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12/17 18:39
紫乃が「一番」にこだわるのはだれでもない、自分たちに認めてもらいたいからだよ。怒られることばかりで、「お前は人間のグズだ」「グズ以下だ」「バカだ」と言われたことがずっと心に残っていて、頑張ろうとしてるんだけど、それでも何かで叱られて・・・
私も小言をいっぱい言いもしたし、紫乃のペースも考えず、急かす毎日でした。

だから、一番になって認めてもらいたいと思ってるんだと思う。
入学後、最初の試験で一番になったけど、「当たり前だ、○○ぐらいで」と、お父さんに言われたと沈んでいました。


12/17 20:04
今日はお父さんと顔を合わすのかつらいと言ってますので、そっとしておいてやってもらえますか。

お父さんにお願いです。子どものうつについて調べてみて下さい。
コップの水が少しずつたまって、それが突然、溢れ出すように、ストレスが少しずつたまって、不登校やリストカット、うつなどになるそうです。

紫乃が、お父さんに「学校に行かないんだったら、家、出てけ」って言われたと言ってましたが、紫乃はうつという病気なのです。

紫乃は学校が好きです。でも、行けないんです。
わかってやって下さい。

○○に行くようになって、毎日、学校から帰ると楽しそうに学校の話してくれ、自分たちも紫乃は明るくなったねと、話してたよね。お父さんが演劇部に差し入れを持って行った時、運動場にいたお父さんに紫乃が大きな声で「お父さ〜ん」と叫んだと二人で驚いたよね。

今でも紫乃は学校が好きと言ってます。
2、3週間前、フリースクールや○○中の話もしたけど、○○に行きたいと行ってました。

まずは紫乃の病気(うつ)を治すことが先決です。
お願いします、うつであることをしって下さい。



12/19 11:25
昨夜、お父さんが「紫乃も時間をかけてみていかないといけない感じだな。そのためには俺たちが一つの考えでいないと」と、言いましたが、その一つの考えとは、お父さんが紫乃がうつであることを理解してくれてのことでしょうか。

紫乃はおととい、お父さんに言われたことで傷ついてます。
お父さんの前では普通を保とうと務めていますが、昨日、今日とベッドから出れず、食欲もありません。

「学校、行かないんだったら家、出てけ」に加えて「行けない理由も言えないなんて情けない」 「毎日をごまかして生きている」と言ってそうですが、そんな言葉で紫乃にやる気が出て、学校に行けるようになるとは思えません。

お父さんはよかれと思ってしてくれることも紫乃の気持ちに添ったものでなければ、さらにストレスを加えることになり、うつを悪化させてしまいます。

「出張してて俺は様子がわからないから、俺は俺のやり方で行く」とのことでしたが、わからないからこそ、私の話を聞いて欲しいのです。

お願いします。

昼夜逆転がまた、始まりかけてる予兆です。昨日も朝食が8時半といつもより一時間遅く、その後も夕方までベッドにいたのですが、今日は布団を頭からかぶり、出られない状態です。リズムを崩さないよう、紫乃と一緒に朝食を食べようと思い、○○に行く予定をキャンセルしました。

もう、昼食の時間になってきますが、声をかけても「あっち行って!」の状態です。
これは危険信号です。
今夜、紫乃が寝ずにパソコンをし続けていても怒らないでやって下さい。
一端、始まってしまうと治る見通しはつきません。付き合う覚悟をしておいて下さい。
友達と映画を見に行ったり、家族旅行に行けたような状態になるには容易ではないことを覚悟しておいて下さい。
2日前までの紫乃は忘れて下さい。今の紫乃を見て、今からスタートと思って下さい。二度目は一度目よりさらに回復に時間がかかると聞いています。
午前中は「あっち行って」状態でも、夕方から夜はこちらが刺激するようなことを言わなければ穏やかです。紫乃のすることに興味を持って、聞き役に徹して下さい。
怒りや忠告は絶対に禁物です。お願いします[m(_ _)m]



12/20 17:49
当たるの買った[?]
ツタヤに返却に来ています。紫乃の希望で高の原イオンに行ったのですが、入り口で「行けない」と言い出し、引き返してきました。帰りの車中では顔をかくし丸まっていました。
早く家に帰りたいといい、ツタヤには一人できました。
紫乃のリクエストのものを借りていきます。



12/20 17:59
そうだよね。私も紫乃に同じことを言いました・



12/21 21:32
お疲れ様[m(_ _)m]
あるよ〜・
・あじの塩焼き
・おくら
・豆腐と大根の葉のお味噌汁

木曜日、脳外の診察が10時30分からあるんだけど、私が仕事なので○○さん、行ってくれますか[?]
○○さんに予定がある、もしくは私も一緒に行った方がいいなら、誰か代わってくれる人を探します。



12/21 21:46
紫乃も行けるなら行ったほうかいいです。



12/24 09:34
寒いところ、ご苦労様です[m(_ _)m]
紫乃に三輪山に行こうと誘いましたか[?]

お父さん、もう一度
私が12月19日に「後で読んで」のタイトルで送ったメールをよく、読みなおして下さい。
いったんは旅行できるほどよくなっていたけど、また、振り出しに戻ってしまったのですよ。それまでの紫乃は忘れて下さいと言いましたよ。
昨夜は三輪山のことがずっと頭にあってしんどかったようです。お父さんの気持ちがわかるだけに紫乃も断れなかったのでしょう。

以前のメールにも書きましたが、紫乃の気持ちに添ったものでなければ、さらにストレスを加えることになり、うつを悪化させてしまいます。

紫乃は今、自分が行きたいと思う所でさえ、行けない状況です。お父さんは紫乃の気分転換になればと思って誘ってくれたのでしょうけれど、残念ながら今の紫乃の気持ちに沿ってなく、かえってストレスになっています。

外出すること事態に恐れもありストレスになっているのです。紫乃は今は家でゆっくり休みたいのです。
それでも外出させたいと思うならば、これがためなら、あれはこれはといくつも出して選ばせるのではなく、一発で的をい抜くものでなければなりません。
しかもドタキャンされてもいいという覚悟が必要です。

三輪山はハズレでした・
時期尚早。



12/24 11:48
はい。「ほら男爵」見たいようだったら見ましょう。

先日、二ノのドラマ「拝啓 父上様」全6巻を見たいといい、ツタヤで借りてきたんだけど、「なんか見る気がしなくって・・・」と見ようとしません。一時は見たいと思うんだろうけど、借りてきて見れる状態なのに、見るだけの意欲が湧かない、むしろ見たくないに近い気持ちになってしまうようです。
夕べ、映画を見ると言ったのは久々のことです。
夕べの楽しかった思いがあれば、今日も見れるかもしれません。が、わかりませんね。

脳外に電話しました。
受付の方が紫乃の様子をM先生に伝えてくれたところ、心配され、お母さんに話を聞きたいとおっしゃられたとのことです。(私が電話したので、受付の方が私が行くと思ったようで)

受付の方がいうには先生も色んな患者さんを見てきているからお話された方がいいとのことでした。

2013.12.25

 

*

 

 午前中、奈良市のメンタルクリニックへ二度目の診察を受けに行く。次の診察は約1ヵ月後だが、その間にロールシャッハなどのいくつかのテストを受けてもらう、と。小一時間の会話を終えて会計を待っている間、頭痛がしてきてしんどい、家に帰りたい、と言う。仕方なく、午後から予定していた整形外科のレントゲンと定期診察を急遽キャンセルする。

 ならファミリーのサンマルクで昼食を済ませてから、奈良市の保健所へ行く。4階の生活衛生課で「犬・猫 譲渡事業」関係書類の説明などを受けてから、地下の収容施設で保護された仔猫を見せてもらう。

 今日は学校は始業式だった。

2014.1.7

 

*

 

 岩崎武夫「続さんせう太夫考」(平凡社選書)をスロー・ペースで読み継ぎながら、相変わらず説経の者のモノ語る世界に半身、湯舟に身を浸している。先に読んだ巻末の「天王寺西門考」が興味深い。

 猫が飼いたいと言い出した子は保健所で保護されたロシアン・ブルー風の雑種の仔猫を見てきてから「お前がじぶんで決めなさい」と父に言われ、ジップとの狭間で悩んで今日は食欲もなくやや閉じこもり気味。悩むに堪えるだけのエネルギーが蓄えられてきた証しかと見守ることにする。

2014.1.8

 

*

 

 現在わが家で進行中の案件、二件。どちらも現在不登校継続中の子に係わることだけれど、ひとつは子の希望で猫を飼う話。これは昨日、保健所の地下の廊下でジップと候補の仔猫の初顔合わせがあり、予想以上によい感触だったということで(ジップも吠えることなく、仔猫も怖がることなく匂いを嗅ぎに近寄ってきたとか)、週明けに市の担当者の家庭訪問があり、問題がなければ仔猫をわが家に預かって二週間のトライアル期間が始まる。もうひとつはこれも子自らのリクエストだが、英語でナルニア国の原書を読みたい・そのための勉強をしたいということで家庭教師を雇うことになったこと。これも数日前にYがネットで見つけてきた派遣会社の担当者が来宅して受験勉強のたぐいではなく、ナルニアやハリー・ポッター、あるいは子が「もののけ姫」のDVDから写した台詞の英語字幕と日本語を並べたノートなどを教材として英語の愉しさを教えてあげて欲しいという依頼で週二回、現在先生を選考中であり、新しいことがふたつも同時進行していると家の中も何かと忙しないようだ。

 ジップが夜、いっしょに寝てくれるお蔭で昼夜逆転はだいぶ治ってきた。

2014.1.10

 

*

 

 所用があり立ち寄った大阪南部で大和川沿いのかつての被差別部落を訪ねる。橋の上から東の方を望めば遠く信貴山や二上山の山並みが見える。集落の墓地を歩き、かつてバラックが並んでいたという河川敷を眺め、廃墟になった「人権文化センター」とその隣の閉店した公衆浴場(入りたかった)の建物を通り過ぎ、地下鉄の広大な車庫跡地という公園の売店でかすうどんのメニューを見つける。けっこう歩いた。帰ってから油かすやさいぼしが久しぶりに食べたくなってネットで注文してしまった。

部落解放同盟浅香支部 フィールドワーク http://www.rentai-union.com/head_line/2010/2010.07.23/2010-07-23-1.html

福祉の店「わぁくわぁく浅香」 http://www16.plala.or.jp/w-asaka/

安井商店 http://www.gourmet-king.com/

2014.1.13

 

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 水曜にネコがわが家に登場してから4日目になる。名前は子の命名でレギュラス。「レギュラス・ブラック」はハリー・ポッターを読んだ人なら知っているだろうが、悪に魅せられた後にこれに抗い、家族を守るために人知れず己を犠牲にした悲劇の人物である。ケージはしばらくわたしの書斎に仮置きしていたが今日、玄関の上がり框と同じ高さの延長台を即席でつくって、土間に張り出す形でジップのケージと並べて設置した。肝心のネコ、レギュラスの方は何やら飄々とわが家に馴染んでいる。心配していたジップとの関係も上々である。ただし互いにはしゃぎすぎて時折り部屋が競技場になってしまったり、レギュラスが気になってジップが吠え過ぎてわたしに怒られたりしている。二頭がじゃれているところを見ていると、ネコの方が一枚上手に見える。レギュラス6ヶ月、ジップもうじき4歳。

 木曜は昼から大阪の整形外科の定期健診だった。前回、メンタル・クリニックでエネルギーを消耗して日延べしてもらった分。2年半ぶりにたまたまレントゲンで今回、骨盤のあたりを撮ったところ左足の股関節が相当ずれていて、現在大腿骨の3分の一しかかかっていないことが判明した。K先生いわくこれは神経の麻痺による臀部の筋肉の衰えと、それに成長期の影響もあるだろうと(体重の増加など)。このままでは股関節が外れるようになってしまうため、多くは手術で骨盤の受け側と大腿骨の先端の形をいじって外れないように整形するという。近いうちにCTで再度状況を確認してから最終判断となるが、手術はおそらく避けられない模様。思わず子が「二年に二回はキツイわ〜」と。それはそうだろう。入院は約一月半で、その後車椅子がさらに一月半。リハビリも含めれば完全復帰には数ヶ月かかるのではないか。

 金曜の夜は担任のA先生が夜、夕食を食べに来てくれた。先生に会いもしない、電話も出ないという状況を慮ってYが企画して先生にお願いした。四人でシチューを食べて、しばらく話をし、それからトランプで遊んだ。「学校では見れない紫乃ちゃんの素顔を見れてよかった」と先生は喜んで帰っていった。

 日曜の今日はクラスの仲良しのHちゃんが昼からまた遊びに来てくれた。二人で映画三昧の半日。わたしは前述のネコのケージ台を作成してから、買物に行って、夕方ストーブの前でジップと昼寝。夕食にかすうどんをつくった。さいぼしは以前にYが勤めていた公民館の人が手に入れてくれたものの方が美味しかったな。

 年明けの7日に山形新幹線に飛び込み自殺した中学1年生の女の子。当初、学校側が「これまでの学校生活に問題はなく、いじめも確認されていない」と説明していたが生徒へのアンケートを行ったところ、100人以上の生徒が死んだ女の子へのいじめの記述をしたという。知らぬは教師ばかりか。年末に単身学校へ話しに行った折、担任のA先生・学年主任のM先生に(古いたとえだが)「炭鉱のカナリア」の話をした。引きこもりや自殺してしまう子どもたちはみなその原因を個へ還元しがちだが、全体への警告でもあるのではないか? それを誰が受けとめているのか? そんな話をしたのだった。

2014.1.19

 

*

 

 昼前、会社にいるわたしにYから電話がかかってくる。今日はメンタルクリニックで予約していたロールシャッハなどのテストを受ける日だったが紫乃が「行きたくない。誰にも会いたくない。人間はみな嫌いだ」と泣き叫ぶので、「じぶんのことはちゃんとする」と言った約束と違うからネコを保健所へ返してくるとYも言い返したという。そういう彼女もまたなかば泣き声である。子と電話を代わって欲しいと言っても、布団に頭からくるまって出てこない、という返事。「そんなに行きたくないのなら無理して行くことはないだろう。ネコと病院とは別の話なんだから、同列で話すのはよくないんじゃないか。病院へはおれが説明をしておくから」と電話を切り、病院へかけなおす。後刻に先生の伝言を聞いた看護士が「無理してくることはない。これるようになったら来てくれたらいい。次回の予約もキャンセルしてくれてもいいし、お母さんだけ来て先生と話しをしてくれてもどっちでも構わない」と。

 夜は二度目の家庭教師の先生が来てくれる。昼の時点ではこちらもダメかとYは思ったそうだが、来たらきたで案外と機嫌よく授業を受けてくれた、と。

 帰宅すると、Yが少々風邪気味で先に寝るというので、代わりに子が夕食のしたくをしてくれる。その間に子の部屋を覗くと、ベッドの上にいたジップが降りてきてすりよって来るので頭を撫でてやる。それを見てこんどは子の椅子に乗っかっていたネコのレギュがやってきてすりよってくるので、こちらももう片方の手で撫でてやる。

 通勤途中でいま聴いているのは、The Band の Live at the Academy of Music 1971 。それと Ian TysonI Outgrew the Wagon(1989)。Mavis Staples の One True Vine(2013)。

Mavis Staples / One True Vine http://blog.livedoor.jp/gentle_soul/archives/52084974.html

2014.1.21

 

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 土曜。インフルエンザのためこれまで代理のひとが来てくれていた家庭教師だが、やっと本来予定の先生が来る。たまたまわたしが休みであったため夕方6時半にジップを連れて駅まで迎えに行き、歩きながら子の不登校へ至る経緯や病気のことなどをざくっと説明する。先生は奈良大学一回生の女子学生さん。一時間半の授業をしてもらって、子いわく「めっちゃ合う」。先生いわく「何か波長が合う気がします」。はじめての授業はいろいろ雑談も多かったようで、浮気をされて別れた先生の彼氏のこと、身勝手なクラスメートへの対処の仕方、等々さまざまな会話もあったようで。一見奥ゆかしそうだが、ずばりとものを言うタイプが子にもぴったりきたらしい。今後のスケジュールの調整など話していたら遅くなってしまい、雨も降り出したこともあって、帰りはわたしが車で送りオオカミ役を拝命した。先生はもう一人中学生の女の子も持っているがその子と比べても、子は「落ち着いていて、大人びた物言いをするので、こんなに違うのかとびっくりした」とか。ともあれしばらくは勉強なんかより、恋の話でも世間の話でも、いろいろと話し相手になってくれることが望ましい。いまは数少ない「世間」でもあるわけだから。

 今日は大阪の国際女子マラソンの会場でわたしは一日中、寒空の下の勤務だった。帰って夕食後、子と「天国」の話をした。「天国とか地獄とか極楽とか、ほんとうにあるのかね」と子が言い出したからだ。「もともとブッダは地獄とか極楽なんか言わず、それは後世の弟子たちがブッダの考えを分かりやすく伝えるために喩えたようなもので、本来は苦しみの連鎖をもう一歩の高みにたって解き放てと言ったのがブッダの思想なわけで、イエスの言った天国はまたちょっと違うんだろうが、それは洗礼を受けたあなたたちの方がよく分かっているんじゃないか」とわたしが言えば、子は「わたしにとっての天国は文明のない、機械のない、人間のいない、自然の動物たちの世界だ」と。

2014.1.26

 

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 月曜は、前回キャンセルしたメンタルクリニックのロールシャッハなどのテストを再度、Yが予約しなおしていたのだが、多少愚図ったらしいが何とかやり終えた。「やれた」ということで本人も多少は自信になったらしく、一日元気そうだった。火曜の今日は和歌山から、Yの幼馴染みのSちゃんがあそびにきて、Sちゃんも加入している嵐のファンクラブ限定のグッズをたっぷり子に置いていった。こうやっていろんな人に合って、少しづつ現実の世界に戻してやるうのだ、とYがこっそりと言う。彼女に言わせるといまの子は9割がファンタジー(空想)の世界で生きているから、と。

 前に比べたらいろんなことがちょっとづつよくなってきたねと最近、Yと確認したこと。

 ・昼夜逆転が治ってきたこと。(でもときどき犬猫といっしょに昼寝してしまう)

 ・電話に出れるようになったこと。メールもときどき返信を返すようになったこと。

 ・いろんな話をするようになったこと。たいていは映画や物語の話ばかりだけれど。

 ・ちょっとづつだが買物など外へ出れるようになってきたこと。レンタルビデオ屋やペットショップなど。

 ・無理なことを「無理!」とはっきり主張できるようになったこと。

 ・「映画を見たい」とか「カラオケに行きたい」とか、少しづつ意欲が湧いて来たこと。

 ・家の手伝いもできるようになったこと。

 ・学校の担任の先生や家庭教師の先生などの外部の人間を受け入れられるようになってきたこと。

 ・じぶんを否定するような物言いが減ってきたこと。

2014.1.28

 

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 年末の某商業施設の立ち上げで長期出張をしていた頃に読んだ本。本部の若き友人Uちゃんから借りたタイラー ハミルトン, ダニエル コイル 「シークレット・レース ―ツール・ド・フランスの知られざる内幕―」(小学館文庫)、オープンした店の本屋で買った中上健次「千年の愉楽」(河出文庫)、そして桑名のリサイクル店で見つけた櫻井進「<半島>の精神誌 ―熊野・資本主義・ナショナリズム―」(新曜社)。これらはすべて会社が借り上げた公営団地の茶色の厚紙がカーテン代わりにぶら下がった殺風景な6畳の部屋の隅、敷きっ放しの布団の枕側に横付けにしたキャリーケースをテーブル代わりに深夜営業のスーパーで買った半額の弁当や刺身や惣菜などを食べながら読み継いでいった。それからシャワーを浴び、また発泡酒や缶チューハイを舐めながらしばらくページをたぐり、あとは布団に入ってタブレットの野球ゲームを必ず一試合やって眠りについた。これらは習慣のように一日も違わなかった。キャリーケース一つ分の所有物で人はシンプルな生活を送れるものだとわれながら感心していた。

 今日は amazon の古書で注文した室町京之介「香具師の口上集」(坂野比呂志ライブCD付・創拓社出版)が届いた。

2014.1.29

 

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 永遠の歌というものがある。冗談でなく時空を跳び越え突き抜けてしまう曲だ。多くの心ある歌い手が取り上げている Down By The Sally Garden、Dylan & The Band や Ronnie Gilbert が歌う Spanish is a Loving Tongue、Liam Clancy の歌う Red Is The Rose など。これらはどれも現代では素朴すぎるほどのメロディかも知れないが、いまでもぼくの心を無限の彼方に飛ばして、そして宙ぶらりんな甘美のはざまで苦しめる。いや、これらの曲はわたしが何処からきて何処へ行くかを知っているようなのだ。そしてわたしもこれらの歌の来歴を知っている。ずっとここにいたいと思うが現実の世界に下っていかなければならない。でもいつかずっといれる日がくるだろう。

 たとえば Mark Knopfler が歌う Raglan Road はどうだろう。この演奏は歌っている音よりも呑み込んだ音の方が多くを語っている。音に発することを諦めぐいと呑み込んだ分だけ豊穣なのだ。そういう音楽を聴いていたい。

 

Spanish is a Loving Tongue http://www.youtube.com/watch?v=5VwYwSWaJUo

Down by the Sally Gardens http://www.youtube.com/watch?v=027ZJX5XVjs

Red Is The Rose http://www.youtube.com/watch?v=RVFdBO8kak8

Raglan Road http://www.youtube.com/watch?v=zftcuVQDcNM

2014.1.30

 

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 昨日は整形の再診察で、わたしも夕方に会社を早引けして合流した。CTを撮って、レントゲンを撮って、それらを踏まえた上でのK先生の説明。今回は股関節にポイントを絞ってさまざまなアングル、姿勢から撮っている。足を広げたところ、すぼめたところ、直立したところ。それらの動きを見ると本来なら尾てい骨の一点に収まりながら回転しているべき大腿骨の丸い部分が、足の格好によってずいぶんとずれて(動いて)いるのが分かる。背中の(脊髄の)ほんの一部分の神経が阻害されただけで、筋肉が弱くなり、筋肉が弱いために骨があるべき場所に保持できない・変形していく。先日も新たな研究例で騒がれている万能細胞で神経がうまく再生できたなら、排泄の部分はあるいはよくなる可能性もあるかも知れないが、変形したり、整形した骨や移植した筋肉などはもう元に戻すことは難しいだろう。K先生から同じような症状の別の子の手術例の写真をプリントしてもらったが、ただレントゲンの画像を見ている限りでは、せっかく持って生れてきれいに成長してきたように見える尾てい骨も大腿骨も、気持ちとしては「無残」としか言いようがない。子は黙って先生の説明を聞いていた。それから帰りの車の中では「今日はもうこのこと(手術の話)はしないで欲しい」と言って、あとは後部座席で黙って窓の外をじっと見つめていた。じぶんの体がこんなふうにいじられることが平気な人なんてもちろん誰もいない。この子はいままでこんなことを何度も何度もこらえてきたのだと思うと、こちらも涙が溢れてきそうになる。溢れてきそうになるが父親が泣くわけにはいかないので「夏休みは演劇部の文化祭の練習があるからその時期に入院はしたくない」と言う子に「そういうことはまずは学校へ行ってから言え」なぞと冗談めかしてまぜかえす。

 今日は休日。子は予約を入れていたわたしといっしょに歯医者の定期健診に行く約束をしていたのだが、昨夜、やや遅い時間からみんなで見出した映画「バロン ほら男爵の冒険1」の影響か、朝から頭が痛いと言って朝食もそここそにふたたびベッドへ戻ってしまった。Yは早番の仕事。そんなわけでわたしは朝から耳鼻科へ花粉症の薬をもらいに行き、歯医者で外れた詰め物をかぶせてもらい、ケージの中のトイレがひっくり返らないように工夫をし、庭の隅に生ゴミ用の深い穴を掘り、西友で買物をして、旦那の定年退職後に奈良へ移住する計画のある関東の妹とひさしぶりに長電話で話し、ひとりでうどんをつくって遅い昼を食べ、やっとYが帰ってきてからソファーで新聞を読みながら夕方すこしばかりうたた寝をした。夕食後、しばらく前の新聞日曜版で特集していた MOOC (Massive open online course WEB上で無料で参加可能な世界規模の大学講義のシステムのこと) の話をし、それから何となく i POD でむかしの「ゴム消し」に書かれた1〜2歳頃の子の話が面白くあれこれを拾い読みしていたら好評で、三人でで笑ったり、Yが当時を思い出して涙したりしながら、結局深夜になってしまった。

2014.1.31

 

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 火曜は休日だった。メンタル・クリニックの診察があるので休みをとっていたのだ。(このごろはYだけでは病院へ連れて行くのが難しい時がある) 前回のテストの後半をやってその間―――先生の診察まで小一時間ほどありそうだったので、わたしとYは車で15分ほどの学校へ寄って担任のA先生へ主に手術の説明をしてきた。学校では子の教室に近いところへ障害者用トイレの増設と、それに今回の車椅子対応でエレベーターはさすがにすぐというわけには行かないが、階段部などを利用して何らかのスロープを仮に設置できないかを検討してくれていると言う。車椅子に乗っている約1ヶ月ほどの間だけ、学校への送迎はなるべくYがパートの時間を調整し、休みの日は一日学校にいて子の移動の補助(階段をおぶって、また車椅子を運ぶ)をするが、仕事などでこれない時は申し訳ないが学校側でおなじ対応をしていただけないかとの提案をし、A先生はこれをこころよく了解してくれた。30分ほどで急ぎ話を終わらせて、病院へ戻るとまだ子は別室でテストを継続中でわたしとYだけでN先生に呼ばれ、しばらく話をしてからテストが終わった子も後に合流した。心理テストの結果は1ヵ月後にまとまるとの由。前回は形を見て連想するイメージテストがメインだったようだが、今回は文章問題が中心だったようで「それなりに面白かった」と子は言う。帰りの車の中で子がコナンくんの映画をぜひわたしたちに見て欲しいと言うので、サイゼリヤでゆっくりした昼食を済ませたあとでツタヤへ寄り、コナンくんの映画と、それからこれは探偵がらみでわたしが勧めたアガサ・クリスティの「オリエント急行殺人事件」を借りて帰ったのだった。ところがせっかくのこのコナンくんの映画の上映中にわたしが寝てしまい、「お父さん、ひどい!」と子が憤慨して、罰でもうひとつ別のコナンくんの映画を夕方にもう一度借りに行かせられる羽目になった。(そして夕食後にまたみんなでそれを見た)

 そんなふうにわりと一日元気だったのだが、明けて水曜の昨日は朝からブルーで、ひねもす何やら部屋でぼうっとしたり、しくしく泣いていたり、とにかく本人も分からない感情の波があるらしい。

2014.2.6

 

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 堺の方の新しい物件の引継ぎで消火ポンプ室の片隅にしつらえた長机の上のPCに向かって資料をつくる毎日。わたしのリクエストで年末の名古屋出張時とおんなじような面々が揃って、毎日愉しく仕事をしている。名古屋で潰れたノートの二代目、子の学生証で割引購入した最新の Adobe セットも入れた i5、メモリ8Gのニュー・ノートも快調。

 子は一進一退といったところか。日によって元気だったり、落ち込んでいたり。両親もそれに連動して小さな諍いをしたり大きな口論をしたり建設的な話をしたり。「人に会いたくない」と先週は二度、家庭教師の先生をキャンセルした。昼夜逆転がまたひどくなってきたので、パソコンとDSは夜10時に預かることにした。それでも明け方近くまでノートに何やら物語を書き綴っている。今日はひさしぶりに来た家庭教師の先生がすすめてくれたというDSのゲーム「大神伝」の中古を800円で注文した。

 ネットで夜更けに衝動買い。一枚はEight Classic Album シリーズのペギー・リー(CD4枚に8枚の名盤収録で送料込み1190円!)。この人のソフト&ハスキーな声と姉御的な表情はじつにわたし好みで。それにもう一枚、History of American Folk と題されたCD3枚組みのコンピレーションは 「"Songs of Hope And Struggle"と題された副題が付く、 欧州出身の白人移民ではありながらも、遅れてやって来た故の夢と苦労を中心として編集されたアルバム」そうな。何となく買ってみたこのアルバムがじわじわと沁みる。

 兵庫県の某商業施設の警備室に勤める元書店員のNさんがすすめてくれたスティーヴン・キングの「11/22/63」(文藝春秋)を読んでいる。ぼくも1950年代の芳醇なルートビアを飲んでみたい。

Peggy Lee(Eight Classic Album) http://www.amazon.co.jp/gp/product/B0085Z5AW0/ref=oh_details_o02_s00_i00?ie=UTF8&psc=1

11/22/63  http://www.amazon.co.jp/11-22-63-%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%83%B3-%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%B0/dp/4163824804

2014.2.12

 

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 堺での仕事もやっと一段落しかけてきて、わたしも徒歩10分のレオパレス・ホテル生活から足抜けをしつつある。深夜、この肌色の穴倉のようなユニットバスにたっぷりの湯を落とし湯蛸のようになって読み継いでいたのはスティーヴン・キングの「11/22/63」で、二段組500ページ×上下巻を図書館の締め切りを一日過ぎて今日やっと読了した。奈良の家族三人での生活が切り離されてその間、わたしは様々な立場の人たちに混じって仕事をしているか、1958年から1963年にかけての古きアメリカ合衆国ダラス周辺でのリー・オズワルドによるJFK暗殺を防ぐための尋常ならざる主人公の冒険に加担していたわけだ。その他にもちょうど東北の震災・人災から3年目ということもあって深夜、(家では滅多に見ない)テレビで企画番組をやっていたのをときどき見た。いちばん印象的だったのはあの震災一年目に作家の高村薫の思索を追った番組(NHK ETV特集「生き残った日本人へ 高村薫・復興を問う」)で、この人はまっとうなことをまっとうに言っている数少ない日本人の一人だ。明日の仕事があろうとこの番組だけは最後まで見なければならないと、もう寝ますとロフト部屋にあがっていった同室のF君に返事をしたか否か覚えていないほど画面に齧りついて見続けていたら、番組の最後に高村薫が対談をしに行った相手がわたしも敬愛する東北学の民俗学者・赤坂憲雄氏だったので、ああ、こんなふうに人というのはどこかでつながるんだなと合点したのだった。もちろんどうしてもつながらない人間もいる。4人の子どもたちと妻を巨大なハンマーで殺戮したダニングのように、最後には殺してしまわなければならない人間もいるかも知れない。過去の頑強な抗いによって美しい顔に無残な傷を負った主人公の恋人が絶望の果てで世を憚り暮らしていた場面は、わたしにはいまだに学校へ行かず自室に閉じこもっているわが子の姿にも“共鳴”しているように思えた。哀れなセイディーが勇気を出して傷のある顔を衆人の前に晒したときには、わたしはYのことを思っていた。ふだんは涙もろいYも、ときにそんな勁さを見せるときがあるからだ。「震災ですべてがチャラになったわけでない。そうではなくてむしろ震災は震災前にこの国が抱えていたさまざまな問題を露わにした」 「なぜみんな怒らないのか。電力というものは安全な生活があってこその電力ではないのか」 「キリギリスはしょせんアリにはなれない。アリになれるんだったらとっくの昔になっている。キリギリスはしょせんアリにはなれないんです」 作家の思索の合間に流れた、津波ですべてを失った東北の老漁師が「(水浸しになった)このおれの家を直すために金を使うより、子どもの教育の方が優先だ。おれの家を建て直したって未来にはなんにもつながらない。それよりも子どもたちの教育に金を使って欲しい」と真剣な顔で喋っていた言葉に、ほんとうの智慧を思った。この国の体たらくな政治家どもにはないほんものの強じんな知性を。この国はいまや1963年にJFKを迎えたダラスのように悪意に満ちているだろうか? そうかも知れない。わたしは Iris Dement の Our Town を聴いている。彼女の声と音楽には田舎のちいさなホームタウンに根づいた確かな価値観があるような気がするからだ。まだあの時代にきたばかりの「11/22/63」の主人公が飲んだ1950年代の芳醇なルートビアのような。

2014.3.13

 

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 夜、担任のA先生が来て夕食をいっしょに食べ、先生が今朝撮ってきた演劇部の「ゲリラ・ライブ」の動画をみんなで見たりした。「ネコ、見ますか?」と子が先生に尋ね、ふたりで二階の子の部屋へあがっていった。学校に行かなくなって初めのころは先生が何度訪ねてきても子は会おうとしなかった。年明けになっていっしょに夕食を食べ、トランプをして遊んだ。そして今日ははじめて、みずから自分の部屋に先生を招きいれた。先生が持ってきた2年生のあたらしい教科書もふつうにうけとっていた。少しづつだが、よくなってきているのだと思いたい。A先生は子のおすすめと手渡されたエンデさんの「魔法の学校」と山岸涼子「日出処の天使」を手に帰っていった。夜10時。

2014.3.14

 

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 たしか九州・博多の本屋の店頭で目にして表紙を携帯のカメラで撮っておいたのを後に注文した筒井功「新・忘れられた日本人 辺界の人と土地」(河出書房新社)が面白かったので休み時間に堺の本屋の店頭で見つけたおなじ著者による「サンカの起源 クグツの発生から朝鮮半島へ」(河出書房新社)を衝動買いしてしまった。平成の世になってからの聞き取りで語られる一所不在の輩(ともがら)の記憶の断片を風呂の湯に浸りまた就寝前のベッドでしずかに追いかけている時間が限りなく心地よい。こうした人たちのあり方に心惹かれるというのもわたしの深部にもともとそれらに共鳴するささらのような板があるからなのかも知れない。その板はなぜそこにあるのか?

2014.3.19

 

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 わたしが読んでいた朝刊の一面に、泉佐野市が市長と教育委員会の教育長の意向によって小中学校の図書室から「はだしのゲン」を回収させていた記事の見出しを見つけて、子が「それはなに?」と言うので、「読んでごらん」と新聞を差し出した。「なにこれ、馬鹿みたい」 「「きちがい」や「乞食」の言葉がよくないからというのが理由だけど、ほんとうの理由はなんだろうね?」 「ほんとうの理由って?」 「こいつらはほんとうは「はだしのゲン」の何が気に入らなかったのか、考えてごらん?」 「・・・ 戦争が悪いことだと言っている漫画だから?」 「そのとおり!」 そんな会話から南京虐殺や教科書検定やヒトラーの演舌やそれに乗っかった当時のドイツの人々の話がひとしきり続き、最後に書斎に子を呼んで日本語の歌詞と併せてユーチューブでレノンの A working class hero (is something to be)、そして  Gimme Some Truth を聞かせた。そんな休日一日目の朝。

 午前中は子の脳神経外科で大阪。午後からホームセンターなどで明日からの小屋の壁塗り作業に必要な下地剤やコテ、コテ板、マスキング・シール、浅黄土などを購入。

2014.3.20

 

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 長期出張や何やらで約半年振りの作業再開か。ガーデンハウスはいよいよ前面(南壁面)の漆喰塗りの作業。満を持して用意した5連休の初日は病院の診察もあり、また雨天でもあったので準備(資材の購入等)に徹して、いよいよ二日目から好天が続くと思っていたら近所の懇意にしている家のお婆ちゃんが亡くなって、お通夜とお葬式の送迎役と式場での受付をこなしながらの作業となった。作業の詳細については後日の木工の項目に譲るが、金曜日は曇り空の中、子も手伝ってくれて二人で下地のモルタルを塗る作業。土曜日は乾燥を待つ間に3年間使った仮の資材小屋を解体して廃材で北側の狭い隙間にささやかな資材置き場をこしらえ、仮小屋の端材などを引越しさせ、夕方に乾いて白くなった下地面にシーラー(接着剤)を塗ってから急いでお通夜の式場へと向かった。日曜の今日は昼間でお葬式で、帰ってきて昼を済ませてから、生憎子は同級生のHちゃんとホビットの映画を見に行ったのでこんどは一人、ヨーロッパ漆喰を二度塗りして何とか作業を完了させた。左官仕事というのはかなりハードで腕、そして手首がへろへろになる。仕上げの塗りは微妙な力加減とコテ捌きが必要となるので、面白くもあるのだが、注意力は欠かせない。やっぱり職人の世界だね、これは。はじめての作業でうまくいくか心配だったが、何とかそつなくいった模様。色もイメージしていた「フランスの農村の作業小屋」風で思っていた通り。仮の資材小屋を解体して、漆喰作業を終えた小屋を眺めていたら、広がった空間がガーデンハウスを中心にまた頭の中で再構築されて、当初考えていた屋根付のウッドデッキと物干し場を隠す目隠しは不要なように思えてきて、Yと話し合ってゲートからのこの奥への空間の広がりは極力残して、リビングからは小さな二段のステップと横にゴミ箱を収納したベンチを続きでこしらえ、目隠しはつくらず、ベンチと物干し場の間に簡単な園芸品の収納ボックスをつくることにした。物干し場はかつてこの家に生えていた二本の樫の樹を利用してオーソドックスな竿掛け台を誂える予定にしている。

2014.3.23

 

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 連休最終日。夕方に学校の担任のA先生、学級担任のM先生が来られる(二人とも女性)。漆喰を塗ったばかりの小屋を披露し、夕飯にわたしがパスタを振る舞う。M先生は買ったばかりの iPad でクラスの合唱大会の動画を見せてくれる。子もさいしょはリビングで、最後に両先生を自室に招いてしばらく話をしていた。今日、子の家に行くという先生たちにクラスの生徒たちが「わたしたちも行きたいと!」と言っていたという話を子も嫌がらずに聞いていたため、数日内にほんとうにA先生が連れてくることになった。少しづつ、少しづつ。

2014.3.24

 

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 このごろはだいぶ元気になってきたからひょっとしたら、と期待してしまったかも知れない。始業式の今日。久しぶりに何とか制服までは着れたが、それからもう深海の貝のように動かなくなってしまった。早朝の7時。仕事へ行くのを遅らせた父は叱咤し、「なぜ行けないのか」と詰問し、ベッドの脚にしがみついた子を無理やり廊下まで引きずり出し、口を挟もうとする母を怒鳴りつけた。「じゃあ、学校の門のところまで行って桜を見て帰ってくるだけでいい」 そう言っても子はもう動かない。顔を床に押しつけて、嫌だ嫌だと泣くばかりだ。

 一時間ほどして、「じゃあ、学校じゃなくていい。どこか別の場所の桜を見に行って、そこでおまえだけの始業式をしよう」と父は提案した。それから家族三人で車に乗って矢田の民俗公園へ行った。子はクヌギの林の中で母から始業式の証しの松ボックリを手渡された。

2014.4.8

 

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 身近な人が死んだとき、空間が歪んだか、あるいはこの世界の地層がわずかにずれたような、いつもそんな心地を覚える。どこか空の遠くあたりでこの世という空間の一部が小さく裂けていて、裂けたということが周囲の空気に伝わっている。その裂け目から、人を錯乱させ、酩酊させ、ときに覚醒させるいつもとは別の種類の風がぬるぬると吹いてくる。それは彼岸からの風なのかも知れないし、別次元からの何か違う空気の流れなのかも知れない。夜10時頃の東京都足立区中川の人通りも絶えた路地路地を妖しい夢見心地でさまよっていたわたしは、加えてもうひとつの歪みの中をも揺蕩(たゆと)うていた。まるで水草を追いながら知らず自身の古里に迷い出た傀儡(くぐつ)のように。二十数年ぶりの(あるいはもう三十年近くか)再訪は、こちらの記憶の中では多くを暮らしていた子どもの時分の目線になっているから、道幅や距離の尺度が異なる定規をもって造られた町のように出現しては修整を余儀なくされるのだった。それもまたひとつの錯乱と酩酊と覚醒である。そんなふうに、平成26年4月20日のわたしは二重の歪みに身を委ね、夜の下町の路地を上海の阿片患者のごとく闊歩していた。路地のせまい角を曲がると、富永太郎が詠ったボードレールの万国旗がひらひらとブロック塀の上にはためいている。オント、オント、石を喰らへ! 死んだのはAの母親であり、わたしはAと小学一年生からの腐れ縁であるから、死者はAの母親でもありながらわたしの幼少期からの時間と空間を司っている川の流れのひとつでもあった。そしてまた同時に(こうした表現が許されるのであれば)いまはまだ生きているわたし自身の母の先行者でもあった。母たちの逝くべき時代が到来したということだ。わたしの父はわたしが二十歳の時に事故で急逝したが、おなじようにAの父親もAが小学二年生のときに病気で急逝した(わたしはクラスの代表でもうひとりの女子と葬儀の席に列した)。後年になって、珍しく真面目な顔をしてAが「じぶんは超えるべき父親が不在のまま成長してしまった」とぽつりと洩らした事がある。つまりAの母親はAの父親でもあり、わたしは二本の川の流れが途絶したことを酩酊しながら夜10時の東京都足立区中川近辺を徘徊していた。亀有公園の裏手にある葬祭場に着いたのは夜8時頃で、すでに通夜は終わっていた。妙に明るくこの世のものでないように照らされている葬儀看板の上にAの母親の名前を確認してから、道向かいの古びた定食屋に入って夕飯を食べた。老夫婦の賄い。店の隅に背中の丸まった小柄な老婆がひとり座り、速度調整が壊れた映写機のような緩慢さで焼き魚の定食を食べていた。この老婆が、まず時間の流れを歪めるスイッチを入れた。亀有の駅前はこれまでAと飲むのに落ち合って何度か降りた。しかし環七(環状七号線)を渡って住宅街への路地へ入っていくのは二十数年ぶりのことだ。果たして覚えているだろうかと不安だったが、不思議なものでその場に立つと地面のQRコードをかざしたスマホのように、いままで忘れていた様々な記憶が次から次へと湧いて出てきた。大人しくしていたらご褒美に飴を呉れた床屋、年末の年越しそばを買っていた蕎麦屋、少年探偵団シリーズを毎月二冊予約していた本屋、お使いの駄賃にコロッケを呉れた肉屋、友達の家がやっていた電気屋や寿司屋・・・  駅からわたしのかつての家までの間、いくつか地元の店が散在していたが、いまも営業を続けているところはもうごく僅かだ。そこでも記憶の歪みが立ち現れる。建物を見て蘇る記憶もあれば、全く様相が変わってしまい宙ぶらりんのまま戸惑う記憶もある。それから道。人が行き交うのがやっとのドブ板の道。住宅地の隙間を毛細血管のように連なっていく緑地の小道。家へ向かう曲がり角。かつて家があった敷地はさびれた駐車スペースになっていたが、車は一台も止まってなかった。大きな柑橘類の黄色い果実を抱いた樹木が隣家の方から枝を広げていた。ここが玄関、父親の仕事場、三畳ほどのわたしの部屋から出た裏口、祖父母が住んでいた部屋、とアスファルトを踏んでいきながら、もの苦しいような、切ないような、不思議な感慨に襲われた。ここで、生活があった。祖父母と両親とわたしと妹。六人のうちでまだこちら側に残っているのは三人だけだ。驚いたのはAの家にも近い小学校の前まで行ったときだ。金網のフェンスに設置された町内会の掲示板に何気なく目をやると、82歳の女性の葬儀の告知があって、その喪主として小学校のときの同級生の名前が記されていたのだった。ああ、○○の母親もAの母親とほぼ時を同じにして逝ったのか、とここでも空間と時間が共鳴し、錯綜し、酩酊している。わたしはそんなふうに二十数年ぶりの生まれ育った夜の路地をひとり徘徊した。人影はほとんどなかった。車すら滅多に通らなかった。見えない空間の裂け目がじわじわとよじれてきてわたしのふらつく足元をさらった。かつて“第一カッパ”と呼んでいていまはマンションが建っている中川の土手沿いの原っぱの跡地前を通り過ぎて、こちらは緑豊かな公園になったかつての“第三カッパ”のベンチに腰を下ろした。小学生のころ、亀有のイトーヨーカドーの玩具売場でスリルを味わうためにミクロマンを万引きした後で怖くなって埋めたのがこの公園の隅だ。中学校のときに好きだったHさんにラブレターを書いて塾の帰りに渡された返事を持ってきて読んだのもこの公園の外灯の下でだった。折りしも、今回の突然のAの母親の葬儀に来る前に、中上健次の伝記を読み終えたところだった。最終章は46歳の早すぎる死の場面だった。人の来し方というものを想った。たぶんわたしは空間と時間の歪みに加えて、何か否定できない懐かしく狂おしい大きなうねりの中にいたのだった。そのうねりの中で通り過ぎていった無数の人々や風景、そしてそこから永遠に立ち去っていった人の顔のひとつひとつを思い出していた。わたしはポーの巨大な渦巻き(メエルシュトレエム)に呑み込まれるちっぽけな漁船だった。渦巻きは一気に噴き出した四十数年分のうねりのようだ。わたしは中上健次の死んだ年齢を越え、みずからの父親の死んだ年齢に近づこうとしていた。そして母たちの逝くべき時代が始まりつつあった。だがそういうことでもなかった。もっと大きく急激な流れの中にいて覚醒していた。それらすべてをこの身で受けとめようとさえしていた。名も知らぬ公園の樹木の幹は太くて健やかだった。わたしはそこに頬をつけ、道管を伝う水の流れを聴こうとした。そうしながら、冥い地中から根によって吸い上げられた水が葉の明るみへ上昇していく様を思い描いていた。それはまるであのタルコフスキーの美しい映画の中の狂った老人の死を賭けた演説(「私たちは無駄と思える声に耳を傾けなければならない」「私たちの耳と目に大いなる夢の始まりを満たすのだ」)に似ていたような気がする。その夜、中川二丁目公園のベンチにすわっていたのは小学生のわたしであり、中学生のわたしであった。ズボンのポケットには数日前に死んで四ツ木白鳥の火葬場で煙になって空の向こうへゆらゆらとのぼっていった祖父へ捧げる詩のごときものを書いた紙切れを突っ込んでいた。

2014.4.26

 

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 「ナルニア国物語」の中にはキリスト教が排除してきた妖精や魔女やフォーンやその他もろもろの存在がたくさん登場する。C.S.ルイスはそれらとキリスト教を合体させたかったのかも知れない、と不登校中の娘が言った。

2014.5.4

 

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 葬式と引越しに暮れた約一月だった。わが家の隣の三軒長屋に住むAさんの旦那さんが亡くなった。ずっと寝たきりで会ったことはなかったが、Aさんはこれで一人ぼっちになった。90歳を越えてまだ元気なAさんは今日も長屋の前面にクレーの美しい抽象画のように並べたプランターに植えた花の世話に余念がない。続いてAさん宅の向かいの、わが家がここに越してきてからおそらくいちばん世話になっているYさんの母親が亡くなった。こちらもずっと寝たきりで、100歳近い年齢だった。どちらも通夜・葬式に車で葬祭場まで送迎役をしたり、会場の受付を手伝ったりした(併せてこの時期にウェストが厳しくなっていた喪服を新調した)。それから前述した東京の友人Aの母親が亡くなり、葬式に参列して、こちらもAの大学の友人らといっしょに受付を手伝ったりした。ひさしぶりに訪ねた小学校の掲示板におなじ同級生が母の葬式の喪主として告知されているのを見つけたがこれはオマケのようなもの。続いてこんどは会社の親しい同僚が奥さんを癌で亡くした。享年41歳は若すぎる死で、神戸の斎場で見た棺の中の死に顔はまだまだたくさんの執着をこの世に残して逝った顔だった。いまも眼裏(まなうら)に貼りついて忘れ難い。「ぼくが喪主だったら、あなたのあんな顔を親族や友人以外には見せたくない」と帰宅してYに言った。ついで、引越し。北関東に住む妹夫婦が(たぶん子どももなく、ひとまわり年かさの旦那がじぶんが死んだ後のことを考えたりしてと思うのだが)、この春に旦那が定年退職するのを機に退職金で奈良に家を買って移り住むと言い出して、ここ数ヶ月、Yやわたしもいっしょになって不動産のチラシを見、ネット検索し、妹から依頼のあった物件を視察に行ったりときには不動産屋に同行代行したりして、二転三転それこそ十転の末にわが家から歩いてものの3分ほどの近所に中古の一戸建てを見つけて手付けを済まし、全額支払いの7月以降にリフォーム工事を施し、完了次第転居する運びとなった。その妹夫婦の話に合わせて「それならわたしも奈良に」と母がひとまず先に、これもわが家から徒歩5分ほどの駅前の団地を見に来て、若草山を見下ろす眺望が気に入ったとさっさと契約をして、引越しをしてきたのが今月の上旬である。この母の引越しに先立って、わたしは不登校中の娘を連れて数年ぶりに実家へ赴き、二泊三日で主にわたしのかつての部屋にそのまま残されていたわたしの蔵書やLPレコードや、物置の父の仕事の道具などを整理したりしてきたのだった(ちなみに友人の母が亡くなったのがこの整理から帰ってきたときで、わたしはまたとんぼ返りでこんどは単身新幹線で東京へ向かった)。太平洋を見下ろす高台のニュータウンの庭付き一戸建てを母は全国展開の不動産会社にほぼ即金で安く売り払ってきたのだが(その5分の2づつを引越し後にわたしと妹にくれた)引越しの当日、まだ不動産会社の最後の手続きをしている最中に(いまも常磐炭鉱の頃の長屋が残る地元の出身の)隣家の主婦近いが「○○さん、忘れ物がないか見てあげる」となかば強引に入り込んできて、「このカーテン、もらっていい?」 「この衣装ケースは置いていくの?」等々で家中を自由に物色して回り、「なんだかね〜 結局、ああいうところがわたしはやっぱり最後まで(ここの土地の人と)合わなかった」と母は苦笑して漏らしたものだが、それはわたしも妹も同じかも知れない。母の家から分散してやってきたわたしの荷物が引越し当日にわたしの書斎の真ん中にうずたかく積まれてわたしはしばらくその整理に追われたわけだけれど、その中に入っていた死んだ父の日記には、下請けの鞄の仕事に見切りをつけ、「あいつらはいったい何を考えているのか」とぼやきながらも都内各所の姉妹たちに相続放棄の書類に印鑑を押してもらい、祖父が消防署を退職後に駄菓子屋をやっていた土地の借用権を売り、母の兄にあたる大蔵省に勤める親戚(わたしとシベリヤ旅行へ行った叔父)に借金を申し込み、「こんな時期に家を買うなんて、何を考えているのかと何も知らないみなは思っているだろうな」とつぶやきながら、「わが家にはいま、ニュータウン旋風が吹き荒れている」と新しい北の大地への転居に対する思いが綴られていて、そんなものを実家から引き取った揺り椅子に身を沈めてわたしは感慨深く読んだりした。わが家が慣れ親しんだ東京の下町を離れて160キロ離れた太平洋の荒波も近い北関東へ転居したのがわたしが高校1年のときで、父が未成年の暴走車に正面衝突されて即死したのがわたしが二十歳のときであったから、父はわずか4年しか念願のその「旋風が吹き荒れていた」庭付き一戸建ての新居に生活できなかったけれど、その間、馴れない一からの転職の仕事の合間を縫って、当時はまだ残っていた裏山へ庭木を取りに行ったり、じぶんで建材を調達してきて庭に物置を建てたり、縁台やガレージの屋根や藤棚をこしらえたりした。そのなかで唯一いまもそのまま残っている台所裏の壁面に沿って建てた物置のホゾの削りや組み方をわたしは指でなぞり、もうここへくることは二度とないだろうと思いながら、いろいろなものを頭に貼り付けておこうとしたのだった。庭中に広げた処分する本を娘がくくった山を眺めて、ときおりぼうっと縁台にすわった。父が死んだ夜、わたしはここでおなじようにすわって、父の遺体がかえってくるのを明け方まですわりつづけたのだった。そのしらばんでいく庭が、美しかった。明星が美しかった。わたしはその頃、モリスンの Beautiful Vision や Inarticulate Speech of the Heart を愛聴していたのだった。話を戻そう。もうひとつの引越しは、わが家のななめ向かいの二軒長屋に住んでいたAさんで、壊れていた風呂場を直して欲しいと地元郵便局長である大家へ依頼に行ったところ「出て行って欲しい」と言われて、なかば喧嘩別れのように帰ってきて、病気で身体が不自由で生活保護を受けているAさんは、役所の紹介でおなじように生活保護を受けている人たちが住んでいる近鉄駅の向こう側の長屋へ引っ越す手はずとなったのだった。当日、わたしは休みを取っておなじ近所で日雇いの土方仕事をしているMさんと、それからAさんとおなじ四国の出身で昔からの知り合いらしいひょろっとしたおじいさんの三人で、家財道具一切の移動運搬を貴重なMさんの僧侶時代の話などを訊きながら手伝ったのだった。役所から引越し代は出るのだがAさんは見積もりだけ民間業者からとってその金額を役所に申告して、じっさいはわたしたち三人がニセモノの引越し業者なわけで、さんざ辞退したのだがMさんから日当1万円をむりやりポケットにねじこまれて、ささやかなへそくりにしたのであった。

2014.5.25

 

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 新たに赴任して二年生から担任になったI先生を乗せ、学園前の自宅近くまで送り届けたのが2〜3週間前。その車中で、本人もだいぶ回復してきたので学校側からももうすこし引っぱって欲しい、とくに本人がいちばん気にしている演劇部がこの半年間、部として何のリアクションもないのは少し残念に思う・・・ 等々の希望をI先生に熱く語ったものの、二週間経ってYの携帯に「学級担任から(演劇部の顧問の先生へは)話をしてもらっているはずです」との曖昧なメールが届いたのを読んで切れ、思わずYの携帯を取って「なかなか話が進まないのであればこれ以上先生方と話しても埒が明かないので、校長先生か教頭先生にアポを取って下さい」と打ち送った。それが奏したかそれから急に学校側があたふたと動き出して、教頭先生、学級担任、クラス担任、部活顧問が集まった話し合いにわたしとYも誘われ、部活の同級生、先輩たちから発表会への誘いのメールが子へ続々と届き、部活の顧問のM先生から不登校になってはじめて電話がかかってきたりしたのがこの数日。日曜の今日は県内各校の発表会の一日目で他校の観劇のみ。昨夜、顧問のM先生から再度お誘いの電話があり、子は葛藤を抱えて食事もそこそこに部屋に閉じこもってしまったが、今朝は親友のHちゃんのお母さん(Yと何度もメールをやり取りしていた)の計らいでHちゃんがわが家に誘いに来るに至り、「ここまでされたら行くしかないでしょ」と子も観念して、約半年振りの制服を着て、仕事を遅らせたわたしが二人を車で会場まで送っていったのだった。玄関へ向かうHちゃんにYがそっと指でOKのサインをつくって示し、Hちゃんも恥ずかしそうに肯いていた。夕方、みなといっしょに電車に乗って帰ってきた子に、来週はどうするんだい? と訊くと、「う〜ん、行こうかな・・」とにやにやして言う。ひさしぶりに大きな一歩を踏み出して、さあ、これから始まりだ。わたしは中旬からまた名古屋へ二週間ほど出張するのだけれど、その直前に用意した3連休に、ヤング・アメリカンなるアメリカの大学生たちによるパフォーマンス集団が学校に来て、かれらのホームステイ先としてわが家も名乗りを上げ、二人の男子が二泊する。夕飯を二回、朝食を二回共にして、お弁当を持たせ、学校まで送迎し、シャワーと寝室を提供するのだ。(わたしはヤング・アメリカンと訊いて勝手に向こうの女子大生が泊まりに来ると思っていたので、Hちゃんちが女の子二人だと訊いて、「おれもヤング・アメリカンになってHちゃんにちに泊まりに行く!」と一時錯乱状態になったりした) その初日の日の午前中に、前述した教頭先生を含む話し合いを予定している(わたしの日程に合わせてもらった)。じつは今回の携帯メールでのやり取りの中でHちゃんのお母さんが「これまで毎日愉しいことばかりと思っていた娘が、じつは学校では神経をすり減らす毎日でとてもしんどい、その中で紫乃ちゃんは唯一心を許して話せる相手だから学校に戻ってきて欲しい」とわが子に打ち明けられてショックを受けた、というメールがあった。明後日の話し合いでわたしが言いたいことはたくさんある。とりあえず、半年振りに子は制服を着て、学校ではないが半年振りに部活の同級生・先輩たちと一日を過して帰ってきた。

 

ヤングアメリカンズ・ジャパンツアー2014夏 - NPO法人 じぶん未来クラブ http://www.jibunmirai.com/ya/2014sm/index.html

Official website http://www.youngamericans.org/

2014.6.8

 

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 慌しくも愉しく、疲れながらも実りのあるヤング・アメリカン滞在の三日間(2泊3日)が今朝で終了した。いちばんの収穫は子が半年振りに学校の敷地内に入り、同級生や先輩、先生たちと言葉を交わし、時間を過したことだ。

 初日の火曜は午前中、子にはナイショで学校の応接室にて教頭先生、学級担任のM先生、担任のI先生、そしてすこし遅れて演劇部顧問で高校の社会科担当でもあるM先生も加わり、わたしたち夫婦と話し合いの場をもって頂いた。要点は二点で、一点はこれまでの経緯(両者の間の温度差、学校全体での積極的な取り組みが感じられない、カウンセラーの先生・演劇部顧問、担任の先生の間で連携をもう少し取って頂きたい等々)、もう一点は不登校は果たして個人の問題に帰するだけなのか、さらに究極に言えば「果たして学校は戻るに値する存在なのか」(毎日学校へ行かない娘を目の前にしているとそういうことまで考えてしまう)という根本的な問題提議。はじめてお話しする女性の教頭先生は後半、わたしの極端な話の内容にやや引き気味で中途にて「ちょっと用事があるのですみませんがわたしはここで」と退場されたが、問題は各担当の先生方と改めてコミュニケーションと連携の必要性を“管理者を通した土俵で”再確認して欲しかったので、それはそれで良い。演劇部のM先生は先生で気にはなっていたけれど担任の先生よりしゃしゃり出るのは・・ と何某の遠慮もあったようで、今後はどんどんプッシュして頂きたい、とお願いをした。

 いったん家に帰り、ヤング・アメリカンズ受け入れの最後の準備(寝床の支度やと食料品の購入など)をしてから、夕刻に改めて子と三人で学校へ。子は当初「車で待っている」と言っていたのだが、じつは先生に予め連絡してニセの駐車場係で配置してもらっていた仲良しのHちゃんたちが窓際に駆けつけ粘り強い説得を受けること十数分、しぶしぶながら上履きを履いて車外へ出た。わたしとYが体育館でヤング・アメリカンズの引き合わせを待っている間、子はHちゃんたちとほとんど誰もいない教室へ行って話をしていたらしい。それが一日目で、二日目は朝のヤング・アメリカンズの送りには同行せず、午後からの最後のショーをいっしょに見学した。因みにヤング・アメリカンズたちは火曜は高校生たちと終日ワークショップ〜ショー、水曜日は中学生たちと終日ワークショップ〜ショーの日程で、昼過ぎまでダンスや歌のからみをいっしょに教えてもらい、その成果を最後のショーでみんなに披露するという二日間。ほんとうはワークショップにも参加できたら本来の一体感(? たぶん彼女はわたしのように醒めているだろうけれど)をみなといっしょに味わえたかも知れないが、体操着を着た同級生たちと言葉を交わし、おなじ場所にいられただけでも大変な進歩だ。愉しく素晴らしいショーが終わって、全員での記念撮影は加われなかったけれど、その後(片づけが終わるまでの二時間弱の間)Hちゃんたちと行った保健室で保健の先生のほか、通りがかったたくさんの同級生たちがやってきてくれて子はそれなりに上機嫌だったらしい(わたしは「記念撮影になんでもう少しタイミングよく誰かが誘ってくれないのか」と怒ってひとり車の中にいた。「みんなが体操着でいるのも事前に教えてくれたらよかったのに」とか)。三日目の今朝は、ヤング・アメリカンズと最後のお別れだから送ってあげようと話していっしょに学校まで同行した。このときもHちゃんのお母さんからの「あわよくばこのまま教室へ」という企画で、Hちゃんが駐車場でずっと待っていてくれておなじ演劇部のMちゃんと二人で説得したのだが、さすがに「今日は(車から)出ないよ」ときっぱり宣言してそのとおりになった。しかし、総じて先日の演劇部の他校発表会の観劇と併せて、この数日間の変化はじつに目覚しく、わたしとYの予想を良い意味で裏切ってくれた。子は子で精一杯努力して、大きな峠を一気にふたつくらい越えたのだと思う。

 わが家に泊まったヤング・アメリカンズ。一人は澄んだ目をしている、ひょろりとした痩身にキリストのような髭を生やしたシカゴ出身のロバート、21歳。もう一人は小さな筋肉質の身体を持った愛らしいカリフォルニア出身のダニエル、19歳。

 初日は夜7時頃に学校を出発して、Hちゃん宅の女性2名グループといっしょに尼ヶ辻のココス(ファミリー・レストラン)で総勢10名にて夕食を済ませた(当初考えていたガストが予約は受けれないと言われてココスになった)。わが家のゲスト二人のメニューはフライドポテト、唐揚げ、ピッツァ、ジャンバラヤなど。その日の夜は家に着いてリビングの電子ピアノ(わたしの母親宅に置いていた妹のピアノが一時的にわが家へ運ばれた)を見つけたダニエルがスマホ携帯で表示した歌詞とコードを元にピアノを弾いて、ロバートが持っていたウクレレでそれに合わせて歌うというセッションが始まり、ときどきプレスリーの I Can't Help Falling In Love With You やレノンの Stand By Me などが出てくるのでわたしもいっしょに歌ったりして、その後ロバートがウクレレのコードを子に教えてくれ、ダニエルがバレエの踊りをちょびっと披露し、最後に子がひさしぶりにヴァイオリンを出してきてジブリの曲を何曲か弾いて、ジップもいっしょに合唱してみんなで大笑いになるなど、音楽で何とか時間が持ったという感じ。なにせまともな会話が出来るのがYだけで、わたしはもう支離滅裂なブロークン英語だし、コミュニケーションを取るのがやっぱり難しい。(Yいわく「わたしはじぶんが話せる程度の会話しかしないのに、お父さんはじぶんが話せないレベルの会話を無謀にもしようとして宙ぶらりんに終わる」) 二日目の朝はトースト、シリアル(グラノーラ)、バナナ、ピッツァトースト、惣菜パン、ヨーグルト、それに飲み物がホットコーヒー、リンゴジュース、グレープフルーツジュース、ミルクなどを用意したが、ヨーグルトは空振りだった。出掛けに2リッターのミネラル・ウォーターと昼食(照り焼きチキンとバナナのサンドイッチ、リンゴ)、それにお八つ(スナック菓子、ドーナツなど)を袋(ジップロック)に入れて渡す。初日が外食だったので、二日目の夕食は家で。ベーコンときゅうりの海苔巻き、唐揚げ、フライドポテト(冷凍)、マカロニサラダ、枝豆、焼き鳥(モモ肉)などを用意して結構好評だったけれど、海苔巻きは「海苔」がダメらしく手をつけなかった。三日目の朝はだいたい前日の朝と同じようなメニュー。当初は回転寿司なども考えていたのだけれど、ダニエルが魚がダメということで、ファミリー・レストランに変更になった。総じてかれらは野菜をほとんど食べない。苦手なものは絶対に手をつけない。じぶんの皿に取ったものでも平気で残す。その辺は文化の違いか。二日目にはちょびっとコミュニケーションが進んできたので訊いたところ、日本食で好きなものはラーメン、焼肉、しゃぶしゃぶ、お好み焼きなど、だそうだ。はじめに聞いていればそのあたりも検討したのだが、なんせ初日のココスではヤング・アメリカンズ同士の男女4人が固まって英語で話を続け、それをホスト・ファミリーがやや遠まわしに眺めている・・・ といった光景だったので、そこまで会話ができなかった。食事以外ではYがいちばん(おそらく)大変だったのが洗濯物で、「ちょっとだけ」と言って二日目の朝に出してきたそれがじつは山のようにあって、二時間の乾燥を3回分だったそうだが、「なによこれ。ちょっとだけどころじゃないじゃない!」とYが苦笑いをしながら奮闘していた。女の子二人のHちゃんちも同じようだったようで、「派手なティーバックの下着をどうやって畳んでいいか分からない」といったメールも届いたりしていた。

 とはいえ多少の文化の差はあったり、まだ子供のようなダニエルが多少時間にルーズで食事もよく残したりといった面はあったにしろ、わが家の二人とも行儀がよく、愛想もよく、さっぱりとしていて、こちらも接しやすかったと思う。よく喋り快活な(でも朝は苦手な)ダニエルはとくに躍ることが好きなようでブロードウェイを目指しているとのこと。ギターもピアノも達者なロバートは来年、ヤング・アメリカンズの活動を終了して単身ニューヨークへ行き、いつかはロック・バンドをやりたいと言っていて、わたしの部屋のLPレコードやCD棚も見せたりしたが、それ以上は何分時間が足りなかった。そして特筆すべきは、二日目のショーの後で迎えに行って知ったのだが、今回のヤング・アメリカンズの中でもわが家に泊まったこの二人が「イケメン・コンビ」として注目の的で、まるで65年ごろのビートルズを乗せた車を追いかけるファンのように女子中高生たちが黄色い声を上げて取り囲むのだった。そして憧れのダニエルやロバートとハグをして、いっしょに写真を撮るのを、子が訳が分からんといった風に眺めている。(特にちっちゃくて可愛らしいダニエルは大人気だった) その横で父はダニエルのサインの入った飲み残しのペットボトルを競りに出せないかと目論んでいた。かれらは今回のジャパン・ツアーで、4月に国を出て、8月まで家に帰らない。その後、ヨーロッパ・ツアーがおなじくらいの期間で予定されているらしい。その間、ロバートもダニエルもずっとこんな風に日本のさまざまな家庭を泊まり渡り歩いていく。それなりに気も使うし、大変だろう。だから二日目の夜はジップをゆっくり散歩に連れて出て、なるべく二人だけでのんびり過せるようにした。わずか一時間だけ見学させてもらったショーは素晴らしかった。派手な振り付け、次々と入れ替わる衣装、ぐいぐいと引き込んでいく力技のようなテンポ、そしてユーモア、すべてがアメリカらしいなといった感じ。そして特に大勢の生徒たちを交えてのワークショップの成果。英語が喋れなくても単音によるリズムと、身体のノリ。それらをフルに使いながら、ふだんは大人しかったり照れ屋であったりする子も巻き込んで、全体がひとつの巨大な渦のように収斂してクライマックスへのぼりつめる様はじつに感動的であるし、おそらくオリンピックやサッカーのW杯のような忘我の一体感があるんだろうな。

 お別れの朝。学校へ向かう車内でダニエルは後部座席に頭をもたげて眠っていた。「ロバート」とわたしは運転席から声をかけた。「もしきみのバンドがデビューしたら、わたしはきみたちのアルバムをオーダーするよ」 「オーケー!」とロバートが(たぶんいつもの満面の笑みを浮かべて)嬉しそうに笑った。70-80年代に流行したスラング cool beans   は今回、ロバートに教えてもらったことばだ。車を学校の正面階段につけて、トランクから二人が大きな荷物を担ぎ出す。最後にみんなで記念写真を撮って、わたしはロバートとハグした。ダニエルは子の友だちに請われハグしている。グッバイ。 それから家へ帰って、二人の部屋に残されたごみを処分し、近所のNさんが呉れた御座候でお茶を入れて、それからみんなちょっと疲れていたのでまだ朝の10時前だったけれどそれぞれの場所で思い思いに短い昼寝をした。

2014.6.12

 

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 名古屋の新店立ち上げから帰ってきた。わたしが出張をして家を空けている間、子の心境の変化は目ざましいものがあった、といえるだろう。まずわたしが出発をしたその日に、部活の発表会があり(前回は他校の発表のみ)、子は顧問のM先生から依頼されて、前段の諸注意をする他校の先生の紹介、それにじぶんの学校の出し物の紹介、続く学校の紹介などを、舞台袖からマイクで進行役をやり遂げた。その後しばらくしてM先生から「授業」の申し出があり、何と学校の教室でマンツーマンの歴史の授業を二時間、講義をしてくれた。子はただ一人教室にすわって、鎌倉後期から室町の授業を受け、確認のためのテストも受け、ほぼ満点であったという。また担任のI先生が出してくれた好きな詩を書き写すという宿題も「面白そうだ」といって提出した。その後、学校は定期テスト前のために部活も休みとなり、子はテストが終わったら部活にだけ出ると言っていたのだが、こんどは「テスト用紙に名前を書くだけでもいいから」という担任の先生の誘いに「行ってみようかな」と言い出してYをびっくりさせ、その初日が明日で、連休をとっているわたしが車で送っていく予定となっている。今日は子と二人で車で大阪・吹田にある国立民族学博物館(いわゆる“みんぱく”)に行って、一日過してきた。ほんとうは大台ケ原に野生の鹿を見に行くつもりだったのだが、雨天のため急遽変更となった。さまざまな精霊たち、家舟、細工、遊牧民のテント、仮面、人形、楽器、数え切れないくらいの世界中のご馳走でふたりともお腹がはちきれそうになって、昼は館内のレストランで子は鶏肉のフォー、わたしはガパオランチ、それにベトナム・コーヒーを頼んで、さいごにミュージアム・ショップで子がじぶんと親友のHちゃんにネイティブ・インディアンのドリーム・キャッチャー(※オジブワ族は、ドリームキャッチャーは夢を変える力を持つと信じており、Terri J. Andrewsによると、「悪夢は網目に引っかかったまま夜明けと共に消え去り、良い夢だけが網目から羽を伝わって降りてきて眠っている人のもとに入る」とされる[1]。また、「良い夢は網目の中央にある穴を通って眠っている人に運ばれてくるが、悪夢は網目に引っかかったまま夜明けと共に消え去る」とも言う )のストラップを買って帰ってきたのだった。

国立民族学博物館 http://www.minpaku.ac.jp/

2014.7.3

 

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 テスト初日。保健室横に先生が用意しておいてくれた椅子に座って装具と上履きに履き替え、I先生といっしょに教室へ入っていった。今日の試験科目は英語と国語と音楽。半年振りに全員が揃った教室にすわって、何も教わっていない試験を受けるのは、勇気も体力も要ることだろう。それでも彼女は途中で保健室へ行くとも言わずに、昼までの時間を教室にすわり続けた。出てきた先生に「どうでしたか?」と訊けば、「う〜ん。何か自然に一人になっちゃうんですよね・・」と。それでも仲良しのHちゃんは教室に座っている子を見つけて30秒間、抱きしめて離さなかったらしい。「(テストは)ひどい内容だったよ」と言う子に、わたしは「あとで先生が点数を付けて返してくるだろうけどそれはほんとうの点数じゃない。今日一日学校にいただけでおまえは百点だから、お父さんがほんとうの点数をもういうちど付け直してあげるよ」と答えた。「しの〜 もう帰るの〜 ?」 校舎の二階から呼びかけた同じ部活のMちゃんに「うん、また明日来るから」と元気に答えていた子であったが、夕方になって「やっぱりちょっとしんどい。あそこにいるのはかなり疲れる。もうエネルギーを使い果たした」と、わたしではなくYにそっと伝えて、結局、明日は一日休むことにした。明日休んで、日曜の休みを挟み、月曜の3日目にはまた行くと言っている。じぶんのペースで、じぶんの見極めでいかせたらいい、とYと話した。

 夜は母も誘い、わたしが先日“みんぱく”で食べてきたタイのガパオ(鶏挽肉のバジル炒めご飯)に挑戦、ふるまった。

嵐にしやがれ 東儀秀樹流 ガパオライス 作り方 レシピ http://takacova.jugem.jp/?eid=926

2014.7.4

 

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 学校を休んだ子とY、それに母を誘って、車で神戸のポートアイランドにある花鳥園へ行ってきた。子ども向けのアルパカやカピバラはともかくとして、ノスリ(タカ科)やミミズク、インコらが水連池の上を飛び回るショーはなかなか見応えがあったな。こういうところへ来ると、子はいつもリラックスして、愉しそうだ。人間よりも植物や鳥や動物たちが好きなのだ。

 花鳥園のレストランはいまいちな感じだったので、ハーバーランドへ移動して、モザイクの中のフィッシャーマンズ・マーケーットなるバイキングの店で遅い昼食を食べて夕方に帰ってきた。子はおなじモザイク内にあったスヌーピーの店で、スヌーピーの好きな学年担任のM先生にとスヌーピーの形をしたクリップをお土産に買った。

フィッシャーマンズ・マーケーット http://umie.jp/shop/detail/200

2014.7.5

 

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 月曜日、そしてテスト後に部活があるから必ず行くと言っていた火曜日の朝も、わたしがまだベッドにいる頃に何やらYと話し、そしてすすり泣く声が部屋から漏れ伝わってきて、ああ、今日もダメか、と目覚めかけた意識の中で思った。その夜、昼間母親と行ったレンタル店で借りてきたホビットの最新映画のDVDを××しながら書斎で子としばらく話をした。何がダメなのか分からない。出来なかったテストやじっと待っていた時間が苦痛だったわけではない。クラスの子が挨拶のような声をかけてくる。それに対して返答をする。そんな何でもないことが気を使いすぎて、とてもしんどい。誰かが明確に何か悪意を持った言葉を投げかけてくるわけでもないのに、じぶんが傷つけられている。でも学校を変えたくはない。HちゃんやTちゃんがいて部活もあるいまの学校に行きたい。でも行けない。そんな切れ切れの言葉を泣きながら話してくれた。沈黙と涙のすきまから、言葉はひとつぶひとつぶ、押し出されてくる。ひとつの言葉を待つのに、5分も、ときに10分も待つ。その間、こちらも黙って涙を見つづける。数日前、わたしの職場のちかくの商業施設から飛び降りて死んだ中学生の女の子がいた。彼女もこんなふうに、だれかと話したかったのかも知れない。誰かそんな人がいなかったのだろうか。15歳でみずから命を絶った女の子。

 今日はテストも終わり、学校は休みで、部活動だけの子がやってくる日で、子も行きやすかったのだろう。行きと帰りをYの車で送ってもらい、半年振りに部活の練習に参加して、秋の文化祭にやることになった台本をもらってきて、愉しそうに帰ってきた。

2014.7.9

 

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 子は午後からの部活に備えて朝、通常時間に登校し保健室で控えていたが、折からの台風接近で一斉下校となり、「何しに来たのか」とぼやきながらそれでもさして落ち込むこともなく明るい表情で帰宅した。担任のI先生がクラスへ行かないかと誘ったが、言下に断られたとか。「保健室で何をしていたのか」と問うと、保健の先生が呉れた「不思議な模様の」塗り絵をずっとやっていて、その他に学年担任のM先生が英語の講釈に来てくれたのと、同じように教室へ行けないで保健室へ来た1年生の後輩の女の子を演劇部へ勧誘していたそうな。

 

Amazon で以下の三冊を注文。

上原 善広「路地の教室―― 部落差別を考える 」(ちくまプリマー新書)

上原 善広「韓国の路地を旅する」(ミリオン出版)

森 達也「「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と叫ぶ人に訊きたい―――正義という共同幻想がもたらす本当の危機」(ダイヤモンド社)

2014.7.10

 

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 もう何年も前から Web上で眺めていて、とうとう昨夜、前に義父母からもらった昇進祝いのお金を使うことにして注文してしまった。

 佐治武士作 山野小刀 http://www.ehamono.com/washiki/saji/sanya.html

 

2014.7.11

 

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 子は昨日は昼から部活で、秋の文化祭のときに使う生駒のホールをみんなで見に行き、電車で帰ってきた。今日は朝から部活でわたしが送っていった。演劇部の前述した文化祭の配役を決めるオーデションの日で前の晩から台本読みの練習をしていたが、今回も子は「スタッフ」、つまり役はなくて舞台の裏方だったが、「スタッフは結局、わたししかやれる者がいない。もともとそれほどやりたい役もなかったし」と、案外と本人は割り切っているようで、さっそく「ホビットのあの音楽を使えないかな・・・」なぞと考えていた。

 佐治武士作の「山野小刀」と Amazon で注文していた三冊が次々と届いた。三冊はどれも良さそうだ。さっそくソファに寝転がって森 達也を読み始める。身内を殺された被害者の立場には第三者は決してなれない、というのは賛成だし、遺族の立場になって考えてみろ、という居丈高の同調が甚だうそ臭い、というのも至極賛成。「山野小刀」は素晴らしい。さっそく迎えに行った車の中で子に披露すれば、子は目を輝かせて「いいなあ・・」 「なあ、いいだろ」 って女子中学生とその父親の会話か。でも、ほんとうに素敵なんだ。

2014.7.12

 

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 休日。子と母を誘って桜井の笠集落の蕎麦を食べに行く。天理ダムの手前で「桃尾の滝」の表示を見つけて立ち寄ってみる。石上神宮境内を流れる布留川の上流にあたり、一説には石上神宮の元宮の説もあるという「日本最古の禊の場」との由で、往古からの行場を偲ばせるなかなか見事な雰囲気。滝壺のそばまで行って落下する飛沫を見上げていたら、白装束に身を包んだ4人組が現れ、先達らしいいかにも入道風情の50代ふうの男が「ここは神聖な神域だ。わたしらもこうやって裸足になって入る。土足で立ち入ったものは、帰りに気分が悪くなったり、何か悪いことが起きたりするという話をよく聞く」等々といった話をとめどなく話し続けるので、わたしがたまりかねて「(すでに入っちゃった者は)じゃあ、いったいどうしたらいいんですか?」とぼやくと、塩で足元を払うといいと言ってビニール袋の塩を両手でどっさりくれたので、「あ、これはどうも」とありがたく頂いて、三人でそれぞれ靴のあたりに振りかけたのだった。それから入道男の指南で、どうやら夫婦と30〜40代の娘ふうの親子らしい三人が一人づつ岩をつたいのぼって飛沫を肩から浴びながら印を結び、読経をするのを子としばらく眺めていた。

 帰ってからこの滝をWebで調べてみたら、前述した歴史的経緯の他に、県内の有名な心霊スポットのひとつであるとか、パワースポットであるとか、いろいろと書いてあったが、「夏になると滝壺は地元の子ども会の子どもたちで埋め尽くされる」なぞといった記事もあり、いっしょに見ていた子にわたしは「この子どもたちもみんな、呪い殺されるのかな」と言ってみたのだった。

2014.7.27

 

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 某日。京都の繁華街のとあるショッピング・ビルへ仕事の下見へ行く。若い女の子ばかりの場違いな店内を窮屈な思いで経巡ったあと、最上階のブック・オフでほっと一息つき、戸井十月の「植木等伝「わかっちゃいるけど、やめられない!」」を100円で購入する。

 某日。帰宅帰りに立ち寄った駅前の本屋で、五木寛之の“隠された日本”シリーズ二冊「サンカの民と被差別の世界」「一向一揆共和国・まほろばの闇」(共にちくま文庫)を購入する。

 某日。職場近くの寺田屋を訪ねる。戊辰戦争の兵士の血で赤く染まった「赤池」の由来を聞く。むかしは豚の臭いが充満していたという朝鮮部落がひろがっていたという話も。

 フランク・シナトラの No One Cares を聴いている。昼間は The Byrds のベスト盤。夜はグールドのゴールドベルク変奏曲。

 朝食のとき、新聞を広げながら週刊誌の広告が掲載している佐世保の同級生殺害の少女の見出しを子に読む。子はすでにインターネットでたくさんの記事を読んでいる、と答える。それから昼食を食べた喫茶店の週刊誌で見た撃墜されたマレーシア航空の現場写真などの話をする。ガザの話もする。子は佐世保の事件について「どこか遠い世界の出来事のように思えてしまう」と言う。

 9月の手術に備えて、今日は部活の練習を途中で終えて、大阪の病院でレントゲンと血液検査をする。貧血がひどいので、自己輸血の採血は困難かも知れない、と言われる。

2014.7.31

 

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 ひさしぶりに子と天川の山中へ行ってのんびりする計画だったが雨天のため見合わせ。子に奈良国立博物館で開催中の「醍醐寺のすべて」を見に行こうと誘って断られ、ならファミリーへ作成した眼鏡を受け取りに行きたいと言っていた母に車で連れていってやろうかと進言したが「今日は体調がすぐれないから」と断られ、Yの仲介で美術学校へ行きたいYの職場のTさんの娘さんと母親がその美術学校の教師をしていた近所のYさんのお孫さんとの絵画教室が午前中だけわが家のリビングで催されているため、昼まで子の部屋のベッドの上でジップ(犬)とレギュラス(猫)の間にはさまって惰眠をむさぼった。

 午後はホームセンターへ行って、二階の“テレビの部屋”の窓際に壁面設置の折りたたみ式のカウンター・テーブルがあったら今日みたいな絵画教室や、それに紫乃が友だちといっしょに勉強をするときなどに便利だというので、材料を買いに行った。シンプルに、折りたたみの金具と、パインの集成材(450mm幅×1500mm)。後者を雨の中、庭の小屋でジグソーで一部加工した。

 夕飯までの夕方、ユーチューブで「そのとき歴史が動いた」シリーズ、「鳥羽・伏見の戦い - 旧幕府軍の敗北」 「土方歳三 函館に死す」 「会津戦争の悲劇 - 松平容保の決断」を立て続けに見る。

 ジップの散歩をし、食事を済ませてから、子と図書館へ行く。窓からちょっとだけ郡山の花火を覗いてから、それぞれ書架へ散っていく。星亮一「会津落城 戊辰戦争最大の悲劇」(中公新書)を借りる。野口武彦 「鳥羽伏見の戦い―幕府の命運を決した四日間 」(中公新書) をカウンターにいたYにリクエストしてくる。

2014.8.2

 

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 ナチュラルのワトコ・オイルを塗布して、二階の“テレビの部屋”の窓際壁面に折りたたみ式カウンター・テーブルを設置。念のため長尺のビスを二本ほど打ち込んだが、できたら中央にもうひとつ、何らかの支えを加えようかとも思っている。とりあえず子がじっさいにテーブルの上でノートに書き物などをして不便はなかったので。

 午後、仕事から帰ってきたYが今日から数日間ソファーのセールをやっているという情報を同僚から聞いてきて急遽、夕方から嫌がる子を誘って大阪大正区の IKEA に車で行ってきた(現在、リビングの合皮のソファーがぼろぼろと剥がれ落ちてきているので)。結局、ソファーは決まらず、庭用の千円のチェアーや、ジップたちの飲み水を入れておくホーローの水差しや、アンティーク風色味の塗料、スウェーデンのリンゴンベリージャムなど、雑貨を少々買って、店内のセルフ・テイク・アウトのようなレストランで食事をして夜遅くに帰ってきた。北欧風の家具や雑貨類はちょっとわが家のテイストとは異なるのだけれど、なるほど大塚家具でもニトリでもない、これが小洒落た外資の流行りかという感じで、それなりには面白かったかな。帰りのなみはや大橋からの南港の夜景がきれいだった。

2014.8.3

 

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 友人のブログで「ブライアン・イーノがデヴィッド・バーンへ宛てた書簡」を読む。

皆へ、

この手紙で暗黙のルールを破ることになるが、これ以上黙っていられない。

今日、私はパレスチナの男性がプラスティック製の肉用の箱を抱えて泣いている写真をみた。それは彼の息子だった。彼の体はイスラエルのミサイル攻撃でばらばらにされた。明らかに新しい武器、フレシェット爆弾だ。どんなものか知っていると思うが、小さな鉄製のダーツ状のものを爆薬の周りに詰め込んだもの、それが人間の肉を引きちぎる。少年の名前はモハメド・カリフ・アルナワスラ。彼は4歳だった。
私はその袋の中が自分の子どもだったらどう思うか考えているのに気がついた。そして今までになく怒りがこみ上げてきた。

アメリカでは何が起こっているんだ?私自身の経験から、ニュースがどれだけ偏っているか、そしてこの話の片側についてほとんど耳にしていないことを知っている。しかし、それがキリストの目的のためか?答えは難しくない。なぜアメリカは民族浄化の一方的な実行を盲目的に支援し続けるのか?なぜだ?私にはわからない。AIPACの力について考えるのにはうんざりだ。もしそうであるなら、君たちの政府は根本的に腐っている。いや、それが理由ではない。しかし私はどうしたらいいのかわからないんだ。

私が知っていて好きなアメリカは、同情にあふれ、心が広く、創造的で、多様で、忍耐強く、寛大なものだ。私の親しいアメリカ人の友人たちは正にそれを体現している。しかしアメリカはこの酷い一方的な植民地主義の戦争を支援している。私にはできない。君たちだけでないことは知っている。どうしてこういう言葉が耳に入らないんだ?自由と民主主義の概念をアイデンティティの基盤にしている国が、人種差別主義の神聖政治を支持して金を使うのが、どれだけ酷く見えるか判っているのか?

私は昨年メリーとイスラエルへ行った。彼女の姉はエルサレムのUNWRAで働いている。案内をしてくれたのは彼女の夫でプロのガイドのパレスチナ人のシャディと、イスラエルのユダヤ人であるオレン・ヤコノビッチだ。オレンはIDFから来た元少佐で、パレスチナ人たちを殴るのを拒否するために公職を離れた。彼ら二人の間で何か苦悩があるのに気がついた。入植者たちが糞尿や使用済み生理ナプキンをパレスチナ人たちに投げつけるのを防ぐために、パレスチナ人の家はワイヤーや板を打ち付けてあった。パレスチナ人の子どもたちが学校へいく途中で、イスラエルの子どもが野球のバットで殴り、それを親たちが囃し立てて笑っている。村じゅうが脱出して洞穴で暮らしていると、入植者がその土地にやってくる。丘の上のイスラエルの入植者が、ふもとのパレスチナ人の農地に下水を垂れ流す。「壁」だ。検問所と、終わりのない毎日の侮辱。私は考え続けた。「なぜアメリカ人はこれを許容するんだ?なぜこれをOKだと思うんだ?それとも知らないのか?」

平和のプロセスについて。イスラエルはプロセスを望んでいるが、平和は望んでいない。「プロセス」によって入植者は土地を奪い、入植地を作る。パレスチナ人が感情を爆発させると、最新鋭のミサイルや劣化ウラン弾で体を引き裂かれる。それがイスラエルの「自衛の権利」だからだ(一方パレスチナ人は持っていない)。入植者の民兵はこぶしを振り上げ、他人のオリーブ畑を奪い、軍はさらに酷いことをする。ところで、彼らのほとんどは元々のイスラエル人ではない。ロシア、ウクライナ、モラヴィア、南アフリカ、そしてブルックリンから最近イスラエルへ来た「帰る権利」を主張するユダヤ人で、土地に対して神が与えた不可侵の権利だとの考えを持っている。そしてアラブ人を「害虫」扱いしている。ルイジアナの学校で過去にあった、傲慢で恥ずべきレイシズムとまったく同じだ。それが私たちの税金が守っているカルチャーだ。KKKに送金しているのと同じだろ。

しかしこれよりも、私を苦しめているのはもっと大きな構図だ。好むと好まざると、アメリカは「西側」を代表している。そしてこの戦争を支持しているのが「西側」だ。モラルと民主主義について声高く語っているのに。啓発的な西側の文化の市民的な達成のすべてが、狂気のムッラーの歓喜と偽善のために損なわれることを危惧している。戦争にモラルの正当性はない。現実的な価値はない。キッシンジャーの’Realpolitik’の感覚はない。戦争は私たちを悪に見せるだけだ。

これが君たちすべてを不快にするのは申し訳なく思う。君たちは忙しいし、政治にアレルギーもあるだろう。しかしこれは政治の問題ではない。私たちが作り上げた市民的な価値を破壊しているのが、私たち自身なんだ。この手紙には何も修辞的なことはない。もしも修辞的なことで済めばよかったのだが。

 気がつけばわたしは現地の無数の悲惨な写真や動画を歯を食いしばって見つめている。風呂を済ませてジップを部屋に連れにきた子に上の手紙を読ませる。それからさっきまで見ていたパレスチナの罪のない子どもたちの写真を見せる。子は思わず手で顔を覆う。「おとうさん、わたし、寝る前なんだよ」 小さな悲鳴を上げる。

2014.8.4

 

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 昨日は夕食の席で頭を吹き飛ばされた赤ん坊を抱いて絶叫するパレスチナの父親の話などをしてYも子も気がつけば夕食の大半を喉が通らないと残した。気がつけばガザと佐世保の少女のことを考えている。昼、いつもの職場近くの喫茶店でカレイの煮付けの定食を食べながらめくった週刊誌に30数年前の「パリ人肉殺人事件」の佐川一政が出てきて殺して食べるのは愛おしさの究極の形と話していた。早稲田出の弁護士の父親と東大出の母親に成績スポーツ共に優秀の娘。無残に殺された子は加害少女が母の突然の死をきっかっけに不登校になっても唯一寄り添っていた友だちであったともいう。ならばすでに原初から乖離はあり、表と裏が母の死によって引き剥がされ、急激に引き剥がされたからこそ表の渇望が裏の鬼面に千切れ残ったのかとも思った。思ってもみたがそれでも杳として腑に落ちない。そんな話を持ち出せば、子は子でいつもこの事件の最新のニュースを読んでいるらしい。前述したブライアン・イーノの手紙でわたしがもっとも胸にのこったのは後半、原文で言えば「but this is beyond politics. It's us squandering the civilisational capital that we've built over generations. 」というくだりの部分で、これは日本語訳が正確でないように思う。拙いわたしなりの訳ではだいたい「政治的な問題にととまらず、それはわたちたちが世代を超えて築きあげてきた文明的な資本をわたしたちに浪費させている」といった感じだろうか。そのことを今日も一日考えていた。、二ールヤングが2006年に録音した Living With War のノイズに浸りながら。

2014.8.6

 

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 台風が過ぎていく晩。はやめにシャワーを浴びて2階の寝室のベッドにころがり星亮一「会津落城 戊辰戦争最大の悲劇」(中公新書)をしばらく読んでから、ベッドサイドの灯りを消すと、窓の上方に月が見えた。ああ今日の月は明るいなと思って眺めていたら、やがてその月を中心にして放射状に、DNAの紐のようなほそいXと、それに交わる横の光のラインがくっきりと浮かび上がった。まるで不思議な形の十字架のようで、その中心に座する月はまぶしいほどに、ときおり光の襞がめくれるようにぎらぎらと輝いている。じつに異様で、妖しく、美しい光景だった。そのままの姿勢で階下の子とYを呼び、それから子はわたしの隣でベッドに寝そべり、Yは窓際に身を乗り出して三人で、こんなのははじめてだ、すごいね、不思議だね、と感嘆して眺めていた。 

2014.8.12

 

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 夕食後。子がユーチューブで気に入った英語の曲を見つけたのだけれど誰がやっているのか分からない、調べてくれないかと言ってきた。ハリー・ポッターのファンが作成したスライド・ショーに貼り付けられた曲らしい。あれこれと調べて、コールドプレイ(Coldplay)というイギリスのバンドの2011年のアルバム「マイロ・ザイロト(Mylo Xyloto)」収録の Charlie Brown という曲であることが判明した。わたしは最近の音楽チャートにはまったく疎いが、調べてみればナニ、全世界総売り上げ5,500万枚? ブライアン・イーノのプロデュース? それにボーカルもサウンドも悪くはない。こういう音楽を子がじぶんで見つけてくるようになったか、と父はちょっと感慨深い。

 

 台風が過ぎていく晩。はやめにシャワーを浴びて2階の寝室のベッドにころがり星亮一「会津落城 戊辰戦争最大の悲劇」(中公新書)をしばらく読んでから、ベッドサイドの灯りを消すと、窓の上方に月が見えた。ああ今日の月は明るいなと思って眺めていたら、やがてその月を中心にして放射状に、DNAの紐のようなほそいXと、それに交わる横の光のラインがくっきりと浮かび上がった。まるで不思議な形の十字架のようで、その中心に座する月はまぶしいほどに、ときおり光の襞がめくれるようにぎらぎらと輝いている。じつに異様で、妖しく、美しい光景だった。そのままの姿勢で階下の子とYを呼び、それから子はわたしの隣でベッドに寝そべり、Yは窓際に身を乗り出して三人で、こんなのははじめてだ、すごいね、不思議だね、と感嘆して眺めていた。 

2014.8.12

 

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 夏休みに入って、子は部活(演劇部)だけは行くようになった。8月上旬を過ぎてお盆までの完全休校の間は、昼夜逆転こそはないものの、相変わらず家の外(人ごみの中)には出たがらない。たいていじぶんの部屋にジップ(犬)やレギュラス(猫)を引き入れて戯れたり、PCを触ったりしている。Yは子がすこしでもじぶんに(女の子らしい?)関心を持てるように、ときにマニキュアを塗らせてみたり、新しい靴や服を買いに行こうと誘ったりしていて、断られるときもあれば、気持ちが向いて近くのショッピング・センターへ連れ立って行くこともあった。

 そんな中休みがあってからお盆の最後の日曜日。部活の同級生仲間3人とUSJへ行った。友だちはもう何度も行っているが、子ははじめてだ。大好きなハリー・ポッターの新規エリアは混雑が酷いだろうと諦めて、車椅子を借りて友達がいろいろとサポートをしてくれたらしい。「ノンアルコールの西瓜のカクテルを飲む」といった簡略なメールと写メールを、親は戦地から届いたわが子の手紙を読むように開いた。翌日から午前中夏季学習、午後部活のパターンが再開し、子は午前中は休み、午後からの部活だけに参加したのが二日。続けて水曜が大阪の歴史博物館へ社会科見学で、ひさしぶりにクラスメートと合流。子は車椅子で、担任のI先生が押していっしょに回ってくれたらしい。続いて昨日の木曜から今日金曜まで一泊で明日香村の石舞台古墳を望む某施設にて特別合宿、とは朝から夜までぎっしり国語・数学・英語の集中講義と自習。「せっかく飛鳥にいるんだから歴史もやればいいのに」と言いながら、前夜は「ちょっと微妙」なぞと迷いながらも、結局みんなとバスに乗って出発した。昨夜来たI先生からのメールでは授業は参加せずに“マイ・ペースで”(おそらく飛鳥関連の歴史書が多数置いてあるという図書室でひとり本でも読んでいたのだろう)、それでも宿泊の部屋や食事の席などで同室のクラスメートたちとはしゃいだりしていた場面もあったらしい。「できることはするが、できないことはしない」という明確な意思表示が他者にできるようになったことは良いことだと思う。夕方に学校近くの駅まで迎えに行く。

 秋の文化祭の演劇部の舞台が9月上旬にあり、その2日後に手術の説明があり、4日後に入院して翌日手術。今回は股関節の骨をいじるのでリハビリも加えると学校の復帰まで約3ヶ月を見込んでいる。手術に際してすこしでも自己輸血を増やせるようにと貧血の薬をもらったのだが、服用時に気分が悪くなることが多々あり、あまり活用できていない。食事や牛乳で鉄分の多いものをYが工夫しているがすぐに結果が出るものでもないだろう。今回は外部からの輸血は避けられない見込みだ。

 幼い頃に比べると、特に中学生になってから、体重が増えて、また度重なる手術や引きこもりで外へ出ることが少なくなったため、脚力は目に見えて落ちているし、歩く姿勢もあいまって酷くなってきている(左右の落差が大きい)。このごろは近くのショッピング・センターを回る際はインフォメーションでまず車椅子を借りるのが常である。前述したUSJもそうだし、博物館や美術館などもこのごろはほとんど車椅子を借りていて、長い時間歩けなくなってきている。それもあって先日、製造から12年目に突入したわが家の車の助手席の窓が開かなくなったり、エアコンのコンプレッサーを交換云々の状態になってきた際に、車椅子を乗せられるような(後部の天井の高い)車にいっそ買い換えようかとの話もしたのだが、結局、予算の関係や駐車スペースの問題や、カラーやデザイン等の好みで丁度いい代替車が見当たらず、来年の車検を通して、あと3年は修理して使おうという結論になった。車椅子に関してはYからの情報で、ハンディに折りたたんで片手で持てるような軽量の車椅子もあり、とりあえずはそれでいけるんじゃないかということになった。学校側もこの夏休みを使って、バリアフリー対応の洋式トイレ(様式は一部の職員用しかなかった)への仕様変更工事をしてくれている。

 

 駅前の本屋で仕事帰りに見つけて衝動買いした五木寛之の「隠された日本」シリーズの「サンカの民と被差別の世界」(ちくま文庫)を通勤列車内で読み終えて、続けて「一向一揆共和国 まほろばの闇」を読み始めた。かつて講談社から「日本人のこころ」シリーズとして刊行されたものの文庫化で、かつてわたしが単行本で購入した1「大阪は宗教都市である 京都は前衛都市である」 2「九州の隠れ念仏 東北の隠し念仏」の続編である。「サンカの民と被差別の世界」には沖浦先生もピックアップされていて、わたしは10数年ぶりくらいに五木氏の「風の王国」を読み返したりもした。また夜は就寝前に、この「サンカの民と被差別の世界」で紹介されていた一冊、中尾健次「弾左衛門 〜 大江戸 もう一つの社会」(解放出版社)で江戸の浅草に居を構えていた関東八州のえた頭にまつわるあれこれを読むのが愉しみである。

 音楽は先日、友人がブログで紹介していたクラプトンのJ・J・ケール賛歌のトリビュート・アルバム Eric Clapton & Friends 「The Breeze」を聴いて逆にオリジナルを改めて聴きたくなり、昨年亡くなったJ・J・ケールの2枚組みベスト盤をよく聴いている。

 パーキンソン病の進行でもう歌うことが出来なくなったというリンダ・ロンシュタットを偲んで、若かりし頃のキュートな映像が見れる Blue Bayou: Live 1977 のDVDを amazon で注文した。曲目からしてたぶんこれと同じだと思うのだけれど。

2014.8.22

 

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 昼食のコップの水に溶かした下剤がいつもより効きすぎて、午後から子はおなかが痛いと苦しみ、浣腸をするためにYが職場を抜けて帰宅し、そのあともしんどいと言って早々にベッドに入って寝てしまったが、寝ている間にも粗相をしてしまい、夜中に起きてまたシーツを交換したり、パジャマを着替えてシャワーを浴びたりとひと騒動だった。いつもはその薬は服用の翌日くらいに効きだすのだが(学校の休みなどの外出のないタイミングを狙ってYが服用させている)、このごろ部活を再開して体を動かすようになったからか、果物(特に大好きな梨や西瓜などの水分の多いもの)をよく食べるようななったせいか、いろいろな要素が絡んでいて調整が難しいという。腸の病気をして同じように排便コントロールに苦しんでいるというYの職場の同僚の女性が、以前にトイレが間に合わずに自宅の寝室から廊下からトイレまで広範囲に汚してしまい、寝室と廊下の掃除に懸命になってついトイレの汚れを忘れていて、帰宅しただんなさんが黙って掃除してくれたという話をして、「排泄物を粗相してしまうということは、たんに汚してしまうということ以上に、その人の自尊心を破壊してしまう」と言ったというその同僚の言葉を、子がトイレに行っている間にベッドのシーツを取り替えているYがつぶやく。

 明けて今日は午後に整形外科(大阪)。昨日のことがあるので今日は部活は休ませる。貧血の薬のせいか血液の数値にやや改善が見られるので、28日に200ccだけ自己輸血の採血をすることになった。それでも予定の半分で、「おそらく手術には足りない」 京都・西院でユーザーの親睦会に出てから深夜に帰宅してYから、「200万分の1の確率でエイズに感染する可能性もあります」という、同意したくはないが同意ざるを得ない同意書にサインをするよう説明を受ける。

2014.8.25

 

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 部活の宿泊合宿へ子を送ったその足で、Yと二人で東大阪にある装具メーカーの本社ショールームを訪ね、子の車椅子をいくつか見せてもらう。人に押してもらうというよりは自ら自在に動き回るためのスポーティーなものがデザインもなかなか良く、また余計なハンドルや肘当て、飛び出した足置きなどもないので収納もコンパクトで、重さもだいたい10キロ前後くらい。価格は20〜30万するが、半分程度は障碍者手帳を使った補助が出る。そのために手帳の等級を更新しなくてはならず、その手続きに1ヶ月、また車椅子はオーダーメイドなので手帳が更新されてから子のサイズを測り、手元に届くまでさらに一ヶ月くらいかかる見込み。

川村義肢ショールーム http://www.kawamura-gishi.co.jp/tour/showroom.html

 ショールームを出てからそのまま、こんどは奈良市の日産のショールームを訪ねる。修理をしてあと3年使おうと決めた車をその直後にYが電柱に当ててサイドミラーを破損、ボディーを相当引っ掻いてしまった。これに先のエアコンのコンプレッサーとドアウィンドウのモーター交換も入れたら修理に約30万くらいかかるというので、またまた買い替えの話が現実味を帯びてきた。朝一の車椅子は、収納時のおよそのサイズを測るためでもあった。とりあえず今日はキューブと、ノートを見せてもらった。キューブは思っていたよりも室内の居住性があまり良く感じなかった。ノートは畳んだ時の車椅子の収納がちょっと微妙かなとも(車輪を外せば乗るとは思うが)。高い買い物であるので結局、実際に出来上がってきた車椅子の実物を乗せて試してから、ということにした。条件としては、1.駐車スペースの問題で長さはせいぜい4100くらいまで。2.運転手(わたし)、助手席(Y)、後部に子一人を乗せた状態で、折り畳んだ車椅子を収納できるキャパがつくれること(折り畳み時のおよそのサイズは800×800×400くらいだが、場合によっては両サイドの車輪部がワンボタンの簡単操作で外れるので、その際には幅が400から300くらいには減ると思われる)、それから3.燃費が良いこと。その三点くらいかな。軽自動車は考えていない。

 やや遅い昼食を長島監督贔屓のうどん店・重乃井でひさしぶりに食べて、帰ってからこんどはそろそろリフォーム工事が終了しかけている妹宅へ、こちらの電気店で買って預かっていたリビングの照明3つを脚立を抱えて設置してきた。内装工事はほぼ終わり、玄関のドアも新しいものがついていて、あとは駐車場スペースの外溝工事のみを残している感じ。ベランダの防水仕様にきたという業者さんから鍵を預かって、30分ほどで設置し、妹へ写メールを送った。帰ってソファーで1〜2時間昼寝をして、ジップの散歩に行って、庭に水をやって、今日はYは遅番なので、いなばのとりそぼろバジル(缶詰)をご飯にかけた丼とチキンラーメンとキュウリの手抜きの夕食をひとりで食べ、酢の物と豆腐のお裾分けにやって来た母にしばし大阪のガイドをし、ジップの二度目の散歩をしてから自転車で夜の図書館へ行き、一時間ほど郷土資料をめくってから仕事を終えたYといっしょに自転車をついて帰ってきた。だって今夜は子がいないので、恋人のように仲良くするチャンスだ。

重乃井 http://suzumeketaro1.blog57.fc2.com/blog-entry-1338.html

2014.8.30

 

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 朝から母を誘いYと三人で車で大阪・南港のイケアへ行きソファを購入する。他に雑貨をいくつか。昼はイケア内のフードコートの混雑に辟易して帰りの阪神高速の朝潮橋パーキングで。奈良へ戻り、奈良市のホンダ店でフィットを見る。これまでの中では前述の三つの条件をいちばんよく満たしているように思う。荷室はノートより広いし、後部座席の足元部に座席部分がきれいに倒せて、荷室部とフラットになるのはかなりメリット。自転車なら斜めに二台くらい乗せられそうだし、後部座席の片方を生かしてその横に畳んだ車椅子を立たせ、さらに座席の後ろに荷物もまだまだ載るのも良い。

 子は夕方、満足そうに疲れた顔をして帰ってきた。「とにかくいまは楽しい記憶だけを残して、手術の後の長い入院が終わってから、また学校へ行きたいと思うように・・・」とYはそればかりを言う。

 サイトの読者の方から子におすすめとして紹介された八百板洋子著「ソフィアの白いばら」が届く。

2014.8.31

 

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 3日の晩。というかほとんど4日の早朝に、水戸で引越し屋に荷物を預けてから高速をひた走ってきた妹夫婦が奈良へ到着する。ここに至るまでにYやわたしは日常の些事の合間に照明を取り付けたり、水道やガスの開局に立ち会ったり。文化祭を明日に控えた子はかなりハイになっていて、夜遅くまで(なぜか)前回の台本を片手に発声練習だと延々と読み続けていた。

 4日。妹夫婦はリフォーム業者と最終段階の確認作業など。子は待ちに待った文化祭の演劇部による舞台発表で、Yは午後から電車で生駒のホールへ。(わたしは残念ながら今回、途中で日程が変更になったことなどもあり、仕事の調整ができなかった) 劇はYいわく1年生のときの前回よりもさらに上出来だったそうで、子も満足げに帰ってきた。子は今回は主に音響の担当である。

 5日。妹夫婦宅の引越し荷物が届き、そちらは母が手伝いにいく。わたしは先にイケアで買ったわが家のソファーがおなじく今日配達なので、午前中は古いソファーを庭に引きずり出して、カッターとチェーンソーでひたすら解体作業。午後にソファーが届いてこんどは組み立て作業。さらにいっしょに配達された母の棚を母宅へ運搬して、子の迎えやジップの散歩の合間を縫ってこちらも組立作業。子は午前は学校で保健室、午後から部活の片付けがあり、帰ってきたと思ったらおなじ中学2年生だけの部員3人で学園前の焼肉屋で打ち上げをするのだと言って、また電車で出かけていった。「本来なら夜に、中学生だけで焼肉屋というのはどうかとも思うが、いまはとにかく子が外の世界へ出てくれるなら何でも許可しようと思う」とY(じっさいに仲良しのHちゃんは親の許可が下りずに不参加だった)。子が打ち上げに行っている間、引越しや組み立てを終えた大人たちはイオンモール内のイタリアンの店で別個に夕食。

 6日。文化祭二日目は屋台や生徒たちの出し物。こちらもわたしは仕事の調整がつかずに無念の不参加で、代わりにYと妹夫婦が電車で見に行く(母は体調不良で不参加)。演劇以外は興味がないと言っていた子はクラスの朝礼で担当を振り分けられ、お菓子が当たるクイズの説明係となって、ペイズリー模様の可愛らしい三角巾を頭にのせて他のクラスメートたちに混じって一日、じつに楽しそうに過ごしていたとYから写真付のメールが届いた。

 そして今日7日。わたしは午前中はソファー解体の続き。午後から大阪の病院で手術の説明を整形外科のK先生から受け、その帰りにこんどは子もいっしょに東大阪の装具メーカーに立ち寄って、オーダー予定の車椅子を見に行く予定。妹夫婦も同伴予定。

2014.9.7

 

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 明日はいよいよ入院。あさって手術。

 部活で寄せ書きの色紙とたくさんの手紙を、勲章のように抱いて帰ってきた。

2014.9.10

 

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 整形外科で3度目、脳神経外科を加えると延べ6度目となる今回の手術は、もともと整形外科の定期診断に於けるレントゲン写真によって偶然、左脚の股関節が脱臼しかけている状態であるのが発見されたことによる。「股関節は、その骨構造と強靭な関節包、さらにはそれを補強する靱帯によって安定している」が、子の場合は一部の神経の不全による長期にわたる筋肉のアンバランスや足の変形等々によって、本来の「安定」がかなり損なわれていたわけだ。神経の麻痺やこれまでの外科的手術の部位が、主に左脚の足首周辺に限られていたため、レントゲン撮影に於いて股関節部分はその対象外であった。中学生になり、体重も増加し、幼い頃のように長い時間を歩行できなくなり、歩く姿勢も左右に大きく振れるようになってきたことから、担当医がふとレントゲン対象に含めた一枚に、骨盤からいまにも滑り落ちかけながらかろうじて引っかかっている大腿骨の頭が写ってた。前述した「股関節の骨および非収縮性要素の構造と機能」の一文を訂正するならば、「その骨構造はバランスを失し、強靭な関節包およびそれを補強する靱帯は弛緩していた」わけである。このまま放置すれば早晩、大腿骨は骨盤から完全に外れる。脚が外れるわけでもないし、即歩けなくなるわけでもないが、激しい痛みが伴う。今回の手術はそれ(将来確実に予想されるデメリット)を防ぐためのものであり、これまでの手術がなべてそうであったように、この手術によって何かが「今より良くなる」わけではない。方法としてはまず大腿骨の骨盤と接している頭部分を、外れにくい形に改変する。大腿骨の上部10数センチほどを切り離し、ちょうど老人用のステッキの持ち手部分の如く(T字の形に)接合して、術後半年くらいまで幾本かの金具で固定する。おなじく骨盤側も恥骨に向かって伸びた半島のような部分を切断し、これも角度を変えてやはり術後半年くらいまで幾本かの金具で繋ぎ合わせる(角度調整で生じる隙間は人工骨で埋める)。つまり外れかけている大腿骨と受け手である骨盤の、双方の角度を人為的に外れにくい角度に変えてしまおうということである。加えて股関節の骨を覆っている弛緩した関節包をいったん切り離し、再度引っ張り直した状態で張りなおす。またその周辺、骨の後ろから前から主に臀部より迂回してきている「大腰筋腱」の一部を移設して股関節の補強に役立てる。このあたり、文章で書いてもあまりイメージは沸きにくいが、実際のよその患者の手術例の写真を見せられながら説明を受けると、正直いって「せっかくきれいな形で生まれてきたのに、ここまで変えてしまわなければならないのか」 一言で言えば、無残。これに尽きる。(だからこの説明には子を同席させなかった) このためにメスを入れる部分は、左脚の内股に小さな数センチの一ヶ所、そこから腰方向へ、ちょうど水着のラインでかろうじて隠れる長いラインが一ヶ所、そして大腿骨の作業のための太腿の外側の縦の長いラインが一ヶ所、の計三ヶ所である。特に最後の縦の一ヶ所は(水着などになったら隠せない部分であるが)、かつての脊髄の手術でもそうであったが縦の切開に弱い皮膚の習性上、。ケロイド状になりやすい。手術予定時間は8時間プラス・アルファ。状況によって一時的にICU(集中治療室)を経由するかも知れないが、脊髄の手術のときのようにICUで泊まることはなく、ほとんどその日のうちに病室へ戻ってくる。但し骨や筋を大きくいじるので術後の痛み、それに伴う発熱はそれなりに予想される。点滴による痛み止めの注入は術後二日間を予定。2〜3週間くらいまではベッド上で座位。その後、徐々に車椅子に乗りながら、4〜6週間で左脚は松葉杖による体重をかけない状態で立ちながらリハビリ、8〜12週目くらいから両足に体重をかけた通常の状態になれるという。最初の1〜2ヶ月は手術をした病院に入院し、その後はリハビリ専門の他施設へ移る話もある。家に帰ってくるのは年を越してからだろうか。

 2014年9月12日。8時30分に手術室へ移動。17時30分に手術終了の知らせ。看護婦さんに連れられ、二人でICU(集中治療室)へ面会に行く。K先生の説明。手術は予定どおり、順調に終わったこと。麻酔後に自己輸血を確保するために最後の採血(三度目)をし、術中の血液の流出を少しでも減らすために体内の血液を水増しをして、いまのところ自己輸血でぎりぎり足りていること。骨盤と大腿骨の「補強」がかなりうまくいったために、関節包の張り直しは今回は必要なしと判断して見送ったこと、などを伺った。まだ麻酔が残っているので半ばぼんやりとはしているが、思ったより顔の浮腫みなども少なく、会話も少し。痛み止めの入った点滴と、おしっこの管、それに大腿骨・骨盤と分けられた体内からの出血を逃す管(これはじきに体液に変わってくるようになったら外せる)。吸入器もすぐに外された。体温は36度少々。唇の色がまっしろ。しばらくICUにいて、じきに元の病棟へ移動する。「水が飲みたい」 「アイスが食べたい」 喉の渇きを訴えるので看護婦さんと相談し、19時から何度かうがいと唇を湿らせる。「音楽を聴きたい」といい、スマホのイヤホンを耳にあてる。19時20分、やっと水を飲む許可が出て、併せて食事も許可される。ミネラル・ウォーターをコップ半分。本人の希望でベルギーチョコの「飲むアイス」ひとつをペロリ。足の痛みもそれほどはなく、気分もとくに悪くない。満足したのか、やがて寝入ってしまった。

 Yは今夜は簡易ベッドを借りて同宿。わたしだけ夜更けの生駒越えで帰ってくる。朝の車中でYと交わした言葉を思い出している。これまでの手術のこと、不登校のこと、演劇部のことなどを思い出しながら、「でも紫乃はこれまでいちどだって、病気のことや体のことを文句を言ったことがない。手術が嫌だ、やりたくないなんて言ったこともないし、なんでこんな体にじぶんを産んだのかなんて言ったこともない。だから、その他のたいていのわがままくらいは受け入れてやろう」

2014.9.12

 

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 昨夜は「喉が渇いた」と何度か起きて、また保冷剤を脇の下に入れたりとか。食事は朝はパンをひと齧り。しばらくして昨日と同じベルギーチョコの「飲むアイス」をひとつ。昼は添え物のたこ焼きをひとつ口に入れるが、「味が濃くて気持ち悪くなる」。夕方に「飲むアイス」を7割、本人のリクエストで「午後の紅茶」のミルクティー、そしてりんご味のゼリーを少々。夜はご飯を二口噛んで、「もう疲れた」。酷い痛みはいまのところないようだが、神経が過敏になっていて、「ベッドの手すりに体重をかけないでくれ」 「笑い声が響く」 「そこに立たないでくれ」 「明かりが眩しい」 と注文も多い。少し薄目をあけて、スマホをちょっといじっては、またうとうと。同じ姿勢が苦痛のようで、ときどき体位を変えたいと、半身にした隙間にタオルや枕を滑り込ませたり外したり。ただしわたしがやると、「お父さんは乱暴だからやらないで」と叱られてしまう。午後に担当医のK先生が来て、血を排出する二箇所の管を「もう、いいでしょう」と抜いてくれた。血の量は「少ない方」だとのこと。痛み止めと栄養剤の点滴も明日の朝で終了らしい。もういまからでも積極的に体を動かして、(食事のときに)上半身を上げたり、左足を(外向きでなく)内側へ移動したりして、慣らしていって欲しいとK先生が言うのだが、かなり痛いらしく、子は「ぜったい、無理!」と。実際、処置をした股関節付近の皮膚は現在、ぱんぱんに腫れているという。熱は朝方は36度少々で、昼間は37度台に。ただ脳神経外科での脊髄の手術のときのように顔がむくんでというわけでもなく、夕方には唇にもやや赤味がさしてきたので、じっと椅子ですわっているだけのわたしとYも夕方、散歩がてらに二人して近くの大阪城天守閣まで歩いて、韓国人らしい美人の女性二人組みに英語で道を尋ねられたり、天守閣裏の人気ない木陰に秀頼と淀殿の自刃跡を偲んだりしたり。子のほとんど手付かずの病院食と売店のローソンのおでんで夕食を済ませ、明日は仕事だからと帰り際、ベッドに横たわった子の姿をしばらく眺めて「紫乃はがんばってるなあ」と思わずつぶやくと、めずらしく素直に「んん〜 ?」と声にならない声を出す。「もう六回もこんな手術をして、紫乃はほんとうにがんばっていると思うわ。お父さんなんかより、ずっとがんばっている」 そうして今夜も泊まるYを残して車で帰ってきたら、「知らない間に39度7分まで熱があがっていて、いま座薬を入れてもらった」というYからのメールが届いた。もうしばらくは我慢のしどころだ。明日にはもうすこしご飯が食べられるようになってくれたらいいがと思う。

 ノーム チョムスキーの「複雑化する世界、単純化する欲望 〜核戦争と破滅に向かう環境世界」(花伝社)と「アメリカを占拠せよ! 」(ちくま新書)、 上原善広「異邦人 世界の辺境を旅する」 (文春文庫) を amazon で購入する。

2014.9.13

 

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 本日は仕事で夜9時半に帰宅。

 その間にYからのメール、何通か。

膝が痛いといい、座薬を入れてもらいました。その10分後に点滴からの痛み止終了の電子音が鳴りました。これからは座薬で痛みをとっていくそうです。熱は38度2分。
昨夜も前夜と同じく、水、体の上げ下げをたひたび言ってきました。
今は座薬が効いてきたのか眠っています。 (7:22)

バナナ三分の一、パン3口、牛乳半分。
休憩しながらゆっくり食べました
ベッドも30度くらい自分で上げて座りました。 (9:36)

今晩も泊まったほうがいいと紫乃がいうので泊まります。 (15:37)

2014.9.14

 

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 「紫乃、がんばってるよ〜」と電話の向こうでYが言う。昨日までは精一杯だったのが少しだけ余裕がでてきたのだろうか、今日はベッドの角度をかなり高く、60度ほどまで上げて整形のK先生から「そこまで上げられたら充分」と褒められ、また手術をした左足の足首が自然外側へ広がってしまうのを先生に言われたように「硬くなっちゃうから立たせなくちゃ。ちゃんと立ってる?」といくども訊いたりと、Yに言わせるとこれはやっぱり文化祭での部活の発表会がとても充実していたからで、一日でもはやく部活に戻りたいという信念のなせる業なのだろうと。まだ手術からわずかに三日経ったに過ぎないが、ほかにもやはり先生から言われたことだが食事をすこしでも多く食べようとしたり、水分を多く摂ろうと心がけたり、はたで見ていても驚くくらいの頑張り様らしい。本日は血液検査をして、結果は手術前とおなじくらいのヘモグロビンの数値で、先生はもうすこし低い値も覚悟していたらしいが、これならば(他人の)輸血をする必要はない、このまま自己回復を待ちましょう、ということになった。

 手術をした部位もあり、パジャマのズボンが現在履けない状態で、形ばかり足の上に乗せて隠していたのだが、ネグリジェのような頭からすぽっとかぶれるようなパジャマをユニクロで確か売っていたと看護婦さんから聴いて、またパンツもおなじように術後は介護用の紙オムツを巻いていたのだが、これも両側が紐になっている下着であれば履きやすいと聴いて、Yも連泊のこともあり、子から許可をもらって買い物も兼ねて夕方にいったん帰宅をした。母親が夕食にうどんを用意しておくというので母親宅に、わたしも昨夜つくったもやしと榎と豚肉のレンジ・レシピをもって合流し、奈良盆地の夜景を眺めながら三人で夕食を食べてから、Yと二人で車で近くのイオンモールへ買い物へ行き、ユニクロで長めのワンピースのようなルームウェアを二着、スタジオ・クリップなる店でオールドスタイルな秋物ワンピースを一着、そしてアモ・スタイルで両サイド紐付の可愛らしい下着(10年前にわたしがYに買ってあげて、すぐに捨てられてしまったやつだ)を二着買って帰ってきた。

 

 通勤電車の中で読んでいる五木寛之の「一向一揆共和国 まほろばの闇」に出てくる「ワタリとタイシ」の説明で、筏流しなどの水運に従事していた者たちはもともと田畑を持たない非農耕民で一所不在の山の民であり且つかれらが「タイシ」と呼ばれていたのは太子信仰を奉じていたからにほかならないという件を読んで、わたしの母方の曾祖父が北山村の筏師の頭領をしていたという地元の村史の記述について、何やら心躍るものを感じて、その五木氏が一時期読み漁ったという故人である井上鋭夫の「一向一揆の研究」に連なる一連の研究を読んでみたいと思ったのだった。とりあえず amazon で「山の民・川の民―日本中世の生活と信仰」 (ちくま学芸文庫)を注文した。

北山村「筏師の記憶」 http://kankou.vill.kitayama.wakayama.jp/ikada/kioku

2014.9.15

 

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 手術から約一週間。仕事続きでわたしは病院へは行けていないが、Yや見舞いに行った妹たちの話では、もうだいぶ元気になってきて、表情も手術前のように戻り、さっそくYが持ち込んだ(正確には“持ち込まされた”)ノートPCでDVDの映画(大好きなホビットやハリーポッターなど)を見たりしているそうだ。ときどきやってくる看護学校の研修生の女の子たち――彼女たちがくるとYはわざと席を外してやるのだが、つい昨年まで高校生だった年齢もありすっかり仲良くなって、子も部活の先輩たちの話などを披露していたようだ。心配していた手術箇所の痛み、とくに浣腸――便の掻き出しはかなり足を広げるのだが、ものすごく泣き喚くといったほどでもなく「それなりに痛む」という程度らしい。連休明けからベッド上でのリハビリも始まり、Yが買っていったレギンスを履いてやっているが、これは筋肉が硬くならない対処的なもので、本格的なリハビリは骨が接合する4週間後からの予定である。また看護婦さんを通して訪問学級の誘いもあり、これはちょうど前述の研修生のお姉ちゃんたちと会話していたところへ持ち込まれたタイミングで、子も「う〜ん・・」とか言いながらも、なんとなく場の雰囲気で受けることを了承したらしい。これは「病気や怪我で入院している小中学生に対して教師が病院へ訪問して」勉強を見てくれる制度で、大阪市立光陽特別支援学校というところへ一時的に「転校」する手続きを行い、「1回2時間で週に3回程度」の授業を4教科の担当の先生が来てくれるという。それに先立って子と母親の面談などが病院であった。病室の方も手術直後は4人部屋を個室のように使っていたが、連休明けから一人、おなじ中学2年生の女の子が入ってきた。偶然だが以前にも同室になった子らしいが、「どんな子がくるかな」と愉しみにしていた気配もあった子は、前回あまり気が合わなかったのやも知れず、カーテンを閉ざして見事に交流をシャットアウトしているらしい。その子の病名は分からないが、他にも隣室にどんな事情か分からねど入院と同時に手術で片足を切断した中学生の男の子がいて、よく松葉杖で廊下を歩いているのをYは見かけるらしいが、「まだ現実を受け入れられないのか、ほとんど表情のない顔をしている」と。入院の病棟にいると、さまざまな人生とすれちがう。

 通勤の電車内でノーム チョムスキーの「アメリカを占拠せよ! 」(ちくま新書)を読み、 帰宅した風呂やベッドで上原善広「異邦人 世界の辺境を旅する」 (文春文庫) を読んでいる。iPODでドクター・ジョン、ニール・ヤング、ジョン・ハイアット、トム・ペティ&ハートブレイカーズの新譜、ロッド・スチュアートのライブ・コンピレーション、そしてなぜかジョージ・ハリスンの旧作をあれこれと聴いている。

2014.9.20

 

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 毎度のことだが、子の入院とわたしの出張仕事が重なる。それと春さんの関西での個展も。もうずいぶんご無沙汰してしまっているのに、相変わらずご丁寧に案内の葉書を送ってくださる。が、今年も日にちを見て「どんぴしゃ」。確か去年は名古屋か大阪・堺あたりのレオパレスにいたのではなかったか。

 一週間前から京都某市のレオパレスに泊り込んでいて、何とか休みを一日とり、昨夜は仕事を早めに切り上げてそのまま大阪へまわり、子の顔を覗いてきた。夕方7時前頃から面会時間を少々過ぎた8時半頃まで二時間ほど。数日前から車椅子に乗れるようになった。といってもまだ骨が完全ではないので、一日一回だけ、乗り降りの練習のようなものだ。股関節をいじった左脚は地面につけられないし、右脚は体重を支えようにも力がほとんど入らない。畢竟、看護婦さんに抱えられるようにして持ち運んでもらう形だ。が、細い腕を踏ん張ってなんとかお尻を動かそうとがんばっている。飲み物が少なくなってきたと言うので、車椅子で地階のコンビニへ買い物へ行った。ストレートティとミルク飴とポテト菓子。夕飯は半分くらい。熱は平熱。傷口は貼っているので分からないが、内股の部分はもうほとんど痛みはないそうだ。いちばん大きい開口部の外側は、動かすとまだ少々痛い。それでも前回の(脊髄の手術)のときよりは「ぜんぜんマシ」と言う。「(前回は)悪夢だった」と。レントゲンは適時撮ってくれていて、いまのところ問題はないが、まだ骨がくっついているわけではないので、リハビリも無理をしない程度。採血は数値がだいぶ回復してきたので、次回の検査が良ければ鉄分を補給する薬は終わりにする予定、と。結局、(他人からの)輸血は回避できることになりそうだ。

 数日前は、おなじ演劇部で仲良しのHちゃんがご両親と見舞いにきてくれた。それから「一時転校」した訪問教育の理科の先生が、子の演劇部の顧問であるM先生と中学・高校とクラスメートで仲良しだったというびっくり偶然の話。話をしている最中にも子の手元のスマホが頻繁に鳴ってラインの到着を告げ、そうやって学校が終わってみなが家に帰り着いた頃には毎日、演劇部の先輩や同級生数人とラインを通じて他愛もない会話で盛り上がっているらしい。ときに部活での様子を動画で送ってくれたりもしてくれる。骨がついたら、一日でも早く演劇部にもどるために一生懸命リハビリをやる、と子。Yが言ったように、文化祭での演劇部の発表がうまくいったまま手術へ移行できたことが、(本人の気持ち的にも)次にもどるための良い材料になっている、というのはほんとうだ。日に三度の食事、薬、定期検査、導尿、浣腸、ストレッチャーに移ってのシャワー、訪問教育、リハビリ・・・ 病棟での日常は外部の人間が思っているよりも案外と忙しいものだが、それ以外のじぶんの時間はたいていスマホのメールやラインのほか、常にノートPCをベッドに渡した机に載せて好きな映画を繰り返し見たり、完成しない物語をあれこれ打ったり、スマホで拾ったボーカロイドの歌詞をノートに書き写したりしていて、「もうそろそろ(こんな毎日も)飽きてきただろう?」と訊くと本人いわく、「いや、演劇部のことさえなかったら、満足した生活なんだけど」とニヤケてみせる。

 ひさしぶりに大阪へ来たので、地下鉄を乗り継いで堺筋線で動物園前へ。出口をちょっと間違えて南側の方へ出たら、ちょうど飛田墓地の記念石碑のある通りの向かいだ。夜9時頃の西成はいつものくたびれた昼間の表情とは異なって、赤提灯の店は労務者風の人いきれが満ち、またひょいと覗いた路地裏のあたりは心なしかいい感じで少々危険な雰囲気を漂わせている。昼間は人気のない一泊1500円の木賃宿の入り口も煌々と明かりが灯っている。弾むような足取りで一杯飲み屋へ駆け込む一団、最近出来た「王将」のレジ前で持ち帰りを待っているおっちゃんたち、居酒屋の賑わいが離れた植え込みで立小便をしてまたカウンターへ戻っていく人。やっぱりわたしはこういうところが好きなんだな。“ニンゲン”がいるからほっとする。いつもの「雲龍」へ入っていつもの「台湾ラーメンと焼き飯」を頼んだ。ここはニホンゴがたどたどしい給仕の女性はしょっちゅう変わるが、厨房のおっちゃん(日本人ではない)はいつもと同じだ。テーブル席はそれなりにいっぱいだ。生ビールのグラスを傾ける若者二人連れがいる。妖しげな英語で給仕の女性にコップの水がないことを告げるおっちゃんがいる。醤油ラーメンをすすりながら、テレビの美川憲一を見てひとりで大笑いをしているおっちゃんがいる。台湾ラーメンと焼き飯で、680円。そのまま地下鉄には乗らずに散歩がてら、高速道路入口脇の「上方演芸発祥の地 てんのじ村記念碑」をわき目にJR天王寺駅まで歩いていった。巨大なアベノ・ハルカスを見上げる歩道橋から大通りの南を見やり、あの明かりの先のつい目と鼻の先の薄闇の中に、千日墓の刑場を見続けた迎え仏が今宵も合掌して佇んでいるはずだと思いながら階段を下りていった。

画家・榎並和春 http://enami.sakura.ne.jp/

てんのじ村記念碑(PDF) http://www.jinken-osaka.jp/pdf/souzou/26/12.pdf

2014.10.5

 

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 やっと一日、休みをつくった前日の夜、仕事場から直接、子の病院へ立ち寄った帰りにふと夜の四天王寺を見てみたくて、深夜の地下鉄を途中下車した。岩崎武夫が「天王寺西門考」で論じたような、かつてのこつじきやらい病者、もろもろの賤民たちが西方浄土の西門に集ったまぼろしの風景を幻視したくて。その中で裸のニンゲンとして息がしたくて。深夜23時。

2014.10.15

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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