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 先日、大阪天王寺・統国寺で行われた「在日本済州四・三 74周年犠牲者慰霊祭」(YouTube配信)に参加した崔相敦(チェ・サンドン 최고상돈)さんの歌が気に入って、あとでYouTubeでかれが済州島 事件の虐殺現場で演奏する姿などを見たりしていたのだが、たまたま日本語訳の付いたCD「崔相敦の4・3巡礼音楽 歳月」を販売しているという東京の出版 社のブログを見つけた。これはぜひ欲しいとメールをしたもののリターンでもどってきてしまう。よく見ればそのブログも2017年を最後に更新が途絶えてい るのだった。そのあともあれこれ探してみたが、崔相敦さんのCDに関する情報はどこにも見当たらない。仕方なくダメもとでと、先に郡山紡績めぐりに参加し て下さった大阪のカンさんに「もし何か情報があればいつでもいいので・・」と依頼したところ、あーた。カンさんは慰霊祭で弔辞を述べていた遺族会代表の方 の連絡先を探し出してくれて、そしてあーた。とうとう崔相敦さんご本人に電話をして、「あなたのCDを欲しがっているヘンな日本人がいるのだが」と伝えて くれたのであった。しかもさらにあーた。崔相敦さんは現在、子どもが生まれたばかりの奥さんの実家がある日本(大阪)へ来ていて、明日のウトロ平和記念館 のイベント、劇団タルオルムによるマダン劇のためにウトロへやって来て何曲か歌う予定であるという。もしよければCDはそのときに持って来て、直接渡して くれるという。そんな段取りがすでに出来上がっていて、「どうしますか?」と電話口でカンさんは言うのだが、行かないわけにはいかんだろ。それでもともと は5月4日の安聖民さんのパンソリを見に行くつもりにしていたのだけれど急遽、明日5月1日に予定を変更して、Web上で観劇の事前予約もあわてて済ませ たのであった。というわけでつれあいと予定していた奈良駅前のメーデーには行かれなくなってしまったが仕方ない。明日は雨模様だし、つれあいも数日前から 関節が痛いと言っているので、ちょうどよかったかも知れない。というわけで明日はウトロへ行ってくるぜ。

2022.4.30

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   「ウトロが放火されたって、ニュースで見たけど、ホンマか!」  うなだれる役者が指さす方を観客が仰ぎ見ると、半焼して無残な姿をさらしたほんものの 住宅が、雨がやみ陽がさしてきた空にうきあがっている。昨年8月、奈良に住む22歳の男性に放火され、倉庫や住宅7棟が全半焼した一帯はまさに今日、マダ ン劇「ウトロ」が開催されている広場――かつて朝鮮人学校があり、その後はウトロ住民の交流の場になった――のすぐ隣だった。「韓国が嫌いだった。日本人 に注目してほしかった」 逮捕後に、男性はそう供述したと伝わる。過去と現在が交錯する。現実とフィクションの境界が溶解する。まさにこのウトロという土 地に沁みついた歴史が立ち上がる。
 
 「ウトロ51番地」は京都府宇治市伊勢田町内の正式な行政上の番地である。元は「宇土口(うとぐ ち)」という地名だったが「ウト口(ぐち)」を「うとろ」と誤読されたのが現在のウトロの始まりだともいう。近鉄・伊勢田駅から西へあるいて10分ほど、 南に陸上自衛隊大久保駐屯地が隣接する。この駐屯地に地元の反対を押しきって国策の京都飛行場建設が始まったのが1940(昭和15)年頃。現在のウトロ 地区に飯場がつくられ、多くの朝鮮人労働者が集められて従事した。日本の敗戦により1,300人もの労働者は失業し、捨て置かれた。朝鮮半島へ帰る術がな い者、帰る家がない人々は捨て置かれたその地で生きていかなくてはならなかった。飛行場を接収した米軍の立ち退き指示に抗い守った土地は、知らぬ間に国か ら払い下げられた企業間で転売され1989年、西日本殖産による「建物住居土地明け渡し」訴訟。2000年、最高裁が控訴棄却を決定してウトロ住民の敗訴 確定。そこから闘いは始まり、翌年に国連社会権規約委員会がウトロ問題に対する懸念と差別是正を勧告したのを皮切りに日韓によるさまざまな支援活動や運動 を経て、ウトロ民間基金財団および韓国政府財団によって地区内の一部土地を買い取り、市営住宅も建設された。日本の侵略戦争とその後の無責任な捨て置きに 対する人々の抗いの歴史がウトロにはぎっしりと詰まっている。それはそのまま、日本人であるわたしたち自身を合わせ鏡のように照射する。

  「ウトロ51番地」は長いこと、「民間企業の土地を不法占拠している」扱いだったために、上水道・下水道などの基本的な行政サービスからも排除されてき た。もともとの飯場は6畳一間(板の間)と3畳ほどの土間の一戸が、南北背中合わせの形で1棟12〜18戸が東西に十数棟並んだ長屋であった。廃材を組み 合わせたものだったために隙間風もひどく、冬は板の間に敷いた筵の上で寒さに耐え、夏は窓もないために暑さで眠れず、夜中まで戸外で涼んでから寝にもどっ たという。屋根は杉皮を乗せただけで雨漏りもひどかった。トイレは数軒でひとつを共有し、井戸の水は濁っていて砂などでろ過しなければ飲めず、雨が降れば 排泄物と混じって使えなくなった。また飛行場建設で土砂を運んだために周囲より低くなった地区内は台風などがあれば水が集まり、床上まで浸水した。そのよ うな状況下で必死に生きてきた人々を、国も府も市も、じぶんたちの管轄外だと捨て置きし続けたのであった。ちなみに土地の一部買い取りがなり、新たにつく られた市営団地や平和祈念館のような建物には現在、「ウトロ51番地」以下の数字(号)が振られるが、以前はウトロ地区内すべてが「ウトロ51番地」のみ であったために、宅配便やデリバリーサービスなどが各家の場所が分からず、配達を断られることも多かったという。

 そんなウトロの「記憶 と思いを伝えて未来へとつないでいくため」のウトロ平和祈念館が開館し、ウトロウィークと題したGW中のオープン記念企画のひとつ、劇団タルオルムによる マダン劇「ウトロ」を5月1日、先に郡山紡績ツアーへ参加してくれた大阪のカンさんホさんらといっしょに見に行った。ちなみにこの日はもうひとつ、スペ シャル企画。先の大阪・統国寺
で行なわれた「在日本済州四・三74周年犠牲者慰霊祭」(YouTube配信)で演奏をしていた崔相敦(チェ・サン ドン)さんの歌に感じるものがあったわたしは、それからYouTubeの検索でかれが済州島の虐殺現場で慰霊の曲を歌い続けているのを知って、さらに興味 を持った。Webで見つけたかれのCD「崔相敦の4・3巡礼音楽 歳月」(日本語訳歌詞付)は取扱いしていた東京の出版社もすでに連絡がつかず、もともと 韓国を拠点に活動しているらしいチェ・サンドンさんは日本ではあまり知られていないようである。ところが諦めかけていたわたしの相談を受けたカンさんが、 前述の慰霊祭での遺族代表経由でなんとチェ・サンドンさんご本人に連絡をとってくれて、ちょうど今回のウトロでのマダン劇でかれが劇中歌を歌う予定だった こともあって、会場でご本人からCDを頂ける手筈になったのであった。人生はときどき、すばらしい。

 近鉄・伊勢田駅でカンさんと合流し て、ウトロ地区まであるいた。カンさんは再訪らしいが、わたしははじめてのウトロだ。ずっと以前から訪ねてみたいと思い続けてはいたが、機が熟していな かった。有限会社伊勢田工業の資材置き場の敷地に「ウトロ51番地」を謳ったブルーの立派な案内板が立っている。そこをすぎれば間もなく左手に、再開発の 広大な空き地とまだ残されているウトロ地区の旧家屋が見えてくる。市営住宅が完成してほとんどの住民は浸水の心配がない団地へ引っ越したのだが、やっぱり もとの家がいいともどった人も何人かいるそうだ。カンさんの先導で地区内へ足をすすめる。さいしょに見えてきたブロック塀の奥の雑草が生い茂った小屋の廃 墟。ここは豚を飼っていたところですよ、とカンさんがおしえてくれた。そこから路地へひょいと入り込むと、黒焦げのまま直立する柱、ねじまがった鉄材やト タン、足もとのもろもろの残骸たち。そこが昨年8月に22歳の心ない男性によって火をつけられ、焼け落ちた倉庫や住宅7棟が全半焼した一帯であった。「国 家」という暴力によって翻弄され、それでも負けるまいと必死に抗ってしがみついて生きてきたささやかな家が、いまだ続く理不尽な悪意によって燃やされる。 京都の朝鮮人学校の生徒や先生たちに罵詈雑言を浴びせ、移転を余儀なくさせたのもおなじ炎であった。わたしたち日本人の内に宿る理不尽な炎だ。

  それから東に位置するウトロ平和祈念館へ向かった。東に市立西宇治中学校、南に陸上自衛隊駐屯地が隣接している。駐車場と緑の芝生を前庭にして、そこに一 部を移築再現したかつての飯場の建物が立っている。祈念館はシンプルな3階建て。1階はカフェスペースを兼ねた交流場所で、2階と3階が展示室である。朝 鮮人労働者の飯場はかつて全国あまたにあり、現在まで存続しているいわゆる朝鮮人集落もまだ多く残っているが、その「残りつづけた歴史」が記念館になった のはこのウトロだけだ。その理由は強制執行に抗いながら住民たちがつくったスローガンによく表れている。「ウトロは在日のふるさと / ウトロは反戦の記 念碑 / ウトロをなくすことは在日の歴史をなくすこと / ウトロをなくすことは日本の戦後をなくすこと / ウトロをなくすことは日本人の良心をなく すこと」  賢明な抗いによって、朝鮮人の人びとのためだけでない、わたしたち日本人を映し出す鏡ともなった。

 ウトロ地区の歴史を語る さまざまな展示パネルは見ごたえがある。途中まで要所要所を写真に撮っていたのだが、スタッフの若い女性に撮影は禁止ですと止められてしまった。個人の肖 像やアルバムなどもあり、心ない人たちが悪用することもあるのかも知れない。2014年に亡くなった在日1世の金君子(キムグンジャ)さんの居間を再現し たという展示があり、そこに腰かけている白髪の老婦人もパネルなのかと思ったら、カンさんがそのパネル女性と話し始めて、その人がこの平和祈念館の田川館 長さんだと知った。むかしのウトロでの生活をいろいろとおしえてくださって、それはパネル展示よりもいっそう興味深い。わたしは斎藤 正樹氏の「ウトロ・強制立ち退きとの闘い」 (居住福祉新ブックレット)に写真が載っていた、地区の入口にあるというお地蔵さんの場所が知りたくて質問したところ、わたしたちが見てきた豚小屋の横に かつてあったのが開発のために、記念館の裏手の公園へ移設されたと教えてくれた。いつからあるお地蔵さんかと訊けば、戦争中にだれかが風水で集落の位置が よくないのでここにお地蔵さんを祀ったらいいと言い出して設置されたものらしい。あとで見に行ったけれど、まるいふたつの顔を白いペンキで塗り、そこに男 女の目鼻口などを描いた素朴なお地蔵さんで、どことなく半島の風情がある。展示パネルにはお葬式の写真などもあったので、もうひとつ訊いてみたのは、ウト ロの人たちのお墓の場所であった。じつはグーグルマップでウトロ地区の北に伊勢田の共同墓地があるのを見つけたので、ひょっとしたらそこかも知れないとも 思ったのだが、田川館長さんの話では特に決まった場所はなくて、個人個人で京都・東山の霊園に墓をこしらえたりといったものだそうだ。ひょっとしたら伊勢 田の墓地は使わせてもらえなかったのかも知れない。

 祈念館の展示を見終えた頃に、カンさんの携帯にチェ・サンドンさんの奥さんからウト ロ到着の連絡が入り、カンさんと二人でマダン劇が行なわれる広場へ向かった。先程の放火事件の現場のすぐ横で、「エルファ」という名称の生活総合センター やデイサービスなどが入っている二階建ての建物が向かい合っている。むかしから屋外での焼肉などで地区の住民たちの交流の場所であった。チェ・サンドンさ んご夫婦は今日の楽屋である「エルファ」のなかから出てきてくれ、まずはお願いしていたCDをプリントアウトした日本語訳詞と共に手渡してくれた。それか らわたしたちは劇団タルオルムの人たちが最後の練習をしている広場のすみに立って、すこしばかり話をした。13も年下という奥さんは生後3カ月の赤ちゃん を抱いている。奥さんはもともと大阪生まれの在日で、小学校の先生をしており、たまたま済州島で長期滞在をした折に知り合って結婚することになったとい う。「でも、かれの歌に惹かれたわけじゃないんですけど。歌はべつに良いと思ってなくて・・」なぞと言う。チェ・サンドンさん自身はわたしより3つ下、一 見すると精悍な兵士のような面持ちだけれど、物静かで、少々はにかみ屋のようなナイス・ガイであった。チェさんは日本語はあまり得意ではないようで、奥さ んやカンさんが通訳に入ってくれた。かれの音楽を知ることになった経緯、そしてじぶんも日本国内での不合理な朝鮮人の人々の死の現場を巡っているので、あ なたが済州島の虐殺現場で歌を歌い続けていることにとても共感するといったようなことを伝えてもらった。虐殺現場などではどういう気持ちで歌っているの か? とわたしに問われ、チェ・サンドンさんは、死者に向かって歌っている、と答える。なにかリアクションはあるか?と訊くと、そのような場所で歌ってい ると、またつぎのインスピレーションが思い浮かぶ、と言う。チェ・サンドンさんご夫婦は日本の朝鮮人殉難の場所も訪ねていて、生駒トンネルや屯鶴峯のこと も知っていたし、最近は金沢陸軍墓地の尹奉吉(ユンボンギル)の暗葬の地も訪ねたという。劇中歌を歌うチェさんは劇団の練習を見始めたので、あとは日本語 の達者な奥さんから「どうして朝鮮人のことに興味を持つようになったのか?」と訊かれて、熊野山中の紀和鉱山で見つけた「英国人兵士の墓」(じつは炭坑で 死んだ朝鮮人 労働者の埋葬地だった)の看板の話などをしたのだった。

  マダン劇の始まりまで一時間半ほどあり、それにわたしたちはまだお昼を食べてい なかった。カンさんが、遅れてきて祈念館の展示を見ているホさんを館内に探しに行っている間、わたしは受付の女性スタッフにランチの場所などを訊いたが 「この辺はなにもないんですよねえ」と困ったように苦笑する。カンさんは大久保駅まであるいていこうと言うのだが時間がぎりぎりになりそうだ。グーグル マップではウトロ地区の近傍、西へ10分ほど歩いていくと地元のうどん屋さんなどが数軒あるようだから、そこへ行ってみようということになった。あえて店 名は書かない。昼時もとうに過ぎて、店内は若い男の子が二人いるだけだった。老夫婦で営んでいるらしい住宅街のその小さな店で、わたしたちはうどんやそ ば、そして丼ものなどを頂いた。ところが給仕役のおばちゃんの接客態度がひどかった。なんというか、表面は便宜上ていねいな物言いだが、すべてに面倒くさ げなリアクションで、腹の底で軽い嘲りを抱いているような、そんな感じなのだ。たとえばわたしがカンさんたちにメニューを説明している間にわたしの手元に 湯呑を置いていったものだから知らず倒してしまい、あたりを濡らしてしまった。そのときの如何にも迷惑そうなリアクション。そのあと長いこと空っぽの湯呑 が放置されていたので、わたしがじぶんで薬缶のお茶を入れにいったところ、「コロナだから、やめてくださいね。そーいうの」というにべもない警告。その他 にもいろいろあるが、まあ、やめておく。わたしはこれまで、そんな店にほとんど出会ったことがない。わたし一人だったらおそらく怒って店を出たはずだが、 カンさんたちの手前もあり我慢した。そしてひょっとしたらだけど、このおばちゃんは「ウトロ地区に対してあまり良い感情を持ち合わせていない」類の人なの かも知れないと、わたしは思ったのだった。そうかも知れないし、わたしの考えすぎで、おばちゃんはたんにそういう性格なだけなのかも知れない。ウトロ 地区の周辺でウトロ(朝鮮人)をこころよく思っていない人がいるのは悲しいが当然だろう。もしおばちゃんがそうだったのだとしたら、カンさんたちのような 日本にいる朝鮮人の人たちは、少なからずそういう目に会っていて、日本人であるわたしたちにはそれらは大抵気がつかない。一見ていねいな物言いの裏の悪意 は言語化しにくいのだ。そんなことを一人、考えていたのだった。

  近場で昼を済ませたお陰で、劇の始まりまでまだ30分以上もあったが、早めに席に着いていてよかった。120席限定の予定が、当初の雨予報にも関わらず 130人もの観客が集まり、立見のお客さんも出るくらいの盛況だったからだ。昨日までは100%雨予想だったが、昼からは止み、いまは青空も見えかけてい る。マダン劇というのは広場(マダン)で行なわれる劇のことで、舞台とは異なり円形の広場をおなじ平面で観客が取り囲みながら、ときに演者が客を巻き込ん で共に演じてもらったり、観客がやじをとばしたり、全体が混然一体となって進行するのが持ち味という。わたしも後半、女性の役者さんからリボンとサインペ ンを渡されて中央に置かれた鉢の枝に祈りの言葉を記したリボンを結びにいったのだった。劇はウトロで生まれ育った少年が母や祖母に見守られながらウトロの 歴史と共に成長していく様を描いたものだ。シンプルといえばシンプルなストーリーだが、祈念館で見た展示や田川館長さんに聞いたむかし語り、そして実際に 見てきたいまも残るかつての建物の廃墟や無残な焼け跡などが、かれらの演技に肉づけされて共に躍動し、まるでこのウトロの大地からたちのぼる歴史の渦のよ うにも感じられる。わたしは、ここへきてよかったと思った。今日このウトロの地で、この狂おしい歴史の渦を共有できることが心地よかった。劇中歌で登場し たチェ・サンドンさんは「ここはわれわれが生きて、生きて守る場所」と歌った。まさにウトロはそのような場所であった。日本人のわたしたちが生きるために も、守らなければならない。見えない未来を見るために、過去と共に生きてゆく場所がウトロであった。

  マダン劇が終わった。ウトロでの一日が過ぎた。わたしは何だか、一人になりたくなった。それで「エルファ」の前の方で劇団の人たちと話し込んでいるカンさ んを遠目に、ホさんに「ちょっと見てきたいものがあるので、今日はここで」と挨拶をしてウトロ地区を後にした。向かったのは来るときに伊勢田駅の改札前の 案内マップで見た伊勢田の共同墓地と伊勢田神社だった。伊勢田墓地は棺台の前の古びた六地蔵と南無阿弥陀仏の名号碑がよかった。墓地の奥に整列した軍人 墓のエリアがあった。そのなかに「海軍軍属 〇〇智恵子」と、一人だけ女性の名前が刻まれている墓を見つけた。彼女はこの伊勢田から女子挺身隊として 1944(昭和19)年5月1日に呉の海軍工廠へ赴き、そこで翌年の6月22日の空襲で亡くなったのだった。享年20歳だった。彼女の墓前には真っ赤な名 前の知らない花が添えられていた。わたしは手を合わせ、しばらくその墓前に佇んでいた。叢(くさむら)のなかの石ころだけの墓もいくつかあった。それから 伊勢田神社を見て、長い参道を通り抜け、電車に乗って帰宅した。犬の散歩をして、夕飯の支度をして、食べて、風呂に入ったら、なにやらひどく疲れていた。 ふだんより早めにベッドに入り、チェ・サンドンさんに頂いた「崔相敦の4・3巡礼音楽 歳月」をiPhoneに入れて日本語詞を読みながらイアホンで聴い た。死者たちが語る声を聴きながら、身体をふるわせながら、知らず眠った。受けとったものは重い。「黒いアスファルトの滑走路の下に / 50年前 理由 もわからないまま生き埋 めにされて一度死に / 土地を掘り返され バラバラにされて二度死に / 滑走路に覆われて三度死に / その上を恐竜の始祖鳥が爪で引っ掻き飛び上が るたびに また死に / 重い機体で踏まれるたびに また死に / そのたびに粉々に砕けた骨の音が聞こえる」(ジョントゥル飛行場・金秀烈詩)
2022.5.2

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   マダン劇がマダン(広場)に於いて観客と交感する芝居であるように、パンソリとは「パン(場所)」に於ける「ソリ(歌=この世のあらゆる音)」を意味す る。安聖民(アンソンミン)さんはそれを「おおぜいの人が、おなじ目的のために、必要な過程を経て、ひとつになる場所」と説明する。そして、まさにウトロ はそのような「パン(場所)」にふさわしい、と。ウトロ平和祈念館、UTORO WEEK。今日の演目は以前、大阪・靭公園近くで聴いたものとほぼ同じであったが、観客のノリが違う。アンコールのアリラン。オモニたちが舞い乱れる。中 上健次の路地のオバたちのように。

(ふたたびのウトロ平和祈念館、ウトロウィーク企画で安聖民(アンソンミン)さんのパンソリを聴く)
2022.5.4

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   柊茶とコーヒーのある叙景。あるいは新緑の、予感に満ちた庭でマルティーニの「彫刻、死語」をめくる。

・・大切なのは、啓示を受けて入り口に到達することである。

アルトゥ ロ・マルティーニ「彫刻、死語」

2022.5.5

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   「戦争産業戦士」という表現は墓石でははじめて見た。軍人墓の方錘形でなく、ふつうの墓石だったのでいままで気がつかなかったが、無 縁墓の入 口に並んでいた。呉の工廠造船部だったらこの頃、ガダルカナルから生還して江田島の海軍兵学校にいた祖父も近くで生きていたかも知れない。いろんな生があ り、いろんな死があり、不思議なめぐり合わせでからまった糸のようにそれらが交錯する。夕方のジップ散歩。今日はひさしぶりに紡績工女・宮本イサちゃんの 墓に挨拶をしてきた。シロツメグサの花束を彼女の黒い髪に挿してあげた。「すべてのものは、わたしたちが巡礼者であることを示し、すべてのものはわたした ちが異境の地にいることを語らなければならなかった」 西日が土を植物を墓石をあらゆるこの世のものを燃え上がらせている。わたしたちはその高揚のなかに いる。主よ、あなたのさだめはわたしの旅の仮屋でわたしの歌となりました。

※来世墓にて「昭和19年3月8日 / 大東亜戦争産業戦士トシテ / 呉工廠造船部ニテ病死」
2022.5.6

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   せっかくのチャンスだからさ、自衛隊の武器も車両も艦艇もこの際ぜんぶ、戦争好きのゼレンスキーに呉れてやって、憲法9条の「陸海空 軍その他 の戦力は、これを保持しない」をいままさに達成しようじゃないか。「国際社会」にも絶賛されるだろうし、こんなチャンスは滅多にないぜ。
2022.5.7

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   連休前のバッドタイミングで発見された庭の立水栓の水漏れ。当初はDIYでみずから既存水栓にカバーをつけて蛇口も延長パイプでつな げたあた りかとパッキンも取り換えシールもやり直したのだが治らず、そのままGWへ突入。やっと今日、市内の地元業者さんが来てくれて、午後はほぼその立ち合い で。立水栓の下が怪しいということで横手を掘り、水をかき出し、さらに排水側の石やモルタルもはつって、給水の繋ぎ手が現れた。止めていた元栓を開けれ ば、やはりそこから結構な水流が。パッキンを交換して、完了。じっくり見ていたので、次回(十年後?)はじぶんでやれそうだ。訊けば、このようにパッキン をかましているのは屋外のこのような立水栓くらいで、屋内に関してはせいぜい蛇口などの取り付け部分くらいしかないとのこと。怪我の功名というわけでもな いが、恰好つけて洞川源流からくすねてきた自然石をぐるりに配置したら蛇口の真下にバケツなどが置けなくなってしまっていたので、これ幸いと、石はもどさ ずにそのままフラットでモルタルを固めてもらった。また十数年後のメンテナンスでもその方がいいしね。わたしよりやや若いと思われる感じのいい職人さんは DIYも興味があるそうで、わが家のガーデンハウスをとっくり見学して「いいなあ、いいなあ」と言いながら帰っていきました。あ、冷蔵庫の冷たい飲料を 持って行ってもらうの、忘れた!
2022.5.7

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  「198通りの方法は、広く知られています。驚くほどの反響があるようです。単純に、具体的な攻撃方法が書いてあります。たとえば大規模な不買運動や、政 府の命令や法律への市民的な不服従、それに抗議行動などです。これは軍事力にも匹敵しますが、軍隊とは違う銃や爆弾を使う闘争です」

「政 府の権力の源(みなもと)を特定することができれば、独裁政権が何に依存しているかが分かります。それは何らかの政党制だったり、大衆の支持かも知れませ ん。政府が市民の服従や、組織の協力によって成り立っているとすれば、やるべきことは極めてシンプルです。政府から、そういった権力の源を奪えばいいので す。そうすれば政権を弱体化させ、倒すことができます。」
(ジーン・シャープ)

 じぶんの立ち位置はだんだん明確になってきた気がする。

 素朴な主戦論者は「武器を取って国や国民を守る」と口々に 言うが、それで実際に国や民を守れているといえるのか?

 残念なが ら、僕にはまったく守れているようには見えない。

 というより、「武力は民を守るための 有効な解決策ではない」ということを、ウクライナの惨状は、むしろ明らかにしてしまっているように思うのだ。
(想田和弘)

2022.5.8

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  明日、つれあいと娘が和歌山へ行くにあたって、手土産にたねやのバームクーヘンを本日到着予定でWeb注文していた。ところが昨日の時点でたねやから「商 品発送の手配を完了しました」のメールが届いているにも関わらず、記されたクロネコヤマトの伝票番号で検索しても「未登録」のまま。今日中に受け取れない と困るので、朝8時半頃にヤマトのコールセンターへ電話してみた。「24時間受付」をうたっているが、まず音声ガイドで「電話が混雑しているので、チャッ トは如何か? チャットなら1番を押してくれ」と言われる。無視しているとやっと「2番」の電話対応が提示されて「2」を押す。質問内容による選択があ り、「その他」の3番を押すと、結局「電話が混雑しているのでチャットで質問して欲しい」とアナウンスが流れ、電話が終了する。仕方ないのでもういちどか け直してチャットを選択すると、ショートメールでリンクが送られてきてチャット会話が始まるものの、スマホの画面で苦労して事情を入力して送信すると、あ まり役に立たない案内画面が出て、(この情報は)「役に立たなかった」を選択すると、「申し訳ありません。今後の改善の参考にさせて頂きます」みたいな文 字が出て、チャットは終了する。このあたりでわたしはそろそろいらついてくる。この「24時間対応」の衣をかぶった非対応の無限循環システムはいったいど うなっておるのだっ! 腹を据えて根気よく電話を繰り返すと、やっとオペレータにつながったので事情を説明すると、「未登録ということは、ヤマトの事業所 にまだ荷物が届いていないということなので、発送元にご確認下さい」との返答。げ、まだ滋賀県を出ていないのか、これは確実に間に合わぬではないか。出勤 間際のつれあいに報告して、間に合わなかったら近所にでも配るかしかない云々の会話をする。たねやの電話対応は10時から。ほんとうは朝から自転車で出か けたかったのだが、仕方ないので10時まで待機し、10時になった時点で念のためとヤマトの「荷物お問い合わせシステム」で再度検索をかけると、むむ、 「配達中」と出るではないか! 市内のセンターで6:24の時刻が載っている。8時半の時点で存在しなかった6:24の情報が10時に忽然と出現したの だった。執念深いわたしは再度、ヤマトのフリーダイヤルに電話攻撃をかけてオペレーターを呼び出した。「これはどういうことなのか?」と問えば、「何らか の事情で情報があがっていなかったものと思われます」 「でも、それはヤマトさんの方の事情ですよね? ヤマトにはまだ荷物が来てないから発送元に確認し てくれって言われたんですけど、実際は間違っていたわけですね」  「いえ、間違いというわけではなく、未登録と出る以上はわたしどもとしてはそうお答え するしかないわけでして・・」  「いやいや、今日の8時半の時点ですでにうちの近所のセンターまで来ていたのに、ヤマトではまだ荷物を預かっていないと 言われたんですよ。どうみても間違いじゃないですか」 「・・はい、間違いですね。申し訳ありません」  そんな禅問答のようなやりとりを繰り返したの ち、結局のところ、滋賀県側のセンターが「預かった」という情報をあげていなかった可能性が高いということになって(それも、はっきりそうだとは明言しな い)、そういう間違いもあるわけだから、未登録を杓子定規に「預かっていない」と判断するのではなくて、「確認してみます」くらいの対応があってもいいん じゃないか? と言うと「そうですね」と答えるので、「確認する手段はあるんですか?」と突っ込むと、「ないです」と答えるので、もうわたしはそろそろこ の不毛地帯からはオサラバしようという気になってくる。それで最後に、「もうこちらにバックしろとかは言わないんで、せめて今回の間違いの原因がどこに あったのかくらいは社内で確認して、改善を検討してくださいよ」と言うと、オペレーターの女性もやっとこの粘着質のオッサンから解放されるとホッとしたの か、最後だけすごくうれしそうな声に変わって「あの、ドライバーの携帯番号も分かりますが、お伝えしましょうか?」なぞと言う。「それはいま、こちらの PC画面でも確認してるので、いまから電話してみます」 長々とありがとうございました、と礼を言って電話を切ったのだった。
2022.5.8

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  今夜は金芝河を偲んで。20代で買ったかれの詩集は、たしか神保町の「アジア文庫」だった。それはそのまま、20代のわたしの寄る辺なき魂の風景だ。

歩む
張りつめた綱を歩む
右も左も天も地もみな
地獄だからこそ歩むのだ 他に道はない
こん畜生
他に道なく、綱渡りを歩むのだ
生命を足に掛けて空間に、生まれるとき からきまっていたのさ

見ろよ
鼓手さんよ
フラリ、フラリ、フウラリコ
見物人はできるだけ
多い方がいいんだよ、むろん
おれらは曲芸師、見物人はできるだけ
冷たいほうがいいんだよ、死んで
ばらばらになって、血を吐いたって笑わ さなきゃ、むろん
死はすばらしいものさ
ただの一度のことだから。

金芝河「綱渡り」から一部

※「1970年代の韓国の民主化運動の象徴として知られる詩人、金芝河(キムジハ)さんが8日、韓国・原州の自宅で死去した。81歳だった。関係者による と、長く闘病生活を送っていたという」(朝日新聞・5月8日)
2022.5.8

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   昨日、自転車で近場を散策して物産店で焼魚弁当を買って帰る道すがらのことだ。奈良盆地の南北の大動脈である国道24号線だが、たいていの部分は歩道は それほど広くはない。帰り道を北上していると、向こうから自転車に乗ったじいさんがやってきた。すれちがうのにちょっと窮屈かな、と思っていたら、じいさ んはわざわざ車道の方へ一時的に出てくれたので、こちらも「すみません」の意ですれ違いざまにぺこり一礼した。ところがすり違ったと思ったら背中から、 「ばかたれ! 気い使わすな!!」とじいさんの罵声が。一瞬、何を言われたのか分からず、3秒後くらいに理解して、5秒後くらいに腹が立ってきた。振り向 けばじいさんはすでに数十メートルは先だ。追っかけて行って文句を言ってやろうかとも思ったが、どうせそんなじいさんじゃ、まともな話にもならないだろう し、それに背中の焼魚弁当も気になったので、釈然としない気持ちを抱えたまま帰途についた。

 あとで、ヘイトクライムってのはこういうこ とに近いのかな、と思ったんだな。一方的に言われる理不尽な暴言、反論のしようのない状況。わたしが昨日、正体不明のじいさんに出合い頭に吐かれた思いも かけない暴言や罵倒に、たとえば在日の人たちなどは常にさらされ、怯えながら日常を送らなければならないような状況なのだろうと思った。出会い頭に投げつ けられる暴言は、その場でこらえてぐっと飲み込むしかない。追いかけて行って是非を質しても、さらに噛みつかれるだろうし、警察もそんなことにはいちいち 構ってはくれないだろう。世間は、ああ、チョーセン人がなんか騒いでるわ、とせせら笑って眺めているだけだろう。Web上の無責任なヘイトにも似ている な。薄笑いを浮かべた鵺のような不特定多数からの襲撃。そしてこの国は、ちょうど百年前に大災害でゆらいだ日常のなかで多くの朝鮮人をじっさいに嬲り殺し にしたんだからね。やられた方は忘れていないよ。

 京都の朝鮮人学校が「在特会」のメンバーらに取り囲まれ、ありとあらゆる罵詈雑言をハ ンドスピーカーでがなり立てられ、校内で子どもたちが怯えていた事件のルポを読んだとき、怒りと無力感でふるえたよ、おれは。じぶんがもしこの子どもたち の親や教師だったら、なにをしただろうか、なにができただろうか、と考えたらやるせなさで臓腑が千切れそうだった。「(住民が)日本に滞在することに対し て批判、非難を受けて当然ですよ、という意味を含めた。恐怖を与える意味といっても間違いない」 逮捕後にウトロ地区を放火したこの大和高田の22歳の青 年は云ったそうだが、やるんだったらいっそ米軍基地くらい狙えよ、この腐れチンコ野郎が。偉そうなことを言っても、てめえの弱さの裏返しのただの弱いもの いじめじゃねえか。

 すれ違いざまに「ばかたれ! 気い使わすな!!」と怒鳴って自転車で走り去ったじいさんはある意味、その場限りの 酔っ払いか狂犬に噛まれたみたいなもんだが、在日朝鮮人や被差別部落や障害者といった人々に対するヘイトは、それらの人々の「属性」に対して吐かれるもの だから、対象は見知らぬすべての「属性」を有する人たちだし、一回性ではなく連続する。先日、ウトロ平和祈念館へ安聖民(アンソンミン)さんのパンソリを 聞きに行ったとき、挨拶をした下記の記事にも登場する副館長の金秀煥(キムスファン)さんが「パンソリも素晴らしかったけど、それを見に来て下さったみな さんこそが、このウトロ平和祈念館のいちばんの宝です」みたいなことを言ったけど、おれはほんとうにその言葉にしびれたよ。同時に、かれらにそんなことを 言わせる、日本人であるじぶんの不甲斐なさが恥ずかしかった。

 京都の民団(在日本大韓民国民団)左京支部会館へ前田憲二監督の「神々の 履歴書」を見に行ったときも、集まったなかで唯一の日本人だったわたしはこちらが恐縮するくらい歓迎されたし、先日、郡山紡績で亡くなった二人の朝鮮人の 話を聞きに来てくれた宣教師のホさんはわたしに「朝鮮人のことを調べてくれてありがとう」とお礼を言ってくれた。おれたち不甲斐ない日本人には、かれらの あたたかい気持ちを受け取る資格なんか微塵もないわけで、そんな態度を示されるとほんとうに恥ずかしくて仕方がないのだけれど、結局のところ、言われなき 差別をなくすのはこうした一人びとりの顔の見える交流、ふれあい、人間関係を築いていくことしか、やっぱり始まらないんだろうな。かつてナチス・ドイツで は政権に抗う者たちが屠られ、障害者が屠られ、ジプシーたちが屠られ、そして大量のユダヤ人たちが屠られていった。言われなきヘイトは、確実にその一歩 だ。

 京都の朝鮮人学校でキチガイどものヘイトに怯える子どもたちを前に、いったいじぶんになにができるのか。臓腑を千切るような怒りと羞恥を感じながら、お れはいつも考えているし、答えはまだ見つかっていない。


京都ウトロ放火/上
ヘイトクライム認定を 16日初公判へ被害者側訴え
https://mainichi.jp/articles/20220510/ddn/041/040/002000c

京都ウトロ放火/下
私の体、燃やされたよう 地元出身弁護士「差別は人ごと」誤り
https://mainichi.jp/articles/20220511/ddn/041/040/022000c

「在日コリアンに恐怖を」男が語った動機と半生 ウトロ放火
https://mainichi.jp/articles/20220509/k00/00m/040/111000c
2022.5.11

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  もうさ、いっそのこと日本もNATO に加盟しちまえば、と書こうと思ったけど、「民主主義の成熟度」でひっかかって拒否されるんだろうな。なんせ報道自由度ランキング、世界71位だからさ。
2022.5.14

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  体調不良で母からまわってきたチケットを手に、近くの城ホールで行なわれた山下洋輔のコンサートを聴きに行って きた。山下洋輔、マンハッタンでのトリオ 演奏を収録したライブを一枚持っているが、じつはそれほど熱心な聴き手ではない。どちらかというとかつてのタモリや筒井康隆との交流、それに娘が小さい頃 に買い与 えた面妖な「もけら もけら」の絵本の方がいっそ親しい。ピアノ演奏もときおり耳にする機会はあったが、どこか焦点が合わないのだった。ステージに現れた 御歳80歳になる大御所は、まるで町で評判の腕のいい仕立屋さんといった風情で、この道60年、かれにまかせたらどんな人にもぴったりの服をあつらえてく れそうだ。ところが演奏が始まると、この仕立屋氏は忽ち未知の生命体(エイリアン)の巣を身にまとって成層圏へ上昇し、銀河にただよう巨大な雲のなかで音 が生物 のように光の明滅を繰り返すのであった。こんな光景をSF映画で見たことがある。前半はコロナ禍の巣ごもりならぬスタジオこもりで出来上がったという最新 作の自作曲を中心に、そして後半はジャズのスタンダード・カバーを中心に。曲の合間のトークも自然な人柄がにじみ出てそつがない。プログラムの最後はここ 十数年来、コンサートの締めくくりに演奏し続けているというボレロ、といっても只のボレロではない。これこそ山下洋輔のまさに面目躍如といったナンバー で、かつて危険地帯最前線だったタモリの芸や筒井康隆のシュールな小説世界が音の雲の合間から立ち上がる。この不可思議魔訶面妖な音の洪水にさらわれて、 わたしはついうとうとと短い夢を見た。夢のなかでわたしはシチューをつくっていて、材料の肉や人参やじゃがいもや玉葱や、あ、ピーマンも切ってしまった、 あ、車海老も切ってしまった、まあいいや、何でも入れてやれと鍋に放り込んでいたら、そのシチューが山下洋輔の不思議な音楽なのであった。シチューに焦点 がないように、かれの音楽にもそもそも焦点はない。腕のいい町の仕立屋職人は、じつは生活に根づいた遊びと諧謔と不思議なシチューづくりの名人なのでも あった。

山下洋輔 ピアノ開きコンサート(於:やまと郡山城 ホール)
1.コミュニケーション
2.ソート・オブ・ベアトリス
3.やわらぎ
4.竹雀
(休憩)
5.チェ二ジアの夜
6.Tea for Two
7.ピロリー
8.ボレロ
(アンコール)
9.On the Sunny Side of the Street
2022.5.15

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   コープから冷凍肉など届いて冷凍庫が満杯になったので、半額で買っておいた牛すじ肉を出して葱としょうがで下処理をした。のこった汁が勿体ないので、先 にすじ肉ちょっぴりを刻んで、あとは人参、玉葱、ジャガイモを放り込み、塩味メインで、胡椒、醤油ちょっぴり、バジルなどを加えて、これは今夜のスープ に。すじ肉の本体はいったん冷凍しておいて、近々赤ワイン煮などにする予定。朝からこんなものをつくっていたら、つれあいの同僚の、娘が小さい頃から借り た本をなんでも覚えているOさんが自転車で訪ねてきて、泉州の水茄子を3袋もくださった。これは牛すじスープとはちょっと違うから、お昼かな。今日はほん とうは朝から娘の脳外の定期検査で大阪の病院へ行く予定だったのだが体調不良で急遽キャンセル。つれあいは予定を変えて労働組合の会合へ。つれあいと娘が 洗礼を受けたカトリック教会の古参の信者さんが亡くなったと、つれあいのこれまた同僚の娘さんからLINEで連絡が入った。日曜のミサの際には白い服を着 て司祭の手伝いをする侍者(祭壇奉仕者)をいつも担っていた小柄で朴訥としたタイプの男性だったが、認知症になって人柄が変わり、暴力もふるうようにな り、あれほど熱心だった教会のことは一切語らなくなったという。小さい頃は父親に無理やり連れられ成人して教会へ行かなくなった娘さんは、「信仰って、 いったい何なんでしょうね」とつれあいに言ったそうだ。コロナだったのでお葬式もやらないのではないかと言っている。
2022.5.18

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  平山亜佐子「問題の女 本庄幽蘭伝」(平凡社)を読了する。スコブル面白かったが、面白いのは幽蘭の奇々怪々自由奔放八面六臂の足 跡であっ て、幽蘭に添い寝するのか遠くから眺めているだけなのか、作者がどこにいるのかという気がしないでもない。「その女性は、縦横無尽に移動を繰り返し、有名 無名の人とつながり、複数の宗教を渡り歩き、数多の職業に就いた。その意味では幽蘭を追うことで明治・大正・昭和のひとつの見取り図、裏面史が見えてはく るが、肝心の幽蘭本人はといえば、実は何も成していない。何の功績もないのである。(中略) では、何も成していない人の人生は見るに値しないのであろう か。いや、そんなはずはない。何も成していない人の評伝があってもいいではないか」  著者の平山はあとがきにそう記すが、家も仕事も男も生涯“一処不 在”をつらぬいて鮮やかにしたたかに見事に駆け抜けた幽蘭の生を「何も成していない」と記してしまうところに、著者の限界があるようにわたしには思える。 しかし著者が8年の歳月をかけて丹念に拾い集めた幽蘭の足跡を辿るだけで、やはりこの本はスコブル面白い。明治・大正・昭和の時代を、こんなはみ出しものの女性が走り抜けていったのだと思うと、知らず笑みがこみあげてくる。

 庭のジューンベリーの実が色づいてきた。今日も無為徒食。夜、YouTubeで John Dowland: Consort Music and Songs をかける。Rose Consort of Viols。しっくりくる。
2022.5.19

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  ジューンベリーの実を採り、ジャムをつくる。乾燥させたアップルミントの葉を粉末にする。庭のどくだみを洗って乾燥ネットに放り込む。 Webで和歌山の天王新地を知り、いくつか記事を物色する。明治からの私娼窟という。上官の命令で民間人を射殺しウクライナで裁判にかけられているロシア 軍の兵士が「罪を認める、どうか許して欲しい」との報道。丸刈りの21歳はまるで子どもに見える。子どもでも人を殺せるし、「国家」は子どもですら殺人者 に仕立てあげる。アリランを歌いながら、どこかへながれてゆこうか。「国家」を抗い、「国家」を逃れて。
2022.5.20

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  城跡で毎年開催される工芸作家たちのイベント「ちんゆいそだてぐさ」へ母と家族三人で行く。娘は地元箕山町の作家のひょうたんでつくったカ リンバを買う。カリンバとはアフリカ・ジンバブエのショナ族古来の楽器でムビラとも云い、本来は先祖の霊やスピリット(精霊)との交信のために演奏される ものだそうだ。YouTubeでジンバブエのアーティストの素朴な演奏を探してあれこれと聴く。向こう側の世界との交信は朴訥なメロディの絶え間ない反復 であった。現代人であるわたしたちの悲劇はこの一見単調な反復に耐えられないところにある。夕食後、娘と二人で明日の子ども食堂のために図書館へ行き、 20冊近くの絵本を借りてくる。リクエストしていた布施祐仁「自衛隊海外派遣 隠された「戦地」の現実」(集英社新書)が届き、読み始める。
2022.5.21

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  3回目の子ども食堂。つれあいは早朝7時から弁当の仕込みに行く。わたしは昨日につづいてまた熟れ出したジューンベリーの実を採るため脚立 にまたがる。昨日の倍の800グラムの収穫。11時からわたしと娘も子ども食堂に合流する。今回は社会福祉協議会の体育館でバトミントンなどもあそべる。 徐々にやってくる家族も増えてきた。ナルニアの顔のある樹木を黙々と描いている少女。中学を不登校になったそうで、一言も話さないが帰るわけでもない。つ れあいにべったりのスタッフの娘さん。娘は年下の友だちができて愉しそうだ。協議会前の駐車スペースがわずかなので、満車になったときに向かいの駐車場へ 振れるように案内を持って入口に立つ。予約の数が合わない、弁当が足りない、云々で受付が混乱する。弁当を取りに来た車が別の事故対応でやってきたパト カーと接触してさらに警察車両が増える。駐車場からもどって娘の様子を見に行くと敷物を敷いて並べていた本が、食事スペースが足りなくなって急遽Kさんが 敷物を持って行ったとのことで、ソファの上に乱雑に積み上げられているのを見て、娘が一生懸命選んできた本がこんな扱いを受けるなら最初から読み聞かせな んてやらなきゃいいんだと思わず激昂してあちこちに文句を言いKさんにも文句を言い、ひとり先に帰宅してどうせおれは社会活動などそもそも不似合いなのだ と開き直ってリヴィングのソファで不貞寝する。あとで帰ってきた娘から、わたしがさんざ当たり散らしたNさんが「じぶんの子に無関心な親も多いのに、〇〇 ちゃんのお父さんはほんとうに娘思いだね」と言っていたという話を聞き、「お父さん、ありがとう」とうれしそうに言われて何やら拍子抜けする。
2022.5.22

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  ベリー類の果実をしぼってつくる「サフト」はスウェーデンの保存飲料だそうで、ヴァイオリン奏者の熊澤洋子さんからおしえてもらった。サフ トに関するWeb上での情報はすくなく、各家庭によってもつくりかたは様々なようだ。ことし、庭のジューンベリーは初日が400g、二日目の昨日が 800gほど採れて、どちらもジャムにした。洗った実の1/3の量の砂糖をまぶしてしばらく置いてから鍋で煮て最後にレモン果汁を入れる。丁寧なやり方で は裏ごしをするのだろうが、わが家では種もそのまま残していて、それはそれで野性味があってよい。ただ毎年リッツといっしょに持って行くつれあいの職場で は種が苦手の人がいるので、別途に裏ごしをしたのもこしらえた。すっかり採ったと思ったのも束の間、一日経つとのこった実がもう赤く熟してきている。三日 目の今日も800g弱であった。これで娘が楽しみにしているサフトをつくった。800gの実に1リットルの水を入れて鍋で沸かし、しばらく煮て実がやわら かくなった頃に布で漉し、しぼった汁をふたたび鍋にもどして砂糖200gを入れて溶かし、熱いうちに瓶に入れてできあがり。水で薄めて飲んだり、牛乳で 割ったり、まだやったことはないが白ワインで割ってもおいしいらしい。これからの暑いシーズン、ベリーのさわやかなビタミンが喉をうるおしてくれる。こと しはこの搾りかすを水を加えてミキサーで攪拌し、牛乳と砂糖を加えて容器に分けて、冷凍庫に入れてみた。うまくいけばジューンベリーのシャーベットができ あがるが、さてどうなるか。

  午後、ハローワークでひとしきり求人票をながめてから、県立図書館へ移動したら月曜の休館日だった。そのまま自転車で大安寺から西ノ京あたりを所在なく走 りまわった。ウトロでチェ・サンドンさんと対面したとき、わたしもこの国の理不尽な朝鮮人の人びとの死の現場を巡礼していると韓国語に通訳してもらったの だが、あなたはいったいどういう人なのか? と問われたときに、わたしはいつもうまく返答できない。歌手です、済州島4・3事件の犠牲者を追悼する曲を歌 い続けています。ノンフィクションのライターです、戦前から現代までの在日朝鮮人史を追っています。脚本家です、戦前のこの国の暗黒史を舞台にしてきまし た。物心ついた頃からわたしはおなじ質問、たとえば徴用工問題の勉強会で、ふらりと入って資料を求めた解放会館で、百年前の女工や仏教者を訪ねて門を叩い た寺や民家の入り口で、あなたはいったいどういう人なのか? と問われつづけていつもまともに答えられたことがない。わたしはなんでもない人であった。い まはさらに無為徒食のくたびれた騾馬であった。
2022.5.23

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  わたしはだれかを愛しているわけじゃないじぶんがじぶんだけがけっきょくはいちばん大切なんだとそのひとのなみだを見ながら思い知る。真冬 の屋外で雪だるまの家族をこしらえたフランチェスコが云ったようにひとりで勝手に生きてひとりでくたばればよかったんだよ神にすら仕えることもなく。子ど ものような丸刈りの捕らわれのロシア兵士が上官の命で自転車に乗った民間人を射殺した罪で終身刑を言い渡される。あんな場所へいったらおれの萎びた魂もす こしはまっとうになれるのかも知れぬ。ひとはほんとうは虚勢を張るために生きる目的を仮称するためにいのちをささげる国家なんてものが必要になってくるの かも知れないな。おのれが信じられないからニセモノの虚構にいっさいを委ねる。ああでもやっぱりこのおれはだめだなそんなものにも乗れやしない。欲しいも のが分からない、首か尊厳か。
2022.5.24

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  墓地にほとけたちがいるというのはかんがえたら不思議じゃないか。ほとけは生死を超えた涅槃に死者たちと共にいるはずなのだから、ここにほ とけがいるということは死者たちもまだここにいるということか。極楽浄土をいう彼岸の原語はパーラミター(Pāramitā)で、これの音写が波羅蜜・波 羅蜜多であるが、中村元によれば、もともとはいっさいのとらわれのこころのない(無住)状態になったことであるという。日本では墓も意味する三昧もサ ンスクリットのサマーディ(samādhi)――心 を一ヵ所にまとめて置く、つまり「対象のみがありありとあらわれ心をむなしくして能動的な作用がまったくなくなった状態」を意味した。墓地にひとりたたずんで いると、50年前100年前の死者たちがありありとあらわれ、わたしという作用が融けてかれらに同化していくような感覚が好きだ。
2022.5.25

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  つれあいの64回目の誕生日。20数年前、彼女がNTTの営業マンだった夫との何不自由ない暮らし一切合切を捨ててわたしといっしょに奈良 で暮らし始めたとき、わたしはいい歳をして職も定かでなかった。彼女の両親は興信所を雇ってわたしのことを調べさせたがロクな話はなかった。酒蔵、染色工 場、いくつかの仕事に就いては長続きせず、子どもが生まれて、宮参りの翌日に葬儀屋の下請けの花屋を喧嘩して辞めてきて、それから長いこと仕事が見つから なかった。風呂場で死んだ伯父からの形見分けの金を使い果たし、つれあいの実家にも金を無心した。路頭に迷わせないと言ってた癖に迷わせているじゃないか と、ふだん物静かな義父が怒った。ハイツの家賃が負担になって抽選で当たった県営住宅の申し込みで保証人を頼んだ妹の夫から「働いていない者の保証人には なれない」と断られた。当時、三重県に来ていた小学校からの友人が保証人を引き受けてくれた。当時は車もなかったから、親類の自転車屋でもらった古い電動 自転車に娘を乗せて、高齢出産の彼女は幼稚園や小学校や遠くのスイミングスクールやヴァイオリン教室や、どこへでも娘を乗せて走った。雨の日に自転車がパ ンクして、幼い娘の手を引いて自転車屋を探しあるいた。そうしていつの間にかこの郡山の地に根をおろし、城下町に中古の家を見つけて義父母たちが頭金を出 してくれ、車を買い、犬を飼い猫を飼い、すこしづつ生活も落ち着いてきて、あっという間に娘も成人式を迎えたと思ったら、またもとの黙阿弥にもどってし まった。誕生日、おめでとう。きみがこの世界に生まれてきてくれて、とてもうれしい。でもぼくが生まれてきてよかったのかどうか、ぼくには分からない。
2022.5.26

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  新約聖書を読む。イエスを主語とした動詞でいちばん多いのは「聞く」と「あわれむ」の二語であると、どこかで読んだことがある。たとえばマ タイ20章29節、大勢の群集がイエスにつきしたがってあるいていると、道端の二人の盲者が声をあげたが人々からたしなめられた。けれどイエスは立ち止ま り、わたしに何をしてほしいのか、と二人の盲者に訊ねた。目が見えるようになりたいと答えた二人の目にイエスがふれると、たちまち盲(めしい)が治った。 ここでイエスが二人の盲者の目にふれる前に出てくるのが「イエスはふかくあわれんで(so Jesus took pity on them)」という一節だ。つまり、この「あわれむ」のあとで「恩寵」が出現する。この「ふかくあわれんで」と訳される部分のギリシャ語は「スプランクニ ゾマイ」(σπλαγχνίζομαι)で、もともとは「内臓が動く」「内臓がゆすぶられる」という原義を持つ。そして、この「スプランクニゾマイ」は新 約聖書の中でイエスにしか使われず、この「スプランクニゾマイ」につづいて奇蹟が語られるパターンが多いという(マタイ14章14節「イエスは舟から上が り、大勢の群衆を見て【深く憐れみ】、その中の病人をいやされた」 ルカ7章13節「主は、この母親を見て、【憐れに思い】、「もう泣かなくともよい」と 言われた」)。ちなみに「スプランクニゾマイ」の元の語は「スプランクナ」(σπλαγχνα)で、生贄の内臓などの意味で使われる語であった。二人の盲 者に出会ったイエスはみずからの内臓がゆすぶられた、これが「全身的な共感」である。共感の後に奇蹟が語られる。わたしは盲(めしい)が治ったことも、死 者がよみがえったことも、じっさいに起きたことだろうと思う。つまりイエスの「全身的な共感」を共有することによって、悲しむ母親の内において死んだ息子 はふたたび「よみがえった」。現代において奇蹟が語られないのは、この「全身的な共感」が欠如しているからではないかと思うのだ。共感は内臓で感じるもの ではなく頭で処理するものになった。わたしはいっそ地べたを這う芋虫のように足裏まで降りていきたい。
2022.5.27

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  「親鸞、閉眼せば、賀茂河にいれて魚に与うべし」  死んだら遺骸は鴨川に捨てて魚の餌にでもしてくれ。そう言った親鸞の言葉を弟子は聞か ず、いまでは立派な大伽藍の奥に鎮座している。自転車で天理の里山ちかくを徘徊していたら「天理教教祖墓地」という道標を見つけて、はじめて立ち寄ってみ た。小高い丘の頂上部にまるで天皇陵かと見紛えるような教祖・中山みきの改葬された立派な陵が整備され、その周囲を真柱といわれる彼女の血統者や高位の者 たちの墓が取り囲み、一般の者たちの墓になるに従って段差が下がってくるさまは、死後も階級が厳然と存在する陸軍墓地のようだ。1887年(明治20年)に 中山みきが身罷った当時、 「魂は屋敷にとどまり、体は捨てた衣服のようなもの」との「おさしづ」があったにも関わらず、残された人々は親鸞とおなじく立派な伽藍をこしらえた。その 豊田山墓地の入り口に近い「旧墓地」には生い茂った草木になかば埋もれるようにして、明治から大正に至る頃の古い信者たちの墓が林立している。苔生した墓 石にきざまれた「帰幽」という表現が好きだ。神道用語だそうだが、御霊(みたま)は幽世(かくりよ)に帰する、と云う。草に分け入り、そんな幽世(かくり よ)をさまようていると、ここではめずらしい軍人墓を見つけた。「明治37年11月28日 二百三高地戦」で斃れた柳沢八十松は、第一師団の右翼隊に増援 された後備歩兵第38連隊であったのだろう。御魂は幽世(かくりよ)へ帰ったか、あるいは鬼となったか。鬼は幽世(かくりよ)で安住できただろうか。魂魄 はいまだここにとどまり、叢(くさむら)をわたしのように徘徊しているか。帰り道、西名阪の高架をくぐり、横田の集落へ抜ける道沿いに、まっしろな風景の なかに木の墓標が大地に直立した土饅頭が密集する墓地を見つけた。わたしには湖畔の避暑地のように見える。墓地の入り口に六地蔵と並んで古い時代の五輪塔や宝篋印 塔が立ち、奥の東屋には棺台と黒ずんだ迎え仏が暗がりにひっそりと坐している。わたしはそんな処に居ることが心地よい。幽世(かくりよ)に帰する前にわた しはすでに「帰幽」してしまったかのようだ。幽世(かくりよ)はまた隠世でもあるが、常世(とこよ)である補陀落を目指して熊野を発ったものたちのニライ カナイ(理想郷)でもあった。この世にニライカナイ(理想郷)をさがす。棺台の上に寝そべってみる。すると、風景が逆転する。
2022.5.29

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  画家に会ったのは近江鉄道の無人駅だった。それからかれはわたしを近くの、いまはもうない野神さんへ連れていってくれた。広い田圃のまんな かに風をあつめたような場所だった。数本の樹木とその足もとにころがった石ころがひとびとの心根だった。そんな場所を、わたしたちはそれからも二人で訪ねてま わった。閉鎖された被差別部落の資料室や、コレラ病屍火葬地をかかえもった黄檗宗の寺や、山の神や廃れてしまった神事の祭り場、あの世の風景のような道沿 いの埋め墓、古い街道筋を自転車ではしったり、里山のはたでムカゴを摘んだりもした。画家の一見何気ない風景画のすみずみに目を凝らすと、百年千年にわ たって吹き抜けた野神の風やその風に吹かれていた人びとの息遣いがつたわってくる。つまり、山川草木をスケッチしてあるくこの画家はいつか吹き抜けた風で あり、それを見るわたしたちは息遣いとなる。
(福山敬之個展「静かな風景」に寄せて)
2022.6.1

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  行基は魅かれる。京終駅ちかくに、行基が亡き母の弔いに建てた「まぼろしの寺院」があったという記事をWebで読んで自転車でそのまぼろし を徘徊した。かつての平城京の東を東大寺、興福寺、元興寺と南下して、五条大路をこえた都のはずれにあったとされる福寺(服寺)は、行基の母を祀った尼影 堂があり、弁財天で名高く、また勧進舞がたびたび催されたと云うが、1503(文亀3)年の土一揆で蜂起した馬借たちに悉く焼き尽くされた。その推定地は 1960年代まで福寺池として名を残し、1970年に近鉄油阪駅の廃止による残骸をつかって埋め立てられ、現在は住宅地がひろがっている。その福寺池の あった南東角、能登川のはたに無数の古い石仏が集められているのを以前に見つけたが、それらはその埋め立て工事の際に、池底から浚いあげられたほとけたち であった。池跡の北西角に「福寺の跡」の碑があり、裏に「京終福寺池改廃記念」の文字を刻む。そこから京終駅にちかい踏切をわたって北京終の路地へすすむ と、古くは「京終阿弥陀」ともよばれた京終地蔵院がある。板塀の奥に大きな石造りの阿弥陀三尊像が立ち、その両脇に無数の石仏たちがつどっている。霊験あ らたかとの阿弥陀三尊像はかつて、福寺池の南西にあった「辻堂」にあったものだと云う。足もとのおびただしい石仏たちはやはり、福寺池の池底から浚いあげ られたのかも知れない。奥にはこじんまりとした墓地があり、敷地は広くはないが端に積み上げられた無縁墓はものすごい数で、どれも相当に古い。「奈良市史  社寺編」に拠れば「桃山時代から江戸初期の背光五輪碑(※光背形墓石)がある」。おそらくこれらの墓石を移して現在の墓域を整理したのだろう。軍人墓が 数基、マリアナ諸島が多い。古い石組の井戸が残っている。入口前で人の声がしたので見ると、自転車で通りかかった年配の女性が、白髪の男性に声をかけてい た。その男性が地蔵院の堂庫裏に向き合って建つ住宅に住んでいる人のようであった。ここの本尊の大日如来台座に像が福寺に祀られていたという陰刻銘があっ たという話を向けると、その像はたしかにこの庫裏にあるが、もう長いこと閉めたままだと云う。毎年7月に石造の阿弥陀三尊像の祭りをやっていたが、それも コロナ禍で三年ほど途絶えていると。わたしも地の者ではないんだけれどと言いながら、墓地も案内してくれ、元興寺で無縁墓の調査が行われたことなどもおし えてくれた。男性が出てきた住宅にかつては堂守りの僧侶が住んでいたが、檀家が少なく暮らしていけないので廃れ、いまは近隣の自治会で管理しているそう だ。地蔵院を後にして、ここまで出てきたのだからと、東大寺へ走った。修学旅行の団体が次々と南大門をくぐっていき、かつての賑わいがすこしづつもどって きているようだ。大仏殿の東の回廊横をぬけて奥へすすむと、北のはずれに寺の案内板では名前も書かれていない龍松院がある。ここはかつて、三昧聖たちの総 本山であった。かつて葬送儀礼にかかわる特権を一手にしていた畿内の聖集団たちは、時代を経るにしたがってみずからの地位の保全のために東大寺の権威にす がったのだった。龍松院の周辺をぐるりとまわってみたが、しかしそんな歴史の残滓は何ひとつ残されていない。大仏や行基の威光は残るが、名もない三昧聖た ちは歴史の果てに消えていった。もともとわたしは残滓もないまぼろしを追い求めているのだった。けれど行基を慕い、かれの名をいにしえの墓地に刻みつづけ 後世につたえたのはかれらだったのだ。
2022.6.4

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  なつかしいひびきは、きいたことがないのだけれど、意識の奥の階段をいったりきたりする。その足踏みのような刷毛がくすぐるのは、この世に送られる前の記憶の残滓か。蠅のように摺り足、存在をこすり合わせて夢を見る。
2022.6.4

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  掲載されるかどうかは分からないが、貞末さんが提案してくれたR向けの原稿を昼間、半分ほど書く。軍人墓をめぐるようになった経緯をまとめ て。書きたい放題のじぶんのサイトとは違って、多少は「配慮」が働くが、上野英信の「いわれなき死」と天皇についてはやはり省くわけにはいかなかった。

  カンさんから、朝鮮人紡績女工についてのセミドキュメンタリーの撮影に日本に来ている監督のインタビューを受けてみないか、とメッセージで。先日、郡山に 来たカンさんたちに郡山紡績で亡くなった朝鮮人女工と工手について新聞記事などをまじえて紹介した話をすればいいらしい。もとより協力は惜しまない。こん どの木曜に鶴橋で会うことになった。ひとの縁というものは不思議なものだ。
2022.6.5

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  明日の昼間、朝鮮人紡績女工についてのセミドキュメンタリーの撮影に来日している韓国の監督のインタビューを大阪で 受けることになった。先日、郡山紡績ツアーに参加してくれたカンさんからの投げかけで、紡績女工に関することならもちろん、協力は惜しまない。作品は韓国 政府の助成金を受けて撮影されるそうで、日本で上映されるかどうか分からないが、大阪・岸和田紡績の朝鮮人女工たちをメインにした内容になるようだ。わた しは郡山紡績「亡工手」の過去帳に残された、1920(大正9)年に18歳で亡くなった女工・金占順(김점순、キム ジョンスン)と、1932(昭和7)年に感電死した38歳の職工・徐錫縦(서석종、ソ・ソクチョン)について話をする予定だ。

  工場で感電した傷をきちんと診てもらえずにその後亡くなった徐錫縦については、朝鮮から来た遺族と紡績工場側が補償をめぐって紛糾したために、当時の新聞 記事が残されているが、金占順についてはこれまでとくに調べていなかったことに気がついて昨日、県立図書館へ出かけて、奈良新聞と朝日の奈良版の1920 (大正9)年1月分のマイクロフィルムを捲ってみた。事故や事件、自殺、労働争議などのからみであれば新聞に掲載されていることが多いが、残念ながら金占 順の名前は見当たらなかった。ところが1920(大正9)年1月の紙面は、「流行性感冒」に関する記事で埋めつくされていた。調べてみると、1918(大 正7)年から流行したインフルエンザ(スペイン風邪)は当時、ウィルスなどもまだ知られていない未知の病で、第一波が1918年、第二波が1919年、1920 年から1921年にかけてが第三波で、日本では約45万人が亡くなったといわれている。

 大阪朝日新聞奈良版の1920(大正9)年1月 の紙面を追うと1月8日、「大阪から奈良の市営斎場へ 流感死亡者の遺骸が続々来る」の記事が載っている。10日には「奈良留守隊の流感 一時に数十名を 出す 外出、面会一切禁止」 歩兵53連隊は日露戦争下の兵力増強のために編成され、大阪、姫路を経て1909(明治42)年に奈良市高畑の新兵営に移駐 した。1919(大正8)年にはシベリア出兵に参加し、満州の寛城子事件で中国軍と衝突している(そのときの戦没者が旧奈良陸軍墓地にいまも眠ってい る)。11日は「高田町 流感猖獗 患者300名 一日以降の死亡16名」があり、「棺桶の値上と火葬場の繁昌 市の流感死亡で」の記事が並んでいる。ま た小学校の休校についての通達が出されている。14日は「留守隊の流感 重傷者32名を出す 新兵2名死亡」 「前年より悪性 肥満性の者や妊婦は殊に危 険」といった記事の下の方に、インフルエンザとは別に「郡山の天然痘」についての記事も見える。17日、「噂程でもない」という衛生課長談とならんで「県 下の流感」と題して郡別の詳細な感染状況が報告され、「全市小学校 七校愈々(いよいよ)休校」とある。20日になると歩兵53連隊の死者が7名に増えた こと、また「悪性感冒の流行につき一般人の注意を喚起せしめる為に」劇場の弁士や俳優が宣伝に努めている記事などがある。21日は「市の流感 昨今絶頂 か」とならんで「日紡分工場」、1918(大正7)年に合併により大日本紡績の郡山工場となった郡山紡績工場の記事が出ていて「予防のため12日より5日 間に亘り職工職員家族等千四百名に対し予防注射を行ないマスクを使用せしめつつあり」と伝える。当時はまだ病原体が確定されておらず(A型インフルエンザ ウイルス(H1N1亜型)だった)、この「予防注射」の効果も果たしてどこまであっただろうか。22日は「県下の流感 19日現在患者1,418名」で死 亡者は37名と伝えている。28日に「県下の流感 漸(ようや)く下坂 併(しか)し復二月に盛返すかも知れぬ」の記事が見える。

 わた しは、18歳で亡くなった女工・金占順(김점순、キム ジョンスン)は、このスペイン風邪で亡くなったのではないかと思う。過去帳に記された金占順の死亡日は1月23日で、その前日の22日にはおなじ寄宿舎工 女だったろう石川県珠洲郡出身のやはり18歳だった杉宛コトが亡くなっている。奈良新聞の1月20日の記事には「郡山町の流感 医師の大繁忙」と題した記 事で「日本紡績郡山分工場 通勤職工902名中流感5名、同寄宿職工520名中流感5名、普通感冒(?)通勤職工中20名、寄宿職工中20名」とある。 「流感」「普通感冒」の部分は文字が読み取りにくいので定かではないが、重傷5名、軽症20名と読めるだろうか。金占順が亡くなった23日の奈良新聞は、 「県下に於ける流行性感冒状況」として死亡者475名、郡山署管轄では感染患者1199名、死者81名を数えている。翌日24日「昨日の流感模様」に「郡 山署 患者93名、死者8名」とあるが、23日に死亡した金占順は、あるいはこの「死者8名」のうちの一人であったかも知れない。
2022.6.8

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  JRを久宝寺で下車して、せめて河内七墓のひとつ長瀬墓地まで、あわよくばそのまま鶴橋まであるいていこうかと思っていたのだが、久宝寺・ 寺内町をひとしきりぶらついて、やはり河内七墓らしい久宝寺墓地を散策していたらもはや時間切れで、あわてて近鉄大阪線の弥刀駅から電車に乗って鶴橋へ向 かった。駅でカンさん、そしク監督と合流してアーケード内のサムギョプサル専門店「ナップンナムジャ」で昼をご馳走になった。中学生を筆頭 に三姉妹の父親である監督はわたしより九つ年下で、会っていきなり「兄貴のような感じがする」などと云う。その後、撮影スタッフ4人が暮らす三階建ての一 軒家へ移動すると、テーブルについたわたしに向かってカメラが二台。インタビューというから話だけかと思ったら、わたしはすでに作品の「素材」なのであっ た。郡山紡績と工場をとりまく郡山の歴史的立ち位置について、18歳で亡くなった女工・金占順(김점순、キム ジョンスン)について、感電死した38歳の職工・徐錫縦(서석종、ソ・ソクチョン)について。話は主にその三点で、ななめ向かいに座った監督が韓国語で質 問をし、リビングにいるスタッフがそれを日本語でくりかえしてくれ、わたしが喋っている間はそのスタッフが監督のヘッドホンに同時通訳を流し込む、そんな 流れだ。突然の段取りに少々驚いたものの、不思議と緊張はしなかったし、資料を見ながらではあるが言葉は自然に、いくらでもあふれ出てきた。二度ほど短い 休憩をはさんで、すべて終わったのは夕方の6時だった。間に合ったらアルバイトの娘の6時の迎えに行くよとつれあいに言っていたがとんでもない。「先生が 朝鮮人女工について調べるきっかけになったことをお話ししてください」 スタッフの方の翻訳がそんな具合だったので、小休憩のときに、くすぐったいからど うか「先生」はやめて欲しい、「先生」じゃないから名前でいいですよと言ったところ、かれは「こんな立派な研究をされているのだから、そのうち先生になる でしょう」なぞと上手いことを云う。一人の無 名の紡績女工の少女について考えることはこの国の百年の過去について考えることであり、名前をとり戻した彼女たちはまたわたしたちに何かを返してくれる、 そんなことをわたしは喋った。しめくくりは、あらかじめ監督にこれを引用させて欲しいと頼んでいた堀田善衛『時間』の解説で辺見庸が引いているホメロス 「オデッセ イ」の一節、現在と過去は前方にあって見ることができるが未来は背後にある、であった。盲(めしい)のまま後ろ向きに未来へ入っていくことが怖い から、前方にあるはずの過去を見ようと努力している。最後はカメラマンのイさんがテーブルに置かれた『時間』文庫本の表紙を一生懸命カメラで撮影してい た。どうやら韓国でも出版されているらしいク監督たちの日本での撮影は今月末まで。再来週は愛知県に残っているかつての紡績工場の建物の前 で俳優さんによる演技を撮るそうだ。その前に郡山の絵を撮りたいという監督の意向で来週、撮影チームが奈良へ来ることになった。もちろんわたしが案内し て、紡績工場周辺と洞泉寺町の遊郭、寄宿舎工女・宮本イサが眠る来世墓、そして県立図書館でわたしがむかしの新聞のマイクロフィルムを調べている場面を撮影したいという。図書館での撮影許可 はわたしが館に交渉することになった。
2022.6.10

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  朝から自転車で県立図書館へ行く。来週金曜の撮影許可の件。担当者が不在のようで、その下の者らしい総務企画課のО氏にドキュメンタリーの 説明をし、マイクロフィルムを操作している絵を撮りたい旨を伝える。たぶん問題はないとは思うが「上席の者がいないので、週明けの火曜にご返事させて頂き ます」 上席、こういうことばをつかう奴がどうも好きになれない。じぶんでは何も判断できない人からは予想される以外のことばは何も返ってこない。図書館 収蔵の資料を外部で使う際の「出版掲載・放映許可願」の提出は、新聞紙面でも必要だとのこと。わたしが代行しても構わないというので、金曜までにこちらで 用意することにした。その後、マイクロフィルムの閲覧席で1918(大正7)年の奈良新聞、大阪朝日奈良版などの検索は、高田の紡績工場での労働争議で朝 鮮人女工の記述が出てくる件。労働条件改善をめぐって5回におよぶストライキがあり、会社側がその対抗措置として「朝鮮人女工数名と寄宿女工を加えて就労 した」とあり、『奈良在日朝鮮人史』のなかで著者の川瀬俊治氏は「ここに労働者内部に設けた差別分断の構造を読みとることができる」と述べている。最大の 5回目のストは寄宿舎の主任の復職を求めるもので、ここでは「ちなみに、本春以来雇入れたる朝鮮婦人までが中島主任の別れを惜しみ居れり」という記述でも 登場する。紡績女工自体がある意味、世間から蔑まれていた空気の中で、朝鮮人女工はさらに微妙な立ち位置であったことが伺える資料であるように思う。いっ たん帰宅してマンネリの一人パスタ・ランチを食してから、ふたたび自転車で、郡山紡績跡地を俯瞰できるようなビュー・ポイントはないかと探し回った。JR 駅前のマンション屋上あたりが最適だが、勝手に入るわけにもいかない。駅東側の商業施設に連結している立体駐車場の屋上はどうかと登ってみたが、残念なが ら他の建物が邪魔をして見えない。ぐるりと走りまわって跡地から北東にあたる、JRと佐保川を越える陸橋の上が絶好の場所であることが分かった。並行して いる電線が途切れるあたりが、ちょうど全体を俯瞰できる。撮影チームが立ち寄る予定の来世墓地からでも歩いていけるのも勝手がいい。買い物をして帰宅する と、しばらくして子ども食堂へ行っていたつれあいと娘も帰ってきた。わたしは前回の件もあり、図書館での交渉もあったので今回は抜けたのだった。はじめて 行なったバザーも盛況だったようで、例の不登校の女の子もじぶんから来たいとまたやってきたそうで、今回は少し話もしたらしい。娘は小さな女の子にべった りくっつかれて、嬉しいやら疲れたやら。今日は受付も二時間やったらしい。愉しそうだ。ジップの散歩へ出るまでの時間、バザーで買ってきたきゅうりで キューちゃん漬けをつくり、おなじバザーのミニトマトで大葉のマリネを仕込み、それからじぶんで買ってきた半額の鶏皮ときゅうりで夜のあてに鶏皮きゅうり ポン酢をこしらえた。夜はアジフライとトマトのマリネ、そして子ども食堂でもらってきたお弁当の残りなど。じぶんで開いたアジフライは格別だったね。
2022.6.12

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  県立図書館のО氏より連絡あり、撮影は前例により休館日にしてもらっているとのこと。また新聞紙面の利用については新聞社に著作権があるの で、図書館へは「出版掲載・放映許可願」は提出の必要なしと。カンさんを経由してメッセージで監督側と相談。金曜の郡山撮影とは別途に、休館日の20日月 曜に図書館へ行くことになった。金曜は機材等も積んで車を借りて計6人で、月曜は車が工面できず監督とカメラマン、カンさんの3人で電車で来るというの で、娘の送迎がある昼過ぎまでならとわが家の車を出すことにした。図書館へ朝9時頃に伺うと連絡。駐車場はコーンを除けて、北側の警備室から入ってくれ と。当日、閲覧するマイクロフィルムのリストを前日までに提出して欲しいということで、これもわたしが後日に行くことにした。その他、補足資料をメールや メッセージで送ったり、朝鮮人女工の出てくる高田紡績のストライキを扱うのであれば、金曜の図書館がなくなった代わりに高田紡績の説明板と共同墓地の紡績 工場の合墓を見に行ったらどうかと提案したり、図書館の写真集から撮った郡山紡績の昔の写真の著作権はどうなっているんだろうと考えたり。今日は、こんな タイミングだからこれまでコピーしてきた郡山紡績に関する紙面を年代順にエクセルの表にまとめてみようかと思っていたのだけれど、そんなあれこれをしてい るうちに昼になり、買い物へ行って、娘と昼を済まし、娘をアルバイトへ送っていき、帰って届いていたコープの食品を冷蔵庫に仕分け、総菜をつくり、漬け置 きの鶏むね肉を仕込み、白菜を漬け、つれあいを駅まで迎えに行き、雨の中ジップの散歩へ行き、つれあいが娘の迎えに行っている間に夕飯の支度をしながら 16時からの歯医者の予約をすっかり忘れていたのを思い出した。食後は家族三人で女子バレーのテレビ観戦、ポーランド戦。明日は大阪の病院で娘の脳神経外 科の定期検査のため、朝が早い。
2022.6.14

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  今日も終日、忙しかったねー 明日はいよいよ韓国チームの郡山紡績周辺撮影日なんで、朝からむかしの新聞コピーでまだ監督に渡していなかっ た分を選り分けて、20日月曜に県立図書館で使う資料の一覧を日付別にエクセルでこしらえて印刷して、買い物へ行ったスーパーの上のダイソーで新聞コピー をして、リサイクルのペットボトルやトレイも持って行って、帰ってからこんどは草茫々だろうからと鎌を持って「大日本紡績工場跡地」の石碑のところへ行っ たら団地ですでに草取りをしたらしくきれいになっていて、でも煉瓦遺構のところはやっぱり草茫々だったんで周辺の草を刈って、今日は湿度が高いなあと汗か いて帰って、お昼にキムチの残り汁でキムチ・チャーハンをつくろうと思ったら、娘が辛いのは嫌だというので豚肉・玉葱・人参の同じ具材で娘にふわとろオム ライスを、じぶんにキムチ・チャーハンをつくって食べて、それから娘を車でバイト先まで送っていって、その足で県立図書館へ寄って月曜のマイクロフィルム のリストを提出して、ついでに近畿大学の学生が卒論で奈良陸軍墓地についてまとめた論文を半分コピーして、家に帰って大根と人参と胡瓜のピクルスをこしら えて、ジップの散歩へ行って、つれあいが娘を迎えに行っている間に夕飯の支度。今日はじゃがいも、ズッキーニ、トマト、豚肉を使った「梅酢でさっぱり夏の 肉じゃが」とレタスとキャベツ、ミニトマトのサラダ。家族三人揃って夕飯を食べて、皿を洗って、つれあいが借りてきた動物の寝顔ばかりの写真集をしばらく みんなで見て、「アザラシの寝ている格好がお父さんにそっくりだ」とか言われて、さあ、これから交代でお風呂に行ったら、8時から女子バレーのブルガリア 戦だよ。しばらく通信を断つぜ。
2022.6.16

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 9時半から始まった本日の撮影、16時の大和高田市営斎場墓地にて終了。郡山紡績工場跡地の石碑、煉瓦遺構、誓得寺の亡工手之碑、住吉神社の遷座記念 碑、来世墓の寄宿舎工女・宮本イサの無縁墓、高田紡績工場跡地説明板、高田市営斎場墓地の高田紡績合墓、わたしがこだわり大切にしてきた場所をすべて丁寧 に撮って頂き、わたしは監督の指示どおりに心は韓国の次世代を担う俳優として歩み寄り、立ち止まり、言葉をつなぎ、空を仰ぎ、踏切を渡り、田圃道をすす み、陸橋を越え、カメラを従えて移動するわたしを通行中の人びとが立ち止まって眺め、車が次々とスピードを緩めて見ていくのがちょっと恥ずかしかったで す。湿度も高く暑い日だったけど、お疲れさまでした。みんな、愉しそうだな。
2022.6.17

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 いつも、孕んでいるものは、何気ないものだ。草いきれで充ちた夏草のしげみ、木立のおくのぼんやりとした空間、影のはりついた足もとの地 面、殉教者たちのようにあるいはなんの意図もたくらみもなくひろげられからみあった枝や葉、古い伝承をたたえた水辺、マッチ棒のような電信柱、石と空。風 がわたっていく。どこにでもあるような場所だけれど、いま、ここにしかない。ひとが足をとめると、植物たちがざわめき、木立はひめごとを語り出し、水面は しんとはりつめる。いつも、孕んでいるものは、何気ないもので、何気ない場所だ。「小姓ヶ淵」と題された作品の前を、娘はながいことうごかなかった。画家 はもう5年ほど、この絵をいじりつづけていると云う。『日本書紀』による推古天皇27年(619年)4月のくだり、「蒲生河に物有り。その形人の如し」。 殺された「人の如し物」は、はたして異形の漂泊者であったか。ひとがふたたびあるきだすと、モノは息をひそめて、ひとの一挙手一投足を注視する。

※ galleryサラ 福山敬之展「静かな風景」
2022.6.18

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  韓国の監督によるセミ・ドキュメンタリー「朝鮮人女工たちの歌」。午前中いっぱい、休館日を利用した県立図書情報館での撮影がおわっ て、わたしの撮影はこれですべて終了した(はずだ)。図書館での撮影は資料がメインだからと悠長にかまえていたら、さにあらず。図書館の入口から入っていく シーンから、館内をつきぬけマイクロフィルムの閲覧コーナーまでの導線、席につけばマイクロを取り付ける場面、フィルムをまわしていく場面等々、じつにこ まかい。「資料を検索しているところを撮りたいらしいので、小一時間くらいだと思いますよ」と図書館のOさんには言っていたのだが、9時半に入館して、す べて終えたのは13時近くであった。鶴橋の初日のインタビュー・シーンから延べ三日間にわたる撮影は、われながら内容の濃い時間だったと思うのだけれど、 そして監督はわたしに喋りたいだけ自由に喋らせてくれたのだけれど、ほんとうに伝えたいことをどれだけ伝えられたかと考えると、抜け落ちたものは大量にあって、 ほんとうに大事なことはじつはなにひとつ言えてなかったのではないかとも思われる。伝えたいことは百年前、120年前に人知れず死んで歴史の流れに泡のよ うに消えていった無名の一人びとりに、ひとはどれだけ寄り添うことができるかということだ。現地を訪ね歩き、資料をさがしまわり、想像力をたくましくして も追いきれないものが残る。わたしは120年前に死んだ郡山紡績工場寄宿舎工女・宮本イサの面影すら知ることができない。黒ずみ、摩耗して、無縁墓の山に 積み上げられた墓石だけここに在り、わたしは彼女の肉体がその墓石であるかのように石に話しかけ、手をおき、ときに野花をそえる。18歳で亡くなった女 工・金占順(김점순、キムジョンスン)は紡績工場の陰気な病室の床でさいごに何を思ったろうか。半島からやってきた感電死した38歳の職工・徐錫縦(서석 종、ソ・ソクチョン)の祖母は孫の遺体を前にどんな咆哮をしただろうか。かれらが残していったものは、ほんとうにわずかしかない。わずかしかないものを根 気強い考古学者のように掘り起こして掘り起こして、事実をつなぎあわせ、かれらの名前を、生きた証(あか)しを土器の破片のように貼り合わせる。そこでか たちとなってあらわれてくるものはそのまま、120年後に相も変わらず、過去に学ぶことも反省もないわたしたち自身のあわれな姿を写す鏡だ。そのつぎはぎ だらけの哀れな鏡が映し出すものについて、語りたい。フィルムはやがて海をわたって、編集を経て作品となる。神田でいちどだけお会いした彫刻家の含さん が、「日本では難しいが、世界では積極的に評価、受け入れられる」と寄せてくれたことばが印象にのこった。わたしはずっとだれのためでもなく、じぶんの思 いのままにかれらの影絵のような姿を追い求めてきた。こんな百年前、120年前に死んだ紡績女工のことなど、だれも知ろうとは思わないだろう、せめてお れだけは知っておきたいのだ寄り添ってそばにいたいのだと思ってきた。それを、わざわざ重い機材をかかえてやってきて、三日もかけて丁寧に撮影してくれた 人たちが海をわたった隣国の人たちだったということが、わたしには驚きであり、意外なよろこびであった。そういえば朝鮮人女工たちもその海をこえてわ たってきたのだった。彼女たちの泡のような生きた証しを、作品にして、海のむこうの古里へ帰してやる。わたしがやりたかったのは、あるいはそういうこと だったのかも知れない。海をわたってやってきク監督の撮影チームは、生き返った彼女たちを乗せてすすむ舟のようなものかも知れない。である としたら、わたしはただ、彼女たちの名前を呼びかけただけのことにすぎない。なまえをよばれるものは、わすれられない。
2022.6.20

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  梅雨の合間の青空がひろがった大阪城公園へ、反戦デモ連動型ライブ「わたしを巡らせる演劇 × ライブの非戦大芸術祭  ToMoNi」を見てきた。せっかく行くなら最前列でと思い、開場の16時前に野外音楽堂へ着いたが、入場がはじまっても人数はほんの数人のぱらぱら。直 射日光のあたる座席にすわり、片手で団扇をあおぎながら、開催まで持ってきた布施祐仁『自衛隊海外派遣 隠された「戦地」の現実』(集英社新書)を読ん だ。出演者は失礼ながらほとんど知らない。「ロシアによるウクライナ侵攻。それに呼応する日本各地の若者文化、公道に出始める。そんな日本アンダーグラウ ンドMAPを埋めるかのように、関西でも反戦デモ連動型ライブ・演劇などのごっちゃ煮企画が緊急開催される」 開会の挨拶のあと、のっけからつげ義春の 『ゲンセンカン主人』女将のような(失礼)小倉笑さんによる「ことばを失くした痴者」による不思議なダンス・パフォーマンス。痴れものとは世界の鏡であっ たか。ダンス・パフォーマンスがつづきながら、ステージに20名弱の舞台役者たちが横ならびにすわり、「坂手洋二リーディング演出ウクライナ反戦小説『地 の塩』第一弾」がはじまる。イベントは水の流れのように切れ目がない。舞台は第一次世界大戦の頃のガリツィア――現在のウクライナ南西部にあたる地域だ が、キエフ大公国にはじまりポーランド、リトアニア、オーストリア、ハンガリーと周辺国に翻弄されつづけ、戦争がはじまるとロシアとヨーロッパの戦場と なった。原作者のユゼフ・ヴィトリン(1896-1976)自身はユダヤ人で、字も満足に読めない主人公のピョートル・ニェヴャドムスキはポーランド人の 父とフツル人(ウクライナの山岳民族)の母を持ち、ポーランド語とウクライナ語を話し、「父はカトリックのポーランド人だったが、自分はギリシア・カト リックの信者だからウクライナ人だと」思っている。個を線引きする「国家」とはなにか。日本では出版されていない未完の『地の塩』が短いセンテンスごと、 横ならびの役者たちによってリレーされる。こうした朗読の形をはじめて見たが、肉声が代わることによってことばのすきまに見えないリズムが生じて、文章が 豊穣になるようにも思われる。複数の語り手が「国家」の戦いに翻弄されていく主人公ピョートル・ニェヴャドムスキをまさに蹂躙していく。物語は7章までが 語られ、8章から9章、そして唐突に終わる10章まで、続きの舞台があるようだ。つづいて内田裕也バンドのギタリストだったという三原康可さんによるニー ル・ヤング並みのエレキギター演奏に合わせて、「岸和田だんじり祭り他で白い鳩を飛ばし続ける鳩飼い、西野清和」によって数十羽の白い鳩がFREE SKYを祈念して大阪の空へはなたれ、そのまま怒涛の「渋さ知らズオーケストラ」の演奏へ。はじめて体験した渋さ知らズオーケストラはのっけからハートを 鷲づかみにされた。単純だが魔力に満ちた管楽器のユニゾン、チンドンバンド的な女性キャバレー・ダンサー、地下冥府世界からの暗黒舞踏家たち。中央で指揮 をするリーダーの不破大輔氏はまるでつぶれかけた下町工場の経営者のようだ。どれも一筋縄ではいかない。「国家」が束ねることに抗う異形の集団。わたしは 確実にこの渋さ知らズに中毒した。渋さ知らズの最後の演奏をバックに、マイクを持って登場した駒込武・京大教授によるアジテーションもよかった。稼げる大 学、稼げる幼稚園、稼げる公園、あらゆるものがカネという価値観で換算され、それを生み出さない存在を不要のモノとして片づけようとする「国家」に対して 抗うこと。最後の京都大学生による誠実なメッセージもよかった。「「ウクライナがかわいそう」「ロシアが悪い」「ロシア語の表示はなくそう」「ロシア人と は関わりたくない」「ウクライナを助けよう」……そこに、「ひと」の姿を見失ってはいないでしょうか」  「平和を願うときも、戦争に反対するときも、主 語は「自分」でありたい。いま、ロシアで平和を願う人の口が封じられているように、ウクライナで逃げたいと思う兵士がそれを口にできないように、戦争が起 きれば、「自分」を主語にして語ることはできなくなります。それを防ぐためには、「自分」を主語にした言葉が必要だと思います」  この国の政治家のなか で、メディアにかかわる者たちのなかで、あるいは司法のなかで、あらゆる組織のなかで、彼女のいう「主語」を持った者ははたしてどれだけいるのだろうか。 最終的に会場に集まった人たちは百数十人はいただろうか。そのうちの数十人と出演者たちがチンドンバンドと変じた渋さ知らズと、ときどき横柄な口調の大阪 府警警察官たちに誘導されてその後、大阪城公園から谷町筋、途中から小雨も降り出した天満、北浜をぬけて中之島公園まで小一時間、デモ行進をした。ひさし ぶりだったけれど、デモはいいよ。「国家」に束ねられることに抗う異形のモノになれる。一瞥もしないで通りすぎる帰宅途中のサラリーマン、ニヤニヤしなが ら店先で腕組みして眺めている店主、手をふってくれる小さな女の子とあわてて彼女を抱き上げて立ち去る若い母親、拍手をしてくれる浮浪者のような老人、自 転車からおりてじっと見つめてくるアジアの青年、死んだ魚のような目で通過する車のなかのドライバー。この世界はほんとうにたくさんの人たちから成り立っ ているけど、戦争のなかで「国家」は、それら一人びとりの「個」から名前を剥ぎ取る。「個」はうばわれ、その「死」さえも担保にとられる。百年前の素朴な鉄道員ピョートル・ニェヴャドムスキのようにね。おり しも今日は、参院選の公示日だった。
2022.6.23

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  大学時代の同級生で長年の友人である悦ちゃんが代表を務める障害者自立支援「自立生活センターリングリング」主催のフリートークイベント 「障害者と戦争」に昨日、ZOOMで参加させてもらった。今回のテーマは「沖縄の差別の歴史と今」で、沖縄出身のジャーナリスト・山城紀子さんの講演の合 間に、グループ別に分かれてフリー・トークをするというもの。参加者は十数人ほどだったろうか、障害者自身や介護に携わっている方がほとんどなので、フ リートークに於ける話はプライベートでもあり、ここに書くことは出来ない。かつて沖縄タイムスの記者であった山城さんは以前に「ヤン・バニング写真展 イ ンドネシアの日本軍「慰安婦」展」についての記事をFacebookでシェアしたことをあとで思い出した。2000年12月の女性国際戦犯法廷に海外の 「慰安婦」80人が参加したイベントについて、日本の主要メディアはほとんど何も掲載しなかった、と記していた。今回の話は最近、映画にもなった(原義和 監督『夜明け前のうた 消された沖縄の障害者』)沖縄での精神障害者を隔離する制度「私宅監置」の歴史と実態についてである。とくに興味深かったのは「弱 者であるからこそ(当時の)軍国主義に走ってしまう」ということ。弱者同士で互いを否定し、同調せざるを得なくなってしまう。戦後の荒廃で医者の数が圧倒 的に少なかったために制度化された沖縄の「私宅監置」の患者たちは、アメリカ占領下で皆保険がないために医療につながらず、重症化してから表に出てきた が、800人以上の精神障害者の死亡率は40〜60%ともいわれ、そのほとんどは栄養失調=餓死であったという。そのなかで患者自身が医師や身内を刺すよ うな事件なども起きたが、山城さんは「その加害者もじつは被害者でなかったか」と云う。加害者となった患者やその家族がどうなったか、その後の取材を許さ ないような雰囲気がいまもあるそうだ。もうひとつ印象的だったのは「じぶんがいくら息子に暴力をふるわれてもいいが、近所の目がいちばん心配だった」と語 る患者の母親のことばだ。差別・偏見が差別の実態を見せなくする。その母親はその後、内なる差別に気づき、すべてをオープンにするようになった。差別・偏 見からの解放は、併せて「国家」からの解放でもある。現在のウクライナの状況が物語るように、戦争こそが「差異」を剥き出しにする。それこそ極端に、暴力 的に。役に立つ者、立たない者が冷酷に選別される。件のやまゆり園の事件で植松死刑囚が語ったのはその冷酷な選別である。それはかれ個人にとどまらない、 事故で死んだ精神障害者の「いのちの値段」が健常者よりはるかに低く見積もられる保険会社の算定のように、いまやこの社会にしずかに蔓延する病理だ。人は 金銭や経済的価値でしかはかられない。ユダヤ人とおなじように、ロマ(かつての「ジプシー」)や障害者といった少数の弱者を殺戮したのはヒトラーのナチス だった。1939(昭和14)年、クナウアーという一人のナチ党員が、ライプチヒ大学病院で重度の障害を抱えて生まれたわが子の安楽死をヒトラーに直訴し た。「ヒトラーは随行医のカール・ブラントを派遣し、現場で安楽死が実行された」。以後、「重度の障害をもって生まれてきた児童や治癒見込みのない精神障害者などに対する大規模な「安楽死」を実施する計画が、総統官房の内部(党と国家の案件を取り扱う第2局)で進められた」(小 俣和一郎『ナチズム期の「安楽死」作戦と障害者』)。ドイツ敗戦までの5年間で、およそ20万人の障害者が計画的に殺戮されたという。クナウアーがわが子 の殺人を国家に委ねた2年前の1937(昭和12)年は、辺見庸が描いたイクミナ(1937)の年である。4月に「四重苦」のヘレンケラーが日本に来日し て熱狂的に迎えられ国中が感動の渦に包まれたおなじ年の12月に、日本軍は占領した南京で殺し尽くし、焼き尽くし、奪い尽くした。何も当時の政治家や軍人 や権力者たちに限らない。この奇妙な両極端の心性を抱えたまま、いちどもそれを直視することも反省することもないまま戦後80年が経過した。それがこの国 がわたしたち一人びとりが差別・偏見からも、「国家」からもいまだに解放されない理由ではないか。わたしたちはいまも、障害者の美談に感動した涙をぬぐっ たその手で弱者を縊り殺すのだ。

◆自立生活センターリングリング
http://www.ringring.bz/

◆「沖縄から考える」(11)在沖縄ジャーナリスト 山城紀子氏
https://www.jnpc.or.jp/archive/conferences/33568/report

◆ナチズム期の「安楽死」作戦と障害者
https://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/prdl/jsrd/norma/n409/n409003.html
2022.6.26

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  奈良は(というか全国は)本日も6月にして酷暑。ほとんど雨知らずの梅雨も早々と明けて、やっぱりこの惑星は急速に変化しつつある。戦争だ とか経済制裁だとか核配備だとかほんとうに、やっている場合じゃないだろ。今日届いた内田樹編『撤退論』(晶文社)じゃないけど、撤退だ、撤退だ、既成の あらゆるものから撤退だ。じぶんといっしょに落ちていく岩にしがみついても助からないぜ。午後。冷房の効いた安全地帯から飛び出して、自転車でまず県立図 書館へ。総務企画課のOさんへ、メールで追加要請のあった「出版掲載-放映許可願」を提出してきた。それから何となく東を目ざして、前にもいちど訪ねた大 安寺の通称・墓山古墳(大安寺共同墓地)へ移動して、ひさしぶりに墓守気分を堪能した。やっぱり墓地は落ち着くね。「海中に突入自爆戦死」二十七才の軍人 墓。熱波が音もなくふりそそぐ明確な青空の下でおれも成仏できない幽鬼となって立ち尽くすこの感覚がいい。最後は墓山古墳からも近い奈良県立同和問題関係 史料センターにひさしぶりに立ち寄って、かれこれ二時間ほど研究員の方とお喋りをした。まだ配属されて間もないような感じの女性で、「墓地めぐりが好きで して」とわたしが云うと、驚いたことに「わたしもじつはそういうの好きで」という返事が返ってきて、いちど行ってみたいという天理の中山念仏墓地(これも 前方後円墳を利用した墓地)の話などで盛り上がって、「国立歴史民俗博物館の分厚い研究報告に、この中山念仏墓地のですね、なんとひとつひとつの墓の配置 図から石塔の形、文字までの全データが載っているんですよ〜」とこの男はじつにうれしそうに話し、「よかったら、こんどいっしょに行きますか」とさりげな く誘ったものの、「まだわたしたちが見たことがないというので、じつは明日、センターで連れていってもらうことになっているんです」とさりげなくかわされ てしまったのだった。まあ、そんな話はどうでもよい。入れ替わった常設展示のなかでとくに興味深かったのは、まず中世から朝廷へ献上されていた梅戸村(現 川西町)の細工たちによる緒根太(おねぶと)草履。古くから予祝や厄を祓う呪力があると信じられてきた草履だが、これは形状も特殊で実用のものではない。 この草履の献上には生駒山の十三峠の塚に伝わる姫物語がからんでいることも面白い。ついで1714(正徳4)年の台風による凶作で、近畿で普請や仏事・婚 礼が簡略化され、「村外から訪れる勧進者、芸能者や乞食の立入禁止を申し合わせ、祭礼・仏事の際の出店や、相撲や芝居の興行の際に穢多や非人番が受け取る 芝銭・櫓銭について、「横道」で「新規不届」のものである」と禁止されたことなどを記した文書。これらは「江戸時代後半は、被差別民衆の活動が中世以来 持っていた呪術的・宗教的な意味が忘れ去られ、被差別村落への違和感、忌避意識が大きくなっていく時代」のあらわれであったと説明する。その他は、水平社 と平行する「大和同志会」などの活動。現在の紀の川市(和歌山県)の地主に生まれ自宅の私塾・奚疑(けいぎ)塾で「大和同志会」で活躍する若者を輩出した 中尾靖軒(1836-1915)の存在や、いわゆる穢多寺への差別と闘った前述の梅戸村の西本願寺末寺であった西光寺住職の中村諦信やその長男で「大和同 志会」の主要メンバーでもあった中村諦梁などについては、これから勉強したい。最後に、これまでセンターのホームページ上で公開されていた紀要などに掲載 された貴重な論考のPDFがしばらく前に急に消えてしまったのは何か理由があるのかと訊いてみたところ、論考のなかには現在地が判明するものもあり、それ らがWeb上で悪用されるケースが増えてきたためにやむを得ず公開を中止したとの返答であった。今後、公開が復活することはないだろうとの由。啓発と乱 用。じっさいにYouTubeなどでは「学術研究」の態を取りながら、じっさいの同和地区や在日集落などを動画で撮影してアップする確信犯や、おそらく歴 史的な知識は浅いまま面白半分の「悪所めぐり」的なノリで動画を撮る若いユーチューバーなどが多い。ただわたしなどは公開されていたPDFをよく活用して いたので残念としか言いようがない。いったんは紀要として配布され、図書館などにも収められ、それらはだれでも閲覧・コピーできるのに、Web上では非公 開というのは、しかしどうなんだろうか。貴重な資料が求めている人にひろく届かないことは返す返す残念で仕方ない。そんなわけで酷暑のなかを自転車で走り まわって真っ黒になって夕方、帰ってきたよ。

◆出版掲載、放映について(奈良県立図書情報館)
https://www.library.pref.nara.jp/guide/permission

◆奈良市・大安寺墓山古墳
https://blog.goo.ne.jp/noda2601/e/e044dd6abc78233bd8c70aa1c9b37748

◆奈良県立同和問題関係史料センター
https://www.pref.nara.jp/6507.htm

◆地元で禁忌の感覚強く /奈良
https://mainichi.jp/articles/20210804/ddl/k29/070/353000c

◆大和同志会とは
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E5%92%8C%E5%90%8C%E5%BF%97%E4%BC%9A-1360090

◆漢学者・中尾靖軒の企画展 紀の川
https://www.wakayamashimpo.co.jp/2014/11/20141120_44316.html

◆部落差別撤廃運動の歴史的環境(PDF)
http://khrri.or.jp/publication/docs/201707022002%281%2C934KB%29.pdf

2022.6.29

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  昨日の常設展での職員さんたちとの会話で、やはり情報共有はしておいた方がいいのかも知れないと思って今日、同和問題関係史料センター宛に 手紙を書いた。当初はメールをしようと思っていたのだけれど、センターにメールアドレスがないことが分かって。主に曙町のとんやま節のテープのこと、そし て韓国チームのドキュメンタリーのことを、いくつか資料なども同封して。また近代の三昧聖に関する資料の依頼を改めて、はじめてフリーライターの名刺を添 えて。肩書はないよりもあった方がいい。
2022.7.1

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  沖浦和光氏の著作を貪るように読んでいた頃、記述されていた“日本唯一の「サンカ民俗資料館」”が見たくて広島の府中市役所に電話をして調 べてもらった作田晃さんの名前を昨夜、別の調べ物で立ち寄った図書館で何げなく手に取った『部落解放』のバックナンバー(2022/819号)で見つけ て、ひさしぶりの「再会」を一人よろこんだ。15年前、わたしの依頼で走りまわってくれた府中市役所の教育委員会の人に対して、作田さんは集会所の一室に 展示してあった川魚漁につかった「棕 櫚箒も何もかも、どこへいったか分からない」と言い、そして(展示についてのお話を伺えたら・・という申し出については)「話をしても、誤解をされないよ うに上手に話せる自信がないので、いまはそうしたお申し出はすべてお断りしています」と答えた。当時わたしが読んだ、作田さんの手記が載っている月刊「部 落解放」2001年11月493号には、父の面影を慕いながら川中に立つ若い作田さんの姿が写っている。わたしは無謀にも、「「かつての漂泊生活にまつわ る苦い思い出を疎ましく感じて、多くを語ることはしなかった」叔父が、その死に際に「川へ行きたい」という言葉をつぶやき、死んでいった」と記したその人 に会いたいと思って、広島までの汽車賃すら計算していたのだった。記事は8頁ほどの短いものだが、川魚漁がまだ盛んだった頃の村の人々の様子を語ってい る。

「そ ういう人らが泊まるとこ言うたら、『橋下旅館』。橋の下が旅館じゃ言うて。山の下は『山下旅館』、八幡さんなんかの軒下を借りるときは『神下旅館』。だれ がどこに泊まっておるかも、どこそこの橋下旅館とか山下旅館とか言えばすぐわかる。ときには人の家の灰屋や農小屋を借りて寝泊りもした。毎年そこに行くと きは米や魚を持っていくから、だいたいそこの家の人は、『今年もきたんかのう』という感じで迎えてくれる。塩分というものが貴重だったから、魚を塩漬けに したものが喜ばれた。逆に、長いことそこで生活せなあかんから、悪さといういうものはなかなかできんわけ。毎年、小屋を借りたりして、その人のところでお 世話になっているわけでしょう。だから、自分が漁をする場所で悪いことはしたらいかんという厳しい掟があった」

 作田さん自身が川魚漁を はじめたのは小学校五、六年生のころだ。すでにお父さんが亡くなっていたので、隣のおじさんに連れていってもらった。中学生になってからはしょっちゅう 行ったという。餌の黒ヒル(血を吸わないヒル)がたくさんとれた時などは、学校をサボって(山で生活する非定住者だとされた「サンカ」の名をとって)「サ ンカ道」と言われた山道を猿か鹿のように駆け抜け、川に向かった。「大人が自転車を漕いでいくときに、わしら子どもが山を駆けて越えていったら、わしらの ほうが大人たちより早く着いた」というから、よっぽど速かったのだろう。

『部落解放』2022年819号「部落の文化を生きる 作田晃さんをたずねて」

  かつては差別から「組」に入り、抜けるために小指もつめ、「差別裁判打ち砕こう」の曲をつくり、地元の門付け芸「春駒」を掘り起こした作田さんは、いまは 田舎のおじいさんといった風情だ。20年前から、三次市三良坂で竹細工職人をしていた石田源さんが開いた竹細工工房「みらさか竹工房はなかご」に通いつ め、竹細工をライフワークにしているという。昨年9月に亡くなった石田氏も「世間から賤視される竹細工と、それを生業としてきた父を、長い期間、自分の誇 りと思うこと」ができなかった。「源(けいげん)」は作家の野間宏から贈られた。作田さんが最初に竹でつくったのは、川魚漁で釣った魚を入れる魚籠(び く)だった。

 いつか三次をたずねる機会があったら、もう悲しい被差別の話など訊かなくてもいい。「みらさか竹工房はなかご」にふらりと立ち寄って、三良坂のグルメに舌鼓を打ち、そして作田さんらがつくった竹細工に触れてみたい。

◆月刊「部落解放」2022年3月号 819号
https://www.kaihou-s.com/book/b601634.html

◆差別裁判うちくだこう
http://wwwd.pikara.ne.jp/masah/symuta.htm

◆竹細工師・石田勁源さん
https://plaza.rakuten.co.jp/liberty2019/diary/202007120000/

◆【三次市三良坂町】見てよし、体験してよし、買ってよしの竹工房
https://www.miyoshi-dmo.jp/hanakago/
2022.7.2

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  嶽本さんのメメントC企画・難民問題を語るB「ミャンマーの『今』と支援」(デモクラTV)を見た。徹底した非暴力をつらぬいてきた市民た ちが、それでも無情に虐げられ、理不尽に殺され続けて、最後には反政府の少数民族たちに合流して武器を手にとり戦い始める。長らく日本で反戦デモなどに参 加してきた保芦さんは、現地で知り合いが次々と殺されていく現実を前に、考えが180度、変わったという。「暴力は、持たざるものの最後の武器じゃない か」 五木寛之の小説で主人公が吐く台詞を、わたしは捨ててはいない。もとよりそれは「国家」のための戦いではない。生きるための戦いだ。尊厳のための戦 いだ。だがミャンマーの人々の戦いは、孤立無援だ。「どれだけ死んだら、国連は動いてくれるのか?」と書いたプラカードを持って路上に立つ少年は、その数 日後に殺された。パレスチナとおなじように、アフガニスタンとおなじように、シリアとおなじように、ミャンマーもまた世界から見捨てられる。しかしウクラ イナはちがう。ウクライナには民主主義と正義と秩序を標榜する「世界のリーダーたち」の強力なバックアップがついている。かくして在日コリアンに絶えまぬ 差別をつづけ入管でスリランカやブータンの人びとを死に至らせるこの国も、ウクライナの戦火から逃れてきた「白人」の彼女らを国をあげて歓迎し手厚く迎え 保護する。まるで世界には難民は彼女たちしかいないかのように。そして国民に死ぬまで戦えと強制するかの国の大統領をオンラインで迎えて、国会や大学で講 演させる。政治家や教師や学生たちは大喜びのスタンディング・マスターベーションで拍手が鳴りやまない。大統領は言う、「武器を置いたら国家、国民が消え てしまう」のだと。だが、ミャンマーの人びとの戦いはちがう。かれらは世界から孤立無援で、しかし勝利を信じている。「ウクライナと共に」によって切り捨 てられるものたち。「ウクライナと共に」によってすり替えられるものたち。

◆難民問題を語るB「ミャンマーの『今』と支援」
https://www.youtube.com/watch?v=NI4_Gb6HiHA
2022.7.5

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  奈良に住んで二十数年が経つが、いわゆる観光地らしい社寺仏閣の類いは、ますます興味が薄れていく。斑鳩へ行って法隆寺を見ず、奈良市へ 行って東大寺を見ず、薬師寺は娘のアルバイトの送迎で東西の塔を眺めるだけ。このごろはそれらの伽藍に鎮座したすぐれた仏像なども、とくに見たいと思わな くなった。見たいもの、触れたいものは、ほかにある。台風が九州で消えてなくなった翌日、ひさしぶりに朝から自転車に乗って出かけた。湿度は高いが、風も 少々ある。まずさいしょに行ったのは東大寺の北方、佐保川沿いの五劫院だった。ここは鎌倉時代に重源上人が宋から請来した、アフロヘア―のような頭が独特 の五劫思惟阿弥陀仏坐像が有名な寺だがわたしが会いに来たのはほとけではない。山門をくぐり、コの字に並んだ境内の軍人墓を横目に裏手の墓地へ入ってい く、その手前に古い五輪塔や供養塔がならんでいる。そのなかに台座からやや傾(かし)いだ形で1858(慶応4)年建立の阿閦(あしゅく)寺供養塔が、 ひっそりと立っている。阿閦寺とは、光明皇后が奈良市法華寺町辺に建てたと伝わる寺で、伝説によれば皇后は「浴室を設けて自ら千人の身体を洗う願を立て、 これを行なったところ、最後に癩者に化した阿閦如来が現われた」と云う。つまり、癩者の救済施設である。正面に「光明山 阿閦寺 歴代之塔」とある竿石の 側面に刻まれた23名の男女は癩者であったと思われる。1858(慶応4)年に建立されてからも、名は刻み続けられたのだろう。最後の日付けは明治7年 12月に「定〆」、明治11年10月に「安心尼」の名がある。薬師寺の末寺である龍蔵院には、おなじ救済施設であった西山光明院で大正5年に亡くなった最 後の患者:西山なかの無縁墓が残っているが、これだけ大勢の癩者の名を刻んだ供養塔は珍しいのではないか。暑い日差しに晒されてしゃがみ込み、一人びとり の名を読みながら、かなわぬことではあるのだけれどその生涯に思いを馳せようとする。寺の裏手の佐保川沿いの墓地の一角にあつめられた夥しいほどの黒ずみ 摩耗した無縁墓も圧巻だった。中央の、もはや顔もこすれて定かでない背の高い石仏の前にすわり、夥しい数の無縁墓に両側からはさまれるように囲まれている と、かつて存在した無数のいのちたちがせまってくるようで不思議な心持になった。しばらくその場所に佇んで、そのしずかな波のような心地に身を晒してい た。ついで向かったのは奈良公園の南方、格式高い奈良ホテルに隣接する旧大乗院庭園だった。いままで覗いたことすらもなかったが、室町時代に銀閣寺の庭園 も手がけ、8代将軍足利義政にも重用された善阿弥による作庭と知って立ち寄った。善阿弥はもちろん、被差別民である山水河原者である。かれらは熟練した高 い技術を持った職人集団であったが、歴史の表舞台に出ることはない伏流水のような存在だ。名勝大乗院庭園文化館という無料の施設には戦後に発掘・復元され た庭園に関する資料も展示されているが、善阿弥に関する記述はお愛想程度しかない。入園料200円をケチって文化館からの眺めで満足した。そのまま南進し て天理をめざす。途中、名阪道の高架下にひっそりと佇む、能の筒井筒で有名な在原寺跡に立ち寄った。835(承和2)年に本光明山補陀落院在原寺と称した 寺は明治維新の頃までは本堂、庫裡、楼門などがあったがのちに廃れ、いまでは井戸とさびれた社があるばかりだ。「本堂跡」と記されたあたりで土木工事の最 中であったが、ちょうど昼休みで弁当を広げていた職人さんに訊けば、ここに防災施設の倉庫を建てるのだという。在原寺跡に来たかったのはある人から「筒井 筒」と題された、足立 真実さんという染織家の紬織着物(第56回日本伝統工芸染織展(令和4年) 文部科学大臣賞)を知らされたからであった。少しばかり引く。「「井筒」がモ チーフとなった今回の作品は、素朴さの中にある力強さ、簡潔さ、美しさ、が特徴であるが、能の物語の持つ独特の陰影や侘びた佇まいとは違うものを感じた。 「水は八方の器に従う」というが、井戸の水は筒井筒の囲みの中で、昔を映す鏡となっている。のぞき込む姿の肩越しに冴え冴えとした月明かりも差し込んでい るだろう。水は記憶を映し、追憶はその深みに沈み込むように人の心の襞を揺らす。青が象徴する命の層は幾重にも折り重なりながら人の業を昇華していく。」 (青山 敏夫) 旧跡にふさわしいさびれた在原寺跡で「冴え冴えとした月明かり」を想った。169号線をつかず離れずしながら、ひさしぶりの愛するさかえ食堂に到 着して昼食、大学生らしい若者グループが先に三組ほど。カツ丼並み、580円。世間は値上の嵐だが、ここはそんな気配すらない。老齢の亭主がぱんぱんと肉 を叩く小気味の良い音が厨房で響く。腹ごしらえをして、最後の目的地は食堂からほど近い、天理市役所裏のいまでは何の変哲もない集落だ。その「神子村」で は、文化年間(1804〜18)に「口寄せ」なる特別な業(秘事)の存廃をめぐって村を二分する争いが起きた(「梓女巫并陰陽方尋一件」1805)。「口 寄せ」とは、亡者の呼び出しであった。「まず依頼者から受け取った諸々の施物を桶に入れ、桶のまわりに御幣を立て、なかに幣を人形に切って入れる。桶の前 に梓の木で作った弓を置いて「口寄せ」をはじめるが、最初に「遠近之大社、不動、観音」を集め、次に三尺余りの竹弓に数珠をかけ、棒で弦を叩いて死者を呼 び出して言葉を聞く。縁者の希望があれば以前に亡くなった者の霊魂も呼び出してもらえるが、別に一人あたり10文の銭がかかる。死者の様々に語る言葉を聞 き終わると、集めた神仏を送り出して儀式は終了するが、依頼があれば数珠占いという儀式も行う、というものである」(吉田栄治郎「神子村と「口寄 せ」」)。争いは、この秘事である業によって村が「筋目違い」という差別を受けているからこれを廃業すべきだという者たちと、「口寄せ」は先祖相伝の稼業 でありこれをなくしたところでどうせ差別はなくならないという者たちとの間の論争であった。どちらも生きるに必死で、生きるに悲しい。文化年間はある意 味、目に見えるものと見えないものが徐々に分化され、後者から聖なる意義が剥がされていった時期なのかも知れない。神子村の人びとはその悲しい時代の境目 にいた。169号線から入っていくと、集落は低い丘陵地のそちこちに家々が身を寄せ合っているような場所であることが分かる。その斜面をめぐるように水路 が流れている。古い面影といえばそれらの地形と観音堂、そして道端にならべられた石仏群くらいだ。この石仏たちは、かつて賤視にさらされながら必死に生き ていた村の様子を知っていることだろう。わたしたちはかれらのその秘事を所望し、その所望したものによってかれらを断罪する。にんげんの皮を剥ぐ。剥がさ れた皮は、じつはそれを剥がしたもの自身の皮ではなかったか。帰り道、そろそろ暑さにもへばってきて、大きな溜池に寄り添うように立ち並んだ墓地を遠目に 眺めて「今日はこのまま帰ろう」と思っていたのに、道はぐねぐねと曲がってそこへたどり着いてしまった。互いに向き合うように並んだ軍人墓が20基ほど。 いちばん手前は「義勇軍」と刻まれた墓であった。昭和17年に満州国漱江県の開拓村訓練所にやってきた16歳の少年は、昭和21年8月ハルビンの収容所に て20歳の生涯を閉じた。「白玉楼中ノ人トナル」(「中国中唐の詩人李賀が、夢の中で天使に「天帝が白玉楼を完成させ、あなたを招いてその記きを書かせる ことになった」と告げられ、まもなく死んだという故事から、文人が死後行くところといわれる」)とは、文才に富んでいたのだろうか。また昭和20年8月 14日、敗戦のじつに前日の空襲で「大阪衛戍病院ニテ爆死ス」の兵士の死もいたたまれない。水を満々とたたえた田圃に囲まれた墓地でステンレス製の卒塔婆 が風が吹くたびにがちゃがちゃと響く。あまりにも明確な青い空を見あげる。

◆五劫院
https://nara-jisya.info/%E4%BA%94%E5%8A%AB%E9%99%A2/

◆西山光明院
https://marebit.sakura.ne.jp/D1916.html

◆旧大乗院庭園
https://oniwa.garden/kyu-daijo-in-garden-%E6%97%A7%E5%A4%A7%E4%B9%97%E9%99%A2%E5%BA%AD%E5%9C%92/

◆在原寺跡
https://www.city.tenri.nara.jp/kakuka/kyouikuiinkai/bunkazaika/bunkazai/1391413304063.html

◆紬織着物「筒井筒」
https://www.nihonkogeikai.or.jp/works/546/107835/?fbclid=IwAR1yORevtU44yGPNGIo9_JJptzLbQqwkuGINAeugrX_g-qkUfPF4faQcQxo

◆青山 敏夫 2022年7月2日
https://www.facebook.com/toshio.aoyama.5/posts/pfbid0q9UfkyM9qqrLLBZFXPYPCkwbVedWkWfujrdi19y48t1ijp4hHVyh77ox3pVWZcPml

◆中近世大和の被賤視民の歴史的諸相(PDF)
https://opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/2447/JNK000602.pdf
2022.7.6

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  アヘが応援演説中に撃たれる、それも奈良の大和西大寺駅前だ。橿原の県立医大にはこばれて、夕刻、そこで死亡が確認された。容疑者は大宮町 3丁目の41歳の男、元海上自衛官だとかで銃は手製のものらしい。政治信条ではないとか、ある宗教団体がらみだとか、さまざまな供述がもれ伝わってくる が、真実の闇は深いのではないか。彫刻家H氏いわく「古墳時代よりの権力生業。歴史腐臭」か。バガヴァッド・ギーターの「だれでも肉体を脱ぎ捨てるとき  心で憶念している状態に必ず移る」を想起する。もとより、ロクな死に方のほかもなかっただろう。それよりも「民主主義への挑戦」野郎どもが、揃いもそろっ て「これは民主主義への挑戦だ」となまくら坊主の念仏のように唱える姿にはふつふつと殺意さえ湧く。この国で最大最悪の暴力装置を抱えたものどもが「暴力 には屈しない」と宣る滑稽よ。なんにせよ、とうとう底が抜けてしまった抜けきってしまった感がある。弔い合戦で圧勝、一気に改憲につきすすみ、暴力装置は ますますつけあがるか。おっとせいのきらいなおっとせい。「そのいきの臭(くせ)えこと。くちからむんと蒸れる」  思い出せよ。文明開化の明治よりこの方、この国はテロルや暗殺ばかりの歴史だったよ。腹に覚悟を。
2022.7.8

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  日曜。参院選投票日だが、期日前で済ませていたので朝から大阪へ出かける。久宝寺でおおさか東線に乗り換えて長瀬へ。河内七墓のひとつとさ れる長瀬墓地は併設する斎場の炉の工事とかの最中だったが、おそらくむかしから火屋をもつ郷墓なのだろう。広い敷地の中央に死者の名前が刻まれた六角柱の 「戦没者の墓」がそびえ、六地蔵のある東の入口から大型の軍人墓が林立する。その数、60基以上はあるだろうか。ここの軍人墓の特徴は「時刻」である。 「昭和20年6月18日午前11時25分」 「昭和19年7月30日午后7時0分」 多くの墓が正確な時刻を刻んでいる。まさに「その時」なのだ。死者が 亡くなったその日・その時。「病ヲ得テ仆ル為ニ一柱ヲ立ツ」というのもある。「戦死」ではなく「一柱ヲ立ツ」が珍しい。「壮烈無比ナル戦死」 どんな戦死 であれ、 他と比べられる死などあろうはずもない。時刻だけではない。「昭和19年7月16日 北緯19度17分 東経120度15分 方面ニテ戦死ス」 正確な場 所を刻んだものもある。「北緯19度17分 東経120度15分」を度分秒(DMS)のフォーマットに変換して(19°17’N 120°15’E)グーグルマップで検索すると、台湾とフィリピンとの間の、ルソン島沖100キロほどの海域だと分かった。「北緯19度17分  東経120度15分」はおそらく遺骨ももどらなかったろう死者の唯一のよすがであり、呪文のような言葉なのだ。「北緯19度17分 東経120度15分」 とつぶやいてみる。軍人墓の一群からはなれた場所に「大東亜戦 北鮮日本人 同胞殉難死没霊」と刻まれた供養碑があった。建立は昭和37年10月20日、 裏面に施主として小松三次郎、末尾に「東3冷凍従業員一同」が刻まれている。Web検索すると「東3冷凍機株式会社」という会社がヒットし現在の社長が小 松姓であるから、関連があるかも知れない。社歴を見ると1945(昭和20)年に「小松製作所」として創業、5年後に社名を「東3冷凍機」に変更している から、戦前には「小松製作所」の前身で朝鮮半島に足がかりがあったのかも知れない。行基にまつわる碑は見つけられなかったが、北側には巨大な「無縁塔」の 足もとに数多くの苔生した無縁墓や石仏が集積していて、この墓地の歴史の古さを物語っている。「融通念仏宗中興の祖 法名上人有馬御廟」なるものもあっ た。いちばんこころに残ったのは昭和47年に再建された、新しい近衛歩兵の墓である。かれは1869(明治2年)にこの長瀬村に生まれ、兄・虎次郎と共に 暮らしていたところを明治22年12月、近衛師団歩兵第四連隊に入隊し、三年後に満期除隊し故郷へ帰り、兄と共に農業に従事していたが明治27年10月 「征清軍之興蒙之為メ」、ふたたび兵役に就き、翌年明治28年8月14日、27歳で戦病死した。「其兄虎次郎使余撰其文誼」、兄が親しみをもってこの文を 記したという意だろうか。わたしはいまよりももっと長閑(のどか)であったろうこの長瀬村で、兄と農作業にいそしむかれの姿を空想してみるのだ。最近、あ るひとがわたしの粗末な文について「彼らにとって未だ訪れぬ未来から現在を撃つ行為に連なっているかも」と記してくれた。まさにそのとおりで、わたしは 「かれらが持ち得なかった未来」によって現在を撃ちたい。かれはもういちど帰郷して、ふたたび兄といっしょに畑を開墾し、汗を流し、水を飲み干し、空を仰 ぎたかった。その「持ち得なかった未来」が腹に溜まって、いつか弾丸となる。

  近鉄大阪線で長瀬から今里へ移動して、そこから徒歩で今里筋にある在日韓国基督教会館(KCC会館)を目指した。生野コリアンタウンで有名な御幸通商店街 も近い。先に公園をはさんだ向かいのスーパー玉手でおにぎりと総菜を買って、公園で簡単な昼を済ませた。「青丘文庫研究会―第6回 映像を通して視る―  まだ視ぬアーカイブを可視化する!」と題された企画はじつにてんこ盛りだ。プロローグ『古代からの歴史に見る−日本列島と朝鮮半島』と題した30分ほどの 映像を皮切りに、第一部は、鶴橋本通りに1913(大正2)年から1934(昭和9)年まであった旧鶴橋警察署の跡地に戦後建てられ多くの在日朝鮮人が住 んだアパート、通称「キョンチャル・アパート」のたたずまいを写した貴重なフィルム『鶴橋本通り「キョンチャルアパート」』(2022/10分/撮影:高 仁鳳 金稔万 編集:金稔万)と、軍事史を専門に関西大と立命館大で非常勤講師を務める塚崎昌之さんの説明。경찰(キョンチャル)とは韓国語で「警察」の 意。1913年は韓国併合から3年後、1911年には大逆事件で大石誠之助ら11名に死刑が執行された。1920年頃から付近に朝鮮人集落が形成され、 1925年には鶴橋警察署長の斡旋で有名無実な「鮮人自治会」が結成され、1928年には東成区の朝鮮人人口が一万人近くに増え、その後かれらの多くが働 くゴム工場などで労働争議が頻出した。旧鶴橋警察署はその朝鮮人弾圧のための拠点であった。検挙された朝鮮人たちが鉄棒で殴られるなどの拷問を受けた。旧 鶴橋警察署跡地は朝鮮人の人々にとってそんな忘れられない場所である。1934(昭和9)年に警察署が勝山通りに移転してから大阪盲人会が買収し「青十字 会館」ができる。アパートは二階建ての55室、厨房・食堂や浴場まである施設であった。戦争末期に軍がこれを一時接収し、敗戦後は民間のアパートとして主 に戦災による生活困窮者たちが住み、やがて在日やニューカマーの韓国人たちの居住が増えていく。アパートは2006年まで使われ、2011年に解体され た。フィルムはその解体前の様子を撮影したものである。

  第二部は舞台が奈良に移り、『どんづる峯と柳本飛行場』(2022/30分/撮 影・編集:金稔万)の上映。元奈良新聞の記者で『奈良・在日朝鮮人史』(奈良・ 在日朝鮮教育を考える会)などの著作もある川瀬俊治さんを聞き手に、元教員で『幻の天理「御座所」と柳本飛行場』(奈良県での朝鮮人強制連行等に関わる資 料を発掘する会)などの著書がある高野眞幸さん、やはり小学校の教員で「NPO法人 屯鶴峯地下壕を考える会」の代表・田中正志さんのトーク。これは地元でもあり、わたしも現地をよく知っているだけに頗る興味深いものだった。まずは「奈良 からの報告」と題した配布資料の一部をここに引きたい。「なぜ在日朝鮮人の歴史を追及するのか。強制連行の隠蔽に抵抗するのか。朝鮮人であることで、日本 人では決してありえない労苦、あるいは被害を受けねばならないのか、その根源に日本の植民地支配の未精算にあるとみるからです。植民地支配は1910年の 「韓国併合」が歴史的な始点ですが、もっとさかのぼり、近代以降の朝鮮(人)認識と植民地支配意識を問わねばなりません。(中略) ・・強制連行の追及は 戦争動員のために生じた朝鮮人への徹底した民族性の否定を知悉するからです。戦争は差別を極限化します。平和を求めることが犯罪(治安維持法違反)でし た。決して繰り返してはなりません。日本軍「慰安婦」を強いられた女性たちの歴史は1991年の金学順さんの証言で重い扉を開きました。日本軍「慰安婦」 の歴史が刻まれた天理・柳本飛行場跡で生じた天理市長による説明板撤去は、戦争での差別を真っ向から否定する蛮行です。平和の追求の挑戦です」  戦争末 期に海軍によって建設が進められた柳本飛行場の遺構は、以前に自転車で訪ねた。高野さんが記した手書きの地図を頼りに慰安所跡と思われるあたりも見当をつ け、撤去された説明板の代わりに有志の人びとが田圃の畝に立てた再設置板もなんとか探し当てた。戦争末期、本土決戦の準備として陸軍がつくったのがどんづ る峯の地下壕であり、海軍がつくったのが柳本飛行場の北方に位置する一本松山の地下壕であり、前者には一時、朝鮮最後の皇太子・李垠(イ・ウン)が滞在し ていたとの証言があり、また後者は天皇の「御座所」にするためのものであった。どちらも本土決戦の特攻隊員を天皇や皇族に準ずる李垠に見送らせるための 「御座所」であったという。しかしこれらの地下にいまも眠る「大本営」跡については、長野の松代大本営跡ほどには知られていない。上映されたフィルムで は、柳本町の専行院の過去帳に残されていた父親の名前を確認するために韓国からやってきた長女の女性が号泣する場面があった。父親は古里の土地を奪われ、 軍属として日本へ連れていかれたという。その場面がいちばんこころに残ったため、上映会の終了後にわたしは高野さんの姿をさがして、お寺の名前をもういち ど確認した。専行院は過去帳だけだが、山の辺の道のルートでもある長岳寺横の山辺霊園には、そのまま奈良の地に住み着いた朝鮮人の人々の墓がいくつかあ り、当時の墓碑には朝鮮半島の出身地が刻まれているものもあるという。また第三部へ移る前の休憩時間には「NPO法人 屯鶴峯地下壕を考える会」の代表・田中正志さんと、どんづる峯地下壕の見学についてお話をさせていただいた。8月中旬に橿原の朝鮮人学校で『平壌の人び と』と題した写真展があり、そのときに地下壕の見学会も行う予定だとのこと。

  第三部は『ウトロ 家族の街』(2002/58分/監督:武田倫和/総指揮:原一男)の上映と、今回の上映会の主催者である青丘文庫研究会の飛田雄一さん を聞き手に、あの原一男監督の弟子である武田倫和監督、そして『ウトロ・強制立ち退きとの闘い』(居住福祉新ブックレット)の著者である斉藤正樹さんの トーク。武田監督がまだ20代のときに、原一男監督主催のOSAKA「CINEMA」塾の塾生として撮影したという『ウトロ 家族の街』は、5月のウトロ 平和祈念館オープン記念のイベント中に二度もウトロを訪ねて、マダン劇やパンソリを堪能したばかりだったので、身近に沁みた。とくにウトロ平和祈念館では 見えてこなかったウトロの若い世代の姿が印象的だったが、いまではかれらも外へ出てしまい、ウトロもわたしの住む町内のように高齢化を迎えているはずだ。 いわば三世代が集うウトロの最後の風景であったのかも知れない。そして上映後のトークで監督も言っていたが、建設会社の社長であるTさんを主人公にすえた はずだった作品は、いつの間にか監督たち撮影チームが来るたびにさまざまな料理をこしらえてもてなしてくれた女性たちの色で染まっていったのだった。中上 健次の小説のなかのオバアたちのように、女たちが勁(つよ)い文化は、間違いない。13時から始まった上映会は17時をとうに過ぎている。じつに内容たっ ぷりで、わたしとしてはいままで、数少ないよすがとして頼ってきた貴重な資料の著者である高野さんや川瀬さんや田中さんたちの話を直接に聞き、ことばを交 わせただけでも実りのある時間であった。川瀬さんはジャーナリスト、高野さんと田中さんは元教師として、それぞれの立場で地道な研究と活動を長年つづけて きた。国家権力が揉み消そうとする歴史のあえかな息遣いを、こうした人たちがこつこつと守り続けてきたのだ。W.H.オーデンが、世界が呆然と横たわって いる無防備な夜に、それでもそこかしこで、光のアイロニックな粒がメッセージを取り交わす、と記した者たちのように。

 わたしにこの上映 会をおしえてくれたカンさんとは会場で合流した。カンさんの紹介で、朝鮮半島の経済史などを専門としている立命館大学の石川亮太教授と名刺を交わしたが、 石川教授もわたしとおなじようにカンさんに騙されて先月末に、件の韓国チームにインタビューされながら撮影されてしまった口であったそうだ。上本町まで帰 る自転車をついたカンさんと、いまも一部が残っている鶴橋署当時の煉瓦塀を見に行った。先日、韓国チームの監督にサムギョプサルをご馳走になった「ナップ ンナムジャ」のすぐ近くだった。いまは介護施設やマンションになっている敷地の南と西のL字に、朝鮮人の人々が連行されて拷問を受けた時代の警察署の煉瓦 塀がそのまま残っている。しかも大勢の若者や観光客たちで賑わっている本通り商店街のすぐわきに。それは、ちょっとした驚きだった。なぜ解体を逃れて残さ れたのかは分からないが、過去の実時間はこんなふうに、何気ない日常のすみに佇んでいたりする。けれど、こちらが見ようと思わなければ、視界に入ってこな い。ディランが歌っていた――ここで見たものは、かれらが見せてくれたものだけ。

◆七墓参りで極楽往生(マイプレ東大阪)
https://higashiosaka.mypl.net/mp/rekishi_higashiosaka/?sid=36678

◆青丘文庫研究会
https://ksyc.jp/sb/

◆キョンチャル(鶴橋警察)アパート
https://www.inbong.com/2011/ikaino/0419kyong/

◆NPO法人 屯鶴峯地下壕を考える会
http://dondurubou.web.fc2.com/

◆柳本飛行場跡
http://voiceofnara.jp/20200720-news678.html

◆天理・御座所地下壕
http://web1.kcn.jp/sizinkyo/wn/genchi_r.html

◆写真展「平壌の人々」
https://mainichi.jp/articles/20220209/k00/00m/040/166000c

◆「ウトロ 家族の街」
https://www.asahi.com/articles/ASQ627F2XQ54PLZB008.html

◆奈良・柳本の元海軍飛行場跡に慰安所を探す
http://marebit.sakura.ne.jp/D018.html
2022.7.12


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  はたしてオズワルド単独犯なのか背後にビッグすぎる組織が暗躍しているのか云々は至極面白そうだがいったん置いといて、伝えられる容疑者の 供述が真実であるのだとしたら、わたしは凶弾に倒れた「その人」の最期は、かれが舐め切っていたものに仕返しをされて犬のようにくたばった、と言うのが実 相ではないかと思うのだ。大手メディアはほとんど黙殺しているが、某週刊誌が伝えた容疑者と付き合いがあった男性の言として、かれが「自分の家族が統一教 会に関わっていて、霊感商法トラブルでバラバラになってしまった。統一教会がなければ、今も家族といたと思う」「統一教会は、安倍と関わりが深い。だか ら、警察も捜査ができないんだ」と語っていたという、それがすべてではないかと思う。かれは絶望的な孤立無援の場所から手に負えないほどの巨大なものを、 「家族」というかれにとって大切な最後のキーワードをよすがに撃ったのではないか。それにしてもその孤立無援の思念を「妄信」やら「思い込み」やらの表現 で必死に封殺しようとするこの国のメディアの臭気はあまりにもひどすぎて、鼻をつまみ口をおおっても吐き気をこらえられない。まさにあの9.11からはじ まった、インドの作家アルンダティ・ロイの書いた「これでよくわかった。豚は馬であり、少女は少年である。戦争は平和である」というアベコベの世界のとお り、蛮行自身が蛮行だと叫び、暴力自体が暴力に屈しないと叫び、民主主義の破壊者自身が民主主義への挑戦だとうそぶく「良識」のなかで、あらゆるものが醜くゆ がめられ色をつけられ泡のように消滅していく。W.H.オーデンがかつて記したような、「世界が呆然と横たわっている無防備な夜に、それでもそこかしこ で、光のアイロニックな粒でメッセージを取り交わす」ことは可能か。
2022.7.13

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  『ナルニア国物語』、『ハリー・ポッター』シリーズ、『ジャングルブック』、『ドリトル先生』シリーズ、梨木香歩『りかさん』。いま Twitterで流行っているそうで、娘がえらん、じぶんの人格形成に影響を与えた児童書5冊、だそうだ。わたしだったら何をえらぶだろうか、と考えて みたがすぐには思い浮かばない。わたしは娘のように小さい頃はあまり本は読まなかったんだよな。なんせ彼女は小学生で泉鏡花にはまっていたのだから敵わな い。小学校の頃は外で友だちと遊んでばかりいたんじゃないか。自転車で東京の下町を冒険みたいに走りまわってもいた。それでもいくつか、愛読していた本は ある。江戸川乱歩の少年探偵団シリーズは全48巻(だったか?)を毎月2冊づつ、近所の本屋で取り寄せてもらって全巻を揃えた。学習漫画の類いも好きだっ たな。『科学の不思議』とか『恐竜の不思議』とか、よくお八つを食べながら読んだから頁の間に煎餅のかけらがはさまっていた。漫画の日本史・世界史も好き だった。けれど、じぶんの人格形成に影響を与えた児童書5冊、というとむずかしいぞ。しばらく思いをめぐらせて、次の5冊を選んでみた。理由はとくに書か ないよ。山中恒『ぼくがぼくであること』、リンドグレーン『長くつ下のピッピ』シリーズ、レイ ブラッドベリ『たんぽぽのお酒』、サン=テグジュペリ『星の王子さま』、 ジュール・ヴェルヌ『海底二万里』。あ、もう一冊、『ほらふき男爵の冒険』も入れたい。
2022.7.15

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  昨日は炎天下、家から薬師寺、唐招提寺と抜けて、五条西山の共同墓地、そしてくだんの容疑者の実家がある平松の集落を抜けて平城京遷都 1300年祭の折に奈良市役所のMさんと神輿の調査に来た皇大神社境内で風に吹かれてしばらく佇んでいた。あるいは行基の工人たちが住み着いた村落か。五条 西山の共同墓地では高台に立派な軍人墓を擁した「山上家」の墓があったが、かれの家のものかは分からない。代わりに済州島出身の一世、二世の人々の墓をい くつか見つけた。戦前に亡くなった人も二人ほど。みな本を一冊書けるほどの生涯を抱え持っていたに違いない。山上徹也はあの平松集落の神輿を見たことはあ るか。かれのツイッター投稿だという言葉。「考えてみりゃ世の中テロも戦争も詐欺も酷くなる一方かもしれない。信じたいものを信じる自由、信じるものの為 に戦う自由。麻原的なものはいずれ復活すると思う。それがこのどうにもならない世界を清算するなら、間違ってはいないのかもしれない。人は究極的には自分 が味わった事しか身に沁みないものだ」  かれは「一人オウム」であったかも知れないと思った。幼い頃に母が宗教に狂い、ために孤立し、みずからが生贄と して焼かれ、父までもが殺され魂がふたつに分断されたゲーム(かれがツイッターのIDにした)「サイレントヒル」のアレッサの絶望と恨(ハン)は、見事に 山上徹也と重なるのではないか。ネットフィリックスで見れる、はじまりの映画「サイレントヒル」を明日、娘と見ることにした。現実世界と薄皮一枚のグロテ スクな「裏世界」は、かれにとってたしかな現実ではなかったか。暗闇から浮かび上がるクリーチャーを殺戮していくかれは、最後に「こちら側」の世界でアヘ を撃った。わたしはひとけのない皇大神社境内でしばらく佇んだ。
2022.7.19

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  柄でもないんだけど、新聞で見たというつれあいのリクエストで、松尾寺のカサブランカ回廊なるものをを見てきた。松尾寺、ときどき手前の道 なき道をのぼったひと気のない山中で煮炊きすることはあるのだけど、境内に入ったのははじめてかも知れない。奥の院の松尾山神社までのぼるとだいぶ広く て、何より境内自由(無料)ってのが気に入ったね。厄除けで有名なこの寺、本堂に貼っていた表ではつれあいが小厄のはじまり、わたしが大厄のおわりかけと いうことで、二人で厄除けの鐘をついてきたよ。
2022.7.23

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  世界には、紛争や迫害、暴力などから逃れるために、故郷から避難せざるをえなかった人が8,930万人いる(2021年末)。

シリア、680万人。ベネズエラ、460万人。アフガニスタン、270万人。南スーダン、240万人。ミャンマー、120万人。そして、ウクライナ。

この9千万人の人たちから見れば、世界はどれだけ残酷な場所かと思うだろう。暴力も話し合いも、すべてはむなしいのだと思うだろう。

◆『紛争・迫害の犠牲になる難民の子どもたち』(国連難民高等弁務官事務所(UNHCR) 著 櫛田 理絵 訳)
https://www.godo-shuppan.co.jp/book/b596553.html
てきたよ。
2022.7.25

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  いつも思うんだけどさ、なんで新聞はこういうニュースに「深刻に憂慮」なんて尤もらしい政府の言い分だけ載せて、この国の防衛省が今年度に 国軍から士官2名と士官候補生4名を留学生として受け入れ、訓練・育成を行っている、つまり人々を弾圧しているミャンマー国軍のエリート生に軍事訓練を施 しているという事実は伝えないの? いま統一協会でホットな笹川財団とミャンマー国軍との怪しい関係だってあるだろ? 要するに「やらせ」なんだよな。桐 生悠々の云う「雪隠の中にいるものは、糞尿の悪臭を感ぜぬ」手合いだよ。言っておくけど、あんたらも立派な共犯だからね、殺人者の。

※ミャンマー国軍 スーチー氏側近ら死刑執行
2022.7.26

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  酷暑の中、午後から自転車で県立同和問題関係史料センターへ、歴史講座の開講式。今日は初日なので新資料についての講座と、常設展示説明付 き観覧など。メインはフィールドワークで、10月に奈良教育大周辺の戦跡めぐり、11月に大淀町周辺の予定がある。最後の12月の閉講式は水平社博物館の 館長の講演とか。先日お話しして、その後メールでやりとりしたスタッフの方と少々おしゃべりなど。陰陽町の鎮宅霊符神社を見に行きたい。
2022.7.26

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 朝から調べもののために国立国会図書館関西館へ。カフェテリアのランチは値上がりをしてコスパがダウンしたのと、ちょうど昼くらいに用事が済んだので、 向かいのラ・ムーで総菜を買って、以前に歩いて行った木津の東山墓地に車を停めて、苔生した無数の無縁墓を眺めながら仕合せランチ。このあと県立図書館で も、ある資料の残り半分をコピーしようと思って行ったのだが、南都ナントのゲリラ的「月末休館日」であった。

 本日得た、図書館関係のあたらしい知見をふたつ。

  「次世代デジタルライブラリー | NDLラボ」なる「国立国会図書館次世代システム開発研究室での研究を基に開発した機能を実装した実験的な検索サービス」で、通常の「国立国会図書館オン ライン」よりもさらに詳細な検索をすることができる。これは「国立国会図書館オンライン」https://ndlonline.ndl.go.jp/#! /
からは直接のリンクは貼られていないので、「次世代デジタルライブラリー」でググって、サイト上部の「サービスURL」から検索画面へたどりつける。https://lab.ndl.go.jp/dl/

  もうひとつは複写代の清算をしていたら、隣の窓口で「全頁コピーの許諾所はお持ちですか?」なぞという会話がされていて、年配の男性が「さっきも見せたん だけど」と折りたたんだ紙を出して、職員が「あ、はいはい。結構です」なぞと言っている。図書館でのコピーは通常は著作権の関係で「全体の半分まで」と決 まっている。だからわたしなどは、どうしても全頁欲しい場合は日をまたいで二回に分けて半分づつコピーをする。隣の男性が立ち去ってから「いまの“全頁許 諾書”って、どういうことですか?」と窓口の職員さんに訊くと、「著者や出版社など、その本の著作権を持つ者に全頁を複写して構わないという一筆を書いて もらったら、全頁の複写ができる」という返答であった。へ〜 そうなんですか、はじめて聞きましたわ〜 と怪人二十面相の正体を暴いた小林少年のような ちょっとうきうきした気分で帰ってきたのだった。
2022.7.29

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 からだの中にはきっと、ハンク・ウィリアムスやジミー・ロジャースなんかが、たっぷりつまっているんだろうな。それにジプシー・スィングなんかも。

  そこがどれだけ大事な場所であろうと、どれだけ善意の人たちが集まる場所であろうと、じぶんがそこにいるべきでないという居心地の悪さを感じたら、けっし て長居をしちゃいけない。きみのこころを弱くしてしまうだけだからね。そういう場所に居続けなきゃいけない理由はないし、すぐにわすれてしまうことだ。た んにきみに必要な場所じゃなかったという、それだけのこと。彼女の歌を聞いていると、そうしたことがはっきりと分かるよ。きみにはそうしたものにかかわっ ている時間もないはず。

Sierra Ferrell, "In Dreams"
2022.7.29

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 やつがアヘを撃った日から、もうじき一ヶ月が経とうとしている。戦後最大の「テロル」を成し得たやつは、精神鑑定のための4ヶ月もの留置がきまって大阪 拘置所に移送された。オウムの井上嘉浩が縊られたその場所で世間から隠され、じき薬漬けにでもされるのだろうか。その間、この国では国葬という儀式に於い てふたたび国體がたちあがろうとしている。かつて大石誠之助や森近運平らを縊りころした化け物が、まだ闇の底で生きていたのだ。このままでは暗黒時代の扉 がひらく、と作家の島田雅彦は記したが。自由な言論の場には生き残るべき言葉と消えてゆくべき言葉を選別する審判力があると信じることだ、と内田樹は記し たが。わたしはむしろ、意識がはっきりととらえることのできない闇の来歴について考えたい。この国は太陽の昇らぬ極夜のような薄暮のなかで、何かがしずか にうごきだしたようなけはいがするのだ。つまり、いままでのものはすべて捨てなければならない。暗黒時代の扉がひらくときには。ナウシカのように腐海の底の未 来の残骸から役に立ちそうなものを拾い集めよ。
2022.8.1

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 布施祐仁『自衛隊海外派遣 隠された「戦地」の現実』(集英社新書)を読む。所詮政治とはことばを以って未来を希求するのではなく、真実をかくすために ことばをねじ曲げていくその端的な例だと得心する。戦場を戦場ではないと言い、戦闘を散発的な発泡事案と言い換え、攻撃を偶発的なものと片づけ、あるもの をないと言い、あったものは黒くぬりつぶされる。1992年の宮沢内閣により施行されたPKO協力法は、(1)停戦合意、(2)紛争当事者の受け入れ同 意、(3)中立、(4)独自判断による撤退、(5)生命・身体の保護に限定した武器の使用、の5原則を前提としているが、国連のPKO活動自体はルワンダ やボスニア・ヘルツェゴビナなどでの虐殺を止められなかった経緯から、文民保護のためには中立・非介入の原則を見直し、「武力紛争が再燃して文民が暴力に 晒された場合は、紛争当事者に対して武力を行使してでも文民を保護する」、つまり「PKO部隊も武力紛争の当事者になり得る」という姿勢に見直され、 2016年には「PKO要員や住民への攻撃が準備されているとの信頼できる情報がある場合には、攻撃を未然に防ぐための「先制攻撃」まで認められた」。こ こで露わになるのは、戦場での自衛隊員のいのち、である。PKOを統括する国連自身が武力紛争の発生を認め、その場合にはジュネーブ条約の国際人道法が適 用されると宣言している一方で、陸上自衛隊は著者が開示請求で入手したPKO活動の教育資料に於いて、「PKOに従事する部隊は武力紛争をするわけではな い。つまり、PKO部隊に国際人道法の適用は想定外」と記している。どういうことか? 万が一、交戦中に自衛隊員が戦争犯罪を犯してもこれを否認するより なく、また逆に自衛隊員が拘束されて捕虜になっても国際人道法に基づいた人道的待遇を要求することができない。これを質問した2015年の新安保法制の国 会審議の野党議員に対して、当時外務大臣だった岸田氏はこう答えている。「後方支援は武力行使に当たらない範囲で行われる。自衛隊員は紛争当事国の戦闘員 ではないので、ジュネーブ条約上の『捕虜』となることはない」(2015年7月1日 衆議院平和安全法制特別委員会)。この答弁を聞いた現役の陸上自衛隊 員は「国の命令で行くだけ行かせて、後は知らないよとなるんだな、と。自衛官はやっぱり使い捨てなんだと思った」と著者に語ったという。真実をかくし言い 繕う政治のことばが、いのちを見棄てる。まさにこの国は棄民の国だ。国連は現在、PKOの基本原則を(1)紛争当事者の同意、(2)公平性、(3)自衛ま たはマンデート(任務)の防衛以外の目的での武力行使の禁止、の三つに整理しているが、任務のためには特定の紛争当事者に対しての武力行使もあり得ると宣 言しているPKO活動に今後、自衛隊が参加するためには「武力の行使」を禁じている憲法九条の問題に触れざるを得ない。これについて元陸将の渡邊氏が言っ た「憲法はPKOのために変えるものなのでしょうか?」という一言は、至極まっとうだ。そもそも「振り返ってみると、自衛隊の海外派遣は大きな流れでは、 アメリカの世界戦略に沿う形で進められてきたことがわかる」と著者は記す。「アメリカは日本に警察予備隊を創設させた当初から、日本の戦力をアメリカの世 界戦略のために活用することを考えていたのである」 「自衛隊海外派遣のベクトルは、「国際平和への協力」「国連への貢献」から、日本の安全保障のための 「対米支援」「日米同盟の強化」にシフトした」  著者が本書の終盤に引用している日本国憲法前文は、まるで百年前に「 ここにわれわれが人間を尊敬することによって、自らを解放しようとする運動を起こしたのは当然である。われわれは、心から人生の熱と光を求めるものであ る。 水平社はこうして生まれた。 人の世に熱あれ、人間に光あれ」と謳った、あの水平社宣言のように誇らしげではないか。まるでジョン・レノンのイマジンのようにひっそりと輝いてはいない か。

 国連は現在も、アフリカを中心に12の地域でPKOを展開中だ(2022年3月現在)。米中や米露の大国間競争だけに目を奪われて、世界中で今も続く内戦や地域紛争に無関心になってはならないと思う。

  日本国憲法前文は「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと 思う。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」とうたっている。今こそ、この言葉を 噛みしめたい。

 すべての自衛隊員が入隊時に署名・押印する「服務の宣誓書」は次の一文でしめくくられている という。「事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に務め、もつて国民の負託にこたえることを誓います」  かれらに「負託」を与えているのは、 わたしたち一人びとりである。戦場でないと言われる戦場で、攻撃されても撃てず、人道上の捕虜待遇さえも受けられず、真実をかくすためにねじ曲げられた政 治的言質のはざまで、いのちを懸けよと迫られる。本書の結びに、著者はこう記している。

 私たち日本国民は、自衛隊に何を負託するのか、その選択によって、自衛隊員のリスクは大きく変わる。人間の命がかかった重い選択だ。その選択を責任を持って行うためにも、私たちには自衛隊の活動について知る権利と知る義務がある。

2022.8.2

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 十数年ぶりに映画「タクシー・ドライバー」を見返す。夜、寝床で『棺一基 大道寺将司全句集』、辺見庸の序文など読む。棺一基四顧茫々と霞みけり――死にむかって、棺の内も外もない。<奇しき死>に押しだされた <奇しき生>であれば、茫々と白く昏く霞んだ風景のなかで眼窩は、押しだされた生のその果てをみつめている。

  死者はひとりびとり証されたわけではない。(中略) そのひとがそのひとであることは、わたしが他ならぬわたしであるわけを開示することができなければ、 とどのつまり、証しえない。関係とはそういうものではないのか。(中略) 生きるとは、たぶん、生きる主体が生きてあることをどうにかして証そうとするこ とである。

 まず〈奇しき死〉があり、おびただしいそれらに押しだされるようにして、〈奇しき生〉はいまある。(中略) この〈奇しき生〉を証すこと――それが最期の営みとして残されているのではないか。

(序文・辺見庸)
2022.8.3

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 57になったが何も変わらない。昨日はパレスチナ自治区ガザへのイスラエルの空爆で、5歳の少女が死んだ。幼いいのちが理不尽に奪われるのはほんとうに 堪えがたい。こんな世界は、確実に糞だ。おれに銃をくれ。こんな世界を成り立たせて平気な顔をしているやつらのすべてを撃ってやるよ。おれに銃をくれ。こ んな世界はもううんざりだ。
2022.8.6

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 昨日はひさしぶりに電車で大阪へ。愛しの新今宮から堺筋近辺をてくてくと歩いて日本橋のインディペンデントシアター2ndで、済州島事件を題材にした劇 団タルオルムの「さいはての花のために」を見た。当日のレビューはのちほど。その後、劇場で合流したカンさんに誘われて大阪オンヌリ教会のミサに。韓国語 の牧師さんの説教はイアホンで日本語の同時通訳が流れてくる。テーマは「善を行うのに飽いてはいけません」という「ガラテヤの信徒への手紙」――パウロの 手紙の一節だが、わたしはヘロデ王が妻へロディアの娘に請われヨハネの首をはねるという「洗礼者ヨハネの死」のくだりを聞きながら、ケン・ラッセルのコケ ティッシュなサロメを思い出していたのだった。ミサが終わってから、カンさんの紹介で牧師の李泳善さんと名刺交換。奥さんは日本人で、教会でやっている子 ども食堂の話で少々盛り上がる。あとでカンさんから聞いた話では子ども食堂の参加者の国籍はさまざまで、過去に心中事件などもあったとか云々。入口の長机 に平積みしていた、金大中のもとで長年中国大使を務めた金夏中という人の「神の大使」という著書と、それから「本がお好きなら」と奥さんが三浦綾子「道あ りき 青春篇」の文庫本を奥から持ってきてプレゼントしてくれた。日本の教会にくらべて在日の人たちの教会には若い人も多く活気があるのは、教会が大事な コミュニティの役割を果たしているからだろうか、とも思う。千日前通りでカンさんと別れ、ふたたび酷暑の街をてくてくとあるいて行く。日曜の新世界は人混 みであるくのも大変なほどの賑わいだ。串カツ屋では大勢の若者たちがマスクもせず、大声で笑いながらくっつきあい酒を飲んでいる。もうみんなコロナには馴 れてしまったようだ。山中 秀俊さんのTLで見た、釜ヶ崎日雇労働組合の活動資金のためのカンパTシャツ(前面「黙って野垂れ死ぬな、やられたらやり返せ」、背中「釜ヶ崎解放」)が 欲しくて、西成アーケード商店街にあるココルームなる謎のゲストハウス・カフェ・古着屋みたいな店へ行ったところ、どうやら「釜ヶ崎解放」ロゴの帽子だけ 扱っているようで、前に「やられたらやり返せ」という文字が書いてあるTシャツだと説明すると店の兄ちゃんは「うちのTシャツはそこまで闘ってませんわ」 なぞと答える。残念ながら、そしてそろそろ暑さにへばりかけてきたのでそのまま帰宅した。そういや、いろいろあって昼飯喰うの忘れてたよ。夜、ベッドで頂 いた金夏中氏の「神の大使」を少々齧り読みしたら、韓国と中国がまだ国交がなかった時代から韓中修交へ向かう官僚としての冒頭は、けっこうおもしろい。
2022.8.8

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 こんな夜に、イカれたはみだし者のことを考えたい。触れたこともない片思いの女のために命を賭けるやつとか、14歳の淫売婦を救うためにおのれのすべて を投げ出すやつとか、抱えきれない物語をしまいこんだままどぶの中で一人くたばるやつとか。神とやらを信じたために遠い異郷のさびしい墓の下に眠っている やつでもいいさ。どこへ行ったところで、だれと知り合ったところで、鏡に突き出した指はいつもじぶん自身を差している。くたびれ果てて引き裂かれた世界 で、おまえの貧民や小作人や王や王子たちは途方に暮れている。かれらを解放してやるべきだな。そしてひとりにもどって、夜のなかをあるいていくべきだ。魂 のない廃墟の工場を。ブレイクはうたったものだ、「なぜなら、そこでは悲惨な哀しみのなかで孕まれた子が 喜びのなかで生まれるのだ」  「すべての眼か ら流れるひとしずくの涙が 永遠界で赤子となる。 その児は輝かしい女性に捕らえられ みずからの歓びへと還される」  おれたちはまだ岩に縛りつけられ ている。一切の事物は永遠の真のぶどうの樹につらなっているのだろうか。
2022.8.9

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 今日も夕方、二時間ほど自転車で近場を走ってきた。
 自転車でめぐったのは座禅で有名な三松寺に隣接する七条西の共同墓地。無 縁墓にあった「峯雪童女」。嘉永5年は1852年、ペリー来航の前年だ。古そうな墓地だけれど、軍人墓は二基だけだった。うちの一基は中国前線を転戦し て、最後に京都の陸軍病院で亡くなった26歳の歩兵だった。
 薬師寺の塔を臨む大池の有名な撮影ポイントを過ぎて、七条の西波天神社。
 そこから東、ならまちへ向けて走り出したが俄かに雨が降りだして、公園のはしの木陰と、それからどこかの地蔵堂の前の軒を借りて雨宿りをした。ばらばらと落ちる雨粒を眺めながら、雨雲が通りすぎるのを待つ。ひとには雨宿りをする、こんなすきまの時間も必要なんだ。
  そして目的の、かつて陰陽師たちが多く住み、暦をつくって売っていたというその名も陰陽町にある陰陽師ゆかりの鎮宅霊符神社。西側からすすむと急坂をの ぼったてっぺんあたりに坐すのは、やはり夜空の星がよく見えるようにということか。有名な「笑う狛犬」、本殿の裏には妙見信仰の名残りもある。賤視をはね とばして、したたかに生きていたかれらの姿を想うよ。
最後はひさしぶりに、来世墓の郡山紡績工場寄宿舎工女宮本イサちゃんの墓に寄って帰った。生 きていたときの彼女の頭を撫でるように墓に手を置いて話しかける。それから無縁墓の前の石仏に、ここで暮らしていた墓守はどんなやつだったのか、おまえは ぜんぶ見ていたんだろう、おしえてくれよ、と問う。
2022.8.10

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  毎年この時期になるとテレビや新聞紙上をにぎわす戦争「被害」の記憶に反発するように、この二冊の本を読んでいる。正確にいうと最近買った『旅順虐殺 事件』(井上春樹・筑摩書房)を読んでいたら、書棚の『日清戦争 「国民」の誕生』(佐谷眞木人・講談社現代新書)を再読したくなったのだ。

  まこと、この二冊はセットで読むべきだ。後者の冒頭で、著者の佐谷は記している。「私たちは、今日なお、好むと好まざるとにかかわらず「国民国家」という 制度の下に日々暮らしている。その「国民国家」という制度/意識が、近代日本においてどのように形成されたのか」 「ひとことで言うなら、日清戦争が「国 民」を生んだということになる。日清戦争を共通体験の核として、日本は近代的な国民国家へと脱皮したのである」 

 明治の醜悪な種子は、ここで花開いたのかも知れない。国民国家、植民地支配とアジア蔑視、軍隊の暴走、情報操作と隠蔽、無反省、メディアによる意識の共有と高揚、戦死者の弔いと「英霊」の顕彰・・・ あらゆるものがこの日清戦争に端を発している。

  南京虐殺から40年もさかのぼる1894(明治27)年にあって、すでにこの国の軍隊は狂気のさなかにあった。そしてそのことを、ほとんどの人は知ること もなく、いまなお戦争「被害」の記憶ばかりを語り、「加害」の記憶を隠蔽・忘却し、主語のない「あやまちはくりかえしません」を誰にともなく繰りつづけ る。

 大山巌を司令官とする旅順侵攻の主力・第二軍下の第一師団には歩兵第一旅団があったが、その旅団長である乃木希典は後にロシアが要 塞化したおなじ旅順で多数の戦死者を出し、明治天皇の死に殉じてみずからも神として祀られた。また森鴎外はこのとき、第二軍兵站軍医部長であった。国木田 独歩は國民新聞の従軍記者として旅順港の軍艦千代田に乗り込んでいた。かれらは何を語っただろうか。


 日本軍が旅順になだれ込んだとき、鼻と耳がなくなった仲間の首が、紐で吊るされているのを見た。また、表通りには、血のしたたる日本人の首で飾られた、恐ろしい門があった。その後、大規模な殺戮が起こった。激怒した兵士たちは、見るもの全てを殺した。
 自分のこの目で見た証人として私は、憐れな旅順の人々は、侵略者に対して如何なる抵抗をも試みなかったと断言できる。いま日本人は、窓や戸口から発砲されたと述べているが、その供述はまったくのでたらめである。
 捕虜にする、ということはなかった。
 兵士に跪き慈悲を乞うていた男が、銃剣で地面に刺し通され、刀で首を切られたのを、私は見た。
 別の清国の男は、隅ですくんでいたが、兵士の一分隊が喜んで撃った。
 道に跪いていた老人は、ほぼ真っ二つに切られた。
 また、別の気の毒な人は、屋根の上で撃たれた。もう一人は道に倒れ、銃剣で背中を何十回も突かれた。
 ちょうど私の足元には、赤十字旗が翻る病院があったが、日本兵はその戸口から出て来た武器を持たない人たちに発砲した。
 毛皮の帽子を被った商人は、跪き懇願して手を上に挙げていた。兵士たちが彼を撃ったとき、彼は手で顔を覆った。翌日、私が彼の死体を見たとき、それは見分けがつかぬほど滅多切りされていた。
 女性と子どもたちは、彼らを庇ってくれる人とともに丘に逃げるときに、追跡され、そして撃たれた。
 市街は端から端まで掠奪され、住民たちは自分たちの家で殺された。
  仔馬、騾馬、駱駝の群れが、恐怖に慄く多数の男と子どもとともに旅順の西側から出て行った。逃げ出した人たちは、氷のように冷たい風のなかで震え、そして よろけながら浅い入江を渡った。歩兵中隊が入江の先端に整列させられ、ずぶ濡れの犠牲者たちに絶え間なく銃撃を浴びせたが、弾丸は標的に命中しなかった。
 最後に入江を渡ったのは二人の男であった。そのうちの一人は、二人の小さな子どもを連れていた。彼らがよろよろと対岸に着くと、騎兵中隊が駆けつけて来て、一人の男がサーベルで切られた。もう一人の男と子どもたちは海の方へ退き、そして犬のように撃たれた。
 道沿いにずっと、命乞いをしている小売商人たちが撃たれ、サーベルで切られているのを、私は見ることができた。戸は破られ、窓は引っ剥がされた。全ての家は侵入され、掠奪された。
  第二連隊の第一線が黄金山砲台に到達すると、そこは見捨てられているのがわかった。それから彼らは逃げる人でいっぱいのジャンク(※木造帆船)を見つけ た。一小隊が埠頭の端までひろがり、男や女、それに子どもたちを一人残らず殺すまでジャンクに発砲した。海にいる水雷艇は、恐怖に打ちのめされた人々を満 載したジャンク十隻をすでに沈めていた。
 五時頃、退却する敵を追って行った乃木以外のすべての将軍が、陸軍大将とともに集った操練場に音楽が流れた。何と機嫌よく、何と手を握りあっていたことか! 楽隊から流れ出る旋律の何と荘重なことか!
 その間ずっと、私たちは通りでの一斉射撃の響きを聞くことができ、市街にいる無力な人々が、冷血に殺戮され、その家々が掠奪されているのを知ることができた。

ジェームズ・クリールマン「ワールド」(12月20日付)

2022.8.12

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 月曜あたりから体調すぐれず、頭痛、吐き気、鼻炎アレルギー、胃痛、下痢などで、火曜の歯医者と屯鶴峯地下壕見学会などをキャンセルする。夏風邪か、強 度のアレルギーか、はたまたコロナ感染か。食欲はふつうにあるのだが立っているとつらいので横になってばかりいる。井上晴樹『旅順虐殺事件』を読了する。 鴎外の『 興津弥五右衛門の遺書』『堺事件』『大塩平八郎』などを読む。稲垣瑞雄『石の証言 米軍捕虜虐殺事件』を読む。金夏中『神の大使2 祈りの勇士』、『棺一 基 大道寺将司全句集』、佐藤真『日常という名の鏡 ドキュメンタリー映画の界隈』、清沢冽『暗黒日記 昭和十七年十二月〜昭和二十年五月』、内田隆三 『柳田国男と事件の記録』、矢部宏治『知ってはいけない 隠された日本支配の構造』などを読み散らかしている。ブレヒト『亡命者の対話』を読み始める。あ とはひねもす寝てばかりいる。Rのその後の話もなく、ますますじぶんがろくでなしのように思えてくる。自民極右女の云う「子を成さない非生産者」のような ものか。
2022.8.17

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 昨夜はつれあいと『スパイの妻』(黒沢清監督 2020)、今日は昼間一人で『アナーキスト』(ユ・ヨンシク監督 2000)を見る。前者は1940年 代の満州をかかえた日本を描いた日本映画、後者は1920年代の上海租界地で暗躍する抗日武装組織「義烈団」を描いた韓国映画だ。前者は何やら飲み込むに は噛み足らずといったふうで、後者はまるで1960年代の『明日に向って撃て!』のようで痺れる。つまりわたし的にはストレートで潔い『アナーキスト』が 優柔不断の『スパイの妻』を喰ってしまった。『アナーキスト』の冒頭、義烈団の革命宣言が叫ばれる。「民衆は革命の大本営」 「暴力は革命の唯一の武器 だ」 「我々は民衆に分け入り絶えざる暴力暗殺で強盗日本の統治を打倒せん」 「我等は不合理な一切の制度を改造し人類が人類を圧迫するを為し得ず社会が 社会を収奪するを為し得ない理想の朝鮮を建設する」  しかしかれらは所詮、この地上のどこにも居場所を持ち得ない“道々の輩”であった。アナーキーの語 源を知っているか? 劇中で主人公の一人が見習の同志におしえる。ギリシャ語でアナルキアあるいはアナルコス、船長をなくした船乗りたち。わたしは、あら ゆる船長(権力)を拒絶する船乗りたちだと思う。 もちろんこれは映画で、もっといえばアクションあり恋愛あり笑いもありの娯楽活劇エンターテイメント だ。それでもわたしはひとときの夢を見た。
2022.8.19

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 『中野重治詩集』(新潮文庫)を図書館で借りてきて頁をめくっている。戦前に書かれた詩「新聞をつくる人びとに」は、まさにいまメディアに係わる人たち すべてに読んで欲しい。メディアを受けとる人たちすべてにも読んで欲しい。治安維持法体制下に書かれた詩は奇妙に2020年代の殺伐としたこの国に当て嵌 まる。これもまたあの廃墟の「サイレントヒル」、Inner Worlds(内深界)からの呪詛である。

君たち新聞記者たち
君たち新聞をつくる人たち
君たち記事を自分の手で書く人たち
それを組む人たち
それを刷る人たち
それを配る人たち
君たち
あたらしい事件と血なまぐさい事件とを人の眼のなかに押しこむ人たち
恥かしさと憤ろしさと我慢のならなさとで
人の心臓をちりちり炒りつける人たち
君たち新聞をつくる人たち
待つているのだ おれたちは

おれたちは待つている
正確な報道といつわりのない報道を
誰にも遠慮のない
何ものをも恐れない
事実そのままの報道を
それの最初の報道を
それのぬくみをおれたちの手のひらが感じるナマの報道を
それをまつさきに知るのがおれたちであり
それの対策をまつさきに講ずるのがおれたちである報道を
それをおれたちにわたすのが君たちであり
そのためにおれたちの感謝するのが君たちである報道を
おお新聞をつくる人びと
君たち

おれたちは待つているのだ
配給品の山がどろどろに腐ったという報道を
その隣りで茶碗と味噌こしとザルと煮えかけた飯とがべたべた封印されたという報道を
そして赤ん坊がしなびた乳房からむしりとられ
ねずみ色にこちこちにやせて死に
そして泣き声も出なかつたという報道を
その母親がひつぱたれ たたき出され おつかけられ
眼のなかに灰をぶちこまれて釘づけにされたという報道を
その父親が道場の天井にさかさに吊るされて竹刀であばら骨をたたき折られたという報道を
締め木にかけられ
正式裁判願いが握りつぶされ
カビのはえた穴のなかで肺病のバイキンを飲まされたという報道を
それから巡査が崖つぷちから突きおとされ
校長が女学生たちに袋だたきにされ
そして兵隊が脱走したという報道を
それから村じゆうのヨボとチヨンガとが一かために焼き殺され
おふくろと娘とのアイゴーがずつと遠方の町まで聞えたという報道を
それから村じゆうのたんぼと畑が書きかえられ
むきだしの土まんじゆうが堀つくりかえされて八間道路が突つ走つたという報道を
その八間道路を装甲自動車がけとばし
その上にあから顔の人殺し請負師がそつくり返つていたという報道を
教師がサーベルで生徒をおどしつけ
そしてそこに記念碑が立つたという報道を
そしてだれもかれも我慢しききれなくなつたという報道を
そしてみんな起ちあがつたという報道を
あつちでもこつちでも餓死同盟がはじまり
工場で合図の笛が鳴り
ムシロ旗が動き出し
竹槍がけずられ
それの穂さきがすでに血ぬられたという報道を
それをはつきりと大きな活字で書いてくれ
それをがむしやらに書いてくれ
世界でいちばん足の速い君たち
どんな路地もはいり
夜のなかを通りぬけ
耳に無数の電線をつないでいる君たち
「材料」を持つている君たち
その手をひらいて一切合切ぶちまけてくれ
書いて書いて書きまくつてくれ
それを大通りでも小通りでも細みちでも
汽車の中でもキネマの中でも
役場でも風呂屋でもばらまいてくれ
それを自動車でもベンチでも便所でも坂塀でも人の背中でも
貼りつけ貼りまわしてくれ

中野重治「新聞をつくる人びとに」(1931(昭和6)年)
2022.8.20

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 今朝の毎日新聞、社会面広告。

 一見、オサレなオペラ・コンサート告知かと思うけれど、この深見東州ってさ、出版社や ホテルなどを経営するかたわら、ふざけたペンネームや芸名で小説を書いたり、能楽をやったり、絵画展をやったり、ロックコンサートをひらいたり、いわゆる あらゆるアートに身を飾って、その分野の海外の著名人と共演して箔をつけようとしているものの、実態は神道系新興宗教団体「ワールドメイト」の教祖なんだ よね。Wikiなどによれば全国に5万人の会員を擁し、豊富な資金で政治家へも多額の献金をしている、とか。

 もうだいぶ昔になるけれ ど、このワールドメイトのイベントに携わる仕事を以前の会社で受け持ったことがある。場所は琵琶湖西岸、ぼくらの仕事は全国からやってくる信者の車をふり わけることだった。三泊四日で少し離れた町のレオパレスに何人かで泊まり込んだ。イベントというか、宗教儀式(神事)でさ。教祖のスピーチを聞き、琵琶湖 の湖岸に信者たちがつどって思い思いに瞑想をしたりしながら、最後に湖の向こうから昇る朝日を浴びるって趣向なんだな。

 それにしても車 はどこから湧き出すのかってくらいやってくる。北から、南から。ナンバーも北海道から九州、沖縄まで。みんな憧れの教祖に会えるからうきうきしてるんだよ ね。老若男女、年齢はそれぞれだ。小さな子どもを連れた家族連れもいるし、上品そうな老夫婦もいる。そしてだれもが判を押したように善良そうで、礼儀正し い、ふつうの人たちなんだよな。こんなふつうの人たちが、なんだってこんなヘンテコな宗教に染まっちまうんだろうと思いながら、会場へあるいて行く人たち をおれは見送ったもんだ。夜中でも明け方でも、信者の人は好きな時間にやってきて帰っていくから、おれたちは12時間交代の24時間対応だった。

  会場から離れた大きな工場の跡地のようなところを借りていて、車はみんなそこに停めてもらって、教団のバスで会場へ向かう段取りだけど、間違って会場まで 来てしまう車もある。いちどそんな車のドライバーに、ここには停められないから、隔地の駐車場へ移動するようにと窓越しに説明していたら、その若い兄ちゃ んは「あ、いま教祖のスピーチが始まったから、5分だけここで聞かせて欲しい」と言う。FM電波に乗せてみんなが聞けるようにしているということだ。じゃ 5分だけですよ、とつい言ってしまったのが後の祭りだ。10分経っても動きがないので、車の窓をノックすると当人はシートを倒してもうあっちの世界へ跳ん で行ってしまっている。魂は別の世界へ飛翔しているのだから、わたしの声など聞こえるはずもない。

 そんなSFのような三泊四日を過ごし たのは、あれはまだ娘が小さかった頃じゃないかな。そのとき買い出しに行ったレオパレスに近いスーパーで、おれははじめて滋賀名物のサラダパンを見つけた んだよ。だからサラダパンを食べると、湖岸で昇る太陽を両手をあげて拝んでいた人々の群れを思います。仕事は楽だったし、夏もまだいまほど酷暑ではなく、 夜は避暑地のような心地よい気温だった。その北小松の松林に囲まれた一帯は教団の所有する土地だそうで、全国に何ヵ所かそういった聖なるエリアを持ってい るという。

 いま、アヘ君の遺産によってこの国の政治は統一協会で日々盛り上がっているけどさ、危うい新興宗教なんてまだまだいっぱいあ るんじゃないの。政治家だけじゃない。ふつうの顔をした多くの善良そうな人々がじつはみんなカルト教団の信者で、気がつかないけどおれたちのまわりにたく さんいるんだよ。生きる価値を見出せず、頼れるものもなく、この国ではカルト教団が最後のセーフティーネットなのだった。日本、氏ね。
2022.8.21

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 東京、渋谷。15歳の少女が見ず知らずの母娘連れを背後から刺す。刺された娘の背中の刺し傷は深さ10センチで全治3か月の重傷。少女をおさえつけた母 親も刺し傷や骨折で重傷という。近くの店の従業員などにとりおさえられた少女は抵抗するでもなく、空を見あげたまま女性従業員に「あの子、死んだ?」と訊いたそうだ。その後、警察の取り調べに「死刑になりたくて、たまたま 見つけた2人を刺した」 「自分の母親と弟を殺すための予行演習だった。本当に自分が人を殺せるか確かめたかった」などと話しているともいう。いろいろな もののタガがはずれてきた。よわいものたちから堪えきれなくなって狂い出す。まさにエンデさんが言ったように「狂ってしまった世界では、狂った反応をする 人のほうが、いわゆるただしい反応をする人より多くなりますよ」(ミヒャエル・エンデ『三つの鏡』)のとおりだ。山上徹也が興じていた「サイレントヒル」 の世界では、ダークサイドの闇を予知するために人々はカナリアの籠を携えていた。カナリアはあばれくるって、先に死ぬ。人々はあわてて逃げ出すが、かれらもじきに闇につかまる。
2022.8.21


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 R編集長から、軍人墓の見出し・中見出しを付けて最終稿。なんの歴にもならないプロフィールと写真を送る。さて、ライターとして喰っていく腹づもりとは 何ぞや。「ライター鼎談 定年なきフリーライターが10年後も生き残るために必要なこと」なぞといったWeb記事を見つけ試しに読んでみたら腹が痛くなっ てきた。臨機応変にやれる器ではないから書きたいこと、だれも書いていないことを小さな深い深い穴を掘ってちぢこまって書くよりほかにない。見捨てられた ものたちの骨になったつもりで書くんだよ。数日前、貯金が二百万を切っちゃった、とつれあいがさみしくわらった。退路を断て。おまへがいちばんやりたいこ と。
2022.8.23

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 三島由紀夫の『豊饒の海』に登場する「月修寺」のモデルともいわれる圓照寺は、皇族や公家の女性らが住職を務めてきた尼門跡寺院だ。通常は非公開の場所 なのだが、長い参道まではオッケーらしく、鬱蒼とした山中の門前で山の辺の道(北コース)が交差する。そこから崇道天皇 八島陵へ抜ける山中に、まるで桃源郷のような人の気配の絶えた向山地蔵墓地がある。深い竹林に囲まれた窪地に苔生した墓石が寄り添っている。あたらしい墓 石はほとんどないので、長い歴史において圓照寺にかかわった人々の墓ではないかとも思うのだがどうだろう。こういう場所で、一体づつの墓石に目を瞠り、と きに語りかけたりしている時間が、わたしはやはりいちばん心が安らぐ。下界では居所も定まらないわたしだが、ここでは死者と生者のあわいに佇んで、いっそ 居心地が良い。何百年も前の死者たちと共にいる。抜き差しならぬ生者よりも、すでに完結したしずけさに眠る死者の方が親しい。
2022.8.25


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 今日も午後から、ややショートコースで。特に目的もなく北へ。平城宮跡で復元された大極殿南門なぞを見てから、法華寺前を抜けて法連町あたり。丘陵地の すそのを徘徊していたら、何やらあやしいスポットを見つけちまったよ。旧奈良高校背後の常陸神社、稲荷神社、八峰神社、その他無数の神さまが祀ってあっ て、かつては賑わったのかも知れない講の宿泊所のような廃墟の建物とセットになっている池のはたのちょっと気味の悪いエリア。もうひとつは高野山をはじめ ユニークな石造を多数残した宇宙経の吉村長慶が大正期に建てた長慶寺。門前の異様な佇まいに一瞬あとずさったが、石像や文字の雰囲気が何となく似ていたの でひょっとしてと思ったら、やっぱりかれだった。寺の中は入れないけれど、門前だけでたっぷり浸れるよ。東大寺よりはるかに面白いぜ。
2022.8.27


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 昨日、宇宙経・吉村長慶の長慶寺をグーグルの航空写真で見ていたら、その裏手に墓地の一画を見つけてしまい、そのからみですぐ東にある興福院のことなどあれこれ調べていたら、いろいろと面白いものを見つけたんで、今日はまた午後から走ってきたよ。
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興 福院は奈良時代に創建された尼寺で、もともとは尼ヶ辻にあったという。近鉄尼ヶ辻駅の南東、旧村の集落内にその名残の古い墓地と井戸が残っているというの で、狭い路地を徘徊して見に行ったが、生憎と墓地は立入禁止。近くで見られないのは至極残念だが、しかし、いい感じだわ。井戸はそこから南東へ80mほ ど、お地蔵さんの祠とならんでいた。
◆興福院旧跡の記憶
https://awonitan.hatenablog.com/.../082_%E8%88%88%E7%A6...
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昨 日とおなじく平城京跡をぬけて、国道24号を越え、不退寺前を通りすぎてJR大和路線の線路際。ここに「難除供養碑」と刻まれた墓石のような碑が立ってい る。もともとグーグルマップ上に発見したものだが、Webであれこれ検索したら、やっと下のリンクを見つけた(この休日余暇のマネージャー、じつはしょっ ちゅうクロスする)。不退寺の住職の息子が施餓鬼旗を立てている場面に遭遇したという話だが、このあたりは昔から投身自殺が多い場所と聞いている。わたし はたぶん、そのための供養碑だろうと思う。
◆不退寺の難除供養碑・彼岸の無縁仏施餓鬼
https://blog.goo.ne.jp/.../d1b3b3f4c5a9176c2e1a1440e8753844
.
そ こから狭岡神社などを経て、昨日と似たような山裾のコースで興福院へ。ここは拝観は事前予約制で、しかも最近は予約しようとしても断られることが多いとの 書き込みもある。グーグルの航空写真で見ると、件の墓地へはこの興福院の門前からどうも樹木の切れ目が続いている。そう思って門前まで来てみたが残念、土 塀沿いに墓地へ続いているだろうと思われる小路には竹の結界で塞がれ、さらにロープも張っている。侵入してやろうかと迷ったけれど、ここまでしっかり禁止 しているとやっぱり入りにくい。諦めきれずに山のぐるりを自転車で走りまわって、どこかに侵入経路はないかと探したが見つからなかった。あとは薮の中を 入って道なき道を進むしかないのだが、それは別の季節の方がいいだろう。10年前に運よく、墓地に入れた人の写真がある。どうもこの興福院はどこもかしこ もけち臭いな。
◆奈良市法蓮佐保山 興福院(こんぷいん)墓地阿弥陀石仏
https://blog.goo.ne.jp/.../5b44c46a6ca6ef6bde7d0f86f1df468f
.
最 後は旧ドリームランド跡地のある鴻池の方へ。この登りがハードだった(途中であるいた)。黒髪山稲荷神社から鬱蒼とした山道を少々下ると、山中にひっそり と、石の柵に囲まれた宮内庁管理の那富山(なほやま)墓がある。1歳で疫病のために亡くなった聖武の皇子の墓と伝わるが、わたしが見たかったのはこの墓の ぐるりに墓を守るように据えられた、通称「隼人石」と呼ばれるネズミ、牛、犬、ウサギのようにも見える不思議な人物像が線刻された自然石だ。柵越しからそ のひとつをようやく見つけた。可愛らしいキャラクターのようだ。しかしこんなさびしい場所で、参る人もあまりいないんじゃないだろうか。
◆那富山墓の隼人石
http://www5.kcn.ne.jp/~book-h/mm044.html
2022.8.28


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 娘のおすすめの映画「ドラゴン・タトゥーの女」(原題は Millennium、ひどい邦題だ。)をネットフリックス終了間際(8月末まで)に見る。頗る面白かった。糞のような世界の野の花か。彼女はとてもよい センスを持っている。わたしがなにかを書くのは、だれかに同意を求めているわけではない。Saved の頃のDを聴く。眉をひそめられ、町から追い出されて、ひとはだれでもないじぶんの言葉を持つ。深みに堕ちて、沈降して、墓石に爪で刻め。スマホからFB を削除した。
2022.8.29


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 1979年に北朝鮮で制作された映画「安重根 伊藤博文を撃つ」をYouTubeで見る。リチャード・マニュエルがクラプトンの"No Reason To Cry"セッションでレイ・チャールズの What Would I Do Without You を歌っているのを聴く。リック・ダンコがそのリチャードの葬儀で I Shall Be Released  をまるでリチャードのようなファルセットで歌っているのを聴く。あとはまさに役立たずの老騾馬のように書斎の揺り椅子に身を横たえていただけ の日。どこへも行きたくないし、なにも読む気にもなれない。大台ケ原の旅行チラシを見ながら彼女が、むかし二人でここへのぼったねえ、と言って泣いた。
2022.8.30


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 先の城ホールのコンサートのアンケートで当たったホール内喫茶店のドリンク・チケット(8月末まで)を使って、プラス120円でサンドイッチとオムレツ の付いたモーニングを、図書館で借りてきた本をめくりながら一人優雅に。柳田国男『葬送習俗事典』、福原堂礎『墓のはなし』、筒井功『村の奇譚 里の遺 風』、山川均『中世石造物の研究 石工・民衆・聖』、そして予約を入れて順番待ちだった島田雅彦『パンとサーカス』。『村の奇譚 里の遺風』はほとんど読 んでしまう。『葬送習俗事典』はすでに持っていた古い『葬送習俗語彙』とおなじものだったと気づいたが、新字新仮名が読みやすく、姉妹巻の『禁忌習俗事 典』と併せて各千円ほどの文庫本になっていたため、二冊とも密林で注文してしまった。こちらもめくりながらだが、要所要所にほぼ目を通した。葬送の風景に 心惹かれるじぶんの性向は何に由来するのか。『村の奇譚 里の遺風』に出てきた和歌山の二か所の「犬墓」の小字の場所や、『中世石造物の研究 石工・民 衆・聖』に触れられている新薬師寺から百毫寺周辺の中世以降のあの世の風景をグーグル・マップなどでたどってみる。「対馬の濃部では、死人が出ると直ぐに 家人が浜に行って、浜石を蹴り、蹴りあたった小石を一つ持ち帰って死者の枕の傍に置く。これを枕石という。葬後のシアゲがすんだ後で枕石に戒名を記して、 スヤの中に入れる。そうするとゴリンノイシと呼ばれる。青海では棺を担いだ者が浜に出て汐で手を清めた後、目をつぶって掴んだ石を持帰り、和尚に戒名を書 いてもらう。これが碑石の古い一形式である」(『葬送習俗事典』 20.墓じるし) こうした話はとてもこころに近しい。これらのかつて在った世界がじぶ んにとって近しいのだ。夕方から『パンとサーカス』を読み始める。じぶんにはこうしたものは書けないと思うし、おそらくじぶんが書きたいものはこうしたも のではないが、おもしろいし、またいろいろと興味深い。夜、Jim Reeves を聴く。こうした音楽はもうすっかり皮膚の下の細胞のようになってしまっている。Jim Reeves は1964年に飛行機の墜落事故で亡くなった。40歳だった。浜へ出て、目をつむり、さみしいこころで浜石を蹴る。おのれの枕石を見つけよう。
2022.8.31


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 スマホからFBアプリを削除して、朝寝ぼけ眼でまず画面を確認したり、外出先や車内の信号待ちの合間などに画面を気にすることもなくなった。たしかに世 界中のいろんな人とつながり、毎日のように情報を交換し、言葉を交わし、なにやらじぶんがひとかどの人間になったような気がするが幻想にすぎない。夜、夕 食を済ませ、家族との会話もおえて、自室にこもる。これまでならPCを立上げて、昼間の画像をSNSにアップして文章を書いたり、よそのタイムラインを覗 いて「いいね!」をしたり、どこぞのWeb記事をシェアしたり、コメント欄で意見をやり取りしたり、メッセージで語り合ったりして長い時間を過ごしたもの だが、それらがなくなってみると、対するのはじぶんだけだ。いい齢をして、くたびれた騾馬のように漫然と草を食んでいる、無力で無能でぶざまな裸のおのれ の姿だ。他に見るものがないのでそいつを擬っと見つめていると草茫々の古い井戸のなかを覗いているような心地がする。井戸はあの大杉栄や伊藤野枝の遺体を 埋めた憲兵隊本部の古井戸のように馬糞や煉瓦や木切れで埋まり汚水と共にすさまじい悪臭がする。ことばを投げかけても、なにもかえってこない。けれどこれがまさに現実、レノンが God のなかで That's reality と歌ったものだ。
2022.9.2


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 島田雅彦『パンとサーカス』、残り百頁。この、上出来に構成された世直しのテロリストたちの物語も、結局は現実の憂さ晴らしに消費されるだけなのか。 ディックの『ヴァリス』を思い出す、初期キリスト教徒たちはあらゆる時代にいるのだ。「出発するよ」 「どこへ行くんだ?」 「わからない。ここから出て いけば〈神〉が導いてくれるさ」 「ぼくも連れていってくれよ。安息所へ行く道を教えてくれ」  巨大な神がよだれを垂らしたようなディックの倒錯した哀 しみにくらべれば、島田の物語は至ってまともだ。YouTubeでたまたま見つけた元ARB、66歳石橋凌の新作「オーライラ」が意外と良くて今日は一日 中リピートで聴き続けていた。
2022.9.3


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 9.4全国一斉アクションと題した入管デモ(大阪)に参加する。中之島公園から西梅田までデモ行進。車のウィンドウをこれみよがしに閉めるドライバー。 見知らぬ外国人がこの国で殺されてもおまへの日常生活には関係はないか。小説もデモもすでに折り込み済みなら、あとは何がある?
2022.9.4


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 15年前に近畿大学の学生が卒論として記した『奈良陸軍墓地について ー墓地の概要と埋葬されている将兵ー』(谷口知宏・2007)のコピーを片手に土 曜の陸軍墓地へ自転車で行く。いつ来ても人っ子ひとりいない、ぽっかりと開いた穴のようなあかるい空間。Aのブロックに下士官10名、Bブロックに将校3 名、そして奥の一段下がった平地に下級兵士21名の個人墓が無言で坐している。ほとんどは1919(大正8)年に満洲寛城子(長春内の行政区分)で発生し た日本人暴行事件に端を発し日中両軍が衝突した「寛城子事件」の戦死者を中心とした、奈良の連隊がまだ歩兵第五十三連隊だった頃のものだ。谷口氏は連隊日 誌などの記録を渉猟して、墓の一人びとりの来歴を丁寧に拾い集めてくれている。奈良陸軍墓地はこれまで何度か足を運んでいるが、墓は顔のない石標だった。 けれど今日は顔が見えてくる気配がする。ひとつの墓の前に立ち、名前を読み、来歴を読む。はじめはそれが、なにやら生々しいようで、足がすくんだ。けれど もじきに、その重苦しさは消えてしまった。百年前の、さまざまな来歴があり、そしてあまりにも短い生の終了がある。下級兵士が葬られたCブロックがいちば ん落ち着く。かれらと向き合うのではなく、かれらのなかに混じって地面に腰をおろして、かれらが見ている叢や木立や空などのこの世の景色をいっしょに眺め る。ああ、おれはもう死んでいるのかも知れないなあ、と思う。そうなればなったで、ここから眺めるあらゆる生の営みがまぶしくてすべてを赦してもいいと思 えるのだ。そう思っているじぶんはかれらとおなじ熱のない完結した世界にいる。だからもう、じぶんも赦してもよい。紡績工場の過去帳に残されていたのは 10代の少女たちであったが、ここにねむるものたちもまた20代そこそこの若者たちだ。国家は若い血を欲するのだろうか。戦争がなければ家族で田圃で米を こしらえたり、行商をしたり、大工仕事をしたり、大阪で船をつくったりする人生が続いたのだ断ち切られることもなく。国家は野心や経済のために絶えず若い 血を欲し、ひとびとは「国民」の名と引き換えに血を国家に捧げる。そういう契約なのだ。ここにはしかし、その契約を破り捨てて抗ったものたちも、わずかだ がいる。逃亡者や自殺者の墓だ。けれどかれらは死んでからもなお、軍隊に縛りつけられているここでこうして。その者たちの墓の前でなにがあったのかと問う てみたが、墓は黙したままだ。百年経っても、かれらはまだ語らない。もう百年、待たなくてはいけないのかも知れない。小学校を卒業して筏師になったという 青年もいた。西吉野の丹生川沿い、梅林で有名な賀名生の出身だ。1898(明治31)年の生まれなら、わたしの祖父とおなじような時代か。祖父は30代な かばで出兵し、ガダルカナルで死に損ねて帰ってきたが、賀名生の筏師の少年は寛城子で死ななくてもその後南の島で餓死したかあるいは狂い死にしたかも知れ ない。どこまでも逃れられない契約がつづく限りは。賀名生の里にはきみの弟や妹たちの子孫がまだ暮らしているだろうか。きみの写真を大事に持っている人は いるだろうか。地面から蟻がつたってくる。陽に乾いた草と土の匂い。おれたちは<不在>だ。それでここはこんなにしずかなのだ。百年ねむって も、まだねむりからさめない。いや、ねむれない。百年の間、おれたちはずっとこうして目を開けて眺めて続けていた。契約は、まだあるか。
2022.9.10


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 日曜午後のZOOM開催、青丘文庫研究会はいろいろと刺激的だった。

 前半は李仁子(LEE, In ja)さん(東北大学准教授)による「在日コリアンの弔い文化に関する文化人類学的研究」。古里へ土葬する弔いをあきらめた在日一世たちが日本にこしらえ た墓、たとえば信貴山の光山金氏専用霊園や京都・南山城の高麗寺などは、韓国寺の僧侶による韓国語の弔いを可能にしてくれる、かつては在日コリアンたちの 憩いの場でもあったのが、韓国式墓地を必要としない二世・三世たちが増えていくに従い、土葬を希望する在日のイスラム教徒たちも受け入れるなど、役割も変 わってきている。それでも辛酸を舐めた末にたどり着いた一世の墓は、かれらの思いが詰まった、みずからの根を伝える次世代への「遺産」であり、それらを顕 彰するために見知らぬ二世・三世たちが墓参をする動きも出始めているとも言う。信貴山に在日コリアンの墓があることや南山城に韓国寺があることは、わたし もWebなどで散見していていつか訪ねたいと思っていたので好都合だった。ZOOMのいいところは、場合によっては講演者に直接質問などができることであ る。わたしは日本国内の600以上ものコリアン墓を調査してきた李さんに、戦死した在日コリアンの墓(軍人墓?)について訊ねてみたのだが、ご存知ないと のことであった。ただし後半の講演者である塚崎昌之さんが、真田山墓地の納骨堂に朝鮮名の兵士の遺骨がひとつだけ眠っている、と教えてくださった。

  後半は その塚崎さんによる「日清戦争後の被差別部落−朝鮮人起源言説の隆盛」。元高校教師の塚崎さんは7月に今里の在日韓国基督教会館(KCC会館)で企画され た「青丘文庫研究会―第6回 映像を通して視る― まだ視ぬアーカイブを可視化する!」で、鶴橋本通りにあった「キョンチャルアパート」について語ってく れ た人。今回は「日清戦争後の被差別部落 ―異民族(朝鮮人)起源説の隆盛」と題した講演だが、この人はじつにわたしの興味とクロスする。つい先だっても、 日清戦争の折りの旅順での日本軍による虐殺事件の本(井上晴樹『旅順虐殺事件』筑摩書房)を読んだばかりだったけれど、やはりターニングポイントは日清戦 争だ。かつては「家にあった中国人の描かれた立派な上品な屏風、美しい南京皿、毎夜父から教わる漢文」(生方敏郎『明治大正見聞記』)などと共に、数々の ヒロイックな英雄譚も語られた歴史ある東洋の一大帝国と見られていた中国に対するこの国の視線が180度転回し、その後のアジア各地での冷酷無残な所業へ とつながっていったものは何であったか。PDFで参加者に配布されれた塚崎さんのレジメは「まだ整理中で、いろいろなものが雑然としていてきちんとした批 判に耐えられるものではないので、今日だけの内々の資料として、拡散はしないで欲しい」とのことであったが、個人的には日清戦争時に日本国内へ連れて来ら れた清国兵捕虜(1,000人のうち29名が日本で死亡)をめぐる風景がいちばん興味深かった。

  長期間狭い船倉に押し込められていたろう捕虜たちは上陸時 「堪えがたき臭気」を放ち、「臭穢に恐れ鼻をつまなざるなく」、そして収容時に如何にかれらの習俗が不衛生であるかといった記事を当時の新聞各紙は書いて いる。当初は広島や四国などの地方での収容を予定していたが、周辺の村人が押し寄せるのを見て塚崎さんいわくこれを利用しない手はないとばかり、急遽大阪 (南北御堂)、名古屋(建中寺)、東京(浅草東本願寺)などの都市部の中心に収容所が変更され、「女子どもを含む」数百万の見物客がその清兵たちを「見 学」した。特に女性たちは着飾ってその列にならんだ。それは「文明」が傲然と「野蛮人」を見下す目線であったろう。鼻をつまむ「堪えがたき臭気」は、貧民 窟のスラム民やたとえば皮革産業に従事する被差別民たちの匂いとも交わり、学術的にはダーヴィニズムを誤用した人種差別という「科学データ」を装った論が もっともらしく語られ、そこへ神功皇后の三韓征伐という古代的衣装もまとわれて二重三重の形で日本中に浸透していった。1882(明治15)年に作成され た修身書で登場する45人のうち25人を占めていた中国人は、1905(明治38)年の「尋常小学校修身書」では一人もいなくなった。その間の日清・日露 の戦場に於いてこの国の軍隊は悪行非道を繰り返し、それらは帰還した兵士や報道人らによって「生来の遅れた文明の、堪えがたき臭気を放つ存在」として流布 された。そのときにまさに、天皇をいだく「大日本帝国臣民」としてのわれわれ「国民」が誕生したのだった。大阪の真田山陸軍墓地に残る清国兵の墓は、その ときに日本で死亡した者たちのものだろう。近いうちにまた再訪して、かれらの墓の前で後ろ向きの百年の計を考えてみたい。
2022.9.13


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 2019年12月に東京芸大で「(芸術と憲法を考える連続講座 vol.24) 私たちは歌で戦争を支えた―民衆の自己表現、戦時歌謡―」と題して行われた池田浩士氏の講演をYouTubeで見る。この人、どこかで見 覚えがと思ったら過日、大阪・九条のシネ・ヌーヴォで韓国人のキム・ミレ監督が東アジア反日武装前線を撮ったドキュメンタリー作品「狼をさがして」のなか で「この国では司法の公権力やそれによる死者も含めてすべての暴力は国家権力が持っている。権力側がすべて持っていて、わたしたちには何も持たない。そう いう状況にあって、わたしたちが持ち得る暴力など、かれらの有する暴力に比べたらどれだけちっぽけでささやかなものか。暴力は圧倒的にこちら側にない。ま ずはその再認識から始めなくてはいけない」と語っていていちばん印象的だった京大教授その人だった。「戦争が原因で惨めな現実をわたしたちは強いられた、 ではなくて、戦争はわたしたちの惨めな現実の結果だった、ということ」 「(戦争を賞賛する戦時歌謡は)天皇制の中に生きる<わたし>の姿が 一貫して歌われている」 「芥川の蜘蛛の糸のようにすがりたいことがひとつある。それは(戦時中を生きていたかも知れない)当時のわたしにとっては、わた しの大切な身近な人よりも、天皇とわたしの関係の方が大切だったんだという事実。そのことにわたしはこだわりたいと思う。では違う関係をつくろう、という こと」  これらの語られることばは、じつにしっくりとくる。ふだん感じていることを明瞭にしてくれる。つまり、このファシズムの時代にあって(2020年の現在だ)、天皇や国 家といったものが家族や友人よりも優先された時代に生きていた「わたしたちの惨めな現実の結果だった」時代を、わたしたちはその後の歴史をたどることに よって批判的に見ることができる。池田氏によれば、だれかが「それは違う。わたしはこう思う」と勇気を出して声を上げたときに、「そうだ」と声を出して賛 同する。「だれかが一人を必要としているときに、わたしがその一人になること」  1+1が2だというのは、あんなものはブルジョアジーの数学で、客観的 事実ではない。1+1は3以上だということを、わたしたちはみんな知っている、と池田氏は言う。大杉栄が伊藤野枝や甥っ子らと殺されて古井戸に投げ捨てら れたとき、大石誠之助や森近運平たちが縊られたときに、だれもが黙っていたことが「わたしたちの惨めな現実の結果」を継続させた。そのみじめな歴史を、わ たしたちは追体験することができる。そのかつての歴史に抗うこと。わたし自身にその覚悟はあるか、と問うてみる。
2022.9.17




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 2016年、FBのどなたかがおしえてくれた池田浩士氏の講演会『天皇制日本の「勤労奉仕」と「総活躍社会」』。 「・・前回、第3回目の講演で池田浩 士さんは、ナチスは1933年1月30日に政権をとると、ヴァイマール共和国のボランティア(自発性)労働をそのまま継承し、積極的に活用したが、「戦争 する国」作りと侵略戦争の遂行の中で、ボランティア労働は「労働奉仕」として義務化され、「戦力・労働力」として活用され、その過程は同時に「生きる価値 のない存在」とされた人たちの抹殺であったことを明らかにされましたが、今回は、天皇制国家の日本では、「自発性から総動員へ」は、どのように進んだかの お話でした」  これらを考えていくと結局、徴兵は究極のボランティア(勤労奉仕)といえるかも知れない、という思いに至る。

  「下松桂馬、近藤春雄、菊池春雄、森戸辰男は「ドイツの労働奉仕」を研究し、それを推奨した。とりわけ森戸辰男は「翼賛運動」と結びつけて「自発性の組織 化」を考えた。彼らは失業対策・経済政策をこえて、「労働奉仕」の精神的意味づけをした。それは日本では「勤労奉仕」・・・「治天下(天の下しろしめす) 天皇に仕える」のが「勤」であり、天皇に奉仕する「勤労」は喜びだと言った。 関東軍、拓務省、加藤完治らが一体となっての「満州農業移民」これは、「戦 争する国」の国策であり、ボランティア(自発性)として強要された。「満蒙開拓団」「満蒙開拓青少年義勇軍」「報国農場」「分村移民」として、送り出され た在満開拓団は約27万人。侵略の手先として送り出され、何人が生きて帰れたか。究極のボランティアとしての「大陸の花嫁」・・・1938年から大々的な 募集」・・・

 そしてまた、もう一つの究極の奉仕としての特攻。「かくて、「善意と自発性はどこまで行ったのか?」」  「天皇制のなか で生きていたわたし」を裏返せば、それは陰湿な、じつに日本的な「村八分」の論理に行き着く。「みなさま、ほんとうにご苦労さまでした。この船は日本の船 です」 引き揚げ船の船内で田端義夫の「かえり船」の前に流されたという放送文句は、はたして正しいのか? 「戦争」は一方的に強制された受難だったの か。みんな、だれもがそれぞれのやり方で、いちどは乗っかったのではなかったか?  「帝国」を夢見たのではないか? 敗戦を終戦と言い繕い、加害を被害 で覆い隠し、悲惨ないわれのない死者を「英霊」として祀り上げ、母を犯し子を突き殺したことも黙し、みなを守るために犠牲になった女たちを嘲り、おれたち はほんとうに息のくせえおっとせいだ。そしておれは、そのおっとせいがきらいなおっとせいだ。
2022.9.18


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 午後、城ホールで映画『わが青春つきるともー伊藤千代子の生涯』を見る。諏訪湖の南で生まれ、諏訪高等女学校で歌人の土屋文明に学び、長野岡谷の製糸女 工の労働争議を支援し、共産党へ入党。三・一五事件の弾圧により検挙され、拷問を受け警視庁滝野川署から市ヶ谷刑務所に収監、のちに拘禁精神病を発病し、 松沢病院に収容されて急性肺炎によって1929年(昭和4年)9月、24歳の生涯を閉じた。明治、大正、昭和初期と、この国の権力者たちは「治安維持」の 名のもとにどれだけのやわらかな魂を奪い去ったことか。映画は、まあ「優等生」の作品であった。平日とはいえ、観客の9割は20年後には(失礼だが)だれ も生存していないのではないか。いっしょに見た母は、あんな拷問を受けたらわたしなんか一遍で転向しちゃうと言ったら関東の旧知の共産党市議氏から「いま はもう、そんな時代じゃないからね〜」と笑われたという話をしたが、20年後に消失するかれらにとってはそんな「昔語り」に過ぎないのか。ほんとうに「い まはもう、そんな時代じゃない」か。それこそが「かれら」がアンモナイトたる所以ではないか。「千代子さの葬式のとき、近所の人たちは桑畑の向こう側から遠巻きに眺めていたそうです」 わたしだったら、そんな場 面をかならず入れる。また獄中で転向して、天皇主義者へと変じた彼女の夫であった浅野晃の闇も抉(えぐ)り出す。かれが戦後に出した大東亜戦争(太平洋戦 争)海戦戦没者を弔った詩集『天と海 英霊に捧げる七十二章』に惚れ込んだ三島由紀夫が、みずから朗読してレコード録音を行ったという話も興味をそそる。三島の自決に際して浅野 は、追悼の詩「哭三島由紀夫」を捧げている。ひとは矛盾をかかえて生きられる。まっすぐに死んだ千代子も輝かしいが、悲憤をひきずり89までおめおめ生き延びた浅野もわたしにはどこか近しい。
2022.9.22


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 もうすこしであちらがわへいけそうな気がするんだが。あちらがわにいるひとの声がきこえるような気がするんだが。ブレンダ・リーの The End Of The World を一晩中ループで聴き続けたら会えるだろうか。きこえるだろうか。墓はさびしいところではない、ことに夜の墓などはにぎやかなものだと言ったのは、あれは 立川のころされた米兵を埋めた共同墓地に隣接する寺の和尚だったか。死んだ者はこの世に思いをおいていく。それがときにことばにもなるだろう。花を咲かせ ることもあるだろう。120年前に死んだ紡績工場寄宿舎工女の宮本イサのことばは墓石のなかでこだましますか? 100年前に明日香の野道に棄てられて死 んだ病人遍路の菊池はるは納骨堂の奥でしずかにかたりはじめますか?  耳をかたむける者が必要だと思うのだ。夏の光にあぶられ、冬の凍てつく風に吹き飛 ばされそうなことばを受けとる者が。偉人のことばなどは聞き飽きた。そんな者たちのことばが世界を照らさないことは充分に分かった。山川草木に骨もうずも れたかれらのことばを拾うには、おのれも乞食(こつじき)のようにはいずりまわる覚悟が必要だ。もうすこしであちらがわへいけそうな気がする。会える気が する。地面に突っ伏せば、叢(くさむら)の背後からきこえてくる。
2022.9.23


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 大阪・本町、西本願寺津村別院(北御堂)。満を持しての「笹の墓標展示館 巡回展」、最終日。折しも会場の片隅でドキュメンタリー映画「笹の墓標」(全 5章、延べ9時間の一部)も上映してくれていて、開場時間の10時から17時までの終日を過ごす。舞鶴の浮島丸にならんである意味、原点のような場所では ないか。朱鞠内をずっと訪ねたいと思っていた。わたしもまた笹におおわれた薮を掘り起こしているのだと思っていた。午前中のほとんどを費やしたフィルム上 で、遺骨の発掘作業前の朝鮮半島の土を起す儀式のなかで、祈り手が「罪深い手が触れましたら、どうぞ応えて下さい」と地中の死者に語りかける。笹の根茎が はびこった地面の表層をスコップで剥ぎ取る。祈りは労働である。硬い地層を削り、岩を砕き、根を断つための肉のふるえが、そのまま絶え間ない思念となる。 やがて色の異なる地面の断層が現れ、スコップは放擲され、竹べらや刷毛で土が払い落されていく。紛うことなき歴史の実時間に於いて殺され、その言われなき 死によって永遠に日常を断ち切られた者の骨盤が、大腿骨が、腰椎が、頭蓋骨の一部がまるで深海から引き上げられた魚のように出現する。そのとき、ひとはな にを感じるだろうか。なにを思うだろうか。加害の民族によって、被害の民族によって。歴史の思想とは、そうであるべきではないか。泥だらけの雨のなかで、 喉が涸れる炎天下で、手足が痺れ、疲労が脳髄を弛緩させ、立ち眩むその瞬間に、わたしたちは「連累」というものに対峙させられる。それは生者であるはずの わたしたちの頭蓋骨に絡まる無数の細根である。死者はたしかにたぐりよせる。地中の死者の手根骨をひっぱれば、生者であるわたしたちの胸骨がふるえる。わ たしたちは、そのような連続性のなかに在る。地面を掘れば分かる。

 「連累」とは以下のような状況を指す。
 わたしは直接に土地を収奪しなかったかもしれないが、その盗まれた土地の上に住む。
 わたしたちは虐殺を実際に行わなかったかもしれないが、虐殺の記憶を抹殺するプロセスに関与する。
 わたしは「他者」を具体的に迫害しなかったかもしれないが、正当な対応がなされていない過去の迫害によって受益した社会に生きている。

 テッサ・モーリス=スズキ『批判的想像力のために』
2022.9.25


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 穀象虫(コクゾウムシ)はもうどうでもよい。なにがなんでもやると言うからにはそれはあからさまな国家権力の発動であり「日帝」の復活に違いない。この 国は確実にラインを越える。後の歴史はこれを令和15年戦争の始まりの日とでも記すだろうか。山上徹也の放った弾丸はアヘという個体は倒したが、イカレた 「国体」までは届かなかった。穀象虫反対を唱えて焼身自殺を図った老人の意思はその後どこにも報じられず世間から消えていった。徴兵が突如身近に迫り尻に 火がついたとたんに混乱し始めたロシアの若者を笑うこと勿れ。この国だってもうじきだよ。いい加減ゴミ拾いをするようなお行儀のよいデモ行進など捨ててい のちを賭けて怒るべきだ。国が特定の個人を葬送することと、国が個人のいのちを担保にすることは同一だよゆめゆめ忘れるな。国家が主権を守れと迫るとき、 おれたちはいのちを差し出さなければならない。国家が危急存亡のときだからすべてを優先しろと言うとき、おれたちは息子や娘を差し出し隣人を告発しなけれ ばならない。穀象虫とはそういうものだ。思えばこの国が無謀な戦争にやぶれて身ぐるみはがされポチ公となったとき、国境からのスパイや共産主義者たちを追 い払うために生れたのが現在の悪名高い入国管理組織だ。そのとき、大東亜の等しき皇国臣民と言われた国内の朝鮮人たちは日本国籍を剥奪されて監視対象とな り警察の罰則対象ともなった。「在日」はつくられた差別であり、それらは国境の安全保障に収束される。すべては「国家」なんだよ。すべては「国家」に由来 する。「国家」によって大石誠之助は縊られ、伊藤野枝は古井戸に投げ捨てられ、「国家」によって田中正造は憤死した。「国家」によって300万人ものいの ちが奪われ、それ以上のアジアの人々のいのちが蹂躙された。この穀象虫の強引で馬鹿らしいほど空虚な儀式はおれたちが「国家」について考え直す最後の機会 かも知れない。「国家」ができる前、日本海は海の幸をよりどころとして生きる人々が自由に往来する空間だった。「国家」ができてから、それは「密航」や 「密貿易」と呼ばれ取り締まりの対象となった。米櫃に群がる醜い穀象虫どもの顔をとっくり眺めながら、この際「国家」についてとっくりと考えようぜ。おれ やおれの愛しい人たち以上の存在などこの世にあるはずがない。非国民と言うのなら、おれはその「非国」すら否定してやる。穀象虫を引きちぎれ。
2022.9.26


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 穀象虫どもの儀式終わる。Webでのライブ映像を見かけたが、つまらなくなってやめた。午後に奈良駅前でデモ集会もあったが行かなかった。生憎と午後か ら激しい雨が降る。半日、古書で入手した野川記枝『行旅死亡人』(新日本文学会出版部)に没頭する。東北からの老出稼ぎ者が身元不明の行旅死亡人としてず さんな処理をされ、遺族の知らぬ間に医大の解剖実験材料にされていた実際の事件。裁判闘争記録である『ある告発−出稼ぎ裁判の記録』(佐藤不器ほか、日刊 東北社、1972年刊)を元に、新藤兼人によって映画化もされている(『わが道』1974年)が、Webではほとんど資料を見ない。題材と視点が近しいも のを感じて、引き込まれる。夕方、歯医者へ行く。夕飯はホットプレートで定番の豚肉ともやしの蒸ししゃぶ。ぶなしめじと豆苗も加えて、ポン酢。安藤氏から 京都の個展案内がとどく。わたし如き者にもいつも送ってくださる。ありがたい。期間中に立ち寄る機会があればいいが。明日は穀象虫儀式同時開催の足立正生 監督作品「REVOLUTION+1」をなんば・宗右衛門町へ見に行く。穀象虫どもの儀式は終わったが、穀象虫どもの巣食う国はまだ続いている。
2022.9.27


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 足立正生 監督作品「REVOLUTION+1」を見るため、午後から大阪。映画は夜からなので玉造まで行って、日清戦争の際に捕虜となった清国兵士の墓を参ろう かとひさしぶりの真田山陸軍墓地へ。二時間ほどをだれもいない広い墓地の墓石に刻まれた来歴を読み乍らあるきまわる。一人びとりの死が水を吸った真綿のよ うに積み重なるようで、こころが重たくなってくる。明治の墓は伝染病もあるのだろうが、どれだけ「病死」が多いことか。墓石の間をあるけば「病死」「病死」「病死」ばかりだ。新宮矢倉出身の軍医の墓もあった。 明治十年ということは、いくつで亡くなったか記していなかったが、若ければ大石誠之助と同世代くらいではないか。ひょっとしたら知り合いであったかも知れ ない。陸軍墓地を出て、上本町まであるいていき、開店時間待ちで近くの公園で時間を潰し、キッチンもとやで早目の夕食を済ます。日替わりのとんかつ定食、 ラーメンが付いて450円。格安食堂はまだまだ健在だ。それから生國魂神社のわきをぬけて、まだ開場時間には間があるので、そろそろ日が暮れてきた道頓堀 にかかる下大和橋のベンチや、会場に近い日本橋の交差点で道行く人を眺めながら過ごす。人によってはもう少し気の利いたところへ行くのだろうが、わたしに は こんな過ごし方しかできない。18時半、会場である宗右衛門町のロフトプラスワンウエスト。狭い会場にぎっしり、満員だ。ざっと百人ほどだろうか。暫定 編集版の上映は50分。最終的にはもうすこし追加されて本編となるらしい。シン・ゴジラでいえば、まだ第二形態といったところか。最終版ではないので、感 想は控えよう。上映後の監督を交えてのトークがさらに二時間半、しかもゲストも多彩で、内容も濃かった。足立監督が元日本赤軍メンバーでパレスチナ解放 人民戦線のゲリラとして活動していたことすらもじつはよく知らなかった。ゲストは他にフランス文学者でミュージシャンの鈴木創士、ロックバンド「ガセネ タ」「TACO」の山崎春美、司会は最近まで森達也監督の福田村事件の映画撮影に参加していたという映画監督・脚本家の井上淳一。さらに飛び入りで作家の 赤坂真理、またミヤネ屋の番組プロデューサー氏なども統一協会から裁判で訴えるなどの圧力を受けている等の話を披露してくれた。そのトークのときに、わた しが忘備録としてスマホのメモ帳に書きつけた言葉をそのまま、ここに並べておく。余白は各自で想像したらいい。

共同体から離脱する共同体。

山上はなぜ一直線だったのか。

わたしたちは社会の底、政治の底が抜けてる酷い世界に生きている。

戦後のブラックボックスの象徴として安倍が死んだ。

大日本帝国も相当のカルト国家だった。

60年安保では「岸を 殺せ」がシュプレヒコールだった。

60年安保は極東裁判で無罪になった岸を断罪するためのアクションだった。

革命家は勝利するまではずっと革命家だ。

山上はどこを向いても底が抜けているし、壁が立ちはだかっている。そんな世界で生きていた。

最高裁の正門は皇居に向かっている。それを見たときにこの国の民主主義はこういうものなんだ、この裁判(原発訴訟〉は負けるかも知れないと思った。

山上徹也のじっさいのTwitterなどの言葉は(映画では)あえて使いたくないと思った。

山上を精神異常者にすれば蓋ができる。冗談じゃない、という思いでこの映画を撮った。

  監督は国家が「国葬」というイベントをやるのなら、こちらもおなじようにイベントをしてやろうと思ってこの映画を製作した、という。当初の構想では、映画 の最後はその国葬会場を爆破するつもりで、じっさいにその場面も撮影した。だが、それではほんとうの決着にならないと思いなおしたと言う。今回の暫定編集 版では、主人公の妹が事件後に「お兄ちゃんがやったことは尊敬する。でもわたしは、わたしができる別のやり方をいつか見つけたい」とカメラに語りかける。 1939(昭和14)年生まれの監督は御歳83歳だ。かれは「日本をこんな底の抜けた社会にしたのは間違いなく安倍晋三だが、わたしたち一人びとりもまた それに加担した犯罪者だ」と語った。その日、会場に集ったのは紛れ込んでいた公安を抜かして(笑) 全員、国賊であり、非国民であり、犯罪者であった。 83歳の監督を熱い眼差しで見つめる若い青年や女性の姿もあった。わたしは、けっしてじぶんが一人ではないのだと慰められた。いまここでこの瞬間だけマボロシのように偶然にあつまって、またそれぞれの「個」へ散らばりもどっていくのだ。JRのなんば駅まであるき、 奈良の自宅へ着いたのは夜中の0時近かった。駅前のセブンで、ささやかな祝杯に缶ビールと冷凍の鶏皮柚子胡椒焼きを買って帰った。
2022.9.28


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 昨日の鈴木創士氏が言っていた、キーウが現在と驚くほどそっくりだというのは、あれは第一次世界大戦前夜のことだったかな。世界はばらばらに、複雑に、 巧妙になって、第三次世界大戦もいよいよ現実味を帯びてきた気がする。まさにいまこの瞬間、歴史の実時間は過去のいろんな危機的状況に似ている、きっと。 明日いきなり人類が滅亡してしまうことはないだろうが、さまざまなことが劇的に変わってしまうだろう。隣組も国防婦人会も復活するかも知れない。どの国も 国境に神経をぴりぴりさせ、犠牲よりも国の主権をと言い出し始めるのだ。異を唱える者はますます居場所をなくしていくだろう。「火種でいっぱいの火薬庫」 というのは、まさにそうではないか。その「火種」は、分断された人々のこころだ。狂気に憑りつかれた which side are you on ? がふたたび合唱される。この国のあわれな「国葬」をめぐる風景がそれを先取りしていないか。冷静な思慮深い意見ではなく、扇動的なスローガンが殺伐と した人々のこころをとらえる。その雄々しき叫びの陰でマイノリティはガス室の囚人のようにひそかに抹殺される。そのときにあって、わたしはなお人参の種を 蒔きつづけることができるのか。隣組の密告で捕らえられて、浅野晃のように転向して生き永らえるか、高木顕明のように「頼むぞ!」と呻いてみずから首をく くるのか。歴史の実時間というのは、まさにそういうことだな。おのれの魂の深度が試される。ジョージアの国境へ逃げのびようか、とどまって夜中に鍋や釜を 叩きつづけようか。その最後の選択は自由を保障されている。
2022.9.29


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 つれあいに誘われて、県主催の「介護に関する入門的研修」に二人で参加した。場所は畝傍御陵前駅に近い奈良県社会福祉総合センター。今日を含めて四日 間の講義と一日の現場施設での見学体験、最終日に終了証が授与される。お昼をはさんで前半の講師は東大阪のデイ・サービスに勤めている介護士の女性。後半 は三宅町にある障害者施設「ひまわりの家」の施設長氏。「忘れるという漢字は「心を亡くす」と書く。心をなくさないためにここにきてるのよ」と言ったデ イ・サービスを利用する老人の話。「目が悪くなっていくと、わたしたちはメガネをかける。メガネがないと困ってしまう」 これは「社会に参加するための道具であ る」 車椅子も白杖もスロープも駅のエレベーターも視覚障害者誘導用ブロックも、みなおなじだ。ではこれはどうか。「質問) 住んでいる人の9割が「目の 見えない人」という町があった。町の住民たちに「あなたが市長になった らどんな条例をつくりたいですか?」と訊ねた」  答えは「まずは、街中の電気をぜんぶなくします」  そのとおり。目の見えない9割の多数の総意で町中 から電気が撤去され、1割の目の見えるひとたちが暗闇で暮らさなければならないのが、いまの社会の有り様だ。わたしはつれあいと同じにしていた体験見学の 希望施設を、この「ひまわりの家」に変更した。別の階でやっていた『巡回展 先住民族アイヌは、いま』というパネル展示も、昼休みに二人で見に行ってカ ラー刷りの立派な冊子を頂いてきた。きっと退屈なテキストを退屈な背広姿の講師が喋るのだろうと思っていたが、予想に反して有意義だった一日。
2022.10.1


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 野川記枝『行旅死亡人』に次いで、新藤兼人監督の『わが道』(1974年)を中古DVDで見る。130分を息もつかせず見せる。筋力というより骨そのも のをなぞるような感覚は、この時代の映画の力だろうか。出稼ぎがあり、上野駅が賑わい、行商列車が走り、傷痍軍人たちがいて、山谷が釜ヶ崎が不穏だった時 代。映画の中頃で画面いっぱいに写し出されるテロップがこの作品の核心を宣言する。まさに現代にこそタイムリーではないか。

この訴は
われわれ日本国民が
多大の貴い犠牲と努力に
よって ようやく
獲得することのできた
日本国憲法が
その制定後二十有余年を
経た今日において
現憲法を最も尊重し擁護
すべき義務を有する政府
及び公務員によって無視
され またその運用が
ゆがめられている実態を
一出稼ぎ労働者の妻が
告発するものである。

  「昭和41年、青森県出身の一人の出稼ぎ労働者が、東京で行き倒れ、命を落とす。遺体は身元不明扱いとなり、妻の与り知らぬところで、医大の解剖実験材料 という非人道的な扱いを受ける。愛する夫の理不尽な末路に、妻は関係官庁の告発に乗り出し、周囲の支援と自身の執念で、事件の真相と夫の無念を晴らしてい く。実在の事件の裁判闘争記録「ある告発 ―出稼ぎ裁判の記録」を基に、迫真の裁判場面を交えて出稼ぎの悲劇を糾弾し、人間の生きる権利を訴える鮮烈なド ラマ」 しかし2022年に於いて、この作品はほとんど忘れ去られているようだ。だが「出稼ぎは、いまや地球規模で、悲惨さもさらに増した」とFBにコメ ントを寄せた人がいた。現代の川村セノはウィシュマさんの妹だろうか。しかしこの国の司法はいまや政治と共に腐臭を放っている。わたしたちは1970年代 より後退した社会にいる。現代の川村セノは手製銃によって狙いを定めるしかないのかも知れない。
2022.10.3


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 信じたくないことだけれど、この世界には紛争や迫害で住む家を失くした人たちが1億人もいる。そのうち半数は国外へ逃れ、難民となり、無国籍者となる。 150万人の子どもが難民の子として生まれた、という数字もある。その数は年々、増加する一方だ。世界の1億人。(一億粒の米粒をかぞえてみよう。そのひ とつひとつに宿るいのちを)

  そのうちのほんの一握りの人たちが、命からがら日本へたどりついて難民申請をする。日本は難民条約を批准しているが、難民の認定率はわずか0.4%でしか ない。カナダは55.7%、ついでイギリス46.2%、アメリカ29.6%、ドイツ25.9%に比べて、ほとんど存在しないような数字だ(2019年度の データ)。難民認定に漏れたかれらを待ち構えているのは、在留資格の失効による退去強制令であり、自国への強制送還だ。ところが国へ帰ればいのちの危険が ある者や、すでに日本に家族がいる者たちは、帰れと言われてもそう簡単には帰れない。もともとやむを得ない事情があるから、すべてを捨てて言葉すらろくに 通じない日本へ逃れてきたのだ。

 「退去強制事由」により、入管の判断と手続きのみでかれらは収容施設へ収容される。いわば裁判所の手続 きもなしで、警察だけの判断で逮捕・拘禁できるようなものだ。この点について国は「不服があれば収容後に、行政訴訟を起こす制度が設けられている」と答弁 しているが、実際は「弁護士依頼権が制度上保障されていないうえに、相当長い時間が掛かり、10年以上認められたことがない」空手形だ。収容期限の設定は ないので(30日毎の延長が可能)、何年も収容されている人もいる。病気などの事情がある場合、一定の保証金を入管へ納付して「仮放免」が認められるが、 これもあくまで「仮」の資格であり、入管の胸三寸でいつでも剥奪される。じっさいに収容施設内でハンガーストライキを行っていたイラン人男性が、仮放免後 わずか二週間で再収容された例もある。

 家族のなかで夫だけが収容された場合、残された妻や子どもたちは忽ち生活の糧を奪われる。また 「仮放免」で出てこられたとしても、仮放免者の就業は禁止されており、県外への移動も事前に申請をしなければならない。本来収容は退去強制令による送還ま での間の暫定的な措置に過ぎないのだが、実情はこれが入管の自由な匙加減に於いて「拷問・制裁を含む懲罰」として実施されている。悪名高い戦前の治安維持 法による予防拘禁ですら、その請求と原則二年間の期限延長には裁判所の許可が必要とされていた。入管制度の運用の実情は、戦前の治安維持法より酷い人権侵 害といえるだろう。そして収容施設内に於ける目を覆いたくなるような人権剥奪の数々は、いまさら言うまでもないだろう。2007年以降、名古屋の入管施設 で亡くなったウィシュマさんを含め17人が亡くなり、うち5人が自ら命を断っている。入管は出入国管理という名のもとに、どこにも行き場がないマイノリ ティの人々を生殺しの状態に追いつめ、放置し、蹂躙し、家族を分断し、ひたすらこの国から追い出そうとする。入管問題に携わるある弁護士は、日本は「難民 がさらに難民になる国」だと断じている。わたしたちは中国によるウイグル族への弾圧や北朝鮮の人権侵害などを言うが、おなじ風景がこの国のなかに存在して いるのだ。

 そもそもこの国の出入国管理制度は、1945(昭和20)年の日本の敗戦によって始まる。敗戦によって、旧満州などに取り残 された開拓民たちは国に棄てられ、またかつては「大東亜の皇民」として日本国籍を有していた旧植民地の出身者たちは国籍を剥奪された。戦後の冷戦下で朝鮮 戦争が始まり、日本を占領していた連合国(アメリカ)は朝鮮半島からの私的な移動に制限を設けるよう日本政府に指示した。これを受けて日本側が、主に旧植 民地出身者の日本入国を「不法入国」として行政的に処罰・送還するために1946年に長崎県佐世保に設置されたのが「大村収容所」であり、現在の大村入国 管理センターである。そして国内に於いては1947年に外国人登録令が制定された。戦前から日本で暮らし、また日本で生まれ、あるいは徴兵で国にいのちを 捧げてきたエスニック・マイノリティ(旧植民地出身者)たちは「外国人」となり、送還可能な存在として管理されることとなった。「日本で暮らす人々の中に 「国民」と「在日」という明確な線引きが、差別の意識と共に社会に広まった」  「第2章 いつ、誰によって入管はできたのか」のなかで、朴 沙羅 (Sara Park)氏はこう記している。

 べ 平連・京都に関わった飯沼次郎は「わたしは、これら旧植民地の人たちにも、少なくとも日本人なみの基本的人権が認められるまでは、“戦後民主主義”などと いっても、それは、まったくウソだと思う」と述べた。飯沼がこのように書いた時から50年を経て、いまだ旧植民地出身者は戦後補償から取り残され、無年金 問題を抱え、参政権がなく、高校無償化からも排除されている点で、日本人並みの基本的人権を認められているとはいえない。

  もし飯沼の主張が正しいのであれば、私たちにとって「戦後民主主義」はまだ、「まったくのウソ」だということになる。だから、入管問題を変えようと試みる ことは、私たちがおそらく重要なものと信じているさまざまな理念――戦争は嫌で怖いものであると感じたり、外見や出身地を理由に進学・就職・結婚ができな いのはおかしいだろうと思ったり、普通に生活していれば突然に逮捕されるはずはないと信じていたりする時の前提――を、「ウソ」でないものに変えようと試 みることだ。

 トルコでのクルド人迫害を逃れて日本へたどりついたカザンキランさん一家七人は難民申請をしたが認めら れず、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)のある東京・渋谷の国連大学前で抗議の座り込みをつづけ、UNHCRからマンデート難民認定(国連の基準で 難民を証明するもの)を発給されたのも束の間、東京入管は仮放免の手続きに来た父と長男の二人を拘束し、トルコへ強制送還した。トルコ航空の直行便が飛び 立ったことを伝えられた長女ゼリハさんは、報道陣を前に「こんな国で、どうやって幸せになるんですか? 日本人は、世界で一番かわいそうな人間!」と叫ん だという。一方でかれらの座り込みを偶然の出会いから支援してきた周香織氏は、共に座り込みをしていたイラン人青年がとつぜん30人もの警察官に取り囲ま れて連行され、国連大学の警備員がプラカードを乱暴に剥がそうとするのを「やめてください。剥がさないでください。お願いです」と制止しながら、涙がぽた ぽたとこぼれ落ちたという。彼女はそのときのことを記している。

  どうしてこんなことが起こるのだろう? 国際平和を守る国連とは? 治安を守る警察とは? そして日本とは? 私の中で信じていたものが音を立てて崩れ落 ちていった。私が今まで見ていたものは、幻想でしかなかった。深く知ろうとしない自分が見せられていた、表面的なものでしかなかったのだ。「平和で豊かな 日本」という幻は、この時私の中から消し飛んでしまった。
(「第4章 支援者としていかに向き合ってきたか」)

  生まれ育った国を紛争や迫害のために追われて言葉も通じない異国にたどりつき、幾度も難民申請を出しても認められず、いつ収容されるか強制送還されるか分 からない恐怖に怯えながら、仮放免の延長手続きのために毎月入管の窓口を訪ね、働くこともできず、県外から出ることも容易でなく、健康保険をはじめとした 一切の保障も、最低限の基本的人権すらもない生活というものを想像してみる。実際にトルコ国籍のクルド人チェリクさん(仮名)はそうやって30年間、在日 同胞のカンパに頼って日本で暮らしてきたのだった。在留資格とは、いったいなんだろう?

 「第1章 入管収容施設とは何か」のなかで鈴木江理子氏は、国際法学者の阿部浩巳氏の論を引きながら記している。

 入管収容施設は、在留資格の枠内でしか外国人の権利を認めない日本政府の姿勢が、もっとも醜悪な形で顕在化する場であるともいえよう。

  (略) ・・阿部浩巳氏は、国境管理は国家主権の最後の砦であり、収容は国境の存在を可視化する政治的効果をもつと指摘したうえで、収容措置の audience は国民であるという。阿部氏の議論に従えば、退去強制の恐怖と無縁で生きる「国民」にとって、入管収容施設は、安全保障化された被収容者(「送還忌避 者」)の過酷な毎日や絶望に対して心を痛めることなく、自らの安全と国家の存在意義を理解する装置として機能しているともいえよう。

  あらためて、「国家」という存在が立ち上がる。あらゆるものが「国家」と「外部」とのボーダー上に収斂されるような気がするのだ。80年前、「国家」を守 るためにと、この国の若者たちは還ることのない軍用機で飛び立っていった。110年前、「国家」を守るためにと、自由・平等・平和の世界を夢見た者たちが 「大逆罪」の名のもとに処刑された。そしていま「国家」を守るために、紛争や迫害からいのちからがら逃げてきた家族を切り裂き、いのちを掌で弄んでいる。 「国家」のために「国民」と管理・監視される「外国人」とが区別され、「在日」などという立ち位置が出現する。「国家」とはいったいなんだろう? かれら の、わたしたちのいのちや暮らしや自由より上位に「国家」は存在するのか? 「国家」とはほんとうは、人々が生きやすくなるために人と人をつなぐための一 種の方便ではなかったか。「国家」のために人がいのちを奪われ、「国境」のために人々が分断され差別されるのは、そもそも本末転倒ではないか。「国家」を 問い直さなければならない。

 「入管体制は、「よそ者」を排除する、国民国家による国民国家のためのシステム」(安藤真起子 「Column4 弱くしなやかなつながりのなかで」)である。であるとすれば、それはこの国で生きているわたしたち一人びとりのこころのありようと同質であるに違いない。 ウイシュマさんやカザンキランさんたちの悲劇は、わたしたちの内なる自明なものと直結している。

※引用はすべて『入管問題とは何か 終わらない<密室の人権侵害>』(明石書店)から
2022.10.7


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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