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 最果ての村に、学校ができた。国にはつくれなかった。だから、村人がつくった。

 質素な土間の小さな教室に、小学1年生49人がひしめき合う。「僕はアリ君とボール遊びをします」。公用語の仏語の読み方の授業中。

 みな学校には、持っているなかでもきれいな服を着てくる。年齢「7歳ぐらい」の少女アワ・ジャロさんも、銀色のピアスとビーズの腕輪で着飾っていたが、腰巻きは穴が開いて泥だらけ。貧しさは隠せない。それでも「毎日学校が楽しみ」とうれしそうだ。

 西アフリカの内陸国マリ。コートジボワール国境に近いゴンコロニ村は、雨期には道路が荒れて交通が途絶する。昨年11月、ここに初めての小学校ができた。村人が資金と労力を出し合って運営する、共同体学校である。

 公立小学校に通うには、炎天下を片道3時間歩かなければならない。弁当代を出せる余裕のある家庭は少ない。近年、公立校はまったくつくられず、村人は2年前、自前の学校建設を決めた。

 綿花生産で積み立てた非常時用の資金を取り崩した。校舎の壁塗りも、黒板作りも、村人自らやった。教師は、県都コロンディエバから月給3万2500フラン(8千円余り)、住宅・食事付きで招いた。学校運営委員のドナンティエ・コネさん(40)は「私たちの苦労を子どもらに味わわせたくなかった」と話す。

 こうした共同体学校が農村部で増えている。国連機関や国際援助団体が支援する。

 ゴンコロニの北約80キロ、ミサラカ村のアダマ・コネ村長(76)は学校建設に大賛成した。自らは学校に通ったことがない。仏語が話せないのが、いまも悔しい。

 男児は畑仕事、女児は家事。村で子どもが重要な労働力であることは今も変わらない。しかし、学校に通い始めた子どもたちには苦にならないようだ。ミサラカ村共同体学校6年生のムハマド君は「毎日牛飼いの手伝いもするけど、学校が好き。いろんなことを知ることができるから」。

 マリは最貧国の一つ。識字率23%、就学率61%は世界最低レベルだ。低賃金で身分も不安定な公立校教員に不満は強く、教育制度は崩壊状態にある。国の失敗を、共同体学校が埋める。ただ、共同体学校も問題の根本解決ではない。

 支援する援助団体セーブ・ザ・チルドレンのママドゥ・トラオレさんは「国が何もしてくれない以上、自ら動くしかない」と言う。(ゴンコロニ〈マリ南部〉=国末憲人)

朝日新聞2008年05月31日「アフリカ・未来へ学ぶ・共同体学校の挑戦」

http://www.asahi.com/international/africa/tokusetu/TKY200805300333.html

 

 

さんすうのノート

 

4月25日

□あいてるくらいがあるかかずを知る

あいているくらいがあってもよくよめたし、ぜんぜんひっかからなかった。しかも、まあまあではなく、はっきりしれるようになった。とってもかしこくなったように思えた。

 

5月1日

□10であらわすと、いくつになるか。

さいごのもんだいでひっかかりそうになった。「250」なのに「270」なんて。くちびるの上まで270が出かかったが、なんとか250をおなかのそこからおしあげて口にだした。こわかった。すんでのところだった。

 

5月7日

□くふうしてかぞうえよう。1000のかずをしろう。

みんなのヒントをかんがえて、大ヒントとあわせてこたえをわかり、だれかがこたえを言うというときにこたえられたからよかった。

 

5月8日

□すうちょくせんをよもう。

本当の自分がわかって、そして、むずかしいもんだいもとけたので、うれしかった。

 

5月9日

□(なん十)+(なん十)のけいさんのしかたをかんがえる。

とっても長くべんきょうをした。何まいも何まいもページをかえた。つかれた。でも、つかれたかいがあった。もう、おなかがペコペコだ。でも・・・きゅうしょくはまだまだだ。けれど、これからもさんすうのべんきょうをがんばっていこうと思う。

 

5月16日

□ながさのたんい。じぶんのしおりでいろいろなものをはかろう。

たてとかよこをはかれてよかった。たんいをわかってうれしかった。

 

5月21日

□ながさのたんい(センチメートル)がわかり、はかってみよう。

センチメートルがよくわかり、めやすのとおりになったので、うれしかった。

 

5月27日

□どれくらいのながさかかんがえよう。

おしいところでテープの20cmをはずしてしまった。あともうちょっとみじかければ。あと、もうちょっと。さみしかった。でも、今日のべんきょうはおもしろかった

 

5月28日

□ながさをたしたり、ちがいをもとめましょう。

めあてにむかってがんばって今日のさんすうをしたのでよくできた。赤、青のせんのまちがいは二つしかなかった。がんばれて、よかったなと思った。

 

5月29日

□せいかくにちょくせんをひこう。

きちんとちょくせんをひけたし、何cm何mm=何cm何mmがよくできたから、よかった。めあてのとおりにできたのでうれしい。

 

 

*

 

 森達也が2003年から2004年の間に書いた文章をまとめた「世界が完全に思考停止する前に」(角川文庫)を読んで痛感するのは、この国の健忘症的精神失調とでもいったものだ。地下鉄サリン事件、アフガニスタンに続く米軍のイラクへの侵略、タマちゃんブーム、池田小学校事件、佐世保の小六同級生殺人事件、北朝鮮による日本人拉致事件、麻原死刑判決、和歌山カレー事件、白装束集団「パナウェーブ研究所」事件・・・。あれだけ大騒ぎした多くのことが、ぼくらにはすでに遠い記憶だ。アフガンやイラクで多くの人々が死んでも、いまではときおり新聞の片隅にお愛想程度に載るだけ。いや、正直に言おう。ぼく自身、じつは森達也のこの著書を読み始めた当初、何だかブームの去ったアイドル・タレントのCDアルバムを聴いているような、かすかな違和感があった。いまさらちょっと乗り切れない、みたいな。

 

 凝視すべきはタマちゃんや白装束集団などではなく、彼らの存在によって剥きだしにされる市民社会の衝動であり、これに従属しながら狂奔するメディアや行政なのだ。

 こうして誇大に伝えられた住民たちの不安や焦燥は、視聴者や読者の嫌悪や危機意識を煽りながら視聴率や部数の増大となって反映され、メディアは更にエスカレートする。この連鎖の帰結として構築されるのは、壮大な「憎悪の楼閣」だ、。しかしその中枢には何もない。空っぽなのだ。行き場を失った憎悪は、やがては自らを侵食し始める。

森達也「世界が完全に思考停止する前に」(角川文庫)

 

 祭は去ったが、「彼らの存在によって剥きだしにされる」何かは、たぶんいまも変わっていない。そしていまも次から次へとあたらしい祭がやってきては、じきに忘れ去られていく。そういう意味では、タマちゃんや白装束集団を「触媒」と表現した森達也は適切かも知れない。

 次々と形を変えては出現する空っぽな触媒に反応して剥きだしにされる、ぼくら一人一人の心の奥に巣食っている何かとは、ほんとうのところ一体何なんだろう?

2008.5.31

 

*

 

 昨日。夕食の席で子が珍しく病気のことでわがままを言う。休み時間に運動場へ行く際に、履き替える手間で5分しかみんなと遊べないから学校に装具を履いていきたくない。みんなと同じふつうの靴にして欲しいと云うのだ。「でもそれは病院の先生が・・・」とこちらが説明しかけても、「判ってる、そんなの判ってる!」と生意気な口で遮るので、わたしもすこし苛立ち始める。そのあといつものように一口もつけていないお澄ましを残してさっさと席を立つのを見て、「いつもいつも残すんなら、こんなもの、もう捨てちまえ!」と思わず、ベランダを開けて外へ碗を放り投げる。それからベランダを片付けようとするYにも当たり、「放っておけと云ってるのが聞こえないのか」と、こんどはじぶんの碗を足元に投げつけた。そうしてじぶんの部屋に閉じこもった。私は何だって急にそこまで苛立ってしまうのだろう。しばらくして子はベランダから碗を拾い、サヤエンドウとしめじを拾い、洗面所で洗って食べかけているところをYに止められたらしい。その後、子がごめんなさいを言いに来た。二人でしばらく話をした。

 

 そのおなじ夜、Yがつけていたテレビの映画「県庁の星」をいつしかいっしょに見始めていた。CMのとき、ふとソファーの横に畳んで乗っている新聞が目に入った。U2のボノとボブ・ゲルドフを特別編集員に迎えてという企画記事の下に、月3500円でアフリカの子どもたちを支援するというNGOの広告が載っている。何気に手にとってそれを眺めていると、Yが気づいて「わたしもね、いつかそんなことに参加したいなって思っていたの。特にしのが生まれてからは、ずっと思ってた」なぞと云う。むかしはこんなものは偽善だと思っていた。そんなことをしたって世界は変わらんさと嘯いていた。世界は確かに変わらないだろう。けれどじぶんたちの暮らしのなかのほんのささやかな何がしかの金額を毎月アフリカやアジアの子どもたちに送ること、そうするじぶんをなぜか素直に受け入れられそうな気がした。

 

□ セーブ・ザ・チルドレン http://www.savechildren.or.jp/

2008.6.1

 

*

 

 深夜。しずかに雨が降り続いている。ジョニー・キャッシュの歌声が、じぶんがじぶんであることの証明書をかろうじて切ってくれる。この世の違反切符だ。それを切られることが何かを取り戻せることのような気がする。歌詞なんか判らなくたっていい。かれの声、それがすべてだ。ひょっとしたらイエスはこんな声で歌を歌ったのかも知れない。ジョニー・キャッシュのような、大木のような、人間の声で。微笑みながら、この世の違反切符を切って渡してくれる。ぼくらはそれを受け取る。こまかく千切って、地面に放す。

2008.6.2

 

*

 

 

 昨日、〇〇さんと話が出来なかったのでメールします。長いので時間のあるとき読んでください。

 紫乃がバイオリンについて今回出した答えはとてもいいと思います。絵本を読んで初めてバイオリンというものを知り、自分もやってみたいと思った時の紫乃はこれから始まることにとてもわくわくしていたと思うの。それがいつの間にか、「したい」から「しなければならない」ものにかわり、やらないことで叱られもする。紫乃のわくわくどきどきの気持ち、つぶしちゃったのだと思う。

 紫乃が辞めると答えを出したなら、なにも言わず受け入れますが、そういうことに至ってしまったことに対し、親として反省すべき点も多々あるように思います。また、もしも続けるというならば、それはそれで紫乃の気持ちを尊重したいと思います。「ちゃんと練習できるの?」と念押しなどはしないで、やりたいと思う気持ち、それを大切にしてあげたいと思います。強制にならによう、応援というかたちで協力できるよう心がけたいと思います。

 ただ、月謝はお父さんが一生懸命働いてもらってきてくれた大切なお金と、いつも紫乃に言い聞かせていますが、月謝袋にお金を入れるのも、先生にお渡しするのも紫乃の役目にしたいと思います。

 パソコンより

05/23 11:59

 

 これは「一週間、ヴァイオリンの練習を休んでみて、(じぶんがほんとうにヴァイオリンをやりたいのかどうか)考えてみる」と子が答えた翌日に、Yがわたしに書いたメール。「ほんとうにおまえはヴァイオリンを好きなのか」とわたしが投げた問いに、子は真剣な顔で考えた末に「好きなのかどうか判らなくなった」と明かした。この時点でYはまだ、仄かな期待を持っていたわけだ。

 ここに至るまではいろんなことがあった。Yも先生に相談して練習量を減らしてもらったり、練習の仕方もあれこれ変えてみたりと試行錯誤が続いた。わたしが目安の自己採点表をつくって冷蔵庫の扉に貼ったりもしたし、夫婦間で「ヴァイオリンの練習をどうするか」と話し合うことはしょっちゅうだった。けれど状況は変わらなかった。つまり、本を読んだり物語を書いたりすることが好きなのに、ヴァイオリンと学習教材と、ソロバンと学校の宿題をしたらそれで一日が終わってしまうのだ。特にヴァイオリンの練習は負担なようだった。「嫌ならやめちまえ!」「やる!」「なら、さっさとやれ。どっちかしかないだろ!」 どれだけそんなやりとりが繰り返されたか。

 結局、「(ここで辞めたら)もったいない」というのは、親の「もったいない」であって、子どもにとっての「もったいない」ではないのだと思った。子に、じぶんで考えさせて、じぶんでえらばせようと思った。

 子はヴァイオリンを辞めることに決めた。続けて学習教材も辞めた。いま続けているのは近所の公民館でやっているソロバンと習字だけで、これは友だちと会うのが好きらしい。ときどき、ヴァイオリンの昔の練習曲を口ずさんでことがある。先日は母の誕生日会だとひさしぶりにヴァイオリンを引っぱり出して一曲演奏したが、日にちが空いたせいかだいぶ下手糞になっていた。習い事が減ったので、気持ち的にはだいぶ余裕が出てきたらしい。来月はYが生協のパンフで見つけた納豆工場の見学バスツアーに行くらしい。「(映画の)チョコレート工場みたいなところかもよ」と言うと、「そんなわけ、ないでしょ〜!」と笑っていたが。

 

 学校でちょっと気になることがひとつ。S君という同級生の男の子が最近、子にしょっちゅう「足悪猫(あしわるねこ)」と言って逃げて行くのだとのこと。S君は去年まで子とおなじクラスだった。わたしも何度か下校の際に子と連れ立って二人で話しながら歩いているのを見かけたが、子のことを気に入ってくれているらしい。おそらくクラスが分かれて会う機会が減ったから、そんな言葉で瞬時のタイミングをつかまえようとしているのだろう。「で、おまえはどうするの?」と訊くと、「こらあ〜」と笑いながら追いかけていくという。「えらいねえ。S君は紫乃のことが好きなのよ。遊びたくて言っているのだから、S君を嫌いにならないであげてね」と母が言う。子はなんどか担任の先生に報告したというが、よそのクラスだから先生も後手に回っているようだ。さほど深刻な話ではないし放っておいてもいいのだけれど、ひとつ、そんな言葉が他の子どもたちに波及するのがちょっと心配といえば心配だ。それにS君にとっても、あまりいいことではいだろう。一度、機会を見て先生と話してみたいと思っている。

 

 今日は午後から某SCのメンテ会議で、状況によっては今夜中に四国まで車を走らせて明日の打ち合わせに備えた前泊となるかも知れない。長距離は他人の運転だと車酔いするので、同行する部長に運転させて欲しいと申し出たのだった。四国まで3時間くらいのドライブか。

2008.6.3

 

*

 

 大阪支社の社員たちと四国の新店舗立ち上げの打ち合わせに参加、高松まで往復を運転し、深夜に帰ってきた。わたしはずっと奇妙な違和感ばかりに苛まれ、クライアントとの交渉ごとや、大阪中の物件の契約話や、どれもこれも遠い国の話のようで、酷く気疲れして重たい気分で深夜に帰ってきたら、豆パン屋アポロの二階のハンモックで戯れる子とNちゃんの写真がメールで届いていた。二人がこんなふうに愉しい時を過ごしていたのなら、今日という一日はよかったのだろうと思える。

2008.6.4

 

*

 

 午前中、Yは教会のあたらしくスタートした講義へ、わたしはホームセンターへ子のあたらしい本棚の材料を買いに行く。手始めに天板部分だけを組み加工をするつもりで、必要最小限の部材だけ求める。外枠部分にルーター加工か彫刻刀でアクセントをとるつもりだが、作りながらゆっくり考える。その間にPCで仕事の残務処理や電話対応など。Yと昼食を済ましてから、昨日の疲れが残っていたのかソファーで新聞を読みながら眠ってしまう。夕方に起きてコーヒーを飲み、もともとの職場で増床工事絡みの全館停電の復旧作業があるため、私服で様子を見に行く。引継ぎなどもあれこれ溜まっていて、結局帰宅したのは夜11時頃。Yと子は眠っている。Yが置いといてくれた菜でひとり夕食を済まし、風呂に入る。

 帰りの車中のカーステからモリスンの Keep It Simple が流れている。窓の外には雨で濡れた奈良盆地の夜景が走り過ぎる。モリスンの音楽は涙をいったんばらばらにして、何かやわらかな草の葉にでも乗せて川面をすべらせるような、そんな心持がする。

 

They mocked me when I was singing the songs
Trying to get back to something more simple than we have

Wrote about disappointment and greed
Wrote about what we really didn't need in our lives
Make us feel alive and whole

ぼくらをもっと素朴な何かにもどそうと試みる
そんな歌をうたうたびにぼくはあざ笑われたものだ

強欲や幻滅について書かれたもの
生きることに必要でないものについて書かれたもの
それらがぼくらをめいっぱいにさせる

 

 霧雨の細かい水の膜が車のウィンドウを濡らしている。湖の底に沈んだような奈良盆地の夜景がかすれて走りすぎて行く。ああ、フランチェスコがいまじぶんの目の前にいたら、ぼくはきっとかれのささくれた裸の足に突っ伏して頬ずりをするだろうな。モリスンのこの曲はまるでフランチェスコへの賛歌のようだ。ささくれたかれの裸の足に頬ずりをして、ぼくは獣のように呻くだろう。

2008.6.5

 

*

 

 7日(金)。子の同級生である豆パン屋アポロの愛娘Nちゃんが遊びに来る。Nちゃんは日頃、店でいろいろな大人と交わっているせいかちょっと大人びている、言い方を変えれば醒めている。その分(というか?)ききわけが良くて、たとえば子が我儘を言っているときなど「大きい人の言うことは聞いた方がいいよ・・」なんて呟いていたりするのだ。だからこの二人、1年生からおなじクラスで、最近は豆パン屋さんのご好意で店までいっしょに帰らせてもらっているのだが、仲がいいのかよくわからないところもある。わが家で宿題をして、お八つを食べて、強力粉でガムをつくる実験をして夕方、近所の公園へ遊びに行った。やや遅れて覗きに行くと、円形のジャングルジムにNちゃんが一人ぶらさがり、子は離れた植え込みで枯れ枝を拾い集めている。「なんだ、おまえら、ばらばらか」と問えば、次のような事情らしい。二人してジャングルジムで「おうちゴッコ」をやることにした。そこで子がジャングルジムをテントに見立てて、焚き火の材料(石や枯れ枝)やそこで焼く食材(葉や草花)を集め始めても、Nちゃんはジャングルジムにぶら下がったまま。子が火打石の真似をしても「そんなのじゃほんとうに燃えないよ」と言ったり、「はい、これはサラダ」と子が摘んできた草花を差し出してもジャングルジムの上から「はいはい、もう食べました」と愛想がない。子はとうとう「Nちゃん、ほんとうに、なにがやりたいん?」と怒ってしまい、一人で黙って枯れ枝を拾い続けていたらしい。要はNちゃんにとって、子の遊びは子どもっぽくていまいち乗り切れないのだろうな。「それはそれは・・・」と苦笑するしかないのだが、子にとっては結構切実な問題らしい。ファンタジー作家(ムーミン谷)とリアリズム作家(蟹工船)くらいの距離というか、妙なちぐはぐさがこの二人にはあるわけだな。それはそれで面白いとわたしは思うのだけれど。子がソロバン教室へ行く時間になって、わたしはNちゃんを車でお店まで送った。車の中から大きな熟れた柿のような夕日が見えた。「ぷよぷよしていて、食べられそうだな」とわたしが言うと、Nちゃんが「黄色い、卵味のカマボコみたいや」と言う。あとで子にその話をしたら、小学校の給食でそんなカマボコが出るらしい。

 

 8日・9日は雑踏警備二級という公安委員会が認定する警備資格の講習があった。前の週に事前講習を二日間(朝8時から夕5時まで)やり、今回は初日が最終講義で、二日目が試験である。何せ仕事が結構立て込んでいて、前日も兵庫の方の某ショッピング・センターへ巡察に行く電車内で必死に問題集を読んでいたくらいで、あまり勉強する余裕がなかった。この警備員の資格というのはいわば箔付けみたいなものだが、最近では国道沿いで交通誘導を行う際には交通二級以上の有資格者を最低一名付けなくてはならないなどの「配置義務」も出てきている。わたしは施設二級の資格を持っているが、これもそのうち「一現場に一資格者」という形になるだろうと思われる。さて講習と資格だが、これを取り仕切っているのが社団法人・全国警備業協会なる団体で、ここも警察関係の天下りが多いんじゃないかとも推測するのだが、講習費用やらテキスト代やら問題集代やらとがっぽりと徴収する、いわば警備員資格のためそれだけで成り立っているような組織である。そこから派遣された講師たちの下で、まるで(特に実技においては)軍事教練のような指導が行われるわけで、わたしなどはその手の類は虫唾が走るくらい嫌なのだけれど、そのうち徐々に馴れてきて、「まあ、いいか。どのみちやるしかないからな」と腹でもくくれば、不思議だがじきにそうした軍隊口調の命令に従うことが何だか快感になってきているようなじぶんを見つけ驚いたりして、「なるほど、軍隊というのも、こういうものなのかも知れないな・・」と思ったりするわけだ。このHPは非常にハイ・ソサエティなサイトなのであまり警備員をやっている読者の方はいないだろうと思うが、では講習でいったいどんなことをやるのかと言えば、まずテキストによる学科講習(警備業法や刑法・遺失物法・道交法などの関連法や、群集心理・連絡要領・護身術・応急法などもろもろ)があり、他に実技項目として(例えば今回のわたしの場合は)、徒手による護身術、カラーコーンとバーを利用した人員整理、トラメガでの救急車誘導の広報、ロープを用いた規制方法、VTRと電話機を使った事故発生連絡、負傷者の搬送などがあり、それらすべてに考査といわれる試験が行われ、学科・実技共に90点以上が合格ラインである。というわけで試験前日の夜は、子を相手に負傷者搬送の練習をし、Yを相手に徒手による護身術を練習し、当日、実技はまあまあそつなくやれたと思うのだが、いかせん勉強不足が祟って学科の方が当落ラインびみょ〜といったところであったけれど、とりあえずすべては終わって、夜はわたしのリクエストで回転寿司へ行って呑んだ生ビールがこれまた美味であった。も〜しばらくええわ、資格講習は。

 

 そんな次第で今日と明日は連休で、ひさしぶりにゆっくりできる。午前中はYと二人で車で買い物にでかけ、発泡酒一ケース、夕食の材のほか、浴室の電球を買いに行った電気屋で子ども用と大人用それぞれの英語学習ソフト(PC)を購入する。帰って子のオールド98ノートPCに入れてみたその名も「えいご漬け」なるソフトはシンプルながらなかなかよいソフトのようで(Y談)、かねがね英語をもういちど勉強したいと言っていた彼女はさっそく子の机にとまった蝉のように動かなくなった(このソフトはDSでも出ているようだ)。午後はベランダで新本棚の天板作業。四隅の角をそれぞれ手ノコで落とし、簡易カンナでまるめてから、外枠ぐるりをルーターにヒョウタン面ビットを取り付けて溝掘りした。夕方、これから豆パン屋アポロで買った小粒じゃがいもを剥いてディルのポテト・サラダと、子とYの大好きな鶏肉のステーキをつくるお役目でござる。

2008.6.10

 

*

 

 休日二日目。朝からユーチューブで8日・日曜日の秋葉原で起きた「通り魔事件」(7人が死亡)関連の動画を延々と見続ける。「一人でもテロはできる」と書いていた森達也の言葉を思い出す。力でテロを抑え込むことはできない。もちろん銃刀法を改正してもできはしない。「力でテロを根絶する」と宣言したアメリカに追随したのがこの国だったことはまず思い出しておいてもいい。すべては深い地下茎をたどってある日忽然と登りつめるのだから、そうしたことが役に立つはずがない。町中に無数の監視カメラを設置しても覗くことはできない。「思想と良心の自由だけは不可侵でいかなる制約も受けない」と先日の資格講習のテキストにも載っていたが、そんなものを覗き込めるカメラがあれば役に立つかも知れないが、それこそオーウェルの「1984年」の世界だろう。はじめに夜のテレビ・ニュースで犯人の人となりのくだりを聞いたとき、何やらじぶんに似ているかもなと思った。中学の頃は快活で、勉強もでき、人気者の部類だったとかつての同級生が話していた。高校になってじわじわと転落が始まる。気がつけば人員削減のあおりを受けて解雇を目前にしたしがない短期契約の派遣労働者だ。やつは実際に頭もよく、(ある意味で)要領もよかったのだろう。だからこそ「おれはこんなはずではない・おれの居場所はどこか別のところにある」という焦燥が強かったはずだ。焦燥は絶望と常に同居する。平和が戦争の裏返しであるように、劣等感は殺意の裏返しだ。おれはやつが引き籠りになれたらよかったのにと思うよ。青森の実家に帰って、糸を吐いて自らの周りに繭をつくり、その中でしばらくまどろんで次なる飛翔の季節を待てたらよかったのにと思う。おそらくやつには、ほんとうに心を分かち合える友人も、おれが中学のときに聴いたレノンの1stソロ・アルバムのようなかさぶたを引っ剥がすような音楽との出会いもなかったのだろうな。そして耐え難い己をしばし囲ってしまう繭をつくることを許す環境もなかった。勤め先でじぶんの作業着がないと騒いで欠勤した日にやつが携帯電話のサイトに書き込みした言葉。《人が足りないから来いと電話が来る 俺が必要だから、じゃなくて、人が足りないから 誰が行くかよ》は、やつの住む世界を端的に物語っている。そこでは人は顔のない駒として扱われるだけだ。期待されるのは「じぶん」ではない、「交換可能な駒」にすぎないじぶんなのだ。《無価値です ゴミ以下です リサイクルできる分、ゴミの方がマシです》 《隣の椅子が開いてるのに座らなかった女の人が、2つ隣が開いたら座った さすが、嫌われ者の俺だ》 一方スポーツ報知は父親とすでに別居をしていた母親が、やつが高校生のときに「2人で食事するのがとても苦痛。(97年に神戸市で連続児童殺傷事件を起こした少年)『酒鬼薔薇聖斗』と同じ年なんだよ。怖いんだ」と知人に漏らしていたという言葉を報じている。実の母親から共にいることが「苦痛」だと思われる子どもというのはどうなんだろうね。決定的な愛情の欠如。テレビの評論家めいた分析はしたくはないが、おれはやつにそれをいちばん強く感じる。つまりやつには繭をつくる最後の避難場所もなかったわけだ。愛情の欠如した家から社会へ出れば、そこはまた《俺が必要だから、じゃなくて、人が足りないから》という世界。手にした携帯電話の小さな画面で同じ顔のない人間とすれ違いの言葉を交わすしかないだけの世界。携帯電話の画面はそんなやつが「じぶんはじぶんである」ことを表明する唯一のツールであり、その先に「オタクの聖地」であり幸福そうな若者やカップルたちが行き交うユートピアとしての秋葉原が在った。この小さな画面の言葉のやりとりは、確かにそこへつながっているはずなのに、永遠に辿り着けない。ユートピアに疎外されたらユートピアを破壊するだけだ。小さな液晶画面に己の拙い軌跡を描きながら、やつはその中をくぐり抜けて「偉大な破壊者」としてじぶんを変容させようと決めた。そうすること以外には何も残されていなかった。あとは空虚なからっぽの世界。そうであるとしたら、ひどくさみしい。ところで事件発生直後を写した映像を見ていてどうにも目に付くのは、血だらけになって横たわる人々の凄惨な光景はもちろんだが、その周囲で携帯電話を片手にしきりに撮影をしている顔のない連中だ。商業ビルの避難階段をさながら桟敷席よろしくぎっしりと埋め尽くした観客たちがいる。生中継のテレビのレポーターの後ろで微笑んだりおどけたりしている連中がいる。規制ロープの張られた際でメイド姿の女の子たちがならんで記念撮影をしている。救急車の進路をふさぐそんな連中に苛立ってか「人の命がかかっているのに! どけどけっ!」と怒号している声が録音されている。ニッポン・レンタカーのトラックで突っ込んだやつが異常であるなら、この光景もまた異常ではないか? 軍用ナイフで10人以上もの人間を次々と刺していったやつと、どれほどの明瞭な違いがあるというのか? 「明るく、ふつう」の衣をまとっている分、わたしには後者の連中の方が不気味で空恐ろしく感じられる。ここでもまた、亡きエンデさんのあの言葉が想起される。「狂ってしまった世界では、狂った反応をする人のほうが、いわゆる正しい反応をする人より多くなりますよ」  「(犯行途中の犯人は)にやけているように感じた」 テレビの画面で犯行を目撃した人へのインタビューが行われている。「え、もういちど言ってください」 ぼそっと放たれた言葉にレポーターは敏感に反応して再度聞き返す。それがいつしか「犯人は笑いながら次々と人を刺して行った」という報道や「まるで愉しんでいるように刺して行った」という表現になる。突出した異端者には異常な形容詞が必要なのだ。それがこの「平穏な社会」とのライン引きに寄与する。やつがみずから投げ捨てたラインだ。ほんとうにあるかどうかも判らないし、わたしもときおり踏み越えているのかも知れないラインだ。ほんとうのところ、人を刺し殺すときの表情など、その内面と同じく、いわく「説明しがたい」表情としか言い様がないのではないか。こういうマスコミの手法は、もちろんわれわれ多数の視聴者の願望に基づいているわけだが、もうそろそろこんな安易で薄っぺらなやり口はやめようじゃないか。人が人を殺傷する、しかも白昼の繁華街で見ず知らずの多数の人間を次々と手にしたナイフで刺していくときの表情やその内面を語ろうとすれば、分厚い一冊の書物が書けるだろう。わたしはやつが特に突出した人間だとは思わない。やつのような愛情に飢えて、孤独で、不器用で、甘ったれた人間などはそこいら中にいくらでもいるだろう。やつがじぶんと世の中に対して向けざるを得なかった感情。それはやつの手にした軍用ナイフのようにまさに両刃の剣であり、そしてあたかもいじめの加害者と被害者の関係のように容易に反転するものでもあるのだけれど、かつてオウムの信者たちの行き場のない魂をすくい取れなかったように、深い地下茎をたどって登りつめた自虐の殺意が、この国ではときおり間欠泉のように噴きあがる。だからこうした事件は明日もまたどこかで起こるだろう。《犯罪者予備軍って、日本にはたくさん居る気がする》 《「誰でもよかった」 なんかわかる気がする》 そう、あたかもやつが予言したように。エンデさんの言葉に即して言うならば、やつは「正常な反応」をしたことになる。やつに罪があるとすれば、それはたんに「ふつうの狂気」に乗り切れなかったということだけだと言うとしたら、このわたしは非難されるだろうか。

2008.6.11

 

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 とある駅前で死刑廃止運動のビラを撒く男たちがいる。ふと、ビラを差し出された通行人の一人が、ビラ撒きの男を睨みつけ「被害者の遺族の気持ちを考えろ」と声を荒げる。男はしずかに答える。「わたしはその被害者の遺族です」 通行人は気まずそうに肩をすくめ、足早に立ち去っていく。

 これは「弟を殺した彼と、僕」(原田正治・ポプラ社)の書評で、森達也が紹介している本の中のささやかなエピソードだ。続けて森は「加害者である長谷川の名前に「君」という尊称をつける」著者の「呼び捨てにしてすむ程度の気持ちを抱く人を羨ましく思う」という言葉を引いている。

 わたしの父はわたしが20歳のとき、馬鹿な若者グループに殺された。無免許・スピード違反・飲酒運転・定員オーバーの車両に正面からぶつけられたのだから、殺されたといっても間違いではないだろう。葬式に現れた若者の親たちに、思わずわたしは式場のパイプ椅子を投げつけたものだが、だが、それだけだった。馬鹿な若者とそいつらを育ててきた親どもを皆殺しにしたところで、死んだ父はもう帰らない。パイプ椅子を投げつけたことで、どうでもよくなった。かれらはすでに「どうでもいい存在」だった。わたしの視界からどうでもいい足元の塵芥のように掻き消えた。わたしはただ、どうにもならない父の死を悲しんだ。

 

 悪を叩くことは確かに気持ちがよい。でも被害者遺族は、敵を討ったからといって救われない。なぜなら当事者にとっては、とてつもない苦痛が伴う憎悪なのだ。報復で溜飲を下げることができる非当事者たちの憎悪は、中世ヨーロッパで、魔女と名指しされた人の処刑を物見遊山よろしく見物に来た人たちと共鳴する。つまりは「その程度の憎悪」が、今の日本社会を覆っている。

森達也「世界が完全に思考停止する前に」(角川文庫)

 

 見てごらん。そういう連中はどこにでも、うじゃうじゃといるよ。「こんな奴に裁判など無用、即刻死刑にしろ」「トラックで轢いてナイフで刺し殺してやれ」 「その程度」の言葉の深度しか持ち合わせないようなやつらが。

2008.6.13

 

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 昨夜、ついにモバイルPCをwebで注文した。日曜は欠員補充の交通隊ピンチヒッターだったので夜7時にあがった帰り、近所の家電量販店に立ち寄ったら、ちょうど「どっちか」と絞っていたASUSのEeePC工人舎のSA5KX08ALが並んでいたのだった。あれこれといじくって、結局さんざ悩んだEeePCではなくて工人舎の方を選んだのは、まずキーボードの感触、それにやはり80Gのハードディスクかな(EeePCの4Gはやっぱりキツイ・・)。それとデジカメのCF(コンパクトフラッシュ)が使えるのも、撮った写真を出先で閲覧したり整理できるのもいいかなと思った。バッテリー駆動時間がEeePCの3時間に比べて5時間というのも惹かれたし、変化自在のモニタ部も面白い。オフィスがインストールされていなかったのでワードパットで文字入力を試したけれど、画面はEeePCの方が見やすかったが(てからずクリアな感じ)、工人舎もそれほど悪いわけでもない。動画再生能力はEeePCの方が上らしいが、個人的には必要性を感じないので構わない。CPUも工人舎はだいぶ型落ち世代を採用しているらしいけれど、文章作成メインのわたしには支障なしと判断した。こいつで特にネットをしたいと期待してもいないが、モバイル通信の料金がもう少し安くなったらデータカード購入を検討して、メールができるくらいはいいかもね。それと日本の小さなメーカーを応援したい気分もちょっぴり。そんなあれこれを踏まえて昨夜、「在庫有り」で54500円の値をつけていたグッドメディアなるネットショップで注文をすませた。EeePCより一万円ほど上乗せだが、長く使うことを考えたらまあいいでしょう。きっかけは仕事用だったけれど、ほんとうは手軽に持っていけて、どこでも文章が打てることが仕事以外でも大きな魅力だ。訪問地の資料をデータで持っていって参照したりとかね。モバイルPCを伴侶としている宮内勝典氏の影響も少々あったりして。

5万9800円──EeePCに対抗できる小型ノートPC http://japan.cnet.com/review/editors/story/0,3800080080,20372611,00.htm

 

 今日は休日。Yと子は生協の募集イベントで朝から出かけている。バスで和歌山の納豆工場を見学して、海南のマリーナシティでお昼を食べて帰ってくるというツアーだ。昼食代は自腹で、参加費300円。子の「納豆工場を見たい」というリクエストで学校を休ませての参加だが、わたしはバスが苦手なので留守居役である。浴室の掃除と夕食の支度を言い付かっておる。

 

 中国新聞のサイト記事で、例の秋葉原事件の容疑者が携帯サイトに書き込んでいたという大量の文章を見つけて読む。気が重いのをふりのけて持病の薬のように呑み込む。

 

【6日】午前0時2分 根拠がないのに自信だけはある人がたまに居ますけれど、正直、殺意がわきます

 

【14日】午前4時11分 否定されることで自分を維持しているのだと思います 私はここに書き込みしてくれるみなさんのおかげで助かっています いつもギリギリですけれど

 

54分 ものすごい不安とか、お前らにはわからないだろうな

 

【24日】午前0時46分 私より幸せな人を全て殺せば、私も幸せになれますか?なれますよね?

 

58分 俺がなにか事件を起こしたら、みんな「まさかあいつが」って言うんだろ

 同 「いつかやると思ってた」 そんなコメントする奴がいたら、そいつは理解者だったかもしれない

 

3時45分 「ちょっとしたことでキレる」 幸せな人がよう言う

 46分 ギリギリいっぱいだから、ちょっとしたことが引き金になるんだろ

中国新聞ニュース '08/6/15

 

 こうした端切れのような言葉の数々に共感したり反発したりするじぶんがいる。かれは甘ったれで、身勝手で、他者への想像力も欠如し、自制心のカケラもなかったかも知れないが、ここには「切実なリアリティ」がある。ある場所まで降りていかなければ出てこないスルドサの、不完全燃焼の瞬きのようなものがたしかに在る。かつて酒鬼薔薇が覗き込んだ深淵を、かれも覗き込んだのだろうと思う。そうでなければ、人は人をそう簡単に殺せやしない。これをタガーナイフなどではなく、アンプのボリュームを目一杯上げて歪めたギターに乗せたらきっと渋いブルースが歌えたのにと思う。

 

 あの事件が起きてから、モリスンのアルバムばかりを聴いているような気がする。煙草をくわえてベランダに出れば、初夏の緑が妙にやさしくまぶしくて、何故だか泣けてくる。

 

Soul is the essence, essence from within
It is where everything begins

Soul is what you've been through
What's true for you
Where you going to
What you're gonna do

魂とは内よりきたる本質
あらゆる始原の場所

魂とは経験
おまえの真実
おまえが行く道
おまえが望むもの

Soul ・ Van Morrison

 

2008.6.16

 

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 モバイル・ノートPCが早くも到着。さっそく外付けのDVDドライブにUSB接続してまずオフィス2000をインストールし、Macから外したLANをつなげネット経由で iTunes やグーグル提供の画像整理ソフト Picasa2 などをいれてみた。改めて手にすると、このハンディさはやっぱり得がたいねえ。わたし的にこのマシンに期待するのはワンセグでもWeb閲覧でもなく、PCと互換性のあるワープロ=移動書斎とでもいったものだ。同時にささやかな音楽とデジカメ画像とPDFなどの資料庫付き、とでもいったところか。それだけで充分。逆にそれ以上の情報過多には陥りたくない。さあ、こいつを小脇にかかえて、たとえば病院の待合室で、たとえば淀川のほとりで、たとえば芝居小屋の桟敷席で、町の喫茶店で、公衆便所のなかで、どんな文章を打つだろうかと考えてわくわくする。

 

 ティンホイッスルを買って練習してみようかしら、なぞと思っている。ティンホイッスル(tinwhistle)は別名ペニーホイッスル(pennywhistle)などとも呼ばれるイギリス発祥の縦笛で、アイルランドの民俗音楽には欠かせない楽器だ。じつはひょんなことから昨夜、このティンホイッスルに関するサイトを見つけ、深夜まであれこれ読み漁っていた。値段は安価で千円くらいからある。ヴァイオリンやフルートのように音を出すのが難しいわけでもなく、息を吹き込めば誰でも音が出る。特別な手入れも要らないし、ブリキ製だから気軽にポケットに挿したり旅行カバンに放り込んで持っていける。それにこの澄んだ、滝の流れのような音色がいい。ブリキなのにとてもナチュラルな心地がする。こんな楽器を山の中でひとりで演奏してみたい。鳥や植物と戯れるように吹きたい。乾涸びた心をちょっぴり潤わせたいような。

ユーチューブでティンホイッスルを聴く 1 2 3 4

ティンホイッスルについて http://web1.kcn.jp/eternal_departure/whistle/whistle.htm

2008.6.17

 

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 休日。朝食を済ませてから毎年恒例の、椋鳥様御出産滞留後の清掃作業を行う。ベランダの空調室外機の裏にたっぷりつまって異臭を放ちつつある巣の撤去作業である。Yと学校へ行きかけた子はお腹が痛いと戻ってきた。膀胱炎らしいとYが言う。昨日も失禁が二度ほどあった。やはりカテーテルを使って導尿をしているので雑菌が入りやすいのだ。気をつけてはいるのだが、ときどきなる。いつもの小児科へ連れていくという。そうか、とうなずいて室外機をぐいとずらした途端に思わずのけぞった。大きな蛇がとぐろを巻いて椋鳥様の寝床の藁の上に鎮座しているのである。「うわ、へびだ。でかい」 Yもお腹が痛いと玄関でへたっていた子もベランダに集結した。箒の先で突くとするすると藁の下へもぐりこむ。そうして蛇を追い払い追い払いしつつ室外機裏の藁を少しづつ掻き出した。藁の奥から水色の小さな卵が二つ出てきた。蛇は最後は室外機の台座にしているブロックの穴に入り込んで出てこない。「さ、もう予約の時間だから」 膀胱炎ではなく蛇見たさに子はぐずりながらYとでかけていった。野山を駆け回るのは好きだが、根っこのところでわたしはやはり「都会っ子」である。ブロックの穴に潜んでいる蛇にそれ以上手出しできない。蛇の首根っこをつかんで空中に放り投げるなんてことは無論できやしない。殺虫剤で追い払おうかと考えたが、生憎わが家には置いていない。それで試しに防水スプレーを噴霧したらこれは効果があった。防水スプレーを駆使しながら蛇をベランダの外へ巧みに誘導し、隣の部屋の窓際に移動したところを噴霧したら、まるで爆撃機から身を放つ落下傘部隊員のようにぱっと蛇の身体が傾き、それから階下の植え込みあたりに落ちたらしいがさっという音がした。やれやれ。Yの携帯に「撃退」のメールを送ってから、気を取り直して室外機の移動を続けた。もともとこの室外機がベランダ側面の壁を背に程よい隙間を形成しているのが悪い。室外機の排気面をベランダの柵側へ向けて、空いた日陰のところへ園芸用の棚でもあつらえるつもりだった。台座のブロック穴に軍手の指をかけると藁がぎっしりと詰まっている。こんなところにも・・・ と新宮の火祭りで拾った燃え滓の松明で突くと、藁ではなく蛇が出てきた。「うわ、もういっぴき」 さっきのよりさらに肥えていて、体長は優に1メートル半はある。これも防水スプレーで追いたて、すわベランダから出そうだというところで、急にどこからか飛来した椋鳥数羽がぎゃーぎゃーと口を広げて蛇を威嚇し始めた。もしかしたらこいつらは大事なヒナか卵をこの蛇に喰われてしまったのかも知れない。それで復讐に来たのかも知れない。蛇は激しい椋鳥の威嚇にたじろいできびすを返し、また元のブロック穴に戻ってしまった。残りわずかだった頼みの防水スプレーはもう空になっていた。Yの鏡台にあったヘアー・スプレーをかけてみたが、こちらは効果がない。思い切って松明でぐいぐいと押し出そうとしたが、中でぎっちりととぐろを巻いている蛇はまるでスクラムを組んだラグビー部員のように頑として動こうとしないのである。では最後の手段だ。新聞紙を丸めてジッポ・ライターのオイルをかけ、それをブロック穴の片方へ突っ込んでライターで火をつけた。たまらず蛇はブロック穴から脱出した。そしてベランダの柵を乗り越え、階下のベランダの方へするすると見えなくなった。かくして二匹の大蛇との闘いに聖ジョージの如く勝利したわたしはすでに精魂尽きかけていたが、気を奮いなおして藁屑をゴミ袋に入れ、水で洗い流し、室外機を設置しなおし、その裏手に即席の園芸台をつくって置いた。園芸台の材は先日車で取ってきたわたしの職場から出た廃材で、たぶん無〇良品と思われるテナントが出したたぶん嵌め込み式のガラスが割れたか傷ついたかして処分した木製の脚部をそのまま利用して、その上にこれもどこかの改装したアパレル店が放出した合板の商品棚を適当にノコで切って子が白ペンキを塗り、ネジで簡単に止めたものだ。そしてYが小児科の帰りに行きつけの薬局のおばさんから聞いてきたという蛇除け対策として、キッチンハイターを溶かした水を蛇の居た付近に撒き、樟脳を設置した。それから膀胱炎の痛みが収まった子と、蛇の聖性とその神話についてしばらく話をした。子はいま、蛇の神さまと小鳥の話を書くといって机に向かっている。

2008.6.18

 

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 土曜、休日。全八巻を読破して口を開けばナルニア国のことばかり喋っている子と、朝一で(わたしの職場SC内の)映画館へナルニア国物語第二章を見に行く。同じナルニア同盟軍のKちゃんも誘った。わたしは同盟軍2名を引き連れてナルニア国、Kちゃんのお兄ちゃんとお父さんはインディージョーンズ、そして二人のお母さんはその間、ショッピングである。みんな仕合せな構図。映画館は料金が高いので滅多に行かないが、子にたまには大きなスクリーンを味あわせてやりたかった。障害者手帳の付き添い割引で大人1名が千円になった。子どもも千円。暗闇の中で小さな二人がくすくす笑ったり、耳や目をふさいだり、ひそひそと説明し合ったりするのを横目で見ているのも愉しいものだ。子は道化役のリーピチープ(ネズミ)が好きらしい。ひょうきんな台詞にけらけらと笑い転げている。ささやかながらボーナス(生涯初の)も出たので、二人にショップでナルニア・グッズを奢る。Nちゃんは下敷きと消しゴム、子はノートと消しゴム。二家族が合流して、フードコートでケンタッキーやラーメンやたこ焼きやのごちゃ混ぜの昼食を食べる。週末の休日にショッピング・センターで映画を見て食事をする。ああ、ふつうの家族をやってるなあ、などと思う。ギターが趣味だという同年代のNちゃんのお父さんと洋楽の話などを少々。帰りに子を連れて、置き忘れたiPODを取りに防災センターへ寄る。副隊長のYさんとシリアスな話をしている間、交通隊のJさんが子に駐車場のカメラなどを見せて相手してくれる。夜、風呂の中で「アスランはさあ、あんなに力があるのなら、何で最初からナルニアを守ってやらないのかな」と鎌をかければ、子は呆れたという顔で「お父さんねえ、判らないの? だれもアスランのことを信じていなかったからよ。だからアスランは現れなかったのよ」なんぞと言う。ちゃんと判っていらっしゃる。それから子は、死んで復活したアスランはじつはイエスさまの隠喩でもあるのだと付け加える。本に出てくるのかと訊くと、あとがきにそんな解説が書いてあったそうだ。明日は鳥取出張。朝一で大阪から高速バスに乗り、最終電車で帰ってくる。

2008.6.21

 

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 大阪難波OCATから鳥取駅前まで日本交通の高速バスで3時間10分。中国道を佐用で下りて山沿いの道をうねうねと行く路線だ。途中で宮本武蔵の生誕地があり、酒造手伝いをしていたときに杜氏のおやじさんたちが来ていた美作の町があり、それに帰ってから気づいたのだが、独特の郷土色豊かな人形浄瑠璃を継承している円通寺のそばもバスは通っていた。今回は翌日も奈良で会議が入っていたので諦めたけれど、次回は休日と組んで一泊でこの人形芝居観劇を目論見たい。往復6時間半をかけて、見たのは閑散とした鳥取駅と巡察先のショッピング・センターだけ(まあ、仕事だから仕方ない)。駅構内の土産物屋で職場に蟹せんべい、自宅にラッキョウを購入。おばちゃんが20世紀梨のスティック・ケーキをひとつ、おまけに呉れた。往復6時間半のバス上でCD5枚組みのザ・バンド・ヒストリーを聴き通した。直行直帰で深夜11時に帰宅。ちょっとした旅行気分、か。疲れた。

2008.6.22

 

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 休日。昼からYは子のおしっこを持って大阪の病院へ。わたしは家電屋へ行ってモバイルPC用のワイヤレス・マウス(二千円)と、それから子にマイク付のヘッドホン(980円)を買ってくる。後者は某所よりベネッセのこんな英語教材を頂いたので、そのためのもの。サウンド設定の確認がてら試しにわたしもやってみたが、Cake の発音でなかなか合格点をもらえなかった。そろそろわが家も無線LANを組もうかとルータも見たのだが、店頭に置いているのは高い最新機種ばかりだったので、こちらはネットで買うことにした。

 ことしも職場のY君から熊野の実家のおばあちゃんが畑でつくった採れたての新生姜をもらった。久しく行っていない熊野を懐かしく思いながら、ことしはいつもの甘酢漬けでなく、醤油と酢、胡麻油に浸す醤油漬けを作ってみた。胡麻油がポイントだね。賞味は三日後。

 3時頃、自転車で子を迎えに行く。モリスンの And It Stoned Me To My Soul を口づさみながら、そういえばこの歌を口づさむのは久しぶりだと思う。田植えを終えたばかりの田圃が気持ちいい。後ろで黙って聞いていた子は、路面に潰された亀の屍骸を見つけ、数日前に道路に迷い出ていた亀を葉っぱでつかんで用水路へ戻してやった話をする。「もうその亀は反省して、二度とあがってこないだろうな」と言うと、「そうかなあ。亀はそんなに物分りよくないでしょう」と子は言う。

 練乳のかき氷のお八つを食べ、宿題を終えた子と夕方、公園でサッカーやドッジボールをする。葉っぱを石でなめして遊具にこすりつけ、「こうするとなあ、(遊具が)つるつるするねん」なぞと言う。子が近所のソロバン教室へ行った頃に、Yが帰ってくる。膀胱炎の薬を途中でやめてしまったので、今回の尿検査の結果は不合格で、先生に少々叱られたとの由。大阪でYが買ってきたミンチカツとかぼちゃのサラダで夕食。醤油漬けをつくったときに置いておいた生姜の茹で汁で、わたしが玉葱スープを加える。醤油とコンソメ、具は玉葱だけのシンプルなスープ。これが絶妙にいい味で、Yはおいしいおいしいとお代りをした。

2008.6.24

 

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 朝から書類とモバイル機器を突っ込んだカバンを抱えて京都・大阪・兵庫とろくに昼飯を食う間もなく駈けずり回る。あちこちの現場で職場上の相談や近況を聞く。こうして話をするのは嫌いじゃないんだがいつも時間が足りない。そら、もう次の会議の時間が迫っている。移動中も電車の中で膝の上にPCを広げて報告書を打っている。端から見たらバリバリのビジネスマンみたいじゃないか。まさかじぶんがこんな様になるとはね。そうじゃないんだ。すべては早く仕事を終わらせて、早くわが家へ帰りたいから。京都駅でも大阪駅でも駅前やホームのあちこちに警官が立哨して何やら物々しい。「テロ警戒中」の看板も見える。この国もいつかイラクやアフガンのようになっていくのかな。でももういちど焼け野原に戻ったほうがいいのかも知れない。暗くなって朝出た駅に降り立つ。iPODのイアホンで晩年のジョニー・キャッシュが Danny Boy 〜Desperado 〜I'm So Lonesome I Could Cry   と歌っているのが相応しい。くたびれた魂が故郷へ帰っていくような気分になれるから。遅い夕食を食べてからも、終わらなかった仕事の続きをするためまだPCの前にすわっている。今日はだめなんだよいっしょに寝れないんだよ、まだお仕事が残っているからね、と甘える子の額にそっとキスをする。

2008.6.25

 

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 昨日は子が大阪の病院へ装具の仮合わせに行くというので、午後から大阪の現場で会議の予定があったわたしもいっしょに家を出て仕事は昼からとする。電車に乗ると子は自分がノートに書いた物語を読み、Yは図書館の本を読み、わたしはモバイルPCを開いて書類の整理をしている。整形外科の待合室でしばらく待ってから、新しい装具を装着してみる。こんどのは素材を薄くして、軽量化を試みた(らしい)。かかとのジョイント部は無く、薄さに差をつけることによって内側への反りを抑え、外側へ流れるようにしている。付けてみた子は「いい具合」と言う。H先生の診察までしばらくその辺を歩いて来たら・・・ と言うので、お昼を食べてくることにした。売店へ行く途中の廊下で看護婦のKさんに会った。子の最初の手術のときにお世話になった看護婦さんだからかれこれ5年ぶりくらいになるだろうか。「あれ、Kさん?」とこちらから声をかければ、思い出したらしく、スーツ姿のわたしに「こんなところで、何してるんですか?」と言う。それからやっと子に気がついて「えー、シノちゃん? シノちゃんなの?」と驚いた。子が退院した後で緊急病棟へ移ったと聞いていたが、また小児科へ戻ったらしい。売店で弁当を買って、外のテラスで食べているところへYの携帯へ整形外科から呼び出しがかかった。Yと子は食事を中断して整形外科へ戻り、わたしは弁当を食べて駅へと急いだ。

 今日もまた深夜まで仕事。明日は休みをとって、子と天王寺の動物園へ行く予定。

 

 仕事柄、USBのメモリスティックにデータを入れて持ち運ぶことが多い。というかUSBメモリスティックはもう必携で、これがなくては仕事ができない。移動先の現場や営業所などで気になっていたのが、(PCにいろんなデバイスをつなげているところは特に)挿したじぶんのUSBメモリスティックを認識しづらいのと、いちいちタスクバーで「デバイスの安全な停止」の操作をしなくてはならないのがチト面倒臭いこと。それでUSBメモリスティックに以下のような Autorun.inf の仕掛けを仕込んだ。ウィンドウズのメモ帳で下記の命令文を書いて Autorun.inf の名前で保存する。あとは UnplugDrive なる「USBメモリを“安全かつ簡単”に取り外せるようにしてくれるユーティリティ 」実行ファイルを入れ、またApplications のフォルダをつくって、その中にUSBメモリのこんなアイコンを一個入れておく。これで「マイコンピュータ」を開けばどれがじぶんのデバイスか一目瞭然だし、そこから右クリック一発でUSBメモリの取り外しができる。これが結構、便利。他にも、現場によってはネットに接続していないローカルPCで、故にセキュリティ・ソフトをいれていないというPCもあるので、こんなUSBメモリに入れて持ち運べるセキュリティ・ソフトもいっしょに入れている。Web につないだときにデータを更新する。

[AutoRun]
icon=Applications\usbicon.ico
shell=open
shell\UnplugDrive\command=UnplugDrive.exe
shell\UnplugDrive=USBメモリを取り外す

□ USBメモリを使いこなす! http://kiki.suppa.jp/usbmobile/index.html

2008.6.27

 

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 前々から思っていることだけれど、動物園というところは、そもそも人間が動物を観察するところではなくて、人間が動物に教わりにいくところだという気がしてならない。人間の方が動物たちに見られるというのかな。チンパンジーやコウモリやハイエナや淡水の深くに棲む真っ白なカエルやサンショウウオまでもが「おまえなあ、生きるってのはそもそも・・・」なんぞと話しかけてくるのだ。わたしは動物園が好きだ。経済や法律や哲学について学ぶより、オラウータンの顔を日がな眺めている方が、人間についてずっとたくさんのことが学べる。

 くわしくあたったわけではないけれど、週刊誌の新聞広告などによれば例のアキバ事件の容疑者を「おれたちの代わりによくぞやってくれた」なんて神のように持ち上げる意見が巷に広がっているそうだ。勘違いしてはいけないな。やつはちんけで歪んだおのれの欲望さえ自制できなかったただの腐れチンコだ。ただわたしが言っているのは、そんな腐れチンコにもチサの葉いちまいの理があるのではないかということだけだ。所詮、腐れチンコは腐れチンコにすぎない。そんなことは本人自身がいちばんよく判っていることだろう。仮にも腐れチンコを崇めるお前はじぶんが腐れチンコ以下であることを知るべきだ。

 アキバ事件の“やつ”も、秋葉原なんかじゃなくて動物園に通っていたらよかったのにな。不思議な生命体、なんとも面妖な姿態、滑稽な表情、深遠な賢者のような顔、悟りを得た行者のような顔。きっとやつの歪んだこころは、アイロンをかけたシーツのようになっていったと思うよ。

2008.6.28

 

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 いま本屋にいる、というYからの電話に、日曜の新聞の書評欄で読んだ芝健介「ホロコースト ナチスによるユダヤ人大量殺戮の全貌」(中公新書)を買ってきてくれるよう依頼する。

 心の奥底の方でいつも、たとえばアウシュビッツのような極限状況の中で、とくにいとおしい家族のために、妻や娘の前で、いったいじぶんがどんな振る舞いが出来るだろうか、どんな勇気を見せられるだろうかと考えている。ときにそれはできそうな気がするし、ときに卑怯で萎縮した惨めなおのれの姿を幻視する。この平穏なつつましい日常を送りながら、いつもどこかで、そんな自問をくりかえしている。

2008.6.30

 

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 朝、小学校の制服に着替えた子が足が痛いと訴える。左の足裏、内側あたりが十数センチにわたって紫色に黒ずんでいる。麻痺している部分なのに触れると痛いと顔をしかめるのは相当だ。昨日まではなかったのだが、思いつくとしたら土曜に動物園に行った帰り、やはり左足が痛むとしゃがみこむのを、もう少しで駅だから我慢して歩けと言ったときのことだ。学校を休ませて、Yに大阪の病院へ連れていってもらう。結果は推測した通りで、「歩きすぎ」。装具を履かずに長いこと歩行をしていると、どうしても内反足のせいで足裏の内側のある一箇所に負担が収束してしまう。注意が必要だと反省する。

 そんな朝、出勤前に、子のヴァイオリンの再開(?)についてYと詰まらぬ諍いをした。「昨夜は(夫婦で)先生に現状を話して相談しようという結論になったのに、今朝になって勝手に子と話をすすめて、それなら最初からおれに相談なんぞ持ちかけるな」と怒り狂って、玄関周りのあれこれを力任せに蹴散らかして家を出てきた。秋葉原の他人さまのことなんかより、内なる狂気の方が問題じゃねえのか。所詮は釈迦の手のひらで踊っている滑稽な孫悟空なのだろうが、釈迦の手のひらでも人を刺し殺すことはできるだろう。ときに、すべてを破壊してしまいそうなおのれの衝動に怖れを感じる。

 深夜に人の寝静まった家に帰ってくると、子のためにアマゾンで注文していた中原名人監修の「やさしいこども将棋入門」「こども詰め将棋」の二冊が机の上に置いてある。

2008.7.1

 

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 職場に置いている15インチ・ノートに BunBackup というバックアップ用のフリー・ソフトを導入する。USBとPC双方におなじフォルダをつくり設定しておくと、ソフトを立ち上げワン・クリックでUSBからPCへ、変更になったファイルだけをバックアップしてくれる。使い勝手もいいので、家に帰ってからデスクトップとモバイル・ノートにもおなじソフトを入れて設定も済ませた。これでUSBを軸として、3台のPCに恒常的なバックアップが手軽に可能となった。便利なものだ。

 

 10時頃に子と眠ってしまい、夜中の1時すぎに目が覚める。起き出してビールを飲みながら Gyao の80年代のミュージック・ビデオ集でウィルベリーズやヴァン・ヘイレン、ドゥービー・ブラザース、マドンナなどを見る。Youtube に移って若い頃のマドンナを数本見てからマリリン・モンローの曲をしばらく見続ける。The River Of No Return はやはり胸がつまる。モンローの死に至るドキュメンタリー・フィルムなども見る。ジョー・ディマジオ、アーサー・ミラー。肉体と知性。そんな結婚も彼女の精一杯の格闘のように思える。悲しくなってきた頃にエルトン・ジョンの「グッバイ・ノーマ・ジーン」で何やら興ざめして、野坂昭如の「マリリンモンロー・ノーリターン(この世はもうじきお終いだ)」で口直しする。その後エタ・ジェームスや、沖縄のオバアのようなマヘリア・ジャクソンが Precious Lord Take My Hand を歌うのを見る。プレスリーのゴスペル曲をいくつか聴く。Midnight Train To Georgia を歌う若きグラディス・ナイトに恋をして明け方の4時頃までおなじ映像を20回繰り返して見続ける。

2008.7.2

 

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 高橋悠治による「パーセル 最後の曲集」のCDをアマゾンにて取り寄せる。むかしLPで持っていたもので、また聴きたくなった。古い音が解体されて未知の音が飛び出してくるような予感の感覚がいい。それにこのCDはとても美しい。「かくれて生きよ」と宣言したかれの文章の余計なものを削ぎ落とした、柔軟な美しさだ。かれの文章も音楽も、積もった埃を拭い、知的にほぐされていくような心地よさがあり、ときどき必要になる。おなじ日に楽天ショップで注文した「幻の名盤解放歌集 絶唱!野坂昭如 マリリン・モンロー・ノー・リター ン 」はメーカーへ在庫確認中とのこと。

 子のあたらしい装具が、仮合わせのときに合わなかったベルトのサイズを調整されて小荷物で届いた。軽量化を試みた、というが見た目にはそれほど変わっていないようにも思える。装具を履いて、ふつうの市販の靴で履けるものがあるか、近いうちに探しにいこうとYと話す。特注の靴は重いし、値段も高い。Yは子に、じぶんの好きな靴を選ばせてやりたいと願っている。

 木曜、休日。Yとwebで見つけた奈良・三条通のイタリアンの店にランチを食べにいく。トラットリア ピアノ/TRATTORIA piano。店の雰囲気はこ洒落ていて、ピッツァもパスタもまあ合格点。カプリチョーザよりはおいしい。食後のエスプレッソを啜りながら子の塾の話題になる。幼稚園から仲良しのTちゃんがいっしょに行こうと子に誘っている塾が電車で通うばりばりの進学塾だとか。子どもらは夕食のお弁当をもって行くとか。「なんで小学校から塾に行かなくちゃならんのだ? そこでいったい何を習うんだ? バカを増やすだけじゃないのか。高校を出て大工に弟子入りする女の子だっている。酪農家を目指す子だっている。必要なのは詰め込みの知識じゃなくて、生きるための知恵だろ」 Yは中学・高校の受験勉強漬けを避けるために、小学校のときに中学受験をしてそのまま大学まで(受験なしで)すすめるところへ入れたいと考えている。だいたい夜食をもっていく塾なんかに行ったら、おれと遊ぶ時間がなくなるじゃないか。

 店を出てから二人でぶらぶらと春日大社の鳥居の方へ歩いて、例の「三作石子詰め」旧跡を見てくる(2008.5.15の項参照)。菩提院大御堂の道沿いの木戸を押して下ると、小さな公園のような敷地にひっそりと堂が立っている。西側の玄関をくぐったところが興福寺管長の住居なのだろう。敷地の東側に岩を積み重ね石の亀を置いた植え込みがある。三作を埋めたと云われている場所である。そばに説明版があってそれには「井戸に埋めた」とあるから、ひょっとしたらこれは「空也(あるいはかれに連なる遊行僧たち)が掘った阿弥陀井なる井戸」ではないか、とも空想してみた。道沿いの木戸で遠慮をするのか、訪ねてくる人は誰もいない静かな場所だ。

 帰りにイトーヨーカドーへ車を入れ、Yは本屋で子の日本地図と世界地図を買う。日本地図は幼稚園のときに買ったのがもう幼い内容だからというのだが、小学校の年数ごとに6種類ある。Yが手にした2年生用を「何も毎年買い換えなくてもいいだろ」とさえぎって結局、4年生用を選ぶ。わたしは楽器屋で念願のティンホイッスルを見つけ、購入する。Waltons製の解説書とセットになったもので1780円。家でさっそく解説書に楽譜のあった Amazing Grace や Scarborough Fair、モリスンがチーフタンズとやった I'll Tell Me Ma などを試してみると、案外簡単に吹ける。この安直さは、飽きっぽいわたしに合っているかも知れない。日本地図を部屋の壁に貼り、世界地図はお風呂の壁に貼る。はだかの子がポーランドの国旗をみつけて「ああ、いまはないポーランド!」と叫ぶ。いつの時代じゃ。

 金曜。大阪東部の現場の巡察。孫もいるTさんの31歳の長男が、演劇をやりたいと今年の4月から倉本聡の主催する北海道の富良野塾へ行っているという話を聞く。「青春時代はなんでも好きなことをやってみろ」と送り出した。持っていたソフトバンクの携帯電話がつながらないので、TさんがAUのを買って北海道へ送ってやったという。

 現場近くの駅前の古本屋を覗いてみた。狭い店内の棚の1/4が漫画で1/4がエロ本で、奥で常連らしいおっちゃんが煙草を吸いながら世間話をしている。松本哉「永井荷風という生き方」(集英社新書)を80円、「200CDブルース」(立風書房)というブルース名盤ガイド本を100円、小学館創立85周年記念出版の日本の歴史シリーズ第1巻、松本武彦「列島創世記」(小学館)を1000円で買う。

 18時、近鉄大和八木駅前待ち合わせ。職場の同僚数人と設備のSさん、清掃業者のNさんらと近鉄百貨店屋上のビアガーデンに。

2008.7.4

 

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 NASA が公開している3D地球儀ソフト「World Wind」をDLして子といじくっている。かなり、すごい。むかしはこれを神の視点と呼んだのだろうな。 (NET runtime environmentDirectX runtime.のDLが必要)

NASA World Wind http://worldwind.arc.nasa.gov/

NASA World Windを使ってみよう! http://kirokur.oor.jp/nasaww/nasaworldwide.htm#gairyaku

2008.7.10

 

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 休日。朝からバイクで近所の耳鼻科へ花粉症の薬1.5か月分を貰いに行く。待合で松本武彦「列島創世記」(小学館)の打製石器の項を読む。実用には必要のない美しいまでの左右対称の「凝り」。それが現在のiPODで聴く音楽や、ファッションや、あるいは「カミ」にまでつらなっているという話。そのような遺伝子がなぜ受け継がれる必要があったか。いや、そうじゃないな。なぜそのような感覚を獲得した種が生き残ったのか。帰って子の自転車をどこかの自転車屋に車で運ぶ予定だったが、近所のDさんがYが車に積みかけているのを見て「やっといたる」と持っていったという。補助輪を外してスタンドに付替えようとしたらわが家にある六角では合わなかったのだ。ナルニア国の映画を見に行ったときに売店で売っていた「ピーターの王冠の指輪」を子がどうしても欲しいという。小さなおもちゃじみた指輪が二千円以上するので、そんなものは買えないと諦めさせたのだ。お年玉の二千円(って、もちろんホントはもっとある)とじぶんの財布にある小銭を足したら買えると言ってきかないので、それなら映画が終わる前にとわたしの職場のSCへでかけることにした。昨日届いたばかりの「幻の名盤解放歌集 絶唱!野坂昭如 マリリン・モンロー・ノー・リター ン 」をカーステで聴きながらいく。「黒の舟歌」にYが懐かしいと言う。上映が仕舞いに近かったせいか、指輪は1900円に下がっていた。プラスティックかと思っていたら、なにかの金属で、あんがい重みもある。子はぶかぶかの指にはめてうっとりと眺めている。何の実用でもないと切り捨てた者はホモ-サピエンスになれなかったのだろう。人は象徴を通じてその先にあるものを見る。そこにないものを幻視する。Yが子と子の靴を見ている間、ペットボトルの飲料を20本買って交通隊の詰め所に差し入れする。満席のフード・コートに席を見つけて昼食。Yはオムライス、子はたこ焼き、わたしはステーキ。顔見知りの店長がドリンクをサービスでつけてくれる。その後、橿原市内の大型の靴屋を二件ほどはしごしたが、子が履ける靴は見つからなかった。装具が若干軽量化されて「これでひょっとしたら(装具を付けたまま)市販の靴が履けるかも」と期待したが、現実は難しいようだ。まず開口部が広くなければいけない。多少、幅が広めでなければ入らない。装具自体のベルトで膨らんだ前部を回すだけの長さに余裕のあるベルトでなければならない。そうした条件をすべてクリアするのは、かなり困難だ。結局、一足7千円するオーダー品を履き続けるしかないね、と諦め顔で帰途についた。帰ると家の前に新しいスタンドの付いた子の自転車が置いてあった。「すぐにお礼を言いにいこうよ」 隣接する田圃の休耕地を借りてこしらえた畑に姿の見えたDさんのところへ子は走って行く。Dさんはもうかなり歳を召していて、心臓病の持病をかかえている。かつては自営の工場を経営していた社長だったらしいが、連帯保証人のあおりで大きな負債を負って会社をたたんだと聞く。この人が管理者にかけあっていままで誰も見向きもしなかった団地の遊具や道を直したり植栽を剪定させたり、朝早くからじぶんで公園の草刈をしたりしてきた。それを「ええかっこうしい」と妬む声も団地内にあるらしいが、「そんなんじゃない。知り合いが訪ねてきたときに、こんなみすぼらしいところにいまは落ちぶれて住んでいるのかとおれ自身が思われたくないからだ」とDさんは言っていたそうだ。そのDさんと、Yと子はなぜか仲良しなのだ(わたしはほとんど会ったことがない)。畑でDさんは子に芋虫を取ってくれたり、用水路からドジョウをつかまえて見せてくれたりする。「もうひとりの(死んだ)おじいちゃんみたい」だと子は言う。Yは「(社長だった)品格を感じる人」と言う。夕暮れの公園で自転車の練習をする。わたしも父にだいぶ乱暴な稽古(持っていた手を離し転倒するの連続)をつけられて乗れるようになったが、女の子の場合はそういうわけにはいかない。まずは自転車自体の重さやバランスに慣れるために、またがって足をついてまっすぐ、そして蛇行操縦の練習。乗って、下りて、スタンドをかける練習。倒れた自転車を起こす練習、などから。「わたし、自転車は(他の子にくらべて)だいぶ遅れてるのよ」と子が言う。「お前は病気で足の感覚が鈍いんだから、それは当たり前さ。他の子だってお前とおなじ病気だったらいまのお前とおんなじだろうよ」とわたしは言う。「明日からお父さんはしばらく仕事だから、今日の練習を一人でやってまずは自転車に慣れなさい」 つけ蕎麦の夕食を食べていたら、昼間Yが畑に持って行ったスイカ二切れのお礼にと、Dさんが畑の収穫物(キュウリ・トマト・茄子・レタス)をたっぷり持ってきてくれた。わたしも玄関に出て自転車のお礼を言う。がっしりとした農夫の体に優しげな坊主頭と謙虚を乗っけたような人。さっそくキュウリとトマトを切って夕食の菜に並べた。子はキュウリを丸ごと何もつけずに、トトロのメイちゃんのように齧って「とっても甘い」と微笑んだ。YouTubeで偶然見つけたTommy Emmanuel「Endless Road」と、むかし金に困っていた頃、飛鳥藍染色館の館長に二千円で譲ってずっと後悔していた西宮 紘「縄文の地霊―死と再生の時空」(工作舎)を、ネットで注文した。

2008.7.12

 

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 日曜。人手が足りない交通隊に入る。もともと車の誘導から始めた仕事だから嫌いなわけじゃない。しかしこの暑さは特別だ。30分ほどで昼飯をかっこんで、昼過ぎにやがて満車だ。スロープからあがってきた車を立体駐車場と屋上へ行く分岐のところでとめるのがぼくの役割だ。「満車規制」の看板を日曜のショッピングを楽しみに来た車の鼻先に据え、埃だらけの立体駐車場内の空き台数を調べに走る。やがて屋上担当のNさんから「〇〇さん、20台あげてください」と無線が入る。分岐点に戻り、看板をどけ、「お待たせしました、どうぞ」と叫んで、屋上へ20台、立体駐車場へ15台、車を振り分けて流してから、「申し訳ありません、しばらくお待ちください」と看板を置いて、また立体駐車場内の空き台数を数えに走る。夕刻に満車が解除するまで約5時間、延々とその繰り返しだ。猛烈に喉が渇き、足が擦り切れたすりこ木のようになる。制服の下のランニング・シャツはしとどに濡れ、脳みそが弛緩して来た頃に、やっとお客様のお帰りだ。入出庫の逆転というやつ。休憩所に戻って、ペットボトルのスポーツ飲料を1本、ミネラル・ウォーターを1本、流し込んでもまだ渇きは収まらない。こんなハードな仕事が、わすか時給850円だ。空調の効いた快適な館内で買い物を終えた家族たちが家路を目指してわんさか出入り口を出て行く頃、汗臭い男たちの匂いが充満した狭い詰め所で汗だらけのシャツを脱ぎながら、時給850円の男たち-----学生や本業をもった父親や年金生活を待ちわびる老人たちが、やれやれ、今日も一日が無事終わったと談笑している。

2008.7.13

 

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 巡察の往路、電車の中で芝健介「ホロコースト ナチスによるユダヤ人大量殺戮の全貌」(中公新書)を読み終える。わたしのなかで、さまざまなわたしが荒れ狂う。たとえば奇跡的な生還をしたこの男も、その一人だ。死んだ獣の生皮のようにこびりついて離れない。

 

 この日到着した三番目のガス車からは私の妻と七歳の息子、五歳の娘の変わり果てた姿の遺体が投げ出された。私は妻の遺体に寄り添って撃ってくれと懇願したが、親衛隊員がたちまちやってきて、「おまえはまだ十分働ける」と牛革の鞭で私を打ちつけ、作業を続けるよう強制した。この日の夜、二人の労務班ユダヤ人が自ら首を吊った。私もそうして果てたかったが、仲間に説得され思いとどまった。

 

2008.7.14

 

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 姜尚中との対談「戦争の世紀を超えて」のなかで森達也は、被害者ではない加害者の側の記憶も必要ではないか、といったことを記している。何百万という人々の大量抹殺がいかにして成り立ったのか。その意味で芝健介「ホロコースト ナチスによるユダヤ人大量殺戮の全貌」は詳細なデータの検証により前掲書を補完する役割を果たしている。その巻末近くで芝は、たとえば1961年に発表された政治学者ラウル・ヒルバーグの「ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅」で示された次のような研究結果を紹介している。

 

 ヒルバーグは、ホロコーストが近代技術官僚制から生まれた何千という措置・法律による一連の行為から成り立っているとし、ナチ体制の広義の官僚制を絶滅機構(machinery of destruction)ととらえ、そのメカニズムと展開を詳細に調査した。

 そのうえで絶滅政策は基本的計画があったわけではないとし、絶滅に加担した行政官・官僚は、一歩以上先を考えることはできなかった。絶滅機構もさまざまな寄せ集めの集合体であって、全工程を委ねられる独占的官庁はなかった。絶滅政策は広範な行政の仕事となり、一歩一歩自らの課題を解決していったのであって、決定の推進・実行もかなりその掌中にあったとする。

 

 「一歩以上先」を考えられない者たちが「一歩一歩自らの課題を解決していった」のが絶滅機構の推進を支える無数の歯車であったとは皮肉だ。それは現代において、たとえば週末には森の中の別荘でエコロジカルな休日を過ごす大量殺戮兵器などの軍需産業研究に携わるベジタリアンのアメリカのエリートたちの姿と重なる。

 芝はまた、同書の最後に次のような、ドイツ本国にいたドイツ人たちの「ホロコーストに対する態度」についても指摘している。

 

 こうした世論報告で特に指摘したいのは、受動的で何の反応も見せなかったとされるドイツの一般住民の反応である。

 戦時期のナチスのプロパガンダは、戦争に付随する問題について、ユダヤ人がそもそも原因であると断罪するものが目立つ。この時期、障害者の「安楽死」殺人に対して抗議した住民も、ユダヤ人への措置に対しては、沈然するか無反応であった。また、戦争初期には、占領地のみに実施された措置、たとえば星叩を縫いつけた衣服の着用義務などを聞きつけた住民のなかには、ドイツ国内でもっとラディカルな施策を望む声もあった。

 戦争が長期化すると、行政の腐敗、食糧供給、政府の対外政策、日常生活など、あらゆる分野で、あらゆる階層から不満の情報が無数に上がってくる。だがユダヤ人政策についての反応を伝える報告は、あまりない。

 ところが、1943年2月、ソ連戦線スターリングラードの戦いで壊滅的敗北を喫すると、東部でのユダヤ人大量虐殺の報復として、ソ連軍下のドイツ人捕虜が処刑されるという不安が多くの都市で語られているという報告が増える。のちには大量強制移送や東部での絶滅政策に対する批判も多少ながら出てきており、ドイツヘの連合国による無差別爆撃についても、東部占領地域の政策に対する報復という脈絡で受けとめる住民も増えていった。

 従来、ドイツ国内の多くの人びとは、アウシュヴィッツに象徴されるユダヤ人の絶滅政策について知らなかったという見方が少なくなかった。だが、近年の世論報告の分析によって、東部地域の情報は一般住民のあいだにも伝わっていたと考えられている。そしてほとんどのドイツ人住民がユダヤ人の絶滅政策に対しては受動的な態度しかとらず、その多くが沈黙したのであった。

 こうした態度については、現在二つの解釈が提起されている。一つは、知ろうとしない、知りたくないという意味での無関心である。もう一つは、政策に対する同意、あるいはナチ体制との暗黙の合意である。もちろん、世論報告の分析だけで事実が明確になるわけではないが、いずれにせよ、ドイツ人のある程度は、気づいていたのである。

芝健介「ホロコースト ナチスによるユダヤ人大量殺戮の全貌」(中公新書)

 

 およそ人の想像力を超える残酷さと無慈悲に満たされたホロコーストのすべてを、ヒトラーやヒムラーなどのごく少数の「悪鬼」に帰結して済ましてしまうことは、現代のわたしたちにはできまい。「悪鬼」の足元には無数の顔のないわたしたちが蠢いている。

2008.7.16

 

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 7月19日(土曜日)

 きょうの一日はとてもすばらしかったです。朝、おしゅう字にでかけると、「おはよう」と書きました。かえると、こんどはお父さんとおるすばん。お母さんは図書館のリブックフェアの用意の手つだいにいったのでるすなんです。お父さんはソファをぶんどって新聞を読んでいるうちに寝てしまいました。わたしはしばらく西遊記を読み、それから電話を手にとり、お父さんの妹に電話をかけました。プルプルプルプル‥ なかなか電話がつうじません。

「ちぇっ」

 わたしはおばあちゃんちに電話をかけました。ひまなはずです。ごはんをつくるほか、せんたくとにわの手入れとベッドのせいりとかしかないんですもん。お母さんより、四つへっていますから。その四つというのは、家のへややろうかのそうじ、げんかんのそうじ、おふろのそうじとトイレのそうじです。

 おばあちゃんは一人。おじいちゃんは交通じこでしんでしまったのです。しかもわたしが生まれる前に。わたしはかなしくなってでてきたなみだをうででぬぐい、ユウコというボタンをおし、しばらく話しますと、お父さんがグアッとおきてきたので、いそいで電話を切ってシルバニアをはじめました。それからお父さんとおやつを食べ、わたしはさいごにあたりめをかみしめました。

 お母さんがかえってきて、三人でつたやさんにいきました。わたしは、長くつ下ピッピと楽しいムーミン一家をかりることにきめました。そして、ムーミンの話を二つ見るとおふろに入ってねました。

 

 父親の名誉のために言わせてもらえば、昨日・今日と本棚製作を再開し、昼はラザニアをつくり、夜は豆腐と青梗菜のスープをつくった。けっしてソファで寝ていただけではない。

 レンタル屋は全品百円のキャンペーンをやっていたので多めに借りてきた。わたしは「ホテル・ルワンダ」、「ダーウィンの悪夢」、「白バラの祈り」。Yは「舞台よりすてきな生活」、「ママの遺したラブソング」。子は「長くつ下ピッピ」とテレビ版のムーミン。

2008.7.19

 

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 図書館主催のリサイクル市(リ・ブック・フェア)。朝から家族三人で図書館につめて午前・午後両方の部を覗く。昼は駅前まで歩いていってモス・バーガー。わが家ではあまりこういう店は入らない。チキン・バーガーの包みを子に持たせて「ほら、こうして食べるんだよ」「知ってるもん。わたし、コマーシャルで見たことあるから」 私的には今年はあまり良い掘り出し物は少なかった。「日本仏教宗派辞典」(新人物往来社)、吉本隆明「わたしの「戦争論」」(ぶんか社)、谷川健一他「南島の文学・民俗・歴史」(三一書房)、「値段史年表」(朝日新聞社)、「天理参考館常設展示図録」、岩田重則「「お墓」の誕生」(岩波新書)、早乙女勝元「わが子と訪ねた死者の森収容所」(中公新書)、ジャック・ロンドン「どん底の人びと」(教養文庫)、中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」(岩波文庫)、半村良「岬一郎の抵抗 全4巻」(講談社文庫)、七北数人編「阿部定伝説」(ちくま文庫)、鎌田慧「いじめ社会の子どもたち」(講談社文庫)、「奈良百遊山」(奈良県)。他にYが数冊、子の漫画日本の歴史13冊を含む児童書が20数冊ほど。新しい本棚が完成してもすでに満杯かも知れない。

 ヤフーのオークションで購入した“春駒”の博多人形が届いた。深夜に縄文土偶のレプリカを探しているときに見つけ、千円で誰も入札者がいなかったので入れておいたらそのまま落札してしまった。調べてみると“春駒”の人形というのはわりと定番のテーマのようだ。七福神などと同じ縁起ものとして扱われたのだろうか。貧しい被差別部落の女性が正月に家々を回って、賎視に耐えながらいくばくかの小銭や米を稼いだ門付け芸の姿が艶やかな土人形となって飾られることの妙。人形はお世辞にもあまり可愛い顔とはいえない。人の世の厳しさを嘗め尽くしたような複雑な表情が逆に気に入ったのだ。

 夜、子と「長くつ下ピッピ」の映画を見る。が、ちょっとがっかり。原作の上澄みだけをすくって大げさに飾り立てたようなつくりで、あれじゃピッピはまるで大騒ぎとめちゃくちゃが好きなだけのなんなるお転婆娘だ。原作のピッピはあんなんじゃない。子を寝かせてからこんどはYと「ママの遺したラブソング」。ニューオーリンズの古ぼけた家で死んだ女性シンガーの思い出に沈滞して生きる二人の男と、母を知らない女性シンガーの娘との奇妙な同居生活。酒びたりの年老いた元文学教授役のトラボルタがいい味を出している。おれもニューオーリンズで暮らしたくなってきたぞ。

2008.7.21

 

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 早朝、6時半頃に自然と目を覚ます。ワンルームの狭い台所に広げた布団の上。隣の部屋のOさんはまだ寝ている。ベランダに出て煙草に火をつける。陽はすでにぎらぎらと暑い。階下の川べりの細い道を遍路姿の男がとぼとぼと歩いている。30くらいだろうか。夏の日差しに喘ぎ、いまにも消え入りそうだ。Oさんを起こし、7時に出発する。近くの別のワンルームのSさんを途中で拾って、8時前に高松市郊外の店に着く。四国の新店立ち上げに行っているS部長から電話が来たのは水曜の夜遅くだ。現地採用の隊員のレベルが低く、失敗続きで、契約先から叱責され、このままでは解約の怖れもあると。S部長は社長にメールを打って、施設警備に秀でた者を借り受ける依頼をした。「三泊四日とかでもいいから、手伝いにきてくれないか」 連戦練磨の部長の声がこれだけ力ないのははじめて聞く。慌ててスケジュールの調整をして荷造りをし、翌日の昼頃、高速バスで高松駅前に降り立った。防災センターの中は応援に来た契約先のお偉いさんが勢揃い。みなピリピリして、しなくてはならないことは山のようにあり、大事な会話はいつも寸断され、食事に行く暇もないからペットボトルのお茶ばかり呑んで腹を紛らわせる。あるときはオープン頃の拾得物が雑用品の間から出てきて大騒ぎになる。あるときは閉店作業の隊員が閉めてはいけない扉を施錠して、開錠に走った別の隊員がまったく別の店のシャッターを開けてしまい「お前らはキチガイのあつまりか」と怒鳴られる。あるときはオープンから詰めているOさんがそんな叱責の最中に思わず落涙して膝から崩れ落ちる。久しぶりに味わう臨戦の独特の緊張感と目まぐるしいばたばただが、案外わたしは愉しんでいる。スーツ姿で無線機と、エレベータ・エスカレータの鍵を持って緊急時に走り回る。その合間に持っていったノートPCをひろげ、スプリンクラーの図面やPOPなどをイラストレーターでつくる。映画館が閉まる最終、0時過ぎにやっと一日が終わり、死んだ魚のような目をしたOさん・Sさんらと車に乗って、いつもの24時間営業の半田屋へ寄って夕食を食べるのが夜中の1時頃だ。ときには「ファブリーズを買いたい」というOさんのリクエストで高松の若者が集う深夜のドン・キホーテに寄ることもある。2時に宿へ帰ってシャワーを浴びる。腰にタオルを巻いたまま柿ピーを食べていたOさんがいつの間にやら寝息を立てている。そしてまた6時半に起きて、7時に店へ向かう。そんなハードな生活の繰り返しだが、合宿のようでこれも案外愉しかったりする。三泊四日の予定を一日延長して五日目、月曜の昼に無料のシャトルバスで店を離れた。琴平電鉄というローカル線に乗り換えて高松駅へ。来たときと同じ駅構内の讃岐うどんの立ち食い店でぶっかけといなりを食べる。近くの資料館でも寄ろうかと本屋でガイド本を覗くが、生憎月曜の休館日だ。家への土産に讃岐うどんを買って、14時半発大阪・難波行きの高速バスに乗り込む。渋滞もあって難波に着いたのがすでに夜の7時前。バスの座席に座り込んだとたん眠り込んでしまい、鳴門大橋も明石大橋も何も見ていない。

 

 ※ と書いた後の昼ごろ、会社から電話があり、S部長の「最後の頼み」でもういちどだけ、5日間応援をお願いできないか、との事。そういうわけで一日休息をもらってまた明日から日曜まで、四国へ行ってくる。

2008.7.29

 

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 四国の応援を終えての帰路、ローカル線の琴平電鉄の電車を降りた高松駅前でバスの時間まで一時間ほどあった。海が見たくなった。整備された駅前から数分歩くとじきに船着場だった。桟橋の木のベンチに腰かけてぼんやりとした。瀬戸内の海はゆらゆらとゆれて、島々は懐かしい故郷のようであった。やがて幾艘ものフェリーが忘れられた使者のように海の向こうからやってきた。船は桟橋につながれると、車や人や自転車の群れを吐き出した。島から帰ってきた人々だ。一輪車を押している子どもがいる。大きな荷物を背負った色の黒い老婆もいる。そんな景色が妙に現実的で、つい一時間前までいた巨大なテーマパークのようなショッピング・センターが空虚なまぼろしのように思える。夕刻に出発したバスはほぼ満席だった。隣席の小柄な女性が眠った頭(こうべ)をこちらにもたげてくる。通路を隔てた小中学生の女の子二人の母親らしい。大きく開いた夏服の下で息づいている胸元が妙に艶めかしくて、狂おしかった。目のやり場に困って、わたしは外の夜景を眺めた。窓の外を流れる闇に別の狂おしさを見ていた。

 翌日はおにぎりを持って、家族三人で奈良公園の飛火野に遊んだ。高畑の裏手から林の中の道を抜けた誰もいない丘陵地。クレーターのようななだらかな斜面の中心に小さなため池があって、鹿が水を呑みにくる。わたしはそこでモリスンの She Moved Through The Fair をティン・ホイッスルで吹いた。子は鹿と心を通わせようとしていた。Yは日傘を差して微笑んでいた。

 

 

8月4日(月曜日) 

 今日、なら公園に行きました。どんどん歩いて、川につきました。川の上には、丸い丸太の木のはしが一本と、大きな石がいくつかおいてあります。わたしは、木のはしをわたるのはこわいので、石の上を歩きました。林を歩いて、歩いていくと、トンネルのようによりそっている木と木のあいだに光が見えました。あすこです。

「あすこだ!」

 わたしははしり出しました。木のトンネルをぬけるとき、わたしはあれっと思ってすこし立ち止まりました。左足で後の土をけってみました。ヌメッと音がしました。右足で、前をけってみました。ザワッと音がしました。一歩ずつ、ザワッという音をたしかめて歩くと、大きなのはらに出ました。うれしくなって、

「やっほーい!」

 とさけびたくなりましたが、口の中でもごもごいっただけで、歩き出しました。ここには野せいのしかがいて、おどろかしたらなついてこないからです。

 木のかげでシートをひき、ひるごはんを食べました。わたしがとびだしてって、天気を見ることにしました。お父さんとお母さんに、鳥をおっかけてくるといって、外に出ました。あせがだらっとおちてきました。あせをふりとばして、わたしは走りました。

 と、鳥を見うしなってしまいました。お父さんに、どこと聞いてみました。お父さんが、左のほうをゆびでしめしてくれました。

 そのとたん、ゴロゴロとカミナリの音がして、雨がふってきました。わたしはかがんで、空をにらみつけてやりました。お父さんが、シートを木のえだにかぶせたらといいました。みんなでそうして、わたしはお父さんのリュックサックにこしかけてアメとじゃがりこを食べました。アメがなくなっても、じゃがりこを食べました。すぐやみましたが、またふってきました。お父さんはかなしそうなうたをふえでふきました。お母さんは日がさをさしていました。わたしはスカートのはしをつかんでおりがみをしはじめました。ななめにおって、よこにおって、二つおりにしてたたんでななめにおって、三つおりにして‥ わからなくなりました。わたしはそのくしゃくしゃをつかんでお父さんのリュックサックによりかかって目をとじました。パカパカパカ‥ ひずめの音がしました。わたしはそっと目をあけて‥ しかを見ました! しげみの中から子じかが! わたしに、わらうみたいに目をほそめて耳をぴくつかせたのはぐうぜんでしょうか。後から大きいメスじかがあらわれ、子じかのあたまをぐいとおしました。

 そこで、本とうにわたしは目がさめました。ユメを見ていたのです。はれると、わたしは出てきたしかたちに近づきました。そっと口ぶえをふきました。しかたちは草を食べるのをやめて、じっとこちらを見ています。大じかが、とうじょうしました。しかたちは、大じかのために道をあけました。この大じかがリーダーなのでしょう。い大な長い太い大きなつの。こげちゃいろのふさふさとした毛。どっしりとした足。しかたちの中で一番大きいしかです。

 わたしは思わず、あとずさりしました。大じかはつのをふりたて、ふりかえってしげみの中にきえました。ほかのしかもしげみの中にきえました。さいごの子じかは、かた目をウィンクするみたいにとじて、わたしをふりかえってきえました。

 夜のユメもしかのユメでした。あの大じかに、わたしがさわっていたのです。あの大じかの毛の中にかおをうずめていたのです。

 いったい、あの大じかとわたしにウィンクした子じかは、何をわたしにつたえたかったのか、わたしは考えています。

 

 えっと、ちょっとつけたし。わたし、あの大じかをグーナン、子じかをルージェンカと名づけたいと思います。

 

2008.8.4

 

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 四国出張で潰れたキャンプの穴埋めに、子と二人で日帰りの川遊び。朝6時半に出発し、9時前には山上ヶ岳から発する神童子谷の巨岩連なる河原に着いた。昨年、東京の友人Aと三人でキャンプをしたおなじ場所だ。白い石の色と形がいいと子が言うのだ。生憎の曇り空で、どれ火でもおこそうか、と思わず言いだすくらいに肌寒い。バーベキューの予定はなかったので手元にあるのはわたしの喫煙用の百円ライターだけ。流木を子のナイフとわたしの鉈で一生懸命に削って、やっと燃え上がったらもうお腹がすいた。10時半にYがつくってくれたベーコン巻きのお昼。それから二人で川に入ってみるが予想以上に冷たい。裸足の足を入れて1分もしたら冷たさで痺れてきた。それでしばし河原探検。ロープを枝にひっかける遊びをして、次にわたしが太い枝にロープを回して即席のブランコをつくった。あるいは数メートルある巨岩の上にわたしがいて、両脇下にロープを通した子がロッククライミングさながらほぼ垂直の岩盤を登ったり下ったり。昼ごろになって怪しかった空がぽつぽつと雨を落とし始めた。荷物を撤収して車に乗り込み、洞川へ向かった。いつもの水汲みだ。有名なゴロゴロ水の採取場の向かいに鍾乳洞の入口まで登るトロッコの駅舎を見つけた。訊くと次の出発は40分後だというので採取場の茶屋でコーヒーを飲んで待つことにした。5年前から運行しているというが、気づかなかったな。トロッコといっても、よくYの和歌山の実家の蜜柑山で見かける作業用の運搬車だ。この五代松鍾乳洞は20代の頃にいちど入ったことがある。当時は入口まで急斜面の杣道を歩いて登って、松の根のように腰の曲がった小柄なお婆さんが案内してくれた。その後、お婆さんが病気になって鍾乳洞は閉鎖されたと聞いていた。トロッコの運転をしていた男性に訊くと、地元の赤井五代松氏がこの鍾乳洞を発見したのが昭和4年、村の決まりで見つかった鍾乳洞は一代に限って発見者の所有となる。つまり20年前にわたしを案内してくれたお婆さんがこの五代松さんの細君で、お婆さんが死んで、いまは村(洞川区)の管理に移された。このトロッコも洞川区の予算で設置されたという。二人とも作業用のヘルメットをかぶって乗り込む。4人乗りで、耕運機のようなガソリン・エンジンの音が相当にやかましい。地面に穿ったパイプで固定されたレールの上を走るわけだが、鬱蒼とした杉林の50度以上はあるだろう急勾配をぐいぐいと登っていく様は山師か炭鉱夫にでもなったような気分でなかなか味わい深い。子はエンジンの大音響に閉口していたようだけれど。山の中腹に終着駅があり、数メートル歩いたところに鉄扉で閉じられた鍾乳洞の入口があって、待ち構えている子鬼のようなお婆さんが中を案内してくれる。鍾乳洞自体は小規模だが、ほとんど人の手が加えられていない素朴な様がわたしは結構好きだな。トロッコは帰り客を乗せていったん下へ戻り、わたしと子が見学を終えた頃にまた客を乗せて迎えにきた。鍾乳洞の見学込みで大人400円。わたし的には鍾乳洞100円、トロッコ300円くらいの価値。さて、続いてはこれも恒例の温泉だ。天川村内には洞川に一箇所、天川に二箇所、村営の温泉があるが、今回は天河神社のある坪ノ内の温泉に行くことにした。夏休みのせいか平日でも人が多い。温泉に浸かって、休憩所で座布団を枕にしばし昼寝をして、それから隣の食堂でかき氷とたこ焼きを食べた。午後5時前。ところで温泉場にあったポスターで偶然だが今日、天河神社の七夕祭神事のあることを知った。それで昼寝のあとの散歩がてらに子の手をひいて神社まで歩いていった。ところが馬弓神事などの主要な催しは日中の間に終わってしまい、社務所や出店などもすでに仕舞いかけている。最後に近くの河原で行われる護摩炊き法要と燈篭流しがあるらしいのだが、まだ1時間以上もある。遅くなるし、もう帰ろうか・・ と温泉場の駐車場へ戻りかけていたところに後から声をかけられた。「にいちゃん。おにいさん。そこの女の子をつれたお父さん。」 三度ほど呼称が変わった呼びかけの主は神社の白装束をまとった50くらいの男性で、両手に鳥居を飾っていた七夕の大きな竹飾り二本を抱えている。「あんた、河原まで行く? ちょっとこれを持ってってくれないか」 ほとんど有無を言わさずに渡された竹飾りを持って、なんでただの通りがかりのこのおれが・・ と思ったが、次の瞬間にはもう観念していた。それじゃあ、ついでに燈篭流しを見て行きましょうか。一時間ほど、河原に腰かけて待った。子はこの状況を大いに愉しんでいるようだ。夕闇がうっすらと忍び寄りかけた頃、マイクで増幅させた初老の女性が奏でる神秘的な横笛の響きで神事は始まった。丸太を四角に組んだ上に杉か檜の生葉をかぶせた護摩壇に火が移されると、強烈な生葉の香りを含んだ白い煙があたりを包み込む。床几に腰かけた神主は、子いわく「ハウルの城」に出てくる火を司るカルシファーのようだという。その両脇で、五十鈴を両手に掲げて鳴らしている者たちがいる。女性の表情は愉しげで、髭をたくわえた男性は何かに陶酔しているようにゆらゆらと揺れている。半円を取り囲む形の、おそらく地元の老若男女たちはみな手を合わせて祈っている。開いた両の手のひらを前へ突き出して見えない魂を受け止めようとしている初老の男性もいる。土手の上の女性の横笛がまた響く。その隣のテントから照射した光線が、向かいの山影に青い五十鈴を映し出している。写経の紙の束のようなものがしばらく火中に投げ込まれると、やがて火は一本のローソクに移され、五十鈴を掲げた巫女らに伴われて燈篭流しの河原に運ばれていく。しばらくして、わたしは会場を見下ろす橋の上にひとりでいた。「まるで蛍のようだなあ」 赤い欄干に両手をのせてじっと見ていた隣の老婆の声に「ああ、そうですねえ」と相槌をうつ。「むかしはここらも蛍がたくさん飛んでいたけれど、近ごろはちっとも見ない。川が汚れてしまったんだろう」 それから老婆は「わたしもいつかあそこに名前を書かれて、“ああ、あの人も死んだか”と言われるんだろうな」と言って微笑んだ。そんなふうに、わたしは橋の上から子の言う「魂のかけら」がゆっくりと川面を動いて行くのを見ていた。そのおなじ頃、子は燃え尽きかけていた護摩壇の横で火の番を言いつけられた35歳の神社の若者といつの間にか仲良しになって、二人で地べたに座り込んで今日の焚き火のことや夏休みの宿題のことなどを小さくなった護摩壇の炎を眺めながらあれこれと話し込んでいた。

天川村商工会 http://www.ntcs.ne.jp/tenkawa/

天河大辨財天神社 http://www.tenkawa-jinja.or.jp/

2008.8.7

 

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 ことしも憂鬱な「お盆」がやってきた。「お盆」になると子はYの実家へ行って一週間も帰ってこないのである。そうしてついさっき、どこで覚えたか後部座席の窓際でスポーツ選手のするハイタッチを交わした子を乗せた車が暗闇の底へ消えていった。わたしは人気のないわが家にのそのそと戻り、iTunes の音楽をなぜか何年も聞いていなかったピーター・ポール&マリーに変えた。「パフ」や「花はどこへいった」の古めかしいメロディを発泡酒で滲んだ汗に濡れた背中を丸めて聞いていると、まるで帰る故郷のない亡霊たちがうようよとこの部屋に集まってきているような気分になった。ご丁寧にも子とYは小鳥のピースケまでも連れていってしまった。わたしの話し相手に残っているのはもはやヤフオクで落札した“春駒”の博多人形だけである。わたしは“春駒”の博多人形と故郷喪失の亡霊たちに囲まれ、ピーター・ポール&マリーを聞きながら、農林水産大臣賞のすだち酎なるもののオンザロックをひっそりと啜っている。ジャック・ロンドンは百年前のロンドンのスラム街にボロ着をまとって潜入し、「どん底の人びと」の生と死を覗き見た。わたしにはぼろぼろの汗と埃で汚れた巡礼姿に身をやつし、炎天下の野道を消え入りそうにとぼとぼと歩いているじぶんの姿が見える。わたしの存在とは路面に映った己の影のように頼りなく、炎天下の陽炎のようにはかなく無価値なものだ。ジャック・ロンドンには帰る家があったが、わたしは地面のシミのようなものだ。煙草を吸いにベランダへ出れば数時間前に子がチョークで書いた呪文の言葉「コーディリア出動」の文字がコンクリートのあちこちに記してあるのを見つける。トム・ウェイツの狂おしいバラッドを聞いている。とめどない夏の夜の深度を感じる。地面に足がつかないままふわふわと漂っていくのだ。狂おしいほどの何かを求めて。Mr Bojangles もそうだった。LetItBeMe の冬のささやかな光もそうだ。The Man In Me を歌うディランもそれに届きたいと願っている。みんなそうだ。だれも地面のシミなんぞにはなりたくないし、だれもそうならなければいけない理由などどこにもない。ジャック・ロンドンに帰る家があったのはすばらしいことだ。かれは40歳のとき、グレン・エレンの農園の自室でモルヒネの服毒自殺によって命を絶った。それはジャック・ロンドンの運命と自由。リチャード・マニュエルも首を吊って死んだが、神は(もし“かれ”がいるとしたら)どんな運命も赦し讃えてくれるだろう。

2008.8.12

 

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 先の四国出張では、持って行った15インチのノートPC(マウス・コンピュータ LuvBook PL300X)の重要さをつくづく実感した。やはりイラストレーターでもエクセルでも、図面などを作成する場合にはB5のモバイル・ノートは画面が小さいが故に厳しいのである。15インチ・ノートはもともと、わたしのいままでの職場のリニューアル・オープンまでのいわば臨戦限定使用で、わたしが正式に大阪の本部勤務になってデスクを置くようになったら、Yと子が使うつもりで購入したものだ。だが、今後もB5モバイルと併用する形で15インチ・ノートが仕事上で必要になることは出てくるに相違ない。

 一方で、この頃はYもコープの食材注文のほか、子どもの用品や本などをネット・ショップで購入したり、またメールを打つことも多くなってきた。子にしても、近ごろは学研教材などについてくる付録CDや学習ソフトが子の98マシンでは対応せず、仕方なくわたしのデスクトップPCにインストールすることもしばしばだ。そんなわけで先日の休日、Yと二人で近所の家電販売店に行き、わが家で3台目になるノートPCを求めたのである(何と贅沢なことか)。資金は「これも学習教材である」という理屈をつけて、子のお祝い金から拠出することにした。

 さて、目に付けたのは東芝のdynabook TXシリーズである。OSはVista、インテルCore2 Duoプロセッサー搭載にメモリが2G、HDD160G、無線LAN機能とオフィスもついて定価14万4千円が11万円。これに販売店のポイントが約2万円分つき、NTTの光回線かヤフーBBの新規加入でさらに2万円が引かれ、最終7万円の価格になるというものである。Yはほんとうはピンク色などのカラーやデザインにこだわりたかったらしいが、「これがいちばんお買い得だ!」と叫ぶわたしに押し切られたのである。ちなみに色はホワイトである。

 かねて自宅内の無線LAN構築を考えていたわたしはまずNTTの営業マンに相談してみたが、わが家の老朽団地はマンションタイプの適用外で、割高な一戸建てタイプだといまのヤフーのADSLと料金的に大して違いがないことが判明した。速度は速くなるのだろうが特に現状でそれほど不便を感じてもいないし、ヤフーのプロバイダ・サービス(HPの容量や複数のメール・アカウント等々)、また新たに購入しなければならないモデムとルーター、それに光回線からの配線等々の手間やデメリットを考えたら、いまいち気が乗らない。

 参考までにと、隣にいたヤフーの営業の若いお姉ちゃんに「ヤフーで光に入ったとしたら幾らぐらい?」と訊いてみると、「ヤフーはまだ光回線に本腰をいれていないので、エリアも限定されている」とのこと。それにヤフーからヤフーの契約変更だけなら、「回線新規加入」の二万円引きの特典は無論ない。ところがヤフーのお姉ちゃんいわく、ADSLで無線LANパックに入るなら、購入予定のPCを安くする裏技があると言うのである。いったん8月31日でヤフーの契約を解約して、9月1日から無線LANパックをプラスして「新規加入」ということにすれば、インターネット・サービスも切れ間なく使えるし、しかもその後15ヶ月は「新規加入」の特典で無線LANパックの月額に相当する1050円が値引きされるというのである。

 「それは素晴らしいじゃないか」 わたしは夢見心地に呟いて、彼女の出した申込書にさっさと記入をした。そしてお目当てのノートPCを予定通り、実質7万円で購入して帰ってきたのであった。

 ところが話はまだ続く。家に帰って夕方、わたしは「解約手続きを早く済ませてくれたら、9月1日の再開に間に合いますから」と言ったヤフーのお姉ちゃんの案内どおりにさっそくヤフーのサービス・センターに今月末での解約の電話を入れたのだが、対応に出たヤフーのおばちゃんはどうもわたしが他社の光回線にでも乗り換えると思ったらしく、「そういうことでしたら、実はお客様にここだけの低価格の契約をご提供することができるのですが・・」とのたまう。幾らかと訊くと、現状の8Mを12Mの速度にして現状とおなじIP電話、さらに希望の無線LANパックに加入して現在より1800円安い月額3千円ぽっきりだと言うのである。いや他社への乗換えじゃなくて、こうこうこんな次第で電気屋のおたくの代理店の女の子の提案でいちど解約して云々・・ と言うとやっと事情が呑み込めたらしく、「あ、そういうことでしたら」と困ったような口調でもそもそと話の方向を変えようとする。ちょっとマッタ、いま言った安い料金の話はどこいくのさと釘を刺せば、観念したように「いえ、あの、もちろんそれは提供させて頂きます」と言う。ちなみに、この金額設定はわたしのヤフーでの契約年数(約6年)のキャリアとも関係していて、ここで解約をしてキャリアを失うのはモッタイナイとの由。それにしても、解約を申し出た人にだけいわばナイショの料金提供をするなんて、知らずに契約を続けている人は馬鹿を見ているんじゃないかと言えば、「これはまだ試験運用の段階でして、パンフレットなどに明示するとわたしどもの方で対応が出来なくなり、そういうわけで代理店にも伝わってないのかも知れません・・・」とおばちゃんの説明はしどろもどろである。

 「じゃあ、いったん電気屋の代理店と話をつけて、再度明日連絡をしますから」と電話を切り、すぐに例のヤフーのお姉ちゃんに電話をすると「え〜 そんなことがあるんですか。知らなかったです」といたく驚いている。しかも「そういうわけで、サービス・センターの話の方が長い目で見たらメリットがあるんで、今回のノートPC購入の際の値引きはキャンセルしたい。いまから店に行くんで清算をし直して欲しい」と言うと、「いえ、今回は言ってみればウチの方の不手際なんで結構です。書いてもらった申込書はこちらで破いておきますんで」。「それで、あなたは大丈夫なの?」と訊くと、申し込みをした後に回線環境が悪くつながらずに値引きは残したままキャンセルになるなど、こういう例外は時折あるのだという。

 そんなわけでPCも必要以上に安く購入でき、さらにネット料金も安くなり、通信速度も若干上がり、その上、念願の家庭内無線LAN構築もすんなりまとまって、ほとんど休日の半日以上を費やしたが、わたし的には大変に実り豊かな一日であったといえよう。

 新規回線の工事完了は約10日後ほどで、ヤフーから送られてくる予定の無線LANカードを現行のレンタル・モデムに差し込んだら、あとはわが家のノートPC3台はすべて無線LANに対応しているので、設定だけでOKというわけだ。これでいつの間にかパソコンデスクを占拠しているYに「なるべくおれが仕事でいない日に使ってくれよなあ」などとぼやくこともなくなる。ちなみに、ヤフーでは全国のマクドナルドやJR駅などで使えるモバイル・ポイントを設置しており、無線LANパックの加入者は無料でこれを利用できるらしい。つまり出先などで急にメールで資料を送らなければならない必要に迫られたときなどには、マックで100円のコーヒーを飲みながらモバイルPCからメール送信が可能なわけで、これはこれで結構便利かも知れない。

 それにしても瀬戸際作戦部隊のあのヤフー・サービス・センターのおばちゃんたちも大変だ!

2008.8.13

 

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 大阪の現場の巡察からの帰り、駅前の王将に立ち寄って餃子二人前と唐揚げ一人前を頼む。おばちゃんは「20分待て」と言う。煙草に火をつけ、店の外のガラスに貼られた時給750円の求人のポスターを眺める。そして、店頭に立ってジャック・ロンドンの「どん底の人びと」の続きを読み始める。夕暮れの駅前のロータリーはじんわりと目に滲む。木枯らしに停めていた自転車が半円を描いて回る。誰もいない台所で餃子一人前と唐揚げを数個頬張り、翌朝。職場に持って行く弁当はご飯を詰めただけの餃子弁当と唐揚げ弁当だ。新聞で紛争地の兵士から武器を回収し職業j訓練で一般市民に戻す「DDR」なるNGO活動をしている31歳の女性の小さな記事を読む。高校3年生のとき、ルワンダの大虐殺で死にゆく母子の写真を見た衝撃がその原点だ。アフガニスタンで活動した2年間で6万人を武装解除し、カルザイ大統領から「ミスDDR」と呼ばれた。そんなふうに生きている人の顔を見るたびに、わたしはいつも鈍痛のような感覚を覚える。夢の中でふっと目覚めた哀れな囚人のように己を感じてしまう。わたしは相も変わらずスタートラインに立っている。スタートラインにずっと立っていて、そこから一度も動いたことがないのだ。

2008.8.14

 

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 終戦記念日。いや、敗戦記念日。そして降伏記念日。63年前のこの日、23歳の山田風太郎は日記に、ただ「炎天 〇帝国ツイニ敵ニ屈ス。」とだけ記した。うだるような暑気の中で空は突き抜けるように青く輝いていた。それから63年後のわたしは8時に目を覚まし、洗濯機を回し、コーヒーを淹れ、溜まっている食器を洗う。そして洗濯物をベランダに干し、コーヒーを呑み、米を研ぎ、子のパソコンのリカバリ・ディスクを作成した。夏の眩しいほどの青空は痛みが究極まで高まったあとでふっと脱力するような、そんな陶酔感に充ちている。わたしはその空を見上げたさまざまな人の記憶である。それから奥の部屋にブルー・シートを敷き、エアコンをつけ、本棚づくりの続きをやりながら、豆パン屋さんの貸してくれた最近のバンド(くるり・図鑑)を、iPODにスピーカーをつなげて聴いた。さまざまな音楽の影響がちらちらと垣間見えて、その雑食性とPOPなメロディが良い意味でこなれ相俟って、このアルバムはなかなかいいんじゃないか。とにかくわたしは終戦記念日の午前に、そんなこの国の若者の等身大の音楽を聴きながら、スコヤを木にあてたり、ドリルで穴をあけたり、クランプを締めたりした。昼前に作業を中断して、冷蔵庫を漁り、肉野菜炒めの塩胡椒丼と大皿に持ったレタスとキュウリのサラダをつくって喰った。ソファに寝転がってしばらく新聞をめくり、やがて小一時間ほどうたた寝をした。何かに追われているような嫌な夢を見て目覚めた。奥の部屋に行き、ドリルで穿っておいたパーツを木ダボと木工ボンドで貼りあわせ、クランプで締めて行く。あぐらをかき、小槌で叩きながらおなじような工程を繰り返していると、玄関の土間を改造した仕事場でこんなふうに鞄づくりをしていた父の姿が思い出される。おれはこうやって、ひとりで手足を使って何かを黙々とつくる職人の仕事が合っているのかも知れないな、と思う。それは父の背中を見て知らぬうちに受け継がれた遺伝子なのか。どのみちおれは労働者階級の人間だ。あるいは、じぶんが尊敬する人間とは、決して株操作だとか訳の判らぬ金融や経済、政治に長けた人間ではない。じぶんが尊敬する人間とは、火をおこしたり、木を伐って家をたてたり、糸を紡いで衣服をつくったり、地形を見分けたりできるような、そう、ほんとうの意味での生きる知恵を持っている人間だ、と思う。予定していた作業を終えて片づけをしてから、バイクで近くのショッピング・センターへ夕食の菜の買い出しにでかける。車はYが実家に乗っていっている。むかしはこんなふうにバイクか自転車しかなかった。自転車で片道一時間も走って隣町の本屋まで出かけたりしたものだ。出発前にチェーンにオイルを塗布する。ショッピング・センターで少なくなってきた木ダボの、40個入りを3パック買う。それから判子屋で1500円のシャチハタ印鑑を注文する。最近は会社の報告書などの書類に捺印をする機会が多く、百円均一の印鑑はさすがに字体が悲しいほどに貧弱なのだ。そして食材。お盆のせいだろう、ふだんより家族連れの姿が多い気がする。それも三世代の家族連れだ。みなどこか浮かれた様子で、今夜はいつもより上等な菜をふんだんに買おうという気配だ。きっとみんなで降伏記念日を祝うのだろう。そんな気配を店の方も心得てか、今日は刺身にしたかったのだが、豪勢な大型パックや高級魚ばかりが棚を占め、いつもの安いカツオのたたきや一人用のパックが見当たらない。仕方なく380円のタレ付きの輸入焼肉と300円のセール品・サラダ三種の盛り合わせを買う。唯一の贅沢で黒ビール一缶も買う。わたしも降伏記念日をひとりしずかに祝うとしよう。じぶんがひとりだと、家族の賑わいの中にいるのが苦痛になってくる。かつてはそんなものはじぶんとは無縁だと思っていた。生涯無縁だと思っていたんだろう。木ダボと食材と黒ビールを背負ってバイクに乗って帰る。青々とした田圃の苗がわさわさと風に揺らいでいる。ベランダで洗濯物を取り込む。夏の夕方の、やっと空気がやわらいで、物の輪郭がじんわりとその張りをゆるめていくような、この時間帯は心地よい。やがてゆっくりと薄暮が忍び寄ってきて、ガムランの音楽のような蝉の声が終了のチャイムのようにどこかで鳴り響き、ことしの夏の終戦記念日が暮れる。夜、NHKスペシャルで「果てなき消耗戦
証言記録 レイテ決戦」
を見る。ただれ腐った平和よ、おめでとう。

2008.8.15

 

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 朝からひたすら本棚作り、最終章。子の本が床に溢れかえって増殖しつつあるので、これ以上は遅らせられない。子はなぜかわたしがドリルでネジ留めをしているその横に座って本を読んでいる。木を掘る音が好きなのだという。そしてときどき高田渡の歌を聴いてくすりと笑ったりしている。目一杯頑張って、やっと夕方に完成。オイルの塗布は子にも手伝わせる。ああ、真夏の木工はしんどい。今日はただこれに尽きる。ご褒美にこれから回転寿司を食べさせて頂きます。もち、生ビールつきで。でわ。

2008.8.19

 

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 朝から子と二人、電車に乗って奈良市在住の作家・寮美千子さんのお宅へ遊びにいかせて頂く。これは「作家志望」の子の、かねてからのリクエストであって。待ち合わせ場所は寮さんちの近所の古着マーケットにて。古い倉庫前の駐車場に品物をひろげていて、他にもガレージのような倉庫に天井まで埋めつくすほどの古着を詰めたビニール袋が堆積している。どれに何が入っているかは開いてみないと分らない。この袋状堆積地層の土砂崩れと闘いながら、二股付きの棒で子供服が入っていそうな袋をつつき下ろすのだ。店の茶髪の女の人や、孫の服を見に来たというおばちゃんなどが「このスカートはどうか」「これは可愛いんじゃないか」とあれこれ親切に持ってきてくれる。そんなふうに1時間ほど古着の山に埋もれて結局、子のジーパン、夏のシャツ、それにインド製・綿100%のYのワンピースを買った。各200円で合計600円也。10時半頃にまんとくんの紙製お面を取り付けた麦藁帽をかぶった寮さんが迎えに来てくれ、寮さん宅へ移動。原稿が最悪にたまっているという寮さんの事情で昼間での1時間半ほどであったが、物語や子どもの本についていろいろと愉しい話をさせて頂いた。寮さんは以前からだが、子の文章力を評価して下さる。物語がとめどなく溢れてくるのは才能だという。また子の使う言葉には時折、昔の翻訳調にしか出てこないような言い回しが見られるという。「しのちゃんは大人になったら何になりたいのかな?」 「作家」寸暇を措かず答える子に泉鏡花賞作家は驚く。「じゃあ、寮さんの弟子になる?」 「いや」と子は答える。これは「魔法使いの弟子になるか」と訊かれるのと同じかも知れない。まんとくんの紙製お面付き麦藁帽をかぶっってぶらぶらと出てくる寮さんは時に魔法使いのように面妖だからである。寮さんから子へのアドバイスは「物語を(最後まで)書き切ること」。それから寮さんが詩に目覚めたきっかけになった新潮文庫版「日本の現代詩」や、子どもの頃に読破した「世界名作全集」の話、また寮さんと子でお互いに読んだ本についてあれこれ言い合っているうちに約束の時間が来た。子は持参した寮さんの著書「星兎」に特性のサインまで頂いた。その後、わたしと子は奈良町をぶらぶらと抜けて、以前に子がアイスクリームを食べに立ち寄った笹餅飯・箱屋本店へ(ゴムログ54・2007.10.29参照)。相変わらずやる気のない店主は店のシャッターを半分閉めて、その前に置いたたらいに水を注ぎながらぼんやりとしている。「ソフトクリームとかき氷しかできません」「笹餅飯は・・」「蒸すのに7分くらいかかりますけど」「待ちますよ」 やっとやる気を出してくれた店主はシャッターを開け、作業を始めてくれた。といっても蒸篭に入れて蒸すだけなので、セッティングを終えると店頭に戻ってきていろいろ話をする。毎日10時間かけて36個の笹餅飯をつくる。1個210円なので売り上げは7560円、元が取れない。だから店主は並びの手ぬぐい屋でも仕事をしていて、10月にはその手ぬぐいの行商でイタリアへ行ってくるのだとか。さて出来上がった笹餅飯は実に美味であった。わたしは元来もち米が苦手なのだが、これは気にならない。もち米に黒米少々、具はタケノコとしいたけ。笹の葉に食用油を塗るが、これがいたく高価な油で、けれどこの油でないとダメなのだという。小ぶりなおにぎりほどの大きさだが、もち米なので案外お腹が膨れる。子と二人で3個を食べて満足した。今日の最後に残った3個だという。三条通りをJRの駅まで歩いて戻り、電車に乗って帰宅する。子は寮さんにもらった「まんとくん」の歌のCDをかけて踊っている。

「まんとくんのうた♪」 http://jp.youtube.com/watch?v=epFZ976353Y

古着市の模様 http://ryomichico.net/diary/2007/06/index.html#d000621

2008.8.20

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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