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 荒畑寒村「谷中村滅亡史」(岩波文庫) を読了する。

 巻末の解説で鎌田慧はこの書をいわく「政府と県とによる暴虐をひろく世間につたえようとする情熱が、土から引き剥がされ、放逐された農民への深い思いにささえられていて、この漢文調の古風でやや悲壮な文体とよく合致している。いわば、天が書かせたドキュメントといえる」と評している。

  しかし、それを悪政暴虐と呼ぶなら、たとえばついこの間の、なんら大義名分をもたない「諫早干拓」の蛮勇や「長良川河口堰建設」の強行は、閨閥に関係のない近代国家で行われたことをなんと呼ぶべきだろうか。さらには、砂川米軍基地の建設や成田空港建設に使われた強制代執行と谷中村との間に、どのような民主主義の発達があるといえるのだろうか。さらにいえば、「国家的な事業」といって農民の土地を低額で買収し、核燃料サイクル基地を建設している青森県六ヶ所村にたいする欺瞞と恫喝が、かつての強権明治政府に従属した県の姿勢と、どのようなちがいがあるといえるのか。政府当局はどう答えるであろうか。

 あるいは、学者の曲学阿世ぶりについていえば、水俣病や三井三池の炭塵爆発にたいする荒唐無稽な言説が、被害の防止と被害の解決とをどれだけ遅らせたことか、それらの非合理の証明として、あるいは幾多の住民や労働者を鉱毒によって斃死させたモニュメントとして、いまなお足尾銅山の山容は荒廃のままだ。「公害の原点」といわれる所以である。

 

  昨月、縁あって旧谷中村跡を有する渡良瀬遊水池をあてどなく歩き回ったとき、国の設置した表示のことごとくが旧谷中村跡を黙殺していることに唖然とした。谷中村はいまも「滅亡」の対象である。

 「谷中村」とは単なる「公害の原点」というだけではない。鎌田氏が上記の解説を書いたときはまだあの巨大地震もそれにつづく破滅的な原発事故も起きてはいなかった。なにが変わっただろうか。なにが起きただろうか。いや、いままさに、なにが行われているのか。人々のつましい生活も生命も省みず、豊かな自然も国土も破滅の淵にさらし、生まれ来る子どもたちの未来を抹殺し、言説を封じ適当な楽観論を垂れ流し、「厚顔無恥・冷血無情・横暴不義・残忍酷薄・邪計奸策・悪逆・暴戻・怪物・虐待・酷遇・詐瞞」あらゆる手腕をふるって、まともな措置のひとつすらとらずにひたすら国益と企業の利益のみを庇護する日本国家。「谷中村」は、いままた繰り返されている。百年前からずっと繰り返され続けている。汚辱され、死姦され続けている。「谷中村」とは文明の問題だとわたしは思う。

 荒畑寒村は文中で「豈啻(あにただ)に谷中村一個に止(とど)まらんや」と記す。

 而してかくの如きもの、豈啻(あにただ)に谷中村一個に止(とど)まらんや、現代社会における凡ての貧乏弱者は、これ実に谷中村民と運命を同じうせるものにあらずや。彼らが終日孜々営々労働して、以て算出するところの富は、これ悉く資本家の掠奪する所となるにあらずや。かつ政府や、議会や、憲法や、法律や、これ悉く資本家の手足たり、奴隷たるに過ぎざるが故に、彼らの画策する所や、常に資本にのみ益ありて、平民、貧者、弱者に対しては、一毫の益する所あらざるなり。而して谷中村は、即ち這個黄金万能の力と、資本家政治との害毒と、悲惨と、残忍とを、尤もよく顕現し、表明せるものにほかならざるなり。

 

 4月の新緑になかば埋もれかけ、風に吹かれていた旧谷中村のかつての墓地で、ひとつだけ真新しい板に名前を書いただけの墓がひっそりと立っていたのをわたしは思い出す。「水野彦市之墓」とあったその名前を、この「谷中村滅亡史」の中に見つけたときのふるえるような、百年前の記録と目の前で手を合わせたつましい墳墓とがつながった、あの生々しい驚きの手触りは忘れ難い。最終章の「第二十六 谷中村の滅亡」。栃木県庁の命令のもと「植松第四部長の率ふる破壊隊二百余名」が最後まで村にとどまり抵抗を続けた16戸に襲い掛かった二日目の記述。

 二日は更に人夫数十名を増し、島田政五郎、水野彦市、染宮三郎等の居宅を破壊す。彦市の女(むすめ)リウは、「父上在(いま)さざれば、一指たりともふれしむべからず」と、凛乎として拒絶し、与三郎の老母某は、祖先の家を去るに忍びず、「殺せ々々」と泣き叫びたりき。この夜大(おおい)に雨降る。

 こうして七日間に及ぶ破壊の完了したのちの「彼ら」の姿を、寒村は次のようにつづる。

 而してこれがために家を失いたる者は、竹を柱とし、芦を屋根とし、麦わらを板敷となし、その上に筵を覆ひて、蚊帳うち釣れるもあり。小舟を沼田に浮かべ、竹もてこれに蚊帳を張りかけ、寂しき夢を結べるもあり。あるひは雨戸を寄せ、筵を張りなどして、僅かに雨露を凌げるもあり。中には蚊帳なくして、終夜藪蚊に攻められつつ、苦しみ明かす者もあり。見るも憐れ深き寒村の荒涼たる沼田の水に、夜半の月影清く映りて、凄愴の景、坐(そぞ)ろに人をして泣かしむ。

 

 この中に、水野彦市とその家族もいたのだろう。その10年後には最後に残った18名の残留民が合併された藤岡町へ移住して谷中村はついに無人となったから、水野彦市はその間にこの谷中村で死んだか、あるいは移住先で死んだがこの墳墓の地へ葬られたのかも知れない。あるいは貧しくて墓石さえも買えずに、いまも残された子孫の人々が墓の場所だけは忘れまいと手書きの板を添えているのかも知れない。

 わたしのなかで、水野彦市はたしかに「肉化」した。かつて生きて、妻子とつましい生活を愉しみ、理不尽にもそれらを奪われ、最後まで国という怪物のような力に抗い、闘いつづけた無名の男として蘇った。かまぼこ板のような墓がそれを示してくれた。わたしはぜったいに忘れまい。忘れてはいけない。

 繰り返すが、谷中村はいまもなお「滅亡」の対象である。そして理不尽な「強制破壊」も、いまだ続いている。そして寒村はいまもこう叫び続けている。きみには、聴こえないか。

あゝ、日本国今や憲法なく、法律なし、あるものはただ暴力と、悪政と、鉄鎖のみ。

 

 2016.5.10

 

*

 

 無事高校も進学できて、クラスも変わり、担任の先生も変わり、当初はみなといっしょに授業も受けて幸先がいいと喜んでいたのも束の間、子は相変わらず、学校へ行けていない。ゴールデンウィークには演劇部の同級生と映画を見に行ったり、部の先輩が勉強を教えに来てくれたりしていたのだが、連休明けから、またほとんど行けなくなってしまった。

 

○ 5月2日 12:22

紫乃は大丈夫じゃなかったです。
中学の時、最初に学校に行かなくなった時と同じ感じになっています。

私たちが学校に行かせたいという気持ちが紫乃に重荷になっているようです。重荷ではなく重圧。

前と違うのは自分の気持ちを少しですが、言ってくれること。
「行かなかったら怒られるといつもビクビクしてる私の気持ちなんかわからないくせに!」
と、泣きながら声をあらげていました。

また、私たちが紫乃に学校のことをいうことで嫌悪感も抱いてるようです。

思春期に親の顔を見るのも嫌というという子がいると話を聞いたことがありますが、口を開けば8割(それ以上かな)は学校のことを言ってたら、紫乃にとったら、「うるさい! 自分だって行かなきゃいけないのはわかってるんだ。ほっといてくれ!!」って、切れたくなるよね。

確かにもうここで行かさなきゃという気持ちが私の中でありました。お父さんもだと思いますが、行かないと、この先、紫乃の好きな演劇ができなくなる。そうなったら紫乃が可哀想だ。そうならないようにと思うから、学校のことを言ってしまうんだよね。

でも、それが紫乃のイライラをつのらせ、逆に行こうとする気持ちを殺しているようです。

学校に行く用意はしたもののなかなか制服を着ようとしない紫乃に、「そんなんだったらヤングアメリカンなんかやめる」と言いそうになりましたが、それとこれは別。言ったところで紫乃を余計、混乱させるだけと、寸前のところで言うのをやめました。

図書館の同僚のMさんは紫乃より一つ上の息子さんがいらっしゃいます。昨年の今頃、息子さんにお母さんの自分に対する気持ちが自分には負担で、しんどくなる。(勉強のことなどなにも言わないお母さんだけど)
弁当見たらゾッとする。」と言われたそうです。優しい男の子でMさんが仕事の時は学校から帰ったら、お米をといでおいてくれるそうです。
そんな子でもそんなことを言い、それ以来、Mさんはお弁当を作るのをやめていました。最近、持っていくようになったそうです。
学校が休みの日はお祖父ちゃん、お祖母ちゃんの家で生活してるそうです。Mさんが体を壊したときには食べ物を買って、お祖父ちゃん家から帰ってきてくれたそうです。

自分達も紫乃に構いすぎるのはよくないのかなあ。紫乃の自立の邪魔をしてるのかなあ。

紫乃は私たちの言葉や行いに疲れるようです。

どうしたらいいんでしょうね。
前のように学校のことは何も触れないようにするのがいいなあ?
紫乃は子供に怒るような怒り方はやめてと言ってました。普通に話してもらえばわかるからと。年齢的にも精神的にも大人になりかけてるんですよね。
私達も変わらなきゃいけないんですよね。
紫乃が不登校になってから三年。私達も変わったと思っていたけど、紫乃から見たら私達は言うほど変わってないのかな。紫乃の成長についていけてないんでしょうね。
三年前と同じにはしたくない。

そっとしておけば、いずれ紫乃も動きだし日がくると思いますが、どうしたらいいと思う?

部活ができなくなると話して行かせますか?
それとも、違う道を提示しますか?
それとも、何も言わず、紫乃が自分で歩きだすのを待ちますか?

とりあえず、いつも怒られるんじゃなあかとビクビクしてるという気持ちだけは取り除いてやりたいので、私も言葉や態度に気を付けようと思います。

 

 

○ 5月2日 19:18

わかりました。
ほっときます。

お父さんは音楽であったり、歴史であったり、その他、紫乃にとってとてもいい関係を築いてると思います。それは崩したくないです。
そのためにもほっとくのがいいと思います。

 

 

○ 5月2日 19:39

紫乃が言われて嫌なことは言わないようにします。
紫乃が自分から学校に行きだすまで、ぐっとこらえて待ちます。
下手に言うとかえって長引かすだけですものね。

きっと紫乃は行けなかったことで自分を責めてると思います。ドンマイ、ドンマイかな。

 

 

○ 5月9日 14:01

紫乃は行けてません。

お腹が痛いと言い、「仮病と思ってるでしょ! 休んだらまた、お父さんに怒られる。だれも私のことなんか信じてくれない!!」
「私が悪いんだ! なにもかも私が悪いんだ!!」と朝から。

私が、お父さんもお母さんも紫乃が自分の体調も含めて、どうするか考えて決めていったらいいと思ってるよ。お父さんはそんなことで怒らないよ。と話し、しばらくそっとしておきました。
10時過ぎ、落ち着いてきた感じだったので、浣腸するか聞いたところ、すると言い、先ほどお昼も食べました。

紫乃は私達が紫乃を学校に行かそうとしてると思ってるのかなあ。
私達に怒られるというのは、どこか違ってるような。
自分達は紫乃がやりたいと思うことを応援してやりたいだけなのに。
気持ちがうまく伝わってないのかなあ。

膀胱直腸傷害があっても行ける日だけ行くような学校のようなところのほうがいいのかなあとか、Kちゃんが、かつて行ってた自立支援のようなところに入ったほうがいいのかなどなど。

でも、結局、演劇部がということで、これまで通り、行き続けることになるんだろうね。

 

 

○ 5月10日 13:31

朝はお昼から学校に行くと言ってましたが、なかなか気分が重く、「なんで私、行けないの。なんでかわからん。行かなあかんのに」と、自分を責めるので、今日は部活だけ行くようにする? と提案したら、しばらく考えた末、「なんで私、部活も行かれへんようになったん?」と自問自答し、泣いてました。

私が部屋に行ったり、紫乃がリビングに降りてきたら、不安なのか「お母さん」と抱きついてきます。
中学のときとは違うブレッシャーがかかっているんでしょうね。

昨夜は私が紫乃に「紫乃が学校行かないからって、お父さん、怒らなかったでしょ?!」と言うと、笑顔になって「うん」とうなづいていました。「ごめんね。お母さん。朝、学校に行けない自分にいらついちゃうから」と言ってました。

お父さんもお母さんも紫乃にどうしろとは言わない。紫乃が行く方向について行って紫乃を応援するからと話ました。

 

○ 5月10日 17:10

そうですね。

U先生がお電話くれ、紫乃の今日の状況をお話しました。「高校になって今までと状況が違うということをちゃんとわかってるからこそだと思います。」と。「ここは焦らせず、辛いですが待ちましょ」と仰ってました。

先日、学校より徴収があったジーテックの料金を学校に持っていきます。6時過ぎ学校到着の予定です。

 

 

○ 5月11日 18:48

今日は部活に行けました。元気にしています。「明日は朝から行けたらいいなあ。」と言っていました
「ブレッシャーはかけないでね。絶対!」とも言っていました。よけい、こわばってしまうそうです。
だから、「わかった。何も言わないことにするね」と言っておきました。

明日のことにはふれず、今日の楽しかった話だけを聞いてやることにしました。

 

 

○ 5月12日 17:53

電話なんの用だったのかな?
紫乃はかなり弱ってます。昨夜も怖さや不安で眠れなかったようです。
今日は元気をつけるためにお刺身にしました。

 

○ 5月13日 9:45

私は仕事です。
紫乃は家で家事をしてくれてます。

 

 10日前後の晩あたりであったと思うが、夜中にふと目が覚めたら、わたしとつれあいが寝ているベッドのはしに、子が床に膝をつく形でちょうどつれあいの頭の横あたりに両肘をついて、目になみだをいっぱいにためてこちらを見ていた。もう長いことそうしていたようだった。「どうした?」と訊くと、ううんとかぶりをふる。 一瞬、間をおいて「こっちへおいで」と誘った。「お父さん、いびきがうるさいから」 「そうじゃないよ。お父さんはおまえの部屋で寝るから、おまえはここでお母さんといっしょに寝な」 わたしと入れ替わりに横になった。 翌朝、どうだ、眠れたか? と訊くと、うん、ぐっすり眠れた、と少し照れながら応えた。この子は、いま闘っているんだな、と思った。目に見えない、じぶんの内なる何かと闘っているのだ。高校生になって、欠席が多いと単位が足りなくなって退学になってしまう。そうすれば大好きな部活もできなくなる。だから学校へ行かなくてはいけないというのは充分に分かっていて、何とかじぶんを奮い起こそうとするのだが、朝になればヨナを呑み込んだ鯨のような怪物の腹の中に閉じ込められてしまう。

 平日の朝は憂鬱だ。目が覚めると子の部屋でつれあいと子が話している、たいていは子が叫んでいるか泣いている声が漏れ伝わってくる。あるいは部屋はしずかで、パジャマ姿で階下へ降りていくと朝食の席に子の姿が見当たらないのを見て「ああ、今日もだめなんだな」と思う。つれあいが声をひそめて何かを言いかけるのを、思わず「嫌な話なら聞きたくない」とさえぎってしまう。着替えて、出勤前にジップの散歩へ出る。

 たしかおとといの夜であったか、夕飯を食べ終えて二階へあがろうとする子をふと呼び止めてもういちど席に坐るように言い、二三日の間、もやもやと考えていたことを話した。いわく、お父さんはいままで何だかんだと言いながらも、やっぱりおまえが学校へ行けるようになって、好きな演劇もして、勉強もちゃんとして、せっかく悪くない学校へ入れたのだから後々は立命館か同志社あたりの大学へ進学するようなイメージを頭の中のどっかで捨てきれずにいた。いままでは。でももう、それは捨てた。というか、お父さんのなかでぜんぶ吹っ切れた。おまえが学校へ行きたいと思って、がんばってもどうしてもうまく行かないんだったら、それはそれでいい。家にいて、本を読んだり、音楽を聴いたり、パソコンをしたり、ジップやレギュたちと遊んだりして、おまえができることをやって愉しく過ごしたらいい。そうしておまえが30歳になっても、40歳になっても、お父さんが元気で働けるうちはおまえを養ってあげる。でもお父さんが死んでしまったら、もうお前には何もしてやれない。おまえは姉妹もいないから、この世でひとりぼっちだ。じぶんで何とか生きていかなくてはならない。だからそれまでに、一人で生きていける術(すべ)を身につけることだ。分かったか? おまえが学校へ行けなくても、お父さんは何も言わない。その代わり、だらしない生活はするな。だらしない生活をしていたら、そのときはお父さんは怒る。以上。

 子は、何だかすこしうれしそうに聞いていた。つれあいはうんうんんと頷きながら泣いていた。その次の日も、子はやっぱり学校を休んだ。その代わりに家事を積極的に手伝うようになった。母を手伝って、洗濯や、食事の支度を一生懸命にしている。「まず生活力をつけるんだって言ってたわ」とうれしそうな顔でつれあいがわたしにささやいた。

 2016.5.13

 

*

 

 北杜夫は中学・高校時代に愛読した。小学校からの友人のお母さんが北杜夫のファンで、わたしが好きなのを知ると持っている蔵書をぜんぶ呉れてしまった。その友人のお母さんは癌ですでに亡くなってしまったが、蔵書はいまわたしの娘の部屋の本棚に並んでいる。娘も小学生以来、北杜夫のファンだ。

多感な10代の頃は学校をサボって三鷹の桜桃忌へ行くほど太宰にイカレていたし、また人並みに初期の大江健三郎や、サリンジャーなどにも傾倒していたけれど、北杜夫の叙情とユーモアをわたしはこよなく愛した。そうしてバランスをとっていたのだと思う。

「東京オリンピックはもう要らない」という話をよく聞く。たとえば鄭玹汀さんの今日のTL
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オリンピックは誰のための祭典?

数兆円規模の負担がかかるオリンピックはもう要らない。
今のオリンピックというのは、庶民の膏血を絞り、教育や福祉を犠牲にしたうえで、巨大グローバル企業が地球規模での金儲けのためのもの。オリンピックの開催費用のほとんどは税金。しかしグローバル企業やその傘下の企業に儲けを持っていかれる。

オリンピックで庶民の生活がいっそう悪化、破綻することは必至だ。
北京オリンピック開催で、北京の庶民がどれほど苦しめられたか、ちょっと調べるだけでもオリンピックの実態がわかるだろう。派手な式典の影で立退きを強いられた住民たち、自殺した人たちは数え切れないほどいる。その悲劇は、もしかしたら明日のわが身にふりかかるかもしれない。

スポーツマンシップ、世界の平和という、彼らの大義名分に騙されてはならない。
オリンピックで何個メダルを獲得しているか、メダルを数えているうちに、自国の国旗を誇らしく思っているうちに、わたしたちもいつのまにか“愛国者”になっていく。
https://www.facebook.com/photo.php?fbid=613049685519053&set=a.101540370003323.2759.100004420802283&type=3&theater

 

  これらを読みながら、ふと、そういえば北杜夫もそのむかしオリンピックについて何か書いていたな・・・ と思い出した。娘の本棚から探し出したのは、見開きわずか2ページの短いエッセイだった。こんな具合だ。

亡くなって5年近く経つが、マンボウ氏の視線はいまも色褪せていない。

 

 近年のオリンピックの標語に「世界はひとつ」というのがある。こんなことをわざわざ言わなければならないのは、われわれ地球人がよほど喧嘩好き、競争好きであることが背後にあるからだろう。

 近ごろSFという空想科学小説が流行のきざしを見せているが、宇宙を舞台にするそれによると、地球人という言葉が、日本人、東京人くらいの感覚によってひびくのがなかなかよい。

 ある遊星で野球の試合があるが、一方のチームの生物は手か足が十本ばかりもあるので、そのピッチャーは奇態な体をくねらして快速球を投ずるが、一体どの手からボールがとびでてくるかわからず、こちらはどうしても打ちこめない。と思うと、無類の強打者のホーカ―族の四番打者が、一度はやりたくてたまらぬセーフティ・バントをすると、そのバントは楽々と外野のフェンスを越えてしまうのである。

 つまらぬ話をしたが、要するにオリンピックであれ、要は「遊び」なのであって、その精神を忘れてはならないだろう。

「強化合宿」とか「悲壮な決意」とかいう文句を私は好まない。選手は倒れるまでがんばるがよかろう。しかし、それは「遊び」であるということを精神の一部で知っていて欲しいのである。つまり、人間にとって大切な「余裕」をもって欲しいのである。それなくしては、オリンピックなどは有害無益だ。

 むかしのオリンピックには、綱引きの競技があった。あれはほほえましいものである。なぜあれをやめてしまったのか。

 いっそのこと、小学校の運動会そのままに、「ドジョウすくい」や「球入れ」の競技があってもいいくらいに私は思う。世界で選ばれた何名かが、ツルツルするドジョウを懸命ににぎって力走する光景を思いえがくだけで、どれほど精神衛生によいことか。世界で選ばれた選手たちが、夢中で布製の紅白の球を投げあげ、最後に「ひと一つ」「ふた一つ」と数えあったら、われわれはもっと仲良くなれないか。

 こういうことを書くと、「ふざけている」「不真面目である」とよく言われるが、私はそういう人たちを信用しないことにしている。

北杜夫「マンボウぼうえんきょう」(世界はひとつ、オリンピック)

 

 

 子は久しぶりに朝から部活へ出かけた。みずから書いた脚本の今日は配役を決める大事な日だから、と。わたしは昼に歯医者の予約があり、つれあいは夕方まで仕事。歯医者が終わってから急いで迎えに行ったが、学校へ着いたのは2時近く。12時に部活が終わった子は2時間近く、一人で部庫で待っていた。しんどいから寝ていたという。近くの格安スーパーへ車を移動して、子は百円のたこ焼きとカキ氷でお昼。わたしは198円の中華弁当とたこ焼き半分。二人で車の中で食べて、帰って来た。

 夜はわたしが恒例の三つ葉と鶏むね肉の酒蒸し、蛸ときゅうりのマリネをつくった。マリネは今回、重石を乗せて水抜きした豆腐を加えてサラダ風に。先日仕込んだ自家製ハーブ酢をすこしかけたら、結構いけた。

 暑さでばてたか、子はちょっと微熱。

 2016.5.14

 

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   故あって天川村。 林道吉野大峰線で古代のハイウェイを抜け、洞川のひと気のない涸れた源流にいる。羊歯は睡眠を誘う。目覚めたらもうこの世のものでないかも知れない。樹の間をわたる風が心地いい。

2016.5.15 

 

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 朝から垣根(レッドロビン)の剪定。垣根は落ち葉の掃除が毎日大変だが、最近は垣根をしている家が少ない。「緑があって、ここを通るといつもほっとする」と以前に通りがかりのおばあさんが言ってくれたことがあった。剪定は電動のバリカンで刈っていくだけだが、後始末が結構大変。 それから、今年はわが家も緑のカーテンなるものにトライしてみることにした。いろいろ考えて、小屋とガーデン・ゲートに百均で買った長さ10メートルのロープをわたし、窓の上に取り付けたオーニングにくくった幅2メートル、長さ5メートルのネットをそのロープに取り付けて下に落とした。 プランター3個はそれぞれゴーヤ、きゅうり、パッション・フルーツ。ゴーヤときゅうりの種は工藤さん直伝の、湿らせたキッチンペーパーに置いた種を袋に入れて日のあたるところへ置いて発芽させる、という方法を真似てみた。 https://www.facebook.com/osamu.kamenoko/posts/629119543904708?pnref=story

 台風が来たら、ちょっと不安。

2016.5.16

 

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 本日は洞川で買ってきた豆腐三昧。 ニラ玉肉豆腐、冷奴、小松菜と薄揚げの味噌汁。 子どもが部活をめぐって案件有り、わたしがクレームの電話をいれている間に味噌汁はつれあいがつくってくれた。 今日は担任の先生と部活の顧問の先生と電話で夕食後から深夜まで喋り続けた。 娘は泣きながら演劇部のラインに父親が顧問の先生に電話で怒鳴っていると書き、それに対して「いいぞ、いけいけ」「(顧問を)辞めさせたら紫乃のお父さんにお菓子、贈る」「わたしは苺買ってあげる」と応援メッセージが続々届き、最後はそれをネタに家族三人で笑っておしまい、というオチで。

◆ニラ玉肉豆腐 http://cookpad.com/recipe/2482536

 

 天皇制を否定する政党がこの国では絶滅したということ。みんなが「上への差別」を容認し、併せて「下への差別」も許容したということ。

 

 娘の現在の状況について、寮さんがみずからの中高の同級生であり、千葉県で「不登校の子ども、障がいのある子どもの学びの場」を設けている特定非営利活動法人「スペース海」の代表:新田恒夫さんに相談をしてくれ、わたしの投稿を読んだ新田氏がタイムライン上で次のようなコメントを書いてくれた。とてもよい内容なのでここに転載させていただく。

 

 「メッセージありがとうございました。私の感じるところを書きます。私は不登校の相談を受ける時、最低でも90分、基本的には120分くらいの時間をかけます。そして、その時間の約半分は子どものいままでを聞き、残りの半分は親と共に親の気持ちを整理する作業をします。だから、どこまでこの文章で伝わるかなあ・・と思っています。親との相談の場面で最終的に伝えることは、「原則として、子どもを動かそうとするのはやめた方がいい」ということと「お母さん、元気でね」ということです。子どもを無理に動かすことは出来ません。不登校とは「知らないうちに用意されていた電車」を下りることです。子どもを動かそうとするのは「いままで乗っていた電車は苦しかったのね。だったら、こんな電車はどうなの?」と、子どもに別の電車への乗り換えを勧めるようなものです。そこで、大切なことは子ども自身がどの電車に乗るのかを選ぶことです。親から選ばされるのではなく、社会から選ばされるのではなく、自分の意志で選ぶことです。各駅停車にするのか、急行にするのか、特急にするのか、電車に乗らずに歩いていくのか、苦しい瞬間があっても自分で選ぶことが大切です。どの電車に乗ったらいいか分からずに、ただホームで立ちすくむしかない時間もあります。でも、その時間が未来の豊かな時間を作るのだと思います。不登校の子どもの親が子どもにしてあげられる一番のことは、なにもしないことだと思います。そして、「どの電車に乗ったらいいか分からずに、ただホームで立ちすくむしかない時間」を共有することだと思います。 ただ、このような文章を読んでも、きっと、本当にそれでいいのかな、それで大丈夫なのかなという思いを親はもちます。そのために、相談の場面では時間をかけて信頼関係をつくる努力をする訳です。親によっては、一度話して「なるほど」という実感を持って帰っても、しばらくすると、また不安になることがあります。そして、子どもを動かそうとしてしまう。子どもの未来のためには「子どものいま」を丸ごと受け止めることが必要です。そして、それがスタートになるのだと思います。 親が子どもの今の状態を受けとめられない、受容出来ない背景にはいくつかの原因があります。ひとつはいまの家庭の状態です。経済的な破綻、夫婦関係の破綻が背景にある場合、母親は子どものいまの状態を受けとめることが非常に難しいです。母親自身が精一杯で子どものことに思いが及ばないんですね。もう一つは、親自身の育ちです。親自身が育つ過程で、自分の辛さを受けとめてもらったり、労ってもらったりという経験が少ないと自分が1人で頑張ってきた分、子どもにも同じことを求めてしまうことはよく起こります。そして、もう一つが寮さんのお友達のようなケースかもしれません。小さな頃から、病気で何度も手術を繰り返し、その度毎に家族全体が思いを一つにして乗り越えてきたのだと思います。子どもの親として、子どもが病気になることほど切ないことはありません。まして、何度も手術をするようなケースでは親の不安、親のつらさは計り知れません。子どもだけではなく、親も頑張ってきたのです。その中で、知らず知らずの内に、親は親としての子どもへの気持ちを強めて行ったのではないでしょうか。「私たちがこの子をまもる」という親の思い。でも、子どもにとって、その強すぎる親の思いは呪縛になってしまっている可能性もあります。私はこの子の中学の不登校も、高校になってからの不登校も「親離れ」という側面があるように思います。いままで築いてきた強固な親子の絆をいったん解体する必要があるのかもしれません。 学校に行っていることが100点で、行っていないことは0点なのか、もちろん、そんなことはありません。学校に行けずに悩み苦しみ、立ち止まるいまは彼女にとっての100点で、それをじっと、見守り続ける親がいるとしたら、その親が100点です。そして、そんな関係の中で子どもが動き出さないはずはありません。必ず、動き出す瞬間がきます。 不登校は年齢が上がれば上がるほど、状態は悪くなります。元気になるのに時間がかかる。いまがとても大切な時期だと思います。機会があったら、会って話ができたらいいなあ、私でよければですけど。打ちっぱなしの文章で読みにくくてごめんなさい。」 https://www.facebook.com/tsuneo.nitta/posts/1021000514648953?pnref=story

 

 二分脊椎の子どもというのはやはりその生活上、親との関係が強いのでなかなか親離れができない・できにくいということは従来から言われている。症状にもよるが、娘の場合であれば移動にしろ、排泄にしろ、どうしても依存度が高くなってしまう。その上、このあくの強い父親である(^^) わたしは彼女の不登校は、学校という現在の教育現場にも大きな理由があると思っているが、もちろんそれがぜんぶだと思っているわけでもない。ここで指摘して頂いた「親離れ」の側面も大いにあるだろうな、と思う。 寮さんのご厚意で、いちど直接にお会いしてお話ができるよう調整をさせてもらっている。ほんとうは家族三人でお会いできたらいいのだが、じつ不思議なタイミングで今日からしばらく千葉へ出張である。うまく日程が合えば、どこかで「スペース海」を訪問させて頂こうかとも考えている。
◆特定非営利活動法人スペース海 http://space-umi.org/ https://www.facebook.com/tsuneo.nitta/posts/1021000514648953 

2016.5.17

 

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「お父さんが出張に行ってからも(担任の)U先生、(部活の顧問)M先生と話が続いています。お父さんがM先生と話した翌日、M先生が電話をくれ、紫乃の様子を聞かれ、私が「部活に行く気が薄れている」と言ったからです。 紫乃は部活が始まったら必ず行くでしょうけど、今、学校に行けてないので気にかけてくれてます。 新田さんのメールに親が子供を守ろうという意識が強くなってしまうことがあると。そして、お父さんが「お前が(紫乃が)言わないからお父さんが(学校に)言わなきゃいけなくなるんじゃないか」と言った言葉、その二つをずっと考えていました。 お父さんが言うように紫乃は状況が悪いとき、自分の気持ちを人に伝えることが苦手というか殆どできません。 以前、演劇部でも「紫乃は空気が悪くなりかけるとすぐ察知する」と言われたと不登校になる前に話してました。 また、Sちゃんに「紫乃はもっと自分の意見を言ったらいい。怒ってもいいんだ」と中二の頃に言われたとも言ってました。 子供からもそう見えてるんですね。 紫乃に必要なのは、違うと思った時に自分の意見をちゃんと言える力だと思います。 それができない今は争い事を避け、友達の仲裁ばかりに気を使い、言いたいことは全て自分の胸にしまい込む。それで精神がまいってる状態です。 たとえ学校をやめ、違う道に進んだとしても、自分で問題を解決する力がなければ、同じことになるように思います。 だからといって、紫乃に意見を言え、強くなれと言っても急にかわれるものでもなく、かえって自分は弱いと萎縮させてしまう。まずは自分達が「守る」という意識から「自立を助ける」という方向へ考えを変えなければいけないのではないかと思います。 今まで紫乃に降りかかる火の粉を全て親が振り払ってた気がします。なかには紫乃が「やめて! 自分で言うから」と言うものもありました。が、紫乃に何かあったとなると黙っていられず、お父さんが出て解決してましたよね。私たちは紫乃が成長するチャンスを奪ってきたのかもしれません。 紫乃は小学2年から学期の終わりにお楽しみ会で劇をするようになりました。3年生の2学期ぐらいになると「男の子達がふざけて練習してくれない。」「日にちがないのに昼休みに運動場に遊びに行ってしまう子がいて、練習ができない」と学校から帰ってくるとしくしく泣く日が続き、みかねた私が先生に相談し、先生が子供達に話してくれるということが度々ありました。それが毎学期ですから1年に3回、訪れるものですから、高学年になると、予め新学期に先生にお話したりしてました。6年生になっても「皆が練習してくれない」と泣いていました。でもいつもお楽しみ会は上手くいき、楽しかったと喜んで帰ってきました。 なんだかそれと同じようなことが今も繰り返されてる気がします。まじめに練習しなかった男の子達が今の高1のメンバーであり、小学校の担任の先生が顧問のM先生にかわり、そこで起こった問題の解決を私やお父さんがしようとしている。 でも、これは紫乃が解決しなければいけない問題なのだと思います。 そんなことを考えていた矢先、U先生から電話があり、電話でのやり取りではなく、実際に紫乃とM先生が会って話す場を設けたいと話されました。そこにはU先生と私も入ると。普段、教室で子供達は何かトラブルがあると色んな相手と喧嘩をしている。でも紫乃はそれができない。紫乃の相手は同級生でなく、M先生で大人ではあるけれど、紫乃に自分の思っていることを話すということをしてもらいたい。紫乃にとってはしんどいことだけれどやらなきゃいけない。それでM先生からそれは違うだろうというような答えが返ってきたら、私が突っ込みます。と昨夜、電話がありました。 紫乃に話しましたところ、「いやだ、そっとしておいてくれたら部活に行くから」と答えが返ってきました。私もいいチャンスと思いながらも紫乃の答えを聞き、確かに必ず紫乃は演劇部に行くだろうと確信してましたので、紫乃にはそれ以上何も言わす、U先生に紫乃の言葉を伝えました。ところがU先生は、紫乃にとって部活は生き甲斐であり、安らぎの場であるべきところ。なのにそうなっていない。ここで紫乃が部活に行き始めたとしても先できっと同じ問題が起こる。学校は行く、行かないは紫乃の意思に任せるけど、部活は紫乃が行きたいと強く思っている場所であるだけに、うやむやにしたくないと仰られました。U先生もなかなか。お父さんと似たところがあります。 「学校に来れないようなら家に行かせてもらいます。」とのことで、月曜夜にU先生とM先生が来てくれることになりました。 紫乃が普段、不満に思っていることを話せればいいと思っています。 紫乃が話しやすいよう、先生方には食事を一緒にして頂こうかと思っています。 紫乃に知らせると不快になりそうなので当日夕方まで言わないことにしています。 これまでの先生同様、嫌だと言いながらも、家に来て頂き、食事をしてもらったら、紫乃の気持ちも和み、先生方と話してましたから、今回もそうなればと思っています。」

2016.5.23

 

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「 昨日はU先生、M先生が2時間半かけて、紫乃と話し合ってくれました。紫乃も中1の頃からの演劇部の内幕を話しました。M先生も演劇部の様子を代々の部長やその同級生から聞いてらっしゃったこともあり、そこに紫乃の話が加わり、「なるほど! これで繋がった!」と仰ってました。M先生の頭の中で繋がったんでしょうね。 部員、一人一人についても二人で話してました。部活が終わって皆が帰った後、私が迎えに行くまで、紫乃はよくM先生と話しています。紫乃は部活のメンバーの中では(部長を除いて)M先生と一番話すそうですが、M先生も「あの短い時間でこんな深い話はできんもんなあ」と色んな意味を込め、しみじみと仰ってました。 U先生は最後に紫乃に、「紫乃はM先生と同じ目線で部活のメンバーを見ている。一段降りて、同級生と同じ目線でぶつかり合うことも必要。ぶつかり合って、全てが解決できるかといったら解決できないことのほうが多い。なんで、わかってくれへんの?と、辛いことも、悲しいこともいっぱいある。それでもぶつかり合うことは大事。ぶつかり合うことで人との距離感、この人とどう付き合っていこうか、こんなことを言ったら傷けるなとかを学んでいく。どうしてもダメなときは先生やM先生もいる、言ってくれたら先生たちは出来る限りのことをする。まずはぶつかれ。解決する努力をしてみよう。悩みを持っているのは紫乃だけじゃない。みんな持っている。でも、それを言っていかないと誰もわかってくれない」と、先生は自分の体験談も交え、話してくれました。 夜、お風呂から紫乃の鼻歌が聞こえてきました。ここ3、4日、足の中が痒いとずっと眠れず、疲れきって眠るという状態が続き、かなり弱ってる様子でした。先生と話すことでしんどいけど楽しくもあったのかなと思います。 今日は中間テスト1日目です。ぐずることもなく、学校に行ったのですが、1時間目の途中にお腹が痛いと言い、U先生がトイレまで付き添ってくれたのですが、紫乃が浣腸しないとでないから、帰りますと言い、迎えに行ってきました。便は週末に下剤を飲み、昨日、出てるんですけどね。 U先生は「お腹が痛くなるのも当たり前です。習ってないからですが、何にも書けないのはしんどいです。今日、これただけでもすごいことです。」と、私に電話で話してくれました。 紫乃には「体調、整えて、明日また、がんばろうな!」と声をかけて下さり、紫乃も無言で頷いていました。 帰る途中、車の中で急に変な汗が出てきたと言い出しました。 体が色んなことに反応してるのかな。 新田さんとは明日、14時に西大寺駅で会うことになりました。 余談ですが、M先生は郡校出身だそうで、100円のおばあちゃんのたこ焼きをよく買いにいらしてたそうです。 また、MT先生とM先生の奥さんが仲がよろしいらしく、よく二人で出かけられるそうです。 紫乃は今、眠っています。 では、気をつけて。」

2016.5.24

 

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 出張で千葉に来て約10日ほどになる。 いつものようにスーパーの店頭でもやしを買おうと手に取れば、いつもは避けている関東産のものしか選択肢はない。 折しも福島支社(郡山)から応援に来ているMさんに放射線量のことを聞けば、「ぼくは目に見えないものは考えないことにしていますから」と明快な答えが返ってきた。 他にも何人かに聞いてみたけれど、ほとんど「そんなこと本当に気にしているんですか」と一笑に付された。それでもFBでは日常的に流れている様々なデータや市民による測定の話などをこちらもやや向きになって話すと、ちょっと真面目な顔に変わって、しかしはじめて聞いたという顔で、「そんな情報はどこから集めてくるんですか?」と逆に聞いてくる。 そんな質問を受けると、「メディアの罪」ということを、改めて思ってしまう。 メディアが悪なのか、わたしたち一人一人がその悪を育んでいる土壌なのか。そうして素朴でひとのいい多くの人々は立ち枯れした穀物のように捨てられていくのか。 そんなことを考えながら、今日も関西では決して買うことのない産地の野菜を手に取る。

2016.5.25

 

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 大学時代からのだいじな友人の素晴らしい街頭アピールの動画を、ひさしぶりに帰ったわが家の夕飯の席で家族三人で見た。 「わたしは、どんな状況に生まれても、じぶんの人生を大切に、有意義に生きる努力が大事だと思います。だからわたしはなにがなんでもじぶんで頑張ることより、積極的に人に手伝ってもらうことを選びます」

2016.5.29

 

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 ホームステイ初日。 Hちゃん家と合同で登美ヶ丘イオンのバイキング店で、まずは互いに探り合い(^.^)
 追記) 黄色い帽子はオハイオ州から来たニック。腕に家族の名前の刺青をしている、ダンス好きのやんちゃそうなボーイズ。 ボブ・マーレイのようなスタイルは通称“K9”、コロラド出身で現在カリフォルニア州在住。ブラック・ミュージックが大好きで明日の夜、わたしの書斎で古い黒人音楽をいっしょに聴こう、ということになった。 この二人がわが家のゲスト。

2016.5.30

 

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 「日本食ではなにが好き?」ではなくて、「アメリカではどんなものを食べている?」と訊いたら、マカロニ、チキンステーキ、ホワイトソースのパスタ、ピッツァなどがでてきた。で、今日はマカロニグラタンとチキンステーキ、庭のディルを使った人参とポテトの添え物、パン。「スゴクオイシイ」と写真まで撮っていた。

2016.5.31

 

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 ヤングアメリカン2日目。 学校でのワークショップが早めに終わり、わが家に戻ってから歩いてこちくやの「金魚すくい道場」で二人ともはじめての金魚すくい体験。結果は“K9”が18匹で断然のトップ。つれあいが9匹。ニックは8匹。

●こちくや http://www.kotikuya.sakura.ne.jp/menu.htm

 夜はつれあいがマカロニグラタンを、わたしがチキンのステーキと、庭のディルを添えたポテトと人参を加えて、二人ともとても喜んで食べてくれた。 食後はニックがわが家の電子ピアノを駆使してバリー・マニロウの曲とおしえてくれた one voice のハーモニーをスマホのアプリを使って作り上げ、“K9”とはメイヴィス・スティプルのゴスペル曲や黒人奴隷たちのワークソングのCDなどをいっしょに聴きながら、ヤングアメリカンのツアーの話から娘の病気の話まであれこれとお粗末な英会話とスマホの翻訳機能を駆使して話し込んだ。 夜もふけてから、“K9”の大叔父がチェロキー族の酋長だったという話まで辿りつき、明日、その大叔父のとても長い名前を聞いてみると言ったところでおひらきとなった。 娘は今日は朝からヤングアメリカンたちと学校へ行き、かれらのワークショップの間は体育館の二階でいっしょにダンスの練習などをしていたらしい。ヤングアメリカンの迎えが早かったため、部活を終えてから一人で帰って来た。

 

 ニックが教えてくれた one voice は1979年のバリー・マニロウの同名アルバムから。バック・ボーカルはすべてバリー・マニロウ自身の多重録音とか。 なかなかいい曲。

Just one voice, singing in the darkness All it takes is one voice Singing so they hear what's on your mind And when you look around you'll find たった一人の歌声が 暗い闇に響き渡る たった一人の歌声でいいのさ その歌声を聞けば 人々は歌い手の気持ちがわかるんだ まわりを見渡してみれば 歌っている人がいるのが見つかるよ

There's more than one voice Singing in the darkness Joining with your one voice Each and every note another octave Hands are joined and fears unlocked 一人の声以上のものがある 暗い闇に響き渡る歌 きみの声にハモってくる声がある 一つひとつの歌詞に 別なオクターヴがかぶさってくる 手と手が結ばれて 恐れはもう頭をあげることもない

 If only, one voice, would start it on its own We need just one voice facing the unknown And then that one voice would never be alone It takes that one voice 一人の声さえあれば 自然と始まるものなんだ 必要なのはただ一人の歌声さ 未経験だったとしても 一人の声はそのまま 一人じゃないんだよ 最初は一人の声から始まるのさ

 It takes that one voice Just one voice, singing in the darkness All it takes is one voice Shout it out and let it ring 一人が歌いだせばいい ただの一人の声でいいんだ 暗闇のなかでも歌い出そう 一人の声さえあればいい 大きな声で歌おう ハーモニーを響かせよう

Just one voice, it takes that one voice And everyone will sing ひとりの歌声さえあればいい ひとりが歌い出せば みんなが歌い始めるのさ・・・

Songwriters MANILOW, BARRY Lyrics © Universal Music Publishing Group Released in 1979 From The Album"One Voice"

http://mettapops.blog.fc2.com/blog-entry-1649.html?sp https://www.youtube.com/watch?v=O-cDP8px1fQ&list=RDO-cDP8px1fQ

 

 Sing Nick ニックのお父さんは南アフリカからアメリカへやってきた。 17人の兄弟と5人の姉妹がいる。 3歳から教会でゴスペルを歌ってきた。

 

 ヤング・アメリカンの送迎や買い物、食事の支度などの合間をぬって、今日は昼間に念願の立水栓(水場)の作業。 砕石を叩いて、モルタルで石を配置・固定していく。モルタルが乾いていく時間制限の中で石の組み方を決めてしまわなくてはいけない。若干、不満は残るが、まあ、こんなものか。 続いて現在のしょぼい立水栓を覆ってしまうカバーを作成。木工ボンドを塗ってクランプで固定してから、ステンレスのスクリュー釘をうつ。交換する蛇口に必要な径は28ミリ、高さをなんども測って穴を開けた。そして屋外用のウォルナットの塗料を塗った。今日の作業はここまで。 明日、モルタルとカバーの塗料が乾いたら、あとは蛇口を交換するだけ。

 

 本日の夕食は、パパさん(わたしのこと)が渾身の力をこめてはじめて挑戦したアルフレッド・ソースのパスタ。 「パスタ チーズ」でWeb検索していたら出てきた濃厚パスタだが、聞けば二人とも大好きで、とくにニックはアメリカ料理の中でいちばん好きだという。 本来のアルフレッド・ソースはパルメザン・チーズとロマーノ・チーズの二種類のチーズ、そして生クリームを混ぜ合わせたものらしい。出来合いのアルフレッド・ソースも売っているが近所の店では見つからず、いくつかのレシピを参考にしてじぶんでつくることにした。以下はおよそ5人分のレシピ。 @細かく刻んだニンニク(一玉)を少量のオリーブオイルと50gのバターで熱する。 A予め一口大に切って塩胡椒しておいた鶏肉(300g〜500g)とマッシュルーム(4個)を炒める。 B生クリーム(300cc)を混ぜる。 Cパルメザン・チーズ(一瓶)とモッツァレラ・チーズ(細切れ一袋)を入れて溶かす。 D塩で味を調えて、茹でたパスタにからめる。 E最後にパセリを添えて。 というわけでこれでもかというくらい乳製品を投入してかなり高カロリーだが、そんな中で鶏肉をもも肉でなく胸肉にしたのはあっさりとしていて正解だったと思う。この濃厚パスタにガーリックやチーズなどのパンを添えて出した。 結果は、今日も二人ともオイシイ・オイシイとほとんど残さずに食べてくれた。(そして昨日とおなじように写真撮影)

 これでわたしの料理がもはやワールド・ワイドで立派に通用することが証明されたわけだ。

http://www.pasta-ru.net/r016.html

http://www.oishiiamerica.com/2013/03/04/%e3%81%8a%e3%81%84%e3%81%97%e3%81%84%e3%83%95%e3%82%a7%e3%83%83%e3%83%88%e3%83%81%e3%83%bc%e3%83%8d%e3%82%a2%e3%83%ab%e3%83%95%e3%83%ac%e3%83%83%e3%83%89/

 

 夕食後、“K9”は食べすぎで「モウ、ウゴケナ〜イ」とノックアウトを食らったボクサーのように。 ニックはローソンのATMへ行きたいと。「ヒトリデ、ダイジョウブ」と言うのでそのまま行かせたら、数分の道のりを一時間くらいしてやっと戻ってきて、帰り道が分からず、どこも似たような景色で、二時間くらい歩き回っていた気がする、おまけにATMでカードが使えなかった、と。 そこへつれあいが Nick, I have sad news と、かれらの部屋に侵入したジップが齧って半分になってしまった夕方にスーパーで買ったばかりのニックのストロベリー・ドーナッツの残骸を見せて、一堂大笑い。 当初、車椅子で舞台にあがるのはぜったいに嫌と言っていた娘は、今日はヤング・アメリカンたちの目論見どおり、まずは昨日までの2階からみなとおなじ体育館の1階でワークショップを受け、さらに「ハリー・ポッターは好き? ハーマイオニーは?」と訊かれて、つい「好きです」と言ってしまったために、ホグワーツに似せた制服を着させられて舞台の上で呪文を唱えるハーマイオニー役をさせられてしまったとか。

 2016.6.1

 

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 立水栓、完成。蛇口の交換は初めてだったけれど、意外と簡単だった。家の止水栓を閉めて、古い蛇口をはずし、新しい蛇口とジョイント金具にそれぞれ水漏れ防止のシールテープを巻きつけてはめ込む。木製カバーと穴の位置もばっちり。庭のまんなかから見ると、山中の獣たちの水場のようにも見える(気持ち)。 石はむかしから好きだった。石はわたしのなかでは反近代、それこそかの柳田国男が『遠野物語』の序文において「願はくば之を語りて平地人を戦慄せしめよ」と記した山人たちの象徴だ。紀伊半島の山ふところの清浄な石たちが磐座のように鎮座して、わたしはいつもあの物の怪の世界に浸ることができる。 これで庭の作業はほとんど終わりかな。思えば5年前にこの家を中古で買ったとき、庭は厚く生い茂った生垣のレッドロビンで閉ざされた、コンクリの土台の物干し台がまんなかにぽつんと置いてあるだけの殺伐とした空間だった。車一台分の駐車場にちょうどいいと言う近所の人もいたけれど、わたしたちはささやかな庭として残すことにした。 2010年6月に引越し、9月に仮のテント小屋を張った。その後、外溝の工事が入って、その間にわたしの部屋の壁面書棚や子のサイドテーブルなどをつくり、2011年7月に生垣のレッドロビンを数本抜いたところへパーゴラ・ゲートを設置した。8月に「ゲート看板」と、隣家との境界のフェンスを作成。 2012年5月にテント小屋を立水栓の横に移して、いよいよガーデンハウスをつくりはじめ、6月に床部分を張り終えてからは暑さでしばらく放置。10月に再開して、それから休日を利用して少しづつ。おおむね出来上がったのは2014年の暮れ頃だった。 2015年4月、リビングから庭へ降りるところへイギリスのコッツウォルズ・ストーンを積んだステップを作成。10月、収納を兼ねたレンガベンチを作成。そして立水栓。

 2016.6.2

 

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 御徒町のふと覗いた路地に見つけた中華大興でお昼。日替わりの野菜炒めのせそばと半チャーハン、700円。 わたしよりちょい上の世代らしい男7人と女2人で、せまい店内のほぼ半分を占拠して同窓会をしていた。神田の地らしい。 ひとしきり誰が離婚したとか、誰が再婚するとかいう話に興じてから、それまであまりしゃべらなかった細身の男が「男はね、やっぱり柔肌が必要なんだよ」 「なんか、おまえが言うといやらしく聞こえるなー」 「おれなんか、かれこれもう20年間、女房とは別々の部屋で寝ているぞ」 あれこれと盛り上がる。 「だからおれは最近、犬を飼った」 「なんだ、犬か」 「犬が柔肌の代わりになるのか」 「いや、コウちゃんはあれさ、犬をネタに女と近づきになろうとしているわけさ」 こういう同窓会って、いいなあ。

 2016.6.4

 

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 一年前は元気があったなあ。 このごろはちょっと、意見をいえば言うほど「引かれる」ので、正直うんざりしている。 じぶんは永遠に適応できないなと改めて実感している。この世の多くの人々が受け入れている多くのことに対して。 

 2016.6.9

 

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 千葉出張もあと数日。山場は越えて、昨日はガレージ・セールの平棚をしばし漁った。 レイ・チャールズのデュエット盤はデキ・レースのようだが、モリスンとチャールズが crazy love を歌うのを聴くだけでも200円の価値は充分にあろうというものだ。 https://www.amazon.co.jp/gp/aw/d/B0002IE2H2?pc_redir=T1 働いて寝るだけの乾燥した毎日を送っていると、詩が読みたくなる。現代詩の講師役として長田弘はじつに適役。一冊の講義代はわずか100円。 blogs.yahoo.co.jp/ym7562/65238700.html 写真二枚目は、水戸の現場から応援に駆けつけてくれたMさんの手土産の「しょぼろ納豆」。これはぜひ関西のスーパーでも置いてくれないか。 www.onuki-tsukemono.jp/nato/nato.htm

 いのちを張らなければ守れないような身にいったん戻らなければ、分からないのかもしれないなこの国は。 厳しい時代が来るよ。おれはいまから覚悟している。

 2016.6.11

 

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 単純、というのは世界を、そして人間を舐めているということ。

 2016.6.12

 

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 いよいよ帰宅。その前に、ちょっと柏へ立ち寄った。コインロッカー、百円玉のみというのは不便だな。仕方なく地下のゲームセンターで千円札をくずし、キャリーケースを放り込む。駅前からすこしあるいた「佐渡蔵」という店で、朝食を兼ねたはやめの昼食。一日10食限定の鮪丼、500円。厚めのマグロが8切れほどと味噌汁、ご飯大盛り無料。 お腹を満たしたら柏市民ギャラリーへ。摘水軒記念文化振興財団コレクション展(後期の出品展示は江戸期の絵師たちが描いた花鳥動物画)。学校の教室ほどのスペースのこじんまりした展示だが、ゆっくり眺めて、なんどもおなじ絵にもどってはまた見入って、じつに満腹、堪能した。いきなりの蕪村の虎図に射抜かれて立ち尽くす。黒田稲皐の「親子牛図」は江戸の絵師の精神ではない、近代の詩人のような心をもっていたのだろう。定型より逃れた自由な叙情。胸に沁みる。2001年宇宙の旅のモノリスを見上げるのが森狙仙の「猿公図」。岡本秋暉 「百花百鳥図」はワンダーランド、抑制された色の乱舞が目に心地好い。董九如「喜休思波図」では水鳥が戯れる水面が重畳たる山岳の峰峰である。中世ヨーロッパの絵本の挿絵のような有馬一純の「松に兎図」。重厚な安田雷洲の「鷹図」はさながらドイッ浪漫派の趣き。北斎はやはり唯一無二。不敵な笑みを浮かべる「雪中鷲図」は、84歳にして偉大なロックンじじいだ。上野都美術館ではもみくちゃにされた記憶ばかりが残る若沖「旭日松鶴図」はよい意味で広告的、江戸のアンディー・ウォーホル。この緊密な空間処理はやはりすごい。まだまだいろいろあるけれど、とりあえず忘れないうちにアーケード商店街沿いのマックでコーヒーを飲みながらBluetoothキーボードでこれを叩いた。 働いて喰って寝るだけだった期間の飢えがこれですこしばかり癒されたな。

 2016.6.13

 

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 今回のヤング・アメリカンのホーム・ステイでわが家に泊まった二人の黒人青年のうちの一人、通称“K9”。初日にはじめて遠目から対面したときは眼光の鋭いボブ・マーレーイのようで、「これはヤバイんじゃないか」(笑)とつれあいと囁きあったのだが、じつはとても紳士的で思慮深く物腰もソフトで、わたしたちの破天荒な英語にもじっくりと付き合ってくれるナイス・ガイであった。 カリフォルニア州に母親と住んでいるかれはじつは黒人と、ネイティブ・アメリカンとの二つのルーツを持っている。母親の大叔父(grand-uncle)がチェロキー族の酋長であったという。わたしたちが「どんな名前の!」と盛んに訊くもので、わざわざ母親にメールで問い合わせてくれたのが Beneathes Whites という名前。かれの“K9”はじつはかれの名前のスペルを入れ替えた Canine から来ている、と教えてくれた。Canine とは辞書を引けばイヌ科の動物全般を指すようだが、かれの場合はオオカミを意味し、それはかれの重要なトーテムということらしい。 そんな“K9”から教えてもらったのが、このアメリカの覆面ダンス・グループ Jabbawockeez 。最終日の(学校での)ステージで見た“K9”の現代風で前衛でじつにイカしたダンス・パフォーマンスもびっくりするほど格好良かったが、かれは中学生のときにこのJabbawockeez の舞台に接してダンスを始めた。じつは母親もダンス教室を経営しているのだが、「母親からは何も教わらず、すべて独学だった」そうだ。(ちなみに“K9”がスマホの画面で見せてくれたお母さんは若い頃のアレサ・フランクリンのような美人でまだ30代後半!) 将来はこの Jabbawockeez の一員になりたいというのがかれの夢だ。 4泊5日の滞在中、“K9”は娘の病気の内容まで訊ねてきて、学校でみんながヤング・アメリカンたちとワーク・ショップをしているのを体育館の二階から見学していた娘のところへもときどきやってきて話をしてくれていたらしい。お互いにだいぶ馴染んできた最後の頃に、娘が「どうしたら彼氏ができますか?」と訊ねたのに対して、この紳士的なボブ・マーレーイがしばらく沈思してから出してきた答えが、書置きの手紙に書いてくれた「 be strong, be independent, and be yourself」だった。これをテーブルの上のお菓子を狙っていたジップになぞらえてわたしが「 be strong, be independent, and be yourself. and then you have a food !」と言ったのを“K9”がお腹を抱えていつまでも笑い転げていたのが、いまとなっては懐かしい思い出だ。

http://www.lvtaizen.com/show/html/jabba.htm

https://www.youtube.com/watch?v=QFfZ1kfiAEs 

 

 東京のIさんが最後の日、おみやげにくれたピーナッツ・ハニーと、娘へチーパくんチョコ。 ピーナッツ・ハニーといっても、率直にいえば味噌ピーナッツ。おお、そういえば子どもの頃、けっこう食べていた、と口にして思い出した。 写真3枚目は近鉄京都駅構内の出店で買ったずんだ餅。 最後は、なつかしい常磐線。「ひたち野うしく」駅なんて、いつできたんだろ。 http://www.fujisyo.co.jp/peanuts_miso1.html 

 2016.6.13

 

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 千葉の某ワゴンセールで百円で購入した長田弘「現代詩の戦後 叙情の変革」(晶文社)をめくっていて、ひさしぶりの詩に出会った。 詩はひさしぶりだが、いまも生命を保っている。 われわれはこの詩がうたうように、いまだ漂泊者である。 みずからが漂泊者であることを知れば、世界は様相を違える。

立棺  /  田村隆一詩集『四千の日と夜』

1 わたしの屍体に手を触れるな おまえたちの手は 「死」に触れることができない わたしの屍体は 群衆のなかにまじえて 雨にうたせよ   われわれには手がない   われわれには死に触れるべき手がない わたしは都会の窓を知っている わたしはあの誰もいない窓を知っている どの都市へ行ってみても おまえたちは部屋にいたためしがない 結婚も仕事も 情熱も眠りも そして死でさえも おまえたちの部屋から追い出されて おまえたちのように失業者になるのだ   われわれには職がない   われわれには死に触れるべき職がない わたしは都会の雨を知っている わたしはあの蝙蝠傘の群れを知っている どの都市へ行ってみても おまえたちは屋根の下にいたためしがない 価値も信仰も 革命も希望も また生でさえも おまえたちの屋根の下から追い出されて おまえたちのように失業者になるのだ   われわれには職がない   われわれには生に触れるべき職がない

2 わたしの屍体を地に寝かすな おまえたちの死は 地に休むことができない わたしの屍体は 立棺のなかにおさめて 直立させよ   地上にはわれわれの墓がない   地上にはわれわれの屍体をいれる墓がない わたしは地上の死を知っている わたしは地上の死の意味を知っている どこの国へ行ってみても おまえたちの死が墓にいれられたためしがない 河を流れて行く小娘の屍骸 射殺された小鳥の血 そして虐殺された多くの声が おまえたちの地上から追い出されて おまえたちのように亡命者になるのだ   地上にはわれわれの国がない   地上にはわれわれの死に価いする国がない わたしは地上の価値を知っている わたしは地上の失われた価値を知っている どこの国へ行ってみても おまえたちの生が大いなるものに満たされたためしがない 未来の時まで刈りとられた麦 罠にかけられた獣たち またちいさな姉妹が おまえたちの生から追い出されて おまえたちのように亡命者になるのだ   地上にはわれわれの国がない   地上にはわれわれの生に価いする国がない

3 わたしの屍体を火で焼くな おまえたちの死は 火で焼くことができない わたしの屍体は 文明のなかに吊るして 腐らせよ   われわれには火がない   われわれには屍体を焼くべき火がない わたしはおまえたちの文明を知っている わたしは愛も死もないおまえたちの文明を知っている どの家へ行ってみても おまえたちは家族とともにいたためしがない 父の一滴の涙も 母の子を産む痛ましい歓びも そして心の問題さえも おまえたちの家から追い出されて おまえたちのように病める者になるのだ   われわれには愛がない   われわれには病める者の愛だけしかない わたしはおまえたちの病室を知っている わたしはベッドからベッドヘつづくおまえたちの夢を知っている どの病室へ行ってみても おまえたちはほんとうに眠っていたためしがない ベッドから垂れさがる手 大いなるものに見ひらかれた眼 また渇いた心が おまえたちの病室から追い出されて おまえたちのように病める者になるのだ   われわれには毒がない   われわれにはわれわれを癒すべき毒がない

 

  しばらく前のことだったと思うが、娘が中学1年の秋に学校へ行けなくなってからずっと通っているスクール・カウンセラーの先生のところで、学校の定期試験を休むにあたって医師の診断書が要ることになり、書いてもらった。「病名を書かなくちゃいけないんで、ま、いちおうこんなふうに書いておくけれど」とくに気にしなくてもよい、と書いてくれたのが「適応障害」という診断名だった。  娘が学校へ行けなくなってから3年以上が経つ。その間、学校の先生を含めてさまざまな人が心をくだき、心のこもった助言をくれ、娘に声をかけてくれたりする。そのことについてわたしはいつも、ありがたいことだと心の中でそっと手を合わせている。だが得てしてそうした厚意の影に隠れてしまいがちだが、わたしがどうしても得心できないのは、この「適応障害」という診断名に代表される世間のレッテル貼りだ。学校に行けないことが「不適応」で、学校へ行けることが「適応」なのか。  「適応障害」ということが、社会に適応できないこと、を意味するのであるならば、斯く云うわたしもずっと「適応障害」だ。いままでも「適応障害」であったし、これからも「適応障害」であり続けるだろう。休日ともなれば家で家族と過ごし、庭の手入れをしたり、好きな音楽を聴いたり、本を読んだりするだけで満足だ。小さな世界でいい。人間が嫌いだし、じぶんがだれか他の人の益になるような存在でもないと分かっているから、できれば出て行きたくない。わたしがかろうじて世間とつながっていられるのはつれあいと娘がいるお陰で、彼女たちがいなくなったら、わたしは蚕のように繭の中でひっそりと暮らすだろう。  わたしは愛する娘に、このままずっと「適応障害」でいて欲しいと思う。こんなひどい世の中に「適応」などして欲しくない。「見事に適応できたね」と祝福の言葉など贈られなくていい。わたしのなかでは「適応できない」ことがぎりぎりの選択としての正であり、わたしが小さな彼女に引き継いだ世界は、もっとべつの物質から成り立っている。Mavis Staple が偉大な Mahalia Jackson に捧げたゴスペル・アルバムのライナーに記していた、たとえばこんな聖句のようなもの。それでいい。 This Joy That I Have ― The World Didn't Give It To Me ― このわたしの歓びは この世がわたしに与えてくれなかったもの . .

 

 もう、決まったね。 学校は要らない、ということだ。 こんな学校はもう要らない。

 「文部科学省のお役人の方とお話をしました。非常に頑なな姿勢で、私が気になりますのが、2年後、3年後からですね、全国の小中学生に対して、道徳心、愛国心に対して一人ひとり成績をつけていく、それが各都道府県の教育委員会の判断では中学受験、高校受験の内申書にも入ると」 「まあ、こういう事が決まってしまった訳でありまして、文部科学省はそれについてはデメリットは無いと、問題は全く無い、こういう頑なな姿勢で、私は背筋がぞっといたしました。」 「子どもの道徳心や愛国心を評価し、それを受験の内申書に入れていいのか? 以下が私の問題意識です。政府に再度出した質問主意書に書きました。政府答弁もご覧ください。 約二年後の平成三十年四月からは全国の小学校で、約三年後の平成三十一年四月からは全国の中学校で、道徳を教育課程上「特別の教科」と位置付けた上で、児童・生徒の道徳に対する評価をするとしている。 その評価は、数値による評価でなく、記述式の評価であり、他の児童・生徒との比較による相対評価ではなく、その児童・生徒がいかに成長したかを評価するとしている。その道徳科の指導内容としては「国や郷土を愛する心をもつこと」、いわゆる「愛国心教育」も含まれるとしている。 私は、道徳心や愛国心は重要であると考えるが、児童・生徒一人ひとりの道徳心や愛国心を評価する、つまり成績を付ける、ということには強い違和感を持つ。しかも、それが、中学受験や高校受験の内申書(中学や高校の入学者選抜に用いられる調査書)にも記載される可能性が否定されてはいない。 私は、子どもたちの「道徳心」や「愛国心」を評価することで国に対する批判を自粛する空気が広がったり、政府が望ましいと考える道徳心だけが推奨され多様な価値観が損なわれたりする等、非常に息苦しい社会が到来するのではないかとの懸念を持つ。」

 答弁本文情報 経過へ | 質問本文(HTML)へ | 質問本文(PDF)へ | 答弁本文(PDF)へ 平成二十八年一月十二日受領 答弁第一〇号   内閣衆質一九〇第一〇号   平成二十八年一月十二日 内閣総理大臣 安倍晋三        衆議院議長 大島理森 殿 衆議院議員長妻昭君提出子どもの道徳心や愛国心に成績をつける政策に関する質問に対し、別紙答弁書を送付する。 衆議院議員長妻昭君提出子どもの道徳心や愛国心に成績をつける政策に関する質問に対する答弁書  お尋ねの特別の教科である道徳(以下「道徳科」という。)の導入の時期については、学校教育法施行規則の一部を改正する省令(平成二十七年文部科学省令第十一号)附則第一項の規定により、小学校については平成三十年四月一日、中学校については平成三十一年四月一日とされている。「従来と何が変わるのか」というお尋ねについては、道徳を教育課程上「特別の教科」として位置付けた上で、文部科学大臣の検定を経た教科用図書を導入するものであり、また、いじめの問題への対応の充実や発達の段階をより一層踏まえた体系的なものとする観点からの内容の改善、問題解決的な学習を取り入れるなどの指導方法の工夫を図ることなどにより、発達の段階に応じ、答えが一つではない道徳的な課題を一人一人の児童生徒が自分自身の問題と捉え、向き合う「考える道徳」、「議論する道徳」へと転換を図るものである。  お尋ねの「成績をつける」の意味するところが必ずしも明らかではないが、道徳科における児童生徒の学習の評価については、平成二十七年文部科学省告示第六十号による改正後の小学校学習指導要領(平成二十年文部科学省告示第二十七号。以下「新小学校学習指導要領」という。)及び平成二十七年文部科学省告示第六十一号による改正後の中学校学習指導要領(平成二十年文部科学省告示第二十八号。以下「新中学校学習指導要領」という。)において、児童生徒の「学習状況や道徳性に係る成長の様子を継続的に把握し、指導に生かすよう努める必要がある。ただし、数値などによる評価は行わないものとする」としている。また、道徳科における児童生徒の学習の評価については、中央教育審議会で平成二十六年十月二十一日に取りまとめられた「道徳教育に係る教育課程の改善等について(答申)」において「児童生徒が自らの成長を実感し、学習意欲を高め、道徳性の向上につなげていくとともに、評価を踏まえ、教員が道徳教育に関する目標や計画、指導方法の改善・充実に取り組むことが期待される」と指摘されていること等を踏まえ、文部科学省としては、「道徳教育に係る評価等の在り方に関する専門家会議」(以下「専門家会議」という。)において、数値による評価ではなく記述式の評価とすること、他の児童生徒との比較による相対評価ではなく児童生徒がいかに成長したかを積極的に受け止め励ます評価とすること、「善悪の判断、自律、自由と責任」といった個々の内容項目ごとではなく大ぐくりなまとまりを踏まえた評価とすること等の点について検討しているところである。  お尋ねの「中学・高校受験の内申書に使用される可能性」の意味するところが必ずしも明らかではないが、そもそも入学者選抜の方法等は都道府県教育委員会等入学者選抜の実施者が決定することとされている。なお、専門家会議においては、入学者選抜との関係をも踏まえて、先に述べた評価の在り方を検討しているところである。  お尋ねの「「道徳」には、「国を愛する態度」という、いわゆる愛国心教育も含まれるのか」の趣旨が必ずしも明らかではないが、教育基本法(平成十八年法律第百二十号)及び学校教育法(昭和二十二年法律第二十六号)の趣旨を踏まえ、新小学校学習指導要領においては「我が国や郷土の伝統と文化を大切にし、先人の努力を知り、国や郷土を愛する心をもつこと」等、新中学校学習指導要領においては「優れた伝統の継承と新しい文化の創造に貢献するとともに、日本人としての自覚をもって国を愛し、国家及び社会の形成者として、その発展に努めること」等を道徳科の指導内容として規定しているところであり、現行の小学校学習指導要領及び中学校学習指導要領においても、同様の趣旨を盛り込んでいる。ここにいう「国」については、新小学校学習指導要領及び新中学校学習指導要領の道徳科の解説において、政府や内閣などの統治機構を意味するものではなく、歴史的に形成されてきた国民、国土、伝統、文化などからなる歴史的・文化的な共同体としての国を意味するものである旨記述している。  道徳科における児童生徒の学習の評価については、先に述べたとおり数値などによる評価は行わないこととしており、また、右に述べた学習指導要領の解説も踏まえれば、「子どもたち一人ひとりの、いわゆる愛国心や道徳心に成績をつけるとなれば、それは適切なのか、政府批判を自粛する空気が生まれないか」との御懸念は当たらないものと考えている。

 

 この曲、ちょっといいなあ。 田口 清隆さんのTLがらみで美空ひばりの「チャルメラそば屋」のオリジナル曲を探している途上、大滝詠一氏のラジオ番組をアップしたニコ動で見つけた。 https://www.facebook.com/tatu5rou/posts/1059508817470190?pnref=story ちなみに肝心のボビー・ノートンの The Soba Song もこの中に出てくる。さすが大滝詠一。 大滝詠一 ナイアガラ リマスター・スペシャル 第4回 08年1月4日 http://www.nicovideo.jp/watch/sm3064664 https://www.youtube.com/watch?v=7K_EuScGmgU 

 2016.6.16

 

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 仕事帰りの本屋にあったんで、やっぱり買いました。「日本会議の研究」(菅野完・扶桑社新書) 新刊なのに3冊が背表紙を並べて隅のほうに。「ロングセラー」と銘打ったコーナーに曽野綾子の「人間の分際」だったかが堂々と表紙を向けて何冊も並んでいたので、この「日本会議の研究」でふたをしてやった。 https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BC%9A%E8%AD%B0%E3%81%AE%E7%A0%94%E7%A9%B6-%E6%89%B6%E6%A1%91%E7%A4%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E8%8F%85%E9%87%8E-%E5%AE%8C/dp/4594074766  二枚目の写真は本日のランチ。久しぶりのカフェ・きゃんばすの日替わり。帰りにメニューを撮ろうと思っていたら、数量完売でメニューが下げられていたために不明。もちろんおいしかった。今日はプラス180円でホット・コーヒーも頼んで、優雅な昼のひとときを過ごしました。

 かっちょいい〜 洗濯板ギターの悶絶演奏 しびれちゃったよ〜 今日はホウボウミュージシャンのシーシック・スティーヴ(Seasick Steve)を紹介します。 http://blogs.yahoo.co.jp/azumakaw/7160323.html  オフィシャルサイト(もある) http://seasicksteve.com/  ふつうのギターでの演奏 https://www.youtube.com/watch?v=Gq0PmDhkb4c 

 2016.6.17

 

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 娘は水曜日、午後から学校の保健室にいたところを部活でおなじクラスのSちゃんになかば連れ去られるように、ひさしぶりの授業を一時間だけ受けた。 以下、その数日前のつれあいのメール。(わたしはまだ千葉にいた) 「Sちゃんが紫乃に教室に来るよう誘ってくれてるようです。紫乃も嫌な気はしてないようで「6月公演が終わっても行けないようなら、無理やり引っ張って行って」とSちゃんに言ったと昨日、部活からの帰りの車の中で言ってました。 今朝もSちゃんがメールくれたそうで、今日は学校にくるかと尋ねられ、午後から行くと紫乃が返すと、「教室に来る?」と聞かれ、紫乃が6月公演が終わってからと答えると、Sちゃんは「わかってる。今日は教室に入る練習をしない?」と紫乃にメールをくれたそうです。 紫乃は「Sちゃんは私のことをほんとに心配してくれている。MちゃんもM先輩もS先輩も・・・私の回りにはいい人ばっかりだ」と、笑顔で言ってました。 教室にということは親が言ったらプレッシャーになるけど、友達から言われると力になるみたい。 紫乃の精神状態から(目眩、頭痛、胃痛、吐き気、不安、神経過敏などの症状は自律神経の乱れからときてると思います。前回、平尾先生の受診で、テストを休んだために必要となった診断書をお願いした際、病名は自律神経失調症と書いとくよと平尾先生が仰ってました。)教室に入ることは難しいかもしれませんが、それでもこうやって皆の気持ちを嬉しいと感じられることが紫乃にできること、それが嬉しいですよね。 Sちゃんに感謝。」 そして翌日の木曜は「Sちゃんに言われたから」と苦笑をしながら朝から学校へ行って、途中途中で休みを入れながら計4時間分の授業をクラスで受けた。これは中学1年生のとき以来、はじめてのことだ。教室に入りやすいように座席はいちばんうしろ、しかもSちゃんの隣で、「ロッカーに教科書が入っているのは黙っとき」というSちゃんの助言で、机をくっつけてSちゃんの教科書を見せてもらいながら。さすがに翌日の金曜は疲れてしまったか、一日休んだ。 今日は南港のインデックス大阪で講義ライブという、大学の授業を擬似的に体験するという催しがあって、本人もそれは行くと言っていたので、わたしとつれあいは車椅子の娘を送ってから帰りまでの数時間をひさしぶりに二人で海辺のデートでもしようかと話していたのだが、朝起きたらもう表情がいけない。髪を整えにいった洗面場で母親にぼそぼそと「今日は行けそうにない」と伝え、わたしは不機嫌なまま黙りこくり、子は朝食もそこそこに二階の自室へあがってしばらく泣いていて、じきにシーツをかぶったまま眠ってしまった。わたしも黙ったまま書斎へ行って、そのまま床の上で不貞寝した。こちらもこちらで大きな子どものようだ。 目が覚めたら10時過ぎだ。ゲージにいた猫のレギュラスを抱いて娘の部屋に行ってシーツをめくり、「昼にいつもの山の上のお蕎麦でも食べにいくか?」と訊くと行くと答えるので「お父さんはこれから歯医者だから、それまでレギュとたわむれていろ」と猫をはなすとにっこりとうなずいた。 それから桜井の、三輪山と龍王山の裏手にある「笠そば処」へ家族三人で蕎麦を食べに行ったのだ。わが家からだと縄文の聖地・石上神宮から天理ダムを越えてのどかな山道をすすんでいくことになる。蕎麦も旨いが、ロケーションもいい。テラス席でひろい山の景色を眺めながら食べる蕎麦が旨い。帰りは長谷寺の方へ抜けてみた。ちょうど紫陽花の季節だから近くの駐車場は満車だ。狭い一方通行の参道を車から土産物屋を覗きながらのろのろとすすみ、三輪山の南の麓をぬけて桜井の役所近くでおいしい百円パンの店を見つけてお八つ代わりに。それからたまたま道端で通りかかった大型農産物直売所の「まほろばキッチン」にちょびっと立ち寄ってから、夕方に帰宅した。

 ◆笠そば処 http://tabelog.com/nara/A2904/A290402/29000181/

 ◆まほろばキッチン http://www.ja-naraken.or.jp/mahoroba/about_mahoroba.html

 

 これも田口 清隆さんのTLで教えてもらった。 「不足」が負ではない強み。この人なら弦が一本もなくても歌えるだろう。 バンドマン必見! たった1本しか弦の張っていないボロボロギターを演奏するおっさんがめちゃめちゃカッコいい!! http://rocketnews24.com/2013/11/27/391122/ オフィシャルサイト(もある) http://brushyonestring.com/product/no-man-stop-mestudio-album/ https://www.youtube.com/watch?v=E8H-67ILaqc

 2016.6.19

 

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 「・・国体っていうのは皆さんであったりあなたではない、これは天皇なんです。玉体なんです。で、呆れ返るのは、「憲法は天皇と元帥の聡明と勇断によって出来た」、それがなかったら天皇制は存続しなかったんだ、と。天皇制を存続するために憲法をつくったと、というふうにこの憲法ができているんだと、というふうなことを言っているわけですね、幣原が。この幣原の発言を受けとめるとすれば、わたしがずっと背中に背負ってきたもの(※9条)、それは死体だったのか、腐臭を放つ死体だったのか、そのことをぼくは薄々気づきながら、気づかぬふりをして憲法9条をですね、神聖なものとして、それを守らなければいけないと、いうふうに人にも言い、じぶんにも思おうとしたのか。ということで、現時点でぼくは、はっきり言って当惑せざるを得ないわけです。」

 大阪の阿倍野(天王寺)へ辺見庸の講演会「怒りと絶望はどのように表現するべきか」を聴きにいったのは4月のことだった。かれの肉声を聴いたのはこのときがはじめてで(或いはこれが最後かも知れない)、肉声を聴くとは、わたしのなかにあって「意志を引き継ぐ」、「引き受ける」ということだと勝手に思ったのだった。はじめに女性チェリストによるバッハの無伴奏チェロ組曲の演奏があり、これは混沌の前に調和を置いたのだ、と感じた。それは胸が痛くなるほど満ち足りた演奏だった。講演は休憩をはさんで延べ2時間半ほど。会場を吐き出されたわたしはそのまま隣の阿倍野墓地へ入って江戸時代、千日墓の刑場の入口にあって無数の刑死者を見てきただろう二体の迎え仏の前に惚けのように座してしばらく過ごした。その場所以外に行くところがなかった。

  しばらく前、FBで「“憲法9条„ を発案した総理 幣原・マッカーサー会談の真実など」(2016年05月03日)と題した報道ステーションの特集の動画リンクがよく流れてきていた。 http://blog.livedoor.jp/gataroclone/archives/47484606.html   けれどそれは、現行憲法は他国からの押し付けではなく、日本人がみずから発案し申し出たものだという部分に軸足を置いたもので、辺見庸が「わたしがだいじに背負ってきた憲法9条ははじめから腐臭を放つ死体であったのか」という悲鳴にも似た問いには一切触れられていない。

「わたしがだいじに背負ってきたもの(憲法9条)は、はじめから腐臭を放つ死体であったのか」  辺見をしてそう言わしめたのは、現行憲法の非武装・不戦の宣言が国体護持=天皇制の存続と引き換えに出されたものだという事実である。はじめに国体護持ありき、であった。わたしたちがずっと目をそむけ、そしていまもなお直視しようとしないこの国の鵺のようなあやかし。憲法9条ははじめから、このあやかしと同衾であった。

  どのような成り立ちであっても9条は9条でそれでよい。幣原の言う「世界は今一人の狂人を必要としている」もそれでよい。それはそのままでよいのだが、わたしたちが、戦後の平和憲法は人々の平和を希求する思いが反映されて制定されたと単純に思っていると思わぬ深みにいつか足を取られるだろう。辺見が言うように幾百万、幾千万もの命を殺さしめた「国体護持」という鵺は、非武装・非戦宣言の平和憲法を人質として差し出す代わりにその命を救われ、いまもこの国の地下系で命脈を保っているという事実から目を背ける限り、わたしたちはふたたびいつの日か(それもそう遠くない日に)手酷いしっぺ返しを喰らうに違いない。  鵺は思っているよりもわたしたち自身の余程深みにいまも突き刺さったままなのかも知れない。 ※以下に講演当日、ボイスレコーダーで録音した音源から辺見庸の発言の一部を(やっと時間を割くことができて)文字起こしした。 .

◆辺見庸講演会から一部文字起こし(平成28年4月3日 於:大阪市立阿倍野区民センター)  

・・「元帥の草案に天皇が反対されていたら情勢は一変していたに違いない」っていうのは、ここは極めて重大です。で、マッカーサーを怒らせたら、天皇制はちゃらになってしまうと。まあ、なりゃあよかったんですけど、ならなかったんです。で、どうなったかというと、物は言いようだって思うんですけれど、当初の戦犯リストには冒頭に天皇の名前があったんだと、それを外してくれたのは元帥であったと。ただ元帥の草案に天皇が反対していたならば情勢は一変していたに違いないと。戦犯になっていたに違いないと。「天皇は」――言うもんだなあと思うんだけれど――「天皇は己れを捨てて国民を救おうとされたのであったが、それによって天皇制をも救われたのである。」と書いてあるわけですね。  これは驚くべき事実だと思うんです。「天皇が己れを捨てて国民を救おうとされたのであったが、それによって天皇制をも救われたのである。天皇は誠に英明であった。」 「正直に言って憲法は天皇と元帥の聡明と勇断によって出来たと言ってよい。」と書いてあってですね、えー、憲法9条を含む現行憲法は「天皇と元帥の聡明と勇断によって出来たと言ってよい。」と。「たとえ象徴とは言え,天皇と元帥が一致しなかったら天皇制は存続しなかったろう。」 で、一致したから現在がある、というふうに言えると思います。「危機一髪であった」と、だが「結果において僕は満足している。」と。というふうに幣原発言の記録には――これは憲法調査会事務局が出している謂わば公的文章だというふうに思うんですね。信ずるべき根拠があるわけですけれど、これをどう捉えるべきか。 わたしはこれ、読み飛ばしていたんですね。あの、簡単に読んでいたわけです。「世界は一人の狂人を必要としている」ってところにアクセントを置かれているものというふうに考えてきた、と。ところが後段を読んでみると、「憲法は天皇と元帥の聡明と勇断によって出来た」と。で、二人が一致しなかったら天皇制は存続していなかった、と。「危機一髪だった」と。ここを読むとやはり鼻白むわけですね。で、反言すればどう言えるかっていうと、若い人は分からないかも知れないけど、これはどういうことかっていうと、国体護持じゃないかっていうことです。戦後もですよ、敗戦後も国体護持のために非武装・非戦宣言をしてですね、幣原の方から先回りした形でですね、マッカーサーに。マッカーサーに9条を含む非武装宣言案を持ち出したのは、マッカーサーではなくて日本側、幣原なんだと。ということは割合、史実としては根拠があると言われていることなんです。 ただ、その裏にはですね、国体護持のため、つまり天皇制を維持するために、じぶんたちは武装しない、非武装宣言をすると。ということなんじゃないか、と。というふうに、どうも、そうとしか考えられないんじゃないかと言えると思います。で、先回りの形で持ち出して――つまり「死中に活」ですね――持ち出して、で、日本占領連合軍の最高指揮官と占領政策全般を統括していたマッカーサー元帥に、驚きをもって受け入れられたという、“お前さんたちの方から言うのかい”と。 つまり、こうなんです。国民を救うんじゃない。国体っていうのはですね、もう何度も言われて、何百万もの人間をこれによって殺している。アジア各地を考えればですね、二千万ほどの人間を殺してきた、わけの分からない、日本の根深い表象といえば表象なわけですけれども。わたしも「1937(イクミナ)」ってものを書いて、国体というものを頻繁に記しながら、そのことについて「分かっているけども、分かっていない」っていうじぶんに気がつくわけです。でも敢えて強引にいえば、国体っていうのは皆さんであったりあなたではない、これは天皇なんです。玉体なんです。 で、呆れ返るのは、「憲法は天皇と元帥の聡明と勇断によって出来た」、それがなかったら天皇制は存続しなかったんだ、と。天皇制を存続するために憲法をつくったと、というふうにこの憲法ができているんだと、というふうなことを言っているわけですね、幣原が。この幣原の発言を受けとめるとすれば、わたしがずっと背中に背負ってきたもの(※9条)、それは死体だったのか、腐臭を放つ死体だったのか、そのことをぼくは薄々気づきながら、気づかぬふりをして憲法9条をですね、神聖なものとして、それを守らなければいけないと、いうふうに人にも言い、じぶんにも思おうとしたのか。ということで、現時点でぼくは、はっきり言って当惑せざるを得ないわけです。 だからといってですね、じゃあ憲法9条というこの非武装・非戦宣言が無効だってことがいえるかどうか。ここです。ここは一生懸命考えざるを得ない、というふうに思うんです。でもこの国体護持っていうのはじつに大変なこと、大変なこの国のエトスであり、この国の目標であったわけです。あれだけの人間を殺し、あれだけ人間が殺され、原爆を二発落とされ、沖縄戦であれだけの人々――ウチナンチューを犠牲にしたのはですね、日本の人民、あるいは沖縄の人民ではなくて、国体護持のため戦うことを強制し、自決を強制した。その責任者と、原爆を落とした責任者たちが平和憲法をつくった。その国体護持のために、ある種の芝居を打ったみたいな形で9条ができていく、っていう疑いもわたしはちょっと持っているわけです。

 

◆幣原喜重郎元首相が語った 日本国憲法 - 戦争放棄条項等の生まれた事情について

昭和三十九年二月 幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について ー平野三郎氏記― 憲法調査会事務局

はしがき  この資料は、元衆議院議員平野三郎氏が、故幣原喜重郎氏から聴取した、戦争放棄条項等の生まれた事情を記したものを、当調査会事務局において印刷に付したものである。  なお、この資料は、第一部・第二部に分かれているが、第一部・第二部それぞれの性格については、平野氏の付されたまえがきを参照されたい。

   昭和三十九年二月            憲法調査会事務局   第一部

  私が幣原先生から憲法についてのお話を伺ったのは、昭和二十六年二月下旬である。同年三月十日、先生が急逝される旬日[8]ほど前のことであった。場所は世田谷区岡本町の幣原邸であり、時間は二時間ぐらいであった。  側近にあった私は、常に謦咳[9]にふれる機会はあったが、まとまったお話を承ったのは当日だけであり、当日は、私が戦争放棄条項や天皇の地位について日頃疑問に思っていた点を中心にお尋ねし、これについて幣原先生にお答え願ったのである。  その内容については、その後間もなくメモを作成したのであるが、以下は、そのメモのうち、これらの条項の生まれた事情に関する部分を整理したものである。

  なお、当日の幣原先生のお話の内拘ママ[10]については、このメモにもあるように、幣原先生から口外しないようにいわれたのであるが、昨今の憲法制定の経緯に関する論議の状況にかんがみてあえて公にすることにしたのである。

問  かねがね先生にお尋ねしたいと思っていましたが、幸い今日はお閑のようですから是非うけたまわり度いと存じます。  実は憲法のことですが、私には第九条の意味がよく分りません。あれは現在占領下の暫定的な規定ですか、それなら了解できますが、そうすると何れ独立の暁には当然憲法の再改正をすることになる訳ですか。

 答  いや、そうではない。あれは一時的なものではなく、長い間僕が考えた末の最終的な結論というようなものだ。 問  そうしますと一体どういうことになるのですか。軍隊のない丸裸のところへ敵が攻めてきたら、どうするという訳なのですか。

答  それは死中に活だよ。一口に言えばそういうことになる。 問  死中に活と言いますと … … …

答  たしかに今までの常識ではこれはおかしいことだ。しかし原子爆弾というものが出来た以上、世界の事情は根本的に変わって終ったと僕は思う。何故ならこの兵器は今後更に幾十倍幾百倍と発達するだろうからだ。恐らく次の戦争は短時間のうちに交戦国の大小都市が悉く灰燼に帰して終うことになるだろう。そうなれば世界は真剣に戦争をやめることを考えなければならない。そして戦争をやめるには武器を持たないことが一番の保証になる。

 問  しかし日本だけがやめても仕様がないのではありませんか。

答  そうだ。世界中がやめなければ,ほんとうの平和は実現できない。しかし実際問題として世界中が武器を持たないという真空状態を考えることはできない。  それについては僕の考えを少し話さなければならないが、僕は世界は結局一つにならなければならないと思う。つまり世界政府だ。世界政府と言っても、凡ての国がその主権を捨てて一つの政府の傘下に集るようなことは空想だろう。だが何らかの形に於ける世界の連合方式というものが絶対に必要になる。何故なら、世界政府とまでは行かなくとも、少くも各国の交戦権を制限し得る集中した武力がなければ世界の平和は保たれないからである。凡そ人間と人間、国家と国家の間の紛争は最後は腕づくで解決する外はないのだから、どうしても武力は必要である。しかしその武力は一個に統一されなければならない。二個以上の武力が存在し、その間に争いが発生する場合、一応は平和的交渉が行われるが、交渉の背後に武力が控えている以上、結局は武力が行使されるか、少なくとも武力が威嚇手段として行使される。したがって勝利を得んがためには、武力を強化しなければならなくなり、かくて二個以上の武力間には無限の軍拡競争が展開され遂に武力衝突を引き起こす。すなわち戦争をなくするための基本的条件は武力の統一であって、例えば或る協定の下で軍縮が達成され、その協定を有効ならしむるために必要な国々か進んで且つ誠意をもってそれに参加している状態、この条件の下で各国の軍備が国内治安を保つに必要な警察力の程度にまで縮小され、国際的に管理された武力が存在し、それに反対して結束するかもしれない如何なる武力の組み合せよりも強力である、というような世界である。  そういう世界は歴史上存在している。ローマ帝国などもそうであったが、何より記録的な世界政府を作った者は日本である。徳川家康が開いた三百年の単一政府がそれである。この例は平和をを維持する唯一の手段が武力の統一であることを示している。  要するに世界平和を可能にする姿は、何らかの国際的機関がやがて世界同盟とでも言うべきものに発展し、その同盟が国際的に統一された武力を所有して世界警察としての行為を行う外はない。このことは理論的には昔から分かっていたことであるが、今まではやれなかった。しかし原子爆弾というものが出現した以上、いよいよこの理論を現実に移す秋[11]がきたと僕は信じた訳だ。

 問  それは誠に結構な理想ですが、そのような大問題は大国同志が国際的に話し合って決めることで、日本のような敗戦国がそんな偉そうなことを言ってみたところでどうにもならぬのではないですか。

答  そこだよ、君。負けた国が負けたからそういうことを言うと人は言うだろう。君の言う通り、正にそうだ。しかし負けた日本だからこそ出来ることなのだ。  恐らく世界にはもう大戦争はあるまい。勿論、戦争の危険は今後むしろ増大すると思われるが、原子爆弾という異常に発達した武器が、戦争そのものを抑制するからである。第二次大戦が人類が全滅を避けて戦うことのできた最後の機会になると僕は思う。如何に各国がその権利の発展を理想として叫び合ったところで、第三次世界大戦が相互の破滅を意味するならば、いかなる理想主義も人類の生存には優先しないことを各国とも理解するからである。  したがって各国はそれぞれ世界同盟の中へ溶け込む外はないが、そこで問題はどのような方法と時間を通じて世界がその最後の理想に到達するかということにある。人類は有史以来最大の危機を通過する訳だが、その間どんなことが起るか、それはほとんど予想できない難しい問題だが、唯一つ断言できることは、その成否は一に軍縮にかかっているということだ。若しも有効な軍縮協定ができなければ戦争は必然に起るだろう。既に言った通り、軍拡競争というものは際限のない悪循環を繰り返すからだ。常に相手より少しでも優越した状態に己れを位置しない限り安心できない。この心理は果てしなく拡がって行き何時かは破綻が起る。すなわち協定なき世界は静かな戦争という状態であり、それは嵐の前の静けさでしかなく、その静けさがどれだけ持ちこたえるかは結局時間の問題に過ぎないと言う恐るべき不安状態の連続になるのである。  そこで軍縮は可能か、どのようにして軍縮をするかということだが、僕は軍縮の困難さを身をもって体験してきた。世の中に軍縮ほど難しいものはない。交渉に当たる者に与えられる任務は如何にして相手を偽瞞するかにある。国家というものは極端なエゴイストであって、そのエゴイズムが最も狡猾で悪らつな狐狸となることを交渉者に要求する。虚々実々千変万化、軍縮会議に展開される交渉の舞台裏を覗きみるなら、何人も戦慄を禁じ得ないだろう。軍縮交渉とは形を変えた戦争である。平和の名をもってする別個の戦争であって、円滑な合意に達する可能性などは初めからないものなのだ。  原子爆弾が登場した以上、次の戦争が何を意味するか、各国とも分るから、軍縮交渉は行われるだろう。だが交渉の行われている合間にも各国はその兵器の増強に狂奔するだろう。むしろ軍縮交渉は合法的スパイ活動の場面として利用される程である。不信と猜疑がなくならない限り、それは止むを得ないことであって、連鎖反応は連鎖反応を生み、原子爆弾は世界中に拡がり、終りには大変なことになり、遂には身動きもできないような瀬戸際に追いつめられるだろう。  そのような瀬戸際に追いつめれても各国はなお異口同音に言うだろう。軍拡競争は一刻も早く止めなければならぬ。それは分っている。分ってはいるがどうしたらいいのだ。自衛のためには力が必要だ。相手がやることは自分もやらねばならぬ。相手が持つものは自分も持たねばならぬ。その結果がどうなるか。そんなことは分らない。自分だけではない。誰にも分らないことである。とにかく自分は自分の言うべきことを言っているより仕方はないのだ。責任は自分にはない。どんなことが起ろうと、責任は凡て相手方にあるのだ。  果てしない堂々巡りである。誰にも手のつけられないどうしようもないことである。集団自殺の先陣争いと知りつつも、一歩でも前へ出ずにはいられない鼠の大群と似た光景 ― それが軍拡競争の果ての姿であろう。  要するに軍縮は不可能である。絶望とはこのことであろう。唯もし軍縮を可能にする方法があるとすれば一つだけ道がある。それは世界が一せいに一切の軍備を廃止することである。  一、二、三の掛声もろとも凡ての国が兵器を海に投ずるならば、忽ち軍縮は完成するだろう。勿論不可能である。それが不可能なら不可能なのだ。  ここまで考えを進めてきた時に、第九条というものが思い浮かんだのである。そうだ。もし誰かが自発的に武器を捨てるとしたら ー  最初それは脳裏をかすめたひらめきのようなものだった。次の瞬間、直ぐ僕は思い直した。自分は何を考えようとしているのだ。相手はピストルをもっている。その前に裸のからだをさらそうと言う。何と言う馬鹿げたことだ。恐ろしいことだ。自分はどうかしたのではないか。若しこんなことを人前で言ったら、幣原は気が狂ったと言われるだろう。正に狂気の沙汰である。  しかしそのひらめきは僕の頭の中でとまらなかった。どう考えてみても、これは誰かがやらなければならないことである。恐らくあのとき僕を決心させたものは僕の一生のさまざまな体験ではなかったかと思う。何のために戦争に反対し、何のために命を賭けて平和を守ろうとしてきたのか。今だ。今こそ平和だ。今こそ平和のために起つ秋ではないか。そのために生きてきたのではなかったか。そして僕は平和の鍵を握っていたのだ。何か僕は天命をさずかったような気がしていた。  非武装宣言ということは、従来の観念からすれば全く狂気の沙汰である。だが今では正気の沙汰とは何かということである。武装宣言が正気の沙汰か。それこそ狂気の沙汰だという結論は、考えに考え抜いた結果もう出ている。  要するに世界は今一人の狂人を必要としているということである。何人かが自ら買って出て狂人とならない限り、世界は軍拡競争の蟻地獄から抜け出すことができないのである。これは素晴らしい狂人である。世界史の扉を開く狂人である。その歴史的使命を日本が果たすのだ。  日本民族は幾世紀もの間戦争に勝ち続け、最も戦斗的に戦いを追求する神の民族と信じてきた。神の信条は武力である。その神は今や一挙に下界に墜落した訳だが、僕は第九条によって日本民族は依然として神の民族だと思う。何故なら武力は神でなくなったからである。神でないばかりか、原子爆弾という武力は悪魔である。日本人はその悪魔を投げ捨てることに依て再び神の民族になるのだ。すなわち日本はこの神の声を世界に宣言するのだ。それが歴史の大道である。悠々とこの大道を行けばよい。死中に活というのはその意味である。

問  お話の通りやがて世界はそうなると思いますが、それは遠い将来のことでしょう。しかしその日が来るまではどうする訳ですか。目下の処は差当り問題ないとしても、他日独立した場合、敵が口実を設けて侵略してきたらです。

 答  その場合でもこの精神を貫くべきだと僕は信じている。そうでなければ今までの戦争の歴史を繰り返すだけである。然も次の戦争は今までとは訳が違う。  僕は第九条を堅持することが日本の安全のためにも必要だと思う。勿論軍隊を持たないと言っても警察は別である。警察のない社会は考えられない。殊に世界の一員として将来世界警察への分担負担は当然負わなければならない。しかし強大な武力と対抗する陸海空軍というものは有害無益だ。僕は我国の自衛は徹頭徹尾正義の力でなければならないと思う。その正義とは日本だけの主観的な独断ではなく、世界の公平な与論に依って裏付けされたものでなければならない。そうした与論が国際的に形成されるように必ずなるだろう。何故なら世界の秩序を維持する必要があるからである。若し或る国が日本を侵略しようとする。そのことが世界の秩序を破壊する恐れがあるとすれば、それに依て脅威を受ける第三国は黙ってはいない。その第三国との特定の保護条約の有無にかかわらず、その第三国は当然日本の安全のために必要な努力をするだろう。要するにこれからは世界的視野に立った外交の力に依て我国の安全を護るべきで、だからこそ死中に活があるという訳だ。

問  よく分りました。そうしますと憲法は先生の独自の御判断で出来たものですか。一般に信じられているところは、マッカーサー元帥[12]の命令の結果ということになっています。尤も草案は勧告という形で日本に提示された訳ですが、あの勧告に従わなければ天皇の身体も保証できないという恫喝があったのですから事実上命令に外ならなかったと思いますが。

答  そのことは此処だけの話にして置いて貰わねばならないが、実はあの年(昭和二十年)の暮から正月にかけ僕は風邪をひいて寝込んだ。僕が決心をしたのはその時である。それに僕には天皇制を維持するという重大な使命があった。元来、第九条のようなことを日本側から言いだすようなことは出来るものではない。まして天皇の問題に至っては尚更である。この二つに密接にからみ合っていた。実に重大な段階にあった。  幸いマッカーサーは天皇制を存続する気持を持っていた。本国からもその線の命令があり、アメリカの肚は決っていた。ところがアメリカにとって厄介な問題が起った。それは濠州やニュージーランドなどが、天皇の問題に関してはソ連に同調する気配を示したことである。これらの国々は日本を極度に恐れていた。日本が再軍備をしたら大変である。戦争中の日本軍の行動は余りに彼らの心胆を寒からしめたから無理もないことであった。殊に彼らに与えていた印象は、天皇と戦争の不可分とも言うべき関係であった。日本人は天皇のためなら平気で死んで行く。恐るべきは「皇軍」である。という訳で、これらの国々はソ連への同調によって、対日理事会の票決ではアメリカは孤立化する恐れがあった。  この情勢の中で、天皇の人間化と戦争放棄を同時に提案することを僕は考えた訳である。  豪州その他の国々は日本の再軍備を恐れるのであって、天皇制そのものを問題にしている訳ではない。故に戦争が放棄された上で、単に名目的に天皇が存続するだけなら、戦争の権化としての天皇は消滅するから、彼らの対象とする天皇制は廃止されたと同然である。もともとアメリカ側である濠州その他の諸国は、この案ならばアメリカと歩調を揃え、逆にソ連を孤立させることが出来る。  この構想は天皇制を存続すると共に第九条を実現する言わば一石二鳥の名案である。尤も天皇制存続と言ってもシムボルということになった訳だが、僕はもともと天皇はそうあるべきものと思っていた。元来天皇は権力の座になかったのであり、又なかったからこそ続いてきたのだ。もし天皇が権力を持ったら、何かの失政があった場合、当然責任問題が起って倒れる。世襲制度である以上、常に偉人ばかりとは限らない。日の丸は日本の象徴であるが、天皇は日の丸の旗を護持する神主のようなものであって、むしろそれが天皇本来の昔に還ったものであり、その方が天皇のためにも日本のためにもよいと僕は思う。  この考えは僕だけではなかったが、国体に触れることだから、仮にも日本側からこんなことを口にすることは出来なかった。憲法は押しつけられたという形をとった訳であるが、当時の実情としてそういう形でなかったら実際に出来ることではなかった。  そこで僕はマッカーサーに進言し、命令として出して貰うように決心したのだが、これは実に重大なことであって、一歩誤れば首相自らが国体と祖国の命運を売り渡す国賊行為の汚名を覚悟しなければならぬ。松本君[13]にさえも打明けることの出来ないことである。したがって誰にも気づかれないようにマッカーサーに会わねばならぬ。幸い僕の風邪は肺炎ということで元帥からペニシリンというアメリカの新薬を貰いそれによって全快した。そのお礼ということで僕が元帥を訪問したのである。それは昭和二十一年の一月二十四日である。その日、僕は元帥と二人切りで長い時間話し込んだ。すべてはそこで決まった訳だ。

 問  元帥は簡単に承知されたのですか。

答  マッカーサーは非常に困った立場にいたが、僕の案は元帥の立場を打開するものだから、渡りに舟というか、話はうまく行った訳だ。しかし第九条の永久的な規定ということには彼も驚ろいていたようであった。僕としても軍人である彼が直ぐには賛成しまいと思ったので、その意味のことを初めに言ったが、賢明な元帥は最後には非常に理解して感激した面持ちで僕に握手した程であった。  元帥が躊躇した大きな理由は、アメリカの戦略に対する将来の考慮と、共産主義者に対する影響の二点であった。それについて僕は言った。  日米親善は必ずしも軍事一体化ではない。日本がアメリカの尖兵となることが果たしてアメリカのためであろうか。原子爆弾はやがて他国にも波及するだろう。次の戦争は想像に絶する。世界は亡びるかも知れない。世界が亡びればアメリカも亡びる。問題は今やアメリカでもロシアでも日本でもない。問題は世界である。いかにして世界の運命を切り拓くかである。日本がアメリカと全く同じものになったら誰が世界の運命を切り拓くか。  好むと好まざるにかかわらず、世界は一つの世界に向って進む外はない。来るべき戦争の終着駅は破滅的悲劇でしかないからである。その悲劇を救う唯一の手段は軍縮であるが、ほとんど不可能とも言うべき軍縮を可能にする突破口は自発的戦争放棄国の出現を期待する以外ないであろう。同時にそのような戦争放棄国の出現も亦ほとんど空想に近いが、幸か不幸か、日本は今その役割を果たし得る位置にある。歴史の偶然はたまたま日本に世界史的任務を受け持つ機会を与えたのである。貴下さえ賛成するなら、現段階に於ける日本の戦争放棄は、対外的にも対内的にも承認される可能性がある。歴史のこの偶然を今こそ利用する秋である。そして日本をして自主的に行動させることが世界を救い、したがってアメリカをも救う唯一つの道ではないか。  また日本の戦争放棄が共産主義者に有利な口実を与えるという危険は実際あり得る。しかしより大きな危険から遠ざかる方が大切であろう。世界はここ当分資本主義と共産主義の宿敵の対決を続けるだろうが、イデオロギーは絶対的に不動のものではない。それを不動のものと考えることが世界を混乱させるのである。未来を約束するものは、絶えず新しい思想に向って創造発展して行く道だけである。共産主義者は今のところはまだマルクスとレーニンの主義を絶対的真理であるかの如く考えているが、そのような論理や予言はやがて歴史の彼方に埋没して終うだろう。現にアメリカの資本主義が共産主義者の理論的攻撃にもかかわらずいささかの動揺も示さないのは、資本主義がそうした理論に先行して自らを創造発展せしめたからである。それと同様に共産主義のイデオロギーも何れ全く変貌して終うだろう。何れにせよ、ほんとうの敵はロシアでも共産主義でもない。このことはやがてロシア人も気づくだろう。彼らの敵もアメリカでもなく資本主義でもないのである。世界の共通の敵は戦争それ自体である。

問  天皇陛下は憲法についてどう考えておかれるのですか。

答  僕は天皇陛下は実に偉い人だと今もしみじみと思っている。マッカーサーの草案を持って天皇の御意見を伺いに行った時、実は陛下に反対されたらどうしようかと内心不安でならなかった。僕は元帥と会うときは何時も二人切りだったが、陛下のときは吉田君[14]にも立ち会って貰った。しかし心配は無用だった。陛下は言下に、徹底した改革案を作れ、その結果天皇がどうなってもかまわぬ、と言われた。この英断で閣議も納まった。終戦の御前会議のときも陛下の御裁断で日本は救われたと言えるが、憲法も陛下の一言が決したと言ってもよいだろう。若しあのとき天皇が権力に固執されたらどうなっていたか。恐らく今日天皇はなかったであろう。日本人の常識として天皇が戦争犯罪人になるというようなことは考えられないであろうが、実際はそんな甘いものではなかった。当初の戦犯リストには冒頭に天皇の名があったのである。それを外してくれたのは元帥であった。だが元帥の草案に天皇が反対されたなら、情勢は一変していたに違いない。天皇は己れを捨てて国民を救おうとされたのであったが、それに依て天皇制をも救われたのである。天皇は誠に英明であった。  正直に言って憲法は天皇と元帥の聡明と勇断によって出来たと言ってよい。たとえ象徴とは言え,天皇と元帥が一致しなかったら天皇制は存続しなかったろう。危機一髪であったと言えるが、結果に於いて僕は満足し喜んでいる。  なお念のためだが、君も知っている通り、去年金森君[15]からきかれた時も僕が断ったように、このいきさつは僕の胸の中だけに留めておかねばならないことだから、その積りでいてくれ給え。

http://www.benricho.org/kenpou/shidehara-9jyou.html 

 2016.6.19

 

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 レノンが全身全霊で歌っていたのは“だれでもない、じぶんの足で立て”ということだ。 “いいものであれわるいものであれ、じぶんをみだりにあずけてはいけない”ということだ。 “そのために孤独になることをおそれるな”ということだ。 おれはやつのソロ・アルバムを聴いた中学生のときから、それをすっかり理解していたぜ。

 2016.6.20

 

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 先日、山の蕎麦の帰りにまほろばキッチンで買った100g 50円の鶏のすきみ(すじ・皮・なんこつ)を夕飯に冷蔵庫にあったピーマンと白ネギで炒めた。(ほんとうは万願寺とうがらしあたりがよかったんだけど) @すきみは予め塩・胡椒をしておいてオリーブ・オイルで炒めて取り出す。 A胡麻油でピーマン、白ネギを炒める。 B Aに火が通ったらすきみを戻して、ポン酢と塩・胡椒で味を調整。 いわゆる端肉なんだろうけど、いろんな触感がまじっていておいしい! http://cookpad.com/recipe/664123

 写真二枚目は、食後にそぼろ納豆のリベンジ。 前回がちょっとぱっとしなかったので、こんどはこちらのオーソドックスなレシピで。 http://deli-aurora.net/recipe/100038/  切干大根35gに対して、酒・醤油を各大2で炒め、味がよくしみこむように一晩置いておく。 こんどは納豆に付属のたれ・辛子などは使わず、レシピどおりに塩だけでしめたい。

 2016.6.21

 

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 ボブ・ディランのデビュー30周年を祝うコンサートに集った聴衆の多くが、じつはディランの曲の対極にいたという皮肉。 かれらが罵声を浴びせた相手こそが“ディランそのもの”であった。 ここでシニード・オコナーが歌うはずだったディランの「I Believe In You」(1979)は、キリスト教へ回帰したディランに対する世間の反発に向けた"against"だった。(やつらはおれにドアを示し / もう二度と来るなという / やつらがなってほしいように おれがなってやらなかったから / そしておれは誰の手も借りず たったひとりで 家から一千マイルをあるいてきた / だが、さびしくはない あなたを信じているから) 信仰であれ、宗教組織に対する非難であれ、「じぶんの足で立つ」という意味では同一の魂だ。おなじように10万集まろうと20万集まろうと、じぶんの足で立たないものはゴミ芥(あくた)といっしょだ。 生きるのも、信じるのも、一人だ。 .

「この時、シニードは音楽ゲストとして番組に招かれ、最新曲「Success Has Made A Failure Of Our Home」とボブ・マーリーの「War」を披露した。“事件”は後者のパフォーマンス中に起きた。彼女は1人でスタジオのステージに再登場し、終始カメラを見据えながらアカペラで「War」を歌った。マイクスタンドには、赤、黄、緑のラスタカラーをあしらったタオルのようなものが巻かれている。

  歌の最後、彼女がおもむろに1枚の写真を取りだした時、“事件”は起きた。覚えている人も多いだろう、かの有名な“ローマ教皇写真引き裂き事件”である。  「War」の締めの一節、“Good over evil”の“evil(悪)”を歌うところで、シニードはローマ教皇ヨハネ・パウロ2世の写真をカメラの前に掲げると、次の瞬間、これをビリビリと引き裂き、紙片をカメラに向かって投げつけた。そして、最後に“真の敵と戦え(Fight the real enemy)”と言い放ってカメラを直視した。番組は生放送だった。

  宗教に無頓着な私たち日本人にはいまいち事の重大性が分かりにくいが、日本で言うと、これは生放送中のバラエティ番組内で出演者が天皇陛下の写真を破り捨てるに等しい行為である。ボブ・マーリーの「War」(1976)は人権平等を訴える歌だが、シニードは歌詞の一部を“児童虐待(child abuse)”と変えて歌っていた(*1)。カトリック教会の聖職者たちによって恒常的に行われていた児童への性的虐待に対する捨て身の抗議行動だった。」 . 「周知の通り、この事件には続きがある。物議を醸したテレビ放送から僅か13日後の'92年10月16日、シニード・オコナーは(今度は別の服を着て)NYのマジソン・スクエア・ガーデンで行われたボブ・ディランのデビュー30周年記念コンサートに出演。そこで苦渋を味わうことになった。

  コンサート中盤、名前がアナウンスされてシニードがステージに登場すると、場内は騒然となり、異様な空気に包まれた。〈Saturday Night Live〉の事件を受けて、彼女には猛烈なブーイングが浴びせられていた。野次を気にせず、にこやかに“Thank you”と挨拶するシニード。この時、彼女はディランの「I Believe In You」(1979)を歌う予定だった。彼女とバンド・メンバーたちは観客が静まるのを待ったが、ブーイングは一向に収まる気配がない。仕方なく鍵盤のブッカー・T・ジョーンズがイントロを弾き始めたが、とても歌える雰囲気ではなく、シニードによってすぐに演奏が止められた。ステージの真ん中でブーイングに晒されたまま立ちつくす彼女に、出演者の一人だったクリス・クリストファーソンが近寄って声を掛ける(“バカ野郎どもに負けるな”、“負けないわ”という会話だったことが、'10年にクリストファーソンの話によって明らかになっている)。再び鍵盤のイントロが始まったが、観客のブーイングは収まるどころか、どんどん激しさを増す一方だった。シニードは演奏を止めさせ、予定曲の中止をジェスチャーで伝えると、意を決してマイクを掴み、〈Saturday Night Live〉で歌ったボブ・マーリーの「War」を観衆に向けて激昂しながらアカペラで歌った。歌っている最中も観客のブーイングは続いた。歌いきった彼女は、ステージを去る際、クリス・クリストファーソンに介抱されて泣き崩れた。マジソン・スクエア・ガーデンは怒号と拍手が入り交じった大騒音で包まれていた。

  シニードによるこの満身創痍の「War」は、ボブ・ディラン30周年記念コンサートのライヴ盤ではカットされたが、同時発売された映像版にはきちんと収録されている。ステージでシニードを勇気づけたクリス・クリストファーソンは、17年後、この件を題材にした「Sister Sinead」(2009)という彼女へのトリビュート曲を発表している。ボブ・ディラン自身はシニードの件について何もコメントしていないが、このパフォーマンスは、かつてニューポート・フォーク・フェスティバルにディランがエレキ・ギターを持って出演した際に起きた伝説のブーイング事件をちょっと思い出させる。

  このコンサートから1週間後の10月23日、英米の新聞社にシニードから声明文が届いた。彼女はそこで自分の立場や主張を明確にした。手紙の中で彼女はこう書いている。 「私の名前はシニード・オコナーです。アイルランド人女性です。私は虐待を受けた子供です。(略)もし真実が隠されるなら、私が幼少時に受けた蛮行はアイルランドの大勢の子供たちに繰り返されていくでしょう。私はキリスト教徒ゆえ、暴力を行使することなく、いかなる手段を用いてもこれを阻止する所存です」」 「 写真を引き裂いたことの是非はともかくとして、マジソン・スクエア・ガーデンのステージで大ブーイングを浴びながら猛然と「War」を歌いきるシニードの姿に、私は心から感動し、敬服する。彼女の耳にはブーイング以外にも、“引っ込め!”、“帰れ!”、“売女!”といった様々な野次が聞こえていただろう。無数の非難と罵倒の声に晒されながら、決して信念を曲げることなく、最後まで自分の表現を貫き通した彼女の勇気と根性は賞賛に値するものだ。彼女の姿はあらゆる表現者の鑑だと思う。“暴力を行使することなく、いかなる手段を用いても(by any means necessary WITHOUT the use of violence)”という決意が伝わってくる壮絶なパフォーマンスだ。」

◆シャーデーの白いドレスの行方 http://strongerthanparadise.blog122.fc2.com/blog-entry-235.html

◆ TAP the POP @ シネイド・オコナー〜全米に波紋を呼んだ捨て身の抗議 http://www.tapthepop.net/live/11322

A シネイド・オコナー〜野次の嵐の中で再び歌った”War” http://www.tapthepop.net/live/11801 https://www.youtube.com/watch?v=1BaAGpHBBpU 

 2016.6.22

 

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 「リトル・リチャードのこの曲、知らない?」とスマホ片手に娘が訊いてきたのが、「フルハウス」なるアメリカのテレビ・ドラマにリトル・リチャードが出演したときの番組。 「たしかベスト盤が一枚・・」と棚を漁ったら、その曲 Keep Knockin' もちゃんと収録されていた。「貸してくれる? ありがとう!」とうれしそうに二階へあがっていった。 リトル・リチャードなんて教えたこともないのに、いや、さすがわが娘。 https://www.youtube.com/watch?v=PcJrExewkYA https://www.youtube.com/watch?v=C2D2QFLrtQM

 

 一週間ぶりに勇気を出して朝学校へ行った娘は、母親の学校スケジュールの見間違いだったと苦笑いで帰って来た。 「プールに行きたい」と言うので、わたしの歯医者が終わった昼前に二人で近くの市営プールで一時間半ほど。娘の障害者手帳で二人とも無料なので、ロッカー代の100円だけ。帰ってつれあいが用意してくれていた豚丼のお昼を食べ、ほどよくくたびれた身体をソファーに横たえてイギリスのEU脱退記事を読んでいたらじきに眠ってしまった。 夜は夕食後に家族三人で図書館へ。土曜の夜なので9時までやっている。新刊コーナーにあった藤原亮司というジャパンプレスのジャーナリストの「ガザの空の下 それでも明日は来るし、人は生きる」(dZERO)を借りてきた。 https://www.amazon.co.jp/%E3%82%AC%E3%82%B6%E3%81%AE%E7%A9%BA%E3%81%AE%E4%B8%8B%E2%80%95%E2%80%95%E3%81%9D%E3%82%8C%E3%81%A7%E3%82%82%E6%98%8E%E6%97%A5%E3%81%AF%E6%9D%A5%E3%82%8B%E3%81%97%E4%BA%BA%E3%81%AF%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%82%8B-%E8%97%A4%E5%8E%9F-%E4%BA%AE%E5%8F%B8/dp/4844377248/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1466865511&sr=8-1&keywords=%E3%82%AC%E3%82%B6%E3%81%AE%E7%A9%BA%E3%81%AE%E4%B8%8B%E3%80%80%E3%81%9D%E3%82%8C%E3%81%A7%E3%82%82%E6%98%8E%E6%97%A5%E3%81%AF%E6%9D%A5%E3%82%8B%E3%81%97%E3%80%81%E4%BA%BA%E3%81%AF%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%82%8B 

 2016.6.25

 

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 かねてから高取城跡と五百羅漢を見たいといっていた母を連れて、朝から高取・明日香を回ってきた。「緩衝材」としてじつは娘と妹を誘ったのだが、娘は高取城の歴史を調べた上でとくにじぶんの興味のある武将が関与していないことを確かめた上で、そして妹は数日後に娘とUSJへ行く予定もあるのでと、どちらも断ってきたのだった。仕方がない。墓に布団は着せられず、だ。 . 高取城跡とその付近の山中にある五百羅漢は壺坂寺の奥に位置する。むかし、バイクに乗っていた頃はときどき一人で行って遊び場にしていたが、壺坂寺といえば、こんなこともあった。もういまから9年前の日記から。 「新聞をひらくと安部総理退陣あれこれの記事の片隅に、奈良・壺阪寺で高さ15メートルの石の釈迦如来像がインド人の石工の助けを経て完成したとの記事が目に入る。「仏つくって魂入れず、とならぬようですな。仏の教えを実践して・・」云々の住職のコメントが載っている。もう何年もむかし、「石工募集(見習可)」の求人を見てわたしはこの寺をたずねたことがある。「この壺坂ブランドをですな、みなさんに大いに広めて欲しいのです」 面接の場で多数の求職者を前にこの住職はそう語った。僧侶ではない、たんなる経営者の顔だった。何やら嫌気がさして、わたしはそっと面接会場を抜け出た。「豚は馬である、少女は少年である、戦争は平和である」 木を切り、水を運ぶ。どこかにそんなシンプルな言葉はないか。高取城址へ続く山中の苔むした五百羅漢の前に佇み呆然としていた。 」2007.9.14 . 高取城跡はひさしぶりに再訪して、いまの娘では歩き通すのは難しいなと思った。かつて本丸の真下あたりまで車で行けた道が「アブやハチの大量発生のため」ずっと手前で封鎖されていて、勾配のある山道をだいぶ迂回していかなくてはならない。この高取城については奈良産業大学の学生たちが再現したなかなか見応えのあるCG動画がある。 http://www.nara-su.ac.jp/archives/takatori/  五百羅漢はいつの時代にだれが彫ったのか、なにも資料が残されていないらしい。一説には16世紀末ごろ、豊臣家の重臣・本田利久が城を築城した際に、石工たちに命じて掘らせたという説もあるようだけれど、わたし的には無名の念仏行者が人知れぬ山中にこもって掘り続けたなんてストーリーの方が好きだな。今回、奥の山道の先に両界曼荼羅があるのをみつけてびっくり。自然の岩に両界曼荼羅を彫ったのははじめて見たが、こんなところに小屋掛けをして、人生の最後を一人きりで迎えるのもいいかも知れないと思わず夢想した。 http://small-life.com/archives/14/06/1422.php . 山中の高取城の城下町として栄えた高取土佐街道は、わが郡山のように雛祭りの頃に古い雛壇を町のあちこちに展示する催しなどでときどき新聞に載るが、この梅雨の季節は日曜とはいえひっそりとしていた。覗き見程度で立ち寄っただけだったので、「町の駅」と書かれた物産館で野菜や肥料などを買った。 http://www.hinameguri.jp/ http://www.nantokanko.jp/kokaidou_01.html . お昼は以前に寮さんからもすすめられていた明日香村役場の向かいの古屋を改築した今風の町屋カフェ、「珈琲 さんぽ」で、海南鶏飯とコーヒーのランチセット、1350円(高取城から電話で予約をしておいた)。ホット・コーヒーは選ぶことができて、わたしはエチオピア、母はタンザニアを食後に。鶏飯にはチリと醤油の二種のソースがあって、パクチーも乗っかっていて、これがおいしい。自家焙煎のコーヒーも絶品。ミルクも砂糖も要らない。奥の裏庭が吹き抜けになっていて、明日香ののどかな風景がそのまま地続きで借景となっているのが心地いい。隣室は硝子工房で、吹き硝子体験もできる(現在は“熔解炉の火を落とし”しばし休業中らしい)。 http://tabelog.com/nara/A2903/A290303/29004660/  http://glasssanpo.exblog.jp/ . 最後は母がひさしぶりに再会したいという飛鳥寺の飛鳥大仏を見て、夕方に帰宅。

 2016.6.26

 

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 これがわたしたちの世界、そのもの。 . 「「大きくなったら何になりたいの?」  しかし、返ってきた答えは思いがけないものだった。 「朝、目が覚めて自分が生きていると分かったらその日何をしようか考えるけど、いつ死ぬかもしれないから先のことは分からないな」  答えの重さに驚いていると、彼女はさらに続けて言った。 「将来のことは、大人になるまで生きていたら考えるよ」  わずか十歳の少女があまりにも淡々と語った「死」に、私は何も言葉を返すことができなかった。」 .

 ガザ地区最南端の町、ラファ。2002年以来3年ぶりにエジプトと国境を接するその場所を訪れた私は、一面に広がるコンクリートのがれきに呆然となった。  国境沿いに建ち並んでいたはずの家屋は、「治安上の理由」から緩衝地帯を広げるため、イスラエル軍によって破壊し尽くされていた。以前もこの場所では、一部家屋破壊が行われた地区はあった。しかし、この三年間で国境のすぐ近くまで密集していた家屋、トマト農園などすべてが被壊され、国境線に沿って帯状に幅百メートルから三百メートルに及ぶ区域が、一面がれきが転がる更地にされていた。

  かつて、これに似た光景を見たことがあるだろうかと、頭の中の記憶をたどってみた。わずかに重なるのは、阪神淡路大震災のときに訪れた神戸の町。しかし、違う。神戸では火災や倒壊を逃れた建物が点在し、焼けただれた電線の下を歩く人々の姿もあったはずだ。いま見ているラファの街には、大小のコンクリートの塊が転がるだけで人影もなく、かつてそこに生活があった痕跡さえもない。  何よりも違うのは、時折聞こえてくるライフルの銃声だ。散発的に聞こえることもあれば、連射音が響くこともある。緩衝地帯に近づこうとする者に対し、イスラエル軍が撃っているのだと通訳が説明をした。

 更地のはずれ、破壊を逃れた一画では最も国境に面した家に、人の姿があった。こんな危険なところにまだ住んでいるのかと思い、近づいてみた。  家の前の路地にはロープが張られ、そこに洗濯物が干されていた。強い風が路地を通り抜けるたびに、洗濯物が乾いた冬空にバタバタと音を立ててはためく。親の手伝いなのか、小さな女の子が繰り返し家から洗濯物を運んできては、ロープに引っかける。その姿が微笑ましくて、私は写真を撮った。

 シャッターの音に気付いて操り返った少女は、「いま撮ったでしょ?」という表情でニコリと微笑んだ。黒目の大きな、縮れ毛のかわいい女の子だ。突然現れた私に驚きもせず、身振りでお茶を勧めてくれた。  路上の焚き火にやかんを載せ、沸騰したお湯にティーバッグを何個も放り込んでしぼらくグツグツと煮出す。濃い目の紅茶をショットグラスほどの小さなガラス容器に注ぎ、溶けずに沈殿するほどの、たっぷりの砂糖。冬の空気にざらついた喉には、温かい紅茶の甘さがありがたかった。下手なアラビア語で「美味しい」と言うと、少女は満足そうに笑った。

  ファティマと名乗ったその十歳の少女によると、払が訪れたひと月ほど前にイスラエル軍の砲撃とブルドーザーで隣家までが破壊され、「緩衝地帯」が広げられた。そのとき、少女の家も半壊の被害を受けた。夜は避難している親戚の家で眠るが、昼間は自宅に戻り、洗濯などの家事をしているという。

  話の途中、ほんの軽い気持ちで私はファティマにつまらない質問をした。 「大きくなったら何になりたいの?」  しかし、返ってきた答えは思いがけないものだった。 「朝、目が覚めて自分が生きていると分かったらその日何をしようか考えるけど、いつ死ぬかもしれないから先のことは分からないな」  答えの重さに驚いていると、彼女はさらに続けて言った。 「将来のことは、大人になるまで生きていたら考えるよ」  わずか十歳の少女があまりにも淡々と語った「死」に、私は何も言葉を返すことができなかった。

 「ガザの空の下 それでも明日は来るし人は生きる」(藤原亮司・dZERO)

 http://www.ac.auone-net.jp/~fujiwara/

http://ameblo.jp/chibikurumi/

 https://www.amazon.co.jp/%E3%82%AC%E3%82%B6%E3%81%AE%E7%A9%BA%E3%81%AE%E4%B8%8B%E2%80%95%E2%80%95%E3%81%9D%E3%82%8C%E3%81%A7%E3%82%82%E6%98%8E%E6%97%A5%E3%81%AF%E6%9D%A5%E3%82%8B%E3%81%97%E4%BA%BA%E3%81%AF%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%82%8B-%E8%97%A4%E5%8E%9F-%E4%BA%AE%E5%8F%B8/dp/4844377248

 

 

 軍備は最終的に「敵」である人を殺傷するためのもので、軍隊は「敵」である人を殺傷することに特化し訓練される集団なわけだから、「人を殺す予算」でべつに間違いではないんじゃないの。 で、共産党も「自衛隊は「(日本は)陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と定めた憲法第9条第2項に明白に違反する「戦力」=軍隊そのものです。」 “憲法9条に明白に違反する戦力”と言っているわけだし、それでいいんじゃないの。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-05-18/0518faq.html 

 2016.6.28

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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