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 むかし、愛誦した吉本隆明の詩。 相変わらずわたしは、ライバルのように、世界をにくしむ、という。

 

吉本隆明詩集 「少女」

えんじゆの並木路で 背をおさえつける 秋の陽のなかで 少女はいつわたしとゆき遭うか わたしには彼女たちがみえるのに 彼女たちには きつとわたしがみえない すべての明るいものは盲目とおなじに 世界をみることができない なにか昏いものが傍をとおり過ぎるとき 彼女たちは過去の憎悪の記憶かとおもい 裏切られた生活かとおもう けれど それは わたしだ 生れおちた優しさでなら出遭えるかもしれぬと いくらかはためらい もつとはげしくうち消して とおり過ぎるわたしだ . 小さな秤でははかれない 彼女たちのこころと すべてたたかいを 過ぎゆくものの肉体と 抱く手を 零細を たべて苛酷にならない夢を 彼女たちは世界がみんな希望だとおもつているものを 絶望だということができない . わたしと彼女たちは ひき剥される なぜなら世界は 少量の幸せを彼女たちにあたえ まるで 求愛の贈物のように それがすべてだそれが みんなだとうそぶくから そして わたしはライバルのように 世界を憎しむというから

 2016.6.29

 

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 「われわれの社会は野宿生活より本当にマシなのか」  「学校」にもおなじことが言えるのかも知れないな。

 

「 本文で、野宿者への対策として第一に公的就労などの「雇用」を挙げたが、精神疾患の人がおそらく半数近くにまで増えたいま、その意義は限定的になった。被虐待の人たちと同様、「就労」以前に解決すべき問題が山積みだからだ。  たとえば、統合失調による妄想については服薬すれば症状が落ち着くケースも多く、医療につながることは重要だと感じる。その一方、公園のテント村などでは、明らかに知的障害や精神疾患を持つ人々が、周囲の野宿の人たちと比較的安定した関係を持ちながら野宿生活を続けているのをよく見る。釜ケ崎でも同様だが、「地理が覚えられない」「字をほとんど読めない」「会話が成り立ちにくい」などの障害があっても周囲がさほど気にせず、助けられるところは助け合いながら生活する、というパターンだ。普通の社会では眉をひそめられ敬遠されてしまう人でも、釜ケ崎やテント村では「こんなヤツもいるやろ」という寛容度が抜群に高く、ある程度ふつうに生活ができている。そういう意味では、行動に制限がかかる施設や病院で暮らすより、こうした野宿生活の方が充実した生活ではないかと感じることは多い。 「障害や疾患があるなら病院や施設に入れるべきだ」という考え方もあるが、それは本人の意思を無視して生き方を無理強いする「パターナリズム」や、犯罪予防を口実にした「保安処分」になってしまう危険もある。2015年には、高齢者や障害者施設での職員による当事者への多くの暴行事件が社会問題となった。女性野宿者について「野宿生活ですら彼女たちにとっては「元の生活」より時として「マシ」なのだ。そこでは、野宿者の「社会復帰」という言葉は完全に意味を失ってしまう」と書いたが、精神疾患についても同様に、「われわれの社会は野宿生活より本当にマシなのか」があらためて問い直されなければならないのかもしれない。」 .

生田 武志「釜ヶ崎から: 貧困と野宿の日本 」(ちくま文庫) http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480433145/ 

 2016.6.29

 

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 甲斐淳二さんのTLから

 関東でないのが残念だが、ぜひ見てみたい! 「【大逆事件で犠牲になった僧侶、高木顕明の娘・加代子】 芸者の置屋に売られ、やがて父と同じ道を・・・・ 「太平洋食堂」から一年。嶽本あゆみさんの新作戯曲。」 五月の田園と「彼の僧の娘」 http://ameblo.jp/mementoc/entry-12157184593.html  「太平洋食堂」(作・嶽本あゆ美/演出・藤井ごう) https://www.youtube.com/watch?v=lUq9Ddz8ZsI  漫画で描く 大逆事件、獄中自死 浄泉寺の僧侶・山口さん 新宮 /和歌山 http://mainichi.jp/articles/20150728/ddl/k30/040/580000c

 

 『ガザの空の下』の著者・藤原亮司さんのTLから。

  「だから」いまの市民感覚が狂うのだよ。狂った人が狂っている市民感覚をセツメイしても仕方あるまい。 「命の危険にさらされる現場(戦場)での取材」に赴く者が抱えざるを得ない複雑な心理やら決意やらを、あんたの単純な想像力でおぎなうのは不可能だってことだ。 世界はハリウッド映画とは違うよ。

「情けないほどにくだらん質問設定だ。こんな質問を出せば「行くべきでない」と私でも答える。 それをそのまんま転載し、「世論だ」というかのようなこの記事もなんなんだ。 http://bylines.news.yahoo.co.jp/shinodah…/20160614-00058825/  >実はこのテーマについては6月11日に産経デジタルのサイトiRONNAに幾つかの発言や論考を公開したのだが、最後に産経デジタルの編集部が設定したアンケート「命を落とす危険があってもジャーナリストは戦地に行くべきだと思いますか?」に対して、現状で「行くべき」が97票、「行くべきではない」が911票。圧倒的に戦場取材についての理解が得られていないという結果が出ている。もちろんこういうアンケートはどういう情報を提示してどういう設問にするかによって結果がある程度左右されるのだが、この結果が今の日本における市民感覚と言えるかもしれない。」

 2016.7.1

 

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  6月初旬に催された演劇部の校内公演は、つれあいに言わせると「紫乃の部活に対する思いのこもった」内容だった。子が脚本を書き、顧問の先生や部長らと相談をしながらキャストを決め、そして演技指導をした。みずからは音響などの裏方に徹した。

  「6月公演が終わったらクラスへ戻る」と宣言していた子は宣言どおり、担任の先生やおなじクラスの演劇部員の友だちの応援もあって1日半、じつに2年半ぶりくらいに教室に入って他のクラスメイトと共に授業を受けた。が、それからまた行けなくなった。授業どころか、保健室への登校でさえ儘ならなくなった。じきに出席日数や単位が足りなくなる。

  わたしの妹とUSJへ行く、という話が出たのは月末が近づいた頃だ。子は母親に「一日思いっきり愉しんで、嫌なことをぜんぶ忘れて、そして学校へ戻る」と言った。けれどもUSJ行きの数日前、天気のためになかなか日にちの定まらないことにしょげたり、或いはUSJで乗るアトラクションの話ばかり熱中する子に対してわたしはどうしても我慢できなくなり、夕食の席で「もうじき6月も終わってしまうぞ」とぽつりと呟いた。それからはもう、口を開いたらいろんな言葉がとめどなく溢れてきそうになるのを必死にこらえた。夕食の席は長い沈黙の場となり、多くの食事を残した子は二階へだまってあがっていった。部屋から小動物の咆哮のような声がしばらくつづいた。

  子が学校へ戻れないことはいい。大学へ進学できなくてもいい。そんなことはもはやどうでもいい。「お父さんが生きて働ける限り、お前を養ってやるから、それまでは好きなように暮らせ」と宣言してから、ほんとうにわたしはそうした「定型」は一切捨ててしまった。けれど演劇部がこれほど大好きで、演劇部の先輩や後輩たちが大好きな子が、出席日数や単位のために学校を退学せざるを得なくなってその演劇部を永遠に失ってしまう、そのときの彼女の痛いほどの悲しみを思ったら、わたしは黙っていられない。おまえ、ほんとうにそれでいいのか。USJなんて言っている場合じゃないだろ。

  わたしはつれあいに言ったものだ。「カウンセラーと称す者たちや学校の教師たちが、いままでなんと言ってきたか。“家庭は子どもさんが安心できる場であることが大事です。学校へ戻ることは先生たちが上手に引っぱってくれるから、ご両親は心配しなくていい。待っていれば、きっと動き出す” 3年待ったが、何も変わらない。だいたい何ヶ月かにいっぺん、小一時間話をきくくらいで何が分かるというのか。あいつらは結果がどうなろうと、別段じぶんたちの腹が痛むわけでもない。子が演劇部を失ったって、じぶんの生活が脅かされるわけでもない。何でも好き勝手が言えるさ。おれは信用していない。いままでだって信用してこなかった。学校側もおなじだ。おれが懸命に話せば話すだけ、あいつらはひとを手負いの熊のように扱い始める。麻酔銃を手に近づきすぎないように遠目で眺めている。おれはもう話をしないことにした。あいつらと会話は成立しない」

  わたしはさながら荒野の掘っ立て小屋に立てこもり、じぶんを人質にして世間に身代金を要求しているあわれな狂人だった。

  翌日の夕方、子が携帯のラインで「お父さん、USJに行く日がきまったよ」と打ってきた。「愉しんでこいよ」とひとことだけ返すと、「うん。学校も頑張る」と返ってきた。「おー、がんばれよ」  ところが木曜のそのUSJ行きは、散々な日であった。朝、西九条の駅で、混雑した車内で立ちっぱなしだった子が貧血を起こして駅の救護室でしばらく世話になった。USJへ行ったら、ハリー・ポッターの件の最悪アトラクションとジェットコースターへ立て続けに乗った妹が体調を崩して、こちらもUSJの救護室で世話になった。結局、何とか歩ける程度に回復した妹を待って、早々と退散してきたのだった。ひどく残念ではあったろうが、駅の救護室で駅員さんたちがみんな仲良さそうだったとか、USJの救護室もカーテンで仕切られた小部屋に他にも何人か横になっている人がいたとか、まるで救護室巡りに行ったようなものだ、滅多に見れないところが見れて面白かった、とじぶんなりに割り切っているようだった。

  あとでつれあいがこんなメールを送ってきた。「紫乃が昨夜、郁ちゃんを心配していたと私が郁ちゃんにメールしたら、郁ちゃんから以下の返事が返ってきました。“そうなんですよ。紫乃はユニバでもずっと私を介抱してくれていました。小さな手で(もう私の手より大きいですが)私の身体をさすって大丈夫?大丈夫?と。楽しむために行ったのに可哀想なことをしてしまいました。この埋め合わせは必ずしますね”  以上。紫乃はいつもお世話してもらうばかりだけど、こうしてお世話することもできるようになってるんだよね。あんなに行きたかったUSJも自分から帰ろうと言えたし、成長してるよね。嬉しいね。」

  翌金曜は立ち眩みがすると言うので学校は休んだ(前日から生理も始まっていた)。夜、『ガザの空の下』の著者である藤原亮司さんが撮影した動画や写真をつれあいと子と、家族三人で見た。(本の巻末に対象のWebSiteのURLがあって、指定されたパスワードを入れると見れる)http://dze.ro/vob  とくに2009年の冬、目の前で自宅に入ってきたイスラエル兵に父と弟を殺された15歳の少年ファウジー・サムーニの映像を子に見せたかった。瓦礫となった自宅の前で必死に涙をこらえるサムーニ。崩れた壁に貼られた殉教者のポスターの死んだ父と弟の写真を指差すサムーニ、父と海釣りに行った思い出を語るサムーニ。“どうか撃たないでくれ”と懇願する弟が射殺された場面を語るサムーニ。瓦礫の下からかろうじて使える釣竿を拾い出して笑顔を見せ、修理したその竿を荒れたガザの海に振るサムーニの映像でそれは終わる。それからグーグル・マップでガザを出して、ひとしきりイスラエル建国からの中東の歴史とパレスチナの話をした。

  土曜日は登校日だった。体調ももどり、ひさしぶりに朝から学校へ行って保健室で昼まで過ごした。部活の後輩とおなじクラスの中学生と仲良くなって、ペットショップどの動物虐待が如何にひどいかという話を二人でずっとしていたそうだ。昼につれあいと車で迎えに行ってそこから桜井市民会館まで、車中でおにぎりを食べながら走って、ぎりぎり開演に間に合った。寮さんの「詩が開いた心の扉〜『空が青いから白をえらんだのです 奈良少年刑務所詩集』〜」と題した講演。じっさいに奈良少年刑務所の「社会性涵養プログラム」の講師を務めている寮さんが語る「受刑者」たる少年たちの風景は、そのままこの国の社会の縮図のように思われる。幼い頃に親の愛情を受ける機会を奪われ、或いはひどい虐待を受けてきた不器用で愚直な「犯罪者」たち。「少し盗めば悪党で、多くを盗めば王様」のような世界。要するに立ち回りが下手な者たちの吹き溜まりのような場所だ。ここでもわたしが先日引用した「われわれの社会は野宿生活より本当にマシなのか」という西成の風景を長年見続けた者(生田 武志「釜ヶ崎から: 貧困と野宿の日本 」ちくま文庫) の鋭い問いとおなじ角度でこの国に突き刺さる風景がある。そして同時に、オウム事件のときに作家の宮内勝典氏が言った「この国には“受け皿がない”」という言葉を思い出す。

  そんなかれらが詩の言葉を朗読する、或いはみずから紡ぐという行為によって硬く閉ざしていたこころを少しづつひらいていく様はやはり感動的だ。すでに図書館のお勧めコーナーにもときどき設置して内容も知っているつれあいさえも、寮さんがそのあたりの話をし出した頃からもう泣き続けだった(子がずっとにやにやしながら背中をさすっていた)。斯くいうわたしも、あぶなかった。「こんな可能性があったのに、いままで世間は、彼らをどう扱ってきたのだろう。このような教育を、もっとずっと前に受けることができていたら、彼らだって、ここに来ないですんだのかもしれない。被害者を出さずにすんだのかもしれない。「弱者」を加害者にも被害者にもする社会というものの歪みを、無念に思わずにはいられない」という詩集の中の一節が見事に射抜いている。 「 くも 空が青いから白をえらんだのです Aくんは、普段はあまりものを言わない子でした。そんなAくんが、この詩を朗読したとたん、堰を切ったように語りだしたのです。 「今年でおかあさんの七回忌です。お母さんは病院で 『つらいことがあったら、空を見て。そこにわたしがいるから』 とぼくにいってくれました。それが、最期の言葉でした。 おとうさんは、体の弱いおかあさんをいつも殴っていた。 ぼく、小さかったから、何もできなくて……」 Aくんがそう言うと、教室の仲間たちが手を挙げ、次々に語りだしました。 「この詩を書いたことが、Aくんの親孝行やと思いました」 「Aくんのおかあさんは、まっ白でふわふわなんやと思いました。 「ぼくは、おかあさんを知りません。でも、この詩を読んで、空を見たら、ぼくもおかあさんに会えるような気がしました」 と言った子は、そのままおいおい泣きだしました。」 https://www.amazon.co.jp/%E7%A9%BA%E3%81%8C%E9%9D%92%E3%81%84%E3%81%8B%E3%82%89%E7%99%BD%E3%82%92%E3%81%88%E3%82%89%E3%82%93%E3%81%A0%E3%81%AE%E3%81%A7%E3%81%99-%E2%80%95%E5%A5%88%E8%89%AF%E5%B0%91%E5%B9%B4%E5%88%91%E5%8B%99%E6%89%80%E8%A9%A9%E9%9B%86%E2%80%95-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%AF%AE-%E7%BE%8E%E5%8D%83%E5%AD%90/dp/4101352410   市民会館近くの、偶然だが先日の蕎麦行きで見つけた百円パン屋「モンフルール」で買ったパンをお八つに車内で食べながら、どうだったかと子に訊けば、「刑務所があんなにきれいな建物だとは思わなかった。見に行きたいね〜」と、「(「社会性涵養プログラム」の授業が)いろんなことをやっているんだな、と思った。良かったのは授業のクラスを10人に限定したことだね」というご感想であった。

  パレスチナも刑務所も学校も、世界のものはすべてつながっている。ただこの「つながっている」ということだけを、考えたらわたしはずっと、いろいろなものを通して子につたえてきたのかも知れない。あとは子が、じぶんで考えたらいい。

 

 

 昨夜は(録画が)溜まりに溜まっている「真田丸」を、「そろそろ見ないとやべ〜んじゃないの」と夕食後に5〜6回分を深夜2時近くまで家族三人で見た(で、やっと第一次上田合戦が終了。わたしの大好きな“梅ちゃん”が死んでしまった)。 そんなわけで今日はつれあいは朝から仕事で、娘は朝寝坊して10時頃に起きてきて昨日、桜井のモンフルールで買ったパンを食べて「わたし、もうお昼ご飯いらないわ」。 つれあいはカレーを用意していってくれたのだがあまり食べる気がせず、残りご飯の上に庭のバジルをたっぷり刻んでのっけて鰹節と醤油、その上に納豆をのせて「バジル納豆ご飯」とした。和風の中にさっぱりイタリアの風が吹いて、旨い。

 2016.7.3

 

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  子は定期試験の初日。朝から鼻血が出て、「吐き気がする」と言いながらも登校して、物理と日本史、英語の全テストを保健室で受けて帰って来た。

 読む本が山積みなのにまた買ってしまう。角岡伸彦「ふしぎな部落問題」(ちくま新書)は駅前の本屋で仕事帰りに。 https://www.amazon.co.jp/%E3%81%B5%E3%81%97%E3%81%8E%E3%81%AA%E9%83%A8%E8%90%BD%E5%95%8F%E9%A1%8C-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E8%A7%92%E5%B2%A1-%E4%BC%B8%E5%BD%A6/dp/4480068961

 大東仁「大逆の僧 高木顕明の真実―真宗僧侶と大逆事件」(風媒社)はamazonから、今日届いた。 https://www.amazon.co.jp/%E5%A4%A7%E9%80%86%E3%81%AE%E5%83%A7-%E9%AB%98%E6%9C%A8%E9%A1%95%E6%98%8E%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F%E2%80%95%E7%9C%9F%E5%AE%97%E5%83%A7%E4%BE%B6%E3%81%A8%E5%A4%A7%E9%80%86%E4%BA%8B%E4%BB%B6-%E5%A4%A7%E6%9D%B1-%E4%BB%81/dp/4833105527 

 2016.7.4

 

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 こういう「ほんもののにんげん」をかいくぐってきた真っ当な意見が、自己責任だとか無責任だとか蛮勇だとかいった薄っぺらな言説にもならないコトバにいとも易々と圧殺されてしまうのが、この国の真に危機的な状況。 この世界に生きているかぎり、わたしは「朝、目が覚めて自分が生きていると分かったらその日何をしようか考える」といったガザの少女の言葉を忘れまい。

 

  日本では2015年1月、「イスラム国」による日本人ジャーナリスト殺害をきっかけに、日本人が紛争地帯で取材を行うことへの賛否が問われた。メディアによる自粛ムードや、シリアへの渡航を表明したフリーカメラマンヘの批判が起きる中で、すべての紛争地取材を行うジャーナリストは、「なぜ紛争地に向かうのか」という問いを、改めて突き付けられた。

  残念ながら、日本におけるジャーナリズムやジャーナリストに対しての理解、その価値の認識は絶望的なほどに低い。

  世界的な規模の戟争と、そのもとで翻弄される人々の姿を、日本人ジャーナリストが日本人の視点で見極め、情報を発信することの価値さえ理解されにくい状況が続いている。「なぜわざわざ危険な場所に取材に行くのか」、「何かあったらどうする。政府に迷惑をかけるな」――――。自民党の高村正彦副総裁は、フリージャーナリストの行動について「蛮勇」と評した。

  私自身は山本美香やオリビエの死、前田記者の事故により、ジャーナリストが「危険な場所」を取材する意味をずっと問い続けてをた。危険を冒してまで紛争や抑圧下にある場所に出向き、他人の「生き死に」に部外者である自分が首を突っ込む意味があるのか。その答えを考えるとき、私の頭の中にはいつもサミ−ルが言った言葉が浮かんだ。「ガザが世界から忘れられても、お前はガザを気にかけてくれるか?」  安全が確保された難民キャンプだけを取材していては見えないものがある。戦闘は人が住まない荒野で行われているのではない。戦闘や抑圧が繰り返される街で、様々な理由でそこから離れることができず、それでも暮らしを守ろうと人が、他者に自らの「生き死に」を握られた日常で生き続けている。

  どれだけ日々がつらくても、人は腹が減ってメシを食い、家族や友人と冗談を言い合って笑う。女の子にモテたいと見栄を張り、エロ話をし、新しいスマホを欲しがる。人を妬んだり、羨ましがったりもする。日本にいる私たちと何ら変わらない暮らしがそこにはある。ただひとつ違うのは、紛争や抑圧によってそんな暮らしがいとも簡単に破られることだ。紛争下で生きる人々の姿ははんの70年前の日本人の姿であり、また近い将来私たちが再びその当事者になり得ないとも限らない。決して遠い世界で起きている他人事、ではない。

  今、「なぜ紛争地に行くのか」と問われたら「そこにも人が暮らしているから」と答えるしかない。誰一人ジャーナリストが行かなくなれば、誰にも知られずに消えていく命、誰にも知られずに壊される暮らしがある。「イルポン」の私は、部外者として彼らと向き合うためにそこに行く。  死ぬことよりも過酷な日常を生きる人たちがいる。ようやく一日をやり過ごして眠りについても、目が覚めたらまた一日が始まる。

 「ガザの空の下 それでも明日は来るし人は生きる」(藤原亮司・dZERO)

 

 子は定期テスト二日目。

 ◆ 9:09 ギリギリ、テスト時間に間に合ったよ。 胃が痛くて吐きそうって言ってた。 鼻血に本人もうんざり、それでも行くからかなり神経すり減らしてそう。 滅茶苦茶頑張ってると思うよ。

◆ 11:37 今、迎えに行くところです。 3科目、受けることができてたらいいね。

 ◆ 15:29 3科目、受けてきたよ。吐き気が酷く、1時間目、2時間目は出来るところだけやったら、ベッドで寝てたそうです。3時間目は国語でなんとかできたみたい。 今はリビングのソファーでJIPとレギュとでお昼寝中。

2016.7.5

 

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 仕事の所用で昼から京都・四条河原町へ出掛けた。祇園の鳥新でちょっと贅沢な親子丼を食べてから、出雲の阿国の像を子のラインに送ってやろうと四条大橋のたもとへ来てみれば、暑さで肥大した臓腑にすっと沁み入るような不思議な声が流れてくる。あの世の見知らぬ母のもとで聴いた子守唄であったか、森の奥の御嶽(ウタキ)でいまも響いている巫女の調べであったか。四条河原の橋のたもとで、一風変わった弦楽器を弾く男性のかたわらで歌う浴衣姿の女性を見たとき、わたしは出雲の阿国が現れたのかと一瞬、錯覚した。現世が、うらうらと立ち昇る陽炎にゆらいで、行き交う人々の姿がなにやらみな透けて見える。歌は、河原かららあらあと立ち上がって、青い空をゆっくりと大きな弧を描いて転回してまた戻ってくる。そして無数の水滴のようにきらめいては爆ぜるのだ。わたしはいにしえの遺失物係の前でとおい目をして立ち続けている。鴨川をわたるわずかな風がまなじりに心地よい。

  しばらく聴いてから千円札を一枚、財布から取り出して歌姫の足元の籠に入れてCDを一枚頂いてきた。家に帰ってそんな話をしてから、娘と二人でCDを聴いた。

十一 @juuichi.11.eleven  メンバー: 辻 賢(チャプマンスティック) 鳥井 麗香(ヴォーカル) 佐野 拓生(ギターシンセ) 加藤 ダイキ(ドラム) 大谷 ヤスシ(キーボード) https://www.facebook.com/juuichi.11.eleven/

百年の祈り Single, Maxi https://www.amazon.co.jp/%E7%99%BE%E5%B9%B4%E3%81%AE%E7%A5%88%E3%82%8A-%E5%8D%81%E4%B8%80/dp/B01G50MDVM/ref=pd_rhf_gw_p_img_1?ie=UTF8&psc=1&refRID=BXGX9QSZCX59AQXRY528

https://www.youtube.com/watch?v=SrS_5ygurdE

2016.7.6

 

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 ラインにおくったよ。お父さんと二人で見にいかないか、こんどの日曜だよ。オッケー、じゃ、行こう。

 ジップはおすわりをして西瓜を待っている。きみは幼稚園のときの思い出話を愉しそうにおかあさんにしている。あのときも小学校のときも帰ろうっていってもなかなか帰らなかったくらい学校が大好きだったのにねとおかあさんはすこし泣き笑いのような顔をしている。庭のやみがぬったりと濃い。そのやみのなかを増殖するシナプスのようなゴーヤのツルが白くのびているまるで未知のなにかと交信をこころみているかのように。

 ラインにおくったよ。ひどい世の中だ。もし明日この世界がなくなるとしたらきみはどうする?

 

ミヒャエル・エンデの「アインシュタインロマン」第6巻の 26頁にこうあります。

<ある日、聖フランシスコが庭でニンジンを植えていると、そこへ通りかかった旅人が尋ねました。「フランシスコさま、もし明日世界がなくなるとわかっていたら、おまえさまはどうするかね?」

 「私はこのまま植え続けるでしょう」 そうフランシスコは答えました。 >

<一人ひとりが自分だけの物語を作る力は、人間に与えられた最も貴重な能力ではないでしょうか。この能力が失われたとき虚無が広がり、ファンタージエンは失われるのです。(182頁)>

 2016.7.11

 

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 車のエンジンを切ると、あたりは真の闇になった。光のない闇ではない。小川のながれは足元でほのかに輝いているし、石垣の羊歯も鈍い太古の光をたたえている。そして森の木々の一本一本の表皮がぼんやりと浮かび上がっている。いい匂いがするね。わたし、こんなところだったらいくら歩いても疲れないわ、と最近買ったモンベルの登山用スティックをついた娘が言う。前をいく鹿の親子が歩みをとめて、こちらをうかがっている。

 今日は定期試験のあとの家庭学習の日で、午前中に部活があるだけだった。けれども朝になって、今日は行けそうにない、と沈痛な表情で伝えてきた。そうか。お父さんはおまえのために休みをとったんだけどな。つい、口に出た。娘は二階へあがって、しばらく泣いていた。定期試験は4日間とも、頭痛と吐き気と鼻血とめまいとたたかいながら、見ているこちらが辛くなるくらいだったが保健室で受けきった。何もかけない解答用紙を前にひたすら坐り続けるのはさぞしんどかったろう。もうあとがないというのは、本人がいちばん分かっている。けれどそのあとは、やはり行けない日が続いた。

 昼になって娘の部屋へ行った。「おい、ラーメン食べに行くぞ」 つれあいは夕方まで仕事。「はじめてのところへ行こう」 車で法隆寺インター近くの「塩元帥」へ二人で行った。カーステはビートルズのベスト盤だ。「これを歌っているのはだれ?」 「分からない。ジョンかな?」 「ポールだよ」 「歌だけじゃなくて、ひとつひとつの楽器もよく聴くんだ。たとえばこのペーパー・バック・ライターのポールのベースは絶品だよ」 車の中ではそんな話しかしない。ラーメンはまあまあだったかな。娘は、店員さんたちがみな仲が良さそうでそれがよかった、と言った。家に帰ってから娘は猫のレギュラスを部屋に入れて、じぶんはパソコンを打ち出した。わたしは猫といっしょに娘のベッドに横になって、大逆事件の高木顕明の伝記を読んだ。しばらく読んで、そのまま眠ってしまった。

 娘が、学校はもう諦めた方がいいかも知れない、とじぶんから言い出したのは夕食の席だ。でも声優の学校とかも行きたいから、通信教育で高校卒業の資格は取りたい。まだ答えは、もうすこし考えてみたいけど。わたしもつれあいも、賛成だと伝えた。お父さんはな、毎日毎日おまえが苦しむのをもうこれ以上見たくない。おまえがたのしく行けるところを見つけた方がいいと思う。ちょうどつい数日前も、つれあいに「紫乃がたのしく通えるような学校が、どこかにあったらいいのにな」とつぶやいたばかりだった。つれあいはそれを聞いて泣いた。

 「セブンイレブンに焼酎の氷を買いにいきたいんだけど」 「なにかお菓子を買ってくれるんなら、わたしもいっしょにいってあげるよ」 そうして二人で車に乗り込んだ。「夜の空気はいいなあ。わたしはやっぱり夜が好き」 「このままちょっと、ドライブしようか」 「木がたくさんあるところがいい」 そうして奈良公園の奥、若草山の原生林の道へきたのだった。娘はまるで山の精霊のように闇をたのしんだ。木の間をぬけ、羊歯に触れ、暗がりの奥にぼうっと光っている朱塗りの社を息をつめて凝視した。

 2016.7.13

 

*

 

 今回の天皇の「生前退位」報道に関しては、この小田さんの意見と併せて、羽月 雅人さんという方の次のようなコメントも、わたしには頗るおもしろかった。

「通常差別というのは「下に向かって」なされるものだが、
たとえ人間宣言しようが
「人にあらず」として「上に向かって」差別され続けてきたのが
天皇を含む皇族。
表現の自由、婚姻の自由さえ剥奪されてきたからねえ。
この報道の真偽は今のところ確認しようがないが、
事実なら「被差別民」天皇自身による革命と見做す。
僕はこの日本にやっと近代が訪れると大歓迎だけど。」

 

 被差別部落が下への差別であるように、天皇制は上への差別であるとわたしはずっと言い続けてきたが、“「被差別民」天皇”という表現はなるほど、してやられた、という感じであった。

 

 現在の天皇にわたしは直接会ったことがないので、かれが良い人なのか悪い人なのかは知らないし、まあそんなことはどうでもよい。

 そんなことよりも「王の交代」(天皇の死)と「それが共同体に与える衝撃」(元号の更新)を切り離すことによって、天皇制の呪術をゆるやかに無化していくというのは、それもアリだなあ、と思ったのだった。

 

「昨夜の投稿は舌足らずだったので補足する。
私が天皇制(近代天皇制)に根本的な疑問を抱いたのは元号がきっかけである。一人の人間の死が暦の基準の変更になる、というのは根本的に間違っている、と高校生だった私は考えた。このような暦を使っている限りまともな歴史意識は育たない、という考えは現在も変わらない。
天皇制の廃棄を一気に実現するのは難しかろう、ならば先ずは「死ぬまで天皇」をやめよう、元号などは止めてしまうのが一番だが、とりあえず天皇の死と元号の変更を切り離すことで、「元号の空洞化」を図ろう、というのが私の考えだった。
私は天皇制を廃棄する第一段階として「生前退位」を考えてきたが、当の天皇が「生前譲位」を言い出すとは思わなかった。「譲位」という言葉遣いが明仁から出たものなのかどうかはわからないが、「譲位」という以上天皇制の存続が前提であろうし、究極的な意図としては近代天皇制の「神がかり」的な側面を廃棄して、ありがちな「王制」に落ち着かせ、より確実に延命させる、ということだろう。
ドイツ語教師として「ドイツの正式名称はドイツ連邦共和国です、日本は日本国です、それでは日本は何制でしょう」というクイズをよくやる。「民主制」という言葉が学生さんたちからすぐに出てくることはめったにない。たまに「民主主義です」という学生さんがいたりするが、そう答えると「それじゃあ、天皇は何ですか?」という意地悪な教師の質問が待っている(笑)本来両立しえないはずの民主主義と天皇の存在をどう両立させるか、というのは天皇家にとってこそ根本的な難題だ。明仁がそこを真剣に考えてきたことは疑いようもない。明仁さんが「良い人」なのかどうか、そんなこととは関係ない話なのである。」

 2016.7.15

 

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  ちいさなパン屋ほどの空間のすみにオーク色のグランド・ピアノとドラムス・セット。4人掛けのカウンターと、ほかの空いたスペースに点在する十数人分のささやかなテーブル席。暑い晴天の下の四条河原の橋のたもとで見たまぼろしを、今夜はこんな現世的な空間で、辛口のジンジャー・エールをときおり喉に流しながら眺めている。しかも娘と二人だ。あの日、父が持ち帰ったCDを彼女も気に入って、いっしょに聴きに行きたい、と言ったのだった。四条河原では無辺の空間にひろがり爆ぜ溶けていった音が、ここではまるで羊水の中で胎児が聴く母の鼓動のようにつましい空間を循環する。かれらの音楽は何に似ているか。何にも似ていないが、いつかとおいむかしにどこかで聴いた。じぶんが深い山中の鉱物であったとき。やわらかな羊歯の葉に囲まれて風にふかれていたとき。あるいはじぶんがきらきらと光る砂を洗う水であったとき。自在な影をすべらせていく魚たちの背(せな)ごしに聴いたような気がする。何に似ているかと問われれば、そんな記憶がよみがえる心地がする。一時間はあっという間に過ぎてしまった。いちばん前のテーブル席に常連らしい盲(めしい)の若い男性がいた。かれは演奏の間ずっと、見えない目をひらいてゆっくりと頭を左右に振っていた。わたしたちには見えない音の粒子をつかまえていたのだろう。ある意味わたしもおなじように、夢見心地で魂をふりながら音の向こうの何かに乗ろうとしていたのだった。

十一 juuichi  https://www.facebook.com/juuichi.11.eleven/

jazz live さうりる https://www.facebook.com/sumomo.nekoyanagi?pnref=lhc.friends&qsefr=1

 2016.7.17

 

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 今日は午前中、娘の学校の役員会だったが、春に役員を受けたつれあいは文化祭で大役を任せられるとあとで迷惑をかけるかも知れないから、と欠席をした。午後は三者面談だったが、こちらはつれあいだけが学校へ行った。以下、つれあいのメール。

三者面談は私がひとりで行ってきました。
紫乃が在学の意志が薄れてきていると話してきました。U先生と話したあと、学年主任の先生、校長先生とで話しました。部活にも行く気が薄れ、○○に入った意味がなくなりつつあることを話したところ、M先生とも話してほしいとのことで、部活に行かれてたM先生を呼び寄せられ、今度はU先生、学年主任、M先生と別室で話しかけてたところ、教頭先生が校長先生から聞いてビックリしたと乱入。
教頭先生は、100年祭、6月公演と頑張り、クラスも入り、テストも受け、できることが増えてきてたのに、なんとかできないかと。
M先生が紫乃と話すということになりました。話し合いの場所は家がいいか学校がいいか、紫乃に聞くとのことで、夕方、M先生から電話がかかることになっています。
紫乃は気が重い感じです。
が、ほぼほぼ元気にしています。
朝食、昼食の片付けもしてくれました。

 結局、M先生との話し合いはいったんキャンセルとなった。

 わたし自身は、学校にはもう失望の一語しかないので、いまさらもう何も話すこともないし、話したいとも思わない。だから傍観している。

 娘は、まだ最終決定をしたわけではないけれど、それでも、もう学校に行かなくていいという気持ちがはっきりしたせいか、このごろはおだやかな表情だ。それでも今日のようにいざとなると、簡単には割り切れない複雑な気持ちは、それこそ山のようにあるだろう。もう演劇部のラインを開くこともないらしいが、M先生の話が出たら、ふだんから同級生の矢面に立っていた先輩のことが気になる、と言ったりする。わたしはそうしたことも、娘自身が決めることだから、やっぱり傍観している。

 しばらく前からつれあいは通信制高校、とくに全日制の高校のことをWebで熱心に調べている。県内で通える範囲としたら、そう多いわけでもない。天理の飛鳥未来高等学校、西大寺の鹿島学園高等学校、平城のクラーク記念国際学校あたりに絞られるらしい。さっそくこんどの週末あたりから少しづつ見学へ行こうとも話しているのだが、たとえばクラーク記念国際学校の奈良キャンパスは「関西文化芸術学院という専修学校の高等課程にダブル入学するので学費が高価。騙されないように」なぞといった口コミもあったりして、なかなか見極めが難しい。通信制高校も、まあ、介護施設とおなじで、いろいろあるのかも知れないな。

 娘は高校卒業の資格を取って、大阪の青二塾という声優の養成所へ行きたいと言っている。ただ、これがなかなか狭き門らしい。「率直に訊くけど、おまえはじぶんに才能があると思っているの?」と意地悪な質問をすれば、「ないよ。わたしは肺活量もふつうより少ないし、滑舌もわるいし、早口で喋るくせがあるし。」 でもじぶんは演じたい。演じたいけれど足が悪くて舞台は無理だから、せめて声で演じたいのだ、と彼女は言う。

 2016.7.19

 

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どう転んだって、理想の父親にも夫にもなれないだろうわたしが、もしうたえる歌があったとしたらこんな曲かも知れないな。

そうだ、おまえはどう思うか知らないけれど、お父さんはこんな曲を歌えるような人間になりたい。

なぜなら人を傷つけたことを悲しむ人はきっと人の痛みも分かる人だろうから。

 

ランディ・ニューマンの1988年のアルバム「Land of Dreams」から。

 

子どもも見捨ててきたし
妻も捨ててきた
そうさ、ぼくはきっときみからも逃げ出すことだろう
そうやって生きてきたんだから
ぼくが出て行った日 みんな泣いていた
ほとんどの人が泣いていたといっていいだろう
ちいさな息子はじっとうつむいていた
ぼくは腕を 息子のちいさな肩に回して
こう言った
「息子よ おまえもわたしのように人を傷つけておくれ
わたしのように人を傷つけておくれ わたしのように
こころからそう思う こころから」

ひとつだけ望みがあった
実現できると分かっていた望みだった
世界中のひとびとに話しかけたかった
ステージに上がって まずは一曲二曲をうたう
ぼくだったら当然だろ
それから何をやるか宣言する
みんなにこう話したかった
「つらい世界さ きびしい世界さ 分かるだろ
物事がいつも思い通りに運ぶとは限らない
でもひとつだけ みんなで分かち合えることがある
誰もがよく知っていることだよ
世界中のみんな いっしょにうたっておくれ

わたしのように人を傷つけておくれ
わたしのように人を傷つけておくれ
わたしのように人を傷つけておくれ
こころからそう思う こころから」

I ran out on my children
And I ran out on my wife
Gonna run out on you too baby
I done it all my life
Everybody cried the night I left
Well almost everybody did
My little boy just hung his head
And I put my arm put my arm around his little shoulder
And this is what I said:
"Sonny I just want you to hurt like I do
I just want you to hurt like I do
I just want you to hurt like I do
Honest I do honest I do, honest I do"

 

If I had one wish
One dream I knew would come true
I'd want to speak to all the people of the world
I'd get up there, I'd get up there on that platform
First I'd sing a song or two you know I would
Then I'll tell you what I'd do
I'd talk to the people and I'd say
"It's a rough rough world, it's a tough tough world
Well, you know
And things don't always, things don't always go the way we plan
But there's one thing, one thing we all have in common
And it's something everyone can understand
All over the world sing along

I just want you to hurt like I do
I just want you to hurt like I do
I just want you to hurt like I do
Honest I do, honest I do, honest I do"

 2016.7.21

 

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 仕事帰り、駅前の本屋で文庫を二冊。

◆ 小林信彦「おかしな男 渥美清」(ちくま文庫) https://www.amazon.co.jp/%E3%81%8A%E3%81%8B%E3%81%97%E3%81%AA%E7%94%B7-%E6%B8%A5%E7%BE%8E%E6%B8%85-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%B0%8F%E6%9E%97-%E4%BF%A1%E5%BD%A6/dp/4480433740/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1469190678&sr=1-1&keywords=%E3%81%8A%E3%81%8B%E3%81%97%E3%81%AA%E7%94%B7+%E6%B8%A5%E7%BE%8E%E6%B8%85

かつて小林信彦の「日本の喜劇人」と「世界の喜劇人」の二冊をどれほど愛読したことだろう。その小林信彦が渥美清について語っているのだから買わずにはいられない。

◆ 服部文祥「増補 サバイバル! 人はズルなしで生きられるのか」(ちくま文庫) https://www.amazon.co.jp/%E5%A2%97%E8%A3%9C-%E3%82%B5%E3%83%90%E3%82%A4%E3%83%90%E3%83%AB-%E4%BA%BA%E3%81%AF%E3%82%BA%E3%83%AB%E3%81%AA%E3%81%97%E3%81%A7%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%82%89%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B-%E6%9C%8D%E9%83%A8-%E6%96%87%E7%A5%A5/dp/4480433694/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1469190944&sr=1-1&keywords=%E3%82%B5%E3%83%90%E3%82%A4%E3%83%90%E3%83%AB%EF%BC%81%E3%80%80%E4%BA%BA%E3%81%AF%E3%82%BA%E3%83%AB%E3%81%AA%E3%81%97%E3%81%A7%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%82%89%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B

「日本海から上高地へ。200kmの山塊を、たった独りで縦断する。持参する食糧は米と調味料だけ。岩魚を釣り、山菜を採り、蛇やカエルを喰らう。焚き火で調理し、月の下で眠り、死を隣りに感じながら、山や渓谷を越えてゆく―。」 こんな裏表紙の文章を読んだら買わずにはいられない。

 給料前で財布の中がさみしかったので、カードで支払いしたのはつれあいにはナイショだ。

 2016.7.22

 

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  選挙前に共産党が「人殺し予算」発言を批判されておたおたしていたけど、警察や軍隊といった組織は「個」を圧殺したところで成り立っている。

 「ゆきゆきて、神軍」でかの奥崎謙三が車の扉を叩きながら「人間だったら、なにか言ってみろ。ロボットみたいな面しやがって」と叫んでいたのと、今回の高江住民たちがひとりひとりに語りかけていた機動隊の若き隊員たちに隊長が「(住民たちの)目を見るな」と言ったのは、おなじことだ。

 原発事故のときに、大震災のときに、命がけで働いてくれた自衛隊を「人殺し」扱いするのか、という意見は肝心なところが抜け落ちている。

 繰り返し言うが、警察や軍隊といった組織は「個」を圧殺したところで成り立っている。丸腰の市民に向かって、機動隊なら殴る蹴るの暴力を加える。軍隊なら銃を向ける。命令があれば、かれらは「やる」のだ。

 命令に従うために「人間」を捨てなくてはいけないような組織など、わたしは要らないと思う。それは権力者の手先にこそなれ、この国に暮らすふつうの人々をしあわせにはしない。

 2016.7.22

 

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 早朝からジップをつれて娘と天川へ。洞川でごろごろ水を汲んでから、みたらい渓谷を抜け、途中行者環のトンネルへ向かう309号線と分かれて、舗装もだいぶ荒れている行き止まりの神童子谷線をすすむ。しばらく行くと、巨大な王蟲のような石がいくつもかさなり鎮座する、まっしろな河原に出る。山上ヶ岳につらなる豊かな水の流れが夏でも涼しい。天川の中心部から十数キロはなれているこのあたりは、渓流釣りの単独者がぽつりぽつりとたまに現れるくらいだ。小学校の低学年の頃から、わたしと娘はいつもこの場所でテントを張って夜を明かしたり、こうして日帰りで半日を過ごしにきたりしている。いちど上北山村の方までも足を伸ばしてあちこちの河原を見たのだが、娘はここがいちばんいい、ここでなければ嫌だと言うのだった。娘は焚き火が大好きだ。今日はつれあいにおにぎりをつくってもらったので、汲んできたばかりの洞川の水に味噌を落とした飯ごうに、途中の食料品店で買った十津川のしめじ、ニラ、天川の豆腐、うどんを入れてみた。それからデザートにマシュマロを枝に刺して焼いて食べている。わたしはなんにも考えずに、人間世界から遠く離れたこの清らかな山川草木をだまって吸い込むのが好きだ。とくに冷たい源流の響きはバッハやモーツァルトを優に超えた豊穣なシンフォニーだ。その過剰なほどの音の洪水に身を包まれていると、身体のなかの毒素が抜けていくような心地になって、大きな岩の上で肢体を伸ばしたままやわらかなまどろみにおちていく。娘もここ数日は学校はほぼ放棄、かといって退学という最終の決断もできず、そのはざまで苦しんでいる。まあ、今日は一日、いのちの洗濯をしたらいいさ。この大峰山系の山懐では、そんな人間界のことなどちいさなちいさなことだ。

 帰りは309号線を大台の方へ抜けて川上村経由で帰ってきた。途中、行者環のトンネルを抜けた尾根筋で、ガードレール沿いに子どもを背中に乗せた母猿が移動しているのを見た。わたしたちの車に気がついた母猿は、急峻な斜面を一気に下ってどこかへ掻き消えてしまった。

 2016.7.24

 

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 洛西、酒呑童子の鬼がいたとも伝わる山懐の霊園。つきぬけるような青空から人も山も燻り尽くすような熱射が垂直にふり注ぐ。日曜はそんな炎天下に9時間、立ち続けていた。このごろは管理的な仕事ばかりで、こんなふうに現場に立つのは年に数回程度だが、むかしは毎日こんなふうに立っていたんだな。雨の日も雪の日も。「おとうさんはシノちゃんのおとうさんだからお仕事にいかないで」と小さな娘が言っていた頃だ。時給850円で家族三人、なんとか食っていた。道端にとめた車の横でパンツ姿になって着替える。これもむかしからこんなもんだ。人によっては「近所の現場はちょっと」と面接時に言う人もいるけれど、おれは気にしないな。こうして立っているのが好きなんだ。いやしかしそれにしても暑い、熱すぎる。わずかな木陰は昼には掻き消えてしまった。しろい無常なアスファルトが鉄板のように横たわっている。山の緑が強烈だ。タールのような絵の具を何層にも厚く塗りたくったように見える。それがゆらゆらとゆらいでいるのが、まるでこの世のことなのかあの世のことなのか、こちらの意識までもゆらいで剥落しそうになる。地面からうらうらとたちあがってくるのは異形の者の陽炎か、成敗された鬼の瘴気か。乾いた唇を舐める。漂白された骨格標本のような落ち葉の地面を凝視する。8月はおれの生まれた月だ。父親が暴走車に追突されて即死した月だ。ふたつの原爆がこの国に落とされた月だ。何百万もの死者たちの慟哭と無間焦土地獄と共にこの国が戦争に敗れた月だ。夏の光はひどい暴力のように事物から意味を剥ぎ取る、あまりに強烈な光で事物の輪郭を切り落とす、荒々しく犯す。愉悦の息を吐きながら。おれはこんな8月が好きだ。

 2016.8.8

 

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 今日は休みをとって一日、県内の通信制高校を家族三人で見学してきた。10日ほど前に奈良市内の学校をつれあいと娘とで訪ねたが、一時間半たっぷり説明を聞いた後でトイレが和式しかないことが判明してご破算となった(カテーテルで導尿をするため洋式のトイレでないと対応できない)。それを入れたら今日で三校目となる。娘はまだいまの学校にみずから幕を降ろす決断は下せないでいるが、もういまではあれほど好きだった部活でさえ出なくなって久しい。9月になれば出席日数の残りがもう見えてくるし、それに9月には新学期分の授業料(1/3年分、約三十万円)が引き落とされる。

 通信制高校といっても全国でいろいろあるらしい。公立もあれば私立もある。授業料や内容も千差万別。経営が同じ専門学校と提携しているところもあれば、認可された通信制高校と提携してスペースと授業を肩代わりする「サポート校」なるものもある。引きこもりや不登校だった子が来るケースもあるし、アイドルや俳優やプロ・ゴルファーを目指すためにとりあえず高卒の資格を取りながら専門学校や養成所へダブル通学する子もいる。もちろん何らかの理由で高校へ通えなかった人が、30代40代の大人になってから高卒の資格を取るために再入学するケースもある。

 午前中に行った学校は私学でまだ新しい。曜日やクラスを固定した普通校のようなパターンもあるが、人気があるのはじぶんで好きな時間に来て単位取得のスケジュールを自由に組めるパターンで、学年もクラスも固定していないから教室はいつもばらばら。新入生が来ても目立たないし、だいたい一人でいることが「浮かない」。一人でいたい子もいれば、なんどか通ううちに自然と知り合いになって仲良くなっていく子たちもいる。でもそれが一人でいたい子を圧迫することはない。圧迫するほどクラスも授業も固定されていなくて、それぞれみんな違うからだ。だから既存の学校では窒息しそうだった子どもたちが、ここでは圧力を感じることなく、軽やかに来て軽やかに帰っていく。それって、わたしたちが求めていた理想の環境じゃないのか。

 説明をしてくれたのは担任も受け持っているという国語の30代くらいの先生で、裏表のない朴訥とした人柄がよかった。その先生が「じつは秋の文化祭で演劇をやりたいと言い出した子がいて、親しい友だちを仲間に誘ってやっと6人集めたのだけど、先生たちも含めてだれも演劇をやったことがなくて、どうしたらいいかいま足踏み状態で・・・」と言い出したものだから、朝から憂鬱そうな顔のままここへやってきた娘の顔がぱっとあかるくなった。話の後で二階建てのコンパクトな校舎を案内してくれたのだが、演劇をやるとしたらこの教室かなと言われたところで、娘はさっそく広さや音響機器などを照れ笑いをしながら確認している。机は白の楕円形で、椅子もちょっとオシャレな大学のキャンバス風だ。「なるべく“学校”を思い出さないようなデザインで」との説明が印象的だった。

 いったん家へ帰ってつれあいのつくったネギと鶏肉のうどんを食べてから休む間もなく、続いて訪ねたのは某有名進学塾が「サポート校」として開いているキャンパスだ。午前中の学校との違いは、通信制高校としての認可を受けていない「サポート校」なので、提携している認可校とダブル入学をする形になり必然、授業料もそれだけ負担が増えること。ただしもともと家庭教師の派遣や進学塾の経営が本体なので、勉強指導のレベルは高く、マンツーマンであること。通信制の高校はもともとが「最低限の単位を取ってみんなが高卒の資格をとれるように」がモットーなので、勉強のレベルは普通高校のいちばん最低限のラインで設定されている。だからいちばんさいしょに見学に行った学校で見せてもらったレポート課題は教科書にそのまま書いてあることの穴埋め問題で、「いくらなんでも、これじゃねー」と娘ですら言ったそうだ。なのでこの「サポート校」はその最低限のレベルに加えて、本人にその意志があれば大学進学を念頭においたレベルの引き上げ、並びに進学指導まで受け持ってくれるところが謳い文句である。けれどもこちらは娘のお気に召さなかったらしい。雑居ビルのフロアにある、いかにも学習塾といういでたちが中学受験のときに通っていた塾を思い出させて嫌だ、ここはぜったいに行かない、と宣うた次第である。

 そのまま隣接するショッピング・センターの地下のフード・コートでちょっと早い夕食を食べることにした。娘はタリーズ・コーヒーで生意気にもT’s パンケーキ ダブルベリーハニーとカフェオレスワークル、つれあいはミスドのロイヤルミルクティとドーナツ二種、わたしは天丼特盛りの味噌汁・漬物セットでみんなばらばら。娘はまだ結論には至っていない。ただ方向性は見えてきた。彼女もそれは分かっている。転入のタイミングや前述した授業料の引き落としなどもあるので、今月の20日までには決めようという約束をした。みずからの意思で中学受験をして、猛勉強で本来狙っていた国立は逃したものの私立の進学校にトップの成績で入学した娘は、こんどは(たぶん)いろいろな事情を抱えて最低限の高卒資格を取りに通っている子たちにまじって学校生活を送る。緑や黄色の髪の子もいるらしい(^^) わたしは、いいんじゃないかな、と思う。いわゆる裏も表もある複雑なお嬢様学校の閉鎖空間より、わたしはそんな学校の方がいっそ人間味があって、彼女には合っているんじゃないかとも思うのだ。週に二、三日だけ通って、落ち着いてきたら本人が希望している声優養成所も探してみる。それもいい。なんでも挑戦してみたらいい。息がつまりそうな場所に囚われて重荷を背負って喘いでいるよりは、そんなものはすべて無用だったと投げ捨てて、じぶんが楽に生きられる場所、ふつうに呼吸ができる場所を見つけていったらいい。お父さんだって高卒の資格しかないけどさ、下手な大学出たやつらより、いまではずっと勉強しているぜ。ほんとうの勉強は世の中に出てからだ。遅いということはなにもない。無駄なこともなにもない。

 家に帰って、風呂上りにわたしの母が持ってきた梨を剥いてみんなで食べながらつれあいが、これでなんとなく道も見えてきて、お母さんはちょっと安心した、お母さんたちはここまで用意したから、あとは紫乃がじぶんで決めて好きな道をすすんだらいい、なんだかすっかりひと安心した、とつぶやいた。

2016.8.9

 

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 朝は庭の香草を摘んで。

 ことしは去年の種が散らばった青シソがわんさか茂った。ちょうどジューンベリーの根元の木陰で、環境もよかったのかも知れないな。刺身を包んだり、蕎麦や素麺の薬味(葱・茗荷・青シソの黄金の三点セット)に使っても、とても使い切れない。ネットで検索してみたらちょうどよいレシピがあった。いわく「青しそ大量にある方必見!しそ佃煮」 千切りにしたシソとじゃこ、醤油、砂糖、みりん、炒り胡麻、かつおだしを鍋に放りこんで5分ほど炊くだけ。白ご飯といっしょに。食べるときに茗荷を刻んでまぜてもおいしいかもな。 http://recipe.rakuten.co.jp/recipe/1140002632/ 

 ついでに恒例のバジル・ペーストも。これもナッツ(今回は松の実とくるみを入れた)、にんにく、塩胡椒、オリーブオイルをバジルの葉とフード・プロセッサーに放りこんで攪拌するだけ。ジップロックの袋に薄く伸ばして入れて冷凍しておいて、使うときに必要量を折る。パスタのほか、鶏肉料理などにパルメザン・チーズを混ぜて添えるとおいしい。 http://cookpad.com/recipe/3416026 

 それから駅前の安い床屋へ行って散髪。明後日から酷暑の中、三連ちゃんで立ち続ける仕事があるので、かなり短めに刈ってもらった。お昼のお好み焼きを食べてから、車椅子の娘をついて二人で城ホールで観劇。カムカムミニキーナの「野狂」、奈良公演は千秋楽である。

 そもそも劇団名も知らず、内容もそれほど定かでなく、ただ演劇好きの娘のために誘ってみた公演で、今日になってユーチューブに予告動画を見つけて「お父さん、“真夏のホラー”ってあるよ! わたし、なんか見る気失せてきた・・ 」なぞと言ってたくらいだったのだけれど、いやあ、じつに満喫・堪能しました。面白かった! 

 三層のスライド式障子によってテンポよく場面転換する舞台は、じつに寺山修司的なあやかしの登場人物たち満載。むかし淡路島の人形浄瑠璃館でやはり多層の襖絵が次々に入れ替わる見事なからくりを見たが、歯切れの良いセリフと腸ねん転ものの勢いに乗ったストーリー展開はまさに千変万化な襖絵からくりを彷彿とさせる。古来から日本の政(まつりごと)を影で操ってきた小野一族の、世継ぎの出生の秘密とそれにまつわる失踪及び殺人事件、といえばかの八墓村の映画のような湿度を予感するが、此岸と彼岸(魔道)の通路が開けてしまったために行きつ戻りつするトリックスター的な狂女(小野小町)と、夜ごと井戸を通って地獄に降り閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたという小野篁を軸に湧き出る深草少将、純友、関兵衛ら小野家にまつわる亡霊どもの突き抜けた破天荒さはときに往年の筒井康隆のスラップスティック的ギャグにも似て、常に定型を否定し破壊してつきすすむような爽快さに満ちている。いやあ、愉しいなあ。愉しんでつくったんだろうなあ。帰り道、「演劇の舞台って、どれだけのことが表現できるのか」とつぶやいた父に、娘は「舞台に不可能なものはない」と言ったというかつての部活の顧問M先生の言葉をおしえてくれた。きみが夢中になるのも分かるよ。

 最後に、パンフレットの冒頭にあった作・演出者のことばを転載しておこう。このじつにきな臭い時代の曲がり角にあって、舞台をつくるかれらものっぴきならない危うさを感じているという証しだ。

 

 大変な時代になってきました。何と言いますか、人と人との考えの隔たりが大きくなってきたというか。極端なことが増えてきて、その先端と違う先端との距離がどうしようもなく遠い。何が正解で何が間違っているのか、それが人によって大きく異なっています。大抵は正しいと思って行動している。その正しさと違う正しさの向きがどうしようもなく正反対を向いている。誰もが筋を通していこうと極端に思い、その筋同士が境目でバッティングする。まあそもそも人や社会はそういうものなのかもしれませんが、少なくとも、ついこないだまでは、この国はここまではギスギスしてなかった気がします。全世界に共通の課題でしょうが、異なる考え方の共存のイメージが必要です。それは人と人が元来異なるというイメージの共有です。それが自由という言葉ではないでしょうか。異なる他者を誰も制限してはならない。お互いにです。この、お互いにというところが大事です。お互いにこれを実現するためには、それぞれが自分の中に制限を発生させなくてはいけない。これが秩序です。秩序と自由はこのように連携してるはずです。対峙するものではない。ところがここが今非常に危うい。急速に。

 今回の作品は真夏のホラーと銘打ってますが、じゃあ今、何が怖いのか、何が気持ち悪いのかを考えながら作りました。それはいわゆるホラーというジャンルの怖さではないかもしれません。

 あらためてこのように徹底的に自由に表現できる場があって、それを見に来て下さるお客様がいるということの貴重さをひしひしと感じております。

松村武

カムカムミニキーナオフィシャルサイト http://www.3297.jp/ 

「野狂」 http://www.3297.jp/yakyo/ 

2016.8.11

 

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 わが家のリビングにはテレビがない。だから夕飯の席では家族が今日あったこと、考えたことなどを話をする。きっかけは何の話だったかな。そうだ、キアゲハの幼虫やアナグマを食べた人のサイトの話をひとしきり父がして、娘が「なんか食欲なくなったわ・・ お父さんはいつも食欲がなくなる話ばかりする」と苦笑いをしつつお皿を片づけながら、ふと思い出したのか、「ジブリの作品って、おいしそうな食べ物ばかり出てくるよねえ」と突然言い出した。「たとえば、あのトトロでお姉ちゃんのサツキが朝、手際よくお父さんと妹のメイの分もつくってあげる日の丸弁当。あれがどんなにおいしそうに見えたことか」  「本に出てくるおいしそうなものって言ったらさ」 ついで父が言う。「ほら、あったじゃない。きつねが古ぼけた机の抽斗から見つけ出したソーセージ。あれ、なんの本だったかな・・・」 

 チェコの作家 ヨセフ・ラダの「きつねものがたり」は子ぎつねのときに人間に拾われた主人公のきつねが、飼い主の森番が子どもに話す昔話をいっしょに聞いて人間の言葉が分かるようになる、という筋。あるとき窓の外から森番が子どもに「ご馳走を出す魔法のテーブル」の話をしているのを聞いて、納屋からその古ぼけたテーブルを盗み出す。森の奥まできてテーブルを置き、「テーブルよ、ご馳走を出せ」と言って抽斗を引いたらなんとおいしそうなソーセージが5本も出てきた。じつはこれは子どもの夢を裏切らないように森番がそっとしのばせたものだったわけだけれど、われらがきつねは狂喜して、森中のきつねたちを招待してみんなにもご馳走をふるまってやろうと思いつく。やがて森を埋め尽くさんばかりに集まった同胞を前に、きつねは得意げに一席ぶち、証拠の油紙と紐をみなに披露し、「さあ、テーブルよ、ご馳走を出せ」と叫ぶが・・・

 娘はわたしの書斎の本棚から見つけた「きつねものがたり」をそうだ、これだこれだと思い出したかのように持ってきて「魔法のテーブル」のくだりを声を出して読み始めた。「これだよ、これ。このソーセージがお父さんはいまも忘れられない。すっごいうまそうな匂いが漂ってくるよな」 夕食を済ませたばかりだったが、それからひとしきり抽斗から出てきたソーセージの魅力について話は尽きない。

http://www.fukuinkan.co.jp/bookdetail.php?isbn=978-4-8340-0058-0 

2016.8.12

 

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 お盆の三日間は現場での仕事だった。朝早くから暑い京都の炎天下を立ち続けた。冷凍したペットボトル三本分のお茶と水を飲み干した。昨日は雲がやや多くて助かったが、スコールのような雨で全身びしょ濡れになった。立っている目の前の斜面に片耳を切り落としたゴッホが描いたばかりのようなモミジの樹があった。モミジというと社寺の瀟洒な庭などを連想するが、ナニ、野性のモミジはけっこうラフだ。この荒くれの枝にこの緻密な葉であれば、古代ではきっと聖なる樹のひとつであったに違いない。そして、どんな部族の、どんな神話として樹木が語られたか、そんな空想を思い描いて過ごした。

 三日間のハード・スケジュールを無事終えて、わが家に帰ってくれば、夕食のあとで娘が、この元ちとせの歌がすごくいいから聞いて欲しい、とスマホのユーチューブを見せる。父は襤褸雑巾のように疲れた身体をソファーに横たえて、娘と二人でそれを覗き込んだ。このスマホの液晶画面にも神話がある。

 知ってるか、元ちとせの家は沖縄の巫女の家系なんだよ。

 うん。この声と、歌い方と、わたしはとても神聖なものを感じる。

 

 明日は急な要請で、年末の新しい現場の立ち上げのための会議に出るため、名古屋に日帰り出張。休日が一日のびた。

2016.8.15

 

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 火曜はやっと休日で、朝いちばんの上映で娘と二人、話題の「シン・ゴジラ」を見にいった。期待通り、面白かった。あちこちで、がらんどうの骨がぎしぎしと痛んだ。展望の見えぬ原発事故が、機能不全の政治と官僚主義が、終わりの始まりのようなこの国の現状が、たびたびオーバーラップした。なによりこころに響いたのは、最後まで物言わぬ主役のゴジラの叫びだ。おれを見ろ、人間どもよ、このおれをどうにかしろ。全身がわなわなとふるえ、問いかけ、告発し、激しい怒りに満ち、呻いていた。ゴジラは東京のど真ん中にのこった。のこったということが、この国のどうにもならない現在を見事に表している。「ゴジラはいいぞ。ゴジラはいいぞ。」と娘は不敵に笑いながら映画館をあとにした。その日は午後、カウンセラーのH先生の病院での診察もあった。

 明けて翌日。夕食の席で、そろそろ約束の期限の20日が近づいてきたぞ、という話をあえてわたしが口にした。これまでたいていそんな話題を口にすると「分かってる!」と苛立ちを見せていた娘は、その日はいつになくスナオに、そうだなあ、もういい、・・かな? とちらりと母親のほうを見た。もういいよ、もういいよ。 ちょっと、お父さんは黙ってて。 もういいよ、もういいよ。(これはおまえの心の声)  父親を無視してもういちど、もういい、・・かな?  お母さんは、紫乃がいちばんいいと思ったことを選んだらいいと思ってるよ。 ・・もういいか、と笑いながら。そうして三年間苦しみもがいた学校に訣別して、あたらしい通信制の学校へ行ってみることに決まったのだった。

2016.8.17

 

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 夕食後、娘とツタヤへ。元ちとせの「あなたがここにいてほしい」が入ったアルバム「カッシーニ」を借りてきた。
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%AB%E3%83%83%E3…/…/B001A4MN5A

 他に娘のお目当ては「小公子」の映画、だったが在庫はなし。古き良き映画がないのがこうしたレンタル・ビデオ店の限界だな。

 せっかくのなので、娘は「シャーロットのおくりもの」を、わたしは「若松孝二、足立正生が、カンヌ映画祭の帰り道でレバノンのベイルートに向い、現地の赤軍派、PFLPと共同し、パレスチナ解放のために闘うアラブゲリラの「日常」に迫った伝説的ドキュメンタリー」と謳った「赤軍‐PFLP 世界戦争宣言」(しかし何でこんなもの、置いてあるんだ)、それと「砂の器」を借りて帰った。
https://www.amazon.co.jp/%E8%B5%A4%E8%BB%8D%E2…/…/B001MSXHO0 

2016.8.20

 

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 いろいろと忙しい休日。

 午前中はつれあいと二人してネットで三輪自転車の試乗店舗の検索。娘がはじめて三輪車に乗ったのは幼稚園生に入りたての頃だったかな。神経の麻痺で足首が動かなかったりしたからペダルを漕ぐのは無理だろうと思っていたけれど、ペダルをホームセンターで買ってきた滑り止めマットでぐるぐる巻きにして、何とか足を乗せられるようになった。小学校にあがって補助輪も外して、市内のファミリー公園の芝生で練習をしたりして、これも乗れるようになった。ジップを連れて家族三人で薬師寺までサイクリングをした頃もあったけれど、それから足の筋を入れ替えたり骨盤を削ったりする手術が続いて筋肉も落ち、いつしか自転車は乗れなくなってしまった。乗らない自転車を近所の人が孫にくれないかと言ってきたそうだが、「乗れなくても置いとくんだ。それは紫乃の気持ちの問題だろう」とそれを聞いたわたしはつれあいに怒ったこともあった。でもいまとなっては、あのときにあげておいた方がよかったのかなと思ったりもする。

 自転車の話が再浮上したのは、娘が通信制の高校へ転校することを決めてからだ。通信制高校は始業時間が遅いので、いままでのようにつれあいが出勤前に車で送るということができなくなる。幸い、こんどの高校は駅からすぐ近くなので、自宅の最寄り駅まで行けたらあとは杖を使って何とか行けるだろう。で、その最寄り駅までの手段として現在、車椅子と自転車のふたつを考えている。車椅子はまだ心理的な抵抗があるようで、とくに電車内などの衆人の前で乗るのが嫌らしい。だから車椅子はちょうど駅の前の団地に住んでいるわたしの母の家に置かせてもらっての運用を考えている。その際、駅までの歩道の路面がかなりがたがたのところが多く、これはつれあいが知り合いの共産党の市議さんに相談して、さっそく市役所の担当の方と共に見てもらうことになった。こういうことはつれあいは行動が早い。自転車はそれだけではないのだが、これを機会にもっと行動範囲が広がってくれたらいいと思う親心も混じっている。そして自転車の場合は駐輪場も課題のひとつだ。自宅から近い駅の西側は、駅に隣接した駐輪場はいつも混雑していて、娘が三輪の自転車を狭い間にすべるこませるのは難しいかも知れない。もうひとつの道向こうの市営駐輪場は管理人がいるので安心だが露天である。一方東側の駐輪場はいちばんあたらしい屋根つきで通路も広く、自転車を下ろしてエレベーターですぐに改札へ行けるのでベストなのだけれど、踏切を渡っていかなくてはいけない。もしも渡っている途中でアクシデントがあったら、と思うと不安は拭いきれない。

 その前に自転車選び。三輪の自転車はブリジストンやパナソニックなどのメーカーものから中国製造のものまで、ギア付き・電動アシスト付きなどいろいろ出ている。おおよそギア付きで5、6万円、電動アシスト付きで十数万円。ところがネットではいろいろ見れるものの、試乗をできる店舗がなかなか見つからない。今日はミムゴという会社の「アシらくチャーリー」という電動アシスト三輪について、本社に電話で訊いたのだが、「販売経路として通販が主なので個別の店舗との取引がなく情報もない。展示・試乗できるところも会社として情報を持ち合わせていない」との由。「じゃあ、現物はどこにもないということですね。しかし15万円もするようなものをネット上の写真だけ見て判断しろというのはどうなんですか。たとえばあなたが高齢のあなたの母親に買ってあげようと思ったらじっさいに乗ってみて・・・と思いませんか。メーカーとしてもっとその辺の企業努力が必要なんじゃないですか」と言ったら、電話に出た女性オペレーターは最後の方は明らかにむっとした口調で、なんかこちらも買う気が失せてきたな・・  車椅子を買ったときには東大阪の装具メーカーのショー・ルームで各社のいろんなタイプの車椅子を試乗して選ぶことができたのだが、三輪自転車も今後高齢化における需要を考えたら、そうしたアピールが必要ではないかと思う。つれあいも数日前から県内の販売店に電話で聞いてみたけれど、「購入するのであれば取り寄せる」という店ばかりであった。

 あれこれネットの迷宮をさまよって、電動アシストは大阪の堺に二店舗、京都に一店舗、展示・試乗している店があったのだが、とりあえず近所の国道沿いの量販店でギア付きのブリジストンが一台あったので昼食のあとで見てきた。数年ぶりに自転車をこぐ娘は、はじめは自転車が乗れなくなって転倒ばかりしてしまった恐怖を思い出してぎこちなかったけれど、何度かやるうちにフラットな店内ではあったけれど、ギアもいちばん軽い段に落としてぎこちなくも何とか走れるようになった。わたしも最後に乗ってみたが、後輪二輪でのコーナリングは独特の感覚はあるけれど、思っていたほど回りにくいわけでもない。これで電動アシストでなく、ギア付きでなんとかいけそうな目安がついた。本人も、練習すればいけそうだ、と言う。車種と購入はまた考える。

 家に帰ってから、つれあいはまず通信制高校へお世話になる旨の電話をかけた。後期は10月開始だが、娘もあたらしい環境が不安に思う部分も合ってそれらの雑念を振り切るつもりで「9月から、なるべくはやく始めたい」と言っている。そのあとでつれあいは車で、これまでの学校へ転校手続きの書類を書いてもらうために出かけていった。まがりなりにも4年近くを在籍した学校だから、親としては「最後は挨拶くらいきっちりしなさい」と子に言うのが筋なのかも知れないが、娘もあまり気が乗らないようで、「無理に行かなくてもいい」と言ったのだった。娘よりもじつは父の方が「もう、おれは行かないよ。行ったらぜったいに喧嘩になるし、それにあいつらに今更話すことなんて何もないからな」と宣言する始末である。しかし何度でも繰り返すが、立命館大学とも提携している一応進学校といわれている私学のお嬢様学校に対して、わたしはひたすらに深い絶望しかない。

 つれあいが学校へ行っている間、娘は部屋の片付け、そしてわたしは隣の部屋で今日届いたPCラックの組み立てである。娘が幼い頃から使っている机は、わたしが会社の営業所の近くに当時あった材木屋の事務所前に並べていたヒノキの一枚板を見つけて、それを天板にせっせと半年をかけて団地のベランダでつくった自作の机だ。それはわたしにとってもはじめて本格的な家具をつくった記念すべき一品であったが、ネジ・釘は一切使わず、すべて木組みとダボなどによって接合した(接着剤は使っている)。抽斗の取っ手は、わたしの父の代から使っていたわたしの机のものを転用した。両サイドにはアイヌの文様を彫刻刀で刻んでいる。娘はその机と百年前のイギリスのスクール・チェアとの組み合わせを気に入ってくれ、長いこと愛用してくれているが、耳付きの自然板をそのまま使っているので奥行きがあまりなく、このごろはノートPCとタブレットでほぼ占領され続けていた。そこで簡易なラックにPC関係は集約してしまおうと思ったのだった。ゆくゆくはもう少しマシなスペックのデスク・トップにしてもいいかなと思っている。

 慌しい一日だったが、いろんなことが動き出している。

 明日は関ヶ原へ出陣じゃ。

2016.8.22

 

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 はじめて行った関ヶ原の合戦場跡は、もっと広大なエリアで戦闘が繰り広げられたのかと思いきや、意外とこじんまりした印象だったな。奈良から高速をつかって二時間少々。歴史にとんと弱いつれあいのために町の「歴史民俗資料館」でおさらいをしてから向かった笹尾山の石田三成陣跡に登ったら、毛利の布陣した南宮山から小早川の松尾山まで、まさに天下分け目の合戦図がすっぽりと収まってしまう。戦の終盤に業を煮やした家康が進めた資料館隣にある陣跡も、三成の陣からわずか1キロの近距離だ。そしてJRの線路に近い若宮八幡宮の山手にひっそりと位置する娘の待望の大谷吉継の陣跡は逆に三成の笹尾山からは見えず、ただ結果的に裏切り者となった小早川の布陣する松尾山山頂だけをしっかと見据えている。こういう地理感というのは現地に立って見なければ分からない。そして男というのは合戦ごっこが好きなんだな。なんかわくわくしてくるじぶんがいる。でも結局、なべての歴史というものは「フィクション」なのだと思う。勝者と生き残ったもの、そして後世により常に更新される「フィクション」。ほんとうにじっさいのところはタイムトリップでもしなければ分からない。けれどたいていのそうした「フィクション」は、じつは「事実」ではなく、そこに人々が何を仮託して語り継がれてきたか、というところが面白いのではないか。わずかな実証の小石に足をかけて、われわれはそうして編み出された「フィクション」に乗ることで、さまざまな人のこころの有り様を愉しむ。そういうことではないのかな。だから「史実」である関ヶ原の合戦も、「フィクション」であるたとえば説教節の小栗判官も、わたしのなかではそれほど違いはない。

 車椅子を積んでいったので資料館は車椅子に乗って回ったが、あとは杖を頼りに丸太の階段や山道を娘もがんばってよくあるいた。資料館以外のところも、ピンポイントで無料の駐車スペースがあるのも助かった。回ったのは資料館のほか、徳川家康の最後の陣跡、笹尾山の石田三成の陣跡、戦後の首実検などの西軍の骸を埋めたという東首塚、そして大谷吉継の陣跡と敵方の藤堂高虎が建てたと伝わる山中の墓。娘がどうして大谷吉継に心惹かれたのか、聞いたことはないが、清廉実直と伝わる人柄と晩年に癩病を病んでいたことなども、あるいはわが身に重なるものがあるのかも知れない。吉継の墓は陣跡からさらに山すその背後、ゆるやかな尾根筋をいったん下ってもういちどのぼった東向きの棚地にある。ほどよく木漏れ日が射し込むほどの間隔の雑木林で、不思議とおだやかで、心地よい。娘はその墓の前で長いこと呆けたようにすわっていた。なんだかここはずっといたいような心落ち着く場所だ、と言った。どこぞからひらひらと舞ってきた白い蝶を、吉継の魂であるかのようにいとおしく見つめた。吉継の墓の隣には「病み崩れた醜い顔を敵に晒すな」との命を受けて主の首を隠したと伝わる湯浅五助の墓もなかよく並んでいる。そちらは大正時代に子孫が建てたものである。ところでひとつ面白かったのは墓の前の「史蹟 関ヶ原古戦場 大谷吉隆墓」の堂々たる石柱、こちらは昭和14年に文部大臣の史蹟指定により建てられている。そして墓の左手の斜面の上に建てられたこちらも立派な自然石の顕彰碑「大谷刑部少輔吉隆碑」、こちらは昭和15年に東大の神道学者・宮地直一の撰文のもと古跡保存会によって建立されたと。昭和15年は1940年。いみじくも辺見庸が1937(イクミナ)と記した日中戦争がはじまった年の3年後。日独伊三国同盟が成り、翌年には太平洋戦争へと突入していく。このような時代の最中に「義によって死んだ」歴史の英雄を讃える碑が続けざまに建てられたことはじつに興味深い。これもまた「史実」と「フィクション」のあわいに人々が仮託した何ものかの形象である。

 夕刻。幸いに時間が少々あまったので、わたしのリクエストで数キロ東の大垣市にある青墓へ立ち寄った。中世には東山道の宿駅として賑わったこの青墓は、かつて遊女や傀儡子(くぐつ)が多くいたことで知られる。わたしが青墓の名をはじめて見たのはたしか、山中から忽然と現れる「更級日記」に描かれた足柄山のこころ沁みる遊女たちを語った脇田晴子氏の「女性芸能の源流 傀儡子・曲舞・白拍子」(角川選書)あたりだったろうか。あるいはわたしを説教節のめくるめくパラレル・ワールドに誘い込んだ岩崎武夫氏の「さんせい太夫考 中世の説教語り」(平凡社)であったか。あるいは網野善彦氏がどこかに記した中世における女性職能集団の記述であったかも知れない。遊女と傀儡子とは、互いを内包する合わせ鏡の名称である。旅に暮らし、うたをうたい、踊り、舞い、ときに春をひさぐ。わたしの好きな「更級日記」の一節についてかつて記した文章をここに引く。

 

 ・・「更級日記」は1020年、菅原孝標の娘が13歳の時、父の任地上総の国から上京する道中記からはじまる。この中に「生涯を通じて忘れられない思い出」として、足柄山の暗夜の山中で遭遇した三人の遊女についての記述がある。わたしはこの話に、ほとんど心を奪われる。

 

 足柄山(あしがらやま)といふは、四、五日かねて、恐ろしげに暗がり渡れり。やうやう入り立つふもとのほどだに、空のけしき、はかばかしくも見えず。えもいはず茂り渡りて、いと恐ろしげなり。
 
 ふもとに宿りたるに、月もなく暗き夜の、闇に惑ふやうなるに、遊女(あそびめ)三人(みたり)、いづくよりともなくいで来たり。五十ばかりなるひとり、二十ばかりなる、十四、五なるとあり。庵(いほ)の前にからかさをささせて据ゑたり。をのこども、火をともして見れば、昔、こはたと言ひけむが孫といふ。髪いと長く、額(ひたひ)いとよくかかりて、色白くきたなげなくて、さてもありぬべき下仕(しもづか)へなどにてもありぬべしなど、人々あはれがるに、声すべて似るものなく、空に澄みのぼりてめでたく歌を歌ふ。人々いみじうあはれがりて、け近くて、人々もて興ずるに、「西国(にしくに)の遊女はえかからじ」など言ふを聞きて、「難波(なには)わたりに比ぶれば」とめでたく歌ひたり。見る目のいときたなげなきに、声さへ似るものなく歌ひて、さばかり恐ろしげなる山中(やまなか)に立ちて行くを、人々飽かず思ひて皆泣くを、幼き心地には、ましてこの宿りを立たむことさへ飽かず覚ゆ。
 
 まだ暁より足柄を越ゆ。まいて山の中の恐ろしげなること言はむかたなし。雲は足の下に踏まる。山の半(なか)らばかりの、木の下のわづかなるに、葵(あふひ)のただ三筋(みすぢ)ばかりあるを、世離れてかかる山中にしも生(お)ひけむよと、人々あはれがる。水はその山に三所(みところ)ぞ流れたる。
 
 からうじて越えいでて、関山(せきやま)にとどまりぬ。これよりは駿河なり。横走(よこはしり)の関のかたはらに、岩壺(いはつぼ)といふ所あり。えもいはず大きなる石の、四方(よはう)なる、中に穴のあきたる、中よりいづる水の、清く冷たきこと限りなし。 

【現代語訳】

 足柄山というのは、四、五日前から、恐ろしそうなほどに暗い道が続いていた。しだいに山に入り込むふもとの辺りでさえ、空のようすがはっきり見えない。言いようがないほど木々が茂り、ほんとうにおそろしげだ。
 
 ふもとに宿泊したところ、月もなく暗い夜で、暗闇に迷いそうになっていると、遊女が三人、どこからともなく出てきた。五十歳くらいの一人と、二十歳くらいと十四、五歳くらいのがいた。仮小屋の前に唐傘をささせて、その下に座らせた。男たちが火をともして見ると、二十歳くらいの遊女は、昔、こはたとかいう名の知れた遊女の孫だという。髪がとても長く、額髪がたいそう美しく顔に垂れかかっていて、色は白くあかぬけしているので、このままでもかなりの下仕えとして都で通用するだろうなどと人々は感心した。すると、その遊女は、比べ物がないほどの声で、空に澄み上がるように見事に歌を歌った。人々はとても感心し、その遊女を身近に呼び寄せて、みんなでうち興じていると、誰かが、「西国の遊女はこのように上手には歌えまい」と言えば、遊女がそれを聞いて、「難波の辺りの遊女に比べたらとても及びません」と、即興で見事に歌った。見た目がとてもあかぬけしている上に、声までもが比べようがないほど上手く歌いながら、あれほど恐ろしげな山の中に立ち去って行くのを人々は名残惜しく思って皆嘆いた。幼い私の心には、それ以上にこの宿を立ち去るのが名残惜しく思われた。
 
 まだ夜が明けきらないうちから足柄を越えた。ふもとにまして山中の恐ろしさといったらない。雲は足の下となる。山の中腹あたりの木の下の狭い場所に、葵がほんの三本ほど生えているのを見つけて、こんな山の中によくまあ生えたものだと人々が感心している。水はその山には三か所流れていた。
 
 やっとのことで足柄山を越え、関山に泊まった。ここからは駿河の国だ。横走の関のそばに岩壺という所がある。そこには何ともいいようがないほど大きくて、四角で中に穴の開いた石があって、中から湧き出る水の清らかで冷たいことといったら、この上もなかった。

 

 物の怪が棲むような真っ暗闇の山中深くでこのような遊女たちに出会ったら、わたしは畏ろしくもあり、同時におなじくらい激しく魅惑されもするだろう。かつてこのような一所不在の漂泊の身であった遊女たちは、やがて赤坂憲雄のいう「近世権力によって“制度的にひかれた / 去勢された”境界」に囲い込まれ、その過程で不即不離であった聖性を落剥していき、やがて「祝祭の中ではなく、「俗」の中で」商品化された性のみを売る存在へと転落していった。それはわたしたちにとってもまた同じように、近代の価値観や制度や個人といった狭い枠の中で性を切り離し矮小化し、古代の祝祭の力を完全に失っていった過程でなかったか。

 わたしが遊里に惹かれるのは、そんな失った過去への憧憬なのかも知れない。ほんとうのいのちを取り戻したいからかも知れない。足柄山へ、いまから遊女に逢いにいく。

(以上、後半の引用は佐伯 順子「遊女の文化史」(中公新書)による)

2009.9 http://www.geocities.jp/marebit/gomu63.htm 

 

 「梁塵秘抄」に残る“今様(いまよう)”を愛した後白河法皇は全国の遊女・傀儡子を召し集めて彼女たちに伝わる今様や古曲を謡わせ習ったが、中でも美濃青墓の乙前(おとまえ)を気に入って師弟関係をむすび、乙前が84歳で亡くなるまで世話をしたという。一方で青墓にはそうした「河竹の流れの身」であった白拍子女の人身売買文書も残っている。説教節「小栗判官」で夫と生き別れた照手姫が売られていった青墓宿は、そのような人買いを介して身請けした遊女たちを供する宿によって富を得た長者たちが栄えた場所でもある。その際、「小栗判官」がフィクションであるかどうかはどうでもよい。高野聖その他の廻国聖、山伏、御師、盲僧、絵解法師、熊野比丘尼、各地の巫女などの最下層の、折口のいう「漂遊者の文学」「巡游伶人の文学」の担い手が語りあるいたそれらの物語の変奏(さまざまなヴァリエーション)には、じっさいに照手姫のように売られてきた無数の遊女たちがいたということ。そんな彼女らがきっと夢見たのが、客に身体を売るよう強要する主人の要請を突っぱね、最後まで夫・小栗への貞節を守り通す照手姫の姿であった。説教節にはそんな社会の底辺でもがき、悲しみ、笑い、突き抜けようとした名もなき人々が残していった無数の思いがあふれている。繰り返すが、それが「史実」と「フィクション」のあわいに人々が仮託した何ものかの形象であったとしても、わたしには温もりも手触りもあるたしかな「現実」である。青墓宿はいまでは何もない。のどかな田園風景のなかにばらばらと点在する住宅地のみで、往古の影は微塵も伺えないけれど、わたしはその土地にじっさいにじぶんの足で立ってみたかった。青墓に渡る風をこの身体で感じてみたかった。

関ヶ原観光Web  http://www.kanko-sekigahara.jp/jp/index.html

関ケ原町歴史民俗資料館 http://www.rekimin-sekigahara.jp/ 

まちもよう(大垣市青墓地区) http://www.matimoyou.com/kamakurakaidoua2.html 

2016.8.23

 

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 昨日は京都の御所からもそれほど離れていない住宅地だった。四角くきれいに切り取られた空間は地面とはこういうものだったと思い出させてくれる。(わたしたちはきっといろんな記憶をなくしている。) 建物が消失した地面を油圧ショベルがさらに掘り下げては残土の山をつくり、それを4トン・トラックが積んでどこかへ運んでいく。夏の直射日光がじわじわと生き物を、砂を、コンクリートを灼く。自在に動き回るアームの下のバケットが地層を剥ぎ、大きな石を剥き出しにし、よじれ曲がった鉄くずを引きずり、瓦を割る。単純(シンプル)だが、見ていて心地いい。そしてそんなふうに肉体を使い汗をかき働いている人たちは大抵、こころも整地されて新しくなった地面のように風通しがいい。

 身体中に熱を蓄積して帰ったその夜、夕食後につれあいと娘の諍いの声が漏れ響いた。「もう、そんな返事をするんだったら、いい」 昨日から伸びている浣腸をいうつれあいに娘が不機嫌な態度で返したのだ。「わたしだって、いつもいい返事ができるわけじゃないのよ!」 昼間の疲れもあって、わたしは娘の部屋で怒鳴りつけた。「お母さんだって、毎日疲れているのにしてくれるんだろう。それが分からないならもう浣腸などしなくていい。誰の世話にもならず、一人で生きろ!」 しばらくして、浣腸を始めた二階の部屋からつんざくような娘の声が聞こえてくる。わたしがまた二階へあがろうとするのを、つれあいが制止する。「いいのよ。紫乃はいまいろんなことを吐き出しているから、それを聞いているところなの」

 今朝、6時代の電車に乗ってふたたび四角い地面の場所へ出かけるわたしにつれあいは、ほんとうは自転車も欲しくない、家の外には出て行きたくない、障害を抱えた女の子の思春期の悩みだ、とだけ言った。ヘルメットと凍らせたペットボトルのお茶と着替えを詰めた重い荷物を背負って、古い iPod で元ちとせの「空に咲く花」を聞きながらまだ人通りの少ない通りを歩き出す。いままでいちども手術や病気のことで親を困らせたことがない子はそれだからこそ必死でこらえている言葉もあるだろうが、それに答える言葉もないことが胸が張り裂けるような思いがする。答える言葉がないから、怒鳴ることしかできないのか。そうして夏の朝をとぼとぼと歩み出す。歌が、皮膜からじわじわと滲み出して路上にこぼれる。

2016.8.26

 

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 日曜は外食の帰りに、閉店間際だった国道沿いの自転車量販店に立ち寄って三輪の自転車を正式に購入・注文してきた。ブリジストンのワゴン(3段ギア付き)。メーカーHPにある「標準現金販売価格」とやらは税抜きで¥77,800であるが、店頭価格は税抜きで¥67,676でWebより安かったので、しばらくのメンテナンスも考慮して近くの店で買うことにした。税込みで7万円少々、娘が選んだ色はブルー、一週間程度で納品の予定。http://www.bscycle.co.jp/products/brands/WAGON/BW132013/index.html 

 つれあいが知り合いの市議さんに頼んだ駅周辺の道の段差については先日回答を頂き、現在駅前ロータリー周辺を整備しつつある近鉄、及びJRから団地へ至る歩道に関してはもともと順次バリアフリー化する計画でいるが、何年か越しの計画であるので、とりあえず要望のあったJRへの導線上の歩道の段差を少なくする処置をしてくれるとの由。ただし市議さんいわく「そこはお役所仕事なので、年内かも知れないし、年を越えるかも知れないし」。

 明けて昨日はつれあいが娘を連れて車で、あたらしい高校へ正式に願書を提出した。これまでの高校での転校処理の書類と、写真と、「本校を希望した理由」の作文とを併せて。そして今日は娘の携帯へ直接学校から電話連絡があり、入学試験が9月1日に決まった。といっても面接と、あとは筆記用具持参というだけで何をするのか分からないが。

 娘の部屋へ入ったら宅急便のちいさな小包がベッドの上にあって、訊くと「演劇部で知り合った他校の先輩から借りていた本を返す」のだという。それからまたリビングでは母親と「髪型を変えようかな」なぞといった女同士の話をしている。「ミドリ色にしなよ、ミドリ色に。こんどの学校に合わせて」と愚かな父は相手にされない茶々を入れる。なにとなく、いろいろなものが動き出している。

2016.8.30

 

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 山へ行きたくなるのはおのれがばらばらになってしまいそうになるのをこらえるため。じぶんの足でもバイクでも車でも土地の山々の背骨を指でなぞるように。2ヶ月前もそうだった。あの障害福祉施設での大量殺人事件が起きたとき、この国の社会は喫水線を超えてしまったのだ、と思った。じぶんでも説明のつかない衝動にかられて夜更けに紀伊半島の背骨を狂ったようになぞった。十津川、本宮、北山、大台。背骨をたどり、すこしだけじぶんがまっとうさをとりもどせたような心地になった。ナニ、何も変わっちゃあいないが。今回は高木顕明に会いに行ったのだ。天子さまの暗殺をくわだてた極悪人の高木顕明だ。秋田の骨も凍る刑務所の独房でみずからを縊れてさみしく死んでいったあの高木顕明だ。高木顕明へ会うために新宮へひた走る。

 土曜。仕事から帰って家で夕食を済ませてからぼちぼちと出かけた。吉野から川上へ。下北山まで走ってきたらさすがに眠くなってきて、前回とおなじ前鬼のふもとのスポーツ公園に車を入れて、車中泊とした。前回はやや窮屈だったが、今回は改良を加えている。フラットに倒した後部座席と助手席との隙間にキャリー・バックをつっこんでシート・クッションを乗せれば身体をまっすぐに伸ばせるだけのスペースが確保できた。これでかなり快適になった。車中泊がいいのは、車を停めるスペースさえあればいつでも好きなときに仮眠が取れることだ。そのまま朝まで眠りをむさぼったっていい。ここまで来てどしゃ降りの雨が無数の打楽器のように車の天井を叩く。山中の物の怪、魑魅魍魎たちもどこぞの岩穴に身を潜めてこの驟雨をやり過ごしている。じきに眠りに落ちた。

 6時半に目が覚めてふたたび走り出す。晴れ間がのぞき、山の緑は瑞々しく、川面はきらめいている。山という肉体から滲み出た水蒸気が憧れ出でた魂魄のように雲の切れ端になってそちこちに浮かんでいる。そこに虹が美しく架かっている。熊野市へ出た。海だ。海と富士山を見たときはいつも叫び声が出てしまう。花の窟に立ち寄った。女陰(ほと)を焼かれて死んだ伊弉冊(イザナミ)を葬った場所として伝わるが、じっさいに立ってみて、古代の風葬の地だと確信した。中央の窪みが女陰であるなら、まさに再生の場にふさわしい。熊野にはかつて風葬の習俗があったと読んだことがある。十津川で川に流した亡骸(なきがら)がいまの本宮大社旧社地の河原に流れついた。人々は河原の「丸くて白い石」をひとつ拾って持ち帰った。河原の「丸くて白い石」は禁忌(タブー)である。見れば岩盤に穿たれた穴の底にはだれかが海岸で拾ってきたのだろう、「丸くて白い石」が供花のように投げ入れられている。その穴に、そっと頭(こうべ)を入れてみる。わたしは風葬された亡骸(なきがら)である。腐り、乾き、鳥についばまれ、きれいな白骨と変化する。ここにある穴という穴に亡骸(なきがら)を置いてみたら、穿った岩盤に生前の生人形と共に遺体を葬ったインドネシアのトラジャの墓の光景が浮かんでくる。黒潮をたどって、これもつながっているかも知れない。母なるものはいつも南から来る。海岸へ出て、わたしも「丸くて白い石」をいくつか拾ってポケットにしのばせた。

 新宮駅からつづく商店街が果てるあたりにあるオークワ(新宮発祥のGMS企業)の駐車場に車を入れて、FBフレンドの花田さんに電話を入れたら「速玉大社の駐車場もまだ空いているようですよ〜」と仰るので移動することにした。ちょうど佐藤春夫記念館を出てこられらた花田さんと合流して「たぬきや」のカレーうどんとめはり寿司のお昼を食べてから、会場である熊野荘へ向かった。よく磨かれほどよい光沢を放っている階段を上がると二部屋と廊下を抜いた空間、佐藤春夫の有名な詩「少年の日」を掲げた床の間を背にした“舞台”。相対する客席の座布団40〜50枚はほぼ埋まった。大きな、頭陀袋に涙をいっぱいつめたような瞳をした高木顕明が立ち現れる。いや、すでにかれはここにはいない。ここにいない<非在>である高木顕明が、お父ちゃん、なんでうちをおいて死んでしまったの、だれがうちを救ってくれるの、と叫ぶ遺児の影となってふすま越しか天井裏かに手足をもがれた虫のごとく蠢いている。わたしたちはそれをたしかに感じる。父が獄中で縊死をした後、寺を放逐され、芸者の置屋へ売られた娘・高代は、国家権力による永久監視のもと苦界という万力に身をきりきりと締められ続けながら、「弥陀は必ず万人を救う」と言っていた父の影を慕い、罵倒し、呪い、信じようともがき苦しむ。高代役の明樹由佳さん、作者である三味線役の嶽本あゆ実さん、様々な男性の声を演じた間宮啓行さんのたった三人の舞台であったが、じつにすばらしかった。深夜の山道を三時間半ひた走った価値は十二分にあった。この新宮で観るという重みが、違う。劇中で高代が晩年に辿りついた天理教の陽気暮らしの教え(神さんは「人間の陽気ぐらしするのを見て共に楽しみたい」と思し召されて人間を創造した)が胃の腑にすとんと落ちたと言ったように、わたしの臓腑にもあの七里御浜の石ころのようにころがり落ちたのだった。

 サテ、いまは明治か平成か。ふらふらと黒潮の町にさまよい出たわたしたちはそれから、市内をいくつか巡り歩いた。おなじ大逆事件で死刑台の露と消えた大石誠之助邸跡(石柱だけが道端にある)。そこからすぐ見渡せる熊野川の河口とだだっ広い河原。かつてこの権現河原には河原家(かわらや)と呼ばれる、川の氾濫期にはすぐに解体して運べるように工夫された組立式の宿屋・鍛冶屋・散髪屋・銭湯・飲食店などで構成された「町」がひろがっていた。わたしの曾祖父は村史によれば北山村の筏師の頭領であった。山から刈り出した木材を筏に組み、鉄砲水と共に下流まで運んだ。曾祖父は当時の河原家の風景も見たはずだ。そこでときに散髪をしたり、家に持ち帰るみやげ物を買ったりしたことだろう。影である高木顕明を感じるように、わたしには曾祖父の操る筏がこの河原へ流れ着くさまがたしかに見える。かつて高木顕明が住職として赴任し新宮周辺の被差別部落の人々と交わった浄土真宗の“エタ寺”浄泉寺は、いまや鉄筋コンクリート造りの古びた味気ない本堂だけで往時を偲ばせるものは桜の古木くらいだった。かれは訪ねていった部落の家で出されたお茶や粗食をはじめは、苦行のように無理やり喉に流し込んだという。そうした葛藤をすなおに苦悶していたかれに親しみを覚える。内なる弱さを認めるにんげんの顔がある。

 それからわたしたちは新宮市立図書館へ移動して、中上健次の資料収集室にあった晩年、かれが肉体を壊していた頃に参加できない熊野大学のお灯祭セミナーへ向けたビデオレターのDVDを見せてもらった。やつれた背広姿の中上健次がそこで話し出したのは、かれがいまこころを寄せているという陶淵明の漢詩であった。おのれを形影神、つまり身体と影と精神の三つに分解してそれぞれに対話をさせるという「形影神」をみずからの現況の代弁として朗読した。

形贈影

  天地長不沒  天地 長へに沒せず
  山川無改時  山川 改むる時なし
  草木得常理  草木 常理を得て
  霜露榮悴之  霜露 之を榮悴せしむ
  謂人最靈智  人は最も靈智なると謂ふも
  獨復不如茲  獨り復た茲くの如からず
  適見在世中  適ま世の中に在ると見るも
  奄去靡歸期  奄ち去って歸期靡し
  奚覺無一人  奚んぞ覺らん一人無きを
  親識豈相思  親識も豈に相思はんや
  但餘平生物  但だ平生の物を餘せるのみ
  擧目情悽而  目を擧ぐれば情は悽而たり
  我無騰化術  我に騰化の術無ければ
  必爾不復疑  必ず爾らんこと復た疑はず
  願君取吾言  願はくは君吾が言を取り
  得酒莫苟辭  酒を得なば苟しくも辭するなかれ

天地自然は永久になくならない、山川も変わることはない、草木は自然の法則に従い、開いたりしぼんだりするものだ

人間は最も靈智な生き物とはいえ、特別な存在であるわけではない、たまたま世の中に生きているとはいえ、すぐに死に去って再び戻ることはない

いつの間にか一人がいなくなっても気づくものはおらず、親しいものとて、いつまでも偲んでくれるわけではない、後には生前使っていたものが残るのみだ、これを思えば人間とははかないものだ

人間には仙人のように不死の世界に舞い上がる術はないのだから、そうなるのは仕方のないことなのだ、だから君よ、私の言うことに耳を傾け、酒があらば決して辞退してはいけない

 かれはこのとき死、おのれの個としての消滅を意識していたのだと思う。非在の存在、といったことをかれは言った。言葉はその中心を渦のようにまわりながら彷徨した。熊野とはなにか。熊野に暮らし続けている者が熊野を知っているわけではない。熊野とはなにかと問う、その問いによって輝くものが真の熊野である。問いがなければ、熊野もない。問い続けること。

 最後にわたしたちが訪ねたのは市のはずれにある南谷墓地だった。細長い谷筋を新旧の墓石が埋め尽くすこのあたりはかつてはかなり寂しい場所で、「神倉山の天狗が遺体を盗みに来る」という言い伝えもあり、葬列は駆け足でここまでたどり着いたという。かつて20代のとき、あまりに早く往きすぎたこの作家の墓の前でわたしは無謀にも「志はきっと継ぎますから」と祈ったのだった。まあ、気持ちはいまも変わらない。死後85年を経た1996年の復権後に建てられた高木顕明の墓と顕彰碑は谷筋のいちばん奥、石段をすこしのぼった高みにひっそりとあった。手足をもがれえた非在の存在であるかれはこの町にもどってきていま何を思うか。この顕彰碑がふたたび撤去される時代がまた来るのではないかと、わたしはふと思ったのだった。問い続けること。問い続けることによってのみ浮かびあがり輝き出すもの。顕彰碑などは要らない。わたしたちが問い続けることによって、頭陀袋に涙をいっぱいつめたような瞳のひとりさびしく狂おしく縊れた僧侶の非在は輝き続ける。そういうことではないか。最後に探しあてた大石誠之助の墓は尾根筋の日当たりのいい高台にあった。しかしこの誠之助の墓にしても建立は昭和20年代、戦後である。それまではおそらく墓など建てられなかった。逆徒とは、大辞泉にいわく「主君に背いて謀反を起こした者たち」である。「主君」なんぞというものを人がいだき、おのれを託す限りは逆徒もまた発生し続けるということになる。逆徒とはじつは、問い続け、輝き出でることではないか。そろそろ日も翳ってきた。足元の谷筋には苔むした墓石たちが夕刻の、まだ湿ったぬるい南紀の風に嬲られている。わたしたちは墓を下った。

 速玉大社の駐車場で花田さんと別れた。はじめてお会いしたのに寸毫もそんな気がしなかったのはわたしが無遠慮だったからかも知れない。花田さんはいたずら好きな少女のような人である。帰り道はおなじルートを引き返した。熊野市の国道沿いに忽然と現れた謎の台湾ラーメンの中華屋で夕飯を食べた頃にはあたりはもう真っ暗だった。がらんとした店内には若い父親が三人の幼子に食事をさせていた。馴染みの客らしく、子どもたちが残した唐揚げのために日本語がたどたどしい女性店員が持ち帰りの容器を渡してあげていた。店内は能舞台のように仄かに暗かった。暗い熊野灘の海にも別れを告げて、魑魅魍魎の山界へわけいっていく。北山村からのルートに合流する手前の集落のコンビニでホットコーヒーを買った。それから標高があがるにつれて雨がひどくなった。叩きつけるような雨でワイパーを最速にしても視界が覚束ない。いまごろ町には灯りが氾濫してまだ大型のショッピングセンターも閉店前だが、人界の果てたこんな山中はいつも人知れずこんな豪雨が降り続ける。闇と植物と息を潜めた動物たちと雨だけだ。とてもシンプルだが、無辺に深い。この雨が山に水を蓄える。水が生命を育む。ときに土砂となって命を奪う。暗闇の中のこまかいカーブの連続でさすがに神経が疲れる。行き交う車も殆どないので、ときどき意識がぼんやりとして道をはずれそうになり、あわててハンドルを回す。川上村までもう一息という上北山の道の駅に車を入れて、すこしだけ仮眠を取ることにした。助手席を前に倒し、運転席から身体をするっと後ろへうつせばそのまま寝室だ。滝のような雨に打たれているこの小さな小さな箱の中の音を聴きながら眠りに落ちていく。じぶんがにんげんと物の怪のおぼろな境界でまどろんでいる、この感じがいい。

日産ノートの車内を真っ平らに http://58094028.at.webry.info/201506/article_2.html 

花の窟 http://www.hananoiwaya.jp/festival.html 

新宮のおすすめランチ15選  http://find-travel.jp/article/18237

非戦貫いた大谷派僧侶・高木顕明 遺品から新資料 http://www.chugainippoh.co.jp/rensai/jijitenbyou/20150731-001.html 

「彼の僧の娘―高代覚書」新宮お披露目会と戻り公演 http://ameblo.jp/mementoc/entry-12190201795.html 

MementoC(Facebook) https://www.facebook.com/Mementoc/ 

筏師の歴史 http://site.murablo.jp/sightseeing/ikada/rekishi 

中上健次資料収集室 https://www.city.shingu.lg.jp/forms/info/info.aspx?info_id=18848 

形影神(陶淵明:自己との対話) http://tao.hix05.com/204keieisin.html 

新宮歩楽歩楽(ぶらぶら)マップ http://www.city.shingu.lg.jp/forms/info/info.aspx?info_id=30045#3_0 

南谷墓地 http://wakayamapr.ikora.tv/e776159.html

 

2016.9.5

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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