'85年の「Empire Burlesque」以降のディランは
'89年の「Oh
Mercy」をつくるまで、どうもアルバム制作に意欲を失っていたというか、なかばアルバムなんてどうでもいいやという感じであったように思われます。アルバムなんぞ、ツアーの合間にこなす契約のためのやっつけ仕事のようなもの、と。ですからこのアルバムも前作「Knocked Out Loaded」と並び
'80年代の低迷期を象徴するような作品と、ちまたの評価はもっぱら芳しくありません。
全10曲中にグレイトフル・デッドの作詞家ロバート・ハンターとの共作が2曲(
Ugliest Girl In The World、Silvio
で、どちらもハンターの詞にディランが曲をつけたもの)、そしてディラン自身のオリジナルの他の2曲も、Death
Is Not The End は「Infidels」からのお流れテイクだし、Had
A Dream About You, Baby はかの駄作映画「Hearts Of
Fire」のサントラ曲に若干手を加えて再収録されたもので、あとはすべてカバー曲。
もともとディランのレコーディングは短期間にその場の雰囲気をつかみ取る一発録りのライブのような方法で、そうして数々の名作が生まれてきたわけですが、この頃は切れ切れの断片を寄り集めて一枚のアルバムにしたという感が否めず、アルバム全体のいつものシャープな息遣いが伝わってこないし、曲自体の個々のインパクトもチト弱いかな、と。
しかしこのアルバム、ボブ・ディランという虚飾に満ちたペルソナを拭い捨て虚心坦懐にもう一度聴きなおしてみると、素朴で等身大の素直な歌声が響いてくるアルバムだということが分かります。意外とこの肌触りが悪くない。神秘のベールをまとった伝説は何もないけれど、老いを自覚し始めた農夫が日曜にいつものように教会へ行って祈りを捧げるような、そんな朴訥としたぬくもり。傑作ではないが傑作にはない親しみを感じる、そんな肩の力がふっと抜けた作品集のように感じています。少なくとも、ディランはここで自分を欺いてはいません。
このアルバムからじんわりと透けてくる感情はずばり、不倫と疎外感、です。中年男女の危険な逢瀬を歌ったNinety
Miles An Hour (Down A Dead End Street) (“時速140キロで行き止まりの道を突っ走る”)を、ある日ラジオで「イカしてる!」と言いながらブルーハーツのマーシーが流し、「不倫の歌をいつかディランに歌って貰いたいと思っていた」と雑誌のエッセイで友部正人が書いていました。
またこの頃からディランがステージでたびたび歌ってきた
Ricky Nelson の Lonesome Town や Ray Charles の That Lucky
Old Sun
のようにこの世でないどこか-----彼岸への予兆に満ちた悲痛な
Rank Strangers To Me
。どちらもオリジナル以上にディランの真情が吐露された演奏で、ネイティブ・インディアンを歌ったシンプルな
Shenandoah
をはさむ後半のこれら3曲を通して聴く瞬間が、私はいちばん好きです。
このアルバムが出た頃、遊びに来た長年の友人がたまたま流れてきた
Silvio
に耳をすまし、「まだ、死んでないな」とひとこと呟いたのをなぜかよく覚えています。この曲で登場するマンドリン(?)のプレイや、それにアルバム全体で使われている
Staple Singers
のようなディランの歪んだギターの音色もなんか好きだなあ...
公式のアウト・テイクはありませんが、発売直前に別の2曲と差し替えられたというシンプルなリフの
Got Love If You Want It と、オーソドックスなバラッドの
Important Words が海賊盤で出回っています。また Sally Sue
Brown
で、スティーブ・ジョーンズとポール・シムノンというセックス・ピストルズ
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クラッシュの意外なゲスト参加があるのも面白いところでしょうか。