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日曜。休日なれど、この猛暑ではなかなか小屋の作業も捗り難い。子も休みだが定期テストのさなかのため、ほぼ家で缶詰状態。昼前にひとりでホームセンターへ出かけたついでに、足を伸ばして矢田の県立民俗博物館へ、今月15日まで展示の、あたらしく県の民俗文化財に指定されたという「大和万歳資料」を覗きにいってきた。写真を撮ってもよろしいかと訊けば「受付で許可をもらってくれ」と言われ、申請用紙に記入をして許可証バッジを頂いた。「今回の展示はあとで図録とかになるんでしょうか」と訊くと、奥から学芸員らしき若い女性が出てきて、「何か研究などされているんでしょうか?」と逆に聞かれた。「いやいや、単なる素人です。ただこういう、なんていうかな、“底辺”の人々の芸能に興味がありまして・・」なぞと。
万歳とは、平安時代には存在したと思われる千秋万歳の末流と考えられている祝福芸、門付芸の一種である。大和における万歳は中世以降の記録類に多く現れるようになり、大正年間までは京都御所をはじめ、大和や京都等の畿内各所を巡回していた。本拠地は生駒郡安堵町や北葛城郡広陵町などの村々で、冬の農閑期の稼ぎとしたものである。正月に2〜4人ほどの男性が組になり、烏帽子に素襖の装束を着け家々の門口や座敷で予祝の祝言を述べ、舞を演じる。太夫役と才蔵役の二人が一組になり、太夫が扇をかざし、祝言を唱え、才蔵が小鼓を打ちながら合いの手を入れる。十余の歌詞があったと伝えるが、正式に演じる場合には「柱立」を初番に「田植舞」「南蛮胡椒」「夷舞」「月歌」と次々と演じる。
大和万歳は昭和30年4月に奈良県の無形文化財に指定されたが、昭和52年に奈良県文化財保存顕彰規定が新たに文化財保護条例に切り替わった際に、後継者がいないとして無形民俗文化財としての指定の更新はされなかった。
本資料は、昭和56年4月に最後の伝承者の御子息(故人)より奈良県に寄贈を受けたもので、近世後期から戦前まで実際に使用されていた大和万歳の衣装や採物、文書、写真である。
江戸時代の大和万歳の装束は侍烏帽子に素襖で橘の紋とされることが多いが、本資料の衣装や写真もこれと合致している。また、京都御所へ正月に参勤するための達状が残されており、伝承を裏付ける資料となっている。
現在は途絶えた大和万歳のかつての活動を具体的に伝えるものとして、日本の芸能史上においても貴重な一括資料である。
(民俗博物館 解説)
県立民俗博物館 http://www.pref.nara.jp/1508.htm
以前は奈良県田原本近在の村に伝承されており、NHKによって収録されてたそうですが、このNHKの資料については今後調査したいと思います。大和万歳の本場は、大和の小泉村(現・奈良県郡山郡小泉町)、窪田村(現・奈良県生駒郡安堵村窪田)、箸尾村(現・同北葛城郡広陵町)、百済(同)の一帯と言われています。
ここは京の御所をスポンサーに持ち、京・大阪をマーケットにしていたので、田園育ちの大坪万歳とは別の見識を持っていたようです。
その節は幸若に似ていて、舞は翁に似ているそうです。「トウトウタラリタラリラリ」から始まり、十二柱の神の名前を言い、 「徳若にご萬歳と枝も栄えまします。愛嬌ありける新玉(あらたま)の、年たちかえる日の朝夕べより水も若やぎ、木の芽も咲き候いけるは、 まことに目出とう候らいける。」
この系統は猿楽から来ているようです。その他にも「田植舞」「小姓舞」「夷誕生舞」「鳥さし」「競馬」「一月舞」〜「十二月舞」「豆まき」などの歌舞があり、夷誕生などは夷の産まれる真似をして、母親が腹を押さえてアイタアイタという所を扮して抱腹絶倒するが、しかし大体は古朴なところがあって上品なもので、1人は鼓、1人は黒骨に鶴亀の文様の扇子を持ち、歌曲に合わせて種々の身振りをして変化極まりなく、いかにも豊かな興味をそそるものであったそうです。
三河、加賀と比べても一等優雅なところがあり、とても優暢な空気を漂わすものであるそうです。万歳ドットコム http://www.sutemaru-manzai.com/geino/manzai/yamato.html
一葉の写真がある。明治24年(1891年)、京都市内の写真館で撮影された一葉で、額縁のような手作りの写真を収めた箱の蓋に墨書で「父六十六才の年、子二十三才の年」とある。世間から蔑まれる職業であっても、老いた父からやっと一人前になりかけた子へ、万感の思いがあったろう。それを一生に一度の晴れの形で銀板に刻したのだ。かたわらで膝をつき鼓を打つ黒ずんだ小顔の父、立って扇子をひろげてポーズをとる息子。心なしか目元がよく似ているようにも見える。
2013.7.7
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関東の母より電話がある。都の霊園にある墓のこと。おなじ霊園内に墓がある親類がわが家の草抜きなども時折りしてくれるのが申し訳ないので、わたし(母)の代でいっそ無縁仏にしようかとも思うがどうだろうか? との内容。墓にはわたしの父と祖父母、それに戦争中に病気で亡くなった父の弟が収めてある。年間の管理費は2、500円。ちょうど区画整理をしているタイミングで、従来の利用者は無料でその無縁墓地(集団供養?)に移れて、わたしの母までは一緒に入れるという。共産党の党員でもある彼女は死んだら何も残らないとの唯物論者なので、和歌山の山に散骨して欲しい、と言っている。どうだろうか? と言われて、それはわたしと妹が相談して決めることだろうと、とりあえず留保する。実際のところ、子が産まれてこの12年間、東京の墓参りに立ち寄ったのは車で実家へ帰省した数年前のわずか一度きりである。ではあるが、墓は墓でじいちゃんが死んだとき、ばあちゃんが死んだとき、そして父が死んだときに、それぞれ親戚中で集まったりした思い出もあり、わたしの中では案外と簡単に捨てきれない部分もある。
夜。子の定期テストが今日で終わったこともあり、ご苦労さんの意もかねてイタリアンの店へ外食に行く。その席で墓の話をする。どうだろうか? こちらであたらしく墓を建てるというのなら、東京の墓を移すということもあるが。ちなみに関東に暮らす妹夫婦には子どもがない。それに、あなたたち二人はカトリックの信者でもあるわけだけれど・・・ 子は「あたしはべつにどうでもいいわ。死んだら骨はどっかに捨ててくれたらいいし」と言う。Yは「わたしは死んだら何も遺したくないから、火葬場で遺骨は“要りません”と言ってくれたらいい」と言う。「と言っても、ゴミといっしょに捨ててもらうわけにもいかないでしょう?」と子。「いいのよ、それで」 「じゃ、お父さんは?」と訊かれて、「おれはやっぱり、山だね。熊野の大峰山、それが難しいなら十津川の玉置山にでも散骨して欲しいな」 ・・じゃあ、みんなの意見を総合すると“墓は要らない”ということになるね。Yの両親も最近、じぶんたちが死んだら墓参りも大変だからと、本願寺の集団の納骨スペースに移して、蜜柑山の見晴らしのいい尾根筋に建てられていた墓を整理したのだった。熱心な真宗の信者である義母は、「死んだらみな本願寺さんに行くのだから、そもそも墓は要らないというわ」と言う。そうか・・・ ちょっと墓にこだわりがあったわたしは、そうだな、墓はなくしてもいいかもな。ほんとうのお墓はそれぞれの心の中にあるわけだしな・・・ と呟く。「で、なんなのよ、これは!」 子が苦笑しながらテーブルを叩いた。「わたしの試験終了のお祝いの食事の席で、なんでこんな話をしなくちゃならないの!」
2013.7.8
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早朝の近鉄特急に乗って三重県へ日帰り出張。桑名からローカルな三岐鉄道に乗り換える。懐かしい硬い厚紙の切符と改札鋏。仕事でなければふらりとめくら下車をして集落の寺や墓地でもそぞろに歩きたいようなところだ。打ち合わせをして、車で名古屋へ移動して市内の回転寿司屋でお昼。ふたたび近鉄特急で帰ってくる。往復の電車の中ではときおり車窓の景色を眺め、iPodでライ・クーダーを聞き、「真田太平記7巻」を読む。おりしも関ヶ原の決戦が終わり、石田光成や小西行長らのみじめな逃避行が車窓の緑深い山間の景色に重なって見える。名古屋までくれば関ヶ原や大垣も間近だ。大和八木からの帰りの各停のなかで、家康の譜代の家臣である本多忠勝がみずからの命を賭してまで娘婿の本家である(東軍に与した)真田本家の父子の助命嘆願をする場面で胸が熱くなる。フィクションであってもここは名場面。何度読み返しても“男”が顫える。死が間近にある分、男たちの情と覚悟はこれほど熱く潔いものか。戦国の武将たちが生きた生々しい生の濃度と、このすべてが薄っぺらになってしまう現代の生の濃度と、どちらが果たして真に生きるに値するものかと考えてしまう。
猛暑が続く日々。放課後の部活を終えてバスの時間がまだ早いからと、駅までの短くはない道のりを歩いてきた子が軽い日射病か、頭痛がし始めたのを高校生の先輩二人ががわざわざ郡山駅まで足を伸ばして送ってくれた。シャワーを浴びて、冷や麦をすこし食べ、アイスを食べて、エアコンを効かせた自室に早めにあがって行った。演劇部はいまでは子の心の糧だ。先輩たちとの交流も含めて、愉しくて仕様がないと言う。Yといつも話すのは先輩たちの礼儀正さ、誠実さ、思いやりの深さ、中学生や高校生とは思えない思慮深さ、そしてチームワークの良さ。きっと子は勉強以上に、いろいろなことを経験しているのだろうと思う。
小屋の正面で予定していたヨーロッパの漆喰「センプラム」が何故かネット市場から在庫が消えてしまい、代わりにと探し出したエスタコウォールの輸入販売を手がけている工務店(なのかな?)に一袋からでも購入できるかとメールで質問を寄せたら、わざわざパンフレットと施工要領を送ってくれた。現在の合板→防水シートの上にラス網→モルタル下地処理を行い、その上にこのエスタコウォールを用いようかと思っている。色は AMARILLO あたりかと考えている。
ヨーロッパ漆喰「エスタコウォール」 http://www.estuco-wall.com/index.html
2013.7.10
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休日。定期テストの終わった子と明日香へ行く。恒例の厩戸皇子めぐりの4回目(だったかな?)。今回は厩戸皇子の生誕の地と伝わる橘寺。橘寺は伽藍配置も変わり、当時の建物は塔の礎石くらいしか残っていない。「すごい!と思うような仏像も建物も此処はとくになかったな〜」 「こういうところは、とにかくその地に立って、感じて、あとは想像力で補うしかない」 続いて小さい頃に行ったけれど「もう一度、行ってみたい」という子のリクエストで蘇我の蝦夷や入鹿の屋敷があったと伝わる甘樫丘に寄る。駐車場に隣接する東麓の谷地は1994年から発掘調査が続けられ、焼土層から「焼けた木材や土、土器」等が出土されたりしているが、蘇我氏の邸宅跡が確定されたわけでない。先日、部活の帰りにバス道を歩いて足に軽い傷ができているため、あまりたくさんは歩けないので、いちばん近い展望台まで。「覚えているか? ここでまだ幼稚園前のお前はカントリー・ロードを熱唱して、それから道のない斜面をけらけら笑って滑っていったら土饅頭の墓地に出て、しばらくそこで遊んでいた」 そんな話をしながら遊歩道を降りて行ってトイレの前で小休止。「あたしはこれまでいちども四葉のクローバーって見つけたことがないんだよな〜」なぞと言いながらしばらく草叢を探している。暑さでへばってきたので、県立万葉文化館へ移動。ここは当時のハイテク工場跡とでも言っていい飛鳥池工房遺跡が発掘されたのを埋め戻した上に建てられたハコモノ行政の賜物で、当時わたしは反対署名などもしたせいもあって、来るのは今回がはじめてだ。チケットを受け取って(子の障害者手帳で二人とも無料だった)いきなりボランティアの解説員の初老の男性が「ガイドをしましょうか?」と言うのでお願いをしたところ、これがあまりにもお粗末なレベルなので20分ほど我慢して聞いていたもののついに堪りかねて、「誠に申し訳ないんですが、あなたの“解説”は明日香にはじめて来たような人に適当かと思います。たぶんあなたの知っていることは、わたしもおなじくらい知っているので、これ以上は結構です。」とお引取りを願ったのだった。男性と離れてから子が「お父さん、いつバクハツするかと思って見てたよ」とにやにや笑って言う。「バクハツはしてないだろ。丁寧にお断りしたんだから」 建設の経緯はともあれ、日本画展示の「野々内良樹 回顧展 ―花鳥へのまなざし―」も子は熱心に見て作品も気に入ったようだし(いちばん良かったのは“杜の朝”と)、「海石榴市をはじめ東市、西市、軽市などをイメージした古代の市空間を再現」したという広場や、人形と映像の歌劇「額田王」と「柿本人麻呂」などもそれなりに面白かった。朝の9時に明日香へ来たけれど、ここまでで早くも14時。万葉文化館内のレストランは宇陀のおいしい天然酵母のパン屋さんの店らしいけれど値段がよろしかったので、桜井のマクドナルドで遅い昼食を済ませて帰宅した。
橘寺 http://www9.plala.or.jp/kinomuku/tachibana.html
飛鳥池工房遺跡 http://www.bell.jp/pancho/asuka-sansaku/asukaike.htm
県立万葉文化館 http://www.manyo.jp/
万葉集だけじゃない総合施設『万葉文化館』@明日香村 http://small-life.com/archives/10/09/1820.php
2013.7.14
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子が8月の夏休み中に1週間ほど入院をして、洗腸(逆行性洗腸)の練習をすることになった。中学の1学期が今日で終わったわけだが、授業中にお腹が痛くなったり、酷いときには朝、電車に乗って向こうの駅に着いた途端に電話をかけてきたりして、そのたびにYがときに職場を抜けて学校へ迎えに行き、家に戻ってから浣腸と摘便(1時かくらいかかる)をして、授業が間に合えばまた学校へ送っていくことがたびたびあった。幼稚園の時などは園内の一室を借りて摘便をさせてもらったりしたものだが、流石に中学生ともなるとそうはいかないらしい。かりに学校側が部屋を提供してくれたとしても子が嫌だろうとYは言うのである。しかしそのたびに半日、場合によってはまる一日、学校の授業が疎かになってしまうわけでやはりよろしくない。というわけで先日、1歳のときから診て頂いている泌尿器のM先生の病院で検査をしてもらったら、やはり腸の上の方、左右にぎっしりと便が詰まっている状況で、「これなら洗腸もやってみる価値はあるかも知れない」と先生は仰ったそうだ。
【PDF】二分脊椎について(小児外科領域) 排便管理について 順天堂大学 http://www.juntendo.ac.jp/graduate/laboratory/labo/shonigeka/jsbss/about/data/file04.pdf
子の入院が決まったと思ったら今日、ジップが手術。右足の上方の肉球のわきにしばらく前からできもの(腫瘍)が出来ていて、舐めないように首周りにカラーをして、炎症止めの薬を1週間飲み続けたが炎症が治まらず、とりあえず切ってしまおうということになった。「若いので悪性ではないと思うが」、念のため東京の検査機関へ外注にて検査を依頼する。悪性の場合は再度、大きめに切除する手術となるとか。朝、預けてきて、夕方、引き取りに行って、案外元気そうではあった。手術代が馬鹿にならない。今回の分だけで約5万円。再手術なら、さらに5万円。
5年ほど前に購入した工人舎のモバイルPCが、とうとうバッテリーが充電できなくなった。バッテリーを買い換えてもいいのだが、それなりの値段はするし、ユーチューブの再生すらコマ落ちするくらいのCPUだから、もはや引退の時期かも知れない。子に将来のノートPCの練習機として譲って、しばらく前から考えていたタブレットを代替として購入することにした。グーグルのNexus 7 (16G)、価格COMの最低価格で18,800円。主には報告書作成などをメインとした出先での仕事機の役割だが、さすがに7インチ画面とはいえ画面タッチで長文入力は大変そうなので、ブルートゥース接続のモバイル・キーボード "マイクロソフト Wedge Mobile Keyboard for Business Bluetooth U7R-00022" と、USBメモリーが接続できる"ELECOM USBハブ USB2.0対応 スマートフォン・タブレット用 microUSBケーブル セルフ・バスパワー両対応 4ポート ブラ"も同時購入した。これまでの工人舎モバイルPCの使用内容からして、文章が入力できて、PDFやオフィス・ファイルが閲覧できれば、まずは充分かと。であればこちらのスタイルの方が安上がりだし、携帯もだいぶ楽になる。
Nexus 7 http://www.google.co.jp/nexus/7/
2013.7.20
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今日は一日、炎天下で小屋の作業。よってもう、へろへろ。でも選挙は、今回はさすがに行っとかなきゃなと思って、ジップの散歩がてらに夕方、Yと二人で投票してきた。いつもの如く、当落にはまったくカンケイのない“死に票”だけれど。「清き一票」などというものにまったく参政権のかけらもないことはもう馴れた。最後はやっぱりダイナマイトだと思っている。そういう意味では、この国はアラブの国々とおんなじだ。
2013.7.21
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この社会はもう続かないかもしれない。何か新しい考え方、価値観に変えていかないといけない。3・11もあり、人々がやっとそんなふうに感じ始めていた。その感覚を再びカネの魔力で封じ込めよう、というのがアベノミクスじゃありませんか。(映画監督・富田克也)
この国は、経済以前に人間的に破綻しているから始末が悪いんだよ。(絵本作家・五味太郎)
先日、三者面談なるものが学校であって、子は担任の先生より「もっと友だちに心を開くように」と言われたそうだ。帰宅して「そうなの?」と訊いた父に中学一年生の子は、「中学に行ってから、人によって差こそあれ、いつも“警戒態勢”でいる」と言う。「それはなんで?」と重ねて問えば、「いつも誰かが、いない人の悪口を言っている。じぶんも裏切られるのが嫌なのかもしれない」と。そして小学校の頃の友だちを懐かしむ。小学生が首をくくり、中学生の少女がリンチで惨殺されえる世の中だ。彼女が感じている彼女なりに必死の“違和感”というのは、たとえば前掲した人たちの言葉(わたしが最近の新聞紙上で心に残った言葉だが)ともどこかでつながっているはずだと思う。
2013年のこの選挙の年を、しっかり記憶しておこう。「“リセットする”というのは、原発ではなく、この国をリセットすると、そういう意味だとぼくはずっと思っていました」と、3・11から(たしか)2年ほどして原発再稼動の話が現実を帯びてきた頃に誰かがどこかで言っていた言葉を、いまもふしぎと思い出す。あの日、圧倒的な惨劇と悲しみと怒りに満ちた風景のなかで、無数の人々の死や慟哭を道連れにして動き出したものは、二度と停止することはないはずだ。微細な隙間から滲み出始めた大決壊前のダムの水滴のように、非常にゆっくりとだが、もはや元には戻れない。それはカネだとか領土だとかいったものだけではなく、文化や文明や価値といったもっと深いものを含んでいる地層での予兆だ。2013年は前者に執着する“懲りない面々”の最後の悪あがきの年だったと、後年、誰もが思い起こすことだろう。“懲りない面々”にみんなが乗っかったことが、そもそも終わりの始まりだったのだ、と。
2013.7.22
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そういえば、と思い出した。基本的にぜんぶ同意。
【(2013参院選) 勝ったのはだれだ 活動家・外山恒一さん】
覚えてますか。2007年の東京都知事選。石原慎太郎氏3選が確実視されるシラけた空気の中、政見放送で
「外山恒一にやけっぱちの一票を! じゃなきゃ投票なんか行くな! どうせ選挙じゃ何も変わらないんだよ!」と訴え、
世間を驚かせ笑わせたあの人を。あれから6年。盛り上がらない参院選のさなか、彼は日本を縦断していました。
選挙戦最終日の20日。札幌・大通公園周辺を、外山さんが運転する白いバンがよろよろと行く。
6月初旬に福岡県を出発、全国各地で自民党をほめ倒してきた。
「自民党のみなさん、原発推進頑張ってください。
こんな国、滅ぼしましょう原発で。
こんな国終わらせましょう原発で」。
バックに流れるのはザ・タイマーズ。
能天気な音頭のリズムに載せて、ボーカルの忌野清志郎が「原発賛成」と連呼する。
ビクッとする人、にらみつける人、笑う人、手を振る人。
当たり前の日常が、ほんの一瞬、ざらついた。
――参院選、自民党圧勝でした。
「いや、勝ったのは、棄権を呼びかけ投票率ダウンを推進してきた我々です。棄権率は47・39%で戦後3番目の高さ。選挙なんか多数派のお祭りだ、選挙で何かが変わると思ったら大間違いだという私たちの主張が、やっと理解されつつあります」
――……いずれにしても何が選ばれたかわからない選挙でした。
「よりマシってことでしょう。自民党が。民主党をはじめとする他党よりも。経済?憲法改正?原発?全然争点になっていない。問われたのは自民党政権にイエスかノーかだけど、ノーの人の選択肢は事実上ないという、すごい選挙です」
「まさにこれが民主主義です。選挙では提示された選択肢の中からよりマシな方を選ぶしかない、政治とは悪さ加減の選択なのだと、リベラルな民主主義者はずっと言ってきたじゃないですか。民主主義が機能した結果が、今後3年間は続く自民党1強体制です」
「選挙によって、人々は意思決定過程に参加させてもらったかのように勘違いしがちですが、体制側の方針なんか最初から決まっているんです。多数決で決めれば多数派が勝つに決まっている。僕は多数決に反対しているんです。自民圧勝を受け、『自民はおごらず、少数意見にも耳を傾けるべきだ』なんて言っている人がいますが、なんてお人よしなんでしょう。傾けるはずありません」――しかし当初は「主要候補」扱いされていなかった山本太郎さんが当選したのは、自分の投票で政治を変えるのだと、一票の重みを信じて投票する人が大勢いたからでしょう。
「いい話ですね。気休めにはなります。でも膨大な死票が出る小選挙区制で実感できるのは『一票の軽み』です。そんな制度に変えておきながら、投票に行かない人間は民度が低いと批判する。矛盾してます」
「山本太郎さんが国会議員としてやれることには限界があるでしょう。衆参国会議員合わせて722人分の1ですから。選挙で何かが変わると期待するだけ無駄です」
――ただ、確かに民主主義は様々な問題を抱えてはいるが、今のところ最善の制度だと言われ……。
「民主主義者の人はそう言いますが、ファシストにとってはファシズムの方が、マルクス・レーニン主義の人にとっては共産党一党独裁の方が、民主主義よりもマシな最善の制度です。民主主義者の悪いところは、民主主義もまたイデオロギーであるという自覚がないことです」
「不可解なのは、民主主義者ほどいま民主主義は機能不全に陥っているとか言いがちなことです。自分たちの意見が政治に反映されないという不満があるんでしょう。でも民主主義が理想なら、理想は既に実現されている。世論調査をすれば脱原発派が多くても、民主主義の結果、原発はなくならない。あなたの眼前で起きていることは全て民主主義が機能した結果です。だから民主主義そのものを疑うべきなのです」
「民主主義を守れとか言っているリベラルな人たちが思い描くような世の中にならないのが、民主主義です。リベラルな人たちは、自らの問題を言葉にしたり、変革したりする回路すら持っていない社会的弱者に寄り添っているつもりでものを考えてきたと思いますが、インターネットが普及し、そういう人たちが言葉を持ち始めると、ネット右翼みたいなのがどんどん出てきて、それに影響されて世の中の風潮もどんどん右傾化していく。この皮肉な現実を、リベラルな人たちはもっとかみ締めた方がいいと思います」
――選挙は無意味だと言いながら、なぜ都知事選に出たのですか。
「仲間を集めるきっかけづくりです。アメリカの『ウォールストリート占拠』や『アラブの春』のような騒ぎが起きれば、中曽根政権だろうが共産党政権だろうが対処せざるを得ない。民主主義では社会は変えられない。議会の外でそういう状況をつくることが社会を変えることになると考え、行動しています」
「ただ、都知事選に味をしめ、熊本市議選と鹿児島市議選にも立候補したのですが、ミーハーばっかり集まってくるんですよ。こっちはまじめな賛同者を集めているのに『またなんか面白いことやってくれ』みたいな。ネットが広まったおかげで何も起きなくなっている気がします。消費者なんですよ。自分では何もやらず、誰かが何かをやってくれるのを待っている。そういう消費者根性が蔓延(まんえん)している。もう選挙に出るつもりはありません」
「ネットで熟議が起きるなんて幻想です。違う意見の人とネット上で出会っても罵倒しあうだけです。対面だったら殴り合いになるのを避けようと、妥協したり相手を説得する理屈を考えたりしますが、ネット上だと殴られませんから」
――政見放送では「私には建設的な提案なんかひとつもない!」と言い切る。真摯(しんし)に不真面目ですね。
「はい。当選するつもりはないわけですから。しかし、日本の政治はただの不真面目ですよ。党名がそれを象徴しています。イデオロギー、理念に立脚してこそ政党なのに、『日本新党』『新生党』と新しさだけを強調した政党名ブームがあり、その後は非イデオロギーに開き直った『みんなの党』。『たちあがれ日本』『国民の生活が第一』に至ってはただのかけ声で、前回衆院選前には『日本未来の党』『太陽の党』が出来て、『太陽系議員』『未来が分裂』みたいな表現がメディアをにぎわせました。SFかよ!って」
――要するに、有権者は消費者ではない、もっと賢くなれということですか。意外と普通ですね。
「いや、有権者は消費者ですよ。それでいいじゃないですか。今日は何を食べようかとか損したとか得したとか言いながら一生を終える。政治なんかに興味をもたずに暮らせるのはいい社会です。賢い有権者になれなんて余計なお世話です。賢くなれと有権者を叱咤するよりは、選挙権を免許試験制にして、たとえば100点取ったら100票、20点なら20票と賢さによって差をつければいい」「新聞社は『あなたにぴったりの候補者はこの人』みたいな情報を提供して有権者という名の消費者を甘やかしている暇があるなら、もっと偏るべきです。旗色を鮮明に『今回の選挙ではこれを争点にすべきだ』と主張することで議論が生まれる。新聞社が不偏不党をやめれば、政治はもう少しは活性化するはずです」
――しかし、システムそのものをひっくり返すことを目的にした運動が悲惨な結果を招いてきたことを、歴史は教えます。将棋の駒を一つずつ進めることを考えた方が現実的ではないですか。
「それは欺瞞(ぎまん)です。フランスやアメリカで将棋盤がひっくり返されたから議会制民主主義が生まれたわけだし、戦後の日本だって、アメリカに将棋盤をひっくり返されて生まれているのですから。このゲームのルールでは絶対に自分たちには勝ち目がないのに、それでもゲームを続けようとするのは不真面目です。そもそも日本では、ゲームのルールは書き換えられるんだということすら忘れられている。だから頑固な反原発派の私が、こうやって不真面目に訴え続けているのです」朝日新聞(2013.7.27)
http://www.youtube.com/watch?v=B0Qa9-KiRUo
2008 United States Presidential Candidate from Japanhttp://www.youtube.com/watch?v=uGZqOkeYbB0
外山恒一と我々団 http://www.warewaredan.com/
2013.7.27
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昼に大阪の病院でMRI検査と脳外科の診察。M先生いわく、画像的にも術後は順調で、脊髄の空洞もなくなり良い形だ、と。診察を終えてから、中之島の国立国際美術館で土曜から開催している「貴婦人と一角獣」を見に行った。その前に昼食を、事前に調べておいた美術館の向かいにある関西電力本店(関電ビルディング)の4Fにある、リーガロイヤルホテル直営のレストラン「エル・ガーデン」で。こんなところにレストランがあるとは、なかなか通りがかりだけでは分からないだろうな。いかにもビジネス・オフィスといった警備員の立硝する入口を抜けてロビーを抜けて、奥のエレベーターで4Fにあがれば、ホテルの客室かと見紛う照明を落とした細い通路を曲がり、さらに何室もの会議室にはさまれた人気のない廊下を抜けると、やっとメニューが飾られている。白玉とカキ氷のデザートもあるサラダバーにスープ、食後のコーヒー付、パン・ご飯・味噌汁がお代わり自由で、日替わりランチが1100円は(中之島で)なかなかではないか。Yと子はハンバーグと鮭のマヨネーズ焼きがメインの日替わり、わたしは若鶏の山賊焼きの和定食を頼んだが、さすがにホテル直営だけあってガ○トやサイ○リヤなぞとは一味も二味も違うよ。平日でランチの終了間際だったこともあり、途中からはほとんど貸切り状態であった。味も量も満足、隠れ家的高級レストランの雰囲気まで満喫できて、Yも子も大喜びであった。お腹を満たして、本当はこっちがメインの美術館へ。1500年頃に作成され、小説家のジョルジュ・サンドらが作中で触れるまでフランスの片田舎の城に眠っていたこの6連のタペストリーは、5面が「味覚」、「聴覚」、「視覚」、「嗅覚」、「触覚」を表し、最後の「我が唯一つの望み」(A mon seul desir)の句が掲げられた面は、五感を超えた統合的な元型を表しているとも言われている。ともかく中世というのは面白い。例のヘタウマ的な図像は芸術というよりは哲学やはたまたあやしげな錬金術のようなもので、千花模様(ミル・フルール、複雑な花や植物が一面にあしらわれた模様)の間に散りばめられたウサギや豹や猿などの動物や鳥たち、そして若い貴婦人のもとに侍る一角獣とライオンなど、どれも愉しげで謎めいた隠喩に満ちている。きらびやかな色や描かれた事物の向こうに、隠された世界がある。エンデさんのいう“橋の向こう側の世界”だ。こういうものを娘に見せたかった。そして父親の期待を裏切らずに、子は食い入るように500年前のタペストリーを見つめていた。この絵のように、世界の隠喩を読み取って欲しい。世界はけっして乾燥した不毛の大地ではないのだから。
そういえば最近、ふとしたことでハッケンした Iris Dement (アイリス・ディメント)。日本ではほとんど知られていないようだが、60年代生れのアメリカのカントリー歌手らしく、常時裏返っているような独特の歌唱が味わいある。特に自身の愛唱するスピリチャル曲を集めた(と思われる)2004年の Life Line がいい。
ダイニング・カフェ EL GARDEN http://www.rihga.co.jp/nakanoshima/el/index.html
「貴婦人と一角獣」展 http://www.lady-unicorn.jp/highlight.html
Iris Dement.com http://irisdement.com/
2013.7.30
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家の近所の路上で日中や夕方によく、安物の布製の黒いキャリーバックに身をささえて所在なく立っている老人がいた。小柄で痩せた体にいつもたいてい、くたびれた上下白のステテコを着ていた。むかしの城下町の名残をとどめるせまい路地だから、こちらが車に乗って出るときは端のほうへ寄ってもらわなくてはならない。すぐ先の駐車スペースで転回をさせて反対方向へ走らせれば、もう一度。言葉を交わしたことは一度もなかったけれど、引っ越してきた当初にわが家の外溝の工事を、やはりおなじ長屋に住んでいる日雇いのMさんにやってもらっていたときは、よく見に来てMさんにあれこれと指南をしていた。Mさんは笑いながら「はいはい」と聞いていた。もともとその工事は外壁を施工してもらったおなじ工務店に依頼したのが予算などの都合で暗礁に乗り上げてしまい、加えてころころと意見の変わるYにわたしが切れて大喧嘩になったとき(といっても、一方的にわたしが吼えていたわけだが)、心配してわが家の前に集まってきたご近所様ご一同に混じっていた長屋のMさんが、翌日に「その工事を私と私の知合いの造園屋にやらせてもらえないか」と訪ねてきて、値段も安かったのでお願いすることになったものだった。その老人の名前がIさんだということを先日、葬式の日に知った。強烈な陽射しに射られるような日曜日。わたしはウェストがかなり苦しくなった喪服を着て、迎えのマイクロバスに乗り、近所のOさんやYさんらとバスに揺られながら国道沿いの式場へ向った。OさんもYさんもわたしより一回りも二回りも年配だし、他にバスに乗っている10名ほどの女性たちも大方みな“おばあさん”といってほぼ差し支えない年齢の集団だ。マイクロバス自体が巨大な石棺のようにも見える。隣に座った隣家のOさんが教えてくれた。Iさんはもともと東大阪のペレットをつくる町工場で長いこと働いてきたらしい。その工場が倒産して、それからは“左官の人足”をやっていた。奥さんはだいぶ早くに亡くしたとかで、ここへ移ってきたときはおそらく生活保護を受けていたのではないか。昨月の18日に脱腸か何かで1週間ほど入院するということになって、Oさんは「せっかくならお盆が過ぎるまで涼しいところにいさせてもらったらどうだ」と冗談で言ったのが最後の会話になった。そしてIさんは、入院をしている最中に脳梗塞で亡くなってしまった。享年85歳。式場に入ると、受付に僧侶姿のMさんが立っていた。Mさんはふだんは年季のいった軽トラックに乗って早朝から現場へ出かけていき、夜遅くにトラックの荷台を刈り取られた草木や、ときにヘドロのような砂利や汚泥で満杯にして帰ってくる。大きな長尺の脚立を上から抑えのようにして括り、翌日それをまたどこかへほかしにいくのだ。わが家の外溝工事のときは造園屋のTさんに怒られながら、「わし、こんな難しい仕事ははじめてだ」と苦笑いしながら煉瓦を切ったりモルタルでくっつけたりしていたMさんが、むかしはお坊さんだったという話は以前に聞いたことがあった。夜、犬の散歩で長屋の前を通ると、道沿いに開いたMさんの家の台所の窓から灯りが漏れていて、台所と奥の部屋をわける硝子のすり戸に大きく「母の大恩」と墨書された半紙が貼られているのが見える。その日、はじめて見た僧侶姿のMさんは、なかなか、とこちらが冗談めかして、似合っていますね、と水を向けても、神妙な顔つきのままうなづくだけで、いつものMさんとは別人のようだ。まるで戦国騒乱の時代のしたたかな野法師のようにも見える。その僧侶姿は、Mさんの精一杯の哀悼の意だったのだろうと思う。式は天理教の様式だった。Oさんの話では「I」という苗字に天理教のかなり偉い人がいるらしい。しかし出席者はまばらで、それほど大きくない座席の半分も埋まっていない。親族は3人。まだ独身で、福知山の方で暮らしている大柄で太った長男が喪主だった。その長男が勤めている製剤会社関連の供花や弔辞がわずかに色を添えていた。まるで古代の神に捧げられた贄のように野菜や魚の干物、塩盛などが供えられた仏前に、わたしも玉串を右に回して置き、二礼、四拍手、一礼、また四拍手、一礼と、葬儀屋の女性が事前に教えてくれたのを何とか思い出しながら回向をしたのだった。最後にお別れを、と言われて菊の花束を棺に横たわったIさんの足元に捧げて、死に顔をのぞいた。鼻腔や口に脱脂綿が詰められたIさんはまるで蝋人形のようだった。いつものごとく、その魂はもはやここにはない。抜け殻だ。Iさんは相変わらずキャリーバックに身をささえて、陽炎のように城下町のせまい路地の真ん中に立っているのかも知れない。いや、それともじぶんがいちばん活気のあった懐かしい工場のあった東大阪あたりを見に行ったろうか。参列者が少なかったので、見送りの時に霊柩車へ棺を運ぶのも手伝った。棺はとても軽かった。霊柩車を見送ってから、またOさんやYさんらとマイクロバスに乗って帰途についた。「ああ、あそこに新しいラーメン屋ができましたね」 「あそこには回転寿司が」 「ほんとうだ。以前に海鮮料理のみせがあったところですね」 「まだ駐車場をつくってますわ」 そんな会話を交わしたのが、どちらがおぼろでどちらがうつつかもさだかでないようで。
その日は家に帰ってYがつくってくれていた炒飯を二人で食べて、排便の訓練(洗腸)のために2日から大阪の病院に入院している子に会うために車を走らせたのだった。
2013.8.4
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子は排便訓練(洗腸)のために今月二日から、一週間ないし十日間ほどの予定で、一歳のはじめての手術以降、ずっと泌尿器を診てもらっているM先生の本拠、大阪・枚方にある病院へ入院している。もともと予定されていたことだから、あらかじめ学校の夏期講習や部活のない時期をYが設定したのだ。病院までは自宅から車で一時間半ほど。最初は検査をして、便の残り具合などを見ながら、そのあとは二日おきにじっさいの排便訓練(洗腸)を行い、合間に模擬的な練習などをやるらしい。じっさいの洗腸はわたしは直接見ていないが、Yの話だと点滴で使うような袋にぬるま湯を入れて便器(洋式)に座った肩の高さくらいにそれを吊っておき、そこから管を肛門へ通してぬるま湯を腸の中へ逆流させる。ぬるま湯が行き渡ったらゴムのような弁で肛門をしばらく塞いでおいて(その間、手を添えている)、10〜20分経ってから弁を外して腹部をマッサージしながら排便をする、という流れだとのこと。これでだいたい1時間くらい。「結構、大変そうだよ」とY。一週間から十日間も必要というのは、人によって便の出方や体質、タイミング等々があるので、何回か試しながら様子を見て調整をしていく、ということらしい。それと退院したらもちろん、家のトイレでこれをするわけだから、袋をぶら下げる仕組みが要る。壁にフックをつけるのは微調整ができにくいから、いまのところカメラの三脚や譜面台などを利用して試してみようかと考えている。今後、旅行先や外泊などをするときはそれを持って行かなくてはならないわけだ。二日の入院だから、もうかれこれ一週間近くになるわけだが、やはり腸の中に溜めたぬるま湯を出したりするわけだから、終わったあとはかなり疲労感が残ったり、翌日の思わぬ時間に残りが出てしまったりと、いろいろと難しい部分があるらしい。本人も食欲がなく、少々貧血気味で、おまけに生理が重なってしまい、加えて夏休みの宿題や課題をわんさか持たされているので、相当ストレスがたまっている様子。前回の手術のときのように小児病棟ではないので、6人の相部屋のほとんどがお婆さんたちで気安い話し相手もなく、それも苦痛のようで、勉強が頭に入らない、夜眠れない、もうはやく家に帰りたい、などと夜になったらYの携帯に情けないメールが続々と届いている。
2013.8.7
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子は病院からとりあえず“合格”をもらって、昨日の土曜日に退院。だがまだ体調がすぐれず、鼻血が出たり、身体がふらついたり、頭痛がすると言ったりで、明日、病院で貧血の薬をもらう予定。帰宅に当たって、家のトイレで洗腸ができるようにささやかな準備を。まず窓枠にぬるま湯を入れた袋をぶら下げるフック――――じっさいに便器に座って、子の肩の高さが袋の下部になるように合わせて取り付けた。それと小一時間近くトイレにいるので扇風機を一台、新たに購入して便器の後ろの棚に置いた。
わたしは病院の迎えや買い物や食事の支度などの合間に、ちょこちょこと小屋の作業。有孔ボード(5ミリ径、25ミリピッチ)を作業台の壁面に据えて、アメリカの amazon.com で購入した、Triton ProductsのDuraHook Pro-Series などはめながら。
2013.8.11
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野坂昭如「終末の思想」(NHK出版新書)を読了する。野坂昭如の、遺書のつもりで読んだ。
死を知ることはできない。故に矛盾そのものだが、死の地点から生を、時々見直してみる。少し語弊があるかもしれないいが、死をもてあそんでみるといいように思う。死こそは、個人に所属する。自分だけの死なのだ。国家とか企業とか、個人を常に管理しようとかかる手合いは、どうも、このもっとも個人的なことを、遠ざけておくことで、人間の生を、思うままにあやつろうとしているようにもみえる。一方で大量死は用意しておきながら。
現代日本人は、異常に死を怖がる。よくいえばデリケートである。癌の告知を考えてみても、われわれの反応は特異であるらしい。誰だって死にたくない、死を間近かにしたくないにきまっている。ましてや殺したくない。しかし、親として、あるいは子供として、このことを覚悟する必要があるのではないか。とても育てられないと、産まれた赤ん坊の首を絞め、山に埋め川に流した母親、また、背負い子に、老いた母をのせて、棄てに行く息子の事情は、旧弊の、貧しかった時代だけのことではない。死がこわくて、あえていえばヒューマニズムにとらわれて、目をそむけ、他人まかせにしているだけだ。他人というよりも国家である。生死の問題は、個人にとりもどした方がいい。
死はあくまで個人に属する。
死が歪んでいるから、生が歪んでいる。そして農も言語も死滅しかけているこの国は、もう滅びるしかない。お悔やみ申し上げる。
何の根拠もないまま原子炉の寿命を延ばして、すべて先の人間に押しつける、この度の事故は、その先延ばしの矛盾を露呈させた。
危険を先延ばしになど出来てはいなかったのだ。
この震災と原発事故は、他人任せでよしとしてきた日本人の頬をひっぱたいた。大きな犠牲を伴いながら、しかし、すべて元へ戻し、自滅への近道を行こうとしている。
ならばいっそ行ってしまえばいい。
日本が八方塞がりになった時、初めて気づく。
2013.8.12
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退院してから、子の生活が安定しない。昼間は頭痛がする、寝不足だと言ってベッドに横になり、夜は眠れないと言って部屋の明りをつけていつまでもベッドの上でごそごそしている。たまっている学校の課題勉強もはかどらない。今朝、「生活のリズムをつくるために、お父さんといっしょにジップの散歩に行ってらっしゃい」と言うYに「疲れるから行きたくない」と答えたものだからわたしもつい切れた。無理やり引きずり出して散歩に同行させる間中、ずっとこのところの生活の乱れや無気力さ等々に対して怒鳴り続けて、家に戻ってきてから「なんだお前のあの読書感想文は。あれがお前の書いた文章か。あんなつまらない文章など棄てちまえ」と言ったのが急所であったらしく、「わたしだって分かっているんだ」と食事を途中に泣きながら2階の自室へあがっていった。残ったYに「小学校の時の作文と、あのいやいや書いた課題の感想文を読み比べてみろ。あいつの豊かな感性が涸れ始めている。おれは逆に学校に、これがあんたらのいう教育なのかと訊いてやりたいわ」 そう言い捨てて、出張先の名古屋へ向かった。Yはだまってテーブルの上で頭を抱えていた。会議の合間に気になって子はどうしているかとメールを送った。Yの返事では午前中はずっと自室に閉じこもっていたが、昼になってホットケーキを作ってくれるまで回復した、と。会議が意外と延びて、夜遅くに帰宅した。風呂上りにPCに向かっていると、やはりシャワーを浴びてきた子が濡れた髪を拭きながら書斎に入ってきて「お父さん」と声をかけてきた。 「おお」 「お父さんに会うのは一ヶ月ぶりのような気がするわ」 「そうか。どこか旅にでも行ってたか」 「今日はひさしぶりにヴァイオリンを弾いてみたんだ」 ・・それからいろいろと、二人で話をした。うまくいかないときの脱出法について。引き出しをたくさん持っていることについて。勉強がいちばん大事なのではない、勉強をいかに要領よくかわすかについて。書き続けることの難しさについて。じぶんの豊かさを守ることについて。そこまで話して、たまたま子が手にしていた、淀屋橋の橋の上で先日わたしがアルバイトのおネエちゃんから渡されたパチンコ屋の団扇に「人生には息抜きが必要だ」とあるのを子が見つけて、思わず二人で笑ってしまった。
2013.8.14
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風呂上りの子を書斎へ招く。中央のテーブルの上に、入れ替え中の子の本棚から下ろしてきた児童書が三つほどのビルを形成している。年齢的にもう相応しくないけれど大事な本はわたしの書斎の本棚の片隅に保留として置いておく。もう要らないものは図書館の年一回のリ・ブックに出すか、処分する。その仕分けをしてから、代わりにと、わたしの本棚から子が読みたいものを選ばせた。ひとしきり天井まである本棚を眺めて子が選んだのは、ミヒャエル・エンデさんの「鏡の中の鏡」や対談集、評伝。泉鏡花の「草迷宮」。ニコルさんの「野性との対話―海の幸・山の幸と共に」。渋谷陽一が宮崎駿にインタビューした「風の帰る場所・ナウシカから千尋までの軌跡」。宇江敏勝「山びとの動物誌―紀州・果無山脈の春秋」。そしていつの間に読んだのか、上の方の棚にあった藤原新也の「メメントモリ」が欲しいと言う。「ああ、いいよ。メメント・モリはなぜかお父さんは二冊持っているから、一冊、お前にやるよ」
それからもう寝に行くという子を無理に引き止めて、友川かずきの「歩道橋」と「無残の美」の二曲を子に聞かせた。子は呆然として聞いていた。「な、すごいだろ。この無残の美をはじめて聞いたとき、お父さんは鳥肌が立った。これは借り物でない、ホンモノのこいつの言葉だ。こういうホンモノの言葉を使えるようにならなきゃいけない」 「もう寝にいくよ、お父さん」 「おお、お休み」 「・・お休みって、こんな衝撃的な曲を聞いたあとに寝なくちゃいけないのかい。まったく、こんな厄介なお父さんを持ったのはわたしくらいだろうね」 ぶつぶつと言いながら子は階段をあがっていった次第で。
2013.8.17
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前から少々気になっていた鈴木翔「教室内(スクール)カースト 」(光文社新書) を昼休みに京都駅の書店で買う。夕食の席でそれを取り出しすと、子はさっそくページをひろげて「ああ、なかなか当たってる。そのとおり」と言う。「おまえもさ、こういうものと闘うために、こういう本を読んで外側から見れるようにならなきゃいけない」 「だいじょうぶ、お父さん。読まなくても、わたしはすでに外側にいるから」 「うん、外側にいるじぶんを、さらにその外側から見れるようにするんだ。そうしたら中の馬鹿らしさがわかって、じぶんのことも笑えて、いざというときに強くなれる」
そのあとで、教室の中で子のいう“陰険なグループ”がときおり、子を指さしてひそひそと話しているなぞといった話から、子が「わたしはむかしから、そういう視線には馴れているから」とうなずく。「ほんと、面白いよ。そういう人って必ずおんなじなんだ。まずわたしの足を見て、それから顔を見て、目をそらして、すれ違ってうしろからまたふり向いて見ている。みんな、おんじだから、見てて笑っちゃうよ」
2013.8.19
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わたしは聖人君子でも理想の父親でもなくやっぱり10年前20年前とおなじ大いなる性格破綻者ですらあるので、いつでもこの命と引き換えにしてもいいと思っている最愛の娘に手を出してしまうこともときにある。兵庫県某所の花火大会が順延の後に中止となった日曜の夜、大雨の影響で遅れたJR線に乗って夜中の12時過ぎに帰ってきたときに、洗腸のあとで入ろうとした風呂の前で脱糞してしまった子に話しかけて子もそんな状態だったので疲れていらいらしていたのだろう、あんまりひどい物言いにわたしがとうとう切れて裸で脱衣所のすみにしゃがんでいた子に怒鳴りつけそれでも腹据えかねて裸の子のわき腹あたりを二度三度と思い切り足蹴にした。慌てて子の部屋へ後を追ったYに子は「もう馴れているから何とも思わない。痛みも感じない」と平然と答えたそうだ。翌朝、わたしは休日で、目が覚めたときには子はもう学校の部活へ出かけたあとだった。夕刻になると文庫の文字が読みにくくなるためにはじめて眼鏡をつくりに行った車の中で「紫乃に謝るべきだと思う。男の子はあれでいいかも知れないが、女の子はあんな怒り方をされても反撥するだけでかえって逆効果。もっと冷静に話しをしなければ」とYに言われても黙って返事をしなかった。夕方、その足のまま部活から帰ってくる子を駅に迎えに行った。後部座席に乗り込んだ子に「お帰り」と声をかけるとほっとしたような顔で返事をする。「眼鏡屋で桜井くんに間違われたわ」と言うと、ぷっと吹き出してみせる。家に帰って手洗い場にいる子に「昨日はお父さん、悪かったな」と言うと意外そうな顔をしてこちらをふり向き、「へえ、珍しいね。これはギネスに乗るわ」なぞと呟いている。リビングへ入ると台所で夕食の支度をしていたYが聞いていたらしく、嬉しそうにOKのサインを出して見せる。その夜、夕食のあとで「庭で花火をしようか」とわたしが言い出した。Yが教会の薔薇の花の形をしたロウソクを用意して、それからそのまま庭で義母が畑でつくったスイカを食べることにした。子は小屋のロフトへあがってそこで食べて、八角形の窓から種をぺっぺと撒き散らしては笑った。そして「ああ、ひさしぶりに子どもじみた真似をして愉しかった」としみじみと言った。
2013.8.27
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前から欲しいと思っていた浅川マキの1976年のアルバム「灯ともし頃」を入手した。西荻窪の有名なライブハウス「アケタの店」で収録された音源で、バックはそうそうたるメンバーだ。いわく、荻原信義(g)、吉田 健(b)、白井幹夫(p)、つのだひろ(ds)、坂本龍一(kb)、向井滋春(tb)、近藤等則(tp)、杉田 順(g)・・・ この中でいまいちばん好きなのは、Just Another Honky。もともとはFacesの1973年のアルバム「OOH LA LA」に収録されていたナンバーだ。作者はベーシストのロニー・レーン。この人は多発性硬化症という難病に苦しみ51歳で亡くなってしまった。この英国ロックのスローナンバーに日本語詩をつけたのは浅川マキ自身で、原曲にある切なく苦い感情が見事に抽出されている。いつものハスキー声で歌うロッド・スチュアートもいいのだが、浅川マキのバージョンはもっとやさしく、美しく、抜き差しならないある種の感情だ。どうしようもない状況なのだけれど、不思議と救われる。きっとこの歌の主人公はもういちど歩き出していけるはずだと分かっている。そのことがひどく懐かしく、いとおしい。よふけに、下手なギターを爪弾いて歌ってみる。ああ、この道は何度も歩いてきた。懐かしいおれの居場所だ。
目を閉じて おいらは なにもかも無視する
そしておいらは 歩くさ 円を描きながら
耳を防いで おいらは うその世界のなか
そして おいらは 信じた このうその世界を
なにもかも かきまぜりゃ 大空に嵐が
こんな風に いつでも 沈黙を破るの
そうさ嵐は おいらの からだのなかを
そんなときに あの娘は去っていく
空模様が変わって 嵐がやって来る
だけど おいらの両手は 開いたままで
それはちょうど あの扉が いつも開いてるように
つむじ風が過ぎ去り なにもかも飛び散る
そうさ あの娘は自由さ 引き止めはしない
なのに嵐が おいらを もっとだめにする
そうさ嵐は おいらの からだのなかを
そんなときに あの娘は去っていく2013.8.29
*
【Yからのメール 1】
紫乃は頭痛がするというので休ませています。
仕事の事を聞かれ、昼からだと答えると、弱弱しい声で「1時まではいてくれる?」と聞いてきました。
お芋の入ったおかゆを炊いたと言うと「おいしそう」と言ったのですが、体がこれまでになくだるいと話、眠りに入っていきました。【Yからのメール 2】
忙しいと思うけどこんな記事を見つけました。
小学校2年生の息子は、学校は嫌いではないのですが、勉強が苦手で、宿題もやらずに登校することもあり、忘れ物や提出物の期限を守れないようなことが幾度もありました。母親としても、きちんとさせなければと思い、口やかましく言い、きつく叱ることも度々ありました。息子のしつけのことで、夫婦で喧嘩をすることもありました。
ある時から、息子がスーパーで万引きをするようになりました。私たちは親として非常にショックを受け、何とかしなければと思い、息子を問い詰め、叱りました。しかし、息子は嘘ばかりついて本当の事を言いません。問い詰められて、問い詰められて、やっと本当の事を言うという状態でした。
しかし、その後も、何度きつく叱っても、学校で友達の物を盗ったり、家のお金をこっそり持ち出すことなどが続きました。
夫は、必死になって子どもをしつけなければと考え、子どもを何度かたたきました。私も、一緒になって毎回1時間以上、子どもを叱り続けました。それでも、息子の行動は改善しないばかりか、友達の家で遊んでいて、夜の帰りが少しづつ遅くなっていきました。
ある日、夫が何度叱っても言うことを聞かないことに腹を立て「出て行け!」と怒鳴りました。すると、息子は出て行ったまま夜遅くなっても家に帰って来ません。心配した私たちは警察に捜索願を出しました。さいわい、その時は知り合いに見つけてもらうことができ、事なきを得ましたが、その後も、何度か家出を繰り返しました。何をしても良くならない息子に二人ともいら立ち、夫婦間でもいさかいが増えて行きました。
そのうち、しつけのためと思ってたたいて出来たアザを、学校で担任の先生が見つけ、学校から児童相談センターに「虐待」として通報されることとなってしまいました。児童相談所の方から、「しつけとしてであっても、たたくことは虐待である」と言われ、「たたくこと」をやめるように言われました。私たちとしても、子どもが憎くてたたいている訳ではなく、「何とかしなければ」と必死になっているということを、児童相談センターの方にお話したところ、いくつかの助言をもらうことができました。
ひとつは、「体罰厳禁、叱るのは5分間以内」ということでした。これまで、息子が明らかに嘘と分かる言い訳をするので、本当の事を言うまで叱り続けていましたが、それをやめるようにしなさいということです。他に、「子どもの前で夫婦でいさかいをしないように」「親に甘えたい気持ちを分かってやるように」「『出て行け』とか、本当にされたら困ることは言わない」などのアドバイスがありました。また、私たちが困った時にはいつでも、住んでいる地域の主任児童委員に、相談にのってもらえることになりました。
夫は、自分の気持ちを隠すことが出来ない人で、腹が立つと顔に出てしまうので、しかるのはもっぱら私がすることにしました。しかる時は、手短かに「5分以内」で行い、これまでのように長々としかることはやめました。
しかし、児童相談センターのアドバイスに従って「5分以内」を守っているのに、息子の非行は直りません。逆に息子は私たちがしからないのを甘く見て、私たちを試すかのように物を盗む行為を続けました。私は、何度も「こんなやり方で良いのだろうか」と不安になり、主任児童委員の先生に何度も相談をしました。主任児童委員の先生から「大丈夫、もう少し続けましょう」と励ましてもらいながらも、苦しい日が3か月ほど続きました。
4か月ほどたったある日、ここしばらく息子が何も問題を起こしていないことに気づきました。息子の表情も以前より明るくなった気がしました。それからは、みるみるうちに息子が変わっていく感じでした。 息子が悪いことをしないので、私たちがしかること自体がほとんどなくなりました。家の中が刺々しい言葉で満ちていた時のことが、ウソのようです。息子も私に甘えてきたり、いろいろな話をしてくれたりするようになりました。夫婦間のいさかいも少なくなり、わたしも穏やかな気持ちですごすことができるようになりました。
夫は、子どもと付き合うのが苦手ですので、今のところなかなか息子とうまく話ができないようですが、「親が変われば子どもが変わる」という気持ちで、これから3人で、楽しい家庭を作っていきたいと思っています。【Yからのメール 3】
子供が何か、してはいけないことをした時、
きちんと叱ることは大切なことです。
しかし、「叱る」時には、注意しなくてはいけないことが
いくつかあります。
まず、子供のタイプには、叱っても大丈夫な子と、
そうでない子がいます。
叱っても大丈夫な子は、情緒的に安定していて、
楽観的な子です。
積極的な情緒的に安定してる子を叱ると、
前向きに受け取ってくれ、
「ごめんなさい」「こんなことしちゃいけないんだね」と、
素直に思います。
おおらかで、楽観的な子を叱ると、叱っても叱っても
あんまり効き目はありません。
叱っているほうが、そのうちばからしくなって、
最後には笑いが出てきます。
反対に叱るのに少し注意がいるタイプの子は、
気が小さいタイプの子や、頑固な意地っ張りタイプの子
です。
気が小さいタイプの子は、叱られると、ドキッとしてしまい、
小さくなってしまいます。
そして、もう同じことをできなくなるのです。
頑固な意地っ張りタイプの子は、表面では、
反抗的な態度をしますが、本当は傷つきやすく、
「どうせぼくは・・・。」などと思い、
素直に自分の気持ちを表現できないのです。
そして、人の何倍も傷つきやすいのです。
このように、子供には様々なタイプの子がいます。
お母さんはこれを見極めてあげて、その子にあった対応を
していかなければならないのです。
紫乃はまさにこの頑固な意地っ張りタイプです。
ごめん、もうひとつ、これで最後にします。
叱ることの悪い結果
通常、子供が悪いことをすると、親はしかりますが、これを長い目で見るとどのような結果になるのでしょう?
子供が親から見て悪いことをしていると、日本人の親の場合、しかることがほとんど当たり前と考えていると思います。例外はありますが、確かに、悪いことをしている子供をしかると、子供はそれを止めます。それでしかることが効果があるのは、明らかに見えます。
でも、表面的には直ぐ見えない、予期しないことも起こっているのです。子供はしかられた時に、感情的に反応します。怒りや恐怖を感じることは、まれではありません。例え泣いたりふさぎ込んだりしたとしても、その裏には怒りや恐怖が潜んでいます。そしてこれらの感情は、長い間に子供の反抗心につながっていくのです。すなわち、親が頻繁に子供をしかったりすると、親の言うことを聞かない子供になったり、又は、親の前だけで言うことを聞く子になってしまいます。最悪の場合で、厳しいしかり方が、長い間続いた時などには、青年になってから、非行に走ったりする可能性が、非常に高くなります。
厳しくしかられた時の子供の行動には、大きく分けて3つあります。一つは、あからさまな反抗で、親に向かって言い返したり、悪いことを平気でしたり、親を殴ったりすることです。二つ目は、親が怖く思われた時で、親の前ではよい子にしていますが、陰で規則を破ったり、自分勝手をしたり、親の悪口を言ったりすることです。三つ目のグループは、親が怖くてしかも圧迫的な時に起こり、子供は完全に服従してしまう場合です。親が怖いから親の言う通りになり、内心、失望して落ち込んでいる時もあります。表向きにはよい子に見えますが、ひょっとした事で、感情的爆発などをする時もあります。
このようなことを考えてみると、子供の行動を向上させるために、しかることは必ずしもよいとは言えません。むしろ、しかることはなるべく避けた方がよいでしょう。では、子供が悪いことをしたらどうしたらよいでしょう?
一番肝心なことは、子供の行動を治す時に、親が怒らないと言うことです。これは子供に対して怒らないではなくて、怒る感情を持たないと言うことなのです。確かに子供の悪い行動を見ると、怒るのは簡単だと思います。でも、親が怒ると、子供も怒るのです。そして、子供が怒ると、反抗心を強めてしまうのです。親の目的はこれではなくて、子供の言動に対して教育することですから、先ずは、怒らなくて、冷静でなければなりません。
幼稚園以下の子供でしたら、「それはいけないよ。」と言いながら、物理的に止めさせればよいと思います。子供を抱き上げたり、移動させたり、押さえたり、物を取り上げたり等して、止めさせればよいです。でも、子供はほとんどの場合、親の一回の介入では変わりませんから、親が根気よく止めさせることを繰り返さなければなりません。しかった時にも、子供は一度で親の言うことは聞きませんから、それと同じだと思って、止めさせることを繰り返してください。
小学生位になりますと、物理的に何かを止めさせるのは、困難になりますから、あらかじめ、ある程度の親子の規則を作っておく必要があります。例えば、子供が責任を守れない時、その日の特権を失うことです。つまり、もし子供が宿題をしなかったり、おかたずけを出来なかったり、弟をいじめたりしたら、テレビ時間を失ったり、ゲームがその日は禁止になったりします。
ここで肝心なことは、前にも言いましたように、子供が規則を破った時、怒らないこと、しからないこと、叩いたりしないことです。ただルールに従って、特権を取り上げればよいのです。もう一つは、一回特権を取り上げて効かなかったら、諦めるのではなく、根気よく繰り返すことです。
また、これらの方法と併用して、しなければならないこともあります。それは、子供をほめること。親は、子供が悪いことをした時だけ、動き出すのではなく、子供のよい点、よい行動を見つけ出さなければなりません。子供を見ていて、少しでもよいことが見えたら、それについてコメントしましょう。大変よいと思ったら、沢山ほめてあげましょう。子供をほめることは、あなた自身をほめることだと思ってください。もし、あなたが、子供の悪い行動について一回介入するに対して、5回他のことをほめていたら、しつけがよく行われていると思ってよいと思います。【Yからのメール 4】
お昼にお粥をお茶碗半分だけ食べた。食欲なし。宙を見てるような感じ
【Yからのメール 5】
紫乃はかなり自分を卑下しているから、お父さんでもそんなことあるんだと思うと気持ちが千分の一ぐらい楽になるかもね。
8時45分に学校に到着。行きたくないと言いながらおもい足取りで行きました。
車の中で「家が嫌、家に帰りたくない」とも言ってました。
昨日、みてたネットで学校が大好きだった子供が不登校になった、それは父母がきつく子供を叱ることで、子供のやる気が削がれてしまうというものでした・・・
ここ1ヶ月前ぐらいからなにもしないでぼっ〜としてることが多く、紫乃も気がついたらぼっ〜としてて、なんにもする気がしないと言ってることがありましたよね。
焦らす、気長にいきましょか。
今朝、車に乗った時に私の運転の下手さに冗談言えてたね。【Yからのメール 6】
夏休みに入ったころから紫乃が訴えてた症状を考えてみました。
めまい、立ちくらみ、頭痛、吐き気、食欲がない、胸が締め付けられる感じがする、怖い夢を見て夜眠れない、
体がだるい、疲れた、鼻血、やる気がでない。
これらのことって一つ一つ別々ではなくてすべて繋がってるのかも・・・
めまいは貧血かもとか、食欲がないのは夏バテ、やる気がないのはなまけとか思ったりしてたけど。
精神的な不安やストレスからきてるのかもしれない。
ヘルプのサインじゃない?鼻血は以下ののぼせにあたる。
自律神経失調症-Yahoo!ヘルスケア
全身にわたっての自律神経系の症状がでたり消えたりするので、不定愁訴と呼ばれることもあります。多くみられる症状には、めまい、ふらつき、動悸、息切れ、倦怠感、疲れやすいこと、手足の冷え、発汗、頭ののぼせ、頭痛、頭重感、不眠、食欲不振などがあります。 精神的な症状としては
イライラ、不安感、疎外感、落ち込み、やる気が出ない、ゆううつになる、感情の起伏が激しい、あせりを感じる
2013.9.4
*
無数の横たわった死体の上に立っている。足元の死体が動き出す。
暗闇の中、大勢の血だらけのシャレコウベに取り囲まれてしまう。手で押しのけようとするが、ぐにゃりと気味の悪い感触がして、どうにもならない。
連日のようにこんな夢を見て、目が覚める。目が覚めてもその生々しさがいつまでも消ない。
そして子は、学校へ行けなくなった。
2013.9.9
*
昨日は母の運転する車で学校の駐車場まで行ったが、降りれなかった。車に乗り込んできた保健の先生と少し、話をして、「明日は保健室まで来ようね」と約束して帰ってきた。
今日は父の運転する車で最寄り駅まで送ってもらい、いつものように一人で電車とバスで学校へ行って、保健室で数時間を過した。「明日はがんばって教室まで行こうね」と約束をして、昼頃に早退してきた。
2013.9.10
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子が精神的に不安定になってきたのは、ふりかえれば洗腸の訓練のための入院から帰ってきた頃と思われる。病室がやや痴呆のかかったお婆さんばかりの大部屋で、そのお婆さんたちの呪詛のような独言から逃れるようにいつもカーテンを閉めてとじこもり、後半ははやく家に帰りたいと洩らしていたが、それが影響したかは分からない。ともかく退院をしてから、夜眠れないと言うようになって、それからしばらくして怖い夢を見るようになった。その同じ頃に嵐の二宮君が出ている映画「ガンツ」を見て、死体が切り刻まれたりする残虐な場面が多くあって、かなりショックを受けたようだが、これも実際に彼女の心の襞にどんな影響を与えたのかは推測の域を出ない。後日にそんな夢の話をしていて、いつも追いかけられていた恐怖の対象に振り向き、勇気を出して話しかけたらもう夢に出てこなくなったというユングの臨床例にある女の子の話してやると、お父さんからそんな話を聞いたからと、勇気を出して映画の続編を見て「謎が解決して、少し怖くなくなった」なぞと言っていたが、怖い夢はそう簡単には退場してはくれなかった。一方でそんな入院から退院にかけての流れがあり、他方で中学にあがってはじめての夏休みの課題や宿題があり、夏期講習の登校があり、また文化祭に向けての演劇部の練習が夜遅くまであったりで、かなり忙しない日々が続いていた。それに入院で覚えてきた洗腸が追い討ちをかけた面もある。今までのようにじぶんは寝転がって母親の掻き出しに任せていた嫡便と違ってすべてじぶんでやらなければいけないし、いったん腸の中に溜めていた500ミリのぬるま湯を便と共に排泄した後の全身的な虚脱感・疲労感は相当のものらしい。部活の練習から夜7時過ぎの電車で帰ってきて、夕飯を済ませて洗腸をしたらもう10時、11時だ。そんな生活だから宿題も遅々として進まないし、本人も指摘をされることにいらいらしてきて、だらしない生活態度を叱られることもほぼ日課のようだった。子が書いた宿題の読書感想文(泉鏡花の夜叉ヶ池について書いたものだったが)を「こんなのはお前が書く文章じゃない。捨ててしまえ」と言ったのもその頃だ。そんなことはわたしが一番よく分かっている、と子は叫んで泣いた。ある晩、わたしが怒り心頭して「もうおまえのようなやつは出ていけ。犬猫と一緒に好き勝手に暮らせ」と食事中だった子を椅子から引きずり下ろし、そのまま手足をつかんで庭へ放り出した。子はこんどは泣きもせずに、玄関へ回って靴を履き、(すり傷の手当てをしたYによれば)バッグにiPodとわたしが与えた切り出しナイフだけを入れて出ていった。わたしはYに後を追わせ、結局、雨が降ってきたので二人で駅前のモスバーガーに入ってしばらく話をしてから戻ってきた。これはちょうど文化祭の練習中の部活にわたしが差し入れのアイスやお菓子を持っていき、帰りに子の求めで同級生の三人をそれぞれ家や最寄り駅へまで送っていって、まるで修学旅行の宿のように車内ではしゃいで帰ったその夜のこと。それからじきに文化祭本番となり、子は今回は照明と音響のふたつを束ねる“舞台監督”として奮闘し、続いて二日目もわたしはYと参加してあちこちの展示や、生徒たちが調理する屋台に並んだりした。子もいつものように同じ部活の仲間たちや先輩らに囲まれて楽しそうであった。それから数日して、子は学校へ行けなくなった。行かないのではない、行けないのだ。なぜ行けないのだと訊くと、分からない分からないと頭を抱えて泣き叫んだ。母が学校まで車で送って、駐車場で車に乗り込んできた保健の先生と「明日は保健室まで頑張って来ようね」と約束し、次の日に約束通り保健室で午前中を過ごし、クラスで仲のよいHちゃんも訪ねてきてくれたりして、これでもう大丈夫かなと思ったけれど、翌日の朝はカーテンを閉ざした薄暗い自室のすみでに膝を抱えてうずくまっていた。子がそんなふうになると、「一ヶ月でも半年でも気長に待ってやろう」なぞと言っていたにも関わらず、わたしもどうしてよいか途方に暮れ、対応についてときにYと意見が衝突して、夕食の膳を思わず払ってこんどはわたしが自室に閉じこもったりした。味噌汁や醤油瓶が飛び散ってさぞかし悲惨な光景であったろうリビングをYが黙って片づけている音が聞こえてきた。わたしはそれを聴くことすら抗うようにiPodのジャニス・ジョプリンのボリュームをあげて書斎の床に不貞寝していた。こうやって当たり前に思っていた平和な日常がいとも簡単に崩れていくのだ、と思った。あとでみなが寝静まったあとでリビングに行くと、まだ食事が途中であったからとYの心遣いでテーブルの上におにぎりがふたつ置いてあったが、わたしはそれを食べなかった。とまれ、そんなふうに家中が音を立てて崩れていくような日々であった。学校のA先生は気にしてくれて、何度も電話を呉れた。Yからも先生へ家で起きたこともすべて伝えていた。保健の先生から誘いを受けて、Yが学校へ赴いて話を聞いてもらったこともあった。「クラスに仲のいい友達もいるし、部活も頑張っているし、問題は何もありません。ただ、どの先生に聞いてもシノさんがこれまで“しんどい”と言ったことがいちどもない。たぶんそれだけ無理をしていたところがあったのではないか。その辺はわたしたちも気をつけようと話をしました。とにかくいまは家庭が安らぎの場であるように接してあげてください。(遅れている)宿題などの勉強のことは、学校の方で徐々に話していきますから」 そして、三連休は嫌なことを忘れて愉しませてあげてくださいという先生のすすめもあって、唯一わたしが休みをとっていた日曜日。当初は子のリクエストでひさしぶりに山へ行って焚き火でもしてこようかと話していたのだが、生憎の台風のために急遽変更して、京都市内にあたらしくできた水族館へわたしとふたりで行ってきたのだった。サンショウウオやクラゲやイルカたちの姿に接して少しでも心が和んでくれたらと思った。ミュージアムショップで仲良しのHちゃんとTちゃんにとサンショウウオとイルカのストラップを買って帰った。そして連休が終わった翌日の月曜。Yはなるべく自然なふりをして駅まで車で送っていったが、やがてメールが来て「人がいっぱいで乗れなかった」 続いて「次も乗れないかも知れない」 たまたま出勤が遅かったわたしはYと思わず顔を見合わせた。今日も行けなかったら、これは長引くかも知れない。二人ともそう思ったはずだ。Yはまた車で駅まで迎えに行くことにした。そして車で子を学校へ乗せていった。出勤時間が来たわたしは駅に向かって歩きながら、はじめて学校へ電話をして担任のA先生へ今日の経緯を説明してお願いしますと言った。何とかキャッチして欲しいという気持ちだった。昼前に「いまのところ学校から連絡はありません」とYからメールが届いた。昼過ぎに「お弁当の時間も無事に終わったようだね」とわたしがメールを打った。「うん、うん」とYが返してきた。その日、部活をして子はふだんどおりに帰ってきた。翌日の今日も、同じく。ただし夜眠れないのは相変わらずで、今日は保健室で午前中、2時間熟睡をしたという。しかし、とりあえずはやれやれか。昨日・今日は、子が書き溜めた小説や書き物をWebで発表したいと言うので新規で子のメール・アドレスを取得して、ヤフーのブログを設定してやった。ついでにコピーや貼り付けのショートカットなども教えた。「お父さん、ありがとう」と子は目を輝かせて言った。さっそくクラスの仲の良い友だちや部活の先輩たちに宣伝して回ったらしい。いろいろなことが重なり、タイミングを一にしたのだろうなと考えている。思えば中学入学から半年、馴れない環境でびっこの足をひきずって電車通学し、教室を移動し、いろんなことに背伸びをして堪えてきたのだろう。そんな本人の見えない努力にも気づかず、思えば宿題やしつけなどついあれこれと細かいことで叱りすぎていたかも知れない。それと平行して子の心の成長もあるし、親がそれに充分についていけていない部分もあるのだろう。分かり合えていると思っていたが、そうでないことがたくさんあったかも知れない。いろんなことをまだ考えている。
2013.9.18
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あれから子は順調に学校へ行っている。連休明けの火曜日、学校へ行きかけの駅から「お腹が痛いので帰る」というメールがありすわ先週の再来かと思ったが、家でじぶんで洗腸をして、昼からまた学校へ出かけていった。(学校にも洗腸の道具を置かせてもらったらどうかと言ったのだが、Yいわく、学校で洗腸をすることは子が嫌なのだそうだ) その日の数時間後、整形外科の診察があるためにYがふたたび迎えに行って、大阪の病院へ。もともとは装具の調整であったのだけれど、診察をしてくれたK先生より、歩き方がだいぶ悪くなっていて、以前は足首――――つまり膝から下の問題だったわけだが、いまは腰の部分に問題があって、いわゆる股関節脱臼に近い状態になりつつある。下手をすると将来、ふつうに歩くことすらできなくなるかも知れない。先生はそこまでは言わなかったそうだが、Yはそういう意味だと受け取ったそうだ。その状態を防ぐには腰下の足の筋肉を鍛えることだが、神経の麻痺によって筋肉がつきにくい上に、これらの部分はふつうの歩行ではつきにくい場所で、毎日のリハビリ(横向けに寝て、足を真横に上げる)しか手段はない。以前は入浴後にやっていたリハビリは最近おざなりになってきていたのだが、これは至急に再開することにし、また外出の時だけであった装具も(先生が勧めるように)家の中でも着用させようかとYと話している。
2013.9.27
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昨日は子が中学に入って知り合った、現在大の親友のHちゃんがわが家に泊まりに。途中の乗換駅まで子が迎えに行って、わたしは車で駅前にて待機。午前中は二人で学校の週末課題をやり、昼はわたしがパスタをつくり、午後からは庭の小屋のロフトにのぼったり、ボール投げをしたり、そのうち投げたボールが隣接するの三軒長屋の空き家の庭あたりに入ってしまったらしく、物干し台に顔を出したらしい隣家のOさんの奥さんが「見える、見える」なぞと言っているのを聞きながら、ソファーで東洋文庫の説経節「小栗判官」を読んでいたわたしはうつらうつらと。目が覚めたらボール探索で手にしていた特定小電力の無線機を持ったままどこぞへ消え去っていた。折りしもHちゃんの英語弁論大会優勝のお祝いにとYが隣家のOさんの娘さんに頼んでいたかぼちゃの手作りケーキが届いて、わたしはジップを自転車につなげて付近を探しにいった。ぐるりと回ったら、ちょうど仕事から帰ってきたYから「二人とも家に帰ってきているよ」とメールがあり、もどってみんなでケーキを食べた。夕方、庭の水撒きをお願いした二人はいつのまにかホースを手に掛け合いごっこに。二人してびしょ濡れになってはしゃいでいるのは、まだ小学生の残り香のようで。夜は庭でバーベキュー。折りたたみ椅子をかき集めてきて、作業台にパネルを載せて簡易テーブルに、小屋から引いた電気で工事用の照明をぶら下げたら、なかなか良い野外小劇場だ。二人には火起こしを頼み、着火剤がなかったので新聞紙と、端材の杉板を鉈をかませて細い薪木にするやり方を教えて、わたしは恵比寿の缶ビールを片手によい気分。食後はまだ赤赤とともっている炭火を前にわたしが木工用に拾ってきた小枝を二人でナイフで削ったり、紙やすりをかけたり。その後、テレビの部屋で三人でハリーポッターのDVDを見ていたら、わたしの妹からメールが来た。
妹のメール一
お泊りいいね。
でもお兄ちゃんはあんまりチョッカイ出すんじゃないよ。
もう女の子の世界なんだからオヤジは不要よ。
妹のメール二
いや、だから、オヤジはそろそろおいとましなさい。
塩見鮮一郎の「中世の貧民 説教師と廻国芸人」(文春新書)は面白かった。説経節「小栗判官」を元に、説教師の物語る街道を経巡りながら、まるでじぶんがあの一遍の聖絵の中を旅しているような気分になった。四天王寺の石の鳥居から続く参道では乞食や癩病者、わが子のしゃれこうべを抱えた気狂いの女などにまじって、弱法師、ささらを持った説経師、絵解きの熊野比丘尼らの中にわたしは佇んでいた。こうした風景に心身が顫えるのは、遠い原初の記憶なのかも知れない。存在が、顫える。この「中世の貧民 説教師と廻国芸人」から派生して、有名な説教節の原本を備えた東洋文庫の「説経節」、それに岩崎武夫「さんせう太夫考 中世の説経語り」(平凡社ライブラリー)を熟読中。ほかに関連で見つけた近藤ようこさんという漫画家の、まずは「水鏡綺譚」(青林工藝舎)。そしていま同じ作者の「説経小栗判官」 (ちくま文庫) と「妖霊星―身毒丸の物語」(青林工藝舎)を注文中。説経節については、機会があれば後日に書きたい。
2013.9.29
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たとえば岩崎武夫「さんせう太夫考 中世の説経語り」(平凡社ライブラリー)が記しているこんな一節はどうだろう。
また彼ら説教師はたちは、このような場の構造(聖域的広場的側面)と、それが必然的に形成した論理(生命の転換と再生)を、体験として信じつつ、それを生きたのであり、そうであるがゆえに、その場の構造と論理を語りの形式(パターン)として生かすことに成功したのである。
中世の説教語りとは、単なる神仏の霊験譚ではなく、じつは醜い癩病者に零落したおぐりやしんとく丸の向こうには差別され過酷な生を強いられた無数の漂泊民たちの悲嘆があり、遊女や狂女に身をやつして彼らを救う照手姫や乙姫やといった存在の向こうには観音信仰を背負って道々を旅したあるき巫女のような女たちの姿が反映されている、というのだ。それらの物語を土地に根ざしながらも別の意味でまた過酷な生を生きねばならなかった貧しい人々が、自らの境遇を重ね、怒りや悲しみを重ね、そしてときにすべてを解放して、聴き入った。
落ちきるだけ落ちきることによってしか、生命の転換と更新の機はつかめないのであって、落ちきることが、逆に生命の復活と再生=自己解放をもたらすという論理には、どのような抑圧や弾圧にも容易に屈しない、民衆の姿があり、そうした民衆のいわば負におけるエネルギーを抽出し、それに形を与えたのが説経「さんせう太夫」の世界であったといえよう。
そしてここには、本地物的な発想を踏襲しながら、その本地物的な発想をつき破り、人間苦にさいなまれているものの姿=宿業を見つめているもうひとつの眼がある。
それは観音と同じ高みに立つ眼ではないし、地を這うようなしんとく丸の悲痛な眼でももちろんない。それはけっして観音への信を否定している眼ではない。観音の慈悲の力によっても、どうにもならなぬ人間苦の世界があること、そのことの発見によって逆に観音の存在をいま一度たしかめ、信じようとする、語り手の眼であるといえる。
語りによって日々の糧を稼がねばならなかった説教師やあるき巫女たちにちにとって、物語は人々の心を強烈にとらえる必要があった。だから、反応のにぶい場面はあっさりと捨てられ、聞き手が熱狂すればどんな要素でも貪欲に取り入れて、自己増殖する細胞のように膨らんでいった。しかしときに猥雑になり、あらゆる夾雑物を抱え、大スペクタクルに展開しようとも、その中心にはいつも底辺の人間たちの苦しみと悲しみと、それを乗り越え、開放させようとする不思議なエネルギーが脈打っていた。つまり説教語りとは、そうした底辺の人々がみずから紡ぎ、織り上げた「生きるための物語」と言える。
わたしは、そこに魅かれる。いつか千数百年前に生を受けて、ささらを携えた説教師や妖しげなあるき巫女たちと風のような旅をしていたような気がする。
2013.10.2
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日曜日の夜。リハビリをやっているときの態度が酷かったので最近のその他もろもろもろのことも含めて小一時間、説教をした。
月曜。体調が悪いと言って学校を休んだ。
火曜日。午前中は自室に閉じこもって出てこなかった。昼頃に落ち着いたので、Yが車で学校へ送っていった。「お弁当、どうしよう?」と訊くので、Yが「もう車で食べたら?」と言うと、素直にその通りにした。二時間だけ授業を受けてから、またYが車で迎えに行き、大阪の病院へ背中の手術跡の皮膚科の診察。
水曜日。ふつうに登校して、部活をして帰ってきた。(ただし、午前中は保健室で寝ていた) 夕食を食べてから、この頃学校を休みがちで授業が遅れているため、中間テストも控えているのでYが話を聞いてきた、歩いて数分の近所の塾のお試し授業に本人の意思も確認した上で参加した。同じ小学校の同級生もいたそうで、案外と楽しそうだった。「明日も行く」と。
木曜日。頭が痛いと言いながら登校したが、途中駅から「やっぱり無理」とメールが来た。駅で出勤するわたしと偶然会い、「しんどうい」と言うので、「今日はもう家でゆっくり休みな」と言った。昼、仕事の休憩時間にYが様子を見に行くと、部屋のすみで膝を抱えて「一人にして!」と頭を抱えた。午後からはパソコンで小説を書いたりして、少し元気になってきた。塾は休んだ。夜、洗腸をしたが、まだお腹が痛いと言うので、浣腸をして深夜までYが摘便をした。
金曜日。ふつうに登校をしたが、一時間目の体育の授業の前に、お腹が痛くなってトイレに行ったところ粗相をしていて、スカートにも付着してしまった。子がいないとクラスの子が騒いでいたため、先生たちが探し回ってトイレにいる子を学年主任のM先生が発見し、着替えの体操服やビニール袋などを持ってきてくれた。学校からYに電話があり、「今日は仕事で、最近抜けてばかりなので、できたら仕事が終わる夕方に迎えに行きたいが、もし子が早く迎えに来て欲しいと言うなら行きます」と返事をする。結局、保健室で休んでいた子が「早く迎えに来て欲しい」と言うので、Yは仕事を早引けさせてもらい、学校まで迎えに行った。
本日、土曜日。Yが寝坊をしてしまい、起きたら制服に着替えた子が待っていた。電車に間に合わないと言うので、休みだったわたしが車に乗せ、コンビニで昼食代わりのパンを買わせ、学校まで送っていった。急いでおにぎりを頬張ったのですこしお腹がしくしくするが、今日の二時間目の歴史の授業は待ちに待った聖徳太子なので、ぜったいに抜かせないと言う。一時間目の理科の時間だけ保健室で寝ていたが、その後は授業は出て、午後からの部活もやって夕方6時に帰ってきた。
ふりかえれば、まだまだ落ち着かない、そんな一週間。明日はHちゃんを誘って、山へ焚き火に行く計画。洞川で水を汲んで、鍾乳洞を探検して、天川の河原で焚き火をして飯ごうでミネストローネなぞ作ろうかな、とか考えている。
2013.10.5
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夕方に会社を辞してHさんと二人で、先月末、アジア某国を旅行中に殺害された元同僚のI君の家へ焼香へ行ってきた。
2013.10.7
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途中から、抑えていた悲しみが堰を切ったようにお母さんは、息子の遺体確認へ某国を訪れたこと、そこで聞いたもろもろの不確定な話をまるで出口のない箱の中をいつまでも彷徨しているネズミのように話してくれたが、結局、I君の死の原因はよく分からなかった。要領の得ない話の断片から推察できたのは、悪いガイドに騙されて危険な場所へ誘われ、そこで何らかの悪意を持った連中の手中に捕らえられたということ。捕まりそうになっていったん逃げ、このままでは三人とも捕まってしまうからばらばらに逃げようと、一説に拠ればかれが囮になって捕まっている間に、二人の友人は逃れて大使館へ駆け込み助かったともいう。翌日、I君は死体で見つかった。外傷はなかった。死因も、犯人も、いまだに分からない。薬物で殺されたとの噂もある。お母さんは携帯電話で撮ったというかれの死に顔を見せてくれた。全体に茶色っぽく変色していて、解剖のためか頭髪も剃られ、下手糞な眉毛も描かれていて、かれがもう30年、年老いたらこんなオヤジになったかといった風だった。I君とは奈良の支社で2〜3年ほどいっしょに働いた。頭の回転も速く、要領もよかったが、不真面目でいい加減なところも混在していた。酔っ払って自転車で転倒して顔面を負傷したり、契約先との懇親会の席で悪酔いをして不興を買ったこともあった。一方で人懐っこい面もあって、誰とでもすぐに友だちになった。今回の葬儀の際に、少なくはない現場の隊員さんや平城遷都1300年祭でいっしょだった協力会社の人たちも参列したのは、そうしたかれの人に愛される面をよく表していたと思う。他方で(わたしはそれほど知らなかったが)複雑な家庭環境もあった。父親はとうに別居していて、母親だけ旧姓に戻り、妹は情緒不安定の質を抱え、弟たちもなかなか就職も定まらないようであった。おそらく恵まれた境遇とはいえない中で、新聞配達をして大学に通ったとも聞いた。お調子者で、要領もよく、愉しいことが大好きで、人懐っこく、友だちや家族思いで、常識外れで、仕事ではいい加減んなことも多い。わたしの中でのI君はそんな感じであったろうか。市の衛生局の採用試験に受かって会社を辞めたのも、海外旅行がしたくて長期の休暇を取りたかったからだ。自衛隊出身者のI君は身体を動かすことが好きで、自転車で通勤をし、会社でも腹筋をしたり、休みには南の島の深海へ潜りに行ったりしていた。辞めてからもときどき事務所に顔を出していたが、仕事が忙しいさなかに平気で一時間以上も居座ったりしていたので、あるときわたしが「もうあまり来ない方がいい」と注意をした。それがI君との最後の会話で、それきり会社には顔を出さなくなった。思い起こせば、たくさんの時間を、わたしもI君と共に過してきたわけだ。そのI君はいま、つましい市営団地の四畳半の部屋の隅に置かれた祭壇の上の、これはかの国の文様だろうかこまかい彫刻を施された小さな木の箱に収まって、もう物を言うこともない。その横に真新しいスーツに身を包み、あのいつもの「世間などに負けないぞ。上手に泳ぎ切ってやるぞ」といった微笑を浮かべたI君が写真の中で微笑んでいる。享年、33歳。最後の瞬間に、かれが何を想っただろうか、想像をしてみるが、わたしにはついに分かりようもない。
2013.10.15
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岩崎武夫「さんせう太夫考 中世の説経語り」(平凡社ライブラリー)がじつに刺激的だったので、続編の「続さんせう太夫考 説経浄瑠璃の世界」(平凡社選書)を amazon の中古で買った。448円。併せて、偶然見つけた小山 一成「貝祭文・説経祭文」(文化書房博文社 )もおなじく amazon の中古で。こちらは697円。
上記二冊を検索していたら、なぜか中上健次の評伝がひっかっかり66円の値段もあってこれも購入。高山文彦「エレクトラ - 中上健次の生涯」(文藝春秋)。かつて村上春樹の初期の小説を愛読したこともあったが、わたしは中上健次だった。涼しげな遊歩道を離れて、わたしは鬱蒼とした山道へ歩みをすすめたのだった。作家の死後、新宮の墓を訊ねて「ささやかながら、あなたの意志を継いでいきます」と呟いたのは若さゆえの慢心であったけれど、もういちど、それらを振り返ってみたいと思ったのだった。かつて新宮は、憧れの地であり、神話の地であった。いまでもそうなのか。冒頭からかの地の路地の風景が立ち現れて引き込まれる。
それからもうひとつ。こちらは文庫本なので、通勤の電車の中で読み始めた本。若き友人のUちゃんが本部夜勤明けにこっそりと渡して帰っていったタイラー ハミルトン, ダニエル コイル「シークレット・レース ツール・ド・フランスの知られざる内幕」 (小学館文庫)
2013.10.17
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66円で買った健次の評伝に作家が寄せたエッセイ「犯罪者永山則夫からの報告」が出てくる。「永山」とは奇しくも作家が生まれ育った新宮の臥龍山の裾野にヤマタノオロチの如く展開した四つの被差別部落の蔑称であった。その永山が「永久革命者」のようにピストルの引鉄を弾いたとき、作家の魂も爆ぜ共鳴した。「俺はあんたのところへはもどれないのだ。俺は自然からはじきだされ、そして自然の力でピストルをひかされたようなものだ。自然とは、あんたなんだ」 昭和29年の秋、生活苦から二人の幼い乳飲み子と長男が産ませた孫を連れて青森の実家へ旅立っていった母の乗った列車を追って5歳の永山則夫は「母ちゃん、おらもつれていって」と泣き叫んだという。「俺はあんたのところへはもどれないのだ。俺は自然からはじきだされ、そして自然の力でピストルをひかされたようなものだ。自然とは、あんたなんだ」
ひらけ熊野
俺の男根とはらからの精液をくめ
浅利
亀井
山下を刺せ
ほそぼそと肛門をひらき流れる売春婦(みうり)川よ
(略)
市長を殺せ
教育長を殺せ
裏切り者渡辺靖男をしばり首にしろ
母千里を殺せ
父、七郎を殺せ、留造を殺せ
姉、鈴枝を殺せ、静代を殺せ、君代を殺せ
熊野よ、わがみくそもじよ
わが町、春日を燃やせ、野田を燃やせ
わが連潯にしるされたもろもろを
呪え
(以下略)(中上健次「故郷を葬る歌」 )
2013.10.21
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水曜に千葉で新規物件のプレゼンがあり、折りしも台風が近づきつつあったことで前泊。会社が水道橋のYMCAホテルをとってくれ、火曜はもともと公休だったのでこれ幸いと東京に住む友人のAに連絡を入れて、有楽町マリオン前で合流の運びとなった。新幹線から乗り換えて有楽町で下車すれば、マリオン角の交差点では山本太郎一派が秘密保護法案反対のアジテーションの最中で、マスクをした幽霊のような学生もどきがふらふらとチラシを差し出しては通行人に無視されている。じっと見つめていたら一枚、くれました。最初に行った中華の「慶楽」はシューマイも美味だったが、珍しいスープ炒飯が粋だったね。炒飯がスープの中に沈んでいて、何とも不思議な光景だがそれがまた妙に美味しい。続いて行ったのがガード下のドイツビアバー「Baden Baden」。ナルニア国の騎士団のような甲冑が飾られた店で、しばしウィンナーとホフブロイ・ビールを堪能。ここまでで一人頭瓶ビール1本と、小ジョッキ2杯。わたし的にはちょうどいい感じであったが「もう1軒」の声に乗り、「どこがいい?」と訊かれてほろ酔いのわたしは「そうだな、中上健次がたむろしていた新宿のジャズ・ヴィレッジか、永山則夫がバーテンダーで働いていたヴィレッジ・ヴァンガードはないの?」 「そんなあなた、この腑抜けた日本に60年代の亡霊が残っているわけないでしょ」と窘められながらもAが最後に連れて行ってくれたのが、裏路地の雰囲気のあるバー。「ルパン」は例の太宰治がカウンターに腰かけている写真で有名な文壇バー。その隣というか地下にあるのが、マスターが音楽好きで「ミュージック・マガジン」にも寄稿していたという人物だという「MELOS」。どっちがいいかと訊かれて迷ったが、音楽好きのマスターの方が少なくとも話題に困らないのではと思って、「ルパン」は前まで来たからそれで良い、「MELOS」にしようと狭い階段を下りていった。扉に「会員制」の小さな文字。Aが誰かの名刺をガザの検問所で見せる通行許可証のように差し出して「いいですか?」なぞと聞いている。入っていきなり店内にかかっているのがサム・クックの Live At The Harlem Square Club だと気づいた。しかも扉の裏にはソニー・クラークの Cool Struttin' 。わたしはあまり外でアルコールを飲むことがなくて、どちらかというと真っ直ぐに家族のいるわが家に帰るタイプなので、こうした店にはほとんど場馴れしていないのだけれど、やっぱり音楽が好きだったらどうにでもなるものだ。いつの間にかマスターがサム・クックが AT THE COPA で歌う Blowin' in the Wind に始まり、ディランとザ・バンドのライブ盤 Before The Flood、スティービー・ワンダーの Innervisions 、フランク・シナトラの Come Dance With Me と、CDをとっかえひっかえかけてくれた。その間にディランの初来日武道館を見に行ったこと、ザ・バンドの再結成コンサート(リチャード・マニュエル抜き)をお互いに見に行っていたこと、昔はサム・クックもザ・バンドも満足にレコード屋の棚に並んでさえいなかったこと、などを話してくれた。そしてカウンターにさりげなく置いてあって紹介してくれた、あの炎上したホテルニュージャパンの地下にあった「「ニューラテンクォーター」と言う、「ポテトチップなどの乾きもの」のつまみだけで一人5万円(今なら30万くらい)と言う超高級クラブ」(力道山はここで刺された傷が元で死んだ)の内幕本 山本信太郎「昭和が愛したニューラテンクォーター ナイトクラブ・オーナーが築いた戦後ショービジネス」(DU BOOKS)。もう12時だと店を出て、Aと分かれて丸の内線で御茶ノ水に出て、かつてちょっとだけ通ってまた中上健次も同じだったアテネフランセ近くのはや人気の絶えたビルの自販機の陰で立小便をして、YMCAのホテルに無事チェックインしたのはすでに夜中の1時近くであった。手持ちがあまりなくて、Aにほとんど散財させてしまったのがすまなかった。でもかつての古里、東京の夜は何かいいね。いろんなものが頭の中に交錯する。
慶楽 http://tabelog.com/tokyo/A1301/A130102/13002730/
Baden Baden http://hitosara.com/0003005930/
MELOS http://mizukinaoko.blog.so-net.ne.jp/archive/201307-1
2013.10.25
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台風一過の土曜日、大阪の四条畷にある府営深北緑地内のドッグランへジップを連れて、お弁当をもって、家族三人で。もう1年以上も前にYが勤務先で教えてもらっていたのだけれど、奈良のわが家からでも名阪国道を使って片道40分ほど。距離も手ごろで、ドッグランは無料、駐車場は本来有料だが子の障害者手帳でこれも免除。おまけにドッグラン自体も広くて、雑木林があり、坂道がありと、公園の一角をそのまま切り取ったような自然体の敷地で、規則はあるのだけれど管理者はいなくてそれぞれ自主的なマナーで利用されているような気儘さが良い。あまりこういう場所へ連れていく機会がこれまでなくて、最初にいた数頭の犬はみな躾がよさそうな感じで、ドッグランの中なのにリードを外すのが躊躇われたくらいだったが、思い切って外してみると愉しそうに他の犬とじゃれたり、併走したりしていて、特に問題もなく、迷惑な行動もなく、実に愉しそうに自由気儘に過している。(但し後半、わたしが売店にコーヒーを買いに行っている間、ベンチの上で口を開けていた他人のバッグからサランラップで包んでいたたぶん人間様のおにぎりをジップが食べてしまい、Yは平謝りしたとか。Yいわく向こうの方がさらに謝っていたそうだが、わたしとしては放し飼いの犬がいる中で管理の問題じゃないかと思うけれど・・) もじゃもじゃの小型犬と友だちのように鼻先をこすりつけあったり、黒い小型のブルドックにお尻をつけ回されて「もういい加減にしてくれ」というように吠えたり、追いかけていたはずの大型犬の逆襲を受けて逆に逃げ回ったりとか、ふだん見れない表情や行動が見れてこちらも愉しい。東大阪の街中の立地もあってか、1〜2時間のサイクルで入れ替わり立ち代りいろんな犬と飼い主がやってきて、絶えることがない。
深北緑地 http://www.fukakitaryokuchi.jp/
帰りは名阪国道を途中で降りて来週、子が学校で予定している植物観察の予定地である王龍禅寺周辺を下見に立ち寄った。その二日前には東大寺や春日大社のミニ遠足もあり、じつは数日前にこの件でYと一悶着あったのだ。そんな企画があると夕食の時にYから聞かされて、どれも距離があるから紫乃はほとんど車で送ることにしたと言い、詳細を聞くと詳しいコースやそこで何をするのかなどもロクに聞いておらず、子は子で「わたしが歩けるようなところでも先生たちはやめておこうと言う。みんなとおなじように歩きたいのに」と呟く始末なので、「入学したての頃に行った野外合宿では学年担任のM先生から詳細な地図と説明をしてもらって、わざわざ紫乃と下見に行ってぜんぶのコースを歩いて確認したじゃないか。小学生の時の矢田丘陵のハイキングだっておなじように本人と下見をしてから、先生と相談して途中からショートカットのコースをつくってもらったじゃないか。何で今回はこんなに雑な打ち合わせで済ましているのか。遠いから距離があるからと何でもそうやって切ってしまったら、簡単だろうけど紫乃が可哀相だろう。できることとできないこと、学校にお願いできることと親が協力できることと無理なことのはざまで、極力紫乃が他の子と同じように行動できるように本人の意向も含めてぎりぎりどこで折り合えるか、もっと良い案はないかといろんなこと考えてやるのが親の役割じゃないのか」と立腹して、困り果てたYが担任のA先生の携帯に電話をしている最中にも横で「とにかく詳しい地図なんかの資料をちゃんと用意してもらえ。判断材料が何もないんじゃ話にならん」とモンスター・ペアレンツよろしく管を巻いていたのだった。次の日、子が先生から渡されてきた資料を夕食の席で眺めているときにA先生から電話がかかってきて、こんどはわたしが出てすり合わせをしたのだった。王龍禅寺はこんなところにこんな風情のある寺があったのかとちょっと驚いた。寂れたゴルフ場に隣接する山門から雑木林の緑も濃い苔生した石段と石畳の参道がのび、たどりついた本堂も趣のある古跡に似つかわしい。後で調べたところ関が原の合戦の頃に大阪方の兵火で焼失したため現在の堂宇はすべて江戸以降の建築だが、もともとは聖武天皇勅願の建立で、本尊は本堂に囲まれた岩盤に刻まれた十一面観音立像で、南北朝時代の様式を伝えるという。わたしは途中からジップと山門へ戻って本堂近くの駐車場へ車を先回りさせたのだが、すでに本堂に着きさらに奥の院のような大黒天の堂までの山道を戻ってきた子が「お父さん、すごくいいところだよ」と眼を輝かして言う。当初の理科の先生の慎重な案では子には無理だろうと外されていた山門からの石段なども問題なく歩けるし、結局、植物観察は山門までのアスファルトの車道を車で送ってもらうことにした。一方の東大寺遠足は下見に行かなくとも熟知している。先生から近鉄奈良駅〜東大寺大仏殿〜二月堂〜若草山の裾野を抜けて春日大社〜飛火野でお昼とスケッチ〜近鉄奈良駅のコースと各場所での内容等を伺って、幸いこの日はYが休日で動けるので東大寺の山門まで子を車で送り、その後大仏殿と二月堂を見た子を春日大社の宝物館の裏手の駐車場まで再度車で送るという案に落ち着いた。それぞれエクセルで図面を作成して、A先生へ先ほどメールで送ったところ。
王龍禅寺「十一面観音菩薩磨崖仏」 http://rokushin.blog.so-net.ne.jp/2013-08-14-1
子の登校拒否は、まだ完全ではないが、少しづつ良い方向へ向かいつつあるのではないか。土曜日曜と休んで、月曜がいちばん鬼門のようで、先々週はわたしが友だちのHちゃんと二人を連れて天川で鍾乳洞や焚き火を愉しんだ日曜のその夜に、バッド・タイミングでYが「絡まった髪先を少しだけ切り揃えて」と子に言われたのをバッサリと10センチ以上切ってしまい、背中まで垂らすような長い黒髪は子のいわば精神的な支柱であったものだから、その晩はおうおうと獣の咆哮のような鳴き声をあげて部屋に閉じこもり、翌日は学校を休んだ。先週の連休明けも中間テストの初日、めまいがすると言って休んだ。二日目の朝はわたしが釘を刺して行かせたのだった。行けば「愉しかった」と言ってふつうの顔で帰ってくる。他にもやはり排泄の関係でお腹が痛いからと帰ってくることも、相変わらず時々ある。特にこの間、(周囲の友だちには気づかれなかったが)粗相をしてしまったのがやはりショックで本人も敏感になっているようで、すこしお腹に違和感を覚えただけで心配になって帰ってきたりする(これについては先日、学校側に洗腸の道具を置かせてもらう提案をするべきではないかと家族三人で話し合った。子は洗腸という行為を学校内で行うこと自体が嫌らしいが、ここまで頻繁に家に帰らなくてはならないことが多いと、将来も含めて自宅以外でも洗腸をすることを前向きに考えていく必要があるのではないか、というのがわたしの意見であり問題提議であった)。そんなこともあって欠席がなかなかなくならず、課題や宿題がたまって勉強が遅れていくのもまたストレスの一つになっているようだ。さらに昼間そうやって保健室や自宅で寝るものだから昼夜が逆転して、深夜に眠れないと自室でノートに何やら書いたり iPOD で何やら聞いたり本を読んだりしているものだから、また朝が体調が悪い。しかし相変わらず部活はそれをなくして学校あらずというくらい熱心で、来春の公演は先生に言われて「夜叉が池」を元にした脚本を書く予定だし、クラスでの友だち(特にお昼を共にする友だち)も自然と少しづつ増えてきたようで、表面的には問題は見当たらない。Yは図書館で子育ての本――――特に思春期の問題や勉強方法などの――――をたくさん借りてきて時にベッドで涙を流しながら読んだりしているが、わたしはと言えば、心の奥底では楽観的である。やはりわたしの子どもだから登校拒否くらいは序の口だろうし、わたしも中学時代はまだのほほんとしていたけれど、高校時代は「生きてさえいれば良し」を身上としていたので(実際に、そうだ)、かろうじて一本の糸でも心が通い合っていればまだまだ大丈夫だと信じている。幸い家ではたくさん会話をするし、まだいっしょにお風呂も入るし、先日は出張で立ち寄った八重洲のブックセンターで見かけた「高校生のための近現代文学エッセンス」(いしいしんじ「ミケーネ」、高橋源一郎「さよならクリストファー・ロビン」、堀江敏幸「ボトルシップを燃やす」、尾崎翠「歩行」、稲垣足穂「七話集」など22編・ちくま書房)を渡したらその晩の数時間ですべてを読み終えて「面白かった」と言っていた。生きてさえいれば良し。
2013.10.27
*
10/31 19:13
調子が悪く行けてません。
学校に行かなけれならない、宿題しなけろばならない、〜しなければに苦しんでいるようで、昨日はかわいそうな感じでした。心の平穏を得られることが先決と思い、私は支えの役割をすることにしました。
今、強制することは紫乃にとってマイナスになるばかりと判断しました。
今日、お昼頃からはちょっと笑顔もでるようになりました。テストの日の登校から結構、心に負担がかかっていたのだと思います。
ごめんね。そちらも大変なのに心配かけて。
紫乃が自分から行けてるようになるまで待ってやろうと思います。
友達もいるし、グラブのことも気にかかってるし、そんなに長くかからないと思います。
先生方も色々、骨をおって下さってますが、紫乃の精神的なことを考えたら学校に無理やり行かせることは今は避けたいと思います。
11/02 22:24
紫乃はどん底からちょっと上向きになってきた感じです。
ちょっとだけどそのちょっとは大きい。
明日、私が休みなのでお父さんが行ってからの経過報告メールを送ります。
体に気をつけてね。
11/03 21:01
今日は○○ちゃん一家にバーベキューつれて行ってもらいました。稲刈り体験もさせてもらい、お米をおみやげにもらってきたよ。
紫乃の様子を書けなかったので先生に送ったメールを送ります。
(10/30 水 Yから先生へのメール)
おはようございます。
昨日、理科の宿題を終え、今日、持っていかなければならない英語の宿題に取りかかったのですが、わからないと悩んでいたので、教えようかと声かけたところ、テストだからダメだといい、向かってはいるのですが、出来なくて、朝も早くから起きてやってはいたのですが、やっぱりできず、今日は学校に行きたくないと言い出しました。
わからないと先生にお話ししたらとか、日にちを延ばしてもらえるようお願いしたらと言ってもみたのですが、だめの一点張りです。
今日、学校に行かなかったら遠足の打合せができないから明日の遠足もいけないと申しましたら、遠足も行かないなどと言っております。
本日は私も仕事なので送ることもできません。
すみません。
本日は欠席です。(10/30 夕方 Yから先生へのメール)
本日は重症で何も手につかぬようでした。朝の私との言い合いが尾を引いているような雰囲気でした。
私が犬の散歩に出かけたおりに下記のメールを紫乃に送りました。
「お母さん、仕事中に考えたんだけど、学校のことは腰を据えてゆっくり待つことにしました。
紫乃のペースでいきましょう。
遠足は紫乃が楽しみにしていたので、どうする[?]って聞いたけど、どちらでもいいよ。
行く場合も考え、荷物がなるべく軽くなるようにとサンドイッチの材料を買ってきました。
学校の方は紫乃が行きたくなったら行けばいい。ゆっくり待ちます。・」
先ほど地理の宿題をしるとリビングにPCを取りにきました。
遠足に行くなら、学校にリュックと運動靴を取りにいかなければならないことを告げると、どうしていいかわからないとの返事でした。
今のところ、そんな状況です。(10/30 夕方 2 Yから先生へのメール)
紫乃は、授業を休んで遠足に行く資格なんかないと申しております。
学校に靴を取りにいかなきゃいけないのもハードルが高いのでしょう。
家から出たくないし、誰とも会いたくないとも申しております。
明日も欠席になりそうです。すみません。
出欠どちらになっても明朝、ご連絡させて頂きます。(10/31 木 Yから先生へのメール)
おはようございます。ありがとうございます。
ですが・・・
紫乃は起きてはいるのですが、全く応答なしです。
ギリギリまで頑張ってみます。
が、靴は荷物になるのでもうおいていって下さい。
何か変化がございましたらご連絡させて頂きます。(11/2 土曜 王龍寺 Yから先生へのメール)
すみません、6時過ぎから今まで誘いかけたのですが、何を言ってもダメです。
今日は午前中、ベッドから出すことを目標にします。。
今日の出勤は3時からですので、それまで寝かさないようにします
(11/2 土曜 夜 Yから先生へのメール)
○○さんとのバーベキューは10時に郡山イオンで待ち合わせとのことで開催場所などはお聞きしておらず、何時に帰宅するかわかりません。
お昼頃、本人は自信なさそうな感じでどうしようかと申しておりましたが、私もすすめ、行くことになっています。
遊びでさえも不安がよぎります。(11/3 Yから先生へのメール)
今日は○○さんとのバーベキューに出かけることができました。
場所は京都で帰りは夕方とのことなのですが・・・
昨夜は仕事から帰り、すぐに犬の散歩に出、その途中、先生へのメールを書き、送らせて頂きました。その後、家に戻り、紫乃の様子を見てますとどん底からちょっと上向き傾向の兆しがみられました。ちょっとですがそのちょっとは大きいように思います。。
昨日、仕事に出かける前に紫乃とドッジボールをしました。二人で声を出して笑いながらやりました。夜になり仕事と散歩から帰った私に紫乃は嵐のニノの曲を聴いていっぱい泣いた、何度も何度も聴いたと言ってました。
今まで泣かずにいたからか、紫乃の中でなにか変わったような感じをうけました。
それから、私に夜は12時までに寝る。また、夜にはパソコン、DSなど電気器具は触れない、しないと言いました。
○○さんへのメールの返事には「もう大丈夫だよ」と書いて送ってました。
今朝もよい兆しがいくつかありました。長くなるのでまたお電話でお話したいと思います。
多分、火曜日は遅刻して登校、今週は欠席もはさみながら半分ぐらいは登校できるように思います。
本日は先生にご足労おかけしなくてもよいように思います。
これまでの様子の一部です。
今日は夜、先生が家庭訪問に来てくれました。
紫乃は会いたくないといい、先生も無理にはいいですとおっしゃったので私と先生で話しました。
焦らずゆっくりいきます。これまでの経験から焦るとまた逆戻りですから。
11/5 11:22
お疲れ様です。、
「睡眠障害」というものがありまして、その症状は夜寝る時間が段々、遅くなっていき、朝起きられず遅刻、欠席が増え、気分が落ち込み、自身欠如の状態になり、引きこもりとなるというものです。
社会が夜型になり、睡眠障害の人が増えてきているようです。
幼児期から習慣的に夜寝るのが遅かったりすると発症する率が高いそうです。
また思春期に発症することも多いとのことです。
紫乃も12時、2時、4時、4時半と遅くなっていました。
睡眠ホルモンであるメラトニンは光と関係していて、外界が暗くなると分泌が高まってきて体に「眠れ」という合図を送り、逆に朝になり明るくなると分泌を抑え「起きろ」と合図をするそうです。
紫乃は眠れないからとパソコンをしますが、それは神経を刺激し、ますます眠れなくしているのです。
なのでとにかくこの状態を断ち切りたいと思い、1日(金曜)の夜に8時半ごろブレカーを紫乃に分からないよう落としました。紫乃の部屋とテレビに部屋が連結していて両方とも電気がつかない状態になっています。
幸い、お父さんの部屋の電気がお父さんが出張に出かけたその日に球が切れたのか、電気がつかなくなっていました。
紫乃は家のこっち半分が(東側)つかないってことか・・・なんでだろうと。
私もなんでかなと言ってます。
あいにく週末で電気屋さんとも連絡が取れません。ってことで、今もつかない状態です。
初日はパソコンをリビングに持ってきてやってましたが、その後は紫乃が言ったように夜はパソコンをやってません。先生が来た日は先生に会わず。二階にこもりパソコンをしていましたけど。
2日の土曜からは私たちの寝室で寝ています。夜中に起きて音楽を聴くこともしていません。
昨日は私が仕事だったのでお昼まで寝たようですが、今日は6時半に眼を覚ましていました。
音楽で起きることにしたとアイポットを聞いてました。紫乃なりに工夫もしています。
昨日、図書館に行きたいと言い、4時から7時前まで行って、たくさん本を借りた来ました。
昨夜は寝るまでそれを読んでいました。
今朝も6時半に起き、ベッドの中で一冊読んでから下に降りてき、朝食を食べました。
機嫌はいたっていいのですが学校には行ってません。
お昼からみんなとお弁当食べて、クラブだけでもしておいでよと話していますが。
電気が消えてから回復の一途を歩んでいます。
パソコンから11/5 12:04
お父さんにメールを送ったあと、二階の紫乃を見に行ったのですが、ベッドに横たわっていて、「今日は行きたくない」と言い、「あっちへ行ってよ」と・・・
今日は行けそうな気がしたんだけど・・・
明日は午前の授業はなく、午後から奈良駅そばの百年会館で30周年記念行事があり、生徒700人の大合唱があるそうです。
電車に乗って行くのは、今日、学校に行かなかった紫乃にはハードルが高いように思うので、次、行くとしたら木曜かなあ。
お父さんは7日消防訓練の日は帰ってこれるの[?]
11/5 13:19 (Yから先生へのメール)
すみません。午後からもダメです。
多分、明日の記念行事も欠席にさせて頂くことになると思います。
明日は私も仕事ですし、あまり利用したことのないJR郡山駅まで徒歩で行き、電車に乗ってというのは、今の紫乃にはハードルが高いように思います。
学校に行けるようになるには、まだ時間が必要なのかもしれません。
今日は行けるかもと考えていましたが、
夜ぐっすり寝、朝起きることがある程度パターン化し、体内時計が正常に機能しないと気力もでないてしょうし、簡単には先に進めないということかなと思いました。
お電話頂かなくて結構です。
席替えのこと紫乃に話しましたら(窓際か後)、ありがたいと申しておりました。
細部にわたり、ご配慮ありがとうございます[m(_ _)m]
11/7 8:32おはよう。
メールと電話くれてたのに連絡できなくてごめん。
お父さんと話した日からまた紫乃の調子がすぐれなくて。
土日に帰れるかもと言うと、「お父さんに怒られる」と小さなパニックに。
「お父さんは怒らないよ、お父さんは紫乃の事心配してるよ。めちゃくちゃ忙しいのに紫乃に励ましのメール送ってくれたりするじゃない」と言いましたら、納得した感じではありました。
昔さあ、桃山荘で暮らしていた頃、私も過呼吸になったりして心療内科で自律神経失調症といわれたことがありましたよね。突発性難聴になったり、話せなくなったり。
○○さんも個呼吸が度々起こり、自律神経失調症だと以前聞きました。
我が家の家系はメンタルの部分が弱いのかも。
お父さんが昔、仕事がなかった頃、よく夜中までパソコンしていてお昼前に起きてたことがあったよね。
紫乃も今、そんな感じです。
お父さんは仕事がなかっただけで、紫乃とは状況は違うけど、でもその時のお父さんの気持ちと紫乃の気持ちは
似てるのかなと思います。
私は先ゆき不安でお父さんにそのような話しをするとお父さんは機嫌を悪くし、「俺を信じてそっとしておいてくれ」と言ってましたよね。
お父さんが今は上に立つ立場となってばりばり仕事し、みんなに頼りにされてるようになったように、紫乃も時期がくればきっと、よくなると信じたいと思います。
では、体に気をつけてね。
11/8 19:38紫乃の部屋は1週間前に私とのやり取りで荒れて、引き出しをジャーとやっちゃったものでちらかっています。
その後、紫乃は落ち着いてきたのですが、自分自信、気持ちの整理ができたら片付けると言ってます。今の紫乃の心の状態なので怒らないで見逃してやって下さい[m(_ _)m]
今日は仕事から帰り二階に紫乃を見に行くと「退屈だなあ」と言ってました。「そうか、退屈かあ、学校に行ってみれば?」というと、「私も前の夜は行こうと思うんだけど朝になると、わぁーってなっちゃうんだよね」と今日は初めて気持ちを話してくれました。
思春期になるとホルモンのバランスが崩れて不安定になるそうです。そこにこれまで怒られることや両親から 〜しなさい、〜してはいけないなどと言われてきた子供は自分の気持ちをだせなかっりし、デリケートな子ほどこの時期に紫乃のような精神状態に陥るそうです。
解決法はとにかく、温かい気持ちで見守ること、叱ると逆効果らしく、後々にもっと大変ことになって現れるとのことです。甘やかしとも思われるかもしれないが、この時期の両親の態度は慎重に、子育てのやり直しだと思い、自信欠如の子には誉めることを。それによってやる気がでてくるそうです。
学校に何も問題があるわけでもないのに、今なぜこのような状態になってるかは子供には説明ができない。なので「なぜ?」と問いただしても、さらに子供を苦しめるだけ。「頑張れ」も今、すでに頑張ってる状態なのでしんどいそうです。
図書館の人の中にもやはり、学校を休みがちだったという方が三人中、三人いらっしゃいました。全て女の子です。
11/8 19:41お父さん、忙しいのに私たちのことが心配で帰ってきてくれたのね。
ありがとう。11/8 20:05
郡山駅まで迎えにいきますので、連絡くださいね。
2013.11.8
*
11/11 9:21
Hちゃん達に会えたのはgoodでしたね・
なんとか1日もってくれ、楽しいと感じてくれることを祈ります。
お父さん、ありがとう・
気をつけて行ってね。
先生とのお話も聞きたいけど。
ありがとう
11/11 11:13
--------------(先生からのメール引用)
おはようございます・
今朝は連絡ありがとうございました。
紫乃さん、久しぶりの学校をめちゃくちゃ頑張っています!ちょうど今日は紫乃さんが日直だったのですが、職員室まで日誌を取りに来てくれました
2時間目は体育で、人生初のバドミントンを一生懸命頑張っていました!!
朝車から出るのはしんどかったようですが、月曜日に学校へ来られたことはとても大きいですね・
このまま今日は頑張ってくれたらと思うのですが…また何かあればメールしますね。
夕方にはお電話もさせていただきます[m(_ _)m]
11/11 12:43
ないよ・
先生も忙しいよ。
でも、迎えに来ての電話はいまのところないよ・
11/11 18:29
紫乃が帰ってきました。
「お腹すいた」と言って[おでん]を食べるところです・
元気そうだよ・
11/11 23:50
明日、危ういけど。行きたくないとは言ってますが、今日、遠足の新聞作りをグループ(仲良しばかり)でし明日は紫乃の担当のところを発表しなければならないんだと言ってました。万葉の碑なので明日、朝、パソコンで調べると言ってましたよ。起きれたらだけどとも言ってましたが。
あと、演劇部の先輩から明日、一年全員お昼休みに体育館に来てとの呼び出しがあったそうです。どうやらHちゃんは練習に出てなかったようで、それを言われると文句言ってたようです。が、紫乃は休んでたのは確かだし自分は注意されてもしょうがないと行くような感じです。今日はグラブはなかったのだけど、Hちゃんと喋ってていつもの時間になったそうです。
バドミントンも楽しかったようですよ。
お父さん、まずまずってところかな・
明日、行けたら、お父さん、やったねっていうね・[☆]
おやすみ・
お疲れ様・
11/12 7:07
お父さん、なんと言ってもあきません・
6時から説得してるけどダメ・
11/13 0:01
学校に行こうと思ってたのに行けなかったことがジレンマのようて「自分が嫌だ、自分が嫌いだ」と叫び、今日はベッドの中にこもり、沈んでいたので、私が1日一個は楽しいことをして心を喜ばしあげないといけないよと言い、「プラチナデーター」を見ました。
紫乃の意向で○○さん(義母)、○○さん(義妹)は来てもらわないことにします。
明日、時間があえば、一度スクールカウンセラーの方に会ってこようかと思っています。
11/13 7:57
そうだね・
ありがとう
夜にまた連絡します。
11/14 0:31
紫乃さんは今日はお昼前に起き、私が用意しておいた朝食を食べたそうです。
私が帰ってからはパソコンでハリーポッターの夢小説を読んだり書いたりしてました。
機嫌はいいですが、何をするのもめんどくさいと言ってます。
家からなるべく出したほうがいいと思い、「こんなに一日中パソコンするんだったらメガネがいるから、明日、買いに行こう」と誘い、JIPの散歩の折りに飴を買ってくるのと交換条件で、明日ジーンズメガネに行くことになりました。ついでに制服のコートの採寸もできればいいのですが(近鉄4楷紳士服売場)。
今日はHちゃん、Tちゃんがメールをくれてましたが、読んではいるけど無視。M先輩からは日曜日に文化会館に行けるかどうかの問合せがあり、行けない人は利由を書いてM先生ほか二名にメールを送ることとありましたが、こちらも今のところ返事をしていません。この行事には参加するかなと思っていたのですが。先輩のメールをすぐに返さないというのはかつてなかったんだけどね。しかも朝くれたメールだし・
私も日曜日の予定を尋ねられてません。
今夜は11時40分に電気を消してベッドに入りました・
安定しているとこんな感じ。
スクールカウンセラーは私の希望時間は予約が一杯とのことで行けませんでした。とりあえず、来週、予約を入れてもらいました。状態は話しておいたほうがいいかなと思って。
A先生がカウンセラーの先生に紫乃のことを相談したところ、今は充電期間だと思って下さいと言われたそうです。
11/14 12:33
今、メガネを買ったところ。コート採寸も同じフロアーなんだけど、行かないと言い張り、今日は諦めざるを得ませんイ
じゃ、食べ過ぎに注意してね・
11/14 12:38
めっちゃ、美味しそう・
こちらは紫乃に「12時間以上パソコンしてないと頭が痛くなるんだ。早く帰りたい・」}とぶーぶー言われてます・
今、来たばかりなんだけど・
11/15 23:02
お疲れ様です。
あまり良くないです。
紫乃は、ずっとパソコンで夢小説を読んだり書いたりしています。現実逃避なんでしょうかね。
昨日、○○さん(義妹)に紫乃の話を聞いてやってとお願いして電話をかけてもらったんだけど電話には出ませんでした。
今もパソコンをしているのですが、お風呂に行くよういうとパソコンを抱えて「ほっといて、ほっといてよー」と泣き叫びます。
時間をおいて部屋に行くと「あっちにいって」を繰り返し、床にうつふし泣きます。
昨日、今日は調子が悪いです。
明日は仕事が休みなので一緒にいてできるだけ話をするようにします。
疲れてるのにこんなメールでごめんね。
11/15 23:30
病んでる子にまともなお叱りしてどうするの!
一緒に夢小説の話に付き合ってやって心ほぐしてやることのほうが大事だよ。
今、逃げ場はそこしかないんだから。
ほどほどにしてねなよ〜ぐらいにとめといて。帰ったら読ませてな〜〜とか。
11/16 0:03
あのあと15分ほど、紫乃の小説の話に付き合ってあげたら、機嫌よくパソコンを消してお風呂にいきました・
今は紫乃のペースに合わせましょう。
先生も演劇部員の方に声かけして下さり、メールが度々届いているようです。
11/16 12:13
●不登校・引きこもり昼夜逆転改善マニュアル@昼夜逆転を受け入れること テーマ:●昼夜逆転改善マニュアル
昼夜逆転に関しては、段階を追って改善していくことが大前提となります。
最初から決まった時間に眠り、
決まった時間に起きることを強制してはいけません。
昼夜逆転というと、おそらくご本人もご家族も
「悪いこと」というイメージを持っていると思います。
時に怠惰であると捉えている方もいらっしゃるでしょう。
まずはそこの「認識の変革」から始めることが大切です。
私の授業においても昼夜逆転の改善に取り組んでいます。
そのときにまず行うことは、
「昼夜逆転をしていてもいいんだよ」
ということを伝えるところからです。
毎日の睡眠時間が著しく少ないなどの場合は、
睡眠障害が考えられます。
そのときは速やかに専門医の診断を受け、
場合によっては服薬治療に入ることになります。
しかし、一般的に人間に必要とされる睡眠時間
(だいたい7〜8時間)が摂れていれば、
第1段階はクリアしていると言えます。
この時期は何時に寝ても、何時に起きてもいいので、
睡眠時間がきちんと確保できているか、と言う点に、
重点を置いてください。
それができていれば、
昼夜逆転をしていても、いいんだよと
周りが伝えることが大切です。
まずはそうやって睡眠に対するストレスや不安を取り除いて行くことから始めます。
そのために必要なのが現状の「肯定」です。
睡眠においても、
不登校や引きこもりの対応においても、
この「今を肯定する」ということから
始まるのです。
「●不登校・引きこもり昼夜逆転改善マニュアル:家族の対応で気をつけること」です。
お子さんが昼夜逆転しているとき、
まず「昼夜逆転を改善する必要があるか」と自問して頂きたいです。
一般的な生活を送るためには、改善が必要となります。
しかしながら周りが「直そう」という態度で接すると
その行為自体がストレスとなることがあります。
大切な一歩は「安心して過ごせる時間を確保する」というところです。
そういった時間をゆっくり過ごせていることを周りが認識することが
改善への第1歩となります。
また、昼夜逆転をしている方が一番言われたくないことは
「早く寝なさい」という言葉です。
本人たちは昼夜逆転を必ずしもいいことだとは思っていませんし、
そのことを一番分かっています。
生活リズムが一般的な生活とずれていても、
その時間を「安心して」過ごせているならば、
そのことをまず尊重して頂ければと思います。
不登校と昼夜逆転
電話相談で、お母さんが訴える悩みの一つが、昼夜逆転。
「大変、困った問題だ」と、訴えてきます。
しかし、不登校の子供たちの大半は、実は、昼夜逆転が原因で学校に行けないのではありません。 先に、学校に行けない理由があって、そのせいで、昼間が楽しくないから、テレビやゲーム、漫画など夜に楽しみを求めるのです。
その結果として、昼夜逆転の生活をしてしまっています。 学校に行けない理由というのは、例えば、会いたくない人が居るとか、仲間はずれにされている、勉強が分からないなど、子供が言葉にして発するかどうかは別にして、行かない理由は必ずあります。
昼間起きていると家族と顔を合わせたときに体裁が悪いというのも昼夜逆転の一つの原因です。 ネットより
寝れてたらいいわという気でいます。
11/16 16:28
紫乃は、ここ2,3日昼夜逆転の生活が続いています。
紫乃がパソコンで夜中まで夢小説を書いていることは、通常なら、勿論、禁止するところですが、
今はそこでしか、自分の感情を表に出すことが出来ないのだと思います。
それを取り上げてしまう方がかえって危険な感じが致します。
今日はパソコンもせず、ベッドに潜り込んだまま、食事もとっていません。
ご飯を食べようと誘っても「私なんかどうなってもいい」「どうせ人間の屑だから。屑以下だから」と言います。
昨夜はうなされ、「私は怒られために生まれてきたんだ」。「ばかだから、ばかだから」と言っていました。
学校でなくてもいい、どこでもいいから家から出られるようにしてやらないと。なるべく紫乃に添ってやって、心穏やかに過ごせるよう努めようと思います。
お父さんも忙しいと思いますが紫乃にプレッシャーを与えない、あたたかい心に添ったメールを送ってやって下さい。
自分達の子育てのやり直しです。
話してるうちはまだいいそいです。もっと悪くなると話さないようになるそうです。
今は人に関わるのがしんどいので私一人の状況がいいと思います。お父さんがいるとちゃんとしなきゃと少なからず思うでしょうし、離れたところから見守ってるというこの状態がいいと思います。
今日は調子が悪くても明日にはよくなることもあるので決して落ち込まないで下さい。
離れてるだけに余計心配も大きくなると思いますが、今はそっとしてやること、紫乃の話に相づちをうってやることが一番ですから。
11/16 16:59
学校に問題があるのかないのかわかりません。学校に問題がなくても自信欠如の場合は人の集まる所は行けないそうてすから。
紫乃の場合、病気も絡んでるだけに難しい。思春期になって容姿なども気にするようになってるだろうし。
でも、自信欠如の状態であることは確かです。
私たちがそうしてしまったように思います。
自分に自信があれば状況は違っていたと思います。
11/17 19:25
紫乃は昨夜は寝なかったようで私が朝、出勤してから寝ました。
昼夜逆転をなおすのと気分転換のため、旅行に行こうかと思っています。乗馬のできるところに。
今の状態だと食事もきちんととれないので少々心配です。
映画も以前、見たいと言っていたDVDを借りてきて、見ようと誘ったのですが、「前は映画を見るのはすごい楽しかったのになんでだろ、見たいと思わない」と、食欲にしても他のことに対しても欲が薄れてる感じです。
旅行のことは朝、提案したのですが、喜んでいました。行きたくないと言われる前に早く話を進めます。
11/18 14:55
今、決まったよ。
山梨県甲斐市にある乗馬倶楽部で二泊三日のファームステイ
をします・
餌やりや馬の手入れ、馬屋の掃除もするんだよ。
甲府の近く、ノースランドライディングクラブってとこです。
11/18 14:59
明日から
11/18 15:11
いや、電車で行くつもりだったんだけど悩むなあ。
中央道は走りやすかった感じはあるんだけどナビがないし・・・
11/18 15:30
紫乃には電車の方がいいように思う。
車だと二人だけの空間だから。電車で行くことは人中に入るいい機会です。
11/18 17:57
チケット買ってきました。
JIPにご飯をあげて、シャンプーワンが満員でダメだったのでロイヤルに預けに行ってきます。
11/18 18:24
うん。滅茶苦茶。
浣腸もあるし
紫乃は昼から寝ちゃってる。
11/19 10:45
新横浜から八王子行きの快速10時15分発が人身事故のためなくなり、10時07分発の普通列車で八王子に向かっています。
八王子での乗り換えが3分しかないため、駅員さんの協力を得て、途中の駅の快速待ちの時間カットで8分ゲット・
八王子からは特急、指定なのでなにがなんでも、これに乗りたい。
頑張ります・
11/19 11:17
はい、今も特急巻あるのにないと思い、大パニック・
紫乃も振り回されてへろへろですわ・
でも、特急には乗れたから・
11/19 16:24
すっごい所だよ。
部屋は馬屋の上。布団はカバーもなく、クリーニングもされてなく、暖房はストーブ。お風呂はなく、シャワー。それも別棟。
馬のかつかつ歩く音、ガチャガチャ、バケツで水を飲む音が聞こえます。
部屋の貼り紙に「階下にいます。お静かに願います」と。
紫乃はおおいに気に入ってます。
馬17頭、犬3匹、猫1匹。
11/19 20:46
グラブハウスでスタッフの方達とテレビを見、今、部屋に戻り、紫乃はベッドの中に入り、布団をかぶり、ペットの匂いがすると言ってます・
明日は6時50分に餌やりです。
11/19 21:04
下で馬がブルンブルン鼻鳴らしてるー
寝れない・・・
11/20 6:52
行ったよ〜・
早寝早起きだよ〜
11/20 11:59
全てがおおらかといおうか、おおざっぱといおうか、そのせいか動物たちも皆、穏やかです。
紫乃ももっとおおらかに育ててやればよかったかな。
11/20 13:04
1時半から温泉に連れて行ってもらいます。
11/20 16:10
風邪をひいてたこともあり、耳の調子が悪くなって病院に連れてきてもらいました
11/21 9:47
これから90分の外乗にいきます。
11/21 13:14
1時半にここを出て、2時14分竜王発に乗ります。
紫乃は感想書いてと言われ、なかなか書けず悩んでいました。楽しい経験の感想なのに・・・
11/21 13:21
紫乃から話しかけてくる話題はいいけど、時々こちらから話すことにはイラついた受け答えをしたりします。神経質なのはあまり改善されてないです。
オーナーが紫乃に本を一冊くれました。
11/21 15:47
倶楽部会員さんが書いた「幸せこい、こい」って本だよ。
今、八王子。
新横浜16時49分発の新幹線に乗ります。
郡山には20時過ぎに着く予定です。
11/22 13:08
相変わらず、学校には行かないと行ってます。が、気分はうつ状態ではないです。
11/23 01:01
午前中、紫乃も一緒にロイヤルにJIPを迎えに行き、気分も良さそうだったので、「無理に学校へ行けとは言わないけれど行かないなら勉強しておきゃないとね」と話すと「やるよ」と言っていました。で、やるのかなと思っていたら、帰ってから私が仕事に行くまでパソコンでコナンを見てたので「あれ〜〜?勉強するんじゃなかったの〜?」とやんわり言って仕事に出ました。仕事から帰ると・・・前の状態悪の紫乃に戻っていました
ちょっと状態がいいなと思うとつい、一歩前へと背中を押す言葉をかけてしまい、これまで何度も失敗してるのにまた、やってしまいました。
M先生に以前そんな話をしましたら「それは(押すこと)まだ早すぎたんでしょね。もうちょっと待った方がいいのかもしれませんね」とおっしゃられていて、そうだなあと思いながらもまた、また失敗・
部屋に入るとパソコンを閉めるようになってしまいました。
でも今日は私が風邪をひいてるからと思ってくれてか、洗腸をしたと言ってました。コープも届いたのですが、食品を冷蔵庫に入れてくれてました。JIPも餌をもらってました。
おやつを食べ、お腹がすいてないのか、夕飯は食べず、お風呂も入っていませんが、なにをしろと言われることが今の紫乃には最も嫌なことなので、あえて言わす、お風呂に入らなくても死なないわ、ご飯もお腹がすいたら食べるわぐらいに思うようにして「じゃあ、お母さん、寝るね」と声かけしてベッドに入りました。
こちらからは紫乃が負担にならない程度の声かけをし、紫乃から話しかけてくるときはいつでも両手を広げて待ってるようにしょうと思います。
私達ができることは見守ることしかてきないんだよね。結局は紫乃が一歩踏み出すしかないんだから。穴に落ちたなら自分で這い上がってくるしかないんだもんね。
つまらないことでイライラさせたりせず紫乃のペースて自分自信と向き合える時間をもてるよいにしてあげたほうがいいように思います。
11/23 7:04
おはよう・
何事もなく、無事に終わるよう祈ります。
こちらは帰ってくる早々、昼夜逆転だわ
紫乃に自分で治そうって意志がうまれない限り、かえられないし、紫乃を信じて待ちますわ。
よい1日を[☆]
11/25 10:00
おはよう。
無事、二日間、乗りきれましたか[?]
紫乃が学校に行かなくなってからは、ほとんど部屋にとじこもりで私が紫乃の部屋に行き、話をすることか多かったのですが、昨夜は夕飯の後、部屋に上がらず、リビングで過ごしました・
昼夜逆転は続けてますけど
今日はクリスマスツリーを出そうと昨夜、話をしました。
11/25 23:36
お疲れ様[m(_ _)m]
今日はホームセンターに買い物に出かけることができました。食事の後、リビングで話すようになり、○○さん(義母)が旅の土産を送ってき、お礼の電話をかけることができました。
しばらく前、○○ちゃん(義妹)の電話でさえ、拒否していたのに、今日は以前のように自分から電話をかけました・
クリスマスツリーも一緒に飾りました。
でもまだ、夜は寝たくないといい、前々日は朝6時、全日は2時といった感じで、起きるのもお昼の1時半、今日は12時前でした。昨日に比べたらだいぶ早くなりました。明日は10時頃起きれたらいいねと話しています。
紫乃に合わせ、ゆっくり、ゆっくり改善していくのがいいようです・
11/25 23:56
昼夜逆転は、昼夜逆転してるから学校に行けないのではなく、学校に行けないから、行きたくないという気持ちから昼夜逆転になるそうです。
昨日、今日はお風呂にも入りました。
最も危険だった状態からは今は抜けた感じがしますが一進一退、まだ安心はできませんが・・・
おやすみなさい・
11/28 15:05
県立奈良病院の子ども診療科で予約をいれようと思ったんだけど週1日で初診の患者は1名しかとらず、4月14日まで一杯と言われ、八木の県立医大を教えてくれました。
昼夜逆転を治してやれたらと思い、帰ったら、そちらもネットで調べてみます。
今は県立奈良病院の帰り、今日はA先生が来てくれるというのでお茶菓子を買いにイオンに寄るところ。
年末調整はみたけどわからないので時間のある時、月曜あたり会社に電話して聞きます。
11/29 8:59
紫乃が以前、登録した夢小説の「こみゅ〜」で紫乃の作品が星10個の評価を得ていて紫乃は大変喜んでいて続きを載せたいと言ってます。
前に二ヶ所登録したそうで、一つは私のアドレスでこちらは迷惑メールが一杯きた所だそうです。もう一方、紫乃が続きを載せたいと言ってる「こみゅ〜」は紫乃のアドレスで登録していて迷惑メールは来てないそうです。
続きを送ってもいいですか[?]
書きためたものがいっぱあるそうです。
11/29 9:04
では、早速、載せます。
12/03 12:10
10日ですね。了解しました。
紫乃に会う前にお父さんと二人だけで話がしたいです。
モスにでもはいりましょう。お願いします。
これから紫乃とご飯を食べるので込み入った話は別の時にお願いできますか。
紫乃の前で紫乃の話をされるのは紫乃もいい気がしないでしょうから。ごめん。
12/03 15:15
お父さんの都合がどうかわからないのでメールします。
小さい頃から怒られて育った子は感情を押し込めようとするらしいです。そうしないと自分が傷つくから、傷つくことを怖れ、心がそういう状態になり、それが続くとうつ状態になってしまうとのこと。でもながきに渡り、感情をおし殺してきた本人には、なぜ自分がこんなになってしまったかはわからないそうです。
紫乃は「私は怒られるために生まれてきたんだ」とうなされることがあります。
また、お父さんに怒られた時には「私は感情を待たないから、叩かれても痛みも感じない」と言ってたことがありました。紫乃の精一杯の防御だったのでしょう。
10誉めて、1叱るぐらいがいいのだそうです。私たちは反対だったように思います。紫乃がいろんなことをきちんとできるように、早くさっさとできるようにと随分、口うるさく言ってきました。
そんなことよりも感受性の豊かな子であるからこそ、もっとおおらかに育ててやるべきだったように思います。
紫乃は繊細なだけに学校でも気を使い、皆と同じことができないジレンマも抱え、紫乃なりに頑張って1日を過ごしたのに、家に帰ってもあれやれ、これやれ、早くやれで気が休まることがなかったのでしょう。
治癒にはゆっくり心を休ませてやることが大事で、ここで追い込むと取り返しのつかないことになりかねない。
最初は何もする気がおこらない、したくない。ほっといて、あっち行っての日々でしたが、こちらもいろんな本を読み、対応していくことで、リビングで過ごす時間ももつようになり、紫乃の会話も増えてき、笑顔が見られるようになってきました。でもここで押したらダメです。まだゆっくり待ってやらないと。
何にもやりたくないとベッドから出なかった時から、ずっと紫乃を見てき、それが良いことであれ、悪いことであれ、紫乃の行く方向について行き、一緒にそれについて話をしてきました。悪いことは紫乃自信、判断がつくはずです。そのように自分たちは育ててきましたもの。必ず止めるときがくると信じ、あえて止めませんでした。その時はそうすることが紫乃の逃げ場なのですから紫乃にとって必要なのです。
こちらが止めさせようとしたら逆効果です。
ここ4日前からはパソコンにDVDを入れ、英語音声にして、それを見聞きしながら夢小説を書いてます。
12/03 15:38
「五体不満足」のオトタケさんは小学校入学の条件が親が学校についてくることだったそうで毎日、お母さんがオトタケさんの教室の外のローカで椅子にかけて学校が終わるまで過ごしたそうです。
当然、オトタケさんのことも目にするわけで、世話をしてくれる子に偉そうになりやらオトタケさんがいうようなことがたびたびあり、悩んだが、この子が障害を持ってこれから生きて行くには、これくらい強気な方がいいと考え、なにも言わなかったそうです。
それぐらいでいいのかもしれません。
私なら絶対、言ってます・
12/03 21:46
今夜はご飯を食べて、話をしているうちに眠くなり、9時にベッドに入り、眠ってしまいました。
このまま、維持できればいいのですが。
昨日はお昼2時半に寝て夜10時半に起きました。それから寝てないのですから眠くなって当然・
昼夜逆転は気になっていましたが、紫乃に言うと紫乃が必要以上に苦しむことになるので、「毎日少しずつすれているから、そのうち一周してもとに戻るよ」「気にしなくていいよ」と言ってきましたが、そうなりました。
今の紫乃の状態では、昼夜逆転でも睡眠時間がとれてたら、それでいいと、カウンセラーの先生もおっしゃってられたようです。
昼間、動いてないから寝れないんだよね。
昼夜逆転がなおればいいねと紫乃と話してましたので、このまま続けばいいです。
ここ2、3日、日ごとに会話が増えつつあります。今日は本の話をいっぱいしてくれました・
おやすみなさい・
12/05 20:48
昨日、お父さんと電話で話した時、紫乃がそばにいたので、学校には修学旅行の申込みに行くとだけいいましたが、それもあったのですが、スクールカウンセラーの先生に予約を入れてもらっていて、会ってきました。
紫乃の様子を話し、私が紫乃はうつだと思うというと先生もその傾向があると思われるとおっしゃっり、病院に行くことを進めてくれました。苦しい思いを抱えているより、専門医にかかり、必要であれば薬を処方してもらうことで、回復が早い。必要以上に苦しまないためにも、その方がいいと言われた。
H先生という先生を紹介して頂いたのですが、とても定評のある先生とのことで、学園前のクリニックに火曜に来てるとのことだったのですが、2月25日が一番早いと言われました。あまり予約が先になる場合は保健のN先生が裏技として最初、H先生が院長を務める三重県上野の病院に行って、再診で学園前に入るという方法を教えてくれました。新患は時間がかかるので1日に見る人数が限られるため、予約待ちになるのです。
学園前に電話した際に現在、薬を服用しているなら主治医の先生の紹介書が必要ということでした。
本日、泌尿器のH先生を受診したところ、偶然にも先生と同期生でH先生のことはよくご存知とのことで電話をしてくれました。
H先生もH先生はいい先生でお勧めできるとのことでした。
結果、三重県上野で12月13日(金)15時に見てくれるということになりました。
旅行はその前後どちらかでいいですか。
すみません[m(_ _)m]
病院など必要ないとお父さんに思われるかもしれないけど、紫乃は初めに比べるとよくはなってきてるとはいえ、やっぱり病んでます。
昼間でもカーテンを閉め切り、どこも出たくない。人に会いたくない。昼夜逆転を繰返し、本人は逆転の方を好んでいる。
私たちが温かく見守るのは一番ですが、お医者さんとの二つが合わさった処方が必要と思います。
今は良くも悪くも紙一重の状態にあると思うし、このままだと長引きそうな気がします。
お父さんが帰ってくることで紫乃も多少プレッシャーがあり、私だけの時より少しは良くみせようとすると思うのですが、かえって、それが心配です。
表面上は日常的なことをきちんとしょうとして、できるようにみえても、内面はストレスがたまっていくことになっても心配です。
でも、お父さんが帰ると家が明るくなるので紫乃もまた影響うけるかなとそれも期待してます・
ただ紫乃は病院に行きたくないと言ってますので、無理やり連れて行くのもものすごく心配。上野は私だけ行って、紫乃を連れて行くのは学園前ということにしてもいいかなとも思ったりしています。
夜、眠れるように睡眠導入剤のようなものをもらえればと思うのですが、それは本人が行かないともらえないそうです。
長くなるけどもう一つ話があります。
ホースセラピーって最近、ちまたで始まりつつあるんだけど、滋賀県水口町では教育委員会と乗馬クラブがタイアップして不登校の子供たちのためのフリースクールを設けています。奈良にも高取にあるNPO法人が経営している乗馬クラブで昨年2月3月の木・金だけですが、されてたようなのです。一回、聞いてみようかなと思っています。
学校に復帰するまでのステップとしてなにか活動的なものがあればいいなと思って。
2013.12.13
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