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  気温38度の奈良盆地。ひさしぶりに自転車で走ろうと思ったのだけれど、なにかがちがうような気がして、あるくことにした。いつもの川沿いの墓地へつづく 踏切、田圃の苗、青空、草いきれ。何げない景色が、いつもと変わって見える。カメラのレンズを換えたように。地面のシミになってしまいそうな熱の放射のな かをあるきつづけて、たどりついた大安寺塔跡の木陰で、それがたしかなことだと分かった。折畳み椅子をリュックに仕舞って立ち上がり、あるき出したじぶん のまわりをアゲハチョウが旋回した。そのとき、じぶんが若きフランチェスコのように祝福されているのを感じた。いや、ほんとうだよ。「ブラザー・サン・シ スター・ムーン」のあの美しい映画のなかで、若きフランチェスコが言ったのは「ノー」という一言だ。それが、かれを自由にした。

2021.8.5

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  大阪へ着いた途端に豪雨。歯医者を経て梅田まであるいて、阪神電車で尼崎へ向かう。商店街をぬけた穂乃香で手打ちうどんの昼を済ませてから駅の反対側、尼 崎市立歴史博物館。三階の地域研究史料室(あまがさきアーカイブズ)へ。数日前のエル大阪(大阪産業労働資料館)での電話で、老朽化のために閉鎖されてい るユニチカ記念館の資料がここへ移管されたという話だったがその事実はなく、どうも新聞記事で報じられていた解体された記念館外塀の煉瓦が一部ここへ寄贈 されたというものとごっちゃになったかも知れない。それでも来訪の意図を伝え、こういうものならありますがと、郡山紡績工場の明治33年から39年までの 営業報告書並びに株主人名簿の原本を出してもらった。綴じていた封印から「尼ヶ辻の福山」氏から寄贈されたものらしい。ほとんどは営業状況と会社の経理・ 収支に関する報告だが、特に1900(明治33)年はあの寄宿舎工女・宮本イサが亡くなった年だ。この年の営業報告の「処務要件」に、「1月10日 ペス ト病予防費ノ内ヘ金一百円寄付ノ義 奈良県知事ニ願出タルニ2月26日許可セラレタリ」、また「5月21日 工女寄宿舎ニ於テ腸チフス患者一名発生シタル 為メ本県検疫官来社セラレタリ」の件を見つける。宮本イサがまさに働いていたその当時の、郡山紡績工場の状況であることが貴重だ。その他、「ユニチカ百年 史」 「ニチボー75年史」などの社史からいくつかコピーを取らせてもらった。特筆すべきは以前にユニチカ記念館でなんの解説もなく写真だけが展示されて いて硝子越しに撮ったそこに写っているまだ子どもの年齢の女工たちの面影を、無縁墓の宮本イサもきっとこのなかの一人のような面立ちだったろうと勝手に大 事にしていたその写真が、じつは明治39年に鹿児島の知覧から尼崎紡績工場へ集団就職した少女たちだったと判明したことだ。これは昭和35年の鹿児島県川 辺郡知覧町「図書館協会報」に発表された「鹿児島出身者糸姫の先駆者知覧乙女」の全文が「ニチボー75年史」に収められたもので、写真の少女たちの氏名と 年齢もすべて判明している。14歳から24歳までの少女たちだ。百年前の資料でも、こういうものが残っているのだと感動を覚えた。その後、閲覧・コピーを 終えてついでに来たのだからと二階の常設展をかるく見て回っていたところ、「近代史」の展示室で大きな額に飾られた「尼崎紡績創立10周年記念で撮影され た本社工場労働者の集合写真」なるものに出くわした。これがやはり、1900(明治33)年。これが優に二、三百はいるだろう人数の集合写真で、ほとんど がやはりまだ年端のいかない少年少女のように見える。三階の地域研究史料室へ取って返し、あの写真をコピーしてもらうことは可能だろうかと訊けば、一階の 事務所の担当者へ引き継いでくれ、そこで複写依頼の申請書を書いて提出したのだった。何でも原本は尼崎紡績の役員だった者の家から発見された個人蔵の写真 で、展示されているのはその複写であるという。所有者に許可をもらった上で複写をして後日に送付してくれるとのことで、料金も送料も必要ないとのこと。宮 本イサが郡山紡績工場で働いていたそのおなじ年に撮影された尼崎紡績工場でのこの写真が送られてきたら、わたしは額に入れて部屋に飾るつもりだ。まだいま はわたしは、ここまでしか無縁墓の宮本イサにたどりつけていない。
2021.8.12

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  まず、「終戦」ではない。敗戦だ。かの戦争を終わらせたのではなく、人間も大地も焼き尽くされて無条件降伏したのだ。それをこの国は、ずっと「終戦」だと 言い続けてきた。ここに欺瞞の一が在る。敗戦の半年後に発表された「堕落論」の最後を、坂口安吾はこう結んでいる。「人は正しく堕ちる道を堕ちきることが 必要なのだ。そして人のごとくに日本もまた堕ちきることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない」 は たしてこの国は正しく堕ちる道を堕ちきったのだろうか。ここに欺瞞の二が在る。広島の原爆死没者慰霊碑には、「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬ から」と刻まれている。過ちを行ったのはだれなのか? だれが責任を負ったのか? そして過ちを繰り返さないのはだれなのか? ここに欺瞞の三が在る。 2021年8月15日の毎日新聞朝刊をめくってみる。戦災孤児のつらい戦後があり、大阪・京橋大空襲の慰霊祭があり、池上彰と吉永小百合の対談「朗読に込 める平和」の特集記事があり、平和を祈る戦争体験者の投稿があり、「人命を最優先させる社会に」と題した社説が載っている。奈良版では靖国の遊就館に収め られているという吉野町の特攻隊員15名が寄せ書きをした飛行マフラーについての記事があり、「平和祭」と称した大和郡山市での戦争に関する展示パネルに ついての記事があり、東大寺の坊主どもが「天災・人災犠牲者」のための慰霊法要を行ったという記事がある。展示パネルの主催者は言う。「戦争を繰り返さな いためには、思いを継承していくことが何よりも大事」と。思いは、継承されてきたのだろうか。戦争の悲惨さと平和を謳うことによって失って来たもの。ここ に欺瞞の四が在る。つまり、2021年8月15日の毎日新聞朝刊には、被害の記憶はあまた語られているが、加害の記憶は一行たりとも存在しない。中国前線 で連行させられていた中国人女性の抱いていた赤ん坊を日本兵が谷底へ投げ落とすと絶望した女性もみずから谷へ身を投げた、などという話は8月15日には語 られない。これがあのアウシュビッツ収容所などのナチス・ドイツによる人種絶滅計画を経験したユダヤ国家が現在、パレスチナの人々に同じような残虐無道の 行いを繰り返していることの歴史的回答である。つまり、かつて堀田善衛が、古代ギリシャでは過去と現在が(可視化される)前方にあり、見ることのできい未 来は背後にあると考えられていたと前置きをしてから記した「われわれはすべて背中から未来へ入って行く」ことの回答、「可視的過去と現在の実相」(辺見 庸)を見ぬくこともなく盲目のまま背中から未来へ入って行くわたしたちの「平和がたり」の欺瞞である。いまだにこの国の主要寺社の坊主どもは英霊散華の経 なんぞを唱えては済ました顔をしている。仏教的世界に於いて「英霊」はありうるのか。これもまたあまたある欺瞞の一、要するにこの国の戦後は欺瞞の巣窟であったわけ だ。みなでそれを許容してきた。 「・・犠牲者の記録などを残す場を「笹の墓標展示館」と名前をつけたのは、まさに死者たちはね、まったく追悼されること もないまま熊笹の下に眠り続けてきたという、そういう意味をぼくらは込めて、そういう名前をつけた、と」 北海道山中の熊笹から掘り起こされた多数の朝鮮 半島の強制徴用・強制労働の犠牲者たちを弔う日本人僧侶の男性のことばこそが、この国の8月15日にふさわしい。戦後80年。いまだに熊笹の下に眠る無数 の死者たちを忘却し、理不尽なむごいだけの死者を「英霊」と賛美し、盲目のまま、なにひとつ未来のイメージを持てぬままで背中から未来へ入って行く日本人 よ。わたしたちの肺腑は、いまだ欺瞞だらけだ。息を吸っても吐いても、白骨がからからとむなしくふるえる音がする。
2021.8.15

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  歯医者の後、府立中之島図書館で、かつて大阪城二ノ丸にあった陸軍大阪衛戍監獄の資料調査。3階の大阪資料・古典籍室カウンターのお二人、長時間をよくつ きあってくれました。感謝。そもそもは軍法会議で判決を受けた軍人が服役した衛戍監獄であるが、1932(昭和7)年の11月から12月にかけて、金沢で の処刑前に尹奉吉は約一か月をこの衛戍監獄で過ごした。同じ頃、反戦川柳作家の鶴彬もまたこの衛戍監獄に収監されていた。折しも昭和の天守復興と謳われた 大阪城天守閣の竣工は1931(昭和6)年。尹奉吉と鶴彬が監獄内でことばを交わすことがあったかは不明だが、二人は夜空にそびえる真新しい天守閣をきっ と見あげたに違いない。
2021.8.16

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必要なのはカネとか知識とかじゃないんだ。成長でもないし、あたらしい何かでもない。ずっとむかしにじぶんが持っていたものだよ。
2021.8.19

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 昨日の国会図書館(関西館)、主には金沢の新谷さんから依頼されている尹奉吉(ユン・ボンギル)の大阪での足跡調査であったが、その合間にいつもの紡績工女に関する新聞記事検索も。

最 近分かったことだけれど、従来の新聞各社データベース検索では拾いきれなかった記事が、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)で検索をするとヒットす ることがある。エル・ライブラリーの方が記事の内容まで検索がかかるらしいのだが、そこから直接元の紙面までは見れないので日付などを控えておいて、新聞 各社データベースと契約している公共図書館などでじっさいの紙面を確認したりプリントすることになるのがチト面倒だ。郡山紡績工場寄宿舎工女・宮本イサが 死んだ1900(明治33)年にしぼってみても、紡績女工に関する悲惨な記事がたくさん出てくる。

誘拐、折檻、逃走などは序の口で、強姦 されたり、遊郭へ売り飛ばされたり、過酷な工場勤めに16才の少女が川に身投げしたり、9歳で連れてこられたという11歳の少女が故郷帰りたさに汽車が通 るのを見ては泣いているという記事など。極めつけは大阪の天満にあった紡績工場で、紡績機械の不具合のために16才の少年職工が巻き込まれ「456回の運 転を継続したることとてあはれ治三郎はその脆弱なる四肢五体を巻き込まれては梁の上なる繋ぎに打ちつけられ巻き込まれては打ちつけられすることまたじつに 456回転したることなれば何かは以って足るべき四肢五体は粉砕微塵となって二三丈四方は肉の雨を降らし血煙立ちて目もあてられず・・・」といった光景に なった。この事故は会社の不注意に起因することからと「治三郎の死体は社葬を以って之を葬り第1号職工残らずをして会葬せしめる事と」なったと記事は結ん でいる。いまは無縁墓とはいえ「郡山紡績工場寄宿舎工女」の名で立派な墓石がつくられた宮本イサも、じつはこうしたいわく付きの社葬ではなかったかと、わ たしは思って瞑目する。

尼崎紡績福島工場で、工女の多くが礼拝しているという寄宿舎の大広間に設けられた仏壇の写真を載せている記事が あった。工女には真宗信徒が多いと書かれているが、これは貧しい地域の出身者と同義でもあるだろう。「中央には金色燦爛たる立派なお仏壇を置き、その〇側 には死亡した工女の位牌を安置してあります」と説明されたこの写真はある意味、すさまじい。宮本イサの位牌も、こんなふうに金色燦爛たる仏壇のかたわらに ならんでいたのだろうか。
2021.8.20

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  大阪の歯医者のついでに、今日は尹奉吉と鶴彬が時をおなじくして収容されていた、大阪城二ノ丸の陸軍大阪衛戍監獄跡地をあらためて見に行ってきた。二人を 偲ぶために。図書館などで調べた図面などから、衛戍監獄の敷地は現在の豊国神社の本殿がすっぽり入るエリアだったことが分かる。もともと明治維新を経て大 阪の中之島に建てられた豊国神社が現在地に移転したのは1961(昭和36)年、ずいぶん最近の話だ。明治の年号を刻む鳥居も敷地内の古めかしい石碑も併 せて移転したものだが、歴史を知らぬ若者などは古くからここに鎮座していると思うだろう。神社や天皇陵の権威など、どうせその程度のものだ。鶴彬の句碑の あたりに建物がならび、豊国神社本殿は前庭のようなスペースだった。しばらくそのあたりを散策して、堀に近い草むらのなかで当時のものと思われる瓦と赤煉 瓦のかけらを拾ってリュックに入れた。これらは生々しい「現在」なんだと、写真を送った画家の福山さんが返してきた。そのとおり。いまから90年前、日本 の侵略に抗い爆弾で陸軍の現地司令官など数名を殺傷して捕らえられた尹奉吉と、「手と足をもいだ丸太にしてかへし」などの反戦川柳を遺した鶴彬が1932 (昭和7)年の年末、偶然この同じ場所で生を共有した。そして二人とも短く凄烈な死を迎えた。尹奉吉がいわゆる上海爆弾事件を起こしたのが4月29日だ。 大阪の衛戍監獄から金沢へ移送されて三小牛山で処刑されたのが12月19日。その8か月をかれはどんなことを感じ、考え、祈ったのだろうかと思う。平穏な 弛緩しきった日々を送っているわたしたちの何倍も圧縮された密度の濃い8か月だったろうと思うのだ。そこへ、わが身を置いてみたいという願望は、ある。大 阪城の現在の天守閣が再建されたのが二人が収容される前年の1931(昭和6)年。かれらはこの衛戍監獄から夜目にも白い再建されたばかりの天守閣を見あ げたことだろうと想像していたが、じっさいに現地に立つと、小さく見える天守閣をさえぎるように第四師団司令部の煉瓦造りの建物がその前面にそびえ立って いた。かれらが見あげたのは帝国日本の巨大な国家権力の姿だった。
2021.8.23

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  山の登りはじめはきつい。身体中の毛穴という毛穴から汗がふきだし、息があがる。肉体がひきずっているだけの無用な荷物のように感じられる。生存のために は必要でない荷物、だ。毛穴からふきだしべたべたと身体中にまとわりつく汗はまるで肉体が貯めていた不快な毒素のようだ。丸太のように思える重い足をひき ずって、それでも黙って足もとの岩や土くれをひとつづつ踏んづけてゆく。陽に透ける植物の緑だけが目に涼しい。座禅とおなじだな。平地でのあれこれの雑念 がまだ頭の中を経めぐっている。それがいつしか、消える。30分も一時間もそんな登攀を続けていくと、あるときを境に肉体がすっと軽くなる。じぶんが岩や 土くれに近づいたような気がする。鳥の声や草いきれや樹木の呼吸とおなじように、じぶんもそれらの一部になったのだと思える。そうなるためにいろいろなも のが邪魔だった。わたしにとって山へ登ることはマイナスの行程だ。引き算の所作。不要なものを脱ぎ捨てるために、山へ登る。どうせまた平地へもどれば不要 なものを抱え込むことになるのだから、それは刹那の勝利ともいえる。だからなんどでも登る。ひとはそうして、バランスをとってきたのではないか。山とは人 類がかけらもなかった太古に海底から隆起したり地底のマグマの噴出によってせりあがりあるいは降り積もった大地の記憶だ。その太古の記憶に参与する。平地 では、ひとは足し算ばかりに熱狂する。莫大な広告費用が上乗せされたブランド品、常にバージョンアップを強制される最新鋭のコンピュータ、時速250キロ よりもさらに高速で人や物を運ぶリニアモーターカーの開発、そのほか自他を差別するためだけのさまざまな品々。ほんとうに必要なものはわずかしかない。豊 かな生存のためには不要なものばかり。往古から修験者たちが人里をはなれ山へ参与したのはそのためだろう。かれらは平地の足し算を捨てて、単身で山にこも り、瀧に打たれ、ときに木や岩に神や仏を刻んだ。平地の人々はその足跡を拝むことによって足し算と引き算のバランスをわが身に写実した。平群町の山あいで 進行中のメガソーラー開発の現場で目の当たりにした600年前ともいわれる摩崖仏が剥ぎ取られた巨石は、現代の無残な象徴である。足し算ばかりに熱狂する 者たちにとって、山はなんの利益ももたらさない無用の長物にしか見えない。この山や谷をくずして巨大なメガソーラーを設置すればたくさんの利潤が生まれる じゃないか。かれらにとって数百年もむかしにだれかが岩に刻んだほとけの姿などは何の価値もなさない。山と谷と鳥の声と草いきれと樹木と、ひとびとが獣を 真似てつないだささやかな古道とそこに鎮座する巨石と刻まれたほとけの姿はぜんぶがひとつの宇宙なのだということが、かれらには分からない。足し算の価値 観ではないから。巨石に穿たれた大口径のドリルの孔はそのままわが身をえぐり出す残像だった。ドリルが到達しただろう背骨のあたりがぎりぎりと痛んだ。北 極海で崩落しつつある氷山もこの巨石とおなじような悲鳴をあげて海へ崩れ落ちていくのだろう。このメガソーラー開発の現場で倒された何百という木々の悲鳴 を重ね合わせたらどんな音になるだろう。足し算ばかりに熱中する者たちはじぶんたちを止められない。この平群の山あいのようにこの惑星のあらゆるものを喰 い尽くすだろう。わたしたちはもう、山や海や水や空気を売り買いする世界とはオサラバしようじゃないか。ここにいると、ほんとうにそれがはっきり分かる。こんな世界 が長続きするわけがない。たくさんの豊かな引き算と、ほんのすこしの足し算があればいいんだよ。
2021.9.2

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  昨日、ジップの散歩で立ち寄った郡山紡績工場寄宿舎工女・宮本イサの無縁墓がある来世墓で、あんまり隅の方にひっそりとあっていままで気がつかなかった、 わずか16歳の少年・西本清蔵の「軍人墓」。満蒙開拓青少年義勇軍のために「内原訓練所ニテ訓練中殉職」と刻む。ウチハラ、ウチハラ、どこかで聞いたよう なと思ったら、茨城県の内原であった。かの地に昭和13年から敗戦の昭和20年まで、『「第二の屯田兵」とか「昭和の白虎隊」と褒めそやされ、「片手に 鍬、片手に銃」を合い言葉に満蒙で大地主になることを夢』見た15歳〜19歳の青少年たちが農業実習とともに軍事教練を受けた。所長は、関東軍将校で満州 国軍政部顧問の東宮鉄男と共に満蒙開拓移民を推進した加藤完治である。かれのもとから86,530名の青少年義勇軍が満州の地へ旅立ち、そのうちの約 24,200名は悲惨極まる最後をとげた。加藤は敗戦後、公職追放によりA級戦犯となったが許され、『日本国民高等学校の校長に復職したり、旧満州開拓関 係のあらゆる団体や組織の枢要な役職に就いたり、はたまた、様々な会合や講演に招かれて昔ながらの熱弁を振るった』 わずか16歳の若さで訓練所で死んだ 西本清蔵はどんな死に方をしたのだろうか。内原訓練所で訓練生たちによって建設された日輪兵舎といわれた宿泊・研修を兼ねた円形の建物は建築家の古賀弘人 による設計で、日輪を現す円形は加藤完治の皇室崇拝と農本主義を現しているという。全国でこの日輪兵舎は作られていった。佐保川のほとりののどかな共同墓 地の片隅に、こんな歴史の一端が眠っている。

◆満蒙開拓青少年義勇軍 内原訓練所
https://www.asahi-net.or.jp/~un3.../0815-manmou-uchihara.htm

◆加藤完治と戦争責任
https://blog.goo.ne.jp/.../74e5d19af288605e24221117b65de075

◆水戸市・満蒙開拓青少年義勇軍訓練所跡
https://mainichi.jp/articles/20200330/dde/014/040/009000c

◆日輪兵舎 ―戦時下に花咲いた特異な建築
https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E8%BC%AA.../dp/4306046745
2021.9.6

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  今日は朝から雨もあがってじきに快晴になったんで、ひさしぶりに自転車で飛鳥あたりまで走ってこようかなと思っていたのだけれど、風呂場で死んだ伯父が残 していった古いアルバムや手紙の類が満載された箱を整理していたら母方の両親に関わる除籍謄本を見つけちゃってさ、それからまる一日、気分は百年ほどタイ ムトリップ。エクセルで家系図までつくり出しちゃったよ。

わたしの母の両親は共に和歌山県の飛び地の村・北山村の出身。母の父方の祖父、 明治6年生まれの中瀬古為三郎は筏方の総代を経て明治40年には村の筏方組合長になった。明治44年に大逆事件で新宮がゆれていた頃には38歳で脂の乗り 切った頃。当時の筏師は木材を筏に組んで運んだ新宮で散財して財を残さなかったというから、ひょっとしたら大石誠之助や高木顕明らと知り合っていたかも知 れないというのが目下のわたしの最大の浪漫だ。併せてこの謄本をきっかけにした母親との電話会議で、母方の祖母の弟二人が北山村から満州へ出かけて最後に は餓死したという話も判明した。その弟二人はわたしの手元に残された黄ばんだアルバムの中でほほ笑んでいる。また村史によると北山村の中瀬古家は幕末には 大台ケ原の山伏の宿をしていたという記録もあり、山伏自身が土着した例も多かったとか。

母親もことしで82才。最後にもういちど、北山村に連れて行ってやりたいと考えているんで、もう少しいろいろと調べてみるよ。おれのルーツの半分でもあるからね。

◆ 北山川観光筏下り > 筏トリビア
https://www.vill.kitayama.wakayama.jp/.../ikada/rekishi.html
2021.9.9

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  わたしの母方の祖母は戦争中、疎開先の故郷・北山村での肉体労働などもたたって結核になり、戦後の昭和25年に42歳で亡くなった。母は12歳だった。結 核になる前、母は祖母と弟と三人で疎開して、北山村の小学校に数年通った。すでに夫が他界していた祖母の母親もいっしょの生活だった。のちに弟は母親から 結核をうつされて昭和30年頃に亡くなった。ドイツ語が堪能だったという共産党員の祖父は日本通運の墨田川支店に勤めていて、戦後は東京足立区の千住で子 どもたちを呼びよせて暮らしていた。東京と和歌山の北山村、夫婦の間で交わされた手紙がいくつか残っている。祖母が死んだときには祖父だけが北山村へ行っ て葬式の段取りをして帰った。祖母の布団を焼いたこと、村の大工に棺桶(座棺)を注文したことなどが当時の手帳に記されている。娘の死を看取った曽祖母は 北山村の家に一人で住み続け、49日のときには墓に「おにぎりと海苔とお菓子と熱いお茶を供えたから安心してください」と祖父に書き送っている。曽祖母の 手紙はたいてい誰かの代筆で、わずかに残っている自筆の手紙は平仮名とカタカナだけのたどたどしい文字だ。でも、とても情の深いひとだったのだろうと思 う。そういった手紙などを半日めくっていたら、下地 勇のこんな曲をひさしぶりに聴きたくなった。人が生きるのに難しい理屈なんかいらないんだよ。ほんとうに大切なものは、わずかなものだけ。病気や思わぬ事 故や寿命でもたらされる平凡な人の生き死にすらも、あふれんばかりの感情で満ち溢れている。けれど国家による暴力は、それをもっと残酷に寸断する。この国 のすみずみに建つ無数の軍人墓や慰霊碑やあるいはいまだ浮かばれぬ笹の墓標たちはいまも激しく屹立している。なぜつつましく平凡に生きられなかったのか と、なぜ愛する人ともっとたくさんの手紙や言葉をかわせなかったのかと、顫えながら屹立している。
2021.9.10

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  相変わらず明治の除籍謄本をさまよっている。中京大学郷土研究会が1977(昭和52)年に北山村の民俗全般を調査した貴重な報告書。この巻末に、昭和初 期に筏師の仕事に加わった人の聞き取りが載っている。この17才の竹本武千代さんが弟子入りしたのが、わたしの祖母の父親の久保八十次郎が支配人をしてい た久保組。かっこいいね〜 次いでp161に出てくる中瀬古英雄はわたしの祖父の兄。かれも筏方組合長だった父・為三郎を次いで筏師の総代をしていたらし い。そして驚いたのが最後のp163、「大正の筏師が郷土北山川での流筏のみならず遠く明治時代から朝鮮に渡り鴨緑江流筏の先駆者・川辺熊太郎(故人)以 来云々」の熊太郎は、なんとわが曽祖父・為三郎の妻・たつの兄で、婚姻届けをこの熊太郎が提出していたために手元の除籍謄本に名前が記されている。山中湖 の手漕ぎボートですらきっちり船酔いするわたしの先祖は、じつに激流の難所を命懸けで渡って行った日本でも屈指の筏流し集団の中核であった。これは俄然、 おもしろくなってきたぞ。
2021.9.11

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  「満州で餓死」と母が記憶していた祖母の二人の弟は、満州ではなく「海軍兵士としてニューギニアで戦死」だった(「北山村史」の戦没者名簿による)。昭和 19年末頃のニューギニア・サルミの付近は飢えとマラリアにより倒れていった日本軍兵士の白骨がならび、人肉事件も多発したという。まさに餓鬼道。二人の 弟は修羅の死に際に母を思い、姉を思い、北山のなつかしい風景を思っただろうか。
2021.9.16

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 台風せまる夜半。北山村の谷深く奥山にいまも残るという木地師の墓を訪ねたいと山岳地図をたどっている。<葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり>釈迢空
2021.9.17

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 北山村史によると、山深い北山村には「相当古い時代から多くの木地師が住みついた」という。山 窩、木地師、炭焼き、竹細工、蓑直し、山から山へと移り住む一所不在のかれら山民はアンチ平地人の憧憬である。北山村史4章5節「木地師の里」に村内の木 地師の遺跡を落とした地図がある。そのほとんどは人が容易に立ち入り難い深山の谷間で、そこに住居の痕跡や、焼畑農耕の跡、墓石などが残されていると伝え る。いまではもう獣の他は参ることのないその墓石を訪ねたいと思って、山岳地図をひらいてみた。幸い大峰奥駆道の南端といえる北山村周辺は「玉置山・瀞八 丁」(昭文社)にかろうじて含まれる。

  わたしもかつて縦走したことがある弥山(1895m)、八経ヶ岳(1915m)、釈迦ヶ岳(1799m)などの重畳たる峰々を経て、地蔵岳(1462m) から笠捨山(1076m)まで下りくれば、やがて北山村内の谷筋に至る。169号線から出合川を遡上すれば蛇崩山(1172m)と笠捨山に抱かれるような 源流に元禄6年の墓石が残るという八丁河原である。「ここは、北に笠捨山、東に茶臼山、南に蛇崩(だぐえ)など千二、三百メートルの高峰が三方を囲み、さ らに出合川は、西の峯と蛇 崩の山間を蛇行南流して、人も通れぬ嶮しい渓谷となっている」(北山村史)。またおなじ169号線から四ノ川を遡上すれば、やはり峰々に閉ざされた渓流の 奥に、元禄・享保などの氏子駆帳に「紀州室郡四ノ川山」と記された多数の木地屋が生活していた痕跡を残す細谷へ至る。

 惟喬(これたか)親王を祖とする由 緒書を持つ木地師には四つの戒律があったという。「一、木地師は尊い身分であるから他の職業に転業してはならない。 二、この戒律を守るため他の業種の者 と婚姻してはならない。 三、一定の場所に長く停留してはならない。 四、家は掘立小屋とし、礎石、台木の類は使用しない」 人跡絶えた深山で木を伐り、 轆轤を回し、つくった椀を里で売り、山の木が減れば他の山へと移っていく。墓はいわばもどることのない捨て墓である。

 FBで知り合った地元の平野さんから、出 合川にいまも残る渓流沿いの小路は朝鮮人の徴用工を使ってできたもので、トロッコの軌道跡もあるとある日、おしえられた。竹内康人氏がまとめた「戦時朝鮮 人強制労働調査資料集」(神戸学生青年センター出版部)を見ると、これまで見過ごしていたが「大勝鉱山」の名が北山村付近の地図上にぽつんと落ちている。 これは四ノ川の方で、Webで検索をするといまでも坑道内で採取した鉱石(コバルト華)がネット・オークションなどで取引されているらしい。拡大鏡を手に山岳地図をたどれば、たしかに四ノ川沿いに「コバルト廃坑」「銅廃坑」の記載がある。「戦 時朝鮮人強制労働調査資料集」の「勝山鉱山」の参考文献として「百萬人の身世打鈴 : 朝鮮人強制連行・強制労働の「恨」」(東方出版)があげられていた。手元にあって、まだ拾い読み程度しかしていなかった、たくさんの強制連行された朝鮮人 の人々の証言が盛り込まれた大部(650頁)の本だ。

 丹念にページをめくっていくと、該当者が二人ほどいた。金文善(キム・ムンソン・1926年生まれ・忠清北道出身)の部分を長いがそのまま引用する。前後の文脈から1944(昭和19)年頃のことと思われる。

 ・・ 父はわたしを捜しに大阪方面に出立していました。隣の山さんはわたしにここで働きながら待つように忠告しました。もっともなことと、わたしは父の友人が いる鉱山で働くことにしました。そこは和歌山県にある鉱山で、500メートル程の隣村が奈良県になり、北山川を挟んで三重県になる山奥の、そのまた山奥に ありました。5月の終わり頃でしたが、午前に出発した木炭バスを終点で降り、そこから北山村にたどり着いたとき、日はとっぷりと暮れ、夕闇が迫っていまし た。鉱山事務所を訪ねて、働く意思を伝えると、すぐに了承してくれました。

  その鉱山は大勝コバルト鉱山(注――この鉱山は確認できない)と呼ばれ、海軍省の管理鉱山でした。コバルトは日本では産出されていなかった貴重な鉱物で、 戦時中ここが唯一発見された鉱山でした。コバルトが海軍の高度な兵器生産に欠かせない希少金属だからこそ、海軍省は狂喜して多大な期待を寄せていたのです が、それにしては施設があまりにもお粗末でした。鉱石運搬はリヤカーだし、杣道、吊り橋もそのままで、とても大量生産に対応できるとは思えませんでした。 わたしが入坑した頃は食料を含め、配給物資は潤沢でした。何しろ飯場では、一人に対して5,6人分の配給登録をしていたのです。だから、一人の配給米を二 合とすれば、一升になる。いくらなんでも一日一升飯は食えません。あまった分は各自の飯場でドブロクにしました。この幽霊登録を後に鉱山長が独占したた め、鉱山長糾弾のストライキが敢行されました。

  わたしが手首をなくしたのは、1944年の盛夏、7月20日のことです。作業は山道拡幅工事でした。先輩二人とわたしの三人の仕事で、わたしはまだ発破に 慣れていませんでした。三発仕掛けた発破は二発が鳴り、残りの一発が鳴りません。先輩二人はのんびりと構え、座り込んでダベッてました。

 経験豊かな先輩は三発目は、導火線の具合で即発しないけれど、今少しすれば発破するか、あるいは不発になるか、時間を計っていたのです。慣れないわたしはそれとは知らず様子を見に行き、不発のダイナマイトを手にして、目を近づけたその瞬間、爆発。

  見えない目であたりを見ると、血のように真っ赤に見える。近視の眼鏡が飛び散り、目がやられていたのです。左手が激しく震えているのに気づきました。手首 がないのです。途端に全身の力が抜けてその場に座り込みました。二人の先輩はすぐ異変に気づいたのですが、動転してなすすべを知らない。そのとき手ぬぐい がわたしの首にぶら下がっていたので、それで腕を縛るように頼みました。本能的に出血死を怖れたのです。

  現場から村まで5キロ程ありました。二人はわたしを中に両手を肩にかけさせて山道を降りはじめました。二人は親方とその子方で、わたしが未成年だったため に、事故の責任はその二人にかかります。村に降りる途中、その親方は、「おまえの面倒は一生見るから、おれの名前は絶対に口外しないでくれ」と哀願しまし た。子方は親方の責任を被って、その日のうちに姿をくらましてしまいました。

  ようやく村に着いたところ、村医者の所在が分からず、鉱山事務所からせしめた酒を駐在と飲んでいるところを捕まえて、応急の手術になりました。翌朝、出発 前に麻酔を打たれ、十時間かけて新宮に出ました。入院先は専門違いの産婦人科病院でした。この病院長が鉱山の株主で、警察への事故報告をなしにするためで した。村の駐在も本署に報告しませんでした。わたしの労働災害は闇から闇に葬られたのです。

  入院すると、院長は左の上膊部から切断するというので、わたしは断固拒否しました。この拒否のお陰で後年大いに助かったのです。東京山谷の日雇い仕事のと き、セメントの手練りや片付けの仕事になくてはならぬ腕となりました。とかく、ヤブ医者程切りたがるものです。十日程は苦痛の連続でした。幸いだったのは 眼鏡のレンズの破片が、目に入っていないことでした。

 もう一人は金圭洙(キムギュズ・1924年生まれ・慶尚南道釜山市出身)。こちらは部分抜粋で、これも1944(昭和19)年頃のことと思われる。

  親父は時分の知っている北山村というところに石原という人がいて、その人が東牟婁郡北山村で飯場を持っているから、そこへ行けというのです。北山村は三重 県と奈良県と和歌山県の県境にあるんです。その奥にコバルトを掘る鉱山(注――住友宝鉱山)があったんです。そこは海軍省指定の鉱山ですから、「そこへ入 れば、徴用も学徒動員もないんだから、そこへ行け」と、勧められたんです。
 それで二十歳のときに、そこへ行ったってわけですヨ。そこには飯場が十何ヵ所もあるんです。でも、そこにいた人はほとんどが朝鮮人でした。徴用とか、募集とか、いろいろの人たちでした。ところが監督する人々、つまり要所々々を締める人たちは皆日本人ですよ。
  わたしは旧制中学校を出ているし、石原さんの紹介ということもあるので、一つの飯場の責任を持つ役割、つまり主任じゃないけど、主任みたいな立場で働くよ うになったんです。わたしの下には三人の女性事務員がいました。ですから、強制連行された人々よりも少々身分が高かったんです。わたしは「天皇の赤子な り」という、コチコチに凝り固まった人間になっていったんですね。

 この金 圭洙氏は鉱山の現場で、徴用工向けの物資を割り当てる「産業報国会」が新宮で配給品をピンハネしているようだという話に頭にきて、朝鮮人全員によるストラ イキを盾に鉱山長と直談判したことによって後日に、亡くなった父親の仏壇を買いに行った勝浦の旅館から警察に連行され、三日目に新宮署へ移送された。

   ・・父の死後、生活をどうするか。わたしの飯場近くに引っ越すことから考えました。母親と二人の妹の四人で、北山村の近くにある大沼の町役場へ行き、交 渉して北山村近くの下笈村に一軒家を借りました。そこに三人を住まわせて、わたし自身はまた北山のコバルト鉱山現場へ帰ったのでした。

 ・・わたしは毎日拷問にかけられました。その理由はコバルト鉱山で事件の首謀者だと見なされたわけなんです。「他にも首謀者がいるだろう?」 「それは誰だ?」というわけです。「一緒にはかりごとをしたメンバーの名前を全部言え!」
 それが1945年8月2日だったんです。わたしは誰一人の名前も出さなかった ・・・ところが、真夜中に叩き起こされて、竹刀でバンバン殴られるんですよ。8月2日まで十日間も殴りつけられたんですね。
 おれは天皇陛下の赤子として働きその命令に従って来たのに、このおれをこんなにまで無茶苦茶にするのか、よし、分かった。と、そのとき初めて日本のことがよく認識できたんです。
 ソ連が参戦したのはその頃でしたかね。特高警察の人が教えてくれたんです、「ロシアが参戦した」って。そして、「おまえはこんなところでボソボソしてたらあかん。ここを出ろ!」と、釈放してくれたんです。それは8月14日のことでした。
 私は下笈村の母の家へ帰ったんです。そしたら村人たちは「ここは国賊の家や」といって、うちは村八分にされてね。妹らがワンワン泣くんですね。その時初めて「おれの人生って、一体なんだったんだろう」と思い、「やはり宋君の言ったことが正しかったな」と確信したんです。
  その翌日、つまり8月15日に召集令状が来ました。「新潟の何部隊に8月16日に入隊しろ」というものでした。わたしは「計られたな」と、直感しました。 ほんで8月15日に新潟に行く準備をしているとき、ラジオで重要な発表があるというんですね。 ・・・ところが山奥のラジオはガアガアいうだけで、天皇が 何をしゃべっているか全然聞き取れないんですよ。でも、戦争が終わったということは分かったんです。
 それでここにいたら日本人に何をされるか分かんあいと、一刻も早く荷物を包んで逃げようと、一家全員で山を下りたんです。それで勝浦へ行きました。叔父さんは一人して下関へ行き、祖国に向かいました。下関は祖国へ帰る人々でごった返していたそうです。
 ちょうどそんな頃、宋君から連絡が入りました。「今、下関に来るなよ、しばらく和歌山で待っておれ」とね。それで和歌山におることにしたんです。そのまま和歌山にずっとおるんです。(現在、金圭洙氏は和歌山県田辺市で大きな焼き肉店を経営している)


 当然のことながら、こうした歴史はこの国の公式な記録としては何も残されていない。北山村史には朝鮮人の徴用工に関する記述はなにひとつない。かつて金 文善がみずからの手首とひきかえに拡幅した鉱山へ至る山道は、いまは「木馬道」とか「トロッコ道」とか言われて、ときどき懐古的に語られるだけだ。いや、 それすらも忘れられつつある。戦時中、兵器製造に必要な希少鉱物であるコバルトを採取するために、平家の落ち武者の村とも、木地師の里とも呼ばれる山深い 村の山中の谷筋に、多くの飯場が軒をつらね、たくさんの朝鮮人の労働者たちが危険な作業に従事させられていた。金 文善は手首だけで済んだが、命を失くした者もいたのではないか。その者はどこへ葬られたのだろうか。わずかな骨片だけが無縁の骨壇の暗がりに放り込まれた か。昭和19年前後といえば、わたしの母が祖母と共に東京の空襲を逃れて疎開してきたその頃だ。それほど遠い話でもない。けれども歴史の波に翻弄されつつ も、必死に生きたかれらの記憶はこの村では抹殺されている。

 ふと思いついて、村史にあった木地師の遺跡と、コバルト鉱山の場所をグーグ ルの地形図に落としてみた。人里から隔たった深い山中で貴種譚の由緒を伝えた山の民と、異国の地で歴史の波に翻弄されてやがて忘れ去られた労働者のため息 と、両者の場所は奇妙に重なる。わたしはその場所、いつかをひっそりと訪ねてみたいと思った。そこで、かれらの吐いた息を呼吸してみたい。

◆下尾井大勝鉱山
http://blog.livedoor.jp/hami_orz/archives/52369504.html

◆春の巡検 大勝鉱山を探せ
http://c58224.livedoor.blog/archives/1834418.html

◆立合川大滝(吉野 熊野)
https://taki-sawa-unexplored.com/%E8%BF%91%E7%95%BF%E3%81%AE%E6%BB%9D/%E7%AB%8B%E4%BC%9A%E5%B7%9D%E5%A4%A7%E6%BB%9D%EF%BD%9E%E5%A5%88%E8%89%AF%E7%9C%8C%E3%81%AE%E6%BB%9D/
2021.9.20

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  集落で最長老だった和歌山・大崎のTのおじさん が亡くなったと連絡が入った。昭和元年の生まれ、享年95才。つれあいの母親の姉の夫になる。ちょうど3年半前、大崎の裏山にあったという戦時中の砕石場 とそこで働いていた朝鮮人家族の飯場のことなどを聞きに行った。「あんたはこんなこと聞いて、いったい何にするんだ?」と笑いながら話してくれたが、いま となっては貴重な証言だ。大崎の砕石場については、まだきちっとまとめていないけれど、おじさんの冥福を祈りつつ、当日のメモをいったんここにあげておこ う。家族にはいろいろ迷惑をかけたらしいけれど、好きなことをやって人生を駆け抜けた、我が道を行くという風の何となく親しみを感じるおじさんだったな。 R.I.P

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「50年のあゆみ」
大爆破は荒崎。みんな家で雨戸を閉じてじっとしていたが、たいしたことはなかった。

「和歌山・在日朝鮮人の歴史」
「下津しらくら山の石山」→ケイセキという貴重な石が取れた。下津駅山側の沓掛にある白倉山のこと。いまはもう何も残っていないだろう。

浅 川組はもともと樺太やシベリアから材木を運び、当時は和歌山湾が整備されていなかったので下津で筏に組んで船で引いて和歌山へ運ぶ仕事をしていた。なかば 暴力団のようなもので、その仕事を巡って(大阪の組と)争いもあり、下津の旅館で浅川組がよその暴力団員を射殺する事件も起きた。

淺川組はもともと現在和歌山石油タンクがあるあたり、松の鼻と呼ばれるあたりの砕石をしていた。一方、内務省の砕石工場はそれとは別で、浅川組はかかわっていないと思う。

砕石工場の大崎の事務所で働いていたのは5〜6人くらい。あとは現場の監督などで、全体の2/3くらいは大崎の人間だった。だから知り合いがたくさんいる。

海 側の飯場の下にコンクリ製のダイナマイトなどを入れた倉庫があって、番人小屋もあった。朝鮮人の仕事はハッパ作業で、細長いモリのようなものを一人が支え ていて、もう一人がハンマーで叩いて穴を開け、そこにダイナマイトを仕掛けて石を砕く。モリの刃先がすぐになまるので鍛冶屋とその機械小屋のようなところ も荒崎の浜にあった。

砕石場からはトロッコのレールが敷かれ、砕いた石を運んでクレーンで船に乗せた。


山の中の朝鮮人飯場は15人づつくらいの二箇所で計30人くらいいたんじゃないか。

立てた柱にワイヤーなどで板を貼っただけのバラック。屋根も板で石を瓦代わりに置いていた。細長い長屋で、建物の両側に出入り口があり、中を世帯ごとに仕切っていた。中央に通路があって、両サイドにカーテンがぶら下がって部屋があるような感じ。

バラックの横の地面に壺をたくさん埋めて、そこにキムチを漬けていた。

風呂は五右衛門風呂だったのではないか。水場はあった。土のかまどもつくっていた。

Tの家は米屋をしていたので、米や醤油や酒などの注文を受けて子どものわしが配達に行った。山からでも行けたが、たいてい舟で荒崎に付けてそこから行った。嫌ではなかった。興味本位で持っていった。代金はいつもきちんと払ってくれた。

じぶんは配達もあったのでときどきかれらの飯場へ行ったが、他の人はあまり接触はなかったのではないか。

ただときどき朝鮮の人が山から降りてきて、外でいっしょに酒を飲むこともあった。

朝鮮の字を教えてくれたこともある。

いまでも向こうの言葉をいくつか覚えている。「ピョング、カチャコチャ」「ポコペン」

昭和の始め頃に、最初から家族で来ていた。男は砕石、女は炊事場で働いていた。

同級生にキム・コンジュンという女の子がいて、よく勉強ができた。他にサコ・テイジという子の名前も覚えている。当時は給食などなかったので、みんな昼は家に帰って食べた。かれらも山の飯場に帰っていた。

大人も子どもも訛りはあったが日本語は達者だった。どこから大崎へ来たのかは知らないが、長いこと日本に住んでいたのだろうと思う。

蔑んだ言い方だったが、当時は「チョーセン」と呼んでいた。

産卵の時期に赤い小さな蟹で大崎の浜が真っ赤になる。それをつかまえてキムチに漬けていた。

盆と正月の頃に、大崎の浜でかれらが鐘をたたくかして精霊流しのようなことをやっていたのを覚えている。

砕 石場で事故もあったろうが、大崎の寺や墓地に死んだ朝鮮人を弔ったという話は聞いたことがない。明治の初期まで北前船で途中で亡くなった者を大崎の荒崎か ら海へ流していた。そういうこともあったから、あるいは朝鮮人が死んでもあの時分のことだし、もしかしたらこっそり海へ流したりしたのかも知れない。

下津町方にも朝鮮人の家が数軒あった。前を通るときニンニクの匂いがして「臭い臭い」と言いながら通った。

(昭和25年の)ジェーン台風で飯場が倒れたとき、「宮本」という日本人名の朝鮮人の共産党員が飯場にまぎれていて、警察が捕まえに来ていた。どうなったかは知らない。

飯場の材などはその後、焚き付けにして燃やしてしまったのだろう。その後、その飯場跡に誰かが住んだということはない。

2018年3月21日 T宅で聞き取り

*
(9月25日 22:20  · 和歌山県北山村下尾井 おくとろ道の駅)
 さすがに前鬼のあたりは霧がもののけのように地面をはっていた。ネズミより大きく鹿より小さいものを轢きそうになった。ずっと土砂降りの山道を三時間半。車中泊の旅、始まる。百年前の先祖の地から。

(9月26日 7:06 ・北山村神護)
  北山川の難所、太古にマグマの熱により焼締めされた地層を川の流れがV地に削り取った「オトノセ(音乗)」を見下ろして立つ「音乗新水途開墾 祈念碑」。 曾祖父の「中瀬古為三郎」、為三郎の妻の兄で明治の世に筏師70名を引き連れて朝鮮・鴨緑江まで出稼ぎに行った「川邊熊太郎」の名が刻まれる。

(9月26日 9:34 ・熊野川町請川)
  土砂降りの北山村を逃れて(笑) 本宮大社近く、請川の成石兄弟の墓を訪ねた。「明治政府 架空の大逆事件」 「無告の幽魂を弔う」等と刻まれた碑の前 で、しばし瞑目する。おまへは、明確な抵抗の意志を内蔵してゐるか。橋向かいの筌川神社へ立ち寄る。雑草が墓標のように立つさびれた社殿。鳥居の横の斜め に切り取られた灯篭は大逆のからみかとも邪推する。筌とは竹細工の漁具をいう。竹もまた賎視されたものたちの職能である。雨もやんできた。

(9月26日 11:57 ・熊野川町宮井)
  大台からの北山川と十津川からの熊野川が合流する熊野川町宮井に残る、こちらも「大逆の徒」高木顕明が布教に訪れた松沢炭鉱跡。昭和38年の閉山だが石積 みや道、建物の土台など、結構かつての炭鉱夫たちの暮らしの痕跡が残っていて興奮した。ほとんどは廃屋だが奥に一軒だけ、軒につるした鳥籠に文鳥を飼って いるおじいさんがいた。炭鉱へ向かう山手の斜面には蜜蜂の巣箱が竿石のように並んでいる。いったんやみかけていた雨がまたひどくなってきたので、山道の途 中で引き返した。狭い谷筋にかつては建物がぎっしり並び、人々の汗と熱気がこもっていたろうこの路地々々を、顕明もまたあるいたのだと思うとじつに感慨深 い。かれはここから山形の監獄へつながれ、そこで自死したわけだが、もし無告の幽魂というものがあるのなら、このなつかしい炭鉱跡もふらふらと帰ってきて いるだろう。

(9月26日 12:18  · 熊野川町宮井 「黎明」)
 いちおう煮炊きもできるよ う、マナスルストーブや米や簡単な調味料も持ってきてるのだけど、こう土砂降りじゃとても無理です。昼は悩んだのだけど、「昭和のラーメン」に誘われまし た。餃子がやけにちっちゃく、ラーメンも具がさみしい限りだけど、あっさりめのスープはなかなかわたし好みだったよ。成石兄弟の墓の近く。

(9月26日 19:16  · 北山村大沼)
 北 山川を見下ろす墓地をめぐり、ひっそりと死んだような集落をめぐる。百年前のひとびとはにぎやかにそちこちに出没する生きていたころとおなじようなしぐさ で。ニューギニアで死んだ廉平と守、娘の最後を看取ったはん婆さん、結核で故郷の墓に座棺で埋められた祖母。あなたたちの仕合わせだった頃の写真だとスマ ホの画面を墓に見せた。ほそい石段をあがっていくと人様の敷地だった。どこへ行くんだね、と縁側から覗いた老婆が訊ねた。戦時中に母が祖母と疎開して暮ら していたあの家にいきたいんですと答えると、老婆はうれしそうに、行きなさい、行きなさい、ここを通って行ったらいい、とうなずいた。そうして集落と青い 北山川を見下ろす小さな平屋のベランダのような前庭に長いことたたずんでいた。みんなが仕合わせだった頃、悲しかった頃。それらを考えながら集落を見下ろ し、ふいとうしろを振り向くと祖母を看病するはん婆さんが笑っているような気がして、ねえ、はんさん、と思わず言いかけた。ほんとうにひとびとは、いまも この山あいの集落のそちこちを笑ったりうつむいたりしながらにぎやかに動き回っているそんな気がしてならない。
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(9月26日 19:55  · 北山村下尾井 おくとろ温泉)
  先祖の地の写真をLINEでいろいろ送っていたら70年前に疎開していた母が、二日も続けて車の中で寝るな、一泊プレゼントするから宿に泊まれとしつこく 言ってくるので、おくとろ温泉のカウンターで訊いてみると、バンガロー一棟貸しなら当日でも対応可能と言うので、それでお願いした。素泊まりで1万円。お くとろ温泉のレストランで唐揚げ定食の夕飯を済まし、夜の山影を見ながら露天風呂に浸かり、もうすっかり旅行気分ですわ。売店でつまみと缶ビール、太平洋 の小瓶を買って、バンガローってずいぶん離れたところにあるんだな。利用者はほかにだれもいなくて、ちょっとさみしいぞ。布団はまだあるから、だれか来な い?

(9月27日 14:00  · 北山村四ノ川上流)
 そこは谷筋をいくつも重ねた人跡も絶えたさ みしい場所だった。谷と谷が合流する流れの激しい場所をいくどかすぎて、水が生来のたおやかさをたもっている場所だった。長いことその峪に座して、はじめ に浮かんできたのは、「この流れを下っていけば里があり交わりがありゆたかさがある。けれどわたしはこの流れをひとり遡上していく」ということばだった。 このあたりには古き木地師たちの遺跡があちらの谷こちらの山間に眠っているはずだった。それから時間がゆったりとすぎていった。しずかな流れの上に木の間 からいちまいの葉がひらひらと落ちた。水はちいさな石によって無数の文様を描いた。対岸の苔むした岩場にその水のながれを反射した陽がゆらゆらと映えた。 そのすべてがここではうつくしく、思わずなみだが出そうになった。気がつけばわたしはいくどか眠っていたらしい。おぼえていないが、うつくしい夢を見たよ うな心地がする。この流れを下っていけば里があり交わりがありゆたかさがある。けれどわたしはこの流れをひとり遡上していく。

(9月27日 15:23  · 北山村四ノ川上流)
 北山村四ノ川上流。かつての鉱山跡を求めて熊出没の看板が立つ人跡途絶えた源流の林道で、人生初のタイヤ交換。さあ、タイヤ交換が先か、熊に食われるのが先か。

(9月28日 20:00  · 和歌山県 新宮市  · 速玉大社 西村伊作記念館)
新 宮。速玉大社境内の忠魂碑を見に行った。だいぶ奥まったところにあって、いままで気がつかなかった。日清日露の戦勝を祝って地元有志と仏教界により建てら れた。唯一、これに反対した高木顕明はますます地元からはじかれた。かつては何か勇ましい文字が刻まれていたのだろう銅板の大部は消されている。そのまま 残しておくべきだったな。そして顕明一人が反対したこと、熱狂的に賛成して顕明をつまはじきにした連中の名前もしっかり刻んでおくべきだ。

も うひとつの新宮は、これもはじめて訪ねた西村伊作記念館。大石誠之助の甥っ子である。かれが家族のために設計したマイホームを保存・展示しているが、建て られたのは大正3年なので、誠之助はすでに刑場の露となっていた。見たかったろうな。じつにすばらしいわが家で、家具を含めてすべて新宮の大工たちが伊作 の設計をもとにこしらえて、のちに東京の家を建てたときも新宮から大工を呼び寄せたらしい。このステキな建築や伊作については記念館のサイトなどを見ても らうとして、わたしが注目したのは飾られていた熊野川河口の貯木場の絵。まさに長い旅をしてきた筏の終着場の光景を西村伊作が描いている。そういえば山林 王であったかれの実家は下北山なのだ。そこに伊作のおばあさんの家がまだ残っていて、また伊作や林業、筏流しに関する資料館があると聞いたことがあると祈 念館の女性がおしえてくれた。そうだ、伊作と北山村の筏師の線もあった。しかもその上桑原は筏師組合長をしていたわが曾祖父・中瀬古為三郎が若干40代で 亡くなった地でもある(除籍謄本に記載されている)。これは行かなくてはと、あわててオークワ新宮店で中上健次愛飲の清酒・太平洋を二瓶買い込んで車に乗 り込み、念のためにと上桑原にある下北山村歴史民俗資料館に電話をしてみたところ、村の教育委員会が出て、資料館は現在、毎週木曜日の午後1時から4時ま でのみの開館という。伊作の祖母の家はまだ残っていて、西村山林という会社が所有しているので、事務所に言えば見せてもらえるだろうとのことであった。ま た次の機会か。伊作と筏師の件はもうすこし調べてみたい。伊作自身が何か書き残しているものはないだろうか。

その後、たまたま見つけた、かつての中上の「路地」、春日の番地を見つけて、ニコイチ住宅の並ぶそのあたりをうろついていたら雨が降ってきたので、新宮を離れることにしたのだった。あ、川口さんが教えてくれた大逆事件の記念碑、見に行くの忘れた!

(9月29日 9:00  · 北山村役場)
最 終日の朝は北山村役場に立ち寄った。262世帯、426人の小さな所帯(2020年統計)だが合併もせずに、じゃばらと筏で独立を守っている村だ。えーっ と総務課、住民福祉課・・ 教育委員会はどこだろうかなぞと入口で考えていると、わたしと同世代くらいの女性の職員さんが「なにか?」と声をかけてくれ た。
「北山のむかしのことを調べているんですが」
「どんなことですか?」
「主には二点です。ひとつは明治・大正期の筏流しについて。もうひとつは戦時中に四ノ川にあったコバルト鉱山について、です」
し ばらくして一人の年配の男性職員に引き継いでくれて、二階の部屋に案内してくれた。わたしはじぶんのルーツの話、とくに明治40年に筏師の組合長だった曽 祖父・中瀬古為三郎について、朝鮮へ筏師を引き連れて出稼ぎに行った為三郎の義兄の川邉熊太郎について、そして戦時中にコバルト鉱山でじっさいに働いてい た朝鮮人労働者の証言などについて説明した。
しかし残念ながら和歌山市の文書館の方が危惧していたとおり、2011年の紀伊半島大水害に於いて、北山村の古文書等を含む資料や村史の在庫などを保管していた旧小学校が水没して貴重な資料はすべて水に浸かってしまったのだった。
「それはもう、乾かして何とかなるとかいうレベルじゃなくて?」
「はい。もうどうにもならなくて、ぜんぶ廃棄されました」
そんな話をしていたら、暑いのに黒の背広を着たちょっとくたびれたジョンリーフッカーのような老人が前の廊下を通りかかったのを職員氏が呼び止めて部屋に招き入れた。
あ とで名刺を頂戴したが、久保姓のジョンリーは村議会の議長であった。ひとしきりわたしの説明を聞いて「なんだ、あんたはそうするとわしの家系にもつながっ てるのか」「そうかも知れませんね」 前の日に立ち話をしたおばちゃんも久保だった。久保がたくさん、みんなだれかとつながっている。
村議会議 長・久保ジョンリーの父親はもともと薬局をしていて、当時、村で唯一のカメラを持っていてじぶんで現像をしていたという。「それで、その写真は」思わず身 を乗り出したわたしに、ジョンリーは「ああ。北山村のあれこれを撮った写真やネガが古い箱にたくさんあって〇〇の畑に置いていたんだがな、わしも数年前に あの世へ行きかけて、戻ってきたんだが、それから終活をしなくてはと思ってつい一年ほど前だ、ぜんぶ焼いてしまった」
ジョンリーは若い頃に北山村を出て都会へ働きに行って、歳をとってから実家へもどってきたので「そういうわけで、わしは北山村に思い入れがもともとないんだよ」 ・・ジョンリー、それでもあんたはいま村議会議長じゃないのか。
い くつか村の風景を撮った写真が区民センターに飾っているというので、見せてもらうことになった。ジョンリーは悲しいブルーズを歌って「わしはこれから法務 局へ行かんといけないので、すまんな」と名刺を置いて出て行った。職員氏が携帯でどこかへ電話して喋っている。「あ、ナカさんかい。すまんね、ちょっと区 民センターに飾ってる写真を見たいという人が来てるんで、鍵を開けておいてもらえるかな」
階下へ降りるとさいしょにわたしに声をかけてくれた女性 の職員氏がいた。「そういえば、この人も川辺さんですよ」と言われ、「先祖に熊太郎さんとか、いませんか?」 なかば冗談めかして言ったのだが、「はい。 わたしの曽おじいさんです」 ストレートど真ん中が返ってきて、わたしは思わず「マジですか!」と叫んでいた。わたしは手元の作成中エクセル家系図を取り 出して「わたしの曽祖父で筏の組合長だった中瀬古為三郎の妻が川邉たつさん。たつさんのお兄さんが熊太郎です」と説明した。相手の女性もとても喜んでくれ て立ち話をして盛り上がったのだが、とりあえずメールアドレスを交換して、あとはメールでやりとりしましょうということになった。熊太郎の写真が残ってい ないか探してみてくれるという。
区民センターは歩いて1分。玄関をあがったすぐの壁に引き延ばしたモノクロの写真がならべてあるが、どれも昭和 20年代30年代の戦後のものだ。青年会の集合写真、旅芸人を招いての時代物の舞台風景、昭和28年テス台風の水害、小学4年生の久保ジョンリーが写った 小学校の写真、ダムができる前の河原での運動会、おそらく最後の頃だろう観光でない筏流しの風景等々。写真を撮らせてもらった。
区民センターから の帰りしなに職員氏が、一時期村長を務めた祖母の父親・久保八十次郎について「村長をやったのだったら、議場に写真があるんじゃないかな」と二階の奥の部 屋へ招いてくれた。教室ほどの大きさの議場で、正面の上壇に右から初代を皮切りに過去の村長たちの写真が額に入れて飾られている。久保八十次郎は第11代 の北山村村長である。八十次郎も筏方の総代で「久保組」を名乗っていた。はじめての対面である。
その後、役場の玄関前で出会ったもう少し若い職員 氏に話をしてくれて、かつてNPO法人が村おこしの一環で活動をしていたときに収集した古い写真のなかに、たしか朝鮮へ出稼ぎに行く直前に撮った記念写真 があったはずだが、とPC内のデータを探してくれた。写真のデータが見つかった。ロープを丸くくくりつけた櫂を手にすっくと立つ若者二人のセピア色の写 真。「大正7年 渡鮮祈念」の裏書が添えられている。コピーを頂いた。
最後にもとの部屋に戻って、職員氏がコバルト鉱山跡へ行く道をおしえてくれ た。この人は村史のからみで木地師の墓の残る立会川上流の八丁河原も行ったことがあるという。林道雨谷線から入って途中まで車で、あとは歩きの杣道があっ たという。「でも最近は山に入る人がいなくなって、道も残っているかどうか」
コバルト鉱山跡については、わたしが目星をつけていた途中から川へ下 る鉄の階段は後世のものでもうすこし先に、林道からは若干見えにくいが吊り橋があってそれで対岸へ渡り、そこから山道を30〜40分ほど登ると廃坑跡があ り、砂利を積んだコンテナのようなものも残っているという。その先の川筋でわたしが見つけた対岸の石積みなども、おそらく飯場などの遺跡ではないかとい う。そして説明につかった詳細な「北山村管内図」を差し上げますんでと呉れた。
9時間もなくに訪ねて、役場を出るときはもう昼に近かった。たくさ んの人が親切丁寧に対応してくださって、収穫は予想以上だった。役場を出る時にはかの熊太郎の曽孫の職員氏は姿が見えなかった。ほんのすこし、日にちや時 間がずれていたら会うこともなかっただろう。これも運命の赤い糸か。帰宅してからメールが届いていた。
「本日はお訪ねいただきありがとうございました。
曾祖父さんと繋がっている人と会えたことにびっくりしていますしものすごく嬉しかったです。
川辺熊太郎の写真を探さないといけないので、申し訳ございませんが少し時間を下さい。
宜しくお願い致します。」

過去を遡上するとぼんやりと見えてくる未来のかたちってあるよね。

(9月29日 13:51  · 奈良県下北山村上桑原)
 下北山村上桑原に残る、西村伊作の実家と墓。実家は現在は西村山林の営業所として使われている。伊作の墓のことを教えてくれた男性は地元の人で、祖父が筏師として満州へ働きに行ったという。

2021.9.30

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  まっすぐな映画だ。映画のなかでユージンが言う――写真は撮る者の魂の一部も奪い去る。つまり写真家は無傷ではいられない。撮るからには本気で撮れ。何万 キロも離れた安全地帯で送られてくる記事をコピペするだけでは分からない真実があるんだよ。つまり、ひとを刺せば返り血を浴びる距離、だ。あるいは、保険 の効かないやつの前歯をへしおってやるというような覚悟、だ。表現者は饐えた悪臭を嗅ぎ、酸い血を味わい、痛みに呻かなければならない。「これら写真の中 の人々が私の家族でありえたから・・・・ そして私の娘が、妻が、母が、息子が・・・・ 苦しめられてゆがむ他人種の人々の顔に映し出されるのを見た。生 まれの偶然、故郷の偶然・・・・ 戦争へと至る人間の腐敗のいまいましさよ! 血まみれとなって死にゆく子どもらを我が腕に抱くその一刻一刻、その子の生 命は溢れ出し、私のシャツを通って、燃え上がる憎悪で私の心を焼き尽くした・・・・ あの子は私の子どもだったのだ」 おれはもっと入って行かなくてはい けないなゲートの向こう側権力が剥き出しの棒切れや靴の爪先でおれの白々した骨を蹴り上げる場所まで。この映画で「MINAMATA」は二度目の 「MINAMATA」となった。一度目は1975年、ユージン・スミスとアイリーンによって。そして2021年、ジョニー・デップと監督のアンドルー・レ ヴィタスによって。「MINAMATA」はまだいちども「水俣」にはなっていない。「FUKUSHIMA」がいまだ「福島」にならないように。これは日本 人であるわたしたち全員の恥だろうな。「MINAMATA」は世界へ拡散する、日本の現在のあらゆる恥部へ拡散する。「MINAMATA」が「水俣」にな る日まで。真田広之演じるヤマザキが勝利判決の直後に演説する姿はまるで「太平洋食堂」の大石誠之助のようだった。「この明治42年が此の世の終わりでな い限り、この先も失敗、敗北が繰り返される。だが負けて、負け続けて、いつかは正義が来る。勝てなくても前に進まなくては! ただ、声を上げる、その瞬 間、瞬間にだけは、我々は刹那の勝利を手に入れる、それだけは誇れるはずや」 その瞬間、1973年3月の水俣病第一次訴訟の勝利は1911(明治44) 年の大石誠之助らの死刑執行につながる「無情な時間に抗うように」。1971年、東京の小田急百貨店で催されたユージン・スミスの回顧展のタイトルは Let Truth Be The Prejudice ――真実(Truth)を先入観(Prejudice)としよう、だった。おれは10代のガキの頃からディランのこんな曲の一節が好きだった。But to live outside the law, you must be honest (だが法の外で暮らすには、誠実でなきゃならない)。真実を先入観とするためには、ちっとばかし根性と覚悟が要るってことだ。この映画はそのことについて も語っている。
2021.10.5

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 11 日 12:35 吉野、川上村、上北山、下北山の山あいを抜けて北山村に隣接する瀞峡に着く。住所としては奈良県吉野郡十津川村神下だ。北山の中瀬古から 十津川へ嫁いだおばあちゃんがいたが、北山と十津川が如何に近いかが分かる。「瀞ホテル」は大正6年の創業で、当時は「あづまや」という名で筏師の宿で あった。北山川の筏師たちがここを中継地点として利用した。現在の建物は創業当時のものですでに百年余の歴史を有するが、明治の30年代頃にはすでに「プ レあづまや」というべき建物があったらしいから、明治40年に筏方組合長だった曽祖父の中瀬古為三郎や久保組を率いていた久保八十次郎たちも利用したかも 知れない。名勝「瀞八丁」を臨む渓流の高台にそびえる多層建築は、そのレトロな風合いと相俟ってじつに味わい深い。事前予約の季節のご膳と、自家製ジン ジャーエールを手に見下ろす風景は極上のもので、百年の時間などあっという間に跳び越えてしまう。食後、二階の客室部分や、置いていた筏師の竿などの古い 道具を見せて頂く。四代目オーナーとして閉業していた宿を食堂・喫茶として再生させた東さんは「筏師に関する資料をあつめて、いつか小さな資料館のような ものをつくりたい」と言う。北山の源流で釣りをする東さんは深山の木地師の遺跡なども知っていて、先に出た母と妹を待たせて、ついつい話が盛り上がってし まった。資料交換のためにメルアドを交換した。

 11日 15:00 北山村大沼の法蔵寺にて住職と合流する。40代の若い住職は今回の 投宿先であるおくとろ温泉のある下尾井の見福寺という寺の住職で、下北山から北山にかけてのいくつかの無住の寺を兼務しているそうだ。もともとは下北山が 先代住職の実家であるらしい。プライベート・タイムではポテチをつまみながらプレステでも興じてそうな雰囲気、いや決めつけてはいけない。(他の人と併記 している)過去帳は見せられないのでと、本尊の裏手にならんでいる祖父方の中瀬古、祖母方の久保に関連する位牌を持って来て見てくれるのだが、「昭和3年 9月22日 定蔵父松之助 74才。松之助の父親は定蔵ですかね・・」 「いや違うでしょ。定蔵の父親が松之助ってことじゃないですか」と、少々頼りない 住職なので途中からわたしが位牌を書いた板切れをほとんど奪い取ってしまった。位牌は家ごとなので、次男であった為三郎や八十次郎は分家で、元の本家をた どらなくてはならない。為三郎の父親として除籍謄本に記されている「中瀬古為右衛門」は法蔵寺の位牌には見当たらない。他所へ出ていくときに位牌も持出す と寺には何も残らないという。八十次郎の方では「定蔵」という兄(おそらく長男)がいたことと、父親の「松之助」が昭和3年に74才で亡くなっているこ と、「松之助」の父「九十郎(明治28年死亡)」、母「ヤス(明治41年死亡)」までたどれた。調子に乗って「川邉(熊太郎)」家の位牌も為三郎の妻の実 家だからとかこつけて見せてもらって、筏師の朝鮮出稼ぎの先駆けであった川邉熊太郎が昭和18年まで生きていたことが分かったのも収穫だった。71才の、 当時としては長寿の類であった。中瀬古の本家筋、久保のさらに先祖についてなど、もうすこし調べてみて後日に報せてくれるということになった。五条の柿羊 羹とお布施一万円をお礼に。ちなみに先に北山村役場でお会いした父親の撮った貴重な村の写真を終活で燃やしてしまった村議長・久保ジョンリーはどんぴしゃ の本家筋であることも判明した。

 11日 16:00 中瀬古、久保両家の墓にお参りして線香を手向けてから、しばし母の過去を遡上する 大沼めぐり。母は東京生まれだが、祖母の美譽惠が1944年(昭和19年)11月から始まる東京への空襲を予感して1944年(昭和19年)9月に子ども 二人を連れて実家の北山村へ疎開した。そのまま敗戦を迎え、戦後の生活苦で荷役仕事によって身体を壊して結核になった美譽惠は1950年(昭和25年)に 亡くなった。その後間もなくして東京の父の元へもどった母は、数年間をこの北山村大沼で過ごし地元の小学校へ通ったことになる。集落を見下ろす墓地からそ のまま山の際を移動すると母が祖母、そして久保の曽祖母(祖母の実母)の三人で暮らした高台の平屋の家に出る。その家はいまは大阪の人が買って、ときどき やってきて泊まるという。前庭のこのすみで夜中に祖母が結核の痰を捨てていた、ここにウサギ小屋があった、家の裏にトイレと風呂場の別棟があった、ここは 柿平先生の家だった、たしかこのへんに井戸があって水を汲みに来たんだけれど、などとあるきながらむかしを思い出して説明する。三百メートルもあるけば村 の中心をぬけてしまう小さな集落だが、かつて林業が盛んだった頃は個人商店が立ち並び、映画館もあった。いまは営業している店は農薬や肥料などを置く農協 の支所の他は一軒もない。十年ほど前には営業していた二軒の旅館(北山館と昭和館)も、おくとろ温泉の影響もあっていまは看板だけがひっそりと残っている (後に昭和館から名前を変えて最後まで営業していた東光荘はあの川邉熊太郎の子孫の家だ)。車のある家は片道一時間をかけて熊野市まで買い物へ行き、足の ない高齢者は週に二回来るという移動販売の車を待つ。下のメイン道路の下りてきて、母がかつてあった中瀬古の家を探すが分からない。たまたま家の前に出て いた高齢の女性に「すみませ〜ん」と母が声をかけて走り出した。「主人の方がくわしいから」と家の中からご主人を呼んでくれたその家も中瀬古で、近いつな がりはないようだけれど戦後に小学校へ入学したというその人は母より若干年下で、為三郎の長男の英雄さんちがやっていた店はあそこのいまは駐車場になって いるところですわ。英雄さんとこは塩と煙草の専売で財を成した。むかしはこの道も軽トラックがぎりぎり通れるくらいで、うちの前も畑だった。戦後に道を広 げたんです。村議をやってる久保さんのお父さんがやっていた薬局はむかしはその向かいのあの辺にあった。久保さんのお父さんは女の人がとくに好きでしたな あ。にんまりと笑って、それからは母と小学校の先生の名前などを言い合ってしばらく盛り上がった。物言いのおだやかなご主人で、細君もその横でうれしそう に話を聞いていた。ひっそりとした集落のそちこちに物言わぬたくさんの人影が動き出したかのような時間だった。いろいろな記憶がよみがえってきて、分から なかった記憶ももどって、もう満足した、これで大沼はもういいと母が言うので、ちょうどチェックインの予定時間になってきたおくとろ温泉の宿に向かうこと にした。
2021.10.14

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  幾日も清涼な山の風景を経めぐっていると細胞という細胞の隅々にKumanoが沁みわたってくるような心地がする。熊野とはなにかと問う、その問いによっ て輝くものが真の熊野である。問いがなければ、熊野もない。かつて中上がそう言ったKumanoがウィルスのように身体に侵入して遺伝子の改変を目論む。 書き込まれたものはしかしうしなわれた遠い記憶であった。草いきれ、贖(あがな)い、ねぶるもの、石、くずれおちた皮膚が自明のものに抗いながら悲鳴をあ げる。人跡たえた源流の河原でわたしは後へのこしていく墓石をなんどもふりかえった。家族の待つわが家へ暗い山中の筏みちを急いだ求愛する鹿の声が遠くで 響いた。この世のすべての縁を断ち切って人知れぬかったい道をさすらった。闇夜にのびる巨人のような山の影がわが身におおいかぶさる。岩に南無阿弥陀仏を きざむ。ニューギニアで狂い死にした少年が姉と石堤のみちをあるいてゆく。丸太を鳶口でひきよせる。鷹が旋回している山頂の王者のように。炎のなかで小石 が爆ぜる蒸気があがる飯の匂いとともに。座棺に入れられた祖母の肉体はどのように腐敗していったろうか。百年、三百年、千年、山々の襞で人びとは生き死に を繰り返した。麦が実り蕎麦が実り血が流れ皮膚が破れる。Kumanoはまるで下からの矢のようだ。それによって人はときに命をうしなうが再生もする。古 来、死んだ人の魂魄は山へのぼった。黄泉還りという魂もある。
2021.10.14

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  季節が一気に冷え込んできたことなどもあって、まるで炬燵の中の猫のように家から出る気がしない。今日は一日、大石誠之助全集をめくって過ごした。つまり わたしは百年前の新宮の町に寝そべっていた。明治40年の「牟婁新報」に禄亭生の名で載せた新宮便りに、こんな一節を見つけた。「鴨緑江で虐待せられて来 た筏人夫に聞くと随分ミヂメな話がある。然るに又もや第二回の募集をやらんと此辺へ入込んで来た人喰族がある」  末端の筏師には紡績女工のような待遇も あったかとも思う。誠之助が話した筏師は果たして十津川であったか、北山であったか、あれこれ空想すると面白い。

 新宮のK氏が送ってく れた「「大逆事件」と熊野新宮の犠牲者たち ―大石誠之助の名誉市民実現まで」(辻本雄一・人権ブックレット16)を読了する。併せて久しぶりに田中伸尚 氏の「大逆事件 死と生の群像」(岩波書店)などもところどころ読み返す。請川の墓を参った成石兄弟についてもう少し知りたい。筏師だったという平四郎に ついて興味がある。

 Web上にわたしが公開している「月ヶ瀬事件」の文章を読んで以前にメールのやりとりをした方が、出身地である奈良 県内の某同和地区の歴史をつづった冊子を部落解放同盟の支部として編んだので進呈してくれると言っていた、その最終校正のコピーが封書にて届いた。県内の もうひとつの紡績工場の女工供養碑がある共同墓地にも近い集落だ。集落の菩提寺に20代の若き西光万吉が描いた菩提樹の下の釈迦像や龍の壁画や天井画が残 されているという、それをいちど見てみたい。おもしろいもので、いろんなものから呼ばれているようにも思う。そしていまがいったい、いつの時代なのかも朧 になってくる。
2021.10.19

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  選挙なるものがはじまり、こころに響かぬことばがやたらとかまびすしい。成長、経済回復、所得倍増、相変わらずの馬の鼻面の人参しかぶら下がっていない よ。もういい加減賞味期限も切れて久しいだろうし、壊れかけたこの惑星でほんとうに必要なのはそんなことばじゃあないだろう。だれかこのイカレた世界の呪 いを解く呪文のことばを知らないか。1906(明治39)年に大石誠之助が記した「貧者の心得」(「家庭雑誌」第四巻第五号)がおもしろい。▼第一、貧者 は貧乏の真相を表白し、其悲惨なる状態を富者に見せ附けるべく勉めねばならぬ。 だれだってみずからの窮状を他人に見せることは憚られるし、痩せ我慢や見 栄を張って隠そうとするものだけれど、「けれ共自分と同じ境遇にあるものの覚醒を促す為にも、又横暴なる富者の反省を求むる為にも」「多少の恥を忍んでも 之を開放して見せると言ふ事は、寧ろ貧民の義務で」ある。 ▼第二、貧者は富者から施しを受ける事を当然と思ふべきである。 貧富の差がこれほど甚だしく なった世にあって、貧しいものが自力で生存することは到底難しく、施しを受けるのは当然の権利である。「実際に於て労働の権利を奪はれたる失業者に対し、 職分論が何の効能があらう。生産の機関を有せざる職工にとり、自助論が何の助けとならう。又空腹に迫りたる労働者に向つて勤倹が何等の利益を与へるであら うか。畢竟、独立とか自営と言ふが如きは、今日の世に於て一種の特権を享け得たものが実行し能ふ事であって、多数の貧者は是非とも他人に依頼して、其助け を受くる事を勉むべきである」 「然るに今日の世間を見渡して余が最も不思議に思ふは、他人より物を貰い又施しを受けつつあるは最も下層の貧民ではなく、 却って中流以上に位する一種の人間なる事である」  ▼第三、貧者は借りたものを必ずしも返すに及ばぬと言ふ事を考へねばならぬ。  貧者は案外と潔白で 金持ちなんぞより遥かに律儀なのであって、みずからの負債を罪悪に感じて「三度の食事を二度に減じても二枚の着物を一枚脱ぎても、甚だしきは自分の子女を 売つてでも」それをかえそうとするが、われわれは「唯食ふ事の出来ぬものに返させやうとするの無理なるを信じ、之を強んとする残酷なる法律と詐偽なる道徳 には厭くまでも反対するものである」 「元来労働者の御蔭で金持になりそれを出し惜しみするものの方が、どの位厚顔しいか知れぬのである。要するに貧者は 自分の悲惨なる状態を遠慮なく世間へ見せつけ、富者より貰へるだけ貰ひ、借りれるだけ借りて、到底貧乏人と言ふものは厄介なもの、貧者と言ふ階級を此社会 に存して置く事は人間全体の不利益であると言ふ事を知らしめるのが肝要であらうと思ふ」   百年の文明の進歩はいったいどこへ行ったやら、二〇二一年の 現在にあってなお誠之助の「貧者の心得」の毒は強烈だ。かつて作曲家の武満徹はエッセイで<幸福な新しき耳(A Happy New Ear)>のことを記したが、政治というものは本来、そのような<幸福な新しき耳(A Happy New Ear)>がもたらす<新しきことば>で世界を語るものではなかったか。かまびすしい心無いことばの氾濫から見えてくるのは旧態依然の うすら寒い風景ばかりだ。ああ、願わくば大逆無道の誠之助を現代に蘇らせ、<新しきことば>をこの末法の世に語らせよ。
2021.10.20

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  夕食後にたまたまつれあいが見ていたNHK-BSの食糧危機の番組を途中からいっしょに見た。明るい未来。じきに地球資源の枯渇が一般の人びとに迫るが、 世界の一部の富裕層はもう何年かは無関心でいられる。生きていれば飯も喰うし、電気や水道も使う。午前中、銀行へ行って来たつれあいがわたしの書斎の机 に、明日福山さんちへ持って行くお米代とわたしの小遣いを置いていた。千円札が5枚。働いているときは月2万円の小遣いだった。でも半分は昼食代に消える し、仕事であちこち歩きまわっているとときにコーヒーを飲んだり間食をしたりするし、現場へ行けば差し入れなどもするから、残るのはたぶん千円札が5枚く らいだったんじゃないか。有給休暇を消化しているときは給与はそのまんま入っていたけれど、いつもどおり2万円をくれようとしたつれあいに「半分だけも らっておくよ」と答えた。有休消化期間も終えて、しばらく小遣いはなしでいいと言っていたのだが、つれあいは5千円を置いていった。小遣いの他にどうせあ とで明細が来たらバレるのだけどクレジットカード決済でのネットショッピングという手口があった。いつもいちばん多いのは書籍で、ときどき音楽CDやアウ トドア用品など。これまではちょっと興味のある本があったらすぐにポチっていたのだが、なるべく図書館で取り寄せを依頼するようになった。かなり惹かれる ものは、熟考して、いったん諦める。どうせ買って読んでいない本がまだたっぷりあるのだ。ネットで余計なものを買わなくなった。いや余計ではないのだけれ ど、ないと支障があるかと言われたら支障はほとんどない。時間はあるので、こわれたものを直したり、他のもので代用しようと手だてを考える。これまで買っ ていた加工品をなるべくじぶんでもつくれないかと試してみる。じぶんでつくった方が安上がりだし、安全だ。わが家は台所のごみは刻んで庭の自作コンポスト に入れるので生ごみはほとんど出さない。じきに土中の微生物が分解してくれるので、ときどき肥料として庭木に撒いて、また新しい黒土を入れる。そういうの が、いちばんいいな。庭のガーデンハウスもつくったから、時間をかければ家だって建てられるだろう。たぶん生涯ローンを組む既成住宅より丈夫なはずだ。そ んなふうにとり戻すものがあるはずだ。だから月5千円でも充分すぎるくらいだよ。
2021.10.20

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  チェホフの短編「学生」の主人公は夕闇に包まれたロシアの田舎で焚き火を囲んでいる母と娘の二人の女にペテロが三度イエスを知らないといいきったときの話 を聞かせている。「ちょうどこんなふうな寒い晩に、使徒ペテロも火にあたっていたんだろうね」と語り始めた学生の話が終わると女の頬にとめどなく大粒の涙 が伝って落ちた。

  彼は振り返ってみた。ワシリーナ(母)があんなふうに泣き出し、娘がどぎまぎしたところを見ると、たったいま自分が話して聞かせた、1900年むかしに あったことが、現代の―――この二人の女に、そしてたぶんこの荒涼とした村に、彼自身に、すべての人に、なんらかのかかわりがあるのは明らかだった。老婆 が泣き出したのは、彼の話しぶりが感動的だったからではなくて、ペテロが彼女に身近なものだったからだろう。彼女がペテロの心に起きたことに身も心も引か れたからだろう。
  すると喜びが急に胸に込み上げてきたので、彼は息をつくためにしばらく立ち止まったくらいだった。過去は、と彼は考えた。次から次へと流れ出る事件のまぎ れもない連鎖によって現在と結ばれている、と。そして彼には、自分はたった今その鎖の両端を見たのだ。一方の端に触れたら他の端が揺らいだのだ、という気 がした。

 2019年12月に新宮で上演された「ドクトルとえい」の舞台を頂いたディスクで見た。新宮高校演 劇部OBたちによる市民劇団ワカイミソラが「太平洋食堂」の嶽本あゆ美氏に原案脚本を依頼したものだ。これも「太平洋食堂」が蒔いた種のいくつかなのだろ う。ドクトルは大石誠之助で、えいはその妻。誠之助は44歳で国家によって縊られ、えいはその後新宮をはなれ東京でクリスチャンとして69歳まで生きた。 「ドクトルとえい」はその夫婦の愉し気な日常を、嶽本氏が新宮の図書館で見つけた大石家の女中だった老婆の聞き取り資料などから描いた。百年前に生きてい た人びとが、たんなる文字や記録としてでなく肉付けされてこうして新宮の人々によって演じられる。「医者のことをドクトルと言うんや! 患者の毒をとるか らドクトルとも言うんや! 何も悪いことはしてないんや、悪いことをするような人間やないんや! お金のない人から診療費や薬代をとらなんだんや! 立派 な人なんや! 情歌を読んだが、優しい人なんや! でも、あの事件の後、新宮の人は掌返して残された家族に石をぶつけたりして、とんでもない事をして、残 された家族は辛い思いをしたんや! よう覚えとけよ、立派な人間なんや」 誠之助を演じた川口氏は子どもの頃、父親が晩酌の席でなんどもくりかえした言葉 を伝えている。「ドクトルとえい」はそんな新宮の人々の鬱勃たる思いの結実である。人の思いは百年でも千年でも人によってつたわる。歴史ということを考え るとき、わたしはこの頃いつも、前述のチェホフの小説のことを思い出す。「過去は、次から次へと流れ出る事件のまぎれもない連鎖によって現在と結ばれてい る」  寒い晩に焚き火にあたっていた女が1900年前のペテロを再体験してなみだをながす。それをキリスト教では「回心」(conversion)とい う。en emoi である(ギリシャ語で「わたしの内に」を意味する。「もはやわたしが生きているのではなく、キリストがわたしの内に生きている(ガラテヤ2・20)」)。 一方の端に触れたら、他方の端がゆらぐ。ゆらぐのは一方の端のわたしである。ゆらぐためにもう一方の端の過去に触れる。「ドクトルとえい」を見たわたし は、そのゆらぎをたしかに感じたよ。
2021.10.26

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  「1973年9月11日、チリ・軍事クーデター。世界で初めて選挙によって選出されたサルバドール・アジェンデの社会主義政権を、米国CIAの支援のも と、アウグスト・ピノチェトの指揮する軍部が武力で覆した。ピノチェト政権は左派をねこそぎ投獄し、3000人を超える市民が虐殺された。

クー デターがもたらしたものはそれだけではない。ピノチェトは世界で初めて、新自由主義に基づく経済の自由化を推し進めた。米経済学者のミルトン・フリードマ ンを中心に形成されたシカゴ学派の学者たち――いわゆる「シカゴボーイズ」が招かれ、経済政策の顧問団を形成した。新自由主義は、芸術、文化、健康、教育 すべてにおいて利益を追求すべきという利益最優先の価値観を人々にもたらした。結果、チリ社会は国民の間に激しい格差を生み、主要産業である銅の採掘は今 やほとんどを多国籍企業が担っている」

  亡命者であるパトリシオ・グスマン監督の「夢のアンデス」を烏丸御池のアップリンク京都のミニシアターで見た。冒頭、世界最長という美しいアンデス山脈が 延々と映し出される。ある人はそれをサンティアゴを世界から隔離する壁だと言い、またある人はサ ンティアゴを包み込んでくれる海のような存在だと言う。悠久のアンデスを映していたカメラはやがて岩々の割れ目、そこから噴き出すまっくろな噴煙に呑み込 まれていく。無防備な市民を軍隊が蹴散らし、放水し、弾を放ち、殴り、引きずり、家畜のように車両へ押し込めてどこかへ連れて行く。いまもこの世界のあち こちで続いている光景だ。なぜ、かれらは圧倒的な武器/暴力を所有しているのか。それがなければ、やつらの手からすべての武器をとりあげられたら、ただの 心をなくした、「地球を、芥垢と、饒舌でかきまはしている」(金子光晴)息の臭えあわれなおっとせいにすぎないのに。あの無慈悲で圧倒的な暴力が憎い。い ろいろなことをかんがえた。いろいろなことをかんがえさせる映画だった。死ぬことについて、生きのびることについて、暗喩や象徴、真実を写し出す手法につ いて、自然について。公式サイトのディレクターズ・ノートで監督は記している。「私の主題の中心であるこの巨大な山脈は、全てが失われたと思うとき、私に とっては不変のもの、私たちが残したもの、共に存在しているもののメタファー(隠喩)であったのです。コルディレラに飛び込むことで、私は自分の記憶にダ イブします。険しい山頂を入念に調べ、深い谷に踏み込む時、おそらく私は、私のチリの魂の秘密を部分的に垣間見る内省的な旅を始めるのです」  すべてを うしなったあとに、のこるものは何だろうか。人が人として回復するよすがになるものは? 落ちていくときに、じぶんといっしょに落ちているものにしがみつ いても何もならない。画面はふたたびアンデスの山脈へと還っていく。これはチリの歴史や文化だけの作品ではない。人間、宇宙、そして自然。大地は記憶を もっている。岩々の深い裂け目にうしなわれた魂の慟哭をたたえている。にんげんが取り戻しにくるのを待っている。「ずっと気づかなかったが、山々は歴史の 目撃者だ。 / サンティアゴの町で、人々は進むべき道を失っている。孤独と共にさまよっている。 / 山々の岩が話す言葉を理解できれば、失われた答え が分かるだろう」

2021.10.28

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  民主主義というものは倫理や他者への思いやりが抜け落ちてしまったら機能しないといったことをあるFB友の人が記していたが、まさにそういう選挙であっ た。憲法も三権分立も原発も人権もカネも殺人もレイプもなんでもよい、とりあえずはいまのじぶんの身のまわりが確保されればそれでよいというのが戦後三番目という今回の 投票率の低さであり、政治家以前にこの国のあらゆるものがまるで安メッキのようにばらばらと剥がれ落ちて胡麻化してきたもの対決をしてこなかったものたち がその醜い姿のまま剥き出しとなってよりいっそう堪えがたい饐えた悪臭を放っているがファブリーズでも散布しておけばいいのだろうさ。あれだけの悪政や失 態を繰り返してなおも居直る自公は「絶対安定多数」を確保した。甘利とツーショット写真を撮ってむかしのことは知りませんけどとはしゃいでいる馬鹿女がテ レビに映るのもさもありなんだ。従来の野党がわずかな不満票の受け皿にすらなれなかったのはチンピラ維新の「言葉」があたらしく聞こえたからで(あくまで 聞こえるだけだが、聞こえないよりはマシかも知れない)、そういう意味では相変わらず旧態依然の自公も野党もどいつもこいつも言葉が錆びつき配る広報紙も 賞味期限がとっくに過ぎているのにそんな自覚は毫もない。「野党共闘も一定の成果はあった」なんてこの期に及んで可笑しくてヘソで茶が沸くぜ。墓場の死者 がダンス・パーティーへ出かけようとしているような滑稽さで、すでに土中で蛆が湧いているおのれの姿を直視するがいい。奇しくもこの民主主義の終焉を 飾る歴史的な開票作業が始まるおなじ頃にこの国の首都の地下鉄でジョーカー扮する殺人鬼が見知らぬ者を刺し車内に火をつけて煙草を一服ふかしていたのは象 徴的だと思わないか。エンデさんがかつて言っていた、「狂ってしまった世界では、狂った反応をする人のほうが、いわゆるただしい反応をする人より多くなり ますよ」(『三つの鏡』)。この国の政治的状況がもしまともになる日が来るとしたら、それこそ明治を遡上する百年か百五十年は優にかかると思っておいた方 がよいそれほど根は深い。昨日はヤフオクで落札して届いたビクトル・ハラの訳詞付きCDを朝からずっと聴いて過ごした。そして夜中に愛おしい息子と娘を国 家警察の拷問室から救うためにチリの大聖堂前で焼身自殺した一人の貧しい炭鉱夫のことを考えた。一見明るく豊かそうに見えるけれどこの国はピノチェト独裁 下の戒厳令下と空気は似ているかも知れないな。そして心あるわずかな人たちはみな変装して息をつめて祖国へ侵入しさすらっている亡命者たちだ。「夜明け」 は近くないし、呼びかける「友」もいない。一人ひとりが深く潜行してやれることをやり続けるしかない。「共闘」なんてマボロシだよいまは。安直な希望より暗澹たる覚悟を語るべきときだ。
2021.11.1

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  昭和43年の大和郡山の古い町並みが残っている貴重なゼンリン住宅地図をコピーしに行った県立図書館で下北山村の村史も見つけて、これ幸いと筏関連の資料 をいろいろ拾い出していたら「人の動き・物の動き」なる一章があって、これがなかなかに面白い。前半は「道」に関すること。いまはさびれてしまった峠や街 道、生活道の由来が詳しく描かれ、地元を知る人にとっては懐かしいだろう。その道を多くの人や物が往来した。後半はその道をとおって外部からやってきたさ まざまな人々について記した「村を訪れる人々」。反物や小間物、薬、魚、昆布、漆器などを売りあるく行商人(アキナイド)。それらの者たちがやがて村に住 みついて始めた店屋(ミセ)や宿屋、料理屋。そして大工、鍛冶屋、桶屋、籠屋、畳屋、ワタウチ、紺屋(コウヤ)、鋳掛(イカケ)屋、ブリキ屋、コウモリ (蝙蝠傘)ナオシ、時計修理屋などの職人たちが定期的にやってきて「村の不便を補ってくれた」。わたしがとくに心寄せるのはつづいて「遊行人たち」と題さ れた多種多様な人々たちの痕跡だ。すこし詳しく紹介したい。  ▲キジヤ(木地屋)・・「村内各地の奥山にかなりの数の木地屋がいて、お椀の木地や杓子を 作っていたことが判っているのに、村人の記憶には不思議なくらい残っていない」 「旧五郷村の桃崎の先の寺谷には60年ほど前まで木地屋がいて、椀や盆な どを刳って漆をかけ、親爺や女房のダイアシ(片足がうんと太ったのでこう呼んだ)や息子が小口あたりまで売りに来たという」  ▲ヘンロ(遍路)・・「西 国三十三か所参りのお遍路さんも昔はよく通って、泊めればのどに骨が刺さった時のまじないや歯痛止のまじない、メチリ(目に塵が入ること)のまじないなど を教えてくれる人もいた」  ▲ロクブ(六部)・・「廻国六十六部の略で、諸国の霊地をめぐる行者のことである。男女を問わず笈を負い、前に箱を吊り、大 きなまんじゅう笠をかむってよくやって来た。笠のふちに何か書いた紙片をずらりと下げ、鉦をちんちん叩いてかどに立ち、金を出せば笠につけた紙(お札)を 一枚とって呉れた。中にはなかなかの学者もいた」  ▲アワシマ(淡島)サン・・「お厨子を後向けにセタロウてやって来て、かどに立って何か唱えて直ぐに 背を向けた。頼んだ人の頭痛や悩み事など紙に書いて、負うたお厨子の中やめぐりにべたべた貼り下げていた」  ▲イナリサン・ミコサゲ・・「稲荷様の御祈 祷や口寄せをする人たちで、これもちょいちょいやって来た。下北山に稲荷様の祠が多いのもこの人たちの活動によるのかも知れない」  ▲シシマイ(獅子舞 い)・・「いわゆる大神楽で、時々やって来ては村を賑わせた。お祓いをしてもらった」  ▲デコマワシ・・「エベッサマのデコ(デク=木偶)をきれいに 飾って、わらで作った小さなわらじをはかせて「エベス三郎舞い込んだ。長命する、繁盛する」などと節面白く舞わせて軒並みにカドヅケして廻った。山村の新 春には無くてはならぬ風物であった」  ▲エンコマワシ(猿廻し)・・「エンコは猿の忌み名である。これも主に正月時分に風呂敷包みを背負って、その上に エンコをちょんとのせて、家に前に来るとエンコがちょいと座敷へ跳んで、立って歩いて一寸踊ったりお辞儀をしたりして、米なり銭なり貰って行った。中には 大きな犬の背にエンコを乗せて来る者もいた」  ▲サエモン(祭文)・・「行者(山伏)さんのような恰好で、裾をしぼったカルサンをはき、錫杖をつき、法 螺貝を持っていた。中には親娘連れらしく二人とも同じみなりで、若い娘が「デデレン デデレン」と囃子を入れて、クドキ(口説)のような文句を唱えてカド ヅケをし、夜は民家に泊まって人を集めてやったりもした」  ▲チョンガレブシ・・「サエモンとよく似た姿で錫杖を持ってやってきた。ほとんどがカドヅケ ばかりだった。これも祭文と同系統で浪花節の前身である」  ▲マンザイ(万歳)・・正月頃派手な格好をして二人で賑やかに騒いで米銭を貰っていった。 「三河万歳」といった」  ▲ノゾキ・・「小さな穴から覗いて次々と変わる画面を楽しむ、いわゆる「のぞきからくり」で、紙芝居の前身といえよう。「八百 屋お七」や「金色夜叉」のような物語や「地獄極楽」といった仏教の教えなど、さまざまの芸題をもって、池峰の祭りにやって来た」  ▲カメツリ・・「どこ の者とも判らないが、昔は毎年幾組もやって来た。ヒトリボシ(独り者)もいたが、たいがいは女房子連れだった。カメツリの語源は判らないが、しまいにはウ ナギツリともいった。春になって一寸ぬくもって来ると「もうカメツリや来た」などと言って見ていた。テンマク(天幕)を川原に張って付近を転々し、主にウ ナギを目当てに、ガブやギンタ(ハヤ)を餌にナゲヅリし、また網でアメ(アメノウオ)やウグイを捕って、捕った魚は女房や売子がダンナシや宿屋などへ売り に来た。よう魚を捕らん家へばかり来たから結構捌けた。魚を米や物品と取り換えることもあれば、お金を貰って行くこともあった。子供が生まれると川原に大 きい穴を掘ってその中で焚火をし、そのあとへ水を入れて沸かしたり、岩のクボケ(窪み)に湯をとったりしてユアミさせた。余計捕れる所では半月も一月も、 長い人は三か月もいて、大川や小川を渡り歩いたが、冬はウナギが捕れないので、カンゴ(籠)を作って売りに来た」  ▲コジキ・・「コジキは年中やって来 た。二・三人連れ立って、あるいは一家揃って来た者もいた。天幕は持たず、川原の岩陰や大きな木の根株の下などにヒソンで着のみ着のままで幾晩も明かす者 もいたが、よく泊めてやったり食べさせてやったりした。おかしげなお椀を持って、オカイ(お粥)を呉れとか味噌を呉れとかいってかどに立った。米などやれ ば川原で炊いて食べた。子供の頃ロウニンボウズという人がよく来たが、これもコジキの親方だった。「こっちも辛いが向こうも辛いんで、ワガ(自分)のをヘ シ(減らし)てでも恵んでやった」と大里の福本老人は語っていた」  ▲クロクワ(黒鍬師)・・「屋敷や道路を・田などの石垣を築く専門の職人をこう呼 び、新田をホル(開墾する)時やトンネルを掘る時などにも頼んで来た。中には松葉垣内の先の小堤橋の袂に住み着いて、ヤマト言葉の美しい女房と一緒に七色 から帰る池原の筏の衆など相手にしばらく茶店をやった人もある」  奈良の都心部からでも車で三時間近く、車やトンネルなどなかったかつては徒歩で何日もか かっただろう平家落武者の里ともいわれたような山深い秘境の村でも、これだけ多くのさまざまな人々が四季を通じて往来し村人たちと交流していたことに驚 く。かつて子どもたちで賑わった駄菓子屋ひとつさえ洒落たショッピングモール内の明るいニセモノとして定着した現代にあって、十把ひとからげにできないこ れらホンモノの存在が写し出す多種多様な陰影の深さはどうだろう。「こっちも辛いが向こうも辛いんで」と言いながら外部からのまれびとを受け入れる村人た ち。もちろん、抜き差しならぬときもあっただろう。下北山村には「六部の墓」や「木地師の墓」、七人の侍が埋まっている「七人塚」、「落人墓」などが散在 していると伝わる。昔話では泊めてやった六部の財産目当てにこれを殺して埋めたなどの伝承が伝わる地域もある。それらを踏まえた上でなお、わたしはこの山 深い里の光景を豊かなものだと思い、抜き差しならぬひとの交わりもまた豊かであったと思うのだ。かつて20代の頃、道を見失って実家にこもり毎日ひと気の ない北関東の里山を徘徊し夕暮れに川原で焚火の暗い炎を見詰めながら、叢の奥から前述したカメツリ(いわゆる山窩の類だろう)の少女が現れてじぶんを平地 とは異なる山の民の世界へ誘(いざな)ってくれないかと夢想したものだった。その気持ちはいまも変わらない。この下北山村史が伝えるほんの50年前100年前の風景 は、わたしにとってまるでデジャヴュのようなどこか懐かしい風景だ。うしなわれた風景の痕跡をたどるように名も残さず消えて行ったかれらの影を訪ねてみたい。そこではわたしの魂は自然に呼吸ができる。
2021.11.3

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  数日前の夜半に夢を見て、それは書きとめておかなければいけない夢だと思って夢のなかでなんども反芻しているうちに目が覚めた。老婆がひとり、秋の田の畔 道を墓参へいく。生きることは<実(じつ)>を憧憬することだ。老婆にとって墓参は<実(じつ)>である。墓参をやめたとき、老 婆は<全き実(じつ)>へ還っていった。寝ぼけ眼で憚りに降りてきたついでに書斎の机の上の紙切れに書き殴ったのがそれだ。その下に「溶岩」 とだけ記してあるが、何のことかいまとなってはもう判らない。「死者をして語らしめる」ということを文化人類学者の波平恵美子が書いている。「では、「死 者の言葉」が語られ、それが生きている人間に対して何らかの力を持つことはシャーマニズムの信仰体系を持つ文化においてだけなのだろうか。そうではない。 シャーマンの口を通して語られなくても、生者が死者の立場を代弁したり、あるいは、死んでいった者が生者に語った言葉を「死者の言葉」として生者が「語り 直す」場合には、それはシャーマニズムと同じように、「死者をして語らしめる」ことだと考えられる」(波平恵美子編「伝説が生れるとき 死者の語る物語」 (福武書店)  勝俣鎮夫は「日本人の死骸観念」(「生と死 2  東京大学教養講座10」東京大学出版会)のなかで、鎌倉時代に殺された者の遺族が加害者の引き渡しを要求して受け入れられなかった場合、死んだ者の遺骸 をかついで加害者のところへ運ぼうとした例をあげている。つまり「死骸が力を持つこと、意志を持つこと、その意志は尊重されるべきことという観念が読み取 れるという」(前掲「伝説が生れるとき」)。秋の田の畦道をいく老婆は死者の意志を尊重しているのであり、そこへ到達せんと願うことが彼女の<実 (じつ)>であった。歴史をひもとくとき、わたしたちは知らず死者の言葉を聞こうとしている。残されたわずかな手がかり、地にのこされた気配、埋も れている石くれなどから「死者をして語らしめ」ようと身もだえする。死者は確定している。わたしたちは生きている限り永遠の未完成である。不確定なわたし たちは死者の確定に永遠に憧れ続けるのかも知れない。夢のなかで秋の田の畦道をひとりいく老婆はなんどでも死者を語り直そうとしている。死者の言葉に近づこうとしている。
2021.11.7

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  気がつけばもう10年くらい墓参りもしていないが、ときどき父親のことを思い出す。30年以上も会わずにいると人は、かつては当たり前だったいろんなこと を忘れてしまう。かれとの最後の会話はかれが馬鹿どもの暴走車にぶつけられて死ぬ前日の夕飯の席でのことだ。「そうだよな、ヨウスケ」と向けられた言葉に 思春期のわたしはぶっきらぼうに「知らねえよ」とだけ答えた、それが最後の会話だった。ひとはいつも間に合わない。ひとはいつもそれが最後だとは思わな い。でもどの瞬間も永遠の最後になり得る。それからあの世へいったかれはわたしの夢に出てくるようになった。かれとよく登りに行った丹沢の山道のくぼみに かれはしずかに横たわり、その上に無数の枯葉がまるで黄金のようにしずかに降り積もった。もうあんたのことはいまではときどきしか思い出さない。でもおれ のなかのあちこちにあんたの切れ端がいまもたしかに生きてうごいていることをおれははっきりと感じているよ。そしておれはあんたが行けなかったところへ、 あんたをいっしょに連れていってやろうと思っている。
2021.11.8

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  名阪国道・天理インターの北東に位置する白川ダムは堤高30m、堤体長516m、総貯水容量1,560,000立法mは25mプールにすればおよそ5千杯 分の水となる。広々とした風景のなかに多目的のグラウンドや公園設備も併設され、釣り人も多く、ダムのぐるりをウォーキングやランニングする人もよく見か ける。このあたり古代は和爾氏の勢力範囲で、周辺には和邇下神社にはじまり櫟本高塚遺跡、東大寺山古墳、赤土山古墳などがならび、ダムによっていくつかの 遺跡が破壊・水没した。平成になってあらたに洪水調整のために堤体を嵩上げして改築しているが、元の白川溜池の築造がはじまったのは1926(昭和1)年 11月である。もともと降水量の少ない奈良盆地に於ては近世及び明治期に条里地割に規制された底の浅い「皿池」が数多くつくられていたが(伊藤寿和「奈良 盆地における灌漑用溜池の築造年代と築造主体」)、1924(大正13)年の旱魃が契機となり、「櫟本町及治道村面積約511町歩ノ被害ヲ救済スル為、一 大貯水池ヲ築造ス議」が起った。この白川溜池の築造史を、川瀬俊治「もうひとつの現代史序説 朝鮮人労働者と「大日本帝国」」(以下、注記のない無い引用 はすべて)などをテキストとして読み解いていくと、この国の忘れ去られたもうひとつの歴史が見えてくる。

 川瀬によれば、「一大貯水池」 の築造は当時の小作争議対策もあったという。1873(明治6)年に明治政府が定めた地租改正による高率な税収は富国強兵を推し進める後発資本主義国・日 本の国家財政の主たる柱であり、農家の多大な犠牲の上に成り立っていた。小作争議が多発し、1877(明治10)年に政府は地租率を3/100から 2.5/100に減ずる詔書を発して抗議を回避しようとしたが、「やがては「小作争議調停法」の制定などにより国権による小作争議の取り締まり、つまり地 主と国家権力とぼ結合がはかられることに」なった。白川溜池築造の4年前、社会運動の高揚が見られた1922(大正11)年は小作側の攻勢のピークであっ た。7月に日本共産党が創立され、東京や関西で朝鮮人労働協会が結成、ソウルでも朝鮮労働連盟会が結成され日朝労働者の共同前線が謳われた。また同年は全 国水平社が創立された年でもある。このような時代のなかで「地主側は旱魃に対処できる水源を確保し安定した収穫をえることが必要だった」。そして白川溜池 の築造がはじまる1926(昭和1)年頃は小作人側が守勢に回ることになったターニングポイントであった、と川瀬は言う。1925(大正14)年の「治安 維持法」施行などによる国家権力の弾圧がはじまり、地主側がこうした権力を背景にして法廷戦に入り、農民組合運動も分裂を強いられたからである。やがて 1937(昭和12)年以降は、「日中戦争に突入し、地主も小作人も挙国一致体制のもと」戦争へと突き進んでいく。

 時代をすこしだけ遡 ろう。1910(明治43)年は朝鮮併合である。その翌年の1911(明治44)年は大逆事件のでっち上げによって幸徳秋水、大石誠之助ら11名が死刑に されている。「併合」に於ける日本の金融・財政、鉄道、土地支配によって暮らしを奪われた朝鮮半島の人々が生きるために日本国内へと流れてくる。内務省警 保局「社会運動の状況」によれば1910(明治43)年には全国で2,246人しかいなかった在日朝鮮人は1920年代頃から増えはじめ、白川溜池築造の 1926(昭和1)年には148,011人となっている(奈良県内は1,479人)。多くは貧しい小作農たちであったから、「朝鮮人の(日本での)就労は 「低賃金」「長時間労働」「日本人の最も嫌がる仕事」という条件にもかかわらず、己れの労働力を売るという最も追いつめられたかたちで臨時雇い的な仕事」 とならざるを得なかった。現代のこの国の非正規労働者の担う雇用の調整弁ともいえるかも知れない。その底辺就労のなかでも当時の在日朝鮮人の人々が担って きた代表的な現場は土木工事、とくにダム、鉄道(トンネル)、溜池工事であった。大正から昭和初期の古い新聞紙面をめくると、ほぼ毎月のようにそうした土 木工事での事故が報じられていて、そこで死亡したり重傷になっているのはほとんどが朝鮮人である。奈良県内の主だった現場でいえば、山間部での電力会社の 工事(吉野町・下北山村)、大軌(現在の近鉄)による生駒沿線の宅地開発と奈良=大阪間の生駒トンネル工事、亀ノ瀬の地滑りによる大和側復旧工事などがあ り、そのどれも多数の朝鮮人死者が出ている。

 これら「産業予備軍的な雇用調整をまともに受ける朝鮮人労働者」は小作争議対策にも雇われ た。たとえば先の旱魃被害の救済として名が上がっている治道村(現大和郡山市)ではまさに1924(大正13)年の旱魃を背景に小作争議が起こり、最終的 に地主側は80余人の小作人に代わって朝鮮人労働者を使って収穫作業に入ったため、小作人側は従来通りの条件を泣く泣く呑んでいる。白川溜池では当初地元 の連合会が「人夫ノ徴傭ニハ出来得ル限リ灌漑区域農民中ヨリ採用スベキ方針」(白川溜池耕地整理組合連合会「白川溜池築造史」)として、1927(昭和 2)年1月に応募した朝鮮人労働者15人に対して関係町村でないと雇用を拒否したものの、その後「所要ノ人夫徴達困難ナル事情アリ」という事態に直面し、 朝鮮人人夫50名を常雇いすることで解決を図った。森元文子「1920年代における地主小作関係の一考察 奈良県旧添上郡治道村の事例」は、「農民救済と いう名目で人夫1円30銭という、当時の奈良県平均賃金より二割低い賃金で徴用された小作人たち」から改善要求や何らかの反抗的姿勢があったためではない かと推測し、最終的に「このような朝鮮人人夫の雇入れは、小作争議における地主側の対応策と同じであるということに注目しておきたい」と記している。

  そうして進められた白川溜池の築造工事は1933(昭和8)年に完成する。ちなみに大阪の和泉市にある光明池の築造工事は白川溜池が完成する2年前の 1931(昭和6)年よりはじまった(1936(昭和11)年に完成)。この広大な人工池も現在は雑木林に囲まれた風光明媚な散策路として人々の憩いの場 所になっているが、「和泉市における在日朝鮮人の歴史を知る会」の調査などによって工事中、トロッコに撥ねられたり、山を崩す発破作業で暴発したり土砂の 下敷きになったりして少なくない朝鮮人労働者が亡くなっていることが分かって来た。現在、池の西側に慰霊碑がひっそりと建っているが、白川溜池ではそうし た事故はなかったのだろうかと、わたしは不審に思っている。現在の白川ダムにはダム管理センターのさらに奥に位置する連合会事務所の敷地内に溜池築造を顕 彰する祈念碑が建っているが、慰霊碑の類はどこにもない。そして前掲の208頁にわたる立派な装丁の「白川溜池築造史」や、「ふるさとの水がめ白川溜池  通水50周年記念誌」の小冊子なども図書館で見つけてすべて目を通したが、地元の人々も加わり、賃金等の労働条件も改善され、みんなで誇らしく作業に従事 した等々の記述はあるものの、大勢が従事した在日朝鮮人の労働者のことは一文字も書かれていない。「白川溜池築造史」の装丁が立派であればあるほど、その 沈黙は冷酷に思える。

 一人で、ときには飼犬を連れて、池のぐるりをあるく。ゆっくりと一周して40分くらいだろうか。いまごろの季節は 池のはたに堆積した落葉の色彩が美しい。空が広く、空気が澄んでいて、まわりの樹木の呼吸さえ見えるようだ。けれども90年ほど前にここで、日本の侵略に よって古里を追われ生きるために流れ着いた異郷の地で過酷な条件のもと、汗水を流しあるいは命さえ落としたかも知れない人々がいた。かれらがここをつくっ た、日本中のあちこちで。溜池を、ダムを、鉄道のトンネルを、国道を、水力発電所を、山を崩した宅地を。そのことを記憶するかどうかは、わたしたちひとり ひとりの手の内にある。わたしは、忘れない。
2021.11.13

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  相可様

  「「ヒロポン」と「特攻」」を拝読し、昨夜のエルおおさかでの講演会も拝聴させていただきました。戦争の馬鹿らしさについて、戦前戦後とつづくまやかしに ついて、また天皇制、特攻、教科書問題等々について、ときに仁王の憤怒すら覗き見えるような相可さんの苛立ちに、わたしはやはりニンゲンというものは Web上の文字ではなく生の声を聴き表情を見体温を感じないと駄目なのだと、それが今日奈良から大阪までこの講演会を聴きに来たじぶんのいちばんの理由 だったと得心しました。講演が夕方からということもあり、日中はひさしぶりの大阪の町を無軌道に徘徊していたのですが、1891(明治24年)の濃尾地震 で倒壊した浪華紡績工場にて死んだ無名の女工たちの供養碑を正蓮寺の境内の片隅に積み上げられた無縁墓に仰ぎ見、また周辺の日本初の鋳綱所(現住友金属) 発祥の地(1899(明治32)年)、鴻池財閥の旧本店建物(1910(明治43)年)、そして鴉宮境内にそびえ立つ明治三十七八年戦役祈念碑などを見な がら京橋へ移動、造幣局前の大塩の乱を物語る石碑(1837(天保8)年)や大逆事件で縊られた菅野須賀子が洗礼を受けた(1903(明治36)年)天満 教会を横目で見ながら京阪天満橋の駅ビルを対岸に眺める公園のベンチにたどりついて、すでに日も暮れて紅葉した木々が曼荼羅のように色鮮やかにライトアッ プされていましたが気がつけば夜気もせまり、じぶんがもし宿なしであったらいまこの場所で眠れるだろうかと考えていたらすでにすぐそばの奥まったベンチに 自転車を止めて蚕のように夜具にくるまっている浮浪者の姿を見つけたのでした。そうしてきらびやかな街の灯りを対岸から眺めながら小一時間を過ごしたあと で会場へ向かいました。前のメールですこしばかり書かせて頂きましたが、わたしが墓地の軍人墓を巡るようになったきっかけは、数年前に家族で行ったグアム 旅行でした。レンタカーを借りて一日、観光客の行かない戦跡を巡り、そこで奈良の部隊(歩兵第38連隊)がこの地で全滅したこと、二万に近い日本兵がリ ゾート地と化したこの島で死んでいることなどを知りました。また戦時中に日本軍によって斬首された神父の眠る教会や、チャモロの地元住民が虐殺された丘な ども訪ねましたが、そこには日本人の影すらもありませんでした。日本へ帰ってから近所の寺の墓地でグアムで戦死した兵士の軍人墓をたまたま見つけたことか ら、週末に自転車で奈良盆地のあちこちの墓地に眠る軍人墓を見て歩くようになりました。それらはまさにエピタフ(epitaph・墓碑銘)、「生者によっ て死者を語り直す」物語です。戦後十数年を経ておそらく母親の名で建てられた息子3人の合同墓もあれば、生い立ちから語り始める墓もあります。見知らぬ異 国での詳細な死に様(頭部貫通、腹部裂傷)、あるいは死んだ場所を記述する(K村東北500m)墓があれば、君が代を歌い天皇陛下萬歳を叫んで死んでいっ たと刻まれた墓もありました。敗戦後にシベリアや中国奥地で死んだ日付けの墓もあれば、満蒙開拓団青少年義勇軍の国内の訓練所で死んだ少年の墓もありまし た。そのひとつひとつが重く圧しかかるそんな死がまさに「水漬く屍/草生す屍」のごとくこの国のあちこちに無数に横たわっている。なぜこれだけたくさんの 若いいのちが不条理に奪われなければならなかったのか。相可さんの憤怒を垣間見ながらわたしがまず思い出したのは上野英信が「天皇陛下萬歳 爆弾三勇士序 説」で記した次のような言葉です。「彼らの<死>は<天皇>と結びつかぬかぎり、 実体をもちえません。<天皇>もまた、兵士の<死>と結びつかぬかぎり、実体をもちえません。両者がひとつに結びつくことによっ て、<天皇>と<死>とは、はじめて共に実体を獲得したのです。そうでないかぎり、しょせん、<死>は<いわ れのない死>にすぎず、<天皇>は<いわれのない神>にすぎません」  デモというものにはじめて参加した2015年8 月、戦争法案反対の国会前デモの翌日にこれも生れてはじめて行った靖国神社の遊竣館でこちらを凝視するあまたの「英霊」たちの眼。あれらを一人びとり <いわれのない死>に還してやらなければならない、それがわたしがいまもなお各地の軍人墓を巡る旅を続けているもうひとつの理由かも知れませ ん。靖国の「英霊」たちは深夜の招魂斎庭で名を呼ばれその霊璽簿と共に御羽車(おはぐるま)に乗せられ本殿へすすむ。その幽冥たる世界にわたしたちは死者 を置き去りにして戦後を過ごしてきてしまった。そんな忸怩たる思いがあります。特攻という外道の戦に出発する若者にヒロポン入りの菓子を与える。その菊の 紋章の付いたヒロポン入りの菓子を勤労奉仕の女学生たちが包み箱詰めする。まさに外道にふさわしいそれらの風景を語り続けることが幽冥たる世界に住む「英 霊」たちを不条理な<いわれのない死>へ還すことのまたひとつの方法だとも思われるのです。もうひとつ講演のさなかにわたしが思い出したの は、しばらく前に見た「緑の牢獄」という台湾人の監督による沖縄県・西表島にあった旧西表炭鉱史に迫るドキュメンタリー作品のことでした。通貨すら握られ た奴隷のような密閉空間で、台湾から連れて来られた坑夫たちは阿片漬けにされる。奇跡的に島から逃れられても、阿片欲しさにまたもどってくる。そのドキュ メンタリーで暗示される歴史の暗部は、おなじようなヒロポンの裾野もじつはもっと広範囲だったのではないかという疑いに連なります。「タチソ」のような軍 事機密施設あるいはまた山中の閉鎖された軍部による鉱山開発現場などでの突貫作業などにヒロポンは使われていなかったか。日本人だけでなく中国人や朝鮮 人、台湾人などの徴用された労働者たちが残した証言にそれらの痕跡は語られていなかったか。外道の風景は特攻の兵士のみならず、かれらのような異化された 他者たちにこそより強く立ち上がるものだからです。そしてこの国はそれらすべてを黙殺する。今朝の新聞で作家の五木寛之氏が母親を亡くしたみずからの満州 引揚体験と重ね合わせて、人をおしのけて生きのびた者、ソ連の兵士へ日本人女性を差し出した者たちを念頭に、「だから優しい人は日本に帰れず、帰ってきた 人間はみんな悪人である」と言って「随分叱られた」ことを語っていました(毎日新聞・11月21日朝刊)。舞鶴の引揚げ記念館に決定的に欠けているのはそ の視点です。戦後のこの国が黙殺してきたのもやはりおなじ視点です。わたしたちは「帰ってきた人間はみんな悪人である」というところから、もういちど始め なければいけないのではないか。そうした思いを一層つよくさせられた二時間あまりの熱のこもった講演でした。ありがとうございました。ヒロポン入り菓子を 女学生たちが箱詰めしていた学校跡、多くの朝鮮人労働者が過酷な労働を強いられ虐待されていた「タチソ」の地下施設、そして地蔵院裏の共同墓地に眠ってい るという当時の朝鮮人労働者の墓を近いうちに訪ねて、外道の風景を語りつづけ<いわれのない死>をとりもどす孤独な覚悟について考えてみたい と思います。
2021.11.21


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   大逆事件では三人の僧籍にある者が連座した。一人は死刑により縊られ(内山愚童、36歳)、一人は獄中でみずからを縊り(高木顕明、50歳)、一人は獄 中で病死した(峯尾節堂、33歳)。宗派はそれぞれ曹洞宗、真宗大谷派、臨済宗妙心寺派と異なるが、どの宗派も当時かれらを見事に切り捨てた。「大逆事件  ―死と生の群像」で著者の田中伸尚氏は次のように記す。「仏教三派は、かつて国家に忠誠を誓う証として競い合うように、自派の僧侶を切り捨てて追放した が、今度はその処分を相次いで取り消していった。仏教という宗教が、国家と一体化し、戦争に協力し、差別する側に身を置き、自派の僧侶を見捨てて巨大化し てきた歴史の誤りを見直す文脈の中で「復権」がなされた」  切り捨てられた者はそれぞれのかたちで尊厳も命も奪われたわけだが、残された妻子や親族たち もまた、そのことによって人生をひっくり返されてまさに流浪のような生をそれぞれのかたちで深い傷跡とともに負わなければならなかったわけで、その影響は 計り知れない。峯尾節堂に関していえば、妙心寺本山はすでに判決前の起訴の段階であわてふためき「今回の陰謀事件に付き、其の連累者の中に本派の僧籍に在 りし者の介在し居りしは、洵(まこと)に本派の不幸にして千秋の恨事なり」と、その僧籍を剥奪し宗派から永久追放する擯斥に処した。それは国家の死刑宣告 にさらに追い打ちをかける二重の死の宣告であった。「明治43年11月14日を以て、彼の行為は本派の極刑に問うべきものと為し、直ちに擯斥に処した」 (機関誌「正法輪」第283号)  これに対して1996年9月、およそ86年後に本山の宗務総長の名によって擯斥取り消しを伝える証書のそっけなさはど うだろう。「右の者、明治43年11月4日付にて大逆事件に連座したとされる理由により本派から擯斥に処せられたが 本派教化センター教学研究室及び同和 推進委員会による研究と調査の結果本日茲に擯斥処分を取り消し 臨済宗妙心寺派懲誡規程第38条及び第39条の規程により復階及び復権を認めるものとす る」  妙心寺派はその翌年に教学部長なる者がかつての節堂が勤めた真如寺を訪ね、「復階及び復権之証」と「妙心前堂節堂圓和尚禅師」の戒名がつけられた 位牌を現住職に手渡したが、この証書については21年後に同寺を訪ねた田中伸尚氏が擯斥の日付けが間違っていることを見つけるというオマケが付いている。 まるで他人事のような、何の慚懼も痛苦もない、ごく事務的なそれゆえに冷酷な文言。上から人のいのちを剥奪し、おなじく上からその復権を認めると宣うこの 態度はどうか。おれが節堂だったら、こんな証書など破り捨てて、位牌を蹴りつけてやるよ。その教学部長とかいう奴のどたまに向けて。そうだろ? 復権や名 誉回復のために根気強くつづけられた一部の人々の活動や、真宗大谷派のように毎年法要を 営んで(高木顕明の「遠松忌」)伝承していくことはいいことだと思うが、いいか、それで奪ったいのちがもどるわけじゃないんだぜ。問題はおなじような時 代、おなじような状況になったときに、いのちがけで抗うことの覚悟があるか、ということだろう。それがないんだったら、「復権」や「顕彰」などそれこそ絵 に描いた餅だよ。あらたな時代の内山愚童や高木顕明や峯尾節堂があらわれたら、それぞれの宗派はこんどは宗門をかけて抗うだろうか。場合に よっては組織が解体されるかも知れない。それだけの覚悟を持って、やれるか。まあ、やれないだろうなとおれは思っているよ。おれはこの頃、歴史に於 ける覚悟ということを、わが身に置いてずっと考えている。
2021.11.24

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   パンソリはとくに詳しいわけでもないし、生で聴くのももちろんはじめてだ。29日月曜。以前に井波陽子さんのライブを見た大阪・靭公園に近いカフェ周 へ、安聖民(안성민)さんの「空前絶後 パンソリ完唱シリーズ・番外編」なる催しを聴きに行った。それほど広くもない会場の観客は30人弱ほどだろうか、 ほぼ満席だ。安聖民さんは大阪市生野区生まれの在日三世で、「人間文化財第5号指定の南海星に師事(水宮歌・興甫歌)」してパンソリを習得した、数少ない 在日のパンソリ唱者だという。わたしはほぼ最前列、太鼓奏者の真後ろにすわった。安さんが声を発した途端、やはりYouTubeなどで聴くのと生で聴くの は違う、わたしは忽ちにこころが満たされるのを感じた。日本語の歌詞はプロジェクターで壁の上部に写し出されているが、それを見なくてもじゅうぶんに伝わ る。演目は幼くのどかな恋の語らいや(春香歌)、正直な貧乏人夫婦に福が訪れる話や(興甫歌)、安寿と厨子王のハッピーエンド版や(沈清歌)、竜宮の王の 病のため地上にウサギの肝を取りに来たすっぽんの話など(水宮歌)様々だが、安さんの歌がはじまると容易にそれぞれの世界に引き込まれてしまう。月一回の シリーズを聴いてきた人や在日の人も多いようで合いの手も盛んで、聴衆は生き別れた娘の声を聴く老人や虎に襲われそうになったすっぽんと同化して共に参加 する。一時間ほどの語り芸はあっという間に過ぎてしまった。その間、わたしはずっと幸福を感じていた。魂が仕合せだ仕合せだと叫んでいた。かつて祭りや市 の日の村の広場などで「雑草のようなたくましい」漂泊の芸能者たちがこれらの芸を演じ、村々を経巡った。その数百年の来し方が安さんの声にたっぷりと詰 まっている。百年以上も前にわたしたちの国は朝鮮半島を侵略し遅れた文明の者たちだとかれらを蔑んだが、鉄と石油よりも豊かなものを朝鮮半島の人々はすで に持っていた。ほんとうの豊かさを失っていったのはわたしたちの国の方ではなかったか。砂漠で飲み干す水のように歌が沁み込んでくる。わたしたちはいまイ ンターネットを通じて世界中の上質な音楽をいつでも手軽に聴くことが出来るが、じつはわたしたちのそれらの音楽は貧しいのではないか。歌を聴く「場」が貧 しい。聴き手であるわたしたち自身も貧しい。そう思わせるだけの豊饒さが安さんのパンソリにはあって、わたしをふるわせる。こころが渇いてたおれそうになったら、おれはきっとまたパンソリを聴きにいくよ。
2021.11.30

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   娘によればヤフーニュースなどに書き込みされているコメントは、多くはごく一部の「暇な人間たち」による「熱心な活動のたまもの」で、けっして社会の多 数でもないし傾向を示しているわけでもないそうだ。ほんとうに多くの人が反応する記事ではかれらの意見は埋没するが、たいていはかれらの「熱心な活動」が 目立って見える、というわけだ。とくにヤフーはその傾向が顕著らしい。しばしばコメント欄に憤慨している父親に、冷静な娘はそう諭してくれるのだが、そう は言っても世の中の多数がきっと目にしているだろう場所でそんな意見がもっともらしくはびこっていることが癪に障る。兵庫県の小学生の兄弟が死んでしまっ た放火事件で逮捕された伯父についても「どんな事情があったにせよ、子どもを殺していい理由にはならない」なぞといったモットモらしい意見がモットモらし い顔をして語られる。当たり前なんだよ、クソ野郎が。でも人を殺すのは刺すのでも焼き殺すのでも当たり前ではない。おまえたちはエアコンの効いた居心地の いい部屋でポテチでもつまみながら油まみれの汚ねえキーボードを叩いているんだろうが、人を殺すってのは並々ならぬ「力仕事」なんだぜ。ふつうは、できな い。20代の頃、なんどか人を殺す夢を見た。いやすでに殺してしまって、死体をどこへ隠そうかとか、あるいは背中に背負ってあるいていたりして、取り返し のつかないことをしてしまった、じぶんはこの鉛のような現実を一生背負っていかなければならない、消したくても消せない、そんな焦燥感や絶望感で潰されて しまいそうだった。あの夢の感覚はいまでもはっきりと思い出せる。たとえどんな人間であれ、ある意味人間を捨てて修羅になり切らなくては人を殺せない。殺 したいと思ったって殺せない。夜ふけにおのれの布団に火をつけることだっておんなじだよ。それをやることと、やらないことの間には海溝ほどの深い深い溝が ある。それをはからずも渡ってしまった人間に意見をするには、その深みをいっしょにわたるくらいの覚悟と想像力が必要なんだよ。分かるか、ボケ。おまえら みたいに何でもかんでも十把一絡げ、モットモな当たり前の顔をして世間の安易な物差しで人間を断罪していくのがほんとうのファシズムなんだぜ。おまえらみ たいなのが戦争が始まったらそのモットモな当たり前の顔でイケイケどんどんを合唱するのだ。人間を刺せば返り血が飛ぶ。どす黒く、生臭いその血を頭から浴 びて、倒れかかった体のぬくもりと重みを受けとめる。逃れられない、その場所からことばを吐け。そうでなければ黙れ。おまえらのような存在の軽い蛆虫ども は人間を殺した「極悪非道の犯罪者」の重みの前では、人間を殺すこと「すらも」できない塵芥(ちりあくた)だよ。呆れた顔して娘が見てるからもうこれ以上はやめとくけどな。
2021.12.1

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   母をつれて近所のS医院へ行く。バーベキューの日、リビングへ入ってお茶をしていたらテーブルにもたれた母が急に無反応になって片腕が小刻みに痙攣。そ の間、ほんの1〜2分。娘が大きな声で名前を呼びかけ、救急車を呼んだ方がいい、と言われてスマホを手にした妹も慌てたのか119番が押せず、じきに意識 は戻ったのでソファーに横にならせて様子を見ることに。それ以降は翌日もふだんと変わらず過ごしているのだが、念のため病院で診てもらおうということに なった。1939(昭和14)年生まれの母はことし82歳。病院が嫌いなのでもう30年ほど健康診断も受けていない。状況を聞いた名医のS先生は、たぶん 寒暖差で血管の細いところが一瞬詰まりかけたんだろう、との見解で、あとはMRIで詳しく検査してから、と電話をとって市内の総合病院へ検査の予約を水曜 に入れてくれた。本人はぴんぴんしていて、とりあえず明日の奈良演劇での仲代達矢の舞台「左の腕」が見に行けるのでホッとした、なぞと言ってるが。
2021.12.6

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   戦争とバスタオル。湯船につかりながら、苦しい時代を物語る湯の来歴に想念をとばす。あるいは裸同士で湯につかり、その苦しい時代を生きてきた老人たち の話に耳をかたむける。日本軍による過酷な労役が「死の鉄道」と呼ばれたタイの旧泰緬鉄道と沿線のジャングル風呂。二本最南端のユーフルヤー(銭湯)と沖 縄の戦後。韓国・釜山の沐浴場から透けて見えてくる朝鮮と日本のふたつの国に翻弄された人々の人生。あるいは満州引揚者たちが暮らした団地のすでに廃業し た銭湯から明らかになる戦時中の毒ガス製造工場の記憶。国をとびこえ、加害も被害も抱き合わさった戦争の悲惨な記憶が、一見真逆な湯けむりのなかで交錯 し、まじり合う。

 私は洗い場で、崔さんの背中をナイロンタオルでごしごし洗う。
「ありがとうねえ、ありがとうねえ」
崔さんが感謝の言葉を繰り返す。
大きな背中だった。
ここに、たくさんのものを背負い込んできたのだろう。日本のために。韓国のために。“アカ嫌い”の崔さんが、息子のような年代の“真っ赤っ赤”な私に背中を磨かれる。ごしごし。どれだけ力を入れても、崔さんは気持ちよさそうに目を閉じたままだ。

 主義主張や立場や理屈をいったん脱ぎ捨てて、みんなが湯船のなかでこんな語らいができたら、世界はもう少しよくなるかも知れない。
2021.12.7

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  浮かんできたのは「棄民」という言葉だ。一般財団法人水俣病センター相思社の永野三智さんの講演を滋賀の守山市で聴いた。守山市には水俣病の原因企業であ るチッソ(現JNC)の守山工場をはじめとした関連企業がある。この講演会の実現に至る経緯が面白い。永野さんが水俣病に関する講演会をチッソの工場があ る守山市で開催したいと思い、彼女の相思社での活動をまとめた著書「みな、やっとの思いで坂をのぼる」を出版した「ころから」のKさんに相談した。Kさん はその段取りを同郷の同級生である近江八幡に住む画家の福山さんに振った。福山さんは忠実な営業マンよろしく会場のセッティングから人集めまで駆けずり 回ったわけだが、会場となった守山市の図書館で偶然見つけたのがチッソ守山工場で労働運動を立ち上げた細谷卓爾さんを描いた「細谷卓爾の軌跡 〜水俣から琵琶湖へ」(関根 英爾・サンライズ出版)であった。水俣病の問題を知った細谷は「労働者を生きた人間としてみないで、資本制生産の歯車としてみるならば、公害は資本家のせ いで労働者のせいではないといえるかもしれない。しかし、労働者が生きた人間として自分をとらえれば、たちまち住民に対して加害者となっている自分自身が 浮かび上がってくるのである。労働者は企業の従属物としての自己を独立した人間に変革することなしに、自らを加害者としてとらえることはできず、逆にま た、加害者として自分をとらえることができない限り、労働者は企業の従属物にすぎず、人間として自己を解放することはできない」と記し、「今まで水俣病と 斗い得なかったことは、正に人間として、労働者として恥ずかしいことである」とする「恥宣言」をチッソ第一組合の大会で宣言した。この細谷さんの本を福山 さんが永野さんへつたえ、永野さんは草津に住む細谷さんへ会いに行き、講演の題も「水俣から琵琶湖へ」となったのである。人は人をつないでいく。福山さん の縁でわたしも些少ながら当日は会場の設営・片づけを手伝い、入場時には受付で相思社の機関誌「ごんずい」や琵琶湖の「せっけん運動」を引き継ぐ「特定非 営利活動法人 碧いびわ湖」の会報などを配布した。再版されたユージーン・スミスの写真集MINAMATAを9月に購入したときにいっしょに送られてきた 「ごんずい」を、こんどはじぶん自身が配っているというめぐり合わせが面白い。「ころから」のKさんと永野さんの対談というかたちで行われた講演会から受 け取ったものは限りないが、やはりいちばん衝撃的だったのは、水俣病の問題は現在も終わっておらず、しかも忘れ去られようとしていることであった。水俣の なかで水俣病がタブーとなっていく。水俣の支配企業であるチッソは企業寄りの市長を擁し、水俣市のホームページから「水俣病」が消えていく。水俣には映画 館がない。車で百キロ走らなければ映画館がないそうだ。ジョニー・デップが主演した映画「ミナマタ」の上映会が現地でおこなわれたとき、市から横やりが入 り、市長から「忘れてしまいたい人たちもいる」と言われたそうだ。そのことによって永野さんはより一層、水俣病を記憶する「場」が必要なことを思い知らさ れた、と語った。水俣のなかにあって、水俣病を繰り返さない、水俣病を忘れないために、考えつづけていく永野さんたちのような場所がせばめられていく。存 在が認められない。講演会の後で夕食&慰労会が持たれたのだが、そこで聞いた話でいちばん面白かったのは「ころから」のKさんの奥さんが言われた、水俣病 があるからチッソは水俣を離れない、というものだった。どういうことか。チッソが水俣を離れれば、チッソに対する批判が噴き出す。だからこそチッソは水俣 に居座り続け、水俣病の患者の子どもが就職適齢期になると積極的にリクルートをかけ取り込んでいく。水俣駅の改札を抜ければ目の前に広大なチッソの敷地が 広がっている。いまも水俣に暮らす人々にとってチッソとその関連企業に就職することは憧れなのだ。水俣病の認定申請を行った人は9万人を超えるという。だ がそのなかで認定された人はわずか2千人にすぎない。日本各地へ散らばった水俣病に苦しむ人々のなかには申請を行わない人たちもいる。「おれたちは水俣の 魚を(行商で)売った側だから、申請を出すわけにはいかない」と、ある東海地方に住む患者は永野さんに語ったそうだ。そうして水俣病は水俣のなかにあって さえ、消えていく。人々も口をつぐむ。外国人が制作した映画「ミナマタ」にも背を向ける。2018年には水俣病犠牲者の慰霊式でチッソの社長が「異論はあ るかもしれないが、私としては救済は終わっている」と発言した。いまも海底に水銀他の有毒物質を湛えた湾は埋め立てられてエコパーク水俣という憩いの公園 となり、海岸には「恋人の聖地 恋路島を望む親水公園」が出来ている。まるで「多様な生き物の憩いの場」を謳い、釣り人やジョギングなど多くの人々で賑わ うかつての谷中村を抹殺した渡良瀬遊水地のようだ。足尾銅山鉱毒事件、水俣病、そして原発事故。終わっていないものが終わったとされ、なし崩しに消去され ていく。数年来、わたしが調べ続けている近所の紡績工場の名もない女工たちもそうだ。明治期の華やかな近代産業のもとで歯車のように悲鳴をあげながら使い 捨てられ消えていった彼女たちを思い出す者は、この国にはもうだれもいない。戦争で不条理な死を強要された兵士たち、アジアの各地でこの国が残した深い傷 跡、従軍慰安婦、徴用工、在日朝鮮人、なべておなじだ。すべてなかったことにされて、暗渠に捨てられる。この国は棄民の国なのだ。それはいまもつづいてい る。そしてこれからもつづくだろう。永野さんが講演のなかで言ったいちばん忘れられない言葉。「当事者でない人が動くことによって、水俣病が思い出され る。当事者でない者だからこそ、できることがある」  棄民の国でみずからを棄民として語れ。
2021.12.12

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  京都・二条城近く。安藤さんの京都場での個展を見ていたらスマホが鳴った。外へ出て電話を取ると妹からで、横浜に住む伯父が死んだという。生活保護を受け ていて、横浜の役所から妹である母のところへ連絡がきた。先週の9日に緊急搬送されて、15日の1時半頃に亡くなった。緊急入院をして容態が悪いので今後 の延命措置なども含めて相談をしたいので連絡が欲しいという11日消印の封書を母がポストに見つけたのが今日だった。電話をしたがすでにこの世の橋を渡り おえていた。伯父はかつては年上の細君がいたが別れて子どもはいない。自由奔放で少々癖のある性格故に親類とのつきあいをみずから断って、わたしの妹だけ が毎年の年賀状とわずかな手紙のやりとりだけを残していた。遺体は病院から葬儀屋の霊安室へ移されているという。火葬をするには手続きが必要だ。まだわた しの父が生きていて、父と仲が良かった伯父とわたしの三人で何度か丹沢へのぼった。いや、父が死んだあとも伯父と鳳凰三山を縦走したこともあった。そう か、ついにひとりで往ったか。そのままわたしは千本通を漫然と北へあるきつづけて、気がついたら閻魔堂の前であった。あの世とこの世の境のバス停で老婆が 三人、すわって話をしていた。あの世とこの世はそれほど離れてはいないのかも知れない。母と妹とわたしの三人で明日、横浜へ行くことになった。明日は病院 で医師の説明を聞き、葬儀屋で直葬(火葬)の段取りをし、役所で手続きをする。手続きが終われば翌日に火葬だそうだが、伯父が長年住んでいた借家の後片付 けがある。印刷屋をしていたので印刷の機械がそのまま残されている。その整理が厄介だ。病院と火葬場が鎌倉に近いので、とりあえず明日と明後日、鎌倉のホ テルを予約した。遺骨はいったん母が持ち帰って、49日が住んだら東京の伯父の兄(わたしといっしょにシベリアへ旅した伯父)の家の墓に入る予定だ。安藤 作品の磁場の話を書くつもりだったのだが、写真だけになってしまった。「すぐれた彫刻作品は内部にエネルギーのラインが見える」と安藤さんは書いていた。 ひともまた肉体は虚舟(うつろぶね)のようなもので内にエネルギーの束を有しているのだと思う。今夜はその束がさびしい霊安室でうつろな骸(がら)のまわ りをただよっているか。
2021.12.15

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  世の中には継いではいけないものもあるのだ。相続放棄を家庭裁判所に申し立てることになった。印刷機器の残された死んだ伯父の借家を片づけるのにどれだけ の費用がかかるか分からないし、長い年月に音沙汰なしだったかれがその他にどんな負債を抱えているのかも分からない状況で、遺品を整理したり、挙句は葬儀 をつかさどることすらも、相続人を名乗り出るものだという。途中駅で予定していた病院をキャンセルし、葬儀屋をキャンセルし、新幹線のなかから知り合いの 元市議さんに相談及び弁護士依頼を頼みつつ、夕方にやっと役所の生活支援課の若くてまじめそうな女性の担当者と話をして葬祭扶助申請を、それでも伯父が病 院費用を清算して残った59,874円をいったん受け取って葬儀会社へ移管する代理委任状に母がサインをすることは伯父の財産に触れることになるからと、 その残りの金と葬祭扶助で役所から出る補填分が無事履行されましたという履行確認証明という書類に変えてもらった。59,874円。それが86年間精一杯 に生きた伯父がこの世に残した最後の財産だった。しかしそれすらもみずからの火葬費用には足りない。火葬は土曜日の朝。枯れ果てた伯父の姿は見るのがつら い、元気だった頃の顔を記憶に残したいからと母と妹の希望で結局火葬の見送りもせず、遺骨は郵便で後日に送ってもらうこととなった。あとは50年以上も隣 人としてつきあってくれた家主との話だが、埒の明かない母の電話を途中からわたしが引き継いで、残った荷物をだれかしかるべき人が整理をしてくれないと困 るという家主にそれでも相続放棄が確定するまでは動けないのだと言い続けて、なにも終わったわけではないのだけれど、とりあえず慌ただしい一日が暮れた。 あれこれの支払いが滞り、体が動かなくなってときに家主が金を下ろしに行き、最後は電気を止められて寒い冬を越すのは厳しいだろうと思っていた矢先だった という。印刷の機械以外はきれい好きだったこともあって、大したものは残っていない。ただ本がたくさん。それとクラシック音楽が好きだったから、と家主は 懐かしそうに言うのだ。そして、仕方がないけど、その相続放棄が確定したらせめてこちらに教えてほしいと諦めた声でつぶやいた。最後に救急車を呼んでくれ たのもこの50年来、気難しい伯父とつきあってくれた家主だった。そんなふうに一日が過ぎた。とくになにをしたわけでもないが、妙に重く疲れた一日だっ た。役所の帰りしなに入った本郷台駅前の蕎麦屋で夕食を食べた。いままで食べたなかでいちばんおいしい鴨なんばだった、と妹が言った。宿に帰ってあちこち に電話をかけてから、わたしは一人で夜の鶴岡八幡宮をさまよいあるいた。どこかの路地でひょいと見上げると、偶然にも伯父が担ぎ込まれた病院の看板が夜目 にくっきりと浮かび上がっていた。ここが伯父が生を閉じた最後の場所。この世に59,874円を残して往った場所。そう思ったらなんだか口惜しいような悲 しいような気持になって立ち尽くす。
2021.12.16

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  鎌倉行の初日。横浜栄区役所で生活支援課のEさんの説明を聞いてから、いったんキャンセルをした斎場へ電話を入れて翌日の昼、火葬手続きの書類にサインを しに行くことを伝えた。母と妹が、おそらく変わり果てただろう故人の顔は見たくない、元気な頃の記憶のままでいたいと言うので、対面はせずに、見送りもし ないことにした。けれどホテルの部屋にもどって一人になって、せめてだれか一人くらいは死に顔を見てあげようと思いなおし、翌朝の朝食の席でそれを伝えると二人 とも、じつはわたしたちもそうするつもりだった、と言う。昨日はあれこればたばたしていて何だか疲れてたもんだから、と母が付け足す。斎場は鎌倉駅からタ クシーで10分ほど、鎌倉市と逗子市をはさんだ丘陵の逗子市側に位置する。片交の信号が取り付けられた昔ながらの狭いぐねぐねとした坂道が唯一の入口で、 あとで聞いた話だが百数十年前の野焼きの時代からの民間経営の斎場だという。しばらく部屋で待たされて、冷蔵室から出してくれたのは廊下のすみを臨時的に カーテンで囲ったようなスペースで、おそるおそる覗き込んだ伯父の顔は数年前に先に死んだ長兄の晩年の顔にそっくりだった。目元は伯父の面影があって、 兄よりも端正だ。想像していたのとはちがって、自然の摂理のままに枯死して大地に還っていく老樹のような、そんなおだやかな表情だった。額に触れると、硬 く、つめたかった。やっぱり会ってよかったねと三人で言い合った。翌日の土曜日は朝一番の火葬だった。手続きはもうぜんぶ済んでいるので大丈夫ですよと斎 場の担当者に言われて、母の支払いの別料金で顔の周りを囲う色花を注文した。それから最後は電気も止められて寒かっただろうからと、前日にホテルの下の無 印良品で母と妹が選んだマフラーと毛糸の帽子、そして出がけにコンビニで買ってきた菓子をいくつか、棺に入れてあげた。棺が炉室へ運ばれ、扉がしまると、 妹が泣き出した。一時間もしないで、伯父は真っ白な骨になってもどってきた。年齢にしては丈夫な骨だという。骨壺のいちばん最後に下あごをこちらに向け、 頭蓋骨のかけらを二枚程のせて、手慣れた斎場の係は故人がみなさんの方を向いています、と言った。わたしは何やら、戦場の兵士の遺体のことを考えていた。 埋葬をする余裕がない戦闘中や行軍中であれば首や手首や指先を切り落として親しい戦友が持ち運んだのだが、それすらもない場合は海岸の砂を留魂砂(るこん さ)と呼んで持ち帰った。伯父は頭蓋骨から足の骨までぜんぶ揃っているが、なんだか兵士のような気がしたのだ。86年の人生を伯父らしく戦って、往った。 伯父としてのかたちはこの世から消失し、燃え残った骨はさながら留魂砂、海岸にあまた広がる無数の砂粒のようなものだ。すべて自然へ還った。潔い。これ で明治40年の北山筏組合長であった中瀬古為三郎の血を継ぐ母の兄弟(三人の兄)はすべていなくなり、母だけになった。ムガル帝国の皇帝によって建設され わずか14年で放棄された北インドの都市ファテープル・シークリー(Fatehpur Sikri)の城門には、つぎのような碑文が刻まれているという。「イエスが言った。“この世は橋である、わたっていきなさい。しかしそこに棲家を建てて はならない”」  まさにかれは、たった一人でわたっていったのだ。
2021.12.20

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  相変わらず夜ふけになるとひとり書斎にこもって酒をすすりイカレちんぽの魂を浸すのは行き場のない新村ブルースのような音楽だ何処へこのやくざな身を置こ うこの冷たい師走の夜空の下で。曽根崎心中巻き添えのビル火災にガソリンを撒いた疫鬼のような中年男とおれの間に違いがあるとしたらこころやさしいつれあ いと娘の存在だけで世間の緩衝材たる二人がもしいなければおれもやつとおんなじように弾けたかも知れないな善人面した糞野郎ども皆殺しにしてやるぞ。疫鬼 は山野に棲む精霊や死後に冥界と現世の中間あたりをさまよっている野鬼たちの成れの果てであるそうだからおれの背中にも大方そんなものたちがたんと憑りつ いているいるに違いない刺すような痛みに思わず悲鳴をあげる25人も殺せばもう充分だろう。ああおれがわたしが望んでいたのはそんなことではありませんで したサンタマリアどこかでなにかが狂ってしまったけれどもうどう仕様もない鬼はひとびとの憎しみを濁酒のように浴びて殺せ無残に殺せあいつの首を撥ねて三 条河原に晒せと指弾されるああおれがわたしが望んでいたのはチサの葉一枚のつましい仕合せだったのだけれど。そんなふうに今宵も夜に沈んでゆくずぶずぶと 拠るべきものはなにもないひとり書斎にこもって酒をすすりイカレちんぽの魂行くあてもなく。
2021.12.21

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  近所の整形の再診。膿もなく、経過は良好。週明けにもういちど来院しておそらくそれで終わりだろう、と。昨夜のタンドリーレモンチキンで余った漬け汁が勿 体ないので、鶏むね肉をスーパーで買って帰宅した。それにしても親指が使えないとなんと不便なことか。人類は二足歩行をはじめ、自由に使えるようになった 両手でさまざまな道具をつくって進化したと学習漫画でおしえられたが、なかでも利き腕の親指はその中心といえるだろう。親指が使えないと朝食の納豆の辛子 とタレの小袋が千切れない。親指が使えないとシャツの左の袖口のボタンが嵌められない。親指が使えないと自転車のギアチェンジができない。親指が使えない とオシッコのあとでジーパンのボタンを嵌めてチャックを上げるのも一苦労だ。親指が使えないとあらゆることができなくなって、じぶんがこの世でまったくの 無能者になってしまったかの如く錯覚に陥る。嗚呼、偉大なる親指よ。そういえばことしの春、垣根の刈り込みをしていてマキタのバリカンにうっかり当てて ザックリいってしまったのも、左の親指だった。親指ブルースでも歌おうか。たった親指一本でもこれだけ影響があるのだから、片腕を失くした人、あるいは右 半身が麻痺してしまった人などはどれだけ大変なことか。いや範囲のことだけではない。身体の一部に一時的な支障が出ていつも思い知らされるのは、人の身体 というものは如何に絶妙なバランスで成り立っているか、ということだ。娘は出生時のアクシデントで脊髄の神経に腫瘍が絡んでしまい、下半身の一部の神経が 機能しない。機能しないのは神経だけなのだが、神経が機能しないことによって動かせない筋肉が衰え、他の筋肉とのアンバランスのために骨が変形し、そのた めに筋肉を入れ替えたり、変形した骨を矯正したり他所から持ってきた骨をつないだりするような整形外科の手術を何度も受けた。人が二本の足をつかって歩行 するということ、何げない傾斜を無意識に感じ取ってまっすぐ補正すること、靴の中に入った小石に気づいて靴を脱いで取り出すこと、そうしたあらゆることが 微妙なバランスの上で成り立っていて、そのうちの小さな小さな何かが失われただけで全体が大きくバランスを崩して変わってしまう。怪我をしたり病で身体が 思うように動かせなくなったりするたびに、その微妙なバランスのことを思い出す。人間の身体がそうなのだから、もちろん人間を生み出したこの惑星やさらに 宇宙といったものもおなじ構造なのだろうと思う。この地上のあらゆるものが神経細胞のようにつながっていて、一人びとりのちいさな思いが大きな悲劇をもた らしたり、一人びとりのちいさな思いが絶望的な状況をオセロのようにひっくり返すこともあるんだと思うよ。
2021.12.25

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  亡くなった伯父の相続放棄を相続対象となるわたしの母(妹)、関東に住む従兄二人(長兄の息子)の三人でいっしょに申し立てることになって昨日、あらため て奈良の合同弁護士事務所のS弁護士へ正式に依頼のメールを入れた。料金は書類費等を含めて一人65,000円、三人合わせて20万円ほどになる。遺産を 相続するのではなく、相続を放棄するためにこれだけの費用が必要なわけで、なんとも複雑な気分だ。Web上では独力で書類を集めてみずから家庭裁判所へ提 出する人もいるようで、わたしだったらそうしたかも知れないが、母はともあれ、大手企業の重役をしている従兄も、銀行勤めのその弟も懐は豊かでその料金で まったく構わないと言うので、もちろんわたしも異論はない。それに万が一、(ないとは思うが)伯父がややこしい筋から借金などをしていたとしても、弁護士 に任せることができるから安心な面はある。二人の従兄には弁護士事務所から委任状用紙と料金の振込先が郵送され、それぞれじぶんたちの戸籍謄本と共に返送 する。母の分の委任状はわたしが先に預かってきたし、戸籍謄本もすでに取得済みだが、問題はS弁護士から言われた死んだ伯父の住民票(除票)と戸籍謄本 (除籍)の取得である。これについては当然ながら伯父の住所と本籍地が必要なわけだが、住所はともかく、長年音信不通であった伯父の本籍地はだれも知らな い。そこで生活保護でお世話になって先般も役所でお会いした生活支援課のEさんに電話を入れて本籍地を教えてもらえないかと訊いたのだが、それは教えられ ないとの返答であった。そして、火葬のときに発行した埋火葬許可証に故人の住所も本籍地も記してある、と言う。ああ、失態。火葬場で斎場のSさんが「これ は納骨のときに必要ですから、ここに貼っておきますね。墓地の石屋さんに当日渡してください」と言われて骨壺を入れた箱の蓋の上にぺたっと貼りつけたのだ が、あれを写しておけばよかった。遺骨は当初、母の家へ郵送してもらう手筈だったのだが、奈良へ帰ってきた母が一人暮らしの家に兄弟とはいえ疎遠になって いた者の遺骨を置いておくのが不安になって、勝手に斎場へ電話を入れて納骨までしばらく斎場で預かって欲しいと依頼し、それをあとで聞いた妹が母と衝突し て現在断絶状態。そんなごたごたがあったので斎場のSさんにはこれ以上依頼ごとをするわけにもいかず、又たとえお願いしたとしても個人情報を伝えることは できないだろう。最悪の場合は東京に住む従兄に鎌倉の斎場まで行ってもらって埋火葬許可書をコピーしてきてもらうしかないわけだが、もうひとつ、伯父の住 民票請求の際に本籍地を記載してもらうという手もある。そこで横浜市の栄区役所の戸籍課と住民票係の窓口にそれぞれ電話をして、事情を伝えて郵送請求でど んな書類が必要かと訊いてみた。どちらの担当者も、請求者である母と故人の伯父との関係が確認できる書類が必要だが、それはすでに手元にある母の戸籍謄本 に母の両親の名前が記載されているので、それと伯父の両親がおなじであれば確認が可能なので母の戸籍謄本の写し、身分証明の写し(保険証)、役所のHPか らDLできる請求書類、返信用封筒と切手、手数料(小為替)で大丈夫だという。それで試しにDLした「住民票の写し等請求書(郵送)」をプリントアウトし て記入の仕方で若干不明な部分があったので問い合わせ先の横浜市郵送請求事務センターに電話をしたところ、電話口の担当のTさんが「相続放棄を理由とする 請求では本籍地は入れられないことになっている」と言う。「でも栄区役所の戸籍課の方は出せると言ってましたよ」と言うと、こんどは母と伯父との関係確認 について「伯父の本籍地がもしも横浜市外であった場合には、伯父の両親の名前が横浜市では確認できないので、お母さまの戸籍謄本だけでは不充分だ」と言 う。ではその場合、他にどんな書類が必要なのかと問えば、母の両親を軸とした除籍謄本を入手したらそれで母と伯父が兄妹であることが証明できる。そのため には母の本籍を奈良=茨城=東京の複数個所と遡って請求していって、母が婚姻によって親の戸籍から抜けた時点での実家の本籍地を突き止め、その実家の本籍 地にいまは亡き両親の除籍謄本を請求しなければならないというわけだ。すべてを郵送依頼するとして、いったいどれだけの時間がかかるだろう。ちなみに相続 放棄の申し立ては伯父が死んだ日から三か月以内に提出しなければならない。「分かりました。では伯父の本籍地が横浜市内であるかどうかを教えてもらえませ んか?」と言うと、それは教えられないと言う。わたしがもし母の戸籍謄本だけで請求するというのであれば請求してもらって、書類が届いてからこちらで出せ るかどうか判断すると言う。このあたりから、わたしはそろそろキレかけ始めていた。「そもそも栄区役所の戸籍課の人はそれで大丈夫だと言っていたのに、そ れは伯父の本籍が横浜市内であるという前提での話でその前提が漏れていたわけですね」 「はい、そういうことになりますね」 「伯父の本籍が横浜市内か否 かで準備する書類が異なるというのであれば、こちらもどういう書類を用意したらいいのか分からないので請求することも出来ない。そちらでは伯父の本籍地を 情報として所有しているわけだから、せめて横浜市内か市外かだけでも教えてもらえないのですか?」 「それは個人情報になるのでお教えできません」 「本 籍地をぜんぶ教えてくれって言ってるわけじゃないですよ。横浜市内か否かを伝えることは別に個人情報でも何でもないでしょ」 Tさんはそんな会話の間、最 初は上司と相談しますと言って電話を折り返し、次に返答に窮した際は市役所の方へ確認してみますと言って電話を切った。小一時間待ってかかってきたのは横 浜市郵送請求事務センターのTさんではなく、横浜市役所市民局のEさんであった。「わたしどもの説明不足でいろいろご迷惑をおかけしたので、今回は特別に お母さまの戸籍謄本だけで住民票を出させていただきます」ということであった。「特例なんですね?」と訊くと、「はい、そうです」と言う。「伯父のように 身寄りがない孤独死で、おなじように長いこと連絡不通で、おなじように親類が相続放棄をするのに本籍地が分からない場合もあると思うんですが?」と訊く と、そのときはやはり戸籍をたどっていってもらうしかないし、実際に多くの人はそうしてもらっていると言う。そんな次第で今日はほとんど半日がこれらのや りとりと書類作成でつぶれた。以前からそうだったけれど今回あらためて思ったのは、わたしは役所的思考には馴染めないということ。いつもたいてい、喧嘩に なる。そしてもうひとつ、今回はじめてつくづく思い知ったこと。戸籍制度、いらねー
2021.12.27

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  なにも大晦日の一面を狙ったわけでもないだろうが、これで真相(そんなものがあるのだとして)は永久に闇に呑み込まれた。なんともやりきれない虚しさだけ が鵺のように臓腑のうしろがわでヒョウヒョウと陰気な声で鳴きながら蠢いている。昨夜、Webで容疑者死亡のこの報に接してから、わたしは死後解剖を終え てふたたびヒトのかたちにつなぎ合わされた容疑者の遺骸が町中で晒しものにされ人々の怒声を浴びている夢を見た。天保8(1837)年の塩漬けにされ飛田 墓地で晒されたのは義挙の大塩平八郎であったが、令和3(2021)年のこの国の大みそかに晒されるのは大量殺人の放火犯がいっそふさわしい。これからこ の国では、こんな事件が負の連鎖のようにいくども繰り返されるのだろう。暗い情念を抱えて間欠泉のように噴出しかかった孤独者が突然、火をはなち刃をふり あげて書き割りのような日常の風景を切り裂く。人々はふくらんだ波のように警察署へ押し寄せて容疑者を晒せ、八つ裂きにしろと叫ぶ。飛田や千日前や小塚原 に処刑場が再建される日も近い。そんな素敵な夢を見ながら、今夜は家族と明るい希望に満ちた紅白歌合戦をテレビで見るよ。よいお年を。

◆大阪ビル放火 61歳容疑者が死亡 真相究明は極めて困難に
  大阪市北区の雑居ビルに入るクリニックで院長の西沢弘太郎さん(49)らが死亡した放火殺人事件で、意識不明の重体だった谷本盛雄容疑者(61)=職業不 詳=が30日夜、大阪市内の病院で死亡した。大阪府警が発表した。煙を吸い込んだことに伴う重度の一酸化炭素(CO)中毒が死因とみられる。容疑者への取 り調べが不可能になったことで、事件の真相究明は極めて困難になる。事件の死者は計26人になった。
 府警によると、クリニックの患者だった谷本 容疑者は事件後、院内で心肺停止状態で見つかった。谷本容疑者は救急搬送された大阪市内の医療機関の集中治療で蘇生したが、CO中毒の影響で脳に重大な障 害を負い、意識不明の状態になった。顔などの重度のやけど治療も続いていたが、30日午後7時5分に入院先で死亡が確認された。31日に遺体を司法解剖し て詳しい死因を調べる。
2021.12.31

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相変わらず紅白の歌手どもののっぺんだ らりとしたふやけた「希望」や「明日」におれの魂は一寸とも共感しないし、逆に反吐が出そうな生理的欲求にとても耐えきれないが、この国の多くの善人たち がこの堪えがたき腐臭に満ちた光景に同調しているのであれば、この国で確実に勝ち目のない少数(孤独)であることを再認識することがむしろすがすがしい。 のっぴきならない場所で、この正体不明な鵺の息の根を止めろ。

2021.12.31



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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