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 子は先週から外泊許可が出て、週末は家に帰ってきている。まだ左足を地面につけることができないので、車から玄関までは(役所で借りた)車椅子で運び、家の中はお尻をすって移動し、トイレや手洗い場は椅子と踏み台で段差をつくってのぼる。今週末は連休が絡んでいる上に学校の行事などもあって約6日間の長期外泊で「一時退院」となった。夕方に二日、部活を覗いて、それからもう一日は平日に学校の野外活動で正倉院展を見に行く。病院での訪問学級も先日、たまたまわたしが病院へ行った折に担当の若い女性の先生と話をする機会があり、「とても優秀で、逆に先生たちの方がやる気が出ている」と。とても熱心な先生でいろいろと話がすすんで、みずから訪問学級の先生に志願する人、普通学級に戻りたいと願い出る人など、内輪の話なども聞かせて頂いた。数日前の病院訪問ではたまたまレントゲン検査があって、わたしが来ていることを知ったK先生がレントゲン写真を手に説明にきてくれて、骨の方も順調にくっつき始めているので、11月の10日過ぎあたりから左足を地面につけてのリハビリを始めましょう、とのことであった。かねて言っていた別のリハビリ専門の施設への転院は、このままリハビリが順調にいけばあえて転院する必要もどうやらない様子だ。その方がせっかく順調にいっている訪問学級も「転校する」ことがないのでどちらかといえば都合が良い(おなじ大阪市でも指定されている病院の設定で、また別の訪問学級に変わる必要があるという)。それから車椅子の申請とそれに伴った身体障害者手帳の更新も次々と処理が完了してきて、体障害者手帳は結局、下肢機能障害のそれぞれ右が今回6級から4級へ、同じく左が4級から3級へそれぞれ等級が上がり、トータルの級別が2級から1級となった。受けられる補助も多少多くなるわけだが、やはり何とも複雑な心境ではある。車椅子の方も業者の見積もり、担当医師の意見書などを受けた役所の決定通知書が昨日届いて、ぜんぶで21万円かかる車椅子のほとんどが認められて、自己負担は2万円ほどで収まった。決定通知を受けてこんどは業者の方が組み立てにかかり、オーダーメイドなので一ヶ月前後はかかる見込みである。

 わたしの仕事の方もやっと峠を越えて、延べ1ヶ月近くに及ぶレオパレス生活も引き払い、いまでは家から「ゆるい時間」で通っている(毎晩閉店作業を終えた深夜1時過ぎに帰ってきてまた翌朝6時半に出て行く生活に比べれば、という意味だが)。 今回収穫だったのは、毎日のレオパレスへの道すがらに(わたしはいろいろなルートを開拓するのが好きなので偶然見つけたわけだけれど)六斎念仏で有名な寺があり、毎年夏に行われる、一遍ら時宗の信徒たちがはじめたというその念仏踊りの様を見に行きたいと思ったこと。古来からの森の残滓が集落の中に残されていて、わたしはその寂れた風味のある境内で、ハイスピードなゴスペルサウンズのような最先端のビートに忘我の状態で踊り狂う人々の幻影を空想したのであった。それから深夜のNHKテレビで伊福部昭(「ゴジラ」の映画音楽を書いた作曲家)の特集番組を見て、そこで演奏された琴の二重奏や、また琵琶や龍笛、筝、篳篥(ひちりき)や笙といった日本古来の楽器でオーケストレーションを組んだ「郢曲 鬢多々良(えいきょく びんたたら)」などの楽曲に新鮮な魅力を感じて、とうとう「鬢多々良」のCDを amazon で注文してしまったこと。それから近所のブックオフで見つけてレオパレスの浴槽につかって毎晩数ページづつ堪能した朝日新聞の特派員記者・松本仁一の「アフリカで寝る」。すでに20年前の著書だが色褪せない魅力がある。帰宅してシリーズの「アフリカを食べる」も古本で購入してしまった。あとは近くにあってよく電子レンジ・レシピのもやしや豚肉を買っていたダイエーのガレージ・セールで280円で買った Jim Reeves のベスト盤かな。よくレオパレスの部屋で資料をPCで打ちながら聴いていた。

蔵王堂光福寺へ久世六斎念仏を http://aloneagainorkyoto.com/2012/2012-08-31-kuze-rokusai/

2014.10.31

 

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 連休に部活参加などもからまって先週末から6日間の一時退院となっていた子はいよいよ後半。昨日は学校行事で正倉院展の見学があった。いまは大阪の訪問学級に「転校」している身分でもあり、今回の行事参加にあたっては訪問学級の教頭先生と本来の学校の教頭先生が何度も連絡を取り合い、医師の許可を得た上で、保護者が完全サポートをして安全確保を行うという条件で実現したもので、何やら大げさな気がしなくもないが、たとえば後述する観劇の座席も「みんなとは離れた車椅子用のスペースで親と一緒に」というのはどうなの? とも思うのだけれど、そのやりとりを間近で見ていた子によれば「いろいろ手続きも大変だから仕方がないんだよ、お父さん」ということなのだそうだ。とにかくわたしもYも休みをとり、サポーターとして全面参加した。折りしも同じ演劇部で大親友のHちゃんが数日前に捻挫をして、ほとんどを車椅子の子と行動を共にしてくれた。混雑の割にはそれなりに見ることができた正倉院展(といっても展示品によってはときに車椅子の目線が厳しいものが多いが)の後、みなは修復中の正倉院自体を見に行ったのだがこちらは残ることにして、博物館前のベンチで社会科の若い先生としばし雑談。その後、博物館近くの奈良公園へ移動してお弁当。三つぐらいのグループに分かれているクラスメートを遠目にこちらは公園のすみのベンチでHちゃん、子、Y、わたし。子はHちゃんとふたりなので大満足で、他の子たちもあえて誘いには来たりはしない。これがいまの子のクラスにおける「自然な距離」なんだろう。その後はJR奈良駅近くの100年会館に移動して舞台の観劇。潮流なる劇団の、広島の被爆2世のため若く逝った友人の思い出を語る母の物語に耳を向ける高校生を描いた現代劇。終了後、演劇部員だけ残って舞台の片付けなどを見せてもらい、M先生が道具のあれこれを説明してくれたのは貴重な機会だったようだ。

 明けて今日は朝から荷作りをして、あまり戻りたくなさそうな病院へ、わたしが車を運転して連れて行き、ふたたび入院手続きをしてきた。次の週末は土曜日、もともと夕方の部活に出る予定だったが、午前中の理科の授業で鶏の解剖をするとのことで、これにも参加すると本人が希望しているとの由。

 

 正倉院展の前夜は、仕事から帰ってスーツのままイオンモール内の回転寿司屋で母の家に泊まりに来ていた千葉のおばさんと合流して食事をした。かつてシベリア旅行を共にした伯父の細君で数年ぶりだったけれど、慌しくも短い再会だった。そして正倉院展の日の夜と、今日の病院から戻ってからの午後には、Yと車屋めぐり。ここ一ヶ月ほどあれこれネットでも調べ、実物も見て、家族で話し合い考えてきたが、今後の車椅子対応を考えた上での車種をやっと決めて、Yの従妹がやっている中古車屋さんに正式に依頼を出した。車椅子の申請手続きやオーダー発注も終えて、これで少し一段落かな。

 そんなわけで目まぐるしい日々が続いて、わが家に続いて妹宅のリフォームをお願いしたM工務店さんであつらえてくれた小屋の背面の板張り作業もまだなかなか着手できないし、今後車椅子を玄関に置くために検討している靴箱の壁面計画(その下に車椅子を置くスペースをつくる)や、母から頼まれているベランダで洗濯物を干す際の踏み台の製作など、日曜大工の方も予定がてんこ盛りであるがまだまだ時間が足りない。

2014.11.6

 

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 出産が間近な友人(孫ではない)の参考にと、はるか14年前にHPで掲載していた子の出産前後の記録(データはすでに失われ、印刷したペーパーだけが残っていたのを今回PDF化したもの)をメールで送信。ついでにこのサイトの othes にもアップした。われながらこの頃はまめに書いていたなあ、と。

 このごろ購入して読んでいる本。

厚香苗「テキヤはどこからやってくるのか?  露天商いの近現代を辿る」(光文社新書)

脇田晴子「女性芸能の源流  傀儡子・曲舞・白拍子」(角川選書)

ノーム・チョムスキー「複雑化する世界、単純化する欲望  核戦争と破滅に向かう環境世界」(花伝社)

石井光太「絶対貧困  世界最貧民の目線」(光文社)

 今日は仕事の帰りに立ち寄った駅前の西友のバーゲンセールで見つけたジェームス・M・バーダマン&村田薫「ロックを生んだアメリカ南部  ルーツ・ミュージックの文化的背景」(NHKブックス)を500円で。

 

 先日読み終えたノーム・チョムスキー「アメリカを占拠せよ!」(ちくま新書)から

 ヒュームによれば、社会とは民衆の意見や態度の統制そのものである。それはどんな社会にもつねに当てはまる。もしも力を持った存在が、「おまえたちは自分のいるところにとどまらなくてはならない。そこがおまえの属する場所だ、それがおまえの人生で果たす役割であって、何も変えることはできないのだ」と民衆に思い込ませられれば、その権力は民衆を統制できる。

 アメリカのスピーチで使われる「ジョブ」には、新しい意味があります。「ジョブ」とは、ある下品な言葉、つまり「儲け」を言い換えたものなのです。あからさまに「儲け」とは言えず、誰もその言葉を口にしようとしない。かわりに「ジョブ」と言う。そのほうが聞こえがいいですから。

 発想の転換が必要なのだ。やりがいがあって生計も立てられるまっとうな仕事に就くことには、何も問題はありません。しかしそれは、今後数十年にわたって人がまともに生きられなくなるような破壊をもたらしかねない、そんな体制に加担する仕事でなければならないのか?

 プロパガンダのなかで最も効果的なのは、たとえば99パーセントと1パーセントの構図のように、何が起こっているかは分かるけれども、「自分にはそれをどうすることもできない、自分は孤独だ、誰とも話せない、私みたいな人間には何もできない、だから苦しくても耐えるしかないんだ」と感じさせるタイプのものです。これはじつに効果的なプロパガンダとなる。奴隷による反乱がほとんど起こらず、奴隷制がいつまでも続いていく裏には、そういうからくりがあるのです。

 

 ハワード・ジンの「民衆のアメリカ史」を amazon のウィッシュ・リストに追加した夜。

2014.11.8

 

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子は週末の外泊許可で、昨日は昼からHちゃんと家で遊び、今日はならまちセンターで高校の演劇部の県大会を先輩・後輩らと観劇してたっぷり愉しんだ。今夜、父が仕事から帰ってから大阪まで、子が最近聞きはじめたという中島みゆきの「歌暦」を大ボリュームでかけながら車を走らせて病院へ送り届ける。「これは時間と空間を歪ませる気狂い女の壮大なタイム・トリップの歌だ」と大声でHALFを説明しながら。

2014.11.9

 

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 Yは高校時代の同級生二人と20年ぶりの再会で、朝から電車で古里・和歌山へ。わたしは朝、少々頭痛がして子の部屋でレギュラス(猫)と添い寝する。その後久しぶりに庭で木工作業。母から依頼されていた、ベランダで洗濯物を干す際の踏み台を作製する。昼過ぎに西友で食料を調達。豚バラ肉と温泉卵の丼に即席はるさめスープで昼食の後、ソファーで新聞を広げながらまたうたた寝。夕方、いつかのウッドデッキの土台に使うべく、業務用空き缶三つに余っていたモルタルと庭の砂利を混ぜて固める作業をしばらくやってから、ジップ(犬)を連れて郡山城跡までいつもより長めの散歩。帰って夕飯の支度。クックドゥの簡単回鍋肉と、これも溶き卵を混ぜるだけのふかひれスープ、それに88円のシューマイを、帰ってきたYの話を聴きながら。

2014.11.11

 

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 子は土曜日、学校の授業でニワトリの解剖をするというのを聞き及び、「それはぜひとも参加しなくては!」と不登校であることを失念したかのように言い、先週の正倉院展のときのように「安全確保のために保護者が1名ぴったりと張り付くこと」を条件に学校側から許可を頂戴した。土曜はわたしが休日なので、午前中の数時間分をはからずも女子中学生のクラスで過ごすこととなった。といっても心中は「敵情視察」といった方が相応しい。昨日はYが病院へ着替えなどをもっていって、その際に大学の進学の話が珍しく子から出たのだという。子の学校は立命館大学へそのままスライド進学できる理系の「立命館コース」と文系の「特設コース」に分かれていて、子は文系の特設コースを選んだのだが、演劇部の先輩たちは立命館へ進む人が多いだろうから、その先輩たちを追ってじぶんも立命館へ行きたい、そのために勉強も頑張る、と言うのであった。まあどんな理由であれ、学校の勉強に興味が向いてきたのはいいことかも知れない。土曜日は当初は、朝から病院へ子を迎えに行って、そのまま9時40分の授業に間に合うように学校へ直行・・ という予定だったのだけれど、それでは慌しいからと、Yが病院にいる子を遠隔操作して先生や婦長さんと交渉させて、外泊許可を伸ばして金曜の夜に帰宅するよう段取りをしてくれた。よって明日は仕事を終えたYが病院へ子を迎えに行き、明後日はわたしが家から子を学校へつれていきニワトリの供犠、お昼を済ませて、午後からは子の部活につきあい、ほぼ一日を学校で過ごして、夕方に帰ってくる予定である。

 昨夜はいま寝床で少しづつ読んでいる脇田晴子「女性芸能の源流  傀儡子・曲舞・白拍子」に出てきた、わたしの好きな「更級日記」の山中で遊女に遭遇する場面をYに読み聞かせているうちに彼女は眠ってしまった。「ちゃんと聞いてる?」と聞くと、Yは「聞いてる聞いてる。聞きながらうとうとしていくのが気持ちいいから、そのまま読んで」とつぶやき、すやすやと寝入ったのであった。

 ・・・足柄山というは、四五日かねておそろしげに暗がりわたれり。・・・月も無く暗き夜の、闇にまどふやうなるに、遊女三人、いずくよりともなくいで来たり。五十ばかりなる一人、二十ばかりなる、十四五なるとあり。庵の前にからかさうをささせてすえたり。・・・・・・髪いと長く、額いとよくかかりて、色白くきたなげなくて、さてもありぬべき下仕(しもづか)えなどにてもありねべしなどと、人々あわれがるに、声すべて似るものもなく、・・めでたく歌をうたう。人々いみじうあわれがり・・・・「西国の遊女はえかからじ」等言うを聞きて、「難波わたりにくらぶれば」とめでたくうたひたり。・・・・・さばかりおそろしげなる山中に立ちてゆくを、人々あかず思いてみな泣くを、をさなきここちには、ましてこのやどりをたたむことさへおぼゆ。

 

2014.11.13

 

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 土曜日は朝から子を連れて学校。部活の終わる4時近くまで車椅子の介助をする。ニワトリの解剖はなかなかどうして。女子校にしては素材がエグイのではとも思ったが、最初はきゃーきゃー言ってた女の子らも、いつの間にか楽しそうに肺や“そのう”のぷよぷよ感を愉しんでいる。授業3時間分の長丁場。子のテーブルは子に言わせると「クラスの中で(じぶんにとって)いちばんベストなメンバー」だとか。そのせいかよく喋り、よく笑って、終始愉しそうであった。はじめに理科の先生から「車椅子に乗った不安定な状態で刃物を使わせることはわたしには許可できません」と宣告されて肉片を支えたり、腸の周りの脂肪をせこせことはがしていた子であったが、途中からどさくさにまぎれてハサミやカッターを使っていた。周りの子たちも「“凶器”じゃないんだからい〜んじゃないの」。先生も見てみぬふりをしてくれていたと思うのだが。それにしても最後に先生が解説してくれた雌の身体の中の「卵製造工場」の仕組みにはびっくり。

 体育館でお弁当を食べ、それから部活。中三、そして高校生の先輩たちと敬語を使って会話をしている子を見るのは、彼女の別の社会性を垣間見るようでなかなか興味深い。演劇部といっても今日はダンスの練習だったので子は見学、であったが別の高校へ進んだ卒業生の先輩が遊びに来てくれていて、いつの間にか二人で隅の方へ移動して、先輩の学校の今度のコンクールの脚本の読みあわせをし出した。この日はもう一人、退部をした高校3年生の先輩がダンスを教えにきてくれていて、この子がなかなか上手で、誰でも何かに一生懸命打ち込んでいる子は輝いてみえるものだけれど、わたしはじぶんの子よりもその先輩のダンスの方についつい見とれてしまっていた。すみません。

 一日、学校を回って思い知らされたのは、1階から2階、2階から3階というメインの階段の存在以前に、ふだんは何気なく通っていて意識をしていないが、じっさいに車椅子を押して回ると小さな段差があちこちにあって、段差なく移動できるところがほとんど存在しない。そしてホンの二段、三段の小さな段差であっても、結果としては十何段もあるメインの階段とおなじだけの手間がかかる(車椅子を降りておぶって移動させ、空の車椅子を引き上げて乗せる)ということ。この不便さはよく言われることだが、実際に経験してみないと分からない。駅や空港や公共施設でこれだけバリアフリーが広がってきている時代に、いくら私立とはいえ、義務教育の教育施設でこれだけバリアフリー化が遅れている(というかほとんど皆無である)というのは、どうだろうか? とも改めて思った。またこの夏に改装・新設してくれた一部の障碍者対応のトイレ(ワンフロアに一箇所づつ)も、今回実際に使わせてもらったところ、場所によって微妙にサイズが異なっていて(わたしは入っておらず、同行してくれた女性のM先生の話だが)、結局、車椅子のままスムースに入りやすいのは1階の一箇所だけ、というのも、う〜ん、どうなんだろうね? ともあれ今回まわってみて実感したのは、現状では車椅子よりも松葉杖の方が現実的かも知れない、ということか。

 明けて日曜は、これも朝から子を誘って県立美術館でしばらく前から開催していて評判もよい「大古事記展 語り継ぐココロとコトバ」へ二人で。触れ込みの「五感で味わう」というのは思っていたほどでもなかったけれど、それでもなかなか丁寧な解説パネルと、はじめて見るレプリカでない太安万侶の墓誌や石上神社の秘宝:七支刀は存在感があったし、古事記世界へのとば口を想像させてくれるもろもろのディティールたちは子も大いに愉しんでいた。(ただしアマテラス像をはじめ、あまりにも安易で無批判な権力寄りの神様像は、これだけ種々の研究も進んでいるのだから如何なものか? と一言いっておきたい。特に神代を描いた現代作家による大和画なんぞはここは靖国の宝物館かと思わず見誤ってしまうくらい) 最後の現代アートは少々おまけ的な感じもあったけれど、山口藍氏の自作解釈は刺激的なものがあったという二人の一致した意見でした。「ゲームセンター・アマテラス」は見守るだけのジイサンバアサンの前で車椅子でステップを踏めない子に託されたわたしが仕方なく一人踊って見事、天の岩戸に隠れたアマテラスを引っ張り出したよ。お陰で世界は今日も朝日を迎えられるわけだ。

2014.11.18

 

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 来る日も来る日も畑で汗水たらしても、こうした小作農の生活は決してゆとりをもたらさなかった。彼らは夜明けから日暮れまで畑に出た。一緒にいるのはラバだけである。どこを向いても大地と空とまっすぐな地平線しか見えない。この時代の小作人の多くは半径数十キロの土地空間の中で、生まれ、苦しみながら生き、死んでいった。畑で働く彼らの孤独と滅入るような物憂さは、ときに拷問のようであったろう。それをごまかすだけの金も場所もなかった彼らは、何の道具もいらないいちばん簡単な遊びで憂さを払った。唄である。彼らが畑でひとり働くときに歌った唄を「野唄(field holler)」と呼ぶ。録音に残された野唄は20世紀になってからのものだが、それは奴隷制時代から南北戦争後の小作農時代も含めた長い貧窮と絶望の歴史をしのばせるに足る。仕事をしながらの唄なので、楽器は使わない。嘆き、祈り、孤独などを自分流に言葉にして唄にする。長く引くような声を出したり、ヨーデルのような裏声を使ったり、同じ言葉を何度も繰り返したりするのが特徴的だ。その物悲しい響きはデルタの大地の果てしない広がりを思わせる。
 現在ではこうした野唄がブルースの原点であったと考えられている。デルタの黒人たちは苦しみを表現する手段は実質的に音楽以外なかった。絵や文章による表現は彼らの生活からあまりにも遠い。果てしない徒労感にさいなまれたとき、はけ口を求める内部の叩きや悲鳴は喉を震わせて唄になった。絶望は声になって外に出ると、もう果てしのない絶望ではなくなる。声を張り上げて体を震わすことが絶望との闘いだったのだ。

 西友のバーゲンセールで500円で買ったジェームス・M・バーダマン&村田薫「ロックを生んだアメリカ南部  ルーツ・ミュージックの文化的背景」(NHKブックス)のこんなくだりを読んで、原初の「野唄(field holler)」に近い唄を聴きたくなった。それでアラン・ローマックス(Alan Lomax)が黒人囚人歌集を採譜した Negro Prison Blues and Songs を amazon で注文した。

 Negro Prison Blues and Songs http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/B000NVIXRI/uheigmen-22/ref=nosim

2014.11.26

 

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 週末の外泊許可。昨日は神戸の美術館へ四谷シモンの人形展を見に行くつもりだったが、子の生理痛のため中止に。今日は昼間、子のリクエストでわたしの妹と三人で近所のカラオケへ。ほとんどは子が得意のボカロ曲(「みんな復讐の歌だな」とわたし)。それに最近気に入っているジョージの「Here Comes The Sun」と中島みゆき「永遠の嘘をついてくれ」、初音ミク「リンちゃんなう」、なついろ「きみの涙にこんなに恋してる」などをわたしと、「悪女」を妹とデュエットで。他にはわたしがあおい輝彦「あなただけを」、下地勇「おばあ」、キヨシロー「JUMP」、古謝 美佐子「童神」を歌った。エレベーターのない二階の店だったが、車椅子からいったん降りて、階段の手すりをつたってひとりで上り下りができた。昼過ぎに帰宅してお昼を食べ、仕事を終えたYと合流して、早めに病院へ。整形外科のK先生が話をしたいということで夕方4時に約束をしていたので。

 今回。金曜の夜に帰宅をして、「もう病院へもどりたくない」と母親の前で泣いた。数えれば入院から80日近くが過ぎている。子の我慢もいっぱいいっぱいだった。夜にはレギュとジップを交代に部屋に入れていっしょに寝て、またソファーからしずかな庭を眺めて「やっぱり家がいちばんいいな・・」とつぶやいた。母はK先生に直談判するつもりであった。入院病棟の中の小部屋に案内されて、先生がレントゲン写真を写しながら、金具で固定して継ぎ合わせた骨も順調に接合してきつつあることを説明してくれる。そして「どうかな?」と言う。母が、子がもう入院生活に厭いてきていることを言うと、「それを待っていたんだ」と先生。とんとんと話がすすみ、明日月曜に念のため最後のレントゲンを撮って、それで特に異常がなければ火曜日に退院することになった。骨はもう大丈夫なので、病院にいるよりも家の日常生活でいろいろ動いてくれた方が良いとのK先生の見解である。しばらくは松葉杖もレンタルで借りて練習する。退院後は月に一度の通院でいい。それから春休みに、金具を取り外す抜糸ならぬ抜鉄(ばってい)のため、3泊4日の入院がある。

 まだあと一ヶ月、少なくとも早くて二週間は覚悟をしていただろう子は、先生の話を聞きながら思わず涙した。指の先で両目の端を黙って拭った。報せを聞いた叔母(わたしの妹)から夜、こんなメールが来た。

 あしたからの病院生活に向けて張りつめていた気持ちがゆるんで思わず落涙だよ。

 歌いまくって気合い入れて行ったんだろうから、気が抜けたんだろうねぇ。ま、良かったよ、

 紫乃さん、やっとシャバにお出まし。

2014.11.30

 

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 家の近所に天を衝くような巨大な老木がある。ビルの5階分くらいに相当するだろうか。何の木なのか、わたしには分からないが、神社の境内のような区切られた一画にその老樹は立っていて、家やワンルーム・マンションに隣接したその境内には、不思議なことにどこにも出入り口がない。いつか夜に葉を茂らせたその木がゆさゆさと風に揺られているシルエットを仰ぎ見て、そのときはじめてその木の存在を確認したのだけれど、畏敬の念に打たれてしばし立ち尽くした。神社といってもお堂や祠があるわけでなく、調べたところ「お旅所」という文字が見つかった。春日大社の若宮のように、かつてはどこかの神さまが一時逗留して、面前でもろもろの芸能が奉納されたのだろうか。もう3年以上ここに住んでいるが、そんな光景を見たこともない。しばらくして、あまりに巨大に茂りすぎたせいだろうか、その神の木はある日、高所作業車がきてほとんど丸裸にされてしまった。無残な姿だった。

 夜。ジップの散歩で、木枯らしが吹き荒れていた。路上のごみやマンションの「入居者募集」の看板などが歩道に飛び交っていた。路地を曲がって、ジップのすすんだ先にあの神の木が、いつのまにまた茂らせたのか、かつてと同じような葉をつけた枝木をふさふさとその身にまとい、強風の中で踊り狂っていた。風は外から来るのだが、茂みの内側からも吹き出してくるようにも見える。いくつものぽっかりと開いた闇の吹き出し口があって、そこからとぐろ状に枝葉を震わせて、まるで燃え盛るゴッホの絵筆のように躍動的なのだ。荒々しく、森厳として、思わずこちらの心を吸い込むような妖しさがある。古代の人々であったならそこに神の存在、その瞬きにも似た身振りの一端を感じただろう。たんに風が、木を動かしているのではない。そう考えることによって、わたしたちはいったいどれだけのものを捨ててきてしまったのか。夜ふけに木を仰ぎ、内なる神秘と共鳴させることをしなくなってしまったのか。

2014.12.1

 

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 Blind Willie Johnson の The Soul Of A Man を聞く。このような歌は、いつもシンプルで、普遍。1900年代初期のアメリカ南部も、現在の日本も変わらない。寄る辺ないこの歌は、たとえばキヨシローの「よそ者」や「まぼろし」に連なっていく。

どなたか、教えてくれまいか? 人の魂とは、何でしょう?
私は、遠く異国を旅して、異郷も歩いたけれど、
どなたも、人の魂が何であるかを、教えてはくれない。

 アメリカのどの地域よりも家郷が大きな意味を持ち、大地に根づいた生活が営まれているはずの南部には、一方で、家郷を失い、根を断ち切られてしまっているという魂の不安を抱えた人々がいる。宗教や音楽が南部の人々にとって生きる支えとなってきた理由の一端はこういうところにあるのだろう。「ロックを生んだアメリカ南部  ルーツ・ミュージックの文化的背景」(NHKブックス)

 Blind Willie Johnson は7歳のとき、間男との浮気現場を隠すために継母が洗剤をかれの目にかけ、失明させられたとも言われる。盲目となったかれはその後の人生を、ギターを手にし、投げ銭を糧に、福音を伝える歌を演奏し続けた。最後は肺炎にかかり、かつぎこまれた病院で盲目であることを理由に診察を拒否されて死んだ。

 人の魂は見つかっただろうか?

2014.12.3

 

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 仕事帰り、駅前の本屋の棚に安藤 啓一・上田 泰正「狩猟 始めました――新しい自然派ハンターの世界へ」 (ヤマケイ新書)を見つけて買って帰った。

 夕食の席で、今日はこんな本を買ってね、とYと子にさっそく披露する。わが家の食卓にはテレビがないので、夕食のときはいつもその日のお互いの出来事を話すのが常だ。小学校の授業でそれぞれがじぶんの好きな献立をあげるときに、著者の子が「鹿肉が大好き」と言って、一瞬きょとんとなったクラスメートから「冗談はやめて、ちゃんと答えなよ」と言われる。「そういうの、いいねえ」とすかさず子が答える。そら、もう彼女はこの本の愛読者だ。またおなじように、著者の子どもたちが図鑑や動物園の動物を指し「美味しいかな。食べられる?」と聞いてくるという場面。それに続く「それは自分たちが生き物である動物を食べていると実感してしているから出てくる言葉」というくだりを聞いて、食卓の娘がうんうんとうなずいている。「わたしもほんとうにそうだと思う」

 そうした日常のなかで暮らしているから、「可愛いけれど、美味しいから食べる」といった自然な価値観も育まれている。そして自分自身も生き物であり、森の動物たちとたいして違わない存在なのだと気づいてくれるだろう。

 いつか狩猟免許をとりたい、というひそかな願望をもっている。

2014.12.4

 

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 夕食後、子を松葉杖の練習に誘う。家の前のほそい路地。「こんなに長かったかな〜」と苦笑い。大通りに出たところのベンチで一休み。まだ余計な力みがあるようで、杖を持っていた手を振る。家の中はあちこちを伝ってだいぶ歩けるようになった。来週から部活動が再開し、学期末テストの答案返却へも出席するようで、学校へも(とりあえず)復帰である。Yが仕事で行けないときの車での送迎は、わたしの妹に頼んでいる。学校生活を車椅子にするか、松葉杖を持っていくか、検討中。

2014.12.5

 

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 日曜、月曜と連休。昨日は朝は庭で花壇の縁取り。通販(エクステリア/ガーデニング通販 NXstyle)で買った砂岩のピンコロ石約25個を、浅く溝を掘って並べて、足で踏んづけて、多少土を追加して、あとは年月が風情を醸し出してくれるだろう。昼に子を歯医者へ連れて行き、午後は京都のYの従姉妹の車屋さんへYと二人で、7年近く働いてくれたわが家のマーチ(日産)を下取りに出しにいって、代車のモビリオ(ホンダ)をもらって帰ってきた。Yの従姉妹宅で土産に(?)くれた新福菜館のラーメンとチャーハンを夕飯に食べて、ひさしぶりに郡山旧市街で唯一の銭湯「大門湯」へ一人自転車で。420円で優雅な1時間半をまったりと過ごす。情緒ある露天風呂に使ってぼんやりと考えていたのは、これまで行った忘れがたい温泉―――恐山、乳頭温泉、湯布院、湯ノ峰と思い出してこんどは湯ノ峰で蘇生した小栗判官の説教節のことなどあれこれ。時間が早かったので入浴者はまだまばら。ショッピングセンターの賑わいは嫌いだが、銭湯はやはりある程度賑わっていて、そこらのおっちゃんや兄ちゃんたちが世間話をしているのを聴けるくらいが良い。

 今日は午前中、家族三人で仲良くインフルエンザの予防接種を子の通っている泌尿器科の病院にて。と思ったら、子だけ微熱があり次回に見送り。わたしとYの二人分で6700円。午後はYと庭仕事。昨日ホームセンターで買ってきたグラスやシルバーリーフの類を花壇の縁取り間際に植える。先週わたしが別のホームセンターで買ったレモンの木を鉢植えに植える。庭の入り口を覆っているプランツの根を一本引き抜いて小ぶりの鉢植えに移し、小屋の窓下の棚に置く。また苺の苗を二種類買ってきて、Yから地植えだと寒さにやられてしまうと言われ、即席で横長のプランターにかぶせるミニ温室をつくることにした。南側のエアコンの室外機の上に置く設定にして、今日は余り材で枠組みをつくり、防腐剤を塗ったところまで。後日に、三方の壁を(小屋製作のこれも余りの)アクリル板で囲み、上と壁一方は水遣り用に厚手のビニールをかぶせようかと考えている。土作りは近所のベテランお年寄りたちからレクチャーを受けているYの担当である。夜は母の奢りで、無事定年退職したわたしの妹の夫君の退職祝いと、子の退院祝いを兼ねた夕食を、薬師寺のとなりにある洒落たイタリアン・レストラン「AMRIT」で(自転車のジップ散歩でいつも前を通るので、一度行ってみたかった)。月曜でもあり、予約した時間も早めだったので、ほとんど貸切状態であった。代車のモビリオは三列目のシートを畳むと車椅子を(畳まず)そのまま積めるのでじつに勝手が良い。

2014.12.8

 

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 子は退院後はじめての学校で部活動。部活の前にYと先生方も交えて移動手段の状況確認。いちばん危惧していた階段は車椅子を降りて、手すりに寄りかかって何とか自力で登れる。車椅子は先生方がときどきの交代で運んでくれる。トイレも改築してもらった身障者用でなくても、壁をつたってかろうじて歩いていける。その他の小さな段差は仕方ない。みなで協力してあげてもらおう。明日は午前中、テストの答案返却。子はさいしょのホームルームだけ出席して、そのあと教室に残るか、保健室へ行くかは、じぶんの判断に任せる。午後からは部活。しばらく電車通学はとうてい無理なので、Yとわたしの妹、休日のわたしが交代で送り迎えをする。

 デボラ(DEBORAH)というグループの「ルナ・パーク」なるアルバムを、ずっとむかしから持っているのだけれど、これはたぶんわたしがアルバイトをしていたレンタル屋でのいわゆる“レンタル落ち”商品でなかったかと思う。ローリング・トゥエンティーズのニューヨーク、ジョージ・ガーシュインの作品を小粋なピアノと女性ボーカルでしっとりと描いたCDで、何気なくずっと愛聴してきたわけだが、今回また何気なしにそのボーカルを担当している女性が前田祐希さんという方だと知り、amazon で検索してみたらいくつかソロ名義のアルバムを出していて、その中で中古でわずか150円ほどで売っていた one touch of weill というクルト・ワイルの作品集(2001年)を夜中につい衝動買いしてしまったが、これがじつに良い。ピアノは佐藤允彦。ルナ・パークもそうだったけれど、あの映画「上海バンスキング」のような、共通しているのはどこかまぼろしの都のようなロマンチシズムと儚さと無国籍風の軽やかさがあるんだな。それが心地よい。時代錯誤な法案がまかり通り、国土を汚染した原発がいつのまにやら息を吹き返し、日本軍無血入城のごとき選挙戦の最中だから余計にこんな音楽にこころが乾く。JAZZ AGE 〜GERSHWIN SONG BOOK も近いうちに買ってしまうかも。

前田祐希オフィシャルサイト http://www.maedayuki.com/

2014.12.11

 

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 百貨店の裏の路地で見知らぬ老婆から、何千年も前に異国の南の島からここへ辿り着いた一人の若者の英雄潭を聞く。そんな夢を見た朝、忘れないようにと出勤前のホームから携帯メールでじぶんのPCへメールを送った。まだ夢の残り香が鼻先にのこっているうちに。現実の世界でかすれていってしまう大事なメッセージを宝箱に仕舞うように。

 新しいわが家の車が届いた。2年落ちで1万9千キロ。内装は上等で、新たに最新のカーナビ、バックカメラ、ETCなどを装着してもらって100万円ぴったりは親類故の大出血サービスだろう。車代はわたしの母親が関東の家を売った金の一部をわたしと妹に生前譲渡してくれた金でほぼまかなった。子がまだ幼稚園前だったか、親類の自転車屋でもらった中古の電動自転車とわたしの250ccバイクしかなかったわが家がはじめて買った車が中古のキャロルで10万円、キャロルが壊れて次に買ったほぼ新古のマーチが60万円、そして今回の○○○が100万円。金額はあがってきているが、世間の人のように車に200万、300万はとてもわが家では払えないな。さっそく夜、夕飯を食べてから家族三人で奈良公園あたりまでデビュー・ドライブ。まるでSFに登場する近未来の車のようで、三人とも大満足(何せ iPod の音楽を線をつながないで Bluetooth とやらで再生できるだけでもう仰天)。林の隙間から見えた“イルミ奈〜ら”の照明がきれいだった。春日大社奥の駐車場へ続く路上で鹿の群れと遭遇。

 ※“イルミ奈〜ら”はこんどの休日に改めて行こうかとYと言っていたが、調べたら万葉植物園の中なので、車椅子は難しいと分かって今回は諦めることにした。

イルミ奈〜ら http://www.illumina-ra.com/

2014.12.13

 

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 二分脊椎症について(紫乃をサポートして下さる学校のみなさんへ)

 「二分脊椎症」というのは「生まれつき脊椎の一部が形成されなかった状態」のことを言います。対象の部位(脊髄の上の方か下の方か)や度合いによって現れる症状は様々ですが、紫乃の場合は産まれたときにすでに脂肪の塊が神経に絡まり、一部の神経が正常に機能しない状態でした。場所はちょうど背中のやや下あたりの位置で、(脊髄からそれぞれの場所へ神経がひろがっていくので)そこから下の身体の部分に影響が出ます。主には以下の四つの症状として説明されます。

【運動麻痺】:足が上手く動かせず、歩きにくい、成長に伴い足の変形も起こってくる。
紫乃の場合は両脚に麻痺がありますが、特に左足の症状が強いです。部位で言えば足首を上方に上げる神経がほとんど機能していません。神経が機能しないと、神経が運んでくる指令によって動く筋肉も動かないために筋力が衰え、弱い筋肉と強い筋肉が全体のバランスを崩し、挙句には骨の形も変化させてしまいます。小さい頃は山道でも平気で長時間歩き回っていましたが、成長に伴って体重も増えてくると足への負担が増してきたのか、このごろはショッピングセンターなどへ行っても長い時間歩き続けるのが難しくなってきて、車椅子を利用することが多くなりました。

【感覚麻痺】:触った感じ、暑さ、痛みを感じない。
神経の麻痺が強い部分は暑い・寒い・痛い・濡れているなどの感覚も分かり難いです。小さい頃に旅行先で入った露天風呂では、ごつごつした岩が足を擦っているのが分からなくて、風呂から出たら両足が血だらけだったということもありました。また靴の中に小さな石粒が入ったりすると、ふつうの人はそれを感じて靴の中で石粒を避けたり、最終は靴を脱いで石粒を取り出しますが、紫乃の場合は感覚がないので長時間、その石粒によって皮膚のおなじ場所を圧迫され続けて、本人も知らない間に深い傷になってしまうことがあります。寝たきりの老人が床ずれになるのも同じ理屈で、さらに、麻痺した部分は血の流れも悪く、傷の治りも遅いので、他の人にはすぐ治るような軽い傷がいつまでも治らず、酷いときは傷口がどんどん深くなっていってひどい褥瘡(じょくそう = 長時間の局所的圧迫による血行不全によって組織が壊死すること)になってしまうケースもあります。

【膀胱障害】:おしっこを上手く出したり、我慢したり出来ない。
紫乃の場合は放っておくと膀胱が勝手に痙攣をするので、それを抑えるために毎日薬を飲んでいます。これも膀胱にかかわる神経が正常に機能をしていないためです。ふつうの人が感じる「おしっこがたまってきた」「トイレに行きたい」という感覚も紫乃には分からず、また「おしっこを我慢する」「おしっこを出す」といった機能も麻痺しているので、じぶんの意思で排尿をコントロールすることがほとんどできません。ですから定期的に(時間を決めて)カテーテルという管をじぶんで尿道に挿しておしっこを排出するようにしています。膀胱におしっこが溜まり過ぎると漏らしたり、また逆流して(尿路感染)腎臓を悪くしてしまうので、定期的におしっこの検査と膀胱のレントゲン検査をしています。

【直腸障害】:うんちを上手く出したり、我慢したり出来ない。
これもおしっこの場合とおなじで、じぶんでコントロールすることはできません。紫乃の場合は学校や出かける用事のない日やタイミングをなるべく選んで浣腸の薬剤を入れ、摘便(てきべん)といって母親がゴム手袋をした手で便をかき出すことによって排便をしています。摘便は本人も苦しい辛い時間ですが、なかなか溜まっている便が出ずに、長いときには1時間に及ぶこともあります。またぬるま湯を専用の管を使ってお尻の穴から逆流させて腸の中に一定時間満たし、それを一気に排出することによって排便をする「洗腸」という方法もあって、これはじぶん一人でトイレで出来る作業ですが、昨年これの訓練のために一週間大阪の病院へ入院して習ったものの、気分が悪くなったり頭が痛くなるそうで、今回の手術もあっていったん休止しています。

 一度麻痺してしまった神経は、残念ながら現代の医学では再生することはできません。ですから紫乃の受ける手術はこれまですべて、「もっと良くなるため」の手術ではなく、「これ以上悪くならないため」の手術でした。

 紫乃はこれまで脊髄の手術を延べ4回受けました(最初の手術は彼女が1歳のときでした)。これは神経に絡んだ脂肪の塊が神経をひっぱって、正常に機能している他の神経を悪くしないために予め脂肪の塊を切除する手術です。脂肪は神経に複雑に絡み合っているのですべてを取るのは不可能で、前の手術で残った脂肪が年月を経て増えたり、また成長で背骨が伸びるのに併せて脂肪にからまった神経がひっぱられることがあるためです。

また整形外科医による足の手術を延べ3回受けました。これは前述した足の変形を矯正したり予防するためのもので、もともとそうならないように装具といって足首を固定する補助具を小さい頃からずっと(昔は寝るときも)足につけていたのですが、それだけでは防ぎようがなくなってきて、足全体のバランスを少しでも良くするために弱い筋肉を強い筋肉と場所を取り替えたり、強すぎる筋を弱い方へぐるりと回して足の指の骨にくくりつけたり、腰から切って持ってきた骨のかけらを足の骨の間に挟み込んで足の向きを変えたりしました。いちばん最近の手術は、足のアンバランスによって足の骨が股関節から抜けてしまう可能性が出てきたために、脱落しないように太もも部分の足と股関節のそれぞれの骨を削ったり、形を変えてくっつけたりする大きな手術でした。

 このような病気を持つと、いかに人の身体というものが精妙につくられ、そして微妙なバランスで、複雑にからみあって成り立っているかが思い知らされます。ほんのひとつ歯車がうまく回らないだけで、他のいろいろな歯車がいっせいに狂ってきてしまうのです。そんな厳しい条件を与えられた中で、紫乃は精一杯頑張ってきたし、いまも精一杯頑張っていると親の私は思っています。身体が自由に動かないということは、ときに心さえも自由に動かすことが困難に思えてしまうときもあります。

 もちろん学校生活のさまざまな場面で必要以上に特別扱いをすることはまったく不要ですし、本人もそれは望んでいないでしょう。数年後に社会へ出て行くのと同じように、基本的には彼女はじぶんのことは極力一人でしていかなくてはなりません。(障害を持った人間に対する偏見も含めて) ただ紫乃が置かれている医学的な状況を少しでもみなさんが理解してくれたら、その理解してくれていることだけで彼女の学校生活の大きな一助になると思います。

 どうぞよろしくお願いします。

2014.12.16

 

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 月曜の休日。朝から子を車で学校へ送りにいき、帰ってから役所でETCの障害者割引の変更手続きや銀行で車の代金の振込みなどで忙しく過ごし、Yの用意してくれたお昼を食べてからソファーでうとうとしていたら仕事から帰ってきたYに起こされた。子が学校で粗相をしてしまったという。二人で車で学校へ向かい、子が部活動を終える少し前の応接室で担任のI先生、学級担任のM先生、それに保健の先生の三人とお話をした。その日は二時間ほどテストの答案返却があって三時間目からクリスマス会―――小講堂で講演を聴き、クラスへもどってお茶とお菓子というスケジュールだった。小講堂へ行く前にI先生がトイレに行っておいたらと声をかけたのだが本人が「大丈夫です」と言うのでそのまま車椅子で移動した。小講堂も寒かったろうし、クラスに帰ってきて紅茶を飲んだのも影響したのだろう。クリスマス会が終わるのを待ちきれないように廊下へ出た子に近寄った先生に子がトイレへ行きたい旨を言い、それから声をひそめて「もしかしたら漏らしてしまったかも知れない」と言ったらしい。トイレで保健の先生が持ってきてくれた着替えに履き替えて、しばらく保健室にいた。その後でクラスの掃除の際にI先生が教室の床に小さくはない水溜りができているのを見つけて「誰だ、紅茶をこぼしたのは」と言ってみずからモップで拭き始めたら、そばにいた生徒の二人が「ちがうんじゃないの」とひそひそ声で話しているのが聴こえてはたと気がついた。先生たちはその二人以外はたぶん誰も気がついていないし、子も床まで濡らしてしまったとは思っていないだろうと仰ったが、わたしはそれは甘過ぎる状況判断で、おそらくすでにクラス中に話は広まっているだろうし、隠すことで解決しようというのは根本的に間違っていると思うという意見だった。「そもそもいまさらですが、子の病気のことをクラスの子どもたちはどの程度知っているのでしょうか?」との問いに、返ってきたのは「詳しいことはほとんど知らない」という答えだった。わたしは上原善広が「路地の教室」で書いていた、かつての同和教育の中で「立場宣言」という、じぶんが部落民であるとか朝鮮人であるとか、親が離婚していて母子家庭だとか家がひどく貧しいとか、そうした境遇を発表することによって互いの理解がふかまるきっかけになったという授業の話を持ち出して(セッティングには高度のお膳立てや配慮が要求されるけれど)、子はじぶんで定期的にトイレへ行くなどの自己管理が必要だが、起こってしまったことについてはそれは病気なのだから仕方がないとひらきなおる強さも必要だとわたしは思っている。もしわたしがじぶんのクラスに病気や障害を持った子がいたら、その子のことを理解するのに情報が欲しいと思うだろう。蓋をしようとしたらかえって尾びれがついて広がるだけです。必要なのは理解で、理解のためにはある程度オープンな情報が必要なのではないでしょうか? もし何でしたらわたしがクラスのみなさんの前で話をさせてもらってもいいがとわたしは主張し、それに対して先生方は「それはまず紫乃さん自身の了解を得てからですね・・」とやや及び腰であったので、子の気持ちが落ち着いただろう翌日の昨日、子にまず部活のみんなに知ってもらっていいかという話をして本人の同意を得て、さっそくその夜、食事を終えてから寝るまでのわずかな時間にPCに向かって書き上げたのが昨日の文章だった。分かりやすく、長くなり過ぎず、そして子のひそかなプライドのため媚びずに、とひそかに思いながら書いた。

2014.12.17

 

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 終業式までの二日間は、やっぱり学校へ行けなかった。「じぶんが情けない」と泣いた。

 今日は高校の演劇部の近畿大会が奈良の田原本―――鍵・唐古の弥生集落の跡地に建てられたホールであり、車椅子故わたしも子と同行し、朝から夕方まで高校生たちの演じる舞台を見学した。ホールにはいつか新聞で載った、あまりの巨大さに転用を断念し埋められたままの柱の一部が展示されており、はるか二千年前のそのホゾ穴の加工跡をわたしは舐めるように見つめた。巨大なケヤキの胴体に巨大なホゾ穴を穿ったのはあのジョン・ヘンリーだったかも知れない。午前に二校、午後に二校の公演があり〆は地元奈良のろう学校の生徒さんたちの熱演だった。声を出せない者たちが声を出せる者たちよりも声が届くという不思議について考える。終了後、子とおなじようにかつて“保健室組”でいまは大阪の高校へ進学したS先輩を郡山の駅まで車で送った。後部座席での二人の会話を聞くともなしに聞いているとなかなかに屈折している。しかし先輩の宣う「まわりがみんなヘンな人ばかりの中では、まともな人間は常にマイノリティだ」というコトバは、いつかどこかで聞いた文句ではなかったか。そういう意味ではわが子もわが子らしく案外、正しい道を歩んでいるのかも知れないなぞと。

2014.12.27

 

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 外へ出たがらない子をなかば無理に誘って日帰りでYの実家へ餅つきへ行く。“餅つき”といっても、昔はじっさいに石臼と杵を使ったらしいが、いまは餅つきの機械がやってくれる。それを餅とり粉の上でちぎって、まるめて、神棚に捧げる鏡餅にしたり、一口大の丸餅にして並べたり、餡ころ餅にしたりという作業を台所でしながら、ひさしぶりに集まった姉妹や親戚で雑談をする。8時半頃に奈良を出発して10時半頃に着いた頃にはもう仏壇の間の畳の上に敷いた紙の上に幾十ものお餅が並んでいて、搗き立てをさっそく食べろときな粉でまぶした大きな丸餅を皿に盛って呉れた。子も含めてみんなはこのきな粉が定番らしいが、わたしは二つ食って、もっとどうかと勧められた頃には海苔と醤油で食べたくなって、それを言うと「やっぱり関東かね」と驚かれた。ところでこの和歌山のYの実家。子が小さい頃はしょっちゅう来て泊まったりしていたものだが、子が中学受験をする時分から公私共に慌しくなってきて、なんだかんだと子は2年ぶり、わたしに至っては3年ぶりくらいのご無沙汰であった。今回ももともとはYが一人で来るつもりであったのが、わたしも急遽休みが取れたので、じゃあ子も誘ってひさしぶりに家族三人でということになり、久しぶりだから土曜の夜から行って一泊しようとわたしは提案したのだが、泊まるとなるともう高齢になった義母が布団などを用意するのが難儀だからとYの意見で日帰りとなったのだった。毎年送ってくれた蜜柑も、もう裏山の畑に行くのが大変だからとこの冬限りで蜜柑の木の手入れもやめてしまう。子が「すっかり(一人前の)お嬢さんになった」と言われる代わりに、義父母たちはそんな年齢になってきた。高倉健も植木等も死んでしまうわけだ。そんなひさしぶりの和歌山なのに、子はひとりで移動できない不自由さもあってか、お餅と奈良から持っていった柿の葉寿司の昼食も済み、お餅がひととおりできあがった頃にもう帰りたい、帰ってパソコンで演劇の脚本を書きたい、ネットにつながっていたい、なぞと言い出した。それだけではない、たぶん複数の人と接するのも、やはりまだ精神的な負担なのだろう。仕方がない。まるめたばかりのお餅を始め、義母があらかじめ用意していてくれた黒豆や蜜柑や魚などを車に積んで、帰り際にいつもの恒例の釜揚げしらすをYの同級生が働いているという店で買って、夕方の6時前に帰ってきた。夕食はしらすをご飯にたっぷり乗せて醤油を垂らしたしらすご飯と、親類宅が舟で釣ってきたサゴシ(狭腰)の刺身。

米としらすの大道商店 https://www.facebook.com/kome.sirasu.oomichi.co.jp

2014.12.28

 

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 師走です。通りも電車の中も、世間はすっかりお正月ムードだが、こちらは逆に1月の三連休が終わるまではあまりのんびりはできない。ここ十年来、そんな生活だからもう馴れっこであるけれど、今日は午前中、月末の家賃の支払いが足りなくなって少しばかり前借できないかという60代の隊員さんがふらりと会社にやってきた。昼からは、離婚して小学生の娘さんと離れ離れになったばかりという40代の男性の面接をした。いつもより少し早めに家に帰って、Yの実家からもらってきたカレイの唐揚げの夕食を済ませてジップの散歩をしてから、ちょうどテレビの部屋で浣腸を終えた子を誘ってテレビで映画「犬神家の一族」を見た。コナン好きの子ははじめて見る金田一耕助のキャラクターが気に入ったらしい。来年は、彼女が学校に復帰できたらいいなと思う。クラスの多数に馴染めないなら馴染まなくてもいい。どうせ一生、そうなんだから。けれどそんな中でじぶんの居場所が見つけられたらいいなと思う。世界の中へじぶんの居場所を探しにいく勇気を持って欲しい。世間なんてどうせ大したことはない。けれど世界は、まだまだ捨てたものでもないかも知れない。世界が、この国が、この先どうなるのか分からない。きな臭い方向へ滑り落ちていっている気もするし、案外とさまざまの茶番劇の終わりの始まりなのかも知れない。エンデさん風にいうならば、「世界を言い当てるうまいコトバがまだ見つかっていない」 それだけのことなのかも知れない。

 もう16年もむかしに書いた拙い一文に添えたこんなエピソードを、もういちどここに再登場させよう。そしてもういちど記そう。「願わくばわれわれひとりひとりがその小さな領土において、百匹目の猿たらんことを。」と。

 

 日本近海には多くの小さな島が点在している。そのうちのいくつかの島に棲みついている日本猿の群の生態が、ここ二十年来たえまなく観察されてきた。科学者たちが補足的な食べ物を与えることもあったが、猿たち自身、自分で掘ったさつまいもを土のついたまま食べていた。

 この行儀の悪い食べ方は、何年も変わらずにつづいていたが、ある日、一匹の雄猿が、その伝統を破った。食べる前にいもを海にもっていって洗ったのである。彼は母猿にそのやり方を教え、母猿は当時のつれそいにそれをやってみせた。こうして、その文化は群全体に伝わり、いわば百匹中九十九匹までがいもを洗って食べるようになった。

 そして、ある火曜日の朝十一時、最後に残った百匹目の猿がその習慣を身につけた。それから一時間もたたぬうちに、それまで食物を洗うそぶりも見せなかった、海をへだてた他の二つの島に棲む猿の群の間にも、その習慣が現れはじめたのである。

 人間の社会でも、種々の思想は同じようにしてひろがるものと私は信ずる。多くの人があることを真実とみなすようになると、やがて、それがすべての人の真実となるのだ。それ以外に、いまのわれわれに自由になりそうな限定された時間のなかで、何か意味のある総意に達することなどできないだろう。ローレンス・ブレアもそのことに意義はあるまい。彼は“ひとつの神話は、大多数の人々に共有されたとき、現実となる”といっている。

(ライアル・ワトソン / ローレンス・ブレア『超自然学』に寄せた序文)

2014.12.30

 

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 昼間は虚仮。夜更けに白洲正子と600年前の申楽師についての思考を遊ばせている。若しくは足元に飼い犬が寝そべった灯油ストーブの前で束の間揺り椅子に包まれ、熊野の炭焼き人の本の頁をめくっている。ことしはじぶんにもっともっと素直になりたい。

2015.1.1

 

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 元旦は京都の某商業施設で早朝から福袋待ち列の整理で立っていた。2日〜4日はまた別の某商業施設のエスカレーター前で「立ち止まらないで下さい」を一日連呼していた。5日は午後から複数の契約先へ年頭の挨拶など。そしてやっと、とりあえず一日だけ休日。今日は始業式前の学校へ子の送迎。数日後の保育園児たちの前で行う芝居のための演劇部の練習の追い込み。帰ってきて、カーナビと iPhone や iPod の接続設定のQ&Aを電話でサポートセンターへ。昼はYとシチューの残りで。帰りの迎え時間までの小一時間ほどをソファーでうつらうつら。指定時間の2時に迎えに行けど、実際の終了は3時近く。帰っていっしょに宿題をやるという友だちのHちゃんも乗せて帰宅。英語の勉強を再開したいというYのリクエストで子の使わなくなった iPod mini に Podcast の英会話講座を入れてあげる。夕飯はわたしがひさしぶりにトマトとクリームソースのパスタと冷蔵品のピッツァ。食後、片付けをしているYに、このごろまた読み返している宇江敏勝氏の「山の木のひとりごと」(新宿書房)の数頁を読んで聞かせる。かつての山村での旧正月の過ごし方や、里の近親の死亡を山仕事の現場へ知らせる死飛脚の話など。そうしてジップの頭を撫でながら、今日はこれから近所の銭湯へ行こうかなあなぞと考えている内にまた眠ってしまい、「お風呂へ行ってくださいよ」と起こされるともう夜の10時過ぎだ。そんなこんなで休日の一日はあっという間に終わってしまう。

 明日は子はいよいよ始業式。あさってはオーダーしていた車椅子が出来上がってくる。

2015.1.6

 

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 年末から働き続けて、やっとお正月休み。今日から5日間。朝、車で子を学校へ送ってから、帰ってきて書斎のストーブに火をつけ、コーヒーを淹れ、コンポでカーター・ファミリーのCDをかける。ストーブの前ではジップがまるくなっている。

 三連休は某商業施設でバーゲンのエスカレーター対応。ひさしぶりに制服を着て、一般の隊員さんとおなじように現場に立つのも悪くはない。時給850円で働いていたむかしを思い出す。チビがまだ小さかった頃。お金はなかったけれど、楽しい毎日だったな。仕合せはお金では買えないのだ。ビートルズがそう言っている。エスカレーターのはたに立って一日中、「いらっしゃいませ」「足元にご注意ください」を言い続ける。ほんとうに混んできて、それこそ将棋倒しでも発生しそうなくらいになったら僕らの本領発揮なのだけれど、そうならなければ、いわばお飾りのようなもの。それでも仕事だから言い続けなければならない。こんな仕事に意味はあるのか。意味はないかも知れないが仕事は仕事だ。声を出し続けながら、人間観察にはちょうどいい。恋人たち、家族連れ、おばちゃん連中、友だち、服のセンスのいい人悪い人、暗い表情の人、はしゃぎまわっている人・・・ 「いらっしゃいませ」 声をかけてもたいていの人は知らん振りだが、50人にひとりくらい、お辞儀を返してくれる人がいる。多くは田舎から出てきたような年配のおじさんやおばさんが多い。たまに中年の白人、そしてごくたまに若い美人の女性(キレイな女性はたいていつんけんしているが、稀に吉永小百合のような希少種のひともいて、なんとなく性格が知れる)。反応を返してくれたらそれはそれで嬉しいが、何も返ってこなくとも別段構わない。そうしてたくさんの人たちが通り過ぎていくのを眺めながら(たぶん一日一万人以上の人たちの顔とふるまい)、このひとたちの誰もが仕合せになれる社会というものは実現するのだろうかといったことを漠然と考えていたりもする。少数の人間が、と真逆のことを考えているときもある。電車の窓から流れていく町並みを眺めながら、<現在>しか見えていない多くの人間たちにとって目の前の風景は疑いようもない堅固な世界であろうが、たとえば親鸞やイエスやフランチェスコたちから見ればしょせんは泡のような世界に映るのだろうと思う。最新技術で建てた高層ビルやアスファルトの道路や高速道路が津波や地震のようなこの星のいわばホンのくしゃみひとつで剥がれてしまう地面の上の薄皮であるように。じぶんが立っている世界をなんと見るかによって、その人の<欲望>も変わってくるはずだ。わたしはいつも「泡のような世界」の透ける向こう側のことをかんがえてきた。ひとはどこからきて、どこへかえっていくのか。じぶんは野暮ったい、不器用な人間なのだと思う。

 通勤電車の中で読んでいるリチャード・ドーキンス「遺伝子の川」(草思社文庫)によれば、もろもろの思いや感情を秘めてエスカレーターで運ばれていくわたしたちはその誰もが、みずからの抱え持つ遺伝子情報をコピーし伝える巧妙なデジタル・データ・システムの無数の寄せ集めであり、たとえば「あなたの人生で真に最も重要なのは、誕生でも結婚でも死でもなく、原腸形成である」というようなものだ。それらをわたしは「サイエンスによる世界の透かし方」のひとつとして面白く読むわけだけれど、たとえばかれ(ドーキンス)がみずからの主張に同意しないある種の人々へこんなふうに噛みつくくだりには少々眉をひそめてしまう。

 地上三万フィートの上空で文化的相対主義者を紹介してくれれば、その化けの皮をはがして見せよう。科学的な原理にしたがっで建造された飛行機は空を飛べる。それは上空を移動して、選ばれた目的地まであなたがたを運ぶ。部族のあるいは神話体系の仕様にしたがってつくられた飛行機、たとえばジャングルの伐採地のカーゴカルト(積荷崇拝者。ニューギニアなどに見られる宗教運動で、白人が舟や飛行機でもたらす積荷は神の贈り物で、本来自分たちのものだとする。そのため、まがい飛行機を作って積荷を待ち受けたりもする)のまがい飛行機やイカルスの蜜蝋の翼ではそうはいかない。あなたが人類学者や文芸批評家の国際会議へ飛行機で行くとして、耕された畑に墜落もせず、おそらくそこに到着できる理由は、西欧科学の教育を受けた大勢のエンジニアたちの計算が正しかったからだ。西欧科学は月が地球から二五万マイル離れた軌道を描いて回っているという確かな証拠にのっとって、西欧で設計されたコンピュータとロケットを使い、人びとを月面に立たせることに成功した。月は樹の少し上にひっかかっでいると信ずる部族の科学は、決して夢のなか以外では月に触れることはないだろう。

 科学が宗教と共通しているところは、生命や宇宙の起源や本質に関する奥深い問いに答えるものだと主張することである。しかし、似ているのはそこまでである。科学的信念には証拠という支えがあり、成果を生むものである。神話や信仰にはそれがなく、成果を生むこともない。

リチャード・ドーキンス「遺伝子の川」(草思社文庫)

 

 こうまで言われると正直、わたしは折角のこの興味深い著書をもう永遠に閉じてしまおうかとさえ思ってしまう。かれのサイエンスに対する「信仰」はそれはそれで立派なものだと思うが、かれに決定的に欠けているのは、かれが見ている世界は「泡のひとつ」あるいは「泡の一面」に過ぎないということだ。月が樹の少し上にひっかかっていると信ずる部族の人々の世界は、けっして成果を生まないわけではない。それはたとえばロバート・ジョンスンの歌うブルースをたんなる音響の位相によるデジタル・データに変換してCDに焼き、どこかの星のコンピュータ言語でソースを読み解いて「これらのノイズには特別の意味はない」と結論するようなものだ。

 書斎の灯油ストーブの前でジップが「の」の字になってまどろんでいる。ことしの冬はそんな風景の中で、和歌山の敬愛する山びとである宇江敏勝氏の著書をひさしぶりに読み返したことが心に残っている。そして Web で偶然、かれの「炭焼日記」を原作にした漫画を見つけたことも嬉しかった(武野繁泰「炭焼物語」(青林堂)―――ずっと手元に置いておきたい良い作品である)。この宇江敏勝という作家を貪るように読んだのは20代のはじめ頃だ。どうして知ったのか分からないが、「熊野」というキーワードから発見したのだろう。わたしは当時、実家でなかば引きこもりのように恥をさらして生きていた。出かけるときは250ccの単車に乗って、北関東の人のいない渓流や低山のふところへ分け入り、夜には人気のないさみしい川原で焚き火をして、夜遅くに家へ戻った。わたしの唯一の希望は、炭焼きになって人間には誰も会わずに山々を転々とする生活であった。そのような生活なら、わたしにもあるいは生きていけるかもしれないと思ったのだった。「社会や、人間関係を自分から突き放し、そこからなるべく遠くへだたっていようという意識が、私のどこかにあるのだと思う。それはいまに始まったことではなく、ずっと若い時分から、もしかしたら幼いころから培われた性質であるかも知れない、と思いあたるふしさえある。世を捨てるには山の中に入るのがもっとも手っ取り早く、そして有効な方法だ。それはまた世から捨てられるということでもある」

 夜はおそくまで炭窯の火を継ぐために起きている。木は二時間ぐらい間をおいてくべに行けば足りるが、小屋の中にいても仕方ないから、窯の入口へ行って薪の上に腰をおろして火番をする。うつらうつらしながら火を見つめている。
 窯の入口のそこだけが明るくて、じっとしてると、山の暗闇がびしひしととり囲んで迫ってくる。谷の流れの音が闇の底から響いてくる。また河鹿が鳴いている。じっと坐っていると、心は誰かを待っているかのように動いていく。誰かが前ぶれもなく訪れて来そうな、そんな気になったりする。もちろん誰も来はしない。
 誰も来るはずはないとわかっているから、それではと、山の中に凄んでいるかも知れない草木やけものの妖精が訪れてくるというふうに、とりとめもなく空想が動いていく。むかし読んだ小泉八雲の『怪談』という小説の中に、旅していた男が、わびしい山の中のあばら屋に住んでいる美しい娘を見染めて夫婦になるが、実はその娘は柳の木の精だったという話があった。 「青やなぎ」とかいう物語だった。そういう話が妙に現実味をおびて思われる。炭焼きなどして山小屋で住むようになって以来、もう六年にもなるのに、山に一人いるとついそのような空想に耽りがちだ。春や夏に訪れてくるのには蛇や蟻やといったものの妖精もある。ほかにも日本の昔ばなLや『支那怪奇小説集』という古い埃くさい本の中には、そういう空想のネタがいくらでもあった。
 雪の降る晩には、雪女を夢想した。雪が入口や壁の隙間から舞い込んで、寝ている蒲団や頬に降りかかり、吹雪に山が不気味に鳴りわたっている夜ふけ、柴の戸を開けるともなく雪女はそこに立っているのだ。私はそのようあざやかな幻想を、もう幾年となく持ち続けている。現実の女に対してよりも、人間以外のそういった女人によせる憧憬の方が強いくらいだ。雪女も青やなぎもいまだに自分の前に立ち現れないが、それは胸の中に生きつづける永遠なるものの一つである。
 火の音がする。ふかい窯の奥に渦巻いている火の音が地の底からのように響く。

宇江敏勝「炭焼日記」(新宿書房)

 

 また、こんな死飛脚の話はどうだろう。

 飛脚という単語を、私どもほまだ現実に使うことがある。かんたんに言えば、里から山へ急な用件を知らせに行くことで、「山飛脚(やまびきゃく)」などとも呼ばれている。
 山飛脚は、それを受ける側からすれば歓迎すべき性質のものではない。たいていは予期しない突発的な知らせが多いからである。へんぴな山中では仕事仲間のほかほめったに訪れる者もなく、そもそも人に出会うことすら珍しい。だからまれにこちらに向かってくる人影を見ると、期待感とともになんとなく不安を覚える。ただごとではない、という感じがするのだ。
 ところで私自身そうした飛脚に行ったこともあった。たしか昭和四十五、六年のはなしだが、おなじ里の人が、伐採していた木に跳ねられて死亡したのだ。ところで私が働いていた果無山脈の植林小屋に、Kさんといってその人の義弟がいたのである。里の家に帰っていた私は、自分の仕事仲間であるKさんに訃報を知らせねばならない羽目になった。                
 ところで死を知らせるときは死飛脚(しにぴきやく)といって、一人では行くべきでないとされている。一人きりの飛脚には、よくないことが起きるというのである。で、そのときも死者の近所の人がいっしょに行くことになった。いわば私は勝手知った道の案内役だった。
  私どもの植林小屋は、林道の終着地に車を置き、そこから二時間近くも山道を登り、山脈の尾根を越えた北側にあった。しかも台風到来で、激しい雨が降っていた。われわれは合羽で身を包んでいたが、登るほどに風も強くなり、しだいに暴風雨の様相を呈してきた。稜線の台地にある小屋も、すべての明りを消して、真時闇の中で嵐に吹き晒されていた。私は合羽を脱いで、ほかの男たちが眼を覚まさぬよう、そっと戸を開けた。
 真夜中に不意に起こされ、いきなり兄が死んだといわれて驚かぬ者はないだろう。まして丈夫で今日も明日も働いているはずの人間である。私は小声でKさんを起こし、兄さんが怪我をしたので迎えに来た、と、それだけを普通の調子で話した。
  へえーそうかいよ、Kさんは寝とぼけた声を出して起きた。死んだ、とは私は言わなかったし、Kさんもそれ以上なにも訊かなかった。夜中に里から呼びに来た、というだけで事態は明らかだったのだ。事故の詳しい内容は、私に同行した者が山を下りながら話すだろう。彼らは身支度をして、また暗闇の嵐の中へ出て行き、役目を終えた私は、そのまま小屋に残って寝た。

宇江敏勝「山の木のひとりごと」(新宿書房)

 

 こうした世界ならわたしは生きられる、とわたしは思ってきたし、いまもそう思っている。だからそういう世界の愉しさ・大切さを、わたしは娘に幼い頃から教えてきたので、その娘がこの世界になかなか馴染めないのはさもありなんとも思う。わたしは基本的にひとりが好きなのだ。わたしは我儘な自分勝手の人間なので、家族がいれば、もうそれで充分すぎるほどに充分なのだ。調子のいいときは外へ出て行ってあたらしいいろいろな人と交わりもするが、やがてそれも億劫になってきて、じぶんがかれらに値しないように思われてきて、重たく面倒になってきて、背を向けてしまうのである。子どもが離れて、Yが先に死んだりしたら、わたしはもうこの世界に何の未練もない。そうしたら山へ入って人間には誰にも会わずに暮らして、最後はのたれ死んで野生の動植物たちのわずかな肥やしにでもなったらそれでいい。いわばこのわたしをいまの世界につなぎとめているのは、子とYの二人である。この二人がいなくなったら、繋留綱をほどかれたわたしはもうふらふらと雪女や青やなぎの世界へ行ってしまって二度と戻ってはこれないだろう。

 新学期がはじまってから、子は朝、両親や叔母の車で送られて学校へ行き、保健室で長い時間を過ごし、夕方に待望の演劇部の部活をやってから、また迎えの車に乗って帰ってくる。学校では車椅子である。保健室はほとんど自習だが、たまに授業の合間をぬって英語や数学や社会や国語などの先生たちが教えにきてくれる(ありがたいことだ)。そうして学校へは何とか行けるようになったのだが、クラスへ入るのは相変わらず嫌らしい。今日は夜になってメールかラインで、明日の部活がないことになったのを知り、部屋に上がってきた母に「いつも部活があるから辛抱しているのに、明日は朝、行けるかな」と言ってぼろぼろと涙を流したという。子もまた、雪女や青やなぎの世界の手前で踏ん張っている。

2015.1.15

 

*

 

 今日は予想通り、学校は行けなかった。いつものように体操着に着替えて食事を済ませたけれど、そこから先はだめだった。「いいよ。今日はもう休みな」 そう父に言われて黙って二階へ上がって、じぶんの部屋でしばらく泣いていた。

 その日の夜。枕元でYが、こんな本があるからちょっとさわりを読んでみて、とこちらへ寄越してきた。

80年代の半ば。
 3DKの社宅の壁にはまだ抽象画はなかったし、書棚の本も少なかった。「こどもベや」 と呼ばれたわたしの部屋にはブルーナの小さなたんすがあった。そして 「り――――っ」と、身の毛もよだつ音を立てる赤い目覚まし時計があった。
 南向きの部屋は朝日が射し込み、街路樹のポプラの枝先が見える。小学校一年生のわたしは布団にくるまって、涙をがまんしながら新しい朝におびえる。大嫌いな目覚ましは六時五十分をさしている。母の立てる音が聞こえる。台所で、水道の水を流している。カーテンの隙間から光が漏れている。
 わたしは、死んでしまいたいくらい朝がいやだ。布団を頭からかぶり、目をしっかり閉じる。今にも、短針が、目覚まし用に設定された銀の針に重なろうとしているのが、目をつぶっているのにはっきりと見える。秒読みが始まっている。この瞬間さえ切り抜けられるものなら、「じごくにおちてもいい」とわたしは思う。わたしは自分が生まれた日に戻りたい。もう一度同じ日々を暮らし、育ち、七年経って、今この時を迎えたらまた0歳の赤ん坊に戻るのだ。きつく閉じた両目に涙がにじむ。息を止める。「きゅっ」と水道の栓を止める音がする。一瞬だけ、静寂の間がある。近づいてくる母の足音。わたしの神経をずたずたにする「り――――っ」という耳元の目覚まし。
 わたしの名を呼びながら、母が「こどもべや」に入ってくる。寝たふりを決め込むつもりだったのにもうたまらなくなったわたしは大声で泣き叫ぶ。髪をかきむしり、着ているパジャマを引き千切ろうとし、布団を蹴って、あらん限りの大声で。
がっこういかない。がっこういかない。がっこういかない。おかあさんのばか。おかあさんのばか。おかあさんのばか。
 母はわたしにしがみつく。母は何か言っているがわたしには聞こえない。わたしには自分の声しか聞こえない。母はわたしを押さえつけるように抱きしめる。母はもうそうするしかない。わたしは必死に暴れる。母の腕から抜け出したい。学校に引きずっていかれる恐怖の瞬間を一刻でも先延ばししたいばかりに叫び続ける。おかあさんのばか。おかあさんのばか。おかあさんのばか。なんにもわかってないくせに。なんにもわかってないくせに。
 母の力が強まるとわたしの恐ろしさは最大になる。わたしは全力でもがき、噛み付いて母の手を逃れ、本棚にしがみつく。母が無理に引き離そうとすると子ども用の低い本棚は倒れ、わたしの大好きな絵本が散らばる。『はるかぜのたいこ』『赤ずきん』『力太郎』『ちいさいモモちゃん』。わたしは急激に高まる悲しみを感じる。だってわたしは絵本たちをこんなに愛しているのに。わたしのせいでみんなを痛めつけてしまってごめん。恐怖の涙は悲しみを帯びて熱を増す。熱は怒りに転じる。わたしはころがっていた赤い目覚まし時計を母に向かって力いっぱい投げつける。

 小学校一年生の二学期。わたしが学校を休み始めたころのことだ。
 こんな子どもに、「どうして学校に行かないの?」なんて聞けるだろうか。
 学校に行かない子どもに、「どうして学校に行かないのか」を聞くのは「暴力」だ。
 その質問には、「はんとうは学校に行かなければならないのに」という非難が含まれているし、しかも「それに答えるのはおまえの仕事」とすることで、不登校の子どもに、誰にも助けを求められなくさせ、その子を追いつめてしまう。
 この質問には、大人になった今でもすごくとまどう。
「どうして学校に行かなかったの?」
「不登校した理由を教えて」
いやーわたし実は小学校ほとんど行ってないんだよね、と言うと、必ず聞かれる質問。聞かれるたびに、「めんどくさいな」 と思う。
 どうして学校に行かなかったのかなんて、あのころもわからなかったけど今もわからない。よくわからないことを答えなきゃならないのだから、ほんとうに困ってしまう。
 だって、不登校の理由を聞かれたとたんに、こちらは、
「うちの親がこういう人たちでね、わたし昔からこういうふうに育てられてさー」
 と、「心理」 の言葉で語るか、
「学校って同じ年齢の人が同じ教室に集められて同じことするでしょ。そういう学校のシステムってやっぱりおかしいと思うんだよ」
 と、「社会」 の言葉で語るか、
「そのときの担任がすごく感情的に叱る人で」 「クラスにいじめがあったの」
 と、「教育」 の言葉で語るか、そのどれかしかなくなってしまうのだ。
 どれかを話せば相手が 「ふーん」 と神妙な顔で納得することはわかっているのだけど、それらの言葉を口にしたとたんに、自分の経験がものすごくウソくさい陳腐なものに思えてきて、イヤになる。言葉ばかりがどんどん遠くに行ってしまって、どんな言葉で説明しても、「わたしの不登校はそんなんじゃない」と思う。
 わたしは、小学校一年生という、とても早いうちに学校に行かなくなったが、いじめとか体罰とか、そういう直接のきっかけはなかった。ただ「行きたくない!」という気持ちだけが半端じゃなく強くあった。
「不登校」 っていうと、「特別な子がすること」という気がするかもしれないけど、でも、学校に行きたくない気持ちなんて、べつに特別なもんじゃないと思う。だって、学校に行ってる子どもたちだって、不登校の子を非難するのに「ずる休み」という言葉を使うもんね。そこにあるのは「うらやましさ」と「ねたみ」だ。僕だって学校なんか行きたくない、けどがまんして行っているんだ、みんながまんして行っているのにひとりだけ「ずる」 は許さない、という思い。
 不登校の子どもは学校に傷つけられるけど、学校に行っている子は学校と不登校の両方に傷つけられる。不登校は、「学校に行かない」という選択肢を見せつけることで、学校に行っているすべての子どもたちの 「がまん」を侮辱する行いだ。
「行きたくないのにがまんして」学校に行ってる子どもが、どれほどいることだろう。そうではない子どものほうがめずらしいくらいだ。
 けれども、世の中の人びとは「子どもは学校に行くものだ」と心の底から信じているから、「行きたくない」と騒いだくらいでは不登校を許してはくれない。そこですじ金入りの子どもは発熱、おう吐、げり、チックなど身体症状で戦いを挑むことにな
る。
 親はびっくり。なだめすかし、叱咤激励、おどし、追いつめ、泣き落とし、慌てふためいた末に 「学校よりは命が大事」、アホか! とも思うそんなあたりまえのことに大人が気づいてようやく、不登校は認められるのだ。
 学校に「行く」と「行かない」は、正反対の違いではなくて、「程度の差」 に過ぎない。いじめとか体罰とか、説明しやすいきっかけを持っている人もいるけれど、それだって、ある意味では多かれ少なかれみんな学校という制度にいじめられたり暴力をふるわれたりしているのだから、「程度の差」だとあえて言いたい。いじめの加害者だって、大きく見れば被害者なのだ。そして、もっとも力の弱いところに被害が集中していくおぞましい構造がある。
「グレーゾーン」とか「不登校気分」とかいう言葉がある。不登校研究で有名な森田洋司さんという社会学者が、「学校に行くと行かないは紙一重、今は何とか行っているけどいつ行かなくなるかわからないグレーゾーンの子どもがたくさんいる」 という研究を発表している。
 わたしはこれに大共感。だけど問題はその先。だったら、どうなんだ?
 一九九〇年代の文部省の対応は、「そうか、今現在不登校になっている子どもだけ見ていてもだめなんだ。不登校予備軍にも注意を向けなければならない。不登校根絶には、早期発見、早期対応が必要だ」というものだった。
  だけど、重要なのはそんなことじやない。
  「どうして学校に行きたくないの?」
  それはきっと、誰でもみんなが知っている。人に聞く前に自分で考えてみてほしい。
  学校に行ったあなただって、「行きたくない」 と思った経験があるはずで、不登校の問題を「自分の問題」 として考えることが、きっとできると思うから。

貴戸理恵・常野雄次郎「不登校 選んだわけじゃないんだぜ!」(理論社)

 

2015.1.16

 

*

 

 18日の日曜は子を連れて、わたしの友人のEちゃんと神戸ハーバーランドで10年ぶりの再会。Eちゃんとは大学のスクーリングで知り合った。生まれながら神経筋疾患の病気を持っていて、ずっと車椅子の生活だが、いまは24時間の介助を受けながらの自立生活をしながら、障害者の介助に関わるセンターの運営やピュア・カウンセリング講演活動などを行っている。知り合ったときからそうだったけれど、とてもポジティブで、聡明で、刺激的で、チャーミングな女性。わたしはずっとそんな彼女を尊敬してきた。長いこと年賀状の挨拶だけだったのが今回、子がいろいろと問題をかかえていることなどもあって、久しぶりの再会の手はずとなったのだった。(子がまだ幼稚園も行っていない頃に一度奈良のホテルの喫茶店で会ったことがあり、「いつかこの子のことでEちゃんのサポートが必要なときが来るだろうから、そのときは・・」と話していた)

 当日は子のリクエストもあって、神戸港の45分クルージングで潮風にたっぷり吹かれてから、モザイクへ移動して、Eちゃん、そして介助のNちゃんの二人と合流し、まずはチーズケーキの美味しいという喫茶店へ入った。10年ぶりのEちゃんは(お互い様に歳も重ねて)、車椅子に乗ったどこぞの国の民主化運動の学者・女史といった風情だったね。介助のNちゃんはEちゃんたちが運営する自立センターの職員として働いているまだ20代の女性で、年齢が近いせいか夢小説やボカロや戦国バサラなど、子と共通の話題がたくさんで、お互いにラインのIDを教え合うまで盛り上がって、子も愉しそうだった。喫茶店に3時間ほどいて、「お腹が減ったね」と次におなじモザイク内のイタリアンの店へ移動。そこで介助者は4月から小学校の先生になるTちゃんに交代。そこで閉店間際までいて、最後は神戸港の夜景やモザイクのライトアップされた観覧車などを眺めて、夜中近くに帰宅したのだった。翌日、民主化運動女史からこんなメールを頂いた。

昨日は遠いところ、来てくれてありがとう。
楽しかったです。
ほんとに10年、20年のギャップも感じず、いろいろ話せてよかったです。

しのちゃんは力強く賢い人ですね。14歳にして自分の人生のリーダーシップをとっていく姿が素敵でした。
それと、お父さんとしての○○くんのナイスサポートぶりもみられてうれしかったです。
若かったころから社会の常識に流されずに生きててたことが活かされてる感じですね。
魅力的な親子だなぁと思いました。

沖浦先生の本、読んでみます!
おもしろそう。

では、次の機会も楽しみにしてます。

 10年ぶりの会話で話したのは子の不登校のこと、Eちゃんたちの活動のこと、障害者差別や国との交渉のこと、そしてわたしの好きな沖浦先生の著作に代表される被差別の民衆文化のこと・・・ などもろもろ。

 子の学校の話になり、驚いた、というか、あらためて目を開かされた思いがしたのは、Eちゃんも介助の若いNちゃんも、「学校なんか無理して行く必要はぜんぜんないじゃん」という、その至極当然といった反応であった。自身も高校の卒業間近に不登校になったという介助のNちゃんいわく、「人の悪口で成り立っている人間関係の中に入っていきたくなかったし、そこに“乗れない”自分も居続けることが耐え難い。さらにそうしたじぶんのために、仲の良い友だちまで(差別の)対象となってしまうのが嫌だった」から、学校へ行かなくなった・行けなくなった。だから「そんなところに無理して入って癒えない傷をつくるのだったら、そこへ加わらない選択のほうがずっと賢い」。子のこれまでの経緯をひととおり聞いたEちゃんなどは、「紫乃ちゃんはいま、すごくいい状況だね。じぶんにいいものだけをちゃんと選んでいる。問題は(出席日数や高校になってからの単位など現実面で)この状況をどうやったらキープしていけるか、ということだね」などと仰る。それがたぶん、翌日にEちゃんがメールで書いてきた「14歳にして自分の人生のリーダーシップをとっていく姿」ということなのだろう。けれども正直な話、何だかんだといって親のわたしはまだまだ「常識」に囚われている部分が(無意識の部分も含めて)あるのだろうと思う(妹夫婦が奈良で家を探しているときに部落の問題がもちあがったときもそれを感じて、羞じた)。え? いまの状況をキープする?? 人と同じ学校生活を送れないいまの状況を???  わたしも子に対しては平凡な人の親である。子のことを理解しているとは思っていても、心のどこかで「他の子どもたちとおなじような学校生活へ戻る」ことがゴールだと(ひそかに)思っていた。それをEちゃんも介助の若いNちゃんも、ひょいと、あっけなく跳び越えてしまう。学校? 行かなくてもいいじゃない。(じぶんを殺してまで)どうしても行かなくちゃいけない理由なんて、あるの?  

 重量が100キロは優にあるというごっつい電動車椅子に女王のように座ったEちゃんの顔をあらためてまじまじと見る。やっぱりこの人はすごい。むかしとおんなじだ、とわたしは女王陛下の記憶を取り戻した記憶喪失の患者のように思う。電動車椅子には改造が加えられていて、おなじ姿勢で座っているのを避けるために、電動のリクライニング機能もついているのだ。つまりそのくらい、じぶんの身体を動かすことが儘ならないということだ。お箸で食事を取ることは出来るが、ちいさいものでないと食べれないので、(ケーキなどは)介助のNちゃんが持参のキッチン鋏で一口サイズに切る。お箸をケースから出したり、軽く拭いて仕舞うのも介助者の役目だ。「紫乃ちゃんのお父さんがね、大学のスクーリングではじめてわたしに会ったときのことを教えてあげようか?」 Eちゃんが子に言う。「こうやって車椅子に乗っていると、みんなどうやって接していいか分からなかったり遠慮したりして、けっこう誰も話しかけたりする人はいないのね」 「でも紫乃ちゃんのお父さんはね、“(車椅子に乗っていて)なんだか面白そうだから話をしよう”って声をかけてきたの」 「えー、そうだったかな」とわたし。「ぜんぜん覚えてないぞ・・」  「それでわたしは、この人はなんかすごいなーって思ったの」 「スクーリングの間、そうしてわたしは英語を、紫乃ちゃんのお父さんは仏教学を、お互いに得意分野をヘルプし合ったのよ」 

 帰りの車の中で、神戸の高速道路を飛ばしながら、子といろいろな話をした。子は三つ目のテープを剥がされた写楽のようだった。ちょっと興奮して、Eちゃんんのことを「すごい人だね」と言った。わたしたちが障害者運動や被差別部落のことなどを話し合っている間も、子はわたしの隣で飽きもせずじっと聞いていたのだった。そして、いっしょに愉しんでいた。介助者のNちゃんやTちゃんとも友だちのように話していた。子は子で、いろんなことを学んだと思う。学校とは違う場所のあることを学んだ。わたしは子を、こういう場所へもっともっと誘いたい。勇気ある、魅力的な人が、人生と格闘しエンジョイしている、そんな会話の飛び交う場所へ。「来月、自立センターの新年会があるんだけど、紫乃ちゃんといっしょにどう?」と帰り際にEちゃんが誘ってくれた。子の部活の絡みで分からないが、今後もEちゃんのところへ機会をつくって子を連れて行こうと思う。Eちゃんたちの活動で子が手伝えることもたくさんあると言う。

 翌日、Eちゃんがくれた自費出版の小冊子を何気なく読んでいて、Eちゃんがじぶんの亡くなったお母さんに宛てて書いた文章を見つけた。Eちゃんのお母さんは、わたしも何度かお会いしたことがある。世の中のいろいろなものと戦って、ときには愛する肉親とも格闘して、「自分の人生のリーダーシップをとっていく姿」とは、Eちゃん自身のことであった。

 

お母さんへ

「お母さんありがとう」
この言葉を、お母さんが生きている間にもっとたくさん伝えたかったなと今さらながら思います。
「私がえっちゃんの足になるわ」
その言葉の通り、毎日毎日、送り迎えしてくれてありがとう。
学夜に行くのも、英会話に行くのも、ボランティアに行くのも、友だちと遊びに行くのも、いつもいつも送り迎えをしてくれたね。
どんなに忙しいときも、私の用事を優先してくれた。
あまりにも私を優先させるから、たぷん、お父さんがちょっとやきもちやいてたよ。
私は、おそらく、お母さんが初めて接した障害者だよね。
お母さんは、「障害」についてなんにも知らなかった。
私が三歳のときに、障害がわかって、しかも、17歳くらいまでしか生きられないと告げられて、すごいショックだっただろうね。
今なら忠告してあげられるのに。
お医者きんが何て言っても、どうなるかなんてわからないよ。
だって私は、40歳をすぎて、まだまだ元気です。
そして、毎日、楽しく暮らしてるよ。

小さい項は、検査のために遠くの病院に通ったよね。
そのたび、幼い私が血をとられたり、痛い思いをするのがかわいそうって思ったのか、いつも帰りにとんかつを食べて、おもちゃやレコードを貰ってもらったのを覚えています。
確かに、病院は好きじゃなかったよ。大学、病院は暗くて、寒くて、怖い場所だった。
でも、そのうち通わなくなったんだよね。
あのときは、治らないってことで、もうひらきなおったの?
理由はわからないけど、結果的に、ほんとに素敵な判断だったよ。
おかげで、私も余分な知識は何も待たずに育ちました。
知ってる? 病院で、私の障害は、「風邪をひいたら命取り」だとか言われて、とても脅されるらしいよ。
私は何も知らなかったし、「身体が弱い」なんてまったく思わずに育つことが出来ました。
今も、風邪をひいても必ず治るから、あんまり怖くないよ。

私が自立を宣言したのは、お父さんのお葬式の夜だったね。
あとから聞いたけど、「お父さんが死んでショックなのに、娘からも見放されてショックだった」らしいね。
私は、お父さんや私のせいでずっと時間を取られてきたお母さんに、「これからは、お父さんのことも私のことも考えなくていいから、自分の人生を自由に歩んでね」って言ったつもりだったんだけどなぁ。

でも、結局、自立の準備をいっぱい手伝ってくれたね。
あの頃の私はとても忙しかったから、新しい家を掃除しに来たり、ガスや電気がつく日に代わりに立ち合ってくれたり…。
自立の直前になると、お母さんが買ってきたお皿やコップやなべ、調理器具やらで段ボールがいっぱいになってたよね。

そして、引越しの当日。
「しんどくなったら、いつでも帰っておいで」と送り出してくれた。
いつもいつも温かく見守ってくれてありがとう。
お母さんのまなざしのおかげで、私は安心して自由に冒険することができました。
何年もたってから「あんた、ほんまに帰ってこないの?」と言われたときは、びっくりしたよ。
ほんとは、ちょっと心配だったんだね。

自立には親の反対がつきものと開いて身構えてたけど、お母さんは自立にまったく反対しなかったよね。

思い返せば、お母さんは私のやることを止めたことがないんだよね。
いつも信頼してくれた。
はじめてボランティアのお姉さんと外出するときも、友だちと泊りに行くときも、たった一人で外出するときも、「気いつけて行っておいでよ」と、玄関まで送り出してくれた。
私は、お母さんの愛する娘で、でも、お母さんは私の障害のことだけは受け入れられなくて…。
もうそれも仕方ないかなと思ってたんだけど、あの日は感動的でした。
お母さんが、亡くなる間際の病床で、ゆっくり話した日だよ。

あの日、お母さんは病院のベッドに座って、こう言ったね。
「えっちゃんに障害があって大変やったこともあったけど、そのおかげで楽しいこともいっばいあったし、結果的には、障害があって良かったなぁ」
すごく嬉しかったよ。
私の存在のすべてを受け入れてもらったんだって感じがした。

私はお母さんの愛情を、心で、身体で、いっぱい感じて育ちました。
お母さんの娘でほんとに良かった。

大好きな大好きなお母さん。

私を産んでくれてありがとう。
そして、大切に育ててくれてありがとう。

私は今、障害を持って、この世に生まれてきたことを心から、良かったと思ってます。

私の人生は、エキサイティングです。
毎日、人と助け合い、人とのつながりを感じながら暮らしてます。

お母さんのおかげだよ。

「でこぼこの宝物」神経筋疾患ネットワーク 2012

 

 わたしの次にこれを読んだYは、お風呂上りで、夜中のわたしの書斎でだったが、「わたしはEちゃんのお母さんとおなじだから・・」と言って、涙をぼろぼろと流した。

 神戸から帰った次の日は学校だった。それまで頑張って朝から夕方まで保健室で自習をし、部活をやって帰ってきていた子だったが(夕方の部活のために保健室を耐える、といった感じ)、この日は朝から体調が悪いといって、測ると微熱もあったので休ませることにした。それが学校が休みと決まったら途端に熱も下がって元気になり、何でだろう? 何でだろう? と本人は首をかしげていたので仮病ではないようで、わたしは昨日の神戸で介助のNちゃんが「学校に行きたくないときはね、じぶんで熱を出したり下げたり出来るんだよ」と笑って言っていたのを思い出したりした。その日から、子は保健室すらも行くことが困難になった。そして行けないじぶんを「情けない」と責めた。保健室と部活は子の中で常にセットで、ある日、朝に学校へ送っていったと思ったら昼頃に先生から「(子の)体調が悪いので帰らせます」という連絡が来て、「(今日は授業は昼までだから)あと1時間くらいで部活だけど、帰るのか?」と訊くと、「でも保健室を帰って部活に出ることは出来ないでしょ?」と子が言うので、「本当はそうだけど、もうここまできたら“なんでもあり”でいいんじゃないの」 「部活に行きたいんだったら、いったん近くのスーパーまで行って車の中でお父さんとたこ焼きかソフトクリームでも食べて、時間になったら部活へ行くっていうのはどう?」 (ちょっと笑って)「いいねえ」 「でも、保健の先生がテニス部の顧問の先生をしているから、体育館で会うかも知れない」 「そのときは“良くなったんで来ました”って言えば大丈夫だよ」 そうして部活だけ参加して、それから「夕方の部活だけ」ということも多くなった。ただし本人は朝から、若しくはせめて昼から保健室へ行かなければと、いつも心の中で格闘している。葛藤はあっていい、とわたしは思う。

紫乃は12時を過ぎ、行く時間が近づくとしくしく泣き出し、また自分を攻めるので、今日も部活だけにしました。
3時半に車に乗り込むと、「また今日も行けなかった、自分が情けない」と嘆くので、私が「また行ける日もあるよ」と言うと、「お父さんはそんなふうに思ってない」というので、「お父さんは将来、紫乃に辛い思いをさせたくないって思ってるからだよ。でもね、お父さんは、この前、お母さんが心配そうにしてたら「紫乃は大丈夫だよ」と言ってくれたよ。一年前を考えてみて、紫乃は昼夜逆転して家から一歩も出られなかったんだよ。それが今はこうして学校に行けるんだから、すごい進歩だよ。一番大きな山を越えたんだから自信を持ったらいい」と言いました。
紫乃は「そうかなあ・・」と言ってましたが、しばらくするとはっきりとした声で歌を歌いだし、窓の外の様子など快活に話し出し学校に行きました。
小さなことでも誉めてあげるとこれまた小さな自信が少しずつ積み重なっていき、前に向かって進んで行く力になるのかもね。

結果的に部活だけだったけど、昨日の段階では、紫乃は午後から行こうと思っていたんだし、その気持ちにウソはなかっただろうし、それで充分だよね。

「紫乃は大丈夫だよ」 お父さんの言葉が、頭の中でリフレインしてます。

 

 神戸から帰ってから間もなく、子を迎えに行くのに合わせてYに連絡を入れてもらい、担任のI先生に忙しい時間のさなかを取ってもらって小一時間、学校の応接室で話をした。来年に予定されている修学旅行(オーストラリア)や部活に関しての依頼事項などもあったのだが、途中からわたしが言い出したのはやはり神戸での話だった。「わたしを含め大人たちはこれまで、子がほかの子とおなじようにクラスへ戻り、学校生活へ戻れることがゴールだと、漠然と、疑いもなく思ってきましたが、それは果たして本当なのでしょうか? もしかしたらわたしたちはそれすらも根本から考え直す必要があるのかも知れない」 「娘が学校へ満足に行けなくなってから、手術などもありましたが、もうかれこれ1年半になろうとしている。わたしには正直なところ、いまの状況から、子が学校生活へ復帰する光景が、残念ながらどうしても浮かんでこないのですよ」 「これまで教頭先生なども交えて何度かお話をさせてもらって、わたしはその中で何度か同じ問いかけをさせて頂きました。不登校というのは、それは本人や親にもちろんいちばんの原因はあるんでしょうが、それがすべてなのでしょうか? 本人に原因があって、その個人的な原因が取り除かれてまた学校へ行けるようになったら、万事オーライなんでしょうか? 学校に行けない・行きたくないということで、子どもが何かを訴えている部分もあるのではないでしょうか? でもそれを誰も受け止めない。以前もわたしがこういう話をし出したら、教頭先生はちょっと辟易した態で“ちょっと会議があるんでわたしはこのへんで・・” とそそくさと出て行かれた。わたしは何度も問いかけているのだけれど、先生方は誰もまともに答えてくれません。『学校は果たして、(不登校の子どもが頑張って)戻る価値がある場所なのでしょうか?』」  わたしはそのとき、答えを期待したわけでなくて、とにかく吐き出したかった。そんなことを言ってみても、目の前の若い誠実なI先生を困らせるだけだと分かってはいたが、言葉はついつい口から飛び出して止まらなかった。これは話し合いではない。夜更けの教会の祭壇で神を問い詰めるようなものだ。実際にI先生は困りはてて、ただわたしの話にうなずくばかりだ。

 学校は戻る価値がある場所なのか?

2015.2.1

 

*

 

 

 テロリズムとは、こちら側の条理と感傷を遠く超えて存在する、彼方の条理なのであり、崇高なる確信でもあり、ときには、究極の愛ですらある。こちら側の生活圏で、テロルは狂気であり、いかなる理由にせよ、正当化されてはならない、というのは、べつにまちがってはいないけれど、あまりに容易すぎて、ほとんど意味をなさない。

辺見庸「単独発言」(角川書店)

 

 ディランの昔の歌にあった、「すこし盗めば罪人で、多くを盗めば王様」だ。「暴力は、持たざるものの最後の武器じゃないか」という言葉さえ浮かぶ。

まれびと「 9.11 アメリカ同時多発テロについて考えたこと」

 

 量り売りをしたいわけじゃない。どちらも底なしに虚しい。けれどもあまりにもひどい不均衡があり、平気な顔で堂々と町を練り歩いている。だれもなにも語らない。いまでは排水路に捨てられた、持つ者と持たざる者のあまりにもひどい不均衡について。

 誤解を恐れずに言えば、わたしはかのイスラム国の方にも「幾ばくかの理由」はあると思う。少なくともゲームのような無人爆撃機で何の罪もない民間人への誤爆を続けているアメリカとおなじくらいには。でも新聞をひらけば、そこに載っているのはアメリカ(とそれに追随するヨーロッパや日本)の言い分だらけだ。いわく「アメリカを主体とする“有志連合”軍はイスラム国へ爆撃を開始しました。制圧にはしばらく時間がかかりそうです」

 異国の地でむごい殺され方をした後藤さんたちには哀悼の念を禁じえない。でもかれだってプロのジャーナリストだ。覚悟はしていたはず。それでも行って、見て、伝えたいことがある。すごいなあと思う。ぬるま湯に浸っているわたしにはとても出来ない。それよりも今回の事件によって、この国は計らずも見事に露呈させてくれた。国民の命よりも国家が大事。「もっともよい場合でも、国家はひとつのわざわいである」 140年前にエンゲルスが書いた(ドイツ版『フランスにおける内乱』第三版序文)、そんな言葉すら脳裏に横切る。

 斬首、とはここではひとつのイメージである。かたや“有志連合”軍の爆撃によって脳味噌やはらわたが飛び散った悲惨な子どもたちの遺体がある。前者は世界中のメディアを賑わし、後者はほとんど話題にすらされない。あなたが後者の子どもの父であり、母であったら、あなたはどうするか? 「世界」は常にあなたの反対側についている。脳味噌が飛び散って死んだあなたの子どものことは、新聞記事の一行にすら登場しない。

 1967年の第一次インティフィーダからのおよそ50年間の間のパレスチナの子どもたちはどうだろう? 欧米や日本などの「先進国」が見事に黙殺し続ける中で、これまでどれだけの命が紙くずのように蹂躙されてきたのだろうか。

 ムスリム(※「(神に)帰依する者」を意味するアラビア語で、イスラム教徒のこと)は非常時に際して、成人男性はみんな戦闘員とみなされるので、一般市民の男性が戦闘で命を落とすことは殉教したという理解も可能です。問題はお母さんと子どもを殺害した場合です。

 これは拙著「イスラムの怒り」(集英社新書)でも詳説しましたが、ムスリムは子どもの殺害と女性の殺害に対し激怒します。それは、穏健なムスリムでも同じことです。酒を飲むようなムスリムでもそうなのです。

 亡くなった子どもを抱きかかえて途方に暮れる父親の姿はネット上にいくらでもありますが、そういう画像や映像をムスリムが見たときの怒りは本当に止められません。現に私はそうした光景を嫌というほど見てきました。

 イスラムの思想には、アメリカ人を殺害しろとか、ユダヤ人を抹殺しろとか、そんな教えはありません。キリスト教徒やユダヤ教徒を殲滅しろという考えもありません。しかし「テロリスト」や「過激派」を掃討すると称して、爆撃機やドローン(無人攻撃機)による度重なる誤爆で子や母を殺すような残虐なことした場合には、命を賭けて戦う戦士を生みだしてしまいます。

内藤正典「イスラム戦争 中東崩壊と欧米の敗北」(集英社新書)

 イラクへのアメリカ軍の侵略において2003年から米軍「撤退」の2011年のまでに、イラク民間人(非戦闘員)11万6000人と多国籍軍兵士4800人が犠牲となったというアメリカの大学教授らの報告書がある。また英国に本拠を置くNGO「イラク・ボディー・カウント(IBC)」の集計結果では、2003年3月のイラク戦争開戦から昨年12月の米軍撤退までの同軍を含む犠牲者数は約16万2000人に上るとなっている(犠牲者のうち79%はイラク民間人で12万7980人。残り約2割は米軍兵士やイラク人の治安関係者、武装民兵という)。一方でシアトルにあるワシントン大学の公衆衛生専門家エイミー・ハゴピアン(Amy Hagopian)氏率いる国際チームが、イラク全土の世帯で家族やきょうだいに関する調査を実施した結果では、「2003〜2011年のイラク戦争によって、イラクでは約50万人の命が直接的、間接的に奪われた」としている。ただし同氏は「この数字は控えめなもの」としており、ロンドンの調査会社オピニオン・リサーチ・ビジネスが手がけ、大きな批判を浴びた調査では、2007年までに120万人が亡くなったとされる調査結果もある。またこんなネット上の記事もある。

 プレスTVによりますと、アメリカの無人機はこれまで、パキスタンの部族地域に対して400回以上の攻撃を行い、これにより、現在まで数千人の人々が死亡し、そのうち大半が民間人となっています。
 アメリカは、同国の無人機は、国際テロ組織アルカイダなどの武装勢力のみを攻撃していると主張していますが、最近行われた調査は、この主張に疑問を呈しています。
 イギリス・ロンドンに本拠を置くジャーナリズム関連研究機関は、最新の調査の中で、パキスタンでのアメリカの無人機による犠牲者の12%のみが武装勢力だという結論に達しています。
 この機関はまた、「この12%のうち、4%のみがアルカイダの勢力であるとされている」としました。

 数字が10万人であっても100万人であっても、悲嘆にあってはもはやどちらも大差はない。

 戦闘員でもない人質を斬首し、その模様をインターネット上に公開するというのはもちろん残酷な所業である。しかしそれではその数百倍、数千倍もの人々を顔さえ見えない距離から落とした爆弾で「間違って」殺戮するのは残酷な所業ではないのか? そしていま後者の国々に追随しているこの日本の国は?  今回の報道でイスラム国の残虐さばかりが強調されるが、残虐さという意味では、わたしはアメリカの方がいっそう残虐だと思う。もちろんこの国も、その残虐さの片棒をすでに担いでいる。

 残虐さを強調したいのは、かれらがある意味「持たざる者」であるからだ。「持つ者」は己の所業を強調する必要がない。かれらは逆に隠そうとする。見えないハイテクの戦闘機のように。どちらもイメージの話であって、こちら側にいればあちら側は見えないし、あちら側にいればこちら側のイメージしか与えられない。

 繰り返すが、量り売りをしたいわけじゃない。どちらも底なしに虚しい。けれども考えざるを得ない。もし、わたしがイラクやシリアやアフガニスタンに暮らす一介のパン屋か八百屋で、ある日、大事な妻と娘をアメリカと“有志連合”軍の誤爆によって殺されてしまったら?  昨日まで笑ったり話したりしていた彼女らの脳味噌が飛び散り、四肢が四散したような酷い状況を目の当たりにしたら?  そのことに対してアメリカと“有志連合”軍からは何の謝罪も説明もなく、一行の記事すら取り上げられず、上げる声も手段も何もないとしたら?  (現にそうした人々はパレスチナをはじめ、中東各地に数え切れないほどいるだろう)

 わたしは絶望のあまり、アメリカと“有志連合”軍に復讐を誓うかも知れない。そのためにイスラム国へ参加して武器を手にするかも知れない。少しくらいかれらが残虐で、極端であっても構わない。イスラム国へ参加すれば、愛する者の復讐を遂げることができるのだ(その術を手に入れられる)。わたしの人生にはもう、意義のあることはそれくらいしか残されていないのだ!  ・・・そんなふうにイスラム国に合流した人もたくさんいるだろう。その人たちのことをわたしは、決して否定できない。なぜなら圧倒的な軍事力と不公平なメディアと世界観の前で、かれらはあまりにも徒手空拳であるから。惨めな、虫けらのような存在であるから。

 テロリズムとは「政治的に対立する個人または集団に対し,その肉体的抹殺をも含めて,組織的暴力を加える行為」のことを言うそうだ。もともとはこの言葉はフランス革命のさなかの革命側の行き過ぎた恐怖政治を指して生まれた。だからアメリカと“有志連合”軍もそういう意味では立派なテロリストだ。けれどだれも彼らに対してそんなことは言わない(“こちら側”の人々は)。「持たざる者」が最後の暴力を行使するとき、かれらはテロリストと呼ばれる。「持つ者」が国際政治の場を利用して堂々と行えば、何の罪もない非戦闘員を10万でも100万でも巻き添えにしても「テロとの戦い」と呼ばれる。そうして「テロとの戦い」のために愛するものを殺されたふつうの人々が貧弱な武器を手にしてふたたびテロリストと呼ばれる。増殖だけで終わりはない。

 いまではこの国の憲法九条が大事だと言う大新聞ですら、「テロとの戦い」「テロには屈しない」と何の疑いもなく書き、アメリカと“有志連合”軍側の情報だけをそのまんま垂れ流して済ましている始末だ。イスラム国はどのような歴史的経緯で生まれたのか、かれらはいったい何を目指しているのか、なぜイスラム国に馳せ参ずる多くの人々が存在するのか、なぜ(親米以外の)中東のほとんどの国々が空爆参加を拒否しているのか。そうしたことは何も書かない。週刊誌も新聞もテレビも、はっきり言ってこの国のメディアは完全に思考停止状態で、じぶんで考える力をすでに失っている。もう一度書く。あなたの愛する者を理不尽に殺してのうのうとしている者に立ち向かうとき、あなたはそれを「テロ」と呼ぶのか?  暴力は、持たざるものの最後の武器じゃないのか?  人はほんとうに殺される前にまず尊厳を奪われる。イスラム国の手が血で染まっているなら、われわれの手も(残念ながら)すでに同じ血で染まっている。そうした痴呆じみた言葉の使い方はもうやめようじゃないか。(たとえばこの国のメディアは、パレスチナの人々がじぶんたちの選挙で選んだハマスさえ「イスラム原理主義の過激派テロ組織」と呼ぶ。なぜならアメリカやヨーロッパがそう呼んでいるから)

 私自身はイスラム国が前線で行っていると報じられる少数民族・宗派への残虐な行為と、捕虜の斬首で無駄に欧米の神経を逆なでにし、対話を断つようなメッセージの出し方にはまったく賛同しません。しかし、それでもなお彼が何者であるかは知らねばなりません。残念ながら、イスラム国がどんなメッセージを発しているかについては、日本ではほとんど報道されませんでした。

 たとえば、イスラム国の次のような主張があります。(オスマン帝国の)カリフが消滅した後、ムスリムの信仰は弱くなり、(西欧の枠組みを受け入れた)不信仰者たちがムスリムを弱体化させと指摘します。そしてムスリムの権利や土地や富を奪い、ムスリムの眼を惑わし欺くようなスローガンをちりばめたと批判するのです。こうした偽りのスローガンには、民主主義、世俗主義、バアス主義(バアス党のイデオロギー)、民族主義、愛国主義などがあると言います。

 不信仰者たちが信仰者を投獄し、拷問し、殺害してきたと非難します。なぜなら、偽りの信仰を捨ててアッラーの道に進む者こそテロリストとされたからだ、と言うのです。

内藤正典「イスラム戦争 中東崩壊と欧米の敗北」(集英社新書)

 

 わたしは何もイスラム国を支持しているわけではない。わけではないが、イスラム国を成り立たせているものには耳を傾けるべき「幾ばくかの理由」があるはずだと思う。それはたぶん、何十年も国を追われ、家を追われ、愛する者(しかも一人ではない)を失い、尊厳さえ奪われ続けてきた無数の無力な人々の声にならぬ詠嘆が乾いた大地からゆらゆらと立ち昇った瘴気のようなものだと思うのだ。それらが形となって死者が鬼の面をかぶったのがイスラム国ではないかと思ってもみる。一枚の鬼の面を割っても、瘴気は地面から次々と立ち昇り、また別の鬼の面を次々と形作っていくだろう。わたしたち自身が、じつはその鬼の面の製作者でもある。

 夢幻能のなかで、死者(シテ)は生者(ワキ)に魂の救済を求め自らの来歴を語ってやがて消えてゆく。鬼の面の裏に、語るべき物語を見つけ、聞き取るのがわたしたちに残された唯一の可能性ではなかったか?

2015.2.8

 

*

 

(2015.2.2 12:09)

今日は学校を休むことにしました。昨日の疲れでしんどいとのことです。昨夜も3時頃まで眠れなかったそうです。
明日は学校に行くと言ってます。今日は家で台本を書くとのこと。
12時半に学校に入るというのは、紫乃には早すぎ、抵抗があったのかも。

夜は炊き込みご飯と茶碗蒸し、黒豆、お吸い物です。

 

(2015.2.3 12:28)

今日は部活だけではあるけど行くとのことです。

 

(2015.2.3 16:54)

○○さん(※わたしの妹)ちに行っていて、話込み3時40分に帰ってき、急いで紫乃を送ろうとしていたところ、JIPがお菓子を盗み食いし、ゲージに入れるのに手間取り、部活に10分ほど遅刻するとなったとたん、紫乃は行かないと言い出してしまいました。

遅刻して行くのが、紫乃はいやだったのでしょう。
いつも出る前にはバタバタしたりしないよう、紫乃の気分を壊さないよう気をつけていたのですが、今日は大きくしくじってしまいました。
すみません[m(_ _)m]

紫乃は行く気で用意していたのに、ごめんなさい[m(_ _)m]
私が悪いのに「遅刻してでもいいから行こう!」「早く行こう!」と言い、行きたくないと言う紫乃を怒ってしまいました。
紫乃は部屋に閉じこもっています。
2日休んでしまうことで明日また、行きずらくならないか心配です。

○○さんが帰ったらやさしくしてやって下さい。お家の中がいい空気にもどるようお父さん、お願いします[(>人<)]

今日は節分で紫乃の希望でベーコン巻きを作りました。
豆を買いに行ってきます

みんなで豆まきを楽しみ、紫乃のジャングルブックの朗読が聞けるよう、お父さんお願いします[m(_ _)m]

 

(2015.2.3 19:09)

紫乃に誤って仲直りしました
明日は行くという言葉を聞いて、一安心。

 

(2015.2.5 18:19)

了解。
紫乃はHちゃんと台本の内容でけんかになり、落ち込んで泣いてます。

 

 子は一進一退、というか一進一退の中にもわずかな歩みがあるのだと思いたい。「保健室登校」も漫然と時を過ごすのではなく、手始めに部活へ続く6時限目、7時限目にしぼって、手の空いている先生たちがミニ授業のようなものを本人が目標を持てるような形でやってくれることになった。もっともそれは数日前に学校でYが会ったカウンセラーの先生が話を聞いて、「最初から保健室で朝からというのは時間が長いですよ。まずはショートの時間で」とアドバイスしてくれたところから始まったのであるが、そもそも学校に来ているカウンセラーの先生という存在があり、いまさらそんなことを仰るのなら、なんでもっと早い段階でそのカウンセラーの先生と学校の先生は連携というか、ノウハウの伝授というか、提案というか、そういうものができなかったのかと早速わたしが噛み付いて、学級担任のM先生も「おっしゃるとおりです」と認めて、カウンセラーの先生との連携をいまさらながら約束してくれたのだった。というかわたしは正直、こうした学校の(どんくさい)対応についてこのごろはかなり苛立つことが多い。

 あれこれと迷走していた次回舞台(校内発表)の台本も、二転三転して子が懸命に書き直したA4・21ページがやっと顧問のM先生から「とりあえずの認可」が下りて、子もほっとしたのか表情もやや明るい。前掲したYのメールにあるように数日前、二日続けて子どもの頃から愛読している「ジャングルブック」を夕食後に朗読してくれて、狼と人間の世界のはざまで苦悶する主人公の少年の場面を読む子を眺めながら、「この子はきっと純粋なジャングルの世界にいて、まだ人間の世界のとば口で足踏みをしているのだ」。そう思うと、なにやらひどく愛おしいような、悲しいような不思議な気持ちになるのだった。

 Yの提案で家庭教師をもういちど試してみることにした。おとといの夜、夕食後にわが家で話しを聞いた。盛んにテレビCMもやっている「家庭教師のトライ」が不登校の中高生を対象としたセットで、さいしょは家庭に来て勉強を教えてくれるが、状況を見て教室で他の生徒と交じって授業を受けることもできる。この「家から外へ出て他人と交わる機会」というのがYの重きである。通常の授業のほか、まだ数は少ないが専門科目のゼミ体験や社会化見学のようなもの、それに4月から始まる高校生向けの集団授業も無料で覗いてくれて構わないという。教室は週に1回・90分だが、その前後で自習室として活用するのも構わない。説明に来られた30代の先生はいろいろ話をしていると、大学卒業後に1年間バックパッカーで世界中を放浪していたそうで、じつはもともと中学校の先生だったのだが管理教育に「じぶんがやりたかったのはこんな仕事ではない」と嫌気がさして、いまはこの不登校児をサポートするトライの仕事にやりがいを感じているという。ちなみにトライはいくつかの実際の高校と提携した(単位を認定される)通信制の制度も設けており、不登校の高校生たちへの現実的な受け皿になろうともしている。全国の不登校児童10万人という記事も出ていたが、不登校が立派なビジネスとして成り立つというこの状況を、国や教育関係者たちはもっと深刻に受け止めるべきではないか? 従来の学校という制度が壊れ始めているということだよ。

 週末の土曜日は、子とひさしぶりに大衆演劇の市川おもちゃ劇団を大阪・西成へ見に行く予定。

トライ式高等学院 http://www.try-gakuin.com/

梅南座 http://www.geocities.jp/ss55kk2004/bainan1.html

2015.2.11

 

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 子と大阪・西成の梅南座に来ている市川おもちゃ劇団の興行を見に行く。前回のおなじ西成の鈴成座は電車でだったが、今回はまだ子も満足に歩けないので車で行くことにした。高速をなんばで降りて四ツ橋筋を南下、予め下調べをしておいた梅南商店街沿いのコインパーキング(最大600円)に車を入れた。朝9時半頃に自宅を出発して10時15分頃には到着したから、西成も案外と近い。トランクから車椅子を出して梅南座付近の商店街を視察する。ややさびれた商店街から四方へ路地が伸びた下町風情が、東京下町育ちのわたしには心地よい。そのまま四ツ橋筋まで出て、車椅子を押す手が寒いという子にイズミヤの3階で手袋を買う(エレベーターがなかったので車椅子を抱えてあがった)。それからイズミヤの裏手の商店街を南へ下りて、ネットで調べておいたたこ焼き屋「一富久」へ。カウンターの奥に座りたこ焼きとイカ玉を注文すると、まだ開店直後であったため、おばあちゃんが蛸をせっせとぶつ切りにし始めたところで、「もうちょっとだけ待ってね」と。待っている間、ネットの口コミにみなが書いているとおり、ボールにたっぷりと盛られた大根と人参のなますをすすめてくれる。ここのたこ焼きはソースなしのタイプで、そのまま食べても充分美味しいが、カウンターに置いている二杯酢をかけても美味しい。「近くの人かい?」 「いや、奈良からです」 「へ〜」 「大衆演劇を見に来たんですよ。そこの梅南座に」 「市川おもちゃ、でしょ? おっかけしてるの?」 「いや、そこまでは。年に一回くらいで」 下町の家族経営的な居心地。その後、梅南座へ移動して、子は三度目、わたしは四度目の市川おもちゃ劇団の延べ三時間のショーを二人でたっぷり愉しんだ。入り口で暖かいミニボトルのお茶とほっカイロまで呉れた上に、さらに本日はバレンタインデーだからと箱入のチョコレートまで進呈。ひさしぶりに巨体の市川大地が戻ってきていて、目元のぱちくりした若い新顔の女性も入っていたけれど踊りはまだまだかな。やっぱり市川おもちゃと市川恵子の親子コンビがこの劇団の核であり、すべてでもある。数年ぶりの観劇の子は、「照明がうまい」とか、「誰々の発声がすごくいい」とか演劇部目線で、しかもこのごろ「戦国バサラ」なるゲームにはまっているところへ最後の演目が前田慶次に材をとった「傾奇者恋歌」とあって狂喜し、終了後「ちょっと間が開きすぎたね。1年に一回は来なきゃね・・・ 」と。帰りはコインパーキングの近くで見つけていた「さいぼし・油かす入荷」の張り紙をした肉屋でさいぼしと油かすを購入。「このさいぼしはどの辺でつくってるんですか?」と訊くと、「羽曳野あたり」という。そして横ではなくて、縦に切るとやわらかくておいしい、と教えてくれた。家に帰って、さっそく今夜の夕食はかすうどん。風呂上りに、さいぼしをつまみながら焼酎のお湯割りで。

市川おもちゃ劇団 http://www.atworx.co.jp/omocha/

梅南座 http://www.geocities.jp/ss55kk2004/bainan1.html

一富久 http://tabelog.com/osaka/A2701/A270406/27031420/

音総ミート&デリカテッセン http://tabelog.com/osaka/A2701/A270406/27043944/

2015.2.14

 

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昨夜、寝る前に紫乃の部屋で二人でとりとめもない話をしてたのですが、紫乃が「歩けるようになったらクラスにもどる」と言い出しました。
「いつ歩けるようになるかわからないけど、演劇をするために高校に行きたいし。」と言ってました。
紫乃もいうようにいつかはわからない、4月からかもしれないし、2学期からかもしれない。
昨夜の話はそこまでだったのですが、今朝、紫乃に「急かしてるわけじゃないんだよ。でも聞いとかなきゃいけないから聞きたいんだけど、たとえば、今度、来てくれる先生は昼間しか教えてもらえないの。紫乃が学校に行き始めたら教えてもらえない。」と、ここまで言って、ふと○○さんち(※近所の家)の子のことを思いだし、「昼でも夜でも教えてくれる先生がいるんだけど、若いんだけど男の先生なの(○○さんちの子とは言わず)」と言うと、「ん〜〜 年取ってるけど女の先生と若いけど男の先生か・・・・」としばらく悩んだあと、「学校行き始めたら教えてもらえないんじゃ、夜でもきてもらえる男の先生がいいかな」と言いました。
そして、「夕べ、話しといてよかったわ〜」としみじみ言ってました。
学校にもどること、紫乃の気持ちの上ではそんなに先でもないのかもしれませんね。実際、紫乃が思うように行けるかどうかはわかりませんけどね。

お父さんが帰ってきたら相談しようと二人で話してます。これはこれで悩むけど、紫乃の気持ちがまた一歩、前に向いてきたのをお父さんにも早く教えようと長くなって申し訳ないけどメールしました。

トライは辞める1ヶ月前に連絡しないと翌月分のお月謝を支払わなければなりません(24700円)。もしくは今日まではクーリングオフOK。トライ週1回の授業料は奈良女の週2回に相当。

1.1ヶ月分のお月謝は無駄になる覚悟で、トライをしばらく続け、学校に行き始めたら、夜来てくれる家庭教師さんを探し、切り替える。
2.最初からトライは1ヶ月だけとしておく。
3.訳を話しクーリングオフしてもらう。

そのあたりが相談の問題点となるところです。
よろしくお願い致します[m(_ _)m]

 

了解です
カウンセリングのH先生のところに行ってきました。
紫乃は今、すごくいい状態で演劇に対する意欲から学校にも目を向けだした。紫乃が失敗しても「後悔なんかせんでもいい」ってぐらいのアドバイスをしてやり、見守ってやれとのことでした。
自分達(お父さんと私)は上手にやってると誉めてくれました。芸術に興味を持たせようと思ってもなかなかそうはいかないともおっしゃってました。好きなことを伸ばしてあげられればいいねと。これはお父さんのお陰だね。

紫乃にも会いたいとのことで4月末に予約を入れてくれました。

2015.2.17

 

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 平日の休日。かねてから Web で覗いていた、開所20周年記念特別展示と銘打った「大和の地域社会と被差別民衆」を奈良市大安寺にある県立同和問題関係史料センター(以下、史料センターと呼ぶ)へ見に行く。朝食をすませてから、車で15分ほど。旧国道沿いの人権センターと同じ敷地内にある古い建物だが、何年か前にバイクで訪ねたときと同じように、二階の展示室は扉が閉まっていて暗く、三階の研究室へ行って職員の方に声をかけると下りてきてくれる。「遠くから来られたんですか?」 「いや、郡山です」 そんな会話を交わしながら、扉を開けて電気をつけてくれる。ここまで数年前とまったくおなじ。中は中学校の教室ひとつ分くらいか。そこにパネル展示と、複製が多いが古文書などの史料や写真が広げてある。質素だけれど、内容はなかなかに濃い。何より身近な地域の題材の多いところが魅力的である。この史料センターのことをはじめて知ったのは「奈良の被差別民衆史」という素晴らしいPDF史料を Web で公開していたことからで、その出版元がこの史料センターであった。この「奈良の被差別民衆史」は中世から近代にかけて奈良の被差別民衆史の変遷をたどった大部で、わたしは後にこれを印刷して三冊の手づくりの冊子にした(興味のある方はぜひお読みください)。この史料センターのサイトには、他にも研究紀要やRegional(リージョナル)と題した研究結果や図録、史料なども多数、同様にPDF化して公開しており、どれも読み応えがある。こうした被差別部落に関する資料や運動に対する関心というものは、一時に比べるとだいぶ薄れてきているのかも知れないが、わたしにとってはまずは貴重な民俗資料であり、すこぶる面白い。たとえば平群の某村で行われた狂言興行の際の櫓銭についての取り決めが書かれた文書、たとえば松尾寺と龍田大社を結ぶ線を草場権の境界に利用した絵地図、たとえばわたしの家の近所の寺で和尚の100年忌法要が行われた際に施しを求めて集まってきた座頭(視覚障害者の職能組合である「座」の長)、三昧聖(葬送や墓地の管理にたずさわっていた)、非人番(治安維持の任務を与えられていた)、物よし(らい病者)などの“異種”の面々など、歴史の表舞台にはけっして登場することのない異類異形の者たちが差別されながらもバイタリティーを放散させ必死に生きていたその風景がわたしの心の琴線をかき鳴らすのである。いつもながらに丁寧にひとつひとつの展示を見ていたら、先ほどの職員氏が来られて、今回の展示図録だという40頁の立派な冊子を呉れた。お金はいらないと仰る。そうして1時間以上じっくりと展示を味わって、「ありがとうございました」と最後に声をかけて、史料センターを辞した。特に心に残ったのは奈良市の五劫院に残っているという「光明山 阿閦寺 歴代ノ塔」なる供養碑に刻まれた名前(戒名)と日付であり、“阿閦寺”とはらい病者の収容施設であった北山十八間戸の異名であり、ここに刻まれた23名の男女はそこで亡くなったらい病者であったという。その一人一人の名前にわたしは思いを馳せる。また後日に調べてみたいと思ったのは、明治の三宅町(奈良県)に生まれた小川幸三郎なる人が各地の部落の地名に関する伝承を古老に訪ね歩いた記録を「明治之光」(大和同志会機関誌)という雑誌に連載したという考察で、これは当該雑誌が何部か図書情報館(県立図書館)に収蔵されているらしいので、いつかコピーを取りに行きたいと思う。そんなこんなで収穫の多い閲覧であった。

県立同和問題関係史料センター http://www.pref.nara.jp/6507.htm

「奈良の被差別民衆史」(PDF) http://www.pref.nara.jp/9264.htm

 

 ところで前述した子の家庭教師の件だが結局、「家庭教師のトライ」はすでに初回分の月謝を払い込んでいたものの、申し訳ないがキャンセルとさせてもらった。近所の大学生(男の子)が「家庭教師やります」というチラシを貼っていて、Yがさっそく話を聞きに行ったりしたのだが、残念ながらこれは子の「近過ぎてイヤ」という一言でおじゃんになった。そんな次第でいまは中学受験の際に来てもらった県内の某大学を通した学生アルバイトの依頼を出しているものの、ちょうど春休みで学生自体が少ない時期だそうで、しばらくは「馴らし運転」でわたしの妹が週に何度か、英語、数学、そして漢字検定の勉強を教えにくることになった。父は可愛い女子大生のアルバイトがわが家に登場する日をひとり楽しみにしているらしい。

2015.2.23

 

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 昨日の昼はイオンで買ってきた980円のたこ焼き器で、妹夫婦も加わってたこ焼きパーティー。数日前の部活で、卒業する高校の先輩の“追い出し会”でたこ焼きをつくったのが愉しかったというので、子のリクエストで買ってきたのだった。子の指示で蛸、ウィンナー、蒟蒻、チーズなどをテーブルに並べ、なんせ腹が減った5人の口にたこ焼き器の穴は18個しかないので、子は立ったまま約3時間、頑固粉職人の如くたこ焼きを焼き続けた。最後まで焼き役を渡さなかった子いわく、(部活の)M先輩はお母さんから「たこ焼きくらい上手に焼けないで関西人ちゃう」と言われ、小さい頃から泣きながら焼き方を覚えた、と。これでわが家もやっと関西人の仲間入りか。

 その晩は夕食と子の浣腸とお風呂をみな済ませてから、映画鑑賞。前の晩にレンタル店で一人一枚、見たい映画を借りてきたのである。Yは「大統領の執事の涙」、そして子はたんなるアクションと思って「バイオ・ハザード」を選んでそれを前夜は見始めたのだが、始まってじきに“ゾンビ映画”だと気がついて、いきなり上映が中断。急遽HDDに録画してあった「VS嵐」で口直しとして、その晩はお開きとなったのであった。

 二日目の当夜はわたしが選んだ「遺体」。ノンフィクション作家の石井光太氏が東日本大震災直後の釜石市の遺体安置所に取材した原作の映画化である。冒頭から泥だらけのブルーシートで次々と運ばれてくる物言わぬ人々の暗澹たる場面の連続に子はかぶっていた毛布で目をふさぎ、途中でいくども「胃が痛くなってきた・・・」 「・・・お父さん、わたしの精神がもうもたない。もう限界」 と弱々しい声をあげた。引きこもりから立ち直りかけている中学生にはちょっと過酷な映像かとも思ったが、わたしはだからこそ余計、子に最後まで見て欲しかった。ときに暴力的に日常を裂くリアルな死や生を感じて欲しかった。だから「紫乃、これは“人間は強くなれる”という映画だ」と一言だけ言って、あとは見ろとも見なくていいとも言わず、すがりつく視線をあえて放った。結局、子は最後まで見続けたのだった。はじめから終わりまでずっと“ご遺体”に寄り添いながら、映画は「人間の尊厳」、悲しい泥にまみれながらそれを死者も生者も取り戻すことの聖性を描いていた。

 今週に入って学校がテスト1週間前になるので部活動はしばらしく休みになるのだが、数日前に子は先生にテストを受けてみると言ったのだった。退院直後にクラスで受けたテストが精神的にかなり辛かったようで、今回はその反省を踏まえ、本人の希望で保健室で受けさせてもらうという段取りになった。そしてこれまでは部活がない日は絶対に学校へ行けなかったものだが、いまは平日、一時間だけ各教科の先生たちが入れ替わりに保健室で教えてくれる授業を受けるために学校へ通っている。平日はわたしはあまり休みをとれないので、Yが仕事で出られない日は代わりに妹夫婦がわが家の車を使って送迎してくれる。そんな授業の中で先日も、担任の先生が行った漢字の書き取りテストで数日前にわたしの妹とたまたま勉強していた「一網打尽」が書けて褒めてもらったと、うれしそうに帰ってから話していた。この一年半の間にわたしたちがいちばん学んだのは、外から強制したものは何も実を結ばない。内から芽生えたものをサポートしていく、という姿勢だったかも知れない。

 話は変わるが、もう三週間ほど前になるだろうか、ポータブル・テレビというやつを買ったのである。レコーダーをテレビのアンテナに接続して、無線で家のどこでも(浴室もOK)持ち運びが出来るというすぐれものである。大きさはタブレットよりわずかに大きい程度。以前に書いたかも知れないがわが家にはリビングにテレビがなく、テレビやDVDなどを見たい者は二階の唯一テレビが設置している「ゲストルーム兼テレビの部屋」へ行って見る。リビングは食事やお茶を飲みながら“家族で話をするところ”という形を、べつに誰が強制したわけでもないのだが、もともとわたしがほとんどテレビを見ない人間なので、何となく続けてきた。ところがYが食事の支度や方付けをしている最中にニュースを見たいし、子にも世の中で起きていることにもっと接して興味を持って欲しいと、かねてからネットで検索したり家電量販店でもらったパンフなどを見ていたので、「それじゃあ、買おうか」ということになったのであった。パナソニックのプライベート・ビエラ(確かネットで4万円弱くらいだったと思う)。レコーダーのHDDに予約録画も出来、最新のニュースや天気情報を常に引っ張り出せたりして、なるほど便利である。届いた次の晩にはわたしもさっそく予約したいたBSの廃墟紀行なぞを寝室のベッドの上で見たりして「これはこれで、なかなかいいなあ」なぞと言っていた。夕食のテーブルにもちょこんとお出ましして、ニュースや大阪の高校の有名な吹奏楽部の練習風景のドキュメンタリーなどを三人で見たりしたのだった。ところが次の日の夕食の席で、子が物憂げな顔で一言のたまった。「最近、家族で会話がなくなっちゃったね・・」 Yの理想はわずか一日でついえて、その日以来、新顔のプライベート・ビエラが夕食の席に招待されることはなくなったのであった。(ふだんは妹の家から押し付けられた電子ピアノの譜面台にひっそりとよりかかっていて、ときどきYとだけ会話をしている)

2015.3.1

 

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 子の学校の期末テストが先の月曜に終わった。今回、保健室でなら、という条件付だがテストを受けることをじぶんから言い出したのは立派だった。初日の木曜は三科目目の音楽のテスト用紙に名前を書いたところでギブアップ(というか、そこまで頑張った)。二日目は結局登校できず。三日目の木曜は「どうせ行かないのなら」と父が気分転換に30年ぶりの奈良公演という木下サーカスへ誘って遊んだ。日曜は学校も休み。そして試験最終日の四日目、月曜。この日は試験が終わって午後から、1週間後に校内公演が迫っている演劇部の部活がひさしぶりにあった。悩んだ末、試験は行けないが部活だけ参加するという子の意向をYが先生へ伝えたところ、学校側から「それは認められない」という返答が来た。じっさいは「試験に出れないのであれば・・・」と言いにくそうに口ごもっている学年主任のM先生の言をYがすくい取ったのだったが、たまたま日曜に大阪のイベント警備に出て代休であったわたしは「何をいまさら」といきり立ち、「紫乃。お父さんが許可するからお前は部活に出て良い」と言ったものの、子は子で煩悶した末に「仕方がない」と遅刻をして最後の二時間目のテストだけ受けに行くことにした。「それならそれでいい。でもお父さんはお父さんで納得が行かないから、学校へ話をしにいく」と父はM先生の携帯に電話を入れて、「今回のことは納得がいかないので教頭先生でも校長先生でも学校の責任者からきちんと説明をして頂きたい。急で申し訳ないが、何時間でも待つので時間を調整して欲しい」旨を伝えたのだった。

 そうして子を保健室へ送ったあとで、指定された応接室で一時間、網野氏の「日本の歴史をよみなおす(全)」(ちくま学芸文庫)のあちこちのページにアンダーラインを引きながら待っているうちに、やがて教頭先生とM先生が入ってきた。最初はM先生から、途中から教頭先生の説明があり、それは「試験というものは学校にとっても生徒にとっても重要なものであり、紫乃さんにもそのハードルを越えていただきたいという思いも込めて、試験を欠席して部活だけに参加することはできない旨を<教師の共通認識として>伝えさせて頂いた」というものであった。「そんなことはね、教頭先生。分かってますよ。わたしらも分かっているし、何より紫乃が、あの子がいちばん分かっていますよ。大人に言われなくてもね」 わたしは思わず教頭先生の「正論」に噛みついた。「そんな当たり前の正論はね、こっちはもうとっくに通り過ぎてきているんですよ」 「試験は大事なものだから出てもらいたい。わたしも以前はそう思って、泣き叫ぶ紫乃を部屋から引きずり出したこともありましたよ。でもね、先生。かれこれもう1年半もの間、学校へ行けなくなった子に毎日毎日向き合って、わたしがやっと学んだことはですね。【外から強制したものは何も実を結ばない】ということ、【子どもの内側から自発的に出てきたものでなければ何も実を結ばない】ということです。それがやっと、分かってきた。だからわたしも妻も、もう何も言いません。学校へ行けとも、試験だから勉強しなさいとも言わない。学校に行けないことについて、本人がいちばん苦しんでいるし、何とかしなくちゃと思っている。それ以上、大人が言う必要はないんですよ。今回だって、期末テストに出ろだなんて、わたしらは一言も言ってません。彼女がじぶんで言い出したんです。「わたし、テストを受ける」と。わたしは「ああ、そうか」と言っただけです。そして一日目は頑張ったけど、やっぱりね、受けていない授業の、何も書くことも出来ない真っ白な答案用紙を黙って見つめているのは、これは相当つらいことです。大人は「答案用紙に名前を書いて、形だけでも」と思うかも知れないが、本人にとっては地獄です。だから二日目からは、もう行けなくなってしまった。でも本人は「このままじゃ、だめだ」と思ったんでしょうね。実は二、三週間前くらいに子と妻で話をして、1年半の勉強の遅れを取り戻すために家庭教師の先生に来てもらおうかという話になって、以前にも頼んだ奈良女子大に掲示を出したのだけれど生憎いまは春休みで生徒さんがいないので反応がない。たまたま近所の家の教育大に行っている息子さんが「家庭教師やります」という張り紙を門前に出していたのを妻が犬の散歩中に見つけて子に話したのだけれど「近すぎて嫌だ」と言っていたのが、そのテストの次の日に「近所のお兄さんに習ってもいい」と言い出した。それで妻がさっそくその家に話に行って、じつはおととい、その先生の家に一人で行って90分の英語と数学の授業を受けてきたところです。「すごくいい先生で、教え方も上手でよかった」と笑顔で帰ってきました。そうやって子どもは本来、じぶんで何とかする・何とかしようとする力を持っているんです。でもまだ完全ではないから、嫌なものは嫌だと言い、できないことはできないと言う。そうやって紫乃は紫乃なりにじぶんをコントロールしているんです。親の私に出来るのは、それを信じて、待って、彼女の内側から自発的に出てきたものを、そっとサポートしてやること。そういうことだと思っています。そういうことをわたしも妻も1年半もの間、学校へ行けなくなった子に毎日毎日向き合って学んできたのです。わたしは基本的に紫乃を信じていますし、もう何も心配していない。でも今回のことはですね、先生。あまりにも杓子定規ですわ。「試験というものは学校にとっても生徒にとっても重要なものだ」 そんなことは分かっています。でも、そんなことでは現実は何も動かない。部活動はいまのあの子にとって、唯一の学校との間を結んでいる綱です。それがあるから、何とか学校へ行こうと頑張っている。部活に出るために、保健室の授業を我慢して、それがいまでは部活の休みの日の授業も受けられるようになった。それを<教師の共通認識>だか何だか知りませんが、あまりにも四角四面の「正論」で断ち切ろうとする。今回学校側が言われたことは、「これをやらなければ、これはやらない」という二者選択に子どもを追い込んで、苦しめているだけのことですよ。それが分かっていますか? 最終的に子は、わずか1週間後に控えている校内公演の練習のために遅刻しながら試験に出る決意をしましたが、わたしの経験では、無理解な大人たちがそうやって苦しんでいる子に外から強制をした場合には、必ず何らかのぶりかえしが来ます。進んだようで、じつは後退してしまう。メリットより、デメリットのほうが大きいのです。子がじぶんで無理だと判断したものを、学校が(言い方は悪いですが)部活を餌に強制したのです。それによって受ける子の心的外傷は、いったい誰が責任をとれますか? そんなことはまったく考えていないでしょう? お願いですから、子どもが一生懸命じぶんと戦いながらやっと出し始めた芽を、大人が摘み取ってしまうようなことはしないでください」

2015.3.11

 

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 先の月曜の余韻覚めやらぬ木曜日の夜。仕事を終えて駅から自宅へと歩いてくるわたしを「ちょっと話したいことがあるから」とYがジップの散歩の途中でつかまえ、学校で学年主任のM先生から言われたという話を伝えた。もう何ヶ月も前からすりあわせをしてきた修学旅行の件であるが、簡単に言えば、現地(オーストラリア)でそれぞれ二,三人のグループに分かれて予定されている二泊三日のホーム・ステイについて、誰も紫乃といっしょになるクラスメートがいないので、母親に修学旅行に同行してもらい、母親と二人でホームステイをするか、あるいは母親と二人でホテルに宿泊して欲しい、という内容である。「そんなもの、修学旅行といえるか!」 行きかう車も減った夜の歩道でわたしは思わず絶句し、激怒したのだった。

 修学旅行については、やや回復の兆しがあるとはいえすでに一年半以上の不登校が続いている現状にあって、子は特に「行きたくない」とも言わないし(逆に特に「行きたい」とも言っていないが)、先生たちも「紫乃ちゃんが“行ってよかった”と喜んでくれるような修学旅行にしたい」と熱心に言ってくださり、昨年末頃からこまめな打ち合わせをわたしたち保護者と学校側(特に学級主任のM先生)との間で重ねてきた。

 その中で特に、延べ五日間の期間中で気になることのひとつが、現地の一般家庭に宿泊させてもらうホームステイの相手(同級生)の件であり、これについては(当然ながら)クラスで唯一おなじ演劇部で仲の良い(親同士も交流のある)Hちゃんにして欲しいという希望を当初の段階からお願いしていた。(というのも名前順にすると、おそらく子は修学旅行自体を辞退する結果になることが明白であるが故) そのことについては先生方(M先生と、担任のI先生)は理解を示してくださり、但し子とHちゃんだけでは不公平になるので、「誰といっしょになりたいかというアンケートを全員に書いてもらう」ということで、それに応じられるようにしますという返答で、わたしたちは相手についてはもう仲の良いHちゃんで決まりだとすっかり安心していたのである。それが木曜にYが聞かされた話では、今回のアンケートでじつはHちゃんは(紫乃ではなく)他の子の名前を書いていた。(これについては些少の説明が要る。ずっと家族ぐるみで仲良しであったHちゃんとの間で最近、部活の方針を巡って意見が食い違うことがしばしばあり、それはそれで良くある友だち同士の通過点であるとわたしは放っておいた。だから今回Hちゃんが子の名前を書かなかったということはある意味想定内であり、子もそれを聞いてにやにやとうなずく余裕すらあった。わたしは当初、Hちゃんに裏切られた気がしてHちゃんに対しても怒り心頭であったが、逆に子から「あの子はいま、そういう季節なんだよ。ホントはいい子なんだからさ、大目にみてやってよ、お父さん」と諭されてしまった) それを受けて、学校側はクラスは違うがおなじ演劇部のMちゃんとMちゃんたち(おなじM)に紫乃とのホームステイを打診したらしい。はじめ二つ返事で引き受けてくれたMちゃんたちであったが、翌日になって「じつは・・」と職員室へやって来て、「何かあったら責任が持てないので、辞退したい」旨を伝えてきたという。(これについてもわたしは当初、Hちゃんとおなじように裏切られた気持ちであったが、あとでよくよく考えてみれば、家に帰ってから親に“責任が取れない云々”を言われたのかな・・・ とも思うようになった。ちなみにこのMちゃんたちの件は微妙な内容でもあり、Yの意向で今回、子には伝えていない) それで学校側は「もう打つ手なし」ということで、前述したように「誰も紫乃といっしょになるクラスメートがいないので、母親に修学旅行に同行してもらい、母親と二人でホームステイをするか、あるいは母親と二人でホテルに宿泊して欲しい」という判断をし、Yにそれを伝えたのだった。

 延べ五日間の期間中で気になることのふたつめが、じつは排便のことである。ふだん三日にいちどくらいの割合で、浣腸をして、母親がビニールの手袋を着けた手で便を掻き出すという摘便をしている。その作業は、長いときには一時間以上かかる。この“三日にいちど”というのは車のオイル交換をディーラー推奨の時期に従うようなもので、ときには五日間くらい出ない(あるいは浣腸をさぼってしまう)場合もある。だから今回の修学旅行の期間は微妙といえば微妙なのだけれど、出ないで済むかも知れないし、お腹が痛くなって、場合によってはウンチが出てしまうこともあるかも知れない。ときにはじぶんでトイレへ行って座っていてぽとりと出ることもある。異国でかつ集団での移動ということもあり、このあたりは今回の学校側とのすり合わせの中でもとくに主要な部分であった。ちなみに小学校での一泊二日の広島への修学旅行では、学校側で看護師さんを一名つけて頂いて、今回もおなじように学校側では「看護師を一名同行させる」ということであった。それが木曜の時点で「看護師は同行させるが、旅行会社から依頼してもらうので、どんな人が来るかは分からない。ふだん病院などに勤めている人ではないので(摘便などの)医療行為はできない」という話に変わった。

 上記の排便のことなどもあって、修学旅行への母親の同行については、学校側からは当初の段階から希望は出されていた。そしてわが家でも検討はしていた。学校側は保護者の同行は「保険のようなもの」、と言う。それはそれで気持ちは分かる。ただし学校行事はなべてそうだが子どもたちでの集団生活が主であることから、なるべく親が介入するのは最小限にしたい。これまでのすりあわせでも、(どの程度伝わっていたかは分からないが)たとえ同行したとしても、原則は先生たちが滞在しているホテルに母親が待機していて(あるいはその近辺の連絡が取れるエリアにいて)「何かあったら出て行く」というスタンスであった。そして保護者の同行についての(わが家で行くか行かないかの)最終決定は4月の半ばが期限という話であった。それがいつの間にか、同行することがすでに前提となっている。

 家に帰ってからわたしは早速、学年主任のM先生と担任のI先生の携帯に電話を入れたがつながらなかった。しばらくしてM先生から電話がかかってきた。わたしは上記のすべてのことで、なぜ急にそんな話になるのかと抗議の意を示した。特にホームステイの相手については、Hちゃんと間に事前に根回しをしてくれていなかったのかとか、Mちゃんたちについては看護師さんをつけるから心配しなくてもいいなどという持っていきかたもあったのではないか、あるいは他の子も含めた検討策もあったのではないかという事も伝えたが、結局返ってきた返答は「これがいちばんいい提案だと学校側で判断しました」の一点張り。また先の月曜の時点でHちゃんのアンケートの件がすでに分かっていたのなら、なぜそのときに「じつはこんな結果で・・」と相談してくれなかったのかと訊けば、「その必要はありません」 そんな機械的な対応をされたら、さすがのわたしも切れざるを得ない。なぜつい数日前に「子どもの芽を大人が摘み取ってしまうことはしないで欲しい」とあれだけ話をしてきたのに、またこんなことを平気で言って来るのか。わたしは信じられない気持ちで、唖然とし、また「あなたはいっしょにホームステイしてくれる子が学校にいないから、お母さんといっしょに行動してね」と言われた子のことを考えると強烈な怒りがふつふつと湧き上がってきて、「もういいです」と最後は電話をこちらから切ったのだった。

 それからYと子と話をした。子は「もともと修学旅行はすごく行きたかったわけでもないし、責任を取りたくないという先生たちの気持ちも分かるから、もういいよ。それよりもどっちかというと、みんなが修学旅行へ行っている間に先輩や後輩たちと部活に出れるなら、わたしとしてはそっちの方が嬉しいな」なぞと言うので、わたしも多少だが気持ちが冷静になって、「それはそれで分かった。けれどもお前が修学旅行へ行く・行かないは別として、今回の学校の対応は絶対に間違っていると思うので、お父さんはお父さんで学校へ断固抗議をする」と宣言した。子はうなずきながら「まあ、ほどほどに、ね」と笑った。

 それでもういちどM先生へ電話を入れて、「私としては感情は抜きにして子の言葉をそのまま伝えます」と子の意向を伝え、それから「ただ私としては今回のことは学校側へ断固として抗議をしたい」と延べ、学校の最終の責任者として校長先生と話をさせて頂きたい旨を伝えて電話を切った。

 それから神戸のEちゃんへメールにて今回の件を伝えた。Eちゃんからは翌日、返信がきた。

 

お疲れさまです。
まずは、闘うお父さん!!すばらしいよ!
とても理にかなったお話です。
その通りだよね。

修学旅行の件、実際、どこの学校も争点になるようでよく起こっている出来事のようです。
インクルーシブ教育について、大阪で活動している人たちのメーリングリストがあります。
(前から、大阪、特に豊中は、インクルーシブ教育について進んでいる地域です)
そこに相談してみて良いですか?
あるいは、直接、○○くんがメーリングリストに加盟できるように言ってみましょうか?

あと、大阪のインクルーシブ教育教育研究所というところがあり、谷先生という元大学の先生がやっているんですが、
うちの企画にも来てもらったことがあり、紹介できると思います。
私から相談もできます。

どういう形であれ、協力したいと思います。
希望を聞かせてくださいね。

 

 そして今日の夜。Eちゃんと電話で小一時間話をしたのであるが、詳細はまた。とりあえずここまで記しておく。

 ちなみに「障害者 修学旅行」のキーワードでグーグル検索をすると、冒頭に並ぶ記事のほとんどが「障害児と修学旅行のおなじグループになってしまった。楽しみにしていた修学旅行なのに、どうしたらいいでしょうか?」なぞという質問箱記事であることが、この問題の根っこの深さを物語っている。

2015.3.15

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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