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□ 日々是ゴム消し Log69

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 書斎の照明に、ネットで偶然見つけたガラスシェードのペンダントライト(ガラスセード/マルゴー#GLF-3110S)を衝動買いしてしまった。後藤照明は明治28年創業の東京・墨田区にある老舗メーカー。照明器具ひとつで部屋の雰囲気がこれほど変わるものか。わたしは大正浪漫と云い、Yは居酒屋のようだと評し、子はなんてやわらかな光と微笑む。

 

後藤照明株式会社 http://www.glf-lighting.com/

2011.5.24

 

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 休日。子の机の上がいつも教科書や塾の宿題、ノート、本などが積み上げられているので、余り材でサイドテーブルをつくった。もともと材木屋で見つけた檜の無垢板でつくった机だから、既製のものよりは面積は狭いので、ここまではアフターサービスのつもりで。あとはじぶんで好きな色の塗料を塗らせるつもり。

 Yは午前中はトマトの出荷作業、午後はベビーシッターのそれぞれアルバイトなので、木工作業以外はジップの散歩と、昼食、夕食の支度も。

 午後。作業の合間にソファーでうたた寝をしていて、原発事故の夢を見て目覚めた。

 

2011.5.25

 

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 早朝のジップとの散歩で、さいきん気に入っている場所がある。昔ながらの古びた城下町の一角、茶町の天満神社の裏手の集会所のような小さな建物をくるりと巻くと、夏草が生い茂り打ち捨てられたような、民家に囲まれた廃寺跡の墓地がひっそりと佇む。「北和札所第六十番慈眼寺」の標石を見つけて郷土資料をめくり、大正から昭和にかけて廃寺となったらしい慈眼寺という寺の跡地だと知った。一日の静かなはじまりに、飼い犬を連れてこの場所にしばし佇む。苔生した標石。黒ずんだ五輪塔。青い樹皮のように表面の石がめくれて一部が落剥した墓石。石でさえもいつかは確実に土に還るのだと思わせてくれるこんな場所が好きだ。

幻の大和北部八十八ヶ所霊場を巡る http://homepage3.nifty.com/kimura1/Naran88temp/index.htm#第六十番霊場 慈眼寺

2011.5.31

 

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 宿題を終えた子が二階から下りてきて、わたしに一冊のノートを手渡す。「インディアンの歌」と題した詩が書いてある。

 

俺はインディアン

夜なんてこわくない

暗やみは俺の兄さん
  かしこくたくましい兄さんだ

おおかみは俺の姉さん
  つよくゆうかんな姉さんだ

だから俺をいじめたりしない

兄さんは俺をすずしくしてくれるし
姉さんは俺をやさしくみちびいてくれる
俺は暗やみの中 まようこともないし
おおかみにたべられることもない

俺たちは兄弟 ひとつなんだ
兄さんが死なないなら姉さんや俺も死なない
姉さんがおおかみなら兄さんや俺もおおかみ
俺が生きてるなら兄さんや姉さんも生きてる

俺は兄さんや姉さんに
  うらぎられたことなどない

 

わたし : インディアンと、暗やみと、おおかみの歌なんだね。どうしてこの組み合わせなの?

しの : なんていうかな。インディアン以外の白人とか、ふつうの人がこわがるものっていったら暗やみとおおかみでしょ。
     みんながこわがるものがインディアンの友だちなんだっていう歌なの、これは。

 

2011.6.2

 

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 休日。朝は子のサイドテーブルにナチュラルのワトコオイルを塗る。昼前に自転車で小学校へ、子の体育の授業を見学に行く。体育館でのマット運動。前転、後転、開脚前転、開脚後転・・・ 子は後転が何度やっても回れない。途中で先生に声をかけ体育館を出てきたので訊くとトイレだという。いっしょに教室へ導尿の道具をとりに行き、子が体育館とは正反対の障害者用トイレへ歩いていってからひとり教室に残って、子どもたちの描いた人権啓発のポスターを眺めていた。特に子と、子に「障害者、だまれ」と言ったSくんの作品を。子のポスターが画鋲がひとつ外れて傾いていたので、椅子を借りて貼り直した。トイレの済んだ子と体育館へ戻ったとたん、先生がピーッと笛を鳴らして授業の終わり。結局、子は前半の20分ほどしかできなかった。担任のT先生とすこしお話しをして帰ってきた。午後は車でYと買い物へ。

 明日はYの甥っ子の結婚披露宴で朝から和歌山へ。

2011.6.3

 

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 休日。朝から外溝業者とすり合わせをして、警察署で警備資格の住所変更申請の手続きをして、お昼にざる蕎麦を食べて、ソファーで先日図書館で借りてきた千松 信也「ぼくは猟師になった」(リトルモア)をめくっているうちにうつらうつらとして。

 夕刻、ベビーシッターのアルバイトから帰ってきたYが買い物袋を片手に書斎へ入ってきて、「何を見ているの?」とPCモニタを覗き込む。わたしは宮城県警のホームページで身元不明の犠牲者が付けていたという衣類等の写真をひとつづつ開き、痴呆のような顔で眺めている。

 夕食後、学校の野外活動で矢田の少年自然の家に泊まりにいる子がオシッコを二度漏らしたという報せを受けて、Yと二人で換えのジーパンなどを持っていく。「きっと愉しさに紛れてトイレに行くのをサボったのだろう」とYと話す。「でも紫乃は愉しんでいるところだから、叱ったりしないで、“多めにトイレに行こうね”と言うだけにしておこうね」とYが言う。

 夜、テレビでYが録画していた映画「沈まぬ太陽」を二人で見る。

2011.6.16

 

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 小出裕章「原発のウソ 」(扶桑社新書)を一気呵成に読み終え、広瀬 隆「FUKUSHIMA 福島原発メルトダウン 」(朝日新書)を暑い通勤電車の中で読んでいる。引用するのも陰鬱になるような事が書いてあって、おそらくこれらは残念だけれど事実なのだろうと思う。少なくともわたしは、無知で厚顔で心無い、まさに万死に値する政治家や官僚や東京電力とそれにつらなるマスコミやメディアや御用学者を含むハイエナどもの報告よりも、かれらの言っているほうがより真実に近いのだろうと思う。わたしたちはみな、愚の骨頂であった。絵に描いた餅のごとき幼稚で危険極まりない杜撰な原子力にまつわる膨大なシステムを、ハイエナほどの智慧も脳味噌も心もない連中に預けておいて安穏としていた。そのあげくにわたしたちは、わたしたちの子どもらの未来の時間や豊かな自然や、果てはDNAにまで及ぶ深刻な破壊を招いてしまった。わたしたちはみな、愚の骨頂であった。これから生れてくる未来の命の前で、わたしたちはみな万死に値する。

 わたしはもう二度と「かれら」を信じまい。無知で厚顔で心無いかれらの話す言葉も、かれらの周りに群がるハイエナどもが垂れ流すしたり顔の情報も。わたしはじぶんの頭で考える。もうこれ以上、やつらの舌の上で踊らされるのは真っ平御免だ。

2011.6.24

 

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 原発についてわたしは正直、知らないでいたことがあまりにも多すぎた。これまであまりにも多くのことを知らずに済ませていた。遅ればせながら小出氏や広瀬氏の著書を読んで引用したいことは無数にある。特に政府や東電、無知なマスコミが垂れ流しているデータや基準値、見識、状況認識についてなど、どれもこれも引用したいのだが、「もう原発ははっきりとやめなくてはいけない」とわたしが確信するのは、次のような部分だけで充分だ。

 

 現在、あらゆるところに放射能のゴミが捨てられています。ウラン鉱山でも、製錬所でも、濃縮・加工施設でも、原発そのものでも、そして再処理工場でも捨てられています。
 環境に捨ててしまっているこれら「核のゴミ」を真剣に始末しようとした時、どういう作業が必要になるでしょうか。
 一番大きい問題は「廃炉」です。原子力発電所は「機械」ですから、何十年か動けば最後には動かなくなります。原発自体が巨大な「核のゴミ」と化すわけです。これを未来にわたってどう管理すればいいのかという問題が出てきますが、実のところさっぱり分かっていません。「分からない」といっても現実に福島第一原発は廃炉になるわけですから、全世界の叡知を集めてでもなんとかしなくてはならない。ですが、正直どうすればいいのか、誰も明確な答えは持っていません。

 そこでまず分かりやすい問題から考えてみます。原子力発電所で毎日大量に生み出されている「低レベル放射性廃棄物」の問題です。これは放射能の汚染度合がそれほど高くないゴミのことで、放射性物質が付着してしまった使用済みペーパータオル、作業着などが例としてあげられるでしょう。1年間原発を動かすとこの「低レベル放射性廃棄物」がドラム缶で約1000本出ます。
 1980年の時点でそれらのドラム缶は約25万本。それぞれの原発敷地の中にドラム缶置き場があって、低レベル放射性廃棄物はそこで保管されていました。それでは原発の置き場に何万本分のキャパシティがあったかというと、1980年の段階で30万本程度でした。
 その後、ドラム缶はだんだん増えてきます。電力会社はそれに合わせて置き場を増設していきました。しかし、いくら造ったところでゴミは止まることなく出てきます。
 そこで気づいたんです。「いずれこれは破綻してしまう」ということに。というわけで、燃やしてしまうことにしました。一度ドラム缶に詰めた放射能のゴミを、ふたを開けて引きずり出してきて、灰にして量を減らすというわけです。
 そうやって、すでに何十万本分ものドラム缶を減らしました。ところが、それでもドラム缶はどんどんどんどん容赦なく増えていきます。2005年の段階でとうとう70万本に達するドラム缶ができてしまいました。

「これはもうダメだ」ということで、六ヶ所村に押し付けることにしました。すでに20万本近いドラム缶が六ヶ所村に送られています。
 六ヶ所村では、地面に穴を掘ってその中にコンクリートのドラム缶置き場を造りました。その中にドラム缶をどんどん並べて、いっぱいになったら上からコンクリートでふたをして、まわりを粘土で固めて、上から土をかぶせます。そうやってコンクリートの建物をどんどん埋めていくことにしました。
 しかし、ご存知のとおりドラム缶は鉄でできています。そこら辺に置いておいたら、1年もたてば錆びてポロポロです。ドラム缶置き場は地下にありますから、ものすごく湿度の高い環境にあるわけで、非常に簡単にドラム缶に穴が開いてしまいます。放っておけば放射能が漏れ出てくるので、脇に「点検路」を作ってずっと監視することになっています。
 それでは「いったい何年間監視するつもりか」と聞いてみると、なんと300年だそうです。300年間監視し続けて、漏れてきたらそれを押さえ込んで……という作業をやり続けていけば、やがて放射能は少しずつ減ってくれるから「なんとかなるだろう」というのが、政府の説明です。

 それでは「高レベル放射性廃棄物」はどうでしょうか。高レベル放射性廃棄物というのは、使用済み核燃料を再処理してウランとプルトニウムを取り出した後の残りかすのことを言います。これらは「超ウラン元素」と呼ばれる核分裂生成物を含む、きわめて強い放射能の塊です。
 私たちが原子力発電に手を染めてしまった以上、必ず「死の灰」の後始末という仕事が最後に残ります。今まで多くの研究者がなんとか「死の灰」を無害化できないかと、必死の研究を続けてきました。できなければ大変なことになることを、みんなが分かっていたのです。しかし残念なことに人間はその力をいまだに持っていません。
 どうしようもないから、政府は高レベル放射性廃棄物を「ガラス固化体」に固めて地面に埋めてしまうことを考えています。地上に廃棄物の受け入れ施設を造って、300〜1000mの深い縦穴を掘ります。その底にさらに横穴を掘って、そこに埋めてしまうのです。
 今、こういう廃棄物埋め捨て地の引き受け先を探しています。調査を受け入れたら20億円支払うという条件をつけたので、赤字に苦しむ各地の小さな自治体が手を挙げかけているところです。しかし、それぞれの地域の住民たちが必死の抵抗をしていて、どこにできるかはまだ決まっていません。でも日本政府は「やるしかない」と言っている。
 それでは、その自治体の住民は何年この放射性廃棄物と付き合っていかなくてはならないのかというと、何と100万年だそうです。

小出裕章「原発のウソ 」(扶桑社新書)

 

 300年でも馬鹿げすぎているが、100万年とは、開いた口も未来永劫弥勒の世まで塞がるまい。ここに至る道中で名を連ねてきた政治家たち、官僚たち、そしてそれを擁護してきた肩書きだらけのエセ「専門家」たちの脳味噌がこれほどまでに腐り、機能を喪失していたとは驚きを禁じえない。おまえたちは全員、福島第一事故で故郷を失った人々の前で土下座し、腹を切って死ね。

 そしてこんな馬鹿げた状況でありながら、いまだに「原発をやめよう」と言い出せない政治家はもう辞めた方がいい。おまえたちにこの国のことを考える能力はない。辞めて、ハローワークで別の仕事でも探してくれ。たぶん年齢も年齢だろうから警備か清掃の仕事くらいしかないだろうが、冗談ではなくて、ほんとうにそうしてくれ。これ以上あんたらに狂ったことをされるより、ショッピングセンターの車の誘導や駅の便所の掃除をしてくれた方が余程この国は救われる。

 ところで今朝の朝日新聞2面は「核燃ごみ増殖・満杯は目前 行き場なし・プールに密集 リスク増大」といった見出しの特集記事を載せていたが、こんな300年だとか100万年なんて記述は見えなかったな。結局、かれらマスコミもすでに腐敗していて肝心のチェック機能など爪の垢ほども待ち合わせていないのだ。誰も、何も言わずに、ここまで来てしまった。

 じぶん自身も含めて、誰も、何も言わなかった。

2011.6.26

 

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【村上春樹:カタルーニャ国際賞スピーチ原稿全文】

 「非現実的な夢想家として」

 僕がこの前バルセロナを訪れたのは二年前の春のことです。サイン会を開いたとき、驚くほどたくさんの読者が集まってくれました。長い列ができて、一時間半かけてもサインしきれないくらいでした。どうしてそんなに時間がかかったかというと、たくさんの女性の読者たちが僕にキスを求めたからです。それで手間取ってしまった。

 僕はこれまで世界のいろんな都市でサイン会を開きましたが、女性読者にキスを求められたのは、世界でこのバルセロナだけです。それひとつをとっても、バルセロナがどれほど素晴らしい都市であるかがわかります。この長い歴史と高い文化を持つ美しい街に、もう一度戻ってくることができて、とても幸福に思います。

 でも残念なことではありますが、今日はキスの話ではなく、もう少し深刻な話をしなくてはなりません。

 ご存じのように、去る3月11日午後2時46分に日本の東北地方を巨大な地震が襲いました。地球の自転が僅かに速まり、一日が百万分の1.8秒短くなるほどの規模の地震でした。

 地震そのものの被害も甚大でしたが、その後襲ってきた津波はすさまじい爪痕を残しました。場所によっては津波は39メートルの高さにまで達しました。39メートルといえば、普通のビルの10階まで駆け上っても助からないことになります。海岸近くにいた人々は逃げ切れず、二万四千人近くが犠牲になり、そのうちの九千人近くが行方不明のままです。堤防を乗り越えて襲ってきた大波にさらわれ、未だに遺体も見つかっていません。おそらく多くの方々は冷たい海の底に沈んでいるのでしょう。そのことを思うと、もし自分がその立場になっていたらと想像すると、胸が締めつけられます。生き残った人々も、その多くが家族や友人を失い、家や財産を失い、コミュニティーを失い、生活の基盤を失いました。根こそぎ消え失せた集落もあります。生きる希望そのものをむしり取られた人々も数多くおられたはずです。

 日本人であるということは、どうやら多くの自然災害とともに生きていくことを意味しているようです。日本の国土の大部分は、夏から秋にかけて、台風の通り道になっています。毎年必ず大きな被害が出て、多くの人命が失われます。各地で活発な火山活動があります。そしてもちろん地震があります。日本列島はアジア大陸の東の隅に、四つの巨大なプレートの上に乗っかるような、危なっかしいかっこうで位置しています。我々は言うなれば、地震の巣の上で生活を営んでいるようなものです。

 台風がやってくる日にちや道筋はある程度わかりますが、地震については予測がつきません。ただひとつわかっているのは、これで終りではなく、別の大地震が近い将来、間違いなくやってくるということです。おそらくこの20年か30年のあいだに、東京周辺の地域を、マグニチュード8クラスの大型地震が襲うだろうと、多くの学者が予測しています。それは十年後かもしれないし、あるいは明日の午後かもしれません。もし東京のような密集した巨大都市を、直下型の地震が襲ったら、それがどれほどの被害をもたらすことになるのか、正確なところは誰にもわかりません。

 にもかかわらず、東京都内だけで千三百万人の人々が今も「普通の」日々の生活を送っています。人々は相変わらず満員電車に乗って通勤し、高層ビルで働いています。今回の地震のあと、東京の人口が減ったという話は耳にしていません。

 なぜか?あなたはそう尋ねるかもしれません。どうしてそんな恐ろしい場所で、それほど多くの人が当たり前に生活していられるのか?恐怖で頭がおかしくなってしまわないのか、と。

 日本語には無常(mujo)という言葉があります。いつまでも続く状態=常なる状態はひとつとしてない、ということです。この世に生まれたあらゆるものはやがて消滅し、すべてはとどまることなく変移し続ける。永遠の安定とか、依って頼るべき不変不滅のものなどどこにもない。これは仏教から来ている世界観ですが、この「無常」という考え方は、宗教とは少し違った脈絡で、日本人の精神性に強く焼き付けられ、民族的メンタリティーとして、古代からほとんど変わることなく引き継がれてきました。

 「すべてはただ過ぎ去っていく」という視点は、いわばあきらめの世界観です。人が自然の流れに逆らっても所詮は無駄だ、という考え方です。しかし日本人はそのようなあきらめの中に、むしろ積極的に美のあり方を見出してきました。

 自然についていえば、我々は春になれば桜を、夏には蛍を、秋になれば紅葉を愛でます。それも集団的に、習慣的に、そうするのがほとんど自明のことであるかのように、熱心にそれらを観賞します。桜の名所、蛍の名所、紅葉の名所は、その季節になれば混み合い、ホテルの予約をとることもむずかしくなります。

 どうしてか?

 桜も蛍も紅葉も、ほんの僅かな時間のうちにその美しさを失ってしまうからです。我々はそのいっときの栄光を目撃するために、遠くまで足を運びます。そしてそれらがただ美しいばかりでなく、目の前で儚く散り、小さな灯りを失い、鮮やかな色を奪われていくことを確認し、むしろほっとするのです。美しさの盛りが通り過ぎ、消え失せていくことに、かえって安心を見出すのです。

 そのような精神性に、果たして自然災害が影響を及ぼしているかどうか、僕にはわかりません。しかし我々が次々に押し寄せる自然災害を乗り越え、ある意味では「仕方ないもの」として受け入れ、被害を集団的に克服するかたちで生き続けてきたのは確かなところです。あるいはその体験は、我々の美意識にも影響を及ぼしたかもしれません。

 今回の大地震で、ほぼすべての日本人は激しいショックを受けましたし、普段から地震に馴れている我々でさえ、その被害の規模の大きさに、今なおたじろいでいます。無力感を抱き、国家の将来に不安さえ感じています。

 でも結局のところ、我々は精神を再編成し、復興に向けて立ち上がっていくでしょう。それについて、僕はあまり心配してはいません。我々はそうやって長い歴史を生き抜いてきた民族なのです。いつまでもショックにへたりこんでいるわけにはいかない。壊れた家屋は建て直せますし、崩れた道路は修復できます。

 結局のところ、我々はこの地球という惑星に勝手に間借りしているわけです。どうかここに住んで下さいと地球に頼まれたわけじゃない。少し揺れたからといって、文句を言うこともできません。ときどき揺れるということが地球の属性のひとつなのだから。好むと好まざるとにかかわらず、そのような自然と共存していくしかありません。

 ここで僕が語りたいのは、建物や道路とは違って、簡単には修復できないものごとについてです。それはたとえば倫理であり、たとえば規範です。それらはかたちを持つ物体ではありません。いったん損なわれてしまえば、簡単に元通りにはできません。機械が用意され、人手が集まり、資材さえ揃えばすぐに拵えられる、というものではないからです。

 僕が語っているのは、具体的に言えば、福島の原子力発電所のことです。

 みなさんもおそらくご存じのように、福島で地震と津波の被害にあった六基の原子炉のうち、少なくとも三基は、修復されないまま、いまだに周辺に放射能を撒き散らしています。メルトダウンがあり、まわりの土壌は汚染され、おそらくはかなりの濃度の放射能を含んだ排水が、近海に流されています。風がそれを広範囲に運びます。

 十万に及ぶ数の人々が、原子力発電所の周辺地域から立ち退きを余儀なくされました。畑や牧場や工場や商店街や港湾は、無人のまま放棄されています。そこに住んでいた人々はもう二度と、その地に戻れないかもしれません。その被害は日本ばかりではなく、まことに申し訳ないのですが、近隣諸国に及ぶことにもなりそうです。

 なぜこのような悲惨な事態がもたらされたのか、その原因はほぼ明らかです。原子力発電所を建設した人々が、これほど大きな津波の到来を想定していなかったためです。何人かの専門家は、かつて同じ規模の大津波がこの地方を襲ったことを指摘し、安全基準の見直しを求めていたのですが、電力会社はそれを真剣には取り上げなかった。なぜなら、何百年かに一度あるかないかという大津波のために、大金を投資するのは、営利企業の歓迎するところではなかったからです。

 また原子力発電所の安全対策を厳しく管理するべき政府も、原子力政策を推し進めるために、その安全基準のレベルを下げていた節が見受けられます。

 我々はそのような事情を調査し、もし過ちがあったなら、明らかにしなくてはなりません。その過ちのために、少なくとも十万を超える数の人々が、土地を捨て、生活を変えることを余儀なくされたのです。我々は腹を立てなくてはならない。当然のことです。

 

 日本人はなぜか、もともとあまり腹を立てない民族です。我慢することには長けているけれど、感情を爆発させるのはそれほど得意ではない。そういうところはあるいは、バルセロナ市民とは少し違っているかもしれません。でも今回は、さすがの日本国民も真剣に腹を立てることでしょう。

 しかしそれと同時に我々は、そのような歪んだ構造の存在をこれまで許してきた、あるいは黙認してきた我々自身をも、糾弾しなくてはならないでしょう。今回の事態は、我々の倫理や規範に深くかかわる問題であるからです。

 ご存じのように、我々日本人は歴史上唯一、核爆弾を投下された経験を持つ国民です。1945年8月、広島と長崎という二つの都市に、米軍の爆撃機によって原子爆弾が投下され、合わせて20万を超す人命が失われました。死者のほとんどが非武装の一般市民でした。しかしここでは、その是非を問うことはしません。

 僕がここで言いたいのは、爆撃直後の20万の死者だけではなく、生き残った人の多くがその後、放射能被曝の症状に苦しみながら、時間をかけて亡くなっていったということです。核爆弾がどれほど破壊的なものであり、放射能がこの世界に、人間の身に、どれほど深い傷跡を残すものかを、我々はそれらの人々の犠牲の上に学んだのです。

 戦後の日本の歩みには二つの大きな根幹がありました。ひとつは経済の復興であり、もうひとつは戦争行為の放棄です。どのようなことがあっても二度と武力を行使することはしない、経済的に豊かになること、そして平和を希求すること、その二つが日本という国家の新しい指針となりました。

 広島にある原爆死没者慰霊碑にはこのような言葉が刻まれています。

 「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」

 素晴らしい言葉です。我々は被害者であると同時に、加害者でもある。そこにはそういう意味がこめられています。核という圧倒的な力の前では、我々は誰しも被害者であり、また加害者でもあるのです。その力の脅威にさらされているという点においては、我々はすべて被害者でありますし、その力を引き出したという点においては、またその力の行使を防げなかったという点においては、我々はすべて加害者でもあります。

 そして原爆投下から66年が経過した今、福島第一発電所は、三カ月にわたって放射能をまき散らし、周辺の土壌や海や空気を汚染し続けています。それをいつどのようにして止められるのか、まだ誰にもわかっていません。これは我々日本人が歴史上体験する、二度目の大きな核の被害ですが、今回は誰かに爆弾を落とされたわけではありません。我々日本人自身がそのお膳立てをし、自らの手で過ちを犯し、我々自身の国土を損ない、我々自身の生活を破壊しているのです。

 何故そんなことになったのか?戦後長いあいだ我々が抱き続けてきた核に対する拒否感は、いったいどこに消えてしまったのでしょう?我々が一貫して求めていた平和で豊かな社会は、何によって損なわれ、歪められてしまったのでしょう?

 理由は簡単です。「効率」です。

 原子炉は効率が良い発電システムであると、電力会社は主張します。つまり利益が上がるシステムであるわけです。また日本政府は、とくにオイルショック以降、原油供給の安定性に疑問を持ち、原子力発電を国策として推し進めるようになりました。電力会社は膨大な金を宣伝費としてばらまき、メディアを買収し、原子力発電はどこまでも安全だという幻想を国民に植え付けてきました。

 そして気がついたときには、日本の発電量の約30パーセントが原子力発電によってまかなわれるようになっていました。国民がよく知らないうちに、地震の多い狭い島国の日本が、世界で三番目に原発の多い国になっていたのです。

 そうなるともうあと戻りはできません。既成事実がつくられてしまったわけです。原子力発電に危惧を抱く人々に対しては「じゃああなたは電気が足りなくてもいいんですね」という脅しのような質問が向けられます。国民の間にも「原発に頼るのも、まあ仕方ないか」という気分が広がります。高温多湿の日本で、夏場にエアコンが使えなくなるのは、ほとんど拷問に等しいからです。原発に疑問を呈する人々には、「非現実的な夢想家」というレッテルが貼られていきます。

 そのようにして我々はここにいます。効率的であったはずの原子炉は、今や地獄の蓋を開けてしまったかのような、無惨な状態に陥っています。それが現実です。

 原子力発電を推進する人々の主張した「現実を見なさい」という現実とは、実は現実でもなんでもなく、ただの表面的な「便宜」に過ぎなかった。それを彼らは「現実」という言葉に置き換え、論理をすり替えていたのです。

 それは日本が長年にわたって誇ってきた「技術力」神話の崩壊であると同時に、そのような「すり替え」を許してきた、我々日本人の倫理と規範の敗北でもありました。我々は電力会社を非難し、政府を非難します。それは当然のことであり、必要なことです。しかし同時に、我々は自らをも告発しなくてはなりません。我々は被害者であると同時に、加害者でもあるのです。そのことを厳しく見つめなおさなくてはなりません。そうしないことには、またどこかで同じ失敗が繰り返されるでしょう。

 「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」

 我々はもう一度その言葉を心に刻まなくてはなりません。

 ロバート・オッペンハイマー博士は第二次世界大戦中、原爆開発の中心になった人ですが、彼は原子爆弾が広島と長崎に与えた惨状を知り、大きなショックを受けました。そしてトルーマン大統領に向かってこう言ったそうです。

 「大統領、私の両手は血にまみれています」

 トルーマン大統領はきれいに折り畳まれた白いハンカチをポケットから取り出し、言いました。「これで拭きたまえ」

 しかし言うまでもなく、それだけの血をぬぐえる清潔なハンカチなど、この世界のどこを探してもありません。

 我々日本人は核に対する「ノー」を叫び続けるべきだった。それが僕の意見です。

 我々は技術力を結集し、持てる叡智を結集し、社会資本を注ぎ込み、原子力発電に代わる有効なエネルギー開発を、国家レベルで追求すべきだったのです。たとえ世界中が「原子力ほど効率の良いエネルギーはない。それを使わない日本人は馬鹿だ」とあざ笑ったとしても、我々は原爆体験によって植え付けられた、核に対するアレルギーを、妥協することなく持ち続けるべきだった。核を使わないエネルギーの開発を、日本の戦後の歩みの、中心命題に据えるべきだったのです。

 それは広島と長崎で亡くなった多くの犠牲者に対する、我々の集合的責任の取り方となったはずです。日本にはそのような骨太の倫理と規範が、そして社会的メッセージが必要だった。それは我々日本人が世界に真に貢献できる、大きな機会となったはずです。しかし急速な経済発展の途上で、「効率」という安易な基準に流され、その大事な道筋を我々は見失ってしまったのです。

 前にも述べましたように、いかに悲惨で深刻なものであれ、我々は自然災害の被害を乗り越えていくことができます。またそれを克服することによって、人の精神がより強く、深いものになる場合もあります。我々はなんとかそれをなし遂げるでしょう。

 壊れた道路や建物を再建するのは、それを専門とする人々の仕事になります。しかし損なわれた倫理や規範の再生を試みるとき、それは我々全員の仕事になります。我々は死者を悼み、災害に苦しむ人々を思いやり、彼らが受けた痛みや、負った傷を無駄にするまいという自然な気持ちから、その作業に取りかかります。それは素朴で黙々とした、忍耐を必要とする手仕事になるはずです。晴れた春の朝、ひとつの村の人々が揃って畑に出て、土地を耕し、種を蒔くように、みんなで力を合わせてその作業を進めなくてはなりません。一人ひとりがそれぞれにできるかたちで、しかし心をひとつにして。

 その大がかりな集合作業には、言葉を専門とする我々=職業的作家たちが進んで関われる部分があるはずです。我々は新しい倫理や規範と、新しい言葉とを連結させなくてはなりません。そして生き生きとした新しい物語を、そこに芽生えさせ、立ち上げてなくてはなりません。それは我々が共有できる物語であるはずです。それは畑の種蒔き歌のように、人々を励ます律動を持つ物語であるはずです。我々はかつて、まさにそのようにして、戦争によって焦土と化した日本を再建してきました。その原点に、我々は再び立ち戻らなくてはならないでしょう。

 最初にも述べましたように、我々は「無常(mujo)」という移ろいゆく儚い世界に生きています。生まれた生命はただ移ろい、やがて例外なく滅びていきます。大きな自然の力の前では、人は無力です。そのような儚さの認識は、日本文化の基本的イデアのひとつになっています。しかしそれと同時に、滅びたものに対する敬意と、そのような危機に満ちた脆い世界にありながら、それでもなお生き生きと生き続けることへの静かな決意、そういった前向きの精神性も我々には具わっているはずです。

 僕の作品がカタルーニャの人々に評価され、このような立派な賞をいただけたことを、誇りに思います。我々は住んでいる場所も遠く離れていますし、話す言葉も違います。依って立つ文化も異なっています。しかしなおかつそれと同時に、我々は同じような問題を背負い、同じような悲しみと喜びを抱えた、世界市民同士でもあります。だからこそ、日本人の作家が書いた物語が何冊もカタルーニャ語に翻訳され、人々の手に取られることにもなるのです。僕はそのように、同じひとつの物語を皆さんと分かち合えることを嬉しく思います。夢を見ることは小説家の仕事です。しかし我々にとってより大事な仕事は、人々とその夢を分かち合うことです。その分かち合いの感覚なしに、小説家であることはできません。

 カタルーニャの人々がこれまでの歴史の中で、多くの苦難を乗り越え、ある時期には苛酷な目に遭いながらも、力強く生き続け、豊かな文化を護ってきたことを僕は知っています。我々のあいだには、分かち合えることがきっと数多くあるはずです。

 日本で、このカタルーニャで、あなた方や私たちが等しく「非現実的な夢想家」になることができたら、そのような国境や文化を超えて開かれた「精神のコミュニティー」を形作ることができたら、どんなに素敵だろうと思います。それこそがこの近年、様々な深刻な災害や、悲惨きわまりないテロルを通過してきた我々の、再生への出発点になるのではないかと、僕は考えます。我々は夢を見ることを恐れてはなりません。そして我々の足取りを、「効率」や「便宜」という名前を持つ災厄の犬たちに追いつかせてはなりません。我々は力強い足取りで前に進んでいく「非現実的な夢想家」でなくてはならないのです。人はいつか死んで、消えていきます。しかしhumanityは残ります。それはいつまでも受け継がれていくものです。我々はまず、その力を信じるものでなくてはなりません。

 最後になりますが、今回の賞金は、地震の被害と、原子力発電所事故の被害にあった人々に、義援金として寄付させていただきたいと思います。そのような機会を与えてくださったカタルーニャの人々と、ジャナラリター・デ・カタルーニャのみなさんに深く感謝します。そして先日のロルカの地震の犠牲になられたみなさんにも、深い哀悼の意を表したいと思います。(2011.6.9 バルセロナ共同)

 

 

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 いまだに信じ難いのは、あれだけの災害を起こしながら、この国のあちこちでいまもなお多くの原発が稼動し続けているという事実だ。国土の一部を失い、未来の子どもたちの健康を侵しながらも優先される経済や便利さって、いったい何だろうね。

 宿題をめぐって、子が小さな家出。夕方の二時間ほど、前に住んでいた団地まで往復。友だちのお母さんや近所の人まで加わり一時、大捜索網が。

2011.6.29

 

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 1日より外溝工事が始まる。昨日から今日にかけて、まず南側道路に面したブロックの撤去、一部植木の撤去、ブロックに代わるピンコロ石の積み、そして駐輪場予定地の土砂撤去など。年明けからおよそ半年余、その間に業者さんも二転三転したが、結局、近所に住むいつも軽トラックで仕事へ向かうMさんが紹介してくれた、如何にも職人然とした朴訥な、およそ営業センスのかけらも持ち合わせていない造園屋のTさんにお願いすることになった。昨日、今日と、このTさんと近所のMさんの二人三脚の作業で、近所の人が時折り覗きにやってくる。特にMさんはおなじ町内のため、わが家の向かいのYさんから「仕事場が近くていいなあ」と言われたり、いつも手押し車を押してよく道端で長いこと座っているおじいさんから「(雨が降ってきたから)セメントを入れている袋に早くブルーシートをかけなきゃいかん」と言われて「御意」といった風におどけてみせたりしている。庭側の植木3本を抜いてもらった部分にはパーゴラ風のゲートと扉を自作する予定で、わたしもメジャー片手にTさんたちの間を行ったりきたり。何しろこういう作業を眺めているのは愉しい。明日は作業は休みで、週明けから玄関前のコンクリのはつりと、玄関前〜駐輪場にかけての煉瓦敷きの作業に入る。その後、別の業者により駐輪場の屋根を取り付けてもらう予定。

 今日は午前中、奈良女子大附属中等教育学校(中学・高校一貫教育)のオープンスクール。ママさん仲間3人に加わり、わたしも初めて参加した。

2011.7.2

 

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 連休の二日目。Yはトマト出荷のアルバイトの絡みで、今日は朝から耳成のコープへ試食販売の手伝いに。先週とおなじく子と市営のプールへ行こうかと思っていたが、先の「家出事件」の際に装具も靴下も履かずに長時間歩き回ったために足指のあちこちに傷が出来ていて諦める。

 午前中は子は塾や学校の宿題、わたしはホームセンターでパーゴラ風ゲートの材料を吟味。デッキ専用の高級材だと屋外でも10年15年持つらしいが、10年もしたらまた違うデザインにしたくなるのではないかとも思い、一番は予算の関係でやはり安いSPF材に屋外用防腐塗料を塗って対応しようかと考える。

 昼にDVD屋へ行く。昼食後、子のリクエストのシュレック2をいっしょに見る。夕食後、三人でCIRQUE DU SOLEIL のサルティンバンコを見る。

2011.7.3

 

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 昨日から通っている警備資格の講習。隣接する建物の名称「奈良市人権啓発センター」を見て、かねてから所望している沖浦先生の「唯一のビデオ作品」――――― 「沖浦和光が語る 被差別民が担った文化と芸能 日本文化の地下伏流」(人権ってなあに 第4巻(部落編) VHS・43分 神奈川人権センター, 2000)を県内で唯一所蔵している施設だと思い出した。貸し出し条件に「奈良市民の方」とあったので、いつかどなたかにお願いして借りてもらおうかと思っていたのだが、昼休みの時間に思い切って受付を訪ね、「沖浦先生の大ファンで、長年このビデオを見たいと探していたんです」と少々熱弁をふるったら、案外すんなりと「いいですよ、いいですよ」と身元も確かめずに1週間のレンタルで渡してくれた。いやあ、すこぶる嬉しい。

 以下、函裏の解説から。

 全国各地の数百にのぼる被差別部落を訪れ、伝承されてきた芸能と産業技術を研究してきた沖浦和光氏。この作品では、沖浦氏の研究成果をもとに、大阪、奈良、浅草に、被差別民衆が担ってきた芸能の起源とその軌跡をたどる。
 能の最古の形態を今に伝える、奈良坂の奈良豆比古神社の翁舞。観阿弥、世阿弥を経て、能は日本を代表する舞台芸能へと発展した。また、中世以来、口伝で語り伝えられてきた説教節は、江戸時代に上方から江戸に下り、歌舞伎や浄瑠璃の題材となり、民衆の生き様を現在に伝える。人間の生を底辺から深く鋭く見つめてきた視線は、とだえることなく時代を超えて現在に引き継がれている。
 教科書からは知ることのできない、日本の芸能と文化を通底する大きな流れを、沖浦氏のフィールドワークから掘り起こす。

http://www.azmax-pro.co.jp/sell/jinken/jinken04.html

 

 もうひとつ、ジップの散歩中に見つけた路地の張り紙。

■7月10日 奈良県大和郡山市で「高史明先生講演会」
奈良県大和郡山市高田町489の善正寺は、7月10日午後2時から「高史明先生講演会」を開く。
作家の高史明氏が「真実の自然を深く生きる」と題し講演する。
善正寺 電話0743(52)6075。

 子に「ぼくは12歳」の作者のお父さんだよと教えたら、聴きにいきたいと返事が帰ってきた。高史明さんは高橋悠治とのつながりなどもあり、過去にいくつか著書を読んだ。まさか、こんな近所で会えるなんてね。会場のお寺は浄土真宗本願寺派、いつも散歩で通っている緑地公園のはただ。今日、寺に電話をしてみたら、特に予約もいらない、時間になったら来てくれたらいい、とのこと。

http://www.asahi-net.or.jp/~vs6h-oond/nhk.html

2011.7.6

 

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 チェルノブイリ後の1992年に出版され、ことしの5月に復刊となった小出裕章さんの「放射能汚染の現実を超えて」(河出書房新社)はとてもいい本だ。この人の語り口、目線―――いわゆる悪しき意味でのアカデミックさの微塵もない。ほんとうに素朴な市井の自然体というのかな。こういう人を20年間、いや30年間、冷笑し、黙殺し続けてきたのが、わたしたちの社会だったわけだな。

2011.7.7

 

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 外溝工事が本日で終了。駐輪場と玄関前のレンガ敷きにあたって、Yが業者氏に「手本として下さい」と見学を勧めたのが、郡山警察前の道が国道25号線に交差する手前、西側にある洋館風の花屋さんの敷地で、Yがかの花屋の当主より訊いてきた話では何でも奈良市にある庭園「依水園」にも出入している造園技士が施工したという、炉の煉瓦を絶妙に割り貼りした味わいのものであり、哀れな造園業者のTさんは相棒にもぴりぴりと当たりながら、自ら撮ってきたその花屋の写真を幾度も見返してレンガをサンダーで切り、こつこつと仕上げていったのだった。レンガの隙間には粘土質の荒木田土を叩きいれ、段差の解消部分にはごろた石を用い、レンガの外枠には「柳生の細道」という土壁素材を使用している。時にわたしもYもTさんと施工について多少なりとも揉め、たまたま通りかかった見知らぬ人がYに「奥さんね。わたし、ときどき見てましたけど、作業に入った業者さんにいろいろと意見を言える奥さんはすごいなと感心していたのです。作業が始まっちゃったら、なかなか言えないんですよね。でも奥さんはきちんと言ってらっしゃる。それを凄いなと思ったのです」なぞと言って立ち去って行ったりしたこともあった。1週間ほど養生してから、駐輪場の屋根を設置して完成。

2011.7.9

 

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 早朝、朝食の前に家族三人で工事後の作業。Yと子はレンガ周辺の掃き掃除、白い粉だらけになった玄関周りの拭き掃除、そして生垣に絡ませる朝顔の苗の移植など。わたしは業者氏に置いていってもらった砕石(土嚢10袋)を北の裏手に運び、庭のゲート部分で使う予定のレンガ30数枚を予定地近くへ移動し、側溝の土砂を掃除し、また頼んでいた裏木戸の補強で業者氏がやっつけ仕事のようにコンクリを山のように盛っていたのが余りに酷いので固まる前にすべて掘り起こして撤去したり。

 朝食後Yと、彼女の親類宅がやっている堺のタイヤ店へタイヤの交換でしばしドライブ。交換の間、わたしはふらふらと散策していた近所で見つけた高石斎場の墓地をぶらぶらと見てまわっていた。かなり擦り切れていたタイヤ4本すべて交換して、利益殆ど皆無の3万2千円。

 午後から子と二人でぶらぶらと歩いて、近くの浄土真宗の寺での高史明さんの講演会。そこそこの広さの本堂は溢れんばかりの人だかり。つい数日前に訪れたという福島の被災地での思念と親鸞の「自然(じねん)」を絡ませた法話はときおり仏典の原文を引く大人でもときに少々難しいくらいの内容で、予想以上だった約2時間の長丁場を、子はよくこらえた。まっしろな長いあごひげを蓄えた高史明氏は、いかにも老子か荘子かといった風情で一見気難しそうにも見えたが、いざ話し出してみると、とつとつと滋味深い言語が意外と明るい色調でリズムを刻みながら流れ出てくるような語り口で、魅了された。内容については、できたら後日に改めて。

2011.7.10

 

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 高史明翁は此処へ来る数日前、福島の被災地を訪ねたばかりだと言った。そこで見たのはどこまでも続く海原にも似た瓦礫の原だった。その瓦礫の地平に流れ着いた屋根だけが見知らぬ惑星に漂着した宇宙船のようにぽつねんと在って、その屋根の上で老人がひとり、山の方を凝視して動かなかった。異様な雰囲気にためらいながらも、高翁はその老人に声をかけた。あの3月11日の日、地震の後で、ここから老人の娘が山の麓の家にいる老人の伴侶を助けに走っていった。そのまま娘も老いた伴侶も引き潮にさらわれてまだ遺体も見つからない。それ以来、どうしようもないと分かっているのだが、気がつくと毎日のようにこの屋根の上にあがってひねもす、娘が走っていった山の方角を凝視している。果てしない瓦礫の原のその先を。高翁はそんな被災地で出会った老人の話をして、「でもわたしは、こういうところから、人はきっと立ち直れるのだと、なぜか確信をしたのです」と言う。屋根の上の老人と別れてもうしばらく進むと、小学校があって、校庭から子どもたちが体操をする声が響いてきた。それを夢のような不思議な心地で聴きながら、瓦礫の中でも子どもたちはこうして体操をして、学校生活をはじめているのだと新鮮な気持ちがした。一切を容赦なく流された瓦礫の原からは、以前は無数の建物や防潮堤や松林などに隠れて見えなかった海が、見えた。瓦礫のゼロ地点から、海が見える。海岸沿いの高台には、都会から定年後を過すために別荘を建てて移住してきた人々が多くいた。そのうちのほとんどの人は津波の怖さも知らず、避難をしないまま流されてしまった。瓦礫のゼロ地点から海を見たとき、高翁はこう思ったという。「海とともに生きていない生活。山とともに生きていない生活。さらに云えば土の上、大地の上で生きているという感覚がない生活。」が問われているのではないか。わたしたちの生活には「自然とともに生きていく豊かさ」がなかった。みずから海を見えなくして、幸福をきずいていた。水そのものがいのちであった。大地そのものがいのちであった。阿弥陀のいのちであった。最愛の一人息子を自死によって失ってから浄土真宗の教えに深く帰依するようになった高翁は、親鸞の「自然(じねん)」をこれらの景色にからめて語ったのだった。、親鸞のいう「自然(じねん)」とは、人間の分別を超えたほとけの計らいのことである。「「自然」といふは、「自」はおのづからといふ、行者のはからひにあらず、「然」といふは、しからしむといふことばなり。しからしむといふは、行者のはからひにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。」(末灯鈔) 「私たち人間の近代文明は、自然の大地に逆立ちして、頭で立っているのでした」(高史明「念仏往生の大地に生きる」(東本願寺伝道ブックス53) もはや、と高翁は云った。一人で助かることができないのが原子力の時代です。一億分の一の原子力をつきとめた“手柄”のその「真裏」を、人間は考えなければいけない、と。

 

 連休の二日を使い、一日目は猛暑、二日目は小雨のなかで、庭のパーゴラゲートの製作。夏は暑さゆえに作業が雑になる。次の休日に一部補強の材を加え、二度目の塗りをして、足元20センチ程は空き缶を利用した自作の基礎石で固定。砕石を入れた均した上に、できたらレンガといっしょに。

2011.7.18

 

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 日曜、休日。ジップの散歩中に早朝から怪しく一人徘徊しているアポロのパパさんに会い、互いの娘の勉強事情などを語り合う。帰宅後にパーゴラゲート設置部分の穴掘り。30センチほど掘り下げて砕石を入れて均し、昨夜仕事帰りに土台を固めたゲートを薄めに敷いたモルタルの上に置いてみる。9時から子のヴァイオリンの発表会。帰宅して昼のカレーをかきこんでホームセンターへ。モルタルや溶接棒、針金、コテなど。近所の目利きの方々のご意見などもあり、基礎石の周り4箇所にホームセンターで自らカットした50センチの溶接棒を地中に叩き込み、針金で固定して砕石を混ぜたモルタルを流し込んだ。これでかなり強度ができたと思われる。インスタントモルタルと砕石を水でこねる作業は馴れない故かかなりハードで、だらだらと汗が滴り落ちる。子が先週から行きたいと言っていた市営プールの時間が迫ってきたので、今日はここまで。中央部分は砕石を敷いて丸太で圧をかけ、レンガを仮置きしていおいた。4時から子とプールへ行って1時間ほど、水の中で戯れてくる。土木作業の汗だらだら身体ぼろぼろの疲れが、水の中で心地よい疲れに変わって行く。帰ってから近所の神社のお祭りを覗いて射的とみたらし団子を。夕食はわたしのささやかな昇進祝いで王将の持ち帰り弁当。近所のNさんにもらったスイカを食べ、シャワーを浴び、ビールを飲んだら、今日はもう早めに寝ますわ。大満足に、くたくたなんで。

2011.7.24

 

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 待ちに待った休日。早朝からホームセンターへ走り、砕石、真砂土、珪砂などを数袋づつ購入してくる。まずは2×4材の端切れをカットしてゲート上部の四隅に斜めの補強を加える。続いてやり直しの裏口扉の柱材をトリマーで少々削る。ゲートの二度塗りは前回と同じオイル系塗料の、もうすこし濃い目にしたかったのでチャコール色。脚立に乗っての作業。そのうちに子がソロバン教室から帰ってきたので、残りの下部分の塗装を代わって貰い、わたしは敷きレンガの加工作業へ。初登場のディスクグラインダー(三千円の無名メーカーの本体に百均の店で300円で購入したダイヤモンドカッターを装着)で切断面のぐるりに切れ込みを入れ、タガネを当ててこんこんと金槌で叩けばわりと簡単にきれいに割れる(※ディスクグラインダーは破片が飛散するので防護メガネが要)。十数個のレンガを切り終えてからは、裏口扉の柱材の塗装も終わった子が水で練ってくれたモルタルとコテを使い、ゲートの柱の根元部分にかさ上げの土手を盛った。これでパーゴラゲート本体は完成。子が友だちの家族に映画館(ハリーポッター)へ連れていってもらった後は、いよいよレンガの本施工。仮置きのレンガを取り、改めて砕石を敷いて、檜の丸太と2×4材の端切れでつくった手作りのダンパーで押し固め、そこへ真砂土を厚めに敷き、テントのペグで張った水糸を目安に高さを調整しながらレンガを並べ、ハンマーで叩いて固定していく。最後に目地半分に真砂土を入れた後で珪砂を加えて、夕方にようやっと完成。Yは玄関を施工してもらった業者よりも巧いと絶賛してくれたが、サテ、如何だろうか。

2011.7.30

 

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 子の定期健診。家族三人で大阪の病院へ行く。脳外科では今後、成長していくに際しての排便についての話など。もうかれこれ6,7年ほど背中の脂肪腫を見ていないから、何も症状はないのだけれどひさしぶりにMRIで確認をしてみようかという話になって、今月の末に予約を入れてもらった。整形外科では右足の装具代わりの特製靴がだいぶ痛んできて、中敷も足の形が成長によって少々変わってきているから併せて交換することとなった。左足は装具と装具カバー。右は装具代わりの特製靴と中敷。片足だけなれど、当然ながら両足分の料金で、上履きと下履きの二足分を頼む。診察の後で型を採って、MRIの同じ日にできあがってくる予定。待合で子の最初の手術の頃に交流のあったMちゃんのお母さんが「紫乃ちゃんでは?」と話しかけてきて、しばらくYと語り合う。子と同級生のMちゃんは歩く姿勢がかなり悪く又長い時間歩行できないのでと車椅子に乗っていた。

 昼過ぎに診察を終え、奈良に戻ってYの希望で近所の500円のランチがある焼肉屋へ入るが4月に500円ランチがなくなったと云われてYは「しまった・・・」と頭を抱える。結局、890円のランチを三人前頼み、焼肉を外で食べるのははじめてという子も珍しくほとんど食べきってしまった。その後、ホームセンターで買い物をして帰宅。夕食まで、わたしは早朝からやりかけていたクランプとソーガイドの錆落とし作業。それから子に手伝ってもらって裏口扉のやりなおし作業などを完了させた。

 最近、よく聴いている音楽は子の影響で韓国のガールズ・グループのKARA。Mister のお尻ふりふりダンスはおじさんには新鮮だったね。junpin' は振り付けとビデオが実によく出来ている。ちなみに彼女たちは日本語バージョンより元のハングル語の方がやっぱりノリがいいですな。日本語は聴く気がしない。そんなわけでKARAはちょっとこのごろ、年甲斐もなくまっちゃっているんだけど、でも聴くに値する曲って結局、この二曲だけなんだよなあ。

 他に最近気に入っているのはユーチューブで偶然見つけたSlaid Cleaves。等身大の朴訥さ。ちょっと昔のジャクソン・ブラウンにも似て。ジョン・ハイアットの昨年の作品 the open road も、なんだかマッコリの酔いのようにじわじわときいてくる。でも何よりほんとうにわたしの魂をゆさぶるのはクランシー・ブラザーズのリアム・クランシーとダブリナーズのロニー・ドリュー、この二人のアイリッシュ・トラッドの古きよき世代の歌い手たちだ。最近のわたしはこの二人の歌の故郷へ戻っていく。こういう歌い手はもういないんだなと思うと、この世の執着がすこしだけ薄れるような気がしてくる。原発のことなど考えなくても、かれらの素朴な歌にじっとこの魂を浸しているだけでそれだけでもういいような気がしてくる。「涙に還元される」とはこういうことなのだと思う。

2011.8.1

 

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駄獣の群


ああ、此国の

怖るべく且つ醜き

議会の心理を知らずして

衆議院の建物を見上ぐる勿れ。

禍なるかな、此処に入る者は悉く変性す。

たとへば悪貨の多き国に入れば

大英国の金貨も

七日にて鑢にて削り取られ

其正しき目方を減ずる如く、一たび此門を跨げば

良心と、徳と、理性との平衡を失はずして

人は此処に在り難し。

見よ、此処は最も無智なる、

最も悖徳なる、はた最も卑劣無作法なる

野人本位を以て

人の価価を

最も粗悪に平均する処なり。

此処に在る者は

民衆を代表せずして

私党を樹て、

人類の愛を思はずして

勤物的利己を計り、

公論の代りに

私語と怒号と罵声とを交換す。

此処にして彼等の勝つは

固より正義にも、聡明にも

大胆にも、雄弁にもあらず、

唯だ彼等互に

阿附し、

模倣し、

妥協し、屈従して、

政権と黄金とを荷ふ

多数の駄獣と

みづから変性するにあり。

彼等を選挙したるは誰か、

彼等を寛容しつつあるのは誰か。

此国の憲法は

彼等を逐ふ力無し、

まして選挙権なき

われわれ大多数の

貧しき平民の力にては……

かくしつつ、年毎に、

われわれの正義と愛、われわれの血と汗、われわれの自由と幸福は

最も醜き

彼等駄獣の群に

寝藁の如く踏みにじらるる……

 

与謝野晶子、1915年12月12日「讀賣新聞」

 

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 数日前であったか散歩途中のジップ(愛犬)がくわえてYが仰天した日干しの蛇の如き心境のうだるような昼間、2階の「テレビの間」(といっても地デジ対応もしないまま世間の波長から取り残されているテレビだが)のエアコンをつけてこもり、大阪の若き友人U君より頂いた映画「アンチェイン」を見る。じんわりと、心ふるえた。血だらけになっても、顔中を腫れ上がらせてもなおも立ち上がり、やがて倒される男たちがなぜこんなに美しく見えるのだろうか。タイトルはレイ・チャールズの名曲から。音楽はソウルフラワーユニオン。劇中で主人公のアンチェイン梶が歌うかれの自作曲「寸足らずの男」はどこかに音源はないものか。

 今年の夏はわたしの書籍整理もかねて家族三人で茨城の実家へ行こうとひそかに思っていた。震災の惨禍も実際に見てみたかった。ところが(残り少ない?)「思い出作りにみんなで旅行でも行かないか」と母が言ってきたのと、やはり現在の状況で福島との県境へ子を連れて行くことに抵抗があったのとで、二泊三日の休みを取って先日、琵琶湖へ行って来た。母のリクエストは彦根城と天寧寺の五百羅漢。子のリクエストは湖水浴。わたしはアウトサイダーアートの美術館ボーダレス・アートミュージアムNO-MA」に行きたかったのだが残念ながら休館日であった。結局、長浜と西岸のマキノのホテルで一泊づつ。上記のほかに長浜の成田美術館(ルネ・ラリック)、10年ぶりに再訪した高月町の十一面観音、それに高速フェリーではじめて行った竹生島も結構面白かった。「かわらけ投げ」で子は「ナルニアへ行きたい」と書いた素焼きの皿を投げたのだが、そんなかわらけで真っ白になった岬とその上の都久夫須麻神社の石の鳥居、それらをとりまく青く果てしない湖面は、何やら原初の聖地を垣間見るような風情があった。酷暑の彦根城登城はみんなへろへろになったけれど、ホテルのプライベート・ビーチで子と湖水浴もできたし、それにテレビ放送が終了してしまったわが家にとってはホテルの部屋で見たNHKのBS放送も満喫。子がわたしの母と相部屋だったので、夫婦水入らずでたまたまやっていた空海の雑体書についての考察番組、樹木希林と古民藝研究家:尾久彰三氏との骨董珍道中「温故希林」、ヘンリー一世の頃のイギリスを舞台にしたドラマ「大聖堂」などをじっくり堪能して、「やっぱりテレビって、いいな〜」と。

 昨日から例年通り、Yは子とジップを連れて和歌山の実家へ。昨日は午後からの変則勤務だったので午前中をつかって庭のパーゴラ風ゲートの下に置く「人払いの看板?」を製作。当初はゲートの柱部に扉をつけようと思っていたのだが、完成したゲートを眺めているうちに「扉じゃなくて、お店に“閉店です”って置いているような看板にしたらどうかな?」(わたし) 「そこに小さな棚をつけてお花を飾りたいな・・」(Y) 「ペンキはちょっと汚れたような白がいい!」(子) というわけでそんなものを、二人が帰ってきたらびっくりさせてやろうと早速こしらえてみたのだった。ところでパーゴラ風ゲートだがこれが完成して数日後、ときどき犬を連れて散歩をしている隣町のおばさんがパンドリアとジャスミンをわざわざ自宅から持ってきてくれて、さらにもうだいぶの長さの前者については「植えるのも難しいから」とみずからゲートの横に深い穴を掘り、Yが用意した脚立に乗ってゲートの上部へまでからませて、「では」と月光仮面の如く去っていったのだった。相変わらず、この古き城下町の親切さは尋常でない。

2011.8.14

 

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 休日。午後に、宿題を終えた子とふたりでいつもの市営プールへ行く。相変わらずわたしたちはプールの中でふたつの貝のように戯れる。夕方だからか、人の少ないプールには車椅子のおばあさんと女の子が一人づつ、父親に抱かれて水と交感する重度の障害の男の子が一人、いた。

 

 ジップの散歩の途中で見た、同和地区のお寺の掲示板の法話の中にあった言葉。

この世にじぶんを探しにきた

この世にじぶんを見にきた

2011.8.20

 

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 昨夜はわが家の庭で近所の有志によるバーベキューの予定だったのだが天候不良により急遽、Yさんの知り合いの焼肉屋さんに材料を持ち込んでの酒宴となった。わたしはSさんが持参した美味な栗焼酎(くり拾年)に舌鼓を打ちながらYさんの孫の17歳のK君にアンチェイン梶のストーリーを語っていた。

 明けて今日は休日。一日がかりで隣家との境界のフェンスの柱を4本設置した。

 子は先日、Yの蔵書であるダニエル・キイスの「24人のビリーミリガン」を一日で読んではまってしまい、いまは夏川草介「神様のカルテ」がお気に入り。

2011.8.22

 

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 町内の地蔵盆。路地裏に集う老婆たちが御詠歌を唱える光景は中上健次の世界を彷彿とさせる。路地へ、世界の深部たる路地へ。

 

 映画「アンチェイン」 → ソウルフラワーユニオンのサントラ「アンチェイン」 → amazon でソウルフラワーユニオンの「ロロサエ・モナムール」を購入した。

2011.8.24

 

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 久しぶりにネットでググッてみたら樹村みのりの新作がいくつか出ていたことを発見、さっそく amazon で購入した。彼らの犯罪」(朝日新聞出版 2009)見送りの後で (眠れぬ夜の奇妙な話コミックス)」(朝日新聞社 2008)愛ちゃんを捜して」(朝日新聞出版 2011)。特に「彼らの犯罪」は1988年にわが古巣、東京足立区で起きた「女子高生コンクリート詰め殺人事件」を題材としたハードな作品。こういう作者は寡作でも、発表しつづけてくれていることが嬉しい。

 樹村みのりをググッてみたのもつい先日、実家からわたしの部屋の蔵書の“漫画部隊”の一部が到着したせいもある。その日の夜、わたしが仕事から帰ってきたら子はすでに山岸涼子の「日出処の天子」全8巻を読み終え、続いて江口寿史「すすめ!! パイレーツ」を手に笑い転げていた。

2011.8.27

 

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 昨日の夕方(帰宅後)に材を切り、子と二人でペンキを塗っておいた板を、今日は朝から手製のジグ(釘の下穴位置と板同士の間隔5センチを一度に設定)を使って留めていき、昼前には延べ5メートル少々の長さのフェンスが完成した。もともと隣家の白壁があるので、これはいわば飾り的な柵で、緑が映えるようにと明るめの塗料を用いた。深さ30センチの基礎石にがっちり嵌めている柱はヒノキ材で、横板はSPF材、頭を三角に切った杉材は一束1000円の野地板で。とくにリビングから庭を見た正面がこの隣家との境界の白壁だったので風景が抜群によくなった。

 午後は大阪の病院へ行き、整形は装具カバーの直し、脳外科はひさしぶりのMRI検査。背中の脂肪腫が背骨を引っ張っている可能性があり、手術の可能性が出てきた。これまでのように神経の障害となるような症状はいまのところ考えにくいが、身長の阻害となっていることと、将来的にお尻の突き出た悪い姿勢になりやすいデメリットがあるとのこと。週末(金曜日)にもういちど病院を訪ね、(執刀医となる予定の)もう一人の先生を交えての協議をすることとなった。

2011.8.29

 

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 たとえばモリスンのうたう Raglan Road のような曲は、この世とあの世の垣根を取り払ったような場所でなお歌う価値のある“なにか”についてうたっている。いやそのような場所でしか響かないある種の音色を希求した、その淋しいこころの象(かたち)をただなぞっている。そしてわたしは、そのような場所に、いつもいたい。いつもいたいという気持ちを取り上げるすべてのものを呪いたいのだほんとうは。

2011.8.30

 

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□ ジップ・ワントルロイ卿に関する報告書 第1

 

ジップ・ワントルロイ卿は昨日、ラン・フォッテッセ姫との賭けでお負けになり、いらだっておられます。

ただ、コン・ミスターサワイがこうおなぐさめをいたしませんでしたら、卿はもっとお暴れなさったことと思います。

「ジップ・ワントルロイ、たまにはそういうこともあるさ。わたしだって賭けに負けたことはあるんだ。そうだよ、いつも勝つとは限らない。やっているうちに、うまくなる、といったって、もう目がいかれてるがね」

ただ、イッサ・ミセスヤマネはジップ・ワントルロイ卿を「やれ! もっと! 足でけれ! ひっかけ!」とけしかけたので、裁判にかけたらよろしいと思います。

あのご老体、トーバ・ミスターヤマネも、イッサ・ミセスヤマネをなだめたので、金をあたえればと思います。

ラン・フォッテッセ姫はやさしい姫で、勝ったからといって喜ぶことはせず、

「ワントルロイ卿がほんとは勝ってらっしゃったのよ。石ころは左にカーブしましたもの。それに、私が勝つなんて、ふさわしくございませんのよ」

と言い、主人たちの言葉をおそれ、すぐ去ってゆきました。

チャッピー・ノルデットも「きみは若い。すぐできるさ。若いときにお行儀よさなんか必要でないからね」とおっしゃいました。

この手紙をご覧になれば、おそらくチャッピー・ノルデット騎士、ラン・フォッテッセ姫、トーバ・ミスターヤマネは良い貴族、イッサ・ミセスヤマネはあくたれという印象をもたれたことでしょう。

でもイッサ・ミセスヤマネは、ジップ・ワントルロイ卿と同い年ですから、ジップ・ワントルロイ卿も、羽が伸ばせることと思います。

ざんこくな命令はおとりさげ願います。

ピンク・ペペンシー・スーザン嬢

またはワントルロイ卿のそばの者

P.S ジップ・ワントルロイ卿は夏がお好きです。

 

 

 

 

□ ジップ・ワントルロイ卿に関する報告書 第2

 

ジップ・ワントルロイ卿は昨日、少しきどりながら、城のまわりを歩いておりました。

そこへ、チャッピー・ノルデット騎士がおみえになりました。

ジップ・ワントルロイ卿、チェスをする約束だったのだと話し、騎士の前に出、あいさつの言葉を述べました。

それに騎士が答え、チェスのこまを集めていらっしゃいました。

ジップ・ワントルロイ卿はのどがおかわきになり、お水をおのみになってから、騎士のところにむかわれました。

すると、ジップ・ワントルロイ卿の前に、一匹のモンシロチョウが出たのです。

ジップ・ワントルロイ卿は騎士の手前、すこし格好を良くしたかったのかも知れません。

卿はずかさずそのチョウをつかみ、高貴なおん前足で、その ・・・・チョウをいじめはじめたのです。

もちろん私はジップ・ワントルロイ卿に、それは貴族のすべきことではありません、もっとお考えなさってくださいと申し上げました。

騎士も、顔をしかめ、まゆをぐっとよせて私にささやきました。

「卿にさからいたくはないんだが、ワガママは早くなおしておかないとね」

そしてあからさまにそっぽをむき、こまをけちらしていっておしまいになりました。

以上、報告書でした。

ピンク・スーザン嬢

 

 

 

 

□ ジップ・ワントルロイ卿に関する報告書 第3

 

ジップ・ワントルロイ卿は昨日、とても落ち着いておられました。

虫もいじめず、手をあのおん口で噛むこともせず、すわって、ジップ・ワントルロイ卿の地の小作人や、男爵様にお手紙をお書きになりました。

また、お昼ごはんを召し上がってからは、私に、落ち着いていて、他の人に好かれるような貴族は、どんなことをしたらよいのか、また、どんな風にふるまえばよいのか、とおたずねになりました。

私はワントルロイ卿をすわらせ、ひざまづいて、行儀作法をわきまえ、民たちのことを考える貴族になれば、好かれる貴族になれるにちがいありません、と述べました。

すると、ワントルロイ卿は、よくよくお考えなさったすえ、もっとくわしく話してくれ、とおいいになりました。

私はもちろん、よろこんで、女犬にあったら、頭を下げ、まわりの羽虫を追い払ってさしあげ、よけてとおる、男犬にあったら、吠えずにすわって、年上の犬にはていねいに、そして尊敬し、年下の犬には、自分の知っていることを、そして犬の未来を託して話す、などという行儀作法を一から十まで教え込みました。

ワントルロイ卿は一生懸命にそのことを頭にたたきこんでおりましたので、私は大きな葉に、マリーゴールドの花のしるで、いろいろな重要なことを書いてさしあげました。

そして、ラン・フォッテッセ姫に会ったときなど、ぺたりとすわり、ていねいに話しかけましたし、マロン・ジャッキーにあったときも、地面にはらをこすりつけ、こしかけるように、そしていろいろなことを教えてくださいとていねいに言いました。

そして懸命にマロン・ジャッキーの言われたことを覚え、私に、明日はみだしなみのことを教えてくれとおっしゃりました。

みだしなみは大変ですよ、ワントルロイ卿の衝動をだいぶおさえつけなければいけませんと話すと、それでも良い、りっぱな貴族になりたいのだ、ときっぱりとおっしゃいました。

以上、今日の報告でした。

ピンク・スーザン嬢

 

 

 

 

□ ジップ・ワントルロイ卿に関する報告書 第4

 

ジップ・ワントルロイ卿は昨日、朝のお散歩のとき、小さな女の子にあわれました。

そのおなごは、黄色い衣をまとい、青い靴をはいておりました。

おなごは、母と思われる女人(にょにん)と弟であろう小さなこぞうっ子、それに草色の服をまとった姉とおりました。

ジップ・ワントルロイ卿は、小さき者には愛情をたっぷりそそげ、と教えられておりましたので、尾を立て、目をやさしげに光らせて、笑いながら見送ろうとしました。

すると、おなごはこともあろうに、卿の面前で、かがやきはずむような声で、

「あ、タヌキの子だぁ〜」

と声を上げました。

ワントルロイ卿は、尾の先の方を丸め、前足のつめを噛みました。

そのような様子を見せたものの、怒りをあらわにはなさいませんでした。

私はかけよって、はすの葉で卿の身体を冷やし、今日の行いはとても立派でしたと述べました。

小さなチワワと女の子に会ったときも、チワワにはすわるように言い、知っていること、初歩的なこと、これから生きていくうえで必要なことをすべて教え、白い毛をきれいにしてオオイヌノフグリを耳につけてやりましたし、女の子には尾をふり、あいきょうをふりまき、こわくないことを教え、きれいなぴかぴかした石をはじきとばしてやりました。

また、あついといっていて、私が葉を水につけ、身体をひやしていると、まだ年端のいかぬメスのプードルがやってきたので、私に、あの子をひやしてやるようにとおっしゃいました。

あのプードルめは、「そんな汚らわしいもの、上流社会には必要ではありませんわ」と言い、去ってゆきました。

以上、今日の報告でした。

 

ピンク・スーザン嬢

 

(しの)

 

 

2011.8.31

 

*

 

 日本の古本屋上原善広「日本の路地を旅する」(文藝春秋)を購入。のっけから和歌山・新宮にある中上健次の墓詣でより始まる。「中上健次は、そこを「路地」と呼んだ。「路地」とは被差別部落のことである。」

2011.9.1

 

*

 

 年甲斐もなく脳神経外科の先生に噛みついてしまった。要はこういうことだ。脂肪腫が背骨に癒着してひっぱっていることは、(今回のMRIの画像から)ほぼ間違いない。そのために背骨がちょうど腰のあたりでRを描いている。その角度は最初の2001年の手術後の画像では40度、2005年の手術後では55度、今回は70度。この影響で身長の伸びに支障が出ているかも知れないことと、お尻がやや突き出した姿勢になりがちな点がまず指摘される。これはデメリットではあるが、必ずしも至急に手術をしなければならない要件ではなく、それよりいちばん怖いのはこの癒着と係留によって神経もいっしょに引っ張られて、(将来的に? あるいはすでに?)何らかの症状が出ないかという点だ。Y先生は子の最初の手術からずっと執刀されてきて、これまでも定期的な受診をして頂いてきたが、何分お歳も召されてきていて、おそらく次の手術はわたしと同世代くらいのN先生に世代交代すると思われる。それもあって今回、N先生も交えて手術をするべきかもういちど話し合いましょうということで、今日の日を設定したのだった。ところがY先生とN先生の診たてが異なり、前者はどちらかというと予防のためにも手術をした方がいいかも・・・という感じで、後者は再手術はそれなりに神経を痛めるリスクもあり、はっきりした症状が出ていない現状では手術は控えた方がいいのでは・・・ という感じ。加えて、Y先生が急な会議が入って同席できなくなったこと。さらにN先生もこれまで子を実際に診察したことがなく、上司である(しかも最近は考え方の違いも結構あると自らいわれる)Y先生からひょいと任されて遠慮もあったか、「とりあえず型どおり」的なセツメイをして、「あとは(手術をするかしないかは)ご両親の判断にお任せします」ときたものだから、それはないだろ、とわたしは思わず感情を爆発させて診察室にしばし荒げた声を響かせたのだった。大事な子どもの手術を、上司への遠慮か何か知らないが、そんな型どおりのインスタント食品みたいなセツメイで工場の流れ作業のようにさっさと済まされたら堪らんわ。意見が異なるのだったら双方の見解をもっとつき合わせるべきで、そのために両先生の都合のよいときということでそもそも話し合いを今日のこの日にしたのではなかったのか。身長の発育阻害や姿勢についてもそれ自体は問題がないと言うが、整形外科のK先生や、あるいは泌尿器科のM先生の意見は必要ないのか? 泌尿器科のM先生の病院が遠方のため年に一度の定期検査くらいでふだんはM先生が紹介してくれた近所の医者にかかっていることも知らないし、そもそもあなた自身がうちの子を実際に診察したこともないでしょ。うちの子にとっては大事な手術なんだから、そんな、あるかないかの判断材料で勝手に決めてくれ、私としてはいまはまだやらない方がいいと思いますが、やれと言われたらやりますみたいな軽率な投げ方をしないで、あらゆる情報を集めて、もっと本気で考えてくれ。すると、M先生の顔つきと目の色が明らかに変わり、「わかりました。私も上司の手前もあって型どおりの説明に終始してしまったきらいがあったと思います。私は私なりにこれまで70以上の二分脊椎の手術をこなし、私なりの経験と見解も持っています。一度しっかり、私自身の目でシノちゃんを診させてください。併せて整形外科のK先生や泌尿器科のM先生にも再度、今回の脂肪腫の癒着と係留の報告を前提に、それぞれ疑わしい症状や前兆がないかをもういちど入念な検査を各先生にしてもらい、それらがすべて出揃った段階でもういちどお父さんにも来て頂いて話をさせていただきます。それでよろしいでしょうか?」と仰るので、わたしとしてはもちろん、それで異論はない。そして、こちらもつい感情的になって酷い言い方をしたことは申し訳なかったけれど、手術が始まったらわたしたちとしては先生にすべてをゆだねるしかないわけですから、とだけ言って、Yと二人で帰ってきたのだった。

2011.9.2

 

*

 

 子のその後の経過。先の平日に学校を休んで整形外科と脳神経外科の再診。整形のK先生いわく、先の整形の手術と入院によって弱くなった足の筋肉はそう簡単には回復しないので、脊髄の係留の影響かどうかは図りかねる。が、K先生ならばそのような脊髄の状態があるのなら手術によって取り除いておいた方がいいのでは・・・ と。肝心の泌尿器科はYが他日に大阪の枚方市にある病院へ行って、長年子を診てくれているM先生へ、今回の脳神経外科のM先生の紹介状を持っていった。10月の上旬に改めての検査をする予定。

 そんな大事な決断を迫られている子自身は数日前の夜、薬を飲むのを誤魔化したり、学校で使わなかったカテーテルを隠してオシッコへ行ったと嘘をついていたことが発覚して、怒り心頭の父に丸めた新聞紙でさんざ頭をはたかれた。僅かな休み時間に物語を書いたり、こんどの運動会のダンスの練習をしていたりでつい夢中になって、トイレに行く機会を逸してしまうのだ。それで何日か前、当番で塾の迎えに行ってくれた友だちのお母さんの車に乗って帰ってきたら、紙パッドがたっぷりと吸収した尿の臭いが強烈にしていて、あとでYが缶ビールひとケースを買ってその家にお詫びに行ったのだった。

 天川、十津川、新宮・・・ わたしのだいじな場所が惨澹たることになっている。有名な明治22年の水害では「村民12862人のうち死者168人、全壊・流出家屋426戸、半壊まで含めると全戸数2403戸の1/4にあたる610戸に被害、耕地の埋没流失226ha、山林の被害も甚大で、生活の基盤を失った者は約3000人にのぼり、県の役人が「旧形に復するは蓋し三十年の後にあるべし」と記すほどであった」(十津川大水害 - Wikipedia)。このときの水害で下流に坐する本宮大社も本殿が損壊し、往古以来の美しい中州から山側の現在地へ遷座することとなり、また十津川にあっては被災者2691人が同年10月北海道に移住、新十津川村がつくられることになった。土曜にやっと休みが一日とれたので、新聞に載っていたボランティアへでも行こうかと思い県のホームページを見たらすでに定員で、募集は締め切られていた。奈良県>支援について http://www.pref.nara.jp/dd_aspx_menuid-25515.htm あの東北の震災以来、何もしないことのうしろめたさが貼りついている。いや、「うしろめたさ」ではないな。単純に「何かを手伝いたい」という気持ちが満たされないでくすぶっている落ち着かない気持ち、だ。

 土曜は午前中、近所のYさんが裏のガレージのはたの空き地に捨てた「プランターの上等の土」をふるいにかけて麻袋に入れて運び、代わりに掘り出した花畑予定地の庭の砂利だらけの土をまた麻袋に詰めて空き地に捨てた。麻袋20〜30個は運んだか。子も台車で中継してくれ、家族三人で、みな汗をかいての大作業となった。その日の午後は向かいの創価学会員のNさんがチラシを呉れた「21世紀 希望の人権展」(創価学会『21世紀希望の人権展』奈良展実行委員会主催、奈良日日新聞社・国連人権高等弁務官事務所・国際連合広報センター・ユニセフ駐日事務所・日本ユネスコ協会連盟など後援)が面白そうだったので、車でJR奈良駅西口の100年会館へ行ってきた。性差、差別、浮浪者、ハンセン病、子どもの労働、少年兵士、戦争、少数民族、暴力、等々。原爆で指の跡を残してよじれた薬瓶、ヘレン・ケラーやアンネやマーチン・ルーサー・キングたちの手紙、地雷や手投げ弾。子は実物のカラシニコフ銃をささげ持ってみた。

 夜中にユーチューブで見つけた「街の灯り」を歌う60歳の奥村チヨに魅了される。それから「たけしの誰でもピカソ」で放映されたちあきなおみの「ねえ、あんた」にまたぞっこん惚れてしまう。

2011.9.11

 

*

 

 わが家のお米は毎年、わたしの母が現在住む茨城県北茨城市で長年、無農薬・無化学肥料の栽培を行っている“すずき産地さん”から縁あって送ってもらっている。その北関東にもそろそろ稲刈りの時期がやってきて、放射能の影響について訊きたいけれどストレートには躊躇われるなあ、でも子どもへの影響もじっさい心配だしなぞとYと話していたら、いつもお米といっしょに入れてくれている「たまご新聞」にこんなふうに書かれていた。

 

 東京からUターンして、百姓をきどって、もうすぐ27回目の稲刈りです。本来なら喜ぶべき季節を前にしながら、健康を大切にしたいと願う消費者の皆さんに、どう訴え、どう販売したらいいのか悩んでいます。
 それでも、とりえずのアクションとして、たとえ正式な検査で放射能の数値がゼロだったとしても、今年産の米の販売価格を引き下げようと考えています。そして、その分は、東電に損害賠償として請求するつもりです。

 おかげさまで、2010年産の米は今回で底をつきます。
 これまでずっと、無農薬・無化学肥料の栽培を評価していただき、10kg 5000円で購入いただいてきました。が、上記のような困惑の末、この秋の新米からは価格を1000円引き下げ、10kg 4000円とします。いっぽうで、その差額を東電に請求することで、怒りの一端でも形にしようと思うのです。

 とにもかくにも稲の登熱と放射能の検査を待っているところです。どうぞよろしくお願いいたします。

すずき産地「たまご新聞」(No687 2011.9.02)より抜粋

 

 ちなみに県の検査についてはこちら→茨城県>産地振興課ホームページ>米の放射性物質検査について http://www.pref.ibaraki.jp/nourin/sansin/kome/1info/komekensa.htm

2011.9.17

 

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 休日。子はお弁当を持って終日、塾での模試。午前中はYと車で買い物。ホームセンターで庭に植えるコスモスなどを買う。午後は二人で横浜の伝説の娼婦を扱ったドキュメンタリー「ヨコハマ・メリー」を見る。

 amazon で古書二冊。田中 彰 「松陰と女囚と明治維新 」(NHKブックス)上原 善広「被差別の食卓 」(新潮新書)

 義父母とYの妹さんが呉れた昇進祝い金で仕事用のデジカメを購入した。主に現場で動画を撮影して教育資料用のDVDを作成することが狙い。しばらく見ないうちにコンパクト・デジカメの機能も進化したものだ。ほぼ半日を考えて結局、わたしが選んだのはカシオの EXILIM EX-ZR100 。ハイスピードシャッターと25倍ズーム、フルハイビジョンのムービー、バッテリーの持ち、それに動画形式がわたしのPCソフトに対応しているMOVだったこと、などが理由かな。価格コム経由のネット店にて5年間保証込みで19,787円。と、16GBのSDHCカード1980円をamazon で。

 「夜霧のブルース」を歌いながら、饐えた古材の匂いのする夜更けの城下町の路地をジップとさまよう。

2011.9.18

 

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 昨日は子の運動会。前の晩から義父母と、わたしの愚母が集結。いちばん見せ場のダンスはレディ・ガガのユダって、なかなかの歌詞じゃんか。それとエグザイルの I Wish For You 。そのダンスから組み体操へと流れ込んでいくのだが、先生のサポートも得て何とか形なりに参加することができた。このあたりの先生たちの工夫はいつも頭が下がる。徒競走はいつものごとくしょっぱなから突き放されるが、「今年は駆けきったって顔、してたよ」とは仲良しのKちゃんのお母さん。秋晴れの、最高の天気でした。毎年、子の運動会を眺めるたびに、学校の授業さえままならぬ他国の子どもたちのことを考えてしまう。

 今日も休日。朝から隣町のNさんが軽トラックにジューンベリーと園芸屋のお父さんを乗せてやってきた。Nさんはわたしの会社でいま「雇用対策」である地域パトロールの仕事に就いていらっしゃるのだが、じつは一級建築士の有資格者でもあり、実家が九条で園芸屋さんをやってると聞いて頼んでいたのだった。ちょうど行きつけの明日香村の農家で良い品があったというので、今朝の搬入となった。少々ユーモアでいかにも職人気質といったNさんのお父さん(80歳!)はこの道30年だそうで、「こいつは暴れん坊ですわ。いまの人は昔のように松や槙といった美しい樹を植えなくなって、こんな勝手切り放題のやつばかりを植える」と言いながらも、Yに生垣の剪定のワン・ポイント・レクチャーまでしてくれたのだった。「むかしはこのあたりも商業地域で賑わっていた。立派な家を持った旦那衆がたくさんいたものだ。いまはイオンだか何だか知らんが、あんな大手のやつらがぜんぶ持っていっちまって、昔いた旦那衆はもういなくなっちまった」  ジューンベリー、植え込み込みで1万3千円。まだ人の背丈ほどだけれど、樹木が植わると庭の雰囲気が入れ替わる。

楽天ショップでマキタの 350mm ヘッジトリマ(生垣バリカンMUH355G緑) を購入した。1万円。

2011.9.25

 

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 冊子「食品と放射能Q&A」。消費者庁ホームページにてDLできる。そうだ。「素人の流言蜚語に流されるよりはマシ」と書いている人がいた。→http://www.caa.go.jp/jisin/pdf/110825_1food_qa.pdf

 かつてのもろもろの運動やあれこれがたどってきたように、原発事故ですらが「既定値」となって語られ、反○○だとか○○推進派だとかレッテル貼りや細分化が始まり、消耗のための議論があちこちで重ねられ、やがてすべてが現状の中におだやかにとりこまれていく。そういうことじゃあないのだ。あの瞬間のひりひりするような衝撃は。「おだやかにとりこまれていく」ようなものではなくて、鉈で生首を断ち切られ一瞬、すべてが無と化したかのような感覚だ。あの感覚を実時間であるいま存るこの現実にむすびつけていく術を考えなければならない。

2011.9.27

 

*

 

 

特集ワイド:巨大地震の衝撃・日本よ! 作家・辺見庸さん

<この国はどこへ行こうとしているのか>

 ◇「国難」の言葉に危うさ−−辺見庸さん(66)

 わたしの死者ひとりびとりの肺に

 ことなる それだけの歌をあてがえ

 死者の唇ひとつひとつに

 他とことなる それだけしかないことばを吸わせよ

 類化しない 統べない かれやかのじょだけのことばを

(「死者にことばをあてがえ」より)

 東日本大震災発生後、辺見庸さんが「文学界」に発表した詩編「眼の海−−わたしの死者たちに」。被災地の宮城県石巻市に生を受けた作家がつむいだ言葉は、批評を拒むほどの緊張感に満ち、海を、がれきの街をはい回る。

 だが−−作家は明らかにいら立っていた。

 「僕は記者として、海外の戦場に立ったし、阪神大震災も取材しました。でもね、こうして馬齢を重ねて、今の日本の空気が一番不快だな。テレビ、新聞、そして、それらに影響された社会。飛び交う言葉が、ほとんどリアリティー(現実味)を失ってしまっている。違いますか」

 こちらも身構え、先を促す。

 「復興に向けて、被災地は一丸になっている、被災者は前向きに頑張っている……そんな美談まがいの情報が、あまりに多い。古里に電話をして聞くと、全然違う。この夏、クーラーもないまま過ごした避難所もあった。現実はメディアが描くより、はるかに悲惨だし、一般の人たちの方が絶望している」

 先進諸国の独善的な戦争に異議を申し立て、深い思索に裏打ちされた文章を世に問うてきた。7年前、脳出血で倒れたが、左手だけでキーをたたき、執筆を続けている。

 「国難って言葉、好きですか?」。唐突に問われた。言葉を探しあぐねていると、「僕は大嫌いだな」とたたみかけてきた。

 「国難に対処することが最優先となり、個人の行動や内心の自由が、どんどん束縛されていないか。『手に手を取り合って頑張ろう』という空気は、それ自体は善意だとしても、社会全体を変な方へと向かわせないか」

 例えば米軍。「トモダチ作戦」によって被災地の復旧が進んだことは間違いない。だが、「日米同盟の意義」が声高に叫ばれる一方で、沖縄の普天間飛行場移設問題がかすむことはなかったか。

 「言葉の死」は薄っぺらなスローガンから始まる。言葉が死ねば、自由も個人の尊厳もないがしろにされる。辺見さんのいら立ちは募るばかりだ。

 「誰もが『3・11』を分かったように思っているが、世界史における位置づけや『3・11』が暴いたものの深さ、大きさは、とらえきれていないのではないか」

 そんなもどかしさが震災後はつきまとったという。もっとカメラを後ろに引いて、歴史的、文明論的な視点に立って、この大災害を分析する必要があるのではないか。辺見さんは思考を組み立てては壊し、一つの仮説にたどりついた。

 「技術革新を信じる進歩の概念、人権、経済合理主義……近現代の骨格をなしてきた思想は終わったのではないか。『3・11』は、そのメルクマール(指標)になりうる」

 辺見さんが続ける。

 「近代科学の頂点をなすのが核技術ですが、これは核兵器と原子力潜水艦の動力に源流がある。しかし、その後は新聞も含めて『平和利用もあり得る』という論調になってしまった。ところが今回の福島第1原発事故で、軍事利用と平和利用という二元論で考え得る代物なのか、危うくなってしまったのです」

 そういえば、この国は既に「核」についての確固たる方針を持っていたはずだ。

 「もし核兵器と原発という二つの分野の次元が違わないのならば、非核三原則(核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず)の対象に原発を加えてもいいんじゃないか。もちろん、これも仮説に過ぎない。でも、今はそこまで考えなきゃいけない時期だと僕は思っているんです」

 <科学、これこそ新興の貴族だ! 進歩だ。世界は前進する! どうして後戻りしないんだ?>

 死後120年を迎えたフランスの詩人、アルチュール・ランボーの「地獄の季節」(鈴村和成訳)の一節である。

 「前進に前進を続け、その果ての今、僕らは崖っぷちに立っている。がれきの光景を思い浮かべながら読むと、近現代の終わりを強く感じます」と辺見さんは注目する。

 「崖っぷち」にたたずめば、何が見えるのか。

 「欧州では70年代、人間社会の『適正な発展段階』は、どの程度かということが議論された。当時、よく読まれたのがオーストリア出身の経済学者、レオポルド・コールの著書です。コールは『物事が巨大化すれば、必ず事故が起こる』と予言していた。少なくとも先進国においては、コールの言う『過剰発展社会』を作ってしまったと言えるのではないでしょうか」

 「過剰発展社会」−−その最たるものが原発だったというのか。

 断崖絶壁に立っているなら戻らざるを得ない。果たして間に合うのだろうか。

 「近現代の流れには、ある種の『慣性の法則』が働いているので、恐らくもう飛び降りつつあるのでしょう。原発や核兵器にも近い将来、変化があるとは思えない。9・11(米同時多発テロ)、3・11、最近ではノルウェー連続テロ事件……過去にはあり得ないと考えられた事件が続いていますが、今後も『過剰発展社会』を維持したまま、規模にせよ発想にせよ、またもインポシブル(あり得ない)な事件が起こるのでしょう」

 作家は、こうも語った。

 「我々自身の内面が決壊しつつある。生きて行く足場を失ったという思いは3・11の前からありました。私は物書きだから、内面をどう再構築すればいいか、どのような内面をよりどころに生きればいいか。そのことを考えなければならないし、それを書こうと思います……」

 「ならば、私たち一人一人が内面を再構築するすべは……」と尋ねかけると、鋭い目で記者を制した。

 「そんなご大層なことを言わなくたって、もうやっている人はやっている」。突き放すような言い方だった。人間は皆、違う。それをひとくくりにする発想こそが愚劣であって、まず、それぞれが考え抜くしかないのだ−−。

 辺見さんの希望のありかを垣間見たように思った。【宮田哲】 毎日jp

http://mainichi.jp/select/weathernews/news/20110902dde012040013000c.html

 

 

 

  「震災緊急特別寄稿」         辺見庸

 風景が波とうにもまれ一気にくずれた。瞬間、すべての輪郭が水に揺らめいて消えた。わたしの生まれそだった街、友と泳いだ海、あゆんだ浜辺が、突然に怒りくるい、もりあがり、うずまき、揺さぶり、たわみ、地割れし、ごうごうと得体の知れぬけもののようなうなり声をあげて襲いかかってきた。


その音はたしかに眼前の光景が発しているものなのに、はるか太古からの遠音でもあり、耳の底の幻聴のようでもあった。水煙と土煙がいっしょにまいあがった。


それらにすぐ紅蓮の火柱がいく本もまじって、ごうごうという音がいっそうたけり、ますます化け物じみた。家も自動車も電車も橋も堤防も、人工物のすべてはたちまちにして威厳をうしない、プラスチックの玩具のように手もなく水に押しながされた。


ひとの叫びとすすりなきが怒とうのむこうにいかにもか細くたよりなげに、きれぎれに聞こえた。わたしはなんどもまばたいた。ひたすら祈った。夢であれ。どうか夢であってくれ。だが、夢ではなかった。夢よりもひどいうつつだった。




 それらの光景と音に、わたしは恐怖をさらにこえる「畏れ」を感じた。非情無比にして荘厳なもの、人智ではとうてい制しえない力が、なぜか満腔の怒気をおびてたちあがっていた。水と火。地鳴りと海鳴り。それらは交響してわたしたちになにかを命じているようにおもわれた。たとえば「ひとよ、われに恐懼せよ」と。あるいは「ひとよ、おもいあがるな」と。


わたしは畏れかしこまり、テレビ画面のなかに母や妹、友だちのすがたをさがそうと必死になった。これは、ついに封印をとかれた禁断の宗教画ではないか。黙示録的光景はそれじしん津波にのまれた一幅の絵のようによれ、ゆがんだ。あふれでる涙ごしに光景を見たからだ。生まれ故郷が無残にいためつけられた。


知人たちの住む浜辺の集落がひとびとと家ごとかき消された。親類の住む街がいとも簡単にえぐりとられた。若い日に遊んだ美しい三陸の浜辺。わたしにとって知らぬ場所などどこにもない。磯のかおり。けだるい波の音。やわらかな光・・・。一変していた。なぜなのだ。わたしは問うた。怒れる風景は怒りのわけをおしえてくれない。ただ命じているようであった。畏れよ、と。




 津波にさらわれたのは、無数のひとと住み処だけではないのだ。人間は最強、征服できぬ自然なし、人智は万能、テクノロジーの千年王国といった信仰にも、すなわち、さしも長きにわたった「近代の倨傲」にも、大きな地割れがはしった。とすれば、資本の力にささえられて徒な繁栄を謳歌してきたわたしたちの日常は、ここでいったん崩壊せざるをえない。わたしたちは新しい命や価値をもとめてしばらく荒れ野をさまようだろう。


時は、しかし、この広漠とした廃墟から、「新しい日常」と「新しい秩序」とを、じょじょにつくりだすことだろう。新しいそれらが大震災前の日常と秩序とどのようにことなるのか、いまはしかと見えない。ただはっきりとわかっていることがいくつかある。


われわれはこれから、ひととして生きるための倫理の根源を問われるだろう。逆にいえば、非倫理的な実相が意外にもむきだされるかもしれない。つまり、愛や誠実、やさしさ、勇気といった、いまあるべき徳目の真価が問われている。




 愛や誠実、やさしさはこれまで、安寧のなかの余裕としてそれなりに演じられてきたかもしれない。けれども、見たこともないカオスのなかにいまとつぜんに放りだされた素裸の「個」が、愛や誠実ややさしさをほんとうに実践できるのか。これまでの余裕のなかでなく、非常事態下、絶対的困窮下で、愛や誠実の実現がはたして可能なのか。


家もない、食料もない、ただふるえるばかりの被災者の群れ、貧者と弱者たちに、みずからのものをわけあたえ、ともに生きることができるのか、すべての職業人がやるべき仕事を誠実に追求できるのか。日常の崩壊とどうじにつきつけられている問いとは、そうしたモラルの根っこにかかわることだろう。


カミュが小説『ペスト』で示唆した結論は、人間は結局、なにごとも制することができない、この世に生きることの不条理はどうあっても避けられない、というかんがえだった。カミュはそれでもなお主人公のベルナール・リウーに、ひとがひとにひたすら誠実であることのかけがえのなさをかたらせている。


混乱の極みであるがゆえに、それに乗じるのではなく、他にたいしいつもよりやさしく誠実であること。悪魔以外のだれも見てはいない修羅場だからこそ、あえてひとにたいし誠実であれという、あきれるばかりに単純な命題は、いかなる修飾もそがれているぶん、かえってどこまでも深玄である。




 いまはただ茫然と廃墟にたちつくすのみである。だが、涙もやがてかれよう。あんなにもたくさんの死をのんだ海はまるでうそのように凪ぎ、いっそう青み、ゆったりと静まるであろう。そうしたら、わたしはもういちどあるきだし、とつおいつかんがえなくてはならない。いったい、わたしたちになにがおきたのか。この凄絶無尽の破壊が意味するものはなんなのか。まなぶべきものはなにか。


わたしはすでに予感している。非常事態下で正当化されるであろう怪しげなものを。あぶない集団的エモーションのもりあがり。たとえば全体主義。個をおしのけ例外をみとめない狭隘な団結。歴史がそれらをおしえている非常事態の名の下で看過される不条理に、素裸の個として異議をとなえるのも、倫理の根源からみちびかれるひとの誠実のあかしである。大地と海は、ときがくれば平らかになるだろう。安らかな日々はきっとくる。わたしはそれでも悼みつづけ、廃墟をあゆまねばならない。かんがえなくてはならない。


 (2011年3月16日水曜 北日本新聞朝刊より転載)

http://reliance.blog.eonet.jp/default/2011/03/post-be4f.html

2011.9.30

 

*

 

 休日。朝から面妖な夢を見る。家賃の安い公営団地の壁の隙間からゴキブリの家族8匹ほどが飛び出してきて又揃って壁の隙間へ消えていく。わたしはじぶんの四畳半の真ん中に穿たれた素掘りの穴――――ちょうど人ひとりが横たわるサイズの穴に横になってくつろいでいて、ふと頭の真上辺りの地面の層に「此処は江戸時代の傾城屋で一世を風靡した○○たか女の部屋で、彼女の亡骸もこの場所に葬られていた」と書かれた小さなプレートの解説文を読む。

 朝、さっそく届いたマキタの 350mm ヘッジトリマ(生垣バリカンMUH355G緑) で生垣の剪定をする。脚立にも上り、およそ30分程度で十数メートルほどの作業を完了する。これはじつに便利。剪定より、その後の掃除の方が手間がかかる。

 午後はそろそろ終わりかけの青ジソとバジルをそれぞれ収穫し、大量の葉で紫蘇味噌とジュノベーゼ(バジルペースト)をつくる。そんなわけで今日はYと子が庭仕事、わたしは台所。夕方、Yと二人でジップを連れて、駅前の西友で松の実とカシューナッツを買ってくる。夕食は鶏肉のジュノベーゼ和え、水菜とキャベツ、レタス、ミニトマトのサラダなどで、子はジュノベーゼをいたく気に入る。

 amazonで辺見庸の「水の透視画法」(共同通信社 2011/6/15)を注文する。

2011.10.1

 

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 急な野暮用で、明日から数日、仙台のSCへ行くことになった。お昼頃、伊丹空港からのフライト。できたら、あちらの様子も、ちらとでも見て来たい。オーティス・レディングと辺見庸「水の透視画法」を連れて行く。

2011.10.3

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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