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 15日、日曜の夜であったか。Eちゃんとひそかな“ゲリラ会談”を行い、どのように話をもっていくかという相談、というか貴重な助言をいくつかもらったのだった。というのも、わたしは実際にかなり腸(はらわた)が煮えくり返っていたので、このままでは話し合いというよりも、それこそ散弾銃でも抱えて職員室へ乗り込みかねないくらいだったのである。子にはその後も何度か、ほんとうに修学旅行に行かなくていいのかと訊いたけれど、子のなかですでに答えは出てしまっており、修学旅行という目的を失って、わたしはどこへ着陸していいものか定めあぐねていた。さらにわたしは今回の件で、周囲には理解してくれる者・賛同してくれる人はだれもいないという孤立無援の気持ちになっていた。つまりわたしは、テロリストの気持ちがよく理解できた。

 今回の件についてEちゃんは、いろいろな面でわたしの抗議に賛同の意を示してくれた。「責任をとれない」と子の友人に言われたというが、そもそも学校は子どもに責任をとらせるつもりだったのか? そんなふうに個人に落としどころをもっていってしまったのはおかしくないか? ホームステイもたとえば子と母親とクラスメイトなどの組み合わせも検討はできなかったのか? 子どもに「行かなくていい」と言わせたことに対して学校側はどう思っているのか? 責任は感じていないのか? 「試験のハードル」というが、ふつうの子と不登校の子はハードルが同じわけがない。「修学旅行に行きたくなるような環境」というのは、試験とおなじくらいに大事ではないのか? あれこれ・あれこれ。

 Eちゃんからの助言は、たとえば、1回の面談時間をあまり長くすると内容がループして互いに感情的になるばかりでメリットがない。むしろ1回一時間くらいで何回かに分けた方が、相手も考える時間与えられるから良い。できれば今後、(何もないときでも)定期的に話し合いの場を設定してもらうのもベター。ボイスレコーダーでやりとりを録音するというのは結果的に相手の口を閉ざしてしまうから好ましくはない。できればだれか筆記役を連れていく方が良い。学校側からのこれまでの経緯の説明は時間の無駄遣いでもったいない。むしろこちらから疑問点を質問して、それに答えてもらう形で話を進めるのが良い。今回のことは不登校と障害者のふたつの要素が、絡み合ったりほどけたりしている、それを場合によっては分けて考えなければいけない。 など・など。

 で、着地点をどうしようかということを話していて、結局、わたしたちの意見が一致したのは、学校の先生たちも何もみな悪人のわけではない、そうではなくてただ「障害に対する理解が足りない」ということだ、と。そうしたら先生たちに「障害者」についてもっと理解してもらいたい。たとえばEちゃんたちが神戸でやっている「障害者自立生活センター」とおなじ活動をやっているところが奈良市にもあって、友だちだから紹介してもいい。そうした人たちを講師として学校に招いて、先生たちの前で話をしてもらうというのはどうだろう? 先生たちに研修を受けてもらう。そりゃ、いいね。それなら建設的だし。最終の着地はそれを提案する方向でいこう、ということになったのだった。

 次の日は演劇部の校内公演の日だった。早朝練習に行く子を朝はやく車で送って、午前中の体育館での「学習発表会」が終わる昼頃にYと二人でふたたび学校へ向かった。そして三階の教室で主に子が書いた脚本の劇を見た。事故で死んでしまった教師と教え子が死神に「元いた世界で誰かに“希望”を持たせることができたら、生き返らせてあげてもいい」と言われて地上にもどってくるという話だ。子はソファーに座った死神の役で、いつも裏方ばかりだったからキャストをもらえるのも久しぶりだった。30分ほどの寸劇だったが、子もそれなりに上手にやっていたと思う(本人はかなり緊張したらしいが)。校長先生も見に来たが、わたしも向こうもとくに挨拶もしなかった。明日の決闘相手に挨拶は要らない。

2015.3.23

 

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 「テラビシアにかける橋」が国際アンデルセン賞なども受賞したファンタジーの名作とは知らなかった。さっそく amazon 古書で注文。これの映画化されたDVDを家族三人で見たのが数日前。ちょうど演劇部の顧問で、子がぜったいの尊敬をしているM先生の他校への異動が発表される前日のことだった。絵を描くことが好きな少年と、引っ越してきたばかりの風変わりな少女の二人が、家の近くの森を「テラビシアの国」と名づけて想像力を育んでいくストーリー。学校や家ではうだつのあがらなかった少年を、少女がファンタジーの空想力でぐいぐいとひっぱっていく。森の中の神秘がそれに答え、風や木々が応え、それらがかれらの現実をも変えていく。「わたし、この子好き!!」 子は高らかに宣言をしたが、物語の中の少女は後半、川に溺れて死んでしまう。映画のエンディングが終わっても、子はおいおいと泣き続けた。ときどきそういうことがある。大人がびっくりするくらいの反応や思い入れ。去年の暮れ近くであったか、部活を終えた学校からの帰り道。もうすっかり日も落ちた車道の真ん中を車が次々と避けていく。車に轢かれたらしい大きな犬が横たわっていた。父に言われて、子は窓越しにそれを見た。「助けてあげられないの?」 「いや、もう死んでいるよ。それに通行量が多い道の真ん中だから危ない」 そう父に言われて通り過ぎてからも、「何かしてあげられなかったのかな? もう今からもどってもだめだよね」 そうしていつまでも泣き続けた。つまり、そういうことがときどきある。そのたびに、じぶんは大人になって心が麻痺してしまった部分があるのだろうな、と思う。そして子はいまだにやわらかな心をもち続けている。そんな子がこの世界を生きていくのはたやすいことではないかも知れないが、それを大事にしてやりたい。つまり、そんなふうに思う。

 校長先生との話し合いは結局、わたしの休日では都合がつかず、週明けの火曜日の夜に延期された。当日、わたしは仕事をやや早めに切り上げて、ときどき演劇部員たちが部活が遅くなって最終のバスに乗り損ねたときに歩いてくる駅までの短くはない道のりを、あれこれと考えごとをしながら歩いていった。やや遅れて車で到着したYと学校で合流した。

 校長先生、教頭先生、そして学年主任のM先生と向き合い、こちらから疑問点を質問していく形で話を始めさせてもらった。夕方の6時半頃から始まり、終わったのがたぶん8時頃だったと思う。前半はこれまでの確認事項で、主にこちら側から見て「どうして?」と納得できない部分を説明してもらった。仲良しのHちゃんが今回、ホームステイ同宿希望者として子の名前を書いていなかったことは、先生側も予期していなかったことで「驚いた」。しかもHちゃんが書いていた子に他の子も加えて微妙な三角関係などもあり、調整が難しかった。「責任を取れない」と言ってきた同じ演劇部のMちゃんたちについては、先生から「責任をとらなくていいのよ」と言ったそうだが、それ以上「深く話を訊く雰囲気ではなかった」という。それ以外に学校内で子に親しい友だちがないことから、旅行会社に相談をしたところ、よその学校では事情があって「親子で泊まることもある」と聞かされて、今回の提案をすることになった、と。看護師については2月の時点ではじめて旅行会社と話ができたばかりで、詳しい話はまだ何もできていない。排便については「できないかも知れない」と言っただけで決定ではない。大まかに、そんな説明であった。が、看護師についてはなぜもう少しこちら側の主導で要望を明確に伝えられないのか? という点。親の修学旅行への同行については検討中であり、回答は4月半ばという話がどこへいってしまったのか? という点。(そもそも、今回の子の修学旅行行きで唯一の問題点は「排便」であり、それのできる看護師さんが同行できればクリアになる、それだけの話であった) そしてホームステイの相手については、なぜ都度都度の相談がなく、すべてを一方的に決めて結果だけを投げるようなことになったのか? という点。あげればもっとたくさん言ったと思うが、ともかくそうした点については結局、こちらが納得の出来る説明は今回していただけなかった。が、まあ、それはある意味「想定内」なので、それはそれでよい。問題はその先。

 ここまではわたしは、前回のM先生との電話会談と同じで終始、辛口であった。ぜったいに妥協はしない。とくにいちばん訴えたのは、積極的ではないながらも子が修学旅行に行く気になっていたのを、「お父さん、わたし、もういいよ」と子自らに言わせて、その芽を摘んでしまったこと。そしてそれはもう二度とやり直しのできないこと。これについては「わたしはぜったいに許すことは出来ない」と強い口調で再三再度伝えた。緊張した雰囲気が変わってきたのは、その後である。これまでの経緯説明が手詰まりに終わって、わたしはまず、国連で採択された「障害者の権利に関する条約」を昨年、2014年に遅ればせながら日本も批准をしたこと。それを受けて文部科学省が(障害者と健常者との共生を謳った)インクルーシブ教育のシステム構築についてのレポートをサイトに載せていることなどを、プリントした資料を示しながら説明をした。それからEちゃんにもらった障害者差別に関する冊子を見せながら、たとえば「学校のプールにはみなといっしょに入っている知的障害の子が、市民プールで“何かあったら責任を取れないので”と利用を拒否された」直接的差別のケース、あるいは「車椅子の障害者が中学校の入学に際して、“入学は構わないが、学校で対応ができないので毎日親御さんが一日中付き添って下さい”と言われた」合理的配慮に欠ける間接的差別のケース、などを説明した。そして17歳までしか生きられないと医者に見離され、外出すると抵抗力が弱いから良くない、云々と言われてきたEちゃんが、もろもろの世間の常識に抵抗して24時間の介護を受けながらついに一人暮らしを決行したこと、そのときにお母さんが反対をしなかったこと、数年前に亡くなったそのお母さんが亡くなる数日前に「いろいろ大変だったけど、いろいろな愉しい経験もできて、Eちゃんの母親でほんとうによかった」と言って亡くなられたこと、それをEちゃん自身が書いている文章について、話をしたのだった。そうして、言った。「わたしも紫乃がこうやって病気をもって生まれたから、障害に対していろいろ考えるようになった。そうでなかったら、先生たちと同じように、そんなことは考えることもなかっただろう。わたしは先生たちが悪人だと思っているわけではない。ただ、理解が足りない、と思う。「安全」や「責任」を優先させることによって、じつは病気を持った子どもの可能性を摘み取ってしまっていることに対する認識が足りない、と思う。Eちゃんも医者に言われたように家に閉じこもっていたら、果たして幸せだったでしょうか? でも彼女はそうはしなかった。ノーと言って、抗いながら、じぶんの可能性を押し広げていった。一人暮らしをすると彼女が言ったとき、お母さんも心配だったでしょう。でも「危ないからやめなさい」と反対はしなかった。そのことにいま、Eちゃんは感謝しています。」 実際はこの百倍くらい長かったけれど、そんなようなことを、あれこれと。そしてその話の最中から、明らかに先生たちの顔つきが変わってきた。身構えていた姿勢が、身を乗り出してきて、目からウロコ、という感じでこちらの話に耳を傾けだした。前半はわたしの冷淡な突っ込みに半ば不貞腐れていたような顔で横を向いていたM先生(Yに言わせると“憔悴しきっていた顔つきだった”と言うが)も、いつの間にかこちらを向いて一生懸命に話を聞いてくれている。

 わたしの話が一段落して、7〜8年間アメリカで暮らしていたという校長先生が、向こうで知り合った障害を持っている人が日本へ遊びに来た際に「日本は(障害者にとって)とても暮らしにくい」と言ったという話などをした。そして、わたしたちも立場上、生徒の安全を最優先に考えなくてはならないので、そのために杓子定規な対応になってしまった部分があったかもしれない。とにかく今回、紫乃さんの修学旅行の参加について、とりかえしのつかないことをしてしまったことについては謝罪したい、と言ってくださった。加えて、じぶんたちは教育者でありながら、知らないことが多すぎた。正直、何も知らない。だからこれから勉強していきたい。お父さんが提案してくれた奈良市の障害者の生活支援組織などの活動については、じぶんたちも勉強をしたいので、ぜひ紹介をして欲しい。連絡をとれればさっそくでもこちらから伺って、話を伺いたい。偶然ながら今年から人権部という部署を学校内に設置することになったので、その部署をメインに、教員への研修に組み入れたい、そして最終的にはそれを生徒たちの教育へ結びつけたい。そう言って名刺を取り出して、Eメールで連絡が欲しい、と渡してくれたのだった。

 帰ってから、今回いちばん心の支えになってくれたEちゃんに、まずは簡略なメールで報告を入れた。

時間も遅いので詳細は後日にしますが、本日、夕方6:30〜8:00で話をし、
結果としては良い話し合いができたように思います。

学校側は障害を持った子どもに対する理解が不足していたことを素直に認め、今回の修学旅行の対応については
「とりかえしのつかないことをしてしまった」と謝罪をしました。
そしてEちゃんと話し合っていた奈良市の自立センターについては
じぶんたちも勉強をしたいので、ぜひ紹介をして欲しい。
連絡をとれればさっそくでもこちらから伺って、話を伺いたい。
偶然ながら今年から人権部という部署を学校内に設置することになったので、
その部署をメインに、教員への研修に組み入れたい、そして最終的にはそれを生徒たちの教育へ
結び付けたいと校長先生みずから言ってくれました。

校長先生の名刺を頂いたので、とりあえずメールで連絡が欲しいそうです。
仲介をお願いできますか?
(こちらにもある程度、やりとりが分かればありがたいですが)

とりあえず今夜は祝杯をあげました。

Eちゃんの紹介してくれる人を講師に招いて、先生たちに話を聞いてもらうらしいよ、と言うと、
紫乃は「うそ〜!!」信じられないといった顔で笑っていました。

 次の日、Eちゃんから返事がきた。

○○くんへ

すばらしい!!
やりましたねぇ。
お疲れさまでした。

さっそく友達に連絡とってみますね。

友だちの自立生活センターは、
「フリーダム21」と言います。
場所は、奈良市般若寺町だそうです。

また、連絡します。

 

 ところで先の土曜日は部活もなく、かねてから唾をつけておいた神戸市立博物館で開催中の「チューリッヒ美術館展」へ子と母を誘った。モネやセザンヌといった印象派から、ゴッホ、ドガ、ゴーギャン、ホドラー、ルソー、ムンク、マティス、ブラック、ピカソ、シャガール、カンディンスキー、ジャコメッティ、クレー、マグリット、キリコ・・・ の全70点。この世にはいろいろな視点があり、表現方法があり、世界があるということを、子が少しでも感じてくれたら今回の神戸行きは成功。ちなみに子が気に入ったのはモネの「国会議事堂、日没」、ジャバンニ・セガンティーニ「虚栄」、オスカー・ココシュカ「プットーとウサギのいる静物画」など。常設展まで見てから、適当に歩いていったら元町商店街へ出た。中華街の端に見つけた小さな洋食屋「アシェット」で昼食ハンバーグ・セットなど、向かいのチョコレート&ジェラート専門店「CLARET」でアイスを食べて、帰宅した。

 

障害者の権利に関する条約(外務省)  http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/jinken/index_shogaisha.html

共生社会の形成に向けたインクルーシブ教育システム構築のための特別支援教育の推進(報告) 概要(文部科学省) http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/044/attach/1321668.htm

自立生活センターリングリング(神戸) http://www17.ocn.ne.jp/~ringring/

NPO法人自立生活支援センター  フリーダム21 http://freedom21.jp/

2015.3.23

 

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 休日。子の春休みの課題のため、天王寺動物園へ行く。10頁ほどの観察課題を実際に動物園を訪ねて埋めるというもの。子はまだ長い距離は歩けない。家の周囲の路地一画分を一巡りするのがせいぜいだ。必然、車での移動がメインとなる。車椅子を積んで、朝8時半に出発。渋滞を避けて東大阪から下道を使い、9時半頃には天王寺へ着いた。動物園周辺のコインパーキングは土日は最大料金の設定がないので使えない。天王寺公園の地下駐車場はキャパは多いが、土日の最大料金は2500円で、ちと高い。前日にWebで調べておいたのは動物園から10分ほど歩くが、土日でも最大料金1400円の、ちょっと路地に入ったわずか6台だけの駐車場。ちょうど天王寺公園の北側になるが、ここを選んだのはじつはもうひとつ訳がある。園内の桜もちらちら咲き始めたぽかぽか陽気の土曜日とあって、動物園はかなりの人手だった。いつものように好きな動物のところ(紫乃はたいてい、ハイエナ、ライオン、オオカミ、そして夜行性動物のコウモリの前で長い時間を過ごす)でじっくり気ままに時を過ごすのと違って、今回は学校の課題をこなさなくてはならないから、案外と忙しい。何とか予定時間内に課題の大方を埋めて、最後は埼玉の草加市から来たという大道芸の若い兄ちゃんのパフォーマンスを愉しんで、1時頃に腹ペコのお腹を抱えて新世界へ。ほんとうはわたしのお気に入りの西成の台湾ラーメンの店(じゃんじゃん横丁を抜けた向こう側)に行きたかったのだけれど、子がたこ焼きが食べたいと言うので、以前にも美味しかった有名店「かんかん」に並んで、すこし離れた路上脇で食べた。その後動物園の入り口前の若い兄ちゃんのたこ焼き屋で子がソフトクリームを買ったので、たこ焼き一皿では足りない父はそこで「たこせんネギ」も注文。その後、「もうひとつの訳」の安居神社へ。ここはかの大阪・夏の陣の折、戦いに敗れた真田幸村が傷ついた体を境内で休ませているところを松平忠直隊の鉄砲組頭に見つかり討ち取られた、幸村終焉の地と伝わる場所である。境内は上町台地の西端がちょうど落ち込むそのへりに位置し、通天閣側から見ると小高い丘の上となる。最後の戦況を見渡し、かつ自らの死地として選ぶには、なるほど、さもありなん、という気もする。子は最近はまっているゲーム・戦国バサラを仲介として、父はかつて全12巻を読破した池波正太郎「真田太平記」を仲介として、それぞれの幸村の最期を偲んだ次第で。

 その後、子を地元の歯医者へ送っていく。夕方4時の予約には間に合った。昨日、膝がひどく痛むと言っていたYは医者に行ってきて、半月板が損傷しているらしいとのことで、膝に注射を打ってもらったという。痛み止めを1週間分もらって、「たいていの人はこれで治るが」、これで痛みが治まらなかったらMRIを撮る予定と。今夜はお風呂に入らないよう医者に言われたというので(子はいつもシャワーしか使わない)、久しぶりに市内の大門湯へ自転車で行く。夜、10時頃。古くからある町の銭湯だが、ジャグジー、電気風呂、水風呂、サウナ、そして露天風呂まであって420円は贅沢だろう。やっぱり広いお風呂はいいねえ。かつて子どもの頃に通っていた東京都足立区中川の愛国湯(いま思えばすごい名前)は先日ついに閉店してしまったそうだが、見知らぬ者どうしが裸で共有する銭湯とい空間が、わたしは大好きだ。かつて20代になってから再訪した前述の愛国湯で、見知らぬおじさんからいきなり「あんた、○○さんの息子だろ。背中がそっくりだから分かった」と言われてびっくりしたことがあった(しかも当たっていたので)。背中だけで声をかけるおっさんもおっさんだが、ともかくわたしはそういう下町で育ったのであり、そんな下町の風情をいまもこよなく愛している。土日の夜はややお客が少ないような気がする。下駄箱に靴を入れてお金を払おうとすると、番台のお爺さんは居眠りをしている。脱衣所の隅に女性の脱衣所とつながる暖簾の垂れた出入り口があるのは、小さな子どもが父親と母親の間を行き来できるようなためだが、こうした構造が残っているのは銭湯では古い形らしい。ジャグジーで最近凝っている肩を当てていると、隣の電気風呂で片手に持った桶に向かって一人言を喋り続けている若い男性が気になる。あとでこっそり覗くと、風呂桶の中には語学のテキストらしいものが畳まれていた。もの凄い長い時間をかけて股間を丁寧に洗っているお爺さんがいる。中学生くらいの男の子と父親らしい二人連れが入ってきて、露天風呂へ直行する。これが入り口の扉を開けっぱなしでいくので閉めに行く。この二人はその後、出て行ったときも扉を閉めずに行ったので、さすがに腹に据えかねて「ちゃんと閉めなよ、扉」と文句を言う。父親らしい男は「ああ・・」とはっきりしない声を出す。その後で1分くらいしてから別の男性が入ってきたときに、閉めた扉が反動で若干開いてしまい、なぜか先の親子連れの父親が慌てて閉めにきたのには、思わず微笑んでしまった。しかしこの親子は、桶も椅子も出しっぱなしで、泡もついたままでだらしがない。他の常連のような人たちも案外と、椅子や桶を最期に洗い流すようなこともしないでそのままふいっと出て行ってしまうが、そんなモラルはすでに古き良き時代のものとなってしまったのかな。わたしとしては違和感を覚える。しかしまあ、そんなことはどうでもよろしい。誰もいない露天風呂のお湯に浸かって、鼻歌で歌っていたのはなぜかニール・ヤングの Good To See You で、これは2000年のアルバム Silver & Gold の中の1曲。当時葬儀屋の下請けの花屋で働いていたわたしは会社から乗って帰った軽トラに彼女を乗せて(このときはまだ250ccの単車しかなかった)、二人で夜のドライブへ行ったときに立ち寄ったレコード屋でこのCDを買ったのだった。子が生まれる年のこと。大門湯からの帰り道は狭い路地へ入り、むかしのこの城下町の色町の名残である三階建ての建物が並ぶ門前町へと抜けた。白狐を祭った源九郎稲荷神社の奥が夜目にもくっきりした灯りで照らされていたので、鏡花の「陽炎座」に誘われる男のような心持で、自転車を止めてふらふらと入っていった。明日は子どもたちが化粧をして白狐となって町を練り歩くお渡り式の日であった。

2015.3.28

 

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 前にもちらと書いたが、「障害者 修学旅行」のキーワードでグーグル検索をすると、まず冒頭に「障害児と修学旅行のおなじグループになってしまった。楽しみにしていた修学旅行なのに、どうしたらいいでしょうか?」なぞという質問箱の記事が並ぶということ。いまも試してみると、一番目に出てくるのはヤフーの知恵袋で、中学3年生の男子生徒がみずから修学旅行で「身体障害者ぽい人」とおなじ班になってしまい、

班のメンバーは
「身障(S)と行くぐらいなら学校で勉強してたほうがマシ」
「金返せ」
「思い出は体育大会で作ろうね(泣)」
みたいな感じです。
もう死にたいわ。マジでって感じです。

 なぞと書いている。二番目に出る記事はこれもおなじヤフーの知恵袋で、こんどは中学の娘さんの保護者が「今度の修学旅行で、体に障害のある子と同じグループになりました」と書いていて、

冷たいのですが一生に一度の修学旅行、楽しませてあげたいんです。
その子のお守りで、と思うとどうして娘の班ばかりがと身勝手な事を考えます。
言いにくい事ですが、先生に遠まわしに言うつもりです。
どのような話の持っていき方をすればよいでしょうか?
実際、同じ班にならなかった子達は、喜んでいます。

 と結んでいる。

 わたしはこれらの記事をはじめて見たときは「これが世間の現実か」と驚き、絶望的な気分になったものだが、神戸のEちゃんに後日その話をすると、彼女いわく「ネットの意見というものは多数のように見えても、現実は多数ではないことに注意しなくてはならない。それは多数ではなくて、たんに突出しているから目立っているだけ。世の中には知らなくていい情報もたくさんある。もし紫乃ちゃんがその記事のことを知ってしまったなら、“それは決して世の中の多数の人の意見ではないんだよ”ときちんと教えてあげて欲しい」 それを訊いて、すでに子に話してしまっていた単純な父親であるわたしは、“なるほど”と反省したのであった。

 そんなやりとりがあってからしばらくして先日の新聞に、慶應義塾大学教授で社会学者の小熊英二さんの「「ネット右翼」への対処法」と題されたこんな文章が刑されたのを読んだ。(3月26日 朝日新聞)

ネット上の極右的言説が問題になっている。これについて、三つの視点から私見を述べたい。

 第一に、いわゆる「ネット右翼」の数を過大視すべきではない。2007年の辻大介氏らの調査では、その数はネット利用者の1%に満たない。調査時期よりネットが一般化していることを考えれば、この比率はもっと低下しているだろう。

 それでもこうした言説は、実数以上に大きく見える。その一因は、人数は少なくとも、活発に書き込むためだ。極端にいえば、全国で数千人が匿名で多重投稿しているだけでも、ネット上では多く見える。

 さらにこの種の言説は、特定の場所に集中的に書かれており、そこを閲覧すると数多く見える。また特定の問題や人物名で検索すると、やはり数多く見える。しかしネット上全体では、ごくわずかな数だ。

 それでも、この層にピンポイントで売れる本を出せば、ベストセラーになりうる。全体の1%でも、母数が1億人なら100万人だからだ。だが政党がそうした主張を掲げたところで、その政党の宣伝動画の再生数が数十万になることはあっても、得票率は数%にとどまるだろう。

 以上が第一だが、第二には、この種の言説の意図を真剣に考えすぎるべきではない。この種の書き込みの多くは、一種の「愉快犯」にすぎない。攻撃し、冷笑し、知識をひけらかすことで、注目を集めるのが目的だ。攻撃対象が動揺したり、むきになって反論したり、萎縮したりすれば、喜びはするだろうが、深い政治的意図があるわけではない。

 彼らの心理は、さして理解困難ではない。ある児童向け心理学書には、「きまった女の子にちょっかいを出す男の子」と並んで、「人の悪口ばっかり言う子」の心理がこう記述されている。「この子は、人から注目をあびたいのに、その方法がわからず、人の悪口を言うことしか思いつかないのかも」。お勧めの対処方法は、「つまらなそうな顔をして聞いていれば、そのうち言わなくなるかもしれません」である(村山哲哉監修『こころのふしぎ なぜ?どうして?』高橋書店、一部を漢字に置き換え)。こうした相手に反論は逆効果で、無視するのが一番だ。

 しかし第三に、ある意味で矛盾しているようだが、この種の言説の広がりは深刻な問題だ。個々の言説に大した意味がなくとも、その蓄積は、「ああいう発言をしてもいい」という空気を醸成するからだ。

 例えば、ある集団を内心で差別していても、口外はしないでいた人々が、差別的言説をネット上などで目にすると、「言ってもいいんだ」と思うようになる。政治家に同様の現象がおこれば、議会などで差別的言辞が公言されるようになり、やがて政策や外交に影響する。白紙状態からこうした言説に接し、それに染まってしまう若者も出てくるだろう。

 ではどうするべきか。個人で逐一反論するのは、効率も悪いし、相手を喜ばせかねない。簡単な問題ではないが、一つの対処法は、ネット管理者に対応を要請することだ。

 例えばネット検索大手のグーグルは、「差別的な表現」や「個人や集団への暴力を助長または容認」するコンテンツを許可しないこと、通報があれば調査のうえアクセス停止の措置をとると公表している。グーグル本社のあるアメリカでは、こうした問題に対処してきた蓄積があるためだ。実際にアクセス停止になる事例が少なくとも、通報や警告が行われれば、「こんな発言は許されないのだ」と知らしめる効果はある。

 前述の児童向けの本には、こうも書いてある。「いじめっ子は、心がものすごく弱い」。「相手の心は弱いので、その弱点をつくように、こちらは心の強さで戦いましょう」。「はっきり、きっぱりと、いやなことは『いや!』『やめろ!』と言う。これは、心の強さがないとできないことです」。すべての日本の人々よ、強くあれ。

 

 Web上で飛び交うさまざまな言辞・言説について、わたしはときどきひどい違和感を覚える。ときに「それらを“聴く”ことが、ほんとうに必要なのか?」と自問することもある。そして離れていたい気持ちも存在している。わたしにとってほんとうの意味のコトバというものは、たとえば最近、最新作を買った友川カズキ氏の歌のコトバなどもそうだが、それらはWeb上を跳梁跋扈するコトバたちとは、明らかに異なる出自を持っているように思われる。ざらざらとして、原石の輝きを持ち、抗い、溜め息し、銃弾のような熱を帯びて、それでいてやわらかな詩情を湛えた、狂った童のような歌である。Web上でそうしたコトバはほとんど生まれ得ないのではないか? 小熊氏は冒頭でいわゆる「ネット右翼」の数は、じつは利用者のわずか1パーセントに過ぎないという調査結果を紹介しているが、わたしはWeb上で、ほんとうに読む価値のあるコトバというものは、おなじように(あるいは逆に?)1パーセントしかないだろうとも思っている。毎日のようにスマホやPCの画面を覗き込んで、じぶんがたくさんのコトバ(たくさんの現実)に触れていると思うのは、じつは大いなる幻影かも知れない。そういう場所とはまったく異なる場所へ、わたしは行きたい。

2015.3.29

 

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 早めの夕食を済ませてから、勉強道具を用意し、母親に添われて数軒先の家庭教師のお兄さんの家へ向かう。その後姿を、わたしはいつも玄関先で見送る。「飲み込みが早いので、週1回の授業の残り1年間で中学3年分に追いつけるでしょう」と先生は言ってくれている、とか。幸い子も、いつも機嫌よく帰ってきて、「英語のテストの問題を二問逃した〜」などと残念そうに言ったりして、少しづつであるが、このごろはちょっと勉強にも前向きになってきている。

 明日は入院。明後日は、前回の手術で股関節周辺の骨の補強で埋まっている金属を取り外す手術を予定している。大きな手術ではないので時間的にも短く、週末には家に帰れるだろうと言われている。郡山城址のさくら祭りは、子の退院を待ってからにしている。

 来月18日には、神戸のEちゃんの生活自立センターで主催する障害者の人たちのイベントに参加する予定である。

2015.3.30

 

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 手術、当日。Yと二人、朝7時過ぎに車で家を出て、約1時間後に病院に到着。予定通り8時半に手術室へ移動し、これも予定通り11時に終了し、やがて病室へ戻ってきた。約2時間半。順調に済んで、特にトラブルもなく。時間も短いためか麻酔の醒めもよく、「前の手術のときに比べたらぜんぜんマシ」と子の表情にも余裕が見える。熱もそれほどなく、痛みもあまりないと言う。右手の甲に点滴がつなげられているが痛み止めは入れていないとの由。あとは傷口からの出血の管がつないであるが、これも大した量ではない。病室は子が1歳のときに最初の手術を受けたときと同じ部屋で、窓から大阪城の天守が見える。部屋に戻るとさっそくスマホを手にして、LINEで演劇部の仲間に手術終了の一言を。そしてスマホの音楽をイアホンで聴きながら、少し眠った。13時半頃に水を飲み、「お腹が動いているので」と食事も許可が出た。コンビニで買ってきたアイスをまず先に食べてから、病院食のおかゆをほぼ食べた。それから持ってきたノートPCに予め入れておいた「戦国バサラ」映画版の動画をしばらく鑑賞。わたしたちは5時頃に病院を辞した。明日はYが仕事を終えて夕方から病院へ来る。K先生の話ではこの様子なら、金曜日には退院できるだろうと。

 病院滞在中、わたしは主に持参したキャンピングチェアーに身を沈め、Yに図書館で借りてきてもらった安達正勝「物語 フランス革命 バスチーユ陥落からナポレオン戴冠まで」(中公新書)の頁をめくりながら、ルイ16世をこの国の天皇に置き換えた物語を空想していた。

2015.4.1

 

*

 

 子は予定通り、金曜の昼に退院した。手術の翌日はさすがに微熱があったり、吐き気やめまいがあったりして、わたしに送ってきたメールでは「最悪」だったそうだが、ベッドでの姿勢が変わったことや貧血などの影響もあったようで、夜にはだいぶ落ちついた。家には帰ってきたものの、まだ動くと傷跡が痛むようで、行動はだいぶ制約される。洗濯物を干したり食器洗いなど、これまで手伝ってくれた家事もしばらくはできなくなり、車椅子も戸外はがたつくと傷に響くというので、屋台が並ぶ郡山城の桜見物もことしは見送ることにした。昨日・今日はだいたい猫や犬と部屋でのんびり過ごし、ときにうたた寝をし、ときにペンタブレットでデッサンを描いたりしている。

 学校の校長先生とはあれから幾度かメールのやりとりがあった。

まれびと様

前略 この度は、お世話になっております。さて、ご紹介いただきました
自立生活支援センターフリーダム21のY様に昨日お会いいたしました。E様からご説明いただいておりましたお陰で、研修の件、快くお引き受けいただきました。本校卒業生とお知り合いということで、同行した人権教育部長とも話が盛り上がっておりました。是非、E様にもよろしくお伝えください。もしよろしければ、アドレスをお教えいただけましたら、御礼のメールをお送りしたいと思いますが、如何でしょうか。
今後ともよろしくお願いいたします。

 

TO ○○校長

早速のご対応、誠にありがとうございます。
フリーダム21の位置する付近一帯は、中世には北山宿と呼ばれる被差別民たちが多く暮らし、近くの般若寺も、また北山十八間戸としていまも残るハンセン氏病患者たちの収容施設も、それら謂れなき差別を受けてきた人々の救済と深くかかわりのあることを考えると、感慨深い気もします。
Eの方へ校長先生のメールを転送したところ、アドレスを教えても構わないと返答がありましたので以下に。
○○○@○○○.ne.jp
○○での研修につきましては、わたしもどんなお話をして頂けるのか興味もあり、またY様へも一度ご挨拶もしたく、できれば当日、先生方の末席に加えて頂けたらと思います。なるべく仕事の方も都合をつけますので、事前に日程を教えて頂けたら有り難いです。 黙って聞いているだけですので(^^)

今回の事が、○○校の新たなる一歩になることを期待しております。
まれびと 拝

 

まれびと様

メールありがとうございます。長らく○○中高に勤務しておりましたが、近くにフリーダム21のような団体があることを知らずにおりました。いろいろなご縁を与えていただき感謝いたします。E様にもまた御礼のメールをさせていただきます。
研修については、日程を調整しております。決まりましたら、またご連絡いたします。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

 

 昨夜は子の退院祝いにかこつけて回転寿司屋で夕飯。帰りに立ち寄ったレンタル店で、ベルイマン監督の「野いちご」を借りてきた。先月は数十年ぶりにシュトルムの「みずうみ」を読み返した。父親が死んだ歳にわたしも、もうじきなろうとしている。

2015.4.5

 

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 休日。かねてよりウッドデッキを考えていたリヴィングから庭への降り口を、石積みの小ぶりなステップにすることに決めて、さっそく Web で見つけた「関西で唯一コッツウォルズ・ストーンを直輸入している」奈良県香芝市の石材店ツボイへ午前中にYと二人で行ってきた。あまり大きなデッキは庭の土部分が狭くなるのが嫌だというYと子の意見で、ウッドデッキが念願の夢であったわたしもそうは言いつつもどこかしっくり来ない部分があって、「石積みのステップ」というアイディアが浮かんだ途端、庭のイメージがぴったりとはまったのだった。ちなみにコッツウォルズ・ストーンとはハニー・ストーンともいわれる蜂蜜色をした、イギリスのコッツウォルド地方で産出される天然石灰岩で、かつて羊毛の交易などで栄えた古い町並みには石積みの独特の建物が建ち並び、観光地にもなっている。さて、やってきた石材店はふだんは業者向けに卸しているようで、個人客はあまり来ないという。国道に面した店舗の裏手に広い資材置き場があって、そのいちばん後方に黒い大きな袋に入ったコッツウォルズ・ストーンが瓦礫のように並んでいた。ちなみに一袋は約1トンあり、それで金額は12万円ほど。こちらの考えている寸法を伝えてだいたいの必要量を、店の人とわたしで車のトランクへ運んでいった(配達は9千円と言われたので)。そうして何とか1回で収まったのが約350キロ、4万円(端数は負けてくれた)。家へ帰ってから、せっせとわたしが庭へ運んだのをYが数えたら、ぜんぶで56個あったそうな。値段はいいが、この色合いや味わいは、やっぱり他の石では出せない。石積みは未知の世界だが、夏までに、このコッツウォルズ・ストーンの石積みステップと、その横に外部ゴミ箱を隠したガーデン・ベンチ(のようなもの)、そして立水栓横の物干し台設置までこぎつけたい。

 夜は妹宅へ母も含めて集まって、飲茶会。これはわたしの東京の友人の初ベイビーのお祝い返しに贈られてきたカタログから選んだ飲茶セットに、スープや鶏肉料理、フルーツ・ポンチ、杏仁豆腐などをそれぞれ持ち寄って、飲茶会をしようと前々から言っていたもの。車椅子で行った子は妹宅は久しぶり。駐車場から玄関前に至るアプローチを昨年からDIYでリフォームしていたのがやっと完成したのだった。道具類はほとんどわが家から貸して、でもほとんどは定年退職した妹の旦那がせっせと手仕事でつくりあげた。はじめてとは思えない、なかなか見事な仕事だと思う。

 子は少しづつ、立ち歩きができるようになってきた。以前のような状態まで戻れたら学校も、クラスへ戻る、と本人は宣言している。先の始業式では、はじめは参加すると言っていた能力別にクラスを設定した数学の授業は内なる格闘をした末にキャンセルとなったが、クラス全員での集合写真は参加できたらしい。昨日は演劇部の友だちが遊びに来て、二人でスマホのアプリで録音した歌を、子がPCソフトを使ってミックスし演奏をつけ、動画もつけて、ユーチューブにアップする予定という。

石材市場ツボイ(奈良県香芝市) http://www.lint.jp/~tsuboi/stoneshop/index.html

2015.4.12

 

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 石の細工をあれこれと考えていたら、石を割るセリ矢なる道具を見つけた。さっそく16mm径のセリ矢三つとおなじ径のBOSCH用ドリルビットをWebで注文した。こんなものを購入すると、山に行っていろいろな石を自在に割ってみたくなる。

 書き忘れていたが日曜は選挙だった。70歳のじいさんが政党なかよく相乗りで再選を果たしたことが、選択肢のないこの国の現状をよく現している。選挙権を持つようになってかれこれ30年。面倒くさいとぶつぶつ言いながらも選挙はそれなりに毎回律儀に参加してきたつもりだが、わたしの一票が生きたことは、これまで殆ど無い。ということは、わたしは常にこの国の影響たり得ない少数者でしかないわけだが、それはそれで憂うべきこの国の現状について、影響たりえた多数者よりは文句を言わせてもらう権利は保持しているというものだろう。たぶんないだろうが、よもや将来この国で革命が起きたときには、溜まりに溜まった保留意見とその権利を存分に使わせて頂くから覚悟せよ。

2015.4.14

 

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 週末は購入したコッツウォルズ・ストーンで、ほぼリビングから庭へのステップ作りで暮れた。自作の枕木タコで地面を固め、バラスを敷き、石組み。内側だけモルタルで固めて、内部はブロックと余っていた石くれをぶちこんだ。石積みは庭中に並べたさまざまな形の石とにらめっこをしながら組んだりはずしたり、ざながら石と対話しているような心持で。そこまで土曜日の作業で、夜は母、妹夫婦を呼んで庭でバーベキューをした。明けて日曜は雨予報だったが、じきに晴れ間も見えてきたため、背中、腿裏の筋肉がかなり張っていた体に鞭打ってステップ前のレンガ敷きを行った。これもタコで地面を固め、バラスを敷いてまた固め、レンガを敷いた後で、隙間を珪砂で埋めた。ちょっと見栄えがしてきたかな。あとはステップの仕上げだが、日にいくども乗り降りをするようなところなので、なるべく頑丈にしたい。いまのところ上部はカラーモルタルでフラットに固めて、念のため石の隙間も(ある程度は)ホワイト・モルタルで固定しようかと考えている。ケーキの上の生クリームのようにモルタルをひねり出す注入袋もホームセンターで買ってきた。日曜は友だちと映画を見に行くという子を車で送ってから、Yと二人で奈良市のホームセンターへ行き、山吹(八重)を一株、そして庭の花や下草を少々買ってきた。山吹は小屋の斜め前、西側のOさん宅寄りに植えた。最終的に20個も余ってしまった高価なコッツウォルズ・ストーンは、とりあえずジューン・ベリーのぐるりあたりに積み上げてみたら、それはそれで自然味が出ていい感じ。大振りな石は庭がしまる感じがする。

 子はこのごろ、いい感じだ。学校は一、二時間程度だけれど、保健室ではなくて図書室で自習をするようになった。ときどき、おなじクラスのもう一人の不登校の子といっしょになったりする。部活は新入生が(今のところ)大量6人も入部しそうな感じで狂喜している。先輩の責任も芽生えてきたようで、部活の様子を話すときはいちばん生き生きとしている。近所の大学生のお兄さんの家へ行っている「家庭教師」も、週一回から、いまでは週二回に増えて、これまでの遅れを取り戻すべく頑張っている。ひとり立ちの歩行もよたよただがだいぶ距離も伸びてきて、もう少し歩けるようになったらクラスに戻ると宣言している。すべては高校すすんで部活を続けたいという一念からである。舞台のメイクに触発されて、先日は某ショッピング・センターで母と二人長いこと選んで、化粧品をあれこれ揃えてきた。引きこもっていたときは身なりや外見はまったく無頓着だったから、こうやってオシャレに目覚めてくるのは「いい傾向だ」とY。一時はかなりひどかったニキビも、洗顔をこまめにしたり乳液をつけたりで、だいぶよくなってきた。Yの忠告でブラジャーも買った。本人はわずらわしくて嫌らしいが、BカップもきつくてCカップに近いらしい、あんた羨ましいわね、なぞとYがつぶやくのをソファーで新聞を眺めながら聞いていた。

2015.4.21

 

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 土曜の朝は子と詰まらぬ言い合いをして、というかわたしが一方的に子を詰問し、子は泣き出し、やがて息ができない、苦しいと洗面所の床に崩れ落ちた。むかしYと二人で暮らしていたころ、おなじようにわたしが彼女を責め立てて、過呼吸の発作を起こしたり、耳が聞こえなくなったりしたのと似ている。洗面所の床で喉元に手を当てて苦しんでいる子に、わたしは平然と「息ができないなら、息をするな」と吐き捨てたのだった。

 日曜は三人で夕食後、近所のショッピングセンターへ子の靴を見に行った。長い時間をかけて、あれこれと変形や麻痺のある子の足にちょうどいい靴はひとつも見つからずに、三人とも疲れて帰って来た。夜に寝床でYが、「いろいろ見ても、気に入った靴は履けないものばかりだから、あの子は靴屋へ行くのがもう嫌なのよ」と言って泣いた。

 わたしは家族のことで忙しい。家族のことだけで精一杯で、家族のことだけですら満足にできない。世界中のニューズなど追っている余裕もない。

2015.4.28

 

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 子は法隆寺の某高校からの誘いで、演劇部の合同練習会とやらへ同級生のHちゃん、高一のS先輩と計3名で参加。わたしは昼のいっときだけ、こんどの連休の打ち合わせが京都の某神社であっため、車で朝の送りと夕方の迎え(ぎりぎり間に合った)をした。朝9時から夕方の4時まで、弁当持参で。子の演劇部は中学生の新入生が5名も入りかなり人数は揃ったのだが、10日前の急な誘いともあって参加者は上記の3名である。県内の複数の高校から総勢40〜50名は集まっていろいろと合流をしたらしいが、中高一貫校は子の学校だけなので、もちろん他はみな高校生たちばかりである。じぶんのクラスにはなかなか入れないのに、こと演劇部となるとそんな見知らぬ高校生たちの間に混じって(グループ分けで一人になったらしい)、「疲れた〜」「緊張した〜」なぞと言いながらもそれなりに愉しんでくるのが不思議といえば不思議。中学生とあって可愛がってもらったようで、他校の高校生とアドレスを交換してきたりもしている。そして子はそういうところでは、歳を言わなければ案外と年下には見られないようで、高校生たちとけっこう対等に話をしたりしているらしい。子が愉しそうにしていると、わたしのこころも穏やかである。子が世間に負けそうになっていると、わたしのこころも波打ちだす。

2015.4.29

 

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 20代の頃、インド亜大陸を漠然と彷徨っていたとき、何度もおまえはネパール人か? と訊かれた。違うと答えると、では中国人か? と訊かれた。インドに長期滞在しているイカれた日本人たちは「ネパールは過ごしやすい」と誰もが口をそろえて言った。そういう連中はみなバスで国境を越えてネパールへ向かった。わたしも行きたかったけれど、乗り物酔いをする者にはでこぼこ道を疾走するおんぼろバスは高嶺の花だったから諦めた。でも、いつか行きたいと思っていた。インドよりは疲れが溜まらず、モンゴロイドの日本人とそっくりな顔の仏教の国。

 夕食の席で「地震で被災したネパールの人たちにお金を送りたいのだが」と提案した。わたしの小遣いから二千円出すと言うと、子も千円を出すと言う。じゃあ、家からあと二千円を出してぜんぶで五千円を送ろうかということになった。子が自然に同意してくれたのが嬉しかった。「じゃあ、しばらく外食は控えようね」とYが言った。

 かつて、家賃も満足に払えなかった。乳飲み子を抱えて生活費にも事欠き、Yの実家へ何度も頭を下げて金を無心した。あのときに比べたら、いまでは信じられないくらい贅沢な暮らしをさせてもらっている。金などはたんなるめぐり合わせに過ぎない。五千円でもささやかなくらいだが、あれこれと考えて、登山家の野口健さんが開いたヒマラヤ大震災基金に送金することにした。

2015.4.30

 

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 数日前の夜。風呂上りでパジャマ姿の子が、いつの間にかわたしのPCの前に座って画面を見つめていた。「何見ているんだ?」と訊くと、USJかハリーポッター関係らしきサイトのブラウザを閉じながら「うん、みんなで行きたかったな、と思って・・」と言いつつ溢れそうになっていた涙を隠そうとした。話はこうだ。前々から演劇部の同級生(子を入れて5人)の間で「ゴールデンウィークの後くらいにUSJへ行こう」という話が出ていて、その日、部活のときに改めてその話が出た。それぞれの家庭の事情に加えて、何せ夏休みや土曜日祝日でも講習や補習があったり部活動あったりするから、全員が揃って遊びに行ける機会というのは意外と少ない。そのときの会話でも、ゴールデンウィーク後の週末の9日、10日あたりはどうだろうか? となり、まず子がその二日共に家族で旅行へ行くので行けないと伝え(急遽、わたしが連休が取れて、母と妹夫婦、わが家の合計6人で、高知へ行くことになった。高知になった理由は子が長宗我部元親の墓参りがしたいと言ったから)、Hちゃんが10日は母の日だからダメ、と言った。そこでまた部活が始まったので、「じゃ、続きはあとで」いうことになった。その「あとで」がその日の夕方頃のライン上の会話で、子が見せてくれたけれども、子を抜かした4人の間で9日はどうだろう?という短い提案がされ、それに対して他の3人も「わたしはOK」 「いいよ」 「大丈夫〜」などとそれぞれ短い返事があり、「じゃ、これで決まり」と最後に。これが子の知らない間にやりとりされていて、子が気がついたときにはすべて終わっていたわけである。「これはひどいだろ。欠席裁判じゃないか」と、子を追って子の部屋に来た父はいつもの如く声を荒げた。「これが“ともだち”なのか。お父さんはいつも分からないな。紫乃が「9日10日は旅行に行くから行けない」というのはすでに伝えていてみんな知っているはずなのに、本人が気づかないところで、まるでそんな子はいないかのように、全員一致みたいに「じゃ、これで決まり」みたいに言っているけど、「ちょっと待って、もう一人いるよ」と誰かいう子はいないのか。もちろんみんなが都合が合う日が難しいのはお父さんも分かっているけどさ、でもせめて、誰かが「紫乃の意見も聞こうよ」と言って、お前が全体の状況を見て「今回は仕様がないからわたしは諦めるよ」となるんだったら理解できる。でもこれはあんまり酷いんじゃないか?」 興奮するわたしに、子は「お父さん、でも仕方ないんだよ。いまの子はそれがふつうなんだよ」と子は言う。「わたしもはじめはむかっときたし、すごく悲しかったけど、でも仕様がないんだよ」 「いや、お父さんは納得できないな。みんなにどう思ってるのか、訊きたいわ」 「やめて、お父さん。みんな良い子だし、悪気があってやっているわけじゃないんだから・・。」  そんなやりとりがあってから、しばらくして落ち着いてから(って“わたしが”だが)、こんな話を子とした。お父さんから見ると、いまの子どもたちは“ともだち”と言っても、なんだかお互いに距離感を保ちながら、お互いに傷つかないように配慮しているように見える。それはそれでいまの時代には大事な処世術なんだろう。でもほんとうの友だちというのは、ときにはぶつかりあって、お互いが成長していくものだとお父さんは思う。傷つくこともあるし、傷つけるときもある。やむを得ず決裂することだってある。そういう過程を経てきたほんとうの友だちは、腹を割って話ができる。価値観が違くても、ずっと友だちでいられる。でもそういうほんとうの友だちはとても少ない。一生の間に数人、いたらいいほうだろうな。一人でもいたら、それは大事な存在だ。形だけの友だちが百人いたって、そのたった一人には敵わない。お前はいまそういうほんとうの友だちを、まだ探している途中なんだと思うな。いつかはみつかるはずだ。でも、いまじゃない。そのときのためにお前はいま、いろいろと“勉強”をしている最中だし、じぶんを磨いている最中なんだ。今回のUSJの決め方で言ったら、お父さんはぜったいに納得できない。5人目がいないふりをして「みんなOK!」と言える4人と、はぐれてしまった一人。おまえはそのはぐれてしまった一人の気持ちが分かる。だからこんどお前が4人の中に入ったとしたら、はぐれた一人のことをみんなにつたえなくちゃいけない。はぐれてしまった一人がどんなに悔しくて、悲しいか。お前はそれがよく分かっているから、その子の気持ちも理解できるはずだ。だからお前はその一人の側に立たなくちゃいけない。その“はぐれてしまった一人の気持ちが分かる”ということが、いまお前が手にした財宝だよ。その魔法の金貨が、おまえがいつかほんとうの友だちに出会うときのお互いの目印だ。子はわたしの目を見て、なんどもうなずいた。もう泣いてはいない。伏し目がちでもない。そしてスマホの画面を少しばかり叩いたと思ったら、こちらに見せてよこした。「じゃ、これで決まり」の最後の投稿の後ろに、子の「今回はみんなで楽しんできて〜」 「写真頼む」という投稿が加わり、誰かがそれに「りょうかい〜」と返事していた。わたしはだまってうなづいた。子もだまってうなづいた。

 しかしもうひとつ思うのは、LINEなどの携帯電話のさまざまな機能。これがあるために苦しんでいる子どもが、いったい日本中にどれだけいるのだろう? ということ。たぶん、間違いないと思う。スマホなどない方がぜったいに良い。こんな人を排除し、人を容易に傷つけるシステムなんかは。「お父さんがこの国の独裁者になったら、スマホは禁止にする。隠し持っている人間はぜんいん逮捕だ!」 父は子にそう、宣言した。

2015.5.6

 

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 「今月はお母さんの誕生日だから、お母さんに服を選んでもらおう。ついでに旅行へ良く服も買いに行こう」 そう言って昨夜は近所のショッピングセンターのフードコートで食事をしてから閉店まで居残っていた。いつもはショッピングは嫌いな子も「今日はわたし、気分が良いから大丈夫だよ」と長い時間を付き合った。そうして彼女がじぶんで選んだのは深緑のTシャツと、藍染のようなフィレンツェ模様のシャツと、オレンジのパーカー(のような服)。「だんだん明るい色になってきたね」 じぶんの服もそっちのけで、Yが嬉しそうにささやいた。いままではみずから選ぶのは、そういえばずっと黒一色だった。

2015.5.7

 

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 5月9日から10日にかけて高知へ。8人乗りくらいの車をレンタルしてみんなでと思ったら意外と料金が高く、なら車2台(わが家と、妹夫婦に母)でとなったら何だかんだと宿も分かれて、別々に行動してときどき合流するというヘンな旅行となった。ちなみに行き先が「高知」となったのは、戦国バサラに嵌っている子が長宗我部元親の墓参りがしたいと申し出たためである。はじめは関ヶ原の大谷吉継の墓に参りたいと言ったのだが、関ヶ原は日帰りでも行けるので勿体ないと言って長宗我部となった。高知へ行くのなら、5年前に高知のいなかへ帰ってしまったあの「ラーメンいごっそう」も立ち寄ろうと父が便乗し、長宗我部とラーメンがこの旅の二大目標と相成った。

 津名一ノ宮ICで降りたところにある津名動物病院 http://www.tsuna-ah.com/ 近所のいつものペットホテルが満員で、散歩もしないでゲージに閉じ込められっぱなしは可哀想だからと風邪気味のYが夜遅くまでネット検索をしてやっと見つけた、ドッグラン付きの病院兼ペットホテルでジップ(犬)とレギュラス(猫)を預けていったのだが、レギュラスは運転席のシート下に立て籠もって抵抗し、ジップはゲージの中からまるで捨てられる子犬のように吼え続けた。こころが痛む。

 神戸淡路鳴門自動車道・徳島自動車道・高知自動車道とひたすら高速道路をひた走り、高知市周辺に着いたのが12時半頃(奈良出発が朝7時)。長宗我部元親のかつての居城である岡豊城跡に建つ高知県立民俗資料館 http://www.kochi-bunkazaidan.or.jp/~rekimin/ でまず長宗我部氏について事前勉強。(この資料館では物部村に伝わる“いざなぎ流” http://www.fujitv.co.jp/b_hp/fnsaward/backnumber/back/01-351.html なる民間信仰の様相をまとめた図録「―神と人のものがたり― いざなぎ流の宇宙」を購入) その後、桂浜へ下って、かつおのたたきをみずから炙ってつくる「かつお船 土佐タタキ道場」 http://www.tataki.co.jp/tenpo.htm で遅い昼食をとり、午後から小雨振る中、桂浜付近の「長宗我部元親初陣の像」 http://www.city.kochi.kochi.jp/soshiki/39/uijinnozou.html 、「長宗我部元親の墓」 http://www.city.kochi.kochi.jp/soshiki/39/motochikanohaka.html などを巡った。四国を統一したのもつかの間、秀吉の四国討伐を受けて土佐一国に減じ、その後関ヶ原で西軍に与した子の盛親は浪人となって一時京都で寺子屋の師匠をしていたとも言われるが大阪の陣でふたたび豊臣側につき、捕らえられ六条河原で斬首となり家は途絶えた。墓は住宅街の奥の小高い岡の斜面にひっそりとあった。豪奢な寺もなく、ただ質素な墓だけが苔むした石段の上の棚地に佇んでいる様は、好感が持てた。石段の下で「どちらからですか?」と近在のお婆さんから声をかけられた。奈良からと言うと「それは遠いところから・・・」と微笑んでくれる。

 ところで四国は20代の頃に友人と二人、単車に乗って高松・松山・足摺・高知・室戸と約一週間を回った。それ以来の再訪である。そのときは思わなかったが、今回とくに桂浜あたりを走っていて印象的だったのが墓が多い、とくに海岸線に海を向いた墓がずらりと並んでいるその過剰な景色であった。死者がみな、海に向いている土地。それが今回の高知のイメージであった。

 夕刻に二号車(?)と分かれて海と反対の山の方向へ。途中から険しい山道をあえぎ登って、約一時間半後にたどり着いたのが、今回ネットで見つけて家族三人の賛同で予約した農家民宿レーベン http://otoyo-leben.com/ 標高800メートルの山懐に抱かれたパラダイス。竹田城もしのぐ雲上のロッジ。しかも大きなログハウスが一軒、まるごと貸切である。いま通ってきた山間の集落が眼下に広がり、雲がその山襞に沈んでいる景色に三人とも歓声をあげた。夕食は赤牛肉のバーベキューをデッキで、暮れていく山の景色に包まれながら。わたしたちの食事が終わり、しばし四方山話を伺い、最後に薪ストーブやお風呂などの説明をしてから管理人さん(経営者の娘さん)は「わたしは(このちょっと上の)本館にいますので、何かあったら電話して下さい。(入り口の)鍵はこうしてかかりますけど、開けっ放しでも誰も入ってきませんけどね」と言って帰っていった。ときどき前の道を鹿や猪が歩いているらしい。入浴後、子と二人でもういちど外へ出てみた。はじめはまっくらで何も見えない目が、徐々に闇に慣れていくと樹々や地面の輪郭がぼんやりと浮かび上がってきて、やがて枝の一本一本、樹の間の岩や繁みがクリアになってくる。そして見上げれば頭上には、こぼれんばかりの満天の星屑。こうした真の山の闇は、じつにひさしぶり。デッキに子を置いて、奥の山道へすこし分け入ってみた。車一台が精一杯の山道の脇に、家族だけで普請したという道を開いたときのたくさんの木の根が積み上げられ、いまでは苔むしている。わたしは森の闇を吸った。森の闇に侵食された。人間にはこういう感覚が必要だ。 翌朝は本館の方のデッキで朝食。塩をふっただけの採れたての野菜、にんにくソースのオムレツ、自家製のパンに地採りの蜂蜜、野菜スープ、そして搾りたての牛乳。「生涯最高の朝食だけど、いちばんのご馳走はこの山の景色!」とは子の名言。食事の後はすぐ下の牛舎に移動し、子は牛たちに餌やりのお手伝い。「ふすま」という、小麦の製粉の際に残る外皮部分(ビタミンに富む)の粉末をボールにすくって十数頭の牛たちにやっていった。黒牛と赤牛が半々くらいで、多くは肉用として出荷される。子が餌遣りをしている間、娘さんから牧畜の話を伺い、途中からわたしは牛舎のまわりをほっつき歩いた。畑、牛舎、ログハウスの管理、もろもろのメンテナンス。仕事は毎日途切れなくあって、子どもの頃から旅行などはいちども行ったことがないという。数十世帯の小さな集落だが、最近はIターンなどで都会から移住してくる若者もちらほらいて、ここでもつい先日、横浜から23歳の男性が牧畜の研修生として働き始めた。「いちばんの理想は、ときどき来て、何日か泊まって、そのときだけ愉しんでいくスタイルでしょうね」と娘さんは言う。Yも同意見。しかしわたしは、ここが全宇宙でもいいじゃないか、という気がしてならない。牛や野菜といっしょに、山の斜面で汗を流し、産み、また土へ還っていく。そのシンプルさはじつに正しいことじゃないかと思えてならないのだ。

 山の世界に別れを告げて、お次は幕末に独特な芝居絵を描き続けた絵師の棲んだ海べりの集落へ。高知市内から阿芸市方面へ向かう海沿いに位置する赤岡町は、かつて土佐街道沿いの町として、廻船問屋や商家が立ち並ぶ物資の集積地として賑わっていた。そこへ江戸で狩野派を学び土佐藩のお抱え絵師となっていた絵金(弘瀬金蔵)が贋作事件で城下追放となり、10年の流浪の果てに叔母を頼って流れ着き米蔵で絵を描き始めた。商家の旦那衆は夏祭りに社寺に飾る芝居屏風絵を競って絵金に注文した。また古来より土佐では死んだ者が悪霊となって盆に海から帰ってくると言い伝えがあり、絵金の描く「朱」が邪気を払うということで、家々の入り口に蝋燭の灯りと共に据えられた。それが今日の絵金祭りにもつながっている。この土佐の海辺の町中で血みどろの芝居絵が夏の宵に展示されるという風景 http://www.webkochi.net/kanko/sanpo32.php 、そしてかの映画「陽炎座」のエンディングのような陰惨な芝居絵がずっと気になっていて、いつか訪ねたいと思っていたのだが、実際に絵金蔵 http://www.ekingura.com/ でかれの芝居屏風絵以外の他の作品を丹念に見て回ったら、たんなる凄惨な血みどろ浮世絵師とは異なるかれの全体像が浮かび上がってくる。それは端正な狩野派の正統派の作品であり、赤岡の祭りの際の芸人や子どもたちの様子を丁寧に描いた風俗絵巻、また川鍋暁斎や宮武外骨さえ彷彿とするユーモアと諧謔に満ちた一連の笑い絵(「放屁合戦図」や「夜這い図」)、また1854年の南海大地震を取材した土佐震災図絵などがそうだが、とても豊かな感性をたたえた、大きな器としての、まさに“土佐の北斎”といっても過言でない魅力的な人物である。わたしが映画監督であったら絵金を題材に一本撮りたい。時間旅行が可能であったら、幕末のこの時代の赤岡に彼を訪ねて話をしてみたい。おそらく藩お抱え絵師というエリートから転落したことは、絵金をさらに大きな無限大の土俵へ解き放ったのではないか。謎に満ちた放浪の10年は苦しいものでもあったろうが、堅苦しい役職を解かれて、市井の絵師として筵を敷いた米蔵で酒をあおりながら自由な発想の屏風絵を描いていった絵金は、きっと自由闊達な、満足した生涯を終えたはずだと思う。アウトローになることによって、この世の塵芥から自由になれた。それがまた江戸でも大阪でもなく、土佐の地方の町であったことも、なんとはなくよい。どこにいても、絵金の米蔵が宇宙の中心である。そんな絵金に、会ってみたかった。絵金蔵で高知県立美術館刊行の「絵金 極彩の闇」という豪華な図録 http://www.ekingura.com/shop/index.html を、4千円もしたので躊躇したが思い切って購入した(横で子が「お父さん、4千円だよ。よく考えなよ」と繰り返した)。しかし、それだけこの男に、惚れた。

 絵金蔵で思いもかけずゆっくりしてしまい、約40キロ離れた北川村の「いごっそラーメン店長」 http://tabelog.com/kochi/A3902/A390202/39004173/ の昼の営業時間が2時半までだったので、40キロ制限で走る地元車両にいらいらしながら車を飛ばして、ぎりぎり2時05分に到着。実に5年前、突然に店のシャッターに貼られた「閉店の知らせ」以来である。いつか食べに行こう、と子と言っていたが、やはり高知は遠かった。

いごっそラーメン店長 奈良店【閉店のお知らせ】(2010年)

突然の閉店 びっくりさせてすみません 11年間 いごっそラーメン店長
育てて頂き誠にありがとうございました。それなのに だれにも知らせず
告示もせず 閉店して 誠に申し訳ありません おゆるし下さい
おっちゃんとしては 最後の1ぱいまで たんたんと いつもどおりのラーメンを
いつものペースで造りたかったのです 身勝手を おゆるし下さい。
最後の3人のお客様 チャーシューが切れて チャーシューなしのラーメン 食べて頂き
ありがとうございました。

おっちゃんの今後

田舎に94才の父親が 1人で住んでいます 体も自然に弱って来ています
田舎に帰って 親子で いごっそラーメン店長を始めようと思います
おっちゃんの夢でもありました。本当に 山と川だけの過その村です
だから営業しても何ヶ月もちこたえるかわかりませんが 頑張ります また高知県
東部地区を 旅行される時ありましたら 時間がありましたら お立寄り下さいませ
只今 NHK りょうま伝に出て 京都おおみやで あんさつされた
中岡慎太郎の生れ育った村 北川村です おっちゃんのラーメン店は それより3km 下流です
高知県安芸郡北川村加茂と言う所です 本当にありがとうございました

またゆずコショーに付きましては市場に出して、皆なさまに買ってもらえるようになりたいと思っています
その時はよろしくお願いします。

 奈半利川の河口から川沿いに車で10分ほど。のどかな通過地点のような道沿いに、奈良のときとおなじ黄色い看板がちょこんと立っていた。昼の部閉店間際であったが、お客は6,7人。しばらくして年寄りの警備員のおじいちゃんがのれんを仕舞いながら入ってきたたので、昼時は結構混むのだろう。地元のおばちゃんらしき女性が手伝っていた。おっちゃんは以前とおなじように、しゃかしゃかとリズミカルに一連の作業をこなしているが、気のせいかもしれないがどこか奈良にいたときよりものんびりしているような気がする。こういうとき、わたしはあまり饒舌でない。久しぶりのラーメンを子と二人でほとんど黙って味わって、それでもやっぱり一言伝えたかったので、食べ終わってから(じぶんたちが残っていた最後の客だった)裏手でのれんを畳んでいたおっちゃんのところへご馳走様でしたと顔を出して、「奈良からきました。やっと来れました」とだけ言うと、おっちゃんの目がぱっと輝いて、「ほう。 ・・そうか」と。それから車でナビを設定したりしてしばらく止まっていたのに、待っていてくれたらしく、出発した車に向かって手を振って見送ってくれた。いごっそのラーメンは、やっぱり奈良でナンバー・ワンのラーメン。いまでも。

 あとはほぼ、おまけのようなもの。犬猫の引き取り時間もあったので、せわしない急ぎ足で。室戸スカイラインの最終、最御崎寺から岬を俯瞰するパノラマは二十数年前のバイク旅行での記憶が鮮やかに蘇った。けれども空海が修行したと伝わる御蔵洞は、記憶の中ではもっと直接、海に突き出ているようになっていたから面白い。あとは海沿いのルートを、気持ちのいい景色を眺めながらひたすら走った。徳島から高速に乗り、津名一ノ宮の動物病院に着いたのは約束より一時間遅れた8時。先生はすでに帰り支度のダウンジャケット姿で待っていたが、延長料金をとってくれなかった。二匹で8千円ほどというのは格安。ご迷惑をおかけしました。猫のレギュラスは、断食ストライキで餌を一口も食べずの状態であった。先生いわく猫はだいたいそうで、預かって三日目くらいからやっと食べるようになる、とか。犬のジップは「ドッグランに出しても餌を期待してすぐに入り口院戻ってきてしまい、かなり餓えている。もう少し太らせてやってもいいんじゃないか」と。

 最後は淡路サービス・エリアで食事を取って(わたしは蛸尽くし御膳)、明石大橋が見える展望台でいちゃいちゃのアベックたちを眺めて帰って来た。帰宅は11時半ころ。

2015.5.11

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 平日の休日は車で子の送迎。最近はだいたい昼過ぎの1時か2時頃に学校へ行って、6時間目と7時間目の分を図書室で自習か「特別授業」を受けてから部活をやり、5時半か6時くらいにお迎え、のパターン。これが7時間目だけ出て、部活も早めに終わると、家に帰ってまた小一時間で迎えにいかなくてはならないので忙しない。Yはそんなときは学校近くのスーパーで買い物をしたり、ホームセンターで花を見たりして時間を過ごす(でも本当に忙しいときは帰って一時間で夕食の支度とジップの散歩を済ませ、また学校へ迎えに行く)。わたしは学校のある丘陵地の裏手にある山寺のあたりへ行って木陰に車を止め、スーパーで買った100円のたこ焼きを頬張ってから、昼寝をする。いまの季節は新緑がそのまま風に運ばれてくるようで心地よい。

 一昨年の年末近くに瀬戸内へ旅行したときは、まだ子の表情もさえず、何かを見に行くときも一人で車で待っていることも多かった。あの頃に比べると今回の旅行は、もう、だいぶいい。無理がないし、表情も自然だ。外へ出て行くことをおそれない。こんどの中間テストは高校へ進学するためにも参加する。遅れを取り戻すための家庭教師は欠かさずに行って、宿題もこなしている。できることはする、できないことはやらない。じぶんで選択をできるようになったことが良い。大人ですら選択できない者もいる。

2015.5.12

 

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 土曜。京都の大原に何やらすごいものがあると聞き、学校の授業を予定通り2時間で済ませた子を乗せ、車で京都へ向かった。授業はまだ少し残っているが、ナニ気にしなくてもいい。世界は学校よりも広いんだから。大阪周りで途中、高速に乗り、「鴨川西」で降りて市内を八坂神社〜京大あたりを抜けながら北へと向かう。白川通りあたりでラーメン屋でも漠然と考えていたのだが「ラーメンは今日は重い」と子に却下され、とうとう叡山ケーブル駅まで来てしまった。そこで急遽入ったのが、367号線沿いにある鯖寿司専門店「縹 (はなだ)」 http://www.yase-hanada.com/index.html (じつはWebで少しだけ下調べしていた)。このあたり八瀬は、かつて天皇の柩をかついだという八瀬童子たちの里で、猪瀬直樹の「天皇の影法師」に詳しい(あの頃のかれはよい仕事をしていたけどな・・)。 http://www.mbs.jp/eizou/backno/141116.shtml 山間の国道と高野川に挟まれた一般の民家のようで、駐車場の看板がひっそりと出ているだけなので、予め意識していないとたぶん通り過ぎてしまう。しかし車を降りて門の前に立つとう〜ん、財界人の老人たちがおしのびでくる山里の割烹が料亭のようにも見えて、入るのがちょっと勇気がいる。が、ここがよかった。品のいい60代ほどの女将さんが一人でされているようで、客はたまたまわたしたち二人だけ。玄関を上がり、お好きなところへどうぞと言われて、和洋折衷の味わい深いアンティーク・テーブルに座ったが、向こうの座敷の窓からは高瀬川の渓流が間近で、掛け軸や屏風の墨絵など、置いているものがちと違うぞ。わたしは池波正太郎の「真田太平記」で大阪の陣のさなか、真田信之が弟の幸村と密会をした京都の小野お通の屋敷を思い出していた。小野のお通は当時、才色を世にうたわれた女流文化人で、家康の庇護を受けたり、かつては宮中に仕え、豊臣秀吉とも交流があったともされる謎深き女性である。https://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/naniwa/naniwa051022.html テレビの「真田太平記」ではこの魅力的なお通役は竹下景子が演じていたが、ここの女将さんもあと20年若かったらいい勝負だったかも知れない。座敷の隅にイーゼルに架けられた初老の男性のモノクロ写真が飾られていて、あとでお通さんに伺うと、亡くなったご主人で、ある華道の家元であったという。むかしは夫婦でこの家に住んでいたのが、一人になって市内に居を移し、この家を店にしたのだとの由。唯一の食事メニュー< 姫お敷 > は鯖寿司が5切れ、出汁巻き玉子、ほうれん草の胡麻和え、そして吸い物で1300円。量的にはわたしとしてはかなり厳しいのだけれど、しかしここはお通の屋敷。餃子の王将のようにがつがつと喰らうのではなく、一品一品をゆっくりと味わい、市内の喧騒が幻のようなひっそりとした座敷の時間を味わい、やがてお腹が満たされてゆくのであった。子はいきなり箸をつけた出汁巻き玉子に「おいし〜」と感嘆の声をあげた。鯖寿司も西友の惣菜売り場のものとはかなり違うぞ。上品で、じつにマイルド。食べ終えた頃に女将さんがお茶のお代わりをもってきて、「お抹茶、さしあげましょうか?」と。子はもうお腹がいっぱいと言うので、わたしだけ「じゃ、いただきます」と菓子と抹茶を頂いた(本来500円の抹茶代は勘定のとき「こちらから言ったことですから」と受け取ってくれなかった)。子は「また、ぜったいに来ようね」と大層気に入ったようだった。わたしは仄かな恋心を隠した真田信之のように、お通邸を後にしたのであった。

 さて大原、である。三千院に入る小道の手前の、茶屋が経営している一日500円の駐車場に車を止めて、今回は車椅子は降ろさず、歩いていった。しばらく登った道沿いの店先に「柿渋染め」の文字を見て、思い出した。まだ子が産まれていない頃にYと二人で鞍馬・三千院に遊び、この店でわたしが中原中也のような柿渋染めの茶色い帽子を見つけて、買ったのだった。そんな話を子にしながら歩いていくと、じきに小さな石橋近くの石垣のはたに「マリアの心臓 すごそこ ちいさな橋の左 少年と自輪車目印」とマジックで書かれた紙とポスターが足元にこっそりと置いてあるのを見つけた。新緑に包まれた、ユキノシタの群生する石垣とちいさなせせらぎの間の小路を20メートルもすすむと、奥の棚地に昔風の農家があり、そこが「マリアの心臓」会場であった。http://www.mariacuore.jp/ 以前に大阪・中ノ島の国際美術館でやなぎみわ http://www.yanagimiwa.net/ のドールを見て買った雑誌「夜想」のドール特集でいくつか目にしていたが、恋月姫、三浦悦子、天野可淡、そして大御所の四谷シモンといった現代人形作家の作品に加え、明治から昭和初期までのさまざまな市松人形、抱き人形、フランス人形、人形浄瑠璃やからくり人形、仕掛け人形、人形遣いの芸人がじっさいに使っていた木偶、そのほか東西を問わず絵画、古いポスター、浮世絵、造形作品、仮面舞踏会の面、白狐の面、デッサン、キューピー人形、仏像、神像、ありとあらゆるヒトガタあるいはヒトスガタが、痛みかけた農家のそう広くもない座敷、土間、縁側、納戸にときに座り、ときに横たわり、あるいは立ち上がりして配置されている。ある部屋には人形たちが満席のホールのようにぎっしりと埋まる。ある部屋では人形が窓に向かって背を見せている。また椅子の下で仲良く並んで座っている姉妹のような市松人形もある。二階の天井裏にあっては、太く黒ずんだ梁が交差した空間をくぐりながらすすむと、漆喰壁が崩れ木舞下地の竹がはみだしたすき間の向こうに現代作家のドールが横たわっている。あの独特な空間をなかなかうまく言い表すことが難しいが、夜になって、たった一人であの家の中を徘徊してみたいな。おそらく、そのまま“あっちの世界”へ行ってしまうんじゃないだろうか。ともかく二つとない空間。そんなものを眺めていたら、中世のホムンクルスの時代から、人形とはいまも「未完成の魂の容器」なのかもしれない、という想念がわいてきた。その「未完成の魂の容器」にこわれかけたひとの精神が注がれ、やがて動き出す。だからホムンクルスはいつまでもホムンクルスだ。こうした異空間というフラスコの中でしか生きられない。であれば、ある種の人は、みずからをフラスコの中に棲まわせるのかも知れない。この世を捨てて。「マリアの心臓」のHPにある口上をここにも写しておこう。

東京・渋谷で数多のお人形をご覧に入れ、2011年に惜しまれつつ閉館した
「人形博物館・マリアの心臓」が、京都・大原の地にて復活を遂げます。

日本人形、西洋アンティークドール、現代作家人形。
人形屋佐吉が37年に渡り、魂を注いで蒐集してきた美しいお人形たち。
そのお人形たちが最も輝きを放てる場所を求めて四年、
東に三千院、西に寂光院という、古都でも有数の神聖な地に降り立ちました。

21世紀の喧噪を忘れさせてくれる古来の空気のなか、
古都の歴史と伝統の風を感じながら、
百花繚乱人形の世界を心ゆくまでご堪能ください。

【 人形屋佐吉 経歴 】

1978年、札幌で開店。
1984年に表参道・モリハナエビルに表参道店を開店。
全国各地で人形展覧会を開催。
2001年、東京・元浅草に「人形博物館・マリアクローチェ」をオープン。
2003年に渋谷へと場所を移し「マリアの心臓」へと生まれ変わり、
多数の人形展、絵画展、ライブや映画イベントなどを開催。2011年に閉館。

 

 入口前の土間のスペースに、当主である片岡佐吉さん(受付をしていた)のプロフィールを書いた新聞記事が貼られていた。その記事中に語られていた、これら人形コレクションのそもそもの原点が、若い頃にヒッチハイクの旅の途上で偶然氏が出会った水俣病患者の少女――――ほとんど植物人間状態で、当時の新聞に「眠るような少女」と記されたその少女のきれいな瞳だった、というエピソードがすごい。「こんな美しい瞳を見たことがない」 それをもういちど地上に再現するために(少女は数年後に亡くなった)、かれは少女の人形を扱うようになったのだという。ひとにはさまざまな出会いがあり、来歴があり、表現があり、運命がある。ところでわたしは人形単体よりも、どちらかというと古民家に展開した人形たちの演出の仕方がいちばんおもしろかった。市松人形はそれぞれこの人形を抱きかかえていた、いまはとっくに死んでしまったはずのかつての子どもたちの存在を感じたりした。またかつて知らなかったが、小早川清という大正から昭和にかけて活躍した浮世絵画家の作品も、ちょっとよかった。この画家の描く女性のまなざしがいやに近しいと思ったら、つげ義春がこれとそっくりの女性を描いていた。見に来ている客層も、中年やたまたま大原に来て立ち寄ったと言うアベックもいたけれど、多くは単身の若い男女、若しくは若い女性の小グループで、子に言わせると「みんな、あぶなそうな人たちばかり」って、あんたは違うんか。でも確かに昔風にいえば「オタク」というか、女の子はどこかロリータ風のいでたちが多く、男は眼鏡をかけた葦のような草食系で、どちらも大人しめといったタイプばかりだったな。二階の狭い空間で梁をくぐりかけたわたしがふと横を向くと、青地に白いフリルのついたスカートから細い足が伸びていて、あれ、ここにも別の作品があったかと仰ぎ見たら、生身の20歳くらいの女の子だった。上と下で目が合って、思わずわたしは「あ、ごめんなさい」と謝った。そういう危険な空間である。

 薄暗い会場から出てきたら、子は「あ〜 疲れた〜 もう、精神が持たない〜」と。その日は夜に、中間テストに向けた家庭教師の先生の予定があったので、「(義経・弁慶の)鞍馬山は次、来ようね。そのときにまた、今日お昼食べたところに行こうね」と言いながら、帰りは高速を使わずに主に24号線の下道をつらつらと帰って来た。

2015.5.16

 

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 娘の修学旅行の件で校長先生を交えた話し合いをしてからかれこれ2ヶ月、そして校長先生から、こちらの紹介した奈良市の障害者団体の方へ連絡を取って教師への障害者権利教育(とでも言うのか)の研修依頼をしたというメールを受け取ってからぼちぼち1ヶ月、そろそろ次のリアクションがあってもいいんじゃないか、メールで問い合わせをしようかと思っていた矢先。スクール・カウンセラーの先生へ会いに学校へ行ったYのところへ校長先生が来られて、講師を依頼していた方が手術を受けることになり研修が二学期にずれ込みそうだとのこと、そして研修当日はお父様(わたし)から同席をしたい旨の希望を伺っていたが、研修の場に保護者がいると「先生たちがびっくりしてしまうので」、研修終了後に別室を用意するのでそこで校長先生や講師の方を交えてどのような内容であったかを報告したい、の二点を伝えた。わたしは風呂上りに、さっそく次のようなメールを校長先生宛に送信した。頭の中に煮えたぎっているコトバを100分の一に頑張って圧縮して。

TO ○○校長
お世話になっております。
先生たちへの研修の件、本日、家内より聞きました。
今回の研修の件は、学校側が一連の対応のまずさを認められ、校長先生をはじめとする先生方の認識不足を認められ、その上で当方が提案を行い、学校側がそれを受け入れてくれたものと認識しています。
まず、そのような経緯で今回の研修の話があることをご確認下さい。
先生方の研修を当方が拝見できない理由が分かりません。
少なくとも拝見する「権利」はあるかと思うし、さらに言えば、本来であればわたし自身もその研修に加わらせていただくくらいの「権利」もあろうかと思いますが、間違いでしょうか。
生徒の親が先生方の研修の場にいると先生方が「びっくりしてしまうので」 「研修終了後に別室で研修内容の報告を」というお話と伺いましたが、そのようなお申し出は申し訳ないですが納得できません。
ご説明をいただけますでしょうか。
まれびと 拝

 今週末に中間テストが始まる。子はこれに向けて近所の家庭教師の先生のサポートのもと、彼女なりにこれまでの遅れを少しでも取り戻そうと必死の勉強をしている。そしてテストが終わると、その翌週は修学旅行である。わたしは何も納得しているわけではない。娘が中学の思い出としての修学旅行へ行く機会を(大人たちの無理解と保身のために)奪われたことに対して、いまも怒り、傷つき、悲しんでいる。喉もと過ぎれば熱さを忘れる、か。それともかれらはほんとうに馬鹿なだけなのか。8年暮らしたアメリカで知り合ったという障害者の友人の話など所詮はその場のリップサービスに過ぎなかったのか。「前の土曜日に ガンバローって 乾杯したばかりなのに」? いまさらながらこんな台詞が出てくることについて、あきれて物も言えねえ。

2015.5.20

 

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まれびと様

メールありがとうございました。また、今回、人権研修会を実施するにあたりまして、色々お世話になり、ありがとうございます。
研修会へのご参加については、私の説明のしかたがまずく、申し訳ございませんでした。学校では、様々な分野について、専門家に来ていただき、研修会を実施しておりますが、部外の方にご参加していただくことはございません。今までの前例がないので、「びっくりする」といった言い方になりましたが、誤解を生みましたようで、申し訳ございません。このようにしております理由は、研修において、具体的な事例、子供の情報も含めた形で、質疑応答がなされ、事例研究を通じで、教員が研修することが多くございます。そういった観点で、部外の方には、ご出席をしていただかないようにしております。
以上、どうぞよろしくお願いいたします。もしご不明なところがございましたら、またお越しいただくときに、お話させていただきます。


○○学校 ○○



○○ 様

まったく承諾できません。

明日、テストに参加する子を学校へ送ります。
8時半頃に着く予定です。

お話を伺います。
都合をつけてください。

まれびと

 

 こんなメールでのやり取りがあって、翌日の土曜日。子を学校へ送っていくと、校長先生は「入試説明会」で朝から外出、との由。こんな時期に「入試説明会」なんてあるのかとYにメールで訝ったら、塾やその他教育機関に説明に行くこともあると言う。校長先生も営業まであって大変だな。夕方に「今朝は失礼しました」と短いメールが来たが、急な要請なのでまあ仕方ない。都合のいい日を教えて欲しい旨を返信した。

 金曜の夜、神戸の“わが師”Eちゃんに電話をして小一時間話を聞いてもらったが、これはわたしの沸騰しやすい薬缶を世間の温度に下げてもらうため(暴走しないために、彼女の助言が必要だ)。そうして話をして分かってきたのは結局、学校という組織は(Eちゃんが指摘したことだが)「前例主義」「権威主義」なので、これは常に「付き物」であるということ。つまり、わたしが学校側と価値観が異なることについて話をする場合は、一度の話し合いで「ああ、今回はよい話し合いができた。お互いに気持ちが通じるようになった」と喜んでも、次の話し合いの時にはそれらはすべてリセットされて、もういちど一から、根気よく、説明をし、交渉をしていかなければならない、ということ。それを毎回、毎回、続けていく覚悟が必要だということ。様々な子どもの個人情報が飛び交う恐れがあるから、というのならば、個人情報を出さないように工夫した内容にしたらいいじゃないか。まずは「参加できない」の結論ありき、である。「今までの前例がないので」という件。Eちゃんはここがポイントと言ったが、「前例がないので」と言うのは、おつむの硬直したお役人の常套文句(当然かれらは現状を何も変えられない)。変革のためには新たな前例を作るべき。そういう発想がさいしょからなくて、あるのはただただ保身と排除のみ。わたしがもっとも腹が立ったのは「部外の方」という表現で、おれが部外なら、おまえはいったい何なんだ! と言い返したい。おれは「当事者」だ、ばかたれ! 「わたしたちの理解不足で、子どもさんには取り返しのつかないことをしてしまった。お詫びします」と頭を下げた当人たちが、それを改善するためにこちら(当該生徒の保護者)が提案し、講師の方まで紹介した研修について、こちらを「部外」扱いする、この本末転倒さにはまこと驚き、呆れ果てる。わたしはいつも思うのだけれど、こういう組織の体質というものは、ぜったいに目には見えないけれど確実に生徒たちへも回りまわって浸透していると思うんだな。つまりもっと、上手くいえないけれど軟体動物のような自由な人々の集まりであるようなシステムというか悪しきソシキになり得ない率直な思いが学校を運営することができたなら、いまあるほとんどの問題は解決するんじゃないか、とたとえばわたしは空想してみる。いまの学校にいる生徒は、たぶん可哀想だ。いまの学校にいる先生たちも、たぶん同じように可哀想だ。

 当初わたしは怒りのあまり、見学だけでは収まらぬ、研修会の席でおれも先生たちに話をさせてもらうと息巻いていたのだが、それでは研修にならないだろうからとマスターEちゃんに諫められて、講師役を予定している奈良市の自立センターのYさんにわたしが研修前にお会いして、こちらの意向を伝え、研修については一切をYさんに託すこととした。その代わりに見学の件は譲らない。わたしが同席をするにあたって何か障害があるなら、それをひとつづつ潰していく交渉を行う。それからわたしがもうひとつ学校側に確かめたいのは、前回の件が他の先生方にも伝わっているのかということ。それとも上層部だけで処理して済ませているのか。研修は研修でいいが、Yさんの講義を待つまでもなく、本来であれば今回このようなことがあって生徒が一人修学旅行を断念する事態が発生し、それについて学校側は保護者へ謝罪を行い、改善を約束した。であれば何らかの形で全教師・関係者に事の詳細を報告し、これから学校全体で何を変えていったらいいのかを議論するなり、意見を募るなり、対話をするなりの動きが研修とは別個に当然あってしかるべきだと思うが、果たしてそのようなことはあるのか、ないのか。ないとしたら、なぜなのか。そういうことを訊いてみたい。なぜなら研修が伸びようと早まろうと、子の問題はいま現在も同時進行しているわけだし、早急に何らかの改善を始めていかねばならないことであるからだ。それらを踏まえて、Eちゃんは(当初から提案していたことだが)やはり定期的に話し合いの場を持ったほうがいい、と言う。それからわたしと校長先生との対話とは別に、やはりじっさいに子に関わる担任や学級担任の先生の理解も大事なので、わたしが前回の話し合いからそれに該当するM先生とうまく意思疎通がとれていない旨を説明すると、Eちゃんの方で気を使って、YさんとおなじセンターでEちゃんと友だちのUさん(Eちゃんとおなじ筋萎縮の病気を抱えている)に話をしてくれ、M先生がセンターへ来てくれるのであれば一度話をしてくれる、と言ってくれた。これはすでにM先生に伝えて同意を得、今後日程を調整する予定である。 嫁さんが「Eちゃんは来てくれないの?」と言っていたと冗談気味に言ったら、「いざとなったら、わたしも行くよ〜」と言うので、「Eちゃんは最終兵器だから、もうしばらくとっておこう」とわたしが言った。とらえず、そんな感じ。

 子は金曜からの中間テストを何とか保健室でだが、受け続けている。土曜日も予定通り二時間を受け、今日は一日休みで、明日は最終日。これまでまったく手もつかず答案用紙を見つめるだけだった英語や数学も、家庭教師の先生のサポートもあってか、半分くらいは書けた、と言う。どうやらまたひとつ、山を越えられたようだ。わたしはわたしでなすべきことは、子が戻ってよかったと思うような学校の環境をつくってやること。それはEちゃんも言っていたが、わが家の子だけでなく、次にくる子どもたちのためでもある。

 

2015.5.24

 

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 仕事から帰って、夕飯を食べてから、娘と二人で近所のイオンモールへYの誕生日のプレゼントを買いに行く。娘の車椅子をときおりつきながら選んだのは、ゲルボールペンの五色セット、カルディファームのハニー・ロースト・ピーナッツなど二缶、そして髪留めひとつ。髪留めを選ぶのも、さすが女同士だ。Yのイメージによく合う色を心得ている。娘と二人、ささやかな、夜ふけのこんな買い物も愉しい。

2015.5.25

 

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 月曜。中間テストが今日で終了。子はじつに1年ぶりくらいに、(図書室ではあったが)すべてを受けた。家庭教師の先生の授業のお陰で、英語や数学は半分程度は書けたようだ。またひとつ、山を越えた。

 火曜。子がお腹が痛いと言って、家庭教師の先生宅へ行くのを渋っていたのをきっかけに一騒動。Yが浣腸と摘便をしたが溜まっているふうでもない。多少痛いのもあるだろうが、試験も終わってだれてきた部分もあるのかも知れない。何よりこれで休んだら、わずか二ヶ月の間に三度目のドタキャンになる。病気のこともあるが、学校とは違い、家庭教師の先生は契約だし、向こうも向こうで段取りがあるのだから、簡単に休めるというふうに思って欲しくなかった。わたしの悪い癖で少しづつヒートアップしてきて、最後はYの制止も遮って「休むのならじぶんで先生に電話して説明しろ。お母さんに頼むな。それができないなら這ってでも行け!」と怒鳴り、子は泣き泣き行ったのだった。

 水曜。夕食後、交代でお風呂を済ませてから、家族三人で2Fの「テレビの部屋」へ集合(わが家はここにしかテレビがない)。録画をしておいたNHKの「プロフェッショナル・仕事の流儀」シリーズを見る。月曜に放送された「渡辺謙55歳、人生最大の挑戦」。NYブロードウエイ・ミュージカルに初挑戦をした際の密着取材。馴れない環境で英語を直され、へろへろになってホテルへ帰ってきても、外食はせずじぶんで米を研ぎ、翌朝はおにぎりを握って持参する。流儀は「断崖絶壁で、あがく」。この飾り気のない、実直さはいいなあ。細君が南果歩と知って、う〜ん、こいつなら許してもいいかも、なぞと。もちろん、いちばん見せたかったのが娘。終始、食い入るように見ていた。

 木曜。夕食後、「久しぶりに一戦、やるか?」と子を誘う。二階のテレビの部屋へ行って、Wii のゲーム「戦国バサラ」。わたしはいつもの本多忠勝。子は伊達政宗を選んで、二人で北条の小田原城を攻める。小田原城を落としてから、ジップの夜の散歩。風呂へ入る前に、子と二人でストレッチ。これはメタボ解消のささやかな抵抗で始めたもので、わたしがWebで拾ってきたメニューに子の演劇部でのメニュー(“美しいお腹と脚をつくるため”と子が先輩から教わったもの)を加えた5〜10分ほどのショート・メニューである。ところがこれが効果テキメンで、まだ始めて二週間も経っていないがいくつか目に見える結果がもたらされている。いわく、お腹のでっぱりが圧縮されてきた、それによって足の爪が切りやすくなった、そして関係あると思うのだけれどトイレの回数が減った(夜中にオシッコで何度か目が覚めていたのがほとんど無くなった)、またYの報告では「いびきがマシになった」。こうなると俄然やる気が出てきて、仕事場のデスク抽斗に入っているお菓子を処分して小腹がすいたときのために冷蔵庫に「蒟蒻畑」を設置したり、昼のラーメンを控えて定食屋の魚定食にしたり、夕飯のご飯のお代わりを半膳に減らしたり・・・  「お父さんは、痩せたらもう少しカッコイイんだけどな・・」という娘のコトバに背中を押されつつ。

 金曜。夕食後、子が家庭教師の先生宅へ行っている間に、近所のイオンモール内のユニクロへ行く。会社で「ユニクロで今日だけ、Tシャツが300円」と聞いたので、「ちょっと、行ってみない?」とYを誘って。色違いのTシャツ290円を三枚と、390円のルームパンツを一枚。Yはあれこれ試着もしていたが結局、大人しめの色のTシャツを一枚だけ買う。プリント柄のロングのワンピースをすすめても「もう若くないんだから」と。そうして帰りの車の中で「この刺繍付きのシャツが(行きつけのリサイクル店で)800円だよ」と自慢している。

 石原昌家「沖縄戦の旅・アブチラガマと轟の壕 国内が戦場になったとき」(集英社新書)を読了する。井出 孫六「抵抗の新聞人 桐生悠々 」(岩波新書) が届く。すでに絶版でamazonでは4千円もの値がついているが、北海道の古本屋で200円だった。それといま読んでいるのは吉野裕子「日本人の死生観 蛇 転生する祖先神」(河出書房新社)。“ゆりかご(産屋)から墓場(喪屋)まで” 古代人の深層にまといつく蛇にまつわる考察は刺激的。

2015.5.30

 

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 夕食後、子が家庭教師宅へ行っている間にYと口論をする。「口論」といっても、いつものようにわたしが一方的にヒートアップしながら、髪を振り乱すヒトラーの如く自説を強弁するものだが。内容は子の学校について。いつもそうだ。「子はかすがい」というが、子を巡って結びつきが深まりもすれば、子を巡って諍いも起きる。子は、両刃の剣である。

 きっかけは今日、Yが学校へ子を迎えに行った際に、子の1年生のときの担任だったA先生から、おなじ部活のSちゃんが修学旅行でのグループ分けの際に寄ってきて「紫乃はどうなっているのか」と訊いてくれたという話を聞いた。Yは、そうして子のことを気にしてくれた友だちもいる、ということを伝えたかったらしいが、わたしは「で、A先生は、それになんと答えたの?」 Yの「そこまでは聞いていない」との返答に、それが大事じゃないのかとわたしが苛立ち始めたところから始まる。

 Yは、先生方は一生懸命、子のためにいろいろしてくれるし、先日も新任の先生が車椅子の移動を率先して手伝ってくれたり、スクール・カウンセラーの先生が担任のM先生の紫乃に対する書き取りメモをもっていたりして、学校側も少しづつ変わってきているような気がする。研修会への参加を認めないというのも、さいしょはヘンだと思ったけれど、Eちゃんの知り合いの人が講演をしてくれるなら任せて、事後に報告を聞くだけでもいいかも知れないと思うようになった、と言う。対してわたしは、個別の先生たちの一生懸命とか良い先生とかいうことと学校という体制、組織の体質は別の次元の話で混同すべきでない(極端を言えば「一生懸命に戦争をする」人間もいるし、「良い人が知らず戦争に協力している」場合だってある)。今回の校長先生のメールでかれが「部外の方は」だとか「前例がないので」というコトバを言い出すこと自体、すでにそれを露呈している。だから、わたしは相変わらず不信感でいっぱいだ。そうして納得できないことを質そうとしているのに、まるで孤立無援で闘っているみたいだ。

 「勉強が終わった(迎えに来て)」という子のメールが届いて、話はいったん終了した。Yは子を迎えに行き、わたしはジップの散歩へ。きっと世界は、Yが思うほどいいわけでもない。けれどたぶん、わたしが思うほど悪くもないのだろう。

2015.6.2

 

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 先の水曜日、校長先生を交えての二回目の対談。当日は仕事を早めに切り上げさせてもらい、夕方5時から7時前くらいまで延べ2時間近くを話し合った。出席者は校長先生、教頭先生、そしてなぜか事務局長なる年配の女性の三人である。こちらはわたし一人。すでにそれなりに日にちが経っていて、改めて詳細を書き起こすのも実はメンドー臭い。というか、2時間も話した割には内容的にはじつは大したことがなかったなあ、という印象しか残っていないのが事実だ。今回の話し合いの中でいちばんのメインは、まず今回、子が修学旅行へ結果として参加を見合わせざるを得なかったことについて学校側が対応のまずさを認め、取り返しのつかないことをしてしまった、と謝罪した。そして、じぶんたちの理解が足りなかった、これから勉強していきたい、ということでわたしの友人のEちゃんを通じて奈良市内で障害者の自立支援の活動をしている方を紹介して先生たちの研修会で講義をしてもらうことになった。ところがこの研修会に同席させてもらっていっしょに話を聞きたいというわたしの申し出に対して、校長先生より参加できないとい返答が来た。それはなぜか? という点である。要約すると、学校側ははじめは「先生がびっくりするので」という表現でYを通じて伝えてきた。次に校長先生からのメールで「今までの前例がないので」、また「研修において、具体的な事例、子供の情報も含めた形で、質疑応答がなされ」るから、「部外の方は出席できない」という説明があった。それについてわたしは今回、「学校を変えていく」ということと「前例がないので」という言葉は相反するのではないか? 前例がないなら新しい前例を作ったらいいじゃないか。そして「具体的な事例」云々を言うなら、今回の講師役のYさんは友人のEの話では最近奈良県で成立した「障害者の権利条例」を主題に話をしたいと言っていたので個別な具体例が出ることは少ないのではないか? たとえその後の質疑応答で具体例が出るかも知れないと言うなら、今回は保護者が同席しているので個人情報に触れるような内容は控えてくれと予め先生方に伝えておくとか、若しくは質疑応答に入る前にわたしだけ退席するとか、折り合うことはいろいろとできるんじゃないか、という提案をした。それに対してもなお、校長先生も教頭先生も、声をそろえて「研修会への同席は難しい」とおっしゃる。なぜですか? と再度問えば、帰ってきたのは「学校という組織は、民間と違って独特なものがあるのです。分かってください」とか、「アレルギーがあるので」といった霞がかった謎めいた文言ばかり。申し訳ありませんがそんな説明ではわたしはぜんぜん納得できません、とこちらも言い放ち、あるいは校長先生に対して「あなたもアメリカで何年も暮らしていて、日本に来た障害のある米国人の知人が日本は障害者にとって暮らしにくいと言っていたというエピソードを前回話していたが、あれは出鱈目だったんですか? あなたの言っている説明がまったく論理的でないことはあなた自身よくわかっているでしょう? 前例がないからできない。前例がないのはそれなりの理由があったからそうしてきたという理由でできない。こんな説明で分かってくれというのは、とても論理ではない。ほとんど宗教ですよ」なぞといったコトバも放ったやも知れず、校長先生をはじめとした三人も最後は不機嫌そうに黙りこくって、これはもう最悪の結果になるかなと思われた。じっさい、そんな雰囲気であった。ところが最後に、校長先生が意を決したのか、じつは・・・と「内輪の話」をし始めた。いわく、もともとこの学校は市内の某公立進学校から大勢の教員を引き抜いて設立した学校で教員のプライドも高く、生徒が優秀だった頃はそれなりに何とかなっていたが、公立の先生は臨機応変でないところが多々あるので時代の変化についていけず、少しづつ生徒の質も落ちてきた昨今はその事実を直視できずにいる。わたしもそんな状況の際に赴任をしてきて2年経ち、この学校の悪い点、改善しなくてはならないことなどがいろいろ見えてきた。それをいますこしづつ変えていこうとしている、いままさに最中である。だから今回のこの研修会についても、保護者が同席するということに対して強い拒否感を持っている(とくに古参の)教員たちがいるのは事実で、わたしが校長としての立場を出して上からごり押しすることは可能だけれど、そのときはそれで彼らも従うでしょうが、わたしがいちばん危惧するのは“はっきりした形では言わない空気のような拒否感”です。それが蔓延してしまうとやっかいになる。ここは後々のことを考えると、急激に変化させるのではなく、徐々に変えていくことが最終的には良い結果につながると思う。どうかそれを理解して、協力をして欲しい。今回の研修会については、どうかわたしに任せていただきたい、というのであった。わたしはしばらく沈黙して、このいきなりのオチをどう考えようかと思案した。そして「分かりました。分からないけど、分かりました。今回は校長先生にお任せします」と答えたのだった。ったく。さいしょからそうやって腹を割って事情を説明してくれたら、お互いにこんな無駄な時間をかけなくても済んだのにさ。しかし学校内でもいろいろ複雑な人間関係があり、権力闘争があり(?)、校長といっても立場としては難しいところに立っている、ということを少し理解しました。疲れるなあ。

 このこと以外でも、たとえば前述の障害者自立支援センターの人を介して、十数年前のじつはこの学校の卒業生で筋ジストロフィーの病気を抱えていた女の子がいて、その子と連絡を取ってこんどは生徒向けの講演会で話をしてもらう企画も検討していること。また研修会の先で状況次第では研修会とは別に先生たちの前でわたしに話をしてもらうような場を設けてもいいということ。そしてメールはやはり文言だけになって誤解を生みやすいので、定期的にこのような場を設定してお互いに報告しあう必要性があること、などを約束してくれた。また前回の話し合いについては、文書にて全教員へ「下りている」とのことである。とにかく今回は最初の頃、急に加わった事務局長なるおばちゃんがやけに人の言葉尻に絡んできたりもして、全体的にかなり疲れた2時間であった。部活が終わって車でYと待っていた子と、その後遅くなったので回転寿司の夕食へ向かう車中でわたしは、「もー 悪役になるのは疲れた〜 しばらく悪役にはなりたくない〜」とごちたのであった。

 今回の研修会での講義を頼んでいる奈良市の障害者自立支援センターのYさんとは、先日わたしも遅ればせながら電話で話をしてご挨拶をさせてもらった。Eちゃんと同じような筋萎縮性の病気を抱えているYさんは6月上旬に急遽手術をしなくてはならなくなり、退院は6月末。研修会はおそらく8月か9月くらいになってしまうとのことであった(当初は6月を予定していた)。学校側は、8月は教員が揃うのが難しいので、9月の文化祭が終わってからになりそうだとの由。ともかく研修会の前にわたしはわたしで先にYさんにお会いして、わたしが学校側に望んでいることを伝え、それをもって今回の研修会は「前例どおりに」欠席しようと思っている。

2015.6.8

 

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 子の演劇部の発表会(6月公演)が當麻であり、先週の日曜は先行組みの学校の発表、そして本日の土曜は明日、本番を控えてのリハーサルということで延べ3日間、おかかえ運転手の次第である。(ちなみにこれは“高校生の発表会”であり、高校生の先輩がトミに少ない子の学校は特別に、中高6年制を利用して中学生の参加を認めてもらっている) 當麻の方もふだんはなかなか訪れる機会もなく、またいったん自宅へ戻るにはそれなりに距離があるので、折角だから待ち時間を利用してこちらもささやかな休日を愉しむことにした。

 奈良盆地の東に座する三輪山と、西に座する二上山(“にじょうざん”ではない。ふたかみやま、と呼びたい)。どちらも古代人の精神世界を語るに欠かせない特別の頂(いただき)だ。東の三輪山はカミの山、日出る峰であり、その山中には縄文時代の磐座が群居し、蛇身であるオオクニヌシの神話を有する。片や西の二上山は西方浄土、日の没する峰であり、その山塊には貴重な岩石であるサヌカイトを有し、また悲劇の大津皇子や中将姫の伝説を湛える。わたしはこれまで幾度となくこの二つの聖山をのぼってきたけれど、三輪山がどこか厳粛さと緊張感を秘めた、いわば父なる頂であるのに比べ、二上山は懐の深い、やわらかな包容力のある母なる頂であるような気もする。そういえばかつて失業中でなかなか仕事が決まらなかった一時期、職安通いに疲れたわたしはときどき250ccのバイクを麓に止め、この二上山の山中をひとりあるきまわった。わずか500メートルほどの標高だが、ひとの籠もれる場所はいくらでもある。暗い樹林帯の岩場、なかば埋もれた杣道のわきに残る往古の草堂跡、そして地上をはるかに見下ろす巨大な岩棚の上。竹之内街道沿いの山道で迷い人の貼紙を見たこともある。母なる頂の山懐は、ときに冥府のように暗く、ひと一人を容易に隠すくらいに深い。わたしは屯鶴峯から二上山、葛城山へと連なる峰々をさまよい歩きながらあの時期、じつはこの世からあの世へのあわいを踏みとどまっていたのかも知れない。母は救いでもあり、破壊でもある。

 先週の日曜は待ち時間が長かったので、ひさしぶりに二上山へのぼった。当麻寺をさらに奥へ進み、山懐の苔生した祐泉寺から雄岳、雌岳の間の馬の背へ至るルートがいちばん好きだ。暗い樹林帯をあえぎあえぎのぼり、往古の天空のハイウェイであった稜線へ抜けるその過程は、あるいは曼荼羅の胎蔵界、金剛界とおなじで、まさに経から自然への写実であったかも知れない。経から肉体への写実、と言い換えても良い。はじめてこのルートをのぼったときのように、息を切らし、シャツを吹き出る汗でしとどに濡らし、喘ぐように胎蔵界を一歩一歩あがっていった。馬の背の葉陰でしばし休んだ。それから雄岳へ向かった。地面が陽炎のようにゆらいでいた。人気のない大津皇子の墓と伝わる土饅頭のはたで、緑色の気品のある一匹の蛇に出くわした。折りしも吉野裕子氏の蛇にまつわる考察を読んでいるさなかであったから、驚いた。氏によれば、人は産屋によって蛇から人へ産まれ出で、喪屋によって人から蛇へ還っていく。10分か1時間くらい、その大津皇子の蛇体と対峙した。世も変われば、こんどはこちらが蛇で、あちらが人であったかも知れない。とってかえしてのぼった雌岳からは、悪い癖が出て、埋もれかけた杣道を下っているうちに道を失い、寂れた植樹林の急斜面をそちこちの枝を命綱代わりにつたい、転げるように滑り落ちた。羊歯の生い茂る樹の間でまるで山の鬼子のように持ってきた握り飯を頬張った。銃を持った狩猟者であれば何時間でもここにひそみ、じっと獲物が現れるのを待つのだろう。わたしはこの氾濫する羊歯植物に埋もれ、いったい何物の出現を待っているのだろうかといぶかった。

 約一週間後の今日は持ち時間が二時間半ほどであったため、会場である文化会館の駐車場にそのまま車を残して、歩いて当麻寺を覗いてきた。いったん当麻寺駅へ出て、そこから西の参道へ向かう。当麻寺はたしかもう十数年も昔に、名古屋の知り合いと一度だけ訪ねた気がする。今回久しぶりに再訪し、南大門の前に立って切り取られた二上山のふたつの峰を見たとき、ああ、三輪神社が三輪山をご神体とするこの国の最古の神社の形態を残してあるように、この当麻寺も二上山を本堂とする巨大な拝殿なのだ、と気がついた。だから仏でも神でも、浄土宗でも真言宗でも、何でも構わないのだ。山がカミであり、ホトケである。ただしここでも、三輪神社がどこか鋭角な祭祀の場を形成しているのに対し、母なる二上山を祭ったこの「当麻神社」はのどかにひろがった伽藍といい、どこかゆるやかで、そして空が広く、明るい。そんなわけで山がご神体であり本地なのだから、今回は本堂拝観も宝物館も無視して、このゆるやかに広がった伽藍を味わうように、ただぽつぽつと歩いてみた。辿りついたのは人気の殆ど無い大師堂と、それを取り囲むようにひっそりと佇んでいる苔生し、崩れ、落剥しかけた古き墓石たちである。そもそもわたしは昔から、こうしたむかしの石仏や墓地を見るのが好きだ。見るというよりは向き合って、わたしと入れ違いにこの世に生を受けてひっそりと過ぎ去っていった者たちの、その来し方を思い、過ぎ方を思い、勝手な対話をするのが好きなのだ。石仏もそうだ。いくつも立ち並んだうちから気に入ったひとつを見つけ(まるで海岸の石をひとつ見つけるように)、カメラを向けて、近づいたり離れたり、横に寄ったり正面から見たりしながら、勝手な対話をしている。あるとき、向こうから寄ってくる。こちらへ世ってくる。当麻寺を辞したあとは、もう少し時間があったので、そのままふるびた路地を南へ下り、竹之内古墳群のある「史跡の丘」(雑草でほぼ埋もれかけていた)をまわって竹之内街道へ出て、そこからぐるりと帰って来た。

 さて明日の本番はYも休みを取っているので、二人で朝から夕方まで、文化会館のシートに座して高校生たちの演劇を観劇するのである。

2015.6.13

 

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 昨日は子の演劇部の「6月公演」だった。当日休みのYもいっしょに朝8時前に車で出発し、8時半頃に當麻文化会館へ。子の学校は午前の部のラスト(5校目)で、今回、先輩の高校生の制服を着て「生徒会副会長」の役を演じた子は、一部台詞をとちった場面もあったけれど、同級生のアドリブにも助けられて何とか切り抜けた。当人はかなりショックだったようで、公演後に「一時間、泣き続けた」そうだが。それでもこうした晴れの舞台に、卒業していまは大学生の元先輩たちや他校へ転校した先輩ら、そして他校へ異動になった元顧問のM先生などがみな駆けつけてくれ、初々しい中学1年生の後輩たちもまじえて輪になって談笑しているのを見ていると、クラスへはまだ復帰できていないけれど、子は子で貴重な学校生活を送っているのだなと感慨深くもなる。

 午前の部が押していたこともあり、昼休憩がわずか30分ほどで、しかも午後一番の学校が、いつも素晴らしい演技を見せてくれる県立ろう学校のプログラムだったため、これを見てからお昼に行こうということになった。相変わらず貧困のために強盗をしにきた男が改心するといった古典的すぎる内容だが、それがわたしには大衆演劇や時代劇のように味わい深くて、声が出ない分のオーバーアクションの体を張った演技も、たとえばコミカルな場面などは往年のチャップリンやマルクス・ブラザースの影響もありありで、見ていてとても愉しい。

 ろう学校の演目が終わってから、朝からいっしょに見ていたHちゃんのお父さん・お母さんと4人で、道の駅・ふたかみパーク當麻「當麻の家」 http://www.futakami-park.jp/ へ昼食を食べに行った。Yは天麩羅の載った黒米カレー、わたしは地場の小麦の外皮である“ふすま”もそのまま精製したやや黒っぽく歯ごたえのある手打ちうどんを、Hちゃんの両親と主に子どものこと、学校の役員の裏話などを聞きながらゆっくり。食後は物産展でそれぞれ野菜や自家製味噌、そして前回も買った豆腐屋で薄揚げ・厚揚げ・木綿豆腐などを買い、最後に4人で紫蘇ソフトクリームを食べて、大人たちは大人たちで休日のひとときを愉しんだのであった。帰り道によもぎ餅が欲しいというYのリクエストに応えて、当麻寺駅前の中将餅の店 http://www.chujodo.com/ へ車を寄せて、3個パックをふたつ買い、一パックをHちゃんちへ差し上げた。

2015.6.15

 

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 一心不乱で突入した6月公演が終わって、子は昨日からお腹が痛かったり、めまいがしたり、胃が痛かったりで、体調すぐれず、昼は寝ていて、眠れないからと夜は起きていて、ご飯はおかゆくらいしか喉に通らない。まあ、いろいろ抱えてきたものもあったのだろうと、二、三日は学校を休むのも仕方ない、ゆっくり養生するさ、と気長に待つ。今夜もわたしが夕飯を食べ終える頃にふらふらと降りてきて、リビングのソファーでわたしが先日買い与えたボルヘスの「妖獣辞典」(河出文庫)をめくっている。

 Facebook でいろいろ有意義な情報が入手できたり、親しい人と会話ができたり、新しい知り合いもできたりして、いろいろ愉しいのだけれど、気がつけばPCに向かってばかりで、家族との会話が減ってしまうのが気になるな。(スマホを持っていないので必然、帰宅後の閲覧となる) しかし、こと安保法制についてはFBは重要なツールかもしれない。一見平和な日常に埋没してしまわないための。FBに意義があるとしたら、そういうところだろうな。でも何も考えずに、深夜のしずかな庭にひとり座って発泡酒を呑んでいる時間もわたしにとっては得がたい時間だ。とくにこの時期はひんやりとした植物に囲まれている沈黙が心にいい。

2015.6.16

 

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 仕事帰りに駅前の本屋で、高橋源一郎「ぼくらの民主主義なんだぜ 」(朝日新書) http://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=17028 を買った。朝日新聞に連載されているときから、共感を覚えることが多かった。この人の小説は読んだことはないが、時代を透過するコトバを持っている数少ない一人だと思う。冒頭の数頁を舐め、あの東日本大震災と原発事故以来のこの国は「戦後」に似ているのか、「戦中」に向かっているのか、というくだりに軽いカウンター・パンチをもらった気がした。台風一過のような気持ちのよい焼け野原の「戦後」ではないだろう。すべての放置された汚物がふつふつと醗酵し始めたきな臭い第二の「戦中」だろう、という気がする。とにかく、大きな大きなこの国の曲がり角だということは分かる。しがない50年の来し方が試されている。吸収してきた音楽や絵画や文学のすべてを、いまここで思い出している。

2015.6.17

 

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 「新潮45」に「奈落の子供たち」シリーズとして連載が始まった石井光太氏の「足立区「マネキン偽装」虐待死事件」を夕食後にソファーに寝ころがって読む。かつて親類宅があって自転車で泊まりに行った竹ノ塚など、懐かしい地名が随所に出てくる。しかしそこで語られるのは親しい光景ではない。児童手当などの金銭目当てにイカレた巣の女王蜂さながら7人の子をひねり出し、内一人(3歳男児)をウサギのゲージに入れて虐待し死に至らしめて荒川の川底に沈め、さらにもう一人(4歳女児)を犬用のリードでつないだまま虐待して殺しかけた若い夫婦の話だ。親の愛情の欠落と幼稚さという意味では、かつての宮崎勤事件に空気が近しい気もしなくはない。世間の関係から途絶していた一家が昼間は家族でひっそりと部屋に閉じこもり、深夜になると車でファミリーレストランへ行って食事をするという風景は、しかし現代的でもある。そうして定職にも就かずに7年間を何とか暮らしてきた。(経済的にも、人間関係的にも)暮らすことができたというこの国の社会の闇もまたおなじように深い気がする。記事的には女王蜂の忠実なナイトであった父親の生い立ちが後半のメインで、精神疾患を理由に執行猶予の判決で釈放された母親の来歴がぽっかりとした穴のように残されているのがもどかしいが、取材の限界でもあったのだろう。この若き父親の母が、わたしとほぼ同世代(1歳違い)というのも考えさせられる。書斎のテーブルに置いていた「新潮45」のその頁を、気がつけば風呂からあがったパンツ姿の中学生の娘が読みふけっている。「どうだった?」と読後に訊けば、一瞬間をおいて、「・・・蛙の子は蛙、かな・・・」と言い残して階段をあがっていった。

2015.6.18

 

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 休日。ふと思いついて、朝からイラレで「I am not ABE」のロゴを作ってみる。サエない頭でちょっと考えてみて、レノンの WAR IS OVER ! (IF YOU WANT IT) と合体させてみた。レノンがこれを世界の主要新聞や都市の市街に掲示したのは1969年、ヴェトナム戦争が続いていた時期だった。いまの“安保法制”にかこつければ WAR IS STOP が正しいかとも思ったが、現在も世界のあちこちですでに戦争は続いているわけだから、 WAR IS OVER ! のままでよいかと思った。「!」をあえて IF YOU WANT IT の方に付けたのは、日本ではそちらに力を入れた方が現状に近いと思ったから。とか、細かい説明でした。これでアイロン・プリントのTシャツや、シールなどをつくろうかとも思っている。玄関のポストに貼るのもいいかも知れない。所詮ロゴはロゴだが、とにかく何らかの意思表示をしたい。

 食事を終えて、コーヒー飲んで、Yは子を乗せて学校へ。午後から高校進学についての説明会があるそうで、それまでHちゃんのお母さんと話をして、学校の食堂でいっしょにお昼を食べる、と。二人の車を見送ってから、わたしは近所の眼科へ電話で予約を入れる。先の人間ドッグで「眼圧が高い」との結果が出て、念のため診てもらうことにしたのだった。ちょうどキャンセルが出たので10分後に来れるかと言われて、慌てて自転車に乗り込む。あれこれの検査をして、眼底の厚さまで測ってもらい、結果は「特に異常なし」とのこと。次回はもうひとつ、「肝機能の数値が高い」と出た内科かな。50歳も目前となると、あれこれと出てくるわけだ。意識はあっても、こうして徐々にパーツがいかれてくるわけだな。

 Yが用意してくれたお昼を食べてから、午後は主に夕食の支度。自転車で駅向こうのスーパーへ行って、鶏ささみや豆腐など。庭の三つ葉をあらかた取り付くし、ついでにその近辺の花壇のコッツウォルズを積み替えたりしてみる。そうしてつくったのは、先の當麻道の駅で買ったラディッシュを塩揉みし、胡麻とごま油少々を加えてご飯に混ぜたラディッシュめし。庭の三つ葉をたっぷり使った鶏の胸肉と三つ葉の辛子和え。そして寮さんレシピの温キノコと冷豆腐のサラダ(鎮江香酢が苦手な子のために、今回は醤油とポン酢で味付けしてみた)。ある程度下ごしらえをしてから、JIPの散歩。郡山城址をぐるりとまわってくる。家から城の入口までホンの5分ほど。城のある城下町はいいなと思う。

 部活を終えた子を乗せたYの車が帰ってくる。夕飯をテーブルにならべる。食後にYは3時間だけ、仕事へ行く。子は文化祭での出し物が決まったと、ソファーに座って台本読みを始める。それから猫と犬を連れて行った子の自室へあがって、ベッドでしばらくうとうとする。子は大きなヘッドホンをつけてPCを覗き込んでいる。猫と犬は狭い部屋中を追いかけっこをして走り回っている。目が覚めて、JIPを連れて仕事が終わるYを図書館まで迎えに行く。ホールでバレエの発表会があったらしく、花束を抱えた女の子たちが家族とぞろぞろと出てくる。Yと近所のコンビニへ寄って切らした牛乳を買って帰る。シャワーを浴びて、パジャマ姿で静かな庭で発泡酒を飲む。

 明日は野暮用で出勤。時間があったら、京都市内の学生デモを覗いてこようかとも思って資料をプリントアウトする。https://www.facebook.com/events/913114828751035/ 

2015.6.20

 

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 日曜。京都市役所付近へ行く所用があり、かねてから覗いてきたいと思っていた今尾栄仁さん(はるさん経由でFBの友リクを頂いた)の作品を“ウィンドウ・ギャラリー”として展示している寺町通りの「ガクブチのヤマモト」さんへ立ち寄った。移転・再建されたかの本能寺のすぐ先にある。残念ながら日曜は店がお休みらしくて格子シャッター越しであったけれど、逆に閉店故に格子シャッターにへばりつきながらじっくりと堪能できたかも知れない。作品は掛け軸のような縦長の小品が4点、ほか3点の計7点。なかでも個人的にいちばん印象的だったのは「浮く森」と題した作品で、これは見た瞬間、「ガツンとやられた」。和歌山・新宮に「浮島の森」というのがあるが、ここでは碧い宇宙空間の無辺の上方に、「もののけ姫」のシシ神のような線刻の白い森が上下対称に浮かんでいる、そんな森である。それからもう数万年前からここに在る、といった山の年輪が刻まれ息づいている「何処から」―――これも部屋にあったら、いつも山の息吹を感じられるなあと思った一枚で魅せられた。何より岩の記憶、地層の記憶が立ち昇ってくるようで、ごつごつとした肌触りとやわらかな悠久の時間が共存している、そんな不思議な風情がある。格子シャッターの前を何度も往復し、覗き込み、立ち尽くす。時折自転車に乗ってきたおじさんが隣で覗き込んでいったり、商店街を歩いてきた女性が足を止めて見入ったりしていた。メモ代わりにと格子シャッター越しに写真も撮ってきたけれど、やっぱり写真じゃ、あの質感は分からないんだな。日曜の商店街の道端の、30分ほどの短いが、濃密な時間であった。また、見たい。 展示は6月末まで。
今尾栄仁HP http://www.eonet.ne.jp/~eijin/
ガクブチのヤマモト http://www.framing-y.com/

  それから四条河原町へ下っていく道すがらで、安保法制反対の学生らによるデモ行進に遭遇し、しばらく歩道側を一緒にあるいた。「500人集まればいいかなと思っていたけど、なんと2000人も来てくれました」とマイクを持った学生が叫んでいた。実名をあげて、車の上で反対演説をする若い女の子がいた。「ノー・モア・ヒロシマ、ノー・モア・ナガサキ」と調子の上がらぬ色褪せた文句を繰り返す共産党の行列に比べて、学生たちの列は新鮮さに溢れていた。この国はまだ大丈夫かも知れない、という予感がした。たとえその何十倍の人々がふだんと変わらぬ様子で繁華街を歩いていたとしても、だ。

2015.6.22

 

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 休日。午前中は先の人間ドッグで異常数値が出た肝機能の再検査のため、近所の総合病院へ行く。医師いわく「いまのところ心配する数値には全然至らない」が、念のための血液検査で容器4本分の血液を摂られた。結果は二週間後。待ち時間の間に、下記の文章をタブレットで打つ。ブルートゥース・キーボードは買ってからあまり使っていなかったが、タブレットとの組み合わせは結構いいかも。昼はYのつくったカレーを食べてから、子と愉しげに歓談しているYの姿を眺めているうちにソファーでうたた寝。目が覚めて少しPCを打ってから、JIPの散歩。それから部活を終えた子を二人で車で迎えに行き、そのまま子を連れて学園前のメンタル・クリニックへ。H先生は「表情にも余裕が出てきた。朝食を食べてから二度寝してしまうのは、昼から学校へ行くストレスを考えたらいまは仕方ない。怖い夢をときどき見るのは起きている間、じぶんはこれでいいのかという不安が夢に出ているだけ。ただ高校生になったら単位をとらなければならないから、そろそろクラスへ戻る練習をしておいた方がいい。図書室での時間を多くするか、時間はいまのままの午後二時間だけでクラスの後ろの方へこそっと紛れ込む時間を作るか。どちらがいいかじぶんで決めたらいい。」 思えば通院当初は「あの先生、苦手」と言っていた子も、いつの間にか先生の言葉を聴きながらけらけらと笑い転げるくらいに変わってきた。帰りに回転寿司屋で夕食を済ませて、部活のHちゃんの誕生日プレゼントを買いたいという子のリクエストでイオンモールへ寄ってから、9時半ころに帰宅した。書斎でPCを眺めながら久しぶりにバーンスタインのエレミア交響曲をかけたら、JIPが反応していっしょに吠えてうるさいうるさい。バーンスタインは犬にも好評らしい。

 

 月曜の深夜。寮さんが Facebook にアップした投稿(「トラウマを抱えた国・日本」 ・・犯罪を犯した少年たちの心の闇とこの国のいわゆる“自虐史観”を重ね合わせた話)について、「被害者側の感情を考えていない。殺人を犯すような奴は死刑が相当」だと主張する人と寮さんとの間で深夜にかなりヒートアップした対話がつづいていたのを眺めていた。どこかで割って入ろうかと思ったのだけれど、ベッドに行く嫁さんを追っかけて寝室へ行ってしまいました(^^) 今日、先の健康診断で出た再検査を受けに行った病院のロビーで、待ち時間の間にタブレットとブルートゥース・キーボードを膝に置いて打ったのが下の文章。Facebookより、ここにも転載しておく。

 こういう話になると必ず出てくるのが「被害者遺族の気持ちを考えたことがあるのか」という意見。私事だが、わたしの父はわたしが20才のときに、無免許・未成年・定員オーバー・スピード違反・飲酒運転の若者たちが運転する車がセンターラインを越えて正面から突っ込んできて衝突、帰宅途中であった父は即死し、若者たちは怪我だけで全員生き残った。わたしはこれは、紛うことなき「殺人」だと思っている。そのとき、わたしは加害者側にどんな気持ちを抱いたか。もちろん激しい怒りを感じた。これは言葉では言い尽くせない。後日に葬式の会場に現れた若者たちの複数の親たちに向けて、まだ若かったわたしは思わず式場のパイプ椅子を投げつけて、親類の叔母たちに止められた。わたしはそのまま式場を抜け、海の見える斜面の青々とした夏草を凝視した。わたしが父を殺した加害者側と対面したのはそのときだけで、わたしが加害者側を強烈に意識したのは、たぶんそのときくらいであったと思う。こういう言い方が適切であるか分からないが、言ってみればかれらは糞味噌といっしょだった。何をしても、たとえ彼らを殺して復讐しても、死んだ父はもう永遠に生き返らない。父が永遠に生き返らないという絶望の方があんまり深すぎて、それ以外のことはすべて虚しいまぼろしのようで、要するに暴走車を運転していた馬鹿どももその親たちも、わたしにとってはもうどうでもいい存在でしかなかった。存在価値すらなかった。パイプ椅子を投げつけたら、もうオシマイ。これ以上、邪魔しないでくれ。おれの目の前から消えてくれ。そんな感じだ。わたしは、そうだった。しかし長年連れ添った夫を失った母や、高校生の多感な時期に父親を奪われた妹が、それぞれ何を感じ、何を考えたかは知らない。(祖母はこの息子の死から徐々に呆けていった) 親兄弟であってもその深さは計り知れない。つまり被害者遺族といっても、一人一人がみな違うということだ。そしてその内面の思いは、どれも容易には表現しきれない。許せないのは当たり前だろう。殺してしまいたいとも思うのも当然だろう。3年経っても5年経っても「死刑の執行」を望み続ける遺族もいるだろう。あるいは年月がお互いを変え、刑務所に収監されている加害者と手紙のやりとりを始める遺族もいるだろう。生きて一生自問し、罪を償って欲しいと願うようになる遺族もいるだろうし、一刻もはやく死刑にして欲しい、そうでなければこの手で制裁を加えてやると決意する遺族もいるだろう。そしてそのだれもに共通しているのは、その思いは余人には想像できぬほどの混乱と葛藤と痛みを常に抱えているということだ。満ち引きする波に永遠に晒され続けているということだ。「生きて罪を償って欲しい」と思うようになった遺族も、加害者を許したわけではない。絶対に許せない、殺してしまいたい、という気持ちと常に葛藤している。葛藤しながら、じぶんの愛する人の命を理不尽にも奪った加害者に言葉を投げ、相手の言葉を読み、なぜそのようなことが起きたのか、命について自問を繰り返す。無明の暗闇にあえかな明かりを灯そうとする。答えはないのだと思う。これは答えだというものはおそらく、ついにない。生きている間、永遠に苦しみ続け、問い続け、葛藤を抱え、何か信じるに値するものを掴みたいともがき続ける。「おまえは経験していないのだから黙っていろ」とは言わない。そんなことを言ったら世の言論は成り立たない。わたしは実際の戦争を経験していないが、二度と悲惨な過ちを犯さないように残された記録や遺跡をたどり、想像力を働かせて、それらを追体験し、語り続けなければならない。けれども犯罪や死刑制度にまつわる会話の中で、「被害者遺族の気持ちを考えたことがあるのか?」といきり立つ人に対しては、「遺族の気持ちというのはあんた方が考えるような単純なものではないよ」と言いたい。「100人あったら100人、千人あったら千人の気持ちがあるんだよ」と言いたい。持てるだけの想像力をフルに駆使して思い測ったとしても、まだ容易に届かない。「被害者遺族の気持ちを考えたことがあるのか?」という主張は、あまりにもステロタイプで、幼稚な思考だ。(だからこそ、おおぜいの感情を“乗せやすい”) 「じぶんの子どもが殺されたら・・」と言うことは、また「じぶんの子どもが殺してしまったら・・」という想像も含んでいる。ある意味、だれもが「被害者の遺族」になる可能性があるように、同時に「加害者の遺族」になる可能性もゼロではないということだ。後者の場合、親として、わが子を死刑にしてくれと言い切ることができるのか。割り切ることができるのか。そんな子どもでも、生きながらえて、命の償いをして欲しいとは願わないか。むかし10代だった頃、懇意にしていた近所の大学生のアパートの部屋のテレビで、鉄道に身投げ自殺した人のニュースが流れた。都会ではよくあるニュースだ。珍しくもない。ニュースはそのとき、自殺の理由を「仕事のことで悩んでいた」とさらりと伝えていた。そのとき件の大学生が「自殺の理由を探すのは、残されたものが安心するため」とぽつりと言った。わたしはそのコトバをずっと忘れないで持ち続けた。「被害者遺族の気持ちを考えたことがあるのか?」という発言は、そういうこととも似ているような気がする。

寮美千子 on Facebook https://www.facebook.com/ryomichico

2015.6.23

 

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 桐生悠々は明治末から昭和初期にかけて一貫して反権力、反ファシズムを貫き、特に信濃毎日新聞主筆時代に書いた社説「関東防空大演習を嗤(わら)ふ」が当時の軍部の怒りを買い、晩年は不遇ながら信念をつらぬき通した骨のあるジャーナリスト。もともと寮さんのおじいさんの知遇とのことで知り、いまは絶版になっている岩波新書の「抵抗の新聞人 桐生悠々」(井出孫六)を古書で求め読んでいる最中だが、詳しい生涯はウィキペディアでも覗いてくだされ。今回、ここで紹介したいのは、かれが新愛知新聞に移ってから書いたジャーナリストの立ち位置、そしてメディアに関わるもののパン(イエスの言うパン)についての一文が、いまの時代にこそぴったりだと思われるので、 頑張ってその肝心な部分をキーボードで起こしてみたので、ぜひ読んで頂きたい。とくにメディアに関わる人々はみな一度、おのれの胸に手を置いて、この反骨のジャーナリストの言葉を反芻してみて欲しい。此の国の弛緩したメディアの中で、だれかこれを引き継ぐ気概のある者はいないのか。

 

新聞の経営は、近来に於いて一種の営業となったが、其の営業は他の営業に於ける営業の意味とは、全然其の趣を異にしている。是其の新聞の編集に当たる主幹及び幹部が、之を以って全然普通一般の営業と見做すほど、其ほど諦めのよい、賢明過ぎる人間を以って組織されていないからであるのが、新聞紙の新聞紙たる生命は、即ち此れにあるのである。故に彼等は事実の真相を穿つに於いて、又世の思潮を導くに於いて常に真理と正義の奴隷たることを甘んずるも、決して読者や少数の保護者や、関係者や、之が経営主の奴隷たることを甘んぜぬ。新聞の権威はここに於いて乎、初めて発揮せられるのである。随って新聞記者たるものは、此の決心、此の覚悟がなくては、一日もかかる馬鹿々々しき、不利益な職業に就いていることは出来ぬ。

「独立の地位」は新聞記者にとって、何が故に夫ほど重宝なものであろう。雪隠の中にいるものは、糞尿の悪臭を感ぜぬが、雪隠の外にいるものは、鼻つんぼにあらざる以上、其の悪臭を感ぜずにはおられぬ。之が即ち新聞記者―――事実の真相を得て之を評論する新聞記者―――に「独立の地位」なるものが、最も必要なる唯一の理由である、原因である、基礎である。当局者、従属者の語る所は、総て偽りである。利害関係の渦中に投じているものは、大抵は其の利害のために囚われて、事の真相を捉え得ぬ。偶々其の真相を得るものがあっても、之をあからさまに発表する程の愚者はおるまい。

「独立者の語る真理」(明治45年5月)

 

新聞紙は事実を国民に報道することによって、平生国家的の任務を果たしている。否、事実の報道をほかにしては、新聞紙は存在の価値もなければ意義もない。更に進んで言えば事実の報道即新聞紙である。しかるに、現内閣は事実の消滅そのものを断行せずして、この事実の報道を新聞紙に禁止した。その暴戻怒るよりも、その迂遠なる寧ろ憐むべしである。事件、事実は新聞紙の食糧である。しかるに現内閣は、今や新聞紙の食糧を絶った。事ここに至っては、私共新聞紙もまた起って食糧騒憂を起こさねばならぬ。彼等は事実と云う新聞紙の食糧を絶って、今や新聞紙の生命を奪わんとしている。新聞紙たるものはこの際一斉に起って、現内閣を仆(たお)すの議論を闘わさなければならぬ。社会生活と何等の交渉なき新聞紙を作ることは私共の断じて忍び得るところではない。今や私共は現内閣を仆さずんば、私共自身が先ず仆れねばならぬ。

「新聞紙の食糧攻め――起てよ全国の新聞紙!」(大正7年8月)

 

 ちなみにこの新愛知新聞の後身である中日新聞はかつて2014年9月11日、悠々の命日にこんな社説を掲げた。桐生悠々の名はいまの日本では忘れ去られようとしているが、かれを継ぐものはまだ少しは生き残っているはずだ。


●中日新聞 社説  起てよ全国の新聞紙 桐生悠々を偲んで 

2014年9月11日


 今年はこれまで以上に感慨深い日でした。きのう九月十日。明治から大正、昭和初期にかけて健筆を振るった反骨の新聞記者、桐生悠々の命日です。

 「言わねばならないこと」。弊紙が昨年十二月から随時掲載している欄のタイトルです。識者らの声を紹介しています。きっかけは第二次安倍内閣が特定秘密保護法の成立を強行したことでした。

 外交・防衛など、特段の秘匿が必要とされる「特定秘密」を漏らした公務員らを厳罰に処す法律です。公務員らには最長十年、特定秘密を知ろうと公務員らを「そそのかした」記者や「市民」には最長五年の懲役刑です。

 □ 言わねばならぬこと

 この法律は特定秘密の指定・解除が行政の裁量に広く委ねられ、「秘密の範囲が限定できない」などの懸念が指摘されてきました。

 特定秘密の範囲が恣意(しい)的に決められ、取材記者や行政監視の市民らが違法行為を問われれば、国民の「知る権利」や人権が著しく脅かされることになるからです。

 成立直後に行われた共同通信の全国電話世論調査では、法律に反対との回答は60%を超え、法律に「不安を感じる」と答えた人の割合も70%以上に達しました。

 国会周辺など全国各地で反対デモが行われ、今も続いています。私たちの新聞を含め、多くのメディアが反対の論陣を張りました。

 安倍晋三首相は「厳しい世論は国民の叱声(しっせい)と、謙虚に真摯(しんし)に受け止めなければならない」と語ってはいますが、その姿勢に偽りはないでしょうか。

 法案提出前、九万件を超えるパブリックコメント(意見公募)が寄せられ、八割近くが反対でしたが、提出は強行されました。運用基準づくりでも約二万四千件の意見のうち半数以上が法律廃止や条文見直しを求めていますが、抜本修正は見送られています。

 □ 旺盛な軍部・権力批判

 運用基準ができたからといってとても十分ではありませんし、私たちは今も、この法律自体に反対です。国民が、そして新聞が反対の声を上げなければ、政府は運用基準すら、つくろうとしなかったかもしれません。

 私たちの新聞には「言わねばならないこと」だったのです。

 この「言わねばならないこと」は、本紙を発行する中日新聞社の前身の一つ、新愛知新聞などで、編集と論説の総責任者である主筆を務めた桐生悠々の言葉です。

 悠々は晩年を愛知県守山町(現名古屋市守山区)で過ごし、自ら発行していた個人誌「他山の石」に、こう書き残しています。

 「言いたい事と、言わねばならない事とを区別しなければならないと思う」「言いたいことを言うのは、権利の行使であるに反して、言わねばならないことを言うのは、義務の履行だからである」「義務の履行は、多くの場合、犠牲を伴う。少(すくな)くとも、損害を招く」

 悠々は守山町に帰る前、長野県の信濃毎日新聞の主筆でしたが、敵機を東京上空で迎え撃つ想定の無意味さを批判した評論「関東防空大演習を嗤(わら)ふ」が軍部の怒りを買い、会社を追われます。

 それでも一九四一(昭和十六)年、太平洋戦争の開戦三カ月前に亡くなる直前まで軍部、権力批判をやめませんでした。旺盛な記者魂は今も、私たちのお手本です。

 秘密保護法以外にも、今の日本は言わねばならないことに満ちています。例えば、外国同士の戦争に参戦できるようにする「集団的自衛権の行使」容認問題です。

 戦後日本は先の大戦の反省から行使できないとの憲法解釈を堅持してきました。その解釈を正規の改憲手続きを経るのならまだしも、一内閣が勝手に変えていいはずがありません。

 全国のブロック・県紙のうち、弊社を含む三十九社が、政府の解釈変更による集団的自衛権の行使容認に反対する社説を掲載しました。賛成はわずか二社です。

 地域により近いメディアがそろって反対の論陣を張ったことを、政府は無視してはならない。

 □  「言論擁護」の先頭に

 悠々は一八(大正七)年、富山県魚津から全国に広がった米騒動で、当時の寺内正毅内閣を厳しく批判します。米価暴騰という政府の無策を新聞に責任転嫁し、騒動の報道を禁止したからです。

 悠々は、新愛知新聞社説「新聞紙の食糧攻め 起(た)てよ全国の新聞紙!」の筆を執り、内閣打倒、言論擁護運動の先頭に立ちます。批判はやがて全国に広がり、寺内内閣は総辞職に追い込まれました。

 政府が悪政に道を踏み外すのなら、私たち言論機関が起ち上がるのは義務の履行です。戦前・戦中のように犠牲を恐れて、権力に媚(こ)びるようでは存在価値はありません。日本を再び「戦前」としないためにも、悠々を偲(しの)び、その気概を心に刻まねば、と思うのです。

 

 悠々の社説「関東防空大演習を嗤(わら)ふ」は青空文庫でも読める。 http://www.aozora.gr.jp/cards/000535/files/4621_15669.html 

2015.6.24

 

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 たしかメンタル・クリニックへ行った翌日だったから水曜日。学校で担任のM先生が「そろそろ少しづつクラスに合流する練習をしていこう」と、金曜の6時間目、成績別に再編成された数学のクラスに一時間だけ、みんなといっしょに受けてみようと提案されて「はい」と返事したというから、ちょっと驚いた。「だって、断れないじゃない」と昨日の学校へ送っていく車の中で言うので、「いままではすぐ“いやだ”と言ってたのに、“断れない”と言えるだけの余裕が出てきたんじゃないか」とからかった。それが今日。あまりプレッシャーをかけないようにと、朝の出がけもとくに何も言わず、さあ、どうだろうか、と仕事へ出かけた。午後にYからメールが二通、来た。

 

お疲れ様。
今日は学校には行けませんでした。
タオルケットにくるまって、「自分で行くと言ったのに・・・」「自分が情けない」としくしく泣いて、「普段通り、図書室に行く[?]」と提案してみましたが、それもダメでした。
もうちょっとエネルギーがたまらないとダメかな

 

M先生が仰るに、紫乃と期末にむけてやっていくことのリストを作ったそうです。
クラスにはいるというのは、リストの5番目だそうで、1番、2番をがんばったらいいからと、仰ってくれたことを伝えるとちょっと落ち込みが楽になったみたい。
先ほどM先生が電話をくれ、紫乃が話してたよ。 

 

 家に帰ってから、食卓に座っている子に「今日はがんばったな」と声をかけた。ちょっと不思議そうな顔をしているので、「結果は行けなかったけど、おまえは苦しんでがんばったじゃないか。だから、今日はがんばったな」とかるく頭をこづいた。

 がんばって、くるしんで、いつか行けるようになったらいいよ。

2015.6.26

 

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 震災と原発事故のニュースを、カリフォルニアで聞いた加藤典洋は「これまでに経験したことのない、未知の」「自責の気持ちも混じった」「悲哀の感情」を抱いた。その理由は「大鎌を肩にかけた死に神がお前は関係ない、退け、とばかり私を突きのけ、若い人々、生まれたばかりの幼児、これから生まれ出る人々を追いかけ、走り去っていく。その姿を、もう先の長くない人間個体として、呆然と見送る思いがあった」からだ。

高橋源一郎「ぼくらの民主主義なんだぜ」(朝日新書

 これに続いて著者の高橋は、加藤の「すべて自分の頭で考える。アマチュアの、下手の横好きに似たやり方だが、いわゆる正規の思想、専門家のやり方をチェックするには、こうしたアマチュアの関心、非正規の思考態度以外にはない」という“決意”を引いた上で、原発の廃棄物の処分についての論議に触れ、それを問うのは「経済的合理性の問題」ではなく「文明論に近い問題」だという自民党議員の河野太郎の発言を引いてから、以下のように記す。

「ずっと先の世代」とは、加藤のいう「これから生まれ出る人々」のことだ。わたしたちが議論の外に置いてきた、まだ存在せぬ人びとを、この問題の大切な関係者として召還すること。これもまた、「正規の思想」にはなかったことだ、とわたしは感じるのである。(前掲書)

 

 作家の故埴谷雄高はその生涯的大著「死霊」の後半において、イエスによって食われたガリラヤ湖の魚がイエスを、仏陀によって食われたチーナカ豆が仏陀を、それぞれ弾劾する時空を超えた裁判の場面を描いた。

おお、ここまでいえば、お前もやっと憶いだせるかな。つまり、その大漁の魚を朝食として炭火の上にのせて焼き、パンとともにお前達が食べつくしたとき、お前が最後に食べたその最も大きな一匹こそがほかならぬこの俺だったのだ。
おお、イエス、その顔をあげてみよ、お前の「ガリラヤ湖の魚の魂」にまで思い及ばぬその魂が偉大なる憂愁につつまれて震撼すれば、俺達の生と死と存在の謎の歴史はなおまだまだ救われるのだ。
おお、イエス、イエスよ。自覚してくれ。過誤の人類史を正してくれ。

サッカよ、すべての草木が、お前に食べられるのを喜んでいるなどと思ってはならない。お前は憶えていまいが、苦行によって鍛えられたお前の鋼鉄ほどにも堅い歯と歯のあいだで俺自身ついに数えきれぬほど幾度も繰り返して強く噛まれた生の俺、すなわち、チーナカ豆こそは、お前を決して許しはしないのだ。

埴輪雄高『死霊』 第七章「最後の審判」

 わたしはここに著者の壮大な宇宙論的道徳を見ると同時に、その水底に流れる大いなるユーモアのセンスも感じるわけだけれど、冒頭にあげた「新たな召還者たち」を巡る状況については、ユーモアのかけらも感じることはできない。つまり原発事故、そしていま大きな曲がり角を迎えている「戦争(安保)法制」についてのこの国の行く末である。

 「わたしたちが議論の外に置いてきた、まだ存在せぬ人びと」の中には、当然ながら「かつて存在した人びと」もまた必要だろう。沖縄のガマの中でみずからの母親の手にかかってころされなければならなかった赤ん坊。イラクの都市でアメリカ軍の空爆により脳みそが飛散してしんでいったあどけない少女。ヒロシマの石段に影となってきえていった人。南の島で「東条うらむぞ、東条うらむぞ」とつぶやき、母の名を叫んで自爆して果てた兵士。できることならわたしはかれらのすべてを「召還」し、それこそ下北半島のイタコの口も借りて、一人一人の「いま」の思いを語らせたい。かれらこそ、語る権利がだれよりもあるはずだから。

 いま、たまたま生存しているわずかな人間たちだけで決めるには、事が大きすぎる。欠席裁判もはなはだしい。「まだ存在せぬ人びと」、そして「かつて存在した人びと」をもすべて加えよ。かれらにもなべて発言権と一票を与えよ。

 わたしは(適わぬことだと思いながら)夢想してみるのだ。底なしに哀しい眼をした無数の死者たちが、そして不安におびえ怒りに満ちたやがて現れる命たちが、ガリラヤ湖の魚やチーナカ豆のようにこの国の現在を弾劾し、それが大きな波のうねりのような唱和となって山川草木のすべてを覆い尽くしていくさまを。

2015.6.29

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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