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 ニルヴァーナの音楽を抱いて京都へ仕事に行く。

2008.3.19

 

*

 

 アマゾン古書で注文していた沖浦和光「インドネシアの寅さん 熱帯の民俗誌」(岩波書店)が届く。

 申込をしていた SMART ICOCA のカードが届く。JR西日本のクレジット・カードをつくり、そこから現金なしでチャージができるもの。カードを増やすのはもともと好きではないが、仕事で電車を利用することが多くなり、乗換え時の手間や、いちいちYから電車賃を拝領する手間を省くため。

 子が足が痒いという。昨日とは違う左足の甲辺りで、これはときどき現れる手術の後遺症だ。前にも書いたが筋肉や神経をいじっているので、違和感が生じるらしい。それがときどき、忘れた頃に起こる。皮膚の内側が猛烈に痒くなるようで「叩いて、叩いて」と泣き叫ぶのだが、処置の仕様がない。言われたとおり、手のひらでぺんぺんと(かなり強めに)叩き続けていると、しばらくして治まる。

 小鳥のピースケの様子がおかしく、近くの動物病院へ連れて行く。両方の翼の先辺りの内側に赤い部分が見え、それが気になるのか(特に左の)翼を持ち上げて震わす動作ばかりしている。動作も少なく、全体的に元気がない。籠から出しても飛ぼうとしない。診断の結果は感染症かストレスによる毛引き(毛を引っこ抜くこと)で、前者であればわたしが時折ベランダのプランターから持ってくるハーブ(ディル)に雀あたりが菌を附着させた可能性も考えられる。赤い部分は口ばしによる内出血とのこと。飲み薬をもらって、1週間後に再診。初診料1000円、糞便検査代500円、飲み薬(シロップ)1000円で税込み2620円の診察料。シロップは手で押さえ、口を開けたところを垂らすので結構難しい。

 本社の部長から「業務部要綱」と題した分厚い資料が宅配便で職場に到着する。現在の現場と本社業務の半々で、徐々にこなすよりも溜まる方が増えてきて、ややオーバーフロー気味である。個人で自由に使えるPCがないのが遠因のひとつでもある。Y君情報ではそろそろ価格が下がり出しているとのことで、近々仕事用のノートPCを自腹で購入しようと思っている。家に持ち帰ってやるなんて、やだからさ。

 電車の中や枕元やトイレで笠原芳光氏の「イエス 逆説の生涯」を少しづつ読み継いでいる。この本はイエスは「キリスト」ではないが、別の何者かであると言っているわけで、また「神の存在」を否定しているわけではない。イエスはもう一人のブッダ(目覚めた者)である、という主張はわたしにも納得できる。「神の子」であるイエスより、ただの無名だった大工の息子があんな生涯を送ったということの方がより謎めいてないか。そう考える方が、イエスについて思考停止にならないのではないか。そんなふうに思えてきている。

2008.3.20

 

*

 

 大阪で会議。昼に行って夕方に帰ってくる。

 夕食後、Yと子は教会へ行く。四旬節という復活祭に向けてイエスの十字架までの道程をたどる儀式で、昨夜は「洗足木曜日」、今日はイエスの死を追体験する「聖金曜日」。9時過ぎに、「よかったよ〜」「涙が出てきそうだった」と二人して玄関で。

 それからYとイエスについて遅くまで語り合う。イエスとキリスト、教会、つまり附着物を取り除いた本来のまだ見ぬイエスについて。

 バートン・L・マック「失われた福音書―Q資料と新しいイエス像(青土社)田川健三「イエスという男―逆説的反抗者の生と死」(三一書房 )の二冊をアマゾン古書にて注文する。どちらも笠原芳光氏の「イエス 逆説の生涯」の巻末参考資料に出ていたもの。

 11時になってあわてて子を寝かせる。「こんなのを書いたよ」と一冊のノートを手渡し、寝室へ。

 

天のほしたち

 

これは『ふたごの木』みたいなものです。

どうぞ、天のほしたちのことばをきいてください。

これは、ふたごのほしのおはなしです。

 

●ねぇ、なんでおほしさまが、

○さあてねぇ。

●あんなところにおちてるの?

〇あれは家のあかりよ。

●家って、なあに? あかりって、なあに?

〇家っていうのは、

●たべるもの?

〇ちがうわ。たべものが光るわけないでしょ。

●じゃあ、わかんないわ、あたしには。

〇あれ、人間のすんでる、自分の、たいせつなばしょ。あかりって、ほら、あかりがたらないから、でんきっていうものをつけてるのよ。あんたってききたがりやね、アリア。

●だって、わたしは小さいもの、サリア。

〇そうね。

●はるになれば、みんながここでおどる。冬がくれば、鳥はすにはいる。なつがくれば、山のリスたちがくるみをひろいにいく。あきがくれば、木たちがふるえる。それしかしらないもの、サリア。

〇ほんとうね、アリア。でも、気にしなくていいのよ。あなたはいろいろなこと、ほんとうはしっているのよ、アリア。

(3.21 しの)

 

2008.3.21

 

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 土曜、夜。Yと子の洗礼式。

 どこから話を聞いたのか、幼稚園の先生が5人も参列してくれた。うち信者のN先生は中学生の娘さんを伴い、Yの手を取り「いつか、こんな日が来ることを待っていました」と感極まって。1年生の担任だった新婚のG先生は5ヶ月の大きなお腹をかかえて。G先生以外は信仰を持っているわけでもない。卒園して1年が経つのに、これもYと子の人徳だろう。

 M神父は説教で、人が新たな道を選択するのは、赤ん坊が生まれてくるときに似ている、という話をした。保護された母の胎内から出てくることは、きっと死ぬほどの苦しみに違いない。これからどうなるのか、分からない。向こう側に手を差し伸べて、やさしく抱きとめてくれる人が待っていることを赤ん坊はまだ知らない。はじめて外の空気に触れ、はいじめてじぶんの口と鼻で呼吸をし、そして成長をしていく中で喜びを知り、そうしてはじめて「ああ、生まれてきてよかった」と思う。

 M神父は来月、岩手の教会への移動が決まっている。ここの教会にいたのは数ヶ月だった。「まるでわたしの洗礼のために来てくれたようなもの」とYは言う。形式ぶらない、柔和な、二コルさんのような目をしたこの神父氏は、きっと繊細な心の持ち主だろうと思う。説教の中でいくどか感極まり、目に涙をため、声をふるわした。

 Yと子はそれぞれ、ソフィアとベルナデッタになった。それは「霊における御名」である。

 たくさんの見知らぬ人々が祝福してくれた。祝福の輪の中にふたりがいた。聖書の中に親子のロバを連れてくるよう、イエスが弟子に言う場面があるそうだ。ある人がその親子のロバがYと子のようだと思った、と言っていたという。

 復活徹夜祭がすべて終わってパーティーの席が準備される間、わたしは一人教会を抜け出て、ひっそりとした夜半の路上に立って煙草に火をつけた。そして仄かな光をたたえる十字架をかかげた建物を見上げた。

 なにやら二人の娘を同時に嫁に出した父親のような気分。

2008.3.22

 

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 子と弁当を持っていつもの矢田山へいく。小高い丘陵地の奥に幾重にも枝葉をひろげた、華奢で、けれどひどく優美な佇まいの梅の木が一本、満開に花を咲かせているその下に寝転んで、二人でしばらくうたた寝をする。まるで薄幸な皇女のドレスの裾のような花々の間をいく羽もの目白たちが渡り歩いて蜜を吸っている。その馥郁とした匂いに鼻腔を膨らませながら目を閉じると、まるであの世の桃源郷にいるようだと思う。

 昨夜は深夜の3時頃までYとPC前に陣取り、来月頭に予定していた義父母といっしょの淡路島一泊旅行の日程・コースを決め、Yahoo!トラベルにてホテルを予約した。予定はいまのところ「淡路ファームパーク イングランドの丘」「淡路人形浄瑠璃館」「北淡震災記念公園」など。

 Yahoo!ショッピングにてノートPCを注文する。とりあえず職場で使用し、後日に家のサブ・マシーンにする予定。

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 レンタル屋でニルヴァーナの「MTV Unplugged In New York」を借りてくる。

 バートン・L・マック「失われた福音書―Q資料と新しいイエス像(青土社)田川健三「イエスという男―逆説的反抗者の生と死」(三一書房 )の二冊が続けざまに届く。

2008.3.25

 

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 二千年前のガラリヤ地方を、まるで砂埃をさけるように目を細めながら、用心深く、そして未来の風景を探し求めているような足取りでひっそりと、あるいている。もちろんバートン・L・マック「失われた福音書―Q資料と新しいイエス像(青土社)のことだ。

 

 Qの民衆に関する注目すべき事実は、彼らがキリスト教徒でなかったことである。彼らはイエスをメシアともキリストとも考えていなかった。彼らはイエスの教えをユダヤ教への告発とは受け取っていなかった。彼らはイエスの死を神聖なる悲劇的な出来事とか救済的な出来事とは見なしていなかった。彼らは、イエスが新しい世界を支配するために死者からよみがえったなどとは想像だにしていなかった。彼らはイエスを教師と見なし、その教えが困難な時代の中ではつらつとして生きるのを可能にすると考えたのである。だから彼らは、イエスの名で礼拝するために集まったり、彼を神として崇めたり、賛美歌や、祈り、儀式などを介してイエスへの追慕を育むことなどしなかった。彼らはキリスト祭儀、たとえばパウロの書簡の読者にはよく知られているキリスト教徒の共同体の中に現れたような祭儀を形成することもなかった。Qの民衆は、キリスト教徒ではなく、「イエスの追随者」(Jesus people)であった。

 

 イエスの出現に立ち会いたい。いやキリストの出現、でもいい。どちらもおなじことだ。

2008.3.27

 

*

 

 

My girl, my girl
Don't lie to me
Tell me where did you sleep last night
In the pines, in the pines
Where the sun don't ever shine
I would shiver the whole night through

My girl, my girl
Where will you go?
I'm going where the cold wind blows
In the pines, in the pines
Where the sun don't ever shine
I would shiver the whole night through

Her husband, was a hard working man
Just about a mile from here
His head was found in a driving wheel
But his body never was found

なあ、愛しいおまえ
おれに嘘はつかないでくれ
ゆうべはどこで寝たのかおしえてくれ
陽の差さない
あの松林で
おれは一晩中震えていたんだ

なあ、愛しいおまえ
どこへ行くっていうんだ?
俺は冷たい風が吹く場所へ行っちまおう
陽の差さない
あの松林で
おれは一晩中震えていたんだ

彼女の夫は働き者だった
ここから1マイルほどのところさ
頭は動輪の間から見つかったが
身体はとうとう見つからなかった

 

 "Where Did You Sleep Last Night" は古い伝承歌で、その成り立ちは1870年代まで遡れる。レッドベリー(Leadbelly)が録音をしたのは1944年のことだ。この歌は(歌詞を見れば分かるように)、愛する者に裏切られて死んだか殺されたかした男の、いまも野ざらしのままの首なし死体が歌っている。人気のない雑木林の奥からその声は響いてくる。かれの絶望は、取り返しのつかないものだ。憎悪、嫉妬、怒り、孤独、絶望、懇願、あらゆる感情がないまぜになって無残に横たわった男の死体を震わせる。男の魂魄はきっとシダ類の暗い葉陰を永遠に漂うのだろう。この歌はどうにも救いようがない。歌っている男がすでに死んでいるのだから、生きている者にできることはおそらく何もない。深淵を覗き込んで立ち尽くすしかない。「塩はいいものだ。だが、塩味を失えば、どのようにしてもとの味にもどるだろうか?」といった福音書の最古層のテキストにも、この曲は響き合っているような気がする。

Where Did You Sleep Last Night - Wikipedia

2008.3.29

 

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 某人気ヒップホップグループのイベント警備でへろへろになって帰った夜、風呂上りに家族で「地球デープロジェクト〜消えゆく命の物語」(フジテレビ)を見た。温暖化の影響で氷が張らず、ためにアザラシを狩ることができなくて共食いや町に出没する飢えた白熊が続出する北極。伐採や森林火災で森が消え、絶滅寸前のインドネシア・ボルネオ島のオランウータン。キリマンジャロの永久凍土の減少、異常気象、干ばつのために死滅していくケニアのアフリカゾウ。数ヶ月も絶食して子に授乳をする母親熊は(子を食べようとする)父親熊から逃れて氷の張った海を目指す。親を人間に殺されたオランウータンの子は一頭20万円(インドネシアの年収)で闇取引され、水を求めて人間の井戸に落ちた子像は人間によって耳を切り裂かれる。子はいく度か「もう我慢できない!」とこぶしをあげ、いく度か顔を伏せた。「物を言わない動物たちだから、いっそう哀れに思う」とY。番組中、江口洋介が「目の前にある命に実際に触れて思うこと」について語っていたことは本当だなと思った。情報ではなく、実際の命に触れ、ときに抱きしめて、そこからこみ上げてくる感情。「情報」だけで「知った」かのように思っていることが現代の大きな誤謬ではないか。本物の肌触り、息遣い、ぬくもり、そうしたものはwebにもテレビの中にもない。子は番組に出てきた動物たちに送るのだと手紙を書いたが、さて、どこへ送ったものやら。

2008.3.30

 

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 朝6時。日曜のベランダ。前の公園で、小学校1年生くらいの男の子と腰の曲がったお婆さんが二人でトス・バッティングをしている。男の子が打つと、ジョギング途中だったらしいよそのお爺さんが拾ってくれる。「すいませんなあ」とお婆さんが言いながらボールを受け取る。すっかり守備位置についているお爺さんも、満更でもなさそうだ。ボールが放られると、立ち踏みしていたお爺さんはすっと守りの姿勢に入る。ジャスト・ミートだ。「すいませんなあ」

 そんな光景を眺めている。

2008.4.6

 

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 3日、朝6時半出発。明石大橋を渡った道の駅あわじを経て、洲本インターを降り国道28号線を南下、淡路島牧場に着いたのが9時半頃。淡路島は手ごろな距離だ。地元の酪農家の協同組合が営んでいる淡路島牧場はローカルな雰囲気でわたし好みだ。出荷所の端におまけでつくりました的な施設は手ごろな広さだし、古びたあれこれの建物はどこか70年代の子どもたちの賑わいの残り香を漂わせている。入園料はなく、園内は牛乳が飲み放題。子はここで哺乳瓶で子牛にミルクをやり、メリーゴーランドのような機械でつながれた子馬に乗り、小動物園の孔雀に目を見張り、馬小屋の陰で昼寝している猪豚を覗き込み、分娩室のような鉄柵におさまった雌牛の乳を搾った。あまり愛想のない気だるげな係のおっちゃんたちもまたいい。子は子馬から降りると「これで“もののけ姫”のアシタカの気持ちが分かった。いま書いているお話にさっそく使わせてもらうわ」と。続いて同じ三原町内にある淡路人形浄瑠璃資料館へ。鄙びた商店街を抜けた奥の町立図書館の二階にあるこの無料の施設は、だがなかなか立派なつくりで、展示内容も貴重なものだ。当時の野掛けを再現した舞台に「傾城阿波鳴門 巡礼歌の段」の人形を見つけて子は「あ、お弓とお鶴だ!」と駆け寄っていく。中世の頃に西宮の散所にいた傀儡師(人形遣い)たちと大阪四天王寺で舞楽を奉納していた楽人たちが出会い、淡路島へ渡ったのが淡路の人形浄瑠璃の発祥とも言われる。江戸時代になって琉球から三味線が伝播し、いまの形がほぼ整った。何だかニューオーリンズでカントリーやジャズやブルースが合流したような光景だね。そうして栄えた淡路の人形浄瑠璃の座数は四十余を数えたが明治の頃より衰退し、一時人手に渡っていた市村六之丞座の道具一式を三原町が保存のため買い取ったのがこの資料館の展示内容である。そこには前述の野掛け舞台をはじめとして、人形・頭・衣装・三味線・拍子木・舞台用の高下駄・三番叟の面・淡路人形浄瑠璃の起源を語る道薫坊の由来書・各種の浄瑠璃本や興行先でのさまざまな帳簿などが役目を終えてかつての旅路を偲び、休息の中にまどろんでいる。解説によれば興行に運んだ荷物はいまでいうトラック3台分もあったという。それらを舟に乗せ、荷車を押し、あるいは背に負って遠い山道や海沿いの道を行った旅というのは如何様なものであったのか、わたしは思いを馳せる。子は巡礼姿のお鶴や黄ばんだ浄瑠璃本の表紙などを手帳に「模写」している。歴史を秘めた道具類もよかったが、わたしが食い入るように見詰めたのは数枚のパネルで展示されていた宗虎亮という写真家が撮影した、かつての野掛け舞台の風景のモノクロ写真たちだった(宗虎亮「淡路野掛浄瑠璃芝居」創芸出版・昭和61年----ネット検索したところ古書で入手できるようだが、4千円もする。だがいつか購入したい)。わたしがいたい場所は歴史の彼方にしかない。そんな気分にもなる。昼過ぎ頃、鳴門大橋に近い大鳴門橋記念館に移動し、二階の展望レストランうずの丘で昼食。淡路島創作料理コンテストでなんども受賞しているという料理はなかなかでした。食後、いよいよ階下の淡路人形浄瑠璃館を再訪。演目は前回と同じ傾城阿波鳴門 巡礼歌の段」だ。開幕前に子は人形師の方のささえる人形と並んで記念写真を撮らせてもらう。ちょうど団体客の谷間になったか、客席はガラ空きで申し訳ないほどの入り。そのせいか若干、前回より迫力に欠けたような気も。愉しみのひとつであった最後の「ふすまからくり」もちょっと短めだったかな。ときおり三味線の音に重なって太夫の語りが聞こえづらく、子も最後の方は欠伸交じり。閉幕後に訊くと「悲しすぎるお話でしんどかった」と。義父母たちは子供の頃に村に来た人形浄瑠璃の一座を思い出しながら見たという。Yは人形遣いの方から「ふすまからくり」について話を聞き、売店でわたしはかつて三番叟の門付けの際に配られたという当時の若蛭子の紙札を500円で買った(だれもその価値を理解してくれなかったが)。その日は道の駅うずしおで鳴門大橋とうずしおを眺め、夕刻、予約していた南淡路ロイヤルホテルへ投宿。通常1万7千ほどの値段がヤフー・トラベルの特別価格とやらで一人1万円の格安だったのであまり期待していなかったのだが、料理も大変美味で、予想外に良いホテルだった。夕食後、ゲームコーナーで少々遊ぶ。が、子はたいていのゲームはテンポが速すぎて「しんどい」と言う。結局、エアー・ホッケーで満足する。昔は宿に行ったら(多くは国民宿舎だったけれど)必ず卓球台が置いてあって、父と対戦するのがたのしみだったな。そんなことを思い出す。子は温泉で足指から血を滲ませ、フロントでバンドエイドを貰う。露天風呂のざらざらとした浴槽で、おそらくしもやけ気味の感覚のない足指をこすったのだろうと思われる。露天風呂はちょっと要注意かも知れない。翌日は鳴門大橋から淡路島の瀬戸内側の鄙びた海岸線を北上する。洲本の方の国道と違って行き交う車両もすくなく、きらきらと輝く一直線の海岸線が続いたかと思うと、ときおり集落の狭い路地をうねうねと曲がる。そんな生活臭のする雰囲気がいい。暮らしの見える道がいい。そう、たしか20代の頃に友人とバイクでこの道を走っているのだ。途中、慶野松原に車を止め、しばし砂浜で子と石ころを拾ったり、流れ着いたウミガメを突っついたり、石葺きの砂山をつくったりして遊ぶ。線香の町・一宮を過ぎ、昼頃に北淡震災記念公園到着。車で走ると淡路島は案外小さい。施設内のレストランで昼食を済ませてから野島断層保存館へ。入り口を入ったすぐで流していた阪神・淡路大震災のモニタを見た瞬間の子の驚いた顔が忘れられない。思わず両手を口にあてて、息を呑んだ。メモリアルハウスにあった小学生の作文を読んでいた子が「お父さん。何か書くもの、持ってない?」と訊く。作文を書きとめておきたいのだと言うので、「それならカメラで撮って、あとで印刷してあげるよ」と言う。「私は地震のときのことを思い出すとき、亡くなった友達のことを考えます。今、「地震さえなければ」という言葉をはねのけて、「地震があったから」と考えていける自分になりたい」と書いた小学6年生の子の文章の、その最後の一節が「すごい」のだと言う。わたしは震災を経験した子どもたちが描いたという絵に惹かれた。黒いチューリップがあり、行き止まりの道があり、髑髏が有り、血を流した無数のヒトガタばかり描いていたかれらの絵に、突如として色鮮やかな虹が現れる。色彩が、生きる希望が復活する。それはひどく感動的な瞬間なのだ。かれらは生きなければいけないと「思った」わけではない。それは言葉もなく、硬い蕾が凍てつく冬の寒さを通り抜けて自然と花開くように、かれらの内奥から“何かの力”によって立ち現れたのだ。「絵」だからそれが表現された。これらはみな聖なる曼荼羅のようだ。あちこちで、みながそれぞれの地震体験を、声をひそめて、あるいは興奮気味の声で喋っている。北淡震災記念公園はそんな場所だ。保存されているのは断層ではなく、断層を埋めんとする死者と生者の記憶の交錯である。明石大橋の下をくぐり、岩屋の町を抜ける。淡路島の鄙びた海岸線から海峡の向こうに見える高層ビルの林立した神戸側はまるでよその国のようで、巨大な過去の文明の蜃気楼のようにも見える。最後に立ち寄った淡路夢舞台は、2000年に開催された国際園芸・造園博「ジャパンフローラ2000」の会場跡地でもあり、大阪湾を見下ろす高台に広大な公園とお花畑と巨大な温室があり、建築家・安藤忠雄氏が設計した建物がある。今回は安藤建築をゆっくり味わう時間的余裕がなかったけれど、奇跡の星の植物館でたまたま子の好きなマリー・アントワネットに関する催しが開かれていた。マリー・アントワネットがお気に入りだった宮殿の庭を再現したものだ。人形浄瑠璃の土俗的世界から、一転してベルサイユのバラの世界である。生憎、わたしは花を愛でるような高貴な風情はあまり持ち合わせていないがこの植物園、その洗練さも含めて途方もないお金がかかっていること、植えられている草木もゴージャスなものばかりということくらいは分かる。凄いです。たしかに、一見の価値はあるね。花々に埋め尽くされた庭のベンチに王女さま気取りで腰かけている子がご満悦なのは言う間でもない。前日立ち寄った道の駅あわじで最後にいかなごの釘煮を職場の土産に買って帰ろうと思っていたのだけれど、淡路インターからのぼったらそのままSAを通り過ぎて明石大橋を渡ってしまった。大した渋滞にも会わず、約2時間後の夜7時半に帰宅。まだまだ淡路島は、洲本の文化史料館や北淡の歴史民俗資料館も見てみたいし、鄙びた社寺も巡ってみたいし、人形浄瑠璃の残り香を辿って三原町内をじっくり散策もしてみたい。いつの日かまた。

 

道の駅あわじ http://www.hm.h555.net/~michinoekiawaji/top.htm

淡路島牧場 http://www.awajishima.or.jp/

淡路人形浄瑠璃資料館 http://www.city.minamiawaji.hyogo.jp/index/page/dbb2afd6c95a4c8fc86b63d694339cda/

三原町商工会(人形浄瑠璃の映像) http://www.s-mihara.or.jp/ningyo/movie.htm

淡路人形座訪問 其の現状と由来(青空文庫) http://iaozora.net/Card?card_id=18367&person_id=636

大鳴門橋記念館 http://kinen.uzunokuni.com/index.html

展望レストランうずの丘 http://rest.uzunokuni.com/

淡路人形浄瑠璃館 http://kinen.uzunokuni.com/jyoururi/midokoro.html

西祖谷山村の襖からくり舞台 http://www.jrt.co.jp/tv/ohayo/2005/1028.htm

西祖谷の襖からくり復活(動画) http://our.pref.tokushima.jp/movie/sub4.php

道の駅うずしお http://eki.uzunokuni.com/sisetu.html

南淡路ロイヤルホテル http://www.daiwaresort.co.jp/awaji/

北淡震災記念公園 http://www.nojima-danso.co.jp/top.html

淡路夢舞台 http://www.yumebutai.co.jp/

兵庫県立淡路夢舞台温室・奇跡の星の植物館 http://www.kisekinohoshi.jp/

2008.4.7

 

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 昨日は子の始業式だった。1年間お世話になった大好きなT先生が5年生の担任になったと知ったときは「絶望的になった」が、新しい担任の先生と半日を過ごしたら「T先生よりいい感じ」と言う。おい、ちょっと調子が良すぎるんじゃないかね。今日は「新しいクラスはどうだい?」と問えば、「うん、100パーセント」と答えが返ってきた。H先生は子の学校へは新任で、30代くらいだろうか(女性の年齢はよく分からん)。迎えに行った際に下駄箱のところで会い、「また病気のことなども説明させて頂きます」と挨拶など。今回、人事異動で校長、教頭、保健の先生など、ずいぶん入れ替わりになったらしい。クラスでは豆パン屋のNちゃんや母親同士も仲良しのKちゃんなどがいっしょになった。「Nちゃんは(新しいクラスで)喜んでたかい?」と訊くと、「うん、ナンか、とまどっているような感じだったからね、“いまは運にまかしとき。きっとうまくいくから”ってわたし、言ってあげたの」なぞと。

 今日は昼間、クライアント本社とうちの本社部長を交えての会議などが3時間あり、それに注文していた仕事用のノートが職場に届いてあれこれ設定もしたりで、なにやら疲れた。

 奈良在住の歌人・前登志夫氏が亡くなった。

2008.4.8

 

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 作家の小川国夫氏が亡くなった。

 老いたジョニー・キャッシュがとつとつと Danny Boy を歌うのを聴いていると、生き続けるということは、もしかしたら愛しいものを次々と剥がされていくことなのかも知れないとも思う。そうして人は、からっぽの牛乳瓶のようになっていくのかも知れない。

2008.4.9

 

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 「気の滅入る事件ばかり続きますね。私はついつい、被害者ではなく、加害者の家族に同情してしまいます。気の毒で仕方ない」 先日、ある人からそんな便りを貰った。テレビは殆ど見ないから最近、ニュースを見ることもない。代わりに新聞はなるべく丹念に目を通すようにしている。けれどもろもろの暗鬱な事件や記事について、いまは語りたいと思わない。チベットの騒乱はどうか。映画「靖国」の上映中止については。相変わらずの理不尽な想念の突出や、過剰で神経質な自己愛狂想曲は? それらはみな澱のように音もなく下降し、わたしの暗い水底で珊瑚の屍のように沈殿しているのだ。それらについて語りたいとは思わない。そしてわたしが思うのは、たとえば八木重吉のこんな詩のことばであったりする。

 

こどもが
なぜによろこんでいるかって?
なあんにも
あとへのこそうとしないからさ

 

 八木重吉は詩稿のなかで、鞠やこまといった子どものおもちゃについての詩を多く残している。こまひとつのことで、詩人は永遠にうたっていられるのだ。だから、かれが

 

おもちやよ
おもちやよ
たんと あれ

 

  とうたうとき、それは、いわば「天のおもちゃ」について希求しているのだ。詩人のうたった「おもちゃ」は、ますますこの世から消えてなくなりつつある。

 

 

 夜、露天風呂で傷めた子の足指の出血がなかなか止まらないので病院へ連れて行く。

 寝床の中で、子に藤村と八木重吉の詩を朗読して聞かせる。

2008.4.11

 

*

 

 苔の生えたつまらぬガラクタすべてを吹き飛ばしちまったら、さて、おいらはどんな姿に変じるのか。ずる剥けアカチンポばかりいじくっている貧相な猿か、澱んだ底なし沼に沈みかけている盲目(めしい)の巨象か、葡萄の木から落ちた腐れかけの果実か。いや、おそらく白骨の一片さえ立つまいて。「ぼくが何かを伝えたいのは、子どもです。じぶんが変わっていく姿を見せたいのは、子どもです」といつか書いていた人がいた。今夜、月は霞をかぶっている。処刑台の上でまんじりともせず、はちきれそうな、腐れ落ちそうなじぶんがいる。

2008.4.14

 

*

 

 

今年からインターネット練習してます。いろいろ検索してて
まれびとさんの歌、物の感じかた、読み進むうちに、似てる感性をされてるなと感心しました。
 さらにびっくり。なんと2002・11に私たち出会ってるではありませんか。
ぜひ、またお会いしたいものです。できればながいお付き合いさせていただければと
願ってます。

縄文の風・大和 http://blogs.yahoo.co.jp/joumonnokaze

 

 

〇〇様

ときにwebは奇妙で愉快な縁をもたらしてくれるものです。

わたしが月ヶ瀬を訪ねたのは暗い想念を抱えてでした。
あのとき野口雨情の句碑を探したのはそんな暗い想念から逃れて、ふっと息をつきたかったからかも知れません。
わたしは東京・下町の出身ですが、高校のときに引っ越した町の市内に野口雨情の生家と小さな資料館がありました。
その雨情を思い出し、たまたま通りかかったあなたにわたしが声をかけたのも、そのことを記した文章を数年後に無数のwebサイトからふたたびあなたが見つけたのも、みな奇妙で愉快な縁なのでしょう。

月ヶ瀬もそろそろ暖かくなってきた頃でしょうね。
こちらこそ、いつかチビを連れて縄文の里を訪ねたいものです。

まずは、ふたたびのお近づきのご挨拶まで。


まれびと

 

哀しき鬼・丘崎誠人に捧ぐ http://www.geocities.jp/marebit/oni.html

2008.4.15

 

*

 

 19日。東京からSさん、友人のAが来る。子を入れて4人(Yは風邪気味)、車で吉野山奥千本ー洞川温泉ー天川神社ー丹生川上社。夜はYも加わって近所のサンマルクで夕食。

 翌20日。同じメンバーで大阪新世界。ジャンジャン横丁で串かつを喰い、待望の浪速クラブで3時間強の歌と踊りと芝居のショーを愉しむ。その後、わたしは子を連れて天王寺動物園。AはSさんを難波のくいだおれへ案内する。夜はわが家で焼肉。

 21日。Aを西ノ京へ送り、泥だらけの車をSSで洗車する。昼から出勤。

 

 

 通天閣のすぐ横にある浪速クラブは、わずか百席ほどの小さな劇場で、その外形も中世の河原に建てられた芝居小屋に似ている。近くの釜ケ崎の日雇い労働者などがよく来るので料金も格安である。一流の歌舞伎は二万円もするが、ここは千二百円で、最後の総踊りの一時問半だけなら六百円である (飛田新地に近いOS劇場にもよく通う)。
 それでもこの小屋には短い花道もあって、役者と観客の距離感が全くない。しかも演目の大半がアウトロー物か股旅物である。故あって、この世のウラ街道を歩む「制外者(にんがいもの)」の人情話である。その幕切れのはとんどは、「人と人との悲しい別れ」 である。
 台本はすべて座長の頭の中にあって、脚本は文字化されていない。昼と夜の二回公演で、演目は日替わりであるから、一ヶ月の興行でざっと六十本の出し物を演じなければならない。舞台稽古をやる余裕もないから、新作もぶっつけ本番である。それだけでも頭が下がる思いがする。
 平日では、昼夜で客がわずか数十人という時も少なくない。しかも売り上げの木戸銭は、小屋主と一座で半々に分ける。小さな一座でも十数人の役者がいるから、こんな実入りではその日の食費や宿銭にも事欠く。

 先日も久万ぶりに大阪に帰ってきた「市川おもちゃ」一座を観てきた。彼は十八歳で座長になった芸達者で、私の贔屓のひとりだ。土曜日の夜だったので超満員。かぶりつきにはペンライトを振りかざすオバチャンたちが数十人陣取っていて、あちこちから掛け声が飛ぶ。
 総踊りに入る前の 「中入り」 では、必ず座長が挨拶する。その口上で「関東から東北、それから北海道を旅して、一年半ぶりに大阪に帰ってまいりました。今夜は久万ぶりの大入りで、一座一同心から喜んでおります」と述べて、深々と頭を下げた。観衆は「いつまでもがんばれよ」と声援をかけ、長い拍手を送っていた。

 夜八時半の終演の際には、役者全員が小屋の入り口に勢揃いして、舞台姿のままで、お客さん一人ひとりと握手して言葉を交わす。こんな濃密な人間的コミュニケーションが、まだ遊芸人の世界では生きているのだ。

沖浦和光「旅芸人のいた風景」(文春新書)

 

 

■ 当日プログラム

第一部 前狂言「恋慕男花」

第二部 切狂言「静岡土産」

第三部 グランドショー
1「繁盛ブギ」(市川 司・市川やんちゃ・市川大地・市川久美子・市川舞子・市川やよい)
2「母讃歌」(市川おもちゃ座長/女形)
3「丹後の宮津節」(大川龍子)
4「夏恋囃子」(市川おもちゃ座長/女形・市川やんちゃ・市川久美子・市川舞子)
5「川」(市川 司)
6「花」(市川大地)
7「大川流し」(市川おもちゃ座長・市川恵子)
8「ヤン衆挽歌」(市川やんちゃ・市川舞子)
9「純恋歌」(市川おもちゃ座長)
10「不如帰」(大川龍子/歌)
11「娘炎節」(市川やんちゃ/女形)
12「花街道」(市川恵子)
13 ラスト舞踊「おもちゃのまつり」(全員)

 

浪速クラブHP http://www.naniwaclub.jp/

市川おもちゃ、わんだーランド http://pksp.jp/sin55kun/?o=0&km=&ps=

2008.4.22

 

*

 

 森 達也の「いのちの食べかた」 (理論社)世界が完全に思考停止する前に」 (角川文庫) をアマゾンで注文する。

 Aがくれたビートルズの Sgt.Pepper's Lonely Hearts Club Band と Abbey Road を聴きながら、奈良・大阪・兵庫と仕事でまわる。夜に帰ってきて子と風呂に入る。さやえんどうの形の消しゴムが欲しいと言う。

 Yは昼間、教会の葬式に行って来る。幼稚園の事務方の女性のつれあい。癌で亡くなる間際に洗礼を受けた。安心が欲しかったのか、信者であった伴侶への愛情か。

 深夜、書棚から西脇順三郎「詩と持論」をとりだしてぱらぱらとめくる。

 

私の道は九月の正午
紫の畑につきた
人間の生涯は
茄子のふくらみに写っている
すべての変化は
茄子から茄子へ移るだけだ
空間も時間もすべて
茄子の上に白く写るだけだ
アポロンよ
ネムノキよ
人糞よ
われわれの神話は
茄子の皮の上を
横切る神々の
笑いだ

2008.4.23

 

*

 

 露天カラオケ屋のなくなった妙に小奇麗で醒めた悪意を感じる天王寺公園横の歩道を抜ける。天王寺動物園の前、新世界のとば口。浪速クラブはその道筋を北へ数分歩いた角にある。午前10時半すぎ。興行祝いのスタンド花が立ち並んだ芝居小屋前にはすでに十数人の人が開場を待っていた。レトロな食券販売機のような自販機でチケットを買っている。大人1200円、子ども600円(前売り券は1000円)。子が路上で転んで膝を怪我したので、大きめのバンドエイドを買いに薬局を探す。通天閣の下で漫然と立っていたおっちゃんに訊くと「あっちにある」と教えてくれた。その間にAがチケットと、整理券を貰ってくれた。自転車の荷台を利用して将棋をしているおっちゃんたちの横で子の手当てをしていると、見知らぬ40代くらいの男が寄ってきて、無言のままAに整理券を押し付け、また芝居小屋の入り口へと戻っていった。整理券は2番である。「何でおれにくれたんだ?」Aはとまどっている。「さあね、タイプだったんじゃないの?」わたしが答える。入口で整理券の番号が叫ばれ、客たちが吸い込まれていく。Aは結局、「2番」の整理券は使わなかった。入口で子におばちゃんがイチゴ味のキットカット(ミニ・サイズ)の小箱を渡してくれる。子どもだけのサービスかと思ったら、わたしにもくれる。古い映画館のような木製の折りたたみ座席が並んでいる。真ん中は予約席で、舞台向かって右端の座席に当日券の客が詰められていく。反対側の端には縦に細長い桟敷席がある。とりあえず席を確保すると、後ろからSさんがわたしと子に百円玉をひとつづつ渡してくれる。座布団代を用意しておくようにと入口で言われたのだと言う。しばらく待っていても誰も来ないので、通りがかった小屋のおばちゃんに訊ねると、ホームセンターで売っているような茶色の座布団を4つ持ってきてくれた。周りを見ると敷いている人はあまりいない。「希望する人は」ということだったと知る。当日席がほぼ埋まると「はいみなさん、もう席を離れて頂いて結構ですよ」と声がかかる。開演は12時なので、その間に食事でもご自由に、というわけだ。座席にキットカットなどを置いて席を立つ。芝居小屋を出て、しばらく新世界のメインロードをぶらつく。ビリケン生誕百周年とかであちこちの店頭に巨大なビリケン像が出ている。ジャンジャン横丁に入ったすぐあたりの小さな店で串かつとどて焼きを食う(有名な八重勝はすでに行列が出来ていた)。Aは昼間から焼酎を飲む。串かつは5,6本食べたら、もうお腹が膨れた。子が残した3本を持ち帰りに詰めてもらい、そろそろ時間だと浪速クラブへもどる。客席の照明が落ち、拍子木と共に幕が引かれる。古びた客席は饐えた小便の匂いがかすかに匂う。小屋全体に沁み付いた体臭のようだ。はじめに任侠時代劇の「恋慕男花」。親の顔も知らず育てられた岩五郎(市川おもちゃ)は親分の娘(市川舞子)との祝言が決まっている。が、そこへ他の組から修行に来た清治(市川やんちゃ)に娘は心を寄せ始める。組の姉御(市川恵子)が清治に「組と岩五郎のために黙ってこのまま国へ帰ってくれ」と頼んだ直後、岩五郎は清治を闇討ちする。そして祝言の日。ある女中のもとでひそかに怪我の手当てをされ回復した清治が乗り込んできて、真相が明らかにされ、祝言は取りやめとなる。岩五郎は清治と斬り合い清治を負かすが、とどめを差そうとしたその時に姉御が「岩五郎! 男だぞ・・・」と声をかける。岩五郎は我に返り、苦渋の末にみずから腹を切って果てる。これはディランやジョニー・キャッシュが歌う西部のアウトロー(流れ者)の悲劇譚ではないか。悲しくも、美しい。弱さも醜さも抱えた岩五郎は、葛藤の末に死んで男を見せる。迫真の演技に、わたしは胸を突かれた。こんな惨めな流れ者の歌は、実にもう古いレコードとこの新世界の小便臭い芝居小屋にしか残されていないのではないか。「岩五郎は死んで落とし前をつけたんだよ」わたしは子に説明する。「オトシマエってなに?」 「じぶんのやったことに対して責任をとったということさ」 続く「静岡土産」は一転して現代劇のコメディーである。今日が初芝居の新作だったらしいが、剥げ頭のかつらをかぶった市川おもちゃが先ほどの岩五郎だとはじめは気づきにくいくらいの変わり様だ。ちょっと吉本喜劇風。それから後半のグランド・ショーは劇団員総出演で、まさに歌あり踊りありの艶やかな舞台が続き、これも愉しい。色っぽい女形に身を扮して踊る市川おもちゃの帯や胸元に、客席のおばちゃんが一万円札を挟み込む。遊女であった出雲の阿国がはじめた女歌舞伎(かぶきの語源は傾(かぶ)くであり、日常から突出した異形な様をいう)が風俗を乱すということで禁じられ、代わりに男が女を演じるようになったのが女形の始まりらしいが、性の逆転したこの倒錯感というのは確かに妖しくぞくぞくとさせるものがあるね。途中で劇団の誰かの子どもらしい、2歳のいわく「劇団のマスコット」の女の子も出てきて紹介される。一人の熱心なファンらしい老婆が、この女の子の胸元にも折り畳んだ万札を差し込み、抱き上げて「商品には触らないでください」なぞとアナウンスが流れる場面もあった。幕間の休憩時間にはいちど、役者たちが客席の間に入ってきて明日以降の前売り券を捌く。舞台姿のまま、お客さん一人ひとりにチケットを手渡しながら「ああ、今日も来てくれたの、お客さん。毎日欠かさず通ってくれて・・・」などと言っている。弁当売りも来る。450円くらいのおにぎり弁当で、それを頬張りながら芝居を見ている客たちもいる。最後の舞踊「おもちゃのまつり」の前に、座長の市川おもちゃが出てきて挨拶をする。「今日は有難いことに大入りですが、明日は月曜日。月曜日になると不思議なことにこれだけたくさんのお客様のほとんどがどこかへ消えてしまうんですよねえ」と笑わせていたが、実際、平日の客の入りは厳しい状況なのだろう。舞台がすべて終わったのが午後の3時過ぎ頃。およそ三時間半の盛りだくさんの舞台で1200円の席料は感動的ですらある(おまけにキットカット付きだ)。お客が退席するときは沖浦氏も書いているように「役者全員が小屋の入り口に勢揃いして、舞台姿のままで」握手をし、見送ってくれたらしい。わたしは生憎、子をトイレに連れていっていたので(身障者用のトイレがないので、小屋の人に断わって女性トイレにわたしも入らせてもらった)、すでにみな小屋前の路上で三々五々散らばり、ファンの客と話をしたり、いっしょに写真に収まったりしていた。わたしは子に、座長の市川おもちゃと写真を撮らせてもらおうかと言ったのだが、子は「別の人がいい」と言う。「だれだい?」 「あの人がいい」 子が指差したのは清治役をやった若い市川やんちゃである。「すいません、この子といっしょに写真に入ってもらえますか?」 そうして撮った写真を、帰ってから子は三枚プリントしてくれと言う。一枚は日記帳に貼り、一枚は友だちのTちゃんにあげる。残った一枚を畳の上に寝転がっていつまでも眺めている。ところでわたしはといえば昨日、ちょうど大阪へ巡察の仕事があったので、あわよくば早めに仕事を切り上げて新世界へ・・・とひそかに目論んでいた。市川おもちゃ一座の大阪公演は今月29日までで、次は四国へ移動するらしい。残念ながら(案の定)仕事は長引いて、5時の開演には疾うに間に合わず諦めたのだが、あの空間がひどく懐かしく思われて仕方ない。あの饐えた小便の匂いが体臭のように沁み付いた芝居小屋で、わたしは本来のじぶんになって息をつけるような気がするのだ。あやかしの非日常が日常を救う。かつてアメノウズメが踊り狂ったシャーマンの舞を、かれらは今宵もどこかの町の芝居小屋で舞い続けている。

2008.4.24

 

*

 

 

おかあさんのたいへんな一日

小学校一年 〇〇紫乃

 

 わたしは一ど、しょっきあらいとせんたくほしをしたことがあります。

 おかあさんは、おふとんたたみやアイロンかけや四人ぶんのしょくじのよういもしています。ほかにも、おふろのよういや本のせいりもしています。

 十一月三日に、わたしがトイレをのぞくと、おかあさんが、トイレのあなに手をつっこんで、タワシでゴシゴシこすっていました。

 わたしは、おかあさんがしんどいだろうとおもって、もう一つのタワシをつかって手つだってあげました。おかあさんは、ふとかた手をおでこにやりましたが、おろしてしまいました。わたしは、おでこを見て、あせをかいていることに気がつきました。そして、あたらしい白いタオルをもってきて、おかあさんのおでこをふいて、くびにかけてあげました。おかあさんは、にっこりとして、

「えらいねぇ。ありがとう。」

 おかあさんがいったのはそれだけでした。

 おとうさんがかえってきて、そのことをはなすと、

「おかあさんはうれしかったのさ。」

といいました。

大和郡山市人権作品集 第42集

 

2008.4.27

 

*

 

 仕事上のことはあまり書けない。とにかく駐車場の車のコトで文句を言うしつこい客がいる。そして肝心なのはその話が筋が通っているかどうかではなく、企業が心配するのはイメージが損なわれるかどうかということなわけだ。とにかくだれもが細かいコトにいらいらしている。大抵はくだらないそのいらいらにへこへこお辞儀をする。そういうわけで月曜の朝、ぼくは事務所のDさんと近鉄線の東寺駅前で待ち合わせることになった。せっかくだからちょっと早めに行って東寺を見物しようじゃないか、と前の晩にふと思いついた。で、9時から約1時間半、観光資源管理人たる僧侶たちを喰わせるための800円の拝観料を払って五重塔・金堂・講堂を見て回ったというわけだ。ちょうどGWに合わせて五重塔は特別公開の期間だった。喋ること以上の質問はお受けかねますといった大学生の女の子らしきアルバイトが台座の下の横板をめくって、太い継ぎはぎだらけのフランケンシュタインみたいな塔の芯柱が箱舟のような形の礎石に乗っかっているのを懐中電灯で照らして見せてくれた。300年前に柱以外の部材が乾燥で縮んでしまい、柱が屋根を50センチだけ突き破ってしまった。それで柱の下を50センチ切り落として下げた痕が残っている。そんな説明を5分おきに一日中繰り返してこの子はいったいいくら貰えるのだろう。それはこの五重塔を建てた職人たちの手当てより高いのか低いのか。そんな五重塔も含めて東寺というのは、一体一体の像の優美さを愛でるというより、全体の構造なんだな。境内の建物の配置も講堂の仏像の配置も、すべてが「構造」で、それは仏教(密教)という頭ン中の思想をデザイン化したものなんだろう。治癒過程の分裂病者がつくる箱庭のようなもの。それはともかくぼくは最近、こうした仰々しい場所・美術・建築というものはどうもだめだな。かつては一体の仏の前にニセモノの行者よろしく正座してそのいわくありげな微笑に同化しようと試みたものだったが、最近は何だかもったいぶったその大きさやきんきらきんの衣装やらが鼻について落ち着かない。巨大な大日如来が偉ぶった太っちょの裸の王様に見えてしまって仕方ない。国家という権力が仏の面をかぶっておれにひざまずけと言ってくる。巨大な大日如来に対峙したおれは木箱から木偶を出して滑稽劇を演じるわけだ。ツァラトゥストラのようなドンキホーテのような大仰なパロディで取り澄ましたすべてを笑いのめしてやる。Dさんと訪ね当てた家は狭い昔の路地に面した古びた長屋の一室だった。家の中は散らかってるからちょっと外へ、と男はがっちりした体躯をもてあましているかのようにびっこをひきながら歩いた。後ろから歩いてくる人が次々と男を抜いていく。京都駅構内のありふれた喫茶店。昼時だから、と男はじぶんはアイスコーヒーだけ注文し、わたしとDさんにはそれぞれコーヒーとサンドイッチを勝手に注文する。それから2時間半、男の長広舌はとめどなく続いた。Dさんは終始恐縮した面持ちでコーヒーと水ばかりを呑んで話を聞いた。わたしはちょうど腹が空いていたからサンドイッチをぱくぱくと頬張った。回転寿司屋で魚を切った包丁を洗いもせずそのまま野菜や玉子焼きを切っているのを見て堪らずビールをぶちまけた。じぶんの田んぼに放られたゴミを泥だらけのまま放り返した。山ではゴミを突き破ってタケノコが生える。捨てられたバッテリー液を吸ったそんなタケノコを無断で人の山からくすねていく。むかしはこんなんじゃなかった。いまは病院でさえまず金勘定を優先する。車で田舎道を走っていて子どもに道を譲るとぺこりとお辞儀をしていくのに、都会では携帯電話を片手に信号もろくに見ていない。そういうときはわざと車をぎりぎりまで寄せて、急ブレーキでとめてやる。兄貴たちは大阪で手広く商売をやっているが、兄弟でおれ一人どうもはみ出してばかりいる。おれは土をこねくりまわすのが好きだ。都会の空気を吸うと頭がくらくらしてくる。話を聞いているうちにだんだん分かってきた。こいつはおれに似ているんじゃないか。世の中のあれこれに憤って、馴染めない。びっこをひいて歩く男を人々がすいすいと追い抜いていくように。そして激しいルサンチマンを抱いている。男の顔はいつか新聞で見た在日の小説家を連想させた。おれはこいつを案外好きかもしれない。そう思うと空気が変わってきた。結婚指輪について尋ねられ、おれは子どもの話を男にした。海沿いの嫁さんの田舎に娘を連れて行く。じいちゃん・ばあちゃんと蜜柑山へ行って蜜柑をもいでくる。けれど村からは若者が次々と出て行く。そのうちに年寄りと猫だけの村になるだろう・・  男はそんな話を身を乗り出してうんうんと頷きながら聞いた。Dさんが用意してきた菓子折りを見て男は「おれはそういうものは受け取らないと決めている」と言った。領収書を書いていったん受け取った洗車場までのガソリン代を「募金箱にでもいれてくれ」とわたしに差し出す。「今日はとてもいい話ができた。じぶんもたくさんのものを貰った。わざわざ遠くから来て切れたのだからここはじぶんに払わせてくれ」とDさんの手を振り切って喫茶店代を支払った。上階の改札まで案内してくれ、「娘さん、風邪を引かないように」と見送ってくれた。それからDさんとも別れ、京都と大阪の現場を巡察して回り、乗り換えの鶴橋で大根のキムチを買って夜遅くに帰宅した。キムチは薄味でうまくなかった。職場のY君の話では駅前付近の店は日本人向けのものでほんとうに醗酵させたものじゃない、問屋街のもっと奥の方の店でないとダメだそうだ。

2008.4.28

 

*

 

 毎年この季節になると雀やハトや椋鳥がベランダの室外機の裏に巣をつくり卵を産む。夏になると残った藁屑が悪臭を発してYが嫌がるので早めに処理をしようと思うのだが、そう思う頃にはすでに卵も産み落として親鳥たちはせっせと藁屑を運んでいるので片付けるのがしのびない。結局そのまま静観して、夏に室外機の裏から大量の藁屑を掻き出して掃除をするのが毎年のわたしの役目だ。

 祝日の昼間。子が室外機の下に置いている鉢皿を取り出して、懸命に奥を覗いていた。夕方になって洗濯物を取り込んでいる母がふと見ると便箋が二枚、並んで夜風に揺れていた。

 

(ニセモノ)

スズメチャンヘ

スズメチャン、ゴキゲンヨウ。
スコシヤスンダラ?
ワタシヲミテモ、ニゲナイデネ。
ダイノシンユウニナリタイノ。

スズメニナリタイ人間ノシノヨリ

 

 

(本もの)

すずめちゃんへ

すずめちゃん、ごきげんよう。
赤ちゃんをうむとつかれるでしょう。
少しやすんだら?
わたしをみてもにげないでね。
大のしんゆうになりたいの。

しのより

 

2008.4.29

 

*

 

 巡察へ向かう電車内で村井則夫「ニーチェ ツァラトゥストラの謎」(中公新書)の頁をめくることは、まこと「華やぐ知恵」である。自明の鎖がなかば暴力的に寸断され、岩が宙に浮かび、風が吹き抜ける。「神が死んだ」とツァラトゥストラに語らせたニーチェは生涯、パウロを憎み許さなかった。キリストではないイエスを、おそらくニーチェは別の形で愛していた。ニーチェにとってパウロは、(おそらく)イエスの「華やぐ知恵」を堅固な岩に閉じ込めた者である。そう、たとえばミッシェル・フーコーが「言葉と物」のなかで次のように語っている言葉----

 

 奇妙なことに、人間は---素朴な眼と、それにかかわる認識はソクラテス以来、もっとも古い探求の課題だったと映っているのであるが----おそらくは、物の秩序のなかのあるひとつの裂け目、ともかくも、物の秩序が知のなかで最近とった新しい配置によって描きだされた、ひとつの布置以外の何ものでもない。新しい人間主義(ユマニスム)のすべての幻想も、人間に関する、なかば実証的でなかば哲学的な一般的反省と見なされる、「人間学」のあらゆる安易さも、そこから生まれてきている。それにしても、人間は最近の発明にかかわるものであり、二世紀とたっていない一形象、われわれの知のたんなる折り目にすぎず、知がさらに新しい形態を見いだしさえすれば、早晩消えさるものだと考えることは、何とふかい慰めであり力づけであろうか。

 

 ----そのような「慰めと力づけ」を必要とする領土の戦犯のように憎んだ。

2008.5.1

 

*

 

 京都へ巡察の帰途、バスを駅手前で降りて、御影堂大修理中東本願寺を覗く。東本願寺の出版物を置いている休憩所で河田光男「親鸞と被差別民衆」(東本願寺出版部)という小冊子を購入する。静寂な阿弥陀堂で一心に祈っている老婆を白人青年がじっと見ている。門前の「ハト豆」売りのじいさんが膝に乗せたざる籠の豆を子袋に掬う姿勢のまままどろんでいる。

 夜、事務所の新人歓迎会で橿原の居酒屋。早めに行って八木駅前の小さな古本屋を覗いていると、同僚のNさんが「やっぱりここにいたか」と入ってくる。吉本隆明「最後の親鸞」(春秋社)を見つけ購入する。歓迎会が終わって、なかば酔いでゆらいだ最終電車の中で読み始める。

 

 <わたし>たちが宗教を信じないのは、宗教的なもののなかに、相対的な存在にすぎないじぶんに眼をつぶったまま絶対へ跳び超してゆく自己欺瞞をみてしまうからである。<わたし>は<わたし>が欺瞞に跪くにちがいない瞬間の<痛み>に身をゆだねることを拒否する。すると<わたし>には、あらゆる宗教的なものを拒否することしかのこされていない。そこで二つの疑義に直面する。ひとつは、世界をただ相対的なものに見立て、<わたし>はその内側にどこまでもとどまるのかということである。もうひとつは、すべての宗教的なものがもつ二重性、共同的なものと個的なものとの二重性を、<わたし>はどう拒否するのかということである。たしかに、<わたし>は相対的な世界にとどまりたい。その世界は、自由ではないかもしれないが、観念の恣意性だけは保証してくれる。飢えるかもしれないし、困窮するかもしれない。だが、それとても日常の時間が流れゆくにつれて、さほどの<痛み>もなく流れてゆく世界である。けれど相対的な世界にとどまりたいという願望は、<わたし>の意志のとどかない遠くの方から事物が殺到してきたときは、為すすべもなく懸崖に追いつめられる。そして、ときとして絶対感情のようなものを求めないではいられなくなる。そのとき、<わたし>は宗教的なものを欲するだろうか。または理念を欲するだろうか。死を欲するだろうか。そしてやはり自己欺瞞にさらされるだろうか。たぶん、<わたし>はこれらのすべてを欲し、しかも自己欺瞞にさらされない世界を求めようとするだろう。そんな世界は、ありうるのか?

吉本隆明「最後の親鸞」(春秋社)

 

2008.5.2

 

*

 

 土曜日。五月連休の初日。一日だけの休日。十字架を飾る。午後から子と二上山の雌岳に登る。ズボンを土まみれにして岩場の裏道を登る。鹿谷寺跡。山吹とツツジ。家から持ってきた団子虫を手放す。四方から風の通り抜ける山頂でアゲハチョウを捕まえる。サヌカイトを並べて石屋さんごっこをする。まるでお伽噺のように。古代の石切場。「イノチをもらったよう」な山の水。だれにも邪魔されない。嫌な予感のかけらもない。山を登る。きみと夕闇に沈んで行く山道を下る。そう、Keep It Simple。きみと二人で木々や風や土の匂いに包まれて歩く。これ以上を求めない。これで完璧。ずっと昔からこれ以上を求めたことなどなかった。

2008.5.4

 

*

 

 猿沢池の北東にある幅の広い石段を登って春日大社の鳥居方向(東)へしばらくすすむと、右手の土塀沿いに「傳説三作石子詰之跡」と墨書された木標が立っているのに人は余り気づかない。ここは興福寺の菩提院大御堂で、現在は興福寺の管長の住居として使われているという。門前の説明板に次のような解説がある。

 

 本院はふつう、奈良時代の高僧玄ム僧正(?〜746)の創建と伝えられるが、実際はむしろ、玄ムの菩提を弔う一院として造営されたものであろう。本尊は阿弥陀如来坐像(鎌倉時代、重要文化財)で、別に児観音立像が安置される。
 鐘楼に掛かる梵鐘は永享八年(1436)の鋳造で、かつて昼夜十二時(一時は今の二時間)に加えて、早朝勤行時(明けの七ッと六ッの間)にも打鐘されたところから、当院は「十三鐘」の通称でも親しまれている。
 なお、大御堂前庭には、春日神鹿をあやまって殺傷した少年三作を石子詰の刑に処したと伝承される塚がある。元禄時代、近松門左衛門がこの伝説に取材して浄瑠璃「十三鐘」を草したことは有名である。

法相宗大本山 興福寺

 あくまで「伝承」であり、「伝説」である。ではこの「伝承」であり、「伝説」である少年三作の物語とは、どのような話であるのか。Webで拾った「奈良大和路の昔話」から引く。

 

五代将軍 徳川綱吉の時代のお話です
犬公方といわれた綱吉のころは、
人より犬の方が大切にされたといいますが 奈良でも
鹿は神鹿として 人より大切にされていた時代がありました

三条通りの南がわ 興福寺の中に俗に十三鐘といわれる
菩提院大御堂があります
むかし このお堂の横に寺子屋があって、お寺の和尚さんが
二・三十人の子供達に読み書きを教えていました
その子供達のなかに「三作」という子がいました

ある日「三作」が習字をしていると,一頭の鹿がやってきて
廊下に置いてあった草子をくわえていこうとしました
「三作」は「コラッ」と叫んで文鎮を投げつけましたが
打ち所が悪かったのか 鹿はその場に倒れて死んでしまいました

奈良の鹿は春日大社の神の使いとされていますので、当時は
[鹿を殺せば石子詰め]といい、死んだ鹿と一緒に
生き埋めにされることになっていました

幼い三作もこの罪は逃れられず、大御堂の前の東側の庭に
大きな穴が掘られ 鹿と一緒に埋められてしまいました
三作の母親は大変に嘆き悲しみましたが、どうすることも
できませんでした

そのご 母親はそこに供養のもみじを植えました。

 地域情報サイト「CityMagazineマイ奈良」で「奈良の昔話を連載している増尾正子氏は「猿沢池と興福寺の伝説」の中でこの菩提院大御堂について「現在は興福寺の管長様のお住居になっているので、勝手に出入りすることはできないが、以前は団体客を案内するガイドや人力車が必ず入って説明した、奈良名所の一つであった。というのは、この庭内に「三作石子詰め」の跡といわれるものがあったからである」と紹介しながら、最後に「でも、お寺でそんな残酷なことを見過ごしにされるはずはないから、これは戒めのための寓話だと思う」と記している。

http://www.mynara.co.jp/1DPic/d1-17.html

 

 また「三作石子詰め」の話は、わたしは確認していないが、「大御堂境内の説明文」として別のバージョンを紹介しているサイトもあったので、こちらも引いておく。

 

 ある日、興福寺の小僧さん達が大勢この堂で習字の勉強をしていた処、一匹の鹿が庭へ入り、小僧さん達の書いた紙をくわえたところ、その小僧の一人三作が習字中に使用していたけさん、(文鎮)を鹿に向かって投げました。ところが、この一投の文鎮は鹿の急所に命中し、鹿はその場にて倒死しました。当時、春日大社の鹿は神鹿とされ、「鹿を殺した者には、石詰の刑に処す」との掟があった為、鹿を殺した三作小僧は、子供と云えども許されることなく、三作小僧の年、13歳にちなんだ一丈三尺の井戸を掘り、三作と死んだ鹿を抱かせて、井戸のうちに入れ、石と瓦で生き埋めになりました。三作は早くに父親に死別し、母一人子一人のあいだがら、この日より母「おみよ」さんは、三作の霊をとむらう為、明けの7つ(午前4時)暮れの6つ(午後6時)に鐘をついて供養に努めましたところ、49日目にお墓の上に、観音様がお立ちになられました。その観音様は、現在大御堂内に、稚児観世音として安置されています。子を思う母の一念、せめて私が生きている間は、線香の一本も供えることが出来るが、私がこの世を去れば三作は鹿殺しの罪人として誰一人香華を供えて下さる方はないと思い、おみよさんは紅葉の木を植えました。当世いづこの地へいっても鹿に紅葉の絵がありますのも、石子詰の悲しくも美しい親子愛が、この地より発せられたものであります。又奈良の早起きは昔から有名で、自分の家の所で鹿が死んでおれば、前述のようなことになるので競争したといわれています。今でも早起きの習慣が残っています。同境内地の石亀がありますのは、三作の生前は余りにも短命で可愛そうであった。次に生まれる時には、亀のように長生きできるように、との願いにより、その上に五重の供養搭を建てられたものであります。南側の大木はいちょうとけやきの未生ですが、母親が三作を抱きかかえている様であるといわれています。何時の世にも、親の思う心は一つ、こうして三作石子詰の話が、今もこのお寺に伝わっているのです。

http://www.eonet.ne.jp/~ttmmatsu/sannsakutuka.htm

 

 近松門左衛門が取材したという浄瑠璃「十三鐘」は、この三作の母親が子の霊を弔うためについた鐘の話より取られている。おそらくそれを元にしているのだろう地唄「十三鐘」の歌詞をあるサイトにて見つけたので、参考までこれも引いておこう。

 

昨日は今日の一昔、憂き物語と奈良の里、この世を早く猿沢の、(合)水の泡とや消え果ててゆく、後に残りしその親の身は、逆様なりし手向山、紅葉踏み分け小牡鹿の 帰ろ鳴けど帰らぬは 死出の山路に迷ひ子の、敵は鹿の巻筆にヨ、せめて回向を受けよかし。
サェ頃は、弥生の末っ方、よしなき鹿を過ちて、所の法に行はれヨ、蕾を散らす仇嵐。
サェ野辺の、草葉に置く白露の、もろき命ぞはかなけれ、(合)父は身も世もあられうものか。せめて我が子の菩提のためと、子ゆゑの闇にかき曇る、(合)心は真如の撞鐘を、一つ撞いては、独り涙の雨やさめ、二つ撞いては、再び我が子を、三っ見たやと、四っ夜毎に、泣き明かす、 (合)五っ命を、代へてやりたや、六っ報いは、何の鋲めぞ、七っ涙に・八つ九つ、心も乱れ、 (合)問ふも語るも、恋し懐し、我が子の年は、十一十二十三鐘の、鐘の響きを聞く人毎に、可愛い、可愛い、可愛いと共泣きに、泣くは冥土の鳥かえ。

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 前述した「奈良の昔話」の著者:増尾正子氏は「でも、お寺でそんな残酷なことを見過ごしにされるはずはないから、これは戒めのための寓話だと思う」と記している。冒頭に紹介した菩提院大御堂門前の解説板は末尾にて、“これはあくまで「伝説」であり「伝承」であるが・・・”といった軽いニュアンスで流し、むしろ近松作品の紹介に重きを置いている風にも見える。「大御堂境内の説明文」にあっては、強調されるのは「悲しくも美しい子を思う親心」であり、それが鐘や紅葉の木の配置によってこの寺に伝わっている(寺もそれを守り、伝えている)、と紹介される。

 

 だが、歴史を注意深くひも解けば、それらはすべて嘘っぱちであることが判明する。世のならいである。臭いものには蓋をしろ。

 結論を先に言えば、哀れな三作を惨殺したのは興福寺の僧たちである。平安末期から近世にかけて、かれらは大和の国を支配する強大な権力機構であった。わたしが沖浦和光氏と野間宏氏の対談「日本の聖と賎 近代編」(人文書院)で、この「三作石子詰め」の話にリンクするそれらのことを知ったのは偶然のことだ。

 

沖浦 東之阪長吏がいて、中世からずっと興福寺の支配下におかれていたんですね。平安末期から鎌倉期は、大和一国を支配していたのは興福寺でした。司法・行政・警察の権限を一手に握っていた。刑事犯を検察し断罪することを検断といいますが、その検断権の行使にあたって、東之阪の長吏や北山宿の非人などが動員された。

野間 興福寺は「三ヶ大犯」といって、特に寺僧刃傷、神鹿殺害、児童虐待に対する犯罪には、極刑を課したんですね。近世では山内神木盗人も成敗されている。

沖浦 ああ、有名な「大垣廻し」ですね。寺が行う一種の断罪儀式。

野間 あの大垣というのは、刑場の周囲に結い回す竹矢来のことですね。資料を見ると興福寺の公人が糺問して、甲冑に身を固め抜身の鎗と長刀を持った数十人の河原者に犯人を渡して、北山の藪で処刑が執行された。断頭後三日間、奈良の出入口七ヶ所で曝し首にした。見せしめにしてはひどいものですよ。殺生戒を第一の戒律にしているはずの僧職にある者が、こんなことをやるんですから。自分たちは裁判だけして、執行は賎民にやらせる。

沖浦 この「大垣廻し」は、中世から近世に入っても行われ、幕府が設けた奈良奉行所によって、興福寺の検断権が事実上なくなるのは17世紀後半です。

野間 こういう処刑執行も「清目」の仕事とみていたんでしょう。死んだ動物の片付けだけではなく、人間も始末させる。つまり、死牛馬の処理と罪人の処刑がワン・セットにされて、興福寺の支配下にある賎民の役務とされた。それから死んだ神鹿の片付けも東之阪長吏の役儀とされていた。

 

 文永2年(1265年)12月、関白一条実経が春日社参詣のため奈良を訪れることになった。10月上旬にその旨を知らされた興福寺・春日社では一山あげての迎賓準備にとりかかる。その様子を興福寺中綱の賢舜という僧が書き留めていた。『御参宮雑々記』と題されたその記録に「一 八幡伏拝以南路次不浄物等可清目沙汰之由、北山非人ニ下知了」なる記述が見える。「八幡伏拝」とは東大寺八幡社の伏拝堂を指す。記述は「東大寺伏拝堂から南と西に延びる道筋の不浄物の取り片づけを北山非人に命じた」という意味であり、「不浄物」とはゴミのみにあらず動物や人間の遺骸も含む。この「北山非人」が実は、興福寺が執行した刑の“汚れ役”を担わされた被差別賎民の人々であった。

 古来より被差別部落の人々は、いわゆる「かわた役」といわれた清目の役を課せられていた。キヨメとは汚穢・不浄を取り除き“きよめはらう”意である。それらは時代や地域によって差はあるが、主に死牛馬の処理を含む清掃役、下級の警護役、行刑役などであった。死牛馬の処理については旦那場・草場といわれる縄張りがあり、死体を処理する代わりにその皮を剥いで生皮を得る権利が認められていた。奈良:北山の被差別賎民については鹿が死んだ場合、「死鹿処理ののち、皮は興福寺へ納め、肉は東之坂の、四足は「癩」者の取り分と」なった。死牛馬及び鹿の皮は武士にとっても貴重なものであり、よって先の「三作石子詰め」の昔話に語られるような処刑された三作と死んだ鹿を一つ穴に抱き合わせて葬るということは現実には考えられないと言える。

 権利について付け加えれば、北山の被差別賎民たちにはもうひとつ、かれら特有の権益があった。後述する救済施設である北山十八間戸の癩者に対する支配権である。これについて横井清氏は「中世民衆の生活文化」(東京大学出版会)に収められた「中世民衆史における「癩者」と「不具」の問題」の中で、叡尊が和泉国の非人宿長吏に対し「一般の家屋や往来で見かけた癩者を無理やりに宿(夙)に連れ込むな」と念書を書かせている資料を元に、癩者の「その人数(量)と様相(悲惨さ)とが」乞場での喜捨の程度に影響したからではないかとも想像している。実際にそうした「収奪」はあったのであり、癩者から北山の被差別賎民たちへの上米上納があり、また「癩者が亡くなれば「諸式諸道具こゑ灰」まで」かれらの所有となったことが資料に残されている。

 行刑役については以下の資料を引く。「享保17年を最後」とあるように江戸期に入ってもなお吉宗の時代頃まで、「奈良奉行所から廻された罪人が興福寺南大門前で刑の執行を告げられた」とあるように、古来からの興福寺・春日社による「三ヶ大犯」が形ながらも継続していたことを物語っている。

 

 『大垣成敗覚帳』によれば、寛永14年には罪人を奈良奉行所で受け取り、菖蒲池町称名寺での糺問の儀式ののち
鹿太郎なる者が興福寺南大門まで罪人を引き連れ、そこで刑の執行を告げ、その後鹿太郎が罪人を引き連れて三条通
を西にくだり、東向町から北に抜け、鍋屋町から手貝まで引き廻し、佐保川の石橋あたりで「穢多」に渡したという。
 その後「般若寺北山之藪之中」で断頭が行われた。享保17年の際には罪人は佐保川の河原で「穢多」によって断頭
されたが、この際には興福寺は単に南大門で暇の儀式を行っただけのようであり、簡略化されたものになっており、時代はくだるが嘉永3年(1850年)6月の東之坂町甚右衛門の大垣成敗地の借用願いには「往昔享保年間以後ニ於右御成敗御廃止被為在」とあり、享保17年を最後に廃絶されたようである。

 

 また断頭代行によって幾ばくかの手間賃が興福寺から賎民側へ、「晒布料」や「太刀代」といった名目で支払われていた資料を続けて引く。

 

 興福寺大乗院の『通目代記録』には、文安二年(一四四五)九月二十日に罪科ある者を断頭することになり、細工
に「晒布料」として一斗七升が渡されたことが記されている。詳細は不明だが、おそらく罪人の処刑と引きかえに支
給されたものと思われる。

 時代はくだるが、『天文年間抜萃録』天文九年(一五四〇)三月七日条には、興福寺の儀式としての公開刑である
大垣廻しの際、「穢多」が先規のとおり「太刀ノ代米」を求めたことが記されている。先規の太刀代は五〇疋だった
が、「先年一揆」の時に追放され、しばらく「穢多」がいなかった時代があったので「筋目半下」になったためそれ
はできないと公文から返答したことも記されている。「先年一揆」云々については後述するが、「穢多」が直接的な処
刑にかかわっていたことを確かめることができる。また、同書には天文十五年(一五四六)十一月の大垣刑の際にも
太刀代をめぐって「穢多」からの申し出があったことが記されているし、『興福寺衆中集会引付』によれば、天文二
十一年(一五五二)三月には神鹿殺害の罪科で断頭刑に処された者がいたが、「細工物」が断頭を行ったことが記さ
れている。
 犬や馬の管理の役割と罪人の処刑にかかわる刑吏の役割、一見したところ、両者はおよそかけ離れた行為のように
思えるが、命あるものの死生にかかわっていえば、穢を祓って秩序の平穏を守るという点では共通していたというこ
とだろう。

 

 中世における「北山」とは「奈良と京都を結ぶ般若寺越え京都街道の、奈良町を抜け、佐保川石橋を渡ったあたりからはじまる、奈良豆比古神社に至るなだらかな丘陵地全体」を云う。近鉄奈良駅から東大寺へ向かう途中で地下道を潜る交差点があるが、あれから北へ向かうのが「般若寺越え京都街道」である。やがて転害門前を抜け、今在家の交差点で現在の国道369号線は意味ありげに東にカーブを切るが、そこを直進して佐保川の流れをまたぐのが「佐保川石橋」であり、かつてはそこに東大寺東南院が関所を設けていたという記録が残っている。関所とはいわば異界との境である。

 道をしばらく進むと右手に、鎌倉時代の僧・忍性が建立したと伝わる癩者の救済施設である北山十八間戸が残る。北山の非人部落はもともとこの癩者の救済施設に始まり、その周囲に癩者を管理や世話を任された非人たちが周辺に居住するという形で成り立ったのではないかという説がある。北山十八間戸からほど近い北西には現在、奈良少年鑑別所がある。それらを越えて北へすすむとやがて般若寺である。花の寺として有名なこの古刹も鎌倉時代は西大寺の僧・叡尊によって貧者・病者救済などの社会事業が行われた拠点であった。そして道をさらに北へ進めば奈良豆比古神社へ辿り着く。毎年10月8日に演じられるこの社の翁舞は能楽の最古の姿を伝えるとも云われ、一説には世阿弥が用いた面も伝わるともいう。だとすればこの一帯には非人部落と接して、賎視されていた芸能者の集団も居住していたのではないかとも推測される。

 ここで貴重な資料を紹介したい。奈良県立同和問題関係史料センターのホームページが公開している 「奈良の被差別民衆史」なる書物で、321頁のすべてをPDF版で閲覧が出来る。この文章の北山宿に関するくだりは多くをこの資料に拠っているし、もちろんそれ以上の価値があるので、興味がある方にはぜひ一読をお勧めしたい。当時の宿の実情・支配体制・様々な記録文書等々、詳細はそちらに譲りたい。

 

 したがって、鎌倉時代の北山非人とは、奈良町北方の丘陵地のどこかに集住地を作り、濫僧長吏法師とも称され、
実際の症状はともかく「癩」に罹っていると周辺からみなされ、「朝出夕帰」して奈良市中を物乞いに廻り、一方で
は道路の不浄物の取り片づけや犯罪者捕縛、死体・死鹿の処理など興福寺・春日社の用務をつとめ、あわせて国名を
名乗り、家産としての田畑を持ち、当然家居を構え、それを子孫に相伝する存在だったということになろう。

 

 上述のように鎌倉時代の北山宿非人を大別すれば二つの姿が浮かびあがる。一つは、前世の「悪業」のため現世で
「其病」の苦しみを受けると嘆き、朝な夕なに巷を徘徊してその日の糧を乞い、人々の憐れみを誘う、深刻な病や
「癩」に罹患しているとおぼしき人々である。後世の北山十八間戸のような長棟割の建物に収容されて日々の生活を
送り、伝えるべき家産も家族も持たない弱々しい人々がイメージされよう。もう一つは、『明月記』に「非其病、容
儀優美法師」と注記され、「尋常家々女子」を誘惑して処刑される「濫僧長吏法師」や、田畑を持って百姓として掌
握され、それを家産として子孫に相伝する、国名を名乗った宿住人であり、当然独立した居宅や家族までも持った人
々である。

 後者からは前者の弱々しい非人の姿を想起することはできない。寛元二年(1244年)の京都清水坂非人と北山宿
(奈良坂宿)との争論文書に現れる、畿内全域に血縁・師弟関係を核としたネットワークを張り、国域を越えて争闘
し、興福寺・清水寺や京都市中を震撼させ、ついには後鳥羽上皇に仲裁の労を取らせるほどの力を持つ国名を名乗る
宿住民たちが、朝な夕なに巷を徘徊し、生活の糧を入手することに苦しむ非人たちと同じ集団に属したとはとうてい
考えられないためである。もちろん、前者の姿から後者を導くこともまたできない。

 つまり、北山宿は、時期の特定はできないものの、「癩」に罹患した人々を受け入れる施設として出発し、その管
理や世話を委ねられた非「癩」者がその周辺に居住するという、居住地と構成員の両方にわたる二重構造を持って存
在していたと解釈する以外にないのである。もちろん、身分的な問題にかかわっての整序や、「癩」者の周辺に居住
することにより結果的に奈良町の人々が抱くことになったであろう観念は別のことになるが、取りあえずは無理のな
い理解になろう。

 

 当時の興福寺・春日社にとって神の使いたる鹿は、いわばかれらの宗教的イデオロギーを維持するためのひとつの重要な装置であった。鹿を殺傷することは即ちそのイデオロギーへの侵犯であった。興福寺の僧侶たちは自らの権力を維持するためにかれらの取り決めた法を犯した者を罪人として捕らえ、判決を下した後、刑の実際の執行を北山の被差別賎民に押し付けたのである。おそらく現在の少年鑑別所あたりの藪の中で切られた首は三日間さらしものにされた。北山の被差別賎民たちに対する差別はさらに厳しくなっただろう。なんという巧妙な仕組み。

 「三作石子詰め」の話には、じつはこのような歴史が潜んでいる。「お寺でそんな残酷なことを見過ごしにされるはずはないから、これは戒めのための寓話だと思う」などとは笑止千万なのだ。興福寺はこれらの過去の歴史については一切語っていない。いかにも「自分たちは悠久の昔から釈尊の愛と平和の教えを広めてきました」みたいな平然な顔をして澄ましている。語るべきではないか、とわたしは思うのだが、いまの堕落し果てた坊主どもには無理だろうな。近松もそのことは見抜いていたろう。だからかれが書いたという浄瑠璃は見たことはないが、きっとどす黒い底辺の人々のルサンチマンが流れているに違いない。

 

 附言だが最近、京都の六波羅蜜寺に有名な空也立像を見てきた。鹿の皮をまとい、鹿の角のついた杖を片手に、前かがみで口から6体の阿弥陀仏の小像を吐き出している姿はまさに異形そのものであった。鹿の皮と角を身にまとったその姿にわたしは、生涯語ることなかったというかれの秘密の出自を邪推したりするのだが、この六波羅蜜寺で見つけた「阿弥陀聖・空也 念仏を始めた平安僧」(石井義長・講談社)の中に、「三作石子詰め」の舞台である興福寺の菩提院大御堂が出てきたので驚いた。この菩提院の東側にかつて、空也が一時住んでいた浄名院という建物があり、そこに空也が掘った阿弥陀井なる井戸が残っていたというのである。さらに著者は平安末期頃、一帯が別所と呼ばれていた記録から、そこに空也の伝承を受け継いでいた念仏聖たちが自然発生的に集まり居住していた可能性も示唆している。わたしはひそかに、「三作石子詰め」の話を伝えたのはかれらのような市井の念仏聖たちではなかったかとも空想してみるのだ。

 

 冒頭の「三作石子詰め」の話を、もし史実に照らし合わせて、またそこにわたしの拙い想像を織り交ぜて物語るとしたら、たとえばこのような形になるだろうか。

 

 ある日、興福寺の小僧さん達が大勢この堂で習字の勉強をしていた処、一匹の鹿が庭へ入り、小僧さん達の書いた紙をくわえたところ、その小僧の一人三作が習字中に使用していたけさん、(文鎮)を鹿に向かって投げました。ところが、この一投の文鎮は運悪く鹿の急所に命中し、鹿はその場にて倒死しました。当時、春日大社の鹿は神鹿とされ、「鹿を殺した者は断頭の上、曝し首の刑に処す」とのひどい掟が興福寺・春日大社によって定められていた為、鹿を殺した若干13歳の三作小僧は、その場で興福寺の役人たちに捕らえられ、検断ののち、興福寺南大門前で刑の執行を告げられました。三作は早くに父親に死別し、母一人子一人のあいだがらでした。人づてに事を聞いて駆けつけた母「おみよ」さんは半狂乱となって哀れなわが子のもとへ駆け寄ろうとしましたが、警護役の非人たちに押さえつけられてしまいした。「おみよ」さんの獣のような咆哮は遠く西大寺まで聞こえたといいます。その後、三作は興福寺の土塀に沿って引き回された末、佐保川石橋で北山宿の非人たちの手に渡され、「般若寺北山之藪之中」で人知れず首を撥ねられたのです。変わり果てた三作の首はそのあと三日間、見せしめのために石橋のたもとでさらされました。行き交う人々は誰もがその無惨で哀れな三作の姿に涙し怒りししましたが、誰も興福寺の強大な権力に刃向かう力はなかったのです。その後、三作の首は一人の心ある旅の乞食僧によってひそかに運ばれ、当時彼らのような遊行の念仏者が集い居住していた猿沢池の東側にある浄名院の境内のはしにこっそりと葬られました。それからというものの母の「おみよ」さんは三作の霊をとむらう為、毎日明けの7つ(午前4時)暮れの6つ(午後6時)にこの、かつて三作が元気で勉強に励んでいた菩提院大御堂の鐘をついて供養に努めました。鐘の音が聞こえるたびに人々は、哀れな三作の御霊がいつかきっと興福寺の非道な坊主たちを地獄の炎で焼き尽くすことだろうと噂したと伝えられています。

 

 

奈良県立同和問題関係史料センター>刊行物 http://www.pref.nara.jp/jinkenk/siryou/siryoucenter3.htm

深層歴史・奈良の鹿と人 http://tokyo.cool.ne.jp/nara_hakken/narakouen/sinsounaranosika.htm

2008.5.15 (5.17加筆修正)

 

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 半年に一度の整形外科:H先生の診察とレントゲン。時折起こる足の痛み・痒みは成長痛で、精神的なものとのこと。軽量の新しい装具を作成することになり、型取りをする。

 夕刻、帰途の車を般若時方向へ向ける。東之阪町の路地に路駐し、北山十八間戸や夕日地蔵などを見る。Yは「ふつうのところじゃない」と言うが、そばの高台に少年鑑別所の塀がそそり立っている光景はやはり、どこか独特の雰囲気がする。北山十八間戸に隣接する呑み屋から、まだ日も明るいのに嬌声が聞こえる。なにやら西成や新世界に似た匂い。しばし辺りを散策してから奈良豆比古神社へ移動する。樟の巨木があるというので境内の裏手に回って驚いた。住宅地の真ん中に突如として出現した原始の森。そして老賢者のような威厳を持つ樟の巨木。この古社のへその緒を見たような気がした。奈良豆比古神社はじつに面白い。

 子のリクエストでいごっそうのラーメンを食べて帰宅した。

2008.5.22

 

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 ウィンドウズ・マシンが数日前、子が捕まえた蝶をwebで調べようと起動したところ、突然ハードディスクを認識しなくなった。ハードディスクの緑ランプが点灯しないので、ひょっとしたら潰れた可能性もなきにしもあらずなのだが(だとしたら、ここ数ヶ月バックアップを取っていなかったカメラの写真が全て失われたことになるのだが・・)、仕事が立て込んでいてゆっくり直している暇もない。仕方なくかつてのオールド・マック環境で接続をしているわけだが、HP作成のツールなどはすべてウィンドウズに移行した後消去してしまったので、すぐには更新はできないかも知れない。

 いま、永井荷風を読んでみたいと思う。沖浦氏の著作の影響なのだが、能の近代的改作に協力し或いは歌舞伎や浄瑠璃を「野蛮人の芸術」と断じた鴎外や漱石と異なり、浅草の悪所を愛し近代に背を向ける形で孤独な晩年を「屹然と」過ごした荷風の生き様に惹かれる。大逆事件の被告を護送する囚人馬車を偶然目撃したかれは、この史上最大の国家権力によるでっち上げ事件に対してついに声を上げることのなかった己を恥じ、「以来わたしは自分の芸術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引き下げるに如くはないと思した」。そうして続けられる告白はある種の凄みさえ含んだテッテイ的な決意を感じる。

 

 その頃から私は煙草入れをさげ浮世絵を集め三味線をひきはじめた。わたしは江戸時代の戯作者や浮世絵師が浦賀へ黒船が来ようが桜田門で大老が暗殺されようが、こんな事は下民の与り知った事ではない----否とやかく申すのは却って畏れ多い事だと、すまして春本や春画をかいていた其の瞬間の胸中を呆れるよりは寧ろ尊敬しようと思立ったのである。かくて大正二年三月の或日、わたしは山城河岸の路地にいた或女の家で三味線を稽古していた。

(岩波版・永井荷風全集・第14巻「花火」)

 

 この「すまして春本や春画をかいていた其の瞬間の胸中を呆れるよりは寧ろ尊敬しようと思立ったのである」という部分が凄いのである。そして、わたしはその姿勢に惹かれる。

 

 またわたしは風呂の中で開いた森達也の文庫本の頁から、こんな言葉が飛び出して宙を乱舞するのも目撃するのだ。

 

世界は今、僕らの同意のもとにある。

(森達也・世界が完全に思考停止する前に・角川文庫)

 

2008.5.25

 

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 ウィンドウズは結局、マザーボードの電池切れによる設定初期化が原因だったようで、あたらしい電池と交換してBios設定をしなおしたら何とか元の状態に復旧した。グラフィック・ボードやビデオ・キャプチャー・ボード、USB2.0のカードなど、後から組み入れたものも多い自作PCゆえに、それらをいったんぜんぶ取り外したりする面倒な作業が必要だったが、まあ、HDDの破損でなくて良かった。さっそく外付けのHDDに、半年分溜まっていたカメラ画像などをバックアップして、ようやく一安心。PCは壊れるものだということ、ゆえに日ごろのバックアップは大事なのだということを改めて再認識した次第で。

□ AWARD BIOS 画面解説サイト http://www.venus.dti.ne.jp/~ohya/html/bios/awardbios.html 

 

 昨夜のYとのSEXはとてもいい感じだった。いい感じのときとそうでないときがある。そうでないときっていうのは性欲だけが先走って、終わってみたら、どこかちぐはぐな余韻が残っている。SEXっていうのは、まあ今更ながらのことではあるけれど、つまりは会話なんだな。言葉を使わない会話。性欲が電源で、肉体がツールで、それらを使ってひそやかで微妙な交信をするとでもいったらいいか。いい会話ができたときのSEXは、肉体以上のものが残る。逆にいい会話ができなかったときは、肉の満足が果てた気だるさしかない。入れりゃあいいってもんでもないわけだ。だから夜道で見かけたきれいな女性の後をつけていって無理矢理乱暴するっていうの、ああいうのはわたしには「良さ」が分からんねえ。むしろ、電車の中とかでたまたま前の座席に座ったいい感じの女性に「こんな人とちょっと話をしてみたいなあ」と思うのは、たまにある。で、そっちの方がじつはSEXに近いわけなのだよ、ほんとうは。

 

 さて、最近はどんな音楽を聴いているのかな。世の中にまだいい音楽は生き残っているか? このごろは、ディランが2006年からホスト(DJ)を務めているラジオ番組 Theme Time Radio を iPOD にたっぷり詰めて聴くのが流行りだ。古いブルース、カントリー、R&Bからジャズやソウル、ゴスペル、果てはブロンディやモンキーズまで飛び出したりして驚く。それらをディランのトークが延々紹介してくれるのだから、わたしにとってはほぼ極楽浄土の涅槃経に近い。これらの音楽おたく的ごった煮音源は、そのまま21世紀の The BasementTapes や、かの Anthology Of Amercan Folk Music に連なる遺産なんだろうな。親鸞の「教行信証」とか折口信夫全集とか、わたし的にはそんな感じ。

 

 

5月22日(木) れんらくちょう

〇本日は病院の帰途、私の発案で、般若寺近くにある江戸期以前のハンセン氏病患者の救済施設・北山十八間戸や、能楽の原型を伝えると云われる奈良豆比古神社とその境内の樟の巨木などを散策したため帰りが遅くなり、宿題をやる時間がなくなりました。どうか愚かな父の名において免除してやって下さい。なお、昨日の宿題に関してはこの限りではありません。

〇連絡ありがとうございます。折角の機会なので、いろいろ経験できてしのちゃんにとってもよかったでしょうね。宿題は様子を見ながらやっていっていただいたらと思います。今日も朝から昨日の分、頑張ってくれました。

 

2008.5.27

 

*

 

 火曜日、午後。自転車で子を迎えに行く。スーパーでかき氷のアイスをひとつ買い、いつもの土手沿いの土饅頭の墓地に立ち寄る。子は入口にならんだ石仏たちの前の木の根っこに腰を下ろしてアイスを食べる。食べ終わってから子としばらく話をする。それから子は雑草に囲まれた土饅頭の間を走り回って蝶を追いかける。

 夕方。ヴァイオリン教室。「さあ、じぶんで話なさい」 背中を押されて子は先生の前に立つ。何度も何度も云いあぐねて、やっと小さな蚊の鳴くような声で「・・やめたいの」と言う。「どうしてかなあ?」 先生がやさしい声で尋ねる。子はだまって立っている。言い出しかけた言葉を飲み込み、言い出しかけた言葉を飲み込み、十数回目に必死の思いでしぼり出したような言葉が出る。「やることがたくさんありすぎて、自由な時間がないの」

 教室の入っている狭い雑居ビルの階段を下りる途中で、ヴァイオリンを背負った子が突然泣き出す。車に乗り込んでからも嗚咽はとまらない。長く、低く、まるで捨てられた犬の遠吠えのような慟哭がいつまでいつまでも車内に響いている。子の背中をさすりながらYもいつしか泣いている。

 しばらく車を走らせてから、平城宮跡の近くに車を止める。ライトアップされた朱雀門と緑が夜目に美しい。子はもう泣いていない。まるで憑き物が落ちたように、すっきりとした顔で黙って綿毛のタンポポを摘んでいる。そしてひとつ大人に近づいたような顔をしている。

2008.5.28

 

*

 

 森達也が「主語のない述語は暴走する」と書いている。たとえば北朝鮮について。たとえば凶悪犯罪の加害者やその家族について。たとえばイラクで人質になった「無責任な」人々について。たとえばユダヤ人について。「本当の憎悪は激しい苦悶を伴う。でも一人称単数の主語を喪った憎悪は、実のところ心地よい」 その心地よさにメディアが便乗する。「主語のない述語」はいつしか声高に、不思議な高揚感とともに、私やオレがわれわれや「地域や社会、そして国家など、自らが帰属する共同体」に取って代わり、憎悪の大合唱となる。そいつを縛り上げろ、吊るし上げろ、さらし首にしろ。

 また森達也は別の文章で、公衆トイレの手洗いにおける「思考停止」について書いている。かれは「オートで水が出る仕組みなら洗う。でもそうじゃなければ洗わない」という。なぜなら「どこの誰とも知れない大勢の人が、それぞれのオチンチンを触った直後の指先で触れた蛇口に、わざわざ」触るということは、「自分のオチンチンは他人のそれより汚いという前提が必要」になるからだ。

 それを読んでぼくは今日、ささやかな「主語」を取り戻そうと、JR京橋駅のトイレから手を洗わずに出てきた。

 

□ 森達也公式ウェブサイト http://www.jdox.com/mori_t/

2008.5.29

 

*

 

 クライアント主催の研修会なるものに出席してきた。いつものお偉いさん方との名刺交換。わたしもいつの間にかいっぱしの社会人になれたわけだ。満員電車の中で森達也の文庫本をめくり、ガース・ハドソンの弾く魔法のような The Genetic Method を聴きながら駅からの夜道を自転車に乗って帰ってきた。一日休んで、雑踏警備資格の事前講習が二日間、それに四国への出張と続く。子が愉しみに待ちわびている新しい本棚はまだなかなか作り始められそうにないな。講習の受講証を職場に置き忘れていたのを思い出して、夕食後に車で取りに行く。家族の寝静まったあとで一人風呂に入って、湯船の中で沖浦氏と野間宏の対談「日本の聖と賎・近代篇」を読了する。これで「日本の聖と賎」の中世篇・近世篇・近代篇、そして「アジアの聖と賎」の四部作をすべて読み終わった。この四部作と沖浦氏の「日本民衆文化の原郷」がわたしにもたらしてくれたものは計り知れない。このような著作を残してくれた二人に感謝したい。まさにわたしにあたらしい目と心根を授けてくれた出会いだった。お陰でわたしの本棚にはここ一年ほどでまたたく間に、沖浦氏の著書がもう20冊近くも並んだ。Yに話をするとき、わたしがいつも「沖浦先生」と呼ぶので、「“先生”なのね」と彼女は笑う。わたしにとってはすでに親しい“先生”のような存在であり、著作を通じたわたしは出来の悪い“生徒”であるとひそかに思っている。二上山の向こう側に住んでいるまだ見ぬ恩師をときおり懐かしむ。わたしに継げるものは何であろうか。

2008.5.30

 

 

 

 

 

 

 

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