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 火曜日のことだったか、夕方、Nちゃんのお母さんがひさしぶりにわが家を訪ねてきた。Nちゃんは子の幼稚園のときからずっと仲良し3人組の一人であった。小学校の高学年の頃から微妙な関係になって、中学校は別々になったこともあって遊ぶこともなくなったけれど、母親同士はいまも仲良しで、ごくたまに会って茶会を開いたりしている。そのNちゃんのお母さんが、なにやら相談事があるようで訪ねてきたのである。

 学校の二時間だけの自習を終えて帰って来た子は、当初は「挨拶だけして、二階へあがっていい?」なぞと言っていたのだが、話というのがNちゃんも最近、不登校気味で、あまり学校へ行っていないという内容と聞き及んで、足を止めた。仲良し3人組はみな、おなじ国立の中学を受験したのだが誰も合格しなかった。子はすべり止めで受かっていたいまの私立へ行き、もう一人のKちゃんは校区の公立を選び、Nちゃんは合格していた別の国立の中学へ進んだ。そのNちゃんがしばらく前から不登校になり、部屋でゲームばかりしているのだと言う。

 じつはNちゃん家は、長年高校の教師をしていたお父さんが配置された学校の雰囲気に馴染めず、ずっと転勤願いを出していたのだが受理されず、それこそ鬱病になりかけて、とうとう辞めてしまったのだった。それは娘のNちゃんが国立中学へ進学してからのことで、それからNちゃんのお父さんは宅配便やゴルフ場で馴れないアルバイトをしながら、学校の教師や塾の講師などの仕事も探しているらしいのだが、年齢もネックらしくて、まだ復職はできていないらしい。一家はやがて購入したマンションを人に貸して、Nちゃんのお母さんの実家へ引越しをした。

 「挨拶だけして、二階へあがっていい?」と言っていた子が、気づいてみれば二時間ほど、Nちゃんのお母さんに向かって、じぶんの不登校の体験談などを堂々と喋っていた、という。それから、急に元気になった、とYが言うのだ。夕飯の片づけを率先して手伝ったり、家庭教師の先生から出された宿題をさっさと終わらしたり。「たぶん、じぶんが他人の“役に立った”ことが嬉しかったのだろう」とYは言うのである。じぶんが誰かの役に立っていると思えるということは、それだけ大事なことなのだ、と。

  Nちゃんのお母さんは夫のこと、娘のことで、迷惑をかけてばかりで荷物のようで申し訳ないと、実家の両親に謝ってばかりいるという。「それは違うだろう」と、子が産まれてからも転職を繰り返し、ときに無職の期間が続いたこともあるわたしは言った。「いちばんつらいのはNちゃんのお父さんだ。そういうときこそ、家族はお父さんのことをいちばんに考えてあけなければ」と。それから声をひそめて、こうも言った。「でも、おれはむかしからレールを外れてばかりだったから、そんな状況も馴れているけれど、Nちゃんのお父さんはもっともっとつらいだろうな」。

 子はNちゃんのお母さんから教えてもらったアドレスで、数年ぶりにNちゃんとラインで会話した。ゲームや漫画や音楽の話ですごく盛り上がったという。「学校の話はしなかったの?」と父が訊くと、「そんな野暮なことはしない」と。そして「N、うちの学校に来たらいいのにな・・・ 」って、あんたもその学校へ行けてないんでしょが。

2015.7.2

 

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 今日は一日、某市内のショッピングセンターで立ち続けた。明日もおなじ。時給850円で貧しいながら妻子を養っていたむかしを思い出す。

 帰りの電車の中で痺れた足をさすりながら石田勇治「ヒトラーとナチ・ドイツ」(講談社現代新書)を100頁ほど読んだ。最近のデモでみんな安陪総理をヒトラーに喩えるけど、ヒトラーの方が言葉についてもっと考えていたよ。

2015.7.4

 

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 土日を働いて、今日は代休。

 朝から子の学校送迎はテスト3日目。公民、英語、家庭科の三教科。明日ですべての日程が終わる。迎えに来た際に保健室をちらと覗くと、子を入れてぜんぶで5人の生徒が机に向かっていた。中学1年生〜3年生、そして高校生の、それぞれ教室で受けられない子どもたち。子はもう1年半以上、まともな授業は受けていないが、家庭教師の先生の即席対策などもあって、今回は英語や数学などの主要教科は半分くらいは書けているらしい。何より帰ってから、出た問題を母親に質問したりしているから、だいぶ余裕が出てきた。他の教科も、各先生たちがプリントを呉れたりして協力してくれている。帰りの車の中で、前述したNちゃんの話をする。その後もラインでの旧交を温める会話は続いているらしい。Nちゃんのいまの状況をどう思う? と訊けば、「じぶんの場合はどうにかしなくちゃと落ち込んでもがいていたから、変化がわかったけど、Nの場合は明るい。べつに学校へ行かなくてもいいと思って、悩んでもいない。その分、長引くような気がする」と的確な分析で。

 午後からはYが行きつけのリサイクル・ショップ(洋服)のサービス券1600円分が今日までの期限だからと言うので、雨も降っていて庭仕事もできず、ほかに特に用事もないわたしは付き合うことにする。いっしょに行くよと言うと、Yはとても嬉しそうな顔をする。この人はじぶんで洋服もつくれるくらいだから、ほんとうなら百貨店の専門店でブランド物というわけでなく、ほんとうの意味で良い生地の服を選んだりするのが似合っているのだけれど、いまではわたしのささやかな収入に合わせてリサイクル・ショップで500円、1000円の服やパンツを見つけては、嬉しそうに買ってくる。店には男物も置いてあって、しばらくはわたしも手に取ったりしていたのだがじきに飽きて。二階の窓際にあった安物のビーチパラソル・セットのようなチェアに腰掛けて、雨もやんできた平城京あたりの空を眺めながら、持ってきた「ヒトラーとナチ・ドイツ」を読み進める。ときどき近くの棚のうしろからYが、これどう? とじぶんの体にあてて見せる。それはいいねえ、とか、ちょっと下と合わない気がするな、とか思ったことを応える。こんな休日もいいなと思う。

 以下、備忘録的ないくつか。井上理津子「さいごの色町 飛田」(新潮文庫)に出てくるふたつ。

 ひとつはかつて動物園前から阪堺線沿いにあって、数年前に忽然と消えてしまった飛田墓地の供養塔の件。

 (前略) ・・現飛田の北西約600メートルの堺筋沿いにあった不動産会社社長の菊谷さんだった。菊谷さんは、社屋の隣地に立つ、寛永二年の銘の入った「太子地蔵尊」と「飛田墓地無縁塔」、「慶長十九年の義戦(大阪冬の陣)によって壊滅した墓石を八十四年後の元禄十一年、天台沙門融順が整備した」旨の銘文が刻まれた巨大な墓石を、自主管理していた。その後、菊谷さんが亡くなり、2006年ごろに三つとも取り除かれてしまったのが残念だ。それらが墓地の飛田を偲ぶ希少なオブジェだった。

 以前、わたしは西成を歩き回っていてこれらの石碑をビルの谷間に見つけ、写真を撮った(2009年夏)。それがいつのまにかどこにもなくなってしまい、じぶんの記憶違いかといぶかしんでいたのだが、やっと事情が判明した。(確かに現在のグーグルマップでこのファミリーマートの並びを見れば、この石碑のあったスペースだけがビルの狭間にあって更地となっている) それにしても貴重な郷土史料だと思うのだが、行き先は分からないのだろうか? できれば調べてみたい。

 ふたつめは、昭和初期に飛田で性病などに罹患した娼妓たちが強制入院させられた難波病院(現府立病院機構の前身)で、彼女らのカウンセラーの役目を果たしていた篠原無然なる飛騨高山の社会教育者の存在である。

篠原無然(しのはらむぜん、本名:篠原禄次。1889年(明治22年)3月7日 - 1924年(大正13年)11月14日)は、飛騨地方で活動した教育者である。

兵庫県二方郡西浜村(現 美方郡新温泉町)諸寄(もろよせ)出身。早稲田大学中退。社会教育の先駆者。1914年(大正3年)11月、岐阜県飛騨地方の吉城郡上宝村(現 高山市)にあった上宝村第一小学校(現 高山市立本郷小学校)の代用教員となり、以降飛騨を中心に青年の教育や工女の待遇改善などに尽力。地元の青年たちと乗鞍岳登山道を整備した。乗鞍岳の姫ケ原・土俵ケ原や桔梗ケ原などの命名者としても知られる。雪の安房峠で遭難し、36年の生涯を閉じた。
Wikipediaより

 奥飛騨の温泉郷・平湯にかれの記念館があり、難波病院での聞き取り調査や、娼妓たちへの心得、また娼妓自身がおぼえたての文字で書いた歌などが残されているという。ぜひいつか訪ねてみたい。また江夏美好さんという作家が無然の生涯を描いた「雪の碑」(1980)という作品を残しているが、残念ながら現在は絶版のようで、中古を探しても見当たらない。無然はこの他に早稲田大学入学後、人間社会に絶望をして山へ籠もって修行をしたいとも望んでいたようで、そんなところも興味を惹かれる。おまけとして前述の「娼婦の作りし哀歌」を検索していたら、この娼妓の残した歌に曲をつけて演奏をしているサイトがあった。これが調べたら尼崎のバンド「釜凹バンド」のリーダーである碩 与志象(Vo/G)さんという人であったというマコト面白き縁。

篠原無然記念館 http://www.hida.jp/cgi-bin/kankou/sigview.cgi?admin=contents_view&id=1050201000427 

江夏美好「雪の碑」 http://www.amazon.co.jp/%E9%9B%AA%E3%81%AE%E7%A2%91-1980%E5%B9%B4-%E6%B1%9F%E5%A4%8F-%E7%BE%8E%E5%A5%BD/dp/B000J82QOG 

娼婦の作りし哀歌」 http://www.oct.zaq.ne.jp/afdzt309/public.html/code/syouhunoTukurisi_aika.html 

2015.7.6

 

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 雨の七夕。子は今日で5日間の定期テストを終える。保健室での試験だったけど、すべて受けられた。家庭教師の先生の補習もあって、教科によっては半分くらい手ごたえがあったらしい。1年前は一日だけトライして、まるで空気の薄い高山から生還した遭難者のような顔で帰ってきて、二日目からは部屋に閉じこもってしまったことを考えたら上出来、上出来。あとは実習代わりの課題で、水墨画の提出が残っているとか。

 

 ゲーテやトーマス・マンの国が、なぜナチズムを許容したのか、考えている。

 人はどうしておのれの理想や不満を、容易に他人に委ねてしまえるのか。

2015.7.7

 

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 8日。とつぜんの沖浦氏の訃報。新刊がなかなか出ないな、せめてもう一冊と心のどこかで待ち望んでいたが、年齢を考えれば致し方がないのだろう。大学をまともに出ていないわたしの、唯一の“こころの恩師”とも言える。大阪・天満宮近くのビルで何度か開かれた「沖浦塾」で、唾を浴びるほどの間近で接することができたのがわずかな慰めか。それでもついに告白の機会を逃して去ってしまった恋人のような心持がする。ほんとうにたくさんのものを、あなたにもらいました。そのなかでもいちばん得がたいものは、禁忌(タブー)に直截な論理とあたたかな心で斬り込んでいく、度量の大きな勇気かも知れない。かつての水軍の気骨と反権力、つねに弱者に寄り添うこまやかな人情に、わたしはずっと惹かれてきました。あなたが残してくれた多くの書物は、わたしの生涯の宝物です。どうぞ、安らかに。

訃報:沖浦和光さん88歳=桃山学院大名誉教授

 沖浦和光さん88歳(おきうら・かずてる=桃山学院大名誉教授)8日、腎不全のため死去。葬儀は近親者で営む。しのぶ会を後日開く。喪主は妻恵子(やすこ)さん。
 大阪府生まれ。中学教諭などを経て桃山学院大教授。1982〜86年、学長も務めた。英文学専攻だったが、70年代前半、被差別民や漂泊民に研究テーマを変えた。研究対象は、国内の被差別民、漂泊民だけでなく、インド、インドネシアにも及んだ。著書に「幻の漂泊民・サンカ」「天皇の国・賤民の国」、共著に作家、故野間宏との「アジアの聖と賤」、俳優の故三国連太郎との「『芸能と差別』の深層」など多数。2012年、人権活動への取り組みが評価され松本治一郎賞を受賞した。

 (毎日新聞 2015年07月08日 19時52分)

2015.7.9

 

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 東京から従兄が母の家に泊まりに来て、夕食を共にすることになった。かつてわたしをシベリアの旅へ誘ってくれた大好きだった伯父の長男である。折角だから奈良にしかないような店をと思って Web を探して見つけたのが、作家の村上春樹氏が1983年の「群像」に書いたエッセイ「奈良の味」を紹介しているこのサイト。http://www.tokyo-kurenaidan.com/haruki-nara1.htm  そして、ここにとりあげられているうなぎ料理の「綿宗(わたそう)」 http://tabelog.com/nara/A2904/A290401/29003260/  「元々江戸の安政期から「綿屋さん」として親しまれ、明治初め頃に良質な川魚が多く獲れたことからお伊勢参りの泊まり客にふるまわれ」たという、創業110年余の老舗料理旅館(現在は旅館はやっていないらしい)。写真で見るいでたちも連子格子の古びた建物で、じつにわたし好み。「要予約」ということで、当日の朝に電話をすると「何とか空いている」と言うので、Web に載っていたまむし(鰻丼・2100円)とうなき(鰻巻き・1000円)あたりをお願いした。さて約束の時間、やや余裕を持って出たのだけれどなかなか辿りつけずに結局、ぎりぎりの時間に滑り込む形となった。古代からの古い集落の路地と現在進行中の京奈和道が交錯してカーナビは役に立たない。下ツ道はかつての藤原京(現・橿原市)の西京極から平城京(現・奈良市)の朱雀大路を南北に結ぶ幹線道路で、現在の国道24号線と一部「合致・平行」する。http://www.pref.nara.jp/miryoku/aruku/kikou/images/sub_directory/ki/ki_05/map_pdf_05.pdf  かつてわが家が住んでいた稗田の県営団地もすぐちかくにこの下ツ道が通っていたが、新しい京奈和道への進入路と古代の下ツ道がちょうど交わるあたりにこの「綿宗(わたそう)」が位置している。車一台通るのがやっとの道である。「今にも消えてしまいそうな町なみの中にある今にも崩れ落ちそうな料理旅館だ。暗い台所をのぞくとおばあさんが一人でうなぎを裂いている」と村上氏が書いている通りの建物は、創業当時のままだそうだがいまは使われておらず、車を南側の駐車スペースに停めたらその近くにいまは入り口があり、裏手に別棟が建っている。堅苦しい高級な料亭という感じでは全然なくて、食べログでどなたかが書いていたけれど「江戸や明治の田舎旅館に来たような素朴な感覚」、まさにそんな趣きの畳敷きの部屋の窓からは、ブロックで底上げされた盆栽がずらりと並んでいる。上がり框もトイレも布団が押し込まれた部屋も、どれも懐かしさを覚える「田舎旅館」の風情。

 …鰻井のことを、大阪では<まむし>という。まむし、の語源は、まぶす──すなわち、混ぜ合わせることで、その意味では<まむし>の鰻は、本来、飯のなかへ姿をしずめていなければならない。器にまず半分ほど飯を入れ、そこへ鰻をのせた上から、もう一度飯をのせる。これが本来の、まむし、である。…… 東京の鰻と大阪の鰻の大きなちがいは、東京式はまず蒸して脂肪を抜いてから焼くが、大阪のはそのままこってりと焼く。これを大阪風とか地焼とか呼ぶが、それともうひとつのちがいは、東京のうなぎ屋が、あくまで鰻専門であるのに対して、大阪のは、料理のフルコースのなかの 一品として、焼物がありに鰻を出すことである。… 

三田純市「道頓堀 川/橋/芝居」(白川書院)

 肝心の料理。まむし(鰻丼)は蓋をとると丼にびっしりと茶色にそまった米粒が盛ってあり、その中に鰻が二段重ねで身を潜めている。見た目の濃さよりは味はあっさりとしていて食べやすい。いや、じつにおいしい。けれど量はかなりあって、母は半分近くを残して持ち帰りの容器に詰めてもらった。ひとり一切れあたりで頼んだうなき(鰻巻き)はできたてのぬくもりがあって、こちらはあっさりと上品な感じ。まむしがちょっとどっしりした女将さんなら、うなきは夏休みで家業を手伝っている大学生の可憐な娘さんといった感じかな。いや、そんな娘さんは現実にはいませんでしたが(^^)  たっぷりの急須にお茶も充分で、料理を運んでからはいくらでもご自由にという、この程よいほったらし感も良い。ほんとうにじぶんが国許を出てきてこれからお伊勢参りに行く途上の旅人のようなそんな錯覚さえ覚えてくる、平凡な地方都市のあわいに隠れたまぼろしの集落のまぼろしの宿のような店。出がけに洒落た作務衣姿の女将さんに話を訊いたら、かつてはちかくの川で魚やタニシなども採れたという。いまは井戸水をひいて鰻を入れているとのこと。川魚、というとわたしはかつてのサンカの生業とも重なり、なんとなく心がときめいてしまう。街道沿いの創業以来の建物は、昔からの馴染み客から「ぜひ残しておいて欲しい」と言われていて、「そう言われて、気がついたらもう30年近く経ってしまった」と笑っていた。いまはときどき手入れをしているくらいだとか。奈良に来てもう10年以上になるが、こんな近くにこんな「秘境スポット」があるとは気がつかなかった。まさに知る人ぞ知る秘店、である。この次はYの義母や義父を連れていってあげたい。

2015.7.11

 

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 九度山町と聞いて個人的に思い出すのは、漬物だ。かつて葬式の花屋で働いていた頃はときに宇陀の山間や、そしてこの和歌山県の九度山まで軽トラで往復したものだ。そんな山間の集落の葬式では、地元のおばちゃんたちが簡単なお昼ごはん―――ご飯と具のたっぷり入った味噌汁と漬物―――をわたしたちにもふるまってくれて、このおばちゃんたちの手製の漬物、たいていはキュウリやナスの浅漬けがじつにおいしくて、何度感動したか分からない。その他にも九度山の葬式ではある家で、わたしたちが祭壇の色花をあつらえていると身内の一人のお婆さんがそっとやってきて、「こんなに綺麗に飾ってくれて、ありがとう」と何度もお礼を言ってくれたのが、忘れられない。

 その九度山に久しぶりに、戦国バサラ娘を真田庵で釣って出かけてきた。かつては峠を越えて五条から吉野川を渡り、川沿いに「恋し野」なぞといった洒落た地名も通り過ぎながら下道を走ったものだが、いまは五条から和歌山へ向けて京奈和自動車道がずいぶんと伸びていて(しかも部分開放なので無料)、全体の6割以上を高速道路でひょいと飛んでいける。大和郡山からおよそ1時間半ほど。「柿の里くどやま」なる道の駅も新たに出来ていて、来年からNHK大河ドラマ「真田丸」が放映されるともあって町は真田一色である。http://kakinosatokudoyama.com/  トイレ休憩を兼ねた道の駅で真田関連のパネル展示を眺めてから、真田庵近くの村営の無料駐車場に車を停めた。真田庵までは徒歩数分。

 関ヶ原の合戦で信州・上田城に立て籠もり、秀忠の大軍を見事釘づけにして遅参させた真田昌幸・幸村親子がこの九度山に蟄居させられたのが1600年。11年後に父の昌幸がこの地で没し、1614年に幸村が大阪城へ入城を果たすまでの約14年間をこの九度山で暮らしたことになる。善名称院(ぜんみょうしょういん)は高野山真言宗に属する尼寺で、関ヶ原の合戦からおよそ140年後、九度山出身の僧・大安上人が真田昌幸の庵跡と伝承のあるこの地に地蔵菩薩を安置した一堂を創建したのが始まりとされ、以降、江戸期に「真田三代」の講談が人気となって訪れる人も増え、別称・真田庵と呼ばれるようになったとか。つまり、あくまで伝承なので、ほんとうにここに真田の屋敷があったかどうかは定かではない。境内には小さな資料館があって、真田親子の刀や馬具や弁当箱などがいろいろ展示されているが、これも果たしてどうだろうか。幸村の鼻糞とか褌とかがあっても、わたしは驚かないぞ。まあ、歴史の舞台というものはだいたいが不確定なものであり、あとは人それぞれ、空想力を自由に遊ばせれば、それで良い。「真田昌幸の墓」と伝わる苔むした供養塔に、わたしも戦国乱世をしたたかに生きた老獪な武将の生涯を思って、そっと手を合わせた。この山と山に挟まれたのどかな川沿いの町のどこかに、敗者の親子が暮らし、父が葬られたことは間違いがない。

 もともと真田で娘を釣った今回の九度山行きだったが、真田庵からほど近い集落内にある旧萱野家(大石順教尼の記念館)は、予期していない収穫だった。詳細は端折るが、堀江六人斬りの詳しくは以下の Wiki で。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E6%B1%9F%E5%85%AD%E4%BA%BA%E6%96%AC%E3%82%8A  明治38年、錯乱した養父の狂刃によりこの六人斬り事件に巻き込まれ、17歳の身で両腕を切り落とされた17歳の芸妓の少女が、筆を口にくわえ書画の世界へと入り、苦難の道を乗り越えて尼僧になって晩年は障害者の自立支援に尽力したという大石順教。彼女が得度した高野山へ来るたびに来泊したのがこの旧萱野家で、その縁で残された多数の作品を展示したのがこの記念館ということらしい。現在は九度山町が建物を買い取って、教育委員会の管理となっている。ここで孫娘の旦那が作成したという生涯を追った動画を見せて頂き、子はかなり真剣に見ていた。というのも家に帰って母親に説明した際に、両腕を切り落とされてから文字を習いたいと懇願した高野山の僧侶との会話( 「お前には悲しい事はあるのか?」 「花や月や鳥といった世界の事象がわたしを愉しませてくれるので愉しいことばかりですが、唯一文字を知らないことが悲しくて仕方ありません」 )などをかなり詳細に語って聞かせていたから。わたしはこの記念館で彼女が自らの生涯を語った「無手の法悦」(春秋社)を買い求めたが、それは彼女がもともと芸妓であり、両腕を失ってからも舞台に立ち、興行の旅にも出て、あるいは料理屋を開いたり、着物のデザインをしたり、結婚・出産・育児・離婚も経験し、みずからを損じた養父にも面会しその刑死後には菩提をも弔い、という深くダイナミックな生き様に惹かれたからでもある。

 ところでこの旧萱野家(大石順教尼の記念館)では残念なことが少々。動画を閲覧の後、その土蔵を利用した部屋に掲示された資料(詳細の年表や数々の写真など)を子と眺めていたら、「もういったん閉めますんで、こちらへ」と母が言われている。何だろうかと訝りながらついていくと、別の和室に展示された順教尼の書や画などの作品を次々と足早に説明しながら急かし、「また何度でも来てくれたらいいですから」なぞと言う。母と子は言われるままに玄関で靴を履き始めたが、わたしは前述した「無手の法悦」を手にして読み始める。するとパンフを手に「こんなのもあるんで」あとはこれを読めとばかりに差し出してくるので、流石に耐えかねて「ちょっとこれを読ませてくださいよ」と声を荒げた。すると壁に立てかけていたモップを手にして、わたしの足元付近を軽く拭いてみせる。いちばん腹に据えかねたのはそうして本を購入してから外へ出たところ、屋敷門にはすでに閂がかけられ、潜り戸すらも閉められていたこと。わたしたち三人は潜り戸の鍵をじぶんたちで内側から開けて出たのだった。出ると、入るときには開館時間(午前10時〜午後4時30分 ※入館は4時まで)が掲げられていた告知板の上に、クリップで「12時から13時は閉館しています」なる文字が止められていた。いやいや、こんなひどい対応の記念館ははじめてだ。いろいろな資料や作品をゆっくりと味わおうとしていたのが、「ちょっといったん閉めますんで」 「また何度でも来てくれたらいいですから」と、とにかく急かされ、体よく追い出されてしまった。 (翌日、仕事の昼休みの時間に九度山町の振興課へ電話してこのいきさつを話したところ、しばらくして同町の教育委員会の委員長という人から電話を頂き、丁寧な謝罪をしていただいた。記念館は現在、町が譲り受けて町(教育委員会)が管理をしている。当日対応をした初老の男性は町が雇って管理を任せている者だが、敷地内の離れに暮らしている。ところが最近、近所で火事が起き、この男性の離れも延焼してしまった。そのために男性は昼食を外へ済ましに行かなくてはならなくなった。人がいないときは一時館を閉めて食事へ行くことは許可していたが、お客さんのいるときに食事を優先してそのように追い出してしまったことはわたしたちの予想外であり、遺憾である。男性には話をして改善するように注意をする。今回は、ひどい対応を最後までよく堪えてくれて、じつに申し訳なかった。ざっと、そのような説明であった。わたしは最後に、来年は「真田丸」の放送も始まってたくさんの人が九度山を訪れるだろうから、よろしく改善をお願いします、と言って電話を置いたのであった。)

 当日はひどい猛暑で、ひさしぶりに装具をつけて登山用のステッキで狭いアップダウンの路地を歩き回った子は、かなりへろへろであった。当初昼食を予定していた真田庵横の蕎麦屋が順番待ちのもの凄い人だかりだったので諦めて(だいたい周辺に食事をするところがここ以外殆どない)、道の駅に戻って自称・下市のあばちゃんたちが即席販売をしていた柿の葉寿司や、物産展で売っていたからあげやつくね団子などをエアコンを付けた車の中で食べ、デザートに柿ソフトクリームを食べ、じゃばらポン酢や格安の桃、こんにゃくなどを買って夕方前に帰宅したのだった。

2015.7.12

 

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 あんぽんたん法案。明日、強行採決の見込み、と。

 考えてみればこの国はあの3.11の未曾有の震災以来、すべてのことが棚上げされ、ないがしろにされ、誰も明確な責任を取らず、あたらしいビジョンも示せず、反省もされず、収拾もされず、鵺(ぬえ)のような茫々とした曖昧さのなかで、ある種の人々は見捨てられ、黙殺され、見殺しにされ、飼い馴らされ、そうして結果としてあの日、わたしたちの多くが感じた衝撃を、慟哭を、決意を、またしても引き出しの奥へと仕舞わせてしまった。選択の機会は与えられたが、最終的にわたしたちが選んだのは、あの日の衝撃でも、慟哭でも、決意でなく、日々のパンであった。しかもぜいたくな、なくても案外と生きていけるような高級パンだ。それと引き換えに、わたしたちはわたしたちの魂を売った。3.11のあの日の1万8千の犠牲者を見事に葬り去った。つまり、ことはあんぽんたん法案だけでない。何ひとつ解決しないまま、解決しようとしないまま、誤魔化し誤魔化しやってきたすべての事柄が、いま雨水をたっぷりとふくんだ危うい斜面のように膨らんできている。あらゆるものが、限界に来ている。と同時に、あぶり出しの紙の上にこれまで見えなかった文字が顕わになってきている。それは魑魅魍魎の如き奇怪なもののけたちのコトバだ。憲法違反も、強行採決も、法案制定も、いいのではないか。すでに憲法が用を成していないのだから、この国はいまや法治国家でもないし、ましてや民主主義の国でもないし、そうであるならば国会も議会も、そこに蠢く政治家も、たんなるまぼろしに過ぎない。まぼろしがまぼろしを制定する。わたしたちはべつのことをする。まぼろしでないことをする。廃墟の教会のレンガをひとつづつ積み上げていく若きフランチェスコのように。

2015.7.14

 

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 かつてわたしが一時実家にひきこもっていたり、子どもが生まれても仕事が見つからずにいたときなど、「世間」というのはわたしにとって半歩下がってアイマイな薄笑いを浮かべて善人の悪意を隠し持っている、そんな存在であった。だからわたしは「世間」と交わろうとも思わなかったし、「世間」なんて要らないとも思っていたし、「世間」と本音をぶつけようとも思わずにこれまで生きてきた。実際、いまの職場では「徴兵制は必要だと思う」という意見に周囲が賛同を示す、あるいは「共産党員の家などミサイルを撃ち込んだらいい」と言うような人が上司であったり(^^)するわけで、そんなとき、わたしはただ黙って微笑んでいる。意見を交換しようとは思わない。別にその人たちが嫌いではないわけだけれど、でも「ほんとうに大事な話」はしない。話をするとしたらわたしは再び引きこもらねばなるまい。

 今回、わたしは生まれてはじめてのことだが、イラレで作成した I am not ABE のロゴを玄関のポストと車の後部に貼り付けた。「世間」に対してささやかながら意思表示したわけだ。しなければならないと思った。(プリント用のちゃちなマグネットだったが、いまも車体から剥がれずに走っている。たいしたものだ。) そうして貼ってみたら、車の方は停車時や走行中の後続車など、結構ちらちらと見てくれている。貼りだして数日してから、、向かいの創価学会のNさんの奥さんが声をひそめて「・・あれ、なんて書いてるの?」なんて聞いてきたりしたこともあった。(説明をすると、ああ・・ とアイマイな笑みを浮かべて自宅へもどっていった)

 話は変わるが図書館で働いている嫁さんが子どもの読み聞かせの催しなどをやっていて、その絡みで知り合った共産党の女性がしばらく前の市議選で当選した。「共産党もいま頑張っているので、当選祝いに半年だけ」と嫁さんは口説かれて、わたしが知らないうちに「赤旗・日曜版」を購読することになっていた。まあ、いいけどね。わたしの母方の郵政省に勤めていた祖父は共産党員だったらしい。わたしとシベリアを旅した税務署に勤めていた伯父も共産党シンパで、わたしの母も父が事故で死んでからまるで心のすき間を埋めるかのように共産党の応援活動にのめりこんだ。そういう意味ではわたしの母方の血は Communism に染まっている。その共産党の市議さんが今日、わが家に立ち寄った際、 I am not ABE のロゴをさっそく見つけて絶賛していったそうな。「いっぱいつくったら売れますよ〜」と(^^)

 国会前に6万人(10万人?)集まったというのはスバラシイことだと思う。まだこの国は正気を保っていた、と安心する。しかしごく身近なあたりを見回せば、デモに参加しそうな人はあまり見当たらないし、そんな話題も特に聞かない。同僚のS君は強行採決の夜、家族と祇園祭を見に行くと嬉しそうにでかけていった。四条河原町でSEALDs KANSAI(自由と民主主義のための関西学生緊急行動)の街宣を見たときも、その数十倍の人々がふだんと変わらず週末の繁華街をショッピングに興じていた。ナチ党が徐々に政権を固めつつあったドイツの町並みも、きっとこんなだったんだろうな、と思った。「なぜ人々は反発しなかったのか」―――「ヒトラーとナチ・ドイツ」(講談社現代新書)の中で石田勇治氏はこう記している、「そのひとつの答えは、国民の大半がヒトラーの息をのむ政治弾圧に当惑しながらも、“非常時に多少の自由が制限されるのはやむを得ない”とあきらめ、事態を容認するか、それから目をそらしたからである。とりあえず様子見を決め込んだ者も、大勢いた。実際、当局に拘束された者は多いとはいえ、国民全体から見ればごく少数に過ぎなかったのだ」

 「政治的な話」というか、「生き方」の問題だろ。どんな世界を望んでいるのか。レノンのイマジンか、ディランの戦争の親玉か。「わたしも全共闘世代なんで・・」と、どこかの官房長官がジョークにもなっていないセリフをのたまっていたが、実際、オレは試されていると思うよ。とくにおれらもあんたらも、これまで聞いてきた音楽や、絵画や、文学や、そうしたものぜんぶ。それがいま、試されているのではないかと思う。人によってリアクションはさまざまだと思うし、もちろんさまざまであっていいと思うけれど、少なくともDylanは60年代のあの時代に、人が世界で生きていくための“モラル”について真剣に考え、「世界が見せてくれるもの」だけではないこの世界の見方を提示した。それに共鳴をしたのなら、それがいまのじぶんの中にどんなふうに生きているのか、ささやかな実となっているのか、はたまた失われてしまったのか、もういちど振り返るべきかも知れない。わたしはレノンも、ゲバラも、ルーサー・キングも好きだ。生き様と行動が直結していたという単純明快な部分が。「若いとき、ミスター・タンブリンマン、好きでした」なんて赤ら顔したおっさんの思い出話は聞きたくない。

 友人のFBについ力んでコメントしてしまったけれど、ラーメンや冷やし中華の投稿には「いいね!」が集まるが、安保法制の話題になると忽ち「いいね!」も少なくなる。そんな「友達」なんか、所詮はナンボじゃないの。他人のFBにそんなコメントを書いてしまって、誠に申し訳ない。でも、おれはそんな形だけの「友達」は要らない。じぶんが生きている、じぶんの子どもたちがこれから生きていく世界について語れない友達関係など、痰壷に沈めちまえ。

 「政治」とは「世間」のことでもある。「世間」とわたしをむすんでいるのは、わたしの場合、嫁さんと娘の存在であって、この二人の天使がいなかったら、わたしはいまも「世間」とは没交渉で、零落したオウム信徒になったか、精神病院にでも隔離されていたと思う。そんなところが関の山だ。そんなわたしが玄関先に I am not ABE のロゴを貼ってみて、「世間」もちょっとといいかな、なぞと思い始めている。そ知らぬ顔で意思表示をして、そ知らぬ顔で向き合うのも案外と面白いかも知れないと。

 強行採決の日は仕事で間に合わなかったけれど、やはりどこかで意思表示はしておきたい。あまりにも無知で、高慢で、わたしたちの子どもの未来を暴力的に奪う政権に対して、物申しておきたい。あのとき、じぶんはそこにいた、と思い出せるようでありたい。子どもにもそれを伝えたい。週末にガソリン臭の残る新幹線に飛び乗って国会へ、とも考えたが、道連れにと思っていた東京の悪友が谷川岳へ行くと聞いて、国会前はもう少しあとの愉しみにとっておくことにして日曜日、奈良九条の会が主催するJR奈良駅東口前14:00→その後三条通へ行軍 のデモへ参加することにした。いまのところ予定はわたしとつれあい、福島から移住した妹夫婦。母は体調次第で、と。娘は公演を控えた演劇部の部活の準備次第で、と。

 強行採決の日に国会前へ行った東京の友人は「もともと群れるのは苦手だ・・」とFBに書き、また集まった既成政党や反戦団体に対する違和感についてつぶやいた。JR奈良駅前のデモに参加した寮さんもFBに「行ってみたら、ほとんど共産党系で、アウェイな気分」と感想をもらしている。京都の四条河原町のデモに遭遇したときも、じぶんたちのコトバで話す SEALDs の学生たちは新鮮で勢いがあったけれど、その後ろから(失礼ながら)金属疲労のような声で「ノー・モア・ヒロシマ」を連呼して続いていく共産党系の団体は、もう何やら浮いていたね。老人は若者に教わることがあるような気がするよ。

 わたしも友人と同じく、群れるのは苦手だ。右でも左でも、上でも下でも、とにかく何でも群れるのは嫌い。仕事が済んだらさっさと家に帰って、家族と、あるいは書斎や庭で過ごすだけでいい。「世間」はいまも疲れるので極力、最小限にしたい。そしていまでも出て行ったら、ぶつかり、唾を吐き、疎まれることも多いが、この歳になったら気にしていない。とにかく明日は当日持参するプラカードの製作と、それからヘルメットも・・・ やっぱり人生はじめてのデモだから、多少はキメていかなくてはな。参加する以上は、なるべく愉しまなけりゃ。

2015.7.17

 

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  子は今日、終業式だった。台風の警報で時間が遅れたが、部庫のある体育館の二階の張り出しから一人眺めていたそうだ。それからお弁当を食べて、夕方まで部活をやった。迎えに行ったわたしとSちゃんをT駅まで送ってから、スーパーに寄って二人でアイスを食べてから帰宅した。

 子が学校へ行っている間、Yと車でイオンへ行って、子のパジャマや食材などを買ってきた。お昼はYがつくってくれた親子丼。庭のハーブを刈ってハーブティーをつくってから、明日のデモ用のヘルメットを作成した。

2015.7.18

 

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 7月19日、日曜。人生ではじめて、デモというものに参加してきた。参加者はわたし、Y、妹夫婦、母の計5名。子は演劇部の公演の音響(効果音)データを Web で探さなくてはいけないから、と言うので留守番。

 14時、JR奈良駅東口前(旧駅舎前あたり)。最初はまばらで少ないなあと思っていたら、徐々に増えてきて、パレードが始まる最終頃には200〜300人には膨れていたんじゃないだろうか。ただし殆どはそれなりの年輩の人たちで、若い人の姿は見つけるのが難しい。駅前に着いて、リュックからおもむろに特製建設用ヘルメット、黒丸サングラス、バンダナを取り出して装着する。仮にこれらを「ニセ・タイマーズ・コスプレ・グッズ」とでも呼ぼう。それから今朝、イラレでデータ作成し印刷、ラミネーター後、プラ板に張りつけたプラカード(A3)を、一枚(「いつ怒る?? いまだろ!」)はハトメに通したインシュロックでリュックの背中に装着し、もう一枚(「ルドルフ安倍のコラージュに“アブねえ・いらねえ”」)はハトメに紐を通して首からぶら下げた。さてそうして、集まった人々を写真に撮るためにあちこち歩き回っていると、大抵の人は胡散臭そうな顔でちらと一瞥するか、あるいはまぼろしの珍獣でも見てしまったかのような表情になって何となく目線をそらす。まあ、こんなもんか。Yや妹や母らも、心なしか微妙な距離を保っている。

 そのうち主催者(9条の会・奈良県ネットワーク)側がスピーチしていた壇上に寮さんが紹介されて挨拶するのを見る。その後、寮さんもこちらに気がついて合流。二人で並んだツー・ショットなぞを撮ってもらっていると、周りにいたデモ参加者のおばちゃんたちが「このプラカード、いいねえ」 「面白い格好してはるなあ」などと近寄ってきて、写メのミニ・撮影会がはじまった。ちょっと氷川きよしになった気分。

 14時40分、ほぼ予定通りにパレードが始まった。「4列で百人づつ、信号を渡ってください」と主催者が説明している。「お兄ちゃん、4列だって。“わたしたち”でちょうど4人だね」なぞと妹が横で言う。誘導棒を持ったおそらく交番詰めの警察官が数人、前後についている。JR奈良駅から旧国道を渡って、三条通の商店街へとパレードは進んだ。ちょうど暑さもピークの三条通は人気もまばらだ。みんな店や博物館や宝物館にでも入ってしまったのではないか。「何でも好きなことを言ったらいいんだよ。公道で自由に叫べるのはこんなときしかないよ」と横で寮さんがわたしに言い、ひとりだけのシュプレヒコールを叫ぶ。わたしは仕事柄、大勢の前で大きな声を出すのは馴れているのだけれど、どうも人がまばらすぎて声を出すだけのテンションが上がってこない。パレードは先頭が早すぎて、すいすいと進む。「早すぎるよ」 「こんなさっさと進んだら、アピールにならない」なぞとあちこちで声があがる。主催者側で声を上げるシュプレヒコールも、ちょっと文言が長かったり、リズム感がなかったりして、どうもノリが悪い。京都で見た学生たちはラップのようなノリで、如何にも盛り上がるという感じが満載だったけれどな。そんなことにはお構いなしで、隣の寮さんは人間拡声器の如く一人で叫び、叫んでいるかと思ったらすれ違った中に知り合いの顔を見つけたらしく「○○さ〜ん! ○○さ〜ん!」と突如反対方向へ走り出し、戻ってきて外国からの観光客を見つけるとシュプレヒコールが急遽英語に変わり、「コレハ何デスカ?」と訊いてくる白人女性のグループに「 NO WAR. WE WANT PEACE! 」と説明しながら記念撮影が始まる。とにかく集団行動にはまったく不向きなタイプで、見ていると面白いのだけれど、われわれのような規律正しい平凡な人間が同じように動き回ると大変疲れるので、しばらく放っておこう。わたしは何せはじめてのデモ参加なので、「こちら側」と「あちら側」の風景の微妙な違いについて、ウィトゲンシュタインのようにテツガクをしていた。つまりわたしはこれまでこうしたデモをする人を「あちら側」から眺めていたのだが、いまは「こちら側」から「あちら側」の道行く人―――日曜の古都・奈良の観光を愉しんでいる人々を見ている。これはたとえば、かの映画「A」で森達也氏が撮った、オウム信徒たちから見る世の中(世間)みたいなものか、とかあれこれ。まあそんな微妙な差異―――どちらにも交通がつながっている風景のズレのような感覚に身を浸して、実際は黙々と歩いていたのだった。次から次へと浮かんでは消えてゆく想念はどれも漠然とし過ぎていて、容易には実を結ばない。そこがわたしとウィトゲンシュタインとの違いである。

 猿沢池の北側をそのまま通り抜け、「一の鳥居」の交差点のひとつ前を左へ折れて、県庁前の手前あたりで「自然解散」となった(雰囲気的には「自然消滅」・・)。デジカメの撮影データでは、奈良駅を出発してから28分ほど。いちいち京都を引き合いに出したくはないけれど、京都の三条〜四条付近で遭遇した学生たち、一般市民、共産党系団体を交えたパレードは、八坂神社の方向から祇園を経て、四条〜三条間を鴨川をはさんだルートで二周まわって市役所へとあがっていったから、時間的にもたぶん1〜2時間、アピール度もかなり違う。しかも日曜の京都・四条河原町あたりはもの凄い数の観光客・買い物客だ。パレード隊の優に数十倍の人混みが流れている。だから「アピろう」という気概がおのずと違ってくる。それに比べると今回のパレードは、なんか田舎道をのどかに行く花嫁行列  ・・・いや、そんなことを言ったら叱られるか。しかしまあ、わたし的にはそれに近いイメージだったな。人混みがちょっと多くなったかなと思えたのは近鉄に近い、東向商店街やもちいどのセンター街あたりに来てやっとという感じで、それもすぐに通り過ぎてしまった。加えて報道機関の姿をほとんど見かけなかったし、これを書いている20日(月)の現在、Webで探してみても他の主要都市の報道は見るが、奈良のわれわれのパレードの記事は見つからない。寮さんと顔見知りらしいカメラを抱えた毎日新聞社の記者が一人いたけれど、地元の奈良新聞も、奈良テレビも取材にはきていなかったと思う。この暑いさなかに数百人の人が抗議のために集まったのに、いったい何をしているのかね。地元のメディアとして恥ずかしくないのかな。せっかくのこのエセ・タイマーズの勇姿を撮らずに、何が報道機関だ! おれだって恥ずかしいのを我慢してこんな格好で歩いているんだぞ。

 その後、「ひむろしらゆき祭」なるカキ氷名店屋台をやっている氷室神社に寮さんを誘って移動したのだけれど、会場に着いたら結構すごい人混みで、デモ姿のまま歩いてきたわたしに妹が「お兄ちゃん、その後ろのプラカードの角が人にぶつかって危ないよ」と言うので荷物を降ろし「ニセ・タイマーズ・コスプレ」を武装解除したり、カキ氷の整理券があと6枚だけ残して終了とYが伝えてきたので「寮さんの分も入れてその6枚、ゲットして!」なぞと言っている間に、一人で境内へあがっていった寮さんが元々FBでひと悶着あった一部の主催者側とふた悶着目があったらしく、石段をもどってきて「もうあたし、帰る。カキ氷も、あたし待つの嫌いだし、ごめん。」と言い残して、「安保法案反対」のマントくんプラカードを抱えてすたすたと帰ってしまったのだった。その後、脱水症か軽い熱射病かで自宅に帰ってから頭痛がひどかったらしいので、もともと体もしんどかったのかも知れないけれど、とにかく「敵陣」の氷室神社に誘って一人にしてしまったのは、まったくわたしの不注意でした。おいしいかき氷でもいっしょに食べて、FBでのあれこれをちょっとでも氷解してもらいたかったのだけど。

 ところでこのカキ氷、全国の名店のカキ氷をマツコ・デラックスが食べる番組を先日Yがテレビで見ていてわたしもいっしょに見たのだけれど、こだわり具合が半端ないそうで。なんといってもカキ氷で1000円もするのだから驚く。寮さんの屍を越えて手に入れた整理券を持って拝殿前にあがったら、まず手元の整理券の番号を呼ばれるまで30分待って、それからやっと列に並んで待つことができるのだが、どれだけ並んでいなくてはならないかは分からないという。家族5人でしばらくは待っていたのだけれど、狭い境内は整理券を持って待つ人、すでに並んで待っている人、手にした待望のカキ氷を立ったままかき込んでいる人、その他、拝殿前で氷御籤(御籤を氷の上に乗せると文字が現れる)をひく人、会場スタッフなどが入り乱れて、もの凄い混雑である。整理券の説明をしてくれたスタッフの女性は、30分したらここに戻ってきたら・・ と言うのだが、この暑いさなかをどこかでうろうろしてまた人混みの中をここまであがってくるのも考えたらぞっとする。予想以上に人が来ちゃったんだろうけど、それはそれ。わたしも数年前に平城遷都1300年祭の計画書をつくったときは、半年間の全日にち別の来場予測データをもとに駅からの導線や踏切の混雑度など、かなり詳細な予測を計算して出したものだ。若い人は体力もあって、人混みに揉まれて待つのも馴れているのかもしれないけど、ある程度の年輩の人にとっては暑い中ここまで歩いてきて、おしあいへしあいするような混雑の中で二重三重に待たされて、挙句にようやく手にしたとんかつ定食並みの値段のカキ氷を冷房もない、人いきれのなかで立ったまま食べなくてはならない、というのははっきりいってかなり過酷。そういう意味では、来場予想や、店舗数、会場のキャパ、予想滞留時間、カキ氷の生産量など、企画段階での詰めがちょっとアバウトだったんじゃないかなという気もします。ある意味、不親切な会場といわれても仕方ないかも。別に寮さんと揉めたから言うわけじゃないですが。

 で、名店カキ氷を期待してしばらくは待っていたのだけれど、やがて誰ともなく「三条通りのカキ氷屋さんでもいいか〜」と言い出し、結局、整理券6枚はすべて返却して(お金はかからなかった)、氷室神社の雑踏から抜け出したのだった。けれど「三条通りのカキ氷屋さん」すらもどこも満席で一部人気の店は氷室神社並みの行列もできていて、結局、気がついたらデモの出発点であるJR奈良駅までもどってしまい、駅中にあるモス・バーガーでマンゴーカキ氷やシェイクなどを注文して、ほっと一息ついたのだった。みんなもう、へろへろであった。70歳をとうに過ぎたわたしの母親も、よく歩いたものだと思う。その後、二階の焼き鳥屋でそれぞれ夕飯代わりの弁当を買って、できあがるまでの待ち時間に入った隣の本屋でわたしは、桜井哲夫「一遍と時宗の謎 時宗史を読み解く」(平凡社新書)を購入した。「寝ちゃってこのまま天王寺まで行っちゃったりしてね〜」なぞと言いながら、郡山に戻ってきたのが夕方の6時近く。犬の散歩をしてから、留守番をしていた子と家族三人で焼き鳥屋の唐揚げ弁当を食べた。

 以上。人生初デモ参加の、そんな日曜日でした。

2015.7.20

 

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今日は午前中、英語の補充授業があったのですが、授業のみならず部活にも行けずじまいでした。

三者面談で補充の話を聞いたときには、さすがの紫乃もこれは行かなきゃまずいと思ったのか、補充に出るような感じで話していたのですが・・・
ダメでした
M先生もこの補充を足掛かりにしてと思われ、誘い掛けてくれ、紫乃も笑顔で「やばいんで・・」と言いながら、はい、はいと答えていたので、少しは期待していたのですが、朝ご飯を食べ(残しましたが)、「教室に行かなきゃいけないのはわかってる。わかってるけど・・・」と泣いて部屋にとじ込もってしまいました。
とりあえず、学校に行って、保健室でも図書室でもいたらいいじゃないかと提案したのですが、その誘いにものりませんでした。

再度、お昼にも部活に送ってあげると言ったのですが、タオルケットにくるまったままで、行くとは言いませんでした。

お昼も食べず、今、トイレに降りてき、「雑炊が食べたい」と言うので作ったところです。

ということで、行かなきゃいけないのにいけなかったことで自分を責め、かなりナーバスになっています。

 

 夕方、こんなメールが職場に届いた。帰りの電車に向かいながら、わたしが返した短い返信は以下。

 

了解〜 紫乃も戦っているところだ。黙って見守ってやろう。

 

 そういうつもりだった。けれど夕食の席で、子が暗い顔つきで箸を下ろし、わたしが投げかけた質問にYが別の話題をはさみこんだところからとつぜん分けもわからぬ感情が暴発して、気がついたら「おまえもいい加減にしろ。学校に行かないなら行かないで、別の生き方を考えろ。行きたいのなら、勇気を出してぶつかって行け。どっちかしかねえだろ。いつも先送りにしてうじうじと悩んでいるようなおまえはもう見たくない。」と子に向かって叫んでいた。

 それからYにも八つ当たりをして、「あんたが余計な口を挟むからこんなことになるんだ。あんたがいつもすべてを滅茶苦茶にするんだ。分かっているのか」と怒鳴り散らした。

 子は近所の家庭教師の家へ授業を受けに行った。YはJIPを散歩に連れていった。わたしはひとり書斎のロッキン・チェアーに身を沈め、ヘッドホンを大音量にしてジャニス・ジョプリンのブルーズに溺れている。

2015.7.21

 

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今朝、紫乃の落ち込みが激しく、自分を卑下し、泣きじゃくっていましたので、マイナスなことばかり考るのは止めよう。紫乃の未来にプラスになることだけを取り入れていこうと話し、とにかく、今日は休養をとるように言いました。

なんか、ちょっと元気が出たみたいで、チャコ兄の宿題をし、明日は学校に行くと言ってます。学校も段々、厳しい状況になり、お父さんの言うように、紫乃も不安と闘ってるんですね。
私たちには足踏み状態のように感じられてしまうけど、春から考えても随分、変わってきたものね。現実として、授業に入れないけれど、紫乃はきっと私達には見えない階段を昇っているんでしょうね。

 

2015.7.22

 

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 7月24日、金曜。仕事を終えたその足で、京都・四条河原町で予定されている SEALDs KANSAI 主催の【戦争法案に反対する金曜街宣アピール】に行くことにした。京阪電車に乗って、祇園四条で下車する。地上に出て、鴨川沿いの出雲阿国の像をちらと仰ぎ、彼女ならこの時代にどんな踊りを舞うだろうか、と考えた。四条大橋の欄干には観光客や恋人たちが鈴なりになって、それぞれ鴨川の景色をバックにスマホでの記念撮影に余念がない。河川敷に張り出した居酒屋の川床はビール・グラスを傾けるサラリーマンたちで満席だ。鴨川の夏の空は広く、まだ明るい。が、夕焼けのオレンジに徐々に染まりつつある。そんな景色を横目で通り過ぎながら、四条河原町の交差点へ向かった。

 交差点の南東、マルイ前。はじめは百人もいなかったろうか、 SEALDs の学生スタッフからプラカードや活動のブックレットを受け取り、ちょっとづつ前へ、前へ、と言われているうちに、気がつけば植え込み前の壇上から二列目ほどに立っていた。見渡せば学生ばかりでなく、SNSの告知を見て馳せ参じたといったふうの一般の人も多い。手製のプラカードを掲げた年輩の女性や、そこらの立ち飲み屋から忽然と現れたといったおっさんや、主婦や、わたしのような仕事帰りのサラリーマンたちもいる。それぞれが、それぞれの思いを持ってここへ集まった。そこが前回の、「9条の会」主催の奈良のデモとのいちばんの違いかな。京都は奈良と同様に差別も根深いけれど、でも個としての裾野が広いような気がする。

 はじめに拡声器のマイクを握った男子学生はまず、先日亡くなった鶴見俊輔氏を追悼し、じぶんたちはかれが小田実らとつくったベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)の思想を受け継いでいる、と宣言した。二人目の芸大の男子学生は、「僕たちは決して1人ではありません。皆苦しんでる、悲しんでる、怒ってる。それらの気持ちを共有しましょう」と訴えた。教師を目指しているという教育大の女子学生は、じぶんがここに立つことで教職につけなくなるのではないかと恐れたが、でも勇気を出して立つことにした、と告白した。(そんなことはさせないぞ! と周囲から声が上がった) そして、いまでも怖くて足が震えています、と言った。(がんばれ! と周囲の声)  茨城から同志社へ入学したという女子学生はしっかりした口調で「わたしは安倍さんを、この国の総理大臣として認めたくありません!」と叫び、「わたしたちは、いまこそ、何故こんな裸の王様を作り出してしまったのか、考えるべきだと思います。」と訴えた。またべつの造形大の男子学生は、国会中継を僕はただ黙って見ていました。与党単独による強行採決を、ただ見ていました。そしてそのあと授業で、一人一人が作品と向き合い制作している姿を見たとき、僕は涙が止まらなくなりました。この日常が変わってしまうことを考えると僕は許せません。ただただ許せません。」と興奮気味に語った。「私は決してペンの代わりに銃を握らせることを許さないし、健康的に育った体を暴力の応酬のために使わせることを許しません。せっかく培った言葉を紡ぐ力を、誰かへの憎しみを表現するために使わせることを許しません。」と言った女の子もいた。教育大の実地授業やボランティアで接した京都市内の家庭内暴力や貧困などで苦しんでいる子どもたちの話をし、「戦争になったらかれらのような弱者がまず先に戦場へ行かされる」と言い、最後にマーチン・スーサー・キング牧師の「最大の悲劇は、悪人の圧制や残酷さではなく、善人の沈黙である。The ultimate tragedy is not the oppression and cruelty by the bad people but the silence over that by the good people.」を紹介した女子学生もいた。

 学生たちに加えて今回、大学教授の先生も二人、登壇した。大阪大学名誉教授の三島憲一氏は「今回の法律は誰が見ても憲法違反。ある自民党の議員は本ばかり読んで何が分かるんだと言いましたが、私に言わせれば本も読めない議員に何がわかるんでしょうか。安部さん、あなたこそ、存立危機事態です」 と言って、周囲を大いに沸かせた。「政治の主体は私たち一般市民であって、安倍首相ではないんです。だから、多くの市民の反対の声を無視して、あなたが取り戻そうとしているものは、私たちが望んでいるものではない。あなたは今、私たち市民から権利を奪おうとしている。それが、「日本を取り戻す」というスローガンの正体です。」 また同志社大学教授の岡野八代氏は、「いま話題の同志社の岡野です」と笑わせて、学長は教員たちの選挙によって選ばれるが、たとえ学長になったからといっても教育の理念は守らなければならない、だからこそ大学には自治があるのだと今回、安保法制の必要性を国会で延べた村田学長を批判し、「わたしはかれに投票しなかったが、投票人の一人として反省をしている」と語った。「憲法尊重擁護義務があり、尊重するだけでなく擁護するのが政治家の使命です。首相は戦争を火事に例えるという大失態。私たちは理念を見失わない、手放さない。私たちが求めていることを社会に伝えていきましょう。」

 7時頃よりぼちぼち始まり、すべてのスピーチが終わったのが8時20分頃。最終的には交差点角の五角形スペースはマルイ前のわずかな通路をのぞいてほぼ満杯で、途中で酔っ払いのようなおっちゃんが聞き取れないコトバを怒鳴りながら通っていったのと、若者グループが「安保法案、サンセイ〜」とからかいで叫んでいった以外は平穏であった。主催者側の発表だが、この日600人が集まったという。

 わたしはずっと群れることが嫌いであった。いまも、そうだ。悪人の組織であっても、たとえ善人の集まりであっても、集団が嫌いなのだ。善意の人々の集まりに誘われたこともあったが、たいていはいたたまれなくなって、こそこそと逃げ出した。わたしはずっとひとりでつぶやき、唾を吐き、ときに穴を掘って社会との関係を遮蔽した。けれども今回のデモで、学生たちがじぶんたちの等身大の声で語るのを間近に聞き、周りの自発的に集まったそれぞれもともと何のかかわりもない人々が共に相槌を打ち、拍手をし、励ましの声をかけたりし、そこにじぶんも次第に違和感なく溶け込んでいくのを感じ、いつの間にかいっしょに声を出したり腕をあげたりしながら、こんな「一体感」もたまにはいいかも知れないな、と思い始めていた。見れば、若い学生たちが一生懸命に語るのを見上げている周囲のおじさんたちやおばさんたちの顔が、みなどれだけ仕合せそうに、おだやかに輝いているか。そしてわたしはときに、この学生たちの語る平明な言葉、かれらの真摯な表情に、思わず涙が出そうになる瞬間があった。

 考え方を変えなくてはいけない。「歴史の実時間」というものに対峙しなければいけない。傍観者であってはいけない。沈黙がクールなことだと勘違いしてはいけない。芸大の男子学生が「僕たちは決して1人ではありません。皆苦しんでる、悲しんでる、怒ってる。それらの気持ちを共有しましょう」と言ったとき、わたしはユーチューブで見たフランスのデモの歌(On lâche rien )の歌詞の一節を思い出していた。「やつらはおれたちを分断した。やつらはうまくやっていた。おれたちが連帯しないから、やつらは甘い汁を吸えたんだ」 そのとおり。みんなが「マギーの農場ではもう働かない」と叫ぶときだ。いまがその「歴史の実時間」だ。50年後、100年後には「歴史」となる。そのとき、わたしたち一人一人が「歴史の証人」となる。

 やがて街宣アピールはすべて終わった。カンパを求める学生たちのジッパー付きクリアパックに大人たちが千円札を次々と放り込んでいる。ずっとマイク持っていた進行役の若者が、「みなさん一人一人がメディアになってください。SNSやいろんな手段でみなさんの周囲の人を誘ってください。みなさんが次、一人三人づつ連れてきてくれたら、こんどは1800人になります」と叫んでいる。「また来週もやります」と別の学生が8月2日の市役所前からのデモの予告チラシを配っている。人々は三々五々、それぞれの個に立ち返り、駅の方へ、バス停の方へとばらけていった。わたしも夜更けの四条通を軽やかに歩いていった。

2015.7.25

 

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 娘のリクエストで、京都市立美術館で開催中の「ルネ・マグリット展」を二人で見てきた。じつはわたしも中学生の頃、マグリットの不思議絵は好きで、美術の課題などに似たような絵を描いたりしていた。血は争えぬ、か。そんなマグリットだが、この歳になって改めて見ると、いまいちピンとこない。ときおり添えてあるかれ自身の作品説明も、もったいぶってて感心しない。シュルレアリスムの画家で言えば、ダリの方がずっと無意識に突き刺さるし、静謐なポール・デルヴォーの方が心をそそる。そうそう、かのミヒャエル・エンデさんの父・エトガー・エンデもシュルレアリスムの画家でした。

 マグリットの作品にあって、事物の「配置」というのがポイントだろう。それを画家自身は「課題と解答」と言ってみたり「弁証法的礼賛」と言ってみたりするわけだが、簡単に言えば「ふだん見なれた物」の配置を入れ替えてみる、あるいは「まったく出自の異なる物」を配置してみる、そうすることによって自明の存在に対する疑義を企てる。それをたとえば「知的たくらみ」と呼んでみようか。けれど、この「たくらみ」は、どうも入口で終わってしまっているようなのだ。つまり玄関だけがなるほど面白く描かれていて、中へ入って振り返れば、書割だったりする。そんな感じなのだ。今回、わたしはむしろ、かれが生活のために描いた(と思われる)、市販された楽譜や書籍の表紙のイラストやポスターの方が面白かったりした。そんなわけで、マグリットはシュルレアリスムの「入門篇」画家なのかな、と思ったり。

 父のそんな想念はともかく、それはそれで娘にはいろいろと刺激的かつ興味深かったようで、大抵わたしは会場へ入ると子は子の自由に任せて、わたしはわたしのテンポで進み、ときどき合流したりするのだが、マグリット自身の言葉が書かれた説明版を前に手に顎を乗せて思案したり、ひとつの作品の前で長いこと佇んだりして、彼女なりに愉しんでいるようだった。出口へ出て、同時開催中だった「 ルーヴル美術館展 日常を描く―風俗画にみるヨーロッパ絵画の真髄 」も誘ったのだけど、「もうお腹がいっぱい。頭が混乱」と言うので、こういうときは無理強いはしない。そのまま山科の回転寿司屋へ移動してお昼を食べて帰って来た。それにしても京都の人は展覧会好きなのか朝から大勢の観覧者で、とくに最後のミュージアム・ショップは車椅子ではなかなか中へ入っていけないくらいの人混みで、やっぱりああいうときは不便だなと思う。

 今回、朝8時過ぎに自宅を出発、京奈和道―第二京阪―阪神高速京都線を経て、9時20分頃に市営岡崎公園駐車場に到着した。日祝は1300円の上限設定がないのだが、二時間以内で駐車料金は900円で済んだ。展覧会は子の身障者手帳で本人と介護者1名が無料になるので、あとは高速代と回転寿司屋の昼代だけ。帰りは高速代を浮かせようと下道をのんびり走って、3時頃に帰宅した。

2015.7.26

 

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 夕方、仕事をやや早めに抜けて、子のメンタル・クリニックに合流した。「クラスに合流できない」こと以外は、順調だ。けれど高校へあがったら単位も出席数も必要になってくるし、あとがないことは子も重々承知している。どうにかしなければいけない、と分かってはいるのだが、どうにもうまくいかない。クラスに合流する前に、成績のおぼつかない子たちのクラスをまたいだ補習授業、しかも演劇部の同級生も数人混じっている10人ほどの教室を担任の先生が誘ってくれたのだが、当日になったらやっぱりいけなかった。クリニックのH先生は、「いまはいまのままでいい。あとは人間というのは、“火事場の馬鹿力”というものがあるからね」と言って笑った。なるほど、“火事場の馬鹿力”か。たしかに、それを期待してもいいかも知れない。もしそれでもダメで、高校に行ったけど1年生の9月頃に単位や出席日数が足りなくなりそうだったら、留年をするのも大変だろうから、そのときは通信制の高校へ移って、とにかく高校をみんなとおなじに卒業するという手もある。そうして大学へ行ったら、しのちゃんの知的欲求を満たしてくれるような場も見つかるとおもうけどな・・ とH先生は言うのであった。

 今週末に日曜は、学校の課題のようなもので、大学のオープン・キャンバスへ参加しなければならない。それでとりあえず通学も手ごろだし、カトリックの学校でもあるし、美人のおねえちゃんもたくさんいるし(これは父)、と選んだのが同志社大学で、障害のある子どもには当日、サポートもつけてくれるということで、しばらく前から学生支援課の障がい学生支援室の方とメールでやりとりをしてきた。当日は各学部で模擬講義などいろいろあるのだが、子が最終的に選んだのは神学部の「ハリウッド映画とキリスト教」、そして文学部哲学科の「動物に権利はあるか」の授業、そしてチャペルの建物見学であった。

 同志社大学の構内、そのチャペルのわきには同大学在学中に治安維持法で検挙され獄死したコリアの民族詩人であり、クリスチャン詩人でもある尹東柱(ユン・ドンジュ)の詩碑もあるので、これも子に見せてやりたいと思っている。

 とにかく、息苦しい中学・高校のクラスだけが学びの場ではない、もっとオープンで本格的な知的くわだてに満ちた場所も先には待っているのだということを、その空気の一端でも子に触れてもらうのが目的だ。わたしは行ったことがないから嘘かも知れないけどね。

 

死ぬ日まで 天を仰ぎ
一点の恥ずることなきを
葉あいを縫いそよぐ風にも
わたしは 心痛めた
星を うたう心で
すべて 死にゆくものたちを愛しまねば
そして わたしに与えられた道を
歩みゆかねば

今宵も 星が風に――むせび泣く

尹東柱「空と風と星と詩」から 『序詩』

2015.7.28

 

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 今日は午後から出勤。夜の現場巡察を終えて、最終電車で帰って来た。車も人気も絶えてひっそりとした城下町を iPod で Bringing It All Back Home を聴きながら帰る。かつてのLPレコードでいえばB面にあたる Mr. Tambourine Man、Gates of Eden、It's Alright, Ma (I'm Only Bleeding)、そして終曲の It's All Over Now, Baby Blue とつづく流れは、やはり何度聴いても陶酔する。10代のわたしがここから聞き取ったものは、たとえばかの高橋悠治が「ロベルト・シューマン」の“かくれて生きよ”のおわりに記した、こんな檄文とおなじもの。

 

 結局、えらぶ道は二つに一つ。あきらめて大企業に永久就職し、結婚し、子供をつくり、日本帝国株式会社に身も心も売るか、それとも生きたいように生きるために、自分ですべてをひきうけるか。

 自立の道をえらんだとしたら、きみに起こるのはせいぜい、イノチがなくなるか、牢屋にはいるか、離婚されるか、コジキになりかでしかないだろう。大きなくるしみはながくつづかず、ながくつづく苦しみはたいしたことはない。では、出発だ。

高橋悠治「ロベルト・シューマン」(青土社)

 

 つまり、訣別の勇気と、もの狂おしきパレード、贖罪、オレ様の脳みそが喋ったらオイラは処刑台行き間違いなし、の覚悟。

2015.7.29

 

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 同志社大学のオープン・キャンバスへ行ってきた。子がまだ長い距離を歩けないので、いつもは車で目的地付近まで行って、必要であれば車椅子を下ろして、という対応が最近は続いているが、今回は(将来の)通学の状況を体験する意味もあって、自宅から車椅子で電車に乗って行くことにした。乗り換えは途中の竹田で一度だけ、しかもホームの反対側に地下鉄乗り入れの電車が来るので便はいい。混雑したラッシュ時間にホームを乗り換えるというのが、足の悪い子には大変な負担になる。

 これまで車椅子で電車に乗って大阪の病院へ行ったりしたことは何度かあったが、すべてYが同行したので、わたしはたぶん同行するのは初めてではないか。改札で車椅子である旨を伝えると駅員さんが、例の折りたたみ式の板を持ってやって来てくれる。「いちばん前の車両で待ってて下さい」と言うので、「車椅子のスペース(車椅子を固定できるように、マークと手すりの付いたスペース)は前なんですか?」と訊くと、「いやあ、車両によって前のときと後ろのときとがあるんです」 「それは電車が来るまで分からない?」 「そうなんですわ」 やがて遠くに見えた車両を見て駅員氏、「大丈夫、あれは前ですわ」 さらに近づいてきて「あ、ごめんなさい。後ろでしたわ」  「じゃ、竹田駅にも、もう知らせてありますんで」 「ありがとうございます」  ところが乗り込んでみると、すでにごっつい電動車椅子に乗っている人が介助者といっしょに両扉の真ん中あたりに鎮座している。さらにその横にベビーカーをついたお母さんもいて、これはちょっと車両密度が濃いだろうと、まだ空いていた通路を移動して座席横の扉前が空いている角へ子の車椅子を滑り込ませた。真ん中はやはり固定しづらいのだ。そうして竹田まで来て下車する際、連絡をもらっていた駅員氏は当然ながら車両のいちばん前で待っているので、先にYが下りてこっちですと伝えに走った。折り畳み板を片手にやってきた駅員氏は、次の乗り換えの電車が入るホームの反対側を指して、ちょっと怒ったような言い方で「前の車両ですよ。いちばん前に必ず乗ってください」と声を荒げて言う。それで流石にわたしも文句を言った。「あのね、乗せてくれた車両のいちばん前は、電動車椅子の人とベビーカーのお母さんもいて、狭くて仕方なく移動したんですよ。こっちにも止むを得ない事情があるんでね。あなたもじぶんが同じような状況で乗ってみたら分かりますわ」  そうして乗り込んだ地下鉄車両は、こんどは車両の反対側に車椅子スペースがあるのだけれど、通路の人混みが多くて、これを車椅子で突っ切る勇気はさすがのわたしにもない。そして遥か遠くのその車椅子スペースは一般の立ち客でぎっしりと埋まっている。何かおかしいのではないかと、わたしは思うのだ。帰りのときも同じであったが、「いちばん前の車両のいちばん前の扉」というのは、車椅子の人を乗せる際のどうやら定番らしい。お互いに分かりやすいからというのがあるんだろう。ところが肝心の車椅子を固定するために指定しているスペースは車両によって「前だったり、後ろだったりする」。車両の前で待っていて、車椅子専用スペースが後ろだったら、通路がよほど空いていないとそこへ移動することは現実、かなり難しい。つまり車椅子専用スペースは存在はしているんだけれど、車椅子利用者がそこへ到達できる仕組みになっていないので、たんなる立ち客の広いスペースとほぼ化している。その上、「いちばん前の車両のいちばん前の扉」という定番は、たとえば奈良の橿原神宮前駅から京都まで、もしもおなじ電車にあちこちの駅からたまたま車椅子利用者が3名、4名乗り込んだとしたら、「定番」に沿っていえば、車両のいちばん前のわずかなスペースばかりに車椅子利用者がぜんぶ押し込まれることになる。人混みの中での車椅子というのは、目線の高さにないので、足元の車輪や何やらがぶつかる割合がかなり大きい。だからそれなりにこちらも気を使うし、ましてや揺れている車内ではブレーキをかけていても、固定場所というのは駅に着いたときの乗降も含めて結構考えてしまう。これは体験してみないと分からない。そういう意味では、もうちょっと工夫する必要があるのではないかという気がしたのであった。乗せてしまってオシマイ、というのが現状ではないだろうか。

 前置きが長くなったが、そんなわけで父は少々ぶつぶつ言いながらも予定通り、昼前に地下鉄・今出川の駅に到着した。まずは寒梅館にある学食らしからぬ学食「アマーク・ド・パラディ」 http://www.hamac-de-paradis-kanbaikan.jp/ で昼食をとってから、障がい支援室で本日、サポートをしてくれる学生のHさんと合流した。英文科の4回生で、卒業をしたらプロのダンサーになることが決まっているという可愛らしい地元京娘のお嬢さん。同志社の良いところは?と訊けば、勉強だけでなくいろいろな分野でのサポートが充実していて、生徒の興味にいくらでも応えてくれるところ、という答えが返ってきた。オープン・キャンバスというのははじめて来たが、それにしてももの凄い人手である。校門の前では学習塾のスタッフが盛んにパンフを配っているし、中に入れば全国から見学に来た親子連れ、そして大学のスタッフたちが受付で資料を配布したり、ペットボトルのミネラル・ウォーターも無料で配っているし、キャンバス・ツアーのスタッフがグループを引き連れて各所で説明をしていたりする。ふだん冷房の効いた自室にいることが多い子は、暑さもそうだが人いきれに参ったようで、頭が痛い、吐き気がする、とのっけからテンションが低い。それでも頑張って神学部の「ハリウッド映画とキリスト教」、そして哲学科の「動物に権利はあるか」と題した模擬講義を受ける頃には、ちょっと元気を取り戻してきた。なにより授業の内容がとても面白かったようで、哲学科の授業で法律的にはどうなのかという質疑応答の部分で「頭が良い人たちの会話っていうのはこんなんなんだと思った」と言ったり、また家に帰ってから「大学って面白いところだ」と感想を漏らしたりした。それだけで今日は、来た甲斐があったというもの。合間に見た尹東柱(ユン・ドンジュ)の詩碑には花束や菓子が添えられ、ハングル語のメモや、それにたくさんの筆記用具が供えられていた。あの世でも書き続けてくれという願いだろうか。講義が終わってからは市内最古の煉瓦建築といわれる礼拝堂に入って、しばらくHさんと雑談などをしていた。そうして最後に、Hさんがおすすめというワン・コイン・パフェを「アマーク・ド・パラディ」へもういちど食べに行って、帰途に着いた。

2015.8.2

 

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 細野さんのこんなツイッターが、よかった。9条に関してこれまで費やされたどんな言葉より簡潔にさらりと、邪な力を抜いて、的を射ているような気がする。ここに記憶しておく。

 戦争放棄なんて、奇跡的なことなんだ。笑っちゃうくらい。よくそんなことが書かれたなと思うわけ。だからこそなくなったら二度とつくれない。だって非現実的だから。だからこそ、絵空事でもなんでもいいけど、その文面は残しておかないといけない。

2015.8.6

 

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 篠原無然の伝記小説「雪の碑」(江夏美好 1980)を読んでいる。別の図書館から回してもらった本なので、締め切りは厳守。作者の思い入れもひしひしと伝わるとてもいい本なのだが現在絶版で、中古でも入手が難しい。もともと飛田新地を取材した本の中で性病などに病んだ娼婦たちのケアをしたという件から知った篠原無然だが、「「人界に師なし」として深山に修養の場を求め」たかれの姿には、どこか強く心惹かれるところがある。(或いは潰えた己の理想か)

 「雪の碑」によれば、早稲田の苦学生時代には満鉄初代総裁の後藤 新平、政治家の床次竹二郎、渋沢栄一、社会教育家の蓮沼 門三などの知遇も得ていたが、いまではほとんど忘れ去られている存在かも知れない。かれの著作や資料で現在出版されている(入手できる)ものは殆どない。昭和31年にかれの33回忌として飛騨高山平湯の人々によって出版された記念誌「飛騨と無然」をWebの古書店で一部だけ見つけて、急いで購入した。6500円はわたしには高い買い物だが、先日誕生日祝いにと母が呉れた1万円を当てることにした。

出身地・兵庫県新温泉町のサイト
http://www.town.shinonsen.hyogo.jp/page/index.php?mode=detail&page_id=d4c4ccd6f13ffe94bb631d3c2d4fca74 

飛騨高山にある篠原無然・記念館
http://www.tuyukusa-hirayu.com/0050/20120523070000/ 

2015.8.6

 

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 今日は仕事で朝8時から約9時間、炎天下の某高校総体の会場で立ちっぱなし。終わり頃、雷鳴が轟き、稲妻が走り、驟雨が心地よかった。ふだんは冷房の効いた事務所でデスクワークが多いから久しぶりの真夏の現場はどうだろうかと不安でもあったけど、案外と体は丈夫だったぞ。

 昨夜は注文した篠原無然の本の話から「そういえば・・」と、かつて感銘を受けたものの絶版でいまだ入手でないでいる水本 正人「宿神思想と被差別部落 」(明石書店)が図書館に二部あったけれど、あれを譲ってもらえないだろうかと図書館勤務の嫁さんに話していて、ふとPCを叩いたら、当時はまったく出ていなかったのにいつの間にかamazon中古で10冊以上も出品されている。「出てる、出てる!」と嬉しい悲鳴を上げて注文し、無然と二冊分を嫁さんに払ったら一万円が550円になって戻ってきたので、ソファーに寝転がっていた娘に小遣いだと渡してやった。

 明日は久しぶりに家族三人で、嫁さんの実家の和歌山の海辺の集落へ日帰りで行ってくる。

 先日やっと届いたケイト・ブッシュのAerialを聴きながら・・

2015.8.8

 

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 日曜日。久しぶりに家族三人そろって和歌山のYの実家で一日、まったりと過ごす。お昼は地元の漁師さんが捕った海老のフライとイトヨリの煮付け。いま魚を買っている漁師さんも、舟を町に買い上げてもらって来年の4月には引退をするのだという。昼食後はYと義母が買い物回りをしている間、すこし昼寝して、それから義父と甲子園の滝川二×中越、明豊×仙台育英をテレビ観戦。夕方、日差しがやわらいでから子とジップを連れて港のまわりを散歩した。部活や何やらで来れなかった子は三年ぶりになるのかな。「懐かしい。この堤防も、もっと高いように思っていた」といまではじぶんよりも低い防波堤を指でたどる。かつて子が小さかった頃には色とりどりの大漁旗をはためかせて係留していた舟も、いまではだいぶ少なくなってしまった。万葉の時代から風待ちの港として栄えたこの明光風靡な自然の良港も、ひょっとしたらいまでは人間よりも猫のほうが多いかも知れない。そのうち朔太郎の「猫町」のようになってしまうだろうか。潮をたっぷり吸ったふくよかな風が海面を渡ってくる。ぎいぎいと舟がかしぐ音が耳に心地よい。港の奥まった路地のはたで小さなYの姿がこちらに手を振っている。夕飯ができた、という合図だ。夜は地元のお寿司屋さん「一作」のお鮨。義父はもうお鮨を箸でつかめないほど弱っている。いろいろなものが終わりに向かっている。魚屋の“よっちゃん”の話をわたしが訊ねた。Yの同級生で地元で魚屋を営みながら郵便局の配達員もやっていたのだが、どんな事情があったか数年前に未配達の郵便物を大量に自宅に隠していたことが露見して、それから魚屋も畳んで、家にこもって姿を見せなくなった。事件のしばらく前に離婚をして、いまでは近所の他家へ嫁いだお姉さんが食事などを持っていっているという。Yと、おなじ同級生だった親友のSちゃんと二人でいちど様子を見にいったらどうか、とわたしは言ったのだった。夜はディランの Bringing It All Back Home のB面を歌いながら高速を走って、11時に帰宅した。

2015.8.9

 

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 SNSで詩人の谷川俊太郎氏が「死して首相は愚痴を残す」と題したこんな小文を載せていた。

昨日まで私は日本国の首相でしたが、今日はもう首相ではありません。と言っても辞任したわけではなくて、暗殺されたんです。で、今日は首相ではなく死人として、もとい詩人として、じゃなかった私人として一言申し上げます。

日清、日露、日支のあと、真珠湾奇襲で始まった戦争に負けてから70年ですか、生きてたら私はこの世に生まれて83年、戦後70年と生後83年、どっちの年月が大事かと言えば、これはもう言うまでもなく自分の生後83年のほうが大事。

で、83年生きた経験で言えば、いくら反対しても戦争はなくせない。首相在任中は私もいろいろきわどい手をうちましたが、あれは戦争したいがための手ではないつもり。新聞テレビや人には言えない内緒事がいっぱいあるんですよ、複雑な意見、いや利害の網の目に捕らえられて四苦八苦。

とは言え首相なんてやってると、つきあう相手がほとんどハイソの人たちです。どうしてもそっちに引っ張られるのは、国の力を作ってるのはやっぱり金の力だから。国に力がないと金のない人を助けることもできませんから。

金だけじゃなく言葉の力ってのもあるはずなんですが、これが私は不得意、ほとんどの日本人も不得意。なくせないならせめて戦争をコントロールするしかないんですが、これには嘘でもレトリックを駆使した外交が大切、もちろん駆使するご当人の人としての器量の裏付けが要るんですが。

これからの日本、断捨離で行くのもいいんじゃないかと私、内心で思ってます。ほんとは国ごと出家できると一番いいんですがねえ。いや、これはもう責任とらなくていい死人の妄想です、すみません。

この世にいないんだから、国民の皆さんに何か言う資格もないんですが、首相の後任をどうするかで、党内外がすったもんだで決着がつきそうもないので、あの世から場繋ぎで一言ご挨拶させていただきました、悪しからず。

http://politas.jp/features/8/article/412 

 「と言っても辞任したわけではなくて、暗殺されたんです。」 ことし84歳になる詩人の、これは洒落たレトリックか。しかし、わたしはそうは受け取らなかった。

 抵抗権( Right of Resistance )とは、「人民により信託された政府による権力の不当な行使に対して人民が抵抗する権利」であるという。ナチス党によって民主的なヴァイマール憲法が骨抜きされ無惨にも無効化された過去の反省に立ったドイツ連邦共和国の憲法には、次のような条文が並んでいる。

・憲法秩序に反する団体は禁止される(基本法9条2項)。
・憲法に定められた権利を、自由で民主的な体制を破壊するための闘争に濫用する者は、基本権を喪失する(基本法18条)。
・政党の内部秩序は民主制の諸原則に合致していなくてはならない(基本法21条1項)。自由主義や民主主義を否定し、連邦共和国の破壊を目指す政党は違憲となる。違憲政党の決定は連邦憲法裁判所で行なわれ、各団体は連邦憲法擁護庁に監視される(基本法21条2項)。違憲政党の代替組織も禁止される(基本法33条)。
・基本法21条の政党規定は連邦法の政党法 (ドイツ)(ドイツ語版)によって定められる。
・基本法を緊急の法律によって改正、廃止、適用禁止を行うことはできない(基本法81条4項)。
・政治家を含めて、全国民に民主主義体制を明記した憲法への擁護義務を課す(憲法への忠誠。基本法5条3項ほか)
・自己否定(人間の尊厳や人権の保障・民主主義などの根幹原則を破壊)するような方向への改憲を認めない(基本法79条3項)
・政府が憲法と国民に背いた場合、他の救済手段がなければ、国民は抵抗権を発動できる(基本法20条4項)

 これら所謂「戦闘的民主主義 (Fortified Democracy)」を説明した Wikipedia の日本の項では、また以下のような件もあった。

 ・・なお、「日本国憲法に基づく体制を破壊しようと企んだ者」を取り締まり・監視・排除する法令としては内乱罪・破壊活動防止法・出入国管理法・電波法・公務員等[9]の欠格条項規定が存在する。しかし「日本国憲法に基づく体制を破壊しようと企んだ者」は「暴力主義的破壊活動を行なった者」を対象としたものであり、ナチ党がヴァイマル共和政に対して行なったような「合法的な」権力掌握による日本国憲法体制の破棄を対象にしたものではない。また、「日本国憲法に基づく体制を破壊しようと企んだ者」の欠格条項規定は国務大臣や国会議員には明記されていない。

 「対象ではない」というものの、現在の政権は明らかに「日本国憲法に基づく体制を破壊しようと企んだ者」であるし、もしここがドイツであれば先の基本法20条4項にも該当するといえる(「政府が憲法と国民に背いた場合、他の救済手段がなければ、国民は抵抗権を発動できる」)。そして「自由主義や民主主義を否定し、連邦共和国の破壊を目指す政党は違憲となる。違憲政党の決定は連邦憲法裁判所で行なわれ、各団体は連邦憲法擁護庁に監視される」 つまり現政権は「違憲政党」として「憲法擁護庁に監視される」。

日本国憲法 第九十九条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

 そもそも憲法がすべての上位であり、総理大臣から下々の者に至るまでこれを遵守しなくてはならないと言っておきながら政治家が、こちらはレトリックならぬ本物の詭弁を用いてこれらをなし崩しにしようとする際、独立したチェック機能も有効な監査機能も有さないことがシステムとして片手落ちも甚だしく、欠損としか言いようがない。つまりドイツのような「抵抗権」の明文化と、憲法裁判所の設置、である。そして、違反した場合の措置と実効手段、である。

 ちなみにわれらアジアの古代中国においては易姓革命なる、孟子らの儒教に基づく五行思想などから王朝の交代を説明した理論もある。

 天は己に成り代わって王朝に地上を治めさせるが、徳を失った現在の王朝に天が見切りをつけたとき、革命(天命を革める)が起きるとされた。それを悟って、君主(天子、即ち天の子)が自ら位を譲るのを禅譲、武力によって追放されることを放伐といった。

 

 昨日、鹿児島の川内原発が再稼働され、原子炉が臨界に達した。東日本大震災で被災し、関西へ避難移住された彫刻家の安藤栄作氏は、やり場のない怒りをSNSで以下のように記した。

明日8月11日、鹿児島川内原発再稼働だって・・・?
お前ら正気か?
再稼動に関わってる人間全員狂ってる!
原発関係者から地元賛成派の住民、国内で再稼動に賛成の人達、
お前ら全員人間として完全に狂ってる!!
悪いけど、人間の中心軸が完全に狂ってるぜ!

避難計画も適当、事故が起きた時の対処計画も適当だって・・・?
して、事故が起きた時の担保は? 国民の高線量被曝と国土の消失かよ?
バカにしてんのか!?俺ら東日本の数百万の被曝者をバカにしてんのかよ!? え?再稼働という行為で俺らを小バカにしてヘラヘラしてんのか!?
たった今俺と飲んでなくてお前らよかったよ、全員ぶっ飛ばしてるところだぜ、マジで。

福島県の仲間達が沈黙してても俺は言う。
再稼動に賛成しているのが親友や恩師や仕事上の大切なお得意さんでも俺は言う。
川内原発再稼動に賛成するやつは全員、魂の中心がいよいよ狂い始めてるって、ここで自分を狂わせたらもう戻れないぜ、どうする気だ?

原発事故後4年5か月の間、これでも調整取って来たけつもりだけど、このタイミングで考えが違う人間は、今回の人生ではもう関係は終わりにさせてもらうは。

https://www.facebook.com/profile.php?id=100003315392866 

 この、なまくらな刃物で肉をたたき切るような怒りは、じつに真っ当で、ニンゲンらしいものだと思う。たんに原子力発電所がひとつ再稼動したというだけでない。これはわたしたち心ある全員の、人(ニンゲン)としての尊厳が踏みにじられ、襤褸雑巾のように扱われ、辱められたということだ。人でい続けたいのであれば、わたしたちはもっと怒らなければいけない。心の底から咆哮しなければいけない。

 憲法を破壊し、あらゆる民主主義的なものを無化しようと謀る厚顔無恥な政治家。まともな検証もせず、まともな未来も描けず、誰も姿を見せないまま無責任に再稼働される原発。そしてあまたの怒り狂う死者たちの骸(むくろ)を踏みつけて、平和を誓う式典で発せられる虚しく空々しい偽りのコトバの羅列。こうした異常な状況に抗する何の手立ても術もなく徒手空拳であるのならば、わたしはみずからの尊厳のために、そしてじぶんの子ども、そのまた子どもたちのために、 暗殺も、有りではないかと思う。「暴力は持たざる者のさいごの武器じゃないですか」とむかし読んだ五木寛之の小説の主人公の言葉を、わたしはいまも信じている。

 パレスチナの報われぬ民のように、わたしは老詩人のメッセージをストレートに受け取った。すなわち、放伐、である。

2015.8.12

 

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 8月は生者と死者が交わる月。わたしにとっては、わたし自身がこの世に生を受けた月であり、また父がこの世から突然オサラバした月でもある。そんな8月が来ると世間では記憶のたがが外れたかのように、原爆の悲劇が語られ、戦争の悲惨が語られ、終戦、いや敗戦の記憶が語られる。まさに8月はゆらゆらと立ち昇る陽炎によって、死者と死者のあわいがかすみ融合する月。わたしはむかしから、そんな8月が好きだった。

 江夏美好「雪の碑」(河出書房新社)を読了する。締め切りを疾うに過ぎていたので、閉館間際の図書館に行ってカウンターにいるYにこっそりと返却した。二段抜きで約400頁の大部。「小説だけれど記録と言っても差し支えない」と著者があとがきで書いていたように、入念な取材に裏づけされた苦心の作―――しかも、いまでは篠原無然の来し方を伝える唯一の貴重な資料ともいえるこの作品が、長らく絶版のままで殆ど入手が困難というのもじつに残念だ。河出書房新社にはぜひ(文庫などでの)再版をお願いしたい。篠原無然にわたしが惹かれるのは、但馬の海沿いに生まれながら飛騨の山々を愛し、おのれの精神の拠り所をつねに自然に求めた点。そして劣悪な環境に置かれていた製糸工場の工女や、性病などで入院している娼婦たちといった、社会の底辺に近い弱き存在につねに心を寄せ続けた点、だろうか。社会教育といった視点からいえばかれの試みはささやかなものであり、ときに中途半端なものに終わったかも知れないが、不合理な社会と豊かな大自然の間をつねに振り子のように行きつ戻りつしながら煩悶し、格闘した無然のその未完成の軌跡に、わたしは宮沢賢治にも似た「永遠の未完成」を希求する純朴な魂を見るのだ。「雪の碑」では断食と座禅による精神修行で肉欲にも打ち勝ったとまさに聖者のごとく描かれている無然だが、わたし的には春画を隠し持っていた賢治のような人間的な懊悩があったり、秘めたる恋愛があったりしてもいいような気がした。とまれ、わたしはかれが終生愛し続けた奥飛騨の山村(平湯)を訪ねたくて仕方がない。かれがしばしば山篭りをしたという輝山にも登ってみたいし、そして最期を迎えた安房峠にも立ってみたい。大枚をはたいて購入した「飛騨と無然」(平湯篠原会・非売品 1956)は、ちょうど「雪の碑」を読み終わる数日前に届いた。函はかなり痛んでいるが、無然亡き後、平湯の無然を偲ぶ人々が心を尽くしてまとめた一冊である。その思いが黄ばんだ頁のそちこちから匂い立ってくるようだ(こういうのは kindle 版では味わえない)。巻頭の幾枚かの貴重な写真とともに、無然自身の随筆、和歌、みずから節をつけた詩歌、手紙、そして生前の無然を知る人たちによる寄稿文がバランスよくまとめられている。これはこれで貴重な一冊ではあるが、たとえばわたしがもっと見てみたい、なにわ病院でかれがまとめた娼婦たちの記録や、工女救済に関する報告書などの類はほとんど入っていない。後世のためにも残して欲しい資料だと思うが、散逸してしまったとしたらじつに残念なことだ。

 子は夏休み中とはいえ、補習事業や部活動などでいろいろと忙しい。しばらく前に部活の先生が「(こんどの部活再開の日に)学校の宿題をすべて持ってくること。終わった者から帰っていい」という御達しを出したものだから、さあ、大変だ。先週は同じ部活の仲良しのHちゃんが朝からうちに来て、夕方まで二人して部屋にこもって宿題対策。そして土曜の昨日は高校生の部活の先輩宅へHちゃんと招かれて勉強会。先輩の家は京終駅から徒歩数分ということで、わたしはJRの駅まで車で送っていって、あとは一人でモンベルのトレッキングポールを片手に出発していった。奈良駅で乗換えが5分は子の足ではきついかなとも思ったが、案外と余裕だったようだ。帰りも送迎をスタンバイしていたのだが、先輩のお父さんが車で送ってくれたようで、わたしが庭の水遣りをやっているところへひょっこりと帰ってきた。Yが土曜閉館の夜9時まで仕事だったので、二人でイオン内のカプリチョーザへ行ってピッツァとライスコロッケを食べた。そして本日は、待ちに待ったユニバーサル・スタジオ・ジャパンで先の先輩とHちゃんの三人でハリー・ポッター巡礼。朝7時半の電車に乗って出かけていった。USJでは車椅子を借りる予定。一時は家から外へ出られないときもあったけれど、不自由な足を引きずりながらでも一人で電車に乗って出かけていくくらいの気概は持ち直してきた。じつにいいことだ。魔法の杖も欲しいし、ホグワーツのネクタイも欠かせないし・・・ なぞと言いながら結構な金額を持っていったが、まあ、たっぷり愉しんでこいよ。今日はわたしもYも休日なので、夕方のお迎えまでは、お陰でこちらも夫婦水入らずだ。

 

※ 附記  待ちに待ったUSJのハリー・ポッターで、「絶対に持っていくよ」と大枚2万円を財布に入れていった子は、予告どおり4200円のネクタイと3500円の杖(シリウス・ブラック)を買って帰ってきた。電車の乗り換えも順調で、車椅子も借りられ、何よりUSJは「日本国内より」バリアフリーもスタッフの対応も障害者に親切だった、と。ハリー・ポッターのアトラクションはさすがに4時間5時間待ちで乗れず、お菓子や文房具の店も店内がぎっしりで中に入るのを諦めたが、本来は並ばなくてはいけない他のアトラクションは優遇措置で待ち時間によそへ行くこともでき、お陰でジェラシック・パークやスパイダーマン、バック・トゥ・ザ・フューチャーなども愉しめた。ほぼ開園時間から夕方までいながら、食事をする間もいそしんで、口にしたのは三人で分け分けして飲んだバター・ビール一個だけ、というのも驚く。けれどハリー・ポッター・エリアも大満足だったようで、何がよかったかと訊けば、「映画には出てこなくて、原作に出てくる細部がしっかり作りこまれていたのが、なにより感動した」と、かなりマニアックなご意見で。

2015.8.16

 

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 死者がこの世に降り立ち、生者はみずからの深みに降り立ち、共に未来を見つめて、記した文章。

 こころに沁みる。

 

「過去は、わたしたちとは無縁ではなく、単なる思い出の対象なのでもない。「そこ」までたどり着けたなら、わたしたちの現在の意味を教えてくれる場所なのだ。」

 作家の高橋源一郎氏がフィリピン・ルソン島で散った「生前会ったことのない」伯父さんに出会いにいく旅。個としての鎮魂を肉に取り戻すための旅、と理解した。わたしたちひとりひとりが「そこ」へたどり着かねばならない。

 過去とは現在の意味を教えてくれる場所。過去を失えば、現在もまた消滅する。

 

 

■ 死者と生きる未来 ■

高橋源一郎 (作家・明治学院大学国際学部教授)
2015年8月18日


これから書く文章の中には、読者のみなさんにとって、不愉快に感じられる箇所があるかもしれない。そのことをお許し願いたい。

わたしは大学を卒業していない。入学したが、わけあって大学を離れた。親や友人との交際も絶って、肉体労働をしながら、小さな小さな世界で生きた20代だった。

20代の終わり頃、腰を痛め、肉体労働もできなくなった。妻子とも別れ、養育費を送る身だったのに、金を稼ぐ術を失った。おまけに、ひどいギャンブル依存症になっていた。つてをたどり、やれる仕事は、他人にはいえないようなものでもやった。その一つが「女衒(ぜげん)」だった。簡単にいうなら、売春の斡旋である。

インターネットなどなかったから、三流夕刊紙に、内容をほのめかした広告を出す。男たちが電話をかけてきて、その男たちに女の子を紹介する。そんな、ヤクザがやっている商売の一番下っぱの仕事をした。わたしは、もっぱら新大久保のラブホテルに女の子を届ける役だった。ホテルの部屋の前まで行き、金を受けとり、女の子を渡す。明らかにおかしい男もいた。酔っぱらいもヤクザも。だが、それは、わたしの知ったことではなかった。

首を締められた子も、後ろ手に縛られ、犯されるようにやられた子も、いきなり注射をうたれた子もいた。幸いなことに死んだ子だけはいなかったが。

高校生の女の子がひとり、紛れ込んできたことがあった。学生証を見たから、間違いはなかったと思う。なぜ、そんなところにやって来たのかわたしは知らなかった。わたしは、いつものように、ラブホテルの部屋の前まで行き、ドアを開け、金を受けとった。男は、最悪より少し上という感じだった。わたしは、女の子を男に渡し、すぐ近くの、事務所という名の荷物置き場のような部屋で待ち、90分後にホテルに戻った。女の子は青ざめた顔つきになっていた。

わたしたちは、「事務所」に戻り、迎えの車を待っていた。そのとき、女の子が、なにかを呟いた。

「あたし……」
「なに、なにいってんの?」とわたしは訊ねた。女の子はもう一度はっきりいった。
「あたし、魂を殺しちゃった」

それから、女の子は、持っていた小さなポーチに左手を入れ、剃刀を出し、右の手首に当てて引いた。切ったのは静脈で、だから、血は噴出することもなく、けれど大量に流れ出した。わたしは、剃刀をとりあげ、ごみ箱に放り込んだ。そして、女の子の右手を持ち、高く掲げ、トイレに向かい、そこまで女の子の手を持ったまま歩いていって、タオルを見つけ、出血している場所の少し下で固く縛った。女の子は、反抗することもなく、ことばを発することもなく、人形のようにおとなしく、わたしについて来た。それから、その縛った手をまだ高く掲げたまま、「上」に電話をした。すぐに、「上」の連中がやって来て、わたしの不注意を叱りつけ、そのまま女の子をどこかへ連れていった。その女の子とはそれ以来会っていない。

そのすべてが愚かしいようにわたしには思えた。なによりわたしが驚いたのは、わたしが少しも、その女の子に同情していなかったことだった。わたしは、その哀れな女の子を痛ましいと思うべきだったのだろう。けれども、わたしには、そんな感情が少しも沸いてはこなかった。「自分には関係のないことだ」というのが正直な気持だった。いや、まるで、当てつけのように、目の前で手首を切ったその女の子を、わたしはどちらかというと憎んでいたように思う。それから、なお2週間、わたしは「女衒」を続け、その後やめた。それから35年、新大久保には近づかなかった。わたしが作家としてデビューしたのは、その2年後だった。

それからも、時々、わたしは、その女の子のことを考えた。

どうして、わたしはなにも感じなかったのだろう。どうして、同情ではなく、腹立たしい思いがしたのだろう。手首を切ったことではなく、「魂を殺しちゃった」といった、その、まるで小説の中のセリフみたいなことばを使ったことに、憎しみを抱いたのかもしれない。なぜなら、彼女には、確かに、そのことばを使う資格があるように、わたしにも思えたからだ。そして、そのことばによって、わたしを責めているように、思えた。

それは、ちょうど、「あの戦争」の被害者が語る「戦争の悲劇」を前にして、わたしが感じる居心地の悪さにも似ていた。「あの戦争を繰り返してはならない」といわれるとき、感じる、「でも、自分には関係のないことなのに」という思いにも似ていた。反論しようのない「正しさ」を前にして、「正しいから従え」といわれたときのような、やる瀬なさにも似ていた。

だが、問題は、そこにはなかったのかもしれない。わたしには、なにかが決定的に欠けていた。ただそれだけの話なのかもしれなかった。

作家になって、しばらくして父が癌で亡くなった。父は放蕩と無能で家族を何度も路頭に迷わせた人だった。わたしはほとんど父を憎んでいたので、病院に着いて、ベッドで微かに瞼を開けて死んでいる父を見ても、なんの感慨も浮かんではこなかった。それから、ほどなく、父と別居していた母も亡くなった。そのときにもほとんど、わたしはなにも感じなかった。弟や妻は泣いていたが、わたしは、そんな彼らを不思議そうに眺めるだけだった。彼らは、わたしにとって生物学的な父や母にすぎず、そして、すべての人間がそうであるように、死んでいった。ただそれだけのことのようにわたしには思えた。もちろん、わたしも、そうやっていつか死んでゆくだけのことなのだ。

わたしは作家を続け、その作品の中で、あるいは、エッセイの中で、「他人」の境遇や悲惨さに心を動かすことばを書きつけたこともあった。けれども、書きながら、「それはほんとうだろうか」と思った。わたしが、政治や社会について発言することを用心深く避けてきたのも、そんな、わたしの本心を気づかれるのが恐ろしかったからなのかもしれない。

ほんとうに、みんなは、世界の悲惨に憤ったり、この国が犯した恐ろしい罪を憎んでいるのだろうか。本心から、そんなことが思えるのだろうか。わたしには、疑わしいように思えた。というより、そんなことは、どうでもいいことのように思えた。

そして、わたしは、いろんなことを忘れた。父も母も、あの女の子のことを思い出すこともなくなった。

 

8年前のことだった。わたしはバスルームで、3歳の長男に歯を磨かせていた。

そのときだった。わたしは異変が起こったことに気づいた。

バスルームの鏡に父が映り、わたしを凝視していたのである。

わたしは、一瞬、恐怖にかられ、叫び出しそうになった。無視し、忘れようとしたわたしを恨んで、父の亡霊が出現したと思ったのだ。だが、すぐにわたしは自分の間違いに気づいた。そこに映っていたのは、父の亡霊などでなくわたしだった。いつの間にか、わたしの容貌は父と酷似していた。そのことに、うかつにも、そのときまで、わたしは気づかなかったのだ。

わたしは、その愚かしい間違いに、失笑した。なんてことだ。馬鹿馬鹿しい。

その瞬間、わたしは、それまで一度も体験したことのない不思議な感覚を味わったのである。鏡に映っているのが父だとするなら、その父に歯を磨いてもらっている長男は、わたしではないか。そう感じたとき、体が裂けるほどの痛みがわたしを襲った。ほんとうのところ、それは、痛みではなく悲しみだったが、あまりに突然だったので、痛みに感じられたのだ。

長い間忘れていた父の記憶が、どこか深いところから甦り、噴き出すのを感じた。

会社が倒産し、夜逃げをして、極貧の生活をしていた頃、「おかしが食べたい」といいだした5歳のわたしのために、深夜、何時間もかけてリンゴを鍋で煮ていた姿、あるいは、6歳の頃、やはり突然夜中に発熱したわたしを背中にかついで30分以上かかる医者のところに運んでくれた姿が、わたしの中で甦った。父は、幼い頃、小児麻痺を患い、歩くことはきわめて困難だったのだ。

わたしは21世紀の東京で子どもの歯を磨いていたが、同時に、半世紀前、父親に歯を磨かれている幼児でもあった。

わたしは父を忘れていたが、父はわたしを忘れてはいなかった。そんな気がした。父はわたしの中で、ずっと生きていたのだ。わたしは、父がその幼児に、すなわちわたしに抱いた、溢れるような感情の放射を、半世紀たって再び、浴びせられたように思った。それは、わたしが、なによりいとおしく思っている子どもへの感情と同じであった。

気がつくと、長男が不思議そうにわたしを見つめていた。

「ぱぱ、どうしたの?」と長男はいった。
「なんでもない」とわたしは答えた。
「なんでもないよ」

そのときから、わたしと過去の関係は変わったように思う。

わたしは、ずっと、過去というものを、「死んだ」もの、「終わった」ものだ、と思っていた。だから、その「過去」というやつのことを思い出すためには、わざわざ、振り返り、遠い道をたどって、そこまで歩いていかなければならない、やっかいなものだった。

そうではなかった。「過去」は死んではいなかったのである。

わたしたちが生きる、この現在は、過去が生み出したものだ。遥か、視線を上げると、わたしたちの周りにあるもので、過去と無関係なものは一つもないのである。一つのコップ、一枚の紙ですら、かつて誰かが、もうこの世には存在しない誰かが、全力で作り上げようとしたものの果てに生まれたものなのだ。

いや、わたしもまた、同じではなかったろうか。わたしのことばづかい、わたしの癖、わたしの感覚、それらもまた、わたしが勝手に生み出したのではなく、わたしを愛してくれた、父や母や、そんなすべての人たちが語りかけたことば、感情、によって刻みこまれたものにちがいないのだから。

そんな当たり前のことに、どうして気づかなかったのだろう。

書斎のわたしの机から見えるところに本棚が幾つもある。その一つには古い文庫ばかりが並んでいて、それはすべて、遠い過去に死んだ人たちによって書かれたものだ。だが、頁をめくると、そこには、いま生きている、どんな人間が話す、書くことばより、明瞭で、寛容で、静謐なものに満ちていることを、わたしはよく知っている。

なにかを知りたいとき、誰かの声を、心の底から聞きたいと思ったとき、わたしは、生きている人間よりも、その本の中で、いまも静かに語りかけている彼らの声を聞きたいと思う。だとするなら、わたしにとって、ほんとうに「生きている」のは、どちらの声なのだろうか。

今年の6月、わたしは、70年前に戦死した伯父の慰霊に、フィリピンに出かけた。伯父とは、もちろん一度も会ったことなどなかった。伯父は、昭和16年に慶応大学を卒業した、フランス文学とフランス映画が好きで、内気な、さらに付け加えるなら「戦争が嫌いな」青年だった、と父から聞いた。伯父は、昭和20年、フィリピンに渡った。フィリピンには60万余の日本軍兵士が向かい、武器も食糧もない戦いの中で、およそ50万人が死亡し、その遺骸は、フィリピンの原野を埋めた。伯父もその中のひとりであった。

父や祖母は慰霊の旅を熱望をしていたが、果たすことはできず、わたしがその代わりを務めたのである。

最大の檄戦地となったルソン島・バレテ峠の、北に向って、すなわち遥か日本に向って建てられた慰霊碑の前で、わたしは、長い間、瞼を閉じ、頭を垂れていた。

そのとき、わたしは、伯父が、いや無数の死者たちが、わたしをじっと見つめているような不思議な思いにとらわれたのである。

人は、最後の瞬間が近づくとき、なにを考えるのだろう。彼らは、死が目前に迫っていること、そして、それから逃れることが不可能であることを知っていた。そのとき、彼らの脳裏になにが浮かんだのだろう。それがなにであるかは決してわからないであろう。けれども、それを想像することは可能であるように、わたしには思えた。なぜなら、彼らもまた、わたしと変わらぬ、ふつうの人間であったであろうから。

彼らは、遠く日本にいる、家族を故郷を思っただろう。わたしが立ち尽くしていた、北ルソンの風景は、想像していた熱帯のそれではなく、不思議なほど、日本の山野に似ていた。

そして、わたしには、伯父が、彼らが、そのとき、戦いのない、死に脅かされることのない、平和に満ちた未来を想像したに違いないと思えた。死んだ仲間の肉をむさぼるほどの飢えに晒されながら、それでも生き抜いて、その未来にたどり着けたら、と薄れゆく意識の中で、思ったのではないだろうか。

そして、彼らが切望した未来とは、いまわたしたちが生きている「現在」のことなのだ。わたしが、彼らの視線を感じたのは、わたしの「いま」が、彼らが想像し、憧れた「未来」だからだ。70年前、フィリピンの原野から放たれた視線は、長い時間をかけて、わたしの生きる「現在」にまでやって来たのである。

慰霊とは、過去を振り返り、亡くなった人びとを思い浮かべて追悼することではなく、彼らの視線を感じることではないだろうか。そして、その視線に気がつかなくとも、彼らは、わたしたちを批判することはないだろう。「過去」はいたるところにあり、見返りを求めることなく、わたしたちを優しく、抱きとめつづけているのである。

そう思えたとき、わたしは、70年前ではなく、70年後の未来を思った。彼らが、未来を見つめたように、わたしも未来を見つめたいと思った。まだ生まれてもいない、わたしたちの家族の末裔を想像しようとした。その未来が、平和と穏やかさに満ちたものであるように、祈らずにはいられなかった。もしかしたら、慰霊とは、死者の視線を感じながら、過去ではなく、未来に向って、その未来を想像すること、死者と共に、その未来を作りだそうとすることなのかもしれない。いま、わたしには、そう思えるのである。

 

最近、あの女の子のことを、また考えるようになった。あのとき、あの女の子は、なにを考えていたのだろう、と思う。あの女の子は、なにを見ていたのだろう。

彼女の目に、心を閉ざした、機嫌の悪い、無口で、視線を合わそうとはしない、30歳近い、男の姿が映っている。

彼女は、深く傷ついていたのだと思う。けれど、それにもかかわらず、目の前の、不機嫌な男に、声をかけずにはいられなかったのだ。その男もまた、傷ついていることを彼女は感じていたのだろう。そして、手を伸ばそうとしたのだろう。不器用なやり方ではあったけれど。残念なことに、男は、なにも気づかなかったのだが。

http://politas.jp/features/8/article/452 

2015.8.18

 

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 埃っぽい地下の駐車場入口。発券機のうしろに寄り添うように立っている。車が数珠つながりで入ってくる。発券機の前で止まり、ウィンドウが開き、手が伸びてくる。「いっらしゃいませ」と声をかけながら、券が出てくる口に手を添える。出てきた駐車券を取り、注意喚起のチラシと重ねて差し出された手に渡しながら、「本日は花火大会のため周辺道路が混雑しまので、お帰りはご注意ください」と言って、顔を見て、軽く会釈をする。一台で十数秒ほどだろうか。90分続けて30分休憩のローテーションだから、一台15秒として一分で4台。切れ目なく車が続いたとして(実際、ほとんどそうだったが)、単純計算で90分で360台。それを3回繰り返したので1080台。1080の顔。いや、同乗者も入れたらその3倍、3千人以上の顔。熱中症対策で足元に置いたペットボトルのお茶で唇を湿らせる間もなく、声をかけ、駐車券を取り、チラシを渡し、説明をし続ける。

 毎年そうだが、いろんな車があり、いろんな顔があり、いろんな反応がある。だまって受け取る人、無愛想に受け取る人、何を急いでいるのかひったくるようにつかんでいく人、あるいはかつての白人農場主が使用人の黒人をニンゲンと思わなかったように存在を無視していく人、「駐車場、あいてんのか?」と偉そうに訊いてくる人。もちろん、そんな人ばかりでもない。さいしょの段階でにっこり微笑んでくる人もいる。「ああ、そうですか。すみません」と丁寧に頭を下げていく人もいる。「ありがと〜」とお礼を言って受け取ってくれる人もいる。家族連れでドライバーがそんな父親や母親だったりすると、なぜかほっとする。隣に派手な彼女を乗せて、腕に刺青をしていたり、一見ヤンキー風の車に乗っていたりするニイちゃんが、案外と礼儀正しい「ありがと〜」派が多いのも不思議だが、事実だ。逆に高級車に乗っている年輩の人は男も女もたいてい不機嫌そうに受け取って感じが悪い。ろくに返事もしない。どんなに高い車に乗っていても、ニンゲンが透けて見える。

 たかが駐車場の入口。されど駐車場の入口。こんな何でもないようなところで結構、ニンゲンが正直に、出る。ふだんはスーツ姿でPCの前に座っていることが多いので、ここは年に一度の現場応援だけれど、わたしは案外と気に入っている。身近に、具体的に、世間というものを感じ取れる気がする。そうであるならばニンゲンの品格としては、レクサスやクラウンよりも、カローラやサンバーのほうが上だね。わたしの見立てでは。仕合せそうなのもそちらだ。

2015.8.22

 

*

 

 子は土日の演劇部の合宿で軽い熱中症にでもなったか、愉しそうに帰ってきて、食事の席ではいろいろと愉快な話を聞かせてくれたのだけれど、その後は頭が痛い、身体が熱っぽいと訴えて、今日(月曜)も午前中の授業は休んで、冷房を効かせた自室で静養させた。あらためて聞けば、土曜の夜も日曜の朝も食欲がなくて(配達されたほか弁や先生が買ってきたおにぎりなど)ほとんど何も口にしておらず、日曜の朝は意識がもうろうとして、一人布団を敷いた部屋に残ってこんこんと眠り続けていたという。症状的には頭痛と、食欲不振、軽い立ちくらみ。これは熱中症の第二段階、中レベルともいえる。冷房の効いていない蒸し暑い体育館での練習だから、さもありなんとも思う。ただし合宿自体は、本人は意気軒昂で、去年と何か違うかと問えば「(中一の後輩が大勢入ってきて)責任感が違う」と言う。一年生のうちの特に二人ほどが子を慕ってくれて、合宿の夜もいつの間に隣の布団に来て寝ていたり、またふだんもすすんで子の荷物を持ってくれたり手を持ってくれたり、手伝ってくれるのだという。子もそんな後輩が可愛くて仕方ないようだ。いままで「先輩、先輩」と高校生の先輩を慕っていたじぶんが、こんどは先輩になりつつあり、そのことがまたじぶんを変えつつある、とでもいおうか。

 昼近くになって、やっとお粥をすこしだけ食べて、それでも部活は絶対に行かなくてはならないと制服に着替え始めた子の対処をめぐって、わたしはYと口論になって、食べかけの(じぶんがつくった)冷麺をもう要らないと置き捨てて、子を車に乗せて学校へ出発した。本来であったら今日は学校の送迎はわたしの妹宅にお願いして、わたしはYと二人で和歌山の彼女の実家へ畑でつくった西瓜をもらいに行く予定だったのだが、結局は子に振り回されて霧散した。それはそれで仕方がない。子には車の中でさんざ熱中症の原因、予防対策を説き、経口補水液を1本、水筒とは別に持たせた。幸い夕方に、それなりに元気に帰ってきた。

2015.8.24

 

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 満を持して、8月30日は国会前へ行くことにした。 すでにWebでホテルも予約した。 当日は午前中に新幹線で移動、東京の悪友と合流、どこぞで昼飯を食べてから、物心ついてからは一度も行ったことのない(たぶん幼い時も行ってないと思うが)靖国神社へ「公式参拝」して、その足で国会前へ馳せ参じようと思っている。 憂国の志よ、いざ集え。 終了後はたぶん有楽町近辺で「愛国者壮行会」。 当日は奥崎 謙三を敬してパチンコでも持っていこうか。 歴史の「実時間」に意識的に参加するため。 それをみずから選び取るため。 10万分の1でいい100万分の1でいいNOを叫ぶため。 次の世界を託すわが子の記憶に親として意思表示するため。 だれよりも自分自身にひとつの肯定の炎をみせてやるため、に。

2015.8.25

 

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 とりあえず行ってきた。国会前でもこのヘルメットで。終わってから有楽町のガード下など。 翌日の今日はひとり靖国神社の遊就館でたっぷり3〜4時間。これがけっこうきつかった。 神保町の古書店街に立ち寄って、先ほど奈良に帰還。 デモと靖国。牛のように反芻している。あとでまた書く。

2015.8.31

 

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 新幹線を降りて東京駅の改札口へ向かっているとき、目の前に妙な格好をした小柄な初老の女性がいた。麦藁帽子のぐるりに造花をつけて飾り、ピンクのバンダナに毛虫のような鮮やかな緑のワンピース、背中に背負ったオレンジのリュックの背面に「8月30日 今日あなたは何をする? 」と書いてあった。わたしは何のために、こんな東京くんだりまで来たのだろうか。ひとつは平易に言って、歴史的な節目の日になるだろうその現場を、この目で直接見て、肌で感じてみたかった。これはどちらかと言えば物見遊山の姿勢である。それでもう少し積極的な事を言うならば、かつて辺見庸が言った「歴史の実時間」―――すでに終了して教科書の一頁として語られる歴史も、その瞬間は平凡な日常と地続きの実時間として存在した―――それをみずから切り取り、選び取りたかった。その「実時間」に於けるじぶんの立ち位置というものをおのれに明示して、意識的に参入しておきたかった。こちらは少々聞こえはいいが、コソ泥のアリバイに似てなくもない。そしておそらく、面倒くさがり屋のわたしの尻を最後に押したのは、子どもの存在であるだろう、と思う。わが子に、世の中に対する父の行動として、何かを見せたかったのだ。だいたいわたしはこれまで選挙で、当選した人に投票したことが一度もない。わたしの今回の国会行きはその地続きであり、「じゃ、お父さんは今日は帰らないからな」と玄関で靴を履きながらわたしは言い、娘は「うん。東京のおみやげ、買ってきてね」と返しただけだったが、彼女はわたしが何をしに東京くんだりまで出かけて行くのか、ちゃんと理解しているので、それでいい。階段の手前で立ち止まってリュックを背中から下ろした初老の女性の横を、わたしはするりと通り抜けた。「歴史の実時間」に於いて、今日あなたは何をする? ―――この単独の女性の問いは、無数の新幹線客が行きかう東京駅構内の雑踏にあってじつに正しい光彩を放っていた、とわたしは思った。

 JR御茶ノ水駅の改札で落ち合い、九段下あたりで昼食を済ませたわたしと友人のAは、それから地下鉄に乗って永田町へ出た。「永田町の駅って、サリンは撒かれたんだったかな」とわたしかAのどちらかが訊ね、「あちこちの駅で同時多発だったが・・」ともう一方が答えた。出口へ向かう上りのエスカレーターは日曜にしては明らかに人が多い。自民党本部を横目に通り過ぎ、国会図書館の前あたりでリュックから特製ヘルメットとサングラスの“タイマーズ・セット”を取り出して装着した。「ほんとうに付けるのか?」と不審そうだったAも、しばらく進んだら馴れたようだ。やがて国会議事堂の北東角、「憲政記念館前」の交差点から国会の正門前へとつづく歩道の中でどうにも身動きがとれなくなった。正門前に設置されたステージはホンの目の前で、民主党や共産党らの党首たちの声はスピーカーを通して聞こえてくるのだけど、ステージ自体は全く見えない。何より立錐の余地もないほどの人混みでの棒立ち状態が嫌だったので、憲政記念館側の公園の方へ抜け出てみた。1m60cmほどの鉄柵があって、柵の向こうの緑豊かな公園内は、まだ密度も少なく別天地のように見える。中年の女性が一人、柵に近い木に足をかけるようにして鉄柵を乗り越え始めた。周りの人々が背中を押したり、足を持ったりして加勢する。わたしとAも別天地を目指すことにした。加勢は必要なかったのだけど、「お、ニイちゃん、行くか?」と女性の足の下で脚立になっていた大柄な男性が返事も聞かずにわたしのリュックを柵の向こう側にひっかけ、体を押し出してくれた。Aもおなじく乗り越えてくる。見れば満杯状態だった正門前道路側からもぽつりぽつりと、鉄柵を乗り越えて来る人がいる。「向こうは東ドイツで、こっちは西ドイツ。さしずめ、あの鉄柵はベルリンの壁か」なぞと呟いた。じつはわたしたちが越えてきた鉄柵のすぐ横手にも、ふだんは開放されている歩道から公園への広いゲートがあるのだが、これは警察によって完全に封鎖されていた。これがふだんと同じように開いていたら、こんな苦労してベルリンの壁を越えなくてもよかったわけですよ。じっさいこの日は、地下鉄の駅構内でも出口へ上がる階段を警官が封鎖したりという露骨な規制が(多分あちこちで)あったようだが、とにかく当局側が「安全よりも規制重視」というスタンスだったのは間違いがない。「滞留させない、流す、迂回路をつくる」というのが本来は雑踏対応の基本なわけだけれど、この日の警察の対応は見事に正反対で「滞留させる、押し込める、あらゆる道をふさぐ」という対応だったわけで、これでもしも死亡事故でも起きていたら(じっさい、起きてもおかしくなかったとわたしは思うが)、多くの子どもたちも命を落とした明石の花火大会以上の体制不備・懈怠で警視庁は告訴されて当然だったと思う。

 国会正門前から桜田門方向へ至る正面の道路の規制が、国会前へ押し寄せた群集によってなし崩しになって道路上に人々が溢れたのはおよそ2時頃だったようで、わたしたちはちょうど歩道内で立ちんぼうになっていて知らなかったが、ベルリンの壁を越えた頃にはその正面の道路上はすでに盛況のコンサート会場のように人の群れで溢れかえっていた。わたしとAは憲政記念館のトイレで用を足して一息ついてから、比較的移動も可能だった公園内から正門前の大阪シールズから来た“ともかちゃん”のスピーチに耳を傾けたり、正面道路の人混みから湧き上がるシュプレヒコールを聞き、あるいは国交省や外務省前の人混みを遠目に眺めたりなどしていた。雨はすでにぽつぽつと降っていたので、みな傘を指したり合羽を着たり樹冠の下でしのいだり。公園の中もそれでも徐々に人が増えていった。憲政記念館のトイレも長い行列だった(Aはわたしがここでウンコをしていたせいで正門前の坂本龍一のスピーチを聞き逃したと、後でわたしを責めた)。そんなこんなで4時になり、当初予定の時間になったからか、とくに既存団体の人々がぞろぞろと帰り始めてから、やっと移動ができるほどに緩和してきた正面道路へとわたしとAは入っていった。「全学連」の旗を掲げたグループは、なんだか既存政党といっしょで手垢のついた古臭い感じに見える。シールズは相変わらずのノリで盛り上がっていた。ラップ調のシュプレヒコールにフリー・ジャズ風のサックス、太鼓などで踊っている連中もいい感じだったね。何メートルもの巨大なゲバラ旗を掲げてゆらゆらと歩いている謎のじいさんもいた。釣竿にドジョウかアジかの絵をいくつもぶら下げて、歩道の人々へ向けてリズムを取りながら笑顔で竿を振っている謎のニイちゃんもいた。そういえば「阪神」ならぬ「反戦タイガース」もいたな。まあ、そういうおつむのイカレタみたいなヘンな連中も混ざっていて、タイマーズ・セットのわたしも確実にその一人なんだろうが、一度だけ正面道路の緑樹帯の上に立っていたら、帰りかけの(おそらく)同年代だろう男性が嬉しそうに近寄ってきて「いや〜 いいね〜 そのヘルメットだけ、ちょっと写真に撮らせて下さい」とカメラを向けてから手を差し出してきたので握手を交わして、「ボクも、ほら、清志朗Tシャツ」と胸のあたりをつまんで立ち去っていったのだが、残念ながらわたしも横にいたAも、男性のそのオレンジのTシャツの何が「清志朗Tシャツ」なのか分からず仕舞いであった。ごめんなさい。でも、ありがとう。

 5時頃になってから、わたしたちもそろそろ国会前を離れることにした。国会前には、それでもまだたくさんの人が残って声を上げている。地下鉄の出入り口へ向かう歩道上も帰りの人の列が並んでいる。国交省の前の広い交差点を渡ってから立ち止まり、あらためて国会の方を振り返って見た。もうだいぶ減ってしまったけれど、つい先ほどまではこの国の政治機能の中枢を担う建物へとまっすぐに進む片側五車線の道路上いっぱいを警察の規制を突破して溢れ出た人々が埋め尽くし、さらにその国会議事堂を取り囲むすべての歩道、そして憲政記念館周辺の公園から日比谷公園に至るまで、この国の政(まつりごと)にノーを言うために思い思いに集まった人々が溢れ声をあげていた。わたしはそのときふと、いまからおよそ500年前に加賀の国で起きた一向宗による一揆の情景を思い浮かべたのだった。1488年、加賀国の守護大名だった富樫政親は一万の軍勢と、金沢市郊外の山の上にあった居城・高尾城にたてこもった。そこへ20万人ともいわれる浄土真宗の門徒たちによる一揆勢が攻め寄せ、取り囲まれた政親は城内で自刃、城は落ちた。以降百年間、加賀では領主を持たない自治コミューン―――「百姓ノ持タル国」が続いた。

 まるで、巨大な津波が押し寄せてくるように、「南無阿弥陀仏」と書かれたムシロ旗を立てた集団が、竹槍やクワやスキなどを振りかざしながら、ひしひしとこの山麓に迫ってくる。人びとの鬨(とき)の声が聞こえる。近づくにつれてその声はどんどん大きくなってくる。

 それを山の上から眺めていた富樫政親や家臣たちの不安や恐怖心、あるいは、いったいなぜこんなことが起こったのかという驚きは、どれほどだったことだろう。

 加賀平野を埋めつくすような一揆勢、その中心となった真宗門徒たち、念仏を称えつつ、死ねば極楽往生と信じて、ひたすら前へ、前へと進んでくる人々の群れ。一向一揆の嵐は、北陸全体を、そして日本を震撼させたのだった。

五木寛之「一向一揆共和国 まほろばの闇」(ちくま文庫)

 何がかれら真宗門徒たちのエネルギーの源であったか。この、当時大名たちがかれらに対して感じていたと思われる脅威について、著者は「一向一揆と真宗信仰」などの著作がある東洋大学・神田千里教授からの聞き取りとして、「じつは大名といえども、団結して集まっている武士たちによって、神輿のように担ぎあげられているにすぎない。ところが、そこに、もっと大きなものを担ぎあげようとしている集団のようなものが出現する。「弥陀一仏」といって阿弥陀仏を信仰する門徒集団だ。 それと比べたときに、自分のほうが見劣りしているのではないか、と感じる。あるいは、自分を担いでいる武士たちも、いつかは向こうについてしまうのではないか、と不安になってくる。 大名が感じていたその恐怖は、かなりつよかったはずだ」と記している。

 ではこの一揆に加わったのはどんな人々であったのだろうか。山川の民についての優れた研究のある井上鋭夫氏は、一般の農民の他に当時の浄土真宗の門徒には、「一般社会から卑賤視されていた行商人、船運、海運、漁業に従事する者から、山間地帯を流動する狩猟民、杣工、木地師。紺搔、金堀り、鋳物師、鍛冶師など」の非定住民、非農耕民たちが多く加わっていたことを指摘している。「念仏の功徳で罪障の消滅した一向宗は勇敢だった。仏神領を侵奪し、社寺を破壊し炎上させても、阿弥陀如来のためとあれば往生は保証されていた」(「蓮如一向一揆」(岩波書店))

 要するに、彼らは颯爽たる存在だったのだ。知恵も才覚も腕もあり、ありあまるエネルギーも持っていた。ただし、社会的な目線では農民より下のほうにランクされている。鬱屈した思いも抱えていたに違いない。こういう人たちが下克上の時代をへて、沸々とたぎるようなエネルギーを持って集まったときには、大変な力になったことが想像できる。

 さらにこの時代には、彼らの機動力、情報力は大きな意味を持っていたはずだ。たとえば、戦闘にはさまざまな情報が必要になる。そいう役に立つ情報というのは、本願寺教団がこうした集団とかかわっていないかぎり、まず得られなかっただろう。 (五木寛之・前掲書)

 そして五木氏はこれらを受けて、次のように記す。

 たったひとつの階層からなり、たったひとつの要素だけを共有する集団は、逆にいえば広がりがなく、壁を越えることができない。ところが、真宗門徒の場合は、御同朋(おんどうぼう)という言葉で一挙に階層や身分の壁が壊れた。そして、それぞれが人間として持っている才能や情熱が、激しく熱く燃えあがっていった。それが一揆という形で火を噴いたのである。 (五木寛之・前掲書)

 高尾城にたてこもった守護大名・富樫政親が国会の安倍総理を首領とする国家権力であるとすれば、20万人の浄土真宗の門徒たちはさしずめ12万人の国会を取り囲むさまざまな思いを持った人々の姿であったろうか。「颯爽たる存在」である非定住民や非農耕民たちを例えば非正規雇用の搾取される者たちや経済的徴兵制を憂える学生たち、あるいは働くシングル・マザーたちなどに、そしてかれらの機動力、情報力を現代のSNSなどに置き換えることもできるかも知れない。そうであるとしたら、500年前の加賀国と、この2015年8月31日の国会前行動と、その結果における違いはなんだろうか。押し寄せる人々の鬨の声に守護大名が抱いた恐怖、そしてついにはかれを自害せしめた恐怖を、わたしたちは持ち得るだろうか。かれらがみずからが担ぎあげられていると思っているそれよりも、もっと「大きなもの」。それをわたしたちは、持ち得ることができるだろうか。そんなことを、国交省の前の広い交差点で立ち止まり、国会議事堂を眺めながらわたしはぼんやりと思ったのだった。それらはここにこうして来なかったら、感じ得なかったことだ。

 それからわたしとAは日比谷公園の前を通り過ぎて、有楽町のガード下のドイツビールの店に入って、5時間ぶりに渇ききった喉を湿らせた。Aの話では日曜の夜の有楽町はもっと空いている。これは明らかにデモ隊が流入したものだ、と言う。しばらくして同じようにデモに参加していた東京のTさん、秋田から新幹線で来られたというその友だちのKさんと合流し、また別の居酒屋に移動して、ラスト・オーダーの10時半ごろまで共に愉しんだ。AとJR線に乗ったわたしはひとり神田で下車して、予約していたホテルへ。地下の大浴場の湯船に浸かっているとき、今日は父親の命日であったことを思い出した。そしてわたし自身がすでに、かれが死んだ歳に到達したことも。

2015.8.31

 

*

 

安藤 栄作さんのFBから)

一見、揺るぎようのない強大な組織や強靭な社会システムに比べ、一般庶民のデモや個人の活動はか弱く見える。

でも僕は見てきた。
東日本大震災の地震と津波で、自宅・アトリエ・数百の作品たちが崩壊流出した後に、水も泥も被らず全くの無傷で見つかった、娘が幼かった時にカミさんが作ってあげた木彫りの着せ替え人形を。
自宅後地から遥か遠くの瓦礫の山の上に嘘のようにちょこんと乗っていた、息子が幼かった時に僕が作ってあげた木彫りの小さな自動車のオモチャを。
津波と火災によって瓦礫の平原になった町の後に全くの無傷で立っていた地元の小さなお社を。
そこには自分の利益や所有欲を手放した真心が奇跡のように無傷で残っていた。

あの日僕は崩壊した町に佇み、天の声を聞いたような気がしている。
「今日、次元を超えたこの世界にあって、どんな想いが本当に価値があり、何が一番強いのか、しっかり見ていきなさい、そしてこの先の世界をそれを魂の中心に置き生きていきなさい」

僕らが身を置いているこの3次元物質世界。
大地震のようなとんでもないエネルギーが炸裂する時には、あの世や他の次元までが混ざり合って物質世界の常識では考えられない現実や奇跡が現われる。

強大な政府組織や強靭に組み立てられた社会システムに対して、一見か弱く心もとなく見える抗議デモや個人の些細な行動。
僕にはその風景が、強大強靭な防潮堤やたくさんの鉄筋の水産加工場や立派な住宅群と、手作りの小さくか弱いオモチャや地元の人達が無私で大切にしてきた小さなお社の関係と重なって感じられてしまう。

揺るぎなく見えるこの3次元の物質世界にも薄いカーテン1枚挟んだ裏側から様々な想いのエネルギーがしみ出し影響を与えている。
僕はデモの人々の想いのエネルギーは薄いカーテンの向こうから確実にこの世界に影響を与えていると思っている。
そして、もしかしたら近い将来、そのカーテン自体が開かれてしまう時がくるような気がしている。

 

安藤さんへ

感動しました。あのとき、世界は変わったはずなんですね。剥き出しの大地の前で、価値観とか、もろもろが。「以前のままではいられない」と誰もが思ったはず。わたしもそう思いました。なのにこの国は何もなかったかのように進もうとしている、あるいは後戻りしようとしている。わたしも安藤さんがおっしゃるように、心ある人々の想いによって「カーテン自体が開かれる」ときがきっと来るはずだと信じています。手作りの小さくか弱いオモチャたちの勝利する日が。

シェアさせてください。

2015.9.3

 

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こういう怒り。

こういう真の怒りは、たとえばテロリストとして愚か過ぎる政治家を死滅させることに使ってもいいのではないか。

じっさい、この子どもにとってはすでに間に合わない。

世界中のあらゆることが、この子どもにとってはもうすでに間に合わない。

 

Sorry to spoil your day...but how do Arab leaders sleep knowing that dead Syrian children are washing up on the shores of Turkey and elsewhere? Are they enjoying their lavish holidays in the South of France and their shopping sprees in London?

「あなたの一日を台無しにしてすみません
…しかし、アラブの指導者はシリアの子どもたちがトルコの海岸のあちこちに打ち上げられているのを知らないとでも言うのでしょうか?
彼らは気前よく、休日を南フランスやロンドンに散らばってショッピングでもしているのでしょうか?」

2015.9.3

 

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 もともとゆっくりと、すすんできているのだ。そうしてちょっぴりづつ、つよくなってきている。漢字検定をひさしぶりに教室のクラスメートたちといっしょに受けて、民間会社による学力テストを半分もできなかったけれどやはり教室で受けて、昨日は文化祭のクラスの準備を「クラスには入りたくない」と子が言うので担任の先生が出した廊下の机に演劇部の先輩や後輩が集まってきて子のはなれ小島ににぎやかな人垣ができて、そうして今日はクラスメートたちと教室をつかったフローズン・ジュースの模擬店の受付をしばらく手伝い、その後は金券を持ってやかり部活の先輩・後輩・同級生らとふらふらしていたのだが、文化祭が終わったあとの下校後に学園前の焼肉屋で秘密裡に企画されたクラメート9割方参加の打ち上げにいっしょに加わって、夜8時に迎えにいったわたしが車の中から眺めていると、会計を済ませてぞろぞろと出てきた文化祭仕様の真っ赤な限定クラスTシャツに混じって、しばらく店の前にたむろして全員で集合写真を撮ったり、数人とメルアドかラインのIDを交換したりして、それからようやくおなじ部活の仲良しのHちゃんといっしょに、案外と元気そうな顔で後部座席に乗り込んできた。1年生の秋の文化祭以来およそ2年間、ほとんど一切のかかわりを拒否していたクラスメートたちと打ち上げまで行ってきたと聞いてYは「信じられない」とうれしそうな悲鳴をあげた。しの、お母さんはそれからこっそり、泣いていたよ。世界はまだまだ悲しいことやひどいこともたくさんあるけれど、それほど捨てたものでもないのかも知れない。こうありたいと希んでいる者こそが、あれこれごつごつとぶつかったりするもんだ。おまえもごつごつとぶつかりながら、すすんでいったらいいさ。おまえのマイ・ペースを、お父さんもお母さんもこれからも支援する。約束する。

2015.9.5

 

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予約していた「時代の正体――権力はかくも暴走する」(神奈川新聞「時代の正体」取材班)が届いた。

冒頭からじつによい。

こういう言葉を読みたかった。

 新聞記者は時代の証言者たれ、と先輩から教わったことがあるが、傍観者的な響きがあって好きになれない。新聞離れ、部数減という現実に、記者は取材対象にもっと寄り添うべきだ、という声が社内からも上がる。やはり言葉とは裏腹の上から目線を感じ、ぞっとする。

そもそも、と思う。いまという時代に起きている事象と向き合うとき、記者は当事者そのものではないのか。

* * * * * * * * * * * * * * * * 

「個として、戦端を開いていくべきだ」 辺見(庸)さんは力を込めた。

「違う」と声を荒げることが、むなしいこと、かっこ悪いことという空気が醸される中で、一人で怒り、嫌な奴をぐっとにらむ。

「自由であるためには孤立しなくちゃいけない。例外にならなくてはいけないんです」 例外を認めず、孤立者を許さない。それがファシズムだからだ。

2015.9.7

 

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「ファシズムというのは、こういう風景ではないのか」

いま、この歴史の実時間においてこそ、辺見庸には盛んに立っていて欲しかった。なにより、わたし自身の心の支柱として。

「糞バエ」を「糞バエ」と呼べる者は、それほど多くはいない。

 

松本 聰さんのFBより)

やつら記者は「糞バエ」だ。- 辺見庸

「2003年12月9日、自衛隊のイラク派兵が閣議決定された日です。コイズミは記者会見をして憲法前文について縷々説諭した。こともあろうに、自衛隊をイラクに派兵するその論拠が憲法の前文にある、といったのです。およそ思想を語る者、あるいは民主主義や憲法を口にする者は愧死してもいい、恥ずかしくて死んでもいいほどの、じつにいたたまれない日でした」

「翌日の新聞は一斉に社説を立てて、このでたらめな憲法解釈について論じたでしょうか。ひどい恥辱として憤慨したでしょうか。手をあげて、『総理、それはまちがっているのではないですか』と疑問をていした記者がいたでしょうか。いない。ごく当たり前のように、かしこまって聞いていた。ファシズムというのは、こういう風景ではないのか」

「世の中の裁定者面をしたマスコミ大手の傲岸な記者たち。あれは正真正銘の、立派な背広を着た糞バエたちです。彼らは権力のまく餌と権力の排泄物にどこまでもたかりつく。彼らの会社は巨額の費用を投じて『糞バエ宣言』ならぬ『ジャーナリズム宣言』などという世にも恥ずかしいテレビ・コマーシャルを広告会社につくらせ、赤面もしないどころか、ひとり悦に入っている」

2015.9.7

 

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「うちは西日ばかりで、朝日が当たらないから花がちょっとも咲かない」とYさんがぼやいているのを聞いたことがある。Yさんの家と狭い路地を挟んで向かいの三軒長屋に一人住んでいる90歳のAさんちはその点、朝日をたっぷり浴びるのでいつも見事な花盛りだというのだ。「路地画廊」とわたしはひそかに呼んでいる。むかし読んだ本なのでうろ覚えだがネイティブ・アメリカンについての本の中で、もうこれ以上上流には人が住んでいないという山中まで行って、朝一番の光を浴びたコップ一杯の川の水を飲む。それだけで人の精神は整えられる、と書いていたのをときどき思い出す。

植物も、人も、そういうことはあるのだろうと思う。

2015.9.12

 

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多くのドキュメンタリー作品を手がけている貞末 麻哉子さんが自身のFBで、茨城県の、娘とおなじ「二分脊椎(せきつい)症」の病気を持つ中学3年生の女子生徒の修学旅行参加への記事を載せていて、それに対するわたしの投稿(子の主に修学旅行に関する最近の学校とのやりとりをまとめたもの)に長い返事を書いてくれた。そのまたわたしの返事も含めて、ここに転載しておく。

【貞末 麻哉子さんから】
途中何度も涙が止まらなくなり、中座しながらですが、読ませていただきました。イニシャルで相手が見えないため、理解不足の面も多いと思いますが、まれびとさんが、納得のゆかないことを都度、きちんと学校側に伝え、そして先生たちと向き合っていらっしゃることは素晴らしいと思いました。
 教師が、「責任」や「安全」を視点にすると、ご本人の可能性を摘み取ってしまうこと、ほんとうだなと思います。そしてまた、ご本人の可能性だけでなく、他の生徒さんたちの大いなる可能性をも摘み取っているんですよね。教師のみなさんには、そこに気づいてほしいです。
 障がいの方の映画を撮ってきて、現在も、普通小学校に入られた重心の方を撮影させていただいたりしていますが、いつも感じることは、なんて学校側は残念な発想しか持てないんだろうと思うのです。
 親御さんは親御さんの立場で、ご自身のお子さんの希望やある意味での学校生活でのメリットや意思を中心に、要望を発せられていると思うのですが、それに対し、常に学校は、「安全」や「責任」上を第一として考えることになるわけです。これはどこでも同じです。しかし、ひとつ着眼点を変えて、ほかの生徒さんたちの利益としてなぜ考えると、障がいの方の存在のおかげで、もっと素晴らしい学校生活の意義と価値が見渡せてくるのに・・・と思うのです。
 貴重な修学旅行の経験を、障がいの方と一緒に過ごせることの価値をなぜ子どもたちに教えられないのだろう。
 障がいの方を知り、接し、そして共に時間を過ごすことが、すばらしい人生の利益になるのだということを、なぜ学ぼうとしないのだろう。
 おそらく、教師の方々が自発的にそう感じておられないからだと思います。認識というより、知識不足なのです。教師の方々自体が、障がいの方とどうつきあったらいいのかをわかっていないのです。こんなにも自分にとって素晴らしい学びを得られることを、知らないのです。
 そしてせっかくのその機会である研修会すら、メンツや内部の事情でしか捉えられない学校という組織。大切なことを、子どもたちに伝えてくれるはずの教師が学ぶ機会を持てない組織のあり方。
 どうしたら、それ問い、伝えられるのだろう。わたしはそんなことをずーっと考えています。失礼しました。

 

【まれびと返信】
余りにも長すぎる駄文で失礼かとも思いましたが、真摯に読んでいただき、有難いやらお恥ずかしいやら、です。ありがとうございます。
かつて娘が1歳の時にはじめて手術を受けて入院をしていた頃、わたしは失業中で、お昼のお弁当をつくって病院に泊まりの嫁さんの交代へいくという日々を送っていました。その頃、ライトアップされた大阪城が見える夜の病室で、帰りがけの同じ病気の子のお母さんが(そこには寝入った赤ちゃんたちと私たち二人しかいませんでしたが)「大抵の子は何の問題もなく健康に産まれてくるのに、どうしてわたしたちの子どもだけが・・」とつぶやかれるのを聞きました。わたしはそのお母さんに何も返事ができませんでした。その言葉はいまもわたしの中でときどきつぶやかれます。
おそらく、宮沢賢治のいう「永遠の未完成」のように、これだという答えは何もないのだと思います。子どもも闘い、親も悩み、ときに失敗して、試行錯誤を繰り返していく。答えは家族の数だけあるし、それもまた日々変わっていく。娘が病気を持って産まれて15年が経ってもいまだに、わたしは新しいことを学び、失敗し、反省し、また新しい考え方を発見する毎日です。
わたしは長年、社会の枠から外れたいわばアウトロー的な存在にずっと心を寄せてきました。中世の職能民や、旅芸人や遊女、かつて柳田が「平地人を戦慄せしめよ」と謳った山人。関西に来て知った被差別の存在もそうです。そうしたものと、わたしの娘が抱えているハンディは、わたしの中でじつはゆるやかにつながっているような気がします。いわば、合わせ鏡のもう一方のように。
娘に病気がなかったら出会わなかったろう・知らなかったろう、たくさんの風景があります。中学生のときに交通事故にあって筆談しかできなくなってしまったある娘さんもそうです。世間的にはあまりに無惨で悲しい彼女の外見ですが、リハビリ室で何度か彼女と接するうちにわたしは「いまの彼女はとても可愛い」と実感するようになりました。「とても輝いている」と。そうしたたくさんの風景によって与えられたわたしの豊かさは、結果として娘がわたしに与えてくれたものです。
一人娘の彼女は当然ながらわたしの天使なので(^^) 彼女が世間の理不尽に晒されたときは、わたしは抵抗します。貞末さんが仰るように、「子どものため」と言いながら子どもの方などまったく向いていない大人がときどき、よく居ます。教育や行政の現場に。そしてそういった、特に組織の対面や保身や都合などのくだらない理由によって子どもの大事なものが摘み取られそうになるとき、わたしは激しい怒りを感じます。
そしてそれは必ずしもじぶんの子どものためだけではなく、あの深夜の病室で答えのないつぶやきを残していったお母さんや、リハビリ室で筆談でいつもわたしたちを笑わせてくれた娘さんのような、次に来る人たちのためにも声を上げるのだと、わたしはいつも心の片隅でそう思っています。
じぶんの見知らぬものを知ることによって、じぶんもまた豊かになれる。変わっていく。それはわたし自身が経験してきたことです。
わたしが関心を抱いてきたものは結局のところ、差異化や排除といった、人を区別し、差別し、排除しようとするその心の働きについてだと思います。そしてそうした心の働きは、じつはわたしの内にも根深く存在している。存在しているということをわたしはいつも意識しながら考えるようにしたいと思っています。
貞末さんの撮られて来た多くの作品も、いつか見せて頂きたいと思っています。わたしの場合はじぶんの子どもですが、他者に心を重ねるその理由が作品には満ち溢れているのだろうと思います。
ついつい、いろいろと長くなりました。
コメント、ありがとうございました。

貞末麻哉子さんの 主な Produce作品紹介 http://www.motherbird.net/~maya/

2015.9.12

 

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自転車に乗って家から1分の図書館へ行く。新刊の棚に長田弘さんの「最後の詩集」を見つけて、カウンターの嫁さんから借りてきた。

詩を読まなくなって久しいが、その間もずっと、長田さんの詩はいつも心に近しかった。

『One day 』
昔ずっと昔ずっとずっと昔
朝早く一人静かに起きて
本をひらく人がいた頃
その一人のために
太陽はのぼってきて
世界を明るくしたのだ
茜さす昼までじっと
紙の上の文字を辿って
変わらぬ千年の悲しみを知る
昔とは今のことである
黄金の徒労のほかに
本の森のなかに何がある?
何もなかったとその人は呟いた
構わないじゃないかと太陽は言った
Forever and a day
一日のおまけ付きの永遠
永遠のおまけである
一日のための本
人生がよい一日でありますように

長田弘「最後の詩集」(みすず書房)

2015.9.12

 

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「こんどの日曜、空いてる?」とわたし。「山に行きたい! 山で浄化されたい!」と娘。

けれどその時点では予報は雨模様だったので、代わりに阿倍野のトーベ・ヤンソン展か、西宮の横尾忠則「Y字路」展かと言っていたのだが、直前に予報が晴れに変わって急遽、いつもの天川へ。

いつもの定番コースで黒滝の道の駅でピリ辛コンニャクを食べて、洞川でゴロゴロ水を汲んで、ミタライ渓谷をはるかに奥へ、行者還の手前の源流の河原へ。焚き火をおこし、嫁さんが朝用意してくれたおにぎりと、ゆで卵、梨のほか、飯ごうでお湯を沸かしたインスタント味噌汁に洞川で買った名水豆腐をぶちこみ、おなじく道中で買った子持ち鮎の塩焼きを再度焚き火であぶって、贅沢な昼食。

食事のあとは、思い思いに。わたしは水辺に設置したチェアーで水音を聴きながらしばしうとうとと昼寝。娘は岩場を登ったり降りたり、焚き火を眺めたり、クワガタをみつけたり、あれこれ。

帰りは行者還のトンネルを抜けて大台方面へ。吉野ー新宮をむすぶ愛しの169号線から宮滝経由で帰宅した。

2015.9.13

 

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単なる政治についての意見ではなく、文明についてのアンチテーゼ。

旧態依然の政治家は相変わらず政治的ギ論で時間をつぶしているが、そうじゃないんだよ。

政治じゃなくて、もっと大きな文明の話なんだよ、みんなが感じ、憤っているのは。

あんたらの小さな器じゃ理解できないだろうが。

津波、原発、多くの人が苦しみ、考え、これまでの価値観を疑った。

だからこそ、いまのこのうねりがある、と思う。

あともどりは、できない。

多くの人が苦しさから沢山のことを自ら調べ学んだ。

社会の仕組みや世界構造、人類そのものを手玉に取っている巨大資本家たちの存在、それらに迎合し自国の国民を置き去りにする日本の政治家や官僚たちの姿。
安倍政権のお偉いさん、俺たちが訴えてるのは安保法案に繋がるあんたらの国民を舐め切ったこれまでのやり口そのものに対してなんだよ。

今日本中で起きている「安保関連法案反対」の動きの裏には社会や世界構造を認知した国民たちの知性とこれまでのこの国のあり方を変えたいという想いのウネリが存在している。

安藤 栄作さんのFBから)

2015.9.14

 

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昨夜、3時近くまで国会中継や国会前中継をPCで見ていた。

国会の演説をこれほど長時間聴くのはじつは生涯ではじめてじゃないか(すみません)。

政権交代のときに1票を投じて以来、民主党にはちょっとガッカリしてきたけど、でも昨夜のこの福山氏の演説はストレートによかった。

人間としての血が通っていた。

でもあのとき国会にいた過半数は人間ではなくゾンビ。

奥崎 謙三が「おまえらロボットか! 何か言ってみろ!」と車を叩いたのと同じ輩で満ちていた。

2015.9.19

 

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残念ながら」こういう人は多いんだな。現実には。

「徴兵制は必要ですよ」
「審議は充分に尽くされた」
「デモも若者が多い。よく知らないでカッコだけで集まっているんでしょ」
「竹島を取り返さなきゃイカン」

先日、わたしの職場で飛び交っていた会話。
わたしはあえて会話には加わらず、ひとり黙ってPCのキーボードを叩いている。

何だろうね。
説得しようとか、話し合おうとか、ギ論しようなどとは思わない。
ラインを引いていて、ラインの向こう側はそれぞれ良い関係の職場の同僚。
でもラインのこちら側は・・

「国会前に行ってきた」と言える同僚はあんまりいないな。

「ギ論なんて!」
とむかし、清志郎が書いていたのさ。

2015.9.20

 

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駆け込みで県立博物館「開館120年記念特別展 白鳳−花ひらく仏教美術」を娘と二人で。
最後の日曜とあってか、9時半の開館時にすでに長蛇の列。

この国でまだ仏像というものが定着せず、彫琢されもせず、朴訥とした揺り籠の中にいたようなこの時代の仏像が、わたしはけっこう好きかな。
相変わらずいちばん好きだったのは、やっぱり法隆寺の童子のような文殊菩薩立像(童形の中にじつはきびしさもおぞましさもある)。
子も同じ法隆寺のいわゆる夢違観音、と龍首水瓶。

天蓋や橘夫人の厨子、薬師寺の東塔の水煙などに飾られたレリーフのデザインなどもよかったな。たなびく煙のような霊性を感じた。千何百年も経って、われわれはそうしたものを、逆にすっかり失ってきたんじゃないか。
そんなふうに、しばし「白鳳びと」となって感性を遊ばせたのが愉しかった。

昼近くまで丁寧に見て、県庁向かいの公園で「シェフズ・フェスタ」みたいな食のイベントをやっていたけど、子が「もう、人酔いした〜」というので、夕飯の買い物をして、子が「マックが食べたい」と言うので久しぶりにマクドナルドをドライブスルーして、帰宅した。(わが家ではやっぱり「マクド」とは呼ばない)

「マック」のお昼を娘と二人で食べてから、ちょっと疲れていたのでそのまま昼寝。日の当たるリビングより、穴倉のような書斎の方がひんやりと涼しくて心地よい。書棚と机に囲まれた狭いスペースにイ草の枕を置いて、頭の上のミニ・コンポでVan Morrison の Avalon Sunset を聴きながら、法悦の表情で(たぶん)眠った。

2015.9.20

 

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