■日々是ゴム消し Log47 もどる

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 深夜。だれもいない暗い部屋の床によこたわり、イヤホンでブルーハーツの「ロクデナシ」を聞く。死んでいた感覚がよみがえってくる。ブルーハーツの歌はまがいものに対する恨み節だ。まがいものを恨むことは、まっとうなものを取りもどすはじまりだ。

 

通りを歩いたら陰口たたかれて
本屋に立ち寄ったらじろじろ眺められ
バイトの面接じゃ冷たくあしらわれ
不動産屋に行けばおやじがこう言った

ギター弾きに貸す部屋はねえ
ギター弾きに貸す部屋はねえ
ギター弾きに貸す部屋はねえ
ギター弾きに貸す部屋はねえ

ぼくの着てる服が気に入らないんだろ?
ぼくのやりたいことが気に入らないんだろ?
ぼくのしゃべり方が気に入らないんだろ?
ほんとはぼくのことがうらやましいんだろ?

ロクデナシに貸す部屋はねえ
ロクデナシに貸す部屋はねえ
ロクデナシに貸す部屋はねえ
ロクデナシに貸す部屋はねえ

ザ・ブルーハーツ「ロクデナシ」

 

2006.6.4

 

*

 

 土曜。夜勤明けにバイク屋へ寄ってブレーキ・パッドやプラグを交換してもらう。ブレーキ・パッドは摩耗してほとんど存在しなかったような有様。しめて5千円ほど。加えてフロント・フォークの蛇腹様カバーの一部が破れて交換が必要とのこと。こちらは前輪を外さなきゃならんので工賃が高く1万2千円かかるとの由。強力テープでも貼って一時しのぎできないものかと思案する。後日に車検代わりの1年点検をオイル交換も含めてやってもらう予定。なんにせよ、モノを持っていると金がかかる。そこそこのマウンテン・バイク(自転車)が買えるんじゃないか。

 夜。夕食後に、あたらしい便箋と封筒を買いたいという子を乗せて近くの百均ショップへいく。駐車場で車椅子を降ろして子を乗せる。一時的なこととはいえ(そうでない可能性もあるが)、わが子が日常の場で車椅子に乗っているのを見るのは何とも奇妙な感覚だ。百均ショップの棚にかこまれたせまい通路は、車椅子一台でいっぱいいっぱいだ。以前の入院のときにも病院で使っていたから操縦はもう手慣れたものだ。車輪をころがして上手に角も曲がり、ふつうの顔をして便箋をさがしている。それが不思議な感じがする。そんな子の態度に安心しているような心持ちがあり、同時にまたこの世のあわいにふたりで佇んでいるような、うまく言えないがそんな感じがするのだ。「こんどの手術はどのへんまで切るのかな。なるべく傷が残らないといいなあ。背中はじぶんじゃ見えないけど、足はしょっちゅう見えるからな」 風呂上がり、膝の上に乗ってきた子の足をさすりながら言う。「こんなにすべすべしたきれいな足なのになあ」 Yがこたえて言う。「そうね。将来ミス・コンテストに出るんだからきれいにやってくださいって先生に言わなきゃね」

 Yはいま幼稚園のバザーの役員をやっている。そうでなくても忙しいのに、子の障害のことで幼稚園には世話になっているからと年少組のときから率先して参加している。子が年長組になったことしも、本来は一度役を務めた者は外れてなるべく皆が平等に受け持つようになっているのだが、やる気のない母親はなんだかんだと言い逃れをして回避しようとする。「もうわたし、やるわ」 見かねてYはことしも役員を買って出たのだった。先日、バザーの出し物について夫婦で話をした。詳細はメンドーなので省くが、わたしの意見は、要は「なんで幼稚園のバザーでミスタードーナッツを売らなきゃならないの。インターネットで見たら韓国の手巻きやベトナムのサンドイッチなんかを毎年じぶんたちでつくって出してるお母さんたちもいるぜ。当日の朝にじゃこ飯を炊いて子どもたちにも手伝わせて販売してる幼稚園だってあるぜ。多少手間がかかったって、収益が少なかったって、それはそれで別の「収益」なんじゃないの。手間がかかるって言うんならバザーなんかいっそやめちまえ。収益・収益というなら株でもやれ」 これは役員会で園長先生が「収益の足りない分は園で何とかしますから、ことしはもっと幼稚園らしいバザーをやりましょう」といろいろ意見を言っている最中に、「まだあるの」とある母親がうんざりした顔でつぶやいたという話を聞いたときのことだ。つまりみな「従来通り」を変えるのが嫌で、メンドーなのも嫌で、さっさと事を決めて終わらせたい、という輩ばかりなのである。昨日の夜、ワープロの書式設定を教えて欲しいとYが言ってきた。彼女はいま孤立しているのである。母親として安全な子どもの「食」について考えるバザーをやりたい。その一環で「豆パン屋さん」の無添加のパンを協力してもらって出したい。イラクの戦争で傷ついた子どもたちやフィリピンのゴミの山で働く子どもたちのことを紹介する展示もやりたい。近在の農家の人たちに規格外の農産物を寄付してもらって、それを幼稚園で子どもたちがやっている「お店屋さんごっこ」の延長で子どもたち自身に販売させたい。そうしたYの提案はことごとく黙殺されるか冷笑されるかしたらしい。「でもね、ことしはわたしが取りまとめ結果を報告する役なの。だからもう決まったって発表しちゃうの」 いたずっら子のようにそう言って笑う。わたしの知っている(と思っていた)Yはそういう人間ではなかった。それがいまや、さすらいのビリー・ザ・キッドのようだ。驚きでもあり、何やら愉快でもある。「おい、こんどのお母さんはちょっと違うな」わたしがそう言うと、わたしの膝の上で指をしゃぶっていた子はにやりと笑うのだった。

 今日は休日。朝からひさしぶりに木工。ベランダでルーターの大音響を響かせる。子の本棚の上の部分のスケッチがぼんやりながら定まってきた。

 Aからのメールでスコセッジが監督したディランのドキュメンタリー「No Direction Home」の国内版DVD発売を知り、さっそくアマゾンで予約をした。

 

 

バザーについて   6月5日 ○○会定例

 

 今年度のバザーにつきまして、現在の社会事情考慮の上、園内バザーと致しました。
 在園児、新入園児、卒園児のみということで、例年のような混雑はある程度緩和されるのではないかと推測されます。

  内容につきましては、年少のゲームは4種とし、スーパーボールすくい、コリント、ポケモンシュート、サイコロゲームを行います。
 年中は例年通り、一世帯に付き、日用品1点、手作り品2点以上ということで出展して頂くよう決定致しました。
 年長は、おにぎり、ミスタードーナツ、フランクフルト、パン、スープ、お菓子レイ、飲み物、例年通りのコーヒー、紅茶、クッキーの販売となります。

 4月の○○会総会後の○○病院の先生の講演はまだ日も浅く、皆さん記憶に新しいことと思いますが、添加物の怖さについてお聞き致しました。

 やはり幼い子どもたちの口に直接はいるものですから安全なものであること、私たちは企業ではなく、親の代表であること、なおかつ提供の場が幼稚園という教育施設であるということ、以上の点をふまえ、パンは無添加、無着色、保存料不使用で、豆を主体にし、国産の材料のみで手作りされている○○駅近くの「豆パン屋、アポロ」さんのパンを30個限定販売することに致しました。最近はよく、雑誌などでも取り上げられているようですのでご存知の方も多いかと思います。またスープはインスタントではございますが生協のものを購入する予定になっております。

 無添加=手作り 面倒だわとお思いのお母様もいらしゃるかも知れませんが、そうじゃない、市販のものでもこういうものがありますよというようなお知らせが出来ればいいなと思っております。
 現金としての収益には繋がらないかも知れませんが、目に見えない収益となることを願っております。

 また園長先生より教育的でもあったらいいというお言葉を頂いておりましたよう、子どもたちにもお手伝いして頂けるよう考えております。
 幼稚園行事のひとつにお店やさんごっこの1日がございますが、それを実現化できれば子どもたちにとりましても喜ばしいことであるでしょうし、またそれにより成長もしてくれることと期待致します。

 バザー縮小、改革ということで、父兄の皆様方もどのように縮小、新たにどのような企画が成されるのかと例年になく感心度が高いことと思います。私たち役員の手腕の問われるところです。が、正直、現時点、縮小はややされたように思います。ただ改革ということにつきましては疑問が残るところです。

以上

年長バザー委員  ○○○○

 

2006.6.5

 

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 深夜。3時に目が覚める。子が直角に頭をわたしに向けて眠っている。Yは隣で大きな鼾をかいている。「長靴下のピッピ」を読み聞かせながら子と寝てしまった。台所へ行き、缶ビールを出して、煙草に火をつける。居間のテーブルに入院手続きのパンフがひろがっている。生協の注文書がひろげられている。美輪明弘の「天声美語」がページをひらいてころがっている。スパティ・フィラムとオリーブがひそやかに葉をもたげている。PCでモリスンの No Guru, No Method, No Teacher を聴く。家中のものが一日を終えて眠っている。わたしだけが起きている。どこかチベットあたりの乾いた山道を牛に生まれ変わって歩いている。

2006.6.5

 

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 木曜、入院。手術は予定通り。麻酔科医師と整形外科H先生の説明。手術の承諾書。当日は8時半、全身麻酔をかけて手術室へ入室し、9時スタート。左足については足底部の筋肉を足指付近で切断、かかと部よりいったん出し、足の上側を通して中指あたりの骨にかける(図A)。またアキレス腱については一部を切断し伸ばす(図B)。右足についてはかかと部の筋肉の中央の筋だけを切り伸ばす(図C)。足底部は完全切断する(図D)。後者はH先生いわく猿の木登り時代の遺物也と。手術は予定3時間。1時間中央監視室で様子を見た後、病室へ。痛み止めの座薬等も用いるので夕食はふつうに食べられるようになるだろうとの由。3日ほど安静にして点滴も付ける。

 

2006.6.7

 

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 手術は無事終了した。昼過ぎには両脚にギブスをはめて病室へもどってきた。当初は思っていたより元気そうで、差し入れの絵本を読んだり、夕方にはお腹が減ったと言うので許可をもらって些少のアイスやパンを口に入れたりしていたが、直後に麻酔が切れ始めたか、左足が痛いと泣き始めた。我慢強い子にはめずらしく、もうこんなのイヤだと腕をベッドに叩きつけ、ギブスを取ってくれと嘆願し、身体を折り曲げ、果てしなく叫び続ける。痛み止めの座薬をしてもらったが効き目が現れず、担当医師に連絡を取っているという看護婦をなかばせっついてもう少し強い痛み止めと鎮静剤の筋肉注射を打ってもらい、夜の9時過ぎにようやく寝入った。今日はいっしょについているというYをひとり残して、義父母を乗せて11時頃にいったん帰ってきた。代われるものなら代わってやりたいが、痛みはわたしには分からない。痛い痛いと泣き叫ぶ子を前にして、何もしてやれぬことが断腸の思いだ。

 

どうかわたしの憤りが正しく量られ
同時にわたしの災いも量りにかけられるように

ヨブ記・第6章2節

2006.6.9

 

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 手術後二日目。子はうたいだした。話しだした。「しのちゃんって大人しい子だと思ってたけど」とまわりから言われた。おしっこの管は濁りだしたので今朝、取ってもらった。点滴はまだつけているが、うまくいけば明日には外してもらえそうだ。熱も下がった。夜おそく、Yは三日ぶりに家に帰った。

2006.6.11

 

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 手術が終わった日の夕方。ロビーでしばらく本を読んでいたわたしが病室へ戻ると子はもう目覚めていて、こちらもひとりベッドで本をひろげていた。「いえずすさまのよみがえり」という昭和36年に出版された子ども向けの教会の絵本で、そのだいぶ色褪せた一冊を彼女は手術前に幼稚園の本棚からみずから選んで借りてきたのだった。「大人でも難しい」とYが笑うイエスの復活の意味を解説したその物語を、点滴のつながれていない片方の手でおさえながら子は熱心に読み耽っている。「よお、起きたのか」 わたしが声をかけても、夢中で本を読んでいるときの常で返事すらしなかった。おかしな子だ。

 天川の渓流沿いでとってきてプランターで挿し木にしていたヤマアジサイの枝から新芽(葉)が出てきた。植物の生命力というのはすごいね。切りとられた枝の一部に根が生え葉が成り、それがまた一本の立派な樹に成長する。ひとの手足や神経も、そんなだったらよかったなあ。

2006.6.12

 

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 火曜。関東からわたしの妹夫婦が見舞いに来る。わたしも休日で、三日ぶりに病室を訪ねる。おなじ病室の小学校3年のMちゃんと二人で折り紙を折ったり、しゃべったり、車椅子や歩行器で散歩をしたり、屋上へ遊びに行ったり。まるで姉妹のようにひどく気が合うのは「二人とも空想好きで、おしゃべり好きで、新しい遊びを自分たちで考え出すところが似ている」からだとYいわく。おかげでわたしは病院で、Yの借りてきた「ダビンチ・コード」上下巻を読了した。もっと中身の濃い内容かと期待していたが案外拍子抜けでした。これならコリン・ウィルソンやフィリップ・K・ディックたちの小説、あるいはめくるめく象徴群に満ちたユングの「結婚の神秘」でも読んだ方がいっそ面白い。映画はとくに見たいとも思わないな。子は歩行器で何度か歩く練習。ギブスの足裏に滑り止めのゴムを貼ってもらったが、丸みがあってかかとも90度ではないのでけっこう難しい。これから戸外を歩くときのためにギブスの上からでも履ける装具用のカバーをいちど試してみたが、子は茶色が気に入らないようなので後日にまた別のモノを試してみる予定。子の隣のベッドは水頭症の8才になるHちゃんで、いまも話すことはできない。唯一お母さんの髪をひっぱるのが聖なる意思表示だ。そんなHちゃんの様子を子はときおりベッド越しにじっと見つめている。Mちゃんはちょっと垂れた大きな目が可愛い賢い子だ。もう明日が退院なので「おじさんの携帯の番号を教えておこうか。手紙もくれよな」と言うと「なんでよ! シノちゃんに書くのよ」とあっさりふられてしまった。三人で夕方の屋上を駆け回った。水曜の今日は幼稚園の先生二人が見舞いに来てくれたそうだ。初日の歩行器が張り切りすぎたか、ふたたび「左足が痛い」と言って今日は一日車椅子だった。まあ、ぼちぼちいくさ。鼻血が多いのが少々気にかかる。火曜の朝、Yが病院へ行くと夜中にひとり目覚めて書いたらしい絵がスケッチブックにあって、それは服のあちこちに十字架をつけた子どもたちが大勢泣いていて、天のイエス様を仰ぎ見ているというものだった。気丈にみえても、さまざまなストレスがたまっているのかも知れないとYと廊下でひっそり話をした。深夜の自宅。主のいない机はひっそりと、どこかものさびしい。

2006.6.14

 

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 Yは毎日、病院通いだ。朝5時頃に起きて、いいと言うのにわたしの弁当をつくり、他にもちょっとした家事をこなし、6時台の電車で病院へ向かう。「朝は看護婦さんも忙しいから。放っておくとあの子はあんまりご飯食べないしねえ」というわけだ。病院でもふだんの導尿や浣腸、歩行訓練やあれこれの検査、装具の合わせ等々があって、一日忙しい。夜は8時過ぎに病室を出て10時頃に帰宅する。それからまた洗濯をしたり、生協の注文をインターネットでしたり、明日の準備をしたり、様々な書類を揃えたり。床に就くのは12時か1時頃か。一方こちらは出勤の日は、シフトによって異なるが日勤の場合、朝の7時に出て夜12時前に帰ってくる。なかなかYをフォローするゆとりもない。

 今日は休日だ。いっしょに病院へ行っていっしょに帰ってきても二人とも休めないので、以前の入院のときにしていた「二交代制」でいくことにした。朝、Yはいつものように6時台の電車に乗る。わたしは午前中は銀行や郵便局、役所等のたまっている事務処理だ。わたしの警備資格の更新手続きに必要な書類申請や、保育料減免申請と課税証明を揃えて幼稚園へもっていくのもある。昼食をすませて午後から病院へ向かう。雨でなければバイクで行こうと思っていたのだが、「バイオリンを持ってきてください」とYの書き置きがあったので今日は車かな。難波宮跡でそろそろ練習が始まるのかも知れない。病院で「引き継ぎ」をして交替。Yは夕方には帰れるだろう。わたしは子が寝る頃まで残る。

 入院の日、いっしょに帰ってきた義母が「いままで子どものいる家をいろいろ見てきたけど、あんたんとこは親子の関係が特に濃い気がする」みたいなことをしんみりと言った。そうなんかな。よその家のことはわたしは知らないけれど、わたしにとっては当たり前のことだ。子はわたしの分身であり、未来であり、友人であり、バトンを手渡す者であり、この世の宝そのものだ。Yはわたしと世界をつなぐ「さいしょの他者」であり、恋人であり、唯一の伴侶であり、子はそんなわたしたちの「かすがい」だ。この間、職場のインフォメーションへ幼い三人の兄妹がやってきた。両親は小遣い銭だけ与えて朝から夕方まで置いていくらしい。同僚のSさんが「お父さんお母さんはどこへいった?」と聞くと小学3年生の長男は「買い物とパチンコ」とだけ答えた。翌日、駐車場を歩いていたSさんはある車の中から声をかけられた。「おい、おまえか。うちの子どもにちょっかいを出したやつは。子どもは泣くのが当たり前じゃ。親のおれが頼んだわけでもないのに放っておけ、ぼけ」 こういう世界は、わたしにはとても信じ難い。パチンコ玉なんぞをころがしているより、子どもと山道を歩く方が百万倍も愉しいのに。最近、以前にも増してとくに死の存在をつよく感じるようになったのは、いまじぶんが幸福だからなのかも知れない、と気がついた。

2006.6.16

 

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 節約のため、行きと同じく帰りも下道で。石切あたりから北上して名阪国道を夜の生駒越え。生駒山というのはいつも、何か感じるものがあるな。どこか荒ぶる、ということは「まつろわぬ」尋常でない一種の霊気のようなものを。かつてある人から生駒の人知れぬ山中に、物部氏の祖神であるニギハヤヒノミコト(饒速日命)の墓があると聞いた。誰が建てたか知れぬが巨大な石柱が屹立しているというのだ。「モノノベ」とは「霊魂部(もののべ)」が原義であるともいう。

いこまかんなびの杜 http://www.geocities.jp/iko_kan2/

2006.6.16 深夜

 

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 「ガソリンを大量に消費し大気を汚すだけの四駆車は都会には無用」と夜ふけに町中の車のタイヤの空気を抜いて回る。「広告が人々の消費意欲をいたずらに刺激している」とキオスクやバス停の広告をはぎ取っていく。リモコンで電気店のテレビを消し歩く。「グローバル化」に反対する農民が建設中のマクドナルドをぶっこわす。一方で子どもが老婆をレイプしたり仄暗い陰惨な事件が頻出する。フランスはいまだ「気狂いピエロ」の国だ。だいぶ前「現代思想」という雑誌で「フランス暴動」の特集(現代思想 2006年2月増刊号 特集 フランス暴動 階級社会の行方)をやっていて買いたいと思ったがそのままだ。「しょせん政治は妥協の世界だから、僕たちは政党とは別の手法を採る」(広告反対レジスタンス活動家) フランスからイラクやアフガニスタンはすぐ隣だ。でも日本からはひどく遠い。

 

 子がもっと小さかった頃、フランスに住むある年上の女性とメールをやりとりしていたことがあった。彼女はデュラスとセリーヌとニルヴァーナが好きだった。煙草をやめていた。フランス人の夫とわかれ、大きな男の子と母子家庭で暮らしていた。彼女はわたしを「愛するコヨーテ」と呼んだ。コヨーテはジョニ・ミッチェルの歌の人物だ。わたしたちは死や悪夢や生きることについて熱心に語り合った。わたしは無論、妻と子を愛していたが、彼女にも心惹かれた。眠れぬ夜に「電話が欲しい」と彼女がフランスのナンバーを送ってきたとき、わたしはついにダイヤルをしなかった。わたしが彼女を求めたとき、彼女は「たぶん私たちは会わないでしょう」と書いて送ってきた。わたしたちの通信はいつしか途絶えた。だが別の道もあったかも知れない。成田から11時間のフライトでパリに着き、シャルルドゴール空港から電話をかけ、RATPのバスがつくオペラのアメックス・オフィスの前に彼女が迎えに来る。それからやがてわたしは彼女と別れ、遠いフランスの地で「ダヴィンチ・コード」に登場する過激な修道僧のようになって「神のために」人を殺めたかも知れない。それもいいかも知れない。彼女は言ったものだ。「アフガンの男たちの顔はどうしてあんなに輝いているのか。そう、身体を張って生きているからだね」

 

 アマゾンから注文していたバイオリンの楽譜が届いた。アメ−ジング・グレイス。夏のはじめての発表会の候補曲にわたしが取り寄せた。できるかどうか先生に相談して、子の意見も聞かなければいけないけれど。

 午後からまた、生駒山を越えて子に会いにゆく。今日はカーステでニルヴァーナを聞く。

 ときどき毒を喰らいたくなる。

2006.6.18

 

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 いつもと違う道を走ったら狭い住宅地をぐねぐねと上り、下りきったあたりで「ニギハヤヒ」の名を見た。天動説の美しい絵本を読んで子を寝かしつけた病院からの帰り道。夜10時の登彌神社。車を停めて鳥居をくぐった。石段の参道は思ったより長く、うっそうとした木々に囲まれた闇は深く、濃密だった。だが怖れを感じなかった。ときに足がすくむような恐怖を闇に感じることがあるが、ここはそうでない。むしろ闇の中にこうしてひとり佇んでいることが自然で、安心していられた。しばらく立ち止まり、無私の触手のような枝々が天空を覆い、ねっとりとからみついている様を見上げた。闇の中をひそかな息をつきながら石段を登っていった。太古に滅んだ巨獣の背骨のような屋根を四本の柱だけが支えている拝殿は、まるでそこが地上で唯一許された風の通い路のようだった。その奥に物言わぬ、石に閉じこめられ封殺された神が祀られている。わたしはそこにいることが心地よかった。目をみはり、耳をすました。感覚がふるいにかけられる感じ。いつまでもそうしていたかった。それから車にもどり、煙草を一本吸ってからエンジンをかけた。ニルヴァーナから換えたディランの「欲望」が Isis を流していた。家に帰って風呂に入り、布団に滑り込んで隣でしずかな寝息をたてている彼女の肌を手の平でそっと撫でた。彼女の奥へ入っていきたいのを我慢した。それから枕元のスタンドを点けてケルアックの「地下街の人々」を読んだ。まるでチャーリー・パーカーがその偉大なるバップで50年代のケルアックたちの魂を、韻律を、自由に解き放ったような感覚だった。暑い夏の日、植物は土に水をやるだけでは葉が灼けてしまう。全身が雨でびしょ濡れになることが必要なのだ。人間もおなじことだ。ぼくらは国道沿いのコーヒー・ショップに座っている。ぼくは皿の上のスクランブル・エッグを穴のあくほど見つめ、指先についた彼女の匂いを嗅いでいる。これからどこへいくのか。そんなことは神のみぞ知る、だ。でぶった晩年のケルアックが預言者めいた憂鬱な顔で宣う。「というのも、死はぼくの窓辺で大きな翼をたたんでいるからだ。ぼくにはそれが見えるし、聞こえるし、匂いがわかる」 そのとおりだ。

2006.6.19

 

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 ちと仕事が立て込んでいる。わずかな眠りを貪りに帰るだけの家。なんてったってバーゲンだ。バーゲンってなんだ? 切り落とされた首のバーゲン(白目を剥いている)。コロッケを包んだあとで捨てられた競馬新聞のバーゲン。電気ショックと性交のバーゲン。真冬に凍りついた心臓の結晶のバーゲン。健康と美容と福祉のための水のバーゲン。純真さを欠いた雲の光のバーゲン。大安売りだ。みんな仕合わせになれる。深夜、家に帰ると2週間ぶりに布団の上に子の寝顔がある。それからボブ・ディランの No Direction Home が届いている。がらくただらけの中でこの二つは真実の魔法だ。同じ日にやってきたことは象徴的だ。闇の中で屈み込んで(聖体受拝のように)頭を撫で頬にそっとキスをする。ジャケットを開いて眺めているだけでもうぞくぞくしている。バーゲンだ。永遠に滅びないもの・錆びつかないものを買え。

2006.6.23

 

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 4日家ですごして、子がまた再入院。月曜は休日で、子の好きな「猫の恩返し」のDVDを借りに行ったり、ほかにも車で買い物をして、退院祝いと安い回転寿司屋で夕食を済ませたその晩、39度の熱が出て、身体のあちこちが痒いと大騒ぎだった。Yは氷枕をつくり、深夜の2時頃に子が寝つくまで身体をさすり続けた。今日は朝から大阪の病院へ連れて行き(泌尿器科の診察があった)、そのまま入院となった。マイコプラズマ菌による軽い肺炎に感染したらしい。入院中の病室にもそれと同じ男の子がいたし、退院後に家に見舞いに来てくれた幼稚園の子も風邪が治ったばかりだった。感染経路は分からない。おそらく術後の免疫が弱くなった身体に感染したのだろう。病院のYからの一報を受けたわたしは当初聞き慣れぬ病名を聞いて何か途方もない疾患を病院でうつされたと思い「ナース室の電話番号を教えろ。俺が直接電話して訊く」といきり立ったが、わりとよくある一般的なウィルスのようだ。およそ一週間の入院が必要、と。Yはそうしたことを見越してすでに入院支度をしていて、今夜は病院で泊まってくるという。点滴をして、昼間は熱も下がり、子は案外元気だそうだとのこと。2週間の手術入院でYの疲労も相当溜まっているに違いなく、はじめは退院日に義父母が合流してそのままわが家にしばらく滞在する予定だったのだが、しばらく家族だけでふつうの日常を送りたいからと自らこれを断っていた。月末には幼稚園でプラネタリウム見学の遠足があって、みなは電車で行くために車で子を送ってやろうと休みを取っていたのだが、これもおじゃんになった。深夜に仕事から帰り、家の中はまたひっそりとなった。この欠損は埋めがたい。換えるに価するものが何もないからだ。わたしは相変わらず徒手空拳だ。布団が敷かれたままの寝室の枕元には絵本が散らばっている。子の目覚まし時計が転がっている。Yの鏡台の上に幼稚園で配布された教会の回報が乗っている。「起きなさい。床をとりあげて、歩きなさい」というイエスの言葉が見える。イエスはそう死者に呼びかけ、死者は蘇った。「死者」とは象徴的な意味合いで、がらくたに埋もれた人間・わたしのことではないか。「私は永遠に敗れることのない軍隊に所属している」 今日読んだ新聞の中で誰かがそんな言葉を引いていた。ロラン・ロマンのジャン・クリストフについて。

2006.6.27

 

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 深夜の路上の夏の匂い。時速80キロで疾走。鏡作神社や唐古遺跡を横目に。このまま天辻峠を越えて、敗れた天誅組の残党のように山襞を駆けていくというのはどうだろう? マギーの農場ではもう働かない。革命を夢見ている。わたしに欠けているのは地霊の力だ。地面から切り離され、溶鉱炉に逆さ吊りにされたワタリガラスのようにもがいている。ワタリガラスは極北の民の守り神だ。行くべき道をしめしてくれる。「カラスはなんで嫌われるのか。カラスは真実を知っているんじゃないか」と言った奴がいた。そいつは風呂場で死んじまった。そう、偉大なヘーゲル信奉者でアナーキストだったわたしの伯父のように。バスタブで夢を見ながら死んでいった。狂おしい銀河の夢を。シャワーを浴び、缶ビールを手に2時過ぎまで、ひとりディランの No Direction Home を見終える。3時間半すべてがディランだ。こんな映画は滅多にない。呼吸ができる。「言葉という武器でぼくは唾を吐く」 Like A Rolling Stone は長い唾の物語だ。

 病院の子は点滴を受け、熱も下がった。食欲も「いつものように少なめ」で順調。血液検査の結果は「(たぶん)マイコプラズマ菌による軽い肺炎」というもの。身体の痒みもだいぶ治まり、二晩付き添ったYは今夜帰宅する。このまま熱が出なければ明日、採血をして退院を検討する、とのこと。個室に隔離されているので退屈なようだ。余計なものは滅多に買い与えないYがねだられて、売店に置いている「磁石のおもちゃ」を子に買ってやった。

 昼の出勤前に洗濯をする。すりきれたYの下着。フリルのついた子の新しいパジャマ。Yシャツ。靴下。タオル。冷蔵庫の残りご飯でトマト缶のリゾットをつくる。昼食と弁当とYの夕食に置いておく。

 医者になる夢を親に託された高校生が自宅に火を放ち継母と妹弟らを焼死させた奈良の事件。大阪の大学生らによる集団リンチ殺人の事件。やりきれない事件ばかりが続く。後者は現代の「浅間山荘事件」じゃないか。かつての思想や運動などといった上っ面はとっくに消え失せて、スポーツ・ドリンクのペットボトルの中で連鎖する苛立ちと暴力とエゴと欲望だけだ。かれらもまた地霊から切り離されている。この国の空のどこにも、聖なるワタリガラスは見つけられない。

 寮さんから宅配便が届く。子にアフリカの民芸品。まっくろな人形が色とりどりの聖衣をまとっている。

2006.6.29

 

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 晴れて退院。プラネタリウムは行けなかったが。前の晩、子は母を帰らせた。感染防止のために入れられた個室で、どうやら夜更けまで起きて自由に本を読んだり絵を描いたりを目論んだらしい。入院の最中、病院の子どもたちで七夕の短冊を飾った。子が書いた願い事はふたつ。「イエズスさまがよみがえりますように」「ほんがたくさんよめますように」 病院で義父母と合流し、図書館に寄って、食事をして、買い物をして帰ってきた。(わたしは図書館で「古代物部氏と「先代旧事本紀」の謎」という本を借りてきた) 寮さんに頂いたアフリカの人形。解説は寮さんの掲示板( 「肌色」ってどんな色? )に詳しいが、「アフリカの女性たちが、自立のために制作しているお人形。肌はチョコレート色、髪はその部族のスタイルで結い、原色の服も、部族のものです。アフリカ女性の自立を支援する日本のNPOが輸入したもの」だそうだ。人形のタグにそれぞれ製作した女性の名が手書きで記されている。その女性たちの名をとって子は人形に「コニー・マーサ」と「マリア・グレース」という名前をつけた。

2006.6.30

 

*

 

 古代、奈良盆地の中央には広大な湖がひろがっていたという。日本最古といわれる神社を擁する三輪山にはかつて、それらの内海を見下ろす神殿があったと言う者もいる。当時の地形を示した想像図を見ると、わたしは毎日、古代のその湖の底を走っていることになる。

 大和三山から北上し、やがて大規模な弥生集落のあった田原本あたりから、わたしは湖底へ潜行する。鉄と富と権力をもった一族がいまやこの国を支配し、かつて石と太陽の文明を謳歌していた同朋たちは土蜘蛛や目光といった蔑称で呼ばれいまでは見る影もない。わたしは干上がりかけた汚泥のような湖底に潜伏する。山椒魚のようにひとり擬っと息をひそめ、暗く饐えた水底で叛乱の機を窺っている。

2006.7.3

 

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 朝、7時。快晴。路上の無惨な死骸。裂けた赤い(やけに生々しい)肉と寸断された骨。放り出された一個の冷徹で厳粛な死がそこに存る。(ディランが Ballad of a Thin Man を歌っている。母音を引きずる例のアクセントで叫ぶ 「どうです、ジョーンズさん?」) そんなもんだ。死んだらおれもあいつとおなじだ。アスファルトの上の、乾いた、死。ずたずたにされ、哀れみの微塵もない。さばさばしたもんだ。屁のように産まれて、ある日、叩きのめされる。植物や昆虫や鳥たちが生命を謳歌している夏の日に。どす黒い絵の具のような血と、濃い縁取りの影のはざまに。のっぺらぼうの、単純な、棒きれや野菜屑のような死が存る。それでおまえはどうする。おれは軽くハンドルを切りながら、横目でそいつを眺め、通りすぎ、しずかに冷笑する。(それはいまだ生ある者の特権だ) 葛城金剛山と二上山の麗しく青い稜線が朝の光に佇んでいる。おれは惨めな犬猫の死骸のことを忘れる。(完全にではないが、そうしようと努める。自ら殺めた者の死に様を振り払うように) 蒼く透明な山容にこころ奪われる。70年など一瞬の夢さ、とうそぶく。やりたくねえことをやってるひまはねえ。

2006.7.4

 

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 職種柄、仕事上のことはなるべく書かないようにしているのだが、これはちと。

 先日(当日、わたしは休みだった)わたしの勤めている某ショッピング・センターで次のようなことがあった。お客さんで賑わうモールのベンチで男が自慰行為をしているという連絡が入った。同僚のHさんが現場へ行くと、丸刈りの若い男性がベンチに寝そべり、片手をズボンに突っ込んで動かしている。Hさんはやめるようにと言ったが聞かないので、かれの手をつかんでズボンから引き抜いた。男性は立ち上がって逃げ回り、ふたたびベンチでおなじことを始める。何度かそんなやりとりをした後、これはどうしようもないと警察を要請した。近くの店で買い物をしていた男性の姉と母親が現れたのはその直後である。どうやら男性(高校生くらいだろうか、体が大きいので大人にも見える)には知的障害があるらしいと分かった。やがてやってきた警官数名が「出したんだな。あいつか」といきり立つのをHさんが必死で止め、それから姉と母親からも話を聞き、今回は注意にとどめると言って警官は帰っていった。

 数日後、その男性本人と母親、それに男性が通っている養護学校の担任だという女性がインフォメーションへ来て、「先日おさわがせした者ですが、警備員の方と少々お話がしたい」と言うのでわたしが行って対応した。要約すればHさんが行為を制止しようと男性の腕をつかんだこと、それに警察要請がされたこと等に対して、もうすこしソフトな対応ができなかったかという(クレームというより「お願い」といったニュアンスの)お話である。男性はゆっくり話しかければ分かるので、きっとHさんに手をつかまれてびっくりしてしまったのだろうという。そして障害者の理解の一助に、と養護学校のパンフレットとボランティアの手引きの小冊子をくれた。

 わたしは、個人的なことだがじぶんの子どもも障害を持っているのでそちらの仰ることもよく分かりますと前置きをした上で、ショッピング・センターにはこれだけ大勢の人が集まる中で、女性に卑猥な声がけをしたり、従業員の女の子を付け狙ったり、その他異常な行動をする人も多々現れる。他のお客様の安全のためにわたしたちには迅速な判断を求められることが多い。警備員が駆けつけた当時、お姉さんとお母さんは近くの店で買い物をされていたそうだけれど、その状況のなかでお子さんが障害を持っていると判断するのはなかなか難しい部分がある。こちらももっと勉強させて頂くが、できれば保護者の方がいつもそばにいてくれて、今回のようなことが起こったときにわたしたちに事情を説明してくれたらいちばん有り難いし、こちらも別の対応を考えられますので、と話をしたのだった。

 店側にしてみれば、現に行われている行為に対して他のお客さんからクレームを受けるという事情もあるだろう。やはり多数の人が行き交う中で、一定の限度を超えた事に対してはそれなりの対応をしなければならないし、そのへんは保護者サイドでしっかり管理をして頂きたい(悪く言えば「ここは養護学校ではないのだから、そこまで対応はしきれない」)という部分は正直あるだろうと思う。

 レストランでラーメンを食べるのが愉しみだという男性と、母親、担任の先生と別れ歩き出してから、わたしはなおも考えた。ある意味、わたしはどちらの当事者でもある。こんな仕事をしていると、いわゆる「障害者」側のわがままな部分も見える。駐車許可証をふりかざしてとんでもない迷惑な場所に平気で車を停める輩。そこまで言うかというくらい「障害者の権利」をご老公の印籠のように振りかざしてやまない輩。当事者であるわたしですらも、他の人々から「特権意識」と言われても仕方がないと思えてしまうことがある。(昨今また新聞紙面を賑わしている同和行政もそうだろう) その一方で、わざわざ養護学校のパンフを持ってきた先生の「知的障害を理解して欲しい」という気持ちも、また分かる。最終的に「一般」という物差しを当てはめるのはなるほど分かりやすいだろうが、それは結局、その社会の許容力というか包容力というかそんなものがある意味試されているのではないか。そこには両者の深いすれ違いがあるような気がしてならない。難しいね。

2006.7.6

 

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 リサイクル屋をまわって、二人掛けの小さなソファーを買う。1万円+配達料2千円。(手術後に)「正座をされるとちょっとつらいなあ」という整形のH先生に応えて。店の主人と団地の階段をあげて居間の畳の上に置く。

 居間のテレビが壊れる。外部入力が写らない。よってビデオやDVDが見れない。おなじブラウン管の安いテレビを買うか、モニタを買ってウィンドウズにつなげるか、あるいは液晶テレビにするか、いっそテレビの見れる19インチくらいのPCを新たに買うか、あれこれ考える。

 退院後、子は精神的にすこしばかり落ち着かない。根気がなくなり、怒りっぽくなった。今日はヴァイオリンの練習をぐずるので「やる気がないのならやめちまえ」と叱り、大声で泣く子を玄関の外にしばらく放り出した。がちゃがちゃとドアノブが回るこちら側で、頭をかかえて座っている。ギブスの歩きにくさ等々でいろいろストレスが溜まっているのかも知れない。しばらくは見過ごしてやらなきゃいけないのかも知れない、とYと話し合う。

 久しぶりに子の机のサイドに置く本棚の製作をすすめる。奥の寝室にブルーシートをひろげて下部の箱部分を組み立てる。かたわらで子はひとり遊びをしている。人形やぬいぐるみたちが二つの石ころを車座に囲んで何やら儀式をしている。「お母さんはいまごろきっとソファーで寝てるよ。見てきてごらん」と言うと、偵察からもどってきて「寝てる、寝てる」と声をひそめて笑い、わたしにも見てこいと言う。入院時の疲れが出ているらしいYは冷房の効いた居間のソファーの上で、読みさしの本をお腹にかかえて眠っている。

 風呂上がりの子とRCサクセションの「溢れる熱い涙」をギターでいっしょにはもる。歌いながら子は「これはかなしい歌なんだね」と言う。入浴時は両足のギブス上の端にそれぞれタオルを巻き、全体をスーパーの袋で覆って輪ゴムで止める。滑って立てないのでホームセンターで買った低い作業台を椅子代わりに持ち込む。

 布団で「小さな山神スズナ姫」を読み聞かせる。以前にわたしの友人が送ってくれたものの続編だ。続く三巻を先日古本屋で見つけて買い揃え、一冊はもう子がじぶんで読んでしまった。一章を読んで電気を消すと、子はギブスの中が痒いと言ってぐずる。湿度が高いと痒くなるらしい。部屋の冷房を入れ、割り箸をギブスの隙間に射し込んでこすってやる。「キリスが鳴いてる !」と子がはっとした顔で言う。畑で祖母がつかまえてきたキリギリスのことを二人は「キリス」と呼ぶ。

2006.7.8

 

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 夏だ。職場のIさんが狂う。Iさんはもともとわたしの職場であるショッピング・センターの最初期の常駐メンバーだったのだが、お客さんと揉めるなどいろいろあって別の現場へ移り、やがてそこも外されて、だいぶ前から土日はうちの交通隊員として働いていた。ことし46歳で独身、両親と住むIさんはかつて東京でプログラマーをしていたというが、Iさんを知る大抵の人は訝しがるだろう。奈良の幼女殺人事件が起きたときは被告の小林薫にそっくりだとよくからかったものだが、年の割には幼児性が残り、職場でときおり居眠りなどをしてよく顰蹙を買った。ただ交通隊に移ってからは不器用ながらよく頑張っていたと思う。少々対人関係に難があり、ときに我のひっかかる性格だが、根は純情な人なのだ。そのIさんが数日前の平日、派遣されたあるホームセンターで入口の防犯ブザーが鳴った客を制止した。そのときのIさんの物言いがクレームになったらしい。Iさんは店の店長らと客の家に謝罪に行かされた。Iさんの様子がおかしくなったのはその時かららしい。ついで派遣された競輪場ではひとりぶつぶつ訳の分からないことを喋っているので同僚の女性隊員が無気味に思い、営業所に連絡が入った。そして先の土曜日。朝の朝礼に出ないIさんがその後も1時間かけてネクタイを直しているのを見て交通隊長のTさんは「ひょっとして」と思ったそうだ。それから出入口のいつものポストに立たせてもいつのまにかとんでもない場所にひとり立って必死に手を振っている。話しかけても脈絡のない頓珍漢な返事しか返ってこない。その日、隊長のTさんはIさんを中途で帰らせた。翌日の日曜、朝。わたしのいる館内の警備室にIさんの母親がやってきた。息子の様子がおかしいので今日は休ませる、と言う。小柄な、遠慮がちな、人の好さそうなお母さんだ。連絡を受けてやってきたTさんに、明日は病院に連れて行きます、と言って帰っていった。母親と入れ違いにIさんは職場へやってきた。しばらく様子を見た隊長のTさんは前日と同様、昼でIさんを帰らせた。大学院生のM君が精神科医の卵である友人2人にIさんの様子を電話で伝えたところ、2人とも「分裂病の疑いが濃い」と答えたそうだ。Iさんがこれからどうなるのか、誰にも分からない。Iさんに限らない。もともと人は分裂した存在なのかも知れない。それらを社会的な自我が必死に束ねている。薄皮一枚の危うさで。土日になるとIさんがいつも2リッターのペットボトルをいくつも抱えて、あの爪先立ちの滑稽な歩き方で交通隊の詰め所に持っていく水を汲みに来ていた姿が思い出される。Iさんの恢復を祈る。

2006.7.10

 

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 郵便局へ子の入院保険の請求手続きへ行く。学資保険に加入したのは子がまだ1歳の頃であったか。それからしばらくして病気が判明した。それ以降、子はもう新たに保険の類には入れない。窓口で、ふと保険証書のこれまでの支払い履歴を見ていたらおかしなことに気がついた。2回目の脂肪腫の手術のときは入院日数に応じた入院保険と、別に手術保険というのが支給されているのだが、1回目は入院保険の支給しかないのだ。わたしはこういったものは疎いんで、これまでよく確かめもしなかった。センターに訊ねてみてもらったところ、提出された医師の診断書の手術名称が1回目は「脂肪腫摘出」、2回目は「脊髄腫瘍摘出」と書かれており、保険規約にある手術保険該当項目に対し、前者は適用外であり、後者は適用なのだそうだ。実際の手術内容は同じであり、診断書を書いた医師も同一人物であり、ただ「何となく」の書きようが微妙に違っただけで保険金が支払われたり支払われなかったりする。ちなみに2回目の手術保険の支払額は6万円である。これはわが家にとって大きいよ。結局、こちらの説明を聞いた窓口の女性が言ってくれたためにセンターで再審査する運びとなったのだが、訊けばこうした手術名称の規定について、当然というか医師は知らないという。それならば「脂肪」の定義とは何ぞや・「腫瘍」の定義とは何ぞや・そしてまた「脂肪腫」との違いは? といった明確なすりあわせをしなければ、同じようなことはこの先いくらでも起こり得るのじゃないかな。どうもその辺が案外、いい加減な気がしてならない。家に帰ってYに報告をすると、彼女は「1回目は(一度で脂肪腫を取りきれなかったため2週間の間を空けて)手術を2回している」と言う。わたしは何だかそれ以上は図々しいような心持ちがして「なら、それはきみが言ってよ」とYに振り、彼女の電話を受けた窓口の女性は「それも一応センターへ伝えておきます」と答えたそうだ。ともあれコイズミの呆け茄子になってから、子に支給される障害者手当などは近年、如実に減額の一途を辿っている。リハビリや入院費用などの保険適用範囲も狭まり、医療費の一時全額負担も多くなり、導尿に必要な紙オムツ・カテーテル・消毒薬・ゴム手袋等の支給枠もだいぶ減らされてしまった。温暖化で沈没しかけている小島の小国のように少数の弱者から切り捨てられるわけだが、どのみち早かれ遅かれツケは全員に知らず回ってくる。まあこれは保険の話とは別だけれど。

2006.7.12

 

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 今日は子は大阪の病院で装具の型取りだった。いったんギブスを外して、新しい装具が出来上がるもう1週間をふたたびはめて我慢する。痒いところをいっぱい掻いておくと子は言っていたが、どうだったろうか。仕事から帰宅したのは夜中の0時半だから、詳しい話は明日の朝までお預けだ。

 夕方。テイクアウトのフードコートの席で、若い母親と幼稚園くらいの可愛らしい女の子。母親は携帯電話で黙々とメールを打ち、女の子は黙って魔法瓶のストローをくわえている。会話がまったくない。しばらくして女の子が何かを話しかけるが、母親は携帯電話から目を離すことなくぽつぽつとそれに応じている。心なしか女の子の方もあまり母親の顔を見ていないように見える。口は動いているが、視線はどこかあらぬところをさまよっている。「携帯というのは、便利さよりも何かを壊している方が多いんじゃないか」と50代のTさんが思わずつぶやく。「うちは正反対だな。子どもが夢中でビデオを見ている横で、ぼくは子どもの顔を飽きずに見つめている(笑)」

 ヴァン・モリスンの Celtic New Year を聴いている。このサウンドは完璧だ、と思う。ヴァンの希求するボーカルと詠唱するギター・フレーズと雰囲気と、すべてが完璧なのだ。つまりこの曲はおのれが還っていく場所を知っていて、誰に抗う必要もなく静かにそれを確信している者のサウンドだ。誰かを説得したり誰かに説明したりする必要もないし、誰かの心臓をえぐったりする必要もない。

 嫌な事件やきな臭い時代を語るよりも、涼やかな一条の風を語りたい。

2006.7.13

 

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 13日。装具の型取りのためにいっときギブスを外して抜糸。ギブスが割れ、縫合した両足のあちこちから黒ずんだ糸が飛び出ている様を見て、子は少なからずショックを受けたらしい。「どうして糸が?」という問いにYがいくら説明しても、また「どうして糸が?」と言うばかりだったと。ふたたびギブスを固定した帰り、足が痛いと言って歩こうとしなくなった。その日はYが階段をおぶって上げ、家の中もはいはいをして移動した。足の矯正のために左のギブスの形をやや変えたせいかも知れないがじきに馴れるだろうとはH先生の説明だった。しばらく幼稚園にもどこにも行きたくないと言っていた子が数日後、わたしに何かを叱られた拍子にふいと数歩足が出て、はっとした顔で「歩けた」と言った。それから、すこしづつだが歩くようになった。

 14日。夕食を終えて夜勤の仕事に出るわずかな間をぬって、子と二人で国道沿いのドンキホ−テへバイクのヘルメットを買いにいく。楽天で1万5千円しているのが何と9千円で売ってる。思えばいまのヘルメットは16年も使い続けてすでにぼろぼろだ。駐車場でにこにこ顔のおばちゃんに声をかけられる。「お子さんがとってもいい感じで」 子供モデルエージェンシーなる名刺を出してぜひ連絡をと言う。「いい感じ」はそりゃ当然だろうが、どうせ新手のセールスの類じゃねえか。

 15日。夜勤明けに職場に入っているCD店で予約していた Van Morrison の新譜 Pay The Devil を受けとる。モリスン風どカントリー・アルバムだが味わい深い。軽やかなカントリー・サウンドが、熱いソウルや森厳なスピリチュアル・ソングや遥か古代ケルトの望郷歌に聞こえるから不思議だ。麦畑の上を荷物満載の牛車が駆けめぐっていく感じだ。“Pay The Devil”とは「何かの行動の結果として負った借りや義務を苦労して返す」という意だという。The Carter Family の、これはベスト盤なのかな、20曲入りの Country & Folk Roots というアルバムが630円だったのでこれもついでに。630円だぜ、きみ。こいつも胸に沁みる。人に歩くべき道が見えていた時代の歌だ。ほんとうの勇気が試されていた時代の歌だ。酢漬けの真実や剥製の死、利息のための戦争などといった奇妙なものたちがまかり通る前の頃の歌だ。涙が出てくる。

 16日。夜勤明けで帰ってしばらく寝てから夕方、子と車で引越さなかの寮さん宅へテレビをもらいにいく。いにしえの都に本格的に移住を決意した寮さんだが、引越に際してテレビが1台余るという。わが家のテレビが壊れたという記述を読んでそれを進呈してくれると申し出てくれたのであった。引越荷物のダンボールが溢れている部屋の片隅で、葡萄などつまみながら小一時間。「寮さんはどんな人だった?」「メガネをかけたおもしろいひと。ヴァイオリンで“きらきら星”を弾いてくれたけど、音がふるえてた」 

2006.7.16

 

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 休日。午前中は子のサイド本棚の製作。上部の棚部分の取りつけ、ルーターによる可動棚のビス受け彫り、コード通しの穴を開けたり、他にも細かな微修正をしてあとは塗りを残すのみとなった。午後は家族三人で以前にテレビで録画してあった、新宮から40キロ隔てた熊野の山間に暮らす7人家族のドキュメントを見る。急死した先代の跡を継いで広大な山の手入れをたった一人でしていた父親はある日、採算が取れないと山を所有する会社から急に解雇を告げられ、それでも町には住みたくないと臨時の山仕事を探して何とか喰いつなぐ。誰が使うのか分からぬ山中の林道工事の公共事業には数十億という金を投じ、かれ一人を雇うのに必要なのはわずか年に500万円だ。前者は山を破壊し、後者は山を生かす。家の前の清流で子どもたちにアマゴの突き方を教え、ときに山へ分け入って鹿を捕り自ら捌き、「人間が植林をしたのだから、人間が手入れをして山を守ってやらなきゃいかん」「いまではなく100年後、300百年後の山の姿を想像する」と言うかれの貴重さが分からぬ現代とは何と寒い時代なことだろう。年に一度、自家製の蜂蜜を採取する。1升瓶50本分。1本2万円の市場価格に換算してしめて100万円。失業した矢先でも、だがかれは言うのだ。「売れば現金収入になるんでしょうな。でもそうしたらそれは2万円の価値でしかない。ふだんお世話になっている人にあげれば、それはもっと大きな価値になる。私はそう思うわけです」 ほんとうのモノの価値を知っている男がここにいる。わたしはかれの言葉にいたく感動したのだった。そういえば十津川出身の親類のおじさんに、語り口がどことなく似ている。モリスンが今日もふさわしいブルースを歌っている。「おれをもどしてくれ。おれが理解することのできたあの時・あの場所へ」 そうだ。わたしもそこへ行きたい。

2006.7.19

 

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 朝から車で病院へ。整形外科でギブスを外したところ、左足のかかとの皮がごっそりめくれていた。ギブスが合わなかったらしい。Yが思わず顔をそむける。おまけに先週型取りした装具も合わない。「これはほんとうに○○しのさんの装具なんだな。他の人と間違えてないな。全然合ってないじゃないか」と装具屋さんを叱るH先生を横目にわたしは黙って腕組みをしている。「もういちど作り直せ」 再度の型取りをする装具屋さんに訊ねる。「前の型取りと今回の型取りと何が違うんですか?」 「こちらの(合わなかった)装具を参考にします」 なるほど。もうそれ以上は言うまいとこらえた。型取りを終えて、またあらたにギブス。おまけにかかとの傷のためにしばらくは歩行禁止。ふたたび車椅子を借りた。合間にロビーでおにぎりの昼食を済ませて、全て終わったのが3時。窓口の看護婦はH先生の意として「装具も合わなかったし、今回は診察料は要りません」と言ってくれた。寝不足もあり、子のギブスがとれなかったことに多少いらいらしていたのだろう、駐車場で車に車椅子を積み込むとき詰まらぬことでYに当たり、ぷいとそのまま地下鉄に乗って神戸へ向かった。

 三宮、4時過ぎ。子の本棚につける洒落たコンセントの金具でもないかと駅前のロフトに立ち寄ったのだがめぼしい物もなかった。はるさんの個展(榎並和春個展・神戸「色はにほへと2」)は2年ぶりだ。6時に画廊を仕舞い、二人で以前入ったイタリアンの店に移った。「角笛」と題された絵があった。道化師のような顔をした男がうつむいて角笛を吹いている。この男の奏でる音に耳を傾ける者は誰もいないのだろうと思った。(おそらく)世間から見捨てられた男はひとり、あえかな、ささやきのような音を奏でる。わたしはその音色を空想してみた。すると宮沢賢治の「告別」という詩が浮かんできた。そんな音を、この男の角笛は奏でているに違いない。私はその音色に耳をすました。さみしさの原石のような調べ。誰もがたったひとりで死んでいくのだが、誰もが最後に何かを伝えたいと願っている。それは神でもいい、一本の草木でもいい、愛する者でもいい。個の記憶はいつか消滅していくが、死にゆく前に、わたしは大いなる記憶とこのちっぽけで儚い己をリンクさせたいのだ。おそらく、わたしの願いとはそのようなものだ。個の記憶など過ぎ去ってしまってよい。もろもろの事象は流れてゆけばよい。わたしと子が微笑みあった記憶は、河原の石のはざまに溶け込む泡沫のように大いなる流れに呑み込まれてゆく。それでいい。流れを間違えなければ、あとはこの身を委ねるだけだ。そうであるなら、この底なしのさみしさも泡沫が思わず漏らす溜息のようなものだ。ワインの貯蔵庫のような薄暗い地下の店を出たのは9時頃だった。会話はワインのようだった。おぼろで、夢見心地で、他愛ない。それもまた、やがて大いなる流れに溶けこんでゆく泡沫だ。それもいい。きっと、すべてがよい。奈良に帰り着いたのは11時過ぎだ。駅からのどしゃ降りの夜道をモリスンの幸福なカントリー・ソングを聴きながら歩いた。 

2006.7.20

 

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 連休初日。もともと関東の実家帰省にあけておいた5連休だが、子の手術の関係でYと相談して今回は中止ということになり、すでに他の人の出勤スケジュールもすべて組まれていたため連休だけがぽっかりと残った。1泊で大峰山にでも登って来ようかとも思っていたが、梅雨の明けるのがどうもわたしの夏休みが終わってからのようだ。木曜にはまた装具合わせで病院へ行かなきゃならぬし、1日だけ、入院が伸びて子が幼稚園で行けなかったプラネタリウムにでも連れていってあげようかと話している。あとはまあ、大した予定もなく、家でのんびりと。

 というわけで朝からYに依頼されてエアコンの掃除をする。ついでに室外機の裏の鳥の巣も掃除する。わたしが潰してしまった雀の卵の殻2つが出てきたのみで雀と椋鳥と鳩と、三種混合の巣から他のヒナたちは無事巣立っていったようだ。

 エアコンの掃除を終えてから、そのままベランダで、子といっしょに彼女のサイド本棚の塗装をする。机とおなじミディアム・ウォールナットのワトコオイルを、(机が濃いめのため)全体が暗くなるのを避けてこんどは一度塗りだけで薄めに仕上げた。「歩行禁止」のため子は万能椅子に座らせて、棚をあれこれ置き換えながら塗らせた。1日乾燥させたら、これで完成。詳細画像は木工のページを見て頂きたいが、箱モノは思ったより部材が多くなるので案外手間がかかった。要するに厚みのある板だけで単純に組み立てると重たくなるので、框(かまち)に羽目板という構造を選択するとしぜん手間が増えるというわけだ。棚の下2段は机で言えば椅子側を向いている。中央の棚板はビスで高さ調節ができ、幅・奥行きはランドセルが収納できる設定にしてある。棚の上部は机側(横)を向き、机面と高さを合わせている。“マリアさま”の絵と十字架の彫りがあって、祭壇を模している。これは子の“イエズスさま”への思いを尊重してだ。キリスト教でも何でもいいが、わたしは子に「宗教的な」感性を失わないでいて欲しいと願っている。“マリアさま”の絵は以前に子が幼稚園からもらってきたもので、絵の中に書かれた「ABBA」「PATER」はどちらも「主なる父よ」といった意味らしい。手彫り風の額を嵌めて飾っているが将来、別の絵を飾ることも考えてネジで取り外しができるようにしてある。この額のネジ面がどうも重たい気もするが、ほかに良い作りが思い浮かばなかった。十字架のくりぬきを施した棚の仕切りは、(職場のビルメン氏に頂いた)子のノートパソコンを立てかけるためのものだ。ちなみに十字架は縦3:横2の正規の比率だ。ノートパソコンに隠れる部分に既成のコンセントを取りつける予定だ。これで机をメインにした3点セットの完成。

 夕方から職場の事務所・警備・清掃・設備・ゴミ処理・インフォメーション合同の飲み会。総勢30人近くか。関西の某百貨店から中途採用で入った事務所のMさんは、いままで知らなかったのだが、わが家の子とおない年くらいの長女が先天性の病気で片耳がないのだという。鼓膜はあるのだが、穴を開けると他に支障があるらしい。整形手術でかたちだけの耳をつけることはできる。「こどもっていうのは残酷ですからねえ。何というか、無邪気に残酷です」と宴会の騒ぎのなかでMさんはそっと呟く。いまは慣らしのために保育園に通わせているという。「五体満足で産まれてくることはふつうだとみんな思うわけじゃないですか。でも、そうじゃない。何ひとつ問題なく産まれてくるってことは、じつは大変なことだと思う」と語ったMさんの言葉はそのままわたしのそれだ。

2006.7.24

 

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 奈良へやってきたのは10年前だった。そのときはダンボール数個の荷物と乗ってきたバイクだけだ。粗大ゴミの日にステレオや扇風機を拾った。東京のAがブライアン・ウィルソンのDVDを送ってきた。家人の寝静まった夜更けに、リビングのソファーに座ってひとり見た。家族三人がちょうど座れる中古のソファーと、寮さんにもらった21インチのテレビで。画面の明かりだけの部屋の暗がり。夏の夜の虫の羽音や土や植物の匂いが入り交じった柔らかな湿った空気。本棚に塗ったオイルの匂い。ブライアンが God Only Knows を歌っている。年老いたが、幸福そうだ。かれの歌を聞いていると、いつも涙が出そうになる。食卓のテーブル。ベンチ。子どもの机と本棚。みんなじぶんでつくった。これらはぼくの幸福のかたちだ。そしてぼくはいま、それらに囲まれてブライアンの歌を聞いている。涙が出そうになる。気狂い扱いされた日々もあった。でもいまはわたしの手をとって眠りにつく小さな顔がある。奈良へやってきたのは10年前だった。粗大ゴミの日にステレオや扇風機を拾った。

2006.7.25

 

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 東京の友人Aが大量の音楽媒体を送ってきた。ブライアン・ウィルソンのDVDのことは前述した。DVDはそれとサンボマスターの「新しき日本語ロックを君に語りかける」。以下はCD。ネーネーズのプロデューサーとしても著名な沖縄音楽の重鎮・知名定男の1978年作品「赤花」。昨年、琉球フェスで感動したジントーヨー・ワルツ が収録されていて聴きたかった。待ちに待った貴重発掘音源の三上寛「1972・高知大学ライブ」は千枚限定盤で、アマゾンのユーズドでは既に1万円の値がついている。Aに感謝だ。「パンティストッキングのような空」「小便だらけの湖」「ひびけ電気釜」「犯されたら泣けばいい」 曲リストを眺めているだけでぞくぞくする。古謝美佐子「黒い雨」は沖縄鎮魂のシングル曲。ジョニー・キャッシュの名盤リマスター・ライブ「At Folsom Prison」。「初のスタジオ・ソロ・アルバム」レイ・デイヴィスの「Other People's LIve 」。ニール・ヤングのタイトルもずばり「LIving With WAr」。しばらく腹下しが止みそうにない。

 夏休みに入ってから、子は午前中に通信のドリルとヴァイオリンの練習を済ませる。昼はYがつくった小松菜のチャーハン。午からわたしは1日くらいバイクでどこか走って来ようかとも思っていたのだが、突然叫ぶ。「そうだ、一人の時代はもう終わったんだ。これからは何でも家族みんなで過ごさなきゃ」 Yが宣う「あら、わたしはこの子が産まれてからずっとそんなことは分かっていたわ」 そういうわけで片方で子の人形遊びの相手をし、片方でYにエクセルを教えてと忙しい。夕方から子にこれまでの日曜大工で出た端材を使わせて、何でも好きなものをつくってみろと木工ボンドに釘と金槌を渡して遊ばせる。子がつくったのは船とフクロウとドアだ。夜はゴーヤのチャンプルー。退院祝いに友人のOが送ってきてくれた「小さなモモちゃん」を子はもうひとりで読んでしまい、続編の「モモちゃんとプー」をソファーの上で読み聞かせる。新聞にフィリピンの8割の人々が「幸福だ」と思っているという国民調査の結果が載っていた。老後をフィリピンで暮らす日本人の夫婦が「幸福とは尺度の問題だ」と語っていた。この国で確かな「幸福の尺度」を持ち合わせている者は、いったいどれだけいるか。あるのは「妬み」と「比較」だけではないのか。「幸福の尺度」とは孤軍奮闘のことだ。単純なものがこの国では見つけにくい。

図録幸福度の国際比較(世界価値観調査) http://www2.ttcn.ne.jp/~honkawa/9480.html

2006.7.26

 

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 子のギブスがやっとはずれる。装具も今回はOK。かかとの傷は治りかけ。もう数日で完治するはずだから、次の火曜の夜に風呂で洗ってあげて、皮が再生していれば翌日から少しづつ装具のチェックをしながら慎重に歩行練習を。予定通りであれば9月の頭頃まで今回の装具(固定用だからかかと部分が曲がらないもの)は24時間装着。寝るときも靴下を履いた上に付ける。固定期間が過ぎたらかかとが曲がるタイプの装具をまたあたらしくつくり、それに合った靴(装具のカバー)を作製してもらう。2時過ぎにすべてが終わり帰り道、東大阪の花園ラグビー場に隣接するドリーム21なる施設で最終上映のプラネタリウムを見て帰ってきた。

 手術の縫合箇所に貼られたシールを剥がすのが痛いと子は大泣きした。看護婦さんが足をお湯につけて根気よく剥がしてくれた。右足はそうして垢もこすってくれたが左足はかかとの傷もあり、子がもう嫌がるのでシールを剥がすだけにとどめた。クサイクサイとからかうと、匂いを嗅がないでと恥ずかしそうに言うのは女の子らしいと妙に得心する。ギブスをしていた部分、膝から下は両方ともひどく痩せてしまっている。そして両足のあちこちに残った手術痕は固まった血のかたまりもまだこびり付いていて黒々とどぎつい。己の足に穿たれたその禍々しい刻印を、子は家に帰って風呂に入るときも、靴下を履き替えるときも、けっして見ようとしなかった。見たくないと拒んだ。「気持ち悪い」「怖い」と言う。「それはお前の足をよくしてくれるために付いた傷だ。だから仲良くしろ」とわたしは子に言った。だがそういうわたし自身が、ほんとうはそれらを呪いたいような気持ちでいっぱいなのだ。

2006.7.27

 

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 連休最後の一日。午前中、子がドリルとヴァイオリンの練習をしている間に、わたしは台所で玉ねぎやセロリを刻んでパスタのソースをつくる。お昼はみんなが大好きなトマト・ソースのパスタだ。午後から子をなかば強引に誘って車で天理の参考館へ行く。「強引に」というのは、昼前にYが図書館からたくさんの本を借りてきたのが届いたので、家でそれを読みたいとぐずったのだ。それでこんどはお父さんが「ヤクソクがちがうじゃないか」と拗ねて、心優しい娘が折れたのだった。車の中で子は「モモちゃん」シリーズの続きを黙ってめくっている。カーステは子が最近大好きなキヨシローの「ぼくの目は猫の目」だ。何たってMG’Sのバックだぜ。子は助手席で本を読みながら、曲が終わるとまたリピート・ボタンを押す。それからやがて二人して歌い出す。「暗い夜でもきみの顔は見える。暗い夜でもきみはいつもステキだよ」 天理は「こどもおぢばがえり」で賑わっていた。おそらく明日くらいからいろいろ催しもあるんだろうな。参考館の受付で車椅子を借りた。入口を入ってすぐのアイヌの展示からきみは開口いちばん「イオマンテだ」と叫んで顔を輝かせた。中国の看板の当てっこも愉しかった。チベットの羊の革袋でできた筏や中国の操り人形劇のVTRをきみは熱心に見ていたな。木彫りのくり抜き細工が施された大きな祭壇を「すごいねえ。こまかいねえ」と感嘆して眺め、「私にはとてもできないけど、お父さんにならできるよ」と言ったのには参ったね。バリの影絵のVTRも見た。パプアニューギニアの「精霊たちの森」は怖くて迂回した。持ってきたノートに気に入ったものをいくつか書きとめた。きみがスケッチしたのは神社の願掛けで奉納された「子種石」、中国かペルシャかどこかの「刻文獣環壷」、「手洗い水を注ぐ器」、「角杯」、「金製耳飾り」などだ。およそ2時間ほどの滞在だった。駐車場の車の中でおしっこをとって帰ってきた。「帰ってクーラーをつけた部屋で“こりゃあ天国だなあ”って言って寝ころがろうよ」と車の中できみが言った。

2006.7.28

 

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 たとえば、いまではわたしたちがふつうに聴いているCDの音というのは、実は人間の耳では捉えられない周波数域をカットして成り立っている。数値にしきれない、不確実な要素を含んだ、連続的な変化を「0」か「1」かという数値に換算して処理したのがデジタル音だ。つまりアナログであるかつてのレコードの音はデジタルから見れば「不純な・不確実な」ものが交じっているわけだが、わたしはたとえば The Band のデビュー・アルバム Music From Big Pink などは、いまでも“もこもこした”あのレコードの音の方が好きだ。それを何故かとはうまく説明できないが。たとえばデジタル・カメラというものは素人でもかなりの画質の写真を撮ることができるし、それを思うように加工処理することもいまではパソコンで容易だ。けれどかつてのフィルム・カメラで山の中に分け入り、地面に這いつくばって岩についた苔や清流の流れを撮影する。シャッター速度や露出を設定してシャッターを切るが、どんな瞬間が焼きついたかは神のみぞ知るだ。そこには偶然の歓び、ある意味で人為を越えた自然の悪戯が入りこむ余地がある。たとえばある画家の作品を展覧会で見る。どれだけ印刷技術が発展し、どれだけ高画質の画像ファイルがネット上で貼られても、本物の存在感が持つ質感・色彩の微妙な綾・またはそこから発せられる音や匂いや声には遠く及びもしない。わたしはインターネットで絵を買うことはできない。たとえばこうしてこの「仮想空間」で勿体ぶった顔をして(?)書いているわたしがどんな人間であるかは、実際に面識のある人にしかついに分からない。書いていることはすべてデタラメで、ほんとうは精神病院の孤独な一室で勝手な空想を書いているやも知れず、あるいは現実にはどこかの女子高生を自室に監禁している性格異常者かも知れず、冷蔵庫に切り刻んだ死体を隠し持っているのかも知れない。そうだろう? そんなことは誰も分からないぜ。韓国の新興宗教団体の事件とやらがいま新聞紙上を賑わしていて、結局それはあの「オウム事件」を精算できなかったこの国にいるわたしが「ああやっぱりな」「そりゃ、そうだろう。何も変わっちゃいないのだから」と呟くような実は「至極当然な」ことなのだけれども、「信じていたのに裏切られた。死んでも許せない。告訴する」といった「被害者の声」を読むと、「甘ったれるんじゃねえ。それはお前らが“人間を舐めた”ツケが回ってきただけだろうが」とおれは言いたくなる。(「ゴーマンかましてよかですか!?」だ。) 直接会ったことも屁の匂いも嗅いだこともない人間に身も心も捧げようと決意したお前自身はどうなのか? 見知らぬ心優しき智者が天使のように現れてコンビニで買えるような容易さで無条件にあんたに「心の平安」を授けてくれるとでも思ったか。インターネットで流された教義にめろめろになったか。確かに本人に会わずとも著書を読んで感銘を受けるということはある。しかし作品とそれを書いた人間とは本来別のものだ。わたしはそれを別物だと思っている。女たらしが毛穴の埋まるようなぞくぞくするブルースをつくることもある。猟奇的な殺人者が心くすぐる高貴な小説を書くことも出来る。何てったって人間はガス室のスイッチを入れながらモーツァルトに涙することのできる存在なのだから。それは人間の持つ「悪魔性」だ。身も心も奪われた・蹂躙されたと言うあんたらはそういった「存在の深き毒」まで喰らう覚悟がどれだけあったのか。信仰とはある意味、神と悪魔のニアミス=壮絶なせめぎ合いだ。どうせ身体を捧げるのだったら、おれのほうがよっぽど優しくしてやるぜ。もっともノーミソの足りないそんなちんけな身体など、こっちからからお断りだがな。ちょっとまちねー。ムーンドッグ・マチネー。デジタルを過信しちゃあいけねえ。インスタント食品のような「救い」があると思っちゃいけねえ。どれだけ世の中が進歩しようと魂はデジタル化できやしない。オーティス・レディングのシャウトを「0」か「1」かに還元することはできない。おれたちはデジタル信号などではなく、つねに不確実で、ゆらぎがちで、計測不可能な汗や涎や光やノイズや痛みからできている。助平じじいに騙されないように、もっと本気で「存在の深み」にまで喰らいつけ。

 

デジタルとアナログの違いってなあに? http://www.oitda.or.jp/yh/digital/answer/a_digital1.htm

2006.7.30

 

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 休日、午後。夏の夕方。ひとりテーブルのチャーチ・チェアにすわってラジカセでレイ・デイヴィスの新しいソロ・アルバムを聴いている。なつかしい声とサウンド。かれは Old Friend のひとりだ。離れていても分かり合える友人なのさ。Yは装具の調整で子と病院へ行った。ぼくは家に残ってテーブルに抽斗をひとつ付けようと思っていたのだが、やめて生姜の甘酢漬けをつくった。職場のY君のお祖母さんが熊野の山間の畑でこしらえた採れたての新生姜だ。ガラス瓶に詰められたきれいな生姜を眺めながらレイ・デイヴィスの新しいアルバムを聴いている。チャーチ・チェアのすわり心地は最高だよ。百年前に誰かがこの椅子にすわって祈りを捧げていたかも知れない。「主よ、好色な罪深い私を裁いてください」とか、「でももういちどだけあの子の可愛い足首に触らせて下さい」とかさ。テーブルの上には料理の本がひろげてある。夕食に「豚肉と夏野菜のトマト煮」をこれからつくるんだ。オレガノがないけど何とかなるだろう。ご飯に添えてワン・プレートにするんだ。もちろん、出かける前に子が「私の大好きな緑のはっぱもつけてね」とリクエストしていったから、レタスとトマトの簡単なサラダもつくる。なにか特別なことが起こっているわけじゃない。ぼくは夏の夕方にひとり、テーブルのチャーチ・チェアにすわってレイ・デイヴィスの新しいアルバムを聴いているだけ。遠くの古い友人からの手紙を読むようにさ。レイ・デイヴィスの音楽はそんな感じがよく似合うだろ。リビング・ルームのこんな何気ない日常の風景から始まるんだ。なにかあたらしいじぶんが立ち上がるような気がしてくるんだ。ガラス瓶の中の真新しい生姜のように身体の奥の方からじわじわと沁みてくる。日が傾いてきた。そろそろ洗濯物を取り込まなくちゃ。リビングのスパティ・フィラムやひろげたままの「小さなモモちゃん」が柔らかな影をまとわせている。食器棚のガラス扉の奥は静まりかえった森のようだ。熱の収まった涼やかな風がそろりと入ってくる。夏の一日がひそやかに暮れていく。ひとりテーブルのチャーチ・チェアにすわってラジカセでレイ・デイヴィスの新しいソロ・アルバムを聴いている。

2006.7.31 

 

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 今日も休日。朝からバイクで近所の内科へ、警備資格更新に必要な診断書を書いてもらいに行く。麻薬の常習者だとか性格異常者だとかでないことを証明するという内容なのだが、顔馴染みの医師はなかば苦笑しながら「大丈夫ですよね」と訊き、こちらも「ええ。そのはずです」と同じく苦笑しながら応える。診察はそれでおしまい。診断書代2千円。世の中はおかしなことだらけだ。ほかに証明書用の写真も要るので、デジカメでYと子にそれぞれ数枚づつ写してもらう。Yが撮ったものは目が笑っていて使えない。子が撮った方はちょっと優しい顔で、こちらを使うことにした。パソコンに取り込んでプリントする。

 子の足はまだ落ち着かない。また別の部分に褥創になりかけの傷があらたに出来て、昨日も病院から帰ってきたのは夜の8時過ぎだった。手術をしたから、それで足の形がすっかりよくなるわけでもないらしい。あながち装具メーカーの不手際ばかりでもないらしい。要するに微妙なところだ。Yは24時間装着の装具を時折はずして装具の当たり具合で皮膚が赤くなっていないかをこまめに観察している。昨日はまた車椅子を借りて帰ってきた。「もう足を見ても大丈夫だよ」「もう馴れてきた」 風呂の中で子のそんな声が響いている。左足の一部の縫合部と、親指辺りがまだ触れるとすこし痛むらしい。

 子は月末にはじめてのヴァイオリンの発表会を控えている。曲はモーツァルトの「A線E線の混合メロディ」という1分ちょっとの、きれいな小曲だ。先生が用意してくれた。わたしの希望した「アメージング・グレイス」は技術的に子の進捗具合からは易しすぎ、雰囲気的に子の年齢には難しいということだ。今日は家での練習中に、これまで覚えた音をじぶんで探しながら大好きなダンボのテーマ曲を弾き始めたのには驚いた。練習用に先生の模範演奏をMP3プレイヤーに録音させてもらい、帰ってCDに焼いた。

 午後、Yが借りてきた「翼のない天使」という映画を家族三人で見る。親しい人間の死をめぐる少年の、水彩画のようなひと夏の経験。いつものように子は涙ぐむYにせっせとティッシュを運んでいた。時折ミルク飴なども運んできて、「まるでスチュワーデスみたいね」とYは泣き笑いの顔で受けとっていた。

2006.8.1

 

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 スコセッシ監督のブルース・プロジェクトを記念したライブ・フィルムのなかに、見知らぬブルース歌いのじいさんが出ていたな。誰かが言っていた。「かつてこのコンサート・ホールの清掃係に応募して不採用になったあいつが、今夜はそのステージにあがって演奏するんだ」 何て格好いいんだろう。かれの演奏は実に堂々としていてイカシていたよ。おれもあんなふうでありたい。便器にこびりついた糞や反吐を拭きながら、そのときが来たらステージに怖れずのぼっていつでも歌ってやるんだ。人の心に食い込んで離れないような飛びきりのブルースを、無数の便器を磨くような淡々とした表情で。見知らぬ遠い国では今日も見知らぬ子どもたちがその天使のような頭をくだかれ、脳味噌や内臓を飛散させたぼろ雑巾のような姿で死んでいく。おれにできることはその痛みにできるだけ近づこうと努力するだけだ。牧師の顔をした悪魔が糸杉のたもとで微笑んでいる。おれは恥ずかしさで息がつまりそうになる。おれにできるのは時給850円の仕事で家族を食わせるために時間を切り売りして日々を疲弊することだけ。おれにできるのは軟体動物のような見えない何かに向かって唾を吐きやつらに呑み込まれないよう抗うことだけ。時にはおのれの身体に鞭を打って血を流したくなることもある。だけどそのときがきたらおれは歌ってやる。原油高にほくそ笑みながら優雅にカクテルなんぞを傾けて微笑しているやつらに便所の蛆虫たちのブルースを歌ってやる。そして綿畑の青い空にのぼりながら溶けていってしまいたい。

2006.8.2

 

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 朝。伸びてきた子の手で目が覚める。「おとうさん。きょうはね、Tちゃんの家に遊びにいくんだよ」 布団の上で子が目を輝かせて言う。幼稚園のバザーの集まりが、改修工事をしている園からTちゃんの家に急に変更になったのだ。持っていくお菓子も用意してある。朝ご飯を食べてから、Yが子の足の傷を見せる。装具がなかなか合わず、昨日も傷の周辺の赤味が治らないので大阪の病院へ連れていった。H先生が傷の部分に当てたクッションの一部を削ってまた別の部分にスポンジを付け足したのだが、それでも赤味が引かないようなので、家でYが薄い綿布で底上げをしてすこしマシになった。だが傷の周辺が白い水ぶくれの前兆のような色を帯びてきて、褥創がひろがってきているのではないかとYは訝しがる。やっぱり朝からまた病院へ行って診てもらわなくちゃ。Yが言う。Tちゃんの家に行きたいよお。楽しみにしていた子が泣き出す。何度も何度も病院へ通って、1時間おきに装具をはずして傷の様子を見て、装具を治してもなかなか合わなくて、もう限界だ、とYも涙顔になる。今日は昼からの出勤だ。休日だったTさんと営業所へ電話を入れて、勤務を替わってもらうことにした。今日はおれもいっしょに病院へいくよ。Tちゃんの家はすこしだけ行ってくることにした。平静を取りもどしたYが子を後ろに乗せて自転車で出かける。わたしはバイクで警察署へ行って、書類の揃った資格更新申請を出しにいく。引き返して昼食の支度にとりかかる。早めにお昼を食べて車で家族三人、今日も病院へいく。明日はわたしの誕生日だ。休みをとってある。Yと子が手作りのケーキをご馳走してくれるはずだ。

2006.8.3

 

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 冷蔵庫にあったエリンギ・キャベツ・ベーコン・チーズなどを使った「まれびと流適当グラタン丼」を食してから出かけた。車の中で、一人でこの子を連れて行くときはもう必死だ、わたしがいると安心して気が弛む、とYが言う。それでよく忘れ物をしたりするんじゃないか、とわたしは突っ込む。後ろで「モモちゃんとアカネちゃん」を読んでいる子がふふんと笑う。整形外科の待合い。家族三人でそれぞれじぶんの本を読んで待つ(わたしは新聞だが)。装具屋のTさんがこちらに気づいてやってくる。Yが状況を説明する。わたしは黙っている。男親というのは母親に比べたらどうしても情報量が不足だ。こまかい経緯などは母親まかせになってしまう。わたしはどうせ時々しか顔を出せないのだから、なるべく図々しく、必要なポイントを見定めて、ある意味、多少医師や装具屋氏に疎まれるくらい突っ込んで、母親が(その優しさで)遠慮してしまう部分まで確認をし、口を出すことだと思っている。診療室でH先生、装具屋氏2名が揃って装具と傷を確認しているときにわたしは言った。この一言はまず言っておかなくてはと決めていたことだ。「この人が(Yのことだ)どうも精神的にシンドそうなんで、今日はわたしも仕事を休んでいっしょに来ました。難しいことだとは分かっていますが」 それからみなで装具の手直しが始まった。問題なのはあたらしい装具のかかと部分が治りかけの褥創(傷)に当たり、その隣接部にあらたな褥創を誘発しやすい状況にあることだ。先日H先生が加工・調整してくれたクッション部では足りず、Yが綿布を底に敷いて反足気味の足全体を反対方向へ矯正したら多少該当部の赤味が改善されたことを報告した。これは手術前に用いていた装具の片側を底上げしていた手法とおなじで、Yはそれを再現したに過ぎない。説明のために持参したその古い装具を見てH先生が「これを使えないか」と言う。今日型取りをしてふたたび作り直す装具が仕上がるまでの1週間、こちらの古い装具を利用しようというのである。小さくなったサイズを多少ひろげて、問題のかかと部分は褥創部分が当たらないように穴を開けてしまう。このH先生のアイディアから動き始めた。先生の指示に従って装具屋氏が加工し、子に5分ほど履かせて動いてもらい、はずして皮膚の状況を見る。それをいくども繰りかえす。まだここが赤くなりますねえ。ここの穴はもうすこし延長して開けた方がいいんじゃないですか。わたしも遠慮せず口を出し意見を出す。専門家を前に気がひける面もあるが、じぶんの子の足のために図々しく図々しくと思う。納得できない部分は納得できるまで質問する。装具屋のTさんはわたしが質問しているのにYに向かって返事をする。しかしそんなのは気にしてられねえ。多少疎まれても構わん。そのために今日は休日だったTさんに勤務を交替してもらってやってきたのだ。加工待ちの間、H先生と話す。レーザーを使って3次元の画像をモニタリングする技術などもあるが、そうして装具をつくったとしても微妙な足の変化や予測される反りなどに対応できるのは、結局は長年の知識と経験によるある種の「職人技」に頼るしかない。K義肢もむかしは優秀な技術屋がいたのだが、そうした人材は会社の発展とともにみんな営業や管理職に回ってしまい、いまでは腕のいい現場の「職人」は少なくなってしまった等々。あらためての型取りも含めて、すべてが終わったのは夕方の6時過ぎだ。ひょんなことからYが持参した古い装具が思わぬ再利用されて、何とか使えるようになった。わたしは、これは他のことでも当てはまると思うが、装具は医師と装具屋と患者の三者で共同製作するものだと思う。専門家のすることだからと任せきりにしてはいけない。遠慮してはいけない。医師は医学的見地から指示を出し、装具屋は技術力でもってそれを形にする。患者は実際に使って日常の中からものを言い意見を言い製作に参加する。そのためには三者間での深いコミュニケーションが必要だ。格子状のシャッターがすでに降ろされたがらんとした窓口で会計を済ませたところで、Yが顔見知りのお母さんに声をかけられた。おなじ入院病棟の二分脊椎の子の母親がYから導尿の話を聞きたいと言っているのだが、という。「もう6時間も病院にいるんですよ」やれやれやっと帰れると思ったわたしは思わず言ってしまってから、仕方ないなと思い返した。三人で懐かしい小児病棟へあがった。二ヶ月ぶりに歩ける子はうれしそうだ。念のため車椅子に乗ってろというのを拒否して靴を履かない装具のままぴょんぴょんと駆け回っている。二ヶ月間ほとんど歩いてなかったのに支障なく歩けるのに驚いた。小児病棟でYはMちゃんのお母さんと話し込む。本人が脂肪腫摘出の手術をするのを嫌がって延び延びになっている。導尿がじぶんでできないので練習のため入院させられている。わたしは子と廊下を散歩していて、最初の手術の時に同室だった股関節脱臼のSくんのお母さんに声をかけられた。ふたたび悪化して骨の手術を受けたのだという。あれからもう4年も経ったのかと何やら互いに懐かしく話し込む。Yのところへ戻るとまだ話が続いているので、会計で話しかけてきたRちゃんのお母さんと何となく話をする。可愛い浴衣を着たRちゃんは水痘症でシャントという管を頭に通している。頭頂部の透けてみえる手術痕が痛々しい。まだショックも覚めやらぬといった風で「私がしっかり頑張らなくては」と表情も硬い。1歳の時にはじめて子の病気が発覚したとき、わたしもこんなだった。「紫乃ちゃんの方がうちの子より症状は軽いみたいで」と言うので、「誰が軽いとか重いとか、比べるのは意味がないと思いますよ。みんなそれぞれ大変で、それぞれ頑張っているのだから」とわたしは答えたのだった。ここにいる母親たちは誰も、話したいことが(特にそれを共有できる者に対して)たくさん身体の中につまって溢れそうで仕方がないみたいだ。そんなわけで病院を出たのは夜の8時をまわっていた。とりあえず一段落して、Yはほっとしたようだった。表情も明るく、よく喋った。炊き込みご飯をセットしてきたのだが子がラーメンを食べたいと言い出し、もう遅いから食べて行こうかと東大阪あたりの「横綱」に寄った。それから下道を抜けて阪奈国道で生駒越え。「今日は仕事を休んで価値があったかな?」とわたし。「あったあった」とY。10時過ぎに帰宅した。

 

2006.8.3

 

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 あるレコードの音楽を聴く。はじめに感じた驚愕や戦慄、精神的な昂揚、革命的な振動といったものたちは、だが何度も聞くうちに次第に薄れていってしまう。くり返しが感覚を別の流れへとみちびく。惰性という流れへ。いつのまにか、わたしたちはその機械的な澱みのなかで停止している。音楽はもはや真に響いてはいない。その偽りに気がつけば、わたしはもうそのレコードを聴くことをやめてしまうだろう。死は、そのような音楽だ。そしてわたしたちは、生きている限りそのレコードを回し続けなければならない。ゆめゆめわすれるな。死を、とりもどせ。

2006.8.5

 

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 やはり場当たり的な改造は無理があるのか、歩けるようになったという喜びも束の間、病院から帰った翌日に子の足はまた別の思いがけぬところに傷をこしらえた。靴擦れのように薄皮がめくれてソックスを透明な血の色で染めていた。病院に装具屋氏が来るのは月曜と木曜の週に二回だけである。術後の筋肉の調整を考えれば一日でも確実に装具を付けさせたいが、仕方がないので装具ははずし、傷が当たらないようにガーゼの上に薄目の靴下を履かせて、子はまた「ハイハイ」の生活にもどった。明日は昼からの勤務だ。午前中にわたしが装具屋に電話を入れて再度の注文をし、Yにはもうひと踏ん張り、また半日がかりの装具の調整に行ってもらうことにした。そんな相談はわたしが帰宅した深夜に、さながら密談のように行われる。桃色に染まった小さな足の傷を眺め、やわらかな頬にキスをする。おまえの足がカモシカのように丈夫で俊敏であったらどんなによかったろうか。おまえがほかの子のように「トイレに行きたい」と騒いだら、わたしはどんな雑踏の中でも瞬く間に公衆便所を探し出してやることだろう。だが、それは言っても仕方のないことだ。せめてぴったりの装具ができて、おまえの小さな足にこれ以上傷をつくらなくなってくれたらいいのだが。おまえがまた図書館やスーパーの中を得意げに歩き回れるようになってくれたらいいのだが。

 Aが送ってくれた古謝美佐子の「黒い雨」を先日、買い物へ行く車の中で聴いた。歌詞だけを見れば一見何気ない(そして素朴すぎる)童歌のようだが、実はそうではない。とくに語りの入ったライブ・ヴァージョンがいい。「戦争」や「死」といった言葉はかけらもないのに、古謝美佐子が歌う「雨」や「空」といった単純な言葉から不条理な爆撃でボロ切れのような姿で息絶えた幼いこども、死んだ子を抱きしめる母親、草の根のような人々の慟哭といった光景がまざまざとつたわってくる。これは、歌の力だろう。夏休み中のうだるような国道。ハンドルを握りながら、わたしは危うく涙をこぼしそうになってぐいとこらえた。これは過去の物語ではないのだ。いま、まさに今日もこのような、気の狂わんばかりの無惨な不条理に身を顫わせ「黒い雨」に向かって叫ぶしかない大勢の人たちがいる。ああ、慟哭は天にのぼってしみとなるだろうか。しみがひろがってこの世のぜんぶを覆ってしまえばいい。

 「バイオポリティクス 人体を管理するとはどういうことか」米本昇平(中公新書・@840)を読み始める。

2006.8.6

 

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 休日。

 福島の友人Oより日本語変換ソフトATOK13(for Mac)とATOK15(for Win)が届く。わが家の古いATOKが変換中によくフリーズを起こすため、不要になったのを譲ってもらったのだった。一度すべてを削除し、インソールしなおす。これで直ってくれたらいいが。

 ついでにMacのキーボードもしばらく前からいかれている。ビールをこぼしたこともあったし、使用頻度からしたらよく持った方じゃないか。臨時的にウィンドウズのUSBキーボードをつなげて使っているが、キー配列が若干異なるのでやはり相当使いづらい。しかもMacでもOS9となると、対応できるタイプがいまやアップルでさえ販売していないのだ。こうした冷徹な旧環境ユーザーの切り捨てにはたびたび唖然とさせられ、ウィンドウズへの完全乗り換えも頭によぎるぞ。あれこれ調べて、やっと東京・秋葉原のMacwingというネット店で中古品を見つけ、注文を済ませた。4千円プラス送料700円を銀行振り込みで。

 夜は子のヴァイオリン教室があって遅くなるため、昼にわたしがカレーをつくっておく。スパイスはあれこれと入れているが、それ以外はごくオーソドックスなカレーだ。煮込みを終えてから二つに分け、子の分は甘口のルーを溶かす。

 昼食はシュウマイと軟骨の唐揚げなど。後者は子の大好物だ。食後にYが暑中見舞いの葉書を印刷するというのでイラストレーターの手ほどきをする。

 子が「モモちゃんとプー」を読んでくれるのを聞きながら、すこし昼寝。 

 バイクで近くの電気店へ行く。葉書のプリント用紙、CD-R、CDケースの不繊布専用ファイル、車のワイパーのウォッシャー液などを買う。

 夕方、ヴァイオリン教室。先生のピアノ伴奏のみの演奏を練習用に、持参したMP3プレイヤーのヴォイス・レコーディング機能で録音する。帰ってからパソコンに取り込み、CDに焼く。音はだいたい良い。あとは肉付け。メリハリ。

 子がYの実家へ電話する。おじいちゃんが畑で大きなカブトムシを捕まえた。虫かごに入れていたら次の日、脱出してテレビの上に這っていた。「それは雄? 雄なら角で持ち上げるから石か何かで重しをしておいた方がいいよ」「え? ゼリーをあげてるの。うーん、カブトムシはとくにジュエキが好きなんだよ。ジュエキの方がいいと思うな」

 職場のK氏よりCorinne Bailey Raeをお借りする。舌足らずで、アンニュイで、アコースティックで、ちょっぴりのジャズ風味とソウル風味。夏のBGMにはなかなかよいかも。

 台風は関東方面へ進路を変えた。ヴァイオリン教室の帰途に寄った生協の店先で子と二人、壮大な夕焼けをしばらく眺めていた。

 

(深夜、家人が寝静まった布団に並んで横たわり一人、MP3プレイヤーを耳に知名定男の「赤花」を聴く(ジントーヨー・ワルツ)。なんと優しく、切なく、哀しく、美しい調べなのだろう。わたしはほとんど心を奪われる。この調べの中でなら、わたしは生きられるような気がする。生まれ出て死にゆくことに身を委ねられるような気がする。死ぬことが消滅でないと得心できる。現実のその「距離」に、呆然として涙があふれそうになるのだ。)

2006.8.8

 

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 同僚のY氏がNHKテレビの特集の話をしてくれた。あるサバンナに年に一度、巨大な湿地帯が出現する。動物たちはその数千キロ離れた地へ大移動を始める。ゾウの子供が方向感覚を失い群とはぐれそうになる。ヌーたちが川でワニに襲われる。まさに水を求めて命がけの旅路だ。海水から川まで、水は早ければ10日ほどで地球を循環する。地上の生命を育む淡水は、この惑星のすべての水分のうちわずか0.3パーセントに過ぎないそうだ。一方でニンゲンどもはどうだろう。この惑星でいちばんでかい顔をして、狡猾で、残忍なニンゲンどもは、“「虚」が「実」を食い破る世界”(辺見庸・自分自身への審問)で奇怪なダンスを舞う。“「金融市場で一日に取り引きされる資金すなわちモノをともなわないお金は、モノをともなう世界の貿易額の百数十倍だそう”だ。“オンライン・ネットワークで資金を移動させて、キーボード操作だけで瞬時に何億ドルも儲けたりするのが、いわゆるT勝ち組Uの典型的なスタイルであり、いまの人々の見果てぬ夢であるとしたら、それこそが「妄」であり、現在は見わたすかぎり無辺際の妄の景色が広がりつつあるのではないでしょうか” いったいどちらが真に幸福なのだろうか。どちらが生命の充溢感に満たされ、躍動しているか。ボブ・ディランがかつてジョン・ウェインの西部劇「駅馬車」について語った言葉がその解題だ。「・・・偉大なフォークとロックンロールをもう聴くことはできないかも知れない。馬車がもうなくなってしまったようにね。確かに、馬車の方が車よりも魂がこもっていた。目的地に着くのに時間はかかったし、途中で殺されてしまうこともあったけれども」 やつらが差し出すものじゃない、もっとべつのモノをおれは望んでいるんだよ。そのためにならおれは、皮膚を食い破られるヌーのように命をかけたっていい。

2006.8.10

 

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 ダイアモンドのために働いているんじゃないぜ。大きな青いダイアモンドをあの子は欲しがった。でっかいダイアモンドには一人の男には背負い切れないほどの愛の物語があるんだろう。あの子はおれのもとを去っていった。大きな青いダイアモンドなどおれは欲しくない。おれが欲しいのはちっぽけな愛の物語だけ。いまならきっとあの子にも分かるはずだ。大きな青いダイアモンドより、ちっぽけな愛の物語の方が大切だってことを。あの子はおれのもとを去っていった。大きな青いダイアモンドなどおれは欲しくない。

2006.8.11

 

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 今日はね、図書館で停電があったの。みんな“あら、たいへん”って言っている中で、紫乃ひとりだけ何もなかったように本を読み続けているのよ。○○さんのカードもぜんぶ使って、たくさん本を借りてきて、わたしなんか一冊しか借りられなかった。

 わたしの窓辺に羽を休めた大鴉が憩う。いつかはどこかへ飛び立っていくのだが。そしてみな、いつかはやがて海辺の無数の砂の一粒に還っていくのだが。いまはわたしの窓辺に集い唄をさえずっている。

2006.8.12

 

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8月12日付・読売社説(2)

 [再生医療]「『倫理に触れない』万能細胞の登場」

 脊髄(せきずい)損傷患者の皮膚から神経細胞を作り、損傷部に入れて神経を再生させる――。そんな治療が実現するかもしれない。

 京都大再生医科学研究所の研究陣が、マウスの皮膚細胞から多様な臓器、組織の細胞に育つ「万能細胞」を作製することに成功した。

 人間もマウスも始まりは受精卵だ。受精卵は究極の万能細胞で、分化して体の様々な組織に育つ。だが、専門の細胞に分化すると、もう逆戻りできない。

 研究陣は、この時計の針を巻き戻す秘密を、世界で初めて探り当てた。カギは人間にもある四つの遺伝子だ。これを皮膚細胞に入れて培養し、「誘導多能性幹細胞(iPS細胞)」と呼ぶ万能細胞を育てた。拍動する心筋もできた。

 画期的な成果だ。哺乳(ほにゅう)類の細胞を操作し、きれいに「リセット」できることを実証した。研究陣は人間の細胞でも実験に挑んでおり、成果が期待される。

 従来、再生医療用の万能細胞として脚光を浴びてきたのは「胚(はい)性幹細胞(ES細胞)」だ。受精卵から取り出す。

 世界各地で盛んに研究され、日本でも京大の別の研究陣がES細胞の作製に成功し、利用研究が進められている。

 だが、「生命の萌芽(ほうが)」とも言える受精卵を壊す操作が必要で、倫理的な批判が根強い。欧州では、ドイツなどがES細胞の作製を認めていない。

 米国でも、政府予算によるES細胞研究は規制されている。先月、緩和法案が連邦議会で可決されたが、ブッシュ大統領が拒否権を発動し、頓挫した。

 今回のiPS細胞なら、こうした問題は起きない。研究者を悩ませてきた再生医療の倫理問題を回避できる。

 患者自身の細胞から治療用の細胞を作れる点も強みだ。他人の受精卵から作るES細胞と違って、治療で体内に入れても拒絶反応が起きない。

 これまでも、拒絶反応回避のため、患者の細胞と未受精の卵子から、クローン技術でES細胞を作る試みはあった。だが、実施が認められている英国や韓国でも成功していない。日本政府も解禁の方針だが、指針作りが難航している。

 ただ、iPS細胞が出来ても課題は多い。なにより万能細胞から治療用細胞を作る技術が、まだ初歩段階だ。治療用細胞が暴走し、がん化する危険もある。

 再生医療は、期待ばかりが先行している。iPS細胞を含め、研究は手探りの状態だ。実験に成功しても仕組みは不明の例が多い。基礎研究が足りず、将来的に、実用化の障害になりかねない。

 政府は、制度整備でも研究でも、多彩な挑戦を支援していく必要がある。

(2006年8月12日1時31分読売新聞)

http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20060811ig91.htm

 

 もしこの治療法が確立すれば、あるいは子は健康な身体になるやも知れない。実験のくりかえしと法をはじめとした様々な環境整備。おそらく実用化まではまだ10年、15年はかかるだろう。15年として、その頃には子は21歳だ。すでに多少の骨の変形は成っているだろう。移植した筋肉のバランスもどうだろうか。排泄の機能は快復するかも知れない。

 今日からYは子を連れて和歌山の実家へ。

2006.8.14

 

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 Yも子もいない8月15日の朝。61年前にこの国の戦争が終わった夏の日。いまもどこかで無垢な幼子がぼろ切れのように殺されていく夏の日。わたしや子が生まれ、父が死んだ夏の日。朝起きて昨夜の弁当箱などを洗い、「万能細胞」の新聞の切り抜きをスクラップし、コーヒーをいれて、ベランダで煙草をくゆらせ立ちつくす。公園の雑草の一筋一筋までが見えるようなクリアな夏の陽光。天地から沸き立つような蝉の声明。浅黄色の空の下にしずかに隆起している二上山、金剛山。目を閉じればまなうらに映るのはまたべつの映像だ。ジョニー・キャッシュが囚人たちにジョン・ヘンリーの物語を歌っている。ジョン・ヘンリーは山にのぼった。べらぼうに高い山のいただきに、だ。この鋼(はがね)をゆすって打ち込んでやるとやつは言った。死ぬ前に冷たい水をくれ。死ぬ前に冷たい水をくれ。風は凪いでいる。背の高い街路樹の枝葉がまるで透き通っているように見える。むかしどこかの詩人が、木のなかにはいる、と記した。光がきわまればものはみな溶けていくのかも知れない。ことごとくが溶解して光の充溢だけがただまなうらに映っている8月15日の朝。

2006.8.15

 

 

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 昼に職場のK氏が来宅。パッション・フルーツをはじめ主に沖縄周辺の珍しい山野草をたくさん頂いた。はたしてわが家で管理できるのか。後日に詳細マニュアルをメールで送ってくれるそうなので、またそのとき転載したい。山野草愛好家はお楽しみあれ。それと沖縄バヤリース製・シークワサー入り四季柑の原液ペットボトル500mlも頂いた。これは料理や焼酎割りなど、いろいろ使えそうだ。わたしが昼食のパスタをつくっている間、K氏にはかねてから懸念だったウィンドウズ・マシンの周辺機器USB接続の不具合を修正して頂いた(切り替え使用のハブで周辺機器をマック・ウィンドウズ間で共有する試み。プリンタとスキャナは無事つながったが、46ギガの外付けハードはフォーマットが両者で共有できるものがあるかどうかでつまずいている)。午後からはK氏の車で矢田丘陵の「子供の森」へ。人気のない散策路の奥の展望台で心地よい山風に吹かれながら植物をめぐる様々な話。暗くなりかけた頃に下山し、通りかかったはじめて入る市内の広東料理店で夕食。席につき、メニューを眺めれば、お盆期間中は通常のメニューは停止で最低3500円のフル・コースしかないと判明。ここは腹をくくって食うしかないと、二人してなけなしの小遣いをはたいてフル・コースに舌鼓を打ったのであった。8時半頃に帰宅。K氏は二上山のあちら側へと帰っていかれた。よい休日だった。

2006.8.15

 

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 では「兵士の死」とは太平洋戦争の場合、どのようなものだったのか。多くの人は戦闘による死をイメージするだろうが、実態は異なる。陸海軍人の死者は約240万人だったが、そのうち実に7割が餓死だった。食糧の補給がなされず見捨てられた、無惨にして無念の死である。

 彼らを見捨てたのは誰か。軍中枢の大本営、つまりは日本国家だ。その数、実に160万人以上。「英霊」のこうした悲惨な実態は、ほとんど知られていない。

 もう一つ、大事な数字がある。軍人の約240万の死者のうち、遺骨が戻ってきたのは124万5千人にとどまっている事実だ。残りは今もジャングルにで野ざらしにされている。これもまた、「戦争犠牲者」の実態である。

半藤一利・戦争と追悼 歴史から考える(朝日新聞2006年8月15日より)

 

 つまり「靖国神社」というのは御霊神社なんだな。飢えでもがき苦しみ狂気の果てに死んでいった無数の怨霊を国家は「英霊」として祀らねば安堵できない。そのために「靖国神社」は必要なわけだ。

 「国のために命を捧げた人を追悼するのがどうしていけないんですか?」 8月15日の「靖国神社」で無邪気に問い返す若者の、その想像力の哀れなほどな貧困さよ。いちど餓えて死んでみたらいい。

 「○○一等兵の怨霊 ここに眠る」とぶっとい手製の卒塔婆を抱え戦友の墓のわきにそれをぶっさし飯盒を炊いていつもでも瞑目する奥崎謙三。皇居前広場で「天皇はおれの前で土下座しろ」と孤独に叫ぶ奥崎謙三。かれの生き様が戦争だ。2005年に死んだかれは、いまごろきっと地下で将門を凌ぐ大怨霊と化しているだろう。国は早急にも「奥崎神社」を創建して手厚く祀らなくてはなるまいて。

 

2006.8.16

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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