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 Alison Krauss にはじめて会ったのはディランの呼びかけで多彩なアーティストが集まって製作された Jimmie Rodgers のトリビュート・アルバム。これは亡き先達に対するそれぞれのアーティストの思いが溢れている好盤で、いまでもよく聴く。U2のボノ、ディラン、モリスン、アーロン・ネビル、ウィリー・ネルソン、ジョン・メロンキャンプ、ジェリー・ガルシア・・・。ポピュラー音楽とはかくも誠実に、個から個へ、尊敬とある種の矜持をたずさえて魂のバトンが受け渡されていくのだという見本のような演奏の集い。その中で、日本では馴染みの薄い Alison Krauss が場末の酒場でじぶんを捨てていった男を待ち焦がれている女の独白のようなブルージーで、しっとりとした色気のある Any Old Time を歌っている、その憂いのすべてを包み込むような、透明で、かぐわしく、どこかジョン・ウェインの西部劇映画に出てくるような凛とした気性と脆さがない交ぜになったその声に、のっけから魅了された。だいたいわたしはむかしから、女性の「声」にまず惹かれる。といって、オペラ歌手のようにストレートに美しいだけの声では駄目なのだ。そこにプラス・アルファ、つまりある種の不思議な成分を湛えた湿度とか、どこか神性さえ帯びた仄暗い奥行きとか、あるいはいっそひび割れて歪んだしゃがれ声とか、つまりH2Oとか無機塩でなく不純物を含んだ湧き水やにがりの入った有機塩がいい。それから何年も経って、ある日ユーチュブの検索で試みに Alison Krauss の名前を入力したわたしは、ひさしぶりに再会した彼女の The Lucky One という爽やかな新緑ナンバーの虜になった。AVビデオ風に言えば「年上のお姉さん 恋の手ほどき」みたいなタイトルが付くのかも知れないが、この「年上のお姉さん」というのにもわたしはむかしから滅法弱いんだな。戯れ言はさて置いて、ともかく Alison Krauss の声にわたしは、地球を慕う月のように引き寄せられる。抱きしめることはかなわずに、ぐるぐると周回をし続ける。彼女の声には特別な何かがある。加えて、デビューの時から活動を共にしている Union Station のバックの演奏が実にいい。バンジョーやマンドリン、生ギターにウッド・ベース、生ギターのスライド、それに Alison Krauss 自身も素敵なヴァイオリンを小脇に抱えて曲間に弾く。(ああ、ロック・バンドでヴァイオリンを弾く女性にもむかしからわたしは弱いのだ! ディランの「欲望」のときの Scarlet Rivera、モリスンのビデオ「イン・アイルランド」での Toni Marcus、ジョン・メロンキャンプ・バンドだった Lisa Germano----どの女性も放浪するロマのミュージシャンのような翳と神秘を湛えている) もともと Alison Krauss & Union Station はブルーグラスのバンドであり、かれらのルーツはそこにしっかりと根を下ろしている。つまり連綿と続く大地のささやかな糧だ。そんなかれらの純粋なブルーグラス時代の素朴で愛らしい小品 Heartstrings に、たとえばわたしは立ち止まり、目を閉じる。わずか3分ほどの曲の立ち姿が、空気が、わたしの五体に広がる範囲はじつに無限大だ。けして大仰でない、子がひょいと摘みあげる道端の名もない野花のような曲がわたしに、迫るのではなく、自然な仕草でみずからの拙い来し方を思い起こさせる。あるいは幼い頃に真新しいスニーカーを履いて走り出した、その最初の一歩を思い出させる。最近は元レッドツェッペリン(!)の Robert Plant と競演盤を出したり、James Taylor や John Wait とデュエットしたりと、Alison Krauss 個人のメジャー志向が目立ってきているみたいだが、元々 Union Station との十八番ナンバー Baby, now that I've found you は The Foundations (60年代イギリスの白人黒人混合グループ)のカバーだし、ユーチューブのライブ映像ではかつてジェネシスのフィル・コリンズがヒットさせた ザ・シュープリームス の You Can't Hurry Love なども歌っていて、そのあたりは Alison Krauss 自身の好みでもあるのだろう。またそれらの幅広さ故に、特に1990年代後半に入ってからの Alison Krauss & Union Station がたんなるブルーグラスというジャンルの枠を超えた、ポップで洗練されたバンドへ脱皮してきた所以もある。最近の Union Station との名義盤の中では2004年に発売された Lonely Runs Both Ways が、やはりいちばん完成度が高く、Krauss のボーカルと Union Station の演奏が絶妙にマッチした粒よりのナンバーが多い。ぜひ、おすすめ。Alison Krauss 名義でのソロ・アルバムもいくつか出しているが(1995年の Now That I've Found You: A Collection  に収録されたビートルズのカバー I Will も佳品)、Union Station との名義では1992年の Two HighwaysEvery Time You Say Goodbye が初期のアルバムのようで、このあたりはオーソドックスなブルーグラス・スタイルの演奏だと思われる。現在、前述した Heartstrings に惹かれて後者をアマゾンの直輸入・エアメール便で注文、待ち遠しくしているところ。ライブ盤のDVDを買ってしまう日もそれほど遠くないだろう。それにしても日本盤が全然発売されていないというのが、この国の洋楽市場の貧困さを如実に象徴している。ああ、生のライブを見てみたいな〜 最後に2001年に公開されたアメリカ映画「オー・ブラザー!」。この素晴らしいサウンドトラックにはかのT・ボーン・バーネット のプロデュースのもと、Alison Krauss & Union Statins の面々が全面的に参加していて、特に映画を盛り上げてヒットした「ずぶ濡れボーイズ」による Man Of Constant Sorrow はじつは Union Statins のギタリスト&バック・ボーカリストであるダン・ティミンスキのリード・ボーカルによる演奏だ。またフラットピッキング・スタイルのブルーグラス・ギターの代表とも言えるトニー・ライスの存在はユーチューブにあったAlison Krauss のインタビューで教えてもらった。これらもまた Alison Krauss & Union Station のひとつの顔である。

 

The Official Site of  Alison Krauss & Union Statins http://www.alisonkrauss.com/site.php

The Lucky One (YouTube) http://www.youtube.com/watch?v=2P7J1_hZ7iM

the Official Website of Tony Rice http://www.tonyrice.com/

2009.9.25

 

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 子のいない休日。手すさびに沖浦先生の著作紹介のページ(の準備)を作成する。Webを探しても沖浦先生の著書に関するまとまった資料というものがない。唯一ウィキペディアのページが年代別の著作リストを載せているが、これにしてもよく見ると欠けているものがある。たぶん、ことWeb上ではかく言うわたしがいちばんの「権威」であろう。であるならば、これは使命である。とりあえず今日はリストだけを並べて、今後少しづつ、内容紹介などを加えて行きたいと考えている。othersに置いておく。ちなみに数日前であったか、「近代日本の思想と社会運動」という古書を購入した。内容がいまいち分からず、以前から大久保典夫「革命的ロマン主義者の群れ 殉教と背教の美学」(三省堂新書)と二冊セット1500円也である古書店より出品されていたのはチェックしていたのだが、「「部落史」論争を読み解く」の中で沖浦先生が自身の著書に触れて「1910(明治43)年の大逆事件を中心に、天皇制国家権力による明治維新後に興隆した民衆運動の抑圧の歴史を調べて、「「近代日本の思想と社会運動」を三年かけて書いた。中心的な主題は、大石誠之助・成石平四郎・高木顕明ら六人が逮捕された熊野・新宮グループと被差別部落との関わりに設定していた。この本は市販されなかったので絶版になっているが・・・」と書いているのを読んで、慌てて注文したものだ。出版は1982年。発行所は「全国電気通信労働組合・全電通労働学校団結の家」となっているが、「市販されなかった」というのはきっと大手の出版社から出していないという意味で、ある種のグループ内での私家版的な出版だったのかも知れない。この古書店は注文後、片方の「革命的ロマン主義者の群れ 殉教と背教の美学」に鉛筆によるライン引きがあったといって値段を二冊で1150円におまけしてくれた。東京・三鷹にある水平書館という「人権問題関連古書籍専門店」で、とても親切・丁寧な対応であった。

 今日は朝10時まで寝坊し、昼に残りご飯に冷蔵庫にあったひじきをのせて生卵をかけてぐしゃぐしゃとかっこみ、午後から歯医者へ。途中で豆パン・アポロに慌しく寄り「タイ・サムイ島の香り」と題した期間限定アジア創作パン二種----タイ風焼き鳥サンド、グリーンカレーポット、それにイチジクとクリームチーズと恒例の赤ワインドーナッツを買って夕食とした。店を出て厨房の窓からアポロおっちゃん氏に「今日は一人だから、夕食に頂きますわ」と声をかければ、「なんか、体が丸いよ」。「分かってる。さんざ言われてるから。・・なんか、やらなくちゃねぇ」と自転車に乗り込む。

 連日報道されているくだんの八ツ場ダムの件で地元役場に「民意に背くのか」「非国民」といったメールが一晩に四千件も殺到して役場側がやむを得ずメール受付を停止した、という新聞記事を読む。こういう短絡的な意見というのは、最近とみに多いような気がするな。エコや無駄な公共事業を停止することも大事だけれど、政治に翻弄され続けてきた地元の人たちの苦しみもちょっとは想像してみるということができないのかな。「非国民」という発言も、それを言っている主体は何であるのかを本当に考えて言っているのか。「非国民」でもいいんじゃないの。すべての「非国民」が国を支えているというくらいが、ちょうどいいバランスじゃないのか。

2009.9.26

 

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 出発点において、われわれはまず生かされる。自分の意思に関わりなく与えられる生命。そして自殺せぬ限り、終わりを定めることもできない。ところがそれらを遊ぶこと、つまり祝祭という形で意志的にコントロールしようとする試みにおいて、人間的自由と文化の獲得がある。「遊戯とは男と女とが、生殖のメカニズムを中断して、性愛を快楽に変質させる瞬間から始まるのである」(『無の贈与』)というJ・デュヴィニョーの言葉は、いかにも本質的指摘であった。「快楽」にとどまらず、聖なるものの象徴と化すことでもよい。とにかく、生殖という日的連関性を離れ、聖なる婚姻として、あるいは至高体験の宴として性を直接目的以上の次元に高めることが、遊び=文化の可能性を開く。遊びを「幸福のオアシス」と名づけたドイツの哲学者、E・フィンクは、生の「究極日的」へ向かう人間存在の不確実性を、「遊び」のみが解消し、豊かな実存の充足を与える、と述べている。彼の論じた「遊び」は明らかに、現在いわゆる「まじめでないこと」という意味での遊びではない。

 いずれにせよ、生命の連続性を対象化して独自の意味を与えようとする試み、それは人間をこえた聖なるものと交わろうとする上昇志向であり、文化を育んだ遊びの姿であった。だからまず、生命を体現する女が自らの身体で遊び、その遊びがやがて文化として成熟してゆく一方、根源にあった生命や性を「自然」として文化と対置する動き自体が、文化的営為の一環となってゆく。男の手になる遊女文学も、男性側の女性幻想と断罪するよりは、こうした動きの一環として捉えるべきで、本書で辿ってきた文学にあらわれる遊女像の変遷も、その反映といえるのである。

 だから原動力はそもそも女、より正確には、その背後にある生命への畏怖にあり、やがてそれが科学によってよみとかれ、畏怖さるものでなくなり、人間の動物的部分として、「自然」として価値的に低められる時、性ももはや聖ではなくなる。性が聖から俗へ。そしてそれを司る女たちも天から地へ。

 いちばん高いところにも、いちばん低いところにも「女」がいる。(『魔女』)

 この言葉を最もすぐれて体現してきたのが遊女であったといえる。私は柳田国男の沈黙してきた性の力を、彼自身のすぐれた発見であった「妹の力」の源として正しく位置づけると共に、それを司ってきた遊女たちを、常に文化史の中で、他界的、非日常的な部分を担ってきた女、賎であり聖であった女-----ハレの女たち、とよびたいと思う。

佐伯順子「遊女の文化史 ハレの女たち」(中公新書)

 

 これが「遊女の文化史」の結びの言葉。わたしはこの論考に深く同意し、なおかつ女性の立場から遊女の意義、若しくは「男の手になる遊女文学」をこのように捉えた佐伯氏を好ましく感じる。遊女とはまさに「遊び手」であって、わたしたちが生命の根源につらなる遊びを失っていくその過程で、遊女もまた性の商品として貶められていった。その意味で遊女はまさに、天の岩戸の前で乳房をあらわにして歓喜の舞を躍ったアメノウズメの系譜につらなる「聖なる者」たちだといえる。遊女の転落に、わたしたちはみずからの文化の貧困を見るのだ。

2009.9.30

 

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 仮設の「○○イベント警備計画室」に毎晩遅くまでこもって、ひたすら資料作成の日々。「あ〜、お腹が減ったなあ。近くに新しいドーナツ屋ができたんですよ」と取締役のHさんの財布から供出してもらい、傘をさして堂島へドーナツを買いに行ったりとか。そんな日々の通勤電車の中で大久保典夫「革命的ロマン主義者の群れ 殉教と背教の美学」(三省堂新書)を読み継ぐ。ある種の(しかしどこか懐かしく親しげな)狂おしいパッションと、献身と、誤謬と、そして滑稽と。敗戦後に進駐軍の本部前で万歳を唱えたお間抜けな共産党員よりも、戦争協力者として断罪された保田與重郎を慈しむ。埴谷雄高のいう「自動律の不快」は背中の刺青のようなもの。

 大事に大事に忍ばせた菓子を少しづつしゃぶるように読んできた遠藤ケイ「熊を殺すと雨が降る―失われゆく山の民俗」 (ちくま文庫) を読み終えて、思わずおなじ著者の「道具術 (自然人のための本箱」 (岩波書店)「遠藤ケイの野外生活手帳」(日本放送出版協会)の共に絶版の二冊をアマゾンの古書で注文する。味わい深いイラストが添えられたこの人のいわば「手仕事への愛情」を語る文章には、他にはない実直な感触がこもっていて得がたい。全三巻の「男の民俗学」(小学館文庫)も絶版にならないうちに買うぞ。

2009.10.2

 

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 一日、雨で順延されて、昨日は子の運動会だった。土曜日は朝にはやみかけていたのだけれど、グランドの状態が悪く、7時半頃に中止のメールが回ってきて、企画書づくりが押し迫っているわたしはそのまま会社へ向かった。明けて日曜は雲ひとつない晴天で、10月なのにじりじりと灼けるような陽射しの下で、二日前の夜にYが友だちのお母さん仲間といっしょに敷いた最前列のシートの上にあぐらをかきながら、わたしは、何度かその目眩のするくらいに真っ青な空を仰ぎながら、瓦礫の下に埋もれたり、銃弾や爆弾で四肢をもがれて死んでいくどこか見知らぬ国の子どもたちのことを思い浮かべた。平和で、しずかな、広く真っ青な空間に音もなくそれはするすると、まるで御伽噺のように落ちてきて、次の瞬間に炸裂して地獄絵のような景色が出現する。そんな空想が何度か繰り返された。重い装具を両足につけた子は徒競走ではあっという間に他の子どもたちに引き離されてしまうのは毎度のことだし、帰ってから「よく頑張ったよ。去年より早かったよ」と言いながらYが涙を浮かべるのも毎年の風景。家で何度も歌いながら披露していたダンスと、あとは綱引き。昼にはあまりの暑さにYと二人で駅前のモス・バーガーへ避難してひさしぶりに恋人どうしのように昼食を食べ、午後から役員のNちゃんのお母さんに誘われて夫婦のペアで仲良く大玉ころがしに参加もした。抜けるような、ひたすら青い空。ときどき、ふいに何か大事な忘れ物を思い出したかのように、仰ぎ見る。青の深さを測ってみる。

2009.10.5

 

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 疲れが溜まってきて思考能力が落ちてきたので、思い切って一日リフレッシュ休暇とする。子を学校へ送り出してから、Yの買い物に付き合う。百均の店、ホームセンター、イトーヨーカドー、アピタなどを回って現在バリアフリー工事中のYの実家の雑貨・IH用の鍋・テーブルの折り畳み脚などを見て回る。運転をしながら現在製作中の図面に落とし込む看板設置箇所などをちらちらと探してしまう。イトーヨーカドー1Fのフードコートで昼飯を喰う。ここの讃岐うどんは結構いける。ホームセンターでは格安のマルチホビーグラインダを物色する(ネットのほうが400円安かった。何に使うのか、とりあえず差し迫った要はないのだが欲しくなってくる)。イトーヨーカドーの秋物処分催場でわたしのシャツを半値で買う(ミャンマー製)。アピタでは車に残って昼寝して待つ。夏に葉書を貰っていた父の友人の牧師氏へ、子の初聖体の写真をプリントして返事を書く。夕方、歯医者へ行く。型取りのやり直し。ソファーに寝転がって新聞を端から端まで丹念に読む。仏像の中から発見された女性の頭髪と火葬された骨の記事を子に読んで聞かせる。奈良のSCのTさんと仕事の話をする。間違い電話をかけてきた四国のSCのMさんと仕事の話をする。夜、心ばかりに、インドネシア・スマトラ沖地震緊急援助募金に今日買ったシャツと同じ二千円をカード決済で送金する。

2009.10.7

 

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夜に見た夢の結ぶ朧な鏡像が胸を騒がす奇妙な懐かしさを伴って思い出されるのは、それがじぶんの意識の奥深い場所に秘められたもろもろの夾雑物から織り成されたキメラのようなものだから、“原郷”の狂おしくも甘酸っぱい味がするのは考えてみれば至極当然のことだ。

 そろそろ肌寒い深夜の田圃道を自転車で、ルー・リードの Sweet Jane と Rock'n' Roll を聴きながら帰ってくる。おれはまだこのサウンドにノレる。ノッていける。90%を毟り取られても、まだ残りの10%が脈打っている。

 さあ、今夜お前を、どこへ連れていこうか。

2009.10.9

 

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 ストーンズの Wild Horses を聴きながら電車の窓から夜景を眺めているおれ。Paint It Black を聴きながら自転車で夜道を疾走するおれ。小便器の前で汚れたタイルを踏んづけているおれ。性器をいじくっているおれ。キャリーバッグのチャックを締めているフィリピン女の胸元を見つめているおれ。涙の谷にいるおれ。処刑台の上に立っているおれ。虚空を見つめているおれ。夢の中で泣いているおれ。マッチ棒の聖像を握り潰すおれ。皿を叩きつけるおれ。血だらけの女を殴り続けているおれ。恋人を撃ち殺すおれ。川の底に沈んでいるおれ。川の底に沈んでいるおれ。川の底に沈んでいるおれ。

2009.10.10

 

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「ふう。はあ。ひい。ふ。」
息を切らしながら、わたしはうん動場を見わたした。
 今日はうん動会。土曜日がダメだったので、日曜日にへんこうしたのだ。
 今、たいじょうしてきたところだ。もうすぐプログラム3番で3年のダンスが始まる。
 晴れわたった空には雲一つない。
 さあ、ダンスが始まった。ひたすらおどったあげく、2曲のにじにうつった。ふう。ため息一つ。ダンスは終わった。とても楽しかったし、おもしろかった。
今度は、つな引きだ。
「赤よーいしょ! 白よーいしょ!」
つな引きが始まった。わたしはもうつなを引くのはほかの人にまかせ、自分はそうぐの重い足でふんばることにした。
「赤よーいしょ! 白よーいしょ!!」
白組の声が大きくなってくる。ずいぶん気合いを入れているようだ。
「赤よーいしょ! 白よーいしょ!!」
今だ! わたしも力をこめて引っぱった。
「やった!」
はたがたおれた。
「ただ今のけっかは、赤組の勝ちです!」
二回せんも赤組が勝った。
「イエーイ!」
 おべんとうはとてもおいしかったし、午後からの「うずまきなると」も赤が勝った。うん動会のゆう勝は、赤組だった。

 

2009.10.14

 

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 もちろん何かを始めるに際して、情報を集めたり、基礎的な知識を学ぼうとする心構えや謙虚さは大切なことだ。しかし、ときに、そうした慎重さが素朴な興味や好奇心を阻害してしまうこともよくある。むしろ衝動的な、閃きに似た感性で行動を起こしたほうが、発見や新鮮な感動が得られる場合がある。知識は与えられるものではない。知識は感動がもたらすものである。そして感動は実体験の中で、より研ぎすまされることは確かだ。

遠藤ケイ「道具術」(岩波書店)

 

 

 

 でも、次の朝、はらいたがなおって元気になったじさまは、医者さまの帰った後で、こう言った。

「おまえは、山の神様の祭りを見たんだ。モチモチの木には、灯がついたんだ。おまえは、一人で、夜道を医者さまよびに行けるほど、勇気のある子どもだったんだからな。自分で自分を弱虫だなんて思うな。人間、やさしささえあれば、やらなきゃならねえことは、きっとやるもんだ。それを見て、他人がびっくらするわけよ。は、は、は。」

斎藤隆介「モチモチの木」(岩崎書店)

 

 

2009.10.15

 

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 古書で取り寄せた吉野源三郎「君たちはどう生きるか」(ポプラ社)を子に与える。

 わたしが愛読していたのは小学校高学年の頃だったか。その後ビートルズを知り、ディランを聴き、太宰に憑かれ、トーマス・マンを読むうちに、かつてグレープのLPを持っていたことを恥と見做して封印するかのようにこの本も「亡き物」にしてしまった感があるけれど、30年近くを経ていま思えば、あの夕暮れの東京下町の空の下で交わされたコペル君と叔父さんの会話はわたしにとって、ディランのアルバムで云う「The Times They Are a-Changin'」、つまりモラルの基礎としてわたしの中の根茎になっていたと思われる。コペル君が東京の町並みを眺めながらそこに暮らす無数の人々の生活を想ったこと、「あぶらげ」とからかわれていた豆腐屋の息子・浦川君との出会いが世の中のことを考えるきっかけになったこと。そうした事柄をわたしもコペル君といっしょに感じ、考え始めた。そのことがあの頃のじぶんにとって大切な養分となったのだと、いまになって素直に思えるようになって、そのおなじ本を子に与えようと思った。

http://www.poplar.co.jp/shop/shosai.php?shosekicode=80000040

2009.10.16

 

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 かおりとみゆきは四年生。生まれた時からのなかよしで、かおりがみゆきの家に、みゆきがかおりの家にとまりにいくのも少なくはない。

 まるでふた子のように、すくすくそだったなかである。

 ある日の昼休みのことだった。二人は運動じょうのすみの森でえだで地面に絵を書き、遊んでいた。二人は森をかいていた。木を書き、空を書き、地面を書き、おちばやえだまで書いた。さてつぎは動物だ。みゆきはりすとキツネとキツネリスとライオンを書いた。かおりはうさぎとクマとイヌとトラとシカとイノシシを書いた。くもと、キノコも書いた。キノコに『赤黒先生』と名をつけた。イノシシには『イノ太郎』、シカには『すらりさん』、トラには『食い気』、イヌには『ワン鼻』、クマには『どっしりやろう』、うさぎには『ぴょんぴょん』、ライオンには『ホワイト・タイガー』、キツネリスには『しっぽながぁ』、キツネには『だましや』、リスには『おっちょこちょいのくるみのすけ』とつけた。さて、森がかんせいだというとき、みゆきが言った。

「ねえ、イヌはあるのにネコがどうしていないのよ? ふこう平よ! ね、ねえ、ネコも書きましょうよ」

 かおりが言った。

「ええ、わすれてたわ。そうだ。くもの上に二ひき書きましょう。黒ネコと白ネコを」

 

2009.10.17

 

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 103ページに及ぶ奈良のイベントの提案書作成から休む間もなく某大型商業施設の計画書を本日期限ぎりぎりでやっと作り終えて、最終の宅配便で送った。あさっては新幹線に乗ってプレゼンへ。これでしばらくは落ち着けるのかな。

 そんな中、日曜は休みを取って車におにぎりと子の自転車を積み、家からほど近い県の浄化センター公園(フラワー公園)へ自転車の練習へ行ってきた。自転車の他にもドッジボールをしたり、ペットのアフリカゾウガメを見学したり。

2009.10.20

 

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天王寺の現場から本社へ行きがてらに、ちょっと難波まで歩いてみた。動物園前からかつての貧民窟・名護町を形成していた日本橋3丁目〜5丁目、そして千日前へ。目的は江戸の昔に千日前にあった刑場の記憶。といっても例の千日前デパート火災の跡地に建てられたビッグカメラ附近にはそんなカケラは微塵もない。唯一、ビッグカメラの向かいにあるカプセルホテルの裏手にいかにも古そうな墓地があり、その南側の路地に「榎龍王」なる由緒ありき古社が二本立て成人映画館の看板に見守られてひっそりと鎮座していた。下記サイトを参考にするとこの路地裏の古社が、かつて刑場と焼き場の中間に位置した「六坊」なる刑場の執行人たちの住居の横にあった「榎神社」であったことが判る。

 千日前商店街で金龍のラーメンを食べた。

大坂七墓巡り 千日墓地篇 http://atamatote.blog119.fc2.com/blog-entry-177.html

2009.10.21

 

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 寮美千子「小惑星美術館」(パロル舎 )をアマゾンで、上方郷土研究会編「上方・大阪探墓号」(創元社・昭10)をスーパー源氏の古書店で注文。

 昨日は某商業施設入札のプレゼンで千葉・幕張を日帰り行幸。子は遠足で大阪のビッグバンへ。夕方、谷町界隈で大学のスクーリングだという妹が突然、子の顔を見に来る。

 今日も仕事であれこれ。夜、旧現場同僚の館内副隊長、交通隊長・副隊長らと八木駅前キチリで秘密会合。

 明日からの土日はひさしぶりの連休。Yの実家で子と釣竿を垂らしてぼーっとしてくる。携帯電話は置いていく。

2009.10.24

 

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 土日の連休はほとんど釣三昧。Yの実家から歩いてものの1分で出る船着場で親類の家に借りたサビキ仕掛けの竿を垂らす。餌はアミエビ。初日は食べられない雑魚ばかりで、最後に30cmくらいの巨大なトラフグで終わったが、二日目は小ぶりながらグレが9匹、ハゲが1匹の収穫で、そのほとんどを子が釣り上げた。サビキというのは本来、カゴから浮き出た餌にまぎれて仕掛けの針に食いつくのだが、子が釣りあげた魚はどれもエラや目玉や背中に針が刺さっていて、これはどうも彼女いわく「ひっかけ釣り」なる漁法で出鱈目に竿を海中で振り回しているうちにたまたま通りかかった魚が引っかかってしまうものらしい。「この小さいのを一匹だけネコに・・」と言いかけた父をきっと睨み、「お父さん、わたしが釣った魚なんだからね」と宣言した彼女は台所の祖母に「これとこれとこれ、の三匹をネコ用に捌いて。おばあちゃん」と中くらいのを三匹指定して、一口サイズにカットしてもらったグレを近所の野良猫たちに配って歩くのだった。残りは人間様用に祖母が炊いてくれた。それにしてもじぶんで釣った魚の何と美味しいこと。ハゲの肝はまっさきに子が平らげてしまった。こんどはリール付きの竿を用意してアジをゲットしたいぞ。

 その他、子と将棋をしたり、実家のリフォーム計画の一端でちょっとした大工仕事を手伝ったり、昼寝をしたり。

 痛みが若干和らいできた義母はそれでもコルセットを外せない。顔の皺が一気に増えた。義母に代わってピンチヒッターの畑仕事へ裏山へ出かけていった義父は近所のおばちゃんに玉葱の植え方を何度もやりなおしさせられて長い間帰ってこなかった。

 夜おそくに帰宅したら注文していた「小惑星美術館」と「上方・大阪探墓号」が届いていた。寮さんの「小惑星美術館」を、子は布団に入って寝るまでの小一時間で読み終えてしまった。

2009.10.26

 

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 沖浦先生の「近代日本の思想と社会運動」を読み始め、大逆事件で謀殺された新宮の大石誠之助を語る冒頭から引き込まれる。(先生の細君が新宮の出身だと聞いてますます親近感を覚える) 明治からの社会主義運動史。この国でまだロウドウウンドウとかサヨクだとかが辛うじて生存していた時代の著作だが、そうした「新しい」とか「古い」とかには一切無関係の、権力を憎み、底辺の名もなき人々を愛する姿勢がやがて豊穣なる「賎民文化」への温かな視線へと連なっていくわけで、支えている屋台骨は同じだ。いわば傀儡や春駒や遊女を語るその原点がここにある。インドネシアの香具師をユーモラスに語るその同じ視線を感じながら、明治からの社会主義運動史をめくる。

2009.10.28

 

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 奈良の某イベントの契約が正式に決まって(審査委員である帝塚山大学の学長さんとかが提案書について「不足なく問題ありません」と言ったそうな)、昨夜は内祝いを兼ねていつもの回転寿司屋へ家族で食事に行った。ビールを呑んだので帰りの運転はYに任せて、後部座席で竹内まりやの歌う「砂に消えた涙」をカーステでリピートにして子といっしょに歌いながら帰ってきた。最近、帰宅の遅い日が続いていたせいか、子はいつになくハイテンションだ。歌詞は陳腐だけれど、古く懐かしいメロディがわたしのしみじみとした心持ちをいづこかへ運んでくれる。神がたとえ不在でも、たった一曲の古いメロディがとりあえずいまだけは肯定してくれるのだと知る。「わたしの行くスポーツクラブ、見てみる?」 ハンドルを握りながらYが訊いてくる。しばらく前から手足の痺れを自覚していたYに整形の医師が、神経の周りの筋肉を鍛えるためにとスポーツクラブを勧めて、平日限定のコースで通うことになったのだった。そのために数日前から近在のクラブを調べて見学に回っていた。「ああ、いいですよ。見にいきましょうか」 子の髪を撫でながらわたしは上機嫌で答える。家族三人でこのまま、もう少し夜のドライブを愉しむのも悪くはない。そうしてわたしはほろ酔い加減の頭のすみで、強大な国家権力の前ではあまりにも拙くひ弱な荒畑寒村たちが、人力車に社会主義の書籍を積んで全国を伝道行脚して回った頃のこの国の風景を思い描いている。

 金曜の夜は予定通り、沖浦先生の講演会「沖浦塾」に参加してきた。午前中はスポーツクラブで使うシューズやウェアを買うというYの買い物につきあって、フードコートでオムライスの昼食を共に食べ、それから帰宅して、自転車で予約していた駅前の歯医者へ行き、そのまま電車でひとり大阪へ向かった。講演まで時間が余っていたので天王寺で下車してから何となく、四天王寺まで歩いていって夕刻の境内をぶらついたり、極楽門の基壇に腰かけて沖浦先生の「近代日本の思想と社会運動」を読んだりしていた。ちょうど4時であったか、弘法大師の像の後ろにある墓地の管理舎のスピーカーからご詠歌のようなものが流れてきて、それがわたしを日常と非日常のはざまへ誘引する。かつてこの境内を闊歩していたろう楽所(がくそ)の楽人たち、また寺社周辺にさまざまな形で集っていたろう底辺の芸能者たちの朧な姿が、わたしのまなうらに浮かんでくる。かれらの一部がやがて西宮の傀儡(くぐつ)たちと合流して蛭子の島へ渡り、人形浄瑠璃が生まれたのだ。西の空が朱色に染まり広がっている。わたしは極楽門に立ってその西の方角を眺める。かつて四天王寺の創建当時には、この西門の近くまで難波の海が迫っていたという。門から見下ろす、海中に沈み行く巨大な夕陽が人々を西方浄土へいざなったのだった。そのとき人々が感応していたのは、難解な仏教の教義でもなく、権力のまとわりついた国家神道でもなく、「山川草木悉有仏性」と語られた原初のアニミズムの世界であり、阿弥陀仏とはじつは大地の精霊のことではなかったかと思ってみる。地蔵にかけられたよだれかけも、つるつるに磨耗したお百度石も、わたしにはすべていとおしく思える。犬を連れた老女が散歩をしている。背広姿の年配の男が弘法大師の像に熱心に手を合わせている。香具師のおっちゃんが屋台を片づけている。ダンボールを積み上げたかご車を引いていた男が公衆トイレで顔を洗っている。真っ赤に染まった土壁に枝葉の蔭が映っている。ぼんやりと、何をするでもなく、わたしはこんなところにひとり佇んでいるのが心地よい。わたし自身も足元の切り株や捨てられた割り箸や石ころのひとつで在るように、ここにすわっている。

 土曜の出勤をはさんで、本日も休日。今日は教会と幼稚園のバザーだ。Yと子は朝から教会のミサに出席して、YはそのまM教会のバザーの手伝い。子は土曜学校の友だちらとスマートボールなどのゲームを愉しんでから、ビンゴゲームの手伝いをして、また友だちとチケットを買っているお昼のパンを食べる。わたしもその「友だち」の輪に合流しようと思ったのだが、Yから「友だち同士でじぶんたちで遊ぶんだから、お父さんはいいのよ。もう3年生なんだから」とたしなめられ、結局終わり頃に迎えに行って、Yといっしょに教会で毎年恒例のカレーとブラジル風焼き鳥の昼を食べてから、子を連れて先に帰宅することになった。午後は家で子と約束していた将棋指南をして、夕食はお好み焼きの予定。

 夕陽丘から地下鉄に乗って南森町へ。天神筋商店街近くの立ち食いうどん屋で軽い夕食を済ましているときに、店内のテレビで三遊亭円楽死去の報に接した。うどんを喰いながら「笑点」の懐かしい映像を見た。沖浦先生の講演はいつものように正面、まん前の席にすわった。相変わらず話があちこちに飛んで演題の「遊女と法皇」が一向に進まないが、それも愉しい。やっぱり室津は近いうちにぜひ訪ねたいな。未亡人(未だ亡くならない人)の語源が、夫が死んだ時にその妻も無理やりに火中に投げ入れられ殉死させられるヒンディーの悪習「サティ」から来ていること(おそらく中国で漢字表記となり、明治期に日本に伝わった)。かつてのヨーロッパにおける植民地支配で、先駆けとなったスペインとポルトガルは現地で残虐の限りを尽くし、遅れて始めたイギリスとオランダはゆるやかな間接統治に徹したが、その背後には前者がカソリック、後者がプロテスタントの国であった影響もあること(それ故に徳川幕府はスペイン・ポルトガルとは交渉しなかった)。また瀬戸内の広島に近い大崎上島・下島にかつて廃墟のように残っていたおちょろ舟の遊郭の跡など、伝えきれないほどの小話があるのだが、それに加えてこうした場に参加することのメリットは、関連する情報が集まる点もある。たとえば沖浦先生と五木寛之氏が飛田と浅草で対談をした内容が、すでに歴史読本の別冊としてそれぞれ「歴史の中の聖地・悪所・被差別民謎と真相」「歴史の中の遊女・被差別民―謎と真相」として出版され、どちらも良く売れたこと。12月に大阪・茨木市で「ザビエルと隠れ切支丹」と題した沖浦先生の講演会が予定されていること。また沖浦先生と親しい前田憲二というドキュメンタリー映像の監督が最近、「月下の侵略者 文禄・慶長の役と「耳塚」」なる最新作を完成し、来年の1月にその上映会が大阪のリバティホールで開催予定であること、等々。こういうある種の情報というのは、やはりメディアでもWebでもなく、人を通じて伝わる。

 「上方・大阪探墓号」が届く。昭和10年の冊子だから「ユニオンビール」や「三越」の広告もおそろしく古臭い。かつて江戸時代に、来世の救済を求める市民の間で陰暦七月一五日の宵から夜明けにかけて、鉦(かね)などを打ち鳴らしながら寺や神社、墓を巡り諸霊供養を願った風習があり、近世大阪では「大坂二十二社巡り、大坂三十三所観音巡り」と並び、「大坂七墓巡り」があったという。この冊子はその昭和10年時点での大阪七墓をメインに調べた現状調査報告と随筆をまとめたものだが、こんな辛気臭いものを読む好事家はもうあまりいないんだろうな。人に隠れてこっそりと愉しもう。

 沖浦先生が「近代日本の思想と社会運動」で紹介している森山軍治郎「民衆蜂起と祭り―秩父事件と伝統文化」(ちくまぶっくす・1981年)をアマゾンの古書で注文する。松方デフレによる経済的困窮から埼玉県秩父郡の農民が政府に対して起こしたこの武装蜂起事件は、時の明治政府による強行政策で東京鎮台の鎮台兵投入によってわずか三日で鎮圧され全滅したが、「軍律五箇条」のような規律をもっていたこの困民党について沖浦先生は、その「すぐれた組織性や文化水準の高さは」必ずしも従来言われていた自由民権主義者たちの「上からの感化・指導」によるものではなく、「むしろ近世いらい培われてきた秩父地方における“伝統意識の継承と開花”」に求めるべきだと指摘し、この著書について「「近世後期以来の百諸一揆の伝統をタテ軸に捉え、祭りを母体とする民衆文化の組織性と精神構造をヨコ軸に捉えて」、秩父事件を支えた思想と文化の土壌を深く掘り下げていく」と評している。民衆蜂起の土壌に祭りを配した部分が興味を抱いたところ。

2009.11.1

 

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 沖浦先生の「近代日本の思想と社会運動」をもうじき読了する。明治からの民衆運動史というのか社会主義運動前史というのか、すでに現代では忘却の彼方の観さえもあるセピア色的内容であったが、頗る面白かった。この国の社会主義思想にまつわるさまざまな人間群像もさながら、特に秩父事件、そして足尾銅山事件における田中正造の晩年の思想に興味を持った。公害闘争の先駆者というスタンスではなくて、それらを通してかれが到達した「野人」の哲学のようなものに惹かれるのだ。足尾銅山事件って、たしか教科書にも載っていた記憶があるけれど、深く感動した記憶はない。それっていうのは実際に歴史の実時間の中で戦って生きた人間の生身の声が伝わるような授業での教え方ではなくて、たんなる社会的時代的記述のひとつのような触れ方しかしていないから、心の中には何にも残らないんだろうな。でも田中正造っていうのは、凄い人物だったと思うよ。もっとかれのことを知りたい。

2009.11.4

 

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 夜、Yがレンタル屋で借りてきた2005年のアメリカ映画「夢駆ける馬ドリーマー(Dreamer: Inspired by a True Story)」を家族で見る。レース中のアクシデントで骨折した競走馬を復活させる過程で、バラバラだった家族が絆を取り戻していくというストーリー。共に頑固な調教師で過去の確執を抱えた祖父と父の間に立って、父親に夢を取り戻させるために奮闘する少女(ダコタ・ファニング)が健気で、溌剌としていて愛らしい。無骨な父親役のカート・ラッセルも適役だし、かつてサム・ペキンパーの「ビリー・ザ・キッド」でディランと競演したカントリー・シンガーのクリス・クリストファーソンも孫娘に馬の魅力を伝える祖父役で枯れたいい味を出している。父親から馬主を任せられた少女が牽引役となって、ついにアメリカの由緒あるレース・ブリーダーズ・カップへの出走を果たすのだが、その最後のレースシーンでは子も母親とともに立ち上がって馬の名を連呼するほどの熱狂だった。いつか競馬場へ娘を連れて行きたいな、と父は思った。

 

 アイルランド・ミュージックの重鎮ザ・ダブリナーズのCD3枚組みBOXがアマゾンより届く。買ってしまいました。3枚組みなれど1400円、1400円で全51曲。じつに仕合せ。アイルランドでは人間国宝級扱いのこのザ・ダブリナーズだが、日本では残念ながらかれらに関する詳しいサイトはあまりないようだ。すでに廃盤となったベスト盤のライナーの一部を、当の翻訳者が紹介しているのを唯一見つけたので転載しておく。

 

 この世界的に有名なグループがロニー・ドリュー・グループという名前でスターの座への驚くべき旅を始めたのは1962年のことである。大抵の場合はダブリンのメリオン・ロウにあるオドノヒュー・パブで行なわれていたセッションでのことだったが、バーニー・マッケナとロニーはゲイト劇場の向かいにあるパティ・グルーメズ・ホテルでも定期的に歌っていた。そこにはマイケル・マクリーアモゥ、ヒルトン・エドワーズ、シリル・キューザックといった有名な役者たちが上演後にいつも集まり、アイルランド演劇の将来を語っていた。そのホテルは無くなったが、曲の数々は今も歌われている。
イングランドでの臨時雇いの仕事から帰国したルーク・ケリーが仲間となり、ジョン・シーハンとキーラン・バークを加え、ダブリナーズが結成される。最初のマネジャーに就任にしたのは民俗学者のペギー・ジョーダンだった。

 たぶん最も良く知られたダブリナーズのメンバーであるロニー・ドリューは郊外の港町ダンレアラに生まれ、様々な商売に手を染めた後、フリート・ストリートの電気店で仕事に就くことになった。道を挟んで、私の父コルム・オラクリンが印刷と出版の会社、ザ・サイン・オヴ・ザ・スリー・キャンドルズを経営していた。2人は定期的に会って、酒を飲み、語り合い、さらに、古いバラッドをたくさん歌っていた。それらのバラッドはコルムが自分の本(「Irish Street Ballads」Pan paperback)のために集めたもので、その本で初めて歌詞とメロディーが一緒に掲載されたのだ。人気があったTVのシリーズ「As Zozimus Says」で、父は街頭で自分のバラッドの楽譜を売る年老いた街角の歌手の役を演じていたのだが、ダブリナーズはそれらの曲を歌い演奏した。ロニーは妻のディードレと家族とグレイストーンズの海岸に住み、海岸の後背地での乗馬に情熱を燃やしている。

"Tadd"pole galaxy http://tadd.txt-nifty.com/blog/2008/08/index.html

 

 このロニー・ドリューは昨年、癌のために亡くなったのだが、その闘病中にU2のボノが音頭をとってチャリティ・シングル「Ballad for Ronnie Drew」を発表している。ダブリナーズの音楽というのはおそらく、アイルランドのすべてを体現しているのだろう。酔っ払いの歌があり、底辺の労働者の歌があり、田舎町での初恋の歌がある。かれらの音楽から聞こえてくるのは、そうした喜怒哀楽や人生の辛苦を超えたある種の“健康さ”だと言ったらいいだろうか。歌はアイルランドの大地に根ざし、アイルランドの大地に抱かれている。そこに全幅の信頼が成り立っている。

 

夢駆ける馬ドリーマー・オフィシャルサイト http://yumekakeru-uma.com/flashsite/index.html

It's the Dubliners http://itsthedubliners.com/

2009.11.6

 

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 正倉院展の只券を2枚、親類からもらったので、ひさしぶりに見に行こうかということになった。以前行ったのはまだ子が歩けない頃で、ベビーカーは入口で預けてくれと言われ、ものすごい人込みの中を子を抱っこして見たのだった。つまり、もう6、7年は経つのかな。土日とわたしが連休で、昼間はひどい混み様らしいから夕方に行くことにした。ちょうど夕方まで子は教会の土曜学校で、Yは図書館のリ・ブックフェアの事前準備のボランティアだから都合がよい。車は駐車場所が不安だったので電車で行くことにした。子を土曜学校へ送ったその足で、わたしは図書館で時間を潰した。井上幸治「秩父事件 自由民権期の農民蜂起」(中公新書)と小松裕「田中正造 21世紀への思想人」(筑摩書房)を借りて、書架のすみの椅子に座って赤線地帯や風俗関連のレポートなどを読んだ。例の沖浦先生と五木寛之の飛田新地での対談を収録した「歴史の中の遊女・被差別民―謎と真相」もあったのでさっと読み流したが、やはりこれは買わなきゃな。時間が来たので子を迎えに行き、自転車を駐輪場へ預けて駅前でYと合流。西大寺経由で近鉄奈良駅へ着くとはや、かなりの人込みだ。観覧を終えたと思われる人の群れが災害時の雨水の如く階段から地下構内へ流れ落ちてくる。日の暮れ出した二条大路には千葉・石川・山梨、全国のナンバーを付けた団体バスが近未来の囚人護送車のようにライトを落として収容者の帰りを待機している。それにしても、こんなことを言ってもいいのかな。帰ってくる人の群れを眺めていると、中にはふだんはあんまり歴史なんかトンと興味のない人たちもかなり混じっているような気がする。無論、見かけで判断するというならかくいうわたしだってそうなんだけど。でもこれはある意味で、年に一回のお祭りのような気がするんだな。正倉院展は10月にハロウィンを真似て、12月にクリスマスを祝い、正月に神社の初詣へ繰り出すこの国の人々の大切な行事なんだ。だから4〜5人で連れ立ったおばちゃんたちなどは、人込をかき分け首を突っ込み「なんだホウキか」「箱だわ、箱」なぞと確認だけ済ませたら、あとはミュージアム・ショップで関連グッズのスカーフやエコバックを買い込んで満足して帰途につく。すっかり日も落ちた5時頃に入口へたどり着いて驚いた。こんな時間でもまだ45分待ちの列がならんでいる。昼間は2時間半待ちだったそうだ。大人しくラインについて、やっと展示室へ入ったらすべての展示品はすでにアフリカの軍団アリ(African army ants)に食い尽くされている。人込が大嫌いなわたしは思わず虫唾が走る。これは尋常じゃないよ。それでもせっかく来たのだからと軍団アリをかき分け、動かない列にならび、音声解説のヘッドホンをしたおっさんに肩肘食らわせられたりしながら、懸命に見て回った。子も思ったより熱心に見ていたようだ。わたしがいちばん気に入ったのは、やっぱり沈香木画箱などの木工芸品の類かな。写経も文字をひとつひとつ辿っていくと、数百年前にそれを記した人の心根に入り込んでいくような感覚が心地よい。いちばん人気だった呉女をはじめとする伎楽面や、税徴収のための戸籍文書、また一行欠いたらいくら減額、20文字見落としたらいくら減額といった役所の書写人や校正人の給与計算を記した文書などもそれなりに面白かった。けれど、刃の部分にまで華麗な文様の入った儀式用の鋤や、棕櫚の先に硝子玉を散りばめたこれも儀式用のキヨメの箒などを見ていると、儀式ではなく実際の生活の糧として本物の鋤を振りおろしていた農民や、また墓地や通りの死体を片づけるキヨメ役を課せられていた賎民たちの姿が思い浮かんでくる。やっぱりわたしはこれらの気取った「御物」などではなく、実際に山の民の男たちが使っていた手入れの届いた山刀や、川の民が竹で編んだ仕掛け漁具や、被差別の人々が門付けをしてまわった色あせた春駒の頭などの方が自然と愛着が湧く。きらびやかな螺鈿で飾った高級琵琶よりも、それらの品々の方がわたしにはずっと価値がある。そんな感想を帰りの電車の中でYに言うと、彼女は「うん。だけど当時の職人さんたちの最高の技術っていう意味もあるからね」と言う。「確かに、それもあるけどね」とわたしは答えた。華麗な品々のすべては、着飾った衣装で身を包んだ「かれら」がみずから作ったわけじゃないさ。ほんとうにそれらはすべて、名もない職人たちの技術の結晶だ。家に帰り着いたのは8時前。子はミュージアム・ショップで螺鈿文様の手鏡をひとつ買ってもらった。

第61回正倉院展 http://www.narahaku.go.jp/exhibition/2009toku/shosoin/shosoin_index.html

2009.11.7

 

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 天王寺へ立ち寄った道すがら、かねてより思慕の恋深かった石仏に逢いに阿倍野墓地を訪ねた。天王寺駅から阿倍野筋を南へ下ること5分、10分。阿倍野図書館の西側、阪神高速の高架に区切られた南側に東西約250メートル、南北約130メートルほどの市営霊園が広がっている。折りしもしとしとと小雨の振る中を、傘をさして足を踏み入れた。さて、この広い霊園の中の、いったいどこにお目当ての石仏はあるだろうか。案内図にあった「無縁堂」に目をつけた。やはり西方浄土だろうと、かぶりをふって西の端へとぼとぼと歩いていった。やがて「無縁堂」が姿を現し、その背後に、あの写真で見覚えのある二体の石仏が立っているのが遠目にも分かった。ああ、やっぱりここにいた。やっと実物に逢えた。千日前の刑場からこの阿倍野墓地へ移されたのが明治7年3月のこと。何千もの斬首になった罪人たちを、この二体の石仏は刑場の入口で迎え続けたのだった。その石仏がいま、この都市の喧騒のはずれに広がる静かな霊園のすみに余生を過すかの如くひっそりと佇んでいる。あたりにはおそらく同じように千日前の墓地から移設されてきたのだろう、無縁仏の供養碑がいくつか建っている。「千日前横井座地下無縁追福之碑」の「横井座」とは明治期にあった3階建て4千人収容の芝居小屋のことである。おそらくその地下から、無数の人骨が出土したのだろう。傘をさしたまま、わたしはそっと合掌した。それから傘をあげて、いくどもいくども二体の石仏の顔を、あれこれとアングルを変えては眺め続けた。無機物に魂なぞといったものが果たして乗り移るだろうか。得も言われぬ奇妙な心持がして、容易に立ち去り難いのだ。

2009.11.11

 

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 書く暇がなかったけれど、先の日曜日は小学校の日曜参観だった。電池式テスターを使った理科の実験ということで、子は前日に釘や山から拾って帰った炭や小銭やらをあれこれと準備して持っていった。さて肝心の授業はというと、みなが家から持ち寄った物を使って通電実験をしてから次々と手を上げて「金具はつきました」 「鉛筆はつきませんでした」 「筆箱のここのところがつきました」なぞと発表して先生がそれを黒板に書いてゆく。50分ほどの授業のうち約40分ほどをその書き込みに費やして、最後の10分で先生が「金属は電気がついて、金属じゃないものはつかない」と締めくくって見事終了。相変わらず知識の感動も喜びもないくそったれの授業だなとYにぼやきながら教室を出かけたところで落ちていた画鋲をふんずけて「いたたっ」とよろめいた。「大丈夫ですか?」と先生が駆け寄ってきて、「この画鋲、よく落ちるんだよ」とどこかの子どもが親切に拾って壁の絵に挿した。「あんなこと言うから、ばちがあたったのよ」とあとでYが笑いながら言った。しかし、ですな。家に帰って改めて子に「金属って、何だ?」と訊くと、「鉄とかアルミとか・・・ 」 あとは沈黙。「じゃ、電気って、どういうもの?」と訊くと「さあ・・、知らない」ととぼける。やっぱり、何か根本的に間違ってるんじゃないのかね、この国の教育は。とこれ以上言うと、また画鋲を踏みそうだし。

 そのあと、旧作100円期間中だというレンタル屋へ行ってDVDを3枚借りてきた。「いのちの食べ方」「アフガン零年」、そして大林監督のリメイク版「転校生」。前2枚はコ●ーして、「転校生」を家族三人で見た。映画の前半は従来とおなじような流れだが、後半からがらっと雰囲気が変わる。Yは紅葉の美しい山中をさまよう二人が旅芸人の一座にめぐり合う非現実的な場面のあたりから「なんだかな」という感じだったようだが、わたしは久しぶりに大林節を堪能できて愉しかった。映画はあくまで所詮、ひとつの空想の物語であって、けれどその空想の物語こそがわたしたちの生きているこの現実世界と薄皮一枚のところで流れており、それがまたときに人を動かす力になることを大林監督はかれのスクリーンの上に描き続けているわけだ。初代の小林聡美ちゃんは永遠の存在だけれど、この新人の女の子(蓮佛美沙子)もなかなか可愛いじゃないですか。おじさんは思わずオフィシャルサイトまで覗いてしまったぞ。

 今日は天王寺の現場から本部へ向かう途中で30分ほど、西成の商店街やその裏道を寄り道して歩いた。天王寺駅から阪神高速を超えたあたりから周囲の、何というか画面の風味がざらついた感じに変わる。人の顔つきが変わる。自動販売機は50円になる。道路の真ん中に立ってしけもくを拾っている老人がいる。外人のカップルに肩が当たって互いに微笑んだあとで、連れの男が「ああいうときはサンキューと言うんだ。アリガトーって意味だ」なぞと講釈し、言われた方はなるほどという感じで頷いている。わたしはこういう町にいると心が自然と安らぐ。商店街の横道で沖浦先生が紹介していたオーエス劇場を発見。小便臭そうないい感じの劇場だ。いつかここで市川おもちゃ劇団を見たいなと思いながら通り過ぎる。堺筋にある玉出スーパーを覗いてみる。言っちゃ悪いが「浮浪者のおじさんたちがみんな買い物カゴを下げて買い物している」ようなスーパーだ。特に惣菜が安い。ご飯のパックが70円、おにぎりふたつで100円。お弁当は200円台が主力で、いちばん高いのでも300円。いいねえ。小便を催してローソンで煙草を買う。トイレに入ろうとすると鍵がかかっている。店員に声をかけるとレジからの遠隔スイッチで鍵を開けてくれた。しかも扉の上下に二箇所のシリンダーだ。用を済ませて出ると、その二つのシリンダーの電気錠がウイーンと自動施錠される。こんな金庫室のようなトイレのあるローソンは、日本広しと言えどもここ西成にしかないのではないか。そういえば最近逮捕された市橋容疑者も、飛田新地あたりに出没していたとか。かれの犯した罪は分からないが、その後かれの置かれていた状況は案外、わたしの心根に近しいものを感じる。いまではあまり見なくなったが、人を殺してしまったという夢の中のあの独特の、逃れようのない焦燥感を二年半、かれも重石のように抱え続けて日々をやり過ごしていたのだろう。

2009.11.13

 

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 土曜。午後の歯医者の予約を済ませてから電車でひとり和歌山へ向かい、金曜の夜に先に車で実家へ行ったYと子に合流する。ICOCAが使えず、乗り継ぎの和歌山駅で現金清算をする。子は「お笑い芸人大集合」なるテレビ番組(エンタの・・?・忘れた)を見て笑い転げている。二階の布団の部屋に上がってからも、「お笑いをやります」なぞと言って真似している。

 日曜。朝から裏の蜜柑山で義父と蜜柑摘みをする。昼前に子と二人で車に乗ってでかける。国道を南下、有田川を越えて古江見の立神社を過ぎたあたりを左折して蜜柑山の農道“オレンジロード”を走る。「お父さん、あのたくさんのオレンジの花みたいのは、なに?」 「あれはみんな蜜柑だよ」 一面蜜柑畑に覆われた丘陵地に、ナウシカに出てくるような風力発電の風車が影を落としてゆっくりと回っている。紀伊水道を見下ろす眺望が素晴らしい。そのまま丘陵を下ったどんつきを左折すると、有田温泉の狭い旅館街の路地の先で身動きが取れなくなり、苦労をして車を切り返しふたたび古江見まで戻る。結局、湯浅の栖原海岸へ向かう途中の海沿いに車を停めて、南京錠のかかったフェンスを乗り越え、小さな岩場へ降りる。ひとしきり岩場をよじのぼり、持参した弁当を食べ、その後、子はしばらく貝殻や小石を拾って遊ぶ。硝子の破片を波が磨いたカケラをたくさん拾い集める。赤・青・緑・黄・白。その後、湯浅の市街へ抜けて、沖浦先生が「日本民衆文化の原郷」(文春文庫)で触れている町外れの被差別部落がたしかこのあたりだったと見当をつけてハンドルを切る。公共の銭湯のような施設があり、部落解放同盟センターのような施設があり、改良住宅なる崩れ落ちそうな古い集合住宅があり、やがて「日本民衆文化の原郷」の写真で見覚えのある古い浄土真宗の寺・最勝寺の前に出て、そこに車を停める。寺は雨戸が閉められていて、境内の「部落解放運動先駆者の碑」や突然現れた猫などを撮影する。この町には春駒の保存会があるらしいのだが、もうすこし調べてから後日に詳細を書きたい。とりあえずこんな論文→「民俗芸能を伝承するということ」(PDF) 湯浅からの帰り道に迷って吉備町あたりをうろうろし、有田川の気持ちのいい土手道を走り、Yの母校である箕島高校前を抜けて、下津港に立ち寄ってから実家へ戻る。夕食まで昼寝をしてから、深夜の10時半頃に奈良へ帰宅する。

 ヤフー・オークションで沖浦和光「島に生きる 瀬戸内海民と被差別部落の歴史」(広島県豊町)を2千円で落札する。この本は「「豊町における部落差別撤廃とあらゆる差別をなくすることをめざす条例」を制定するなど、積極的に人権尊重のまちづくりをつとめている広島県豊町(現在、呉市と合併)が、沖浦和光さんにお願いして作成したもの」(http://blog.livedoor.jp/hanaichisan/archives/51481915.html)だそうで、いわば非売品の稀少本。激戦になるかと思ったが、入札者はわたしひとりだった。

 月曜。昼休みに立ち寄った天王寺のBOOK-OFFで子に、シートン動物記の文庫「灰色熊の伝記」、椋鳩十の全集の一冊、川崎洋の「ことばの力 しゃべる・聞く・伝える 」(岩波ジュニア新書)を計400円で買う。

2009.11.16

 

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 通勤電車の中で小松裕「田中正造 21世紀への思想人」(筑摩書房)をめくりながら、田中正造のその思想を追っているのであるが、田中正造という人はじつに、宮沢賢治と双璧をなす20世紀の賢者ではなかったかという思いを強くしている。たとえばその語り口。みずからの力でものを考えると、言葉はこんな具合にひねり出されるのかと思う。そして、その視点。

 

 正造の文明観の基底にあったのは、物質文明の進展に伴って「徳」や「理想」も進歩しなければならないというものだった。それは、「電話電信以来社会ハ近クナリテ、而テ又理想狭クナレリ」や、「今や徳ハ退歩して、なすび独り汽車ニて早く遠く行けり」などの文章にみることができる。なかでも後者は、正造が、茨城県古河市の市場の「なす」が、次の日の午前中には北海道の旭川に着き、昼ご飯のおかずになると聞いて、驚いて日記に書き記した文章に続いて出て来るものである。いかにも正造らしいユーモアあふれる表現だが、つまり正造が言いたいことは、汽車などの交通手段や電信電話などの通信手段がいくら発達しても、それに伴って人間の「徳想」も進歩しなければ、真の文明とは言えないのだ、ということであろう。正造は、科学技術的な、物質的な進歩・充足(生活の豊かさ)とは異なったところに文明の到達点をおいていたのである。インドのマザー・テレサを彷彿とさせるような「食のみ足りて人ハ飢えたり。食ハ充満して餓死多シ」という、日本の物質的飽食と精神的飢餓状況を鋭くついた正造の文明批判の言葉は、こうした文脈の中で理解される必要がある。

 

 また教育制度について語られた、次のような文章はどうだろう。

 

 はまちりめん高いの、平ちりめんやすいの、之をねるとちりめんとなる。そして色ニ染めるなり。ねるとき、ねり薬りを用ると質弱くなり、一時の色ハ同じニても大切の素要を失へり。

 今の教育、父兄ハはまちりめんを出す。そめやねり薬りを多く投じてそめて卒業せしむ。表ての色ハ卒業せしも、朽ちたる薬りニて己ニ業ニ織物ハ死したるなり。ねり殺すとは此事ならん。可怖ハ教育の名の下ニ人殺しを為す。平ちりめん、はまちりめんともに養蚕して生糸を取り、織り為すまでハまじめなり。染屋ニ至りて質素を殺して色沢のみ安価ニ仕上げんとす。仕上げて素要ハ殺さる。染めざるニしかず。

 

 「はまちりめん」とは、縮緬の中でももっとも高級とされている長浜縮緬のことである。染料に化学物質を使うことは、すでに幕末からはじめられ、明治中期には一般化していたといわれている。「ねり薬り」とは、そのことをさすのであろう。つまり、今の小学校教育(教師)は、子どもたちが持っている素質(「野蛮の天性」)を「ねり殺」し、外見だけあざやかな色をつけて-----しかも現在では、画一的にして------卒業させているだけだ、というのである。

 

 当時新聞のゴシップ欄も賑わすほどの著名な政治家であった田中正造がその職を辞して、足尾鉱毒事件の生贄となった谷中村へ入るのはじつに正造64歳のときであった。書物や教科書に出て来る田中正造その人の軌跡は、代議士として足尾鉱毒事件と闘い、ついに天皇への直訴に至った時点でそのストーリーを終えているが、のちに「谷中学」と自称するその農民との対話・生活に於いて田中正造の思想は深化し独自の発展を遂げたというのが著者である小松の論である。その中で「知識ある官吏ハ一日の計のみ」だが、「農民は愚でも百年の計を思ふ」といった言葉が語られ、また独自のキリスト教への共感も語られる。いわば田中正造とは一個の巨大な、生命思想家であり、実践者であり、孤高の求道者であった、というような気がしている。

 こういうことは学校ではついぞ教えてくれなかったな。

2009.11.17

 

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 書籍スペースを空けるため、四畳半の自室の模様替え・整理をする。主には壁面スライド書棚の前に平行で置いていたスチール棚を垂直に設置して背面の雑物を整理、板で中央に仕切りをつけて両面から書籍を置くようにした。これでまだ単行本40〜50冊は入るか。デスク横にモザイクのように積んでいるカラーボックス部分の壁面を取り払い、オールインワンの複合機の置ける新たな壁面本棚の図面を描き始める。

 ヤフー・オークションで落札した沖浦先生の「島に生きる 瀬戸内海民と被差別部落の歴史」(広島県豊町)が届く。函入りの立派な装丁で、しかもまっさら。ページの間に当時の豊町町長の名による送付書がはさまっていた。

 東京のAより家族三人の宛名で結婚式の招待状が届く。来年1月某日。ホテル・メトロポリタンは上層階の部屋をすでにネット予約した。礼服のズボンが入るかチェックする。

 関東より母が泊まりに来る。4泊5日の予定。「孫の日常につきあいたい」との意向で特に観光もせず、土曜は習字や土曜学校の送迎に動向して図書館へ行き、日曜は教会の朝のミサ(子が当番で聖書の朗読をする)に参加してから百貨店で子の洋服選び、月曜祝日はヴァイオリンのアンサンブルの練習などを見に行く。「共産党員が教会に行ってもいいのか。マルクスは宗教は阿片だと言っているぞ」なぞと茶化す。

 沖浦先生の「近代の崩壊と人類史の未来」を600円、ネットで発見した「部落史用語辞典」を1500円、それぞれ古書店に注文する。HPの「沖浦和光著作リスト」にちょこちょこと手を加える。

 図書館で大江匡房の「遊女記」「傀儡子記」の収録された岩波・日本思想体系の巻8「古代政治社會思想」を借りてくる。

 

 田中正造の晩年の宗教への接近はとくにキリスト教への共感が色濃いが、その他にも若い頃に熱心だったという地域の富士講の影響や、座禅への傾倒、また同時代の出口ナオによる大本教の「世直し」教義の共時性などもあったりするのが面白い。いろいろな「宗教」が混在していて、しかもそのいずれにもとどまらず、というところが信頼できる。足尾鉱毒事件を契機とした治水調査において深化した、有名な「治水ハ造るものニあらず」に代表される「水の思想」もまた平明で、かつ独自の結晶だ。

 

今日といゝども道路気車の設備ハ治水と異なり皆直線を好んで山河高低亦殆んど眼中ニなく、
或ハ山腹ヲウガチ高橋ヲ架シ座シテ千里ヲ走ルト雖、不自然ヲ害スルニ至ツテ其害スルノ甚シ
キホド今ノ文明ノ利益トスル処多シ。但シ此利益ナルモノハ天然自然ヨリ受ケル利益ニアラズ
シテ誠二之レ人造ノ利益ナリ。利益ト云フモノ、文明ト云フトモ可否詳カナラズ。天ノ与へザ
ルモノニテ人ノ与ルモノハ害必ず其内ニアリ。而モ之レヲ文明ト云フヲ以テ之レハ知識ニ間フ
テ決スベシ。只水ハ気車道ノ如ク無利二山ヲキリ川ヲ移動シテ妄リニ直経直行ヲ好ムモノニア
ラザルハ断々乎トシテ明カナリ。川ト道トハ全ク同ジカラズ。約言セバ道ハ法律ノ制裁二従フ
ト雖モ、水ハ法律ノ制裁ナシ。之ヲ制裁セバ却テ順ナラズ。水ハ誠二天地ノ如シ。天地ノ大へ
ナルハ法律ノ制裁ナシ。即水ノ心ナリ。水ハ尚神の如し。自由二自在の自然力ヲ有シ又物ヲ害
サズ偽ラズ、故障アレバ避ケテ通ルハ水ノ性ナリ。……

○又日ク、治水ハ天の道ちなり。我々の得てよくする処にあらず。只謹ミ謹みて他を害さゞら
んとするのみ。流水の妨害をなさゞらんと欲するのみ。苟くも流水を汚さゞらんとするのみ。
清浄二流さんとするのみ。村々国々郡々互二此心にて水二従ハヾ、水ハ喜んで海二行くのみ。
我々ハ只山を愛し、川を愛するのみ。況んや人類おや。之れ治水の大要なり。

 

 水の前では法律も制度も平伏さねばならぬという強靭な思想だ。

2009.11.22

 

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 マラソン大会はいつも複雑な気持ちだ。3年生になった今年は、グランドを離れ、学校からほど近い佐保川の土手で走ることになった。みんなが学校を出発する頃に自転車で迎えに行って荷台に子を乗せる。「しのちゃん、ずるい〜」と同じクラスの子から声がかかる。「前のカゴが空いてるよ」とわたしも気楽を装って応える。土手の手前の農道の橋のたもとに自転車を置いて歩き出すとはやくも転んだ。両膝にうっすらと滲んだ血をティッシュで拭き取る。「しっかり足を上げて歩けよ」とわたし。 「なんか、緊張してるのかも」と子が言う。去年はグランド6周で1.2キロ、今年は1.5キロ、5年生になったら2キロになる。駅に近い方から土手の上を南下して土饅頭の墓場のあたりでターン、ゴールの手前でいったん土手を下って畑の中の農道を行き来して、また土手に上がってスタート地点へゴール。その間、総延長の2割ほどが砂利道だ。砂利道もこけやすいが、アスファルトの道も転べばダメージは大きい。子をスタート地点へ送り出してから、土手の上の砂利道の小石を知らず足で撫ぜている。いつものようにスタートから大きく引き離される。担任のS先生が並走してくれている。みながゴールに収まってからの時間が長い。永遠に落ちてこないボールの滞空時間のようにも感じる。子どもたちは、つぎに走る4年生もふくめて冬空の下、土手の上で整列をして待っている。応援に来た沿道沿いの親たちもそのまま立っている。いまや走っているのは子と、子に並走するS先生のたった二人きりだ。この先(来年・再来年)、あまりに距離が開くのであれば見学をさせた方がいいだろうか、とも思う。世間に背を向けがちなわたしには、そうやって「待ってもらっている」ことが重荷なのかも知れぬ。一人で走り続ける子に送るよその母親たちの声援も、いやそうした光景自体を、そのまま素直には受け取ることができないじぶんがいる。何やら宙ぶらりんの時間の中で、重い装具を付けた足で懸命に、スローモーションのように走っている子の姿を遠く目で追いながら、わたしはきっと悲しいような、苦虫を噛んだような、複雑な顔をしている。そしてときに、そのことを振り払うように、よその知り合いの子にカメラを向けて笑ったりしている。けれどそうしたわたしの頭の中のこと一切は、走っている子とはおよそ無関係なことだ。いちども歩かず、転ぶこともなく、子はゴールにたどり着いた。同級生たちが歓声を上げて迎えてくれる。自転車を置いている橋のたもとまで歩きながら子に「去年に比べてどうだった? 長かったか?」と訊ねた。「去年より早かったような気がする」と子は答えた。「へえ、そうかい。グランドと違って、景色が変わるからかもな」 昨夜、いちども歩かずに完走したらお八つに豆パン屋で好きなパンを買ってもらい、夕食はお寿司を食べに行く、と母親と約束していた子は、「ときどき、お寿司のことを思い出して走った」と言う。友だちのお母さんの子のいる5年生のマラソンも見てから帰ってきたYが、来年くらいから見学も考えた方がいいかも・・・ と言うわたしに意義を唱える。「でも大勢を待たせてるっていうのが、どうもね・・・」 「クラスメートなんだから、それでいいじゃない」 そして帰り際にすれ違った自転車の母親が荷台の子に「あの最後に走った子を見てたらお母さん、涙が出そうになってね。勇気をもらうわ・・ 」と話していた事などを話す。「それに」と彼女は言う。「参加するかどうかは、紫乃がじぶんで決めることでしょ」 もちろん、それに相違ない。子の重荷を親も抱えてやらなくては。いつか、そんなことをあれこれと気にせずに、ほかの子どもたちも、わが子も、共に同じ目線で愉しんで見られる日が来るだろうか。

2009.11.27

 

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 じぶんを殺してしまいたいと思ったことは無数にある。無差別に人を殺しまくりたい衝動に駆られたこともいくどかはある。世界中の人間がすべてくたばっても、じぶんだけが永遠に生き残ることを夢見たこともある。夜更けにひとり起きてベランダで煙草をくわえている。子の命を救うためなら、おれはいつでもこの身を犠牲にできる、と思う。すこしはまっとうな人間に近づいたということか。

2009.11.28

 

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 月に10日ほど指導へ行っている天王寺の現場にUくんという20代の若い男の子がいる。岸和田で一人暮らしをしているかれは、いつも弁当箱にケチャップをあえただけのパスタか海苔を敷いたご飯だけをたっぷり詰めて、それとヨーグルト味のプロテイン粉を牛乳でシャッフルしたものを毎日の食事としているので、「おい、またコナ弁当か」とわたしはよくからかう。仕事の合間に大国町にあるという格闘技のジムに通い、また天王寺の近くの大学で放送大学の臨床心理学の講義を聴きに行っているというかれが、大学の卒論で分裂病をテーマにしたと聞いて俄然、盛り上がった。バイクで日本中を回ったこともあるという。翌日、わたしは本棚からユングの「変容の象徴」、小沢昭一の「珍奇絶倫 小沢大写真館」、沖浦先生の「旅芸人のいた風景」などをかれに持っていき、かれはかれで武野俊弥「分裂病の神話・ユング心理学から見た分裂病の世界」(新曜社)服部正「アウトサイダー・アート 現代美術が忘れた「芸術」」(光文社新書)都築響一「珍日本紀行 西日本編」(ちくま文庫→Uくんの日本旅行ガイド)を貸してくれた。来月、大阪に戻ってくる市川おもちゃ劇団を見に行こうと誘っている。

 休日。日曜の朝8時。ベランダから見える畑沿いの駐車場のすみにYと子、近所のDさんの姿がある。わが家にはない大きめの六角で締める子の自転車のスタンドが緩んできたのと、併せてサドルの高さ調整を、Yが頼んだのだ。前日に話をしていたから、朝畑にやってきたDさんの姿を見て子は玄関を飛び出していった。知り合いの保証人となったのが徒になって社長をしていた工場を畳んだDさんは、Yと子にじぶんの娘や孫のように接してくれ、いつも畑の収穫物をたっぷりと持たせる。澄んだ、きれいな目をしている人だ。調整の済んだ自転車に水色のコートに身を包んだ子が乗り、あたりをくるくると走り回っている。子がこれほど自在に自転車を操れるようになれるとは思っていなかった。ペダルの上の左足だけ、まだどうしても斜めになりがちだが、このごろは母親といっしょに駅前のスーパーまで買い物へも行く。DさんとYは駐車場の砂利の上で立ち話をしている。やわらかな冬の朝日が降り注いでいる。ここから見ていると、まるでタイかどこかの片田舎の村の情景のようにも見える。

 「日曜はひさしぶりに動物園でも行こうか」と父に誘われた子は、前に大阪の病院帰りに母と立ち寄った長居公園の自然史博物館にこんどはお父さんと行きたいと答えた。そこへ、堺に住むYの叔母さんの夫君がどうも具合が良くないから一度見舞いに行こうかという話が持ち上がった。「叔母さん」といっても義母のたくさんいる姉妹の末っ子で、歳もYとあまり変わらないからYとは姉妹のように見える。どうもアスベスト(石綿)による症状らしいというので何故だろうと問えば、家業のタイヤ屋での職業病かも知れないとYは言う。ところが昨夜、その叔母さんから、今日になって夫君が熱が出てきたので・・・ と電話がかかってきた。お見舞いはいったん取りやめとなり、自然史博物館行が復活した。教会のミサのあと、クリスマス会の歌の練習が終わったら駅前で合流して、子と二人で電車に乗る。帰りは動物園前駅まで戻って、件の台湾ラーメンの店に子を連れていけたら、とも思う。「おまえがいっしょにお酒を飲めたらなあ、ジャンジャン横丁へでも行って・・・」 「日本人の男の人だけがそんなことを子どもに言うのよ」まるでじぶんが外国人であるかみたいにYが言う。

2009.11.29

 

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 日曜。子と二人で電車に乗って出かけるのは愉しい。「前にね、電車の中でお父さんといっしょの三人兄弟が、窓の外を過ぎていくいろんな看板の文字を読んでいく遊びをしてたよ。それをやってみようか」 二人で次々と「文字」を見つける。大和川、禁煙、○○歯科、○○倉庫、河内堅上、クレオパトラ化粧品・・ 。あんまり流れる文字を追ってばかりいて、最後には二人で気分が悪くなって目を閉じた。電車の切符購入がちと面倒だ。わたしは子の介護者として半額の子ども料金とおなじになる。子は半額のさらに半額。JRはたいてい窓口で切符をつくってくれる。地下鉄は券売機で福祉ボタンを押した上でわたしが子ども料金を押す(近鉄の場合は呼び出しボタンを押して、小窓から出てきた駅員に障害者手帳を提示してからでないと割引の切符ボタンが押せない)。その切符で二人で改札を抜けて、子の分の半額の半額は券売機に設定がないので改札の奥にある駅長室を探して、そこで障害者手帳を提示して購入しなければならない。往復で買った場合、行きはその場で切符に判子をついてくれるが、帰りは改札横の駅員に子が持っていって判子を押してもらい通してもらう。出る時もおなじ。安くしてもらっているからあまり文句は言えないが、購入場所の不便さの改善と、JRのようにいちど買ったら一般の切符と同じく自動改札機をそのまま通れるような切符にしてくれたらいいんだけどな。実際にかなり煩わしいし、時間もかかる。御堂筋線で向かいの席に子と同じくらいの年齢の女の子が母親と座っていた。「しの、見てごらん」子に耳打ちする。「あの親子はじぶんたちと同じ長居で降りるとお父さんは思うな。あの女の子のそわそわした様子と歩きやすそうな靴。それにお母さんは美術館とか博物館が好きそうなタイプだ」 「わたしは、そうは思わない」 「じゃ、100円賭けようか」 「どういうこと?」 「あの親子が長居で降りたらお父さんがおまえから100円もらう。降りなかったらおまえが100円もらう」 「OK!」 長居に着いても親子は座ったままだった。「お父さん、わたしの勝ちだね!」 「おかしいな、ぜったいに自然史博物館だと思ったんだけどな」 博物館に入る前にネットで目星をつけておいたパン屋で昼食を買う。昼時とあってか店内はお客でぎっしり。値段も手ごろで、おいしかった。自然史博物館はHPを見てもらっても分かるのだが、学芸員が熱心な感じで、展示内容も創意工夫に富んでいてレベルが高い。特に子のお目当てだった最後の「第五展示室」は、環境や生物間の複雑なつながりをうまく解説していて感心した。閉館30分前に博物館を出て、隣接する植物園をしばし散歩した。この蓮池を取り囲む植物園だけでもかなり広大だ。池のふちにかもの親子が集まってきているのを見に降りていく。寄ってきたかもを見ながら子が歌い出す。「わたしたちは魚のように神さまの愛のなかで泳ぐ・・・」 それがあんまり自然なのでわたしはちょっと感動してしまった。「いい歌でしょ」 「うん、いい歌だ」 道ばたの紅く染まった楓の落ち葉を拾い、「“江戸の笑い”の姫君よ、そなたに紋章を進呈しよう」と子に手渡す。“江戸の笑い”というのは最近図書館で借りてきて気に入っている子ども用の落語本のタイトルだ。子はにんまりと笑って、両手で落ち葉を抱いてまた歩き出す。

大阪市立自然史博物館 http://www.mus-nh.city.osaka.jp/

パリーネ(ベーカリー) http://www.geocities.jp/fresh_bakery_parine/newpage36.html

 

 月曜の昨日は夜、関東へ帰る際に立ち寄った京都で母が買って送ってくれた「円空・木喰展」(伊勢丹7F 美術館「えき」KYOTO)の立派な図録をめくって過した。円空に憧れ、木喰に親しみを感じる。円空は山岳修験の落とし子で、ときに樹木と同化したかれの造形はあきらかに山民の系譜だ。山で拾ってきてベランダに置いている木っ端で、いつか円空もどきの神像を彫ってみたい。

 今朝の新聞の一面に「小中高の暴力5.9万件 08年度 最多、小学校24%増」という見出しが大きく出ていた。「コミュニケーション能力の不足」「感情がうまく制御できなくなっている」との記事も。思わず、前日の新聞に載っていた霊長類研究者・山極寿一氏の記事を思い出した(2009年11月30日「理由なき殺人なぜ増加〜個食化、共感力失った現代」)。この人は以前に研究対象だったコンゴのゴリラに再会する感動的な番組をテレビで見た。山極氏いわく、人がそもそも会食の場で学習していく“共感の能力”が、個食化により失われているという。「事件の背後に家族によって育まれる、他者に共感して生きる力を欠き、思うように自己実現できない若者たちの焦燥感がある」 「成長するにつれて、自分だけが満足しても仲間と一緒に幸福になることはできないことに気がつく。自分の欲望を抑えて仲間を喜ばすことを学ぶ。共感という人間社会に不可欠な能力がここに芽生える」 人間以外の霊長類では「食べ物は仲間との間にけんかを引き起こす源泉であり、サルや類人猿たちはトラブルを避け、互いに離れあって個体単位で採食しようとする」「サルたちはなるべく顔を合わさないようにして、背を向けあって餌を食べる」 そして、現在は人間社会も「ファストフードや電子レンジが発達して調理する時間が減り、コンビニエンスストアが各地にできて、いつでも好きな時間に自分の好むものが食べられるようになった。しかし、人々が向かい合って交流する機会が激減した。昨今の食事は、互いに視線を合わせないようにして食べるサルに似てきているような気がする」

山極寿一教授の公式ウェブサイト http://jinrui.zool.kyoto-u.ac.jp/yamagiwa/index.html

 

 今日は朝から長堀橋にあるクライアントの本社で定例会議。難波に出て千日前の刑場跡地のビックカメラで支社のLAN用のハブを購入。近くの古本屋を覗いて川元祥一「被差別部落の生活と文化史」(三一書房)を700円で購入。以前に春駒のルポを読んだ同じ著者だ。黒門市場の近くで見つけた「月光仮面」という名の尾道ラーメンの店で昼食。700円のラーメンが「今だけ550円」と出ていたため。カウンターだけの小さな店で、汁まで飲み切った。おあいそを頼むと、「はい〜 550まんえん〜」って、これは大阪の十八番ギャグらしいね。

尾道ラーメン 月光仮面 http://r.tabelog.com/osaka/A2702/A270202/27009847/

2009.12.1

 

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 休日。朝から自室の窓際に設置する自称“丸太ラック”を作成する。材は数年前に友人のY君の実家である熊野のおばあちゃんの山からもらってきた径120ミリのヒノキの丸太と、大淀の道の駅にて一枚2〜300円で購入したヒノキの端材で、すでに加工は済ませていたので今日はダボ用の穴をドリルで開けたのと組み立てのみ。自然乾燥の丸太自体が微妙に反っているのと、チェ−ンソーでの切断面がアバウトなため、接合部分も結構アラが見えるが、まあその辺はご愛嬌だ。ダボと木工ボンド、それに各所に1本づつ釘を打ったので、強度は充分と思える。じつはおなじ場所に大昔に買ったわりと奥行きのあるアルミ製の二段ラックを置いていてYの洋服ダンスの一部の扉を塞いでいたので、それを解消してギターアンプや電動工具などをスリムに配置するのが目的だった。塗装もしないままだが、シンプルなつくりが気に入っている。

 “丸太ラック”作成と同時進行で、子にベランダのオリーブの実(ことしはじめて生った)の収穫と水洗い、塩漬けの一連の作業を指南する。食べられるのは数ヶ月先。参考サイトを下記に。

NHK趣味の園芸 http://www.nhk-book.co.jp/engei/news/olive_2008.html

Kochan's ベランダ菜園BLOG http://blog.kochan.com/archives/51511254.html

 昼食にトマトと生クリーム・ソースのパスタをつくる。図書館のリブックフェアのボランティアへ行くYと、教会の土曜学校へ行く子を車で送る。家に戻ってひとしきり片付けなどをして歯医者へ。その後、図書館で家族三人合流。桂三枝の公演があったようで駐車場は出庫の嵐。式場隆三郎「ニ笑亭奇譚 50年目の再訪記」(求龍堂)を借りる。夕食はいごっその幸福ラーメン。完璧な一日。

2009.12.5

 

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 図書館の閉架から出してもらった式場隆三郎「ニ笑亭奇譚 50年目の再訪記」(求龍堂)がやたらおもしろくてハマっている。昭和初期、東京深川の門前仲町に建てられた奇々怪々の建築物。自ら材を選び設計し職人にこれを作らせた人物は志半ばで精神病院へ入院させられてしまい、その後家族の意思で取り壊されてしまったのだが、かの山下清を世に出した医師の式場隆三郎によっていくつかの貴重な写真、図面、レポートなどが残された。赤瀬川原平のトマソンにハマッた人なら面白いこと間違いなし。

二笑亭を知ってますか?  http://plaza.rakuten.co.jp/nagoo/diary/2003-10-21/

 

 本日は日曜出勤。殆ど支社のPCのリカバリやメンテなど。子とYは高の原の方の教会で合同ミサ。

 ヤフー・オークションにて、職場のPC用に250ギガの外付けハードを1600円で落札。

2009.12.6

 

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 隊員の自宅を二軒ほど“家庭訪問”する。店舗などで深夜に警備員だけが残る現場を対象したもの。一軒は森ノ宮。小さな運河沿いの中古のマンション。共稼ぎの夫婦とすでに社会人として勤めている娘さん二人の4人家族のつつましい砦。もう一軒は生駒山にほど近い府営団地。50年ほど前、某百貨店で職場結婚したという老夫婦(隊員のご両親)から当時の思い出話などを聞く。子どもがまだ小さかった時分に妻子を置いて10年間単身赴任をしなければならなかったこと、石切神社から氏子に配る大量の昆布の注文を受けて札束を抱えて集金から帰ったこと、深夜の宿直のときに子ども向けの売り物の昆虫が店内に飛び回っていて朝を待って捕まえて回ったこと。80歳に近い人の好さそうな老人が遠い昔に思いを馳せてしみじみと頷いていた顔が忘れられない。エレベーターホールまでわざわざ見送ってくれた。扉が締まるまで頭を下げていたのが往時の百貨店マンを偲ばせた。

 服部正「アウトサイダー・アート 現代美術が忘れた「芸術」」(光文社新書)に登場する魅力的なアウトサイダー・アートのアーティストたちをウェブ検索してみる。風呂の中で子に、拾い集めた石ころでガウディ並みの理想郷を作り上げた郵便夫や、夜の路上に置かれていたダンボールに入っていた作者不詳の“フィラデルフィア・ワイヤーマン”の針金アート、また養護施設への往復に拾った品々をセロテープで貼り合せる八島孝一のオブジェの話などをする。風呂から出てから、全盲の光島貴之が描いた缶コーヒーのデッサンを見せて何に見えるかと問い、最後に分厚いパウル・クレーの画集を二人でめくった。

石山修武研究室 http://ishiyama.arch.waseda.ac.jp/www/homej.html

Collection de l'art brut http://www.artbrut.ch/

フェルディナン・シュヴァル<理想郷> http://www.mhomes.ukgo.com/palais2.htm

アドルフ・ヴェルフリ http://www.adolfwoelfli.ch/index.php?c=e&level=17&sublevel=0

フィラデルフィア・ワイヤーマン http://blogs.yahoo.co.jp/tdhdf661/60339110.html

MEM 坂上チユキ http://mem-inc.jp/artists/sakagami_j

光島ギャラリー(光島貴之) http://homepage3.nifty.com/mitsushima/

小幡正雄 http://www.spiritartmuseum.jp/jp/permanent-collection.php?artist=045

八島孝一 http://www.hukusi-shiga.net/jigyoudan/plan/art/no_ma/20050923monotoomoide/20050920/yashimakouichi.htm

 

【追記】 BBSで寮さんから、奈良の障害者施設「たんぽぽの家」の「エイブルアート」の活動も教えてもらったので、リンクをここに追加しておく。

たんぽぽの家(奈良市) http://popo.or.jp/

エイブルアート http://ableartcom.jp/

「ボーダレス・アートミュージアムNO-MA」(滋賀県近江八幡市) http://www.no-ma.jp/

2009.12.9

 

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 服部正「アウトサイダー・アート 現代美術が忘れた「芸術」」(光文社新書)の前半は多少、口上が多くて退屈な気もしたけれど、後半の個々のアーティストたちの作品と由来を語るところまで来ると、一気に面白くなった。次々と紹介される作品の何と魅力的なことだろう(そのほとんどはもともと職業作家でない人たちの“内なる衝動”だ)。アウトサイダー・アートとは、つまり目の挑戦だ。目の挑戦とは精神の変容へ連なる。つまり、未知なる他者に気づくということか。まあそんなリクツはともかく、かれらの様々な作品を眺めていると目からウロコがぼろぼろと落ちてきて清清しい。

 家に帰ると子の“小遣い”の話が母と子の間で決まっていた。家のお手伝い、それに夜9時までに寝るなどの生活態度の評価も含めて一日10円。一ヶ月で300円。もちろん手伝いをしなかったり、生活態度が悪かったと判断されればこの10円はないから、月300円というのは保証額ではない。300円というのが適当な額なのかどうか。子の話では月千円をもらっている子もいるというが、母がお母さん仲間で調べたところ、Kちゃんのところは小学6年生のお兄ちゃんが600円だがKちゃん自身はいまのところ小遣いはなく、Nちゃんは300円、Yくんは100円だった。この制度の運用開始にあたって、いままでおばあちゃんなどにちょこちょこともらって財布に入れていた小銭(数千円分くらい貯まっている)は銀行口座に没収され、一からのスタートとなる。子はさっそく母の指導でノートに収入表を書き、「今日はとてもいい子だったから1円、おまけしてあげる」と母から11円を渡され、満面の笑みを湛えてさっさと寝室へ消えていった。いままで読みかけの本の頁を閉じることがなかなかできずに、それが母の大きなストレスともなっていた。さて、この“10円のいい子ちゃん”は何処へ行くか。

2009.12.10

 

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天王寺の現場隊員の若きUくんがおすすめの本(漫画)やCDをごっそり貸してくれた。山上たつひこ「光る風」みうらじゅん「アイデン&ティティ24歳/27歳」、諸星大二郎「海竜祭の夜 妖怪ハンター」「無面目・太公望伝」。音楽はかなり無国籍でアヴァンギャルドなものが多い。hassan khan「tabla dubb」「The Wooden Glass Recorded Live Featuring Billy Wooten」Mani Neumeier & Peter Hollinger「Meet The Demons Of Ball」Bolot Bairyshev「宇宙の命脈」「Analogik Klunserbeats/Live」Irene Schweizer + Mani Neumeier「European Masters of Improvisation」Willie and Lobo「Caliente」David Helfgott「Piano Music Collection」

 家人の寝静まった深夜、居間のソファに寝転がって山上たつひこ「光る風」を読む。このヘヴィーな重みは久々に得がたい。20代に出会ってしかるべき作品。

 Uくんとは来週末、大阪西区にある鈴成座で市川おもちゃを見にいく約束をしている。

鈴成座 http://www.mine-office.jp/

2009.12.11

 

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 休日。

 午前中、習字教室の子を迎えに行き、そのままそれぞれの自転車で駅前のスーパーへ買い物に行く。たっぷりと歩道の設置された部分は安心できるが、やはり道を横断するときや、歩道がなく車と平行で走る部分はまだ危なっかしい。土手の上の祠にあった、昔の堤防工事で出てきたという石仏などを見た。帰ってからあやとびができるようになったという縄跳びを見学する。

 昼食後、子は近所の内科医で新型インフルエンザのワクチン摂取を受ける。

 午後は、こんどの学校のお楽しみ会で子が台本を書いたハリーポッターの劇をやるという話で思い出し、昨夜テレビで録画しておいた仲代達也率いる無名塾の舞台「マクベス」を家族三人で見る。いちど生の舞台を子に見せてやりたい。

 夕方、歯医者と床屋へ行く。夕食はYがお母さん仲間のKちゃん宅で教えてもらったという鶏味噌鍋。骨付きの鶏肉を焼いてから鍋に入れ、その上に白菜を盛って蒸し、市販の鶏味噌鍋用の味噌を溶き、すりゴマと七味、最後はラーメンで〆る。美味しくてさらに雑炊までしてしまった。

 諸星大二郎の「海竜祭の夜 妖怪ハンター」が面白い。こんな作品ならもっと読みたい。みうらじゅん「アイデン&ティティ24歳/27歳」も読み始める。

 いまやほとんど使用していない旧デスクトップ・マシン(WinXP)に、Linuxベース開発のフリーのOS“ubuntu”をインストールしてみる。

Ubuntu Japanese Team http://www.ubuntulinux.jp/

2009.12.12

 

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 お風呂で。

「そういえばこの間、シェークスピアの「マクベス」の舞台を見たよな。シェークスピアの作品はさ、ちょうどおまえが“お楽しみ会”のために書いているやつみたいに、ほとんど台詞だけで出来てるんだ。おまえもいちどシェークスピアを読んでみたらいいかもな」

「お父さん。わたしがシェークスピアを読んでいないとでも言いたいわけ?」

「え、何を読んだ?」

「えーっとね、「ベニスの商人」と「マクベス」と「ハムレット」、「リア王」、「嵐」、あと「真夏の夜の夢」、それと「冬物語」。だから「マクベス」の話はわたしはもう知ってたのよ」

「・・・参りました」

2009.12.14

 

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 子のクラスで新型インフルエンザの感染者が4人となって今日より4日間、学級閉鎖。子は家でいつものように「朝礼」をして、一時間目「算数」、二時間目「国語」、三時間目でいつの間にか昼食の時間となった。

 今日は午後、クライアントのお偉いさんたちとの「勉強会」。集まった30枚の名刺。土曜は子のヴァイオリンの発表会があるのだが、リニューアルした大阪の某ショッピング・センターで40人の増員がかかり人手が足りず急遽、応援で出なければならなくなった。上司より「年末年始は一切、予定を入れるな」と。「問答無用」というのは少々反発したい気もあるが、サラリーマンだから仕方がないか。子には「ビデオで見るから」と諭し、気持ちを切り替えて、現場を楽しむこととした。思えばわたしも至極角が取れたものだ。

 若き友人のU君がアウトサイダー・アートの図録をいくつか貸してくれた。ひどく重たくなった鞄を持って帰った。アドルフ・ヴェルフリの曼荼羅のような画集と、ヘンリー・ダーガーの「非現実の王国で」は、いつか手元に欲しいな・・

 巷では賛否両論のディランのフル・クリスマス・アルバム“Christmas In The Heart”を iPOD に入れて出勤途中に聴いている。かつて“バラエティ・ルーツ・アルバム”の SelfPortrait の曲たちを他のディランの代表曲と同じように愛聴したように、わたしはこの大真面目なクリスマス・アルバムをとても気に入っている。クリスマスになればとってつけたように編まれて店頭に並ぶような、そういう類じゃないんだな、このアルバムは。これもまたディランのルーツ・オブ・ミュージックだとわたしは思う。そういう愛情に溢れているのが分かるし、そのサウンドに素直に共感できる。愉しいサンタの曲もあれば、スピリチュアルな曲もあれば、ジャズ風な曲もあれば、ハワイ風のクリスマス・ソングもあって、表情が多彩でとても豊かだ。個人的には2001年の Love And Theft と対を成すようなサウンドと勝手に受け止めている。ディランがクリスマス・ソングをこれだけ真摯に歌うというのは、そうだな、日本で言えば演歌の大御所が晩年に、説教節や春駒などの門付けの祝福芸の節を録音するようなものじゃないのかな。ともかくわたしは、このアルバムが好きだ。アルバム・タイトルにあるように、ディランの心の内にある「クリスマス」というものを音で表したら出現した風景というものだ。

2009.12.16

 

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 休日。

 アウトサイダー・アートを気取ったわけではないが、子とシュタイナーのフォルメン線描を用いての「絵画教室」。「フォルメン線描―シュタイナー学校での実践と背景」(筑摩書房)に載っている模様を使って図面を埋めること。じぶんで模様を作ってもいいが左右対称であること。わたしは曼荼羅様の図柄を描いて色を塗り。子は中央に配した女性の服にフォルメンを写していたが、フォルメンで自由に画面を埋めるというやり方がまだ馴染まず、苦心していた。「こんどはお父さんみたいに描きたい」と意欲を見せていた。

 子は「ナルニア国物語」の映画の最終、王や王女になった主人公たちが森で白鹿狩りをしている場面から始まる、オリジナルの物語を書き始める。

 夕方、子とYの歯医者を送ってから、合流場所の図書館で「ドカベン」9巻〜12巻を読む。

2009.12.18

 

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○○先生

  先生もご存知のように今日、クラスにて「お楽しみ会」がありました。終業式の前日に、クラスの中でそれぞれ自由意志でグループを作り、みなの前で「演目」を行います。手品や、クイズ、人形劇、といった「演目」が並ぶ中で、紫乃は劇をやりたいと提案し、数人の子どもたちが賛同してグループに入ってくれました。みなで劇の題目を話し合い、「ハリー・ポッター」に決まりました。紫乃はさっそくその夜、一冊のハリー・ポッターの本を台本にするのはとても難しいと笑いながら、しかし一生懸命にノートに台詞を書き込んでいました。ところが翌日、グループの中で「ハリー・ポッター」は辞めにしたいと主張する子が出て、結局、紫乃が、2年生のときにやった劇を下敷きにして新しい台本を作るということで話がまとまりました。その晩も、紫乃は夜遅くまで机に向かい、新しい台本を書いていました。ところが次の日、グループのみんな(数人は風邪で欠席でした)が集まってそれぞれじぶんのノートに紫乃が作ってきた台本を写し取ったその翌日に、クラスは学級閉鎖になりました。学級閉鎖が明けた、つまり始業式の前日が今日です。ほとんどぶっつけ本番です。紫乃は朝、登校前に「おなじグループの子から作ってくれと頼まれた妖精の羽をつくるのを忘れていた」と大慌てで、わたしも出勤前に手伝いました。子は他にも舞台に貼るドラゴンの絵や、ダンボールの短剣もつくっていました。休み時間に台本を写し取る時も、「大縄の練習があるから」と校庭へ行ってしまった子もいたそうです。まあ、そんなわけで、話を聞いている限りでは全般的に、紫乃一人だけが今回の企画に積極的であったようにも思われます。そんな状況でしたから、本番は散々たる有様でした。紫乃以外の子は台詞もほとんど覚えておらず、ほとんど「劇」の体すら為していない最中に、紫乃はとても悔しく恥ずかしい気持ちで立ち尽くしていただろうと思います。下校時に母親が迎えに行った時も、車の中で黙ってうつむいていたそうです。以上がわたしが紫乃から聞いた話のおおよそです。

  今回の企画でわたしが疑念に思うことの一つ目は、まず短期間の間には出来ることと出来ないこととがあり、みなの提案の時点で先生よりそのような助言がなかったのだろうかという点です。また子どもたちの自由意志に任せると言うのであれば、それを実現させるためのサポートが果たしてあったのだろうかという点です。グループの中での子どもたちの関係、いわば個人別の負荷のかかり具合、まとまり具合、を先生はどれだけ把握しておられたでしょうか? 学級閉鎖の直前に一人の気まぐれな意見によって台本が変更されたことを先生はご存知でしたでしょうか? そのまま学級閉鎖に入り、しかも急遽書き直された台本がみなの手に渡った時にはおなじグループ内ですでに風邪で欠席している子もいた状態のまま、ほとんどぶっつけ本番の当日に「劇」が無事に演じられると先生は思っておられたのでしょうか? 学級閉鎖は予期せぬハプニングでありましたし、「お楽しみ会」が終業式の前日であれば日を遅らせることも儘成らぬ仕方のない面はあったかと思います。しかし「お楽しみ会」の最中、先生はずっと「まるつけ」をしていたとのことで、紫乃が記憶している先生の唯一の言葉は「劇」の準備がもたついているときの「はよしなよ」という言葉だけだったと聞きます。「お楽しみ会」というのは、終業式間際の先生の採点時間をつくるためのものなのでしょうか? あまり乗り気のしなかった子どもたちが「やれやれ済んだ」と胸を撫で下ろし、一生懸命やった子だけがひとり悲しい気持ちで取り残され、そのまま、そこから子どもたちの誰も、何も、学ばないまま終わってしまうのが「お楽しみ会」の目的であり、先生方の教育の目ざすものなのでしょうか? 今回のことで子どもたちはいったい何を学んだのでしょう? 見守りながらも、必要なところでは適切な助言を与え、子どもたちが集団で何かひとつのことを練り上げ、成し遂げられるように舵を取り、頑張って報われなかった子にはそっと暖かい声をかけてやり、また事が終わってから何故今回の催しがうまくいかなかったのかをもう一度子どもたちに話し合わせ、互いに考えさせる場を設けてやるのが、教育の現場に携わる方々の真の役割ではないのでしょうか? そうであるなら、例え「失敗」であったとしても、子どもたちはそこから得るものも多いでしょう。しかし残念ながら、今回の「お楽しみ会」に対する学校側の姿勢には、わたしとしてはまったく幻滅せざるを得ません。重要なことは、そうした大人の無責任な行動が往々にして、子どもたちの中に「深い傷跡」を残すことです。

20091221

まれびと 拝

 

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 昨日の担任の先生宛の手紙。子から話を聞いた勢いでしたためたものだが、子は「もういいよ、お父さん。そんな大げさにしなくても」と言う。子がそう言うのであれば、これを子に持たせるというのは筋違いだろうと考え、Yと学校へ行くのを見送った。あとはみずから届けるべきだろうが、さて、どうしたものかと思案している。「紫乃はどうして欲しいのかな? お父さんに言ってもらいたいのか、それとも、もっと困ったときに言って欲しいのか」と今朝、Yが訪ねても、子は「どっちか分からない」と言うのだ。先生に一言、物申したい気持ちはある。しかし、子がじぶんのなかでじぶんなりに、ある程度整理をつけているのなら、あまりでしゃばるのもどうか、とも思う。

 土日は大阪の別々の店舗(大型ショッピングセンター)で、久しぶりに制服を来て交通誘導の現場に入った。土曜日は特に寒さに閉口。ユニクロのヒートテックともう一枚冬用のアンダーを着込み、ホッカイロを背に貼り付けたのだけれど、厚手の靴下を忘れた。改めて思うのは現場の大変さだ。一日9時間、極寒の中に立ち続けて8千円くらいか。25日勤務を入れても、手取りにしたらやっと16、17万ほど。場所によっては四方八方から来る車や歩行者、バイク、自転車に目を向け、時に「あの車、割り込みしたじゃないか。なんで入れるんだ!」と罵声を浴びせられる。そんな状況の中で、一台でも多くの車を入れ、または出庫させるために懸命に声をはりあげ、誘導棒を振り続ける。その姿には、ほんとうに頭が下がる。暖かいホテルの会議室でコーヒーを啜りながらお偉いさんと向かい合っているような立場になっても、そういうことは忘れちゃいけない、と思う。身体はしんどいけれど、久しぶりの現場は愉しかった。ポストで仲良くなった、来年大手の証券会社に就職が決まっているという学生のアルバイトの子といっしょに深夜の天王寺まで、将来の仕事の話などを聞きながら帰ってきた。

 と、午前中にここまで書いてから、自転車で歯医者と耳鼻科(花粉症の薬)へ行った。Yは車で子の迎えに行って、そのまま泌尿器科の定期健診である。帰りに例の先生宛の手紙をポケットに忍ばせて、小学校へ寄ってみた。職員室では(おそらく)冬休み前の最後の会議の最中で、終わってからクラスの教室で担任のS先生が応対してくれた。「子どもの話を聞いた限りの一方的な見解なので、間違っている部分もあるかもしれないが」と前置きをしてから、ポケットから出した手紙をとりあえずS先生に読んでもらった。そして20分ほど、話をしたか。先生と話をしていると、まあ、先生の「気づき」のレベルもあるのだろうけれど、やはり根本的には先生が事務的、そして管理主義的な書類やもろもろの雑用に追われて、実際のところ生徒をゆっくりと見る余裕を失ってしまっているという風景が透けて見えてくる。「生身の子どもたちはここにいるのに、(上から)来いと言われたら飛んで行かなくてはならないんです」とは、先生の悲痛な訴えだ。たぶん、それに間違いはないと思う。いつかテレビでフィンランドの教育現場のレポート番組を見たが、かの国では学校の先生はそうした事務作業・雑用の一切から解放されて、子どもたちへの教育だけに専念でき、かつ少人数制なので子どもの一人一人とコミュニケーションが取れやすい、と云う。さらに大事なのは「教育の管理権限が国から、地方自治体や学校それぞれの教師に任されているところが大きい」という点だ。(に比べて“子ども手当”の如く、すぐ銭金にしか換算出来ないこの国の政治家のオツムの無ささ) 「そんなんであったら、どれほどいいか」とは、S先生。要するにがちがちの縦割り管理主義と形式だけの書類主義が、この国の教育現場では先生が生徒をこまやかにサポートする余裕を圧殺しているという構図。子どもたちの心より、管理が優先という構図。それらを破壊しない限り、この国の教育に将来はないんだろうな。しかし、どこから闘えばいいのか。教師が憐れな子羊であるなら、校長や教頭だって所詮は哀しき歯車の部品なんだろう。誰もが余裕をなくして、結果としてこの悪しき管理システムを成り立たせている巨大な組織の、どこから闘えばいいのか。

フィンランドの教育制度 http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~konokatu/imai(07-1-30)

 学校から帰ってきて先にひとりで昼飯をたべているところへ、泌尿器科が思わぬ混雑だったというYと子が帰ってきた。子に、先生とこんな話をしてきたよ、と伝えた。それからYは昼食も慌しく済ませて、自転車で図書館のボランティア作業へ。わたしは子としばらく近くの公園でドッジボールやサッカーを付合ってから、夕方にヴァイオリン教室へ。今日から有名なパッヘルベルのカノンが始まった。帰りの車の中でカノンに日本語詞をつけた戸川純の「虫の女」を歌っていると、「なんや、それ。やめてくれない」と子に言われた。

2009.12.22

 

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 クリスマス・イブ。「神が人間として産まれてきたこと」を祝う日。夜、Yや子といっしょに教会へ行く予定だったがいつもの如く野暮用が入り、ひとり帰宅して遅い夕食を食べた。二人の天使はいまごろミサのあとのパーティを愉しんでいる頃だろう。昨日、子が夢の話を教えてくれた。神さまが塗り残した船の一部を海の中に入って金色に塗ったという夢だ。帰りの電車から教会にいる子にメールを打った。「紫乃へ。イエスさまのお誕生日、おめでとう。お前がいつもイエスさまに見守られて、いつも正しい道を見つけられるように。お前の手足がお前以外のものにも役立つように」

 子は、今夜はサンタが入ってくるのを見届けたいからと、ツリーを飾っている居間に布団を敷いてもらった。そして何やらサンタとトナカイ宛のカードを大急ぎで書いてツリーにひっかけ、布団にもぐりこんだ。

2009.12.24

 

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 サンタさんと、トナカイさんへ
 かならずよんでクダサイ

 サンタさんへ

 わたしには犬かねこかそれか小刀か○○○をください。○○○が一番ほしいです。○○○とはサンタさんはわかっているはずです。それと、この手紙にサインをしといてください。ワープロじゃいけませんよ。へんじもかいてください。

 トナカイさんへ

 なまえを教えてください。のどがかわいたら、すいどうへいって水をたくさんのんでください。それとサンタさんにこのベルをつけてもらって、あしあとをのこしといてください。

 

2009.12.25

 

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 どんな季節であれ、山肌を見ると落ち着く。名阪国道を東へ向かう山間は、紅葉の季節もとっくに仕舞って、くすんだ紅の佇まいだった。山は、いい。それらに触れていると心のうちにひっそりと、種火がついたような心地を覚える。

 Yが子を連れて実家へ行く前の最後のわたしの休みだから、山を見に行かないかと誘った。「どこかの川原で焚き火をしよう」と言うと、子はすぐに乗ってきたが、Yはいろいろ年末の支度もたまっているから、と家に残った。しばらく県内の地図を眺めて、子に「龍の棲む洞穴を見に行こう。それと焚き火のセットでどうだ?」と伝えた。日曜の朝の10時頃に、車で家を出た。

 名阪国道を針のインターで下りて、鄙びた山間の田舎道をすいすいと走ると、室生まではほんの一時間足らずだ。室生寺はむかし、Yと何度か足を運んだ。艶かしい如来がいて、寺の裏手のシダの群生も何だか艶かしい。途中、川沿いの「仙人の岩屋」と道標の立っている岩窟を覗いて、車の後部座席で子のおしっこを採って、人気のない静かな室生寺前を通り越して、龍穴神社の前に車を停めた。

 龍穴神社は太古の神殿のような杉の巨木がすっくと林立するその中に苔むして瞑目しているような厳かな社だ。祭神は善女龍王。龍を統べる女神、ともいう。じつは室生寺はかつて、この龍王社の神宮寺であった。はじめに龍王社ありき。この社の奥宮が背後の渓流に穿たれた龍穴であり、つまり室生のへそである。

 神社前の道をほんのすこし進んだわきに「龍穴」の道標があって、道はそこから暗い山道をうねうねとのぼっていく。そこで、野生の鹿に出くわした。植林の荒れた斜面に母子らしい二頭。足を止めて、じっとこちらを見据えている。それから別のもう一頭は、走り出した車の前に斜面からいきなり駆け下りてきて、まるで道案内をするかのように併走したからこちらも驚いた。ともかく、野生の鹿を見たのは子にとってははじめての体験だったから、しばらくは「おとうさん、すごいねえ。威厳があるねえ」と何度も言い続けた。

 やがて、「天岩戸」の標識。まっぷたつに裂けたような巨岩に注連縄が渡されている。「ちょっと、見て行こうか」と車をわきに停めてドアを開けると、「おとうさん、ここで停まるの」。心配そうな声で言う。それから、緊張した面持ちで、持参した手製の弓に拾った枝切れの矢をつがえて下りてきた。さっきの鹿が気になるらしい。「ほら、これが天岩戸だよ。アマテラスを誘き出そうとアメノウズメが裸でダンスをして見せた・・」 「ああっ、これが」とはじめて岩に気づいたみたいに見た。「穴があいてないね」 「うん。むかしは開いてたのが埋まっちゃったのかも知れないね」 すると子は急に怖くなったらしく、「おとうさん、もう行こうよ。ここは何だか、いや」と手を引く。

 林道から急な丸太の段を下っていく渓流沿いの龍穴へも、むかしYと二人で訪ねた。急峻な崖に架けられた拝所から立入禁止のロープをまたいで広場のような平たい岩盤の中央へわたってみる。「おとうさん、そこは入っちゃダメだよ」 「だいじょうぶ、だいじょうぶ。神さまがいいよって言ってる」 子は拝所のところでふくれている。そんなやりとりで、ここがとてもよく音が反響することに気がついた。流れの反対側は見上げるような峨峨たる岸壁で、その足元に斜めに裂けたような「龍穴」が穿たれている。つまりここは天然のホール、音楽堂なのだと思った。もちろん、カミの音楽堂だ。龍を統べる女神を讃えるための。

 ここに棲む龍はかつて奈良市の猿沢の池から飛来したと伝承に記される。龍王社の神宮寺であった室生寺を創建したのは一説に興福寺の僧侶であり、またこの龍穴において行われた祈雨の読経は興福寺の僧が勤めた。ここに室生寺--興福寺--春日大社を結ぶラインが透けて見え、また火と水の祭祀の系譜が見て取れる。もっともそれらは後の時代の権威付けのようなもので、じっさいはそのベースとなる古代からの祝祭の記憶があったに違いない。

 焚き火ができる場所を探して林道をさらに奥へ進んだ。植林が盛んであった時代の名残りのような作業小屋が建っているところで道はふたまたに別れ、本道はそこから川の流れからずっと離れていくようだ。車を停め、荷物を持って、右手の枝道を歩いていった。しばらく行くと、舗装が崩れて途切れている。崩れた道の脇、荒れた植林の林の中をちょろちょろとした源流が流れている。「このあたりなら、もう煙も車の道からは見えないだろうな。どこがいい? じぶんがいちばん居心地のよさそうな場所を探してごらん」 ドン・ファンの場所の質問だ。ほそい流れをまたいだネコの額ほどの砂利場に荷物を下ろして、石のかまどをつくり、枯れ落ちた杉の葉と歩道の上から集めてきた乾いた落ち葉を敷いて、その上に杉の小枝を乗せて火をおこした。あっけないほど簡単に炎があがった。

 焚き火が好きだ。枯れ木を折って、火にくべて、ゆらめく炎をみつめる。それだけの単純なことなのに、飽きないし、いつも時が経つのを忘れる。むかし、実家にろくでなしのように暮らしていたとき、いつも昼過ぎに布団から起き出して、食事をして、それからバイクで誰もいない山の中へ行って寂れた渓流で暗くなるまで焚き火をして過した。夜になって帰宅して、食事をして、それから酒を呑んでニール・ヤングやジャニス・ジョプリンなどの音楽に耳を傾けて明け方まで眠れずにいた。そのときの焚き火は、じぶんを守るすべだった。生きている価値のないじぶんを守るための作法だった。

 焚き火のそばで、Yが急遽こしらえたサンドイッチとおにぎりのお昼を食べた。それから子は、背中を火にあてながら、持ってきたナルニア国の本(図書館で借りてきた素敵な挿絵入りの古い大型本)を読んだ。ときどき思い出したように火に向かって座りなおし、小枝をくべ、じっと炎を見つめている。焚き火がこの子にも、生きるすべとなりますように。

 そのあとは、ほんとうは室生寺近くの山の上に数年前に建てられたイスラエルのアーティストによる公園を見に行きたかったのだけれど、時間の関係と、いつかYもいっしょに連れてきたかったので、室生寺の前でよもぎの回転焼きをおみやげに買って、それから室生ダムのはたにある遊具施設のある「不思木の森公園」へ行って日が傾く頃まで遊んだ。家へ帰ってきたのが5時半頃。「焚き火の匂いがいっぱいついているし、お風呂屋さんに行きたい気分じゃない?」 もちろん、子も賛成だった。夕食の前に、二人で市内の大門湯へひとっ風呂浴びに行った。

 

室生龍穴神社 http://www.genbu.net/data/yamato/ryuketu_title.htm

室生寺前 よもぎ回転焼き(栄吉) http://yamatozi.blog22.fc2.com/blog-entry-17.html

室生・不思木の森公園 http://www.oyako.info/odekake_ie/park_hushiginomori.html

室生山上公園芸術の森 http://www.city.uda.nara.jp/sanzyoukouen/

2009.12.28

 

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 室生へ行った翌々日、Yは子を連れて実家へ行った。例年のようにおでんをたくさん、作り置きして。「(インコの)ピースケくらいは置いてってくれよ。お父さん、話し相手が誰もいないじゃないか」と懇願したのだが、子は「ピースケも連れて行く」と宣言し、その通りに連れて行った。年末年始、とくに大晦日の晩あたりはわたしにとっては深い亀裂のような日々だ。(正月オープンが始まってしまえば、仕事の忙しさに乗っていける) Yと子のいることが、わたしにとっての「生活の指針」のようなものだと思う。二人があんまり長いこと不在であれば、わたしはおそらく、会社にさえ行かなくなってしまうだろう。足元がすぶすぶと沈んでいって、とめどなくなる。たぶん数年後の師走には、どこかの炊き出しの列に並んでいることだろう。

 今日は夕方から、前の職場であった県内のショッピングセンターへ行って年末年始の段取りをチェックし、防災センターで少し仮眠をして、そのまま正月三が日は交通隊員として連日、現場へ入る。

 朝からやっと年賀状を書いて、輪ゴムが溶けてべとべとになった仕事用のイアホンをベンジンに浸して、沖浦先生の著作リストのページをちょこっといじって、あとはモリスンのCDをかけて、ギターをちょこっといじって、何をしても手持ち無沙汰だし、どこか所在なげで落ち着かない。まあ、毎年のことだが、そんな感じ。記すべき何もなし。

2009.12.31

 

 

 

 

 

 

 

 

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