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ある風土を評価するということ、あるいは認識することがむずかしいのは、風土というものは、その風土が遠い昔から育んできた文化と密接な関係をもっているからである。温帯に住む人間は、砂漠、広大なツンドラ、そして氷原といったものに対して遠い昔から嫌悪感を抱いてきた。わたしたちにとって、このような土地は不毛の地であった。有史以来、そこで何が起きているか関心を抱いたことはなかった。しかし、わたしは将来この土地にはかりしれない価値があることが証明される日がくると信じている。その根拠は、北極独特の光と時間のありようがほかの地域とまったくちがっていて、この風土が地球全体に対するわたしたちの見方がいかに自己満足的なものであるかを教える力をもっているからである。この風土に内在する未知のリズムは、単に一日のうちの昼間の長さという基本要素の変化だけをとっても、西洋の時間の概念の偏狭さをはっきりと認識させる力をもっている。
さて、本書には核心となる三つのテーマがある。人間の想像力に対する北極という風土の影響。この土地を利用したいという欲求は北極についてどのような評価を生みだすのか。そして最後に、まったく未知の風土の前におかれた場合、わたしたちの富の感覚はどのように変わるのか。裕福になるというのはどういうことなのか。捕鯨業者をはじめとする企業家たちが遠く北極までひきよせられたように、血わき肉躍る冒険を通じて、富を手に入れることなのか。それとも、幸福な家庭生活を送り、トゥヌニルミウト族がポンズ湾で捕鯨船乗組員たちに対してかれらの富の概念として語ったように、自らが住む土地について深い知識を身につけて生きることだろうか。生活のなかに畏怖と驚きを感受する能力を失わずに、真に価値あるものを追求しつづけることだろうか。宇宙とともに心安らかに生きることだろうか。
バリー・ロペス「極北の夢」(石田善彦訳・草思社)
生あるうちに、ここだけはぜひ訪ねてみたいと思う土地は? と訊かれたら、わたしはきっと、極北、と答えるだろう。カヤックを引いて、何もない、氷だけの無辺の大地を、いく日もいく日も歩きつづけたい。バリー・ロペスがこの本を出したのは1986年のことだが、かれが信じた「この土地にはかりしれない価値があることが証明される日」は、いまだやってきてはいない。そればかりか世界は、かれが示唆している「あたらしい富の感覚」からますます遠ざかり、ますます偏狭になっていくばかりのように見える。わたしたちはあいかわらず、じぶんたちの世界の富と価値だけが唯一至上のものだと信じていた植民地時代のヨーロッパの人々とおなじくらい、きっと偏狭で、貧しい。
2009.7.27
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明後日から子は国立曽爾青少年自然の家で1泊の「エコ・キャンプ」である。母がボランティアとして同行するが、行動グループは別だ。わたしも歯医者の予定日の火曜が仕事の都合でスライドして、出発日は橿原の集合場所まで車で送っていける。1時間半の尾根道のハイキングがあるので、装具を付けていくか家族の中で話し合いが持たれたが、ネットでコースの写真などを見る限り、勾配はそこそこありそうだけれど幅の広いおだやかな道でありそうだし、本来であれば装具着用が望ましいのだろうが、重い装具では折角の子の気分を害することなども考慮して、今回は特別に(最近購入した靴底の厚いハイカットの)市販の靴での参加を許可することとした。ただし「マイペースで、歩き方を充分に注意して」という条件付で。毎回参加しているというボランティアの男性が一人、子がどれだけ遅れても付き添ってくれると約束をしてくれたそうで、実に有難い。宿泊先の曽爾青少年自然の家は国立の施設のようだが、Yの話では家族単位でも利用が可能で、しかも宿泊費は無料、食事代も朝昼晩を入れても大人で計1500円くらいとのこと。(但し29歳以下が最低一人いて、どんな野外活動をするのかの計画を提出する必要があるとの由) 今回行ってみてよければ、こんどは家族で利用してもいいかも、なぞとYと話をしている。
国立曽爾青少年自然の家 http://soni.niye.go.jp/
昨夜は寝床で子と芥川龍之介の「鼻」を子と代わりばんこに朗読した。図書館で借りてきたその芥川の本の、今日は「白」を読もうよと提案すると、それは以前にどこかで読んだことがある、と子が言う。そう言って子はじぶんで持ってきた「ドリトル先生の郵便局」を読み出したので、「白」を読んだことのなかったわたしはひとりでその頁をめくった。芥川がこんな子ども向けの話を書いていたとは、ちょっと新鮮な驚きである。
短い通勤の合間に、ユーチューブで拾い集めたディランの「The Bootleg Series, Vol. 8: Tell Tale Signs - Rare and Unreleased 1989-2006」の「幻の」三枚目を聴いている。ハイテンポでいかした Duncan & Brady が気に入っている。
子は今朝、「大きな蛇がずっとじぶんの後ろを喋りながらついてくる」という「とても怖い夢」を見た。それはどんな蛇なのかと訊くと、先日の初聖体のときに教会からプレゼントされた「マンガ 聖書物語 <旧約篇>」(講談社α文庫)を持ってきて蛇がイブに林檎を勧める場面を開き、この蛇だ、と言う。
2009.7.29
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夕方、子は市内のホールへ、キエフ・バレエ団のメンバーによる「白雪姫」を見に行く。席料が5500円と安くないため、一人での観劇だが、幸い仲良しのKちゃん親子が近くの席で、面倒を見ていただく。仕事から帰って夕飯のカレーを食い、ソファーに寝転がってバリー・ロペスの「極北の夢」を読みながらうつらつつらしているところをYに起こされて、「白雪姫」を迎えにあがる。いっしょに自宅まで送ったKちゃんのお母さんの話では、キエフといってもトップクラスのダンサーではないだろう、との由。どうだった? と訊かれたわが家の「白雪姫」は、「まあまあだったね。まあ、見に行った甲斐はあったよ」なぞとのたまい、帰ってから道化役の小人の真似などをして見せた。
舞台というのは、もちろんテレビの画面と違って、独特の臨場感がある。わたしも小さい頃に親が劇団民芸の会員に入っていて、何度か連れて行かれたが(倍賞千恵子に握手してもらったのもこのときだ)、あの舞台の上で見たもの、聞いたもの、体験したものは、いまでもわたしの中で姿かたちを変えて眠っているのだろうと思う。いつか、黒テントなんかへも子を連れていってやりたいな。
キエフ・クラシック・バレエ〜 「白雪姫」 http://www.koransha.com/ballet/kiev_classic_bal2009/index.html
劇団民芸 http://www.gekidanmingei.co.jp/
劇団黒テント http://www.ne.jp/asahi/kurotent/tokyo/
2009.7.30
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休日。10時前に車で橿原へ。先に、ボランティアの打ち合わせがあるYを国際交流センターで降ろし、12時半集合の子と二人で近くのショッピング・センターに入る。本屋でしばし時間潰し。むかし、もっと小さかった頃、子は図書館と本屋の区別がつかなくて、ある本屋で「これ、借りてってもいい?」と母に訊ねたのだった。いまではさすがに区別こそついているが、利用姿勢は変わらない。子は子で児童書のコーナー、わたしはわたしで専門書のコーナーを物色する。最近、本屋で本を買わなくなった。面白そうな本があっても、ネットの古書をあたってから、と思ってしまう。携帯のメモやカメラなどに控えたのは、平凡社ライブラリーの「日本残酷物語」全5巻、谷川健一の新刊「賎民の異神と芸能」(j河出書房新社)、中沢新一「狩猟と編み籠 対象性人類学2」(講談社)、シュタイナーの「マルコ福音書講義」(アルテ)など。11時半頃にフードコートへ移動する。子は大好きなここのたこ焼きを注文。わたしは、さて、何を食べようかと見回すものの、こうしたショッピング・センターのフード・コートは仕事柄飽き飽きしていて、どの店もいまいち食指が動かない。迷っていると子に「なら、お父さんもたこ焼きにしたら」と言われ、そうだな、そうするか、とたこ焼きをもうひとつ注文に行く。平日だが、夏休みとあって、12時頃には子どもを連れた家族連れでほぼ満席だ。近くの多目的トイレで子のおしっこ。駐車場の手前でトイレに水筒を忘れてきたことに気づいて、慌てて取りにいく。12時32分、集合場所の国際交流センター着。子を降ろして、受付をさせる。子を見てくれるという、わたしと同世代くらいのボランティアの男性が「しのちゃんですね」と寄ってきたので、「よろしくお願いします」と挨拶をする。受付が澄んでから、グループごとに仕切られた駐車場内のプレハブ小屋に入る。Yはすでに別のグループの部屋に入っているらしくて見当たらなかった。1グループ10人くらいの子どもの世話をしなければならないから忙しいのだろう。やや澄まし顔で、ちょっと不安げな面持ちの子がプレハブ小屋の敷居に靴を脱いで、見知らぬ子どもばかりがいる小屋の中へ入っていったのを見てから、車へ戻って帰途についた。家に戻り、PCを少々いじくってから、あまりの暑さに何もする気が起こらず、ソファーで子の「マンガ・新約聖書」を2/3ほど読んでから、小一時間うたた寝をする。家の中に子もYもいないと気が抜ける。ソファーに寝転がって、新聞をひろげ、ときおり机に向かっている子や家事をしているYを眺めたりするのが好きだ。部長からの電話で起こされる。本日期限の書類が届いていないとのことで、姫路の営業所へ催促の電話を入れる。夕方、予約していた歯医者へ行き、夕飯は王将か台湾ラーメンでも食べに行こうかとも思っていたのだけれど、面倒臭くなって駅前の西友ではまちの刺身と、明日の弁当用のから揚げ20%引きを買って帰る。暑いと洋楽も何だか五月蝿くて、細野晴臣の「マーキュリック・ダンス」と「omni Sight Seeing」のCDをひさしぶりにかける。日が暮れかけてから鉢植えの水遣りをする。子と種をまいたバジルが身を寄せ合うようにぎっしりと芽を出している。
細野晴臣 discography -solo http://dwww-hosono.sblo.jp/category/63905-1.html
北極地域に関する理解を深めるためにもっと有益な方法は、北極での毎年の太陽の動きを知ることだろう。温帯に慣らされた人間の眼には、北極における太陽の動きは不規則で異常なものに見えるかもしれない。明るい時間(昼)と暗い時間(夜)を分ける境界はきわめて曖昧で、それぞれの時間はときによって長すぎたり、短すぎたりする。
北極における太陽の動きを想像することはむずかしい。太陽についてのわれわれの思考が、北部温帯地域に定住するようになってからの一万年の歴史によって固定されているためである。また、空中生物でも、水中生物でもなく、地上生物であるわたしたちには、三次元的な思考をめぐらす機会が少ないことも障害となる。わたしがはじめてそのことを思い知らされたのは、冬季にアラスカ北部海岸のバローへと向かう飛行機のなかだった。時刻は正午に近く、わたしたちは北へと向かっていた。首をのばし、窓に顔を押しつけると、太陽が南の地平線近くに浮かんでいるのが見えた。二時間の飛行のあいだ、太陽はずっとその位置から動いていないように見えた。バローに到着したときも、同じ位置にあるように見えた。飛行機を降りてバローの村を徒歩で通りぬける途中、わたしはこのことをそれまで理解していなかったことに気がついた。極北では、冬には太陽はゆっくりと南の地平線に姿をあらわし、クジラが寝返りをうつようにほぼ同じ地点に沈んでいく。ここでは、太陽が東に昇り、西に沈む≠ニいう観念は通用しない。昼≠ェ、朝と午前と午後と夕刻からなるという通念は習慣にもとづくものにすぎない。文学や美術の通念であり、深く頭にしみこんでいるため、あらためて考えることさえほとんどない通念である。しかし、ここではその常識はまったく通用しない。
バリー・ロペス「極北の夢」
日が暮れていく時間帯。“昼”から“夜”へと移り変わる薄暮の段階の、光のおだやかな移行、それにまつわる影、空気の重さや匂い、肌の心地、眼の記憶などがゆっくりと変化していくさまを静かに堪能することができたとしたら、一日の僥倖である。太陽が地平にわずかだけ顔を覗かせたかと思うと、上昇をせずに曖昧な薄暮ののまま地平上を横すべりに周回する。そんな一日は、太陽光を充分に受け取れない動物や植物にとっては厳しい環境だろうが、かなり幻想的だろう。そこには1日を24時間に区切るわたしたちのメンタリティーとは別個の精神世界が存在するに違いない。別の時間、別の価値観、別の神話がある。
夜、「ダーウィンの悪夢」というドキュメンタリー・フィルムを見る。ケニア、ウガンダ、タンザニアの三カ国に囲まれた世界第3位の広さをもつアフリカ最大の湖・ビクトリア湖。この湖に数十年前に放流され、在来種や湖の生態系を破壊するに至った巨大な肉食魚ナイルパーチを巡るグローバリゼーションの風景。ナイルパーチの加工・輸出に群がる地元の企業家たち。一方で慢性的な貧困・エイズ・売春などの絶望的な環境下で生きる人々。加工工場から下ろされたナイルパーチの半ば腐った残骸を揚げ物にして売り歩く人々。ナイルパーチの梱包材を焼いた気体をシンナー代わりに吸うストリート・チルドレンたち。冷凍された大量のナイルパーチをヨーロッパへ運ぶロシア人パイロット(かれらはヨーロッパからアフリカの紛争地へ武器・弾薬を運び、帰りの便でナイルパーチを積んで帰る)。一晩10ドルでパイロットたちの相手をする売春婦たち。ちなみにこの癖のない白身魚のナイルパーチは日本へも大量に輸出され、ファミリーレストランや回転寿司、某ファーストフードの○○○○フィッシュ、学校給食などを経て、知らずわたしたちの胃袋にきっちりと納まっている。
ビクトリア湖の悲劇・ナイルパーチ http://www.asahi-net.or.jp/~jf3t-sgwr/inyushu/nairuparthi.htm
森達也×綿井健陽『ダーウィンの悪夢』を語る http://www.extravagance.jp/guardo/200701/16.html
2009.7.31
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例年、企画している子との夏のキャンプ。今年は天候が不順。加えてバンガローやコテージならいっしょに行ってもいいとYが言うので、ふむ、それならば・・・ とこの数日、奈良・三重・滋賀近辺のバンガローやオートキャンプ場をネットで根こそぎ検索して物色していたのだけれど、見れば見るほど「規格化された」キャンプ地、それにそこに群がる愉快な親子連れたち(わたしたちも確かにその一部だが)に混じることが苦痛になってきて、さんざキノコ型のマシュルームハウスやスイス風コテージなどをYにあれこれと見せておきながら、「やっぱりいつものようにシノと二人で、リーズナブルなテント泊にするわ」と伝えたのだった。そして子に「雨も自然のうち。その代わり川が危険と判断した場合は車で寝るかも知れないし、日帰りになるかも知れない。そのときはがっかりするなよ。それと今回はいつもの“白い岩”の場所に代えて、行き当たりばったりであちこちの林道に入って、新しいキャンプの場所を探すぞ」と宣言し、そうしていつもの山岳地図をひろげ、渓流沿いの等高線を探っている。
夜、子と二人、恒例のNHK「ダーウィンが来た 生物新伝説」のテングザルの生態を見る。続いて「エジプト発掘」(クレオパトラの妹の墓)を見る。子は最近、マンガ版の「日本の歴史」にはまっている。秀吉のことを「あのサルめ」と言ったり、「アテルイとモレ」の話をしたりする。「歴史」というものが子の心の内にどんなふうに入り込んでいっているのか、はなはだ興味深い。
2009.8.2
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大阪にある某大手契約先本社での会議を終え、奈良での某イベント計画が動き出す前にと、急遽三連休を組んで子とキャンプへ行くことにした。もう一日だけ出勤して、ひとつふたつ片づけ物をして、明後日の朝に出発の予定。野営地はまだ迷っている。雨が多いので土砂崩れが少々気にかかっている。それと火がおこせるかどうかによって食事の支度も異なってくるが、まあそのへんは行き当たりばったりでもよい。岩の窪みでも森の中でもバス停でも廃屋でも、人はどこででも寝れるしどこででも喰える。雨をしのぎながら何時間も雨粒を眺めていることもあれば、暴風雨が山の全身を唸らせているさまを息を呑んで凝視していることもある。落ち延びる鬼の親子のような旅をしたい。
寮さんから子に「黒い太陽のおはなし 日食の科学と神話」(小学館)が届いた。
2009.8.3
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5日、朝8時出発。橿原市内で給油、吉野川沿いの開店直前のスーパーで着火剤と食料を買い込む。夕食用→鶏もも肉、ウィンナー、養殖鮎の塩焼き、生しいたけ、とうもろこし、味ポン小瓶、缶ビール2本。朝食用→リンゴ、きゅうり、スティックパン。その他→チキンラーメン、午後の紅茶、お八つのチョコレート。吉野・宮滝を経て、川上村・大台ケ原方面へ。久しぶりの169号線を日本最後の狼の話などを子にしながら進む。道々の河原を見せて子に訪ねるが、「だめ。もっと奥へ」と子は納得せず、上北山村の道の駅(「トンビのひったくりに注意」の看板)で煙草と塩を買い込んでから、Uターンして行者環の林道へ入る。標高が上がるにつれて雨が降ってくる。途中の谷筋で水場を見つけてボリ容器に汲む。行者環のトンネルを抜け11時頃、結局、いつもの山上ヶ岳山麓の神童子谷に到着。めずらしく小学生の男の子2人とお父さんの先客がいて川に入っている。雨はわりと本格的な降り。とりあえずお昼を食べようかと、10畳用のブルーシートをロープで周囲の木々や石に結わえて臨時のタープを張る。先客のお父さんが手ごろな木の枝を支柱にと持ってきて手伝ってくれる。急に休みが取れたので、大阪から来た。毎年、ゴールデンウィークと夏休みにここの河原に来ている。素潜りで岩陰にひそんでいる岩魚を銛で突いて捕まえている、とのこと。「難しそうですね」と言うと、「案外、子どもでも充分に獲れますよ」とのこと。男の子は二人とも素潜り用のウェアに、水中メガネ、シュノーケルと完璧な装備だ。Yのつくってくれたベーコン巻きを次第に強くなってきた雨を眺め食べながら、バンガローでの宿泊を子に持ちかけるが納得せず「ここがいい」と断固として言い張るため、しばらく考えて野営を決意する。林道の車から運んだ荷物をタープ下へ集め、雨が小降りになったところを見計らって二人で川岸にテントを設営した。その後、雨も強くなってきたため、しばらくテントの中に寝転んで仮眠をとる。その間に岩魚を捌いて食べていた親子は帰ってしまったようだ。子は、天気の神様に挨拶をしたら雨がやんだという物語の話を披露し、「こんにちは」と山の端に向けて声を投げる。やがて、一時的だが雨がやむ。子は持参した手作りの弓に小枝を削った矢を用いて、ナルニア国のスーザンを気取った弓矢の練習をしたり、学校の宿題の一環である自由研究(見つけた昆虫などをスケッチする)をしたり、川原の石を拾い集めたり。夕刻になって夕食の支度。焚き火に小枝をくべながら、子は「森は生きている」に出てくる火の歌を歌い、ときに踊る。飯盒のちょうどいいオコゲに喜ぶ。鶏もも肉は塩をふり、バーベキューは味ポンであっさりと。養殖の鮎も、炭火で炙ると旨い。やがて夜の帳が渓流にも下りてきて、恒例の花火をやって、テントへもぐり込む。興奮して寝つかれない子と、ごうごうと響く川の流れの音を聞きながら、狭いテントの闇の中で寄り添いしばらく話をする。「最近、何か悩んでいることはないのか」と訊くと、「生まれてきたことによって、いつか死ななくちゃならないことが悲しい」と言う。また「イエスさまの復活や死んだら天国へ行くことは、実はいまもよく分からないけど、分からないままでいいと思っている」などとも言う。わたしはじぶんが子と同い年くらいに経験した祖父の死のこと、また死後も人格が継続することを確信していると言った知り合いの老牧師氏のこと、死を嘆くアーナンダに答えたブッダの言葉などを話す。インドの古代の遺跡の壁に残っているという言葉「イエスは言った。この世は橋である。渡っていきなさい。だがそこに冨を貯えてはならない」を紹介しているときに、子はすっと眠りについた。8時くらい。
6日。5時に目が覚め、テントから出て火をおこす。川に石で堰き止めて冷やしていた朝食(リンゴやきゅうりなど)と夕べの残りの缶ビールや子の午後の紅茶などがすべて増水で流されていることに気がつく。じきに子も起きてきて、二人で川下の方に流れ着いていないか探索するが見つからず、「総額で700円の被害だな」と笑う。よって朝食はスティックパンとチキンラーメンを二人で半分こ。入漁許可証を胸につけた釣り人の男性が遡行してきて声をかけてくる。昨日の岩魚をつかまえていた親子の話をすると、「そういう人たちがいるからますます釣れなくなる」と苦笑して上流へ上っていく。時折小雨の降る中、10時頃まで河原で遊ぶ。最後に炭火を川に投げ入れて、バーベキュー用のコンロを洗う。子はベランダに字を書くために炭を持ってかえると言って、川の中に散らばった炭を「砂金を探すように」(本人いわく)拾い集める。雨が本格的になってきて、最後のタープを撤収して車に乗り込む。狭い山道をぐねぐねと走る車の後部座席で子は12巻目のドリトル先生を読んでいる。「ちょっとはお父さんの話し相手をしてくれよ」ハンドルを握りながら。「わたし、疲れているからしばらく喉を休ませたいの」「本を読むのがおまえの休息か」「そうよ」 10時半頃、天川村中心部の河合にある食堂・角屋で早めの昼食。子はきつねうどん、わたしは地鶏の丼。携帯電話のエリア内に入った途端、Yからメールが二通、同時に届いていた。義母が腰痛で痛みがひどく、入院するので手伝いにいくとの内容。最初の一通目の送信はわたしたちを見送った日の昼すぎだ。電話をかけてみるが話中でつながらない。天河神社の近くにある村営の温泉へ入りに行く。夏休みのせいか入浴者が多い。休憩室で昼寝をしていると「お父さん、いびきが大きいよ。他の人に迷惑だよ」と子に起こされて不機嫌になる。「これからおばあちゃんの病院へ行ってみようか」と言うと、子もそうしたいと答える。Yと電話もつながり、これから向かう旨を伝える。天川から熊野川へ出て、そこから山間の集落・冨貴を抜けて五条へ至る林道(県道732号阪本五條線)へ入る。前半は路面に落ち葉の堆積した暗い植林用の峠越えの山道、後半は鄙びた、ときおり眺めのよい道。途中で「リトル・トゥリー」から名前を取ったという山猫軒のようなログハウス・レストランがぽつねんと、山中の三叉路に建っているのを見かける。有機野菜のシチューがメインメニューで、普段は農作業に出ているので予約は電話で、との手製の看板の但し書き。西富貴付近の山中で子猫の鳴き声に車を止める。びっこをひいていて片目も潰れているので、あるいは捨てられたのかも知れない。子は連れて行きたそうな懇願する目でわたしを見る。「だめだよ、連れては行けないよ。可哀想だけど、こいつも何とかじぶんで生きていかなきゃ」 同じ境遇だから余計に感情移入してしまうのが分かる。以前に葬式の花屋をやっていたときによく使った九度山へ行く道に出て、しばらくして紀ノ川を渡り、24号線に合流する。4時頃にかつらぎ町にある病院へ着いた。ベッドに横になった義母は、話をしている最中にも断続的な痛みが襲ってきて、顔を歪め腰をさすりながら身体の向きを変える。1週間前から同様の痛みが続いていたが、我慢して家事をしていたらしい。「圧迫骨折」という医者の見立てだが、痛み止めの座薬もあまり効かない様子。小一時間ほど様子を見て、Yを乗せて帰宅するが、夜に病院からYの妹さんのところへ連絡があり、先生から話があるのでもう一度来て欲しいと呼ばれた。日中は別の手術で都合のつかなかった担当の整形医が手術後、入院時に撮影されたMRIの画像を見て要請したのだ。圧迫骨折だけにしては痛みが酷過ぎる、別の要因も考えられるので調べる予定とのこと。昼間来ていったん帰った身内を夜に再度呼び出すのは只事ではないかも知れないとあれこれ、夜更けまでYと話し込む。
7日。義母の様子、特に詳細な病状と今後の検査予定が気になってYが病院へ電話を入れて訊くが、電話では身元確認ができないので直接会ってしかお話できない、との看護婦の回答。子が山の水をおばあちゃんに持って行きたいと言っているし、それならもういちど行こうかと、簡単な昼食を済ませてから再び和歌山の病院へ向かう。橿原バイパス、高田バイパス、新しく開通していた五條―橋本間を結ぶ京奈和道の一部を経由し、約1時間40分ほど。義母は空気式の固定装具で全身を包まれている。昨日よりは若干、痛みは軽減しているが、痛み止めの薬(6時間置きにしか使えない)が切れると激痛が再発するとのこと。しばらく病室で話をしていると、入口のところから看護婦がわたしを手招きで廊下へ誘い出し、「お身内の方ですか。ちょうどよかった。先生がお話したいとのことで、また呼びに来ますから」との由。しばらくしてYと別室で内科医に向き合う。当初は(義母が骨粗しょう症の治療で長年懇意にしていた)整形外科医も交えて話をするつもりだったが、外来が忙しくてしばらく離れられないようなのでとりあえずわたしの方から、と。膵臓と胆嚢と胃の一部に異状が見られる。おそらく8割方は癌だろうと思う。背骨の痛みも骨に癌が転移した可能性が高い。癌であれば通常、予後は1年から2年。胃カメラとCTスキャン、造影モニタなどで更に確認を行うが、胃カメラは現在痛みが酷いので無理かもしれない。今後の治療については、転移状況と高齢であることから手術や抗がん剤による処置は効果が期待できないと思われる。(最も可能性が濃厚である)膵臓の癌の痛みについてはモルヒネ等の麻酔で対応、骨の痛みについては放射線治療で対応することになるが、その場合は本人への説明・告知が必要となってくる、等々の内容。病室を出てくるとき、義母には先生の説明を聞いてくると言っておいたので、どんな説明をしようかとYと話し合い、Yが電話で妹さんと相談するなどして結局、ありのままを話しようという方向で確認する。ただ姉妹揃って本人へ話をしたいので、妹さんの仕事が終わるのを待つことにして、待っていたが整形の先生が揃わなかったので再度夕刻に呼ばれることになったと義母には伝えることにした。そんなあれこれや、またYが外の公衆電話で親類へ電話をかけにいったり、わたしがコンビニを覗きに行ったりするので、一人病室に残された子は必然、おばあちゃんの世話をせずにはおれない。食事も、起き上がれない義母の口に運んであげたりして、同室の別のお婆さんが、「わたしもあんなふうに世話してくれる小さな女の子が欲しいわ」と言っていたとか。夜7時半頃、妹さん夫婦が到着し、ちょうど手の空いた整形の医師を交えて話をすることになった。50歳代の、人間味のある人物。内臓の異状については内科医に任せるしかないが、今後の治療に際しては連携が必要である。痛みの原因となっている箇所については脊髄の7番目の骨の部分で、片側の損傷(骨が磨り減って欠けている)で神経を圧迫していると思われるが、残った片側を守るためにコルセット等で固定する。骨には変色が見られ、内臓の癌が転移した可能性がある。放射線を照射してそれを除去することになるが、場所が場所だけに下半身の麻痺等の後遺症が残る可能性は考えられる、等々。しばらく説明を伺ってから、長年診てもらって母が信頼している先生から説明をしてもらえると有り難いという妹さんの提案で、その整形のK先生から話をしてもらうことになり、みなで病室へ移動する。先生の配慮で、4人部屋の他の3人の患者さん(みな義母と同世代くらいのお婆さんだ)が看護婦に伴われ一時的に別の部屋へ移動する。義母に伝わったのは医者らしい誠実さで「8割方は癌」「予後は1〜2年」という内科医の推測を除いたほぼすべてで、「癌の可能性もあるから、くわしく検査する」という表現もあり、現段階では言えるすべてを正直に話してくれた、満足のできる内容であったと思う。「先生には、ありのままを話してくださいと頼んだから、これが全部だよ。隠していることは何もないよ」と、わたしはベッドの上の義母に声をかけた。「ありのまま、伝えたほうがいいよね?」「そうだよ。そうしてもらった方がいいよ」 義母もそう応える。この人には南無阿弥陀仏の信仰が根づいているから大丈夫のはずだ、とわたしは考えている。善い人が先に逝ってしまうのは本当だな、と思う。本当に逝ってしまうのか、と思う。泥棒のようにYを前夫から奪ってからの義父母たちとの年月が、急に懐かしくなって何やらあれこれと思い出される。大事な話が一段落して、忙しいはずの医師が遺産相続で長兄に権利放棄の判を知らず押させられたことを面白おかしく話している。バナナを大量に持っている人に限ってそれを誰にも分け与えないというブラジルの智者の言葉と似たような話をしている。それから子の病気の話になり、「(カテーテルで)おしっこを摂るのも馴れているから、いつでもしてあげますよ」とわたしが義母に言い、みんなが笑う。面会時間が終わった8時過ぎに、妹さん夫婦と揃って病室を出る。病院の玄関の前で立ち止まり、第一段階はとりあえず済んだけれど、こんどは検査の結果が正式に出て癌であることがはっきりしたことを伝えるもうひとつがまだ残っている、といった話をする。けれどたぶん、義母はもう覚悟を決めているだろうと思う。薄々、そう感づいている。再検査は月曜から始まる。夏休みの間、Yはいくどか(妹さんと交替で)子を連れて実家へ行き、一人になった父親の食事の世話などをする予定だ。高田のあたりで遅い夕飯を食べ、深夜に帰宅して、長い3連休が終わった。2009.8.9
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夜、実家へ行っているYから電話が来る。今日は内臓部のMRI撮影と、胃カメラによる検査があった。その後、夕方遅くになって、夏期休暇に入っている当初の内科医の代わりの医師のほか、内科の部長先生など計6名ほどが、大部屋から移った義母の個室に大挙してやってきて、再検査をしたが膵臓とその周辺には異常は何も見当たらなかった。(腫瘍があれば一部を検査用に摂取する予定だった)胃カメラも「取る必要すらない」ほどきれいだった。当初指摘していた膵臓の影は、(以前の手術で)胆嚢を切除した痕を見誤ったものだった。99%、癌はない。よって脊髄部の骨にも癌は転移していない、と。なお残りの1%をクリアにするために、和歌山市内の医療施設でPET(陽電子放射断層撮影装置)を使った精密検査を行いたい(救急車で日帰り搬送)。念のため大腸癌の検査も近いうちに行いたい。また骨の変色については原因を探るために針を打つ検査を予定している。以上のような説明をして、狐に化かされたように呆気に取られている身内関係者を後に、医師団たちは病室をひきあげていったそうな。
2009.8.11
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夏期休暇を目前にして頭ん中にプーケットの優雅な夕陽でもちらついていたせいか知らんが、「8割方は癌でしょう」という告知の重みを考えれば、やはり内科医の説明は軽率であったと言わざるを得ない。胆嚢の手術についていえば、入院時の問診表にも書かれているはずだし、実際に診察のときに義母もYも口頭で医師には伝えていた。義母が長年診てもらっていて信頼の厚い整形外科のK先生ーーー専門外として内臓器官については内科医の診断を踏まえて「骨への転移の可能性もある」と判断したわけだけれど、K先生が義母に直接説明をしたように、あの時点では「癌の可能性もあるので詳細を調べる」というところでとどめるべきではなかったか。数日の間、義母に近しい人間たちが縛りつけられていた「非情な鉄の領域」(Cold Irons Bound)の苦悩を量れば、たとえプーケットの夕陽を見せてもらったとしてもまだまだ足りない。「こんな病院は信用できん。病院を替わった方がいい」と義母の兄弟のおじさんなどは怒り心頭だったそうだが、わたしたちの感覚にしたら、「癌でなくてよかった」という安堵感よりも、「こんどの診察はほんとうにほんとうなのか? またどんでん返しがあるのではないか?」という疑心感の方が強いかも知れない。99%の癌の否定よりも、残り1%のところで、何か重大な見落としがあるのではないか、と疑ってしまう。
そんな信頼度の低い診察で今回は99%、癌の可能性を否定して頂いたわけだが、とくに実際に痛みを訴え続けている義母を目の当たりにしているYや妹さんにあってはこれで杞憂の一切が取り払われたというわけでは、もちろんない。骨の変色の原因がつきとめられたわけでもないし、「たんなる圧迫骨折にしては痛みが激しすぎる」とK先生が言った痛みの原因もまだ明確になったわけでない。圧迫骨折にしたところで、今後の手術等の処置で脊髄の損傷による後遺症が残る可能性も捨てきれない。つまり、将来の「余命」もそれはそれで重要なことだけれど、目の前の苦痛に耐え忍んでいる義母に日々接している者にとっては、ある意味で、状況的にはまだ何も変わっていないといえるのかも知れない。
「余命1〜2年」という宣告をそれぞれが腹の底にぶら下げていた頃、二回ばかり、Yと小さな諍いになったことがあった。
ひとつは、新しいPCを購入してから最近、子の撮り溜めていたビデオカメラの動画をせっせとPCへ取り込みDVDへ編集する作業をしていたわたしが何気に、病院のお義母さんへポータブルのDVDプレイヤーを買ってあげようと思っていると提案したときのことだ。彼女は物憂げに首を横にふって、「お母さんはこれから、いままでとはまったく別の生活が始まるのだから、そんな元気な頃の映像を見たら逆に辛くなるに違いない。やめた方がいい」と言った。否定されることを予期していなかったわたしは、そうだろうか? と反論した。人は自らの死を目前にして、じぶんのきしかたを振り返り、じぶんの一生を総括する必要に迫られるのではないか。そういうことは大事な「作業」なのではないか。過去を振り返ることが辛いかどうかは、人によるんじゃないか。もしもじぶんがお義母さんのような状況になって、死を迎えるまでに束の間の猶予を与えられたとしたら、むかしの記録やアルバムをめくっておのれのつたない一生をしずかに振り返ることだろう。それはじぶんにとって、死を受け入れる準備のようなものだろう、とわたしはYに言った。彼女はうなずきながらも、沈黙した。
もうひとつは、優秀な内科医から癌の説明を受けた数日後のこと。整形医のK先生から「癌の可能性もあるから検査する」という説明を義母にしてもらったものの、内科医の「8割方は癌」「予後1〜2年」は最終的な決定ではないのでまだ義母には伝えられていなかったわけだが、「最終結果」が出たとしても義母への説明はいわゆる是々非々で対応したい、とYが言ってきたときだ。理由は「ありのまま話してくれたらいいよ」と語っていた義母が、その頃になってひどく気弱な一面を見せ始め、Yいわく「これまでのお母さんと違う」ようになってきたことだ。いままでの義母の性格であれば見舞いでも、ある程度の時間が経ったら「もういいから、帰りな」と気遣うような人だったのが、いまやYや妹さんをたとえ10分でもなるべくそばに引き留めようとする。「お母さんは変わってきた」とYは言うのである。そして過去に先妻を癌で失くしたおじさんが言ったという「先が残されていないと知ると人は急速に生きる希望を失う。最後にはお前たち姉妹が決めることだが、(母親の)兄弟としてはできれば癌であることを知らせないままでいて欲しい。」という言葉を紹介して、「癌の告知をすることがお母さんにとっていいことなのかどうか、わからなくなってきた。だから検査の結果が出ても、お母さんの様子を見ながら事実を伝えるかどうか、もういちど考えたい」と。それに対してもわたしは「それは約束が違うじゃないか。“ありのままを伝える”と言ったお義母さんを裏切ることになるじゃないか。おれには約束を破ることはできない」と反論したのだった。そのときもYは受話器の向こうで、悲しげに沈黙するばかりだった。電話を切ってから、わたしはわたしで考え続けた。おれの言っていることは理想論じゃないのか。死に対するじぶんの理想の姿勢を押しつけているだけじゃないのか。かく言うおれだって、じぶんが本当にその立場に立たされたら、「何も伝えないでくれ!」と耳をふさぐかも知れない。それでも、人の最後の瞬間まで嘘をつき続けるのはどうしても嫌だった。
考えた。告知をされる側と、告知をする側。その瞬間に、一方は死という深い未知の裂け目にたちまちのうちに呑み込まれ、一方は日常という連続性に居残る。両者の間には決定的な乖離がある。埋めがたい、手を伸ばしてももはや互いに届かない、絶望的な距離が発生する。だが、考えた。告知をする側だって、本来的な意味ではもともと告知を受けている存在ではないのか。どのみち宇宙空間を流れる永遠のような時間に比べたら、30年も1年もそう大した違いがあるわけじゃない。ただ一方はそれを忘れていて、一方はそれを思い出しただけだ。
2009.8.12
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ヒサアキさんのブログで知ったユジュ・ワン(Yuja Wang)という北京出身・ニューヨーク在住の若手女性ピアニスト(弱冠22歳)の動画をユーチューブで漁っていたこのごろ。とうとう今年の春に出たばかりというデビュー・アルバムを、アマゾンの中古(1000円)で買ってしまった。この人はテクニック的にはたぶん、もの凄い。けれどそれだけじゃなくて、音そのものが明晰で力強く、主張があり、加えてジャズ風な柔軟さや遊び心も節々に垣間見られて、それが全体的に新鮮ではちきれそうな魅力を醸し出している。ちょっと勝気そうな顔もキュートだしね。アルバムの方は老舗のドイツ・グラモフォンともあってショパン、リスト、リゲティと手堅い選曲で占められているが、個人的には1曲だけ入っているスクリアビンがいちばん好きだ。彼女には今後、ジャズ・クラシック、現代音楽などのはざまでの野心的な挑戦を期待したい。クセナキスとか、サティの「シネマ」なんかも、彼女の演奏で聴いてみたいな。
ユジュ・ワン オフィシャルサイト http://www.yujawang.com/
やはりアマゾンの中古で「宮崎駿 風の帰る場所 ナウシカから千尋までの軌跡」(ロッキンオン)を370円で衝動買いした。子がさっそく見つけてぱらぱらとめくり、ふんふん、なぞと言っている。聞き手の渋谷陽一は洋楽雑誌「ロッキンオン」の匂い自体がそうだったけれど、会話の流れをつくろうとするセツメイが何やら理屈っぽくって時折鼻につく。相手側にすっと入り込んでたわむれる訊き方ではなくて、常にじぶんの理屈の方へ引っ張り戻して確認しようとする癖が読み手の流れを寸断してしまうような、あえて言葉で説明しようとするとそんな感じ。まあ、それは差し置いても、宮崎駿自身の語りは平明で、自然に屈折していて(?)鋭く、やはり愉しい。「入口と出口が同じ」だというディズニー批判もまさに然り。そういう意味では、わたし的にはおのれの感覚を再確認するための一冊かも知れない。
今日は休日。朝から洗濯をして、ベランダの植木の整理などをする。小鳥のピースケの餌を吹き、水を代え、バジルの新芽を与える。ユジュ・ワンのCDをかけて、久しぶりにインドの香を焚く。昼前にYから電話がくる。これから実家を出て、病院に2〜3時間ほど寄ってから、夕方に帰る予定との由。明日は子の整形の診察(骨折の予後)がある。義母の具合を訊くと、「もう痛み止めの座薬をしてもらわなくてもいいくらいになった」と言う。隣で子が「すごいパワー」と叫んでいるのが聞こえる。月曜日からコルセットを装着しているので落ち着いてきたのかとも思うが、とりあえずは一山越えたというところか。
2009.8.13
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義母の「誤診」について、Yはこんなことを言う。
内科医から癌の告知を受けたとき、間違いであって欲しい、と切実に思った。ふだんはお祈りのときに願い事などはしないのだが、そのときばかりは、間違いであってください、と祈った。もしかしたら、その祈りが聞き届けられて「奇蹟」が起きたのかも知れない。そうだとしたら、あの内科医には申し訳ないことをした。そんなことを、冗談ともまじめともつかない顔で、彼女は言うのである。
もうひとつ。
告知を受けた数日後、泊まりに行った実家で深夜、Yは父親の寝言に目を覚ました。それは「もうちょっとあとにしてくれよ〜」とすすり泣くような寝言であった。タンカー船の機関長をしていた義父はもともと饒舌な方ではないが、耳が遠くなってからはさらに口数が少なくなった。Yは悲痛な内容だけに、父親を起こすのをためらった。そのまま、聞かぬふりをした。翌朝も本人にそのことは伝えなかったという。
2009.8.15
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以前にこの項で少しばかり触れた芥川の子ども向けの童話「白」のことだが(2009.7.29)、数日前、「あ、そうだ」と子がその作品の収録図書を唐突に思い出して持ってきたのが、ポプラ社の“よんでおきたい文学”シリーズのうちの一冊「どんぐりと山ねこ」であった。昭和41年の発行で、だいぶ古い本なのだけれど、「子どもの文学研究会」というところが編纂している全10巻もののシリーズである。芥川の他にも、椋鳩十、新美南吉、坪田譲治、林芙美子、宮沢賢治といった知った名前もあれば、わたしの知らない作家の名前も多い。「これがねえ、まあお父さん、読んでみてよ」と子のすすめでめくった椋鳩十の「暗い土のなかで行われたこと」は、地中の巣の中でもぐらの子どもを狙うアオダイショウと子の命を守るために命がけで闘うもぐらのお母さんの話で、最後の「これは、だあれも見ている人のいない、死んだようにしずかな、暗いくらい、土の下の世界でおこなわれた、できごとでありました」という一文が実に象徴的で、心に残る。ついでめくった浜田廣介という作家の「五ひきのやもり(神はまことを見せたもう)」には、さらに驚かされた。板の裏側から打ち付けられた釘で身体を固定されてしまったやもりのお父さんがそのまま生き延びて、小さな子どもたちに釘を軸にしておのれの身体をくるくると回転させて見せて笑わせる。そうして10年後に偶然、羽目板がはがされて、「ひとつの家族が、くしざしのやもりを守って、ながいあいだ、くらしてきた」のを家の子どもが見つけ、「おーい、みんな、きてみないか」と家族を呼び寄せるところで、この掌編は終わる。この突飛な着想、それを淡々と綴った筆致と、さりげなくやさしい構成力には思わず“こんなすごい童話があったのか”と唸ってしまった。このシリーズのうち4冊を子は昨年、図書館で行われたり・ブック・フェア(古書のリサイクル市)で見つけてきたのだが、「これはとっても面白い話ばかり載っていてねえ、他の本も読みたいのよ〜」という子の言葉に押され、さっそくネットで検索してみた。さすがに古い本だけあって、また最近はこうした内容ははやらないのかも知れないが、すでに絶版であった。あれこれと検索を重ねてやっと、子の持っていない6冊のうちの2冊をネットの古書店で見つけ(共に500円ほど)、2冊をヤフーのオークションで見つけて入札した。残り2冊の「坂道」と「彦市ばなし」はどうしても見つからない。復刊ドットコムでもリクエストされているようだが、これはぜひ再版して欲しいシリーズだな。スポンジのようなやわらかな子どものこころに、童話は沁みていく。たったひとつの小さな物語が、醗酵した藍草のように子どものこころを忽ちに染め上げる。食事の最中でも延々と読んだ本の話をしてやまない子を見ていると、この子の頭の中にはどれだけ無数の物語がつまっているのだろうか、と考える。いや、頭の中ではない。物語はきっと腹の中を色とりどりの模様で染めて万華鏡のように日々くるくると回っているのだろう。
ユーチューブで見つけた下地勇の「おばぁ」につかまる。下地勇は何年か前に大阪ドームで行われた「沖縄フェスティバル」の半日コンサートで見た。ディラン風の言語速射砲的なスタイルが印象的で、心に残った。それにしても沖縄のアーティストたちが歌う歌は、どうしてこんなに心に沁みるのか。夫を亡くした老婆のかなしみを孫の視点から歌ったこんなやさしい歌は、もう「内地」ではどこを探しても見当たらないだろう。失意の日々から立ち直り「子どもや孫たちを、私が見守っていかなければ」と笑うおばぁ。「いつまでも、いつまでも、長生きしてください」と祈る孫。当たり前の風景が、豊かになった「内地」では絶えて久しい。つまりわたしたちは、「失ってしまった当たり前のもの」に涙を流すのだ。それにしてもやっぱり、この歌は美しいね。かく言うわたしも涙がこぼれそうになる。
YouTube http://www.youtube.com/watch?v=0Rjl0XOfhPM&feature=channel
下地勇オフィシャルサイト http://www.isamuword.com/
Yは子を連れて、今日からふたたび実家へ。週末まで。
2009.8.17
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夜中にいたたまれなくなって布団の上で、岩波文庫の色褪せた「ブッダのことば」をめくった。水場のない山中で喉の渇きに耐えかねて濡れた石ころをがつがつと喰らうみたいに。
2009.8.18
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義母はPET(陽電子放射断層撮影装置)の結果も問題なく、近々退院の見込み。骨の変色は特に悪いものではなく、痛みが酷かったのは圧迫骨折の痛みを長期間我慢して動いていたために悪化したということらしい。外科的にはそんな状況で、数日内に内科医の許可が出れば退院、と。コルセットはまだ装着しているが、ひとりでトイレも行けるようになった。退院が見えてきて、さて、入院保険の申請を思い出した。郵貯と外資系保険会社のサイトを検索して申請手順を確認し、実家の近所にいる親類のおばちゃんが義母から伝えられた箪笥の抽斗に証書を探す。それからトイレの改装。コルセットをつけたままではお尻が拭きにくいということで、急遽ウォシュレット化と手すりをつけることになった。これは親類の米屋の息子が電気屋をやっているので、知り合いの職人にも声をかけてすぐに見積もりができあがった。わたしはWebでウォシュレット取り付けのチェックポイントや、ウォシュレットをじぶんで取り付けるマニュアルなどを見つけて折角プリントアウトしたのだが、「ぜんぶやってくれるからいいのよ」とあっさり返却された。親類パワー、恐るべし。
ちなみに義母の入院中、日頃から手足の痺れや肩こりなどに悩まされているYも、義母の信頼する整形の先生に診察をしてもらった。首の骨が磨り減って神経に当たっているのが原因らしいが、これは年齢と共に誰でも起こる症状で、問題はそれをサポートする周辺の筋肉が弱いためで、とりあえずは毎日欠かさず行う首の運動を教えてもらってきた。またリウマチの可能性もあるが、これは来月の上旬に再度、詳しい検査をしてみるとの由。歳をとるといろいろ出てくる。そんなわけで最近はなかなか触らせてもらえない。
土日は連休の予定。明日は午前中に子が習字教室、夕方にわたしが歯医者の予約があるので、日曜に大阪・中之島でやっている「ルーブル美術館展」でも見に行こうかなぞと話している。
2009.8.21
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連休初日。
Yは身体のためと早朝のウォーキングを始めた。小一時間、近くの土手周辺を歩いてくる。
子は朝から習字。その後は溜まっている宿題の「処理」。金魚についての調べもののネット検索を手伝う。ほんとうは市内にある金魚資料館や養殖業者などを訪問して質問するはずだったのだが、「時間がないから、もうぜんぶインターネットでいいわ」と。読書感想文は例のポプラ社“よんでおきたい文学”シリーズに収録されている「黒たかをつぐもの」。ネイティブ・アメリカンの少年の通過儀礼の話。
わたしはひねもすソファーに寝転んで、図書館で取り寄せてもらった森巣博「蜂起」を読了する。組織的陰謀で警視庁のエリート職を失い、同時に妻子からも見捨てられる男。全国的な右傾化で逆にシノギを失い没落する正統派右翼の塾長。上司に体を開きながらリストラにあうキャリア・ウーマン。父が列車に飛び込み、母がバカラに狂ってしまった、16歳のリストカット少女。それぞれに狂わんばかりの膿を抱えながらかろうじて保っていた皮膚が破れ、公共機関は自殺者のために運行できず、右翼少年はガソリンを乗せたバイクでトラックに突っ込み、プッツンした機長が旅客機を大阪のビルへ墜落させ、頻出する放火の炎が首都のそちこちを舐め、何万というホームレスが皇居周辺に集結して政府は見せしめにそれらを「制圧・処分」する。案外、革命というのはこんなふうに起こるのかも知れないな。「社会」というシステムの自壊であり、どっかのエコCMに例えれば、画面に登場したリスカ少女が“明日の革命では間に合わない”と言って手にした産経新聞に百円ライターで火をつける、みたいなもんか。
昼はハム・たまねぎ・しめじなどでチャーハンをつくる。ぱらぱらに仕上がって好評。
近くの公園で子とバトミントンをしてから夕方、わたしは歯医者へ。待合室で漫画「Dr.コトー診療所」を読む。終わってから図書館でYと子に合流。半藤一利の「昭和史」(平凡社)を借りてくる。家に帰って、Yが用意していたいのしし肉の冷しゃぶの夕飯を済ませ、浴衣に着替えた子と二人で近所の夏祭りに行く。恒例のカキ氷を食べ、素人集団の踊りを眺める。けばそうなお姉ちゃんがきらきらと輝いて踊っているのを見るのは好きだ。踊り手に誘われて日系ブラジル人風の男女が輪に入る。照れながらも、曲が始まれば愉しそうにリズムに乗っている、その表情がいい。インドのホーリーの祭りの日に、見知らぬインド人たちから色粉を塗りたくられたわたしが味わったちょっぴりの連帯感のようなものかなぞと考えながら、ふだんはどこかの工場の製造ラインに立っているのだろうかれらの愉しげな姿を眺めた。踊りが終了してから、Yにわらび餅を買って帰る。
シャワーを浴びてから子と二人で、昨夜録画しておいた文楽の「義経千本桜」二段目「伏見稲荷の段」を見る。40分ほど。続いて「渡海屋(とかいや)・大物浦(だいもつのうら)の段」も見たいというのを説き伏せて寝床へ行く。21時半。
2009.8.22
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大阪・中之島にある国立国際美術館にて「ルーヴル美術館展 美の宮殿の子どもたち」を観覧。ところが館内のレストランでお昼を済ませてから、何気に足を延ばした別フロアで開催中の「やなぎみわ 婆々娘々(ポーポーニャンニャン)!」がメインのルーヴルを完全に喰っちまった! 何の予備知識も先入観もなかったから、余計ガツンとヤラレたのかも知れない。強烈でシュールな老婆たちが並ぶ特大カラー写真の森(マイ・グランドマザーズ・シリーズ)を抜け、残酷と死の匂いがぷんぷんと漂うモノクロ・トーンの世界(寓話シリーズ)の途中で子宮のような闇のトンネルを抜けたと思ったら、そこにはしわくちゃに垂れた乳房を振り乱し砂漠に屹立する巨大な老女たちの姿が並び(ウィンドスウェブト・ウイメン・シリーズ)、会場の隅に設置された黒いテントの奥のスクリーンではその黒テントを背負って砂漠を移動する彼女たちの静と動の不思議な映像が流されているのだった。いったい何なんだ、この突き抜けるような活力溢れる老婆たちのおぞましくもパワフルな多面体世界は! やなぎみわ作品のこの強烈な体験は、続いて見た別企画「慶応義塾をめぐる芸術家たち」のふだんなら充分に魅了されただろう西脇順三郎、瀧口修造、イサム・ノグチらの作品さえもその影を薄くさせてしまった。アートとは本来、こういう爆弾みたいなものなんだろうな。価値を逆転し、感覚を錯乱させ、気がつけば剥き出しにされた存在のぎらぎらした輝きを前に立ちすくんでいる。やなぎみわから、しばらく目が離せない。
●My Grandmothers Series l マイ・グランドマザーズ・シリーズ
一般公募したモデルに「50年後の自らの理想の姿」を問いかけ、イン
タヴューを繰り返すことで浮かび上がった老婆像を、特殊メイクやCG
を用いて作品を完成させたこのシリーズは、作家とモデルとのコラボ
レーションにより生まれた作品であると言えよう。モデルが思い描く
将来像は、やなぎにとっても理想の祖母たちであり、祖母像の種類が
多ければ多いほど、自分の将来の可能性が増すかのように、やなぎは
多様な祖母像を生み出し続けている。
●Fairy Tale Series l 寓話シリーズ
2004年から2006年にかけて制作された写真と映像からなるシリーズ。
グリムやアンデルセン、また世界各地で語り継がれた寓話や説話、あ
るいはガルシア・マルケスの小説などから老婆と少女が登場するストー
リーをベースに、子どもがマスクをかぶり老若の両方を演じることで、
物語に登場する老女と少女は交換が可能であり、幼いものの持つ無垢
さと老女の校滑さは、その多くが男性の視線で描かれた女性像の表裏
であることを表現している。
●Windswept Women Series l ウィンドスウェブト・ウイメン・シリーズ
2009年6月7日から開催されている第53回ヴェネチア・ビエンナーレ
日本館で初めて紹介された新作。荒野にすっくと立ち、はちきれんば
かりの豊かな胸をゆらしながら、どこからか聞こえる音曲に体を揺らす
老女の姿,、一方でかつては豊かであったろう胸を見せ、同じように
髪の毛を振り乱しながら踊る老女。老若の交換を見事に描き切った
〈フェアリー・テール〉シリーズの延長線上に位置しながら、異なる世代
の女性たちの集いを家族写真のように見立て、老若、虚実、生と死の
社会通念をかく乱させようと試みている。※以上、個展パンフから
朝日新聞社「ルーヴル美術館展 美の宮殿の子どもたち」公式サイト http://www.asahi.com/louvre09/
国立国際美術館 http://www.nmao.go.jp/japanese/home.html
やなぎみわオフィシャルサイト http://www.yanagimiwa.net/
2009.8.23
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昨日から少々風邪気味で、新型インフルエンザのこともあるので、今日は本日クライアントへ提出の資料だけを午前中に完成させて早引けし、午後に病院へ行ってきた。幸い、ふつうの夏風邪とのこと。薬をもらい、熱も朝よりは下がってきた。それよりまた名古屋で新店立ち上げの話が持ち上がっているようで、そちらの方で熱が上がりそうだ。明日は一日休養をとる予定。
Yは火曜から子を連れて実家へ行っている。義母は明日、退院予定とのことだが、まだ腰の上げ下げに痛みがあるらしいので、帰ってからの日常生活は今までどおりにはいかないだろうと思う。義母の携帯から電話があり、「熱があるのにすまないねえ。なるべく早く(Yを)帰すから」と言うので、こちらはまったく心配無用の旨を伝える。
布団の中で図書館で借りてきた半藤一利「昭和史 1926-1945」(平凡社)を読了する。靖国神社の合祀問題とか何とか言っても結局は、呆けた頭の指導者にやはり呆けた頭の国中の熱狂が乗っかって300万もの人間を殺したのだろうと思われる。って、いまとおんなじか。それから、やなぎみわ絡みでアマゾンにて購入した雑誌「夜想」のドール特集(2004.10)の空蝉のような人形たちを漫然と眺めている。
2009.8.26
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布団の上で、あるいはソファーの上で寝転んで、沖浦和光編「佐渡の風土と被差別民 歴史・芸能・信仰・金銀山を辿る」(現代書館)をめくる。1章を読んではうとうととして眠り、目覚めてまた次の章を読みすすむ。金銀山に湧く荒波の孤島にたどり着いて一大遊郭を形成した熊野比丘尼たち、猿楽師の出自ながら家康に才覚を買われて金銀山の経営で財を成しながら没後に謀略の罪を被せられて一族を皆殺しにされた大久保長安、いまも佐渡の祭りを豊かに彩るもろもろの芸能を伝播した名もなき遊行者たち、あるいは時宗の一派、ホイトと呼ばれた者たち、山師や金堀師たち、そして坑道の排水のための特殊な道具づくりに従事した樋つくりや皮なめしといった職能民たち。どこか陽炎にも似た静かな日中のまどろみと覚醒のはざまを行きつ戻りつしながら、何だかわたし自身も「紅なる木綿もて、目より下を覆ひ」垂らしたせきぞろの一人にでもなって家々の門を訪ね歩いているような心持になってくる。かれらのような人々の、正史には決して載らない境涯に思いを馳せるときに、わたしがどうしようもなく感じてしまうこの親しみのような感情は結局何に由来するのだろうかと考えてみるが、よく分からない。よく分からないけれども、かれらの現在では殆ど掻き消えてしまったようなその足跡をひとつひとつ辿っては、あれこれと空想してみることがわたしにとって仕合せな時間なのだ。そんな中世の夢にまどろんでいると、ときおり選挙の宣伝カーの姦しいスピーカーの声にびくりと空想を破られる。そういえば昨日読んだ半藤一利「昭和史 1926-1945」(平凡社)の中に、真珠湾攻撃が報道されたときのこの国の文学者たちのコメントがいくつか載っていた。
「(これは)ヨーロッパ文化というものに対する一つの戦争だと思う」(中島健蔵)
「対米英宣戦が布告されて、からっとした気持ちです。・・・聖戦という意味も、これではっきりしますし、戦争目的も簡単明瞭となり、新しい勇気も出て来たし、万事やりよくなりました」(本多顕彰)
「大戦争がちょうどいい時にはじまってくれたという気持ちなのだ。戦争は思想のいろいろな無駄なものを一挙になくしてくれた。無駄なものがいろいろあればこそ無駄な口をきかねばならなかった」(小林秀雄)
「勝利は、日本民族にとって実に長いあいだの夢であったと思う。即ち嘗てベルリによって武力的に開国を迫られた我が国の、これこそ最初にして最大の苛烈極まる返答であり、復讐だったのである。維新以来我ら祖先の抱いた無念の思いを、一挙にして晴すべきときが来たのである」(亀井勝一郎)
「戦いはついに始まった。そして大勝した。先祖を神だと信じた民族が勝ったのだ。自分は不思議以上のものを感じた。出るものが出たのだ。それはもっとも自然なことだ。自分がパリにいるとき、毎夜念じて伊勢の大廟を拝したことが、ついに顕れてしまったのである」(横光利一)
いよいよ政権交代実現かと世間はメディアも含めてあれこれと騒いでいるけれど、わたしにしてみれば今回の選挙にしろ、前述した真珠湾攻撃の浮かれた熱狂のミニ版さながらのようにも思えてしまって、何ら感慨も湧いてこない。自民党と民主党って、いったい何が違うのさ。名前が違うだけか。数年後にはいっしょになって、平成の大翼賛政治体制が固まるわけだ。ひとつだけ言えるとしたら、わたしの愛する名もなき遊行者たちはきっと、そんなものに熱狂したりはしないだろう。関ヶ原の合戦の勝敗を知ったからといって「これでいい世の中が来る」と叫んだりしない。かれらはもっと醒めていて、したたかで、そしてきっとクールなはずだ。衣装や道具を抱えて、また次の見知らぬ村へ歩いていくだけだ。もっと別のものを見据えている。地べたのすれすれを。
2009.8.27
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沖浦和光と宮田登の対談を収めた共著「ケガレ 差別思想の深層」(解放出版社)を読んで、高取正男「神道の成立」(平凡社ライブラリー)を注文する。
【沖浦】 死穢については、宮田さんの『ケガレの民俗誌』(人文書院)でも、高取正男さんの提出した葬制論を受けて、死穢についての禁忌意識が国家権力によって人為的につくられたと述べておられましたね。(高取正男『神道の成立』、平凡社、1979年)
【宮田】 これはきわめて重要な民俗的事実に基づく議論でして、高取さんは、家屋敷の中あるいは屋敷に付属した場所に墓を作る例が、民俗としてはかなり普遍的であったことに注目されました。死穢との関連からいえば、『延書式』にあるように死穢は強力な汚染源ですから、死穢のこもる空間に接近して日常生活空間があることは考えられません。もし死穢を怖れるならば、葬地は人家を離れた場所に設けるのが本来の姿でしょうが、その逆の傾向を示していたわけですね。屋敷の付属地に旧墓地がありながら、明治に入って、中央政府の行政指導によって、遠隔の新墓地へ移転させられた事例などから、「屋敷の近くに埋葬地をもつことも、由来ある古い習俗」だと高取さんは考えたのですね。
【沖浦】 つまり、民衆はもともと死穢を怖れていなかったということですね。
【宮田】 そうです。『日本後紀』797年(延暦16年)正月25日の条には、山城国(京都府中・南部)の愛宕・葛野郡の人が、死者あるごとに、家側に葬ること「積習常となす」状態だった。ところが、天皇など貴人たちの住む都に接近しているため凶穢は避けねばならないことから、その民俗を禁止したと記されているんですね。この点に高取さんは注目した。そして、古代律令政府も近代明治政府も同じ態度で、死穢をケガレとして臨んでいるとして、「平安初頭以来、死の忌みについて神経質であったのは中央政府の側であり、庶民のほうは死者を家のそばに埋葬してもべつだんなんとも思わないというのが本来の姿であったらしい」 と強調した。
【沖浦】 これは死穢観の発生史についての重要な指摘ですね。「死のケガレ」のイデオロギー性がはっきり語られています。
【宮田】 高取さんが指摘したように、庶民の日常次元で、死穢に対する忌避や嫌悪感があまり強烈ではなかったとすると、『延書式』以後からしだいに強化されていった「触穢」に関する民俗知識は、明らかに、国家次元における人為的操作に基づく結果であるといっても過言ではないと思います。
沖浦和光・宮田登「ケガレ 差別思想の深層」(解放出版社)
続けて沖浦は、インドネシアのスラウェシ島の先住民トラジャ族を訪ねたとき、かれらが身内の遺体を収めた棺を二年間、じぶんたちのベッドの横に安置していたことなどを紹介している。かれらにとって葬儀は一大イベントであってその準備に1〜2年を要するため、昔は薬草で、現在は化学薬品で遺体に防腐処理を施して生者と「添い寝」をするわけだ。考えてみれば古代の天皇家などでも、殯(もがり)といって数ヶ月、時には数年にも及んで遺体を家屋内に安置していたのは周知の記録だ。その間にもちろん、生者は遺体の腐敗・白骨化などの変遷を目の当たりにすることになる。おなじように白骨化していく遺体の前で酒を呑み、歌をうたい死者を哀悼する沖縄のかつての風習もそうだし、さらに遡れば、たとえば縄文人は生後まもなく死亡した幼児の遺体を甕に入れ、みずからの住居の入口に埋めていた。
話を女性の月のもの(月経)に移す。いわゆる三不浄のもうひとつである「血穢」によって、女性の生理現象はいつからか「穢れているもの」とされた。ところが記紀における次のようなヤマトタケルとミヤズヒメの話を沖浦は紹介する。
【沖浦】 女性の月のもの----そのケガレを考える時には、記紀に出てくる有名な話ですが、ミヤズヒメ (美夜受比売・宮簀媛) とヤマトタケル (日本武尊・倭建命) のやりとりが、まず挙げられます。ミヤヅヒメは訪れたヤマトタケルに、馳走を用意して捧げるのですが、ヤマトタケルはその時点でまだ彼女が一人前の成人した女性ではないということで、性行為をしないで、戦争に行ってしまう。そしてタケルが帰ってきたところで、ミヤヅヒメがまたご馳走を用意するのですが、その時、裳裾に「月のもの」 のしるLがみえた。それを知ったタケルはその夜彼女と交わるわけですね。これはよく知られた話です。この事例は民俗学でもよく取りあげられます。月経そのものは「神のしるし」であって、ヤマトタケルは来訪神の一種だったと考えるのです。巫女に月のものがあるとき、それは神の啓示だという、尊いものとしてとらえられているわけです。
(同掲書)
つまりここには「価値の逆転」がある。ことはもうひとつの三不浄、「産穢」についてもおなじようなことが言えるだろう。次は宮田の言を引く。
【宮田】 産穢の問題を考えるとき、血に対する恐怖感は、人類共通のものではないかと思うわけです。概して出血は死とつながるものですから、血椀、産穢、月経、それらが死穢へとつながっていきます。ケガレというふうに考えた場合、ケガレという状態が血を不浄なものとみるのか、生命の誕生に結びつく尊厳なものとみるかその違いによって、意識が決定的に異なってきます。プラスの方向で考えるとすると、たとえば出産の時には大量の出血があって危険だから、ちゃんと隔離して安全なところで子どもを産んでもらわなくてはいけない、そういった配慮で生じてきた-----それを産穢だとすると、それはそれで筋が通るわけです。ところが、不浄なものとして排除しなくてはいけないので、産穢や血穢として日常社会から差別するという思想が生じてくると、たとえば仏教の「血盆経」のような、「血の池地獄」のようなものになります。
(同掲書)
ここで面白いのは、鎮護国家の仏教や国家神道の仏や神々たちが出産をケガレとして見なして避けているとき、生命の危険を冒して産屋で奮闘している女性のもとへ顕れる神がいたということだ。それは土地の「産神(うぶがみ)」であり、もともとは山の神、血穢を恐れない狩猟民の神であった、と宮田は述べている。山の神が産神となって出産に立ち会う。ケガレなどものともせず、新しい生命誕生の瞬間に付き添ってくれる。産小屋について、もう少し二人のやりとりを引きたい。
【宮田】 産小屋は、神話の時代から海辺に設けられていて、そこで赤ん坊を産んだようです。トヨタマヒメが海辺の小屋で産んだという有名な故事が記紀神話にありますね。海辺の砂は白い砂で、その砂にまみれて赤ん坊を産む。ウブスナ (産土) という言い方がありますが、出産のときに海と陸との境目に小屋が設けられて、そして別な世界から生命が誕生するという厳粛な行事だった-----そう神話は伝えているのです。
【沖浦】 南西諸島のニライ・カナイ信仰に近いですね。新しい生命は、海の彼方の楽土であるニライ・カナイからやってくるという……。
【宮田】 ええ、そうですね。この神話の舞台は南九州ですから、南西諸島の民俗文化と深い関わりがあったと考えられますね。話は変わりますが、赤ん坊が生まれたのは橋の下からとよく言いますね。「おまえは橋の下で拾われた」などと、小さい女の子が母親から言われて、ショックを受けて、大きくなっても自分は本当に親の子か、なんて考えているという話はよくあります。赤ん坊の生命は、川のほとり、橋の下という水際の境から、こっち側の世界にやってくるという考えが、日本文化の中に潜在的にあったんですね。海辺の水も同様だと思います。
【沖浦】 私が知っている限りでは、産小屋はたいてい河原にあります。やはり水辺ですね。古代では海辺のような聖なる水際だったわけですが、近世ではケガレが多い河原に隔離されて出産する。そこで出産前後の何十日間、つまりケガレがとれるまで、男の前に顔を見せないで自炊して生活する。京都府のどこでしたか、そこの河原にそれが現存しており、重要文化財となっています。
【宮田】 河原にあったということは、ケガレを水に流せるという……。
【沖浦】 それもあったでしょうが、賎民の多くが河原に住んでいたから、河原そのものが穢れた場所というイメージも作用していたのではないか……。それが産のケガレと結び付けられたのではないか、そのようにも考えられます。そういう意味では、聖なる水辺にある「河原」は、<聖>と<ケガレ>にまたがる両義的な存在だったと言えるかもしれません。よく考えてみると、「産小屋」そのものが両義的な性格をもっていますね。
(同掲書)
ここで触れられている京都府下に現存する産小屋というのは、福知山市三和町大原にあり、大正時代まで実際に使用されていた。いくつか下にリンクを置いておく。このうち京都新聞のサイトにある、出産の夜に「産屋の柱をゆっくりと上がっていく」蛇を見たというのが産神の化身である。近くに鎮座する大原神社の宮司が語る「出産は危険が伴う行為。新しい命は先祖の力を借りて生まれてくる。人知を超えたものだった」 「産屋は大地との境、川との境界にあり、水平垂直に接点の場所にあるのです」といった言葉も感慨深い。(ちなみにこの大原神社では毎年2月の「鬼迎え」なる節分行事で「鬼は内 福は外」という一般とは逆のかけ声と共に豆まきが行われる。江戸期の綾部藩主であった九鬼氏に配慮したという説もあるようだが、かつての九鬼水軍の末裔の領地にこのような古層を秘めた産小屋が残されていることに、わたし的には興味を覚える)
京都新聞・ふるさと昔語り http://www.kyoto-np.co.jp/info/sightseeing/mukasikatari/070628.html
京都丹波のたそがれトンボ http://blog.goo.ne.jp/karakurikonkuri/e/b102b0c92d93f132fe926e4c336055d8
歴史楽 http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page551.html
多少長々と引用してきたけれど、つまりわたしが言いたいのはわたしたちがふだん従っている慣習、要は「伝統」だとか「ならわし」だとか「しきたり」などといったものでとらわれている価値観の中には、もちろんそ長年の民衆の知恵の集積のようなものもたくさんあるだろうけれど、実はそうした底辺からの自然発生的なものではない、国家権力などによる操作で歪められ、本来の価値をぐるりと180度ひっくり返されてしまったものもまた多くあるのではないか、ということである。それがいつの間にか1万年もの昔からそこにいたかのような顔でふんぞり返っている。先日花粉症の薬をもらいに行った耳鼻科の待合室で読んだ「ゴーマニズム宣言」の小林よしのりなども、とくに彼が好んで言う「公」や「国」などといった言葉の射程は、残念ながらそうしたものにまで届いていないように思える。けれどもわたしはそうしたものにいちいち噛み付きたいわけではない。そうではなくて、わたし自身の内奥に幾重にも張られているそれらの歪んだ既成の蜘蛛の巣をすべて取り払い、強烈な陽射しに照射された原初の景色を垣間見たいのだ。この世の生と死の、本来の形を取り戻したいだけだ。わたしはそれらのものに餓えているから。息が詰まりそうだから。地べたを取り戻したいから。
最後にこの「ケガレ 差別思想の深層」の中で知った、前述のインドネシアのスラウェシ島の先住民トラジャ族の葬送のかたちについて記しておきたい。これも敬愛する沖浦「先生」の言を引こう。(ちなみにこれはネット検索で偶然見つけたPDF資料だが、平成15年10月に奈良で行われた「全国医師会勤務医部会連絡協議会」での沖浦氏の「野巫医者の源流を巡って 旅する「寅さん」の実像」と題された講演の一部である。興味のある方はこちらのP54→http://www.med.or.jp/kinmu/kb15.pdf)
それから死生観ですが、どうやら仏教に、非常に大きな問題があるんじゃないかと思っています。地獄、極楽とやりまして、それで死は怖いという恐怖感を植えつけてきたということですね。これは日本の通俗仏教の責任ですよ。さっき言った先住民族のところへ行ってごらんなさい。アニミズムですから、この世は仮の世というわけ。死んで極楽へ行くことになっています。そこに先祖が待っている。だから、お葬式はすごい、バンパンパンと花火を上げて、闘鶏や大舞踏会、3日間ぐらいすばらしい葬送儀礼をやる。まあお祭りですね。それでにぎやかにあの世に送り出す。あっちがほんとうの世、こっちは仮の世。そう思っていたら、そんなに死なんて恐れることはない。もっと私は自然の寿命ということをみなに納得させないといかんと思います。ヒトは無限に生きれるものではない。
だから、インドネシアの先住民族は、特に赤ちゃんが死んだ場合、赤ちゃんの死は非常にかわいそうです。「生命の木」というのがあるんですね。ごっつい大きな木。まだ乳歯の生えていない赤ちゃんだけは、その木に埋め込む。木が年々大きくなるでしょう。それはミルクの木ともいう。ミルクも出る。それを吸って、樹液をミルク代わりに吸って、木が大きく生長するにつれて赤ちゃんは育っていく。だから、埋めたところはパッチワークのごとくなっていていてすぐわかります。一番上がもう1,000年前の赤ちゃん。それが天高くそびえて、永遠にふるさとを見守ってくれる。それで、お母さんは、毎日ああやって木の霊に抱かれて生きておると、死んではいないと、こういう考え方なんです。
全国医師会勤務医部会連絡協議会報告書 [H.15.10.18](PDF:1.52MB)
インドネシアるんるん留学日記 http://blog.goo.ne.jp/aiaimelody/e/51591bdc829955bf6f5aedf74255171b
なかやんのアジア旅 http://www1.bbiq.jp/y.naka/tanatoraja.html
幾体もの赤ん坊の遺体をその洞に抱えて青々とした枝葉をひろげて成長する大樹。それはおぞましく、けがらわしく、正視に耐えない光景だろうか。わたしは、そうは思わない。その大樹の写真を見、説明を読んだとき、わたしは思わず身を震わせた。世界を包み込むようなその“いのちの解釈”に、わたしの心が震えたのだ。
2009.8.29
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退院した義母の新生活のための介護保険の申請や家のリフォームなどの支度に追われて結局、Yと子は新学期の始まった1日の夜に帰ってきた。夜遅くまでかけて、夏休みの宿題は? 明日の学校の支度は? と慌しくやっているので、「状況が状況なんだから、どちらかを捨てるしかないだろ。学校の始まった日の夜遅くに帰ってきて、これじゃ紫乃も可哀相じゃないか」と喧嘩になった。「もうこんなもの、やらなくていい!」と丸めて窓から放り投げた国語の宿題のプリントを、子が懐中電灯を持って拾いに出て行く一幕もあった。喧嘩がある程度おさまってから、今週末も子を連れて実家へ行く予定だったのだが、「紫乃の生活のリズムが壊れるから、家に置いた方がいいかも」とYが切り出した。土日はわたしも休みを取っていたのだが、延期している歯医者の予約が夕方しか取れなかったのだ。「それは紫乃の意見を訊いたら?」とわたしが向けると、これ以上両親の言い争いを発生させたくないとでも思ったか、聡明な子は得度した坊主のようなさっぱりとした顔で「おまかせするわ」とだけ答え、父と二人で残ることになった。結局、男はいつもわがままで、淋しがり屋なのだ。土曜日は朝から習字教室、昼から教会の土曜学校、日曜の朝は教会、と書かれたメモをYから渡されて、父は内心、にんまりとした。「この二日間は、お父さんと洗濯や掃除や食事の支度など、家の仕事をやろう。生活を見直そう」なぞと、甲府時代の太宰のように急に張り切った声を出している。
二人がいない間、ストレス解消であったか、夜中にwebで注文した本(古書も含む)が次々と届いた。
○宮田登「霊魂の民俗学」(日本エディタースクール出版部) 沖浦先生との対談集から、ちょっとこの人の著作----特に日常生活の慣習にひそんだ歴史的な襞をたどってみたくなった。宮田氏の代表作のひとつだと思うのだが、それ以外でもアマゾンで検索すると絶版が多いのに驚いた。この人の語り口は平明で、生活に根ざした感覚がいい。
○塩見鮮一郎「弾左衛門とその時代」(河出文庫) アマゾンで何となく部落関係の本のリンクを辿っていって見つけた。弾左衛門とは江戸幕藩体制化で関八州の穢多頭の職掌をあらわす名称である(映画の寅さんこと車寅次郎の(たぶん)資料的ルーツでもある非人頭・車善七も配下にもつ)。幕末から明治維新の激動の時代の最中に幕府から新政府へと波乗りをしつつ、自身と配下の穢多・非人たちすべての「醜名を除く」さまざまな工作を行い、最終的に「賎称廃止令」によって念願の「平民」となるが、同時に自らの職業の特権的専制を失うに至った最後の13代弾左衛門(後、矢野直樹に改名)が興味深い。それまで賎民が担っていた革なめしの技能を生かして、アメリカ人の技能者を雇い、洋靴の製造工場などを立ち上げたかれは晩年、「靴つくりを教えた者たちがいまや熟練し、全国どこへ行っても製造所はある。靴の製造人もすくなくない。初心を貫徹できたのがうれしい」と語ったと伝わる。
弾左衛門菩提寺・浅草本龍寺ほか→http://www.cc9.ne.jp/~kenkyujo/kiyou/h13y/tyousa13/t13-10.htm○高取正男「神道の成立」(平凡社ライブラリー) 沖浦先生との対談集から。前述した「死穢についての禁忌意識が国家権力によって人為的につくられた」葬制論を読みたかった。
○「ドラえもんの理科おもしろ攻略 天体(地球・月・太陽・星の動き)がわかる」 (ドラえもんの学習シリーズ・小学館) アマゾンの送料無料1500円枠確保のため「神道の成立」と併せて買った。
○沖浦和光編「水平 人の世に光あれ」(社会評論社) 定期的にアマゾンで「沖浦和光」を検索、値段の下がった古書を吊り上げる。そんな沖浦先生の蔵書もはや23冊を数え、残りが僅かになってきた。次々と新刊を出してもらわないと、わたしの愉しみが消滅してしまう。この本はいわば「賎民差別に関する近世の諸文献」を沖浦先生が編んで詳細な解説を付した一冊で結構希少本だと思う。ってほとんど沖浦マニアだな。
○半藤一利「昭和史・戦後篇 1945〜1989」(平凡社) 前編に続けて図書館で予約。週刊誌的感覚で昭和史をたどる。
本日、7時に起床。朝食はコーンフレークと蜜柑。二人で皿洗いと洗濯。8時半に自転車で習字教室。9時半に迎えに行き、お昼の材料を買って帰る。昼まで自由時間。子は「長靴下のピッピ」の映画を見、宿題(学校のではなく、Yが用意していった市販のドリル三種)を済ませ、PCの英語学習ソフトで遊ぶ。昼は焼きそば。子はピーマン、肉、キャベツなどを切る。午後から子は土曜学校。かつての幼稚園へ送りに行ってから、わたしは図書館で「弾左衛門とその時代」を読了し、「昭和史・戦後篇 1945〜1989」を読み始める。歯医者を済ませてから、幼稚園へ迎えに行き、夕食の材を買って帰る。夕食は豚のステーキ。風呂に入り、9時からテレビで新生「ジャングル大帝レオ」を見る。近未来のパンジャの森は、じつは人間に管理された人工島であったという設定。大のジャングル大帝ファンの子は、のっけから「こんなのは本当のジャングルじゃない!」とテレビに向かって言い放ち、布団に入ってからもしばらくは興奮冷め遣らずといった様子であった。
2009.9.5
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朝食。残りご飯でお粥を炊く。子の大好物だが、「ちょっと塩が足りないね」
教会のミサ。「どうしてわたしが熱心に祈っていたか知ってる?」 「ナルニア国の本の最後に、アスランはキリストだって書いてあったから。アスランがキリストで、キリストはアスランなの。」
図書館で二時間。子は本を読み続け、わたしは児童書のソファーで居眠りする。7冊借りてくる。
自転車がパンク。仕方なくマクドナルドで昼食を済ませ、駅付近の自転車屋を何軒か回るが日曜でどこも休み。帰ってからパンク修理。後輪のタイヤがもうぼろぼろ。自転車を押しながら、うしろをついて歩く子が「お父さん、影送りをしながら帰ろうよ」と言う。「戦争でお兄ちゃんもお母さんも死んじゃった女の子がね、そんな遊びをしていたの。まばたきをしないでじぶんの影を見てから空を見上げると、青い空にその影がかすかに映って見える」
はじめて子の浣腸をする。浣腸液を注入してからティッシュでお尻を10分押さえる。ゴム手袋にオイルをつけて中指で掻き出す。ときどきお腹をさすりながら30分の中腰の作業。結構きつい。
お風呂屋、大門湯。浣腸のあとだけに心配だったが大丈夫だった(パットが汚れていたので隠すように始末した)。水風呂が気持ちいい。「お前といっしょに入れるのは、もうあと一年くらいかなあ」 ところが帰ろうとして、本日二度目のパンク。一軒だけ開いていた自転車屋へタイヤとチューブの交換を依頼して預け、一時間ほど夜道を散歩しながら家まで帰ってくる。
夜、Yが作り置きしていたシチューとフランスパン。
2009.9.6
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先週末から事情で、大阪・阿倍野区の天王寺駅近くへ現場指導という形で通っている。阿倍野周辺はいま大阪市による大規模な再開発事業が進行中で、それまでごみごみとしていた住区が整理され、巨大な商業ビルが次々と建てられ、立派な大学の附属病院の裏手には真新しい高層マンションがそびえ、さながらモダンな新興住宅地のようである。一昨日であったか、案内MAPをつくるために周辺道路の様子を見にそんなマンション群の間を歩き回っていたら、ふと古い、昔ながらのアーケード商店街のとば口に出た。何だか懐かしい心持がして、昼飯用の安い定食屋でもないかしらんと覗きに入ったが、生憎7割方はシャッターを下ろしてひっそりとしている。しばらく行くと信用組合の店先に地元の歴史ガイドの案内板があって、あの飛田新地がすぐ近くだと知った。ここまで来たら行かねばならんだろ。信用組合の角をアーケードを抜けてまったりとした午後の光の下へしばらく進むと、いやあ、すごい。店の名前が書かれた真っ白な電飾看板がどの路地を覗いてもずらりと並んでいる。ほとんど人気はないのだが、すでに「開店」している店もぽつりぽつりとあって、「オニイサン、どうですか?」なぞと声がかかる。上がり框の手前におばちゃんがいて声をかけてき、その奥に緑や紅の色をまとった若い女性が座っているのがちらと見える。真っ先にわたしの頭に浮かんだのは、「財布には確か三千円くらいしかなかったな。全然足りないな」ということであった。いや無論、仕事中なんですが。うわすごい、これはまさに異界だ、再開発の魔の手を逃れた徒花だ、なぞとわけの分からない興奮で胸をときめかせながら南下すると、ひときわ目立つ怪しげな建物が。これがかつて飛田遊郭でも格式の高い建物を居酒屋のチェーン店が買い取って「予約客以外お断り」の料亭として営業している「鯛よし百番」であった。HPでもあれこれ調べてみたが、いつかいちど入ってみたいね。そのすぐ目と鼻の先、阪神高速の高架下近くにひっそりと、この飛田新地で生涯を終えた名もなき男女たちの供養塔が残されていた。さりげなく手を合わせた。ほんの小一時間ほどの勤務内散歩であったが、俄然、わたしは開眼してしまったのであった。そんなわけで今日は昼食の足を西成(地下鉄動物園前駅)方面へ向けてみた。御堂筋沿いの阪神高速のちょうど乗り口のわきに、「てんのじ村・上方演芸発祥の地」という巨大な碑が建っていて、その横にこれもいい老け具合の和風旅館がある。ジャンジャン横丁のアーケードから御堂筋の通りをはさんだ商店街のとば口ちかくに見つけた「台湾ラーメン」の店でお昼を食べた。台湾ラーメン、380円。汁まで呑み干した。そして堺筋を南へ折れたすぐ先の道沿いに、コンビニやビジネスホテルに挟まれるようにひっそりとあるのが、かつての飛田墓地の名残を伝える「飛田・今宮 太子地蔵尊」である。このあたりは江戸時代には墓地と刑場があり、あの大塩平八郎の乱の首謀者たちが磔にされた場所でもあった。養子と共に自爆した大塩父子の遺体を時の幕府は塩漬けにしてここに晒したのだそうだ。猫の額ほどの敷地にはすでにワンカップを手にして目線もおぼろなオッサンが佇んでいて、わたしが携帯カメラで写真を撮っていると「オニイチャン、ここから港区のイチヨ−カンにはどう行ったらいいかな」と声をかけてきた。「へ? 港区? イチヨーカン? さあ、ちょっとわかんないですね・・・」と苦笑したのだが、そしてへろへろと賽銭箱の横に座り込んでしまったオッサンの姿が何だかさみしそうで、「しゃーねーなー」と携帯のインターネットで地図検索をしているうちに、オッサンは地蔵尊の前に停めていたおんぼろ自転車に乗っていづこへと走り去ってしまったのであった。とまれ、墓地と刑場と遊郭は古来から三種の神器であった。何より平和ボケした日本で唯一暴動の起こるこの町のちょうど中心に大塩平八郎の塩漬けの死体が晒されていたことが感慨深い。まだ見ていないが、ここから一昨日の飛田新地方向へ少し行くと近松門左衞門の「猫塚」もある。帰宅して、昨日の晩は遅くまで、そんな阿倍野周辺の悪所検索に見入ってしまったのであった。ユーチューブでも何かないかと探したところ見つけたのが(掲示板にリンクを貼っておいたが)飛田新地の取り組みを伝える朝のニュース番組で、なんと沖浦先生が出てきて喋っておる。というわけで何とも奇妙な偶然のようだが、明日は南森町にて沖浦先生の講演「江口の遊女を語る」だ。このあまりのグッドタイミングを何と見るか。
鯛よし百番と飛田新地 http://www9.ocn.ne.jp/~jitian/japan/osaka/taiyoshi/taiyoshi.htm
飛田新地(大阪市西成区山王) http://submarine.sakura.ne.jp/mugen/tobita.htm
ぐるなび・鯛よし百番 http://r.gnavi.co.jp/k069800/
大坂七墓巡り(蒲生・小橋・鳶田) http://atamatote.blog119.fc2.com/blog-entry-176.html
大阪DEEP案内 http://osakadeep.info/
2009.9.10
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沖浦先生講演会、2回目の出席。「淀川河畔 江口の遊女 大江匡房の遊女記を読む」。仕事を5時で切り上げて動物園前駅から地下鉄に乗り、天満橋筋商店街でうどんを喰って6時に会場着。正面のいちばん前の席に座ったものだから、相変わらず演台でじっとしていない先生が常に30センチほど前に立っていて、ときおり喋りの最中にじっと目を覗き込まれるものだから、杉良太郎に見つめられたおばちゃんのようにくらくらしてしまう。内容はあちこちの著作ですでに触れられているものだからさして目新しいものはないけれど、いわば楽屋裏的な取材の折の体験談や、たとえば柳田国男の文章とリズムについての短い詠嘆、明治の新しい時代の空気の中で歌舞伎に対して漱石は「野蛮人の芸術」と否定し、鴎外は筋書きを近代化するという折衷案を唱え、荷風はそのまま残せと主張した話、また明治天皇崩御を受けて乃木将軍が追い腹で死んだ記事について志賀直哉が日記に「大馬鹿者なり」と書いてから訪ねてきた武者小路実篤と連れ立って遊郭へ遊びに行ったエピソードなど、話の合間にぽろりぽろりとこぼれ落ちる断片が心に残る。そして相変わらず話はあちこちに脱線して、「(江口の遊女について)とても残り一時間じゃ話終わらない。もう一回、日にちを設定して続きをやるから」と、最後は大好きなインドネシアの旅の話となって9時頃に閉幕となった。続きは10月30日(金)。わたし的にリアルタイムな飛田新地(鯛よし百番で最近、飲み会をしたらしい)や、インドネシア・トラジャの「赤ちゃんの木」の話も出て、特別に感慨深かった。遊女の聖性というものについて、また、いまの時代のこの国で聖性を宿している存在がいったいあるだろうかなぞといったことを、沖浦先生と漫画「タッチ」のような見つめ合いを時折交わしながらわたしはずっと考え続けていた。さて講演が終わって、出席者の多くは互いに知り合いのようで三々五々に集まって話をしているところを、わたしはビジネス鞄を抱えてさっさと立ち去る。大阪天満宮駅への出入口前の歩道で煙草に火をつける。遊女のことばかり考えていたせいか、何だか急に人恋しいような心持に囚われて、今宵は誰かと酒でも呑みながらそんな話をしたいと渇望しながら、結局じぶんはさびしい人間なのだと諦めて奈良行の電車に乗り込んだ。今夜からYがまた子を連れて実家へ行ったので余計にそんな心持がするのだろう。久宝寺経由のつもりで乗ったJR線は延々と走っていつの間にか京田辺だった。真っ暗な車窓をぼんやりと眺めて聴いたジャニス・ジョプリンのいくつかの曲と、リチャード・マニュエルの歌う Hobo Jangle がいつになく腹に沁みた。あの狂おしい、着地点のない流れの感覚だ。
以下、講演会での断片的な覚書をいくつか。
●淀川は度重なる改修工事を経てきている(それだけで一冊の本が書ける)ので、遊里が活況を呈していた「江口の里」も地勢的に当時とはだいぶ様変わりしていると思われるが一見の価値はあるのでぜひ訪ねてみて欲しい。大阪の守口市に近い。沖浦先生が取材した1960年代にはすでに人家もない茫々たる砂地であったが、現在も電車とバスを乗り継いでいかなくてはならない。
淀川歴史散歩「江口の里」 http://www2.kasen.or.jp/yoshibue/yoshi22/yoshi_5.html
●「色道大鏡」。江戸時代、元禄初期に町人・藤本箕山書かれた全国の遊里百科本。これまで古書で10万円の値がついていたが、最近復刻版が出た(それでも2万円)。学生時代に現代版「色道大鏡」をものにしてやろうと決意したが適わなかった(と笑わせた)。
毎日JP「今週の本棚」 http://mainichi.jp/enta/book/hondana/archive/news/2006/09/20060910ddm015070199000c.html
●奈良・生駒の宝山寺に所蔵されている世阿弥の自筆資料。長らく金春太夫家に所蔵されていたが明治の折に一時金春家自身も職を失い、当時の宝山寺貫主隆範が金春家出身だった縁もあって宝山寺が保管するところとなったらしい。この中に有名な夢幻能「江口」のいわば台本があり、観阿弥の原作を世阿弥が手を加えて修正していく過程が見られる(たとえば江口の君が観音菩薩として昇天していく場面を普賢菩薩に変えたりとか)。これらの資料は毎年夏に虫干しも兼ねて能楽関係者に公開されるそうだが、奈良女子大の素晴らしい「電子画像集」のページで閲覧できる。
奈良女子大附属図書館「電子画像集」 http://mahoroba.lib.nara-wu.ac.jp/y01/
世阿弥と金春禅竹・「精霊の王」を読んで http://www.yurindo.co.jp/yurin/back/yurin_437/yurin4.html
●平安期には「淀川河口の江口・神崎・蟹島、瀬戸内海に面した播磨の室津、近江の鏡宿、美濃の青墓・墨俣など、、遊女がたむろしている港町や宿場があった」 特に訪ねて欲しいのは遊女発祥の地とも伝わる室津で、「きむらや」という料理旅館に「夢二の部屋」というのがあり、魚も旨い。美濃の青墓もおすすめ。
室津街道 http://www.geocities.jp/ikoi98/murotsukaidou/murotsukaidou.html
青墓・傀儡子たちの宿 http://moon.noor.jp/srg/ogiwara/ru-fujin/html/aohaka.htm
●大江匡房の「遊女記」はごく短いものだが、第1級の史料で、文章も素晴らしい。大江氏はもともと葬送儀礼を司っていた土師(はじ)氏の末裔で、貴族の中ではおそらくもっとも低い位であった。桓武天皇の時代に「土師」の名を嫌って改名を許され、大江氏・菅原氏・秋篠氏などへ分かれていった。遊部の末裔が「遊女記」を記したところが面白い。
土師氏と童謡(わざうた) http://haretaraiine156.blog40.fc2.com/blog-entry-38.html
●「群体・ボルボックス」。沖浦先生を交えた研究会、フォーラムなどを主催。わたしも早速、メルアドを登録してもらった。詳しくは下記まぐまぐページか、事務局の桐村彰郎さん(奈良産業大学の先生らしい)まで。
まぐまぐ http://archive.mag2.com/0000289585/index.html
群体事務局 e-mail GZT00045@nifty.ne.jp
帰宅して深夜、最近の阿倍野関連の図書をアマゾンで注文した。渡辺一雄「乱・大塩平八郎」 (広済堂文庫) 、佐伯 順子「遊女の文化史」(中公新書)、加藤政洋「大阪のスラムと盛り場・近代都市と場所の系譜学」(創元社)。
2009.9.12
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二夜連続で遅くまで奈良のイベントの打ち合わせがあった翌日。土曜から連休中、ふたたびYが子を連れて実家へ行くので、ひさしぶりに仕事を早めに切り上げて天王寺のショッピング・ビル内をうろうろと。雑貨屋を見て、文具売り場を見て、本屋で「ちひろBOX2」(ちひろ美術館・講談社)を手に取り、誕生日のプレゼントとした。1階のケーキ屋ではちみつのロールケーキも買った。佐伯順子「遊女の文化史 ハレの女たち」(中公新書)をめくりながら帰る。
2009.9.18
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最近はWebでかつての赤線地帯を拾い歩いたり、いにしえの墓地や刑場の旧跡を調べたり。飛田の刑場で晒しものにされた大塩平八郎らの亡骸は舟で運ばれ、かつて木津川と三軒家川に挟まれた茫漠たる中州であった「難波島」に打ち捨てられたという。いまは広大な工場や配送センターが立ち並ぶ敷地も、当時はバラナーシーの焼き場の対岸のようなまっしろなあの世の如き風景だったろうか。そうした風景を視界から完璧に遮蔽したことがわたしたちの貧困であったか。江戸時代までの大阪の千日前の中心には罪人を仕置きし、斬首し、晒し、亡骸を焼き、遺灰を積み上げ、弔う、「まさしくあの世が“記号的に顕示される一種の劇場”」があり、その周辺に芝居小屋や見世物小屋、そして色町などが配置されていた。有名な法善寺はそのアプローチの途中にあり、縁日には参詣の信者が訪れ、いまでいえば多くの露店が軒を並べて賑わった。いわば聖と俗、この世とあの世、祝祭と弔いが混濁とした「異界性の湧き出づる境界的な空間」であった。「“悪所”とは、赤坂憲雄にしたがうならば、近世権力によって“制度的にひかれた / 去勢された”境界」である。(以上、引用は加藤政洋「大阪のスラムと盛り場・近代都市と場所の系譜学」(創元社)による) 囲い込まれながらもなお、清濁を呑み込み、虚実が交錯することによって逆に、リアルな生を具現化して日々を生きながらえていた名もなき人々があったのではないか。そんな夢想に遊びながらまぼろしの町を経巡っているわたしはいったい何を欲しているのか。
飛田墓地旧跡の碑にもほど近い、ちょうど地下鉄の動物園前駅から2番出口をあがったすぐ前にある中華料理屋「雲隆」で380円の台湾ラーメンを食べるのが最近のわたしのお気に入りだ。国道の向こう側にはジャンジャン横丁のアーケードが口を開けている。店の隣は一泊千円の木賃宿だ。24時間千円の荷物預かり所もある。台湾人らしい店主はわたしと同い年くらいか。梁石日(ヤンソギル)の小説に出てきそうな大陸風の顔立ちで、若い美人の(おそらく)細君が店を手伝っている。二人して民主党政権発足を伝えるテレビを見ていたが、唐辛子の辛さによる汗をハンカチで拭っているわたしに気づいて店主が立ち上がり、厨房用の大型の冷風機を回してくれる。静かな店内に客が入ってくる。同じ台湾人らしいグループと、日本の若者二人。細君に金を払って、まだ真夏のような光の下に出る。ショッピングセンターのアパレル店の流行とは一切無縁の、何やら懐かしい柄のシャツを着たおっちゃんが酔っ払って泳いでいる。赤信号の国道の向こう側に知り合いを見つけて盛んに叫んでいる別のおっちゃんがいる。重たいビジネス鞄を抱えて、わたしはやっと歩き出す。
ところでわたしはなぜ遊里に惹かれるのだろうか。「遊女の文化史 ハレの女たち」(中公新書)の中で佐伯順子は、アルメニアの良家の娘が神殿で結婚前の長い期間を聖娼として過ごしたというフレイザーの「金枝篇」にある慣習や、バビロニアのすべての女性は一生に一度「女神に対する奉仕として」見知らぬ男と交わらなくてはならなかったというヘロトドスの「歴史」の記録を取り上げている。
アルメニアでは、貴ばれた諸家族がその娘たちをアキリセナにある神殿でアナイティスの用にあたらせるために奉献し、娘たちはそこで結婚前の長い間を聖娼として過した。彼女たちの奉仕期間満了の後には、誰もそのような娘を娶ることを躊躇しなかった。
(フレイザー「金枝篇」永橋卓介役)
バビロン人の風習の中で最も破廉恥なものは次の風習である。この国の女はだれでも一生に一度はアプロディデの社内に坐って、見知らぬ男と交わらねばならぬことになっている。……女はいったんここに坐った以上は、だれか見知らぬ男が金を女の膝に投げてきて、社の外でその男と交わらぬかぎり、家に帰らないのである。金を投げた男は「ミュリッタさまのみ名にかけて、お相手願いたい」とだけいえばよい。・・・金の額はいくらでもよい。決して突き返される恐れはないからである。この金は神聖なものになるので、突き返してはならぬ掟なのである。女は金を投げた最初の男に従い、決して拒むことはない。男と交われば女は女神に対する奉仕を果たしたことになり家へ帰れる。
(ヘロドトス『歴史』松平千秋訳)
「不特定多数の男に身体を許す」ことについて佐伯は、特定の男の個人的所有に帰さぬ遊女も、神に捧げられる聖処女も、「現実的あらわれは正反対でありながら、現世の何人にも属さぬ性を生きることで、両者は実質的に等しいのである。それは、彼女たちの性が、ふたつながら人間をこえた者にむけられていることに起因する」と書いている。
日本では「恋多き多情の女」の代表格である和泉式部が「御伽草子」では遊女とされ、好色な僧・道命阿閣梨と契りを結ぶ。和泉式部の背後には神遊びに秀でた遊女の姿があり、転じて普賢菩薩の影があり、対する道命阿閣梨の背後には陰陽和合の道祖神の存在が仄めかされる。そして両者を結ぶのは「力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女のなかをもやはらげ、たけきもののふの心をもなぐさむるは歌なり」とされた歌(始原の音楽・神への言問い)の力であった。つまりここには、性(若しくはそれによって生じる歓喜)をある超越的な存在へ人間を結びつける祝祭の儀式としてとらえる古代の素朴な信仰の伏流が透けて見える。
遊女とは、あるいはアルキ巫女や熊野比丘尼のような女たちは、歌舞や宗教的行為の「かたわらに春もひさいだ」わけではない。そのように彼女たちの性を歌舞や宗教的意義と分離して考えるのは、近代の制度化された意識に囚われたわたしたちの限界である。性は充実した生命の発露であった。聖と性は分かち難く結びついていた。聖なる者であったから男たちは遊女の性を求め、遊女は男たちにこの世ならぬ性を分け与えた。「彼女たちは決して“まじめでない性”を営んだ女たちではなかった。生命を活性化させる神聖な性を、遊女たちは遊んだのである」 ここでいう「遊び」とは有名な「梁塵秘抄」で「遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生れけん 遊ぶ子供の声聞けば 我が身さへこそ動(ゆる)がるれ」と歌われた「身の動ぐ」ほどの戦慄であり、「魂を迎へることがこひであり」と折口信夫が記した「魂ごひの恋ひ歌」の始原の風景ではなかったか。折口はまた、次のようなこの国の古いしきたりについても言及している。
村の青年に結婚法を教へる女があつたのである。・・・大抵の場合は宗教的な女性がゐて、初めて、生殖の道に這入るところの女に会ふ。それはつまり宗教的関門を通らす事で、・・・普通神社に仕へてゐる巫女が、さうした為事をしたのは、古く記録に載つてゐる。神社に仕へてゐなくとも、宗教的な要素を持つてゐる女であればよい。中には旅をして来る遊女もあり、村に附属してゐる遊女、神社・寺院等の附近に住む遊女等がある。
(折口信夫「巫女と遊女と」)
この「生殖の道」を「宗教的関門を通らす事」と書いた折口の表現について佐伯は「近代的性観念にとらわれずに遊女の性を位置づけた、貴重な見解といえるだろう」と評している。
いわゆる「風俗店」というものに一度も足を踏み入れたことがない。いや、そもそもわたしはY以外の女性をかつて知らない。これはわたしの汚点かも知れない。10分や20分で性欲をたんに「処理」するだけの場所には特別に興味が湧かない。けれど遊郭や遊女といった存在には心が動く。「更級日記」は1020年、菅原孝標の娘が13歳の時、父の任地上総の国から上京する道中記からはじまる。この中に「生涯を通じて忘れられない思い出」として、足柄山の暗夜の山中で遭遇した三人の遊女についての記述がある。わたしはこの話に、ほとんど心を奪われる。
足柄山(あしがらやま)といふは、四、五日かねて、恐ろしげに暗がり渡れり。やうやう入り立つふもとのほどだに、空のけしき、はかばかしくも見えず。えもいはず茂り渡りて、いと恐ろしげなり。
ふもとに宿りたるに、月もなく暗き夜の、闇に惑ふやうなるに、遊女(あそびめ)三人(みたり)、いづくよりともなくいで来たり。五十ばかりなるひとり、二十ばかりなる、十四、五なるとあり。庵(いほ)の前にからかさをささせて据ゑたり。をのこども、火をともして見れば、昔、こはたと言ひけむが孫といふ。髪いと長く、額(ひたひ)いとよくかかりて、色白くきたなげなくて、さてもありぬべき下仕(しもづか)へなどにてもありぬべしなど、人々あはれがるに、声すべて似るものなく、空に澄みのぼりてめでたく歌を歌ふ。人々いみじうあはれがりて、け近くて、人々もて興ずるに、「西国(にしくに)の遊女はえかからじ」など言ふを聞きて、「難波(なには)わたりに比ぶれば」とめでたく歌ひたり。見る目のいときたなげなきに、声さへ似るものなく歌ひて、さばかり恐ろしげなる山中(やまなか)に立ちて行くを、人々飽かず思ひて皆泣くを、幼き心地には、ましてこの宿りを立たむことさへ飽かず覚ゆ。
まだ暁より足柄を越ゆ。まいて山の中の恐ろしげなること言はむかたなし。雲は足の下に踏まる。山の半(なか)らばかりの、木の下のわづかなるに、葵(あふひ)のただ三筋(みすぢ)ばかりあるを、世離れてかかる山中にしも生(お)ひけむよと、人々あはれがる。水はその山に三所(みところ)ぞ流れたる。
からうじて越えいでて、関山(せきやま)にとどまりぬ。これよりは駿河なり。横走(よこはしり)の関のかたはらに、岩壺(いはつぼ)といふ所あり。えもいはず大きなる石の、四方(よはう)なる、中に穴のあきたる、中よりいづる水の、清く冷たきこと限りなし。
【現代語訳】
足柄山というのは、四、五日前から、恐ろしそうなほどに暗い道が続いていた。しだいに山に入り込むふもとの辺りでさえ、空のようすがはっきり見えない。言いようがないほど木々が茂り、ほんとうにおそろしげだ。
ふもとに宿泊したところ、月もなく暗い夜で、暗闇に迷いそうになっていると、遊女が三人、どこからともなく出てきた。五十歳くらいの一人と、二十歳くらいと十四、五歳くらいのがいた。仮小屋の前に唐傘をささせて、その下に座らせた。男たちが火をともして見ると、二十歳くらいの遊女は、昔、こはたとかいう名の知れた遊女の孫だという。髪がとても長く、額髪がたいそう美しく顔に垂れかかっていて、色は白くあかぬけしているので、このままでもかなりの下仕えとして都で通用するだろうなどと人々は感心した。すると、その遊女は、比べ物がないほどの声で、空に澄み上がるように見事に歌を歌った。人々はとても感心し、その遊女を身近に呼び寄せて、みんなでうち興じていると、誰かが、「西国の遊女はこのように上手には歌えまい」と言えば、遊女がそれを聞いて、「難波の辺りの遊女に比べたらとても及びません」と、即興で見事に歌った。見た目がとてもあかぬけしている上に、声までもが比べようがないほど上手く歌いながら、あれほど恐ろしげな山の中に立ち去って行くのを人々は名残惜しく思って皆嘆いた。幼い私の心には、それ以上にこの宿を立ち去るのが名残惜しく思われた。
まだ夜が明けきらないうちから足柄を越えた。ふもとにまして山中の恐ろしさといったらない。雲は足の下となる。山の中腹あたりの木の下の狭い場所に、葵がほんの三本ほど生えているのを見つけて、こんな山の中によくまあ生えたものだと人々が感心している。水はその山には三か所流れていた。
やっとのことで足柄山を越え、関山に泊まった。ここからは駿河の国だ。横走の関のそばに岩壺という所がある。そこには何ともいいようがないほど大きくて、四角で中に穴の開いた石があって、中から湧き出る水の清らかで冷たいことといったら、この上もなかった。
物の怪が棲むような真っ暗闇の山中深くでこのような遊女たちに出会ったら、わたしは畏ろしくもあり、同時におなじくらい激しく魅惑されもするだろう。かつてこのような一所不在の漂泊の身であった遊女たちは、やがて赤坂憲雄のいう「近世権力によって“制度的にひかれた / 去勢された”境界」に囲い込まれ、その過程で不即不離であった聖性を落剥していき、やがて「祝祭の中ではなく、「俗」の中で」商品化された性のみを売る存在へと転落していった。それはわたしたちにとってもまた同じように、近代の価値観や制度や個人といった狭い枠の中で性を切り離し矮小化し、古代の祝祭の力を完全に失っていった過程でなかったか。
わたしが遊里に惹かれるのは、そんな失った過去への憧憬なのかも知れない。ほんとうのいのちを取り戻したいからかも知れない。足柄山へ、いまから遊女に逢いにいく。
(以上、後半の引用は佐伯 順子「遊女の文化史」(中公新書)による)
2009.9.19
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□ ノラネコげんじつ物語 (※学校の宿題の“日記”から)
わか山の○○○、つまりわたしの母方のそ父母の家のあるところである。そこにはノラネコがうじゃうじゃといるのだ。そこのノラネコげんじつ物語をわたしがつけた名前やネコの言葉を入れ、ここに書きしるす。
ある、朝のことだ。一ぴきのグレーの子ネコがやって来て、電き屋の前でうずくまった。電き屋のおばさんがエサをやると、そこにすみついた。
グレーの子ネコの名前は、チビコ。チビコは母親ネコもおらず、みなしごだった。ここ三日、ろくな物を食べていない。チビコはねどこからおき上がると、年上の親友の黒ネコのクロロがやってきて、
「おい、チビコ。電き屋で、ネコにエサをくれるらしいぞ。おまえ、さいきんろくなもの食べてないんだろ。いけよ。うそじゃないからさ」
クロロがそう言うとニヤリとわらって、走って行きました。そのあとに長女のクロラが、
「うそじゃないわ。ほんとよ」
次女のクロレが、
「そうよ。ねえさんの言うことはほんとよ」
三女のクロルが
「あたしにもくれたわよ」
それで、チビコはお礼を言い、のびをして、毛をなめて出発したのだ。
やがて、チビコは大人になり、三びきのグレーの子ネコをうんだ。チビマ、チビミ、チビメだ。
すえっ子のチビメは、目が見えない。はやく出さんしてしまったのだ。そのかわり、年上のネコたちはすばしっこく、かっぱつでたくましく、用心ぶかい。
チビコはときどき、子どもたちをかきわけ、一ぴきになり、すわると青空をみあげる。そしてみなしごだったころを思い出していた。食べものをとって行くらんぼう者の茶ネコ、クロロのニヤリとした顔、クロラとクロレとクロルのしんけんそうなまなざし-----
「ミャウミャミャ、ミミミ(ママ、どうしたの)」
チビコははっとすると、よりそってきた子どもたちの毛をなめ、
「ミュウ、ミャミャミュミャミ(どうもしてないわ、チビマ)」
ある時、チビコがねそべっていると、
「ミュウ。ミャ、ミーッ!」
と母ネコをよぶ声が聞こえる。
あれはわたしの子どもではない!
そう思ったけれど、ほうってもおけず、子どもたちからぱっと身をふりはなすと、かけ出した。声のするほうへ。
走れ、走れ!
道をまがり、さかをのぼって、へいの後ろをのぞきこむと、
「ミャ! ミミャーミュー!(ママ! たすけてよーっ!)」
チビの生まれたての黒ネコが二ひき、かれはにくるまっておびえている。
チビコは二ひきをなだめると、一ぴきずつ、家にはこんでいった。二ひきの名をたずねると、
「あたしはクロナ。弟はクロムよ」
と言った。母はパトロールたいなので、おちちをのませてくれない。(時間がないのだ) チビコはいっしょにすまわせてやった。
こうして、チビコ、チビマ、チビミ、チビメ、クロナ、クロムの生活がはじまった。
【先生の書き込み】 とてもよく考えたお話ですね。みんなでいっしょにくらすようになってよかったね。
【子の書き込み】 ほんとの話です。
□ ノラネコげんじつ物語 (2)
なんでこうなるの。
チビコはおじさんの家のにわのおくで、ないていた。
クロナとクロムがしに、さらにチビコの子どものチビミ、チビメがしんだ。のこっているのはチビマだけだ。
「ママ、大じょうぶ。わたし、ここにいるわ。それに、また赤ちゃん、生まれるのに」
チビマがチビコにすいついて言った。チビコはなみだをぬぐった。
「そうね」
そうだ。チビコのおなかは大きくなっていた。赤ちゃんはもうすぐ生まれる。
「弟かしら。妹かしら」
チビマは前足をこうささせてすわりこんだ。チビコはこう言った。
「妹だったら赤ちゃんを生めるわ。弟だったら、いさましくなってくれる」
チビマは立ち上がるとかるがるとへいにかけのぼった。そしてふりむいて言った。
「さあママ、早く。今夜はまん月よ。ネコの集会よ」
「はいはい」
チビコは二つ返事で言い、ネコの集会に出かけて行った。(おわり)
【先生の書き込み】 楽しいお話ですね。
□ ノラネコげんじつ物語 (3)
チビコとチビマはネコの集会のひらかれる通りにむかって歩いていた。
「ママ、大じょうぶ、おなか。ねえ、わたしによりかかる?」
チビマは心配してチビコのまわりをちょこちょこまわる。
「大じょうぶよ。ママ、ここ一人で歩いたことあるもの。目をつぶってだって歩けるわ」
「それは、わたしの妹たちとわたしをおなかにもっているときね?」
チビマは言い、はげました。
「大じょうぶ。もうすぐみんな来るから」
「チビコ! 大じょうぶか」
まっさきにとんできたのはクロロだ。
「チビコッ、大じょうぶ? 手つだうわ」
そのつぎにとんできたのは、なかよしのシルバーだ。
「チビコ、あたしゃ、おまえが心配だよ」
とびこんできたのは・・・・
「母さん!」
チビコはなみだをあふれさせてトラもようのネコにとびついた。そのネコもなみだをながしている。
「いったい、だれが?」
「おれだよ、チビコ」
「ぼくもなんです」
なんと、クロロの弟のクロタと、みなしごのはいいろのネコだ。
「おっと、おくれたなあ。おれもさ」
クナッキーがわりこんできた。三びきはおもいしごとをはたしたのだ。チビコがお礼を言おうとすると、
「クロタッ!」
クロロとクロタがだきついた。クロタはたびにでてしまって、帰ってこなかったのだ。
チビコと母ネコマーサのさいかいと、クロロとクロタのさいかいをおえ、ネコの集会ははじまった。
ビッグ! ニュース!
チビコのお母さんマーサは、じつは・・・
ネコの長ろうでーーーす!
2009.9.21
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朝、天王寺の現場へ顔を出してから、ふたたび奈良に舞い戻り、のどかな平城京跡を自転車で走っている(じつは計画書作成のための交差点の調査)。昨日は天王寺を昼に出て、鶴橋の商店街をちょいとぶらついてから駅近くのどんぶり飯屋「ぶあいそう」で昼飯を喰い、それからかつての職場であるショッピング・センターへ向かった。こちらは契約更改に向けての内部調整だが、交通隊で人間関係の絡んだやや深刻な問題が持ち上がっていて、2Fの機械室にこもってひそひそと二時間も話しこんでしまい、家に帰ったのは10時頃だった。あれやこれやと重なってきていて、ちとこのごろ忙しい。子はYといっしょに土曜日から和歌山へ行っている。向こうでもあれやこれやとあるようで、しばらくは毎週末はそんな感じになりそう。世間はシルバーウィークとかで大変結構だが、わたしにとっては子のいない週末をさらに迷惑に延ばされただけでしかない。今日は珍しく子自ら電話がかかってきて、おじいちゃんと海で釣りをしてグレともう1匹、縞模様の魚が釣れて、前者を猫にやり、後者を煮て家で食べたという。釣りは前からやりたいと言っていたので、嬉しかったことだろう。わたしも近松心中物宜しく大和川あたりに身投げしたら、流れ流れて和歌山の海で子が吊り上げてくれるだろうか。
2009.9.22
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