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 iPODで夢野久作の「骸骨の黒穂」を読みながら帰宅する。

青空文庫で読む → http://www.aozora.gr.jp/cards/000096/files/2094_19609.html

2012.10.29

 

*

 

 120名ほどの大きなプロジェクトが始まって、ちょっと忙しくしている。打ち合わせがあると家に帰るのが21時だったり22時だったり。先日はその打ち合わせで西成の方へ行く用事があり、すり合わせが終わってからひとりで岸里から天下茶屋、花園と西成の中心部を歩いて縦断して、いつもの動物園前の中華屋「雲隆」で台湾ラーメンとチャーハンのお昼を食べに行った。西成は日本のサダル・ストリートだ。歩いている人、景色、匂い、空気の触感、すべてが異色だ。粗大ゴミ置場のようなリサイクル屋で2枚50円の靴下を真剣に選んでいるおっちゃんがいる。路上でサンダルを脱いだ裸足を見比べて何か議論をしている三人組がいる。薬中患者のような虚ろな顔で自転車に乗って過ぎ去る男がいる。「雲隆」は厨房の人間が代わったのか(接客の女性―――いつも日本語が片言の台湾人―――はしょっちゅう代わっているが)、何となく味が落ちたような気がする。チャーハンもなかなか良い味を出していたのだが、ちょっとぺったり気味で盛り方も不恰好。う〜ん、ここがダメになると、気軽に行ける台湾ラーメンの店がなくなって困るのだけれど。珍しく満席に近かったテーブルが空いてくると、ラーメン、餃子にビールを飲んでいた黒いジャンパーの痩せた男が接客の女性にさかんに話しかけ出した。「お姉ちゃん、台湾の人かい? 台湾の言葉って、なんか難しいね。ちょっとでも日本語が混じってたら、おれらにも分かるんだけどね。西成は台湾の人は多いの? あそうでもない? おれは長居から来たんだけどさ。長居公園、知ってる? 自転車で30分。西成に知り合いが20人くらいいるからね」 女性は扱いかねたように、やがて背を向けてレジの小銭の整理を始めた。

 今日は休日で快晴だが、残念ながら小屋の作業はできずに、またしても中学校の入試説明会。今回は第3候補の私立校。女子校で中高の6年一貫教育。年間80万円以上かかります。けれどプレゼン、そして小グループに分かれて各グループに先生と生徒がついてくれた校内案内を終えて、わたしは結構良い印象を持った。さすがに私学で、設備的には充実している。立地環境も緑に包まれていて、案内してくれた先生や生徒たちも大層話しやすい。少人数のクラスで、それほどがちがちの進学校というわけでもない。修学旅行は毎年オーストラリアで、夏休みは希望者のみだがイギリスのホームステイ16日間もある。大学との交流も盛んで、歌舞伎や文楽、劇団四季の観劇、琴や着付け、華道もある。どこかのんびりした雰囲気で、子にはこんな感じがあっているかも知れない。年間80万円だがその他雑費や通学費用なども足せば90万円くらいは行くだろう。単純に12で割って月7.5万円。現在の塾代と学校費用を併せてYいわく5万円くらいだそうだから、現状プラス約3万円を6年間、ということになる。子にハンディを負わせたのはDNAを継がせた親の責任でもあるから、子が望み、子に必要な環境であるのなら、できるだけのことはしてあげたいとも思う。そうそう何度も塾を休ませるわけにはいかないので、今日はわたしとYの二人で電車とバスで参加した。帰りに駅前の天理スタミナラーメンが一杯350円の特売だったのでお昼とした。

 会社のKさんのお勧めで教えてもらったジャズ・ピアニストのソニー・クラークがいま気に入っている。さいしょに有名な COOL STRUTTIN' を見つけて iPOD で聴いていたのだが、どうもせっかくのピアノが後ろに隠れがちでいまいちぴんと来なかった。それが amazon で注文したベース、ドラムだけの「SONNY CLARK TRIO」(ブルーノート盤)が届いた途端、一聴してはまってしまい、さっそくもうひとつの「SONNY CLARK TRIO」(タイム盤・曲、バックメンバーが異なる)も注文してしまったのだった。この、麻薬の悪癖で31歳の短い生涯を終えたピアニストは、かのバド・パウエルの影響を受けたそうだけれど、バド・パウエルのサウンドをもう少しソフトに洗練して、モダンに疾走させたような感じ、かな。でも音の粒が際立っていて、重みがあることころはバド・パウエルを継いでいるかも知れない。そこがいい。下に紹介するサイトの方が次のように書いているのにわたしも同意する。ひさしぶりにしばらくジャズにはまりそうだ。

 バド・パウエルに大きな影響を受けているソニーですが、緊張感は受け継がず、ピアノの音色も粘っこくも温かみがあります。くつろいだハード・バップ・セッションに最も似合うピアニストだと思います。ルディ・ヴァン・ゲルダーの録音のせいもあると思いますが、シングルトーンによる一つ一つの音が重くて輝かしく、時としてリズムに少し遅れ気味の打鍵が個性を作っていて、すぐにそれとわかります。彼のリーダー・アルバムはハード・バップの最良の作品群です。

○モダンジャズやヴォーカルを聴こう http://www6.ocn.ne.jp/~jazzvo/SonnyClark.html

 

 ところで修学旅行から帰ってきた子は、国語の授業でその旅行記を書くというテーマを出されてこれ幸いと(いつになったら完結するか分からない)大長編に取り組み出した。その長い話の「目次」だけ、紹介。

 

□ 修学旅行記 【目次】

第一章 (前日のこと)

第二章 一日目

  1 黒々とした門

  2 足と街とコンクリート 

  3 ゆれる缶づめ

  4 幸いの竜フッフール

  5 死人の川

  6 外国人のカメラなど

  7 面白いガイドさんに少なからず混乱する

  8 信じられない

  9 わだつみの神

  10 ホテル「まこと」

  11 信じられない2

  12 夜の気味悪い明るさ

  13 風呂のため全力疾走

  14 宴会

  15 枕投げ

  16 睡眠という名の馬鹿さわぎ

  17 妙な静けさ

第三章 二日目

  1 とぎれとぎれの夢

  2 完全に起きる

  3 まとめたくない荷物

  4 久しぶりな和食の朝食

  5 踏んだ銭

  6 じっとながめていて、いつのまにかはぐれる

  7 鹿を横目に

  8 さよなら宮島

  9 舌が焼ける

  10 まあとにかく

  12 地味なことに集中する

  13 帰ってそうそうバカ犬に

 

 今夜は子のリクエストでハロウィーン・パーティ。隣家の娘さんに注文した絶品のかぼちゃのタルトを食べてから、子の提案でじゃんけんをしてひとりづつ、真っ暗な家のどこかに仮装して隠れている他の二人を見つけてお菓子をもらうという遊びをした。

2012.11.3

 

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 昼は通勤電車のなかで半藤 一利「昭和史 1926-1945 」(平凡社ライブラリー) をめくり、夜は寝床で澤地 久枝「雪はよごれていた―昭和史の謎 二・二六事件最後の秘録 」(日本放送出版協会)をひもとく。「きな臭い昭和」が頭の中を駆け巡っている。

 

 日本現代の禍根は政党の腐敗と軍人の過激思想と国民の自覚なき事の三事なり。政党の腐敗も軍人の暴行も、これを要するに一般国民の自覚に乏しきに起因するなり。個人の覚醒せざるがために起こることなり。然り而して個人の覚醒は将来に於てもこれは到底望むべからざる事なるべし。

永井荷風・昭和11年14日の日記

2012.11.3

 

*

 

 目覚し時計をふたつ、買った。

 ひとつは寝室に  BIRD ALARM CLOCK TKM56-LBL  http://item.rakuten.co.jp/angers/125718/

 ひとつは子に  人生時計 http://www.mylifenote.net/004/post_3138.html

2012.11.5

 

*

 

 三日前の木曜日。イレギュラーで休みをとって、もう待ちきれない、さっさと組んでしまわなければ気持ちもしぼむ、と出来上がったパーツを本格的に組み立てて、北・西の裏手二面に何とか合板を貼り付けた。作業自体はネジでばんばん留めていくだけなので大した作業じゃないが、何分ネジの数が大量で、合板の切断も含めてそれなりに時間がかかる。それにそれぞれ隣家と接している裏面は隙間が50〜60センチ程度しかなくその狭い空間で、むかしイッセー尾形が演じていた酔っ払ってビルとビルの隙間に挟まって動けなくなったサラリーマンのように奮闘しながら大量のネジを打ち込んでいくので、体勢的にもかなりきつい。壁面同士は75mm、床の根太と接合する部分は90mmの長めのネジ(コーススレッド)をインパクト・モードでがんがん打ち込んでいくので、ドライバを押さえている手がやがて火傷をするくらいに熱くなってくる。北・西二面への合板貼り付けをほぼ終了したのが夕方5時頃。そこから、暗くなりかけてからの雨仕舞いが大変だった。屋根部分が平らのままだとシートをかけても雨が溜まってしまうので、傾斜をつけるために、ひとつだけ作っていた北側のロフト部分をクランプで南側に仮止めして、野地板を何本か渡して仮の屋根とした。先日急遽買ってきたトラック荷台用の強力防水シートを屋根にかぶせ、その上から車用の雨シートをかぶせ、東面・南面の胴回りはブルーシートを巻きつけた。この時点で高さが最大3メートル半。脚立のいちばん上にのぼってやっと、手が頂上に届くくらいなので、シートをかぶせるだけでも大変だ。ライトの灯りの中で夜7時過ぎにやっと一段落して、Yが用意してくれたすき焼きの夕食にありついた。雨仕舞いは途中から、塾から帰ってきた子も手伝ってくれた。まだ作業過程なれど、それなりに形が見えてきた小屋の中で二人してライトの灯りに照らされていると、何だか子どもの頃に遊んでいた秘密基地の復活のようで、心がときめく。たぶん、原点はそんなところだろう。本来は連休のときに、二日かけてもう少しきちんとした形まで持っていきたかったのだが、この頃はずっと休日といえば子の入試説明会か、そうでなければ雨降りで、年末が近づくと仕事も忙しくなるので、あんまりのんびりとは待っていられなかった。かくして秀吉の一夜城の如く、巨大な物体が庭のすみに突如として出現したのであった。ご近所から見学者も数名。

 さて、作業の続きは、次の休みの日曜日(本日)にと思っていたのだが、またしてもまたしても雨模様。シートを貼った部分は何とか持ってくれるだろうが、合板が剥き出しのままの北・西の裏手二面は、できるなら濡らしたくない。というわけで、ほぼ70〜90パーセントという予報を確認した土曜の夜にこれまた急遽、仕事から帰ってきて慌しく夕食を済ませた夜10時に、Yの手伝いも受けて、防水シートをこの北・西の合板に貼り付けたのであった。フェルトにアスファルトを染込ませたというルーフィングはかなり重たい。こいつを5メートル、6メートルの長さをYと二人で「そっち、もっと引っぱって!」 「そのまま押さえといてよ!」なぞと半ば怒鳴りながら上下二段、タッカー(大型のホチキス)で留めていった。隣家の人はさぞや五月蝿かったと思う。とまれ、これで何とか最低限の雨仕舞いが整ったかな。何とか持って欲しい。

 ところでこうしてシートに覆われた巨大な構造体をあらためて眺めていると、どうもわが家のささやかな庭にアンバランスであるように思えてきた。もともとそれは木曜日の雨仕舞いが終わったときにYが言い出したことなのだが、そのときはわたしも終日の作業で疲れていて、「また、貴方はそんなふうに、せっかく人が一生懸命やっている物に対してネガティブな物言いをする!」と不機嫌になった。しかし大体、彼女の意見は的を射たもので、なんだかんだと言いながらわたしは最後にはそれを認めざるを得ないのだった。これまでいつもそうで、さいしょは勝って、気がつくと負けている。要はロフトを前提にした高さが「庭の空間を殺してしまう」のだった。もともとロフトは子への“プレゼント”であり、どうしても必要不可欠なわけではない。加えて3メートル以上の高さでの(しかも大抵は一人の)作業に、その高さを実感してはじめて不安を覚えてきたのもあった。昨夜、隣で寝ているYが夜中に急にうなされて、てっきりわたしに怒鳴られている夢でも見ているのかと罪深い気持ちでなだめたのだが、あとで訊くとじつはわたしが小屋の作業中に高所から落ちて倒れているのを発見した彼女が夢の中であわてて救急車を呼んだりしていたものらしい。「やっぱり、ちょっと高いな。ロフトは紫乃に我慢してもらって、もう少し低くしようか」 熱い杜仲茶をすすり庭を眺めながらわたしが言うと、「そうでしょ」と、黙ってアイロンをかけていたYの表情がぽっとランプが点いたように明るくなった。それで、ちょうど風呂から出てきた子に説明したのだった。子はさいしょは悲しそうな顔をしたが、最後には理解してくれた。「その代わり、屋根はおまえが言っていた赤い色にするし、そこに風見馬(“鶏”に非ず)をつけてもいいよ」  設計図的には現在、南側に仮止めしている高さ1150mmのロフト部材をばらして、350mm違いの二面に作り直す。

2012.11.10

 

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 amazon や web 古書店で、河野司編「二・二六事件――獄中手記・遺書」(河出書房新社)、松本健一「北一輝論 」(講談社学術文庫)、三島 由紀夫「英霊の聲 オリジナル版」 (河出文庫) を注文する。

2012.11.16

 

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 夜。「銀河鉄道」のような静まり返った電車の中で松本健一「北一輝論 」をめくりながら帰ってくる。両耳にかけたiPODのイアホンからは最近、amazon で衝動買いしたグールドの弾くシュトラウスやヒンデミットのピアノ・ソナタ。夜ふけの大和川沿いを疾走する列車は、people get ready の天国へ向かう祈りの列車か、はたまた軍服に身を包んだ兵士たちを乗せた叛乱軍のひそかな移動であろうか。帰って遅い夕食を済まし、風呂に入ってから、庭に作成中の小屋に灯したランプの下でしばしビールを飲んで12時頃、ベッドにすべり込んで睡眠へ落ちていくわずかなうつつの時間に、三島由紀夫の「英霊の聲」 を数ページめくって、能のシテの如き夜の海上に蠢く血だらけの兵士たちの霊が激しい遺恨をものがたるのを聴くのがなぜか心地よい。

 

 己の生命が、力が、有限であり必滅であることを知った個人主義者にとって、ニヒリズムは必然であった。それは否定された神がその死に際して、では人間一個生きていくがよいという冷徹な捨て台詞を残したからだ。

 個人が社会の分子として社会其者たる以上は個人の目的は即ち社会の目的たるべきなり。―――社会主義は此意味に於て個人主義を継承す。然しながら分子たる個人は其死と共に滅亡す、故に分子たる個人其者を終局目的としての目的は五十年の後に終局して意義なし。(北一輝「国体論」第三篇)

 

松本健一「北一輝論 」(講談社学術文庫)

 

2012.11.24

 

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 たとえば大阪のなんばや心斎橋のような地下鉄のプラットホームの人込みの中で、iPodのイアホンから流れるジャクソン・ブラウンの For Everyman がきみの心にすべり込んできたなら、きみにはまだかろうじてこの世界を感じとり、ひとりで歩いていける力が残っているということだ。ジャクソン・ブラウンの音楽はそんな優しさにあふれている。

2012.11.26

 

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日本には天皇陛下が居られるのでしょうか。今は居られないのでしょうか。私はこの疑問がどうしても解けません。(磯部浅一「嘆願」)

 

吾人は天皇陛下の良民たる光栄に於て世の煩悶者に告ぐ、煩悶とは由来自己を内心の主権者なりとする叛逆心より来る者なり。(北一輝「自殺と暗殺」)

 

松本健一「北一輝論 」(講談社学術文庫)より

 

2012.12.3

 

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 けっきょくグールドのCDを4枚も買ってしまった。「Glenn Gould Plays Sibelius 」 「Glenn Gould Plays Hindemith's Piano Sonata」 「Glenn Gould Edition: Berg, Krenek, Webern, Debussy & Ravel 」 「Glenn Gould Plays Richard Strauss: Ophel」 それと興が乗って、かつて愛聴したリヒター指揮の「マタイ受難曲」(CD3枚組み)も。

 風呂の中で石井光太責任編集の「ノンフィクション新世紀」(河出書房新社)をめくる。

 脳外のM先生との話で子の手術予定が決まる。2月の15日各種検査。19日入院。20日朝8時半より手術(予定8時間)。

 

 明日は学校のマラソン大会。毎年、佐保川の土手を走る。しかし子は(遅れて)たった一人きりになって走るじぶんを見られるのがイヤだ。みながじぶんに声援を送ったり、拍手をしたりするのが「ウソ臭くて」イヤだ、と言う。

「明日はせっかくお父さんも休みを取って、お母さんも見に行くんだから、お父さんとお母さんの前で、じぶんのためだけに走ればいいじゃないか。それ以外はみんな“背景”だ。」

「ほかに見に来ている大人たちも?」

「そいつらは土手の雑草とか、ガードレールとか、地面の石ころとかだ」

「○○や、□□は? (クラスの悪戯好きの男子)」

「○○は道端の空缶だし、□□は踏みつけられたお菓子の袋だ」

「△△は? (時折り子にいじわるをする男子)」

「犬のウンコだ」

「うん、わかった。頑張ってみる」

2012.12.6

 

*

 

 マラソン大会。結局、子は朝から「葬式だ、葬式だ」と呟きながら学校へ向かった。それでも「見学する」とか「休む」とはけっして言わない。Yは「それが偉い」と言う。10時頃、Yと二人で見に行った。佐保川沿いの土手の上を約3キロ。スタートからじきに子はみなから歴然と引き離されてしまう。一度目の折り返し地点に到達する前に、もう誰とも行き交わない。まったき一人の世界だが、沿道の保護者の観戦者たちは当然だが並んでいる。一人、といっても正確には去年まではいつも担任の先生がいっしょに走ってくれた。ことしは途中で交代したO先生も障害があるので、3年生のときの担任だったH先生がいっしょに走ってくれた。ありがたいことだ。子が赤いウインドブレーカーに身を包んだH先生とやっと一度目の折り返し地点から戻ってくる頃には、子を除いた「最後尾」のグループが疾うに二度目の折り返し地点を回ってきて、じきにゴールしようという頃だ。やがて冬空のコースには子と、併走するH先生以外はもう誰も走っていない。まだ子は半分も走っていない。土手の道を降りていった子の運動服の白とH先生のウインドブレーカーの赤がぼやっと滲んで遠くのビニールハウスの向こうへと消えてしまう。走り終えた子どもたちは寒い土手の上にしゃがんで整列している。コースのそちこちに思い思いに点在している保護者の観戦者たちも変わらず立っている。「走っている間は暖かでも、あんな薄い体操服じゃじきに凍えてくるよ。先生たちに、みんな先に帰ってもらうよう、言ってこようか。子とH先生はうちの車で送りますから、と。」土手の上で仁王立ちのようにして腕を組んだまま、わたしがかたわらのYに訊ねる。 「お父さんとお母さんと、先生たちと、6年生のみんなだけが見ていてくれたらいいのに」と子は言っていた。沿道から子に拍手や声援を送るよそのお父さんやお母さんを「うそ臭くて嫌だ」とも言っていた。「ほんとうは走りたくないんだけど、“記録”がなあ・・・」とも苦笑いしていた。4年生のときに足の手術と重なって走れなかったのを唯一除いて、子は6年間の小学校のマラソン大会を毎年、こうやってひとり晒し者のようにみなと同じコースを走ってきたのだった。「どうぞ帰ってください」とわたしは寒空の下に残っている生徒や保護者の一人一人に大声で言って回りたくなる。「その方が子も気持ちが楽なんです。わたしたち夫婦が子のゴールを見届けますから。どうぞ構わずにお帰り下さい」 たった一人を除いてマラソン大会はほぼ“終了”しているのだが、みんなその場でじっと待っている。じっと待っていてくれる。そのことが申し訳ないとか有難いとか思う反面、有難迷惑のようにもどかしかったり疎ましかったり思ってしまう部分が心の中にはっきりと、ある。「マラソン大会はこれで終了しました。走っているのは無関係な者です。どうぞお帰りください」 やがて最後の折り返し地点から戻ってくる水彩画の滲んだ赤と白の点が遠くに見えてくる。ほとんどもう走っているというより、歩いているのに近い。「あの姿勢で長い時間、走り続けるなんて無理よ」Yが言う。「みんな待っているのに、歩いてるって思われてないかな」 「走っていないけど、歩いてもいないよ」わたしが言う。「お父さんにはその違いが分かるでしょうけれど」Yが呟く。顔の表情が分かるくらいまで子が近づいてきた。同時に彼女はみずから「うそ臭くて嫌だ」と言っていた群集の中を通過していく。拍手が起こる。「がんばってー」と声がかかる。やはり「うそ臭い」と内心唾を吐きながら走っているのだろうか。「うそ臭い」というのは、意図はともあれ晒し者の如く一人走らなければならない苦行を毎年繰り返してきた小さな反乱者の抗いなのだろう。そうでも思わなければこの不条理な立ち位置に於いて守るべき藁一本の矜持さえ崩れてしまいそうになる。これは死守せねばならない。だから「うそ臭い」と言う。「うそ臭い」と跳ね返す。おそらくこういった一筋縄でいかない心持ちは、当事者でなければ分からないものだろうと思う。あの東北の大震災の犠牲者やかれらにまつわる無数の人々の一人一人が理解しがたい異なる心持ちをそれぞれ隠し持っているように。「わたしの心はわたしにしか分からない」と廃墟の地面に立って言った一人の年寄りの言葉をわたしは思い出している。分からない、ということだけがわたしにははっきりと分かる。だから、「うそ臭い」。下道から子が土手の上へと、片足をもがれた蟹のようによたよたとのぼって、通り抜けていく。わたしの斜め前にいた腕章をしたPTA役員らしいお母さんの一人が「もうゴールは間近やで! もう目の前よ!」ひときわ大きな声を子の背中に投げる。子の視線の先にクラスメイトたちの塊が見えて来る。「しのちゃん、頑張れ!」そこから次々と声があがる。その中へよたよたと子の白い体操服が吸い込まれていった。わたしは思わず泣き出しそうになる。「わたしの心はわたしにしか分からない」 みなと合流した子の方へ歩き出そうとして、子に大きな声援を送ってくれた役員のお母さんに向かってわたしは思わず「ありがとううございます」と深々と頭を下げた。一瞬何のことかとキョトンとした顔が見えた(多分わたしが誰か分からなかった)。わたしはゆっくりと歩き出す。子の姿はもう大勢の子どもの輪に混じって見えない。

2012.12.7

 

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 野良猫のギルが死んだ。わが家の近くの市道わきでうつぶせにころがっていた。金曜日の夜、ジップと散歩の途中に見つけたのだ。そいつは昼間の散歩のときに、近所の空き家の花壇の下のスペースに昼寝していたのをジップがめざとく嗅ぎ出して追い出した、茶色に焦げ茶のトラ模様のあるやや肥満体の猫だ。ギルというのは子が1年ほど前、近所の野良猫のマップをつくった際に以前から彼女が名づけていた名前をエクセル地図に貼った写真に記したものだ。その日の夜、風呂の中で子に「たぶんあの猫だと思うのだけれど」とギルの死を伝えると、見に行きたいと言う。風呂からあがって暖かい格好をさせて、懐中電灯を手に二人で見に行った。「ギルにまちがいない」 子はそう呟くと、車道沿いに横たわったかたまりをじっと凝視し続けた。「仕方がない。これが野良猫の運命だ」 父はそう言った。子は何も答えなかった。

2012.12.9

 

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 ・・・サルトルの巧みな比喩を借りて言えば、バタイユの生は、神という「この親しい存在の死の暗鬱な翌日」なのであり、かれは「まるで、黒ずくめの喪服を着て死せる妻の追憶のうちに孤独の罪に耽っている慰めようもない寡夫のように」『神の死』の翌日を生きている。

清水徹「両次大戦間文学界への仮説的視点」

 

 この三島由紀夫が「二・二六事件と私」で引いているバタイユ論の中の「『神の死』の翌日を生きている」という表現が心に近しく思われる。

 

2012.12.10

 

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 仕事の所用で天王寺から東大阪へかけて漂流。生野の昔ながらのアーケードの商店街の八百屋の軒先で、ハナ肇のような店主が老婆の肩を叩いて見送っている。お婆さんの手には切り揃えた柿が発泡スチロールのトレイの上、ラップにくるまってきれいに収まっている。それが今日見た、いちばんいい景色。

 松本健一「北一輝論 」(講談社学術文庫)を読了する。毎日の通勤の合間に捲ったページは大分よれよれになってしまった。この本について言えば、北一輝の人物というよりも北一輝に寄り添おうとする著者の想念に惹かれた。

 明日から女子大生の家庭教師がわが家に来ることになった。大変だ。

2012.12.12

 

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 むかしはいまとちがって、もらいに歩く人はまとまって住んでいた。いまの栄町の郵便局の裏に墓所があって、いまは遊園地になったけど、そこにコウモリ直し、タイコの皮はり、心中したり自殺した人の屍体をかたづける人、眼みえないもので三味線ひいて歩いたり、浪花節語ったり、尺八吹くのもいれば様々な芸人が住んでいたんだ。みんな貧乏して難儀した。

 そのあたりの芸人といったって、りっぱな芸人もいたし乞食芸人もいた。中には芸人の数に入らないものもいたが、それでも芸ならいまの人よりむかしの人のほうが上手だった。いつもそれやって歩いていたんだし、いじめられながら、生活のためにやった芸だからな。

 

 泥棒とはいつも友だちだった。おらたちのように生活に困って歩いているものには親切にしてくれた。うまいものをうんとごちそうになった。仲良くなって、明日どこへいく? じゃオレもいくから、なんて待ちあわせたり、それはその道で、友だちはどこにもいた。そうした人たちは金持ちにはわるいかしらないが、おらたちにたいしてはたいへんよかった。おらたちには自分にないものまでもくわせた。

 人間というものはそんなものだ。われわれのように歩いて、たまに外に寝なければならないようなもののことはちゃんとわかっているから、世間からどんなに悪党にみられている人でも友だちになってしまうもんだった。みんな気持ちのいいものばかりだったな。

高橋竹山「津軽三味線ひとり旅」(中公文庫)

 

2012.12.17

 

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 高橋竹山「津軽三味線ひとり旅」(中公文庫)は肌にぴったりとくる一冊。どのページもが味わい深い。わたしが生きられる世界。わたしが理解できる世界。日本のブルーズ・シンガーの自伝として読んでもいい。貴重な芸能史の裏路地の息遣いとして体感してもいい。いつまでも浸っていたい。

 家庭教師の先生は初日に家まで車で送ってあげ、二日目にはみなでラーメンを食べに行き、すっかり家族のつきあいのようなノリで。奇しくも実家が金沢で、お父さんがドクターで、本人は理数が好きで高校教師を目指しているという、おっとりとして、どこかほんわかした雰囲気をもった、まじめで品の良い良家の子女の如き可愛らしいお嬢さん。子ともすっかり波長があって、二人の共通点はどちらも学校内の「不思議ちゃん」であることだと子が言う。カンケイないんだけどわたしも、もう一人大きな娘が増えたみたいで愉しい。

2012.12.19

 

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 サンタクロース様

 お忙しいところすみません。私がサンタさんに手紙をおいておいたのはずいぶん昔のことですね。サンタさんは手紙をくださってましたけど、私、この年になってあることに気がつきました。サンタさん、もうプレゼント、用意して下さってるから、いまここでお願いしても無理なんですね。私もとくにほしいものはないし、サンタさんまかせにしておきます。でも、まあ、さしおいていうなれば、足が速くなりたいんです。お母さんやお父さんには内緒ですよ。お母さんは泣き出すかもしれないし、お父さんは何をどなりだすやらわかりませんので。

 来年はもうプレゼントくれないんですか? いつまでくれるんですか? みんな、中学生頃までもらうって言ってます。でも、お母さんは、小学生までしかもらえないんだ、と言いました。もしそうなら、お会いする(といっても手紙だけでですが)のはこれで最後になってしまうので、手紙をかかせて頂きました。あ、最後になるかも知れないので、質問させてください。

No1.ルーシィに会ったとき、どんな感じでしたか>

No2.ナルニアに行く方法ってないんですか?

No3.どうやったらあのむかつく男子ども(○○、△△、□□)に、ナルニアがあるってことを、思い知らせてやれますか?(あの男子たち、どうしてもナルニアのこと、信じないばかりか、馬鹿にしてくるんです。サンタさん、あいつらの家をまわるんなら、一言いってやれませんか)

No4.夏はどうしているんですか?

No5.ナルニアのことを教えて下さい(特にセントール)。

 ききたいことは山のようにあります。考えてみれば、サンタさんは、ナルニアにつながっていらっしゃるんですよね。どうしていままで気がつかなかったんでしょう。来年になっても、プレゼントなしでもいいから、寄ってください。ナルニアについての質問をおいておきますから。

 おつかれさまです。がんばって下さい。

 けいぐ ブランカ

 

○別紙1

クッキーやミルク、用意できなくてすみません。

ついしん

お返事は日本語でお願いします。サンタさんって、国によって分かれるんですって。日本にプレゼントをくばるサンタさんは日本人って知ってますよ。本で読みましたもの。

うちのツリー、光らないんです。すみません。

 

○別紙2

トナカイさんの写真ってありますか? (首の鈴は金? それとも銀?)

トナカイの赤ちゃんってかわいいですか?

2012.12.25

 

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 本年さいごの休日。(雨のため小屋作業はなし) 年賀状の作成。Yと買い物。ひさしぶりの昼寝。昼は家庭教師のS先生にパスタを馳走、夜は4人でとんこつ醤油スープの鍋。先生の奈良市の自宅まで送りオオカミ。

 武澤秀一「伊勢神宮の謎を解く アマテラスと天皇の「発明」」(ちくま新書)を通勤の車内で読み継いでいる。「アマテラス」「伊勢神宮」という装置のすり替えと併せて、本来の神まつりの風景がゆらぎ現われるさまが面白い。夜は寝床で、難波の本屋で衝動買いした中沢新一「大阪アースダイバー 」(講談社)を読み始めた。

 昨日一昨日は仕事で大阪市内の不動産をエアコン設置業者とまわる二日間。会社が西成の花園町にあるという気持ちのいい若者二人と、電動工具やボードアンカー、ネジの収納ケースなどの話ですっかり仲良くなって、互いに(今日で終わりで)さみしいね〜と。別れ際、大正駅の近くに友だちが始めたイチオシのラーメン屋があるのでぜひ寄ってくれと教えてくれた。その名も「antaga大正」 http://ameblo.jp/panzer-ss/entry-11389764061.html  この二日間を共にした同僚のTさんとランチ、初日は通天閣の下の食堂で「電子レンジでチンした」生姜焼き定食。二日目は夕陽丘の「なにわ最強醤油ラーメン・金右衛門」で大阪ブラック太緬大盛りを。二日目は四天王寺〜阿倍野〜住吉大社前と経巡って、ちょうど中沢のいう5000年前からの唯一の陸地であった上町台地のへりを走り回っていたわけだ。

2012.12.28

 

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 朝。乗り換えのなんばでドトール・コーヒーに寄って、絶え間ない人の波を眺めながらしばしコーヒーをすする。ときどきの贅沢。

 昼からひとり社用車に乗って大阪市内をドライブしながら、各所の不動産に設置したPCと複合機を設定して回る。

 夕方。鶴橋、千日前、黒門市場・・・ 年末の賑わいの人だかりを車窓から眺める。「タクシー・ドライバー」のデ・ニーロのように。

 夜には通天閣にほど近い浪速の人気のない雑居ビルの一室で、PCがドライバを設定していくさまをぼんやり眺めている。

2012.12.29

 

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 新年おめでとう。今年もさらに世界は混迷し、分裂し、ばらばらに伸びた無数の手足が互いに喰らいつくように殺戮し合うのだろう。タイタニックのようにみなが運命を共にするひとつの船に乗っていれば―――じっさいにはそうなのだけれど―――もうすこしまとまったドラマが演じられるかも知れない。船が沈みはじめる頃には、きみはもうここにいない。

 11月から12月頃にかけて、昭和11年、陸軍の将校に率いられた約1400の兵が日本の政治中枢を襲い、複数の大臣や天皇の側近らを殺害したいわゆる二二六事件に引き寄せられていた。伊藤博文ら明治維新の“最終勝利者”たちが創出した天皇制国家の支配原理とは、外に「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラズ」とした顕教と、内に支配階級が用いる天皇機関説としての密教とを巧みに使い分ける鵺(ぬえ)的体制であった。思想的首謀者として後に将校らと共に処刑された北一輝は、この機関としての天皇の権力を利用して、最終的に天皇制すらも廃絶し平等な社会の建設を企んだ社会主義者であった。みずからの古里の貧困と惨状を憂いて立ち上がった将校たちは、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラズ」とした顕教を通して、現人神である天皇の意思を以ってして北の唱える平等社会の建設を希求して叛った。右でも左でもない。どちらであっても、それが「鵺的体制」破壊の行動を取る者は常に切り捨てられる。北一輝の変節的思想とその生き様と共にわたしはまた、所詮はさらにしたたかな黒幕どもの権力闘争の駒として使い捨てられたとはいえ、その若き生命を刑場の露として滅した青年将校たちの想念にも惹かれる。そうしてかれらが遺した獄中の遺書や手記なども取り寄せ、冬の夜更けにそれをたどったのだった。かれらが恋した「清き純白の天皇」とは、たとえば1980年代にディランが高揚した精神で歌い上げたキリスト教の「神」といわば同じで、わたしはこんどもその対象よりもその「熱度」に同調する。つまり「この国にほんとうに天皇陛下はいらっしゃるのでしょうか? わたしには分からなくなりました」と獄中で記すに至った磯部も、けして瞑目せず暗黒の夜に青白く光を放つ怨霊となろうと誓った栗原も、人格者であり貧しい東北出の部下にみずからの給料の一部を与えることもあったという安藤も、かれらの数日間の行動と銃殺場に立ったその瞬間を思うとき、それはたとえばわたしにとって、ニール・ヤングがのっぴきならぬエレキ・ギターを響き渡らせるそのサウンドがわたしの内に生成するものとほぼ同じだ。どんなくだらない事件であったとしても、人がその命を賭してまで行った行為には、その命と同量の価値はある、とわたしは考える。(われらはすべてを言う資格がある。何故ならわれらは、まごころの血を流したからだ  三島「英霊の声」) むかしからそうであったが、干からびて死にかけたうつろな殻の中に、わたしはジャニスやロバート・ジョンスンなどののっぴきならぬ魂ふりのひびきをエンドレスで流しこみ続けたのだった。そうすることで死んでしまったみずからの魂を蘇生させようとしてきた。三島由紀夫が晩年に描いたこの二二六事件の将校たちの魂の景色は、思わずうっとりとする法悦を湛えてはいるが、あまりに美しすぎる。むしろわたしはかれらにもっと不器用で、幼稚で、生々しい、路上に吐き出した血痰のようなものを見ていた。喉がひりひりと痛い。その鈍痛のような痛みが「人生は長さではなく、密度だ」といったかつてどこぞで小耳にしたような台詞を想起させる。とまれ、師走の天王寺MIOのクリスマス・ショー・ケースを覗き込む恋人たちの風景よりも、わたしは血だらけで冷たい地面に倒れこんだかれらに思いを馳せたのだった。しかし前者と後者の景色はいったいどれほどの距離があるのだろうか? じきに両者が入れ替る時代も到来するだろう。そのときも、あなたはもうここにはいない。

2013.1.6

 

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 高取正男「神道の成立」(平凡社ライブラリー)に、中世の王朝貴族たちの死穢に対する過敏な反応が描かれている。964年、時の村上天皇は中宮(皇后)安子が死の病にあったときその臨終を最後まで見舞うことなく、自身は離れた清涼殿にとどまり使いにやった蔵人から臨終の前後を様子を訊いてそれを日記に記している。死穢が天皇の身に及ぶのを避けるためである。また1025年、左大臣であった藤原道長はのちの後朱雀天皇の妃として嫁いだ六女の嬉子が臨月に感染した麻疹(はしか)のため出産後、わずか19歳の若さで死んだとき悲嘆に暮れ、屋根に陰陽師をのぼらせて嬉子の着物をふって魂よばいをしてまで蘇生を願ったものの、葬儀が終わり娘の遺骨を木幡の墓地まで送ろうとしたとき「それほどまでしなくてもという、人びとの意見で思いとどまった」。 一般に遺骨を墓地まで送り埋葬するのは身分の低い者たちの仕事で、「であるから、貴族たちは自分の肉親、親の墓に詣るといういうことをあまりしなかったし、その場所もはっきり知らないというのが一般的であったらしい」。実際に太政大臣に昇進した藤原忠平は936年、その報告のため醍醐先帝の後山科陵と父親の関白基経の宇治墓所に詣ったその晩、息子の師輔の前でしばらく懐旧談にふけったなかで、父の基経が養子となった前々太政大臣の叔父良房とその祖父に当たる内麿の墓を探したけれど、ついに見つけられなかったと語っている。「藤原氏北家の当主である忠平からみて、内麿にしても良房にしてもたいせつな先祖である。大昔の大先祖というならともかく、自分の家の基礎をつくってくれた近い時代の祖先である。そのような人の墓所を、忠平は正確には知らないと息子にむかってあたりまえのようにいっている」。

 「忌み」はかつて「斎み」でもあった。「忌み」は“ケガレを避けてみずからの聖性を維持しようとすること”であり、一方「斎み」は“みずからのケガレ(俗)を去って浄(聖)に近づこうとすること”である。古代から朝廷の神事を担ってきた忌部氏や土師氏が、その伝統ある一族の名を“イメージが悪いから”と改名願いを申し出てそれぞれ忌部氏を斎部氏、土師氏を菅原氏や秋篠氏へと変更したのも、この「吉凶相半」した表裏一体の片方だけが強調され固定化されていったことと同期している。

 

 “忌む”という言葉は神的な霊威とか霊験を前にして忌み慎むことで、それ以上のことはほんらいなかった。それを“忌む”と表記すれば凶事を忌み避けることを連想し、“斎”のほうはおなじ“いみごと”でも吉儀としての神事や斎戒を意味するようになったため、『日本書紀』以来、おそらく200年にわたって忌部と書いてきたのを斎部に改めたものと思われる。もともと忌むべき文字でもなく、特別な意味もなかった。それがそうでなくなったという点で、ことは土師氏のばあいに類似している。

高取正男「神道の成立」(平凡社ライブラリー)

 

 ア=プリオリな豊穣たる本質を細分化し、制度化し、固定化して利用するものたち。

 この「神道の成立」を読み終わる頃に手に取った、だいぶ以前に図書館のリサイクル市で持ち帰った「宗教以前」(NHKブックス)が同じ著者の手によるもの(橋本峰雄との共著)であったのも奇妙な偶然だった。この「宗教以前」の前半に、前述した王朝貴族たちの滑稽でネガティブな呪縛と異なり、すでにケガレという同じコードに縛られながらもそれをはねのけようとする市井の人々の生きる姿勢としての民俗宗教が紹介されている。流れ灌頂はかつて、お産のために死んだ女性は血の池地獄に堕ちるといわれた頃に「小川の流れに四本の棒を立て、それに布を張って戒名や経文を書き、横に柄杓をそえて通行人に水をかけてもらう。こうして布の字が消えたときには死者は救われるといった類のものが広く行われた」習俗であった。これに続いて著者は形は変わるが名古屋の裁断橋の橋の欄干に残された銘文を紹介している。これは豊臣秀吉の天下統一の最後の戦であった小田原の陣に参加して若干18歳の若さで戦死した息子の冥福を祈った母親が、かつて熱田宮に参詣する人びとが禊ぎをして賑わった精進川に橋をかけて通行する人びとにどうか共に亡き息子を廻向して欲しいと頼んだものである。「・・・十八になりたる子をたたせてより、又ふためともみざるかなしさのあまり、いまこの橋をかける成、母の身に落涙ともなり、即身成仏し給へ、“いつかんせいしゅん”(戒名)と、後の世の又のちまで、此かきつけを見る人は、念仏申給へや、卅三年の供養也。」 著者はこれも流れ灌頂の原型につながるとした上で、次のように記す。

 

 「忌み」の意識を、穢れを忌み避ける意識に局限すると、そのための禁忌だけがつぎつぎに架上され、それを守りさえすればよいとする堕落が始まる。しかし庶民の信仰は、けっしてそこにとどまらなかった。素朴ではあるが、はるかに深いものをみずからのうちに伝えてきたといえるだろう。しかも、聖なるものを前にしてみずから慎み、ひともわれも精進によって罪と穢れを祓い、神の来臨を願おうとする思念を貫くものは、神に対して自己の信仰を訴え、その裁きを待とうとするのとは異なり、神に対してきわめて謙虚に、したがって受動的な態度で神に接しようとするものである。このことは単に宗教の問題にとどまらず、「忌みの精神」とよべるほどの強さをもって庶民の勤労観を支え、道徳の根幹をなしてきたのではないだろうか。

高取正男・橋本峰雄共著「宗教以前」(NHKブックス)

 

 そしていまの世はといえば、王朝貴族ばかりがはびこり、「道徳の根幹をな」す庶民を久しく見ない。

2013.2.7

 

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 国立の某大学付属中学に行きたいという子の念願をかなえるために、それまで通っていた集団指導の塾を見限って、家庭教師の先生に来てもらい出したのが12月に入ってから。Yが依頼した前述の大学の事務局の求人掲示を見て応募してくれたのが金沢から来ているお嬢さんで、わが家の全員と不思議と波長が合い忽ちのうちに打ち解けて(ジップを除く)、さながら新しい家族が増えたような雰囲気であった。この可愛らしい先生がその日から、平日は夜、土日は朝から夕方まで、ほとんど毎日のようにやってきて二階の子ども部屋に子と二人してこもった。Yはお八つ用のポットを新調した。わたしは休日にはときに昼食や夕食の腕前を披露して、夜遅いときは仕事から帰って夕食を食べてそれから先生を奈良市内のアパートへ車で送っていくのが担当であった。医者をしている父親がクラシック、母親がジャズが好きだということから、いつも車内でもろもろの音楽やときに民俗学やシュタイナーの教育論などの話をしたのが愉しかった。アニタ・オデイやブルーグラスのCDをプレゼントもした。子もじぶんの自由な時間はすべて牢獄に囚われの身になっているかの如く頑張った。とまれYは「そうでもないわよ・・」と苦笑するかも知れないが、少なくともわたしは自慢でないが小中高の12年間で彼女の10分の一も勉強した記憶がない。(訂正。「10分の一」ではなくて、そもそも勉強自体をした記憶がない。) 夜中にまだ灯りの漏れている子ども部屋の前を通りながら、パジャマ姿のわたしはよく続くものだな、結果はどうあれこれだけ頑張ったことは子のなかに何かを残すのだろう、と思っていた。年が変わり、試験本番まであと数日を残して、ついに家庭教師の先生が風邪で寝込んでしまった。先生にとっても、自らの授業や試験準備の合間をぬって、また正月の帰省すら大幅に短縮してくれたハード・スケジュールだったのだ。そしてわたしもYもそんな空気のなかで毎日を同じようにせわしなく送っていた。

 結果についていえば、二つ受けた県内の国立校はどちらもかなわなかった。ハードルは予想以上に高かった、ということか。けれど当初は国立校の受験前の「景気づけに」と塾の講師が勧めた中高一貫教育の私立の女子校を受けに行ったときに、子はそこでまだ新しいモダンな聖堂と室内に掲げられた十字架を見て、またその学校に演劇部があって活動も盛んなことも知り、第一志望の(難しい方の)国立校が駄目であったら、この私立校へ通いたいと言い出したのだった。じぶんの子が中学受験をすることすら驚きなのに、私立の中学校に通うことを検討するとは予想だにしていない事態だった。けれどかんかんがくがくの議論の末、わたしとYは結局、子の望みをかなえてあげることに決めたのだった。金銭面でいえば、年間の少なくはない学費の半分は子の障害者手帳でもらっている手当てをほとんど投入し、差し引いた残りはこれまでの塾の月謝とおなじくらいになる。Yがパートとはいえ図書館で働いてくれているからこそで、わたしの収入だけであったらとても足りない。校区の公立中学を選択から外したのは、やはりハンディがあるから少しでも負担のない環境をと思う気持ちと(それなりに荒れているという話も聞くので)、校区の公立中学は長い坂道を歩かねばならないためにかねてからYが通学の負担を懸念していた。一方の私立校は電車とバス通学になるが、開校中は高台にある学校の門の中までバスが運んでくれる。お金はかかり、女子だけの、どちらかというと“お嬢さま(そしてちょっぴり)進学校”の部類に入るのだろうが、少人数で、学校のパンフレットを見ると劇団四季や文楽の鑑賞会などもあったりして、理数系がメインの国立校よりも、ひょっとしたら子の性質に合っているのかも知れない。6年間いろんなことに出会い、愉しく過ごせたらそれでよい。(じつは今回の学校見学のなかで、わたしはいちばんこの私立校が印象がよかった) 一度目の試験は合格したものの国立の結果待ちの間に手続き資格を失くして、二つ目の国立の試験を準備している間に、じつはわざわざ教頭先生からわが家に電話があって「とてもよい成績で合格されたので、ぜひうちに来ていただきたい」と熱烈なお誘いを頂いていたのだった。二つ目の国立の試験結果を見た翌日、二度目の試験を受けてこれも合格。こんどは二日後にわたしとYが入学金を携えて、正式に入学手続きを済ませた。その際、予め電話でお願いしていた教頭先生との面談で子の病気のことなどを説明し、(入学前の模擬登校日に影響があるかも知れない)こんどの手術のこと、靴や上履きは指定のものが使えないこと、登下校の負担を減らすためにできれば教科書は家用と学校用の2セットを購入したいこと、後日に担任の先生や保健の先生とも面談したい等々を相談・お願いして、「入学までの宿題」をたっぷりもらってきたのであった。その帰りに滅多に行かない携帯電話のショップへ立ち寄って、たまたま古くなってバッテリーがいかれてきたYの機種交換と併せて、子の「みまもりケータイ」(ポケベルのような機能限定のミニ携帯電話。じぶんからは三回線しか発信できない)を契約して帰宅した。

 そんなわけで受験が終わり、進路が決まったと思ったら、やれやれと息つく暇もなく、こんどは三度目の脊髄の手術が間近に迫っている。子にとってはもう今日が手術前最後の登校日で、みなの前ではじめて手術のことを報告するらしいが、明日の午前中に入院で、あさってが手術、その後約一ヶ月くらいの入院を見込んでいる。小学校最後の思い出にと、6年生全員でUSJ(ユニバーサル・スタジオ・ジャパン)に行くのは3月5日だから確実に間に合わない。子の参加・不参加で一時クラス内で揉めた大縄飛び大会も結局出ることができなくなった。卒業式までには無事、退院できたらいいのだけれど。受験と、卒業式・入学式のわずかなはざまを狙って手術日程を設定してもらった。

 今回の手術はもともと、前回の脚の筋肉の移植手術のしばらく後までは動いていた筋―――正確に言うと左の足首を上へ持ち上げる筋(それをするためにわざわざ別の場所から移動させた筋)が徐々に動きが緩慢になり、いまではすっかり機能しなくなってしまったことから整形外科のK先生が脊髄繋留があるのかも知れない、と言い出したことに端を発している。つまり前二回の手術(どちらも小学校入学前のことだが)で神経を阻害している脊髄の脂肪腫をだいぶ切除したのだけれど、まだ神経にからんでいる脂肪腫自体は完全になくなったわけではなく、成長と共に背が伸び、脊髄も伸びるのに伴って、脂肪腫によって固着した神経が引っ張られて新たな症状を招く恐れがあるということである。実際に手術を執刀する脳外科のN先生の主導で、改めて泌尿器科のM先生に精密検査を依頼したが膀胱には異常は見られなかった。最後に脳外科でMRIやレントゲン等の検査をしたところ、画像診断的にも脊髄繋留の疑いがある、ということで最終N先生の判断で「(手術を)やろう」ということになったものである。それが確か去年の夏の終わり頃だったと思うが、受験の時期と中学の入学式のことなどを鑑みて、その場で手術を2月20日と決めたのだった。その後も年末近くになってYがある日、寝ている子の太ももあたりで神経がぴくぴくと異常に波打っているのを何度か発見した。また年を越えて今回の受験の最中に、左のつま先を前に向けて歩くと痛みを感じることが多くなった。整形外科のK先生によれば、これらはみな脊髄繋留によって起こる典型的な症状だという。夏の終わりの頃にはまだとりたてて切迫した状況でもなく2月と決めた手術が、近づくにつれて(言い方はヘンだが)「正しいタイミングで」のっぴきならなくなってきている。歩行時の痛みについては手術まで可哀相だからと痛み止めを処方してくれたが、この薬が効いているので「やはり神経だ」と言う。

 明日の夕方に脳外科のN先生から今回の手術の説明があるというので、わたしも会社を早引けして合流する。手術の当日は、これまでは和歌山の義父母もいっしょに病院のロビーで十数時間を待っていたのだが、もう義父母も歳老いて待っているだけで肉体的にも負担だろうからとYが断り、翌日に見舞いに来てもらうことになった。だから当日スタンバイするのはわたしとYの二人だけである。わたしは手術日を含めて三日間休みをとったが、週末からはオープンを控えている新規店の立ち上げで二〜三週間、関東への出張が控えている。Y一人では持たないので、月末に私と入れ替わりでわたしの母と妹が(病院のある)大阪に宿を取って通ってくれる手筈でいる。先日、検査のために日帰りで病院へ行ってきたYがN先生から聞いた話では、手術後は赤ん坊のときのように2週間もうつ伏せをし続けなければならないことはなく、(うつ伏せ状態は)4〜5日くらいで済むんじゃないかということである。ただし回復後の歩行訓練(リハビリ)なども考えれば、入院期間はやはり一ヶ月はかかってしまうだろう。わたしが関東から帰ってくる頃には車椅子で病院の廊下を走り回っているかも知れない。何にしろ、これがもう最後の手術であったらいいと願っている。

 去年の金沢旅行の折、泉鏡花の記念館で鏡花原作の漫画を買ってきた子は、いまその原作の「夜叉ヶ池」「天守物語」「海神別荘」などにはまっている。

2013.2.18

 

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手術前日の説明内容はだいたい以下の如し。

・     脊髄に付着している脂肪腫が背中側へ癒着をしているために、脊髄自体が本来よりも背中側へ引っぱられている。そのことによって脊髄から各場所へ伸びている神経も同じように引っぱられ、それがもろもろの症状を引き起こしている。又、今後引き起こす可能性がある。(脊髄係留症候群)

・     今回は上記状況を改善するために、背中側へ癒着している脂肪腫を切除して、切り離す手術である。脂肪腫自体の軽減は出来る範囲では行うが神経がからまっている状況もあり難しい。あくまで「切り離し」がメインである。

・    手術は8時半頃に手術室へ入室。終了は夕方くらいを予定している。当日はICU(集中治療室)に泊まり、翌朝10時頃に病室へ戻る予定。

・     今回切り離す脂肪腫が再度癒着する可能性はある。現在の身長145センチを考慮すると、あるいはもう一度手術が必要になる可能性もある。

・     手術は従来の切開場所を再利用するが、状況によってはもう少し上部にもうひとつ切開する必要も出てくるかも知れない。脂肪腫にからんでいる神経を傷つけないように、神経に電気を流し、内視鏡で確認をしながら作業を行う。これは最新の技術で、(数年前の)前回の脊髄の手術では行われていなかったやり方である。(進歩している)

・     以前の手術で脊髄液の漏れを防ぐために一部ゴアテックスの膜を施したのは、その後の臨床で異物反応を示して悪い影響が出ることが判り、現在は従来どおりの自身の筋膜を貼るやり方に戻っている。今回の手術ではそのような理由から、前回のゴアテックスも取り出す予定。

・     術後のうつぶせ状態は、かつては2週間必要であったが、これも最近の臨床結果から現在は5日程度で充分といわれている。術後の回復は幼児期の方が意外と早く、いまの子の年齢では1週間くらい熱が続くかも知れない。

・     麻酔については前回まではガスを使ったが、今回は点滴を使用する。

2013.2.19

 

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 8:25 手術室へ入る

18:20 ナース室に状況確認を依頼する。「17:50から縫合を始めた」とのこと。

18:50 「終了」の報せが入り、ICU(集中治療室)へ移動する。着替えと共に、「何か大事なお人形とかあれば、枕元に置きますが」と言われ、昨日本人が持ってきて欲しいと頼んだ小さなマリア像とロザリオを持っていってもらう。

19:10 ICUの入口で執刀のN先生に会う。切除した脂肪腫とゴアテックスを見せてくれる。「脂肪腫は半分近く取った」「なるべく全部取りたかったが、絡んでいる排便の神経がまだ生きているので、悩んだがそれを(脂肪腫ごと)残すことにした」「足の神経は電気を通したが反応がなかった」等々・・・

19:25 子に面談。半ば意識はうつろだが、うっすらと目を開けて、かろうじて会話は出来る。「頭ががんがんする」「水が飲みたい」 仰向けからうつ伏せになろうと看護婦さんに促され、痛みで呻きながらうつ伏せになる。点滴に痛み止めを追加してもらった。水は頼んだが、腸が動くようにならないと逆に吐き気がするとの由。通常は5時間くらいは駄目らしい。手術中は低温状態だったために手術室から戻ってきた当初は「寒い寒い」と言うので温度をあげていた。こんどは逆に身体が温度をあげはじめて熱が38度まであがってきて、それを朝までかけて徐々にまた下げてくるとのこと。明日は早ければ10時頃に病室に戻る。あまり話しかけてもしんどいだろうからとICUを引き上げてくる。

20:10 院内学級の申請に必要な医師の入院計画書をもらって、病院を出る。

2013.2.20

 

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 手術翌日はさすがに息も絶え絶えといった感じで、午後からストレッチャーに移って気分転換の“廊下散歩”をしたり、一時間だけ嵐の出演するテレビの番組を眺めたりしていたが、夜中は予想通り熱もあがって付き添いで宿泊したYもほとんど眠ることができなかったらしい。二日目の今日は少しづつであるが回復の兆し。ガンガン鳴り響いていた頭痛がなくなったのは、手術による漏れで膵液の圧が低下していた要因が解消されてきた模様である。食事も噛むことによって切開した部分に響くからと固形物はほとんど取らず、今日もおかゆ・スープ・茶碗蒸し・ゼリー・杏仁豆腐などであったが、夕方には痛みが収まってきたとか。熱、頭痛、傷の痛みといった主要な苦痛が徐々に緩和されてくると、代わってうつ伏せの姿勢だとか、顔にかかる髪の毛だとか、タオルの匂いとか、ぬるくなった氷枕の交換とか、二次的な部分に神経がひっかってくる。親もいまは仕様がないと「はいはい」と献身的に尽くすばかりだ。何より「この子ばかり、なぜこんなに苦しまなければならないのか」とうつらうつらしかけた顔を覗きながらやはり考えてしまう。「なぜこんな身体に産んだのか?」と一度として親を批判したことがないのだから、こんな痛みの最中のわがままくらい、かえっていとおしいくらいのものだ。ともあれ悲惨さばかりが先行した昨日に比べれば、ちらっと笑みを浮かべたこと二度、よく喋り主張するようになったし、両腕を少し動かすようになったし、父が昨夜DLしてきたiPODの枝雀の落語や日本文学の朗読に時折り耳を傾けるようにもなった。看護婦さんに長い髪も洗ってもらって、表情も少しすっきりした。N先生によれば明日の朝、溜まった血を抜いている脊髄の管をはずしてひと針だけ縫い、順調にいけば週明けくらいにうつ伏せ解除と併せて点滴とおしっこの管も外し、MRIを撮る目安とか。あとはひたすら体力の回復とリハビリ。今日も洗髪のときにいままでうつ伏せのためにずっと万歳をしていた右手が硬直して、下へさげるのに大変だった。人間の体はかくも柔軟性がない。

 子の手術の日に入院してきたおなじ部屋の赤ん坊の若い母親と、Yが親しく話をするようになった。赤ん坊は右脳が小さく水が溜まっているため一度手術をしたが目的かなわず、月曜日に再手術の予定。母親と父親は共に19歳。彼女いわく「夫自身が子どもみたいで」これからの育児に不安を持っている。(赤ん坊を)お風呂は入れてくれるがそれ以外は手伝わず、携帯電話のゲームに余念がない。赤ん坊のことで親にはとても迷惑をかけたが、彼女の妹はもっと深刻な状況で、16歳同士で子どもが出来て、相手の親がほんとうに息子の子なのかとDNA鑑定を含む裁判までしているとか。昼からやってきたわたしと同世代くらいの男性が彼女の実の父親かとYが問えば、母親の“彼氏”で、ほんとうの父親はよそに女をこしらえて別にいるのだが孫が生れても会いには来ないと言う。じぶんはそんな父親が嫌いだが、女として男を選ぶときに、気づかないうちに父親によく似た男性を求めていたのかも知れない。そんなことを赤ん坊の若い母親が、二人だけの病室でYに語ったという。

 夜の8時に車で大阪の病院を出て、家に帰る前に駅前の西友に寄って夕飯のおかずなどを求めた。買い物を済ませて店を出て、向かいの駐車場へ戻ろうと赤信号機の前まで来たら、なんと横断歩道の幅まるごとを大きなワンボックスの車が悠悠とふさいで停車している。運転席には中年の女性がふてぶてしくすわっていて、つい先日まで子が通っていた塾の迎えの車だと明らかに分かる。そこから塾の前まで、かつてわたしもそうだったが、おなじような送迎車がぎっしりと列を成すのだ。しかし横断歩道の真上はないだろ。おい、渡れないぞとさも迷惑げな顔で運転席をにらんでやるが平然としている。ちょっと頭にきたので買物袋をかかえたまま運転席側へ回って窓をこんこんとノックし、「あんた、横断歩道をふさいでるぞ。こんなとこに停めるなんて非常識だろ。さっさと動かせ」と開ける気もないらしい閉まった窓から言ってもまったく無視を装っている。「どうせ塾帰りの子どもを迎えにきたんだろ。あんた、親として恥ずかしくないのか」 するとやおら携帯電話を取り出したかと思うと黙って画面をこちらに向ける。何かと思って見れば画面には「110」の数字。「警察へ電話するぞ」というわけだ。これにはさすがに呆れ果てた。どれだけ馬鹿なのかこいつは。引きずり出してぶち殺してやろうかと思ったくらいだが、幸い横断歩道の信号が青になったのでわたしが腹立ちながら渡り始めたのと、前の車列がはけてこの救い難いババアの車が動いたのが同時くらいだった。おおかたあんなババアの子どもに限って不思議と難関校なんぞに進んで将来、この国の政治家やら役人やら大企業のお偉いさんになるのだろう。あんなババアとその一族でもやはりささやかな人権とか生存権はあるのだろうが、ほんとうに世の中をよくしたいのであれば、ああいう手合いは銃殺に処して構わないとわたしは本気で思うね。

2013.2.22

 

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 18日、月曜日。三週間の埼玉出張を終えたわたしは夕刻、雨で迎えに来たYの運転する車でひさしぶりのわが家に帰った。その同じ日に、まだ退院はできないけれど、翌日の卒業式に出席するために外泊許可をもらった子も昼に病院を出て、小学校で明日の卒業証書授与の練習(すりあわせ)をしてから、一ヶ月ぶりの家に帰っていた。ジップは帰還者が一人増えるたびにゲージを跳び越えんばかりにジャンプして狂喜した。「ひさしぶりに、家族がみんなそろったね」と誰ともなく言って微笑んだ。けれど小鳥のピースケだけは別だった。この三週間、Yはひとりで病院の子を見舞い、家事をこなし、仕事へ行き、入院にまつわるもろもろの書類手続きを行い、ジップの世話をし続けた。気がついたら、ピースケはある日、鳥籠のなかでひっそりと横たわっていたのだった。わたしは埼玉のレオパレスで朝、Yからのメールを見て悲しんだ。子は病院のベッドの上で伝えられて大声をあげて泣いた。Yはその日、たった一人でピースケを庭の片隅に埋めた。七年間、家族のみなに愛されていた小鳥は神に召されたのだった。まるで家族の困難を一身に背負った貴い犠牲のように。その日はだれもピースケの話をしなかった。

 子は術後の経過はまずまずだが、まだひとりでは歩けない。つかまり立ちがやっと、という状態だ。そのため卒業式は朝からわたしが車椅子で教室まで運び、式の間、わたしは体育館の後方に待機して車椅子の補助をした。卒業証書の授与の際は先生が二人して子の両脇を支えて壇上まであがらせてくれた。その日は夕食を食べてから病院へ戻り、翌朝また車で迎えに行って、外泊申請をナース・ステーションへ置いて、午後から中学校の説明会と制服の採寸。続いて今日は朝から昼までプレ(模擬)授業の一日目。ほんとうは子どもだけが、実際の登校時間とおなじ電車・バスに乗ってくるのだが、これもわたしが車で同行して移動を補助した。明日も二日目で、こんどは仕事が休みのYが同行する予定でいる。

2013.3.21

 

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 3月も最終日。子はまだ入院している。

 ハンス・カロッサの「幼年時代」を読んでみたいというので新訳の「カロッサ全集2」(臨川書店 1996)を amazon で注文した。母が買ってきたドリルに、虹の根もとがどうなっているのかという問いに対する「美しく完璧な答え」が書かれていたから、と。

2013.3.31

 

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 夕刻、京都から天理行きの急行。向かいの席の隅に座ったつつましい家族。口がやや大きく度の強そうな赤い縁の眼鏡をかけた決して美人とは言えない母親は、2歳ほどの長男をしっかりと抱えて微笑んでいる。ベビーカーの中にも、もう一人。そのベビーカーをときおり覗き込む若い頃の宇野重吉に似た母親よりひとまわりは年上らしい寡黙そうな父親。よれたジーパンに、アディダスの黒いジャンパーを着て気弱そうな視線をあちこちに流しては目をつむる。家族の横に座った老女が赤ん坊に声をかけてしばらく母親と話をしたりしていたが、やがて家族は四人ともほぼ同じタイミングでこくりこくりと眠りにおちる。まるで聖家族のようだ。するとそれまで一言も発しなかった父親がちょんちょんと横で眠っていた細君を叩いてじぶんの席にずれて来るようにと合図し、じぶんは立って3メートルほど離れた場所に立っていたおばあさんに声をかけた。おばあさんは「もうつぎで降りますから」と遠慮をしたが、父親はそのまま家族の前でつり革につかまって立ち続けた。しばらくして列車はホームに停車する。先ほどのおばあさんはわざわざもういちど父親の前まで歩いて行って「親切にしていただいて・・」と丁寧なお礼を言って降りていった。宇野重吉はただひたすらぺこぺこと頭を下げている。それからしばらく父親は立ち続けたが、西大寺で人がだいぶ空いたのを見てふたたび細君の横に座って、腕を組みながら目を瞑る。まるで古い山田洋次の映画に出てくるような家族だと思いながら、わたしはさっきから薄目で観察している。懐かしい気持ちでいっぱいになる。そんな小さな風景が、とても大切なことのように感じられる。その日の夜、わたしは風呂の中でひさしぶりにフランチェスコの伝記を読む。素朴なもの、単純なものだけがただ欲しい。じぶんはそうなのだと思って、涙が出てくる。

2013.4.13

 

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○○先生へ


4月14日(日曜)に娘と野外合宿の下見へ行ってきました。
宿泊予定と伺っている「グリーンヴィレッジ交野」に車を停めさせて頂き、「ピトンの小屋」経由で
吊り橋を渡ってきました。
コース的には吊り橋をはさむ「ぼうけんの道」「おねすじの道」「さえずりの道」を通ってきたので、
主要なコースはほぼ辿れたのではないかと思います。
当日の詳細は別紙図面及び所要時間を参照下さい。
昼食・トイレ以外にも無数の小休止が含まれています。
私的な感想としては、(吊り橋周辺の道は)もともと古来からの自然発生的な道ではなく、
吊り橋のために人工的に通したようなコースが多いと思われ、そのために傾斜的にもかなり
厳しくせまい丸太の階段が頻出するのが困難でした。

娘はかなり頑張って「ほしの園地駐車場」まで何とか戻ってきましたが、全体としては述べ
5時間近くかかりました。(昼食・トイレ等もすべて含めて)
他の生徒さんと行動を共にするにはかなり難しいタイムと思われます。
結論としては「ピトンの小屋」から先のつり橋へ至る道は現在の娘のコンデションでは難しいです。
あとは当日のスケジュールとして、「どこでなにをするか」によると思いますが、もし吊り橋周辺で
はずせないイベント(昼食とか野外観察とか)があるようでしたら、それは諦めるか、若しくは
管理道を利用した車両での移動をお願いするしかないと思います。
(「ピトンの小屋」事務所で「車両乗り入れ申請書」を頂いて来たので同封します)

当日の場所場所のコースの写真も結構撮ってきたので、あとは詳細を電話等ですり合わす
ことは可能と思います。(大体のコースは把握しましたので)
今回提出させて頂く資料をご検討の上、お手数ですが一度お電話にて相談させて頂きたく
存じます。
夜8時以降でしたら、たいてい帰宅していると思います。

よろしくお願いいたします。


紫乃 父 拝

2013.4.14

 

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小学校卒業文集 「将来の夢」

 

 私の将来の夢は、作家である。

 ミヒャエル・エンデの「はてしない物語」、寮美千子の「小惑星美術館」、北杜夫「さびしい王様」など・・・

 私の好きな作家はたくさんいる。いや、世の中に良い作家が多すぎるくらいなのだ。私が作家になった時、売れぬかもしれぬという不安さえある。気がめいるばかりである。要はその作家をしのぐほどの良い作品を書けばよいわけである。

 いつも私の頭にうかぶのは、森の光景である。栗色の馬にのり、森の中をかけめぐり、いろいろなところでノートにペンをはしらせるのだ。鹿、アナグマ、小鳥、リス、馬などにかこまれて、ノートに物語を書き出すのだ。

 私の洗礼名、聖ベルナデッタは、森の洞窟にマリアを見いだしたという。私は、森の中に物語を見いださなければならないのだ。

 

 

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 約束どおり子と車で法隆寺へ向かう。救世観音の年に二度のご開帳。まだ朝はやい法隆寺は日曜でもひっそりと落ち着いていた。中門を前にして建築家の武澤秀一が書いていた金堂と五重塔、左右非対称を束ねる中央の柱の絶妙なバランスを思い出し、子に説明する。「ああ、ほんとうにそうだね」と子も得心してうなずく。救世観音は、わたしは何年ぶりくらいだろうか。もちろん子ははじめての対面だ。聖徳太子の生身を写したものと伝わること。千年以上50メートルの布にぐるぐる巻きにされて秘されていたこと。光背が仏の後頭部に釘で固定されていることなど、子はみんな知っている。二人して針金の格子を両手でつかんで薄暗いその奥を凝視する。数年前の記憶は写真で見る像に入れ替わってしまっている。実際は違う。まず、像が<生きている>。はじめは何やら生々しく、奇怪で、呪詛に満ちているような面持ちで近寄りがたい。目線は上方を見上げているが、隣で子が「まっすぐこっちを見ている」と言う。しばらく見続けていると、距離が測れるようになった。近寄りがたさはもっとさまざまなヴァリエーションへと変わっていった。いろいろな顔、いろいろな想念・・・  30〜40分も黙って見続けていただろうか、子がふうっと息を吐いて回廊の手すりまで後ずさりして、「圧倒されるわ」とつぶやいた。やがて修学旅行の生徒たちの団体がぞろぞろと到着して、わたしも子もその浪に埋もれた。バスガイドが「滅多に見れないものですから、見てってくださいね〜」という文言だけを馬鹿の一つ覚えのように繰り返している。ちらりとも見ずに通り過ぎる生徒もいる。「わ、顔、でけえ!」と叫ぶ男子生徒。下の地面でカメラを向けている教師に向かってVサインをして群がっていく生徒たち。子はそのすべてが気に入らない。「まったく、何しに来たのか・・・」 苦虫を噛んだような顔でひとりごちている。たっぷり救世観音と対面してから夢殿を出て、帰りは住宅街の中を抜けて駐車場へと戻る。歩きながら救世観音の不思議についておのおの語る。「つくっちゃいけないものをつくっちゃったんじゃないのかな。それで怖くなって、ぐるぐる巻きにして隠してしまったんじゃないのかな」 これはわたしの感想。「なにかね、他の人には理解してもらえないことを抱えていて、それを諦めている。諦めて、どこか遠くの一点をきっと見つめている。そんな感じがしたな」  一方で子は「それもあるけど、怖いだけじゃなくて、すごくさびしい顔にも見えた」と言う。そしてこんなことも言う。「厩戸皇子はね・・・  人間の終わりを見ていたような気がする」 「人間の終わりって、人類がどんなふうに滅びるかってこと?」 「そう」 昔からある竹細工の雑貨屋の前を通る。落ち葉拾いの箒を買いたいと思って手に取るが、「家にもおなじようなのがあったよ」と子に言われて手を離す。竹細工は、いつも何か魅かれるものがある。

2013.4.21

 

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 子が中学校へ通い始めて二週間ほどが経過したか。地元の小学校からの友だちが一人もいないあたらしい環境で、はじめての電車・バス通学で、しかも手術後のリハビリがまだ完了しない状態で、ちょっとづつだけれど落ち着いてきてはいるのかな。子も、親も。

 入院中の話は子とYに訊くしかない。同室の子(ひとつ上やひとつ下)とも仲良くなって、いっしょにDSをしたり、家では見れないテレビで「嵐」の番組を漁ったりして、おおむね愉しい日々を過していたようだ。院内学級の手続きをして授業もあった(書類上、一月だけ大阪の学校に“転校”していたことになる)。一回だけ、都合でお婆さんばかりの病室に入れられたときは、周りのお婆さんたちが一人で文句を言い続けているような、子いわく「まったく気が滅入る光景ばかり」で、子はじぶんのぐるりのカーテンを終日閉ざして耳をふさいでいたらしい。何日かして見かねたYがナース室に談判し、もとの子ども部屋に戻してもらった。退院するときの同室の友だちはひとつ年下のUちゃん、ひとつ年上のベトナム人の女の子。二人とも「悪性の腫瘍」で入院していた。

 手術の経過はまずまず順調であったが、わたしが関東の長期出張から戻ってから一度、医師いわく「手術で触った神経のまぼろし」で、膝の内側の神経が刺すように痛い、痒いと終日、苦痛に顔をゆがめてのたうちまわることがあった。こういうことは脊髄の手術後によくあることらしい。痛み止めの薬を出してもらって、翌日から少しづつ収まって、いまに至るまで再発はない。

 リハビリは平日、毎日リハビリ室で行い、それ以外の時間でも看護婦さんが近くの階段に連れ出してくれて歩行練習などをたびたびしてくれていたが、回復までに時間がかかった。小さい時にはじきに回復したように思ったが、まだ言葉を喋れないような幼児期の方が痛みもなんのそので積極的に動き回るので回復も早いらしい。加えて肉体的にも成長して、ガタイが大きくなった分、筋肉を取り戻すのも時間がかかるのかも知れない。

 学校の入学説明会も、続いて行われた模擬授業も、外泊許可を取り病院と自宅を往復しながら参加して、やっと退院が出来たのは入学式をあと3日に控えた週末だった。その時点でまだ歩行はつかまり立ちが精一杯という状態。Yは市の保健センターであらかじめ車椅子を借りて玄関に用意していたが、肝心の学校があまりバリアフリーに対応していないので役に立たなかった。車椅子がダメならとわたしがモンベルで買ってきた登山用のポールも、入院中に数回と野外活動の下見の時に使われたくらい。一時はどうなることかと思ったが、そのうちに何とかよろよろと、一人で通えるようにはなった。ただ、いま時点でも長時間の歩行や立ちっ放しはきついので、駅まではほとんどYかわたしが車で送迎をしている。

 また(わたし的には)最大の懸念であった電車の乗り換えも、心配性の父があらかじめイラストレーターで特製の路線図や乗換え表をつくって持たせたりしたのだが、それも移し変えた鞄の中や学校に置き忘れたりしているうちにじきに覚えてしまったらしい。人の波に気後れして電車の乗降が危なげだったり、始発でも座れずに手すりのない中央でもみくしゃにされたり、乗り換えのホーム先の電車に間に合わなかったりといろいろ経験しているらしいが、「そうやって覚えていくのよ」とYはいたってクールである。「いいか、後ろの奴が頭がおかしくてお前の背中を押すかもしれないから、電車が入ってくるときは必ず後ろにも注意して怪しい動きがないか常に見張ってなくちゃいけない」 「もし万が一ホームに落ちてしまったりしたら、とにかく急いでホームの下に隠れるのだ。そしてちょっとでも顔を出したら走ってきた電車に蹴飛ばされるかも知れないから、誰かが気づいて救助に来てくれるまでホームの下でじっとして本でも読んでいなさい」 父ばかりがいまもあれこれと五月蝿い。

 クラスは20人少々。出席番号の近い4〜5人ほどと話を交わすようにはなったが、やはり小学校のときのように子のペースに合わせて待ってくれる子はなかなかいない(そういう意味では、幼稚園からずっといっしょだった仲良しのKちゃん、Nちゃんは得がたい特別の存在だった。改めて有り難く思う)。いちどおなじ路線の子と仲良くなっていっしょに帰ってきたが、その子が別の子と話を交わすようになったら翌日からその子たちといっしょに先のバスに乗って帰ってしまったという。でも子はそんなことは別にどっちでもいいという顔で、内心はいろいろ思うこともあるのだろうけれど、特に気にしていないふうでいる。そのへんは愛想の良い母親より父親に似たのだろうけれど、たいていはわが道を行くという感じで、もともと積極的に交わっていこうというタイプではない。とはいえ依頼された自己紹介カードを何枚かもらってきて、ほぼ全員が携帯電話のメールアドレスを交換しているのを見て、じぶんも今回加入した見守り携帯(メールは登録した受信のみで、設定された3回線への電話発信しかできない)を携帯電話に変えて欲しいと初めの頃は言っていたのだが、じきに「やっぱり携帯はいいわ。(付き合いが)メンドーくさいから」と言ってきた。一方でかねてから希望していた演劇部の公演会のチラシをどこからかもらってきて放課後に見に行き(そのときは仲の良い同級生が数人同行したらしいが)、後日にひとりで部活の練習の見学も行ってきて先輩たちと言葉を交わし、数日後にさっそく仮入部の届けを持って行くなどしてして、じぶんで必要だと思うことはけっこう積極的に動いている。

 授業の方もたとえば美術の時間の終了後、教室に展示していた先生の仁王像を描いた作品に見とれているうちに気がついたら教室にひとりだけになっていた。先生(女性)がそんな子に「この間、駅で見かけたね」と声をかけて、きてしばらく絵の話をしたとか。あるいは土曜日に全校生徒が集まった講演会があって、フィリピンでゴミ拾いをして暮らしている少女や、事故で半身麻痺になってしまったバスケットボールをしていた少年の話、またディズニーランドで働く清掃の人の話など、五つくらいの話をすべて覚えて夕食時に話してくれるなど、いろいろ吸収しているものはマイペースで吸収しているらしい。

 肝心の担任の先生は、まだ若い女性の体育の先生。要領がよく、さっぱりとしていて好感が持てる。この担任の先生に限らず、どの先生も子の病気のことを知っていて、いろいろな場面で気を使ってくれ、また実際によく見ていてくれている。このへんは無理をしてでも私立にしてよかったなと思うところ。今回、学校側にこちら側からお願いしたのは、通学の荷物を減らすために主要な教科書を二セット購入させてもらってその片方を教室のロッカーに置かせてもらうことと、下駄箱の近くに丸椅子をひとつ置いて欲しいとお願いしたことくらいかな。さっそく今月末にある野外合宿も、あらかじめ教えてもらったコースを先の日曜に子と下見をしてきてレポートを担任の先生に提出し、結局子の歩けないコースは迂回の管理道をタクシーで乗り入れて回ってくれるなど、連携も順調に行っている。

 昨年の夏くらいからか、気がつけば胸がふっくらと丸みを帯びてきて、何やらこそばゆいような困ったような、なんとも奇妙な心持ちを感じているうちにいっしょに入ったお風呂で「ん・・・? (股下が)何か黒ずんでいると思ったら、おまえそれ毛か!」と思わず口にして子にシャワーのお湯を頭からかけられたり、ついには手術前に「子が生理になった」とYから聞かされて「赤飯とか炊かなくていいのか?」と何故かうろたえたりして、つまりはそういう年齢になったわけですな。思い返せば感慨もひとしおである。まだまだいっしょに風呂も入るし、(文学や音楽や歴史など)こっちの話題にも充分ついてきてくれ、また返してくれるが、子がこれから過すとくに女の子の年齢期が心理学的にはいちばん「分からない」時期でもあるという。世の中の枠がいっきょに拡大して、親も子もしばらくはばたばたとするのだろうな。なるべく愉しくばたばたをしたいものだ。

 子の成長とともに、わたし自身もわたしの個体としての「死」を意識することがこのごろ多くなってきた。子どもが大人へと近づき伸びていく。同時にわたしを形作っていた世界から親しいものたちの影が日々立ち去っていく。いわば子は、この世界で膨らみつつある新しい芽であり、一方、わたしは古代世界でいえば次の世界へ行くための準備をするもの、だ。どんな準備なのか、わたしにはまだ分からない。

2013.4.22

 

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 連休中は大阪の某パチンコ店のオープン現場へ西名阪の高速を飛ばして連日、早朝から深夜まで。ひさしぶりに制服を着て出入口に立ち車の誘導などをしていると、むかしを思い出す。子がまだ赤ん坊だった頃のことだ。わたしはまだ時給850円のアルバイトで、明日をも知れない身だったがそれなりに愉しかった。世の中にはじぶんの作品が街中にそびえ立ったり、あるいは著書として出版されたり、レコードとして発売されたり、フィルムになって上映されたり、あれこれと成果が目に見える形になる仕事もあるけれど、わたしの仕事は来店するわがままなドライバーたちの車を国道の車列に割り込ませたり、歩行者が通るからと制止したり、文句を言われて頭を下げたりする仕事だから、一日が終わってみればあとはゴミくずが散らかった空っぽの駐車場がひろがっているだけで、何も残るものなどない。そして明日もまた同じことの繰り返し。むしろ、その潔さが心地よかった。怒鳴られても、クラクションを鳴らされても、唾を吐かれても、すぐに忘れて乾いた路上から遠くの飛行機雲や夕焼けや山の影を眺めて誘導棒を右足に叩きつけてリズムを取りながら好きな歌を口ずさんで、雨の日も雪の日も立ち続けた。その歌と、じぶんのつましい立ち位置は明確に響き合っていた。そんなことを思い出す。あの頃も仕合せだったけれど、いまはもっと仕合せなのに間違いない。リビングで二人の天使がなにかの話で笑い転げている。そんなのをだまって眺めているのが好きだ。いつか仕合せになることをゆめみてやってきたのだ。ときにわらわれて、はじかれて、ほされて、こぼれおちそうになったりしながら。「いっぱいで、すわる場所もなかったわ」 駐車場の出口で車の窓越しからそう言って来るのは、べつに怒っているわけじゃない。「そうですか。すみません」 そう応えて頭を下げると、満足したようににこりと笑って出て行く。だれかに言いたくて、それを聞いてもらって、いっしょに苦笑してくれるだけでいいのだ。そういう人はシンプルで、わたしは結構好きだ。そういう人はたいてい本やレコードを出したり、映画を製作したりするような仕事にはついていなくて、わたしがかつて立っていたあの路上のような場所からきっとおなじような遠くの飛行機雲や夕焼けや山の影を眺めているのだと思う。では歌は? 歌はどこへいったか?

2013.5.1

 

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 折りたたみ自転車を買った。ジップと併走するためのもので、ネット・ショップで送料込み9500円。併せて背中にリードを付けるタイプのハーネスも新しく購入した。こちらは3500円。もともと昔から犬のことでいろいろと教えてもらっている“チャッピーのおじさん”(犬の名前以外は知らない。この人は犬と一心同体のような飼い主で、いつもジップを賢い犬になると褒めてくれる。年齢はわたしとそれほど変わらないはずなので、わたしが“おじさん”と呼ぶのはオカシイとYは言うが“チャッピーのおじさん”は“チャッピーのおじさん”だ)が、飼い犬の運動不足解消のためにハマーの折りたたみ自転車のサドル下にリードをつなげて散歩をさせていて、それに倣った形だ。折りたたみ自転車である必要は重心が低いのでコントロールがしやすいこと。わたしもさいしょはハマーにしようかと思ったが、さすがにモロ真似っこになるのがためらわれたのと、外人仕様のハマーはわたしのつましい長さの足にはちとサドル高がありすぎた。ネットで値段の良い上級機種もあれこれ見たりしたのだが、まあ、安いので充分でしょうと中国製のこいつに決めた。ちょっとヨーロピアン風のデザインと、やはりサドル高に拠り。サドルとペダルと前カゴ、ライトを取り付けて、説明書を見ながらギアの調整をしたら、うん、なかなかいいじゃないですか。ジップも自転車との距離感、曲がるタイミングや、スピード調整もじきに馴れて、上手にこちらにあわせて動いてくれる。働きずくめのGWをくぐりぬけてやっとの休日。午前中に子の脳外科の診断などにつきあって、午後からジップと走りにいった。狩猟犬のDNAが目覚めるのか、ギアをトップに入れた自転車の横にぴったりとついて、気持ちよさそうに全力疾走している。空がつきぬけている。雑草の緑がまぶしい。ものの影が小気味よく明快だ。こんなシンプルな一日にふさわしい。

折り畳み自転車 ALTAGE AL-206 http://item.rakuten.co.jp/infinityshop/10002459/

Julius-K9のパワーハーネス http://www.lakislatis.com/harness-pwh.html

2013.5.7

 

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 休日の朝、登校する子を車で最寄り駅まで送って行く。支度に手間どり、いつもの電車の時間までぎりぎりだ。改札の近く、ちょうど閉まりかけた踏切の前に車を寄せて子を降ろす。以前に反対側のロータリーのある改札口から入り、構内で渡る踏み切りが閉まりかけたところを転んだことがあったので、以来、あらかじめ進行方向のホーム側の改札へ降ろすことになった。遮断機が下りていたのが子の乗る電車のためだ。降車した踏切際から改札まで約10メートル、改札から乗車するホームまでもおよそ10メートルほど。かくかくと大きく肩を揺すりながら懸命に歩いて行く制服姿の背中が改札の奥へと消えて行く。見えなくなったと思う間に、下りた遮断機の横を当の電車が現れた。ホームの上は見えなかったけれど、「たぶん、間に合わなかったんだろうな」と思いながら、遮断機のあがった踏切を越える。ふつうの子どもであったらささっと走っていって、すいと乗れたことだろう。ホームの上できっと肩で息をしている子の姿を思って胸が痛む。彼女はいつも、そんなふうに取り残される。

 今日は午後から授業参観とPTAの総会と保護者懇談会だった。庭の一部を埋め尽くさんばかりに生い茂った三つ葉をバケツにむしりとって、昨夜買っておいた鶏のささみとあえて夕飯の菜をつくりおき、ジップと自転車でしばらくあちこちを走り回ってから、簡単な昼食を済ませ、支度をして、5月の城下町を朝、子が乗ったおなじ駅までのんびりと歩いていった。

 今回の授業参観は英語。ただわたしは授業よりも合間の時間の様子が気になる。5分前になっても、2分前になっても子の姿が見えない。お腹が痛くなって保健室にでもいるのか(実際に数日前、登校途中に腹痛があって学校から家に戻され、母が仕事を抜けて自宅で摘便をして休んだことがあった)と心配していたら、ぎりぎりになって「気が合う」と本人が言っていたHちゃんといっしょに下駄箱の方から歩いてきた。(後で聞いたら、演劇部の召集があったらしい) 英語の先生は日本人だが小柄な、ソウル・シスターズのような貫禄のある女性の先生で、発音はネイティブで素晴らしい。

 授業参観が終わったところで担任のA先生がどこからかやってきて、PTAの総会の間に演劇部の顧問の先生が子の病気のことなどを伺いたいと言っているがどうだろうか? と訊いてくれて、別の応接室でその高校の社会科の教師だというM先生と小一時間、話をさせてもらった。年に三度ほど、発表会やコンクールがあり、その合間に強化合宿もある。ダンスや、発声のためのトレーニングもある。身体的に何ができて、何ができないか。本人が嫌でなければ、裏方だけでなく子にも何らかの役を演じてもらおうと思っている、等々。

 M先生との面談を終えて、懇談会のため子の教室へもどる。帰りのホームルーム、そして清掃。やはり中学生になるとスピードが違うな、と思う。机を移動させる子、その上に椅子を乗せていく子、階段やトイレへ清掃道具を持って走っていく子。どの子どもの動きも、子を基準とすれば動画を早回ししたようなスピードに思える。その早回しの中をついていけず、箒をもって躊躇している子がひどく浮いて見える。ここでも彼女は取り残されている。ときおり周囲の子と言葉を交わすときもあるが、ちょうど走り抜けていくバイクに向って言葉を投げているような感じなのだ。数十台のバイクが連なって通り過ぎる。彼女は路上にぽつんと立っている。じぶんから追いかける気はさらさらなく、半分醒めて、半分諦めているようなふうで、この後いっしょに部活へ行くHちゃんが階段の掃除を終えるのを柱の角にもたれかかってじっと待っている。

 クラスごとの懇談会はわたしを除けば母親ばかりが十名ほどと担任のA先生。子どもたちがいなくなった教室で机を車座にして小一時間。男ひとりの居心地の悪さを覚えながらお母さんたちの話を聞いていたら、それぞれ新しい学校生活にじぶんの子どもが適応していけるか、だれもが心配しているのだなと思った。小学生時代にひどいいじめを受けていたという子もいる。そしてメインの話題になったのが、やはり子どもの携帯電話の扱い。家でのルール。リビング常設で自室に持ち込まない。メールでは人の悪口は書かない。親がチェックはしないが、見られて困るようなことは書かない。などなど・・・

 懇談会が終わって、子は「ぜったい来ないで」と言っていたが、M先生は「ぜひ見学していってください」と言っていたし、やはり部活を覗いていくことにした。どこに行っても女の子ばかりなので、どうも勝手が悪い。体操着姿のスポーツ部の女の子でむせかえった体育館の入口にひるみ、そうだ演劇部は体育館の二階だったとひとりごちて校舎からのブリッジから回って入ったら、いきなり練習風景の中にいて、気がついた子どもたちが「こんにちは」と口々に元気な挨拶をしてくれる。M先生に目で挨拶をして、しばらく立って見ていたら、どこからか座布団を持ってきた子が「どうぞ!」と声を投げてくる。子は仰向けになって腹式呼吸の練習の最中であった。それからみなで車座になって、スキップをしながら「群読」。テキストは北原白秋だとM先生がおしえてくれた。そしてまた新入生一人に上級生二人がついた三個一でのグループ・レッスン。子はなかなか声が出ない。まだ恥ずかしさもあって、殻を破れていないのだ。ふだんでも、あまり挨拶ができない子には、こんなふうに腹の底から声を出すというのはいい練習かもしれない。先輩たちは、なかなかたいしたものだ。先輩、といっても6年一貫校だから上級生は高校3年生で、最大6年の年齢差がある。まるで宮沢賢治の舞台劇のように車座になって跳ねている子どもたちが一篇の詩を、オーケストラの旋律のように互いのパートをずらし、重ね合わせて盛り上げて行く様は迫力がある。演劇というのは、やっぱり「肉体」なんだな。じぶんが思い描いていたイメージとの差を、いま子はどう感じているのだろうか。でもすくなくとも、教室にいたときの子よりは愉しそうで、一生懸命にやっているように見える。

 結局、最後まで見てしまった。「もう着替えをしますので」とM先生に言われて、先に駐車場に下りて待っていた。どんなふうにして出てくるのか。ひとりで遅れてくるのか。子にずっとついて指導してくれた「部長さん」がわたしに気がついて、「シノちゃん、もうじき来ますから」と声をかけてくれた。ああ、やっぱりひとりで遅れてくるのだなと思っていたら、最後の方に別の先輩と二人で話しながらやってきた。「(乗り換えの)○○駅まで無視してくれていいよ」と言っておきながら、その先輩に「いちばん声が出ていなかったようで、すみませんね」と言うと、「さいしょはみんなあんなものです。これからだんだん出てくるようになります」と明確な返事が返ってきて、「よろしくご指導下さい」と頭を下げた。今回はたまたま先輩といっしょになったが、いつもいっしょに誰かがついてくれるわけではない。ただし「もう一人来るから」とバスは止めておいてくれる。それからは部員たちは一丸だ。

 制服姿の女の子たちを満載したバスに、一人だけそぐわない異物のようなわたしも乗って手すりにぶら下がった。周りを見たら、みな一斉にどの子も携帯電話を開いて画面を覗き込んでいる。そうして携帯を見せ合い盛り上げっているグループがあり、並んで座った二人だけでひそひそと喋っている子もあり、一人だけで携帯画面を見つめている子もいる。子は出口のステップのところに立って先の高校生の先輩からスマホの写真を何か見せてもらって笑っている。駅に着いた。みんなまっすぐに改札の方へそのまま流れていくが、演劇部の子どもたちは部長の声がけの下、いったんバス停の前の空地で全員集合して、それからみなでかたまって改札口へすすむ。ホームにあがり、反対方向の電車に乗っていく部員を手を振って見送ってから、また車座になって愉しそうに話をしている。子が「部長さん」から紙切れをもらっていた。(あとで聞いたら部長の携帯の番号、メルアド、自宅の電話番号が書かれたメモだった) 乗り換えの○○駅に着く。子はここからひとりのはずだ。それぞれ別の方角の路線に分かれるのだ。4分後の先発の各停かなと思って人込みを抜けてブリッジへ上がったら、部長さんともう一人の先輩に会って、「シノちゃんは1番ホームに(そのまま)残ってましたよ」と教えてくれた。「乗換えが間に合わないと思ったのかな」とお礼を言って元のホームに戻ると、子の姿があった。先発は階段を上り下りしている間にきっと間に合わなくなるからと判断して、後発の快速を待ったのだった。

 家に帰ってから子がポケットから駄菓子の小袋をふたつ。「これ、先輩が着替えのときに“先生に内緒で”ってみんなに配ってくれた」と、くすぐったいものでも触るように。

 懇談会で先生が言っていた入学時の学力考査はクラスで1位だった。「みんな1番が誰かって探してたけど、わたし黙ってたの。そしたらHちゃんが来て“1番、シノちゃんでしょ”って。なんで分かったの?って言ったら“シノちゃん、頭よさそうだから”って」

 それから部長さんのメモが登場して、演劇部の連絡のために携帯電話(とくにメール)が必要と言われたことを子が話し、急いで夕飯を食べてから家族三人で近くのイオンモール内にある携帯ショップへ行くことになった。せっかく用意した見守りケータイも、わずか一月で解約の憂き目なのであった。ま、携帯の話は機会があればまた次回に。

 「これまでの人生で、なぜか分からないが最大に無気力な時期なんだ」とこのごろ彼女は言う。「おまえ、クラスで何となく浮いているだろ?」と問えば、「そうなんだ」と苦笑いしてうなずく。そしてよく「ああ、一日でいいから、あの小学校のクラスに戻りたいわ」と詠嘆する。思えば幼稚園から小学校と、友だちはずっと連続していた。今回は小学校からおなじ中学に行った子はほかに一人もいないから、そういう意味では完全に断絶だ。そしてはじめての電車通学など、いろんな意味でまったく未知のターニング・ポイントで、子はじぶんなりに格闘して、どうにかしようともがいているのだろうと思う。ガンバレ。

2013.5.9

 

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 大阪・御堂筋フェスタで潰れた昨日の代休。さあ、今日はホームセンターのトラックを借りて合板と断熱材を何枚か運ぼうかと考えていたら、子が学校に行きたくないと言う。じぶんでも何故だか分からないが、昨日もひとりでお八つを食べたりお風呂に入っているときに急に涙が出てきて止まらなかった。さあ、大変だ。「ちょっと紫乃と二人だけで話をさせてくれ」と彼女の部屋で長いこといろいろ話をしていたら、こんどはYの方が「家族なのに、なんでわたしだけのけ者なのか」と声をあらげ出した。ちょっと、みんな疲れている。「気分転換にみんなでお昼を食べにいこう」 「どこに行くの?」  車は天理市内から石上神宮をよこぎって、天理ダムを抜けてほそい山道をうねうねとのぼっていく。着いたのは三輪山の北東、龍王山のふもとの笠集落。笠荒神神社の向かいにある、前から行きたいと思っていた「笠そば処」 集落のあばちゃんたちが経営しているお蕎麦屋さんだ。戸外に面した席でおいしいざるそばをすすった。しずかでのどかな山間の景色。心地よい風が山の端をつたっていく。「いいところだねえ」 「おそばもおいしいし」 みんな自然と、気持ちがおだやかになってきた。そして食べ終わったあとは、なんだか急にだれもが眠くなってきた。

荒神の里 笠そば処 http://www2.mahoroba.ne.jp/~kasasoba/

2013.5.13

 

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 子が学校に行きたくなかった理由は、まあ、いろいろな積み重ねがあったのだろうなと思う。たとえば休憩時間やお昼時間の中で、みんなとは離れたトイレに定期的に行かなくてはならない。教室の移動があれば、いちばん遠いのは美術室だそうだが階段を三階まで上っていかなくてならない。他の子であれば友だちと話をしながらあっという間に着いてしまう距離も、子にとってはわずか10分の持ち時間の中で毎回、精一杯に頑張って間に合うかどうかの瀬戸際だ。そうやって息つく間もない授業と授業の合間で、最初の頃は「仲良くなった」といっしょにお昼のお弁当を囲んでいた友だちがある日、みんなで食堂へ食べに行ってしまい、それからは子はずっと一人でさびしくお弁当を食べていた。近くの席の同級生は子いわく「騒がしい子ばかりで好きになれない」。唯一気の合うHちゃんのところまで机と椅子を運んでいくのは子には難儀すぎる。もともと性格的に世間に出ると遠慮しがちというか、満員電車の列に気後れして電車を三つもやり過ごしたことがあったくらいだから、そうして何だかいろんなことがおくれていってしまったのかも知れない。幼い頃から父に「世界中の人がじぶんを賞賛してもじぶんは満足して座っている。世界中の人がじぶんに無関心でもじぶんは満足して座っている」という大ホイットマンの詩のように生きろと言われてきた彼女は、そんな孤独にだまって堪えて、馴れない環境をぎりぎりの気持ちで走り続けていたのかも知れない。

 そして今日。夜に仕事から帰って食事をしている子に「どうだった?」と訊けば、(おそらく電話で相談した担任のA先生が手を尽くしてくれたのだろう)昼の時間にHちゃんが「いっしょにお弁当、食べよう」と子の席までじぶんの椅子を持ってきた。「(昨日までいっしょに食べていた前の席の)Kちゃんはいいの?」と子が訊くと、「じつはあんまり好きじゃなかった」と。それからHちゃんがギリシャ神話が大好きなことが分かって、二人で大いにギリシャ神話の神々たちの話で盛り上がったとか。そうして子のお弁当のブルーベリーと、Hちゃんのお弁当のさくらんぼを交換したといって、さくらんぼの種がたくさん入った空のお弁当箱を母親に差し出した。「種がたくさんだな!」 父は思わず大声で笑って「これを庭に播いてみようか」と子どものように無邪気に言い出した。「なんや、お父さん。いきなり笑い出して」 「お父さんは嬉しいのよ」 母はそう言ってからお弁当箱の中のさくらんぼの種をきれいに洗って、庭の空の鉢受の中にまるく並べた。

2013.5.14

 

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 先に亡くなったバタやん(田端義雄)の「十九の春」をユーチューブで聴いているうちに何となく見つけた川井龍介「「十九の春」を探して うたに刻まれたもう一つの戦後史」(講談社)を読んでいる。明治に流行った社会風刺の演歌「ラッパ節」が流れ流れて沖縄の島々まで伝わり「与論節」としてさまざまなレパートリーを生んだのが源流で、加計呂麻島で鍼灸師をしていた朝崎辰恕(朝崎郁恵の父)が米軍の魚雷によって沈没した嘉義丸の生存者の話を聞いてその「与論節」のメロディーに歌詞をつけたのが「嘉義(かぎ)丸の歌」であり、また沖縄からユーターンした形でもともとの「ラッパ節」の風情を先祖がえりのように尻尾に残したのがバタやんの「十九の春」といえるのだろうか。けれども戦火の沖縄を経由したせいか、「十九の春」もどこかせつなさの残り香が漂う。盲目の父を先導して島の峠道を共に歩いた朝崎郁恵が父の記憶を頼りに歌詞を掘り起こし、60年後にレコーディングしたその歌唱も心に沁みる。

「「十九の春」を探して うたに刻まれたもう一つの戦後史」 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4062139863/mumeiki-22/

 昨夜、土日と続けて子が自室で勉強をしているふりをしてずっと本を読んでいたことが発覚し「お前は人を騙すのか」と怒鳴り散らした。子は夕食も食べずに、泣きながら宿題と試験勉強を夜中まで続けた。明けて今日、朝から胃が痛いと言っていたが、結局授業の途中で早退して、医者に行けば「すこし胃が弱っているようだ」との診断。その夜、嘉義丸の沈没の際に背中にくくりつけていた2歳の長男が冷たくなって息絶えて、枯れ木の上に乗せて荼毘に付し、病院の近くで小さな骨壷を買ったエピソードなどを子に話して聞かせた。その88歳の老婆は、朝崎郁恵の歌が縁で奄美大島のライブ会場の演壇に立ち、当時じぶんを助けてくれた奄美大島の漁師や病院の看護婦、理由を聞かずに骨壷をロハで分けてくれた荒物屋の女性などにお礼の言葉を述べたのだった。

 こうしたつましい人びとの痛みの分からないような人間が、そもそも政治家になるのが間違っている。

 

「嘉義丸(かぎまる)のうた」

散りゆく花はまた咲くに
ときと時節が来るならば
死に逝く人は帰り来ず
浮き世のうちが花なのよ

戦さ戦さの明け暮れに
戦火逃れてふるさとへ
帰りを急ぐ親子連れ
嘉義丸たよりに船の旅

五月の二十日に大阪を
親子笑顔で船出して
屋久島みなとに入るまでは
雨風もなく波もなく

屋久島みなとをあとにして
二十六日十時半
大島岬も目について
宝の島の沖合で

ああ憎らしや憎らしや
敵の戦艦魚雷艇
打出す魚雷の一弾が
嘉義丸船尾に突き当たる

親は子を呼び子は親を
船内くまなく騒ぎ出す
救命胴衣を着る間なく
浸水深く沈みゆく

天の助けか神助け
ふたたび波間に浮き上がり
助けの木材手にふれて
親子しっかり抱きしめる

思う間もなくいとまなく
追いさらわれて海原へ
これが最期の見納めか
親子最期の見納めか

波間の響く声と声
共に励まし呼び合えど
助けの船の遅くして
消えゆく命のはかなさよ

親を恋しと泣く子らの
いとし子呼んで泣く親の
嘆きの声が聴こえたら
御霊よ天の星となれ

 

十九の春 〜 その変遷 http://washimo-web.jp/Report/Mag-Jyukunoharu.htm

九州、奄美、沖縄における「ラッパ節」の流れ.pdf

 

 ところでわたしの興味は同時に、明治・大正期に社会の底辺で暮らしながら世相を風刺し、権力を揶揄した演歌師・添田唖蝉坊(そえだ あぜんぼう)へと移りつつある。amazon でさっそく絶版の小沢昭一「流行り唄五十年 唖蝉坊は歌う」 (朝日新書)   を中古で見つけて注文し、青空文庫でかれの「乞わない乞食」を見つけ iPOD で読んでいる。じつはこの唖蝉坊、高田渡やなぎら健壱までつながっている、。

青空文庫「乞わない乞食」 http://www.aozora.gr.jp/cards/000368/card3222.html

「流行り唄五十年 唖蝉坊は歌う」  http://100satsu.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/post-8b79.html

2013.5.20

 

*

 

 仕事から帰り、夕食を済ませて、ジップを折りたたみ自転車につなげて夜の散歩へ出る。奈良口といわれる郡山の北の古くからの街道筋を抜けて、平城京西市の船着場跡を横目で眺め、まるで古代にタイムとリップしたかのような鄙びた秋篠川の堤沿いの整備された夜のサイクリング・コースを、間近にちらちらと見え隠れしているライトアップされた薬師寺の五重塔を正面に眺めがら、「十九の春」を口づさんでジップと疾走するのはとても気持ちがいい。

 やっぱり自転車のスピードはちょうどいいな。

2013.5.22

 

*

 

 4泊5日で琵琶湖の湖西へ行っていた。と言っても、プライベートではなく仕事で。毎日快晴つづきで、ホンの数メートル先に視野一杯にひろがった琵琶湖は、昼間は沖縄のビーチのようにしずかに透明に輝きたたずみ、夕方から風が出てくると凪いだ日本海のような色になって波立ち、夜には東の方角にのぼった月の灯りが湖面にかさなりゆらいだ。ときおりやってくる団体バスを誘導する以外は、永遠の夏休みのようなのどかな農村の風景で、時間はまったりととまっている。浜辺と神社の大きな老樹の間を、数羽の(大きいのが2羽、小さいのが2羽だったから)おそらく家族のトンビが頭上で風を受けて滞空し、旋回し、見事な羽をひろげて優美に舞いながら、ピーヒョロロと鳴き合っていた。そんなところだ。

 休憩時間には待機用に停めた車の中で、iPodに入れた森鴎外の「大塩平八郎」を読んだ。大塩平八郎の名を久しぶりに思い出しのは数年前、大阪の飛田墓地について調べていた時にその飛田の刑場で、変わり果てた塩漬けの大塩父子の遺骸が他の同士らと共に晒されたことを知って。鴎外の「大塩」は詳細な当時の記録の隙間を手堅いストイックな推察で穴埋めしたような小説で、わたしは特に、事を終えた後の大塩たちの絶望的な逃避行(大阪平野から信貴山越え?)に興味をもった。最後まで大塩に同行しながらこれ以上歩けないから足手まといになると村の小さな社で切腹した大坂東町奉行組同心の渡辺良左衛門(40歳)。その渡辺につづいて発熱のため脱落し、休息を求めた農家で昏睡中に密告され、脇差を盗られたために逃げた山中で縊死した大坂東町奉行組与力の瀬田済之助(25歳)。大塩の名の陰でいまでは忘却されかけているこんな名もなきものたちの最期に心をひかれた。(帰宅してから改めてWEBで調べてみた。渡辺良左衛門が血にまみれたのは八尾市田井中にある田井中神剣神社であるらしい。また若き瀬田済之助が懐にあった捕縄を木に投げたのはどうも八尾市恩智中町の恩智神社から奈良・信貴山へ抜ける恩地山中であるらしい。いつか訪ねてみたいと思っている)

大塩の乱資料館 http://www.cwo.zaq.ne.jp/oshio-revolt-m/index.htm

八尾市志紀地区田井中の歴史 http://www.kawachi.zaq.ne.jp/ishii/history.htm

近鉄てくてくまっぷ(大阪-4) 恩智越・信貴山朝護孫子寺コース http://www.kintetsu.co.jp/zigyou/teku2/teku-osaka04.html

 

 今回はモバイルPCは持参せず iPod のメモ帳で日々の報告書を入力し、ホテルのLANにつないだポケットルーター経由で毎晩会社へメール送信した。このスタイルは結構便利かも。(モバイルとはいえ)重たいPCに比べて身軽だし。宿は高島市内、安曇川の駅前にあるビジネスホテル。いっしょに動いていたKさんが肉・卵・牛乳を食べない主義だというので、夜はいつも近くの平和堂で値引きされた惣菜などを買って帰っていたのだが、仕事が一日予定より延長になって持ってきた下着が底をつき、この平和堂で靴下やパンツなどを買ったときがあった。そのときにふと目が行って、一枚千円と値ははったのだけれど折角湖西くんだりまで来たのだから土産代わりにと買ったのが高島ちぢみのパンツ。これが宿でシャワーを浴びてから履いたら、すぐにスグレモノだと分かった。ふんわり、さらっとかるく、じつにこの季節に心地よい。それで帰りに、道の駅でこの高島ちぢみのステテコをふたつ、買いました。伝統の技・高島ちぢみ、おすすめしたい。

 高島ちぢみは、通常の平織りにくらべ緯糸の撚り回数を
 約1.5倍以上ひねる事により生じるうね(縦しぼ)で肌につく面積を少なくし、
 織り糸の本数も通常180本のところ120本で織り上げることで、
 すきまを多く、風通しがよくなるように仕上げています。

  そのため汗をよく吸い、早く乾く性質を持っています。
 強撚糸を緯糸に使用し、伸び縮みする事により
 汗をかいても肌に張り付かず、べとつかない。

    だから涼しい。

  高島ちぢみの特徴です。

高島晒協業組合 http://www8.ocn.ne.jp/~sarashi/index.html

 

 その高島ちぢみのパンツを買って帰った夜、ビジネス・ホテルの部屋のテレビで滋賀出身の染織家・志村ふくみさんの番組についつい見入ってしまったのも何かの偶然か。ん、このおばあちゃんの名前、覚えがあるぞ・・ と思ったら、むかし詩人の大岡信氏が引用していた文章に魅かれてこの人のエッセイを一冊、持っていたのだった。志村ふくみ「一色一生」求龍堂(1982) ホテルの部屋で見たテレビでは新生歌舞伎座のこけら落としだったと思うが、松本幸四郎の勧進帳もなかなか面白かったな。これも最後まで見てしまった。ふだん、テレビはほとんど見ないので、こういうときはずっと見ている。他にも脳梗塞や脳溢血が人類の進化の過程で宿命づけられたものだという番組とか。

人はよく美しい言葉、正しい言葉について語る。しかし、私たちが用いる言葉のどれをとってみても、単独にそれだけで美しいと決まっている言葉、正しいと決まっている言葉はない。ある人があるとき発した言葉がどんなに美しかったとしても、別の人がそれを用いたとき同じように美しいとは限らない。それは、言葉というものの本質が、口先だけのもの、語彙だけのものだはなくて、それを発している人間全体の世界をいやおうなしに背負ってしまうところにあるからである。人間全体が、ささやかな言葉の一つ一つに反映してしまうからである。

京都の嵯峨に住む染織家志村ふくみさんの仕事場で話していたおり、志村さんがなんとも美しい桜色に染まった糸で織った着物を見せてくれた。そのピンクは淡いようでいて、しかも燃えるような強さを内に秘め、はなやかで、しかも深く落ち着いている色だった。その美しさは目と心を吸い込むように感じられた。

「この色は何から取り出したんですか」
「桜からです」

と志村さんは答えた。素人の気安さで、私はすぐに桜の花びらを煮詰めて色を取り出したものだろうと思った。実際はこれは桜の皮から取り出した色なのだった。あの黒っぽいごつごつした桜の皮からこの美しいピンクの色が取れるのだという。志村さんは続いてこう教えてくれた。この桜色は一年中どの季節でもとれるわけではない。桜の花が咲く直前のころ、山の桜の皮をもらってきて染めると、こんな上気したような、えもいわれぬ色が取り出せるのだ、と。

私はその話を聞いて、体が一瞬ゆらぐような不思議な感じにおそわれた。春先、間もなく花となって咲き出でようとしている桜の木が、花びらだけでなく、木全体で懸命になって最上のピンクの色になろうとしている姿が、私の脳裡にゆらめいたからである。花びらのピンクは幹のピンクであり、樹皮のピンクであり、樹液のピンクであった。桜は全身で春のピンクに色づいていて、花びらはいわばそれらのピンクが、ほんの先端だけ姿を出したものにすぎなかった。

考えてみればこれはまさにそのとおりで、木全体の一刻も休むことのない活動の精髄が、春という時節に桜の花びらという一つの現象になるにすぎないのだった。しかしわれわれの限られた視野の中では、桜の花びらに現れ出たピンクしか見えない。たまたま志村さんのような人がそれを樹木全身の色として見せてくれると、はっと驚く。

このように見てくれば、これは言葉の世界での出来事と同じことではないかという気がする。言葉の一語一語は桜の花びら一枚一枚だといっていい。一見したところぜんぜん別の色をしているが、しかし、本当は全身でその花びらの色を生み出している大きな幹、それを、その一語一語の花びらが背後に背負っているのである。そういうことを念頭におきながら、言葉というものを考える必要があるのではなかろうか。そういう態度をもって言葉の中で生きていこうとするとき、一語一語のささやかな言葉の、ささやかさそのものの大きな意味が実感されてくるのではなかろうか。美しい言葉、正しい言葉というものも、そのときはじめて私たちの身近なものになるだろう。

大岡信「言葉の力」

NHK プロフェッショナル・仕事の流儀「いのちの色で、糸を染める 染織家 志村ふくみ」 http://www.nhk.or.jp/professional/2013/0527/

しむらのいろ―志村ふくみ、志村洋子公式ホームページ http://www.shimuranoiro.com/index.html

 

 そうそう、仕事中にトンビと共に頭上を二機編隊で飛び回っているヘリコプターの影があった。これは高島市内の赤坂山でハイキング中に行方不明になっていた小学生(男女2名)の捜索隊で、二人はわたしが帰宅した日に無事見つかった。山中で一晩を過ごし、自力で下山・救出されたのだった。そんな事件も不思議と重なった4泊5日であった。

 

 ところで父が出張中の日曜。子は部活の同級生と3人で某ショッピングセンターで合流してプリクラを撮りにいった。子どもだけでショッピングセンターへ行くのがはじめてなら、プリクラを撮るのもはじめて。初体験の結果は、琵琶湖に届いたYのメールがよく物語っている。いろんな意味でよい経験だったようだ。

もちろん楽しかったのですが、お金を使いすぎたことを気にしてしょげています。
どうやらゲームを派手にやったようです。
「あんなに使うと思わなかった。もう行かん・・・」と。
私は何にも言ってないのですが、3千円と小銭を持っていったのですが、「お札が全部なくなった・・」
と言って涙ぽろぽろ。
○○ちゃんが途中でお金がなくなって紫乃が700円ほど貸したそうです。
△△ちゃんが「○○ちゃんはお金の使い方があらいから」と言っていたそうです。
△△ちゃんも使いすぎたことを後悔してたようです。
紫乃はみんなで盛り上がるなか、お金が減っていくのをはらはらしていたんだと思います。

「もう行かん」というので「ゲームに使うお金はいくらまでと決めていけば」と言ったのですが、
「でも、あんなところへ行ったら使うやん・・」と言ってます。

うちはゲームセンターに行ったときには一つか二つを選んでしてたから、紫乃はびっくりしたのでしょう。
○○ちゃんに貸した700円については「○○ちゃんも夢中になってるときだったから、気にしてないかもしれないね。返ってこないかも。でも、返すと言われたらお金の事だから返してもらおうね」と話しました。

まあ、勉強になったんじゃないかな。
いい経験だと思います。
お金の事は紫乃が充分後悔してるから、楽しかった話だけを聞いてやりましょう。


これからJIPの散歩にいきます。

2013.5.30

 

*

 

 ジップと自転車で行く秋篠川沿いの夜のサイクリングは定番となっている。このごろは足を伸ばして薬師寺の南門前まで赴き、ライトアップされた西の五重塔を間近に見上げてから(東の塔は覆い屋がかかって現在修復中らしい)近鉄の線路を渡り、七条のひっそりとした集落の路地をぬけ、薬師寺の参拝者用の駐車場附近に自転車を停め、自転車からリードを外して周囲の田圃や薬師寺の参道などをジップとうろうろとする。田圃の畦、蝦蟇や虫の声、五重塔の影。この歴史を遡行するような、鄙びた、しずかな夜の時間がいい。

 もうひとつ得難い時間は風呂上り、寝る前に庭に出てビールを飲みながら過す時間。ホンの猫の額ほどのささやかな庭だが、このごろは散歩をしていても土の庭のある家がいかに稀少か。とくに最近のあたらしい家は家族の車を2台も3台も並べるために、建物以外はコンクリートで固めてしまうのだ。小さくても土の地面がある家は安らぐ。年寄りが多いせいか、このあたりは夜になるとひっそりと物音もしない。簡素な塀にかこまれた畑との間の暗い路地を、ときおり会社帰りのサラリーマンが無言で通り過ぎるくらいで、まるで隠れた森のような空間に思える。ジューンベリーの樹の下に置いた椅子に石仏のように座して、ビールを片手に、じぶんが庭の石ころのひとつのような心地で空間に浸っている。

 琵琶湖のほとりで iPodに入れた森鴎外の「大塩平八郎」を読んだことは前に書いた。そのあと同じ青空文庫で見つけた菊池寛の「大阪夏の陣」と「真田幸村」を読んで、じつに日本人らしい判官贔屓というか、わたしはこの戦国武将に惚れてしまい、むかしテレビで見ていた「真田太平記」をユーチューブで漁り、それから先日、Yに図書館で池波正太郎の原作(全13巻)を借りてきてもらって、いま愉しんでいる。葬儀屋の花屋をやっていたときにわたしも何度か仕事で行ったことがあったが、ここからそう遠くもない高野山の麓の九度山に蟄居していた真田幸村は、その地で平凡な生を全うするよりも、みずからに高揚した死に場所を与えることを選んだ。40年でも80年でも過ぎてしまえば光陰矢の如しであれば、いわば最後に残るのは一瞬でもどこまで己を燃焼し切れるかということか。そればかりではないが。

2013.6.10

 

*

 

 秋篠川沿いの夜の自転車散歩に子が加わった。といっても規定の勉強が終わってお母さんのお許しが出たらば、だけどもね。手術前から久しく自転車に乗っていなかった子は、体が覚えていたのか、意外とすんなりと走り出した。走り出しや、段差や、急なターンなど、危なっかしいところは多々あるけれど、夜の自転車道を愉しげに走って、ときに笑いながらジップと並走して、薬師寺前の暗い参道に自転車を寄せて、ほら、みてごらん、と背後を指せば、間近にライトアップされた眩いばかりの五重塔をほうと見あげて、そのまま見飽きない。こういうところは、いいなあと思う。そんなものに目も呉れず至って無関心な子であったら、やっぱり幾許かさびしいだろう。そうして稲荷神社や八幡神社の立ち並ぶ人気のない石畳の参道を二人と一匹でそろそろとぬけていく夜10時近く。土曜日は寮さんのお誘いで、奈良町のその名もフランツ・カフカなる古い町屋を改装した喫茶で催された朗読劇へ子を連れて行った。テレビやコンサートホールだけでない、いろんな場所やいろんなやり方でいろんな表現の可能性があるのだということを子に経験して欲しかったから。演目はスサノオのヤマタノオロチ退治の神話と、「雨月物語」の邪蛇の淫の変奏版。寮さんを含めた朗読者も素晴らしかったけれど、わたしはその後ろで両足で太鼓を叩き、リコーダーと横笛を口と鼻の両方で奏していたローランド・カークさながらの辻芸人のような奏者に魅かれた。あんな音楽を奏でてみたい。ところで今日の通勤音楽はなぜかポール・ウェラーがかつて率いたスタイル・カウンシルのベスト盤。白でいてこの流れるような黒っぽさがいまの季節とわたしの心持ちにぴったりハマる。洗練されているようでいて、歌詞はやっぱり、しっかりと主張しているのだよ。i POD の中身を先日いったんきれいに消して、いまはこのスタ・カンと、モリスン全曲のみを入れて持ち歩いている。ポケットに手投げ弾を忍ばせて、頂上にいる奴らに叫んでやろうぜ。


2013.6.22 朗読会 勾玉天龍座「猫と蛇」(にゃらまちねこ祭り参加企画)
http://ryomichico.net/bbs/planets0024.html#planets20130602222029

2013.6.25

 

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 日曜の夜。なにか映画でも見る? (新聞の番組欄をひらいていたYが)この在日外国人の里帰りの番組なんか面白くない? 映画じゃなくてテレビかい。 (Yといっしょに番組欄を覗いていた子が)日曜美術館、下半身を描かれなかった馬がいい。いいねえ、それにしよう。

 三人でチェダーチーズ味のポテトチップとそれぞれ思い思いの飲み物を抱えて二階の「テレビの部屋」へぞろぞろと移動する。馬の絵のアップが映るたびに子は感嘆の声をあげた。北の大地に農耕馬と苦楽を共にしたピカソのような画家がいた。

NHK日曜美術館「“半身の馬” 大地の画家・神田日勝」 http://www.nhk.or.jp/nichibi/weekly/2013/0623/index.html

神田日勝記念美術館 http://kandanissho.com/

 

2013.6.30

 

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 学校の昼休み。だれかが教室の黒板のすみに十字架に磔にされた人物の絵を描いて矢印をひっぱり「キリストさん」と落書をした。それを見つけた子が、そこへ書き加えたらしい。

 十字架につけられ死に、葬られ、三日目に復活し、天にのぼって、全能の神である父の右の座に着き、生者と死者を裁くために来られます。

(使徒信条)

 昼休みが終わって、国語の授業がはじまったとき、絵を描いただれかも、子も、黒板の落書のことをすっかり忘れていた。やってきた国語の教師がそれを見つけて、おや、これは誰がかいたのかな? と言いながら、「まとまりのある文章」の見本にその“落書”の文章を使って授業をしていった。

 それからまた何時限か、その片隅の落書は忘れられ続け、今日の最後の授業は英語。初老の、いつも子の面倒をよく見てくれる女性のM先生が、これは誰が書いたの? と質した。絵を描いたのはわたしだけど、わたしは絵だけ、とKちゃんが名乗りをあげた。すると教室中の全員の目が一斉に子に注がれ、誰かが「あんなこと書けるのは、○○さんしかいいひん」と言った。M先生は子ににっこりと微笑んで、「“陰府(よみ)にくだって”が抜けてたわね」とおっしゃった。

2013.7.1

 

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 城下町を南北に開通させた真新しい藺町筋からJRと近鉄の駅を結ぶ路地へと入る。古びた水路に囲まれたこれまた朽ちかけたような寺がある。むかし、葬儀の花屋で働いていたときこの寺で仕事をした。せまい水路の曲がり角に軽トラが落ちやしないかとひやひやしたものだ。山門を入ると、ぎっしりとした墓石で埋め尽くされたような狭い寺だった。そこからJRの踏切を抜けて以前に住んでいた県営住宅の方へ続く田圃の中の道を走り、国土交通省の車止めのゲートのわきをすりぬけて舗装された堤の上のまっくらな道に乗る。佐保川と佐保川から分岐して帯解の方へ向かう地蔵院川に挟まれた中州のような土手。左の川向こうには田圃が広がり、土手沿いにむかし子が土饅頭の絵を描いた(このHPのTOPの画像)墓地の竹やぶが見える。左の川向こうには稗田の新興住宅地の端がベニスの町のように川面の光を湛えている。わたしはひそかにこのあたりを「柳川」と呼ぶ。むかし愛した大林の映画の、あの青白い水のくぐもった響きが聴こえてくるようだから。しばらくそのほとんど街灯もない暗闇の堤上を走り抜けると、やがて平城京の都の南端にそびえていた羅城門の礎石が川底から見つかった場所へ至る。橋を佐保川の対岸へ渡って、土手下の墓地の方へと降りていく。割烹着を着た小太りのおばちゃんの集団が墓地の方へ歩いていくのを薄気味悪く思いながら、畝道を抜けてJRの小さな踏切を渡る。城下町の東端に位置する鍛冶町。田圃と集落の境にわたしが「猫屋敷」と呼んでいる土壁が崩れかけたさびれた武家屋敷のような佇まいの一角がある。植物に埋もれかけたような家にお婆さんが住んでいて、猫がやたら集っている。その狭い路地を抜けたら暗がりに灯りがぼうっと灯っている住吉大社裏手だ。むかししの壕の風情を残すという草だらけの外堀におっかぶさるように建っている町工場がまだ灯りを点けて何かの機械をがたがたと動かしている。ここは「つげの町工場」。入口の表札を見れば靴下工場である。そうしておよそ30分ほどのジップとのサイクリングを終えて、わが家に戻ってくる。

2013.7.2

 

*

 

 夜のジップ・サイクリング。この頃は薬師寺方面の整備された自転車道よりも、以南の国土交通省の車止めのゲートで閉鎖された真っ暗でワイルドな土手沿いの道を開拓中。今日は東奈良口町の古い街道筋を抜けて九条公園を経由、そこから踏み切りを超えて、佐保川と秋篠川の分岐点より堤を南下してみた。土手より一段低い左手は西九条の工場群が立地する。右手の佐保川はじっさいの川筋は狭いものの堤の幅は両岸に広く、その分空が大きい。やや離れた向こう側に郡山の城下町の明りがまばたいているが、それ以外はまるで田舎の夜の風景だ。「東京は人が多すぎる」と生まれ育った地にはじめて息苦しさを感じたのは20代の後半頃であったか。そうしてもろもろの「挫折」を経てたどり着いた奈良は、わたしにはぴったりの土地だったと思う。まだまだたくさんの「田舎」が残っているところがよい。わたしがかつて桃源郷のようだと思い憧れたのは、日当たりの良い山のてっぺんで暮らしていた同僚だったY君の本宮のおばあちゃんの家であるが、いまはとりあえずは此処でよい。東京で生まれ育ったわたしがなぜ草いきれや深い山の闇に心が共鳴するのだろう。もとよりわたしの父方の本家は東北の地にあり、母方の両親は熊野の山深い隠れ里のような村の出身なのだ。曾祖父は筏師の頭領で、修験の山伏が土着した山村とも聞く。そうした根っこを、いまもわたしは信じている。わたしはやっぱり、海よりも、山だ。それも修験やかったいや六部や山窩などの得体の知れない有象無象のものどもが蠢き駆けぬけ跋扈するような山。怖れが畏れでもあり、聖と俗が混在するような山がよい。羅城門の礎石が川底から見つかったあたりで土手を降りる。ふりむけば、遠く直線上にライトアップされた大極殿が小さく見える。墓場の脇に車を停めて花火に興じている家族がいる。風に乗ってどこからか牛糞の匂いがする。湿度をもった空気がほんわかと熱をまとって膨らむ。その中をジップは舌を垂らして疾走する。

 昼間、本屋の店頭で見つけた新書を二冊、買った。

 「日本民族へ、お悔やみを申し上げる」と帯に書かれた83歳の野坂昭如「終末の思想」(NHK出版新書)

 http://www.nhk-book.co.jp/ns/detail/201303_1.html

 

塩見鮮一郎「中世の貧民 説教師と廻国芸人」(文春新書)

http://blog.livedoor.jp/shinshi8848/archives/3676265.html

2013.7.5

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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