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通信制高校からの合格通知が届いた。まわる寿司屋で家族三人、ささやかに祝った。入学金を振り込み、確認後に履修科目の調整。それから入学オリエンテーションとやらで、じっさいに登校がはじまるのは9月下旬になるだろうか。書類上は先月末を以ってこれまでの学校は終了し、9月1日付けでの「転校」となる。二日ほど前、以前の担任の先生から「文化祭だけでも、もういちどだけ、みんなに会いに来ないか」と誘いの電話があったという。「そういわれても、行けないから辞めたのにねえ」と娘は苦笑している。まあ、最後までピントがずれている。混乱した担任の先生の気持ちは分からなくもないけれど、それ以外は、あれだけ対話を重ねた校長も教頭もじつにビジネスライクで沈黙を保ったままだ。不登校の生徒が一人契約を終了しただけ。ま、かれらはそうやってこれからも生きていくのだろう、教育者の面をつけて。吉崎御坊の「嫁おどしの鬼面」のように、すでに肉と化しているやも知れない面をつけて。どのみちもう会話をすることもない。通じない相手と会話を試みていた三年半だったと、やっと気づいただけだ。わたしの生涯の中でもみごとなほどの糞だったよ、育英西中・高等学校の北谷成人学校長とそのとりまきどもよ。おまえたちは子どもというやわらかな芽をただ踏み潰すだけの存在だ。愛し、育て、実らせる者ではけっしてない。とまれ、ここでやめておく。糞の話題は祝いの日にふさわしくないからな。
寿司のあとで大好きな大学芋をつまみながら、つれあいが「なんだかこれでもう、親の手は離れたような気がする。こんどの学校へ行き始めたら、紫乃はあとはもうじぶんで好きなようにやっていける。お母さんはそんな気がする」となどと言う。そう思わない? とわたしに訊くので、わたしは「そうだなあ。紫乃は離れられても、お父さんは離れられないかもなあ・・」 「なにも聞こえなかったわ」と娘。 帰宅してから、風呂場の前で「どうだ、いまの気持ちは? 楽しみと不安と、半々か?」と訊ねてみれば、「わたしね、なんでか考えると悪いことばっかり考えちゃうから、いまはほんとうになにも考えてない。行ったらそのときに考える」 「それこそ、あたって砕けろ、だよ。それでいい」とわたしは言った。
数日前には注文していた三輪自転車も届いた。通学に向けてこちらも少しづつ練習をしておかなくちゃね。
2016.9.8
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ゲーテが言ったように “行動に駆り立てぬ知識は不要だ” これが重要だ。
じぶんの行為はわたしの人生や肉体と結びついている。じぶんがやることすべてが人生の一部となる。そうでなければわたしは行動を起こさない。
この饒舌でいとも妖しげなロシアのピアニストを、わたしは佐谷さんからおしえてもらった。
「オマージュ & エクスタシー」と題されたさまざまな作曲家の小品集をためしに買って、ずっと家で、通勤途中の iPod で聴いていた。
ひどくゆっくりとした、小さな音でも、そのひとつひとつが個別の楔(くさび)を打ち込んだかのように響いてくる。「唯一無二の孤絶した個性」と、だれかが書いていた。そうであれば、それがこの癖になる美しさの理由。
2016.9.9
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休日。午前中、子は小学校のときに仲良しだったKちゃんと、おなじく幼なじみのNちゃんの学校の文化祭へ誘われて行ってきた。愉しげなラインが送られてきた。おなじカトリックの幼稚園を通った三人とも、中学受験でおなじ国立大付属を目指したがかなわず、Kちゃんは地元の中学から公立の進学校へ。Nちゃんはべつの国立大付属に合格したものの中学の後半から不登校になり、高校は別の学校へ転校した。三人ともそれぞれの道をたどって、今日はひさしぶりに共に秋の半日を愉しんでいる。
車で送っていったつれあいはKちゃんのお母さんと近くの喫茶店で時間を過ごし、わたしはその間、なかなか終わらない歯医者へ行ったり、終わりかけの庭のシソを積んで最後のちりめんじゃこと炒めた佃煮をこしらえたり。http://cookpad.com/recipe/3988107
午後はことし最後の一般公開となる奈良少年刑務所の「第26回奈良矯正展」をつれあいと二人で見に行った。子が帰ってくるのが遅くて、お昼を食べたら「刑務所内見学ツアー」最終回の出発時間まで一時間を切っており、もう間に合わないかと思ったけれど、車でわずか20分少々で着いてしまう地の利をつくづくと。さいわい見学ツアーも参加できて、その後わたしは受刑者による展示即売の革のベルトを買ったり、つれあいは秋篠町の少年院ブースにあった詩や習字の作品に涙したり、それから二人で地元の牧場のソフトクリームやコロッケを食べたり、最後に寮さんの写真展ブースを覗いてきたり。
わたしは先ほど新宮で墓参りをしてきたばかりの高木顕明(たかぎ けんみょう)のことを想っていた。というのもかれが秋田刑務所へ収監されたのは明治44年。一方、現在の奈良少年刑務所とおなじ山下啓次郎(ジャズ・ピアニストの山下洋輔の祖父)の設計といわれる秋田刑務所が竣工したのは明治45年。ちょうど高木が収監された直後に完成し、二年後にその真新しい刑務所内で縊死をしたことになる。残された写真を見ると、意匠はよく似ている。はじめての奈良少年刑務所をあるきながら、わたしは明治44年冬の秋田刑務所を徘徊していたのだった。
そういえば人が入れ替わり立ち代りの混雑したブースの中で、わたしの姿を見つけた寮さんがこの刑務所の建物について「国の威信をかけたとかだけじゃない、すごくやさしい気持ちがこもっているデザインなんだよ」と説明してくれた、その言葉が胃の腑にぽとりと落ちた。高木顕明にそれが伝わったこともあったろうか、と空想してみるのだ。
26回「奈良矯正展2016」奈良少年刑務所として一般公開最後の開催となります
http://deep.wakuwaku-nara.com/narasyoune/浄願寺の赤門・一丁目小路の煉瓦塀(秋田監獄)
http://20century.blog2.fc2.com/blog-date-20100528.html「明治の五大監獄」奈良少年刑務所、当時の姿が今も
http://digital.asahi.com/articles/ASJ8B51KFJ8BUTIL02V.html?_requesturl=articles%2FASJ8B51KFJ8BUTIL02V.html&rm=303近代の名建築 奈良少年刑務所を重要文化財に! | Facebook
https://www.facebook.com/naraprison/2016.9.10
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今宵は、これだな。これだけ。
関東大震災のときに行商の被差別部落の一団が虐殺された「福田村事件」に取材した辻野 弥生「福田村事件―関東大震災知られざる悲劇」 (ふるさと文庫 2013) を通勤途中に読んでいる。前半は主に流言蜚語のもと惨殺された無数の朝鮮人の人々の話ばかりだが、暗澹たる気持ちになる。この素晴らしい憂歌団のボーカル:木村充揮も大阪生野区出身の在日コリアンだそうだが、異なる出自同士がぶつかり葛藤し混ざり合いまばゆい何かを生み出すのであれば素晴らしいことじゃないか。なぜ人は人を異化し、排除するのか。胸が痛い。
福田村事件の真相を追う 〜91年前に何が起きたのか〜
http://blogs.yahoo.co.jp/kumakuni05/35075867.html辻野 弥生「福田村事件―関東大震災知られざる悲劇」
https://www.amazon.co.jp/%E7%A6%8F%E7%94%B0%E6…/…/4845502062★憂歌団☆胸が痛い
https://www.youtube.com/watch?v=WcG04zxbURw2016.9.13
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固定電話機のディスプレイがかすれて読めなくなってきたので、新しい電話機を買うことにした。従来のはコードレスの子機が1台付いているが、親機がコード付だったので結局、親機と子機をおなじリビングに置いて、子機ばかり使っていた。意味がない。こんどは両方ともコードレスにして、子機は2階の娘の部屋に置くことにした。2階でつれあいが家事をしていて電話が間に合わないことも多々あったし、内線通話もできるので、これまでのように階段越しに「ご飯だよ〜」とか大きな声で叫ばなくて済む。肝心の電話機の方は、あれこれWebで検索して、アメリカの無線機メーカーのモトローラ製にしてみた。ちょっと日本の電話機にはないクールなデザインで、近未来映画でトム・クルーズあたりが使っていそうな雰囲気。しかも子機1台付きで6500円と格安。但しマニュアルもディスプレイもすべて英語のみ。留守番電話の応答も英語しかないが、だれも残さないでせいせいするかも?
2016.9.14
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子の16回目の誕生日は奇しくもあたらしい学校の初登校日でもあった。いや、まだ正式には入学のための手続きが完了していないのだけれど、11月の文化祭で予定している「演劇部」の打ち合わせがあるということで特別に参加させてもらったのだった。そして、この日ははじめて一人で電車を乗り継いで学校へ行った。家から駅まではつれあいが車椅子を押して(車椅子は母がそのまま持って帰る)、途中乗継が一回あって、下車駅から学校まではとても近いから、杖だけで歩けた。行くと今回の「演劇部」のために終結した先輩8人ほど(全員二年生と三年生)が集まっていて、先生から紹介されたらしい。
「で、どうだったのよ?」と訊けば、子は夢見る少女の如く微笑み、みんな“良い子”でね〜 背中に羽根が生えてるんじゃないかっていうくらい、なぞと言う。仮にも先輩をつかまえて“良い子”もないだろうと思いながら、「で、劇の方はどんな感じなの?」と続けて問えば、こんどはにやにやと謎に満ちた笑みを浮かべ、すでに言いだしっぺの「部長」さんが粗筋だけは考えていて、登場人物は白雪姫とかぐや姫と不思議の国のアリスなどなど、だという。予算は5万円で、ネットで探した素敵な衣装だけはもう決まっている。それだけ言ったら、お父さん、わかるでしょ。みんながどんな劇をやりたいか。でもわたしね、それでいいの。あれこれ言い争いをすることなく、みんなで仲良く愉しくやれたら、それで充分なの。配役もその場で決まって、子は音響を担当することになったそうだ。「部長」さんとラインも交換したので、これから書く脚本もあるいは手伝うこともあるかも知れない。とにかく練習日は4日間しかない。「たったの4日!」 驚く父の前で浄土にいる仏陀のように子は微笑んでいる。
「お父さんにあの話をしてあげてよ、紫乃」 こんどはつれあいが言う。 あらかた話がついてから、「部長」さんが買ってきたミスター・ドーナツのドーナッツ・ポップ(ミニドーナツの詰め合わせ)が配られた。みんながドーナッツを食べながら雑談するのを眺めながら、子の横にいた「部長」さんが、わたし、みんなとこんなふうにするのがずっと夢だったんだ・・ とつぶやいたそうだ。「ねえ。なみだが出てくるでしょ」と、つれあいは早くも泣き顔になっている。
しんじられないくらい純真な子ばかりだ、と子は言う。みんな、ふつうの学校が耐えられなくて、ここへ集まった。とても素敵な出会いではないか。
夜はお祝いのケーキを囲んで、徒歩5分圏内のわたしの母と妹夫婦が集まって、子の希望でみなでトランプ・ゲームで遊んだ。大貧民の子が大富豪にのし上がる結末で。
残り2年半の高校生活を、いままでの分も取り返して、愉しいことばかりしろよ。その夜、わたしが子に言ったのはそれだけ。
2016.9.21
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今夜は奥飛騨のみやげに買って帰った朴葉味噌が夕飯。ほんとうは炭火で焼いたら旨いんだろうけど、今回はレンジでふたつのフライパンの上で(朴葉二枚付き)。フライパンにクッキングシートを敷き、その上に載せた朴葉に付属の味噌を伸ばし、具材(豚肉、白ネギ、しめじ、エリンギ、人参、白菜)を盛って、蓋をして中火でしばらく。無然の愛したあの山村の景色を思い出しながら、最後はご飯にのっけて食べた。
「飛騨地方の山林に多く自生する朴の葉は殺菌作用があるといわれ、古くからお盆には朴葉餅にして食べられていました。餅も傷みにくく焼いて食べると朴の良い香りが移りおいしかったのです。
厳寒の冬場になるとどの家庭も自家製の味噌や漬物くらいしかなく、凍った漬物と味噌を朴葉にのせて焼いてご飯のおかずとして食べたのが、朴葉味噌のはじまりと言われます。」▼飛騨地方の名物【朴葉味噌】 初めてでもできる作り方を伝授♪ https://cafy.jp/36112
2016.9.23
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雨月物語(英語版)の頁にはさまっていたのを偶然、娘が見つけた。20代のわたしが書いてはさんだものだ。
おまえたち、わが絃(いと)よ。“かの者”に従うがよい
わが歌は“かの者”とともに生きる。
流れの行方に泉の従うがごとく
私は行かねばならぬ。彼の思いの向く方(かた)へ。
そしてその確かな者に従いつつ、私は迷路(まよいじ)を辿るのだ。
(ヘルダーリン)
「大丈夫、お父さん? ちょっと中二病が入ってるよ」 「ヘルダーリンは中二病か!」
大丈夫。父はこの歌の示すように生きてきたつもり。そうしていま、おまえといる。
2016.9.24
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母の希望で、母方の祖父母の出身地である和歌山県の飛び地、北山村へ妹を加えた三人で。
赤木城跡は太閤検地などの厳しい支配に立ち上がった奥熊野の地侍や修験者たちの一揆を制圧する拠点として藤堂高虎が築いた山城。
方や捕らえられ近くの田平子峠で斬首された一揆側三百数十人に及ぶというが、昭和40年代にやっと建てられたかれらの供養碑は注意しなければ通りすぎてしまいそうな場所にひっそりと建つ。「罪を犯した者を処罰した」としか記されていない城跡の解説板にくらべて、敗者の悲憤をまっすぐに綴った碑文はこころを打つ。「ともかく打続く凶作と飢饉のため、日々食べることに精一杯だったわが郷土の人々にとっては、まったくやむにやまれぬ戦いだったに違いありませぬ。だがそれからおよそ四百年、こうした戦いのためにあたら一命を捧げた私たち先祖の苦しい心境も理解されることなく、殆ど世に忘れられ見捨てられているのは、直に痛ましく口惜しい限りであります。」
東京大空襲のすこし前に母が祖母と疎開して数年を暮らした北山村大沼では祖父母のそれぞれの本家の墓を参った。といっても祖母は生活のための無理な荷役仕事がたたって終戦後にここで亡くなってここに一度葬られている。墓地から山際の細い道をたどる母が暮らしていた家。見覚えのある遠い親類宅とおぼしき家に突撃インタビューする母。
今夜は村内に数年前にできたおくとろ温泉・山のやどに宿泊。熊野牛とバイキングの夕飯、ほとんど貸し切りの露天風呂。
2016.9.30
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一見どこぞのペンションのようなタッチの「英国人兵士墓地」の看板を見つけたのは、今回の“母の古里を訪ねる旅”の途中、北山村から瀞八丁を経て熊野市の紀和町へ足を踏み入れた道の端だった。紀伊半島の山深いこんな山村と「英国人兵士墓地」という組み合わせに軽い興味を覚えて、わたしは思わず車をユーターンさせた。低い白亜の囲みと赤煉瓦が敷き詰められたきれいな「墓」だった。戦争中に捕虜として近くの鉱山で働かされていた英国人300人のうち、ここで亡くなった16人が葬られているという。
ところが帰宅して Web でこの「英国人兵士墓地」を調べていくと、さまざまな疑惑がこの「英国人兵士墓地」にあることが分かってきた。英国人兵士はたしかにここで亡くなったが、元々の埋葬地から戦後、横浜市の英連邦墓地に移設されたこと。同時に、300人の英国人以外に当時この紀州鉱山では「千人以上の朝鮮人が強制労働させられ、32人の朝鮮人が亡くなったことが確認されている」こと。そして紀州鉱山での朝鮮人強制労働の実態を告発する人たち、またおなじ熊野市木本で、トンネル工事に従事させられていた二人の若い朝鮮人が住民たちによって虐殺された事件の碑の建立を目指す人々の活動があることなどを改めて知らされたのだった。
瀟洒な「英国人兵士墓地」から見えてくるのは、相も変らぬ、この国の鵺(ぬえ)のような仄暗くとらえようのない闇だ。
▼現地の説明版
「 史跡 外人墓地 紀和町指定文化財
昭和19年6月18日、軍務局からマレー方面で捕虜となった英兵300人が配置され、軍の監視のもとに現在地付近に収容、大半は坑内作業に、一部選鉱場や農地の開墾などに従事しましたが、これらの人々は、イギリス人としての自尊心と教養を持っており、仕事ぶりも能率的であり、収容所内での生活も紳士的でありました。
しかし、異国に囚われの身となった寂しさと不安、戦地においての罹病りびょうが原因となって、昭和20年8月終戦と同時に解散するまでに16人が死亡し、本国への帰還者は284人でありました。
墓誌にはつぎのように刻まれています。
「神のより偉大なる栄光のもとに、1941年から1945年の戦争中、板屋あるいはその付近にて逝去せる英国軍兵士を追憶して、」
昭和62年6月吉日
紀和町教育委員会 」▼紀和町史
英国軍捕虜と紀和町
入鹿(板屋)の山麓にある墓地、十字架の下に「偉大なる神の栄光と英国兵の記念のために 彼等は一九四一年〜一九四五年の戦争で日本国板屋付近で亡くなった英国軍隊の男たちの思い出を」と銅板に刻んだ墓碑があり、そこにはハント・ジェイムズ(Hunt James)通信兵団信号手外一五名の兵士が、はるかな異郷の地で永遠の眠りについている。
一九八九年一月三日、当時の捕虜であったジョー・カミングス(Cummings)からマーフィー(Murphy日本在住)神父へのに便りによると、彼等は昭和十七年(一九四二)二月十五日、シンガポール攻防戦で日本軍の捕虜となり、同年十一月下旬から十八年十月中旬まで、タイ領ノンプラドックからケオノイ川(別名クワイ川)に沿って、大ジャングルを北西に進み、国境を越えてビルマ領(現・ミャンマー)に至る、全長四一六キロメートルの泰緬鉄道の建設に従事させられた。
この鉄道建設に従事したのは、日本軍の鉄道連隊の将兵、一万四〇〇〇人、連合軍捕虜、五万五〇〇〇人、現地人労働者、六万人から九万人にものぼり、ジャングルを切り開き、岩盤を破砕するなどの難工箏が休みく続けられた。そのため、日本兵一〇〇〇人。連合軍捕虜一万三〇〇〇人、現地労働者三万三〇〇〇人、計四万七〇〇〇人もの犠牲老を出したため「死の鉄道」とも呼ばれ、戦後、国際法に違犯するものとして、捕虜虐待の責任が厳しく問われたところである(二河通夫氏『熊野誌』三十七号)
昭和十九年一一九四四一五月初旬にタイを後にして、三〇〇人単位の部隊に編成されたイギリス兵は、輸送船で、シンガポールを出港、途中マニラ(フィリピン)、台湾に立ちより、奇跡的に、米軍潜水艦の攻撃を避けながら門司を経て下関に到着した。上陸後は鉄道で大阪.名古屋.板屋へとたどり着いた。
同年六月十八日、度重なる移送で、疲労困憊の極に足した捕虜たちが、板屋選鑛場の西側に建てられた所山収容所に紀州鉱山の労働不足解消と、生産増強のために、軍監督下の基で配置されてきたのである。
当時、住民は捕虜に対する複雑な信条の中にありながら、温情をもってよく世話し、極度の食糧不足にもかかわらず、主食は最低割あて量を確保し、野菜等の供出にも積極的に協力した、という多くの美談が残されている。元捕虜、スタンリー・キィリック(S.R.J.Killick英国南部サザンプトン在住)から久保幸一教育長に届いた便りによると、「昭和十九年七月九日より鉱山での仕事が始まり、大半は坑内作業に、ごく一部は近辺の開墾に従事した。スケジュールは、朝七時には収容所を出て、昼食は十一時から十二時まで、三時ごろに仕事を終えて、五時十五分に収容所に戻ってきた。しかし九月一日からは、昼勤と夜勤の二交替制となり、夜勤組は午後四時ごろ、収容所を出て、真夜中に戻ってきた。休日は二週間ごとにあった。休日とはいえ外に出て運動することもなく、もっぼら読書やトランプ遊び、おしゃべりがささやかな楽しみであった」という。
彼らはこの静かな異郷の地に捕らわれの身であるとはいえ、その行動は常にイギリス紳士として誇り高く、住民にとっても学ぶべきものが多かったと伝えられている。昭和二十年(一九四五)八月十五目、正午、日本国の降伏、連合軍の勝利を知るとともに収容所内外に歓喜が満ち溢れ、彼等が村内を闇歩する姿を住民は戸を閉じて、そのすき間から眺め、不安の時を過ごした、という。
紀和町史 下巻409〜411頁より 」
http://www.kumadoco.net/dictionary/report.php?no=206▼「英国人墓地」というものはなにか
「英国人墓地」についての質問にたいする熊野市の回答文をみますと、何点かの疑問点が浮かんできます。
■疑問点1.「英国人墓地に灰を埋めた」と言われている灰について
紀州鉱山の真実を明らかにする会が、2009年9月11日付で熊野市にたいして質問した「『史跡 英国人墓地』にイギリス兵の遺骨は埋葬されていますか」について、2009年10月16日付の熊野市の回答は、「第2次世界大戦中に旧紀和町で亡くなられた16名の英国人捕虜の方を埋葬していた場所にあったイギリス兵の遺骨は、戦後、横浜市の英連邦墓地に移設されており、現在の英国人墓地には埋葬されておりません。また、1981年(原文「元号」使用)頃に現在地に移設する際に、元の場所を重機で掘り起こしたところ壺が発見され、中に灰が入っていたため、壺を割って現在の英国人墓地に灰を埋めたと聞いております」となっています。
この回答では、「現在の英国人墓地には埋葬されておりません」と断定しながら、「壺を割って現在の英国人墓地に灰を埋めたと聞いております」と伝言形式で記述されているため、私たちは再度、2010年2月1日付で、「現在の英国人墓地“に埋められているという灰”は、イギリス兵の遺骨の灰ですか」と質問しましたが、今になっても熊野市はこの質問に答えようとしません。
1965年に文化財指定し、1981年に移設され、1987年に所有者が変更されているのですから、熊野市文化財保護条例にもとづき、「移設」と「所有者の変更」にともなう適切な措置が講じられなければなりません。この灰“が、なぜイギリス兵の遺骨の灰”であると答えることができないのか、この点について、熊野市に明らかにしてほしいと思います。
■疑問点2.「史跡 外人墓地 紀和町指定文化財」の碑の建立に、熊野市(旧紀和町)はまったく関与しなかったのでしょうか。
「史跡 外人墓地 紀和町指定文化財」と題された碑の最後の行に、「1987年6月(原文「元号」使用)吉日 紀和町教育委員会」と刻まれています。
熊野市が答えるように「1981年に紀和町の住民の方が個人で作ったもの」であったとしても、1987年6月の碑の建立に熊野市(旧紀和町)が、まったく関与していないということは考えにくいことです。
この碑を見るかぎり紀和町がかかわったと判断されることから、このことについても、私たちは2010年2月1日付で、再度、熊野市に「この碑文に『紀和町教育委員会』と署名されていますが、この碑の建立には、紀和町教育委員会は、まった関与していなかったのですか」という質問をしましたが、熊野市は答えようとしません。
関与したことが明らかになると「紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑」の建立は公共性を有しないと主張する熊野市みずからの基盤が維持できないからなのでしょうか。
ぜひ、熊野市にこの質問にも答えてもらいたいと思います。
竹本 昇
■補記
「 熊野市指定文化財「英国人墓地」についての紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する会が、2009年9月11に熊野市市長と教育長におこなった9項目の質問全文と、それにたいする10月16日付けの熊野市濱口幸治熊野市教育委員会社会教育課長からの回答の全文は、『会報』第52号・第7号(2009年11月4日発行)に掲載してあります。
「英国人墓地」の碑文版には、「神のより偉大な栄光のもとに、1941年から1945年の戦争中、ここ板屋、あるいはその附近で逝去した英国兵士を追想して」という意味の追悼文がイングランド語で記されています。この碑文は、この「英国兵墓地」が、「墓地」ではないことを示しています。
それにもかかわらず、『紀和町史』下巻(1993年3月、紀和町発行)には、「英国人16名の霊が眠る墓地(所山)」という写真が掲載されており、「16名は、異郷で故郷の空を慕いながら寂しく病没した。現在所山の英国兵墓地に葬られ十字架の墓標の下に眠っている」と書かれています。
熊野市は、「英国人墓地」を「1981年に紀和町の住民の方が個人で作ったもの」と言っていますが、すでに1965年に文化財指定されているのであって、「個人で作った」という説明はなりたちません。「英国人墓地」問題には、さまざまな虚偽が内包されています。」
http://blog.goo.ne.jp/ki…/e/1b930c47c6a40404f8866320b1d813b8▼追悼碑除幕 来年3月 紀州鉱山(asahi.com)
「 「紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する会」の集会が6日、津市桜橋2丁目の県教育文化会館であった。県内外から45人が参加。熊野 市で来年3月に追悼碑の除幕式をすることが報告され、史跡「英国人墓地」に朝鮮人の遺骨が埋葬されている可能性があることについても話し合った。
同会によると、熊野市紀和町板屋にあった紀州鉱山では40〜45年、千人以上の朝鮮人が強制労働させられ、32人の朝鮮人が亡くなったことが確認されているという。
同会は08年8月、「在日本大韓民国民団県地方本部」「在日本朝鮮人総連合会県本部」「紀州鉱山の真実を明らかにする会」の3団体で発足。同市に紀州鉱 山跡地の提供を求めたが拒否されて今年7月、熊野市紀和町鉱山資料館近くの土地約200平方メートルを買い上げた。来年3月28日に除幕式を開く予定で、 集会では碑文の内容を検討した。
また、市指定文化財「史跡英国人墓地」についても議論。熊野市と紀和町が05年に合併した際、史跡の名前を「外人墓地」から「英国人墓 地」に変更したことや、集会に招かれた「戦争捕虜研究会」のメンバーの女性が、紀州鉱山で働いていた男性から「外人墓地の近くに朝鮮人を埋葬した」との証 言を得たことが報告された。建立する会の竹本昇さんは「仮に朝鮮人の骨があるのなら、(強制労働で朝鮮人が亡くなったという)歴史の事実が隠されているこ とになる」と憤った。熊野市に公開質問状を送ることも検討している。 」
http://www.linelabo.com/han/hanhan/asahi20090907news.htm▼木本虐殺(熊野虐殺)80年後
「関東大虐殺の2年4か月後、1926年1月3日に、熊野地域に住む日本人が、集団で朝鮮人労働者を襲撃し、李基允さんと相度さんを、銃剣や鳶口[トビクチ]などを使って惨殺した。
それから80年。いまなお、熊野市(当時、木本町とその周辺の村落)と熊野市教育委員会は、この虐殺を「まことに素朴な愛町心の発露」としている。それが、いまの日本。
木本トンネルの道をたどって、日本の他国他地域侵略の歴史を、さらに追及していきたい。
■“大逆事件”の時代
追悼碑を建立する会(準備会)が発足したのは、1988年9月11日だった。そして、1994年11月20日に、追悼碑除幕。
1997年9月25日に、李基允さんと相度さんを追悼する碑から20キロほど南にある新宮市南谷墓地に「高木顕明師顕彰碑」が建てられた。
2003年7月20日、新宮市内に、紀州・熊野地域に関係が深い“大逆事件”犠牲者6人、大石誠之助さん、成石平四郎さん、成石勘三郎さん、高木顕明さん、峯尾節堂さん、久保誓一さんの「顕彰碑」が建てられた。
大石誠之助さんと成石平四郎さんは1911年1月24日に絞首され、高木顕明さんは1914年6月24日に秋田監獄で自殺し、峯尾節堂さんは1919年3月6日に千葉監獄で獄死し、成石勘三郎さんは1929年5月に長崎刑務所から仮出獄し1931年1月に病死し、久保誓一さんは1929年4月に秋田刑務所から仮出獄し1955年10月に病死した。
60年前、1946年11月3日、「明治天皇」の誕生日に、ヒロヒトの名で、「日本国憲法」が公布され、その半年後に施行された。その時から、戦犯ヒロヒトが、「日本国」と「日本国民統合」の象徴となった。
「大逆罪」は、1947年になくなったが、天皇制は廃絶されていない。
「大逆罪」は日本刑法から削除されたが、“大逆事件”の時代は終わっていない。
“大逆事件”の再審請求を最高裁は、1967年に最終的棄却し、いまも、国民国家日本は、26人を「有罪」としたままである。
■「素朴な愛町心の発露」
1983年に熊野市が発行した『熊野市史』中巻には、住民が朝鮮人を襲撃・虐殺したことが、「木本町民としてはまことに素朴な愛町心の発露であった」と書かれている。
追悼碑を建立する会は、1989年6月4日の創立集会の翌日、熊野市に『熊野市史』の書きかえを求め、それ以後、これまで17年間、求めつづけてきた。
だが、熊野市も熊野市教育委員会も、拒否しつづけている。
木本トンネルは、地域住民の生活を便利にするためのものであった。そのトンネルを遠い朝鮮から来て掘っていた朝鮮人労働者を、地域の住民が集団で襲撃し、ふたりを虐殺した。在郷軍人、消防組員らを中心とする住民集団は、2人の朝鮮人を虐殺したあと、警察官らとともに、襲撃を逃れようとした朝鮮人を捕まえようとして、徹夜で山狩りした。
その事実を、「まことに素朴な愛町心の発露」とする『熊野市史』の書きかえを求めようとする熊野市民は、少ない。
『熊野市史』中巻には、「南京占領の報道が伝わると、国民は一入〔ひとしお〕感激し、町や村で祝賀会が続いた」と書かれているが、南京大虐殺については、なにも書かれていない。『熊野市史』上巻には、「熊野の古代史を見るとき、神武天皇を除いて考えることはできない」と書かれている。『熊野市史』は、天皇制を肯定し、他国他地域侵略を肯定する立場で書かれている。
これは、『熊野市史』だけの問題ではない。
■追悼碑は一つの根拠地
12年まえ、碑文のおわりに、わたしたちは、こう書いた。「わたしたちは、ふたたび故郷にかえることのことのできなかった無念の心をわずかでもなぐさめ、二人の虐殺の歴史的原因と責任をあきらかにするための一歩として、この碑を建立しました」。
紀州・熊野地域の人たち、おおくの人たちとともに、つぎの一歩を!
佐藤正人記 」
http://blog.goo.ne.jp/ki…/e/46c0bb134cad7b80c23224069a570703▼紀州鉱山の真実を明らかにする会
「 抗議・要請
2015年11月8日
熊野市長河上敢二さま
熊野市教育長倉本勝也さま
紀州鉱山の真実を明らかにする会
第8回追悼集会参加者一同
わたしたちは、1997年2月の会の結成以来、朝鮮から紀州鉱山に連行され過酷な労働を強いられた1000人以上に及ぶ朝鮮人労働者の歴史について調査を進めてきました。そして2010年3月に紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立し、それ以降毎年追悼集会を開催して、本日、8回目の追悼集会を迎えました。
今回の追悼集会には、紀州鉱山で働かされた朝鮮人の出身地のひとつである慶尚北道の道議会のみなさんが参加されました。紀州鉱山に連行され労働を強いられ犠牲となった朝鮮人の韓国の遺族のかたがた、そしてその出身地の地域や議会がこの追悼集会に強い関心のまなざしを向けています。
当会が独自に調査を進めた結果、これまでのところ、少なくても朝鮮人労働者とその家族35名が紀州鉱山で亡くなったことが明らかになっています。しかし、この35名の方の遺骨の所在も、死亡の状況や原因についてもほとんどわかっていません。
わたしたちは旧紀和町、そして熊野市がこれらの朝鮮人の追悼碑の建立に取り組むよう働きかけてきましたが、貴職らは誠実に応答しませんでした。
わたしたちはやむなく、会で独自に土地を確保し、追悼碑を建立して、2010年3月28日に除幕集会を開催しました。ところが、この土地に対して、熊野市長は固定資産税を求めてきました。
熊野市への朝鮮人強制連行、熊野市での朝鮮人強制労働という歴史について、熊野市が責任をもってその事実を究明し、犠牲者を追悼することは当然のことであるにもかかわらず、貴職はその責務をはたさないばかりか、市民団体が心ある多くの人びとの寄金によって入手した追悼碑の土地に課税をするという、無恥で理不尽なことをしました。」
http://www.kisyukouzansinjitu.org/index.html▼「三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者
(イギユン・ペサンド)の追悼碑を建立する会」
「 1926年1月3日、イ・ギユン氏とペ・サンド氏は三重県木本(現熊野市)の住民に集団で襲われ、殺されました。イギユン氏は25歳、ペ・サンド氏は29歳でした。2人は朝鮮独立の日を生きて迎えることなく、虐殺されたのです。
当時木本では三重県の県道改修30ヶ年計画の最初の事業としてトンネル建設工事が行われ、遠く朝鮮から数十人の朝鮮人が家族とともに働きに来ていました。 1月2日夜、ささいなことをきっかけとして、一人の日本人が朝鮮人労働者に日本刀で切りつけ、重傷を負わせたのが事件の発端です。翌3日、木本の住民の間には朝鮮人が復讐のために襲ってくるというデマが流れ、このデマに乗って消防組を中心とした木本の住民は朝鮮人労働者を襲撃し、彼らの飯場を破壊しつくしました。
イ・ギユン氏は、それらの日本人に立ち向かっていき、虐殺されたのです。その後、在郷軍人らを中心とする日本人住民は、銃剣や日本刀を持って、山側に避難した労働者をさらに追撃しようとしたのです。これに対し、朝鮮人労働者はダイナマイトなどを投げ、防戦しました。このとき同じ工事現場で働いていた日本人労働者(林林一、高橋万次郎、杉浦新吉ら)も日本人住民の集団暴行に対して、朝鮮人労働者とともに闘いました。
ダイナマイトによる反撃を受けた日本人住民は、イギユン氏を虐殺した地点のすぐ近くで、ペサンドを虐殺しました。当時、調査のために木本に入った三重県水平委員長の上田音市は、二人について、「後より鳶口(トビクチ)で突き立てられ、ナブリ殺しによって3日も路上に捨て置かれたという」と報告しています。(『水平新聞』1926年3月15日)。二人の朝鮮人のいのちを断ち切った日本人住民は、遺体までもきわめて粗末に扱ったのです。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~kinomoto/index.html▼前英兵極東捕虜達に随行して | ホームズ恵子 (アガペ財団)
「多くの困難を乗り越えて、また祈りつづけることによって、26人のFEPOWsと2人の奥さんを紀和町にお連れすることが出来ました。多くのFEPOWs は飛行機の中でも自分たちのしていることに自信がありませんでした。彼らの友が彼らを「裏切り者」と呼んだのです。彼らの心は日本人にたいするいろんな感 情でいっぱいでした。
それでも私たちが熊野市の駅に降り立ったとき、町じゅうが皆を待っていました。人々はユニオンジャックの旗を振り、花束を手にしていました。ひとりの女の子が着物を着ていました。まるで家族が再会したように、2つの国民がお互いの腕の中にひとつに溶け合ってゆきました。日本の人たちは非常に喜び興奮してい ました。墓地で私たちは感動的な追悼式を行いました。300人ほどが集まりました。
追悼式の前の日は土砂降りでしたが、式典の日はすばらしい秋晴れでした。数人のFEPOWsが式典の後で私に言いました。「恵子、昨日の雨は私たちの涙 だったんだよ。雨が私たちの恐ろしい記憶を、憎しみを、そして痛みを、洗い流してくれたんだよ。重荷が取り去られて今は喜びが溢れているよ。日本人に対し て愛さえ感じ始めているよ」と。
英国に帰ったFEPOWsは、もう悪夢にうなされなくなりました。そしてどんなにアガペの活動に感謝しているか知れないと言うのでした。また彼らは私にこの活動を続けるようにと、特にタイやその他の東南アジアの国々で辛苦を嘗め尽くした人たちのために、と頼むのでした。
1992年からアガペは多くの人々や団体の協力を得て、「心の癒しと和解の旅」を続けてきました。これまでに約300人ほどの家族を交えたFEPOWsが 日本を訪問しました。彼らは戦友の墓を訪れたり、日本人に会ったり、また日本人の家に泊まり、お互いの経験話をしたり、日本の学校や大学を訪れます。人々 は彼らの戦争経験を熱心に知りたがります。旧日本兵が追悼式に参列し過去を詫びることもしばしばで、これがFEPOWsにとって一番心が癒されることなの です。
1998年に私は英国女王からウインザー城で、OBE(英国第四級勲功章)をさずかりました。女王はアガペの活動に非常に興味を示され、息子や私と15分 お話されました。彼女はたいへん親切で、アガペの活動を非常に喜んでくださり、この活動が末永く成功するよう、とお言葉をくださいました。 」
https://sites.google.com/s…/dlgnji4jp/programmas/conf03/6hol▼紀和町のLITTLE BRITAIN(元捕虜たちの墓地)がきれいによみがえりました!!
http://www.agapeworldjp.org/news/pdfs/2014-06.pdf2016.10.02
*
休日の今朝のわが家の話題はこの電通新入社員の自殺記事。学校が始まってから夜は10時にはベッドに入って、朝はきっちり起きてシャワーを浴びてきた娘に「この子もおまえのように“嫌だっ!”と言えたらよかったのにな」と新聞を手渡したのがはじまりで。
「この人はね、たぶん責任感がとっても強いタイプだったと思うな。そういう人こそ、ここ以外にはないっていう暗示にかかっちゃうんだよね」
「おまえは違かったの?」
「わたしはほら、どこかのほほんとしたタイプだから、それほど暗示がつよくなかったのかも知れない(^^)」
「こころのどこか隙間に“ここではないどこか”という鍵が置いとける場所が残っていたらよかったんだろうけど、この子にはそんな余裕のカケラもなかったんだろうな。」
「会社の寮に住んでいたみたいだしね。とにかくね、会社が寮なんかつくっちゃいけないよ!」
▼「いのちより大切な仕事はない」 電通過労死社員の遺族(朝日デジタル)
http://digital.asahi.com/articles/ASJB82FG7JB8UBQU007.html…▼まつり @matsuririri
https://twitter.com/matsuririri
現代の涅槃経、と思った。
昨日初めてOG訪問を受けて、ひどい二日酔いと寝不足で気持ち悪い中フォーの汁だけをすすりながら話したんだけど、志望理由が「なんか華やかな業界なので憧れてます」とか言う学生に対して現実を見せつけた感あった。最近失恋しかけてメンタルずたずただったんだけど何とか持ちこたえて生きていますという報告と、この前年俸制の彼の休日出勤手当を時給換算してもらったら私の残業代の25倍だったので、この人は労働市場で私の25倍以上の価値がある…と全身全霊のリスペクトを以って関係修復に励んでいる。学生時代の私はあんなにいきいきしていたのにこんなことになるなんて、社会は。半年間えらかったね、もう働かなくていいよ、つって50くらいのバツイチのお金持ちおっさん(ハゲでも可)に求婚されて専業主婦になって飼われるように暮らしてえな。東大卒だけど。12年くらい前に広島のおばあちゃんちの近くのスーパーで買った50円のパンツ履いて大都心で残業している23歳総合職女子が私です。なんで体育会系人材が引っ張りだこなのか分かった。。「自主練」も「しごき」も「ベンチに入れない」ことも大丈夫だからだよね。だけど、これが仕事となるとまた別で、エセ体育会系人間は潰れてナチュラルボーン体育会系人間は生き残っていく。入社2年目になれた暁には、1年間で蓄積した先輩に言われて辛かった言葉やお叱りの言葉といった知見をフルに活用して、フリースタイルラップの世界でdisりの女王になるよ。社会人になって恋人と同棲してたり実家で毎日ママに良い子良い子してもらったりといった、精神的に赤ちゃん男子・女子には税金を課せ。こちとら毎日馬鹿であることを恥じて生きている一方で、馬鹿であることを惜しげもなく暴露できる人間は強い。眠りたい以外の感情を失った 誰もが朝の4時退勤とか徹夜とかしてる中で新入社員が眠いとか疲れたとか言えない雰囲気なので、火事とか地震の時でも逃げることに罪悪感覚えて最期までPCの前にかじりついて死ぬやつだわ。 自分よりかわいそうな人の話なら喜んで聞きます 座右の銘「ブラックかブラックでないかの違いは、残業時間の長さではない。残業代が出るか出ないかだ。」死因:愛のある指導 非常事態宣言@が発動され、転職サイトに登録。彼氏と別れて最悪な気持ちでも、これから会社に行けば終わることのない仕事が待ってると思うと気が楽…。きっつい仕事しててよかった。わたしがこんなにえぐっているのに、おうちご飯の写真をFBにアップしている同期がいるの、まじで信じられない。。なんでだよ! やっぱり何日も寝られないくらいの労働量はおかしすぎる。感謝取消。二徹して作った自作の資料が全くダメだと言われたのだけれど、直してみて良かったらクライアントへ持っていこうということになり、休日出勤も厭わないやる気が出てきた私は社畜の才能が有り余ってる 残業代のおかげで、入社7ヶ月目のお給料は初任給の1.5倍になりました🎊圧倒的成長🙌🏻😊💕 「年次の壁は海よりも深い」という村の掟みたいな社風を忘れて年の近い先輩に馴れ馴れしい口を聞いて怒りを買ってしまい、わたしの精神がまた傷ついてしまった。部長「君の残業時間の20時間は会社にとって無駄」「会議中に眠そうな顔をするのは管理ができていない」「髪ボサボサ、目が充血したまま出勤するな」「今の業務量で辛いのはキャパがなさすぎる」わたし「充血もだめなの?」日曜日も弊社は輝いている 優しかったり面白かったり超仕事できたり後輩や同僚思いだったりする先輩や同期も、たまにプライベートが垣間見えることがあって、仕事が終われば女の子を弄んだり泣かしたりしているいわゆるところの「広告マン」なんだなぁと思うと切ない気持ちになる。いくら年功序列だ、役職についてるんだって言ってもさ、常識を外れたこと言ったらだめだよね。人を意味もなく傷つけるのはだめだよね。おじさんになっても気がつかないのは本当にだめだよね。だめなおじさんだらけ。生きるために働いているのか、働くために生きているのか分からなくなってからが人生。土日も出勤しなければならないことがまた決定し、本気で死んでしまいたい。がんばれると思ってたのに予想外に早くつぶれてしまって自己嫌悪だな。就活してる学生に伝えたいこととは、仕事は楽しい遊びやバイトと違って一生続く「労働」であり、合わなかった場合は精神や体力が毎日磨耗していく可能性があるということ。。働きたくないとかじゃなくて、朝起きたくない。好きな時に泊めてくれるし、多くはないけどタクシー代もくれる。毎日なかなか帰らしてくれないし、頭でついつい考えちゃう今の私のすべて❤️それが会社(^-^) 人生が辛すぎるので、高校の時の彼氏を夢に出すために明晰夢の練習をしています。一刻も早く寿退社できますように。死にたいと思いながらこんなにストレスフルな毎日を乗り越えた先に何が残るんだろうか。1日20時間とか会社にいるともはや何のために生きてるのか分からなくなって笑けてくるな。
2016.10.08
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夏の残り陽のような秋晴れの西宮神社境内は蒸し暑かった。かつて傀儡子たちが集っていた散所(産所)町に祀られていたという百太夫の祠に挨拶をする。近くのベンチに腰を下ろして空と梢のあわいを眺めていたら、赤ん坊をかかえた宮参りの家族が巫女に連れられて百太夫の祠の前で拝礼をするのが見えた。艶やかな産着につつまれた赤ん坊はかつて傀儡子たちの操っていた人形のようだ。立ち上がり夙川の方向へ、はるさんの個展を覗きに行く。傀儡子たちの町は江戸の中ごろにはすでに廃れたという。かれらはどこへいってしまったのだろう。中上健次の小説のように、巨大なトレーラーにいにしえの老婆たちを乗せて探しにいきたい思いに駆られる。 「どこにでもある」 画家の眼は地面に降りてきた。わたしはしばらく焦点が合わなかった。ピンクの家があり、夢を喰うバクが佇み、緑色に身をつつんだ少女たちがおしゃべりし、天眼鏡をかざす老婆があり、若きゴッホの描いた炭鉱夫のような農民がいた。傀儡子たちはどこへいってしまったのか。来し方を忘却したあのさすらいの楽士たちは? かれらを見つけたのは大きな「祝い人」の両端だった。どちらもおなじ朱のなかにいて、右側の漂泊の楽士がいまは引退して居をかまえたのが左の雨があがったとコウモリ傘をすぼめて空を仰ぎ見る初老の人物なのだと気づいたら、画廊に並んだ華やかな(そして)つましい色につつまれた他の作品たちもさながら熊野旧社地で一遍に次々と現れてはまとわりつくまぼろしの童子たちのように、自然と寄りそってきた。画家の眼は地面に降りて、同時に山川草木に遍(あまね)くちらばって、やがて足元の小石や植物たちがおなじように地面に降り立った傀儡子や楽士たちのように仄かに光かがやくのだろうと思う。そんな空想をすることがたのしかった。夙川の駅の近くのしゃれた洋食屋に移動して、画家とそんなあれこれの話もまじえながら上等なハンバーグとビールに舌鼓をうったのもたのしかった。
2016.10.09
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娘がいまはまっているアメリカの80年代のテレビドラマ「フルハウス(Full House)」にはときおり往年のロック・アーティストたちが登場して演奏してくれる。「お父さん、リトル・リチャードって知ってる?」と娘がわたしの書斎へ来たのは Keep On Knockin だった。お次はエルヴィスときた。Teddy Bear をきっかけに二枚組みの Sunrise を貸してあげた。そして先日はビーチ・ボーイズの Help Me Rhonda である。まずはベスト盤を一枚、ついで2012年の That's Why God Made The Radio、それを堪能したらブライアンのソロを渡してあげようかなと思っている。娘が音楽をつないでくれるのはとても嬉しい。
生涯初めてのパーマをかけにいった娘を迎えに行ったその足で、歩行者天国と化した柳町商店街「柳神くん祭」を家族三人でぶらぶらとひやかしながら昼食代わりの屋台のツマミ食いを。
「パーマって、はじめてなの?」
「あたりまえでしょ。学校に行ってたら禁止なんだから」
「ああ、そうか。いまの通信制はいいわけね・・」
「パーマも茶髪もお化粧もなんでもあり」
「スバラシイ」先日一族郎党で飲みに行った「俺の家」の唐揚げ、紺屋の横のちょっと高級なイタリアン「OSTERIA ORBETELLO」で大和ポークと吉野しめじのトマトクリームごはんとジンジャーエール、大和郡山育成福祉会ひかり園の手作り味噌をつかったこんにゃく田楽、商工会のわたがし、「ファミリー居酒屋 ほんまや」のパニーニサンド、警察署近く「ハンプサード」の餃子と枝豆と生ビールの“ほろ酔いセット”、それからわたしが餃子で並んでいる間につれあいと娘が食べてしまったきんとっと焼き(たい焼きの金魚版)。
くいもの屋の他にも、服飾品やリサイクル品、古物、中古工具、特産品やら、どじょうすくい、紙芝居、大道芸、マジック、ゴスペル・コンサートなどが既存の商店街の店を囲んで開かれていて、地元の商店街がいつもこれだけ賑わっていたらいいのにな、と思えるような盛況振りであった。つれあいが午後から仕事だったので早めに帰ってきたけれど(それでも一時間、時間給をとっていた)、たまには地元でこんな休日らしい休日もいいか。
昼はこんな感じだったので、夜はみずからトマト・クリーム・パスタを、庭のバジルの生葉を刻みたっぷり放り込んでバケットといっしょに。
▼やなぎまち商店街
https://www.facebook.com/YanagimachiSt/▼俺の家
https://tabelog.com/…/A…/A290202/29007465/dtlrvwlst/4799956/▼OSTERIA ORBETELLO
https://tabelog.com/nara/A2902/A290202/29009275/▼大和郡山育成福祉会ひかり園
http://hikarien.org/sigoto/▼ファミリー居酒屋 ほんまや
https://tabelog.com/nara/A2902/A290202/29006487/▼ハンプサード
https://tabelog.com/nara/A2902/A290202/29001052/2016.10.10
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今宵はこれだな。狂おしいほどの失ったなにかを思い起こさせる。こんな邪心のない歌の前ではわたしの一切は無防備だ。
▼Tom Waits - Widow's Grove - Orphans (Bawlers)
https://www.youtube.com/watch?v=h0kruB1_-9Q
2016.10.11
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ディラン、ノーベル文学賞受賞におけるFB上のカキコ
○38年間365日かれの音楽を聴き続けているわたしにとっては、特段目新しい意味もない。それよりかれが「答えは風に舞っている」と歌って喝采を浴びていた頃より世界は確実に悪くなっているよ。お祭り騒ぎより、そのことについて考え続けようじゃないか。風にさらされながら。なにも始まってもいないし、終わったわけでもない。
○どーでもいいんだけどさっ。ノーベル賞を取ったらCDの注文が百倍増えたとか、そいつらは何なのかね。ディランといえばライク・ア・ローリングストーンとか風に吹かれてだとか若いときよく聞いたとか、おい、おまえら30年以上ディランの新譜なんて買ったことないだろって手合いがコメントしてるのを見るとまったく反吐が出るね。そーいうのがエレキを持ったディランや、ローマ法王の写真を破ったシニード・オコナーにブーイングしたりするわけだ。ファンなど幻想だね。ノーベル賞はもっと幻想。それよりも音楽をちゃんと聞け。聞いて、みずからの臓腑に沈殿させろ。ホントにどーでもいいんだけどさっ。
○だいたいノーベル賞だとか芥川賞だとか紫綬褒章だとか紅白歌合戦だとか、そんな世間の容れ物に踊らされるなというのがディランの歌なんじゃねえのか。マギーズファームを真剣に聞いてきた人間だったら「ディラン、ノーベル文学賞おめでとう!」なんて言わないだろ。日本でもアーティストやいわゆるディラン・ファンを称する著名人がずけずけとそんなことを言っているのを見ると、所詮はこいつらもこの程度だったと底が透けて見えるわ。そんなんだからこの国では仲良くお手手つないで「友よ」を合唱してみんなしれっと立派な企業戦士へと変身するわけだ。自殺した電通ガールが「だめなおじさんたち」と言ってたのも大方そんな手合いじゃねえのか。はやくこの馬鹿騒ぎが通り過ぎて欲しいとオレもディランも願っている。というわけでオレは昨夜からビューティフルなAfter the Gold Rushを聞き続けているよ。
2016.10.14
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インド人はおのれの死期が近づくと日常を捨てて聖地をめぐり、最後はどこかの路上で印をむすんでくたばるそうだ。そんなことを朝の満員電車のなかで真面目に考えた。
2016.10.19
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はからずも、「大逆事件サミット」なるものの末席に参加させていただいた。場所は大阪、地下鉄・南森町駅より南へわずかに下った日本キリスト教団天満教会。幸徳秋水らとともに刑場に散った菅野須賀子が洗礼を受けた教会であるという。そもそもこの「大逆事件サミット」なるものは「(大逆事件の)14都道府県に散らばる26人の犠牲者の人権回復を連携して進めていく場に」と、それぞれ各地で顕彰活動や名誉回復のための活動をされてきた団体に参加を呼びかけて2011年9月、幸徳秋水の古里である四万十市にて第1回が開催されたのがはじまりで、その後2014年に堺利彦の故郷・福岡県みやこ町で第2回が持たれ、今回が5年ぶりの第3回の開催となるらしい。「前回は垂れ幕から“事件”が抜けてしまい“大逆サミット”になっていて慌てましたが、今回は大丈夫のようですね」と笑いをとっていた方もいたが、集まられた150名近くの多くはおそらく60歳〜70歳代の方がメインで、わたしなどはほぼ確実に最年少の部類に入るであろう。このシンポジウムのあとでホテルの会場にて親睦会がもたれ、翌日はフィールド・ワークで菅野須賀子などの足跡をたどられる予定らしい。犠牲者たちの顔ぶれからして、おそらく共産党や旧社会党といった政党がらみの人々も多いのだろうと思われるが、この大政翼賛会めいた現在の状況からすればわたしなどには失礼ながら百年をひっそりと生き延びたアンモナイトたちの秘密結社のようにも思われてしまう。同時によくよく見れば隣の長机で天を仰いで瞑目しているおじさんなどは岩波文化人だったわたしの大好きだったいまは亡き伯父にその風貌が酷似していて、わたしはこのアンモナイトの秘密結社についつい親近感を感じつつあるじぶんもまた同時に発見している。そして個人的にいえば“大逆サミット”でもいいのだろうと思う。わたしは老い先短い老人たちが日本を変えるためにテロさえ辞さずと立ち上がる村上龍のしばらく前の小説を想起したりしたのだった。大逆事件は過去の思い出話じゃないぞ。しっかりといま(現在)につながっている(しかも案外と逼迫している)。であれば、幸徳秋水の女性関係だとか籍を入れたの入れないのだの、そんなことはわたしにはどうでもよい。愛しきアンモナイトたちよ、殻をやぶれ。あなたがたの地道な来歴はずぶりと現在に突き刺さるのか、それとも同窓会的酒宴の席に溶けて翌朝のホテルの小便器に流れていってしまうものなのか。
シンポジストの御三方はわたしは不勉強ながらはじめて知る人ばかりであったが、荒木伝さんは明治期の社会運動研究家としては関西では知る人ぞ知る方らしい。宍戸錠の父親といった風貌のご高齢の方で、荒畑寒村や瀬戸内寂聴さんとも面識が深いとも。井口智子さんは日本キリスト教団の河内松原教会の牧師さんで、同志社大学の修士論文では菅野須賀子とキリスト教について書かれたらしい。しかし、わたしがもっとも惹かれたのは三人目、ジャーナリストの田中伸尚さんであった。笑うとどこか清志郎に似ている。清志郎がもっと長生きして白髪になったらこんなふうな笑顔を見せてくれたかも知れない、と思った。前半はその田中氏の近著「飾らず、偽らず、欺かず 菅野須賀子と伊藤野枝」(岩波書店)の出版にまつわる軽めの話であったが後半、「「記憶の再生」と語りについて」とレジメに書かれた項目についての話は短いものであったけれどわたしのこころを十分に引きつけた。氏は今回の著書を成すにあたって、菅野須賀子が牟婁新報記者をしていた一時期に暮らした和歌山県田辺の町を当時の古い地図を手にして歩き回ったという。そうして「言い古されたことを、じぶんの足でじっさいに歩くことによって、新しい発見があることがある。それをコピペしていくこと」。あるいは田辺からの船に須賀子と同乗して潮待ちの宿でいっしょに風呂に入った10代の女性が残していた手紙が青森で発見されたエピソードを紹介して「そうしたささやかな思い出話によって、既成のイメージを少しづつ壊していくこと」 それがわたしにとっての「記憶の再生」なのだと話され、最後に、亡くなった戯作家の木下順二氏が書いた「沖縄」という作品のなかで登場人物が発する台詞、「どうしてもとり返しのつかないことを、どうしてもとり返すために」。この台詞がすべてだ、と語った。わたしはこれらの話に全面的に同意・共感して、直後の休憩時間に、当初は買うつもりのなかった(^^)著書を手に田中氏の机にならび、サインを頂いてきたのだった。(家に帰ってから改めてWebで調べてみれば靖国、大逆事件、教育現場、不服従、著書のタイトルを並べただけでも何ともぴったりとわたし好みであることか。しかも不思議なことに、一冊も読んでいなかった(笑) )
当時の古い地図を片手に現在の上にマボロシの町を重ねてあるきまわり見えてくるもの、拾い上げるもの、あるいは思わずどこかからひらひらと落ち葉のように舞い下りてくるもの。その土地をあるいて、風になぶられ、日にさらされ、路地裏に迷い込み、すえた家屋のにおいを嗅ぎ、荒れ狂う潮の流れを凝視し、そこからせりあがってくるもの。地面の記憶がここを掘れ、おれたちを探し当てろ、と言ってくる。それがときとして観光案内版に鎮座して色あせた文字を破壊することもある。もとの混沌へと、引きずり倒す。サミットのしめくくりは各地で活動されている方々の短い報告と挨拶だった。東京をはじめ、高知(四万十市)、岡山(井原市)、長野(安曇野市)、広島、福岡(みやこ町)、大阪、和歌山(田辺市・新宮市・本宮町)、京都(丹波市)。加えて真宗大谷派から解放運動推進本部の方、また臨済宗妙心派から人権課の方など、たくさんの人々がこの場に集い、つながっていることに軽い感動を覚えた。百年前に生きて、国家に殺されたものたちの見果てぬ思いが、いまもこれだけの人々の魂を動かし続けている。そして次回はまた数年後に新宮で開催することが発表され、最後に「大逆事件サミット大阪宣言」と題された宣言が読み上げられて(わたしも個人参加の名簿で署名させていただいた)、閉幕となった。会場の出口の箱に放りこんだアンケート用紙にわたしは「若い世代へ引き継ぐ工夫を」と書いた。シンポジウムやその後のシンポジストへの質問の中で「それはまたこの後の懇親会で、お酒を飲みながら」といった言葉を何度か聞いたが、人間の自由のために命を賭して生き死んだものの記憶を現在に呼び起こすのであれば、この素晴らしいサミットもなかば定年退職後の歌声喫茶室になりかけているのではないか。すでにここは限界集落なのではないか。廃村になる前にもっと外へ、さまざまな抑圧の場へ出て行くべきではないか。たとえば洒落たカフェ・ランチのように「英国兵士の墓」とコーティングされた虐殺された朝鮮人墓地に、故郷から遠く離れた地でいまも忌避されている行商の被差別部落の人々の偽りの碑の前に、色あせた観光案内版の文字に反逆したいと叫んでいる記憶はいまも埋もれているはずだ。ホテルの懇親会会場へと移動する和やかな人の波とともに路上に吐き出された。明日の礼拝の告知が目に入った、「暗闇に立たなければ」。 百年前に菅野須賀子はこの教会で何を祈ったのだろう。「作家の井上ひさしは、小林多喜二を主人公にした『組曲虐殺』の中で、一人でも沈黙しなければ継承可能と書いている。絶望から希望へと橋渡しをするのが、沈黙しない精神だ」(田中伸尚) そのまままっすぐ家に帰る気になれなかったので、地下鉄に乗って西成へ移動した。いつもの「雲隆」でお決まりの台湾ラーメンと焼き飯。店内はロシア語らしいアベック、単独の若者、そして日雇い労働者のおっちゃんたちが数名。いつものクールな日本語がたどたどしい女性がじきに運んでくる。厨房の男性が変わってから、ラーメンのわずかな具がさらに少なくなってチャーハンもぱらぱら感がなくなり味は落ちたけれど、まあそんなことも含めてわたしはやっぱりここの台湾ラーメンのセットが関西でいちばん好きだ。 気取りのない、ストレートで、ときに猥雑なこの場所が好きだ。そしてラーメンに浮かぶ黒く焼け焦げた唐辛子を箸でつつきながら、マボロシの田辺の町をあるく若き女性記者の軽やかなステップを夢想した。
▼大逆事件サミット大阪宣言
第1回「大逆事件サミット」は、2011年の「大逆事件100年」事業として、高知県四万十市で開催されました。2014年の福岡県みやこ町での第2回サミット、そして5年後の今年の日本キリスト教団天満教会での第3回サミットの開催、この5年の間に「大逆事件」の真実をあきらかにする活動、犠牲者にたいする名誉回復と顕彰の運動は、全国各地においてますます広がりをみせてきています。「大逆事件」の起点は、堺利彦と幸徳秋水を中心にした平民社の「非戦論」の活動にありました。彼らは人類社会のめざすものとして「自由」「平等」「博愛」の理念を掲げ、政治的自由と参加のための「平民主義」、経済格差の解消のための「社会主義」、戦争の禁絶と軍備の全廃をめざす「平和主義」を主張しました。そして、「人類」の一員としての自覚にたって、人種、宗教、性差別、ナショナリズムの壁をこえる世界との連帯を探求しました。
「大逆事件」は、そのような彼らの主張を圧殺するための明治政府による弾圧の極致でありました。その後の日本は、思想弾圧と海外侵略への道をひたすらに進んでいきます。敗戦から71年、現在の日本政府は、憲法の平和主義を押し破り、基本的人権としての自由に介入し、社会的弱者を痛めつける政策をとり続けています。この時にあたり、森近運平や菅野須賀子たちが、ここ大阪の地において活動した平民社の先駆的運動を思い起こし、あわせて「大逆事件」において犠牲者となった、先の二人をはじめとして「大阪・神戸グループ」とよばれている岡本頴一郎、三浦安太郎、武田九平、岡林寅松、小松丑治らの名誉回復と顕彰とをはかることは、大いに意義あることと考えます。
大阪での第3回「大逆事件サミット」の成功をとおして、「大逆事件」の犠牲者たちの名誉回復と顕彰運動がますます深化し拡大していき、人権弾圧と戦争のない世界を築いていくための力強い運動を継続していくことを宣言します。
2016年10月22日
参加団体(順不同)
・大逆事件の真実をあきらかする会(東京)
・幸徳秋水を顕彰する会(高知・四万十市)
・「大逆事件」の犠牲者を顕彰する会(和歌山・新宮市)
・本宮町「大逆事件」を語り継ぐ会(和歌山・本宮町)
・成石兄弟を語る会(田辺)
・森近運平を括る会(岡山・井原市)
・明科大逆事件を語り推ぐ会(長野・安曇野市)
・平出修研究会(東京)
・真宗大谷派解放運動推進本部(京都)
・臨済妙心寺派(京都)
・京都丹波岩崎革也研究会(京都)
・堺利彦・葉山嘉樹・鶴田知也の三人の偉業を顕彰する会(福岡・みやこ町)
・国際啄木学会(広島)
・「l00年の谺」上映委員会
・治安推持法犠牲者国家賠償要求同盟(大阪、岡山)
・菅野須賀子を顕彰し名誉回復を求める会(大阪)
▼高知新聞 (2011年9月25日)
「大逆事件26人人権回復を 四万十市でサミット 8団体が全国連絡会議」
幸徳秋水ら大逆事件犠牲者の名誉回復や顕彰活動の今後を考える「大逆事件サミット」が24日、四万十市右山五月町の市立中央公民館で開かれ、「大逆事件は国家による犯罪。いまだ十分な人権回復が行われていない現状を打破したい」とする「中村宣言」を承認した。
幸徳秋水刑死100周年記念事業の一環で、実行委(委員長=田中全・四万十市長)が主催。「『大逆事件』犠牲者を顕彰する会」(和歌山県新宮市)や「森近運平を語る会」(岡山県井原市)など、犠牲者の顕彰活動を行う県内外の民間8団体や市民ら約100人が参加した。
サミットでは、各団体がこれまでの活動を報告。今春、大阪市で結成された「『大逆事件』再審検討会」は、宮下太吉らが天皇暗殺を企て作ったとされる爆裂弾の実証試験や供述調書の分析など再審の可能性を模索する活動を紹介。「熊本近代史研究会」は、事件に連座した新美卯一郎ら4人の名誉回復を、出身地の熊本市など3市議会に求める請願活動を始めたことなどを発表した。
その後、司会の山泉進・明治大学副学長=四万十市出身=が「事件の概要は研究が進み、明らかになってきた。これからは事件を人権問題として世界に発信できる方向に」として中村宣言を提案し、全会一致で承認。宣言を受け、今後連携して活動を進める全国連絡会議を結成した。
「幸徳秋水を顕彰する会」(四万十市)の北沢保会長会長は「14都道府県に散らばる26人の犠牲者の人権回復を連携して進めていく場に」とサミットの継続を呼びかけ、賛同された。
http://tosanishikigyorin.blog47.fc2.com/blog-entry-571.html
▼一人でも抵抗することの意味〜ノンフィクション作家・田中伸尚さん講演会
9月20日東京しごとセンターで、ノンフィクション作家・田中伸尚さん(写真)の講演会が開かれた。テーマは「なぜ<抵抗>を書き続けるか」。50名収容のセミナー室はほぼ満員の盛況だった。田中さんは今年三冊の著作『抵抗のモダンガール作曲家・吉田隆子』『未完の戦時下抵抗』『行動する預言者 崔昌華 ある在日韓国人牧師の生涯』を立て続けに出版した。どれも戦中・戦後、国家や権力に抵抗し続けた人々を追っている。「国家主義・レイシズムが蔓延するいまの日本で、どうしても書かなければならなかった」と田中さんは言う。
講演は、かれの著作活動の原点となった「自衛官合祀拒否訴訟」と「日の丸・君が代」問題との出会いにそって行われた。その中で、ただ一人の抵抗の意味をどうとらえるかという問題提起があった。
「従っても従わなくても同じ、全体の荷担状況は変わらないのではないかという逡巡や迷いは、もし抵抗する者がゼロになったらという問いのもとに違うものが見えてくるはず、それは戦時下の抵抗とも重なる」と田中さん。日本陸軍兵士として中国戦線を二年間従軍しながら,人を殺すことを拒み続けた一人のキリスト者・渡部良三の「抵抗」の意味が語られた。またパレスチナ人の文学研究者 E・サイードの、「いつもだれか一人は話を聞いてくれた。その一人が沈黙しなければ、私の訴えは成功なのです」という言葉も紹介された。
最後に田中さんはこう語った。「<抵抗>を書き続けても、売れないし食えない。しかし戦後を生きる私たちには、アジアと日本の戦争被害者へのコベナント(誓約)を守る責任がある。その誓約とは“殺さない、殺されない、殺させない”ということで、それを文字化したのが日本国憲法だ。抵抗の事実を発掘し、伝えるのはわたしの役目で、表現者としてのわたしができる抵抗だと思っている。作家の井上ひさしは、小林多喜二を主人公にした『組曲虐殺』の中で、一人でも沈黙しなければ継承可能と書いている。絶望から希望へと橋渡しをするのが、沈黙しない精神だ」。
主催は「河原井さん根津さんらの君が代解雇をさせない会」で、「君が代不起立」を続ける教員の田中聡史さんも参加した。2004年から始まる「君が代強制」に対する抵抗の意義が、歴史的に照らし出される思いがした。市民の俳句排除から、朝日バッシングまで、言論・表現の自由が脅かされる毎日、後ろ向きになりがちな気持ちに一筋の希望をもらった講演会だった。
http://www.labornetjp.org/news/2014/0920tanaka
https://www.amazon.co.jp/%E7%94%B0%E4%B8%AD-%E4%BC%B8%E5%B0%9A/e/B001I7HK4S (田中伸尚 on Amazon)
2016.10.22
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「あたしにはまだしなければならないことが残っているらしいわ。
―――どうしても取り返しのつかないことをどうしても取り返すために。
―――あたしはまだ“それを”していない。」木下順二の戯曲「沖縄」の主人公・波平秀のせりふより (岩波文庫「子午線の祀り・沖縄 他一篇)
2016.10.24
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今月から正式に始まった娘の登校(通信制高校)はそれなりに順調に行っているようだ。なにせ週に二、三日しか行かなくていいし、登校時間もふくめてじぶんの好きなように組める。前の日に浣腸をしていてお腹の調子が悪かったら別の日にふりかえてもいいし、午前中だけ二時間とか、気が向いたら「昼からちょっとだけ出てくる」でも構わない。始業時間も遅めで通勤時間帯がすぎた後だから電車ももう空いている。もちろん前の進学校のように立命館大学へそのままスライド入学なんてオマケはないけれど、ハンディを抱えた娘にはあれこれの心理的負担も少なくて、じつにこれは理想の学校ではないか。なんでみんなこの学校へ行かないのか不思議なくらいだ。そしてこれは娘自身が二年半の不登校というある意味「闘い」の果てに勝ち取った果実だと、わたしは思っている。あのレノンの孤独なソロ・アルバムのように与えられたものに「ノー」と叫ぶことによって、みずからつかみとった果実だ。
前の学校のときの、とくに演劇部の先輩、後輩、同級生たちの誰とも、もう(LINEも含めて)つきあいはいっさい途絶えてしまったようだ。(おそらく)娘の退学が学校で正式に発表された頃にすこしばかりリアクションがあったようだけれど、娘がいっさい返信もしないので、そのうちに何もこなくなった。最後の担任だった若い女性の先生も間際まで娘に会って話をしたいと言っておられたようだが、つれあいが「娘が会いたくないと言っていますので」と断りつづけた。あれだけ何度も膝を交えて話し合った校長や教頭や学年主任などの先生たちからは、娘の退学にあたってじつに見事に何もなかったね。就学援助金の清算について事務的な書面がいちど届いただけだ。かれらは相変わらずの頓珍漢な面をかぶって今日も変わらず教育者然としているのだろう。おれはいまでも糞だと思っているが、もう二度と会うこともない。糞のまま生きろ。
けっきょく何が駄目だったのか、いまとなっても娘自身もよく分からないと言う。けれど退学が決まって、あらゆる抑圧から解放されて出獄した自由の闘士のように、娘の表情は晴れ晴れとして、明るくなった。いらいらしたり、閉じこもったりすることもなくなったし、そしてまっすぐ、つよくなった。つまり、本来の彼女にもどった。食事の支度やアイロンがけや洗濯など母の支度を率先して手伝うことが多くなったし、それとつれあいが喜んでいるのはパーマをかけると言い出したり、アイラインをひいてみたり、じぶんで洋服を見に行ったりなど、おしゃれにも積極的になってきたことだ。以前はそんなものにはまったく興味を示さず、外見にはまったく無頓着であったから。そして何より変わったのは、じぶんの意見をしっかり主張するようになったことだ。わたしとつれあいが喧嘩になりかけても、以前はそのうしろでおびえた小動物のようだった娘が、わたしに対しても「お父さん、それは間違っているよ」と真正面から言うようになった。成長したな、と思う。二年半の「牢獄生活」は無駄ではなかったのかも知れない、とも思う。人はときに暗闇から光をもらう。
あたらしい学校に変わってから、わたしはほとんど学校に関わることはない。もともとその方がいい。来月の文化祭で発表する劇は、いつの間にかただ一人演劇経験のある娘が講師役になって先輩たちを「レッスン」しているらしいが、集まりが悪かったり、先日も大事な役だった男の子が「家の事情で出れなくなった」と言ってきたり、昨日はちょっとうつ病的な傾向のある女の子がまとめ役の先輩に食ってかかったりなど、いろいろ試行錯誤が続いているらしい。娘は今回、演出と音楽などの裏方に徹していて、昨夜も劇でつかう音楽を編集していてじぶんのPCの音がとつぜん出なくなったと言ってきて、わたしがデバイスあたりをいじっていたら突然復活したのだけれど、そろそろメモリ2ギガのノートPCは限界だからも少し高スペックのデスクトップを買ったほうがいいかもなぞと話したところ。肝心の勉強の方はスクーリングの授業時間中に課題の問題集をやって、分からないところがあれば個別に先生に訊き、期末にその分の試験を受けて単位がもらえる仕組みだが、ここ一ヶ月の間に娘はもう三か月分の問題集をさっさと終えてしまい、逆にこんな簡単すぎていいのかと不安を感じている(^^) 英語はしっかりやりたいから、じぶんでももっと勉強する、とか。昨日も香水の匂いをぷんぷんさせた女の子がおなじ教室にいて、先生にやたら質問はするのだけれど、じぶんからは何もやろうとしないし、質問の内容も娘がびっくりするような小学生レベルだったようで、いろいろと驚きの連続でもあるらしい。
懸案だった電車通学については、せっかく7万円もの大枚をはたいて用意した三輪自転車の練習がすすまず、娘は乗るのが怖いようで、逆に自転車を乗りたくない一心でときには頑張って歩いたりしている。問題は家から最寄駅までの道程なので現状は、雨でなければ車椅子に乗ってつれあいかわたしか近所に住むわたしの妹が駅まで車椅子をついて、また空の車椅子で戻ってくるか、駅前の団地に住んでいるわたしの母の家に置かせてもらう。帰りは連絡がうまくいかないときなどは娘が杖をついて自力で帰ってくることもたまにある。雨の場合は学校側の駅からの道も濡れて滑りやすいというので車で学校までやはりつれあいかわたしか妹が乗せていく。誰も手が空いていなかったら、その日は休み。「三輪自転車を買ったから、紫乃も頑張って歩くようになったんだよ」 だから三輪自転車は役立っている、というのがつれあいのご意見である。三輪自転車は荷物がたくさん積めるので、いまでは主につれあいが買い物に重宝して、薬局で娘の消毒薬のボトルや紙おむつなどもたっぷり積んで帰ってくる。
ところで今日は日曜に仕事が入ったので代休。朝から学校へ行くという娘を車椅子に乗せて駅までついてきた帰りに、「腰をかがめて押すのも結構大変だから、お前もたいらなところはじぶんで車輪を回していけ」とふだんから言っているじぶんの発言を確認するために、娘の車椅子に乗ってじぶんで車輪を回して家まで帰ってきた。車椅子を買った装具メーカーのフロアなど建物内では何度か乗ったことはあるが、屋外のこれだけのまとまった距離をひとりで乗るのははじめてのことだった。感想を一言でいえば、かなり大変。この大変さは乗ってみないと分からない。
まず、フラットに見える何気ない歩道も、たぶん排水のためなのだろうが微妙な勾配がついていて、ふつうに車輪を回していたら片側へどんどん寄って緑樹帯などにぶつかりそうになる。片側の車輪だけ回したら制御できるだろうと考えていたのだが、コトはそれほど単純でない。たとえば左に勾配のある歩道で大人のわたしが一生懸命車椅子の左側の車輪だけを回しても左へ寄っていってしまって、「左側を回しながら、右側の車輪にも手を添えてブレーキをかけるような感じで干渉してやらないと勾配に対抗できない」のである。それから何気ないアスファルトのささくれやめくれあがったつなぎ目。ふだん歩いていたらまったく認識の対象にすらならないようなこの微妙な「段差」が大変だったりして、市役所で応急処置として造作してくれた歩道の切れ間の段差解消のためのコンクリも、そのすぐ次にそんなめくれ部分があると車椅子の小さな前輪がそこにつかえてしまい、どうやっても前へ進まない。こういうのは本当にじぶんで乗ってみないと分からないなあ。古いアスファルトの疱瘡のような細かい穴ぼこや、タイルのような歩道のつなぎ目も、車椅子で通るとがたがたとしてときに気分が悪くなるし、水路と車止めの間の細い歩道部分などにはいるときは、それこそ大峰山の修験道のがけっぷちを行くような勇気と緊張感がある。せまい道でうしろから車がのろのろとせまってくると逆にはじへ寄らなきゃと思って溝に落ちそうになるし、交差路ではインを切って進入してくるバイクや自転車が切り裂きジャックのように迫ってきて慌てる。ふだんはわたしも通勤で通っている10分もかからない家と駅との間の道を、20分ちかくかかって、しかも腕も神経もかなりへろへろになって帰宅した。これは娘に一人でいけというのは土台無理な注文だ。「車輪がついているから案外と楽なんじゃないか」という考えは見当違いも甚だしい。嘘だと思うならぜひいちど、ふだん何気なく歩いている道を車椅子で通ってみて欲しい。結論として、わたしたちがふだんふつうに使っているほとんどの道は、車椅子やその他のハンディの人にとってはほぼ「何も考えられていない」道に等しい。未開のジャングルに比べれば、わたしたち(いわゆる)健常者にとってとても便利なように「配慮されて」道はつくられている。けれどもハンディのある人々にとっては未開のジャングルとおなじ。「配慮なき悪意の道」に等しい。
2016.10.28
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午後から車で娘と橿原考古学研究所付属博物館へ、秋季特別展「蘇我氏を掘る」を見てきた。博物館周辺に臨時駐車場ができていて警備員が立ちどこも満車然としていたので「さすが、蘇我氏だ。こりゃ、車椅子で見れるかな・・」と感心しつつ心配もしていたら、博物館自体の駐車場はがら空き。受付の女性に訊いたところ、近くで奈良の食に関するイベントを開催していて「こんにゃくとかドーナッツとか、お昼がまだでしたら先に行ってこられたらどうですか」とのことであった。昨日から生理がきてしまった娘は気分がすぐれず、あまり長居はできなかったのだけれど二部屋分の企画展だけはしっかり見てきた。とくに「へー」というような新ハッケンもなかったけれど、歴史の主役だけでない全体的な蘇我氏の遺物を俯瞰する展示はいろいろと興味深かった。(たとえば、飛鳥に造成された寺の瓦を50k先の宇治の窯でつくって運んでいたこととか) 小学生以来、山岸涼子氏の「日出処の天子」の大ファンの娘はこの時代の人物相関図はわたしなどよりはるかに詳しい。「穴穂部皇子って、だれだっけ?」 「穴穂部間人の弟でしょ。厩戸の王子の伯父さん!」 「ああ、そうか。で、こいつはなんで殺されたんだっけ?」「 ・・・ 」 京都大学が昭和8年から二年間で行った、石舞台古墳における初の大々的な発掘作業の模様を収めたモノクロ・無声の30分近いフィルムも会場内で流していて、当時の飛鳥の風景なども含めてこれも面白かった。それにしても乙巳の変で入鹿と蝦夷の父子が殺された時点で「蘇我氏は滅んだ」とわたしたちは思ってしまいがちで、わたしもじつはそういうイメージを持っていたのだけれど、ナニ、実際は蘇我氏の入鹿・蝦夷父子の本家がいなくなっただけで、その他の(石川などの)蘇我氏はその後も政治の舞台では多くの人間が引き続き要職についたりしていたわけだ。そういうところがダイジェスト版の「教科書」では食い違ってしまう。蘇我氏という一族がすべて滅んで地上から抹消されたように思ってしまうわけなんだな。わたしたちが知っている(と思っている)歴史というものは、じつは穴ぼこだらけだったりする。展示は11月23日まで。
▼奈良県立橿原考古学研究所付属博物館
http://www.kashikoken.jp/museum/top.html▼秋季特別展「蘇我氏を掘る」列品解説
https://www.facebook.com/events/1836947199868749/▼京都帝国大学文学部考古学教室16mmフィルム:石舞台古墳発掘, 1933-1935
2016.10.29
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▼1911年1月21日、森近運平から妻・繁への手紙
「実に世に類なき裁判であった。判決を知った時、御身は狂せんばかりに嘆き悲しんだであろう。まことに思いやられる。それも無理はない。僕は死の宣告によって道徳的義務の荷をおろして安楽な眠りに入るのだが、御身と菊とはこれがために生涯の苦痛を受けねばならぬのである。御身は今まで僕のために苦労ばかりしてくれたのに僕は少しも報いることを得ず、弱い女に幼児を背負わして永久の眠りに就かねばならぬ。アア胸の裂ける思いがする。愛する我が妻よ、人間の寿命は測るべからざるものだ。蜂に刺されたり狂犬に咬まれたりして死ぬ人もある。山路で車から落ちて死ぬ人もある。不運と思うてあきらめてくれ。事件の真相は後世の歴史家が明らかにして呉れる。何卒心を平かにしておもむろに後事を図ってくれよ。(一部略)
そして葡萄栽培や養鶏などで飾らず偽らず、自然を愛し、天地と親しみ、悠々としてその生を楽しみうるならば、またもって高尚な婦人の亀鑑とするに足ると思う。順境にいては人の力量は分からぬ。逆境に処して初めて知れるのだ。憂事のなおこの上につもれかし、限りある身の力ためさんという雄々しき決心をして、身体を大切にし健康を保ち父母に孝を尽くし菊を教育してくれ。これ実に御身の幸福のみでなく僕の名をも挙げるというものだ。
菊に申し聞かす。お前は学校で甲ばかり貰うそうな。嬉しいよ。お前のお父さんはもう帰らぬ。監獄で死ぬ事になった。其訳は大きくなったら知れる。悲しいであろうがただ泣いたではつまらぬぞ。これからはおじさんをお父さんと思うて、よくその言いつけを守りよき人になってくれよ。大きくなったらお母さんを大切にしてあげることがお前の仕事であるぞ。 一月二一日記 」
http://tamashige.blog.so-net.ne.jp/2013-01-26「田中伸尚氏は、著書『大逆事件』で、「運平のいう『後世の歴史家』とは、決して専門の研究者だけでなく、広く私たちの社会を指しているのだろう。」と書いている。」
「『世界』2011.3での著者との対談(「大逆事件100年」)で、山泉進さんは布施辰治を例に、人・市民としての権利をセンスとして磨くのに大逆事件は絶好の「鉱脈」としています。含蓄のある言葉だと思いました。」
田中 伸尚「大逆事件――死と生の群像」のamazonカスタマーレビューから
「宗一(八歳)ハ再渡日中東京大震災ノサイ大正十二年(一九二三年)九 月十六日夜、大杉栄、野枝ト共ニ、犬共ニ虐殺サル」
「墓碑は宗一惨殺の 4 年後に建立されたがその後の時代背景もあり,人知れず草むらに放置されていた。日泰寺に近い団地にお住まいだった西本令子さんがたまたま自宅近くを犬と散歩している途中で見つけ,朝日新聞の「ひととき」欄に投書し,1972(昭和47)年 9 月 13 日に掲載されたのが再び世に知られるようになったきっかけだった」
遠隔地に建立された関東大震災の慰霊碑(−名古屋市の日泰寺・照遠寺と長野市の善光寺における調査−) http://www.n-buturi.co.jp/…/pdf/geotechnolog…/1_takemura.pdf
1923年9月16日。「大杉栄、野枝ト共ニ、犬共ニ虐殺サル」橘宗一少年の墓を 思う http://blog.goo.ne.jp/ha…/e/0c8c505e5121ac67bd101c6f5135a574
一年に一度くる日 ― 2007年09月16日 17:53 http://saluton.asablo.jp/blog/2007/09/16/1801366
「伊藤野枝memorial90」面白かった。 http://blog.goo.ne.jp/itoitoisland/m/201309/1
2016.10.30
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東日本大震災の津波で74人の児童と10人の教職員が死亡・行方不明となった宮城県の石巻市立大川小学校をめぐり、児童23人の遺族が石巻市と宮城県に計23億円の損害賠償を求めた訴訟で、仙台地裁(高宮健二裁判長)は26日、市と県に約14億円の賠償を命じる判決を言い渡した。
10月26日朝日新聞デジタル(大川小訴訟、14億円賠償命令 津波襲来「予見できた」)
▼塩崎 春彦
10月29日 1:28 裏山へ逃げようとした生徒が複数いたことはハッキリしている。僕なら、一緒に行動する。まちがいなく、生徒について行く。この判断はたぶん、僕ならすぐにできるし、行動に移せたと思う。
なぜなら、不安と恐怖を率直に共有できるのは彼等のほうだということを常日頃から知っているからだ。年中、職員室では、教師相手の喧嘩ばかりしているからである。危機意識とか防災意識なんて上等なものはいらない。学校において、信じるに値するのは、子供か教師か、弁えていればいいだけである。
学校という場所は、つねに身のよじれるような不条理があふれている。それらを身体で的確に表現するのは常に生徒であり、その表現に死ぬほど鈍感で、これを揉み潰そうとするのは常に教師だということを知っていればいい。
いつもそういう認識の「鍛錬」をやっておけば、こんなことは起きはしない。どうせ、僕と生徒が裏山に出発すれば、あとからこの手の教師どもは、ぶつくさいいながら、ついて来るに決まっている。
もっとも、この認識の「鍛錬」はかなりハードではある。日々、生徒を信じ、教師と学校を疑い続ける訓練は、かなりキビシい教員生活を送る覚悟が求められる。
若い教師諸君!やれるものなら、やってごらん。それが先生としての、本当の勉強だよ。▼まれびと ※【追記】この記事は根拠のない想像と推測が混じっていると思われる。
http://thutmose.blog.jp/archives/66862393.html
いいね! · 返信 · 10月29日 21:48 · 編集済み▼嶽本 あゆ美 これの出どこは、怪しいです。一体だれがこれを見ていたんでしょうね、生き残りの先生が証言したんでしょうか?
いくつかの断片的な真実を拾い、間をストーリーでつなげています。そんなことだろうなとは思いますが、裁判係争中のしかも犠牲者多数で、圧倒的に学校が悪いというのは見えます。市にも学校にも何の擁護もしたくないのですが、このタイミングで出てくるのは、意図を感じます。裁判に関わっている親の苦労を見ると、やすやすとこれに乗るわけにはいかないと感じました。
こういう記事を書いてる人です。http://thutmose.blog.jp/archives/66765472.html▼まれびと 嶽本さんのおっしゃるとおりでした。
SNSなどで流れてくる情報には根拠の疑わしい・はっきりしない内容のものも時々あって、わたしも「?」と思ったものは出典やライターを確認するようにしていますが、これはFBFのどなたかがシェアしていたのをさっと読んだだけで参考までにと貼り付けてしまいました。よくよく読めばかなり飛躍と想像が・・
しかも「ニュース記事」のような体裁をとっているものの、個人のブログなわけで、プロフィールもないし、調べてみましたがどんな人が書いているのかまったく見えない。
嶽本さんのあげてくれた放射能被害の記事も、まあひどいものです。
まさに短い時間の合間にセンセーショナルな見出しと杜撰な内容で安易に拡散してしまう悪しき例ですね。
自戒の意も込めてリンクはこのまま消さないでおきます。
ご指摘、ありがとうございました。
いいね! · 返信 · 2 · 10月29日 18:49▼嶽本 あゆ美 河北新報の特集記事は信頼できます。私は静岡県西部の人間なので、小学校高学年からずっと地震訓練ばかりしてきました。まだ幸いに東海沖地震は来ません。他県ではそういうことがなかったのだと、地域のギャップも感じます。来ても来なくても予知できないものだから、日本中の学校で毎月一回、地震訓練をするべきだと思いました。
いいね!を取り消す · 返信 · 1 · 10月29日 20:19▼まれびと 河北新報の記事は読んだことがあります。
大川小学校とは逆に小中学校の生存率99.8%だった釜石市で長年、危機管理アドバイザーとして活動してきた群馬大学の片田敏孝教授の「人が死なない防災」(集英社新書)にもありましたがハザードマップの枠のすぐ外側、石巻でもそのあたりがいちばん死者の数が多かった。つまりここは大丈夫という人たちが逃げなかった。
片田氏のいう三原則は以下でした。
1、想定にとらわれるな
2、最善を尽くせ
3、率先避難者たれ
https://nakanohajime.wordpress.com/・・・/be-the-first-one・・・/▼塩崎 春彦 10月30日 7:22 ·
僕は躊躇せずに逃げる、と書いた。そんなセリフは、災害のあとだから言えるのだという嘲笑は織り込み済みで書いた。だが、僕をあざ笑う人間が、このとき適切な避難行動をとれる見込みはまったくない。それどころか、大川小学校の現場にいたすべての人たちと同じ行動をとることもわかりきったことだ。
僕がその日、かの場所にいたら、確実に何を見、どう考え、それからとったであろう行動を書いてみたくなった。裁判で使われた証言の数々が、断片的だとか、脚色をされているのだとか、事実に反するとか、そういう批判は掃いて捨てるほどあるだろう(読んでないけど)。だが、このばあい、「事実」というのは、拘束された生徒は一刻もはやく逃げたがっており、教師は不毛な議論で無駄な時間を費やしたということだけを知ればすむ。それがわかれば、あとはすべて虚構でいい。ここで虚構とは、不可避の行動をする自分を想像上組み立てることだ。そうするしかない自分が描ければ、それは事実に勝る。だから、僕は、そのときどんな振る舞いをしていただろうということ、つまり自分の行動として、十分予見できることだけを書く。
@年二回行われる避難訓練の手続きにしたがって、校庭に生徒たちを集合させる。
Aただちに点呼をとる。避難していない生徒、教師、職員がいないことを確認するためだ。
B生徒は待機状態に入る。ものすごく寒いので、いちはやい行動が求められる。だが、教師たちは避難どころか、避難先の確定さえままならないまま議論をしている。例のごとく始まった議論。どうせマトモな結論はでない。職員会議や学年会で、この連中はただの一度もまともな結論にたどり着いたことがない。結論は、いつも、「例年通り」の繰り返し。ルーチンの枠から離れたら、子供以下の判断力しかもっていないことは知れたことだ。だから、ほんの1分だけ様子をうかがって、そのくだらない議論の現場から離脱する。
C待機状態の生徒の中に、気分が悪くなる者、心理的に不安定になる者が出始める。若い教師が、そうした生徒たちに寄り添っている。彼らは、寄り添うことで自らの不安を押し隠し、先輩教師の判断が出るのをじっと待っている。また、子供を気遣ってぞくぞくと保護者たちが学校へやってくる。中堅の教師が、その対応にあたっている。議論に参加したいが、とりあえず保護者対応しなければ、現場の収集がつかなくなるからだ。子供、保護者、教師たちの間で、妙にうすめられた不安と自己欺瞞の感情が、さまざまな心理的襞の隙間にひろがり、同時に、定まらない方針に焦燥と険悪な空気が漂いはじめる。
Dそうした事態と前後して、町の広報車が津波の発生とその規模の大きさを告げているのが聞こえている。保護者たちから、子供を連れて帰宅しようとする者があらわれて、教師たちと交渉し、車を次々に発進させる。車の整理に追われる若い教師や用務員。僕は、海岸線から4キロも離れているこの場所に、本当に津波が押し寄せるものか、疑問に思っている。だが、現に、嘔吐を繰り返す友人を、不安そうな表情のまま介抱する生徒が目の前にいる。押し黙った生徒たちから滲み出すものを感じる。やけにはしゃぐ生徒もいる。その背後では、すでに、数人の男子生徒が、教員の静止を振り切って、裏山のほうへ歩きだしている。彼らを追いながら、列へ戻れと怒声をあげている教師がいる。待機している生徒の中に、腰を浮かせるものがあれば、別の教師が首根っこを押さえつけている。
Eここらへんで、僕の腹は決まる。腰を浮かした生徒に、俺も逃げるよという。
「津波、来ないかもしれないけれど、裏山へのピクニックだとおもえば気が楽さ。」「裏山でピクニックしたい人ぉ~」と叫ぶ。「おおお」と、数人の男子生徒が応える。「おい、おまえら、給食室に行って、残飯のパンとハムをとってこい。いいか、食缶ごとだぞ。」「ええ?、いいんですかぁ。」「こんな寒い日に、手ぶらのピクニックじゃあ情けなくっていけない。」
F気色ばんだ教務主任がすっとんできて、僕にむかって言う。
「あんた、なにしているのか、わかっているのか。」
「わかりましぇーん」
「ふざけているばあいか」
「ふざけているばあいです」
「教師としての責任をはたせ」
「責任感なんかありましぇーん。僕も逃げたいだけです。一緒に逃げますか?」
むろん、本気でふざけているのである。ふざけてないのは最後のセリフだけ。「逃げたいなら、あんたも、生徒と一緒に行こう。」
G呼びかけに応じた生徒たち(と教師)を引き連れて、みんなで、裏山へピクニックにでかける。「歩こう、歩こう、私は元気。歩くの大好き、どんどん行こう。」たぶん、これ絶対歌ってると思う。
H結局、津波はこない。翌日の職員会議で、僕の勝手な振る舞いが問題になり、やがて教育委員会に呼び出される。保護者会で謝罪しろなんて、きっと言われる。
むろん、お断りする。
以上
この虚構を読んで、またあざ笑われそうだから、言い添えておくと、実はこのやりとり、Fの「~責任感なんかありましぇーん」は実話である(3/11ではないけど)。ようするに、年がら年中、職員室で僕はこの調子だったのだ。地震だから、津波だから、特別な振る舞いをするわけではない。いわば僕の「平常心」なのである。
大川小学校の悲劇とはなにか、僕にいわせれば簡潔だ。「そこに《塩崎春彦》がいなかったこと。」
その日は怒りの日。冥福を祈る。▼嶽本 あゆ美
10月29日 11:50 · 大川小学校の裁判判決の後、いろんな投稿を安易なストーリーに乗ることが一番良くないと感じました。河北新報の特集に客観的な証言や聞き取りの事実が積み上げられています。そこから読み取れることは、年齢、職業、性別に関わらず誰もが判断を誤るということでした。もっと事実が明らかにされて、責任論よりも、過ち自体が共有されなければならないと思いました。本当につらい話です。http://memory.ever.jp/t…/images-NP/0908-shogen_okawa4_NP.pdf
http://memory.ever.jp/tsunami/higeki_okawa.html
▼まれびとさんが嶽本 あゆ美さんの投稿をシェアしました。
10月29日 23:19
※元々の嶽本さんのTLに寄せた嶽本さん自身のコメントも、ここにあげておく。
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私は東海地震地域の出身で、小学校時代から毎月というほど地震訓練ばかりでした。だから、こういう風に大丈夫だと思ったという人が多数の場合を想像しきれません。遠州地方、海からずっとまっ平らで、海岸を走る道路でよく父が、海から五キロ以上離れていても、海岸から10キロ付近まで平らだから、来る時は来ると話していました。そういう意味で浜岡原発も、堤防を作っても、来る時は来ちゃうわけです。誰が悪いかより、やはり河北読むと、橋のとこにいた警官も親も危機感がなかったんだと思いました。多数派の中で逃げることの難しさと子どもの無念さで肝がよじれます。
たぶん、私もその同じブログについて不可解に思ってこれをアップしたんです。そのブログはかなり盛り盛りでしょう。作家をしていると、新聞の事実の点を繋いでいけば、こうできるというプロットがすぐ浮かびます。最近、こういうネットメディアを見ているとそういう意識操作を目的とした恣意的な文章をよくみかけますが、やっていいことと、悪いこと、野次馬になるか自分でいられるかの境目だと思いました。
多分、あのブログを読んだ方と、新聞の記事を読んだ方は違う印象を持たれるはずです。ブログを読むだけなら他人事でいられますが、新聞を読めば、果たして自分が正しい判断が出来たかどうか、振り返る事になるでしょう。その差、自分が感じる違うものを信じないと、単純化されたストーリーと、敵と味方に二分されるものに取り込まれて、結局はああきっとそうなのだ、と津波に飲まれることになると思います。
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※以下はわたし(まれびと)の参考まで
・大川小学校事故検証報告書の概要 - 文部科学省
http://www.mext.go.jp/…/afieldfile/2014/08/07/1350542_01.pdf▼塩崎 春彦 「過ち自体を共有」するとは、過ちをおかす人間になりきるということでなければなりません。正しい人間にならぬという覚悟だと僕は思います。しかし、一方で、国、自治体のような組織は「正義」を担保したがります。それは、組織の生理のようなものなので仕方ないのですが、同時に、そこに組み込まれる人間が、まちがう存在であることを引き受けることができなければ、組織の生理は、組織というマシーン、いいかえば「正義」の製造機械になってしまいます。
いいね!を取り消す · 返信 · 1 · 10月30日 11:23▼嶽本 あゆ美 正確にいいますと、私が提示したものは、河北の記事です。私のTLと文部科学省の概要を提示したわけではないので、それと私は無関係です。比較検討ということでしたら、私のTLはそれだけで、情報ソースを並べて予断を持たないなかで、問題のブログと河北と公の調査報告を読み、それらと自分の認識や現実把握にバイアスがどこにあるか確認することをお勧めします。行政機関は正義ではなく、法律を守れないこと、例外がおこることを避けたがります。それは、大川小では裏山へ逃げて怪我をしたら責任問題になるだろうという結論を出したことです。それが結果として児童の生命安全を担保できなかった。他人ごとではなく、私達はそういう過ちをよく犯します。そういう過ちを犯す存在として自分がいるということを、河北の記事は私に教えてくれました。
学校給食の問題などにも同じ性質の事があらわれます。
熊本の避難所にもおきています。
北海道では、アスベストの暴露によって給食センターが封鎖され、大多数の児童が牛乳とパンで数か月、給食をとることになりそうです。コスト削減により、各学校での直接調理は全国的に減り続けています。例えば、各学校で給食を調達するとなったら、公立の学校給食では原材料のトレーサビリティが確実なものしか使えません。また、アレルギー対応も完璧でなくてはならないという親の認識もあります。それらを担保しなければ、校長が責任を問われかねません。ボランティアで希望者だけのものを賄う方法もあるかもしれません。しかし、冬に向かってノロなどの問題も出ます。それらを背負って誰かがやれば、良いのでしょうが、問題が出た時のバッシングは半端でなく、責任がとれません。
こういう世の中を作ってのは誰にも責任があることです。
熊本の避難所でも、避難所で飲食を供給するには、一定の設備がなくては自炊が許可されなくなりました。なので、10円でも100円でも対価を受け取れば規制を逃れることができ、販売と言う形で、避難所は食料供給を再開しました。
あらゆることは、当事者の間で解決にむかって歩み寄らなければ、すすみません。大川小の事例について、新聞報道で他人の犯した過ちではなく、自分も同じように過ちを犯す存在であるということを、私は読み取りました。それは個人の作業です。
いいね!を取り消す · 返信 · 2 · 23時間前 · 編集済み▼まれびと 嶽本さんのTLをシェアした後に嶽本さん自身のコメントも併せて読んでもらいたかったので追加した際に、わたし自身がその末尾に続けて、参考資料として文部科学省の報告書のリンクを付け足したのはまずまぎわらしかったと思いますのでお詫び致します。
今回、大川小学校の裁判判決に関していくつかの投稿がTL上に流れ、多くの人の意見がそれらの内容に沿って学校や教師たちの対応を非難する中で、わたしにとってはまず、推測や安易な想像、ときに悪意のあるフィクションを交えた投稿の出所もよく確認せずにそれらの記事に乗っかっててしまうことの危険を指摘され、そのような「単純化されたストーリーと、敵と味方に二分されるものに取り込まれて」、過ちを各人がみずからの外側へ追いやってしまうことの危うさについて語ってくれた嶽本さんの投稿と、それから「学校という場所は、つねに身のよじれるような不条理があふれている。それらを身体で的確に表現するのは常に生徒であり、その表現に死ぬほど鈍感で、これを揉み潰そうとするのは常に教師だということを知っていればいい。」という認識から「大川小学校の悲劇とはなにか、僕にいわせれば簡潔だ。「そこに《塩崎春彦》がいなかったこと。」と言い切る塩崎さんの、お二人の投稿がそれぞれ喉もとに刺さった小骨のように残ったので、続けざまにシェアをさせて頂きました。
嶽本さんの投稿は大きくひろげた風呂敷で過ちを犯してしまう人間というものを包みこみ同時にそれを社会に投げ返すような手触りがあり、逆に塩崎さんの方はといえば組織の中でつねに息苦しさを感じてやまない個が底なしに深く掘り続けた穴の底で吐いた絶望の唾のようにも思える。心情的にいえば、娘の3年近くに及ぶ不登校につらなって学校と格闘してきたわたしには、学校という組織について殆ど絶望的な思いしか残っていないので、ものすごく塩崎さんの書かれたことに共鳴してします。けれどもだからこそというか、揺れ戻しのように嶽本さんの書かれている視点も、ああそうかと、ちょっと足を止めてまた考えこむような問いを与えてくれるわけです。そのどちらも、わたしには得がたい視点です。
今回、改めて Facebook上のこの件についてのさまざまなコメントを読んだりしましたが、どこかで多数の人とおなじように学校側を強く非難する調子で投稿をシェアされた人が、そのあとで寄せられたコメントに答えているうちに、「ほんとうにかれらを一方的に批判するだけでいいのか。最初はそう思っていたのだけれど、じゃあじぶんの身内が加害者側だったらどうだろうとか、いろいろ考えていたら、ちょっとわからなくなってきた・・・」と書いていたその正直な心の揺れが、とても印象に残りました。そこにわたしはまだまだ考えるべきさまざまな問題があるような気がします。わたし自身のなかで矛盾した理屈や感情がいまだとぐろを巻いているわけです。
わたしが無用心にシェアした嶽本さんのTL投稿に対して今回、塩崎さんと嶽本さんご自身がコメントされている件については「過ち自体の共有」という言葉をめぐって、お二人の思いが、なんと言うか角度の違いですれちがってしまっているように思います。塩崎さんにとっての「過ち自体の共有」は個を圧殺するくだらない組織にみずからを下らせること(そしてそれへの嫌悪)であり、嶽本さんの言われる「過ち自体の共有」は過ちを犯した者だけに背負わせ他人事にしてしまう危うさについて語っている言葉であるように思います。
いいね! · 返信 · 2 · 11時間前▼嶽本 あゆ美 解説ありがとうございます。
いいね!を取り消す · 返信 · 1 · 10時間前
嶽本 あゆ美
嶽本 あゆ美 西光万吉を読まれたことはありますか?差別と被差別という二つの立ち位置とその間にいる西光が、のたうち回った苦しみを連想しました。
いいね!を取り消す · 返信 · 1 · 10時間前
嶽本 あゆ美
嶽本 あゆ美 どっちかの側だけでないのが人間だと思います。矛盾を抱えずに生きることはできませんよ。
いいね!を取り消す · 返信 · 1 · 10時間前▼塩崎 春彦 8時間前 ·
まちがう人間は二種類しかいない。みんながやるような過ちをする人と、自分しかできない過ちをする人だ。それが「間違うのは人の常」だというときの大原則である。したがって、どんな事故でも、人のおかした間違いの、そのどちらだったかだけが本当の問題となる。
緊急事態で人がおかす間違いのうち、みんながやる間違いは必ず時間がかかりするぎる間違いである。時間がかかるのは、あわてているくせに「六法全書」や「マニュアル」を読み始める(議論する)からだ。しかしほんとうに「読む」べきなのは、紙に書かれたテキストではない。人間の生身なのだ。生身の人間を「読む」ことができれば、現場の判断ははやくなる。人はマニュアルからではなく、他者の顔色から、行動を起こす。
災害発生時に、責任感やら使命感でうごくような人間は、ろくな仕事をしない。そもそもそんなとき、とるべき責任なんか存在しないし、責任のとりようもない。災害なんだから。
一刻の猶予もないときの判断の正確さは、その判断をする人間の、常日頃の過ちの質によって決まる。人の生身を読むのだから、常日頃の鍛錬が問われる。また、とっさの判断で、人を動かさねばならないのだから、信頼に値する人間でなければできない。どんな立派なマニュアルや事前の対策があろうと、まともな奴が一人はいないと、人はまとまらないというのはそういうことだ。福島第一原発の事故をかろうじて凌いでみせた吉田という所長なんかそういう人間だったということなのだ。
人並みの間違いしかしない人間は、平時では人畜無害だが、有事ではほぼ犯罪的な間違いをやってのける。でも今の社会は、人並みの間違い以外は許さない。だから、逃げるタイミングを失う。
間違わない人間はいない。人間は必ず間違う。ただし、間違いから学ぶのも人間である。それは、学ぶことができる間違い方があるという意味だ。
みんながやる間違いをする人間は学ばない人間である。だれもがやる間違いの底に、実は本当の間違い方があり、その底を掘り下げるとき、自分にしかできない間違い方を発見する。僕の歩く前には、どんな道もないという間違い方は、そうやって見つけるのだ。2016.11.2
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このごろ滅多にない平日の休日午前を利用して「奈良県立 同和問題関係史料センター」を覗いてきた。年にいちど展示替えをするので(といっても内容がごっそり変わるわけではないが)、HPで気がついて見に行く一年にいちどのわたしのささやかな愉しみ。家から車で十数分ほど、旧国道の大安寺交差点近くにある。二階の展示室へ行くと廊下も暗く扉も閉まっているので、まず三階の「研究室」にいる学芸員の方へ声をかけるのは毎度のこと。ひさしぶりのお客さんといったちょっと驚いた笑顔とともに「どこから来られたんですか?」と言いながらいっしょに階下へ降りて鍵を明け電気をつけてくれ、それから部屋の真ん中で所在なく待機されているのを「たぶん一時間以上はゆっくり見るので、どうぞお気遣いなく・・」と「研究室」へもどっていただくのも、これも毎度の儀式。そうして展示パネルを眺めていると、しばらくして過去の企画展のときの残った小冊子を「よかったらどうぞ」とくれたことも二三度あったな。
家からほど近い、かつて穢多寺の本山もかねていた浄土真宗の寺の法要のときに三昧聖(火葬・埋葬や墓地の管理にあたった聖)、座頭、非人頭、そして癩者へ布施を与えた記載のある台帳がひろげられていた。穢多村がかねてから既得権として持っていた草葉の権益について説明したパネルがあった。生駒山の十三峠で貴種の姫を保護した言い伝えから、穢多村の「細工」村が朝廷に献上するようになったという御根太草履があった。台風による凶作のために普請や仏事・婚礼などを簡略にする簡略仕法が交付され、従来より穢多や非人たちが受け取っていた祭礼・仏事の出店や、興行の際の芝銭、櫓銭、勧進者・芸能者・乞食の出入りなどが禁止になったという記録があった。また部落解放令の後にもなお、被差別部落の人々に対して一般の人々が抱く「何トナク異ナレルガ如キ感」、「何カナシニ嫌フ」といった言葉が記録されたフィールドワークがあった。時代から取り残されたようなこのひっそりとした展示室でこれらの史料に囲まれて、したたかに生き、悔しさをこらえ、ときに唾することもあったろう無数の無名の人々の風景を空想することが心地よい。
最後にふたたび三階の「研究室」へあがって閲覧を終えた旨を伝え、展示パネルにあった、大正期の「明治之光」なる雑誌に県内の部落の地名にまつわる伝承などを記した小川幸三郎の「? 旧部落名」をどこかで読めないかと訊くと、各号にまたがっているのですぐには出せないが、後日でよければコピーして送ってくれると仰るのでお言葉に甘えることにした。そうして誰もいない「研究室」に招かれて、「ついでにもうひとつ。最近大逆事件について調べているのだが、あの事件が奈良県内のとくに部落運動などをしている人々の間でどのように受け止められ、また何か記されたものが残っていないか興味があるので、そんな史料がもしあれば・・」と言うと、それも調べて後日に(もっと詳しい)所長氏の方から連絡をしてくれる、と。そうして郡山の寺に集った種々多様な賤民や、奈良・京都の境に位置した東之阪の被差別部落の人々の話などに小一時間ほど花が咲いたのだった。先日はじめて見学に行った少年刑務所も、もともとはあのあたりは郷墓といわれる集落ごとの墓地がひろがっていて、その葬送や墓地の管理に携わっていたのが東之阪の被差別部落の人々であったという話や、それから当の刑務所の敷地内にあった江戸期の木製の独房もおなじような(西の)境界の被差別部落であった油阪から持ってこられたものであるといった話も面白かった。
わたしの方も大阪・千日墓にあった刑場の話や、新宮や大阪・天満での大逆事件絡みの話なども調子に乗ってしたのだけれど、「ところでどうしていま、大逆事件なんでしょうか?」と問われたわたしは、一瞬考え込んでから、「ん・・ 何でしょうか。むかしはせいぜい幸徳秋水や大石誠之助くらいしか知らなかったのですが、国のでっちあげで死んでいった人々が書き残した言葉や、残された遺族の人々のその後の人生に触れると、いまもじぶんたちがかれらを踏みつけているような堪らない気持ちになるのです」と、そんなようなことを答えたのだった。
▼奈良県立 同和問題関係史料センター http://www.pref.nara.jp/6507.htm
2016.11.9
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