長い隠遁生活の扉を開いてディランが盟友ザ・バンドと敢行した8年ぶりの大規模な全米ツアーには、65万人の席に1800万を超す応募が殺到し、ロック史上最大規模のイベントとなりました。ツアーの発表と同時にディランはザ・バンドと共に久しぶりに気合いの入ったアルバム「Planet
Waves」を録音し、この正式には初のライブ・アルバムの邦題が示すとおり「偉大なる復活」を果たしたわけです。
私も購入当時にはこのアルバム、死ぬほど聴きまくりました。Most
Likely You Go Your Way (And I'll Go Mine)
は幕開けにふさわしい突撃ナンバーだし、3曲のアコースティック・セットも切れ味バツグンで、特にレコードの最後の面の
All Along The Watchtower から Like A Rolling Stone
へ至る怒濤の快演は、ニール・ヤングの「Live
Rust」のヘタウマ・ギターと共に、私を腸捻転ものの遙かなエクスタシーへと誘ってくれたものです。アルバムよりずっとハードなザ・バンドのサポートも強力でした。ロビー・ロバートスンのギターはもうギンギンだし、ふだんは楽曲の隙間から漏れ響いてくるガース・ハドスンのキーボードが前面に出ているのも新鮮でした。
しかしその後、テレビ放映の画像を含む「Hard
Rain」や「At
Budokan」等のライブを聴くに連れて、次第にこのアルバムの熱でうわずったような一種甲高いディランの声が鼻につくようになってきました。そしてあれほど興奮をかき立ててくれた小気味よいフレーズが、どこかわざとらしく映り、その裏から「平板」という文字が透けて見えてくるようになって来ました。いつもながらはしたない比喩で申し訳ないですが、SEXのときにあれほどヨガっていた女の人が、実はすべて演技だったと知ったような感じでしょうか。それからだいぶ経ち、ディラン自身の口からこんな言葉を聞いたのです。
あのツアーでぼくはただ、ひとつの役を演じていたのだと思う。心はうつろなままだった。成功していたが、感情のない旅だった。あのツアーで得た最高の賛辞は「信じられないようなエネルギー」だ。それを聞いて反吐が出そうだった。
後年になって語られたこの言葉は、私はおそらく正直なものだろうと思っています。ディランは人々がまさに待ち望むロック・スターとしてのペルソナを演じて見せた。それは成功を収め、人々は満足し、喝采を浴びせた。誤解を恐れず例えるなら、おそらくエルトン・ジョンやビリー・ジョエルのようなアーティストたちなら、うん、今日はとてもいいコンサートだった、と満足して家へ帰ってビールでも飲んだことでしょう。ロックのライブはある意味で期待されたショーでもあるのだから、それが悪いことだとは私はちっとも思いません。だがディランにとっては.....
私は一般的には評価の低い後年の、たとえば「Real
Live」の方が、ずっと素直で等身大のディランの歌がある、と思います。聴衆の欲しがる大いなる幻影ではなく、たとえそれが他人には不器用で耳障りなものになったとしても、内なる真実に耳を傾け、その一瞬の輝きを必死でつかまえようとステージの上で格闘しているディランの姿。形よりその曲に真の生命を吹き込むためにディランはさまざまなアレンジで歌い継ぐのでしょうし、予定調和ではない魔法のために、それは時には散々な結果に終わることもあるし、そうなるかと落胆しかけた次の瞬間、ホンの一瞬間だけ経験したこともないような途方もない輝きを見せてくれることもある。私はそのようなディランにいつもわくわくし、魅了されてきました。
もちろんいま言ったようなことから、このライブ・アルバムを聞く値もないニセモノのはりぼてだと言うつもりは毛頭ありません。私が感じているのは、ゴキゲンなライブだけれど、最高のディランではない、ということでしょうか。ディランが大勢のファンの期待に応えるためにロック・スターの「役を演じた」のは事実でしょうが、そのために演奏された音楽が嘘にはならないように、ここにはディランの最良のパフォーマンスも幾つかあるし、何より盟友ザ・バンドとの息の合った共演は、ファンなら文句なしに楽しめる一枚です。そしてどのような形であれ、ディランにとっては長い「雲隠れ」の間に膨れ上がった聴衆の期待をこのツアーによって真正面から受けとめたことが、'70年代から始まる新しい幕開けの刺激に満ちた序章となったのだろうと思います。
そうそう、ちなみに私はこのアルバムの演奏ではじめてザ・バンドの存在を意識して、ここからあの永遠の名盤「Music
From Big
Pink」へと辿り着いたのでした。最初はザ・バンドの演奏のところだけ、針を飛ばして聞いていたのですが(^^)
目次へ