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娘の15歳のバースデイ。

お前が産まれたとき、和歌山のおばあちゃんは「紫乃が成人式までよう生きとられんわ」と笑っていたもんだが、それももう目の前だ。

クラスを不登校になって2年が経つが、ナニ、お前の長いこれからの人生の中ではたいしたことでもない。
世間と折り合えずにレールを外れてばかりいた父親の娘なんだから、そのくらいは想定内だ。
お前の背負っている身体的なハンディも、お前の無限の可能性の前では知れている。

親ばかの父から見たら、お前は充分、期待以上に育ってくれている。ユーモアのセンスもなかなかだし、ときにクールな切り返しもスバラシイ。そして何より、心優しいお母さんの娘らしく心根のまっすぐなニンゲンに育ってくれた、とお父さんは思う。まっすぐすぎて、ときにしんどくなってしまうんだな。それはけっしてお前のマイナスなどではなく、これからのお前の真の支えになるものだ。そこへ何度でも、もどっていったらいい。

むかしお前がまだ小学生になりたてだった頃、お父さんはお前に大好きなホイットマンの詩の一節を教えた。そして、こんな人間になれ、と言ったもんだ。
まだ幼いときのことだから、きっと忘れてしまっているだろう。その詩の一節を、もういちどここへ記しておこう。

誕生日、おめでとう。
ことしも誰でもない、お前のペースと、お前のやり方で。

世界中の誰もが自分を称賛しても
私は一人静かに満足して座っている
世界中の誰もが私を見捨てても
私は一人静かに座っている

If no other in the world be aware I sit content,
and if each and all be aware I sit content.

( Walt Whitman )

2015.9.21

 

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 掘り下げ予定地から配水管が出現したため、計画を白紙撤回。 昨日掘った予定地を今朝から元に埋め戻している。 すでに庭のあちこちにばら撒いた土を回収するのは結構手間。 ギリシャ神話のシーシュポスのようだが、人生にはときどきこんなこともある。

 嫁さんと話し合って結局、三連のゴミ箱を放棄。 生ゴミは生ごみ処理機の購入を検討し、別の場所に設置。 それ以外の外に出すゴミはビール缶とか、犬猫のウンコとか、スペース的には知れているので、地上からフラットのふつうのレンガ・ベンチにして、お尻の下の収納スペースだけで運用することにした。 そうなれば話は簡単。 昨日掘った部分を八割方埋め戻し、改めて採寸を取り直して、地面を整地、叩いた上に砂利を乗せて再度叩き、モルタルを乗せて、とりあえずぐるりのブロックとレンガを設置した。 中央部には要らなくなった鉢底石を敷いた。 日が中天に昇り、お昼の食事。 今後の作業としてはブロックを二段重ねて、鉄筋6本くらいを地中に串刺しにして、穴部分をモルタルで埋め、最後に手前、サイド、上部の見えるところだけを小屋作りで残っていた漆喰を表面に塗ろうかと考えている。 背後のブロック部分が形になったら、残りのレンガをモルタル目地を交えて設置。 最後にブロックに打ち付ける板に、ベンチ兼ふたとなる板を取り付けて完成。 形が決まったので、あとはまあ、ぼちぼち、無理せずに。 しかし秋めいたとはいえ、まだモルタル練りは汗だく。

 日差しのきつい日中は昼寝して、3時頃からホームセンターへ行って鉄筋を購入。5m50cmを8本にカットした。280円。地中に30cmは入る計算。 鉄筋をハンマーで打ち込んで、モルタルを流し込みながら、二段に重ねた。 よくよく見ればブロックは若干カーブしてるけど、これも愛嬌のうちで。 コテで目地を仕上げているうちにぼちぼち日が暮れてきた。 今日はここまで。 もう何もしません。

2015.9.23

 

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人間の顔をしているが人間ではない。
こんなことを繰り返さざるを得ないのなら、
人という種はいっそもう滅んだほうがいいのかも知れない。
わたしたちの日常に歴史の実時間がすべりこむように、
この狂気はたしかにわたしたちと地続きだ。
わたしたち自身もすでに人間の顔をしていないのかも知れない。

イスラエル兵がパレスチナ人の少女に10発発砲し、道路に放置

続きを読む http://jp.sputniknews.com/middle_east/20150924/945583.html#ixzz3mlVL3tsk
22日、18歳のパレスチナ人の少女ハディル・アシラモウンさんが、ヘブロンの検問所で、持っていたバックの中身の提示と、顔をみせることを拒否したため、イスラエル兵に撃たれた。

アシラモウンさんは30分にわたって道路で血を流したまま放置された。その後、アシラモウンさんは搬送先の病院で、撃たれた傷が原因で死亡した。

イスラエル警察、児童に銃を発射する権利を得る
© AFP 2015/ Abbas Momani

イスラエル警察、児童に銃を発射する権利を得る
アシラモウンさんは、銃で10発撃たれた。アシラモウンさんを撃ったイスラエル兵は、30分にわたって医師がアシラモウンさんのもとを訪れることを許可しなかった。兵士たちは、アシラモウンさんがナイフを手に攻撃しようとしたと主張している。一方で、目撃者たちの証言と、画像および動画によると、アシラモウンさんは脅威を与えるような行動は取っていない。

またイスラエル兵たちは、アシラモウンさんの足を撃ったと主張しているが、アシラモウンさんが搬送された病院の職員とアシラモウンさんの父親によると、アシラモウンさんは病院で胸部に受けた銃弾の傷が原因で死亡したという。通信社ミドル・イースト・アイが報じた。

この事件は、イスラエル警察が、人、家屋ないしは自動車に投石したティーンネイジャーに対して武器を使用する許可を得てまもなく発生した。
続きを読む http://jp.sputniknews.com/middle_east/20150924/945583.html#ixzz3mlVO0q2l

2015.9.25

 

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 休日。朝から現在、庭に製作中のガーデン・レンガ・ベンチ(収納付き)の続きで、今日はいよいよレンガ積みの作業。予めディスク・グラインダーで煉瓦三個を割っておく。ホワイト・モルタルに硅砂、着色剤、水を加えて練る。自作の目地用ジグを当てた煉瓦の上にモルタルを乗せ、コテで伸ばし、そこへバケツに水没させておいた煉瓦を乗せていく。モルタルを練る作業も、煉瓦を乗せて目地を整えていく作業も、中腰が長いのでかなり腰に来る。いつの間に曇り空も失せ、夏のような日差し。途中からへろへろになりながら、廃墟となって捨てられた教会を修復したフランチェスコも、このように煉瓦を積んだのだろうかと考えていた。煉瓦を地面に埋めたことは何度かあったが、煉瓦を積むのははじめてのことだ。やってみるとそう簡単なものでもない。水平の目地はジグのお蔭でいいが、縦の目地はばらばら。だいたい一段目に固定した煉瓦からして目地のことはあまり考えていなかったので、上が今度ははまらなくなって手前へずれたり、横へ流したり。でこぼことしたが、これも味わいのひとつだろう。最初は牛革の手袋をして、目地用のコテなども使っていたのだが、そのうち手袋も脱ぎ、コテも放り出し、気がついたら素手で目地に材を突っ込み、指先で伸ばしたりしていた。このあたりは子どもの頃、よく「粘土をいじった手で鼻をほじらない!」と叱られながらも大好きだった粘土遊びが役に立っていると思う。かのインドでも牛がぽたぽたと落とす糞を拾って、上手にこねて、燃料にしたり、家の壁に使ったりとしていた。手は、どんな道具よりも素晴らしい最上の道具だ。

 そんなわけで午前中ですでに疲労困憊。Yが用意してくれたオムライスの昼食を済ませてからは、朝から体調がすぐれないと部屋に籠もっている子のところへ行って、猫のレギュラスとの二人と一匹で昼寝をした。子は文化祭の演劇部の公演が終わってから、いよいよクラスへの復帰をしなきゃならんとあって、心の中ではかなり葛藤を繰り返している。今日も朝から近所の家庭教師の家に勉強へ行ってからは、あとは自室に引きこもっていて、表情も暗い。夕食時に、わたしがさらに追い討ちをかけるように説教をしたので、さらに暗くなった。けれど夜中にトイレにやって来て、わたしがつくっていた焼酎の水割りのグラスをすすって、「おいしい・・」とにやり笑って、階段をあがっていった。明日は高校生の先輩たちの発表会を見に行くため、隣町のホールへ車で送っていく。

 リッキー・リー・ジョーンズの新しいアルバム「The Other Side Of Desire」の中の Christmas In New Orleans をリピートにして聴いている。不器用な足がつまづきつまづき、新しく生きられる道を探してさまよっていくような、そんな曲。

2015.9.26

 

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 夕方、子を川西町のホールへ迎えに行った折、ついでに近くの「屋台ちかみちラーメン」で夕食を済ませようかということになった。夜の営業時間まで小一時間ほどあったので、やはりその近くの島の山古墳へ立ち寄ってみた。ちょうど古墳の堀で釣りをしている人たちが停めている簡易トイレ付きの空き地のような駐車場があったので車を入れて、Yは子と車の座席で地区大会の話を聞き、わたしだけひとり車を降りて、古墳周辺を歩いて回った。

  島の山古墳は4〜5世紀に築かれた巨大古墳。そして古墳の西側に隣接する「唐院」の集落は古墳の築造とも重なる古い来歴をもつと堀のはたの説明版に記されている。名前からも渡来系の一族との関わりが予想され、あるいは陶工の始祖(加藤籐四郎)の伝説などもある。さらに古墳に寄り添うように建つ比売久波神社は蚕桑(ひめくわ)の名の通り桑の葉を神体としたとも伝わり、また天八千千姫命が蚕の糸で御衣を織ったとの故事もあって近接する結崎の糸井神社との関連も指摘されている。糸井神社は名前の通り機織の始祖を祭り、中世のこのあたりに座を持っていた観阿弥・世阿弥父子との関わりも深い。ちなみに古墳の東側には被差別部落の集落もある。いろいろと興味をそそる土地といえる。

 古墳の南西に位置する比売久波神社の石の鳥居下に明治41年の「従軍者」の石碑。また古墳南側の集落内の石仏を祭った祠の脇に「征清従軍紀念碑」があった。前者は年号から日露戦争、後者は日清戦争の時の碑であると思われる。こうしたものは、ちょっと前まではそれほど目も向けなかったが、佐谷真木人「日清戦争 「国民」の誕生」(講談社現代新書)を読んでから目線が変わってきた。この田舎の朴訥とした村にも、日清・日露の戦争への熱狂と悲惨の風景があったわけだ。

 薄暮がカーテンのように降りてきて、開店5分前の「屋台ちかみちラーメン」へ移動した。むかしは「バスラーメン」と言って、喫茶店の駐車場に停めた車両が厨房で、そこで受け取ったラーメンをすぐわきの建設現場のプレハブの事務所のような、長机と丸椅子が並んでいるだけの「店」で食べた。それはそれで雰囲気があってよかったのだが、去年あたりにその喫茶店の一部を改装して固定した店舗を持つことになった。10人ほどのカウンターだけの小ぶりな店内。わたしは醤油に煮玉子とチャーシュー増しのスペシャル。嫁さんと娘はふつうの塩ラーメン。以前に比べて一層、味が洗練されたような気がする。相変わらず、おいしかった。

2015.9.27

 

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 ここ数日の、子についてのYからのメール。

今日は行けそうだったのですが、お腹が痛くなり休むことにしました。
このところ、土日に出かけることが多く、便秘薬を飲めず、2週間ほどスッキリ出てなくて、お腹の中でうんちがカチカチに固まっていて、お腹は痛いが出ない状態です
今も浣腸をしたのですが、コロコロが4、5個で出ませんでした。食欲不振、頭痛も便秘からきてるのかもしれません。
というわけで今日は欠席、早く溜まってるうんち出ろ、出ろ[ウンチ]

(9月29日)

 

了解です。
紫乃は昨日から頭痛がすると言っており、昨日の朝にはやわらかうんちが出て、お腹の状態も落ち着かないまま頑張って学校に行ったのですが、しんどかったようで、今日も頭痛がする、あとに引っ張らないように、今日は休むということになりました。昨日もテレビをみるとき、暑がりの紫乃が布団をかぶっていたのも、ちょっと熱があったのかもしれないなと今になって思っています。
朝から頭痛薬を飲み、今は大分、体が楽になってきたと言ってます。

(10月1日)

 

今日は紫乃さんは風邪を皆にうつしてもいけないので休むと言い、休んでいます。
学校に電話したところ、理科のK先生という方が出てくれお話ししました。学年会議で紫乃のことはよく知って下さっていて、先日、GTEC(TOEICのような英語のテスト)を受けらることができ、よかったと喜んでくれました。M先生が「ふだんの行動にひとつ何か挑戦しようと思うと、それがプレッシャーになり、学校に来にくくなる」と仰ってられたそうで、最初は部活だけだったのが、7限目に学校にくる、次は7限目に授業を受ける。そして6限目に学校にくる、その時その時、学校に来れてたのが一時的に来れなくなり、でも、ちゃんと階段を上ってきた。今回の挑戦はM先生が5限目に授業(図書室)を入れてくれたこと。その日から熱も出、体調が悪くなってます。
K先生はきっと今は紫乃が次の段階に移る谷間で頑張ってるのだと思うと仰ってられました。
言われてみると、その通りで休んでしばらく学校に行くと次は何かできるようになっていたなあと。
休むのはエネルギーの充電期間なのかもしれませんね。

(10月2日)

2015.10.2

 

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 今日の夕食は、かねてからつくってみたかったレシピ。 FBでしばらく前からフォローしていて、つい先ほど「友だち承認」をして頂いた鄭玹汀(チョン ヒョンジョン、CHUNG HYUN JEONG)さんがある日、「ワインと一緒に!」と投稿していた「タコとしめじと豆苗のオイスターソース炒め」 詳しい作り方を鄭玹汀さんも書いていたわけでない。が、いたってシンプル。誰でもできる。 タコとぶなしめじと豆苗をオリーブ・オイル、塩・胡椒、オイスター・ソースで炒めるだけ。 豆苗ってふだんあまり使わなかったけど、この香草が花を添えているのかな。手軽で、小じゃれた味。娘は早速ツマミ食いをして「おいしい! これは白ワインがいいと思うな・・」ってお前、まだ未成年だろが。 残念ながら今夜はワインは抜きで、嫁さんが作ってくれた南瓜の味噌汁と、鮭の塩焼きと共に並んだごくごく和食の風景でしたが、もちろん人が集まったときのちょっとしたあてでも充分。 嫁さんも娘も大好評で、これはわが家の定番になりそう。 わたしのヘボ写真より美味しそうな鄭玹汀さんのTLはこちらです。 https://www.facebook.com/photo.php?fbid=523249977832358&set=a.101540370003323.2759.100004420802283&type=3&permPage=1

 「国家」だけれど、治めるものは誰もいないわけだ。 肝心なことは何ひとつやらないで、戦争ごっこだとか、オリンピックごっごだとかに興じている「子ども」がいるだけ。 それが小出氏の言う「でたらめなこの国の政府」。 日本はすでに無政府国家です。 さあ、どうする? おれたち。 「この日本という国がもし、法治国家だというのであれば、放射線の管理区域に指定して、一般の人たちの立ち入りを禁じなければいけない、というところが、おそらく1万4千平方kmほど広がってしまっています。 東北地方と、関東地方の広大なところを、もし法律を守るというなら、無人にしなければいけないほどの汚染なのですが、今現在、数百万人もの人々、子どもも赤ん坊も含めて、そういう場所に棄てられてしまっています。」

 (鄭玹汀 様) 面白く拝読しました。 新渡戸に先立つ1896年に、「最暗黒の東京」のルポを記した松原 岩五郎が日清戦争の従軍記録「征塵余禄」を書いてこれが大ベストセラーになった。 その内容も新渡戸と同じように朝鮮を遅れた国として描いています。 佐谷眞木人さんの「日清戦争 「国民」の誕生」(講談社現代新書)は、テレビもラジオもなかった時代)そのように当時発展途上であった新聞やルポ、あるいは芝居といった様々なメディアによって人々はアジアの隣国へのイメージを形作り、そこで形成された蔑視が後の大東亜戦争へと連なっていた、そのさまを描いています。 その原点が日清戦争にある、と。 巻末に著者は「私が興味を惹かれたのは、日清戦争という歴史的事実そのものよりむしろ、事実の手触りであり、事実が不可避的にともなう感興だった」と記していますが、その「事実の手触り」こそが、いまの日本にいるわたしにはとても近しいものに感じられてなりません(残念ながら)。 こうしたものは、鄭玹汀さんの新渡戸稲造の話ともリンクしてくるのではないかと思われます。 この国に住むわたしたちが歴史をほんとうに勉強しなおさなくてはならないとしたら、わたしたちはこうしたものをもう一度辿りなおすべきかも知れません。 佐谷眞木人『日清戦争 「国民」の誕生』(講談社、2009年) http://d.hatena.ne.jp/mahounofuefuki/20100117/1263689958

2015.10.3

 

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 昨日から庭の収納付レンガ・ベンチの追い込み作業。 昨日は朝からベンチ部分の材料の調達。外部なので防腐剤を染み込ませたちょっぴり割高な1×4材。長い幅木が1220mm、手前のベンチ部はすべて510mmでカットしてもらった。ベンチ部を束ねる幅木はぐるりのレンガとの兼ね合いがあるので家で切ることにした。 実際にカットした材をレンガの上に置いてみて、レンガに当たらないようにベンチ部の部材をつなぐ幅木のサイズを測る。そこではじめて判明したのは両サイドのレンガに乗る一枚づつは幅木を渡せないということ。両サイドは捨てて、コの字で直接にブロックとレンガに固定することにした。この辺はわれながら行き当たりばったりのテキトーさだなあ。でも、そういうところが逆に面白い。生きることと同じで設計図なんて当てにならないのだよ。 サイズが決まれば、まずは丸ノコで部材の切断作業。 続いてふたつに分けるベンチ部(開閉するところ)の組み立て作業。 そしてウォルナットの保護塗料を二度、三度と重ね塗り。乾燥。 昼食後に嫁さんと車で買い物へ行ったりして、夕方からはいよいよコの字部分の部材をブロックやレンガに固定するわけだが、用意していた(コンクリの下穴に埋める)アンカーの径とおなじ6mmのコンクリ・ブロック用のビットを持ち合わせていないことに気づいて、嫁さんが子の送迎から帰ってくるのを待って車で再度ホームセンターへ(わが家は車が1台しかないので)。 帰ってから作業を再開するも、じきに暗くなってきて本日はこれまで。 そうして明けて今朝、朝食を済ませてから残りの作業を終え、ベンチ部を丁番でつなぎ、最後に再度、塗料を重ね塗りして完成と相成った。 ブロックやレンガの積みが甘いので、ベンチ部は若干の段差ができてしまったけれど、座っている感じでは支障はあまり感じられない。 ほんとうは10年後、20年後の、とくに木部のメンテナンスを考えたらアンカーを使っての固定は決してスマートではないのだが、そんときはそんときで、壊してまた新しいのをつくったらいいんじゃないか、と。 ふだんはベンチ。左右片側づつが開けられて、中にはビン・缶のゴミや、園芸用の肥料などを入れる予定。 さて、残りは立水栓の改装と、今回のベンチとその立水栓の間に、自然木を利用した素朴な物干し台を立てる予定。これは家を買ったときに便所の前に立っていて切ってしまった2本の樫を皮を剥いて乾燥させて置いている。それで庭の作業はおおよそ終了。 今日はもう、あとは何もしない。

 「テロ」 「誤爆」 「副次的」 ・・・ メディアはもう、こういった誤った言葉の使い方はいい加減にやめろ。 あんたらの言葉の使い方が、こうした残虐な行為にお墨付きを与えていることを自覚せよ。 「誤爆」 → 「間違えました。ごめんね」(電話で謝罪) そういう問題じゃねえだろ。 「殺人」であり、「犯罪」であり、「虐殺」である。 そう、はっきりと書け!!

2015.10.4

 

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 15年前。 この世でもっともかよわく、この世でもっとも得がたい命を、わたしはこの腕の中で抱いていた。 まだ頸もすわっていない赤ん坊だ。 わたしの手は、まるでこわれものにでもふれるように、おずおずと、ぎこちない。 あれからはや15年がすぎた。 さいわいにして赤ん坊はすくすくと、元気に、まっすぐに育った。 そして15年前にもそうであったように、いまもこの世でもっともかよわく、この世でもっとも得がたい命だ。 父はときどき、思い出したように、この写真をどこからひっぱり出してきて、よふけにひとり、眺める。 写真の中で抱いているのが死んだ赤ん坊のように見えて慄然とする。 わたしは、そうだったかも知れない。 瓦礫に囲まれたガザの町で、シリアの郊外で、アフリカの地で、もう二度とものも言わず、笑うこともない赤ん坊を抱いて立ち尽くしている。 わたしは、そうだったかも知れない。 未来のことも、過去のことも、考えられずに、永遠に閉じてしまった時間の中で声にならない声を絶叫している。 おまえは、そうだったかも知れない。 わたしはこの世界を憎む。この世界に復讐を誓う。徒手空拳で、頼む術もなければ武器も手にしよう。爆弾もつくろう。 暴力は持たざる者の最後の武器である。 そうしてわたしはみずからの命を断つだろう。 わたしでなかったことは、たんなる偶然に過ぎない。 おまえでなかったことは、ほんのわずかなすれちがいだ。 だから生き残ったものが憎み続けなければならない。 否定し続けなければならない。 闘い続けなければならない。 世界が、ほんとうにつながっているのだとしたら。 この世でもっともかよわく、この世でもっとも得がたい命を、わたしはこの腕の中で、いまも抱き続けている。 おまえであり、どこかでうしなわれたおなじ得がたい命だ。

2015.10.9

 

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 朝から車で神戸へ。わたしとY、子、そして今回は子の友人のHちゃんも同行。いわば娘「二人」を連れた気分で。

 神戸市立博物館で開催中の「大英博物館展」。(駐車場は南隣のデビスパーキングが便利。土日でも最大1500円) サブ・タイトルの「100のモノが語る世界の歴史」のとおり、世界各地の大英帝国の簒奪品を200万年前から現代まで、年代順に100のターニング・ポイントのように切りとって置いた、まずはその「見せ方」がナイスだった。「道具にやどる言語の息吹」 「エジプト名君のイメージ戦略」 「冥界の神々との交渉人」 「17世紀の「クールジャパン」」 等々、それぞれのタイトルのつけ方も洒落ている。ちょっと目線を変えた解説も妙。それぞれにみな面白かったけれど、そうだな。たとえば140万〜120万年前、タンザニアのオルドヴァイ渓谷から発見された握り斧。完成形をあらかじめイメージしてつくることは何らかの言語能力を必要とした。つまり石器の造型が言語の萌芽をもたらした、という説明が興味深かった。コトバというものはモノと密接につながっている、ということ(逆を言えば、モノとのつながりを失ったコトバは狂う、ということ)。。また紀元300年頃のイエメン。みずからの右手を精巧に模した象りに神への祈りの言葉を刻んだ奉納品。「ぼくの右手を知りませんか。行方不明になりました」と歌ったブルーハーツの曲をふと思い出した。アメリカ先住民のパイプや、聖書以前の「ノアの箱舟」やヨナの伝説を伝える遺物などキリスト教以前の、キリスト教文明が破壊してしまった文明の名残がわたしには近しく感じられた。そういう意味では『キリスト教の隆盛とともに消えた宗教』として置かれていた「ミトラス神像」――――ミトラス神が雄牛に剣を突き刺し、あふれ出した生き血を犬と蛇がすすっている――――これがキリスト教のパン(雄牛)とワイン(生き血)のいわば裏返しの象徴であることをキリスト教徒たちが怖れた、という解説が興味深かった。ヨーロッパ文明が意識の領域から追い出し、無意識の暗闇へと放逐したもの。わたしはそうしたものにいつも惹かれるな。そうして最後の方の「工業化と大量生産が変えた世界」で登場した「アメリカの選挙バッジ」。ここではじめてアメリカのモノが登場するわけだが、それが「使い捨て文化」の始まりでもあるというのも何やら皮肉なことだ。最後に101番目のモノをあなた自身が選んでくださいというコーナーがあって、人工心臓だとか、カーナビだとか、スマホだとかいろいろあって、市立博物館が今回選んだ101番目は3億年データを保存できる石英ガラス(英ガラス内部にBlu-ray Disc並みの記録密度となる100層デジタルデータを記録・再生することができる)であったようだが、わたしはそのどれも違うと思った。まだ現れていないのかも知れない、もっと人の精神の変革をうながすたとえば生命と植物と鉱物とを横断するような、もっとやわらかで、沁みいるようなモノ。そう、言葉でいえばたとえば「苦界浄土」で石牟礼道子氏が水俣病患者を物語るような、そんな言語。

 たっぷり二時間近くを見てから、神戸元町の商店街近くで昼食。前回、「チューリッヒ美術館展」のときと同じ伊藤グリルの姉妹店「アシェット」でおなじハンバーグセットを食べ、おなじ向かいのスイーツ店でデザートのジェラートというのも芸がないが、あちこち物色するのがじつはあまり好きでない。

 さて、はるさん(榎並和春氏)の個展だ。調べてみると前回は2009年だったから、じつに6年ぶりとなる。わたしの長期出張が見事なほどはるさんの関西での個展に重なったこともあったのだが、それだけでなかった。2011年、あの東日本大震災が起きて、わたしは以来、何やらじぶんのコトバと現実がどうしても乖離してしまうように感じられて、いわばコトバを失った。書いてもじぶんで空々しかった。それが、人を遠ざけた。わたしは己が、画家の作品に対峙するだけの価値がないと、そう思ったのだった。わたしはそうしてよく、人を、世間を遮蔽する。それが友人に誘われたSNS(facebook)をきっかけに、またひょんなことから言葉を交わすようになった。己の価値があがったわけではないのだが、ひさしぶりに見に行こうかなという心持になったのである。不登校の娘を連れて。はるさんの作品をはじめて実際に見たのは、歴史を紐解けば2003年、子がまだ3歳のときだ。よって以来12年間、わたしなりに画家の作品に寄り添ってきたことになる。「寄り添ってきた」という表現は不遜かも知れないが、わたしの心持のどこか深いところにはるさんの絵を求める・共振する要素があるので、ある意味、12年間の拙いわたしの生はおなじではないかも知れないが、並行する線路のように画家の作品と生きてきたと言えるのではないか。はるさんの絵は、反復と回遊のバリエーションである。砂漠の遊牧民のように、アフリカの戦士たちのように、羊や牛を引き連れて旅をし、そうして季節ごとにいつもの場所へもどってくる。青があり、深緑があり、記憶の叙景があり、モダンな抽象があったりするのだが、いつも戻ってくるのは、砂漠の膨大な砂の底で眠っている太古の地層を削り、かぶせ、また削りながら探している原像のようなまだ見ぬ形で、それがわたしと画家との間で、けっして同じではないのだけれど、案外と近しい。はるさんの絵は、やっぱり赤だと思う。「赤」と表記してしまうとちょっと違い、水銀の朱のような赤であり、禁忌(タブー)の赤であり、あの世の赤であり、抵抗の赤だ。同時に現世の供養という意味では「閼伽」であってもいいかも知れない。はるさんの絵はやっぱり赤だと思っているのだけれど、不思議なことにわたしがいつも辿りつくのは、鉱物のような黄土色の作品であることが多い。赤や閼伽はその地層の下に隠れている。画家が天上の霊感を得てささっと描いてしまったものよりも、むしろ半分俗に足をつっこんで迷いながら、苦闘しながら、疑いながら、地層を削り、剥ぎ取り、上塗りし、ひっかきしてまだ道半ばでついに誰かに明け渡した、そんな作品に惹かれるような気がする。そしてそれは遊牧民が回遊の中で必ず立ち寄り、いっときの小屋掛けをするような、そんな反復なのだ。以前にもいつか見たことがあるのだけれど、なにかが違い、それでいて根は変わらない。神戸の閑静な住宅街に囲まれたひそやかな画廊で、「絵はそのときの見ている人の内面を写すものだ」と画家が訪問客の女性に話しているとき、わたしが見ていたのは疲れた黒い影のような騾馬と寄り添いヴァイオリンを、おそらくだれに聴かせるわけでもなくただ己の慰みのためだけに弾いているこれも黒い影のようなひとりの男の姿で、けれどもわたしはその男は負けていない、まだ負けてはいないという矜持の音色をその男の弾くヴァイオリンからたしかに聴いたのだった。その音はとても力強かった。

2015.10.10

 

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 朝、出勤前に人を車で送る用事があり、家に戻ってくると朝食をいっしょに食べた子が自室で布団にくるまって寝ているので、思わず「自堕落な生活をするな」と強い口調で叱った。子は「鼻血が出たんだ」と言い、わたしは「どこに鼻血があるんだ」と言い返し、それからたまっていた言葉があふれ出してとまらなくなった。

 学校へ行けないのなら、行けなくてもいい。学校なんかたいしたことじゃない。それならそれで別の道を探したらいい。お父さんもお母さんもいっしょに手伝おう。でもお前は学校へ戻るという。高校もこのまま進んで、演劇部を続けて、先輩たちとおなじ大学へも行きたいという。中学は義務教育だが、高校からは単位や内申書が必要となる。それはおまえも充分に分かっているな。だからいままでの授業の遅れを取り戻すために、家庭教師の先生もお願いした。でもおまえは毎日、部屋でパソコンをして、スマホをして、犬猫と戯れるだけの生活だ。文化祭が終わって、定期試験が間近になって、部活が休みになったら、おまえはまた学校(図書室での自習)へ行かなくなった。昨日も一昨日もそうして休んだけど、お父さんはなにもおまえに言わなかった。おまえがいつかじぶんから勇気を出すのを待っているからだ。戻る戻るといいながら授業へ出なくなって、はや二年が経った。でも、いま行かなかったら、明日もいけないだろう。来週もいけないだろう。来月だっていけないだろう。そうやってすぐに年も越して、じき卒業式だ。いましかないじゃないか。戻るのだったら、いまから行け。いま行けないのなら、もう退学しろ。

 そうしてわたしは子の前で、学校の事務所へ電話をした。担任のM先生は会議中だというので、「復学の見込みがないから、退学手続きをして欲しい」と伝えて電話を切った。子は泣き喚き、呼吸が激しく乱れ、それから顔をふせて、もう何を言っても動かなくなった。わたしは仕事へでかけた。近所に住んでいる妹へ電話を入れて状況を説明し、いちど様子を見てきてほしいとお願いした。

 夕方。会社をちょっとばかり早引けしてまだ日のあるうちに帰宅をし、まだパジャマのままだった子に着替えるようにと言った。それから犬のジップと猫のレギュラスを玄関のゲージから出して子の部屋に入れて、わたしは子のベッドに横になり、子は床にすわって、いつものようにジップがレギュラスを追いまわし、レギュが物陰からジップにちょっかいを出し、ジップがいきりたって、翻弄される様を二人で笑いながら眺めていた。朝のことは何も話はしなかったし、わたしも言い出さなかった。そのうちにわたしは子のベッドで眠ってしまった。子はパソコンのタブレットでイラストを描いていたようだ。

 それからYが帰ってきて、ジップの散歩を済ませてから、夕飯。はじめはみな黙りがちで、ぎこちなかった。Yが子の小学校のときの友だちのNちゃんのお母さんに郵便局の前で会って、一時間立ち話をしたということを話した。国立校に受かったNちゃんも夏ごろからほとんど学校へ行かなくなり、進学はもう諦めて通信制の高校を検討しているという。それから、Nちゃんのお父さんはどうしているか、とわたしが訊ねた。学校の空気が嫌でうつ病のようになり、教師の職を辞してから宅配便やゴルフ場のアルバイトをしてきたNちゃんのお父さんは、臨時採用だがやっと県内の山間の公立校へ就職が決まっていま通っているという。臨時採用というのは、元々の教師が“心の病気”で休職しているためらしい。そんな教師の話からこんどは歴史の話なってわたしが、幕末の水戸藩で生まれた「国体の護持」という思想が終戦のポツダム宣言まで持ち越された経緯と、さらに維新で賊軍とされた幕府側―――とくに東北の諸藩がそのルサンチマンを抱えたまま逆境を生き抜いて大東亜戦争を推進したが秘めたるルサンチマン故に自己破壊衝動によって無謀な戦いに突入し国を焦土とした。そのルサンチマンの表象が戦後のゴジラであり、だからゴジラはなんどもこの国を破壊するのだ。さらにつけ加えるなら「天皇のために喜んで死んでいった兵士を祀る」靖国神社は当然のことながらかれら=賊軍を祀っていない。しかし古来の「この世に恨みを抱いて死んでいった怨霊を鎮めるためにカミとした」というこの国の神社の由来に照らし合わせるなら靖国はいわば「正統の神社」ではない。「正統の神社」ではないのだが、わたしに言わせればあの靖国神社の遊就館に物言わぬ視線として並べられた無数の写真パネルは無残な終戦を以って「天皇のために喜んで死んでいった兵士」から「この世に恨みを抱いて死んでいった怨霊」と化したので、そのときをもって靖国はようやく「正統なこの国の神社スタイル」に組み込まれたというべきかも知れない。 ・・・そんな話を食後のお茶をすすりながら滔滔と喋り続け、「お父さん、お母さんの目がとってもまどろんできたよ」と子がつぶやいたところで一同大笑いとなって、そうして今日の修羅場は拭い去られたのだった。

 子は、明日は学校へ行く、と言い、わたしの妹に送迎依頼のメールを打った。土曜日に進路指導の保護者会があるので、今日の電話のことはそのときに担任のM先生に説明することにした。

 

 以下、ここ数日の子についてのYからのメール。

買ってきたよ。
11日に奈良女子高校で受ける英検のことが気になって夕べは眠れなかったと朝からど〜んと沈んでいました。昼前からは「英検は別にいいけど、知らないところに行くのは嫌だ」 「なんで私は英検なんて受けるっていったんだろう」と嘆く、落ち込む、部屋のドアの前に座り込み、泣き、私は部屋にも入れない状態に。一時パニック状態になりましたが、なんとか「気分が悪い、吐きそう」と言いながら部活に行くことができました。

紫乃が言うように、行ったことのない学校に行くのが嫌なのかもしれませんが、土曜日にチャコ兄(※家庭教師)に宿題として出された英検過去問をやれてないことも関係しているのかなと。。
時間を計ってテストさながらにするのはハードルが高かったのかも。チャコ兄とはできても一人ではね。チャコ兄のところでしてきた日も「しんどかった〜」と言って帰ってきたから、その思いもあり、手がつけられなかったのでしょう。いつもならちゃんとチャコ兄の宿題はしてるから。
まだ水、木、金と学校に行く日があるので英検のことはあまり触れずにいこうかなと思います。今日は部活に行けただけよかったかなと思います。

では、気をつけて。

(10月6日 18:26)

 

吐き気がするそうで場合によってはチャコ兄は休みにしようと思います。

よろしいか?

(10月6日 18:46)

 

了解

朝からチャコ兄だったのですが、行けませんでした。学校も。
英検が思いの外、ストレスが大きかったこと、そこにもってできなかったことのショックと中間テストの不安が一緒になってパニックになっています。

「行かんかったら怒られるんやろ 私は15年間、怒られ続けてきた」と。
そこまで怒ってないと思うけど、少なくてもここ、1年半ほどは、怒ってないよねぇ。固定観念になってしまっているのかなあ。

英検を受けることは紫乃にはかなりしんどかったってことは、その階段はものすごく高かったってことで、その高い階段を登っちゃったんだから、その分、休養が必要なんでしょうね。

来週から中間テストが始まるので、それに行けるよう、今週はのんびり、神経を休める週と思い、何も言わないでおこうと思います。

「怒られるから行く」というような言葉が紫乃からでないよう意地でも怒らないで、紫乃がこれはヤバいと、自分の意思で行くようにしようと思います。

ヤバいとは思ってるんだけど(思い過ぎてるかも)、それを行動に移すエネルギーがないんだよね。だからよけい不安やイライラが募り、気分が落ち込み悪くなってしまう
特効薬は「笑い」だそう、笑うことでエネルギーが貯まっていくそうだから、精々、二人で笑わせましょか。
 
チャコ兄にも以下のメールを送っておきました。

「カウンセラーの先生によると、よくなったり、悪くなったりを繰り返しながら、少しづつよくなっていき、以前のような状態に快復するそうです。ちょっとしんどいと思うことを頑張ったあとは、その反動で悪くなるとのことです。今回は英検の反動だと思います。普通ならば100%のエネルギーがあり、一晩寝たら快復するものも、持ってるエネルギーが20、30%と少ないためにすぐなくなってしまそうです。また、エネルギーが少ないためにストレスに対抗する力も弱いそうです。
と、こんな状態ですが、今まで通り、よろしくお願い致します。」

では、気をつけて。

(10月13日 18:31)

 

紫乃の調子は悪いです。朝から目眩がすると寝ていたのですが、今も起きるとふらつく、いくらでも寝れると言っておりました。只今、私は紫乃の病院、泌尿器科に来ています。
具合が悪いと言うときはそれがなんであれ、休ませようと思います。
紫乃には親が自分の言うことを親が信じてくれるということが必要なんだろうなと思います。
いいかな?

(10月14日 11:34)

 

家に戻ったら紫乃が布団をかぶって寝ていたので叱りました。学校に電話して「復学の見込みがないので退学手続きをしてくれ」と伝えました。遅れましたが、これから仕事へ行きます。

(10月15日 9:48) ※これだけ、わたしからYへのメール

 

それもいいかも。
紫乃も充分頑張ってきたものね。
英検の後は特に心配でした。紫乃も合格したいという気があり、自分でも勉強してただけに出来があまりよくなくて落ち込んでいたいうより、自分をなくしてる感じだったので精神面がかなり心配でした。
ずっと無理して頑張ってきたのだから、しばらく学校のことも勉強のことも忘れ、ゆっくりさせてあげたいと思います。

(10月15日 15:09)

 

ちゃん(※わたしの妹)から話は聞きました。
先生から以下のメールがきました。○○さんから話してもらえますか?

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連絡有り難うございます。今朝お父様からお電話をいただいたのですが、何か聞いておられますでしょうか。私は会議中でした、後で掛けましたがつながりませんでした。

(10月15日 16:12)

2015.10.15

 

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 3日前の深夜、音楽ライターの和久井 光司さんのTLで騙されて(^^) ポチ買いをしてしまったレコード・プレイヤーが届いた。 当日限りの割引で送料無料で9800円。 スピーカ搭載でこれ単独でもレコードを聞けるし、PCやiPodにつないでレコードの音源をデジタル化することもできる。 記念すべき一枚目はやはりこれか(ディランのデビュー盤)。 じつに20年ぶりくらい?  ・・・感動。 音もけっこういい。 いやCDでも聴いていたけど、やっぱり違うんだな何かが。 これで一万円ならスバラシイぞ。 https://www.facebook.com/koji.wakui.5/posts/721288518006258?comment_id=721443877990722

2015.10.17

 

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 朝から収穫したオリーブを塩漬けに。 これまでは下のサイトを参考に、たんに殺菌処理したビンに半年、塩漬けで寝かしていたのだが http://blog.kochan.com/archives/51511254.html 今回は偉大なクックパッドで見つけたこのサイトを参考に、一粒づつ潰して、水も定期的に(毎日は無理だが)換えようかと思っている。 http://blog.kochan.com/archives/51511254.html 麺棒をつかった潰し作業は液が飛び散ったりするので戸外が良い。結構、べたべたになる。 小さめのまな板の上を転がるので、さいしょは端材で下方の留めをつくって叩いていたが、やがてその付近も滑りやすくなって横方向にスライドするようになったので、たまたま小屋にあったむかしのジグで横も押さえて、その角で叩くことにした。これでやっと作業がスムースに。 あとは熱殺菌したビンに入れて、塩を入れ、水をいれて蓋をし、しばらく様子を見る。

 お昼は娘と二人。 「なんか食べに行こうか。天理にある卵がけご飯専門店なんか、どう?」と父は誘うのだが、娘は「うち飯」がいい、と言う。 それでこの間、近所のお葬式のお供えのお下がりでもらったインスタントの袋麺がふたつあったので、冷蔵庫にあった豚肉、キャベツ、えのき、白ネギ、人参などをさっさと炒めて乗せたラーメンをつくって食べた。 夜はテレビのコマーシャルを見て食べたくなったクックドゥの回鍋肉をわたしがつくる予定なので、なんだ、考えたら中華続きだな。 レコード・プレーヤーでザ・バンドの2nd を聴いている。かれらもデジタルよりアナログが似合うバンドだ。 デジタルは人の心を拾いきれないのかも知れない。 http://blogs.yahoo.co.jp/kosi0810/42339969.html

 夕飯はCook Doの回鍋肉と野菜スープ。 テレビのCMでこの回鍋肉をやっていたのが美味そうで買ってきたのだが、棚に並んだ各種Cook Doの中で見事にこの回鍋肉だけが減っていた。世間はわたしのような単純な人間が多いということですな。 スープは大根、人参を大きめに切り、あとはエノキ、玉葱。味付けは旧ウェイパーと塩コショウ、そして隠し味でナンプラー(魚醤)をちょびっと。 これとご飯、キムチ。 美味かったけど、よく考えたらCook Doって、味覚破壊の親玉であり自民党献金会社の「味の素」じゃないか。 次回はCook Do使わずにつくろかな。 娘は回鍋肉よりスープの方が美味しい、と。

2015.10.18

 

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 今夜の夕飯は和歌山の嫁さんの実家から届いた“なれずし” 酢飯がちょっと苦手なわたしはどちらかというと上に乗っている魚のほうが好き。 嫁さんは魚を残して、ご飯ばかりを食べている。 つまり、わたしは正統派、ということになる。か?

  「すし」の起源は東南アジアとされ、稲作とともに日本に伝わったと言われている。元々は魚介類や鳥獣肉等を貯蔵して食べるために、「ごはん」の発酵を利用した保存方法の一つである。   日本ではこの古い形の「すし」を「なれずし」と呼んでいるが、古代の「なれずし」は漬け床の「ごはん」は食べずに、魚介や肉のみを食していたようである。今も滋賀県に伝わる「フナずし」はこの形で残っており、「なれずし」の中でも「ほんなれ」と呼ばれている。  室町時代になると、漬け床の「ごはん」がペースト状にならない前に、まだ粒のままで残っている状態で発酵を止めて、魚介や肉と一緒に「ごはん」も食べるようになった。この「なれずし」を「なまなれ」と言い、和歌山に伝わる「なれずし」はこの形である。  江戸時代には、酢を使った「はやずし」が作られるようになり、発酵させる「なれずし」は廃れていった。同時に「すし」の形も「姿ずし」や「箱ずし」から「巻きずし」「押し抜きずし」「ばらずし」「包みずし」「握りずし」など、今に残る色々な種類の「すし」が作られるようになった。

◆すしの始まりは“なれずし”から http://www.komenet.jp/bunkatorekishi10/47.html

◆紀州なれずし たまらない香り http://www.nikkei.com/article/DGXDZO78667070R21C14A0EL1P01/

◆和歌山のなれずし http://idc.wakayama-edc.big-u.jp/updfile/contents/39/2/html/sushi.html

2015.10.20

 

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 娘はいま午後の6時限目から、図書室で自習をするか、ときどき手の空いた先生がマンツーマンの授業をしてくれる。 6時限目は13:30くらいから始まって、7時限目が終わるのが15:40。 家に帰っても、また小一時間ほどで迎えに行かなくてはならないので、近辺で時間を過ごして待つことにしている。 嫁さんは学校に近いショッピングセンターで、わたしはたいてい学校の丘陵地から裏山をくだっていく山あいの道のどこかに車を停めて、あたりの山道をぶらぶらと歩いたり、あるいは車の中で本を読んだり、シートを倒して昼寝したりする。 そして格安の大型スーパーで娘と100円のソフトクリームを食べて、帰ってくる。

 週末に仕事が入ったので今日は代休。 幼稚園か小学校1年生頃からの娘の愛読書だった「冒険者たち ガンバと15ひきの仲間」(斎藤惇夫・1972)をアニメ化した「GAMBA ガンバと仲間たち」を二人で見に行った。 朝いちばんの3D上映。 感想などは“つかさん”のTLに現在、集約されているのでそちらに譲るが、原作の魅力的なキャラクターを生かしきるには90分という時間は短すぎたかな。 後半、「常にぼんやりしているため、周囲からワンテンポ遅れている」ボーボがイタチとの戦いの傷が元で死んでしまう場面から最後まで、娘は泣き続けた。

 ◆映画「GAMBA ガンバと仲間たち」公式サイト http://www.gamba-movie.com/

◆つかさんのTL https://www.facebook.com/yukie.tsukamoto.9/posts/1503269679967268?pnref=story

◆夏休みの冒険者たち〜ガンバと15ひきの仲間 http://yutoma233.hatenablog.com/entry/2015/06/14/195415

 

2015.10.22

 

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 金曜、土曜、日曜は連日、朝5時に起きて暗いさなかに電車に揺られ、琵琶湖のほとりのある町で11時間立ち続け、夜遅くに帰ってくるという毎日で、けっこうハードだった。 今日は朝からタンスの衣替えをしたり、書斎の窓の日よけシェードを仕舞ったりで冬支度をした他は、子の部屋に行って猫とごろごろしたり、昼食後にソファーで日曜の新聞の書評などを見ながらうとうとしたりして、疲労回復のだらけた休日。 折りしも嫁さんも数日前から風邪をひいていて、今日は子も朝から風邪気味だと言って町医者へ連れていかれた。 週末前に注文していたはじめてのスマホが土曜に届いていたのだが、これを昨夜からやっといじくって大体の設定を終えた。 いま話題の(?)格安スマホのDMM モバイル。 本体はいちばん安い1万円のアンドロイド携帯を一括で購入して、通話SIMプラン 1Gで月額1260円(税抜き)。 家では無線LAN環境があり、またしばらく前に月額980円契約のWifiルータを買ったので、1Gでも充分。 通話代が20円/30秒なので、基本料なし・通話料8円/30秒のIP-Phone SMARTと契約してアプリをDLした。 (LINEができる家族・友人とはLINEでやりとりや無料通話ができるので、今後はそちらがメインになるだろう) メールはSMS(ショート・メール)がメッセージとして送受信できる。Eメールが付いてないのがネックだが、ほとんど使っていなかったグーグルのGメールを携帯に設定して代わりとした。 これでしばらく使って様子を見る。

2015.10.26

 

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 今日も娘の部活送迎で、人気のない里山山中をひとり徘徊中…

 気持ちのいい池に出た。 頭上の鳥のはばたき、つばさが空気を裂く音がくっきりときこえる。 だれもいない背後の森で木の実がぱちぱちと爆ぜる。 大きな蜘蛛がじっと息をひそめている。 ときおり風が吹くと、水面がこまかな色のコラージュに融けて疾(はし)りだす。

 娘は今日は朝から家庭教師を一時間半。 それから本来なら学校へ行って1〜2時間自習をして昼から部活なのだけれど、いくつかのグループに分けた部活のダンスで使う音楽のCD製作について、音楽データを切り貼りして編集しCDに焼くというPC作業をできる者がいなくて、子がすべて請け負ってきたため、昨夜からそれで大忙し。 ために今日も昼までその作業を何とか終わらせて数枚分のCDを焼いて、PCがCDを焼いている間に急いで昼食を済ませ、「疲れた〜 できた〜」と満足げな顔で車に乗り込んだ。 嫁さんに言わせると、娘はじぶんが他人より劣っていて、何の役にも立たないと思い込んでいるので、こうして人の役に立てるのが嬉しいし、自信にもつながるのだという。 折りしも玄関を出る際にわたしがポストに、先日受けた英語検定の結果通知を見つけてしまい、娘は「ああ、折角忘れかけていたのに〜」と頭を抱えたものの、奥のリビングで封を開けてきた嫁さんがにこにこと「合格」と書かれた一枚を持ってきて、それもまた追い風だったかも知れない。 どこかで百合の花を買いに行きたいと言うので、なにかと問えば、今日は大好きな「ハリー・ポッター」の両親の命日なので、百合の花を部屋に飾りたいのだという。 それで学校の帰りに町内の花屋へ寄って、これも嫁さんから、いまは少しづついろんなことが一人でできるようになってきているから、花屋も一人で行かせるようにと指令を受けていたので「じぶんで買って来い」と車から出して、あとでこっそりと花屋の向かいの自販機と電柱の後ろから覗いたら、店の人が新聞紙にくるんでくれた花束を受け取っていて、それからびっこを引きながら戻ってきて「500円で買えた。つぼみがたくさん付いているのを選んでくれた」と嬉しそうに報告したのだった。 家に帰ってわたしがジップの散歩を済ませて、今日は嫁さんが仕事が遅い日なので、二人で大好きな「横手」の塩ラーメンを食べに行った。

2015.10.31

 

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 さあ、まわりをよく見てみろよ。 なにかが違っているが、あんたは気がつかない。

 「ピーターバラカン氏9条のTシャツを着ていたからという理由で警官に呼び止められる」 (ラジオ番組 冒頭部分文字起こし )

バラカン氏 「昔のスタンダップコメディアンの決まり台詞に  「今晩劇場に来る時におかしなことがあってね」というのが良くありました。  実は今日スタジオに向かう途中、おかしなことがあったんです。  珍しく広尾の方から六本木に向かって有栖川公園の脇を歩いていると、  まずひとりの警官にちょっと変な目で見られて、  僕今日怪しい雰囲気を発しているのかな?と、一瞬思ったんです。  もうちょっと先を歩くと、中国大使館のすぐ手前の所で、  2人の警官に止められました。  「あれ?どうしたんですか?」と言ったら  「今日これから抗議をする予定ですか?」と聞かれたんですね。  特にそんなことはないし「何故そんなことを聞くんですか?」と問うと  「9条のTシャツを着ているから」と言う。  僕は自分のフェスティバルのTシャツか  9条のTシャツのどちらかをほぼ毎日着ているので、  「それがどうしたんですか?」と聞くと  「もしこれから抗議に行くのなら知っていた方がいいと思って」とか言うんです。  特に抗議に行く予定はないんだけど、  僕40年以上この国で暮らしてはじめてそういうことを聞かれて、  今も釈然としないものがあって、仮に抗議に行く予定だったとしても、  何故それがいけないことなのか?  何故9条のTシャツを着ているからって、  そんなことを聞かれなきゃいけないのか、  ちょっとこの国、  もしかしたらちょっとおかしな方向に行き始めているんじゃないかと、  そのように思っています。」

2015.11.1

 

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 あのときも、守る気などなかった。 いまも、そうだ。守る気などない。 政治家や国会議員などといった人々は なにも神の神託や天命を受けた特別な存在でもなんでもない。あたりまえのこと。 たんなる一時的な「代表者」であって、 それ以上でも、それ以下でもない。 「代表者」である以上は、最低限、 この国に暮らす人々の命は守らなくていけない。 この国の空気と水と土を守らなくてはいけない。 そして未来の子どもたちへ引き継がなければならない。 それをしない「代表者」は すでに「代表者」であることをやめている。 「代表者」ですらないのだから、 ただのオッサン、オバハンでしかない。 なんの代表もしていない、ただのオッサンやオバハンが 「代表者」であるかのごとくふるまっている。 なんの代表もしていない、ただのオッサンやオバハンが わたしたちの手足をさらにしばろうと目論んでいる。 オッサンが臭い息を吐きかけてささやく。 「一日24時間働いて、もっとカネをみついでくれ」 オバハンがたるんだ乳房をおしつけてささやく。 「死んだら、靖国が待ってるわ」 こんなデタラメな奴らに国をまかせていたのは おれたちの最大の罪であり、大いなる恥だ。 おれたちに一寸の虫の魂でも残っているのなら せめて奴らと刺し違えてでも止めなければいけない。 いま進行しているありとあらゆる馬鹿げたことを。 いま見捨てられているありとあらゆる悲しみを。 生まれてくる未来の子どもたちのために。 生まれてくる未来の「希望」のために。 あのときも、守る気などなかった。 いまも、そうだ。守る気などない。 守る気などないのだ、奴らにはこれっぽっちも。 おれはぜったいに忘れない忘れないぞ。

 

 仕事を早めに切り上げて、京都・百万遍知恩寺の古本まつり最終日に駆け込んだ。 http://www1.kcn.ne.jp/~kosho/koshoken/event.html

 鄭玹汀さんが二日前、自身のTLで紹介されていたのを見てからちょっとうずうずしていたもので。 https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=534213600069329&id=100004420802283&pnref=story

 出町柳の駅からしばらく歩いてきて、知恩寺手前の王将で遅い昼食を済ませようかと思ったら、古本まつりの影響か、店の前に行列ができている。それで仕方なく隣の吉野家で手っ取り早く牛丼(並)を頼んだら、こちらも余波を受けたかカウンターの下には洗い物が山積みで、吉野家にしては結構待たされた。 さっさと平らげて、急いで古本まつり会場へ向かう。 境内にところせましと広げられた書棚を目の当たりにして、いよいよ心がたかぶる。 200円均一の平棚から最初に手にとったのが@「一揆論 情念の叛乱と回路」。 ところがこの支払いで財布を開いたところで、手持ちが5千円程度しかないことに気がついた。しまった。急に思いついたものだから、特別資金(?)の準備ができていなかった。 次に見つけたのがA「聖書象徴事典」。じつにわたし好みだし、程度も新品に近く、元値の5千円を考えても買い得だろう。けれど、これが1800円したもので、手元には千円札があと三枚のみ。寒い。 それで残り時間もあまり余裕がなかったので、以降は高めの棚は諦めて、一冊200円や、3冊500円といった特売本の平棚にしぼることにした。 そうして買ったのがB「サラエヴォ・ノート」、C「いわれなく殺された人びと 関東大震災と朝鮮人」、D「障害者の中世」、E「わんがうまりあ沖縄 富村順一獄中手記」の四冊。 Dは所謂らい病者や不具者、また後の琵琶法師、弱法師などの風景を一遍や親鸞の活動などとも絡めながら追ったもの。 Eは「1970年7月8日、東京タワー特別展望台でひとりの人間が包丁をかざし、アメリカ人宣教師を人質として、“日本人よ沖縄のことに口を出すな”“アメリカは沖縄から出ていけ”と叫びました。彼はまもなく警察官に逮捕され、いまなお勾留され、裁判にかけられています」という事件を起こした著者の獄中記らしい。 やがて日も陰り、寒くなってきて、終了時間の5時となった。最後は「3冊500円」が「10冊まで500円」に値下がりしていたけど、もうこれ以上は持って帰るのもしんどいかも。 最後のFは、帰り道の古本屋が道際に広げていた棚で見つけたもの。これも新品同様のきれいな状態だ。 七冊で、しめて4000円。ちょっとお堅い内容ばかりだが、けっこう満足。 やれやれ、また嫁さんから「同じ重さのものを捨ててくださいな」と叱られる。 でも、来年もきっと行こう・・

@松永伍一「一揆論 情念の叛乱と回路」(大和書房・1971) 200円

Aマンフレート・ルルカー 池田紘一訳「聖書象徴事典」(人文書院・1988) 1800円

Bフアン・ゴイティソーロ 山道佳子訳「サラエヴォ・ノート」(みすず書房・1994) 500円

 C千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者 追悼・調査実行委員会編「いわれなく殺された人びと 関東大震災と朝鮮人」(青木書店・1983)

D河野勝行「障害者の中世」(文理閣・1987) E富村順一「わんがうまりあ沖縄 富村順一獄中手記」(柘植書房・1973)  C D E の三冊で500円

 F古河三樹「図説 庶民芸能―江戸の見世物」(雄山閣出版・1993) 1000円

2015.11.3

 

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 京都七条通をあるいていたら、源為義(1096〜1156)の墓というのを見つけた。 八百屋の角の行き止まりの路地を入った、住宅地に挟まれたさびれた空き地に、その供養塔はあった。 門扉に貼られた簡素な掲示板の解説を読む。 白河法皇・鳥羽上皇につかえるも「度重なる不祥事で信任を失い、検非違使を辞任」、摂関家の藤原忠実・頼長父子に接近してふたたび検非違使へ復帰するも「八男の乱行により解官」、「保元の乱において崇徳上皇方の主力として戦うが敗北し」、最後は「後白河天皇方についた長男の手で処刑」された。 ここまで情けないとなんだか、親近感が沸いてくるなあ・・・

2015.11.5

 

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 沖縄が血の涙を流している。 「沖縄義勇軍」とかを創立するんだったら、不肖このわたしもチェーンソー抱えて参加します。って、いやホント、まじで。 警察も機動隊も自衛隊も、どうせ憲法違反のニセモノ政権の私兵に過ぎないのだから、もう内乱でいいんじゃないか。 沖縄の辺野古、米軍キャンプ・シュワブ基地のゲート前抗議行動については貞末 麻哉子さんのTLのコメントにあれこれ集約されていて見やすいので、こちらを参照されたし!

◆貞末 麻哉子さんのTL https://www.facebook.com/photo.php?fbid=1052520554766174&set=a.216603845024520.62057.100000247197037&type=3&theater

 

 某日、某競艇場にて。 「秋刀魚の旨い季節だな」 「おれ、秋刀魚好きだ」 「おまえ、ことしの秋刀魚の値段、いくらか知ってっか?」 「どうだろ。一匹、100円か、200円か・・・」 「まあ、例年はだいたい一匹100円くらいだわな。だけどことしは150円から200円近くする! どうしてか、分かるか?」 「いや、分からん」 「秋刀魚が日本へやってくる前にな、韓国や中国や台湾の船がみんなとっちまうんだよ! あいつらが!  お蔭でおれらは200円も出さなくちゃ、秋刀魚一匹買えやしないのだ」 「へえ、そうなのか。けしからんな」 「そうだ、実にケシカラン! 韓国や中国や台湾のやつらが!」 「おれ、秋刀魚はやっぱり大根おろしがいちばんいいな」 かくして、分かりやすい世論は形成される。

 

 朝からつれあいと生垣(レッドロビン)の剪定。 わたしはマキタの電動刈り機で刈っていき、つれあいはブルーシートに落ちた枝をゴミ袋へ詰めていく。 作業の途中で、向かいの長屋に一人で住んでいるお婆さんのYさんが、「今日、西大寺の近鉄に行ってきたんですこしで恥ずかしいんだけど」と、御座候(ござそうろう)をくれたのでお茶を淹れて、家庭教師宅から帰ってきて自室で年賀状の干支の絵を描いていた子も呼んで、庭でしばし休憩。 Yさんはおなじ市内の娘さんがマンションを買ってくれたのだが、この長屋の近所つきあいが好きだから、とたいていはこちらの古い長屋で一人暮らしをしている。 休憩のあとは、子もつれあいの作業を手伝う。 わたしは庭のハーブを刈って、ことし最後のハーブ・ティーをつくる。

 午後、庭の草取りや鉢植えの整理などを始めたつれあいを横目に、次の外溝工事で予定している立水栓のリフォームの前準備として、現在の水場のブロック枠の解体をちょっとだけ試してみた。 以前にヤフオクで千円ほどで落札したボッシュのドリル・ハンマーで系16mmの穴をいくつか穿って、そこへセリ矢なる石を割るための道具をはさみ、ハンマーで叩く。 ブロックは細かい砕石を混ぜた硬めのものだったが、わりと簡単に割れる。 何度か穴を穿ち、セリ矢で割り、最後はハンマーで砕く。 30分ほどの作業で四辺のうちの一辺をほぼ取り除くことができた。 ただし、ハンマー・ドリルの振動はけっこう手に来るし、ハンマーを振り下ろして砕いていく作業もそれなりに重労働だ。 今日はお試しなのでここまでだが、とりあえず手持ちの道具で充分使えることは分かった。 あと三辺残っているわけだが、いちどにやるとしんどいので、一日一辺づつをちょこちょこと進めていくのがいいな。 最終的に全部取り除いたら、まず立水栓をリフォームして、それから水場まわりは除去したブロックの代わりに自然の丸石を散らばせて固めるつもり。 ま、本格的にはたぶん、年明けか、仕事次第では春以降かな・・・

2015.11.7

 

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 「遺体」という映画がある。いや正確にはノンフィクション作家の石井光太氏がかの東北大震災の直後に石巻の廃校だった旧小学校に設置された遺体安置所で丹念な取材をした著書が、その後映画にもなった。映画は映像であるのでスクリーン上に映し出される光景はじつに悲惨なものだ。けれどもまだそこには映像であるが故の「ささやかな遠慮のようなもの」がある。石井氏の原作では文字表現であるが故にある意味、現実での描写は容赦がない。わたしはその後なんども夢にも見た。歯科所見採取のためブルーシートの上に横たわった泥だらけの遺体のすでに硬直した口元を医師と看護婦が無理やりにこじ開ける。腹の中に溜まっていた土砂や海水がその途端にどっとあふれだしてくる。それは死者のなかで詰まっていたたくさんのたくさんの無念の思いが土砂となり濁った海水となって死者の口から一気に吐き出されたもののようにわたしには思えたのだ。奈良・学園前の瀟洒な淺沼邸の見晴らしの良い二階の寝室のベッドにそれぞれ横たわった安藤栄作氏の男女の彫刻作品を見たときわたしにはそれはあの津波の犠牲者とおなじように思われた。この二人は腹の中にまだいまもたくさんのたくさんの無念の思いを溜めたまま吐き出せずにいる冷たいブルーシートの上に横たわった遺体なのだ。いやあの混乱した泥まみれの遺体安置所はもう役割を終えて閉鎖されてしまった。いまはこの静謐な(ひつぎ)の中のような部屋に黙ってよこたわっている。いわばここは鎮魂の場所なのだ。悔恨の場でもある。かれらの頭の上側の壁面には作家が描いたコントロールをうしなって暴れ狂い出す原子力発電所の幾重もの渦のような巨大なデッサンが描かれている。左右の壁にはうしなわれたものたち、だ。つましい食卓、公園、木々、鯉のぼり、自家用車、昆虫、電車、ベンチ、畑や洗濯物、コップに注がれた水、向日葵、雲、山 ・・・・。それはまるで死者たちがこの世に残していった断ち切りがたい想念のようだ。ブルーシートではないいまや清潔でやわらかな白いシーツの上に横たわった二人は、それぞれ一本の丸太から手斧だけで彫琢された。部屋中に満ちている檜のかぐわしい匂いはまるで焼香の香の匂いのようだ。作家がふりあげ打ち下ろした手斧の一打一打がもはやことばにならぬ憤怒か嗚咽のようにかれらの胴体を、腹を、腕を、つま先を、股間を、まっすぐに伸びた指先を、頭部を彫りあげていったのだ。そうして死者が一本の樹木から生まれ出た。そうしていまここに、荒れ狂う原発事故と奪われた日常生活の壁に囲まれて横たわっている。わたしはひどく疲れてしまった。かれらの腹の中に溜まっていた土砂や海水がいまやわたし自身の腹に胸にこみ上げてくるような気がしたのだった。土砂で詰まった配水管のように思わず部屋のすみにどっと尻をおろした。わたしはじぶんもまた作家の作品のひとつのようにベッドに横たわっているような心持がしてきた。あああと土砂でふさがれた口でうめいた。作家はしかしわずかな希望を残しておいてくれた。これもまた手斧の一打一打で彫られた一隻のカヌーがこの部屋を突き抜けてベランダへと飛び出している。この素朴なカヌーは古代の智慧であり同時に未来の希望でもあるのだろう。しかしわたしにはこれは死者の魂を運ぶ方舟のようにも思われた。眺望に恵まれたそのベランダにはそうして作家のいう「天と地の和解」のオブジェが直立している。たしかに大地からは秘めたる最後の地下茎のように中空へと向かって差し出された手指が伸びている。けれどそれを「上から支える」手は、切れた空間から突如として現れる。この「上から支える」手はいったい現実なのか、作家の夢想なのか。それは神なのか、あるいは自然の精霊のようなものか。それとも人類の期待される叡智なのか。土砂で詰まった配水管のようなわたしは立ち上がれないままただあああ・あああとうめくばかりだ。それはついにことばにならない。わたしにはついに分からない。分からないままいまだことばにならないことばをあああ・あああとうめいている。

学園前アートウィーク2015   〜2015年11月15日(日)まで http://gakuenmae-art.jp/ 

「3・11」を超える作家たちへ  彫刻家 安藤栄作 http://fukushima-net.com/sites/content/178 

2015.11.08

 

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 夕食後、子が二階の自室へあがってから、Yが今日会ったNちゃんのお母さんの話をする。子が部活動だけは元気に行く姿に、「部活だけでも、外へ出れるだけいいやんか」と。部屋からほとんど出ないNちゃんの高校進学の話の中で。先に閉じこもりになった子が、いつのまにかNちゃんを抜かしてしまったか。

 「Nちゃんは一年前、二年前の紫乃のようなものだな」とわたしがいうと、「あの頃は“人間がきらい”と言っていた。いまは“勉強が嫌い”と言っているけど、“勉強が嫌い”くらい何とでもなる。“人間が嫌い”にくらべたら」とYが誰にいうでもなくつぶやく。

 それから彼女は「浣腸をする」といって二階へ上がっていった。便の搔き出しは時に一時間、二時間とかかる。小学校を卒業する頃にじぶんで排便ができるようにと、洗腸といって管に通したぬるま湯をお尻から循環させて自立排便ができるやり方を病院に一週間入院して習ってきて、器具もそろえてトイレに用意したのだけれど、頭が痛くなるとか言っているうちに引きこもりになってしまって、またもとの浣腸と摘便にもどった。幼稚園の頃まではわたしも使い捨てのゴム手袋を着けてやっていたけれど、さすがに中学生になった娘に父親がするわけにもいかない。だからいつもYの仕事だが、二階のテレビの部屋で二人してテレビ番組や録画しておいた嵐のバラエティなどを見ながらのんびりとやっている。思えばYがゆっくりテレビを見れる唯一の時間かも知れない。

2015.11.09

 

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 夕食後、リュック・ベンソンの「ジャンヌ・ダルク」のDVDを家族で見る。前半の勇壮なシーンでは「いいなあ・・」 「好きだなあ・・」としきりにうなずいていた娘だが(男勝りの主人公にいつも惚れる)、後半、特に囚われの身となって「神との自問」(?)が連続するシリアスな場面からは「もうやめて」 「しんどい・・」とつぶやき、ときにまなじりを下げ、耳をおおったりして、映画が終わったあとは息も絶え絶え。みずから洗礼を受けた身でもあるからか、じぶんのベッドに入って布団をかぶり泣きつづけた。そうしてしばらくして玄関のゲージにいた犬のジップを連れて、またじぶんの部屋のベッドへともどっていった。

2015.11.10

 

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 娘の新作・・     (本人の許可を得て掲載)

【飛べない天使 十四歳 1】  その年齢になれば、人は最高のパートナーを手に入れる。 十四歳の誕生日、その子供のもとに「人以外」の動物が現れるのだ。子供はその動物と生涯を共にする。パートナーは人を守り、助け、死ぬ時は共に死ぬ。 子供たちは幼い時からパートナーが現れる日を心待ちにし、十四歳までの日数を指折り数える。 リヤもそのうちの一人だった。 「リヤ、おいで、髪を結ってあげるから」年かさの姉がリヤを呼んだ。 リヤは鞄に教科書を詰めると姉マリヤのもとへ駆け寄った。マリヤは毎朝、リヤが学校へ行く前に髪を結ってくれる。それだけではない。家事をし、リヤの世話をやき、相談に乗ってくれる。姉というより母のような存在だ。 マリヤは紅葉の柄の入った櫛を片手に、リヤのオリーブ色の髪を撫で付けた。リヤは自分の髪が嫌いだ。マリヤのふさふさとした栗色の髪や、近所のマドンナである女の子の金髪の髪が羨ましかった。 髪だけではない、マリヤとリヤは姉妹であるのに正反対だった。マリヤは村でも有名な美人なのに、リヤは村で一番地味な女の子だった。痩せていて小さい体に、綺麗でなければ醜くもない平凡な顔、さして賢くもなければ運動神経もごく普通、口下手で人見知りで、話している最中に黙り込んでしまうこともしばしばだ。 長所といえば、幼い頃から農作業などの手伝いをしてきたために、なかなか怪我や病気をしない頑丈な身体であること。知識の宝庫と言われた死んだ祖母によく懐いていたために、人の知らない知識などを知っていること。そして、珍しい眼をしていることだった。 「リヤの眼、ほんとに綺麗よね」マリヤがリヤの髪をすきながらいった。 「雲ひとつない夏の青空みたい」 「ありがと」リヤはブルーの目を伏せて答えた。 「さ、できた」マリヤはリヤの髪を編み終わると、ぽんと軽く背中を叩いた。「ほら、いってらっしゃい」 「うん」リヤは麻の鞄を掴むと、小さくいってきますとつぶやいて家を出た。茶色の穏やかな大型犬がリヤの後ろをついてくる。マリヤのパートナー、サリーだ。 今日はリヤの十四歳の誕生日だ。 マリヤは毎年、リヤの誕生日は驚かせようとこっそりケーキを作って、リヤが学校から帰ってくるのを待っている。今日だって忘れたようなふりをして、リヤが帰ってくるまでにケーキを用意しておく気なのだ。家のほうを振り返ると、窓の端に急いで料理棚をあけるマリヤの姿が見えた。 そう、十四歳。とうとうリヤのもとにも、パートナーが現れる日だ。 なんの動物だろうか。どんな子供でも、パートナーの姿を想像して心を躍らせる。強く美しいトラだろうか、心優しい狐だろうか、それとも気まぐれで旅好きなウミカモメだろうか。 人と動物という関係だから、当然言葉は通じない。しかし、何故かお互いの心の中が分かるらしい。どうして分かるのかマリヤに尋ねたことがあるが、彼女は「私にも分からない」と答えた。サリーの顔を見るだけで、喜怒哀楽、心情、感想、次にどう行動するかまでわかるのだそうだ。 「人間の親友や、親兄弟の心情を察するよりも簡単よ。理解できるの。サリーの全てがわかるし、サリーも私のことわかってくれてるって感じる。なんていうのかな、言葉じゃとても表現できないけど、とても強い繋がりを感じるの。私とサリーは、心と心で繋がってる。リヤも十四になればわかるわ」 サリーがリヤの顔を見上げていた。リヤは身をかがめて、サリーの頭を撫でた。サリーは気持ちよさそうに目を細める。リヤはサリーの首もとをカリカリとひっかいてやりながら空を仰いだ。 リヤは幼い頃から鷹が好きだった。翼を広げて悠々と空を自分のもののように飛び回る姿が好きだった。黒く色づく風を起こすような力強い羽ばたきと、獲物を逃がさない余裕のある旋回に憧れていた。 「鷹、だったら、いいのに」リヤは思わず呟いて、首を振った。自分にそんな雄雄しい動物が来るわけがないことなど分かっていた。せいぜい日に当たれない蝙蝠か、こそこそと生きる鼠くらいだ。空の王者である鷹など、リヤには見向きもしないだろう。 リヤは肩に鞄をかけなおした。サリーがリヤを見上げる。 「今日はお昼までだから、すぐ帰ってくる」リヤはサリーにそういい、学校までの小道を歩き出した。サリーは今度はついてくることなくリヤを見送り、しばらくするときびすを返して家へ向かった。きっと昼までにケーキを作り終わるよう、マリヤに忠告しにいくのだろう。 この村の学校はそれほど大きくない。この村自体があまり大きくないからだろう。子供の数も少なく、いくら言葉少ななリヤでも、名前を知らない子供はいない。

2015.11.11

 

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 【安藤栄作著『降りてくる空気』スモルト 1997】

 先日、奈良市学園前での展示会を見てきた彫刻家:安藤栄作さんが、福島県で暮らしていた頃に地元の「いわき民報」に掲載されたエッセイ集。 もちろん、あの東日本大震災はまだ起きていない。 この本がじつにいいんだな。文章に妙味があって、ユーモアがあって、なみだがあって、覚悟があって、そうして高潔だ。 寝室のベッドのわきの出窓に置いていて、毎晩、眠りにつく前に数ページづつ読んでから目を閉じる。いっぺんに読んでしまうのは勿体ない。 というわけでちょびちょびと、齧りながら舐めながら噛みながら、全体(100ページほど)の半分くらいまで読み進めてきたけれど、わたしの好きなのはたとえば「彫刻屋さん」、「搬入」、「粘土少年」、「クロ」、「ありがとうミケランジェロ」、「アトリエ」、「割烹旅館」などなど。 「クロ」をつれあいに読み聞かせたときは、案の定、涙もろい彼女はぼろぼろと涙があふれてきてしばらく止まらなかった。すごい話だ。 ロバに作品をひかせて福島から東京まで水戸街道をてくてくと行く「搬入」などは、途中出てくる「波乗りをする若者たち」でにぎわう「北茨城の海岸」や、昼食に立ち寄った「日立の“旅人ラーメン”」など、そこになんだかじぶんも偶然いて、ロバといっしょの安藤さんを横目に眺めていたような錯覚を覚える。 「・・人生はひたすら計画を実現させていくことではなく、途中起こるハプニングや失敗、欠点を受け入れてそこからつくり上げていくことなのではないか。 一生のうちにどれだけ計画を実現できたかではなく、どれだけ精神が高まり、心が充実したか、なのだと思う。神様は一生懸命生きていくために一人ひとりに欠点を与えてくれたのかもしれない」(雑木とともに) この本をメールで注文したときに、丁寧な返信を頂いた出版社の方も「ずいぶん前に作った本ですが、わたしたちも大切に思っている1冊です」と書かれていた。 各頁ごとにある安藤さんの独特の優しいイラストも良い。

◆日々の新聞社(オリジナル・ショップ) http://www.hibinoshinbun.com/files/shop.html

 ◆日々の新聞社(Facebook) https://www.facebook.com/hibinoshinbunsya

◆くれよんはうす(絵本「あくしゅだ」) http://www.crayonhouse.co.jp/shop/g/g9784861012549/

 

 今日から名古屋、長期出張。昼は生活品を買うために寄ったショッピングセンターできしめん。 しばらくの生活拠点は会社で借りた3LDKのハイツで数人と共同生活だが、みんな勝手知ったる面々なので修学旅行のようなノリだ。 明日は昼からなので早速今夜は宿で酒宴。 持ってきたのは佐木隆三「伊藤博文と安重根」、辺見庸の新刊。読んでいる暇があるかどうかわからないけど。

2015.11.12

 

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 「わたしは反旗を掲げない」  まったく同意見。 みんなのプロフィール写真が三色に染まっているのを見ながら、わたしもおなじことを思っていた。 「さかさまの世界」からの反撃だ、と。 寮 さんのTL  

▼わたしは半旗を掲げない

パリで大きなテロ事件が起きた。グーグルはいち早く半旗を掲げ、多くの人が、FBやTwitterのアイコンに哀悼の意を表するフランス国旗の三色を掲げている。 1ヶ月ほどまえの10月10日、トルコの首都アンカラで100人以上が死亡した連続自爆テロが起きたばかりだが、これはなぜかパリで起きた事件ほどの衝撃を与えることなく、半旗を掲げようとする人々もほとんどいなかった。 わたしは、この「格差」こそが、そもそものテロの原因ではないかと感じている。ニューヨークやパリでテロが起きれば、大きなショックを受け、断固としてテロと戦うと声を大にして語る人々が、中近東やアフリカの国々で起きていることに対しては冷淡だ。また、テロには怒りを表明するが、国家による戦争による犠牲者たちのことは「仕方がない」として勘定しない。 同じ人殺しなのに。 ヨーロッパやアメリカのニュースを見ているが、今回のパリ同時多発テロの原因について語る番組はなく、みな「テロを許さない」「断固として戦う」との声のみが聞こえてくる。 犯罪は、きびしく取り締まるだけでは、なくならない。犯罪者の置かれた状況を理解し、改善し、その心に寄り添わない限り、犯罪をなくすことはできない。テロも同じだ。テロを生み出した状況を理解し、改善を考えない限り、テロはなくならない。 パリの同時多発テロはひどい、許せない。それと同じように、トルコで起きたテロもひどい、許せない。そして、日々起きているテロ事件も悲しむべき事態だ。それだけではなく、わたしは国家による殺人も許せない。 わたしも半旗を掲げたい。しかし、フランスに対してだけ、半旗を掲げることそれ自体が、自分のなかの差別意識の表われでないかという声が聞こえる。その声に従いたい。 わたしは半旗を掲げない。あらゆる「旗」の正義の名の下に殺された無数の人々に、深く哀悼の意を捧げたい。

https://www.facebook.com/ryomichico/posts/915541685194837

 

 「テロリスト」による犠牲者を哀悼しないわけではない。 そうではなくて、この世界で言われている「テロリスト」の背後には、無数の報道されることすらないそれ以上の犠牲者の存在があり(かつてもいまもあり続け)、その絶望的なほどの非対称が「テロリスト」を生んでいるということ。そしてそれはあの9.11で顕わになってからも、なにひとつ変わっていない。ということが「安易にこの悲しみにのれない」複雑さな心境がわたしのうちにある。

2015.11.15

 

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 ある意味、オウムもそうだった。 テロリストを殲滅するのは武器ではなく、希望。受け皿。 勺 禰子さんのTLより  高橋源一郎 <「テロリズム」は絶望から生まれる。 希望がないから破壊にすがるしかないのだ。 だから、いくら滅ぼしても、 希望がない場所では「テロリズム」は再生する。 この世界が生きるに値する場所だと信じさせることしか、 彼らを真に滅ぼす方法はないのだ> 高橋源一郎が言う「彼ら」は 私たち、である。 そこに思いを巡らせることから始めないと 二項対立はひどくなるばかりだ。 https://www.facebook.com/syakuneko/posts/718492481584977?pnref=story

2015.11.16

 

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 You know that sometimes Satan comes as a man of peace  悪魔はときに平和面をしてやってくる。 (Man Of Peace、Bob Dylan)

 ずーっと、ずーっと、この世界はそうだった。 ある種の人々にとって。 ずーっと、ずーっと、この世界はそうだった。 じぶんたちは正義なんだと。

「何故、テロが起きるのか。 IS的な過激思想に走る人間が出てくるのか。 その根源には、「自由と民主主義」への絶望、そして憤りがある。 空爆された市場で、猛烈な爆撃で地面ごとえぐり取られた民家跡で、血と膿と消毒薬の匂いただよう病院の中で、悲しみ、憤る中東の人々の絶叫を志葉は何度も聞いた。 「これが、自由なのか!?民主主義なのか!?」」(志葉 玲さんのTLより)

2015.11.17

 

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 「素朴な願い」を叫ぶ者が虫けらのように踏みにじられる。 しかし踏みにじるその足は、われわれ自身がつくりあげた怪物だ。 われわれ自身がひり出した鬼児をわたしたち自身の手で屠らねばならぬ。

 「素朴な願い、「生存権」という切実な願いを叫ぶ人は 国家権力によって次々に圧殺されてゆく。 「われわれに 生存権はないのか」と叫んだ農民が 警察の放水銃の直射を受けて倒れ、生死の境をさまよっているのに 他人事の風景として眺めている人々、 これこそがほんとうに恐ろしいことだ。 貧しい民の喘ぎ声は、 防衛関係企業の声に埋もれて聞こえにくくなり、 「戦争をしないと企業が死んでしまいます」 と、国は貧困者を戦場に送り出す。」(鄭玹汀さんのTLより)

2015.11.18

 

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 「あいつがやるなら、おれだって」 悪しき方法は、かように伝播する。 強いものに歯向かう弱いものは、みな「テロリスト」

 

 国家権力によるあらゆる暴力に敏感になることが、国家権力から「暴力を取り戻す」ための一歩。 暴力(対テロ戦争)も、死(靖国)も、取り戻すことが、生をおのれ自身に取り戻すこと。 おなじ投稿者によるこのコメントもスバラシイ。 「 私は「暴力」を国家の独占=国家以外の使用の違法化から奪還が必要だと考えています。なので、暴力は暴力だと認識しています。「暴力はいけない」みたいな国家戦略を突破して暴力を取り戻す(・・もしくは少なくともシェアする、でもいいですが)ことが必要だと思っていますし、それが言葉に敏感という指摘に対応したことにもなるのではないか、と思っています」

2015.11.20

 

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 朝の歯磨き。 世界が一時停止するように、と思いながら。 (宿の玄関前から)

2015.11.21

 

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 「生きること」が同時に「祈ること」であるような処世を、私たちは本気で取り戻さなくてはいけない。 これまでの道はすべて間違っていた、と言い切るような地平まで戻って。 あらゆることが「生きること」が「祈ること」ではなくなっていた。 それでも、もうすでに遅いかも知れない。

2015.11.23

 

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 「国境」がいろんなものを知らず分断してしまうのなら、いっそ「国境」などない方がいいのかも知れないな。 かつて「日本海」は、「壁」ではなく「交流」の海だった。

2015.11.24

 

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 朝の歯磨き。 世界が転げ落ちるときも、空はこんなふうなんだ、と思った。

2015.11.25

 

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 今夜はセブンイレブンの冷凍うどん98円に、鶏胸肉、もやし、薄あげ、豆苗を具として加え、その具材の一部をナムル風に味付けしてかつ節を加えて、レンジのご飯に混ぜてみた。 ちょっと仕事が佳境に入ってきて、ぼちぼち帰る時間が遅くなってきた。 もやしレシピを頬張りながら、Kさんと互いにかつてのバイク旅の話などに興じる。350mlの缶ビールを一本飲んだら、もう寝る時間。 働いて、食って、呑んで、寝る。 人間は単純(シンプル)な生き物だ。

2015.11.27

 

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 朝の歯磨き。 世界にひと握りでも良いことが今日、生まれますように。

2015.11.28

 

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 明日、もし世界が滅びるとしてもわたしはこのまま人参の種を蒔きつづける、と言ったのはフランチェスコだったか。 フランチェスコがすごいのはかれのその単純さであり、おなじように世間にとっては、その単純さが時に愚かさと同義語だ。 明日も人参の種を蒔きつづけることができますように。 愚かな単純さを失わずにいられますように。

2015.11.30

 

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 これは昨日の朝。 いちばんのピークの最終日の朝も無事に迎えて、何とかこのまま行けそうな気配。知らず山頂を越えて、尾根道を下りかけている感じ。 ささやかな日常の内にささやかな喜びや愉しみがある。億万長者になったり、世界をまたにかけて実態のないお金を動かすよりも、本当はそれがいちばん大事なこと。 けれど、そんなささやかな喜びや愉しみというものは、たとえば、祈りとか、世界の円環のようなものに、つながっていなければいけないのではないか。 イヌイットやアイヌのような、「西欧文明に敗れさってしまった」ような人々が日々の営みの中で微笑みを交わしたような、たとえばそれはそうしたものだ。 つながっていないささやかな喜びや愉しみは、ただの物欲や自己満足であり、それは盲目を生み、周囲への無関心を生み、世界で起こっている大事な事柄が見えなくなる。 それはきっと、生きていることと違う。「世界を生きること」と違う。 尾根道をゆっくりと下りながら、そんなことを思った。

2015.12.6

 

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 米原駅って… 知らなかった。東も西も、駅前に何にもない。 乗り継ぎが悪かったので、駅前で少し早い夕飯にしようかと思ったのだが、ホームの暖房付きの待合室で時間をつぶしている。 こんな感じ、いいな。

 暗がりからのそっと電車が来た。物言わぬまばらな列がしずかに吸い込まれていった。わたしもその一人。

 関ヶ原は真っ暗でなにも見えなかった。 分かったのは名古屋に近づくにつれてすこしづつ街になっていくこと。 いつも近鉄利用なので、かねてからJRのホームのきしめんがおいしいと聞いていたので夕飯に。 きしめん自体は地下街のエスカの有名店の方が旨いけど、かきあげが味わいある。 アルコールやあても出している立ち食い屋で、ホッピー飲んでおばちゃんにからんでつれなくされているサラリーマンなどもいて、いい感じであった。 因みに立ち食いといえば、JR駅の近鉄寄りにある写真最後のそばとかきあげもおいしい。

 見知らぬ町の寂れた夜道をディランのシナトラカバー聞きながら歩いている。

 個の悲しみの果てが多数の希望を語るとき。

2015.12.8

 

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 仕事のノートPCのデスクトップにゴーギャンの絵を飾っている。「われわれはどこからきて、どこへいくのか」。ときどき誰かが覗き込んで、これはなんですか? ときいてくる。 若い頃、バイクであちこちを走り回っていたとき、空はもっと近くにあった。いろんな空を眺めたけれど、いつもいちばん好きだったのは、台風が過ぎ去った直後の空だ。世界がいったん根こそぎに破壊されちぎれて、破片だけがしずかに停止している。 人類がまだ現れなかった頃の世界はどれほど美しかったことだろうと思う。そう思いたくはないが、そう思ってしまう。 こどもに図形をおしえるときは、ばらばらのパーツからではなく、大きな全体からおしえなさい、とシュタイナーは言った。

2015.12.11

 

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 一ヶ月も、過ぎてみればあっという間、か。 もう数時間後には帰りの近鉄特急で爆睡しているはず。 明日はこのfacebookで知り合った貞末さんの制作した障害を持ったこどもたちのドキュメンタリーの上映会を京都へ見に行く予定。 月曜に支社で野暮用を済ませたら、しばらく溜まっている公休を消化する。 運よく春日大社の若宮御祭の期間で、17日の御旅所での7時間に及ぶ芸能奉納を、数年振りにまた見に行きたいと目論んでいる。 とりあえず、going home.

 最後の昼食はKさんが車を出してくれて昭和呈再訪、潮ラーメン(ゆず)。 名古屋駅で近所に、常滑市民のGさんがすすめてくれた「ゆかり」を五箱ほど買って、間もなく近鉄特急に乗るところ。

2015.12.12

 

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 沖縄へ行こうか、とつれあいが言った。ビーチのホテルに泊まって数日、と。 すると子は、そんなのはつまらない、と言う。そして、金城さんの彫刻なら見に行ってもいい、と言う。

2015.12.13

 

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 30日間ノンストップのハード・ワークを終えて帰宅した翌日の日曜。京都・五条通にある京都光華女子大学で、「ぼくは写真で世界とつながる 〜米田祐二 22歳〜」と「普通に生きる」というふたつのドキュメンタリーを見た。前者は発達障害、いわゆる自閉症の青年の沖縄旅行の記録で、後者は静岡にある介護施設に集う重度のさまざまな障害を持った子どもたちの姿を描いたもので、どちらも最近 Facebook で知り合った貞末麻哉子さんの制作した映像作品だ。主に貞末さんのタイムライン上でわが家の娘をめぐる学校とのやりとりなどをお話させていただいた経緯から、貞末さんよりちょうど関西で上映会があるのでよかったら、とお誘いを受けていたものだ。

「貞末麻哉子 の 主な Produce作品紹介」 http://www.motherbird.net/~maya/

 「ぼくは写真で世界とつながる」は、一言でいえば、「笑える映画」だ。デジタル・カメラを言語として、コミュニケーション・ツールとして、世界との窓として駆使する“祐二くん”と世界とのやりとりに、人びとは大いに笑ってくれていい。(障害を持った人に対して)「笑っちゃいけないんじゃないか・・」という束縛を開放する映画、と言い換えてもいい。じっさい、わたしは何度も声を出して笑った。心から笑わせてもらった。で、この笑いというのはどういうことなんだろう、どこからもたらされるものなんだろう、とあとでちょっと考えてみたら、じつは映画の最中に後ろの席でぶつぶつひとり言をいっている人がいて、ちょっとうるせえなと思っていたらそれが何と映画の主人公・ご当人であった。映画が終わって、貞末さんからかれの撮った写真を説明して欲しいと請われて壇上にあがった“祐二くん”は、ふたたびわたしの真後ろの席に戻った途端、大きな声で「よし、いいぞいいぞ。大成功だ〜」とうれしそうに「ひとり、つぶやいた」のだった。このときもわたしは思い切り笑わせてもらった。つまりこの映画の笑いとは、気取った世間から自由でいる“祐二くん”がその間隙を軽やかに突いてみせることによってもたらされる笑いなのだ。人びとは笑うことによって、みずからの気取りをいっしょに跳び越える。そんな笑いだ。だから“祐二くん”の写真もおなじように気取った世間から、自由な目線をたたえている。

 お昼をはさんで「普通に生きる」は、“祐二くん”の笑いに比べると、ちと重い。わたしも娘の病気の関連で病院や介助施設などで一般の人たちよりは多少目にしてきたつもりけれど、重度の障害を持ったとくにお母さんたちの日常はほんとうに大変だ。子どもの成人式の晴れの日に、「死にたいと思ったこともあった」と明かすお母さん。意思疎通さえ困難な息子の誕生日に、「誕生日なんか祝いたくない」と漏らしてしまったと懺悔するお父さん。わたしも見ていて泣きそうになった。それでも日々は続いていく。お父さんも苦悶し、お母さんも闘い続ける。この映画でいちばん印象的な言葉は、そんな重度の心身障害者の子どもたちが親の元を離れて自立した生活ができるようにと設立された介護施設の所長が言う「社会が育つ」という言葉。以下、作家の高橋源一郎氏の時評より一部を引く。

「この子は私が見ないと駄目だから・・・といって囲ってしまったんでは、社会も育っていかない」

 体も動かず、ことばも発することのできない心身障害児(者)が、親を動かし、成長させる。そしてその親たちが、鈍感な社会を、また成長させてゆく。常識とは異なり、強い者、大きな者を育てることができるのだ。ぼくは、ここに「教育」のもっとも重要な本質、相互性(互いに教え合うこと)を見た。

(2012年1月26日付朝日新聞論壇時評より)

 「社会に育ててもらう」のではなく、障害を持ったかれらが「社会を育てる」。この一見、逆転の発想が映画のタイトルである「普通に生きる」を見事に照射している。

 前後するが、もうひとつ心に残った言葉がある。それは“祐二くん”を「ヘンな奴」だといじめていたお兄ちゃんがじぶんも介護施設などに同行するようになって、そこで“祐二くん”以外にも「ヘンな奴」がたくさんいて、それを受け入れている環境があるということが、障害を持った弟に対する理解へのステップになっていったのかも知れないと語る場面である。お兄ちゃんのじっさいの言葉では「受け入れているシチュエーションがあるということ」という言い方をしたわけだが、わたしにはとても重要な言葉のように思われた。「受け入れているシチュエーション」が社会にあるか、否か。こうした言葉がまた、先の「社会を育てる」という言葉とからまって、わたしの頭の中をぐるぐるとかけまわった。

 じつは今回の上映会、娘は出発する朝から「微熱がある」とか「胃が痛い」とか言い出して、わたしを困らせた。彼女にはわたしが長期出張に出かける前に内容を説明して、そのときには「いっしょに見に行く」とすんなり応えてくれたのだが、つれあいの説明ではやはり同じように障害を持った子どもたちのドキュメンタリーというのは彼女自身、まだエネルギーが少ないこともあってしんどいようだ。前の晩も、あまり眠れなかったらしい。奈良から車で一時間。車椅子で会場に入って、それでも“祐二くん”のフィルムはけっこう熱心に見ていて、短いお昼時間にあわてて行った近くの回転寿司屋でちょっと元気になったりしていたのだけれど、「これ以上はどうしても無理」と言うので、つれあいと相談。わたしもせっかくここまで来たから二本目も見たいし、つれあいも「これは子どもよりも親が見るべき作品だ」と乗り気だったので、次の作品の上映時間だけ、娘には車内で寝て待っていてもらうことにした。幸い車椅子と車体のクッションに積んでいる毛布もある。そういうわけで、最後の中山千夏さんと貞末さんとのお話会は残念ながら見ることができなかった。

2015.12.14

 

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 残念な人ばかり逝って、別の意味の「残念な人」ばかり残る。 この世はもうじきおしまいだ。 (野坂 昭如、死す)

 【 二度と戦争をしないことが、死者への礼儀だ 】 〈戦争で多くの命を失った。飢えに泣いた。大きな犠牲の上に、今の日本がある。二度と日本が戦争をしないよう、そのためにどう生きていくかを問題とする。これこそが死者に対しての礼儀だろう。そして、戦後に生まれ、今を生きる者にも責任はある。繁栄の世を築いたのは戦後がむしゃらに働いた先人たちである。その恩恵を享受した自分たちは後世に何をのこすのか〉 〈どんな戦争も自衛のため、といって始まる。そして苦しむのは、世間一般の人々なのだ。騙されるな。このままでは70年間の犠牲者たちへ、顔向け出来ない〉

 

 目を閉じ、耳をふさぎ、内なる咆哮をきく。

2015.12.15

 

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○ ユニバへ。

○ 節約のため、ユニバーサル駅前のコンビニでお昼を購入。

○ わたし「このチケット以外の人はなんで動かないの?」  娘 「開くのが10時だからだよ。いま9時20分」   わたし「えっ、開くの10時なの? イオンだって8時には開いてるぞ…」

○ ハリポタの3Dアトラクション、最悪。吐きそー

○ 昼食ってジョーズ見て、ウォーターワールド見て、ジェラシックパーク予約して、いまバックドラフト待ち。 むかしあったブルース・ブラザーズのロック・ショーは、もうないんだな…

○ ジェラシックパークの急降下で遂にリミッターを越えて、バック・トゥ・ザ・フューチャーは棄権。「楽しんで来てね」とつれあいと娘の姿を見送った父。 ああ、メリーゴーランドが懐かしい。

○ 平日にもかかわらず、夜になっても物凄い人の群れ。 楽しんでいるつれあいや娘には内緒だけれど、正直にいってここにあるものすべて、アメリカの悪しき文化(もしこれが文化と呼べるものであれば、だが)、空虚なガラクタにしかわたしには見えない。すべてが張りぼて、文化の根がない。 まあ、でも今日は喜んでいる娘に最後まで付き合います。

○ 父が唯一所望したモンスター・ロック・ショーはすでに終了していた。 60分待ちだったスペース・ファンタジーを予約して、いまからつれあいと娘が入場。 これを最後に帰ります。

2015.12.16

 

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 オウムでもISでも神様青年でもアベ信者でも、だいたいジョン・レノンやビートルズをちゃんと聴かないから、こういうことになるんだよ。 おれなんか中学の時にレノンの「GOD」をちゃんと聴いていたから、べつに大した人間でもないけどじぶんの足で立っている。

2015.12.17

 

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 下から、靴下を二枚重ね、ヒートテックのボクサー・パンツ、ヒートテックのアンダー(下)、ジーパン、ヒートテックのアンダー(上)を二枚重ね、セーターを二枚重ね、ポケッタブル・パーカー、ダウンジャケット。これだけ装着して着膨れした森のプーさんのごときいでたちにて、前日のUSJに続いて、昨日は春日大社の若宮おん祭りの神事であるお旅所祭りを拝観した。お旅所祭りについては7年前、はじめて見たときの記述がある。ほぼおなじ内容なので、一部をここに引いておく。

 「お旅所祭」は神遊(かみあそび)とも謂い、もろもろの芸を人間が舞い、歌い、演奏し、神さまに愉しんでもらう一夜だ。午後3時半頃、春日大社の巫女たちが「しずしずと舞う」神楽からこのスペシャル・ショーはスタートする。このあたりは雅(みやび)すぎて、不粋なわたしには少々退屈だ。わずかに、白拍子やアルキ巫女といった春もひさいだだろう漂泊者たちを連想し、「神秘を宿した女たちをものにしたいという欲望が、古代の男たちにもあったろうな」と思ったくらいだ。続いて東国の風俗舞といわれる「東遊(あずまあそび)」。そして猿楽とも縁が深く、世阿弥が12歳の折にこのおん祭で見て感服したといわれる「田楽」と続く。わたしが最も感じ入ったのは、その後の「細男(せいのお)」と「神楽式」である。細男は筑紫の浜で海中から現れた磯良という神が舞ったとされる。そのとき顔面に貝殻が附着していたので、顔を布で覆って舞ったのだ。磯良は海人系の阿曇氏の祖神とも伝わり、また傀儡やその後の人形浄瑠璃のルーツともいえる夷舁(えびすかき)とも深いかかわりがある。白い浄衣を身にまとい、目の下からやはり白布を垂らして退きながらしずかに単調に拝舞を繰り返す舞はやはり独特の不思議さ、仄暗い謎を秘めた威厳がある。面をつけない略式の翁舞「神楽式」を舞うのは、6世紀後半に活躍した秦河勝を遠祖とし、大和猿楽の源流を伝える金春流の能楽者だ。これも厳かな佇まいとストイックな所作が、何か心根に響くものが多分にあった。翁というのは宇宙との合一を司る象徴であるという話を以前にどこかで読んだ記憶がある。風俗舞のひとつである「和舞(やまとまい)」を経て、「舞楽」へと移る。約3時間が経過した。舞楽は飛鳥時代頃より朝鮮半島や中国大陸から伝わったもので、いわばオリエンタリズムの芸である。原色のきらびやかな装束や仮面、鉾等が目を惹くが、「細男」や「神楽式」のような、彫琢された厳かさがない。「振鉾三節」「萬歳楽」「延喜楽」と三つほど見て、退屈になってきた。半身雨に濡れた身体も、そろそろ寒さがこたえてきた。午後7時頃、まだ宴たけなわのお旅所を後にした。暗い芝生の中を抜けて登大路へ出ると、テキ屋の男女が歩道につけたトラックに屋台を仕舞いこんでいるところだった。車のナンバーを見れば「北九州」の文字。かれらもまた神遊の端役たちである。

若宮神社とおん祭 http://www.kasugataisha.or.jp/onmatsuri/wakamiya.html

おん祭 〜雅楽を中心として〜 http://www.cam.hi-ho.ne.jp/nobuchi/onmaturi.htm

海人と俳優(わざおぎ) http://homepage2.nifty.com/amanokuni/ama-wazaogi.htm

能・金春流 http://homepage2.nifty.com/komparu

(2008.12.17  ゴムログ60より)

 7年前のこの文章をあらためて再読すると、今回もほとんど変わりない感想であることに驚く。「細男(せいのお)」と「神楽式」(三番叟)。なぜだか分からないが、わたしを強烈に惹きつけるのはこの二つだけで、あとは楚々とした白拍子も、きらびやかな装束や異国風の仮面に彩られた舞いも、奈良観光に来て大仏旅館あたりに泊まった者が宿の女将さんにおしえられて覗きに来て、奈良もちょいといい風情だな、と思うくらいのものでしかない。

 前回はたしか、お旅所のぐるりを囲んだ鉄柵のあたりから終始眺めていたような記憶があるのだが、今回は保存会の入会者の人びとが幕つきの席に誘導された後、木の柵とロープで仕切った大太鼓の前あたりまで一般の人へも開放されて、7年前に比べるとずいぶんと間近になった。

 「細男(せいのお)」は不思議な舞だ。神秘に満ちているが、ぼんやりとした提灯に照らされた草葺の行宮(あんぐう)の前でかれらが舞っているのを見ていると、何やら、カミとひとがコミカルに語り合い、互いにころころと笑い合っているような、そんなふうにも見える。わたしは、これはカミとひととの原初の交わり方なのではないか、と思ったりした。厳かな暗がりの中に、ユーモアの気配がある。

 能の根幹である三番叟は一般には「祀り」や「コトホギ」を表現しているといわれるが、古くは鎮魂の儀式であったという説もある。つまり翁とは、魂鎮(たましず)めの所作であるのだ。魂を鎮め、地の霊を鎮める。わたしは暗がりの中でゆったりとうごく手足の一挙一動が、なにか原初のカミとの交感を顕しているように思えるのだ。藝能とは、そのような場所から発生した。

 そして赤や青の彩色された装束に身をまとった舞楽が始まると、わたしのトーンが途端に下がり始めてしまう。7年前もそうであったし、今回も不思議とそうだった。きらびやかで映えるといえばこちらの方が映えて見栄えもするわけだが、何やら権力とか接待とか、国体の誇示とか欲だとかあれこれが、透けて見えてしまってだめなんだな。「細男(せいのお)」と「神楽式」(三番叟)のふたつだけ。わたしは、そのふたつだけでいい。

 午後の3時過ぎから見始めて、8時過ぎまでいたから、7年前よりは長時間いたことになる。舞楽に入ってからは、「細男(せいのお)」や「神楽式」(三番叟)のように食い入るように凝視するというのでなく、ぶらぶらと場所を変え、近くから、離れて、草葺の行宮(あんぐう)の前のかがり火に照らされた素朴な土のステージの上でニンゲンがカミへの思いを伝えるための藝能を繰り広げていた、そんなひそやかな太古の場面を想起したりしていたのが愉しかった。

2015.12.18

 

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 わたしの「実時間」では昨夜、伊藤博文が安重根に暗殺されたところ。風呂に入っているときに。

 さあ、そろそろ仕事復帰だ。 石割り作業。(根本からごっそりはずれた)

 USJから風邪をひいた娘は結局、今日の終業式も欠席。 朝から近所の町医者へ連れて行き、庭仕事を少々(立水栓の解体)。 昼は三人でお好み焼き。 午後はスター・ウォーズを見たことがないという娘とつれあいのために、いちばん最初の三部作をレンタル屋で借りてくる(じつはわたしもそれしか知らない)。 そのまま車で、広告に載っていたひと箱千円の明太子を求めて国道沿いの海鮮屋へ。安かった蛸も買う。 最後にJR駅近くのスーパーで今夜と明日の食材を買って帰宅。 ジップの散歩をしてから、夕飯の支度。 子のリクエストで鶏肉と長ネギのうどん、それと海鮮屋で買ってきたいくらと蟹の海苔巻きを添えて。 食後に娘の強い要請で「史上最高に怖い心霊ゲーム「零」をやっているアメリカ人4人の笑える実況中継」の動画を見させられる。 その後、つれあいが帰ってくるまで自室で、ユーチューブで見つけた日本語字幕版COMBATなどを見る。 風呂で伊藤博文暗殺後の安重根らへの聴取の場面。

2015.12.19

 

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 すばらしい。 ことばが土にまじり、土にからみ、土に慟哭し、 そして、ことばが土に立っている。

 

 ◆野坂昭如著『右も左も蹴っとばせ!』(1980年・文芸春秋刊)より 「原子力平時利用は、現在生きているわれわれが、未来の人類の生命財産、人間らしい生き方、人間にふさわしい自然環境を収奪破壊することで、当面の文明を支えようという企みである。原子力に戦時も平時もない、元来、地球上に存在しなかった毒物をむやみに産み出し、その毒性は何万年経っても消えない、だからこれを利用しての、勝利も繁栄もありゃしない。われわれは親の脛をかじって育った、そして今、子供の血をすすり、孫の骨をダシにして、栄耀栄華を貪る。安全論議の入りこむ余地などないのだ。まだ生まれてこない子供にこそ、今、われわれは教わり、姿を正すべきであろう」

2015.12.22

 

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 足尾鉱毒事件“幻の記録映画” 「鉱毒悲歌」を購入したDVDで見た。鄭玹汀さんの Facebook のタイムラインより引く。

 1972年に結成した「宇都宮市自主上映の会」から始まったドキュメン­ト映画、幻の記録映画といわれる『鉱毒悲歌』(10年間放置され、1983年に編集、2014年に再編集)を観た。
 音響効果やナレーションの声や撮り方など、前衛的な映像作り。

 いまは、“生ぬるい”批判がむしろ歓迎される雰囲気すらあるが、本作における力強い批判精神は、私にとってとても新鮮だった。
『鉱毒悲歌』を観ているあいだはずっと、ナレーションを全部書き留めたいと思うほど、観る人に訴えかける衝迫力がある。

国家と資本による犯罪を追及する民衆の戦いは、熾烈を極める。それは今も変わらない。これからも変わらないだろう。

本作は足尾銅山鉱毒、谷中村運動、谷中村を立退いた一 部の農民の北海道開拓、足尾銅山の中国人・朝鮮人強制労働の実態、足尾銅山被害者の闘いなど諸問題を包括的に捉えている。
ナレーションは、腹の底からの怒りをもって容赦なく糾弾する。谷中村の遺跡を守る会の方の説明など、やや冗漫な部分もあるが、全体としては強靭な批判精神が漲る、貴重な作品だと思う。

作品紹介→ http://www.hokosha.jp/koudokuhika/
https://www.facebook.com/photo.php?fbid=545794962244526&set=a.101540370003323.2759.100004420802283&type=3&theater

 

足尾鉱毒事件は現在も生きている

「国賊が今日の政府を取って居るという事が愈分かりました以上、其の事に決心しなければならぬのでございます。」

鉱毒の害に耐え切れず決起した農民たちが国家権力により弾圧された直後に田中正造は国会で「亡國に至るを知らざれば之れ即ち亡國の儀に付質問」と題する質問を行った。
これに対して政府は「質問の旨趣、其要領を得ず。依て答弁せず。右及答弁也。内閣総理大臣、侯爵、山県有朋」と答弁書を送った。

翌年に正造は国会議員を辞職し、死を覚悟して天皇への直訴を行う。

ここに引いた田中正造の国会演説は、100年後のいまの時代にも、ものの見事に当てはまる。

「民を殺すは國家を殺すなり。
 法を蔑にするは國家を蔑にするなり。
 皆自ら國を毀つなり。
 財用を濫り民を殺し法を亂して而して亡びざる國なし。之を奈何。

 右質問に及候也。」

現代の田中正造はいずこより来たるか。

 

田中正造【亡國に至るを知らざれば之れ即ち亡國の儀に付質問】

(明治三十三年二月十七日、衆議院提出)

民を殺すは國家を殺すなり。
法を蔑にするは國家を蔑にするなり。
皆自ら國を毀つなり。
財用を濫り民を殺し法を亂して而して亡びざる國なし。之を奈何。

右質問に及候也。

          演説
(明治三十三年二月十七日、衆議院に於て)
 今日の質問は、亡國に至つて居る、我日本が亡國に至つて居る、政府があると思ふと違ふのである、國があると思ふと違ふのである、國家があると思ふと違ふのである、是が政府にわからなければ則ち亡國に至つた。之を知らずに居る人、己の愚を知れば則ち愚にあらず、己の愚なることを知らなければ是が眞の愚である。民を殺すは國家を殺すなり、法を蔑にするは國家を蔑にするなり、人が自ら國を殺すのである。財用を紊つて、民を殺して、法を亂して亡びないと云ふものは、私未だ曾て聞かないのでございます。
 自分で知つて居つて爲されるのでは無かろうと思ふ。知つて居つてすれば、是は惡人と云ふ暴虐無道である。其本人其の人間が暴虐無道である。政府と云ふものは集まつた集合體の上で知らず/\惡るい事に陷つて行く。是は政府が惡るい。此政府と云ふ集合體の上で惡るいのである乎。之を知つて居るのである乎。本人が承知して居るのである乎。承知して居て直ほすことが出來ないのである乎。是が質問の要點であります。國家が亂るからと申して、俄に亂るものでは無い、段々歴史のあるものである。
 精が盡きて御話の出來ない時に惡るうございますから、一つ簡單に、當局大臣に忘れないやうに話して置きたい事がございます。大臣は那須郡の原を開墾することを知つて居る。此の地面の惡るいのを開墾することを知つて居るならば、今ま[#「今ま」はママ]此の鑛毒地の渡良瀬川、關東一の地面の良いのが惡るくなる――此の關東一の地面を開墾すると云ふことはドンなものであつたか、頭に浮かばなければならぬと云ふことを此間話しましたが、今日は尚ほ一歩進んで御話しなければならぬ。
 己の持つて居る公園とか別莊とか持地とか云ふものは、どんな惡るい地面でも、是は大切にすることを知つて居る。大切にすることを知つて居れば、則ち慾が無いと云ふ譯では無い。國家を粗末にすると云ふ頭で無いものは、大切にすると云ふ頭を持つて居るものである。馬鹿ぢやない。其頭を持つて居りながら、那須郡と云へば則ち栃木縣の中である、其から僅か數里隔つたる所の、而かも所有者のある所の田畑が、肥沃な天産に富んで居る熟田が、數年の間に惡るくなつて行く※[#「こと」の合字、249-8]が、目に入らぬと云ふはどうしたのである。甚しきは其の被害地を歩くのである。被害地を見ないのでは無い、其の被害地の上を通行するのである。那須へは栃木茨城埼玉地方を廻つて行くのである。自分の持物は那須野ヶ原のやうな、黒土の僅か一寸位しか地層のない所も開墾して、丹青を加へて拓くと云ふことを知つて居るではないか。其れだけに善い、其れだけに力を用ゆる頭を、國家の爲に何故公けに用ひない。――他人のだから――他人の災難と云へばドウなつても構はぬと云ふ頭が、國務大臣と云ふ者にあつて堪まるもので無いのである。他の者でも然う云ふ頭はいけない、特に國務大臣にソンなことがあつて堪まるものじや無い。彼の那須野の地面と云ふものは、大抵國務大臣が持つて居る。内務大臣の西郷君を始として、政府に在る所の者、元の大臣で持たない者と云へば伊藤侯と大隈伯、其他は大抵持たない者は無い、皆な持つて居るではないか。然うすれば覺えて居りさうなものだ。自分の子供を持つて見れば、人の子の可愛いと云ふことが判らなければならぬ。六ヶしい話でも何でも無い。
 又た簡單に歴史を申上げますると、此の鑛毒の流れ始まつたのは明治十二年からです。足尾銅山に製銅の機械を据えつけたのが十二年。十三年から毒が流れたのを栃木縣知事が見付けて、十三年十四年十五年と此の鑛毒の事を八釜しく言ふと、此の藤川爲親と云ふ知事が忽ち島根縣へ放逐されたのが、政府が鑛毒に干渉した手始である、古い事でございます。此の藤川爲親と云ふ者が放り出されると、其後の知事は、最早鑛毒と云ふことは願書に書いてはならない、官吏は口に言つてはならない、鑛毒と云ふ事は言つてはならないと云ふことにしてしまつた。其れが爲に無心な人民は十年鑛毒を知らずに居たが、二十三年に至て不毛の地が出來たについて、非常に驚ひて始めて騷ぎ出した。其は明治二十三年からでございます。是から先は段々諸君の御承知の通でございますから、敢て申上ぐる必要は無い。斯樣な歴史になつて居るので、各所の鑛毒の關係及び追々惡くなつた所を一と通御話申さぬと、唯だ苦情を申すやうに御聞取になると惡るうございます。
         ×   ×   ×   ×   ×
 關東の中央に於て能登國の二倍程の鑛毒地――此點に就て諸君に關東の事情を御訴へ申す悲しひ事がある。此の關八州は人間が卑屈でございまする。今日は誠に殘念だが據ない。何故ならば、徳川の三百年穩和なる所の膝下で育ちましたので、家庭教育と云ふものが極く惡るくなつて居りまする爲に斯樣な次第である。
 鑛毒事件で關東の眞中へ大きな沙漠地を拵へるのは誰である。是は即ち京都で生れた上方の人である、古河市兵衞である。此の仕事を大きくさせたのは誰である。即ち薩長土肥である。又た今日、此の鑛毒地を可哀さうだと言ふて、來て見て呉れる人も矢張上方の人で、關東の人間は、自分の膝下をやられるのを平氣の平左衞門で居る、殆ど無能力――腦味噌が無い。
 關東の眞中へ一大沙漠地を造られて平氣で居る病氣の人間が、殺されないやうにして呉れいと言ふ請願人を、政府が打ち殺すと云ふ擧動に出でたる以上は、最早自ら守るの外は無い。一本の兵器も持つて居ない人民に、サーベルを持つて切つて掛り、逃げる者を追ふと云ふに至つては如何である。是を亡國で無い、日本は天下泰平だと思つて居るのであるか。
 古い頭は是はもういけない。古い頭はいけない、去りながら今日の若い方の側に、未だ取つて代つて國を背負つて立つ所の元氣の人も現はれて來ず、若い方も年寄もどつちも役に立たぬから、恰も二つの國が寄合つたやうなものである、日本人として互に通辯が無ければ判らぬと云ふ位不便である。年寄は譯がわからぬ。若い方は腰拔だ。其でも、腰拔でも譯がわからぬでも、日本が御互に眞面目であると言ふならば、眞面目であると云ふならば、ひよつとしたならば此國を持ち堪へることが出來るかも知れぬが、馬鹿なくせに生意氣で、惡るい方へばかり上手になつたと云ふに至りましては、何處までも見所は無くなつたのである。
 政府ばかりを言ふわけにはいかぬ。吾々は固より教育は惡るし、年は取る。惡るい教育でも、あれば宜しいが、其れも無し。固より國家を背負つて立つ器量は無い。幸に若い諸君は學問を有つて居るからして、若い諸君が御眞面目におやりになりますならば、ひよツとしたらば、萬が一に僥倖したらば、此國を亡ぼさずして濟むが――今日の有樣でございますれば、亡ぼすじやない、亡びた、亡びてしまつたんである。此の通りにいけば、國が亡びると言ふじやない、亡びた。亡びても未だ亡びないやうに思つて居るのは、是はどうしたのであるか。
 今日の質問は、左樣な國情中の一つである所の鑛毒事件である。如何せん、此問題が諸君の御聽に達することを得ない、世の中に訴へても感じないと云ふのは、一つは此問題が無經驗問題であり又た目に見えないからと云ふ不幸もございませうが、一つは世の中全體が段々鑛毒類似の有樣になつて來た爲に、鑛毒問題に驚かない。――三百人の警察官がサーベル[#「サーベル」は底本では「サーペル」]を揃へて、鐺を以て鎗の如くにして吶喊した。又た撲ぐる時には聲を掛けた、土百姓土百姓と各々口を揃へて言ふたのである。巡査が人民を捕まへて「土百姓」と云ふ掛聲で撲つた。此の「土百姓」と云ふ掛聲は何處から出るのであるか。是れ即ち古河市兵衞に頼まれて居るからして、鑛業主にあらざれば人間にあらず、土百姓は人間に非ざる樣に常に聞ひて居るからして、ツイ其れが出る。三百人の巡査が悉く土百姓と云ふ掛聲を以て酷どい目に逢はせた、鬨の聲を揚げた、大勝利を揚げた、大勝利萬歳の勝鬨を揚げたのでございます。何たる事である。被害民の方は、是までも棒もステツキも持つて居なかつた。特に今度は能く世話人が指揮して、品行を方正にし靜肅を旨とせよと云ふ申渡までした位でございますから、煙管一本持つた者が無い位靜肅である。是に對して何である。勝鬨を揚げるとは何だ。
 今日政府は安閑として、太平樂を唱へて、日本は何時までも太平無事で居るやうな心持をして居る。是が心得が違ふといふのだ。一體如何いふ量見で居るのであるか、是が私の質問の要點でございます。
 大抵な國家が、亡びるまで自分は知らないもの。自分に知れないのは何だと云ふと、右左に付いて君主を補佐する所の人間が、ずツと下まで腐敗して居つて、是が爲に貫徹しなくなるのである。即ち人民を殺す――人民を殺すは己の身體に刄を當てると同じであると云ふことを知らない。自分の大切なる處の人民を、自分の手に掛けて殺すと云ふに至ては最早極度で、是で國が亡びたと言はないで如何するものでございます。陛下の臣民を警察官が殺すと云ふことは、陛下の御身に傷つけ奉る事、且又た己の身體に傷つけるのであると云ふ此道理が、此の大なる天則が分からなくなつて、尚ほ且つ之を蔽ふ爲めに、兇徒嘯集と云ふ名で召捕つて裁判所へ送る。可し。兇徒嘯集と云ふやうなものであれば、私も其中の一人でありますから、此の議場の開會と閉會とに拘らず、何故先きに私を捕まへて行かないのであるか。普通の事件なら別の話、兇徒嘯集と云ふやうな大きな事なれば、議員でも何でも容赦は無い筈だ。私は是まで隨分人民の權利を主張すること衞生に關する事など演説して歩るいた。世の中の馬鹿には教唆のやうに見えるであろうから、引つ張つて行くことがあるなら、此の私を一番に引つ張つて行くが宜い。兇徒嘯集などゝ大層な事を言ふなら、何故田中正造に沙汰をしなかつた。人民を撲ち殺す程の事をするならば、何故田中正造を拘引して調べないか。大ベラ棒と言はうか、大間拔と言はうか、若し此の議會の速記録と云ふものが皇帝陛下の御覽にならないものならば、思ふさまきたない言葉を以て罵倒し、存分ひどい罵りやうもあるのであるが、勘辨に勘辨を加へて置くのである。苟も立憲政體の大臣たるものが、卑劣と云ふ方から見やうが、慾張と云ふ方から見やうが、腰拔と云ふ方から見やうが、何を以て此國を背負つて立てるか。今日國家の運命は、そんな樂々とした氣樂な次第ではございませぬぞ。
 今日の政府――伊藤さんが出ても、大隈さんが出ても、山縣さんが出ても、まア似たり格恰の者と私は思ふ、何となれば、此人々を助ける所の人が、皆な創業の人に非ずして皆な守成の人になつてしまひ、己の財産を拵へやうと云ふ時代になつて來て居りますから、親分の技倆を伸ばすよりは己の財産を伸べやうと云ふ考になつて、親分が年を取れば子分も年を取る、どなたが出てもいかない。此先きどうするかと云へば、私にも分らない。只だ馬鹿でもいゝから眞面目になつてやつたら、此國を保つことが出來るか知らぬが、馬鹿のくせに生意氣をこいて、此國を如何するか。私の質問はこれに止まるのでございます。
 誰の國でもない、兎に角今日の役人となり、今日の國會議員となつた者の責任は重い。既往のことは姑く措いて、是よりは何卒國家の爲に誠實眞面目になつて、此國の倒れることを一日も晩からしめんことを、御願ひ申すのでございます。
 政府におきましては、是れだけ亡びて居るものを、亡びないと思つて居るのであるか。如何にも田中正造の言ふ如く亡びたと思ふて居るのであるか。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000649/files/4892_10243.html

2015.12.23

 

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 わがやのクリスマス・イブ。 わが家がベーコン巻(つれあい)、妹宅が飲み物(シャンパン、ビール、ワイン)とチキン、母がマカロニ・サラダをそれぞれ持ち寄って。 わたしもJIPの散歩から帰って、蛸と豆苗ともやしのソテー、それにあぶらかすと小松菜の炒め物で参戦した。(後者はあぶらかすの油と塩コショウだけのシンプルな味付け) 食事のあとは(なぜか)妹宅からわたし、つれあい、娘、母へくじ引きのクリスマス・プレゼント。 そして今年はサーティーワンのアイス・ケーキ。 最後に妹のつくったフルーツ・ポンチを食べてお開き。 数年前までは母も妹宅も北関東に在住していたが、いろいろとあって、ここ奈良の地へ一族が集結したわけだ。

2015.12.24

 

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 メリー・クリスマス。 今夜、おれはこの射殺された14歳の少女のことを想うよ。 メリー・クリスマス。メリー・クリスマス。

  エルサレムの路上で11月23日昼、パレスチナ人の14歳と16歳の少女が通行人の男性(70)をはさみで襲撃する事件があった。少女(14)はイスラエル治安当局に現場で射殺された。  この少女の母親(56)らによると、兄(25)が2年前にイスラエル当局との衝突に巻き込まれて死亡しており、フェイスブックに「兄がいなくて寂しい」と書き込んでいた。ただ、2人はその朝、いつも通り家を出ており、事件を起こすとは予想できなかった。

2015.12.25

 

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 子が家庭教師の家から帰ってきて、支度をした母もやってきて、10時半。さあ、飛鳥寺へ出発。と思ったら、同級生のHちゃんからラインで高校演劇の県大会への誘いが来ていた、と子。けれど、それっきり連絡がとれない。つれあいにHちゃんのお母さんへ訊いてもらったら、1年生の部員と二人でもうとっくに京都伏見の会場へでかけている、と言う。子は、そんな話は聞いていない、と言う。それから子は、県大会へ行きたいけれど連絡がとれないからどうしていいか分からないと言って泣き、わたしはわたしでいい加減にしろ、おまえたちのコミュニケーション不足でふりまわされる側のことも少しは考えろとなかばキレ気味になった。こうした話はこれまで二度や三度で、ない。子を叱るわたしにつれあいや母がからんできて、口を挟むなと怒鳴られた。それから子は泣きながら自室へ閉じこもり、わたしもその隣のテレビの部屋へ閉じこもり、しばらく不貞寝してから、録画してあったNHKの新・映像の世紀とハリソン・フォードの逃亡者を、途中で昼食や夕食を誘いに来たつれあいを無視して見続けて、そろそろわれながら冷めてきたからもう外へ出ても大丈夫だろうと子の部屋へ行って話をした。話を訊くと演劇部は演劇部で微妙な人間関係があり、子はいつも人を批判するのが嫌で中立的な立場をとるからふりまわされ気味で、しかも体調不良で休んだり、遅れたりしたときに話を聞き逃して、直前になってラインなどで知らされることが多いとの由。今回もHちゃんは伝えたはずと言っていて、子はいっさい聞いていないと言うのだが、それ以上は水掛け論になるから、「だって、そうでもしなければ演劇部がもたない」と言ってまた泣き出した。県大会は明日もあるのだが、明日はもうHちゃんは行かないという。「でもおまえは見たいんだろ?」と訊くとうなずくので、「じゃあ、明日はお父さんと二人で見に行くか?」と訊けば、ちょっとうれしそうな顔になってうなずくので、そうすることにした。じゃ、明日のプログラムを確かめようと二人でリビングへ下りて、朝以来何も口にしていなかったわたしはつれあいが用意していたハンバーグの夕飯にやっと口をつけた。ところがこんどはつれあいと今回のことをめぐって詰まらぬ事からふたたび口論となった。彼女はわたしが子に約束を無理強いして子もお父さんにはそれを言えない面があるなぞという話をわたしの母にしたということから、なんでおれと紫乃の間で交わした約束をあなたはその場にいたわけでもないのに推測で人にふれまわるようなことを言うのだ、そんな話をされるならもう信頼関係など成立しない、出て行け、と勢いでテーブルの皿を次々と床に叩きつけた。皿はシンクの下あたりにぶつかって粉々になり、コーンポタージュの残りであたりはべとべとになった。子はソファーに座り、うつむいて震えていた。しばらくしてつれあいが玄関を出て行く音がした。おそらくわたしの母の団地にでも行ったのだろう。リビングに戻ると子が膝をついて床にひろがった食器のかけらを拾い、ビニール袋に入れているところだった。一瞬、わたしはつれあいの姿と見誤った。わたしも黙って手伝い、掃除機をかけ、雑巾でべたべたの床をふき取り、シンクの上のスープの飛沫をぬぐった。ビニール袋にたっぷりと重いかけらを二重にして、外のゴミ箱へ放り込んだ。玄関のゲージにいる犬も猫も、ひっそりと鳴き声ひとつたてない。

2015.12.26

 

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 京都伏見の呉竹文化センター。 高校演劇部の近畿大会二日目。 先頭バッターの明石の高校が終わったところ。なかなか面白かった。 続いて、これから奈良の帝塚山高校。 午後は大阪の淀工科高校。 そして京都の立命館高校。 やっぱり近畿大会だとレベルが高いな。

 沖縄戦の教訓は「軍隊は住民を守らない」

 「防災の世界では「人は2度死ぬ」という言い方があります。1度目はその人が亡くなってしまうことですが、「2度目の死」というのは、その人のことを覚えている人が地球上からいなくなってしまうことです。  災害の記録を残したり、亡くなった人の慰霊をするということは、2度目の死を防ぐことになります。博物館に災害の記憶や、そこから学べる知恵を集約させておくことによって、50年経ったときに、誰も何も覚えていないということを防ぐのです。」

 もはや(管理機能としての)国の体をなしていない。

2015.12.27

 

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 昨日見た高校生たちの演劇部による近畿大会二日目。 4校中、どれもレベルは高かったけれど、わたしの一番は文句なく、最後の立命館高等学校の「パレード」だった。 http://www.fkc.ritsumei.ac.jp/fkc/student/club/drama/next.htm

 海辺の架空の町「こっち国」。 海の向こうの「犬島」には「むこう国」といわれる別の国があり、こちらがわにはその「犬島」からやってきたという人々の住む「まぐろ町」があり、さらに山中の「おばけ森」には文明を忌避して生活する人々がいる。 「こっち国」のふつうの高校生たちと、「まぐろ町」の子どもたち、そして「おばけ森」の子どもたちの間に賤視と差別があり、さらに「むこう国」から逃れてきたという少女が母の遺骨を抱えて海を渡ってくる。 「まぐろ町」の子どもが防波堤に絵を描き、いちど見てみたいゾウと共に「むこう国」では毎日のようにお祭りをし、みなが楽しくパレードしていると思い描いた音は、じつは戦火の砲撃であった。 「こっち国」と「むこう国」ではすでに戦争が始まり、海辺には国境線が引かれ、スーツを着た役人たちが一般の町民も「まぐろ町」も「おばけ森」も全員で一丸となって「むこう国」と戦うのだとけしかける。 わたしの勝手な解釈では「犬島」は朝鮮半島であり、「まぐろ町」は在日、そして「おばけ森」はさしずめ同和地区か、と理解した。 ラストは、狂乱の中で子どもたちが次々と斃れていくが、誰かが「そうだ、誰も戦わなければいいんだ!」と叫ぶと、斃れていたみなが起き上がって、トランペットやドラムの音に合わせてパレードを始める。それは現実なのか。あるいはすでに、死者たちの悲しい夢なのかも知れない・・・ 幕後の質疑応答で観客席にいたおそらく保護者だろう、スターウォーズのジャバのような太った女性がマイクを握り、出演した高校生に「戦わないと殺されちゃうけど、それでいいのかしら?」なぞと質問をした。すでにこんなところにも、この国の鵺のような妖怪どもがはびっこている。 ともかく、往時の筒井康隆の傑作のような、狂乱とナンセンスなエネルギーのつまった演出はサイコーだったよ。 おじさんが審査委員だったら、きみたちが全国大会へ出場だ。

2015.12.28

 

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○ 城山三郎「辛酸―田中正造と足尾鉱毒事件」(角川文庫) 政府による強制破壊のあと、雨が降ればずぶぬれになるような仮小屋に立てこもったわずかな村民も疲労の色濃く、無報酬の弁護士たちも次々と離脱し、渡良瀬川が谷中村を通る河川法準用も告示され、田中正造たちが次に賭けたのはその河川法準用の不当処分取消しの訴願であった。 ところが正造の勘違いですでに締め切りが明日に迫り、妨害のために正造が出版法違反で警察に引き立てられたりして、午後12時の時刻ぎりぎりで谷中村が併合された藤岡町の町役場へ書類を持参した、その場面。

  割印が捺されて、訴願状が戻ってきた。助役はもう一度改めてから、 「ごくろうさまでした」  一同に声をかけた。  正造はくり返して頭を下げた。時計はまだ11時半であった。  外に出ると、大戸を下した藤岡の家並が寝静まっている。一人がこらえかねたように笑声を立てた。 「時計がとまってたなあ」 「とめてあったんだ」  正造は重い声で言った。とめてあるのを気づかせまいと、助役は無理に話をはずませたのであろう。 「ありがたい仁だ。正造はもう国家などということは考えない。議員も政府も泥坊の手先ばかりつとめて、少しも役に立たぬ。国家の外の社会の人々に聞いてもらわねばならぬ」  宗三郎は、いつかの尚江の演説をふっと思った。<むやみにいせいのいいことを言う>と批判していた正造だが、尚江と同じ考えに近づいている――。  背後の空で梟の啼く声が聞こえた。ふり返ると、役場の灯が一つになり、しばらくして消えた。

 

○ 「原発反対の意志を明確にし、大きな話題を呼んでいる」こと自体が、そもそも ? だけどな・・ 「原発(核発電所)を認めるか認めないかというのは、国家の基幹と人間性の尊厳に関わる包括的な問題なのです」 「効率っていったい何でしょう? 15万の人々の人生を踏みつけ、ないがしろにするような効率に、どのような意味があるのでしょうか? それを「相対的な問題」として切り捨ててしまえるものでしょうか? というのが僕の意見です」

 

○ Dylan の60年代の曲に But to live outside the law, you must be honest (法律の外で生きるには、正直でなくちゃいけない)という歌詞が出てくる。わたしはこの言葉を長年、座右の銘のようにひそかに臓腑に隠し持ってきた。 国家権力が法律をやぶってわたしたちに理不尽な牙を向いてくるのであれば、わたしたちには法律に則ったそもそも“抵抗権”があるはずだ。 けれど「“抵抗権”があるから無効だ。従わなくていい。」と言ってくれる司法は、おなじ穴のむじなで判断をしようとしない。 マスコミもそれについては「ない」ことのように振舞っている。だからみんなも「ないのかな?」と思い始めている。 それがこの国の現実。 では、どうしたらいいのか? ということをここ半年くらいの間、ずっと考え続けている。 Dylan のいう「法律の外」は、なにもない地平で、じぶん自身の判断だけが問われる。そういう覚悟のことを言っているように思う。

 

○ 昨日。昼前に会社のトイレでズボンを脱いだ際に大事なチャックが見事に外れてしまった。少々きつめのズボンだったので(買ったときはそうではなかった)、負担がかかっていたのかも知れない。さあ、困った。 とりあえずコートで前を隠して、自転車に乗って、ラーメンを食べに行った。向かい合わせの席は避けて、カウンター席にしてもらった。ラーメンを食べるときも念のためコートは脱がない。 つれあいに「ズボンのチャックが壊れた」とメールをした。じつは先月も別のスーツでおなじことがあって、新しいスーツを新調したばかり。しばらくして娘からラインがきた。「お父さんからのメールみてお母さんがひええええって言ってた」。 会社に戻って、修理に出すといくらくらいかかるのだろうとWebで調べた。部品にもよるが、800円〜2000円の間くらいらしい。すると、じぶんで直したという写真を載せているページがあったので、ダメもとで試してみることにした。 会社にはそのとき、わたしと経理の女性のKさんだけ。1時間後にM君が壊れたノートPCの代替機をとりに来る予定だったので、いまのうちだ。 Kさんに「ちょっとズボン脱ぎますが、気にしないでください」と言って、パンツ姿で椅子にすわり、机に脱いだズボンを広げて作業を始めた。まずはファスナのスライダーの外れた側にマイナス・ドライバーを差し込んで口を広げる。それから外れたファスナへはめ込む。 そこへ1時間もはやくM君がやってきた。「なんで、こういうときに早く来るんだよ」とわたしはかれに文句を言った。「Kさんと二人きりの事務所で、おれがパンツ姿だったって言いふらすんだろ」とか何とか言っているうちに、スライダーがはまった。一往復させると、見事にチャックが閉じた。「やった!」 パンツ姿のわたしは歓声をあげた。 最後にペンチでスライダーの口を締めてから、「じぶんで直したよ」というメールをつれあいに送ると、彼女から返信がきた。 「すごいね。  家においてあるズボンも直るかなあ。  でも、直してる間、パンツだけだったの?」

 

○ 「昭和史」(平凡社ライブラリー)、読みました。歴史が分かっている人の言葉。 「昔の『琉球処分』以上のことをしている。戦後民主主義は民意が第一だ。辺野古は翁長(雄志)さんが勝った瞬間に保留、考え直すのが当たり前だ」 「日本の軍隊は天皇の軍隊であって国民の軍隊ではない。民衆を守るのは使命ではない」

 

○ 夕食後、娘がDVDを借りに行きたいと言うので、車でツタヤへ。 娘の目的はテレビ東京系で放映されているアニメ「銀魂」。もともとはジャンプで連載された漫画が原作で、作者いわく「SF人情なんちゃって時代劇コメディー」との由だが、父はまだ見たことがない。 娘はそれと、「レオン」を借りた。これはたぶんゲイリー・オールドマンが出ているから。 娘につきあっていた父は新作の棚に「百日紅」のDVDを見つけて、「北斎の娘。これはぜったい、面白いよ。」と娘にすすめて、いっしょに借りることにした。 杉浦日向子はむかしから好きだ。そもそも江戸が好きで、それというのも一時期、石川英輔さんの江戸SF小説(?)で江戸文化にハマッてしまい、たしかそのまま杉浦日向子とめぐりあったのだと思う。 もちろん、この北斎親娘を描いた「百日紅」も、原作の漫画から大好きだ。 ちなみに浮世絵に凝ったのもこの頃で、小布施まででかけて行って北斎の天井絵を眺めてきたのも懐かしい思い出。北斎と、春信かな。好きなのは。 というわけでこのお栄の物語は、たぶん娘もハマッてくれるものと信じている。

2015.12.30

 

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○ 吉永「でも3年前の悲劇を、大きく受け止めていない人も多いですし、もう忘れかかっている人も大勢いて、それは、いちばん悲しいことですよね。」 寂聴「人間はお馬鹿ちゃんですから、決して忘れてはいけないことまで忘れてしまうんです。いまの日本で起こっているいろいろな問題はすべて、忘れてはいけないことを忘れてしまったために起こっているのです。」

 

○ 大晦日は妹宅に集結。 焼き鳥、鯖寿司、富山の寿司、鮭と南瓜とブロッコリーのチーズ焼き、海鮮巻き、トルティーヤ、白和え、等々。 わたしは明日、4時起きで仕事なので一人早めに切り上げますが。

 

○ ヤフオクで落とした「田中正造選集 全7巻」(岩波書店)が届いた。 真新しい紙の質感を愉しみながら試みに第4巻「直訴前後」をぱらぱらとめくれば、手帳に書きつけた以下の日記が目に留まった。

日記(抄) 明治34年8月29日 二十九日 渡良瀬の河辺賢者多し。   きたなきハ皆古川ニ流れこみ のこるハ骨と賢とのみになり 今の法律ハ腐朽せり。古語ニ朽ちたる木を彫すべからず。今の法律学校は朽たる木を以て築造せる大工職工の如し。

  明治34年は西暦では1901年。 百年前からこの国は何も変わらないということか。 明日が早いので、テレビの紅白を前におしゃべりを愉しんでいる女性陣を後に、先に妹宅を辞してきた。ジップを短い散歩に連れ出し、明日の支度をして、風呂に入ったところ。 a happy new ear (幸福なあたらしい耳)と書いたのは、ジョン・ケージであったか、武満徹であったか。 しばらくわたしはこの言葉を年賀状に使った。 わたしたちにいま必要なのは、そういうものかも知れない。 わたしと世界が他者の声を聴きとり、もうすこしマシになれますように。 a happy new ear  幸福なあたらしい年を。

2015.12.31

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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