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天祖、天爾瑞宝十種を饒速日命に授く、命は天祖の詔をうけて、天孫瓊々杵尊より先に河内の哮峰(たけるがみね)に降臨され、鳥見白庭に遷り、土酋の長髄彦におされて、其妹、登美弥比女(一名御炊屋姫)を妻り、味間治命(宇麻志麻治命)を生み、薨じ給うに及び夢のおつげにより、其遺物の羽々弓・羽々矢と神衣帯手貫(かむみそ、おびだまき)の三物をこの墓に埋めて弓塚とした。
高皇産霊尊、哀泣とおぼして、すなはち速飄命を使て以命て天ひきいて上り、その神の屍骸を日七、夜七もて遊楽哀泣哭して天上に歛意ぬ。饒速日尊、夢をもて妻・御炊屋姫に教えて云く、「汝の子(宇摩志麻治命のこと)、吾が如く形見の物とせよ」と、すなはち天璽瑞宝を授く。また、天の羽弓矢、羽々矢複、神衣帯手貫の三つの物を登美の白庭邑に葬歛て、これをもて墓者と為す。
先代旧事本紀
櫛玉饒速日命は大和国鳥見明神、河内国岩船明神是也・・・ 夫より大和国鳥見白峯に移玉ひ其里に長髄彦有り、其妹炊屋姫を娶り映伝の中に速日命神去り玉ふ。夢の御告あり、御弓矢及び御衣は鳥見白庭に葬り、陵となす、今に鳥見の弓塚と云ふ。
布留神宮日記石上考
さる2006年11月14日火曜日。いよいよ念願のニギハヤヒの墓を見てきた。メンバーは職場のビル・メンテナンスを担当している天才ギタリストにして植物学者のK氏、それとわたしの勤めるショッピング・センターにテナントで入っている花屋の店長T氏、わたしの三人である。
当日の昼前、花屋T氏を途中で拾ってきたK氏の車が我が家に着いた。まずは腹ごしらえ。さいしょ、郡山城内にある謎のインド・カレー屋を訪ねたが残念ながら休業であった。そこで、こちらもかねがね行きたいと思っていたそば楽へ行った。郡山城の北側から城を取り巻くように西へと迂回する道をしばらく進んだ巨大な楠のたもと、「やまや」というスーパーの駐車場に車を入れ、南へすこし歩いた路地裏を覗くと店がある。ふつうの民家を改装した落ち着いたたたずまい。ここで「ざるそばセット\1500」を三人、純和風の松や芝に洋花を添えた庭を眺めながら食した。献立等の詳細は前述のリンク・ページに譲るが、ほんものの食事というのは腹より心を満足させるね。"ひきたて・うちたて・ゆでたて"の『三たて』のそばは勿論だが、もっちりとしたそばがきが特に三人に大好評であった。近所にこんないい蕎麦屋があるのは仕合わせなことだ。こんどはYや子や義父母たちも連れて来たいな。
さて、仕合わせな腹を抱えた三人を乗せた車は一路、生駒方面を目指す。ニギハヤヒ(饒速日命)というのは不思議な存在だ。正史に従えば、神武の東征より以前に「天の磐舟」に乗って大和の地に降り立ち、土着の勢力であるナガスネヒコ(長髄彦)の妹を娶って連合体を成していたが、神武との戦いの最中に寝返り、ナガスネヒコを殺して神武側に帰順した。このニギハヤヒとナガスネヒコの妹の間に産まれたウマシマジ(宇摩志麻遅命)が後の物部氏の祖先であると伝わる。ニギハヤヒもそれを祖とする物部ももともと葛城一帯を勢力としていた葛城氏や、さらには土蜘蛛なる蔑称で呼ばれた山民がルーツであるとする説もあるし、「天の磐舟」により飛来したという記述から神武より先に外来し土着のナガスネヒコらの原住民と同化しつつあった「まれびと」であったとの説もある。あるいはその不可思議な行動からスパイ説や、天皇家が実際の歴史を隠蔽するために作りだした架空の存在であると言う者もいる。折口信夫はニギハヤヒは大和の国魂(くにたま)であり、ナガスネヒコが神武との戦いに敗れたのはニギハヤヒの魂が離れたからだという説を書いているらしい。ここから三輪山に坐すオオクニヌシ(大国主命)はじつはニギハヤヒで、三輪山中にある磐座にその遺骸が葬られたとする説も派生した。まあ、諸説入り乱れて愉しいが、あとはそれぞれの想像力にお任せしよう。
目的地である生駒市の総合公園に着いた。このあたり、生駒山というよりは矢田丘陵の地層の北の切れ端とでもいった感じののどかな丘陵地帯だ。公園のどんつきにあるテニス・コートから車を降りて歩く。今回、道案内として重宝したのはwebで見つけたこんなサイトの手製の地図である。(併せて後進の方のために少しコースの説明をしておこう) コートの西面を奥へすすみ、整備された遊歩道からはずれて北面をコートに沿ってまわり、北東の角から北へ、排水溝をふさいだ錆びた鉄板上をたどりながら雑木林へ入っていく。間もなく道は二手に分かれ中央に「火の用心」の赤い標識が立っている。それを右手へ。おなじような枝道はその後もいくつか出てくるが、あとは概ね左手へすすめば間違いなかったと思う。目印はテニスコートからも見えた白(グレー?・手前)と紅白(奥)の高圧線の鉄塔である。木の間からときおり覗くこの鉄塔のラインの西側へ出てしまったら道を誤ったと考えた方がいい。もうひとつは分岐点の各所に立てられた「火の用心」の標識。ここにマジックで矢印と共に「白庭5」なぞと書いてある、その方向へすすむといい。おそらく雑木林を抜けた先にある白庭台というニュータウンのことで、地元の誰かが抜け道として利用するのだろう。途中ではじめの白い鉄塔の足下を抜ける。アップダウンはそれほどないし、道も悪くはない。ただ雑木林は全体に薄暗い感じで、女性の一人歩きはあまりおすすめできないかも。荒れた杉か檜の暗がりに、なぜか椿がよく目にとまる。テニスコートからわずか15分か20分ほど、目指す紅白の鉄塔が現れた。その鉄塔の立つ高田から南東へ向けて一段下った谷筋へ向かう棚地の林の中に石柱が見えた。
うらびれて、物寂しい。ほの暗い雑木林の中の見すてられた墓。そんな印象だった。石柱の背後の墳墓は全体に割石が敷き詰められているが、整然とした風ではなく、どこかそこいらの解体現場で砕けた小石を適当にばらけたような雰囲気だ。石柱正面には「饒速日命墳墓」とあり、下に建立者名らしき文字があるのだが判読できない。粗末な木板の献花台が設けてあるが花はない。そばに割れた徳利様の陶器の花瓶がころがっていて「石上神宮」の文字が見える。神社の関係者か、あるいは古代史ファンが捧げたものだろうか。石上神宮は物部氏の社であるから、この組み合わせは正しいといえる。わたしたち三人は、しばらくその場で思い思いに佇んでいた。物部氏の後裔が後に記した「先代旧事本紀」などの記述によれば、ニギハヤヒが死んだのち、かれの遺骸は天へのぼり、遺品である「天の羽弓矢(一説には“蛇の呪力をもった弓矢”という)」を「登美の白庭の邑」に埋めて墓とした。このなだらかな丘陵地のすぐ北側にはナガスネヒコの本拠地と伝承される場所があるし、神武側との激戦地であったと伝えられる地もほど近い。ここに埋められた者はいったいだれなのか。ニギハヤヒが裏切り者であれ、よそ者であれ、土蜘蛛のルーツであれ、これは紛うことなき敗者の墓である。天皇家の造成され整備された豪奢な陸墓とは好対照だ。正史から抹殺された者の秘められた廟所。ここへ来るまでの途中、ニギハヤヒの名の付いた道標の一片も見なかった。道も分かりにくいし、余程の古代史愛好家以外は日頃、訪ね来る者も少ないことだろう。うらびれて、物寂しい雑木林の中でわたしはいつしか、この墓はここに葬られた者にふさわしいという気がしてきた。
その後、わたしたちは時間も余ったので、生駒山上にある宝山寺まで足を伸ばした。ここもまた葛城を出身とする役行者の行場であり、いまは現世御利益を前面に出した庶民の願掛け巨大ショッピング・モールのような寺であり、加えて参道の下に軒を連ねる宝山寺新地(歓楽街)の歴史と併せて、なかなか興味深く面白いスポットであるのだが、詳細はまたいつか機会があったら。
ところでわたしが気になっていたのは、あの石柱をだれがいつどのような理由によって建てたのか、ということだ。休日の今日、さっそく図書館へ行って調べたところ「生駒市誌」の「資料編1」の51ページから82ページにかけての章にその答えがあった。それによると大正3年、ナガスネヒコの本拠地であると伝承される「鳥見」(現在の「登美」)の人々が郷土の伝承保存を目的として「金鵄会」なる会を発足させた。その会の発行した「金鵄発祥の史蹟考」という小冊子の中に「饒速日墳墓の所在」と題して今回の墳墓「制定」の記述が見られるので、この頃にこれら地元有志により建立されたものではないかと推測される。参考までにその項の全文をここにあげておく。この中で墳墓はかつて「山伏塚」と称されていたことが記されている。
□資料
■金鵄発祥の史蹟考
□ 饒速日墳墓の所在
白庭山舊墟の白谷に存すること上述の如くなれば則ち饒速日命の墳墓も其域内に存すべきこと疑を容れず、大和國陳迩名鑑圏に大字上(北倭村)なる眞弓山長弓寺境内を以て白庭山の舊墟と為し同寺境外眞弓塚を以て饒速日墳墓と為せるも眞弓塚は聖武天皇神亀五年三月御猟遊事の際真弓長弓なるものを葬らせたまへる墳墓にして真弓山長弓寺は即ち真弓長弓の非命に死するを憫みたまひ僧行基に勅して門剏せしめられし寺院なれば饒速日事蹟と相関するものあることなし、唯々真弓塚なる名稱が饒速日の遺物葬劔と偶然の暗合あるを以てしかく想像せる臆説に過ぎず確たる根拠あるに非るなり、今白谷の地を検するに四圍の山嶺其尤も高峻なるを檜窪山といふ即ち白庭の西南に聳えて近くは鳥見一郷の村落山野を脚下に俯瞰し遠くは大和平原及び近畿諸山を指呼するを得。蓋し鳥見郷の主山にして其西麓には南田原村社岩船明神、(今按ずるに其祭神は饒速日命なれども明治維新の際誤って住吉神社と称するに至れり、蓋し岩船明神の奮舊稱を誤解して之を船舶守護の住吉大神なりとし遂に今日の社名に改められたるなり)及び社頭の古刹岩藏寺あり(今按ずるに岩藏は磐座の借字にて神明鎮座の義なり而して其本尊毘沙門天王、王妃吉祥天女、王子禅膩師童子の古像三躯は饒速日父子及び御炊屋姫の本地仏として安置せしものならむ)而して桧窪山の山嶺には山伏塚と稱する古墳を存せり、其形状は片石を推積して圓家を成し苔蘇蒼白にて二千数百年以前の古塚たること疑を容れず、其名稱山伏塚は山主塚の訛音にして白庭山の故主饒速日の墳墓たることを推知するに足れり、則ち旧事紀に見ゆる登美白庭の墳墓は之を措きて他に求むべからざるなり(鏡速日墳墓の史書参照)
□ 檜の窪塚 ーー 山伏塚
仝所大字上字平井千八百八十二番地に在り「饒速日命の墳墓」と傳へ今石標を建つまた「やまぬしづか」の訛か
金鵄発祥の史蹟考・池田勝太朗(金鵄会代表)
生駒市誌・資料編1(第二章 神話時代の生駒)より
■ニギハヤヒは大和の国魂
・・・天子様は倭を治めるには、倭の魂を御身體に、お付けにならなければならない。譬へば、にぎはやひの命が、ながすね彦の方に居た間は、神武天皇は戦にお負けなされた。處が、此にぎはやひの命が、ながすね彦を放れて神武天皇についたので、長髓彦はけもなく負けた。此話の中のにぎはやひの命は、即、倭の魂である。此魂を身につけたものが、倭を治める資格を得たことになる。 此大和の魂を取り扱つたのは、物部氏である。ものとは、魂といふことで、 平安朝になると、幽霊だの鬼だのとされて居る。万葉集には、鬼の字を、ものといふ語にあてて居る。物部氏は、天使様の御身體に、此倭を治める魂を、附著せしむる行事をした。此が、猿女鎮魂以外に、石上の鎮魂がある所以である。
折口信夫/『大嘗祭の本義』
□MAP
MapFan Web http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E135.42.53.1N34.42.49.1&ZM=9
テニスコート左奥からコートの北東角へ
「火の用心」にマジックで書かれた“白庭”も道標
最初の白の鉄塔
紅白の鉄塔が見えたら、右手の林の中に石柱が見える。
□参考サイト
そば楽 http://www3.kcn.ne.jp/~s-heads/dog/deep/raku.html
ニギハヤヒの墳墓 http://www1.kcn.ne.jp/~ganes-z/image/nigihaya.html
ニギハヤヒの正体 http://www2.odn.ne.jp/hideorospages/yamatai09.html
古代史の復元 > 三輪山信仰の始まり http://www.geocities.jp/mb1527/N3-12nigihayahinosi.htm
先代旧事本紀 http://apricot.k-office.org/kujiki/?do=stats
先代旧事本紀 巻第五 天孫本紀 http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/sendaikuji_5.htm
宝山寺 http://www1.kcn.ne.jp/~hozanji1/
宝山寺(生駒新地)を応援をするサイト http://www.ikoma-e.net/ ←18禁だよ、念のため。
2006.11.17(ゴム消しより抜粋・加筆)
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