ぎりぎりの状態で、ひとりぼっちで堪えているのだろう。わたしが信念のように断固として思うのは、「そこに居続けなければ生きられない・そこでなければならない場所などというものはない」ということだ。もしそんな場所があるのだとしたら、わたしはいまごろ生きていなかっただろう。どうしてもダメだと思ったら、逃げ出せばいい。とりあえず、逃げ出すことだ。命を落とすより、いい。学校がどうしても耐えられなかったら、小学校でも中学校でも、辞めてしまったらいい。トコロテンのように押し出されたら、案外、なあんだ他の場所でも生きられるんだ・生きていてもいいんだ、と気づくだろう。とりあえずは、こうして。次に芽吹き出す季節まで。

 見知らぬきみに、ジョン・レノンの「ホールド・オン」という曲を贈ろう。

 

きみがひとりのとき
ほんとうにひとりぼちのとき
きみは他の誰にもできないことをやってのける

2006.11.16

 

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 さる2006年11月14日火曜日。いよいよ念願のニギハヤヒの墓を見てきた。メンバーは職場のビル・メンテナンスを担当している天才ギタリストにして植物学者のK氏、それとわたしの勤めるショッピング・センターにテナントで入っている花屋の店長T氏、わたしの三人である。

 当日の昼前、花屋T氏を途中で拾ってきたK氏の車が我が家に着いた。まずは腹ごしらえ。さいしょ、郡山城内にある謎のインド・カレー屋を訪ねたが残念ながら休業であった。そこで、こちらもかねがね行きたいと思っていたそば楽へ行った。郡山城の北側から城を取り巻くように西へと迂回する道をしばらく進んだ巨大な楠のたもと、「やまや」というスーパーの駐車場に車を入れ、南へすこし歩いた路地裏を覗くと店がある。ふつうの民家を改装した落ち着いたたたずまい。ここで「ざるそばセット\1500」を三人、純和風の松や芝に洋花を添えた庭を眺めながら食した。献立等の詳細は前述のリンク・ページに譲るが、ほんものの食事というのは腹より心を満足させるね。"ひきたて・うちたて・ゆでたて"の『三たて』のそばは勿論だが、もっちりとしたそばがきが特に三人に大好評であった。近所にこんないい蕎麦屋があるのは仕合わせなことだ。こんどはYや子や義父母たちも連れて来たいな。

 さて、仕合わせな腹を抱えた三人を乗せた車は一路、生駒方面を目指す。ニギハヤヒ(饒速日命)というのは不思議な存在だ。正史に従えば、神武の東征より以前に「天の磐舟」に乗って大和の地に降り立ち、土着の勢力であるナガスネヒコ(長髄彦)の妹を娶って連合体を成していたが、神武との戦いの最中に寝返り、ナガスネヒコを殺して神武側に帰順した。このニギハヤヒとナガスネヒコの妹の間に産まれたウマシマジ(宇摩志麻遅命)が後の物部氏の祖先であると伝わる。ニギハヤヒもそれを祖とする物部ももともと葛城一帯を勢力としていた葛城氏や、さらには土蜘蛛なる蔑称で呼ばれた山民がルーツであるとする説もあるし、「天の磐舟」により飛来したという記述から神武より先に外来し土着のナガスネヒコらの原住民と同化しつつあった「まれびと」であったとの説もある。あるいはその不可思議な行動からスパイ説や、天皇家が実際の歴史を隠蔽するために作りだした架空の存在であると言う者もいる。折口信夫は(わたしは原典に当たっていないが)ニギハヤヒは大和の国魂(くにたま)であり、ナガスネヒコが神武との戦いに敗れたのはニギハヤヒの魂が離れたからだという説を書いているらしい。ここから三輪山に坐すオオクニヌシ(大国主命)はじつはニギハヤヒで、三輪山中にある磐座にその遺骸が葬られたとする説も派生した。まあ、諸説入り乱れて愉しいが、あとはそれぞれの想像力にお任せしよう。

 目的地である生駒市の総合公園に着いた。このあたり、生駒山というよりは矢田丘陵の地層の北の切れ端とでもいった感じののどかな丘陵地帯だ。公園のどんつきにあるテニス・コートから車を降りて歩く。今回、道案内として重宝したのはwebで見つけたこんなサイトの手製の地図である。(併せて後進の方のために少しコースの説明をしておこう) コートの西面を奥へすすみ、整備された遊歩道からはずれて北面をコートに沿ってまわり、北東の角から北へ、排水溝をふさいだ錆びた鉄板上をたどりながら雑木林へ入っていく。間もなく道は二手に分かれ中央に「火の用心」の赤い標識が立っている。それを右手へ。おなじような枝道はその後もいくつか出てくるが、あとは概ね左手へすすめば間違いなかったと思う。目印はテニスコートからも見えた白(グレー?・手前)と紅白(奥)の高圧線の鉄塔である。木の間からときおり覗くこの鉄塔のラインの西側へ出てしまったら道を誤ったと考えた方がいい。もうひとつは分岐点の各所に立てられた「火の用心」の標識。ここにマジックで矢印と共に「白庭5」なぞと書いてある、その方向へすすむといい。おそらく雑木林を抜けた先にある白庭台というニュータウンのことで、地元の誰かが抜け道として利用するのだろう。途中ではじめの白い鉄塔の足下を抜ける。アップダウンはそれほどないし、道も悪くはない。ただ雑木林は全体に薄暗い感じで、女性の一人歩きはあまりおすすめできないかも。荒れた杉か檜の暗がりに、なぜか椿がよく目にとまる。テニスコートからわずか15分か20分ほど、目指す紅白の鉄塔が現れた。その鉄塔の立つ高田から南東へ向けて一段下った谷筋へ向かう棚地の林の中に石柱が見えた。

 うらびれて、物寂しい。ほの暗い雑木林の中の見すてられた墓。そんな印象だった。石柱の背後の墳墓は全体に割石が敷き詰められているが、整然とした風ではなく、どこかそこいらの解体現場で砕けた小石を適当にばらけたような雰囲気だ。石柱正面には「饒速日命墳墓」とあり、下に建立者名らしき文字があるのだが判読できない。粗末な木板の献花台が設けてあるが花はない。そばに割れた徳利様の陶器の花瓶がころがっていて「石上神宮」の文字が見える。神社の関係者か、あるいは古代史ファンが捧げたものだろうか。石上神宮は物部氏の社であるから、この組み合わせは正しいといえる。わたしたち三人は、しばらくその場で思い思いに佇んでいた。物部氏の後裔が後に記した「先代旧事本紀」などの記述によれば、ニギハヤヒが死んだのち、かれの遺骸は天へのぼり、遺品である「天の羽弓矢(一説には“蛇の呪力をもった弓矢”という)」を「登美の白庭の邑」に埋めて墓とした。このなだらかな丘陵地のすぐ北側にはナガスネヒコの本拠地と伝承される場所があるし、神武側との激戦地であったと伝えられる地もほど近い。ここに埋められた者はいったいだれなのか。ニギハヤヒが裏切り者であれ、よそ者であれ、土蜘蛛のルーツであれ、これは紛うことなき敗者の墓である。天皇家の造成され整備された豪奢な陸墓とは好対照だ。正史から抹殺された者の秘められた廟所。ここへ来るまでの途中、ニギハヤヒの名の付いた道標の一片も見なかった。道も分かりにくいし、余程の古代史愛好家以外は日頃、訪ね来る者も少ないことだろう。うらびれて、物寂しい雑木林の中でわたしはいつしか、この墓はここに葬られた者にふさわしいという気がしてきた。

 その後、わたしたちは時間も余ったので、生駒山上にある宝山寺まで足を伸ばした。ここもまた葛城を出身とする役行者の行場であり、いまは現世御利益を前面に出した庶民の願掛け巨大ショッピング・モールのような寺であり、加えて参道の下に軒を連ねる宝山寺新地(歓楽街)の歴史と併せて、なかなか興味深く面白いスポットであるのだが、詳細はまたいつか機会があったら。

 

 

 ところでわたしが気になっていたのは、あの石柱をだれがいつどのような理由によって建てたのか、ということだ。休日の今日、さっそく図書館へ行って調べたところ「生駒市誌」の「資料編1」の51ページから82ページにかけての章にその答えがあった。それによると大正3年、ナガスネヒコの本拠地であると伝承される「鳥見」(現在の「登美」)の人々が郷土の伝承保存を目的として「金鵄会」なる会を発足させた。その会の発行した「金鵄発祥の史蹟考」という小冊子の中に「饒速日墳墓の所在」と題して今回の墳墓「制定」の記述が見られるので、この頃にこれら地元有志により建立されたものと推測される。参考までにその項の全文をここにあげておく(一部探せなかった漢字は■にした)。この中で墳墓はかつて「山伏塚」と称されていたことが記されている。

 

 

 饒速日墳墓の所在

 白庭山■墟の白谷に存すること上述の如くなれば則ち饒速日命の墳墓も其域内に存すべきこと疑を容れず、大和國陳迩名鑑圏に大字上(北倭村)なる眞弓山長弓寺境内を以て白庭山の■墟と為し同寺境外眞弓塚を以て饒速日墳墓と為せるも眞弓塚は聖武天皇神亀五年三月御猟遊事の際真弓長弓なるものを葬らせたまへる墳墓にして真弓山長弓寺は即ち真弓長弓の非命に死するを憫みたまひ僧行基に勅して門剏せしめられし寺院なれば饒速日事蹟と相関するものあることなし、唯々真弓塚なる名稱が饒速日の遺物葬劔と偶然の暗合あるを以てしかく想像せる臆説に過ぎず確たる根拠あるに非るなり、今白谷の地を検するに四■の山嶺其尤も高峻なるを檜窪山といふ即ち白庭の西南に聳えて近くは鳥見一郷の村落山野を脚下に俯瞰し遠くは大和平原及び近畿諸山を指呼するを得。蓋し鳥見郷の主山にして其西麓には南田原村社岩船明神、(今按ずるに其祭神は饒速日命なれども明治維新の際誤って住吉神社と称するに至れり、蓋し岩船明神の奮■稱を誤解して之を船舶守護の住吉大神なりとし遂に今日の社名に改められたるなり)及び社頭の古刹岩藏寺あり(今按ずるに岩藏は磐座の借字にて神明鎮座の義なり而して其本尊毘沙門天王、王妃吉祥天女、王子禅膩師童子の古像三躯は饒速日父子及び御炊屋姫の本地仏として安置せしものならむ)而して桧窪山の山嶺には山伏塚と稱する古墳を存せり、其形状は片石を推積して■家を成し苔蘇蒼白にて二千数百年以前の古塚たること疑を容れず、其名稱山伏塚は山主塚の訛音にして白庭山の故主饒速日の墳墓たることを推知するに足れり、則ち旧事紀に見ゆる登美白庭の墳墓は之を措きて他に求むべからざるなり(鏡速日墳墓の史書参照)

金鵄発祥の史蹟考・池田勝太朗(金鵄会代表)

 

 

そば楽 http://www3.kcn.ne.jp/~s-heads/dog/deep/raku.html

ニギハヤヒの墳墓 http://www1.kcn.ne.jp/~ganes-z/image/nigihaya.html

ニギハヤヒの正体 http://www2.odn.ne.jp/hideorospages/yamatai09.html

三輪山信仰の始まり http://www.geocities.jp/mb1527/N3-12nigihayahinosi.htm

宝山寺 http://www1.kcn.ne.jp/~hozanji1/

宝山寺(生駒新地)を応援をするサイト http://www.ikoma-e.net/   ←18禁だよ、念のため。

2006.11.17

□この項、写真・加筆を経てOthersに「饒速日命墳墓を訪ねる」と題して収録した。

 

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 雨のなか、幼稚園のバザー。わたしの出品した幼児椅子は開始30分ではやくも消えていた。手作りスモッグ一着が500円のなかで、わたしの椅子についた千円はおそらく最高評価じゃないかとY。どんな方が買ってくれたか知らねど、末永く使って頂けたら嬉しい。200円の値がついた子の「どんぐり箱」、それにYの親子バッグも、残らず完売したようだ。バザー委員のYはおにぎりなどのチケット売り場で奮闘。子は母の手作りのエプロンをつけて、しばしじぶんたちでつくったクッキー屋の売り子に。「クッキー、いかがですか」のかけ声に「5つ下さいな」と義母がサクラ役。とにかく園が狭いので、バーゲンの百貨店(じつはほとんど行ったことがないけれど)以上の混雑だ。傘やスリッパや子のコートなどを片手に、もう一方でビデオ・カメラを回し、ほとほと疲れる。和菓子をふたつ買い、ゲームで遊んだら、隣接する教会へ逃げ込む。教会の庭で子は待望の綿菓子。50円とはテキヤの10分の1の値段だな。昨年とおなじおばさんで、「去年は顔に(綿菓子が)いっぱいついてたけど、ことしはついてない。上手になったんだね」と子が耳打ちする。あとは奥の部屋でカレー(250円)と焼き鳥(フィリピン風・ブラジル風の二種。5本で200円)などを食べて帰ってきた。

 夕方、片づけを終えたYを迎えに行く。「年中さんは(会計が)1万円合わなかったそうだけれど、わたしはぴったりだった」と上機嫌だ。国道沿いの電気屋に寄り、年賀状の印刷用にプリンタのインクと、それに長らく子機のボタンが調子悪く「何かあったときにこの子にかけてもらわなくちゃならないから」と義母が新しい電話機を購入してくれた。いつもの回転寿司屋で夕食。帰ってから義父母宅の年賀状を印刷する。

 アマゾンから注文していた辺見庸の新著「いまここに在ることの恥 」(毎日新聞社・@1260)小沢昭一「珍奇絶倫 小沢大写真館」(ちくま文庫・@998)が、またすずき産地さんから白米10キロが届く。「珍奇絶倫 小沢大写真館」をぱらぱらとめくれば、古ぼけた亀有の女郎屋の写真が載っているぞ。子は「東京ゲイボーイショー御一党」の「変身前」と「変身後」の写真が気に入って、父から本を奪いまじまじと眺めている。

2006.11.19

 

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 水曜から夜勤の連チャン。夜8時に家を出て、翌日の昼前に帰ってくる。サテ帰ろうとしたら、バイクの後輪がパンクしていてガックリ。測道で拾ったのだろう、石膏ボードに打ち込むような針が見事に刺さっている。近所のバイク屋に電話をして、軽トラで迎えに来てもらい、修理を終えて帰宅したのが3時近く。チューブを交換、工賃を入れて4510円なり。風呂に入って、3時間ほど寝て、夕食を食べてまた8時に家を出ていく。祝日の今日(って“勤労感謝の日”か)も昼前に帰宅。みんなで昼を食べてから、幼稚園のバザーで滞在していた両親をYは子と車で送っていくという。わたしはソファで仮眠。夕方に目が覚めて、Yの実家に電話をすると、親類宅で猪の肉をもらってこれから出る、とのこと。

 MP3のイアホンを耳につけてザ・バンドを聴きながら眠ってしまったら、つぎに浮上した半覚醒の意識のなかで、ディランの歌うジョニー・キャッシュの Train Of Love がいきなり飛び込んできた。“ねえ、ジョニー、俺は心から挨拶したい。俺たちはそこへ行けなくて残念だけどやむを得ないね。あんたの列車の歌を1曲歌おうと思う。俺がまだ自分で歌を書いた事も無かった頃、何時もこの歌を歌っていたよ。それとひとつあんたに感謝を捧げたい。遥かずっと昔に、俺の為に立ち上がってくれた事に対して・・・” そのサウンドは抜けるような青空の色だった。抜けるような青空の色が疾走していた。体中が震えるようないつもの透明な悲しみのなかで目が覚めた。あの青空の向こうには、いったい何があるのか。

 そういや数日前、ヘンな夢を見たな。海岸べりの幹線道路にひっついた人気のない寂れた町中をおれは行ったり来たりしていた。カラオケ屋が軒を連ねる道の前で呼び込みの店のおやじが所在なくぽつんと立っていた。路地の奥に「朝鮮ラーメン」という看板を掲げたスナックがあって、夕食はあすこで食べようかと思った。道の向こうの海岸べりに制服姿の女子高生が二人見えた。その向こうに巨大な夕陽が海中に没しかけていて、あの子たちはあれを見ているんだなと思った。それから場面が変わって、山間の道のガードレールのそばで、中沢新一と北杜夫が二人で「演劇における立ち小便の仕草」について話をしていた。「いや、ぼくはこんな感じだなあ」と二人で交互にガードレールに向かって足をひろげてみせるのだった。

 数日前、新聞をひらくと藤原新也が書いていた。深夜のJR山手線の光景。隣に座った塾帰りの小学生がランドセルから出したスポーツ飲料とサンドイッチとポッキーの夕食を食べながら携帯電話のメールをチェックしている。携帯の画面のなかに「ゴキブリ」という言葉がちらりと見えた。

 

「君、ごめんね。さっき携帯、見えてしまったんだけど、あのゴキブリって、何のこと」

 隣の子は一瞬驚いたように眼が泳ぐ。

「まあいいや、それで君、毎日この時間に家に帰るの?」

 ゲーム機を繰作しながら、わずかにうなずく。

「・・・・苦しくない?」

 ちょっと間を置いて、意外にも吐露するような小さな泣き声が返ってくる。

「・・・・くるしいけど、しかたない」

 子どもはそのまま、足早に次の駅で降りる。

 私はその後ろ姿を見ながら、昨今騒然となっているイジメの正体と出所のすべてがそこに集約されているように感じ入る。イジメ事件が起こると世間の怒りはイジメた側の子に向かう。だがそんな短終的な問題ではない。「ゴキブリ」と言った子が今度はいつ自分が「ゴキブリ」にされるかも知れないという攻守の堂々巡りの中にあるように、イジメはリストカットと同じ、“子どもという集団の自傷行為”なのである。

 くだんの夜の電車の小学生のように、イジメる側もイジメられる側も、子どもたちはその終わりのない競争原理と抑圧の中で疲れ切っている。受験管理教育という名の“強制収容所”の密室で喘ぎ、心が病み、歪み、イジメ合うことでガスを抜くという自傷行為が繰り返されているということだ。悲惨である。

 だがその堅固に構造化してしまった教育のあり方を根本的に組みかえないかぎり、いかなるその場の対処療法を行ってもイジメやイジメ自殺は消えない。

(2006年11月20日付朝日新聞・時流自論)

■藤原新也オフィシャルサイト:http://www.fujiwarashinya.com/talk/index.php

 

 

 おなじ日付の紙上には、保護者や地域から学校の教師へ寄せられる「イチャモン」についての記事があった。いわく「野良犬が増えたのは給食があるからだ」「運動会がうるさいからやめろ」「今年の学校の桜が美しくないのは、最近の教育のせいだ」「うちの子は“箱入り娘”で育てたいので、誰ともけんかさせないよう念書を書け」「うちの子が風呂に入らないから、入るように言ってほしい」等々等々・・・。記事は、教師の間で「のむ・うつ・かう」が流行っていると記す。「のむ」は胃カメラをのむ、「うつ」は「鬱」、「かう」は「宝くじ買って1等3億円当たったら学校辞めたる」。(朝日新聞・小野田教授の紙上特別講義)

■イマ解き「教師を追い込む保護者のイチャモン」:http://www.mbs.jp/voice/special/200609/22_4902.shtml

 

 

 親が狂い、教師が狂い、子が狂う。この国では狂うことが正常だ。

 狂ってしまった世界では、狂った反応をする人のほうが、いわゆる正しい反応をする人より多くなりますよ。

ミヒャエル・エンデ

 

 

 明日は休日。午前中、幼稚園で教育委員会をまじえての就学指導。

2006.11.23

 

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 朝、子をバス停まで送る。Yは自転車でバザーの反省会。昼前にわたしも自転車で幼稚園へ向かう。途中、城下町の路地沿いにある薬園八幡神社を覗いてみる。何度も前は通っているが、入るのは初めてだ。本殿が修理中とかで、修理過程の写真を並べていたりして面白く眺めた。幼稚園でYと合流し、応接室にて体育の授業を見学した教育委員会諸氏と「就学指導」。「いやびっくりしました。二分脊椎といっても、男の子といっしょになって駆け回っているし、転んでも泣きもしないし、性格も明るくて頑張り屋で、しのちゃんなら(ふつうの小学校も)問題ないでしょう」。こまかなあれこれを話し合うには20分は貧弱で、何やら型どおりの顔見せ興行のようだ。何より大事なのは教育委員会より現場の先生との話だ、とYと話しながら帰ってきた。家で昼食を済ませて、車で国道沿いの電気屋へ取り寄せを頼んでいた電話機をもらいに行く。ついでにデジカメ用のコンパクトフラッシュ(バッファロー・256MB)を2980円で購入する。これまでの付属の32MBに比べて、600万画素でも80枚、300万画素なら170枚は撮れるから、わたし的にはこれで充分だ。帰ってから電話機の設置と設定。幼稚園から子が帰ってくる。こんどの電話機はハンズフリーの機能がついている。これはYの所望(子のおしっこを摂りながら会話ができる)。試しに子にハンズフリーでわたしの実家へかけさせてみる。「みんなで順番に名前を言おうよ」と子。「しので〜す」 「○○で〜す」とY。「ジュンで〜す。レッツゴー三匹で〜す」とわたし。古いネタでけらけらと笑っているおかしな家族。夕方は子のおもちゃの整理につきあう。プラスティックのおもちゃや景品などをどんどん処分する。ほんとうに大事なものだけを与えよう、と思う。夕食は秋刀魚のほか、義父母たちの畑で採れた大根葉のふりかけと、プランターのディルを使ったポーランド風じゃがバターをわたしがつくる。子はじゃがバターで珍しくご飯をお代わりする。

2006.11.24

 

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 奈良産業大の学生が高取城をCGで再現した。創築した南朝の越智邦澄は前田良一「役行者」(日本経済新聞社)によれば北九州に出自をもつ海人の末裔であるという。鳥越憲三郎は「中国正史倭人・倭国伝全釈」で、「倭人の「倭」は古音では「ヲ」と発音され、「越智」(オーチ)は古音を今に伝えている」と記している。この国の古層には、山のなかに海がある。山岳修験とはアウトローたる水軍であり、その山路は航路である。

■ 高取城CG再現プロジェクト。http://www.io.nara-su.ac.jp/takatori/index.php

 

 いまはわたしの実家のある茨城県と福島県の境、かつての常磐炭坑と常磐ハワイアンセンターを舞台とした映画「フラガール」がヒットしているそうだ。高校生のとき、わたしたち一家は東京からかつて炭坑で栄えたこの地へ移住した。駅前には映画館も並び活況であったと図書館の郷土史に読んだ。わたしが住んだのは太平洋に近いニュータウンだったが、わずかに山へ向かえば、閉山した炭坑の跡やいまも人が住むらしい炭坑労働者たちの集合住宅などがひっそりと残っていた。ディランの North Country Blues の世界だな。いわき市石炭・化石館なんて資料館もあるよ。

■ フラガール・オフィシャルサイト。http://www.hula-girl.jp/

2006.11.26

 

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 いつ頃からか、子は氷が大好物だ。それもだいぶ頻繁に、でかける前やヴァイオリンの練習の合間に冷蔵庫の製氷室を開けてはぼりぼりと頬張る。もともとかき氷は大好きなのでその延長なのか、それとも常用しているおしっこの薬(副作用として喉の渇きが表示されている)のせいなのか、分からないが、職場の同僚に訊くとそんな子もいるらしい。それでもあんまり頻繁なので「体に悪いから、もうやめなさい。喉が乾くなら水かお茶か牛乳にしなさい」と注意する。ある日、子がいつものようにYに「氷、食べてもいい?」と質した。Yはかく述べたという。「お父さんもお母さんも体に悪いからやめなさいと言っているのを知っているのだから、訊きに来るのはもうやめなさい。じぶんでやめようと努力して、それでもどうしても我慢できなかったら仕方がないから食べなさい。その代わり、悪いことをしているんだ、と思いながら食べなさい」 「そんな難しいこと、分かるのか」とわたしは思わずYに言ったものだが、製氷室を開ける回数はすこしは減ってきているらしい。

 今日は休日。朝、子を園のバス停まで送る。Yは大阪の病院へ子のおしっこをもって定期検査。午後、子を迎えに行き、しばらく自転車の練習につきあう。夕方はヴァイオリン教室。先生との「魔笛」の二重奏は結構難しそうだ。クリスマスまで無事に仕上がるか。夜はおでん。たくさん食べ過ぎてチトお腹の調子が悪い。トイレにこもっていたら、外から子が戸を叩いてなんども言う。「王様の命令です。国に帰って、名前を登録しなさい」 幼稚園でクリスマスに演じる聖劇のセリフなのだが、わたしは天の声を聴いているような錯覚を覚える。

2006.11.28

 

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「いじめた生徒は出席停止に…教育再生会議が緊急提言へ」(2006年11月25日14時36分読売新聞) 「首相直属の教育再生会議」とやらのおっさんたちがそんなことを言っているそうだ。おれは腹の中でカラカラと乾いた哄笑を響かせた。なんでこういう低脳なやつらが偉そうに喋っているのかね。こんなグリストラップに浮いた油滓のようなことしか言えないおっさんたちに大事なことを決めさせていいのか。「豚は馬である、少女は少年である、戦争は平和である」(アルンダティ・ロイ)と言って憚らない大人たちの歪みが、めぐりめぐって子どもたちを果てしのない自傷ゲームに追い込んでいるんだろが、ボケ。そんな想像力のカケラもないのか。防衛庁を「省」に格上げするとか何とか言っているが、いっそ「国防総省」にして自衛隊も「日本軍」にしたらすっきりする。クラスター爆弾なんぞを保有している軍隊組織が「自衛」隊のはずがない。それにしても「いじめ」、困ったもんだな。先日は大阪富田林で中学1年生の少女が飛び降り自殺をした(asahi.com)。少女は発育の遅い病気で、周囲から「足が遅い」「チビ」等とからかわれていた、という。わたしは子が将来、そんな目にあったとしたら、学校でもどこへでも乗り込んでいく。教師でも教育委員会でもよその保護者でもとことん話し合って、納得がいかなければ子を学校から引き上げさせる。どこかのフリー・スクールへ行かせたっていいし、わたしと妻とで家で勉強を教えたっていい。じぶんで勉強して大学入学資格検定を取ってもいいし、手に職をつけたいと言うのなら弟子入りをしたっていい。生きる場所は学校以外でもあるはずだ。「死ななければならない」場所しかないというのは酷い状況だ。住む家も財産もすべて焼けてしまった瓦礫の中からでも、人はあたらしく生きていける。人間は本来、そのようなたくましさを持っているはずだ。希望のない場所でも希望を抱き続けられる存在のはずだ。深夜のJR山手線でスポーツ飲料とサンドイッチとポッキーの夕食をつまみながらゲーム機を覗き込んでいるこの国の小学生よりも、ゴミの山を漁ってかつかつの日々を暮らすフィリピンの少年の方がずっといい笑顔を見せるのではないか? DSライトもプレイ・ステーションも持っていなくとも、家族で家畜の世話をするモンゴルの遊牧民の少年の方がずっと幸福なのではないか? 休日ともなれば、アメリカ資本の玩具量販店は大賑わいだ。かつての蟻の熊野詣でのように列をなし、「市場」の新たな神を崇めにいく。「おい、プレイ・ステーション3を見たか。めちゃ、すごいぜ!」 若い父親が人混みの中から顔を出し商売女のような格好をしたかれの妻に叫ぶ。その頃、見知らぬ男に連れ去られたかれの子どもはトイレのブースで惨殺され、その見知らぬ男は少女の哀れな骸(むくろ)を眺めながらブースの壁に「おれはまたひとりぼっちになった」と記して号泣する。「ねえ、ウディ・ガスリー あなたに歌をつくったよ。やがて来るなつかしくも奇妙な世界の歌を。病み 餓えて くたびれ果て ひき裂かれ 死んでしまって生まれてこないような世界の歌を」(Song To Woody) 奇妙な世界だ。粘りついてまともに息もできないヘドロの中で生きているようだ。何が起こったっておかしくない。ともあれ、わたしはわたしの子の命だけはぜったいに守る。どんなことがあっても、命がけで守ってみせる。

2006.11.30

 

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 gloria / しの with まれびと(Mp3 1.4MB)

2006.12.1

 

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 日曜。昼から子と二人で橿原市の昆虫館へ。入館料大人400円・子ども100円だが、子の障害者手帳で子は無料・介護者のわたしは半額の200円になる。「どこかお弁当の食べられる場所は・・」と窓口のおばちゃんに訊けば「館内は飲食禁止なので、外の公園で」と出口を指され、寒空の戸外へ戻る。今日はことしいちばんの冷え込みだ。西風が冷たい。だだっ広い公園のベンチは吹きさらしでいかにも寒そうなので、子を誘って裏手の丘陵にある墓地へのぼる。「○○童女」と戒名の彫られた墓石のはたに、わたしのリュックのレイン・カバーを即席で敷いて、Yの作ってくれたベーコン巻きのお弁当をひろげる。「○○童女」は俗名Kちゃん。「Kちゃんがしののパトラッシュ(ぬいぐるみ)を欲しがっているかもよ」「きっと神様から“こんど買ってあげるから”って叱られてるよ」 そんな話から火葬と土葬の違い、またわたしがインドで見た河原に流れ着いた赤ん坊の死体の話などをする。昆虫館は二度目だが、子は断片しか覚えていないようだ。入ってすぐの展示室で、60歳くらいのボランティア解説員が子ども連れの父親をつかまえ自論を展開している。「そうですな、いまのデジタルに換算すると5万画素くらいになりますね」 父親はさいしょ興味本位で聞き始めたものの、ちと飽きてきたけれど仕方なくといった風情だ。「ですからいまデジタルは一見便利に見えますが、どうでしょう、わたしはデジタルには未来がないように思うのです」 予言者のような言葉がちらと耳に入る。子に手を引かれながら、あの男の話を聞くべきだったかも知れない、と思う。子の好きな場所は種々の蝶が飛び交うガラス張りの温室だ。亜熱帯の草花が咲き乱れるドーム状の遊歩道。コートを脱いで子が蝶と戯れているさまは、まるで天上の光景のようだ。屋上に出て、子は「わあ、涼しい」とはしゃぎ、販売機のイチゴ・オレをねだる。甘い父親はすぐに買ってしまうのである。最後の展示室はタイの昆虫料理の数々。カブトムシやコオロギ、タガメの天ぷらに子はのけぞる。わたしもとても食えないと思うが、この旺盛な人間の食欲にはスナオに感動してしまう。昆虫館を出て、駐車場に止めた車の後部座席で子のおしっこを摂る。なるべく端の方に止めていたのだが、たまたま隣の車の家族連れが戻ってきたりして、コートでさりげなく子の陰部を隠しながら舌打ちをする。外出で困るのは導尿の場所だ。寝かせておしっこを摂るような場所はまずないのでたいてい車内で済ませているが、人気の多いところではやはり窓越しに見えるから、6歳にもなると子が可哀相に思える。導尿を終えて、子は隣接する公園へ飛び出していく。広いグランドとアスレチックの遊具がある。しばらく前までは子にはちょっと無理だろうと思っていたそれらの遊具も、ときにわたしの手を借りながらぎこちなくではあるが、のぼっていくのに驚く。幼稚園のジャングルジムもともだちに教えられててっぺんまで上れるようになったと聞いて、さらに感心する。それでも他の子に比べればスピードは遅いので、子が奮闘している最中に他の子がくると「ちょっと待っててな」とお願いしたり、無理に突っ込んでくるときは子にそのままの姿勢でやり過ごすよう指示する。ひとつ、子にはとても無理だと思われた遊具があったのだが、子は「ぜったいできる。やってみせる」と言ってきかない。吊した丸太渡りはさすがに横から抑えてやったが、ロープを編み目に張った谷間もうまく渡り、足下がロープ一本の吊り橋もカニ歩きながら一人で見事に渡ってみせた。得意そうな子の顔を見て、病気があるからとどこかで知らず限定してしまう部分もあるのかも知れないと反省する。ほかにも鬼ごっこをしたり、かくれんぼをしたり。グランドで野球をやっていた中学生たちがいて、いちど打球が近くに飛んできたので「ぶつけるなよ」と睨みつける。西日が山の端に傾いてきた頃に子曰く「北極のような寒さ」から車に戻る。行きは京奈和を使ってすいすいだったが、帰りは渋滞に巻き込まれた。暮れていく山辺の路、三輪山や箸墓古墳などを眺めながら車はのろのろと進む。こんなふうに子と二人きり、車の中で話をするのも好きだ。病気に関する話であったり、神話であったり、他愛ない言葉遊びであったり。子がもっと小さくて言葉もおぼつかなかった頃、わたしはよく人に「この頃がいちばん可愛い時期だ」なぞと言われて、「いや、会話が出来るようになったら、もっと楽しい」と答えた。いま小学校就学を前にして相変わらず「いまがいちばん。これからだんだん憎らしくなってきて、父親など疎まれるようになる」と言う人がいるが、わたしは子がもっと大人になっていっしょに絵画や映画の話をしたり、いつかは父と娘でガード下の居酒屋に座る光景を夢見たりしているのだ。だからわたしには「一般論」は要らない。夜はラーメンという約束だったのに、子はいつものごとく回転寿司屋がいいと言い出す。コンビニの駐車場の10トンのトラックの陰に車を止めて、二度目の導尿をする。寿司屋で子は玉子とイクラ、シンコ巻き、ハマチ、サーモンを食べる。「24番さん。すいません、甘エビ5皿頼んでなかったでしょうか?」「いや、頼んでないです」インターホンに答えてから、「甘エビ5皿も二人で食えないよなあ」と子に耳打ちする。「二人しかいないのにねえ」と子は片手を口元にあててくすくす笑う。

橿原市昆虫館 http://www.city.kashihara.nara.jp/insect/index.html

2006.12.3

 

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 図書館の本の返却がてら、役所の教育委員会を訪ねる。就学までの流れがいまひとつ分かりにくいので、と訊く。明日、委員を兼ねる整形外科の医者により子の診断が予定されている。それと前回の幼稚園での委員諸氏による見学、先生や保護者との面談を参考に、今月の半ば頃に20名に及ぶ関係者のもとで全体会議がもたれ、年明けに園を通じて結果が報告される。要は普通学級か特殊学級か、体育だけ別にするか、あるいは介護の人間をつけるかといったあれこれに関して教育委員会が出した「おすすめコース」である。保護者側から異議があれば、再度場を設けて協議は継続される。個別の学校施設の見学等は、保護者から直接学校側へ打診して行ってくれて構わない。担任の先生は直前にならなければ決まらないだろうが、こまかい内容は就学前の保護者との面談や必要であれば別に場を設けてもらって相談してくれたらいい。今更ですいませんが教育委員会というのはつまりは何なんでしょうか・今後わたしたちとどんなふうに関わってくるのでしょうかと問えば、保護者と学校間で話のつかないことや学校の施設・予算等に関わることについての調整役のようなもの、といった回答を頂いた。最近のいじめ問題のずさんな対処等で、校長の人事権を握り、上意下達・思考停止の保身のみの組織なぞとメディアに叩かれているようだが、まあこれからだろうな、いろいろあるのは。

2006.12.4

 

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 フランシス・ベーコンの絵のような歪んだ肉体がこの世に抵抗している。4人の男たちが腕を背中を必死で抑えつけている。どうせ良くなりっこなんかない。私など生まれてこなければよかったんだあ。死なせてくれえ。コーヒー・ショップの人気のない後方通路。ただおろおろとするばかりのお祖母さんから聞き出して連絡をした職場から母親が車を飛ばしてきたものの興奮は収まらない。その30歳前後の女性は鬱病で最近、退院をしたばかりだという。母親からの要請で、わたしはじぶんの携帯電話から119番をコールした。やがて到着した救急隊のストレッチャーに乗せられ運ばれていった。心のくるしみ、心のくるしみ、主よ、この心のくるしみを取り払ってください。

 

 アマゾンのマーケット・プレイスで注文をしていた「鬼伝説の研究 金工史の視点から」(若尾五雄・大和書房)が届く。

2006.12.5

 

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 「鬼伝説の研究 金工史の視点から」(若尾五雄・大和書房)はその題名通り、各地の鬼にまつわる伝説と金工史(鉱山技術)を結びつけた労作である。帯に谷川健一氏が「古代史・金属文化に興味のある読者必読」と推薦を寄せている。まだ未読だが、たっぷり読み応えのありそうな生唾湧く一冊だ。この若尾氏の著作にインスピレーションを受けて修験道(役行者)と黄金伝説、それに海人を結合させたのが、もうじき読み終える「役行者 修験道と海人と黄金伝説」(前田良一・日本経済新聞社)である。前田氏は、細部を端折って強引に要約すれば、役行者をはじめとする葛城山系の賀茂氏も大和朝廷から蔑視された土蜘蛛ら(いわゆる)先住民も、もとは九州・奴国から流れてきた鉱山技術をもった海人の末裔であり、修験道はその水銀採取の過程に発見された金鉱脈を独占するための組織が仏教的な衣をまとって変容したもの、といった論を主に吉野地方のフィールドワークを足がかりに展開する。論説のすべてに賛同するわけではないが、じつに魅力に富んでいるし、ときにかの中上健次の絶賛した半村良の「妖星伝」にも似たあやかしが鎌首をもたげるようで面白い。「役行者」は、吉野の川上村に井光(いひか)を祀る神社があり、その奥宮の山中に著者がかれらの水銀の採掘抗跡であると推論する「井光の井戸」が残っていると記す。井光(井氷鹿)とは神武天皇が東征の途中に出会った国津神であり、「日本書紀」の井の中から現れた尾を持つ光る人(「古事記」では光る井の中から現れた尾を持つ人)である。「吉野首の祖」であるとも言われる。わたしはこんな、正史からこぼれ落ちた者たちのいまは山中にひっそりと眠る痕跡をたどるのが好きだ。すでに大台周辺の山岳地図なぞめくって場所も確かめ、寒さと凍結の杞憂さえなければ、ほんとうは今日これからでも訪ねていきたい。ところでネットの古書扱い2500円で入手した「鬼伝説の研究」だが、今日見たらおなじ本に3万円近い値がついて売りに出されているので驚いた。

 

 今日は休日。子が描いた、お花畑から猪が顔を覗かせている絵にイラストレーターで子の写真を添えて年賀状を作成する。Yは朝から幼稚園のバザーの反省会。昼過ぎに帰ってきて、わたしが適当な具材を放り込んでつくっておいたうどんを美味しい美味しいと食べる。冷たい雨が降り出す。夜は鍋にしようと二人で近くのスーパーへ買い物に行く。「すいませんが、もう煙草銭がないんで千円だけくれませんか」「もう、しょうがないわね」 独り身のときから考えればこんな会話もひどく愉しいものだと思われる。かつては言葉を交わす相手さえいなかった。The Band のメンバーを気取ってひとり肉の缶詰をポケットに放り込んだ。帰ってきて、子の小さな青い傘をぶらさげて園のバスを迎えに行く。夜、味噌鍋。だし汁で玉葱とにんにくのスライスを炊いて、塩・みりん・醤油、そして味噌。白ネギ、白菜、豆腐、鶏肉、サツマイモ、京揚げ、しめじにスダチのスライスを添えて柚胡椒で食べる。子と粘土でしばらく遊んでから、いっしょに風呂に入る。寝床でムーミン谷シリーズを読む。これもわたしの実家から送ってもらった古い一冊だ。子と顔をつき合わせて眠ってしまってから、半覚醒の意識の中で誰か(Yではない)がわたしたち二人の寝姿を見下ろし布団の周囲をゆっくりとまわっているのを感じる。その人の顔は静かに微笑んでいる。深夜に目覚めると隣で眠っているのは子ではなくYだ。やすらかな寝息を立てている。こっそり起き出してひとりビールを飲む。The Band がスプリングスティーンの Atlantic City をやっているのを聴く。

 

Well now everything dies baby that's a fact
But maybe everything that dies someday comes back
Put your makeup on fix your hair up pretty
And meet me tonight in Atlantic City

そうだな、だれもが死んでしまうってのはほんとうだろう
だが死んだ者はきっといつか蘇る
だから化粧をして髪をアップに結い
今夜アトランティックシティでおれと会ってくれ

2006.12.7

 

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 日曜。昼から幼稚園のお母さんたちが出演するクリスマス・クラシック・コンサートを生駒の市民ホールへ見に行く。子と仲の良い友だちのお母さんにはなぜか音大出身の人が多いのだ。実際に音楽の先生やプロの演奏家の人も善意で出演していて入場無料、ユニセフへの募金を併せたチャリティ・コンサート。ピアノや声楽、リコーダー、マリンバ、サックスなど。子はお母さんが合唱で出演するTちゃんと並んで座り、結構熱心に聴いていた。わたしはといえば思わずこっくりこっくり、Yに「寝るんなら、後ろの席へ行ってください」と何度か肘でつつかれる。「寝てしまうのは演奏が心地よいからだ。これも評価のあらわれだ」なぞと反論しつつ、仕方なく睡魔と格闘する。奥様方の優雅なサロン・ミュージック慈善募金付き。そうだねえ、わたし的にはもうちょいと塩胡椒が必要なのかな。高橋悠治作曲の「ぼくは12歳」を弾きながらいじめ問題のディスカッションとか、イラク戦争の写真と併せてジェフスキー「不屈の民・変奏曲」とか、エリック・サティでワーグナーと「美しい日本」をおちょくるとか、なんてのはどうだろね。だめか。なぜ「クラッシック音楽」なのか。「ユニセフ」の箱に千円札でも放り込んだら免罪符がもらえるのか。わたしがギター一本で三上寛の「小便だらけの湖」で参加したらだめなのか。だめだろうな。やっぱり、わたしが臍曲がりなのだろうな。夕方に終わって、西大寺の奈良ファミリーに立ち寄る。Yは子が幼稚園で使う冬用スモッグの生地を探す。子は本屋で立ち読みを開始する。わたしは歴史書のコーナーで「縄文のメドゥーサ---土器図像と神話文脈」なる一冊を見つけて涎を垂らす。しかし日曜の百貨店。わたしは睡眠不足もあってひどく機嫌が悪い。寒空の下で子と公園を走り回っていても何ともないのに、なぜかこういう人混みはすぐに疲れが溜まっていらいらしてしまう。イタリアンのカプリチョーザで夕食。サーモンのホワイトソースのパスタとライスコロッケと包み揚げピッツァでお腹いっぱい。また眠くなる。「電車が家の前に着いてくれたらいいのにな」とYと苦笑する。「おうちが電車だったらいいのにね」と子が言う。「そうしたらレールをつなげて、お祖母ちゃんの家でも海でも、どこでも好きなところへ走ってくれるのに」 駅から夜道を自転車で競争して帰ってくる。「お母さん、がんばれ!」 わたしのこぐママ・チャリの後ろで子が叫ぶ。「どっちの味方だ。そんなこと言うなら振り落とすぞ」わたしが言う。帰ってベランダの洗濯物を入れ布団を敷き、子と風呂に入って、図書館で子が選んできて風呂の中でストーリーを詳しく語ってくれた「こんとあき」(林明子)を布団の中で子に読み聞かせたところで、もはや意識が途切れた。

2006.12.10

 

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 教会の聖堂で幼稚園の聖劇。子はピンクの衣装にベールをかぶって“宿屋の奥さん”を演じた。宿泊を断られ続けるヨゼフとマリアに「馬小屋でよかったら、どうぞお泊まりください」と言う役だ。わたしがギターで伴奏をつけ子が歌った「gloria 父と御子に聖なる霊に」を聞いて、作家の寮美千子氏が「なんだか、なつかしくて、あったかくて、うれしくて、とうとう切なくなってきて、涙が出ちゃいました」とメールをくれた。親馬鹿云々はこの際どうでもよい。わたしも深夜にひとり子の歌を聴いて、ときおり涙が出そうになる。いつかの日曜、どこか行きたいところはあるかと問えば、子は「山に行きたい」という。「どこの山にしようかな・・」とわたしが思案し始めると、「どんな山にだって神さまはいるよ」と子は平然と答える。「幼子は神に近い」と言ったイエスの言葉はほんとうだろうなと思う。わたしもYも特定の宗教の信仰者ではないのだが、いつのまにやら子の心の中に「神さま」というものがいて礎(いしずえ)になっている。山に清水が湧き出すように、それは自然なことなのだろうと思う。大人の社会のもろもろがそれを寸断してしまうのだ。いまは、そうだ。世の大人の役割とは、ほんとうは躾(しつけ)だとか勉強だとかより、何よりこの子どもの心に芽生えた「霊的な萌芽」を大切に育ててやることではないか。MP3プレイヤーに子の歌を入れて、職場の休憩時間にイアホンで耳をすませる。わたしがとうに失ったもろもろのものがそこにあるのを聴いて、わたしは泣き出しそうになる。子どものやわらかな魂に比べたら、わたしの精神は硬直して、ひどく寒々しく、空虚なかたまりだ。わたしは、何かに跪きたい。

2006.12.12

 

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 月曜。泌尿器科で定期検査。Yと子で大阪・枚方市の病院へ。レントゲンや膀胱圧測定などで、待ち時間も入れてほぼ半日。腎臓への逆流や感染はなし。ただし膀胱の痙攣が薬を飲んでもあまり変化がない。副作用を考慮して低めに設定していたが、薬の処方量を増やさざるを得ないと。

 木曜。整形外科で定期診断。家族三人で大阪市の病院へ。昼間のみ、家の中だけでの装具の解除を許される。装具は歩行の補助に加えて、移植した筋肉が元のアンバランスな状態に戻るのを防ぐ役割もあるわけだが、装具による固定で動きを封じられている他の筋肉も将来的には必要なので、昼の間だけそれらを動かしてもらおうということである。続いていまの装具は踵部分が固定されていて走りにくいため、就学前までに以前のようなジョイントでつなげた新しい装具とカバー(いわゆる靴)を作ってもらうことになり、隣の装具室へ移って型取り。石膏を塗り込んだような包帯で足を包み、乾かないうちに前面に切れ込みを入れて外し保存する。問題は現在、幼稚園では上履きを履かずに装具をつけたまま建物内を歩いているが、装具がおなじ状況で、小学校の床で滑ったりしないかということ。装具の底に上履きのような滑り止め加工のラバーをつけることは可能だが、それだと厚みが増すためにカバーが入らなくなってしまう。装具の底はいまのまま(薄いラバー)で、カバーを上履きと外履きの二種つくるのも一案だが、障害者に対する制度の「改悪」のために、これまで装具・カバーとも自己負担なしでつくって貰っていたものが、装具は1割負担、カバーは全額負担になったのである。詳細は端折るが装具・カバー共に1個1万3千円くらいの計算になり、合わせて2万5千円くらい。装具1個にカバー2個でしめて4万円弱。結局、就学前に小学校を見学させてもらう際に子に実際、いまの装具を付けて歩かせて判断しようということになった。必要であれば、金額には換えられないということだ。来週、装具の仮合わせ。

 夜、風呂の中で子から「はじめてトイレでウンコをした」話を聞く。ふだんは浣腸をしてYがゴム手袋で掻き出すのだが、今日はお腹が痛くなってからYがトイレへ行かせたらしい。何せはじめての体験だったのでよほど嬉しかったようだ。「カエルがぴょんと跳ねたような感じでねえ、見たら朝食べたメカブで(ウンコが)つながっているのよ」とか言う。お尻はYが拭いて、部屋で改めて掻き出しをした。それから湯舟で病気の話をする。これから小学校に上がって、じぶんでトイレに行ったりいろいろ覚えたり工夫をしなくちゃならないが、ときにはウンコを漏らしちゃって意地悪な友だちから「クサイクサイ」と言われることもあるかも知れないけど、紫乃は病気なんだから悪いことをしたわけじゃない、だからそういう意地悪な子がいても負けないようにしなくちゃならない。意地悪なことを言う子もいるだろうし、おまえを助けてくれる友だちもきっといるだろう。いろんな子がいるからな。それから同じ病気の女の子が高校生になったときに母親を「どうしてこんな体に産んだのか」と非難した話などをする。「わたしはそんなこと言わない」と子は真顔で言う。「そうだな。おまえは言わないかも知れない。言わなかったらそれでいいさ。でもおまえがこれからいろんなつらい目にあって、いつかそんなことを言うことがあっても、お父さんもお母さんも我慢しようと思っている。それを覚えていてくれたらいいよ」

「おまえは体育の時間の鬼ごっこでいちどもチャンピオンになれないって言うな。いちばんチャンピオンになる子は誰だい?」

「Tちゃん」

「でもTちゃんが装具を履いたら、きっとチャンピオンにはなれないだろうな。装具を履いてチャンピオンになれる子なんていないさ。そうだろ? 小学校に行ったら幅跳びとか棒高跳びとかサッカーとかいろんなことをやるから、ときにおまえには難しすぎて横で見ていなくちゃならないこともあるかも知れない。でもおまえはじぶんが得意なもので頑張ればいい。おまえは小学校のお姉ちゃんたちが読むような難しい本だって読めるし、ヴァイオリンでモーツァルトだって弾けるね」

「でもTちゃんだって本も読めるし、ピアノも弾けるよ」

「そうだな。みんな得意なものがあるし、不得意なものもある。得意なものをたくさんもっている子もいれば、ひとつしかもってない子もいる。それはきっと神さまがその子にふさわしいものをくれるんじゃないかな。多いからいいってわけでもないさ。鳥は誰からも教えられてないのに藁を集めてきて上手に巣をつくるよね。ハチもみんなで力を合わせて立派な蜂の巣をつくる。葉っぱでキノコの畑をつくるアリもいたな。でもできたものはどれもみんなちょっとづつ違う」

「どういうこと?」

「たとえば紫乃の描いた絵は世界中で紫乃にしか描けないってことさ。おまえの弾いたモーツァルトの音色は、世界中の誰もまったくおなじに弾くことはできないってことだよ」

 風呂から上がると、子は赤いガウンを羽織ってひとり机の前に座り込んだ。適当に切り上げて布団に入るようにと声をかけても、返事すら返ってこない。スタンドの灯りの下でしきりに色鉛筆を動かしている。父も母も諦めて先に寝室に入った。だいぶ経ってから、子は描き上げた絵を持って寝室にきた。「もう眠くて、ふらふら」と布団にもぐり込んだ。描いた絵を胸に抱いて。夜中、導尿のときにその絵を布団から引っぱり出してみた。野原に建てた小さな煉瓦の家の屋根に、はしごにのぼった子が木の実の飾りをつけている絵だ。

2006.12.14

 

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 ひっそりと、子のクリスマスのプレゼントが届いた。子が自ら所望した“かみさまのペンダント”。じつはWebで知り合ったharpさんが彫金をなさっているとのことで、図々しくも制作をお願いしたのが10月のはじめ頃であったか。人はみな物質的な存在である以前に霊的な存在である、とわたしはこの頃つくづくそう思う。イエスは人は二度生まれて来なければならないと言った。一度目は肉として、次に霊として。わたしはそのことを、ときに子の存在を通して感じる。子どもがときにはしゃぎすぎたりするのは、それは天上の存在であった喜びが地上の生活の枠に収まりきれずにはみ出してしまうのだ、とどこかでシュタイナーが書いていた。思い起こせば、わたしたちはだれもがみなずっとむかし、そんな喜びに溢れていた。harpさんのつくってくださった“かみさまのペンダント”は、そんな朴とした、初期キリスト教徒たちの魂のかたちを思わせる。

harp ねこのクラフトとアクセサリー http://www.ric.hi-ho.ne.jp/cat-harp/

2006.12.17

 

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 深夜に帰宅し、湯舟で小沢昭一「珍奇絶倫 小沢大写真館」(ちくま文庫)を捲りながらほぐされる。就寝前には、布団の中で若尾五雄「鬼伝説の研究 金工史の視点から」(大和書房)をすこしだけ。うとうととしかけた頃に「アシガイタイ アシガイタイ」という子の声で覚醒する。Yが布団の中から手を伸ばし子の装具のマジックバンドをべりべりとをはずしている。わたしがうっかり、左右を逆につけてしまったのだ。そりゃあ、痛いわけだ。ああ、すいませんでした、とわたしは寝ぼけ声で言う。子が「ぶーっ」とブーイングをして、笑う。朝、子といっしょに目を覚ます。Yが用意してくれた野菜の入った牛乳スープとチーズの載った焼きおにぎりの朝食を食べる。着替えを終えて子が朝のヴァイオリンの練習をするのをチャーチチェアに座って聴く。窓から射し込んだ陽の光が子の顔の輪郭上の産毛を黄金色に輝かせている。「人間の屑」が幸福を感じている。「今日は(バス停までの)見送りは?」「おかあさん」「へえー、ああそう」「うそ、おとうさんに決まってるよ」このごろは子狸のようなことも言う。Yは朝から幼稚園の近くのよそのお母さんの家でバザーの打ち上げ。みなで昼を食べて、午後に子といっしょに帰ってくる。わたしは休日。明日の夜から夜勤二連チャン。ディランが Idiot Wind を書くとき、じぶんが射殺した男の細君との逃避行の末に女が死んで遺産がころがりこんだという噂をでっちあげられた男の出だしを書いたら、あとは何でも好きなことを書けたと言っていたのが面白いな。鬱蒼とした杉木立の奥へ分け入っていくとき、幽界か冥府かどこへ辿り着くのか分からない。およそ心に抱いた場所へ落ちてゆくのだろう。知らず土蜘蛛のように手足がするすると伸び、一つ目のタタラのようなさみしさをいだいて、霧のあちら側へとゆらゆらと揺れながら消えていく。昨日は昼に突然、大粒の霰(あられ)が大量に降り注いだ。「目が痛くて(車の)誘導ができません」と悲鳴のような無線が出入り口の隊員から飛んだ。一斉待避。凍てつくような朝に、此岸と彼岸のあわいでモリスンの Veedon Fleece をかけよう。雪に閉ざされた鉄路から眺める茫洋とした北の大地のひろがりを。草をはむようなさみしいそのこころねを。訪ねたのは田圃の真ん中にぽつねんと佇んでいる鄙びた古寺の境内だった。本堂の前の日溜まりで一遍が子どもらと戯れ踊っていた。一方は無心で、一方は狂おしかった。結び目が見えたら断ち切れ。「人間の屑」が今日も夢見ている冬の朝。

2006.12.18

 

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 休日の月曜。夜9時に子を寝かしつけてから、ひさしぶりに夫婦で映画鑑賞。職場のYさんに借りた「きみに読む物語」と「コールド・マウンテン」の二本を見る。前者は痴呆症の妻の記憶をつなぎとめるために夫が二人の若かりし頃のラブ・ストーリーを物語るという内容で、サム・シェパードが主人公の父親役でちょいと登場している。後者は南北戦争を舞台にした、牧師の娘と彼女のいる故郷へ南軍兵士を脱走して帰ろうとする男のわりと骨太な純愛物語で、わたしはどちらかというとこっちの方が好みかな。むかし「七人の侍」のメイキングをNHKの衛星放送で見たことがあったが、黒澤のこだわりは、その徹底的なほどのリアリズムの追求だ。道具のひとつ、馬の走るタイミング、登場人物の心理、すべてが「そうであらざるを得ない」といったところまで追いつめられぎりぎりの際で成立する。そういう意味では、最近のとくにハリウッドの映画は細部に都合良く流しちゃっているような粗が見られて、何というか「現実」というごつごつとした(そして謎と夾雑物に満ちた)生の肌触りよりも、高度に商品化された感情浄化装置とでもいった風に感じてしまうのはわたしの臍曲がりのせいか。

 ところで昨日は夕食に猪肉の味噌鍋をつくった。味噌を溶かし込む前に出し汁にニンニク・生姜をたっぷりすって、スライスした玉葱をとろとろになるまで煮込むのがミソ。子のヴァイオリンの練習をBGMに半解凍の猪肉の塊を包丁でせっせとスライスしていたら、ふと不思議な感情が湧き出てきた。それはそうしていま獣の肉を削ぎ落としている腕の筋肉、体のリズム、呼吸や精神といったものすべてが、「まさにそうしていることがふさわしい」とでもいった感情だ。精神と肉体と行為がぴったりと合致しているとでも言い換えたらいいか。何かの流れにきっちりと沿っている。一瞬、広大な氷の上でアザラシの肉をナイフで切り刻んでいるイヌイットのじぶんがいた。いや、そんな大袈裟なことじゃなくて、たんに猪肉の塊をスライスしていただけなんだが。

 今日は幼稚園の終了式。子は夕方から通っているヴァイオリン教室のクリスマス会で、いよいよモーツァルトの「魔笛」から数曲を先生との二重奏で演奏する。それを見てから急いで家に帰って夕食を食べ、夜勤の勤務へ。

2006.12.19

 

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 夜勤。閉店や外周閉鎖やいっときのどたばたが終わりしずまり返った深夜の警備室で辺見庸の新刊「いまここに在ることの恥」(毎日新聞社)を読み始める。「炎熱の広場にて」。著者は四半世紀前のカンボジアで見た広場=キャンプの記憶をたどる。「“悲惨”や“酸鼻”をはるかに超えて、もはや報道用語では名状不可能な、たとえば泥犂(ないり)とでもいうべき」光景を「外延」から眺める。「外延」から眺めていることの恥について語る。

 

 ただ、いまは思う。死者をおのが手で運ぶこと、開いた口を閉じてやったりすることは、風景の芯に近く、外延にはありえないという点で、必要な基本動作なのだ。外延で小賢しげに評じることには、屍臭を免れるぶんだけ濃い恥のにおいが漂う。屍体運びを評じてはならない。屍体運びには押し黙って加わらなくてはならない。

 

 知っていると思っていることのすべてが大嘘だとしたらどうだろう。「知ること」と「在ること」は別だろう。いや、「知ること」は「在ること」でなければならない。わたしたちはただコロセウムの外延から見せ物を覗いて涙したり怒ったり論じたりしているだけだ。臭いもぶよぶよした屍体の感触も慟哭も「知らない」。おそらくそうだろう。三十頁に満たない「炎熱の広場にて」をめくるのに、二時間かかった。

 クリスマスでいったい人は何を祝うのだ。きらびやかな電飾に見とれ、赤ん坊のようなケーキを食い、高級玩具や宝飾品をプレゼントして、ベイエリアのホテルで交わり合って。大嘘で恥のかけらさえ塗り固め失念した虚構の存在として。わたしだってそんなものだ。朝が白んできたら、帰って風呂に入り、寝床に横たわるのを夢見るだけだ。「沈黙の闇と臭気に同化する」こともなく。

 夕方、目覚めてひとりラジカセで、ビリー・ホリディのうたう Come Rain Or Come Shaine に漫然となく耳を傾けている。

2006.12.21

 

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 どこか遠くへ吹き飛ばしてくれる音楽がいい。母音だけが疾走する歌のような。そうしたらおれはこのくだらない汚濁に満ちた地上から夜の闇に飛び移り、筋斗雲に乗った孫悟空のようにすべてのことは思うがままだ。堤防決壊の歌でもいい。独房に座する仏陀のような男のストーリーでもいい。渓谷と夜明けとナイフの歌でもいい。

 混乱のさなか、母親は幼い姉弟たちを貨物列車に乗せて見送る。腕の中の乳飲み子とまだ言葉も定かでない幼子はわが身に引き受けて。そのどちらにも過酷な運命が待ちかまえている。なぜかそんな夢を見た。この苦い記憶はどこから到来するのか。

2006.12.23

 

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 日曜の夜。幼稚園の向かいにある教会のクリスマスのミサに家族三人で参列した。ローソクに火を灯し、賛美歌を歌い、スワヒリ語とインドネシア語とポルトガル語の信者による朗読があり、子どもらによるキリスト生誕劇の朗読があった。メキシコ出身だという新しい司祭の説教は退屈であった。中背で格幅がよく、岩に刻まれた彫像のような顔は神学校の面白みのない模範生徒の風情であった。わたしはかれが話すのを聴きながら、イエスがもし現代に生きていたら何をしただろうか、何を話しただろうか、と考えていた。かれは羽の生えた獅子の刺繍を背に施した立派な司祭の服を着て、真っ赤な布で覆われた大きな聖書をうやうやしく壇上で広げていた。説教が終わりふたたび賛美歌の合唱が始まっても、前列のほぼかれの正面に位置しているわたしは何かを問うようにかれの顔を直視し続けていた。二度ほど視線が合ったが、すぐに逸らされた。答えは、ここにはないようだった。そしていつものお決まりの儀式。これは私の肉である。これを食べなさい。これは私の血である。これを飲みなさい。くりかえされる行為の中で、だれがその新鮮さを保っているのか。洗礼を受けた以外の人々への司祭の祝福の儀式にYと子は並び、わたしは坐したままだった。子は教会からお菓子と記念品の袋をもらった。やがて簡易な菓子やジュースを並べた立食パーティーが始まった。その間、わたしはひとり隣室の壁の書棚を物色し、その中から「コルベ神父 アウシュビッツの死」(ダイアナ・デュア・時事通信社)なる一冊を見つけ、Yのつてで拝借して帰った。帰ってから子に、祝福のときはどんな気持ちがするのか、と問うてみた。「神父さまに頭を押さえられたときね、イエズスさまが何かこう、頭から体の中に入ってくる感じがするの」と、子はごく自然な口ぶりで答えるのであった。

2006.12.25

 

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 バイクに乗って走っているとき、とくに仕事帰りの夜道を走っているときは、いつも死を意識するな。交差点の赤信号を真横に突っ込んでくる気狂いや、店先の駐車場からいきなり飛び出してくる輩は何とかよけられるかも知れない。だが時速100キロを超す速度で走っている対向車がセンターラインを越えて突っ込んで来たら、まず避けることは絶望的に不可能だろう。実際、わたしの父はそんなふうに死んだのだった。車やバイクで走るということは、つねにそんな冗談のような偶然にこの身を委ねて走っているということだ。こちら側の意志ではどうにもし難い運命のようなもの。また、ときにはアウシュビッツにいるじぶんを想像する。引き離されたわが子が一本の針金の下をくぐらされる。労働に不向きな背の低い幼児はガス室へと送られるから、わたしは去りゆく子に「つま先で立て!」と叫んでいる。あるいはアフガニスタンやイラクの空爆で脳味噌を吹き飛ばされたわが子を抱いて狂気のかたまりのようになって病院を求め走り回っているじぶん。そのときわたしに何が出来るだろうか、どんなじぶんがいるだろうかと考えてある意味、ここにいるじぶんと想像のかなたにいるじぶんはさして大きな違いはないのだと思い身震いする。絶望的なほどにみずからを無力に貶める暴力や理不尽な力に対して、わたしは子に、そしてじぶん自身になにを示すことができるのか。なにを残すことができるのか。「永遠」に対して? わたしが死んだあとにも世界に続いているであろう光や闇や鳥のさえずりに対して? おのれの死を思うとき、わたしはこの世になにを残せただろうか。わが子になにをつたえてやれただろうかと自問する。断腸の思いが残る。いつも一瞬一瞬が不断に続く死の連続だ。時間が問題なのではない。どれだけ長く生き延びられたということよりも、この一見すべてが最後に死の勝利にひざまづくしかないかのように見える空虚のなかで、それらを超える強烈な輝きをこの「過ぎ去りゆくつかのまの世界」に、いま確かにつかんだと思えることなのではないか。今日職場の便所の小便器に立ったわたしの視線の前にちいさなゴキブリの子どもがその触覚を盛んに動かし冷たいタイルの上に積もった埃を舐め回しているのを見たとたん、一個の種である生命体としての感覚がぐるりと逆立ちをするような目眩を覚えて思わず涙がこぼれそうになった。

2006.12.26

 

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 火曜。Yが子を連れて泌尿器科の定期診断。膀胱の収縮力を弱める抗コリン剤(ポラキス)を、これまで日に4ミリグラム服用していたのを、改善が見られないため日に6ミリグラムの服用に増やすことになった。6ミリグラムというのは、子のいまの年齢ではこれで限度らしい。もしこれで改善が見られなかった場合は、尿の逆流による腎臓への感染等を防ぐために膀胱の外科的手術が必要になるかも知れないが、いまはとりあえずそのことは考えなくてよい、と。

2006.12.27

 

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 木曜。昼から大阪へあたらしい装具の仮合わせにいく。30分ほど院内を歩き回り、皮膚の赤くなっている部分などを見て微調整。それを数度くりかえして、夕方にとりあえず完成。こんどのは踵部にジョイントが付いてその分足の動きは自由になったはずなのだが、身体の馴れというのは不思議なもので、踵が固定されていた以前の方が歩きやすいと言う。これもまた、じきに馴れてくるだろう。帰り道にわたしの職場のショッピング・センターへ寄る。ときおり喫煙所で会話をするアパレル店の店長に福袋の予約枠をひとつ取っといてもらって、Yがじぶんの好みなどを伝えに行ったのである。その間にわたしは子を連れて本屋へ行き、子に子ども向けの「西遊記」(講談社・青い鳥文庫)を一冊買い与える。SC内のとんかつ屋で夕食を済ませ帰宅する。

 明けて今日も休日。朝から子と二人で本棚の整理をする。それから約束のホワイト・ボードをつくる。昨夜寄った店で子はディズニーのマリーちゃんの絵が付いているホワイト・ボードをねだったのだが、ごちゃごちゃとした安っぽい彩色だったためにわたしもYも眉をひそめ、真っ白いのでオリジナルのホワイト・ボードをつくろうよともちかけたのである。で、帰り際に近所の百均ショップで見つけたコルクボードの裏にシール式のホワイト・ボードを貼りつけ、数日前に寮さんがクリスマスのプレゼントに送ってくれた「こどものためのイエス・キリスト物語」(小学館)から子が選んだベツレヘムの厩の場面をPCで透明シールにして貼りつけたら大喜びだった。そこまではよかったのだが、昼をまわってYと子が正月を過ごしにYの実家へ行く時間が近づくにつれて、わたしは理由もなく不機嫌になってきて、荷造りの段取りが悪いとか人の話を聞いてなかったとかあれこれYに理不尽ないいがかりをつけて彼女を悲しませたのだった。夕方、二人は車に乗って出発した。

 さて、家の中がからっぽになってしまうと、わたしはたちどころに空虚のかたまりだ。子がまきちらしていた華やぎも失せた。ふだんはやりたいことが無数にあって時間が足りないと思っているのに、PCに向かう気も、知人に借りているDVDの映画を見る気にもなれない。毛布を掛けてソファーに横たわり、コルベ神父の伝記をしばらくめくった。それからうつらうつらと眠った。

 わたしは乾いた土の中の種子である。地表にひろげゆく枝も葉も花も内包しているのに、太陽と水を欠いているのだ。

2006.12.29

 

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 1940年。すでにポーランド全土はナチス・ドイツに占領され、みずからの死の到来も感じ取っていたマクシミリアノ・コルベは、12万部を手渡しで配布された最後となるかれの機関誌「聖母の騎士」の中で次のように記した。のちにおなじフランシスコ会士の一人はその文章を「それはまるで、“恐れることはない、私はあなた方と共にある”というキリストの言葉がこだましているかのようでした」と語った。

 

 ・・・どんなに強力な宣伝機関も真実をねじ曲げることはできません。ほんとうの闘いは心の内面での闘いなのです。占領軍も、抑え難いさまざまの情熱も、絶滅収容所も何も関係ありません。一人ひとりの霊魂の最も深いところに、和解することのない対立、つまり善と悪、罪と愛が存在しているということなのです。ですから、もしわれわれが自我の深いところで敗北するならば、戦場での勝利が何になるでしょう。

 

 いつか、手負いの鹿のようであった孤独なクリスマスの夜。レコード屋の店頭からそっと腕(かいな)に抱いて持ち帰ったゴスペル・アルバムのライナー・ノーツにこんな言葉がちいさく記されていた。「このわたしの歓びは この世がわたしに与えてくれなかったもの」 この人の強さは、それとおなじ場所から到来している。

2006.12.30

 

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 朝6時に起きて弁当を詰めて出勤する。夜10時に帰ってきて風呂を沸かし弁当箱を洗う。職場の携帯に子から電話。小学校のグラウンドでおじいちゃんと凧揚げをしたが、風が強くて凧が破れてしまった。すずき産地さんが送ってくれた玄米餅と豆餅を食べながらテレビの紅白を見るが二曲ほどで消してしまう。湯舟で「コルベ神父」の続きを読む。イラクのフセインが絞首刑。年末ジャンボは300円。「それは、地上に突き出た天國の橋頭堡のやうな、清淨な祝福に滿たされた集會だつた。本當だよ。世の中には、目立たないかも知れないが、さういふ人たちの集りが確かに存在する」 いまとなってはどうだろう。ナチスの冷徹な帝国とそれに乗じた人々は惨めに潰え、一見あらゆる尊厳を剥ぎ取られガス室で死んでいった「かれ」は勝利した。人の精神、魂の闘いにおいて。それは死の事実を前にして、なお気高い。そういうことが、この歳になってすこしづつ分かってきたような気がする。むかしは正月というものがあったな。亀有の駅から帰ってくる途中の蕎麦屋でいつも年越し蕎麦を買った。三が日は商店街も店を閉じ、ひっそりとしていた。お年玉を手に玩具屋が開くのが待ちきれなかった。ボブ・ディランの歌じゃないが、むかしの人々の労働歌をもういちど歌おうじゃないか。まじめに働く人々とその家族が報われることを望もう。だれも誰一人として理不尽に殺されたり死に追いつめられたりしないような世の中を。殺し合わないことが強さである世界を。あらゆるものがいま、ぼくらを分断しているのではないか。職場のTさんから子どもの頃の凧揚げの話を聞いた。長い長い凧糸を買ってきて、競争で数キロ先まで凧を飛ばした。もはやちいさな点ですらも確認しがたくなった凧の糸を懸命に繰った。人の魂はそんな凧のようなものかも知れない。目には見えないが、人はその糸を今日も懸命に繰っている。

2006.12.31

 

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 太陽がじりじりと照りつける7月末のある日、コルべ神父の居住区の人びとが収容所内の道路に立たされていた。それは暑さと飢え(かれらが最後の「食事」をとったのは前日の夕方であった)と恐怖による拷問であった。一人の収容者が農場班から脱走したためであり、立たされている男たちは、自分たちがどうなるかは分かっていた。かれらはひたすら立ち続けており、落ちくぼんだ眼から出た汗は、腫れあがった顔をつたってはげたかのような格好の首へたれ落ちてゆき、さらにやせ衰えた胸にまでたれて光っていた。司令官へスの副官で収容所長のカール・フリッチと、恐ろしい政治部の部長で関連施設長のゲルハルト・パリッチが黙って立ち続けている男たちの列を視察しに来たのは、夜の7時ごろであった。将校用の堅い帽子にはゲシユタポを示す死の記章がついており、ベルトには拳銃があり、黒い乗馬靴はピカピカに光っていた。二人の経歴は忌わしいものであった。フリッチは、ヘスが不在の間に、以前は害虫除去に用いられていたチクロンBという毒ガスを使って、収容者の最初の大量殺人を実行した人物であった。また、パリッチは、自分は一人で合計2万5000人の収容者を射殺し、あらゆる機会をとらえて拷問の実験と新方法の開発をしていると言ってはばからない人物であった。

 立たされている収容者の一人が、「ああ、私の妻と子供たちよ!」と叫んだ。その声は、何の慈悲心もないその閲兵場では奇妙な空しい響きをたてるだけであった。コルべ神父から二人おいたところに立っていた収容者のフランチーシェク・ウロダルスキは、その場の光景を次のように描写している。「フリッチとヒトラー親衛隊の兵士は、10人ずつ収容者が並んだ列の前を歩いて、一列から一人選び出して飢餓刑室へ送るのです。一人が選び出されると、その列は10歩前へ進みます。そうすると、ナチスの連中は次の列からまた一人を選び出すのです。このようにして、次々に飢餓刑室行きの人が選び出されていったのです・・・・」。ポーランド軍の軍曹フランチーシェク・ガイオフニチェクは、10人の中から選び出されて絶望の叫び声をあげたが、ウログルスキの記録によれば、他の選び出された者の中にも叫び声をあげた者がいたようである。そのとき突然、一人の細身の人物が列から歩み出て帽子をとり、さらにふらつく足どりで前に進みヒトラー親衛隊員の前で直立不動の姿勢をとった。その人の顔は赤く、眼と頬はくぼんでいて、丸いレンズの入った針金のつるの眼鏡をかけていた。絶望の叫び声をあげる者は珍しくなかったが、列をくずす者は今までにいなかったので、収容者たちは首をのばしてその人のほうを見た。コルべ神父がその場で射殺されなかったのは、神父が何をしようとしているのかナチスにもとっさには分からなかったからだと思われる。フリッチは、それまで一度も収容者と言葉を交わしたことはなかったが、このときばかりは「このポーランドの豚野郎は何のつもりだ。お前は何者だ」と言った。それに答えてコルべ神父は、「私はカトリック司祭で、あの人の代わりに死にたいと思っています。私はもう若くはありませんが、あの人には奥さんと子供がいます」と言った。コルべ神父は、年配の者と病弱の者をまず片づけるというナチスの方針を勘定に入れて、巧妙な答えをしたのである。フリッチはガイオフニチェクに対して、自分の列に戻るように合図し、パリッチは何の感情も現さずに、手にしていた名簿の収容者番号を書き直した。太陽はアウシュヴイッツの空に美しい夕焼けを残して沈んでゆき、死を宣告された人びとは、裸で、辱しめられ、恐怖にふるえながら飢餓刑室へ放り込まれた。暗い地下の18号房の中で、かれらは尊厳ある死を奪われ、裸でコンクリートの床にうずくまっていたが、しかし、自分たちとともに死を迎え、自分たちが安らかに死を迎えられるように力を貸してくれる司祭の導きを受けることができたのである。コルべ神父は苦しんでいる小羊たちの世話をして、かれらの最期の日々を祈りと聖歌で満たされたものにしたのである。隣りの房の人びとも、神への賛美と祈りに加わった。ポーランドの有名な作家ヤン・ユゼフ・シュチェパンスキは、この荘厳なドラマを次のような言葉で生き生きと描き出している。「死に瀕していた人と人との団結の絆が新しい生命を吹き込まれて鼓動し始めた。・・・・死によってもたらされた生命が再び価値をもつようになったのであり、この長い死の苦しみは、尊敬と敬意の行為になったのである」。ナチスが狙っていたのは、「好ましくない連中」の死、つまり人間ではなくなり、虫けらのように踏みつけにされる人間の死であったが、そうはならなかった。あの寒々とした地下室での死は、聖なる祝典に変容したのである。シュチェパンスキはこう書いている。「フリッチは思慮の浅い人間だったので、この一つの行為によつて暴力の世界が敗れたことを見ぬけなかったのである」。

 

 マクシミリアノが死の宣告を受けていることも知らずに、マリアンナ・コルべは祈りを捧げていたが、それはおそらく、神の意志が行なわれますようにという祈りであっただろう。彼女は、数カ月前に、率直な古風な信仰心をこめてニェポカラノフに宛てて次のような手紙を書いていた。「息子を救ぅためでしたら、私は喜んで自分の命を投げ出すつもりですが、祈りを捧げているときに、『マクシミリアノの解放を願う自分の意志を神に押しつけるのではなく、マクシミリアノがその霊魂を聖なるものにするのに必要なことを願い、神の栄光のために最もよいことを願いなさい』という内なる声が聞こえてきました」。断腸の思いであったが、マリアンナはこの内なる声に従うことにした。「私は、死に打ち勝つ霊魂の力をマクシミリアノがもってくれるように祈ります。……私は、自分の腹を痛めた子供を愛する母親として祈っていますが、子供の永遠の幸福のほうが母親の愛よりも価値があると考えねばならないと信じています」。

「コルベ神父 アウシュビッツの死」(ダイアナ・デュア・山本浩訳・時事通信社)

 

 死を凌駕する価値にわずかでも近づけんことを。新年おめでとう。

2007.1.1

 

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 年が明けてはじめての休日。昼前に起きて洗濯をし、昼食に残り飯でリゾットをつくり、布団にくるまって花屋の店長から借りているDVD、キューブリック監督「時計じかけのオレンジ」を見る。この作品は既に見たとばかり思っていたが実ははじめてだった。重厚な映像美はキューブリックならではだが、じぶんだったら冒頭のノリそのままで別の狂気を描いたか。そのままうつらうつらと惰眠を貪り、夕方から続いて職場のS氏より借りているナンセンスなパロディ・ギャグ映画「フライング・ハイ」を見る。リゾットとおでんの残りの夕食をはさんでその続編も。コクピットの自動操縦ボタンを押したら風船の操縦士が膨らむシーンは笑ったな。そのまま、たまたま映った江口洋介がピラミッドの中をはいずり回っているテレビ番組をしまいまで見る。ピラミッドは墓ではなくて死者の魂の循環装置だという吉村教授の説はゴモットモかも知れない。ではさしずめ現代の魂の循環装置は六本木ヒルズかはたまた街頭に鎮座する“円”結びマシーンか。古代エジプトの人々に比べて現代人はどれだけ利口になったというのだろう。深夜、アマゾンのカートに「自給自足の山里から―家族みんなで縄文百姓 」(大森昌也・北斗出版)を放り込む。

2007.1.3

 

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 今月、子が幼稚園で行くことになっているスケート場を家族で下見へ行く。大阪・柏原市にあるアクアピア・アイスアリーナ。車の道中、龍田大社へ立ち寄り初詣。ここの拝殿は「気息すなわち風の長く遠く吹き渡る」という感じで好きだな。むかし白蛇の神が現れたという溜池で、子は「(池の水が濁っていて)なんだか龍の神さまが出てきたような感じがいまはもうしないね」などと言う。神社横の公園で子はしばし鉄棒やブランコに興じる。スケート場が3時から割引料金になるため王寺の王将で遅い昼食をとって時間調整。「スケート場はここから遠いの?」「いや、もうすぐ近くだよ」「え、どうしてすぐにこんなあったかいところから寒いところへ・・・?」 どこか極北の地の氷上を想像していたらしい。Yがそんな絵本を読んだと言う。受付で事情を言ってチケットを買う前に子のスケート靴の試し履きをさせてもらう。スケート靴は苦労の末、なんとか入った。Webの割引チケットを使って三人で3100円。Yはわりとすいすいと滑るのだが、わたしはほぼ初心者だ。子どもの頃に滑ったような記憶が確かいちどくらい・・・。スケート靴を履いて氷の上に出たとたん、しまった、観覧にしておけばよかったと激しく後悔する。「ヘルプコーチ」とかいうふざけた名前の手押し台を20分300円で借りて、子と二人でしばらくしがみついていたが、小一時間を経て何とか不格好ながら一人で立って前にすすめるようになった。子の状況はなかなか厳しい。それでも「ヘルプコーチ」ももう要らない、一人で滑ると頑固に言い張ってわたしとYに両手を持ってもらい、時にわたしやYが支えながらなんどもころころとひっくり返り尻餅をつきながら、まだまだやめないと言う。頑張ったらテレビで見たスケート選手のように滑れるようになると思っているんだな。現実は両手を持ってもらって何とかそろそろと歩いて進むのが精一杯だ。三人のうちでわたしがいちばん先に、もう足が限界だからとリタイアした。じぶんの靴に履き替えたとたん、足の裏をつけて歩けるのは何とステキなんだろうと思った。しかしスケート場で滑るのは(尤もYはわたしのは「滑っているとは言えないんじゃないか」と言うが)気持ちいいね。全身が心地よい疲労感で満たされて、遊園地やテーマパークなどで遊ぶより余程いい。帰りは回転寿司屋で夕食。今日は贅沢したが、皆で愉しい一日だった。夜、一週間ぶりに子と二人で風呂に入る。風呂から出て、子はミュージカルのお姫様を気取って歌いながら話し、「いつもそんなきれいな言葉で話してくださいね」というYに答えて「お母さんもこのお城をボロ屋だとは思わないでくださいね」なぞと言っている。

2007.1.5

 

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 花ニ嵐ノタトエモアルゾ、サヨナラダケガ人生ダ。いや、冬の嵐である。どこぞのカラーコーンが飛び、ゴミ箱が飛び、豚が飛ぶ。バイクでは危険と見て車でご出勤遊ばせる。BGMは Van Morrison の名盤 Astral Weeks であるぞ。奈良盆地の天上をすいすいと、まるでまやかし役小角のトリック・ショーのように。間抜けな木っ端役人や権力者どもにひと泡吹かせてやろうぜ。休憩時間にMP3プレイヤーのイアホンで Tir Na Nog を大音量で聴く。音と光の洪水の中で Van が御詠歌をシャウトしている。うねりが溢れ、伸びあがり、呑み込まれるのではなく止揚する。見よ、洪水はわが魂に及び。

 「コルベ神父 アウシュビッツの死」を読了し、「自給自足の山里から―家族みんなで縄文百姓 」(大森昌也・北斗出版)が届く。

2007.1.7

 

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 夢を見た。都会のある町。わたしは一人車で「ロッティの店」という名の時計屋を探している。なぜその店をさがしているのかは、はっきりと判らない。ただ昔あった店で、職人気質の、とても素晴らしい(もしかしたら魔法の?)時計をつくっていた。あるいはわたしは、その時計職人に再会したいのかも知れない。片道三車線の道路が複雑に交差している。たしかこっちの方角だったと進入しかけた狭い道が工事でふさがれていて、ひどい遠回りをさせられる。途中で車を捨てて自転車に乗り換え、その自転車も路上に鍵をかけて置き捨て、いつしか徒歩で下町の路地裏を経巡っている。うっすらと見覚えのある商店街の端に出る。むかしのお祭りの屋台のような雰囲気。その近くの路地の角で「ロッティの店」と同じ頃に開いていた店を二軒見つける。ひどく古びていて、もう店は閉じたのかも知れない。どちらも店先をあふれるばかりの植物の鉢で埋めていて、一方の店先に年老いた柔和な顔をした老人が鉢植えに水をやりながら佇んでいる。その人の顔には見覚えがある。どちらの店もかつて、商売以上の大切なものをここから発信していた。そう、「ロッティの店」もそうだった。買い物籠を下げた通りすがりの中年の女性に「ロッティの店」を知らないかと尋ねる。「たしかむかし、あっちの方にそんな名前の店が・・・。でも、もういまでは・・・」といった答えが返ってくるが、わたしはなぜかこの女性が嘘をついていて、「ロッティの店」を簡単には教えたくない、でもわたしに警戒心を持っているわけでもないと感じる。彼女はいま「ロッティの店」がどこにあるかを知っている。世間話をしながら、わたしはいつしかこの女性の家(団地の一室)に招かれている。小さな垢抜けしない顔の子どもたちが4人いてわたしにまとわりついてくる。手にしていたセカンドバッグを何気なく開けると、いつこんなものを入れたのか記憶にないのだが、動物の形をした風船のジュースがたくさん入っている。「やあ、ちょうどこんなものがあった」とわたしは子どもたちにそれをひとつづつ与える。いちばん末っ子の女の子に渡しながら彼女の年齢を尋ねる。6歳と聞いて「おじさんにも、きみと同い年の娘がいるんだよ」と言ったところで、現実の世界で当の「娘」がわたしの布団の上に乗っかってきて目が覚めた。「おとうさん、6時半だよ」 これから夕食を食べて、夜勤の勤務へ出かけるのだ。水菜と薄揚げと鶏肉の鍋を囲みながら夢の話をした。続いて子が話し出した。ちょうどその夢と同じ頃に、本を読みながら眠ってしまった。夢の中でお母さんと二人で家にいて、夕方になってもお父さんが帰ってこないなあと心配して探しに出た。しばらく歩いているととても素敵な時計屋さんがあって、「ロッティの店」と看板に書いてあった。お母さんと二人で入って、わたしはきれいな水晶のような腕時計を、お母さんは紫のイヤリングを買った。それからお店を出て歩いていくと・・・  手元の夕飯もすっかり冷えて、子の話は一向に終わりそうにない。

2007.1.8

 

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 すべての人を労働者にする文明に抗して山村に移住し、にわか百姓を始めて、縄文が現代に生きていることを知る。縄文にあっては、働くということは、大地により、大地につつまれた人間の呪術であり、宗教というか道徳的行為である。炭焼きにしても、木を切るとき、大地の恵みの命をいただき生かしますと念じ、煙の臭いに引き寄せられてうさぎ・鹿・鳥たち姿を見せ、やがて出ずる若芽、実りを期待する鳥の鳴き声、黄金色に輝く窯に一瞬、神を感じる。とても金に換算できない。金に換算したらやっておられない。山にも人にもケモノや鳥たちにも大事な、祈りに似たものである。賃労働とは何かを静かに問うている。

「自給自足の山里から―家族みんなで縄文百姓 」(大森昌也・北斗出版)

 

 火曜。近くのショッピング・センター内の本屋で子は「シャーロットのおくりもの」(E.B.ホワイト・あすなろ書房)を、わたしは「グーグル・アマゾン化する社会」(森健・光文社親書)を、Yは子育ての雑誌を、それぞれ買う。

 「大地につつまれた人間の呪術であり、宗教というか道徳的行為である」というのは、うん、まさにそうだなと得心する。ちなみにわたしがこれまでのお粗末な人生の中で体験した仕事のなかで、いちばん楽しかったのは酒造蔵での酒造りであった。働くことが嫌いなわたしが請われて、ときに一ヶ月休みなしで出たこともあった。そのときいっしょに働いた杜氏のおやじさん夫婦が、「自給自足の山里から」の著者の住む山陰・但馬からの季節労働者であった。仕事というより、その人柄が心地よかった。仕事の合間に櫂に使う竹を刈って焙り、裏の畑の畝で山菜を摘み、休憩時間には炬燵に入って酒粕を焼いて食べた。それらは治外法権の山村世界であったかも知れない。いまのわたしの仕事に「大地につつまれた人間の呪術であり、宗教というか道徳的行為」が果たしてあるかと自問すれば、答えるに寒い。

2007.1.10

 

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 休日。朝から、Yは幼稚園で昼まで役員会、子は夕方まで幼稚園。午前中、車で近くの電気屋とホームセンターへ行く。ボイス・レコーダーで録音した子のヴァイオリン音源などを復習用にリビングで再生するのに(ボイス・レコーダーでも再生できるのだが音が貧弱なので)、たとえばサンヨーのこんなUSB対応ラジカセの購入などを考えているのだがどうだろ。USB接続やHDD装備のコンポという手も考えたが、3万から5万の出費はちょっと考えてしまうし、主にYや子が使うのだから前者のようなシンプルな機能で充分にも思える。CDからデジタルへの録音機能がないというユーザー意見もあるようだが、わが家ではそれはPCで代行できる。あとはちょっとデカイのとデザインの貧弱さかな。他にボイス・レコーダーにポータブル・スピーカーを接続するという手もあるが。ちと思案中。ホームセンターではharpさんがつくってくれた子の十字架のネックレスを収納する木箱(ジュエリー・ボックス)をじつは作成しようと考えているのだが、蝶番や木材をあれこれ眺めたりしてこれもまだ結局何も買わずに帰る。Yと二人の昼食は職場のKさんに教えてもらった家庭版彩華ラーメン・レシピを白菜や豆板醤をつかってインスタント・ラーメンを利用してつくってみる。幼稚園経由で教育委員会より、子の小学校普通学級への進学を認める通知を受ける。1年後にふたたび検討するとの付帯条件。夕方、子をバス停まで迎えにいく。幼稚園最後の「生活発表会」(劇)が「孫悟空」に決まり、子の役は「三蔵法師」になったと。帰って家で子に将棋を教える。熱が入り、ちょっと本気になって叱ってしまう。夕食は海老フライと水菜のサラダ。子と風呂に入り、寝床で「シャーロットのおくりもの」(E.B.ホワイト・あすなろ書房)を読む。すでに一人で大半を読んでしまった。「木箱」などの漢字も平気で読んでいて驚く。一章を読み聴かせたところで、じぶんで読んだ方が早いから、と本を奪われてしまう。うれしいような、さみしいような。

2007.1.11

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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