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□ 日々是ゴム消し Log72

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 数日前、はや梅雨明けかと思ったが、そうではなかったらしい。一日中、雨。昨夜は遅くまで子のシック・スクールの件で校長先生宛の長い手紙を書いていたが、今日も定時にわがジップ・ワントルロイ卿に起こされて早朝から傘を差して散歩へ出かける。梅の実が落ちている。歩道のくちなしが少々色褪せてきた。筆書きの薬園神社の夏祭りのポスターが雨に濡れている。朝食の皿を洗い、遅刻しそうだというYを車で図書館へ送っていく。歩いてもわずか数分の距離なのだが、駐車場の発券機を抜けて関係者入口の前までつけよとの指示だ。子に「はだしのゲン」の次巻を借りてくるかと訊いている。ネットで夕食のレシピを決めて、買いだしに行く。パプリカ、ズッキーニ、茄子・・ 。雨の日は小屋の作業はできない。塗料の二度塗りをしておきたかったけれど。梅雨が明けるまでは、こんどは土台から上の部分の設計図を固めておかなくては。壁を立てたら内部を雨で濡らしたくないから、梅雨が明けたら一気にやりたい。手持ち無沙汰というわけではないが、子の部屋の角の壁紙のつなぎに隙間ができていたのをコーキング材で補修する。それから模試前の子の勉強に付き合う。このごろは土日も毎日、勉強だらけだ。やめてゆっくり本でも読んだら?と言うのだが、じぶんで行きたい学校があるからやるのだと言う。それでもときどき隠れて、漫画を描いたり、図書館で借りてきた東海道中膝栗毛を読んだりしている。いまハマっているのは漫画の「はだしのゲン」(中沢啓治)だ。昼は子と二人で警察署の向かいの夢っ志愈亭のラーメンを食べに行く。二人とも定番の醤油とんこつで、セットチャーハンをひとつ付けて二人で分けた。子もいつの間にか一人でラーメン一人前を食べている。朝、買出しのときにすそ直しを頼んでいたイオンのスーツ(7800円)を取りに寄る。子は後部座席、iPODで枝雀の「子猫」を聴いて一人で笑い転げている。帰ってから子が歴史ゲームをやりたいというので付き合う。班田収授法だとか、墾田永年私財法だとか、いまではわたしはもはや敵わない。その後、ソファーで新聞を読んでいたら、さすがに昨夜は睡眠が短かったのでぐっすりと熟睡してしまう。仕事を終えたYが帰ってきた音を頭の後ろの方で何となく聞きながら。夕方に起きて、夕飯の支度を始める。黒オリーブを失念していて、自転車で駅前の西友へ走る。夏野菜のカポナータ。シチリア島やナポリの伝統料理だとか。ニンニク・オリーブ油で材料を炒めて、トマト缶で煮るだけ。味付けはケーパーと栗オリーブと塩だけ。ワンプレートにバジルを散らしたライスといっしょに盛り、フリーズドライのもずくスープをつけた。このワンプレートの料理というのは好きだな。洗う皿も少なくていいし。さっぱりしていて、野菜のみというのがシンプルで良い。食後、Yは子の勉強を見る、わたしはジップ・ワントルロイ卿の本日最後の散歩のお供をする。さびれた夜の城下町の路地で、角を曲がるとふいと懐かしい匂いが鼻腔をくすぐり、記憶をくすぐる。格子の奥で二階に上がる人気のない階段がぼんやりと透けている。

 

夢っ志愈亭 http://small-life.com/archives/10/09/2221.php

2012.7.1

 

*

 

 毎日、通勤電車の中、 iPod touch でたとえば産経新聞朝刊に載っている4年3組石原慎太郎君の作文「武器を持って雄雄しく立ち上がれ硬チンポ」を読む(猫も馬も読んでいる産経新聞ってつくづくだな。東京の20万人デモはスルーして、大飯原発再稼動の騒ぎもまったき原発目線。でもこれからも読もう無料だから)。 iPod touch でたとえば太宰治の「桜桃」を十年数ぶりに読む。おっぱいの間の涙の谷。こんな電子端末で太宰を読むということが思ったより抵抗がない。読めればいいんだろ。本は売れなくても文学にはまだ未来があるのではないか、どうか。 iPod touch でたとえば山本政志監督の映画「闇のカーニバル」を眺める。がりがりがりがりがりがりと走る地下鉄の車内で。そして仕事に疲れた会社のトイレの大便室の中で数日前に撮った子の動画を眺めている。やっぱり iPod touch はすごい。

2012.7.2

 

*

 

 お風呂の中で。

 子が小学校の窓際でときどき校庭の樹や草に話しかけているのを見て、クラスの男の子たちがそれをからかうという話をする。

「でもね」と彼女はまじめな顔をして言う。

「わたしは、生まれ変わる順番でいったら“人間”がいちばん下でさいしょだと思うの。その上が動物や昆虫や鳥たち。そしていちばん上が植物や水のような存在」

「だから、植物や水はわたしにとってお姉さんのようなもの」

2012.7.5

 

*

 

 「自殺うさぎ」 「王様ゲーム」 「リアル鬼ごっこ」。

 これらは次のリサイクル文庫(ベルマーク等の収益で購入する学校図書)の購入予定として、クラスの圧倒的多数の賛同を以って民主的多数決にて決定したものだ。子はエンデさんの本などを提案したのだが歯牙にもかからなかった。「みんなで決めたんだったら仕様がないな。何がそんなに不満なの?」 「だって、どれも残酷な、ひどい本ばかりなんだよ」 子は憤懣やるかたないといった様子でごちる。 知らない本だがクラスの男の子たちが話している内容からだいたい察しがつくという。「まあさ、仮にそれらが酷い本だったとしても、みんながそれを好きだというのは、何か理由があるんじゃないのかな。仮にそれらがほんとうに酷い本だったとしても、だよ。それを考えるのも必要なことじゃないかな」 

 その夜、風呂上りに、amazon でその三冊を覗いてみた。「へえ、「自殺うさぎ」はエルトン・ジョンが“こんなにファニーでバニーな本は他にない”っていってるよ」 「エルトン・ジョンって、だれ?」 「昔ジョン・レノンといっしょにナンバー・ワンのヒット曲を歌った人だよ」 「それならわたしも好きな人だね。わたしは表紙を見たら、どんな本かだいたい分かるの。この表紙の絵だったらわたしは好きになれそう。読んでみたい」  「王様ゲーム」と「リアル鬼ごっこ」は、いまだテレビの見れないわが家では知りようもなかったが、映画化された携帯小説だとかいった感じだけれど、amazon のレビューなどを見るとどうも散々たる感想が並んでいる。よきにつけあしきにつけ、このあたりは子の好みはだいぶ世間とはずれていて、このごろは時に摩擦を生むことも少なくない。

 

 今日は休日。

 子といっしょに学校へ登校して、朝8時から30分間、くだんのVOC再検査に先立つ教室の換気に立ち会う。市の教育委員会2名が同行。

 窓が開いたPCルームを眺めながら雑談。ことしの4月からいまの部署へ移ったSさんは、以前は税務関係の部署にいた。だいたい2〜3年おきに異動で、たびに一から勉強となる。前任者との引継ぎはほんの1〜2日ほどしかないので、分からないことがあったら電話で訊く。

「しかし、それも良し悪しですよね〜。馴れ合いを防ぐためなんだろうけど、スペシャリストが育たない」
「ええ。“引継ぎが充分でないからできない”とは言えないんです。以前は600人いた役所もいまは400人に減らされて、足りない分はパートさんなどを入れて賄ってますが、これから先、どうなっていくのか・・」
「多すぎる市議会議員の数はなかなか減らせないのにね」
「ええ(苦笑)」

 

 その後、Yと車で近所のショッピング・センターへ行って食材と本屋。Yは子の参考書を物色し、わたしはDIY雑誌を一冊、それと店頭の衝動買いで「大人の写真。子供の写真。U」(新倉万造+中田燦+中田樂+中田諭志 えい出版社)を購入した。それぞれカメラを抱えた大人と子供の目線の違いの写真集なのだが、添えられたコメントが優しい。子にぜひ見せてやりたいと買った。

 子どもの頃に通っていた通学路を歩いてみたら、広いと思っていた道がおそろしく狭かった。すべての建物がびっくりするほど小さかった。体のサイズが違うからだと言ってしまえばそれまでだが、あの風景の違いが写真に写るかどうか実験したくなった。お前の子供をちょっと貸せ。同じものを、同じカメラと、同じレンズで撮るんだ。お前も一緒に来い。

 

 11時に予約していた歯医者。歯垢の掃除もして頂き12時半に終了。「いまから1時間は何も食べないで下さいね」

 13時半。先ほどの市の教育委員会2名に分析センターの業者さんが加わった作業の立会い。30分の換気、5時間の密閉を経て、業者さんによる試料採取の設置。パッシブ型(拡散方式)というもの。24時間後の明日のおなじ時間に回収して分析センターへ持ち帰る予定。

 14時に立会いを終え、やっと、さあ昼飯を喰えるかと思ったら、教頭先生がやってきて「お父さん、給食センターの者を呼んでますので、よろしかったら校長室でお話を・・・」 とのお誘い。「今日は生憎、校長は会議で留守でして」と、わたしと教育委員会の給食事務所のYさんの二人だけ、校長室へ残して「どうぞ、ごゆっくり」って、子どもたちの給食のことだけどあんたは興味ないのかね。その後、16時近くまでYさんと話をしたが、前回の電話での話から何ら目新しい内容もなく、相変わらずの国会答弁に終始するので、「これではナットクできません。お持ち帰り下さい」と却下。

「市のホームページにも載せていますが、国の基準値に基づく出荷制限措置によって一般に市場流通している食品については安全性が確保されておるということで、食品の放射線量検査結果を国などのホームページ等で確認したり、また奈良市や生駒市での独自の検査等の動向も見ていきながらですね・・・」
「国の出荷制限によって流通している食品の安全が確保されているのなら、なんで奈良市や生駒市はじぶんんとこでまた別個の検査をやっているんですかね?」
「奈良市や生駒市がどういう考えでやっているかは、わたしは知りません」
「・・・・・・。 あなたねえ、あなたのとこでも県内で独自の再検査を始めた奈良市、生駒市、三郷町にわざわざ電話をして、(ここにあるような)資料を取り寄せて、どうやって検査をしているのか、費用はいくらかかるのか、等々を訊いているわけでしょ。」
「はい、そうです。」
「“考え”があるから、“行動”があるわけでしょ。どのようにやっているのかの“行動”だけ訊いて、どうしてそれが必要なのかの“考え”は興味ないという姿勢がそもそもおかしいんじゃないの? わたしは初めから、大和郡山市内の学校給食の管理に携わっているあなたたちの“考え”を示して欲しいと言っているんですよ。国の措置だけでは安心できないから、奈良市も生駒市も、じぶんとこでも出来る限りのことをやろうという“考え”でやっているわけでしょ。」
「いや、あの、興味がないわけではなくて、ですね。そんな揚げ足をとらないで下さい。他の自治体の動向も見ていきながら・・・」
「現実の話、200万、300万する検査ユニットを購入する予算がもし無いというなら、たとえばあなた、さっき見せてくれた分析センターへ検査を外注に出すと一回1万5千円というのがあったじゃないですか。毎日出来ないのなら、それを月2〜3回抜き打ちでやるとか。それなら月3回やっても4万5千円ですよ。」
「・・・ああ、なるほど」
「現実の条件の中で、じぶんたちでも子どもたちの安全のために何か出来ることはないのかと、もうすこし汗をかいて考えてくださいよ。それがあなたたちの仕事でしょう?」

 

 時計を見たら、なんだもう子が下校する時間ではないか。近くのコンビニでとりあえず買ったパンを齧っていたら子がやって来て、二人で帰宅した。子はトイレとお八つを食べて、また塾へ。

 わたしはもういちど子の参考書を見たいというYと、ふたたび近所のショッピング・センターへ。Yは算数の参考書を4冊、わたしはユニクロでメッシュのホームウェア上下を買って帰ってくる。

 時すでに19時。子が塾から帰ってくるまでの間、Yは夕食の支度、わたしはJIPの散歩。今日の夕飯はわたしのリクエストでそうめんと、かぼちゃ、ちくわ、玉葱、それに庭の紫蘇の葉を天麩羅で添えて。おいしかったです。

 買ってきたDIY雑誌(ドゥーパ! 小屋の作り方/バーベキュー炉)を眺めていて、センプラムというスペインの漆喰を小屋の外壁で使おうかとYと思案中・・・

 (努力)目標はこれ↓ 日本で数少ないモルタル造形技術でヨーロッパの石造り風テイストを出しているミズムラデザイン。

○ミズムラデザイン http://www.mizumura-design.com/

 これはブロック塀だが、センプラムを仕上げに塗ったDIYブログ。

○腰痛オヤジの のんびり庭づくり http://handmade-wall.at.webry.info/200804/article_3.html

 いろいろWebを探していたら、こんなガウディのようなシュタイナー思想のような家も見つけた。土を詰めた土嚢(アースバック)を積んだ構造体に自然木などをかましてつくっていくアースバックハウスと呼ばれる家づくり。つまり「直線が一切ない、自然に溶け込んだ小屋」とか。 広い敷地があったらわたしもこんなのをつくってみたいけどな。

○gigazine.net http://gigazine.net/news/20100310_woodland_house/

2012.7.6

 

*

 

 子が母にわたされた入浴剤を持ってはだかで入ってくる。

「なんだ、それは?」
「分からない。英語で書いてある」
「どれ、貸してみろ。 ・・・アロマ・セラピー・タイプって名前だな」
「あ、ホーマーくんの飼っていたスカンクがアロマ(いい匂い)って名前だったよ!」

2012.7.8

 

*

 

 ふしぎな60年代の「西瓜糖の日々」(リチャード ブローティガン)を読んでいる。

 音楽はリンダ・ロンシュタットの Don't Cry Now

 

 わたしが誰か、あなたは知りたいと思っていることだろう。私はきまった名前を持たない人間のひとりだ。あなたがわたしの名前をきめる。あなたの心に浮かぶこと、それがわたしの名前なのだ。
 たとえばずっと昔に起こったことについて考えていたりする。―誰かがあなたに質問をしたのだけれど、あなたはなんと答えてよいかわからなかった。
 それがわたしの名前だ。
 そう、もしかしたら、そのときはひどい雨降りだったかもしれない。
 それがわたしの名前だ。
 あるいは、誰かがあなたになにかをしろといった。あなたはいわれたようにした。ところが、あなたのやりかたでは駄目だったといわれた―「ごめんな」―そして、あなたはやりなおした。
 それがわたしの名前だ。
 もしかしたら、子供のときした遊びのこととか、あるいは歳をとってから窓辺の椅子に腰かけていたら、ふと心に浮かんだことであるとか。
 それがわたしの名前だ。
 それとも、あなたはどこかまで歩いて行ったのだったか。花がいちめんに咲いていた。
 それがわたしの名前だ。
 あるいは、あなたはじっと覗きこむようにして、川を見つめていたのかもしれない。あなたを愛していた誰かが、すぐそばにいた。あなたに触れようとしていた。触れられるまえに、あなたにはもうその感じがわかった。そして、それから、あなたに触れた。
 それがわたしの名前だ。
 それとも、こういうことだっただろうか。ずうっと遠くで、誰かがあなたを呼んでいた。その人たちの声はなんだか木霊みたいに聞こえた。
 それがわたしの名前だ。
 寝床に入って、横になっていたのかな、もうちょっとで眠ってしまうところだったのだが、あなたはなにかのことで笑った。ひとり笑い。一日を終えるには、これはいい。
 それがわたしの名前だ。
 それとも、なにかうまい物を食べていたんだが、なにを食べているのか度忘れしてしまった。でも、うまいな、と思いながら食べ続けたとか。
 それが私の名前。
 ひょっとしたら、もう真夜中で、ストーヴの火が鐘の音のように鳴っていたとか。
 それがわたしの名前。
 それとも。かの女が例のことについて触れたので、あなたは気持が鬱いでしまった。誰か別の人に話してくれればよかったのに。かの女の悩みごとのことをもっとよく理解できる誰かに話してくれればよかったのに。
 それが私の名前だ。
 鱒は瀞*1で泳いでいた。ところが、その川ときたら巾が八インチしかない。月がアイデスを照らし、西瓜畑は異様なほどに暗い輝きを放つ。月はまるで植物の一本一本から昇ってくるようだった。
 それが私の名前だ。

 

2012.7.11

 

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 自殺した子どもの学校で教師や教育委員会の大人たちはひたすら保身に走り、他方で子どもたちは「中学卒業の思い出作りに」と80歳の老人を襲撃し、今日もまたクラスメートを川で溺れさせるさまを女子学生たちが動画に収めて愉しんでいる。そして上野動物園内の献花台は死んだパンダの赤ん坊に捧げられた花束でいっぱいだ。

 パンダの赤ん坊に花束を捧げる前に、吐き出すものが、まずあるのではないか。この国のおだやかで低温度の狂気。

 子どもたちを育て上げたのは、大人たちだ。醜い保身に走る大人たちだ。当然の景色だ。

 恥を、知れ。オント、オント(Honte! Honte!)

 恥を、喰え。オント、オント(Honte! Honte!)

  おまへたちは、  泥だ。

2012.7.12

 

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 このごろの日課として毎朝、出勤前に ipod touch のアプリで無料の産経新聞の通常版とビジネス版の紙面をDLして、行き帰りのホームや車内で読む。現在、前者では【日本人の源流 神話を訪ねて】、後者では【投資家のための金融史】という連載記事をそれぞれ載せていて、どちらも愉しみに読んでいるのだが、その金融史の方で今日、こんなヤップ島の巨大な石の貨幣の記事がおもしろくて、帰ってから夕食の席でYと子に読み聞かせたのだった。子は海に沈んだ貨幣のエピソードが気に入ったようで、「しかし、海に沈んだお金まで数えるとはね・・・」といたく感心したように何度も繰り返し、また、島に漂着した白人が機械でつくった貨幣は「あまり苦労をしてつくったものでなかったから、価値が低かった」との説明には思わず拍手をしたものだった。

 

【投資家のための金融史 板谷敏彦】第1章 金融の始まり(8)

■石の貨幣 物語の裏打ちが値打ちに

 日比谷公園を有楽町側から入り、池に沿って少し歩くと直径1メートルほどの、原始時代のフリント・ファミリーのお金のような石がさりげなく置かれている。横にある説明板にはこの石はフェイと呼ばれる南太平洋ヤップ島(ミクロネシア連邦)の貨幣で、大正13年ごろには1000円くらいで通用したと書かれている。


 ヤップ島では古くから直径30センチから3メートルまでの石でできた石貨を貨幣として使っていた。しかしこの石貨の材料の石はこの島にはなく、約500キロも離れたパラオ島から持ち込まれたものだった。島民はパラオ島まで航海し、そこで自ら石灰石から貨幣を削り、掘り出してヤップ島に持ち帰っていたのである。

 この石貨には注目すべき特徴があった。この貨幣を使用して何かを購入しても、あるいは単にこれを誰かにプレゼントするにしても石貨を相手に渡す必要がなかったのだ。石貨は村の広場や道端などにおいてあり、所有者が代わったことだけを売り買い双方が了承すれば所有権が移転したのである。

 また、ファツマク老人という島一番の資産家がいたが、誰も彼の石貨を見たことがなかった。彼の2、3世代前の先祖が巨大な石をパラオで削り出し、持ち帰ろうとしたが途中で時化(しけ)に会い海中深く没してしまったのだ。

 しかしこの時に沈んだ石貨の大きさや素晴らしさを証言してくれた人がいたので、たとえ石貨が海の底で眠っていようが交換価値のあるものとして素朴に認められており、そのために彼は島一番の資産家と呼ばれたのである。

 1871年にアメリカ人デービッド・オキーフという人物が島に漂着した。

 彼は何とか香港まで脱出すると石を削る機械をパラオ島に持ち込み、石貨を削り取った。貨幣を作ってしまったのだ。そして機帆船でヤップ島に石貨を持ち帰るとオキーフは石貨でコプラ(ココヤシの果実の胚乳を乾燥させたもの)を買い大儲けをしたそうである。ただし、彼の石貨はあまり値打ちがなかった。なぜなら機械を使用したので苦労をしていないとされたからである。物語(値打ち)に裏打ちされていなかったからである。

 1899年にドイツがスペインからこの島を購入しやがてドイツ人が派遣された。その後1903年にアメリカ人の人類学者、ウィリアム・ヘンリー・ファーネスIII世がこの島に滞在し記録を書きつづった。

 ドイツ人が島内の道路網を整備しようとしたが、いくら島の人間に作業を指図しても全く働かなかった。そこでドイツ人は島にある石貨をすべて没収することにした。没収といっても白いペンキで石貨に×印をつけただけで石をどこかに移動させて集めて隠したわけではない。

 そして返してほしければ働けと宣言すると島民は破産を恐れて一生懸命に働いたそうである。ドイツ人は道路が完成すると約束に従って石貨のペンキを消していき、島民は資産の回復を祝ったのだった。

SankeiBiz http://www.sankeibiz.jp/top.htm?isBack=1

2012.7.13

 

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 最近すっかりご無沙汰している寮さんの小説「ラジオスターレストラン」が、こんどオペラになって金沢の歌劇座で上演されるとのことで、作者様から「遠くて申し訳ないけれど、もし夏休みの旅行を企画中であれば、ぜひ8/19に金沢へ! 損はさせません」との熱烈お誘いのメールを頂いて、「そういえば、しばらく家族旅行って行ってないな・・・」と話がとんとん拍子にすすんで、さっそくチケットぴあで特等席を予約購入、昨日あたりから「金沢って、なにがあったっけ? 夢二か、鏡花か」 「自家用車の高速代とガソリン代と、高速バス料金と、サンダーバードはどれがいちばん安いのだ?」 「宿はどうする?」 等々で俄かに忙しくなった。

 ところで最初にこの話を風呂場で子に相談した時に、「ほら、あれだよ。寮さんの“ラジオスターの悲劇”」と言って即座に子に訂正されたのはここだけのナイショの話だ。

寮美千子ホームページ ハルモニア>ラジオスターレストラン 星の記憶 http://ryomichico.net/rsr/index.html

2012.7.15

 

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 “That's how strong my love is ”  この沁み入るような“コンチキショウ”の足踏み(それがどんな惨めなダンスに見えようとも)曲は、もともとは O. V. Wright が1964年に発表したデビュー曲だが、わたしは長いことオーティスのバージョンしか知らなかった。友人が最近ブログでこの O. V. Wright のユーチューブといっしょに日本語詞も紹介していて、そこではじめて歌詞を知った。でも、歌詞を知らなくてもこんな歌だということは、オーティスの歌でおれはとうに知っていたぜ。ほんとうにこのとおりの歌詞を、オーティスのサウンドから聞き取っていた。この曲を最後の藁の一本のように握り締め、人知れず歯を食いしばっていた日々のことを、おれはいまも鮮明に覚えていて、それがいまここに居ることの証だ。

 

That's how strong my love is  (O. V. Wright in 1964)

もし、僕が太陽だったら
至るところに、愛を吹き込むよ
太陽が沈んでしまってた後も、月を照らして
僕がここにいる事を、君に知らせるために
それほど強いのさ、僕の愛はそれほど強い
僕の愛はそれほど強い

もし僕が魚で、ひどい状況に遭遇して
陸に打ち上げられたとしても
君が手を握らせてくれたなら、陸に残るよ
もし、君が吹き荒れる風だったとしたら
僕は一瞬足を止めて、君を家に送っていくよ
それほど強いのさ
僕の愛はそれほど強い
僕の愛はそれほど強い

もしも僕が自分の涙で溺れている
柳の木だったとしても
側にいてくれるなら、君はずっと泳いでていいよ
この涙が枯れてしまっても、虹になってみせる
そして、この虹の色で包んで
君を暖めてあげるよ
それほど強いのさ
それほど強いのさ
僕の愛はそれほど強い

もしも僕が星で、遠く離れていても
ベイビー、君の愛のためなら死んでもいい
君をきっと導いてみせるよ
もし、僕が老いた百姓で
土地が乾燥していたなら
はるばる行って、君の畑を見てあげるよ
君を悲しませやしない
愛してるんだ、ベイビー

 

 

 4日間、炎天下の京都にいた。鼻先の皮がめくれた。京都の古本屋で見つけた一冊。渡辺豊和「天の建築・地の住居 空間のアレゴリ-
」(人文書院 1987年)。御苑の木陰でしばしページをめくった。たとえば“窓”をめぐる一文――――「日本の竪穴住居の成立過程に近い形で、墓陵が空洞化し、神殿化してゆく。この時点で出口としての最初の窓が表れてくる。しかし、入口は家の頂上に小さな孔があけられ、ここから神が入って来る。後に煙抜きと言われるものである。むしろこの神の入口こそが窓の原型となり、それを内部から見るという図式が成立して、神殿は王の日常の空間、宮殿へと進展してゆく。」

Toyokazu Watanabe Architecture Studio http://www5.ocn.ne.jp/~toyokazu/index.html

2012.7.19

 

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 朝から子と二人で唐招提寺へ行く。車でほんの10分ほど。なぜ唐招提寺かといえば、社会科の教科書に鑑真和上が登場して子がちょっと興味をもったから。暑いから朝一番にしたのだけれど、いや、それでも暑い。面白かったのは有料貸し出しのスマホ(500円)を利用した境内ガイド。8箇所のポイントにあるARコードをカメラで読み込むとそのエリアの解説が画面で始まる。CGで再現した創建当初の鮮やかな金堂の画像はこうした携帯端末ならでは。ただ拝観料大人600円を考えると、無料貸し出しでもいいんじゃないだろかとも思ったり。電気工事とやらでひと夏休館の宝物殿は残念だったが、その他、廟所周辺の苔がきれいだったり、瓦をはさんだ土壁が光の具合で表情を変えるのがよかったり、平成の大修理の解説パネルが面白かったり、蓮の花が満開だったり・・・  約二時間ほど携帯端末片手に境内を歩き回って、最後に南大門の真向かいにあるひなびた茶屋で子がカキ氷を食べ、店番のおばあさんから、1300年祭のときには朝から晩まで大型バスがひっきりなしにやってきて賑わったが、終わったとたんにだれも来なくなって、それっきりずっと客足は悪い。いい場所に思えるかもしれないが、最近はバスのお客さんは余裕がないからみんな駐車場の隣のみやげ物へ行ってしまって、ここはぜんぜん寄ってくれない。うちは百姓もしているから野菜や米はつくれるが、犬が三匹いて、やれ病院だの散髪だのとお金がかかってたいへんだ・・・  そんな話をひとしきり聞いて帰ってきた。帰り際にその駐車場横の土産物屋を覗いて、品物も豊富だし、ああここの方がアイスコーヒーも安かったなと父が言えば、聡明な子は、わたしはあのお店でおばあさんの話を聞きながら過したのがよかったよ。カキ氷も氷の粒がとてもこまかくて雪を舐めたときとおなじ味がしたよ、と。

2012.7.28

 

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 夕食後、子が書いている塾の宿題で講師が出した例題「今回の震災で原発はやめたほうがいいという意見が出ていますが、それに反対する意見も多数あります。反対する意見を考えて書きなさい」のあまりの配慮のなさに、子の承諾を得て解答欄に赤ペンで抗議の一文を記し(子はそれを横目に「電話でなくてまだよかったわ・・・」)、また別の講師が同じ原子力発電のメリットとデメリットをあげている中で「燃料のリサイクル」などとあったのに激怒して、「そんな馬鹿な宿題などやらなくていいから、ちょっとこれを聞け」と折りしもソファーに寝転がって開いていた新聞の記事を子に読んで聞かせた。特に強調したのはノルウェーの10代少女の言葉「一人の男がこれほどの憎しみを見せたのなら、私たちはどれほどに人を愛せるかを示しましょう」と、その成熟度だ。そして「どうせネットでちょちょっとぐぐって集めたやっつけ資料でつくった問題だろ。こんな浅はかな講師たちに教えられた勉強の出来る子どもがエリートになっていくから、この国はどんどん白痴化していくのだ。いいか、しの。ほんとうに物事を考えるというのは、こういう文章のことを言うんだぞ。忘れるな」 父はひとり気を吐いて、最近とみに膨らんできた腹を満足そうにさすってみせた。

 

 大津市いじめ自殺問題に関連する3人の中学生とその両親や親類の名前や顔写真、住所などが、ネットの掲示板などで晒されながら拡散している。学校や教育委員会への嫌がらせや脅迫もすさまじい。福島第一原発事故以降、東京電力や政府に対して多くの人が抱いた「なぜ事実を隠蔽するのだ」との憤りや鬱憤が、一気に出口と標的を見つけたかのようだ。ただしこの正義は油紙のようにぺらぺらと薄い。そして容易(たやす)く炎上する。試しにパソコンを起動すれば、数回のクリックで写真や住所が現れた。「絶対に許すな」や「追い込め」など、書き込み量も尋常ではない。
 イジメとは抵抗できない誰かを大勢でたたくこと。孤立する誰かをさらに追い詰めること。ならば気づかねばならない。日本社会全体がそうなりかけている。この背景には厳罰化の流れがある。つまり善悪二分化だ。だから自分たちは正義となる。日本ではオウム、世界では9・11をきっかけにして、自己防衛意識の高揚と厳罰化は大きな潮流となった。ところが北欧は違う。この流れに逆行する形で寛容化を進めている。
 昨年7月にノルウェーで起きたテロ事件の被告であるアンネシュ・ブレイビクの公判が、6月22日に結審した。最終意見陳述で被告は、犯行は「自分の民族や宗教を守るためだった」と無罪を主張した。つまり自己防衛だ。判決言い渡しは8月24日。責任能力の有無が最大の焦点となるだろう。でももし責任能力が認められたとしても、77人を殺害した彼の受ける罰は、最大禁固21年だ。なぜならノルウェーには死刑も終身刑もない。最も重い罰が禁固21年なのだ。
 2カ月前、テロ事件の際に法相に就いていたクヌート・ストールベルゲと話す機会を得た。日本の一部のメディアでは、ノルウェーでも死刑が復活するのではなどの記事が出たが、犯行現場のウトヤ島にいながら殺戮を免れた10代少女の言葉「一人の男がこれほどの憎しみを見せたのなら、私たちはどれほどに人を愛せるかを示しましょう」を引用しながら、元法相はその見方をあっさりと否定した。死刑を求める声は、遺族からも全くあがらなかったという。
 2009年にノルウェーに行ったときに会った法務官僚は、「ほとんどの犯罪には、三つの要因があります」と僕に言った。「幼年期の愛情不足。成長時の教育の不足。そして現在の貧困。ならば犯罪者に対して社会が行うべきは苦しみを与えることではなく、その不足を補うことなのです。これまで彼らは十分に苦しんできたのですから」
 これは法務官僚個人の意見ではない。ノルウェーの刑事司法の総意だ。つまり善悪を二分化していない。罪と罰の観念が根底から違う。もちろん、被害者や遺族への救済は国家レベルでなされるのが前提だ。
 ただし、寛容化政策が始まった80年代、治安悪化の懸念を口にする国民や政治家は多数いた。でもやがて、国民レベルの合意が形成された。なぜなら寛容化の推進と並行して、犯罪数が減少し始めたからだ。
 つまり理念や理想だけの寛容化政策ではない。犯罪の少ない社会を本気で目指したがゆえの帰結なのだ。満期出所者には帰る家と仕事を国家が斡旋する。彼らが社会に復帰することを本気で考えている。一方、この国の刑事司法は、本気で犯罪の少ない社会を作ろうとは考えていない。むしろ追い込んでいる。クラスの多数派が誰かを追い込むように。悪と規定した標的やその家族をネットとメディアが追い込むように。
 ブレイビクは法廷で「単一文化が保たれている完全な社会」を保持する国家の一つとして日本の名をあげて称賛した。
 だから時おり想像する。もしも「ブレイビクから称賛されたことをどう思うか」と質問したら、ネットで「追い込め」や「許すな」などと書き込んでいる人たちは、何と答えるだろうかと。

朝日新聞7月26日(「あすを探る」森達也)

2012.7.31

 

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 ジップ・ワントルロイ卿と散歩へ行く。

 近所に家内工業で豆菓子をつくっているところがあって、毎朝その家の前を通るとじゃらじゃらと豆が躍る音と香ばしい薫りがただよってくる。作業場のドアのすきまから前掛けを垂らした小柄な主人が豆を煎る機械の前ではたらいている。その家のななめ向かいの三軒長屋ではこれも小柄な職人風情の老人が戸口のところでいつも何かを修理している。先日は自転車で、今日は団扇を張替えしている。だいぶ傾きかけた長屋の部材のひとつのように溶け込んでいる。その小さな四辻からさらにせまい路地へ入ると、イコマさんという背の高いひょろりとしたお爺さんがこれも長屋の戸口の前で鳥かごの掃除をしている。不思議と色の白いこの老人は、若い頃に何かの事情で人の数人を殺めた過去があるのだがいまでは仏陀のようにすっかり漂白されてただ鳥と世話を一心にしている、なぞと勝手な想像をしてしまうような独特の雰囲気がある。Yはときどき挨拶を交わすらしいが、わたしはまだ喋ったことがない。これらのひとたちはみな同じような年齢・年代で、こうした人々がもう5年、10年して近所からいなくなってしまうのをわたしはさびしく思う。そうしてそうなっていく世界をもういいか、もういいだろうと諦めていくことが死に近づいていくことなのだろうかとも思う。

 今日は、家を買ったときにトイレの窓の外に茂っていて切り倒してもらった二本の樫の木―――――ずっと北側の裏手に寝かしていたのだが―――――の皮むきをした。オークションで落としたチョウナがじつに役に立つ。最後にサンダーで仕上げの削りをしたらTシャツが汗でぐっしょりになった。

 東京の古本屋からロジャー・ウィリアムズ「ハンク・ウィリアムズ物語」(音楽之友社)を購入。

2012.8.4

 

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○ジップ・ワントルロイ卿についての報告書

 今日のワントルロイ卿の行動について申し上げます。

 分かっておられることでしょうが、今日は5時半から雨になりました。朝は見事に晴れでございました。

 ワントルロイ卿は、朝からとても暑く、そのために起こされたくらいで、侍女にいいつけて、送風機をつけさせていました。

 そして、窓からずっと外を見られ、水を飲むのをやめ(のどの渇きは少しましになったように思えました)、コーギー城に住んでおられるマロン姫からのおくりものの白ワインを飲んでは、汗をふき、それをくり返しておられました。

 そのうちにもっと日が高くなり、暑くなってくると、水あびをしたいとおっしゃいました。

 そして水あび用のゴム製プールをふくらませ、水でいっぱいにしました。

 しばらく水をあびていらっしゃいますと、そのうちにお散歩の時間になりました。

 私は卿に、いつもの厚いはおる上着マントではんく、早急にうすい赤マントを店に注文し、あわてて卿が歩かれる道にはかなりの量の水をうたせました。

 それから、いつも卿のお散歩のお供をする中に、うちわ持ちの侍女がいますが、今回はその2人以外に、もう2人増やし、大きな日傘がわりのはすの葉をもたせました。

 卿が日射病になることを恐れたのです。

 それでも道中は気温も上がり、暑かったものですが、帰るとすぐにあのいやな雨がふり出し、水あびができなくなりました。卿は、白ワインのびんを空にして、そばにおくと、「まあ、雨がふれば暑くはないだろう」とおっしゃいましたが予想ははずれ、気温だけがぐいぐいと上がり、卿はさっき送られてきたダックスフント城のチョコ姫からのチューイング・ガムではない、チューイング・シューズをかみ、あいかわらず水をお飲みになったり、いまいましい雨をにらみつけていました。

 以上。今日のワントルロイ卿についての報告でした。

スーザン嬢

 

○ジップ・ワントルロイ卿についての報告書

 今日、ジップ・ワントルロイ卿と私はとても忙しくしていました。

 卿はいろいろな書類の決定を、私は城中での日射病対策をしていました。卿の書類も、「○○川がひあがってしまったがどうしたらよいか」とか、「××町で日射病がはやっている」などの問題がさまざまでした。

 私と卿は、忙しさの中、提案をしあいながら、なんとか日射病をふせいでおりました。忙しさと暑さのため、卿も私もくたびれ、参ってしまいそうになりました。

 そこへ手紙がまいこんできたのです。手紙の封筒は筆でまっ黒にぬりたくっていました。私は、侍女がおそるおそる持ってきたその手紙を、卿のところへ持っていきました。

 卿と私は恐れながらも手紙を開封しました。中には一枚の紙が入っていました。そこには、やはり黒く汚い字で、「城と町を明日、怖がらせてやる」とだけ書いてありました。

 卿はとてもおどろいて、手紙の裏表をじっと見ていました。そして、私に、封筒を調べるようにおっしゃいました。封筒はまっ黒でしたが、私はなにか書いていないかたんねんに調べあげました。

 しかし、差し出し人の名前がないどころか、文字のかけらさえ見つかりませんでした。しかし、私はあることを発見しました。

「卿よ」 私は言いました。「この手紙はろうで封されています」

「あたりまえだ」 卿はおっしゃりました。「そんなこと、何の得にもならない」

「なります、よ。私はいい返しました。「だって、ろうで封をするのは、上流階級の者だけです。下の者たちはしません」

卿はさらに反対なさいました。「城に送る手紙くらい、上の者がするように、やってみたかったということも考えられる。だいたい、あんな汚い字、上流階級の者は書かないよ」

「そうです。いつもは。でも、もし上流階級の者がこんなおどかしの手紙を送るのなら、きれいな字なんかで書きません。もしばれたら、上流階級の者達から外されてしまいますもの」

 卿はいつまでも、反対なさいましたが、私は意見を変えませんでした。どんな反論にも答えられました。

 明日、何があるのでしょうか?

スーザン嬢

 

 

○ジップ・ワントルロイ卿についての報告書

 夜は、眠れないほど明日のことが心配でなりませんでした。そして、明日が今日になり、今日は昨日になりました。

 ジップ・ワントルロイ卿も、城のまわりに兵隊をたくさんつけさせるなどといった対策に頭をひねっておられました。

 そして今日、朝はやく、私は卿のところへ相談をしに出かけました。

 「橋には両側に兵隊をつけさせて、誰か通る場合には、身分証明証をみることにしておけ。身分の証明ができない者は、ここにつれてこい」 卿は命令してしました。

「卿よ」 私は言いました。「守りを強化しただけで、ほんとうに黒い手紙の犯人をつかまえられるでしょうか?」

 卿は侍女がかかげる砂糖菓子の中から小さいももいろのをつまみながらおっしゃいました。

「つかまえられるかわからない。けれど、これで奴の計画をくいとめられると思うのだ。奴のたてている計画は、どんなものにしろ、やっかいなものだろうからな。奴はけいかいして逃げるかもしれないが、当分このあたりには近寄らぬだろうよ。つかまえられたら理想的だがな」

 私はうなずくしかありませんでしたありませんでした。ほかにどうしようもありません。守りを強化することしかできないのです。

 そして卿は町のまわりを見張らせました。

 昼ごろ、兵隊がかけてきました。

「ワントルロイ卿にお伝え下さい。身分証明書を見せなかった者がいるのです」

 私は急いで卿に伝えました。卿はとなり町にいる、チワワ城のラン・グランチェスター姫と歓談していましたが、私の伝えをきくと、すぐさま兵隊たちのところへ行きました。私とラン姫もあとを追いました。

 兵隊と兵隊の間には、黒く汚らしい犬が立っていました。

「おまえか、身分証明書を見せなかったふとどき者は」

 卿は犬に言いました。黒い犬は、眼をぱちぱちさせて、「そうだ」と言いました。

「見せるがよい」

「いやだね」

「見せなければ橋を渡らせぬぞ」と卿は胸を張りました。

「それじゃ、こういうことでどうだい」

 犬はたちまちふところからピストルを出してラン姫に向けました。

 卿は「何をする」と叫びかけて、はっと口をつぐみました。私は「ラン姫さま」と言いました。

「それじゃ、通してもらおうか、俺はいそがしいんだ」 黒い犬は言いながら、ラン姫からピストルをはなしません。

 御気の毒に、ラン姫はふるえて、縮こまっていらっしゃいましたが、しっかりしたお声で、「お逃げになって」とささやかれました。

 私ははげしく首をふりました。

「姫さまをおいて逃げるだなんて、とてもできません。お金とひきかえでも、しません」

 黒犬はラン姫をつれて、屋根までのぼりました。そこには気球が・・・!

 黒犬は気球にのると、ピストルを撃ちました。ラン姫はたおれて、「おお、血が、血が」と叫ばれました。

 私はすぐにかけつけて、「どこ、どこを撃たれましたか?」 姫は「肩が、肩が、おお、痛い、痛い」

 私は肩を調べましたが、ただ、ぐっしょり濡れているだけです。

「血なんて、どこにもないじゃないの」 私はあわてて、すぐほっとしたので、少し怒ったように言いました。

 そのとき、気球からなにかがばらまかれました。みんなは悲鳴をあげました。

 その“なにか”は地面にあたってがたがたと音をたてました。ピストルでした。みんなは、気球に向かって撃ちました。

 それは水鉄砲でした。みんなは水鉄砲とわかるとみんなで撃ちあい、涼しくなりました。

 私と卿は考えこみました。

 みんなを怖がらせ、面白がらせて帰っていっただけの(それに日射病対策もしてくれた)、あの黒犬は誰だったのかと。

 

スーザン嬢

 

2012.8.6

 

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 午後。何年かぶりのCちゃんが旦那さんと1歳半の子どもをつれて遊びに来る。Yとおなじ和歌山の博物館に勤めていてわたしとYのなれそめから知っている数少ない存在だ。わたしと子はほとんどチビくんと遊んでいた。Yは口数の少ない旦那さんと受験勉強の話をしていた。Cちゃんの旦那さんは小学校の先生だ。Cちゃんも小学校の先生だった。すっかりお母さんになっていた。

 夕方。Yが図書館勤務で帰りが遅いため、子を誘って気になっていた川西町結崎の「屋台ちかみちらーめん」へ行った。子は塩らーめん、わたしは定番の醤油らーめん。はっきり言って、かなりおいしい。子は「いごっそうが1位で、ここが1.5位だ」と。帰りにすぐ近くの翁面とねぎ種が天から降ってきたという伝承の面塚のある「観世流能楽発祥の地」をふたりで見て帰ってきた。

2012.8.11

 

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 「東北地方で発生した地震により原子力発電をすべてなくそうという意見が出ていますが、その意見に対して反対する意見も多数あります。そこで、反対の意見の理由を自分で考えて答えなさい。」 塾の社会の授業で出たというこんな設問に、わたしは少なからず憤慨して解答欄の子の文章の下に赤ペンで走り書きを加えて持って行かせた。「私の友人は原発20キロ圏内より避難し、母も一時茨城から奈良へ逃げてきて、知り合いの有機栽培の農家は米が売れなくなり、また別の知人は乳幼児を抱えて避難生活をしています。このような人々を生み出し、国土の一部を失うに至った事故について、例え例題であったとしても、このような片寄った設題で子供に意見を書かせるのは少々、配慮が足りないのではありませんか?」 すると今日、これを見た当の講師がこのわたしの文章を子にみんなの前で読ませ、その上で「受験先の中学が最近いちばん興味を持っているのは“メタ認知”。“メタ認知”とはじぶんの意見だけではなく広い視野で反対意見を考慮することが出来る能力であり、この“メタ認知”を身につけることが大合格に必須である」と宣ったと訊き、夕食の最中のその場で塾に電話を入れ、当の社会科のS先生と話をしたいと申し入れ、自転車に乗ってでかけたのだった。出てきたのはS先生と経営者のH先生。かれらの言い分は「去年はTPPに参加することが賛成か不賛成かという問題が、配点の高いところで出題された。TPPはその当時いちばんホットな話題だったのです。いま原発について否定的なイメージを持っている人が多い。でも本当にそれだけの一方の意見だけでいいのか? 原発がなくなって困る人もいるのではないか? と逆の意見を考えることで子供たちは考える力がつく。それが私のこの問題の狙いでした。」 そしていっしょに持参した原子力発電のメリットとして「リサイクルができる」を上げた国語の先生の授業についても、「確かに情報としては古いのかも知れないが、受験に出る以上はおさえておく必要があるので仕方がない」と。それでもあんたらにとって結局原発事故も所詮は受験問題の一素材に過ぎないじゃないかと口に出掛かりながら、何事が起きたのかと不審げにちらちらとこちらを見ている自習の子どもたちに囲まれながら話を交わしながら、所詮は出口が決まっていて、義務教育でも何でもなくてその出口が決まっているコースを選んでいるのはわが家自身なのだと改めて思い出し、そうだ、ここは真実を探求する場所ではなくて“塾”なのだ、と極めて当たり前の結論に思い至ったら急にしらけてきてしまい、そこで「チャイムが鳴って、次の授業も始まるので、お父さんこの辺でどうか」と体よく促されては立ち上がり、何だか煮え切らないまま帰ってきたのだった。それでもこれだけははっきりしているのは、あいつらの教えている“勉強”はわたしが思っている“勉強”と決して相容れないものだという確信であり、わたしがわが子に伝えたいのはあいつらのいう“勉強”では決してないということ。家に帰って、わたしは数日前に切り取ってホチキスで留めておいた、先日シリアで殺された日本の女性ジャーナリストの記事を読んでおくようにと子に渡したのだった。

2012.8.23

 

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金沢行纏め  2012年8月19日(日)〜20日(月)

○往路  朝6時過ぎの出発。京奈和、京滋バイパス、名神、北陸道。短くはなかったが、思っていたより長くもなかった。平均110〜120キロくらいで少々飛ばした。BGMはリンダロンシュタットの2枚組みベスト盤だが、途中で「嵐」に変えられた。途中、尼御前SAで休憩。九谷焼と硝子と漆工芸品の三人の作家氏たちがテントで即売展示をしているのをYが覗く。漆工芸の作家と長いこと話し、あとで「あの人の作品は手が込んでいるよ。値段が2万、3万するから、こんなところじゃなかなか売れないだろうけれど、でも外国の人なら買ってきっと満足する。それだけの価値がある」と。でも彼女が買ったのは隣の、パンクバンドの兄ちゃんがそのまま10年年をとったような茶髪の、どこか中性的な作家氏が並べていた硝子の一輪挿し(1500円)だった。  http://glassakitomo.blog92.fc2.com/blog-entry-520.html  http://hokurikukougei.jp/member-kinoshita.html

○ペット・ホテル BOW Haus  JIPははじめ、地元のペットハウスにお泊りの予定だったが、いつのまにかYと子がひそかに話し合い、「ねえ、お父さん。可哀相だから、せめて車の行き返りだけいっしょに旅行に連れていってあげようよ」と。北陸道の金沢西インターを降りてすぐのこのペット・ホテルはそんなわけで、YがじぶんでWebで探し出して、電話もして予約をした。偶然店主の姉妹が郡山の西ノ京近くに住んでいるとかで、電話ですいぶん話が盛り上がったらしい。「初めての人と電話であれだけ長いこと話が出来るのはお母さんならではでしょう」と子はいつものようにクールなコメントを残した。 http://www.bow-haus.jp/

○近江町市場  いよいよやってきた。市内中心部にある胃袋どころへ、隣接するコインパーキングへ車を滑り込ませて。市場の口々に大きな氷が鎮座している。ガイドにも乗っている「じもの亭」か、会社のI君が食べたという「ひら井」あたりの海鮮丼あたりかと考えていたが、若かりし頃のトニー谷のような店のあんんちゃんの巧い口上にのせられて、もともとたたきや海鮮珍味などを扱っている「逸味 潮屋」の居酒屋の如きカウンターでわたしとYはぶり・サーモン・たこの三色たたき丼、子はいくらとサーモンの親子丼を賞味。その後、別の海産物屋から干物などを近所の土産に送った。 http://shop.ushioya.com/

○泉鏡花記念館  ほんとうは早めに到着できたら「金沢」といえば大抵の人が答える「21世紀美術館」を見たかったのだが、やはり金沢はそれなりに遠かった。本命のオペラ開演まで微妙な時間があまったので、わたしのリクエストで鏡花の生家跡に建てられたというこの記念館に立ち寄った。ちいさな館だが、鏡花の魅力やあやかしが品よくまとめられ、ぼうっとあえかな光を放ち並んでいる。「我が居たる町は、一筋細長く東より西に爪先上りの小路なり。両側に見好げなる仕舞屋のみぞ並びける。市中の中央の極めて好き土地なりしかど、此町は一端のみ大通りに連りて、一方の口は行留りとなりたれば、往来少なかりき。朝より夕に至るまで、腕車、地車など一輌も過ぎるはあらず、美しき妾、富みたる寡婦、おとなしき女の童など、夢おだやかに日を送りぬ」(泉鏡花・照葉狂言) ここでわたしは記念館オリジナルの文庫、鏡花の北陸ゆかりの短編を纏めた「絵本の春・寸情風土記」を購入。子は珍しい、鏡花の「天主物語」や「夜叉ヶ池」を漫画にした波津彬子「鏡花夢幻」(白泉社文庫)を購入した。「春昼」のジオラマ・ストーリーを二人で覗き込み、これで少しばかり鏡花ワールドへ引っぱりこめたかな、と父はほくそえんだ。 http://www.kanazawa-museum.jp/kyoka/index2.html

○オペラ「ラジオスターレストラン 星の記憶」  会場の金沢歌劇座の駐車場が満車で、入口の警備員が教えてくれた21世紀美術館の駐車場へ車を回す。会場の入口前でひさしぶりの寮さんご夫婦と再会し、子はサクラよろしく新装版の「ラジオスターレストラン」にサインをもらう。子にたくさんの人々によってつくられるという意味での舞台を見せたくてやってきたが、たぶんそれ以上に創作することのざまざまなことを考え、感じていたのではないか。はじめから終わりまで舞台に喰いついてはなれなかった。一方、始まった当初は「やっぱりプロの舞台に比べたらね・・・」とちょっぴりクールだったYは、舞台のフィナーレで泣き出してしまった。そんな直後の顔で出てきたものだから、ホールで読売新聞記者という若い女性につかまってあれこれインタビューを受けた。歌劇座を出て駐車場へ歩き出してからYは、「ああ、いちばん大事なことを言うのを忘れていた! 星のカケラ、星のカケラ。あなたは星のカケラで、まだ間に合う、と言われてじぶんのことをふりかえったら、急に涙が出てきた。それをいちばん言いたかったのに!」 「いまから戻って、あの記者に言ってきたら?」  http://kanazawaopera.blog133.fc2.com/

○主計町と東山茶屋町  金沢城の北、尾張町に位置する予約した旅館にチェックインして、夕食まで近隣の古い町並みをぶらぶらと散歩した。先ほどの泉鏡花記念館から神社裏の“くらがり通り”を抜けて川沿いの主計町、そして橋を渡った先の東山茶屋町。すでに日も暮れかかり、点在する土産物屋や喫茶なども閉まりかけていたが、かえってその閑散とした夕暮れの風情がよかった。徳田秋声記念館に近い路地で地元の老人がカメラを撮ってくれた。「どこから来られました?」 「奈良です」 「ほう、じゃあ、あちらの方が古いものがたくさんで。このあたりはもともと武家屋敷でしてね、敷地も当時のままです。この○○さんの家も云々」 「・・・ところで、どこから来られました?」 この奇妙なデジャヴ感もこの町に似合っている。  http://www.youtube.com/watch?v=0aM57Od-I8I&list=PLDCDB941166D186A6&index=2&feature=plpp_video

○中安旅館  もともとペット宿泊可の検索でYが探し出した旅館だったが、「夜中に吠えたりしたら他の宿泊客に迷惑になるから」とわたしが却下。ただWebの口コミを見ると料理がかなり好評で、立地もよく、「金沢だからホテルよりも和風の旅館がいい」というYの意見もあって、そのままの予約となった。実際に泊まってみて、Yいわく「アルバイトの(元気のいい女の子たちの)仲居さんでもっているところ」 通いのちょっとヤンキー風の女の子と、北九州から金沢の大学に入学して夏休みは泊り込み賄い付きで働いている女の子の主に二人のコンビ。おばあちゃんを除く経営者の父息子(?)は宿にしては愛想がなさすぎ。その辺が馴れれば、逆に気安い宿かも知れない。料理は確かにおいしかった。すましに至るまで味がしっかりしている。お風呂の後は女の子らが敷いてくれた布団の上で、ふだんは見れないテレビをみんな思い思いに寝そべって・・・  http://www.spacelan.ne.jp/~nakayasu/

○金沢城址と兼六園  朝、7時に起きて早朝の散歩。兼六園は4時から7時までは無料開放らしいが、さすがにそこまで早起きはできなかった。宿から広々とした空間の金沢城址を抜けて兼六園までわずか10分ほど。こんな時間からベンチで缶ビールを飲んでいる羨ましい地元のおじさんが写真を撮ってくれた。わたしは兼六園の中を流れる水路の絶妙な傾斜に喉をうならせる。Yは松や桜の枝ぶりに目を瞠らせる。子は明治に建てられたヤマトタケルの像の顔が(山岸涼子の漫画と)ちっとも似ていないと不満を述べる。兼六園をぐるりと一周したところで子の足裏に靴擦れができてバンドエイドを貼る。帰りのコンビニで読売新聞を買ってみると、金沢版に昨日のYのインタビューがごく短いものだけれどちゃんと載っている。「もう、年齢はぼかしておいてくださいって言わなかったのに」 「でもあなた、生年月日を訊かれて答えていたじゃない」 宿に帰って朝食の席でこの新聞記事を披露すると、宿のおばあちゃんの孫娘が「ラジオスターレストラン」に出演していたと聞きまた盛り上がる。「赤い服を着たふとっちょの子ですわ」  http://www.pref.ishikawa.jp/siro-niwa/japanese/top.html

○金沢港大野「からくり記念館」  昭和38年のいわゆる“三八豪雪”により北陸地方の陸上交通が途絶えたことから整備された金沢新港整備の地元への還元としてハコモノだとか。気さくな館長みずからによるからくり人形の実演も楽しめたが、面白かったのは“北陸の平賀源内”ともいわれる大野弁吉(1801〜1870)についての展示資料。もともとは「京都五条通り羽細工師の子として生まれ、20歳のころ長崎に行き理化学、医学、天文、鉱山、写真、航海学を修得した後、突然対馬に赴き朝鮮にも渡」り、帰国後京都に帰り中村屋八右衛門の長女うた(加賀国大野村生まれ)の婿となって、その後69歳で永眠するまで金沢で半生を暮らした。つまりこの記念館はこの大野弁吉を顕彰して建てられたものだ。その弁吉、からくり人形に限らず、根付などの木彫、ガラス細工、塗り物、蒔絵のほか、科学機器エレキテルボルダ式パイルなどの図解、色ガラス、火薬、写真器、大砲、医薬品等々の製法、調合など、まさに博覧強記。見なさい、これぞニーチェのいう「知識の悦び」だと、しばし子に演説をふるった。もっともこはYとからくりパズルのコーナーに置かれていたサイコロを組み合わせる木片パズルにこだわって一時間をかけて完成させ、館から記念品(館の図録)をもらった方が嬉しかったようだ。日本海を見渡すシーサイドに建てられた直線があまり見当たらない一見ガウディ風、若しくは異国の祈りの場のような建物や回廊は、建築家:内井昭蔵氏の作品。  http://ohno-karakuri.jp/index.html

○潟с}ト醤油味噌  上記の「からくり記念館」の館長にすすめられて寄ったのが醤油のソフトクリームを販売しているという此処。どうせウケ狙いのキワモノだろうとあまり期待しないで行ったところ、駐車場から看板表示の矢印に導かれてまるでつげの「ネジ式」のような路地を迷い込んでいくと、醸造蔵を改造したなんともモダンな店と喫茶室が出現して驚いた。まさに山中にレストラン山猫軒が現われたような驚きだ。そして高をくくっていた醤油のソフトクリームの上品で洗練された旨さよ。Yは一人玄米ソフトクリームにして、その上に備えつきのアイスにかける醤油と味噌をかけて愉しんでいる。ソフトクリーム以外の本業も素晴らしく、「とろとろ玄米あまざけ」、「魚醤・いしるだし」、「生醤油・ひしほ」、「塩糀(しおこうじ)」の主要製品をほとんど買って帰ってきた。http://www.yamato-soysauce-miso.co.jp/company.html

○帰路  前述のペット・ホテル BOW HausでJIPを引き取ったのが午後3時過ぎ。車の中でYが宿泊リポート(お泊り最中の報告書)を読む。わたしの友人のAに雰囲気がよく似ていたという店主はかつては、Webデザインの仕事をしていたらしい。「これだけ色々書いてくれて、話も詳しく聞いてくれて、24時間以上の延長も取らず、三千円ぽっきりは安すぎる」とY。帰路もおなじ尼御前SAで休憩。JIPも外に出して食事。ソフトクリームが効いているのかYと子は売店のパン。わたしはひとり中日本のSAランキングで1位だったという「甘エビの塩ラーメン」を食べてくる。行きとは逆の経路にて夜8時頃に帰宅。  http://www.c-nexco.co.jp/sapa/info/ramen.html

2012.8.26

 

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 休日二日目。午前中、子を連れて大阪の病院へ作り変えた装具の受け取りに行く。整形外科のK先生と手術について再確認の会話。手術後に動いていた左足の筋肉がいまほとんど動きがない。これが脊髄部分での神経の係留(成長によるひっぱり)が原因の可能性が高いため、再手術の話が出ている。しばらく前に泌尿器の精密検査を受けて結果待ちだが、脳神経外科のN先生はたとえ泌尿器の結果で異常が見当たらなくても整形で悪い結果が出ている以上は手術をした方が良いとの見解である。その手術をいつ、やるのがよいか。今年は受験もあり、中学入学もあるから、その間あたりだろうけれど。 装具はサイズが小さくなったのを作り変えたもので、併せて特注の靴も学校で使う上履き・下履きき共に交換。左足のみで二足分で約8千円。新しい装具と靴を履いて、しばらく病院内を歩いたり走ったり階段を上り下りしてから装具を外して、どこか皮膚が赤くなっているところ(当たっているところ)がないかを点検する。  帰ってから「担当がTさんに代わったそうだよ」とわたしが伝えると、とんでもないとYが興奮して装具会社へ抗議の電話をする。「Kさんじゃなくちゃ、困るんです。Kさんがいちばんうちの子の足のことをよく分かってくれているんです。ぜったいに元に戻してください」 彼女にしては珍しく強気の態度で。抗議の甲斐があって「装具の担当はいままでどおりKで代わりないです。会計の部分だけTの担当になります」と苦しい言い訳が返ってきた。

 昼から子は塾で、わたしはYが図書館で借りてきてくれたベン・ロペス「ネゴシエイター―人質救出への心理戦」 (柏書房 土屋 晃, 近藤 隆文:翻訳)―――――誘拐事件の交渉人の手記だが、ちょっと気取った文章が鼻につく――――を読んでいるうちにソファーでうたた寝。

 夕食はわたしが担当。日曜の新聞に出ていたホールトマト缶と鯖の味噌煮缶を使った即席パスタ。ニンニクで鯖の臭みが取れて、案外とおいしかった。

 夕食後は子の夏休みの自由研究の手伝いで、タイトルは「面塚の歴史について」。何もわたしが無理強いしたわけでは全然なくて、本人がやりたいと言い出して、昨日は午前中に二人で図書館へ行って川西町史(別章を設けて、面塚の伝承と結崎猿楽座についての考証を載せている)をはじめ、能楽の解説書、翁面の写真集などを漁り、再度現場へ行って写真を撮ったりしてきたのだった。今日は大きな模造紙に面塚、奈良豆比古神社に伝わる翁面、結崎特産のネブカの写真やグーグル・マップなどわたしがプリントした資料を貼り、子がまとめた文章をはさみこんでいく作業。

 昨夜はなぜかユーチューブで深夜まで一人、1992年のヤクルト・スワローズ優勝の動画をずっと見続けていた。あの頃のヤクルトがいちばんよかったな。草野球の悪がきチーム(ヤクルト)が金持ちの完璧プロチーム(ライオンズ)に無謀にも挑むような味わいがあった。もうあれだけプロ野球に夢中にはなれないだろうな。

2012.8.27

 

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 夕食時にYが、今月から家計簿をつけることにした、今月はまだ途中だけれど支払いが決定している金額を○○さんのお給料から引くと残りはこれだけになる、と説明する。わたしはお金、とくにじぶんの給料や、じぶんがCDや本をネットで買ったことを言われるといつも機嫌が悪くなる。今回もその例に洩れず、クレジットカードの支払いの中には食品もあれば、車のガソリン代もあれば、ネットでの買い物や、イコカのチャージ代や、コープの支払いや、それこそいろんなものが混じっているのにその内訳もつけずに丼勘定で差し引き金額だけ言われても何が言いたいのかよく分からない、とわたしが言う。ただ余裕はこれだけだと知ってもらいたかっただけだ、と彼女が答える。何でこの計算にはあなたの給料が入っていないのか、とわたしが訊く。○○さんの給料だけで生活を回したいから、と彼女が答える。だんだんわたしは大声になって、もはや何に対して怒っているのか分からなくなって、だいたいこんなめしの時にカネの話なんかするな、と言い捨ててじぶんの部屋へ移動して、週末に大阪の現場で撮ってきた教育用の動画をDVDに焼く作業をし始める。わたしはじぶんの家にいるのがいちばん好きだ。たとえすべての友人・知り合いに愛想を尽かされて世間から完全に見放されたとしても、小さな庭で彼女と土いじりをしたり、書斎で子と好きな本のページを開き合ったりしているだけで満足だ。それ以外はなにもいらない。あと何年、たとえばじぶんは彼女といっしょにこうして何気ない時間を過せるのだろうかといつも心の奥底で危ぶんでいるのに、その何百ページかの一枚をじぶんで台無しにして、それをじぶんでそうしてしまったことに対してもはや怒りが収まらないのだ。

2012.8.28

 

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 はや九月、長月(ながつき)。

 昨夜は夕食後、子と二人で彼女のおすすめの「神様のカルテ」の映画を見た。Yと子は二人とも原作も大好きで、映画もすでに見ているのだが、「お父さんに見せたい」と言うのだ。二人が好きな「嵐」の桜井君はともかく、宮崎あおいちゃんは生憎テレビもないわが家では他のドラマなどは知らないが、この作品では独特の雰囲気を醸し出していて好印象。デビューしたての頃の原田知世みたいな空気、かな。そういえば主人公の医師が坂道をのぼって帰宅すると坂の上の家の物干し台のようなところから彼女が「おかえりなさい」を言うところなどは、あの大林監督の(わたしの大好きな)「日本殉情伝 おかしなふたり ものくるほしきひとびとの群」で夫の三浦友和を迎える南果歩のシーンとそっくりだ。宮崎あおいと南果歩の共通点は、その不思議にピュアな膜に包まれたようにさびしく響く声である。主任看護師役で出ていた(これもわたしが大好きな)池脇千鶴も、よかった。老いてふっくらとした加賀まりこを見るのはちょっぴりさみしい気がした。

 休日の今日は朝食後、子とジップと二人と一匹で郡山城址へ。二の丸の広い芝生のところでジップを桜の木に繋いでおいて、子のドッジボールの練習につき合い、汗を流した。午後は子の最後の学校の宿題のため、図書館で資料収集。戦争に関するレポートというのが課題で、子は広島・長崎で被爆して死んだ外国人、特にアメリカ兵捕虜たちの話を一枚ものにまとめた。子の資料をいっしょに探しながら、山崎哲「<物語>日本近代殺人史」(春秋社)がふと目に止まり、中の梅川事件(三菱銀行人質事件)のくだりをついつい貪るように読んでしまった。日常を逸脱すればするほど、どうしてかこころを掴まれる。数日前にiPODで聴いた島田雅彦/大友良英「ミイラになるまで」の朗読CDも、その見えない皮膜の下の血液のようにどろどろと音も立てずに流れている。

 音楽はこのところずっと、リンダ・ロンシュタットに恋している。いまなぜリンダ・ロンシュタットなのかじぶんでも分からないのだけれど、いまなぜかそっこんなのだ。特に70年代の彼女に。リンダ・ロンシュタットはカントリーも歌えるし、モータウンも歌えるし、ハードロックも歌える。ニール・ヤングにも、ランディ・ニューマンにも、ローウェル・ジョージにもつながっている。もちろんそれだけではなくて、若かりし頃のリンダ・ロンシュタットのあの瞳が、ぼくが高校生のときに好きだったSちゃんにそっくりなことも理由のひとつかも知れない。30年経ってぼくはまだ彼女たちに恋をしている。

2012.9.2

 

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 大阪・枚方市の病院へ泌尿器科の検査を受けに行く。車で一時間ほど。富雄川沿いののどかな道をうねうねと進み、「岩窟めぐり」と書かれた交野の磐船神社の前をいつも寄りたいなと言いながら通り過ぎるがまだ車を停めたことがない。カーステは最近買ったジム・クロウチのCD2枚組ベスト。検査は三種類。オシッコを摂って膀胱を空にしてから何かの液体を尿道から入れながら膀胱の動きを観測するもの。レントゲン。そしてM先生が自ら行うスキャナーによる画像診断。待ち時間も含めて10時半〜2時半頃まで。待っている間は三人で並んで読書。Yは瀬戸内寂聴のエッセイ、子は病院に置いてあったコナンの漫画、わたしはベン・ロペスの「ネゴシエイター」。検査の合間に病院の近くで昼食。ステーキどんの日替わりランチ。大したことなかった。検査の結果は(現在の薬を服用した前提でだが)膀胱も腎臓も特に異常はなし。ただしレントゲンで腸の中の便が左の横っ腹あたりまでぎっしり詰まっている状況が写し出されて、先生いわく「そろそろ洗腸にトライしてみた方がいいかも」と。やり方を覚えるのに10日間ほど病院に入院して、泊り込む必要があると。「特に火急でもないので」、こんど今月20日の脳外科の受診で決定される脊髄の手術の日取りを見て検討する。脳外科のN先生への手紙を預かって病院を出た。朝の9時に出て、帰宅は4時半頃。子はオシッコを済ませ、水を一杯飲み、鞄を持ってそのまま塾へと向かった。病院の人気のない通路で大きな体を車椅子に窮屈そうに押し込み、背中をやや後ろへ反らしてガラス張りの外を凝っと眺めていつまでも動かない60歳くらいの男性がいた。何を見ているのだろうとその男性の背後にさりげなく立ってみれば、生い茂った樹木の葉と青い空だけがあった。あたりまえのものが特別だ。ほんとうはいつもそうだ。

2012.9.4

 

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 奈良県のとある新店のオープンを間近に控えてこのごろ連日帰宅が夜更けでそんな場合じゃないんだけれど、iPOD対応のミニ・コンポを買ってしまい、今日それが早速届いた。iPod用デジタルドック+USBシステム ケンウッド K-521-S ケーズデンキのネットショップが最安値で21,500円。2009年の暮れに発売されたモデルで生産終了となり、かつて4万円していたものがここまで値を下げた。ここが買い時と、昇進祝いにYの実家から頂いた祝い金の残金2万円をここで投入して購入したのだった。

 はじめて本格的なオーディオ・セットを買ったのは中学生の時で、48回の分割払いで毎月の小遣いのほとんどを費やした。もちろんこれで、ディランやビートルズを聴いたのだ。このセットではじめてかけたLPレコードをいまでも覚えている。ジョージ・ハリスンのベスト盤に入っていた While My Guitar Gently Weeps だ。曲の出だしのドラムとベースが好きだった。それから数年して、もう少しいいセットを買って、スピーカーは最終今は亡き伯父から譲り受けたイギリス製の大きなものへと落ち着いた。ロックには向いていないが、クラシックなどの弦の音が豊かなスピーカーだった。それらをすべて実家に残してバイクに乗って関西へやってきて、最初に使ったのは粗大ゴミの日に拾ってきたコンポだった。CDはグリスを塗って再生させた。それが壊れてから、ぼくはずっとYが持ってきたパナソニックのCDラジカセで音楽を聴いてきた。カセット部はとうに壊れて、CDもMP3を焼いたものはときどき再生してくれないことがある。

 夜10時過ぎに帰宅して、シャワーを浴びてから、発泡酒を飲みながら荷をほどいて、とりあえずパナソニックのCDラジカセと同じ場所にセッティングした。iPODをつなげて、聴いてみたのはポール・マッカートニー&ウィングスの名作 Band On The Run とジュリエット・グレコのベスト盤。それとCDで、リヒャルト・シュトラウスの交響詩「ドン・ファン」と、モーツァルトのフルート協奏曲。ヤマハやその他の同じようなミニ・コンポによくある低音ぎんぎんのタイプは好きじゃない。このK-521を選んだのは中高音域が優れているという点だった。で、実際に聴いてみて、とてもいいです。2万円でこのサウンドは出来すぎじゃないか。弦の音も伸びやかで期待を裏切らないし、じっくりとしたボーカルも良い。音楽が野球と女の子と同価値だったあの頃のわくわくとした感覚をひさしぶりに思い出した。

2012.9.6

 

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 子の5年生からの担任のT先生がじつはひそかに(?)結婚していて、相手は韓国の人で、そのうえ妊娠がはっきりしたのが夏休みに入る直前。年末までは何とか・・・ と言っていたのだけれど、夏休みが終わって二学期が始まってもT先生はなかなか学校に現われず、代わりの先生たちが入れ替わりに子のクラスの授業をしに来、教頭先生が馴れぬ算数を教えたりしていた。昨日。前の日に排便がうまく出ずに下剤を飲んだために用心のため学校を一日休んだその日に、T先生がひさしぶりに学校にやってきた。悲しいニュースを持って。旦那さんの転勤が急に決まって韓国へ引越しをすることになった。学校に来れるのは明日の一日が最後で、次の日にもう引越しだという。その最後の今日は一日、先生のお別れ会で、授業が終わってからも生徒たちは教室に残って先生と最後の時を過し、クラスの誰かが家から持ってきたデジタル・カメラで最後の集合写真を撮って、それをまた別の子が学校の近くの写真屋へ持ち込んでクラスの人数分を急いで現像してもらい、一人一人に配って先生に一言づつ書いてもらった。この数ヶ月間、子をはじめとするクラスの子どもたちとっては驚きの連続だったことだろう。わたしが帰宅すると、子は腑抜けた顔で勉強のテーブルにすわっていた。「それも人生だ。別れがあるから、出会いもある」 父がニセモノ老賢者のような台詞をかけると、「お父さんもお母さんも、そんなことしか言わないんだから」と言い捨てて、じぶんの部屋へ寝に上がってしまった。

 その父は数日前から“とある新店のオープン”の只中で、毎朝早くから臨戦交通隊本部のテントの下へもぐりに行く。

2012.9.12

 

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 モリスンの I've been workin' so hard のような日々が終わり、二週間ぶりの休日。朝からYと買い物をして、家でご飯を食べて、歯医者へ行き、モルタルにバラスを混ぜて小屋の土台のブロックを穴埋めしていたら、デッキの上に茶渋のような色の一匹のカマキリを見つけた。皮膜がじわと溶け出してこちらとあちらがあべこべになった気がした。鮮やかな緑は抜け落ち、性慾も食慾もはやうせて、最早執着の欠片もない。老残のカマキリ、おまへは何処へ行こうというのか。

 毎日の新聞を見れば、まるで戦争前夜の如しだ。鄭州の大学で臨時講師をしているD君にはじめて「国家も国境もなかった時代がなつかしいな」とメールを送ってみたが気が晴れない。

 

 朝、玄関前のレンガの目地を補修していたら向かいのYさんが封筒を持ってきた。敬老の日に図書館のあるホールで郡山中学の吹奏楽の演奏を聞いて感激したので手紙を書いた。それで図書館で働いているYからホールの事務所へ渡してくれるよう頼んでいたという。買い物のついでにYの希望で直接中学校へ寄って、Yが手紙をもっていった。わたしは車のそばからグランドで女子のクラスがソフトボールをやっているのを眺めていた。Yはわざわざ校長室へ通されて歓待されたという。Yさんの手紙は“校長室便り”に載ることになった。帰ってそれを家の前で水を撒いていたYさんに伝えると、珍しく少々涙声になって「ありがとう、ありがとう」と歓んでいた。中学校へ持っていく前にこっそり覗いた手紙には、「わたしは90歳の母親を看病しています。今日、みなさんの演奏する“花”という歌を聴いて、とても感激しました。この“花”という歌を歌いながらこれからも頑張っていこうと思いました。70歳の主婦より」 そんな内容が書いてあった。あとでYさんに確認したところ、この“花”は喜納昌吉&チャンプルーズの曲のことであった。

2012.9.19

 

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 午前、脳外の診察。整形外科、泌尿器科の見解をもとに、脳外のM先生が最終判断。中学受験を終えた2月頃に、三度目の脊髄の手術をする運びとなった。

 

欠席・遅刻のお願い

9月4日 泌尿器検査のため欠席
9月20日 国立大阪病院 脳神経外科受診のため遅刻

昨年、夏に脳外で撮りましたMRで脊髄係留が見られ、手術うんぬんの話になりました。
脳外の手術はMRをもとに、整形、泌尿器の様子から判断されます。
確かに歩く形も以前より悪くなっていると思っていたのですが、整形の先生の話では足を手術してから1年なので、筋肉がまだ完全に回復していないということも考えられ、脊髄係留によるものなのかどうかを判断するのは難しいということでした。
泌尿器の検査ではこれまでと変わりないということでしたので、とりあえず、手術は見送ることなりました。

今夏も昨年同様、脳外でMRを撮り、整形を受診したところ、先生の見立ては術後2年が経過し、手術前に動いていた筋が動かないということは麻痺が進んでいると考えられる。脊髄係留からきていると思われるとのことでした。

手術となると脊髄から出ている神経に絡んでいる脂肪を削いでいく手術なので、一つ間違えばその神経に関する箇所が全く動かなくなるということもあり、かなりリスクが高い手術となります。
手術をしてくれるのは脳外の先生なのですが、昨年はそういった理由も含め、様子を見るということで手術を見送ったのですが、今年は整形的なことから、ひとつでも症例が見られるなら手術を考える時期だとおっしゃっておられます。

9月4日の泌尿器の検査結果をもって、20日に脳外の先生と話をすることになっています。多分、泌尿器の結果がどうあれ、手術という話になるのではないかと予測しています。
20日の結果が分かりしだい、ご連絡させていただきます。


最後になりましたが、先生、おなかの赤ちゃんのためにもご無理なさらず、くれぐれもお身体大切になさってください。
今学期もどうぞよろしくお願い致します。

    ○○紫乃母より

 

 

O先生へ

お世話になっております。
すでに紫乃からお聞きかと思いますが、本日、病院に行きましたところ、2月頃に手術ということになりました。
期間は約一カ月とのこと。
詳しい日取りは12月6日の受診日に決定します。

紫乃は二分脊椎という病気があります。
脊髄に脂肪の塊があり、その脂肪のある個所とそれより下位の神経系すべてに影響が表れるというもので、紫乃は下肢(膝から下)の麻痺と膀胱直腸障害があります。

膀胱直腸障害により排泄が困難となるため、排尿の場合はカテーテルと呼ばれる管を排尿時に使用します。膀胱に尿が溜まった感覚も鈍いため、時間を決めトイレに行きます。
紫乃の場合は3時間ごとに行っています。
排便は浣腸をし、摘便をしています。

昨日はお腹が痛いと紫乃が言い、お世話をおかけ致しました。
普通なら、トイレに行ってすむような腹痛も紫乃の場合は摘便をしなければなりませんので、そんな場合、先生からお電話をいただき、私が迎えに行ったりしています。

本日、病院の後、紫乃を学校に送った際、保健の先生と少しお話をさせていただきました。
修学旅行でこのようなことがないとも限らず、看護師さんが付いて下さるとのことですが
こういうことが起こった場合、看護師さんに摘便をして頂けるのかどうか。
そのへんを看護師さんにお尋ねしたく、お話をさせて頂けないものかと思います。

ご無理お願い致し、申し訳ございません。
修学旅行のみならず、日常におきましても人一倍、お世話おかけ致すことと思います。
本来、ご挨拶にお伺いするべきところ、お手紙にて失礼致します。

卒業までどうぞよろしくお願い致します。

12/09/20 ○○紫乃母より

2012.9.20

 

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 子の12歳の誕生日は本人のリクエストにより近所のショッピング・センター内のイタリアン・レストランにて。店のハッピーバースデー特典で保険証を見せてデザートのおまけ付。プレゼントは父が今日、仕事の合間を抜けて慌てて某玩具店で買ってきたDSのソフト、「えいごで旅する リトル・チャロ」。これなら母の許容範囲、というわけで。

 それにしても12年。カマキリならわたしはとっくの昔に茶渋色に染まって脱色の旅に出ているところだ。

 12年経っても、まだ渡しきれない。

2012.9.21

 

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 夕方、Yと学校へ修学旅行(広島・宮島)の打ち合わせに行く。旅行会社で手配してくれるという看護士の方に、(もしお腹が痛くなったときに)子の摘便を頼めるかどうか。もしできるのであれば、事前にその看護士の方とすり合わせがしたい旨を伝える。旅行会社の担当者は確認をして折り返してくれるとのこと。できないとなれば、Yが付き添いで行かなければならないだろう。

 その後ではじめてお会いする新しい担任のO先生と職員室奥の部屋で30分ほど話をする。主に子の病気に関すること。子から「先生は右手があまり動かない。ちょっとびっこをひいている」と聞いていたので、旅行会社とのすり合わせのときにすぐに分かった。あとで話を伺うと、10年前の20代のときに脳内出血で右半身が麻痺し、リハビリを経てここまで回復したとの由。「シノちゃんより、歩くのが遅いんですよ」と笑っていた。聡明で、明るい雰囲気の女性。Yと「こんな病気でも頑張って教師をしている先生が子の担任になったことは奇遇だし、子にも良い体験になるんじゃないか」と話した。

 昼はひとりだったので、西友で買ってきた200円のかつおのたたきにしょうがと茗荷を和えて金沢の醤油屋で買ってきた魚醤とみりんで漬け、かいわれを混ぜてのこりご飯に乗せて食べた。夜はおなじ金沢産の塩麹をつかった鶏肉のソテーとハッシュドポテト、それに茗荷と紫蘇と共に魚醤で漬けたきゅうり、キャベツの浅漬けを添えたワン・プレート。とくに塩麹は余計な調味料を使わない素材の引き立て役。ソテーとハッシュドポテトは塩麹の他は少量のオリーブ・オイルだけで充分においしい。

 

 “中学お受験”のために毎日の勉強に疲弊気味の子の本日の一言――――「魔法界の勉強だったら、わたしほんとうに頑張れるのに」

2012.9.24

 

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 体制の立て直しや欠員等でいま、大阪の某SC現場へ通っている。いざという時はじぶんも制服を着て契約人数に入れるよう、現場の隊員さんたちから実際の業務を一から教えてもらっている。ひさしぶりの現場は愉しい。事務所でPCとにらめっこして契約書や単価表をいじくっているよりも、わたしはこっちの方が好きだ。午後から翌朝までの時間帯に2連続で入り、合間は自宅へ帰るには短過ぎるので、駅前から無料送迎バスの出ているスーパー銭湯へ行って、朝から爺さんたちと露天風呂に浸かり、婆さんたちと休憩所に寝ころんで昼寝を貪った。700円でちょっとした小旅行気分・・・  2泊3日を過して今朝、帰ってきた。

 二日目に教えてもらったKさんは、二年間日本で働いて、半年を主にアジアを旅して回るというパターンをきっちり繰り返している人だ。はじめてゆっくりと話をする機会を得た。最後の全共闘世代の生まれ。若い頃に二度、本人いわく「ビートルズとヒッピーの影響で」インドやネパールなどを旅して、その後結婚をして子どもができて30数年間ずっと我慢してきたが、子どもが手を離れて仕送りも必要なくなったときにもうどうにも我慢ができなくなって奥さんと離婚、じぶんはみずからの両親の家に同居して、警備会社に職を得、前述したようなパターンを送るようになった。「結局ね、幸せな家庭を築くということがじぶんには出来なかったんだな。旅をする人間っていうのは、満たされない人間ということですよ。」 来年あたり、また旅の季節がくる。こんどはミャンマーから不法ルートでチベットへ入る計画を練っているが、もしものときのために遺言を書いておくつもりだという。

 中国の鄭州の大学で臨時講師をしているD君からメールの返信から来た。元気そうで、ちょっと安心した。

 お久しぶりです。メールありがとうございます。今週末から国慶節(建国記念日)の連休が始まるということもあり、一先ずは(一応と言った方が適切かもしれません)平穏を取り戻した感じがします。来月の中旬は「一八大」(第18回党大会)があり、指導者層が変わります。反日運動(とはいっても殆どは官製デモなのですが)もこの頃を一つの目安に沈静化するというのが大方の見解ですね。
 こちらは平穏無事でボチボチやっているのでご安心ください。交通の皆様や、営業所の皆様にもよろしくお伝えください。また何かありましたらご連絡ください。日本からのメールは、数少ない楽しみなので。

 明日は子の小学校最後の運動会で、いまYは車で実家の両親を迎えに行っている。関東のわたしの母親は夕方に電車で奈良へ着く。数日、ジジババたちのゲストハウスとなる。

 三日ぶりに帰ってきたら書斎のテーブルの上に、アマゾンの包みに入ったディランの新作「Tempest」が置いてあった。いまそれを聴いている。茶渋色のカマキリも、まだ行くところがあるかも知れない。

2012.9.28

 

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 小学校さいごの運動会。かけっこ、綱引き、組み立て体操。騎馬戦ははしで観戦。その他準備係を手伝った。かけっこは各自が三色の内輪を選んで立ち、先生があげた旗の色以外の色はカラーコーンの地点まで戻ってから走り出さなくてはならないというもの。前年よりさらに遅くなったような気がする。ゴールまでみんなが拍手を続けてくれた。本人にどうだった?と訊けば、途中の「最後まで諦めずに頑張りましょう」の放送に「うるさいわい」と思った、と。思えば彼女は小学校での6年間をずっと、だれも競争相手のいないグランドを孤独に走り続けていたのだなと思う。走りながら他人には説明の出来ないたくさんのことを思い、考え続けてきたのだろう。

 前日から宿泊しているYの両親、わたしの母親のいわゆるジジババ・チームが揃って家の中は盛り上がる。夕食を食べに出かけ、翌朝のパンを大量に買いつけ、隣家の娘さんに頼んでいたケーキで改めて子の誕生日を祝い、夜は茨城の震災の話から、それぞれ両家のお墓の話になった。あるいはどんな葬り方をしてほしいかとか。

 明けて今日は台風が来襲。庭のジューンベリーの枝がしなり、ガーデンゲートわきのマリーゴールドが倒れるのを眺めながら、家の中ではオセロをしたり、お饅頭をたべたり、昼寝をしたり、アイロンがけをしたり。もうじき夕食を済ませてから、子はチケットを買っていた「古事記1300年紀 古事記音絵巻 〜はじまりの日本 東儀秀樹 音語り(おとがたり)〜」をひとりで見に行く(<第1部>天理大学雅楽部 featuring Hideki Togi  <第2部>『古事記』1300年紀 東儀秀樹がヤマトタケルを綴る(語り:三田和代))。わたしも当日券を買ってと思ったが、学生千円に対して一般は4500円もするため諦めた。同じ頃同じホールで、Yは中学受験の説明会。

※前述の「古事記1300年紀」。子と同じ空間を共有したくて結局、愚かな父は大枚4500円を投じて子と少し離れた指定席に座った(“ばあちゃん”が半分出してくれた)。台風の影響のため1時間遅れで開演。幕があがると暗闇から映し出された宮中を思わせる舞台と宮廷楽師たち(天理大学雅楽部)の演出は鮮やか。後半のヤマトタケルの“音語り”はそのストーリー、そして東儀秀樹の篳篥(ひちりき)等、通俗的なきらいはあったものお、若手ダンサーを配したコラボと舞台アレンジはなかなか秀逸で引き込まれた。子は途中から身を乗り出していて、よい刺激を受けたのではないか。いわく「今夜のことはすべて日記に仔細に書く価値がある」と。台風のためか客席は8割ほどの埋まりだが、殆どは年配層か東儀秀樹の追っかけとおぼしきおばちゃまたちで子どもの姿は皆無に近い。一方、Yが行った隣の小ホ−ルの塾の入試説明会もほぼ同じ頃に終わって、そちらからは母親に連れられた子どもたちがぞろぞろと出てきた。Yいわく、入場時に人数と名前を書かされたが、前の人たちがみんな親プラス子ども1名、2名の記載が多くて、一人の名前を書くのが恥ずかしくてつい受付の塾の先生に「すみません。今日は(子は)隣で“古事記”の講演を聞きに行ってまして・・・」と言い訳をすると、「それは素晴らしいです」と言われたとか。そんな入試対策の説明会に参加するより、あの舞台を見た方が確実に子のためには良かったと断言できるよ。

2012.9.30

 

*

 

 つかさんから The Top 20 Songs Of The Band というサイトの記事を紹介されて、わたしも何やら選んでみたくなった。ここ数日、休日の空いた時間に、また通勤途中の電車内で、あらためてアルバムを聴き直しては彫琢していったのだが、そう簡単な作業ではなかった。第一にわたしはかつて20代の頃、リチャード・マニュエルのボーカル曲をすべて90分のカセット・テープに集めて“リチャード・テープ”と勝手に呼んだそのテープばかりを聴いていた時期があった。たとえ電話帳を歌っていてもリチャード・マニュエルの声が流れていればそれどいいという、リチャードはわたしにとって The Band の魂の部位であったのだ。だから The Band で好きな曲は? と思い浮かべてみたら極端な話、すべてリチャード・マニュエルがボーカルをとった曲になってしまう。だからと言って、ではリック・ダンコやリボン・ヘルムのボーカルはいらないのかと言われれば、もちろんこの二人のボーカルも大好きだし、あるいは三人の声がときに切なく、ときにどったんばったんと絡み合う瞬間こそがじつは The Band の醍醐味なのであって、その時点でこのような20曲を選定するなぞといった粗暴な作業はすでに破綻している。だから最後は、もう何も考えずに、頭ではなく心にいちばん近しい曲をぱっぱとつかんでは皿の上に並べてみた。わたしの心の中にいまでも魔法の風を吹かせてくれる曲たちを。

 

Ain't No More Cane

Bessie Smith

Tears of Rage

The Weight

Long Black Veil

Lonesome Suzie

I Shall Be Released

The Night They Drove Old Dixie Down

Up On Cripple Creek

Rockin' Chair

The Unfaithful Servant

King Harvest [Has Surely Come]

All La Glory

4% Pantomime

The Moon Struck One

Share Your Love

Hobo Jungle

Acadian Driftwood

It Makes No Difference

Christmas Must Be Tonight

 

 To Kingdom Come や We Can Talk、あるいは In a Station はどうしたと言われれば、どれも光り輝くサウンドなのだけれどこの場合、わたしの中では「Music from Big Pink」という輪の中で輝いているパーツとして重要なのであって、いわく分かち難い。逆に、なんだ「Stage Fright」からは地味な All La Glory 一曲のみか言われれば、The Shape I'm In も Daniel & The Sacred Harp も The Rumor も好きな曲は結構あるし、全体的に手作り風のほんわかした雰囲気がこのアルバムの魅力のひとつだと思うのだが、曲単位で考えるとはじめて「Stage Fright」のLPをレコード屋で買ってきたときから偏愛している All La Glory が残ってしまう。リボン・ヘルムという陽気なヤンキーのシャウト・マンが歌っているとは思えない意外に内省的な側面がまたこの曲の隠れた立ち位置である。同じように最後の穴埋め的アルバム「Islands」に収録された Christmas Must Be Tonight も、The Band の歴史から鑑みればあたりさわりのないといえばあたりさわりのない曲のひとつかも知れないが、わたしは昔からこの曲を聴くたびに感じるものが多々あった。いわばベートーヴェンやモーツァルトの壮大なシンフォニーのプログラムの間にぽつりとはさまれたフォレの小曲の安らぎのようなものである。っていろいろ言い訳を並べたけれど、結局はわたしの好みが前面に出ているんだろうな。ここに入れたくても洩れてしまった曲はそれこそたくさんあって、(たとえば Georgia On My Mind、Rags And Bones、Mystery Train、The Great Pretender、The River Hymn、The Shape I'm In、When You Awake 、Rag Mama Rag、Chest Fever、Katie's Been Gone、Don't Do It、Look Out, Cleveland ・・・・ ) 上に選んだ20曲だけを毎日聴き続けても、わたしはきっと退屈してしまうだろうと思う。

2012.10.2

 

*

 

 塾帰りの子を連れて、夜の石上神宮を訪ねる。灯篭だけが点った千数百年の禁足地「布留(ふる)の森」を囲む暗闇に佇み、布留御魂の話をする。「魂振(たまふり)」とは魂を外から揺すって魂に活力を与えることである。子は鶏舎の暗がりにうずくまっている烏骨鶏にこだわった。

「夜の神社はお父さん、雰囲気があって好きだなあ」

「いつもならお前は塾から帰って、お母さんが用意したご飯を食べて、その後宿題や復習をして、お風呂に入って寝る。今日もそうなるところだったのを、お父さんが断ち切ったわけだ。祭りというのはこういうふうに毎日の繰り返しを断ち切って、何かいつもと違うことが起こりそうな期待や予兆のことで、物を創造する人間はじぶんでこうして断ち切る方法を知っておかなくちゃいけない」

 べつに酔っ払っていたわけではないんだが。

 

 帰りに十八番の「横手」で塩ラーメンを食べて帰ってくる。

2012.10.3

 

*

 

 ユーチューブで見つけたピート・シーガーの歌う What did you learn in school today を子に日本語訳とつきあわせで見せてやる。「いいねえ〜」とニンマリ。

今日学校の勉強で
何を習ってきたのかな
今日学校の勉強で
何を習ってきたのかな

ワシントンは決して嘘はつかなかったって
兵隊さんはめったに死なないって
人は誰でも自由なんだって
先生が教えてくれたんだ
今日学校で習ってきたのはそんなこと
学校で習ってきたのはそんなこと

今日学校の勉強で
何を習ってきたのかな
今日学校の勉強で
何を習ってきたのかな

警察官はみんなの友達だって
正義が負けることは絶対ないって
人殺しは刑を受けて死ぬんだって
たまに間違うこともあるけどね
今日学校で習ってきたのはそんなこと
学校で習ってきたのはそんなこと

今日学校の勉強で
何を習ってきたのかな
今日学校の勉強で
何を習ってきたのかな

戦争はそんなに悪いものじゃないって
偉大な戦争をやってきたんだって
ドイツやフランスで戦争したって
チャンスがあればまたいつかって
今日学校で習ってきたのはそんなこと
学校で習ってきたのはそんなこと

今日学校の勉強で
何を習ってきたのかな
今日学校の勉強で
何を習ってきたのかな

我が政府は強いにきまってるって
いつも正しくて間違うわけがないって
リーダーはみんな最高の人って
だから何度も何度も選ぶんだって
今日学校で習ってきたのはそんなこと
学校で習ってきたのはそんなこと

http://www.youtube.com/watch?v=VucczIg98Gw&feature=player_embedded

 

 風呂上りに子がわたしの本棚から手塚治劇場なる図録を出してきて、そこから「火の鳥」の話になり、やはりユーチューブで「ヤマト編」の動画をしばらく二人で見る。「火の鳥は永遠の具象。永遠から見た、有限の生である人間の生き様がこの作品のテーマ」と。

 

 夜勤明けの朝帰り。夕食に三種のキノコ(しめじ・舞茸・エリンギ)のスープをつくる。粉チーズをふったらこれが意外と合う。

2012.10.4

 

*

 

 子の学校に奈良在住でかつて広島で被爆体験をしたというおじいさんが6年生全員に話をしに今日、来られたという。5歳の時、爆風で家が吹き飛ばされて逃げる際に、母親がこれを着ていけといちばん上等でふだんは滅多に着れないウサギの毛のコートを渡されて、「ほんとうにこれ、着てもいいの?」と嬉しかったという話が印象的だった。子はこまかい部分までよく覚えている。おじいさんは「こんな戦争の話より、ほんとうはもみじ饅頭のことを話したいんだ」と言っていたが、最後にしっかりもみじ饅頭の話もして、どこの店がおいしいかも教えてくれたとか。

 ネット古書で子に、手塚治「火の鳥」全13冊(文庫版)2500円を見つけてやる。風呂上りにわたしの書斎でひそひそ声の密談。「たまにはおまえ、じぶんで出すか?」 「うん。わたし通帳にあるから。通帳があるところも知ってる」 「でもパスワードを知らないだろう?」 「それはお母さんしか知らない」 「やっぱり、お母さんかあ・・・」 「う〜ん・・・ まあ、とりあえず出しておいてよ」 で、とりあえずクリック。

 今日はひさしぶりに大阪の本部へ出社。午後から伊丹へ出かけたので、お昼は早めに大阪第三ビル地階の王将で餃子定食。

2012.10.5

 

*

 

 休日。Yと子の意見を訊きながら、庭の小屋のラフなスケッチを描いてみた。屋根は片流れで、裏手に雨どいをつける予定。壁は以前に書いたがセンプラムというスペインの漆喰を使う予定で、色は山吹色。扉や窓の枠はダーク・ブラウン。全体のイメージの狙いは“フランスの田舎にあるような小屋”である(フランスの田舎って行ったことないけどさ)。ロフト部分の丸窓は、子が手を伸ばしてジューンベリーの実を摘めるようにということで木製の開閉式を考えている。東側の上部分は明かり取り用の固定窓で、下部分は風を入れるための開閉式。

 淹れたてのコーヒーを片手にしばらく黙って庭を眺めていたら、「庭があるのっていいよね」と流しで洗い物をしていたYが声をかけてきた。ガーデン・ゲートと垣根の間に蜘蛛が巣を張ってじっと獲物を待ち構えている。黄色の蝶がひらひらと漂い、蜂がマリーゴールドの蜜を吸っている。小さな羽虫のグループが日溜りの中を旋回している。そんなものを眺めながら、じぶんが死にゆくときはこれらすべてがあとに残る命としてどれも隔てなくいとおしく思うのだろうと、そんなことを考えていた。ディランの新作はむかしのミンストレル・ショーのようなカントリー・シャッフルの曲ではじまる。そこから過去へもどっていって、“鳴り響くあのデューケインの汽笛”をひっさげてまたもどってくる。それは人生の始まりから終わりまでのもろもろを貫いて響き渡りながら疾走する汽車のようにも思える。

 壁面パネルの骨組みを取り付けるときのために、ウッドデッキに見えない根太の寸法を墨つけしておく。子は午前中一時間半ほど塾の自主参加の授業で、お昼を食べてまた午後から夜7時まで塾。Yは今日は遅番で、午後から夜9時まで図書館で勤務。墨つけを終えてから、ジップを車に乗せて買い物。百円均一の店で鉛筆削りと消しゴム。ヒヨコ豆とオリーブの缶詰。それから九条公園でジップを散歩させる。帰ってきてから夕飯の支度。今日はトマト缶のカチャトーラでもしようかと。

2012.10.7

 

*

 

 夜勤明けの朝帰り。。途中の京橋駅のホームの立ち食い蕎麦屋で朝定食300円(掛蕎麦・ご飯・生卵・昆布)を食べて帰ってくる。ニック・ロウのベスト盤を聴きながら。

 昼に塾の模試を終えた子が解き放たれて帰ってくる。手塚治「火の鳥」全13冊(文庫版)が届いているのを見つけて貪るように読み始める。

 3時頃。車に子とジップを乗せてひさしぶりに矢田山の子どもの森へ行く。山道の散策路を上ったり下ったり、広い芝生の斜面でフリスビーに興じたり。

 アマゾンで買い物。ハンディライト(仕事用・GENTOS閃 SG-325)1790円。引っぱり防止胴輪(premier イージーウォークハーネス Mレッド)2200円。

 夕方。子がリビングで勉強をしていると庭から入ってきた隣家のOさんが畑のじゃがいもを置いていってくれる。「ありがとうございます」と子がお礼を言っているのが聞こえる。

 夜。「帰ってから中華丼をつくるよ」と言って仕事へ言ったYを待ちきれずに、じぶんでレシピを調べ中華丼をつくってみる。うずら卵が欲しかった。BGMはトニー・ライスの Church Street Blues。ライアム・クランシーも歌っている Streets Of London、ディラン作の One More Night、ジミー・ロジャースのトリビュートでアリソン・クラウスが魅惑的なボーカルを聞かせてくれた Any Old Time、ディランのアコースティック・アルバム「Good As I Been To You」を彷彿させるHouse Carpenter、トム・パクストンの叙情味溢れる名作 Last Thing On My Mind など、選曲がよい。

2012.10.8

 

*

 

 Yが学校で、旅行会社が手配してくれた子の修学旅行に同行する看護士さんと会って話をしてくる。20代後半の若い女性で、ふだんは学校の保健室で働いているとか。浣腸の件は対応できるとのことで、Yが実際に使っている浣腸液や紙パッドを持参して説明した。

 わたしは「西瓜糖の日々」の終章あたり、マーガレットがスカーフのはしを林檎の木に結んで首吊り自殺をした場面を風呂の中で読んだ。ライアム・クランシーの素朴な歌が沁みる。

 昨日もそうだった。玄関のゲージの中のジップの仕草をYと子がこっそりと眺めてくすくすと笑っている。わたしは、手に入れたかったものがすべてここにある、と思っている。でもそれも、いつか終わりのときがくる。すべてのものにさよならをしなくてはならないときがくる。ジョン・レノンもジョージ・ハリスンもいまはなく、リヴォンもリックもリチャードもいつのまにかいなくなってしまったように。

 そのときにうたいたいようなそんなうただけをきいていたい。

2012.10.9

 

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 ラフな小屋の骨組み図面もできて、ぼちぼち作業再開。SPF材を30本ちかく買ったら、、もうわが家の大衆車にはとても乗らない。折りしも帰ってきたホームセンターの1.5tのトラックが借りられるというので、ついでにと1820×910の合板(針葉樹の構造体合板)も15枚ほど追加して荷台に載せた。1.5tのトラックってたぶん運転するのははじめてだと思うが、ハンドルの傾きがほとんどなくて、なんだかそんなのを握って運転しているとあの三谷幸喜の名作「ラジオの時間」の渡辺謙扮する長距離トラックの運ちゃんにでもなったような気分になってきて、思わず「メアリー・ジェーン〜」と叫んでしまいそうになってくるのが不思議だ。城下町の狭い路地にトラックを突っ込んで、Yと二人で急いで庭のデッキの上に運び入れた。帰りは通り抜けが難しそうだったので、Yに後ろを見てもらってバックで出した。やれやれ。大型の建造物はこの資材の搬入だけでも大変だ。今回はまだ図面が1階部分だけしかできていなかったので、ロフトと屋根の部分の材はまだこれに入っていない。慌てて購入した合板も1階部分で使用するのは10枚くらいだが、屋根の近くは明かり取りで一部ポリカーボネイトの仕様も考えているので、アバウトで5枚を追加した。余っても中の棚や作業台など、使い道は他にもある。これからアメリカの2×4方式で、SPF材で壁の骨組みをつくり、そいつを起こして合板を貼り、防水シートを貼って、屋根をこしらえて・・・ とやっていくわけだが、搬入を終えて、遅いお昼をYと食べ終えたのがもう2時近かったので、夕方の予約していた歯医者の時間まで、今日はそれほど実際の作業時間は取れなかった。その他、ホームセンターでいくつか買い物をした。マルノコ(以前に買ったスライド・マルノコは据え置き型なので、遊撃的な安いのをひとつ ・・・とリョービのW1700――――ネットとほぼおなじ値段で作業台がおまけについていて6,900円で)、透湿防水シート2,900円、タッカー1,900円(防水シートや漆喰の下地材のラス網などを固定する大型のホチキス)、その他コースレッド(ネジ)の買い足しなど。ちなみに今日買ったSPF材と合板共に1万3千円づつで、併せて2万6千円。10万円ちかくは行った前回の土台部分の材料に比べたら格段に安い。ここまで揃ったらはやく「小屋の形」が見てみたいものだ。

 夜。塾の宿題に追われている子に「ちょっとこっちに来て息抜きしな」と書斎に誘って、ユーチューブをひとつ。ゲバラが経済交流の親善大使として日本へ来た折にみずからの希望で広島の被爆地を訊ねたときのエピソード。子はゲバラのことは以前にわたしの本棚から齧り読みしたことがあるので知っている。9分間の映像を見てから、ボリビアで殺されて、十字架のイエスのように横たわっている動画をしばらくいっしょに見た。「お前もこんど修学旅行で広島の原爆記念館に行ったら、50年前にゲバラもここに立っていたということを思い出せよ」

Che Guevara visit Hiroshima 1959年 ゲバラ来日秘話 http://www.youtube.com/watch?v=13ttgkR3gCU&feature=related

2012.10.12

 

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 小屋作業二日目。早朝からせっせと働いて、パネル3面分の骨組みを完成した。いちばん大きい南北の壁面で2200ミリ×1820ミリあるので、これを限られた作業スペースのなかであっちへ移動したり、作業のため起こしてから反対に回したりと、なんせ一人作業なのでそれだけでも大変で、3時頃にあと一枚、東側の壁面を残して今日はこのあたりで仕舞いとした(この時点で結構くたくた)。出来上がった骨組みをデッキの上に重ねて、合板や残りの材も重ねて、雨に濡れないようにブルーシートで包んだ上に、さらに(一度も使ったことのない)車のカバーを被せた。いま組んでいるSPF材は内側の構造体で、特に防水処理もしないため壁面や屋根が出来上がるまでは雨に濡れるのが困る。なるべくパーツを予め作れるだけ作っておいて、できたら一日で組んでしまい、壁は防水シートを貼り、屋根は桟の骨組みだけ渡せたらとりあえずはブルーシートでも張れるので、そこまでを一気にやってしまいたい。ここまで来ると早く壁だけでも立ち上げて雰囲気をつくりたい気もするが、しばらくは休日を利用してしこしこと下準備(パーツの製作)を行い、どこかの天気の良い連休あたりを利用したら、あとは細かい部分部分をゆっくり愉しみながらのんびりやっていくつもり。(さしあたりいま頭の中でとぐろを巻いているのは、ロフトの子のリクエストの丸窓を技術的に如何に構築するか)

 今日はこの作業をしている間、近所のだいぶ呆けてきているお婆さんの声がずっとひびき渡っていた。向かいの畑で作業をしている旦那を自宅からおとーちゃん、おとーちゃん、どこにいるのか? と何度も探しに来て、最初は「ここにいるよ」と相手をしていた旦那さんもあまりに頻繁なのでだんだんいらいらしてきて、午後にはもう家の中に引っ込んでどうやら返事をする意志も放棄してしまったらしい。すると午後からは玄関の前で当のお婆さんがおとーちゃん、おとーちゃん、聞こえているのか? 返事をしなさい。誰かが来ているようだよ。まったくもう・・・ それから網戸か何かをぴしゃ、ぴしゃっと滑らせる音が間断なく続き、それが巡回車のカセットテープのように延々と繰り返され、とうとう根負けした旦那さんが家の中から「壊れる!」と一言。「え? 誰か、なにか言った?」 「こわれる!」 「おとうちゃん、そこにいるの?」 「わしはさっきからここにいる。おまえはいったい、わしに何を言いたいんだ?」  たぶん理屈じゃなくて、何度でも何度でも求められたらおなじ答えをしてあげなくちゃいけないんだろうな。おとーちゃん、おとーちゃん。ん、ここにいるよ。おとーちゃん、おとーちゃん。ん、ここにいるよ。おとーちゃん、おとーちゃん。ん、ここにいるよ。おとーちゃん、おとーちゃん。・・・  Yがそんなふうになってしまったら、わたしはそうしてあげられるだろうか、と断末魔のようなお婆さんの声を聴きながらずっと考えていた。短気なわたしにはまず無理だ、と誰もが口をそろえて言うだろうな。言語がこわれてしまって、心もこわれかけてしまって、人はあとは何でつながり合えるのだろうか? ぬくもりだろうか? 「存ること」だけで一切を肯定できるだろうか?

 

―――以下 amazon から到着。

石井光太責任編集「ノンフィクション新世紀 ---世界を変える、現実を書く」(河出書房新社)

http://www.amazon.co.jp/gp/product/430902128X/ref=oh_details_o05_s00_i00

本山 賢司「図解 焚火料理大全」(新潮文庫) http://www.amazon.co.jp/gp/product/4101420130/ref=oh_details_o00_s01_i00

DUX鉛筆削り http://www.amazon.co.jp/gp/product/B0019TV6PO/ref=oh_details_o00_s00_i00

 

 お昼は子のリクエストでJR駅前のこなもん八のたこ焼き。わたしは小屋作業で忙しかったので、子に五千円札を握らせて自転車で買いに行かせた。たこ焼きを焼いているところをじっと見ていて、落語「代書屋」の今川焼きの場面を思い出していたそうだ。

 

 寮さんからBBCのメール。

みなさま

奈良在住の作家・寮美千子です。
9月末に、とんでもない知らせが飛びこんできました。
平城宮跡の大極殿前の45,000平米(東京ドーム1つ分)の草原を、
国交省が埋立て・舗装する工事を始めてしまったのです。
近鉄線の電車の窓から見えるあの草原、大極殿前までのほぼすべてです。
舗装は土をセメントで固めたもの。
コンクリではありませんが、草一本生えなくする土色舗装です。

工事は国交省の「国営公園の整備」の一環で、目的は次の通り
・歩きやすくなる
・奈良時代の広がりを体感してもらえる
・遺構を整備してわかりやすくする

歩くなら道をつければいいだけ。全部舗装で固める必要はありません。
広がりなら、今の草地で充分感じられます。
遺構の整備といっても、セメントで固める必要はありません。

平城宮がなくなって以来、千年間は田んぼであり、
この50年間は草地だった平城宮跡です。
豊かな生態系があり、市民の憩いの場であるばかりでなく、
湿地であったからこそ、地下水が充分にあり、埋蔵遺物が守られてきました。
木簡の文字が読めるのも、地下水に浸っていたおかげ。
その土地を舗装して環境を変えれば、何が起こるか分かりません。
1300年来の地下図書館を炎上させるも同然の愚行です。
しかも、平城宮跡の発掘はまだ3分の1しか終わっていないのです。

住民の公聴会もなく突然始まったこの工事を止めるため
急遽「平城宮跡を守る会」を立ち上げました。
http://narapress.jp/hjk/

署名活動も開始。サイトからダウンロードして郵送という方式。
1万筆集まれば国も見過ごせないとのことなので、
1人10名集めてくれる協力隊員を1000人求めています。
署名集めて送ってください!よろしく!
 http://narapress.jp/hjk/#syomei
 
 1970年代の公園整備計画を踏襲し、見直しもなく進められている工事です。
 当時の「セメントで固める=整備」という方法は古過ぎます。
 自然と歴史とが調和した、新しいスタイルの公園を発想すべきです。
ITにより、自然を傷つけずにヴァーチャル映像で歴史を示すことも
可能な時代になりました。
平城宮跡は世界遺産です。工事の中止と、整備計画の見直しを!

どうか、ご協力お願いします。
埋め立ては11月10日開始予定。来年1月には舗装を開始し、3月には完了。
一刻の猶予もありません。きょうも工事が続いています。
お知り合いの新聞雑誌テレビの方々にも、お伝え下さい!

http://ryomichico.net
mail@ryomichico.net
                 寮 美千子

2012.10.13

 

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 18時40分、帰宅途中の尼崎駅構内の書店で坂野 潤治「日本近代史」(ちくま新書)を買う。

 21時15分、伊丹の現場の鍵をポケットに入れたまま持ち帰っていたことが判明する。敷地内のプレハブ小屋で夜勤の隊員さんの寝袋などが出せないということで、車で伊丹まで夜の高速道路をドライブ。行きはディランの新作「テンペスト」を、帰りは「ショット・オブ・ラブ」を聴いて23時に帰宅する。

2012.10.15

 

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 深夜に焼酎のお湯割をすすりながらユーチューブを漁っていて、下地勇の「天(tin) 」、鳩間可奈子の「太陽ぬ子~てぃだぬふぁー~ 」をネット注文してしまった。つい先日、カーター・ファミリーのBOXセットを注文したばかりなのに、またYに叱られるだろうな。おとうさん、今月も支払いが厳しいんですよ。でもこれはわたしにとって、生きるための音楽。金では計れない。

2012.10.19

 

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 休日。朝食後のコーヒーを飲みながら庭の資材にかけたブルーシートをめくってみると、部分部分雨が漏れたらしく材が濡れてしまっていた。数年前に買ったブルーシートと車用のカバーでは、そもそも完璧な防水は期待できなかったか。デッキ部の間に端材をかまして底上げし、合板を起こして風通しを良くし、乾燥しやすくしておく。今日は快晴だからじきに乾くだろうが、防腐塗装もしていないたんなる構造体の材だから、あまり濡れるのは好ましくない。ぼちぼちと進めて行かなければならない作業であるから、この雨仕舞いがやはり最大の課題といえる。

 朝からホームセンターへ買い出しに行く。先週買ってきたホームセンターの自社ブランドの安い防水シートを返品して、アスファルトを滲み込ませたルーフィング二巻(一巻 21m×1m)に交換してもらった。値段は倍の6千円だが、ここでケチってはいけないと判断した。それからSPF材を買い足して、いまつくっている東西南北4面の壁体のさらに上に載せる、ロフト部分の北側の骨組み分をカットしてもらった。北側は1150mm。一方南側は1500mmで、片流れの屋根の南北の高低差はおよそ350mmの設定で、1505mmの長さで角度はだいたい13度ほどになる。これはピタゴラスの定理だそうだ(とっくに忘れていた)。とりあえず北側の骨組み分だけを購入したのは、四面の壁を組み立てたときに、一時的に防水シートで凌ぐ屋根部分に傾斜がないと雨が流れないで溜まってしまうから。本来北側のパーツを暫定的に南側に取り付けて片流れをつくろうという魂胆である。それから朝の雨漏れ対策として軽トラックの荷台用の防水シートを一枚。これが結構高くて5千円近くした。

 塾の自主学習へ自転車で出かける子を見送って先週の作業の続きに入る。子が(いったん)帰ってくる11時頃までに、四面のうちの最後の東側(これは家の北側からの風を通す窓部がある)の壁体の骨組みが完成した。陽が高い暖かいうちにと、それからこんどは風呂場へ移動してジップをシャワーで洗う。帰ってきた子とカップラーメン、数日前の残りの八宝菜、などで昼食。午後からの塾に遅れるという子を車で送ってから、小屋の作業を再開してロフト部の北側パーツを組み終える。急いで道具を片づけて、資材を雨仕舞いして、自転車で予約していた駅前の歯医者へ。帰りに西友で夜の食材などを買ってくる。鶏肉に塩コショウの下処理だけして、図書館の仕事を終えて帰ってきたYとすれ違うように、ジップの散歩と夕飯。帰ってソファーで30分だけ新聞を読んでから、夕飯の支度・・・

 明日は子は待望の修学旅行。一泊二日で広島へ。

2012.10.20

 

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 400ページを超える新書としては大部の坂野 潤治「日本近代史」(ちくま新書)は、幕末の1857年(安政四)から第二次大戦直前の1937年(昭和十二)までの日本の近代史を、よくある歴史的人間群像を中心に描くのではなく、生成流転を繰り返す政治や経済、社会体制といったようなシステムから説明しようとする内容だ。幕末から明治維新に至る件は面白くて一気に読んでしまったが、議会や政党が出てきた頃から少々退屈さも覚えるながら、それでももうじき読み終えようとしている。この国の直近150年をいま、こんなふうに遡ってみるのもいいかも知れない。

 終章近くの影響から、ユーチューブでこんな二二六事件の秀逸なドキュメンタリーを見つけ、深夜に終わりまで見てしまった。肉声というのはすごい。

NHK特集「交信ヲ傍受セヨ−二・二六事件秘録」(1979年) http://www.youtube.com/watch?v=z_KG_j2mXQQ&feature=plcp

2012.10.22

 

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 せっかくの休日なのに雨、で小屋の作業が出来ず。Yとツタヤへ行って映画「226」を借りてきて見た、がオールキャストを並べただけの糞のような映画だった。おれがプライドある俳優だったらこんな糞映画には出ないな。NHKのドキュメンタリーの方が十倍も面白い。

  欲求不満の代替というわけでもないが澤地 久枝「雪はよごれていた―昭和史の謎 二・二六事件最後の秘録 」(日本放送出版協会)、中田 整一「盗聴 二・二六事件 」(文春文庫) をネット古書で注文した。ついでに半藤 一利「昭和史 1926-1945 」(平凡社ライブラリー) も。

2012.10.23

 

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 仕事で東京〜埼玉を日帰り。夕刻、時間が多少あまったので水道橋から神保町へくだって早足なれど、ひさしぶりに古本屋街をひやかして歩いた。10代から20代のわたしにとって、ここは宝島だった。古本屋街をねりあるき、秋葉原にくだって石丸電機でレコードを買って帰る。もうすこし経つと、ディスク・ユニオンなどの中古屋のLP棚が加わった。ジャズやブルースなども聴くようになったからだ。友人のAが駿台の予備校に通っていた頃、わたしは御茶ノ水のクリーニング工場で働きながらアテネ・フランセの英会話教室へ通っていた。そんなときもあった。とにかくあまたの狂おしき音楽と文学たち――――立原道造の全集も、宮内勝典の「LOOK AT ME」も、ヴィソツキーの日本版LPも、三上寛の中津川フォークジャンボリーライブも、タモリの「日本歌謡史」も、コルトレーンもマイルスも、ボードレールもランボーも、仏陀もイエスも、すべてこの町で手に入れた。明治大学わきの坂道はちょっと雰囲気が変わったかな。若者向きの楽器屋が心なしか増えて、ディスク・ユニオンも立派でこぎれいなビルに変わっていた。夕闇の聖橋にしばし立ち尽くした。むかしの懐かしい友だちの顔でも見つけたら、ビールでささやかな祝杯をあげて、ラーメンでも食べて、四方山話に花を咲かせて、ぶらぶらとどこまでも歩いていきたいような気分だった。けれど東京から奈良は遠い。急いで御茶ノ水から東京駅へ戻って、新幹線の中で「品川名物貝尽くし」の駅弁を食べた。駅弁にしては珍しくナイスな味。

2012.10.25

 

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 朝のジップとの散歩。ひさしぶりに茶町の慈眼寺跡へ立ち寄るといつのまにか墓地の区画整理がすすんでいて、管理者の定かでない苔生した古い墓石は無縁仏としてすこしづつ隅の一画へ集積されていて、代わりに分譲売出し中の如きまあたらしい石材で囲まれた区画があちらに三つ四つ、こちらに三つ四つと並び始めている。移動するのは墓石だけで、すでに土くれに還ったかつての骸や骨の残骸はいまさら判別しようもないだろうから、いつかはまた判別のつかなくなった骸や骨と交じり合っていくのだろうかと考えたりした。かつて無言の人々が訪れ、祈り、花を手向けた墓も、そうやって姿を消していく。大地はまた新しい死者を迎える。墓石のたもとの雑草を夢中で食んでいるジップのリードを放して、墓地の奥の方へと分け入ってみる。いままで気がつかなかったが「筒井順慶子孫墳墓」と書かれた石碑があり、建立者は千葉と茨城に住む“植田さん”の名前になっている。北側の隣家との境には歴代の住職と思しき法師たちの無縫塔がいくつかならんでいる。いずれも元々は縁もゆかりもない出家者たちが、いまはこうして廃寺の片隅で肩を寄せ合って眠っているわけだ。わたしはむかしからこんな風に墓地―――それも寂れた墓地をひとりで経巡るのが好きだった。なぜだろうね。10代の終わり頃からそうした性癖があった。家が北関東に引っ越した時は、ときに港町のはずれの墓地で見つけた遊女の墓の前で長いこと佇んでいたものだ。人はやがて地上から去っていく。墓も長い年月の間には崩れ、剥がれ、または移されていつかは消滅していくのだけれど、その間だけは生者と死者とを取り持ち、やがて“記憶”している生者たちもいなくなって、忘れ去られた墓石だけがもとの石くれに戻ろうと悄然として立ち続けている。その風情が好きなのかもしれない。いくつか並んだ苔生した墓石の列のはしっこにちいさな、自然石のような背の低い墓石が母親の袖にしがみついた子どものように立っている。きっと幼くして死んだ子どもの墓なのだろう。そのいでたちを愛らしいと思う。200年前に死んだわたしの子どもかもしれない。

 休日。子の受験説明会と願書の受け取りにほぼ日中を費やす。Yが道がよく分からないと言うので、わたしは主に運転手役で。途中、三条通のココスでの昼食をはさんで午前一校、午後一校。どちらも国立校だが、午後に回った学校はバス停から長い坂道を登らなくてはならないからどうだろうか。授業の公開(オープン・スクール)があり、はじめに子と入った音楽教室が入口から見える見学エリアが人でぎゅうぎゅう詰めで「なんだ、こんな狭いスペースしか用意されてないのか」と思っていたら、じつは扉のうしろにいくらでも広い空間があって、たんに入口付近で立ち止まっている人ばかりのためにそんな状況が続いていた(雨の日のショッピングセンターの立体駐車場の入口みたいなものだね)。馬鹿らしくなってその人込みに割り込んでいき、そこで押しくら饅頭をしている奥様方に「奥の方はいくらでも空いていますよ。ここで立ち止まると入口がつまりますから」と大きな声で言ってやったとたん、奥様方一同は急に別の大事な用事でも思いついたかのように誰もがそそくさと別の教室へ立ち去っていったのだった。「だいたいこんな“中学お受験”を子どもにさせるような親たちとはもともとオレはソリが合わんのだ」とひとり憤慨して、音楽の授業を見学しているYと子を残してわたしはひとり外の空気を吸いに行ったのであった。ま、かく言うわたしも確実にその馬鹿親の一人であることは間違いないのだろうが、塾や受験などという部分と接触するとどうもいけない。そこに集まっている人たちと何かが決定的に合わずにいらいらすることが多い。第一に本人が中学受験を希望しているので(しかも演劇部やヴァイオリンの音楽部があるというのがその理由なわけなのだが)親としてそれを否定するつもりはないのだが、わたしがもし受験というかその結果に期待するものがあるとすれば、優秀な学校へ行って優秀な大学へ進んで・・・ といった類では無論なくて、やはりハンディを持っている身であるからそれ以外には少しでも負荷のかかることの少ない環境をできれば与えてやりたい、そしてそのマイナスに代わり得るようなプラスのきっかけをなるべくたくさん与えてやりたい、ということかも知れない。子がいちばん行きたがっている演劇部のある国立校の模試ではいつも国語はずば抜けていてそれは塾の講師たちも絶賛してくれるのだが、算数・理科が苦手のようでいつもそれ以上に足を引っぱっている。きっとわたしの血をひいているんだろうな・・・

2012.10.27

 

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 折角小屋の作業にと連休を取っていたのだが、学校の説明会は晴天で、明けて今日は一日雨続き。たちまちやる気もうせて、食材の買い物に出かけた以外は、相変わらず塾の宿題に追われている子を横目に、ソファーで新聞や二二六事件の関連書をひもときながら時折りうつらうつらと。昼は三人でお好み焼き。夜は出勤前にYが手巻き寿司をつくり置きしてくれたので、京都土産の湯葉と庭の三つ葉ですましだけこしらえた。

 桑名正博が死んだと聞いても正直、特別の感興もない。アン・ルイスももうそんな歳か、と思ったくらいだ。清志郎はまだどこかに生きているような気がするから、いまも死んだことを認めたくない。いや、そもそも死んだという認識がない。おなじようにリヴォン・ヘルムが死んだときも、リチャードやリック・ダンコが死んだときとは違って、とうとうザ・バンドの三つのボーカルがすべてこの地上から消えてしまったとは考えたくなかったから、知らぬふりをした。こういう感覚は中学生の時にニュー・アルバムを買ったばかりのレノンが殺されてしまったときから、トラウマのように連続しているのかも知れない。わたしの親父が突然に死んだのはわたしが20歳のときで、そのあくる年の夏の京都で、わたしはウォークマンでディランの Let It Be Me を聴きながら、仏教的輪廻に彩られた久遠を観想していた。あの夏の鴨川には無数の腐乱死体が漂着し、乞食坊主たちがそれぞれ弔いの鈴を鳴らし、河原者芸人たちがそれらを笑いのめしながらその日の興行を打っていたのだった。わたしにはそれらの風景が確かに見えた。

2012.10.28

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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