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  毎年お盆の頃(8月15日)に行われる奈良の大文字焼きはわが家の2階や、母の6階の団地のベランダから見えるのでいつも愉しんでいるが、この高円山の送 り火がじつは「奈良県出身の29,243柱の英霊を供養するため」の慰霊祭であることを知っている人はあまりいないのではないか。

 京都 の五山送り火の始まりは江戸時代まで遡るらしいが、奈良の送り火はずっと新しく、戦後しばらく経った昭和35年、後の奈良市長で当時は三笠温泉鰍フ社長 だった鍵田忠三郎の「敗れた大東亜戦争で戦死戦没なさった2万5千柱の戒名を必ず読上げ大炬火を大文字にたき、霊を慰めると共に、遠く県内各地より、この 火を眺めて下さる人々に、戦死戦没者の霊に合掌してもらう機会をつくりたい」という思いから始まった。第1回の役員には鍵田のほか、奈良市遺族会会長や奈 良県護国神社宮司などが、東大寺長老、大安寺貫主らと名を連ねている。

 行事工程表は4月の「護国神社に英霊数の確認」から始まる。そし て当日8月15日は午後6時50分に「霊記」(29,243柱の戦死者名簿)が高円山に到着。まず春日大社神官により神式の祭儀が行われ、ついで市内30 ケ寺の僧侶による仏式の法要が営まれ、このときに「奈良県出身の戦没者29,243柱のお名前が奉読」される。遺族代表が焼香・拝礼し、その後に送り火が 点火される。

 高円山には碑があり、次のように記されているという。「高円山はかつて聖武天皇が離宮を営んだ地であり、弘法大師の師匠で 大安寺の僧であった勤操が岩渕寺を創建した霊山である。また護国神社のご神体の裏に位置する。こういったことから、高円山に大文字送り火を点火することに した。」

【 大文字行の際の祭文(平成6年時)】
 維時平成6年8月15日此処春日飛火野の聖域に祭壇を設え明珍達男之命を初め奈良県殉国の神霊29,243柱の英魂を招き奉り奈良大文字保存会 鍵田忠三郎 敬ひ慶んで白す
  顧みれば命たちは去ぬる明治戊辰の役以来日清日露の両戦役近くは第2次世界大戦に於て一身を国家の危急に捧げ 護国の神として高円の丘に鏡り座します 国 破れ時移り代は更ると錐も命たちの大いなる武勲は国家の生命とともに永久に諾え仰かる可きものにして更らず われら縁を得て昭和35年白月15日大文字慰 霊の祀りを高円の山に創め春日の大神をはじめ天神地祇の神助を仰ぎ宇宙萬霊の御加護の下数多同志の協力により命たちの武勲を讃えその霊を慰むるに大文字送 り火を以てするの基を拓きたり 昭和36年この慰霊の行を歳と共に盛んにし永く子々孫々に伝えるため谷井友三郎の主その他同志と相寄り相計り奈良大文字保 存会を結成し、これが行事を継承し年毎の謂れ深き8月15日この高円甲山に第35回の慰霊大文字の聖火を奉行せんとす これ殉国の命たちを始め奉り有縁無 縁の萬霊を慰め祀り恩讎を越えて敵味方供養の炬火を津々浦々に及ぼさんがための微衷なり 希くは英魂大文字送り火の炬火を諾い享けられ永く国家守護の神と して高円の丘に安らかに鏡まり給わらんことを恭しく聖火を捧げ慰霊の誠をいたし国家の繁栄と世界〆平和を祈念し謹しみかしこみて祭文となす     

 神社仏閣が手を携えて「国家守護たる殉国の英霊」を祭り上げる風景は、こと8月15日の高円山の祭事場に於いては戦前の亡霊さながらである。

▼奈良大文字保存会(PDF)
http://www.bunka.go.jp/.../sup.../pdf/katsudo_minzoku_06.pdf
▼「殉国の諸英霊よ、御霊安かれ:奈良大文字保存会40年史」(奈良大文字保存会)
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000003587681-00
▼旅 free style 翁の謎F 奈良大文字 送り火 『死者が住む高円山』
http://arhrnrhr.blog.fc2.com/blog-entry-98.html
▼宝蔵院流槍術>禅小話>
大文字送り火行を創始する・鍵田忠三郎
http://www4.kcn.ne.jp/~hozoin/kagitadaimonji.htm
4大文字行
http://www4.kcn.ne.jp/~hozoin/zen04.htm
▼浄土宗奈良教区青年会
http://narajosei.info/archives/3259

2017.5.14

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 五木寛之の「風の王国」に魅せられていた頃、吉野の山深くで 若い白装束の行者とすれ違ったことがあった。わたしはひとりで、水分神社あたりから吉野山へもどろうとしていた。行者は反対に吉野の奥をめざしていた。風 のようにすれ違い、ふっとうしろを振り向いたらもう、見晴らしのいい尾根道のずっと先を駆けていた。あとで大峯千日回峰の行者だと知った。たしか比叡山の 回峰行の阿闍梨だったと思うが、何かの本のなかで、毎日毎日山道を歩いていると目をつむっていても地面の石ころひとつひとつの場所も手にとるように覚えて いる、と喋っていた。今尾さんの絵は、そうした無数の石ころで成り立っている。石ころのひとつひとつがころがって森と成り、はねあがって水と成り、わきあ がって雲と成り、ちらばって光と成る。それらが共鳴して、まじりあって、とけあってキャンバスの上で大きな自然(ネイチャー)の心像をむすぶ。キャンバス の上のそうしたすべての石ころは画家が実際にかつて手にしたり、踏んづけたり、転がしたりした石ころなのだ。つまり、修行中の阿闍梨が目をつむっていても 見えると言った石ころによる曼荼羅だ。その曼荼羅が描く心像風景によって、わたしたちはじぶんを閉ざしている皮膚と世界との境界をするどいサヌカイトの石 のナイフで裂かれたような感覚を喚起させられる。はだかで原始の山塊深くへ分け入っていくときによみがえってくる強烈で愛おしい同時にぴんと張ったほそい 一本の糸のような身体感覚だ。二上の霧の向こうから、風のケンシたちがたちあがる。

( 京都のギャラリー三条祇園で「今尾栄仁個展」を見た )

2017.5.17

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 「眞子さま」とか、「陛下」とかね。結局、そういう何気ない日常に潜んでいるじぶんの「内なる国家」を掘り下げて、ひとつひとつ問うていくしかないん じゃないかな。自民党がどーたら、日本会議がどーたらということより、休日に日向ぼっこしてお茶をすすってるときの風景にじつは沁み付いているような、そ んな根深いものなんだと思う。粘菌の胞子のような。そう、あれだよ。ナウシカの腐海で漂っていた胞子のようなもの。ナウシカの腐海では瘴気に満ちた森は人 間たちが汚した自然を浄化する機能を地層の奥深くに隠し持っていたが、この国の胞子は何を隠し持っているのだろう。せっかくビートルズが来日したのに、 ロックンロールをまじめに聞かなかったのがこの国の大罪だな。「きみがほんとうにひとりぼっちのとき、きみはほかのだれにもできないことをやってのける」 とレノンは歌ったけれど、みんな忠実な犬の方がいいみたいだ。過去を凝視しないから、明日はたんなる今日の続きで、だらだらと垂らしたみにくい犬の唾液の 先にぼくらの未来が待っている。法律は役立たず、三権分立も腰砕け、放射能で国土は汚染され、政治家はおつむが腐敗し、なんにも頼りにならないなら風が どっちに吹いているかじぶんの指に唾をつけて感じ取るしかない。さあ、気をつけろよ。使える感覚はすべて利用するんだ。本物とガラクタを仕分けておいた方 がいい。ここから先はUSJやディズニー・ランドのアトラクションじゃないんだぜ。90年前に治安維持法が成立したときもこんなふうだったんだ日常は何も なかったかのように続いていたんだろうと実感をして生まれてはじめて「歴史」に参加しているような気持ちでわくわくしている。学校では死んだ歴史しか教わ らなかったからいま身をもって体験している。怒りがほんとうに爆発するときはお行儀よくなんてしてられねえだろ。これでやっと北朝鮮やシリアやパレスチナ のふつうの人たちの痛みがすこしは分かるようになるだろう。真の連帯がむすべるかも知れない。くずれかけた秘密トンネルの中で。とにかく、おめでとう日 本。こんな不甲斐ないくたびれたおれたちにも小林多喜二や大杉栄や大石誠之助や高木顕明になれるチャンスが巡ってきたということだ。忠実な犬といっしょに 不自由な世界で自由をさがす旅に出るぜ。オーティス・レディングでも聴きながら。

2017.5.19


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 先日はからずも訪ねたグアムに配備された日本軍に奈良の部隊があることをおしえてくれたのはFB友の中平さんである。歩兵第38連隊は明治29年に大津 にて創設、翌年に京都深草に移駐して日露戦争、満州派遣などを経て、大正14年に奈良へ転営した。春日大社の南、現在の奈良教育大学の敷地に兵舎があり、 隣接する法務局(奈良第二地方合同庁舎)に「奈良聯隊跡記念碑」がいまも残っている。その後、満州へ駐屯した連隊は昭和12年、上海派遣軍に編入されて、 かの南京攻略戦に参加している。師団長の中島今朝吾は南京占領後に西欧からの猛烈な抗議を受けた軍司令部の調べに対して「略奪、強姦は軍の常だよ」と平然 と答えているように、上海派遣軍(第16師団)は南京に於ける日本軍による虐殺事件で最も代表的な部隊だったと言ってもいい。歩兵第38連隊は津の歩兵第 33連隊と共に、降伏後の南京市内外の「掃討作戦」に従事した。「捕虜ヲ受付クルヲ許サズ」の命令を受けて捕虜や「疑わしき」住民を殺戮し尽くした証言は 多く残っている。その後、中国各地を転戦した歩兵第38連隊は昭和19年3月にグアムへ配備され、7月のアメリカ軍上陸により全滅した。ちなみに昭和47 年に「発見」された横井庄一さんもこの38連隊の陸軍伍長であった。

 南京虐殺を描いた堀田善衛の小説「時間」を臓腑に釘を一本一本打ち込むような思いですこしづつ読み進めていったのは年明け、出張で滞在していた北陸のレ オパレスであった。続いて中公新書の「南京事件 「虐殺」の構造」(秦郁彦)で全体像を追った。そしてはからずも、のグアム。南京とグアムとわたしが住む 奈良が「戦争」というキーワードで貫木のように嵌った。それからわたしは休日になると歩兵第38連隊の影を追うようになった。奈良教育大からさらに南、古 市の集落ちかくの丘陵地のしずかな林の中には奈良の陸軍墓地がある。いまでは訪れる人も滅多にないだろうこの墓地(グアムの慰霊塔公苑とおなじような時の 彼方に置き去りにされた空虚な静寂に満ちている)には「満州事変戦没者合同墓碑」(昭和31年5月30日建立)と「歩兵第三十八連隊将兵英霊合祀之碑」 (昭和9年3月建立)の二つの塔、そして寛城子事件(※大正8年、当時の満州の長春で日本人暴行事件に端を発した日中両軍の衝突事件)で亡くなった34人 の兵士たちの墓がある。そのうち将校の墓は巨大な慰霊塔の両脇に立派な台座と共に建ち、下級兵士たちの墓はそこから一段下がった場所に素朴な墓石が並んで いた。印象的だったのはなぜかこの下級兵士たちの墓だけ、墓石のまわりにたくさんの石が積まれていたことだ。故郷の石を遺族が運んだのだろうかと空想し た。はじめてだったが陸軍墓地よりわずかに北方、奈良佐保短大に隣接する広大な敷地の奈良県護国神社も覗いてみた。「奈良県出身の英霊3万柱を祀る」とう たったこの社の背後の峰で点火される、奈良の夏の風物行事でもあるこの高円山の送り火が、じつは「奈良県出身の29,243柱の英霊を供養するため」の慰 霊祭であり、護国神社をはじめとして大安寺、東大寺ら近在の30ヶ寺が参集して「県出身の戦没者29,243柱のお名前が奉読」されることを知ったのもお なじ頃だ。また薬師寺や唐招提寺が建ち並ぶ西ノ京の秋篠川沿いにやはり英霊を合祀した奈良市慰霊塔公苑があるのを知り、自転車で見にいったのはつい数日 前。「英霊」や「散華」といった戦前の化け物が何気ない日常の風景の裏に粘菌のように滲みついているように感じた。そしてこの国では、「戦前」と「戦後」 はけっして断絶ではなく「連続」なのだという思いをいっそう強くした。

 「軍人墓」というものがある。頭部を方錐形にしてたいてい一般の墓石より高くそびえて建っているから遠目でもよく分かる。1874年(明治7年)、陸軍 省が「陸軍埋葬地ニ葬ルノ法則」により階級により墓碑の規格を統一。以降、軍隊入営中に戦死した者は国や軍隊からの指導により、先祖代々の墓とは別にこの 規格に沿った墓に葬られたという。グアムで全滅したのが奈良の連隊であったと知ってから時折、時間を見つけて自転車で近所の墓地を回るようになった。正面 に軍隊での階級と氏名があり、側面には戒名と「○○○ニ於イテ戦死 二十二才」などの文字があり、裏面は建立者というパターンが多い。簡単に戦死した場所 と年齢だけの場合が多いが、ときに入隊してからの経緯をくわしく刻んだ墓石もあれば、年齢だけで場所を記していない墓もある。ニューギニア、比島、中華民 国、ラバウル、ビルマ、朝鮮沖、蒙古、バシー海峡、マリヤナ群島、南京、沖縄本島など、さまざまな場所で戦死した兵士たちの墓をいくつも眺め、刻まれかす んだ文字を読み、黙祷をしてから次の軍人墓へあるきだす。沁み入るような青空の下でそんなふうに一時間も二時間も広大な墓石の間をさまよっていると、おれ はいったい何をしているのだろう、とも思う。まだじっさいにはお会いしたことはないがFB友で彫刻家の安藤栄作さんはパレスチナのガザで殺された子どもた ちの像を一体一体刻み続けていつの間にか千体を越えた。それに似たものかも知れない。わたしはアーティストではないので、こうしてひとつひとつの墓石を訪 ね、墓石と対峙し、「どこで」「何歳で」死んだくらいしか分からないが、それだけでも重い魂を測りにかけるかのように、戦場における死者をこの不器用な精 神と身体に肉化していく。真昼のひと気のない墓場をあるきまわっているとどんどん体が重くなっていく。そのままずぶずぶと沈んでいきそうな気がする。それ でもわたしは何かに引かれるように墓場をあるきまわる。

 戦争が激化した終戦間際の戦死だったとして、1945年(昭和20年)に25歳で死んだ青年の母親はもう50歳近いだろうか。2017年の現在では 122歳となる計算だから、これらの墓石の前で知れず嗚咽をした母はもうとっくにこの世にはいない。子孫がおなじ墓域で建ててくれている墓はいい。参る者 もいなくなり、無線仏の石くれの山に積み上げられて、もう名前すら読めない軍人墓もたくさん見た。わたしたちはかれらを「英霊」と讃える連中に預けっぱな しで済ませていたんじゃないだろうか。ひとつの大きな墓石の左右側面に二人づつ、計4人の兄弟たちの名前が刻まれた墓石を見つけたときは呆然とした。昭和 19年9月、中国湖南省。昭和20年5月、レイテ島。同年6月、レイテ島。同年8月、モンゴル。21歳、22歳、25歳、27歳の兄弟の墓である。終戦の 混乱期を耐え抜いて、昭和32年にようやく母親はこの兄弟の合同墓を建立した。父親の名前でないのは、このときすでに夫は他界していたのかも知れない。縁 もゆかりもない見知らぬ家庭ではあるが、わたしはこの兄弟たちと母親がまだ生きていた実時間での歴史の風景が脳髄の奥の方から知れずあふれ出して来て、こ とばを失う。その母も、もういまはこの世にいない。そびえ立つ墓石の先の青空をわたしはじっと凝視する。グアムでの戦死者の墓を見つけたのも、おなじこの 共同墓地だ。25歳の若き軍曹は昭和19年9月30日に大宮島(グアム島)にて戦死していた。かれが歩兵第38連隊だったのであれば、アメリカ軍の上陸が 開始された7月には「かれ」はアガット湾に配置されていたはずだ。ちょうどわたしたち家族がレンタカーで島を回った日の夕方に、地元のスーパーマーケット で買い物をしたあたりの美しい海岸だ。けれども米軍の猛烈な艦砲射撃と空爆により部隊はたちまちに壊滅し、生き残った兵士はジャングルの奥の残存部隊に吸 収された。戦史によれば8月11日に叉木山の最後の司令部の将校たちも自決し、最後の日本兵が降伏して戦闘がほぼ終了したのは9月4日というから、9月 30日戦死の「かれ」はその後のジャングルでの日本軍兵士狩りで殺されたか、あるいは戦死した場所も日にちももはや定かでないから9月の末となったのか不 明だが、後者であるのかも知れない。おそらく遺骨もなかったろう。わたしは「大宮島」と刻まれた文字をそっと指先でなぞった。もうたくさんだ、と思った。 奈良から出征し、南京での悪夢を経て、遠く南方の小島のグアムで散った命が、いま、わたしの手にもどってきた。へんな言い方だが、もどってきたような気が した。

▼奈良歩兵第38連隊の帰還 https://ameblo.jp/fugo0330/entry-10618461112.html

▼「虐殺」命令(歩兵第38連隊兵士の証言) http://www.geocities.jp/kk_nanking/mondai/gyakusatu.html#yamadad

▼大文字送り火行を創始する(鍵田忠三郎) http://www4.kcn.ne.jp/~hozoin/kagitadaimonji.htm

▼軍隊と戦争の記憶 日本における軍用墓地を素材として(PDF) http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/SK/0007/SK00070L115.pdf 

▼「万骨枯る」空間の形成 陸軍墓地の制度と実態を中心に(PDF) http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/BO/0082/BO00820L019.pdf

2017.5.20


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 4日ぶりに帰宅したら、庭のジューンベリーがそろそろ色づきはじめている。「もうたくさん鳥が食べにきているよ。雀がね、食べにくるんだけど、大きい鳥 がくると追っ払われちゃって、ちょっと離れたところで仕方なく地面を突っついて待ってるの(^^)」と娘。二人で第一弾の収穫。 小さな苺もひとつ成っていて、なめくじに食われる前に娘の口にはいった。

2017.5.24

 

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 奈良に住んでいるので一応ローカルな情報源として、FBの「奈良の秘密教えてちょ! 誰も知らない自分の秘密の奈良をどんどん教えてください!」や「奈 良ハッピーランチ」といったグループをフォローしている。でも投稿したり、コメントしたり、「いいね!」をすることはほとんどない。余計な人間関係をつく りたくないからだ。ただ見ているだけ。

   今日、北陸からの出張帰りの電車の中で「奈良公園の鹿でけが過去最多、初の捕獲も」と題した毎日放送のニュースがシェアされているTLを見た。正確に言 えば毎日放送のニュースをシェアしたA氏のTLを別のB氏がシェアして「奈良の秘密教えてちょ!」に投稿していたわけだ。

 毎日放送の記事は要約すると「奈良公園でのシカによるけが人が過去最多でうち約7割が外国人、県は外国語の注意喚起看板を増設する予定」、「一方で鹿による近隣の農業被害も目立ち始め、県は保護と同時に鹿の捕獲も進めている」というもの。 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170522-00000054-mbsnews-l29

 これをA氏が「ケガをした人の中で一番多いのが中国人。なぜか?鹿を餌をあげるふりをしてからかい、叩いたりして鹿を怒らせるからケガをする。中国人が 押し掛けて行くようになるまで奈良の鹿にケガをさせられたというニュースはほとんど無かった。昔から奈良の鹿は神様のお使いとして大事に扱われて来たの に、バカな中国人が来て鹿を怒らせるような事態になったのは鹿が可哀想。本当に中国人は迷惑、日本に来るな、韓国に行ってろ。」とのコメントと共にシェ ア。

 さらにそのA氏のTLを、B氏が「鹿は、神様の使いです! 外国の方の鹿せんべいのあげ方が腹立たしいほど目に余ります。」とコメントを添えてシェア し、「奈良の秘密教えてちょ!」に投稿。  それに多くの人が「ひどいね!」をつけ、「彼らはそこそこの富裕層なのに病んでますね」、「文化財保護法に基づいて現行犯扱いで高額な罰金制にすれば良 い」、「色んな国と国の理由があるんやろうけど あかん事したらどこそこの国とか関係なく逮捕スレばいい」といったコメントが並んでいる。もとのA氏の TLになるとさらにひどくて「なるほど。鹿は神様の使いなので、中国人とか韓国人はどついてしまうわけですね。流石神様!」、「日本の良さがわからない支 那人は来るな。」、「獣以下の下等生物はおしおきされてもしかたないw」、「お行儀が良くなるまで、日本には、来ないで下さいね」、「ツノで刺してしま え」といった罵詈雑言が積み重なっている。

   調べてみるとこのA氏は小田原在住の70歳くらいの男性で自民党と軍隊が大好きらしい(FBの基本データや「いいね!」先を見て)。一方でB氏は京都在 住の50歳くらいの男性で安倍シンゾーやアキエ夫婦、アントニオ猪木のFBをフォローしている。そして二人は【恐ろしき隣人達、赤い中国と北朝鮮、反日の 韓国】というFBのグループつながり、というわけだ。

  元記事をちゃんと読んでみれば、どこにも中国人など出てこないし、前述したように曲解も甚だしい。だいたい小田原に住んでいるおっさんが何で奈良公園で怪我をした外国人でいちばん多いのは中国人だと分かるのか?

   けれど問題なのは、こうした軽薄なAやBのTLにぶら下がってくる多数の人々だ。Aの元投稿はそれこそ【恐ろしき隣人達、赤い中国と北朝鮮、反日の韓 国】グループ内に投稿されたものなのでコメントを書く連中も推して知るべしだけれど、Bが投稿した「奈良の秘密教えてちょ!」は奈良県内のいわばおすすめ 情報を共有するグループなわけだから、それこそいろんな人が参加している(参加者約2万人)。それなのにこうした歪んだ内容の投稿を誰もおかしいと思わ ず、疑わず、見事にそのトーンに乗っかってしまっている。あるいは民族差別をコメントしている人々もそのTLをひとつひとつ見ていけば、それぞれ家族があ り、子どもや親を愛おしみ、映画や文学に感動して涙を流すような人々なわけだ。

   結局、そういうことなんだよな、と思うわけだ。政治家や裁判官や官僚やマスコミだけが腐っているわけじゃない。その下にはこういう無数の「ふつう」の人 々がぶら下がっている。ある意味で、かれらこそがこのスバラシイ国の真の多数派だ。そしてわたしは、先に書いたようにかれらとギ論をしようとは思わない。 思わないねえ。ギ論なんか。

2017.5.24

 

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 今日はPCのスイッチを早めに切って、寝床で折口の「口ぶえ」を読もうと思ひます。

2017.5.25

 

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 「奇しき生と奇しき死  大道寺将司とテロの時代」 辺見庸

   死の覚悟求めて止まず花の雨」。生前刊行されたものとしては最後の句集『残の月』の一句である。「花の雨」は、桜を打つ雨。獄中の大道寺将司はそれをみ たわけではない。心の花を雨で散らせ、みずからに課した死を、くりかえしなぞったのだ。逮捕から約40年、獄中での自責と悔恨、死のシミュレーションは、 かれの日課だった。つまり、かれは想念で毎日くりかえし死んでいた。

   大罪はむろん大罪である。大道寺がいくら詫びたとて、獄死したとて、事件の被害者はよみがえらない。遺族は救われない。その酷烈な諸事実の闇の、気がと おくなるほどの距離に、しかし、なにもまなばないとしたら、40余年の時間とおぴただしい死傷者は空しいムダにしかならない。  若い人びとはおそらく知るまい。一見はげしく対立するはずの、ヒューマニズムとテロリズムの二点をむすぶ線分は、おどろくべきことに、かつて、それはど に長いものではなかったのだ。直線的な理想主義とそれを根拠とする憤激が、あるとき短絡し、おぞましい殺りくを結果した例は、1970年代の連続企業爆破 事件にとどまらない。連合赤軍事件も内ゲバ事件も、生まれついての暴力分子の手になるものではなく、まことに逆説的で皮肉なことには、もともと過剰なほど 真剣に理想をとなえるものたちの所業だったのである。

   おもえば、ロシア革命も中国革命も、気だかい理想と凄惨な暴力が織りなした、善とも悪とも結論しがたい、端倪すべからざる歴史の突出であった。いくつも の曲折をへたいま、この国では公権力を執拗に批判し、理想を言いつのることが危険視され、ばあいによっては「共謀罪」の要件になりかねないというのだか ら、歴史の逆流はとどまるところをしらない。  先達の思想家によれば、あらゆる時代には、その時代を象徴する「暗い死のかたち」があるという。いまはどうか。日にはそれとみえないながらも、「全民的 な精神の死」のかたちが、社会の全域に、どんよりとくぐもっていはしないだろうか。言葉は口からはっする以前に複雑骨折していないか。理想義はおしなべて 「なんちゃって」視されていないか。潜んだ目で堂々と「社会正義」を主張することが、反社会的活動ないし、はなはだしくは「狂気」とさえみなされてはいな いか。  これはど多くのテロを経験しながら、わたしたちはテロとはなにかを知らない。ナチスは反ナチ勢力の活動をテロとしてほしいままに弾圧した。中国を侵略し た「皇軍」は、抗日ゲリラをテロリストと同等の「匪賊」とだんじて、残酷な掃蕩と処刑にあけくれた。「反テロ」が、歴史的に、悪しき体制をまもるための超 法規的方便にされてきたことを忘れてはならない。

   大道寺将司が逝ったいま、二つのパラドクスが暗示するものを、わたしはじっとかんがえつづけるだろう。一つは、事件関与をのぞき、それだけをのぞき、か れが「高潔」といってよいほどの人格のもちぬしだったこと。もう一つは、爆破事件のころ、世の中はそうじて明るく、いまのように戦争とテロをリアルに予感 せぎるをえない空気はなかったのである。つけくわえれば、当時は、いまほどひどい政権ではなかった。われわれは今後、奇しき生を生き、奇しき死を死ぬだろ う。

(2017年5月28日 中国新聞)

2017.6.3

 

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 高橋アキさま

 わたしがあなたの弾くピアノ全集とともにエリック・サティの音楽をさながらしゃれたスカーフのようにまとっていたのは20代の頃でした。しゃれたそのス カーフはときにユーモラスな手品の道具になったり、辛辣さを包みかくす風呂敷になったり、そしてときに魔法の杖や謎めいた蛇に変わったり、また厳かで純朴 な聖句を記した当て布になったりしました。そうしたサティの音楽のふるまいをまねて、わたしはどうにか難儀な20代をとおりぬけたのです。今回、あなたの あたらしいCD(Peter Garland: The Birthday Party)をひさしぶりに聴いたとき、あの頃とおなじような風を感じました。Peter Garland という作曲家を残念ながらわたしはよく知らないし、英文のライナーノーツを充分に読めるほどの語学力もないのでこのアルバムがどんなコンセプトのもとにつ くられたのかも分からないのですが、とにかくはじめて聴いたとき、木槌のような音だ、と思ったのです。それも山奥のしずかな自然のなかで、ひとつひとつの 作業をとてもていねいに、こころを込めてたたいていく木槌の音です。大仰な身振りからとおくはなれた、等身大のつましく、ちからづよい響きです。それがま るでかの宮澤賢治の「セロ弾きのゴーシュ」のように、周囲の生き物や自然と呼応しあっているのです。こつこつと小さな音のときは、きっと窓枠やドアのかざ りの部分を造作しているのだろうと思います。ちからづよい足踏みのような音のときには、棟上が近いのかもしれないと空想します。ここ数日間というもの、満 員の通勤電車のなかでわたしはこの音楽をイヤホンで聴きながら、正しい呼気や吸気のように音楽がこころを整えるような心地を覚えました。この困難な時代に あって、人間がもし歴史をやりなおせるのであれば、こういう場所へもどっていかなくてはいけないと思ったのです。もどっていくと言いながら、森のなかにあ たらしい小路をひとつこしらえるような、そんな密かな愉しみなのですが。

2017.6.4

 

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 9.11のときからずっと言い続けていることだけれど、「テロ」という単調なレッテル貼りはいい加減にやめないか。「テロとの戦い」という言い方がなく ならない限り「テロ」はなくならない。「たくさん盗めば王様で、すこし盗めば盗人」のとおり、テロと言うならアメリカやイスラエルの方がそれこそテロの親 玉だろ。「暴力とは持たざるものの最後の武器」だ。おれはそれを否定はしないよ。 「この暴力に対して、私たちは一致団結し、互いに助け合い、愛し合い、 声高らかに歌い」(アリアナ・グランデ)   そう、その「一致団結」から除外されたどうにも救いようのない者たちの最後に残された手段、あるいは追いつ められたはみ出し者たちが最後にしがみつく悪夢が「テロ」と呼ばれるわけだよ。「テロ」がどうして生まれるのかひとつひとつの原因にみなが目を向けなけれ ば「テロ」はなくならない。目を向けるためには「テロ」という単調なレッテル貼りをまずやめなければ停止した思考は動き出さない。あなたが世界の「安定し た側」にいればそれをおびやかすものは「テロ」かも知れない。けれどそうでない側にいるものにとってそれは唯一の「希望」なのかも知れない。

2017.6.5

 

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  昨日、仕事中につれあいからとどいたライン。 障がいはあっても、小学校まではいつもにこにこ笑っている明るい娘だった。受験をして希望で胸をふくらませた中学で変わってしまった。いろいろな要因はあ るんだろうけれど、結局は「生きづらい」ということだとわたしは理解している。ハンディがあって、しかも独創的なニンゲンは生きづらいんだよ。自由な子ど もほど息がつまる。とくに現在の「学校」なんぞという四肢硬直して腐臭の漂う「監獄」に於いては。「学校へ行けない原因はすべてが個人に帰すものなのか。 学校はもどるに値する場所なのか」というわたしの切実な問いをまともに受け止める教師はだれもいなかったな。まあ、それは、と誰もが奇妙な笑みを浮かべ、 口をにごしてやりすごした。育英西中高学校の北谷校長以下ロボット教師たち、おまえらはほんとうに糞だとおれは言い続けるぜ。はじめての海外の修学旅行へ 折角行く気になっていた娘に「親と二人でホテルに泊まれ」なぞと言って見事に潰してくれたおまえたちから、人としてのぬくもりはついに感じられなかった。 「優秀な成績だからぜひわが校へ」と誘うだけ誘い、高額な授業料だけ毎年きっちりふんだくって、ぼろぼろになった娘を放り出してあとはオサラバだ。おまえ たちにとってはわずか数年の間のたくさんいる生徒の一人なんだろうが、娘にとっては大きな大きな傷跡だ。だから、おまえらはほんとうに糞だとおれは言い続 ける。おまえたちのような人間が、おまえたちのような人間で成り立っている組織が「子どもを教育する」なぞというのはほんとうにお笑いだ。おまえたちが息 の仕方を知っているだけで驚きだ。「きみはおれの最愛のひとたちを傷つける / 真実を嘘で覆い隠す」 まさにディランの idiot wind の歌のとおりだ。じぶんたちの口で言えないなら、いまおれが代わりに言ってやるよ。おまえたちのようなニセの教育者どもが巣食っている学校など、もどる価 値もないさ。 . 「今日は学校は午後から授業で、紫乃は午前中は学校に行くと言っていたのですが、10時を過ぎたあたりから、「私、やっぱり学校がストレスになってるのか なぁ、気分がすごく落ち込んできて時計ばっかり気になって」とポロポロ泣き出しました。 「人に会うのがいやだ」と言うので、「●●(※通信制高校)は来てる子も少ないし、紫乃も問題なく行けてたじゃない?」と言ったのですが、「人数の問題 じゃなくて、人に会いたくないの」と、「外にも出たくない」と毛布を被ってしばらく泣き続けていました。 お昼になってもなにも食べず、何か話かけても混乱している様子で、問の答えが返ってこない感じです。オロオロした感じ。 私は本の整理をしていて、髪型のアレンジの方法の本があったので、紫乃にいるかどうか聞いただけなのに、頭を抱え、「わからない、わからない・・」とオロ オロしてしまいます。 とりあえず、そっとしておくしかないかなと。」

2017.6.10

 

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 今日明日が何かが変わるわけじゃあない。でもボディ・ブローのようにじわじわと効いて、気がつけば足元をすくわれている。 何も変わらないいつもの朝だけれど、ここから先は明らかな歴史の実時間。胡麻化しようがない。あんたも、おれも。 (共謀罪成立の日に)

2017.6.15

 

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 「沖縄慰霊の日」と題する二つの社説を読んだ。ひとつはわが家で購読している朝日新聞。もうひとつは今日、出張先の松本市内で買った信濃毎日新聞。並べてみれば、どちらがまさっているかは一目瞭然だ。やっぱり組織はでかくなるとダメなのかね。 試しに夜更かしでまだ起きていた娘に二つを読んでもらった。黙って二紙に目を通した娘は「こっちが、朝日?」と確認をしてから、「朝日、クソだね」と言ってのけたのだった(^^)

【朝日】沖縄慰霊の日 遺骨が映す戦争の実相  沖縄はきょう、先の大戦で亡くなった人たちを悼む「慰霊の日」を迎える。  米軍を含めて約20万人が命を落とした。うち一般県民9万4千人の犠牲者とその遺族にとって、ささやかな、しかし意義深い政策の見直しがあった。  厚生労働省が、死者の身元を特定するための遺骨のDNA型鑑定を、今年度から民間人にも広げると発表したのだ。塩崎厚労相は4月の国会で、「できるだけ 多くの方にDNA鑑定に参加をいただいて、一柱でも多くご遺族のもとにご遺骨をお返しできるように最大限の努力をしたい」と答弁した。  遅すぎた感は否めないが、この方針変更を歓迎したい。  DNA型鑑定は2003年度に導入された。しかし、遺骨の発見場所や埋葬記録などがある程度わかっていることが条件とされたため、対象は組織的に行動し ていた軍人・軍属らに事実上限られてきた。  事情はわからないでもない。だが「軍関係者限り」とは沖縄戦の実相からかけ離れた、心ない対応と言わざるを得ない。  沖縄ではいまも、工事現場や「ガマ」と呼ばれる洞窟などから、多くの遺骨が見つかる。それは県土、とりわけ中部から南部にかけての広い範囲が戦場になっ たことの証しである。  72年前の4月1日の米軍の本島上陸以来、凄惨(せいさん)な地上戦が繰り広げられた。兵士と市民が入り乱れ、各地を転々とし、追いつめられ、亡くなっ た。親族がどこで命を落としたのか分からないと話す県民は多い。  長年、遺骨収集を続けてきたボランティアたちが「国はすべての遺骨と希望者について鑑定を行うべきだ」という声を上げるのは当然である。  もっとも、焼かれてしまった骨からDNAを検出するのは難しいとされ、糸満市摩文仁(まぶに)の国立戦没者墓苑に眠る18万5千柱の多くは対象にならな い。当面は、13年度以降に見つかった600柱余の未焼骨のうち、10地域の84柱について鑑定を進めるという。希望する遺族からDNAを提供してもら い、骨と比較する手法をとる。  大臣答弁のとおり、少しでも多くの遺骨を返すため、厚労省をはじめ関係機関は幅広く遺族に呼びかけ、対象地域も順次拡大していってほしい。その営みが、 戦争の真の姿を次世代に伝えることにもつながる。  沖縄はいまも米軍基地の重い負担にあえぐ。沖縄戦を知り、考え、犠牲者に思いを致すことは、将来に向けて状況を変えていくための土台となる。 http://www.asahi.com/articles/DA3S13000464.html

 【信濃毎日】沖縄慰霊の日 犠牲強いる本土の無関心  敗戦から72年。一日たりとも忘れることができないのは、いくつもの地獄を集めたかのような沖縄戦の生々しい体験である―。  12日に亡くなった元沖縄県知事の大田昌秀さんは、最後の編著書「沖縄 鉄血勤皇隊」の冒頭に記した。当時、師範学校本科の2年生。学徒兵として戦場に駆り出され、学友たちの無残な死を目の当たりにした。  〈私の生は、多くの学友の血で購(あがな)われた〉。戦火を生き延びた意味を問い、そう思い至ったと大田さんは書いている。  きょう、沖縄は「慰霊の日」を迎えた。沖縄戦で組織的な戦闘が終わったとされる日である。  沖縄は本土防衛のための「捨て石」だった。住民を巻き込んだ地上戦は3カ月近く続き、犠牲になった県民は12万人余に上る。  敗走する兵士と逃げ惑う住民がひしめく極限状況下、日本兵の暴虐な行為が相次いだ。銃を突きつけて住民を壕(ごう)から追い出す、スパイの疑いをかけて処刑する…。  「軍は民間人を守らない」。沖縄戦で心に刻んだ教訓だと、大田さんは生前、繰り返し語った。  米軍基地の撤去を時に語気強く訴え、知事時代には用地使用の代理署名を拒んで政府に毅然(きぜん)と対峙(たいじ)した。体験に裏打ちされた痛切な思いがあったからこそだろう。  沖縄が過重な負担を強いられる現実は、なお変わっていない。国土の1%に満たない島々に在日米軍基地の7割が集中する。米軍機の墜落事故や、軍関係者による犯罪も絶えない。  普天間飛行場の移設先として名護市辺野古では新たな基地建設が進む。東村高江では集落を囲んでヘリ離着陸帯が造られ、新型輸送機オスプレイが飛び交う。政府が言う「負担軽減」は名ばかりだ。抗議する人たちを強制排除して工事は強行されている。  米軍基地だけではない。自衛隊施設は、1972年の復帰時の4倍に面積が広がった。先島諸島の与那国島には昨年、沿岸監視隊が置かれている。宮古島、石垣島にもミサイル部隊などを配備する新たな基地計画がある。  〈沖縄県民は、「日本の防衛のため」「極東の平和のため」に一方的に犠牲を強いられることを、真向から拒絶している〉。復帰前の68年に大田さんは書いた。  半世紀近くが過ぎる今も、その言葉は本土に向けられたままだ。見て見ぬふりを続けられない。軍事拠点化がさらに進みつつある沖縄に目を凝らし、本土の私たちは何をすべきかを考えたい。 http://www.shinmai.co.jp/news/nagano/20170623/KT170622ETI090009000.php

2017.6.23

 

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 京都みなみ会館。これから娘と「ゴンドラ」

 上映終了後、監督の舞台挨拶を聞いて、さあ、帰ろうと思ったら、娘がオフ会に参加したいと言い出した。わたしはこう見えても案外にシャイで、結構面倒臭 がりでもあるので、「え、行きたいの? 帰ろうよ・・」と思わず腰が引けたのだけれど、娘は「映画監督の話をまじかに聞けるチャンスなんてそうそうない よ」とやけに積極的で、結局押し切られてしまったのだった。 会場は映画館から東寺方面へ数軒先の居酒屋。出席者は監督、わたしたち親子、京都市役所に勤めているというなぜか全身刺青の41歳の謎の男性、今回のリバ イバル上映も含めてすでに21回見たという東京の47歳のほとんど監督の付き人“キング・オブ・ゴンドラ”氏、そしてニコ動経由で興味を持って見に来た滋 賀県大津市と三重県津市からのそれぞれ20代後半の若者の計7名。う〜ん、どんなグループなんだこれは。 娘は監督の正面の席にすわって、けっこういろいろと喋っていた。わたしもかねてから監督に訊いてみたかった作品に関する質問をあれこれとぶつけて、二人と も有意義な時間であった。世代を超えた交流もあれこれと愉しかったです。いちばん面白かったのは30年前16歳のときに福岡で「ゴンドラ」を見て魂を奪わ れたという“キング”氏が30年前のじぶんとまさに同じ年齢の娘がどんなふうに感じたかと話しかけていたことで、時空を越えた16歳の風景が微笑ましかっ た。 わたしはわたしでこのTLの冒頭の写真をあらためて見ると、監督のポルノ作品に娘が出ることにならないかとちょっと心配になってきたりして。

 京都は7月7日(金)まで。 http://gondola-movie.com/event/kyoto/

2017.6.25

 

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 映画「ゴンドラ」の伊藤監督がシェアして下さいました。 わたしの返信コメントを逆シェアして転載しておきます。

  思いもかけず愉しい時間をありがとうございました。 娘がオフ会に参加したいと言ったとき、「え〜 メンドくせえなあ」と思ったのですが(^^) 監督がおっしゃるように一期一会のユングもびっくり共時性で 参集した、ばらばらでいて不思議とゆるやかにつながった集まりでした。 娘は中学の3年間をほとんど不登校で過ごし、ハンディキャップもあり、いまは犬と猫に囲まれて自宅で過ごす時間が多いです。 大阪のシネ・ヌーヴォでわたしが「ゴンドラ」を見てきたときにストーリを話すると「見てみたいな〜」と言うので、体調がいいときに見に行こうと話していま した。きっとかがりのストーリーに心惹かれるものがあったのでしょう。 娘が不登校になってからわたしはかなりの時間を学校側との話し合いに費やしましたが、「学校に行けないことは果たして個人の原因だけなのか? 学校は「戻 る価値」がある場所なのか?」というわたしの問いをまともに取り合う教師はだれもいませんでした。 「狂ってしまった世界では、狂った反応をする人のほうが、いわゆるただしい反応をする人より多くなりますよ」というドイツのファンタジー作家ミヒャエル・ エンデ氏の言葉を思います。映画の前半でかがりや良が周囲の世界に拭いきれない違和感を感じていたように、娘もおなじところにいるのだろうと思います。そ して拭いきれない違和感を感じる者は、きっと何かを探していつか歩き出すのです。娘もそういうときが来るだろうとわたしは妙に確信しています。 切通さんが触れて頂いているように、今回の短い出会いの中でいちばん印象的だったのは「30年前と現在の二人の16歳」の出会いであり、かれらの何やら微 笑ましいような会話でした。キング氏は娘の中に30年前の自分をさぐり、娘は娘でひょっとしたら30年若返った少年のキング氏と言葉を交わしていたのかも 知れません。これはほんとうにすぐれた作品の持つ、時間など軽々と飛び越えてしまう素晴らしい力なのだと思います。そうした風景を目の当たりにしたとき、 わたしはまだ人間は信じられる、という気になります。 そうした風景を目の当たりにしました。

伊藤智生さんがあなたの投稿をシェアしました。 あいださん!昨日はありがとうございました。上映後の交流会、濃過ぎました。どうすれば、こんなキャラクターが違い過ぎるメンバーが一度に集まり、語り合えるのか?俺は この空間が、もう映画でした。 不登校だけれど、演劇、芝居が大好きな娘さんは、素敵です。俺は昨日、娘さんと話して、一杯パワー貰いました。ありがとう! https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=326532741132068&id=100013260345895

2017.6.26

 

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 以前に関西空港行きの高速バス・チケットを購入する際に、奈良交通の窓口で、一般は往復割引のチケットを買えるが、もともと割引されている障害者は二重 割引になるから往復チケットは買えないと言われたのと根っこはおんなじだな。家族で往復チケットの者と片道チケットの者がいると面倒だから、障害者割引の 片道分×2の料金でいいから往復チケットを出してくれと言ったら、そういうシステムになっていないので出せないと言われた。 オマケに散々粘って電話口に登場させたそのバス事業部の担当者は「個人的な意見だけれど」と、「障害者はもともと割引しているのだから、往復チケットが買 えないくらいは我慢して欲しいという気持ちだ」とのたまって、電話口の向こうでなかったら胸ぐらくらいつかんでいたかも知れない。今回のケースでも案の 定、ネット上では「障害者はもともと割引や手当てなどで優遇されているんだから、格安航空に乗れないくらい我慢しろ」という意見もけっこう見た。「合理的 配慮」なぞといったモットモらしいことを謳った「障害者差別解消法」が昨年4月に施行されたって、ひとの心はなんにも変わっちゃいないんだよ。 教育勅語について作家の山中恒氏が「道徳教育よりも必要なのは、もっと自分を愛することです。自分を大切にできれば人も大事にする。その基礎にあるのは基 本的人権」だと言っていたが、要するに政治がそんなものをすべてないがしろにしている国なんだから、掛け声ばかり揃えても、そもそも根づくわけがない。こ れからもっと悪くなっていくだろうとおれは思っているから、そのたんびに唾を吐きかけてやるつもりだ、これまでどおり。

2017.7.2

 

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「私は私自身を欺かずに生を終ればよいのである。」  恰も時が止まったかの如き木曽路の列車内で岩波新書の「菅野すが」を読了する。ようやっと夜中に当宿した名古屋駅前のホテルの牢獄のような無機質なるシステムバスに湯を落としている最中、忽然と彼女の言葉が突き刺さって骨にまで到達した日のことを忘れまい。

 愚かの極か聖人の極みなら別問題として、感情の器である普通の人間に、些の偽りなしに其様な無神経で居られやう道理がない。私は小人である、感情家であ る、而も極端な感情家である。私は虚偽を憎む、虚飾を悪む、不自然を悪む。私は泣きもする、笑ひもある。喜びもする、怒りもする。私は私丈けの天真を流露 して居ればよいのである。人が私を見る価値如何などはどうでもよい。私は私自身を欺かずに生を終えればよいのである。 「死出の道艸(みちくさ)」

2017.7.5

 

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 仕事帰り、明日は休日の気楽さもあって、かねてから謀っていた寄り道を実行した。ときどき夜風にふかれたくて帰る川沿いの道を淀屋橋へ出て大江橋を北へ 渡れば、かつての衣笠町とよばれた小さな一角が菅野すがの生家があったあたりという。いまでは関電ビルや立体駐車場が建ち並び、むかしの面影をたどるよす がもない。唯一クラシックないでたちの「大江ビルヂング」は調べてみれば1921年(大正10年)というから、すがの刑死から10年後ということになる。 そのまま水晶橋(昭和4年建設)をわたり、モダンな中央公会堂や東洋陶器美術館を横目に、夕涼みの人々がつどう中之島公園へと抜けた。堺筋を南下して北浜 の筋を東へすこしあるけば、こんどは菅野すがが通っていた今橋小学校だ。荒木傳氏の「なにわ明治社会運動碑」によれば、今橋小学校が集英小学校、そして現 在の私立開平小学校に変わった。ビルに囲まれた一角に隠れるように建っている小さな学校だ。汗ばむような暑気の夕暮れ時、かつてここでささやかな校庭を走 り回る小学生のすがの姿をしばし空想してたたずんだ。すこしばかり、彼女に恋をしているのかな。もう100年もむかしのことだけれど、まだ残り香が残って いるような。帰路はそのままさらに東へ、天満橋まであるいて谷町線で天王寺へつないだ。

2017.7.7

 

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 今日はやっと網戸の全ての窓への隙間シール貼り換え作業が完了した。とくに娘の部屋の机の後ろはさしずめ心霊スポット廃墟ビルのようなものでつれあいも あまり触れなかったので、いやあ汚い汚い。庭に下ろした網戸を洗ったら茶色い水であふれた。これで蚊対策は万全じゃ。 娘は昼前にやってきたわたしの妹と「パイレーツ・オブ・カリビアン」過去映画おさらい上映会を妹が持ってきたパンを昼食代わりに食べながら二階のテレビの 間にこもっている。わたしはつれあいと二人で茗荷と紫蘇の薬味のざる蕎麦。 午後、仕事へ出かけるつれあいが家の中のダークウォルナットの木部の一部に塗装剥げが散見すると言い残していったもので、網戸作業のそのながれのままでこ んどは塗装作業へ。これは6年前にこの家を買ってリフォームした際に工務店さんが置いていってくれた塗料がたっぷり残っている。各部屋の扉付近、階段の手 すり部分、玄関などの枠部分を塗っていった。 夕方は食事の支度。メインはやっぱり鄭玹汀さんの「韓国式蒸し鶏と野菜の和え ―夏に食べたい簡単料理」 唐辛子は指定の半分ほど。きゅうりは畑をやっている近所の人からのもらいものがたくさんある。ピリ辛・さっぱりで、暑い日でも 食がすすむ。 上記の鶏もも肉の茹で汁がもったいなくて、そのまま味噌汁に転用した。具は冷蔵庫にあった人参、ごぼう、白葱、玉葱、ニラ、しめじ、薄揚げを少しづつ。油 が浮いた濃厚な豚汁風味噌汁になった。 それから田口さんの「「オクラは小さく叩いてみじんからの超ぐるぐる混ぜに溶いた卵白加えてさらに、ぐるぐる。まるで山芋のとろろのようにしてから卵黄落 とし」 これは一見デザートのよう。ふしぎな「宇宙の食べ物」(娘) 半分はそのままで食べて、あとは残りご飯にのせて食べた。 今日もおいしかった!

韓国式蒸し鶏と野菜の和え ―夏に食べたい簡単料理 とても簡単で美味しい! *材料 鶏肉(ささみ、すき焼き用など)156g(お肉の量はお好みで) きゅうり 1本 たまねぎ 6分の1個(お好みで追加) *作り方 1.タレをつくる。 粉唐辛子 大さじ1弱 お醤油  大さじ1 お酢   大さじ1 お砂糖(オリゴ糖)大さじ1 胡麻  少々 はちみつ 小さじ1弱(省略可能) 全部混ぜておく。 2.鶏肉を茹でる。 鍋に湯を沸かし沸騰したら酒・鶏肉を入れて茹でる。 (私は鶏焼肉・すき焼き用 もも肉)を使いました。 お肉は、細長く切るか、手で割く。 3.きゅうり(1本)は、短冊切りにする。 たまねぎ(少々)は、薄切りにする。 4.ボウルに茹でた鶏肉とタレの半分をよく混ぜ合わせる。  きゅうりとたまねぎも入れて、残りのタレを入れて混ぜ合わせる。(辛いものが苦手の方はタレを少し残してもいい。) https://www.facebook.com/photo.php?fbid=828815273942492&set=a.133058856851474.29053.100004420802283&type=3&theater

2017.7.9

 

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 圧倒される。弱さも、強さも。信も、愛も、希望も。

  「愛する妻よ、君に伝えたい」劉暁波氏が残した愛と平和のメッセージに世界は震えた(全文) HuffPost Japan | 執筆者: 吉川慧 2017年07月14日 中国における民主化運動の象徴的存在だった人権活動家の劉暁波(リウシアオポー)氏。1989年の天安門事件で投獄されて以降、当局に繰り返し拘束されな がらも、亡命をせずに中国共産党の一党独裁を舌鋒鋭く批判。中国国内で民主主義と言論の自由の尊さを訴え続けたが、7月13日、志半ばで亡くなった。61 歳だった。 劉氏は2010年、中国での基本的人権の確立のため長年にわたって非暴力の闘いを続けてきた功績によりノーベル平和賞を受賞した。授賞が決まった直後、獄 中の劉氏は妻の劉霞さんに「(ノーベル平和賞は)天安門事件で犠牲になった人々の魂に贈られたものだ」と述べ、涙を流したという。 受賞決定後、民主化運動の高まりや人権問題の国際問題化を警戒した中国当局は、劉霞さんを自宅に軟禁。授賞式への夫の代理出席は叶わなかった。ノーベル平 和賞の歴史において、家族が代理出席できなかったのは、ナチス・ドイツに抵抗したカール・フォン・オシエツキー氏への授賞(1935年)以来、75年ぶり の事態だった。 2010年12月、主役不在のノーベル平和賞授賞式。会場には劉氏の巨大な写真と、空席の受賞者席が設けられた。 式典では、劉氏が2009年12月、自らの裁判審理で読み上げるために記した陳述書「私には敵はいない──私の最後の陳述」が代読された。そこには祖国の 民主化と言論の自由にかける思いと、苦難をともにしてきた妻への愛が込められていた。 全文は以下の通り。

 50歳を過ぎた私の人生において、(天安門事件が起こった)1989年6月は重要な転機だった。 文化大革命後(1977年)に復活した大学入試で、私は最初の大学生の一人となった。私の学生生活は博士課程まで順風満帆だった。卒業後は北京師範大学に 残り、教員となった。 教壇では学生から歓迎される教師だった。同時に、公的な知識人でもあった。1980年代には大きな反響を呼んだ文章や著作を発表し、各地の講演会にも頻繁 に呼ばれ、ヨーロッパやアメリカからも招かれ、客員研究員になった。 私が自分自身に求めたのは、人としても作家としても、正直さと責任を負って、尊厳を持って生きることだった。 私はアメリカから戻り、その後に1989年の民主化運動に参加したことで、「反革命宣伝扇動罪」で投獄され、情熱を込めていた教壇を失った。中国国内にお いて、私は二度と本を出版することも、講演をすることもできなくなった。 異なる政治的意見を表明し、平和的な民主化運動に参加しただけで、一人の教師が教壇を追われ、一人の作家が出版の権利を失い、一人の公的な知識人が公の場 で話す機会を失った。このことは私個人にとっても、「改革解放」から30年を経た中国にとっても悲劇だ。 思い起こせば、六・四(天安門事件)の後に私が経験した劇的な経験は、すべて法廷と関わっている。 私が公の場で話した2度の機会は、いずれも北京の人民中級法院の法廷が与えてくれた。1度目は1991年1月、2度目は今だ。それぞれで問われた罪名は異 なるが、本質的には同じであり、ともに「表現の罪」を理由にしている。 20年が経過した今もなお、無実の罪で亡くなった天安門事件の犠牲者の魂は安らかな眠りについていない。 私は1991年に釈放された後、天安門事件の情熱によって政府方針とは異なる政治的意見を持つ私は、国内での発言の機会を失い、海外メディアを通してのみ 言葉を発信できた。それらの言葉は、当局から何年にもわたって監視されてきた。 当局からの生活監視(1995年5月〜96年1月)、労働教養(1996年10月〜99年10月)、そして今再び私を敵とみなす政府によって、私は被告席 に押し込められている。 それでも私は、自由を奪った政府に対して伝えたい。20年前に「6月2日ハンスト宣言」で表明した時の信念と変わりはない――「私には敵はおらず、憎しみ の気持ちもない」と。 私を監視、逮捕し、尋問した警察官、起訴した検察官、判決を下した裁判官も、誰もが私の敵ではない。監視や逮捕、起訴、判決は受けいれられないが、私を起 訴した検察官の張栄革と潘雪晴も含めて、君たちの職業と人格を私は尊重する。12月3日の尋問では、私は2人から尊敬と誠意の念を感じた。 憎しみは人類の知恵と良心を腐らせ、敵対意識は民族の精神を傷つけ、生きるか死ぬかの残酷な闘争を煽り、社会の寛容性と人間性を破壊し、1つの国家が自由 と民主主義へと向かう道のりを阻むものだ。私は個人的な境遇を超越し、国家の発展と社会の変化を見据えて、最大の善意をもって政権からの敵意に向き合い、 愛で憎しみを溶かしたい。 「改革開放」が国の発展と社会変化をもたらしたことは周知の事実だ。私の見解では、改革開放は毛沢東時代の「階級闘争を要とする」執政方針を放棄したこと から始まり、経済発展と社会の平和的調和に貢献するものだった。 「闘争哲学」の放棄も、敵対意識を徐々に弱め、憎しみの感情を取り除き、人間性に染み込んだ「狼の乳(編集部注:中国共産党による愛国主義的な教育)」を 取り除く過程だった。この過程によって、互いを愛する心の回復や、あらゆる価値観や異なる利益が平和裏に共存するための柔和な人間的土壌といった、改革開 放に向けたゆとりある環境が国内外で整えられた。これにより民衆の創造性が発露し、慈しみの心が修復された。 国外に向けては「反帝国主義・反修正主義」の考え方を棄て、国内においては「階級闘争」の考えを棄てた。このことは、中国の改革開放が今日に至るまで継続 できた大前提だったと言えよう。市場経済となり、文化は多様性へと向かい、遅まきながら「法の支配」へと移行したのも、みな「敵対意識」が弱まったおかげ だ。 中国では最も進歩が遅い政治分野でも、敵対意識の弱まりによって、社会の多元化もあり、政府の包容性は増した。政治的思想が異なる者への迫害も大幅に弱ま り、1989年の民主化運動への評価も、「扇動された動乱」から「政治的動揺(政治風波)」へと変わった。 敵対意識の弱まりは、政府にも人権の普遍性を、ゆっくりではあったが受容させた。1998年に中国政府が国連の2大国際人権条約への署名を世界に約束した ことは、中国が普遍的な人権基準を受けいれたことを示した。2004年には全人代が憲法を改正。初めて「国家は人権を尊重し、保障する」と明記され、人権 が法治の基本的な原則の一つになったと示した。 その一方で現政権(当時の胡錦濤政権)は、「以人為本(編集部注:人間本位)」「和諧社会(編集部注:調和の取れた社会)」といった中国共産党の進歩を示 す理念を唱えた。 このマクロレベルでの進歩は、逮捕されて以来、自分自身も経験として認識できた。 私は自らの無罪を主張し、私を罪に問うことは違憲だと考えている。それにもかかわらず、自由を失ったこの1年あまりの間に、私は2カ所での勾留、公判前に 4人の警察官の尋問と、3人の検察官、2人の裁判官(の聴取)を経験した。 彼らには私を軽視する態度はなく、拘留期限も超過せず、自白を強制することもなかった。彼らの平静かつ合理的な態度は、常に善意を示していた。6月23 日、私は当局の監視下の住まいから、北京市公安局第一看守所、通称「北看」に移された。北看での半年間で、私は拘置方法の進歩を目の当たりにした。 私は1996年に旧北看(北京市宣武区半歩橋)で時を過ごしたことがあるが、10数年前と比べて現在の北看は、施設の設備や管理面で大幅に改善されてい た。 特に現在の北看の革新的で人道的な管理は、拘留者の権利と尊厳を尊重し、拘留者に対して柔和な対応をするものだ。それは「温声放送(北看内での音声放 送)」や雑誌「悔悟」、食事前や睡眠時間の前後に流れる音楽にも表れ、こうした管理は勾留された人に尊厳と温かさを感じさせ、秩序を維持しようする意識を 刺激する。 勾留された人に人間的な生活環境を与えるだけではなく、訴訟環境を和らげた。 私は、私の監房を管理していた劉崢刑務員と親密な間柄だった。拘留者に対する彼の尊敬と気遣いの念は、管理のあらゆる細部に現れ、彼のあらゆる言葉や行動 にもにじみ出ているように感じた。誠実で、正直で、責任感があり、親切な劉刑務員と知り合ったことは、北看での幸運の一つだった。 私の政治的信条は、このような信念と経験に基づいている。すなわち、中国の政治的進歩は決して止まらないと堅く信じており、いつの日か自由な中国が生まれ ることへの楽観的な期待に満ちあふれている。いかなる力も自由を求める人間の欲求を阻むことはできず、中国は人権を至上とする法治国家になるはずだ。こう した進歩が、本件の審理にも体現され、法廷が公正な裁決、歴史の検証に耐えうる裁決を下すと期待している。 もし過去20年間で最も幸せな経験を語るとするならば、妻の劉霞の無私の愛を得たことだ。彼女は今日この裁判を傍聴できないが、しかしそれでも私は君に伝 えたい。私の愛する人よ、君の私への愛が、いつまでも変わらないことを確信していると。 何年もの長い間、自由のない暮らしの中で、私たちの愛は外部環境によって苦難を強いられてきたが、思い返せば際限がない。私は有形の監獄で服役し、君は無 形の心の獄中で待ち続ける。君の愛は太陽の光だ。牢獄の高い壁を飛び越え、鉄格子を通り抜ける。私の肌を撫でて、細胞を温め、心の平穏と純潔、明晰さを終 始保たせ、獄中の全ての時間を意義あるもので満たしてくれる。 一方で、君への私の愛は痛みと苦しさでいっぱいで、時としてそのあまりの重さによろめいてしまう。私は荒野の石ころで、暴風雨に打たれるがままだ。冷た く、誰も触ろうとはしない。しかし私の愛は堅く、鋭く、いかなる障害をも貫くことができる。たとえ粉々に打ち砕かれても、私は灰となって君を抱きしめる。 愛する人よ。君の愛があるからこそ、私は来るべき審判に平然と向き合って、自分の選択を悔やまず楽観して明日を待つことができるのだ。 私は望んでいる。私の国が表現の自由がある場所となることを。全ての国民の発言が同等に扱われるようになることを。 そこでは異なる価値観、思想、信仰、政治的見解が互いに競い合い、平和的に共存できる。多数意見と少数意見が平等に保障され、特に権力者と異なる政治的見 解も、十分に尊重され、保護される。ここではあらゆる政治的見解が太陽の光の下で民衆に選ばれ、全ての国民が何も恐れず、政治的意見を発表し、異なる見解 によって迫害を受けたりしない。 私は望んでいる。私が中国で綿々と続いてきた「文字の獄(編集部注:言論弾圧のこと)」の最後の犠牲者となることを。そして今後、言論を理由に罪に問われ る人が二度と現れないことを。 表現の自由は人権の基礎であり、人間性の根源、真理の母である。言論の自由を封殺することは、人権を踏みにじり、人間らしさを閉じ込め、真理を抑圧するこ となのだ。 憲法によって付与された言論の自由を実践するためには、公民としての社会的責任を果たさねばならない。私がしてきたあらゆることは罪ではない。たとえ罪に 問われても、恨みはない。 皆さんに感謝を。 http://www.huffingtonpost.jp/2017/07/13/liu-xiaobo-final-statement_n_17478148.html?ncid=engmodushpmg00000004

2017.7.14

 

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 自転車であちこちを徘徊するのが愉しい。奈良へ移住してかれこれ20年近く、これまではずっと単車か車での移動が多かったのだが、ここにきて自転車で近 隣の町々を走るのが無常の楽しみだ。単車や車では気づくこともなく通り過ぎていた風景が見えるし、どんなに狭い路地や橋や小さな踏切へも入っていける。歩 きか自転車しか通れない懐かしい砂利道も、奈良にはまだたくさんある。自転車で1時間も走れば、平城京跡や法隆寺だ。その間に歴史に埋もれてきたような、 けれど興味深い来し方を湛えた集落が人々の暮らしが垣間見れるのが面白い。奈良って、まだまだ知らない場所ばかりだ。 もともとわたしは自転車少年だった。東京にいた中学生の頃、親戚の兄貴に連れられて高尾山や房総半島一周なんかをして、それからこんどは友人と甲府や富士 五湖などを巡った。当時はユースホステルが全盛で、スリーピングシーツ持参であちこちのユースホステルのスタンプを集めたものだ。高校の途中で家が茨城県 の北の果てに引越しをしてからは、夏休みには自転車で水戸街道160キロを走って東京の友人宅へ何度か泊まりにいったものだ。だから水戸街道(国道6号 線)の道々の風景はこまかいところまでいまもよく覚えている。車で通り抜けたらそんなことはなかったろうな。 20歳を過ぎてからバイクの中型免許を取って、それからは250ccの単車がぼくの足だった。北海道と九州以外は寝袋とテントを積んでぜんぶまわったな。 つれあいといっしょになった30代になっても、お金がなくて車も買えなかったから、つれあいを単車の後ろに乗せて二人で奈良県内の県営住宅をほとんどぜん ぶ見てまわった。車の免許を取ったのは30代もやっと後半になってからだ。あとで絶対に必要になるからと彼女が言うので、半ば嫌々教習所に通った。たいて いいつも彼女の方が正しい。いままでもそうだったし、これからもきっとそうだろう。そのくせ、えらそうなことばかり言って済ましている。 娘が一人立ちをしたらもういちど単車、大きいのでなくて125ccのオフロードくらいの単車をまた買ってあちこち走りたいとずっと思っていたけれど、50 歳を過ぎていま、自転車がいいなあ、と思い始めているじぶんがいる。そういえば晩年の清志郎も自転車が好きだったんだよな。それを思うとうれしいような、 悲しいような。東京で生まれて東京で育った子ども時代、町は東西南北どっちへ行っても家や工場やさまざまな建造物がごちゃごちゃと川や道路の間につまって いる、そんな空間だった、どこまでもどこまでもそうだった。知らない町へ自転車の乗って行くのは冒険だった。知らない町の景色、知らない町の表情があっ た。小学生のときに大好きだったおじいちゃんが死んだ。お葬式をして、バスに乗って火葬場へ行って、おじいちゃんを燃やした。火葬場の煙突から煙になって 空へのぼっていった。次の日、バスの窓から見て覚えていた道を自転車でたどって火葬場を見つけた。そこは不思議な場所だった。なんどか自転車に乗ってその 火葬場へ行ったんだ。 自転車で走ろう。むかしと何も変わっちゃいない。知らない街を自転車で走る。

2017.7.17

 

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 差異とは何であろうか。ひとがひとを区別し、忌避し、放逐しようとするこころの仕組み。思えばわたしは、娘が生まれる前から、つれあいと出会うずっと前から、そうした問いを身にまとってあてどなく歩きまわっていたような気がする。じぶんでも分からぬ道を。

  混雑を避けて朝いちばんで国立博物館の「1000年忌特別展. 源信 地獄・極楽への扉」を見に行こうと娘と約束していたのだけれど、朝食を食べ終わる頃にお腹が痛いと言い出して母親と二階の部屋へ摘便をしにいって、「すこ しは取れたんだけど、まだ奥のほうに残っていて気分が悪い。お父さんには悪いけど、またいつ出たくなるかも分からないから今日はとても出かけれないと言っ て、いまベッドに横になっている」とつれあいだけ降りてきた。毎度のことだから、展覧会は仕方ない。それより毎度のことなれど、足の不自由は百歩譲ったと して、おしっこ・うんこはいろいろと日常生活に影を落とすものだから、いつか神経医療が進歩して治るようになったらいいのになあといつも思う。そんなわけ で予定を急遽変更、あるいは夕方にでも行けるようになるかも知れないからいまのうちにと、自転車で駅前のスーパーに食材を買いに行って、お昼のサラダと夕 食のボルシチをつくりはじめた。庭のハーブ二種を積んでいつものハーブ・ティーもたっぷり沸かした。

 昼時になった。つれあいが朝、仕事へ行く前につくって置いていってくれたおにぎりと、わたしがつくった鶏ささみと豆腐、パプリカ、淡路島のフルーツ玉葱 などのサラダの昼食。娘はおにぎりをひとつだけ食べた。それから、何の話をしたろう。わたしがたまたま今朝の新聞で見た、アメリカのどこかのマグマに近い 岩場の泉で、どんな仕組みで生存しているのか分からない遺伝子を持った細菌が発見されたという記事のことを彼女に話した。いろいろ話をしているさなかに娘 の調子もちょっとよくなってきたようで、わたしはふと何気なく、おまえはいままでお父さんやお母さんに「どうしてこんな体にじぶんを生んだのか!」って文 句を言ったことがいちどもなかったな、と言った。よその人の話や体験記なんかを読むと、どんないい子でも年頃になるとそんなふうに親に食ってかかることが ある。お父さんはいつかじぶんたちも言われるときがあるだろうと覚悟をしていたけど、おまえはいちども言ったことがない。すると彼女は、わたしがお父さん とお母さんの間に生まれてきたのはそもそも偶然で、別のお父さんやお母さんから生まれてきたかも知れない。だからじぶんの障害が両親のせいだと思う発想も なかったし、逆にお金も手間もいろいろかかるし、お父さんやお母さんたちがよく育ててくれたと思っているくらいだ、と答えた。お母さんはな、むかし、おま えの病気が分かった頃、神さまはちゃんと育ててくれる親のところへ子どもを選んで送る。だから病気を持ったおまえをじぶんたちのところへ送ってくれたん だ、と言ったことがあったな。これはそのあとで、わたしが言った。

 思わず自然と、そんな話になって、いつもこんな話はあんまりしないのだけれど、何だか二人ともスナオな心持ちで、でもおまえもこういうハンディを持っ て、いろいろと嫌だなあと思ったり、辛かったり悲しかったりしたこともたくさんあるだろう? とわたしはなおも問うた。小学生のときにね、面白いことが いっかいあったよ。プールの授業のときに手術の痕が見えるじゃない? そのとき○○ちゃんていうクラスの子が、紫乃ちゃん、なんでそんな変わった足をして いるの? って訊いてきた。先生はそのとき「そんなこと、言っちゃいけません」って叱っていたけど、わたしは言われてうれしかったな。陰でこそこそ言った り遠くから隠れて見たりしているより、そういうふうにまっすぐ言ってくれて、わたしはとてもうれしかった。 ・・・そうだな。小学校のときはそれなりに馴 染んでいたと思うけど、中学で(受験をして私立の進学校へ入学して)誰もじぶんのことを知らないところへ変わったというのは、いまから思えば、すごくよく ないことだった。特にあの女子ばかりの閉鎖された空間で、裏表がものすごいあるから、ちょっとした違いで区別される。わたしの場合もやっぱり、ふつうの子 といろいろ違うからまず入口でそれがあるんだよね。先生たちにはぜったいに分からない、微妙な空気のようなものがあって、たとえば校庭の端と端で遠くはな れて喋っている感じ。さいしょから、そんなだった。いちばん辛かったのは、高校生になって、学校を(現在の定時制に)変わったときかな。

 ほかにもいろんな話をした。いろんな話ができるようになったんだろうな、お互いに。娘が戦国武将のなかでいちばん好きな大谷吉継についても、かれがハン セン氏病を患っていたという話もあるのだろうと思う。じぶんが辛い目にあったとき、悲しい思いをしたときに、吉継もそうだったろうと思って逆にうれしくな る。そんな言い方をした。いまでもやっぱり杖をついて歩いたりしているのを見られるのは嫌か? と訊けば、う〜ん、なんだろう。じぶんが障害を持っている のは、そうして生まれてきたんだからそれはそれで仕方がないっていうか、でもわたし、障害がなかったら、きっと運動するのが大好きだったろうなって思う。 小学校のとき、将来は小説家になりたいって思ったのも、小説家だったら歩けなくても仕事ができるからね、そう思ったわけだし。そうして、親はすぐに話をま とめたがる。でも病気があったから、おまえも人とは違っていろんなことを考えたんじゃないかな。お父さんの友だちの(生まれつき筋ジストロフィーの病気を もつ)悦ちゃんもさ、悦ちゃんのお母さんはずっとあとになるまでなかなかじぶんの娘の病気を認めたくなかったから悦ちゃんはお母さんとの関係でもとても苦 労したと思う。でもだから彼女はあれだけ強い人間になった。もしも悦ちゃんが病気がなくて健常者として生まれてきたら、もしかしたら悦ちゃんはふつうのつ まらない女の子になっていたかも知れないよね。お父さんだってある意味そうだよ。良い高校へ行って、良い大学へ行って、有名な会社に就職してなんていう コースとはおよそ正反対の20代、30代だった。家に閉じこもっていたときもあったし、仕事もないときもあったし、近所の人から白い目で見られたり、でも そのときのことはいまとっても役に立っているとお父さんは思っている。そしてもう一度やり直せたとしても、お父さんはやっぱりおなじことをするだろうな。 じぶんのいままでの人生は、お父さんは大成功だったと思う。お母さんみたいにきれいな人と結婚もできたしね。ほんと、そうだよー、とここで娘。そこはほん とうに、神さまがきっと書類を間違えたんだと、どうしてそんな間違いをしちゃたのかと、わたしはほんとうに思うね。

 まだまだいろんな話をした。いろんな話をしたけれど、とても全部は書ききれない。ユウコさん(わたしの母)がこんなことも教えてくれたよ。わたしが赤ん 坊のときに、和歌山のおばあちゃん(義母)が近所の人にわたしの障害を教えなかったって。そう、そんなこともあった。わたしはそのとき義母に、いやつれあ いに怒ったのだった。障害があるから隠そうとする、それは赤ん坊が、この子が可哀想じゃないか。何も隠す必要なんかない、堂々としていたらいいじゃない か。そういういろんなことがあって、義母も、わたしの母も、つれあいもわたしも、そして当の娘自身も、いまはすべてがいいのだった。そうして扇風機だけを つけた暑い真夏のリビングでいまこうして、いまでこそこんなふうに喋れるけれどといった風で笑いながら思い起こしながら話しているわたしたち父娘も頗るい いのだった。親の影響って、ほんとに大きいなって思う。いまわたしの服の好みって、ほとんどお母さんとおんなじなの。でもその中にときどき変なのが混ざっ てる。ネイティブ・インディアンの羽根の模様みたいのとか。それはお母さんの好みじゃない(^^) おまえはそんなことを言って笑って、それからわたした ちは娘が影響を受けたというユーモアについて、北杜夫のマンボウ・シリーズや枝雀の落語や「進めパイレーツ」の漫画などについて話し、じぶんを笑うことが できるユーモアは強さの指標だなぞということを父が力説している。おまえはほんとうにいい子に育ったって、お父さんは思っているよ。心のやさしい、正義感 の強い・・・ でも育てるというのは、もう終りだ。与えるのは終り。これからは“良き友だち”になるんだと思うな。この音楽、ちょっといいよってお前が 持ってきたのをお父さんが、おお、いいな、って聴いたりとかね。そういうのが、いいね。

 差異とは何であろうか。ひとがひとを区別し、忌避し、放逐しようとするこころの仕組み。思えばわたしは、娘が生まれる前から、つれあいと出会うずっと前 から、そうした問いを身にまとってあてどなく歩きまわっていたような気がする。そしてこの先も、つまづきながら、迷いながら、ときに唾を吐きながら、やっ ぱり歩いていくのだろう。でもきっと、一人ではない。

2017.7.22

 
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 奈良国立博物館へ、1000年忌特別展「源信 地獄・極楽への扉」を見に行く。暑い夏の隈取る光から隔絶した仄暗い展示室はさながら夕暮れのふたかみの ふもと世界のようであった。昼と夜のあわいのようなくるった灯ともし頃にひとはよく夢まぼろしを見る。肉体からたましいがあくがれ出でて遊離した中将姫で あれば、金色の髪の豊かに垂れかゝる片肌のうわごとに「なも、阿弥陀ほとけ。あなたふと、阿弥陀ほとけ」と思わず洩れたことばがそれである。阿弥陀であれ 地獄の餓鬼であれ、ひとはもうひとつの世に飢えるのだ。たとえばほら「西方極楽世界十六観想画讃」などはユングの「赤の書」の一頁であったとしても驚かな い。無意識の深みより立ち上がるげっぷを可視化して二次元に貼り付けたらこんなものができる。それよりもわたしは滋賀・荘厳寺の異形の空也立像に思わずや あとつれそって仲良く立小便をした。それからひさしぶりに再会した「一遍聖絵 巻七」もそうだ。ほらあの画面のはしっこ土塀の陰にたたずんだ白頭巾の男は 「もののけ姫」にも出てきたな。京都鴨川の橋の下にもそらなにかがいるぞと娘の耳元にささやいていたら隣の初老の男性がこれは牛馬の処理をするところです わとつけくわえてくれた。ああそうですかこの場面がなるほどそうかとわたしはふかくうなずいて至極ご満悦である。地獄はこの世にあってわたしの臓腑をいま もぎりぎりと喰い散らかしている。浅川マキをフォークで突き刺した青鬼もそのひとりに間違いない。さあ悪魔でかけようぜとロバート・ジョンソンも言った じゃないか。わたしはそんな奇怪な臓腑のおくにちいさな阿弥陀をひとつかくしもっている。

2017.7.28


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 余計な荷物をロッカーに入れた松本からローカルな篠ノ井線に乗ってまず見えてきたのは山と山のなだらかな斜面に大きくひろがった犀川の河原の景色だっ た。陶淵明の描いた桃花源の村はこんなところではなかったかと錯覚した。明科駅におりてまず、ロータリーの向いに建つ大きな観光案内版を見上げた。かつて はこの地図上に「大逆罪発覚の地」の文字があったというが、いまは「大逆」の大の字も見えない。地元の農民運動の研究家(望月桂さん)が町史編さんの資料 として調べ歩き収集したという資料を展示している明科公民館を探して歩き出した。グーグル・マップを頼りに犀川に近い県の水産試験場まで来たら、隣の公民 館の場所は広い空き地になっていた。スマホで安曇野市のHP上の住所を拾ってふたたびグーグル・マップに落とす。駅から数分の町中に移転していた。ひっそ りした新しい公民館の受付にいた初老の男性に訊くと、ああ、以前にそんなのがあったかも、とはなはだ覚束ない。あれだよね。明治天皇の車を谷底に落とそう として死刑になっちゃったやつ。まあ、大変なことをしてくれたもんだ。そこへスーツ姿の市の管理職らしい男性が入ってきて、初老の男性からわたしがわざわ ざ奈良から大逆事件の資料を見に来たと聞くと、ああ、あの資料はねえ、もう今はここにはないんですよ。たしか安曇野市の歴史博物館に移ったはずだけれど、 とわざわざその博物館へ電話して訊いてくれた。結果は、かつて明科歴史民俗資料館にあって、その後(おそらく同じ場所の)公民館の一室につましいパネル展 示として収まった資料は公民館の移転と共に、いまは安曇野市の文化課の収蔵庫に保管されているという。現在、安曇野市にて新しい郷土資料館の建設計画があ り、将来的にはそこで展示されるかも知れないが、いまのところは公開していない、ということだった。どうですか。これで勘弁してやりますか? とそのマツ エダさんという人は受話器を抑えていたずらっぽく訊き、「もし何だったら、平日にまた市の文化課に電話して訊いてくれたら、もっとくわしいことが分かると 思います」と言って立ち去っていったのだった。こうなったら後は宮下太吉が明治42年11月3日の天長節(天皇誕生日)の夜間に人目を忍んでいわゆる“爆 裂弾”の実験を行ったという場所を探しに行くしかほかにすることがない。地図も資料も何も頼りがない場所探しだったが、案外と簡単に見つかった。駅前の国 道19号線を長野方面へすこしだけ進み、会田川の橋の手前、東栄町の交差点を四賀へ抜ける山あいの県道302号線へと折れてしばらくのぼる。やがて左手に 6軒ほどの新築の戸建てが並んだエリアが見えたら、その手前に左への侵入路があり、入ってまたすぐ左に川のほうへ下りていく細い道をうねうねとくだってい けば、やがてあの写真で見た岩肌が露出した蛇行する会田川沿いの山並みが見えてくる。明科駅から、そう30〜40分ほどだろうか。思っていたより町中から 近いが、現場は川の蛇行がいちばん山のふとことへ食いこむように曲がっているところだから、気持ち的にも奥まって隠れた感じがする。宮下太吉もおそらくそ う思ったのだろうなと考えると、なぜか可笑しかった。ほんとうなら太吉が“爆裂弾”を投げつけただろう岩盤の対岸の河原に降りてみたかったが、耕した畑の 湿地帯の上、河原との境界に害獣対策の電気柵がぐるりと張られていて諦めた。しばらくそこでぼんやりとすわっていたが、ふたたび引き返してこんどは国道を またいで会田川が犀川に合流する地点までぶらぶらと歩いていき、それからしばらく人通りのほとんどない静かな町中をあちこち歩き回った。明治の事件当時、 水利を生かして各地の上流から運ばれた木材を集積し官営の製材所があった明科の賑わいは、いまでは見る影もない。同時にこの小さな町には大逆事件の痕跡も なにひとつ残っていない。あるいは意図的に残していないのかとも思える。ほんとうは夕食を、馬肉がおいしいという駅前の「高野屋きそば」でもりそばといっ しょに味わおうと思っていたのだが、暑い最中に歩き続けた疲れもあり、たまたま蕎麦屋の開店までの時間つぶしに入った駅前のスーパーで郷土料理の鯛の甘煮 や山賊焼きなどを見たら高い金を払うよりここで買って帰って、ホテルの部屋で食べるのもいいかも知れないと思って、五一ワインや大雪渓の純米酒の小瓶と共 にレジに並んでいたのだった。

▼安曇野の記念年〜大逆事件100年 http://azumino-herb.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/100-2f66.html

▼臼井吉見の「安曇野」を歩く http://www.shimintimes.co.jp/yomi/aruku/76.html ▼つぶやき館 大逆事件と明科(あかしな) http://madonna-elegance.at.webry.info/201707/article_28.html

▼明科 歴史のまちなみと水の郷を訪ねて(ルートマップ) http://azumino-sanpo.info/wp/wp-content/uploads/2016/01/wm07.pdf

2017.7.30

 

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 ホテルの朝食。ここの地元おばちゃんたちの手作り感あふれる惣菜バイキングは感動ものだ。いつものように蕎麦粥と漬物などを中心に。そんなわけでトレイを持って沢庵などを取っていたら、背後のテーブルの家族の会話が聞こえてきた。 「そのときねわたし、障害の子といっしょになっちゃってさ」と小学生くらいの女の子。 「そんなこと言ったらだめだよ」とお父さん。 「でもね、▼▼▼▼(聞き取れず)なんだよ」 「そうか、運が悪かったね」と母親。 思わずうしろを振り向いた。松本に観光に来たのだろう、三人ともほっそりした、大人しそうな感じの家族。一瞬、会話が止まった。お父さんと目が合った。 そのときわたしは、ひどく悲しい顔をしていたに違いない。

2017.7.31

 

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 打ち合わせが早めに終わったら松本市内にある木下尚江の生家跡と、鄭さんがおしえてくれた摂取院跡地あたりをぶらぶらと見てこようかと目論んでいたのだ けれど早くは終わらず、夕方の電車で移動して今夜は京都泊。奈良はもう眼と鼻の先なれど、明日の朝一から四条河原町でまた別件の仕事があるので東本願寺に 近いビジネス・ホテルを予約しておいた。チェックインをして、溜まると億劫なのでホテルの部屋でPCをひらいてしばし仕事の報告書などを打つ。やれやれ、 おれも立派なビジネスマンだな、こりゃ。一段落をして、夕食を食べに外へ出る。すでに立派な御影堂門も閉ざされた東本願寺のはたの暗がりをゴキブリのよう にひたひたとあるいていく。東本願寺といえば、餃子の王将だ。もうかれこれ一月ほど中華は避けているが、食べないと決めたわけじゃない。店の前に立てば 「駅前セット」が飛田新地のお姉ちゃんのように優しくおいでおいでをしている。焼き飯、餃子、唐揚げ。まさに禁断の味。頬張りながら、いつも松本の打ち合 わせ現場へ行く途中にある“美人度5%、満足度95%”を謳った「オバタリアン」なる店の電光掲示板で流れている「奥様も安心・夫婦円満」の真偽について 考えた。帰途、どこぞの小路の奥から乾いた拍子木の音が小さく響いてくる。誘われるようにその暗がりへとあるきだす。適(たま)たま世の中に在りと見るに  奄(たちま)ち去って帰る期(とき)靡(な)し。 一つ目の角を折れたところで肉体(形)が影ぼうし(影)に云った。

2017.8.1

 

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 松本〜京都と漂って4日ぶりにわが家に帰れば、愛しの妻と娘は和歌山の義母の見舞いに行っていて留守。それでも健気な夫は冷房がよく効いた娘の部屋にの びていた犬を散歩に連れ出し、犬と猫に餌をやり、雨が降りそうにないので庭の水遣りをしながら蚊に食われ、どれ夕飯でもつくっておいてあげようかと、ご飯 を炊いて、鄭さんより伝授の〈万願寺とうがらしと鶏もも肉の甘辛煮〉といつものマンネリ・サラダ(今回はハムとセロリを追加)をつくって待っていたら、 LINEで「高速の上り口が混んでいて、二人ともお昼を食べ損ねてお腹がペコペコなのでSAで食べて帰ります。ごめんね」というメッセージが。 . ワン・プレートにサラダと甘辛煮を載せ、茗荷と庭の青紫蘇を加えた納豆をご飯にのせて、足元の犬に話しかけながらでひとりさびしく食べる今宵であった。

2017.8.2

 

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 無事、三輪自転車が売れて、この3万円を元手にいよいよわたしのクロスバイクを買おうと、この頃はあれこれとググり続けていた。見た目だけでいえばそれ こそ1万円台から、手頃な値段では2万円台でもそれなりに見えるクロスバイクはあるのだけれど、やっぱりそれはそれの値段相応な品物で、せっかくならもう 少しだけ夢を見てみたい。というわけで予算は少々オーバーするが、へそくりの2万円ほど(わたしの昇進祝いにとかつて義母がくれたお祝い金の残り)を投入 して、イタリアンなジオス(実売5万円弱)あたりかな、しかもちょっとひねってグレーがいいかもと照準を定めたところ、妹がそのクラスの自転車だったら外 の自転車置き場じゃすぐに盗まれちゃうよ、なぞと言い出した。でも確かに一度、玄関先の植木を鉢ごと持っていかれたこともあったし、いまある折りたたみ自 転車もつれあいが図書館の駐輪場に停めておいてわたしが付けたシマノ製のボトルホルダーを外されたりした。ではどこへ置くか? 玄関は娘の車椅子がある し、飼い猫・レギュラスのゲージもある。無理に置けないことないが、窮屈になるのは必至だ。スタンドや壁掛けといってもそれなりには出っ張るだろう。娘が 出入りするときなどにふらつくこともあるので、あんまり出っ張っていてぶつかるのも怖い。玄関のすぐ隣のわたしの書斎といっても、いちいち車輪を丁寧に拭 き取って部屋に出し入れする細やかさがわたしにあるかと言ったら絶望的に無い。では庭のガーデンハウスはどうだろう? 入らないことはないが、かなりぎり ぎりだろうな。それに自転車があれば他の作業のときに不自由だ。ならいっそ、安い1〜2万円台の自転車にして、盗られても悔いはないと従来どおり自転車置 き場に停めるかだ。高価な自転車を大事に大事に管理するよりも、面倒臭がり屋のわたしにはそれがいちばん合っているかも知れない。でも、かつての中学生時 代にサイクリング誌を毎月購入していた血が騒ぐんだよな〜 あー 決められない。

2017.8.3

 

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 アジアの貧しい家庭の子どもたちの就学援助をする「ダルニー奨学金」の証書とともに、ことしのわが家の支援対象となる生徒の写真などが届いた。タイのプ リーラム県に母親と暮らす CHONTHICHA SALANGAM ちゃん、13歳。中学2年生だ。たいてい父親がいないなどの片親だけの家庭が多いな。毎年1万4千円ほどが振り込まれ、これはわたしの小遣いから毎月千円 ほど引かれている。たしか娘が小学生の低学年の頃に始めたから、もうかれこれ7〜8年は経つんじゃないか。もともとは娘との交流なども期待したんだけど、 手紙(英文)を出しても返事が来なかったりで、いまではお金を送るだけになった。「ダルニー奨学金」を始めたとき、まだわが家は必ずしも経済的に余裕があ るという状態ではなかったけれど、わたしが失業したりして日々の糧にも困るようなどん底はどうやら脱出しかけていて、それでも世界中の大変な環境で暮らし ている人たちに比べれば相当贅沢な生活をさせてもらっているからと思って(家族にもそう言って)、せめてもの罪滅ぼしにと始めたのだった。その気持ちはい まも変わっていない。会うことはないだろうけれど、写真の少女をしばらく眺めて、いろんなことを考える。1年間、一生懸命勉強してね。

▼公益財団法人民際センター http://www.minsai.org/ 

2017.8.4

 

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 いやあ、早いね〜 クロス・バイク。昨日まで乗っていた折りたたみ自転車が人力車としたら、こいつはさしずめトム・クルーズがSF映画で乗る未来のスー パーカーだな。そこらのママチャリや餓鬼どものシティ・サイクルなどらくらくぶっちぎりだ。この疾走感はじつにしばらく忘れていた感覚だな。自転車屋から もどって、ちょっと試し乗りと、佐保川沿いのサイクリング・ロードで西ノ京をぬけ、平城京跡を散策し、近鉄奈良駅をすぎて観光客満載の東大寺、志賀直哉旧 宅の高畑、そのまま奈良町へ下って元興寺、偶然見つけた中将姫生誕寺、そのまま路地を抜けて京終、がらがらと遠くに雷鳴を聴きながら郡山へ戻り、つれあい に頼まれていた買い物をしてぱらぱらと空が泣き出した頃にナイス・タイミングで帰宅した。まさに大和一国を手中にした大名の気分じゃ。小学生のときにはじ めてお古じゃなくて新品の自転車を買ってもらった。うれしくてうれしくて眠れずに、夜中に何度も父親の仕事場に置いている自転車を見に行った。そんな気持 ちがちょっぴり蘇る。それにこいつなら安藤さんのCT110ハンターカブを煽ることもできるかも知れないし。

2017.8.5

 

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 「今日は最高36,9度とか言ってるよ〜」 自転車で通りかかった近所のOさんの声もなにやらおぼろにとろけていきそうな暑さ。 昨日の午後。柳町商店街にできた日之出製氷さんのかき氷を家族三人で食べに行ってきた。娘は紅茶みるく、つれあいはマンゴー、わたしは山ぶどう。旨い! これなら三杯は食える。店の後ろの駐車場で丸椅子にすわって食べる風情もナイス。 暑いからうまいのか。うまいから暑いのか。それにしても脳味噌までとろけそうだ。 隣の金魚改札機を置いているのは郡山の社会福祉法人「ひかり園」のお店「さくら倶楽部」。ときどきつれあいが野菜などを買っている。

▼さくら倶楽部 http://hikarien.org/sigoto/

▼ヒノデサン 柳町店 (hinodesan) https://tabelog.com/nara/A2902/A290202/29010690/

 

 それでも夕方になればまた自転車に乗って走りたくなる。午前中に歯医者も兼ねて富雄川沿いから六条山をぬけて西ノ京あたりくをぐるりと走ってきたことも あって、夕方はごく近場を小一時間ほど。いつも車で眺めながら(あの狭い路地へ)入って行きたいと思っていた若槻環濠集落へ。ここは中世までたどれる貴重 な集落。くわしくは下の調査報告所をどうぞ。自転車でしか入れないような入り組んだ集落内の路地をまわり、いい感じにひなびた天満宮とそのまわりの環濠な どを見てまわった。それから菩提仙川の土手を経由して、むかし住んでいたなつかしい県営団地の中をまわり、佐保川の土手沿いにある、むかし娘の幼稚園の帰 りにママちゃりに乗ってしばらく休憩をした土饅頭の墓地にひさしぶりに行ったら河川の改修工事による「無縁墳墓等改葬告知」が出ていて、ああ、ここもなく なってしまうのかとさみしい気持ちになった。大きな木の根元の六体の地蔵などは、これまでさまざまな風景を眺めてきたことだろう。立派な墓石でかためた墓 地より、川沿いの、木の墓標も朽ちて土饅頭だけになって、それでもお盆になれば色鮮やかな花が供えられている、こんなお墓が好きだな。しばらく墓地の中に たたずんでいた。

▼若槻環濠発掘調査報告書 http://sitereports.nabunken.go.jp/ja/1155

 下の国土交通省近畿地方整備局 大和川河川事務所のサイトによれば、ここは「埋め墓」らしい。ということは稗田に古い両墓制の集落があるということだ。

2017.8.7

 

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 でも進歩というものに騙されてはならないのです。人間は二つの石をこすって火を作りだしました。それから、これまた火を生みだす原子力を発明しました。 私の音楽家としての役目は、石の摩擦が爆弾よりもはるかに創意に富んでいることを分らせることなのです。私のつとめは、人間の裡にその自然の感覚、その自 然な感情を呼びさましてやることなのです。(武満徹)

2017.8.16

 

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 奈良の東大寺から京都方面へむかう玄関口である奈良坂に北山十八間戸(きたやまじゅうはっけんこ)と呼ばれる癩病患者の収容施設が残っているのは有名 だ。コスモスで有名な般若寺、そして今年その役目を終えて閉鎖された少年刑務所を含むこの北山一帯にはかつて、興福寺や春日大社等の権力の支配のもとで町 の警護や葬送、死穢の処理(死刑執行から死牛馬の解体まで)などを担わされていたいわゆる「非人」とよばれて賤視された人々がいた。つまり奈良坂は境界で あった。穢れを隔て、価値を隔て、人間を隔てる境界である。「清目」とはかれら自身もふくめて、清らかな都から境界の外へ、穢れを隔離し排除する役割のこ とをいう。癩病者もかつてその対象であった。市中で病者が発生すると、かれらはその家に行って身柄の引渡しを要求した。病者は親兄弟から引き離れ、かれら の管理下のもとで乞食(こつじき)を行い、あがりを上納した。病者が死ぬと衣服・諸道具類をふくめ「骨・灰」に至るまでかれらのものとなった。これを乞場 という。草場が死牛馬の権利であれば、乞場は癩病者の権利である。

 青空の下、唐招提寺や薬師寺などの荘厳華麗な伽藍が建ち並ぶのどかな西ノ京の西郊に、北山十八間戸とおなじような癩病患者の収容施設があったということ を知ったのは、たまたまWeb検索をしていてヒットしたふたつの論文(PDF)からだ。宮川量氏による「救癩史蹟 西山光明院に就いて」(1935(昭和 10)年 レプラ第6巻第2号)と、吉田栄次郎「薬師寺西郊の夙村と救癩施設・西山光明院」(2006(平成18)年 Regional4)である。岡山 県の長島愛生園などのハンセン病患者の収容施設にたずさわりながら日本の救らい史についての研究を残した宮川は1930年代に西山光明院の跡地を訪れてい る。すでに施設はなく、かつての本堂が物置代わりに使われていた。同和問題関係資料センターの当時所長であった吉田の論考はこの宮川論文をもとにその後の 研究史料などを補填したものである。

 近鉄「西ノ京駅」の線路をわたった西側、かつて添下郡六条村とよばれた地域の丘陵地に夙(シュク)村があったことはいくつかの古史料によって記されてい る。夙とは葬送や行刑の執行などを身にまとった賤視の別名であり、前述のように癩者もそこに収斂される。西山光明院の来歴について、吉田論文がその伝承を くだいて紹介しているのでここに引いておく。
光明皇后が「御当寺ノ御本尊」 、つまり薬師寺の本尊に帰依し、諸国の「貧窮ノ難病人」を救うため行基に命じて薬師寺に施薬院・悲田院などの救所を建立したが、今の西山と北村はもともと その場所にあったためである、その後「諸国ノ難病人」が「御本尊ヘ病気平癒ノ祈誓」のためそこに集まり住み、施薬院・悲田院から「薬料・食物」の下行を受 けて暮らしてきたが、「乱世」 、つまり戦国期になって下行米がなくなったので 「西山ノ病人共及渇命」 ようになったことから、「諸方勧進巡行致シ、其勧進銭ヲ以テ渡世ノ資糧ト仕候旨御利解」を頂くことになった、というものである。

 これはあくまで伝承であり、光明院に暮らす癩者の間に伝えられてきた由緒である。みずからの口で膿を吸った癩患者が光り輝く如来に姿を変えたという話は 光明皇后にまつわる伝説の最たるものだが、ともあれ西山光明院が薬師寺の悲田院として出発したことはわずかながら推測される。「現に光明院は薬師寺の末寺 龍蔵院のに加えられ、そその経営のために一町余の田が附けてあって、年々11石からの米が宛てられている他、大正の初年まで世話人をも寺によって附けてい た」と宮川はその「沿革」に記している。別の史料によれば明治維新の際には3人の患者が暮らしていたとされる光明院だが、大正5年に最後の患者:西山なか が死亡したことによりその役割を閉じた。

彼女は西山光明院最後の居住癩者である。

彼女は大和高市郡一流の富豪の愛娘と生れ、非常な美人であった由、大阪へ縁入をしてゐて発病し、西山に入つたが、可成の動産不動産を持つてゐたので、西山居住の病者の弗箱 となつた様で、ただに病者間に金 を貸してゐたのみならず、地方の農家に対しても貸金があつた。京山の名義で龍藏院に土地を寄附したことが文書に残つてゐるが、これも京山でなく彼女の資産であつたらしい。「なか」は西山京山の内縁の妻となり、京山は光明院を切り廻してゐたことが伺はれる。

 なかの死後、光明院は取り壊されたらしい。昭和初年頃に光明院跡を調査のために訪ねた宮川はそのあたりのことを次のように書き残している。

現在僅かに一宇の坊舎(本堂1.5間×2間)を残すのみである。其の前に1本の柿の木が茂り、其の藪蔭に井戸が埋もれてゐる。この地域内には 別図に示す様な浴室を囲み、3棟の病舎、1棟の納屋があつたもので、本堂と各棟には細い渡廊下を以つて連絡されて居た。其の内2棟は早く壊され、西側に残 つた病舎も、最後の病者「西山なか」が大正5年に死亡した後は破壊焼却され、現存するのは本堂のみである。この本堂も民家の薪置場となり、朽つるにまかせ た有様である。最近之を薬師寺に移転せしめんとの話も出てゐるが、願はくばかかる由緒ある建物は猥りに移転改築等しないで保存されたいものである。本堂付 仏像什器の一部は薬師寺に保管せられ、一部のものは病棟焼却の際焼却せられた。

 さらに宮川は別の箇所で、この西山なか及び西山光明院の終焉と、薬師寺の管長であった橋本凝胤(はしもと ぎょういん)との深いかかわりについても記している。

何 しろ薬師寺は今迄に13回も*融に災せられた爲殆ど史料が傅はつてゐない。 幸に西山なか死亡の後棄却をまぬがれた文箱が藥師寺に保存せられてゐたので、それを捜して得た古文書類及び、少年時代から光明院を知り、壮年時代には龍藏 院住職として光明院に關係し、最後の患者西山なか死亡の時には立會つて遺言書まで作製してやられたといふ實見者橋本管長の話によつて大體の輪郭を掴み得 た。

 では、この西山光明院はいったいどこにあったのか。この問いから、わたしの三日間のお盆休みのちいさな旅がはじまった。


【 8月17日 】 

 6月に展示替えがあったと知って、久しぶりに奈良県同和問題関係史料センターへ行く。ついでに西山光明院のことも教えてもらおうという算段である。とこ ろが所長さんが昼まで現地調査へ行っていて、詳しい話のできる者がいないとのこと。4月に配属されたばかりという係長氏と展示の変わったところを教えても らい、いっしょに話をしているうちにその係長氏のお祖父さんがグアムで戦死していたと聞いて驚いた。平群の地の方で、生駒の山すそに「グァムにて戦死」と 刻まれたお爺さんの軍人墓があったのだが、お祖母さんが墓参りするのが大変になってきたのでたたんで、家の近くに新しい先祖代々の墓を建てたばかりと言 う。毎月、月命日に護国神社から案内がきて「神となって祀られている」お祖父さんに会いに行くととの由。係長氏は異動でここへ来て、前は高校の教員をして いたという。グアムにはまだ行ったことがないが、いつか行ってみたいと思っていると言うので、いろいろグアム話で盛り上がる。

 いったん家へ帰って食事の支度をし、娘と二人で昼食を済ませてから、ふたたび自転車で史料センターへ向かう。奥本所長。3Fの研究室へ招いてくれ、名刺 を頂き、冷えたお茶も頂き、一時間近く話をさせて頂いた。「薬師寺西郊の夙村と救癩施設・西山光明院」を記した吉田栄次郎氏は前任の所長さんである。奥本 所長さんは20年以上むかしに、この吉田氏に連れられて西山光明院跡を訪ねたことがあるという。ただし、すでに周辺は宅地再開発が始まっていて、「この辺 にあった」と案内された場所もその住宅地の間のとくに目印もないようなところで、「いまあなたといっしょに現地へ行ったとしても、もうどこだか分からな い」、その程度の記憶しかないという。そしてわたしが昨夜、別にNPO なら人権情報センターで発行している「人権なら」のフィールドワークの記事に見つけた、いまは無縁仏になっている西山なかの墓石の写真をプリントして呉 れ、龍蔵院という薬師寺の墓地を管理している末寺の境内にそれがあることを教えてくれた。いろいろな話を聞かせて頂いたが、北山十八間戸で有名な光明皇后 の伝説は明治の時代の天皇制賛美の宣伝として使われた面が大きい。北山十八間戸が残されたのもそのためだったと思われるという話や、北山十八間戸のような 癩病者の収容施設はじつは現代でいう何千万円を払って入る介護施設のようなもので、財産のある者でなければ入れなかった。二畳ほどの狭い刑務所のような部 屋も、雨露が凌げる個室というのはそれだけで当時は贅沢な環境だた。しかも北山十八間戸は奈良盆地を見下ろす高台にあって、風通しもよかったろう。低湿地 のじめじめした場所とは違う。そんな、これまでの既成概念を裏返してくれるような話がさらっと出てくるところが、専門家のすごいところだ。

 「じゃあ、これから現地を見てきます。何か新しい発見があったらお伝えします」と高らかに宣言して、自転車でそのまま大安寺旧境内を抜けて、奈良盆地北 部をほぼ真横に東から西へ。西ノ京へは案外とあっという間の距離だ。西ノ京駅を越え、池越しの薬師寺三重塔の写真で有名な撮影スポット大池を目指し、その 北側にある野々宮天神社へ着いた。天神社、天満宮がこのあたりに多いのはここから北の阪奈道路沿いにある菅原神社がそもそも、「菅原の地を本貫(本拠地) とする土師氏支族(のちの菅原氏)がその祖神を祀った」であることからとも言われる。大池からちょうど丘陵地へとのぼっていく斜面のとば口にあって、社殿 の裏へ回ればこんもりと茂った古墳のような雑木林を背後に抱いている。丘陵地の住宅街を北へのぼって、龍蔵院に着く。丘をのぼって、また下ってきたあたり だ。ここから東へ2〜300mも下れば、「墨の資料館」「がんこ一徹長屋」などを経て、すぐ西ノ京駅だ。境内に入って、本堂に向かって右側に無線仏の墓石 を積み上げた小山がふたつあり、西山なかの墓石はその小さい方の南面にあった。梵字が頭に一字、そして「中山ナ」までははっきり見え、最後の「カ」の字は 手前の墓石ではんぶんほど隠れてしまっている。もちろん左右と後ろは何が書かれているか見ることはできない。そこから北西に向かって広々とした墓域が伸び ている。区画整備されたばかりのようで、墓石もみなあたらしい。ちなみに、ここからほんの100mほど北にあるのが、以前わたしが大宮島(グアム)で戦死 した軍人墓をやっと見つけた六条山の共同墓地である。お盆明けでお墓参りに来る人もわずかだ。休憩所の吾妻屋で硝子の風鈴が連打している。汗をぬぐうわた しの前方に西山ナカの墓石を抱いた無線墓の小山がひっそりと、夏の光にさらされている。光明院ははたしてどこにあったのか? 80年前の宮川レポートを確 認しよう。

「位置」 大軌畝傍線を西の京にて下車せば、東方の木の茂みの中に有名な薬師寺の塔の九輪が光つて見える。眼を転じて西を見れば、一望の平原が連る。駅か らの約2町余りの所に1臺の高地、木の茂みがある。これ即ち孝謙天皇の往在所、瑠璃宮と稱せられる地域である。西山光明院は其の東北隅の藪蔭にあつて、東 西約7間、南北約18間。古文書には宅地4畝8歩とあるが即ち之である。その地に附属の畑及田ありしことは所有地明細書に分明なり。その南に神社野々宮が ある。

 龍蔵院を出て、院の南に面したところに昔なつかしい砂利の道が先へ伸びていたので、自転車でそこを進んでみた。道は光明会館と名づけられた龍蔵院の施設 の裏手を回ってから北へゆるやかにカーブする。右手にさきほどの広々とした墓域、左手は深い緑色の池で、その対岸はうっそうとした竹薮だった。道はさらに 左へカーブして、池の北側で終わっていた。墓地のゴミが集められ、壊した墓石のかけらがその竹薮につづく暗がりのはたに積まれていた。西山光明院はこのあ たりではなかったか、とふと思った。宮川が残した敷地図では野々宮神社を上にして、左手(たぶん東側)に「池」の文字がある。それにも合致する。だが確証 は何もない。瑠璃宮はどうだろう? あまり聞いたことがない名前だが、スマホで検索をすると住宅街の中にあるという「瑠璃宮跡」の石碑と解説版の写真が 載っていた。これを探すのがけっこう骨が折れた。斜面の住宅街を行ったりきたりでなかなか見つからない。家と家との間のほんのわずかなスーペースにやっと 見つけたのは、ちょうど先ほど佇んでいた竹薮の南側に位置する住宅街の道沿いで、丘陵地の高台にあたるあたりだ。ただし解説を読むと、「昭和30年代の宅 地開発によってこのあたりも造成されてしまったため、町の有志による希望でこの場所に石碑を建てて残すことにした」とあるから、宮川が写真に収めた平らな 雑木林のような「瑠璃宮跡」は別の場所であった可能性もある。もうすこし南側であったら「其の東北隅の藪蔭」も当てはまるかも知れない。そろそろ日も傾い てきた。


【 8月18日 】 

 今日は県立図書情報館で資料固めだ。西山光明院の名前が載った古地図を探したい。今日も朝から愛車GIOSで走る。九条公園前から佐保川の土手道を走れ ば、ほぼノン・ストップで到着。2階のカウンターへ行って、趣旨を説明する。古地図はなかなか見つからない。奈良市の奈良町や、わが家のような郡山の城下 町であれば詳細な町割り図がけっこう各年代で残っている。わが家も江戸時代から敷地が変わっておらず、町割り図を所蔵している柳澤文庫にお願いしてデジタ ル画像として頂いたが、当時住んでいた人の名前が記してあって面白い。けれど西ノ京は平城京の時代であっても都の西のいちばんはずれの、当時はさらにひな びた田舎だったろう。村の名前が載っている絵地図はあるが、それ以上の詳細図は作成の必要がなかったのかも知れない。宮川論文にはじつは西山なかと夫で あった京山の住所地として「添下郡大字六條字西波654番の甲」というのが載っている。西山なかが死亡した際のものと思われる建物明細書である。「法務局 に行けば住所はたどれますよ」と昼休憩で交替した若い女性の司書さんが提案する。「でもそれは数字としての住所であって、それが現在のどこに当たるという のはわからないんですよね」 「まあ、そうですね」  昭和20年代の寺院台帳というのも出してくれた。「貴重書・古文書閲覧場所」という特別のテーブル の上で、大きな和紙を敷いた上で広げる。龍蔵院はあるが、光明院についての特別な記載はない。そして光明院単独の台帳というものもない。わたしはわたしで 手元の宮川及び吉田論文をなめ回し、彼女は彼女でパソコンを打って検索を続ける。「この吉田さんの論文に「また、享保二十年(一七三五)四月に作成された 六条村の「柳村氏神社替地之図」には、薬師寺西方の丘陵上に「字夙之谷」 「夙村持氏神山」が描かれ、その西北方には「六条村之内夙村」と記した一画がある。」とあるんですけど、この「柳村氏神社替地之図」ってのはないんですか ね」 「ちょっと見せてくれますか」 彼女は文末の注に「同和問題関係史料センター架蔵デジタル画像」とあるのを見つけてくれた。「史料センターにあるの かも知れませんね。ちょっと訊いてみます」 昼もだいぶ過ぎてしまったので、いったん辞することにした。

 駅前のスーパーに立ち寄り買い物をして、帰って冷やし中華をつくって娘と二人で食べた。食べ終えてから史料センターに電話をしてみた。昨日の係長さんが うれしそうに出て、すぐに奥本所長さんに代わってくれた。まず、昨日の現地調査の話をした。瑠璃宮との位置関係もだいたい合うし、龍蔵院の西側の池の反対 側の竹薮が西山光明院のあった場所ではないかと考えていると伝えると、「だいたいあなたの言うその場所で合っているんだろうとわたしも思います。ただ何に しろむかしの話で、正直に言うと、連れられたそのときはわたしはじつはあんまり興味がなかったんですなあ。だから、ああ、そうか、程度で見ていたんだと思 います」  ついで「柳村氏神社替地之図」について訊いてみた。するとデジタル画像があるかどうかは探して見なければすぐには分からないが、その「史料セ ンター架蔵デジタル画像」という書き方からすると、資料によってはナイーブな問題もあるので収録した本人が当事者から「これは公開しないでくれ」という約 束で見せてもらったものもある。けれど論文で書くときには出典を明示しなければならないので、これは学問としてはほんとうはフェアではないのだけれどやむ を得ない状況で、「史料センター架蔵デジタル画像」という書き方にして済ませる場合がある。だからこの「柳村氏神社替地之図」については吉田がどんな話を しているのか、確認をする必要がある。その上で、お見せできる場合もあるし、見るのはいいが複写はできないと言うかも知れないし、閲覧自体が許可できない 場合もあるということをご理解頂きたい、と仰るのであった。それから所長さんは図書情報館でのわたしのやりとりを聞いて「「大和国条里復原図」という 1980年に出版された地図がありますよ。県内のむかしの小字がすべて載っていて、その境界も線が引かれている。奈良女子大のHPにはそれをデーターベー スにしたものもあります」と教えてくれた。電話の最後にわたしは所長さんに「もうこうなったら龍蔵院さんに直接訊いてこようかと思っている」と伝えた。 「なにか支障はありますか?」 「ないですよ。全然、訊いてくれて構わないと思います」

 ふたたび愛車GISOにまたがって県立図書情報館へ。20分後にはボックス・セットの巨大な「大和国条里復原図」を前にしていた。県内を百以上ものエリ アに分けて、それぞれがA3二枚よりやや大きいサイズの地図になって折りたたまれている。六条村のあたりをカラー・コピーした。龍蔵院のあたりは「西山」 だ。その南から大池までの丘陵地は「柳」。そして丘陵地の東面、近鉄電車へ下る斜面の集落が「西波」となっている。龍蔵院の西側の池の対岸説はゆらいでき た。

 24号線をまたいで、ふたたび西ノ京へ走る。目指すは龍蔵院。すでに夕方の5時近くだったろうか。参拝者用駐車場のフェンスにGIOSを地球ロックして 境内へ。西山なかの無縁仏の前で手を合わせて過ぎる。本堂はほとんど人気がなかったので、その横の住宅にまわって玄関のインターホンを押した。「はい、な んでしょう?」 「あの、ちょっと伺いたいことがありまして」 「はい、なんでしょう?」 「あの、西山光明院について調べているんですが、どなたかご存 知の方はいらっしゃいますでしょうか」 「・・・・」  ちょっと間が空いて、玄関が開いて同年代くらいの女性の方が出てこられた。住職さんの娘さんらし い。趣旨を説明すると、わたしたち(父親を含む)も戦後になってここへ移って来たので、それ以前のことはまったくわからないんです、とのこと。「人がまっ たく変わってしまったんで、断絶しているんです」という言われ方をされる。15分ほどの立ち話だったろうか。光明院の場所や、残された資材についても何も ほんとうに分からないが、「あくまでうちうちの話として、お父さんなんかと“あそこじゃないか”と話しているところはありますけど」と言うので、口をつぐ みかけたところを何とかねばって、地図を取り出したりして話を続けていたら、やっと、「うちの前の道を南に下りて十字路があるでしょ。その角の草地」だと 地図を示して教えてくれた。住宅地の中で一箇所だけ草むらになっているから、すぐに分かりますよ」 

 自転車を押して十字路まで歩いていった。四辻を過ぎてハイツのような建物の裏にひときわ高く藪が茂っている場所がすぐに見えた。しばらく通り過ぎて、南 側から回り込む細い路地を下りて行くと解体業者の資材置き場のような敷地に面して地図には載っていない小さな鳥居と祠があって、その奥が先ほど見えていた 小さな古墳ほどの雑木林だった。そこから斜面は西ノ京方向へゆるくくだっていて、資材置き場の向こう(東側)と雑木林の向こうには畑がひろがっていた。あ あ、ここだここだ、とわたしは思わず声に出した。80年前に訪ねたような心持ちになった。ここで西山なかは半生を過ごし、畑を耕し、ここにかつてあった八 畳間で息をひきとった。ああ、ここだここだ、ここに間違いない。「大和国条里復原図」によればここは「西波」のエリアだった。畑の中には金魚池のような四 角いため池がある。あれがかつての池の名残であれば、宮川の敷地図とも符合する。畑の向こう側に見えている道をたどってみた。ひどく狭い道で人ですら対向 できない。だから余計、この道は古いものだろうと思った。それでもちょこちょこと老若男女が通行している。これを下っていって右手に折れれば野々宮天神社 だ。ひとつだけ、あの地図にも載っていないお宮が気になる。あとで調べてみたい。


【 8月19日 】 

 朝一の歯医者は寝坊をして時間がぎりぎりだったので、車で行った。郡山城の北側のアップダウンがちと厳しいのだ。10時半頃に帰って、それから愛車 GIOSに乗り換えて出かけた。西波天神社は大池のすぐはたにある。龍蔵院からまっすぐ南に下ってくれば大池の手前でぶつかるのがこの神社だ。その南北に 伸びたエリアがかつての「西波」の小字である。おなじ西波であるから光明院の名残でもないかと訪ねてみたくなったのである。神社の手前に並ぶように観音堂 があって、奈良市指定文化財とされた木造十一面観音立像が安置されているらしい。残念ながら鍵がかかっていて見れなかった。堂のはたに寂れた無縁仏や五輪 等がたくさん並んでいた。宅地開発でかつての西波の地域から運ばれてきたのだろうか。あるいは光明院の敷地から移されたものも混じっているやも知れない。 その野仏のすぐ横を西波天神社の参道が通っている。昼間なのに灯篭の電気が点いている。拝殿に閂がかかり、紐が縛ってあって先は見れない。雰囲気のある、 いい感じの神社であった。

 薬師寺へ移動した。予め調べておいた本坊西側の参拝者用駐輪場に自転車を止める。薬師寺はいつも三重塔は眺めているけれど、拝観料を払って境内へ入るの はじつははじめてかも知れない。受付でお金を払ってから、じつはこういうことを調べているのだけど、どなたか詳しい方はいらっしゃいませんか、と訊いてみ ると、「ああ、それならキタガワ参与がいいですわ、いちばん古い人ですから」と内線を取って連絡を入れてくれた。「この先の僧坊にいるのでどうぞ奥へ」と 言われて、お礼を言って僧坊へ入ると、土産物売り場のようなカウンターの中で当の参与さんは観光客の老夫婦相手に滔々とガイドをしていて一向に途切れそう にないのであった。待つことおよそ20分。やっと老夫婦が立ち去って、こちらを向いてくれた。西山光明院について調べているんですがと訊いたところ、まず 開口一番に、ああ、それは龍蔵院に訊いてもらうのがいちばんですわ。いや、龍蔵院さんは昨日、もう行って訊いてきたんですけどね、代が変わって昔のことは 何も分からないと言われました。それで光明院の来歴と薬師寺との関係、西山なかが死んでから一部の仏像などを薬師寺が保管したと記されていること、そして 先代の橋本管長が光明院とかかわりが深く、西山なかの死去の際には遺言を書くなどの世話をしてあげたことなどを説明すると、すべてはじめて聞いたという顔 をしている。そしてすぐに「いやあ、もう何十年か前に来てくれたら、覚えている人もいたかも知れんが、いまはもうだれもしっている人はおらんでしょう。龍 蔵院が知らないというんであれば、それ以上は私どもも」なぞと言うので、わたしもちょっと向きになって、でも知っている人はいなくてもですね、こんな大き いなお寺さんなんだから、資材帳だとか、何らかの記録が残っていないんですか」と食い下がれば、「それは、もうちょっと上の方の人たちに訊かなければ」と 言うので、「上の人ってだれですか? どこに行ったらその人たちはいらっしゃるんですか?」 結局、キタガワ参与さんが言われるには、あなたのその質問は おそらくすぐには答えられないだろうし、いまたとえ本坊へ行って訊いたとしても大抵の坊さんたちはわたしと同じように「始めて聞いた」という感想をいうだ けでしょう。だからいちばんいいのは、文書でもっていまあなたがわたしに話してくれたことを書いて、薬師寺宛に送ってくれるのが答えが返ってくる可能性が 高いと思う、ということであった。わかりました、そうしてみます、と答えて、お礼を言って境内へ入っていった。それから観光客にまじって30分間お笑い法 話ショーも聞き、金堂や東院堂、西塔、講堂、あたらし再建した食堂などを見てまわったのだけれど、わたしが追い求めている西山なかが暮らした光明院と、目 の前の華麗壮大できらびやかな薬師寺との間がひらきが大きすぎて、国宝とかいう製銅の仏像などを見ても、いまいち身が入らないのだった。そうして昨日とは 違って、何となく物悲しいような、もやもやとした気持ちを抱えて帰宅したのだった。まあ、予想はしていたけれどね。貴重な収入源である結婚式やお得意さん の修学旅行生や伽藍の再建も大事なんだろうけどさ、1300年前の建築を再建のために調べたり、いま流行の刀剣を公開することにはやたら力を注いでいるの に、わずか数十年前の癩病施設についてだれも知らない・知ろうともしないなんていうのはどうなんだろうね。「わたしはね、思うんですよ。かれらが必死に生 きた証しをね、ほんの少しだけでも誰かが残してやらなければ、と思ってこうして調べているんです」 伝わったかどうか分からないけれど、キタガワ参与さん にわたしは最後にそう、思いを込めて言ったのだった。「そりゃあ、大事なことだ。いまからすぐに調べましょう」と言ってくれるヘンな坊主の一人くらい、ど こかにいないものか。

 

▼宮川量「救癩史蹟 西山光明院に就いて」 https://www.jstage.jst.go.jp/article/hansen1930/6/3/6_3_355/_pdf

▼吉田栄次郎「薬師寺西郊の夙村と救癩施設・西山光明院」 http://www.pref.nara.jp/secure/14191/r41.pdf

▼奈良県同和問題関係史料センター http://www.pref.nara.jp/6507.htm

▼人権なら 西ノ京をフィールドワーク file:///C:/Users/francisco/Downloads/201612161009189841%20(3).pdf

▼水本正人「非人にとっての救いと宗教」 http://www.blhrri.org/old/info/book_guide/kiyou/ronbun/kiyou_0197-01_mizumoto.pdf

▼人間の尊厳を回復する闘いから学ぶ―ハンセン病政策 100 年の節目の年に、過去から学び未来につなぐ― http://www.pref.kochi.lg.jp/soshiki/310308/files/2012032800181/2012032800181_www_pref_kochi_lg_jp_uploaded_attachment_1609.pdf

2017.8.19

 

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 松本監獄にチェックイン(^^) 今日から約一ヶ月、帰れません。

2017.8.20


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 梅田で声優学校へ行く娘とわかれて、阪急電車へ乗る。大阪の人混みは久しい。すでに山に囲まれた松本の町が懐かしい。夙川駅でFBフレンドの花田さんと 合流。大逆事件に連座して縊れて死んだ高木顕明の芝居を共に新宮で観て以来だ。見ず知らずだった和歌山と奈良の人間がミステリー・スポットの如き新宮や神 戸で逢瀬する。おもしろい。花田さんは昨年、はるさんの個展会場をさがしてこのあたりを車で走り回り、結局、見つからずに帰ってしまったそうだ。ほんとう は画廊ではなく美味しいスイーツの店でも探していたに違いない。絵はときに、水菓子のようなものか。画家はいつものように細長い聖堂のような四角宇宙の空 間にいた。ヘンリー・ダーガーのように、クリント・イーストウッドのように。絵は壮大な生物化学歴史年表の上にちらばった記憶のようなものだ。古墳であっ たり、コロイド溶液であったり、壁塗であったり、三葉虫であったりする。中世のこの国の職能民に於いて散所法師である壁塗の一統はかつて陰陽師の家筋でも あった。「土を掘る」「土を泥練する」という工程はすべての自然物に宿る霊性と係わりが深かったから。三葉虫が跋扈していたおよそ5億2000万年前のカ ンブリア紀にして生物は「眼の誕生」を獲得した。絵はそのとき、そのカンブリア紀のひそやかな海底の砂のひと刷けだったかも知れない。折りしも松本滞在中 に監獄のようなホテルの部屋のテレビで北斎にまつわる番組をいくつか見た。お栄役の宮崎あおいがいなせだった。それで、絵を描く姿勢の話になったのだ。そ しておどろいたのは画家も江戸の絵師たちのように床に置いた絵に背をまるめて、ときにまたがって、ときにのっかって製作するという事実だった。絵はこのと き「異性」である。あるいは腕を固定するよりもさながら広角打法の安打製造機のバットのように、大きなふり幅と瞬間のうごきをキープできる方が描きやす い。絵はこのとき「啓示」である。気がつけば娘の年齢とおなじくらいの年月をこうして画家の絵を見つづけてきたことになるけれど、年を経るにしたがってす こしづつ、絵は俗になり、きらびやかな顔料を落剥させて、土にかえっていくような気がする。聖者をおいもとめたツァラトゥストラが町にくだり、水差しやサ ボテンや煙草入れなどにひそんでいる。それでもカンブリア紀の生まれたての生物のように獲得したばかりの眼をぎょろぎょろと動かして「はじめて見るもの」 をさがしている。絵はその軌跡であり、奇蹟であり、あるいはまた鬼籍でもある。「土を掘る」「土を泥練する」ものたちはなべてこの世とあの世のあわいに立 ち尽くす者だから。絵は、死んで土くれになるまで終わりがない。

( 西宮・ギャラリーSHIMAで榎並和春個展「旅の途中5」を見た )

2017.10.6


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 帰宅してからなぜかどう仕様もないほどの睡魔に襲われ、書斎の床に寝そべるように眠ってしまった。鶴橋駅から数分、鶴橋本通商店街が南へ果てる「つるは し交流広場 ぱだん」(主催:多民族共生人権センター)で関東大震災に於ける朝鮮人虐殺のドキュメンタリー・フィルムを見たのだ。1983年の「隠された 爪痕」(58分)、1986年の「払い下げられた朝鮮人〜関東大震災と習志野収容所」(53分)。そして若い頃にこれらの貴重な作品を撮影したいまは茨城 県に住む呉充功監督が30年後の続編として現在製作している「2013 ジェノダイド 93年の沈黙」(仮題)のパイロット版(18分)。「隠された爪 痕」はのっけから、なつかしい荒川の河川敷が現れる。中川が綾瀬川と併走する荒川と合流する手前、京成押上線が四つ木駅をすぎて橋をわたっていくあたり だ。パワー・ショベルが穴を掘り、古老たちの記憶をたよりに虐殺された朝鮮人の遺骨をさがしている。骨はみつからなかった。けれど兄を殺された大井町でホ ルモン店を営む83歳のアボジは土手の上で日本人証言者のAさんの手をにぎり「くやしかったよ、ほんとうに」と思わず落涙する。「払い下げられた朝鮮人」 は軍隊によっていったん習志野の旧捕虜収容所に「保護」された朝鮮人の人々が「軍・警察当局が自分達の手を汚さずに不穏分子を始末」しようと近隣の自警団 へ「払い下げ」られ、殺害された経緯が古老たちによって語られる。「・・・どういうふうになって死んだ方がいいかって訊くと“目隠しして鉄砲で撃ってく れ”と  (中略)  ・・穴も6尺の三角の穴掘ってドンと撃ってポタッて穴ん中落っこちた」 虐殺は“ナギの原”なる集落の草地で行われた。宅地開発が 進み住宅が建ち並ぶ現在も、そこだけはいまも草地のまま残り、近くの曹洞宗の寺(千葉県八千代市高津・観音寺)の住職が法要をつづける卒塔婆が立つ。フィ ルムは韓国の篤志家たちによる鐘堂が境内の片隅に、海をわたってきた部材や大工・瓦職人・塗り師などによって建てられていく様を映す。屋根には韓国のあち こちから持ち寄った土が盛られた。この二つのフィルムを継ぐ「2013 ジェノダイド 93年の沈黙」(仮題)は、理由なく殺された人々の遺族を海をわ たって探す旅の記録だ。遺族といってもすでに孫の世代。それでもわずかな資料を頼りに尋ねれば、「日本人に殺されたということは聞いていたが、どこでどん な最後を迎えたのかは知らなかった」と、遺骨もないから代わりに故人の服を入れたという土饅頭に手を添えて悔し泣きする孫の姿がある。こうして、語られる のはまだましだ。慰霊碑が建てられるのはまだましだ。“ナギの原”の卒塔婆の文字もかつては「異国人」であった。それが「朝鮮人犠牲者」に代わった。「朝 鮮人犠牲者」に代わったのだけれど、誰が、誰によって、どのように殺されたのか、は何も記されない。熊野市にある紀州鉱山で強制労働をさせられ惨殺された 朝鮮人労働者もそうだ。かれらの亡骸がおそらく眠っている場所はいま「英国人兵士の墓」の化粧をほどこされ、自治体はいまも口を閉ざす。グアムもそうだ。 日本軍が惨殺した地元チャモロの人々の記憶の地には日本語の表記は何もないし、ガイド本も一切触れていない。この国には無数のいまだ語られぬ“ナギの原” が存在している。知っていて、語られない。みなが声をひそめ、口をつぐみ、奇妙な薄笑いの向うにながしてしまう。それがふつうの人々の「善意の顔をした悪 意」だ。かの津山三十人殺しで都井睦雄を幽鬼と化したものの正体だ。戦場で無残な死を死んでいった兵士たちは靖国なぞという国家的電通の広告媒体にされ、 かたや虫けらのように理由もなく惨殺された「異国人」はわたしたちの足元のそちこちにいまも深い恨と悲しみを抱いたまま捨てられ埋もれている。この国は、 ほんとうに最低だ。

 

『隠された爪跡 関東大震災朝鮮人虐殺記録映画』 解説

1923年9月1日マグニチュード7.9の大地震が、関東地方をおそった。
死者10万人にもおよぶ関東大震災である。
この時、6500名以上の朝鮮人が軍隊、警察、そして日本の民衆の手によって殺されている
ことはあまり知られていない。
そのうえ、今なお遺骨が埋められている事実があった。
1982年9月、東京の荒川河川敷で地元の古老の証言をもとに、遺骨の発掘作業が始まった。
映画学校に通う朝鮮と日本の若者たちがカメラを持って駆けつけた。
真実が隠されてきた60年の歴史を、この映画は追う。
当時、押上に住んでいた曹仁承(チョ・インスン)さんはじめ、多くの証言が真実を語る。
この映画は隠されてきた歴史の爪跡を明らかにする貴重な記録映画である。
呉充功(オウ・チュウゴン)監督/58分/1983年

 

『払い下げられた朝鮮人 関東大震災と習志野収容所』 解説

関東大震災の時、事実無根の流言蜚語が朝鮮人に集中し、
官民による朝鮮人虐殺は、約6,500人以上の犠牲者を生んだ。
政府は「保護、収容」の名目で、各地で警察と軍隊を動員して、朝鮮人を強制的に集めた。
陸軍習志野収容所には、約3200人の朝鮮人が送り込まれていった。
しかし。軍は数名の朝鮮人を密かに連れ出しては殺害していた。
そして、隣接の村々にも朝鮮人を払い下げ、その受け取りを命じる。
受け取った村民たちは流言を信じて、虐殺に加担してしまった。
いまだ、虐殺された人数と行方は一部不明のままである。
映画は元自警団関係者、警察官、運良く助かった留学生の証言などを克明に映像化し、現
在でも残る流言蜚語の根の深さを問いかける
(呉充功(オウ・チュウゴン)監督/53分/1986年)

 

映画を観て  (今村昌平  映画監督)

 何と云っても、このドキュメンタリーの主役『アボジおじさん』が魅力的なのだ。
大井町のホルモン焼店主だそうだが、八十三歳とは思えぬ元気者だし、直情型で、心が素直に画面にとび出るタイプなのである。

大正十一年、大震災の前年に、『日本へ行けば白い飯が食える』と聞かされた22歳のアボジさんは、朝鮮の貧しい村から東京へやって来る。その一年後大震災がおき、朝鮮人虐殺にモロに捲き込まれ、兄を殺され、自らも傷害を受ける。

このドキュメンタリーは、アボジおじさんの拙い日本語による語りを軸に、数々の証言や、客観的な証拠を集め、この残虐行為は何故起きたのか? それは偶発 的なものであったのか? 若しかしたら、実は仕組まれたものではなかったのか? そしてこの事件に拘ろうと拘るまいと、今、我々日本人にとってそれはどん な意味を持っているのか? を、ひたひたと問いつめてくる。

勿論アボジさんにとってこのショックは凄まじく、その後二十年間も、夜うなされたり暴れたりしたという。
終りに近く、殺された朝鮮人の死体を集めて焼いたり埋めたりした荒川べりに、日本人証言者の一人である老人Aさんとアボジさんが並んで立つ。Aさんは、意図的にかくされ、風化してゆく虐殺の事実を、子々孫々にまで語り伝えたいと云う。
アボジさんはAさんの手をとって泣く。『くやしかったよ……本当に』
決して論理的でない庶民の言葉で語られたこの記録の中で、最も感動的な部分であり、最も鋭く、我々を衝いて来るカットなのである。

私は、私の主宰する学院から、このような力強い映像を創るドキュメンタリストが出たことを心から誇らしく思う。
 

▼9月、東京の路上で
【75年後に掘り出された遺骨 習志野収容所で殺された人々】
http://tokyo1923-2013.blogspot.jp/2013/09/75.html

【1923年9月の四ッ木橋付近】
http://tokyo1923-2013.blogspot.jp/2013/09/19239.html 

▼ 田中正敬「関東大震災時の朝鮮人虐殺と地域における追悼・調査の活動と現状」pdf
http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/oz/669/669-02.pdf

▼一般社団法人 ほうせんか 関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会
http://moon.ap.teacup.com/housenka/

▼「旧四ツ木橋付近 関東大震災 朝鮮人虐殺事件地図」jpg
http://www.maroon.dti.ne.jp/housenka/map.html

▼政府によって徹底的に隠蔽された「関東大震災朝鮮人虐殺事件」の真相
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/49733

▼[インタビュー]関東大震災虐殺後に遺された家族の歴史を映画に込める 3作目の映画を作る呉充功監督
http://japan.hani.co.kr/arti/politics/22023.html

▼朝鮮人虐殺、今こそ伝える 「大震災犠牲者の遺言、残す」 在日韓国人2世、30年ぶり記録映画
http://digital.asahi.com/articles/DA3S13129745.html?rm=150

▼関東大震災と朝鮮人 悲劇はなぜ起きたのか 動画
https://www.youtube.com/watch?v=WOScKgu_P8o

▼【IWJ追跡検証レポート】『九月、東京の路上で』〜関東大震災・ジェノサイドの跡地を加藤直樹氏と歩く〜
第一部

▼関東大震災朝鮮人虐殺の国家責任を問う会
https://www.shinsai-toukai.com/

関東大震災時の朝鮮人虐殺とは何か ―果たされていない国家・民衆責任―
https://www.shinsai-toukai.com/top-japanese-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E/%E4%BA%8B%E4%BB%B6%E3%81%AE%E6%A6%82%E8%A6%81/

▼NPO法人 多民族共生人権教育センター
http://www.taminzoku.com/

2017.10.8


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 奈良豆比古(ならつひこ)神社の翁舞は念願、であった。ずっと見たかったのだけれど、いつもたいてい仕事とかぶっているか、気がつけば終わっていたりし て見る機会を逃していた。神社は以前にいちどだけ、訪ねたことがある。本殿裏のまるで古代井氷鹿一族の奥宮のような冥いすり鉢上の窪地に樹高30メートル もの枝葉をひろげた巨大な楠の木を見上げて身震いをした。愛車のクロス・バイクで夕暮れの郡山を発して、北山十八間戸、少年刑務所、般若寺などを通り過ぎ て一時間前に着いた頃には日はとっぷりと暮れている。やがて薪に火がくべられ、まばらだった人の姿もかなりふくれあがってきた。おりしも帰り道にお邪魔し た寮さんのならまちの事務所で、オーストラリアのアボリジニたちの八百万精霊ダンスやアイヌの歌のアニメーションを見せて頂いてから、八ヶ岳のふもとで発 見された縄文土偶(仮面の女神)や諏訪地方の御柱信仰のルーツについて深夜まで語り合ったが、この国の芸能の始原のかたちともいわれる翁舞を目の当たりに してわたしが感じたことは、じつはそうしたものに近い。ときにコミカルな、ときに深遠な所作をまとった舞をわたしは実際、宇宙的、と感じたのであった。エ イリアン(alien)を仮に異郷者とでも訳したらいいか。それは縄文期にこの国のそちこちの高所で巨大な御柱を大地につき刺し、おおいなる存在と交信を こころみたその心性と重なる。翁舞とはなにか。

施基皇子の子で光仁天皇の兄弟にあたる春日王が「癩」に罹患して奈良北山の地に身を隠した。父を慕う春日王の二人の皇子、 浄人王と安貴王が同道し、浄人王は祖父の施基皇子から伝えられた、神功皇后に由来する大弓作りの技術を生かして弓を作り、安貴王は草木花を育て、ともに奈 良市中に売って生計を立てて父王を養った。春日王の死後これを知った桓武天皇は二人の孝心を愛で、弟の安貴王は都に召し出して官位を与え、兄の浄人王はこ の地に留め、弓削の姓を与えて春日王を祀る春日社(明治初年以降は奈良豆比古神社)の神官をつとめさせた。

 はじめに奈良豆比古神社にまつわる上のような伝承がある。かつて代表的な非人集落であった奈良坂についてはこれまでも折々に触れてきた。この奈良豆比古 神社を「サカの神=奈良坂に坐す神」と解いたのは柳田國男であるが、かれは「サカ(坂・境)・サク(避・裂・避)・サケ(同左)・サキ(崎・尖・岬)・ソ コ(底・塞)などはいずれも同根の語で、“隔絶”を意味」し、それは「民俗学でいう“境界”と同意」であるという。一方、非人集落を示す夙(シュク)につ いて「シュク(宿)の元の音はおそらくスクで都邑の境または端れを意味し、具体には村はずれ・河辺・坂・峠などを指し、そこは人の住むには適しない辺境 で、神や精霊といった霊的なもの(宿神・夙神)が往来し居付く聖なる場所とされていた」 「また、そのような辺境には、一般社会から阻害・排斥された人々 (不治の病、特に癩病を罹病した人・旅の芸能者・一般放浪者など)が集まり集落をつくり生活していたが、集落を宿(シュク、後に夙の字を充てた)、住民を 宿人・夙人(シュクウド)と呼んだ」と記している。春日王の伝承は、そのような人々がみずからの出自を貴種流離譚に仮託した矜持の物語であった。翁舞はか れらの内より生まれた。
 神にして人語を発する者あるは、海のあなたより時を定めて来り臨む常世神トコヨガミにはじまる(「まれびとととこよと」参照)。此神は元々人間と緻密な 感情関係にあるものと考へてゐた為に、邑落生活を「さきはへ」に来る好意を持つと信ぜられてゐたのであつた。事実に於いて、常世神の来訪は、ある程度の文 化を持ち、国家意識が行き亘つて後までも行はれてゐたのである。神々が神言を発する能力を持つてゐると考へる様になつたのは、当然である。

其為に時としては却かへつて逆に、古い世にこそ、庶物の精霊が神言をなしたものとすら考へる様になつた。「磐イハね」「木キねだち」「草のかき葉」も神言 を表する能力があつたとする考へが是である。我が古代の言語伝承に従へば、之をことゝふ或はことゝひすると称へてゐた。併しながら「ことゝふ」なる語の原 義に近いものは、唯発言する事ではなかつた。「言ひかける」と言ふ原義から出て、対話或は問答を交へると言ふ義も持つてゐたらしい。「しゞま」を守るべき 庶物の精霊が「ことゝふ」時は、常に此等の上にあるべき神の力が及ばぬ様になつてゐる事を示してゐる。即すなはち神の留守と言つた時である。其時に当り、 庶物皆大いなる神の如くふるまふ状態を表すのである。だから、巌石・樹木・草木の神語を発するのは第二次の考へ方で、此等皆緘黙するものとしたのが、古い 信仰だつたのである。

(折口信夫・「しゞま」から「ことゝひ」へ)

 わたしはひそかに翁舞とはこのような始原の場所から生まれ出でたのではないか、と考えてみる。奈良坂などの非人集落シュクの重要な役割である「清目」か ら、観阿弥・世阿弥の本名「清次・元清」に着目したのは水本正人である(「宿神思想と被差別部落」)。結崎(現在の奈良県磯城郡川西町)を拠点とした観世 座は春日大社や多武峰の神事に猿楽を奉納していた。「猿楽は、生きものである国家の嘆きを清めたのである。しかし、世阿弥の時代になると、猿楽は民衆の中 に浸透しており、鎮護国家のための猿楽ではなく、民衆一人ひとりの嘆きを清めるための猿楽になっている」 ついで水本は金春禅竹が記した『明宿集』、「翁 を宿神と申し奉る事」の条の「日月星宿ノ儀ヲ以テ宿神ト号シタテマツル」を引き、宿神とは星宿神すなわち北極星であり、易にいう天地未分化の混沌たる状態 の太極であり、陰と陽が派生する混沌とした根源であると記す。水本はさらに云う。

一つの面の中に、すべての感情が入っている。それが能面なのである。したがって、能面は、それをつけて演じる者の演じ方によって、怒りの面にも、喜びの面 にも、悲しみの面にもなる。私は、ある写真と出会うことによって、能面のすごさに気づいた。1992年にフランスの旅客機の墜落事故があり、多くに人が亡 くなった。その事故で、九死に一生を得た人の写真が新聞に載っていた。その人の表情が、まさに能面なのである。地獄を見た悲しみ、助かった喜び、こんな目 に会った誰にもぶつけることができない怒り、などの感情が、その顔にあった。まさに極限状態の顔だ。能面の作者は、この極限状態の顔を知っている。そし て、その顔を再表現する技量があった。すごいことではないか。

千秋萬歳はもともとは笑いを誘う芸である。ただし、「人間が笑う」というのではなく、「神が笑う」のである。千秋萬歳の核心は、人間が神来迎のまねをする ことにある。そもそも人間は神を知らない。その人間が神のまねをする。神から見れば、滑稽このうえもないことだろう。しかし、神そのものを知ることはでき なくても、神と人間の関係に触れることはできるのではないだろうか。人間は、神と人間の関係を人間と猿の関係で推し量ったのである。人間は、神を笑わすこ とによって、神の心を開けたい。そして、人間の願いを神に伝えたいのである。千秋萬歳は、神を笑わすことによって、「稲穂の稔り」を神に伝えたのである。

(水本正人・宿神思想と被差別部落)

 奈良坂北山宿の濃い闇にうかびあがった舞台の上で、しずしずとかしこみ、おごそかに舞い、またユーモラスに跳ねる翁面は、わたしのような不信心な者に あってもなにかおおきな宇宙的存在の前で交信をこころみている異郷者のように見えた。宇宙的な合一を夢見ている原初の祈りのかたちとでもいおうか。それは とてもスリルに満ちた経験だった。かつて癩者の世話をし、死んだ牛馬の皮をそぎ、罪人の首を撥ね、葬送の一切に従事し、人間以下と賎視され差別され続けた 人々のかたわれが根源たる翁の面をつけ、神を笑わせるために舞ったのだ。すばらしいではないか。

 

▼奈良町北郊夙村の由緒の物語 pdf
http://www.pref.nara.jp/secure/14191/r51.pdf

▼奈良豆比古神社(奈良市・奈良坂町・奥垣内) エナガ先生の講義メモ
http://blog.livedoor.jp/myacyouen-hitorigoto/archives/47322300.html

▼奈良豆比古神社 難波能面クラブ
http://www.y-tohara.com/nara-naraduhiko.html

2017.10.9


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 松本出張中、つれあい・娘・母の女連にて企画・編集されし信州家族旅行の私的備忘録。10月10日、早朝6時半出発、昼頃、清里高原の清泉寮到着。ホッ トドッグや牛乳、ソフトクリームなどで昼食。だだっ広い如何にものリゾーチ的高原の正面奥に富士の蒼い山稜。紫乃は体調すぐれず。ショップなど眺めるが、 風景がいちばん。その後、予約していた小淵沢のカナディアンキャンプ乗馬クラブへ移動。近くの「道の駅 こぶちざわ」内にある延命の湯へ母を置いていく が、 「毎月第2火曜日」の休館日だったと電話がきてまた連れ戻す。ビーチ体験乗馬 90分(30分の馬場レッスンと60分のビーチライディング)、¥12,000のコース。中一の引きこもりになったときに甲府の厩舎に泊り込んで馬と寝起 きして以来の乗馬か。幼いとき「もののけ姫」の、山犬に乗って走るサンが好きだった。クリスマスに黒曜石のナイフを所望した。不自由な足の代わりか。やら せてやりたいが馬はさすがに高い。乗っている間に元気になってきた。外回りを散歩している間に講師の若い女の子とすっかり仲良くなったらしい。終わってか らも長いこと立ち話をしている。八ヶ岳高原ラインをもどるようにして初日の宿泊先はネオオリエンタルリゾート八ヶ岳高原コテージ。雑木林の中に点在するコ テージ一軒を貸切。個人の別荘も混じっているらしい。大浴場や食事は本館で、電話をすると車でコテージ間を運んでくれる。プチ・ブルジョア気分か。テラス に小さな露天風呂まであるのは驚いた。夜のしじまでときおり落葉広葉樹の実が爆ぜ、地面やコテージの屋根に落ちる音がする。母は二階の和室で寝て、娘は両 親のベッドと隣接するリビングのソファーで寝たいと言うので、大きなソファー二つを向き合わせにくっつけてベッドにして布団を敷いた。吹き抜けの山小屋風 の天井を眺めるのがいいらしい。12日の翌朝はみんなそれぞれテラスで朝風呂を楽しみゆっくりする。そして富士見町の“雲海の見えるゴンドラ”(富士見パ ノラマリゾート)へ。これはつれあいの肝いり。標高1995メートルの入笠山の足元、1700メートルあたりまで昇る。全長2.5キロ、730メートルの 高低差。往復で1650円。冬はゲレンデだが、夏場はマウンテン・バイクのダウンヒルコースになるらしい。自転車を積んだゴンドラが続々あがってきて、真 下の斜面を駆け下っていく。山頂駅から小一時間もあるけば入笠山の山頂へ行けるが、もっと近い湿原や花畑すら、いまの娘の足では難しい。それでも雲海テラ スでルバーブのソフト・クリームを舐めながら風に吹かれて大パノラマを満喫するのも悪くない。すり鉢の底のようにひろがった富士見・茅野あたりの平地か ら、八ヶ岳・乗鞍へかけての山稜がくっきりと見える。地球の皺が実感できる。さて、そこから先は何も決めてこなかった。父はほんとうは縄文遺跡の資料館な ど行きたかったのだが、どこぞでもらったパンフにあった八ヶ岳自然文化圏のプラネタリウムを娘が見たいと言い出した。名探偵コナンの星影の魔術師、オーロ ラから見た恐竜たち、FROM EARTH TO THE UNIVERSE まで三タイトルを14時から17時まで連続で見れる。急がねばならない。ところが到着した八ヶ岳自然文化圏はなんと休館日で閉門していた。娘はがっかり。 たまたま通りかかった関係者らしい女性につれあいが訊いたら、休みは「火曜日・祝日の翌平日・年末年始」だが、9日の月曜が祝日だったため、「祝日の翌平 日」が「火曜日」と重なって今日の水曜日にスライドした、という説明だが、そんなのありかオイ。次に娘が提案したのが蓼科アミューズメント水族館。父は 「信州で水族館かよ」と思ったが、口に出したのは「お父さんは、どこでもいいよ」  昼飯を食べ損ねていたので、途中で見えた「たてしな自由農園」なる物 産展でつれあいや娘はパン、わたしは地元の飲むヨーグルトとほうづきで。この食用のほうづき、はじめて食べたがマスカット風味で美味。ところが2010年 に倒産して運営会社が代わったこのやや寂れて手づくり感満載のそれにしてはちょっと1470円の料金は高いと思えるしかも淡水魚専門というマイナーな蓼科 アミューズメント水族館が意外や意外に面白くわたしの母以外はたっぷり楽しんでしまった。ドクター・フィッシュに手の古い角質を食べてもらってすべすべに なったのを皮切りに、何よりわたしが個人的にいちばん興味深かったのは、シーラカンスとおなじく1億年前からの姿をとどめているピラルクなる古代魚であっ た。折りしも松本滞在時に古生代の生物たちの変遷をたどっていたものだから余計に感慨深く、水槽の中をもの言わず漂うかれとしずかな対話を交わしていたの だった。娘もひとつづつ、解説をじつに丁寧に見ながらじっくり回っている。この子は生き物に触れることがうれしいのだ、と思う。そして帰り道、夕闇までの 紅葉した山並みの見事なこと。車中からその黄金色に輝く景色になんどかみなが歓声をあげた。果てしない山稜、印象派のキャンバスのごとき山の色、しずかな 白樺の雑木林、のどかな丘陵地の田舎の風景。どれもすばらしい。車で走っていることがこれほどうっとりするような旅行もあまりない。二日目の宿泊は蓼科の 女神湖畔にあるホテルアンビエント蓼科。さしづめレイク・ビュー・フロントの部屋からの夕日をつれあいは愉しみにしてようだが、到着が若干遅かった。部屋 も広く、露天風呂もあり、風呂上がりには浴衣で湖畔へ降り立って満天の星空を堪能したが、ただ残念だったのは窓のサッシががたついていたり、リビングの椅 子が一部シミだらけだったり、有料で貸し出しているボード・ゲームの管理がいい加減でパーツやカードがけけていたことなどで、これはチェックアウト時に改 善をお願いしてきた。最終日の三日目の朝は女神湖をぐるりと回ってから出発。さあ、今日は「お父さんの日」だ。松本市美術館の「細川宗英展」だ。白樺湖を 抜け、下諏訪、岡谷から長野自動車道へ乗って松本入りする。さんざあるきまわっていた道を車で通り抜けることが何となく素っ気なく詰まらない。美術館到着 は昼前頃だったろうか。あの諏訪美術館の衝撃の臨時休館から、やっと見ることができる。この企画展について、細川宗英作品については、できれば後日にあら ためて記したい。とにかくすべてがパーフェクト・フィットなのだ。ここではとりあえず、チラシの紹介文をあげておこう。

消滅しゆく運命との“たたかい”

人間の遺産をつくる芸術家の責任を、築くものと崩れ去って行くものの間で、私はもう一度考えたい。日本的なものへの回帰と、小さなものでもよいのだ確かなるものを。(細川宗英)

 「彫刻とは何か」を己に問い続け、人間の存在を追求した細川宗英(1930〜94年)の特別展を開催します。
 細川宗英(むねひで)は松本市に生まれ、諏訪市で育ちました。東京藝術大学美術学部彫刻科専攻科在学中から新制作協会展に出品し、その才能は早くから注 目されます。日本的なものへ回帰するイメージから生まれた「装飾古墳」シリーズ、人間の内面を赤裸々にえぐり出す「男と女」「王と王妃」のシリーズ、鎌倉 室町の頂相ちんぞう彫刻から想を得た「道元」、平安末期から鎌倉初期の絵巻『地獄草紙』『餓鬼草紙』による物語絵画を彫刻化したシリーズなどを発表。風化 しゆく人やモノの姿をとおし、時間や歴史を超越して存在するもの、内に向かって削ぎ落としていくような造形を探求しました。
 本展は、細川の初期から晩年までの作品(彫刻、デッサンなど)約90点をとおし、創作の変遷を辿ります。生きた証を残しおこうとする人間の執念、永遠な ものへの祈り…。細川が彫刻に込めたむき出しの美は、生あるものが消滅しゆく運命との“たたかい”でもあるのです。
(彫刻家・細川宗英展 人間存在の美 チラシより)

 そして予想外にうれしかったのは、娘が気に入ってくれて、誰よりも(わたしよりも)長い時間をかけて作品のひとつひとつを熱心に見ていたことだ。母など は「わたしには難しすぎて何だか分からない」と早々に会場を出て廊下のベンチに座っていた。「あんまりみんなを待たせたら悪いから、スケッチはお父さんが 買う図録をあとで見せてもらうつもりで、途中から彫刻だけ一生懸命見てきた」とあとで娘はわたしにおしえてくれた。この作家の作品はもともと、わたしの松 本滞在を知った彫刻家の安藤栄作氏がSNSにて10月7日からの展覧会を教えてくれたのが最初だった。わたしは10月2日に帰宅を予定していたのですれ違 いだったわけだけれど、その後たまたま時間が取れて何気なしに入った美術館で(企画展のはざまの常設展示だけのときだった)草間弥生といくつかの浮世絵作 品を見てそれなりに満足だったわたしに仕事の電話が入り、廊下に出て突き当たりのベンチに腰かけてしばらくしゃべっていたわたしが、電話を切ってふと隣に ブロンズの像が立っているのにそのときはじめて気がついて、「道元」と題されたその不思議な立像に衝撃を受けたのがほんとうに偶然の出会いだったわけだ が、それが安藤氏が教えてくれた細川宗英の松本市美術館の所蔵作品の一つなのだった。必然の出会いというものは、やっぱりあるのだとわたしは思う。この作 家の感覚、造形、思惟、方向、そのすべてがわたしにはまるで身長も体重も同じ双子のじぶんの服を着たかのようにぴったりと嵌る。ところで2時間近くを集中 してすでに憔悴しかけていた娘をせっかくだからおまえとおなじ引きこもりのアーティストの作品をちょっとだけ齧っていこうと常設展の草間弥生コーナーへ車 椅子を押していったところ、冒頭のレッド・ドッツで娘はもう過剰反応してしまい、途端に吐き気を催すほどになってしまった。集合体恐怖症(トライポフォビ ア(英: trypophobia, 英: repetitive pattern phobia)というものだと、みずからおしえてくれた。そんなこんなで当初予定していた美術館裏の蕎麦屋「やまがた」の昼の営業時間が終わってしまい、 おまけに雨がぽつぽつと降り出してきたために車椅子を仕舞い、駐車場のあるわたしがこよなく愛した500円のざる蕎麦屋・小木曽製粉でお昼を済ませること にした。天気がよければ中町通りや縄手通りあたりへ行って、もうすこし風情のある店に案内したかったのだけれど。あたらしくできたイオンモール内のお土産 店へ寄り、城の北側道路から松本城を眺めて、ああサラバ、松本よ。そのあとは高速道路をひたすら走り続けて名古屋・彦根・京都を経由、途中多賀のSAで夕 食を食べ、家にたどり着いたのは22時半ころであった。八ヶ岳高原あたりの黄金色の山肌がいまも目に焼きついている。
 

▼清泉寮 https://www.seisenryo.jp/

▼カナディアンキャンプ乗馬クラブ http://www.canacan.jp/facility/index_y.html

▼ネオオリエンタルリゾート八ヶ岳高原コテージ http://yatsugatake.izumigo.co.jp/

▼富士見パノラマリゾート http://www.fujimipanorama.com/summer/

▼八ヶ岳自然文化圏 http://www.yatsugatake-ncp.com/

▼たてしな自由農園 http://www.tateshinafree.co.jp/ 

▼蓼科アミューズメント水族館 https://www.tateshina-aquarium.jp/

▼ホテルアンビエント蓼科 https://tateshina.izumigo.co.jp/

▼彫刻家・細川宗英展 人間存在の美 http://matsumoto-artmuse.jp/exhibition/special/8566/

2017.10.13

 
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 今日は殆どを県立図書館で過ごした。

 午前中はつれあいと二人で行って、わたしは予てよりの六条村の救癩施設・西山光明院の手がかりを追って、推定地にひっそりと建っている名も分からぬ小さ な社に焦点を当てて資料を漁ったが、奈良市史の神社一覧にもそれらしい記述は見えず、また昭和33年のまだ人家も少ない頃のゼンリン住宅地図にも社地の記 号はなかった。(昭和33年、41年、そして最近のゼンリン地図をコピーして帰った)

 昼を済ませて、午後からも一人で出かけた。昭和の初期にじっさいに西山光明院跡地(まだ建物の一部が残っていた)を調査した宮川量の遺稿集「飛騨に生ま れて」に何か書かれていないかと思ったのだが、Web上でも見れる「救らい史蹟西山光明院」のほか「鎌倉時代におけるらい救済者忍性律師の研究」等の論考 も収録されていたが、西山光明院についての目新しい記述は見当たらなかった。それにしてもこの宮川量は現在では忘れ去られてしまった人物なのか、ネット古 書も流通しているものはほぼ皆無に近い。

 不明神社の線がいったん行き詰ったので、せっかく来たのだからと薬師寺関連の書籍等をしばらく漁ってみた。薬師寺が定期的に出している会報のような冊子 が昭和40年くらいから揃っていたので、目次をなぞるように見ていった。そのなかで昭和42年から管主を務めた高田好胤が毎年のように太平洋戦争の戦場を 慰霊の旅と称して冒頭に登場するが、これがすごいね。英霊の御霊だとか、靖国を否定するのは言語道断だが靖国神社の方こそ英霊の御霊を迎えに来いとか、戦 場で玉砕した将兵や遺族を誉めそやしたり、だいたい坊主がなぜ「英霊」などという言葉を平気で使うのかおれはまったく理解できないのだが、あらためて調べ てみれば生前は話術が巧みでユーモアにも富んだ「究極の語りのエンタテイナー」と評されていたようだけれどこのおっさん、日本会議の前身である「日本を守 る国民会議」の代表委員も務めていたとか。この時点で薬師寺は、もう見切った。

 ついでに言わせてもらえば、これまでカウンターばかりでゆっくり書棚を見ていなかった県立図書館だが、3階の一角のかなりのエリアを占める「戦争体験文 庫」のコーナー、これもすごいね。十数列の裏表の書架及びその並びの壁面一面は戦史、従軍記、ゼロ戦や戦艦の軍事本、英霊を称える書、それに軍人老後会の 各種会報がずらりと並び、いやいや県立図書館よ、これほんとうにいいの、こんなんで? と思わず誰かつかまえて言いたくなるくらいの有様。要するにほんと うの意味での悲惨さや加害者としての立場を指摘する書物が千分の一くらいしか置いていない。戦争を知らない世代に当時の生活を知ってもらうためにうんたら かんたら書いていたけれど、あれをあのまま並べておくのはどうかと思うよ。そういうわけで奈良県立図書館はすでに日本会議状態だ。われわれは一歩づつ着実 に理想世界へ近づいている。

 まあ、そんなこんなで愉しい一日だったが、メモしてきた入手したい本をいくつか。

▼宮川量「飛騨に生まれて 宮川量遺稿集」(名和千嘉 1977)

▼田中寛治ほか共著「旧生駒トンネルと朝鮮人労働者」(国際印刷出版研究所出版部 1993)

▼田中寛治「朝鮮人強制連行・強制労働ガイドブック 奈良編」(奈良県での朝鮮人強制連行等に関わる資料を発掘する会 2004)

▼川瀬俊治「奈良・在日朝鮮人史」(奈良・ 在日朝鮮教育を考える会 1985)

2017.10.17


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 人権は譲渡できない、奪うことのできないものと宣言され、そのためその妥当性は他のいかなる法もしくは権利にもその根拠を求めることができず、むしろ原 理的に他の一切の法や権利の基礎となるべき権利であるとされたのであるから、人権を確立するには何の権威も必要ないと思われた。人間それ自体が人権の源泉 であり本来の目的だった。他の一切の法律は人権から導き出され人権に基づくとされたからには、人権を守るための特別な法律が作られるとすれば、それは逆説 的な事態である。
ハンナ・アーレント「全体主義の起源」

 松本の丸善で買って中断していたNHKテキストのハンア・アーレントをいまごろまた読み始めているわたしだが、この部分はちょっと目からウロコ。戦乱な どによって発生した大量の難民=無国籍者という「新しい人間集団」の登場によって、「フランス革命以降、ヨーロッパの知識人や民主主義者は、誰でも人間で あれば、そのこと自体が人権の源泉になると信じてき」たことが幻想であったと明確になった。「人権を実質的に保障しているのは国家であり、その国家が「国 民」という枠で規定されている以上、どうしても対象外となる人が出てしまう」というわけだ。「法による支配を追及してきた国民国家の限界が、国家の「外」 に現れたのが無国籍者の問題であり、それが国家の「内」に現れて、統治形態を変質させていくのが全体主義化だということもできる」  わたしは20代の頃 からディランの60年代の曲の一節 But to live outside the law, you must be honest (法の外で生きるには、誠実でなければならない) を座右の銘としてきたが、こちらが誠実であっても、現実に於いてはわたしの人権を保障しているのは国家であり、状況が変わればだれもが無国籍者になりう る、ということだ。「同一性」ということにアーレントはこだわるが、であればそもそも国民国家をそれたらしめている「同一性」をこそ、わたしたちは疑い、 再定義もしくは解体していく必要があるのではないだろうか。

 アー レントが「全体主義の起源」の第一・二巻で提示したキーワードを整理すると、「他者」との対比を通して強化される「同一性」の論理が「国民国家」を形成 し、それをベースとした「資本主義」の発達が版図拡大の「帝国主義」政策へとつながり、その先に生まれたのが全体主義―――ということになります。いずれ のキーワードも、太平洋戦争へと突き進んだ戦前の日本、戦後七十年を経て再び右傾化の兆しが見える現代の日本にぴたりと符合するのではないでしょうか。
NHKテキスト 100分de名著 仲正昌樹「ハンナ・アーレント 全体主義の起源」


2017.10.18


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 衆院選、開票。NHKの8時のニュースがカウントダウンをして、まるで高校生の発表会のように満面の笑みをうかべたアナウンサーたちが「自民党の圧倒的 勝利」を謳った瞬間、なにか、見知らぬ者に家の中に土足で入られたようなひどく厭な気分がした。それでじぶんの部屋にはいって、揺り椅子でしばらくコンポ に入れっぱなしにしていたバッハの無伴奏ヴァイオリンを目を瞑って死んだように聴いていた、長いあいだ。

 この明治42年が此の世の終わりでない限り、この先も失敗、敗北が繰り返される。だが負けて、負け続けて、いつかは正義が来る。勝てなくても前に進まな くては! ただ、声を上げる、その瞬間、瞬間にだけは、我々は刹那の勝利を手に入れる、それだけは誇れるはずや。
(嶽本あゆ美「太平洋食堂」大石誠之助の台詞)

 この平成29年が此の世の終わりでない限り。

2017.10.22

 
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 新宮市民会館の南隣は丹鶴城の石垣、北には廃校となった丹鶴小学校。会館前の途をまっすぐ北へ三百メートル行けば、太平洋食堂と大石誠之助の医院跡があ る。そしてその先には三本杉遊郭の跡と速玉大社。そこを西へ折れて進めば、高木顕明の住持した浄泉寺、その途中には明治に開業していた料理屋や旅館、薬 局、色街もある。新宮の北西をぐるり取り囲む岸壁は、鍋肌のように垂直で、頂きの縁から、ふとだしぬけに神倉神社の御神体ゴトビキ岩が天狗の鼻のようなも のを突き出している。熊野川が注ぐ先は熊野灘、浜の向こうは太平洋、そして対岸はアメリカ大陸西海岸。全ての情景がぴったりとあった。新宮市民会館の舞台 上、「太平洋食堂」はまさにここを目指して始まったのだ。黒々とした楽屋通路、誰もいないトイレの壁、窓ガラスの向こうから、湧きだして止まらないような ものを感じた。目に見えるというよりも、自分の内側にある何かと、そういうものが呼応して蠢きだすのに耐えられず、声を出した。「おーい」。そしてそこに 一人で居るのが怖くなり、宿へ逃げるように帰った。

 そういう瞬間はある、と思う。おおきな、直立した、冥(くら)い時空の断層がスライドして闇の帳(とばり)の端がひょいとめくれ、そこからなにか生温か い吐息のようなもの、つめたい結晶のように尖った囁きが、一瞬、こちらの頬をかすめて思わず背筋が凍りつく。わたしたちが歴史の実時間に立ち会う(コミッ トする)瞬間だ。満ち潮を遡上する川の匂い、頭上を飛び交うカモメの群れ、草いきれ、魚を担いだ引き売りの声などがそのときたちあがる。はからずも、わた しは迷い込んだ異郷者である。演劇とはそういうものかも知れない。大逆事件なる天下の茶番劇に連座してすべてを失い、「おーい、頼んだぞ」と叫んで骨も凍 る独房で縊れた僧侶・高木顕明の一粒種を描いた「彼の僧の娘」を2016年の夏に新宮で観た。新宮は根の国である。あたかもラピュタの天空城を埋め尽くす ほどの無数の根茎が地面に突き刺さり、古代神話から被差別部落に至るまでいまもふるえている。わたしたちはふだん、地上の枝葉や花や実ばかりに気をとられ ているが、ときに地下ふかくの根茎のふるえに共鳴してしまうことがあるのだ。あの日、大人の玩具も色褪せるほどのバイブレーションで昇天したわたしはそれ から、何やら足の裏に無数の毛根をひきずりながらあるくようになった。名古屋で大杉栄と共に殺害された甥の橘宗一の墓碑を探し、大阪で大逆事件サミットや 管野須賀子を顕彰する会などを覗き、遠く信州では明科の爆裂弾実験地をあるいた。同時に河内のキリシタン遺跡、北陸の一向一揆、あるいは堺の砂についえた キリシタンによる救癩施設や大正まで存続していた地元・奈良の忘れられた被差別部落にあった救癩施設の旧跡を探索もした。楽園のグアムでは日本軍による地 元住民の虐殺事件現場を訪ね、そのグアムで玉砕した日本兵士の記憶を探して近所の共同墓地や軍人墓地、護国神社などをあるきまわった。紀伊半島の鉱山労働 者であった朝鮮人の虐殺事件を知り、関東大震災のときの事件のフィルムを大阪・生野の集会場へ見に行った。出張先のホテルの浴槽のなかでは堀田善衛の「時 間」(南京虐殺)や「夜の森」(シベリア出兵)を読みついだ。つまりこれらはすべて冥(くら)い地下の根茎で密接につながっていて、そのほとんどはいまも 薄闇のなかでしか語られない。すべてはあの2016年夏の新宮で始まったのだ。だから「彼の僧の娘」の作者である嶽本あゆ美さんは天下の極悪人ということ になる。さらに新宮公演をきっかけにFB友になってくれた彼女はその後、わたしに「彼の僧の娘」や「太平洋食堂」の脚本を譲ってくれたり、大逆事件に関す るさまざまな催しに誘ってくれたりしている。立派な共謀罪で、わたしたちはじきに縛り首になるやも知れない。その嶽本さんが本を出した。冥土の土産に読ま ねばなるまい。本は管野須賀子が獄中で書いた手紙のように針穴で書かれているかと思ったがちゃんと印刷された文字で明瞭に記されている。しかもスコブル面 白い。前半の第一部「職業としての演劇人」は著者が「魔の山」(マン)と呼ぶ世間から隔絶した音大の学生生活から始まり、その後入社する「劇団四季」での 研修、舞台裏、そして子育てをしながらの奮闘が繰り出される。いわば肥やしの時代である。だが華々しい大資本のミュージカル・ショーに飽き足らず「夢から 目を醒ませ」という幻聴を聞いて、嶽本さんは在籍13年目にして「劇団四季」を退社する。「なぜか浅利社長が90年代によく話していた築地小劇場の歴史や ソ連演劇界のメイエルホリドの粛清やら岡田嘉子のソ連亡命を思い出しながら。「さよなら! さよなら! さよなら!」。 そして国境を越えたのです。」   第二部「大逆事件と演劇、そして社会」。ひょんなきっかけから中上健次の小説「千年の愉楽」の舞台化に携わった嶽本さんは、新宮でやっぱり足の裏に毛根 を引きずるようになり、共に大逆事件に連座した大石誠之助(「太平洋食堂」)、高木顕明(「彼の僧の娘」)らを題材とした作品を生み出していく。それにし ても演劇というのは面倒で厄介なものだ。「20人以上のカウンターの客からの同時多発の注文を一人で捌き、好みを熟知し、代金も取りはぐれなかった」かつ て通った大阪のうどん屋のおばちゃんを引き合いに出して著者は、演劇をつくるのは劇作家の能力とこのうどん屋のおばちゃんのような才能の二つが必要だ、と 世界の真ん中で叫ぶ。わたしの勝手な見立てではそれは2対8くらいの割合ではないかと思える。「公演制作は軍隊の兵站と似ている。資金調達、人材の確保、 輸送や機材の手配などの物流管理、交通宿泊のブッキング、食事、広報宣伝活動、販売チケットの管理、全てに専門性が必要でとにかく面倒で細かい。何をどう 手配して、どう運ぶか? コストをどう抑えるのか? 現場管理はまるで補給部隊のようだ。同時に交通手段の代替や、災害や事故が起きた場合の保険などのリ スク管理も事前にしなくてはならない。」  だが、それだけでない。百年前の国家権力によるあきらかなでっち上げにもかかわらず、いまだ司法が再審請求を 却下し続けている事件の芝居を縊られた者の古里で行うことの困難さは21世紀の現代にあっても継続している。被差別部落、土地の有力者たちとのかねあい、 メディア、教育委員会、行政、台詞で使われる「新平民」というコトバの問題、子どもたちへの事前学習会の開催、面倒ごとは御免と逃げ腰になる学校の管理 職・・・  粘り強く対話をくりかえし、多くの支援者に助けられ、ときに疲労困憊し、ときには返す刀で斬り捨てる。演劇が人々を招(お)ぎよせ、ぶつけ合 い、ころがしていくのだ。ころがっていった巨大な毛玉のようなものが、そうしてまた別の毛玉を生み、また多くの人々をからげとって走り続ける。大逆事件は いまも生きている。

「太平洋食堂」はフィクションを多く含むドラマだ。歴史家でない私のような劇作家にできることは、彼らの短い生涯の「陽の部分」を切り取り、特別な存在で ない「普通の人」として再生することだ。苛酷な時代状況の中に置かれて葛藤し、社会や自己矛盾とも戦いながら生き切った「生」の部分こそが、意味のある 「人間のドラマ」なのだ。それが成功すれば、観客は時代を追体験することが可能となり、異なるものへの理解や共感を体感するだろう。それが演劇や映画など 表現芸術が出来る最大の「武器」なのだ。

 現代、SNSに蔓延するコトバの多くは恰もうつろな空間でひびくループする悪しきミニマル・ミュージックのようなものだ。それはおそらくどこへも届かな いし、何も実りをもたらさないだろう。だが演劇は違うようだ。ひとつの舞台を実現するまでの間に、現実の塵あくたに触れ、たくさんの人々を動かし、変え、 勇気づけ、夢をかなえるのだ。なによりそこにはSNSにはない「肉体」がある。演劇は「生もの」であり、人間のちっぽけな頭ではなくその「生もの」が感 じ、考えるのだ。それはひとつの希望かも知れない。わたしたちはもっともっと足裏に毛根を生やしてあるいていけるのだ。夜ふけの新宮市民会館で見えない何 ものかに呼応して思わず声に出した嶽本さんの「おーい」は、百年前に秋田の監獄で高木顕明がふりしぼった「おーい、頼むぞ」にたしかに重なっている。それ をわたしは2016年夏の新宮で目撃したのだった。満ち潮を遡上する川の匂い、頭上を飛び交うカモメの群れ、草いきれ、魚を担いだ引き売りの声のなかにわ たしは立っていた。そこから、はじまる。
 私の制作の方法は特殊かもしれないが、他人から聞くことで、自分の知らない時代や、失われた土地の声を再現することは可能だ。声の集合体は、社会をつく る。演劇はそれをまた、逆側から読み解くことで、他者と自身の「偏差」を知ることができる。自分の立ち位置から、世界の地図が新たに見え始める。

 社会を読み解く力、思考する訓練、何者にも支配されない自由な思考のために、演劇が必要なのだ。演劇とは、思考する方法であり、それによって権力や経済にも支配されずに、魂の自由を得ることができるだろう。かつて創造主を作りだした時のように。

 それこそが、全ての変革の始まりなのだ。

(妹尾伸子・嶽本あゆ美・堀切和雅「演劇に何ができるのか?」(アルファベータブックス 2017)

※引用はすべて 第二章「支配を脱するための演劇」(嶽本あゆ美) から

2017.10.24


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 台風通過で最後まで迷ったが、エイままよ、上映会が中止なら博物館の「国宝展」に切り替えればいいし、帰りの電車が止まったらそれはそれで愉しもうと腹 をくくって京都へ向かった。丹波橋で京阪に乗り換えて出町柳へ。ひと駅だけの叡山鉄道は面倒だったので雨の路地を適当に抜けた。六斎念仏の総本寺という寺 (光福寺(干菜寺))を発見。時間があったので、元田中の駅を越えたあたりに見つけた「天狗食堂」で親子丼のお昼を食べた。近在の人に愛されている店のよ うで、昼時もあってほぼ満席。相席をすすめたおっちゃんはビールと肉カレー丼と中華ソバ。おいおい喰いすぎじゃないか大丈夫かと人の糖質を心配した。線路 のすぐそばの「民団(在日本大韓民国民団)左京支部会館」。ここで前田憲二監督の「神々の履歴書」を見せていただいた。二階の会議室のようなスペースにパ イプ椅子を並べて30人ほどか。140分、2時間半近い上映。日下武史さんの淡々としたナレーションで朝鮮半島と日本の全国の神社や遺跡が特に殺人事件が 起こるわけでもなくやっぱり淡々と紹介されていくので、昨夜はちょっと寝不足もあって二三度こっくりしかけて後ろのおばちゃんに笑われた。殺人事件は起こ らないわけだけれど全編がしずかな時限爆弾のようなものだ。日本の神々は古ければ古いほど朝鮮半島からの渡来だというのが前田監督の結論であって、ために ネット上では場所によっては「売国奴」「非国民」のひどい扱いだが、その衝撃度は明科の谷あいで宮下太吉が放り投げたちゃちな爆裂弾よりも強力だ。何せ映 画のラスト、巨大な仁徳天皇陵が空撮されながら「日本の天皇は、百済系なのか、新羅系なのか、それとも高句麗系なのか?」というナレーションが流れて映画 は終わるのだ。あまりにさりげないのでうっかり聞き逃しかけてからふと気づき、その意味するところの内容に驚愕する。内容を語ればあまりに多岐にわたるの で詳しくは前田監督の著作などを読んで欲しいが、あらためてわたし自身ももういちど、かつて訪ねた社地を「あたらしい眼」で見直したいという欲求に駆られ た。たとえば飛鳥、土師の里、そして熊野など。渡来のごった煮ともいえる生駒山麓もおもしろい。土地があればあるくし、海があればわたるし、人は自然につ ながり、まじりあう。かつて日本海は断絶ではなく一種の大きなコミューンだったわけで、ちょっと海の向こうの親類にひさしぶりに会いに行ってくるわ、とい うことだってあっただろう。線を引くからおかしくなる。純粋を言うから省きたくなる。おれたちはみんな mixed up confusion だよ、もともと。上映が終わり、休憩をはさんだ懇親会で「どなたか感想を」と司会の女性が言ってもだれも手をあげず、「ネットを見て奈良からきました」と 一番乗りだったわたしにお鉢がまわってきた。それでつい調子に乗って「百年のこの国の歴史について」、わたしが最近思っていること、調べていること、訪ね た場所のことなどを20分近く喋ったのだった。いわく東学農民事件、関東大震災、大逆事件、新宮、紀州鉱山、グアム、そして堀田善衛や沖浦和光などなど。 会場の場所柄「日本人」はわたし一人だったと思う。ほとんどわたしよりやや上の世代以上の「日本で暮らす朝鮮人」の方々だったが、とても熱心にどこの馬の 骨か分からぬこの若造の話を聞いてくれて、それが伝わってきたのでわたしもついつい調子に乗って、あとで控えていたゲストの「先生」の持ち時間を相当食っ てしまったのだった。申し訳ない。懇親会が終わると幾人かの人が来られて連絡先を訊ねてきた。知り合いの古い倉庫から関東大震災のときのむごたらしい写真 が出てきたからメールであなたに送ってあげるという人もいたし、司会の女性は「またこんな催しがあったらお誘いしたいので」ということだった。みんなから 「先生」と呼ばれていた初老の小柄な男性は「この人に電話してわたしの名前を言いなさい。あなたが調べているという紀州鉱山についても詳しい人だから、い ろいろ教えてくれるだろう」と久保井規夫(桃山学院大学元非常勤講師)さんという方の電話番号を教えてくれた。そんなやり取りをしている内に参加者の人は みんな帰ってしまって、残っているのはその「先生」と5名のスタッフの方だけだった。そのまま「ビールでも飲んでいって」と誘われ、階下の事務所の打ち上 げに図々しくも混ぜて頂いた。わたしはそこで「こういう作品は、本来はじぶんのような日本人がもっと見るべきで、そしてみなさんのような在日の方々と意見 交換ができたらもっといいと思う」というようなことを言った。頂いた名刺に「朴炳閏」とある「先生」は歴史にくわしく、数千年前の古代文明からここ百年間 の日韓の関係まで、まるで見たきたかのようにすらすらと喋って尽きない。帰って Web で調べたら、「日本<HAN>民族問題研究所」なる在野の団体の所長さんらしい。酔っ払って風呂場で死んだわたしの敬愛していた伯父に雰囲気が似ていて、 ビートたけしを小さくしたような面影である。あやしい雰囲気もあるが(^^) 気取りがない。この朴先生が何と奈良の田原本在住で、いっしょにバスで京都 駅までもどり、近鉄特急で東北アジアの鳥居龍蔵の発見にルーツを持つ紅山文化や桓檀古記についてのお話を伺いながら帰ってきたのであった。

 

◆「神々の履歴書」(1988年)が語る天皇の「渡来説」 http://hiro-san.seesaa.net/article/250626143.html

2017.10.30

 

 

 今日は潮がうつくしいが、だれも釣りをしてる者もおらん。あんた、どこから来た? そうか。いまはこんなんだが、むかしはここも舟がぎょうさん泊まって てな。正月なんかは大漁旗がそりゃあ、鮮やかだったよ。そう、見たことがあるかね。わしもずっとタンカー船に乗っていたが、休みの日はじぶんの釣り船で魚 を捕りにいった。燃料はタンカー船から分けてもらうからタダだ。タンカー船の稼ぎより良いときもあったなあ。そうさな。淡路島や明石の方までいくんだ。あ のへんの潮は栄養価が高いから魚が旨い。むかしは大阪湾はもっと汚れていたからだれも食わんかったが、海もきれいになってみんな食べるようになった。逆に 潮岬の黒潮は栄養がぬるい。舟でどれくらいかかるかって? 明石まで一時間半くらいかな。エンジンだから、近いもんだ。わしもずっと海で働いてきたよ。わ かいときは紀ノ川の河口で採れる砂利を舟で大阪や神戸へ運んだ。生コンになるわけだ。あの頃はまだ木造船だった。九州の石炭を積んだこともあったな。発電 所へ持っていくんだよ。3年ほど、東京へ働きにいったこともあったなあ。東京湾へ入っていくあの入り口の左側あたり、自衛隊の基地があるあたりは何て言う んだ? 横須賀、だったかな。あのあたりの海の底を掘る仕事だ。岩盤が浅いんで、5メートルくらいの長い鉄の棒の、先が三つにわかれているようなやつを船 から落として地面につきさす。そうして崩した岩をカッターレスでさらう。え。東京じゃ、どこに住んでたかったって? 船ん中んだよ。でっかい船だからな。 寝るところはいくらでもある。ときどき陸(おか)へ飲みにいったりもしたけど、ほとんど船ん中だったな。砂利の運搬船がすたれてきて、タンカー船に乗るよ うになったんだ。あとは65歳の定年で引退するまでずっとタンカー船だ。いまはもう82歳だよ。タンカー船を降りてからも魚は捕りにいっていたけど、脊髄 をやられてから手が思うように動かなくなって、魚を引き上げられなくなった(笑) それで舟も数年前に処分した。へえ、あんたの嫁さんの実家もタンカー船 かい。うん、ヨコタは知ってるよ。わしんんとこはナカオだ。瀬戸内に潮待ちの良い港があってな。船がなかなか進まないときは潮の流れが変わるまで、そこで 待つんだ。そんなときは、おんなじ地の船があればその横につける。いや、旗なんかじゃなくて、船の形を見ればすぐ分かる。ヨコタの船ともそうやって何度か いっしょになったことがあったよ。食事は大きな船だったら賄いの人が乗っていて三食つくってくれる。3〜4人の小さな船だと、いちばん年下のものがつく る。甲板から釣り糸を垂らして釣るから、魚は不自由しなかったな。冷蔵庫にいつもたっぷり入ってた。小さな舟が陸からやってきていろいろ売りにくるんだ。 「野菜だけくれ」って言うと「何でだ?」と言うから、冷蔵庫の中を見せてやったら「うちよりたくさんある」って驚いていたよ(笑) だから買うのは野菜、 米、味噌かな。おちょろ舟も来た。他の船は若いもんがばらばら乗ってたから、わがらの船にあげていいことするわけだ。わしらは親子で乗ってたから、あげる わけにもいかないしなあ。朝になるとビーッと笛が鳴って、「さあ、ひきあげるぞ」って合図だな。迎えの舟が来てかえっていく。瀬戸内から北海道を回って、 いちばん遠いところは新潟あたりまでかな。あっちの冬は寒かった。デッキの手すりに波があたると、つららになって固まるんだ。それくらい寒かったな。 ちょっと腰がつらいから、あすこのベンチにすわらせてもらおうか。どれどれ。そう、うちは代々ここ、オオサキだよ。父親は戦争から帰ってきてから一時、八 百屋をしていた。でもいまじゃ米屋も閉め、魚屋も閉め、雑貨屋も閉め、もうオオサキには店はなんにもない。空き家も多いが、売れるわけでもないし、そのま まほったらかしにされている。瓦の何枚かでも落ちると、そこから雨が入るからもうダメだね。ちょっと前は更地にして駐車場にすれば多少のお金も入ったけれ ど、いまじゃ止める車もない(笑) そのうち人間より猫のほうが多くなるんじゃないかね。わしらもずっと船ばかりだったから、車の免許も持っていない。だ から買い物も不便だ。あすこの丸善のタンクも、もうすっかり油も抜いてしまったらしい。撤退するという噂だが、いまは別の会社になっているけどね。どうな ることか。あのトンネルのある小山の向こうに戦争中は朝鮮人たちが暮らしていた。石山ってみんな呼んでたけど、青石が採れて、それをあちこちに運んでい た。コンプレッサーをつかって岩を砕いていく仕事だから重労働だ。そこで朝鮮人たちが働いていた。そうさな、20家族くらいはいたんじゃないかな。わしは その時分、小学生だったかな。弁当を持って父親と行ったことがある。あの谷筋の低くなったところにむかしは道があったんだ。学校の同級生にも朝鮮人の子ど もがいたな。あの頃はみんな、わがとこで鶏を飼っていた。朝鮮人はその雄同士を闘わせたりして遊んでたな。お互いに仲良くやっていたよ。戦争の終わり頃 に、あの石油タンクがアメリカに爆弾を落とされてたくさんの人が死んだ。空襲だな。わしも母親と山を越えて反対側の海辺へ必死になって逃げたけどな。照明 弾っていうんか、夜中なのにずっと昼間のように明るいんだ。目の前の海の中にシュンッといって落ちた爆弾もあった。翌朝、爆弾で死んだ人の遺体を青石の採 掘場で働いていた朝鮮人と、それから旧制中学の生徒が片付けにいったらしい。戦争が終わって、朝鮮人たちはいつのまにかいなくなってしまった。どこへいっ たのか分からない。集落の跡かね。もう何にも残ってないんじゃないかな。さあ、何時になったい? そろそろ帰るとしようか。わしの家はあの先、廃業した米 屋の路地を入って、つきあたりを右に折れたところだよ。

(連休初日。つれあいと二人で和歌山の義父母の家へ、古くなった煙感知器を交換したり、不用品を二階へ上げたり、もろもろ日常の手伝いに行った。昼飯の前に散歩へ出た港で、海を見ていた老人と一時間ほど話をした。)

2017.11.4

 

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 「娘が先生に診てもらうようになって5年が経ちますけど、なにかよくなったんでしょうか?」 「お父さん、あなたには娘さんが見えていない」 体調不良 で連日ベッドにふせっている娘が哀れで意を決し、会社を早退して訊ねたカウンセラーの病院で。しかし、こうなってはもはやお互い、売り言葉に買い言葉だ。 「おまえにそんなことをいわれたくないな」 「あなたとこれ以上話しても時間の無駄だ」 次の診察が控えているから一時間半待てと言われ、激昂したまま待 合で「こんなクソ医者になにができるんだ。口先だけじゃねえか」と怒鳴り続け、つれあいに連れ出され、雨の中移動した車の中でくさり続けた。こうなったら おれはどうにも自制がきかない。けれどもそのまま帰ってこなかったのは、娘がこのクソ医者のところは気に入ってこれまでほとんど休んだことがないという一 点だった。その一点で、踏みとどまった。一時間半後、つれあいと二人で診察室へ戻った。「頭を冷やしてきました」 「いや、こちらもどうも」  医者は説 明した。娘さんは病理的に何も悪いところはない。だから治療することは何もない。感受性も豊かで、頭もいいし、ちょっと空想に逃げているところもあるけれ ど、でも立派に育っていると思う。ただ彼女はハンディを抱えている。その彼女がこの今のような冷たい世間で生きていくのがどれだけ大変なことか、それは健 常者であるわたしの想像をはるかに越えている。どれだけわたしがそんな彼女に寄り添うことができるのか分からないけれど、でもせめてここに来たときだけは 「そうか、がんばっているな」と声をかけてやりたい。だからある意味で医者じゃなくてもいい、むかしはよくいたような話を聞いてくれる近所のおっちゃん。 そういうものです、と。「何も悪いところはないから、治療することも何もない」 その医者の言葉が、胃にすとんと落ちた。わたしは医者が魔術師だと思って いたのかも知れない。きっと心の底で、魔法の呪文で娘を治してくれると期待していたのかもしれないと気がついた。「何も悪いところはないから、治療するこ とも何もない」 もっとはやくに、はじめからそういうふうに説明してくれたら、おれはあんな暴言を吐いたりしなかったよ。雨の中、車を運転して帰途につい た。だいぶ遅くなってしまった。お腹をすかして待っているだろうな。

2017.11.9

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  むかしの資料整理をしていて出てきた手紙。近所に住む老牧師はもともと父の知り合いだった。父が事故で死んで、わたしがその縁を継いだ。キリスト者では あったが、仏教にも造詣が深く、9.11の事件の前にはイスラム教にも教えられることがたくさんある、もっと勉強をしなければ、と言っていた。晩年には 「キリスト教は老いを知らない宗教だ。仏教の方が老いを知っている」などと手紙に書いてきた。そのように他の宗教や見識についても寛容だったから、わたし もユングの本などを貸したりして、交流はつづいた。あの東日本大震災のあと、たまたま仕事で仙台に行く用事があり、まだ爪あとも痛々しい海岸沿いの町を一 日かけてあるいた翌日に実家へ立ち寄った際に夜半、訪ねて話をしたのが最後になった。わたしが行くと、いつもこの手紙の娘さんがお茶をいれてくれた。

 わたしが死んだとき、娘はどんな手紙を書くのだろう、と思う。

 やっぱり「弱く悲しい父は、娘にとって重すぎます」かな。

前略、失礼いたします。
この度は、過分なるお花料をいただきまして、心よりお礼申しあげます。
お母様にお知らせしました通り、父は多発性骨髄腫という「難病ドラマ」にでも出てきそうな病名の末期ガンの為、八十六才にて天に召されました。
全ての治療、延命を断念し、ただ見守るだけの日々は辛いものがありましたが、一日でも早く苦しみから解放されることのみ願っておりましたので、悲しみ少なく父の死を受け入れることができました。
余命九ヶ月と言われながら、七ヶ月も残して逝ってしまい、気短かな父らしいと思います。
「桜の花の咲く頃に死にたい」となどと、西行のようなことを言っておりましたから、思いが叶い、喜んでいることでしょう。
四月四日は、父がこの世のあらゆる苦しみから自由になれた(解放記念日)と呼ぶことにします。
俗世間を生きることも、家族関係を構築することも、実に下手な人でしたが、一求道者として、誠実に生きてこられたことは、幸せであったと思います。
今日まで年寄りとおつき合いいただき、ありがとうございました。
どうぞ、おじょうさんの為に、いかなる時も強い精神のお父さんであって下さい。
弱く悲しい父は、娘にとって重すぎます。
ご健闘をお祈りいたします。
ご家族を守るためにも、くれぐれもご自愛下さいますように、ご家族の皆様のご平安を共にお祈りいたします。

2017.11.13

 

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  山中の深い霧の中を走り続けて、海沿いのその街に着いたのはもう夜だった。さる人からもらったベートーベンの弦楽四重奏のBOXセットを聴きながら走って きたが、上北山村を過ぎたあたりで消した。物の怪や魑魅魍魎の声を聴きたいと思ったからだ。まるで生き物のように音もなく谷筋を流れていく霧がカーブの曲 がり目にひょいと切れて、暗い山の臓腑に吸い込まれそうになる。

 もともとさびれ ているその街には別の闇があった。ぬらりとした人の体温のような吐息のような湿度のある闇だ。駅前からほど近いコインパーキングの駐車場からふと上を見上 げると、巨大な太古の岩盤が暗がりにせり出していた。それを見たとき、百年前の人間たちがいまもこの路地を歩いているような錯覚にとらわれた。地面が記憶 をたくわえている。人間たちがわすれてしまう代わりに。人影も見えず、声も聞こえないが、気配を感じる。街全体にしみついている何物かが、夜になると瘴気 のように立ち昇ってあたりを徘徊するのだ。その夜は新宮側へすこしだけ南下した海沿いのさびれたビジネス旅館に泊まって翌朝、パネル展示のある熊野市駅前 の文化交流センターの駐車場に車を入れ、そこからぶらぶらと旧市街をあるきながら木本随道(トンネル)を見に行った。

  事件は1926年(大正15年)の年明けに起きた。映画館の前で起きた諍いから一人の朝鮮人が刀を持った日本人に斬りつけられ、抗議行動で集まったトンネ ル工事に従事していた朝鮮人労働者たちに町の住民、警察署長の指示で動員された消防団、在郷軍人らが襲いかかり、二人の若い朝鮮人労働者が惨殺され、遺体 は路上に捨て置かれた。のちに事件から50 数年が経過した1983年に熊野市が発行した『熊野市史』に於いて、市はこの「木本トンネル騒動」における朝鮮人への襲撃と虐殺を「木本町民としては誠に 素朴な愛町心の発露であった」と記した。

  歩道と車一台がやっとのいまでは苔むしたトンネルの入り口から狭い石段をのぼったささやかな棚地に、遺族や在日の人々が自前の資金で建てた慰霊碑がある。 そこにはハングル語と日本語の両方で、木本の住民たち自身によって若き朝鮮人の二人の命が蹂躙されたこと、そしてそもそも殺された二人が故郷を遠く離れて 日本へ働きにこざるを得なかったのは、「天皇(制)のもとにすすめられた日本の植民地支配とそこからつくりだされた朝鮮人差別が原因」であったと記されて いる。まるで光の届かぬ数百メートルもの地底の絶対の闇の中で点された一本の燐寸(マッチ)のようだ。光は、どこへとどくだろうか。複雑な気持ちで高台か らの町並みをしばらく眺める。

 トンネルからふたたび下っていけばじきに平安時 代、坂上田村麻呂の鬼退治の伝説をまとった笛吹橋だ。この近くで一人が地元の消防団や在郷軍人らに嬲り殺され、またもう一人は川沿いにあった飯場で殺さ れ、遺体は「鳶口を頭部に突き立てられたまま」の状態で木本神社へ抜ける途中の当時あった銭湯前にひきずられた。しばらく木本神社を含む旧市街の路地をあ るきまわってから、二人の墓石が見つかったという極楽寺へ行く。

 山を背後に従え た境内はすっきりとひろく、青空が目に心地よい。境内を抜けて隣接する墓域へ入っていくと、いちばん奥の岩盤が露出した山肌に寄り添うように無数の無縁仏 の石たちが貼りついているその手前に、離ればなれに置かれていたという二人の苔むした墓石がいまは並んで立ち、中央に朝鮮人名によるあたらしい墓石と、さ らに「仏陀の法孫として」「一人の人間として」差別のない世を願う住職による慰霊碑が右手に置かれている。墓石は工事の雇い主が建立したものらしいが、 「鮮人」と日本人名、そして四文字の文字数を落とした差別戒名が正面に穿たれている。トンネルにあった説明板では、発見されたその差別戒名の墓石は大阪の 人権博物館で展示され、ここにあるのはレプリカということらしい。

 さびれた商店 街をあるいて駅前へもどる。かつて映画館もあるほど賑わっていた街はいまや、その面影もない。むかしながらの商店街は線路の向こうの幹線道路沿いの大型店 によって息の根を止められたかのようだ。かすれた木の看板の残滓が物語っている。そのしずかな駅前には「熊野古道へようこそ」といった幟がはためき、人影 のない観光案内所もあるが、もとよりこの朝鮮人虐殺の歴史は公式のガイドにはいっさい登場しない。気ままな観光客がふらりとこの街を訪ねたとしても、かれ の目にわたしが今日たどったトンネルの慰霊碑や「鮮人」と刻まれた戒名の墓石が飛び込んでくることは皆無だろう。

  役所と図書館を併殺した文化交流センターに入る。ちょうど「木本事件」と「紀州鉱山への朝鮮人強制連行・強制労働」と題した展示パネルの会場が開く時間 だ。ところが待てど暮らせどガラス張りの入口は施錠され、部屋の中は真っ暗なままだ。困り果てて文化交流センターの窓口の女性に訊くと、本来は主催者側で 開錠するらしいのだが誰も来ておらず、仕方がないですね、と鍵を開けて部屋の照明をつけてくれた。

  小学校の教室ほどのスペースの壁面に立てられた有孔ボードのパーテーションに木本事件、紀州鉱山、そして大逆事件に関するパネルが貼られている。事件の頃 の木本の町並みや、「下手人」が写っているとされる消防団の写真、当時の新聞記事、そして事件に関連する町のマップなど。これまでの集会などで転用されて きたらしい展示パネルは少々くたびれているが、内容は濃い。そしてどれも教科書や観光協会のパンフにはけっして載っていない内容ばかりだ。中央の長机には 紀州鉱山の飯場跡から掘り出されたヤカンやガラス瓶、陶器のかけらなどが並べられ、また主催者側の関連書籍や冊子、会報などが積まれている。わたしはそれ らをめくり、「紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑 除幕集会 報告と記録」(紀州鉱山の真実を明らかにする会)と、「尹 奉吉義士 暗葬之跡」(梅軒研究会)の二冊の冊子を手にとり、はてと困って、先ほどの窓口の女性に代金をどうしたらいいだろうかと訊ねた。「ほんとうはそ うした売買はここでは禁止されているのでわたしたちの口からはあまり言えないんですが、主催者側にいちど電話してみます」と女性は言い、しばらくして戻っ てきて「Tさんという人が近くにいるはずなので、電話して直接訊いてほしい」と言われたと、携帯電話の番号を書いたメモを渡してくれた。いったいどうなっ ているやらとぼやきながら、仕方なくそのTさんに電話をかけて事情を説明すると、「ああ、そうですか。困ったな。わたしはもう紀和町の追悼集会の方へ来て ましてね。こちらへ来るなんてことはできないですよね・・」と言うので、苦笑をしながらもともとその追悼集会へ参加するつもりだったと言うと、「それなら 欲しいものをこっちへ持ってきてください。こっちで代金をもらいます」とほっとした声が返ってきた。

  海沿いの熊野市から山あいの紀和町の紀州鉱山跡地までは車で30分ほど。市内のコンビニのホットコーヒーでモーニングを済ませ、気持ちのいい田舎道をゆっ くりのぼっていく。道沿いのあちこちに蜜柑の無人販売所が並んでいて、そのいくつかに立ち寄って家への土産に百円の袋(約十個入り)を数袋購入して、つい でにお昼も兼用することにした。やがて低い山並みに囲まれた板屋の山村に着く。白い雲が昼寝の痕のようなまるい影を山に落としている。紀和鉱山資料館の駐 車場に車を入れた。南側の裏手の山がかつての紀和鉱山跡地で、すぐ前の短いトンネルを抜ければ閉山40年を経た現在も有毒な抗排水を処理するための施設が ひっそりと稼動し、それらを管理している石原産業の事務所がある。「英国兵士墓地」はその敷地内にある。

  もともと母と妹の三人で母方の古里である北山村で一泊し、熊野市の鬼ヶ城などを見た帰りの道沿いにたまたま見つけたのがその「熊野市指定文化財 英国兵士 墓地 LITTLE BRITAIN」の一見ペンション風の白い看板だった。いったん通り過ぎてから、「こんなひなびた山村になぜ英国兵士が」となんとなく興味を覚えて車を ターンさせた。国道からやや引っ込んだ石原産業の管理事務所の隣にその「英国兵士墓地」はある。すっきりと整備された敷地にカトリック風の十字架が建ち、 16名の英国人の名前を刻んだ石碑がよりそっている。「史跡 外人墓地」と銘打った昭和62年の紀和町による別の説明碑には、昭和19年6月 マレー方面 で捕虜になりこの紀州鉱山に連れてこられた英国人兵士300名の内、昭和20年8月の敗戦までに死亡した16名を「追憶して」と書かれている。かれらは 「イギリス人としての自尊心と教養をもっており、仕事ぶりも能率的であり、収容所内での生活も紳士的」であったが、「しかし、異国に捕われの身となった寂 しさと不安、戦地においての羅病が原因となって」死んだ。そして遺族や同僚兵士たちとの交流がいまも日英両国の親善として続いている、云々と。なるほど。

 ところが帰宅して、いろいろとネット検索などで調べてみると、どうやら「英国兵士墓地」には英国兵士は葬られていない、ということが分かったのだった。詳細は下記のリンク「入鹿捕虜収容所と“史跡外人墓地” 」(三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会)を見て頂きたいが、それによれば

  1.敗戦直後(8月30日)、捕虜たちの遺体を埋めていた収容所わきの敷地に石原産業が「白木の十字架の下に16人の名前を記した木のプレートを置き、周 囲を木の柵で囲」んだ英国風墓地をつくった。「終戦直後の8月16日、俘虜情報局長官より各地の俘虜収容所に送られた事務連絡の中で、「……特に遺骨の類 は見苦しきものは新調する等悪感情を抱かしめざる如く処理すべし」と指示し、また8月22日にも「俘虜墓地及遺骨安置場の整備を良好にし敵の感情を害せざ る如く留意せられ度」と通達していることから、それに従ってこの墓地を整備したと考えるのが妥当と思われる」 因みにこの年の12月には石原産業社長の石 原広一郎がA級戦犯容疑者として逮捕されている。

 2.その後(昭和23年頃まで の間?)、英国軍兵士たちの遺骨は連合軍の墓地捜索班によって回収、横浜の外人墓地(英連邦墓地)へ移された。この時点で敷地内に残された遺骨は、英国人 捕虜をはるかに超える数の動員がされていたろう朝鮮半島からの強制労働者たちの遺骨である可能性が高い。ところがその後、地元の老人会の人々が墓地跡を整 備し毎年慰霊祭を開いていると知ったイギリス側から「墓地跡を守ってくれている人々への感謝のしるし」として「To the greater glory of God and the memory of men of the BritishForces who died at or near Itaya, Japan, during the war of 1941-1945 (神の偉大なる栄光のもとに、1941年から1945年の戦争中、ここ板屋あるいはその付近にて逝去せる英国軍兵士を追憶して)」と記された銅版が贈ら れ、それが現在「史跡外人墓地」の十字架の下に「墓誌」としてはめ込まれている。

  3.1987年(昭和62年)6月、「捕虜の墓地が採石場に出入りするトラックの埃をかぶるようになったため、紀和町教育委員会が、元の位置から10bほ ど離れた場所に新しい墓地を造成し、中の遺骨も移された。金属の十字架の下に、メルボルンの墓地委員会から贈られた銅板がはめられ、十字架の左側には墓地 の由来を記した「史跡 外人墓地 紀和町指定文化財」の石碑、右側にはイギリス兵16人の名前を刻んだ石碑が建てられる。」

  4.上記に対する熊野市からの回答文書。「現在の英国人墓地は1981年頃に紀和町の住民の方が個人で移設した史跡であり、1987年に5月30日付けで 旧紀和町が墓地を含めて石原産業株式会社から土地の寄贈を受けたものと同一のものであります。」 「第二次世界大戦中に旧紀和町で亡くなられた16名の英 国人捕虜の方を埋葬していた場所にあったイギリス兵の遺骨は、戦後、横浜市の英連邦墓地に移設されており、現在の英国人墓地には埋葬されておりません。ま た1981年頃に現在地に移設する際に、元の場所を重機で掘り起こしたところ壺が発見され、中に灰が入っていたため、壺を割って現在の英国人墓地に灰を埋 めたと聞いております」

 5.上記回答文書に対して「三重県木本で虐殺された朝鮮 人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会」側は「現在の英国人墓地には遺骨がない。また、旧墓地のつぼの中にあった灰を埋めたとさ れるが、誰のものか分かっていない」 「灰が、かりに朝鮮人の遺灰なら、英国人墓地としているのは大問題。市には早急に事実を解明して欲しい」と要望。こ れに対して熊野市教委社会教育課では「文書などで市としての回答はさせていただいている。それ以上の回答は必要ないと考えている」とコメントしている。  (2010年4月20日 紀南新聞)

 

  このあたり一帯は奈良時代のむかしから銅の採掘が始まったとされる。この鉱脈に目をつけて石原産業が1934年(昭和9年)、周辺の小鉱山を統合したのが 紀州鉱山である。同年は満州国で帝政が実施され愛新覺羅溥儀が皇帝に即位した年で、国家による戦時体制が整いつつある頃でもあった。「石原産業の設立者・ 石原廣一郎は、1910年代にマレーヘ行き、1920年代には南洋鉱業公司(のちの石原産業)の活動により、3万人を雇用する石原コンツェルンを形成し、 海運業も手掛けるなどして莫大な財産を築き上げた。1931(昭和6)年に石原は帰国し、大川周明らと国家主義運動をすすめた。1936(昭和11)年の 二・二六事件には反乱将校の活動を支援して反乱幇助罪で起訴されたが「無罪」となった。その後、石原産業は、1944(昭和19)年4月25日、軍需会社 としての指定を国から受けている 。 石原廣一郎は国家主義運動に精力的に関わって「南進論」を主張し、石原産業は日本の海外侵略とともに利権を拡大し成長した。終戦後、石原廣一郎は戦争 犯罪人として逮捕され、巣鴨プリズンに拘置されたが、1948(昭和23)年に、岸信介・安倍源基・笹川良一・児玉誉士夫らとともに釈放された。そして、 再び石原産業の代表取締役の地位に復帰した」(奥貫妃文「近現代日本の鉱山労働と労働法制 〜三重・紀州鉱山の足跡〜」) 現在、大阪に本社ビルを持ち、 農薬を主とした大手化学メーカである石原産業はまた、四日市ぜんそくの被告6企業の一社でもある。

  紀和鉱山資料館はその紀和鉱山の事務所本館跡地に建つ。なお隣接する「紀和B&G海洋センター」なるスポーツ施設に「笹川記念館」のプレートが掲げられて いるのも面白い。文化の日の関連とやらで資料館は無料だった。階段をあがり、2階の半分は郷土の歴史・民俗資料。近世以前の素掘りの採掘の様子を再現した ジオラマを配した暗い通路を抜けて、坑内昇降機を模したエレベーターで1階へ降りると、昭和前期からの近代化された鉱山現場の道具や機械、重機などが立ち 並ぶ。全体的にかつて町の発展の象徴だった紀州鉱山を称えるメモリアル館といったふうだ。一枚だけ、昭和18年撮影と記された「勤労朝鮮人」の集合写真が 特に何の説明もなく展示されていたが、それ以外は現場での強制労働や死亡事故などにまつわる記載は一切ない。逆にくだんの「英国兵士墓地」に絡んだ日英親 善交流についてはコーナーが設けられていて、説明パネルや額に入ったたくさんの写真や当時のスケッチなどが飾られている。わたし的には入口横の多目的ホー ルの長机に置いてあったかつての鉱山関係者によるアルバムが面白かった。山神祭の様子、鉱山音頭の踊り方見本、川の氾濫による浸水被害や、商店街での火 災、映画館もあって賑わったという町の中心部のモノクロ写真が、往時の人々の暮らしを偲ばせる。

  いったん車に戻って、車内で蜜柑をいくつか頬張ってから、鉱山資料館から目と鼻の先の住宅地の間にある慰霊祭の会場へあるいていった。慰霊祭は13時から だ。さきほどから関係者らしい人々が横断幕を設置したり、準備をしている。「紀和B&G海洋センター」のななめ向かい、国道に面した敷地だ。木本トンネル わきの慰霊碑とおなじく、国からも自治体からも何の協力も得られず、関係者の人々が有志で資金を集めて土地を購入し、じぶんたちで石碑を建てた。大きめの 家一戸分の敷地に、供養碑と説明板の碑がならび、その手前の地面にはさまざまな形の35個の石がならべられ、青色のペンキで朝鮮人名が書かれている。紀州 鉱山の従業員名簿などから割り出した死者たちの名前だが、中には姓しか分からない石や、ただ「姫」とだけ書かれた石もある。名前が分かっている人々がかろ うじてこれだけで、もちろん、記録に何も残っていない死者たちもいるのだろう。35人のうち、出生地まで判明したのはわずか6人にすぎない。いったいどれ だけの数の「半島労務者、捕虜、臨時夫等を含む」(石原産業株式会社社史編纂委員会編「創業三十五年を回顧して(非売品)」の資料表現から)非正規の労働 者がこの紀州鉱山に連れてこられ働かされていたのか、いまとなっては分かりようもない。確かなのはその数年間の間、かれらはこの板屋の山村の空気を吸い、 空を見上げ、いまと大して変わらぬ山の風景を眺めただろうことだ。

 Tさんにお会 いして、追悼碑の前で冊子の料金を無事支払った。Sさんという冊子やHPにもよく名前の出てくる初老の男性が「また感想など聞かせてください」と言ってこ られた。また主催者の金静美さんかも知れないが、小柄な初老の女性がどこから来たのかと声をかけてくれた。日本人は前述のお二人と、数人の報道関係者、そ れくらいでなかったろうか。はたから見聞している感じでは遺族関係の人、そして主に三重県の在日朝鮮人団体の人々が殆どであったと思う。総勢50名ほど。 先ほどのSさんが開会の挨拶をし、ついでTさんが裁判報告を行い、それから献花・献杯。わたしも頂いた一輪の花を「姫」と一文字だけ書かれた石の上にたむ けて、紙コップの日本酒を注ぎ、手を合わせた。若い男性がときおり手にしたトランペットで哀悼のメロディを吹く。住宅街なのだが、人の気配はほとんどな い。地元からの参加者もいないようだ。日英親善とは違って。犬を散歩させている男性が一瞥だけくれて特に興味もないといったふうに通り過ぎていく。

  大阪の生野区で関東大震災の朝鮮人虐殺のフィルムを見たときもわたし以外はすべて在日の人だった。京都の民団支部で前田監督の映画を見たときもそうだっ た。いつも年老いた在日の人々だけがひっそりと集い、過去の悲しみや慟哭を確かめ合っている。日本人はどこにもいない。ノーテンキなこの国の人々は木本で は鬼ヶ城や熊野古道を訪ね、紀和町では鉱山展示を楽しみ、日英親善の英国兵士の墓を鵜呑みにして「戦争中でもこんないいエピソードもあったんですね」とブ ログに書く。そうしていつの日かまた、わたしたちはおなじことをやるのだ。会場ではいつしかマイクが一人ひとりの手の中を移動し、日本に対する、日本人に 対する非難の言葉もときおり語られた。その間にも正面に敷かれたブルーシートの上に年寄りたちが跪き、頭をつけて祈りをささげている。わたしはじきにいた たまれなくなって、そっと会場を抜け出た。

 会場の裏手の、かつてはメイン通り だったのではないかと思えるさびれた店が点在する通りをうろつき、それから鉱山資料館の前から橋をわたって、先に見えている鎮守の森を覗きに行った。川が 蛇行するあたりの高台に立つ矢倉神社はまるで廃絶した中世の城跡のようにひっそりとしていた。手前にいまでは廃屋となった店が「うどん・中華・洋食」など と書かれた看板を晒していた。そこから先へ進むと、明らかに鉱山の長屋が建ち並んでいただろうと思われる真四角な区画が引かれた住宅地だった。更地の場所 が多い。一軒の家の窓から厚い褞袍(どてら)に身をくるんだ男が顔を覗かせていて、「寒いな〜」と親しげに声をかけてきた。そうですね〜 とわたしも相槌 を打って通り過ぎた。「英国兵士墓地」を再訪し、そこに眠っている何者かのことを思い、かれらのまなじりに映った風景のことを思い、飛び去っていったか分 からぬ魂のことを考えた。それから閉ざされた鉄門に指をかけ、その向こうでいまもごとごとと音を立てて地中から湧き出る毒素を処理している坑廃水処理施設 をしばらく黙って眺めていた。川沿いののどかな堤の上の土の道をたどって資料館前の交差点までもどり、そこから山の上に見えている、コンクリートの柱だけ がオブジェのように林立しているかつての選鉱場を目指してのぼっていった。かつて紀州鉱山の中心地だった高台には、いまは市によって立派な福祉センターや 老人養護施設などが整備されている。そこから選鉱場を見上げていると、背後から追悼会場のトランペットの響きがもの悲しいトロットのように、細く高く山里 に響いた。

 

◆木本トンネル横の慰霊碑 説明板

 1925年1月、三重県が発注した木本トンネルの工事がはじめられました。この工事には、遠く朝鮮から、もっとも多いときで200人の朝鮮人が働きに来ていました。

 工事が終わりに近づいた1926年1月2日、朝鮮人労働者のひとりが、ささいなけんかから日本人に日本刀で切りつけられました。

 翌1月3日、朝鮮人労働者がそれに抗議したところ、木本の住民が労働者の飯場をおそい、立ち向かった李基允(イ・ギユン)氏が殺されました。さらに木本警察署長の要請をうけて木本町長が召集した在郷軍人らの手によって、「相度(ペ・サンド)氏が路上で殺されました。

 その時から3日間、旧木本町や近隣の村々(現熊野市)の在郷軍人会、消防組、自警団、青年団を中心とする住民は、竹槍、とび口、銃剣、日本刀、猟銃などをもって、警察官といっしょになって、山やトンネルに避難した朝鮮人を追跡し、とらえました。

 木本トンネルは、地域住民の生活を便利にするためのものでした。そのトンネルを掘っていた朝鮮人労働者を、地域の住民がおそい、ふたりを虐殺したのです。さらに、三重県当局は、旧木本町に住んでいたすべての朝鮮人を町から追い出したのです。

 李基允氏と「相度氏が、朝鮮の故郷で生活できずに、日本に働きにこなければならなかったのも、異郷で殺されたのも、天皇(制)のもとにすすめられた日本の植民地支配とそこからつくりだされた朝鮮人差別が原因でした。

 朝鮮人労働者と木本住民のあいだには、親しい交流も生まれていました。「相度氏の長女、月淑さんは、当時木本小学校の四年生で、仲のよい友だちもできていいました。襲撃をうけたとき、同じ飯場の日本人労働者のなかには、朝鮮人労働者とともに立ち向かったひともいました。

 わたしたちは、ふたたび故郷にかえることのことのできなかった無念の心をわずかでもなぐさめ、二人の虐殺の歴史的原因と責任をあきらかにするための一歩として、この碑を建立しました。 

 

◆紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑

(碑文)

追悼
朝鮮の故郷から遠く引き離され
紀州鉱山で働かされ、亡くなった人たち。
父母とともに来て亡くなった幼い子たち。
わたしたちは、なぜ、みなさんがここで
命を失わなければならなかったのかを明らかにし、
その歴史的責任を追及していきます。

(追悼碑建立宣言)

 1940年から1945年までに、のべ1300人を超える朝鮮人が、紀州鉱山に強制連行され強制労働させられました。1940年以前にも、家族とともに紀州鉱山にきて働いていた朝鮮人がいました。
 これまで、わたしたちが知りえた紀州鉱山で亡くなった朝鮮人は35人ですが、そのなかには、朝鮮の故郷から連行されて、わずか1か月後に命を失った人もいました。わたしたちは、その人たち一人ひとりを思う石をここに置きました。
 紀州鉱山で、1941年5月に、朝鮮人130人は、米穀の増配を要求してストライキをおこないました。1944年秋には、紀州鉱山の坑口に、「朝鮮民族は日本民族たるをよろこばず。将来の朝鮮民族の発展を見よ」と、カンテラの火で焼きつけられてあったといいます。
  紀州鉱山を経営していた石原産業は、日本占領下の海南島で、田独鉱山を経営していました。田独鉱山で強制労働させられた朝鮮人は、「朝鮮報国隊」として朝 鮮各地の監獄から日本政府・日本軍・朝鮮総督府によって海南島に強制連行された人たちでした。海南島で亡くなった朝鮮人の数もその名も、まだわかっていま せん。
 田独鉱山に建てられている「田独万人坑死難工紀念碑」には、「朝鮮・インド、台湾、香港、および海南島各地から連行されてきた労働者がここで虐待され酷使されて死んだ」と記されています。
 1942年から石原産業は、フィリピンのカランバヤンガン鉱山、アンチケ鉱山、シパライ鉱山、ピラカピス鉱山などで、日本軍とともに資源略奪を開始し、多くのフィリピン人を強制的に働かせました。そのなかには、日本軍と戦って「捕虜」とされた人たちもいました。
 わたしたちは、この追悼碑をひとつの基点として、紀州鉱山から生きて故郷にもどることができなかったみなさん、海南島で死んだ朝鮮人、そしてアジア太平洋の各地で日本政府・日本軍・日本企業によって命を奪われた人びとを追悼し、その歴史的責任を追究していきます。
      2010年3月
          紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する会
                   在日本大韓民国民団三重県地方本部
                   在日本朝鮮人総聯合会三重県本部
                   紀州鉱山の真実を明らかにする会

 

◆当日の新聞報道

「朝鮮人労働者の冥福祈る 旧紀州鉱山 追悼集会に50人」
2017年11月25日 | 紀州鉱山
『毎日新聞』2017年11月20日朝刊 熊野版   汐崎信之 
■朝鮮人労働者の冥福祈る 旧紀州鉱山 追悼集会に50人
  第二次世界大戦までに旧入鹿村(現熊野市紀和町板屋)の旧紀州鉱山で働き、亡くなった朝鮮人労働者と家族計35人を追悼する集会が19日、同町板屋の朝鮮 人追悼碑前であった。10回目の式には約50人が参列し、一人一人の名が記された石に赤いカーネーションなどを献花し、冥福を祈った。
 2007年にできた「紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する会」主催。追悼式は08年に始まり、碑は10年に建てた。同会の調査で同鉱山で1300人以上の朝鮮人が働き、経営していた会社の労組名簿や地元の寺の記録から亡くなった35人の名が判明した。
 式では、同会代表者の金靜美(キムチョンミ)事務局長はじめ、栃木や大阪などの在日の朝鮮人と中国人、支援者らがろうそくに点火した。
 会設立時からのメンバーで伊賀市下郡の竹本昇さん(67)は、「参列者が増え、運動の広がりを感じる。侵略、植民地支配の事実確認を進めたい」と話した。
【写真】朝鮮人追悼碑に献花する参列者=熊野市紀和町板屋で   

                    
『中日新聞』2017年11月21日朝刊 くろしお版   木造康博
■戦中の歴史 記憶する  紀和 朝鮮人労働者を追悼
 熊野市紀和町の旧紀州鉱山で戦時中に労働を強いられたとされる朝鮮人労働者を追悼する集会が十九日、同町板屋の追悼碑前であった。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会(和歌山市海南市)が催し、メンバーや在日の朝鮮人ら五十人が参加。死亡者の名が記された自然石にカーネーションなどを献花したり、日本酒を注いだりして冥福を祈った。
 同会によると、鉱山で働いていた朝鮮半島出身の労働者は約千三百人で、家族を含め亡くなった三十五人の名が分かっているという。事務局の佐藤正人さん(七五)は「名前の分らない人が数多くいる。日本の侵略の歴史を明らかにしていきたい」と話した。
【写真】献花したり日本酒を注いだりする参加者=熊野市紀和町板屋で

http://blog.goo.ne.jp/kisyuhankukhainan/c/135aa86b6141f60350a228372e53edf0 

 

◆紀州鉱山の真実を明らかにする会 http://www.kisyukouzansinjitu.org/

◆三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会(ブログ)
http://blog.goo.ne.jp/kisyuhankukhainan 

◆熊野の旅 熊野の負の遺産 木本事件 http://je2luz.exblog.jp/21263588/

◆紀和鉱山資料館 http://kiwa.is-mine.net/

◆奥貫妃文「近現代日本の鉱山労働と労働法制 〜三重・紀州鉱山の足跡〜」(PDF)
https://ci.nii.ac.jp/els/contents110009886797.pdf?id=ART0010412412

◆入鹿捕虜収容所と“史跡外人墓地” (三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会)
1 http://blog.goo.ne.jp/kisyuhankukhainan/e/309d649454c1c172b66c49e6986bf480

◆石原産業 > 企業情報 > 沿革 http://www.iskweb.co.jp/company/history.html

◆紀州鉱山への朝鮮人強制連行 http://www.pacohama.sakura.ne.jp/kyosei/2kisyu.html

◆「朝鮮人労働者の冥福祈る 旧紀州鉱山 追悼集会に50人」(当日の報道)
http://blog.goo.ne.jp/kisyuhankukhainan/e/954d1622f36e37ff9774a5dd3e4f484e

2017.11.19

 

 

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 辻原登「許されざる者」(集英社文庫)を読了した。文庫で上下巻、延べ千頁超。換骨奪胎とは「俗人の骨・胎(からだ)を取り換えて仙人になる」意だそう だが、「許されざる者」はいわば大逆事件の骨・胎を素材に利用した体のいいエンターテイメント小説に過ぎないのではないか。たしかに明治の新宮という黒潮 に面した町の別のファンタジーを一瞬愉しませてくれはしたけれど、じつのところ骨・胎もすかすかだ。もっともこれを読んだ若い人が大逆事件や新宮に興味を 持ってくれたら、それはそれでいいのかも知れないが。

 娘は通信制学校も声優の学校も、もう一月半も行けていない。つれあいに言わせればストレスによる神経性腸症候群だそうで、それにもともとの排便コント ロールの困難さが加わって、毎日便秘や下痢に苦しみ、頭痛や吐き気と闘い、昨夜は明け方の3時頃にじぶんはもう元気な体になれないのだろうかと暗闇の中で ぼろぼろと涙を流していたそうだ。明日はわたしの妹夫婦がUSJに行こうと前々から誘ってくれていたのだが、これも行けそうにない。今日は夕飯の席でつれ あいと出したクリスマス・ツリーの装飾を満足げに眺めていたけれど、急にお腹が痛くなったと二階の部屋に行ってつれあいが摘便をし、そのあとは気分が悪い と風呂も入らずに眠ってしまった。

2017.12.4

 

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 大阪駅前第三ビル地下の古書店で百円で買った田中宏「在日外国人 法の壁、心の溝」(岩波新書)を読んでいる。

 戦前に「同じ「帝国臣民」であり、「内地」に在住していた男子の朝鮮人、台湾人」が選挙権も被選挙権も有し、衆議院議員に11名が立候補し2名が当選し ていたという事実は知らなかったし驚きだ。戦後、1945年の婦人参政権付与などを盛り込んだ衆議院議員選挙法の改正において政府は「戸籍法の適用を受け ざる者の選挙権及び被選挙権は、当分の内これを停止す」とし、日本に戸籍のない在日の朝鮮人や台湾人が排除された。「戸籍」がここでは排除のキーワードで ある。戦前、朝鮮人や台湾人の戸籍はそれぞれの故国にあり、「内地」に転籍することは禁じられていた。

 いみじくも日本を占領したアメリカは「日本統治体制の改革」なる文書の中で次のように指摘している。「日本の憲法(旧)は、基本的人権の保障について、 他の憲法に及ばない。それは、これらの権利をすべての人に対して認める代わりに、それらは日本臣民に対してのみ適用すると規定し、日本にいる他の人はその 保護を受けられないようにしている」 この国の人権とは、いまも昔も、「日本臣民」のみにしか認められていない。

 また「在日朝鮮人数と在朝鮮日本人数の推移」と題した表も併せて興味深い。日清戦争がはじまった頃には12人の記録しかない在日朝鮮人が、1910年 (明治43年)の韓国併合を境に一気に増え始め、関東大震災の2年前の1925年(昭和14年)の記録では10万人を突破している。つまり関東大震災の数 年前から、おそらく日本へ連れてこられた朝鮮人労働者の姿が日本の国内において急激に増えていったということだ。これらは震災発生時における朝鮮人に対す る言われなき恐怖と重なってはいまいか。そして日中戦争が本格化する1935年(昭和10年)には、在日朝鮮人数が在朝鮮日本人数を超えて逆転する。

 知らなかったことが、あまりにも多い。

◆田中宏「在日外国人 法の壁、心の溝」(岩波新書)
https://www.iwanami.co.jp/book/b226216.html 

2017.12.6

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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