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  届いたぜ、「日録・大杉栄伝」(大杉豊・社会評論社)。収入の途絶えたこの時期に5千円近い書物購入はどうかと迷ったが、じつに生々しくてこころふるえ る。やはり買って正解だった。正月はこの500頁もの大部をめくりながら、腐臭に満ちたあべこべのこの世界を覗き見る視力を養うこととする。

2022.1.1
 
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  新年二日目。母親とお節づくりに奮闘してエネルギーを使い果たした娘を置いてつれあいと二人、和歌山県岩出市のケアハウスにいる義父母に会いに行く。奈良 のわが家からしたら、和歌山市よりさらに南へくだる実家よりも無料の京奈和道で一時間少々、だいぶ近くなった。コロナ対策のため相変わらず玄関の自動ドア で挟み込んだ透明スクリーン越しでの会話は、補聴器を使っている義父はとくに話しづらい。しかも別の面会者が来たらそこそこで譲らなければならないので、 あまりゆっくりと話も出来ない。通常であればわたしたちも部屋に自由に出入りできて、いっしょにご飯を食べたりもできるのだが、コロナが奪った貴重な時間 はほんとうに恨めしい。つれあいが今回持って行ったのは、娘といっしょにつくって百均で買ったプラスチックのお重に詰めた二人分のお節、義母の好きな菓子 折り、バナナ、百均で買ったカチューシャ、そして義父に時代小説の続編三冊。帰りがけに紀ノ川インター近くに、娘とは漢字は異なるけれど「志野(しの)神 社」というのがあるので、初詣で寄ってみた。小さな祠のような社かなと勝手に想像していたらなかなか立派な社殿で、出産時にイザナミの陰部を焼いて死なせ てしまった迦具土(カグツチ)命が祭神であることも面白いし、古代この社に仕えた小竹祝にまつわる「阿豆那比(あづなひ)の罪」が物語る同性愛と反逆の考 察も興味をそそる。そしてこの「しの神社」でひいたおみくじが、たぶんわたしの生涯ではじめての「大吉」であったことも報告しておこう。
2022.1.2
 
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  仕事を辞めてから朝寝坊ばかりしているわたしに、朝いちばんの太陽の光を浴びるとひとの精神が整えられるから、これからわたしが仕事の休みの日はいっしょ にジップと日の出を見に行きましょうとつれあいが誘う。で、昨日につづいて郡山城天守台からの日の出。シルバー人材のおじいさんが展望台をモップで丁寧に 掃除している。つれあいが寄っていって「こんなふうにお掃除してくれているから、いつもきれいなんですね。ありがとうございます」と話しかけると、小柄な おじいさんは「いや、まあ」と照れ笑いを返す。わたしにはこういうセリフはぜったい無理で、だから彼女のおかげでわたしはかろうじて世間とつながっていら れるのだった。わたしはジップのリードを持って、まだ眠い目をしばたきながらのぼってきたぷよぷよの卵の黄身のような太陽をみつめている。つれあいは天守 台付近ですれちがう見知らぬ早朝の散歩者にも「おはようございます」と明るく声をかける。天守台から降りて、島村先生が明治ー大正期に通った郡山高校の裏 手の鷺池へまわるとたくさんの鴨が水面をすべっている。朝のひかりがその鴨たちに無尽蔵にふりそそいでいる。
2022.1.4
 
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  墓に、参る。花を立て、線香に火を点け、手をあわせて瞑目する。そのとき、意識はどこへ向けられているか。地表に立った石塔(墓石)ではないか。だから墓 石を磨いたり、水をかけたりもする。地下の納骨スペースに収納された遺骨ではなく、目の前の墓石がまるで故人であるかのようにわたした ちは振る舞い、ときに墓石に話しかけたりするわけだ。そして「お墓」といえば、わたしたちはその墓石を想起する。ところがその墓石(石塔)の下に、かつて 死者たちは 眠っていなかった。

  「墓」がカロウトとよばれる地下の納骨スペースを持つようになったのは、ごく最近のことだ。いや、そもそも「墓」が、わたしたちがふつうに思い浮かべ るような墓石を持つスタイルになったのも、じつはそれほど長い歴史を有しているわけではない。鎌倉時代に作成された「六道絵」のひとつ「餓鬼草子」には、 平安〜鎌倉時代にかけての墓域の様子が描かれている。火葬した遺骨を埋葬して石を積み上げた「集石墓」が二基、土葬部分を土盛りした「土坑墓」が三基。そ のうち石塔である五輪塔が置かれているのは一基だけで、残りは卒塔婆や、ささやかな樹木が植えられているにすぎない。さらにその間には蓋の開いた木棺の遺 骸が一体、野ざらしの遺骸が三体横たわり、餓鬼や獣たちに食い散らかされている。京都の東山や化野の異界には、このような光景がひろがっていたのだろう。 出典は失念したが、京都の公家か誰かがじぶんの伯父の墓を探したが、すでに卒塔婆も朽ちて場所が分からなくなっていたという日記のくだりを読んだ記憶があ る。「墓」はやがて不明になるもの、であった。

 柳田民俗学によって定着した日本社会の「霊肉分離の観念」(「一定の年月を過ぎると、祖 霊は個性を棄てて融合して一体になる」先祖の話)の説明として、村はずれの遺体の埋葬地点(埋め墓)と集落内に設けられる石塔(参り墓)を有する「両墓 制」がその典型例として位置づけられてきたが、「「お墓」の誕生 死者祭祀の民俗誌」(岩波新書)で岩田重則はそれに疑義を呈している。地下のカロウトに 一族 縁者の遺骨が並べ置かれる現代のスタイルになる以前の「墓」は、火葬であれ土葬であれ、石塔(墓石)の下に遺骨はなかった。従来でいう「両墓制」のような 離れた場所であれ、墓石の隣接地であれ、遺体や遺骨の埋葬地点とは異なる地点に、しかも時間的な隔たりの後に石塔は置かれた。埋葬の後に、何らかの事情で 石 塔が置かれないままの場合もあった。柳田民俗学がいう「固有信仰」としての先祖祭祀の象徴である石塔(墓石)が日本の墓制の歴史に於いて現れるのは近世以 降、 2004年の「大和における中・近世墓地の調査」(国立歴史民俗博物館)などによれば、現代の「お墓」につながる「石塔一基における複数死者祭祀」の角柱 型石塔が出てくるのが1800年頃からであるから、わずか200年程度の歴史しか持たない。「“固有”と呼べるほどの歴史的蓄積がないことはいうま でもない」と岩田は前掲書で記している。

  岩田はさらに出棺から埋葬地への葬列、墓掘り、埋葬後に土をかけた上に枕石や草刈り鎌を置き、割り竹や玉垣でそれらを囲うような設営がすべて集落内で選ば れた「葬式組」によって行われ、そこに僧侶の関与が一切ないことに着目する。キリシタンの取り締まりのために寺檀制度として「宗門人別帳」などの寺単位の 登録簿が整備されていくのは江戸時代、前述した石塔(墓石)の出現や変遷の歴史と重なる。「いわば、この遺体埋葬地点の世界は非仏教的存在であった。「葬 式仏教」の言葉に代表さ 考えてれるように、もともとは外来文化である仏教が葬送儀礼を通して民間へ浸透していることは確実であるが、その「葬式仏教」に よって浸潤されていないのが、この遺体埋葬地点の世界であった」(「「お墓」の誕生 死者祭祀の民俗誌」)  柳田民俗学は石塔(墓石)に日本社会固有の 「霊肉分離の観念」を見たわけだが、岩田は石塔以前、「「葬式仏教」によって浸潤されていない」遺体埋葬地点の世界に仏教以前からの死霊祭祀の名残りを見 ている。

 1936年の「岡山県下妊娠出産育児に関する民俗資料」(桂又三郎)は、出産前あるいは出産直後に死んだ嬰児の埋葬地に床下・ 軒下・土間などの家屋内が多いことを記録している。「死産は男の子の場合は家の入口の内側へ、又女の子の時は入口の外側へ埋めていた。又家の軒下へ埋める こともあった」(小田郡新山村) これはたとえば縄文時代の住居跡の入口付近にしばしば「甕の形をした深鉢形の土器」=埋甕が見つかることと酷似してい る。「それによると当時の人たちは,死んで生まれたり,あるいは生後すぐに死んでしまった赤ん坊を特別に憐れんで,住居に住むその母親がいつもまたいで通 る場所に,逆さにした甕に入れて埋葬した.そうすればその甕の上を母親がまたぐときに,死んで埋葬された子の魂が股間から体内に入って,また妊娠し生まれ てくることができると信じられていたからだという.母の胎内に帰りまた生まれてほしいという願いを示す一種の呪術的行為と考えられる」(渡辺誠「再生の祈 り―祭りと装飾」)。  アイヌの人々もかつて、同じような理由から「幼児の遺体は大人とは別に家の入口のところに埋められ,人がよく踏むようにして,早 く次の子になって再生することを願って葬られ」た(梅原猛「縄文土偶の謎」)。

 またムソバという共同墓地への埋葬が行われていたという 記述もある。ムソバというのは「他国の変死人及び犬猫等総て其場限りにて後を弔わないものを葬る場所」である。これらは「江戸に流入してきた庶民の埋葬実 態が示されている」という東京・新宿区「黄檗宗圓應寺跡」にて発掘された非檀家の「墓標なき墓地」の光景と重なる。それは「狭隘な空間に重複して埋葬さ れ、副葬品はほとんどなく「早桶」に入れられ」、「木製の卒塔婆はあるが、石塔は建立されていない。いわゆる「投げ込み」同様」の墓域である。出産前後の 嬰児はそのような場所に、寺の過去帳や人別帳に記載されることもなく葬られた。これらはまた前述した「餓鬼草子」の中世の墓域の光景にも似ていないだろう か。岩田は「こうした子供の墓の現実を見たとき、子供の墓には、石塔が建立されるようになる前の、日本の墓制が残存していたと考えることができそうであ る」と記している。

 僧侶の関与が一切ない埋葬地点の世界は仏教以前の中世、場合によっては遠く縄文時代まで遡るかも知れないこの国の人 々の死霊祭祀の残滓を宿していた。一方でわたしたちが一般的に「お墓」であると認識している石塔(墓石)の世界は、「もちろん中世には存在せず、近世に発 生した石塔からの発展形態であった。近世社会からの連続性の上に成立してはいるものの、近現代社会で形成されてきているものであり、それは、現在進行形で ある。このような「お墓」の形成をめぐる歴史的現実を見たとき、「お墓」とは前近代的残滓でもなく、はたまた、伝統的といえるほどの生活習慣でもなかった ことは明らかであろう」。 「そして、こうした現象の背景には、近世社会の政治支配の影響、近世幕藩体制下における「葬式仏教」の浸透による「〇〇〇〇居 士」「〇〇〇〇大姉」、あるいは「〇〇家先祖代々之墓」「〇〇家之墓」と刻まれた石塔の普及があった。いわば、一般的常識における現代の「お墓」とは、 「葬式仏教」の浸透および近世の政治支配の残影が、生活世界に巣食っている現象にほかならないともいえる」。

 考えてみれば天皇制神話、 国家神道、靖国神社、天皇陵、わたしたちは「“固有”と呼べるほどの歴史的蓄積がない」古びた衣装にどれだけ惑わされていることだろう。わたしたちが一般 的に思っている古い慣習やしきたり、文化、歴史のなかには、じつはそうでないものが多く混じっているのかも知れない。「お墓」同様に、それらは案外とあた らしいもので、現在進行形である。古そうに見えるものは、ときに「日本固有の歴史的蓄積」の衣装をまとい偽証する。歴史を偽証するものは政治的なたくらみ を持っている。

 わずか二〜三百年の「お墓」(石塔)の歴史をばらしていけば、そこにはキリシタン禁圧に端を発して整備された権力者によ る民衆の支配体制が透いて見えてくる。戸籍や檀家制度、付随する「葬式仏教」に寄生してきた坊主たちなどがそれだろう。それらを無自覚に、日本人固有の歴 史的蓄積を有する古くからの慣習として受け入れているわたしたちがいる。全国で「〇〇家先祖代々之墓」の墓が維持できなくなり、墓仕舞いが流行り、葬式や 埋葬が多様化しつつある現在において、「お墓」の在り方とともに、歴史を偽称するものたちについて再考することは良い機会かも知れない。
2022.1.5
 
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 その、ある不安の感、とは、ではどんなものなのか、と問われ れば、ここでも私はふたたびもみたびも、長明とともに、

 古京はすでに荒(れ)て、新都はいまだ成らず。ありとしある人は皆浮世の思ひをなせり。

  としか言えないのであるが、古京、すなわち戦時下の、あるいは明治以後の近代日本において、よくもあしくも、とにかくにも必然として持続して来たものが、 前途の、それも遠からざる前途のある日においてついに必然でも自然でもなくなる、その断絶、亀裂が如何なるものであるか、しかもすでに、その必然は、日々 に薄くなり、それは必然としての歴史推進力を失っている、とそう気付いたときの、ある不安の感は、私にとって、何かの輝光によって眼を冥(くら)まされた ような、あるいはじっくりとした、鈍痛のような衝撃であった。(中略)

 戦時下の、当時において私が考ええた“新たなる日本”とは、煎じつめて言えば、要するに天皇なき日本、という、ただそれだけのものであった。

 古京はすでに荒(れ)て、新都はいまだ成らず。ありとしある人は皆浮世の思ひをなせり。

 長明から私がうけた第一のものは、このような歴史感覚、歴史観、歴史というものの実在感、(私は実存ということばを好まないが、歴史そのものの実存性と 言ってもいいであろう)、歴史というものがあるからこそわれわれ人間がもたなければならぬ不安、というものであった」

堀田善衛「方丈記私記」

2022.1.7
 
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   Webでたまたま見つけた小論「木津観音堂と木津郷惣墓」(田中淳一郎)を読んだら、にわかに現地をあるいてみたくなった。その周辺だけだと1〜2時間 で済んでしまうので、せっかくだから自宅からあるいていこうか。郡山から木津まではJRではわずか三駅(郡山=奈良=平城山=木津)だ。グーグル・マップ で計測すると約12キロ、徒歩2時間半くらいの行程か。ちょうどいい。城下町をぬけて奈良口のむかしの街道筋の出口で、いままで気づかなかったが地蔵堂の かたわらに「招魂碑」を見つけた。昭和43年建立、18名の名がならんでいる。中支、ソロモン諸島、ルソン島、満州、比島、マリヤナ島、ミンダナオ島、ダ バオ島、ビルマ、北支。題字の「大僧正凝胤」は当時、薬師寺長老だった橋下凝胤(ぎょういん)だろう。かれは薬師寺の奥の院にあたる龍蔵院にあった頃、六 条のハンセン病施設・西山光明院の最後の患者だった西山なかを看取っている。その薬師寺の東西の塔や唐招提寺の森、県の戦没者慰霊公苑などを横目に都跡の 集落をぬけて三条大路に出る。かつてセキスイの化学工場があった広大な敷地が更地になり、いつの間にか平城京跡の駐車場として整備されている。ここには敗 戦後の一時期、米軍向けの巨大な歓楽施設「奈良R・R・センター(NARA Rest And Recuperation Center)」があって、周辺には米兵相手のあやしげな店がたちならびパンパンと呼ばれた売笑婦がたむろったが、それを記憶する人はいまはほとんどいな い。ひさしぶりに朱雀門から大極殿へとかつての政治中枢のうつろに広大な痕跡をあるく。わたしがこころを寄せるのはけれど、もっともっと周辺の都も果てた 外縁を粗末な衣に身を包みただよっている人々だ。佐紀町の交番前から歌姫街道へ。奈良時代には平城京の中心・朱雀大路から京都の木津・山城へつながる主要 な街道だった。歌姫の名は「平城京の宮中で踊り、雅楽を演奏する女性たちがこの街道沿いに住んでいたことを示す「雅楽姫」にちなんだもの」ともいわれる が、都の真北に位置するこのあたりは巨大な古墳群が群れを成しさながら王家の墓域といったエリアだ。観光ルートからはなれている集落中央の添御県坐(そう のみあがたにます)神社のもともとの祭神は記紀には登場しない武乳速命(タケチハヤノミコト)。富雄の三碓にもおなじ添御県坐神社があり祭神もやはり武乳 速命であるが、古老の伝えではこの武乳速命は神武に滅ぼされた長髄彦だという。やはりどこか、敗者の匂いを否めない。集落をはなれて道はやがてのどかな山 あいの下り坂になるが、すぐにならやま大通りをくぐって朱雀・右京の住宅地へ入って行く。山を削って開発された新興地に沿った緑の多い遊歩道をすぎるとだ だっぴろい農地がひろがり、京都と奈良をむすぶ高速道路の高架がよこたわっている。ここから先は京都府木津川市。後付けのバイパスはあるいていても面白み がないので、皿池の北端からゆるやかにカーブする鄙びた松山川の堤をすすむことにする。鮮やかな鈴をぶらさげた蜜柑、そして無患子(ムクロジ)。ぶらぶら と1キロもあるけば、そろそろ目的の木津の町の西のはずれに到達する。予定通り、ここまでちょうど2時間半。時刻は1時。山松川をはなれて町中へ東進する と白山宮があり、「木津町役場跡」の石碑を抱いた中央図書館がある。交差点を左折すれば「木津城破却後の近世初頭にできた三代目の奈良街道」という軒の低 い家並みがつづく。学園都市線の線路をまたぐと、自治会で維持・管理している無住の小さな寺の本堂裏に和泉式部の墓がある。もっとも和泉式部の墓とつたわ るものは全国にたくさんあるらしい。植込みのなかに「関東但馬丹後大震火災死者 大菩提」と台座に刻んだ大きな石塔があって、写真を撮っていると近所の人 らしい老婆が立っていて立ち話をする。どこから来たのかと問われて、郡山からあるいてきたと答えると、小柄なばあちゃんは大層のけぞって驚いてみせた。奈 良の御所から嫁いできた、向こうに実家の家もあるが空き家で、墓参りもこの頃は行けていないと言う。ばあちゃんと別れてからそのまま道を東にすすみ、国道 24号線の高架をくぐればじきに木津川の土手だ。JR奈良線と土手がクロスする斜面の下の民家の向かいに平清盛の五男・重衡(しげひら)首洗池がひっそり と佇んでいる。頼朝はこの重衡が気に入って助命するつもりだったようだが、東大寺・興福寺焼き討ちの首魁として南都の坊主たちから引き渡しをせまられ、 けっきょく重衡は木津川の河原で斬首され、首は奈良坂の般若寺にさらされた。29歳。たぶん奈良坂の非人たちも手伝わされたのだろう。先日は水俣病の講演 を聞きに行った滋賀の野洲市でも清盛の三男・宗盛(むねもり)の胴塚及び首洗池を見たが、どうもこのごろ首洗池に縁が深い。心無し、首が寒い。ところで昼 も疾うに過ぎ、いい加減お腹がぐーちゃんだ。ふたたび国道をくぐって、木津の中心部へ向かう。警察署の前を通り、目指すは木津川市役所の向かいの大黒軒な る定食屋。四人掛けのテーブル席が六つ。奥のカウンターの下の板戸がひらいて、障害物競走のように店主がそこをくぐって出てきた。メニューはじつにリーズ ナブルでわたし好みだ。スパゲッティ350円、親子丼400円、オムライス500円、ほとんどが500円前後だが、そのなかで3千円のビーフステーキだけ が異様な存在感を放っている。サービスランチ600円も誘われたのだが、ちょっと今日は重いなと思って、肉丼500円を注文した。10分ほどしてこんどは おばちゃんがカウンター下の秘密基地から出てきて配膳してくれた。肉丼は牛であった。素朴に旨い。木津に来たら、また来よう。そしてこんどは並ランチ 600円とサービスランチ600円の違いを解き明かすのだ。愛しの大黒軒から百メートルも南へくだると小さな水路が東西に流れている。応仁の乱から山城国 一揆に至る文明年間(1469−87)、木津氏によって町を取り囲む形で「木津庄カマエ」が構築された。水路はそのときの「木津郷の南を限る環濠として開 削されたもの」で、その外側に墓域が形成された。これが今回の目的地、じつに七百年もの歴史を有する木津郷惣墓の北端である。けれど木津郷惣墓は、いまは ない。明治の末に町の東側の丘陵地に移されて東山墓地となり、ここにはわずかな五輪塔と石仏だけが残されている。水路をたどって西へ向かうと、やがて高い 煙突が見えてくる。市営の共同浴場「いずみ湯」だ。「昔はここに長福寺といふ寺があったさうで、楊谷地蔵と称する石仏の北西に現在風呂屋があるが、その風 呂屋のところが、その長福寺の観音堂にあたるさうである」(古老の伝) 長福寺は「墓寺」であった。「墓寺」とは本寺もなく住職もなく檀家もなく、ただ墓 と葬祭のためだけの施設で、かつては観音堂のほかに「十王堂・龕前堂・辻堂・火屋・焼場を備えて」おり、長福寺の僧のほか「埋葬に携わる「煙亡」と俗称さ れる三昧聖や、「番人」「非人」と呼ばれて、死者の監視にあたるひとたち」も居住していた。しかも宿場町であった木津には巡礼や旅の途中での行き倒れ人な ども多く、それらの弔いも併せて木津郷の人々が村として管理をしてきた。木津郷の庄屋であった岡田家には「大割諸入用割賦帳」なる郷全体の運営に関わる費 用の支出状況の記録が残っており、そのなかで「観音堂」関連の記事として行き倒れの者の葬儀や病人の看護などが事こまかく書かれている。「二月十二日 一 七匁五分 千源四郎 右ハ旅人行倒レ者取片付之時、寺送リ引導札、煙亡・番人ヘ遣ス、入用附出ス」  いずみ湯の敷地の南側の角には巨大な「木津惣墓五輪 塔」が、住宅地のなかでかつての惣墓の名残りをつたえている。説明版によれば、いちばん古い東面の刻銘には正応5(1292)年が刻まれ、伝承では木津川 の氾濫で死んだ人々の供養のために建立されたものだという。わたしが見たかったのはその背後にならんだうちの一体、素朴な室町時代後期の十一面観音石仏で ほとけの腰あたりに「観阿弥」の銘が刻まれている。つまり阿弥号を名のる念仏聖が居住していた証しで、あるいはこの十一面観音石仏が観音堂の本尊ではな かったかとも推測されている。わたしは石仏の前にひざをついて、その「観阿弥」の文字をなつかしく指でなぞる。しばらくあたりをうろついて古い家と今風の 明るい色合いの新築の家々が建ち並ぶ閑静な住宅地にかつての惣墓のまぼろしを探した。井関川の堤から惣墓の南側をなぞるように東進して、最後に木津城址公 園の麓の丘陵地の東山墓地へ向かった。公園と住宅地にはさまれた坂道をのぼっていくといきなり、無数の苔むした無縁墓が壁のようにそそりたっていた。もの すごい数で、これらはみな木津惣墓から移設されたものだ。七百年もの時間に横たわる死者たちの記憶。かつて木津惣墓で使われていたのだろう、棺台を前にし て立つ明応3(1494)年銘の地蔵石仏がなんともいえない未知の力でわたしの臓腑をわしづかみにする。それから時代は450年くだり、これもまた無数の 不条理な死を強制された死者たちの軍人墓の数々。木津の町並みを見下ろすひと気のない墓地に立ってわたしはなかなか駅へ至る坂道をくだっていこうとはしな かった。いまはこの世でまったくの無価値であるじぶんにもし行く場所があるとしたらそれは墓地くらいであろうというものだ。
2022.1.8
 
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  朝めしを喰い寝て、昼めしを食い寝て、一日中寝て暮らして、夜に映画「金子文子と朴烈」をGYAOの期間限定無料動画で見る。Amazonで金子文子の獄 中手記(岩波文庫)を注文する。「生きるとはただ動く、ということじゃない。自分の意志で動く、ということである。したがって自分の意志で動いたとき、そ れがよし肉体を破滅に導こうとも。それは生の否定ではない。肯定である」 おまえは生きて在るか。
2022.1.10
 
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  中学で不登校になり、通信制の高校へ転入してから6年。吐き気や頭痛や鼻血やもろもろの体調不良と闘いながら、そして学校側も既定の単位が取得できるよう に、とくに娘が苦手な不特定多数での授業や野外活動を別の形に変更してくれたりして、ようやく卒業のゴールが視界に見えてきた。レポートの提出は完了し て、既定の授業はあと一時間、それとホームルームを一時間受けたら、残すは卒業試験のみとなった。本人は最終的に大卒の資格を得て、母親と同じように図書 館司書の資格を取って、できれば役所の障害者枠にて図書館勤務ができたらと考えている。追々は車の免許も必要になってくるだろう。

 パン デミックが起こる前に、市内で計画されている子ども食堂を手伝いたいと言っていた娘であったが、その子ども食堂の舞台となる市内の障害者自立支援施設 (NPO法人)の就労継続支援B型で働きたいと言い出したのは父親が仕事を辞めてしまい、今後家の経済が苦しくなると思ったからかも知れない。「B型」と いうのは正式な雇用契約を結ばない、いわば就労訓練を兼ねたお手伝いのようなもので、賃金も時間給換算で最低賃金を下回る。その分、就労時間も短く、正規 の雇用とは異なって体調が悪いときは休んだり早引けしたりが比較的自由なので精神的負担が少ない。

 それでいちど母と共に見学をさせても らおうと予定していたところ、学校や県の居場所づくりの送迎を時々頼んでいる介護施設アイさんが聞き及び、どちらかというと知的障害などの重い障害を抱え た人が通うB型より、娘がよかったらアイさんがやはり市内でやっている障害児の相談支援センターの事務的な仕事を手伝ってくれないかと声をかけてくれた。 その支援センターでは現在、娘の送迎を担当してくれている女性のNさんと共に働くことになるのだった。娘の方も異論はなく、先日は家族三人車で場所を確認 しに行ったりして、何やらとんとん拍子で卒業後のとりあえずの行き先が決まった。

 そして母親の方は来年、図書館勤務が定年を迎えるた め、介護か社会福祉の資格を取って、できれば娘のような引きこもり等の子どもたちに関わる仕事がしたいと考えているのだが、これまたわたしの失職に伴って 少しでも家計を補うためにと、そもそも娘が行く予定にしていた自立支援施設の理事長さんやらに、紹介してくれた共産党のKさん経由で売り込みをして、近々 子ども食堂も始めることになるお弁当部門で週一回、主に図書館が休館日の火曜日に働くことになったのであった。弁当の調理・仕込みの作業だが、そこで働く ことで自立支援の仕事にも関われるかも知れないから、という思惑である。それらをしながら、通信教育で社会福祉の受験資格を取ろうと考えているらしい。

 そんなわけで、わたし以外はみんないろいろとあたらしい風が吹き始めていて、まことにもって良いことである。
2022.1.14
 
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  おそろしいほどの沈黙に凍りついた深夜の無縁墓地の地中で百年前の腐爛屍体が語るのを耳にするやうだ。国家によってあらゆるこの世の股の間からひりだされ た悪意によってわずか22年6カ月のいのちみずからを縊らねばならなかった金子文子が獄中で記した大部の自伝的独白「何が私をこうさせたか」を読みながら わたしはそう感じて仕方ない。遺骨は朝鮮半島へと運ばれたが刑務所担当官によって地下4尺の湿地土中に埋められた彼女の腐爛屍体はこの国の大地の薄暗 い地下茎に在って水でぶよぶよにふくれあがった唇を突き出していまも物語っているのだその涅槃経のようなつぶやきが聞こえるか。彼女が語る幼年期からのじ つに微に入り細に入りの豊かな回想はわたしに百年の歳月を忘れさせまた彼女が百年前に縊れて死んだことすらも忘れさせる。2022年のしみったれた冬を生 きるわたしの耳元で彼女は髑髏(しゃれこうべ)になったりさみしい瞳を持った少女になったりまた土中の腐爛屍体になったりとさまざまに変化するのだ実際そ れが不思議でならない。時がひとを隔てるというのはまやかしであってわたしは百年前に死んだ彼女と実際会話しているのではないか互いにきれいな白装束で背 と背をあわせ腰をおろした三途の河原のような異界で。わたしたちはあれからずっと別れたきりだった遠い世紀を。「無籍のものとはな、いいかい。無籍者とは 生れていて生まれていないことなんだよ」 つめたい股の間からひりだされた悪意にそう言われてわずか10歳の彼女は抗うのだこの世のすべての悪意に生れて いて生まれないことだと言ってもわたしは生れて生きていたのだと。彼女がいまも腐爛屍体としてこの国の土中にいるのならわたしも腐爛屍体となって物語ろ うと思ふ。彼女が百年前を生れて生きているのだとすればわたしは百年後を死んで死にゆきながら語るのだきれいな骨にもならずきっとそうしてやる。たれかそ れを聞け死者であっても生者であっても生首であっても良い。
2022.1.14
 
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  金子文子「何が私をこうさせたか」を読了する。獄中記とあって当初は薄っぺらな、勿体ぶった主義主張をちりばめた文章を勝手に予想していたのだが、もっと いじましくピュアでまっすぐな、そしてさしずめ宝島や巌窟王を読んでいるかのような読み心地であった。父親が籍を入れなかったために「無籍者」として両親 から棄て られた彼女は、横浜、浜松、山梨、朝鮮半島と親類の家々をたらいまわしにされ、小学校すら満足に通わせてもらえず、酷使され、差別され、その絶対の不条理 を耐え忍びながら、まさに底辺の生活をこ ろがりつづけるわけだが、そのなかで肉親や教師や寺の坊主や商人を通して世の中の欺瞞、搾取、弱肉強食と愛のない糞ったれの社会システムを自覚してい く。彼女は記している。

  実際私はこの頃、それを考えているのだった。一切の望みに燃えた私は、苦学をして偉い人間になるのを唯一の目標としていた。が、私は今、はっきりとわかっ た。今の世では、苦学なんかして偉い人間になれるはずはないということを。いや、そればかりではない。いうところの偉い人間なんてほどくだらないものはな いということを。人々から偉いといわれることに何の値打ちがあろう。私は人のために生きているのではない。私は私自身の真の満足と自由とを得なければなら ないのではないか。私は私自身でなければならぬ。

 私はあまりに多く他人の奴隷となりす ぎていた。余りにも多く男のおもちゃにされてきた。私は私自身を生きていなかった。

 私は私自身の仕事をしなければなら ぬ。そうだ、私自身の仕事をだ。しかし、その私自身とは何であるか。私はそれを知りたい。知ってそれを実行してみたい。

 1922(大正11)年、19歳の頃の描写である。そして運命の朴烈と出会った彼女は、こう記す。

 何ものか私の心の中で跪(もが)いていた。何ものか私の心 の中に生まれていた。
 彼のうちに働いているものは何であろ う。あんなに彼を力強くするものは何であろう。私はそれを見出したかった。それを我がものとしたかった。

 ――そうだ、私の探しているもの、私 のしたがっている仕事、それはたしかに彼の中に在る。彼こそ私の探しているものだ。彼こそ私の仕事を持っている。

 待って下さい。もう少しです。私が学校を出たら私達はすぐに一緒になりましょう。その時は、私はいつもあなたについていきます。決してあなたを病気なん かで苦しませはしません。死ぬるなら一緒に死にましょう。私達は共に生きて共に死にましょう。

  短い生涯のほとんどを屈辱に耐え忍びながら最後の数年、彼女がようやくじぶん自身を見出し、朴烈と出会い、朝鮮人や日本人の若者たちとさまざまな活動を始 めた東京での日々は、きっとめくるめくような愉しい時間であったろうと思う。そして刑務所の中にあっても朴烈と正式に夫婦となり仕合せだったかも知れな い。死刑判決から「恩赦」により無期懲役に減じられ、それぞれ別々の刑務所へ移管されてもう二度と会うこともないというゆるぎない現実が彼女に死を選ばせ たのか。彼女の死については、独房のなかで「麻糸をよったひも」で首をくくったと記述されている。手記の中で彼女自身が記しているが、幼少期に彼女の母は 麻糸をつなぐ内職をしていた。いまわのときに彼女はそんな、じぶんが幼かった頃の母の姿を麻糸をよりながら思い浮かべただろうか。

 わ ずか23歳で自死した金子文子について、わたしは何故となくシモーヌ・ヴェイユの影を重ねてみる。頭でっかちの主義や理屈ではない。曇ることのない伸びや かな魂が自由をもとめて羽ばたいたとき、肉を経由して精神はこのような直截で豊かなことばを紡ぎ出すのだ。1922(大正11)年の帝都にあって、わたし は朴烈のような「犬ころ」でありたかった。そして彼女と出会いたかった。彼女のいじましくピュアでまっすぐな肉を抱きしめたかった。彼女を地下4尺の湿地 土中に埋められた腐爛屍体とさせたこの国の鵺をはげしく憎む。ぶよぶよに腐爛した彼女の肌に薔薇色の生気をとり戻してやりたい。

 何が私をこうさせたか。私自身何もこれについては語らない であろう。私はただ、私の半生の歴史をここにくりひろげればよかったのだ。心ある読者は、この記録によって充分これを知ってくれるであろう。私はそれを信 じる。

 間もなく私は、この世から私の存在を かき消されるであろう。しかし一切の現象は現象として滅しても永遠の実在の中に存続するものと私は思っている。

 私は今平静な冷やかな心でこの粗雑な 記録の筆を擱く。私の愛するすべてのものの上に祝福あれ!


私は犬コロでございます
空を見てほえる
月を見てほえる
しがない私は犬コロでございます
位の高い両班の股から
熱いものがこぼれ落ちて私の体を濡らせば
私は彼の足に 勢いよく熱い小便を垂れる
私は犬コロでございます

(朴烈)
2022.1.16
 
*

  本日の釣果。「金子文子・朴烈裁判記録」は全400頁強の半分をとりあえずコピーした。散見した程度だが金子文子・朴烈のほか、二人をとりまく肉親や友人 たちの調書、それに判事に宛てた手紙などもあって興味深い。一次資料であるこの貴重な記録はアナキズム団体「黒色戦線社」から出版されたものだが、古書で もまったく出回っていない。「金子文子の東京生活」は彼女の最初にして最後の花開いた時期を当時の世相と共に追った小論で貴重。「新聞集成 大正編年史  大正15年度版(中)」には栃木の合戦場墓地に仮埋葬されたときの寒々しい墓標の写真があった。わたしは金子文子は、もし捕らえられずに生き続けていた ら、いつか朴烈を追い越してかれの元を去ったのではないだろうかと思う。長い屈辱と忍耐の末に、まるで冬の凍てつく寒さに内なる蕾を用意していたその弾け る瞬間に逝ってしまったのだ。雑誌「考古学」に収録された「山城木津惣墓墓標の研究」は先日訪ねた木津惣墓の古典的研究論考。雑誌「山林」収支の「日本筏 流技術の大陸進出」は明治39年に端を発した軍用木材廠に於ける和歌山からの筏師募集を記録する。わずか数ページだが「地学研究」に収められた「和歌山県 大勝鉱山、奈良県堂ヶ谷鉱山、および和歌山県大塔鉱山の近況」は、数少ない北山村四ノ川上流の大勝鉱山、そして紀州鉱山とおなじく石原産業による北山鉱山 の様子や写真を載せている。ふだんPCで調べ物をしていて、国会図書館や県立図書館で入手できそうなものは資料情報をプリントして「図書館のクリアファイ ル」に放り込んでおいて、まとめて持って行く。今日はコピー代で三千円以上も使ってしまった。夕方に帰ってからニトリでクッションを買いたいという母を乗 せて、つれあいと三人でニトリ〜イオンモールの買い物。駐車場から見た夕陽の空がきれいだった。
2022.1.18
 
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  昨日は仕事が休みだったつれあいと二人でほぼ半日、話題の「新聞記者」6話6時間分を一気に見た。ストリップでいえば特出しにも似て、緊迫感もあり、なか なかいいんじゃないか。人は殺される前にまず尊厳を奪われるとディランが80年代に歌っていたが、学校であれ会社であれ宗教団体であれ政治団体であれ善意 のボランティア団体であれ、個の尊厳を奪うようなら、ひとは殺される前に抗わなければならない。尊厳を奪われる前に、ひとはさいごの一息で何ができるか。 それにしてもあらためて、これとおなじことが起こり、不問にしたまま済ましているこの国の政治と司法は立派な殺人者たちの集まりだな。両手を血に染めた殺 人者たちが権力と暴力を独占している。チンケな機械工のブリキ缶爆弾くらいじゃびくともしないぜ。もうひとつ思ったのは、ネットフリックスという外国資本 での制作と放映。映画「ミナマタ」にしても「緑の牢獄」にしても「金子文子と朴烈」にしても、この国はもはや、みずからじぶんの国を語ることができない。 なんてスバラシイ国なんだ。三上寛風にうたえば、ああなんてミットモない、なんてわけのわからない夕暮れなんだ、なんてミットモない人類の平和なんだ。生 活のために、愛しい家族のために差し出した尊厳が、屋台の射的の安っぽい景品のようにぶらぶらと風にふかれて揺れているぜ。全6話を見終えてから「シーズ ン2はあるのかな?」と彼女が訊く。おれは答えた。「シーズン2は、おれたちがやるんだよ」と。
2022.1.20
 
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  終活で日記を整理していたらこんなものが出てきた、と母が死んだ伯父(母の兄)のむかし語りのメモ書きを数枚持ってきた。そのなかに手書きのガダルカナル の位置を描いた絵。明治40年に北山村筏方組合長だった中瀬古為三郎の次男である一益(明治36年生まれ・わたしの母方の祖父)は「餓島」ともいわれた島 へ出征していたのだった。手元の古いアルバムには「大日本帝国海軍」の帽子をかぶった召集当時のほか海軍病院、兵学校など内地の写真しかないので、てっき り戦地には行かずに敗戦を迎えたと思っていたのだが。

伯父の記述によれば、「2,000名単位の一兵卒として」海軍陸戦隊に編成され、 「昭和18年ガダルカナルへ上陸。アメリカの抵抗に会う(その装備はすごいものだったようだ)。敗走した者で最後に残ったのは10人。雨期のジャングルの 水の中に10日以上浸かって、救出されたとき軍医は「お前らは死人臭い」と云ったそうだ」 「海軍病院のあるラバウルに転送(このとき、マラリヤ罹患)  更に病院で「内地送還の要あり」で、まだ危険のなかった舟で内地へ。そのあとは別府の海軍病院 →海軍兵学校 →敗戦」

調べてみると海軍 の陸戦隊でガダルカナルへ派遣されたのは「横五特」と略称される横須賀鎮守府第五特別陸戦隊しかない。ちなみにこの「横五特」を率いていたのは安田義達海 軍大佐で、かれは二・二六事件の際には「海軍省警備のため横須賀鎮守府から派遣された陸戦隊の参謀となり、事件当日のうちに東京に上陸している」 (Wiki) もともとこの「横五特」はミッドウェイ島上陸要員としてグアムに派遣されていた。ところがミッドウェイ海戦で日本が惨敗したために行き先が なくなりグアムで待機していたところ、この「ガ島」攻略の命が下ったわけである。同じようにグアムで待機していた有名な一木支隊(陸軍・ガ島で最初に全滅 する)もいったんは内地へ帰還命令が出て、兵隊たちがグアムで貝飾りなどの土産物を買ったなどののどかな話もあるが、「横五特」はそれらと並走している。

海 軍の設営隊や陸戦隊が駐屯していたガ島に米軍が上陸したのが1942(昭和17)年8月7日(伯父が昭和18年と書いているのは記憶違いだろうと思う)。 戦史によれば「横五特」のうち高橋大尉以下113名は先に8月12日ラバウルへ進出し、15日に駆逐艦「追風」でガ島のルンガ岬西17キロの地点に上陸、 東進して17日に設営部隊らの守備隊と合流している。祖父・一益がいたのは、おそらくこの高橋部隊だろうと思われる。高橋部隊を除いた安田大佐率いる「横 五特」本隊は、輸送の関係で隊を二つに分けた一木支隊の全滅する第1梯団の後を追う形で一木支隊第2梯団と共に上陸予定だったが、その後ソロモン海戦など があり、ガ島周辺の制空権を奪われた日本側は船団での海上輸送が困難になったために上陸は見送られ、結局安田大佐以下「横五特」本隊はニューギニア東部の ブナの守備に配属され、1943年(昭和18年)1月に全滅している。

陸軍は一木支隊に続いて川口支隊(4,000名)、丸山師団 (20,000名を予定)などを投入して全滅を繰り返し、補給もままならないガ島はまさに敗残兵たちがうごめく「餓島」となっていった。祖父・一益が合流 した海軍の守備隊がその後どんな動きをしたのかは不明だが、「雨期のジャングルの水の中に10日以上浸かって救出された」祖父が生きてガ島を脱出できたの もレアケースであったろうし、またその後ラバウルを経由して内地へ無事に帰還できたのも、まだ昭和17年当時の絶望的な状況になる直前のタイミングが幸い したのだろうと思う。マラリヤに罹患した祖父は温泉のある別府の海軍病院で養生し、召集前は日本通運に勤めていてドイツ語も堪能だったというかれは、 ひょっとしたらそんな才能も買われて戦地へはもどらず、江田島の海軍兵学校へ転属になったのかも知れない。そして敗戦を迎えた。敗戦後の8月23日に兵学 校で撮られた写真は各地へ散っていく同僚たちとの記念写真だったのだろう。

そんなわけで今日は午後いっぱい、戦争資料の豊富な県立図書館 へ自転車で走りガダルカナルや海軍に関する資料を漁った。ガ島については米軍側の記録や生還した日本軍兵士たちの証言なども目を通したが、あらためてその 悲惨に身も凍る思いであった。祖父・一益は昭和35年に病気のため56歳で亡くなった。過酷な戦地での体験も影響しただろうか。敗戦後、郷里の和歌山に 帰ったかれに祖母はそのまま役場勤めでもして欲しかったようだが、「次男坊だからそうもいかん」と東京へもどり日本通運に復職した。

三人 の息子たちだけを東京へ呼んで他の家族と共同のような部屋で生活し、暮らしが安定して家のひとつでも借りれるようになったら妻と娘(わたしの母)を呼びよ せるつもりだったのだろうが、祖母は戦後の食糧不足と過労がたたって結核で昭和25年に亡くなってしまった。死ぬ前にせめて一目会いたいと祖母が所望した 末っ子を連れて祖父が和歌山へもどった際に、その末っ子も結核がうつって後に千葉の療養所で亡くなった。そして祖父が内地へ帰還してから、祖母の弟二人が 昭和19年にニューギニアのサルミ島で相次いで戦死している。きっと悲惨な最期だったと思う。まるで生が死で、死が生であるかのような時代であった。

昭 和25年に和歌山の山深い筏師の村で死んで座棺で埋葬された祖母も、昭和35年にいまのわたしと同じくらいの年齢で亡くなった祖父も、わたしは生前会うこ とが出来なかった。二人を語ることができた伯父もすでになく、終活で身辺整理を始めた母がわたしに託した古いアルバム(開くたびに鼻がぐずぐずする)のな かでかれらは向こう側からこちらを、物も言わずに凝っと見つめるだけだ。
2022.1.22
 
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 111 年前の今日、午前8時6分の幸徳秋水を手始めに、新美卯一郎、奥宮健之、成石平四郎、内山愚童、宮下太吉、森近運平、大石誠之助、新村忠雄、松尾卯一太と 続いて、最後の古河力作が東京・市ヶ谷の東京監獄の刑台で午後3時58分に縊られた。明日は管野須賀子が午前8時28分。国家権力がその絶対の暴力で輝け る個を抹殺することをゆめゆめわすれるな。年末、わたしはその場所に立っていた。わたしたちはあれからずっと別れたきりだった。いまも、これからも立って いる。
2022.1.24
 
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  菅野須賀子が縊られた冬の朝に、二冊とどけられた。「女工哀史を超えた紡績女工 飯島喜美の不屈の青春」(玉川寛治・2019)は密林中古、送料込みで 947円。飯島喜美は共産党の地下活動で検挙、投獄されて、金子文子とおなじ栃木刑務所で獄死した。遺体はなかば強制的に千葉医科大で研究のための解剖に 附された。「ある弁護士の生涯 布施辰治」(布施柑治・1963)は密林古書で一万円の値が付いているものがヤフオクにて100円+送料で落札、すこぶる 美品。布施辰治は栃木刑務所の合戦場墓地に埋葬された金子文子の遺体を母親や友人らと共に掘り起こした弁護士で、治安維持法下で精力的に社会主義者や朝鮮 人のために尽力したひと。

◆埋もれた婦人運動家(2)飯島喜美(PDF)
http://www.kamamat.org/.../p-pdf/fujin-kouron/iijima001.pdf

◆布施辰治(ふせ・たつじ)―弱者に寄り添った弁護士(石巻市)―正義掲げて共闘と連帯
https://kahoku.news/articles/20200619kho000000050000c.html
2022.1.25
 
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  卒業を控えた試験が今日から始まった。朝9時に娘を学校へ送って、そのあとはケアセンターのNさんが学校から田原本の居場所づくり(県の教育研究所)まで 送ってくれる。そしてわたしは午後3時にまた迎えに行く。その間、いったん家に帰るという選択もあるのだけれど、今日は娘を学校で下ろしてから、長岳寺の 裏手にある山の辺霊園へ行って3時間ほどをすごした。なだらかな斜面のいちばんてっぺんの片隅に積み上げられた無縁墓の数が半端ない。古い黒ずんだ光背 型、舟形の石塔もやたらとあって、ここが古い時代からの葬送の地であったことを示している。入口の石鳥居の近くにあった地蔵が1383(永得3)年の建立 だそうだから、そこまでは遡れるのだろう。南北朝の時代だ。冬の墓地はひと気がない。とてもしずかで、この世とあの世のあわいのようなこんな場所に佇んで いると、じぶんは人間界よりもこんなあわいの場所がふさわしいし居心地がいいのだと思われてくる。苔生し黒ずみ落剝した石塔のひとつひとつと対面している と、こころが満たされる。この世とあの世のあわいからかろうじて抜け出して、昼飯を食おうと下界へおりてみれば、頼みの天理・さかえ食堂は今日も休みで あった。コロナ休業か、まさか閉店してしまったのではないだろうな。仕方なくトライアルなるはじめてのスーパーに物色がてらに立ち寄って、299円の三元 豚ロースかつ重と117円のうま塩からあげを買って、鍵・唐子遺跡公園のベンチでひとり食べた。
2022.1.28
 
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  夕食後。手製の郡山紡績MAPを片手に、百年前の夜をさまよってきた。無縁墓の宮本イサや、18歳で死んだ慶尚南道出身の金占順(김점순、キム ジョンスン)たちが寝起きをしていた寄宿舎、亡くなった女工たちの位牌が置かれていたという講堂、息を引き取ったかも知れない病室や、故郷からやって来た 両親に会っただろう面会室、食堂や一日の疲れを癒した浴場など。やはり日中よりも夜の方がいい。いまはURの団地になっている建物のすみや角や植栽のむこ うから、彼女たちの気配や息遣いが沁み出してくる気がする。工場の高圧電線に触れてまともな治療も受けられずに死に、工場側の誠意ない対応に抗って一週間 遺体が放置され腐臭を放ったという徐錫縦(서석종、ソ・ソクチョン)もかつてこの木の影、石の上にすわっていたことだろう。故郷から遠く離れた高い煉瓦塀 と有刺鉄線で閉ざされた世界で彼ら彼女たちは懸命に生きて、そしてここで死んだ。ときに小雪がちらつくような冬の夜なのに、こころなしか空気がねっとりと 重たく感じるのはなぜだろう。闇はわたしたち自身の内にあるのか。その闇の向こう側から彼ら彼女たちの影がゆらゆらとたちあがってくる。語られなければ、 彼ら彼女たちはずっとここを離れることはできない。百年経ったいまも、ここにいる。この場所に。
2022.1.29
 
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  娘の送迎をしてくれている支援センターのNさんがコロナ陽性の一報が入った。昨日29日(土)に喉の痛みを感じて、念のためと受診したところPCR検査で 陽性。娘は28日(金)に試験を終えた学校から田原本の県教育研究所までNさんの車で送っていってもらっている。そしてそのあと、田原本へわたしが娘を迎 えに行った。

改めて調べると「濃厚接触者」の定義は、感染者の発症若しくは検体採取の2日前より10日間に、マスクを外した状態の至近距 離で15分以上、マスクをしていても車などの狭い密室空間で1時間以上滞在した場合、となっている。娘の場合、期間は該当する。送迎は学校から田原本まで 約30分。車内ではお互いにマスクをしていたが、いちどだけ娘がマスクを外してマイボトルの水を呑んだというが、定義からしたら「濃厚接触者」には当ては まらない。「濃厚接触者の可能性があるかも」くらいだろう。

Nさんは熱はなく、喉の痛みだけ。娘は現在、なにも症状はない。つれあいは さっそく職場へ相談して、図書館の館長の判断でとりあえず今日の昼からの勤務を取りやめた。月曜・火曜・水曜はもともと休み。オミクロン株の潜伏期間は3 日間くらいだそうだから、3日経って何もなければ無事スルーなのだろうが、もし陽性であったらわたしもつれあいも家の中ではなにも対策をしていないし、昨 夜などはわたしが買ってきた600円台の格安トリス・ウィスキーのロック杯を「ちょっと舐めてみるか」なぞと娘に渡していたくらいだからイチコロだろう。

念 のため奈良三条通にある、奈良県の無料検査が受けられる木下グループの検査センターの予約サイトなども覗いてみたが、火曜くらいまで予約が埋まっている。 娘が調べたところでは、潜伏期間の3日間でPCR検査を受けても陰性になることが多いので、症状が出てからの方が良いという医者の意見もあるそうで結局、 娘と相談して検査は症状が出てから、それまでの3日間は家の中でもマスクを付けるなどなるべく注意をして娘は食事は自室でとる。そういうことになった。

オイラはとりあえず、予防のためイベルメクチンでも飲んでおくか。
2022.1.30
 
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 20 代。二度目にインドを再訪したときにヴァラナーシー(ベナレス)の街角で、どんなきっかけだったか写真を撮らせてくれた少女。彼女ももう、立派な母親に なっていることだろうな。一週間ほど滞在したあの聖なる町では、毎日ガンジスのガート(沐浴場)へ行って火葬場で死者たちが野焼きされる様を立ち昇る煙を 日がな眺めて過ごした。そうして夕暮れに安宿へ帰る川沿いの道を心地よい風に吹かれてあるいた。炎の中で焼け崩れる遺体。剥き出しの死を前にして自由だっ た。タージマハルでは鄙びた川岸にガスでぱんぱんに膨れ上がった赤ん坊の遺体が漂着しているのを見つけておののいた。それもまた、自由な感覚だった。カル カッタでは牛の糞にまみれた路上で肢体不自由の少年が物乞いをしている横を人々が無表情で通り過ぎていった。それもまた自由だった。「ニンゲンは犬に食わ れるほど自由だ」 かつて藤原新也はかれの写真集「メメント・モリ」のなかでそう記して、じっさいに犬に食われている遺体を活写したが、わたしがインド亜 大陸をころげ落ちながら体得したのも、まさにそのような自由だった。それからわたしは日本へかえって、脱落者となった。いやいや、ほんとうは「脱落」した のは奴らの方だよ。自由を食べて、ホーボーへ。こんなロクデナシは妻にも娘にも見捨てられて、最後はインドの路上で印をむすんでくたばるのが最後のとって おきの自由かも知れない。モザイクのような宿の屋上に立てば、深夜までヒンドゥー語のかまびすしい音楽がどこかの拡声器から流れていた。あの感覚をとりも どすんだよ、このしみったれた息苦しい国で。子どもに熱湯をかけたり、だれかをレイプしたり、だれかを道連れに自殺したりしたくなければさ。
2022.1.31
 
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 夜、炬燵にねそべって、ネットフリックス制作のビクトル・ハラの虐殺を追ったドキュメンタリーを見た。

ビクトルが殺された日、かれの隣にすわった。
するとかれは「紙と鉛筆をくれ」と云った。
わたしのメモ帳をわたした。それと鉛筆も。
ビクトルはなにか書き出した。短い言葉で。
外では騒音と叫び声がきこえた。
集中して書いていた。死が近いのを感じたん だ。
二人の兵士がかれを乱暴に連れて行った。
ビクトルがメモ帳を投げ、わたしは受け取りか くした。
最後の曲だった。
ビクトル・ハラの最後の詩、「チリ・スタジア ム」だ。
殺される2時間前に書いた。

わたしの歌は恐怖のしらべ
わたしは戦慄のなか うたう
生きているから恐怖
死んでいくから恐怖
2022.2.4
 
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  やっと朝食にいつもどおりの茶粥を食べられるようになった。けれど処方された胃の薬は飲み続けているものの、昨夜もベッドでゲバラの「ゲリラ戦争―キュー バ革命軍の戦略・戦術」を読みながら胃がじんじんと痛かったし、今朝もまだ、長いこと立っていたりPCや読書などの眼を使う作業では嘔吐感がよみがえって くる。これだけ胃の不調が続くのは過去になかったことなので、やはりイベルメクチンの影響を疑わざるを得ない。

イベルメクチンの服用例に 関して通販サイトなどでは、感染予防としては体重1キロあたり0.2gを当日、48時間後に同量を再度、その後は週に一回と記している。感染後の早期治療 に関しては同量を一日一回、五日間もしくは回復するまで、である。わたしは今回、娘の送迎をしてくれる支援センターの方の陽性が報告された日に12gの半 錠(体重30キロ分)を呑み、三日間の潜伏期間明けに残りの半錠を呑んだところ、翌日からひどい頭痛、胃痛、嘔吐感が始まった。

少しづつ マシにはなってきているが、水曜に始まり、今日で四日目だ。けっこう、しつこい。ワクチン同様、こういうものはやはり個人差があるのだろうし、一回目の半 錠は何ともなかったので、イベルメクチン的にいえばわたしの体重は30キロということになる。もし次回、いのちの危険を感じるようなときがあったら、こん どは1/4錠あたりで試してみようか。今日はほんとうだったら娘と二人で、天理の学生食糧支援のボランティアに参加する予定だったのだが、まだまだ体調が 万全ではないので、残念ながらリタイアすることにした。

ところで今回の胃痛・嘔吐感のためにこの三日間、わたしの食事量は格段に減って、 もちろんアルコール一滴すら飲んでいないし、アテの夜食も一切ない。夕食後、風呂に入って、そのままベッドに直行して寝床で本を読んで寝るのである。これ はレディの方々にはきっと分からないと思うが昨日、鍵唐古遺跡公園の公衆トイレで小便をしたら、見える風景が異なる。つまり山の頂きが低くなって、むこう の森がはっきりと見える。これはこれでイベルメクチンの戦果ではないだろうか。
2022.2.5
 
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ウ イグル自治区のタクラマカン砂漠について記す日野啓三の以下のような描写を読みながら、あの熊野本宮証誠殿のまえに額ずいた一遍が見たわらべのまぼろし ――「目を開けると、夜だというのに、十二、三の童子が、百人ばかりも、智真(一遍)のもとへ寄ってきて、てんでに小さな手をさし伸べては、なつかしげに 「お念仏を」といいながら、念仏札をうけとったかと思うと「南無阿弥陀仏」ととなえながら不意に姿を消してしまった」――は、あるいは本宮旧社地の砂州で 一遍が見たおなじような体験ではなかったかと思ったりもしてみる。

  私は先程から、淡く煙る地平線の上にちらつく白い幻影を見つめていた。ガウディが設計したバルセロナの、四本の尖塔のある幻想的な教会に似ているが、ただ しその構造物は、極細の絹糸か、グラスファイバーか、光の繊維のようなもので比類なく繊細に織り上げられていて、可視と不可視の領域の中間に純白にきらめ きながら浮かんでいる。内側のアラベスク模様が透けて見える回教寺院のようでもあるけれど、教会とか寺院の建物そのものというよりそれらの精のゆらめきの ようだ。

 そして天使たちの合唱のような、幼児た ちの笑い声のような、意味不明の済みきった声が、まわりじゅうのサラサラという砂の流れの音と重なって、遠く近く高く低く聞こえている。

 限りなく繊細で限りなく広大なもの、そ れが世界で、そこに還ることが死なのだ――とそのふしぎな幻影は、そっと告げ知らせているようだった。心の奥が奥にゆくほど開いて、微光を発するような感 覚。「砂に還る」という言葉が爽やかに身体のなかを流れた。

日野啓三「聖岩」
2022.2.6
 
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  イベルメクチン効果で痛む胃をかかえた炬燵のなかで、西門民江「峠の道 〜部落に生きて」(草土文化)を読んだ。もともとは現在、県内の某同和地区で 1970年代に録音された「おばあ」たちの抵抗歌を収録したテープの所在を探している過程で、録音したのがどうも鈴木良氏(故人)という部落問題研究所理 事も兼ね ていた元立命館大学教授であるらしいと分かり、たまたま手元にあったその鈴木氏の著作をあらためて読み返していて、この著書のことを知ったのであった。西 門 民江さんは明治末に、わたしの住む大和郡山市内の某同和地区で生まれた。「峠の道」はその彼女の一代記である。そしてこの一冊には、じつにたくさんのこと が 詰まっている。

 ローカルなことでいえば、わたしにとってごく身近な場所の大正時代の風景が出てくる。小学4年生のときに部落差別によって学芸会に参加でき ず、練習 風景を窓ガラスに顔をこすりつけながら眺め、泣きながら渡った富雄橋の上から向こうの「どての上に棟長く建っている伝染病院」が見えた。また部落と一般集 落の 境となるその橋のたもとには「よのみの木」という大きな樹が「天に向かって伸び、四方に翼をひろげ」、「長い長い間、苦しい部落の生活を見守ってきた」。 また病気になった母親の代わりに祖母と芋畑で汗を流しながら見下ろすと「瓦工場からたち昇る黒い煙のあいまから校舎の屋根が」見えた。そのどれも現在はな いが、瓦工場はたしかにその場所に工場の廃墟と煉瓦造りの高い煙突がつい数年前まで立っていたのをわたしは知っている。

 一方でもちろん被差別に関するとき にかなしく、ときにこころあたたまる描写も出てくる。耕す土地もなく産業からも排除されていた集落を支えた草履表の製造に関わる家内作業の風景。「窓一つ ない一間きりの」「腐った藁ぶきの屋根にペンペン草が長く伸びて」いた家で、ギーゴットン、ギーゴットンと草履表を薄く仕上げる道具が鳴り響く音。はじめ て郡山城跡へ家族でささやかな弁当をもって花見へ行った帰りに、民家の井戸水を借りて冷たい扱いを受けた記憶。目が悪いお父ったんと犬のジョンと三人で学 校へも行けずに草履表を駅(おそらく大和小泉)まで運んでいた同級生のおしずちゃんが病気で亡くなった日のこと。貧しさのなかで年頃の子どもたちが男女別 に共同生活をする宿元という制度のこと(東近江の同和地区にあった若屋制度に似ている)。実入りの少ない金魚の餌になるアカコを溜池ですくい取る仕事をし ていた「カガシのような、かわいそうなお父ったん」の姿。集落にトラホーム(眼病)対策のための洗顔所や無料の診療所が開設されて医療を受けられるよう になった日のこと。そして水平社運動の高まりと小作争議などのたたかい。

  そして奈良の片田舎の集落に生まれ育った本書の書き手は、差別に抗いながらも必死で成長していく途上で、じつにさまざまな歴史の教科書に出てくるような対 象とクロスし、貴重な証言を残してくれている。解放運動が高揚し組合が組織されるようになると共に、国家権力の監視がはじまり、追われた活動家たちが隠れ 処をもとめて同和地区へ流れ込んで来る。そんななかで、彼女の父と共に「弁士として同じ演だんに立って雄弁をふるってかんしゅうをわかせた」印象深い人物 として山本宣司の名が登場する。衆議院議員であり、生物学者でもあった山本は治安維持法にも反対し1929(昭4)年、右翼によって刺殺された。山本の死 を聞いた民江の父は「惜しい人を、立派な人を、とくりかえしながら、わが子を死なせた父親のように首をたれて泣いて」いたという。また17才になった民江 は父の紹介で大阪へ家事手伝いへ行くのだが、その家の主が当時、労働農民党の結成に加わった弁護士でもあった小岩井浄(きよし)であった。のちに天下茶屋 近くの喫茶店で女給として働いていた民江の店へ、この小岩井家に出入りしていた青年がかくまって欲しいと現れる場面もある。

 なかでもわ たしが思わずアッと声をあげたのは、両親の助力もあって1931(昭6)年に看護婦の資格をとった彼女が、たまたま大阪市内で見かけた「報国看護婦会」の 看板を見かけて働くようになったのが大阪市立桃山病院の分院津守病院だったことであった。わたしが以前に、1937(昭12)年に創立50周年の記念式典 と併せて建立された現在はマンションの谷間に残された「殉職者慰霊碑」を見に行った鶴橋近くの伝染病専門病院だ。西 門 民江はここでコレラやペスト、赤痢、腸チフスなどの病が流行するひと夏の期間だけ、一昼夜交代勤務の看護婦として働いた。碑面より一部を引く。「その当時 を回顧すれば、勤務者は悪戦苦闘に終始し、安らかなはなく、ことに、明治35年及び大正5年にコレラが大流行し、明治40年にペストが容赦なく荒れ狂い、 明治41年及び大正6年には天然痘が重ねて猛威を呈するに際しては、全職員が防疫療病に身を挺し全力で尽くしました。この様な凄惨を極め、勤務者の感染者 が360有余名を数え、院長1名、医長1名、医師4名、看護師23名、技能職6名の合計35名の殉職者を出すことになり、悲痛な思いは耐えれるものではな い。」  「「看護婦さん、また汚しました。ほんとうにすみません。許してください」 骨ばかりの肩を支えながら、コッテリ着いたおしりの便をていねいに ふいて寝巻きを着せかえ、新しいシーツの上に寝かせてあげる」  そんなふうに過酷な現場で働きながら、しかし彼女の描写はどことなく明るい。きっとここ では本籍地を問われることなく精一杯働けたからだろう。

  やがて中国で戦争がはじまり、古里では進歩的な活動家たちが「共産党のけんぎをかけられ、郡山署に連行」される。釈放の日には警察の門の前に村人たちが陣 取って、「フラフラとおぼつかない足どりで出てきた痛ましい闘士」を迎え、「おぼえてよえー、人殺し、けいさつの犬め」と叫んだ。結婚をし、子どもが生 れ、夫に赤紙がくる。6日目に奈良38連隊に入隊。「「天皇陛下のため、祖国日本のために、大和魂の本分をぞんぶんに発揮しほしい。あとのことは心配な く」 父の訓示は清水神社の森をふるわせ、部落日本人の若い血をたぎらせました」  肉弾三勇士の会話も出てくる。「「ちょっと、ちょっと。あれ、こっち (部落)の人やて。ばくだん抱いてな、敵の城へのりこんで、われもばくだんといっしょにこなごなにふっとんだんやて」  聞く者、語る者、みんな三勇士の 心を思いやって、ホロホロと涙を流していました。戦争はますますはげしくなるばかりで、肉弾三勇士のあとにつづく勇士がひっきりなしに村からでて行きまし た」 

 1944(昭19)年、民江は「村全体が力をあわせて建てた」無料診療所に看護婦として勤務する。この診療所はいまも「民主診療 所」として存続している。敗戦前には「カツギ屋」の仲間入りもする。一番列車で小泉駅からリアカーに積んだサツマイモを乗せて大阪の今宮まで売りに行く。 また三重県の尾鷲まで片道6時間、持っていった米を魚やイカと交換してもどってくる。「奈良にはばくだんめったに落とさへん」 誰が言うともなくそんな噂 が語られていた集落にも艦載機による機銃乱射があり、子どもが二人殺された。どこからか盲目の青年浮浪者がやってきて共同浴場の前で「父よあなたは強かっ た 兜もこがす炎熱に」と哀調を帯びた歌声を披露し、誘われてあちこちの家を泊まりあるき、またどこかへ去っていったこともあった。そして敗戦。1947 (昭22)年春にやっと便りが届いた夫の差し出し先は「伏見の陸軍病院」だった。おそらく現在の「独立行政法人 国立病院機構 京都医療センター」、当時は伏見区深草にあった陸軍衛戍病院であったかと思われる。「アメーバ赤痢にかかり、重度の栄養失調になった夫は全身浮腫。目もふ さがり、みる目も痛ましい姿に変わり果てていました」  ぶとう糖の注射液と注射器を持って奈良から日参で看護し、「下駄がはけるように足の浮腫も」引い た夫を家にひきとった。

 戦後に軍から流れて蔓延したヒロポンの話も登場する。「どこからどうしてはいってきたのか、私の村にもヒロポン という麻薬が流れ、ヒロポンのとりことなって身をほろぼす若者が日に日にふえてきました。子どものヒロポン代にせびられて、おかゆもすすれなくなった親一 人子一人のあわれな母親は、ある朝、かまどの前で首をくくって自分の命をたちました。この悲劇が起きてから、まるで伝染病のように同じ悲劇が流行していき ました。国自体が病んで、政治の手は伸びはしません。まして部落のなかのできごとなどはみてみぬふりで、政治はソッポをむいていました。こんな社会のなか で、必死に守りとおした私の子どもたちもどうやら成長して、一番上の娘は中学生となり、次の娘は小学四年生、長男は一年生に、それぞれ学業にはげむ年頃に なっていました」  二番目の娘がやがて高校を卒業し、就職先の役所で「一般の人」との恋に悩む。母の民江は娘の日記帳に記された「四本指」の文字を見つ ける。そして1964(昭39)年春、「部落民と一般のあまり例のないカップルができあがりました」  夫となった男性の両親は息子を勘当し、結婚式は新 婦側だけの出席だった。のちに子どもが生まれると夫の両親は多少態度を軟化させたが、それでもしばらくは家に出入りを許したのは息子と孫だけ、しかも夜間 限定であった。二人の結婚から13年の年月が流れ、夫の父親は親類縁者の断交が続いていることを打ち明け、民江にこう伝える。「古い親せきより新しい親せ きの方が大事だとわしは思うてます。この家を建てる時も、親類からはただ一人の手つだいにもきてくれしまへんけど、わしはきてほしいとも思いまへん。その かわり、わしもなにごとがあっても行きまへん。今はもうこれでよかったと思うとります」

 二百二十頁ほどのちいさな一冊に、奈良の被差別 部落で生まれ育った一人の女性のささやかな一代記に、ほんとうにたくさんのものが詰まっている。この本のおかげでわたしはこの国の百年、歴史の教科書や記 録からはこぼれ落ちてしまった、けれどもしっかりと歴史の実時間に根をおろしていまも豊かな地下水を吸い上げてゆるぎない百年をわが身のように体験するこ とができる。著者の西門民江さんは1988(昭63)年に78才で亡くなった。近いうちにきっと彼女の墓前の前で、この気持ちをつたえたいと思う。そして 彼女のあるいた道をあるいてみたい。

◆宇治山宣会
https://ha2.seikyou.ne.jp/home/yamashiro/yamasen/

◆桃山病院と殉職者慰霊碑
https://blog.goo.ne.jp/fureailand/e/96d99166f61cec9fb6380cd8ec8e038a?fbclid=IwAR0tVxieDEFa0diigd_aQjEQ34ZHvjzP6C1xoGt_LFtMpp3ez4PqFTTfwC4

◆京都伏見の戦跡散策
https://senseki-kikou.net/?p=1138&fbclid=IwAR3WsVlM9BhJRN6JmWXIn0QlEfjyYRB9-1tSHebQ6c9267IgOV-TSZb5sx0
2022.2.7
 
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  今日、ジップ(犬)の散歩であるきながら、考えたんだよね。じぶんはこの世で無価値な人間だとか、つい思ってしまうこともあるわけだけど、この無価値って いうのは、何に対しての無価値なんだろう? ってさ。たとえばだよ。アヘやスカやジミンやイシンが好きな連中の集まりがあったとする。あるいはカネやシサ ンやガクレキやケットウとかが大好きな連中ばかりのグループでもいい。そのなかにいたら、かれらにとってはこのオレなんか完全に「無価値」なわけだ。でも たとえばこの拙いFBを見てくれている人たちにとっては、オレはひょっとしたら米粒くらいの価値なら残っているかも知れない。じぶんは無価値な人間だと思 えてきたらさ、それはだれに対しての、何に対しての価値なのか? って考えてみるべきだと思うよ。富を天上に積む、ということばをオレは聖書で読んだけれ ど、これなんか、だれに対しての、何に対しての価値なのかっていうことを、まさに根っこからひっくりかえして突き付けられるよね。世界が100人の村だと して、あなたを抜いた98人の人にとってあなたが無価値な人間だったとしても、残りの一人があなたにとって大切な人だったら、それで充分、あなたは価値が あるんじゃないか。たとえあなたを抜いた99人があなたに「おまえなんか、なんの価値もない奴だ」と罵ったとしても、あなたの大切なものが天上にあるん だったら、99人の罵倒はじつはそれほど大したことじゃないかも知れない。たぶん、この世の大勢の人にとっては、このオレなんかは何の価値もない存在なん だよ。それは間違いない。でも数じゃないんだ。忘れないでほしい。数なんかは「まやかし」だよ。3人でも99人でもたいした違いはない。スタジアムに10 万人の聴衆を集めたステージで歌うロックシンガーだってほんとうは孤独なんだぜ。ほんとうに大事なのは、そんなことじゃない。ほんとうに大事なのは、じぶ んの思っている「価値」がさ、いったいだれに対して、何に対してのものなのかってことなんだ。それが分かれば、風景ががらりと変わる。あなたはきっと、一 人ぼっちでもあるいていける。そういうことをジップのリードを片手に、郵便局の角を曲がりながら考えていたんだよ。今日、オレは。
2022.2.7
 
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  つれあいは今日は休みだったのだが、あらたに行きはじめた支援施設の食堂の仕事の事前研修で、朝早くからでかけている。ジップの散歩へ行き、朝ごはんを食 べ、朝刊をひとしきりめくったわたしは、風呂場の掃除をしてから、なにとなく床下の収納スペースから見切りで買ったさつま芋を二本取り出して、大学芋なぞ をこしらえたりして彼女の 帰りを待つ。その合間に佐谷さんが「日本二大しょーもな名作」とすすめる、先日54歳で死んだ西村賢太の「けがれなき酒のへど」につづいて「暗渠の宿」 も、満員のソファーになかば不自然な姿勢で横たわり猫のレギュラスのふさふさの毛をときおり撫でながら読む。西村賢太は「苦役列車」で芥川賞を受賞したと き「こいつはオレ向きだろうな」と思って読まなかった。だから「けがれなき酒のへど」ははじめての西村賢太体験だったのだが、こんなどう仕様もないひどい 小説ははじめて読んだ。ひでえひでえと笑いながら読んで、結局、何を書いてもいいのだ、と勇気を与えられた。「暗渠の宿」にはかれが「歿後弟子」と終生敬 愛してやまなかった大正時代の作家・藤澤清造(晩年に失踪を繰り返し、芝公園で凍死体となって発見されて身元不明の行旅死亡人として火葬された)の、郷 里・石川県七尾市の菩提寺から預かった改築前の木の墓標を部屋のなかに大事に置いている話が出てくる。見知らぬ墓同志であった。
2022.2.9
 
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  卒業試験もすべて合格して、残りの単位消化のための今日は最後の登校日だった。中学受験で折角入学した中高一貫校を不登校になって8年、いまの通信制高校 に移って6年。いろんなことがあったけれど、なんだかんだと頑張って、ここまで来れた。いまの学校でも卒業できない子、卒業までに辞めてしまう子も多いと いう。そういう子どもたちのことも考えたい。学校はもどるべき価値があるのか? もどれたら、それで解決なのか? 不登校は不登校になる子どもだけの問題 なのか? ずっと訊ねつづけてきたが、だれからも答えは聞けていない。だけど、もう答えはいらないよ。今日が最終の登校日かと思えば、明日はもうさっそ く、これからときどき手伝いに行く支援センターの面談で、就業内容や雇用契約などを母親と聞いてくる。数日前は来月からスタートする市内の子ども食堂の打 ち合わせに母と同行して、娘はチラシ作製と当日の手伝いをする予定だが、同席した女性が来年に城ホールで絵の個展を開く予定とかで、その案内葉書の制作依 頼ももらってきた。いろんなことがゆっくりと、娘のペースで動き出していっている。だからもう、答えはいらない。そんなわけで今日は娘を車で送ってから、 しばらく来ることもない学校の周辺を散歩して、これまで買おうと思って機を逸してきた地元の和菓子屋さんでお八つを買って車へもどった。卒業式は来月上 旬。
2022.2.9
 
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  午前中は昨日半額で買ったウィンナーでたっぷりのポトフをつくって、昼から自転車で「峠の道」の著者、西門民江さんが暮らした村を訊ねた。学校が好きな彼 女が通った片桐小学校。昭和45年の道路拡張で護岸工事が施された道向かいの九頭上池。彼女が通った頃はもっと自然の鄙びた風情だったろう。道はじきに富 雄川に架かる富雄橋へと出る。この橋の東側に、母の病気のために学校を休んでいたときに高台の自宅から見下ろした学校との間にそびえていた煉瓦造りの煙突 の描写がある瓦工場があったが、数年前にその廃墟が解体されて土が盛られ、いまは広い駐車場を持つコンビニができている。橋の西側にはさびれた堂宇の不動 院と、隣接する敷地に西南戦争から太平洋戦争までの多くの名を刻んだ戦没者慰霊碑が三種類建っている。「峠の道」はこの西側に、部落の人々が「よのみの 木」と呼んでいた「一本の大きな木が天にむかって伸び、四方に翼をひろげて」いたと記す。ちょうど不動院の松の木を剪定している老夫婦がいたのでおばあさ んの方に訊いてみると、大きなクスノキがちょうどこのあたり(と、不動院の入口の角を指して)にあったが、昭和40年代の道路の拡張工事の際に邪魔になる からと切られてしまった、とおしえてくれた。「この木は部落と一般の境いにあって、区別をつける境界線の役目を果たしていました。よのみの木から北は部 落、南は一般と、だれが見てもそれと一目でわかる一本の道路がとおっていました」  現在「奈良大和郡山斑鳩線」とよばれる道は、おばあさんの話ではかつ て田圃の畦道のような地道で「リヤカー道」と言われていたという。「北に通じる部落の道は細くて、こうばいのきついゴロゴロ道で、息の切れる急な坂があ り、この坂を登りつめて北の方を眺めると、ずうっと低いところに私たちの住んでいる村がみえます」  ふと思いつき近くのスーパーで仏花を一束求めてか ら、借景の庭園で有名な慈光院を回り込むようなその坂道を自転車でのぼっていく。集落の中心手前から左へ折れて、背中のリュックに入れた花が気がかりだっ たので先に村の共同墓地へ向かった。1988(昭63)年に亡くなられた西門民江さんの墓、1969(昭44)年、1972(昭47)年に亡くなった彼女 の両親の墓、そして1944(昭19)年の艦載機による機銃掃射で亡くなった民江さんの子どもの同級生、当時小学3年生だった少女(苗字は分かっている) の墓も見つけられたらと思っていた。それほど広い墓地ではないのだが、正面が戒名だけの竿石も多く、密集した墓のあいだを長いこと目を凝らしてあるきま わった。やっと見つけた「西門タミエ」の名は、彼女が夫と共に建立したおそらく夫の両親たちの墓だった。西門の名はそれ以外には見当たらない。じぶんたち の名は刻まずに、おなじ墓に入ったか。あるいは真宗本願寺派のわたしのつれあいの両親のように「本願寺さん」の納骨スペースを利用して墓を成さなかった か。村で熱心な活動家だった父親とその妻の墓も見つけられなかった。仕方がないのでその「西門タミエ」さんが建てた墓を代表として、持ってきた仏花を供え て、水場で汲んできた水を竿石にかけてお参りをした。貴重な記録を残してくれてありがとうございますとお礼を言ったのだ。水場の裏には十を超える骨壺が叢 に棄てられていた。なかには壺の蓋が開いて雨水がたまっているものもあった。村の中央にある清水神社に移動した。祀神は番能邇邇芸命(ホノニニギノミコ ト)。創建は1876(明9)年で、「当村に神社が無かったから創建された」と伝わるという話もある。「「天皇陛下のため、祖国日本のため、大和魂の本分 をぞんぶんに発揮してほしい。あとのことは心配なく」 父の訓示は清水神社の森をふるわせ、部落日本人の若い血をたぎらせました。(中略) 日の丸の小旗 を手に手にもってうちふるなかを、この歌に送られて勇士はいさましく村をあとにしました」  斜面に建てられたような神社のぐるりを囲む玉垣に刻まれた寄 進者の名前を見ていくと、民江さんの夫(西門増吉)のものと、それから彼女の両親(松本米三・コイノ)が仲良く並んだ玉垣を見つけた。墓は見つけられな かったが、ここにその生きた証があった。「苦しい生活のなかで、長い間運動や村政に頭を使ってきた父は、六十歳なかばになると急に体力の衰えがめだちはじ め、老人ぼけの徴候があらわれてきて、もうすでに人手にわたっている田んぼに、日に三回も四回も鍬をかついでフラフラと見張りに行く、あわれな父になって しまいました」  やがて「八十歳をすぎるとすっかりこうこつの人となり、この世のことはなんにもわからなくなって」しまった父の頭から最後まで消えな かった炎。「それは昔、解放運動や農民運動に参加して、宇治の山本宣治様たちとともに演だんにたって、火のでるような熱弁をふるっていた時の記憶なので しょう。うす暗い四畳半の部屋が父にあてられた部屋で、空っぽになった頭をかかえて寝起きするようになった父は、毎朝九時をすぎるときまって東のほうに正 座して、なにやらしゃべりだしました。なにをいっているのか意味はわかりません。しばらくすると「私は松本米三、当年とって十六歳」 これだけははっきり と聞きとれました。(中略) なぜ十六歳がでてくるのか。それは私の子どもや孫が差別の壁にぶつかる時が同じ年頃、父も十六歳の頃、部落の悲しさを知った のではないかと私には思えてならないのです。父は解放の日を見ることもなく、思いを残してこの世を去りました。めくら縞のきものをきた父の方の肉は落ち て、小さくなった後姿に、そしてわけのわからぬ演説を聞くたびに、母と私はいくども涙を流したものでした」  その松本米三の名が刻まれた玉垣をわたしは 見る。そろそろ夕方になってきて、最後に民江さんが敗戦直前から看護婦として働きはじめた村の無料診療所、現在の片桐民主診療所に寄って帰ることにした。 清水神社からほとんどペダルをこぐこともなくゆるやかな坂をくだっていけばじきだ。二階建ての立派な建物はおそらく当時のものではないだろう。どこかにむ かしの名残りはないかとぐるりを回ってみたけれど何も見つけられなかった。記憶というものは個人にのみ宿るのだろうかと思うのだ。きっと、そうではないだ ろう。個人の記憶など、言ってみればたかが知れている。必死で生きた者の記憶は土地や建物や樹木などの植物にも宿るのではないか。求めている者がその場所 に立つと、記憶が 流れ込んで来る。そういう記憶のことをわたしは最近、よく考えたりする。さっき、風呂のなかで読んだ「火星の青い花」で日野啓三は、「私と基本的に同じ脳 の構造と脳神経細胞の回路をそなえた人間」が50年後百年後にかれの夢見る火星に降り立って「岩の破片だらけの鉱物的風景の荒々しさ」を愛でるとしたら 「それは私でない私だ」と記していたその日が来ることをわたしは確信している、と。。そのような記憶。もう道はひろく拡張されたのっぺらぼうのような味気 ないバイパスに変わってしまった。その道を川の 流れのように自転車でくだっていく。

※引用はすべて「峠の道 部落に生きて」(西門民江・草土文化)
2022.2.12
 
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  相変わらず茶粥の朝だおれは今日もどうにか生存している。茶粥もこれだけ毎日炊いていると、なんとなくじぶんのスタイルというものが決まってくる。茶粥に 関するバイブルともいうべき「茶粥・茶飯・奈良茶碗 全国に伝播した「奈良茶」の秘密」(鹿谷勲・淡交社)によると、おなじ奈良県内でも十津川、大塔、東 吉野、生駒と地域によってつくり方が異なる。米を洗うところ洗わないところ、強火のままいくところ弱火にするところ、塩を入れるところ入れないところ、さ し水をするところしないところ、さまざまだ。なんとなくいろいろと試してきて、わたしのスタイルはこんなところで定まっている。径25センチほどの鍋に水 をわりと目いっぱいで1.5リッターくらいか。薬缶で一袋みたいな市販紙パックのほうじ茶をぽいと放り込んで火を点ける。以前はきちんと茶袋(チャンブク ロ)に金沢で買ってきた加賀棒茶なんぞを入れていたのだが、毎日のことなので茶袋を洗うのが面倒だったり、加賀棒茶は割高だったりで、いつからかスーパー で売っているお徳用市販紙パックになった。もちろん、きちんと茶袋で良いほうじ茶を入れたら、やはりそちらの方が旨いに決まっているだろ。鍋の蓋をして、 お湯が沸いてきたら強火のまま、米を一合洗わずに投入する。一気に入れると吹きこぼれるので、様子を見ながら少しづつ。わが家のお米は画家で友人の福山さ んちから購入している極上近江米、これを五分搗きで精米している。吹きこぼれない程度に火加減はするが、基本は強火のままをキープ。投入した米が底に固ま るので、さいしょだけ一二度、お玉で底をさらうように一周させる。あとはひたすら吹きこぼれに注意しながら、ときどき灰汁をとりつづける。蓋はしない。そ うして15〜20分くらいだろうか恍惚としていてハッキリとは分からないが、水面のぶくぶくが細かい水泡から大きな泡になったあたりで火を止める。「茶 粥・茶飯・奈良茶碗」には「炊き上がりを見極めるひとつの目安として、「米が開く」「米のハナが咲く」という言い方をすることがある。これは強火で米を炊 くため、水分を吸収して米の表面がはち切れるようになることで、茶汁で炊くために破裂部分に色が染み込んで肉眼でも識別できるような状態になる」とある が、わたしの肉眼はなかなかこれを識別できなかったので、いまでは水泡の大きさを目安にしている。火を止めて、数分だけ蓋をして蒸らす。これは好みだと思 うが、わたしは何となく茶粥の米と茶汁がそのしばしの間ゆっくりと愛を語り合っているような気がして程よい程度に落ち着くのである。蒸らしている間に、小 皿に添えの漬物を乗せる。梅干し以外はすべて手作りで、最近は店頭で漬物を一切買わなくなった。最新作はスティック状に切った大根をゆかり・砂糖・お酢・ 鰹節で数日漬けたもの。お気に入りはきゅうりを味噌・みりん・砂糖で漬けたもの。むかし葬儀屋の下請けの花屋で働いていたときに山の景色がスバラシイ集落 の葬式で地元のおばあちゃんたちがおにぎりといっしょに用意してくれた田舎漬け、わたしの生涯でいちばんおいしかった漬物の記憶だがそれにちょっと近い。 食膳に漬物セットと箸を並べ、蓋をはずして茶碗に茶粥を、茶汁の下に粥が沈んでいるのでお玉をゆっくりと回しながら汁と米がほどよく混じるようにすくう。 熱々で食べる。合間にぼりぼりと漬物を喰う。たいてい三膳くらい、つれあいが休みでいっしょに食べるとちょうど半分づつで一合がなくなるが、一人だと半分 残るので、冷めてから容器に入れて冷蔵庫へ。一晩置いた茶粥はすっかり水分を吸って雑炊のようになるので、翌朝は温めてからシラスや鰹節やあればもずくな どを乗せて醤油をちょっぴりかけて食べたりすることが多い。いつか忘れ去られたような熊野山中の集落で中上健次の小説に出てくる路地のオバのようなばあ ちゃんたちが御詠歌を唱えながら炊いたオカイサンを食べてみたい。

◆「茶粥・茶飯・奈良茶碗 全国に伝播した「奈良茶」の秘密」
https://blog.goo.ne.jp/tetsuda_n/e/708dd50e925a6de76cd2aac7b7f805a8

◆おばあちゃんのきゅうり漬け
https://oceans-nadia.com/user/26/recipe/149075

◆【ぽりぽり大根3種類】切って漬けるだけ♪もはやおやつ!
https://www.youtube.com/watch?v=J7zIGrDsc88
2022.2.20
 
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  世界中でタガがはずれてきていると感じる。ひとの暮らしや命以外のものでこの世界がまわっている。アメリカは相変わらず他国に土足で入って自由に殺人をし ている。それならおれもやるさ、と中国だってロシアだってミャンマーだって思うだろう。メキシコに親露政権ができてロシアの兵器が配備されたら、アメリカ はどうするだろう? アメリカはなぜ世界の果てまで軍隊をおくりたいのだろう? アメリカにしろロシアにしろ、ひとの暮らしや命以外のものを優先させるや つらによって、暮らしや命や尊厳をうばわれる人々がいる。タガがはずれてきた世界はわたしたちの身近な日常にも、まさに新種のウィルスのように浸透する。 火をつけ、散弾銃を放ち、ナイフで切り裂く。見えないなにかが壊れはじめてきた世界。
2022.2.21
 
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  自転車で県立図書館へ行くときに佐保川の堤の向こう側に頭が見えていた墓地がずっと気になっていて、ときおり向こう側へ渡る橋でもないかと寄り道をしても 見つからない。JRの電車に乗って奈良へ向かうときも車窓から見えた。「三ヶ町共同霊園」は佐保川が秋篠川と分岐し、さらに蛇行しながら岩井川とも分れる その半円をJRの線路が斜めに寸断した川沿いに位置している。一見して水が氾濫しやすい場所だと分かる。しかもわが家の方角からだと、わざわざ遠回りをし て国道のバイパスの高架下へ入り、そこからもどるように工場や物流倉庫や産廃処理業者の保管ヤードが立ち並ぶおよそ生活空間から離れたエリアをぬけて、不 法に棄てられたゴミの堆積する線路下をくぐっていく“どんつき”のような場所だからそもそも墓地へ行く者しか通らない。三ヶ町は「路地」である。東に向い た正面の入口から入ると、おそらくかつては焼場であったろう高い煙突とつながった堅固な建物があって、緑色の鉄の扉はふたつとも錆びついている。その扉の 前に小祠があって「釋尼妙夢」と刻まれた石の台座の上にマリア様のような石仏がぽつりと立っている。その小祠のうしろに棺台がある。焼場の南側には一般の 墓が密集して立ち並び、北側には軍人墓と古い時代の無縁墓が向き合っている。そのかたわらに、昭和40年9月の水害によって墓地を移転した旨を伝える背の 低い紀念碑が手入れのされていない植栽に隠れるようにして立っていた。軍人墓は日中戦争の頃の大きな墓標が三基、その横に「戦死者之墓」として小ぶりな方 錘型がおよそ50基ほど、整然とならんでいる。墓地の前の道は荒れた地道で、向かいはトタンの塀で囲まれたひと気のない産廃業者の敷地、そびえ立った軍人 墓の裏手の堤には落葉した黒い枝が曇り空にその手を伸ばしている。いつものようにひとりびとりの名前と死んだ場所と死んだ年齢を読み上げていく。石の材に よっては風化が早く読み取れない文字も多い。一基に三人の息子たちが並び刻まれた墓標もある。向かいの無縁墓のなかには天明四年と刻まれた尖頂方形の墓が あった。天明4年は1784年。前年には浅間山が大噴火を起し、天明の大飢饉があり、江戸城内で若年寄・田沼意知が殺害され、天明の打ちこわしがあり、京 都の大半を焼失する大火がありと、動乱の時代であった。大和郡山でも凶作、大飢饉、大雨洪水などが起り、城下の米屋五軒が破壊された、郡山藩500人に救 米を出したなどの記録が残る。墓地の裏手のさびしい堤にのぼってみる。かさかさと音のする落葉の下にやわらかな地面があって足をとられる。いつの間に小雪 がちらちらと舞っていてそれが桜の花のようにも死者のため息のようにも見える。見知らぬ死者たちに摩耗した石仏にわたしは手を合わせるが、いっただれに向 かってわたしは合掌するのかなにを弔っているのか分からない。ただこうして物言わぬ死者たちの前にいる方がわたしは、生きている者たちの世界にいるより ずっとこころが休まるのだ。ひょっとしたらわたしは、わたし自身を弔っているのかも知れない。わたしは時を超えてここにいる。百年も、二百年も、三百年 も、わたしは生きつづけて死につづけてきた。前頭部擦過胸部左側肩一部貫通左上膞部ヲ貫通シテ戦死したのはわたしだ。二十八歳だった。不合理な死をずっと この堤の下で雨に打たれ風に吹かれ日照りに焼かれて考えつづけてきた。生者は眠るが、死者は目覚めつづけている。だからわたしはここへ来た。堤の斜面に腰 をおろす。こんな心地の良い場所にひとりすわり、そのまま夜になったら、ヘインツ(幽霊)が現れてブルースの弾き方をおしえてくれるだろうか。
2022.2.21
 
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  「自衛のため」「人々を保護するため」「“特別な軍事作戦”であり、侵攻ではない」「国連憲章には違反していない」 プーチンとそっくり同じその言葉は前 にも聞いたよ。アメリカがアフガニスタンを爆撃したとき、インドの女性作家アルンダティ・ロイ (Arundhati Roy) は「戦争は平和である」という論文の中で 、アフガニスタン爆撃を発表した時にブッシュ大統領の言った「われわれは平和な国民である」という言葉と、「人気高いアメリカの大使で、英国の首相も兼ね る」ブレアの「われわれは平和な人民である」という言葉を引用した上で「これでよく解った。豚は馬である、少女は少年である、戦争は平和である」と書い た。ロシアの「国際秩序を脅かす」ウクライナへの侵攻もそれについてのプーチンの発言も、いまに始まったことではない。力による問答無用の殺戮、そこで高 らかに謳われる不条理で恥ずべきアベコベの言葉たち。それはロシアのプーチンがいまそれを始めたわけでもない。おれたちはずっとその世界で生きてきた。そ うだろ? パレスチナやアフガンやイラク、シリア、クルド、リビア、イエメンなどで暮らす人々にとってはずっとそうだった。世界はいまも酷い暴力に満ちて いるし、いままでもずっと酷い暴力に満ちていた。おれたちはみんなそのなかにいたんだよ。一か月前も、一年前も、おれたちはみんな豚が馬で、少女が少年 で、戦争が平和である世界にいた。いまもいる。
2022.2.24
 
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  風呂のなかでひさしぶりにアルンダティ・ロイの「帝国を壊すために」(岩波新書)を読み返していた。アフガンを空爆した数日後にFBI本部でブッシュが 行った演説が出てくる――「これこそアメリカ合衆国が求める使命だ。アメリカは世界でもっとも自由な国だ。この国は根本的な正義の理念に基づいているの だ。憎悪を拒絶するのだ。暴力を拒絶するのだ。殺人を拒絶するのだ。悪を拒絶するのだ。そしてわれわれは疲れを知らないのだ」 これをウクライナに侵攻し た今回のプーチンが言っても、あるいはひょっとして台湾へ侵攻する習が言っても、どいつも反吐が出るくらいによくお似合いだ。おなじ「戦争とは平和のこと である」のなかでアルンダティ・ロイはこうも書いている。「人々が戦争に勝つことは稀だが、政府はまず負けることがない。民衆は殺される。政府は古い皮を 脱ぎ、離散糾合して、ヒドラのようによみがえる」 まさにそのように今回も、アメリカもイギリスもドイツもフランスも日本もそしてロシアも負けることはな いだろう。かれらはみな上手に生き残る。そしてウクライナだけが国土を蹂躙され、多くのいのちが無残に奪われる。今日は昼からずっと、わずかな家事と犬の 散歩に出かけた以外のほとんどの時間を、YouTubeのウクライナの24時間テレビの報道、ヤフーの国際ニュース、CNNやBBC、フランスのAFP、 ロシアのSPUTNIKまでをデスクトップの画面上に並べてひたすら見入っていた。夕食のとき、この国の国営テレビのニュースを見た。ロシアのウクライナ 侵攻につづいたのはガソリンのさらなる値上げと、株価の値下がりだった。それが三大ニュース。そういうことなんだよ。他国の明日をも知れぬ人々のいのちと ガソリンの値段と株価が並列される世界におれたちは生きている。そして幸いにも「こちら側」にいるおれたちのなかには、こんなことを言ってせせら笑うやつ もきっといることだろう。「Which side are you on?  どうやら付く方を間違えたみたいだな、ご愁傷さま!」 どちらにしろ、反吐が出る。9.11の前からもそうだし、いまもそうだ。
2022.2.24
 
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  今朝、娘が見つけた「ウクライナ人の父親がロシア軍と戦うために現地に残るため家族に別れを告げる様子」の動画。胸が引きちぎられそうだよ。昨日、BBC ライブニュースでNATOの関係者かだれかがもっともらしくしゃべっていたけれど、NATOを含めた西側諸国は素晴らしい連携を示している、われわれの結 束は固い。だがそこにはウクライナは入っていないし、もちろんこの家族のことも入っていない。この糞野郎が、とおれは画面に唾を吐きかけたよ。おれには、 この親子が世界の中心だ。

 「<帝国>に抗して」の最後にアルンダティ・ロイは次のように記している。

 わたしたちに何ができるでしょう?
 記憶を研ぎ澄ますこと、自分たちの歴 史から学ぶこと、それが、わたしたちにできること。大衆の意見を積み上げつづけて、それを耳をろうさんばかりの叫びとすること、それが、わたしたちにはで きる。
 イラク戦争を、アメリカ合衆国政府の 行き過ぎを暴きだす、ガラス張りの金魚鉢にしてしまうこと。
 ジョージ・ブッシュとトニー・ブレア ――そしてそれに同調する者たち――の素顔を暴くこと、卑怯な赤ん坊殺し、水に毒を入れる奴、いくじなしの長距離爆撃野郎、という素顔を。
 わたしたちには、市民的不服従を、 100万の異なる仕方で、再発明することが可能だ。言いかえれば、わたしたちには、彼らの尻を後ろから、集団でつつきまわして痛めつける、100万の方法 がある、ということ。
  ジョージ・ブッシュが、「我々の側につくか、それともテロリストの味方をするか」と言うのなら、わたしたちは、「よけいなお世話」と言ってやる。世界の人 々は、「悪逆ミッキーマウス」と「狂人ムッラー(イスラムの導師)」の、どちらかを選ぶ必要なんかないことを教えてやろう。
  わたしたちの戦略、それはたんに<帝国>に立ち向かうだけでなく、それを包囲してしまうことだ。その酸素を奪うこと。恥をか かせること。馬鹿 にしてやること。わたしたちの芸術、わたしたちの音楽、わたしたちの文学、わたしたちの頑固さ、わたしたちの喜び、わたしたちのすばらしさ、わたしたちの けっして諦めないしぶとさ、そして、自分自身の物語を語ることのできるわたしたちの能力でもって、わたしたちが信じるようにと洗脳されているものとは違 う、わたしたち自身の物語。
 大企業による革命なんて、わたしたち がその製品を買うことを拒めば、おしまい。その発想も、それが捏造する歴史も、その戦争も、その武器も、それが信じ込ませようとする必然性だって。
 覚えておこう――わたしたちは多く、 かれらは少ない。わたしたちが彼らを必要としているよりも、彼らのほうがわたしたちを必要としているのだ、ということを。
2022.2.25
 
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 だれか、世界中のあらゆる武器を一瞬にして無効化してしまう発明をつくってくれないかと本気で思う。
2022.2.26
 
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  わたしはなにもプーチン・ロシアの行動を支持しているのでも、情状酌量の余地があると言っているわけでも、もちろんない。ただ、あまりにも世界の情報が不 均衡だと言っている。たとえば今朝の毎日朝刊をひらけば、英誌「エコノミスト」元編集長なる人物の「ウクライナ侵攻 試される西側の結束」と題した論考が 2面総合欄に載っている。その冒頭――「ウクライナでのロシアによる軍事的行動は、世界平和が国連での議論や国際法によって保証されるという幻想を打ち砕 いた」、「幻想」としていることだけまだマシだが、ヘソで茶が沸く。オリバー・ストーンの「ウクライナ・オン・ファイアー」について「結果的にプーチンの 主張を広める一方的なプロパガンダ映画になってしまった」と、長年の知人である田中アキンさんからご批評を頂いた。では「世界平和が国連での議論や国際法 によって保証されるという幻想」はプロパガンダではないのだろうか? ストーンのこのドキュメンタリー作品はWebからかなり締め出されているが、「世界 平和」のプロパガンダはいわゆる「西側」にいるわたしたちの日常にふつうの顔をして溢れかえっている。わたしはかの9.11でニューヨークの高層ビルにハ イジャックされた旅客機が突っ込むのをテレビで見たとき告白するが、胸の内でひそかに小さな快哉を叫んだ。そしてそのときのことを「でたらめのまま平気で 紳士ぶった顔をしている世界よりも、露わになった裂け目からその耐え難い悪臭を放つ膿が噴出する世界のほうが、いっそ良い」と記した。気の触れたプーチ ン・ロシアによるウクライナ侵攻によって「国連での議論や国際法によって保証される」世界平和が崩されたわけではない。わたしが言いたいのはそこの部分 だ。そんなものは最初から崩されているんだよ。2022年2月24日に世界平和が崩されたわけではない。2022年2月24日以前からずっとこの世界は暴 力に満ち満ちた、無力で無名な人々が追い出され、監禁され、虐待され、拷問され、吊るされ、爆弾で脳味噌をぶち割られ、餓死するようなひどい世界だった。 わたしはいつも吐き気を感じていた、この世界のすべてに。「西側の結束」で世界平和が試される? あなたは2022年2月23日まではこの世界が、いろい ろと問題は抱えてはいるけれどまんざらでもないと思っていたのか? 気狂いプーチンがあなたのまんざらでない世界秩序をかき乱すまでは? そうしたことの 一切に反吐が出る。
2022.2.27
 
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  戦時下のウクライナで結婚式を挙げ二人して武器を手にした写真をシェアする人がいる。軍服に身を包んだモデルのような女性兵士の写真をウクライナ支持の言 葉と併せてアップする人がいる。どちらもわたしには違和感が残る。プーチン率いるロシアが悪の帝国で欧米諸国が平和の結束をしているのだという単純な図式 にも反吐が出るし、同時に核兵器まで言及するプーチンに至ってはもはや乱心かとも思われる。ヨーロッパで勢力を伸長する歴史の亡霊のような暴力的極右の流 れは綿々とつづいてきたのだろうし、それはそのままこの世界の合わせ鏡のようなものなのだろう。ウクライナ国内のいわゆる親露派といわれる地域ではじっさ いに暴力や差別もあったのかも知れない。チョムスキーに言わせるとかつてのソビエト連邦と東ヨーロッパはアフリカや中東の解放闘争を支援し「地球上でもっ とも貧しい国のために、その国の言葉で本を印刷する大きな出版社も」あった。つまり「人間の顔をした社会主義」だ。けれどいま、それについて語る者はだれ もいない。国民に徹底抗戦を呼びかけるウクライナのゼレンスキーは果たして勇敢な大統領なのだろうか? ロシアとNATO(=アメリカ)という超大国に挟 まれた地理的危うさを抱えた国のリーダーとして今回の事態を招いたのは舵取りを間違えたかれの責任ではないか? 老練なマフィアの親分たちのはざまでかれ は政治家としてはあまりにも幼すぎたのではなかったか? その結果に伴ってすでに奪われた、そしてこれから奪われるだろう無数のいのち。紅蓮の炎のような 火事の対岸から、ウクライナ頑張れ、おれたちはみんなウクライナの味方だ、と叫ぶ人々。そうした風景にもまた、わたしは違和感を感じる。いのちを無駄に捨 てるよりも降伏してとりあえず生きのびるべきだという人もいる。圧倒的なロシアの軍事力を前に、みなが対岸から見守るしかない世界の状況で、これ以上無駄 な死を積み重ねるよりもロシアの占領下でも生き残るべきだと。だからお願いだから武器を捨てて降伏してくれ! わたしはそれも得心できる意見だと思う。け れどディランの曲でこんな一節がある。「大晦日の夜に何者かが殺された。まず最初に奪われるのが尊厳だと、誰かが言っていた」 いのちの前に人としての尊 厳が奪われる。アウシュビッツでもそうだったかも知れない。尊厳を奪われなかった者が生きのびたのかも知れない。覚束ない手に銃を握りしめ市街へ出て行く ウクライナの一般市民たちは間抜けな大統領に乗せられているだけなのか? 発泡スチロールを瓶に詰めて火炎瓶をつくる女たちは国を守るという恍惚のために みんな盲目となっているのか? 生きるために尊厳のためにかれらが何を選び取るかは、対岸にいる者たちは何も言えないのではないか? そうもわたしは考え る。「暴力は持たざる者の最後の武器じゃないか」 五木寛之の小説に出てくる、こんな台詞をわたしはけっして捨てない。それをどこで、どんなふうに使うの か。愛するだれかのために、じぶんのために。いのちのために、尊厳のために。もちろん、それは崇高な犠牲でもなく、国家に殉ずるものでもない。おそらく もっとみじめで無様な、<個>による最後のあがきのようなもの。「いいね!」は要らないよ。
2022.2.28
 
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 もうさ、アメリカ。いつまでも傍観者面してないで、おまえも相当悪いんだから、前面に出て行ってロシアを止めろ。そしてお互いにウクライナから手を引い て、平和なひまわり畑にすると世界に約束しろ。
2022.3.1
 
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 生きるために、英雄的な行為は要らない。
2022.3.2
 
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 ロシアが現在も加盟している1994年の「平和のためのパートナーシップ」や、1987年にゴルバチョフが提案した欧州とロシアを含む「欧州共通の家」 のようなものが、いまこそ必要なんじゃないか。
2022.3.3
 
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  今回のロシアによる軍事侵攻のようなことが起きると、単純細胞の懲りない面々は(単純細胞の政治家も含めて)すぐに、結局最後は軍事力だ、やっぱり核兵器 もあった方がいい、なぞと言い出す。「結局最後は軍事力だ」の歴史が過去にどんな結果をもたらしたか、全国にあまた残る無残な軍人墓や苔生す慰霊碑をま わってこい。「結局最後は軍事力だ」にならないように政治があるのであり、政治家がいるのであり(たぶん、そうだよね?)、その政治家が軍事力に頼るので あれば何のための存在か分からない。外交は妥協の産物だ、という。妥協するためには複雑に絡み合ったそれぞれの意見や価値観、立場などにお互いが耳を傾け 配慮をして多面的に物事を考える必要があるのであって、そこから理解や譲歩や対話が生れる。んー なんかふだんのわたしにはちょっと似合わないような言質 だが、まあ、現実はそうだ。そして今回のロシアのウクライナへの侵攻にしても、外交の余地はあった。軍事侵攻したロシアも悪いが、外交を棄ててつれなく袖 にしたのはアメリカの方だとわたしは思っている。一方が「一切妥協せず。おまえなんか相手にしない」と言った時点で、ふりあげた拳はついにふりおろされる のだ。国連で140以上の国がロシアを非難しロシアのスピーチをボイコットし、世界は「悪の帝国の独裁者」プーチン・ロシア糾弾で見事一色に染め上げられ た。すると差別大好きの閉鎖国民のわが日本では、さっそくSNS上で在日ロシア人に対する言われなき暴言や誹謗中傷が溢れ出し、ロシア料理の店の看板が破 壊されたりする(じつはその店はウクライナ人の経営だったという笑えないオチ付きで)。東日本大震災のときもそうだったよね。放射能から逃れて避難した東 北の人々は無理解で理不尽な差別やいじめにさらされた。そうしたものはこの国の人々がいままでずっと過去の歴史を直視せず、ないがしろにしてきたことと深 いところで根っこがつながっているのだとわたしは考えている。たとえばわたしが現在住んでいるこの奈良県内でも、ダムや鉄道や鉱山や溜池や河川や宅地開発 や工場などで多くの朝鮮人や中国人が危険な作業をさせられていのちを落としたが、いまそれを語る者も知る者も慰霊する者もほとんどいない。歴史はたいてい 複雑な陰影に満ちたものだけれど、そうしてこの国はいわば脱色した単純細胞の歴史しか持ち得てこなかった。「過去は現在によって救われなくてはいけない」  作家の辺見庸は「じぶんの身体検査のつもりで」出兵した父親の暗い来歴を暴くように南京虐殺を描いた『1☆9☆3☆7』で、そう記した。「過去は現在に よって救われなくてはいけない」 過去を救う「現在」は、はたしてこの国に存在するのか。その「現在」とは、理不尽なものも、わが身の罪悪も、忘れ去りた い記憶も、そうした一切合切を併せ呑んで現出するものであろう。そのときにはじめてわたしたちの国は、中国やロシアや朝鮮や他のアジアの国の人々と語り合 うことができる。「外交」ができる。いまや暴君のように突き進むプーチンも、それをたぶんほくそ笑んで眺めているバイデンも、どちらもそれなりに世界の極 悪人だと思っているが、それよりもわたしは、無数の色彩に満ちた世界を棄てて、いとも容易にひとつの色に染め上がり、それ以外の色を排斥し、みな見事なほ ど同じトーンの声で合唱する単純化したこの世界の方に、より一層の恐怖を感じる。
2022.3.3
 
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 アメリカが国連憲章に違反してアフガンやイラクを空爆してたくさんの罪のない人々を殺したときも世界による強力な制裁をやればよかったよね。
2022.3.4
 
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 プーチンの要求の軸はウクライナの非武装・中立化。それでいいじゃねえか。アメリカと国連総長はゼレンスキーを説得して、そのままロシアへ交渉に行け。 いのちを救え。仕事しろ。
2022.3.5
 
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  何度も言ってるけどさ、プーチンを擁護しているわけでも、軍事侵攻を容認しているわけでもない。片方の悪だけ糾弾して、平和のリーダー然としているもう片 方の悪をちゃんと認識しておかないと、片手落ちになるってことだよ。陰謀論でも何でもない。片方の悪を止めても、もう片方の悪は平和の顔してますます伸長 する。あの9.11以前や、今回の2022年2月24日以前は世界は平和だったと思っていたなら、おれとは意見が合わないな。仕方がない。プーチンを滅ぼ したあとの「平和な世界」に浸ってくれ。
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  本当に極悪非道なのは、ロシアの熊が拡大を目論んでいると絶えず非難しながら、自らの政策全体を、熊を拡大するように仕向けることである。 そうすれば、懲罰的な制裁を行い、国防総省の予算を数段上げ、米国の貴重な欧州の「同盟国」たちにNATOの保護恐喝的な締め付けを強めることができるか らだ。

  ジョー・バイデン米国大統領と彼が率いる闇の国家は、ウクライナの平和的解決など決して望んでこなかった。なぜなら、不安定なままのウクライナはロシアと 西ヨーロッパ間の永久的な障壁として機能し、西ヨーロッパに対する米国の支配を確実なものにするからだ。 米国は長年にわたりロシア敵視を続けてきた。そしていまロシアは、西側は自分たちを敵としてしか見ないのだという不可避の結論を導いているのである。ロシ アの忍耐は限界に達した。そして、これはゲーム・チェンジャーである。
◆ダイアナ・ジョンストン:米国の外交政策は残酷な遊びである
https://peacephilosophy.blogspot.com/2022/03/diana-johnstone-us-foreign-policy-is.html?fbclid=IwAR08bYedxGTmTJKwEBmk8gfzZtF_9NcIv1nTiD9hfxVyyy6vBObNfcYOOTQ#.YiDG2xlAEB8.facebook
2022.3.6
 
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 ときどきこの世界の一切合切は、墓場の向こうから聞こえてくるまぼろしではないかと思えるときがあるんだよ。苔生した墓石のむこうにはいちめんの菜の花畑 がひろがっている。とてもうつくしい風景なんだ。なぜなら、かれらはもうだれも死ぬことはないからだ。苦痛にうめくことも、かなしみでことばを失うこと も、だれかをもとめてむせび泣くこともない。そうしたすべてが、もう済んでしまった世界だ。世界の一切合切が、そうであった方がまだいっそましだと、そう 思えるときがあるんだよ。

2022.3.6



 
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  「古都とは、天皇がいなくなった旧都(もとのみやこ)である」と高木博志は「近代天皇制と古都」(岩波書店)ののっけから記す。「明治維新から1889年 の大日本帝国憲法の発布までに、近代天皇制の核心となる「万世一系」の「国体」(天皇をいただくくにがら・国家体制)が定置され、それをうけて、奈良・京 都の古都も、日本の「歴史」「伝統」「文化」を具現するものとして、近現代を通じて創りだされる」  「古都」ということばが定着したのは戦後、とくに 1966年の古都保存法(古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法)以降のことだと高木は記すが、まさに明治の鵺のような亡霊が広告代理店のつく る気の利いたキャッチコピーとともにとめどなく再生産される。橿原神宮の大鳥居の前に現れる結婚式殿の巨大な広告看板の文句「日本のはじまりで 新たな家 族のはじまりを」のように。高木はまた「天皇制の装置としての古都の創出にかかわって重要な要素に、陵墓と御物があるだろう」とも記しているが、2019 年、被葬者が定かでない大山古墳が「仁徳天皇陵古墳」として世界遺産登録されたことの意味を、わたしたちはあらためて考えるべきかも知れない。

  「畝傍山山麓(橿原市)における神武陵の創造は、「神武創業」という明治維新の理念、すなわち神話的古代を視覚化するものであった」  陵墓が「天皇制の 装置としての古都の創出にかかわ」る重要な要素のひとつであるとすれば、神武陵や橿原神宮を含めた畝傍山山麓の一帯は、まさに明治の鵺のような亡霊を発信 つづけている巨大で空虚な空間である。神武によって建国されたとする紀元前660年は考古学的にいえば縄文晩期〜弥生前期の時代である。その後、1200 年を経た672年に「日本書紀」は大海人皇子(のちの桓武)が壬申の乱のさなかに戦勝を祈願したと記すが、これが神武陵の1回目の創造である。つづいてさ らに1200年後、1863(文久3)年に2回目の創造がされて、その後たび重なる増築・改修を経て現在の神武陵がつくられていった。いくつかの候補地 (伝承地)のなかから比定されたかつてミサンザイと云われたその場所は「ここは直径10mくらいの小塚が2つ並んでいて、もともと地元では糞田(くそだ) と呼んでいた。ひょっとすると牛馬の処理場で、掘ると牛や馬の骨が出るかも」と旧洞村の古老が伝えるように、草場権を有していた洞による斃牛馬の解体場所 であった可能性が高い。その場所をわたしたちは遠い神話時代のこの国の創始者の墓として拝み、頭を垂れている。

  奈良には数多くの歴史的な寺社や遺跡があるので、毎年たくさんの人々がそれらを目当てに訪れる。法隆寺、東大寺、唐招提寺、春日大社、平城京跡、唐古・鍵 遺跡、三輪神社、そして飛鳥等々。けれどわたしはこの国の「真の歴史」を学ぶ場所として、この畝傍山麓ほどふさわしいところはないと思っている。ここには 前述したように、「負の近代化遺産」(高木)である「神武陵」と「橿原神宮」があり、その創出によって移転を余儀なくされた被差別部落の旧跡が「神武陵」 のすぐはたの森のなかに眠っている。つまり、高木のいう「民主主義の課題である天皇制」がじつに象徴的に詰まっている場所なのだ。徳川三百年に代わって明 治の新政府は天皇制という「非合理な血統」をつくりあげた。まさに「日本のはじまり、ニセモノのはじまり」である。幕末まで京都の泉涌寺でせいぜい二代三 代前の位牌を弔う仏教徒であった天皇が明治以降、突如として120代の皇祖を背中に負う存在となった。死んだ先帝と添い寝をする大嘗祭はアマテラス としての生れ変りの儀式である。「そして敗戦後の1946年正月元旦の「人間宣言」のGHQ案に対して、裕仁天皇がクレームをつけ、最後まで守り抜いたの は、「神の裔」として自らが位置づく神学であった。すなわち近代天皇制には、始原のパワーを持つ天照大神の「天孫」として、新たに生れいづる身体をもって 自ら天皇として即位するという神学が存在した。間違いなく昭和天皇裕仁は、その神学を信じた。かくして近代の一人ひとりの天皇は、百二十代こえる「皇祖皇 宗」の天皇たちを背負う器(いれもの)となったのである」

 1862 (文久2)年に戸田忠至らによる山陵補修がはじまり翌年、塚山・丸山・ミサンザイといった三ヵ所の伝承地から現在地が比定された神武陵に1万5,062両 (1両20万円換算で約30億円。ひとつの天皇陵の修復予算の平均が555両=約1億円だった)という膨大な費用がかけられて円墳が造成され、鳥居や拝所 が建設された。そして1867(慶応3)年の王政復古の大号令、1873(明治6)年の紀元節の施行を経て、畝傍山・神武陵・橿原神宮の三位一体による 「近代における神話的古代の創造」が構想される。そこで奈良県が模範としたのが、先行する1886(明治19)年から3年をかけて五十鈴川の橋の向こうに 「茶屋や民家が立ち並び、「不潔ヲ極」めていたのが、一斉に排除され」「あらまほしき近代の神苑の理念型である」清浄な空間が創出された伊勢神宮であっ た。「概して、前近代の神社の空間は、仏教や土俗的宗教が混在し、芸能者や賤民もつどう、もっとも活気があり「猥雑」なものであった。これに対し、樹種が 厳選され、玉砂利がしかれ、水で清められ、神経症的なまでに潔癖な神苑の空間は、近代の属性である。この伊勢神宮の神苑がモデルとなり、奈良県では 1890年代から大正期にかけて、橿原神宮神苑整備事業がはじまる。そして1917(大正6)年には神苑内にあった被差別部落の洞村が強制移転させられ る。国家は、清浄な神苑づくりにあたり、被差別部落に「穢」の烙印を再び押したのである。こうして伊勢神宮にはじまった近代の神苑=「天皇制の清浄な空 間」は、橿原神宮、熱田神宮、そしてヨーロッパの造園学の影響を受けた内務官僚主導の明治神宮神苑(内苑・外苑)造営ののち、札幌神社、そして村々の神社 へと全国に広がってゆく」

  先日の天皇徳仁の誕生日である2月23日、橿原神宮見物と洒落てみた。20年以上、奈良に暮らすが当地に足を踏み入れるのは生涯ではじめてのことだ。近 鉄・橿原神宮前駅に降り立ち、正面のまっすぐな道をすすむとやがて巨大な第一の鳥居が現れる。道も町も神宮を向いている。この畝傍山・神武陵・ 橿原神宮を三位一体とする、いわば「畝傍山神苑」の形成に於いては、被差別部落の洞村の他にも、久米・畝傍・大久保・四条といった村も移転を余儀なくされ た。久米村は深田池の東、神宮の社務所から文華殿、養正殿にかけての一帯、畝傍村は神宮と競技場にはさまれた森林遊苑のあたり、大久保村は神武陵に隣接す る東、四条村はその北のやはり現在の神武陵敷地に含まれるあたりである。何か当時の村のよすがでもないかと探したが、80年もむかしの大規模造成のあとで はすべては大地の下である。「紀元二千六百八十二年」と大書された南神門をくぐると、警備員に拝殿へは休憩所の方を迂回するように身振りで示された。折し も 天皇徳仁を祝う天長祭の儀式が終わった頃で、神官たちがぞろぞろと儀式殿から引き上げてくるのだった。拝殿の前に立ったが、とくに祈ることもない。とりあ えずぐるりと周辺をあるいてから、深田池のはたにある休憩所のトイレで小便をした。

  神宮の南に接する広大な深田池は奈良時代にはすでに 築造されていたという溜池だ。この池の北側の遊歩道を西へすすむと西の鳥居の手前に神饌田がある。神宮での儀式に神前に供される米をつくる田圃である。奥 に古びた石碑があったので見たいと思ったが立ち入り禁止であった。そのまま西池尻の集落へ出て第4代懿徳(いとく)天皇、第3代安寧(あんねい)天皇と いった神話時代の「天皇陵」を眺めながら畝火山口神社へ着いた。畝傍山を軸にぐるりと1/3周ほどまわったことになる。もともと山頂に坐していた社殿は 「昭和 15年皇紀2600年祭で橿原神宮・神武陵を見下し神威をけがすということで当局よの命により山頂から遷座した皇国史観全盛期の時勢を映した下山遷座で あった」と神社の説明版にも心なしか恨み節がきこえる。この神社の鳥居の手前から畝傍山への登山道がはじまる。畝傍山は標高199メートル、道は整備され て標識も多い。祝日ともあって家族連れや、また近在の人がウォーキングに利用している姿も多かった。道はなだらかだが、途中から少々傾斜がきつく息があが る。山頂付近には一万数千年前の火山噴火でできた流紋岩質溶岩の塊が散見される。山頂は広場になっていて、かつての畝火山口神社の社殿の石垣が残ってお り、二上・葛城山方面の眺望は良い。東側の旧洞村跡地を見下ろしたかったのだが、神武陵を見下ろすことになるからか樹木が邪魔をしてほとんど見えなかっ た。

 畝傍山の山頂からは東へ、橿原神宮の北側にある「瑞鶴の碑」などがある怪しげなゾーンへ下りようと思っていたのだが、途中で分 岐を間違えてさらに北に位置する旧洞村跡地へ下りてきてしまい、そのまま跡地巡りをすることにした。山を下ってくるとやがて前方に神武陵の玉砂利を敷き詰 めた立派な参道が カーブをするあたりが見えてきた。参道から旧洞村の本村であった山本村へ抜ける道をすぐに左に分岐すると旧洞村跡地へ出るのだが、そこは参道側へ向けて 「陸墓地につき許可無く立ち入らぬこと 宮内庁」の看板が立ち、簡易な竹の柵が設置してある。しかし畝傍山から下山してくるとその看板の背後に出るので 「なにも見えない」のである。洞村跡地については別で詳細を記したので、そちらを参照して頂きたい(おおくぼまちづくり館と洞村跡地 http: //marebit.sakura.ne.jp/horamura.html)。洞村の全村移転は1917(大正6)年のことである。ここでは後藤秀穂 「皇陵史稿」(1913・大正2年)に於ける当時の文章をだけ引いておく。「... 驚くべし。神地、聖蹟、この畝傍山は無上極点の汚辱を受けている。知るや、知らずや、政府も、人民も、平気な顔で澄ましている。事実はこうである。畝傍山 の一角、しかも神武御陵に面した山脚に、御陵に面して新平民の墓がある。それが古いのではない、今現に埋葬しつつある。しかもそれが土葬で、新平民の醜骸 はそのままこの神山に埋められ、霊山の中に爛れ、腐れ、そして千万世に白骨を残すのである。どだい、神山と、御陵の間に、新平民の一団を住まわせるのが、 不都合この上なきに、これを許して神山の一部を埋葬地となすは、ことここに至りて言語道断なり。聖蹟図志には、この穢多村、戸数百二十と記す。五十余年に して今やほとんど倍数に達す。こんな速度で進行したら、今に霊山と、御陵の間は、穢多の家で充填され、そして醜骸は、おいおい霊山の全部を浸蝕する」

  神武陵の西側、畝傍山麓の森のなかにはいまも旧洞村の人々の当時の暮らしのかけらがちらばっている。小路のわきに棕櫚が生えているのはかつての住居跡で、 下駄表の材料としたのである。奥へ進むと煉瓦造りの立派な共同井戸がいまも水をたたえている。現在の大久保町に移転した生国魂神社跡には礎石が残っている そうだが、わたしはその参道と思われる石段が崩れ落ちたような斜面を見つけたが神社跡はたどりつけなかった。その下の水が流れる谷筋には当時のものと思わ れる陶器のかけらが散在している。共同井戸からさらにのぼると。「宮」と刻まれた石柱が何本か、暗い傾斜地の草むらを囲うようにさびれて立っている。有力 な神武陵の候補地であった「丸山」のエリアで(本居宣長はこちらを推していた)、1863(文久3)年に勅裁により神武陵は現在地のミサンザイ(神武田) に決まったが「尤(もっとも)丸山之方モ粗末ニ不相成様被仰出候事」と達せられたのであった。けれど石柱のいくつかは倒壊し、管理されている様子はない。 かつてここには共同風呂もあり、大きな寺もあり、墓地もあり、人々がみずから造成した溜池もあり、こしらえものの神武陵よりも古くからの暮らしがあっ た。1912(大正元)年の奈良県知事宛ての建白書では、旧洞村の戸数208戸、人口1,054人、宅地坪数七千百余坪。ひとしきりあるきまわっ てからもどりかけたところで、ハイキング姿の中年男性と遭遇した。こんなところで珍しいので「洞村ですか?」と声をかけると、わたしと同じく畝傍山から間 違って下りてきたらしい。被差別部落は言わず、神武陵の造成で移転された村の跡地だと説明してあげると、「それは勉強になりました。ありがとうございま す。ちょっと見てきます」と共同井戸の方とへあるいていった。

 そろそろ昼もとうに過ぎて腹も減ってきたので、神武陵の参道から大久保町 へ出た。当初は神宮前駅に近い津田食堂なる老舗の大衆食堂を狙っていたのだけれど、もどるには時間がかかる。ひさしぶりに「おおくぼまちづくり館」も寄り た かったのでこの近辺でと思い、見つけたのが「お好み焼き きみちゃん」である。住宅地のなかにある、いかにも常連客相手の店といった感じで、表には看板や メ ニューなどもなく、店内からは賑やかな笑い声が間断なく響いている。時間はすでに一時に近い。一見さんには入りにくい感満載で、しばし店の前で迷っていた が、思い切って店の引き戸を開けた。センターテーブルのような鉄板を囲んでいた客4人と店のおばちゃんの全員の会話がぴたりと止まり、みなが一斉に振り向 いた。「いらっ しゃいませ」ではなく「何か御用?」という空気なのである。立ち尽くしているわたしにおばちゃんがやっと「ん? なにか・・」と声を向ける。「・・いえ。 あの、お腹が減ってきたんで、なにか食べたいなあと思って。焼きそばとか、いけますか?」 飲食店へ入ってこれだけ控えめな言葉を発したのははじめてであ る。それを聞いてやっとわたしがお客だと気がついたらしいおばちゃん、にっこりほほ笑んで「予約席」の札を置いていた端っこの座敷席を案内してくれた。注 文はてっちゃん入り焼きそば、550円。量はわたしには少なめだが、おいしかった。男三人、女性一人の常連さんは会話も盛り上がっていて、そのうちのいち ばん若い兄ちゃんが一人でしずかに食べているわたしをやたら気遣って、「おにーさん、おにーさん」と声をかけてきて、寒くないかとストーブを向けてくれよ うとしたりする。お勘定の際に「すごく、おいしかったです」と伝えるとおばちゃんはびっくりしたような顔でとても喜んでくれた。いつか再訪する機会があれ ば、こんどは複数でビールでも飲みながら鉄板に向かいたい。

 「お好み焼き きみちゃん」から数分も閑静な住宅地を抜ければ、旧洞村から の移転の歴史を伝える「おおくぼまちづくり館」である。洞村から移築した丸谷家住宅を利用したもので、一階は旧洞村の暮らしや強制移転の歴史をジオラ マやパネル展示、ビデオ映像などで伝え、二階には戦前・戦後を通じて部落の主産業であった下駄表づくりや革靴づくりの製造工程や当時の道具などを陳列して いる。はじめての人はここで予習をしてから、じっさいの旧洞村跡地を見に行くといいだろう。入館料は100円。ところがわたしは「きみちゃん」でちょうど 最後の 小銭を使い切ってあとは50円玉ひとつしか財布に残っていなかった。恐縮しながら一万円札を出すと、近所の人と立ち話をしていた館のおっちゃんは「いや あ、お釣 りはないなあ」と困った声を出して、「なら、もういいですわ」とわたしに言って、「・・これ、書類に書かなきゃいけないよね。面倒だから、もうわしが立て 替えとくわ」と内輪で話しながらじぶんの財布から百円玉を出す。申しわけないので、せめてこの50円だけでも受け取ってください、と無理やり受付の棚に置 いたのだった。おそらく60代も後半と思われるその男性は、父親が旧洞村の出身者で、移転を機に一家は大阪へ引っ越したのだが、結局この移転先の大久保町 へもどってきたのだという。なので当人は洞村のことはあまり知らないのだが、大久保町にかつて映画館や芝居小屋があった日々のことや、また戦後になって下 駄表から 変わった革靴づくりの話などをしてくれ、かれが就職をしたときに村でつくってもらっていまも充分に履けるという革靴を見せてくれたりした。また郡山高校に 通っていて、近鉄郡山駅近くの映画館で東京オリンピックのフィルムを見たことなども懐かしそうに話してくれた。だいぶ長居をして、古い石碑が残っていると 教えられた移転した生国魂神社に立ち寄った。社殿の横にひっそりと自然石の碑が立っている。1895(明治28)年、旱魃を憂いてあらたに池を造成したと きの記念碑で、いまでは洞村のよすがを伝える貴重な記録である。

 大久保町を辞して、「おおくぼまちづくり館」でおしえてもらったもうひ とつの記憶、かつての本村であった山本町にある共同墓地を見に行った。前述の造成した池の南側にあった旧洞村の共同墓地は大正の村の移転時に、警官らの監 視の元「一片の骨も残さず」という厳命の元にすべて掘り返させられ、しかも移転先であった大久保町の近隣から「村の移転は認めるが、墓は一切持って来ては ならな い」と約束させられ、山本町の西にあらたな墓地をつくったのであった。161号線から神武陵の北の境界をなめるように西へ回り込んだあたりが山本町であ る。北 側の広大な敷地ではいま、奈良県立医科大学の新キャンパスの建設工事がすすんでいる。墓地はその平地のどんつきの畝傍山を見あげるような田圃のはたにあ る。墓地の西の端に「戦 没勇士之碑」と共に40近い軍人墓が一列に並んでいる。19歳の満州開拓青年義勇軍の墓もあった。一般の墓地は入口の六地蔵もふくめて比較的あたらしいも ののように見える。おまけ程度に隅にならべられた路傍の石仏がいくつか。おそらく旧洞村の墓地にあった墓石の多くは持つ運ぶのも困難で、そのまま現地に埋 められたのではなかったろうか。山本町からこんどは神武陵の南側をまわって参道へ出るかつての旧道をあるいてもどってきた。

 そろそろ日も暮 れかけてきた。最後に立ち寄ったのは森林遊苑の北、イトクの森古墳(古墳時代前期の前方後円墳)の西側にある「若桜友苑」である。解説板によれば「学業半 ばに して海軍飛行機搭乗員を志願して若い命を国に捧げ海に消えた第13期海軍甲種飛行予科練習生出身の1000有余名の御霊を祀る「甲飛13期殉国の碑」が建 てられ、慰霊公苑として昭和48年11月に」開園し、「さらに昭和19年10月フィリピン、レイテ湾作戦に参加し、エンガノ岬沖で沈没した航空母艦「瑞 鶴」の戦没者を祀る碑が生存者や遺族その他の方々の手によって「殉国の碑」と並び昭和53年に建てられ」たという。苑内にはその他、学徒たちが特攻機とし て乗って行った練習機や特殊兵器などのパネル、福島縣西白河郡の記銘がある「皇軍祈武運長久」の石碑、「絆の錨」と題された旧軍艦艇の錨などが、寒々と配 置されている。目立たないが、ここはいわば橿原神宮の招魂社(靖国)であり、八紘一宇はこの畝傍山・神武陵・橿原神宮の三位一体による 「近代における神話的古代の創造」テーマパークでは現在も自明のものとして受け継がれている。かつて「英霊」というものはこの国の思想には存在しなかっ た。日清・日露の対外戦争 と共に天皇制が村や町といった地域社会に浸透して、「英霊」という特別の死者も出現した。個人の死が国家の担保となった。いみじくも上野英信は「天皇陛下 萬歳 爆弾三勇士序説」のなかで次のように記している。「 ・・生まれてはじめて、かぎりなく深い死の淵から、<天皇>が、まごうかたもないみずからの絶対者として、たちあらわれたと いうことです。 「天皇のために」死すべき存在としての日本兵士にとって、それはきわめて自然なことです。彼らの<死>は<天 皇>と結びつかぬか ぎり、 実体をもちえません。<天皇>もまた、兵士の<死>と結びつかぬかぎり、実体をもちえません。 両者がひとつに結びつくことによっ て、<天皇>と<死>とは、はじめて共に実体を獲得したのです。そうでないかぎり、しょせん、 <死>は<いわ れのない死>にすぎず、<天皇>は<いわれのない神>にすぎません」

  仄かに薄暗くなってきた森林遊苑の林を抜けてふたたび第一の鳥居、あの巨大な「日本のはじまりで 新たな家 族のはじまりを」の看板が立つ養正殿前にもどってきた。すこしばかり疲れた足をひきずって駅までのささやかな商店街をあるく。昼だけの営業なのか、津田食 堂はすでにシャッターを下ろしていた。「橿原神宮の駅前商店街も、みんな車で来るようになったからすっかりさびれてしまって」と「おおくぼまちづくり館」 の男性は言っていた。駅前のロータリーの緑地にはやはり大きな立て看板が「令和二十二年は 紀元二千七百年を迎えます。 ようこそ、日本のはじまりへ」と 謳っている。作家の辺見庸は「過去は現在によって救われなくてはいけない」と記した。であるならば、百年のニセモノによって見事に積み上げられたこの国の 過去を救う現在など、どこにもありえないと言うほかはない。

※特に注記のない引用はすべてと高木博志「近代天皇制と古都」(岩波書店)より。

※以下、追記
偉 大なるFBより24時間制限を課せられていて、本日の21時30分頃に解除された。その間、投稿やコメント、「いいね!」も一切できなかった(メッセージ は使えたので、数人の親しい人に愚痴っていた)。対象は3月8日に投稿した橿原神宮「参拝」の記事で、これが「ヘイトスピーチ・侮辱に該当し、FBのコ ミュニティ規則に違反する」というものである。すでに3月2日、冗談のつもりで載せた東スポの紙面画像「マドンナ、痔だった」が「ポルノに該当する」とい う理由で削除及び警告を受けていたため、二度目は有無を言わさず制限ということなのだろう。すぐに異議申し立てを行ったが、マドンナの痔のときもそうだっ たが異議申し立ては「新型コロナの影響などで人手が足りないので必ずしも審査されるかどうかは分からない」ということだったので(マドンナの痔は審査され なかった)、FBのフィードバック(改善依頼)からも文句を二回ほど送ったところ、翌日に「審査をしたが、やはりヘイトであると判断された」と通知が来た ので、ついで案内のあった「専門家によって構成された外部の監査委員会」へ異議申し立てを行った。しかしこれも数週間かかる上に「委員会が審査委対象とし て選定するのはごく少数で、FBのポリシーを改善するのに役立つ異議申し立てに着目して選定している」と云う。結局のところ、投稿のどの部分のどんな表現 が違反なのか指摘もせずに違反だと一方的に告げて、FBの判断は間違うこともあるからフォローアップもありますと言いながら「やるかどうかは分からないけ どね」といったもので、ひとの投稿を勝手に削除しておいて馬鹿にしているとしか言いようがない。マドンナの痔と違って画像があほAIにひっかかったわけで もないだろうから、おそらく違反報告などでちくった奴が複数いたのだろう。そしてFB側はこの国の天皇制が抱えている問題点などという微妙なケースを判断 できる能力など鼻から持ち合わせていないのだろう。結局はこれがFBの限界である。便利なツールではあるが、いざとなればぷーちんロシアの情報統制と何ら 変わりはしない。最近はFBへの不信感から #deletefacebook のハッシュタグを付けて「Facebookを削除しよう」と呼びかける向きもあるらしいが、こういうものはやはり壊していった方がいいのかも知れない。少 なくとも理想的なツールではないということがよく分かったよ。
2022.3.8
 
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それは、死者の恨、生者の恥辱
死者たちよ、今こそ、死の淵からよみが えり来て我らが退路を断て!

あ の日、竹槍でこづかれて花岡の共楽館前広場に引き立てられ、仲間たちと後ろ手で繋がれて縛られ、うなる棍棒の下、膝立を強要され、屈辱にひしがれながら も、炎天下の鋭い小石が膝先と下肢に食い込むのを必死になってこらえていた宋金徳(シンチンデン)よ、その時、学校の教師に引率されて来た村の子供が「日 本人に逆らう悪いシナ人め!」と投げたこぶしほどの石が後頭部にあたって、一瞬よろけるようにして倒れたお前は、どんなに無念の思いをしたか、朦朧として 消えていく意識の中で、故郷に残した母や妻ら四人の家族を思ったか・・・ そしてやがて生まれてくる子供のことを・・・ お前が日本軍に連行された後に、 大黒柱を失った家族は離散し、妻と子供達は町や村を物乞いして歩いたことを・・・ お前が連行されてから生まれた息子の宋明遠(ソンミンイェン)は、今も なお涙と鼻汁で顔をぐしゃぐしゃにさせて、見たこともない父親の名前を毎日呼び続けていることを・・・ お前は知っているか・・・

来 る日も来る日も、朝から晩まで奴隷のように重い労働を強いられ、衰弱して動けなくなって、もう使いものにならないからと、ぼろ雑巾のように、中山寮の死体 置き場横の、名ばかりの病室に投げこまれ、食事も与えられず息絶えていった、まだ未来もあった28歳の李孩子(リーハイズ)よ・・・ 朦朧と消えていく意 識の中で、故郷に残した家族を思うことはあったか、お前の老いた母はお前が連行されてから食事も喉を通らず、毎日泣き明かし、やがて失明し、お前が日本に 連行されたことを知って驚き嘆き、心臓を悪くさせて、程なく亡くなったことを知っているか、あの時お前を救い出すために一家が多額の借金をして、その甲斐 も無くて、お前が連れ去られた後、お前の若い妻は、借金の形に売られるようにして遠くの町に引き立てられて行ったのを知っているか、4歳の男の子は毎日父 の名を呼んで食事も出来なくて衰弱して死んだぞ、残された6歳の娘と爺ちゃんは欠けた木の器を持って村の戸口を回り、物もらいをして回ったぞ、その爺ちゃ んも体をこわして程なく亡くなった。

あ れから毎年清明節が来ると、娘の李香蓮(リーシャンレン)は、「爹爹(ティエティエ=父)よ、貴方は何処にいったの? なぜ帰って来てくれないの? 母さ んは何処に行ったの? なぜ私には家族がないの? なぜ私は一人ぼっちなの?」と、空に向かって父の名を何度も叫びながら、線香を手向ける方角も分からな くて、丸い石を置いただけの、焼けた赤紙が散らばった畑の上で体を震わせて泣いていたのを・・・ お前は知っているか・・・

ああ、異境で死んでいった7千人の同胞 たちには、その数の何倍もの語り尽くせない悲しい物語がある・・

『死者の恨(ハン)・生者の恥辱(ツゥ ルゥ)−私と死者との出会いー』(講述・林伯耀/日中草の根交流会/2021年8月刊)
2022.3.9
 
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  大正11年9月20日、奈良市大森町(JR奈良駅の南側のエリア)の小学生(8歳の女児)が行方不明との一報が新聞に載った。翌日の奈良新聞はさっそく 「女生徒誘拐は鮮人の所為か 目星がついたので自動車で追跡」という見出しを掲載している。当日の朝に近くの八軒町で二人の鮮人が密談していたのを見たも のがいるという情報から「犯人は某鮮人と目星が付いたらしく」、刑事のほかに町の有志6名が「所在は目星が付いている」と自動車に乗って「某方面に追跡す べく発した」(9月21日付 奈良新聞)と伝えている。続けて22日付の新聞では、こんどは青年団有志が某鮮人は「宇治に行くと話していた」という情報か ら「自転車を飛ばして捜査したけれど行方不明」と報道。翌日の23日、東大寺の大仏殿北側にある知足院の東北斜面にあった日活の撮影小屋の床下から少女の 遺体が発見され、死体解剖がされる。以降、目星が付いていたはずの某鮮人の報道は「少女絞殺犯人はまだ目星も付かぬ」(9月27日)とトーンダウンし、 28日は「怨恨関係取調 未だ曙光すら認め得ない」、29日「学童を持つ親達は戦々恐々 切に警察当局の犯人逮捕を祈る」、30日「折柄降雨を冒して学校 網を張る 捜査隊の大活動 事件は迷宮に入る」、そして10月4日付「少女殺し 犯人遂に逮捕さる」 犯人は少女の遠縁にあたる市内の22歳の貝釦職工で あった。かつて少女の母親に言い寄ったのを拒否されて恨んでいたとか、少女にいたずらをしようとして母親に告げると言われて殺してしまったとか、当時の新 聞記事や警察記録には種々あるが詳細はよく分からない。一方で同じ年の10月21日付奈良新聞には「可哀想な鮮人、子取と間違わられ、殴られて残念がる」 という記事が載っている。これは前述の少女絞殺事件の余韻がまだ冷めやらぬ頃に、大阪から郡山紡績工場へ働きに来た朝鮮人の男性が大和郡山の片桐村あたり で遊んでいた子どもらに紡績工場への道を朝鮮語で訊ね、「紡績」という言葉でかろうじて理解した子どもが工場の煙突を指して教え、男性は喜んで朝鮮語でお 礼を言っているところへ、近くにいた大人が誘拐だ誘拐だと騒ぎ立て、聞きつけた村人が集まって来てその朝鮮人男性を投打したというものである。「残念が る」とは記者自身がこれを面白がっている。これが1922(大正11)年の日本の風景である。そして翌年1923(大正12)年9月1日、関東大震災が発 生して多くの朝鮮人らが虐殺された。種はすでに蒔かれていた。わたしたちは百年経ってもいまだに「目星が付いた怪鮮人」のマボロシを追いかけている。
2022.3.13
 
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  墓に布団は着せられず、というわけで本日は母のお供で奈良国立博物館へ。もともとは三輪山の神宮寺にあった聖林寺の十一面観音像を堪能、ひとはやはり人智 を超える存在に思いを馳せるがいい。併設していた「お水取り」の特別陳列も面白かった。修二会の20分の動画、そして「二月堂縁起」に出てくる癩者たちの 姿を凝視した。ひさしぶりに常設展も見たかったが八十寿を越える母の足ではここまで。そのまま興福寺をぬけて「ならまちエリア」へ。ランチは豆腐庵こんど うの田楽セットを狙っていたのだが、店の前に「本日、予約のため満席」の貼り紙。仕方なく、途中で目についた和食薬膳を謳っていた「京小づち」にて「薬膳 ならまち弁当」2,500円を母の奢りでゴチになります。そのまましずかな路地をぬけて、母がこの間もらった酒粕がまたほしいと言うので、JR奈良駅前の 雑穀店へきたらすでに売り切れで、その代わりに駅ビル二階の地酒店にたしか「酒粕あります」の貼り紙があったと行ってみたら、なんと「風の森」の酒粕を置 いていて500g500円。というわけで今日は孝行の半日で。鹿たちも元気だったぜ。
2022.3.16
 
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  数日前から図書館で借りてきた「独ソ戦 絶滅戦争の惨禍」(大木毅・岩波新書)を読んでいるのだけれど、まさにこの頃毎日、耳にしない日はないキエフ・ハ リコフ・オデッサといった都市の名が80年前の独ソ対決の重要拠点として語られる。それはそれで様々なことが思われるが、今日いちばんこころに刺さったの は「ナチ・イデオロギーの機能」と題された一節だ。

「彼が主張するところによれば、ナチズム運動は多種多様で、しかも、その多くは相互に 対立する社会的動機付けを内包するものであった。けれども、その運動エネルギーを動員し、分裂を回避するには、常に確固たる「理念」を提示しなければなら ない。加えて、この理念は、ナチズム運動に参加する者、それを支持する者たちのあいだに厳然として存在する利害対立を暴露・拡大し、危機を招くものであっ てはならなかった。そうした理念こそ、ヒトラーの人種イデオロギーと「生存圏」論であった。逆説的ではあるが、現存する社会事情とは直接関係を持たないか らこそ、支配の仮構、ブロシャートの言葉を借りれば「イデオロギー的メタファー」の機能を果たし得たのである。しかしながら、右記の社会的対立などの内政 的条件に拘束されたヒトラーが、分裂を回避するために、その理念に頼れば頼るほど、本来は支配の道具に過ぎなかった人種イデオロギーや「生存圏」論が、文 字通りに受け止められ、ついには現実になったと、ブロシャートは説く」

ロシアとベラルーシが悪か、アメリカとNATOを軸とするヨーロッ パが悪かと問われれば、わたしはどちらも相応に悪で、80年前もいま現在も、そのはざまで蹂躙されるウクライナの市井の人々がただただ痛ましい。プーチン よりバイデンが善人でもないだろうし、ゼレンスキーが「正義と自由」の英雄というのもちょっと違うだろう。けれど何がいちばん怖ろしいかと問われれば、世 界をハリウッドのSF映画のように善と悪の単純な戦いに還元し、まさに国内の多種多様な分裂を回避するためにヒトラーが政治的手段として提示した「確固た る理念」のように、世界がいとも容易にただ一色に染まり上がり、複雑な状況を読み解く冷徹な視点をなげうって単純なひとつの声に重なっていく様こそが、お れはもっとも怖ろしいことだと思うよ。みなが単色に染まり、which side are you on ? を叫び、自明であったさまざまなことがなし崩しになっていくさまは、どこかこの国のいつか来た道を思い出さないか。
2022.3.19
 
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  またまたローカルな話題ですまないけどさ、24号線トドロキボウル下のパチンコ屋跡にできた「農産物直売所 旬の駅」の焼魚弁当にはぶっとぶよ。ごっつい焼魚が四種もつめこまれ、しかもご飯は高さ4〜5センチの特盛で、これで450円とはつわものワンコインおじ さんもびっくりだぜ。なんせ、このおれさまが食べきれずに、大きな鮭の切り身をひとつ残しちゃったんだからさ。
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今日は朝から家族三人、 車で和歌山のケアハウスへ。味気ない食事に厭いたという義母のつぶやきを電話で聞き及び、刺身の盛り合わせ、バッテラ、巾着おにぎりなどを途中で買って 持って行った。面会はまだできないので事務所を通して渡してもらい、入口の自動ドア越しにお互い声をかけて、遠目に手を振るばかりの短い逢瀬。あのまま和 歌山の実家にいたらゆっくり話も出来たのだろうけれど、コロナはどれだけの貴重な時間を奪ってしまうのだろう?  帰りの車のなかで早くも食べ終えた義母 から「おいしかったよー」とじつにうれしそうな電話がかかってきた。つれあいがいま時々手伝いに行っているお弁当屋の話では、介護施設の食事などは菌など のトラブルを避けるために食材を殺菌する特別の器械に通すそうで「味なんか、あったもんじゃないわよ」ということだ。長年獲れたての新鮮な魚を食べてきた 義父母たちだから、味気なさは余計だろう。人間、やはり食べる楽しみは大事だ。おいしいものは生きる意欲にも影響する。施設の事情も分からなくもないけれ ど、いっそ「食べ物で死んでも一切文句は言いません」とか念書をもらって、好きなものを食べてもらったらいいんじゃないか。そんな話をしながら帰ってき た。
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せっかく出てきたから紀ノ川沿いの気の利いた店でランチでも思ったのだが特に目ぼしいあてもなく、高速で橿原までもどってきても三 連休の昼時とあって回転ずし屋なども混雑していそうで、最近近くに出来た前述の農産物直売所でお寿司でも買って帰ろうかとなったのだった。で、帰宅して食 べ終えたのがすでに三時頃。夕飯の時間になってもいまいちみんなお腹の減りもわずかで、わたしが残した鮭の切り身を利用して庭の三つ葉、生姜の千切り、韓 国海苔、塩昆布、煎り胡麻に熱々の加賀棒茶をかけたお茶漬けセットにしたら大好評で、体調が悪いと言っていた娘もお代わりをするくらいであったとさ。
2022.3.20
 
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 ロシアを孤立させ制裁を課し、ウクライナに武器を提供することがけっして解決になはならないということを、これらの胸が引き裂かれるような画像が語って いる。
 これがわたしたちの世界が欲している姿なのか?

◆'Why? Why? Why?' Ukraine's Mariupol descends into despair
https://apnews.com/article/russia-ukraine-war-mariupol-descends-into-despair-708cb8f4a171ce3f1c1b0b8d090e38e3?fbclid=IwAR3mL1wqe4PSOo_SiXrIcqv-_j2CUDEHwRitBMdj9l6EvGpdT1TIlYU9qtw
2022.3.20
 
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  あとでまた書くけど今日は日中延6時間半、飛鳥〜香具山周辺を歩きまわって、帰ってジップの散歩へ出て、蕪の浅漬けを仕込みながら夕飯の豚ロースの味噌粕 漬けを支度して、じぶんだけ先に済ませて7時半からのZOOM対談「[ロシア×ウクライナ]から考える「主権」「抗戦」「民主主 義」」を視聴 した。休憩もなく、びっちり2時間半。疲れたけど、いろいろ刺激的ではあった。
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まあ、なんだろうね。法哲学者あり、政治学者あり、西洋 思想の専門家あり、元国会議員あり、「紛争屋」ありと面子は多彩で、自衛権だとか法整備だとかいろいろ勉強になることばかりなのだけれど、たとえばレノン のイマジンは憲法9条じゃないかとか言っていた清志郎の言葉なんかは、かれらにしてみたら「文学的運動」と一蹴されてしまうわけで、そのへんがいわゆる、 そもそも土壌が合わないのかなという気もする。それでもNATOに加盟しながらも駐留米軍を追い出し国軍を解体し、外務省下の小さな国際貢献部隊だけを残 したアイスランドの話なんかは面白かったし、現実に世界第5位の軍事力を持ちながら法整備がないために逆に何でもありの危険な軍隊になっているという自衛 隊のことをからめて、いわゆる護憲派の人々を現実を見ない思考停止の盲人(めしい)だと怒るスタンスも分からなくもない。街中で「核兵器はんたーい」と惰 性的に唱える南無阿弥陀仏デモの光景。それでもやっぱり、「自衛隊を使える軍隊にしなければいけない」とか、「核の抑止力について現実的に考えることが必 要だ」とか言われると、ちょっと違うんじゃないかと思っちゃうんだよね。
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早めに入室したせいか、このZOOMライブの間、わたしはずっと伊勢崎さんとライオン丸のような井上達夫氏の間にはさまれていたのが、なんとも心地よかっ たね。いや、ほんとに。
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そ うそう、ひとつ書き忘れていた。ゼレンスキーがNATO加盟を諦めたという趣旨の発言を言い出したのは国内向けで、それを踏まえて停戦合意は近いんじゃな いかと伊勢崎さんは言っていた。その際にウクライナが地勢的にロシアとアメリカを含むNATO加盟国の緩衝国家にならざるを得ないという話のついでに、 「ちなみに日本は緩衝国家ですらない“緩衝材国家”(国家としての意思決定すらない)」とかれが言ったのが、本日のベスト・コメント。
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◆[ロシア×ウクライナ]から考える「主権」「抗戦」「民主主義」
http://ref-info.com/2022-03-21danron/?fbclid=IwAR2YiB75cWeQ8_RtsoTIHzUz21EpH5kVgfX5FOBCTv9xy1NIgl7Il14BjZY
2022.3.21
 
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  近鉄の岡寺駅へ行こうと思ったら乗り換えがわるい。しばらく前にも降り立った橿原神宮前駅で、反対の東口の改札を出てぶらぶらとあるいていった。すこし肌 寒い陽気だが、あるいているうちにぬくもってくる。廃墟になった「スーパー山勝」をぬけて、丸山古墳をまわりこんだ。飛鳥周遊のレンタ・サイクルがぽちぽ ちと増えてくる。新興住宅地のへりをぬけると、のどかな田舎の景色のなかから亀石の案内板、そして川原寺跡、橘寺などがあらわれる。明日香村へ入る道標を 見あげながらわたしは、菊池はるもこのあたりを通っただろうか。それとも順番どおり壷阪寺からであったら、高取の山を越えて奥飛鳥から岡の集落へたどり着 いたのだろうか、などと考えていた。

 菊池はるの死をさいしょに報じたのは、大正15年8月27日の大阪毎日の奈良版であった。「西国巡 礼の死 病気と餓とが原因」という見出しで、「頭部に軽微な縊紋の形跡があり他殺の疑いがあるとて」死体を解剖に附したが、「肋膜炎の上餓と酷暑とで死亡 したもの」と判断された。息絶えた彼女が発見されたのは「磯城郡香久山村大字吉備の里道路傍」、現在の桜井市吉備は香久山と桜井駅のちょうど中間あたりで ある。ところが二日後のおなじ大阪毎日は「巡礼女を遺棄した 氷よりも冷たい人情 役場吏員の残酷」という見出しで続報を伝えている。なにがあったのか。

 8 月25日に死体で見つかった菊池はるは、21日夜に明日香村岡の集落で倒れていたのを保護され、医師の診断投薬を受けて同集落の自警団事務所で二晩を過ご していた。23日朝に「好意を感謝して出発」したが、昼過ぎにさいしょの発見場所から1キロも満たない飛鳥寺付近の集落でふたたび倒れた。駐在の巡査が見 つけ、行旅病者として「同村収入役兼大字飛鳥総代」のAに身柄を引き渡したが、Aは「同村書記」のBと「相談の上医師にも診断をさせず」、日付けの変わっ た24日の深夜に同村Cに菊池はるを背負わせ「磯城郡安倍村大字山田」へ遺棄した。まだ息のあった彼女を通りがかりの子どもが見つけたのが24日夕刻。と ころがこの安倍村の収入役Dもまた「村で死なれては厄介だとて何等保護を加えず」、同村Eに「村外れまで運ぶように命じ」、Eは「附近の者二名の応援を求 め25日午前1時頃虫の息で呻いている瀕死の病女を残酷にも荷車に載せて同郡香久山村大字吉備の交通の最も不便な里道に遺棄した」のであった。菊池はるが その場所で死んでいるのを発見されたのは25日午前7時頃と記されている。この件によって病者遺棄罪として両村の収入役をはじめ「七、八名」の関係者が奈 良地方裁判所検事局へ記録送致される模様、と新聞は報じている。わたしは彼女の最後の足跡をたどってみたい、と思ったのだった。

 菊池は るについて新聞は年齢が38歳、住所地を「秋田県山本郡八森村大字花田」と記している。八森村は現在の八峰町。JR五能線に八森駅があるが、付近に花田と いう字は見つけられなかった。能代市の北の海沿いの集落で、むかしバイクの旅で日本海沿いの気持ちのいい道を走ったことがある。そんな東北の地からなぜ彼 女は西国巡礼にやってきたのか。新聞は菊池はるが「慢性梅毒患者」であったと伝えている。梅毒の抗菌薬であるペニシリンが普及したのは戦後で、菊池はるが 死んだ大正15年には治療薬はまだなかった。梅毒は梅毒トレポネーマと呼ばれる細菌に感染して起こる感染症で、感染部位にしこりや潰瘍、リンパ節の腫れな どが生じ、潜伏期を経て徐々に皮膚・筋肉・骨などにゴム状の腫瘍が発生し、かつては鼻が欠損することなどもあってハンセン病と同一視された時期もあった。 最終的には臓器までも腫瘍ができ、脳、脊髄、神経なども侵されて死に至る。肋膜炎が死亡原因と診断された彼女の梅毒は、それなりに進行していたものと思わ れる。であれば、外見的な異変を含む症状がどうにもおさまらなくなった頃に、彼女は故郷の村をあとにしたのかも知れない。

 郷里を遠く離 れて長旅をする遍路は物見遊山も多かったろうが、なかにはそれが二度ともどらぬ旅路である者たちもいた。村でトラブルを起こしていられなくなったり、経済 的に脱落したり、不義の子を宿したり、わずらわしい病のために村の持て余しものになり、あるいは貧しさ故の「口減らし」のためなどで、やむを得ず「巡礼」 に出た者たちである。かつて北陸地方では「お四国へ行く」という言葉が「夜逃げする」と同義語であったという。じっさいに旅の途上でみずから命を絶つ遍路 もいて、霊場のある寺には首を吊った遍路の過去帳も散見され、四国第39番の霊場ある足摺岬などはむかしから多くの遍路が身を投げたことで有名であった。 民俗学者の宮本常一は、四国の山深い原生林のなかで出会った一人の癩病の老婆について記している(「土佐寺川夜話」)。「顔はまるでコブコブになってお り、髪はあるか無いか、手には指らしいものが無い老婆が「こうゆう業病で、人の歩くまともな道は歩けず、人里も通ることが出来ないので、こうした山道ばか り歩いて来たのだ」と聞き取りにくいカスレ声で言う。老婆の話では、自分のような業病にとりつかれた者が四国には多くて、そういう者のみ通る山道があると のこと、私は胸の痛む思いがした」  その老婆ほどの過酷な状況ではなかったにしろ、乞食遍路・病人遍路といった者たちの旅はやはりつらいものだったろ う。

 かつて四国遍路へ旅立つ者は、巡礼者の氏名、目的、所属宗旨、非常時の連絡先、発行者、宛先などが書かれた「往来手形」を各国の代 表寺院などで発行してもらい携行していた。だが二度と故郷へもどれぬ遍路の手形は「捨て往来の手形」といわれ、文中に「万一、病死した場合には、生家へは お知らせ下さるには及ばす、死亡したところの「土地の風習」に従って埋葬して下さればよい」云々といった一文が記されていた。こうした「捨て往来の手形」 をたずさえて旅する乞食遍路・病人遍路といった者たちは、いのちが尽きるまで永遠に旅を続けなければならなかった。ほとけにすがるしかない身でありなが ら、日々絶望の連続であったろう。そして帰る場所は永遠にないのだ。死が家路だった。わたしは、菊池はるもこうした病人遍路の一人であったと思う。故郷に は両親や夫や子どもたちもいたかも知れない。けっして健康ではなかった身体をひきずって、彼女はどんな気持ちで西国巡礼の道をあるいていたのか。眼窩の奥 にはどんな感情が宿っていたのか。

 岡の交差点をすぎて明日香村の役場の手前に村の「消防防災施設」の建物があった。あるいはここが、菊 池はるが二晩を過ごした自警団事務所だったかも知れない。門前町の古い趣きをのこす岡の集落をぬけて、岡寺の参道をのぼっていく。菊池はるは岡寺には参っ ていたはずだ。なぜなら自警団事務所で二晩を過ごしたあと、彼女はそこから桜井方面への道をすすんでいるからだ。岡寺につづく札所は長谷寺である。彼女は 岡寺の参詣を終えて岡の集落へ下ってきたところで倒れたのだろう。日がすこし照り出して、のぼり坂でうっすらと汗をかいた。道端の斜面にならんだ軍人墓に 家族連れが鮮やかな花を供えていた。大正15年に菊池はるがこの道をすぎたときには、この二十数人の兵士たちはまだ死んでいなかった。きっとみんな、母の 背に抱かれていた頃だったろう。岡寺は娘がまだ生れる前につれあいと二人で一度だけ訪ねたかも知れないが、ほとんど記憶がない。境内のどこかに菊池はるの 痕跡を見つけたいと思ったが、そんなものがあるはずがない。古びた本堂のあちこちに貼られた参り札も、病人遍路の彼女にはそんなものを持つ余裕もなかった ろう。しかし96年前の夏に、菊池はるは確実にこの本堂の前で手を合わせたはずだった。彼女にとって、衆生を救うとされる観世音菩薩の最後の変化だった。 あまりふだんはしないのだが、鐘楼の鐘を、菊池はるのためについた。

 参道をもどり、岡の集落をぬけてそのまま道を飛鳥寺の方向へ北上す る。やがて天理教の岡大教会が見えてきたそのあたりの路上が、菊池はるがさいしょに倒れているのを発見され、保護された場所だった。当時はまだ土の道だっ たかも知れない。近在の杉原医師により診断投薬を受け、自警団事務所で二晩をすごした彼女は、ふたたびこの道へもどってくる。菊池はるがこの世で最後にあ るいた道のりだった。新聞は「大字飛鳥杉本勝蔵方前」でふたたび倒れていたと記す。つぎの札所である長谷寺へ向かうとしたら、飛鳥寺の前を過ぎ、つきあた りを飛鳥坐神社の方向へ迂回していったと思うが、道沿いには「杉本」の門標は見当たらなかった。ただ、この飛鳥寺から飛鳥坐神社へ至るどこかで力尽きたの は間違いないと思う。岡の中心部からわずか1キロ少々、通常であれば徒歩15分程度の距離しかない。紙面では「23日朝好意を感謝して出発」と書かれてい るが、朝9時頃に出発したとしても午後1時頃に倒れるまで、4時間をかけて徒歩15分の道をすすんだことになる。果たして出発が可能であるほど回復してい たのか。

 すでに虫の息であっただろう菊池はるは日付けが変わった24日の午前3時、ひそかに「磯城郡安倍村大字山田」へ運ばれて遺棄さ れた。有名な山田寺跡のある現在の桜井市山田と思われる。このあたりはいまも丘陵地が迫るしずかな風景だ。24日の午後6時頃に発見された菊池はるはふた たび日付けの変わった25日午前1時、荷車に載せられて彼女の「極楽浄土」である最後の地へまたしてもひっそりと運ばれて遺棄される。8月28日付の大阪 朝日ではそれを「香久山村大字池尻の飛鳥川附近」と報じているが、香久山近くの飛鳥川沿いに「池尻」という字は見当たらないし、翌日の29日付記事では 「香久山村大字吉備」と訂正しているので、おそらくこちらが正しいだろうと思われる。吉備で「交通の最も不便な里道」というと、古代の吉備池廃寺跡が現在 も忘れ去られたような寂しい堤に残る吉備池を中心とした周辺ではないかと思う。そこで近在の者が午前7時に発見したときには、菊池はるはすでに息絶えてい た。雑草の生い茂る堤には「水死惣法界」と刻まれた明治三年の石仏と、大伯皇女が弟の亡き大津皇子をうたった「うつそみの 人なる我や 明日よりは 二上山を 弟と我が見む」の歌碑が立っている。その歌碑のうしろにじっさい、妙麗な二上山が遠望できるが、菊池はるにはすでにそんな余裕はなかっただろう。せめて朝 焼けの美しい空を一瞬、垣間見たか。その光のなかで家路をたどっていけたか。

 菊池はるの亡骸についてその後、新聞は何も伝えていない が、「奈良県警察史 明治・大正編」はこの事件を半ページで小さく取り上げたあと、末尾に「なお、巡礼女については、国元に身寄りもないところから香久山 村吉備の蓮台寺において追善供養を営み、懇ろに葬った」と記している。桜井市史によれば蓮台寺は「浄土宗。山号は宝林山。寺伝によると、もと法相宗で、開 祖は僧行基。持統天皇の勅願によって.玉体を火葬にした。飛鳥岡の遺跡をここに移して天平年間に創建した霊場という。当時、この地の地主の吉備真備がいた く帰依して、一宇の浄刹を建立し、心楽寺と名付け、大日如来と地蔵菩薩を安置した」云々とある。奇しくも「飛鳥岡」で行き倒れた菊池はるは、めぐりめぐっ てここに葬られたのであった。蓮台と聞くと、京都のあの世とこの世の境である上品蓮台寺を想起するが、行基開基で古い歴史を有する池田墓地と隣接している ことから、このあたりも古代から葬送の地であったのかも知れない。池田墓地には無縁供養の仏と古い無縁墓が並び、また蓮台寺の墓域にも無数の無縁墓がうず たかく積まれ、また入口近くの納骨堂内にはたくさんの位牌や骨壺が安置されていた。行旅死亡人である菊池はるにわざわざ墓石が刻まれたとは思えないので、 おそらく池田墓地の無縁供の仏の下の納骨スペースか、境内納骨堂に彼女の遺骨は納められたのだろうと思われたので、どちらにも手を合わせて菊池はるの魂安 らかなれと祈った。今日は半日、わたしはずっとこの見知らぬ病人遍路とともにあるいてきたのだった。寄る辺なき魂に幾許かでも寄り添うことができただろう か。
2022.3.22
 
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  プーチンのロシア軍がいまウクライナで行っていることは虐殺だし許しがたい犯罪だ。でもウクライナ軍(と一部極右組織)がウクライナ東部ドンバス地域で 行ってきたことも、やはり虐殺だし許しがたい犯罪だろ。何度も言うけどさ、おれはプーチンのロシア軍がやっていることは正当で軍事侵攻はやむを得なかった と言いたいわけじゃないんだぜ。昨日、この国の国会でゼレンスキーが演説をして脳味噌からっぽの議員どもがハイルヒトラー宜しく総立ちで熱烈な拍手を送っ ていたけど、そんなに簡単に一色に染まっちまっていいのかってことなんだよ。悪の帝国ロシア&ベラルーシ軍と、対する地球防衛軍アメリカほか忠犬ハチ公部 隊、なんて単純なものじゃないだろ、世界は。ディランの曲に「わたしが見たものは、かれらが見せてくれたものだけ」という一節がある。2016年にフラン スのジャーナリストによって撮影されたこのドキュメンタリーも「ウクライナと共に」信者の人たちには見たくないもの=陰謀論として片付けられてしまうんだ ろうな。そしてかれらは欧米のソースは疑うことなく受け入れる。それって「将軍様」が見せてくれたものを見るだけ、と同じじゃないの? このドンバス地域 にウクライナ軍が無誘導ロケット砲「グラート」をぶちこんでいたとき、世界はいまのように一致団結して「ドンバスと共に」を叫びウクライナに制裁を課した のか? ドキュメンタリーの終盤、反政府運動に参加した18歳の息子の墓の前で両親が語っている。母親「ここで戦争をしているのはロシア軍だと思っている なら、それは大きな間違いです」 父親「もしロシア軍がここに来て戦ってくれたら、1週間もすれば平和になってたよ」 母親「そうかも知れないわね」 父 親「いまの大統領のポロシェンコ野郎なんか、汚物まみれのアメリカで暮らせばいい。そしてオバマのケツの穴でも舐めていればいい」 母親「そんなはしたな い言い方はやめて」 父親「いや、言ってやる」  これらの映像をすべてでっちあげと言うんならさ、あんたはロシア軍はウクライナの一般市民は殺していな いと主張するプーチンとおんなじ人殺し野郎だよ。これも何度も言っていることだけど、プーチンも悪党だし、外野席で眺めてるだけのバイデンも悪党だし、ゼ レンスキーとその取り巻き連中だって嘘をたくさん抱えている。ゼレンスキーやバイデンの言うことがすべて正しいわけではないように、プーチンの言うことの すべてが嘘であるわけでもない。それらを認識した上でお互いに歩み寄って話し合わないとこの殺戮は停められないってことだよ。片方を一方的に糾弾して制裁 を課し、もう片方を手放しで賞賛して武器を提供することではない。
2022.3.24
 
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  横浜の伯父の孤独死にともなう相続放棄の手続きが完了し、横浜家庭裁判所からの「申述受理通知書」なるものが弁護士経由で母宛てに送られてきた(東京と千 葉に住む長兄の二人の息子(わたしの従兄)にもおなじものが届いた)。これを受けて先日、亡き伯父の借家の大家さんへ電話で連絡をして、来月4月2日 (土)に長兄の長男とわたしの二人で晴れて大家さん宅へ挨拶へ伺うことに決まった。大家さんは昨年末からずっと伯父の残した家財には手をつけずに待ってい てくれたのだった。代表して母が署名する「残存家財等処分同意書」も用意したし、大家さんには伝えていないが処分費用の足しになればと些少の金額(相続放 棄の三者で出し合った)を包んで持参する予定。大家さんから伯父の最後の様子を聞いて、何か形見の品があればすこしだけ、それと娘がジョバンニがアルバイ トをしていたときのような活版が欲しいと言うので印刷屋を営んでいた叔父の仕事場から(たぶん大量に残っているので)いくつか貰ってこようかと思ってい る。当日は都内の安宿を予約したので、夜は亀有の腐れ縁の友人とまた新橋か神田あたりで呑むつもりだ。伯父の遺骨はすでに千葉にある都の霊園の長兄の墓に 入れてもらっている。伯父も、病人遍路よりはしあわせだったろうよ。
2022.3.25
 
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  「ウクライナと共に」から少しでもはずれた発言をすると、「子供や老人を殺戮しまくっているロシアの軍事侵攻を認めるのか。おまえは悪魔のプーチンの肩を 持つのか」といった少々ヒステリックな反応が返ってきて即、叩かれるというこの頃の世間様に正直うんざりしている。この国の国会議員ご一同様がスタンディ ング・マスターベーション(失礼)で総立ち(失礼)拍手したゼレンスキーの演説の翌日、感動した一億総国民は提灯をかかげてさっそく立ち並び「大統領の演 説を反核運動にもつなげていきたい」とか「わたしたちの平和活動の模範にしたい」とか、子どもも老人も口をそろえて申しておった。あほたれが。そんな体た らくだから反戦・反核といった市民運動も体制側に骨抜きにされて仏壇のお供え物にしかなくなっちまうんだよ。ゼレンスキーの演説を賞賛して街角で反戦ポス ター掲げて叫んだって戦争は停まらないよ。ここで鮫島氏が言っていることは、ほぼわたしが思っている通りだ。「戦争は「正義」と「正義」のぶつかり合いで す。「正義」を振りかざすだけでは戦争は終わりません」 あんたには理解できない「正義」というものも世界にはあるんだ。どちらも「悪魔の正義」だけど ね。そしておれたち自身も片方の悪魔の側にいるんだぜ、ずっと前から。国を守るって、なんだろうね? 死を怖れずにロシア軍に立ち向かうウクライナの人々 にみんなは声援を送り、いまや戦いのシンボルともなった大統領をみんなは賞賛するけど、「国を守るために」無残に死んでいった「英霊」たちの墓がこの国に は無数に建っているよ。みんな靖国神社が大好きなのかな? じぶんたちの国を守るためにと武器を取るウクライナの人々を否定するつもりはない。それはかれ らの問題だからだ。でも「ほんとうは戦いたくない、家族と一緒にポーランドへ避難したい」と言う若者がいたら、行かせてあげて欲しいな。それじゃあじぶん はどうなんだと考えたら、例のスタンディング・マスターベーションの政治家たちの顔を思い浮かべると、こいつらに煽られて「さあ、この国を守るために立ち 上がれ」と言われたって、おれは一向に戦うつもりにはなれないな。どうしてもおれの一物は萎えてしまうだろう。家族といっしょにとりあえずどこか山深くに 逃れて、戦争が終わるまで隠れていよう。非国民、大いにけっこう。おれのいのちは「国家」のものではない。そういうわけで、おれはゼレンスキーの演説には 拍手などしない。「ウクライナと共に」も 言わない。
2022.3.26
 
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 JR 郡山駅前での子ども食堂一回目。30食用意したお弁当は25食くらいもらわれていったのかな。つれあいは朝からお弁当作りを手伝い、娘は絵本の読み聞かせ コーナーを担当。まだいろいろと課題はあるものの、まずまずのスタートではないか。わたしは20冊の絵本を運んだり、ちょっぴり案内などをしたあとは、ぶ らぶらとほっつきあるいて写真を撮ったり、娘と雑談をしていただけ。
2022.3.27
 
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  週末の上京にあわせて、大好きな(笑)靖国神社へ電話をしてみた。海軍で出征してニューギニアで戦死したと伝わる祖母の二人の弟についての「御祭神調査」 の件。電話先で代わった担当部署の方へ二人の氏名と本籍地等を伝えると、すぐにデータベースで参照してくれた。以前にいちど、問い合わせを受けて「祭神証 明」のようなものを送付した履歴があるとのこと。場合によっては靖国神社へ出向かなければならないかとも思っていたのだが、あっさりと、郵送してくれると のこと。役所とちがって戸籍などの身分証明も不要で、郵送費用等も要らないようだ。対応も至って丁寧で、ちょっと靖国が好きになったかも(笑)
2022.3.31

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  「R」の始まりの日に出遭った兄弟のような魂はすでにStardust になってこの惑星を周回している。いまやおれたちの新たな敵は「Z」だ殲滅するまで心許すな。なぜおれはいつもいつも説明しなければならないのか (Tell me why must I always explain?)と「V」がシャウトする。50年が短ければどれだけの寿命を生き永らえたら満足する? ガラスはおれたちの外にあっただけのもの。蝿は 実存を賭して手を擦る。からっぽなおれたちは何を賭す? 無常に無常、おれにギロチン行きの思想夢を見せてくれ。ああ、もういちど逢いたかったよミスター I、このさみしさは大地に穿たれた爆弾穴よりも底なしに深い。あなたが望んだように世界は虚飾の皮膜をぼろぼろと落剝してやまない。そこからいま、なにが みえますか。
2022.4.1

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  孤独死した伯父の借家の整理。と言っても、相続放棄の申し立てが受理されたのに併せて、残置家財の処分同意書と世話になった志の金額を家主に手渡して最後 の様子を聞き、あとは電気も切れた暗い部屋、伯父が最後の独居を過ごした布団も敷きっぱなしの生々しい部屋のなかを懐中電灯で照らしながら、何か残してお くべきものはないかと抽斗を開け、扉をひらき、棚を漁っただけだ。終着点を見据えて身辺整理をしていたかのように、生活必需品以外はとくにめぼしいものは 何もなかった。たくさんの仏教書、登山の本やマップ、そしてクラッシックのレコードが少し。わたしはいったい何をさがしていたのか、それはあるべきもの だったのか、はじめからそんなものはなかったのか。そもそも人は死んで、この世に残すものなどなにもないのかも知れない。そのひとが死んだあとは、すべて ガラクタだ。すっかり疲れ果てていたけれど、夕方に友人のA、そしてFB友のインド在住エイリアンのとしべえさん、ボイラー文士の姉歯さんと神田で合流 し、創業明治38年という東京最古のみますやで牛煮込みやどぜうをつまみながら、あれこれと語り合ったのだった。さんざ語り合ってから、そうだ、この二人 とは今日はじめて会ったのだったとあとで思い出した。
2022.4.2

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 午前中は両国・横網公園。99年前の無数の死者たちの風景を思い浮かべようともがく。娘時代の父方の祖母がすぐ近くの大平町で逃げ惑い、獄死した飯島喜 美が亀戸の紡績工場に就職する数年前のこの国の風景。

  朝9時前にお茶の水の宿を出発して、ふたたび宿にもどってきたのはおよそ20時。お昼の食事の30分のほかは休憩などもとくにとっていないから、ほぼ9時 間近く歩き続けたことになる。しかもほとんど雨の中、折り畳み傘を差した状態で。東京ってさ、けっこう歩いてどこへでも行けちゃうね。電車を使ったのは御 徒町ー両国(地下鉄)、八広ー浅草(京成電車)のみ。両国・横網公園の都復興記念館、そして慰霊堂、朝鮮人慰霊碑など。そこから「北斎通り」を抜け、源平 橋をわたり、太田道灌開基とかいう法恩寺、そして父方の祖母の実家があった錦糸町の大平町二丁目あたりの路地を行ったり来たり。その後、北十間川沿いの 「女工哀史」の舞台となった東京モスリンの旧紡績工場跡地のUR団地を目指した。吾嬬工場があった文花団地には団地内の広場横にひっそりと紡績工場に関す る説明板が建っている。共産党の活動により獄死した飯島喜美が働いていたのはもうひとつの亀戸工場の方で、現在の立花団地になる。わたしの祖母が娘時代に 錦糸町に暮らしていたほぼ同じころ、飯島喜美はあるいても30分ほどの距離の紡績工場で働いていて組合争議などに活躍していた頃になる。そういう歴史の定 規はすごく分かりやすい。立花団地に入っているダイエーの横の「チャイナドール」なる名前の中華屋でニラレバ定食のお昼を食べた。日本語がややたどたどし いおばちゃんが中華をあてに昼間からビールを飲んで上機嫌の近所のじいちゃんばあちゃんたちを相手しているステキな店だ。勘定を払うとおばちゃんは「また 来てね。雨がやんでよかったね」などと言いながら、わざわざ表まで見送ってくれる、そんな店。そこから荒川を目指して北上し、四つ木橋近くの関東大震災の 際に多くの朝鮮人たちが日本人によって虐殺されたいくつかの現場、数年前に掘り返された河川敷、そして犠牲者の追悼事業をしている「ほうせんか」の事務所 (残念ながら土曜のみ開いている)の横に設置された慰霊碑などで手を合わせた。雨と寒さもあって少々くたびれていたので京成電車で浅草まで出て、墨田川沿 いの公園内にある東京大空襲で殺された人々の慰霊碑を最後に。折しも花見客で賑わっているこの川沿いの公園にもあまたの死者たちが仮埋葬されたのだ。そこ から浅草寺や花やしきをちょいと覗いて、アーケードの商店街や日曜であまり店は開いていなかったけれどカッパ橋の道具屋筋などをあるいているうちに日が暮 れてきた。夕飯は御徒町の駅近くでたまたま目に入った「えぞ菊」なる店の味噌ラーメン。セブンでビールとつまみを買って、帰還した。ああ、東京でもたくさ んの寄る辺なき霊を背に負いながら歩き回って、けっこう疲れました。
2022.4.3

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  三日ぶりに奈良へかえってきたら、庭のジューンベリーが咲き出していた。すこしばかり澄まし顔の縮れた白い花弁が眼窩をくすぐる。寒い冬の季節をじっと堪 えてふくらんだつぼみは、春がきてやがて花を咲かせる。けれども人間界ではつぼみのまま潰える理不尽ないのちが夥しい。墨田川でも、横網町の公園でも、川 沿いの紡績工場でも、そして神社のさびしい裏手や河川敷でも、ひとびとのいのちはまだこれでも足りないと何かが地の底でつぶやいているように殺されつづけ た。この世に生まれてきたことがまぼろしであったかのような無数の花弁がはらりと舞って、じめんに沁みた。沁みた花弁はこの世になにを残すか。今回の上京 の機会にFacebookで知り合ったお二人とはじめてお会いすることになった。わたしの腐れ縁の友人もまじえて四人、東京でいちばん古いといわれる創業 明治三十八年の座敷につどった。友人のすくないわたしは、見知らぬ人と会うのはじつは不得手だ。じぶんは価値の低いにんげんだと知っているので、きっと相 手をがっかりさせてしまうだろうと不安に思う。不安を解消させるものはWebには乗らない。その人の物腰、喋り方、まなざし、指先のうごきだとか声だと か、笑うときの仕草だとか、その人がまとっているある種の気配のようなものとか。わたしが紡績工場や朝鮮人の虐殺現場や病人遍路が行き倒れた場所などを訪 ねるのは、そうしたものが空気中に、あるいは足もとのじめんから、ひょっとしてたちのぼってくるのではないかと思われるから。特高に拷問されて獄死した飯 島喜美が10代で東京モスリン亀戸工場のストライキを主導して輝いていた季節。いまは当時のものは何も残ってはいないが、蛇行する用水路のような川や橋、 空の色、駅からの道なり、工場の敷地の広さ、そうしたものを体感できる。零と一とのデータ処理から漏れてしまうもの。文字や記録には乗らないそうしたもろ もろの感覚が、わたしのなかの飯島喜美を肉づけする。そしてあるとき、彼女がゆっくりとうごきだす。創業明治三十八年の座敷につどっているかのように喋っ たり、笑ったり、肩を叩きあったりしている。じめんに沁みた物言わぬ花弁がこの世に残すのはきっと、そうしたものだろう。荒川の河川敷にちかい神社の裏手 で竹槍に刺されて殺された朝鮮人はどうだろう。アメリカの無差別な爆撃で黒焦げになった母と子はどうだろう。かなうならば、その一人びとりがその土地土地 にぽとりとおちて沁みてのこしたものをたどりたい。百や五千や一万といった数字ではない、その「ひとり」が大事なのだ。暗い神社裏のぬかるんだ地面、しげ みのなかでの咆哮、血でぬらりと濡れた竹槍、さいごの空。「ひとり」がこの世にのこしていった花弁のようなしみをたどる。
2022.4.5

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  今日はさ、ちょっと調べたいものがあって、午後から自転車で県立図書館へ行ったんだよね。佐保川沿いの桜並木がとってもきれいでさ。うわー こんな景色を 娘やつれあいにも見せてあげたいなあと思って走ってたんだけど、帰り道。JRの踏切を渡ったときになにか声が聞こえて、自転車を止めてふりむくと数人の女 性のグループがこっちに手をふって何か叫んでいる。まわりを見たら、おれしかいないんだよ。なんだろ? 世界の基軸が変わっておれにもこの世の春がきたん だろうか? と考えながら、よくよく目をこらしたら、つれあいと職場の同僚の人たちだった。今日は館内整理日で早めに仕事が終わってから、夕方の組合の会 合までの時間、みんなで桜を見にあるいて来てたってわけさ。おれも一生懸命手をふってから、また自転車を走らせて帰ってきたんだよ。世界の基軸が変わらな くても、おれはもう、もともと春満開だったんだと思いながらね。
2022.4.6

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 ひとがひととしてこわれてゆく。堀田善衛が描いた「時間」は、まさにこういう世界だったのだと、いまようやく分かったような気がする。

 この夜の後、わたしは幾度か惨憺たるものを見て来た。
 十数人に姦淫されて起ち走ることので きなくなった少婦も見た。
 膝まずき、手を合わせ、神も仏も絶対 にその祈りを聞きとどけねば巳まぬ、完璧の祈りの姿勢をとった人々を、何十人となく見た。
 砲弾に吹きとばされ裂かれた樹木の、 太く鋭利な枝に、裸体にされて突き刺された人も見た。人も樹木も二重に殺されていた。
 断首、断手、断肢。
 野犬が裸の屍を食らうときには、必ら ず先ず睾丸を食らい、それから腹部に及ぶ。人間もまた、裸の屍をつつく場合には、まず性器を、ついで腹を切り裂く。
 犬や猫は、食っての後に、行くべきみ ちを知っている。けれども、人間は、殺しての後に行くべきみちを知らぬ。もしあるとすれば再び殺すみちを行くのみ。

  日常は(すくなくともこの国では)なんら変わることなくつづき、桜の花もふくれ、はじけ、やがてしずかに散っていくのであるが、何げない風景や吹きわたる 風の中の、音楽でいえば音律のようなものがこわれてしまった。変わらないように見えるが、それはかつての風景ではない。風に吹かれているわたしたちは、か つてのわたしたちでは、もうない。

  わたしは先日、街で見た光景を思い出す。難民らしい、綿入りの服に着ぶくれた屍体がころがっていた。厚い綿入り服から露出しているのは、顔、咽喉、手首、 指、足首の一部、とこれだけだった。咽喉はそのうち、最も軟かい部分である。そこに、白い、一層軟かそうなまるいものがとりついていた。猫であった。  猫が、屍体の最も軟かい部分を噛み破り、食っていたのだ。  かっとなってわたしは猫を追った。  猫は五米ほど先へ飛び去り、そこにまたうずくまって口許、咽喉、前足などを紅に彩った血をなめはじめた。  わたしは、擬っとその猫を見詰めていた。  血は次第に拭い去られ、五分もたたぬうちに、猫はもとの純白にかえった。  あれがもし猫ではなくて、人間だったらどうだろう。そんなことは考えられぬという人があろう。そう云いきれる人、信じられる人は幸福であろう。そういう 人は、そういう人で、それでよろしい。わたしは別に異を立てようとは思わぬ。  しかし、もしあれが猫ではなくて、人間だったとしたら、その人は『もとの純白にかえる』ことは、出来ない筈だ。人間だけが不可逆なのだ。人間だけがとり かえしのつかない行為をなしうるのだ。動物にも、或は『失敗(しま)った』という感情乃至恐怖はありうるかもしれぬ。しかしとりかえしがつかぬという評価 判断は、ない筈である。われわれのあらゆる行為がとりかえしのつかぬものであるからこそ、われわれは歴史をもちうるのであろう。

  屍体のもっともやわらかい部分を噛みやぶり食ったのは、猫ではなく、わたしたち人間であった。もとの純白にかえることのない、わたしたちだ。食ったものは のみ込み、血はすするしかない。その口でいとしい者の口を吸い、その手でいとしい者の頭をなでる。そうやってこれからは生きていくのだ。

 うしなわれたいのちについて、作家はつぎのように問いかける。

  生命にみちみちた虚無。子宮のなかでやすらい、そこから創造されて来る筈だった、まだ名をもたぬ生命。それもまた失われた。彼らは岩と金属の冥府を歩いて いるか、それとも宇宙に於ける創造を了え、遂に光りを断った暗黒星雲のように、くらい宇宙のなかに存在している・・・・。そこから彼らが呼びかけるーーー きみよ、よみがえれ、と。

 きみよ、よみがえれ。きみよ、よみがえれ。わたしたちにゆるされた言葉があるとしたら、それ以外になにかあるだろうか? きみよ、よみがえれ。きみよ、 よみがえれ。きみよ、よみがえれ。しかしわたしたちは野犬のように、睾丸を、腹部を、性器をただ喰らうだけだ。
2022.4.8

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  突然ですが明日の4月9日(土)、FB友で大阪の教会宣教師のJin A Kangさんからのリクエストで「郡山紡績の負の遺産を巡るミニ・ツアー」を案内することになりました。お昼前に近鉄郡山駅で合流して、どこかでランチを してから出発の予定。はじめてお会いするのでどんな成行になるか分からないですが、郡山紡績工場跡地(当時の煉瓦遺跡含む)、紡績工場供養碑、紡績工場の 喧騒のため移転したと記された神社の記念碑、共同墓地の寄宿舎工女の無縁墓、などを歩いて回ろうかと思っています。+時間があったら、洞泉寺遊郭跡、遊女 の供養碑、町屋物語館(遊郭建物)などを加えてもいい。せっかくなので、もしそのあたりに興味がある奇特な方がいましたらごいっしょにどうぞ。ランチ後か ら合流してくれてもいいです。参加費、無料(笑) コメント欄かメッセージで連絡して頂けたら、詳細の時間などご連絡いたします。
2022.4.8

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 「郡山紡績の負の遺産を巡るミニ・ツアー」
FB友のJin A Kangさんと友人お二人(三人とも韓国より派遣された教会牧師/宣教師)を半日、日本政府に代わってご案内致しました。

近 鉄郡山駅で11時半に合流。近くの小花寿司で郡山紡績工場の概要を資料を配布して説明。特に誓得寺過去帳に残された大正9年に18歳で死亡した慶尚南道出 身の金占順、また昭和7年に感電死した職工・徐錫縦については当時の新聞記事を交えて。ランチ後、洞泉寺町の源九郎稲荷神社を経由して、大正時代の遊郭で ある町家物語館 (旧川本家住宅)をガイド付きでじっくり見学。その後、いよいよメインの郡山紡績工場跡地(現在、UR団地)を見てから、誓得寺の「紡績工場亡工手ノ 碑」、そして佐保川沿いの来世墓で「寄宿舎工女宮本イサ」の無縁墓などを見て頂いた。折しも初夏を思わせるような暑さで、三人ともくたびれたことと思う が、熱心に見て頂いた。柳町商店街へもどり、「奈良でいちばん古い和菓子屋」菊屋、そして「きんぎょcafe´〜柳楽屋」の金魚ソー ダで一服 してから、最後にすでに桜は散りはじめていたけれど郡山城跡をしばし散策。17時半頃に近鉄郡山駅で解散。道々で日韓の歴史問題や音楽やドラマの話、韓国 旅行の極意などいろいろ話も伺えて、とても楽しい半日であった。何より寄宿舎工女宮本イサちゃんの話を熱心に聞いてくれる人がいることが、わたしには嬉し い。またこんなツアーをやりたいな。

◆小花寿司
https://tabelog.com/nara/A2902/A290202/29002233/

◆源九郎稲荷神社
https://gennkurouinari.jimdofree.com/

◆町家物語館
https://www.city.yamatokoriyama.lg.jp/.../shi.../2/8605.html

◆郡山紡績工場(※但し「女工哀史はなかった」は間違い)
https://shimamukwansei.hatenablog.com/.../2011.../1294922850

◆菊屋
https://www.nara-np.co.jp/web/20180428100125.html

◆きんぎょcafe´〜柳楽屋
https://rurubu.jp/andmore/article/3690
2022.4.9

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 「国家の主権」と「国民の生命」は、どちらが優先なのか。「国家の主権」があるからこその「国民の生命」なのか。いろいろなことが露わになり、いろいろ なことがなし崩しになる。

こ の志位発言には、従来の共産党の見解に新しく付け加えられたことがある。「急迫不正」の侵略に対して自衛隊を使用する目的は従来、「国民の生命と安全」を 守ることとされていたのが、ここではさらに「日本の主権を守り抜く」ことがはっきりと付加されたことである。さらに、共産党の参加・協力する政権に限ら ず、現在の自公政権においても、「急迫不正の主権侵害が起こった場合」には、「個別的自衛権」の行使、すなわち「自衛隊を含めてあらゆる手段を行使して、 国民の命と日本の主権を守りぬく」のが共産党の立場だ、と宣言しているように読み取れるのである。

自 衛隊の使用をめぐる今回の志位氏の発言の趣旨は、決して突然現れたものではない。その原型は、2000年の大会決議における党の方針転換において生まれた ものであった。そしてその原型は以後、二十数年間の政治情勢の変化の中で徐々に変質を加えてゆき、ウクライナ戦争勃発による危機感の高まりによって、つい にここに至ったのである。

国 会内政党の中で最も「左」に位置する共産党の自衛隊をめぐる見解の変化は、近年の国際情勢の変動に伴う日本の世論全体の動きを反映しているのであろう。と もかく今後、自衛隊の武力行使をめぐって、国会で「挙国一致」の状況が出現しないとも限らない。そういう悪夢だけは決して見たくないものだ。
大田 英昭 https://www.facebook.com/hideaki.ota.54/posts/2057365224443082
2022.4.10

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 「ウクライナと共に」とモモタの「永遠のゼロ」は何か違うの? おれにはおなじ風景にしか見えないけどな。

「欧州東部で起きた、日本が直接関係する戦争でないのに、 「ウクライナ頑張れ、ロシアを押さえろ」の大合唱。テレビ、新聞は「ゼレンスキー大統領=善」「プーチン=悪」(呼び捨て)一辺倒で報じている。戦後の日 本で最悪の偏向報道だと思う。

れ いわ新選組を除く主要政党とほとんどの革新・リベラル系の市民運動家が、「ウクライナとウクライナ国民と共にある」と繰り返している。いままでほとんど知 ることもなかったこの国の国旗の二色が目立っている。「祖国のために命をささげる」ことを美化する偏狭なナショナリズムの復活。日本の民主主義こそが危機 にある。」



「ウ クライナのコルスンスキー駐日大使は同年4月1日、東京の日本記者クラブで記者会見し、在日ウクライナ大使館に寄せられた寄付金が50億円に上ることを明 らかにした。日本で約20万人から寄付があったという。「女性自身」(電子版、同年3月25日)によると、在日ウクライナ大使館は3月7日には、日本の約 15万人から約40億円の寄付が寄せられたと発表していた。

村 山富市首相が呼び掛けて設立された元日本軍性奴隷の女性たちへの償いを行うための「女性のためのアジア平和国民基金」(1995〜2007年)の「国民募 金」の総額は約6億円だった。日本による侵略戦争の過去清算のための募金は12年をかけて6億円で、ロシア軍の被害国には5週間で50億円。日本の民衆の ウクライナへの共感と熱狂ぶりがよく分かる。」


「ロ シアの侵攻で戦争が始まったわけで、ロシアが最も非難されるのは当然だが、応戦したウクライナも戦争当事者になったことも事実だ。「侵略したロシアが 100%悪い」というのは間違っている。ウクライナに対しても「戦争を止めろ」、NATOには「武器援助を止めろ」と言わなければならない。

ゼ レンスキー大統領が、国家総動員令を出して、18歳以上の男性の国外避難を禁じ、国民に武器を与え、火炎瓶の作り方まで教えて「徹底抗戦」を強いているの は、国民をロシア軍に立ち向かわせることで、ロシア軍の民間攻撃の口実を与えている。親ロ系など11政党の活動を停止したのも問題だ。」


「伊 勢崎氏は私の取材に、「日本に限らず、世界中の報道が『プーチン悪玉』一辺倒なので、日本は推して知るべし。でも、なんと言っても平和憲法の国だから、 「国家のために死ぬな」という声を期待したのだがダメだ。リベラル系も、保守系と同じく、市民を武装させる大統領の国を応援している。残念だ」と述べた。

また、「負けるなウクライナ」といった 世論の熱狂こそが、停戦合意の最大の足かせになっている」と主張している。
日本は米欧に追随して経済制裁に加担 し、米軍機で自衛隊の防弾チョッキなどの軍装備品を送ることによって紛争当事者になった。」

第1回 ウクライナ戦争報道の犯罪 浅野健一 メディア批評&事件検証
https://isfweb.org/post-902/?fbclid=IwAR33h_JnoC9W3cB7IkZO0xicAVPeT0KlirTzrr21VWbiarfE3X0VNXSGpFw

2022.4.10

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 おれは穢多非人で、癩病者で、在日で、不法残留者で、無職で、非国民で、紡績職工で、無戸籍者で、反日で、主義者で、指名手配の極左で、連続射殺魔で、 いまはプーチンのスパイだ。いつでも相手になってやるぜ。
2022.4.11

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  「・・戦争が人間の心と精神とを如何にひきつけ恍惚とさせるか・・」

「・・戦争は、影のように文明につきまとい、文明と共に成長する。多くの人びとがいうように、戦争は文明そのものであり、戦争が何らかの形で文明を生むの だというのも、これまた真実ではない。文明は平和の産物であるからだ。とはいえ、戦争は文明を表出している。」

「・・すなわち、戦争を苛烈なものにするのは、勇猛さでも、敢闘精神でも、残酷さでもないということだ。それは国家というものの、機械化の度合いであ る。」

「戦争は、明らかに一つの病とされ、一つの災厄とされていた。古代においては、戦争を行ないながらも人は憎しみを持たなかった。この原則は常に賞賛に値す る。また人は戦争を速やかに終結させる術を心得ていた。戦わざるは戦うに勝る、と各人が信じていたからである。」

ロジェ・カイヨワ『戦争論―― われわれの内にひそむ女神ベローナ』
2022.4.12

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 ロシアを擁護しているわけでない。停戦のために何が必要かを言っているだけなのに、ぼんくら野郎が多すぎる。どうせFBなんてマボロシだから、気に入ら なかったらいつでも「友達」削除してくれて構わんよ。

以下、コメントで。

ロシアのウクライナ侵攻によって、いろんなものが露わになってきていますが、FBもおなじですね。安穏な「お友達」のメッキが剥がれて、いいんじゃないで しょうか。
ウ クライナ侵攻が始まってすでに一か月以上。「ウクライナと共に」を大合唱し、経済制裁や国連やG20でロシアを孤立させ、ウクライナ頑張れと武器を提供し ても、人々が死んでいくことは止められない。ほんとうに命を救いたいなら、この惨劇を止めたいなら、解決策はそれじゃないだろとなぜ気がつかないのか。日 本もアメリカもヨーロッパも国連も、もっと必死こいてプーチンを交渉の場につけさせて互いに話し合うべき。それしかないのに、「プーチンと話し合うなん て! あんな子どもや女性を殺しレイプする残虐な奴と!! ロシアが撤退するのが先だろ!!」とすぐにヒステリックな反応が返ってくる。
たとえ 「平和」の旗をふっていても、多数の安易な熱狂は、どこか胡散臭い。お国を守るためにと出撃する特攻機に桜の枝を振って見送る人々の熱狂と何がちがうの か。おなじにしか見えない。この国は何百万もの理不尽ないのちとひきかえにそうした熱狂の危ういことを学んだはずなのに、何も生かされていない。先の大戦 での何百万ものいのちはまったくの無駄死にです。この国はふたたび、「自衛」のために女子供から年寄りまで竹槍を持って戦うのでしょう。先日の国会での政 治家たちのスタンディング・マスターベーションはまさにそうした風景です。そう遠くはないその日まで、せいぜいおいしいランチやきれいな景色に「いい ね!」をし続けていたらいいんですよ。

>プーチンは悪だが絶対悪にしてはいけない
まさに、そう。
「プーチンは悪だが絶対悪にしてはいけないと言っているだけなのに、
同僚を含めた国際政治学者からは反米左翼と呼ばれ、
共産党シンパの護憲派からは血も涙もない極右と呼ばれ、
うれしいやら、
なさけないやら、
そういう人たちを相手にしてもしょうがないので、
ウクライナ市民の命が一人でも多く助かるよう、
脇目も振らず、
即刻の停戦を主張し続けます。」
https://www.facebook.com/kenji.isezaki.jazz/posts/5268457753249060

ウ クライナでいままさに死んでいく人々にとって、わたしなどは「超無責任な外野」でしょうけれど、ロシアのウクライナ侵攻によっていまこの国で起きているこ と、これから起きるかも知れないことは、わが身にふりかかってくることです。もっと言えば、たとえ地球の裏側だろうと世界で起きていることは、わが身にふ りかかってくる。
わたしが言っているのは、争いを止めるために「平和の熱狂」が邪魔しているんだということです。

「なぜ、こうなったのか?」を考えることをすっとばして、「プーチン・ロシアが他国へ侵略して人々を殺している! それで充分だろ!!」と言うのは、わた しには理解できません。
「なぜ、こうなったのか?」を考えることが、「ウクライナの人びとが日々殺されていくのに、どっちが悪いとか良いとか、つべこべ言ってんじゃねえ。たくさ んの人が殺されてるんだぞ!!」と怒鳴られるのが、いまの日本社会。
「なぜ、こうなったのか?」を考えないとプーチンと話も出来ないのに、対話はしない、悪の権化のプーチンが死ぬか失脚するまでどれだけ人が死のうと戦いつ づけよう、と言っているのがいまの(主だった)世界。

最 近の権力すりすりの河瀬直美監督をわたしは全然好きではないけど、いま話題になっている先の東大入学式での祝辞については、なにが悪いのかまったく分から ない。むしろ批判している学者たちのツイートの方に違和感を感じるが、これがいまの日本社会の「まっとうな国民」の意見なんだろう。この過剰なリアクショ ンも、わたしのような非国民の理解を越えている。
「管長様にこの言葉の真意を問うた訳ではないので、これは私の感じ方に過ぎないと思って聞いてく ださい。管長様の言わんとすることは、こういうことではないでしょうか?例えば「ロシア」という国を悪者にすることは簡単である。けれどもその国の正義が ウクライナの正義とぶつかり合っているのだとしたら、それを止めるにはどうすればいいのか。なぜこのようなことが起こってしまっているのか。一方的な側か らの意見に左右されてものの本質を見誤ってはいないだろうか?誤解を恐れずに言うと「悪」を存在させることで、私は安心していないだろうか?人間は弱い生 き物です。だからこそ、つながりあって、とある国家に属してその中で生かされているともいえます。そうして自分たちの国がどこかの国を侵攻する可能性があ るということを自覚しておく必要があるのです。そうすることで、自らの中に自制心を持って、それを拒否することを選択したいと想います。」

ロシア軍とおなじくらいの悪党だな。
「アメリカやNATO諸国による経済制裁でロシア企業の株価が10分の1などに暴落している。
しかしその一方で、アメリカのゴールドマンサックス(GS)とモルガン・スタンレー(MS)などがロシア株を大量に買い進めている。」
https://www.facebook.com/innes.john.9/posts/1887501711448069

パ レスチナやアフガンやイラクやシリアやその他アフリカやアジアで非道な殺戮はこれまでずっとあり続けていたわけだけれど、ひょっとしたら今回は、ウクライ ナというほぼヨーロッパの「白人国家」で起きたということに「世界」は大きなショックを受けたのかも知れないと思ったりする。
世界はずっと不均衡不平等だったから、アフガン人の百人とウクライナ人の百人はたぶん「等価」ではない。糞の「世界」にとって。

2022.4.14

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  戦争とは、「国家」が行うものをいう。「ばらばらの個人を、今度は国家という全体性が結びつける」 「国家」は「国民」を統合し、戦争に於いて「一人びと りの人間に対し最高度の犠牲を要求する」。キーワードは国家、戦争、死だ。三者は分かちがたく結びつき、まるで古代神話の兄弟のようだ。つまり今日、ロシ アのウクライナ侵攻が露わにするさまざまなものを目の当たりにして畢竟、「国家」についてあらためて考えざるを得なくなってくる。

  かつては教会が「キリストの身体」とされ、人びとの「愛」つまり信仰がその身体を生かすと考えられました。「国家」は、国家のために死ぬ、あるいはそうみ なされる人びとの犠牲によって、その活力と凝集力を得るのです。「この人たちが国のために死んだ。おまえも国のために死ね」という形で、国家は自らを強化 していく。そのことをわたしは「死の貯金箱」と呼びます。国家のために死んだ人間が多くなるほど、国家の力は強くなっていくのです。
 カイヨワは、このような国家のあり方 を、次のように述べています。

「国 家は徴兵制度により、死をともなうある特定の目的に向けて、全市民を完全に掌握するようになった。ここで国家は、支配者として登場することになる。それ は、個人から私生活を奪い取り、命まで犠牲にすることを要求する。そして、衣食住の心配こそなけれ、国家によって完全に支配されたところの、新しい生活様 式を個人に課してくる。(略)人はこの支配者からすべてを受けとることができるが、一方、いつかはこの支配者に対してすべてをさし出さねばならないのだ」

 つまりこれが「国民国家」ということ です。そして国家の人びとに対する権利は、戦争との関係において、というよりまさに戦争によって全幅のものになります。

「国 家がおのれの権利を市民の生命財産により上位のものとして主張することができるのは、戦争の際においてであった。戦争は、社会集団の在り方を極度に社会化 するための契機となる。戦争が聖なる力となるに至ったのは、このようにして、一人びとりの人間に対し最高度の犠牲を要求するためであった」

NHKテキスト 100分de名著 「ロジェ・カイヨワ 戦争論」 西谷修
2022.4.14

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  相変わらず下手糞だが、歌いたいから歌う。満を持してのアリラン。喜納昌吉の歌詞にもう二節ほど、「アリラン峠の旅人たち」に出てくる民謡などを参考に勝 手に足してみた。「生きて帰らぬ者」は、もちろん郡山紡績で死んだ18歳の金占順(김점순)や感電死した徐錫縦(서석종)、そのほか多くの異郷で潰えた者 たちのことをふくんでいる。


아리랑 아리랑 아라리요
아리랑고개로 넘어 간다
나를 버리고 가시는 님은
십리도 못가서 발병난다

アリラン アリラン アラリヨ
アリラン峠をこえてゆく
青い夜空は星の海よ
人の心は憂いの海よ

アリラン アリラン アラリヨ
アリラン峠をこえてゆく
出て行くときはこの世の人
帰るときはあの世の人

アリラン アリラン アラリヨ
アリラン峠をこえてゆく
月よ高みにのぼったら
わたしの心を照らしておくれ
2022.4.15

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  カイヨワが「戦争がこのような洗礼的意義をもつようになったのは、戦争が非人間的なものとなったときであった」と記すとき、「洗礼的意義」とは、まさにこ の国の靖国のことなのだと合点がいく。「戦争は災厄ではない。むしろ祝福なのである」は、いみじくもかつて上野英信が「天皇陛下萬歳 爆弾三勇士序説」に 於いて、「彼らの<死>は<天皇>と結びつかぬかぎり、 実体をもちえません。<天皇>もまた、兵士の<死>と結びつかぬかぎり、実体をもちえません」 と書いたことと同義である。戦争 は、国家による祝祭であり、祝祭の裏で国家は血によってわたしたちに洗礼の儀式を授ける。狂信と時計仕掛けのような組織、すなわち熱情と組織はいままさに 目の前にあり、わたしたちはそれを目撃している。抗うべきは、この熱情と組織。


  全体主義体制が生まれるに至って、戦争は現実に国民の宿命となってしまった。ひとたびこうなってしまうと、戦争は国民のために行われるのではなく国民が戦 争に奉仕するのだ、というような言葉は、もはや単なる哲学的なテーゼではありえない。(略)国家は、批判や反対をする余地を少しも与えず、身を引くことは おろか、消極的な態度をとることさえも許さない。(略) このような体制の力となっているのは狂信と時計仕掛けのような組織とであって、これこそが、近代 戦にその固有の性格を与えているところのもの、すなわち、熱情と組織である。
ロジェ・カイヨワ「戦争論」
2022.4.16

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  東京に生まれ育ちながら、東京をそんな目であるきまわったことがない。もとより幼い頃も、20代になってからも、関東大震災も東京大空襲も紡績工場も、ほ とんど頭のなかに存在しなかった。しかしいまはあるきたいところ、見てまわりたいところがたくさんある。東京もまた無数の「言われなき死者たち」がいまも 眠れぬ町 である。湯島のホテル前の坂道をくだり、御徒町から地下鉄で両国へ出た。国技館や江戸東京博物館、ホテルなどが建ち並ぶ一画にある横網町公園は、かつて陸 軍の被服廠(軍服などの製造・貯蔵・調達などを担った施設)があった。1922(大正11)年、関東大震災が発生したとき、被服廠の移転に伴い東京市が跡 地を買収して公園の造成を進めている最中であった。多くの人びとが家財道具と共にその「空き地」へ避難してきたところへ飛び火し、四方からの強風にあおら れて一面はたちまちにして逃げ場のない火焔の坩堝となった。じつはわたしの父方の祖母は、この横網町公園から東へ徒歩20分ほどの大平町が実家であった。 左官職人を大勢抱えた棟梁の家だったらしい。1906(明治39)年生まれの祖母「たま」は、このとき16歳。生前、墨田川へ飛び込んで助かったという話 を本人から聞いたことがある。もし祖母がこの横網公園へ逃げていたら、わたしはこの世に生まれてこなかったことになる。ようやく火が収まった後の被服廠跡 には黒焦 げの死体が累々と重なり、鬼哭啾々たる景色であったという。遺体を火葬するために88名の人夫が集められたが「酸鼻に堪えず」その日の午後まで残ったのは わずか4人だった。処理された遺体は3万8千体。灰の山がうずたかく積まれた場所に建てられたのが現在の慰霊堂である。最終的にこの慰霊塔には、5万8千 人の関東大震災の遭難死者の遺骨、そして1945年3月10日の東京大空襲による死者10万5千体の遺骨が安置されている。公園内には1931(昭和6) 年に開館した二階建ての震災復興記念館(現在は東京都復興記念館)がある。ひとつの建物に関東大震災と東京大空襲の資料や遺品、当時の写真パネルなどがひ しめいていて、ひたすら重い。ここで慰霊堂と復興記念館の由来を記した冊子(東京公園文庫48)と、竹久夢二が震災翌日の東京の町をスケッチして歩き新聞 に連載した「東京災難畫信」を購入した。夢二はそのなかで、「萬ちゃんを敵にしようよ」「いやだあ僕、だって竹槍で突くんだろう」と会話して自警団ごっこ をする子どもたちの姿を描いている。展示パネルには「流言飛語による治安の悪化」と題して自警団による朝鮮人虐殺の説明はあったが、併設の写真は流言飛語 を罰するという警視庁のビラで、軍隊や警察が虐殺に関わっていた事実は伏せられている。大杉栄と伊藤野枝の虐殺、亀戸事件なども展示するべきではないか。 展示をじっくり見て、帰り際に受付のおばちゃんとしばし雑談をする。東京大空襲の写真が現在のウクライナと見紛うという話におばちゃんは、「日本人もすっ かり平和呆けしてしまって、徴兵制があった方がいいと知人が言っていました」なぞと言う。記念館を辞して、慰霊堂へ入る。東京築地本願寺の設計で有名な伊 東忠太 による建物内部はカトリック教会の聖堂のようである。祭壇の前で恒例なのだろう、数名のお年寄りたちがパイプ椅子にすわって読経をあげていた。慰霊堂の横 には「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼の碑」がある。「誤った策動と流言蜚語のために奪われた6千余名の尊い命」を追悼する碑である。花はないが、手元のお茶 を碑に注いで手を合わせた。公園には犬を連れたりした近所の人が三々五々通り抜けていく。約百年前、ここに累々と黒焦げの遺体が積み重なった凄絶な光景を 思い 描いてみようとするが、現実とあまりにかけ離れすぎていてうまくいかない。高層ビルに囲まれた慰霊堂はまるで巨神兵の白骨のようだ。どちらかがまぼろしな のだ。北斎通りを東へと向かう。すみだ北斎美術館は賑わっているようで、ちらと覗き込んで通りすぎた。どのみち今日は北斎を味わう気分でない。公園と化し た大横川を越えて、祖母の実家があった大平町2丁目あたりの路地をあるきまわった。「関口」というのが祖母の旧姓で、表札をさがすが見当たらない。ひょっ としたらと思って太田道灌開基という近くの法恩寺へもどり、墓石の間をさまよっているときに、そういえば墓は日暮里あたりの山手線の電車から見えるとむか し聞いたことを思い出した。黒ずんだ古い墓石がならぶその向こうにそびえ立つ東京スカイツリーがまるで巨大な卒塔婆のように見える。あるいは神にくずさ れ、ひとのことばが狂わされたバベルの塔か。亀戸天神の前を抜け、用水路のような北十間川へ出た。このあたり、飯島喜美が東京モスリンの紡績工場へ就職し た1927(昭和2)年の頃は、紡績工場のほかにも花王石鹸、日立製作所などの大工場、中小工場が立ち並ぶ一大工業地帯であった。喜美とおなじ亀戸工場で 働いた伊藤憲一は「牢獄の青春」(1948)のなかで次のように回想している、「上野駅から市電で柳島終点に来て、十間川沿いに東に向かって歩くのだが、 右側は昔遊園地といい、後に三丁目といわれた有名な亀戸の魔窟である。すなわち吾嬬町側に伊藤染工場、東京モスリン吾嬬工場などの大工場が並び、境橋から 福神橋の間を花王石鹸工場が占めていた。広告の写真によるときれいなところだと思っていた花王石鹸は、十間川のどす黒い水に、鼻をつく薬品のにおいを流す きたないところであった」  花王石鹸は現在も境橋の向こうに大きな敷地を構えている。東京モスリンの紡績工場跡地にはいま、URの団地が立ち並ぶ。花王 をはさんで西側の文花団地が吾嬬工場、東側が飯島喜美や「女工哀史」の著者・細井和喜蔵が働いていた亀戸工場跡地になる立花1丁目団地である。千葉の提灯 職人の家の長女として生まれた飯島はこの亀戸工場での賃上げ争議に活躍し、日本共産党入党後にモスクワで開かれた労働組合国際連合の大会に紡績工場の女工 として演説をした。帰国後に検挙、特高の拷問を経て金子文子とおなじ栃木刑務所で獄死したのが24歳であった。金子文子が朴烈と出会って「個」を獲得した ように、この亀戸には10代で労働者階級の闘いに邁進していた伸びやかな飯島喜美の足跡があちこちに残されている。吾嬬工場のあった文花団地には紡績工場 の説明板があるというので先にそちらを探して広い団地内を歩きまわったのだが、なかなか見つからない。歩いていたおばあさんに訪ねてみるが「わたしはそん なもの、よく分からないんで」と手を振られてしまう。途方に暮れかけた頃、集会所で作業をしているおばあさんがいたので「集会所に出入りしている人なら」 と訊いたところ、やっと場所が判明した。団地の中央にあるいちばん大きな文花公園の東側、道路側に向けてその説明板は立っていた。公園のなかを突き抜けて きたので気づかなかったのだ。かなり古びてきているが、「産業発展の背景に過酷な労働」があったこと、「結核などの重い感染病にかかる」女工たちのことな ども書かれ、1898(明治29)年の創業頃の工場の写真も載せられている。つづいて亀戸工場のあった立花1丁目団地へ向かうが、こちらは何も残されてい ない。大きな団地の棟と広い公園、テニスコートなどがあるばかりだ。飯島喜美がここで働きはじめた1927(昭和2)年、あるいて30分ほどの距離にある 太平町に住む祖母「たま」は21歳だった。祖母は翌年、22歳で祖父「清」と結婚する。福島県から出てきた祖父は祖母の家で働く職人だったそうだから、祖 父も飯島喜美と同時代にごく近くに暮らしていたことになる。ちなみに金子文子が栃木刑務所で縊死するのは1926(昭和元)年である。23歳だった。こう いう歴史の物差しは、わたしにはとても身近で分かりやすい。そろそろ14時をまわっている。ホテルを出たのが9時前だったから、いい加減お腹が減ってき た。飯島喜美や細井和喜蔵を思いながら、この東京モスリン亀戸工場跡地の団地内に見つけた中華屋でお昼を済ませた。ニラレバ定食、680円。「チャイナ・ ドール」という店名からして中国系なのだろうか、少々たどたどしい日本語のおばちゃんが、昼間からビールを飲んでご機嫌の常連のじいさんばあさんたち相手 に負けずに盛り上がっているステキな店だ。勘定を済ますとおばちゃんは先に立って扉を開け、雨がやんでよかったね、と送り出してくれた。ここから荒川の、 関東大震災のときに多数の朝鮮人が殺されて埋められた河川敷を目指す。東武線の東あずま駅をわたり、広い明治通りを北上して、途中から八広中央通りに入 る。荒川の堤防の手前から、何気に狭い階段を下りたところが偶然にも八広日枝神社の、こじんまりとした社殿のちょうど裏手だった。ここに逃げ込んだ一人の 朝鮮人が竹槍で刺されて殺された。住宅にはさまれた、ちいさな三角のスペース。思わず濡れた地面や石畳に血のりの跡をさがしているじぶんがいる。「かれ」 が最後に見たのは、こんな見捨てられたような狭い空間だった。最後に漏らした声は、思いは、まだこのあたりをさまよっているだろうか。その隅には「皇太子 殿下御誕生記念」などと刻まれた小さな石碑が数本ならんでいるが、もちろん、ここで殺された一人の朝鮮人の供養碑などはない。裏から入った神社を表から出 て、堤防下のせまい道を高架下をくぐれば、住宅にはさまれたつましい庭ほどのスペースの奥に「関東大震災時 韓国・朝鮮人殉難追悼之碑」がある。周辺に置 かれた異形の石仏は沖縄の彫刻家・金城実さんの作品で、在日3世の辛淑玉さんが寄贈したものだと後日、ある人がおしえてくれた。隣の平屋が追悼事業をされ ている一般社団法人「ほうせんか」の事務所で、毎週土曜日の午後には小さな資料館として開放しているそうだ。小学校の机の下に置かれていた日本語のパンフ レットを一部、頂いた。そのまま京成電車の高架をくぐり、堤防へあがる。この線路際のあたりでもサーベルで斬殺した、日本刀や竹槍で殺した、3〜4人、 20人くらいの死体があった等々の証言が残されているが、いまは集合住宅が建ち並んでいる。河川敷に出て、木根川橋の下をくぐる。川の向こうの四ツ木あた りは小学生の頃、自転車で走った。大阪のコリアンタウンの商店街が果てるあたり、「つるはし交流広場 ぱだん」で多民族共生人権センター主催による関東大 震災に於ける朝鮮人虐殺のドキュメンタリー・フィルムを見たのは、もう5年もまえになるか。1983年の「隠された爪痕」(58分)、1986年の「払い 下げられた朝鮮人〜関東大震災と習志野収容所」(53分)。そして若い頃にこれらの貴重な作品を撮影したいまは茨城県に住む呉充功監督が30年後の続編と して現在製作している「2013 ジェノダイド 93年の沈黙」(仮題)のパイロット版(18分)などを見た。やってきたのはみな在日の人で、日本人はわ たし一人だけだった。そのとき書いた文章を一部引く、「・・・「隠された爪痕」はのっけから、なつかしい荒川の河川敷が現れる。中川が綾瀬川と併走する荒 川と合流する手前、京成押上線が四つ木駅をすぎて橋をわたっていくあたりだ。パワー・ショベルが穴を掘り、古老たちの記憶をたよりに虐殺された朝鮮人の遺 骨をさがしている。骨はみつからなかった。けれど兄を殺された大井町でホルモン店を営む83歳のアボジは土手の上で日本人証言者のAさんの手をにぎり「く やしかったよ、ほんとうに」と思わず落涙する」  その場所に、わたしはいま立っている。掘り返したが、遺骨は出てこなかった。いまもどこかに眠ってい る。暗い地中のふかくで、目をみひらいたままよこたわっている。わたしたちはその地中の目に耐えられるか。このちいさな旅の最中、ほとんど雨が降り続いて いた。手にした自動開閉の折りたたみ傘はたっぷりの湿気にやられたのかどうも調子が悪い。雨に煙るひとけのない河川敷にしばらく立ち続けた。「魂はいずく ぞに行きたりしか / 来たりて逝かば 人知れず逝くべきを / 逝ける者は忘るるとも / 忘れて棺に身を横たえるとも / 残れるわが身は忘れまじ」 (安宇植編「アリラン峠の旅人たち」)  多少へばってきたので休憩を兼ねて八広駅から京成電車に乗り、浅草まで出た。墨田川沿いの公園は桜が満開で、小 雨のなか、カメラマンに引率されたウェディング姿のカップルなどもいる。川の向こうには相変わらず、巨大な卒塔婆(東京スカイツリー)がそびえたってい る。考えたら今日は終日、いつもどこかにこの巨大な卒塔婆が見えていた。言問橋の橋のたもとに「東京大空襲戦災犠牲者追悼碑」がある。いまは花見客でにぎ わうこの川沿いのあちこちにも、かつてアメリカの無差別虐殺によって焼け焦げた無数の言われなき死者たちが埋められたのだ。手を合わせ、これでわたしの小 さな旅も終わった。浅草寺から花やしき、ひさご通りの商店街などをとくに見るともなくあるき、日曜でほとんどは閉まっているかっぱ橋の道具屋街をあるいて いる頃にぼちぼち日が暮れてきた。死んだ浅川マキがこの世にのこしていった「灯ともし頃」というアルバムを思い出す。あのアルバムのざらついて沁み入るよ うな薄明のなかの声が好きだ。暮れかけた上野の路地をわたしはあるいているが、あるいているのはわたしではないのかも知れない。わたしをここへつれてきた のは、わたしでないかも知れない。
2022.4.18

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  共産党の志位氏が最近、「万が一、急迫不正の主権侵害が起こった場合には、自衛隊を含めて、あらゆる手段を行使して国民の命と日本の主権を守り抜く」と発 言しているけれど、いまのウクライナはまさに「国の主権」が侵害された状態で、あくまで抵抗を続けるなかで日々、人びとの命が失われていっている。

  「急迫不正の主権侵害が起こった」ときには、結局は「国民の命」より「国の主権」が優先されるのではないか。「国民の命」と「国の主権」がおなじように守 られる状況など、果たしてあるのだろうか。いまのウクライナの状況を見ていると、そういう疑念がわき起こって仕方がない。

 「国の主権」より、一人びとりのいのちが優先だろ。「国の主権」など、守り抜かなくてよい。
2022.4.19

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 降伏を拒否して死ぬこたあないよ。それでも徹底抗戦を 言う「国家」なんて、おかしくないか? 力でかなわないなら亡命政府でもいいじゃないか。生きてるうちが花なのよ 死んだらそれまでよ。「国家」のために死ぬな。
2022.4.19

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  「国家」や「国の主権」あっての、おれたちのいのちなのか? おれたちのいのちに前提があるのか? それが300万もの戦没者の結 果だったんじゃないのか? 「国家」や「国の主権」より、いのちが最優先だ。いのちあってこその「国家」や「主権」だよ。

 国に殉ずるとか、国のために命を懸けて戦うとかいうのは、そのまま靖国の思想だよ。じぶんや愛する者のいのちを守るためには、たとえ非国民と言われよう とも、「国家」や「国の主権」なんかは捨てちまったらいいんだよ。
2022.4.20

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   ウクライナに於ける惨状を日々目の当たりにして、わたしたちがほんとうに考えなければいけないのは、経済制裁だとか武器援助だとか軍事同盟だとか核武装 だとか、今日テレビの画面で盛んにしゃべられている、そんな表層的なことではない。わたしたちがいま、ほんとうに考えなければいけないのはおそらく、「国 家」について、である。「国民全体というものが他のあらゆる集団構造をしのぐものとなったとき、はじめて戦争は社会的高揚の頂点となった」 「国家の統制 が強まれば強まるほど、戦争はより多くのものを消費するようになった。戦争においてより多くの消費がなされるようにするために、国家は絶えず統制を強めて ゆくのだ、といってもい」(ロジェ・カイヨワ「戦争論」)  戦争は「国家」による祝祭であり、徴兵制は血の儀式によるその祝祭への参与である、ともいえ る。「ここにおいて戦争の聖なる力は、その十全な輝きをもって現れる」  しかしその「社会的高揚の頂点」に於いて、集団の「一種の形而上学的な高み」に 於いて、「個の独立性は一時棚上げされ」、「個人は画一的に組織された大衆のなかに溶けこんでしまい、肉体的、感情的また知的自律性は消え去ってしま う」。つまり兵士は「それを自分の運命として受け入れ、泥の中を這い、虫のように死んでいかざるを得ない」。「ひとたびこうなってしまうと、戦争は国民の ために行われるのではなく国民が戦争に奉仕するのだ」  国民が「国家」に奉仕する、と言いかえてもよい。戦争の聖なる力、十全な輝きのなかで、ひとは非 人間的なものとなって「国家」に奉仕する。「国家の主権」を守るために、ひとは「英霊」となることを辞さない。「国家」とは、「国の主権」とは、ほんとう に死を賭してまで守らなければならないものなのか。「国家」がなければ、わたしたちは存在し得ないのか。わたしたちは、どのような「国家」を持つべきなの か、あるいは持たないべきなのか。ウクライナに於ける惨状を日々目の当たりにして、わたしたちがほんとうに考えなければいけないのは、そのような、わたし たちの「国家」についてであると思う。つまり、わたしたちはどのような「国家」を持つべきなのかを、いまあらためて問われている。
2022.4.20

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  ここにおいて戦争の聖なる力は、その十全な輝きをもって現れる。(略) このような感情は、文明がその基礎としている諸々の価値、戦争の前夜まで最高のものと思われていた諸々の価値を、粗暴な瀆聖的な仕方で否定するところにお いて、その最高の強みをみせる。平和が必要と偽善にかられて聖なるものとしてきたもの、すなわち節度、真実、正義、生命といったものを誇らかにあざ笑うこ と、これこそが、戦争のもつ聖なる威光の最高の明証である。(略) 祭りのなかに現れる<聖なる違犯>というものの役割を、 戦争が果たしてい るのである。
ロジェ・カイヨワ「戦争論」


 かねてより靖国神社祭儀課に依頼していた件の返答が届いた のは、折しもこの国の地上に於いて桜が満開の時節であった。「さて、御申し出の有りました 久保 守命・久保 廉平命 につきまして調査しましたところ合 祀されて おりましたので、別紙の通り回答申し上げます」  久保廉平と守はわたしの母方の祖母の弟たちである。廉平は1914(大正3)年、守は1921(大正 10) 年に和歌山県の北山村で、筏師「久保組」支配人であり第十一代村長も務めた久保八十次郎のそれぞれ三男と四男として生まれた。北山村史の戦没者リストによ れ ば、二人は共に「海軍」の所属として、戦争末期のニューギニアのサルミで戦死したとある。守は1944(昭和19)年9月29日、享年24歳。廉平は同年 10月15日、享年31歳であった。わたしの手元には、おそらく村のどこかの屋敷だろう石垣の前で、16歳の娘盛りの祖母といっしょに写っているセピア色 の写真がある。幼い二人の瞳はまっすぐにこちらを見つめている。

 今回、靖国神社の祭神調査によってあらたに判明したのは、二人は兵士で はなく海軍「嘱託」であったという事実だ。所属部隊は「第八海軍建設部」である。調べたところ、奈良の県立図書館に「第八海軍建設部始末記 (東部ニュー ギニアに於ける海軍軍属部隊の記録)」(1986、今井祐之介(元第八海軍建設部付 元海軍書記) なる50頁弱の冊子があり、また国立国会図書館関西館 のデジタル文書「濠北を征く:思い出の記椰子の実は流れる」(1956、濠北方面遺骨引揚促進会)の中に「第八海軍建設部の面影 / 遠山親文」なる一節 を見つけて、それぞれコピーをしてきた。「海軍建設部」とは基地施設建築や陣地築城を任務とした部隊で、もとは設営班とも呼ばれたが、編成の外郭団体とし て民間会社が所属していた。前述の「第八海軍建設部始末記」で著者の今井は八建(第八海軍建設部の略称)の使命として「原住民の宣撫ならびに治安維持。現 地軍の自給自足。産業の開発。病院の建設」をあげている。これに参加した進出企業は農業(南洋興発、三井農林、南洋食品)、漁業(南興水産、東北水産)、 林業(林業開発組合(挺身企業体三菱主体))、土建(矢島組)、海運(南貿汽船、日本郵便)などとあり、久保廉平と守はこのいずれかに所属していたと思わ れ る。

  「第八海軍建設部始末記」によれば1943(昭和18)年1月11日、横浜港に集合した八健関係者は輸送船・白山丸に乗船して出港、二隻の水雷艇に護衛さ れて途中、横須賀で別部隊を乗せ、三池で石炭を積み、パラオなどに立ち寄り、西部ニューギニアのマノクワリに到着して民政府の要員や貨物を陸揚げした。映 画「南の島に雪が降る」の舞台になった演芸分隊のマノクワリ歌舞伎座があった町である。目的地である東ニューギニアのウエワクに着いたのは2月11日、 「横浜を出港してから満一ヶ月かかっている。船上から見たウェアワクは、見わたすかぎり鮮やかな緑におおわれ、朝日に輝いて南海にうかぶパラダイスかと思 われた」(「第八海軍建設部始末記」)  上陸してしばらくは平穏で、荷揚げをしてテント張りの宿舎を設け、農業適地の調査をしたり、山中での伐木・製材 作業に着手、土建隊は建物や道路、橋の竣工にあたり、漁業隊がマグロの漁場を見つけて水揚げしたが脂気が少なくあまりおいしくなかったともいう。「日中屋 外は焼けつくように暑いが、屋内はさほどではなく、ワイシャツに長ズボンでも快適にすごせる。夜は涼しく、草むらには内地の秋を思わせる虫の声がしげく、 毛布を一枚かけて寝る位の気候である」

  しかし当時、大本営はすでにガダルカナル島を放棄し、ついでブナも玉砕、東ニューギニアは最前線 となりつつあり、4月9日、ついに連合軍の本格的な攻撃が始まったのであった。「その後、ウエワク地区における敵空襲は連日におよび、来襲する機数もだん だん増加し、飛行場、ウエワク台上、洋展台、周辺のジャングル、入港中の船舶等に猛烈な爆撃を加え、緑に覆われたジャングルは赤土の原野に変わってしまっ た」 このような状況なので「開発作業は現状維持が精一杯で、前進などは思いもよらなくなった。労働力の原住民は逃げて中々寄りつかず、反対に、防空壕掘 りや、空襲被害の復旧に人手をとられる有様となり、山から出す木材は身を守るためにのみに使用される。農産物は野菜類が自給自足にようやくで、米は軍需部 から受ける有様、漁船の水揚げも段々と遠のくという状況になった。このような状況では、八健進出の意味がなく、かえって戦力のマイナスでしかない」  戦 局の悪化のため「タイピストとして配属されていた女子職員十数名を」「また看護婦十数名も内地から交代要員が到着したのに伴い帰還がきまり」、11月に帰 国。12月後半には「百機以上の空襲を連日うけるようになり」、年が明けた1944(昭和19)年2月頃から「敵機の来襲は熾烈の度を加え、次々と施設が 破壊され、ついにウエワクにおいての業務遂行が不可能となった」。

  このような第八海軍建設部の状況について、今井は次のように総括する。 「八健が進出しようとした時期は、敵が反攻企図を示し、ガダルカナル方面に侵攻し てきた頃であった。そして戦況は我に不利な徴候を示していた。このような時期に、作戦部隊でない開発部隊が敵飛行機の行動範囲内で、速成し得ない生産物を 出そうというのは無理である。開発というような地についた仕事は、安定した状態で、資材も充分あって初めて成果を期待し得るものである。事実は全く逆で あった」  その後は敗走につぐ敗走である。敵に追いかけられながら、まだ戦況が幾分かマシであった西ニューギニアのサルミを陸路によって目指したが、ほ とんど食糧も持たず、着のみ着のままの悲惨な逃避行であった。「ホーランジアの西方には、二千三百米を超す山を主峰とする山岳地帯があり、人跡未踏の地で ある。多くの者は、これを越えて西に向かってサルミを目ざしたが、道はもとよりなく、ジャングルの中を山を越えて行かなければならない。太陽によって方向 を定めて進むが雨の日が多く、方向を失って山中をさまよう形となった。地形は極めて峻険であり、昼なお暗いジャングルには、巨大な倒木が行く手をさえぎ る。一つの山を越えると、その先にまた山がある。赤道に近い熱帯の地であるが、高い山の中では夜は寒くて耐えがたい。この山岳地帯を越えるまで、食糧とな るものは全く得られない。転進の際身一つで出発したため、食糧、医療品の携帯はなく、その補給ももとより全くないので、大部分の者は山中で餓死してしまっ た」

 東ニューギニアのウエワクから西ニューギニアのサルミまで、ためしにグーグル・マップ上でルートを設定しても道がないので計測出来 ない。目安、直線距離で600キロ以上はあるだろう。その道なき道をすすみ、祖母の二人の弟たちは、かろうじてサルミまではやってこられたが、そこですら もはや安全な場所ではなかった。4月後半から5月にかけて「逐次」サルミに到着した八健の転進者は5月20日の段階で830名となり、陸軍の第三十六師団 の指揮下に入った。「その内、485名は、師団現地自活挺身隊としてトル河上流ブファレに農場を開発することになり、5月7日夜出発、矢島組の中72名は 木場構築作業に従事し、患者192名はサルミに残留することとなった」  ところがじきに「敵が上陸してサルミ地区が戦闘地域となったため、海軍軍属はす べて同地区外に退去を命ぜられ、5月20日マノクワリ方面へ向けて再度転進を開始した。八健関係者約800名の内一部は極度の衰弱マラリア等のため、フエ ルカム河以西マテワル付近に留まり、その他はマンベラモ河方面に陸攻転進を続けた。この間には、すでに食糧、医薬品とも全く無くなっており、そのため餓死 する者、病死する者が多数出た。 マンベラモ河に到着できた者は約500名であったが、その内約200名はさらに前進することを断念し、再びサルミ方面に 引き返した。約300名は、6月4日、6日、10日の三回にわたって陸軍の大発で渡河しマノクワリに向かって転進をつづけた。しかしながら、マンベラモ河 以西は、人跡未踏ともいうべき大湿地帯であり、海岸線は、いたる所に巨木が横倒しになっていて、踏破するには大変困難であり、あまつさえ食糧は全くなく、 疲労困憊その極に達して先行者がバマイ付近に到着したのは18日頃であった。当時その付近一帯は敵工作班の活動が著しくなっており原住民が頻々ととして我 々を襲い、そのために犠牲者が続出した。さらにマラリア、アメーバ赤痢などの疾病と餓えのため斃れ殆ど全滅の状態となった」 

 祖母の二 人の弟たちがサルミで亡くなったのは、残された記録によれば9月末と10月中旬であるから、二人はすでにサルミ到着時点で「患者」として残留した192名 の内であったか、あるいはマノクワリを目ざして断念し引き返してきた200名の内であったかも知れない。もうひとつの資料「第八海軍建設部の面影」(遠山 親文)も、このあたりはほぼ同じような記述だが、こちらは敗戦後まだ間もない時期(1956年)に出版されたもののせいか次のような哀切な一節も伺える。 「・・この間において、糧食、医薬品皆無のため、餓死者が、続出したが、我が身一つを持ち運ぶことが精一杯というのが当時の実情であったので、僚友の死体 を埋葬することができず、心を残しながら遺体を踏み越え踏み越え、物につかれたようにひたすら前進を続けるという状態であった」  最後の瞬間を、二人は どのように迎えたのかと思うのだ。弟の守が24歳で9月29日に先に逝き、兄の廉平は10月15日に31歳で後を追った。廉平は弟の最後を看取ることがで きたのだろうか。二人は死にゆく際に、熊野の豊かな山と川の風景、そこで待つ母や姉たちの姿を思い出しただろうか。1,641名の第八海軍建設部関係者の 内、戦没者は1,104名、行方不明者は264名、帰還者はわずか273名であった。  「第八海軍建設部始末記」の最後を今井は次のように締めくくっている。「・・これらの人々の遺骨の大部分は、人跡未踏のジャングルの山奥に眠っており、そ の場所には、おそらく、今後数千年に亘って、再び人類が足を踏み入れることは無いであろう。如何にも悲惨な結末であった」

  カイヨワはその「戦争論」において、祝祭のような戦争がその高揚の頂点に於いて人間を呑み込み消費し、そのなかでひとの個の独立性は一時棚上げされ、「個 人は画一的に組織された大衆のなかに溶けこんでしまい、肉体的、感情的また知的自律性は消え去ってしまう」と記す。遠い南の島のジャングルで惨めに死んで いかねばならなかった久保廉平と守は、「国家」によって消費される非人間的なパーツであった。本来、人が生きるためのかりそめの集合体にすぎない「国家」 が、徴兵という血の儀式によって人間に「国家」への奉仕を強制する。かりそめの「国家」は人間を超える「至上の存在」として立ち上がる。その抗い難い至上 の存在を前にして、二人は「それを自分の運命として受け入れ、泥の中を這い、虫のように死んでいかざるを得ない」(西谷修「ロジェ・カイヨワ 戦争論」 100分e名著)  「平和が必要と偽善にかられて聖なるものとしてきたもの、すなわち節度、真実、正義、生命といったものを誇らかにあざ笑」った戦争の 顔をした「国家」が国を守るためにいのちを賭せと言い、「英霊」になることを強要する。廉平と守の墓は筏師の里ともいわれる熊野の山中の集落を見下ろす高 台にあって、長兄によって二人の名が刻まれているが、おそらく二人とも遺骨はなかっただろう。今井が記したように「今後数千年に亘って、再び人類が足を踏 み入れることは無いであろう」人跡未踏のジャングルにいまも眠っているのかも知れない。二人は「消費」され、「国家」は永続する。かれらの死に、わたしは 抗いたい。
2022.4.21

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