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 名古屋での打ち合わせが早めに終わったので、かねてから思っていた日泰寺を訪ねることにした。

 1923年(大正12年)9月16日、関東大震災直後の混乱の隙をつくようにアナキストの大杉栄と内縁の妻・伊藤野枝、そして大杉の甥である橘宗一(むねかず)の3名を憲兵隊特高課が東京憲兵隊本部に連行して殺害、それぞれ裸にされた遺体は菰包みにされ麻縄で縛られた状態で敷地内の古井戸に投げ込まれ、その上から馬糞や煉瓦を投げ込んで埋められた。戦後見つかった「死因鑑定書」によれば大杉と野枝の二人については「胸骨完全骨折」など、激しい暴行を受けた痕跡があることが記されている。大杉の妹の長男・橘宗一は父親の橘惣三郎がアメリカ在住の貿易商で二重国籍を持ち、たまたま母親と日本に帰国していてこの虐殺にまきこまれた。子どもが殺されたことを知った母親のあやめがアメリカ大使館を通じて日本政府に抗議したために日本政府は事件を隠蔽できなくなったとも言われている。この当時わずか6歳だった宗一の墓碑は死の4年後の幼子の誕生日に父親によって建立されたが「その後の時代背景もあり,人知れず草むらに放置されていた」のを1972(昭和 47)年、偶然犬の散歩をしていた女性が「犬にひかれて踏みこんだ小道で、たけなす夏草に埋もれた」墓碑を発見し朝日新聞の「ひととき」欄に投書したことがきっかけで世間に知られ(9月13日付)、その後設立された「橘宗一少年墓碑保存会」によって日泰寺墓地内に設置されたのだった。じつに50年近く墓は草むらのなかに突っ伏していた。無数の得も云われぬ思いを抱えて。その墓に会いにゆく。

 後続の方のために行き方を記しておく。Web上にあるほとんどの資料は「日泰寺境内」や「墓地内」とあるだけで、わたしも最初は地下鉄東山線「覚王山駅」を降りて、いい感じのひなびた商店街の参道をつらつらとあるいてだだっ広い日泰寺へやってきたのだが、墓地がさっぱり見当たらず途方に暮れた。本堂横手の寺務所に訊くと「墓地係」なる若い僧侶姿の男性が図面をくれて丁寧に教えてくれた。日泰寺は本堂や塔を有する境内敷地から東へ向かって、およそ1キロほどの距離で墓地が伸びている。日泰寺の北東角にある「姫ヶ池通1」の交差点から地下鉄名城線「自由ヶ丘駅」方面へすすむ幹線道路沿いがそれで、見通しのいいゆるやかな斜面の墓地と住宅地の間をあるいていくと、やがて「日泰寺 1号墓地入口」と書かれた看板の右手から墓地へ入っていく細い道が分かれている。下っていったすり鉢上の底の中央の交差路でななめ左へすすんでいくとやがて、その小路沿いの左手に見つかる。日泰寺境内からだと歩いて15〜20分ほどか。距離的には裏手に位置する「自由ヶ丘駅」からの方がずっと近い。直線距離でわずか100メートルほどだ。(帰りは自由ヶ丘駅から帰った)

 きれいな砂利が敷き詰められた敷地は分譲したての墓のように新しい。そこに「たけなす夏草」から生還した90年前の墓碑が建っている。サンタクロースのような小さな青い人形がひとつ、何かの景品のような玩具がひとつ。まだ新しい林檎がひとつ、供えられていた。すっかり枯れて茶色くなっていた花立の花束をとって地面へ置いた。そして遅かれながら気がついて途中の販売機で買ってきた「バナナ・オレ」の缶を墓碑の前に置いて、手を合わせた。

 墓碑の正面、上半分には横文字で二行にわたり「Mr. M.Tachibana/Born in Portland Org./12th 4.1917.USA」とある。「Org」とはオレゴン州のことだそうだ。下半分には縦四行で「吾人は 須らく愛に生べし 愛は神なればなり 橘 宗一」と彫られている。わたしたちはみな愛に生きねばならない。なぜなら愛は神そのものであるから。

 墓碑の背面に回ると、上半分にまずは縦八行で「宗一(八才)ハ 再渡日中東 京大震災ノ サイ大正十二年 (一九二三年)九月十六 日ノ夜大杉栄 野枝ト共ニ犬 共ニ虐殺サル」との激しい文字が連なり、その下に横文字で「Build at 12th 4.1927 by S.Tachibana」と建立日が記されている。4月12日は宗一の誕生日であり、1927年に生きていれば10歳であった。そして背面の下半分には縦六行で殺されたわが子への哀悼歌が彫られている。「なでし子を 夜半(よわ)の嵐に た折られて あやめもわかぬ ものとなりけり 橘 惣三郎」 引用資料は以下のように解説する、「この歌の「なでし子」は,花の「なでしこ」と「愛する子」との掛詞.「あやめもわかぬ」は,「はっきりと分らない」それほどの酷い状態だったということと,宗一の母の名前「あやめ」との掛詞である.最愛の我が子を理不尽にも失った無念さが碑文からにじみ出ていて,前に立つと誰しも胸がつまる墓碑である.」

 ちなみに前述の昭和47年の朝日新聞「ひととき」欄の投稿について、みずから元朝日新聞記者だった田中伸尚氏が調べたところ、東京本社の縮小版には見当たらないので名古屋本社にだけ掲載されたらしいことと、掲載原稿には碑文中の「犬共ニ」の三文字が落ちていて、「記者による故意かケアレスミスか、あるいはデスクが削ったのか今となっては分からない」と「飾らず、偽らず、欺かず  管野須賀子と伊藤野枝」(岩波書店)の中で記している。

 わたしは、そうだ一時間以上はそこに佇んでいたろうか。気持ちのいい青空で、すり鉢上の墓地は広く明るく、ほとんど人気もなく、閑かだった。そして寒かった。墓碑の正面に座り込み、背面に座り込み、90年前に彫られた文字を指でなぞり、「たけなす夏草」に突っ伏していた墓碑のかどをてのひらで包み、いくどもいくどもそんなことを繰り返してはまたすわりこんだ。古代人は石にスピリットを託した。石に神も魂も、宿った。この墓碑にはなにが宿っているか。悲痛な祈りと、鬼の形相のような憤怒と、そして果てしない詠嘆だ。それらがこの墓碑の中で混じり、共鳴し、格闘し、渦を巻いている。わたしは崩れ落ちてしまいそうになる。わたしたちはみな愛に生きねばならない。なぜなら愛は神そのものであるから。わたしはじぶんが涙のつまった革袋のようなものにでもなって千切れてしまいそうになる。犬共ニ虐殺サル。そう記さずにはおれなかった父の鬼のような形相にわたしは思わず立ち尽くす。あやめもわかぬものとなりけり。馬糞や汚泥にまみれた愛しいわが子の見るに耐えない無残な姿を記憶した父のすべての物質を突き抜けるような叫びにわたしはふるえあがる。ふたたび暗黒の世へと滑り出したこのいかれた平成の世に、だれかこの墓碑の語ることばに耳を傾けるものはいるか。これは昔話ではない。

 形ばかりの軍法会議によって事件の三ヵ月後、首謀者とされる甘粕大尉に懲役10年(後に3年足らずで仮出所)、憲兵隊特高課員の森慶治郎曹長同3年の判決が下されてそそくさと事件の幕は下ろされた。このとき在郷軍人会などが中心になって進められた甘粕減刑嘆願署名運動に、当時人口7万5千人だった四谷区から5万の署名が集まり、東京府下だけで65万人分が集まったとされる。そこにはこれが「軍人による許し難い国家犯罪」だという視点も、自由な思想の弾圧だという危機感も痛憤もじつにあっけらかんとするくらいに、ない。わたしはそこに、所謂「世間一般」の底なしの怖ろしさを感じる。その顔の見えない一人ひとりが、わたしたちである。

 自由ヶ丘駅から地下鉄に乗ったわたしは疲労困憊だった。名古屋駅からの帰りの近鉄特急のなかではずっと死んだように眠っていた。あるいは「たけなす夏草に埋もれ」て死んだように眠っていたのかも知れない。

 

▼遠隔地に建立された関東大震災の慰霊碑−名古屋市の日泰寺・照遠寺と長野市の善光寺における調査−(PDF)

http://www.n-buturi.co.jp/contact/pamphlet/pdf/geotechnology_13/1_takemura.pdf

▼一年に一度くる日 私の、見知らぬ名古屋 その1「橘宗一(たちばなむねかず)少年の墓所」

https://cdn.ampproject.org/v/zoushigaya.seesaa.net/article/404447887.html?amp=1&amp_js_v=5

▼一年に一度くる日  http://saluton.asablo.jp/blog/2007/09/16/1801366

▼名古屋はもっと日泰寺のこと全国に宣伝してもいい http://utusemibiyori.com/blog-entry-873.html

2016.11.11

 

 

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 R.I.P. Leonard Cohen 

 下手糞なおとうさんのギターで、8歳のきみといっしょにうたった「ハレルヤ」

2016.11.12

 

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 記録をたどったら、去年もほぼおなじ頃に名古屋へ長期出張しているんだな。重たいトランクを転がしてゆうべの近鉄特急でやってきたばかりなのに、もうわが家が懐かしい。「わが家」の方はそれほど思ってないかも知れないけれど。しばらくは帰れない。昨夜は車で立ち寄った白湯ラーメンだったけれど、今夜からは恒例のレンジ・レシピで、もやし、あげ、鶏の胸肉を簡単に塩・胡椒とポン酢で。それから8枚切りのトーストに納豆を乗せて、あと蜜柑をひとつ。これが夕飯。たぶん、原価は百円もかかってないんじゃないかな。今回は滞在中、なるべくご飯は食べないか、食べても少なめにしたいと考えている。豆腐などを代替にして。もちろん大盛りも控える!  ・・という「目標」で。ちょっとは痩せて、「お父さん、格好良くなったね!」と娘に言われたい。あまり読む時間もないだろうが、文庫を一冊だけ荷物に入れてきた。鎌田 慧「残夢 大逆事件を生き抜いた坂本清馬の生涯 」(講談社文庫) を風呂で読む。

 

 今日は朝は昨夜のスーパーで買った半額のおにぎり二個、昼はコッペパンひとつで凌いだので、夜は久しぶりに奮発して回鍋肉定食。明日は昼間はバナナで済ませ、夜はいつものもやしレシピで。鎌田慧「残夢 大逆事件を生き抜いた坂本清馬の生涯」を読み終えた。坂本清馬は結局、国家に勝ったのだと思う。生き抜き、闘い続けたことによって。

 

 今日は日曜故に作業も少なく、これが最後のチャンスと、夕方早めに切り上げて同僚のKさんと高速を飛ばして知多半島の常滑へ、去年の今頃よく食べに行っていた競艇ラーメンの閉店20分前に滑り込んだ。愛想のいいおっちゃんとおばちゃんがやっている庶民的な店だが、どんなランキング1位の店よりおいしいのはなぜだろう。帰り道でブックオフに寄ってもらって活字補給。村上龍「五分後の世界」、吉田裕「昭和天皇の終戦史」、上原善広「異形の日本人」。四枚目の写真は昨夜の夕食。メインは鶏肉ともやしと豆苗の塩胡椒とポン酢のレンジ。それからもやしと糸こんにゃくと薄揚げのナムル。五枚目は同室のIさんのもやしラーメン。最後はKさんのカレー粉を使った厚揚げもやしレシピ。これだけもやしリアンが揃うとレンジに行列が出来る。明日から約二週間は全力疾走、かな。

 

作業場所でパソコンを据えている倉庫部屋が空調がなくて寒いので、ついついあったかいものを食べたくなる。
飛騨中華そばをうたったラーメン屋「陣屋」に入ってみた。中華そばの並、630円。
細麺と炭火焼きのチャーシュー、メンマ、葱のシンプルなあっさり醤油ラーメンだが、どこかほんわりとくつろぐ味。気に入った。
食事制限中で単品にしたが、豆腐の厚揚げセットもおいしそう。
いまとなっては夢のような奥飛騨での日々が思い起こされる。
さあ、また現場にもどって仕事だ。

 

車での帰り道にあるスーパーの惣菜や弁当が、ちょうどぼくらの帰る頃に半額の嵐のためについついそちらに誘惑されることも多いのだが(たとえばお寿司半額250円や、カツ丼半額200円など)、今日は初心に帰ってレンジのもやし料理。
そぎ切りした鶏のささ身、小松菜、豆腐、もやしに、塩胡椒、オイスターソース、中華の元、ポン酢でレンジしたメイン。
それにもやし、糸こんにゃく、薄揚げに、塩胡椒、醤油、胡麻油、チューブのニンニク、いりごま、鰹節をあえたナムル。
明日の朝は菓子パン、昼はバナナで耐えます。

 

毎日、朝早く起きて、途中のセブンイレブンで朝と時に昼の食事を買い込み、現場へ向かう。夜はスーパーが閉まる頃に食材を買って宿へ帰り、レンジで夕食を作って、合間に交代でシャワーを浴びたりして、同室のみなとわいわいと食べ、そのあとは各自それぞれにビールや焼酎やマッコリなどを飲みながら(つまみの菓子もひろげて)またわいわいと談笑して、夜中頃に自然と解散して、それぞれの寝床にもぐりこむ。
そんな毎日を繰り返していると、そんなじぶんの日常以外のことは考えられなくなるし、考える時間的な余裕もなくなって来る。人間というものは至極単純な生き物だと実感する。
そんな単純な膜ひと皮の細胞のようなじぶんが隣室の薄い壁越しに漏れて来るいびきを聞きながら、「五分後の世界」の熱風で飛ばされてきた肉片がべったりと乾いた地面に張り付く戦場のなかをよろめきながら徘徊している。

 

ホンマかいな。
たったいま、つれあいから。

塾から帰ってきました。
テストの結果ですが、まず最初に先生から「ほんとに高1ですか?」と言われました。
点数は英語200満点分の62点、国語200満点分の122点。
受けたテストは受験生が受けるセンター試験なので、郡校の高2の子でも英語、国語70点ぐらいだそうです。
今、紫乃が高2だったとしても充分、同志社を狙える範囲です。と言われました。
国語は現代文が半分、残りの半分は古文と漢文になっていて、古文、漢文は習っていないのでわからず、現代文で点数をかせいだかたち。なんと現代文は3問しか間違ってなかったそうです。
びっくりだよね!
まず、無料の3講座(1講座につき5回)を受けることになりました。」

 

半月ぶりに半日だけ休ませてもらった。
昼過ぎに帰って布団の中で本を数ページめくったら、もう深い眠りに落ちていた。

 

ここ数日はもやし蕎麦バージョンが流行っている。もやしと薄揚げ、鶏肉などを蕎麦つゆに入れて先にレンジをして、そのあとで生麺を加えて40秒ほど。もやしと蕎麦が半々のこれが美味い。
このもやし蕎麦に、半額の刺身を添えるのがこの頃の定番。
今日は久しぶりに葱が一本85円という適正価格だったので、刻んで入れた。
写真はここ四日間の夕飯の連続ショット。
白ご飯をなるべく避けているのが、我ながらいじらしい。

 

大流行のレンジもやし蕎麦に対して、そばつゆにヤキソバの麺も結構合うで〜と提言して下さったキトクな方がいたので、なかなか勇気が出なかったのですが、挑戦を受けたら引っ込むわけにはいかぬ。本日買って来ました。
ヤキソバなら何が合うだろうかと考えて、豚バラ肉をチョイスしてみた。はじめに容器にもやしを入れ、豚バラ肉を上に乗せて塩胡椒と隠し味にオイスターソースをちょびっと。水で足した濃縮そばつゆに浸してレンジで約四分。その後、ヤキソバ麺と刻んだ白葱を加えてさらにレンジで一分。出来上がって、よく掻き混ぜて頬張ってみたら・・
・・・第二の伝説の始まり。

 

大きな山を越えて、深夜に宿に帰ってきて、今日はちょっと高いビールで乾杯。
次の現場が予定されている金沢の支社長が中田屋のきんつばをお土産で持ってきた。
残り、九日。

 

今夜は夜の10時前にあがって宿に帰ってきた。こんな時間に帰れたのは実に久しぶりで、同僚のYさんは噛み締めるように時計を見て「なんか、思わぬ休みをもらったみたいだ」とにんまりと。
途中のセブンイレブンで買った新発売のアサヒの DRY BLACK と黒胡椒レモン汁かけの砂刷りで今夜は乾杯。
数日前に東京のIさんが次の現場の北海道へ飛び、明日は大阪から応援に来てくれていたI君と、奈良のM君が帰る。わたしも週末でいよいよわが家に帰れる。
しばらく会っていない娘ももう成人式か。って、昨年も確かおんなじことを書いた。

 

沖浦先生の最後の著作が出た。
「宣教師ザビエルと被差別民」
帰宅したら、心して読む。

 

名古屋駅に着いて立ち食い蕎麦の昼セットを三人掛けのカウンターに無理矢理四人目で捩込んできたオッサンの肩と格闘しながら喰らう。キャリーケースひとつの単純な所有物だけで人は生きていける。世界中のあらゆる悲しみや痛みを置き去りにして一月360時間の労働に埋没することもできる。そうではないシンプルさによって畏れられ石もて追われたのはどの時代の聖者だったか。最終日の晩の浴槽にはんぺんのように浸って読み終えた村上龍の5分後の世界は飛び出した眼球の視神経をつかまれたような強迫があった。この世界はどうだおまえがいま存在している世界よりこの世界はずっとましかあるいは最悪かそれとももっといい世界がドコカにあるとでもいうのか。特急列車が動き出したら疲弊したこの肉体はすぐに眠り込むだろうな夢も見ないで。

 

2016.11.14 〜 12.19

 

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 名古屋から夕方に帰宅したその夜は、わたしのリクエストでつれあいがつくっておいてくれていた魚の煮物と、きんぴらごぼう、冷奴、小松菜と薄揚げの味噌汁の夕食を食べてから、毎年発注を頂いている義父母の家の年賀状の両面を刷って、それから娘がペン・タブレットで描いたわが家の年賀状の干支の鳥の絵をデータでもらったところで就寝。

 昨日は朝からわが家の年賀状の印刷を終えて、娘のデスクトップ・パソコンの設置。わたしが名古屋に行っている間につれあいの使っているノートPCがイカれてしまった。もともとわたしが仕事用に使っていた古いノートに、なぜかウィンドウズが動かなくなってリナックスのOSを入れて、「メールとWeb閲覧ができれればいい」というつれあいが使っていた。ちょうど娘のメモリ2メガの中古ノートがこの頃はイラストや3D作成でいっぱいいっぱいだったので、娘にはデスクトップを新規購入して、娘のノートをつれあいに譲ることにしたのだった、「新規購入」といっても中古の組み直しPCだ。会社の現場用によく買っているネット・ショップで、Windows10、Corei5、4GBメモリ、22型ワイドモニタ、500GのHDD、DVDマルチドライブ、キーボード、マウス、それに無線LAN子機とKingsoft Office付きで29,800円送料無料、というもの。ただしキーボードはじぶんの好みで選びたいと言うので、夕食後に近所の家電屋へいっしょに行って、キー・ストロークの浅い、コンパクトな、マウスとセットになったワイヤレス仕様のもの(3千円くらい)をじぶんの小遣いで買ってきた(父がちょっと支援した)。

http://item.rakuten.co.jp/pckujira/omakase1001/ 

 さて、父が名古屋にいる頃から秘密のラインで娘と、つれあいのクリスマス・プレゼントのバッグ(娘の服を買いに行ったときに“いいなあ”と言っていたというもの)をひそかに買いに行こうと目論んでいたのでこの日、お昼のお好み焼きを食べてから、娘と二人でわたしが以前働いていた県南部のA店に娘のキーボードを買いに行きがてら職場に差し入れをしてくると言ったところ、つれあいは「あら、いいねえ。わたしも行こうかな」と仰る。それで困ってつれあいが二階へ洗濯物を持って行った間に、「A店は遠いから、まだお父さんは疲れているから今日はやっぱりやめることにした。近所のB店に行くということにして、なかなかいいキーボードがなくて電気屋をいくつか回った、ということにしよう」と娘と打ち合わせをしてから降りてきたつれあいに告げると、「じゃ、わたしもB店に行く」と仰る。「なにしに行くの?」 「なにって、ウィンドウ・ショッピングに。 ・・なんで、わたしが行っちゃいけないの?」とつれあいが言ったところで思わずわたしが吹き出してしまい、計画は秘密であることが放棄されたのだった。

 それで午後から家族三人で車に乗って県南部のショッピング・センターへ。わたしはカップ麺の年越しうどんを1ケースとお菓子を何袋かかかえて古巣に差し入れをしてきた。つれあいが“いいなあ”と言ったというバッグは棚から消えてしまっていて、結局本人のリクエストでサンタのような赤い自宅用のスリッパとハニー・ロースト・ピーナッツを三袋に変更となった。そしてフードコートで北海道ジェラートを食べて帰ってきた。夕食は鶏肉の鍋。

 そして今日は、名古屋に行っている間にいっしょの宿で過ごした東京のIさんの影響で揃えたコーヒー・セットではじめて挽きたてのコーヒーを淹れた。電子レンジのもやし料理をいっしょに食べながらコーヒー豆の焙煎に関する話をいろいろと聞いているうちにじぶんでもやってみたくなって、その場でIさんがすすめる「最低限セット」をスマホの画面から amazon で注文したのだった。ハリオの耐熱ガラスのコーヒー・ドリッパー、おなじハリオのくびれた肢体のようなドリップ・ケトル、手挽きのコーヒー・ミルは山にも携帯できるという謳い文句に惹かれてE-PRANCEのセラミック・ステンレス・ミル。豆は昨日のショッピング・センターのコーヒー店でエチオピア カッファを200g。Iさんが浅煎りがフルーティーでおすすめというので、比較的浅煎りのものをえらんでみたのだった。

https://www.amazon.co.jp/gp/product/B0156GGZ0Q/ref=oh_aui_detailpage_o02_s00?ie=UTF8&psc=1

https://www.amazon.co.jp/gp/product/B000IGOXLS/ref=oh_aui_detailpage_o02_s00?ie=UTF8&psc=1

https://www.amazon.co.jp/gp/product/B00L7ENELA/ref=oh_aui_detailpage_o02_s00?ie=UTF8&psc=1

挽きたてはやっぱりうまい!!E-PRANCE® の手挽きコーヒーミルを買ってみた!! http://moognyk.hateblo.jp/entry/2016/10/17/120000

レギュラー・コーヒーのいれかたの基本 http://www.ucc.co.jp/enjoy/papacafe/201110/

 死んだ父親がコーヒーが好きでこどもの頃、よくいっしょに自転車で亀有駅前の店に豆を買いに行った。ちいさな聖堂のような手挽きのミルでやっぱりがりがりと挽いていた。お湯を沸かして、温度を測り、豆を挽いて、蒸らして、またゆっくりとお湯をそそぐ。そしてジューン・ベリーの落ち葉が堆積したちいさな庭で、いまはいない聖者の記憶をゆっくりとたどるかつての付き人のように琥珀の液体をすする。こんな時間を過ごしたかった。

2016.12.21

 

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 今日の午後は娘の部屋につれあいに譲る(娘が使っていた)ノートPCを持ち込んで娘と二人がかりで、

1.娘の i Tunes の引越し
2.娘のデスクトップとつれあいのノートのそれぞれのメール設定
3.それぞれのデータ移行
4.娘のデスクトップに新しく購入したイラスト用ソフトと、ペンタブレット用ドライバのインストール

などをやっていたらあっという間に夕方になってきて、それからじぶんの部屋の押入れの片付けに移り、そろそろ放置していた不要PCを処分しなきゃな・・と決意するに至った。

 だいたいわたしはモノを捨てられない貧乏性タイプで、死んだ父親もそうだったが、紐でも古釘でも空き瓶でも電話線でも取っておいたらいつか使うこともあるだろうと捨てずにいるうちにそんなガラクタばかりが溜まっていく。 パソコンはむかし同僚のU君からもらったXP時代のいまはもう使っていないデスクトップが一台、机の下に眠っている。それからつれあいが以前に使っていて動かなくなったTOSHIBAのノートと、今回リナックスOSを放棄するマウス・コンピュータのノート、加えてわたしがかつて仕事の持ち運び用に買った工人舎のミニ・ノートの三台。で、計四台も。

 処分の仕方をあれこれ調べて、無料の「パソコン回収.com」の宅配サービスを使うことにした。http://www.pc-kaishu.com/general.html

 「完全データ消去」をうたっているものの、やはりハードディスクのデータは気にかかる。ドリルで穴を開けることも考えたが面倒くさい。外して置いていた内蔵ハードディスクを専用ケーブルでPCにつなげてひとつひとつ、フォーマットをかけてデータを消去し、さらに「米国の国防総省が利用しているDod 5220.22-M方式」でその空き領域を完全に削除してくれるというフリーの File Shredder を使うことにした。フォーマットと、この File Shredder を使って、ハードディスク一台で約4時間かかる。
http://blog2.k05.biz/2011/10/hddfile-shredder.html

 これでかなりすっきりするハズだけれど、1G以上のまだ使えそうなメモリなんかは外してこっそり取ってあるんだよね。

2016.12.22

 

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つれあいが明日・あさってと仕事のため、今夜は一日早いクリスマスぱーて。数年前まではわが家以外はみな関東にほどよくばらけていたのに、いつのまに徒歩5分圏内に居住しているわたしの母と、妹夫婦がわが家に参集する。ことしはチキンと、手巻き寿司、豆やブロッコリーのサラダ。飲み物はじぶんで好きなものを持ち寄り。だれだ、未成年でワインを飲んでいるやつは。食後は昨年に続いてサーティーワンのクリスマス・アイス。東京の伯母が送ってくれたゴディバのチョコ、それにエール・エルのワッフルと食べすぎだろ。もちろん、手挽きのコーヒーも淹れました。それからプレゼント交換を経て、恒例のトランプ・ゲーム。ババ抜き、大貧民ときて、最後のスピードでみなアドレナリンが沸き立つ。23時過ぎに散会。

2016.12.23

 

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 鄙びた冬の陽もかそけきクリスマス・イブの休日。遅めの朝食のあとでコーヒーを淹れてから、二階のテレビの部屋の炬燵にひとりもぐって嶽本さんから頂いた「太平洋食堂」の台本を読む。炬燵のぬくもりとまったりとした時間にときどきうつらうつらとしていつの間にか眠ってしまい、また目が覚めては続きを読む。そんなことをくりかえしていると平成と明治の時のあわいが溶け出して、ひとり時間旅行者の沖野岩三郎がじつはわたし自身で、この舞台はすべて昭和の臨終をむかえつつあるおのれの走馬灯のような回想なのかも知れないと思ったりもする。玄関の呼び鈴が鳴り、平成の世の宅配便が届けられる。FBで知り合いになったYさんがご厚意で葱好きの娘にと関東からわざわざ送ってくれた荷物だが開ければ葱にとどまらない、大根、ほうれん草、紅台菜、ごぼう、里芋、金柑、柚子、黒豆と、まるで古代の氏が山ノ神ににささげる色とりどりの神饌のようだ。昼時になって娘と二人で食べた、つれあいが仕事へ行く前につくり置きしてくれたオムライスがまさに「太平洋食堂」のメニューのように思えて一瞬とまどう。白衣にコック帽姿の痩せた大石誠之助がかたわらに立ってこちらをじっと見つめているような気がする。オムライスを食べ終えて、じぶんの書斎の揺り椅子にすわって「太平洋食堂」の最後を読む。なんだかシャンソンが聴きたくなってCD5枚組みのオムニバスをコンポのトレイに乗せる。娘がスターウォーズの新作をひとりで見に行くのを車で送っていって(4DXに両親は恐れをなしたのだ)、すでに満席だったので夜の部のチケットを買っていったん帰宅する。ポストに柚子の絞り汁が入った瓶がふたつ並んでいる。以前に向かいの二軒長屋に住んでいた高知出身のAさんがたずねてきたんだろう。身体をこわして働けなくなったAさんは生活保護をもらっていまは駅向こうの住宅に暮らしているが、毎年この柚子の絞り汁を持ってきてくれるのだった。やはり近所の日雇いをしているMさんのおんぼろ軽トラックで引越しを手伝ったのがいまでは遠い記憶のようだ。あれも泡つぶのような明治の、臨終の走馬灯のひとつであったか。誠之助のこんな台詞があわいの向こうからよみがえってくる。 「何も! どうせわしなんぞ、そんなもんさ! この明治42年が此の世の終わりでない限り、この先も失敗、敗北が繰り返される。だが負けて、負け続けて、いつかは正義が来る。勝てなくても前に進まなくては! ただ、声を上げる、その瞬間瞬間にだけは、我々は刹那の勝利を手に入れる、それだけは誇れるはずや!」 しずかすぎるこの冬の陽の中にあって、ことばはまるで南無阿弥陀仏のように堆積した落ち葉のようにひっそりとそこに在る苔むした墓石に刻まれた明滅する文字にも似て。

▼「太平洋食堂」PV(2013公演より) https://www.youtube.com/watch?v=lUq9Ddz8ZsI

 

2016.12.24

 

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 朝寝坊をして階下へ降りたら、洗濯物で忙しいつれあいが「ご飯は炊いてあるから、適当に食べてね〜」とのたまう。冷蔵庫を開けると親友の納豆くんが不在だったので、深皿にご飯を乗せて、冷蔵庫に残っていたキンピラゴボウを乗せて、刻んだ白葱をたっぷり乗せて、鰹節を散らし、醤油をかけてこれを「金平葱どんぶり」とでも呼ぼうか。この素敵においしい「金平葱どんぶり」を喰らいながら、朝日新聞の今朝の一面いっぱいに掲載された、昨年自殺した電通新人社員の母親が寄せたという手記を読む。

 

プライバシーとは隠すことでなく、「個を守る」こと。
個が守られていなければ、個は主張・表現することができない。
「監視社会の完成は監視の自動化」
近代社会において「監視」は内面化・非個人化・自動化されていると説いたのはフーコーだ。
「監視」は個に自己規制をうながす。
つまり「内面化・非個人化・自動化された」個は、権力にとっていちばん望ましい「従順な個」である。(すでに“個”とはいわないが)
少なくともこの国のメディアは、すでにこの「監視の自動化」が完成しているわけだな。
「監視の自動化」が完成したので、
忠良(ちゅうりょう)な日本人は之から気楽に寝られます。
おめでたう。
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大河内 次雄さんのTLから。
すごくいい番組なのでおすすめしたい。
小笠原みどり「スノーデン、監視社会の恐怖を語る 独占インタビュー全記録」毎日新聞出版 (2016/12/2) もさっそく注文してしまったぞ。

▼小笠原 みどり「スノーデン、監視社会の恐怖を語る 独占インタビュー全記録」 https://www.amazon.co.jp/%E3%82%B9%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%B3-%E7%9B%A3%E8%A6%96%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E3%81%AE%E6%81%90%E6%80%96%E3%82%92%E8%AA%9E%E3%82%8B-%E7%8B%AC%E5%8D%A0%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%93%E3%83%A5%E3%83%BC%E5%85%A8%E8%A8%98%E9%8C%B2-%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F-%E3%81%BF%E3%81%A9%E3%82%8A/dp/4620324108/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1482643012&sr=8-1&keywords=%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E3%81%BF%E3%81%A9%E3%82%8A
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%B9%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%B3-%E7%9B%A3%E8%A6%96%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E3%81%AE%E6%81%90%E6%80%96%E3%82%92%E8%AA%9E%E3%82%8B-%E7%8B%AC%E5%8D%A0%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%93%E3%83%A5%E3%83%BC%E5%85%A8%E8%A8%98%E9%8C%B2-%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F-%E3%81%BF%E3%81%A9%E3%82%8A/dp/4620324108/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1482643012&sr=8-1&keywords=%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E3%81%BF%E3%81%A9%E3%82%8A

▼あなたも監視されている〜スノーデンの暴露とは http://www.ourplanet-tv.org/?q=node/2082

 

 本日のわが家の食卓はFB友の吉川義彦さんがご厚意で送ってくれた野菜尽くし。
 昼は葱をふんだんに使った娘の大好きな鶏肉うどん。
 夜はつれあいがぶり大根、わたしが大根葉の炒め物と、紅台菜のおひたしを作った。
▼大根葉の炒め物 は刻んだ大根葉と薄揚げを炒めて、醤油、みりん、酒、砂糖をそれぞれ大1くらい。
▼菜の花に似た紅台菜 はさっと湯がいて冷水でとって水気を絞り、適当な長さに切ってからオリーブオイルと塩をかける。シンプルで旨い。
 ご馳走様でした。

2016.12.25

 

*

 

 クルス山、というのはかれらがそう呼んでいたわけではなかったらしい。おそらく、と史料館の係の女性は言うのだ。当時は山の尾根にたくさん十字架がならんでいて、それで村の人々がそう呼んだのがずっと言い伝えられてきたのではないでしょうか。上野マリヤと銘うたれた花崗岩の墓碑はここに眠っていた。隠れキリシタンの存在を調べていた隣村の和尚から訊かれて、そういえばなにやら変わった石がうちの山にころがっている、と案内したのがそもそものはじまりである。墓碑には中央に十字と、それから「慶長八年」 「正月十日」の文字が名前の両端に刻まれていた。慶長八年は西暦でいうと1603年、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康に征夷大将軍が授けられた年。その年の正月に、マリヤという洗礼名の女性は村の美しい棚田を眺望できるこの尾根筋に葬られたのだった。周辺のいわゆるキリシタン遺跡の発掘調査によれば、当時は座棺による埋葬が一般的だったが、山の尾根筋から見つかったキリシタンの人々の埋葬跡は、どれもまっすぐ仰向けに横たわった状態であったという。それからこの山は、人知れぬ山となった。そしていつしか忘れら去られた。墓碑はころがって、地に突っ伏した。上野マリヤの魂魄はずっとここでこの人知れぬ山中でイエスを夢見続けただろうか。わたしは信仰を持たないけれど、信仰を隠して生きていかなければならないというのは、なんとなく共鳴できるような気がする。たとえばここへたどり着くまでのうねうねとしたさみしい山道を車を走らせながらカーステで聴いてきた、新村(シンチョン)ブルースという韓国の古いブルース・バンドの通奏低音にそれは似ていないかとも思うのだ。上野マリヤの墓碑があったという場所の向かいに、二本の樹木の根元がくっついてちょうどいいくぼみをつくっている木があって、わたしはそこに腰かけながら、きっとおなじようにここにすわって真新しい墓に話しかけていた者がいただろうと思った。それは先週の水曜日だったかも知れない。わたしはこんな場所に、ひとりぽつねんと佇んでいるのが好きだ。わたしはだれとはなしをしているのだろう。堆積した落ち葉が天上の絨毯のようだ。葉を落とした木々に囲まれた山はひっそりとやわらかい。ずっとこうしてここにいたい。ずっとこうしてここにいたのだ。

▼<河内キリシタン>墓碑発見 新たなロマン(The Yomiuri Shimbun) http://www.yomiuri.co.jp/local/osaka/feature/CO005847/20140720-OYTAT50000.html 

2016.12.26

 

*

 

相変わらずおバカな密林サポート係。

 

【 始まり 】娘の不登校中ほぼ未使用の参考書や教科書をamazonの中古で売りたいとつれあいが言うので処理をしようとしたら、しばらく使っていなかったので・・

 

▼amazon カスサポ(“カスのサポート”の略)

売上実績が一定期間存在しないため、アカウントの不正利用防止の観点から、出品アカウントを一時休止とさせていただいております。

休止を解除するためには、貴社の支払情報等を確認する必要があります。

 

▼わたし

「リンクに従って出品用アカウントの再開手続きをした旨を報告する。」

 

▼amazon カスサポ

お問い合わせいただきました出品アカウントの一時休止についてご案内いたします。

一時休止状態になっている出品用アカウントの再開につきまして、手続きを進めさせていただく際、大変恐れ入りますが、クレジットカード情報および銀行口座情報の登録情報が同一の場合でも、

同じ内容にて情報の更新をいただきますようご協力お願いいたします。

変更を行っていただきました後、本ケースまで更新を行った旨連絡をいただきますことで、担当部署にて、

アカウント休止の解除手続きをいたしますため、何卒ご協力いただきます様お願い申し上げます。

 

▼わたし

下記の手順、完了しました。

よろしくお願いします。

更新方法につきましては、下記の手順をご参照いただきます様お願い申し上げます。

-------------------------------------

1.セラーセントラル右上の「設定」より、「出品者アカウント情報」をクリックします。

2.「銀行口座情報」、「クレジットカード情報(Amazon出品サービス)」をクリック後、右上の「編集」をクリックします。

3.銀行口座、クレジットカード情報は編集せずに、「送信」をクリックします。

-------------------------------------

 

▼amazon カスサポ

このたびは、早々にご対応いただきまして、誠にありがとうございます。

お問い合わせいただきましたアカウントの一時停止についてご案内いたします。

銀行口座とクレジットカードの情報について更新していただいたとのことで、テクニカルサポートにて拝見しましたところ、

誠に恐縮ではございますが、銀行口座の名義人が「全角カタカナ」でのご登録となっていることを確認いたしました。

つきましては「全角カタカナ」から「半角カタカナ」へ修正し、改めて更新していただけますようお願いいたします。

Amazonの決済にご利用いただいている銀行のキャッシュカードや通帳の名義人は、半角カタカナでご登録されているものと存じますが、

少しでも相違があることで決済が正しく行われず、振込みが保留となってしまいます。

そのため、今一度通帳をご確認いただき、ご修正のうえ、改めてテクニカルサポートまでご返信くださいますようお願いいたします。

たびたびご返信いただくこととなり誠に恐縮ではございますが、何卒ご対応のほどよろしくお願いいたします。

詳細は、下記のヘルプページをご参照ください。

■銀行口座情報・銀行口座情報登録時の注意点

https://sellercentral.amazon.co.jp/gp/help/851?referral=AL55TRRYJXBF_A2MLUCEZGSAKR

 

▼わたし

「銀行口座情報をクリック」以降が不明。

「ドロップダウンリストから銀行所在国を選択」ってどれですか?

要するに口座情報の変更画面が分からない。

年末の糞忙しいときに、不備があるなら小出しにしないで一回で言って欲しい。

 

▼わたし

1回削除して銀行口座を新規で追加するってことですかね?

 

▼わたし

出品用アカウント情報>銀行口座情報 の次の画面のどこに

「ドロップダウンリストから銀行所在国を選択」が?

 

▼amazon カスサポ

お問い合わせいただきました銀行口座情報の登録についてご案内いたします。

ヘルプページにわかりにくい部分があり大変申し訳ございませんでした。改めてご説明させていただきます。

セラーセントラルより、「設定>出品用アカウント情報>銀行口座情報」の順にクリックいただき、右上にあります「編集」をクリックいただければと存じます。

「編集」をクリックいただければ、銀行情報の入力ページへ移動し、入力を行うことが可能な状態となります。

お手数おかけいたしますが、処理が完了しましたら本ケース充てにご連絡いただければと存じます。

ご連絡があり次第、担当部署へ引き継ぎし、確認を行いますので、問題がなければ、本日より3日以内には一時休止は解除されます。

尚、セラーセントラル上に表示されております、一時休止のメッセージにつきましては、削除されるまで更に数日かかる場合がございますので予めご了承ください。

 

▼わたし

その「編集」を押すと、現行口座を削除若しくは新規口座を追加の選択肢しかない画面になるわけですが。

 

▼わたし

「ヘルプページにわかりにくい部分があり大変申し訳ございませんでした。改めてご説明させていただきます。

セラーセントラルより、「設定>出品用アカウント情報>銀行口座情報」の順にクリックいただき、右上にあります「編集」をクリックいただければと存じます。

「編集」をクリックいただければ、銀行情報の入力ページへ移動し、入力を行うことが可能な状態となります。」

 

→「編集」をクリックしても「銀行情報の入力ページへ移動」しません。

添付画像、参照ください。

1の右上の編集を押すと

2の画面に移行するだけです。

「銀行情報の入力ページへ移動」しません。

 

返答を願います。

 

▼わたし

朝10時以降は休業ですか?

 

▼わたし

すでに複数の注文が入っているので、早急に対応を願います。

 

▼amazon カスサポ

お問い合わせいただきました銀行口座情報の登録についてご案内いたします。

 

このたびは、お忙しいにもかかわらず、何度もご連絡をいただく結果となり大変申し訳ございません。

ヘルプページが適切ではない可能性があるため、改めて操作方法をご説明させていただきます。

このたびは、当サイトのご利用にあたりご不便をおかけしておりますことを、心よりお詫び申し上げます。

 

初めに、以下手順にて新しい銀行口座の登録を行っていただければと存じます。

----

1.設定の出品用アカウント情報 をクリック

2.銀行口座情報欄で、編集をクリック

3.「新しい銀行口座を登録」を選択

4.銀行口座情報を入力いただき、送信をクリックし、リクエストを確定

----

 

新しい銀行口座の登録が完了しましたら、当初登録済みであった口座は不要であるため、以下手順にて削除をお願いします。

----

1.設定の出品用アカウント情報をクリック

2.銀行口座情報欄で、編集をクリック

3.削除を行う銀行口座情報の「削除」をクリック

4.送信をクリックし、リクエストを確定

----

 

ご迷惑おかけして大変申し訳ございませんでした。

登録処理が完了しましたら本ケースあてにご連絡いただければと存じます。

ご連絡があり次第、担当部署へ引き継ぎを行わせていただきます。

 

▼わたし

二度三度訊き直した結果の御社の回答が間違いを教えていたということですか?

 

「「編集」をクリックいただければ、銀行情報の入力ページへ移動し」はウソ?

 

*********************************************************

ヘルプページにわかりにくい部分があり大変申し訳ございませんでした。改めてご説明させていただきます。

セラーセントラルより、「設定>出品用アカウント情報>銀行口座情報」の順にクリックいただき、右上にあります「編集」をクリックいただければと存じます。

「編集」をクリックいただければ、銀行情報の入力ページへ移動し、入力を行うことが可能な状態となります。

 

▼わたし

知らない人が説明してるの?

 

▼わたし

はじめから現行口座を削除して新たに登録してくれ、でよかったんじゃないの?

 

▼わたし

新たに口座を登録しなおして送信したよ。

 

ただし不要になった「当初登録済みであった口座」は

そちらの手順の「2」以降、銀行口座はひとつしか出ないので

(先に送った画像t2とおなじ)

「3.削除を行う銀行口座情報の「削除」をクリック」の選択肢がないんだけど

どうしましょうか?

 

 

**********************************************

新しい銀行口座の登録が完了しましたら、当初登録済みであった口座は不要であるため、以下手順にて削除をお願いします。

----

1.設定の出品用アカウント情報をクリック

2.銀行口座情報欄で、編集をクリック

3.削除を行う銀行口座情報の「削除」をクリック

4.送信をクリックし、リクエストを確定

----

 

▼わたし

新しい口座を登録した時点で、

(前の口座とおなじものなので)

以前の登録の上書きになるのかな?

 

だとしたらこれでいいのかも。

名義も「半角カタカナ」にしたので

確認してください。

 

▼わたし

今日はお休みですか?

返事を待っていますが。

 

▼わたし

確認中なの?

そちらの不適切な対応でこれだけだらだらと長引いているんだから、もうすこし迅速に対応したらどうですか?

前回の回答からすでに30時間近く経過してゼロ回答だよ。

 

▼amazon カスサポ

Amazonテクニカルサポートよりご連絡いたします。

本日担当者がお休みをいただいておりますため、平井よりご案内させていただきます。

 

このたびは、ご案内までにお時間をいただきまして、誠に申し訳ございません。

 

クレジットカード情報、銀行口座情報ともに更新していただいた旨をお知らせいただきましたため、本件につきましてアカウントスペシャリストへ報告させていただきます。

この後の対応はアカウントスペシャリストでの対応となり、問題がなければ、本日より3日以内には一時休止は解除となる見込みでございます。

なお、セラーセントラル上に表示されております、一時休止のメッセージにつきましては、削除されるまで更に数日かかる場合がございますのであらかじめご了承ください。

 

このたびはご案内までにお時間をいただきましたことを重ねてお詫び申し上げます。

本件についてのご案内は以上となりますがご不明な点がございましたら、お気軽にご連絡ください。

今後ともAmazon.co.jpをよろしくお願いいたします。

 

▼わたし (送らなかったけど、本当は書きたかった分)

担当者の休みなんて社外には関係ない話でしょ。そうならないようにちゃんと社内引継ぎしておくれ。

2016.12.27

 

 朝から大阪の病院へ、娘の脳外科の定期検査に家族三人で。MRIを撮り、N先生による診察。

 脊髄の脂肪腫は変化はない。娘が常に感じている足の軽い痙攣と、ときどきある、書いている文字がはねるほどの瞬間的な痙攣と、足の中がかゆくて仕方がなくなる症状については、神経の繋留(脂肪腫にからんだ神経がひっぱられている)に拠るものと思われる。手術をすれば症状は治るかも知れないが、長期の入院によってさらに足の筋肉機能が低下することは避けられない。(背が伸びる)成長期もそろそろ終盤にかかっているので、痛みなどの緊急性がなければもう少しこのまま様子を見てもいいのではないか、とN先生。もう高校生になったから今後、手術をするかどうかの判断は先生と娘が相談をして決めることにしようと親も交えてみなで同意し、今回の手術は見送ることにした。成長期が終わって症状がやわらいでくる例もあるとのこと。

 昼は病院近く、枚方市駅前にある「枚方T-SITE」なるツタヤのショッピング・ビルの最上階のイタリアン店 MEAL TOGETHER ROOF TERRACE でわたしはパスタ・ランチ、つれあいはピッツァ・ランチ、食欲がないという娘は木苺のチーズケーキを。スタバと合体したような洒落た書店内で娘はなぜか写経セットを、「やってみたいと前から思っていた」と購入。

 その後、車の中で「エディ・マーフィーの主演したドリトル先生の映画が見たい」と娘が言い出して、近所のツタヤに寄ってDVDを借りて、父は便乗で八代亜紀の2012年のジャズ・アルバム「夜のアルバム」を借りて帰った。

 

2016.12.28

 

*

 

  わたしを豆コーヒーに引き入れた東京のIさんが「奈良にも自家焙煎のいいお店がありますよ」と教えてくれたのが、なんと近所の商店街にある金魚ボックスで有名な元ガソリンスタンドのコーヒー屋さんだった。今日あたり浅煎りの「エチオピア モカ ゲレナ」を買いに行こうかと思っていたら、ことしは昨日までの営業だった。残念!

 

  以前にヤング・アメリカンの若者二人がホーム・ステイしたときにわたしがつくった「ヤンキー的殺人カロリー・レシピ」のアルフレッド・ソースのパスタをひさしぶりに食べたいとつれあいが言うもので、今夜はこれ。やばいけど旨い。旨いけどやばい。

1.バター(50g)を溶かして刻んだニンニクを炒める
2.続けて玉葱(半分)、もも肉(100g)を加えて炒める。
3.生クリーム(100cc)を加え、温まったらホワイト・チーズとパルメザン・チーズ(各40gくらい)を入れて溶かす。
4.煮詰まりそうになったら牛乳を少々加え、最後に塩・胡椒で味付け。
5.パスタに絡める。
※2〜3人前の分量

 

テーブルの上に集まったこのごろのもの。

1.沖浦先生の遺作「宣教師ザビエルと被差別民」(先の隠れキリシタンの里訪問もじつに偶然)
2.小笠原みどりさんのインタビューで即効、注文した「スノーデン、監視社会の恐怖を語る」
3.だれかがFBでとりあげていた、かわぐちかいじの原点漫画「テロルの系譜 日本暗殺史」
4.総合演劇雑誌「テアトロ 2005年11月号」(嶽本さんの戯曲「オリュウノオバ物語」が掲載されている。ネット古書で発見)

2016.12.29

 

*

 

 そうか。みんな、おのれの正露丸(内なる東条)に「穏健派」という「糖衣」をかぶせて呑み込み、済ましてきたのが「正露丸糖衣A」だったか。

 年末に出張先の現場近くのブック・オフでたまたま買った吉田裕「昭和天皇の終戦史」(岩波新書)はじつに興味深かった。おのれの身命が問われる、まさにそんなときにこそ、人は真実の顔を露呈する。

 あの東京裁判のフィルムで東条の禿頭をうしろからぺしっと叩く場面で有名な思想家の大川周明は昭和22年12月20日の日記に、こう記した。「いずれにもせよ、戦争は東条一人で始めたような具合になってしまった。誰も彼も反対したが戦争が始まったというのだから、こんな馬鹿げた話はない。日本を代表するA級戦犯の連中、実に永久の恥さらしどもだ」 じつにまっとうなご意見。

 軍人、文官、宮中グループ、そして天皇までもがアメリカ占領下の日本で、おのれの保身のためにGHQに取り入り、協力をし、必死で画策を試みた。この本の中で浮き彫りにされるそうしたかれらの姿を見ていると、ひたすらみずからが敬愛する天皇(と天皇制)を護るために戦争責任のすべてを引き受け、おのれの保身のためには一切の弁明をせずに絞首台へあがった東条英機の方が、皮肉だがいっそ潔く見える。

 天皇の戦争責任の問題が封印され、タブー視され、そうして一切合財を少数の軍人たちに押しつけて、結局、だれも、300万もの自国民が死に、その何倍ものアジアの人々が殺された戦争の責任を取らず、責任論の国民的な広がりを欠いたまま、この国は長い戦後をあいまいなままやり過ごしてきた。ずっと。

 もうひとつは「すべての戦争責任を軍部に押しつけることによって政治的なサバイバルに成功した「穏健派」のなかから、戦後の保守政治をになう主体が成長してきたことである。この結果、パワー・エリートの人的構成という面では、戦前=戦後の「断絶」より、「連続」が主たる側面となった」

 大川の言う「永久の恥さらしども」がしたり顔でこの国の戦後の政治を主導していった。すなわち、この国はなにも、なにひとつ清算しなかった。その歪みがいまもこの国の歴史認識として、責任主体の不在として、上から下に至るすべてに染みつき、蔓延し、放り出されたままでいる。気が遠くなるほどの命が奪われたはずなのに、殺した側はだれひとりとして、返り血すら浴びていない。

 それと、「平和と国民のことを常に考え続けてきた天皇」という幻想にしがみつくのは、もうやめようじゃないか。敗戦が必至であった昭和20年頃から連合国による占領に至る間、つまり天皇制自体の存続が危機的であったとき、天皇とその側近たちが常に最優先で考えたのは「国民のこと」ではなく、天皇制の存続(国体護持)であり、三種の神器であり、「皇祖皇宗」(天皇の先祖及び歴代天皇)への責任であり、みずからの進退問題(退位)であった。当たり前といえば、当たり前のこと。 (※昭和20年8月12日の皇族会議の席で「講和は賛成だが、国体護持が出来なければ、戦争を継続するか」との朝香宮の質問に「勿論だと答え」、また皇位の正当性を保証する三種の神器への固執については「敵が伊勢湾付近に上陸すれば、伊勢熱田両神宮は直ちに敵の制圧下に入り、神器の移動の余裕はなく、その確保の見込みが立たない、これでは国体護持は難しい」という判断もポツダム宣言を受諾にふみきらせた要因であると天皇自ら「独白録」で回想している)

  車の通行量もどこかさびしげな年の暮れに、こんなふうにこの国の来し方に思いをはせるのも悪くないのでは。

 ちなみに子どもの頃から胃腸が弱かったおれにとって正露丸は長いこと心の友だったけれど、クレオソート、とくにフェノールの毒性を言われるようになってからはビオフェルミンに変えた。だから「正露丸糖衣A」は一度として飲んだことがない。

 

 すなわち、十五年戦争の時期に「親英米派」「現状維持派」などと呼ばれたこのグループは、本来、軍部、とくに陸軍の推進する対内・対外政策に対して批判的な集団であり、対外的には英米との協調を重視し、対内的には「高度国防国家」の構築という軍部の要求に慎重な姿勢をとった。彼らは、対英米関係を悪化させる可能性のある軍事冒険政策に対しては、たしかに抑止的な態度をとったが、日本をアジアにおける「盟主」の位置に置き、「大日本帝国」のアジアにおける権益の維持・拡大のためには軍事力の行使も辞さないと考える点では、軍部の強硬派とも共通する面をもつ、「帝国意識」の持ち主である。同時に、彼らは、思想的には強烈な反共主義に裏打ちされた国体至上主義者のグループであり、その社会的出自も概して高い。

 この「穏健派」の評価いかんによって、日本の近代史はまったく異なった像をむすぶが、私見によれば、当初、対米英協調路線と政党内閣制を支持していたこのグループは、十五年戦争の経過のなかで次第にそのスタンスを変化させ、軍部の路線との間の距離を締めていった。そして、そのなかのかなりの部分は、天皇=木戸を中心にした宮中グループも含めて、最終的には軍部との間にゆるやかな政治ブロックを形成したと考えられる。一般には、十五年戦争の時期は、「軍部独裁」が成立してゆく時期と考えられているが、軍部とてオールマイティの権力を握っていたわけではなく、この「穏健派」の黙認や追認、あるいは支持や協力がなければ、軍部の推進する路線は国策とはなりえなかったのである。

 さらに、敗戦という危機的状況のなかで「穏健派」は、東京裁判への積極的協力にみられるように、すべての戦争責任を軍部を中心にした勢力に押しつけ、彼らを切り捨てることによって生き残りをはかろうとした。その意味では東京裁判は、日本の保守勢力の再編成の一環として位置づけることができる。そして、この「穏健派」のなかから、アメリカの対日政策の転換に呼応するかたちで、占領政策の「受け皿」となる勢力が成長してくるのである。四八年一〇月の第二次吉田茂内閣の成立は、そうした「受け皿」の形成を意味していた。

 以上のことを歴史認識の問題としてとらえ直してみると、わたしたち日本人は、あまりにも安易に次のような歴史認識に寄りかかりながら、戦後史を生きてきたといえるだろう。すなわち、一方の極に常に軍刀をガチャつかせながら威圧をくわえる粗野で粗暴な軍人を置き、他方の極には国家の前途を憂慮して苦悩するリベラルで合理主義的なシビリアンを置くような歴史認識、そして、良心的ではあるが政治的には非力である後者の人々が、軍人グループに力でもってねじ伏せられていくなかで、戦争への通が準備されていったとするような歴史認識である。そして、その際、多くの人々は、後者のグループに自己の心情を仮託することによって、戦争責任や加害責任という苦い現実を飲みくだす、いわば「糖衣」としてきた。

 しかしそのような、「穏健派」 の立場に身を置いた歴史認識白体が、国際的にも大きく問い直される時代をわたしたちはむかえている。すなわち、社会主義諸国の崩壊に起因した冷戦体制の解体によって、そもそも冷戦期の産物である「穏健派」史観そのものの見直しが不可避となった。また、アジア諸国との関係も、東京裁判の段階とは大きく変った。東京裁判の段階では、日本の侵略の主たる対象となったアジア諸国は、いまだ独立か建国の途上にあって、その国際的発言力もきわめて小さなものでしかなかった。東京裁判ほ、これらの諸国の意向をほとんど無視することによって初めて成立することができたのである。しかし、そのアジア諸国もその後しだいに国際的な発言権を強め、アジア諸国との関係の安定化を求める日本政府としても、これらの国々の対日要求にある程度の考慮を払わざるをえない状況になってきている。そうしたなかで、これらの国々の間から、日本の「戦後処理」に対する批判の声が急速に高まりつつあるのが現状である。
 こうした声に誠実に対応しようとするかぎり、わたしたちは、日本の戦後処理を支えた歴史認識そのものを、みずからの手で問い直さなければならないのだと思う。

▼吉田裕「昭和天皇の終戦史」(岩波新書) https://www.amazon.co.jp/%E6%98%AD%E5%92%8C%E5…/…/4004302579

▼近衛文麿と昭和天皇の暗闘 | 世に倦む日日 http://critic20.exblog.jp/23972790/ 

2016.12.30

 

*

 

 大晦日は恒例の、わが家から徒歩3分の妹夫婦の家にみなが集まって団欒だが、わたしは花粉症か疲れが溜まっていたのか何やら頭痛などあり、遅れて参加してお寿司やちまきやフルーツ・ポンチや娘が妹とつくったケーキなどを胃に放り込み、お酒は飲まないで、つれあいの膝枕でうとうとしながら紅白を見たり見なかったり。

 正月三ヶ日は現場の仕事で、そのあと一日置いて北陸へ一泊の出張を控えている。週末まではちと忙しい。

 ことしもいろいろ愉しんだが、FBが縁での出会いも多かった。旧谷中村、大逆事件、新宮、そしてまだ書ききれていないが奥飛騨の篠原無然等々。年末にはこれもFBのふとした縁で大阪の隠れキリシタンの里を訪ね、年の暮れの今日、風呂場で沖浦先生の絶筆たる聖フランシスコ・ザビエルと被差別民についての本をめくっている。

2016.12.31

 

*

 

 大晦日の体調不良は予兆だったのか、元旦は大阪の現場帰りのJR線。もうひと駅というところで、たまたま乗っていたのが先頭車両でトイレがあったのが不幸中の幸い。昼は家から持っていったおにぎり二つだけだったので、もう胃液しか出ない。込み上げては吐き、トイレット・ペーパーで口元を拭き、水を流し、込み上げては吐き、トイレット・ペーパーで口元を拭き、水を流し、を何度かくり返している内に電車は郡山へ着いた。嘔吐なんて、何十年ぶりだろう。その夜は雑煮も食べずにひたすら昏々と眠り続け、翌日もまた仕事へ向かった。夜にはだいぶ回復したが、いったい何だったのか。治ったら治ったで、もう若くないんだからそろそろ体のことを考えて、夜更かしはやめたほうが良いとか、病院でいちどMRIを撮ってもらった方がいいとか、一度にいろいろ言われて「ああ、五月蝿いわ」と書斎に逃れた。

 正月三日目の今日も元旦とおなじ現場で仕事だったが、新春のイベントで徳島県美馬市の「三味線もちつき」の実演があって、これが結構愉しめた。おばあちゃんたちにまじって、中高生の若い女の子たちが三味線を弾いているのを見るのは、なんとなくいいものだ。

 明日はやっと一日だけ休日。Kコーヒーに自転車で自家焙煎の豆を買いに行こう。

▼三味線もちつき http://www.city.mima.lg.jp/kankou/kankouannai/miru/0011.html 

2017.1.3

 

*

 

 正月三ヶ日を働いて、やっと本年はじめての休日。前日に届いた『徹底検証 昭和天皇「独白録」』(大月書店)の冒頭、藤原彰氏の文章がとてもよくまとまっていて分かりやすかったので、朝からプリンタとOCRソフトでせっせと取り込み作業をしていたら、「朝ごはんができたよー」のつれあいの声にリビングに行って新聞をひろげたところ、なんと一面「修正重ね 勅語に「平和国家」」 「敗戦翌月 当初案は「国体護持」」―――敗戦後初の昭和天皇による国民に向けた勅語の起草過程の記事で、なにやらそのシンクロニシティに驚いたよ。

 記事によれば当初の「第一案」では「光輝アル国体ノ護持ト国威ノ発揚トニ邁進」との文言があって、これがさまざまの人の手による削除・修正を経て「平和国家」の文言へと変わっていったのだとしている。

 以前にも触れたがこの昭和天皇の「独白録」は、「昭和天皇が敗戦の直後、数人の側近たちの質問に答えて語った、昭和初期から敗戦までの回顧談」であり、もちろんこれからアメリカによる占領が始まり、戦争犯罪人の処罰などが予想される非常に危機的な時期に天皇の戦争責任の回避を目的として作成された文書であるわけだけれど、対日米開戦にこだわる陰で中国やアジアへの経緯説明がノー・ガードであったり、ある意味で、天皇が如何に戦争に反対で平和を望んでいたかということを熱弁するあまりについつい余計なことを喋ってしまっていたりで、そのうち発禁処分になるんじゃないかな、世が世になれば。とにかく面白い。

 4人の学者による対談という形をとっているこの『徹底検証 昭和天皇「独白録」』の冒頭で、共著者の一人の藤原彰氏が「独白録」のポイントをコンパクトにまとめてくれているのだが、個人的にいちばん読んで欲しいのは「しかしこの、「天皇は立憲君主であり平和主義者であった」という主張は、いままで出ている史料からだけでみても、正しいとは言えません。むしろ歴史を捏造している、と言うこともできるのであります」という部分。そしてもうひとつ「この記録を読んで感じるのは―――いままでも知られていたことではありますが―――昭和天皇が天皇制、とくに天皇の地位とその正統性を示すものとしての三種の神器に非常にこだわっているということです。いっぽうそれに反して、日本の国民をどう思っていたのかということについてみると、国民に対するはなはだしい愚民観があります」というくだりである。

 敗戦(「終戦」ではない)はよく言われているように世の中が大きく変わった(軍事独裁から民主主義の世の中へ)わけではじつはなく過去との断絶ではなく連続であり、300万人もの自国民と1千万人以上の他国民という眩暈がするほどの膨大な死者を出した責任をだれも取らず考えず放置した、というのが歴史をひもとけばひもとくほどわたしの中では揺るぎない確信となっていく。しばらく前に現行天皇が自身の退位を言い出したときに、いわゆるリベラルといわれる人々の中で「戦争寄りのアベ政権の暴挙を防ぐために(皇室規範等の改正論議によってアベ政権が目論んでいる憲法改悪を妨害するために)、平和を希求する天皇ヘイカが投じた捨て身の一石だ」などといった有り難い論調が一時FB上でも賑わっていたけれど、以下の文で藤原氏が指摘しているように、平和を愛する天皇という「歴史の捏造」が戦後から如何に上手に刷り込まれてきたかを物語っているように思えてならない。ほんとうにそうですか?

 フランス革命が起こった際に、フランスの人々の多くは当初、まだフランス国王であったルイ16世に親愛の念を抱いていて、国王のもとでの社会改革を支持していたといわれる。フランス人が国王を見限ったのは、ルイが革命に嫌気がさして家族でフランスからの脱出を企てて捕らえられたときである。そのときに、さすがのフランス人もかれらの国王を見限った。

 こんなことを書くと、言いすぎだろうといわれたり、忌避されたりするんだろうけど、―――「終戦のさいについても同じことが言えます。天皇が終戦の決意をするのは、たいへん遅い時期です。軍事情勢に非常に通じていながら、なかなか戦争をやめるために積極的に行動しません。最終的には、連合軍の本土上陸がせまり、三種の神器の保持があぶなくなったというのが、天皇に終戦決意をさせたたいへん強い理由であるということが、この「独白録」からわかります」――― こんな内容が世間に出た時点で、この国の人々は無残に死んでいった無数の人々のためにもっと本気で怒って、天皇というものを見限るべきだったとおれは思うよ。

 人はなにかに寄りかからなければ生きていけないのかな。やっぱりおのれ以外に拠りどころが必要なのかな。「象徴」がなければ「国家」はまとまらないのかな。そんな「国家」は必要なのかな。そういうことを思うたんびに、あの夢想的スーパー地球ソングのイマジンや、「神はおれたちの苦痛を計る観念に過ぎない」(GOD)と歌ったレノンのことをいつも思い出す。多感な中学生のときに、かれの歌にがつんと頭を叩かれておれは仕合せだったな。お陰で麻原ショーコーの弟子にもならずに済んだし。

 

 一 「独白録」を読んで


 昭和天皇「独白録」を読んでの私の感想と、そしてこの「独白」が、いままで議論されてきた天皇の戦争責任論とどういう関係があるのかということについて、簡単にお話してみたいと思います。

 去年(1989)1月7日に、ちょうど昭和天皇が亡くなったその朝、閣議決定を経たうえの竹下内閣総理大臣謹話というのが出ました。これは、閣議決定を経ているということで、いわば昭和天皇の生涯に対する政府の公式な総括ということになります。それは次のような文章で、

 

 この間、大行天皇には、世界の平和と国民の幸福とをひたすら御祈念され、日々躬行してこられました。お心ならずも勃発した先の大戦において、戦禍に苦しむ国民の姿を見るに忍びずとの御決意から、御一身を顧みることなく戦争終結の御英断を下されたのでありますが、このことは、戦後全国各地を御巡幸になり、廃墟にあってなす術を知らなかった国民を慰め、祖国復興の勇気を奮い立たせて下さったお姿とともに、今なお国民の心に深く刻み込まれております。

 爾来、我が国は、日本国憲法の下、平和と民主主義の実現を目指し、国民のたゆまぬ努力によって目ざましい発展を遂げ、国際社会において重きをなすに至りました。

 これもひとえに、日本国の象徴であり、国民統合の象徴としてのその御存在があったればこそとの感を一入強く抱くものであります。

 

云々というのですが、要するに、天皇はつねに世界の平和を祈念し国民の幸福を念願したこと、さきの大戦は天皇の真意に反したものであるということ、天皇の英断で戦争は終わったのであり、その後の日本の経済発展は天皇のおかげであるということを主張しているものです。

 そしてこの日、『朝日新聞』 『毎日新聞』 『読売新聞』 いずれも社説を掲げましたが、その社説も大同小異の見解を表明しております。各新聞の見解で共通していることは―――天皇は平和主義者であった。しかし、天皇は立憲君主の枠を守って戦争に向かっていく事態をとめることをあえてしなかったし、できなかった。終戦は天皇の英断によるものであって、その後の日本の発展は天皇のおかげである―――という数点に要約できるものです。

 こういった論理は、じつは戦後一貫して言われてきたことで、戦犯裁判対策が問題となってきた1945年11月5日の幣原内閣の閣議決定、「戦争責任に関する件」でも、天皇は立憲君主であって、閣議決定などの責任機関の上奏を却下したことはなかったと言っております。東京裁判もその点を強調し、天皇への責任追及を防いだわけですし、天皇自身の口からもそういうことは言われているのです。たとえば、アメリカ訪問を前にして行なわれた1975年9月8日のNBCテレビとの記者会見、あるいは同年9月20日の『ニューズ・ウイーク』の記者会見、あるいはその二日後、9月22日の在京外人記者団との会見でも、一貫して天皇は、立憲政治を尊重することが自分の考え方の基本であった、したがって自分自身の決断をくだしたことは二回しかない、一回は二・二六事件のとき、他の一回は終戦のときであるというふうに主張していました。

 また、1981年4月17日、天皇の80歳の誕生日を前にして、大新聞社や全国ネットのテレビ会社社長と会見したさいには、「自分の生涯において、いちばん印象深かったことは、青年時代にヨーロッパを訪問したことである。そのとき自分は立憲政治の大切なことを学んだ。そして、その後は立憲君主としてふるまうことをつねに心がけた。しかし、あまりにも立憲政治に拘泥しすぎて、戦争を防ぐことかできなかったのかもしれない」と悔いが残ったという意味のことを自分で語っています。これらはいずれもその論理―――立憲君主であったために、平和を求める気持ちはあったが、それができなかった、ということを一貫して主張しているのであります。

 しかしこの、「天皇は立憲君主であり平和主義者であった」という主張は、いままで出ている史料からだけでみても、正しいとは言えません。むしろ歴史を捏造している、と言うこともできるのであります。

 たとえば、すでに公刊されている史料である『西園寺公と政局』『木戸幸一日記』『本庄日記』あるいは防衛庁の『戦史叢書』『太平洋戦争への道・資料篇』『現代史資料』等々にもとづいても、その所々で天皇は立憲君主とはとても言えない行動をしているという事実は、いくらでも明らかにされております。
 いちばん有名なのは、この「独白録」にも出てくるわけですが、田中(義一)内閣を倒閣に導いた天皇の発言です。それだけでなく、満州事変以後の(これはあとでくわしく述べられると思いますが)戦争指導のそれぞれの局面における天皇の判断や意見が、大きく歴史を動かしたことは事実でありまして、そういうことからみると、天皇は立憲君主で無問責だといったような天皇弁護の論理は実証的には成り立たない、歴史を偽造したものであると言うことができます。しかし、そういう史料にもとづいて天皇の言行についてあたり、その戦争責任を追及してきたのはごく少数の歴史の専門家でありまして、一般国民の多くはいまのような、天皇についてのつくりあげられた神話を信じてきたのです。とりわけ、終戦は天皇のおかげである、だが開戦は軍部がかってにやったことで、天皇はそれをとめることができなかった、軍部に押し切られたんだと信じさせられてきたのです。

 そういったことを集大成したのが、竹下総理の謹話です。とくに天皇の病気の前後から天皇の戦争責任が議論される中で、マスコミの多くは天皇無問責論を主張しましたし、国民の多くもそれを信じるようになってきたということは、たいへん問題だと思うわけです。
 歴史家の一部は、天皇に責任がないという主張にかんして、「実証的におかしいのではないか、歴史の事実に反するのではないか」と反対してはきましたが、それが国民全体の中での大きな声とはならなかったのです。

 「天皇独白録」が出てきたことは、そういった点ではたいへん衝撃的でありまして、天皇自身の口から戦争責任があることを認めるにひとしい発言がくりかえされたのです。とくに『文藝春秋』という商業雑誌で、非常にたくさんの部数が売れて、それについてのいろいろな反響もひろく関心をもたれるようになってきたということは、戦争責任問題の点では一歩前進したというふうに言えるのではないかと思います。

 「天皇独白録」が出ますと、『週刊文春』をはじめとして、『週刊朝日』やさまざまな雑誌・週刊誌の類が、これについていろいろな反響をのせました。その反響は二つに分けられます。

 一つは、これによって天皇の戦争責任論が一定の前進をみせたことでしょう。天皇自身はけっして立憲君主の枠を守って政治にかかわらなかったのではなくて、戦争のそのときどきにいろいろな命令をし、人事にまで介入していたことは明らかになったと認めざるをえない、ということです。他方では、こういう事実がありながら、それに目をつぶって依然として天皇無問責にこだわっていたり、あるいは論理をすり替えてしまったりして、天皇は人間としては国民の心情をつねにおもんばかった慈愛深い平和的な君主であったということを強調しようとする人もおります。読み方も二つに分かれているなという気がします。

 

 ニ 「独白録」が明らかにしたこと

 そこで、あとに問題を発展させるため、いくつか私の感じたことを申し上げます。

 一つは、天皇が立憲君主としてふるまっていたかどうかという問題です。とくに政務において、関係機関、とくに内閣の上奏をそのまま裁可していたかどうかという点についてです。そうではなかったという事実をみずからが語っている。そのうえ人事にも深く介入していたということが、この「独白録」で明らかになったということです。

 すでにいままでに明らかにされていたことですが、阿部信行内閣の陸軍大臣の人事について、畑俊六か梅津美治郎のどちらかにしろ、と天皇が直接総理大臣に命じたという、とんでもない人事介入をしていることをはじめとして、いくつもの人事介入の事例をみずから認めています。

 もう一つは、そういった人事に介入する前提として、個々の人間についての天皇の非常にはっきりした好ききらいや評価があることです。

 天皇のために一生懸命働いたにもかかわらず、いま生きていたらとても立つ瀬がないだろうなと思われるような評価をされている人もいます。平沼騏一郎・宇垣一成・松岡洋右といったような人です。まるでヒトラーに買収されたかのように言われている松岡。彼は死にましたけれど、遺族はとてもいたたまれないような人物評価をされているわけです。その人物評価においても、天皇個人の感情的な問題、好ききらいがあるような気がしますね。きらわれている人には人間のタイプとして共通点があるような気がします。これについては、またあとで議論していただきたいと思います。

 それにしても、そこまで深く立ち入って、たとえばまだ陸軍省の一課長にすぎない有末精三を排除するために大臣を決めたなどということまで天皇が言っているなど、信じられないような発言です。いずれにしても、人事へのかかわり、人物への好悪という感情的な在り方というのは、たいへんな問題だと思います。

 もう一つ、この記録を読んで感じるのは―――いままでも知られていたことではありますが―――昭和天皇が天皇制、とくに天皇の地位とその正統性を示すものとしての三種の神器に非常にこだわっているということです。いっぽうそれに反して、日本の国民をどう思っていたのかということについてみると、国民に対するはなはだしい愚民観があります。

 たとえば、戦争を始めるときに、戦争に反対だったのにとめなかったことの言い訳としてあげているのは、もしこのとき戦争をやめるよう命令したならば、かならずクーデター、内乱が起こっただろうと言っている。つまり、国民を信じていないのです。そしてその結果起こる戦争、戦争の結果起こるたいへんな国民の被害についての配慮をほとんどしていない。それは次の事実にもはっきりとあらわれています。

 開戦の前に、近衛文麿内閣が総辞職して、東条英機を次期首相に任命するときに、陸軍はむしろこのさい皇族内閣を出せと主張したのに、天皇と木戸と近衛は、「皇族内閣を出して敗戦になったならば国体に傷がつく」、要するに天皇制があぶなくなるという理由で、皇族内閣に反対し、、敗戦によって国は滅びないけれど革命によって国は滅びるという判断に立っていました。そのこと自体は、いままで言われてきたことですが、それを天皇の口から明らかにしているわけです。近代戦争とその結果予想されている敗戦で、どれだけの損害を国民がこうむるかという配慮がほとんどなくて、天皇制を守るため、内乱や革命を防ぐことのほうにより大きな配慮があったと言わざるをえません。

 終戦のさいについても同じことが言えます。天皇が終戦の決意をするのは、たいへん遅い時期です。軍事情勢に非常に通じていながら、なかなか戦争をやめるために積極的に行動しません。最終的には、連合軍の本土上陸がせまり、三種の神器の保持があぶなくなったというのが、天皇に終戦決意をさせたたいへん強い理由であるということが、この「独白録」からわかります。

 つまり、天皇にとって国民はまさに臣下であり赤子である、統治している対象であるわけです。国民すべての生命だとか幸福だとかに対する配慮より、むしろ統治する体制―――天照大神からひきついできた天皇の支配する国家―――の継承のほうが大事であったということが、「独白録」からわかります。それは大きな問題だと思います。そういう考え方で戦争をなかなかやめなかったとするならば、ここにも非常に大きな戦争責任があったと言わざるをえないと思うのです。

 以上が、この「独白録」を読んでまず感じたことですが、全体として、この「独白録」は天皇の戦争責任論をさらに一歩進めるためのいい材料だと思います。それから、そういうふうに考えたくない人々のこの「独白録」への言い分は、これの史料批判をしなければならない、これは特別な条件のもとで書いたもので、実証性が疑わしいという議論であります。これは予期していたことですが、この点も検討してみる必要があるのではないかと思います。この「独白録」は、たしかに一定の目的をもってつくられた文書です。これは東京裁判を前にして天皇の戦争責任が問題にされることを前提としてつくられた文書でありながら、逆にこの中にあげられている事実がかえって戦争責任論に説得性をあたえているという気がします。

 この「独白録」は、天皇に戦争責任はないという立場の人にとっては、たいへん都合の悪い資料です。だから、これは後年の回想にすぎないもので、史料的価値は低いと言っているのでしょう。たしかにこれは、原田日記や木戸日記のようにそのときどきに記録された日記ではなく、あとからの回想録です。だから記憶違いもめだちます。しかし、1946年春の東京裁判の開廷を前にした時点で、昭和天皇が戦争をどのように考えていたかを示すという点では、貴重な史料であると言えましょう。

 さらにこれは、東京裁判に対する天皇の証言の準備であるか、少なくとも寺崎英成をつうじてアメリカ側に伝えられることを予期して作成した文書と考えられましょう。それはもっと後年になってからのように、立憲君主論に逃げ込んでいるのではありません。裁判の争点になりそうな問題についてなまなましい証言をしていることになります。その中で自分の立場については弁明に終始していながら、ターゲットにされた何人かの臣下に責任を転嫁しているとさえ言えるものです。

 それだけに諸局面について、きわめて具体的に事実が証言されています。それぞれの時点で、天皇がどのように事態を受け取り、どのように考えて行動したかを示すという点でも、価値のある史料と言えます。そして、天皇は戦争の全期間をつうじて、みずからが最高の統治権着であり、大元帥であるという自覚をもって戦争を指導していたことがここで明らかにされているのです。

 後年の回想であることは、たしかに史料としてはマイナスな点です。しかしこの回想を補強し、傍証する材料はきわめて豊富です。従来から私たちが利用できた原田日記や木戸日記に加えて、最近相次いで刊行または紹介された入江相政や木下道雄、奈良武次などの側近者の日記を対照すれば、「独白録」の史料としての意義はさらに高まるでしょう。

『徹底検証 昭和天皇「独白録」』(大月書店)より 藤原彰「報告1「独白録」の史料的価値」

2017.1.4

 

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 篠原無然の名前をはじめて見たのは、同僚のS君がもう読み了えたからと呉れた井上理津子「さいごの色街 飛田」(新潮文庫)の中でだった。現在も変わらず「営業」している大阪・飛田遊郭の歴史をたどった一節で大正時代、「飛田を含む大阪一円の娼妓たち」が性感染症が発覚すると強制入院させられた難波病院(住吉区帝塚山)に於いて二年間、大阪府保健課の嘱託として娼妓たちのカウンセラーにあたったとして無然の名前が登場する。そこでは無然が「大阪の貸座敷をつぶさに回って娼妓らの聞き取り調査をし」、「病院で娼妓たちと寝食を共にし、彼女らの心のケアをした」として、かれが入院中の娼妓たちに向けて書いた「心得」や、また無然から書くことを教えられた娼妓たちが残した「娼婦の作りし哀歌」と題した巻紙などについて触れられている。

 この篠原無然なる人物についてもっと知りたいと思ったが、かれに関する書籍などは現在、ほとんど出版されていない。 唯一、江夏美好という無然が活躍した飛騨出身の作家が1980年に「雪の碑」という無然の伝記小説を書いていることを知り、在庫のあったよその図書館から取り寄せてもらって読んだ(後に中古で入手した)。この作品について著者があとがきで「これはあくまでも小説です。けれど記録、もしくは伝記、あるいは紀行のたぐいと読んでいただくのもよく」と書いているとおり、丹念な取材と無然を知る古老たちへの聞き取りを元に10年近くの歳月をかけて上梓されたこの作品は、唯一無二の貴重な篠原無然ガイド本といえる。著者が山深い平湯温泉を訪ねたとき、無然の遺品や遺稿は観音開きの古ぼけた本棚に入った状態で、鍵もかかっていない廃校となった小学校の旧職員室の片隅にひっそりと眠っていたのだった。

 無然の簡略な生涯について、ここではかれの古里である兵庫県新温泉町のホームページの記述より引く。

 篠原無然(本名・禄次)は、明治22年(1889)浜坂町諸寄に生まれた。明治37年(1904)神戸商業学校に入学したが、学費を苦学によって賄っていたため、体調を崩し明治41年(1908)退学して諸寄に帰ってきた。諸寄での病気療養中、美方町小代小学校の代用教員として従事するかたわら青年会を組織するなど社会教育活動を精力的に実践した。

 明治44年(1911)早稲田大学文学部哲学科に入学し、勉学のかたわら日本力行会、さらに修養団に入団、幹事となって全国を講演行脚し社会教化に努めた。やがて、世の中に失望し「人界に師なし」として深山に修養の場を求め、大自然を師とするため、大正3年(1914)飛騨に入山した。

 飛騨平湯では、村人たちが無然の住居と教育の場として青年会館を建て、無然はそれを「やはらぎのその」と名付けた。無然は平湯村に青年会・処女会・戸主会をつくり、社会教育の実践と村の経営についての指導を行ない、村人とともに“飛騨楽園”の建設をめざした。 また、当時は生糸産業が隆盛を極めていた時代であり、信州の製糸工場の工女たちが劣悪な条件で働いていることに憤りを感じた無然は、各工場を訪問して工女を励まし、事業主に改善を求め、実態を新聞に連載し、世の中に大きな衝撃を与えた。大正12年(1923)には、大阪府の嘱託として難波病院に勤務し、入院している娼婦たちの相談相手や生活指導も行った。

 大正13年(1924)平湯の人々のたび重なる懇請もあって、無然は平湯へ帰ることにするが、安房峠(岐阜県)で猛吹雪に遭い、村の光が見える安房平で力尽き、平湯の村を見守りながら永い眠りについた。 無然の36年の短い生涯は、人を愛し、道を求め、その思想を実践し、社会教育に身を呈した壮絶な人生であった。  

           

 修養とか社会教化、というと鼻白まないでもない。けれどわたしが無然に共感するのは、社会的な弱者に寄り添おうとするその姿勢と、功利を求めない素朴な心持ち、そしてつねに大自然におのれを回帰させようとするその魂の在り方にある。魂の置きかた、とでもいったらいいか。かれは生前、刊行されることはなかったけれど「山の愛」「山上浄土」「日本アルプス物語」といった大自然への賛歌とでもいった膨大な原稿を書き残しているが、幼児のように無邪気に自然のうちにいる喜びを語り続ける無然の筆を追えば追うほどに、ああ、この人は結局、魑魅魍魎のうごめく人間世界には染まれ切れなかった人だろうなと改めて思う。こういう見方はあるいは間違っているやも知れないが、無然の中にわたしは、やはりおなじような無邪気さと朴訥さと根気強さで“太陽の兄弟、月の姉妹”を讃えたフランチェスコの姿を重ねてみたりもする。フランチェスコもまたときに俗世をはなれた大自然のふところに籠もり、内なる神を夢想したのだった。

 その後、Webであれこれと調べているうちに、平湯温泉に無然の遺稿などを展示した小さな資料館があるらしいことが分かって、いつか訪ねてみたいと思っていた。その機会は意外とはやくやってきた。Facebook で知り合ったNさんがわたしの篠原無然について書いた文章に興味を持ってくれ、しかも平湯温泉も近い奥飛騨の槍・穂高の頂を望む笠ケ岳の麓に、Nさんが所属する神戸商科大学山岳部OB会の管理する山小屋があるので、無然の資料館を訪ねるときにはぜひ利用してくれと仰るのだった。そして9月になって、毎年山岳会OBの方々が家族や友人も誘って山小屋に集う「アニュアルキャンプ」に誘って頂き、わたしも偶然連休が取れたこともあって、ご厚意に甘えてはじめて奥飛騨の地を踏んだのだった。百年前に自由な魂を飛騨の山塊に遊ばせた求道者の足跡をたずねて。

 二泊三日の山小屋での日々は手打ちの蕎麦あり、岩魚の骨酒あり、鮎の塩焼き、昆布締めの刺身、とれたてのキノコなどなど、じつに贅沢三昧であった。集まってこられた方はみなわたしより年輩で、しかもわたし一人だけが山岳部とも神戸商科大ともまったく無縁の輩(やから)でひそかに心配したが、どこの馬の骨か分からぬ若造をみなさんあたたかく受け入れてくれた。とくに最長老格と思しきFさんなどは、考えてみればわたしの死んだ父親とおなじような世代ではなかったかと思う。わたしの父親も山好きで、東京育ちのわたしは小さい頃からよく父に連れられて丹沢あたりをよく歩かされた。そのFさんたちと、かつて無然の山荘があった福地山(1671m)へ登ったのも愉しい思い出である。

 無然はよく山にこもった。村から見上げるとちょうど灯りが見えるような中腹あたりに、村の青年たちが材を運んで組み上げた山小屋で、水やわずかな食料も持ち回りで麓からあげた。無然は絶食をして精神修養を行いながら、孤独な山中で原稿や手紙を書いた。一日が終わるころに眼下の村に向かってラッパを吹くと、村の人々は無然の無事を知って安堵するのだった。そんな山荘が村に三ヶ所、あった。平湯温泉に近い輝山(てるやま)、焼岳の登山道に近い中尾の謳慈(おうじ)、そしてこの福地山だ。ほんとうはいちばん無然が頻繁に使っていたらしい輝山に登りたかったのだが、整備された登山道がなく、しかも熊の出没が多いとのことで断念をした。麓の福知温泉郷から一時間ほど、途中までは後年にブルドーザーで開いたという道を登り続けるとやがて猫の額ほどの棚地に出て、小さな無然の像がちょこんとすわっている。ここが無然平。尾根道と谷筋の道、そして福知山山頂へ向かう道の三叉路になっていて、ひょいと出た尾根道からは眼下に平湯温泉、そして彼方には焼岳、穂高、槍ヶ岳の連峰が一望できる。いい場所だなあ、と思った。無然がここでひとり、谷底から響く風の音や野ウサギがはねる足音などを聴き、また天上の御簾のような峨峨たる稜線の残雪に茜が差すさまを凝視していたのだと思うと、なにやら感慨深い思いがした。そのかつての存在の記憶をたどろうと地に瞑目する。

 一方、平湯温泉の中央に位置する無然記念館はかつて平湯神社のわきに、無然の活動拠点として村人たちによって建てられた青年会館(別名“やわらぎのその” 二階の三部屋が無然の書斎、居間、寝室であった)の跡地に昭和49年(1974)、平湯篠原会の人々によって完成されたものだが、いまでは屋根も苔むし、コンクリートの壁面も落剥が目立って、全体的にどこかものさびしい佇まいである。小さな会議室ほどの一部屋にぎっしりと無然のいまとなってはここにしかない貴重な資料や遺稿、写真などが展示・収納されているのだが、照明は一部球切れしたままで薄暗く、展示品のひとつひとつが40年以上放置されたそのままといったふうで、多くの人に見せようという意志よりは、とりあえずここに置いていますといった惰性しか感じられないのは否めない。すでに生前の無然を知る古老たちも去り、過去の遺物と化しているのだろうか。じつに残念でならない。たとえば「大阪府立難波病院に関する書類」と題された綴りや、無然自身が病院で用い、前述した娼妓たちの歌なども書き留められているという古びたノートも硝子の向こうに横たわっていたが、内容は一切分からない。娼妓や工女といった日本の近代化の波にもまれていた者たちのこうした貴重な記録のほか、生原稿のまま製本された「山の愛」「山上浄土」「日本アルプス物語」の大部の著作にしろ、少しづつでもデータ・ベース化をすすめていくとか、(たぶん)管理者である高山市教育委員会はもうすこしやる気を見せて欲しいものだが、いかがだろうか。あのままでは無然が残した、そしてきっと心血を注いで書き上げたものたちが何も生かされないまま、伝わらないまま朽ちていってしまう。(活用する気がないなら、いっそわたしにください) とにかくやっとたどりつくことができた篠原無然記念館は、わたしにとっては宝の山のようなところだ。もし勝手に硝子ケースを開けていいものなら、わたしは三日でも一週間でもここに寝泊りをして無然が書き残したさまざまなものに思いを馳せることだろう。

 最終日は雨の中、上宝町の道の駅でみやげものなどを買ってから、もういちど記念館に立ち寄り、そして安房峠を越える旧道を上高地方面へ上っていった。あたらしく有料のトンネル道ができたので、旧道をいく車はほとんどない。ひっそりとしたアスファルトの道をうねうねとあがっていく。やがてトンネルをまたいだろうあたり、ガードレールの途切れた道のはしに無然の遭難碑がぽつねんとあるのを見たときは、軽く胸が圧しふさがれるような心持ちがした。同時に、平湯まではもう目と鼻の先じゃないか、と小さな悲鳴のような声が出かかった。車を降りて、碑の前で立ち尽くした。

 彼はまったく一寸ずりに転げながら、ついに一五、六丁降って、絶壁のはるか下に平湯の灯の見えるとことにたどり着いた。渾身の力をふるってたどり着いたのである。なつかしい灯りだ。

「おーい、平湯の衆よお、おーい、鶴さ、亀さ、中沢の直さよお。税くーん、与茂さよお、私はいま帰ってきたぞよー」

 彼は朗々とした声をはりあげたはずであった。しかし声はかすれ、咽喉が痙攣するばかりであった。風の音がまた高くなり、梢がひゅうひゅう鳴る。粉雪が刷きつける。

 彼はここで一息の休憩をすれば、またぞろ転びつまろびつ、平湯まで降る自信がある。不思議と、先ほどまであんなに激しく痛みつづけた足の痛苦は忘れている。からだ全体から、痛苦のすべてが消え去った。残っているのは熊笹の葉で切った掌の、かすかな痛みだけである。彼は両手をオーバアのポケットにつっこんだ。

 平湯の灯が、はるか彼方の眼下に、ぼんやりにじんで見える。街燈らしいものはまるでなく、冬の夜は戸締りを厳重にするから、外部に灯りのもれるはずがない。してみればあれは“やわらぎのその”であろう。里うちになにか集会があって、青年会館に里人が集まっているのではあるまいか。それともあす14日には帰るかもしれぬと自分がいったため、白骨まで出迎えにゆく打合せをしているのかもしれない。

「みんな、ほんとうにありがとうよ」

 睡魔が無然を襲った。彼はもっとも自然なかたちで雪上に坐りこんだ。

江夏美好「雪の碑」(河出書房新社)

 

 発見されたとき、無然は「両手をポケットに差入れ少しの苦しむ状もなく仰臥して絶息して居た」という。地の記憶、場の記憶というものはあるのだ、とわたしは思う。その場に立たなければ分からないこと。植物だけでなく、鉱物や、水や、風や、もろもろの事象が記憶を持っていて、だれにともなく語り継ぎ、金剛遍照、あまねく照らすほとけの慈悲のように偏在し、山川草木をきらきらと輝かせる。そのようなものに身をさらして、見えてくるものがある。聞こえてくる声がある。あの居心地の良いぽっかりと開けた無然平で、平湯村のへその緒のような“やわらぎのその”の跡地で、そしていまは綿毛のようにとめどなく降り注ぐきらきらと輝く粒子を全身に浴びながら、わたしはいま、まさに雪の上にすわりこむ無然を見ている。

 

 ところで今回の篠原無然を巡るささやかな旅に於いて、わが無然平への山行に同行してくださったFさんから伺った山岳部、そして奥飛騨ヒュッテにまつわるもろもろの物語が無然も愛した飛騨の山塊とともに深みを増してくれたことを最後に付け足しておきたい。特にわたしがいちばん印象的だったのは集まられたみなさんが夕餉を囲んだ席で順番に立って話をしているとき、みずから山で採ってきたキノコを提供してくれたあるOBの方が、昭和35年(1960)にこのヒュッテにほど近い笠ヶ岳にて遭難した部員の遺骨と慰霊碑がこの山小屋の基礎に眠っている、かつては小屋に集まった者はみな必ずその碑に向かって黙祷をしたものだがこの頃は忘れられがちである、もっと後継の人たちに伝えていくべきじゃないか、と言ってとつぜん嗚咽をしたことだった。あとで座がばらけて外のデッキでその方を見つけたわたしは、遭難された人とは直接の知り合いだったのですか、と訊ねた。すると遭難事故のときはまだ入学をしておらず、ただ後年に遭難場所に建立した慰霊碑が土砂崩れで流されそうになったときにハンマーでそれを砕いて遺骨を移しただけで、直接の知り合いではないとその人は教えてくれた。ただじぶんも冬山のクレパスにはまって命を落としかけたことがあるから、山では死の危険はだれにもある、ということを真摯に話してくれた。わたしは事故から50年以上も経ってなお、しかも直接の知り合いでなかった後輩がいまも時を瞬時にまたいでリアルに嗚咽をしてしまう、そのことの深さに驚き、心を打たれたのだった。平地での日常を凌駕する山での特別な強いむすびつきのようなものを、ヒュッテに集まったみなさんから教えていただいた。それらはひとり旅では得られなかった特別な贈り物である。お礼を申し上げたい。富山からおいしい昆布締めの刺身を持ってきてくださった方からおしえてもらった山の怪異譚を物語った伊藤正一「黒部の山賊 アルプスの怪」(山と渓谷社)をわたしはまだ炭火が赤々と明滅しているデッキでさっそくスマホからネット注文したのだけれど、先に娘が読んでしまって「お父さん、すごく面白かったよ」と返ってきたこともその方にお伝えしたい。

 

※昨年夏の奥飛騨行きについてはずっと書きたいと思いながら機会を逸していた。今回、ヒュッテに誘ってくれたNさんより山岳部OBの「稜線会会報」に載せる原稿を依頼され、背中を押される形でやっと書くことができた。

 

▼消えた遊郭・赤線跡をゆく 松島編その2 「松島新地」の章 (※難波病院について記述有り) http://parupuntenobu.blog17.fc2.com/blog-entry-835.html

▼平湯民俗館・篠原無然記念館 https://yu-meguri.jp/index.php?ID=233

▼稜線山岳会HP http://www.ryosen.net/index.html

▼笠ヶ岳遭難(神戸商大新聞 PDF) http://www.ryosen.net/Archive_Original/Shodai_Shinbun_1961014.pdf

2017.1.9

 

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