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 政治は劣化し、民は白痴化し、タガははずれ、本性剥き出し。上も下もだれも責任をとらないできたから、なんどでもくり返すんだよ、この国は。百年前になにが起きたか、もういちどおさらいしよう。おれたち。

1923 関東大震災が発生する。
1925 普通選挙法が成立。
1925 治安維持法が定められる。
1926 大正天皇が亡くなり、昭和天皇が即位。
1930 ロンドン軍縮会議
1931 満州事変が起こる。
1932 五・一五事件が起こる。
1933 国際連盟を脱退する。
1936 二・二六事件が起こる。
1937 盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が起こる。
1938 国家総動員法が制定される。
1939 第二次世界大戦が始まる。
1940 日独伊三国軍事同盟が結ばれる。

 

「そしてあえて挙げれば、この国は「災害史観」ともいうべき歴史観を内部に常に抱えていた。思い起こせばわかることだが、大正十二年の関東大震災は、当時の社会には二つの特徴があることを裏づけた。ひとつは形のあるものは崩壊する、あるいは現実はあっさりと解体するという現実だった。田山花袋をはじめとする多くの作家たちは、そのような無常を綴(つづ)っている。こうした心理が人びとの心理の底に沈殿したのである。

 もうひとつは、情報閉鎖空間の中に根拠のない噂(うわさ)話を投げ入れると、その空間はたちまちのうちに異常空間となり、暴行、殺りくを平気で働くようになる。このときの虐殺事件がそうした事実を物語っている。

 私のいう災害史観は、この二つの特徴を引きずって大正末期から昭和への時代空間へと突き進んだ史実を評してのことだ。エログロナンセンス、さらには自殺ブーム、そして満州事変以後の戦争、その中での虐殺事件などは災害史観の結果と考えられるのではないか。

 この暴力的なファシズムは、つまり戦争と重なった。」
ニュースサイトで読む: http://mainichi.jp/sun…/articles/20161227/…/00m/010/005000d… 

 

▼森達也の「この国はまた同じ時代を繰り返す」という論 ――治安維持法制定時の新聞の見出しと秘密保護法制定時の新聞の見出しの相似性に呆然とする
http://mizukith.blog91.fc2.com/?no=769 

2017.1.14

 

*

 

 前田憲二という名をはじめて見たのは、たしか大阪天満宮近くで行われた沖浦先生の講演会で配布されたチラシ(たぶん完成したばかりの「月下の侵略者―文禄・慶長の役と「耳塚」)で、そういえば今回の「東学農民革命 唐辛子とライフル銃」製作にあたっての呼びかけ人の中にも故人として名前を連ねている。へえ、こんな変わった(^^)ドキュメンタリーを撮っている人がいるんだと、そのとき脳裏にしっかり刻まれた。「月下の侵略者」は見る機会を逸したがその後、「おきなわ戦の図 命どう宝」(前田プロ、1984)、「恨 芸能曼荼羅」(映像ハヌル、1996)の作品をヤフーオークションあたりで中古のVHSで入手して見たり、また「渡来の現郷 白山・巫女・秦氏の謎を追って」(現代書館)などの本を読んだりして、ずっと近しい気持ちを抱いていた。なんというか、正史に対する反逆、とでもいった姿勢か。正史からこぼれおちた無名のしかし魅惑的な人々の姿を、たどった足跡を、つむいだこころのあり様を、神話や祭り、民俗、そしてフィールドワークによって丹念に拾いあるき、かれらを圧殺してきたなにか大きなものに抗いつづける。そこにいちばん惹かれる。朝鮮半島との交流が深く、金大中大統領の自宅にも招かれ、2001年には韓国政府より玉冠文化勲章を授与された。だからたとえば、つい先日購入した「韓国併合100年の現在」(東方出版)のあとがきでは以下のようにつぶやいたりする。

 わたしは昨年、長編記録映画「月下の侵略者―文禄・慶長の役と「耳塚」」を完成させた。その折り、パソコンのブログには国賊、とっとと死ね、等々冷ややかな文字がすらりと並んだ。鬱陶しい思いのなかで、正面から歴史のあり方を見ることが、そんなに理不尽なことなのか。映画を徹して旅を重ね、漂泊をつづけるわたしには、その土地、その土地に沈澱した陽炎や精鬼が実感できる。そんな想いが強い。

 「その土地、その土地に沈澱した陽炎や精鬼が実感できる」  そう、この人は自身が巫女 (ムーダン)であり、依代(よりしろ)であり、「その土地、その土地に沈澱した陽炎や精鬼」たちの代弁者であるのだ。わたしはこの頃、中国はこの国の根であり、朝鮮半島はこの国の枝である、とあらためて思うようになってきた。では枝についた実はどこへ落ちたか? そもそも枝に実はついたのか?

 前田監督があたらしい作品を撮って、その上映会が京都と大阪で催されるというのをFB上で見かけ、チラシを印刷して机の横に貼っていた。「東学農民革命」とははじめて聞くが日曜日、時間ができたので電車に乗って大阪へ出た。地下鉄の長堀橋駅から南へ交差点をふたつほど、早く着いてしまったのでしばらく会場である大阪中央会館の周りを、大好きなスーパー玉出を含めてうろうろ歩き回っていたのだけれど、ひとつ裏手の通りに入ればハングルの表記が多く、自家製のキムチを売っている店などもある。このあたりも大阪のちょっとした“コリアン・タウン”なんだろうな。ちょっといい雰囲気。

 講演会の前にチマチョゴリ姿の姜錫子さんという歌手の方のピアノと打楽器をバックにした歌が四曲ほどあり、はじめの曲は東学農民の指導者で処刑された全琫準(チョン・ボンジュン)を偲んで後の人々が口ずさんだという歌だったと思うが、わたしは後半のアリランっぽいような勢いのある曲がよかった。ちなみに全琫準の歌の歌詞はこんなふうで、背が低く、頑強な体つきをしていた全琫準に付けられたあだ名が“緑豆将軍”だったことからきている。緑豆が全琫準、青舗は緑豆で作った菓子、青舗売りは貧しい民衆。

鳥よ鳥よ 青い鳥よ
緑豆の畠に降り立つな
緑豆の花がホロホロ散れば
青舗売りが泣いて行く

 

 続いて登場した前田監督の、およそ一時間にわたるトークはじつに面白くて引き込まれた。のっけから「日本全国にある30万もの古墳に“日本人”は一人も入っていない」 「日本書紀は朝鮮人が書いた」等々の挑発的な発言にふつうの日本人はおそらく仰天して、なんだこのヘンなことを言うジジイは・・と訝るかも知れないが、よくよく歴史をたどってみれば、古墳時代にはまだ「日本」というものは存在しなかったわけだし、日本書紀が書かれた奈良時代だっていわゆる大和朝廷の勢力範囲は近畿地方を中心とした限定されたエリアでしかなかった。古墳や五重塔の作り方にしろいわゆる渡来人といわれる半島から渡ってきたひとたちに教えてもらったわけだし、この国の古い神社や祭りには前田監督風にいえば「新羅が隠れている」し、たとえば関東の方の地名にはアイヌの人々の言葉だって残されている。つまりわたしたちは「日本人」だとか「朝鮮人」だとかいう以前に、まずニンゲンなんだと。はるか古代からニンゲンであったし、いまもニンゲンだと。いや、ニンゲンになれ、と。そこには皇紀皇紀2600年だとかいう大上段に構えた出鱈目を突き抜けたすがすがしさと決意と誇りがある。かれのすべての作品は、そのことに気づけ、と言っているような気がする。

 話のいちいちが刺激的で愉しく、わたしは手元のノートにあわてて書き殴りのメモをとり、あとで家に帰ってからそれをもとに調べものをしたり、本を注文したりとしたわけだけれど、中でもとくに印象的だったのは、たとえば映画を作成するに当たって「じぶんの作品には「意図」はない、証言を引き出すとそれが作品になる」とか、現在問題になっている慰安婦の少女像については「撤去だとか言うこと自体が馬鹿げている。釜山とソウルには永久に堂々と置いておくべきだ」とか、そして「いまの日本の状況はとても怖い」と前置きをした上で「(これからの時代は)日本人より、(朝鮮・韓国・日本が交じり合った)在日の人たちの方が豊かな体験を持っている」となどといったあたりか。最後の発言は、会場を埋めた席のかなり多くを在日の人々が埋めていたこともあるのだが、全体的に日本人が少なかったのはちょっとさみしい気がしたな。ちなみに「東学農民革命」のエンディングで延々と流れる協賛者の個人名も8割9割方は半島の人たちの名前で、日本人の名前はほんのごくわずかだった。

 試みに「東学農民革命」を手元にある娘の高校の教科書から探してみる。明治維新を経て、大日本帝国憲法が発布された5年後、「日清戦争」と題された項目の冒頭だ。

 朝鮮では、日清両国の対立の中で、政治や経済が混乱したため、1894年(明治27年)、民間信仰をもとにした朝鮮の宗教、東学を信仰する団体を中心とした農民が、朝鮮半島南部一帯で蜂起しました(甲午農民戦争)。かれらは、腐敗した役人の追放といった政治改革や、日本や欧米など外国人の排除をめざしました。

 この「甲午農民戦争」が東学農民革命のこと。ところがこの朝鮮での農民たちの蜂起についての記述はここで唐突に終わり、話は(メインの)日清戦争へと移る。

 朝鮮の政府が清に出兵を求めたのをきっかけに、日本は朝鮮に出兵し、8月に日清戦争が始まりました。日本は戦いを優勢に進めて勝利し、1895年4月、下関条約が結ばれました。この講和条約で清は、@朝鮮の独立を認め、A遼東半島、台湾、澎湖諸島を日本にゆずりわたし、B賠償金2億両(テール:当時の日本円で約3億1000万円)を支払うことなどが決められました。

「新しい社会 歴史」(東京書籍)

 この教科書の文章をそのまま素直に読めば、東学農民革命は日本の朝鮮出兵のきっかけになっただけに過ぎず、出兵した日本は清と戦争をして勝利した、ということしか分からない。立ち上がった農民たちは、ではどうなったのか?

 事実はこうだ。朝鮮半島の各地で圧制と役人の腐敗に立ち上がった東学の徒を中心とした農民軍は悪い役人への処罰、不当な税の改善、外国商人の不法活動の禁止などを要求し、いったんは朝鮮政府と和約したものの、直後に自国へ侵略してきた日本軍に対してふたたび立ち上がる。そのかれらに対して日本軍が出した命令は「東学党に対する処置は厳烈なるを要す、向後悉(ことごと)く殺戮すべしと」(南部兵站監部陣中日誌)であった。竹槍や火縄銃、あるいは鋤や鎌、投石などで武装した農民軍に対して近代的な訓練と当時最新鋭だったライフルを持った日本軍は数万に及ぶ人々を文字通り「殺戮」し、その残党たちを最後は最南端の珍島まで追い詰めて皆殺しにしたのだった。以下は当時の陣中日誌などに日本軍の兵士たちが書き残した文字たち。

 我が隊は、西南方に追敵し、打殺せし者四十八名、負傷の生捕(いけどり)拾(十)名、しかして日没にあいなり、両隊共凱陣す。帰舎後、生捕は、拷問の上、焼殺せり。

 本日(一月三一日)東徒(東学農民軍)の残者、七名を捕え来り、これを城外の畑中に一列に並べ、銃に剣を着け、森田近通一等軍曹の号令にて、一斉の動作、これを突き殺せり、見物せし婦人及び統営兵等、驚愕最も甚し。

 当地(羅州)に着するや、(羅州城の)南門より四丁計り去る所に小き山有り、人骸累重、実に山を為せり ・・・彼の民兵、或は、我が隊兵に捕獲せられ、責問の上、重罪人を殺し、日々拾二名以上、百三名に登り、依てこの所に屍(しかばね)を棄てし者、六百八十名に達せり、近方臭気強く、土地は白銀の如く、人油結氷せり・・・

 また当時の新聞には、兄に宛てた一兵士のこんな手紙が掲載されていた。

 敵(農民軍)の近接するを待つ、敵は先を争ひ乱進、四百米突(メートル)に来れり(東西北の三方向)、我隊、始めて狙撃をなし、百発百中、実に愉快を覚へたり、敵は烏合の土民なれば、恐怖の念を起こし、前進し来るもの無きに至れり(この日、三千四百余発を費消せり)・・・

 これがわたしたちの父、祖父たちの姿だ。軍事力をもって隣国を侵略してきた夷敵に対して国を守ろうと立ち上がった土地の人々を虫けらの如く無残に殺戮し尽くしたのだった。東学農民側の死者は3万人とも5万人ともいわれ、これは日清戦争に於ける清国人の死者数よりも多い。そんなことはわたしたちが学校で習う教科書には何も書かれていない。それもそのはずで、この東学農民革命に於ける日本軍の包囲殲滅作戦はその余りの残虐さからか当時の参謀本部が編纂した「明治廿七八年日清戦史」では隠蔽され、唯一この戦いで出た日本側の戦死者の記録も改竄されていたのだった。

 この地方紙の調査から、先ほど見た後備第十九大隊の、ただ一人の戦死者の記事を、徳島県立図書館で見いだしました。「徳島日日新聞」は、阿波郡市香村大字香美(現、市場市香美)の杉野虎吉が、連山の戦いで、12月10日に戦死したことを報じていました。

 ところが、調べてみると、この連山の戦いの戦死者は、「靖国神社忠魂史」第1巻に記されていないのです。「靖国神社忠魂史」は、戦前1935年に、靖国神社と陸海軍省が編纂したものです。同書巻末の人名索引で調べると、徳島の杉野虎吉は、「成歓の戦い」の初日である1894年7月29日の戦死者として記載されているのでした。成歓の戦いは、朝鮮の東学農民軍との戦闘ではなくて、清国軍との緒戦でした。戦史の日付が、12月から7月に移され、戦闘場所も移されていたのです。

以上、「東学農民戦争と日本 もう一つの日清戦争」(高文研)より

 

 東学農民革命に参加した者たちの子孫は、朝鮮半島が日本の侵略から解放された後も長い間、時の権力に逆らった謀反者として差別され、虐げられてきた。そして日本軍によって殺された無名の農民たちの亡骸の多くは、墓標もない山河にいまも人知れず眠っている。前田憲二監督の「東学農民革命 唐辛子とライフル銃」はその慟哭の大地を移動し、「朝鮮の天と地、風とその中で聞こえる人の声」を集め、忘却のかなたに埋められようとしていた蠢動を現代に蘇らせる。

 わたしが痛切に思ったのは、近くて遠いこの隣国の歴史を、そしてわたしたちの国が彼の国へかつて為してきたことを、恥ずかしいほどに何も知らなかったということだ。教えられもしなかったし、知ろうともしなかった。かつてこの列島にもたらされた古墳も、塔も、それらをつくる技術も、文物も、文字も、制度も、宗教も、そして人も、その多くは朝鮮半島を経由してやってきた。中国はこの国の根であり、朝鮮半島はこの国の枝である。豊かな実の成る枝だ。それなのにわたしたちは、こんなにも近しい隣国のことを何も知ろうともせず、逆に過去の暗い歴史を隠蔽しようとしている。それで相手を理解することなど、できようはずもない。殺したこちらは忘れても、殺された側は幾世代にもわたって忘れまい。引用した「東学農民戦争と日本 もう一つの日清戦争」の中で共著者の一人である井上勝生氏は記している。竹槍と火縄銃だけの東学農民たちは、弱兵であったが、地の利、人の利を得ていた。欧化し近代的な武器(ライフル銃)と徴兵制による軍事訓練を受けていた日本軍は強かったが、「万人の恨み」を生み出し続けた、と。

 朝鮮半島で悪政と侵略者に立ち向かった民衆たちを日本の軍隊が「実に愉快」と皆殺しにして、百年以上が経つ。殺された側はいまだ慟哭の百年であった。殺した側はじつに隠蔽と忘却と無反省の百年であった。この百年の歴史を、わたしはこの頃、いつも考える。百年というのはひとつの大きな生き物のようなかたまりで、この国はもういちどその同じ百年を、ふたたびくり返そうとしているように思えて仕方がない。つまり、日本というこの国の正規の軍隊が、近代史において他の民族に対してはじめて行ったジェノサイド(集団殺戮)が東学農民革命である。これが、はじまりだ。この国の近代のはじまりだ。ふたたびの百年を止めようと思うなら、わたしたちはまず「失われた百年」を正確に思い出す必要がある。たどりなおす責務がある。物言わぬ死者のためにも、慟哭する大地のためにも。そのことをいちばん強く思う。

 

▼大阪Deep案内 / 島之内コリアンタウン http://osakadeep.info/shimanouchi/

▼映画「東学 - 甲午農民革命」上映委員会 https://www.facebook.com/donghagnongmin/ 

▼[インタビュー]「朝鮮の天と地、風とその中で聞こえる人の声が作った映画」 http://japan.hani.co.kr/arti/culture/25250.html

▼121年間さまよった東学軍指導者の遺骨、安息所見つけるか http://japanese.joins.com/article/113/195113.html?servcode=400&sectcode=400

▼日清戦争120年、東学農民戦争120年 〜ゆがめられた「歴史認識」 http://wajin.air-nifty.com/jcp/2014/08/120120-3c01.html

▼NPO法人ハヌルハウス http://blogs.yahoo.co.jp/hanulhouse5996 

▼韓国DMZ国際ドキュメンタリー映画祭・特別招請作品「東学農民革命」(前田憲二監督)の上映会実現に向けてご支援下さい!!https://motion-gallery.net/projects/tougakunoumin 

▼"羅州(ナジュ)の土地は白く人間の脂で固まっていた" http://japan.hani.co.kr/arti/culture/15228.html 

2017.1.30

 

*

 

 すこし長いが、むかしの日記を引く。いまから15年も前のものだ。当時、娘はまだ1歳で、わたしは職が定まらず、世の中のいろんなものに唾を吐きかけながら、むなしくさまよっていた。

 

 夜、ひとりだけの食事を済ませてから、何気なく、聖フランチェスコの映画「ブラザー・サン シスター・ムーン」のビデオをかけた。もういちどだけ見たら、消してしまおうと思ったのだ。この美しい映画はもう何度か見た。だが、今日は違っていた。十字軍の悲惨な戦場から戻ったフランチェスコは、病を経て自閉症のようになってしまう。一切を黙したまま、野原で鳥や草花としずかに戯れる。町の者はみな、かれは気がヘンになってしまったのだと噂をする。ある日、かれは父親の命でミサに同行する。贅を尽くした教会で、着飾った裕福な人々が神を讃える。フランチェスコは次第に息苦しくなってくる。聖服の襟をひきはがし、はじめて口を開き絶叫する。「No ! 」 それから、長い苦痛から解放されたようにもういちど、静かに「No 」と言って微笑む。それからしばらくしてある日、フランチェスコは家の財産を窓から投げ捨てる。怒り狂った父親は息子をひきずり、司教に裁いて欲しいと申し出る。司教と両親と取り囲む大勢の群衆の前で、「おまえは何が望みなのか。おまえは...」と司教に尋ねられフランチェスコは答える。

....光を探す者です、やみの中で
幸福になりたいのです
空を飛ぶ鳥のように
自由に純粋に生きたいのです
ほかに何も要らない、何ひとつ
愛のない現世の束縛など、私には必要ありません
より善いものが、あるはずです
人には聖霊が宿っています、魂の中に
取り戻したいのです、私の魂を
生きてみたい、野や山で自由に
丘を越え、木に登り、川で泳ぎ
大地を踏みしめて暮らしたい
靴も財産も要らない
召使いも要らない
托鉢をして清貧に暮らしたい
キリストやその弟子たちのように
解き放たれたい

 かれは言葉通り靴も衣服も脱ぎ、それを両親へ手渡す。父親が怯えたように何かを叫ぶ。「もう息子ではありません」 次いでフランチェスコはイエスの言葉をひく「肉から生まれるものは肉。魂から生まれるものは魂です」 そしてかれは生まれたままの姿で、ひとり野へ出ていく。

 
 私は、泣いていた。こんな体験ははじめてだった。涙は次から次へとあふれ出てやまなかった。これは理屈ではない。頭脳から出たものではない。感情でさえもない。いうならば、私の魂が何かに反応したのだ。ヒットした。全身が小刻みに顫え、身体の奥から何かあたたかいものがとめどなく湧き出してきた。フランチェスコの純粋さにうたれたのか、かれの勇気に? あるいはおのれの汚らわしさを悲しんだのか。それとも歓びの嗚咽であったのか。何か目に見えない弾丸を撃ちこまれたのか。分からない。分からないが、何か大きなものが私のなかに生きて存る。それが目を覚まして、私を内から激しく揺さぶる。ずっと私の内で眠っていた何かだ。私はおびやかされているのではない。裁かれているのでもない。私はたぶん、“肯定されている”。炬燵で寝そべったまま、私は泣き続けた。フランチェスコを呼び戻そうとやってきた友人が、別のもう一人に言うのだ。「無知だったから、(かれを)笑ったんだ」と。私は泣き続けた。洗われているようだった。

2002.1.4

*

 
 昨夜はどうもある種、異様な興奮状態だった。何やら読み返すとしどろもどろのひどい文章だが、これはこれで置いておこう。何が自分の身に起きたのかを考えている。これまで映画や小説や音楽に接して感動をし、あるいは涙したことは幾度もあるが、それとは明らかに違うものだった。ある種の化学反応のように、私のなかで何かが反応した。私はまるでマラリヤに罹った患者のように激しく顫え続けた。それはとてもリアルな体験だった。私のなかに確かに何かの存在があって、それが私を揺さぶっていた。それ自身が命を持つ何か、だ。昨日のチャットでKさんが「キリスト教徒なら、あれを《聖霊降臨》と呼ぶのだろう」と言った。そう。私は確たる信仰を持っているわけではないし、何やら霞の帳に包まれた怪しげな神秘思想も不得手だ。だが、ふとどきを承知で言わせてもらうならば、私はあのとき、あの映画を見ながら、ひとりの個の人間として、確かにフランチェスコの生身に触ったのだ、と思う。私の魂の触手が、800年前のかれの肉体に触れ、おののいた。そういうことは、この世界で、あるのだと思う。一夜あけて、私はふだんの何の代わり映えもない自分でいる。あのときの興奮はすでに去った。いまではまるで遠い夢のような気がする。私はふだんの私で、何ひとつ変わらないが、自分の身に起こったことははっきりと覚えている。私はそれを“体験”した。それは疑いようもない事実として存在する。たとえ百人の人間が信じないと私に告げても、私のなかでは岩のような事実だ。あのとき私が顫え、涙し、信じ難い奔流のなかで味わった感覚は忘れようもない。エンデさんが言っている。

 たとえばある人が、いわゆる聞こえない声を聞いた、と言う。それに対して心理学者は、幻聴だ、と片づける。そのことが私にはいつも腹立たしいのです。人間にとって、唯一ほんとうのことは、自分が経験したからほんとうだ、と言える事柄なのではありませんか? 他にいったいほんとうのことがあるでしょうか?

 だからといって、私がイエスに帰依するというわけでもない。私はきっと、相変わらずの私で居続けることだろう。いままでどおり、ときには聖書を読み、仏典を開き、アイヌの神話に胸をときめかすだろう。イヌイットの人たちのように、カラスの魂を夢見たりするだろう。ネイティブ・アメリカンの人たちのように、掌をわたる風を見つめたりするだろう。だが何かが、これまでとは違う。確かに違う。私は象徴=サインを受け取った。「橋のむこうの世界」からのしるしを。それが私に何をもたらし、そこから何が見えてくるのか、ゆっくりと見とどけたい。

 ユングが「ヨブへの答え」に記していた言葉を思い出している。

 なぜなら意味とはつねにおのずから示されるものだからである。

2002.1.5

 

 翌月、死んだ父の知り合いで懇意にしていた関東に住む老牧師氏から、こんな手紙がとどいた。

 

 お便り有り難うございました。先の手紙と行き違いになったのですね。どうしていらっしゃるかと思っていたところでした。このところ国の内外を問わず、凶悪な事件が後を絶ちませんが、たぶん、いつの時代も同じようなものだったのかも知れません。特に、終末的様相を深めつつあるのがこの時代であり、人間が罪の奴隷になっているかぎり、何があっても不思議ではないと思います。将釆、黙示録の預言のように、もっともっと大変な事が起こるでしょう。

 この度、大変貴重な体験をなさったとのこと。それを「μεγανοια」(メタノイア)と言い、聖書では、「悔い改め」と訳されており、「回心」を指します。●●さんの体験は、ダマスコ途上、使徒パウロがキリストに出会って、その心をひっくり返された(回心)経験と同質のものと私は判断します。フランシスコもザビエルも、その師のロヨラも、世々の聖徒たちは、みな同様の回心の経験をしているのです。これは人間の思いを超えた出来事で、大少にかかわらず、この種の経験なしに真のキリスト者になることは出来ません。現代のキリスト者は、この体験に欠け、その結果として知識や教義や神学理論に傾き過ぎて力を失ってしまった、と私は思っています。この回心の経験は、神の心である「愛」に触れることであり、「聖霊体験」と言うことが出来ましょう。                               

 ご存知のように、神は「存在」するもので無く、「存在を存在させている超越的存在」ですから、人間が「存在する」とか、「存在しない」とか決定づけることは出来ません。また、人間が主体的に「信じる」ことの出来るものでもありません。一切の原因はすべて神に在るべきで、すべては神の賜物に過ぎません。信じても信じなくても、「神」と名づけた人格的超存在によって、一切が在らしめられて在るので、パウロのアテネでの説教の通りです(使徒行伝17章16節以下参照)。その神の人格(ペルソナ)を、人間の言葉で「愛」(アガペ)と呼ぶのです。この「愛」は、すなわち「神」であり、その具現者をキリストと言います。「愛」は、宇宙を創り、万物を貫く「法則」でもあり(人はこれを、宗教や道徳と呼びます)、時に「聖霊」とも呼ばれるものです(「父神」「子神」「聖霊」の三位一体」)。             

 この「愛の霊」に触れると、人は内部(魂)が照らされ、深い畏れと共に無限の赦し、すなわち創造者の愛によって、「受容」されていることを感じ、言いようの無い平安と歓喜に導かれ、ただ涙があふれるのです(これを「悔い改め」とか「回心」と言う)。私も若い日に、この体験をさせられ、三日三晩涙が止まりませんでした。今、年老いてなお説教に立てるのは、この経験があるからです。現実がどうであれ、誰が何と言おうと、神によって「肯定されている」との決定的な霊体験が私の確信であり、支えであり、生きる意味の拠り所です。

 人は、神を信じると否とにかかわらず、神の愛の中に生かされて在るのです。これに気づいた者を信仰者と言うに過ぎません。しかし、この体験をした者の内側には、必ず何かの変化が生じるはずです。それは、蛹が蝶になるのに似ていると思います。静かに、しかし確実に変貌を遂げる事でしょう。今はこの世で、いろいろの事に制約され、思うような生き方が出来なくても、いつの日か羽を持った蝶のように、自在にはばたく時がきっと来ます。その日の来ることを私も待ちこがれています。

 ●●さんのためにも、いよいよの開眼と神のご加護をお祈り致しております。何はともあれ、お体お大切にお働き下さいます様に。文末ながら奥様によろしく願い上げます。

 ご平安を念じつつ。

合掌

 

 旅を続けてダマスコに近づいたときのこと、真昼ごろ、とつぜん天から強い光がわたしのまわりを照らした。わたしは地面に倒れ、「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いた。「主よ、あなたはどなたですか」と訊ねると、「わたしはお前が迫害しているナザレのイエスである」と答えた。いっしょにいた者たちは、その光は見たが、わたしに話しかけた方の声は聞かなかった。

(使徒列伝22章6〜9節)

 

 手元の文庫版「沈黙」の奥付には1982年12月30日の日付が鉛筆で記されている。当時は購入した日付をなぜか必ず記していた。わたしは高校2年生で、翌年の2月の記載がある単行本の「キリストの生涯」もあるから、この頃に遠藤周作のキリスト教に関する一連の小説やエッセイを貪り読んでいたのだと思う。シュバイツァーの「イエスの生涯」(岩波文庫)を買っているのも同じ頃だ。たしか高校3年のときに倫理の授業の発表の時間をつかって、イエスについて30分ほどみんなの前で話をした。みんな退屈そうにして、ろくに聞いちゃいなかったな。担当の若い女の先生だけ、ひどく感動してくれた。中学の卒業式の日に校門の前で見知らぬ男が配っていた英語と日本語が併記されている新約聖書を、わたしはぽつぽつとめくるようになった。前掲したフランチェスコの映画に慟哭するのはそれから20年後、というわけだ。

 マーチン・スコセッシの「沈黙 サイレンス」を土曜の午後、ひとり自転車で、佐保川の平城京の羅城門跡を越えて見に行ってきた。娘も誘ってみたのだが、スマホで内容を確認した彼女は「いい映画なんだろうけど、きっと心が折れそうになるから、いまはやめておくわ」と答えた。果たして、彼女の言うとうりだったね。わたしのこころは、それこそ折れまくっていたな。原作の「沈黙」はもうたぶん20年以上、読み返していない。だからその分、いろんなものが一気によみがえってきて、奔流のようになった。とくに前半はモキチの死に様だ。波打ち際の十字架の上で、隣のじいさまの昇天を祈り、くりかえす満ち潮に耐え、ひとり聖歌を歌い続け、4日目に息絶えたその右手が縄をはずれて身体がだらりと折れ曲がる。人はだれしもがあのように立派な態度のまま殉教できるものでもない。その対極に、卑怯でみじめなだけの、虫けらのようなキチジローがいる。それがわたしたちの合わせ鏡だ。虫けらのようなキチジローは、最後には主人公であるパードレの影になって寄り添う。パードレもまた“ころんだ”のだ。なんども棄教し、なんども罪の許しを請い、人々から嘲笑され、石もて追われる虫けらのようなキチジローこそが、じつは神の具象化であるのかも知れない。

 ザビエルがこの国に来たのは戦国時代の末期で、各地で戦国大名が割拠し、室町幕府の権威は地に失墜していた。応仁の乱以来続く戦乱で国土は荒廃し、多くの人々がその戦乱の犠牲になり、その日の糧に苦しむ貧民・窮民が絶えなかった。天変地異も頻発し、水害・旱魃・疫病・地震なども相次いだ。その後、浄土真宗の宗徒による一向一揆が力をもつが、やがて信長によって徹底的に弾圧・虐殺される。1587年、秀吉によってキリスト教が禁じられ、1613年には徳川幕府によって禁教令が全国に広げられる。キリシタン弾圧が過酷の一途をたどり、1637年には困窮した農民たちによる島原の乱が起きるが、「最終的に籠城した老若男女37,000人は全員」が皆殺しとなった。映画はその数年後を舞台としている。幕府がキリシタン禁令をたてに「宗門改め」を制度化し、仏教寺院と共に「民衆の思想統制」、「戸籍管理による身分統制」を強めていった時期にあたる。親鸞から蓮如に連なる底辺の人々の覚醒は根絶やしにされ、他の既成の仏教は人々にとっては何の力にもならず、物や人の自由な往来も制限され、すべての希望が潰え、多くの人々はただ虫けらのようにしか生きていくより他がなかった。

 「宣教師ザビエルと被差別民」の中で沖浦和光氏は、当時の仏教各派と僧侶たちから完全に見捨てられていた癩病者や身体障害者、非人などの被差別民、「不殺生戒」を犯した河原者、「張外れ」の漂泊民や芸能者、遺児、秀吉の朝鮮侵攻以来の朝鮮人捕虜たちといった卑賤視されていた人々が多く、キリスト教の洗礼を受けたことを指摘している。イエズス会によって日本人ではじめてイルマン(準司祭)に認定されたのが、もともと目の不自由な琵琶法師であったロレンソ了西であったのは有名な話で、近畿の有名なキリシタン大名・高山右近もこのロレンソ了西によって受洗している。大阪の堺出身で下層の念仏聖であったと思われる熱烈な信者・ダミアンも盲人であった。そういった人々を当時の既成仏教は「前世の業」として差別し、見放していたのだった。

 1614年の大弾圧の際に、家康の居城だった駿府でも数十名の信徒が入牢させられた。仏教への転宗を拒否した者は灼熱の鉄で額に烙印を押され、手の指と足の腱を切って野に棄ておかれた。その拷問に耐えて四人が生き残った。そのひとりペドロ宗休は、癩者たちの小屋の近くに住んでいたので、常日ごろから彼らにイエスの愛を説いていた。

 野に棄てられた宗休は癩者たちの小屋にかくまわれていたが、立入り調査にきた役人によって、彼ら癩者もキリシタンであることが判明した。棄教を促す役人の説得に応じず、肉体が朽ち果てる前に神の慈悲に救われたいと申し述べたので、ついに一同斬首された。その癩を病んでいた聖者の名は、フランシスコ、ガスパール、パウロ、トメ、マティアス、ルカの6人だった。

 1622年9月、長崎で55名のキリシタンが処刑された。「元和の大殉教」である。イエズス会・ドミニコ会・フランシスコ会に属する外国人司祭9名をはじめ、婦人13名、3歳から12歳までの子どもも8名含まれていた。その中には朝鮮人アントニオとマリアの子二人がいた。このうち25人を火焙りにする際に、近くの癩者小屋に火種を探しにいったが、彼らはそれに協力しなかった。

沖浦和光「宣教師ザビエルと被差別民」(筑摩選書)

 

 贅沢なリクエストかも知れないが、映画の中にわたしはそんなかれらの姿も登場させてもらいたかったな。なぜかれらが、異国からきた神を、あれほどまでに命がけで信仰したのか。その答えは、それらの風景の中にあるような気がするからだ。無数の、痛烈な、また沁みいるようなひとつひとつの場面場面の中に。現実はスコセッシが撮った映画の何十倍も何百倍も強烈で、荘厳だったに違いない。そこにはぎりぎりの生のなかで、善きいのちにたどりつきたいと希求する無数の無名な人々の気高い闘いがある。こんなことを言ったらスコセッシ監督に怒られるかもしれないが、そんなかれらの輝きに比べれば、苦悩する映画の主人公であるパードレも「脇役」に過ぎないのかも知れない。

 

 司祭は足をあげた。足に鈍い重い痛みを感じた。それは形だけのことではなかった。自分は今、自分の生涯の中で最も美しいと思ってきたもの、最も聖らかと信じたもの、最も人間の理想と夢にみたされたものを踏む。この足の痛み。その時、踏むがいいと銅版のあの人は司祭にむかって言った。踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつため十字架を背負ったのだ。

 こうして司祭が踏絵に足をかけた時、朝が来た。鶏が遠くで鳴いた。

遠藤周作「沈黙」

 「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」という、わたしの好きなゴーギャンの作品がある。高校生の頃にわたしのこころに楔を打ち込んだ遠藤周作の小説も、30数年後に見たスコセッシの映画も、そしてそれらの風景を織り成す歴史に埋もれてしまった無数の名もなき人々の生き様も、そのゴーギャンの絵とおなじ深みに突き刺さって容易に抜けないところが好きだ。考えてみろよ。17世紀のあらゆる自由を奪われていたこの国の底辺の人々が命がけで追い求めたものと、現代のぼくらがこころの底から望むものは案外と近いのかも知れない。時代は変わっても、わたしはいまもモキチになりきれない虫けらのようなキチジローだ。そんなキチジローも最後に胸からぶら下げていた聖画を役人に見つけられて画面から消えていくとき、ついにおのれの足で立つことができたような気がする。いのちを何で削いでいくのか。

 スコセッシの映画「沈黙」はそんなもろもろのことを、あらためて思い起こさせてくれた。

2017.2.4

 

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 今日は娘が通っている通信制高校の終業式が近くのホールであった。集まった生徒は百人ほど。娘に言わせると「よく警官隊が配置されなかったと思えるくらい」派手な服装あり、色とりどりの髪の色がありで、なかなか壮観だったそうだ。同席した保護者はつれあいを含めて十人程度。終業式の一環として講演会があった。若い頃はワルで、家が貧しかったので学費が払えず北海道へ家出して、それから一念発起して大学を出ていないのに面接で無理やり塾の講師に採用してもらい、大卒の同僚たちに冷笑されながらも一番人気の講師にのしあがって、後に起業して小さな会社で講演活動をしているという人の話。「生徒の目線で話してくれるからとても面白かった」と娘。一時間半、いろんな話をしたが最後に母子家庭で若い頃は不良で学校の教師からはさんざ叱られ、そのたんびに呼び出された学校で「この子は根はとてもいい子なんです」と言い続けてくれたその母親が、その子がやはり一念発起して大学へ入学したその日に事故に会い、駆けつけた病院ではすでに白い布をかぶせられ、しかもその母親がじつは実の母ではなかったということを知らされた・・・  娘はいちばん後ろの席にいて会場全体を見下ろしていたわけだが、そのときに色とりどりの頭がゆれ、鼻水をすする音がし、「よく警官隊が配置されなかったと思える」ような生徒たちがほとんど泣いていたそうだ。おまけに講演が終わって引き継いだ司会役の先生(最初に学校を見に行ったときに説明してくれた男の先生)が「ボクもむかしを思い出して・・」と嗚咽してあとはもう言葉にならず、けれど生徒たちもみんな泣いていたから誰もからかう人間もいなかった。つれあいも、娘も、そんな光景に感動したらしい。「頭のあちこちを段々で赤色に染めているような男の子まで泣いてるんだよ」 そしてこう言うのだ。「うしろからよく見えたけど、寝ている生徒なんかだれもいなかった。みんな一生懸命、聞いていた。一時間半もだよ。これが育西だったらね、ぜったいにみんな寝ているか、馬鹿にして聞いてないかだよ。だれも感動なんか、しないわ。なぜって、あの子たちは挫折をしたことがなくて、みんなじぶんが優秀だと思っている子ばかりだから」  「人間っていろんな面を持っているんだなあって思ったわ」  最後に校長先生が出てきて、いろいろと話をしてくれたそうだが、そちらは娘いわく「校長先生って人もね、なにか言ってやろうと一生懸命しゃべるんだけど、いやあ、内容がうすくてうすくて。さっき感動していた赤まだらの頭の子も、いつの間にか寝てたね」

 おまえはだれよりも、きっといちばんいい場所にいるのかも知れないな、紫乃。

2017.2.8

 

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溶けた核燃料をカミとして祀る巨大な御霊神社をつくったらいい。人間の愚かさを永久に忘れないために。

 

朝日新聞デジタル>記事 「福島2号機、格納容器内は650シーベルト 新たに推定」2017年2月9日21時00分

「東京電力は9日、メルトダウン(炉心溶融)した福島第一原発2号機の原子炉格納容器内の放射線量を新たに推定したところ、毎時650シーベルトに達すると発表した。調査ロボット「サソリ」の投入に向けて進路を掃除するロボットを入れ、そのカメラ映像の乱れから推定した。この場所は1月末の調査で毎時530シーベルトの線量があると推定された場所と近く、溶けた核燃料などが広範囲に飛び散っていることが裏付けられた。廃炉の困難さがあらためて浮き彫りになった。

 東電は9日早朝から、サソリの進路となる作業用のレール(長さ約7メートル、幅0・6メートル)にこびりついた堆積(たいせき)物を高圧の水で吹き飛ばすロボットを投入した。ロボットは格納容器の入り口から2メートルほどの場所に着地し、遠隔操作で作業を開始した。2時間ほどかけて約1メートル進んだところで、カメラ映像が暗くなり始めたという。高い放射線などの影響で故障したとみられる。

 カメラが完全に映らなくなるとロボットを回収できなくなる恐れがあるため、東電は作業を中断してロボットを回収した。作業は9時間の予定だった。

 ログイン前の続き東電はカメラ映像のノイズなどを解析し、付近の線量を毎時650シーベルトほどと推定した。人が近くにとどまれば1分弱で致死量に達する強さだ。カメラは累積で1千シーベルトまで耐えられる設計だといい、東電は「2時間で寿命を超えたことと整合性がある」としている。

 東電は2月にもサソリを投入する計画。東電の担当者は「今後、堆積物の残り具合などを分析し、サソリをどこまで入れられるか検討する」と話した。」

2017.2.10

 

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 夜。名古屋から録画を頼んでいたETV特集をひとりで見る。

▼「路地の声 父の声〜中上健次を探して〜」

今年生誕70年を迎えた作家・中上健次。故郷、新宮市の路地(被差別部落)に住む老婆たちへ聞き取りをしたテープが発見された。長女で作家の中上紀さんが父の軌跡を訪ねる

今年生誕70年を迎えた作家・中上健次。36年前の肉声が録音されたカセットテープが発見された。中上の故郷、和歌山県新宮市の「路地(被差別部落)」に住む5人の老婆たちへの聞き取りである。長女で作家の中上紀さんはこの夏、父が出会った老婆たちの遺族を新宮に訪ねた。そして、作家の星野智幸さんや「日輪の翼」の公演を続けるやなぎみわさんと対談。中上健次が路地の聞き取りからどのように作品を生み出したのか探って行く

 番組が終わったところで、ちょうど始まった放送中のETV特集を続けて見る。

▼「その名は、ギリヤーク尼ヶ崎 職業 大道芸人」

伝説の大道芸人と呼ばれるギリヤーク尼ヶ崎、86歳。去年の夏、“人生最後の踊り”と向きあった。パーキンソン病を患い、満身そういの状態でなぜ踊るのか。その日々を追う

全国の路上で踊り続けてきたギリヤークさん。長年続けてきた10月の新宿公演が人生最後の舞台になるかもしれない。共に暮らす弟と二人三脚の日々が始まった。腰は極度に曲がり、手の震えは止まらない。下された診断は身体が次第に動かなくなるパーキンソン病だった。誰もがいつか向きあう老いと病。捨てきれない芸への狂気。人生の総決算を突きつけられた時にどうするのか。ギリヤークさんが再び舞うまでの3か月の記録。

 あらためて 「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」 が思い起こされる。いや、「われわれ」でない。「わたし」だ。わたしはなにをしにきたのか。

2017.2.11

 

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 慶応大学のグループがiPS細胞を使った脊髄損傷の治療で2018年前半の手術を目指す、という記事が先日の新聞に載っていた。 「計画では、京都大学iPS細胞研究所の「iPS細胞ストック」から供給される細胞を、神経細胞になる「神経前駆細胞」に変化させ、脊髄の損傷部分に注入する。交通事故などで脊髄損傷を起こしてから2〜4週間の患者が対象で、18歳以上の7人に移植し、安全性やまひした手足などを動かす機能の回復具合を調べる。」 計画通り順調にすすみ、安全性がある程度確かめられたとしても、生まれつきですでに十数年の歳月が経過した娘のような患者への適応はもう何年か先のことになるんだろうな。その頃には20代か、30代か。足のほうはすでに筋肉を入れ替えたり、骨を削ったりする手術をしてしまっているから容易でないだろう。せめて排尿・排便だけでもじぶんでコントロールができるようになったら、本人もだいぶ助かるだろうな。

 おとといはつれあいと二人で電車に乗って(もちろん車椅子)、大阪の高槻にある病院の診察を新規で受けてきた。排便のコントロールがこのごろ難しくなってきて、それに伴って体調が悪い日が多くなったりして、泌尿器科の先生から「いい先生がいるから」と紹介してもらったのだった。つれあいは以前の泌尿器科でのレントゲンで撮った、腸にいっぱい便がつまったレントゲンが頭から離れなくて、「お腹が痛い」という娘にまだ便が出切らないのだろうと何度も浣腸と摘便をしていたのだが、それは薬を増やす前のことで、先生の触診によるば通常程度の便しか残っていないということだった。逆に浣腸液が過多になって頭痛などを起こすことがあるという。娘はこのごろ排便のタイミングがじぶんでも何となくわかるようになって、トイレに行ってすわっていると多少は出るらしい。あとは薬の量の調節だが、いわゆる便秘症の人が使う下剤には、腸を刺激することで排便を促す「刺激性下剤」と、便の水分を増やすことで便を軟らかくし排便しやすい状態にする「機械性下剤」があり、娘が使っているのは後者のうちの酸化マグネシウムを主とした「塩類下剤」で、これは「浸透圧を利用した下剤で腸内に浸透圧の高い物質を入れることで大腸内の水分量を増やし、便を軟らかくするとともに便を滑りやすく」する。つまり薬が少ないと便が出にくいし、多すぎると下痢になってしまう。これが季節やその日の体調、食事、運動、摂取した水分など、もろもろの条件に左右されるので調整が難しい。浣腸・摘便のタイミングも含めて、それらを母親と相談しながら試行錯誤をしているのが現状である。今回の診察ではあらたに漢方薬も出してくれた。これは生姜と山椒の成分によって身体を温めて便を出しやすくするものらしい。

 ところでこのあたらしい初老の医師がけっこうお喋りな先生のようで、じぶんの趣味などを語っている会話のなかで「歴史が好きで、最近は隠れキリシタンの史跡巡りに凝っていて、この間もこの高槻の市内の・・ 」なぞと言い出したものだから、「あら。主人もこの間そこへ行ってました」とつれあいもびっくりした。近々、長崎の方へも旅行をする予定だそうで、最後に「ご主人にもよろしく」と。もっとも娘は「あの先生ね〜 目が蛙みたいにギョロっとして、なんか苦手なんだよなあ」と苦笑していたのだけれど。

 先日終業式だった通信制の学校も予定した単位は順調にとれているらしい。もっとも休みが多くて、じっさいに学校へ登校するのは週に二回くらい、それも一時間か二時間程度なので、びっくりするくらい少ない。大学へ進みたいという意志は変わらないようで、学校の勉強だけでは難しいことは本人も理解しているので、駅前の主に自宅でのモニター授業をメインにした学習塾のお試しを受けてみたのだが、最後のテストで体調が悪くなったりして完結できず、それでも来週に母親と申し込みへ行く予定だという。そういえば先月にあった学校の期末テストも二日目あたりから急に体調が悪くなって、歯を食いしばって残りの日数を出かけていた。心理的なものがまだ残っているのかも知れない。とにかく家にいることが多い。たいていはじぶんの部屋に犬や猫を入れて自由な時間を過ごしている(ときどき勉強もしているようだけれど)。ある意味、3年間を闘って娘自身がつかみとった理想の環境ともいえるし、本人もいまは精神面でもとても落ち着いているのでいいと思うのだが、唯一親が心配してしまうのは体力面と人との交流だ。学習塾もせっかくだから通いで授業を受ければとも言うのだが、大人の足で10分程度の移動がネックらしい。「送り迎えしてもらわなくちゃならないし」とも言うし、杖や車椅子をつかっても難しい。軽量の電動車椅子ならじぶんでどこへでも行けるよとすすめるが、どうも車椅子で出て行くことに抵抗があるらしい。先の高槻の病院は駐車場が少ないということで電車で行ったのだが、ふだんはもっぱら車移動だ。障がい者に関する活動やアートやドキュメンタリーなどに接するのも嫌いだ。じぶんの病気について、立ち位置にについて、年頃でもあるし、まだ折り合いがつかない部分がたぶんにあるんだろうな。そのうちに向き合う勇気も出てくるだろうから、それまでは放っておく。けれども家からほとんど出ないのと、家族以外との交流がないのが心配だ。外へ出る機会がなければ体力も自然落ちるだろうし、すぐに微熱が出たり吐き気や頭痛がしたりと、免疫力も低下しているのではないか。つれあいは以前から障がい者のアーチェリーとか、乗馬とか、いろいろと誘っているのだがどうもなかなか興味が湧かないらしい。それに、おなじ年頃の友だちがいないのも可哀相な気がする。まあ、いろいろ考えるときりがないが、娘が仕合せそうな顔をしていることだけでいまはオーライとする。あと2年もすれば車の免許が取れる年齢だ。「お父さんやお母さんもあと10年、20年、どれだけ生きているか分からない。おまえもじぶんのスタイルを考えておかなきゃな。電動車椅子を積めるような車があれば、たいていのところはひとりで何とか行けるさ。お父さんやお母さんがいなくなったあとも、おまえはその先何十年も一人で生きていかなきゃならないんだから。」 夕べも夕飯の席でそんなことを言って、思わずつれあいと顔を見合わせた娘から「お父さん、この間もいまとまったくおんなじ話をしたよ」と言われたのだった。たぶん、この先も何十遍も言うと思うよお父さんは。

 

 

 慶応大学の岡野栄之(ひでゆき)教授らのグループは10日、他人のiPS細胞を使って脊髄(せきずい)損傷を治療する臨床研究の計画を大学内の倫理委員会に申請した。2018年前半の手術を目指す。

 計画では、京都大学iPS細胞研究所の「iPS細胞ストック」から供給される細胞を、神経細胞になる「神経前駆細胞」に変化させ、脊髄の損傷部分に注入する。交通事故などで脊髄損傷を起こしてから2〜4週間の患者が対象で、18歳以上の7人に移植し、安全性やまひした手足などを動かす機能の回復具合を調べる。iPS細胞ストックでは、拒絶反応が起きにくい特殊な免疫の型を持つ提供者の血液からiPS細胞をつくり、備蓄している。

 今後、学内の倫理委員会と他の委員会での技術的な審査を経て、厚生労働省で計画が了承されれば、来年前半にも移植を実施したいという。まずは損傷から時間があまり経っていない患者を対象にするが、将来的には慢性期の患者にも広げたい考えだ。

 グループは、脊髄損傷を起こした小型のサルのマーモセットにヒトiPS細胞からつくった細胞を移植し、歩けるまでに回復させることに成功している。

 脊髄損傷は、国内に現在約20万人の患者がおり、毎年新たに5千人がなっているとみられる。リハビリ以外に確立された治療法はなく、岡野教授は「たくさんの患者が待っている。良い細胞を使って、治療につなげられるよう研究をすすめたい」と話す。(福宮智代)

朝日新聞デジタル>記事「iPSで脊髄損傷治療、臨床研究を申請 慶応大」(福宮智代2017年2月10日21時37分)

2017.2.12

 

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 海外旅行なんて若い頃の大昔、しかも往復の格安航空券だけ確保してあとは現地で野となれ花となれのテキトーな旅だったから、旅行会社の窓口なんてすわったことがない。しかもこのJTBのおばちゃん、言っていることが二転三転するし、形式ぶった返答ばかりで肝心の質問になかなか応えてくれない。しかし折角、つれあいと娘が愉しみに来た場であるから、わたしはもう交渉事は任せて途中から席を立ち、別段興味もない旅行パンフなどを手に取ったりしていた。しかし何だね、韓国なんかソウルばかりで、日本に近しい全羅道などの南部は影も形もないんだな。一時間ほどをそこで費やして結局、つれあいが探していたネットでの予約はおなじJTBでも窓口では予約できず、いろいろプランは訊いたけれど当初のネット予約の方が安いということになって予約したのが一昨日の夜。ところが翌日にメールが来て、ログインした画面のメッセージボードに「あんたんとこ、予約してくれたんはええけどパスポートの名前のアルファベット表記、「YOUSUKE」はヘボン式で「YOSUKE」が正しいとちゃうか。間違ってたら飛行機に乗れへんから気いつけたほうがええで」とコメントがあった。それで「すんません、確かに間違えてました。訂正するにはどうしたらいいか、おしえてくれませんか」と返信したところ、「残念やな。うちの予約サイトは修正なんてめんどうなことはしいひんのや。いったん取り消しにして、また予約しなおしてな、兄ちゃん。そのかし、前とおんなじ条件でこんども予約できると思っとったら大間違えやで。チケットっちゅうもんは常に変動してはるからな」 それでもさすがに一日程度でそうそう変わることはないだろうと高をくくっていてその日の夜、取り消しのあとで再予約をしようとおなじ条件を検索したら、なんと一人頭1万円以上も高くなっている。「えー、こんなに高くちゃだめよ。これにさらに空港税とか、食事代、オプション・ツアー代、あれこれと加わるんだから、全然予算オーバー。」とつれあいは悲鳴をあげて、結局、いったん保留となったのだった。わたしは思わず目をほそめて「目線を変えて、アジアの方で探したらもっと安くなるんじゃないの?」と囁いたのだった。 . ※文中の関西弁はわたしの創作なのでたぶん正しくないと思う。

2017.2.17

 

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 2000円の鉄条網一本切っただけで130日間拘留で家族にも面会できず。 トランプの大統領令を連邦地裁が差し止めて無効にしたアメリカのように、多くの刑事法研究の大学教授らが違憲だとし、アムネスティが重大な人権侵害と声明を出している状況で、なんで日本ではそれができないのかがよく分からない。 三権同立おなじ穴のムジナだからか。 すべての立法・司法にたずさわっている連中はもういらねえんじゃねえか。法ではなく別のものを守っているのだから。

2017.2.25

 

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 休日の日曜。朝から大阪の国際美術館でクラナッハ展を見た。じっさいに会場で多くの作品やその解説に触れて、画家個人だけでなく、北方ルネサンスや友人であるルターに代表される宗教改革など、大きな時代の変わり目、それに伴う価値観のゆらぎなどもこの画家に影響を与えたのだろうなと思った。この時代についてもっと調べてみたら、さらに興味が増すことだろう。それにしてもクラナッハは、あぶない。よく浮世絵の鈴木春信にもたとえられる華奢でいてひどく艶っぽい未成熟の少女のような裸体だが、これがじつにくせものだ。何となればそこには禁忌や侵犯、隠蔽、誘惑、堕落、そして死がつまっているからだ。小娘だと思って手を出したら酷い目にあう。森の中でニンフたちの水浴びを偶然見かけただけで鹿に姿を変えられ猟犬に八つ裂きにされてしまうのだから。かれの絵はじっさい、どんな場所に飾られたのか。そんなことを考えた。屋敷の廊下か階段の薄暗がりにさりげなく架けられたその絵は、さしずめ警告書付の淫靡な快楽だ。みんながそれをひそかに愉しんだ。わが眠りをゆめゆめ妨げるな、と野原に寝そべった蠱惑のニンフは宣言する。裸体の女神は両手に掲げた剣と天秤で力と公正を迫る。しかし主はこっそりと人気のない部屋に忍び込んで戯れるのだ。うしろめたさとやむにやまれぬ衝動の板ばさみになりながら。まさに絶頂を迎えようとするその瞬間、絵の中でこちらを見返す冷ややかな視線がとつぜん浮かび上がってくる。かれはおのれが死ぬる存在であることをまざまざと思い知らされて泣く。カーテンに遮られた昼間のしずけさの中のそんな日常の風景。華奢な少女のような肉体をもったクラナッハの女たちは、しかしじっさいに醒めていて、したたかに強い。おのれの胸に短刀を突き立てる瞬間ですらそうなのだから、これはもう男どもには敵うすべもない。ピカソやデュシャンが模倣するのもよくわかる。静謐な死、快楽の美。薄絹のヴェールの向こうに、まるで彼岸の湖面のように妖しい光を放っている。

 

 午後から難波経由で南海本線へ乗り込んだ。堺の手前、七道という小さな駅で降りて、そこから主に紀州街道を、主にキリシタン遺跡をたどりながら堺まであるいていった。沖浦先生の遺作「宣教師ザビエルと被差別民」(筑摩選書)の終盤、ザビエルによってキリシタンになった大阪・堺の豪商、小西立佐(洗礼名・ジョウチン 小西行長の父)が当時「世間から見捨てられた窮民の救済に奔走し」て建てた癩病院が「七道ヶ浜」にあったというさりげない記述を見つけて、堺、七道といったらもしや南海本線の「七道」駅に関連があるのかとあれこれ調べ出したのが、このちいさな旅の出発点だ。わたしの問いにやっとひとつの答えをくれたのがその後Webで探し当てた、かつてわたしが感銘を受けて絶版のため一時は図書館から盗み出そうかとも思った「宿神思想と被差別部落」(明石書店)の著者・水本正人氏による「非人にとっての救いと宗教」という論考だった。少々長いが関連部分を以下に引く。

 

 癩者にとって信じられない出来事が起こった。キリスト教が日本に入ってきたのである。

 天文18年(1549)、イエズス会(カトリック)のザビエルが渡来して、伝道を始めた。イエズス会は、伝道しながら医療活動も行った。特に、弘治元年(1555)に来日したアルメイダは、外科医でもあったから、病院を建てて、病人を治療した。病気を治してもらった者が、キリシタンになっていく。アルメイダは癩者に対して手厚く治療した。

 文禄元年(1592)、癩者救済に格別熱心であったフランシスコ会(カトリックの修道会)が来日したから、癩者にとって、まさに朗報であった。

 癩者が、非人村の者がキリシタンになるのは自然な流れであった。

 非人村の者がキリシタンになった例を挙げる。和歌山城下の場合である。

 

+++++++++++++++++始まり+++++++++++++++++++++++++++

   慶長5年(1600)9月の関ヶ原の戦いで、東軍に付いた浅野幸長が(浅野長政の長子)は加増されて、翌月に甲府府中から紀伊に入り37万石を与えられた。

  幸長は疥癬を患っていた。日本の医者には手に負えなかったようで、フランシスコ会の修道士アンドレスがこれを治した。幸長は修道士に感謝し、彼らのために教会や病院を造らせた。

   幸長は慶長18年(1613)8月に亡くなる。この年の12月に、幕府は全国に向けてキリスト教を禁ずる「禁教令」を出す。幸長の跡を継いだ弟の長晟は、幕府の方針に従って、教会を閉鎖し、キリシタンを弾圧した。

   和歌山城下の(吹上)非人村はキリシタンになっていた。彼等は転ばなかったから、御仕置がなされた。80人余の者が御仕置され、非人村が消滅した。

+++++++++++++++++終わり+++++++++++++++++++++++++++

 

 和歌山の病院は、慶長13年(1608)に建てられ、癩者を治療する癩病院である。癩病院は、豊後の府内・臼杵、京、大坂、堺、広島、長崎、浅草、九州の有馬や五島などにもあった。

 もう一つ例を挙げる。大坂の天王寺垣外である。

 

+++++++++++++++++始まり+++++++++++++++++++++++++++

   四天王寺は、聖徳太子が創建した寺と言われている古い寺である。忍性が療病院と悲田院を復興したことはすでに述べたが、南北朝期には「太子信仰」の拠点として、信仰を集めた。説教「さんせう太夫」「しんとく丸」では、「つし王」「しんとく丸」も四天王寺で再生の契機を得ている。癩者をはじめ乞丐人たちが、再生を求めて四天王寺に集まって来る。自ずと非人(乞食)集落が出来、悲田院の長吏が非人を支配する村となり、それが、文禄3年(1594)に片桐且元が検地を行った際に除地として認められ、天王寺垣外が成立したものと思う。この年、フランシスコ会は大坂に癩病院を建てた。慶長12年(1607)には、大坂に四ヶ所の癩病院があった。フランシスコ会の病人(癩者)救済を契機に、天王寺垣外の非人はキリシタンになったものと思われる。慶長10年(1605)に、大坂では、4000回以上の説教をして来た四天王寺の仏僧がキリスト教に改宗し、260名の者が洗礼を受けている。慶長19年(1614)以降、禁教令の嵐のもとで、「転び」を余儀なくされ、天王寺垣外の長吏をはじめ非人たちが転ぶ。転んだ者と、その類族に対して、その後、厳しい宗門改が行われた。

+++++++++++++++++終わり+++++++++++++++++++++++++++

 

 さらにもう一つ、堺四ヶ所(七堂浜・悲田寺・北十方・湊村)の七堂浜非人村を挙げる。

 

+++++++++++++++++始まり+++++++++++++++++++++++++++

   七堂浜非人村は七道の宗宅寺の境内にあった。七道を古くは、七堂・七度といった。

   その由来は「高渚院の七堂伽藍のあった地、住吉社の神輿を担ぐ人々が七度の垢離をとった地」からきている。

   『耶蘇宗門制禁大全』に「七度ヶ浜癩村の吉利支丹130余人を南蛮に追放す」とある。これは寛永7年(1630)ころのことである。七堂浜非人村の前身は癩村であった。130余人を追放したのだから、癩村はほぼ壊滅したのではないだろうか。新しい七堂浜非人村は癩者が殆どいない非人村になったものと思われる。

  「 1607年のムニョス報告書」によれば、浅野幸長は、帰国の際、大坂や堺の市を通って、両市にある癩患者の「収容所」に寄り、彼等は殆どがキリシタン、彼等を呼んで輿の中から彼等と話し、施物を与えている 。「収容所」は「非人村(癩村)」のことで、七道は紀州街道と熊野街道が交差するところだから、幸長は七度ヶ浜癩村に立ち寄ったものと思う。

+++++++++++++++++終わり+++++++++++++++++++++++++++

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 癩者に対して、宣教師はどのような接し方をしたのか。キリスト教を批判する立場から書かれた『南蛮寺興廃記』に、「南蛮寺(教会)では、洛中・洛外へ人を出し、山野の辻堂、橋の下等至まで尋ね捜し、非人・乞食等の大病・難病等の者を連れて来らせ、風呂に入れて五体を清め、衣服を与えて身体を暖め、療養させる。昨日の乞食が、今日は唐織の衣服を身に纏う。病も自ら心よく回復する者が多い。就中、癩瘡等の難病は南蛮流の外科治療を受け、数ヶ月へずして全快する。『誠の仏・菩薩が、今世に出現して救済し給う』と、近国・他国の風説である」(要約)とある。批判者すら、宣教師の取組を認めざるを得なかったようだ。癩病が治ったと書かれているが、癩病に似た疥癬であろう。

 このような手厚い治療をしてもらった癩者は、まさに宣教師に仏を見たであろう。

 しかし、幕府の禁教令は、癩者の希望を打ち砕いた。多くの癩者が捕まり、転ぶことを拒否して、処刑された。

*************「非人にとっての救いと宗教」引用終了*************

http://www.blhrri.org/old/info/book_guide/kiyou/ronbun/kiyou_0197-01_mizumoto.pdf 

 

 マボロシの七道ヶ浜を探したのだ。七道駅の前には「鉄砲鍛冶射的場跡」の碑が建っている。その解説に、この堺七道浜にかつて鉄砲の試射場がつくられ、それが昭和のはじめまで「鉄砲塚」として残っていたという記述があった。七道駅の西側で見つけたシャッターを下ろしたスナック「七堂濱」の看板が唯一、ここがかつて海であったことを語っている。水本氏の論考で境内に七堂浜非人村があったとされている「宗宅寺」はいまも駅の東側にある。真新しい新築のいでたちでひと気もなく、こっそり裏手の墓地も覗いてみたが古そうな墓石もほとんどない。「宗宅寺」の道向かいには行基が開いたと伝わる千日井という井戸があった。そのままかつての紀州街道に入り、鉄砲鍛冶の屋敷を見て、道は阪堺線の路面電車が走る大通りに変わった。関ヶ原で石田三成と共に戦い敗れて京都の六条河原で斬首されたキリシタン大名の小西行長の屋敷跡、朱印船貿易商であった西ルイスの邸宅跡と墓のある本受寺、堺の豪商でザビエルと会って洗礼を受けた日比屋了慶の屋敷跡と伝わるザビエル公園、クルス(十字架)紋の入った手水鉢がある開口(あぐち)神社などを訪ね、FB友で堺が実家の勺 禰子さんから急遽メッセージで教えてもらった「ちく満」でめずらしいせいろ蕎麦の遅い昼飯を食い、千利休の屋敷跡でボランティアさんの解説を聞き、教えられて向かいにある利晶の杜(利休と与謝野晶子に関する展示施設)に入ったのが3時半頃だ。二階建ての展示室をじっくりと見て、小さな図書スペースのお姉さんにむかしの堺の海岸線が分かる絵図なんかないですかねと訊いて微笑みでかわされ、下りてきたロビーのところで先ほどのボランティア氏に再会し、じつは七道ヶ浜の具体的な場所を知りたいのだと話しながらふと足元を見たら、足元の床一面に複写された文久3年(1863年)の絵地図のすみにあのスナックの看板とおなじ「七堂濱」の文字を見つけて、これだこれだと思わず大きな声をあげた。

 帰宅して「堺 絵図」で検索をしたところ、「堺市立図書館 地域資料デジタルアーカイブ」のサイトで堺市の年代の異なる何種類かの絵図を拡大して見れるのを知った。そのひとつひとつを舐めるように見ていって、ついに宝永1年(1704年)―――関ヶ原の100年後だ―――の絵図に、七堂濱の海岸近くの「乞食」と描かれた場所を見つけた。わたしが利晶の杜のロビーで見た文久3年(1863年)の絵地図では「ソウケン(宗見寺)」「ソウタク(宗宅寺)」と現在と同じ並びで記されている場所が、宝永1年の絵図では「泉見寺」「千日寺」とあり、その「千日寺(後の宗宅寺)」の敷地と重なるように海岸寄りに「乞食」と記されたエリアがある。これが水本氏が書かれていた宗宅寺の境内にあった「七堂浜非人村」の痕跡と思ってほぼ間違いないだろう。その場所が後に「鉄砲鍛冶射的場」となり、海も埋め立てられて海岸線もずっと後退した。現在のちょうど七道駅あたりに小西立佐らキリシタンたちが建てた癩病院があったのではないか。

 

 堺の癩病院は七道ヶ浜にあったと推定されている。アルメイダも堺に来ているから、その病院を訪れて、医者としていろいろアドバイスを与えたであろう。この病院は迫害が始まってからも存続したようだが、詳しいことはわからない。小西立佐は死際の遺言で、癩病院の経営を長男の如清に依頼したが、その如清もしばらくして死んだので、堺の信徒たちが組織した信心会が病人たちの面倒をみた。

 堺を訪れたフロイスは、「この病院では設立以来、すでに50名以上が改宗し、キリシタンとして死んでいった。仏教徒はこの種の病人を相手にしないのが常であったから、懸命に世話をするキリシタンの姿を見て、彼らは驚きかつ感心した」と書いている(フロイス「日本史3」1976年・中央公論社)。

沖浦和光「宣教師ザビエルと被差別部落」(筑摩選書)

 

 宗宅寺から七道駅側、スーパー万代・七道店の前の整備された水路のはしにわたしは立っている。駅が、鉄路が、町並みがまぼろしのように消えていって、波の音が聞こえる。潮の匂いもする。素朴な茅葺の堂が建つそのむこうに海がゆったりと広がり、きらきらと輝いている。その光のなかに、必死に生きようとし、他人を救おうとしてみずからも救われる、そんな人々の交歓が立ち現れる。

 

▼「非人にとっての救いと宗教」水本正人(部落解放研究 No.197 2013.3)
http://www.blhrri.org/old/info/book_guide/kiyou/ronbun/kiyou_0197-01_mizumoto.pdf

▼水本 正人「宿神(しゅくじん)思想と被差別部落  被差別民がなぜ祭礼・門付にかかわるのか」(明石書店)
http://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784750308487

▼堺市立図書館 地域資料デジタルアーカイブ>絵図
https://www.lib-sakai.jp/kyoudo/archive/06_ezu/ezu.html

▼大阪の隠れキリシタン
http://tenjounoao.waterblue.ws/travel/osaka1.html

▼たぶん、日本で最もユニークな老舗蕎麦屋 ちく満(ちくま)@大阪府堺市
http://tetsuwanco.exblog.jp/12190809/

▼七道さんぽ
http://toursakai.jp/machi/2011/02/24_57.html

▼堺・七道の歴史〜柳原吉兵衛と在日朝鮮人
http://blog.canpan.info/key-j/archive/139

▼キリシタンゆかりの地をたずねて
http://www.pauline.or.jp/kirishitanland/kirishitan_List.php

▼かん袋のくるみ餅
http://macaro-ni.jp/30002

▼さかい利晶の杜
www.sakai-rishonomori.com/ 

2017.2.27

 

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 Shuji Yumeya さんがおしえてくれた鈴木 良(奈良女子大学文学部付属高等学校、立命館大学産業社会学部教授を歴任)先生の退任の講演。とてもいい話なのでここに引いておく。

  しかしそれを一方的に学生の皆さんに語ったところで意味がない。皆さんがみずからつかむ方法はないかと考えてきました。今年の社会史Tの課題は,二つレポートを出さないといけない。まず「聞き書きを作る」。75歳程度の人の聞き書きをする。これはなかなか面白かったらしい。 そこでわかったのは,学生諸君が老人から聞き取る言葉を持っていない。そうした経験をもっていない。日常的につきあっていないからでしょう。これは大変なことだと思いまして,皆さんに聞き書きを作ってもらいました。自分のおじいさん,おばあさんに聞いたのが多いのですが,一つずつじっくり読みました。600人分ありましたので,やっと読み終わったところです。 またすぐに次のレポートが届くでしょう。2つ目のテーマは「洛中を歩く」です。京都市中を歩いて何でもいいからおかしいなと思ったことを調べてきなさい。参考文献も何も教えない。聞き書きの方法を使って勉強する。難しいが,やったら面白い課題だと思っています。 みずから発見すること,これにまさるよろこびはないのです。マニュアルはありません。屋根ばかり見る。屋根の上に鍾馗さんが乗っている。店の看板ばかり見る。町並みをスケッチしてくる。 とくに裏店ばかりみる。西陣の長屋ばかり観察する。あるいは地面ばかり見る。マンホールの蓋でどれが一番古いか。マンホールだけでも歴史を感じ取ることが出来る。誰もいない細い路次を歩いてもいい。奥まったところにあるお地蔵さんに目をつける。そして老人に話を聞く。 しかし年寄りに聞くと言っても,老人が語らないことがあります。人々は語りにくいことを持っている。それは主に戦争の記憶のようです。つらいことは人々は語らないものです。戦争の記憶を得々としゃべる人は疑わしい。レポートのなかに「戦争の話になると,おじいさんの話がピタッと止まってしまった。長い沈黙があった」。その意味を考えているところがいいなと思いました。 人々の語る言葉の重さを発見する―これが歴史の発見です。どうして沈黙が生まれるのか。それが解釈できるようになると,聞き書きはかなりの経験を積んだことになります。それを生かして今度は町を歩く。そして皆さんが勉強したい課題をみつけてほしい。このやり方をとれば,外国に行っても同じようなやり方ができる。面白さはどんどん広がるのです。 こういうやり方に私はどのようにして気がついたのでしょうか。それは私の体験によります。私が今まで書いたもの,『歴史の楽しさ―地域を歩く』などを読んでいただければわかります。歴史それ自体が楽しいはずはない。歴史の楽しさというのは,歴史を発見することです。そして出来ることならば,私たちもまた,微力ではあれ歴史を作る側に身を置きたいと思っている。それが歴史の楽しさという意味なのです。そんなことはむだなことかもわからない。でも私はそういうふうに考えたいと思っています。

 まだまだ良い話がたくさん出てくる。とても全部は引ききれないので、元のPDFをぜひ読んでいただきたい。わたしの町の食肉センターの話も出てくる。

2017.2.27

 

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 北陸のレオパレス。地酒の酔いを振りほどくかのように、堀田善衛の「時間」を読みはじめる。

 おそろしく基本的な時代だ、いまは。人間自体とひとしく、あらゆる価値や道徳が素裸にされてぎゅうぎゅうの目に遭わされている。ひょっとすると、いまいちばん苦しんでいるもの、苦しめられているものは、人間であるよりも、むしろ道徳というものなのかも知れない。

 わたしは先日、街で見た光景を思い出す。難民らしい、綿入りの服に着ぶくれた屍体がころがっていた。厚い綿入り服から露出しているのは、顔、咽喉、手首、指、足首の一部、とこれだけだった。咽喉はそのうち、最も軟かい部分である。そこに、白い、一層軟かそうなまるいものがとりついていた。猫であった。  猫が、屍体の最も軟かい部分を噛み破り、食っていたのだ。  かっとなってわたしは猫を追った。  猫は五米ほど先へ飛び去り、そこにまたうずくまって口許、咽喉、前足などを紅に彩った血をなめはじめた。  わたしは、擬っとその猫を見詰めていた。  血は次第に拭い去られ、五分もたたぬうちに、猫はもとの純白にかえった。  あれがもし猫ではなくて、人間だったらどうだろう。そんなことは考えられぬという人があろう。そう云いきれる人、信じられる人は幸福であろう。そういう人は、そういう人で、それでよろしい。わたしは別に異を立てようとは思わぬ。  しかし、もしあれが猫ではなくて、人間だったとしたら、その人は『もとの純白にかえる』ことは、出来ない筈だ。人間だけが不可逆なのだ。人間だけがとりかえしのつかない行為をなしうるのだ。動物にも、或は『失敗(しま)った』という感情乃至恐怖はありうるかもしれぬ。しかしとりかえしがつかぬという評価判断は、ない筈である。われわれのあらゆる行為がとりかえしのつかぬものであるからこそ、われわれは歴史をもちうるのであろう。

 何百人という人が死んでいる−ーーしかし何という無意味な言葉だろう。数は観念を消してしまうのかも知れない。この事実を、黒い眼差しで見てはならない。また、これほどの人間の死を必要とし不可逆的な手段となしうべき目的が存在しうると考えてはならぬ。死んだのは、そしてこれからまだまだ死ぬのは、何万人ではない。一人一人が死んだのだ。一人一人の死が、何万にのぼったのだ。何万と一人一人。この二つの数え方のあいだには、戦争と平和ほどの差異が、新聞記事と文学ほどの差がある…」 「何万人、何十万人の不幸には、堪える方法がない。だから結局は堪えることが出来るということになる。小さな不幸には堪えることが出来ず、大きな不幸には堪える法がない。人間は幸福か。

 生命にみちみちた虚無。子宮のなかでやすらい、そこから創造されて来る筈だった、まだ名をもたぬ生命。それもまた失われた。彼らは岩と金属の冥府を歩いているか、それとも宇宙に於ける創造を了え、遂に光りを断った暗黒星雲のように、くらい宇宙のなかに存在している・・・・。そこから彼らが呼びかけるーーーきみよ、よみがえれ、と。

 この夜の後、わたしは幾度か惨憺たるものを見て来た。  十数人に姦淫されて起ち走ることのできなくなった少婦も見た。  膝まずき、手を合わせ、神も仏も絶対にその祈りを聞きとどけねば巳まぬ、完璧の祈りの姿勢をとった人々を、何十人となく見た。  砲弾に吹きとばされ裂かれた樹木の、太く鋭利な枝に、裸体にされて突き刺された人も見た。人も樹木も二重に殺されていた。  断首、断手、断肢。  野犬が裸の屍を食らうときには、必らず先ず睾丸を食らい、それから腹部に及ぶ。人間もまた、裸の屍をつつく場合には、まず性器を、ついで腹を切り裂く。  犬や猫は、食っての後に、行くべきみちを知っている。けれども、人間は、殺しての後に行くべきみちを知らぬ。もしあるとすれば再び殺すみちを行くのみ。」 「絶望の根は深く文化の根源にまで下りかかっている。しかし、赤い火の玉で刃を灼くという若者もいるのだ。

堀田善衛「時間」(岩波現代文庫)

 いつものように風呂場で『時間』を数頁めくってから、出てきてズボンの外れたボタンを幸いキャリーケースに入っていた簡易の裁縫キットで縫い付ける。 『時間』が金属のように重く冷たく麦の穂のように柔らかだとしたら、わたしの日々は至って単純で平板だ。 しかしわたしのこころは、ときに切り揉みをして直下する。またヘドロのごとき深みからはい上がる。いずこへ。

 古代ギリシアでは、過去と現在が前方にあるものであり、したがって見ることができるものであり、見ることのできない未来は、背後にあるものである、と考えられていたーーーという、ホメロスの『オディッセイ』の訳注をみつけて、作家は言ったものだ。「これをもう少し敷衍すれば、われわれはすべて背中から未来へ入って行く、ということになるであろう」(『未来からの挨拶』)。言うなれば、未来は背後(過去)にあるのだから、可視的過去と現在の実相をみぬいてこそ、不可視の未来のイメージをつかむことができる、というわけだ。あったものがなかったと改ざんされた時間では、背中からおずおずと未来に入っていっても、なにもみえないはずである。戦慄せざるをえない。 辺見庸「堀田善衛『時間』解説」

2017.3.1〜15

 

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 二週間ぶりに半日休みをもらい、同僚のKさんの車を借りて白山市の一向一揆の城跡を訪ねた。ところがメインの鳥越城跡は途中からまだ足膝まである積雪で断念。道の駅裏手の砦ほどの低い二曲城跡の杉林をしばらくほっつき歩いた。ここもまた自由を夢見た多数の信徒たちが戦い、殺された場所だ。それにしても空気が異なる。雪が溶けて谷筋をちろちろと流れる水の音。濡れて湿った枯れ草や枝の馥郁とした匂い。樹の間を侵犯する青空。尾根筋の妙に森とした誘い。こうしたものすべてが心地好い。眠くなってくる。

2017.3.17

 

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 見つけた。小松駅より北陸本線を一駅南、長閑な粟津駅前からほど近い路地にある中華「志いぼ」のラーメン・チャーハン・セット、千円。もう70を超えているのではないかと思う老夫婦でやっている店のラーメンもチャーハンも、素朴だけれど、もう何十年も地元の人々の舌を腹を心を堅実に満たしてきた歴史的な深みをたたえている。これこそが、人がこころを込めてつくった料理なんだな。ラーメンの汁をすするたびに知れず「ああ」と息が吐き出され、おこげのついたぱらぱらのチャーハンを頬張るたびに幸福をかみ締める。北陸にいる間、あと何回、来れるだろうか。

 月曜休業。営業時間 12:00〜14:00 16:30〜19:00 (たぶん)

▼志いぼ https://tabelog.com/ishikawa/A1702/A170202/17001616/ 

2017.3.19

 

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 白山(はくさん)を見て、シラヤマに見られている、というのはただの言葉遊びだろうか。でも今朝、ふとそんなことを思った。 北陸はめんたんぴんの歌じゃあないけど、薄曇りの日が多い。白山の白い頂きが見えるのは、意外と少ない。だからきれいに白山の姿が見れる日は、何かいいことか、逆にとても不吉なことのどちらかが起きるような気がしてしまう。 それにしても白山に限らず、視界のほぼぐるりを取り囲む城壁のような峰峰を抱いたこの大きな景色は格別だ。スマホのカメラくらいじゃ、何の足しにもならない。人の眼にはプラス・アルファがある。こういうところで生まれ育った人は、こんなある種の「景色のDNA」を有しているのかも知れない、なぞと空想してしまう。 人の眼は対象を見ながら、対象から見られていることも同時に感じている。それがカメラとの違いだ。 白山(はくさん)を見て、シラヤマに見られる。

2017.4.2

 

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 40日ぶりのわが家へ。雪の季節に来て、桜の季節にかえる。 本屋でずっと迷っていたが、結局買ってしまった。北國新聞社刊の那谷寺1300年記念本。 駅近くの交流館で曳山祭のガイダンスを受けたら、説明してくれたのが現地採用したSさんの奥さんだった。小松の町も狭いもんだ。 アルバのカレーを食べて、サンダーバードに乗り込んだ。 今日は白山もやけにくっきり見える。

 電車から遠くながめる若草山は墳墓のようだった。佐保川沿いの桜が満開だった。 書斎のテーブルの上には留守の間に届いた本やCDが積まれていた。つれあいは美容院で、階下から下りてきた娘が「お父さんはいないときでも荷物が届くってお母さんが言ってたよ」と。 帰りのバッグにひそませた九谷焼のバースデー・プレゼントで許してくれるかな。

2017.4.10

 

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 近鉄郡山駅裏のバス・ターミナルにある奈良交通の窓口につれあいと二人で、JR奈良駅ー関西空港間のリムジン・バスのチケットを買いに行った。わたしはロータリー脇に止めた車で待ち、つれあいが買いに行ったのだが、「障がい者割引は往復が買えないと言われた」と、大人一人分の往復チケット(片道2050円、往復割引で3900円)、それから障がい者割引の本人と介護人二人分の片道チケット(一般の半額1030円×2名)を手にもどってきた。「なんで障がい者割引は往復が買えないのか」とわたしが訊ね、つれあいは「わからない。理由は訊かなかった」と言うので、「じゃ、訊いてくるわ」とこんどはわたしが窓口に行った。

 窓口の女性は「取り扱いができないので」と鼻から素っ気ない。それはなぜか? 説明して欲しいと粘ると「訊いてみます」とどこかへ電話をかけて、結局おなじ説明をまたくり返す。「あのですね、家族三人でおなじバスを利用するのに、一人だけ往復切符で、他の二人が片道切符だったら、結局また帰りに窓口を探して買いに行かなきゃならないわけでしょ。なぜ一般の人には往復切符を出せて、障がい者割引だと出せないか、納得できる説明を聞きたい」と再度言うと、「説明できる人がいまお昼(ランチ)に行っているんで」なぞと言う。「それはそっちの事情で、こっちには関係ないことでしょ」と言うと、結局、また別の電話にかけて、ああだこうだと話している。面倒くさいからもうその電話に出させて、直接話をするから、と受話器を貸してもらった。乗合バス事業部のイコマさんという男性が出た。

 まず障がい者割引で往復切符が出せない理由として、イコマさんは「割引が二重になるからだ」とおっしゃる。障がい者の割引と、通常の往復切符分の割引(片道2050円が往復だと3900円で200円安い)である。そして、ここ郡山の窓口では一般の往復割引の切符か、一般の片道切符か、そして障がい者割引の片道切符しか取り扱いがなく、帰り分の片道切符は「向こう(関西空港)の窓口でしか発行できない」とおっしゃる。加えて障がい者割引の切符については奈良交通だけでなく、他の会社のバスも混じっているので奈良交通だけで(切符の仕様を)勝手に変えることはできない、とおっしゃる。

「帰りの切符が向こうの窓口でしか発行できないのは分かりました。でも一般の人は往復切符ならこっちで買える。往復切符というのは多少の割引も魅力なわけですが、こうやって窓口に並んだりしてもういちど切符を買いに行かなくていい利便もあるわけですよね。その利便が一般のひとにはあって、障がい者割引を利用する人にはない、というのはどうなんでしょう。それに「割引が二重」だと言うんなら、こちらもすでに障がい者割引で半額にしてもらっているわけですから、別段それ以上の往復割引は要らないですよ。往復切符は発行できるわけだから、単純に障がい者割引の片道分×2でその往復切符を出してもらうわけにはいかないんですか?」

 イコマさんにとってはどうも「二重に割引するような、そんな都合のいい切符などあるわけねえだろ」という思いが頭の中にあるらしくて、それがハッキリと分かったのはわたしがふたたび、「家族三人でバスに乗るのに、往復切符を持っている者と持っていない者とがいたら、結局また窓口へ買いに行かなきゃならない」とぼやいたことに対して「障がい者割引で半額にしているんだから、そのくらいは我慢してくれよと。わたしとしてはそういう気持ちはある」と答えたときであった。「それは奈良交通としての意見ですか。あなたの個人的な意見ですか」と訊くと、「わたしの個人的な気持ちだ」と言う。

 その後も不毛な議論は続いて延べ小一時間。無理だ無理だと言うイコマさんに対して、わたしも「あなたの説明では納得できない」と繰り返し、最終的に根負けしたイコマさんが「分かりました。わたしにはあなたを納得させられる説明ができないので、今回だけ特別に往復切符を出させて頂きます。障がい者割引の片道分×2で、その代わり切符は一般の人とおなじものをお渡しします」 「今回だけ特別? 納得ができなかったら次回もおんなじことをわたしは言いますよ。それより会社として今後、改善してもらえるようお願いをしたいです」 そう言うと、「まあ、そういう話があったと、いちおう言っておきますけどね・・」と、おまえ言う気もないだろ、そもそも。電話を切って追加分のお金を清算すると、窓口の女性はあからさまにもううんざりだという顔をしている。チケットを受け取って「いろいろ手間をかけました」と挨拶しても、ろくに返事も返さない。

 そもそも移動したりするのが大変な人間が障がい者手帳を持っているわけで、割引してやっているんだからいちいち窓口に行くくらいは我慢しろという、そういう認識自体がすでに間違っているんじゃないのか、奈良交通。企業レベルが知れるぞ。ちなみにJRは「片道ですか? 往復ですか?」と訊いてくれるよ。一時間も貴重な時間を使ったけれど、結局、障がい者割引の片道分×2で往復切符を出せない理由が、わたしはいまも分からない。

2017.4.11

 

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 グアムは1521年、ポルトガルの探検家マゼランによって「発見」された。マゼラン側の記録によれば船の装備品を盗まれたことに腹を立てたかれらは、島民を殺害し多くの家屋を焼き払い、島を Islas de los Ladrones (泥棒諸島)と名づけたという(ザビエルが日本へ来る30年ほど前のことだ)。その後、島はスペインの植民地とされ、イエズス会の宣教師たちが島民たちの伝統的な習慣や文化を禁じたために不満が噴き出して争いに発展し、反抗的な村々はことごとく焼き払われて10万人いたという島の人口が一時は5千人にまで激減したとされる。1898年、アメリカ・スペイン戦争によってグアムはアメリカへ譲渡される。1941年12月、真珠湾攻撃から5時間後に開始された攻撃によって日本軍が島を占領。「大宮島」と名づけて、日本人の兵士や行政官、民間人の他に、強制連行された朝鮮半島出身者、琉球出身の契約労働者、近在の島の日本語を話す住民たちも移住し、島内には15の国民学校が建てられて島民の日本化教育を行い、神社や交番や料亭、慰安所等がつくられ、稲作水田が強制された。1944年8月、再上陸したアメリカ軍によってグアムはふたたびアメリカ領となった。約2万人に及ぶ日本軍の兵士が死に、アメリカ軍側も2千人以上の死者を出し、さらに日本側によって虐殺された島民も700人に及んだ(ちなみに上記約2万人の日本軍兵士の遺骨のほとんどは不明のままで、いまも島内全域に眠っている)。

 戦後、アメリカの巨大な軍事基地が置かれたグアムは1960年代のなかば頃まで外国人はもちろん、一般の米国人でさえ入島が厳しく制限された「立入り禁止」の孤島だった。しかし1962年にこの入島制限が解除されると、1964年の日本の海外渡航自由化とも重なり、日本人による慰霊団が少しづつ増え始めた。新設されたグアム政府観光局は1967年頃から日本のメディア取材を積極的に招致し、それに伴ってテレビ番組(兼高かおるの世界の旅)や水着のポスター(東レの水着キャンペーン)、テレビドラマと挿入歌(ザ・ガードマン、藤巻潤「恋のグアム」)、若大将シリーズの映画(「ブラボー! 若大将」、「グアム島珍道中」)などによって「青い海、白い砂」のあたらしいグアムのイメージが大量に日本に流れ始めた。そこへ1960年代には日本中の3組に1組は「南国の楽園・宮崎県」を訪ねたという新婚旅行のカップルたちがグアムへ押し寄せた。それに呼応するかのように1968年のフジタを皮切りに日系ホテルがタモン湾沿いに次々と建設されていった。1970年に従来機の倍近い400人を運ぶことができるジャンボ・ジェット機が登場、さらに1972年のオイル・ショックでこのジャンボの空席を埋めるために団体割引などができ、さらなる運賃の低廉化と海外旅行の大衆化がすすんだ。しかし若大将シリーズ「ブラボー! 若大将」がグアムで撮影された1969年には、ロケ地から数キロ先のジャングルでは、いまだ日本兵の横井庄一が必死に「大宮島」を生きていた。そして1970年代のグアム新婚旅行のパッケージは主に有史以前の遺跡やスペイン統治時代の旧跡で構成され、すでに「「大宮島」時代の記憶も、ベトナムで凄惨な戦闘を続けていた米軍の現状も、その島で生活しているグアムの人々の存在も、きれいに排除されていた」(山口誠「グアムと日本人」岩波新書)のだった。

  グアムには先住民のチャモロ人が住んでいる。彼らは数千年の歴史を持ち、高齢者がいる家庭では、英語と併用して固有のチャモロ語が日常的に使われている。

 島の総人口は約17万人(2006年)。そのうち約一割が米軍とその関係者、約四割がチャモロ人、残りの五割が米国本土やアジアなどから来た移住者で構成されている。住民の十人に一人という米軍関係者の多さと、半数を割り込んだ先住民の少なさが、際立っている。

 島の面積は約549平方キロで、日本の淡路島とはぼ同じ大きさだ。米軍基地が島の土地の約三割を占めている一方で、日本人が遊ぶタモン湾のホテル地区は、島の一%にも満たない。それでもダモン湾には20を超える大型ホテルが建ち並び、米軍基地に負けないほど大量の水と電力を日々、消費している。

 そのグアムでは、断水が頻繁に起こる。給水施投の近代化が遅れている同島では、とくに日本人が多くやってくるお盆や正月になると、リゾート・ホテルでの水の需要が増えて水圧が下がるため、米軍基地とホテル地区の外に住む一般家庭では水が出にくくなるという。

 さらに数年に一度は大型台風が上陸し、島中の電線を破壊するため、その度に深刻な長期停電が起こる。停電すると水をくみ上げる電力ポンプも止まるため、断水も同時に発生する。

 摂氏35度を超える熱帯の島で、テレビやパソコンはもちろん、冷蔵庫やエアコンも使えず、水も出ない状態が、数週間も、ときに数か月も続く。停電が長引けば病気になる人が増え、死者さえも出るという。

 「そんな状態が続くと、ほんとうに頭がおかしくなりそうになるよ」とグアムに住む知人は、苦笑しながら筆者に教えてくれた。

 一方で、タモン湾のホテル地区には、停電も断水もない。島経済の約七割を稼ぎ出す同地区だけは優先的にインフラが塵傭されているうえに、自前の臨時発電施役を持つホテルや免税店も多いからだ。東京ディズニー・リゾートとはぼ同じサイズのホテル地区だけは、別世界である。

(山口誠「グアムと日本人」岩波新書)

 

 便はティー・ウェイ航空。韓国人のスチュワーデスたちはどうしてマッチ棒のように細くて、しかも美人ばかりなんだろう。昼前に関西空港を発ち、夕方のグアム国際空港へ無事到着した。ちなみにこの空港は1941年の日米開戦後に日本海軍の飛行場として建設されたものだ。空港ではそれぞれ娘のために車椅子を借りたので、チケットや検査などすべてにおいて優先してくれて待ち時間はとても少なかった。グアムでも日本人のスタッフが親切にホテルのタクシーまで手配してくれた。まだ若い彼女は訊くと、奈良の橿原が実家だというのでびっくり。タクシーですんなりタモン湾沿いのアウトリガー・ホテルへ着いた。部屋は16階のオーシャン・フロント。「オーシャン・ヴュー」はベランダに出て横を向くと海が見えるが、「オーシャン・フロント」は真正面、視界のほぼぜんぶが海だ。もちろん値段もぐんと高くなるわけだが、「もし娘の体調が悪くて部屋で過ごすことになっても愉しめるように」という母の涙ぐましい配慮による。もともと海外というのは、娘が中学のときに予定していてパスポートも取ったニュージーランドの修学旅行がもろもろのアクシデントで行けなくなり(そのためにわたしは学校側と大喧嘩をした)、その修学旅行代わりに、というこれも母の涙ぐましい心遣いによる。しばらく部屋からの景色に歓声をあげて、旅装を解いてから、娘のまず一番目のリクエストである「本物の銃を撃ってみたい」をやりにホテルを出た。ホテルに直結したショッピング・モールを抜けて、ひろい坂道の、いかにもアメリカンなストリートに立って、ああ、巨大なUSJやディズニー・ランドのような街だな、と理解した。空港からわずか10分程度。日本語の通じる高層ホテル、ジュエリーやウォッチ、ブランド品が並ぶショッピング街や飲食店街。循環バスに乗って行く先もおなじような「つくられた消費のための街」だ。そして目の前に広がる果てしなく青い海と遠浅の白いビーチ、ウォーター・スライダー付きのプール。このグアムの土地のわずか1%の「楽園」で数日を過ごして、空港の免税店でお土産やブランド品をたっぷり買って帰国すれば、グアムはまさに巨大なUSJやディズニー・ランドとなんら変わらないだろう。あまりにもすべてが当てはまりすぎていて、逆にそのことに驚いているじぶんがいる。

 わたしが日本を出国したのはじつに二十数年ぶりのことだ。はじめて外国へ行ったのは20代の頃、友人と二人で出かけていったインドだったが、空港からおんぼろのタクシーに乗ってたどり着いたデリーの町は、のっけからものすごいインパクトだった。土ぼこりと熱気と人いきれと、そして強烈なニンゲンの存在感が足をすくませた。あの人混みの中へはとても入っていけない、と思った。それから一週間はインドという町に人に揉みに揉まれた。毎日へろへろになったが、余計な虚飾の皮をばりばりとひん剥かれていくような爽快さもあって、やがて少しづつ慣れてきた頃には怪しげなクルタに身を包み、サラベーション・アーミーのパイプ・ベッドの安宿が似合うようないっぱしのバック・パッカーになっていた。肢体不自由のものもらいも見た。日本へ連れて帰りたいくらいに可愛い顔をした路上生活の子どももいた。川岸に流れ着いた赤ん坊の死体も見た。こちらの心の奥まで射抜くような目をした行者にも会った。一ヵ月後に日本へ戻ってきたとき、なんてこの国の空気は風景は薄っぺらなんだろうと思った。あのときの感覚はいまもはっきり覚えている。あれがあったから、おれはこの国のレールに乗ることが耐えがたくなっちまったんだな。閑話休題。つまりわたしにとって、旅行会社のカウンターにひろげられたようなパンフレットに乗っているグアムとは、率直に言って、糞のようなものだ。もともと反りが合わない。で、わたしはわたしの見たいグアムを見ることにした。かれらが見せてくれるグアムではなく。

 ウエスタン フロンティア ヴィレッジはホテル前のストリートをほんの数百メートルのぼったあたりにある、日本人経営者による実弾射撃場だ。ちなみにアウトリガー・ホテルを選んだのは立地が良いからで、「立地が良い」というのは「娘の足でも何とか歩ける範囲内にたいていのものが揃っている」という意味である。ホテルでも車椅子を貸してもらって、滞在中はホテル外にも自由に持ち出して使ってくれて構わないということだったが、車椅子自体がやはり白人向けなのかがっちりした重いもので、加えてホテル前の道が坂道の途中でアップダウンもきつかったので結局、外ではほとんど使わなかった。ふだん使っているモンベル購入のトレッキング・スティックが活躍した。実弾射撃は娘に言わせると「銃を撃つシーンを書くときの参考に、実際に体験してみたかった」というもの。予約なしで、夜遅くまでやっている。当初は娘だけと思っていたが、実際に目の前にしてみたら、こんな機会もそうそうないだろうからとわたしもちょっと欲が出てきた。娘は反動の少ない22口径のセミ・オート・ピストル24発。わたしは38口径 (回転式) 12発 + 44口径 (回転式) 12発 + 45口径(セミオートピストル) 6 発。二人で85ドルは高いのか安いのか、比較するものがないので分からん。じっさいに本物の殺傷能力のある銃を撃ってみて、まあ、こんなものか、という程度の感想しかない。銃でなくとも釜でもロープでも何でも人を殺すことはできる。ひとつ分かったのは、よくアメリカ映画の中で主人公が片手で何発も連射するシーンがあるが、あれはどうも嘘くさいというものだ。反動でとても狙えたものではない。わたしたちが終わる頃にかなり酔っ払った赤ら顔のおやじが来て、「酒を飲んでいる人は危ないから駄目だ」と断られていた。「おれが撃つんじゃねえ。おれは金を払うだけ」とその日本人の男は連れてきたこちらはシラフのおばちゃん連中の支払いだけ済ませて、一人ふらふらと帰っていった。夕飯はほんとうは翌朝食べに来る予定だった射撃場の並びにある Eggs'n Things。もともとハワイで有名なパン・ケーキ店らしい。早朝7時の開店から列が並ぶらしいが、このときは比較的空いていた。わたしはチャモロ風ロコモコ、つれあいはほうれん草のオムレツ、娘はエッグ&ソーセージ。そして食後に待望のストロベリー・パン・ケーキ。だいたい一品13〜15ドルするが、こういうときはいちいち日本円に換算してはいけないと思う。料理は全般的においしかった。店員の愛想もいい。この店は見た目だけれど、働いている店員はほとんどがフィリピン人のようだ。前述の「日本人とグアム」によれば、2007年のデータで約17万人のグアムの人口のうち、1割が米軍の将兵とその家族。残り9割の内訳は、先住民のチャモロ人35%、フィリピン人30%、米国系白人とグアム周辺の島からの移民が各10%、その他(日本、中国、韓国などアジア系が多い)が合計15%だという。

 グアム経済の二本柱の一つである米軍基地産業がチャモロ人の独断場であるのに対して、もう一つのタモン湾の観光産業は、少数の東アジア系および米国白人系従業員と多数のフィリピン人によって占められている、

 既述のようにグアムの観光産業は、半径1キロほどの小さなタモン湾に集中している。その多くはグアム住民ではなく、日本や香港などの島外資本が設立した企業によって所有され、経営されている。そのため、経営に関わる高賃金のホワイト・カラーの仕事は経営母体の企業に雇われた日本人や中国人や白人系米国人などが占め、低い賃金しか与えられない客室清掃や調理などのブルー・カラーの仕事はフィリピン人が占めている。

 観光産業に従事するチャモロ人の数は、決して多くない。彼らはフロントや館内の店舗など目立つ場所に、まるで現地住民に対する言い訳のように雇われている。チャモロ人の観光産業の雇用者に占める割合はグアム人口比率の35%よりも格段に低い。ある日系ホテルでは、チャモロ人従業員は全体の1割にも満たないという。

 米国市民権を持つため、法で定められた最低賃金を保証せねばならないチャモロ人を雇用するよりも、米国市民権を持たない「もぐり」のフィリピン人や他の島からの移民を法定の最低賃金よりさらに厳しい条件で大量に雇うことで、ホテルをはじめとする観光産業は経営コストを圧縮している。そうした「企業努力」の結果、日本人観光者に「3泊4日で2万9800円」などの国内旅行よりも格安な海外旅行商品を提供しているのである。

 ホテルの階下にあるABCストアで缶ビールと明日の朝食用のパンなどを買って部屋へもどった。缶ビールは350ml缶が2ドルくらい。日本とほとんど変わらない。サンドイッチなどは、あまりおいしそうにも見えないのが6ドル近くもして買う気にならない。やはり観光客向けか、全体的に値段が高いように思う。つれあいと娘が順番にシャワーを浴びたりしている間に、わたしはふと思いついて、夜のビーチを散歩してくることにした。フロント階の下のP階で降りると、そのままコインランドリー、フィットネスなどを横目に狭い廊下を抜けて、ホテル内のプールからその先のビーチへそのまま出れる。すでに夜の22時を越えていたろうか、ビーチにはわずかなカップルと家族たちがちらばっているだけだった。しばらくパウダー・サンドとよばれるきめの細やかな砂浜を足裏に感じながら歩いていくと、ちょうどハイアット・リージェンシー・ホテルの前あたり、結婚式場の教会のような建物の正面に出来損ないのコンクリートの基礎のようなトーチカを見つけた。迫り来る米軍の上陸に備えて日本軍が構築したものの残骸だ。トーチカがあるということは必死の形相でここに籠もっていた兵士がいたのだろう。あるいはその兵士はここで死んだのかも知れない。そのとき、青い水平線には無数の黒い艦影がぎっしりと並んでいたことだろう。わたしはトーチカの中へ入ってみた。そして銃座からしばらくしずかなタモン湾を眺めた。一瞬、空間が大きく揺らいだような気がした。もうひとつの異なる空間がここにあって、恰も地層がずれてべつの地層とつながりかけたような、そんな揺らぎだ。グアムはすごいところだ、と思った。ここは島まるごとが巨大な御霊神社なのだ。そしてだれもがそれを(少なくとも日本人のわたしたちはみな)嘘と無関心で塗り固めて済まし顔でいる。

 

 翌日は朝からレンタカーを借りて島内をめぐった。日本であらかじめネット予約とクレジット決済を済ませていて、当日は通路でつながった隣のデュシタニホテルのロビーまで迎えが来て、いっしょに事務所まで行って車をもらう。車は当初、娘の車椅子が積めたらと思ってやや大きめのRVクラスを頼んでいた(結局、車椅子は積まなかったが)。確かマツダの CX-5だったと思う。24時間で65ドル。じっさいはこれに任意保険や保証金、カーナビ代などがかかる。ところで初めての左ハンドル、右側通行だ。方向指示器と間違えてワイパーを動かす。右折は赤信号でも行ける。右左折するときはつい癖で左側へ入ろうとしてしまう。中央のイエローベルトは両車線の緩衝地帯のようなもので、左折インのときにはここへ入って待つ。何もないところでは35マイル規制。ブルーゾーンに停めると罰金500ドル。黄色のスクールバスは追い越し禁止。戸惑いながらも20〜30分もしたらどうにか慣れてきた。問題はナビゲーションだ。レンタカー屋でくれたドライビング・マップはアバウトであまり役に立たない。さいしょは島の北部にある戦没者慰霊公苑を目指してタモンから東寄りの1号線をすすもうとしたのに、どこで道を間違えたか西よりの3号線を走っている。あわてて路肩に停めて、別料金で付けてもらったGPS(カーナビ)で目的地設定をしようとするのだけれど施設名がヒットしない。諦めてマップ上のだいたいこのあたり・・ の設定で走ってみたら、どんどん幹線道路をはずれてひなびた田舎道になり、やがて舗装も切れて、山賊でも出てきそうなさみしい砂利道にひっぱられ、挙句は道のないところが道だ、行けと言う。ノーリードの犬が二匹、車の横をうろつき、林の奥のやや荒れた感じの家の前で黒い顔をした男が怪しそうにこちらを見ている。別の道を行っても何度もおなじような繰り返しで、最後に無理やりぐるりと回り込んで別の幹線道路に出て、それからはじきだった。

  正式には南太平洋戦没者慰霊公苑(South Pacific Memorial Park ※ドライブ・マップには平和慰霊公苑 Peace Memorial Park とある)設立は、もともと1965年、植木光教参議院議員(自民党)を団長とする日本人慰霊団がグアムを訪ねた際に、後述する日本軍によって斬首されたデュエナス神父の同僚であったチャモロ人のカルボ神父に面会し、侵略者であった日本人と被侵略側であったグアム住民とが協力して双方の戦没者を慰霊するための記念碑を共同で建設することを計画したことに端を発している。ところがその後、米国本土の退役軍人たちの反対運動などによって計画は一時中断を余儀なくされ、名称を平和記念塔( Peace Memorial )に変更して世界平和を祈念するという漠然とした内容となり、当初予定されていた慰霊観光の中心となるような公苑内の噴水や日本庭園、売店などの建設もなくなり、慰霊塔のみの簡素な形になった。確かにジャングルに囲まれた小高い丘の上に簡素なフェンスで囲まれた慰霊公苑は、ひっそりとして、忘れ去られたような静けさに満ちていた。妙にすべてが明るく、静謐だ。平和寺と書かれたコンクリート造りのお堂があって、その前で年輩のチャモロ人と日本人の男性が立ち話をしていた。わたしたち家族を見て、「ふだんは閉まっているんだけれど」と堂内に招いてくれた。堂内はまさに戦死した日本軍兵士たちの弔いの場所であった。すっきりしたタイル張りのフロアの正面に仏像が三体ほど並び、右手の壁面には無数の折鶴が長いハンガースタンドに吊るされてならび、左手にはおそらく島内で収集されたのだろう日本軍のさまざまな錆付いた遺留品が硝子のショーケースに陳列されていた。その痛々しい遺留品の上には「英霊が栄光を賭けて得た尊い平和に 感謝を捧げましょう」との文字が躍っている。栄光を賭けて得た平和? ほんとうにそうか?  「どちらから来られたんですか?」 60歳前後くらいだろう、日本人の男性が訊いてきたので「奈良からです」と答えると、「ああ、奈良から。 高市さんにはよく来てもらっています」とその男性は言うのだ。「ああ、高市さんねえ」とわたしは曖昧に笑う。そうそう、日本側の南太平洋戦没者慰霊協会を名乗る Web Site には名誉会長として元首相の森喜朗、顧問として現首相の安倍晋三の名が紹介されているのだった。そろそろ「英霊」たちをこういう連中の手から解放してやるべき時なんじゃないのか。男性は25年前に日本から移住してきて、もともとは飲食業などで働いていたらしいが、いつの間にかここの施設の世話役も務めているという話だった。そしてレンタカーで来たわたしたちに「よくここまで来れましたね〜 結構みなさん、道を迷われるんですよ」と言った。男性と話しているつれあいを残して、平和を祈念する合掌がモチーフだという慰霊塔を見に外へ出た。

 巨大な白い慰霊塔の横には、ここで全滅した各部隊ごとの遺族らが建立した供養碑が並んでいる。大きさも添えられた文言もそれぞれだが、思いの目方はどれも耐えようもなく重い。そんなものをひとつひとつ眺めていると、アメリカ軍の戦闘機が頭上の真っ青な空を引き裂くように飛んでいく。慰霊塔を正面に見た右端に、黄色い手すりのついた、広場からジャングルの冥府へと下っていくようなコンクリートの急な階段がある。それを降りると、そこが当時叉木山と呼ばれた、この山中に追い詰められた将校と残りのわずかな兵士たちが自害した、日本軍の最後の司令部跡とされる洞窟が残る場所である。熱帯の植物に囲まれたジャングルにぽっかりと空いた広場のような棚地で、そこから四箇所ほどに入口をコンクリートで固めた洞窟の暗やみが口をあけている。変な言い方だが、負けて、追いつめられた者たちにふさわしい凡庸な場所だなあと思った。何だか、ふだんは子どもたちが隠れん坊でもして遊んでいるかのような間延びした空間で、案外と人はそんな凡庸な場所で死なねばならないのかも知れない。階段を下りてくるときはやけに太った油色の蛙や、たくさんのトカゲが足元から逃げていったが、ここは無数の蚊がすぐにまとわりついてくる。広場へもどると、先ほどのチャモロ人の男性が車に乗ってどうやら待っていてくれたらしい。娘のために、ゲートの入口まで車で送る、どうぞ乗ってくれ、遠慮をするな、と言う。車内での短い会話だったが、かれの奥さんが日本人で、おじいさんも日本人だという。チャモロ人側でこの施設の管理にたずさわっている人らしい。これからどこへ行く? と訊かれて「イナラハンの聖ヨセフ教会に」と言うと、「ここから30〜40分ほどだ」と教えてくれた。

 相変わらず施設名検索がヒットしないおバカGPSだが(聖ヨセフ教会 Saint Joseph Church すら出ない)、こちらも少しづつ勝手が分かってきた。南部の歴史保護区でもあるイナラハンのだいたい中心部に目的地設定して走り出せば、南下した車はじきに気持ちのいい片道1車線の田舎道、そして気がつけば美しい海岸線沿いのワインディング・ロードを走っていた。何だか日本の南紀の海岸線にも雰囲気が似ていて、「もうじき串本か? 下津か?」なぞとみなで笑い合った。タロフォフォ湾手前の Jeff's Pirate's Cove で昼食。白人系米国人が経営する海賊をテーマにした海辺のレストラン兼みやげ物屋で、店員はみなドクロマークのTシャツを着ている。わたしは厚さ十数センチはあるだろうボリュームたっぷりの定番チーズバーガー。つれあいと娘は日替わりの、ピタパンに特性ソースがかかったラム肉のセットを二人でも食べきれないと言いながら分け合った。この後、娘は暑さに参ったか旅の疲れか、少々体調が悪くなって後部座席で横になることしばし。

 車でグアムを回ると、タモン湾周辺のいわゆる観光客相手のホテルや免税店が立ち並ぶエリアがグアムの中でいかに特殊な地域かということがよく分かる。その他の町は、まあ村といっても差し支えないくらいのどかで、行政府が置かれているハガニアにしても町としての規模は知れている。古代からのチャモロ文化やスペイン統治時代の遺跡が残るイナラハンも、車で走ればあっという間に通り過ぎてしまうような質素な佇まいだ。幸い目指す聖ヨセフ教会は幹線道路沿いに、まるで造られたばかりのような綺麗なベージュ色の堂々とした趣きで立っているので否が応でも目にとまる。1944年7月、アメリカ軍による再上陸作戦が目前に差し迫った頃、この聖ヨセフ教会のイエズス・バザ・デュエナス神父は、日本軍の占領からジャングルに逃げ隠れていたアメリカ軍通信兵の潜伏場所を追求され、衆人環視のもとで行われた四日間の拷問の末にかれの甥と共に日本軍によって斬首されたのだった。

 それは7月12日、米軍の再上陸作戦(同月21日)まで、あと9日のことだった。しかも処刑の2日前にあたる7月10日、トウィード通信兵は米海軍の掃海艇によって発見され、すでに「大宮島」から救出されていた。

 住民から慕われていたデュエナス神父の亡骸は、戦後に収容され、彼がいた聖ヨセフ教会の祭壇の下に安置された。その教会は、いまもイナラハンの村のシンボルとして建っている。また神父が処刑された場所には、1948年、「デュエナス神父記念学校(Father Duenas Memorial School)」が建設された。同校は神学校兼グアム唯一の男子校として、いまも存続している。

 教会の前の空き地に車を停めて、教会へ入ってみた。扉はどこも開け放たれていて、なかには誰もいなかった。広く立派な聖堂は豪奢というのとは違う、風格はあるのだけれど、きれいに整頓された魂の安息所という感じだ。ステンドグラスから差し込む日の光がやわらかだった。奥へすすむと白い花々で飾られた清楚な祭壇があり、さいしょは分からなかったが、よく見ると磨かれた大理石の足元(祭壇の裏手)にさりげなく埋め込まれたプレートがあった。"In pace et honore hic jacet Rev. Dns. Jesus B. Dueñas tempore bello occisus die 12 a Julii 1944 hic inter suos sepulturam invenit die 21 a Martii 1945."  (表記はラテン語のようで、あとでネット検索で英語訳を入手した。"In peace and honor here lies the Reverend Sir Jesus B. Dueñas, slain in time of war on July 12, 1944; his grave was discovered on March 21, 1945. " http://paleric.blogspot.jp/2011/03/interesting-things-about-inarajans.html ) 写真で見るデュエナス神父は端正な面立ちで、はにかんだように笑っている写真もあって、村の人々に慕われていたその人柄が偲ばれる。それでいて芯の強い面もあったのだろう。前掲の「グアムと日本人」の中で筆者の山口は「(デュエナス神父は)新しい占領者に対して不服従の姿勢をとるチャモロ人神父として現地住民の支持を集めていた。それだけに彼は、日本軍の注意を引く重要人物だった」と記している。1911年の生まれとあるから、殺害当時は33歳だったことになる。わたしはじぶんの足元に眠っている見知らぬ異国の神父にしばらく思いを馳せた。ひっそりとした教会を出ると、芝生の緑がやけにまぶしかった。教会には、かつて日本人がかれらの敬愛する神父にどんなことしたのか、何一つ記されていない。日本語はおろか、英語のガイド板もない。なにもないが、チャモロの人々の心の中にはしっかりと刻まれているのだ。日曜のミサに教会へ行けば、祭壇の下にかれは眠っている。一方で日本の旅行者たちが手にするグアムのガイドブックには、イナラハンもこの聖ヨセフ教会もスペイン統治時代の文化の名残とさらっと触れているだけで(まったく出てこないガイド本もある)、もちろんデュエナス神父に関する既述などは皆無だ。そしてそれを手にグアムへやってくるほとんどの日本人の心の中にも、当然ながらデュエナス神父は不在だ。この落差はいったいどれほどだろうかとわたしは思い、愕然とする。

 イナラハンからメリッソまではほんのわずかだ。グアムのちょうど南端部の海岸沿いを走っているうちに、ネットで調べて見ておいた Memorial Catholic Cemetery(カトリック墓地) が右手に見えてあわててハンドルを切った。海岸部からのなだらかな斜面の青い芝生のエリアにまっしろな墓がたくさん並んでいる。その墓地の左手の進入路をのぼっていくと行き止まりが車数台が停められる空き地になっている。日本軍によるチャモロ人虐殺の地である「ファハの受難碑」までは、その空き地の裏のあるかなきかのかそけき山道を奥へのぼっていく。やがて見晴らしのいい尾根道に出て、道は東へまわりこむ。10分ほどもあるいたろうか、墓地から東に見えるなだらかな山のちょうど裏側の棚地が林になっていて、木陰ができている。中央にプレートを掲げた慰霊碑と、白い十字架が地面に突き刺さり、丸太を模したコンクリート製の柵がぐるりと囲んだそのあたりだけが奇妙にえぐれている。ここは記録ではファハ洞窟(Faha caves)と記されていて、やはり米軍の再上陸が目前に迫った1944年7月16日に、村から集められた屈強なチャモロ人の男性ばかり30名がここで殺され埋められたのだった。一説には、米軍との戦いが始まった後に日本軍に対して抵抗するだろうと思われる村人を選別したとも、あるいは陣地構築に使役した男たちを陣地の場所を知られたくないために口封じで殺したとも言われている。このメリッソ村では前日にも、別のやはり選別された30名の村人たちが Tinta という洞窟に押し込められて手榴弾を放り込まれる虐殺があった。この Tinta では14人が奇跡的にも生き延びて村へ帰り事件を伝えた。これらの事件を知った住民たちは同月20日、日本軍の施設を襲って日本兵と軍属の十数名を殺害したという。柵の外向きにに立つプレートには、ここで何が起きたのかを伝える説明が英語で書かれている。柵の中の中央に造花の花々が足元に添えられたプレートには、殺害された30名一人ひとりの名前が記されている。わたしは窪みに座り込み、何も言えなかった。何を言ったらいいか分からなかったので、この地面が、草木が、ひそませている記憶を、必死にわが身に招ぎ寄せようとした。それに耐えることしかできない、と思った。確かに堀田善衛がかれの小説『時間』の中でつぶやいたように「われわれのあらゆる行為がとりかえしのつかぬものであるからこそ、われわれは歴史をもちうるのであろう」 で、わたしたちは歴史をもっていると言えるのか? 山を下りてから、わたしは記憶の公園のようなカトリック墓地のなかをしばらくあるいた。母親の思い出をつづった墓石、仲のよさそうな夫婦の新婚の古い写真が飾られた墓石、ひとつひとつの墓を見てあるきながら、あの山中で殺された男たち一人ひとりの家族も、掘り起こした亡骸をうつしてこんなやさしい墓石をつくったのだろうかと考えた。

 翌日は早朝からセスナ操縦体験の予約を入れていたので、レンタカー屋のオフィスの営業が終了する今日18時までに車を返さなくてはならなかった。メリッソを発ってすぐ、ウマタック湾近くの、スペイン統治時代に貿易船を守るためにつくられたというソレダット砦跡を見学していたら、そろそろいい時間になってきた。もうひとつ予定していた太平洋戦争国立歴史博物館(War in the National Historical Museum)は残念ながら見送ることにした(前を通ったときにはすでに閉館時間に近かった)。帰り道の途中で、アガットの道沿いに見つけた小さなスーパーマーケットに立ち寄った。観光客相手でない、地元の人が利用している店で買い物がしたかったのだ。娘の体調がすぐれないので、夕食はホテルの部屋で食べることにして、わたしは惣菜コーナーのハンバーガーやフライドチキンとレッドライスのお弁当などを買った。ほかにも飲み物やビール、パン、アップルパイ、シスコーン、牛乳、缶詰などなど。全体的にホテル周辺の店よりは安くていいが、果物はやっぱり高めで買わなかった。レンタカー屋の手前で給油。コンビニを兼ねた事務所へ行くと「何リッター入れたいんだ?」と訊かれ、「満タンにしたい」と言うと、外にいた店員が入れてくれて給油量を中のおばちゃんに伝えてくれる。ついでに買ったライチ味のグリーン・ティーがおいしかった。GPSをつけてもらうときにレンタカー屋のオフィスをホームに設定してくれと頼んでいたのだが、どうやらじぶんたちの滞在先のホテルに設定してあるらしいと気がついて、当て推量で何とかレンタカー屋までもどった。日本語の通じる「ミドリ」さんという名札をつけた初老の女性に戦没者慰霊公苑を例におバカなGPSの話をしたら、GPS代8ドルはチャラにしてくれた。レンタカー屋の車でホテルまで送ってもらい、部屋でつましい夕食。その後、元気になってきた娘と二人で夜のビーチでしばらく遊んだ。そういえば、グアムに来てこれがはじめての海だ。「やっと海に入れた」と喜ぶ娘から、頭上のオリオン座にまつわるギリシャ神話の話を波間にただよいながら聞いた。グアムの海水はあたたかい。そしてグアムの夜の海は異界のようなベールをまとっている。

 

 グアム三日目は早朝7時の迎えでセスナ機の操縦体験。レンタカーとおなじく隣のデュシタニホテルのロビーまで迎えが来てくれて、グアム国際空港まで運んでくれる。今回は初日の実弾射撃場を除いてはすべて日本からWeb上にて事前予約、支払いはクレジット・カード決済。便利な時代になったものだ。このセスナ体験にしろ、ほかのオプション・ツアーにしろ、基本的には滞在先のホテルまでの送迎付きのスタイルである。体験先のマイクロネシアン・エアは空港をぐるっとホテル街とは反対側へまわった端にある。コンクリ製平屋の小さなオフィスでコーヒーを飲みながら操縦要領のビデオを15分ほど見て、さあ、飛行場へと連れ出された先のちょっとオンボロなプロペラ機を見て、これはほんとうに飛ぶのか、大丈夫か、と不安になった。堕ちたら一家全滅だ。狭い操縦席の右手に娘が坐り、その左隣に車の教習場の教官のように、初老の日本人パイロットが座る。わたしとつれあいは後部座席だ。娘とパイロットはマイクとヘッドホンで会話をして、こちらには聞こえない。加速がはじまり、娘が操縦桿をひきあげる。あとのことはよく覚えていない。「もういいです」とか言ったような気がする。つれあいは隣で手足の三点をしがみつきながら悲鳴を上げていた。セスナ機はちゃんと飛んでいた。ホテル街とタモン湾の青い海面がどんどん小さくなっていった。娘は水平を保つのに必死だ。ときどきパイロットにそそのかされて、左旋回をしたり、急上昇をしたりする。「予告をしてからやってくれ」とわたしが叫ぶ。わたしは高所恐怖症なので鳥に生まれなくてよかったと改めて思った。ジャングルの油色の蛙のように地面にはいつくばって生きていきたい。フライト時間はおよそ10分間。初心者コースなので空港の周辺をぐるりとまわって帰ってくるだけだが、わたし的にはこれで充分。離陸は娘が教えられながらやったそうだが、着陸は操縦桿に手を添えているだけだったそうだ。オフィスにもどって、用意してくれていた冷たいグレープフルーツ・ジュースを飲んで、フライト証明をもらって終了。行きはスタッフらしい若い現地の男性の運転だったが、帰りは代表者兼パイロットの宮治さん自身の運転でホテルまで送ってくれた。神奈川県藤沢市の出身で、パイロット・ライセンスを取ってから30年前にグアムへ来たそうだ。どこか飄々とした、死んだ伯父に似た感じで親近感を感じる。ゼロ戦のキャブレターの能力と高度の関係や、ブルー・インパルスの曲芸飛行でのホワイトアウト、そして昔グアムで入手した絶品のマグロの刺身の話などを聞きながら帰ってきた。

 予定通り9時にホテルへもどり、次は10時半の迎えのバスでこんどはパラセーリング。パラシュートを付けた鉄製のベンチシートを海上でボートに引っ張ってもらうというもの。このアルパンビーチクラブ はホテル街から南へ車で10分ほど行ったアガニア湾の専用ビーチで、パラセーリングやジェットスキー、イルカウォッチングなどのメイン・メニューを選び、セット価格でそれにバイキング形式食べ放題のランチ、カヤックや足こぎボートなどの遊具が自由に使えるというものだ。送迎の大型バスはあちこちのホテルを回って客を乗せてくる。パラセーリングはビーチクラブからまたバスで先へ行った船着場まで移動して、そこからモーターボートに乗って沖へ出る。ちなみにわたしは船酔いもするのだ(予め酔い止めの薬を飲んだ)。乗客はわたしたち家族と、日本人女性の二人組、そしてアジア系のカップル。ベンチシートは二人乗りなので、わが家は二回に分けて、娘は計二回乗れることになった。朝は「飛ぶ」だけだったけれど、こんどは「船」と「飛ぶ」の両方あるので性質が悪い。しかし昨日はほぼ一日、わたしのわがままに付き合ってもらったので、今日は忍び難きを忍びます。どんな感じかはサイトにある動画などを見てもらったらいいと思うが、まあ、USJのアトラクション水着版、といったところでしょうか。ロケーションが爽快なので、気持ちいいことは気持ちいい。ふたたびバスでビーチクラブへもどり昼食。カレー、チキン、ライス、サラダ、ビーフン、スープなどを紙皿にとって、屋根つきの休憩場で食べる。ウクレレを持ったチャモロ人のスタッフが「涙そうそう」やユーミンの「卒業写真」などを歌っている。歌手は仮の姿で、このスタッフの真の姿は椰子の実ジュース売りなのだった。五ドルを払うと、椰子の実を鉈で切り開き、そこにストローを二つ挿してくれる。飲み終わった実を再度持って行けば、内壁のココナッツ部分をスプーンで剥がして醤油とわさびを添えて渡してくれる。食後はビーチでカヤックや足漕ぎボートなど。ちなみにタモン湾のビーチは膝下ほどの浅瀬が続いてしかもごつごつした珊瑚の死骸がけっこう痛かったりしたが、ここアガニア湾のビーチは適度な深さの遠浅で珊瑚もなく、海水浴としてはこちらの方が環境がいい。それにしても朝6時起きのお父さんはそろそろ疲れてきたぞ。バスに乗ってホテルに戻り、水着のままこんどはホテルのプールを楽しもうとなったので、わたしはほとんどビーチベッドで昼寝をしていた。娘はしばらく母親とホテル前の海へ行ったり、プールのウォータースライダーで遊んだりしていたのだが、疲れと、体が冷えたのもあるかも知れない。お腹の調子が悪くなって、部屋に戻ってそのままベッドの住民となった。旅行中とあって便が硬くなる貧血の薬を控えたり、また下痢をしないように便を出しやすくする薬も控えて逆に出にくくなって苦しんだりと、やっぱり調整が色々と難しい。娘がベッドから起きられないというので、仕方なく夫婦水入らずでグアム最後の夕飯を食べに出た。レンタカー屋の兄ちゃんが教えてくれた海老料理のBEACHIN' SHRIMP (ビーチンシュリンプ)も良さそうだったのだが満席で、ホテル前をあちこちさまよった挙句、アウトリガーの斜め向かいにあるアメリカンな TGI Friday's に入った。あまりお腹が減っていないというつれあいはグラタンのコロッケのようなものとチキンのサラダ、わたしは店員おすすめのビール(GOOSE IPA(グース アイピーエー)と、奮発してジャックダニエルズ・ニューヨーク・ストリップ&シュリンプなる34ドルもするステーキ・セットを頼んだらこれがものすごいボリュームで、撃沈したわたしはそのままホテルのベッドに倒れこんで朝まで昏睡状態となった。(娘はホテルのロビーで買ったマフィンを食べ、その後「ホットドッグが食べたい」と言うのでつれあいが買いに行った) 

 そんなわけで最終日の(残された)午前中は三人で向かいのマクドナルドへ朝食を買いに行って、三人とも泳ぎに行くような体力もなく、部屋でマックを食べながらごろごろしているうちにチェックアウトの時間となり、オーシャン・フロントの部屋に別れを告げてタクシーに乗り込んだのだった。ドライバーは日本語が達者な韓国人女性で30年前、姉妹がグアムで結婚をして母親を呼び寄せ、母親が子どもたちを呼び寄せてみんなでグアムへ移住したのだという。さいしょは英語も日本語も出来なかったので職につくも大変だったと。「韓国もいいですよ〜 韓国にも今度ぜひきてください」 はい、わたしはきっと近いうちに訪ねると思います。何だか親戚のおばさんみたいな、気さくなおばちゃんであった。空港には早く行き過ぎたかひと気も少なく、航空会社のカウンター待ちでしばらくベンチでぼんやりしていた。車椅子を借り、手続きを済ませ、免税店でお決まりのお土産などを買い、混雑したフードコートでまたしてもハンバーガーのランチを食べた(手続き前の食堂で空港スタッフたちも食べていたワンプレートの定食みたいのが安くておいしそうだったが、失敗した)。空港内の小さな本屋で、わたしは The Pictorial History of Guam: Liberation 1944 なるタイトルの太平洋戦争期のグアムの写真をメインにした大型本を見つけて購入し、娘はなぜかハリ・ポッターの洋書を母親に買ってもらっていた。トイレの個室で日本人名のJALの航空チケット(1時間後)を拾い、現地の警備員に届ける。たぶんわたしと入れ替わりにウンコをしていったアロハ姿の若者だと思うが、あいつは無事飛行機に乗れたんだろうか。夜7時頃に関西空港着。ほんとうはここで夕食を食べていく予定だったのだが娘のお腹の調子が相変わらずなので、そのままリムジン・バスに乗って奈良へ。駅前のセブンでお弁当を買って、久しぶりのわが家にもどったのであった。玄関を開けると、ゲージの中の猫(グアム滞在中はわたしの母と妹が世話をしにきた)が頭を低くして警戒モードでこちらを見上げた。

 ところで、これまで何度か引用してきた山口誠の「グアムと日本人」は、その最後を次のようにしめくくっている。

 グアムを見ずに「グアム」を観光する日本人が、あまりに多い。忘却と無関心の「楽園」に囲まれて、見えているのに見えていないものが、あまりに多い。忘れたことさえ忘れるまえに、埋立てた記憶を掘り返し、記憶の回路をつないで他者たちと対話を続ければ、きっと忘却が支配する「楽園」では見えなかったものが見えてくるだろう。それは現地の住民から見える日本人の姿が変化することにもつながるはずだ。

 タモン湾でショッピングと海水浴を楽しむことが、必ずしも「大宮島」の記憶を知ることと本質的に対立するとは考えられない。過去を知り記憶を取り戻す行為と現在の生を楽しむ行為は、決して矛盾しないだろう。そして楽しむことのすべてが間違ったことではないように、慰霊と謝罪だけが唯一の正しい観光のあり方とも考えられない。

 グアムへ行くならば、小さな「グアム」だけでなく、もっと広くて多様なグアムにも行くことができる。われわれはクモン湾に開発された半径一キロ程度の「日本人の楽園」だけでなく、さまざまな記憶が残された、多様な人々が生活しているグアムも、見ることができる。

 忘却と無関心の「楽園」から抜け出て、記憶の回路を取り戻したとき、われわれはもっと広く、多様な可能性を持つ世界へと向かうことができる。その眼をもって、われわれ自身の歴史と現状を見るならば、より複眼的に自らの姿をとらえることもできるだろう。見えないことさえ見えなくなるまえに。

 「見えないことさえ、見えなくなる前に」  グアムでわたしが見てきたものは、じつはグアムではなくて、グアムを通した日本の現在(いま)であったような気がする。グアムへ行く前、わたしは仕事のため北陸で一月半ほどを過ごした。その間、南京虐殺を被害者である中国人の視点から描いた堀田善衛の小説『時間』を毎晩、宿に帰ってから少しづつ、苦しみながら頁をめくっていったことは貴重な体験であった。その巻末の解説に、辺見庸が記していた一節がわたしには忘れられない。

 古代ギリシアでは、過去と現在が前方にあるものであり、したがって見ることができるものであり、見ることのできない未来は、背後にあるものである、と考えられていたーーーという、ホメロスの『オディッセイ』の訳注をみつけて、作家は言ったものだ。「これをもう少し敷衍すれば、われわれはすべて背中から未来へ入って行く、ということになるであろう」(『未来からの挨拶』)。言うなれば、未来は背後(過去)にあるのだから、可視的過去と現在の実相をみぬいてこそ、不可視の未来のイメージをつかむことができる、というわけだ。あったものがなかったと改ざんされた時間では、背中からおずおずと未来に入っていっても、なにもみえないはずである。戦慄せざるをえない。

 封印された「見えない」グアムの過去をひもとけばひもとくほど、不様なこの国の現在(いま)が立ち現れてくる。わたしたちが、もし未来のイメージをつかまえたいと思うのなら、見ることのできない未来は背後にあることを思い出さなくてはいけない。わたしはこれからも拙いながら、背中の旅をし続けたいと思う。茫洋として見えない未来のイメージを少しでもつかみたいから。

 

▼山口誠「グアムと日本人 戦争を埋立てた楽園」岩波新書 https://www.iwanami.co.jp/book/b225871.html 

▼ウエスタン フロンティア ヴィレッジ(実弾射撃場) http://www.hyperdouraku.com/guam_guide/wfv.html 

▼Eggs'n Things Guam http://guam-navi.jp/eggsnthings-guam/ 

▼南太平洋戦没者慰霊公苑教会 http://www.spmaguam.org/index.html 

▼グアム島で慰霊祭 http://www.geocities.jp/bane2161/guam7.htm 

▼イエズス・バザ・デュエナス神父 http://gwave.blog49.fc2.com/blog-entry-733.html

▼Jeff's Pirate's Cove https://guam.200per.net/about-jeffs-pirates-cove/

▼Tinta and Faha Cave Massacres http://www.guampedia.com/war-atrocities-tinta-and-faha-cave-massacres/#

▼ケン芳賀のグアム体験ブログ http://blog.livedoor.jp/cpiblog01241/archives/50991386.html

▼グアム ウマタック メリッツォ ファハの受難碑 イナラハン タロフォフォ ジーゴ https://blogs.yahoo.co.jp/yuuutunarutouha/34185053.html

▼太平洋戦争国立歴史博物館 http://guam-navi.jp/visitor-center/

▼マイクロネシアン・エア(セスナ操縦体験) http://www.micronesian-aviation.com/

▼アルパンビーチクラブ  https://www.abcguam.jp/ 

▼アウトリガーのプールの様子 http://guam10.com/hotel/outriggerpool.html

▼ TGI Friday's http://guam-bu.com/tgi-fridays/

▼The Pictorial History of Guam: Liberation 1944 https://www.amazon.com/Pictorial-History-Guam-Liberation-1944/dp/B000RUGX04 

堀田善衛『時間』岩波現代文庫 https://www.amazon.co.jp/%E6%99%82%E9%96%93-%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%A0%80%E7%94%B0-%E5%96%84%E8%A1%9E/dp/4006022719 

 

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 のっけから、都市が海に溶ける。少女の日常は牛乳瓶の底から見たようなおぼろな景色だ。視線は水着を洗う泡に、母親が食べ置いた食器から浮かびあがる水面の油汚れに立ち尽くす。空間はゆがみ、音は妙に間延びして増幅され、なにひとつ意味はない。少女がときおり打ち鳴らす音叉は、本来は楽器の音合わせのために使われるもの。だが音はどれにも合わない。共鳴するものもない。ただ音叉の純音だけが、むなしく取り残される。映画はそうした場所―――大都市・東京で偶然出会った(共鳴した)ふたつの純音(少女と少年)の物話、ともいえる。

 むかし、ある心理学のテキストのなかで紹介されていたこんな症例が忘れられない。小学生低学年の男の子が死について考え、じぶんは死んでしまったらどうなってしまうのか? と母親に訊く。考えると苦しいけれど、考えずにはいられない、と毎晩のように泣きながら母に死の話をし続ける。ところがある日、お母さん、分かった、と明るい顔で言い出した。死んだらもういちど赤ん坊になって、お母さんのお腹から生まれてきたらいいんだ、と。それっきり、その男の子はもう死の話をしなくなった。

 この映画も、それに似ていると思った。純音の神話づくり、だ。共鳴するものがない音叉を持って、つぶされそうだった魂をかかえて、二人は少年の故郷である北の海へ翔ぶ。少女が海に流したきれいな色紙で飾った死んだ小鳥の棺おけも、少年が落魄する以前の立派な漁師だった父の残像を重ねながら釘を打ち据えていくボロ舟も、他人にとってはつまらないことかも知れないが、二人が生きるための神話づくりなのだ。「死んだらもういちど赤ん坊になって、お母さんのお腹から生まれてきたらいいんだ」と言った男の子の神話はかれが大人になったらもう通用しないだろう。神話とはそうして更新されていくものだ。そうして生きるために何度でも神話を更新していく、更新していけばいいのだ、ということがこの映画の最大のメッセージであるような気がする。

 それにしてもひとつひとつの映像が印象的だ。こんな小賢しい理屈をこねなくたって、少女と少年の寡黙な眼をとおして映像をたどっていけば結局、おなじ結論に導かれる。わけても下北半島の場面はどれも美しい。牛乳瓶の底から覗いたような風景はもう存在しない。ひとうひとつが自立して、なおかつ連なっている。不機嫌な少女が、ここでは笑っている。共鳴するものがあるからだ。だから少女はもう音叉を叩く必要もない。かつてミヒャエル・エンデが、かれの「果てしない物語」の主人公・バスチアンについて語っていたこととおなじだ。「彼はだから、ファンタージェンからもとへ戻ったときに、ある意味で一種の詩人になったわけです。なぜなら、詩人が古今東西において果たしてきた役割は、すべての事柄に意味を与えることでしたから。言葉をもういちど、見つけなおす、つくりなおすことです。」

 30年後でも100年後でも、生きる意味を見い出したいと欲する者がいる限り、この映画は見続けられるだろう。まれにみるピュアな映画だと思った。ストーリーも、俳優も、演技も、風景も、強いて言えばどれもきわどいバランスで成立している。わたしがひとつだけ危惧することがあるとしたら、30年前はこのすばらしいバランスが成立した。では2010年代の現在にあって、このような純音の物語をつむぐことは可能か。

2017.5.1

 

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