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 この国はどこへ行こうとしているのか 東日本大震災5年 作家・辺見庸さん 「第二次大戦で独伊の独裁者が突き動かした全体主義のようなあからさまな抑圧ではない。責任を負う中枢も本質もはっきりせず、市民一人一人の内面に癖(へき)や処世という形ではびこる。メディアの自粛や、権威や他者を異常に気にするそんたく、奇妙なムードづくりがその典型−−。 」 「多くの文献、資料に当たるうち、元兵士の証言から浮かぶ情景が辺見さんの頭から離れなくなる。「原野で兵士2人が、別々に中国人女性を犯しながら互いに手を振り合う。その様子を見ながら行軍している兵隊たちが小銃を振り上げ『がんばれ!』と言ってげらげら笑っている。でも、彼らに犯罪意識はなかった」。天皇制軍国主義がもたらした、すさまじい負のイメージを感じる。  戦後の日本人は忘れっぽいとよく聞くが、辺見さんの見方は違う。「忘れたふりをして昔を残しておく。そのそぶりに非常にたけている。過去の過ちも責任もあいまいにして、忘れたふりをするには、鉛のような無神経さが必要。それが日本人の意識の底にずっとあると思う」  震災で現れた「むき出しの日本」。原発事故で今も約10万人の避難者がいるのに、責任があいまいな状況を許すこの国の姿と、日中戦争での皇軍の姿が辺見さんの中でつながる。戦争被害者が被災者に重なるということではない。自らの行いを深く自問せず、さしたる葛藤もなくやり過ごすところが、今の日本人につながる、と。 」 

2016.2.26

 

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 ケッコン以来、ずっと仲良くひとつのダブルベッドで寝ていたのだけれど、わたしのイビキが五月蝿いのと、冬は布団を取られる等々で熟睡できないとの理由から、つれあいがおなじ二階のゲスト用の折りたたみベッドを置いている通称「テレビの部屋」へ去っていってしまったのは、あれは庭のジューンベリーの最後の一葉がはらはらと舞い落ちた去年の秋の日のことでございました。 「一人じゃ、眠れない」 「それじゃケッコンした意味がない」 「テレビの部屋に行くんだったらもうリコンする」 「いっそ、殺してくれ」とか、ありとあらゆることを言って反対したのですが、無駄でした。「もうわたしも歳だから、睡眠不足だと身体がもたないのよ」と彼女は言うのです。 それから寒い日が続き、夜になると娘が犬のジップと猫のレギュラスを代わり番こにじぶんの部屋に入れるようになって(二匹をいっしょに入れると一晩中駆け回ってとまらないので)、残されたもう一方が玄関のゲージでは寒くて可哀想だからと、つれあいが選ばれなかった方の一匹を、勝手に占拠している「じぶんの寝室」に入れるようになった。 「(猫のレギュラスなどは)朝、わたしが目が覚めたら枕元にちょこんとすわって覗き込んできて、かわいいのよ」 そんな話を聞いて、「なら、おれも」と猫のレギュラスをひとりぼっちの寝室に入れてみたのだけれど、広い部屋のせいか、あるいは物珍しいのか、電気を消しても運動会のように部屋中を走り回ったり、部屋の隅に置いている蜜柑のダンボール箱などをがじがじと触ったりして、一向に寝ようともしないし、娘の部屋にいるときのようにいっしょに布団に入って顔だけ出してきて喉をごろごろと鳴らすこともない。朝、目が覚めたら足元の布団の上に勝手にまるくなって寝ている。 「レギュがいっしょに寝てくれないんだよ」 すると昨夜、娘が「じゃあ、お父さん。わたしもいっしょに寝てあげようか。そうしたらレギュラスも布団に入るだろうから」 「うん!」 というわけで昨夜は、わたしと娘と猫のレギュラスと三匹で寝たのでございました。レギュラスははじめこそ、ときどき抜け出しては部屋の中をうろついたりしていたけれど、またもどってきて、わたしと娘の間の布団にくるまって、ごろごろといつまでも喉を鳴らしておりました。 朝、起きてからキッチンで食事の支度をしていたつれあいにそのことを報告すると、「あら!」と驚いてから、「じゃあ、昨夜は最高にしあわせな夜でしたね」と微笑んだのでございます。

2016.2.27

 

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 いっしょの布団で寝てはくれないが、朝の忙しい最中をぬってお昼は作り置きしてくれる。起きたら置いてあった二人分のオムライス。つれあいはこの間から、図書館のたな卸し作業とかでへろへろになっている。 わが家の朝食はみなメニューがばらばらだ。つれあいがトーストを焼いて、娘はお餅をきなこにまぶして、わたしはたいていご飯と納豆。それぞれ好きなものを食う。 今日は娘はコーンフレーク、わたしは残りご飯に納豆と生卵と炙ったごぼ天に醤油をかけて。

 休日。約束どおり午前中、娘と市営の温水プールへ、リハビリも兼ねて。 娘の障害者手帳で二人とも無料だが、わたしがキャップを忘れてしまい1200円で購入した。冬だからか、空いていて利用者はまばら。 水中だと重力から解放されるのだろう。気持ちよさそうに水の中を戯れている。 深さ85センチの幼児用のところだと、ちょうど水面が腰の辺りになる。ここで歩くと下半身は水の抵抗がかかり、かつ上半身は重力にさらされてバランスをとらなくてはならないので適度なリハビリになる。プールサイドで、横にカニ歩きをして何週か。とくに弱い(麻痺の強い)左足を先頭にしたときは、やはり数歩でよろけてしまう。 リハビリばかりでは折角来たプールが愉しめない。乗り降りする手すりを軸に、鬼はじぶんが手すりを持っている状態で相手の腕をつかまえたら勝ち。手すりをはなしている状態で相手に腕をつかまれたら負け。また相手は鬼に腕をつかまれる前に手すりにタッチしたら勝ち。というルールをつくって、ひと気のまばらな一角でしばし子どものように遊んだ。 帰ってきてつれあいの作り置きのオムライスを食べたら、ソファーで昼寝。全身がほどよく疲れていて、すぐに眠ってしまった。 今夜は荷造りをして、現場近くの宿へ荷物を入れておく。明日はそこから直接、現場へ。いよいよ佳境。読めるかどうか分からないけど、辺見庸「1★9★3★7」とエマニュエル・トッド「シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧」を持っていく。

○ またしばらく、Long way from my home. ってこんどは大阪南部だから、いつでも帰れるけどね。 はやく家に帰りたい。ってS&Gにあったな。

○ 夜の見知らぬ町をさまよい歩く。 缶ビールを求めて(^.^)

○ レオパレス。 まずはレンタルの布団を圧縮袋から出して展開する。これが面倒臭い わたしはロフトのあなぐらのような空間が好き。(下は夜勤担当のN君が使う) トイレに平城遷都1300年祭の手ぬぐいをかけてみた。 これから湯舟に浸って読書。

2016.2.28

 

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○ 今日の昼は外へ食べに出た。 奈良にもありますが、河童ラーメン。720円。 無料のキムチと揚げニンニク。 平日は替え玉も無料。

○ 商店街のとば口で深夜営業の中華屋を発見。 名物らしいカレーちゃんぽんとライスを注文。 おじいちゃん、おばあちゃんと孫、のような家庭的な雰囲気。 カレーちゃんぽんも特にどうというわけでもないのだが、ふつうにうまい。 しめのライスを投入し、お腹いっぱい。 夜更けのがらんとした商店街や路地はなんだか別次元の世界のようだ。

○ 今日の百円均一の買い物。 まな板、割り箸、レンジ用タッパー二種、ステンレスのマグカップ、食器洗剤とスポンジ、タオル、ハンガー。 すでに買ったもの。 トイレットペーパー、洗濯ハンガー、コロコロと粘着テープ、バスマット、シャンプーなど。 包丁と塩胡椒は名古屋で買ったのを持ってきた。 さあ、明日からまたもやし三昧だな。

○ 殺風景なレオパレスの部屋でエマニュエル・トッド「シャルリとは誰か?」を読んでいる。 諷刺新聞『シャルリ・エブド』の襲撃を受けて発生したフランスのデモ行進について、著者は次のように記す。 「平和的でお人好しのデモであった。そもそも参加者たちから、なぜこの群集の中にいるのかという正確な理由づけを聞き取るのは難しかった。恐ろしい出来事のあとで、「一緒にいる」必要、いくつかのベーシックな「価値」を肯定する必要が社会を支配していた」 いまわたしたちのこの国で、テロやミサイルや国境での紛争や海外での戦死などが起きたら、どうだろう? そのときこそ「第二の戦前」の完成なのかも知れない。 問題なのは内なる他者である。 矢は思いもかけず、潜伏した深みより放たれる。

2016.2.29

 

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○ 世間は雛祭りだが、ちらし寿司なんかつくれないもんね。 スーパーの見切り品、天ぷら三種(芋、アジ、下足)150円。 もやしと薄揚げと糸こんにゃくの和風ナムル。 レンジご飯とインスタントの味噌汁。 こう見るとけっこう豪華だな。雛祭りだしな。

○ 誰もが寄る辺なき寄留者なら、ことばは民族も国境をも飛び越える。 そして実際に、誰もが寄る辺なき寄留者なのだ。

2016.3.3

 

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○ レオパレスから毎朝晩かよっている橋の、これは明治頃の風景。橋の上には大八車を引く男。奥には南海鉄道(現在の南海本線)のSLが走っている。 「ここは紀州街道の堺への入り口にあたる交通の要所であった。旧暦6月末日に行われていた住吉大社の大祓(おおはらえ)の祭りでは、堺の宿院に移された神輿(みこし)が夜住吉に還幸(かんこう)するとき、神輿を送る堺の人々と迎える住吉の人々のかざす数百の松明(たいまつ)がこの大和橋の上であかあかと燃え、その火は兵庫県の明石や泉州の岡田浦などからもみることができたという。」 昨日の朝は土手の法面で、乱舞するユリカモメに餌をやっている人がいた。

○ 子どもを見捨てるということは、未来を捨てるということ。

2016.3.5

 

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 「テロは国境を越えたグローバルな脅威」 あれこれもっともらしく書いてはいるけれど、すでにさいしょの前提で躓いているんだよ。そしてある意味、その暴力的なほど雑なレッテル貼りにあんたら大新聞もずっと加担してきたんだという自覚が、こいつにはまったくない。 あんたらのような想像力の欠如した錆びれた感性がISを産み出している遠因となっていることが理解できないだろ?

 朝日新聞デジタル>記事 「日曜に想う」 停波命令、ISに出しますか 論説主幹・大野博人 2016年3月6日05時00分  

「われわれは、帝国主義者やシオニストの脅しには屈しない」  ラジオから威勢のいいメッセージが流れ出す。ほどなく雑音が激しくなり、やがて異なったアクセントの言葉がそれを覆い、聞き取れなくなる。  イラクのクウェート侵略がきっかけとなった湾岸戦争の取材のため中東にいた25年前の経験だ。イラク国営放送のログイン前の続き番組はしばしばそうやって尻切れトンボになった。敵対するイスラエルの放送局が同じ周波数で重ねていたらしい。  テロや戦争、内乱などが起きたとき、メディアで繰り広げられるのはそんなせめぎ合いだ。冷戦下の東西の間でも、各地の紛争地帯でも同じようなメディア戦が続いてきた。  ラジオからネットに主舞台が移っても変わらない。たとえば中国は、ネット空間に飛び交う情報や主張に神経をとがらせ、気にくわない国内外のサイトはブロックする。  現実に起きる緊張度の高い局面でメディア空間に動員される手段は、法治も国境も尊重しない実力の行使だ。      

*  放送局が「テロリスト集団が発信する思想に賛同してしまって、テロへの参加を呼び掛ける番組を流し続けた場合には」電波停止(停波)もありうる、と高市早苗総務相は自分のホームページのコラムに書いた。  なるほど、と思うわけにはいかない。総務相は同じコラムで、それをほかの例などとともに「万が一、不幸にも『極端なケース』が生じてしまった場合」としているが、そうだろうか。  残念ながら、テロや武装闘争を呼びかける「放送」を「万が一」の出来事と言えるほど現代は平和ではない。危ない「放送」なら今も世界中に流され放題だ。過激派「イスラム国」(IS)や同調者のネットでのテロ参加への呼びかけはその典型的な例だ。  ジャーナリストの後藤健二さんや会社経営者の湯川遥菜さんを殺害したISはネットで日本政府に向けて「お前の国民はどこにいたとしても、殺されることになる。日本にとっての悪夢を始めよう」と流していた。  そんな「放送」は止めなければならない。でもどうやって?  少なくともISに対して、日本の総務相が停波を命令するぞと警告してみても、むなしいだけだろう。  テロは国境を越えたグローバルな脅威。他方、停波は国内にだけ通用するナショナルな対策だ。国内の放送局への規制を正当化するのに、もっぱら国外からラジオやネットで入り込むリスクを持ち出す――。問題と解決がまったくかみ合っていない。  仮に、国内の放送局がテロを呼びかけるという場面が起きるとしても、それはその国がすでに内乱状態に陥っているときではないか。いずれにしても停波命令という行政処分に出番がある領域ではあるまい。いいか悪いか以前に、こんな「極端なケース」に対しては、ただ単に役に立たない。      

*  憲法学者ら5人が2日、総務相発言を問題とする声明を出した。そこでもテレビが「インターネットをはじめとする他のメディアに比べて強い影響力を持つとも、言えなくなっている」と指摘。既存の放送への規制にこだわる異様さを批判している。  先立つ先月29日にも「電波停止」発言に抗議する声明が出ている。こちらの呼びかけ人は放送の現場をよく知るジャーナリスト7人。  声明は「テレビ報道を取り巻く環境が著しく『息苦しさ』を増していないか」と自問。「自主規制、忖度(そんたく)、萎縮」が放送現場の内部から広がることへの強い危機感を訴えた。記者会見では、その懸念が現実になりつつあるという発言もあった。  政権がほとんど意味のない「極端なケース」に言及するのはなぜか。自分たちの目に「公平」と映らない番組への牽制(けんせい)という真の狙いをあいまいにしておくため。そうとしか思えない。

 

 

 【日本少女歌劇団 1/3】  お昼のお好み焼きを家族三人で食べてから、家の補修など小さい用事をいくつか済ませて、商店街へ一人ぶらぶらと。 かつてこの郡山に本社を置いた興行会社が経営していた「日本少女歌劇座」の、当時の公演プログラムや絵葉書などを京都文教大学の先生が古書店などで集めたコレクションをメインにした展示。 詳細は以下のリンク記事に譲るが、面白かったねえ。ちょうど当の鵜飼正樹教授もおられて質問というか、お話も伺えた。 ひとつは本社建物がいまも市内西岡町に現存しているという話。居住はしていない様だが、夜には門灯も点灯して、管理者はいるらしい。むかしからそんな状態なので、近所では「お化け屋敷」と呼んでいる人もいるとか。鵜飼氏は「できたら町で保存するとかして、残して欲しい」と言っておられた。 西岡町といえばかつて郡山にあった赤線地帯が有名で、じっさいに近鉄の線路をはさんで東西に隣接している。そんなことから、むかしは遊女たちの診療所もかねていたんじゃないかという話もあるらしいが、「関係はなかったと思いますね」と鵜飼氏は言う。ただ場所柄的にもしかしたら、往時はその辺りは郡山の「千日前」のようだったのかも、と空想を膨らませてみたり。 もうひとつは1年をかけて全国をまわった巡業先の地図があったのだが、どれも東京・名古屋・大阪などの大都市は避けて、比較的ひなびた地方都市をメインにまわっている。これは大手の劇団を避けたのと、大都市の人々は目も肥えているのでまだ歌劇団など見たことがない地域を選んでまわっていたのだろう、というお話であった。 敗戦を経た昭和26年頃の機関紙では、かつて馴染みだったスターの誰某がいないという観客からの投稿に「○○さんは残念ながら終戦時に死亡しましたが」と回答している一節もあったりして、さまざまな人間模様が偲ばれるが、残念ながらこの「日本少女歌劇座」に関するまともな記録はほとんど残されていないらしい。 そんなわけで鵜飼氏は「日本少女歌劇座」に関する情報を求めている。舞台をじっさいに見た人、パンフレットや絵葉書を含む資料をお持ちの方は、ぜひ以下へ。

 京都文教大学総合社会学部 鵜飼正樹 メール m-ukai@po.kbu.ac.jp

朝日新聞 奈良)お宝ずらり「日本少女歌劇座展」 大和郡山 http://www.asahi.com/articles/ASJ2Y0RJFJ2XPTFC00V.html

読売新聞 奈良拠点に巡業、日本少女歌劇座の活動明らかに http://www.yomiuri.co.jp/osaka/news/20160224-OYO1T50022.html

© ニュース「奈良の声」2016  http://voiceofnara.jp/news542.html 京都文教大学校友会・文化人類学支部のブログ http://nocnok1996.blog.fc2.com/blog-entry-4.html

 【日本少女歌劇団 2/3】  というわけで、その「日本少女歌劇座」の興行拠点であった、市内西岡町にいまも現存するという「島興行社」の建物を、さっそく探偵犬ジップと調査してきた。 場所はココ。 https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%80%92639-1014+%E5%A5%88%E8%89%AF%E7%9C%8C%E5%A4%A7%E5%92%8C%E9%83%A1%E5%B1%B1%E5%B8%82%E8%A5%BF%E5%B2%A1%E7%94%BA%EF%BC%95%E2%88%92%EF%BC%97/@34.643918,135.7782934,17z/data=!4m2!3m1!1s0x60013a9019cc46a9:0xbfede3e061e869b0?hl=ja

近鉄線の線路に近いが、かなり狭い路地に面していて、ちょっと分かりにくい。現在の風景では、もうほとんど城下町の南端が途切れて、金魚の養殖池が広がっていこうという付近だ。 左半身は日本家屋、右半身は洋館という、その奇妙な「キメラ館」は薄暮の中でひっそりと佇んでいた。 先にあげた機関紙では、劇団員たちは寄宿生で、この奈良の本社で稽古などもしていると書かれていたから、あるいは当時はもっと敷地が広かったのかも知れない。 ここで飛び交ったさまざまなことば、人々の顔、そしていろいろの物音などを想像してみた。人の一生なんてあっけないが、輝いていた粒子はいまも空気中に残っているような気がする。

 【日本少女歌劇団 3/3】  「島興行社」の社長、島幹雄をWebで調べていたら、「松川事件」とか出てきたよ・・

◆少女歌劇(Wiki) 日本少女歌劇団(地方巡業):1926(大正15)頃 - 1955(昭和30) 島幹雄(本名・富永朝太郎)が創設し団長を務めた。戦前は満州を含む各地を巡業、戦後も活動した。1949年8月16日には福島県松川町で1日のみの公演を行い、一泊して翌日に移動したことから、同年8月17日未明に同町で起こった松川事件の真犯人と何らかの関係があるのではないかと言われたことがある。この件は1964年の国会(衆議院法務委員会)でも取り上げられた([2][3])。別称・日本少女歌劇座。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%91%E5%A5%B3%E6%AD%8C%E5%8A%87

◆日本の黒い霧−4 ”松川事件”(続き) 事故現場の松川駅の近くには松楽座という劇場があり、事故当日に一夜限りの興行が催されている。観にいった人の供述調書や操作報告者はあるのに主宰者や団員のものがない。裁判では取り上げられることもなかったが、この時の団員の宿泊者の人数が各人の証言で会わず団員数より多く泊っていたことも指摘されている。 団長は島幹雄、そして興行を立てたのは福島県の興行のボスである北島源市であり、戦前から満州、中国などを渡り歩き、戦後は国鉄、警察そして米軍と多くかかわっていたと。 http://www.geocities.jp/t_shimizu2003/kiri_4_2.html

◆衆議院会議録情報 第46回国会 法務委員会 第14号には、「日本少女歌劇団」と松川事件についての記述がある。 ○志賀(義)委員 では警察のほうで、その点を局長お調べを願いたいと思うのです。  そこで島団長は、当夜松楽座に泊ったのは、女は別として男は二十人と言っております。他の団員たちは十二、三人泊ったと今日証言しておられます。七人の食い違いがあります。この七人前後の食い違いという点が一つの重要な問題になってくるのでありますが、この七人はどこに行ったのか、だれとだれであったのか、この問題の解明のかぎが数十回にわたって調べられた野地タケの証言にあると思います。ここまで申し上げておきますから、その点をお調べいただきたいと思います。団長と団員の二、三の君たちの証言、二十名あるいは十二、三名というので食い違いがあるのであります。これはだれとだれであったか、またどこへ泊ったのか、福島方面に行ったというのですが、その福島がどこの福島やら、経路はどういう経路をとって行ったのか、車に乗せた人もあるでしょう、そういう点をお調べ願いたいと思うのです。島それから北島源一、野地タケ、その他関係者の供述書、捜査復命書及び警察で領置してあるはずのいろいろな書類その他全部、ひとついままで申し上げたのを、委員長、私どもにも見せてくれるように、なかなか委員長ものわかりがいいからその点をお願いいたします。ひとつ出してくださいよ。もしこれらの点について捜査がなかったとしたら――先ほどから伺ってみると、どうもあなたは認めないような認められるようなことを言っておられるが、捜査上の大失態だと思います。その点をどうかよろしおく願いしたいのです。  なお、日本少女歌劇団長島幹雄、本名を富永朝太郎といいますが、この人物は当局でお調べになったはずです。いかなる人物でいま何をしており、また当時アメリカ軍政部、CICなどと関係が深かったように思うがその点はどうか、この点をお答え願いたい。 ○後藤田政府委員 ただいま私が承知をしておるのは、この富永なる人物は宮崎県興業の社長である、こういう点だけでございます。 ○志賀(義)委員 そこにホテル・ニュージャパンという大きいホテルがあります。それの八百六十八号室をずっと借り切ってこの人がおります。いま東京に来ているはずであります。私どもの調べたところでは、その部屋の長谷川達という人の名義でこういうパンフレットが出ております。これは「自衛隊父兄会協力会隊友会の友、内外情勢研究会、東京都千代田区永田町二丁目二十九、ホテル・ニュージャパン八百六十八号」これを出しているところが、島君がずっと借り切っているところです。東京では何をしているのでしょうね。これは当然、あなた方は初め知らなかったのは手落ちでなかったかとも言われているので、この人物について、いま東京に来ているのについてお調べになったことがありますか。 http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/046/0488/04603130488014c.html

◆書籍を読む - 旬報社 「松川十五年 編著者名:松川事件対策協議会編」 12ページあたり。 http://www.junposha.com/library/pdf/60004_22.pdf

◆『私の戦後史と日本共産党論』(中井準之助 文芸社)のp119には松川事件に「日本少女歌劇団」と名乗る劇団についての記述がある。当館には所蔵なし。(googleブック検索でヒット。 http://books.google.co.jp/books?id=E8HHhggPynAC&pg=PA119&lpg=PA119&dq=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B0%91%E5%A5%B3%E6%AD%8C%E5%8A%87%E5%9B%A3%E3%80%80%E6%9D%BE%E5%B7%9D&source=bl&ots=FkDYsSx0pT&sig=ed_MnJFeyrb8mbGB0g7w5106R_o&hl=ja&ei=Fr-4SbzrBoGI6gPY8-zzBA&sa=X&oi=book_result&resnum=7&ct=result

2016.3.6

 

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 どこか郊外の町の、といっても今日は祭りかなにかで華やいでいる駅と病院の待合所をかねているような木造の建物のふるびたベンチに座っているじぶんのひざの上に、可愛らしい小さな女の子が甘えて乗っかってきて、わたしの左隣に座っている品のある和服姿の母親は「まあまあ」などと言いながらそれを微笑んで見ている。 抱きささえようとして手をまわすと、背中に大きな瘤のような突起があって「ああ、この子もうちの娘とおなじように二分脊椎の病気なのかも知れないな」と思うが、隣の母親には訊くことができない。 やがてその子は往診の部屋へ呼ばれて、母親はわたしに待っていて欲しいようなそぶりを見せるが、わたしは電車の時間が来て、残念な気持ちを抱えながら駅舎とおなじくらい古びた電車に乗り込んで、過ぎていく田舎の景色を窓越しに眺めている。 そんな夢を見た。

2016.3.13

 

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 ひと気も絶えた夜半の住宅街にラブホテルのごとしきらびやかさをまとって忽然と現れる御堂。 性も聖も此岸を憎み、彼岸に憧れるこころは似ている。 それゆえに性も聖も、この世の宝からは永遠に逸脱しつづける。

2016.3.17

 

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 つれあいからメール。 わたしはまだ帰れない。

 卒業しました。 なんと○○さんと友達になったそうです!いっぱい話したと喜んでいました。 クラスの子、二人に手紙をもらったと、これまた、とても嬉しそうでした。さらにマドレーヌをみんなに焼いてくれた子がいて、紫乃を迎えた車の中で紫乃がお腹がすいたと何度も繰り返すのでマドレーヌ食べたら?と私が言うと、紫乃はもったいなくて食べられないと笑顔で言ってました。 紫乃にとって、とてもいい一日になったようです。

2016.3.18

 

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○ 鈴木雅之と薬師丸ひろ子が大滝詠一の夢で会えたらを歌うのを深夜のテレビで見ている。 朝7時から夜零時近くまで働く毎日。シャワーを浴びてビールを飲んで寝るだけの日々。

○ 毎日、朝と晩。川があるのは救いだ。

2016.3.20

 

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○ レオパレスの安物のプラスティック容器のような浴槽に満たした湯に浸り、辺見庸の1937(イクミナ)を読みはじめる。世界のすべての意味が崩落し溶融する、と記す作家の呂律が白目を剥いている文章がまるで既知の食物のように臓腑に沁みわたってくると、ときどきそうなのだが、わたしはおのれのしょぼくれたタガが外れて、地上の一切合切を投げ捨てて無辺の彼方へ弾けてしまいそうになるじぶんを見出だす。哀れな単独犯の逃避行だ。こむら返りのように痙攣し嗚咽が漏れる。

○ 朝の川は吸気のため、夜の川は呼気のため。

2016.3.21

 

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○ 一日だけ休みをとって帰宅。 捌いたばかりの獲物の臓物がまなうらからつるりとこぼれ落ちたような赤い夕陽が鉄橋にはさまれてもがいている。

○ 帰宅したら、卒業式の娘が奈良新聞に載っていたと、学校の先生がコピーをくれていた。 名前順でたまたま一番目だったので校長先生が卒業証書のすべてを読んだからだろうと。 「ったく。このときほどじぶんの姓を恨めしく思ったことはなかったよ」と娘。

○ あほですな。大人があほ。「上」にいけばいくほどあほ。 学校がだめな理由がよくあらわれている。

2016.3.22

 

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 ひさしぶりのわが家。まるで別世界のように思える。 10時頃まで寝坊して、庭の蝋梅やジューンベリーが蕾を膨らませているのを味わったり、近所の空き家の解体工事が始まったのを見に行ったり、娘のベッドで猫とうつらうつらしたり。

 娘は昨日も今日も、朝から学校へ行って他の子等といっしょに補習授業を受けた。昼はおなじクラスの子と二人でお弁当を食べた。国語の授業では昨日は二人だけだった全問正解に加わり、今日は誰も全問正解は無理だろうと思っていた先生の予想を一人だけ裏切って驚かれたという。英語は家庭教師の先生のお蔭で何とかこの先もいけそうだと本人も言っている。あとは数学かな。新しい高校の教科書もどっさりと届いた。しばらく離れていた間に何だか、あたりまえのことをあたりまえにこなしている、案外と元気そうな娘がいる。 今日はつれあいが午後から仕事。夕方5時半の予定だった迎えが、部活が早く終わって4時になり、携帯電話も放って娘の部屋で猫と寝ていたわたしを、わが家の合鍵を渡している妹が勝手に玄関から入って起こしに来た。 夜は回転寿司屋へ行った。それから近くのイオンモールへ、娘のジージャンを買いに寄った。わたしが赤い野球帽を見つけた。子がまた別の黒の帽子を見つけた。「二つも買わなくても・・」と渋る母に、父は「二つとも買え買え。二つでも三つでも、いいものを見つけたときに買うのがいちばんだ」と。引きこもりがひどいときはファッションにもまったく関心がなかった。結局、ジージャンと帽子を二つ買って帰った。 明日からまたしばらくレオパレス生活。

 

 娘が春からつかう高校の教科書をぱらぱらとめくった。 第一学習社の「詳録 新日本史史料集成」はなかなか読み応えがある。 大逆事件の判決の日の石川啄木の日記にしばらく指がとまった。 「日本はダメだ」 かつて教科書の中でしかなかった歴史が、再現フィルムのように目の前に忽然と現れている。 「日本はダメだ」 啄木のように呻いているじぶんに気づいた

大逆事件の反響 石川啄木  一月十八日 半晴、温 今日は幸徳らの特別裁判宣告の日であった。 午前に 前夜の歌を精書して創作の若山君に送り、社に出た。    今日程予の頭の昂奮{こうふん}してゐた日はなかった。 さうして今日程昂 奮の後の疲労を感じた日はなかった。 二時半過ぎた頃でもあったらうか。「二 人だけ生きる ゝ」「あとは皆死刑だ」 「あゝ二十四人!」さういふ声が耳に入 った。 「判決が下ってから万歳を叫んだ者があります」と松崎君が渋川氏へ報告してゐた。 予はそのまゝ何も考へなかった。たゞすぐ家へ帰って寝たいと思 った。 それでも定刻に帰った。帰って話をしたら母の眼に涙があった。 「日本 はダメだ」そんな事を漠然と考へ乍{ながら}丸谷君を訪ねて十時頃まで話し た。   夕刊の一新聞には幸徳が法廷で徴笑した顔を「悪魔の顔」とかいてあった。

2016.3.23

 

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 一日の終わりに。 宝を積むあちら側へ

2016.3.25

 

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 「死について、死に冠せられたことばについて、無理な話かもしれないが、ひとつひとつの死の様子とそれに添えられたことばについて知りたいとおもう。わたしの南京大虐殺の記憶にはそれが、ことばと死者ひとりびとりへのまなざしが、とくに欠けている。そうかんがえるのはおかしいだろうか。 (中略) 南京のこのできごとについて基本的に、そして決定的に、足りないのものは、データではなく、ひとりびとりの死へのことばなのではないか。 数学は内面化の困難な記号である。正確にせよ不正確にせよ、人間存在が員数に集約され数値化されるとき、その多寡にともない死の意味が増減するのだとしたら、死者をかぞえる意味とはなにか。燃える人柱のひとの数を一体一体ていねいにかぞえなければならない。悼みつつかぞえなければならない。ひとりびとりを永遠にかぞえつづけなければならない。だが、そのとき、死者を見る「目」はどこにあるべきなのか。」 (辺見庸・1★9★3★7)

2016.3.26

 

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 「国家総力戦の精神的支柱は「挙国一致」である。挙国一致とはなんだろうか。大辞林にはその語義として「国全体が一つの目的に向かって同一の態度をとること」と、じつにおどろくべき事象を、おどろくほどすっきりあっさりと述べていて、たしかにそのとおりなのである。堀田的な「ひとりびとり」」の視点はもののみごとに圧殺された。」 辺見庸

2016.3.27

 

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 「しかしながら、ニッポンはじじつ、一方で「三重苦の聖女」に感動し、他方で、ヘレン来日の三ヶ月後に侵略戦争をたたかい、大量殺戮(南京大虐殺)をおこない、戦勝の提灯行列を全国でくりひろげたのだった。 なにもいっかんしていない。いっかんしているのは、ひとびとができごとにのぞみ、マスメディアの言うがままによく踊り、権力には素直にまつらうことだった。冷静に未来をみようとはしなかったのだ。」 辺見庸

2016.3.29

 

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 レオパレスの荷物を引き払って今夜、帰宅。 あと数日、家から現場へ通って、それから週二日くらいのペースで様子を見に行きながら月末まで代休を消化する。 その間にあるのが娘の高校の入学式、百年会館を借りての創立百周年記念の演劇部の催し、そしてディランの東京公演。 毎朝毎晩わたったあの橋も、あの狭い路地も、道端の地蔵尊も、もう通ることはない。 懐かしい、ときに饐えた匂いもした、昭和の下町だったな。

2016.3.31

 

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 現場近くの大型書店へ立ち寄ったら、古本も扱っていて驚いた。 郷土史の棚がぜんぶ古書で、20分ほど漁って選んだ二冊。 川村二郎「河内幻視行」(トレヴィル) 原口剛他編「釜ヶ崎のススメ」(洛北出版)

2016.4.1

 

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○ 昼。阿倍野墓地近くの寿司屋でワンコイン・ランチの天丼。

○ 辺見庸講演会に並んでいたら、やってきたオッサンが「辺見庸って、こんなに人気あるのか…」とぽつり。 阿倍野区民ホール。

○ 講演後、ひさしぶりに元千日墓の処刑場にあった迎え仏に会いにきた。 阿倍野墓地の西端。

○ 辺見庸の講演を聴き終えて何気なくスマホを覗いたら、FB友の中平さんから「そのまま高速高架下を下って昭和町のコロッケ屋へ」という秘密指令が入っていたので、阿倍野墓地でしばし千日墓の迎え仏と再会を果たした後にてくてくと向かいました。 文の里商店街にある廣岡精肉店。「いっらしゃい!」 店のおばあちゃんと目が合って、「これがおいしいよ」と言われたので、そのジューシー・メンチカツ(150円)を6個買って帰宅した。 母親に1個、妹夫婦に2個を配って、今夜はカレーだったのでメンチカツ・カレーとなった。 それにしても結構なボリューム。大阪は、こういう庶民的な店があるから好きだな。 こんどはコロッケを食べてみたい。 廣岡精肉店(食べログ) http://tabelog.com/osaka/A2701/A270203/27042833/ 

2016.4.3

 

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 ひさしぶりの休日だが、そうそう休んでもいられない。つれあいからの依頼で木工作業。今日はホームセンターで買ってきた材を910mmに切ってオイルを塗っただけ。さて、なんでしょう。 写真2枚目は小屋前の山吹。 3枚目はほんとうかどうか分からないが「お父さんが帰ってくるから、いろいろ植えたんだよ」とつれあいの言う花々。 4枚目。ことしは見れたジューンベリーの開花。 続いて地面から出てきた紫蘇たち。 最後は蝋梅の新しい葉。これは数年前に大阪の小学校のある業務委託を受けたときに採用した地元のパートさん(おばあちゃん)が、小学校の向かいの空き地に手を伸ばしてとってくれた種を植えたもの。まだ花は咲いていない。 娘は昨夜、浣腸がうまくいかなくて、今日は微熱を出して部活も休んでいる。

2016.4.4

 

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 本日はカンナ掛けから。余っていた一束いくらの安い杉材を削り、約90センチに切ったのを十数枚。先日オイルを塗った材を、階段下の収納スペースの側面両側に25センチ間隔で三段打ち付け、カンナ掛けした板を乗せるだけ。置くものによって板を手前・奥に自由にずらせるシンプルな可変式収納棚の出来上がり。 今日はそのほか、歯医者へ行ったり、注文していたPCの内蔵のドライブが届いたので交換したり(書き込みエラーが多発していた)、加えて昨夜からSoftBankのお馬鹿ルーターが不調で無線Wi-Fiが繋がらず、SoftBankに交換依頼の電話をかけたり、併せて無線子機の設定も疑ってあれこれいじってみたり、と結構濃厚な一日であった。 ネットが繋がらなくなったら、それはそれでいいのかな、とも思う。

2016.4.5

 

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 朝から雨が降っている。ちょっと肌寒い。 庭仕事や木工作業(先日の棚がよかったのか、つれあいにこんどは二階の押入れの棚製作も頼まれた。仕事が入るのはいいことだ(^^))ができないので、午前中は昨日現場から引き上げてきたキーボードのいかれたノートPCの修理依頼と発送作業、それから午前着予定のソフトバンクのお馬鹿ルーターの設定し直し。 夕方はつれあいと娘の学校へ。入学後の宿泊オリエンテーションの事前打ち合わせで、わたしは呼ばれていないのだが、新しい担任の先生も同席するというので挨拶をかねて同行する。 娘は熱がちょっと下がったと言っては気になるらしい高校の宿題の数学を合間にやってさらに高い熱を出して、結局昨日は病院で点滴をいれてもらった。

 

 また一人・・・・

◆マール・ハガード〜死刑囚の心の風景を想って作った伝説の歌 http://www.tapthepop.net/story/24861 https://www.youtube.com/watch?v=6EVZDbnmmFY 

 

 入学後のオリエンテーションの打ち合わせということでもともと父親は呼ばれていないのだけれどちょうど休みだったものでのこのことついていって学年主任と担任の二人の先生を前にして応接室で夕方の6時から、気がつけばいつものわたしの独演というか毒舌というか長丁場はやむ気配もなく途中でお茶が運ばれて最後にもうそろそろ時間が・・・と演劇部の顧問のM先生がおずおずと扉を開けたのがすでに日もとっぷりと暮れた8時半近く後ろでは警備員のおじいちゃんがわしはまだ帰れんのかいといった風情で立っていた。そもそもはじめてお会いするお二人を前に毒舌をぶるつもりは毛頭なかったわけなのだけれど中学のときの修学旅行に娘が参加できなかった件でつぎは高校2年生でひかえているというじきに来る修学旅行に於ける改善を問うたわたしに対して特にわたしと同年齢くらいの学年主任の先生の返すことばがあまりにもどこぞの国の首相のごとく上滑りばかりする形式ばった心ない返答のためについついこちらもエキサイトしてしまうばかりで結局分かったのは、ああこのひとたちはニンゲンではなくて学校という得体の知れない組織の部品=パーツなのだパーツなのだから個としての意見も持ち合わせていなければそれを語ることばもおなじく持ち合わせていないそういうパーツにずっとそれがニンゲンであるかのように語り続けていたおれこそが大間抜けだったのだという強烈な再認識であった。おそらくこうしたパーツだからこそ学校という組織に生き残ってい続けられるのでありそうでないニンゲンの心を持っておのれの頭で考え行動し語ることをしようとする者は娘のともだちのNちゃんのお父さんのように心を病んで辞めてしまうかあるいはわが敬愛するFB友だちの塩◆さんのように同僚をポカリとやって(失礼)退職を余儀されるのだろうそれほどまでに学校という教育の現場はもうよほど崩壊し尽くしている。「上」からの命令でしか動けない取替えのきく機械の部品=パーツが「教師」のような顔をしておなじようなじぶんの言葉を持たないパーツ(生徒)を再生産しているのがいまの学校だ。だからこいつらに「真の学び」だの「相互理解」だの「マイノリティ(弱者)の目線」だの「スマホの呪縛」だの「クラスという閉鎖空間」だのなにをどれだけ喋ったって無駄なのだ。それが今回十二分に分かった骨の髄までよく理解した。そうなのだおそらくわたしとパーツが交じりあうということは未来永劫になくてよしんば百年にいちどまがりもののパーツがちょびっと理解しかけたかなと思ったらきっとすぐにそいつは別のパーツと交換されてしまう。けれど愛する娘がこれから3年間通う学校であることは動かしようがないのでこうなれば「かれらはパーツである」という大前提に拠った戦略のあらたな見直しが必要であると思われる。唯一あたらしい担任の先生が若い美人の先生であったことが救いだ(しまったこれはまだ公表してはいけないことだった)。

2016.4.7

 

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 きみに秘密をおしえてあげよう。 機械のパーツのような人生を送りたくなければジョン・レノンを聞け。 かれのはじめてのソロ・アルバムに入っている Hold On という曲の中で、かれはこんなふうに歌っている。 And when you're one Really one Well you get things done Like they've never been done きみがひとりぼっちのとき ほんとうにひとりぼっちのとき ほかの誰にもできなかったことを きみはやりとげる きみに秘密をおしえてあげよう。 ぼくが心のいちばん奥底にいつも隠し持ってきたのはこのレノンの歌と ブッダの「犀の角のようにただひとり歩め」という聖句だけだ。 それだけ。 だからぼくは周囲の心ない人々に何と言われようと構わなかった。 干されたり、笑われたり、後ろ指をさされたりしても平気だった。 だってレノンが歌っていたからだ。

 昼は庭作業。 ステップと収納レンガ・ベンチの間に無造作に置いていた古レンガをきちんと埋めた。砕石がなかったので土台に目地ストーンを撒いて叩いて隙間には珪砂を。ごみ用のバケツを置く場所なので地面より数ミリ高く設定した。 それと花壇の端を囲っているコッツウォルズ・ストーン。ステップをつくったときに適当に置いただけで結構ぐらぐらだったので、これもきちんと積み直した。ややショートカットにして、余りは反対側の端に。 上記作業で古いレンガがふたつあぶれたので、道からのゲート部分のステップのレンガの延長にぽつんと垂らすように、埋めてみた。 あとは庭の隅の立水栓だけが放置された廃墟のように中途半端に転がっている。ブロック砕くの、大変なんだよね・・

 冬美ちゃんを聴きながら夕食の支度。

2016.4.8

 

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 風呂に浸かっていて思いついた。 今月26日火曜、ディランの東京公演のチケットを友人に頼んで取っている。おそらくこれが最後のディランになるんだろう。ありがとうを言うつもりで新幹線代とちょっぴり高い席を奮発した。 その日は当然ながら東京に泊まって翌日に帰るつもりでいたのだが、折角だから月曜も泊まって東京に連泊というのもいいんじゃないか。FB友だちの佐谷さん情報でちょうどディラン公演とおなじ渋谷で開催中のボストン美術館所蔵「俺たちの国芳 わたしの国貞」展も当日(火曜)の昼間にゆっくり味わいたい。 で、他になにかあるかとぼんやりと考えていて、そうだ、あそこがあるじゃないかと思わず膝を叩いたのが田中正造の旧谷中村だ。栃木とはいえ、東京から電車でせいぜい一時間程度だろう。月曜の朝一番で奈良を出てそのまま直接、旧谷中村のあった渡良瀬遊水地を半日ぶらぶらして夜までに東京へ戻ったらいい。 風呂から出て、パンツを履くのももどかしくグーグル・マップを漁ってみた。渡良瀬遊水地へは東武日光線が近いのだろうが、当時、田中正造たちが東京都の往復で利用していたのは東北本線の古河駅なんだろうな。この古河駅から旧谷中村まで、じっさいに田中正造たちがあるいた距離をてくてくと歩いてみたい。足尾銅山も訪ねてみたいが、わたしはひとつところでのんびりと過ごす方が好みだ。草に埋もれかけた古びた墓石の前で風に吹かれて佇んでいたい。 ただもうひとつだけ訪ねてみたいのは、田中正造の終焉の地だ。雲竜寺や庭田清四郎家は佐野市寄りで、渡良瀬遊水地からはそれなりに離れている。佐野市の郷土博物館にも田中正造の特別展示室があるという。それならいっそのこと帰路は東武線で栃木へ出て、両毛線経由で佐野へ行って月曜の夜は佐野市内に宿泊したっていいかも知れない。などなど。 まだもう少し時間があるので、いろいろ調べてみる。 http://www.ne.jp/asahi/com/f/plan/1999/syozo.htm 

2016.4.9

 

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 【写真一枚目】 ヤフオクで400円で落札。(送料300円) LP 徳久広司 「アシタカエリマス」 全12曲 映画「旅の重さ」を検索していて、この人の同名の曲がユーチューブで引っかかったのがそもそもの縁。その「旅の重さ」やわたしが好きな「恋唄」が収録されたサカンド・アルバム。この人はなんか人肌というか、感覚がぴったりくるんだな。わたしのなかの懐かしい感覚というか。 http://www.dailymotion.com/video/x2e6kbs_%E5%8C%97%E3%81%B8%E5%B8%B0%E3%82%8D%E3%81%86-%E5%BE%B3%E4%B9%85%E5%BA%83%E5%8F%B8_music

【写真ニ枚目】 青梅の古書店「ワルツ」で購入。送料混み950円。 「日本の古本屋」の検索だが、この「古書ワルツ」さんからは、そういや何度か買っているな。 藤田省三 「天皇制国家の支配原理」  辺見庸が著書で紹介していた一冊。やっぱり天皇制はきちんとおさえておかなくてはいけない。神武天皇陵参拝の車列に「お会いできてほんとうにうれしかった。こころが洗われた」などとほざいている場合ではない。 http://www.msz.co.jp/book/detail/08347.html 

 

 (以下の文章はもともと4月7日にわたしが娘の学校側との話し合いに「絶望」して書いたタイムライン上のコメントの返信として書き始めたものだが、長くなって、いったい誰に向かって書いているのかもはや分からなくなってきたため(^^) ここに独立して置いておくことにした) https://www.facebook.com/photo.php?fbid=1551211428506426&set=a.1461166867510883.1073741829.100008527501673&type=3&theater

一人ひとりは「善意」なんだろうと思います。たぶん「悪意」の人なんていない。わたしが長年考えているのは、けれどその「善意」の裏に無意識にひそんでしまう「悪意」のようなものかと。ほかには「善意」でやっているつもりが「悪意」になってしまうとか。そこには「無理解」があります。本人に「悪意」はない。けれど「無理解」を理解しようとするつもりも、たいてはない。 わたしが20代の一時期に実家でなかば引きこもりのように暮らしていたとき、庭先でたまたま隣家の人と顔を合わせたりすると、相手は笑って「今日は天気がいいですな」とか話しかけてくるのだけれど、その目の奥はなんともいえない冷笑を帯びている。で、もしわたしがその目の奥に帯びている冷笑に対して怒り出したりしたら、わたしはきっと狂人にされてしまうでしょう。それはある意味、マイノリティ(少数)の立場にならなければ見えてこないし、感じられない、ある種の微妙な空気のようなものです。多数の人にとって、その人は「人のいい近所のおじさん」であったり、「生徒思いの先生」なわけです。 それからもうひとつは、たとえば「国家」とか「学校」とかが「個」を侵犯しようとするとき。そういうときはおそらく「個」すらも変容してしまうし、闘う相手はおそらく「個」ではない。「個」ではないのだけれど、相手はすでにその「国家」やら「学校」やらといったぬえのようなシステムに浸っているわけです。そして「今日は天気がいいですな」とか話しかけてくるのだけれど、その目の奥はなんともいえない冷笑を帯びている(^^) いや、そのときにはすでに本人はみずからの目の奥が得体の知れぬ冷笑を帯びていることすらも気がつかないのかも知れない。 「ボディ・スナッチャーズ」というアメリカのSF小説があります。邦題は「盗まれた街」で映画にもなったジャック・フィニィの作品。じぶん以外の近所の人、知り合い、町中の人々が宇宙からの生命体に乗っ取られていく。でも見かけ(肉体)はそのままなので、ふつうに挨拶をしたり、世間話をしたりする。でもなにかが違う。目の奥がなんともいえない理解不能な冷笑を帯びている。 マイノリティ(少数)の立場になってときに見えてくるものは、きっとこの「ボディ・スナッチャーズ」のような世界なんだろうな、とわたしは考えたりします。当たり障りのない会話はできる。人々はみな微笑んでいる。そして気さくに声をかけてくれたりする。でも何かが決定的に違う。どうしても交われない硬い芯のようなものがある。それに触れると冷やりとして指先には血がついている。ものすごい孤独感。誰にも相談することもできない。まるでじぶん以外の町中の人が宇宙人にのっとられてしまったような。 かつて辺見庸が、アフリカで餓死する赤ん坊を目の前にして、ここが世界の中心なのだ、と思ったと書いています。

ソマリアに行く前は、世界というものをひとつの場だとしたら、ぼくは中心概念というものを無意識に持ってたわけです。中心とは、たとえば東京だったり、ニューヨークだったり、ワシントンDCだったり、ロンドンだったりしたわけですね。しかし、飢えて死んでいく子供たちを見て、中心概念は全部崩れました。餓死したって新聞に一行だって記事が出るわけじゃない。お墓がつくられるわけでもない。世界から祝福もされず生まれて、世界から少しも悼まれもせず、注意も向けられず餓死していく子供たちがたくさんいます。ただ餓死するために生まれてくるような子供が、です。間近でそれを見たとき、世界の中心ってここにあるんだな、とはじめて思いました。これは感傷ではありません。これを中心概念として、世界と戦うという方法もあっていいのではないかと考えました。餓死する子供のいる場所を、世界の中心とするならば、もっと思考が戦闘化してもいいのではないかとも考えました。 反定義 新たな想像力へ(辺見庸+坂本龍一・朝日新聞社)

 「もっと思考が戦闘化してもいいのではないか」 このかれの言説に触れて以来、これはわたしが世界を見るための「中心概念」となりました。もっと思考が戦闘化してもいい。いや、戦闘化するべきだ。こんなひどい世界の中では。 アフリカで静かに餓死していく赤ん坊を中心に据えて、戦闘化した思考から世界を眺めると、この世界はたぶん「ボディ・スナッチャーズ」のように見えるのだろう、とわたしは思います。でも、多くの人々にとっては、そうではない。「今日は天気がいいですな」と話しかけてくる隣家の人のその目の奥は得体の知れぬ冷笑を帯びてなどいないわけです。「こいつは人間の皮をかぶった宇宙人なんだ!」と叫ぶやつがいたら、どこからか白衣を着た手馴れた複数の人間が現れて、暴れるかれを車に乗せて立ち去ってしまう。そして町にはもとのにぎわいが戻る。何事もなかったように。

 

 本日も奥様ご依頼の木工作業、第二弾。 こんどは二階の「テレビの部屋・ゲストルーム」の押入れの上段、左半分にハンガーを設置する。ただしこの場所は天井に点検口があるので、いざというときは取り外しができなければいけない。 ベニヤを打っている見えない柱部分を確認してから考えたのは、中央の奥と手前の壁面に縦の柱を立てて、そこへ組み込む形でハンガーの丸棒を支える支柱を取り付けようという案。他の構造は基本的に、だいぶむかしにわたしの書斎の仏間の上に設置したハンガーと同じ構造で、取り外し可能な丸棒をわたすだけのシンプルなもの。 今回は切断面に少々の精密さが求められるので、久々に登場したマキタのスライド・丸のこで。これは結構、いい値段した。男のおもちゃだね。 ホゾは四隅のドリルとジグソーで開ける。このブラック・デッカーのマルチ・ツールはいまよりもっと貧乏だったときに死んだ伯父から何かでまとまったお金をもらったときに、「ひとつだけ欲しいものを買わせてくれ」とつれあいに頼んで買ったはじめての電動工具で、わたしの木工のはじまりだった。いまとなっては素人ツールのようなものだが、いまでもジグソーとサンダー、それにドリルは使っている。 丸棒をかます受け部分は両側の材をクランプで合わせて固定し、丸棒の径とおなじ24ミリのドリルで開けた。 出来上がった材を持って二階へあがり、裏に木工ボンドを塗り、水平器をあて、ネジで止めていった。途中で娘の部活の迎えなどで中断したが、ぎりぎり日が暮れる前に完成。丸棒の受けは前後へ三箇所、移動できるようにしてある。

2016.4.10

 

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 文明が文明を陵辱している。 「インディアン保留地の状況はしばしば「カナダの中の第三世界」という言葉で形容されますが、まさにその通りの保留地が無数に存在しています。住宅・飲料水、失業率、平均寿命、幼児死亡率、就学率、自殺率、などについての統計数字は、そのことを具体的に裏付けます。例えば、先住民の若者の自殺率は非先住民のそれより数倍も高いのです。特にイヌイット(エスキモー)の場合は10倍以上と報じられています。昨年12月、人権侵害監視団体アムネスティ・インターナショナルも次のように報告しています。:

 ■ By every measure, be it respect for treaty and land rights, levels of poverty, average lifespans, violence against women and girls, dramatically disproportionate levels of arrest and incarceration, or access to government services such as housing, healthcare, education,water and child protection, Indigenous peoples across Canada continue to face a grave human rights crisis.(あらゆる尺度に照らして、それが条約や土地所有権の尊重であれ、貧困度、平均年齢、女性に対する暴力、桁外れに過大な逮捕と投獄の水準、また、公営住宅、健康管理制度、教育、上下水道、児童保護といった政府サービスへのアクセスについてであれ、カナダ中の原住民は綿々として深刻な人権の危機に直面し続けている。)

■ これは、いわゆる第三世界の国々の話ではありません。世界中で最も住みよい国の一つとして評判の“民主的先進国”カナダの話です。」 http://blog.goo.ne.jp/goo1818sigeru/e/cf81f22bc0fcbc184e1a1b352b4636ab 

2016.4.11

 

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 さあ、このまとまった休みを利用してどんどん作業だ。 庭の計画で最後に残った立水栓の改良。排水周りを囲んだダサいブロックの残り二辺を一気に撤去した。グラインダー、ハンマードリル、セリ矢を総動員して最終的にはハンマーで叩き壊していく。結構、体力仕事。 そんな作業をしている間に頼んでいた古書が届いた。藤田省三『天皇制国家の支配原理』 入学式を先日終えた娘は昨日、はじめての登校日でじつに2年ぶりにクラスに入って授業も受けた。ところが今日は朝からお腹の調子が悪くて、つれあいが何度か摘便をしたのだが取りきれず、浣腸をすると学校で出てしまう怖れがあるので踏み切れず、加えて生理の体調不良なども重なって、仕方なく学校を休むことにした。本人は今日も行く気満々で「なんで今日なのよ〜」と悔しがっていたが、まあ、明日行けたらいいさ。 何しろ、学校はこれから毎日あるんだからね。 追記) 破砕したブロック片の処分について市の清掃センターへ問い合わせたところ、産業廃棄物扱いとなるために市の処理場では取り扱えないとのことで、有料で処分してくれる近くの業者を紹介してくれた。ブロック片はぜんぶでガラ袋に4袋。(地中に残った分はそのままにする) 夕方5時までやっているというので、演劇部の練習に行く娘を送るのに合わせて急いでかき集めて車のトランクに積み出発。産廃業者の兄ちゃんは「これは大谷石だな」とつぶやいて、500円でいいですわ、と言った。

 

 奈良市にある姉妹校で創立●●周年記念行事の演劇の練習があり、体調が回復してきたという娘を送る。2時間程度の時間なので学校に車をおいて、わたしはひとりぶらぶら歩いている。近鉄奈良駅方向。

 

 生徒が教職員へ向けてつくった、というのがスバラシイ。

「立命館大学の障害学生と彼らの修学を支援している学生サポートスタッフたちが、教職員向けに、啓発冊子「誰もが学びやすい授業を!」(B5判、45n)を制作した。3月31日付で発行される。 内容は、障害学生の学びをめぐる教職員、障害のない学生、障害学生へのインタビュー、研究者による合理的配慮などに関する勉強会の概要、障害学生による座談会、「今日からできる配慮一覧」――など。教職員を主な対象とし、障害のある学生と支援する学生への理解を促し、より良い授業を展開してもらうのがねらい。 研究者による勉強会から目が開かれたとされているのは、障害者差別解消法から見えてくる「差別」の基本的な意味。同法では、障害のある人を別扱いにするのが「差別」ではなく、「合理的配慮をしないこと」が、これからは「差別」になるという。」 立命館大学 の「障害学生支援室 lのサイトよりできる。 http://www.ritsumei.ac.jp/drc/news/event/article.html/?id=48 

2016.4.12

 

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 早朝に娘を車で学校へ送っていく。 自宅から最寄り駅まで一人で歩くのはまだ厳しい状況なのでそれは送迎するが、本来はそこから先の電車とバスの通学はできる限り単独で行けるように頑張るという約束であったが、しばらくはあたらしい教科書を持って行ったりで荷物も多いいし、また学校へ行くことと単独通学のふたつ同時をはじめるのはプレッシャーも多すぎるから、今月いっぱいは学校まで何とか送迎する、ただし両親の都合のつかないときは何とかじぶんで行く、という提案をつれあいがしたのだった。 帰ってきて、庭を眺めながらコーヒーを飲んでから、瓦礫の撤去が終わってすっきりした立水栓周辺のくぼみ(ブロックを掘り起こした部分)からもういちどきれいに土砂を除き、砕石の余りがなかったので鋤で庭中をかいてふるいにかけ、集めた石ころをくぼみに入れて叩いた。ここで雨がちらちらしてきたので、今日はここまで。この石ころの上に最終的にはモルタルの下地を入れて、さらに水場の囲みとする大きめの石(どんな石をどこで調達するか、まだ未定)を乗せる。それからいかにも安っぽい立水栓自体もしょぼいので変える。(今のところ配管までいじると大変そうなので、そのままの上に木のカバーを取り付けようかなとも思っている) 作業をしている間に“きんでんさん”が電気メーターの取替えに来た。なぜ“さん”をつけて呼ぶかというと、むかしから職場でいろいろやりとりをすることが多いので癖になった。電気メーターの取替えはわが家が4月から、関西電力から大阪ガスへ契約を切り替えたことによる。どちらも資産的には関西電力のメーターなのだが、中の情報を吸い出すにあたって、他者契約のものは別の機器にする必要があるらしい。「このへんでも多いですか?」と訊くと、つい裏手の家もさきほど済ませてきた、今日は一日かけて10件回る、とのことであった。

2016.4.13

 

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 遅い夕飯を済ませて、わたしが買って帰った HEART BREAD ANTIQUE のマジカルチョコリングを味見で切り齧りなどしたあとのことだ。「ジップ、散歩に行こうか」とわたしが声をかけた頃には、もう母と娘は階段の下でスマホの明かりに顔を照らして何やらひそひそと話していた。演劇部のS先輩が家でなにかあったらしく、「家に帰れない」と言っているというのだ。白毫寺の近くの公園に一人でいる、という。心配だから行ってあげたい、と娘が真剣な顔で言う。女の子の微妙な話だから母親がいいと思ったらしい。「白毫寺か。山の方だから、お母さんじゃ道が分からないから無理だな。お父さんが行ってあげるよ」 そうして娘と車に乗り込んで家を出たのがもうすでに22時。狭い斜面の道を案内板を目印にくねくねと登っていくと、やがて寺の裏手のひと気のない山中の墓地(霊園)に出た。暗闇のなかに鹿が何頭か佇んでいる。娘に電話をさせて、それからいくどかのすれ違いの後に、やっと高円高校の門の前あたりで制服姿のまま自転車をついているS先輩を見つけた。娘はまるで家出したわが子を叱る母親のような勢いで車を出て行った。暗闇の中で二人が話をしている間、父は遅れて車から出て、なだらかな傾斜地の下にひろがる思いがけないほど見晴らしのいい奈良盆地の夜景に目を奪われた。うしろをふり返れば、先ほどの霊界のごとき白毫寺の高台とその背後にマージナルな異界としての春日の奥山が連なっている。きれいな半月が鎌のように白く光って頭上にある。頃合をみて暗闇の二人のところへ行って、わたしは「すごくいい眺めだなあ、ここは」と言った。それから「家に帰れないなら、今日はうちに泊まっていってもいいんだよ」と言ったのだが、S先輩は「いえいえ、そんな」とんでもない、と言うのだった。そして「もう、家に帰ります。どうもすみませんでした」とぺこりと頭を下げて、自転車に乗って京終の方へ下っていった。その姿を見送ってから、「行こうか」とわたしは娘に言って、わたしたちも車に乗り込んだ。「お父さん、ありがとうね」としばらく走った車の中で、娘がいつになくまじめな顔で言った。「まあ、みんな、いろいろあるってことだなあ」とわたしがつぶやいた。家が近づいた頃は、もう23時を回っている。「一時間の夜のドライブだな。でもお父さんはこういうのって嫌いじゃないな。いつもと違うハプニング。なんか胸がどきどきわくわくするよね」 「こら」と娘が笑う。

2016.4.15

 

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 昨日の夜はちょっとした「白毫寺突発ツアー」があったけれど、朝からもそれなりにいろいろあった。 入学式から初日はひさしぶりにクラスにも復帰して好調なスタートを切れたのだけれど、その後は体調不良などで休みがちになり、昨日も学校へ行く準備をした直後にお腹が痛いと言い出して、じつはわたしもつれあいも内心は「またか・・」と思った。それでわたしは不機嫌になって、いってらっしゃいを言うつれあいに返事もせずに黙って仕事へ向かったのだった。 しばらくしてつれあいからメールが来た。

*********** 14日 メール1 ********* 落ち着いたら行くと言ってます。 今日、7限目に行われる「クラブ紹介」も紫乃が音響を担当しているそうです。それが終わったら学校に行くことになっています。 出るもの出たら徐々にお腹も落ち着き、頭痛も引いてくるかと思いますので、学校には行くと思います。 このところ、うんちを出しやすくするように、便に水分を引き込む薬を飲んでいました。確かにうんちはカチカチではなくなったのですが、以前より腹痛がおこるようになった気がし、紫乃と話し合い、しばらくその薬をやめて様子をみることにしました。 規則的に出ることは無理とは思いますが、なるべくそうなるよう、試行錯誤です。これがダメだったら次はこうしよう的な、仮説をたてて実験、その繰り返し、「弱くても勝てます」方式だねと二人で話しました 紫乃も「足はこのままでもいいけど、うんちを何とかしたい」と言ってました。 学校に行けない頃に調整に挑んでいればよかったのですが、浣腸すら嫌がってる状態でしたから、今日のような話し合いはできそうもありませんでしたが、紫乃自信もかわってきたので協力し、方法を探っていけるでしょう。

*********** 14日 メール2 ********* そうだねえ〜 行く気になったのにかわいそうですわ。 せっかくのやる気もそがれちゃうよね。 やわらかいバンを食べて昼から行くということになりました。 ちょっと買ってきます。

*********** 14日 メール3 ********* ベットで寝てた紫乃が、私がパンを買って帰ってきたら、着替えをし、学校の用意もし、玄関で待っていました。びっくり! お昼をどうするか聞くと、紫乃は「早く送ってもらったほうがお母さんも都合がいいんだよね。まだしんどいし、保健室に行こうと思うので、保健室で食べる」と言い・・・・ 家で食べてから行ってもいいよと言ってやりたかったけど、心を鬼にし、家をでました。買い物した食材を急いで冷蔵庫に入れたりしてたもので、お父さんのメールに気づかず、紫乃に見せることができませんでした。 学校に着き、保健室のN先生にうんちの話、薬のことも含め話しし、Hちゃんのことも話しておきました。 N先生はまだ(担任の)U先生もクラスの一人一人どんな子かわかってないので、Hちゃんの件、伝えておきますと仰ってくれ、今のところ、Sちゃんも助けてくれたりしてるし、紫乃もHちゃんの愚痴を聞くよりは無視されるほうがまだ、いいと言うので、暫く様子をみるようなことでいいと話しました。 また、お弁当は保健室に食べに来てくれていいと紫乃にもYさんにも話すと仰ってくれてました。。保健室で食べてる子もいるそうです。今日はN先生もまだお昼を食べてないので紫乃ちゃんと食べますと仰ってましたよ。

*********** 14日 メール4 ********* 保健室に食べにくる子はクラスに入って皆と過ごしてるんだけど、お昼休みにいったん、クールダウンのために来るそうです。

*********** 14日 メール5 ********* 集団が苦手な子っているんだねぇ。 また、普段は保健室で過ごし、お弁当は一人で食べたいという子もいて、別室で食べてる子もいるそうです。 保健室の用途も昔と違って多義に渡るねぇ。 大学でも食堂に衝立で個室を作ってるところもあるそうで・・・男の子(大学生)がトイレでお弁当を食べたりし、便所弁という言葉も生まれてるそうな。私も図書館でその新聞記事をで読み、びっくりしました。 . .

 

 今日の朝はちゃんと朝から学校へ行けた。わたしも何だか明るい気持ちになって iPod の音楽もいつもより愉しい感じのものを選んだように思う。 けれど、職場に着いたとたんにつれあいからメールが届き、わたしは思わず電話をかけて、素人判断をせずに処方をした医者にも相談すべきではないかと、やっぱり不機嫌な声で言ったのだった。

 *********** 15日 メール1 ********* 了解です。 紫乃は下痢になり、今、迎えに行って帰ってきました。

*********** 15日 メール2 ********* お父さんとの電話を切って、紫乃の下痢パンツを洗い、明日のために下痢止めを飲んだほうがいいのか、それも聞こうと思い、すぐに病院に来たのですが、混んでいて今、終りました。とりあえず、特効薬としてビオフェルミンと下痢止めを処方され、先ずはビオフェルミンで様子をみて、夜になっても下痢が治まらなければ下痢止めを飲むことに。日常のうんちについてはいっそ、うんち日を決め、下剤を飲んですっきり出すのはどうかと言われ、それは考えものなので、どんなときに出るか記録をとるようにしょうと思います。 今朝の朝食はパン、牛乳、バナナ、ヨーグルトで、昨日の今日だったから、牛乳、バナナ、ヨーグルト(蜂蜜がけ)が不安定だったお腹に作用したかなと思うこともあり、食べたものも記録しようかと思います。それも先生に話しました。 今日のお昼は何も入ってないお粥にしておこうと思います。 とりあえず、、茶色いうんちなら腸炎による下痢とのことです。 多分、今日は部活も無理そうです。

*********** 15日 メール3 ********* 今、帰ってきました。あの後、薬局で薬を待っていたら、H先生が降りてこられ、普段、便秘だからといって、腸が強いというわけではない。前日に便が沢山出て、弱ってる腸に朝食でバナナなどの食物繊維が豊富なものは腸を刺激するのでよくないとのことでした。 薬局の方がお腹をこわしてたとき、ヨーグルトを食べたら、さらに悪化したとのこと。食べ物を気をつけてあげないと反省です。 今週は火曜日も休んだのですが、考えたら火曜も今日と同じ朝食メニューでした。 母、ちゃんと勉強しなければなりません。

*********** 15日 メール4 ********* 病院に行ってよかったです! ありがとう。 . .

 

  こんなメールを公開するのは当人も気分のいいものではないだろうが、排便ひとつをとっても日常生活の中での調整がどれだけ難しいかということを知ってもらいたくて、あえてそのまま転載した。調整、というよりも毎日が試行錯誤のつらなりだと言える。 娘がまだ幼い頃だからもうずいぶんむかしのことだが、二分脊椎の患者さんや家族の手記などを目にしたことがある。その中で、ある娘さんが中学だったか高校だったかのときに母親に「なんでわたしをこんな体で産んだのか!」となじる場面があった。わたしは(そしておそらくつれあいも)、いつかわたしたちも娘からそんなふうに言われる日が来るに違いないと覚悟した。 けれども産まれて15年が経っても、高校生になっても、娘はいちどもそんなことを言ったことがない。度重なる手術を嫌だと言ったこともないし、摘便やカテーテルを用いた排尿を面倒だと怒ったこともない。ほんとうは、心の奥底では言いたいのかも知れない。ときには言ってくれてもいいのだ、とも思うのだけれど、言ったことはいちどもない。 だから「足はこのままでもいいけど、うんちを何とかしたい」。そんな言葉を聞くだけで、わたしは胸がいっぱいになって、思わず硬くしばった頭陀袋の口からふせぎきれぬ叫びがあふれ出てきそうになる。そうしてわが子ながら、親ばかだと言われても構わないのだが、ほんとうにまっすぐにけなげにと育ってくれた、と思わずにいられない。

2016.4.15

 

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○ ぜんぶDLした。実践に即した、とてもいい資料だと思う。

 東京都は、各家庭において、首都直下地震等の様々な災害に対する備えが万全となるよう、防災ブック「東京防災」を作成しましたので、下記のとおりお知らせいたします。 記 1 「東京防災」とは  東京の地域特性や都市構造、都民のライフスタイルなどを考慮し、災害に対する事前の備えや発災時の対処法など、今すぐ活用でき、いざというときにも役立つ情報を分かりやすくまとめた完全東京仕様の防災ブックです。  「東京防災」には、避難経路の確認や家族の情報を書き込める「東京防災オリジナル防災MAP」のほか、水や汚れから本を守るビニールカバーなどを同包しています。一家に一冊、コンパクトな黄色い箱に入れて、お届けします。 2 「東京防災」の内容  (1) 大震災シミュレーション(地震発生の瞬間から避難、復興までをシミュレート)  (2) 今やろう 防災アクション(今すぐできる災害の備え)  (3) そのほかの災害と対策(地震以外の東京に潜む様々な災害と対策の解説)  (4) もしもマニュアル(災害発生時に役立つ知恵や工夫をイラスト付きで解説)  (5) 知っておきたい災害知識(災害に関する知識のまとめ)  (6) 漫画 TOKYO“X”DAY(かわぐちかいじ氏オリジナル漫画) 画像 プロローグ •表紙・目次・今やろうマーク(PDF形式:4.37MB) 01 大震災シミュレーション •大震災シミュレーション_地震発生(PDF形式:1.51MB) •大震災シミュレーション_発生直後(1)(PDF形式:5.27MB) •大震災シミュレーション_発生直後(2)(PDF形式:6.06MB) •大震災シミュレーション_避難(PDF形式:2.97MB) •大震災シミュレーション_避難生活(PDF形式:4.10MB) •大震災シミュレーション_生活再建(PDF形式:2.51MB) 02 今やろう 防災アクション •今やろう防災アクション_備蓄(PDF形式:2.18MB) •今やろう防災アクション_室内の備え(PDF形式:6.91MB) •今やろう防災アクション_室外の備え(PDF形式:2.10MB) •今やろう防災アクション_コミュニケーション(PDF形式:4.94MB) 03 そのほかの災害と対策 •そのほかの災害と対策(PDF形式:4.73MB) 04 もしもマニュアル •もしもマニュアル_緊急(PDF形式:3.46MB) •もしもマニュアル_衛生(PDF形式:1.45MB) •もしもマニュアル_生活(PDF形式:3.42MB) •もしもマニュアル_連絡(PDF形式:631KB) •もしもマニュアル_ワークショップ(PDF形式:2.10MB) 05 知っておきたい災害知識 •知っておきたい災害知識_知識(PDF形式:2.51MB) •知っておきたい災害知識_書類(PDF形式:1.23MB) •知っておきたい災害知識_医学に関する知識(PDF形式:836KB) •知っておきたい災害知識_ボランティアに関する知識(PDF形式:819KB) •知っておきたい災害知識_インフォメーション(PDF形式:3.72MB) 安全のしおり・インデックス・奥付 •安全のしおり(PDF形式:1.00MB) •インデックス(PDF形式:4.88MB) •奥付(PDF形式:835KB) 漫画 •漫画_TOKYO“X”DAY(PDF形式:5.45MB) http://www.metro.tokyo.jp/INET/OSHIRASE/2015/08/20p8l300.htm  

 

○ 娘が百年会館での前日リハーサルから帰ってくるのを待つ間に、庭で読書。

  象徴としての「天皇」は、或は、「神」として宗教的倫理の領域に高昇して価値の絶対的実体として“超出”し、或は又、温情に溢れた最大最高の「家父」として人間生活の情緒(ゲミユート)の世界に“内在”して、日常的親密をもって君臨する。しかし又その間にあって、「天皇」は政治的主権者として万能の「君“権”」を意味していた。したがって前二者にあっては、「天皇」の支配体制(レジーム)は、政治“外”的領域を基礎とした「神国」となり、或は「家族国家」となるが、後者においては、体制は、最高の権力者によって統合される「政治国家」そのものの他ならなかった。そうしてこうしたもろもろの体制観念が同一化して行ったことによって、赤裸々な権力行使は、一方で神の命令として至上化されながら、他方で「涙の折檻、愛の鞭」として温情と慈悲の所産とされ、権力は権力として自己の存在理由を主張する近代的国家理性を失い、被治者に対する権力の隠蔽は支配者の理性と責任意識をも自己隠蔽して、そこに権力の無制約な拡延を生み落としたのである。政治権力が「権力に内在する真理性」(ヘーゲル)への自覚を喪失して、政治“外”に存在理由を求めて行く過程は、他ならぬ権力が全生活領域に普遍化し、したがって、日常化し、権力の放恣化を帰結して行く過程であるが、わが近代日本においてはとくに権力が道徳と情緒の世界に自らを基礎付けたことによって、権力の客観的な放恣化は主観的に神聖化され、したがって「主体的」に促進されることに至る。そうしてこの“論理”過程は同時に、近代日本の政治が辿った“歴史”過程でもあった。

 

○  【 写真1枚目 】 娘と二人で夕食を済ませてから、ひとり自転車で図書館へ。由井正臣「田中正造」(岩波新書)と「現代日本文学全集」の「補巻27・武田泰淳」をカウンターに座ったつれあいから借りてくる。東京行の最終日に上野で見ていこうかと考えている伊藤若冲についても一冊、欲しかったのだが棚に見当たらず。 武田泰淳はかれの「汝の母を!」を検索して、収録されていたから。昭和31年に発表された「汝の母を!」は、日本軍の兵士たちが捕えた中国人の母と息子に、こともあろうに性行為をやらせて見物し、挙句のはてに二人を焼き殺すというストーリー。辺見庸いわく「目にしたら瞳がつぶれてしまいそうなこの光景」だが、読まねばなるまい。 http://www.labornetjp.org/news/2016/0201matu

 ちなみにこの「補巻27・武田泰淳」には、かの「審判」も収録されている。

 泰淳に『審判』という小説があるという。 未見なので、川西の要約に従うと、中国の戦場で主人公の「私」は二度の殺人を体験する。 1938年5月20日のことだ。 一度目は多数の兵士による一斉射撃のかたちで殺人がおこなわれ、「私」は「人を殺すのがなぜいけないのか」と思いつつ、「真空状態のような、鉛のような無神経なもの」のなかで、一斉射撃に加わる。 二度目は一軒の小屋の前で村人からおきざりにされた白髪の老夫婦に対し、自我を喪失した「私」が、「きっとこのままじゃ餓死するだろうな」と思いながら、その夫の頭めがけて発砲する。 小説の主人公はしばらくして慄然とする。 つれあいを殺された老婦の絶望と恐怖と孤独に気づいたからである。 川西はこう書いている。 〈後年、あれは泰淳が亡くなる2、3年前のことだった。泰淳が吉祥寺の埴谷雄高(はにや・ゆたか)の家に来た。そこへ同じ吉祥寺に住む[竹内]好もやってきた。……そのとき好が「5月20日の午後」の出来事は事実か否かを聞いた。好は事実だろうと思いながら、それまで怖くて聞けなかったのを、その日、思いきって聞いたのだ。泰淳は否定も肯定もしなかった。ただ黙っていた。それは当然である。泰淳は「5月20日の午後」の事実にじっと「我慢」をしており、沈黙するほかなかっただろう。泰淳が明確に否定しなかったので、うーむと大きく唸(うな)ったまま好は「5月20日の午後」の出来事を事実と認定した。泰淳も好が事実と認定したことを理解した。好が「そうか」と呟(つぶや)き、それですべては終わった。この問題は解決した。横で見ていた埴谷雄高は、二人の間でこの問題が決着したことを確認した〉

◆衝撃の武田泰淳伝 [われらの時代] http://kimugoq.blog.so-net.ne.jp/2007-10-10

【 写真2枚目 】 メアリ・ダグラス「汚穢と禁忌」(思潮社) 現場近くの古書店で購入して、自宅の玄関までもう十数メートルというところでなぜか急に思い出した。「ああ、すでに持っている本だった!」 これから、こういうことも多くなるのかな。書棚にあるのは2009年の文庫版で、今回購入したのは1985年の単行本であるから、レコードでいえばジャケ違いのようなものか・・

2016.4.16

 

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○ 無事、創立百周年記念行事の劇を終えた娘は帰って来たと思ったらそそくさと着替えをして、あろうことか東大阪の「情熱ホルモン」なる焼肉店へ打ち上げに。 帰りの電車を乗り間違えて、あろうことか23時過ぎにやっと郡山へ帰り着いた。 車で迎えに行った父が近鉄ではなく、あろうことかJRの駅前で待っていたというオマケ付きで。

○ 創立百周年記念イベントのプログラムのひとつとして、姉妹校の生徒たちとの合同で行われた演劇は、創立百周年記念イベントに携わる生徒たちがタイムスリップをして学校の創立時に立ち会うといった内容。まあ、わりとありきたりのストーリーだけれど、30分という時間制限の中ではよくまとまっていたように思う。もともと姉妹校に演劇部はなく、いわば急遽選ばれた生徒が即席で練習したものでこちら側の演劇部員とのレベル差は否めないが、それでもみんな一生懸命に演じていた。姉妹校は共学のため、男子生徒も数名参加していて、それもふだんと違っていろいろ愉しかったようだ。 そんななかにあって、演技面でしっかり土台を支えてくれたのは経営者の妻役を演じたM先輩だ。元部長で、高校3年生のM先輩は大学受験のために部活動は退いていたのだが、姉妹校へ異動になって今回のまとめ役のこちらも元顧問のM先生の要請もあって出演してくれた。おばあちゃんの着物を借りてきたという彼女はじつにはまり役で、演技もダントツ。きっと6年間の演劇部の最後を込めたのだろうな。 生徒たちが演じる舞台の上のスクリーンには、物語の進行に合わせて当時のモノクロの写真が映写される。資金繰りや夫の死など、苦難を乗り越えて学校経営が軌道にのってきた1937年、まさに辺見庸が「往く、みな(1937)」と表現した年にはヘレン・ケラーが来校して記念写真におさまった。蘆溝橋事件が起きて泥沼の日中戦争がすでに始まっていた。年末には日本軍による「南京大虐殺」が起きている。 娘は今回は裏方として音響を担当した。音楽データをPCに取り込んで切り貼りしたりすることができる者は限られているらしい。 オープニングの音楽はシエラ・ハル(Sierra Hull )のさわやかな Easy Come, Easy Go (前奏部分) https://www.youtube.com/watch?v=Nf3RhT0vjUY  エンディングは娘がいまいちばん気に入っている、じぶんと同い年のコニー・タルボット(Connie Talbot)のHeal the World(1分40秒あたりから) https://www.youtube.com/watch?v=e78P5EH0UVs  どちらも娘が満を持して選曲した。見えないところから、舞台を盛り上げた。家で見ていても、この音楽に取り組む熱心さだけは本職並みだ。 記念イベントはその他にも吹奏楽や軽音楽部の演奏、なぎなたの舞、書道アート、プレゼン発表など多岐にわたり、会場前には生徒たちによる屋台も並んだ。 娘が片付けなどを終える間、招待された父と母、祖母、叔母夫婦は三条通へ入って小洒落たカフェでデザートなど。その後、いっしょに帰宅した娘がそそくさと着替えをしてふたたび東大阪の焼肉屋へ「打ち上げ」に行ったことはすでに書いた。

2016.4.18

 

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 身近なところで語ろう。語り続けよう、いま。 語らなければいけない。 夫が妻に、両親が子どもたちに。

「ナチの機構の中で、なされた恐るべき残虐行為を“知らずにすませられなかったものが”どれだけいたのか、だれもはっきりとは確定できないだろう。 またどれだけのものが何かを知っていたのか(おそらく知らないふりができた)、あるいはすべてを知る可能性があったものがどれだけいたのかも(だが目と耳を、そして特に口をしっかりと閉じているという、より慎重な道を選んでいた)、だれもはっきりとは確定できない。 だがいずれにせよ、大部分のドイツ人が少しの良心のとがめもなしに虐殺を受け入れていたとは思えないから、ラーゲルの真実がまったく広まらなかったことこそ、ドイツ人が犯した最も大きな集団的罪なのであり、ヒトラーの恐怖がもたらした最もはっきりした卑劣さの表れであるのは確かだ。 その卑劣さは生活習慣にまで入り込み、非常に深く根付いていたため、夫が妻に、両親が子どもたちに語ることを妨げていた。 そしてこの卑劣さがなければ、恐ろしい行き過ぎがなされることはなかっただろうし、今日のヨーロッパや世界は別のものになっていただろう。」

(プリーモ・レーヴィ「溺れるものと救われるもの」朝日選書)

2016.4.20

 

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 昨日も学校でうんちが出てしまい、昼で早退してきた。 今日は頭痛がするといって休んだ。 明日から一泊の予定だったオリエンテーション合宿も休むという。 . 先日の劇で子がエンディングに選んだ曲がマイケル・ジャクソンの曲だったことを知って、二人でユーチューブでマイケルのビデオを見た夜。 ほんとうに、世界がこのビデオのようになったらいいのに、と思う。

https://www.youtube.com/watch?v=BWf-eARnf6U 

2016.4.21

 

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◆スウェーデンの小学校社会科教科書には何が書かれているか−明大・鈴木ゼミ生たちの発表

 「政治については「社会で間違ったことがあると思ったら抵抗の意思表示をするのはあたりまえ」というのですから。このテキスト、日本語に翻訳してブックレットにすれば結構売れるのではないだろうか。」

以下、貞末 麻哉子さんのTLのコメントより「 梁田 貴之さんのTLよりコメントごと」

 『スウェーデンでは選挙前に子どもたちが各党に政策を聴きに行き、役割を決めて模擬討論。日本では文科省と総務省(と自民党)が「中立」と厳しく縛りをかけ、各党の政策などには触れさせず「投票用紙の書き方」とかをしっかり教えるそうだ。バカか。』

 

 

 「配慮されていない」少数の存在にまなざしを向けることができるのが、その社会の成熟度を測る物差しといえるだろう。 「見ている者」が同時に「見られている者」であることとおなじだ。 「見ている者」が「見られている者」に配慮するのではなく、「見ている者」こそがじつは「見られている者」なのだということに気づくこと。 あなたが「健常者」であるのは、ほんの偶然に過ぎない。あなたがトルコの海岸に漂着したシリアの子どもでなかったことも、ほんの偶然に過ぎない。

 

(読み解き経済)障害者への「配慮」 「障害と経済」を研究する松井彰彦さん (朝日新聞「読み解き経済」2016年4月22日)

 ■まず本人に聞いてみよう

  4月1日に障害者差別解消法が施行された。これは日本が2014年1月に批准した国連の障害者権利条約(以下、権利条約)にあわせて整備された国内法である。従来型の差別禁止に加え、「合理的配慮の提供」を公的機関の義務(民間は努力義務)とした点が大きな変化である。考え方も障害を個ログイン前の続き人の属性と考える「医学モデル」から脱皮し、障害は一部の個人の社会参加を阻む社会の側にあるという「社会モデル」を取り入れている。本稿では、これらの言葉の意味を考えながら障害問題を読み解いてみたい。  内閣府は、「合理的配慮の提供」をつぎのように説明している。公的機関や民間事業者に対して「障害(しょうがい)のある人(ひと)から、社会(しゃかい)の中(なか)にあるバリアを取(と)り除(のぞ)くために何(なん)らかの対応(たいおう)を必要(ひつよう)としているとの意思(いし)が伝(つた)えられたときに、負担(ふたん)が重(おも)すぎない範囲(はんい)で対応(たいおう)すること(事業者〈じぎょうしゃ〉に対〈たい〉しては、対応〈たいおう〉に努〈つと〉めること)」。視覚障害者がいるとき、発言の前に「○○です」と自分の名前を付ける、聴覚障害者と話すとき、ボードを用いて筆談に努める、といった配慮が第一歩となる。  障害の「社会モデル」はゲーム理論の研究者である私が取り組んできた「慣習と規範の経済学」の考え方と響き合う。慣習や規範はそれに従う人が増えれば増えるほど、それに従うことが本人にとって望ましいものとなる、という性質を持っている。みんなが右側通行をすれば、自分も右側通行をすることが望ましい、というわけだ。その原理に基づいて、私たちの社会を見つめ直してみよう。

*  社会は人のためにできている。しかし、全ての人が使いやすいように作られているとは限らない。社会生活にとって不可欠のコミュニケーションも、声を出せて音が聴こえる人々が多ければ、口話言語が用いられる。すると、音が聴こえない少数の人々は話の輪に入れず、配慮されないまま取り残される。  しかし、実は口話言語が社会の基本言語だという考えすら相対的なものである。ノーラ・エレン・グロース著「みんなが手話で話した島」(築地書館)は、「障害」に対して社会の側が適応した事例を紹介する。  19世紀、遺伝性のろう者が多かった米国マサチューセッツ州沖合のマーサズ・ヴィンヤード島では、手話が主要言語であった。言語は、みんなが使うものを自分も使う。この島ではろう者は言葉が話せない「障害者」ではなく、「ふつう」の人であり、耳が聴こえないことは単に個人の個性の一部に過ぎなかったという。  公的機関や民間事業者の中には、差別解消法にどう対応すればよいかわからず不安を感じている方々もいるに違いない。NPO法人障害平等研修フォーラムはそんな方々のために、障害者と非障害者が参加して差別とは何か、何をどう変えていけばよいかを学ぶ研修の機会を設けている。  そのフォーラムが研修用にDVDを作ったというので、代表の久野研二さんに見せていただいた。街で見かけた障害者が落としたハンカチを渡そうと後を追いかけた女の子が、障害者と非障害者が反転する世界に迷い込む、という設定だ。手話ができない女の子はその世界では「障害者」だ。手渡された案内は点字のため読めない。車椅子ユーザーでないと危ないからと、エレベーターに乗せてもらえない。  米国の島の事例やDVDが私たちに伝えようとしていることは、非障害者は「配慮が必要ない人」ではなく、「配慮されてきた人」であるということである。同様に、障害者は「配慮が必要な人」ではなく、「配慮の格差」に直面してきた人なのである。

*  災害時には、配慮の格差が拡大する。先週、九州中部を大地震が襲った。多くの尊い命が犠牲になり、20万人もの方々が避難生活を強いられた。東日本大震災のときと同様、その中には障害のある人もいる。5年前は知的障害児や発達障害児たちが周りに迷惑をかけるという理由で、避難所を渡り歩くという事態が生じた。今回、配慮の格差は縮まったであろうか。  私が「合理的配慮」という言葉を初めて聞いたのは10年ほど前のことである。当時大学のバリアフリー支援室に配属された私は、右も左もわからないまま学内のバリアフリー化や障害者雇用の課題に取り組んだ。チームには当事者を含む障害学の専門家がいて、「合理的配慮」や「社会モデル」といった概念を一から教えてくれた。  そうした語句以上に学んだことは障害のある人との関わり方だった。あるとき初めて会う障害者に対する配慮をどうすればよいか専門家に尋ねた。「ご本人に聞くのがいいでしょう」。その言葉を聞いた瞬間、肩の荷がふっと下りた。わからないことは聞けばいい。そのうえでできることはやる。難しいことは話し合う。  権利条約の理念は「Nothing about us without us!(私たち抜きに私たちのことを決めないで!)」である。対話を通じてお互いのニーズを探ることの大切さは全ての人間関係に共通したものである。まずはそこから始めることで、みなが配慮される社会に近づいていくのではないだろうか。

◇  まついあきひこ 62年生まれ。東京大学大学院経済学研究科教授。専門は理論経済学、ゲーム理論、障害と経済。著書に「高校生からのゲーム理論」など。

 

 

 仕事へ行っているより、休日の方が忙しいかも。 立水栓の作業で蛇口を交換する必要があるため、家の止水栓の場所を確かめようと思ったら排水溝がけっこう汚れていて、そのまま排水周りの清掃作業となった。とくに酷かったのはくだんの立水栓のすぐ脇にある排水枡で、おそらく外溝作業後の水洗いで土砂などが流れ込んだのだろう、配水管を埋めるくらいの高さまで土砂が堆積していた。そして家のぐるりをほぼ半周した最後の排水枡には、(たぶん)流してしまったモルタルなどが大きめの石のように固まって多数、ぷかぷかと浮かんでいたのだった。それらをあらかたスコップなどですくい取って、散水ホースの水で流した。 その他、朝には庭のハーブでハーブ・ティーをたっぷりつくり、予約していた歯医者は午前中。帰りに駅前の金券ショップで来週の東京行きの新幹線の回数券を買おうとしたら、帰路の27日はGW期間に入り回数券が使えないというので往路だけを購入した。夕飯の材料をスーパーで。 ソファーでちょっと昼寝をしてから、庭で鼻息荒くして茂っていた三つ葉をぜんぶ摘んで、みんなが好きな「鶏の胸肉と三つ葉の辛子和え」をつくった。 ※「鶏肉はムネを使います。ブツブツと串で穴を開けて軽く塩をし、10分ぐらい置きます。お酒と果実酢(レモン・ユズ・スダチなどが合うようです。)をふり、ラップしてレンジでチン。要するに鶏の酒蒸しです。 (1)冷ました鶏の酒蒸しを細かく裂き、(2)肉汁や酒や果実酢の汁は捨てないで、これに練り辛子を適量溶かし込みます。(3)冷ましている間に三つ葉をゆがき、完全に冷めてから(1)〜(3)までを混ぜ合わせます。 」 鶏肉を冷ましている間にジップを連れて、スーパーに入っているクリーニング店まで散歩をかねて。昼間、つれあいがわたしのスーツを持っていったら(昨日、コンビニの前で飲んでいたコーヒーをこぼしてしまった)、「動物の毛がついているので取り除いて欲しい」と返されたと言うので、上着を出して「動物の毛はだいぶ取ったんだけど、まだ取りきれていないようならいまここで取ります」と分厚いガムテープをカウンターの上にどんと置いた。店のおばちゃんは「だいじょうぶ、とれてますよ」と言ってくれた。 7時に仕事が終わって帰ってくるつれあいに合わせて夕飯の用意。今夜は娘のリクエストでもやし。わたしがレオパレスでつくっていたレシピのホットプレート版だ。もやし3袋、大きめのエリンギ2本、豚うす切れ肉300g、豆腐1/3丁。塩胡椒をふって、茹で上がったらポン酢で食べる。シンプルだけど、みんな大好きだ。

 

 夜中にふと思い立ってジップを車に乗せてなぜか斑鳩の地にきた。法輪寺はむかしから好きな寺だ。なぜか居心地がいい。こんな夜半にあのお堂の仏たちはどうしているだろうかと思ったのだった。車をとめてジップと辺りをあるきまわる。たんぼから蛙の声が聞こえる。丘陵はうずくまったもののふのマボロシのようだ。闇というにはゆるやかな、あの世とこの世のあわいの薄暗やみのなかをふらふらとさまようている。息をしたい。

2016.4.22

 

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 昨夜、ジップと周辺をうろついた斑鳩・法輪寺へ、こんどは朝から娘をさそって二人で。ひさしぶりに堂内の仏たちに会いたくなったからだ。 法輪寺は近くの法隆寺の観光地的喧騒をはなれて訪ねる人も少なく、鄙びて、閑かなのがいい。尼寺ということもあるのか境内にはいつもたくさんの花が飾ってあって、寺全体にどことなく優美な品がある。今日も講堂(収蔵庫)の仏たちの前には百合を中心とする大きな花束が活けてあって、馨しい匂いを放っていた。 わたしはこの講堂の片隅に腰をかけて、この季節であれば堂内をときおりぬけていく涼風に吹かれながら、一時間でも二時間でも時間を忘れていにしえの仏たちと対座しているのがむかしから好きだった。たいていの訪問者(観光客)はぐるりと堂内を一周してものの5分か10分で立ち去っていくが、わたしは苔むした石のように講堂のへりの畳の上にころがって、じぶんがこのまま、いっそこの仏たちを見守る柱や壁の一部になってしまえたらいいのに、と思っているのだ。山でも、仏でも、わたしにとってそれらはいつも、対象物ではなく、溶けあい、混じりあいたい、なにかじぶんという殻を超えたおおきないのちの延長のようなものだ。ゴーギャンがあの長大な作品につけた問いが浮かぶ―――“わたしたちはどこからきて、どこへいくのか” 奈良の寺ではいつもそうだけれど、平安時代や鎌倉時代といった仏像よりもやっぱり飛鳥時代の仏像に惹かれる。奈良時代の頃になると、にんげんの思いというか願いのようなものが仏像をつよく支配してしまっているように思えるのだ。けれど飛鳥時代、そして白鳳期はまだ、にんげんはそこまでしゃしゃり出ていない。10歩も20歩もさがって、人智を超えた仏というか自然というか、それこそ「にんげんという殻を超えたおおきないのちの延長」の形、造型におずおずと近づこうとしている。なんだかそんな感じがする。その分、仏の側に謎が残される。堂内をとおりぬけていく涼風に吹かれながら、じぶんもまたその風の一部であるように仏たちのまわりを乱舞して、謎がちらりと見えかかったり、あるいは仏のほうからなにかが近寄ってきたような心地もして、それが愉しい。 娘と二人してそんなふうに、石ころになってころがっている。

 

 午後は娘の強いリクエストでカラオケ屋へ。わたしの妹も合流して三人で、なんと5時間。 以下はわたしのソング・リスト。

忌野清志郎・JUMP https://www.youtube.com/watch?v=oBgPiUGZTh4

吉田拓郎・暮らし https://www.youtube.com/watch?v=7YgI7GLvmDA

Eagles・Take It To The Limit https://www.youtube.com/watch?v=O7hmF_IX9Ic

鶴田浩二・日陰者 https://www.youtube.com/watch?v=SGTWL1laIx0

野坂昭如・黒の舟唄 https://www.youtube.com/watch?v=Vg9NUMzXLEI

友川かずき・ワルツ https://www.youtube.com/watch?v=kORukkwukb8

真心ブラザーズ・マイバックペイジズ https://www.youtube.com/watch?v=-WGlfTc3NTE

三音英次・釜ヶ崎人情 https://www.youtube.com/watch?v=5EeiYvE5hwE

中島みゆき・波の上 http://v.youku.com/v_show/id_XNTU4MTY3NjAw_rss.html

子犬のプルー(NHKみんなのうた) https://www.youtube.com/watch?v=iTU3_wEsEkw

ザ・ブルーハーツ・少年の詩 https://www.youtube.com/watch?v=R_plrPu07W4

松井須磨子・カチューシャの唄 https://www.youtube.com/watch?v=TiMpE83f8GM

クレージー・キャッツ・誠に遺憾に存じます https://www.youtube.com/watch?v=mTcH3kzafwI

仲井戸麗市・はぐれた遠い子供達へ http://www.dailymotion.com/video/x1313v7_%E3%81%AF%E3%81%90%E3%82%8C%E3%81%9F%E9%81%A0%E3%81%84%E5%AD%90%E4%BE%9B%E9%81%94%E3%81%B8-%E4%BB%B2%E4%BA%95%E6%88%B8%E9%BA%97%E5%B8%82_music 

2016.4.23

 

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 Aiko KandaさんのTLより。 不勉強で知らなかった。これはぜひ、次の秋季公演を見逃さずに行きたいものだ。

◆嵯峨大念佛狂言Webサイト http://www.sagakyogen.info/

◆2013,,3,清涼寺、嵯峨大念仏狂言 動画 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=b8e4bJM1xeU

2016.4.24

 

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(9:30) 新幹線の中で夢を見た。ぼくとジップは新幹線の座席が隣で知り合った男と、男の車に乗って古河へ向かっていた。ついでだから送ってくれるという。男はぼくに男色的な好意を抱いている。それもいいだろうとぼくは思っていた。川が近いヨーロッパの田園地帯のような景色のところで、男が急にディランの歌う that lucky old sun を歌い出した。続いてぼくもいっしょに歌い出した。歌いながら涙が溢れてきてとまらなくなった。 いま、品川にいる。これから宇都宮行きの電車で、さらにもう1時間ほど電車に揺られて古河へ向かう。

(11:56) 渡良瀬遊水地。 めちゃくちゃ馬鹿でかい。

(14:49) JR古河駅から2時間半あるきつづけた。渡良瀬遊水地と銘打っているが、ナニ湖くらいの馬鹿でかさだ。行けども行けどもあてどない。「ラムサール条約」「自然と人にやさしい」とは格別冗談でもない。この湖のような広大な大地を汚し、作物を枯らし、人や動物たちを殺し、暮らしも歴史も奪っておいて、やつらは平気でそんなふうにうそぶく。フクシマは何もはじめてのことではない。百年前からこの国はおなじことを繰り返している。銅山の毒を貯めたこの遊水地も、いまでは「みなさんの飲み水」だそうだから笑いも乾く。 「谷中人民、足尾銅山との戦いなり。 官憲これに加わりて銅山を助く。 人民死をもって守る。 何を守る。 憲法を守り、 自治の権を守り、 祖先を守り、 ここに死をもって守る。」 渡良瀬遊水地はいまでは呆けた人々の憩いの場だ。釣り糸を垂れる人、ランニングに汗を流す人、木陰のベンチで語り合う恋人たち。そんな人たちの周遊コースからはなれて、水没をまぬがれたかつての谷中村の一部がひっそりと村人のいない春をむかえている。 いまは何もない、村をぐるりと見守る雷電神社跡地のつましい高台と、そのはたのなだらかな斜面の木陰になかば草に埋もれかけた古びた墓石が点在している。その一体一体に挨拶をする。とくに石仏が彫られたこどもの墓が愛おしい。水の雁の童子、妙なる鼓の童女、と読んで思わず微笑む。こどもの戒名は子を思う親の心根が託されていていつも心が寄りそう。 かつての村の風景を思い浮かべる。暮らしは楽ではなかったろうが、ここはユートピアのような場所だったに違いない、と思う。だが、無人になったいまでもここはなおユートピアだ。かつての礎石らしき石ころが転がっているだけで何もない雷電神社の跡地も、立派な社殿を構えた全国のどんな社よりもさらに立派だ。まさに「死をもって守る」ために抗いつづけ、闘いぬいたが故に。 土と草に埋もれかけ佇んでいる墓石たちにかこまれて大きなブナの木の根元に腰をおろしている。ここはほんとうに居心地がよい。いつまでも苔むした墓石のように一人すわっていたい。 「ああ、記憶せよ 万邦(万国)の民、明治40年6月29日は、これ日本政府が谷中村を滅ぼせし日なるを。 正義と人道との光り地に堕ちて、悪魔の凱歌は、南・・・より北・・・までわたる・・・」 荒畑寒村「谷中村滅亡史」 (谷中村強制破壊直後に20歳の荒畑寒村が執筆。即発禁)

(16:43) 遊水地を囲む土手の外側、幹線道路沿いにある旧谷中村合同慰霊碑。水没した村の各所から集められた墓石や供養碑がコンクリートの壁に塗り込まれている。 わたしにはあのチェルノブイリの原発を抱えた石棺のように見える。

(21:58) 渡良瀬遊水地の旧谷中村をあてどなくあるきまわった夜、佐野市内を見下ろす高台のちょっとくたびれた旅館の一室で、栃木の地酒のワンカップ(純米原酒)をなめながら聞いている。 歴史の実時間における谷中村強制破壊はまさに「現在(いま)」である。 フクシマで辺古野でそしてあろゆる日常の隙間で、わたしたちはたしかに目撃している。 何を捨て、何を守るのか。 クリックひとつじゃ何も変わらないだろう。斬ったら、相手の血しぶきを浴びるような場所で。 音楽は実時間の跳躍である。ときに華麗な。

Kogan Plays Paganini Moses Variations  https://www.youtube.com/watch?v=z4ny6m5u0sg 

2016.4.25

 

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(6:36) ちなみに昨夜の夕飯、佐野ラーメン。 佐野駅から東へ歩いて10分少々、幹線道路沿いにある「かめよし」のチャーシュー麺。 19時の開店と同時に車で乗り込んできた客がわたしを入れて8名。 シンプルにうまかった。こころやすまる、家庭的ラーメン。 昼メシを食べそこねて、朝7時頃に新幹線で家から持ってきたおにぎり一個を食べて以来の食事だった。 五臓六腑に沁みわたりました。 s.tabelog.com/tochigi/A0902/A090202/9000121 

(7:54) ちなみに今朝の朝食。この本メニュー以外にバイキング形式のサラダや飲物など。わたしはご飯を二膳食べ、サラダを二皿、コーヒーゼリーとアイスコーヒーを頂いて、満足。 このあづま荘は中心部からやや離れた高台にあって、市内が一望できる。懐かしいむかしの旅館風情で居心地がいい。これで一泊(朝食付き)で5800円。 azumasou-sano.com 

(11:49) 佐野市郷土博物館の田中正造資料室にて  「財用を乱し、民を殺し、法を蔑ろにして滅びない国はない。政府は、これだけ滅びているものを、滅びないと思っているのであるか」 明治33年 第14回帝国議会質問演説 「さる35年入獄中、聖書を通読して世界海陸軍全廃を確信す。翌年2月の静岡県掛川をはじめ、東京、栃木において5回におよんで、軍備全廃を述べたり」 明治36年および同45年の日記より要約 「古来の文明を野蛮二回回らす。今文明ハ虚偽虚飾なり、私慾なり、露骨的強盗なり」 明治45年 日記 「日本人の気風は、下より起こらず、上よりす。民権も官よりす。日本の民権は、民人より発揚せるにはあらざるなり。憲法すら上よりす。ああ、一種不思議の気風なり」 明治44年 日記より要約 「大勢、見舞いに来ているそうだが、うれしくも何ともない。みんな正造の病気に同情するだけで、正造の問題に同情しているのではない。問題からいえば此処も敵地だ。おれは、うれしくも何ともない。行ってみんなにそう言え。」 大正2年 いまわの病床で

(18:22) 神田のホテルにチェックインし、神保町へ。小諸蕎麦でざる二枚盛320円を食い、しばらく古本漁り。南海堂書店で「通史 足尾鉱毒事件」を2000円で買う。ここは足尾事件および田中正造関連の本がいちばん揃っている。木下尚江編集の「田中正造の生涯」もあったが、18000円はちと考える。

2016.4.26

 

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(13:48) 上野の都美術館の伊藤若冲展でもみくちゃになってから、昨夜のディランライブを同行した友人のオススメ、ガード下近くの立ち飲みカドクラの日替わり定食450円でお昼。店内は昼間から天国の人ばかりだが、わたしは食事だけ。でもやっぱり渋谷なんぞより上野は落ち着くなあ。梅田より西成みたいなもんか。 大昔、このすぐわきのマルイの中の本屋で一時働いていたことがあった。後方休憩室で口紅だらけの吸い殻の山を見つめて、拳銃を抱いた永山則夫のような目をしていた(たぶん)。 そうそう。都美術館では、若冲の図録と、それからつれあいへのプレゼントに桜の材の江戸木彫のルーペを買った。

(14:38) 都内山手線。扉の広告が目線の高さに近くなったのはいつからなんだろ。うざいわ。

(22:26) 今回の旅の、つれあいへのプレゼント。 都美術館のミュージアム・ショップで見つけた、江戸木彫刻のルーペ。 わたしにしたらちょっと奮発。 http://www.tobi-museumshop.com/item/recommend/arabesque-loupe.html

2016.4.27

 

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 旅の補遺 1 (谷中村)

 以前に読んだ田中正造の伝記で、田中が東京の弁護士を古河駅に迎えに行く場面が何度かあったので今回、何となく古河から谷中村まで歩いてみようと思った。(Wikiで調べたら東武日光線の開業は1929年(昭和4年) なので、田中正造の時代にはまだなかった) わたしはあまり頭脳明晰ではないので、こうして肉体に実感させる方が向いている。土方作業を描いた中上健次のきらきら光る文章のように。 古河はなかなか見所のある町らしい。市内では篆刻美術館や永井路子旧宅なども見かけたが、すべて蹴飛ばしてひたすら歩いた。茨城・埼玉・栃木・群馬の4県境をまたぐ形で、古河駅(JR東北本線 10:40着)から最終到着駅の藤岡駅(東武日光線 17:30着)まで、直線でおよそ十数キロ。じっさいは遊水地内をあちこちとだいぶ徘徊したから、延べ20キロ近くは歩いたのではないか。じきに店もなくなり、昼飯を食い損ねたままひたすらあるきつづけた。 家屋を強制破壊されてそのほとんどの土地を渡良瀬遊水池として水没された旧谷中村のその「広さ」は、行ってみて、じっさいにあるいてみたら腹にこたえる。遊水「池」とあるが、じっさいの感覚は「湖」。とてつもなく広い(外周距離は約30キロ、ほぼ山手線一周に匹敵する)。古河側から向かって整備された河川敷のゴルフ場を眺めながら三国橋をわたると、やがてこの遊水池の喉もとをおさえている巨大な第一水門が、拳や竹槍ではびくともしない無情な権力の象徴として聳え立っている。唾を吐いたり、蹴飛ばしたくらいではこの頑強な構造物にとって屁でもない。 遊水池がゆがんだハート形をしているのは旧谷中村の役場などがあった中心部が押し出しているためだ。ほんらいはここも水没させる計画だったが、掘り下げ作業のブルドーザーの前に元村民たちが体をはって座り込み、結果として残された。遊水池内をあるいていると「貴重な湿地帯などの自然が守られた市民の憩いの場」としての掲示物や「子ども広場」といった標識は適所に見かけるが、旧谷中村の案内は皆無に近いと言っていい。国としては、ほぼ「無視」という露骨な姿勢を感じる。代わりに、ここに旧谷中村の史跡があることを表明しているのは「保存会」の人々が自力で建てたわずかな標識や説明板だが、こちらは経年劣化のために字もかすれ、全体的にかなりくたびれているのは否めない。これも国という巨大な権力と、わずかな手段しか持たない一市民との力の差を、皮肉だが如実に物語っている。 つましい古墳の土盛りのような雷電神社跡は旧谷中村のヘソである。田中正造もきっとそう思っていただろう。村から15キロほど離れた館林で倒れ臥せっていたとき、かれの魂魄はこの社地を憧れ訪ねたに違いない。その雷電神社跡地前には、水没した神社の当時の写真と共に「ああ、記憶せよ 万邦(万国)の民、明治40年6月29日は、これ日本政府が谷中村を滅ぼせし日なるを。正義と人道との光り地に堕ちて、悪魔の凱歌は、南・・・より北・・・までわる・・・」と記した荒畑寒村「谷中村滅亡史」の一節が、まるで無数の死者や村を追われた人々の暗い想念を代弁した檄文のように貼られているが、それ自体がこの真実を骨抜きされ、「自然にやさしい」なぞといった糖衣で包まれ弛緩したこの国ののどかな「憩いの地」では一種異様に見え、浮いている。浮いてしまっていることがすでにこの国の絶望的な距離であり同時に罪である。 一時間ほど、草に埋もれた墓石たちに囲まれた子持ちのいい大樹の根元に坐っている間、遊水池のメインルートからはずれてここへやってきたのは、サイクリング車にまたがった男性が二人と、散歩姿の老夫婦が一組だけだった。ポストのように立っている連絡箱の中にあった「谷中村たより」に、去年の台風(18号)でこの連絡箱が水没したために新しいノートを設置した旨が書かれており、ここはいまもそうなのか、と驚かずにいられなかった。 わたしは、朽ちた墓石に刻まれた文字を膝をついてひとつづつ読んでまわった。廃村になるとは、この土地に生きてきた人々の根が断ち切られるということである。祖先を大切に祀ってきた人々も、ちりぢりばらばらとなり、もはやこの墓石たちを参るものはもう誰も残っていない。わたしは周囲をなんども見回す。新緑が目にまぶしい草々と、ときおり涼やかな風と、見渡す限りの広い湿地帯と、そのおぼろのような向こうにかつてここで暮らしていた人々の姿が思わず立ち上がってくるような錯覚を覚えて立ち尽くす。だが誰もいない。誰もこたえない。墓石と語り合うしかない。そしてこの国の隠蔽されたヘソのような雷電神社跡にて田中正造と村人たちの魂魄がいまも「政府におきましては、是れだけ亡びて居るものを、亡びないと思つて居るのであるか」と叫んでいるまぼろしを聞く。

 

旅の補遺 2 (佐野市郷土博物館 田中正造展示室)

 旅の二日目。宿から佐野駅を越え、町のメインロードを抜けて、およそ40分ほどあるいてちょうど開館の朝9時に辿りついた。中庭をはさんで佐野市の古代から近代を俯瞰する常設歴史展示、また奥に企画展示室があり、郷土の実業家であり朝鮮独立運動を支援した須永元をめぐる朝鮮人亡命者の金玉均・朴泳孝らについての展示をしていてこれも興味深かったが、目的の田中正造の資料や遺品を収めた展示室は入館をしてほぼ正面、学校の教室半分くらいのスペースである。 小規模な展示室だろうから一時間くらいで済ませ、前日の藤岡町にもどってこちらのさらにつましい町立資料と谷中村から移した田中霊祠(分骨)あたりをまわろうと考えていたら、いい意味で裏切られた。田中正造の生涯をめぐる展示、日記や手紙などの実物、遺品などを丹念にさらい、ビデオ映像やヘッドホンのガイドも借り、さらに他の展示を覗いたりしたら、あっという間に昼になってしまった。 とくに惹かれたのは、やはり幸徳秋水が書いて正造が一部修正・加筆をした明治天皇への直訴状。そして死の病に臥したときに身に着けていたもの。信玄袋に入っていた河川調査の草稿、当時の小学校のノートに書かれた日記、新約聖書、マタイ伝と帝国憲法のミニ本、小石3個(ほかに鼻紙数枚と採取した川海苔があったという)―――これらがかれの全財産であった。これらをいくどもいくども、舐めるように文字を追い、また凝視した。いくつかの言葉を(撮影が禁止だったので)スマホのメモ帳アプリに打ち込んだ。 この午前の三時間の間、展示室を訪れる者はだれもなく、館内はひんやりとした静寂に満ちていた。いつしか展示室の手前のボードに掲示していた、2014年5月に天皇夫妻がこの佐野市郷土博物館と渡良瀬遊水池を訪れたときの記事の話を、当日じっさいに説明を担当した館長氏から訊いていた。おそらく東日本大震災と原発事故がきっかけと思われるが、公害地の自然が百年後にどこまで回復したか知りたかったらしいこと。博物館には休憩をはさんで一時間滞在し、田中正造展示室には20分費やしたが、いちばん熱心に見ていたのは例の直訴状であったこと、などを教えてくれた。直訴状はふだんは複製を展示しているが、この日は実物を用意して、天皇は一字一句を丁寧にたどりながら読んでいたという。また幸徳秋水や、最期を看取った木下尚江について、どういう人なのかという質問をしたらしい。 「最近はここを訪ねてくる人は増えているんですか?」と訊くと、やはりあの東日本大震災以来、入館者は多くなって、とくに東北地方から来る人が格段に増えたとの由。そしていまでは有名な「真の文明は 山を荒らさず 川を荒らさず 村を破らず 人を殺さざるべし」が書かれた日記を見たいという要望が多く寄せられるようになって、何だろうといろいろ調べたらどうも音楽家の坂本龍一さんが広めたのがきっかけらしいと分かった、と館長氏。それからその日記の該当の頁も展示するようになったのだが、それは小さなメモ帳の端におまけのように書き足されているもので、こんな走り書きのものだったのか、と驚かれる人が多いらしい。 もともと館長氏と話が始まったのは、この新聞記事の中に紹介されていた木下尚江が田中正造の今際の言葉を書き取った巻紙のことについての質問からだった。その内容が大勢の見舞客に対して穏当でない発言であったために、木下尚江が当時田中正造に付き添っていた正造のよき理解者であった島田宗三に「人に見せないように」と託し、島田はその後それを仏壇の隅に仕舞いこんだ。その巻紙がはじめて公開されたという記事であった。その正確な文章を知りたくて、全集の別巻に収録されているというその頁をカメラに撮らせてもらえるようお願いしたのだった。以下にその全文を引く。

 九月四日の朝、田中翁自ら臨終の近きを知り、岩崎佐十氏を枕辺に呼び寄せ、特に左の如く名言せり。 「同情と云ふ事にも二つある。此の田中正造への同情と正造の問題への同情とハ分けて見なければならぬ。皆さんのは正造への同情で、問題への同情でハ無い。問題から言ふ時にハ此処も敵地だ。問題への同情で来て居て下さるのハ島田宗三さん一人だ。谷中問題でも然うだ。問題の本当の所ハ谷中の人達にも解つて居ない。」 尚ほ此日の早朝、予、翁の枕頭へ行きしに翁眼を開きて見て曰く、 「病気問題ハ片付きましたが、ドウも此の日本の打ち壊しと云ふものはヒドいもので、国が四つあつても五つあつても足りる事で無い」 斯うして苦しき呼吸の間に長大息を漏らせり。 右は君の親しく聴かざりし翁の最後の語なるが故に、今ま此の記憶の新しき時に於て記して呈す。妄りに他へ示すことなかれ。 大正二年九月五日朝 翁の霊骸の隣室にて 於下羽田の里 木下尚江 島田宗三様

「問題から言ふ時にハ此処も敵地だ。」と語ったという田中正造の激しい憤怒。これが晩年をこの鉱毒問題に賭した男の今際のことばであったのなら、その絶望はどれほど深く、冥かったか。晩年を鉱毒問題に賭した孤立無援のその闘いはここに始まり、そして現在も、ここから何ひとつ変わっていないのではないか。わたしにはそんなふうに思えてならない。後に春日山岡惣宗寺で行われた本葬にはかつての政友であった大隈重信が参列して弔辞を読み、数万人が連なったといわれているが、正造の魂魄はすでに谷中村のあの雷電神社跡地、いや、ひょっとしたらこの国すらも越えた遠い果てに飛び去っていたかも知れない。

2016.4.28

 

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○ いいな。わたしもうちの庭につくろうかな。

 ◆妖精の扉プロジェクト 「目に見えないモノへの共通認識は、あらゆる文化・地域で太古より、そこに住む人々の心をつなぎ、世界は人間だけのものではないというメッセージも伝えてきました。外灯が増えて闇が減り、口伝えの機会も減り、妖怪や妖精は住みにくい現代ですが、生活の中でそんな目に見えないモノたちのことが話題になり、想像がふくらむ社会というのは、心のゆとりや人とのつながりがあるものではないかと思います。」

 で、つくってみた。 わが家の妖精の扉。 だれがいちばんに気づくかな。

 ◆妖精の扉プロジェクトin東近江 http://www.fairy-door.com/index.html

◆ほら、ここにいるよ…「妖精の扉」、マップで紹介 滋賀(京都新聞) http://www.kyoto-np.co.jp/shiga/article/20150512000032 

 

○ 自立できない人間が原発に賛成する。 自立できない人間が戦争法案に賛成する。 自立できない人間が沖縄の基地に賛成する。 自立できない人間が靖国神社に賛成する。 自立できない人間が天皇制に賛成する。 自立できない人間が安倍に賛成する。

2016.4.30

 

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○ 娘と半日デート。近鉄奈良駅近くのおたく専門店(アニメイト)へ。未知の世界なり。 「お父さんはしばらく、どっか行ってて」と店を追い出された父は、餅飯殿商店街あたりをぶらぶらし、古書店で「戊辰物語」と「南京事件」を購入した。娘は持ってきた図書券でおよそ5千円ぶんを購入。(艦コレとか剣コレとかボーイズラブとか・・・)
うち「「おそ松くん」とアカツカと怪作劇場」(宝島社)は父が買ったもの。これは面白い。

○ 餅飯殿商店街のスーパーでお弁当を買って、猿沢池のはたでランチ。

2016.5.3

 

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 娘の部活が終わるのを待ちながら読書。

 あゝ、かく筆を執れる間にも、わが心は悲憤の炎ほに燃ゆ。あゝ愚なるかな、五千万の鸚鵡(おうむ)と豚よ、爾(なんじ)が戴ける国家とは、実にかくの如き暴戻、悪虐、残忍、冷酷なるものなるを知らず乎。爾が何ものにも勝りて尊崇せる、政府、国家とは、人民の膏血に腹を肥やし、その権利を蹂躙し、その財産を掠奪し、法律の暴力をかり来つて、人民をその墳墓の地より追ふものなるを知らざる乎。あゝ爾が崇拝せる国家の本体とは、法律てふ爪と、政府てふ牙を有して、軍隊、警察等の擁護の下に、力弱き人類を取り喰ふ怪物なるを知らざる乎。
(荒畑寒村「谷中村滅亡史」)

国家と政府のありようは百年前から変わらず、いまでは一億二千万の鸚鵡と豚に増えし、か。

 

 

 娘のアッシーくんを終えたら、ジップを散歩につれていき、そして夕飯の支度。今日はつれあいが遅い勤務の日なので。学校近くのスーパーですでに食材は購入済み。
本日はわが敬愛する女性お二人のレシピから。

◆寮 美千子さんの【タコと胡瓜のマリネ】
「蒸しダコ・胡瓜・ニンニクみじん切り・唐辛子・柚子の皮細切り(ないしレモンピール)を、柚子の果汁(レモン汁)とオリーブオイルであえて、岩塩で味を調える。スーパーで勇斎の千恵子さんにバッタリ。「きょうは蒸しダコ安いわよ」と言われてこのメニューに。千恵子さんの家では、分葱とタコのぬたにするといっていた。」
https://www.facebook.com/photo.php?fbid=994368123978859&set=a.952163434865995.1073742082.100002170420835&type=3&theater 
わが家では近所のAさんが故郷の高知から調達していつも分けてくれる酢橘の果汁と塩レモンを使った。キュウリはすりこぎで叩いてから乱切りにした。

◆鄭玹汀さんの【牛肉と春キャベツのスープ】
こちらはアップされていた写真と、Webの「牛肉ポトフ」のレシピを参考にして何となくで作った。
https://www.facebook.com/photo.php?fbid=609737932516895&set=a.133353266822033.29151.100004420802283&type=3&theater 
材料は春キャベツ3/4、トマト2個、牛肉、えのき、セロリの根の部分を少々。
味付けはローリエ、ディル少々、ブイヨン・キューブ2個、塩、胡椒。
こちらは先日、つれあいが満を持して購入したビタ・クラフトの鍋で。

ご飯もこのごろは鍋で炊く。鍋の方が美味しいので、炊飯器はほとんど使わなくなった。

BGMは愛しきジョニ・ミッチェルの名盤「BLUE」。
https://www.youtube.com/watch… 

手伝いに下りてきた娘も気に入ったようで、歌詞カードを渡しながら「この人はカナダのソング・ライターでね、女性の微妙な心理をうたうのがうまいんだよ」と言えば、娘はニヤリと笑って「へえ、お父さんに“女性の微妙な心理”が分かるんだ?」 「分かるんだよ。分かるんだけど、なかなか実用に生かせないんだな」

そんな感じのキッチン風景で。

2016.5.7

 

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○ 日の壬生狂言の影響で、初心者練習用の篠笛を amazon で買ってしまった。プラスチック製だが、さいしょはこんなんで充分だろ。山の中でひとり吹いたり、できるようになりたいな。

◆篠笛をはじめよう
http://www.ganshodo.co.jp/mag/yaji/files/f-file01.html 

◆篠笛レッスン-1 (株)目白/Mejiro Shinobue Lesson-1
https://www.youtube.com/watch… 

 

○  いま、 facebook に1年半ばかりの間にじぶんが書いた投稿を整理してホームページに少しづつ保存していっているのだが、その前段階としてfacebook(写真・動画・ログ等を含む)をバックアップするアーカイブ作成を行った。申請をすると、圧縮された複数のHTMLファイルの形で送られ、ブラウザで表示するというものだ。

◆Facebookのデータを残したい!そんな時に利用したい機能
http://www.realmax.co.jp/facebook_info/post-12810/ 

びっくりしたのは、その中に「contact_info」というファイルがあって、これを表示したところ facebook の「アドレス帳」なるものの中にわたしの仕事先の(以前に配属されていた)支社のメールアドレスがいつの間にか登録されていたことだ。

友人に誘われて facebook を始めた頃、なぜか「この人はあなたの知り合いではないですか?」と職場絡みの顔がずらずらと出てきて、サテは登録時に入力した会社携帯の番号のせいかと、あわててそいつを削除したことがあった。幸いにしてそれ以来、職場絡みの顔の出現はなくなったのだけれど、それにしてもこの「仕組み」がじつに不気味で、厭らしいと思った。

会社携帯の番号を入力したのはわたし自身だが、ガラケーなのでスマホのように同期してアドレス帳まで吸われたということもない。ということは出現した職場絡みの顔の方がスマホのアドレス帳を facebook に意図的か知らずにか吸われて、そこにわたしの携帯の番号も入っていたということなのだろう。

会社携帯の番号は削除したのだが、「アドレス帳」なるものが存在して、そこにいつの間にか、かつての支社のメールアドレスが登録されていたというのは、今回このアーカイブ作成をしなければ知る由もなかった。じっさいに知らない人も多いのではないか。

この「アドレス帳」の画面がなかなか分からなくて、結局、以下のサイトを参照して削除することができた。よかったら、参考まで。

◆Facebookにインポートされた連絡先を削除する
http://asterisk.boo.jp/webservice/webservice_facebook/7246/ 

 

○ さんの去年のレシピを参考に、ハーブ酢なるものをはじめて仕込んでみた。
https://www.facebook.com/ryomichico/media_set… 

とりあえず庭にあるローズマリー、レモンバーム、アップルミント。それに唐辛子一本、にんにく一片、胡椒の粒数個。酢は家にあった林檎酢を。容器は専用のものを100円均一店で売っている。サテ、どんな味になるのかな。

HEINZ ハインツ ホワイトビネガー 醸造酢 5L  http://www.amazon.co.jp/HEINZ-%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%84-%E3%83%9B%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%93%E3%83%8D%E3%82%AC%E3%83%BC-%E9%86%B8%E9%80%A0%E9%85%A2-5L/dp/B004B9DKAI/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1462809718&sr=8-1&keywords=%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%84%E3%80%80%E3%83%9B%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%93%E3%83%8D%E3%82%AC%E3%83%BC 

2016.5.8

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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