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 きれいな波うちぎわで中腰になって水をすくった。京都の鰻の寝床のような町屋の奥の土蔵かと思ったら、海だったんだな。しずかに寄せる波が透明な皮膜のようだった。なにかをつつんで守っている。小島かと思ったら、それは流れ着いた遺体の山だった。でもむごたらしくも、きたなくもない。きよめられてしずかにあつまっている。ひとりひとりをそっと手にとって、てのひらにのせて、さすったり、なでたり、抱いたりした。傷口がぱっくりとひらいている遺体もあった。片腕のもげた遺体もあった。こすれたちいさな無数の傷で全身がおおわれた遺体もあった。人形のようにまっさらなきれいな遺体もあった。黒焦げの人もいたし、両足を投げ出して死んでいる人もいた。とうめいなかなしみがあった。処刑された隠れキリシタンの死体であったり、関東大震災のときに殺された朝鮮人の遺骸であったり、南京の長江に浮かぶ無数の中国人であったり、あるいはシリアやパレスチナの子どもたちであったりした。一千人や一万人や百万人のいろんな数字が埋まっていた。ひとりひとりを手にとってはかえし、手にとってはかえししていると、足元の砂浜がくずれてずぶずぶと沈んでいきそうだった。壁のぐるりには墨かサインペンかを手斧でこまかく刻んだかのようなタッチで描かれた神話のような線画が広がっていた。やさしい傷のようだった。原発が爆発し、津波に呑まれ放射能の灰を浴びてうずくまった車の群れが最近娘の本で見たナウシカに出てくるオウム(王蟲)のように見えた。町は瘴気に覆われた腐海だった。けれどわたしのたっている足元はその腐海がおのれの毒によって浄化した砂浜だったのだ。そこは人の住まない死者の世界だった。遺体の小山は川のながれのようにも見える。線画はどちらから始まってどちらへむかっていくのか、わたしには分からない。山の切れ目から覗いた福島の海だ。なだらかなひなびた山道だ。毒を浴びて、無数の傷を負って、直立しているものがある。暗い土蔵の長押(なげし)の上に円空のような木っ端仏がひそんでいる。天窓から胞子をのせた光がゆらゆらとおりてくる。京都の鰻の寝床のような町屋の奥の土蔵かと思ったら、海だったんだな。きれいな波うちぎわで中腰になって、おどろきながら、ゆらぎながらLIFE(いのち)をすくう。

(安藤榮作 展「LIFE」 京都市中京区堺町通御池下ル 堺町画廊)

2017.12.8

 

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 今日は早朝から仕事で、昼前まで戸外で立ちっぱなし。支給された弁当を家に帰って食べて、しばらく揺り椅子でハン・ヨンエの韓国古典演歌集を聴きながらうたた寝をしてから、自転車で多聞城跡を見に行ってきた。東大寺の転害門から少々といったらいいのかな。西は聖武天皇陵、東は北山十八軒戸のある東之坂だ。いまは市立若草中学校の建つ丘陵地に旧跡の碑が立っているが、かつては西側の聖武天皇陵のエリアも含む山城だったらしい。松永久秀によって築城、のちに織田信長の命を受けた筒井順慶によって破却。一帯はもともと中世の墓地があったそうで、当時のものと思われる瓦、骨壺、石塔、墓石等が校舎敷地から出土しており、それらの苔むした墓石や五輪塔などが校門の東側に集められて供養されている。周辺をしばらく散策して夕方、佐保川沿いに下った県立図書館でトイレとマグに入れてきた蓮茶を飲んで小休憩。暗くなる頃に帰宅した。走っていると体もぽかぽかして、冷たい空気が心地よい。代休の明日もまた、どこかへ行こうかな。

◆多聞山城(Wiki) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E8%81%9E%E5%B1%B1%E5%9F%8E

2017.12.10

 

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 昨夜は夕食後、つれあいと二人で炬燵に入って1997年のイタリア映画「ライフ・イズ・ビューティフル」を見た。常に前向きなユーモアとお喋りで破天荒な主人公が高嶺の花の町のお嬢さんの心を射止め、一人息子をもうけたものの、ユダヤ人がためにナチ占領下で家族三人とも収容所へ送られ、けれど息子に「これはゲームなんだ。泣いたり、ママに会いたがったりしたら減点。いい子にしていれば点数がもらえて、1000点たまったら勝ち。勝ったら、本物の戦車に乗っておうちに帰れる」と言い聞かせ、その嘘を最後まで演じきる。強制収容所という現実と、主人公のユーモアに満ちた息子への必死の嘘とのギャップが、無慈悲で過酷な状況を際立て泣かせる。監督兼主役のロベルト・ベニーニはジム・ジャームッシュの「ダウン・バイ・ザ・ロウ」でトム・ウェイツと競演したことでも有名。この味はイタリア映画ならではだろうな。

 今日は午前中はつれあいと近くのショッピングモールへ買い物。わたしのスーツの下でも着れるライトダウンベストをユニクロで買って、つれあいが「じぶんまくら」で15万円の“じぶんマットレス”の説明を聴くのに一時間つき合い、食材を買って帰ってきた。お昼は三人でお好み焼きを食べて、わたしは午後から押入れに新設する棚つくりをしようかと採寸などしていたのだけれど雨もちらほら降ったり、風が少々寒かったりして気がすすまず、買ってきたベストをさっそく身につけてソファーで新聞を読んでいるうちに寝てしまい、夕方に起きて娘のリクエストでネットフリックスのアニメ「物の怪」を家族三人で見て、ジップの散歩へ行って、夕食は鶏肉の水炊き鍋。食後に娘と神社の祭神の話や、道成寺の安珍・清姫伝説と異説、古事記の神様とギリシャ神話の相似点、日本霊異記などあれこれ。

 とくに何もしない一日だったけれど、いい休日だったんじゃないかな。

2017.12.11

 

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 兵庫県加古川市立中学2年の女子生徒(当時14)が昨年9月に自殺し、市教育委員会が設けた第三者委員会は23日、いじめが自殺の原因だったと認定する調査結果を発表した。女子生徒がいじめを訴え、学校が把握する機会が何度もあったのに、何も対応しなかったことが自殺につながったと結論づけた。

 女子生徒は昨年9月12日に自殺を図り、8日後に死亡。自宅から「いじめ」をほのめかすメモが見つかった。市教委はいじめ防止対策推進法に基づく「重大事態」ととらえ、弁護士らによる第三者委を設置。第三者委は女子生徒の遺族や同級生、教職員への聞き取り調査などを実施した。

 第三者委によると、女子生徒は中学1年生の時からクラス内や部活動で無視や仲間はずれ、嫌がるあだ名で呼ばれるなどのいじめを受けた。1年生の2学期、部活動で一緒にいじめられていた別の生徒の保護者がいじめを訴えたが、顧問は生徒同士のトラブル(けんか)と判断し、教職員間で共有されなかった。すると、1年生の3学期ごろからいじめがさらに激化し、2年生になっても続いた。

 2年生の6月に実施された学校生活アンケートで、女子生徒がいじめられている旨の回答をしたが、学校はいじめと認識せず、何も対応しなかったという。

 第三者委の非公表部分を含む調査報告書を読んだ遺族の代理人弁護士によると、アンケート結果について、中学2年の担任は部活内でのトラブルが原因と考えていたといい、学年主任も対策を指示していなかったという。

 第三者委は調査報告書で「(アンケート時点で)学校が対応していれば、自死(自殺)行為をせずにすんだと考えるのが合理的」と指摘。いじめの理解と認識が教職員間で共有されず、組織的に対応されなかったなどの問題があると厳しく指摘した上で、市教委に改善のための全市的な5年計画の策定などを求めた。

 女子生徒の父親は代理人の弁護士を通じて「学校への不信は今も極限状態」としつつ、第三者委の調査結果について「いろんな意味で光明を見いだす画期的な内容だと思います。本当に感謝をしております」とコメントした。市教委の田渕博之教育長は会見で「尊い命が失われたことを極めて重く受け止めています。第三者委の提言を真摯(しんし)に受け止めます」と話した。

(朝日デジタル 2017年12月23日)

 

 もうね、教育委員会や学校といった組織も、教育現場の環境も、すべてが崩壊しているんだよ。ぜんぶぶち壊して、根本からつくりなおさなきゃダメだってことだ。「きみはひとりじゃない」とか「悩まずに相談を」とか、ちゃんちゃらおかしいわ。向いている方向がすでに間違ってるだろ。耐えられない子どもは、この子のように死をえらぶか、あるいはうちの娘のように離脱するかしている。残っているのは必死に耐えているか、うまくやっている子だけだ。全国の小中学校で20万人の長期欠席者がいる。「たいした数じゃないだろう」 「いろんな子どもがいるんだから、それくらいは仕方ない」などと言うやつには、ブルーハーツのように「(そんなこと言うあなたは)ヒットラーにでもなれるだろう」と言ってやろう。朝日の記事では事件を受けて教育委員会が「主体的に」第三者委員会を設置したかのように書いているが、じっさいはそうじゃないね。「(真相)解明するために一つ一つの作業を、悲しみに苦しみに耐えながらやっておりましたが、学校というあまりにも大きな組織が立ちはだかって、力のない私たちには太刀打ちできないものだということが分かりました」 「私たちは学校に裏切られ続けたとしか思えません。事案発生後学校から一切の謝罪はありませんし、今となっては、私たちは、謝罪されても受け入れるはずもないのです」 「繰り返しますが、この報告書は、事実をねじ曲げようとした学校に対し、生徒たちおよびその保護者そして第三者委員会の専心の思いで娘の名誉回復につなげた調査結果だったと思っています」 「学校・教師だけでなく、教育委員会こそが改善しないとこの学校の未来はないものと思います」といったコメントがあらわしているように、遺族の学校や教育委員会に対する不信感は並大抵のものでない。悲しみの只中にいる遺族がさまざまなものと闘った末にもぎとった報告書の結果だ。紙面の方の記事では(朝日朝刊)、いじめになぜ気づけなかったのかという問いに対し市の教育委員会は「今後詳しく検証する」と述べたとあるけど、ぶん殴ってもいいんじゃないの、こういうふざけた態度に対しては。自殺からすでに1年9ヶ月が経っても、まだ「詳しく検証」かい。今回の報告を「真摯に受け止めて」教育委員会は「「改善基本5カ年計画」を策定」するそうだが(2017/12/23 神戸新聞NEXT)、こんなやつらにできるとは誰も思わないだろ。へそで茶が沸くぜ。信号無視やスピード違反で人をはねて殺してしまった人は新聞に名前も乗って逮捕されるけど、この事件にかかわった教育委員会や学校の校長や顧問や担任は名前も公表されないし、逮捕もされないのはなぜ? 自殺した少女が何度も出したSOSを無視し、事件をもみけそうとしたこいつらは、まだ相変わらず子どもたちの教育にたずさわっていくの? おかしな話だね。「殺人」じゃなくても充分「致死」じゃないの。過失致死でも傷害致死でも何でも処罰したらいいんだよ。なんで守られているわけだ? こいつらは。この子だけのことじゃない。この学校のことだけじゃない。全国のこの国の教育という名の現場で進行していることだよ。泣き寝入りになって、表沙汰になっていないことだって沢山あるだろう。その数だけ「犯罪者」の教育者が潜伏しているわけだ。やくざみたいなもんだな、組織的には。学校に在籍している期間はわずか数年なんだろうが、思春期のいちばんやわらかな年齢で受けたダメージは深く、子どもたちのその後の人生を長く狂わせる。それを知っているのか、こいつらは? 知らないだろうな。転校したり退学したりあるいは死んでしまって目の前からいなくなくなれば、消えてしまったも同然だ。そのくらいの知能しかないんだよ。そういうやつらが「教育者」として子どもたちのこころをずたずたにしている。おまえらは数年したらわすれるかも知れないが、自殺した少女の親たちは死ぬまで苦しみがつづくんだぞ。ほんとうに分かっているのか。で、もっと最悪なのは、そういう低脳な教師しかそろえられない学校や教育委員会や文科省といった組織の腐乱度数だ。人間的でまともな教師はやめていくんだよ。学校というのは、いまやそういう場所だ。残念ながらこれからも子どもの自殺はなくならないだろう。そのたびにニュースで騒いで、「真摯に受け止め」 「「改善基本5カ年計画」を策定」するんだろう。脳味噌のない虫けらのようなやつらだな。そうじゃない、そんな教師ばかりじゃない、学校もまだ捨てたものじゃないと言うやつがいるなら、いつでも相手になるからおれのところへ来い。ふやけたネット空間じゃなく生身で会って、おまえの保険のきかない前歯をへし折ってやるよ。死んだ少女に代わって。メリークリスマス。

 

 昨年9月、兵庫県加古川市立中学2年の女子生徒=当時(14)が自殺した問題で、加古川市教育委員会が設置した第三者委員会の報告書について、遺族が文書でコメントした。全文は次の通り。

 あれから1年3カ月と月日はたちますが、私たち家族は、娘を亡くした絶望から、平穏な日常はありませんでした。

 あの日より時間は止まったままで、地獄の日々を何とか耐えるのが精いっぱいでした。直後の学校側の言動・行動に不信感を抱いた私たちは、自分たちの力で真実を解明する強い決意と、それによる娘の名誉の回復のために命を懸ける思いで、私たちだけで、解明するために一つ一つの作業を、悲しみに苦しみに耐えながらやっておりましたが、学校というあまりにも大きな組織が立ちはだかって、力のない私たちには太刀打ちできないものだということが分かりました。

 このような状況から、第三者委員会に頼らなければなりませんでした。この報告書を拝見しましたが、その内容はいろんな意味で光明を見いだす画期的な内容だと思います。

 委員会の先生方は長期間にわたり粉骨砕身の調査と尽力・労力、そして娘の名誉回復に注力をしていただき、本当に感謝をしております。そして何よりも生徒たちが真剣に事案と向き合い勇気を持って真実を語ってくれたこと、そして理解をしていただいた保護者の皆さまの協力がなければ真実の解明ができなかったと思います。本当に感謝を申し上げる気持ちでいっぱいです。

 報告書では、学校側の事後の対応について書かれていますが、私には娘の自死の原因を別の要因にすり替えようとしているとしか考えられませんでした。このようにして事実がねじ伏せられるものだ、と正直思った次第です。学校だけに調査を任せていれば、他の原因もしくはいじめの実態すら明らかにされない報告書になっていたかもしれません。私たちを救ってくれたのは、生徒たちであり、理解していただいた保護者の皆さまだったと思っています。

 報告書に書かれた学校はどうでしょうか。事案と真剣に向き合った生徒たちに比べ、生前の娘に関わっていた教師たちは、いじめではないかという疑いすらないまま、単なるトラブルとして片付けたり、娘がアセスアンケートに託した「いじめによって絶望の中にいる」というシグナルを無視したりしたのでした。私たちが、この娘のアセスアンケートの存在を知ったのは、第三者委員会の調査です。それまでは担任からも一切知らされませんでした。

 自死の原因をすり替えようとした学校の対応に関しては決して許されるべきものではありませんし、アセスアンケートも隠ぺいするなどした学校に対し強い不信感とともに憤りを持っています。報告書を見る限り、娘は学校に殺されたものと同然と考えています。なぜ、娘が生きているときに、娘の情報を私たち親に流してくれなかったのかと思うと悔しくてなりません。

 また、少なくとも、学校が娘のことを全生徒に説明した後には、いじめ実態を確認できたはずです。その事実をなぜいち早く私たちに知らせてくれなかったのでしょうか。そして、いじめを見逃したことについて謝罪ができなかったのでしょうか。こうした学校の姿勢を実際に見た私たちは、学校が本当に事実に向き合おうとしたのかと不信を持たざるをえませんでした。学校としてあるいは教員として、教え子が亡くなったことに対し、どう思っているのか? 私たちは学校に裏切られ続けたとしか思えません。事案発生後学校から一切の謝罪はありませんし、今となっては、私たちは、謝罪されても受け入れるはずもないのです。

 加害者・加担者に対しては、何らの情報もなく、現在語るべきではないものと判断しコメントは申し上げることはありません。

 繰り返しますが、この報告書は、事実をねじ曲げようとした学校に対し、生徒たちおよびその保護者そして第三者委員会の専心の思いで娘の名誉回復につなげた調査結果だったと思っています。また、全国の類似案件で苦境に追い込まれているご遺族の一助になるのではないかと考えています。

 教育委員会および学校・教師はこの報告書をどのように受け取っているのか、あるべき姿についてどのように考えているのか、子どもの命を預かっていることを理解しているのか、と問いたい気持ちです。学校・教師だけでなく、教育委員会こそが改善しないとこの学校の未来はないものと思います。

(2017/12/23 17:46神戸新聞NEXT)

2017.12.24

 

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 大阪・枚方市駅に近い関西医大の脳神経外科で、毎年一度の娘のMRI検査。娘が1歳のときに始まった二分脊椎の診療は、もともとは脳神経外科、整形外科、泌尿器科、リハビリとすべて大阪城の南、難波宮遺跡横の国立大阪病院(現在の国立病院機構大阪医療センター)にまとまっていた。当時は車もなかったので、天王寺経由で地下鉄の谷町四丁目までベビーカーをついて通ったものだ。あんまりしょっちゅう行っていたし、手術の時には何ヶ月も入院したから、いわばセカンド・ハウスのようなものだった。それが担当医師(二分脊椎の分野では最高の権威たちであった)の高齢化によって世代交代なども経て、いまでは国立大阪で残っているのは整形外科と装具だけで、脳神経外科は枚方の関西医大、泌尿器はおなじ枚方の星ヶ丘医療センターで毎月の尿検査などはその後輩医師になる郡山市内の病院とばらばらになってしまった。

 枚方までは車で1時間半ほど。富雄から、磐船神社の鎮座する交野市星田のやまあいの道を抜けていく。このあたり、いつも通るたびに「あたたかくなったら、散歩に来たいね〜」などと言っているが、いつも病院へ行くときだけで寄ったことがない。磐船神社や星田妙見宮などおもしろそうなところはたくさんあるし、それに途中の四条畷市の田原地区は以前に関西のキリシタン遺跡を巡る旅の帰りに立ち寄った、キリシタン大名の田原礼幡(レイマン)の墓碑が出土した地域でもある。

 10時前に着いて、受付をして、MRI検査が30〜40分ほど。それから画像を見てN先生の診断。1歳から何度かの手術で切除してきた脊髄神経にからんだ脂肪腫は増えていないか、あるいは癒着等の繋留によって神経をひっぱっていないか。二分脊椎症と診断された赤ん坊のときから、手術は常に改善のためではなく、これ以上悪くならないための予防措置だった。症状が出てしまったら、良くなることはない。成長期はほぼ終わりかけているので、身長による神経の繋留等はもうあまり心配ない。けれどいまでも日常的な足の筋肉の痙攣があり、このごろはごくたまにだけれど手指の軽い痺れが起こるときがあるようなので、念のためいちど、頭のMRIも撮ってみましょうということで年明けに予約を入れた。二分脊椎症の患者ではまれに頭の部分で脊髄液の通りがわるくなるケースもあるという。

 もうひとつ今回、N先生に相談をしたのが、各医療分野間の連携というか全体を把握しているものの不在とでもいったことだ。娘はこのところ嘔吐感、頭痛、微熱などの症状に、排便コントロールの不調や長引く生理痛などが重なって外出もままならず、家でもほとんどベッドで寝たきりのような状態になっていることがとても多い。心療内科や泌尿器、ときには排便の専門医、そしてカウンセリングなど、そのたびに思い当たる医療機関の診察を受けるのだけれど、当然のことながらそれぞれの医師はじぶんの分野に関してのことしか言わないし、それ以外は分からないと言う。先般、カウンセラーの先生にわたしが当たってしまったのもそうした状況に対する不満が溜まっていた部分もある。つまりいろいろな要素がからみあって現在の娘の身体的状況があると思うのだが、ビオラはビオラのパートしか知らないと言い、ヴァイオリンは木管楽器とのからみはじぶんには分からないと言い、それらをまとめて適切な指示や助言をくれる指揮者(コンダクター)が不在なのだ。そんなふうに感じている。

 結局N先生の答えも、「こういう病気を持っているお子さんは一度は通る道みたいなもので、いつかはそれぞれ乗り越えていくんでしょうけれど、いまは年齢的にもちょうどそんな時期ですね」といった(アイマイ・穏当な)もので、それはそれできっとそうなのだろうけれど、日々苦しんでいる娘を目の当たりにしている親にとっては満足できない回答であるのも事実だ。それでも対処方法については、たとえば排便コントロールについて言えば、娘が1歳からお世話になっている泌尿器科の大家であるM先生は「洗腸(お尻の穴に管を入れてぬるま湯を逆流させることによって腸内をきれいにする方法)推進者」だけれど、体力のない子どもに洗腸はあまりよくないと言う医者もいれば、じっさいに洗腸を受け付けられない患者さんもいて「M先生には“やってます”と言っているのですけど」とN先生に漏らす人もときどきいるという。要するに医師によって拠って立つ治療法も異なり、どれが絶対に正しいというものでもないし、患者によって合う合わないもあり、場合によっては医者を変えてみるということもひとつの手段である。また分野間の連携でいえば、それらも踏まえてこの関西医大でも排便の専門医がいるので紹介してもいいとおっしゃってくれた。とりあえず年明けにまたレントゲンとMRI、そして一週間後にふたたびN先生の診断、である。

 診察室を出て、会計を済ませたらちょうどお昼だ。今回ははじめてだが、車で数分ほどさきにある関西外国語大学内にあるアマーク・ド・パラディ ICCなる学食カフェに寄ってみた。無料の駐車場もあり、何より値段が安い。釜焼きのピザにサラダがついたセット、パスタ・サラダ・パンのセット、日替わりプレートなどのセットがあらかた650円。ケーキやパフェなどもあって、全体的にお洒落な感じは以前にオープンキャンバスで入った同志社大の学食カフェにも似ている。朝から気分が悪いといって車の中でも後部座席でずっと横になっていた娘も、「ちょっと食べたら元気になるかも」といっしょに食べることになった。マルゲリータと、それからちょっと値段の高い「焼き芋と林檎、四種のチーズ」のピザのセット、チキンとほうれん草のパスタ・セットを頼んで、三人で分けながら食べた。ピザはなかなかいい。あまり期待していなかったパスタもカプリチャーザ並みで、セットの塩味のパンもしっかりした生地で上出来。コスパ高し。年末も残りわずかで、店内は空いていたけれど、学生らしい女の子同士が何組か会話を楽しんでいて、娘もいつかこんな日がきたらいいなと思いながら父は眺めていたのだった。

 帰り道はくろんど池の方を回ってのんびり走ってきて、家に着いたらもう午後の3時。朝早く出て、病院はやっぱり一日がかりだ。

2017.12.27

 

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 師走のすき間に、京都・東本願寺の御影堂の太い柱にもたれてすわっていた。多くの人々が入れ代わり、内陣の厨子に座した親鸞の像に手を合わせていくのを、ぼんやりと眺めていた。そして巨大な建造物と、組織と、宗門と、腐敗と、教えをひろめ維持していくには、そうしたものもやはり必要かと考えていた。観光客らしい白人やアジア系のグループ、日本人の家族、若い友だち同士、恋人たち、そして単独で、みなお祈りをして立ち去っていく。祈りとは、何だろうな。御影堂から廊下をわたって参拝接待所ギャラリーへ行ってみた。以前、大逆事件の展示パネルをしていたところだ。ちょうど「アイヌ・ネノ・アン・アイヌ(人間・らしく・ある・人間) 北海道開拓・開教の歴史から問われること」と題した企画が展示されていた。「アイヌ民族は皇化に浴する日尚浅く、その知識の啓発が頗る低度なため」と記された「北海道旧土人保護法」。アイヌ民族が台湾や沖縄、樺太、他のアジアの人々と見世物的に陳列・展示された大正時代の「拓殖博覧会」のポスター。優生学の一環としてアイヌの聖なる墓域を盗掘し、頭蓋骨をコレクションした北海道大学の研究室の写真。その北海道大学の差別発言等に抗議して雪の中のキャンバスに座り込みをする在りし日の結城庄司氏の写真。明治初期に勅命を受けてアイヌ民族へ「物の哀れもしらぬ蝦夷人を済度したまわんとて」真宗大谷派の高僧が「御化導」する様子を描いた錦絵。そして1977年(昭和52年)、「東本願寺が日本国家と共にアイヌモシリを侵略し、精神的奴隷化をすすめた」ことに対する抗議として「世界赤軍日本人部隊 闇の土蜘蛛」によって起きた東本願寺大師堂爆破事件と、事件を「親鸞聖人の精神を喪失してきた宗門の歴史に対する、教法による批判と同じ重きをもつ」と受け止めた東本願寺側のその後の自己批判の取り組みなど。どれも気易く通り過ぎるにはひたすら重い内容だ。そして前述のアイヌ解放運動家であった結城氏の子息である結城幸司氏によるいのちが交じり合い、溶け合い、迫りくるような版画作品も魅了された。最後に売店で「アイヌ民族差別と大谷派教団 共なる世界を願って」なる冊子を買って出た。ほんの小一時間ほどの滞在であったけれど、また重たい宿題をもらってしまったなあ。

入口近くにあった知里幸恵「アイヌ神謡集」の序文がこころに沁みた。

 その昔この広い北海道は,私たちの先祖の自由の天地でありました.天真爛漫な稚児の様に,美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼等は,真に自然の寵児,なんという幸福な人だちであったでしょう.

 冬の陸には林野をおおう深雪を蹴って,天地を凍らす寒気を物ともせず山又山をふみ越えて熊を狩り,夏の海には涼風泳ぐみどりの波,白い鴎の歌を友に木の葉の様な小舟を浮べてひねもす魚を漁り,花咲く春は軟らかな陽の光を浴びて,永久に囀さえずる小鳥と共に歌い暮して蕗ふきとり蓬よもぎ摘み,紅葉の秋は野分に穂揃うすすきをわけて,宵まで鮭とる篝かがりも消え,谷間に友呼ぶ鹿の音を外に,円まどかな月に夢を結ぶ.嗚呼なんという楽しい生活でしょう.平和の境,それも今は昔,夢は破れて幾十年,この地は急速な変転をなし,山野は村に,村は町にと次第々々に開けてゆく.

 太古ながらの自然の姿も何時の間にか影薄れて,野辺に山辺に嬉々として暮していた多くの民の行方も亦いずこ.僅かに残る私たち同族は,進みゆく世のさまにただ驚きの眼をみはるばかり.しかもその眼からは一挙一動宗教的感念に支配されていた昔の人の美しい魂の輝きは失われて,不安に充ち不平に燃え,鈍りくらんで行手も見わかず,よその御慈悲にすがらねばならぬ,あさましい姿,おお亡びゆくもの……それは今の私たちの名,なんという悲しい名前を私たちは持っているのでしょう.

 その昔,幸福な私たちの先祖は,自分のこの郷土が末にこうした惨めなありさまに変ろうなどとは,露ほども想像し得なかったのでありましょう.

 時は絶えず流れる,世は限りなく進展してゆく.激しい競争場裡に敗残の醜をさらしている今の私たちの中からも,いつかは,二人三人でも強いものが出て来たら,進みゆく世と歩をならべる日も,やがては来ましょう.それはほんとうに私たちの切なる望み,明暮あけくれ祈っている事で御座います.

 けれど……愛する私たちの先祖が起伏す日頃互いに意を通ずる為に用いた多くの言語,言い古し,残し伝えた多くの美しい言葉,それらのものもみんな果敢なく,亡びゆく弱きものと共に消失せてしまうのでしょうか.おおそれはあまりにいたましい名残惜しい事で御座います.

 

◆参拝接待所ギャラリー展「アイヌ ネノ アン アイヌ(人間 らしく ある 人間)」
http://www.higashihonganji.or.jp/photo/22011/

◆連続放火・爆破事件の加藤氏が28年経て謝罪 http://riptulip.exblog.jp/1861519/

2017.12.29

 

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 大晦日の晩は古典的に家族で紅白を見て過ごした。元旦の朝が早いわたしは終盤、嵐が歌い終わったあたりでひとり寝室へ移動したけれど、娘が楽しみにしていたという Superfly の女の子がちょっとよかったかな。(平井堅のわきで踊った義足のダンサー(大前光市さん)にも、娘は熱烈な拍手を送っていて、あれ、ちょっと変わってきたのかな、と父は思った) けれど全体を通してどうしようもなく感じてしまうのは、ただただ「空虚な明るさ」だ。おいらが偏屈なだけなのかな。歌われる曲も、語られることばも、表情も、みんな明るく、頑張っていて、この世界はこのままでスバラシイといった調子があふれていて、たしかに画面の中の世界ではそれは正しい感覚なのかも知れないが、画面から飛び出した途端に、瘴気のような毒素が噴き出してそれらは忽ち無残な姿に変わり果ててしまう。ナウシカのようにマスクをしていないと、おれには生きられない世界だな。空虚な明るさに視神経もやられてしまう。やつらが見せてくれるものしか、目に入らなくなる。

 元旦は朝5時に起きて、つれあいがつくっておいてくれたおにぎり二個と、じぶんで淹れた蓮茶のボトルを持って、まだ暗い人気の絶えたしずかな道を駅まであるいた。京都行きの電車に乗って、五条通を歩いている頃には空が明けてきた。2018年の始まりだ。ことしもきな臭いショーはまだまだ続くぜ。もうじき普通選挙と治安維持法の成立か。ヘレン・ケラーが来日してこの国の人々の温かい善意に包まれていたとき、中国大陸では人々が虫けらのように無残に殺されていたんだ。

 夕方に仕事を終えて、京都駅の近鉄ホーム内で売っていたカワモリのクリームスフレチーズケーキとやらをおみやげに買って家に帰り、つれあいがつくったお雑煮とお節を食べながら、娘が見ていた芸能人の格付けクイズ番組をいっしょに見た。わたしはふだんテレビをほとんど見ないので、「ガクトって、喋れるようになったの?」と言って「それは、ツンク!」と娘とつれあいの両方に訂正され、「あれ、野口五郎も出てるのか」と言うと、つれあいがけらけらと笑い出し、娘が「あれはダイゴだよ。野口五郎って、だれ?」なぞと言われる始末だ。

 そんなふうにテレビを見ながら夕飯をのんびり食べて、ソファーで横になりながら新年の新聞を読み、お風呂のお湯を入れて浴室で、いまは服部文洋というサバイバル登山家の「サバイバル! 人はズルなしで生きられるのか」という文庫のページをめくるのが至福の時間だ。文明の助力を極力捨てて、食料もほぼ現地調達をしながらかれは日本海から上高地へ道なき道をたどりながらひとり縦走する。

 現在、山には三種類の人間がいるといわれている。登山客、登山者、登山家である。登山客とは山岳ガイドの客、山小屋の客、場所は山だけどやっていることは観光客、を指す。連れてきてもらっている人々、登山の要素の多くを他人任せにしている人々のことだ。登山者とは山にまつわるできる限りの要素を自分たちで行ない、その内容にも自分で責任を持つ人のことである。自分で何もかも行なうというのは面倒くさい。だが、真の自由とは自立のなかにしか存在しない。登山者とは自立した自由なる精神を、そのリスクを含めて知っている人のことである。登山家は登山者のなかでも登山関係で生活の糧を得ていたり、登山の頻度と内容からして、人生のほとんどを登山に賭けてしまっているような人のことをいう。

 登山者も登山家も夏の北アルプスでは絶滅危惧種だ。日常生活圏が山にまで広がっているような夏の北アルプスでは、山を志す人々は登山客に追われるようにどこか別の場所に行ってしまった。近年人は山でも街でも、年がら年中お客さんをしているのがあたりまえになっているように見える。恒常的なゲストという人生に何の魅力があるのか、私にはまったくわからない。

服部文洋「サバイバル! 人はズルなしで生きられるのか」(ちくま文庫)

 

 さしあたって、この「恒常的なゲスト」から脱落することがわたしのことしの目標だと、ハッタリをかましておこう。

2018.1.1

 

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 初詣は2日、市内の賣太(めた)神社へ行ってきた。平城京の羅城門を南下する下つ道に沿い、中世からの環濠集落の端にある古社だ。主祭神は古事記を口承したとされる稗田阿礼だが、もともとは天鈿女命と猿田彦命の二神を祀る。天鈿女命は記紀においてよく知られているように、太陽神アマテラスが岩屋戸に籠もり地上に光が失せたときに岩屋戸の前で異様なストリップ・ダンスを踊りアマテラスを誘い出した神である。鎌田東二は「新道用語の基礎知識」(角川選書)の中で次のように記している。

 天照大神に天の岩戸から出てもらうための祭りにおいて、天鈿女命は槽(おけ)を伏せて踏み轟かして踊り、神懸かりした。宮中の鎮魂祭における所作は、ひとつにはこのときの天鈿女命の俳優(わざおき)に由来し、「古語拾遺」には「凡て、鎮魂(たましずめ)の儀(わざ)は、天鈿女命の遺跡(あと)なり」とある。つまり天鈿女命は鎮魂と帰神(神懸かり)をつかさどるわけで、神と人の通路を開く神ともいえる。

 それらは、古びた秩序を侵犯し、こじあけ、新たな光をもたらす〈狂い〉の舞であったようにも思われる。天鈿女命のひきさけ、こじあけろ、侵犯せよ、というまぼろしの声が私には聞こえる。この賣太神社からほど近い田んぼのなかの県営団地で、わたしたち家族は娘が幼稚園から小学校中学年になる数年間を過ごした。いまでも車で5分ほどでいける距離なのに、久しぶりに車を寄せて、じぶんたちの住んでいた棟の集合ポストを覗いたり、仲良しだった在日韓国人のジンちゃんちを見に行ったり、二人で遊んだ公園の隅に娘が死んでいた鳩の死骸を埋めたことを突然思い出したりした。

 今日3日は、近所に住むわたしの母を誘い、つれあいと娘の四人で冷たい北風の中、午後から郡山城址をあるいた。ふだん家に閉じこもり気味の娘も車椅子にのってひさしぶりに外の空気を満喫した。犬のジップもいっしょだ。あたらしく整備された天守跡の展望台の上でつれあいが「紫乃、見てごらん。“天使のはしご”だよ」と西の方角をさして叫んだ。ことしはあのはしごをふたつみっつでも、のぼれたらいいね。

2018.1.3

 

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和歌山。つれあいの実家近く。戦時中に石切場の発破仕事で働かせられていたという朝鮮人の飯場跡を探して山ひとつ越えてきた。里山で猪に遭遇した万が一のために腰にぶら下げていた鉈のケースのベルトがちぎれてしまった。(1月6日 FB)

 

朝鮮人飯場跡と思われる場所で拾ってきた飯茶碗。形状からして茶碗とその蓋かも知れない。それなりに古いように見えるが、絵柄で年代が特定できるような手段はないものか。

  國
愛   用
  産

「國 産」 「◆◆セヨ」 「◆本(日本?)」

などの文字が見える。(1月7日 FB)

 

敗戦前後に海辺の採石場で働いていた朝鮮人家族の子どもたちが町の小学校へ通学していたという。数年前に残念ながら廃校になったその小学校の明治からの卒業名簿をまとめた冊子があるという情報をつれあいの幼馴染から頂いて、さらに調べてもらったらつれあいの実家にも置いてあるそうで、明日はそれを取りに行きがてら、せっかくだから和歌山市内の県立図書館で何か関連資料(特に採石場に関する)がないかを調べて、併せて海南市の歴史民俗資料館とやらがあるみたいなのでそこにも寄ってこようかと企んでいる。昼はこの「げんき大崎館かざまち」の二階で海を見ながらサゴシの塩焼きやおからスティックを食べてもいいしなとか。というわけで図書館の9時開館に到着したいので、今日は早めに寝ます。(1月12日 FB)

 

小学校の昭和17年度卒業生の名簿にあった、おそらく採石場で働いていた朝鮮人家族の子どもの一人だろうと思われる氏名。なんという読みになるのか、分かる方がいたらおしえてください。かれも異国のこの港の風景のなかで生きた歴史の実時間があったわけだ。日本人のたいていは忘れてしまっているけれど。

県立図書館で、運輸省がまとめた和歌山港工事事務所の「50年のあゆみ」を見つけた。そこに「大崎採石工場の思い出」と題して手記を投稿している当時内務省の係長がなんとつれあいの幼馴染の伯母の義理の父にあたる人だった。そしてその採石を船で和歌山港へ運搬する作業を受注していた株式会社淺川組の社史「70年のあゆみ」も見つけて一部をコピーしてきた。(1月12日 FB)

2018.1.13

 

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「命の輪郭を明確にすること」  それに尽きるな。この歳になっていまさら、この弛緩しきった哀れな肉体をもってロック・クライミングやハードな冬山登山に挑戦しようなどとは思わないが、希求するところは同じだ。フランチェスコが裸になって衣類を父に返したときも、かれの命の輪郭は明確だったに違いない。

 サバイバル登山では、進む距離は自分の能力と体力に左右される。その日何を食べられるかは自分の知識や釣りの腕にかかっている。決定的なミスは直接死を招く。お金にはなんの価値もなくなり、代わりに肉体が存在感を持って現れてくる。

 それは人が自分の力を発揮しなくてはならないということだ。生存を助けてくれるのは人間共通の能力であることもあれば、個人的な得意技であることもある。何にせよ、文明の機器に頼って日頃ごまかしていることを自分の頭と肉体でやらなくてはならない。

 つらく大変なことが多い。ときに楽しくてしようがないこともある。どちらにせよ、そこには命の輝きがある。少なくとも私はそう思う。山では命はそのパーソナリティを発揮する。それが唯一の生き残る方法だからだ。

 ときには自分にできないことをシビアに実感することもある。限界とは個体そのものの能力が明確になることである。生きることに直接関わる限界を実感すること。それは命の輪郭を明確にすることではないだろうか。

服部文祥「サバイバル!」(ちくま文庫)

2018.1.14

 

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  午後から娘のMRI検査があるので午前中だけ、届いたばかりの上下のサイクル・ジャージに身を包み、自転車で県立図書館へ。さすがにジーパンに比べて足回りが動きやすいし、何より袖口や首周りなど、風をほぼ完璧に遮断してくれるので実に温かい。見かけだけはいっぱしの自転車野郎だ。戦時中の朝鮮人強制労働の、とくに具体的な場所や、できれば名簿などの記載があるものが欲しい。おとといは頼んでいた海南市教育委員会のT氏から電話で、めぼしい資料は何も残っていない、という返答が返ってきた。当初はもう少し親身に話を聞いてくれたと思ったが、心なしかやけに素っ気ない。田舎町のことだ。大方、そんな面倒な話にはあまり関わるなと、どこからか一言下ったのかも知れないな。地元の役場関係の望みが絶たれたので、あとはじぶんでお年寄りたちの話を聞いて回るしか手段は残っていないが、その前にもうすこしだけ資料を固めておきたい。このクソったれの国に残っている強制労働の記録だ。林えいだい氏らがまとめ明石書店から出版された大部の「戦時外国人強制連行関係資料集」は九州の炭鉱関係がメインか、全7冊の内の3冊が当館では欠いている。ネットでよく見る竹内康人氏が編纂し、神戸学生青年センター出版部から出ている「戦時朝鮮人強制労働調査資料 連行先一覧・全国地図・志望者名簿」(2007年)は「名簿・未払い金・動員数・遺骨・過去清算」のサブタイトルを持つ補足資料と併せて、2015年の最新版が出ていると知り、帰宅後に早速Webで注文した。いまのところ、目当ての砕石場の記録は出てこない。戦争末期に各地で多くの地下軍需施設が建設され、そこに大量の朝鮮人や中国人が投入されたが、戦後になってそれらに関わった多くの企業が国に対して「国家補償金」を求める際に添付した記録もあるらしい。(「極秘・華鮮労務対策委員会、活動記録」(日本建設工業会 1947) 田中宏「在日外国人」(岩波新書)に拠る) 最終的には京都・奈良の県境にある国立図書館・関西館にて確かめようと思っているが、今日は午前中だけなので時間が足りない。ここに至るまで親身に資料をいっしょに探してくれた文書調査カウンターの女性に、声をひそめて訊いてみた。「あすこの“戦争体験文庫”って、かなりのスペースですね」 「旧の県立図書館の頃から、みなさんから寄贈された本を集めているそうです」 「行軍記録とかね。おなじ本が何冊も並んでいる」 「ええ。だいたいみなさん複数冊、寄贈されるようで」 「ひとつの棚が見たところ5段、それが8並んでいるんで40。13列が背中合わせにあるから26列。26列かける40で、えーっと1040。1040のほとんどは日本人の戦没者や従軍の記録で、わたしたちの国が他国の人々に犯した記録は、わずか1040のうちの2〜3段です。あまりにも不公平じゃないかと思っちゃうんですよね」 「まあ、あの、スペースは限りがありますし、同じ本でも貸出用と閲覧用とにも分かれていますので」 「そうですね。おなじ“皇軍記録”が何冊もあって、でもこんな、わたしがお願いした朝鮮人の強制労働に関する記録のほとんどは表には出さずに閉架にしまってあるわけですよね。これはだれの意思によるもんなんでしょうか」 ここまで来ると、もうわたしは要注意人物だ。ちょっぴりあった親密な雰囲気はたちまち搔き消えて、「まあ、とにかくご希望の書籍を出してきますので。こちらの資料は向こうの閲覧用の席でゆっくりご覧下さい」 カウンターの女性はごく事務的に言って、カウンターの奥に消えてしまった。こうなってはもう仕方がない。わたしは「片付けられて」しまったのだろう。残りものの野菜スープやベーコン巻き、それに最近十八番のオリーブ油の野菜蒸しなどで昼食を済ませてから、娘よりもいまでは父親の方がすっかり気に入ってしまった Superfly のデビュー・アルバムを聞きながら車で大阪の病院まで。頭部のMRI検査を終えて、前回ランチを食べた関西外国語大学のカフェ・レストラン Hamac de Paradis ICC でケーキセットなどを楽しみ、日が暮れる頃に帰宅した。

 

日本での朝鮮人強制連行調査の現状と課題 http://www.pacohama.sakura.ne.jp/no13/1303rekisi.html

◆神戸学生青年センター出版部 http://ksyc.jp/publish/

◆浜松の竹内康人さん、『調査・朝鮮人強制労働』(社会評論社)
http://blog.goo.ne.jp/maxikon2006/e/1b55ed345315c890311879cd17495db2

◆強制動員真相究明ネットワーク http://www.ksyc.jp/sinsou-net/

◆奈良県立図書情報館 http://www.library.pref.nara.jp/ 

2018.1.21

 

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いまではもうあっちの世界へいってしまったレナード・コーエンが、名曲「ハレルヤ」のなかで描いたセックス・シーンはこんな歌詞だ。

But remember when I moved in you
And the holy dove was moving too
And every breath we drew was Hallelujah

わたしがあなたの中でうごくとき
聖霊もともにうごく
わたしたちの一息ごとが主への賛美だった

 セックスとは、そういうものだとわたしは思っている。意識のない相手や、嫌がる相手に無理強いする欲望に、いったいどんな喜びがあるのだろうか。そして、そんな暴力に心も体もぼろぼろにされた、たった一人の人間さえ救えない社会とは、国とは、いったいなんだろうか。

 伊藤詩織「ブラックボックス」(文藝春秋)を読んだ。いちばんつよく心に残ったのは「世界報道写真展」でたまたま著者が出会ったメアリー・F・カルバートの写真――――米軍の中で頻出している一連のレイプ事件を追いかけた報道写真について語られる場面だ。上司にレイプされた海兵隊員の日記帳に描かれたリストカットされた手首の絵。IF ONLY IT WAS THIS EASY (これがこんなにも楽だったら)と添えられた言葉。 「「これ」とは、血の流れた手首の絵のことだろう。死ぬこと、この痛みに終止符を打つことを指している。そして、実際に彼女は命を絶った。」 彼女の死後、在りし日の娘の写真が置かれた空虚な部屋に立ち尽くす父親の写真はこころを締め上げる。

 事件後、私も同じ選択をしようとしたことが、何度となくあった。自分の内側がすでに殺されてしまったような気がしていた。
 どんなに努力しても、戻りたくても、もう昔の自分には戻れず、残された抜け殻だけで生きていた。

 しかし、死ぬなら、変えなければいけないと感じている問題点と死ぬ気で向き合って、すべてやり切って、自分の命を使い切ってからでも遅くはない。この写真に出会って、伝えることの重要さを再確認し、そう思いとどまった。
 キャリーさんの口からは、もう何も語られることはない。だが、一人のフォトジャーナリストのカメラを通して、彼女は強いメッセージを残した。私にはまだ話せる口があり、この写真の前に立てる体がある。だから、このままで終わらせては絶対にいけない。
 私自身が声を挙げよう。それしか道はないのだ。伝えることが仕事なのだ。沈黙しては、この犯罪を容認してしまうことになる。

 A氏は私に、「この事件の教訓は、次の事件に生かします」と言った。「次の事件」と考えた時に、大好きな人々の顔が浮かんだ。彼らがこんな目に遭ったら、と考えるだけでゾッとした。今、この瞬間にも苦しんでいる人がいる。そう考えたら、このシステムを変えようと今動かなければ、一生後悔することもわかっていた。

 もしも沈黙したら、それは今後の私たちの人生に、これから生まれてくる子どもたちの人生に、鏡のように反映されるだろう。

 レイプは魂の殺人である。それでも魂は少しずつ癒され、生き続けていれば、少しずつ自分を取り戻すことができる。人にはその力があり、それぞれに方法があるのだ。私の場合その方法は、真実を追究し、伝えることであった。
 いくら願っても、誰も昔の自分に戻ることはできない。しかし今、事件直後に抱いたような、レイプされる前に戻りたいという気持ちは一切ない。意識が戻ったあの瞬間から、自分と真実を信じ、ここまで生きてきた一日一日は、すでに私の一部になった。

 なにもこの本の著者にかぎらない。わたしたち一人ひとりにも、「もしも沈黙したら、今後の私たちの人生に、これから生まれてくる子どもたちの人生に、鏡のように反映される」ことがあるに違いない。声を挙げること、伝えることが生きることであり、そんな魂に“聖霊”も降り立ち、ともにうごく。

2018.1.24

 

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 代休の平日、奈良=京都県境にある国立国会図書館関西館へ行く。わが家からは車でわずか20〜30分ほど。むかし奈良支社に勤務していたときに仕事の関係で一度だけ訪ねたことはあるが、利用者として入るのははじめてだ。これまで県立図書館止まりで事足りていたし、またちょっと敷居が高いイメージもあって縁がなかったけれど、言ってみたらあなた、寝袋持って一週間くらいそのまま泊まりたい気分でしたわ。最初に登録カードをつくって、あとは入退館もそのカード、貸し出し・返却、そしてPC利用も、閲覧や複写の申し込みもそのカードをリーダーに読ませる。デジタル文書などはPC上でトリミングや画質調整などをして、ページを選択してPDF化し、それがカウンターに送信されて印刷してくれ、あとはコピー代を払うだけ。閲覧申し込みもどこぞのショッピング・サイトのように該当の目録をカートに入れてクリックすれば、他の検索作業をしながら、上のバーに「処理中」とか「到着済み」などが表示され、都合のいい時にカウンターに取りに行くだけ。便利になりましたな〜

 相談を受けてくれたスタッフ(司書)の方々も有能で、正直言って県立図書館との差を感じてしまった。わたしより(たぶん一回りは)年下だろう男性スタッフは「強制労働の詳しい歴史について勉強させてもらいました」と言いながらも、じぶんでもいろいろ調べられて、当時、日本へ入国した朝鮮人や中国人の労働者を管理していたのが内務省の警保局という機関であることをつきとめて、その「警保局」をキーワードに資料検索をしてくれたし、またアジア・スタッフなどの他の人たちも3名ほどの即席チームでそれぞれ目ぼしい資料がないかあたってくれた。

 そうした絞込みをしていって、わたしが主に力を注いだのが「在日朝鮮人関係資料集成」(朴慶植編・三一書房)全5巻で、それこそ一巻あたりの厚さが13センチほどある資料の中に、昭和初期から敗戦前後までの、内務省で調べ上げた在日朝鮮人に関する渡航人数、人口割合、世帯数、共産主義・社会主義等の思想や活動状況、治安維持法違反、労働者の状況、労働争議、特高警察の月報、果ては子どもたちの進学状況や成績の傾向に至るまでのあらゆる報告が記されている。但し範囲が全国に及ぶため、統計は県単位であるし、あとは記事として載っている報告の中に和歌山県に関するものを目を皿のようにして追いかけていくしかない。結局、開館の9時30分から閉館近くの5時半頃まで終日を、この資料検索に費やしたのだが、はっきり言って仕事をしている方が楽かも知れない。資料漁りはほんとうに疲れる。

 今回、この資料から見つけ出したのは、昭和9年ごろから和歌山の朝鮮人活動表の中に「大崎村共進會」という組織があったことと、それから昨年訪れた紀州鉱山の現場で病人に対する扱いをめぐって騒ぎがあり7名の朝鮮人労働者が拘束・処罰されたという報告があったくらい。その他は昭和十年代の各都道府県に於ける世帯割合の表をコピーしたり、それから全国を巡業していた朝鮮の楽劇団の動向について「民族的意識の機微を窺い居るものの如く注意を要する」ような報告に興味を惹かれたりもした。朝鮮人を労働者として使うにあたってのかれらの長所と短所とか、半島へ帰郷した際の言動など、まあ勝手なことを書きつらね、若しくはこんなところまで調べていたのかと思う部分もあり、これからのこの国の行き先を考えると過去のものばかりとも思えず、なにやら古臭いこれらの資料が急に現実味を増してきたりして恐ろしい。なべてこれらのリポートは形式的・内容は幼稚なくせに、妙に緻密で冷たく残忍だ。

 上記以外に奈良県立図書館では欠巻があった、林えいだい氏がまとめた「戦時外国人強制連行関係史料集」全4巻 (明石書店)も見たがこれはほとんどが九州の炭鉱現場の資料。また水野直樹編「戦時植民地統治資料」全7巻(柏書房)もスタッフの人が持ってきてくれたが、タイトルの通り日本国内以外の植民地での資料であるため除外。もうひとつ田村紀之「内務省警保局調査による朝鮮人人口」(経済と経済学)は東京本館のみの資料のため、後日に郵送複写を依頼するか検討する。要するに戦後、主に大手企業側が国に対して損害補償を起こした際に添付された労働記録や、あるいは労働争議、共産主義活動等の何らかの事案が起きたところは記録に残るわけだが、そうした大きな騒ぎのなかった(差別や小さな騒ぎは常にあったろうが)小規模の労働現場については、いまのところ文字として残された記録を見つけるのは困難なことなのかも知れない。

 そんななかで今回、大ヒットだったのはスタッフの方が見つけ出してくれた「在日朝鮮人史研究 14号」(在日朝鮮人運動史研究会・緑蔭書房)に収録された金静美氏の「和歌山・在日朝鮮人の歴史」という50ページほどの論考である。これは「著作権の確認が済んでいない資料のため」現在、国立図書館のデータベース上でしか閲覧できないデジタルコレクション(スキャン画像)であるため必要部分を複写してきたのだが、わたしが探している砕石場については直接触れられていないものの、ここにはおなじ下津市内に戦時中に住み、トンネル工事や道路工事などの土木作業に従事してきた朝鮮人の方への著者みずからの聞き取り記録が記されている。(「内務省の紹介で淺川組の土木仕事にありついて、朝鮮人飯場に住んだ」という証言も出てくる) 著者の金静美氏はじつはかの「紀州鉱山の真実を明らかにする会」の主催者でもあり、わたしの調査では現在でも海南市に在住している。やはり、この人にはいちどお会いしなくてはならないかも知れない。この論考では戦前、下津駅の北側に大きな朝鮮人飯場が存在していたようだ。野上や紀ノ川、下津港、由良。いまではそんな影など微塵もないのどかな田舎町だが、昭和の初期から敗戦前後まで、たくさんの朝鮮人が危険な仕事に従事し、その家族が暮らしていた。わたしが追っているのはそのうちの小さな点である。小さな点ではあるけれど、このままでは消えうせてしまう記憶の断片を取り戻しておきたい。

 そんなわけで朝から晩まで一日中、館内に閉じこもっていたので、お昼も当然ながら4Fにあるカフェ・テリアでランチである。大事なことなので事前に調査は済ませている。(食事は11時から13時半までの営業なのでご注意あれ)  とにかく、安い。カレーライスの350円を皮切りに、丼やハンバーグなどの定食・セットものでも400円〜500円。但し味は期待してはいけない。社員食堂のようにお盆をとって注文し、お金を払い、移動しながら味噌汁やご飯を受け取っていく。漬物は取り放題。紙コップはお茶ではなく、お水かお湯。わたしは日替わり丼セット、400円を頼んだ。窓の外にはちらちらと小雪が舞っている。

◆国立国会図書館 関西館 http://www.ndl.go.jp/jp/service/kansai/index.html 

2018.1.26

 

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  昨年あたりから少しづつ、残しておきたいVHSテープの画像をテレビのHDDに移して、最終的にブルーレイに書き込むという地味な作業をしている。昔の8ミリカメラで撮ってVHSに移した娘の赤ん坊の頃の動画もあれば、当時は一本一万円以上した高価な映画作品のVHSを自腹で購入したもの、いまでは入手できないミュージック・ビデオ、そしてテレビのドキュメンタリーなど、大きな段ボール箱にたっぷりの量だ。

 今日は夕食後に二階のテレビの部屋で、そのHDDに取り込んだ動画の編集作業(余計な部分を削除する)をしていたら、40分ほどの音楽ビデオのうしろに、ほんの一分ほどの短い映像の切れ端が残っているのを見つけた。極北のイヌイットの村の景色だ。何ヶ月ぶりかに顔を出した太陽についてレポーターの(たぶん)日比野克彦に訊かれた少女が、前回、最後に太陽が沈んだのがいつか覚えていない、と苦笑いしながら答えている。

 当時、わたしは20代後半だった。実家で引きこもりのようになって暮らしていた。明け方、空が白む頃まで電気スタンドの下で聖書やユングの著書などをノートに書き写し、それから昼頃まで眠った。午後から250ccの単車に乗って山へ行き、誰もいない渓流で焚き火の炎を見つめていた。そんな毎日を送っていたのだ。

 C.W.ニコルさんが遺書のつもりで書いた小説「ティキシィ」は、わたしの聖書だった。「ティキシィ」は人間の社会に馴染めない白人青年が彷徨の果て、極北の魂となってカラスに運ばれていくという話だ。この映像を撮ったのは覚えている。手元のビデオテープをデッキに突っ込むようにして録画したのだ。この愛らしいイヌイットの少女と共に暮らしたい。そしてじぶんの魂も極北のカラスによって運ばれたい、と願ったのだった。二十数年ぶりの再会だ。

2018.1.31

 

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 休日、昼前からJR電車で環状線の天満駅へ。日本一長いといわれる天神橋筋商店街の入口でもあるが降りたとたん、梅田から近いのにすでに空気は鶴橋か生野か京橋かブレードランナーの近未来都市スラムか、でじつにわたし好み。いいね、こりゃ。下調べをしていたグリーン・カレー専門店「メティ」。やけに人通りが多い駅からの狭いアーケード通路の前で待っていたら、やがてお店の女性が看板などをセッティングし始めて開店、11時半。入口の分厚いビニールのれんをくぐると、客席10人ほどの小さな店。ここでグリーン・カレー・ラーメン、790円。麺を食べ終わったら、ターメリック・ライスの換え飯100円を残りのスープに入れてリゾット風に。クリーミーでピリ辛。インゲンや茄子などの野菜もぴったり。お店の対応は少々クールだけど、こんどはつれあいを連れて再訪したいな。

 食後はやはり駅近くの国労大阪会館へ。本日のメーン・ディッシュ、海南島近現代史研究会の「第21回定例研究会」の会場。参考まで、当日のプログラムを下にあげておく。海南島は東シナ海北部に浮かぶ四国ほどの大きさの島で、現在は中華人民共和国海南省の大部を占める。紀州鉱山での朝鮮人強制労働を調べているうちに、おなじ石原産業(本社:大阪)がこの海南島で経営していた鉱山でも朝鮮半島からたくさんの人々が強制連行・強制労働させられ、多くの虐殺事件があったことにたどり着いた研究会の方々が、それから毎年のように現地調査を行い、多くの資料にあたり、生存者が限りなく少ないなかで老人たちに聞き取りを続けてきた。その地道な成果の定期報告会である。以上のような経緯から、会のメンバーはほとんど「紀州鉱山の真実を明らかにする会」とおなじようだ。昨年の紀州鉱山の追悼会で挨拶をされていたおなじ顔ぶれが見える。ややこぶりの教室ほどのスペースで、参加者は総勢20名ほどといったところか。

 

 あそこ(海南島)に行って帰ってきたひとは何人もいない。いっしょに行った150人のほとんどが死んだ。揮発油を山の中のあちこちにもすごくたくさん積み上げた。見えないように、たくさん貯蔵してあった。(その仕事をしたのは)ぜんぶ韓国人だ。

 朝鮮人を殺すのをわたしたちに見せるんだ。地面を大きく掘った穴のまわりに殺す人間を座らせて、頭を下げさせる。日本人が日本刀で頸を切ると、のどのところが切られないでつながっていて、頸が落ちるその衝動で身体ごと、穴に落ちていった。犬死によりもひどかった。死体は、木と積み上げて揮発油をかけて燃やした。

(韓国KBS「海南島に埋められた朝鮮の魂」(1998年8月31日放送)より

 

 「日本が海南島でおこなったおびただしい侵略犯罪(住民虐殺、土地・資源の略奪、食料・家財・家畜のかっぱらい、軍体制奴隷、性暴力)は、日本の軍事占領がもたらした偶発的で副次的効果ではなく、日本が海南島を軍事占領した目的そのものであった」という斉藤日出治さんの指摘は衝撃的だった。かれは1938年に制定された「国家総動員法」は帝国日本内部だけでなく、アジアの占領地まで広げられていったと言う、「つまり、アジア全域の規模において、「国防目的達成ノ為」「人的及物的資源ヲ」有効に「統制運用」する体制が整備されていく」 その後、「大本営」が発した「南方占領地行政実施要領」等の文書はその通り、国防資源を略奪し、軍の自活のために必要な物資を現地で略奪し、現地の抵抗や不満があっても極力押さえ込め、と記している。それが「大東亜共栄圏自給自足体制」の内実である。まさに「殺しつくす」「焼きつくす」「奪いつくす」ために、日本は軍を進めた。

 現地取材の中で「そんなことを聞いて、いまさらどうするんだ?」と詰問されたという佐藤正人さんの体験も印象的であった。向き合い、伝えていく責務がじぶんたち日本人にはある、という言葉をかれはしぼり出す。トンネル工事に従事した朝鮮人が殺された三重県の木本事件、強制連行された多くの朝鮮人が死んだ紀州鉱山、そしてこのいまだ全容すら明らかでない大虐殺の海南島。すべてのトンネルはつながっていて現在をつらぬいている、と佐藤さんは言う。同時に、10年前頃から「証言者が(亡くなって)いなくなる」という恐怖を覚えながら、この10年を過ごしてきた、という言葉も重い。わたしたちはいま記憶の瀬戸際に立っている。

 ゲストで招かれた、大正区で関西沖縄文庫を主催している金城薫さんの「琉球処分は続いている」と題した話も興味深かった。みずからの名前を「キンジョウ」は日本読みであって、ほんとうはわたしの名前はカナグスクーなんです、それがわたしのほんとうの名前ですと紹介し、自己防衛とは外部に対して閉じることだと、沖縄を表へ出すと差別されるとした世代に抗いながら、かつてこの国の求人に「朝鮮人、琉球人、おことわり」の張り紙があったという話、また金城さん自身が少年時代を過ごした尼崎で沖縄の人々の集落と、在日朝鮮人、被差別部落のそれぞれの集落が隣接し、ときに混住していた話などを聞かせてくれた。「わたしはこういう活動をしていると、学者や活動家の方々と対談をしたり集会に招かれたりすることが多いけれど、いわゆる活動をされている方々とはどうしても馴染めなかった過去がある。だからわたしは学者でも、活動家でもありません」と言う言葉を聞いて、好感を抱いたものだ。

 和歌山の海南市に住む主催者の一人でもある金靜美さんともお話しする機会を得たが会の進行の合間で、また終了後は懇親会の段取りなどもあり、途切れ途切れの会話であった。わたしが国立国会図書館のデジタルアーカイブで見つけた「和歌山・在日朝鮮人の歴史 その1 解放前」について触れると、「あら、著作権はどうなっているのかしらね」と返してから、「あれを書くのはとても苦労をした」と話してくれた。下津町に現在残っている朝鮮人部落についても、当時のことを知っている高齢者はおそらくもう誰もいないだろう、とのことであった。大崎にはよく行くが朝鮮人飯場のことは知らなかったと言い、わたしが持参したイラレで作成した現地調査の地図を興味深そうに見てくれた。彼女はわたしが送った手紙も読んだが今回の定例会の準備に追われていてと言い、また昨年の紀州鉱山の追悼式に参加したときにフェイスブックに書いたものをわたしが会のメールアドレス宛に送ったのだが、「それも読んだけれど、どんな人か分からなかったので」返事をしなかったと答えた。忙しそうだったので、個人のメールアドレスを書いた名刺も改めて頂いたし、「またあとでメールします」と言って会場を後にしたのだった。

 報告がすべて終わり、最後に一人ひとりに回ってきたマイクを持ってわたしが話したのは、会のみなさんの高齢化、如何に若い世代に引き継いでいくかということと、圧倒的多数の日本人が知らないこれらの研究成果を、枠を飛び越えて如何に広げていくか、ということが大事な課題ではないかと思うといった内容だった。大逆事件についても、朝鮮人強制連行についても、30年40年もの長きにわたって粘り強く調べ、ときに国家制度と闘い、顕彰と追悼を続けてきた人々の熱意と努力にはほんとうに頭が下がる。時間と機会があれば、それらはいったい何に拠って立っているのかを、膝を交えてじっくりと聞きたいくらいだ。けれども同時にわたしは、かれらの活動がまとっている微量な閉鎖性の匂いも嗅いでしまう。一方でわたし自身の交流性のなさも自覚する。今回も会の終了後に、わたしの後ろに座っていた男女が「(奈良県)橿原の部落解放同盟の者です」と挨拶をしてくれたり、年配の男性が携帯番号やメールアドレスを書いた紙(「ご飯150g」「普通食」など印字された病院食のカードだった(^^) をくれたりしたが、わたしから連絡をすることはまずないだろう。わたしはたぶん、(性格的にも)かれらのなかに入ってはいけないし、かれらにとってわたしはどこの馬の骨とも分からない人物であることも間違いない。出会えるとしたら「境界線上」で、だろう。わたしは、そう認識している。

 会場で販売していた貴重な資料を二冊、購入した。ひとつは「紀州鉱山の真実を明らかなする会」が発行した「パトローネ特別号 海南島で日本は何をしたのか 虐殺・略奪・性奴隷化、抗日反日闘争」なる小冊子(600円)である。小冊子とはいっても50ページの中に写真も豊富で海南島での歴史を一望するにはちょうどいい。もうひとつはゲストの金城さんたちが出版された「人類館 封印された扉」(演劇「人類館」上演を実現させたい会 アットワークス 2005年/2200円)。 1903年(明治36年)、「大阪・天王寺で開かれた第5回内国勧業博覧会の「学術人類館」において、アイヌ・台湾高砂族(生蕃)・沖縄県(琉球人)・朝鮮(大韓帝国)・支那(清国)・インド・ジャワ・バルガリー(ベンガル)・トルコ・アフリカなど」のじっさいの人々を「展示した」、いわゆる「人類館事件」についての450ページに及ぶ大部の本である。金城さんは「わたしたちはずっと「人類館事件」と教わってきたが、調べていくと当時は「事件」ですらなかった、そのことが事件だ」と仰っていた。至言である。この人類館の写真や当時のポスターなどをわたしは偶然だがつい先ごろ、京都:東本願寺のしんらん交流館ギャラリーの展示で見たばかりだった。いろいろなものが数珠つなぎに招ぎ寄せられる。

 

 紀州鉱山の真実を明らかにする会が海南島における日本の侵略犯罪の「現地調査」を始めたのは1998年6月でした。2007年8月に創立された海南島近現代史研究会は、この年9月〜11月に最初の海南島「現地調査」をおこないました。これは紀州鉱山の真実を明らかにする会としては14回目の「現地調査」でした。2017年12月に、紀州鉱山の真実を明らかにする会としては32回目、海南島近現代史研究会としては19回目の「現地調査」をおこないました。

 これまで20年間(1998年〜2017年)、わたしたちは、海南島で日本の侵略犯罪の実態を調査するとともに、海南島における抗日反日闘争の軌跡をたどってきました。

 アジア太平洋全域における国民国家日本の侵略犯罪を明らかにし抗日反日闘争の歴史を追究する実証的な民衆史の方法について話し合いたいと思います。

主題:日本の侵略犯罪・アジア太平洋民衆の抗日反日闘争

■報告 20年間(1998年〜2017年)、32回の海南島訪問の途上で 佐藤正人

■報告 琉球処分は続いている 関西沖縄文庫 金城馨

■報告 海南島に連行された朝鮮人と台湾人の歴史 金靜美

■報告 海南島における日本の侵略犯罪と「大東亜戦争」 斉藤日出治

■報告 極東国際軍事裁判文書に記録されている日本軍の海南島侵略犯罪 日置真理子

■報告 「ピースおおさか」の侵略の事実隠しに対抗する裁判闘争 竹本昇

■討論 国民国家の侵略犯罪と抗日反日闘争

 国民国家日本の歴史はアジア太平洋侵略の歴史でした。この時代は全世界的な規模でいまも終わっていません。海南島近現代史に内包されている世界近現代史における国民国家の侵略犯罪の全容をいかに明らかにしていくかについて話し合いたいと思います。

■調査報告 第19回海南島「現地調査」(2017年12月)   佐藤正人

 海口市新海地域、海口市三江镇上雲村・咸宜村・攀丹村、蘇民村・北会鋪村、澄邁県仁興鎮霊地村・仁坡村・石鼓村・嶺崙村、屯昌県烏坡鎮四角園・美華村・田浩村、坡田村・尖石村・烏石坡村、屯昌県枫木鎮岑仔木村、瓊中黎族苗族自治県中平鎮報南村・土平村、五指山市南聖鎮文化市・什赤村、保亭黎族苗族自治県加茂鎮・保城鎮・新政鎮番雅村、三亜市回新村、瓊海市中原鎮長仙村などでの証言を報告します。

■2018年3月の海南島近現代史研究会の20回目の海南島「現地調査」について

 

◆グリーンカレー専門店 メティ https://tabelog.com/osaka/A2701/A270103/27059437/ 

◆海南島近現代史研究会 http://www.hainanshi.org/

◆関西沖縄文庫 http://okinawabunko.com/about/28.htm

◆第13回ドキュメンタリー大賞ノミネート作品 『よみがえる人類館』 沖縄テレビ制作http://www.fujitv.co.jp/b_hp/fnsaward/backnumber/13th/04-171.html 

◆アットワークス http://www.atworx.co.jp/works/pub/11.html 

 

2018.2.3

 

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 とにかく画面が美しい。月の光だけを浴びて流れる夜の川、増殖する生物にも似た空撮の山々の緑。樹々、空、水、風、石ころや土、すべてがほんものだ。むかしからオオカミが好きな娘と二人で見に行った。オオカミはもともと愛情深い動物なのだ、と娘がおしえてくれたエピソード。人間に馴らしたオオカミを学校の体育館へ連れて行くと、たくさんの子どもたちの中で必ずいじめられたりして孤立している子を見つけ出してすりよっていく、という。作品はそんな“失われた魂”をもとめる男を描いていた。渋い年配男が好きな倒錯娘は、孤独な猟師を演じる藤竜也にすっかりこころ奪われて、最後はさながらクレージー・キャッツのシビレ節のようになっていた。けれど、上映開始のはじめての日曜で客席はわずか10人ほど。能天気なハリウッド映画ばかり見ていると馬鹿になるぞ。おい、日本人よ。

◆最後のニホンオオカミ http://www.enyatotto.com/nature/animal/nihonookami/nihonookami.htm

◆映画「東の狼」 https://ldhpictures.co.jp/movie/higashinoookami/ 

2018.2.4

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 金曜の仕事中に喉の違和感を覚えて、土曜日は朝からコーヒーを淹れてリビングの扉の丁番部分を削って調整したりしていた頃は普通だったのだけれど、娘と二人でお昼を食べてからひどい下痢をして、それからどうにも思わしくない。熱はあまりないようだけれど、喉とときおりの鼻水、全身のけだるさ、そして胃がきりきりと痛む。そろそろ書いておかないと機を逸してしまうと、先日の海南島の定例会の模様を文章が雑になるのは仕方ないとこの際割り切って書き上げ、それから娘に、お父さんはちょっとしんどいので横になろうと思うが、ちゃんとパジャマに着替えてベッドに入るのと、テレビの部屋で炬燵に入って映画を見ているのとどちらがいいだろうか、と訊ねた。どっちでもいいんじゃない、と娘が興味なさそうに応えるので、いや違う。ベッドに入っていたら仕事から帰ってきたお母さんは驚いて「まあ、お父さん、大丈夫?」とやさしくしてくれるだろう。けれど炬燵に入って寝ていたら、ぐうたらのように見えるだけだ。すると娘は軽いため息をついて、どっちでもお母さんは変わらないと思うよと言うので、変わらないんだったら炬燵に入って寝ておくわ、と父は階段を二階へのろのろとあがった。

 そうしてちょうどVHSのビデオから内臓のHDDへ取り込んだ、最後のほうは何が入っているかも分からない画像をいくつか寝ころんで見たのだった。どれも10〜20年は経っているものだ。いわく星野道夫の生涯をたどったNスペ、映像の20世紀の福岡、街道を往く・紀ノ川沿い、「男はつらいよ」の最終回ロケを取材したNスペ。ギドン・クレーメル&アルヘリッチや、ベーム&ポリーニのモーツァルト、ポゴレリッチなどのステージも見た。最後はこれは比較的あたらしい、金城実の「沖縄を叫ぶ」のETV特集。一気にずいぶんと見たものだ。もっともところどころ、うつらうつらとしていた部分もあった。一度、娘の中高時代の友人であったHちゃんが出てくる夢を見た。Hちゃんは娘とおなじ演劇部で親友のようにふるまっていたが、じつは二面性のある女の子だった。そのHちゃんがこちらへやってきて、シノちゃんのお家で前に見せてもらった地層の表が学校と違うのはなぜだろう? 真顔で訊くのだった。わたしがそんな返答をしたのか覚えていないのだが、Hちゃんが悩みを抱えているようだったので、過去のことは忘れてそれなりにちゃんとした説明をした。すこし離れたところにHちゃんのお母さんもいたが、こちらを避けているようだった。やっぱり、大人はだめだ、と思ったのを覚えている。

 

 アラスカの自然を旅していると、たとえ出合わなくても、いつもどこかにクマの存在を意識する。今の世の中でそれは何と贅沢なことなのだろう。クマの存在が、人間が忘れている生物としての緊張感を呼び起こしてくれるからだ。もしこの土地からクマが消え、野営の夜、何も怖れずに眠ることができたなら、それは何とつまらぬ自然なのだろう。(星野道夫)

  まずはこれだ。熊に食い殺された男が言っていたこんな言葉に慄然とする。だが、当たり前のことだ。わたしたちの方が、この当たり前を忘れている。

 

 そしてもうひとつ。こっそり抗がん剤を服用しながら挑んだ寅さん最後のロケで、どうして役者になったか? とNHKの若いスタッフに訊かれて渥美清はいつものあの含蓄あるしずかな笑みを浮かべてこう答えている。いろんな仕事をやって、「もう二度と来るな」と言われたことは何度もあるけど、結局、求められたってことなんだろうねえ。役者をやって、はじめて必要とされた。

 

 これが三つ目。沖縄の抗う彫刻家の言葉。

 悲しみをのり越える方法のひとつに肝苦さ(ちむぐりさ「他人の痛みを自分の痛みとする意の沖縄言葉」)をくぐってきた者のみが勝ち得た「笑い」というのがある。わが念仏、わが沖縄。人類普遍の文化である「笑い」をたぐっていくと、屈辱の日々をなめつくし、肝苦さをかいくぐってきた者たちが、限りなくにんげんの優しさというやつに近づこうとしてはじかれていく。くるりと向きを変えた笑いが毒気をおびて逆転を狙う。まさにそのときである。にんげんに誇りが見えてくる。(金城実「神々の笑い」)

 

 これら三つの言葉がつきささり、体調不良のおぼろな空間のなかである種の化学反応を起こしている。

 星野道夫の番組で、喋るボブ・サムの映像を見れたのも感激だった。ボブ・サムのことは大昔から知っている。20代のころ、ネイティブ・インディアンにはまっていて、一時は本気でかれらのネーションを訪ねようとも考えた。アラスカ先住民の指導者の家系に生まれたボブ・サムは若いころ、白人たちからの差別のためにアルコールや薬物におぼれた。その後、毎晩のように頭蓋骨が蹴飛ばされ助けてと叫んでいる夢を見たことから出身地へ帰り、荒れ放題だった先祖たちの墓をひとりでこつこつ修復しはじめた。10年の間、たった一人で。やがて墓地がきれいになっていくにつれて、住民たちが誇りを取り戻すようになった。ボブ・サムはそれを一人でやり遂げたのだ。この話はそのまま、金城実さんが大阪・住吉にある夜間学校で在日のオモニたちに彫刻を教えたことにもフィード・バックする。最初はやる気のなかったオモニたちは渋々じぶんの母親の像をつくるうちに、いつのまにか母国語が飛び交い、熱を帯び、朝鮮人民族のアイディンティティを取り戻していったという。そういうものがうつろな頭の中をぐるぐると回っている。

 わたしはボブ・サムになりたい。くだらない周囲のすべてを忘れて、毎日一人でだれとも会話することもなく、先祖たちの墓場の草を刈り、石を積み、土を運び、そして夕暮れには祈りを捧げて帰宅する。ニセモノでない、じぶんのいのちを見つけたい。

2018.2.11

 

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 三連休をほとんど寝てすごして、やっと平日の火曜に近所の病院で薬をもらい、インフル陰性のお墨付きをもらって、翌日にさあ仕事へ行かねばと思っていたらその夜から突如として、左足の膝が痛みだした。寝ていて、足の位置をちょっと変えようとしただけで飛び上がるような激痛がはしる。掛け布団が水をぱんぱんに吸って凍りついた厚い壁のように感じる。もちろん階段の上下もままならない。片膝を曲げられないので、一段づつ、よちよちと上り下りする情けない状態。で、仕方ない。水曜の今日はもう一日仕事を休んで、朝から車で近くの総合病院の整形外科を受診した。レントゲンを撮り、医者の説明を要約すれば「年相応だから、仕方ないね。白髪や皺が出るのとおなじようなこと」というのだった。関節部分については「年相応に磨耗している」が、特別ひどい状態というわけではない。風邪をひくと身体の節々が痛くなったりするが、今回はおそらくそういうことと連動しているだろう、という話であった。「じゃあ、これからこうした症状と騙しだましつきあっていかなきゃいけないってことですか」と訊けば、そんなことはない、今回はたまたま出てしまっただけ、みたいなことを言う。そういえばよくよく思い出すとここ数年、歩いていてこの左足の膝に軽い違和感を覚えることが何度かあった。そういう弱い部分が、体調が悪いときに露呈するのだろうな。わたしより7歳年上のつれあいが以前に似たような状態になってあまりにひどいので膝に注射を打ってもらったら、注射はものすごい痛かったが痛みは嘘のようになくなったという話を聞いたものだが、まさかじぶんもなるとは思ってもいなかった。足腰はそれなりに自信があったのでショックだったな。歩けないと、ほんとうにすべてのことが情けなく思えてくる。娘はいつもこんな感じなのだろうと、いまさらながらに考えてしまったり。それにしても、年をとるということはこういうことか。本人はまだまだ快調な新造船のつもりでも、船底には貝殻や海藻がこびりつき、塗装は剥げ、材は萎えて、やがてどこからか水漏れもするようになるのだろう。

 前半はしんどくて読書をするような余裕もなかったが、昨日今日で大部の「エンデュランス号漂流」(山本光伸訳・新潮文庫)を読了した。読み終わったばかりの文庫を、すでに娘の手がかっさらっていった。何十遍死んでもおかしくなかったような、この生存を賭した気が遠くなるような歳月をわたしも味わいたいとは思わないけれど、それでもかれらの懸命な生き様を克明につづったこの百年前の記録から離れることは、わたしにはとてもさみしく、いとおしいのだ。偶然だけれど巻末の解説で、かの星野道夫がアラスカでの危険な旅の伴侶にこの英語版(まだ日本語訳は出ていなかった)をたずさえて、折りあるごとにページをめくったというエピソードを見つけたのも不思議な符合を感じる。感じたのは自然の圧倒的な力、そのなかのちっぽけな人間の存在、そして whatever it is that makes men accomplish the impossible (人間に不可能なことを成し遂げさせる何ものか)。たしかに、人生でかけがえのない一冊。

 ダウン中は家のことはとにかく何もしなかった。ちょうど娘も生理がきて、父娘が二体のサナギのように動かない間、つれあいは犬猫の世話も含めてあらゆることに一人奔走していた。今日は夕方、せめてもの罪ほろぼしに昨年同様、(無農薬を頂いた)塩レモンをこしらえた。

2018.2.14

 

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  いろいろイベント目白押しだったのだが、最近は週末のたびに出かけて家は放ったらかし、先週も風邪で放ったらかしと続いていたので、今週末はどこにもいかないで家のことをあれこれと。

 庭のゲート看板を塗り替え、ガーデンハウスやゲートの高所部分のペンキも脚立に乗って塗り替え、自転車置き場のガスメーター目隠しに一部手を加えて、ガーデンハウス内にサイクル用品のぶら下げ場所をつくって、リビングの丁番調整をして、夕方は何となく気分で庭に掘った生ごみ用の穴で焚き火をして、夜は娘と二人でふたたびふわとろオムライスをつくって食べた。

 そんな一日。

2018.2.17

 

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 娘がコナンの4DX映画を見ている間、車に積んできた自転車で新ノ口周辺を散策。寺川沿いの堤を東へ走り、川沿いの竹田神社は多神社の若宮とも云う。火明命、天香久山命を祀るとするが、じつは夏至の日の出が箸墓の方向であることから古代の太陽神の性格も。さらにすすむと旧耳成高校の校舎、リニューアルして現在は奈良県橿原庁舎として利用されているが、屋上が休日も一般開放されている。シースルーのエレベーターであがれば、奈良盆地の360度全方位を見渡すパノラマが広がる。大和三山を見下ろすバード・ビューは神の目線か。しばらくすすんで、三輪山のふもとの大鳥居を視認してから北側の平地をもどってきた。せまい集落の路地の奥の十市御縣座神社。高市・葛木(葛城)・十市・志貴(磯城)・山辺・曾布(添)の大和国六御縣(むつのみあがた)神社に数えられる一社。新ノ口の駅前で近松門左衛門の浄瑠璃「冥土の飛脚」の碑を見て、多神社を目指すが手前の須賀神社でタイムアップ。映画館へ戻って娘と合流し、娘のリクエストで大蛇に化した娘「こまの」の伝説が残る八条村の菅田神社を散策、嫁取橋なども見て、佐保川沿いの堤に車を止めてスーパーで買ってきたおにぎりやパンのお昼を食べて帰ってきた。

2018.2.18

 

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 休日。娘のリクエストで「奈良 まぼろしの古代・刀鍛冶“天国(あまくに)”をめぐるツアー」へ。以下、ウィキよりひく。

天国(あまくに)は、奈良時代または平安時代に活動したとされる伝説上の刀工、またはその製作した刀のことを指す。
天国は日本刀剣の祖とされるが、その出身、経歴には謎が多く、大宝年間の大和国の人とも、平安時代後期の人とも、複数人存在したとも言われ、諸説あるものの、実在の人物であるかどうかは定かではない。日本国現存最古の刀剣書である『観智院本銘尽』では、「神代鍛冶」、「日本国鍛冶銘」、「大宝年中」、「神代より当代までの上手鍛冶」の各項目で取り上げられており、当時から名工として扱われていることが窺い知れる。

また一伝承によれば、天国は日本刀初期の名工である三条宗近の師であったともされる。天明4年(1784年)の『彩画職人部類』の「鍛冶」の項では、天国とともに鍛冶を行う年若き三条宗近の挿絵が掲載されている。
奈良県内には天国の居所に関する伝承が残されている。

奈良県高市郡高取町字清水谷の芦原峠北側にあった尼ヶ谷集落(大和国高市郡清水谷村字アマクニ)には、天国が作刀した地としての伝承が残されており、刀工の名が尼ヶ谷の地名の由来とも伝えられる。現在同地の集落は消滅したが、作刀の際に使用したとされる井戸が、当地に存在した元・天国三輪神社に残されている。同社は天国の守護神である大神神社の大物主の分霊を祀っていたとされており、現在、同字にある高生神社に遷され合祀されている。

奈良県宇陀市には天国が作刀した地としての伝承が残されており、市内の菟田野稲戸にある八坂神社には作刀の際に使用したとされる井戸が残されている。

◆Wiki 天国(人物) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%9B%BD_(%E4%BA%BA%E7%89%A9)

◆ 『明治二十四年官幣社明細帳(高市郡神社明細帳)』 奈良県庁文書、1879年、26頁
http://meta01.library.pref.nara.jp/opac/repository/repo/672/?lang=0&mode=&opkey=&idx=

◆『たかとり社協だより第14号』社会福祉法人高取町社会福祉協議会、2012年、1頁
http://www.takatori-shakyo.jp/syakyo14.pdf 

 また後述する宇陀の八咫烏神社(榛原高塚)の由緒には境内から東の方向、「まるで鳥居が額縁になった一枚の絵のように美しい山の稜線」と描かれる伊那佐山の“いなさ”とは“東南の風”の意であり、製鉄に由緒ある神社の多くは東南向きに建てられていると記す。つまり、伝説の刀匠“天国(あまくに)”の伝承には製鉄(たたら)や金属精錬にたずさわった、いにしえの集団の記憶の匂いがする。であるとすれば国中(奈良盆地)から奥吉野・紀の川へ抜ける要害の地であり、かつて悪疫病の侵入を防ぐ疱瘡神を祀ったといわれる芦原峠の集落にかれらの伝承のはしくれが残されているのも腑に落ちる。前述の宇陀の地も、神武東征や壬申の乱といった古代の匂いが色濃く残り、また芦原峠とおなじように国中から伊勢へとつづく東の要所の地ともいえる。

 飛鳥を抜けて壺坂山へ至る山道のとば口にある位置する高生(たかばね)神社は、いまは廃された元天国三輪神社に祀られていた大物主櫛甕玉命を遷した神社とされているが、もともとの祭神である瀬織津姫命も不思議な存在で、そもそも古事記や日本書紀には出てこない「抹殺された」神である。ニギハヤヒとの関わりを言う人もいるが、実際のところはよく分からない。高取の古い集落の裏手の小高い岡に座す神社で、車一台がやっとの狭い路地をうねうねとくぐってたどりつくのにまず苦労をした。それから見晴らしのよい長い石段をあえぎあえぎのぼっていく。のぼりついた先は、まるでちいさな高天原かと思えるようなすっきりとした明るい平地で、そこに重厚な石の祭壇に君臨する古びた社殿が並んでいる。人の気配が皆無で、どこか居心地がいい。古代のいわゆる聖地には、よくこんな場所がある。「良いところを見つけてるよな〜」という感じなのだ。

 元天国三輪神社の正確な場所についてはWeb上での手がかりも少ない。奈良県立図書館のデジタル・アーカイブ『明治二十四年官幣社明細帳(高市郡神社明細帳)』によれば所在は「高市郡清水谷村字アマクニ」で「氏子 八戸」とあり、明治42年に高生神社への合併が許可されたといった記載のみで、この「字アマクニ」についてはWikiの芦原峠の項目中にわずかに、高取と大淀を結ぶ芦原トンネルによって廃れた旧道沿いのどこかであるこの芦原峠付近にかつて存在していた集落らしいとわかるぐらいだ。他には2012年に発行された 『たかとり社協だより第14号』(社会福祉法人高取町社会福祉協議会)のPDF資料に、清水谷の区長の紹介として場所は定かではないがいまも村内に残っているという元天国三輪神社と作刀の際に使用したとされる井戸のカラー写真を見つけたのは大きな収穫だった。そこで高取町観光案内所「夢創舘」と教育委員会へ電話で問い合わせてみた。出発の日の前日の昼休みである。結果として「夢創舘」の職員の方からメールで、手書きの地図が書かれた「夢創舘通信」を送っていただいた。文面をそのまま以下にひく。

◆我が町の歴史大発見 名刀「天国」(あまくに)誕生 日本刀発祥の地・清水谷尼ヶ谷

 今の尼ヶ谷(元禄九年頃より文化四年頃までは天ヶ谷)はその昔、天国(あまくに)ヶ谷の地名であり、「ここに我国古今に通じる刀匠界の泰斗天国居住し幾多の名刀を鍛えし所なり」と伝わる。今より1300年余り前のことである。

 この地には、明治42年まで天国三輪神社が奉祀され、刀匠天国の守護神とされている。今なお拝殿・鳥居・石燈篭などがあり、往時の様子を残している。なお、近くには、「焼刀の井」と称して清水をたたえる井戸があり、その付近には「天国鞴場(あまくにようじょう)跡」なる所が残っている。毎年11月15日には鍛冶を職とする人々が、遠近より来たり、井戸水や鞴(ふいご)場の土を持ち帰るものも少なからずという。

 ここには明治まで、「天国鍛冶鞴跡」なる建札が立っていたとのこと。

 伝書によれば、人皇13代文武天皇御字に剣を刀に作らせるよう刀工住野井国太郎と申すものに勅命し、「天国」と称す、ここに日本刀初の誕生である。

※高取町史、高市郡神社誌、高市郡志料、天ノ谷村東惣兵衛氏記録書等 資料より

(投稿) 清水谷 西川 雅三

 奈良盆地から芦原トンネルをぬけて南下すると、じきに左手に大淀の道の駅が見えてくる。今日の目的地はトンネルを抜けたすぐの「芦原」交差点を西へ曲がり、隣接するゴルフ練習場を巻くようにトンネルの方へターンしていく。じきに二股に分かれた道を左へ進む。右の道はおそらく旧道だろう。しばらく行けばわずかな集落があり、道は途中で舗装が途切れているのをグーグルのストリート・ビューで確認済みだ。左へすすんでもじきに行止まりだった。田んぼの向こうの山のへりに土蔵を抱えた旧家があり、土塀の前に洗濯物がはためいている。車に娘を残して、来た道を徒歩でもどりながら地図の示す東側の植林の山間を目で追いながら下っていった。二股のところまで戻ったあたりで、遠くの尾根筋の方になにやら建物らしいものの影が見えて、暗い谷筋の道なき斜面をときに木の枝や植物にしがみつきながらのぼっていった。と、山中の尾根筋の杣道に出た。空き家らしい平屋の家があり、そこから道を北へたどるとトタン板で境界をしきった民家があり、犬が吠えていた。路傍の石仏を祀っている小祠があり、その先は丘陵の突端のわりとあたらしい墓地だった。引き返すとしばらく暗い樹林帯を下っていき、谷筋の手前に「太皇宮」と書かれた石燈篭が立っている。その谷筋の奥へすすんでみたが、荒れた暗い杉の植林ばかりだった。

 あきらめて引き返してさらに道を下ると、車を停めたあたりへもどってきた。仕方ない。民家の土塀の前でごめんくださいと声をかけて、返事がないので敷地の中へ歩をすすめて玄関先でもういちど声をかけると、うす暗い土間の奥のガラス戸の向こうから返事がかえってきた。和歌山の義母とおなじくらいの年齢だろうか。元天国三輪神社を探していると訊くと、気さくな感じで出てきて教えてくれた。家の南側の小道を行けばものの2、3分だという。「お参りさせてもらっていいでしょうか」と訊くと、どうぞどうぞと笑って言い、明治の時代に祭神は高生(たかばね)神社に移ったが跡を放っておくわけには行かないので、いまでは残っている二軒の家で交代で掃除などの管理をしている、と教えてくれた。と家の前で立ち話をしていたらデイ・ケア・サービスの車で帰ってきたらしいおじいさんが介護の青年に添われて杖をつきながらもどってきたのをおばあさんが迎える。おじいさんは「もう少し考えて車を止めろ。(デイ・ケア・サービスの)車が転回できないじゃねえか」と怒っていた。「もうしわけありません」と謝罪した。おばあさんが「神社にお参りにきてくださったのよ」ととりなしてくれた。車へもどって、娘の手をささえて人一人が精一杯の田んぼ沿いの畦道をすすんでいった。ともかく、目的の場所が見つかったのだ。

 そこはすばらしい場所だった。どこにでもある、ひなびた里山の少々荒れた植林の山ふところにある、いまではほとんど忘れ去られてしまったかつての村社の跡地だが、凛とした静謐さと素朴さがあり、拡張整備された国家権力の社とは真逆の、つつましやかな、原初のいのりのかたちのような雰囲気が満ちていた。青いトタンの波板で蓋をされた石造りの井戸を過ぎると、杉林の中に石の鳥居がひっそりと建っていて、その奥にささやかな石段に乗った斜面の囲いに枯れた巨木が屹立している。社殿も、拝殿すらもない。まさに神社明細帳に「玉垣ノミ」と書かれたままの姿であった。その石段の下から湧き水がちょろちょろと沁み出している。足元の地面がうっすらとにじんでいる。この小さな里山のここが水源なのだと分かる。ささやかな境内の土の地面には箒の模様が幾重にもかさなって、落ち葉ひとつ落ちていない。わたしも娘も、しばらくその場所に思い思いの気持ちでたたずんでいた。いつまでも立ち去りがたいような心地よさがあった。

 それから吉野川を経由して宇陀へ向かった。のどかな山間の道を車はすべるように走っていく。宇陀市菟田野古市場にあるカエデの郷「ひらら」内のカフェでお昼を食べた。2006年に廃校となった宇太小学校の趣のある木造校舎を再利用した施設で、開校は明治7年、校舎は1938年(昭和13年)のものだという。アルミの食器に乗ってコッペパンと瓶の牛乳が付いてくるレトロな給食ランチを目当てに来たのだが毎月第一日曜のみの限定であった。わたしはハンバーグ定食、千円の値段にしては特に特色もなく正直、いまいち。娘は自家製パンケーキとドリンクのセット、750円。ミニ・アイスもついて、これはおいしかったと言う。食後に併設する物産展で、ファーイヤリングを娘に買わされた。ここ菟田野は毛皮産業でも有名で、町のあちこちに「毛皮」「はくせい」といった看板が出ている。いまでは原皮を海外から輸入して、なめし、染色から裁断、縫製、仕上げまでの加工を職人の手で行なって販売しているが、もともとは賎視された地域であった。白山神社もあるし、神武に敗れた宇迦斯を祀った宇賀神社もある。この地にたたらの一族である天国の伝承が残されているのも納得がいく。農耕民族ではない匂いが色濃い土地だといえる。

 ところでこの旧小学校の敷地内には1200種におよぶカエデが植えられている。なぜカエデか。食後に地元作家のアート・ギャラリーや、写真館の使われてきた古い機材や、むかしのお菓子の箱、竹細工の川魚の魚籠(ビク)などの展示を見ながらかつての教室を回っている最後に、ある方から寄贈されたという蔵書を収めている「玩槭文庫」で対応してくださった白髪のお年寄りが見せてくれた明治時代の輸出用のカエデの図録とその解説がおもしろかった。かつて江戸時代にはカエデの品種改良が盛んで全国にカエデ園があって、人々は多彩なカエデ鑑賞を愉しんだという。それが明治の時代にヨーロッパのガーデニングに於いて日本のカエデが評判になり、たくさんのカエデの苗が海をわたっていった。ところが戦争中にこのカエデの多くが伐採されてしまい、皮肉にもかつて日本からヨーロッパへわたっていった苗木の種をふたたび買い戻して集め、村おこしの一環としたのがこのカエデの郷「ひらら」であるとか。4月にはカエデ柄の着物のファッションショーも開催されるそうだ。聞いているとカエデの世界に引きずりこまれそうになるのを「もう3時だよ。そろそろいかなくちゃ」と袖をひっぱる娘の声で呼び戻された。

 カエデの郷「ひらら」から歩いても行けるほどの距離に宇太水分神社がある。菟田野は古来から水銀が産出される土地で、かつては大和水銀鉱山があった。水銀は「丹」であり、おなじ水の神を祀る吉野地方の丹生神社もこの水銀と修験にかかわりが深い。水銀鉱山があった地に刀鍛冶の天国伝承がのこされているのも然りである。三連の春日造りの本殿には速秋津比古神、天水分神、国水分神の水分三座を祀る。この宇太水分神社の渡御祭に菟田野古市場の枝郷であった岩崎村の被差別民たちが深く関わっていたことを吉田栄治郎氏は「水分の神の祭りと被差別部落」の中で触れている。氏はその末尾に「古市場水分神社と岩崎は相当に長く、かつ深い関係を持っている。部落問題の根源にもかかわる問題だと考えているが、今後水分社祭礼の構造的復元をとおして解明していかなければならない課題であろう」と記している。興味深い。最後に立ち寄った榛原に近い八咫烏神社についてはあまり語るべきことがない。現在のいでたちは何とはなしに、皇紀○○○○年といった一抹のきな臭さが感じられる。だがいにしえにあっては既出の東南風を意味する伊那佐山のイナサ、金属採取、そして賀茂氏とのかかわりもあっていろいろと考えさせられる。

 カエデの郷「ひらら」で少々のんびりしてしまったせいか、当初、娘のリクエストにあった菟田野の八坂神社をすっとばしてしまった。ここには元天国三輪神社とおなじく天国の使ったと伝承される井戸がある。ここはまたカエデの季節の再訪にとっておくことにしよう。というわけで全国の「刀剣乱舞」ファンたちよ、刀鍛冶の祖ともいわれる天国らの本拠地・天国(あまくに)ヶ谷の元天国三輪神社情報はなかなか貴重だと思うよ。

 

◆高生神社 http://yamatotk.web.fc2.com/kose/takabanejinjya.html

◆高取町観光案内所「夢創舘」 http://sightseeing.takatori.info/sightseeingspot/musoukan.html

◆カエデの郷「ひらら」 http://udakaedenosato.main.jp/ 

◆吉田栄治郎「水分の神の祭りと被差別部落」(PDF) http://www.pref.nara.jp/secure/14117/n8.pdf 

◆八咫烏神社 http://kamnavi.jp/as/uda/yatagara.htm

◆八坂神社 https://ameblo.jp/aramitama/entry-10735178014.html

◆アニメ続『刀剣乱舞-花丸-』 公式サイト http://touken-hanamaru.jp/ 

2018.2.24

 

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 娘は午後から学校だった。生徒たちが集まり、今後の履修科目の登録について保護者と話を聞いて登録をするのだ。車を停めておく場所が少ないので、つれあいが娘と同行し、わたしが車で送迎をすることにした。学校へ行くのは昨年の10月以来だ。体調不良や排便コントロールの不安定などが続いてずっと行けなかった。すでに20万円の入学金を先払いした大阪の声優学校もしばらく休学することにした。「まずは学校へ行くことが優先」と本人が言うのだ。校門の前で二人をおろして、ホームセンターであたらしく製作するつれあいのベッドの材料を購入・カットなどして家へ帰る途中ではやくもつれあいからラインのメッセージが届いた。「紫乃はトイレへ行ったっきり出てきません」 メッセージはつづいた。「今日はもう駄目そうです」 「過呼吸になってきました」 「駅前で待っています」・・・ あわてて材を運び入れて、また迎えに行った。暗い顔をして後部座席に崩れ落ちた。声をかけても、うん、うんと力なくうなずくばかりだ。説明会は二階の教室だったが、階段もあがれなかった。複数の生徒たちの声が聞こえただけで、もう駄目だったらしい。家に帰るとそのままじぶんの部屋にあがって、布団をかぶってしまった。しばらくはそっとしておくしかない。娘がこんなふうになって、もう5年が経つ。彼女はこのまま社会へ出て行くことができないのだろうかと本気で心配になる。親が生きている間はいいが、わたしたちが死んでしまったら、兄妹もいない彼女はどうやって生きていくのだろうか。まっとうな人間がまっとうに生きられない世の中だ。その上、ハンデがあればなおさらだ。かつて中学受験でトップの成績を取り「ぜひ娘さんをわが校に」と教頭みずから電話してきた育英西中高等学校の連中は、娘の心をずたずたにして放り出した。いまでは娘のことなど、誰ひとり思い出すことなく、いっぱしの教師面をして日々をそつなく過ごしているのだろう。ああいう連中は死刑にはならないのか? 病気によるハンデと闘いながらも小学校まではいつも笑顔が絶えなかった娘をこんなにしたのはやつらではないのか。思い出す顔を漏らさずおれは嬲り殺しにしたいほどの気持ちだが、かろうじてそれをしないのは、連中が殺す価値もないからだ。虫けらとおなじだ。おなじようにおれはこの社会を憎悪している。おれがひとりであったときも、おれはこの社会を憎悪していたが、いまはその数倍も確実に憎悪の念はふくれている。まっとうなこころを持って、ハンデを抱えた人間が生きていくのは、この世の中では耐え難いほど厳しくつらいことなのだ。彼女の存在がそう叫んでいる。(そして彼女は、すべてじぶんが悪いのだと信じている) だからおれはこの社会を激しく憎悪する。劇薬を糖衣でくるんで平気で飲ませようとする連中に唾をはきかけてやる。庭で材の面取りや寸法取りなどをしてから夕方、ジップを連れて散歩に出た。城下町といえども20分もあるけば、かつて羅城門や西の市などがあったのどかな田園風景だ。すこしばかり広い、そんな砂利の畝道のはたに「観音寺町花街道」なんぞといった手書きの道標が立っていて、なにかに誘われるようにその道をすすんでいくと、いまは黒いだけの田んぼの真ん中に鋤やバケツのようなものを両手に抱えたポロシャツ姿の若い男が立っていて、ひゃらひゃらひゃらと素っ頓狂な声をあげたかと思うと、そのままこちらをじっと見ている。道は男の前をゆるやかにカーブして曲がっていく。ひゃらひゃらひゃらとまた男が甲高く笑いながら反対の方向へ田んぼの中をあるいていく。しばらく行くと、男は田んぼのはたに停めていたブルーの、妙に細長いオート三輪のトラックのようなものを運転してこちらを追ってくる。ハンドルを握りながら、やはりひゃらひゃらひゃらと笑い声を周囲に響かせながら走ってくるのだ。わたしは何やらシュールなつげ漫画の中にでも放り込まれたかのように胸が高鳴っている。片足をあげて放尿をし出したジップのリードを片手に握りながら男の到来を待っていると、オート三輪は畝道を曲がり、集落へとつづく路地の奥へと消えていった。あの独特な笑い声だけがしばらく途切れ途切れに聞こえていた。わたしはなぜかしら、じぶんがあの男が来るのを待っていたような気がした。オート三輪から降り立った男は、じつはわたしの顔をしているのではなかったか。つげの「ゲンセンカン主人」のように。おれは黒い土だらけの荒涼とした田んぼの中でひゃらひゃらひゃらと奇声をあげている痴れ者なのかも知れない。さあ、ジップ。行こう。連式散弾銃の弾丸はしっかりつめたよ。

2018.3.3

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 5月のようなとつぜんの陽気。終日、庭でつれあいのベッドの作成。娘に気分転換でどこか山の方でも行こうかとさそったのだが、体調がわるくパジャマのままほとんどベッドで横になっていた。お昼は家のラーメンが食べたいと言うので、コープの袋ラーメンに野菜などを入れて二人で食べた。ベッドはいわば枠にはめた足つきスノコのようなもので、いたって構造はシンプルなのだけれど、あまっている端材をなるべく消費したいので、どんなふうに足をつけようかなぞと考えながら、小屋につなげた iPod でビートルズやフォーレなどを聴きながら、ときに陽だまりの中で椅子にすわってコーヒーなどを飲みながら、ゆるゆると。ガタイが大きいのでパーツで二階へ運んで、組み立てたい。部材の加工と塗装を済ませ、手斧やナイフでけずる足の造作だけ残して夜、小屋に仕舞った。午後にいちど、夕食のパスタに添えるパンや生クリームを買いに、すこしはなれたスーパーへ自転車ででかけた。食材を買って、帰りは食肉センターや盲学校のわきをぬけて、佐保川の堤に出た。屠殺場と盲学校がひなびた田んぼの中の平地で小島のように隣接している。ここに人間の顔がある。嫌らしい、臭気に満ちた顔だ。わたしが撃ちたいのは、こういうものたちだ。佐保川の河川敷にいままで気づかなかったが、墓地があるのを見つけておりていった。相変わらず軍人墓を目が探す。墓地はいちど整備されたようだ。敷地の片隅に黒ずんだ無数の無縁仏や石仏などが参集していた。わたしはこういう古い墓を眺めるのがむかしから好きだ。磨耗して、苔むして、文字もかすれ、剥がれ、欠け落ちて、そこに在る。いつかわたしも、これらのうちの一片になる。夕飯はつれあいのリクエストでトマトクリームのパスタだ。ベーコンと野菜のスープもつくった。娘に先の夜勤勤務のときの電車で、韓国の若い女の子のグループが隣にすわってきて、彼女たちのハングルの響きがとても可愛らしくていつまでも聴いていたいと思ったと話すと、娘は賛同して、映画の吹き替えを日本語や英語以外のいろんな言語で見ることがあるが楽しいよ、と言った。食後、つれあいをウォーキングにさそった。二人で話をしながら夜の城下町を小一時間あるきまわった。いまにもくずれそうな古い長屋の奥にもひっそりと灯りがともっている。夜はそんなふうに人の営みが分かるのがいい、と彼女は言う。

2018.3.4

 

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先日の雛人形めぐりでも立ち寄った地元の遊郭の歴史を調べていて、奈良県が1995年に発行した「ならの女性生活史 花ひらく」という本を実物も見ないでネット古書で注文したら、大判の500頁にも及ぶ大著が届いてびっくりした。しかしこれがなかなかに興味深い。わが町にあった紡績工場の女工の話や遊郭の楼主の思い出話、娘が通っていたクソ学校の前身である女学校が公娼廃止運動をしていたこととか、奈良の女性にまつわるあらゆる歴史をていねいに拾いあつめた良書だ。その中で戦後、朝鮮戦争の米兵たちのためのRRセンター(Rest and Recuperation Center)が現在の平城京址のすぐ南、三条通のあたりにあって、センター周辺に米兵相手のバーやキャバレーなどがひしめき、一大歓楽街を成していたという記事が初耳で驚いた。しかも当時、米兵による日本人女性のレイプ事件が頻出しており、「良家の子女を守るために」婦人会の指導者などが米軍にかけあって営業許可を取り、このRRセンターの周辺に慰安所を設置したというのも、こうした問題の根深さを物語っている。場所は平城京の南にライトアップされている朱雀門のすぐ南、ジョーシンや彩華ラーメン の東側、セキスイの一連の工場群のあたりだという。

 こうした「見捨てられた歴史」がたくさんあるんだなあ、じぶんたちの足元にも。

◆RAAと「奈良R・Rセンター」
http://ianhu.cocolog-nifty.com/blog/2017/10/raa-1fda.html

◆沖縄の戦後と女性のくらし―古都奈良の記憶から祈りをこめて
https://akopon2002jp.wordpress.com/…/%E6%B2%96%E7%B8%84%E3…/

◆狂宴 Movie Walker
https://movie.walkerplus.com/mv23805/

◆朝鮮戦争と奈良RRセンターを歩く
https://shikuru.exblog.jp/20006047/

http://9jo.e-nara.info/index.php?mn=ssk&id=7

◆ならの女性生活史 花ひらく
https://www.amazon.co.jp/%E8%8A%B1%E3%81%B2%E3…/…/4810704130

http://ianhu.cocolog-nifty.com/blog/2017/10/raa-1fda.html

2018.3.6

 

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高取町観光協会 よりメールをいただいた。

 

○○○様

先日は「元天国三輪神社」に関し、ご丁重なメールと○○○様作成の貴重な資料を頂戴いたしまして、誠にありがとうございました。
お礼が今頃になり、失礼大変申し訳ございませんでした。
夢創舘スタッフの出勤が変則的であるのと、3月からこちらで「町家の雛めぐり」というイベントがあり、そちらの業務が立て込んでおりまして、何卒ご無礼ご容赦ください。
又私共の方が提供しました資料が不備で、道に迷われたとのことで、こちらも大変申し訳ございませんでした。
今後は○○○様のご厚意に深く感謝し、ご提供頂いた地図を活用させて頂きたく存じます。
観光協会役員の者にも、○○○様の情報、資料を見てもらい、多伎に渡る詳細な情報に、ただただ感謝いたしております。
又、○○○様ご指摘のように、関連地区との連携調査等の活動も出来たら・・と存じます。
又高取に新な観光スポットを多くの方に案内出来ることを楽しみに、私達も頑張りたいと存じます。 (ただ、現状では高取城跡の整備もままならない状況ですが・・一歩一歩 でも・・)
取り急ぎお礼まで・・。

下記は、観光協会副会長、河合より、一言お礼を・・と一筆させていただいてます。
夢創舘職員 生田 和子

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大和郡山 ○○○様

先日は高取町清水谷尼ヶ谷地区の刀工ゆかりの「元天国三輪神社」に関して貴重な情報をいただきありがとうございました。
高取町では高取城跡、古墳群などの整備が急務であり尼ヶ谷地区の案内板、道標をすぐに設置することは困難ですが必要な検討事項であると考えています。
まずは○○○様の情報を基に資料などを整え高取町尼ヶ谷が刀剣発祥の地であることを広く紹介していきたいと存じます。
その際に、作成いただいた地図はありがたく活用させていただきます。
今後とも、高取町に関するご意見よろしくお願いたします。


高取町観光協会 副会長 河合 茂

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高取町観光協会 『夢創舘』
〒635-0152
高取町上土佐20-2
&fax:0744-52-1150
メールアドレス:musoukan@m4.kcn.ne.jp
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夢創舘 生田様

昨日、お邪魔してきました。
最後のところが頂いた地図では分からず、しばらく植林山中の道のない斜面をうろついて、最後は神社に近い民家に尋ねて
おしえていただきました。
国土地理院の地図を元にMAPを作成してみました。よろしければご活用ください。

民家のおばあさんから伺った話では、神様自体は高生神社に遷されたが、跡を放っておくわけにもいかないので、
最後に残った集落の二軒で交代で掃除などをしている、とのことでした。
じっさいに落ち葉一枚もないきれいに整えられた境内で、たたずまいもいにしえの信仰を思わせる凛とした雰囲気があり、
町の貴重な財産ではないかと思います。

刀鍛冶の際に用いられたという井戸はいまだに清水をたたえていましたが、ブルーのトタン板が蓋代わりにかぶせてあり、
できれば屋根をつけてもうすこし整理すれば見栄えがすると思います。
由来や刀工に関する説明板、それから道案内の道標も必要です。
車を停める場所があまりないのも課題です。わたしは民家の手前・行止まりのところの道に寄せて停めさせて頂いたのですが、
あとから民家のおじいさんのデイ・ケアーの車が戻ってきて展開するのに邪魔になってしまいました。
観光客に案内するようであれば、進入経路を含むそのあたりを地元の方とすり合わせする必要があるのかなと思いました。

その後、宇陀市にあるやはり天国からみの伝承のある宇多水分神社、ヤタガラス神社、元天国三輪神社のように刀鍛冶伝承をもつ
井戸がある八坂神社(菟田野区稲戸)などを見てきました。
宇陀市との連携も大事なように思います。

高生神社も元天国三輪神社もすばらしい神社で、また再訪したいと思いました。
ぜひ、アピールして頂きたいと思います。

大和郡山市 ○○○ 拝

2018.3.7

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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