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 庭の仮小屋の、タープに隠れた庇部分に営巣していた(おそらく)アシナガバチが、わが家の生垣あたりをよくうろついているよその蜂たちに襲われているのを数日前にYが見た。ばりばりと喰らう音までが聞こえた、という。ちょうど夏の終わりの頃、隣家との境のフェンスを設置している作業の過程でひょいと見つけたのだが、悪さをするわけでもなさそうだし、せっかくつくった巣でもあるだろうから冬までは放っておこうと思っていた。Yの話を聞いてどれ、と子と二人で覗きにいくと、いつも賑わっていた巣は閑散としてもぬけの殻であった。「お父さん、蜂の足みたいなものがいくつか落ちてるよ」と子が叫んだ。生垣を今日もうろついている蜂をしばらく観察してからWebで調べてみれば、どうもスズメバチに酷似している。スズメバチは幼虫の餌として捕獲する昆虫が少なくなる秋期に集団で他の種類の蜂の巣を襲い、そのさなぎを引き抜いて喰らうという。昨夜はYが借りてきた映画「硫黄島からの手紙」のリアルな戦闘シーンで「なんで戦争なんかするのよ!」と子が叫び続けていたが、こんな小さな庭の片隅でも、生と死を賭したジェノサイドがひっそりと行われていたのだった。かたわらの木片をとった手を泳がせた。あるじのいなくなった巣が地面の上、しゃがんでいた子の手元にぽとりと落ちた。

 休日の今日は昼ごろに、子の部屋の本棚の整理をした。小学生向けの本を図書館のリサイクルに回し、中高生向けの本を若干増やした。わたしの部屋の書棚の「子のコーナー」にも、わたしがこれまで愛読してきた国内外の詩集を並べた。それから午後には参家族三人で「若草物語」の映画を見た。1949年の作品。わたしは途中で眠ってしまった。夜は「硫黄島からの手紙」の続きというわけでもないが、子にユーチューブでアップされている、多くはNHKの番組らしい沖縄戦や硫黄島戦などのドキュメンタリーをかなりの時間、見せた。風呂の中で硫黄島守備隊の生き残りの兵士が語った、「(戦友たちの)死が無意味だったとは言いたくない。けれど、では何の意味があったのかと考えることはとても難しい」の台詞について、子と語り合った。

 子の手術は、今回は見送られることになった。整形も目立った予兆はなく、泌尿器の検査結果にあっては、むしろ前よりも良くなっているとのことで、リスクを追ってまで無理に手術する理由が見当たらないとの、Y先生と代替わりしたN先生の見解を受け入れることとした。今後は毎年のMRIの検査で様子を見ることとなった。

 2TBの内蔵ハードディスクを増設した。HDDはWebで5500円。内蔵HDDの増設は初体験だが、近所の「パソコン工房」でATA端子とインチネジを購入して、こんなサイトこんなサイトを参考に見よう見まねで、案外スムースにフォーマットまで完了した。これで動画と音楽ファイルはいくらでも収納できる。

 朝日小学生新聞の一面記事――――「ニューヨークの若者たちによる反格差デモ」について、子にエンデさんの「ある人が西暦元年に1マルクを預金したとして」の話をした。

ある人が西暦元年に1マルク預金したとして、それを年5%の福利で計算すると、その人は現在、太陽と同じ大きさの金塊を四個分所有することになります。別の人が西暦元年から毎日8時間働き続けてきたとします。彼の財産はどの位になるのでしょうか。わずか1.5Mの金の延べ棒一本に過ぎないのです。

2011.10.15

 

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 上原善広の「日本の路地を旅する」と「被差別の食卓」を併読して、どちらももうじき読了しようとしている。いまは亡き中上健次に倣ってかれは<そこ>を「路地」と呼ぶ。「路地」と呼ばれることによって、なにやら地下伏流の間欠泉めいた新たな広がりを帯びた響きのように聞こえてくる気がするのが不思議だ。前者では北海道や東北にまで「路地」やその痕跡を訪ね歩き、後者ではアメリカ、ブラジル、イラク、ネパールといった他国の「路地」に、西日本の「さいぼし」や「あぶらかす」「こうごり」などに連なる被差別の人々独自の料理を求め、食べ歩く。かれはそれを「被差別民たちの“抵抗的余り物料理”」と呼び、つまりは「ソウルフード」だと断じる。諸君はいまやこの国のどこででも食べられ、日曜となれば巨大なショッピングセンターのフードコートで明るい書割のような家族たちが頬張っているあのフライドチキンが、じつは「白人農場主の捨てた鶏の手羽先や足の先っぽ、首なんかをディープフライにした」黒人奴隷たちの“抵抗的余り物料理”であったことを知っているか。というわけで、わたしはかれの本を読み終えかけて、俄然、いまだ食す機会のなかった「さいぼし」や「あぶらかす」を食べたくて堪らなくなった。webで見つけたリンクをふたつほど、紹介する。

堺の「おでんそば」と浪速区の「かす丼」の店 http://www.odengaku.net/blog/archives/2009/11/post_113.html

芦原橋駅の高架下にある「料理処 岳(たけ)」 http://www.jinken.ne.jp/flat_now/buraku/2001/02/04/1015.html

油かす・あぶらかす・さいぼし専門店の安井商店 http://www.gourmet-king.com/

2011.10.21

 

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 興奮した多くの人の手に小突かれながら「いったい何が起こっているんだ?」と血だらけの顔をぬぐう哀れな初老の男がいる。次の動画では男は動かぬ死体となってからっぽの肉保冷室の床に転がり、多くの人の視線に無残にさらされている。そういうものが、自室のパソコンの前に座ってリアルタイムで見れて、しかも何度でも好きなだけ再生できる。言葉はもうそれに追いつかないだろう。映像は脳のシナプスにダイレクトに電気ショックのように伝わり、そして「完結」してしまうだろう。あるいはもっと強い刺激が欲しくなるだろう。言葉なしで。詩もなしで。哀れな男の死は、もはやたった一行の詩にさえもならない。玉乗りをする飼い猫や女子アナのパンチラ動画の間に埋もれて、やがて泡のように消えていくのだろう。

 そんな世界に、わたしは生きていて、一片の詩に乾いている。

2011.10.24

 

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 上原善広「日本の路地を旅する」で読んだ、京都から琉球に流れてきた念仏踊りの芸能者(被差別民)たちが現在の沖縄の伝統芸能エイサーにおける道化役=京太郎(チョンダラー)のルーツであるというくだりに惹かれて、 池宮正治「沖縄の遊行芸 チョンダラーとニンブチャー」(1990年ひるぎ社)を、ネット古書で三千円のやや高価本であったけれど購入してみた。堅固な城壁の隙間を這い伝い、したたかに哀しく、溢れ出るかのごとき「芸能」の滴りにこころ誘われる。

チョンダラーに歴史あり!:沖縄三線天国 http://uchina.ti-da.net/e1952099.html

 

 日本ですでに入手不可の、リアム・クランシーの素晴らしい Live At The Olympia Theatre Dublin 1992 のDVDが欲しくて、ユーチューブから切れ切れの映像を拾い集めて27曲を揃えた。

・リアム・クランシーは深みのある歌手だった。俳優としても凄かったし、言動も凄かった。「ボブ、卑劣になっちゃいけない」と言われて、なるほどなと思った。

・クランシー・ブラザーズは三銃士のようだった。

No Direction Home: Bob Dylan

 

 いまはラウンジ・リザーズの面妖でチャーミングな Queen of All Ears を聴いている、今夜。

2011.10.27

 

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 一時間の難作業の末に親知らずを抜いた翌日、早朝6時半。西成区花園町の路地裏のコイン・パーキングに停めた車から降りた。大阪マラソンの一日。西成の住民たちは規制だとか警察とかが大嫌いなようだ。「「何で道路を渡れないんだ? 銭湯に行けないじゃないか」 「あっちの歩道橋を渡れって? おれは膝が悪いから無理だ」 「(走っている)あいつらは何のイミがあるんだ?」 さまざまな西成住民のみなさんのご意見を伺い、なだめるのが今日の仕事。ときに大声をあげて絡んでくる輩はいるが、しかし大概のひとたちは子どもがそのまま大人になったような気のいい(そしてちょっと臭い)おじさんたちだ。いくつかの質問を厭わずにきちんと答えてあげれば、大抵にっこり笑い「ありがとう!」と礼を言って立ち去っていく。基本的にわたしはかれらが好きだ。12万円の生活保護をもらい朝から一杯ひっかけているみずからの暮らしを立哨しているうちの隊員に自慢している彼らが。スーパー玉出で買った4貫124円の寿司パックを路上に立ちながらひろげ、缶チュウハイで流し込んでいるかれらが。たぶんわたしのこれまでの生涯で最大に、西成の人々と会話が出来た愉しい一日だった。菓子パンの昼食だけではお腹がすいたので仕事が終わってからわたしもスーパー玉出で2本百円の納豆巻きを買い、帰りの車中で食べた。

 

 先の選挙の時にアルバイトをした市役所からの紹介でYが市内の公民館で働き始めた。すると忙しくなったので食器洗い機が必要不可欠だと言う。というわけで昨日、子と二人で行った近所のショッピングセンター内の家電屋で食器洗い機を頼み、子が待っていた本屋でちくま文庫を三冊、衝動買い。柳澤桂子「いのちと放射能」「われわれはなぜ死ぬのか」、安田登「異界を旅する能」。その後、フードコートで子はたこ焼き440円、わたし釜揚げうどん380円。

 ジェイコブ・ディランの「Women & Country 」が、よい。

2011.10.30

 

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 上原善広の、アウトローに寄り添おうとする体温に近しいものを感じるこのごろ「異形の日本人」(新潮新書)に登場する「血だるま剣法」の著者・平田弘史、無頼派アスリート・溝口和洋、「花電車」ストリッパーのヨーコ初代桂春團冶。ストリッパー・ヨーコはいちど見てみたかったな。

上原善広 blog http://u-yosihiro.at.webry.info/

 

 花輪和一の獄中記漫画「刑務所の中」(青林工芸舎)を amazon 古書にて購入。読みかけを書斎のテーブルに置いていたら、先に子が読んでしまった。最近、学校にタイからの転校生(日本人)が来て、一週間でまた別の学校へ転校してしまうと訊いた子は、「もしかしたら“ポーの一族”じゃないか」と疑ったとか。

2011.11.2

 

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 これまでおいしく頂いてきたすずき産地さんのお米を、今後も注文するか、考え続けているのだが答えが定まらない。ただ、この話をしたときにYがぽつりと言った「この子はすでに病気をひとつ持っているから、これ以上、それを増やさせるわけにはいかない」といった言葉が、耳たぶの裏のほうに貼りついている。

 

【質問】被災地域の方々には申し訳ないのですが、多少なりとも汚染されたものを食べることにはやはり抵抗があります。特に子どもへの影響が心配です。


○被災地を支えたい、でも安全なものを食べたい
 もっともな、ご意見だと思います。チェルノブイリ原発事故では、子どもの甲状腺がんが急増しましたが、これはヨウ素131を含む牛乳などを飲んだためです。ヨウ素131は、子どもの甲状腺に溜まりやすい性質を持っているのです。こうした過去の例からも、お母さん方が牛乳やミルクを溶かす水、そして野菜などの汚染に神経質になるのは、当然のことでしょう。
 福島第一原発事故以来、福島県で生産された野菜などが、基準値を下回っているのに、風評被害でさっぱり売れなくなったという話を開きますが、これもある意味で仕方のないことなのかもしれません。私だって、放射能に汚染されたものを食べたくありません。
 でも、そうかといって、被災した地域でとれる野菜や魚をすべて排除すれば、福島とその周辺の農業、漁業は崩壊することになります。となると、これは本当に仕方のないことなのか、それとも何とかしなければならないことなのか、真剣に考えなければなりません。しかも、基準値よりも下であれば、たとえ同レベルの汚染であっても、他の産地のものは
野放しにされる。口にすれば、内部被曝することに変わりはないにもかかわらずです。
 そこで、一部の地域で採取したものから高い放射線量が検出されたからといって、「福島産のホウレンソウは、基準値より高いから出荷停止」などという、おおまかな規制はやめ、個々の作物、食品の汚染度を明記することを私は提案します。
 お茶の産地である静岡県の知事も、政府の基準値規制に対して、「一地方、一県単位というのは納得がいかない。製茶工場単位に放射線量を測定する」と言っていましたが、きめ細かに汚染を調べることも必要でしょう。このようにすれば、それまで知ることのでなかった基準値よりも下の食品の汚染度まで分かるようになるので、消費者にとっても受け入れやすく、自分で判断できる基準になります。
 ただし、そうするためには条件があります。


○食品にも「R指定」を!
 60歳以上の方は、放射性物質への感受性が弱い(被曝に強い)ので、汚染度の高いものでも食べる。しかし感受性が強い(被曝に弱い)子どもたちには、極力汚染度の低いものを与えるといった仕組みが必要です。基準値は一
つの目安にすぎず、同じ基準をすべての世代にあてはめるのは合理的ではありません。
 子どもたちを守るためには、私を含めた大人たちが責任を果たすべきで、生鮮食料品売場に「60歳以上可」といったコーナーを作るべきだと私は思います。逆に、「60歳未満は食べることを禁止」ステッカーを掲げるのもいいでしょう。いわゆる「R−60」 コーナーの設置です。誰でも放射能に汚染されたものを食べたくはありませんが、私たち大人は、汚染とちゃんと真正面から向き合う覚悟が必要です。
 私は、福島県の農業や漁業を守ることも大切であると思います。福島県は、「果樹王国」ともいわれていますが、サクランボ狩りの予約が去年より98パーセントも減ったそうです。どのように汚染された食品と向き合っていくのか、私たち一人ひとりの問題として考えなければいけない時がきていると思います。
 もちろん、放射線感受性の高い子どもは汚染された食品を避けるべきですし、妊娠している人や妊娠する可能性のある人もまた、できるだけ汚染食品を避けなければいけません。
 しかし、日本中に汚染が広がっている現実を前に、どのように福島県をはじめ、原発事故の影響を受けている地方の農業や漁業、いえ、日本の食を守っていくのか、私たちは知恵を絞って考えなければいけないと思います。


○辛い思いをしているのは、人間だけではない
 報道によれば、避難地城には酪農家が多いようです。避難するために牛を手放さなければならない酪農家が、「わが子みたいなもんだから、別れるのは辛いよ」と涙を浮かべていました。
 被曝したため、乳牛には向かないということで殺処分にして食肉用にするケースもあるようですが、食肉にしてもそれを食べれば、内部被曝することになります。
 今後は、このような問題がたくさん出てくると思われますが、牛乳にしても食肉にしても、野菜類などと同様、先に提案したように、汚染度を個体ごとに明記し、それを食べるか食べないかは、個々の消費者の判断に任せればいいと私は思います。
 飼い主に取り残されて餓死したり、ガリガリにやせ細った牛の姿が報道されたりしていましたが、こんな悲惨な光景は二度と見たくないと息いました。本当に人間という生き物は、ひどいことをしていると思います。その反省に立てば、原発は即、全廃しなければならないはずです。

小出裕章「原発はいらない」(幻冬舎ルネッサンス新書)>原発に関する何でもQ&A



茨城県産米の放射性物質検査結果 http://www.pref.ibaraki.jp/20110311eq/index33.html

お米放射能基準値500ベクレルについて 小出裕章インタビュー http://monobox.ti-da.net/e3520283.html

米の放射能基準値の意味 http://blog.goo.ne.jp/konohanaya/e/f4122358632f9646b194ea5e7dfb15cd

 

2011.11.4

 

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 まるでインドのようだ、とひとしきり海岸部に近い集落跡をさながら首を失くしたデイダラボッチのごとく歩きまわったところで思った。どこにカメラを向けても「絵になる」のだ。さしずめバラナーシーのガートにひろがる火葬場のように。コンクリ製の橋の欄干がひしゃげ、千切れた腸(はらわた)のような芯材を昼の光に晒している。道が大きな水溜りの中へと消えている。二階建ての一階部分の柱だけが残った巨象のような廃屋が何もない大地にぽつねんと立ち尽くしている。テニスコートの緑のフェンスが港の漁師たちがつくろった網のようにぐるぐると畳まれている。90度に折れ曲がった橋桁の外灯の照明部分がまるで着陸に失敗した火星人の遺体のようにも見える。,無人の民家の窓を塞いだ色褪せたブルーシートが帷子のように風に揺れている。不毛の泥地と化した広大な田圃のあちこちに斃れた歩兵兵士たちのような無数の車の残骸が横たわり逆さになり散らばっている。表札を抱いた門だけを残した広大な屋敷地がある。泥まみれの「確率統計」の教科書が白く乾いている。社用車とそれを運転していた社員の情報を求める立札が田圃の畝道沿いに、まるで旅役者の宣伝告知のような風情でぽつりぽつりと現れる。せわしなく動き回っている幾台もの重機が積み上げた瓦礫の山が、新しいゲットーのシンボルのように限りなく青い空の下に聳え立っている。わたしはデジタル・カメラを持った片手をぶらりと下ろして、両目をつぶされた敗戦ボクサーのようにしばし立ち尽くした。そして、この無残な風景を、ただ呼吸しよう、とだけ念じた。かなたにひょろひょろとした数本の立ち木をかかえた円墳のような高台の上の神社があった。相変わらず、何もなくなった地面に短くはないコンクリの参道だけが灰色の絨毯のように伸びている。その神社のはたに墓地があった。無残だった。そちこちで墓石が倒壊し、石仏が目を剥いて逆さになっていた。粉々になってもはや原型をとどめない区画もある。驚いたのは骨壷を収納する墓石の下(カロート=納骨棺)がぽっかりと開いて、ブロックの地下壁で囲まれた妙に間の抜けた穴ぼこを晒していたことだ。そんな墓がいくつもあった。わたしは思わず、押し寄せる分厚い水の層が地上の墓石や石仏、卒塔婆などをなぎ倒し、地下に収められた骨壷までをも舐めるようにさらい、家や車やその他もろもろの侠雑物と併せて噛み砕きながら内陸へ内陸へと不気味にしずかに進んでいく様を思い描いた。骨壷までさらっていったか、と一人ごちた。突然、海を見たくなった。海を見に行こう、と何もない茶色のだだっ広いだけの空間の中を歩き出した。何もないのは残骸だけがきれいに片付けられたからだろう。その証左にときおり、家々の境界を示す塀の痕跡だけが残っている。途中、道のはたに、引き抜かれたコンクリートの電柱が数本横たわっていた。巨大な無数の庭石が縄文の岩座のように整然と集められ並んでいた。砂浜は瓦礫の撤去工事のために立ち入り禁止であった。木材やテトラポットの残骸などの分別された瓦礫の山の間を、巨大な重機と土木作業員たちがせわしなく動き回っていた。防潮林の松林はどの樹木も見事に一方向へ向かって倒れ、あるいは傾いでいた。海から、町へ、の方向だ。この場所を、巨人のような津波が通過したのだ。砂地を歩き回り、松林がまだ直立して残っている高台に登って、やっと青い水平線が、重機によって詰まれた黒い土嚢の列の上にわずかに見えた。ああ、海だ、と思わず口から言葉が漏れ出た。そうしてしばらく、その松の木の根元に立って水平線を眺めていた。海はまぶしいほどに青く、凪いでいた。その海水の膨らみが巨大なエネルギーとなってあまたの生命と生活を破壊し尽くしたのだが、わたしはなぜかそのとき、青い水平線を見てほっとしたのだった。(帰宅してからWebで調べたのだが、わたしが見た倒壊した墓地は名取市閖上にあった光明山観音寺の墓所で、立派な本堂は震災後に取り壊されたらしい。またわたしが歩き回っていた、小さな体育館ほどの砂地を松林が囲んでいる一帯には乗馬クラブがあり、人と同様に多くの馬たちが河川敷やあるいは仙台空港の滑走路などで遺体となって発見されたことを知った) その日は日が暮れるまで、ただ闇雲に歩き続けた。茶色の果てしない、がらんとした無明の空間を。片付けられた無明の空間の上に、無数の瓦礫や遺体を重ねながら歩き続けた。泥だらけの田地から水を排出している簡易ダクトがごとごとと動いていた。県による移動勧告の張り紙を貼られた耕運機が錆び付いて道端に漂着していた。のどかな用水路の向こうに落ちる夕日がきれいだった。しばらくこころ奪われて眺めた。空港へのアクセス鉄道の駅が近づくと、何もない茶色の空間に突然、真新しい住宅街が現れた。住人が生活していない真新しいハイツの棟、それからマシュマロやチョコレートケーキのような一戸建ての一群。まるで砂漠に出現したテーマパークのような、これまで見てきた風景とのリアリティの濃淡ともいえる落差に戸惑いを覚えた。美田園駅にたどり着いたのはすでに夜だった。駅前のやけにだだっ広い駐車場を抱えたパチンコ店の照明がいっそう侘しく見えた。その隣接する区画に蒲鉾板のような仮設住宅が建ち並んでいて、いくつかの部屋には灯りがともっていた。手製のウッドデッキをこしらえている世帯もあり、少しだけ心が和んだ。その夜はアクセス鉄道で仙台駅まで出て、駅の近くのビジネス・ホテルに投宿した。駅の混雑と都会の賑わいが、まるで別天地のようだった。翌日は新幹線で福島の郡山まで下り、磐越東線沿いを高速バスでいわきまで走り、常磐線でときおり見える海岸線の景色に目をこらしながら、数年ぶりの実家へ向かった。夜、ふと思いついて近所に住む知り合いの老牧師氏を訪ねた。炬燵をはさんで向き合い、ぼそぼそと話をした。80歳を優に超えた老牧師氏は自身の体力の衰えを言い、また近くに住む長男が最近アルツハイマーに罹ったことなどを伝えた。そして「イエスは老いを知らない。キリスト教は、若い人の宗教かも知れない」と言った。「このごろは仏教の教えに近しいものを感じている」とも。今回の震災と原発事故についてわたしは少々残酷な質問をした。「人生の最後に、このような景色をあとに残していくのはどんな気持ちですか?」 老牧師氏は目を閉じてしばらく考えていたが「地震と津波は天災だから仕方がない。けれど原発事故は深い絶望、ただただ深い絶望があるだけです」 それだけ言って目線を落として、もう何も言わなかった。

(2011年10月7日の夜、仙台市内のビジネスホテルで記した文章に加筆・訂正を加えた)

 

名取市閖上 復興支援のブログ http://blog.livedoor.jp/coolsportsphoto/

ニューヨークタイムス http://www.nytimes.com/interactive/2011/03/12/world/asia/20110312_japan.html#1

2011.11.13

 

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 石井光太「遺体―震災、津波の果てに―」(新潮社)を購入。

2011.11.15

 

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 引越しをしてちょうど一年目になる初夏の日曜日であったか、ななめ向かいの二軒長屋に住む、もう齢70〜80だろうかと思う一人暮らしのAさんが自転車に乗って帰ってきたところをYと出喰わした。駅前のコンビニで新聞を買ってきたのだ。訊けば文章を読むことが大好きなAさんが節約のため一週間にいちどだけ、日曜日の新聞を買ってきて読むのを愉しみにしている。それこそ、すみからすみまで何度も読み返すのだ、という。それを聞いてYはその晩、「(読み終わったわが家の新聞は)どうせ捨ててしまうのだから、Aさんにあげてもいいですか?」とわたしに訊ねた。わたしは「ときに紙面を切り抜くときもあるし、そこまでしたらかえってお互いに気を使うんじゃないかな・・・」と言葉を濁したのだが、しばらくして結局、彼女はAさんへ数日おきに新聞を届け始めた。そうして半年が過ぎた先日、Aさんが佃煮といっしょに封筒をもってきた。「手紙を書いたので、読んでください」と置いていった。手紙には千円札が6枚、同封してあった。

 

突然のお手紙 失礼をば お許し下さいませ。
いつも笑顔のすてきな○○さま
 
五月以来の朝日新聞を、感謝致して居ります。
心から御礼申し上げます。
御心くばりのやさしいご厚意に、日々感謝と感激で胸一ッパイです。
 
同封の金 六千円
私、勝手に。誠に勝手な小金をきめました。
(5月・6月・7月・8月・9月・10月・・・・6ヶ月)
 
日々活力と知識を戴かせてもらっています。
ありがとう御座います。
これからもよろしく願い上げます。
 
◎ぜひ ぜひ 御受納 願い上げます。
 
平成23年11月11日

●● 拝

 

 「まあ、どうしましょ。こんなの受け取れないわ」とYが言うので、「封筒に入れて“植木指南代”とでも書きなおしてまた持っていけば?」とソファーに寝転がって新聞を読んでいたわたしが軽口で答えた。しばらくして「おとうさん! おかあさん、ほんとに“植木指南代”って書いて、持っていったよ」と子が報告して、またぞろ玄関へ走っていった。玄関ではYとAさんのなにやら果てしない押し問答が続いている。やがてまた子がもどってきて、「二人の終わらない会話を聞いてるとホンマ、笑えてくるわ」とお腹を抱えてその場に崩れ落ちた。押し問答は一時間近くも続き、結局、Yの粘り勝ちで終わった。

2011.11.16

 

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 子は最近、妙なお風呂の入り方をしている。裸になってシャワーを浴びて身体を洗い、それから空っぽの浴槽にもぐりこみ、蓋の隙間からのび出た手がシステム・バスのスイッチを入れてから、ぱたんと蓋を閉めていく。真っ暗闇の浴槽に横たわって、徐々にお湯に浸されていく、その感じが癖になるらしい。

 先日、子が入っているのを知らずに風呂場に入り、浴槽の蓋を開けてぎくっとした。最近、のっぴきならぬ心持ちで読み継いでいる石井光太「遺体 ―震災、津波の果てに―」の影響か、半分ほどたまったお湯の中で白い身体を曲げてたゆとうている子が一瞬、リアルな水死体に見えたからだ。

 

 今日は休日。一日、雨。

 昼過ぎに勉強が一段落した子を書斎に誘って、ユーチューブで誰かがアップしてくれた昔のNHK番組「学校に行きたい〜中国 黄土高原少女の願い〜」(BSプライムタイム 2003年11月5日放送)を二人で見た。お父さんはこっそり、思わず泣きそうになった顔を隠したのだよ。 http://www.youtube.com/watch?v=7vlm1qjsG3E&feature=related

 昨年、放映されたNHKの「アジアに生きる子どもたち」というシリ ーズの中で「学校に行きたい〜中国 黄土高原 少女の願い」を見ました。  黄土高原は、中国西北部。やせた土地、起伏の激しい地形、冬はマイ ナス20℃、ここは中国で最も貧しい地区のひとつだそうです。  その中央部にある柳林鎮廟河小学校の6年生の中で、一番成績の良い 丁寧(ていすい)ちゃん(12歳)が、卒業を間近に控え一週間学校を休 んでいるというところから話が始まります。  心配した校長先生が、2時間歩いて(電話も車も車道もない)石頭溝 村にある丁寧の家に様子を見に行きます。  丁寧は元気に家事の手伝いをしていました。  休んでいる理由は、家が貧しく、小学校を卒業しても中学校に行ける お金がないからです。年老いた父母がトウモロコシやリンゴなどを育て て得る収入は、年500元(=約7,000円)程度。  中国の義務教育は、日本と同じ小6・中3の9年間ですが、中学に入 るためには、入学金300元と、寮(中学校は数十キロ離れところにあ ります)に年700元のお金が必要なのです。  校長先生の励ましで、丁寧は再び小学校に通い始めます。でもお昼は 水だけ。中国は給食がないので、他の子は学校の近くの店で食事をとり ますが、そのお金もないからです。心配した友だちがお菓子を丁寧に渡 そうとしても、彼女は逃げるようにして断ります。  中国では、成績の良い子は「重点中学校」に入学できます。丁寧もそ の学校を希望しています。そして、その重点中学の入学試験の日。  丁寧は、作文の問題で、前の晩に夢でみた、自分の村に学校をつくっ て先生になる話を書きました。これが本当の彼女の将来の夢なのです。  間もなく、重点中学校の合格通知を持った小学校の校長先生が丁寧の 家に来ました。でも、お父さんもお母さんの顔は曇りぎみ・・・頼みの リンゴも干ばつで不作。知り合いに借金をしに回りますが、他の家も大 変で断られました。最後の頼み、結婚して独立した同じ村の兄と姉(二 人とも実は中学には行けませんでした)を交えて家族会議を開きます。  しかし、兄も姉も「自分には知識もお金もない。借金もしている。何 もしてやれない」とうつむくだけでした。  丁寧「皆の言うことわかりました。これ以上、両親を苦しめたくない。 でも中学はあきらめない。がんばる・・・」  リンゴがたくさん実ったら、中学に行けるかもしれない・・・その日 が来ることを願って、家の手伝いをする姿、夜、教科書を広げて一人で 勉強する丁寧の姿を映しながら番組が終ります。

教育ながの http://www.pref.nagano.jp/kenkyoi/kouhou/495.htm

2011.11.19

 

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 石井光太「遺体―震災、津波の果てに―」(新潮社)を読了する。巻末に著者は遺体安置所を舞台としたこの作品を書くに至った理由を次のように記している。

 

 来る日も来る日も被災地に広がる惨状を目の当たりにするにつれ、私ははたして日本人はこれから先どうやってこれだけの人々が惨死して横たわったという事実を受け入れていくのだろうと考えるようになった。震災後間もなく、メディアは示し合わせたかのように一斉に「復興」の狼煙を上げはじめた。

 だが、現地にいる身としては、被災地にいる人々がこの数え切れないほどの死を認め、血肉化する覚悟を決めない限りそれはありえないと思っていた。復興とは家屋や道路や防波堤を修復して済む話ではない。人間がそこで起きた悲劇を受け入れ、それを一生涯十字架のように背負って生きていく決意を固めてはじめて進むものなのだ。

 そのことをつよく感じたとき、私は震災直後から二カ月半の間、あの日以来もっとも悲惨な光景がくり広げられた遺体安置所で展開する光景を記録しようと心に決めた。そこに集まった人々を追うことで、彼らがどうやってこれほど死屍が無残に散乱する光景を受容し、大震災の傷跡から立ち直って生きていくのか追ってみようとしたのだ。

 

 まさにあまたのユーチューブにアップされたどんな被災地の動画よりも心に切り刻まれた。わたしはこの本とともに過した釜石市旧二中体育館の遺体安置所でののっぴきならないひとときをゆめゆめ忘れまい。

 半年後にわたしが歩きまわったあのきれいに片づけられた茶色の地表には、じつはわたしのちんけな想像力では追いつけなかった無数の阿鼻叫喚と無念とヘドロと腐臭が満ち満ちていたということを、いまさらながらに思い知らされたのだった。

2011.11.21

 

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 家に帰るとYのアルバイト先の公民館の職員氏がくれたという馬肉の「さいぼし」が置いてあった。何でも大和高田の方にある職員氏が昔から知っている店の手作りで、できたてらしいまだ温かい塊をおばちゃんが届けに来て、一塊をくれたのだという。さっそく夕食の膳に出て、生姜醤油で頂いた。旨い! 子は「毎日食べてもいい」と絶賛。職員氏はこれを酒の当てにつまみながら釣竿を垂れるのが何よりの贅沢だとか。おそらく「さいぼし」「油かす」と騒いでいた私の話をYがしたのだろう。その他、なんと同じ市内にあるかすうどんを出す食堂も、わざわざ住宅地図をコピーして教えてくれた。明日はちょうど休日なので、昼時に覗きに行こうかと話している。

部落の食文化 前編 うちのムラに食べにおいで http://www.jinken.ne.jp/flat_now/buraku/2001/02/04/1003.html

2011.11.22

 

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 数日前からYが本格的な風邪をひいている。わたしも少々風邪気味。子はひとりだけ元気で、もうじき行われる学校のマラソン大会の練習で「今日は何周走ったよ」と報告をしてくれる。当日は近くの土手沿いのコースを2キロ走る。わたしは月末に一泊で九州へ出張で、予定通り一泊で帰ることができれば彼女の奮闘を応援できる。

 むかしの城下町の風情を色濃く残すこのあたりも、このごろは解体される家が多くなった。もともと空き家の、ときに崩れかかった廃屋も多いのだが、このごろはいつもどこかの路地に重機が入り、歯の抜けた老婆の口元のように家屋が消失し、饐えた古い木材の匂いが漂っている。ななめ向かいの二軒長屋のもう一方に住むAさんは気のいい一人暮らしの男性だが、しばらく前からリウマチとその薬の影響などで片方の手足が痺れて思うように動かせず、入院生活をしていた。Yは何度か近所のYさんとお見舞いに行ったりしていたのだが、最近やっと退院をしてもどってきた。今日はお姉さんのいる高知から送ってきたという柚子を搾った一升瓶を分けるのに片手が不自由でできないから、申し訳ないけど代わりに瓶を振ってくれないかと持って来たのだった。風邪気味のYとわたしで交代で30分ほどそんなわけで一升瓶を振り回して、最後に鍋に注いだ濃厚な絞り汁を、お世話になった近所の人へとAさんが持って来た空き瓶数本を煮沸消毒してから漏斗で分け入れた。大抵は採り易いようにと低い八朔の木に接木するのだが、もともとの柚子の木の高所に成った実を採るために手間がかかるという。鍋にもよし、美容にもよし、水虫にも効くし、これがあるのでAさんの古里ではお酢を買ったことがないと云う。リビングに柚子の香りが染み渡った。そうして分けて頂いた柚子をさっそく焼酎のお湯割りに垂らして頂いている。

2011.11.27

 

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 来春オープン予定の某ショッピングセンターの立ち上げを応援することになって、まずはキックオフ―――第1回の顔合わせのため一泊で九州・博多へ行ってきた。わたしは九州には縁遠くて、じつは20代の始め頃に友人2人と大分でビリヤードをして、湯布院で混浴温泉に入り、レンタカーを借りて国東半島の六号満山を巡ったのが唯一の九州訪問であったから、あれから20数年・・・ いまや新大阪からなら新幹線でわずか2時間半である。お昼に着いて、駅近くでとんこつラーメンを食べて、九州の本部に行って翌日の準備などをして夕方、気分転換に表通りにあったシアトルズベストコーヒーの表の席に座ってラテをすすりながら町行く人たちを眺めた。向かいの席に深く腰かけた白いキャップ帽を黒のフードパーカーですっぽり覆ったヤンキー風の兄ちゃんが「クリエイティブ畑風」のビジネスマンに何やら仕事の指示だろうか話をしていて、ビジネスマンは立ったままヤンキー風兄ちゃんにぺこぺこと頭を下げている。ビジネスマンが立ち去って間もなく、ヤンキー風兄ちゃんはそばの車道のコインパーキングに停めていた高級車に乗り込んで走り去っていった。夜は駅の地下街にあった飲み屋兼定食屋で頼んだ牡蠣フライ定食が案外と美味しかった。今日は一日、たくさんの人と名刺の交換をして、夕方6時の新幹線に乗り、10時前に郡山に帰り着いた。次は再来週。

2011.12.1

 

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 先のリブックフェアで入手した映画公式カタログ『Noam Chomsky ノーム・チョムスキー』(監修:鶴見俊輔 発行:リトル・モア)から「チョムスキー 9.11 Power and Terror 」(ジャン・ユンカーマン:監督 2002)のDVDを中古で購入。

 

 休日の午後、塾の模試を終えた子と県立美術館へ特別展「磯江毅=グスタボ・イソエ  〜マドリード・リアリズムの異才〜」を見に行く。鮭はキリストで薔薇と緑青がアバヨだった。モノはことごとく神秘で、見つめ続けていると「役割」という衣を脱ぎ捨てやがてすっ裸となり、モノがたるのであった。紐や瓶や葡萄や筋肉の夢物語を。すると写真のような精密な写実たちが俄かにぶれ出し又一斉に溶け出し始めるのであった。もうすこし長生きをしたなら、この画家は凄いモノを描いたかも知れない。53歳の早逝が惜しまれる。

 見つめれば、見つめる程、物の存在が切実に移り、超現実まで見えてくる事がある。そこまで実感し、感動を起こす精神の繊細さをもって初めて実を写せるのではないだろうか。

 写実は、むしろ自己を抑え、対象物そのものの再現に徹することのなかに、表現意識を封じ込んでゆくこと( = 哲学)ではないかと考えるようになりました。

 表現するのは自分ではなく、対象物自体であるということです。その物が表現している姿から、どれだけ重要なエレメントを読み取り、抽出できるかということなのです。角膜に受動的に映る映像を根気よく写す行為ではなく、空間と物の存在のなかから摂理を見出す仕事だと思うようになったのです。物は見ようとしたときにはじめて見えてくるのです。

わが写実A(月刊美術195号)、個展に際して(2004年4月)

絵画というものは「眼の宗教」だなと思う。

 

彩鳳堂画廊 http://homepage2.nifty.com/saihodo/artists_isoe_2.html

2011.12.3

 

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 昨夜、夕食の席で見せられた学校の体力テスト個人票について、朝いちばんに職場から県の教育委員会へ抗議の電話をし、以降の改善を求めた。

「見てくださいよ。フローチャートの50メートル走が中心を飛び越えて真逆の枠外に飛び出て、凡例の四角の後ろに突き刺さってるんですよ。こんなのを先生から配られて、隣の席の子どうしで見せ合ったりもするわけじゃないですか。そのときこんなグラフを渡された子どもがどんな気持ちでこれを見るか。もうすこし配慮があっても良かったんじゃないですか。せめて中心で止まるように設定するとかね・・・」

 もっとも当の子は「わたしはなんとも思わなかったけど」と云っているのだが、わたし自身が大人のこうした鈍感さが許せないのだ。

「おまえがなんとも思わなくったって、これを嫌だなあと感じる子だって中にはいるだろう。お父さんはそういう子を代表して抗議をしたのだ」

「ふうん」

奈良県>県の組織>教育委員会事務局>保健体育課>学校体育係>平成23年度 奈良県児童生徒の体力テスト等調査について http://www.pref.nara.jp/dd_aspx_menuid-6315.htm

2011.12.7

 

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 某日。Yの勤め先で「さいぼし」を、こんどは正式に注文していたのだが、試しにとフクと油かすを少々分けてくれた。フクは牛の肺臓、油かすは「牛の腸を煎り揚げたもの」。油かすはその晩、Yがかけらを薄揚げと菜っ葉と共に炊いて出してくれたのだが、かすかに独特の薫りがして、まあなかなかおいしかった。フクはスライスして天麩羅にしたものを塩で食べるのがいちばん、と上原氏の「被差別の食卓」にあったので数日後にYが夕食に出してくれたのだが、こちらはかなり癖がある。ひとかけらめは「うん、変わった味だな」程度であったが、二つ目、三つ目を口に入れたら、この独特の味わいが鼻について、どうにもそれ以上は手をつける気にならなかった。フクはちょっと、残念ながらわたしはダメみたいです。でも「さいぼし」はみな気に入っているので、これからも頼もうと思っている。職場でも、隊員さんの教育のときなどに雑談交じりでこれらの話をしたりすることがある。たいていは「油かす」「さいぼし」「フク」、どれも聞いたことがない、と首を振る人がほとんどである。先日、ひとりだけ河内の方から来ている隊員さんが「ああ、小さい時にほかほかのさいぼしの塊をもらって、あれはおいしかったなあ」と嬉しそうに語ってくれたのだが、逆に、「ああ、こんな話はひょっとしたら話させたら悪いのかも知れない」とかあとで思ったりして、複雑な気分になったりする。難しいね。

 昨夜は、皆既月食。23時前くらいから、家の垣根の前の路地に家族三人揃い出て、ときに子の双眼鏡を覗きながら、華麗な天体ショーの一部を拝見した。ムーミンのビデオで月が赤くなったのを世界が滅びる前兆だと大騒ぎしたのはこれのことだったんだとか、月と地球と太陽というとてつもなくマクロな世界の仕掛けと、寝静まった城下町のちいさな路地で家族三人(と一匹)が寝巻きの上にそれぞれコートやジャンバーを羽織って夜空を見上げながら箱舟に乗った最後の人類のように身を寄せ合っているミクロの風景との対称が、なんだかそこはかとなくこころしずかに愉しい気分なのであった。

 このところ、ペギー・リーやジョー・スタッフォード、ドリス・デイといった1940年〜50年代に全盛だったアメリカの女性歌手の歌を好んで iPOD に入れて聴いている。ドリス・デイは健康的な感じ、ペギー・リーはちょっといかした姉御といったところか。三人の中でとくにわたしがお気に入りなのがジョー・スタッフォードで、彼女の「哀愁を呼び起こす歌声は、戦地の兵士に望郷の念を抱かせた」ために“ホームシック・ボイス”とも呼ばれたそうだが、大人のセクシーさの中に微妙なバランスで家庭的な女性像が入り混じっていて、それが何だか家庭の幸福を望みながら大スターのイメージに押しつぶされてしまったマリリン・モンローのかなしみにも似ていて、男心をくすぐるのかも知れない。

 と思っていたらビーチ・ボーイズの未完のアルバムの秘蔵盤「SMiLE SESSIONS 2011」、こんなのが出ていたんだね。これはじつにおいしい。『SMiLE』 ってなに? っていう人は親切なこのサイトをどうぞ↓ しばらくはこの音源の虜になりそうじゃ。

smiledays http://www002.upp.so-net.ne.jp/smiledays/index.html

 

 明日からまた九州、一泊。

2011.12.11

 

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 九州からの帰路、新幹線の中で母から、わたしの父方の叔母が亡くなった旨のメールが届いた。父は二人の姉と一人の妹の三人姉妹に囲まれた長男であったが、突然の事故で父が亡くなったあと、娘と暮らしたいと言い出した祖母(父の母)の処遇をめぐってわたしの母との間で諍いがあり、痴呆と寝たきりの数年の介護(わたしの母と妹による)を経て祖母が亡くなってから後は、三人の叔母たちとのつきあいは途絶した。いわばわたしの血の半分である父方の親戚付きあいが以来、消滅したわけである。今回、わずかに、わたしの妹と亡くなった叔母の長女のYちゃんとの間に年賀状のみのやりとりがほそぼそと生き残っていて、そのYちゃんから、6年間の闘病の末に今月の上旬に亡くなった、享年66歳であった、との葉書が届いて知ることとなった次第である。わたしは父のきょうだいの内、二人の姉たちは何となく性格的に好かなかったのだが、今回亡くなった叔母は歳がいちばん若いこともあり、またわたしや妹よりいくつか幼い姉・弟の子どもがいたことなどもあって、自転車小僧であったわたしなどは水元公園を経由してその埼玉の越谷に当時あった叔母の家に泊まりにいったことも多かった。白状をすれば中学生の頃にいちどだけ、泊めてもらった叔母宅の布団の中で(まだ当時、30代後半くらいであったろう)叔母の姿を思い描いて自慰をしたこともあった。そんなふうに自慰の対象でもあった叔母が、20数年の空白を経て、闘病の果てに知れず66歳で死んでいたいう事実に愕然とする。

 これで父のきょうだいは二番目の姉のただ一人しか残っていないが、あるいはそれもたんに連絡がないだけであるのかも知れない。

2011.12.14

 

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放射能はだれのものか。この夏、それが裁判所で争われた。
8月、福島第一原発から約45km離れた、二本松市の 「サンフィールド二本松ゴルフ倶楽部」 が東京電力に、汚染の除去を求めて仮処分を東京地裁に申し立てた。

――事故のあと、ゴルフコースからは毎時2〜3マイクロシーベルトの高い放射線量が検出されるようになり、営業に障害がでている。責任者の東電が除染をすべきである。

対する東電は、こう主張した。

――原発から飛び散った放射性物質は東電の所有物ではない。したがって東電は除染に責任をもたない。

答弁書で東電は放射能物質を「もともと無主物であったと考えるのが実態に即している」としている。 無主物とは、ただよう霧や、海で泳ぐ魚のように、だれのものでもない、という意味だ。つまり、東電としては、飛び散った放射性物質を所有しているとは考えていない。したがって検出された放射性物質は責任者がいない、と主張する。

さらに答弁書は続ける。

「所有権を観念し得るとしても、 既にその放射性物質はゴルフ場の土地に附合しているはずである。つまり、債務者 (東電) が放射性物質を所有しているわけではない」

飛び散ってしまった放射性物質は、もう他人の土地にくっついたのだから、自分たちのものではない。そんな主張だ。

決定は10月31日に下された。裁判所は東電に除染を求めたゴルフ場の訴えを退けた。

ゴルフ場の代表取締役、山根勉 (61)は、東電の「無主物」という言葉に腹がおさまらない。
「そんな理屈が世間で通りますか。 無責任きわまりない。従業員は全員、耳を疑いました。」
7月に開催予定だった「福島オープンゴルフ」の予選会もなくなってしまった。
通常は3万人のお客でにぎわっているはずだった。
地元の従業員17人全員も9月いっぱいで退職してもらった。
「東北地方でも3本の指に入るコ ースといわれているんです。本当に悔しい。除染さえしてもらえれぱ、いつでも営業できるのに」
東電は「個別の事案には回答できない」 (広報部) と取材に応じていない。



朝日新聞(2011/11/24) プロメテウスの罠 無主物の責任(1)

 

 

 

 

東海原発の社員サンの正直かつ無内容なコメントに驚きつつ、同じ件で、もちろん東京電力にも話を聞いてみました。

「あなた方の会社は“まき散らした放射能は誰のものでもない。除染の責任は負わない”と裁判で主張しました。とすると、なぜ補償センターなんて作って対応しているんですか? 必要ないんじゃないですか」

そんな質問を用意して、手もとに東電の茨城補償相談センター(水戸)の名刺があったので、そこに電話してみました。
はじめ金曜の夕方に電話に出た社員サンは、さっぱり要領を得ませんでした。しょうがない、週明けでいいから、答えられる人から連絡を入れてくださいな。

翌々日、月曜の夜になって、電話をかけてきたのは、先月うちに訪ねてきたWT課長さんでした。

同じ質問に、「たしかに裁判については報道のとおりです。飛び散ってしまった放射能は無主物と主張させていただいておりますが、そのきっかけとなった原発についての管理責任は当社にあります。その責任において補償をさせていただいております」

「いやいや、原発でどんな事故が起きようが、それだけなら勝手にしてていいよ。でも問題は、放射能がまき散らされ、空気も海も土も汚し続けて、被害を受けていることだ。繰り返すけど、その放射能が誰のものでもないと主張するんだったら、賠償なんてしなくていいでしょ」

「… … …」

「じゃあ、たとえばWT課長さんが犬を飼ってるとしましょうか。ある日、その犬が首輪を食いちぎって逃げ出して、他人の庭と家を糞だらけにしたとする。そのばあい、犬の管理責任はあるけど、まき散らした糞については誰のものでもないので飼い主としては掃除などはやりません。そんなふうに東電の社員サンたちは近所の人に対応するのですか」

「どんな答を期待しているのですか」

「なにも期待なんかしていません。飼い犬と糞の話をしているだけです」

「おっしゃられた犬のお話でしたら、通常のお答をさせていただくかと存じます」

「通常の答、つまり糞についても飼い主が責任を持つということですね」

「そう理解していただいてけっこうです」

「では、重ねてうかがいます。犬の糞なんかより、はるかに危険でやっかいなものを散らかしたのに、それについては責任はない。と、東電サンは主張しているわけです。課長さん個人は、犬の例では“通常”の答をなさった。ところが、会社のしでかしたことについては、“通常”の答がいただけない。東電は社会の常識が通用しないところなのですか」

「私にどう答えろというのでしょうか」

すずき産地 たまご新聞 (No.701 2011.12.09)

2011.12.16

 

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 ひさしぶりの連休の初日。「焚き火をしにいこう」と子を誘って、もう一匹も乗せて山へ走る。目指すは川上村。先の台風の土砂災害で発生した長大な迂回路(片側通行)をたどれば、そちこちにひしゃげたままのガードレール、土砂で埋まった谷筋などの傷痕がいまだ残っているのが垣間見える。大滝ダムを過ぎてしばらくして吉野川を渡り、井光(いかり)川を遡上する。行きかう人も車も絶えた林道沿いに車を止めて、小さな橋のたもとを滑り降りたところ。河原の石でかまどをこしらえ、火を熾した。枝先に刺して炙ったマシュマロ、飯ごうのご飯、「吉野ストア」で買ったやきとりの缶詰、焼き芋。ところでこの井光は以前、前田良一「役行者 修験道と海人と黄金伝説」(日本経済新聞社)を読んで以来、ずっと訪ねたいと思っていた地であった。古事記や日本書紀で神武が山中で出会った「光かがやく井戸、泉から出てきた尾のはえた国津神」―――井氷鹿(いひか)が出現した場所であると云う。帰りにその「井戸の跡」と井氷鹿を祀る井光神社に立ち寄った。前者は井光川沿いの林道から杉林を5分ほど登った山中にあるすり鉢状のくぼ地がそれであり、「神武天皇御旧蹟井光蹟」や「吉野首部祖加弥比加尼之墓」と刻まれた苔生した石柱がぽつねんと建っている。前出の著書で前田氏はここを「水銀の採掘場所」であり井氷鹿を「最古の鉱山技術者」と推察している。後者は山の上ののどかな集落内にあり、本殿の背後に磐座を擁す。

 

そこより幸行(いでま)せば、尾生(をお)ひたる人、

井より出(い)で来たりき。

その井に光ありき。ここに「汝(いまし)は誰ぞ」と問ひたまへば、

「僕(あ)は国つ神、

名は井氷鹿(ゐひか)と謂ふ」と答へ白(まを)しき。

こは吉野首等(よしののおびとら)の祖(おや)なり。

(古事記)

 

井氷鹿(いひか)の井戸  http://www.tukinohikari.jp/jinja-nara/topics-yo-kawa-ihikanoido/index.html

井光神社 http://www.7kamado.net/ikari.html

I-HI-KA http://yosuzume2.web.infoseek.co.jp/hiking/ihika/ihika_1.htm

2011.12.17

 

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 休日の朝。新聞の折込広告で入っていた「まんが世界偉人伝」の中で子が知らないのがエリザベス1世とチェ・ゲバラの二人だけと言う話から「ゲバラってどんな人?」との子の問いにざっくりと答えてから書棚にあった本を二冊ほど渡してやるとリカルド・ローホの語る回想録をまたたくまに180頁ほど読んでしまい「すごくおもしろい」と言う。「あとでまた貸してね」と子が置いていった本を手にとってぱらぱらとめくっていたら、キューバを去る際にゲバラが自身のこどもたちに宛てた手紙があって、何だか泣けてきそうになった。

 なによりも、世界中のどこにせよ、なんらかの不正が犯されたときには、つねに自分の一番深いところでそれに対し怒りを感じられるようになりなさい。

 

 いまのわたしはいつわりだらけでないのかな。「一番深いところ」になにも届いていない。

2011.12.24

 

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 ことしのクリスマス。かの国に居ますサンタはサテ何にしようかと考えて、ゲームも知らない、テレビも映らないでは友だちとも会話が合わずに可哀想だろうとでも思ったか、「大人のためのDS」なんぞというサイトをインターネットで見つけてDSの勉強(機種の初歩から)を始めたらしいが、クリスマス・イブのその夜にじっさいに届けられたのはフランス製の花の精たちのイラストのカレンダーと乗馬クラブの一時間体験の招待券であった。

 翌朝、ツリーの下にプレゼントを見つけた子はどちらも目を瞠り、「DSが欲しかったんじゃないの?」と母が訊ねると「ううん、こっちの方がずっとずっといい!」と断言した。

2011.12.25

 

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わたしの死者ひとりびとりの肺に
ことなる それだけの歌をあてがえ

死者の唇ひとつひとつに
他とことなる
それだけしかないことばを吸わせよ

類化しない 統(す)べない
かれやかのじょだけのことばを
百年かけて
海とその影から掬(すく)え

砂いっぱいの死者に
どうかことばをあてがえ
水いっぱいの死者は
それまでどうか眠りにおちるな

石いっぱいの死者は
それまでどうか語れ
夜更けの浜辺にあおむいて
わたしの死者よ
どうかひとりでうたえ

浜菊はまだ咲くな
畦唐菜(アゼトウナ)はまだ悼むな

わたしの死者
ひとりびとりの肺に
ことなる
それだけの

ふさわしいことばが
あてがわれるまで

辺見庸「死者にことばをあてがえ」(2011年4月18日脱稿)

 

 

 

 

 

リウーは、急に疲れが出て来たような様子で立ち上った。
 「君のいうとおりですよ、ランベール君、まったくそのとおりです。ですから、僕は、たとい何もののためにでも、君が今やろうとしていることから君を引きもどそうとは思いません。それは僕にも正しいこと、いいことだと思えるんです。しかし、それにしてもこれだけはぜひいっておきたいんですがね――今度のことは、ヒロイズムなどという問題じゃないんです。これは誠実さの問題なんです。こんな考え方はあるいは笑われるかもしれませんが、しかしペストと戦う唯一の方法は、誠実さということです」
 「どういうことです、誠実さっていうのは?」と、急に真剣な顔つきになって、ランベールはいった。
 「一般にはどういうことかは知りませんがね。しかし、僕の場合には、つまり自分の職務を果すことだと心得ています」
 「ああ、まったく」と、ランベールは狂おしくつぶやいた。「僕には何が自分の職務だかわからない。実際、あるいは愛を選んだのが間違いだったかもしれない」

カミュ「ペスト」(新潮文庫・宮崎 嶺雄訳)

2011.12.30

 

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 実験室の研究者の一番典型的な発想というのは、科学の側の発想というのはこういうことになるんです。
 彼らが環境が汚れていて一番困ることは、材質が汚れていて測定をやる時に困るんです。
 普通、感度のいい測定器を作ろうとしても測定器の材料そのものが汚れている、ということがあるんです。
 また、周りに放射能がいっぱいありますし、宇宙線もありますから、測定器を遮蔽するために鉛等でかこって、その中に測定器を置きます。そうしないとノイズ(バックグラウンドという)が多くて測れないので、そうやってノイズ
を減らすのです。一日一カウントぐらいでも測れる高感度の測定器を作って測らないと、宇宙の歴史を調べる事になりません。
 それをやろうと思いますが、地球の表面すべて汚れてますから、きれいな材料が無いわけです。一番困るのは鉄なんです。鉄を大量に使いますが、鉄を普通に製鉄会社から買ってくれば、ハ幡製鉄(現、新日鉄)から買ってきても神戸製鋼からでも日本鋼管からでも、溶鉱炉で放射能を使いますから。
 これは漏れないはずになっていますが、我々の測定器で測れば必ず漏れていることが分かります。
 人間の技術というのは完全なものはありえないのです。漏れないというのは、漏れる度合いが少ないという意味です。そうでしょう。
 原子力発電所でも放射能は漏らしていませんと言いますが、あれは漏らしている度合いが少ないというだけの話で、放射能が全く漏れない原子力発電所なんてありません。事故がなくても日常的に漏れています。感度のいい測定器を
持って来れば測れてしまう。
 その現状の中で科学者はきれいな材料が無いので困るわけです。
 研究屋の典型的な発想では、きれいな材料を求めて、1945年以前の鉄を使えば良いとなります。                  .
 放射能以前に製鉄された鉄というのがあるわけです。
 例えば、第二次大戦中に沈んだ船を引き上げてくれば、あれは汚れていません。そうすると、そういう沈んだ船の鉄を商売にしている人がいるのです。普通の鉄より何十倍と値段が高いんですよ。確かに沈んだ船をサルベージで引き上げて、それを切って売るのですから高くなるんでしょう。
 そうすると、研究屋としてはそのきれいな鉄がどうしても欲しくなるわけです。
 まわりの環境がすべて汚染されている事よりも、きれいな鉄が欲しいという事に目がいくのです。
 きれいな鉄を手に入れるためには予算がないといけない。予算を獲得する事に次の関心がいくわけです。
 このように研究者は走ってしまうのです。
 それは主体的には善意なのです。
 客観的に見れば善意かどうかわかりませんけども、個人の側で見ると非常に善意なのです。そこに悪意は何もないのです。邪(よこしま)なことを考えてはいません。宇宙の歴史を知りたいという探究心なのです。
 ここにいらっしゃる方はそれをおかしいと感じるでしょうが、研究者は分からなくなってしまっているのです。
 人間的な全体というところでなくて動いてしまう科学者、科学というものが、現在の科学をここまで進めてきた背票にある一番大きなものだと思います。
 私も一時期そういう方向に動いたのですが、先程言いましたように、「それに」どうしても寝覚めが悪かったのです。
 私は当初まだ助手でしたから、教授に逆らう事をあまりしなかったのですが、そのうち逆い始めてそのあと対立になってしまいまして、その後私は非常に反乱的な人生を歩むことになります。
 それにしても、その段階でその研究を止めようとか、大学を辞めようとかは思いませんでした。
 それで、ちょっといきなりドイツへ行って考えてくると言って行ってきたんですけど、それでもどうしても寝覚めが悪くて、やっぱり放射能汚染の問題をやりたいという決断になりました。
 自分たちが作り出してきた放射能というものが、人間にとって何なのかということに責任をもたなくてはならないんだろうと。
 それは科学者として自分を自己規定する前に、まず人間としての自分という立場から出発したいというだけの話でした。それ以上の思想的背景は何もなかった。

高木仁三郎「科学の原理と人間の原理 人間が天の火を盗んだ・その火の近くに生命はない」(金沢教務所)

 

2012.1.5

 

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 人間の科学技術を整理してお話ししてみると、例えば科学技術の歴史は大きく分けると三つくらいの段階があったろうと思います。
 技術というものがまだ素朴な段階で、人間が自ら手を下してある意味で自分の体を張ってやっていた段階です。
 この時は、それでもいろんな問題があったでしょうけれども、それが人間の生きる事とかけ離れている事にはならなかった。
 何かトラブルが起こればそれがすぐに自分に跳ね返ってくるというようなものとして、体を張ってやった場合にはそういう試行錯誤が働いた時代です。
 そういう段階から西洋の近代という段階に入ると、人の名でいうとフランシス=ベーコンという人が典型的にその思想を体現した人でしょうけれども、実証主義の科学というんですかね。自然に対して人間が実験を施して、非常に積極的に働きかけて自然を作り変えていくと。ベーコンはわりとハッキリと科学技術によって自然を征服することが人間の究極の目標であるということを言ったわけです。
 自然の中の人間という意識ではなくて、ハッキリと人間対自然という対立関係というか、人間だけが自然の支配者となっていくような、そういうことが人間にとって理想であるというようなことを考えるようになってきたわけです。
 その裏付けとして一方では、18世紀から17世紀にかけてのデカルトが開発した数学的手法があります。
 数学というのは科学の中の論理の部分だけ純粋に抽出したようなものです。
 数学では、実際どうなっているかという事はほとんど関係ありません。論理的に物事を詰めていくとどうなるのかというある仮定をおいてその仮定から何が導かれるかとそれだけをやるんですけども、しかし現代の自然科学、特に物
理学を中心とした先端技術などをみると、基本的に数学によってほとんど決まってしまっている。数学的手法があるかないかでもう科学は決まってしまっている。
 その一つが数学で、もう一つが実験という事です。
 数学だけでは理論だけですから、なかなか現実に適用できない。これを実際のものに適用するには、実験というものをやってみなくちゃならない。
 これを実証主義と言います。必ず自然に実際に働きかけて実験によって確認する。
 そういう実際の技術の問題として産業革命以降、近代科学技術が発展してそういう段階。
 この段階にすでに資本主義的生産技術と結びついて色んな弊害、公害をもたらすんですけれど、ここで止まっていれば、私はまだまだ行き過ぎに対してあと戻りとかフィードバックがやりやすかったと考えます。
 そこからもう一歩越えたと思うのです。それはつい最近の事で、核ということでもう一歩越えた所です。
 私は核の利用は、今までの実証的な科学の世界を越えた世界だと考えます。
 少し難しい話になりすぎるので、少し具体的にお話しましょう。
 核以前のものというのはどんな科学技術も自然の模倣でした。地上の自然界の模倣です。
 人間は偉そうな事を言っていますが、結局色々な科学の原理というのは自然からとるわけです。
 例えば、飛行機にしても鳥を真似したものです。
 どんなに今の飛行機がすばらしい強い技術を手に入れても、鳥のようにあれだけ少ないエネルギーであれだけ自在に方向転換し、滑走路もほとんど無しで飛び立つ技術は人間は持っていません。
 鳥よりもっと感心するのは蚊みたいなものです。あんなに小さな体にどうして飛ぶだけのエネルギーが潜んでいるかと思います。あんな技術とても人間は真似できません。あんなもの作ろうとしても作れません。
 それを非常にぶきっちょに真似をしてるのがあの大型のジャンボ飛行機だと思います。燃料の油もいっぱい積んで燃やさなければ飛べません。
 これらの科学技術は基本的に自然の真似だと思うんです。


 核というのも、ある意味では自然の真似なんです。ですけれども、ここに決定的に違う事がある。
 西洋の故事に、プロメテウスが太陽から火を盗んできたという話があります。これが非常にゼウスの怒りに触れてプロメテウスは罰を受けるわけですが、あれが非常に象徴的な事だという気がするんです。
 天の火を盗んだというわけですけれども、まさに原子力というのは天の火を盗んだものだと思うんですね。地上の火ではない。
 星が光っているというのは、原子核反応によって光っているわけです。
 太陽が光っているのは、水素が燃えて水素爆弾と同じような原理ですけども、要するに核反応です。だから太陽に行けば放射線がうじゃうじゃしてます。熱によっても死んじゃうでしょうが、放射線によっても誰も近寄れないわけですね。
 つまり、「光っている星には絶対生命はない」。その近いところにも生命はない。
 今、人間の技術がこれだけ進んで相当遠くまで見えるようになりました。何億光年、伺十億光年というところに、どんな星が並んでいるかということまで今はわかる。
 にもかかわらず、生命体があるらしい星というのはまだ一つも見つけてないわけです。
 それほどに生命体のある星というのは少ない。どっかにあるでしょ、恐らく。しかし、それはおよそ交信ができない範囲でないかという気がしますねぇ。それが例えば、何十億光年離れていると交信してもしょうがないわけですね。(笑)こっちが何か信号送って届くまでに何億年かかるわけです。それを受け取って向こうから返ってくるまでに何億年かかる。つまり十億年くらいかかるわけですから、我々が今一つ信号送ったりすると十億年先の人類が返事を受け取る事になるわけです。しかし、これだけバカなことをやっていると十億年先まで人類は生きてないと思いますけれども。
 だからそういう意味ではおおよそ宇宙に生命はいないと思います。
 それくらい地球というのは特殊な条件なんですね。

 どうしてこれだけ特殊な条件かというと、放射線に対して守られているというのが非常に大きいと思うんです。
 もう一つ水が存在したからという点も指摘されます。水も放射線を防ぐことに関係してきますが、いずれにしても放射線に対して守られているということが大きいと思います。
 で、それはなぜかという話はここではしませんが、大気があることとか磁場が働いている事、太陽からの距離とかさまざまな要因がありますが、かろうじて放射線に対して守られていたということです。
 さらに、この地球も誕生したての頃は放射線が非常に強かったわけです。ですから生命は住めなかったのです。
 地球が大体今のような形をとったのが、48億年前とされています。それも多少不確かなところありますけれども、そういう学問も一時やっていたと先程お話しましたように、色々とそういうことは調べているのですが、大体48億年前と考えられますけれども、48億年前あるいはその元になった原始太陽系ができたのが50億年前くらい。そういう状況では、今よりもっともっと放射能が強かったんです。
 元々星の屑みたいなものを集めて太陽系ができて地球はできたというふうに考えられますけども、その星の屑みたいなものというのは放射能がいっぱいあったものの屑ですから、非常にまだ放射能的に言うと熱かったんですね。
 それが48億年かけて冷めてきて、ようやく人間が、生き物が住めるくらいまで放射能が減ったから住む事ができるようになった。そういう事が非常に大きな理由なんですね。
 つまりそういうふうに、せっかく地球上の自然の条件ができたところに、天上の火、核というものを盗んできてわざわざもう一度放射能を作ったというのが「原子力」 です。ですから求めて非常に余分な事をしたと思います。
 天の火を盗んだ事に対してゼウスが罰を加えたというのは非常に象徴的な故事のような気がします。
 やっぱりこれは天の火であって、作るべきではなかったんだと思います。
 これに足を踏み入れた瞬間に、科学技術というのは新しい段階に入っている。今までは単純に地上にある自然の模倣であった。今度は地上の自然の模倣ではなくて、天上のものを模倣するようになった。

 地上の生命には、地上の生命の原理がある。
 本日のテーマであるところの地上の生命の原理があり、地上の生き方の原理がある。その原理と全く異質なものを、人間の頭脳の発達によって天上から盗むことができるようになった。
 これが広島、長崎の悲劇、それからそれ以降我々を悩ます原子力問題という形でつながってきているわけです。

高木仁三郎「科学の原理と人間の原理 人間が天の火を盗んだ・その火の近くに生命はない」(金沢教務所)

 

2012.1.6

 

*

 

 

 しかし、たとえそのようなこの世の外の神や仏の声に答えるという形の信仰ではなくても、この世界と人生をひとまとめにして、それに決定的全体的な態度をとらねばならぬとき、やはり人はある宗教的信仰の体験を持つのであろう。宗教はつねに人間存在の本質的なモメントである。

 

 昭和34年の夏、奈良県吉野郡十津川村へ行ったときの話である。ここは奈良県の南、熊野川上流の十津川渓谷の村であるが、若いときに狩猟がすきだったという老人に、いろいろと経験談を聞いた。この老人は町の人間からみるとけたはずれに動物の習性にくわしく、この動物はこういう条件ではこのような反応をするというふうに、まるで動物生態学の講義のような内容で猟の作法を語ってくれた。猪狩りのときにも、狩場の条件と相手の習性を考えて追いつめ、しばしばマチウチといって猪の走るのを先まわりし、足場のよいところで待ちかまえてしとめるというのである。
 こうした話を聞いているうちに、あまりに豊富な経験にもとづく整然としたものであるため、つい意地悪な質問がしたくなり、マチウチして成功すればよいが、もし弾丸がそれて逃がしたときはどうするのか尋ねてみた。すると即座に、そのときは暦をみる、という答えが返えってきた。猪は暦でふさがっている方角へ逃げるから、そちらへ先まわりしてもう一度マチウチしたらよいというのである。
 暦でヒフサガリ (日塞り) というのは、陰陽道の天一神のいる方角で、子・辰・申の日は北、丑・巳・酉の日は西、寅・午・戊の日は南、卯・未・亥の日は東であり、たとえばその日が子の日であればかならず北へ逃げるから、その方角で猪の走りそうなところへ先まわりするわけである。
 話が思いがけない方向に展開しはじめたので、思わず老人の顔をみた。けれども、老人はいっこうに頓着なく、これこそ猟の秘伝であるといわんばかりに、暦がいかに有用なものであるかを力説した。このことは、われわれが祖先の生活と信仰を考えようとするとき、大切なてがかりになるのではなかろうか。もしもわれわれがおなじ状態になったら、マチウチして弾丸がそれたら、それですべては終わりである。猪がどちらへ逃げるかはそのときの偶然であり、こちらの知ったことではない。あきらめて帰るか、別の目標を追うかのいずれかであろう。ところが、老人はそのとき暦をみて、あくまで逃げたその猪を追うというのである。
 考えてみれば、今日のわれわれはことが予想を越えてしまったとき、あきらめて帰っても別にどうということはない。残念さがのこるだけである。だが、その猪を捕えて帰らなければその日の糧がないというような厳しい条件が生活のすべてを支配し、それが習い性となっていれば、事情はまったく異なってくる。猪の習性に関する経験的知識も、麿の知識も、ともに依拠すべき大切な知識として、両者がたがいに等質の知識になるのも不思議ではなさそうである。
 この老人の話のなかに、かつて人の思考が、経験しうる世界と経験を超えた世界とを自由に往復し、科学と宗教とがおなじ次元でならんでいた時代の生活態度が、濃厚に残っているといえよう。昔の人はけっして頭から非科学的であり、迷信的なのではなかった。つねに経験的知識をたくわえ、それを整理して行動した。ただそれを自覚できるほど豊かでなかったため、かえってその限界が意識されなかったともいえるだろう。しかもまた、このように考えてみても、マチウチに失敗したときは、それまで豊富な経験を駆使して追いつめてきたその論理をあっさり捨て去り、暦をみてでも逃げたその猪を追いかけるといったときの老人の気塊は、やはり紀憶に重く残っている。このことは、昔と今、前近代と近代とは明らかに質を異にしていながらも、一方では、そこに生きる人間はひとしく人間として、たがいに通じあうもののあることを物語っているように思われる。

高取正男・橋本峰雄「宗教以前」(NHKブックス)

 

2012.1.8

 

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Show me the place
Where you want your slave to go
Show me the place
I’ve forgotten, I don’t know
Show me the place
For my head is bending low
Show me the place
Where you want your slave to go

Show me the place
Help me roll away the stone
Show me the place
I can’t move this thing alone
Show me the place
Where the Word became a man
Show me the place
Where the suffering began

The troubles came
I saved what I could save
A thread of light
A particle a wave
But there were chains
So I hastened to behave
There were chains
So I loved you like a slave

Show me the place
Where you want your slave to go
Show me the place
I’ve forgotten, I don’t know

『OLD IDEAS / LEONARD COHEN』(2012)

 

amazon http://www.amazon.co.jp/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2-%E3%83%AC%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%82%A8%E3%83%B3/dp/B006QCKNSA/ref=pd_cp_m_2

LEONARD COHEN.COM http://www.leonardcohen.com/us/home

2012.2.3

 

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 岩手県北上市の納棺師、笹原留似子(るいこ)さん(38)は大震災から3か月、津波に襲われた岩手県沿岸部で、傷ついた遺体を復元するボランティア活動を続けてきた。

「こんなのお父さんじゃない!」
3月下旬、同県南部の遺体安置所で、笹原さんの耳に大きな声が響いた。
 声の主は小学1年の男の子。津波の後に見つかった30歳代の父親は、肌の色も髪も失われ、かつての面影が消えてしまっていた。
 男の子の祖母や兄に頼まれ、笹原さんは父親の生前の様子を聞きつつ、眉、まつ毛、肌、髪と復元を施した。
 すると、男の子は突然「お父さん、あのね、今日ね……」と話しかけ始めた。そして父親のほおに手を触れ、ポロポロと涙をこぼした。
 
 どの安置所でも、復元を始めると「うちもお願いします」と次々に声がかかった。震災後、手がけた遺体は300人を超える。1か所で50人に施し、夜明け近くまでかかったこともある。
 学校で部活動中に亡くなった中高生も多い。そうした1人に、同県南部の17歳の女子高生がいた。
 復元で女の子を優しい笑顔に戻すと、「守れなくてごめんな」と父親が泣き出した。「そんなこと、この子は思ってないよ」と祖母が声をかけ、祖父は「おれの孫に生まれてきてくれてありがとな」と話しかけた。葬式もできない混乱のなか、火葬を待つひととき、家族の思いが女の子に注がれた。

 「親や子が生前の姿に戻った瞬間、生きていた時の思い出に再会できる。悲しみは、たくさん愛した思い出があるから、懸命に生きてきたからだと気づけば、泣いた後、また生きていく力になる」と笹原さんは言う。
 納棺師は、遺体を清め、化粧などをして棺に納める仕事だが、笹原さんは様々なワックスを用いて損傷を修復する復元技術も持つ。沿岸部では津波で傷付いた遺体が多く、1人の復元に早くて20、30分。硬くなった肌を柔らかくほぐし、外国製の専門化粧品などを使い面影を残す。笹原さんは最後に笑いジワを探して、穏やかな笑顔にする。

 震災で亡くなった人の火葬や葬儀に対応した同県遠野市の「遠野葬祭」の佐々木順一さんは「津波による死は、損傷が大きく、通常の死とは違う。子どもに親の遺体を見せられないと困っていた家族もいた。生前のお顔に戻す笹原さんの活動は、遺族にはありがたかったと思う」と話す。
 そんな笹原さんでも、子どもの遺体の復元が続いた時は、「なぜこんなことが起きるのか」と耐えきれない思いが募り、僧侶に疑問をぶつけたりした。
「私たちの死生観がいま問われていると感じる。死ぬって何か、なぜ生きるのか、と」

□生前の笑顔宿し お別れ 津波の傷整える納棺師 思い出も復元(読売新聞 2011(平成23)年6月22日付)

asahi.com> マイタウン> 岩手>連載 3.11 その時 そして http://mytown.asahi.com/iwate/newslist.php?d_id=0300070

株式会社 桜 http://www.sakura-noukan.com/main/

 

2012.2.3

 

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 中国に追いぬかれてしまうまでの日本は、世界第二位の経済大国ということになっていました。
 しかし、その豊かさの実感は本当にあったのでしょうか。
 交通事故による死者は2010年で4,863人、また、自殺者の数は31,690人です。今回の大災害の犠牲者をはるかに上回る数字が毎年のように記録されているというこの現実をどう受けとめたらいいのでしょうか。
 これががむしゃらになって築き上げてきた繁栄の見返りと言えるのでしょうか。
 幸福を実感していますか。
 一生懸命に生きてきたことで、未来に希望が持てるまでになっているという確信が実際に得られましたか。
 朝、目を覚ましたときに、この国に生まれてよかったという思いを心の底のどこかでしっかりと感じたことがありますか。
 それを感じている人間は、たしかにいるでしょう。
 しかし、我々庶民ではありません。
 この国を私物化したり、半私物化したりしている大企業、たとえば東京電力のような組織の頂点に君臨するひと握りの連中だけが、経済大国とやらの恩恵に与り、それを存分に堪能できているのです。
 しつこく言いますが、豊かさを存分に味わえているのは、絶対に我々ではないということです。我々はかれらを喜ばせるために酷使されてきただけのことで、それ以上ではありません。
 それが民主主義の体裁をとった国家であろうと、それが共産主義の国家であろうと、どの国家も、結局は不特定多数の国民のものではないのです。
 つまり、国家はどれも特定少数の所有物なのです。
 そして、我々はかれらに搾取され、その上に税金を絞り取られるだけの奴隷にほかなりません。
 我々は生まれたときから死ぬまでとことんコケにされつづける、憐れで惨めな運命を辿らなければならないのです。
 それを感じさせないでおくための手練手管の切り札となるのが、民主主義と自由競争のふたつというわけです。このふたつの目くらましの価値観に騙されつづけ、幻想を与えられつづけて、あげくに、これが間違いなく自分の国だと思いこんでしまっているだけなのです。
 愚かしくも悲しい錯覚です。
 日本人は悲しむことは知っていますが、しかし、どういうわけか、怒ることを知りません。怒りのないところには改革も進歩もないのです。


「天皇は生きた神様であるからにして、そう思え」
「はい、わかりました」
「国家のために戦死することは最高の名誉だから、そう思え」
「はい、わかりました」
「旗色がわるくなってきたから、爆弾を積んだ戦闘機に乗りこんで敵艦に体当たりせよ」
「はい、わかりました」
「戦争に負けたから、もう抵抗するな。これからはアメリカが味方だ。マッカーサーが一番催いから、彼に従え」
「はい、わかりました」
「帝国主義は大きな誤りであり、悪であった。いけないのは軍部であって、天皇に責任はない。民主的な自由国家こそが真の国家だから、そう思え」
「はい、わかりました」
「経済戦争に勝利するために死に身になって働け」
「はい、わかりました」
「愛社精神に燃えろ。サービス残業に精を出せ。景気が悪化してきたから辞めてくれ」
「はい、わかりました」
「原発を誇致するぞ。安全だから心配するな。おまけに労せずして地元に大金がころがりこんでくるから歓迎しろ」
「はい、わかりました」
「想定外の大津波に原発がやられたが、何ら問題はないからな」
「はい、わかりました」
「放射性物質が少しばかり漏れだしているようだが、健康に影響はないから大丈夫だ」
「はい、わかりました」
「念のためによその土地へ避難しろ」
「はい、わかりました」

 この国の人々はいったいいつまで「はい、はい」と言っていれば気が済むんでしょうか。怒りという感情をもちあわせていないんでしょうか。自分というものを持っていないんでしょうか。
 そうやって、いかなる深刻な事態に陥っても羊のごとくおとなしくしている日本人を、外国のメディアは驚きをもって高く評価しているようですが、果たしてそれを額面通りに受け取っていいものなのでしょうか。
温厚で、素直で、紳士的で、暴動の気配も見せない立派な国民と言われて本当に喜んでいいのでしょうか。

丸山健二「首輪をはずすとき」(駿河台井出版社・2011)

 

丸山健二のブログ http://ameblo.jp/maruyamakanji/

 

2012.2.8

 

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 ジョニー・キャッシュは大木だ。天空に無数の枝葉を広げたこの宇宙樹が発する震えるバリトンは、ときとして、まるで千年前のイエスの声のようにも聴こえる。そのかれがイエスに「死の不安をとりのぞいてください」と懇願しているのが1996年、64歳のときに発表したアルバム「Unchained」に収められた一曲、Spiritual。A, E, F#m, D この単純な四つだけのコード・パターンが淡々とくりかえされるなかでかれは、さいごにもう一度だけ、死に向き合う勇気を与えてください、と歌う。ひとりぼっちで死にたくはない、とうめく。宇宙樹があまたの種子を吐き出して、いままさに枯死せんとしている。死ぬのはいのちなのか。精神なのか。巨大な宇宙樹の洞(うろ)の奥底にまっくらな孤独な部屋があって、そこでネズミのような小さな魂がふるえおののいて、何かもっと巨(おお)きなものに対峙しているようなのだ。死ぬのはいのちなのか。精神なのか。わたしは消えていくだけなのか。どうか、おしえてください。

 この Spiritual という曲はいったいどんなアーティストが書いたのだろうと調べてみたら、チャーリー・ヘイデン(Charlie Haden)なるジャズ・ベーシストが2008年に発表した「Charlie Haden Family & Friends / Rambling Boy」というアルバムに辿り着いた。チャーリー・ヘイデンはかつてオーネット・コールマンやキース・ジャレットらのカルテットにも在籍し、最近ではギタリストのパット・メセニーとの競演作も発表している古株のウッド・ベーシストらしいが、もともとはカントリー・シンガーの家庭に育ち、幼少時からファミリー・バンドで歌っていたそうだ。つまりこのアルバムはそんなかれが、実際にカントリー界で活躍している三人の娘たちや豪華な友人たち(パット・メセニー、ジェリー・ダグラス、リッキー・スキャッグス、ブルース・ホーンビー、ロザンヌ・キャッシュ、エルビス・コステロ等々・・)を交えてつくりあげた、古きよき時代のアメリカ音楽の風景、とでもいったようなものか。Spiritual はこのなかで、父の弾くベースをバックにしてかれの息子であるジョシュ・ヘイデンによって歌われている。このチャーリー・ヘイデンの続きでもう一枚、アマゾンのレビューを読んで思わず注文してしまったのが、ジャズ・ピアニストの盟友:ハンク・ジョーンズ(Hank Jones)と製作した1995年の「Steal Away: Spirituals Hymns & Folk Songs」。到着が待ち遠しい。

Family & Friends / Rambling Boy(amazon) http://www.amazon.co.jp/Family-Friends-Rambling-Charlie-Haden/dp/B001BCCPYK/ref=pd_sim_sbs_m_1

レシーブ二郎の音楽日記 http://blog.livedoor.jp/gentle_soul/archives/51603858.html

Steal Away: Spirituals Hymns & Folk Songs (amazon)  http://www.amazon.co.jp/Steal-Away-Spirituals-Hymns-Songs/dp/B0000046YU/ref=pd_sim_m_1

2012.2.11

 

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 かつて現場でいっしょに働いていたNさんのお父さんが亡くなり、おなじ事務所のTさんと葬儀に出席した。サイパン島で捕虜になり、ハワイで強制労働をさせられている5年の間に、故郷では諦めて葬式も出していた。それが90歳まで生きて大往生だ。いちども会ったことはなけれど、人に歴史あり。祭壇の写真はNさんによく似ていた。いつもはひょうひょうとしたNさんも90とはいえ実の父親だ、思いは知らず駆け巡るのだろう。どこかそこらを泳いでいる魂を探しているような、そんな眼をしていた。最後に色花を足元において、お棺の顔を見て、帰ってきた。

 夜、そんなお葬式の話からお墓の話になり、供養の話になり、さまざまな死者の弔い方の話になり、子にインドネシア トラジャの幼くして死んだ赤ん坊の遺体を包み込んだ聖なる樹木や、タウタウという死者に似せた木製の人形を並べた岩窟墓の写真をネットで見つけ出して話をした。

BS特選「「死ぬために生きる人々」トラジャの葬儀」 http://www.youtube.com/watch?v=2DDV2N2B68Y

2012.2.12

 

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 最近とくに気に入ってくりかえし聴いている音楽といえばレナード・コーエンだ。かれの2010年のライブ・アルバム「Songs from the Road」の一時間ものの映像をユーチューブで見て、どこかいまのじぶんの心根に共鳴するものがあった。グレーのソフト帽をかぶった75歳の老人がこなれたバックの演奏を得てじつに低く重く、そして軽やかに、この世とあの世のあわいを滑空している。初期の頃のこの男の欠点はかつてわたしにとって、あの少々ひ弱に聞こえる声のトーンとその裏側にすこしばかり滲んで見え隠れする気取り屋の気配だった。けれどこの山陰地方の重たい根雪のような呟きは、なぜかすんなりと入ってくる。Chelsea Hotel や Bird on the Wire や Suzanne など、どれもが味わい深い。つぼを押さえたバックの演奏も心地よい。ちょうどそんな折に発売されたかれの新作「Old Ideas」に、そんなわけで期待してみた。期待は、裏切られなかった。いやそれ以上であった。この御年77歳になるレナード・コーエンの新作に、わたしはかつてのモリスンの「No Guru No Method No Teacher」やディランの「Saved」で感じたものに近い感触を覚えている。似たような“ある種の決意”がここにはあるのだ。ぬきさしならぬ、けれど押しつけがましさはひとかけらもない、いわば深い森の中で裸で天を仰いで立っているような捨て身の決意だ。先行シングル・カットされた Show Me The Place のこの譬えようのない美しさはどうだろう? ぼくらは見果てぬ何かを追い求めていたはずだ。この世を去ってしまう前に、最後の一息まで諦めないことを思い出せ。

 

Leonard Cohen 「Old Ideas」(amazon)http://www.amazon.co.jp/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2-%E3%83%AC%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%82%A8%E3%83%B3/dp/B006QCKNSA/ref=ntt_mus_dp_dpt_1

LEONARD COHEN.COM http://www.leonardcohen.com/us/home

2012.2.14

 

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 オークションの送付などで封筒にいちいち住所を記すのが面倒なのと、もうこの先住所を移すことはないだろうからと、住所印をつくることにした。いやじぶんで彫るのではないよいまはそれだけの時間と余裕がない。当初は職場で使っている分離式のゴム印で注文をしようかと思っていたのだが、ネットであれこれ店を物色しているうちに色気が出てきて、もうちょっと気の利いたデザインのもの(ただし値段も分相応のもので)はないか・・ とずいぶん探して、東京・神田にある「松島清光堂」のサイトにたどり着いた。東京都千代田区神田小川町3-10って、おおここなら何度も前を通ったろうその昔。ここの住所印は風情があって、Yも気に入ってくれた。値段も良心的だ。その中から、ちょうど大和郡山だからと金魚のデザインを選んだのだった。それが今日届いた。しょせんゴム印だが、ホルダー部分は天然木で松ぼっくりの彫刻があって、なかなか洒落ている。電話番号の部分は空白にしてもらって、Yや子の名前を手書きで追記できるようにした。印鑑もいろいろ眺めているとひとつの宇宙だねまるで。

印の楽市 http://www.m-seikodo.co.jp/index.html

2012.2.16

 

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 今日はいつもより遅くまで残って仕事を片づけて、明日は朝からチビと二人、電車に乗って大阪へ。天王寺動物園を覗いて、台湾ラーメンを食べて、それから4年ぶりの市川おもちゃ劇団を西成のどまんなか、鈴成座へ見に行くのだよ。

天王寺動物園HOMEPAGE http://www.jazga.or.jp/tennoji/

中華料理 雲隆 http://sukapara.exblog.jp/15424686/

鈴成座・満座劇場 http://www.mine-office.jp/index.html

2012.2.17

 

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 土曜日。もともとは葛城山へ雪すべりに行きたいと子が言い出したのだが、生憎と山頂レポートでは雪は現在皆無との事。それで天王子動物園はどうかと逆提案すると「それもいいね」と賛成してくれた。待てよ、大阪へ出るのであれば・・・ と市川おもちゃ劇団の巡業予定を覗けば、なんとまさに西成の鈴成座で公演中! さっそくベッドの中に入った子に「市川おもちゃが大阪に来ているんだけど」と伝えると、「え、行きたい、行きたい」と。で動物園とのカップリングになった。忙しいです。

 当日は公民館のアルバイトへ行くYの車に乗っけてもらいJR駅まで。朝8時過ぎの難波行きに乗り、天王寺で地下鉄に乗り換えて動物園前、それからまだ眠りかけのジャンジャン横丁をぶらぶらと抜けていったら、9時半の開園まで優に30分はあった。仕方なく通天閣の足元をうろうろとして、改装してしまった浪速倶楽部も見て、古いヤクザ物の映画のポスターを眺めて、自動販売機のジュースがなぜここでは50円なのかの簡単な説明を子にして、早くも営業している店で早くも生ビールを横に串かつなどを頬張っている幸福なおじさんたちを眺めて、あんまり寒かったので最後に「2月一杯で店仕舞いします」と貼り紙された棚すかすかのコンビニで子のお八つのチョコレートなどを買ってしばし寒さを凌いで開園を待った。9時半の開園。子の希望で暖房の効いたアイファー(爬虫類やカメなど)館をゆっくり見て、アフリカサバンナ・エリアを抜け、動物園の西側半分をやや駆け足で通り抜ける形で回った。いちばん面白かったのは子どもがうじゃうじゃ生れて群れを成して走り回っているチュウゴクオオカミ。この群れの中で突如起こった噛み付き合いの壮絶な争いを目の当たりにしたこと。オオカミはふだんはシベリアンハスキーみたいな大人しそうな顔をしているが、牙を剥いた表情はそれが一変して、これなら人間の子どももかっさらって喰うだろう、という顔つきになる。また最近、九州の本屋で見かけていつか読みたいと思っている小倉美惠子「オオカミの護符」(新潮社)を思い出し、オオカミと山の神についてしばし民俗学をしたりしてしまったのだった。子も夢中でデジカメを向けて動画を撮影していた。園内のトイレでオシッコを摂らせてから、10時45分に動物園を出て、ジャンジャン横丁を抜けて地下鉄・動物園前駅2番出口すぐのわたしのお気に入りの台湾ラーメンの店「雲隆」で早めの昼食。わたしは台湾ラーメンと焼き飯のセット(680円)、子が天津飯(480円)、二人で餃子(180円)。安くて旨い。まさに理想の店。さてここから西成区鶴見橋にある鈴成座へは、歩くにはちょっと子の足には負担が多く時間の余裕もなく、また地下鉄などを乗り継いでも場所的に中途半端なため、ちょっと奮発して商店街の前に止っていたタクシーに乗って劇場のまん前まで連れていってもらった。動物園前から900円。ほどよく開演20分前の11時45分。いよいよ来ました、鈴成座。鶴見橋2丁目のかの安売りスーパー玉出の裏、車がやっと一台通れるほどの細い路地裏に構えている。間口は町の電気屋さんって感じか。手前にガレージのようなスペースがあってそこに花輪もぐるりと飾られているのだが、前の道が狭いから開場前にここの客を並ばせるのだろうかとも思った。左手に細い、パチンコ屋の裏口のような通路があって、そこを抜けると入口があり、券売機があり、受付でおばちゃんが座っている。当日券は大人1500円、子は1000円。(新世界の浪速倶楽部は1200円) チケットと交換におばちゃんがホッカイロを呉れる。中へ入ると、花道をはさんで右に座席が88席、左に桟敷席が29席。土曜の昼に最終、お客は50名くらいであったかな。ちょっとさみしい。子をトイレに行かせて、前から三列目の右端に陣取って開演を待つ。受付のおばちゃんがわざわざやって来て「さっき、渡さなかったね〜 これは座長さんから」と子に綿菓子を呉れた。それから15時まで、約三時間のショー。まずは顔見世の踊りをいくつか、そして任侠股旅ものの芝居「松五郎懺悔」、グッズと前売り券の宣伝をはさんで、ふたたび踊り、最後に三味線太鼓ショー。新世界の浪速倶楽部でサワさんやわたしの悪友A、子の4人で見たのは4年前だ。その後わたしはあのめくるめく非日常の幻惑が忘れられず、一人生野区のコリアンタウンにある明生座へ仕事を早引きして見に行ったものだった。正直に言ってあの頃のおもちゃ劇団の“幻惑”は残念ながら薄れていた。原因はかつての座員の多くが変わってしまっていたことによる。座長である市川おもちゃと絡んでいた(ある意味ナンバー2といえる)若手の市川やんちゃがいなくなった。演技や踊りはそれほどでもなかったけれど、いわゆる紅一点の別嬪役で華ある市川舞子がいなくなった。男気あふれるダイナミックな踊りが意外と魅力的であった市川大地がいなくなった。そして縁の下の力持ち的な貫禄のベテラン・大川龍子がいなくなった。この穴は大きい。あれこれネットで調べてみたら、所詮は2チャンネル的な噂に過ぎないが、芸能関係の女に夢中になった市川おもちゃが出て行ったとか、市川舞子が妻子のある座長に手を出そうとして劇団にいられなくなったとか、実際のところは判らないけれど、まあ年中旅から旅への暮らしで人間関係もいろいろとあるのかも知れない。それでも残念だな。よそから応援できていた高羽ひろきとか、「OS劇場からきて貰った」と市川おもちゃが紹介していた背の高い手馴れたお姉ちゃんとか、あの二人で何とか体を成している面もあったと思う。一見二枚目風だが涼しげな顔で微笑むしか芸のなさそな市川司では役不足だし、あんころ餅のような太っちょのあばさんの踊りもちょっと食傷気味。あとはまだまだ新米か端役レベルしかおらず、おもちゃジュニアの二人の可愛い子役には思わず頬もほころぶがそれ以上ではない。結局は座長の市川おもちゃと、実の母であるベテランの市川恵子のふんばりで何とか持っているといった感じは否めず、少々痛々しかった。早く体制を立て直して、またあの幻惑的な非日常の舞台を見せてください。まあそれでも久しぶりの大衆演劇、三時間たっぷり、それなりに愉しませて頂きました。子はとくにお芝居で笑い転げていた。帰りは路地を抜けて四つ橋線の花園駅まで歩いて、大国町経由で天王寺へ。Yへのおみやげにシュークリームを三つ買ってJR線に乗った。子は席が空いているという父の誘いに首を振ってドア近くにひとり立ち、iPODで最近はまっている桂枝雀の落語を聴きながら車窓の景色を眺めている。

2012.2.19

 

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 北関東に住む母より「きたいばらき震災記」が送られてきて、そろそろと読みすすめている。

 以下、茨城新聞記事より転載。

 

「震災の記憶、風化させない」北茨城市民が記録集

東日本大震災の記憶を風化させないために-。大地震や津波、福島第1原発事故による被害を受けた北茨城市の有志5人が、市内の被災者の声や支援活動の様子をまとめた「きたいばらき震災記」(A5判、194ページ)を発行した。約半年をかけて、震災直後の状況や思いをつづった手記やインタビュー記事を収録。編集メンバーは「市内各地で何が起こり、どう乗り越えていったかを振り返り、今を頑張って生きる一助になればいい」と願う。

震災記を編集したのは、内藤洋子さん(60)と大塚淳子さん(59)、畠山その枝さん(58)、荒川慎吾さん(42)、及川仁美さん(37)の5人。震災で変わり果てた街の様子や人々の生活、復旧への動きを見聞きする一方、時間とともに記憶が薄れていく不安を実感。「震災の様子を記録すべきでは」との内藤さんの言葉をきっかけに、昨年夏、仲間たちが集まり編集委員会を立ち上げた。

地域や年齢が偏らないよう幅広く、114人の市民に原稿を依頼。漁師、商店主、教師、市職員、主婦、小中学生などから寄せられた手記や詩をまとめた。市長へのインタビューや救助・復旧に奔走した消防分団長らの座談会記事も盛り込み、震災直後の様子や恐怖、避難所で励まし合ったこと、全国から寄せられた支援やボランティアへの感謝、原発事故に対する憤りなど、一人一人の貴重な体験と思いを凝縮した1冊に仕上げた。

県内外の団体や個人による賛助会員の協力を得て、1500部を発行。1冊500円で、6日から市内で開かれる「北茨城ひな灯(あか)り」会場で販売する。郵送での購入も可能(郵送料別途80円)。諸経費を差し引いた収益は、震災復興支援として北茨城市に寄付される。

問い合わせは、ぎゃらりーさらま・ぽ TEL0293(46)0417

2012.2.20

 

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 仕事を終えていつもより遅く帰宅をすると、まだ子とYが夕食を囲んでいる。「今日は忙しくてね〜」 子がお腹が痛いと言い出して摘便に1時間以上も奮闘し、今日はそれで塾も行けなかったと。昨日は学校でお腹が痛いなと思っていて、痛みが消えたと思って次にトイレへ行ったときにパッドにべったりと多目の便が洩れていた。すでに完治したインフルエンザやその処方の影響もあるのかも知れないが、やはり10歳を過ぎた頃から一般的に、体重も増え、食事の量も増え、運動量も増え、自然と便の量や回数も増えるということのようだ。これまでは、幸い子が便秘体質であったために、3日にいちどくらいの摘便で済んでいたが、今後はもう少し意図的な排便のコントロールが必要となってきそうだ。便が出ても「出た」ことと、それがお尻に「はりついている」ことの感覚がないのだから、周りの子たちが先に気づくことにもなりかねない。いつも診てもらっている泌尿器の医者に「そろそろ洗腸をした方がよいか?」と訊くと、いわゆるふつうの「肛門から注入した水を盲腸付近まで到達させ、結腸全体の便を泥状にして一気に排泄させる」逆行性洗腸法は腸を傷つける怖れがあるのであまりお勧めはできない、他に腸の端を手術によって身体の外部につなげて口を作りそこからカテーテルを入れて洗腸する順行性洗腸法(MACE 法)というのがあるが「これも見た目が悪いしね〜」と言う。結局、しばらくは(幼児の頃にやっていた)ふつうのグリセリン浣腸を2〜3日の間隔で行って様子を見ようかという話になっている。夕食後にそんな話になって子にMACE 法の説明をすると、「それだけはイヤ〜」と。まあ、当たり前だろうな。

二分脊椎症など脊髄神経障害による排便障害(PDF) http://www.byouin.metro.tokyo.jp/shouni/section/geka_nibunsekitsui.pdf

2012.2.21

 

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 日帰りで九州へ打ち合わせ。九州ラーメン総選挙一位になったというラーメン暖暮をごちそうになる。九州っておいしいものが多い。そして男はみんな女好きだ。打ち合わせ会場の施設で九州で唯一の人形浄瑠璃という勝浦人形浄瑠璃のチラシをゲット。帰りの新幹線で博多地鶏めし弁当を食べてから、丸山健二「首輪をはずすとき」(駿河台出版)をもういちど読み返して叱咤される。

2012.2.22

 

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  カリフォルニアから CHARLIE HADEN / HANK JONES 「Steal Away: Spirituals Hymns & Folk Songs」が届く。仕事で少々へばりぎみの身体をソファーに横たえて新聞を読んでいる。朗らかな子とYとの会話を内心で微笑みながら聞いている次の瞬間、無辺の宇宙に墜落してせつなさで胸がいっぱいになる。子とYとこのわたしと、三人がこうして寄りそってしあわせでいられるのはほんとうにほんとうに、ほんの一瞬のまたたきのようなものだ。太陽のコロナがこの惑星を呑み込むとき、あるいは星の時代が終わりを告げ暗黒の無が横たわるとき、わたしたちはどこにいるのか? どこにもいないのか? こうして三人で微笑んでいた記憶はどこへ片づけられてしまうのだろうか。

My Secret Room http://plaza.rakuten.co.jp/mysecretroom/diary/201005250000/

amazon http://www.amazon.co.jp/gp/product/B0000046YU/ref=oh_o00_s00_i00_details

2012.2.24

 

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 放射能測定器を注文した。たとえ微量であっても、目に見えぬ放射能というものを実感したいと思って。ここ数日、Webであれこれと調べていて、最終的に「このあたりかな」と候補にしたのが Quarta-RAD社の「RD1706」SOEKS社の「SOEKS-01M」の二種。どちらもロシア製らしい。アマゾン価格で現在、前者は17,800円、後者は13,480円。けれど最終的に川由紀夫さんの火山ブログ中の「放射能測定器の比較」表を見て、最近、日本のエステーから発売された「エアカウンターS」に決めて夜中にWeb注文した。こちらは現在、アマゾンで5,300円。ちなみに比較表に出てくる「A2700」は、13万円するシンチレーション式の測定器で全般的に評価が高い高機能機種。詳しい性能や測定器の仕組みなどはいろんなところでいろんな方が実際に使われた感想や結果を書いているのでここでは省略するが、わが家がもし実家の母親宅のように福島原発から半径50キロ〜100キロくらいに居住をしていたら、躊躇わずに冒頭の二種、あるいは思い切って「A2700」も購入したかも知れない。けれどいまのところはそこまで金額を積まなくても、「エアカウンターS」あたりで機能的にはまずは充分、という結論。

 

文部科学省 放射線モニタリング情報 http://radioactivity.mext.go.jp/ja/index.html

日本の自然放射線量(日本地質学会) http://www.geosociety.jp/hazard/content0058.html#map

環境放射線測定結果(東京都健康安全研究センター) http://monitoring.tokyo-eiken.go.jp/radiation_measurement.html

比較的安価な放射線測定器の性能(国民生活センター) http://www.kokusen.go.jp/news/data/n-20110908_1.html

みんなでつくる放射線量マップ>線量計紹介 http://minnade-map.net/equipment.php

放射線・放射線測定器のメモ(個人Web) http://www.mikage.to/radiation/

全国の放射能濃度一覧(個人Web) http://atmc.jp/

2012.2.25

 

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 休日。午後から、市内に残存する旧遊郭の建物を見物にいく。「旧川本邸」はかつて花街として賑わった洞泉寺地区にある大正13年建築、木造3階建ての遊郭建築で、平成11年に解体されることになったため大和郡山市が保存活用の目的で買い取った。前々から内部を見てみたかったのだが、今回は城下町のあちこちの古民家等に古い雛人形を飾っててくてくと見て歩いてもらおうという市の催し「大和な雛まつり」の一環で一般公開されたのを利用して覗きに行ったわけだ。他の見学の方々と異なり、わたしはもっぱら雛人形よりも遊郭の建物そのものに眼が行く。髪結い場、便所、風呂場、そして三畳ほどの薄汚れた数々の小部屋たち・・・ 人間どものストレートな欲望や体臭が匂ってくるような、こんな場所が好きだ。それにしてもだいぶあちこち痛んでいるのが勿体無い。あれこれと活用方法は模索はしているようだけれど、買取からすでに十数年も経過しているのだから、いい加減にそろそろきちんと修繕をして貴重な文化財をもっと上手に使っておくれよ、みずからの余剰定数すら削減できないおえらい市議さん方よ。

 

大和な雛まつり>大和郡山市 http://www.yamato-koriyama.com/spotlight/hina%20top.htm

旧川本邸保存活用プロジェクト http://kmachi.narasaku.jp/

【やまと建築詩】旧川本家(大和郡山市) http://www.nara-np.co.jp/graph/gra040606_house.html

旧遊郭建築の保存再生 その1(PDF) http://ci.nii.ac.jp/naid/110007072738 (右端のPreview図面をクリック)

2012.2.26

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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