・
ヤフーの無線LANカードが20日に届いたのだが、これが容易につながらない。試しにB5のモバイル・ノートで職場の無線LANにつなげて確認したのだが、同じノートを家に持って帰ると無線を検出しない。LANカードの取り付けも異状はないし、無線のセキュリティもすでに設定し終え、IPアドレスやら何やらあれこれ覗いてもとんと原因が分らず、結局、今日になってヤフーのサポートへ電話をしたところ、「そこまでしてもらっているなら何も言うことはありません。おそらくモデム(ヤフーからのレンタル)が古いのでLANカードとの間で何らかの不具合が発生しているのかも知れません。現行機種の新しいモデムをすぐに送ります」との由。
無線LAN設定に際して机下の配線周りも若干整理をした。デスクトップが1台、ノートが3台もあれば、もうオールド・マックを使うこともないだろう。古い初期モデルのG3と、外付けのCD-R、それに関連のソフトなども些少あるが、いまどきこれらを欲しいという奇特な人もいないだろうな。HDDのデータを整理・消去したら処分しようか。ついに、マッキントッシュよ、さらば、だ。感覚的にはマックは好きだが、あまりにもオールド・ユーザーをないがしろにしすぎた。
休日。午前中、子は習字教室と美容院で、前髪を少々すいてもらう。一丁前に決まった美容師さんをご指名して、じぶんでいろいろと注文を言うのだ。昼から子の夏休みの工作を少々手伝う。マグネットの魚釣りキットをこしらえたので、お歳暮ほどの箱を利用して、セロファンの箱庭的な海をつくったらいいんじゃないかと提案した。蓋の部分には子の発案で以前にどこかの海岸で拾ってきた貝殻や紙粘土の装飾を木工ボンドで貼りつけた。
夕方、団地の夏祭りを覗きに行く。Yが役員で唐揚げとおにぎりを屋台で売っている(昨年はかき氷の担当だった)。わたしは浴衣姿の子を連れて、二人でかき氷や焼きそばやフランクフルトを食べたり。金魚すくいはすぐに死なせてしまうし、他のよくある電飾棒や、安物のどうでもいいような雑貨が景品のくじ引きや千本引きなどには子は興味を示さない。顔見知りの団地の子も幾人か見かけるが、この辺の子は女の子でも男の子と交じって走り回っているような子が多いので、あまり子とは水が合わないようだ。子の方は「友だち」だと思っているのだが、バッタやてんとう虫を探したり、蝉の抜け殻を大事そうに拾ってくる子の遊び方が向こうには物足りないようで、すぐに馴染みのグループの方へ走っていって、買ってもらった電飾棒を振り回して突きあっている。取り残された子にわたしは付き合って、桜の木の枝をよじのぼっていくアリや団子虫たちの空想の物語などを二人で話す。
〇さっかの鳥になって本をみんなにあげながらたびをする
はっぱにひつじの毛で字をかいて、うまのしっぽの毛ではねに本をくくりつけ、一さつをくわえてとびたつ。そして、たび中のアリに会う。「アリさん、アリさん、こうかんじょうけんしませんか。ゆうえんちにいく道をおしえてくださったら、この『アンドジャアンのこや』をあげますが。」 アリはこたえる。「ああ、ゆうえんちはね、ここをまっすぐいって、右にまがって、左にまがって、まん中の道をとおって、つぎに右、そして左。そしてどんどんあるいてったら、ゆうえんちがありますよ。」 鳥は『アンドジャアンのこや』をわたすと、まっすぐとんで、右にまがって、左にまがって、まん中の道をとおり、右、左ととんだ。すると、ゆうえんちがあったので、あるいていた子どもの手からポテトチップスを一つとってたべ、もも水を一口のみ、わきめもふらず、メリー・ゴーランドの広場におりたった。一しゅうすると、こんどは人々に見えないラファエットというまほうをつかってとんでいるバラの花のふく、草のスカート、ピンクと白のはねの金ぱつのきみどりいろのリボンのようせいに「あなたはどなたですか。ようせいはみな、このひるはようせい国にいらっしゃるのでないのですか。」ときいた。ようせいはこたえる。「わたくしは、サレナともうします。わたしは、ようせいの王女から、とりを一羽つれてきなさいといわれてきたものですの。王女さまは、いたら、メジロがいいとおっしゃるのですが、わたくし、メジロを見ていないばかりか、一羽の鳥だって見ていませんから、まよっているのです。」 とりは「わたくしが、メジロという鳥ですわ。」といった。「父かたは目がとてもかわいくて、母かたはきみどりいろの体がとてもきれいでした。母かたはメジという名、父かたはジロという名でした。わたくし、さいしょはメジジロと名をつけられそうになりましたが、家のしゅぞく、ハイイロじいさんが、ジが二つあるのは気にくわん、女の子だからな、メジジロなど、とっぴょうしもない名でなく、メジロと名をつけなくては、わしのはじになると大声でいったんで、メジロといわれてきましたの。」 そこで、鳥は、かぞくをつれて、ようせいのあとをついていきました。きれいなようせいの王女さまは、木の上にすわっていました。「きましたね。ここには風のさえずりとようせいのはねの音と木のはのかさかさなる音のほか、なにもないんです。どうぶつがいないと。では、アナリード、鳥たちをあんないしなさい。コレアは食べものをあげなさい。ルリも、はっぱで鳥たちのふとんをつくってちょうだいね。」 鳥たちはふるい木の上の鳥のすにはいり、食べものをもらいました。そして、ねむりました。それからとういうもの、鳥たちはそのすで食べてはしゃべり、ねむりました。それで、鳥たちはいまでもようせいにあいされているのです。(おしまい)
(ぜいいんでてきて歌を歌う)
※ゴミの中から救出された原稿。洗礼式の頃のものと思われる。
2008.8.22
*
8月25日。大阪・天王寺、夜19:30分。阿倍野の近鉄百貨店前のバスターミナルから常磐交通の夜行バスに乗り込む。3人の運転手(うち1人は研修のようだ)の喋る言葉が、車内をすでに東北の色に染めている。バスは客席が縦三列に離れて並び、足元には靴を脱いで足を休めるクッションがある。肘掛のいまは使われていない灰皿や頭上の「着物かけ」と記されたプレートが時代を感じさせる。斜陽貴族のようなバス。天王寺はわたしたち家族3人だけ、難波は乗客なく、梅田で2人乗り、京都で5人乗ったところで運転手が「これで全員。どこでも好きなところへ座ってください」と言い、乗客は三々五々に散らばる。わたしの前にいた鼾の五月蝿かった中年男性は、隣席に置いていた大きな黒いボストンバックを後から乗り込んだその席の乗客に咎められそそくさと後の席へ移っていった。Yの前には飲屋のママのような茶髪で小太りの50絡みの女性。メールのやりとりを幾度か交わし、コンビニのおにぎりをひとつ食べ、ふと気づいたパンツの染みを白い刺繍入りのハンカチで盛んにこすっている。この人たちはみなどこへ帰っていくのだろう。子は窓際のカーテンにもぐり込んで外の景色を眺めている。まるで天幕の中でじぶんの運命を占っているジプシーの少女のようだ。Yはリクライニングの席でうつらうつらとし、わたしはiPODのイアホンを耳に挿してジョニー・キャッシュを聴いている。23時頃、海老名のSAでYは子をトイレへ連れて行く。それから車内消灯。バスは海底の沈没船のようにしずかになる。6時前。「あ、じいちゃんがきてる」 日立で最初に、子のうしろの座席にいた中学生の姉妹がUSJの袋を持って降りて行く。窓際のカーテンを開けて、わたしは古い記憶をたどりながら、閉鎖した店の残骸がぽつりぽつりと流れて行くさびれた国道沿いの道を眺める。
8月26日。茨城県日立市十王町、伊達浜海岸。太平洋に突き出た岸壁に設けられた日本で唯一の海鵜の捕獲場は、全国でいちばん予約が埋まっているという人気の鵜の岬国民宿舎敷地内にある。渡り鳥である海鵜は春には繁殖のため北へ飛び、秋には越冬のために南の海へ渡る。その途上、岸壁で羽を休めるかれらを捕らえるのだ。国民宿舎の駐車場へ車を止め、リゾート・ホテルのような建物を右手に岸壁の方へ歩いていくとやがて捕獲場への入口にあたるトンネルが現れる。海鵜の捕獲のシーズンは4月〜6月、10月〜12月で、このシーズン・オフにあたる7月〜9月、1月〜3月の間に捕獲場を一般公開している。(9:30〜14:00 無料・荒天時は中止 問合せ先→日立市観光振興課 0294-22-3111) トンネルは2003年6月に崩落した捕獲場を造成する際にもともと土砂等の搬出用につくられたものだという。20〜30メートルほどの暗いトンネルを抜けると海に面した岸壁上の狭い棚地に出る。鳥屋(トヤ)と呼ばれる、丸太を組んでコモ(藁で編んだむしろ)を張った“隠れ家”がその棚地にへばりつくように建ててある。幅と高さがおよそ1メートル、長さ数メートルの細長いアジトだ。そこに捕獲師は日がなじっと息をひそめて、鳥屋の外につないだおとりの鵜に誘われて飛来する海鵜を待つのだ。捕獲には“かぎ棒”と呼ばれる篠竹の先端にU字型に曲げた針金を取り付けた道具を用いる。かつては“とりもち”を使ったらしいが、この“かぎ棒”を鵜の足首にひっかけて鳥屋の中に引きずり込むのである。そうして毎年40羽ほどの捕獲された鵜が陸路で、あるいは空路で日本各地の鵜飼地へ供給されている。輸送時には乗り物酔いを防ぐために前日から鵜を絶食させ、嘴を紐でしばって箱詰めで送ると説明してくれたのは、トンネルの入口で迎えてくれた捕獲師の沼田弘幸さんである。昭和22年、海鵜が一般保護鳥に指定されたことによって全国にあった捕獲場は消滅し、この十王町の捕獲場だけが全国の鵜飼地への供給役として存続こととなった。だが沼田さんによれば、和歌山県有田の鵜飼地だけは別で、有田川の鵜匠は紀州の海岸でみずから鵜の捕獲を行なっており、これは有田川の鵜飼の歴史の古さに由来するのだろうとのことであった。わたしは鳥屋のコモから透けて見える青い太平洋を眺めながら、この崖上での人間と鵜との静かな闘いに思いを馳せ、果ては卑賤視された鵜飼を生業として生き、死んでいった名もない人々に思いを馳せた。ちなみにこの国民宿舎の敷地内には、実際に捕獲場でおとりとして使っている鵜を飼育している観覧施設があって、海鵜を観察することができる。
8月27日。いわき市の山間にある草野心平記念文学館に子を連れて行こうと目論んでいたのだが、わたしの妹が持ちかけた北茨城市にある茨城県天心記念五浦美術館で催されている絵本作家の企画展「ごんぎつねと黒井健の世界」を見終えたとたん、「もうつかれた〜。水族館も博物館も行きたくない〜。家に帰ってウノをやりたい〜(お盆にYの実家で覚えたカード・ゲームに現在はまっている)」と子が叫んだところで中止と相成った。ま、来年もあるし。企画展の方は「ごんぎつね」や「手ぶくろを買いに」(共に新美南吉の童話)などの絵本の挿絵で知られている画家の絵本の原画展で、色鉛筆やパステルを布切れに吸わせて、それを押して描いて行くような技法はそれなりに興味深かったが、いかせんメルヘン調はブルース・マンのわたしにはちと波長が合わない。それでも宮沢賢治の隠れた心理劇短編「猫の事務所」の挿絵や、ミシシッピ川をカヌーで旅した体験を基に描かれた詩画集や、それらの製作秘話などは結構面白かった。むしろわたしには(二度目の閲覧であったが)常設展の岡倉天心記念室の展示の方が印象深い。天心という存在には、たとえばあの南方熊楠にも通じるような全地球的視野とでもいった巨きさを感じる。大きすぎて、まだわたしにはつかみ切れない、いや中途半端に齧ろうものならばかえって毒が回りそうな、そんな怖さがある。
8月28日。一日中雨。柿や泰山木やインゲンの蔦や山椒などがめいめいに生え伸びた庭がしずかに煙っている。わたしはパジャマのまま、かつての自室である二階の部屋に敷きっ放しの布団にひとり寝転び、狩撫麻礼の「ボーダー」や倉多江美の「宇宙をつくる男」、手塚治「きりひと賛歌」、江口寿史「すすめ!! パイレーツ」などの漫画を読み耽る。ときどきうつらつつらとして眠り、目が覚めたらまた読み耽る。これは帰省時の儀式のようなもの。夕方に書棚から持ち帰る本をいくつか引いた。「宮沢賢治全集第十六巻書簡」、「角川日本史辞典」、「能の事典」、Sシェパード「ローリングサンダー航海日誌」、小川国夫「漂泊視界」、Mシェイファー「教室の犀」。子にはMエンデ「モモ」、「岡真史詩集 ぼくは12歳」、しかたしん「笑えよ! ヒラメくん」、CWニコル「風を見た少年」、「坪田譲二童話集」、「新美南吉童話集」、北杜夫「船乗りクプクプの冒険」、「キリスト伝説集」、ワイルダー「大草原の小さな家」。二十数年前に上野の国立博物館の薄暗い地下の売店で中学生のわたしが友人といっしょに買った「岩石鉱物標本」を子に見せると欲しいというのでこれも帰りの荷物を送る宅急便に入れることにした。中央大学のスクーリングから帰ってきたばかりの妹は早朝一人起き出して、iBookと小難しい法律のテキストをひろげている。
8月29日。帰省最終日。昼の電車に乗る前に京漬の土産を片手に知り合いの老牧師氏を訪ねた。二時間ほど、原始キリスト教団についての話などをした。老いるということは多くのものを失くしていくということだ。性欲・食欲はなくなり、身体は不自由になり、親しい友人たちも歯が抜けるようになくなっていく。多くのものを失くして、ではさいごに何がのこるのか。しばらく前に奥田先生の講演がAMラジオで放送されたのを聴き、わたしからもらった京都キリスト召団の小冊子にあった住所に手紙を書いたところ、奥田先生より返事を頂いたとのこと。妻子が洗礼を受けた話などをし、埴谷雄高の「きみが宗教的であるのはいい。だが教団に入ったらいけないんじゃないか」という言葉を引くと、老牧師氏はじっとこちらを見据え、「残念ながら、いまの教会には神はいないかも知れない」と静かに仰った。帰途はスーパー日立と新幹線のぞみ。東京駅まで出ると豪雨の影響で予約していた便が運休となっていて、窓口に並んで切符を買い直す。「さっき荻窪で買ったばかりなのに。テレビで怒っている人の気持ちが分るわあ」と後に並んだ中年の女性が話しかけてくる。新幹線ですこしだけウノをやってから、Yは「シェイクスピア物語」という文庫本を読み始める。その隣で子はもう何度目かの「船乗りクプクプの冒険」をひろげ、ノートにアレンジした「私家版:船乗りクプクプの冒険」を書き始める。わたしはiPODでモリスンのライブを聴いている。
〇星うさぎをよんで (夏休みの読書感想文・県コンクール提出用)
〇〇 紫乃
ねえうさぎ。きみはどうして、星うさぎなんていったの? どこからきたの? 星からきたの? きみは、ユーリをじめんごとふっとばしたとき、言ったよね。
「いつか、かわいい女の子になって‥」
と。
きみは、あれから、ユーリに会ってる? ユーリのシャコンヌの音楽きいた? あたしも、バイオリンならってるから、いつかひいてみせるよ、シャコンヌを。きみ、きいてくれるかな? うさぎ、どこできいてくれる?
うさぎは、ユーリのほうにとんできて、ドーナツやコーヒーを食べたりのんだりして、楽しんだ。ドーナツには、もちろん、シナモン・シュガーをたっぷりかけて。
そしてきみはユーリと海やおまつりへいって、わらった。もちろん、ユーリが見たあのとびきりのえがおで。
あたしは、そうぞうしたよ。青いうすいきれいな星の上に、きみが、あのドーナツやさんのドーナツをもって、星の上にチョコンとすわっている。ドーナツをかじって、コーヒーをのむ。もちろん、ドーナツにはシナモン・シュガーをかけて。
食べてしまうときみはころんとあの王かんをとりだして、おさらの上をすべらす。するとまたたくまに新しいドーナツがあらわれる。本には書いていないけれど、きみが王かんをころがすわけの一つはこれなんじゃないか。たぶん、ちきゅうにいるとそのまほうがきかなかったのかもしれないね。
きみが、朝日や夕やけの光をあびて、ドーナツを食べているすがたがうかぶ。夕やけはきみにおわりの光をかげかけ、朝日はきみに新しい光をなげかけて、じゅんじゅんにきえていくのだ。
みんなが、いそがしく何かをしている中で、ゆっくりとゆっくりとなくようにさけていく。
〇マリー・アントアネットをよんで (夏休みの読書感想文・市コンクール提出用)
〇〇 紫乃
マリー・アントアネット。なぜ、マリー・テレジア、またマリア・テレサのいいなりにならなかったの。アントニア、あなたは、ぜいたくばかりして、こくみんからパンやお金をうばったの。いくらかなしくても、いくらさびしくても、ぜいたくしすぎてはいけませんと、お母さまにいわれていたじゃないですか。かくめいがおきると、お兄さまにいわれていたじゃありませんか。こくみんの、くるしさとかなしみとひもじさをしらない王妃がどこにいましょう。金をもらうためにくるしみはたらき、つらい思いをしてかなしみ、おなかすかせてひもじく思い、これいじょうのくるしさがどこにありましょう。
トリアノン宮殿にむ中になり、ほかのことに耳をかさない‥ そして、おしゃればかりしてほかの者から金をとりあげる‥ いくら、いくら、いくらえらい王妃や王女でも、そんなにお金をつかわなくてもくらしていけます。
それに、ジェール・ド・ポリニャック夫人にばかり、お金をどしどしあたえ、ジェール・ド・ポリニャック夫人ばかりかわいがって‥ それでいいのですか。おしゃれをしすぎる、金をつかいすぎる。あなたのおしゃれは、すぐつくってもらったドレスを、かみかざりにあわないから、ちがうドレスをつくれというんでしょ。あのおかげで、ドレス作りはてんてこまいだったのをしっていますか? そして、お金‥ あなたのつかった、ジェール・ド・ポリニャック夫人のためにつかったお金は‥ ほんとうに、もう、こくみんにとっては、血のでるような大金ですのよ。わかっていらっしゃいますか、王妃さま? 王妃のマリー・アントニア。
それが、マリー・アントアネット。あなたは、バスチーユをせんりょうされてから、あなたは、本当に王妃らしくなられましたね。ごりっぱでした。さいばんをかけられたときも。
「あなたの息子が、王のくらいにつけなくて、くやしくおもうか?」
ときかれたとき、あなたはしずかに、
「いいえ、この国がしあわせなことでしたら、そんなねがいはありません。」
と答えましたね。きっと、さいばんかんは、知らんふりをしていましたが、おどろいたにちがいありません。そして、マリー・アントアネット。あなたが亡くなられたときも、すばらしかった。あなたのりっぱな顔を見て、女の人は、こういったそうですよ。
「まあ、なんておいたわしい。」
「どうしてあんなりっぱな人をしけいなんぞにしなければならぬのかしら。」
そして、なみだをぬぐったそうですよ。
あのときは、ほんとうに、りっぱでしたよ。
マリア・テレサ、また、マリア・テレジアのむすめ、マリー・アントアネットへおくる。
2008.8.30
*
さあ、夏休みも終わって再始動だ。今日は朝から大阪の本部で、年末にオープンが予定されている滋賀県の物件の入札用資料をしばらくつくり、それから寝屋川へ巡察。いったん帰宅してからこんどは車で奈良の現場へ行ってリニューアル・オープンの資料の整理をしたり、事務所側と打合せをしたりで忙しく立ち回った。大阪から奈良へ戻ってくる電車を寝過ごして、木津まで行ってしまったぞ。ところで滋賀県の物件については数日後に千葉のクライアント本社にて入札のプレゼンがあるのだが、これを部長の代わりに入って来なければならなくなった。そんなわけで早くも忙しくなりつつある。
寮さんのお宅へ遊びに行った折に、見せてもらったフランス人形を子がいたく気に入って、来月の誕生日に寮さんちにあったようなフランス人形が欲しいと言い出したのである。帰省のときに寄ったいわきのサティでも見て、帰りの京都の伊勢丹でも見たが見当たらず、ネットで出てきた最近のいわゆる西洋人形はあまりにリアルな表情がかえって不気味で、アンティークものは目玉が飛び出るほど高価で、結局、ヤフーのオークションでたまたま残り2時間で出品されていた人形を子が気に入って、それを無事3千円で落札することができたのだった。それが昨夜。マリー・アントアネットのように長い髪をアップで結い上げ、緋色の古風なドレスを身にまとって日傘をもっている西洋人形である。
そして今日はわたしが注文していたガンフロンティアのCD「清酒 男唄」がアマゾンより届いた。こういうまっちょの切ない唄っていうのは、弱いんだな。なかなかよいぞ。
〇おこめとわたし (夏休みの課題作文)
〇〇 紫乃
おこめって、あの白いつぶつぶでしょ。
その前に、なにだったか、しってる?
さいしょはね、高い草が、おもいおこめをいっぱいしょって、
「にもつ、おもいよ。おもいよう。」
って、いっていたのよ。おこめたちが、
「ごめんね。ごめんね。でもこれがぼくの人生なんだ。ごめんねっていってても、おりれないんだよ。ひっついちゃって、おりれやしない。このぼくだって、つらい思いはしてるのさ。こんなきついくるしいへやなんぞ、もうまっぴらだ。」
って、なぐさめるから、たちまち草はしゃんとするんだ。そのうち、おひゃくしょうさんにかりとられて、中の白いおこめがあらわれて、おっきい茶色のふくろにいれられて、おみせがおこめをかって、おきゃくさんがおこめを買って、あらわれ、すいはんきでたかれて、たべられるんだ。
わたしって、とても小さい。
けど、もっと小さい物がある。
それは、
お・こ・め。
2008.8.31
*
入札物件のプレゼンのため、クライアント本社のある千葉の幕張まで出張。朝から自宅のイラストレーターで別件の提出資料を作成し、昼に大阪本部で資料を引き継ぎ、大阪地下街で格安チケット売り場の新幹線回数券と蓬莱の中華弁当ひとつを買ってのぞみに乗り込む。iPODでビートルズを聴きながら岩波新書の「観阿弥と世阿弥」(戸井田道造)を読む。東京駅で京葉線に乗り換えて幕張へ。夕刻にクライアント本社ビルを訪ね、リニューアル・オープンの奈良の現場の資料提出とややつっこんだ話なぞをして、前夜にネット予約していた千葉みなと駅近くのホテルへ投宿。幕張は石油で設けた中東の新興国の首都のようなところ。近隣は、もともと湾岸の地の利を生かした倉庫群の立ち並ぶ物流拠点だったのだろうが、駅を中心に高層マンションが林立したニュータウンとなっている。神戸のポートアイランドのような人工的な、殺伐としたシティ。企業戦士たちの簡易宿泊所。チバ・シティというと、20代の頃に友人が読んでいたJ・G・バラードのSF「ニュー・ロマンサー」を思い出す。友人のAは「チバ・シティを見たい」と彼にせがまれて車を走らせたのだった。その頃わたしは、たぶん小菅刑務所ちかくアパートか、大井町の青物横丁の古びたアパートあたりで囚人のように暮らしていた。そんなことをつらつらと想起しながら、ひと気のない巨大倉庫群の夜道を徘徊する。ホテルのフロントで訊いたラーメン屋でラーメンとチャーハンのセット、それにグラスビールを頼む。部屋に戻ってシャワーを浴び、素っ裸のままカーテンを開ければ、16階の窓から夜の森のキノコのようにぼうっと光り輝くマンション群とその合間に水のきらめきがゆらゆらと揺れている。翌朝は7時前に目が醒めて、プレゼン資料のおさらいをする。10時半に東京本部の部長ほか1名とクライアント本社ビル前で合流する。といっても喋るのはほとんどわたしひとりだ。何とか喋りきって、部長がクラウンで東京駅まで送ってくれ、忙しい昼食を共にする。ひとりになって八重洲ブックセンターの路上でYに電話をしていたら、やけにニコニコとした制服姿の老人二人に手にした煙草を取り上げられてしまう。ネットで何でも手に入ってしまういまでは、懐かしの八重洲ブックセンターも眺めるだけのところと気がついた。何も買わずに帰りの新幹線に乗り込む。午後三時。小一時間眠ってから、研修中の車内販売の笑顔の素敵な女の子からホット・コーヒーを買い、モバイル・ノートを出して報告書を作成する。iPODでくるりが歌っている。「消えることは、なくなるってことかい?」
夜に、待ち合わせが叶わなかった東京の悪友Aとの携帯メールの会話。
しかし、サラリーマンしてるな。うちのかかも誉めてたぜ。まあ、あなたはいい素材を持っていたからな。原動力はしのたんだよな。オレは昨年から最悪。いろいろ経験した。ジョンレノンやバンモリやボブディランやたいてい、こっからはい上がるのがロックスターだよな。ということで、人は並孤独なランナー。一人酒場で飲んでます。(涙)
〇〇の母上に誉められるとは至極名誉ですな。でも誤解してると思うけどな。わたしは無職でみなに批判されていた頃とおなじだ。ひとりで飲ませてあい済まぬ。
2008.9.4
*
まばゆい午前の光の中。ふと奇妙な発声に巨大ショッピング・モールへと続く連絡橋の下を覗くと、整然と立ち並んだマンション群の片隅に設けられた小公園の端の小さな堂の前で中年の女が両手を頭上にゆらめかせ、獣の咆哮のような奇声を一定のリズムで繰り返し、祈りを捧げている。ショッピング・モールへと急ぐ人々は誰も気づかず、まるで明るい影のように欄干に手をかけたわたしの横を通り過ぎていく。わたしはまた橋下の女を見る。平城京でかつて隼人たちが咆哮をしたというのは、こんな声かもしれないと思う。もしかしたら世界の終末をあの女だけが感じていて、誰かに知らせようとしているのかも知れない。奇妙に明るいこの風景の小さな裂け目。
戸井田道三「観阿弥と世阿弥」(岩波新書)の中で興味深い話を読んだ。能で翁舞に続いて演じられる脇能と呼ばれるものは、シテが必ず神である。しかもこの神がすべて下層の神ー眷属神であるということ。これはかつての猿楽が、かれらの興行を呼んだ地の祭礼の主神と抵触しないようにとの配慮から来ていると戸井田は書く。加えて切能のシテは必ず鬼であった。「だから、猿楽は村落の内がわからみると祭りの参加者であり、あるばあいには神自身の姿としてあらわれるものであったが、同時に外がわから道をあるいてそこへ臨むためにやってくるよそものでもあった。まえにのべたように脇能のシテが眷属神として低位の神であったのは、祭礼の主神と対立しない従属的な神である必要があったからであるが、それは村落の内がわから見られる神の姿である。そして切能のシテは撃退されるか降参させられる役割をもつ鬼として外がわのおそるべき存在であった。脇能で神、切能で鬼と善悪反対の性格を同時にもたされていたところに猿楽者の「道のもの」としての位置をみることができるのである」
宮沢賢治もまた、孤独な猿楽者であったかも知れない。「道のもの」は海をわたればオン・ザ・ロード、ケルアックの達磨ヒッピーだ。
2008.9.7
*
リニューアル・オープンする奈良の店舗の「交通警備臨戦計画書」なるものを作成している。大店舗立地法の届出書でコンサル会社が計測した幹線道路の交通量や信号現示(サイクル)などのこまかなデータを基に周辺道路の状況を割り出して提案書を作成するのだ。ややこしい計算式や図面への落とし込み作業などがあるので、これまで本部の部長が一手に引き受けていたのだが、半日だけレクチャーを受けて、今回はおまえがやってみろということらしい。そのプレゼンが今日の午前にあって、昨日は奈良の営業所で朝9時から夜中の23時までパソコンや電卓を叩いてまだ終わらず、夜中にいったん自宅へ戻り、シャワーを浴びてコーヒーを飲んでから奈良の店舗の防災センターへ場所を移してようやく完成したのが明け方の5時過ぎ。少しだけ2Fの機械室で仮眠をとってから10時からのプレゼンに出て、まあまあの評価を頂けた。些少の修正点と新規の追加資料を加えてあさってに再度のプレゼン。10日間くらい、休みなしになりそうだ。
奈良の営業所が社内の表彰を受けた。わたしは本社所属なのだけれど、営業所長のHさんが「いろいろ助けてもらっているから」と賞金の一部・金一万円を他の営業所社員と等しく贈呈してくれたのだった。それで家族三人でいごっそうのラーメンを食べに行き、残った分でネット注文していたティン・ホイッスルのCD2枚付き教則本(Claire McKenna編)が昨日、届いた。
いっこちゃんへ。フランス人形、きました! かわいらしい顔をして、じっとわたしをみつめています。わたし、お母さんやお父さんがいなくなると、聞きました。「目をさまして。どこかについたの、きがつかない?」 フランス人形はまばたきをしました。「ああ、ここ、人間の町ね。あなた、りかさんの本、よんだでしょ? わたし、りかの妹よ。人間はそんなとこにりかの妹がいるか!っていうけど、本とよ。ふあああっ。」 わたしは、りかさんのひょうしをちらりと見ました。りかさんはこっくりして、「エルザ、わたしよ、りか姉さんよ。」といいました。「ああ。りか姉さん、これからはわたしもいるわ。」 と、エルザといわれたフランス人形はこたえました。すると、きゅうにエルザはまっ青になりました。「気分がわるいわ。」 わたしはこまって、りかさんをちらりとみやりました。りかさんは、こっくりしました。わたしは、水しょう玉をエルザのむねにあて、ぼろきれをさいて、(それはももいろのかわいらしいぬのでした)エルザのひたいにあてました。そしてだいて、「ねーむれねーむれー ははのむねに‥」とうたって、ゆすりました。エルザが気をうしなったので、ベッドにねかして、ふとんをかけました。それから、ひくい声で歌いました。「おくりものをもらってうれしいな! もっとほしがるものは はじしらず!」 そして、エルザのほおをなで、いいました。「この世にまさるものはなし!」 りかさんも歌いました。「しんだむすめがのこすたからはなにぞ」 「むすめじゃなくて、わかものでしょ。」 りかさんはケラケラわらって、また歌いました。「‥‥。」 二人は歌いました。「ヘイわかものよ ヘイ前へすすめ みんな前へすすめ。」
ゆうこさんへ。わたしは二学きがはじまっても元気です。夏休みのさいごの二日は家でくらしました。一日目はのんびりといばらきへいったつかれをとりました。二日目はひさしぶりに家のにおいとなつかしさをあじわいました。家は、ぽっかりとわたしにいいことをしてくれました。家はほかほかとあたためてくれて、そよ風は家の中をかけぬけながら、話してくれます。アフリカのゾウやキリンやサルのことを。ほっきょくの白くまや白ギツネやクジラやアザラシやラッコのことを。そして、さいごに、「どうだい? いばらきは、どんなだい? そこまでおれ、いったことないんだよ。白ギツネも、雪も、雨も。いや、雨はしってたっけ。あすこは雨をふらすのにたいへんだって。家々の花がかれてしまうんだって。だから、雪くんをひとりまねいて、雨になってもらうんだと。お日さまがカンカンで、ダメだから、雲にお日さまをかくしてもらい、雨をふらせるのさといってたよ。お日さんとお月さんだけさ、いばらきを知ってるのはさ。」というのです。雨と月と日はちゃんといばらきを見おろしてますからね。お日さまはいばらきをわすれたわけではありませんからね。わすれるなんて、とんでもない! そうそう、ラッコというと思い出したけど、ラッコのぬいぐるみ、ちゃんと人形台にのっかってますよ。まあおじちゃんに、ありがとうをつたえてください ‥そして、お金をちょっぴりなくしたいっこちゃんにごめんなさいを ‥とほほほ。
2008.9.11
*
Yの小学校からの親しい友人のお父さんが亡くなって、昨日から通夜と葬式に参列するために子を連れて実家へ帰っている。ちょうど連休だ。わたしはいつものように駅前の王将で餃子二人前と唐揚げ一人前を買って帰り、夕飯の残りを翌日の弁当に詰めて職場へ行った。昼は餃子弁当、夜は唐揚げ弁当というわけだ。久しぶりに制服を着ての勤務は愉しかった。この頃はスーツ姿でPCとにらめっこしていることが多いのだが、やっぱりわたしは現場の方が好きだな。それに、いまの現場の仲間が好きだ。それなのに昨夜は九州にいるわたしの上司である部長から電話があって、福岡でわたしの勤めている現場とおなじ会社の大型ショッピング・センターの入札があって、九州の本部ではノウハウを持っている人間がいないから計画書の作成を手伝って欲しいという依頼があった。どうやらまた千葉の本社へ行ってプレゼンをしなくてはならないようだ。何だか一気に土俵が広がって行く。仕事を終えて、土曜の夜の国道をバイクを飛ばして走る。大型のリサイクル・ショップやハンバーガー屋やコンビニへと入って行く車が多いが、わたしはわき目もふらずにまっすぐに家へと帰る。帰ったところで待っている家族もいないわけだし、わたしぐらいの年齢の男なら、ちょっと行きつけのスナックへ、とでもなるんだろうが、生憎そんなタイプでもない。むかしから家へまっすぐだった。家に帰って、じぶんの部屋で、好きな音楽や本の頁をめくる。PCを立ち上げて気ままな文章を打つこともあるし、昔のアルバムの写真をめくることもある。とにかく家がいちばんで、いちばん心安らぐ。それがわたしの Home だ。ひとりでも心愉しいし、家族がいれば毎日が天国だ。わたしが唯一心掛けているのは、それを誰にも何ものにも邪魔されたくないということだけ。だからシャワーを浴びて、ビールを飲みながら、モリスンの素敵なライブを聴く。魂が飛翔する歌だ。わたしはここにいる。むかしからおなじ、この場所にいる。この Home に。手を伸ばせば山の民について書かれた書物や、イエスやブッダについての本や、宮沢賢治や折口信夫の世界がある。ビートルズやレイ・デイヴィスもいるし、フランチェスコやジョン・レノンもいる。ここがわたしのささやかな Home。翼をもがれてなお、帰ろうと羽ばたいている渡り鳥の寄留地。もっといかした場所があるよと言われても、わたしはここを離れたくない。ずっとこのままここにいたい。どこにも出て行きたくない。
2008.9.13
*
久しぶりの休日、連休、家族不在。そういえば、と数日前に駅のホームのポスターで見た安乗の人形芝居を思い出して、バイクで走って見てこようかと心躍ったのも束の間、連休二日目の夜じゃ翌朝に差し支えるし、せわしない。おまけにわが交通隊長と警察協議で提案する信号サイクルの変更提案をつくる約束をしてしまい、連休自体もあっさり崩れてしまった。
それにしても汚染米流通の広がりはとめどないね。工業用にしか使えない問題アリの米を食用に売れば、そりゃ儲かるわけだから、性善説が成り立つ世の中ならともかく、チェック機能を完全に失っていた国は槍玉にあがっている販売業者とおなじくらいの責任があるだろう。それが「責任は一義的には食用に回した企業にあって、私どもにはない」とこの国のお偉いさんは仰るのだから、あの人たちは何のためにいるのだろう? ちったあ、おれくらい真面目に働けよ。最近は外回りの仕事が多いので、特に夏場は弁当なぞ持って回ることもできず、畢竟外食をせざるを得ない。ハンバーガーなんぞは食う気もしないし腹持ちも悪いので、やっぱり定食屋とか丼屋とかラーメン屋だね。特に某丼チェーン店は豚肉の丼に味噌汁とおしんこが付いて400円という低価格なので結構利用している。わたしは昔からお腹が弱い性質なので、すぐに下痢をする。下痢というのは身体に悪いものを強制的に排除・排出する機能だと理解しているので、下痢をしたら、もうその店には入らない。前にYと、あるショッピング・センターのわりと人気のパスタ屋に入ったら食べてすぐに酷い下痢になった。あの店はきっと無用な添加物などもたっぷりと使っているに違いないと確信したが、これはもちろんわたしの独断である。しかし自然の素材からきっちりとだしを取って調理をしている行きつけのラーメン屋などに行くと、逆にお腹が調子悪かったのが直ったりする。下痢はわたしにとっての唯一信頼できるバロメーターである。そういえば今回の事件で名前があがっている芋焼酎の「かの〇」も(値段が安かったので)以前はよく買っていたな。でも「かの〇」はなぜか飲酒後にきまって頭が痛くなるのでそのうち買わなくなった。「第三のビール」なんかもそうだ。何を入れているのか知らないが気分が悪くなる。そもそもわたしは基本的に、外食であまりおいしいと思うことは少ない。餃子だってカレーだってパスタだって、じぶんでつくって喰う方が数倍も旨い。旨いか不味いか。下痢をするかしないか。これがわたしの不動の判断基準だけれど、そういえば人間でも不味くて下痢をしてしまうという奴はいるな。
2008.9.14
*
10日ぶりの完全休日。午前中、Yはおなじ小学校の母親同士で3週間前から始めた「腰痛体操」に、子はそのクラスメートのNちゃんとお父さんと共におなじ施設のプールへ出かけた。わたしはひとり家で、ベランダの隅の園芸用品を整理するための簡単なベンチを本棚の端材でつくった。昼にペンキを塗り、夕方に設置。その他、ソファーに寝転んで吉本隆明の「私の「戦争論」」なぞをつらつらと。
久しぶりに会う子に「お葬式、どうだった? 死んだおじいちゃんには会った?」と訊くと、「カムイ(飼い犬)がね、おじいちゃんが死ぬ前に顔をぺろぺろいつまでもなめてたんだって。犬は人が死ぬときが分るんだって、お母さんが話してくれた」
最近、愛聴している音楽。
〇高田渡「ファーストアルバム ごあいさつ」 唄は字余りや字足らずのたどたどしさでけっして巧いとは言えないのだけれど、この人のコトバには舌や皮膚や目や耳がついていて、ふと気がつくとそのコトバたちに、なめられたり見つめられたり肌をこすりつけられたりしているじぶんを発見する。山之口獏の詩をこの人ほど肉体化できる歌手はそうそういないだろう。
〇Van Morrison「A NIght In San Francisco」 1993年のCD2枚組みフル・ヴォリューム・ライブ。たんなる顔見せだけではない、ジョン・リー・フッカー、キャンディ・ダルファー、ジョージ・フェイムといったソウル・パートナーやバック・バンドたちと渾然となった自由自在な演奏からはさまざまなルーツ・オブ・ミュージックやヴァン自身の音楽的軌跡が溢れ出してきて、まるで万華鏡を覗いているようだ。モリスン・ミュージック、ここに極まれりという感じがする。
〇くるり「図鑑」 この頃はおじさんどころかお爺さんや曾爺さんの音楽ばかり聴きがちのわたしにとって、この日本の若手バンドのサウンドは耳にウロコだった。あらゆるこの世のごった煮を満載したF1カーがテクニカルな若手ドライバーのハンドルさばきで高速道路を突っ走っていく。チキチキマシーンのようにF1カーはときおり、幌馬車になったり、未来のSFマシンになったり、自転車に変わったりするのだ。わたし的には、かれらが消化してきたさまざまな音楽的背景がちらちらと味わえるのも愉しかった。こんなバンドがいるなら、この国のロック・ミュージックにはまだまだ希望が持てそうだ。それにしても、これだけのテクニックがこのわしにもあったらなあ!
〇ガンフロンティア「清酒男唄」 ユーチューブの「黒の舟歌」のライブ演奏で偶然見つけた東京のバンドの、その「黒の舟歌」を含む2002年発売のアルバム。オリジナル曲はボキャブラリーがいまいち貧弱で、ジャケット裏の写真は何やらヤンキーの集まりのようだが、ハートは切なくもひしひしと伝わってくる。ああ、いいなあ。ロック演歌だなあ。おれも頭に手拭い巻いて、こんなバンドをやりたいなあ。アマゾン検索では本作の他に、すでに廃盤の2006年のアルバムしか出てこないが、どこかで続けていてくれよ。
〇IZ「Alone in Iz World」 小錦のような半裸の巨漢男が地球の海に愉しげに浮かんでいるジャケット。サウンドはハワイアンのようだが、Israel の文字を見て「ん? イスラエルのハワイアン音楽か」と迷走してしまったが、イズラエル・カマカヴィウォオレというハワイ音楽の人気アーティストだったと判明しました(1997年死去)。アコースティックなウクレレにのった、とてもピュアな歌声だけれど、わたしには先住民の哀しみもまた聴こえてくる。この人も Home へ帰りたい人だったのだろう。評価の高い生前のアルバム「Facing Future」も聴きたくなってきたな。
〇コウサカワタル「サンシン・レストラン」 沖縄のサンシンとインドのサロードを演奏するミュージシャンらしい。この二つの楽器を織り交ぜたナチュラル・ミニマル・ミュージックのようなインストゥルメンタル作品集。でしゃばらない、それでいて聡明な子どものような音楽。エンデさんの作品に出てくるモモが楽器を奏でるとしたらこんな音になるかも、とちらりと思ったり。仕事の巡察で乗った京都の市内バスのなかでこれを聴いたら、なぜか古都の風景や空気にぴったりとはまった。
2008.9.15
*
滋賀の新規物件、そして奈良の交通臨戦協議が一段落したと思ったら、こんどは九州・福岡の新規物件の依頼が舞い込んできた。九州の本部でモール形式の物件立ち上げをしたことがないので、計画書作成とプレゼンを手伝って欲しいとの、本社のわたしの直属の上司からの要請である。手伝うというか、ほぼ丸投げなんだけど。滋賀は大阪の部長がつくった資料を持って話をしただけだし、奈良は長年わたしが勤めている現場だが、見たことのない遠い九州の新店計画を、こんどはじぶんひとりで一から作らなければならない。そんなわけで奈良支社の若手や奈良の交通隊長をひきずりこんで、朝から晩まで図面とにらめっこしてパソコンを叩いている毎日である。日曜までに完成させて、月曜の早朝の新幹線で、ふたたび千葉の幕張へ向かう。日曜は子の誕生日なので、当日の夕方までには何とか完成させたいのだけれど・・・
そんな最中でありながら、昨夜は図書館のリ・ブック・フェアでもらってきた半村良の「岬一郎の抵抗」(講談社文庫・全4巻)を読み始めたら、これがなかなか面白くて、ついつい明け方の4時頃まで読みふけってしまったのだった。
夜明けに深い眠りの中にいる安らかな子の寝顔をいつまでも眺める。眠りというのはじつは精神の完全な居場所であり在り処であり、その<全き卵>から人は毎朝、この世に目覚めてくるのだろうかと思える。わたしがじぶんの寝顔を見たとしても、そんなことは思わないだろうけれど。
2008.9.18
*
朝から日がな一日、遠い南の地で建設中のショッピング・センターの図面を繰り、エスカやエレベータや出入口やらとにらめっこをして館内の警備計画書-----施設概要や閉店作業などの図面をやっと作り終えたらすでに22時、閉店の時間だ。台風もいつのまにやら通り過ぎていた。明日は交通の計画書を仕上げる。帰りにJRの駅に寄って、新幹線の予約をする。駅前のコンビニで煙草と、今日一日のじぶんへの褒美にギネスの黒ビールを一缶買う。カーステの音楽はディランのブルース曲のカバーソング集だ。「何かがいま起こっているのに あんたにはそれが分からない どうです ジョーンズさん?」 ひび割れた、心地よく暗いエレキギターが沼の瘴気のような音を響かせている。仕事中、家に電話をかけると子が出た。Yがカビキラーで浴室掃除をしたら少し気分が悪くなったのだという。お母さんを休ませて、お前がしっかり家のことをやれよ、お風呂も宿題も食事もじぶんでやれよと子に言っておいたが、うまくやっているだろうか。車で夜ふけの京奈和道を走るのは気持ちがいい。東京ではどこまで行っても平たい町並みばかりだったが、ここにはへそのような盆地を取り囲む優美な低山の稜線がある。その山々の呼吸や血色を感じたり眺めたりするのがいい。じぶんもおなじ呼吸をしているような感じになるのがいい。山が呼吸しているのがじぶんなのか。
2008.9.19
*
紫乃へ。
8さいのたんじょう日、おめでとう。
お父さんの好きなシュタイナーという人は、こどものだいじなせいちょう(育つこと)のなかみが7年ごとに変わると言っている。ちょっとむずかしいけど、8さいからの7年かん(つまり15さいになるまで)でだいじなのは、「かんじょう(こころやきもち)をゆたかにすること」と「そんけいするひとを見つけること」だと言うんだ。
さいしょの「かんじょう(こころやきもち)をゆたかにすること」は、つまり、いいものがたりをたくさん読んだり、いい音楽をたくさんきいたり、きれいな絵をたくさん見たりして、じぶんのこころにえいようをあたえるということだな。そして、こころをみがいて、きれいな水晶玉のようにするっていうこと。
つぎの「そんけいするひとを見つけること」というのは、(じぶんはこんなりっぱな人になりたいなあ)と思う人を見つけて、その人のことをいつも考えたり夢見たり、その人に近づこうとがんばったりすること、かな。おまえがいちばんに「そんけいする人」はお父さんだろうが、世の中にはお父さんのほかにもたくさん「そんけいする人」はいるはずだから、もう死んじゃっていまはいないひとでも、本の中に出てくる人でも、あるいはとっても近くにいる人でもいい。おまえのたましいをひきつける何かを持っていて、「こんな人にいつかなりたいなあ」と思えて、その人のあとにどこまでもついていこうと思える人と出会ったら、そのひとをおまえの「こころの先生」にすることだ。そういうだいじな人を、15さいまでにひとり、見つけなさい。
この二つのことを、こころのたから箱にだいじにしまって、いつまでも持っていてください。
いつもおまえのことばかり考えているお父さんより。
2008.9.20
*
21日(日) 通勤途中、あんまりエンジンの音が悪いので国道沿いの小さなバイク屋へ飛び込んで、エンジン・オイルを交換してもらう。数日前から急に調子が悪くなっていたのだが案の定、エンジン・オイルはほぼ空に近い状態で(メンテナンス不備)、エンジンをバラしてシャフトなどを交換して、5〜6万くらいするかも知れないと愛想のいい店主に言われた。夜中までかかってようやっと九州物件の計画書を完成させる。子のバースデイ・ケーキは他日に延ばすことになった。帰りは天理辺りから土砂降りの雨で、ひさしぶりにパンツの中までびしょ濡れ。用心のためビニール袋にくるんでいた計画書は無事だった。
22日(月) 早朝の新幹線で東京へ。昼から千葉・幕張でのプレゼン。一時間を無我夢中で喋り切ったらへとへとに疲れた。合流した部長は「(契約は)取れたも同然」と大層ご満悦だった。海浜幕張駅で越谷へ行くという部長と別れ、東京・丸の内で仕事を早引けしたAと合流。銀座の真ん中にあるビアホールに入り、まずギネス・ビールで乾杯する。昭和9年築のホールは実にレトロな雰囲気で良い。戦後は徴収されて米軍専用のビアホールになっていた時期もあったとか。その後、ガード下の登運とん(とんとん)にて焼き鳥と芋焼酎。外国人のガイドにも乗っている有名な場所というが、これまた大正デモクラシー中産階級の豪奢なビアホールから一転、庶民の新世界じゃんじゃん横丁か浅草永井荷風的居酒屋といった風情で、焼き鳥も旨かったぞ。二軒もはしごしたらもう止まらない。近くのビックエコー・カラオケ2時間コースを経て新宿へ移動。Aの隠れ家という、東口近くにある小さな屋根裏部屋的スナック【会員制 (資格のない人→)マナーの悪い人・ロマンのない人】で閉店の12時半まで。寡黙な“パパさん”と品のある“ママさん”、透明な声で元ちとせを歌ってくれた芸能人志望の店の女の子。その後、「おっぱいパブ、いかがですか」といった客引き兄ちゃんらの波をくぐり抜け、Aと二人で歌舞伎町にある東横インにチェックインした。ホテル横に見つけた中華屋(餃子専科LEE)の店先のテーブルで、不夜城・歌舞伎町を眺めながらビールと餃子とチャーハン。Aのセッティングしてくれた豪華セレクト・コース。実に愉しい夜であった。
23日(火) 6時頃、目が覚めると隣のベッドにAの姿がない。始発電車で帰ったのだろう。テレビのニュースをつけっぱなしでそのまま9時まで眠り、祭の夜が醒めたような歌舞伎町の裏通りを抜けて新宿駅へ。10時半の新幹線に乗り込む。車中で篠田博之「ドキュメント 死刑囚」(ちくま新書)を読む。午後、迎えに来たYや子とそのまま近所のショッピング・センターへ行き、遅かれながら子のバースデイ・ケーキを買って帰った。
24日(水) 連休をとって朝からイカレたバイクを田原本のバイク屋まで運ぶ。(後刻に連絡があり、エンジンの修理に約5万、タイヤ交換でプラス2万との由)。125ccのスクーターを代車に借りて帰ってくると、大阪の部長から電話があり、埼玉・越谷の新店がどうにも混乱していて1週間の予定で立て直しにいっしょに行ってもらえないかとの打診。隊長格の人間がつぶれ、指導に入っていたベテランのOさんが心臓発作で倒れたとのこと。夕方、車で奈良の現場に置いていたノートPCを取りに行き、帰り道に安全週間のスピード違反で捕まる。40キロを19キロオーバー、1万2千円。「暇だな、あんたら」と思わず警官に毒づく。Yが支度してくれた荷物とノートPCを持って大阪の本部へ。結局、部長他1名が越谷へ行き、わたしは部長が手がける予定だった姫路の新店の打合せや警察との協議を引き継ぐことになった。一時は諦めた子の運動会(今週土曜)は何とか行ける見込み。
ビヤホールライオン 銀座七丁目店 http://gourmet.yahoo.co.jp/0006710920/U0003008848/
サッポロライオン社史 http://www.ginzalion.jp/company/history.html
登運とん(とんとん) http://pamoja-earth.air-nifty.com/pamoja/2005/10/post_7135.html
新宿東口商店街 http://www.e-shinjuku.or.jp/
餃子専科LEE http://r.tabelog.com/tokyo/rstdtl/13006136/
2008.9.24
*
二日続けて大阪本部のT氏と姫路へ高速道のドライブ。ちなみに赤松SA(中国自動車道)の豚の角煮坦々麺は結構いけるぞ。懸念された警察協議は無事終了。地元警察署長はじめ各課のお偉いさんを前に一夜漬けの交通計画を20〜30分説明したのだけれど、さしたる突っ込みもなかった。出発前に姫路営業所の所長氏(県警OB)が今回の新店立ち上げに根をあげて退職するとか何とかのごたごたはあったのだけれど。
帰りの電車の中、iPODで最晩年のジョニー・キャッシュ(The Man Comes Around)を聴く。70歳のキャッシュがDanny BoyやビートルズのIn My Lifeを歌うのを聴いていると、いつも涙が溢れそうになる。忽然と地表に現れた泉のように、涙は<下から>滲み出してくる。この男は最後の地平に立っていて、まるでネイティブ・アメリカンの聖なる山の頂から己の人生とこの世界を見下ろして、むかしと変わることのない歌を歌い続けているのだ。おそらく、これが最後かも知れないと心の奥底で知りながら。そしてわたしたちは誰もがいつかは、かれとおなじようにそんな場所にたったひとりで立つ。そのことが、これらの歌を前にして、わたしの頭(こうべ)をキャッシュの歌の前に垂れさせる。静粛な気持ちで。歌は山の頂でいまも響いている。
2008.9.26
*
久しぶりにゆっくりとした連休。携帯への仕事の電話も少なかった。
27日は運動会。相変わらず、かけっこはあっという間にひとり、引き離されてしまう。「みんなに迷惑をかける」と気にしていた大玉ころがしは、開始いきなりで半周以上の差がついてしまう。アップのビデオ・カメラのファインダーを覗きながら、いつも競技を終えて戻る子の表情に陰りがないか探してしまう。「早い子がいちばんという競技ばかりだな」とわたしがつぶやく。「ダンスも組み体操も騎馬戦もあるじゃない」とYが答える。早朝の7時から敷きにいった保護者席のシートの上でYと義母がこしらえた弁当を食べながら、「運動会のあり方」なぞといったことを考える。「競争」でない運動会というものはありえるか。あってもつまらないかも知れない。しかし、かけっこでも順位によってポイントがついて、白組赤組の得点に加算される。子はどれだけ懸命に走っても、いつも最低得点だ。それは従わなくてはならない形なのだろうか。考えても、答えが出るわけでもない。「〇〇ちゃんのお母さんも、紫乃が走るの、前より早くなったって言ってたぞ」とわたしは声をかける。「びりっけつだったの、気がついた?」と子。「紫乃だけじゃない、びりの子は他にもたくさんいるわよ」とY。運動会はいつも、複雑な気持ちだ。けれど最後のダンスは、多少もたつきながらも嬉々として踊っている。
明けて日曜の今日は、朝から子とふたりで映画館へ「崖の下のポニョ」を見に行った。これは「ナウシカ」や「もののけ姫」といった世界観の説明される作品とは違う、感じるためだけの作品だ。つまり人はかつて誰しも、ポニョやソウスケのようにまっさらでやわらかな感じる心を持っていたということだ。だからこの映画は終始ポジティブで明るい。映画を見終えてから隣接するサティのパン屋でサンドイッチを買い、大和川が支流と合流する土手のあたりに車を停めて昼食を食べ、草茫々の河原でひとしきり隠れん坊をしたり水鳥を観察したりして遊んだ。帰りの車の中でふたりで、人間になったポニョとソウスケの、その後の物語を勝手につくって愉しんだ。
2008.9.28
*
9月27日(土曜日)
今日は、うんどうかいでした、先生はごぞんじだと思いますが。
「『くぐって、とんで、わをぬけろ』だね。」
Oさんがおしえてくれました。Kさんも
「『ゴールめざして力いっぱいはしろう』だよ。」
と、いいました。一番目の人がはしり出すと、いっしょうけんめい、
「がんばれー!」とおうえんしました。
つぎは、『みんなでヒッパレー』です。でも、ここからは自分が本当におもしろかったとこだけしゃべります。だい一はHappinessをとばして、かけっこです。わたしは、れつにならんで、ドキドキしながら走りはじめる男の子たちをみていました。
「ぜったいびりだよ、あのちょうしじゃあねえ‥」
そして、ピョンと前へ出ると、くつをにらんでから前をグッと見て、びっくりしました。あと五、六人ぐらいだったからです。わたしは、ひっしに知ってるかぎりのおまじないをしました。空中に人とかいてのみこみ、さわやかな春をおもいだしてよもぎのおまじないをとなえました。
「よもぎよ よもぎ
春のよもぎ
まよけの草
まもりの草
ねがいの草よ」そして、さいごに、
「よもぎ
よもぎ
よもぎ!」ととなえました。
それから、前をじっとみつめながらよもぎにおいのりをしました。
「よもぎさん、どうか一いにしてください。」
そして、もう一どぜんぶのおいのりをとなえて立ち上がりました。
「バーン!」
てっぽうの音がわたしの耳にひびき、わたしは走りだしていました。まいおこるすなをおいこし、雲をどんどんおいぬかしました。雲にかち、すなにかち、こんどは人にかつのかと思い、前をみると、ほかの子はみんなゴールして、わたしがびりでした。けれど、わたしは一心に走りつづけ、びりでゴールしました。でも、びりでも走ったことをほこりに思いました。
つぎ、だいニはかけっことかけっことワッハッハーとつな引きとあの走るやつをとばして、大玉ころがしを。
スタートして、Kさんとおしました。あっちへころころ、こっちへころころ‥ ときどきわたしの体でおさえました。やっとはたのところへついて、はたをぐるっと回って、もとへ玉をもどしました。で、トイレへいって、つなひきとつなひきとはしるやつと二色対抗リレーをとばして、昼食はKちゃんと、Tちゃんと食べました。そしてジンギスカン。じょうずにおどれました。
かけっこのとき、びりだったとくやしがっていたら、Kさんがこう言ってくれました。
「〇〇さんは一いやで。」
と。うれしかったです。
*
大腸癌の検査で血便が出たYが検査のため入院。わたしは午後から仕事を早引けして、学校帰りの子を豆パン・アポロで迎え、運動会から泊まっているおばあちゃんとヴァイオリン教室へ連れて行く。レッスンを終えた足で三人で病院へ向かえば、Yはすでに検査を終えて、ポリープも何も異状は見当たらなかったとのこと。よかったよかったと義母は思わず涙をこぼす。Yは病院のベッドで点滴を受けながら、「せっかくだからと本も持ってきたのだけど、眠くて眠くて。麻酔がこんなに気持ちいいなんて知らなかった」なぞと言っている。明日、昼食後に退院の予定。「よかったな、サーカス団に入らずに済んで」と、帰りの車内で言うわたしに子は拳骨を向けてくる。
2008.9.30
*
1日。もともとたんなるオブザーバのつもりで仕方なく同行した姫路の新店の打合せ。終わってから、営業所の資料修正が覚束なそうだったので「生ビール一杯で手伝いましょうか」と冗談を言いながらPCに向かっているうちに帰りの電車がなくなってしまい、営業所長氏が好意で手配してくれた駅前のホテルで一泊と相成った。翌日、ついでにと午前中に姫路の別の既存店の巡察をしてからふと思い立って、書寫山圓教寺へ登ってきた。姫路駅からローカルなバスに揺られて20分ほど。それからロープウェイで山上へ登って、山道を20分ほど辿って本堂の摩尼殿に着く。一遍も訪れてかれの絵伝にも伝わる圓教寺は、かねてから訪ねたい聖地だった。山間を縫うように点在するそちこちの棚地に意外なほど沢山の大層な建築物がへばりついているが、わたしが感じたかったのは、一遍が幻視をしていたその視線の先、性空がはじめてこの山を訪れて崖下の桜の生木に仏の形を刻んだと伝わる頃の原初の姿だ。そのとき性空が「六根清浄」を開眼したと伝わる頂き近くの白山権現には、もともと小さな祠があり、スサノオノミコトが祀ってあったという。有名な圓教寺の鬼追い会式は、鬼たちがこの白山権現の堂の周囲を回るところから始まる。開山堂で長々と開設をしてくれた初老の僧侶の話では、境内の地層から奈良時代の祭祀遺跡も発見されていて、おそらく性空が登拝する以前に、すでにヒジリの類が棲みついていたのではないか、とのことだ。二時間ほどゆっくりと山上を経巡って、夕刻に下山した。
2008.10.2
*
信太森(しのだのもり)とそこに鎮座する聖(ひじり)神社は、沖浦和光氏と野間宏氏の共著「日本の聖と賎・中世篇」(人文書院)を読んだときから訪ねてみたいと思っていた。子の運動会から滞在していた義母(義父はゲートボールの試合のために先に帰った)をわたしが車で送っていくことになり、和歌山への高速道を堺付近で途中下車して、義母にもつきあってもらったわけである。聖(ひじり)とは、柳田國男によれば「日を知る人」、つまりシャーマン的な呪術をもって「日の善悪を占う」ことに通じると云う。かつてこの聖神社のはたには舞村と呼ばれた陰陽師たちの集落があり、手製の暦を発行していた。伝承によればかれらの祖先は遠洋よりこの地に流れ着いて、聖神を奉ったという。聖神社の創建は674年、勅願によって信太首(しのだおびと)によって祀らしめたというのが記録上の起源だが、境内には古墳数基があり昔から土蜘蛛窟と呼ばれていたことなどを考え合わせると、暦についての高度な知識を持っていた渡来系の人々が住んでいた土地であったのかも知れない。ともあれ「杜は信太森」と『枕草子』にも歌われるほど森厳な雰囲気を秘めていた森に、「日知り」の神を祀った集団が棲みつき、さらに人形浄瑠璃や歌舞伎でも有名になった「しのだづま」の怪異譚ーーー人間と森の白狐との間に生まれた子が後の陰陽師の祖:安陪清明であったという物語ーーーが加われば、この地の特殊性が浮き彫りにされるというものだ。後に聖神社の祭祀などの雑役に奉仕するようになった神人(じんにん)たちと共に、おそらく様々な雑芸能に関わる人々が集うようになった集落(かの小栗街道も近くを通る)はまた、一般の民百姓とは明確に区別された賎視の対象ともなった。堺泉北有料道路の取石で高速を降りて、国道26号線をやや南下したあたりから手探りで東へ向かう。駐車場はないので隣接する鶴山台という広大な団地群の中央のショッピングセンターの無料パーキングに車を入れた。小高い丘陵地に位置する往古の信太森は、おそらくこの団地群を呑み込むほどの広がりを呈していたのだろう。団地の反対側の旧南王子村は予想とは異なり、同和行政の恩恵かやけに立派で新しそうな家々が軒を連ねている。聖神社の境内はひどくすっきりした端正な佇まいで、安土桃山の時代に再建されたという本殿も色褪せた小ぶりの東照宮のようだ。背後の森のほとんどは神域のため立ち入りが禁止されているが、雑木林の陰にあまり見たことのないような神々を祀った種々多様な祠が散在しているのが、かつての名残を感じさせる。ここにかつて、教科書に語られる正史には登場することのない人々の暮らしや往来や生き様があったと想像してみるのは愉しいことだ。岸和田付近の丸亀製麺で義母とふたり昼食を食べ、和歌山のYの実家の仏壇の部屋ですこし昼寝をしてから、ジミー・ロジャースCD5枚組みを聴きながら高速を走って帰宅した。
聖神社 http://www1.kcn.ne.jp/~ganes-z/image/hijiri.html
しのだづま(葛の葉) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%9B%E3%81%AE%E8%91%89
信太の森ふるさと館 http://www.city.izumi.osaka.jp/sisetu/sinodanomori.html
安陪清明 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%80%8D%E6%99%B4%E6%98%8E
2008.10.3
*
岩田重則「「お墓」の誕生 死者祭祀の民俗誌」(岩波新書)を読了する。
沖浦和光「陰陽師の原像 民衆文化の辺界を歩く」(岩波書店)を読み始める。
「よくわかる Microsoft Excel 2002 マクロ / VBA入門」をアマゾン古書で注文する。
(眠っている子の枕元に置いていたメモ)
天使さまへ
天使さま、あなたは青い水しょうでちゃんとみとおしていると思いますが、あしたは家に友子、〇〇友子という友だちがくるのです。わたしはこの何日か、かみをあらっていません。どうか、かみのくさいにおいがしないようにしてください。あなたのもっている、星をくずしてつくったまほうのこうすいをかけて、ついでに星をちりばめたけしょうすいをかけて、あした、どの世界にもいない、美しい少女にしてください。
2008.10.5
*
「両墓制」とは遺体を埋葬した場所と墓石を建立する場所に空間的な隔たりが存在する墓の形式である。前者を「埋め墓」「捨て墓」、後者を「詣り墓」ともいい、いまでも地方へ行けばそのような形態を残している地域があるが、一般的に埋葬地である「埋め墓」「捨て墓」は一定期間の祭祀が過ぎればその役割を終え、祭祀対象は「遺体のない」「詣り墓」へと移行する。柳田國男はこの両墓制を典型的事例として「遺体をともなわない石塔こそが墓であるとし、そこにおける空間的距離をもってして、肉体つまり遺体ではなく祖霊のみ重視する霊魂観」が古来より存在していたと推論し、それが民俗学界における定説とされてきた。岩田重則は「「お墓」の誕生 死者祭祀の民俗誌」(岩波新書)において、様々な葬送にまつわる儀礼、埋葬の形態、墓石の年代・様式とその変遷等々を近年の研究成果より拾い出し、この現代のお墓のスタンダードな形である「カロウト(石塔下の骨壷を収める空間)式石塔による先祖代々墓」はじつはせいぜい江戸時代後期頃の近世より派生した新しい形態であり、逆に土饅頭の上に素朴な竹の囲い柵や魔除けの草刈り鎌などを配置し一定期間の祭祀を過ぎれば自然に朽ちていく「埋め墓」「捨て墓」の方が民俗的な古層を残していると喝破する。岩田は「石塔による先祖代々墓」の発生に政治の匂いを嗅ぎ取る。それは近世幕藩体制下におけるキリシタン弾圧を機に整備された寺の檀家制度という名の宗教政策の匂いである。さらにその一端の極に「巨大な遺体のない墓」としての靖国神社の存在があることを最終章で記しているのは、じつに示唆的だ。
農民・商人・町人の側からすればそれは「葬式仏教」としての仏教の受容であった。死者ひとりひとりに仏教的戒名をつけ、さらには、それを仏教的装置である石塔(および位牌)によって、子孫が先祖祭祀を行なう形態の誕生である。厳密にいえば、死者であることを示す戒名、子孫から見て先祖であることを示す死者名が、近世の政治的システムの末端としての仏教寺院によって発行・証明されていたことになる。したがって、「〇〇〇〇居士」「〇〇〇〇大姉」などの死者名およびそれを刻んだ石塔、現代でいうところの「お墓」とは、近世幕藩体制の支配が生活および身体感覚レベルにまで浸透したことを示す表象でもあった。(前掲書 第二章:葬送儀礼と墓)
お墓とはかつては、しばしば掘り返されるものであった。だから土葬の時代にはよく、新しい墓穴を掘っている最中に昔の古い人骨が出た。隣組などで担当となった墓掘り人たちは、そのため酒を飲みながら墓穴を掘ったのである。遺体を埋葬し、その上に河原で拾ってきた枕石をちょこんとのせる。数十年、数百年もすれば、墓はもうどこにあるのかも分らない。墓とはかつて、そんなものであった。わたしは古い墓場を見て歩いたりするのが好きだが、それは生者の死者に対する心根が感じられる部分が好きなのであって、じぶんには墓はなくても構わないとも思う。わたしの親しい身近な死者たちーーー父親や、共にロシアを旅した伯父が(共に東京都の広大な霊園墓地に眠っているが)、墓の中にいるとは、正直あまり思えないのだ。かれらの残滓はきっと、こまかい微粒子の間にまぎれてそちこちをふらふらと漂っていて、ときおり眠っているわたしの夢の中にも滑り込んでくるようにも思うのだ。
2008.10.7
*
休日。朝からバイクで、奈良市にある同和問題関係史料センターを覗きに行く。ひっそりとした階段を展示室のある二階へと上ると、スーツ姿の中年男性が事務室から飛び出してきて人の来るのが珍しいといった様子で「はい、なんでしょう?」と訊く。展示を見せてもらいに来たのですが・・・ と言うと、「学生さんですか? 学校の先生ですか?」なぞと訊きながら暗い展示室の扉を開けて部屋の照明をつけてくれた。わたしはじぶんが何の組織とも関わりのない一般の社会人であり、つれあいがかつて大阪人権博物館に勤めていた縁で部落問題に深い興味を持ったこと、ここのセンターが刊行しPDFで公開している「奈良の被差別民衆史」がとても面白かったこと、最近は沖浦和光氏の本を愛読していることなどを説明した。ここの展示は人権博物館に比べると極めて貧弱なものしかないですがゆっくり見ていってください、わたしは隣にいますので・・・ と言うとスーツ男性はまた事務室に戻っていった。展示はほとんどがパネルものだが、わたしには充分興味深く面白かった。部落の人々の嫁入り行列や小学校の運動場で起きた差別発言をきっかけに人々が竹やりを持って結集し警官と対峙したときの当時の新聞記事がある。草場の既得権についての解説で、かつて狂言や芝居が催されたという場所に残る石燈篭や小祠の写真がある。陰陽師・暦師・巫女職・箒職人といった雑芸民の職名が並んだ奈良市の陰陽師町の家々の構成表がある。座頭と呼ばれた盲人組織のトップであった〇〇検校らの墓の写真がある。葬送に関わった雑芸民である三昧聖たちが行基を慕ってあちこちに建立した多くの石碑の写真がある。北山十八間戸とおなじく、かつて西ノ京に存在した癩者の救護施設であった西山光明院の間取り図と、その最後の「住民」であった女性の墓の写真がある。また大和漫才についての解説パネルがある。その、決して穏当ではなかったろう人生を送った無名の無数の人々の足跡が、わたしがふだん何気なく通り過ぎている町のそちこちに散らばっていて、その距離がわたしの心をくすぐる。余程わたしの閲覧時間が長かったのだろう、先のスーツ男性は途中でいちど入ってきてわざわざ「何か質問などはありませんか?」と訊いてくれた。二度目に来たときは史料センターの企画展の際に刊行したらしい「十年の歩み展・部落史研究の過去・現在・未来」と題された資料を手にして「これだけ残っていたので、よかったら“お土産”に・・・」と進呈してくれ、「これからちょっと出かけますんで。隣に別の者がいますから」と言って出て行かれた。頂いた刊行物は七割程が小論文で「座頭祝銭と地域社会」「大和万歳の歴史像」「神子村と口寄せ」「近世大和の三昧聖」など、おいしそうなタイトルばかりが並んでいる。閲覧を終えて事務室にいた女性に声をかけると、彼女は展示室の照明を消し扉を閉めて上階(「研究室」があるらしい)へ上がっていった。無人になった二階の階段横でわたしはしばらく部落資料の小文などが載っているパンフレットなどを漁ってから外へ出た。
吉田栄治郎「薬師寺西郊の夙村と救癩施設・西山光明院」(PDF) http://www.pref.nara.jp/jinkenk/siryou/regional/06/r41.pdf
吉田栄治郎「大和万歳祖神考」(PDF) http://www.pref.nara.jp/jinkenk/siryou/kiyou/data/k83.pdf
中川みゆき「大和国最後の検校・隈田検校の生涯」(PDF) http://www.pref.nara.jp/jinkenk/siryou/kiyou/data/k115.pdf
伊勢万歳・村田清光(日本最後の万歳師のHP) http://www4.airnet.ne.jp/iseman/jp_menu.html
2008.10.8
*
昨夜はYと映画 Hotel Rwanda を見た。真摯な作品であることは認めよう。けれどフツ族・ツチ族対立の起因ともなった植民地時代のヨーロッパの悪業は省略されているし、作品中で唯一兵を残して現地の主人公と共に難民たちを救ったかのように描かれているフランスにしても、じつは虐殺に関与した軍・政府と軍事援助を結び、大量の武器をフツ族側に提供していた事実は巧妙に隠されている。ダイヤも石油もない小国を見捨てた先進国や国連の打算についても、やけにあっさりだ。この程度の<暗さ>で配給を尻込みしたこの国の大手配給会社もじっさい腰抜けだね。まあ、ルワンダやアフリカの現状についてさらに考えるきっかけになればいいのだろうし、遅かれながらわたしもネットでさらにいろいろ勉強しました。終幕の感動的な歌 A Million Voices が終わると(こんな映画を見るといつもそうだが)、わたしは虐殺された百万の亡霊が乗り移った巫覡のようにぶつぶつとこの世の呪詛の言葉を吐き始める。「もういちどいま誰かがニューヨークのビルに旅客機で突っ込んだら、やっぱりおれは喝采を叫ぶだろう」とかそんな言葉だ。黙って聴いていたYはいつの間にか、ソファーの上ですやすやと寝息をたてている。
2008.10.9
*
9日。夜、有楽町のガード下の影響か、急に旨い焼き鳥が喰いたくなって家族三人、ネットで検索した奈良市三条通近くのやたがらすなる大和地鶏の店に行く。夜7時でふだんは疾うにシャッターを閉めてひっそりとしている猿沢池近くの土産物屋が軒並み店を開け、まるで祭りの夜の屋台のようなその明かりに夜光虫のように人が群がっている。何かと思えば修学旅行の小学生たちで、三々五々散らばった教師たちがそれぞれの夜光虫を監視している。店の方は、まあそう悪くもないけれど、量の割には値段が結構良い。みんなお腹が空いているものだから、細長い小皿に上品にちょこっと盛られた鶏刺し盛り合わせを、子が瞬く間に平らげてしまう。ネットに載っていた名物:大和肉鶏もも炙り焼きも案外小ぶりだし、やっぱりお酒を飲みながらつまむという感じの店だなここは。砂肝や手羽先はおいしかったけれど、それでも腹六分くらいで回転寿司より高くついた。あの有楽町ガード下のトントンみたいな、渋くて安くて美味しい焼き鳥屋は奈良にはないのだろうか。三条通をぶらぶらと、猿沢池のライトアップなぞを眺めて帰宅した。
10日。朝からわが交通隊長のT氏と奈良の営業所へ行き、今後の対策などを協議する。というか営業所の段取りがどうも悪いので発破をかけに行ったのだ。リニューアルのオープン時に交通隊だけで40人も人手が要るのに、屋台骨となる面子さえ定まらない。「こんなんじゃ、とてもやれませんよ」とT氏に思いの丈を語ってもらう。わたしはわたしで、みんなの士気を高めるために営業所主催で“夜の懇親会”を開きましょうと提案して、所長より許可を得る。昼過ぎに白熱した議論を終えて、T氏を車で桜井の自宅へ送り届け、その足で奈良の店舗へ行く。
11日。ひさしぶりに制服を来て、リニューアルの広域看板配置の計画図面などを作成する。他にもごたごたと。
12日。今日は昼から深夜12時までの制服出勤。新しく補充で入れた隊員2名が研修後、「わたしにはできません」と共倒れした穴埋め勤務。明日は朝から作成した資料をもって大阪の店舗でクライアント本社側と打合せがあるのだが、昼くらいには終わる予定なので、夕方早めに仕事を切り上げて、もしできたら大阪生野区で現在公演中の市川おもちゃ劇団を覗きに行こうかと画策しているのだけれど、果たして・・・
2008.10.12
*
13日。予定通り、仕事を早めに切り上げて大阪生野区の明生座に市川おもちゃ劇団の公演を見に行った。JR環状線の桃谷駅から東へ伸びる狭いアーケードの商店街を抜けて行く。このあたりは子が最初の手術をしたときにウィークリー・マンションを借りたところで見覚えがあった。確かこの商店街の中ほどにある古書店(というかリサイクル屋)で大逆事件に連座した新宮の医師・大石誠之助の評伝を買った。すでに大阪独特、いやさらにディープな雰囲気が匂い立っている。昔ながらの店の軒先に並んだ揚げ物や惣菜、豆腐、ホルモンなどがわたしの心を和ませる。子供の頃に近所の精肉屋に遣いに行って揚げたてのコロッケをおまけに貰ったりしたことなんかを思い出す。商店街を抜けると二車線のやや広い通りに出る。ここから先が猪飼野、いわゆる生野コリアン・タウンである。しばらく下町風情の----しかし東京の下町よりさらに路地も区画も狭く密度の高く感じられる住区を適当に、5分ほど進んでいくと目指す御幸森小学校沿いの明生座の前に出た。家々の間にぽつぽつと商店が散らばった、近所の商店街といった感じの通りで、道幅も対向はちと苦労するといった塩梅。新世界の芝居小屋のときには二時間前くらいから席取り入場ができ、開演までどこかで食事でもといった感じだったので早めに来たのだが、ここは開場30分前にならないと窓口も開かないらしい。まだ人の気配さえない。仕方なく御幸森小学校の角の路地を南へぶらぶらと入って行くと、住宅に取り囲まれた風の小さな公園があったので、ベンチに腰かけ、モバイル・ノートPCを膝の上に置いて上司や支社に送るメール文などをしばらく打った。キャッチボールをしている小学生に路地から現れたいかつい体のあんちゃんが「5時になったら声、かけたるわ」と言葉をかけていく。公園に隣接した民家からは一見諍いをしているような独特のイントネーションの主婦同士の会話が間近に響いている。低いモーターの音を立てた狭い作業所でゴム製品の作業をしている女たちが見える。30分前になって明生座に戻り、チケット(大人1600円)を買って席に着いた。入口で座長の写真が入った団扇を貰う。まだ建って間もない、新しい公民館のような建物で、新世界の小屋のような雰囲気はない。客席は140席ほど。最終7〜8割ほどが埋まって、そのほとんどは60代のおばちゃん連中だ。会話を聞いていると連日見に来ている人もいるらしい。すでに開場前に並んでいるときからそうだったけれど、スーツを来ているわたしのような存在はひどく浮いて見える。公演は歌と踊りのショーが一部、喜劇風の時代劇芝居が二部、最後に座長・市川おもちゃによる女形七変化を含む歌と踊りの三部構成で、その間に口上や次回以降のチケット販売、劇団グッズの拡販、休憩などがはさまって述べ三時間は新世界と変わりがない。それにしても何だろうね。一見、どうということのない大衆芝居と歌と踊りのショーなのだが、それらを見ているわたしはひどく居心地がいいのだ。心持ちがとても落ち着く。なぜじぶんがかれらの舞台に惹かれるのか正直よく分らないところがあるのだけれど、ひとつだけ分るのは、わたしがふだん「居心地がいい」ものとは正反対のものに囲まれている、ということなのかも知れない。安心するんだな。毎日見に来ようとは思わないが、半年に一度くらいの周期で、たぶん無性にかれらの舞台に接したくなる。年配の市川恵子や大川龍子の舞や所作には、かつての芝居小屋の名残が感じられてその味わいがいい。若い市川おもちゃや市川やんちゃは、そこにかれらなりの新味をブレンドして模索している。今回は場所柄か、きらびやかなチマ・チョゴリや沖縄の民族衣装を着て踊る場面もあったけれど、とにかくごった煮だ。客の入りは当然だが即、実入りに直結する。口上で深々と頭を下げ、何度も「明日の公演にもぜひ」と誘い、団扇やせんべいを振る舞い、飽きられないように様々な趣向を練って次の舞台に取り入れる。そこにわたしは必死に生きた、かつての遊行民の姿を思い重ねるのだ。つまりかれらは往古に手製の暦をつくって売りさばいた陰陽師や、人形を木箱に入れて担ぎ村々を経巡った旅芸人や、啖呵売や香具師、それにギター一本で魂を語り歩いた海の向こうのシンガーたちーーージョン・リーやハンク・ウィリアムス、ジミー・ロジャース、ウディ・ガスリーらともつながっている。最後の女形七変化が終わった途端、役者全員が客席横の花道をすっすっと抜けて小屋の出口に回り、帰る客を見送る。わたしも座長の市川おもちゃに「とても愉しかったです」と言って握手をして、小屋を出た。夜9時。闇に包まれた、人の濃厚なぬくもりを感じる猪飼野の路地をとても幸福な気分でゆっくりと闊歩する。魂をリカバリしたような気分。すでに殆どのシャッターが閉まってひっそりと静まり返った桃谷の商店街を抜け、駅前に近い王将に入って生ビールと餃子定食を注文した。カウンターの隣に座った男がビールと野菜炒め、餃子二人前を頼んだのを見て、回鍋肉をあてに酒を飲んでいた60がらみの痩せた小男が「なに、あんた、それぜんぶ食べられるのかい?」などと話しかけている。「おれは今日はとっても腹が減っているんだよ」 「そうか。でも、あんた、ほんとうにそれをぜんぶひとりで食べられのかい? おれはこの一皿だって食べ切れないのに」 「あんた、昼間は何をしてる?」 「昼間ったって、年金暮らしだから、とくべつ何もしてないさ」 「だからさ。何もしてないから腹も減らないんだよ」 「そうか、そういうわけか」 「そうだよ」 「で、あんたはほんとうにそれをぜんぶ食べちまうんだな?」 「そうだよ。おれは今日はとっても腹が減っているんだ」 桃谷はまるでヘミングウェイの短編の世界のような街だ。
猪飼野探訪会 http://ikaino.com/tanboukai/index.htm
猪飼野合衆国 公民館 http://kouminkan.ikaino.com/
sinyoungの日記 http://d.hatena.ne.jp/sinyoung/
2008.10.14
*
「お母さん、またベランダに鳥がきてるよ」 夜の10時。ひとり寝室へ寝に行った子がもどってきて、声をひそめて母にそう言う。子に手をとられ、いぶかしんで共に寝室へ行った母は小さく笑った。「紫乃、あれは葉っぱの影よ」 ベランダに置いた月桃の葉とベランダの格子が外灯に照らされて窓硝子に映っているのだった。ベランダに出た父が月桃の葉を揺らしてみせた。「お父さんの手に鳥がとまってたね」 種明かしをされた子が、安心したように笑ってそう言う。
その夜。深夜に子は目覚めて、汗でパジャマが濡れてしまった、と寝ている母を起こした。父と母の真ん中に割り込んで寝ていたものだから、寝汗をかいたのだ。「あらあら。パジャマを着替えておきなさいよ」 母は寝惚け声でそれだけ言うと、また眠りに落ちた。夜明け前、ふと目が覚めた母は、小学校の制服を着て眠っている子を見つけて驚いた。慌てて寝ている子の体を起こしたりひっくり返したりしてパジャマに着替えさせた。翌朝、母からそのことを聞かされた子は「・・もう学校に行く時間かなと思って」と照れ臭そうに笑った。
2008.10.15
*
豆パン屋さんのブログで教えられた、現在奈良で人気急上昇中らしいラーメン屋「麺屋 あまのじゃく」の郡山店(7月開店)をさっそく家族で賞味しに行った。わたしは「あっさり塩」、Yは子と「塩とんこつ」、それに餃子一皿。スープを一口啜って、ふむ、これはなかなかよそにはない味、と得心。とろとろのチャーシューにもびっくり。子も大いに気に入ったようで、Yに至っては「奈良でいちばんの味」とも。難しいところだが、わたし的には僅差で「いごっそう」かな。厨房の気合と風格が「いごっそう」のおっちゃんの方が勝っているという理由で。でも県下のラーメン店で上位に食い込むことは間違いなしの味だ。まだ客馴れしていない感じの厨房の若夫婦(?)はたちどころに並んだ客の注文を捌くのに必死といった風で、よせばいいのにYがおいしいおいしいと話しかけるものだから、49キロの体重しかない若旦那氏が朝からパンひとつで働いていることなどをぼそぼそと話してくれた。あの初々しさは結構好きだな。替え玉を頼んで、スープを飲干して、外に出るとはや十数人が行列をつくっていた。
子にせがまれて「風の谷のナウシカ全7巻セット 」(アニメージュコミックスワイド判)を買ってやる。 アマゾンの古書で3150円。ヴァイオリンの先生にナウシカの話をしかけて「先生、7冊ぜんぶもっているから知ってるよ」と言われたのがきっかけで。わたしも詳しくは知らなかったけれど、こちらが原作のようで、映画にはないその後のストーリーも描かれているようだ。結構難しい漢字もあるのだが、子は翌日には全7巻を読み終えてしまった。
そのヴァイオリンの先生の、教職を退いて奈良の山添村で田舎暮らしをしている父君が書かれたという「ヤマドリがやってきた」(大津昌昭・燃焼社)をYが先生より頂いて、いまはわたしが読んでいる。これがなかなか面白い。「格好のいい文章を書いてやろう」という気取りが微塵もないところがよい。山村のひとり暮らしと、細君を亡くしたばかりの初老の男とヤマドリの交歓。ちなみにこの父君にはアマゾン古書で「アカエリトリバネチョウ―マレー半島の自然と蝶の生活」(築地書館)なんて著書も出ている。
その他にもアマゾンで西宮 紘「鬼神の世紀―「いさなき」空間と弥生祭祀」(工作舎)、沖浦 和光「日本文化の源流を探る」(解放出版社)、大村 祐子「子どもが変わる魔法のおはなし (子どもたちの幸せな未来ブックス) 」(ほんの木)などを注文する。「鬼神の世紀」はあの素晴らしい「縄文の地霊」の著者の第二弾が古書で500円という格安で。「日本文化の源流をさぐ探る」はわが家で18冊目の沖浦本。「子どもが変わる・・」はシュタイナー関連。また朝日小学生新聞の広告を見た子のリクエストで田中 和雄編「ポケット詩集 」(童話屋)も注文する(子供向け日本の名詩選)。ちょっと買い過ぎのような気もするが、音楽と書物にはできるなら金を惜しみたくない。こどものころ、家はけっして裕福ではなかったが、両親は本に限ってはわたしが欲しいというものは必ず買ってくれた。
沖浦和光「陰陽師の原像 民衆文化の辺界を歩く」(岩波書店)を風呂の中で読了する。期待通りの頗る面白い一冊だった。「沖浦先生がな」とわたしが言い出すとYはいつも可笑しそうにうなずく。「おれはいつも二上山を眺めるたびに、あの向こうに沖浦先生がいるんだなあと思う」などと言うと、さらに子どものようにけらけらと笑う。わたしが「沖浦先生」より渡されるバトンは、たとえば次のようなものであり、つまるところそれは虐げられてきた無数の無名者へのこよなき愛情である。
彼らが産みだした<遊芸の世界>は、「既成の中心的秩序をゆるがす豊穣な闇であり、新たな混沌(カオス)を予示する周縁の世界」ではなかったか------そういう問題関心のもとに、私はこれまでの著作で周縁文化のおおざっぱな見取り図を提示してきた。そして本書では、散所非人・声聞師などと呼ばれた下級の「聖(ひじり)」が、民間陰陽師だけではなく、広く遊芸の道を切り拓いていく歴史についても論じた。
日本文化の深層には、下層の辺界の民によって担われた地下伏流が走っていた。その流れは、混沌とした暗闇の中を走り、いろんな岩盤に突き当たりながら、しだいに大きい伏流になっていった。中世の猿楽能、近世の人形浄瑠璃や歌舞伎に代表されるように、時にはハレ舞台に出たこともあったが、その多くは門付け芸や大道芸として地の底を走り抜けてきたのであった。
今日、日本の伝統芸を専門的に上演する四つの国立劇場がある。能・狂言の国立能楽堂、人形浄瑠璃の国立文楽劇場、歌舞伎の国立劇場、さまざまの大衆芸能が掛かる国立演芸場である。能・狂言の源流である猿楽師が「乞食所行」、人形浄瑠璃が「傀儡芸」、歌舞伎が「河原者芸能」と呼ばれたように、それらの芸能を創造した遊芸人の出自は、まぎれもなくこの俗世の辺界に生きる人びとであった。
だが、出自も定かでない中世の声聞師が演じた「千秋万歳」から、近世の「万才」を経て今日の「マンザイ」に至る系譜に代表されるように、彼らの産みだした芸能が日本民衆文化の表看板になっていったのである。
沖浦和光「陰陽師の原像」あとがき
「既成の中心的秩序をゆるがす豊穣な闇」と「新たな混沌(カオス)を予示する周縁の世界」に、わたしはこの混迷する世界に対する一条の光を期待するのであり、わたしはそれをおのれのつましき武器として携えたいと願う。わたしもやはり(願わくば)、かれらのように「地の底を走り抜け」たいのだ。
2008.10.19
*
子のリクエストした田中 和雄編「ポケット詩集 」(童話屋)が今日届いて、風呂上りに居間のソファーに座ってぱらぱらとめくった。よい詩がひとつあったので、ここで紹介したい。
表札 石垣りん
自分の住むところには
自分で表札を出すにかぎる自分の寝泊りする場所に
他人がかけてくれる表札は
いつもろくなことはない。病院へ入院したら
病室の名札には石垣りん様と
様が付いた。旅館に泊っても
部屋の外に名前は出ないが
やがて焼場の鑵にはいると
とじた扉の上に
石垣りん様と札が下がるのだろう
そのとき私がこばめるか?様も
殿も
付いてはいけない、自分の住む所には
自分の手で表札をかけるに限る。精神の在り場所も
ハタから表札をかけられてはならない
石垣りん
それでよい。
今日は休日。子とバオバブの木の種を植えた。
2008.10.20
*
大阪の二店舗の巡察と合同メンテナンス会議への出席。電車の中で早乙女勝元「わが子と訪ねた死者の森収容所」(中公新書)を読む。
2008.10.22
*
昨日。子は学校を休んで母と大阪の病院へ行く。装具の一部が劣化してきているようなので、整形外科のH先生に診てもらうことにしたのだ。JRの電車が人身事故のため遅れていて、近鉄経由で行ってぎりぎり間に合ったとか。そういえばわたしもつい最近、尼崎あたりでそんなことがあった。これから年末に向けてたくさんの人が自爆テロのように電車を停めるのだろうな。中学校の卓球部の試合に行く朝に、亀有駅のホームで見た轢死体をいまも覚えている。装具の方はやはり軽量化のために薄くした素材がもたなかったようで、そのうちに割れてしまうだろうとの見解。至急に新しいものを作り直すことになった。1年間の保証期間内なので、費用はかからないとのこと。帰りに天王寺で「白い耳あて」と「ハイジが花を摘みながら持ち回るような木のバケツ」を子は店頭で見つけて欲しがり、母は「次の装具の仮当て」のときまでに考えようと答えた。
早乙女勝元「わが子と訪ねた死者の森収容所」(中公新書)で知ったドイツ・ブーヘンワルト強制収容所(敷地の中にかつてゲーテが体をもたげて休んだ楡の木があった!)についてもっと知りたいと思い、いろいろ調べているのだが、アウシュビッツに比べるとどうも少ないようだ。ブーヘンワルトに収容されていた文学者のエルンスト・ヴィーヒェルトの記録もアマゾン古書で3万円近くの値がついている。ブーヘンワルトはナチスの収容所のなかで唯一、(ドイツの敗戦が決定的で、米英軍が間近に迫っているという有利な状況ではあったが)武装蜂起による解放を勝ち取った収容所であり、それらは1963年の映画「裸で狼の群のなかに」でも描かれた。ナチスの強制収容所は人間のおぞましい狂気と信じ難いほど美しく強靭な勇気と信念が噴出する究極の(あるいは最後の)場所のようにも思える。圧倒的な暴力の中で人間性のわずかなかけらさえ剥奪せしめられるその場所で、わたしはじぶんがどんな選択ができるだろうかと考える。両頬を鉄製のクランプで締めつけられ眼球が飛び出る中で、わたしは何を決断するだろうか。夜中にふと目が覚めると、横で子が両手を胸の上に組んだ格好で静かに眠っている。天国の幼子のようにも見えるし、強制収容所の中で息絶えたユダヤ人の子どもの姿のようにも見える。
2008.10.24
*
国際高等研究所なる施設で働いている知り合いのEさんからのお誘いで、西川 伸一氏((独)理化学研究所 発生・再生科学総合研究センター副センター長)の講演「幹細胞研究の可能性〜幹細胞 細胞の再生システムの不思議〜」を拝聴しに京都・木津の学研都市にある国際高等研究所へ行った。非常に知的探究心をくすぐる専門分野での話であり、多岐にわたるさまざまなことを考えさせられたが、残念ながらいまは詳しく書いている暇がない。
財団法人・国際高等研究所
http://www.iias.or.jp/index.htmlコピーマート(COPYMART) http://www.copymart.co.jp/wcc/index.html
独立行政法人・理化学研究所 発生・再生科学総合研究センター http://www.cdb.riken.jp/jp/index.html
2008.10.25
*
作家ヴィーヘルトが1日13時間を越える苛酷な重労働にあけくれ、心身の破滅を悩み恐怖していたころ、中央監視塔横のブンカー(壕)と呼ばれる隔離独房の一室に一人の宗教者が拘禁されていた。
パウル・シュナイダーがその人である。
シュナイダーは、フンスリュック出身のドイツ福音教会牧師で、前年11月の末にブーヘンワルトにぶちこまれた。彼は、キリスト教徒のかなりの層がナチスに迎合し、いわゆる「褐色の教会」と呼ばれたドイツ的キリスト教に組みこまれていくとき、良心を曲げることなくナチ政権を批判しつづけたため懲戒処分を受けた。しかし、そうなればなるほど、シュナイダー牧師はナチスの悪魔的性格をますます明確に認識することになったのだろう。上部からの圧力は、かえって牧師の胸の内の焔に油を注ぐ結果になり、彼はいささかもひるむことなく、良心の声を訴えつづけた。ために福音主義教会のリーダーとして知られるマルティン・ニーメラー牧師らとともに逮捕されたのである。
ニーメラー牧師は、1937年7月に拘禁され、やがてドイツ国内のザクセンハウゼソ強制収容所送りとなったが、シュナイダー牧師は4ヵ月ほど遅れてブーヘンワルトに送りこまれることになったのだった。
中央監視塔の鉄門をくぐつて囚人の身となったとたん、牧師は収容所長室に呼びつけられた。コッホ司令官は、1枚の誓約書を見せて署名することをうながした。そこには、ナチス国家に無条件にしたがい忠誠を守ること、収容所について今後他言しないことなどなど、何条かが列記してあって、サイン一つでいますぐここから自由の身になれるというのである。強烈な誘惑だった。ひとたび強制収容所の鉄門をくぐったら最後、生きて妻子のもとにかえれる可能性はゼロに等しかった。
シュナイダー牧師は、そのことを知らないはずはなかっただろう。まだ幼い6人の子どもたちの顔を思いうかべ、ふるさとディケンシートの美しい村と、やさしい妻とが、その脳裏をよぎったのではあるまいか。しかし彼は、夫であり父である前に牧師だった。牧師として、首を横に振らねばならなかった。彼は拒絶し、コッホ大佐は、その無表情な頬をかすかにゆがめて冷笑した。
ところが年が明けて、1938(昭和13)年4月20日のこと、コッホ司令官を狼狽させ、SSのドギモを抜くような事件が起きたのである。この日早朝、点呼に先がけて、新しく到着したというハーケンクロイツの国旗が中央監視塔ゲートに掲揚されることになった。囚人たちは、広場いっばいに整列していた。深い沈黙ののち、「脱帽」の号令が響いた。ふと監視兵の1人が目の色を変えた。彼はとなりに耳打ちした。囚人たちと対峙して直立するSSたちの間に、たちまち異様などよめきが生じた。囚人たちの隊列の一列目に、一人だけ、着帽したままの男がいたからである。
脱帽を拒否したのは、シュナイダー牧師だった。
もし牧師が最前列でなければ、この勇気ある抵抗もあるいは発覚せずにすんだかもしれないが、ばれるかばれないかよりも、牧師の意志はさらに固かったのだろう。囚人の身とあれば、もちろん誰一人としてナチスの旗に敬礼などしたくはないが、わが身のためにはやむを得ぬことで、囚人たち一同はあっけにとられた。気が狂ったとしか思えない。衆目のなかでの服従拒否がまねく結果について、絶望的に目を閉じた者もすくなくなかっただろう。
はたして、シュナイダー牧師は隊列の前に引き出され、射殺では生ぬるいと見られてか、何人もの監視兵から、よってたかってサンドバッグのようにめった打ちにされた。帽子は吹っ飛び、顔も手足も全身血まみれになったが、しかしその帽子は、牧師自身の手で除かれたものではなかった。彼はその苦痛に耐え、悶絶したまま引きずられていって、プンカーに投げ込まれた。
この日から、シュナイダー牧師は、拘置所の死刑執行人マルティン・ゾンメルの手にかかって毎日のようにさいなまれ、激しい肉体的拷問と、屈辱と恐怖とにさらされることになった。しかも、時どき釈放のえさとして例の誓約書を突きつけられたが、だれも牧師の強固な意志を変えることはできなかった。そればかりか、彼は独房の中からさらに次の行動に出た。
朝に夕に、囚人たち全員がゲート前広場に呼で整列するとき、シュナイダー牧師は小窓の鉄格子にしがみついて、SS殺人者の名を一人ずつ告発し、絶叫したのである。
「あなたたちは、それでも人の子か。永遠なる神の審きに訴えてやる。囚人たちに対する殺害のかどで、神の名において告発する!」
静寂を破って、独房の小窓から響き渡る叫びは、ほんの数分にしかすぎず、たちまち糸の切れるようにぷつりと消えてしまう。その理由を、囚人たちはみな知っていた。死体置場のようなプンカーに、囚人の発言の自由などあろうはずがない。シュナイダー牧師の口をふさぐため、ゾンメルの棍棒が振り下ろされたことはあきらかで、牧師の身体はコンクリートの床にたたきつけられたにちがいない。それでもまだ生きているぞ、といわんばかりに、次の点呼にきれぎれの声が響きはじめる。
「みなさん、忘れないでください。ここで殺された仲間たちの名前を。その無念の死を・・・・。名前は・・・・・」
ほんの数分のうちに、声はまたぷつりと切断される。
ついにたまりかねた同僚の一人が、あるとき、休憩時の際をねらい独房の窓の下にまで走りよって、家に待つ妻や子どもたちのためにも命を大切にしてくれるように懇願した。牧師は感謝しながら、しかし、こうする以外に自分の生きる道はないのだといい、それに、壁一つへだてた房で拷問に苦しんでいる仲間もいる以上、その人たちに慰めの声をかけるのも自分の仕事だ、と答えたという。
作家のヴィーヘルトが、はじめて収容所の鉄門をくぐり点呼広場に立ったとき、コンクリートの穴ぐらにも等しい独房から「荒々しい、訴えるような、意味もわからぬ喚き声がたえまなく響いてきた」と前述の作品『死者の森』に書いている。
それは「新教の牧師と一しょに閉じこめられた狂人」の叫びで、「別のからは打擲する鈍い物音と、被虐者の人間離れした叫びと呻きが迫って」きたというが、ヴィーヘルトが囚人として収容された日は5月6日だから、それより半月ほど前の4月20日から、シュナイダー牧師の不屈の行動がつづいていたことになる。「新教の牧師」と作家が聞いたのは、おそらくシュナイダー牧師のことだろう。拷問による叫び呻きと、狂人の声とが混合して作家を戦慄させたが、同作品には、それっきりこの件についての記述は見当たらない。してみると、シュナイダー牧師の捨身の告発も、おそらく事件から数日間のことで、ざっと半月が経過したころには沈黙を余儀なくされていたか、あるいは牧師自身が主観的に抗議しているつもりであっても、もはや聞く者には狂人のような喚き声の範囲を出なかったのかもしれない。
一声あげるたびごとに生命の危険にさらされるのだから、それもまた無理からぬことで、もし仮りに喚き声のようなものであったにしても、牧師の信念を封じることができなかった以上、信じがたいような抵抗のエピソードあるといえる。
シュナイダー牧師は一年以上も独房の苦痛に耐え抜いたが、ついにその息の根をとめられ、全身生傷と内出血だらけのむごたらしい死体となって、ブンカーから運び出された。翌39年7月18日のことである。43歳だった。収容所医局は急性の心臓麻痺と発表したが、SS衛生隊長ディング・シューラー博士の手で毒薬注射により殺されたという説が、どうもほんとうらしい。
シュナイダー夫人が遺体の引き取りを強く要求したとき、SSは拷問の跡が発覚しないように花で死体を被い、すぐさま棺を閉じたが、棺に七重もの封印をした。しかも棺を決して開けないという一筆を取った上で、やっとのこと遺体を渡し遺族による埋葬を許可した。牧師がどれほど残忍な方法で生命を奪われたか、これでわかる。
しかし、どんな殺されかたをされようとも、囚人の遺体が家族のもとにかえってくるという例は、ナチ強制収容所の歴史のなかでは異例のことである。シュナイダー牧師の悲壮な死から2ヵ月もしないうちにナチス・ドイツ軍はポーラソドに侵攻し(9月1日)、ここに第二次世界大戦の幕が切って落とされ、プーヘンワルトもナチ占領地域からぞくぞくと送られてくるユダヤ人を主にした囚人たちで溢れた。ために最新鋭の焼却炉と火葬場が収容所内に設置された。死体はすべてこれで処理されることになり、遺族の手に渡るものがあったにしても、それは死亡通知だけになった。やがてその死亡通知さえも疎遠になり、人びとは夜の妥に呑みこまれたょうに、闇から闇へと抹殺されていくことになる。
アマゾン古書でブルーノー・アーピッツ「裸で狼の群のなかに(上・下)」(新日本文庫) 、レーオンハルト・シュタインヴェンダー「強制収容所のキリスト」(日本基督教団出版局)を注文した。もっとも読みたかったマルガレーテ・シュナイダー「パウル・シュナイダーの殉教」(新教出版社)は入手不可能らしい。
誓約書を前にしたかれの決断にわたしは驚愕する。言い知れぬ激震を覚える。かれが死んだのはいまのわたしの年齢だ。
2008.10.27
■日々是ゴム消し Log59 もどる