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 The Byrds の My Back Pages ばかり繰り返し聴いている。これは The Byrds の数あるディラン・カバー曲のうちのひとつだ。The Byrds はディランに比べると小物のような気がして、またロジャー・マッギンのボーカルもハーモニーも少々甘ったるい気がしてこれまで本気で聴いてこなかったけれど、この曲はやっぱりめくるめくような魔法がある。曲自体の魅力もあるんだろうし、あの時代の気分のようなものもあるんだろうな、きっと。この魔法のような心地よさに浸っていると、同じ曲をカバーしていた日本の“真心ブラザース”の解釈は実に正しいと分かる。これは失敗やロクデナシや卑怯者や負け犬ばかりだったじぶんの古い殻を脱ぎ捨てるための歌だ。そしてくだらないじぶんよりももっとくだらない連中に唾を吐きかけてやるための歌だ。そのための勇気をおのれに吹き込むための歌だ。たとえそれが一時のはったりであったとしても。じぶんの救いようのなさは誰よりもこのじぶんが知っている。けれどこんな歌がなかったなら、ぼくはきっといままで生きのびてこれなかったことだろう。こんな歌がいまも必要だ。古い殻を脱ぎ捨てて、心地よい風に吹かれてもういちど歩き出せるような歌が。しみったれた殻を脱ぎ捨て続けることがしぶとく生きることなのだと教えてくれる歌が。おれが泥水の中でのたうち回っているとき、あんたらは高い塔の上で紅茶に角砂糖を落としている。だがおれの汚物にまみれた両手がつかんで離さないものを、あんたらはついに永遠に手に入れることは出来ないだろう。

2005.11.12

 

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 500miles、とりあえず完成。素人の戯れ故、ご愛敬のほど。あまりに聴くに堪えないとしたらそれはわたしの稚拙さであり、お、ちっとは聴けるじゃんかと思えたらそれはK氏の功労である。わたしの我が儘にいつも辛抱強くつきあってくれるビルメン屋K氏に感謝を。

 500miles / まれびと and ビルメン屋(MP3 4.8MB) 2005.11

2005.11.14

 

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 水曜。朝8時半頃に出発。名阪国道、伊勢自動車道を経て11時に鳥羽着。真珠王・御木本幸吉の記念館と真珠博物館等を併設したミキモト真珠島は、個人的にはそれほど興味もなかったのだけれど(宝飾品じゃらじゃらのイメージ)、Yとおなじく“この世の美しいもの”を愛する子のために立ち寄ってみようかと思った。これが意外と面白かった。何より生き証人を交えての観覧である。同行した義父母はYが幼かった頃、もともと英虞湾で真珠の養殖を営んでいたのだ。貝が己を守るために侵入した異物を貝殻とおなじ成分で包み込んでしまう、そもそもの天然真珠ができる仕組み。それを解明して養殖真珠を発展させた御木本幸吉の一代物語。養殖のための技術や選別作業、あるいは不要になった貝殻をくり抜いてボタンをつくることなどは今回はじめて知った。とくにわたしの興味を引いたのは、併設された海女に関する展示である。これはじっさいに島の端で現役の海女さんたちが素潜りの実演をしてくれたのだが、感動したねえ。子はいつも持ち歩いているスケッチブックになにやら書き込みながら真剣に見ていたが、わたしが受けとったのは海女という、古代からの生業をそのまま受け継いでいるその存在の鮮烈さと神秘のようなものだ。売店で「志摩の海女」なる古い民俗資料を購入した。著者の岩田準一は鳥羽の生まれで竹久夢二や江戸川乱歩とも交流があった人らしい。かの南方熊楠とも男色についての書簡を交わした。「志摩の海女」はそんな奇才が地元・海女の民俗伝承を採集して昭和14年に刊行したものを後に息子が復刻した。ここにも出てくるが陰陽道の影響と思われるドーマン・セーマンと呼ばれる、木綿の磯着に縫いつけた魔除けの文様や、浜に建てたカマドといわれる円形の休憩場、さらに海女たちの信仰や海中で出会った怪異など、頗る面白い。子もガイドのお姉さんに養殖に使われたアコヤ貝の貝殻をもらってご満悦である。もちろん海女の作業は危険も伴い、実際に義父母の知り合いでも潜水中に繰綱が絡まり命を落とした者もいるという。気がつけばたっぷり2時間半を過ごしてしまった真珠島を出て、鳥羽中央公園近くの華月なる店で昼食をとった。同僚のY氏が旅行会社で働いていたときに客に評判だったと教えてくれたところで、海鮮ものをすべてせいろで蒸してポン酢やゴマだれで頂くというシンプルな料理の店だ。さっきまで動いていた伊勢エビは何も付けなくても、そのままで甘く美味であった。Yと子と三人でエビの脚まで爪楊枝で押し出して大事に食べた。さて、鳥羽からはパールロードを経由してしばし海の景色を愉しむ。賢島に近い英虞湾の内海に面した町の義父母の友人宅や親類宅を訪ね、Yの父方の祖父母の墓参りをするのが今回の旅の目的の一である。丘陵地の雑木林を抜けていく墓は土葬である。Yは祖父が死んだときに座棺に入れられたのをいまもよく覚えているという。その棺を埋めた場所に小さな石の標(しるべ)が置かれ、その横に正式な墓石が建てられている。墓の前でカセットの演歌を流し、じっと動かずに座っている老人がいた。「あの人、まだいるねえ」と子。「きっとお墓にお話をしてるんだよ」とY。次に訪ねた親類宅は驚いた。家のすぐ背後にまで、まるでところどころ歯の欠いた櫛のような英虞湾の内海が侵入している。内海というより、湖か沼のほとりとでもいった静けさだ。真珠の養殖にいまも使われている筏の上を子と歩いた。「この下はなにがあるの?」「この下はもう海だよ」 筏の上に養殖作業のための小屋が乗っかっている。一本の櫛の歯の、ちょうど向かい側がかつてYが幼い頃に住んでいた家のあった場所だという。いまは別の親戚が建て替えて住んでいるが、かつて伊勢湾台風のとき下の道が水に浸かり、義母は幼いYを“おっぱ”して後ろの山へ逃げ込んだ。風景というのは人をつくるのだな。こんな風景のところに生まれた人は、この風景を写実して育つのだろう。東京生まれのわたしには不思議な、とても不思議な心くすぐる風景だ。日が暮れた。阿児町から湾の根元をペンチでくいと曲げたような部分にあたる大王町へ。予約していたプチホテル・槇之木は貸し切りだった。穏やかな内海に面した白いペンキの広いテラスの上に満月が昇っていた。6時半からわたしたち5人だけの夕食会。シャイな感じのシェフであるご主人と、気さくな給仕係の奥さん。今日のホテルは地元出身のお二人だけ。お願いをして翌日にわざわざ書いてもらった当日夜のメニューを下に引いておく(これはわたしとYの洋食メニューで、義父母たちは別に和食のメニューを頼んだ)。書き忘れだと思うがこれに大皿に盛った貝や鯛の造りもあった。そして奮発をして知り合いの輸入業者がここの料理に合わせてチョイスしたというワインリストから極上の無農薬の赤ワインを1本。わたしは料理に関する勿体ぶった蘊蓄はキライだし、大体ポワレもマリネも何のことか分からん。ただこれが、ホンモノの食材を使ったココロのこもった料理であることは分かる。そして、これで利益があるんだろうかというくらい次々と出てくる。またコニャック地方の畑でブランシャーさんがつくったワインも五臓六腑がとろけるようであった。やっぱりホンモノというものはあるんだな。ホンモノは百均やチェーン店にはないんだよ。ホンモノはつくった人の顔が見えるものだ。そして受けとった人を仕合わせにする。実際、料理もワインもサイコーだったね。義父母は地元同士の話題に花を咲かせ、子は奥さんにひっついて、真珠島でもらったアコヤ貝を手に厨房にまで遊びにいく始末。一服していたロビーで偶然、ビリーホリデイを聴いた。心に沁みた。夜のテラスで風に吹かれ凪いだ夜の英虞湾を眺めた。

 

・アミューズ
    地蛸と鰺と野菜のマリネ ジェノバソース

・オードブル
    セルガキの二色オーブン焼き

・スープ
    小柱のチャウダースープ

・お魚料理
    胡麻をまとったスズキのポワレと海老のソテー 二色ソ−ス

・お口直しのソルベ
    パイナップル

・お肉料理
    和牛フィレ肉の網焼き 温野菜 きのこのソース

・デザート

    蓮台寺柿のタルトタタン仕立てと臣峰のコンポートの盛り合わせ アングレーズソース

・コーヒー

・パン又はライス

      

 明けて木曜。ゆっくり朝食を取り、10時前に出発。登茂山の展望台から午前の光に輝く英虞湾を眺め、引き返して大王崎の灯台へ。途中、登茂山公園線が260号と交わる交差点角にあるマルサトに立ち寄る。朝食に出た干物がうまいと言ったら槇之木の奥さんが購入先を教えてくれた店だ。いわく「店は汚いけど魚はきれい」。10匹買ったはずの鰺は帰ったら1匹増えていた。1匹80円。大王崎の灯台は残念ながら工事中で上れなかったが、灯台へ登っていく狭い道に軒を連ねた土産物屋は鄙びていていい感じ。一軒の店であおさ海苔を3袋買った。「他の店は客引きに余念がないのにここは呼んでも誰も出てこないねえって言ってたんですよ」とYが言うと、隣で話し込んでいたという如何にも浜娘然たるおばちゃんはあっはっはと笑い、乾燥ワカメも1袋オマケにつけてくれた。子は子で一軒の真珠屋の前に置いてあったアコヤ貝を見て「これからボタンをつくる」と言ったら、店のおじさんが奥でおいでおいでをして当の貝のボタンをくれたそうな。浜に下りてしばらく遊んだ。義母ははじめてこの灯台を訪ねたとき、英虞湾の静かな内海とあまりに異なる荒波に驚いて義父に「漁師の娘がそんなものに気をとられるな」と叱られたという。貝殻をいくつかと、子は絵を描くのだといって平たい石をひとつ持ち帰った。波切漁港には仙遊寺という久鬼水軍の一族を祀った菩提寺もある。このへんの歴史も調べると面白いところだが。捌いたばかりの魚が網の上に列び光っている。英虞湾を離れ、鵜方から山あいの167号線をふたたび鳥羽へ。途中の磯部で伊勢神宮の別宮である伊雑宮を覗いた。伊勢神宮の他に20年ごとに社殿を建て替える神社があることをはじめて知ったな。子は社殿に向かって手を合わせ「世の中にはひとりぼっちで家もなく、私たちのように七五三を迎えられない子がたくさんいます。どうかその子たちが幸せになれますようお恵み下さい」と最近、幼稚園の祝福式のときに覚えた文句を唱えていたが。鳥羽から伊勢スカイラインを上り朝熊山へ。朝熊山は古来より伊勢地方の人たちが死んだらその魂が還っていく場所として信仰のある山だ。熊野の那智大社の奥にある妙法山も同じような信仰を有し、わたしの母方の祖母の遺髪も山上の阿弥陀寺に納められたそうだが、これらはこの国の古来からの素朴な宗教形態であろう。朝熊山の山頂付近にある金剛證寺から荒れた山道をしばらく登った斜面にある平安時代の経塚を見るのも、この旅の個人的なメインだった。朝熊山経塚群と称される遺跡は伊勢湾台風の折りに倒れた木の根元から偶然発見された。当時の貴族たちが阿弥陀浄土を祈願して埋めたものというが、その中心となっていたのは伊勢の神官たちで、これは伊勢に特有の現象だともいう。老人の脚では無理だと寺の人に言われ、子が池の鯉に餌を与えている間にわたしだけのぼってきた。なかば草に埋もれかけた経塚群は、墓場ではないのだが一種独特な雰囲気を醸している。そしてこの人気のない静かな東向きの斜面からは、海が見下ろせる。むかしの人間はいつもいい場所を知っている。はじめて訪ねた伊勢・志摩地方は、まさに“美まし国・御食つ国”であった。たゆとうような英虞湾を眺めながら、わたしはそのことを思った。また、かつてこの国から様々な海産物を背負い苦労して飛鳥や平城京の都まで荷を届けた人々のことを思った。そんな国には人々の精神とおなじく豊穣な神々が棲んでいたに違いない。無論、わたしが思うのは伊勢神宮が整備される以前の古形としてである。この二日間でわたしはずいぶん、伊勢・志摩地方に魅了された。スカイラインを下り、伊勢神宮の内宮近くで義父が通っていたという旧制中学の跡を探した。建物はもう残っていなかったが、入り口にあった門代わりの石だけがあったそうだ。おかげ横町で赤福を食べ、日の暮れた夜道をふたたび高速に乗って奈良へ帰ってきた。

 

ミキモト真珠島 http://www.mikimoto-pearl-museum.co.jp/index2.html

海鮮蒸し料理・華月 http://www.kagetu.co.jp/

VIVIDIN 槇之木 http://www.makinoki.jp/

ワインプラザ・マルマタ http://www.marumata.co.jp/

大王崎灯台 http://www.ekakinomachi.com/fuukeitanbou/toudai.htm

伊雑宮 http://www.isejingu.or.jp/naigu/naigu3.htm

金剛證寺 http://www.iseshimaskyline.com/kongoushouji.htm

2005.11.18

 

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 凍てつく冬空の下。白葱に佛が刻めたらなあと思ふ。

 

 

2005.11.21

 

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 また、いたいけな命が無惨に奪われた。広島で下校途中の7歳の女児が首を絞められダンボール箱の中で死んでいた。じぶんの子がそんな姿に変わり果てた空想に慄然とし、それを思うことがまるで現実につながるような気がしてあわてて打ち消す。

 ボスニア紛争中の「民族浄化」の反吐が出るような場面を繰り返し読みながら、その一人一人がわたしであり、Yであり、子であったような心持ちがして思わず立ちすくむ。

 かたや命が薄く、かたや想念が暗い。

 人はどうしようもない。

2005.11.23

 

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 いつも貝殻の中でひとり歌っている。ほんとうは誰かと話がしたいのに、外に出れば虫けらのように扱われる。シャツの袖はぬぐった涙で真っ黒だ。ひろげた手の平は枯れ葉のようだ。部屋の明かりも点けずに、ぼろきれのようなソファーに沈んでいる。かつてはやさしい妻もいた。台所で鼻歌をうたいながら葱を刻んでいた。愛する子どももいた。弾けた風船のようにまとわりついてきた。シャングリラのような家庭があった。でもいまはひとりぼっち。いろいろ足掻いてみたけれど、なにひとつうまくやれたことなどなかった。つまずいてばかりの人生だった。失うだけの人生だった。誰かが邪魔をしていたに違いない。見たことはないが俺たちには手の届かぬ何か大きな存在が。歯向かってみたが、駄目だった。夢見ていたのは遠い日のこと。残ったのは煙草のヤニで汚れた壁紙と焦げ跡だらけのカーペットだけ。それと古ぼけすっかり色褪せたこのソファーがひとつ。ときどきじぶんを殺してしまいたくなる。喉を掻き切ってすべてを仕舞いにしたくなる。苦しみを分かち合ってくれるあの人のもとへ行ってしまいたくなる。だけどぼくらはきみを愛しているよ。アーサー、ぼくらはそんなきみを愛している。もういちどきみに元気になって欲しいんだ。ドアを開けて、もういちど歩き出して欲しい。外はずっと雨降りだった。濡れた庭の緑がいまは眩しいくらいに輝いている。

 

(深夜に酔っ払って The Kinks の Victoria をリピートで聴き続けながら)

2005.11.25

 

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 内なるライオンが咆吼している。むかしの音楽を聴いている。地面に足をもどそうとしている。もといた場所へ帰ろうと思っている。

2005.11.27

 

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 休日。子が幼稚園へ行ってからYと車で出かける。K百貨店でYはブーツの踵を直す。奈良市法蓮町のくるみの木でランチ。Yは「ともだちとお昼を食べるより、わたしはこんなふうに夫婦で食べる方が好き」と言う。食事を終えてから、子の入学先に考えている某大学付属の小学校とその近辺を見に行く。緑の多い静かなキャンパスを二人で歩く。Yは図書館で「学校に行けない はたらく子どもたち 3. 中南米」(田沼武能・汐文社)という写真集を子のために借りてきた。「今日はお布団の中でこれを読んであげて」と言うので、一葉づつ説明を加えて子に読み聞かせる。街で、工場で、牧草地で、重い荷を抱え、裸足で、あるいは穴の空いたぼろぼろの靴を履いて働く様々な子どもたちの姿を、子は真剣な顔つきで黙って見ていたが、やがてふっと眠りに落ちた。

2005.11.28

 

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 ある冬の日のことであるが、フランシスコはその聖なる小さな体を被うのに、継ぎだらけの一枚の服しか着ていなかった。その院長は----フランシスコの伴侶でもあったが、-----どこからか一枚の狐の毛皮を手に入れてきて、彼に渡そうとして次のように言った。

 「師父よ、あなたは脾臓と胃が悪いので、どうか主において自分を愛して、服の下にこの毛皮を縫い付けることを許してください。せめて胃の所に」。

 しかし、それに答えて祝福されたフランシスコはこう言った。

 「もしもそのように服の裏にこれを縫い付けたいならば、それと同じ大きさで外側にもそのようなものを付けてもらおう。そうすれば人々に隠れている皮のことを知ってもらえるでしょう」。

 これを聞くとその兄弟は賛成しなかったが、彼を説得しようとしてもできなかった。それで、その院長として、この兄弟は、フランシスコが外部でもその内面と異ならないことを示すために、服の上にも裏にも、一枚の毛皮を縫い付けさせたのである。

 ああ、フランシスコよ、あなたの生活と言葉が、何と素晴らしく互いに一致していたか。外部にも内部にも、目下であっても目上であっても、あなたはいつも同じ有り様で現れ、いつも主においてだけ誇り、外からも内からも、光栄を求めなかったのです。

 

チェラノのトマス・アシジの聖フランシスコの第二伝記(第93章)

2005.11.29

 

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 広島の女児殺害事件。日系三世の30才のペルー人男性が逮捕されたと。日本語もたどたどしい孤独な生活であったと。たとえ彼が真実犯人であったとしても、その(おそらく)荒涼とした心像風景にどんな風が吹き荒れていたのか、わたしたちには想像の仕様もあるまい。行われたことは、ほんとうにむごすぎる。だがもし、わたしたちが今回の報道を受けて「日本人でないかれら」を一斉に異物として排斥するようであれば、その心像風景はさらにおぞましいものだと言わねばならない。

 

 子の幼稚園から長いこと拝借しているチェラノのトマスの「アシジの聖フランシスコの第二伝記」を夜中にアマゾンで注文した。この一冊は一生をかけても読み切れないと思ったが故に。かつてユングの著書を読むたびにわたしの内なる何物かが顫え、おののき、呼び覚まされたように、フランチェスコのぬくもりは、暗闇の中で疑いもなくわたしをすくいあげる。わたしの魂を慰撫し、涙の内に“肯定する”。それをはっきりと感じるのだ。「生きた何物か」を。

2005.11.30

 

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 木曜、夕刻。子のランドセルから連絡帳をとりだし見ていたYが、えっと声を上げて動かなくなった。教会のW神父さんの訃報である。巡礼先の四国・小豆島の宿で亡くなったという。通夜は夜7時から、奈良市の教会で。子がお別れをしたいと言うので、急いで夕食を済ませ、礼服を支度し、家族三人、車に乗った。Yはもう涙ぐんでいた。先日訪ねた英虞湾に幼い頃“舟の教会”がやってきた。そのときに聞いた話はすべて忘れてしまっていたが、W神父による最後の「聖書の集い」(毎週一回、幼稚園の保護者を対象に開かれていた)で「幼子のようでありなさい。幼子こそが神に近い」というイエスの言葉による説教がされ、“舟の教会”で聞いたことを思い出した。それがW神父の最後の話だったから、もう二度とその話を忘れないだろうと言う。小さくはない教会は人で溢れ返っていた。二階の張り出しの席から、ときおり子を抱き上げて見せてやった。祭壇は白を基調にしたたくさんの花々で飾られ、教区の司祭たちが列んでいた。式は賛美歌で始まり、続いておそらくわたしと同じ年代くらいだろう若い神父がW神父の思い出をしばらく語った。故郷のオーストラリアから日本に来て40年になること。教会の“共同体”で共に暮らしていたこと。行く先々がいつも花で飾られていたこと。快活で、歌が好きだったこと。72歳の誕生日まで余すところ数日であったこと。それからフランチェスコ会の修道士のような小柄な司祭が「三分間、沈黙でW神父のために祈りましょう」と言い、辺りは静謐で充たされた。「みんな泣いているね。みんなひとりひとりが神父さんとの楽しかったことを思い出してお祈りしているんだね」 わたしは子にそっと耳打ちする。子は神妙な面もちでじぶんの周りの参列者の顔を一人づつ眺めていく。たくさんの賛美歌が合唱された。花と歌で死者を送るような式だった。わたしの好きな Nearer My God To Thee (賛美歌320番「主よ、みもとに 近づかん」)も歌われた。Mississippi John Hurt が歌っている。焼香が始まった。わたしとYと子は人のいなくなった二階席からずっと眺めていた。焼香の間、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」という短い聖句がオルガンと信者たちの歌で演奏された。これは十字架の上でイエスと共に処刑される盗賊がイエスに投げかけた言葉だ。それが波のうねりのように、静かに、力強く、いつまでもくり返された。焼香を済ませ、棺の中の顔を三人で覗いた。「あれは神父さんの抜け殻だよ」 教会の坂道を下りながらわたしは子にそう言う。「お母さん、あれは神父様のヌケガラなの?」と子は母親に訊く。帰りの車の中で、通夜の間中ずっとハンカチを手離さなかったYが話し始めた。せわしない毎日で、いつもあれをしなきゃこれもしなきゃとずっといらいらしていた。週に一度「聖書の集い」で神父様のお話を聞くときだけが心の中に風がさあっと流れるような気持ちになれた。その中で考えて、じぶんで生活を工夫するようにした。そうしてこのひと月間、はじめて一度もいらつくことなく過ごせた。聖書に向き合う土壌ができたと思った。だからそのことを神父様にお話ししようと思っていたのに。それからYはこんなことも言った。はじめてお会いしたときは「神父さんってこんなに大きな声を出して笑うものなのかしら」って思った。賛美歌を歌われるときはとても朗々と響く素敵な声だった。ついでわたしが話したのは、日曜のミサのときのことだ。ひとりだけ祝福を断ったわたしを、帰り際に一瞬抱きしめた。あのとき「ああこの人は、じぶんを拒否する者でさえ、こんなふうに受け入れてきたのだろうな」と、わたしは少なからず感動したのだった。あの一瞬、何かがわたしの身体を包んだのをわたしは知っている。言葉はなくとも、それは分かった。それはこの世の物質でない何かだった。今朝、迎えのバスが来る場所まで歩いている途中で、子がふと顔を曇らせて「神父様、死んじゃったね」と呟いた。しばらく歩いて「また人間に生まれてきたら、いろんなことをまた教えてくれるね」と言う。「神父さんはずっとこの世で働いてきたから、神さまはすこし休ませてあげようと思って天国に呼んだんだよ。でも天国ですこし休んだら、まだまだ可哀想な子どもたちがたくさんいるから、また戻って助けてあげなさいって、きっとこの世に戻してくれるよ」 ピーター・テレンス・ウィックス神父の魂が、信じる神のもとへ無事帰られんことを祈る。

2005.12.2

 

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 かつてソヴィエトのある地方で、ひとりの僧と語り合う機会があった。わたしはかれに、自分は祈りの曲も作曲している、つまり祈りの言葉や賛美歌のテキストに曲をつけているが、それは作曲家としての自分に役立っているかも知れないと言った。するとかれは、いいえ、そんなことはありませんと答えた。祈りの文句はすでにすべて書かれてしまっています。あなたはそれ以上、増やす必要はないのです。

 

 苦悩にひたっているときには、大事なひとつのことにつきまとうすべて外的なことは無意味そのものにしか思われない。複雑なこと、煩雑なものごとはわたしをただ困惑させるにすぎない。だからわたしはひとつのものを求めざるをえない。

Arvo Part ・Tabula Rasa のライナーより)

 

2005.12.3

 

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 Yや子といっしょに見たいと思って「忘れられた子供たち」(四ノ宮浩監督・1996)のDVDをネットで注文した。

 

 「忘れられた子供たち」 http://scaven.office4-pro.com/

 Office Four Production http://www.office4-pro.com/

 ほっとけない世界のまずしさ http://www.hottokenai.jp/

 「忘れられた子供たち」を amazon で注文する

2005.12.4

 

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 子の幼稚園のともだちのピアノ発表会なるものに行ってきた。ともだちが舞台の上で演奏するのを見て、ヴァイオリンを習っている子の刺激にもなったらという親心である。わが家から高速を利用して30分ほど、大阪のとある市の施設。ハレの舞台をみな着飾って、ときにサンタの格好をしたり、犬や猫の着ぐるみを着たり、母親が巨大なパイプ・オルガンを披露したり。ま、それなりに面白くはあるのだが、どうもわたしはこういう場所は、生来のひねこびた目で見てしまって駄目だな。別にわざわざこんなところで考えなくともいいんだろうが、先日DVDを注文したゴミの島で暮らす子どもの姿なんぞが思わず浮かんできて、何気なしにYが「子どもの服より親の服代の方が高くつくらしいよ」なんてことを言ったりすると、「そんなの、どうでもいいじゃん。“音楽”に何のカンケイがあるんだよ」とむすっと黙り込んでしまったりする。「おれだったらパンツ一丁で出るね」とうそぶいたりする。そんなわけで前半はほとんど寝て過ごし、後半は併設している図書館でひとり木工芸やフランチェスコや日本古代史の本を漁ったりして過ごした。しかし何でみんな揃って“ピアノ”なんだろうね。やっぱ、ステータスのひとつのわけか。ブルース・ハープや三味線を習う子なんてのはいないのか。なんて書くと、このサイトを(たまたま見つけて)見ている幼稚園のお母さんもいるようなのでやめとこか。昼過ぎに着いて、夕方に(ともだちの演奏があらかた終わったので)いったん帰りかけたのだが、子が最後まで見ると怒るのでもいちど会場へ戻り、最終終わった7時過ぎまで延べ6時間、「じぶんちの子が出るわけでもないのに家族でこんだけ長時間いるってのも珍しいんじゃないか」とYと苦笑しながら帰ってきて、炊飯器に仕込んでおいた栗ご飯を頬張ったのであった。

2005.12.5

 

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 静かに想像してみてほしい。

「お父さん泣かないで、私たちは天国で鳥になりました」

 小さな墓標の裏に書かれたその言葉は、アリ・サクバンの三人の子どもたちが埋葬されるときに、それを手伝ってくれた人たちがそっと墓標の裏に書いた文字だった。2003年4月10日、バグダッドへの空爆で三人の子どもを一度に失ったアリ・サクバン(31歳)は、その日もいつもと同じ朝を迎えていた。いつもと同じ朝の風景になるはずだった。しかし、朝食の準備をしている最中、突然空から襲った爆撃・爆音とともに彼の周囲は一変する。

 じっと想像してみてほしい。

「おはようお父さん」とさっき会話を交わしたばかりの子どもたちが自宅の瓦礫の中に埋まり、必死で彼らを探す父親の姿を。脳みそが出たままの5歳の娘を抱きかかえて、銃声が鳴り響くバグダットの街中を、救急車に乗って三つの病院を回らなければならなかった彼の光景を。やっとたどりついた病院で生死をさまよう娘の手を取り、彼が着ていた真っ白なシャツが、真っ赤な血で染まっていく瞬間を。

「リトルバーズ 戦火のバグダッドから」(綿井健陽・晶文社)

 

 

 7日、水曜午前。市民ホールでドキュメンタリー・フィルム「リトルバーズ イラク戦火の家族たち」 (綿井健陽監督)を見た。臓腑にこたえた。全身がわなわなと顫え、いつしか血のような涙が頬を伝い流れ落ちたが何故かそれを拭うまい、いや拭うべきではない、と思った。涙はとめどなく溢れ出た。止まらなかった。まるでじぶんが巨大な圧縮機の中につめこまれたような気分でじっと画面を凝視し続けた。激しく憎悪した。この不合理を成り立たせている、すべての欲望を、冷酷さを、無関心を。この国のメディアはいったい何を伝えてきたのか。屁のようなものだ。わたしたちの想像力はいったい何を考えたのか。屁のようなものだ。屁のような取り澄ました日常を、おのれ自身を憎悪した。けっして許すまいと誓った。呆然自失といった態でホールを出た。煙草に火をつけて吐き出した。おだやかな平日の青空が目の前に広がっていたが、それは偽装された青空だった。反吐が出た。脳味噌が飛び出した幼いわが子に必死で吸入器をあてがう父親の姿が脳裏に焼き付いて離れない。あの父親の身を切るような慟哭に、無惨に変わり果てた姿で横たわっていたあの幼子の寄る辺なき魂に、この世界の中で、いったい誰が向き合えるのか。「餓死する子供のいる場所を、世界の中心とするならば、もっと思考が戦闘化してもいいのではないか」(辺見庸) わたしはいま、確信をもって“YES”と言おう。屁のようなものすべてを粉砕してやりたい。少なくとも、あの戦争を支持した国に住んでいるわたしたちには、“少女は天国の鳥になった”などといったことは、言えまい。わたしは、わたしの立っているこの地面を、憎悪する。

 

 

 この映像を観てほしい。なにがなんでも観てくれ。そしていま一度、自分の頭で、静かに、静かに考えようじゃないか。あの戦争とはいったいなんだったのか。いや、そもそもあれは戦争だったのか・・・。あまたあるイラク映像のなかで,私はLittle Birdsに最もつよく心揺さぶられた。

(辺見庸)

 

 

...その一方で、日本が、日本人が自ら問い続けなければならない言葉もある。

「 You And Bush 」(お前とブッシュは同じだ)

「 How many children have you killed today? 」(お前たち、きょう何人の子供を殺したんだ?)

「お前」「お前たち」とは、アメリカや米軍だけではない。紛れもなく「私」「私たち」のことだ。そう思っておいたほうがいい。イラクのためにも、日本のためにも、自分のためにも、本当にそう思っておいたほうがいい。

 戦火のバグダッドで私が出会った人たちからの問いかけ、そして殺されていった人たちからのメッセージだった。

(綿井健陽)

 

 

リトルバーズ公式サイト http://www.littlebirds.net/

中川敬のシネマは自由をめざす! http://www.breast.co.jp/cgi-bin/soulflower/nakagawa/cinema/cineji.pl?phase=view&id=156_littleBirds

 

2005.12.10

 

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 日曜。Yと子は教会のミサへ。そこで子は、神さまと話をしていたという。「おいのりはぜんぶわかりました。神父さまがどうして死んでしまったのか、おしえてください」と子が問うと、「神父さまはいっぱいはたらいたから、すこしやすませてあげたんだよ」と神さまは言った。「でも、わたしたちはさみしいです」と子は答えたそうだ。

 それから歳末助け合いの献金活動で、駅前に1時間ほど立った。子は母と二人で「おねがいします」と声を上げ、首から下げたじぶんの箱に募金をしてもらったときはちゃんと「ありがとうございました」とお礼が言えた。終わって家に帰るときに、「しのちゃんの箱は?」とYに訴えたらしい。「まさかじぶんがもらえると思ってたんじゃないだろうな」とYと笑った。

2005.12.12

 

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 木曜。半年にいっぺんの整形外科の診察。車の中で昔きはらさんに頂いた嘉門達夫の「達人伝説」をかけながら行く。(装具を履いたまま)ちょっとここで歩いてご覧、とH先生。片足が、ちょうどサイドスローの投手のように脇から回り込んでしまう。もういちど、こんどはキレイに歩いてみて。ほんの2メートルほどを子は慎重に歩く。よし、こんどはキレイに歩けた。そんなふうにキレイに歩くようにいつも気をつけていてね。しばらく前、近所のホームセンターのDIY売場で幼稚園のあるお母さんに会った。老人施設で働いているそのお母さんはリハビリ用のちょっとした小物を作りにきていたのである。ひとつは90度に組んだ板をさらに10度ほど傾けて地面に置き、その上に足を載せてストレッチに使うもの。もうひとつは30×30ほどの板裏に半円に切った部材を付けてバランスを取る練習用のもの。どちらもカットは店でやってもらい、あとは木工ボンドでくっつけるだけの簡単な製作だ。その木工器具の話をH先生に言うと、ストレッチは子どもの体重では軽くてどうかなあ、大人のようにずっと乗ってるのも難しいだろうし、それよりこうして手でスキンシップを図りながらやってあげる方がいいんじゃないか、と仰る。ストレッチは麻痺している足首の筋肉の硬化を和らげるためで、子の、とくに麻痺のきつい左足首は90度より内側へ曲げるのが困難なほど硬くなっている。Yは毎晩、子が寝る前に、あるいは眠ってしまった布団の中で子の足をほぐしている。H先生の話は他に、プールは継続した方が良いこと、自転車のペダルを漕ぐのは足首にいいので推奨すること(本人がうまく漕げないのですぐメゲテしまうのと、親が面倒くさがりでなかなかやっていない)、ヴァイオリンの立ち姿勢については個々のケースがあるので一概には言えないが音楽に夢中になると逆に身体の余計な緊張がほぐれていい姿勢になることもあるという話、また(左足の)筋肉をつけかえる手術についてはもっと成長をし、体重も増えて、家の中で装具を外したときに支障が出るようであれば行う最終的な手段であるのでまだまだ先の話であること。帰りは給料も出たこともありくるみの木のフィールデイズ店でお昼。わたしは特製カレー、Yは子とランチプレート+ケーキを。

 

「おかあさん、サンタさんにプレゼント、何をおねがいしたの?」
「おかあさんはね、サンタさんにおまかせしてるの。サンタさんはね、きっとおかあさんにいまいちばん必要なものをくれるくれるはずよ」
「しのちゃんね、あかあさんがいちばん欲しいもの、知ってるよ」
「あら、なあに?」
「絵。きれいなものを描いた絵」

 

 「戦争をやめさせ環境破壊をくいとめる新しい社会のつくり方 ―エコとピースのオルタナティブ 」田中 優 (合同出版 @1,470 )と「アシジの聖フランシスコの小品集 」(聖母の騎士社 @630)の2冊を注文した。

2005.12.15

 

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  春の手術のときにおなじ病室だったHくんから子に手紙が届いた。

 

しのちゃんへ

 

しのちゃん おげんきですか

ひかるは まいにち ようちえんにいってるよ。

すなばで おともだちと おやまづくりをして あそんでいるよ

しのちゃんは なんのあそびがすき?

 

********

 

ひかるくんへ

しのは なんのあそびがすきって ようちえんで

うろうろして あそんでるのが すきです

しのより

 

うさぎが いなくなりました

しんぷさまが おいしそうっていったから

おそらで たべているかもしれません

 

 

2005.12.20

 

*

 

 1981年に録音されたディランの御詠歌のような Let It Be MeWebで見つけ聴いている。1970年の Self Portrait の再録音で、オリジナルはEverly Brothers。ヨーロッパ盤 Heart Of Mine のシングルのB面に収録された。裸のディランだ。歌いたいから歌う。アレンジも糞もなく心のままに歌う。こういうディランが好きだ。今日は朝から駐車場にうっすらと積もった雪を掻いてまわった。夕方に帰った玄関先にYと子が走って出迎えてくれた。「いまはとても仕合わせなの。なにひとつ不足はないし、毎日が愉しいの」とYは言う。夜。子とふたりで風呂に入って、寝床で絵本をいくつか読み聞かせる。電気を消して、子守歌に Let It Be Me を歌っているうちに、いつしか子は父の手を鼻先に運びながら眠ってしまった。彼女が眠りに落ちてからも、暗闇のなかでわたしはずっと歌い続けているのだ。この曲を終わらせたくない、とでもいうみたいに。

2005.12.22

 

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 休日。午後は市民ホールでこどものためのクリスマス・コンサートを聴きに行く。地元のこども合唱団や有志の音楽家たちの演奏。夕方は子と二人で机製作をすこしだけ。夜は家族でシーナマコトが一角獣を求めて極北を旅する2時間番組を炬燵に入って見る。13歳のイヌイットの少年がカリブーを撃ち倒したとき、子は思わず母親の膝元に身を寄せた。複雑な心境だったのだろう。「あんな不便なところで暮らしたい?」とYが訊いてくる。「暮らしたいねえ」わたしは答える。「不便だろうけど、ほんとうに生きているという実感が得られるだろうから」 地面と空だけの荒地に佇む親子はなんと美しい光景だったことか。シーナマコトが憧れたというハリー・ロペスの「極北の夢」をアマゾンのカートに放り込んだ。

2005.12.23

 

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 仕事を終えて明け方の4時に帰宅する。玄関のドアや居間やトイレの硝子窓やらのそちこちに手製のクリスマスの飾り付けがついている。Kさんがくれた奄美のハイビスカスの隣に水受けに乗ったサンタのローソクもある。教会のミサで子が貰ってきたのだろう、テーブルにお菓子の入った袋が置いてある。炬燵の上には昨日寮さんが送ってくれた絵本たちが読み散らかしてある。アマゾンからディランの映画「MASKED AND ANONYMOUS」のDVDが届いていた。これは正月のひとりのときにじっくり見る。昨日の朝、家を出てきたときの二上山は麗しかった。やあ、と挨拶を投げかけた。風呂に入って、湯上がりに熱燗を一杯啜りながら、相も変わらずディランの Let It Be Me をリピートで聴いている。

 

 昨日、クリスマス・コンサートへ行くときに一緒に車に乗っていった近所のKさんとその子どもたちが、毛糸の帽子をかぶった子を見て一斉に「おとうさんにそっくりだ」と言った。髪を垂らしていると「お母さんにそっくり」だと言われるのだが、おでこがあがっているとそう見えるらしい。

 わたし「それできみはどう思ったの?」

 子「うーーーん、やっぱり帽子はよくないかな、と...」

 わたし「なんでや!」

2005.12.24

 

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 夜勤明けで昼前に帰る。食事をしてからしばし炬燵で寝る。

 夕方に起きて、端材で子の勉強机に彫る文様の試し彫りをしてみる。切り出し・平刀・丸刀・三角刀、それぞれの使い方を子に説明しながらいろいろな線を彫ってみる。「大変そうだね」と言うYに「写経のようなものだな。しのの机に、そういう気持ちで彫るんだ」なぞと答える。前に父の部屋から勝手に彫刻刀を持ち出して指を切った子は「大きくなったらできるね」と手は出さず、端で熱心に見ている。

 子と「交換絵本」を描く。互いに相手の登場する短いお話を書いて、それを交換して相手の書いたお話をじぶんが絵に描く。子が書いたのは「お仕事から帰ってきてから宝石をとりに行くお父さん」。わたしが書いたのは「海の上で一角獣の背中に乗って白イルカと遊んでいるしの」。描き終わってから、お互いの絵を見せ合う。

 夕食後、テレビで動物園のシロクマの番組を見る。母親が育児を放棄したコグマを飼育係が親代わりになって育てる記録。風呂に入ってから布団で子に、寮さんが送ってくれた5冊の絵本をぜんぶ読み聞かせる。そのまま子といっしょに寝てしまう。

 数日前、レンタル屋で美空ひばりのCD3枚組全50曲入りのアルバムを借りてきた。子は「お祭りマンボ」が大好きだ。MP3プレイヤーのイヤホンを耳に挟んで、けらけら笑いながら踊る。

2005.12.26

 

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 火曜。休日。朝から子と二人で車に乗り込む。法隆寺の裏手から矢田丘陵をしばらく上ると「青少年野外センター」なる古びた看板が立っている。「ここはお父さんの秘密の場所だけど、きみだけに教えてあげるよ」 車をわきに停め、車止めのチェーンをくぐってアスファルトの道をうねうねと下っていくと、谷間にぽっかりと日なたのできる森に囲まれた広場に、なかば打ち捨てられたような研修小屋とアスレチックの遊具が少々、それにコンクリート製のテーブルやバーベキュー用のカマドなどがそちこちに散在している。雑草も伸び放題で、いつもまったく人気がない。わたしはよく一人でここに来て、本を読んだり、ぶらぶらと歩きまわりながら書き物をしたりしたのだった。周囲のヒノキの森は国有林で、国宝などの建築物に使う檜皮を採取するために保存されているらしい。わたしは車から下ろしてきた子の机に使う天板をテーブルに乗せ、サンダーをかける。谷間に電動工具の音が響き渡る。ここなら周囲を気にせず、思い切り作業ができる。子はその間、そばで木の実や小枝を拾ったり、尺取り虫を見つけて眺めたり、リュックに持ってきたお八つをつまんだりしている。最近Yが子に訊いた彼女の好きな場所は、一番が山で、二番が自宅、三番が図書館、四番が友だちのKちゃん宅、五番がDVD屋さんなのだそうだ。持参したバッテリー2個を使い切ってから、子としばし遊具によじ登ったり、“ひっつき草”を投げ合ったりして遊ぶ。雑木林の奥の道を“羊飼いごっこ”をしながら下っていく。使われていない山あいの棚田に何故かひょうたんの残骸が無数に落ちているのを見つける。枝のついたひとつを、子はどんぐりをぶらさげてベルを作ると言って拾ってくる。途中のラーメン屋で鴨肉と山菜のラーメン大盛りと餃子二皿を二人で食べて帰ってくる。

 夕方。大阪の病院へ次回の予約を取りに行っていたYが帰ってくる。某百貨店の画材屋で、亡くなった神父さんの写真を飾る額縁を注文してきた。あれこれとサンプルを合わせた特注品なので一万円くらいかかってしまったというが、わたしは彼女のそんなお金の使い方が好きだ。

2005.12.27

 

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 水曜、昼。Yと子は和歌山の実家へ。しばらくは一人暮らしだ。夜中、仕事の帰りにレンタル屋に寄って寺山修司の映画「書を捨てよ、街へ出よう」を借りてくる。いつものように裸になって浴室に入ってから、湯を張っていないことに気がつく。蛇口の湯を背中に浴びながら、空の浴槽にしゃがみ込み震えながら本を読んでいる。

 木曜。午前。PC内の整理。子の画像や音楽ファイルやその他もろもろをCDと外付けハードにバックアップする。コンピュータが長々と働いている間に子の机のアイヌ文様の彫刻に着手する。ラジカセでディランの Rolling Thunder Revue のライブ盤をかけながらやるが刃先が落ち着かず、OKI の HANKAPUY に変えて不思議と調子が出る。美しい音楽だ。昼食はインスタント・ソ−スのパスタ。午後は炬燵に入ってディランの映画「MASKED AND ANONYMOUS」を堪能する。そのまま夕寝。

 これから夕食を喰い、弁当をつくり、夜から出勤。

2005.12.29

 

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 0時前に帰宅。二日前の風呂の湯を沸かそうとしたら冷たすぎて埒が明かないので熱いシャワーで済ます。明日はまた6時半に起きて出勤。風呂上がりの焼酎のお湯割りで束の間、人心地つく。寝室のエアコン暖房と自室のデロンギを点けWEBを見ていたらブレーカーが落ちた。やれやれ。今日は駐車場で赤ん坊をさらわれたと叫んでいる女性がいると慌てて110番通報すれば、夫婦の痴話喧嘩で旦那は鬱病だとか云々。なかば半狂乱気味に夫の上着の袖をつかんで離さない女と、おれが連れて帰ると言い張る男のはざまで哀れな赤ん坊は泣き叫んでいたとか。これも師走の風景か、はたまた懐かしき己の幻か。明日は同じように家族が熊野の実家へ帰りひとり見捨てられたYくんと夕飯を喰って帰ろうかと話している。今年もはや一年が暮れる。夢の中で歯ぎしりをしているような一年だった。

2005.12.30

 

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 元旦、なれど特別なにもなし。朝から洗濯を済ませ、ディランの Good As I Been To You を聴きながら机の彫刻の続きをしばらく黙々とやる。下のポストへ年賀状を取りにいく。ほとんどが子の幼稚園関係、あるいはYの親戚や友人たちからだ。Yと子がいなければ、わたしは誰かと話をすることもない。誰かと会ったり、誰かが訪ねてくることもない。わたしは彼女たちによってかろうじて「世間」とつながっている。わたしは、それにふさわしい。50男が生ギターだけでつまびく古い歌がどうしてこんなに沁みるのだろう。インスタント・ソ−スのパスタを食べて、部屋のカーテンを閉め、炬燵に入って寺山修司の映画「書を捨てよ、街へ出よう」を見る。夜勤に備えてそのまま夕方まで炬燵にもぐって寝る。インスタントの中華丼を食べ、ウィリー・ネルソンの美しい How Great Thou Art を聴く。このアルバムはかつてのディランの Saved やモリスンの No Guru,No Method,No Teacher のように手放せないものになっている。

 

I come to the garden alone
While the dew is still on the roses
And the voice I hear, falling on my ear
The Son of God discloses

And He walks with me
And He talks with me
And He tells me I am His own
And the joy we share as we tarry there
None other has ever known

 

He speaks and the sound of His voice
Is so sweet the birds hush their singing
And the melody that He gave to me
Within my heart is ringing

And He walks with me
And He talks with me
And He tells me I am His own
And the joy we share as we tarry there
None other has ever known

 

I'd stay in the garden with Him
'Tho the night around me be falling
But He bids me go; through the voice of woe
His voice to me is calling

And He walks with me
And He talks with me
And He tells me I am His own
And the joy we share as we tarry there
None other has ever known

 

 A Happy New Ear 。わたしと世界が他者の声を聴きとり、もうすこしマシになれますように。 

2006.1.1

 

*

 

 25時間の勤務を終えて帰り、4時間の睡眠をとって、18時間の勤務へ出る。束の間の風呂の中で理趣経の解説書を読む。

2006.1.2

 

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 正午起床。今日も子の机の彫刻。BGMはアルヴォ・ペルト。とりあえず二枚とも完成した。しろうとにしては、まあ、こんなもんか。昼は残りご飯とトマト缶でリゾットをつくる。夜はその残りとすずき産地さんの古代米餅を焼いて醤油で。夕方、炬燵にもぐって二度目の「MASKED AND ANONYMOUS」を見る。

 

ぼくはいつもシンガーであり、おそらくそれ以上のものではなかった。
ときには、物事の意味を知るだけでは充分と言えない。
ときには、物事が意味しないことをも知らなければならない。
たとえば、愛する人のできることを知らないということが何を意味するのかといったことだ。
すべてのものは崩壊した。
とくに法や規則がつくる秩序は崩壊した。
世界をどう見るかで、ぼくたちが何者であるかが決まる。
祭の遊園地から見れば、何もかもが楽しく見える。
高い山に登れば、略奪と殺人が見える。
真実と美は、それを見る者の目に宿る。
ぼくはもうずっと前に、答えを探すことをやめてしまった。

MASKED AND ANONYMOUS(映画の最後のシーンでジャック・フェイト(ボブ・ディラン)が語る独白)

 

 新聞で「趣味が仕事だ」と年商何十億を稼ぐベンチャー企業の青年社長の記事を読む。電気も水道もない廃墟のようなビルに住む、地下鉄もバスも知らないアゼルバイジャンの子どもたちの記事を読む。要するに世界の姿はぼくらの頭の中とおなじだということだ。どちらも夢のようなものだが、どちらもひどい悪夢だ。ぼくらはジキルにもなれるし、ハイドにもなれる。ときにはその両方であることもある。自他の区別や対立といった仮象は人間の分別から生まれたもので、仏教ではこれを「戯論(けろん)」と云う。一切無戯論とはこれを超えた仏の智慧だと云う。モンスーンの南風が中国大陸の山稜にぶつかって雨を降らし豊かな森を育むのは人間の分別だろうか。朝まだきに花々が奇蹟のように花弁を開くのは人間の分別だろうか。それともそれらは神や仏の似姿なのだろうか。ぼくらは孤独なビリー・ザ・キッドのように女の肌に身を寄せてすすり泣く。ぼくらはガス室のスイッチを入れてからモーツァルトの音楽を愉しむこともできる。「動物たちは人間から学ぶことは何もない」 これは映画の中である男がジャック・フェイトに語る言葉だ。ぼくらは何に盲目になり、何に背を向けているのか。愛する者のために命を捨てることはできるだろうか。戦場の街を歩けるだろうか。鋼鉄の戦車の前にひとり立ちはだかって「お前たちは何人の子どもを殺したのか」と叫ぶ勇気があるだろうか。ディランがかつて言っていたように、イエスが殺されたのは確かに先週の水曜日で、ぼくらが生まれたのは火曜日だ。拠って立つ場所は何もない。確かに、いま歩いている一瞬の地面だけだ。次の瞬間には対向車線を飛び出した愚か者の車にぶつかって別の地面の上で死んでいるかも知れない。死はどこにもある。やってきた道を戻っていくだけだ。モリスンの Veedon Fleece を聴く。雨上がりのしっとりした東北の田舎道あたりを、熊野の鬱蒼とした笹の葉に埋もれた山中の道を、狂おしい気持ちを抱えてひとりさまよいたい。手負いの熊のように、鹿のように、悲慈利のように。

2006.1.4

 

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 年末頃、どこかへ向かう車の中で、子に旧約のヨナの話を聞かせた。鯨の腹に呑み込まれる予言者の話だ。家に帰ってから、子はさっそく二枚の絵を描いた。一枚は鯨の腹の中にいるヨナ。もう一枚は鯨の腹から地上に吐き出されたヨナ。ヨナは鯨の腹の中で神に祈る。水がかれをめぐって魂までおよぶ。ヨナに関して、大江健三郎の「宙返り」を評した宮内勝典のこんな文章がある。

 さて、今日から三日間の正月休み。ディランの歌う古い伝承歌を聴きながら、朝から洗濯をし、風呂を洗い、部屋を片づけて、昼から電車に乗ってYと子のいる和歌山へ行く。ほんとうにたいせつなものはすこしだけだ。富はこの地上に貯えられない。「清貧は永遠の富の担保、あるいは保証」 ことしもあの明恵の大盤石にのぼってしずかな冬の湯浅湾を眺めたい。

2006.1.6

 

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「お父さん、“カンポン”の匂いがする」 父の指先をもって子が言う。有田の国道沿いの青果店で見つけたポンカンを剥けば、てらてらとしたあの黒潮の海が爆ぜる。「煙草を吸うのも忙しなくてなあ」と特急待ちの田舎の駅のホームで、行商人風情の老婆が頬被りの下で欠けた前歯を見せて妖しく笑いかけてきた。10日ぶりに再会した子は車中でしばらく黙していた後、急に「お父さんがどんな人だったか思い出した」と言って、それからはべったりと甘えてきたのだった。夏には全国から虚無僧たちが集う由良の興国寺からの帰り、明恵の施無畏寺に近い海岸で子としばし遊んだ。夕陽を巻いた海上の雲がまるで超新星の煌めきのように神秘的で美しかった。二人で思い思いに岩礁を上り、わたしは流れ着いた檜の厚材を、子はいくつかの貝殻を拾った。

2006.1.9

 

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 いつであったか新聞でこんなソローの逸話を読んだ。ときは19世紀半ば、アメリカのマサチューセッツ州。奴隷制やメキシコ戦争への批判から人頭税の支払いを拒否していたソローは、保安官のサムから催促される。「困っているなら立て替えておこうか」とも言われるが、原理原則の問題だから、とそれを断る。「わしはどうすればいいんだ」と訊ねるサムに、「保安官をやめたらいい」と答えた。ソローは投獄された。

 

 今日は夕方に仕事を終え、ディランの Dixie を歌いながらバイクで帰ってきた。Yが子をヴァイオリン教室へ連れて行っている間、パスタと野菜スープの夕食をつくっておく。

 

 

ともこちゃんへ

ねんがじょう ありがとう おかあさんにも おとうさんにも よろしく しのより
あっ それからね おかあさんの おたんじょうび すみましたか おかあさん いそがしそうでしょう うちのおかあさんも たいへんです そっちは どうですか?
おとうさん おしごと たいへんでしょう

しのより

 

おかあさんへ

ごようじ たいへんですか
わたしも たいへんです
おかあさん そっちはどうですか

しのより

 

2006.1.10

 

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 幼稚園のバスを迎えに行く。帰り道、子は団地の道端で死んでいた鳩の話をしてくれる。血だらけの死骸を抱き上げ、植え込みの根元に横たえ、藁でおおってあげた。その墓の前にしゃがみ、子は拾った小枝で十字架をつくろうとしている。枯れ草を紐にして結わえるのを手伝い、地面に立てる。「お祈りをしてあげよう」と子が言い、黙って小さな手を合わせる。それから、どうして死んじゃったのか、大きな鳩に餌を横取りされたのか、お母さんに「さあ、行きますよ」と言われた瞬間に倒れてしまったのか、そんな話をしてやまない子の横顔をわたしはじっと眺める。お花を摘んできたかったけれど咲いていなかった。この鳩をシノの鳩にする、と子はしずかに言う。「でもこの鳩は死んじゃっているから、魂はもう天国へ行っているよ」 タマシイってなに? と子が訊く。ココロのこと? 「そうだね。神父さんの身体も棺桶の中に寝ていたけど、魂は天国の神さまのところへ行っていただろ。それとおなじだよ」

 

 お母さん、女の子のおしゃべりはよくないの? と子が訊ねたのは「赤毛のアン」に出てくるからだろう、とYは言う。母親はふと聖書の言葉を思い出して子に「じぶんの話は短くして、ひとの話をたくさん聞きなさいって神さまは言ってたよ」と答えたそうだ。子は神妙な顔で肯いた。そのYは今日は、最近行き始めた週に一度の教会での聖書の勉強会だった。持参したかつてわたしの父の蔵書だった旧約聖書を見た神父氏が、これはとても古い版で、わたしも好きな訳です、と言ってくれたそうだ。

 

 他愛ない夢を見た。職場のショッピングセンターのイベントで、わたしがバンドを連れて演奏することになったのだが、わたしはひどく緊張していて、うまくやれる自信が持てない。見知らぬ男がわたしに手渡したのは、むかしインドで親しくなったホテル・ボーイからの激励の手紙だった。わたしはアメイジング・グレイスのロック・バージョンから始めようと決めていた。

 

 夜、風呂場に入ってきた子がいきなり叫び出して面喰らう。「誰にも負けない シュのチカラ! 誰にも負けない シュのチカラ!」

 

 きはらさんの Born in Time の訳を見る。「自画自賛で申し訳ないが、この歌詞の日本語訳としては、世の中にあるどれよりも良いものが出来たと思う」とあるが、わたしもそう思う。触発されてわたしも久しぶりに Cold Irons Bound を訳してみた。こっちはたいした訳でもないが。

2006.1.12

 

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 午前。Yと車で子の入学予定候補の小学校を見に行く。こちらは電車通学になるのだが、父は危険はないのかと心配だ。車をパーキングに入れ、駅から大人の足で歩いて5分ほどの通学路を実際にたどってみる。「桜の樹がある学校は好きだな。季節感が味わえるから」 Yはそんなことを言っている。駅前で買い物をしてから、 Joni Mitchell の Hejira を聴きながら帰ってくる。昼食を済まし、夜勤に備えた昼寝をしてから夕方、Yが子のヴァイオリンの練習を見ている間にベランダでひとり机の材のホゾを挽く。誰でも何かをつくるべきだな。木工でも焼き物でも何でも、消費するだけでなく、日常で使うモノを人はじぶんでつくるべきだ。そういうところから何かが変わっていくはずだ。そんなことをノコを挽きながら思ったりする。練習を終えてやってきた子に机の進捗具合とアイヌ文様の意味を説明をする。わたしの持っているアイヌ刺繍の鉢巻を気に入って、写真を撮ってくれと言う。

2006.1.13

 

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 周囲と愉快な関係が持続している間は、笑い声の裏に、淋しい、こんなことはしていられないといった焦燥が絶えない。それで気分が沈鬱になって、みなから変人扱いにされ除者(のけもの)にされて、独り黙然と座っているとき、はじめて心の成長が意識される。しかしそれはまた何という別の淋しさであろう。

戦中派不戦日記・山田風太郎

 

 今日は仕事を終えて深夜にバイクを走らせながら、ヘルメットの中で「ジョンの魂」の全曲を歌いながら帰ってきた。

2006.1.14

 

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 ときおり駐車場に停めた車の中で毛布にくるまり寝ているという親子はさてはこの二人であるか。父親は40代くらい。日に焼けた浅黒い顔で、しかしくたびれた、朴訥とした面もち。そのかたわらで幼稚園生くらいの大人しそうな男の子が一人。二人して人気の絶えた通路のベンチに所在なく座っていた。深夜の0時半。映画館の閉店作業に来たわたしに、もう閉まりますか、とベンチから腰をあげ訊ねてきた。はい、もう映画館も終わりなので。閉まるときに誰か来るのでしょうか、と訊くので、ええ、あの、ぼくが閉めに来たんですけれど、と答えれば、じゃあ帰ります、ありがとう、とお辞儀をして男の子の手を引き駐車場の方へと出ていった。帰る場所がないのか、帰れない事情があるのか、あるいは言われぬ事情があって夜の果てを彷徨しているのか知らねども、父と幼き子二人だけの風景はどこかさみしく、こちらまでどうにも切なくなってしまう。

2006.1.15

 

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 Yの依頼で、幼稚園のN先生が教室でかけている子ども向けの賛美歌集のCDをわけてくれた。女子パウロ会で発行している「ありがとう かみさま」というCDで、秦万里子という人がプロデュースしている。ホゾ穴の調整やノミの刃研ぎを終えて炬燵で寝ころんでいたら、子がCDにあわせて歌い出した。炬燵の上で跳びはねたり、踊りをつけたり、棚に飾っているマリア像に手を合わせたりしながら歌っている。これまで家で歌っていた「イエスさまがいちばん」や「マリアさまのこころ」も入っている。「わたしをお使いください」は有名なマザー・テレサの祈りの言葉に曲をつけたものらしい。

 

主よ、きょう一日、
貧しい人や病んでいる人を助けるために
わたしの手をお望みでしたら
きょう、わたしのこの手をお使いください。

主よ、きょう一日、
友を欲しがる人々を訪れるために
わたしの足をお望みでしたら
きょう、わたしのこの足をお使いください。

主よ、きょう一日、
優しいことばに飢えている人々と
語り合うために、わたしの声をお望みでしたら
きょう、わたしのこの声をお使いください。

主よ、きょう一日、
人は人であるという理由だけで
どんな人でも愛するために、
わたしの心をお望みでしたら
きょう、わたしのこの心をお使いください。

主よ、わたしをお使いください・マザーテレサ

 

 Yはこの曲を聴いていつかの冬の日に、教会の募金活動に参加しようと思いたち子を誘ったのだ、と教えてくれた。ギロチン行きのわたしの心からはほど遠いが、こんなふうにYと子が美しい調べに耳を澄ませているしずかな午後の風景も悪くはない。

 

 アマゾンから宮内勝典の新刊「焼身」(集英社 @2100)が届いた。

2006.1.16

 

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 休日。ドアの新聞受けから朝刊を取り広げれば、一面は宮崎勤の死刑確定。幼稚園のバスまで子を送ってから、朝から机製作の続き。今月末の連休には完成させたい。ちょっと木のサイズを見てくる、と車でホームセンターへ出かける。頼まれたガソリンを入れ、ホームセンターの駐車場で古い車検証をシール剥がしとヘラを使って剥がして新しいものと貼り替える。店頭に列んだ檜材の寸法をいくつか書き留める。ノギスと、全方向へ掘り進めるスウェーデン製のドリルビットを購入する。三千円くらい。帰ってきて昼を食べ、Yは子をスイミング教室へ連れていく。

 

 オートバイ事故で十日くらい意識不明になった時、こん睡状態で、 臨死体験も、神秘体験もなかった。顔中、包帯をぐるぐる巻きにされて目をふさがれていたけれど、天井の灯りだけが ぼうっと見えた。あの灯りを意識している限り生きている、意識できなくなったら死ぬんだなと。それ以外に何もなかった。 死というのは案外そういうものかもしれない。

 だけど人間の営みが無意味かというと、そうは思わない。仏陀の精神がベトナムのお坊さんを通じて 生き返ったように、キリストの精神を生きている人もいて、中には本当に偉い人もいると思う。

 そのように人間の精神の営みには、きっと意味があるような気がする。たとえ個人の意識は消えても、 人間の営みの総体として残ると思う。それを仏教では「阿頼耶識(アラヤシキ)」と言うんじゃないかな。

 それは生命が発生してからずっと続いている海のようなもので、人類のアーカイブ、意識の貯蔵庫のようなもの だと思う。単に貯蔵するだけではなく、その意識の海からまた人びとが生まれてくる。クアン・ドゥックというお坊さんも、 仏陀もキリストも、ソクラテスもドストエフスキーも、その海を大きく豊かにしている人たちだと思う。 無意識の深いところからわれわれを動かしている海のような力がある。そういうものに向かっていきたいね、 次の小説は。

宮内勝典・中外日報インタビューから

 

 他の読みかけの本たちをいったん止めて、宮内勝典の「焼身」を読んでいる。この作家の作品を読むのはじつは久しぶりなのだが、やはり一字一句が、まるでじぶんの体液のようにすっと浸透してくる。小説、というより随想風の、いつになくプライベートな回想を散りばめた書きようは、個に沈潜した場所から語りたいと思った作家の覚悟だろう。作家は9.11の衝撃から「信じるに足る」ものを求めてベトナムへ、かつて世界に対する抗議の焼身自殺をした僧侶の足跡を辿る旅へ出る。9.11から「苛烈でありながら、蓮の花のようにも思える」思想へ。わたしにはその射程は正しいと思われる。なぜならわたしも、あのアフガニスタンへの虐殺が間断なく続いていた頃、次のような文章を記したからだ。

 

 以前は、そんな価値などあるだろうか、死んじまったらお終いだぜ、と冷ややかな目で眺めていた。ベトナム反戦を唱えて抗議の焼身自殺する僧侶や、爆弾を身体にまきつけて自爆するテロリストたちのことだ。あるいは憲法改正を主張して割腹自殺する哀れな作家のことだ。だが世界があからさまに歪んでいくこの状況にあって、そんな秘めたる死の決意、辺見庸の表現を借りれば「思想に自分の死を組み込むこと」に、もっと正面から向き合うべきではないかと私は考え始めている。そこまで己を追いつめて考えるべきではないか。自殺をするとか馬鹿げたことではなく、言ってみるならば、世界のありように向き合いながら己の死の深度を見据えるといった意味において。

ゴム消し20・2002.3.5の項)

 

 「世界をどう見るかで、ぼくたちが何者であるかが決まる」 思えばあの狂おしいタルコフスキーの映画「ノスタルジア」の主人公も、高い塔の上から路上を行く見知らぬ人々に呼びかけ、ガソリンをかぶり炎の中で果てたのだった。「なんという世界なんだ 恥を知れと 叫ばねばならないとは!」 こういうときだな。世界にじぶんとおなじ方角を向き、おなじ感覚を抱き始めている人がいることを知るとき、慰められる。

2006.1.18

 

*

 

 子は朝から38度の発熱で幼稚園を休む。聖書の勉強会のあるYに代わって病院へ連れて行く。待合室で絵本を3冊読む。インフルエンザのA型。薬をもらい、パジャマに着替えさせ、居間に移した布団に寝かせる。帰ってきたYと昼を済ませてから、しばらく聖書についての話をする。夜勤に備えて炬燵で昼寝。子は布団の中から、先日借りてきたアニメ版「小公女」のDVDを見ていた。夕食のおかゆも三杯お代わりした。眠い、と言ってまた布団にもぐり込む。

 

 作家が訪ねたベトナムのある寺でかれは burning service という語を聴く。焼身自殺ではなく、焼身供養である。法隆寺の玉虫厨子には飢えた虎の前にわが身を捨てるブッダの説話が描かれているが、それは他の生物を救うためだ。では、抗議のためにわが身を焼くとはどういうことか。あのとき、「坊主のバーベキューなんていらない」とせせら笑った権力者がいた。残されたモノクロ写真で、しかし燃えさかる炎の中でかれの蓮華座は微動だにしない。背筋はぴんと張り、目は前方を見据えている。これは狂気の沙汰か、哀れな道化か、それともひとの究極の精神なのか、激しく透徹に開いた蓮の花弁か。

2006.1.19

 

*

 

 南紀あたりの豊穣な陽光だ。海沿いのカーブ続きの坂道を、わたしはサイクリング車に乗ってひとり走っている。ブレーキの調子が悪い。どこかに止まって調整をしようと、舗装の切れた脇道へ入っていくと、曲がりくねった坂の中途にたくさんの朱や白や青や緑で着飾った女たちが溢れていて、それぞれお喋りをしたり、食事をこしらえたり、巨大な鯉のぼりのようなものを広げて縫いつけたりしている。わたしは邪魔をしたら悪いと思って元の道へ引き返す。今日は日曜日だから何かのお祭りなのだろうな、と思う。ペダルを漕ぎ出すと歌が聞こえ出す。スピーカーから流しているのだろう。沖縄調の、ゆったりとした、朗らかなメロディーだ。「世界のために 暮らしているよ」 そんな出だしで、最後はたしか「年々歳月 あの人にとどけ」 そんな文句だった。胸に沁みた。ああ、こんなところにひっそりと、桃源郷のような村がある。そんな気持ちで、うれしく、なぜか切ない。サイクリング車は海辺の坂道を滑るように下っていく。海面に光がきらきらと弾けている。

 

 子のインフルエンザに感染った。昼間の布団の中で、そんな夢を見た。

 

 

 **上記のわたしが夢で聴いたメロディをMP3ファイルで載せたところ、後日、掲示板でこんなやりとりがあったので、以下に転載しておく。

 

歌詞 投稿者:きはら 投稿日: 1月23日(月)21時47分54秒

青い月夜の ○○○○○○○
親を探して ○○○○○○○
すがたやさしく 色うつくし○
濡れたつばさの ○○○○○○○

○の部分が判らない。

 

浜千鳥 投稿者:ノラ 投稿日: 1月24日(火)10時03分30秒

>きはら様
鹿島鳴秋作詞の「浜千鳥」の歌詞でしたら

青い月夜の 浜辺には
親を探して 鳴く鳥が
波の国から 生れでる
濡れたつばさの 銀の色

 

浜千鳥 投稿者:まれびと 投稿日: 1月24日(火)14時33分24秒

うむ、元歌は是かも知れない...

http://www.geocities.jp/machi0822jp/hamachidori

 

そして、春の小川 投稿者:きはら 投稿日: 1月24日(火)22時38分29秒

>ノラ様
いや、そうじゃなくて、、、

サビは、春の小川の、拍子を変えた変奏です。

http://www.geocities.jp/machi0822jp/harunoogawa

 

>ノラ様 投稿者:まれびと 投稿日: 1月25日(水)11時22分35秒

えっと、わたしが「ゴム消し」に記した、夢で聴いた楽曲の解題でした。お騒がせしました。
たしかクラシックに「悪魔のトリル」だったか、夢の中で楽曲を授かった作曲家がいたように思ったが、何のことはない寄せ集めの合成酒で、やはりこちらは凡人だったか、とがっかりしました(^^)
童謡、というよりアレンジ的にはもうちょっと、ネーネーズや上々颱風みたいな感じでしたけどね。
しかし「浜千鳥」はわたしは確と記憶していなかったので、おそらくどこかで耳にしていたんだろうけど、そんなどこかに仕舞っていたものがひょいと出てきたりして、人間の無意識っていうのはやっぱり不思議だなあ。

 

懐かしいメロディー 投稿者:きはら 投稿日: 1月25日(水)21時47分32秒

どこかで聞いたような懐かしいメロディーだな、と思って、繰返して聞きながら一所懸命に思い出した結果、二つ、童謡が出てきた訳です。揶揄するつもりはなくて、ただ、面白いな、と。

僕は、中学生の時にアメリカン・ロックの洗礼を受けるまでは、スコットランド民謡なんかの、甘く、ちょっと切ない旋律が好きだったように思います。夢の中で歌を聞くような経験はまるで無くて、一度聞いてみたいものだけれど、さあ、何か一つでも出てくるかなあ。

 

クアン・ドック師 投稿者:ノラ 投稿日: 1月26日(木)07時43分21秒

>きはら様、まれびと様
早とちりしてしまいました、スミマセン。
掲示板が再開されて嬉しかったのと「浜千鳥」は詞もメロディも好きな曲なので、つい。

ちなみにネーネーズが唄う「ノーウーマン・ノークライ」好きです。
沖縄の音楽とレゲエは、どこか通じるものがあるのかな。

ティック・クアン・ドック師の焼身のシーンは、数年前にたしかNHKの「映像の世紀」という番組で映像で見ました。
周囲で必死で火を消そうとする人、ひざまずいて拝む人なども写っていました。
マダム・ヌーの“坊主のバーベキュー発言”のインタビュー映像もありました。
火だるまになりながら微動だにしなかったクアン・ドック師が、最後にはゆっくりと崩れ落ちるシーンを見て、強い衝撃を受けました。

 

焼身 投稿者:まれびと 投稿日: 1月26日(木)17時29分58秒

映像が残っているんですね。
宮内氏の小説の中では、当時、現場で8ミリビデオが回っていたという記述があり、また主人公が訪ねたあるベトナム僧侶が、昔イギリスの闇市でその画像を収録したテープを見つけ、大金を積んで買ったものの国へ配送するときにいつのまにか消えていたと語る場面があるのですが、それが実際に存在していて、しかも日本の公共放送で放映されていたとは驚きました。
いつか、見てみたい。

「浜千鳥」は愉しいやりとりでした。

毎度ありがとうございます 投稿者:31母ちゃん 投稿日: 2月10日(金)10時17分38秒

毎度ごひいきにありがとうございます。すずき産地です。
遅ればせながら、本年もよろしくお願いします。

掲示板が復活していたのですね。
今頃気づいたりして・・・(^^;
「浜千鳥」・・・いわゆる叙情歌。
良いものがたくさんありますよね。
久しぶりに雰囲気に浸りました。
皆さんのやりとりに感謝。

http://www.suzuki31.com/

2006.1.22

 

*

 

 早朝。奈良盆地の東。よく切れるペーパーナイフで切り取ったような青鈍(あおにび)の山岳のふちから韓紅花(からくれない)がぼうっと滲み出してくる。間もなくして一瞬、世界は真紅の炎に包まれる。それから森と静まりかえった、荘厳で、やわらかな浅葱色の空がいつの間にか拡がっている。自然はこんなにも麗しい儀式を幾万回もくり返しているのに、ひとの魂はなぜ更新されないのか。

 

 and I witnessed him sitting bravely and peacefully, enveloped in flames. He was completely still, while those of us around him were crying and prostrating ourselves on the sidewalk.

 クアン・ドゥック師は火に包まれながら、勇敢に、おだやかに、平和に坐っていました。泣き叫び、歩道にひれ伏す人びとに囲まれながら、完全に不動のままでした。

 

2006.1.24

 

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 深夜、炬燵の中で「焼身」を読了する。「法華経」をたずさえ、寝床へ。

2006.1.24

 

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 夕方。炬燵で家族三人、「忘れられた子供たち」(四ノ宮浩監督・1996)を見る。まだ若干風邪をひきずっている子と、どうやら風邪をひき始めたらしいYは、二人とも途中で眠ってしまったけれど、子の心の片隅には、何かちいさなカケラが残ったことだろう。メシを喰って、ゴミを拾って、テレビを見て寝る。別の意味でわたしたちもそうかも知れない。拾っているモノがゴミに見えないだけかも知れない。

 夜。子とYが眠ってからひとり、職場のKさんに借りた「ピアノ・ブルース」を見る。マーティン・スコセッシ監修の元、7人の監督がそれぞれの切り口でブルース・ミュージックを物語ったフィルム( THE BLUES MOVIE PROJECT ) のひとつ。捨てられた壊れたピアノからは多くを教えられたと話すドクター・ジョンの師匠プロフェッサー・ロングフェアを筆頭に、生唾モノの貴重なブルース・ピアニストたちのゾクゾクする演奏シーンが目白押しでとても正気を保っていられないほどだが、監督を務めたクリント・イーストウッドのインタビューはどうにも凡庸だし、最後に「神の恵みに守られた」偉大なアメリカを賛美する老いたレイ・チャールズを持ってこられたのにはチト興ざめだったね。スコセッシやヴィム・ヴェンダースのも見てみたいが。

2006.1.25

 

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 先週の火曜から4連休があったのだが、前半はわたしもまだ風邪から本調子でなく、後半はとうとうYがダウンして、わたしは予定していた職場の飲み会をキャンセルなどして子の世話や食事の支度などをして過ごした。昼に生姜をたっぷり利かせた雑炊をつくり、合間にYが寝ている部屋の反対側のベランダで机の製作にいそしんだ。

 机製作はいよいよ佳境に入っている。足組みはホゾ穴の微調整も含みだいたい完了して、あとは抽斗を収納する枠部分の加工。枠と足組みの双方にドリルで穴を開け、厚さ12ミリの板の側面を6ミリのダボで接着する予定だが、下部分は抽斗を滑らせる部分なので精密さが要求される。穴を開ける位置をミリ単位で部材上に書き込んでいく。カンナで微調整も必要だろう。上部分は天板と接合させる役割もあるが、天板に多少反りがあり、それを修正しなおかつダボの方向も合わせて組み方の順番、天板の固定方法も考えておかなくてはならないので頭が痛い。まだもうすこし時間がかかりそうだ。

 いまは寝ても覚めても頭ん中は机製作のことばかりだが(夢の中でも図面を引いている)、しかしモノづくりっていうのは愉しいやね。一枚の板、一本の丸太を、切ったり削ったりしてじぶんの思うような形に変えていく。ああでもない・こうでもないとその間にいろんなことを考える。考えてみたらむかしの人はじぶんでつくれるものは工夫して何でもつくっていたんだ。かつて訪ねた会津の民俗資料館の展示なんかもすべてそうだ。古い端切れをつなぎ合わせたチャンチャンコや、農作業のときに赤ん坊をいれておく箱、それに農作業のちょっとした道具も、みんなじぶんで改良したり工夫したりしてつくっていた。草鞋を編んだり、葛で籠をこしらえたりした。そうしたものにはどれも人の温もりがあった。生活の知恵があった。人が身のまわりのモノをつくらなくなったのはいつ頃からだろう。「ひとがつくったものには、ひとがこもる。だから、ものはひとの心を伝えます。/ ひとがつくったもので、ひとがこもらないものは、寒い」(藤原新也・メメントモリ) いまでは家の中は温もりのない寒いモノばかり氾濫している。エンデさんが、事物というのは人の内面も伝える、と言っていた。わたしたちをとり囲んでいるモノは、都市でも建築物でも家具ひとつでも、みなわたしたちの内面を表しているのだ。ホームセンターのネジで組み立てただけのテーブルや椅子や、百円均一ショップの皿や、量販店で買ってきたキャラクターものの子どものおもちゃの、ひとつひとつがわたしたち自身の魂の現身だ。どうだい?

 朝、子どもを幼稚園のバスまで送っていく。階段の途中で長靴がなんども脱げる。左足が右足よりやや大きいので履くときにキツイと言うので大きめのに変えたのだが、神経の麻痺した左は足首のスナップが効かないのでするりと脱げてしまうのだ。「Mちゃんはね、さいきんちょっとイジワルなんだよ」 「なんで?」 「わたしが先生にオシッコを取ってもらっているのを、ほんとうは知らないのに“知ってる”って言うの」 「先生から聞いて、みんな知ってるんじゃないの?」 「ううん、先生はみんなには言わないもん」 「シノはみんなに知られたくないんか?」 「うん」 「どうして?」 「...だって、かっこわるいもん」子はそう言って黙り込む。「かっこわるいか? 病気でない子がオシッコ取ってもらってたらかっこわるいけどさ、シノは手術もリハビリも頑張っているのに、おしっこやウンチを取ってもらうのをお父さんはかっこわるいとは思わないな」 子は俯いたまま何も答えない。「バスが待ってるから、あとでまた話をしよう」と打ち切り、二人で歩き続ける。バスのステップでまた長靴が片方ぽろりと落ちる。「あらあら、サイズが合ってないんだわ」よそのお母さんが何気なく言う。そうじゃないんだよ、事情があるんだよ。なぜか苛立って腹の中で舌打ちしている。

 与那国へ行って来た職場のKさんから頂いた島とうがらしの種を蒔いた。

 

会津民俗館 http://www8.ocn.ne.jp/~afm1/index.html

2006.1.31

 

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 まだまだ我があるなあ、と思う。それも曲がりくねった老木のこぶのようにしたたかなのが。そいつがやがては滑り落ちる斜面に必死でしがみつき威張り腐っている。ちいさな羽虫がかすめたのを、まるでナタでぶった斬られたような大騒ぎをして、顔を火の粉のようにまっ赤にして憤っている。全身をぎしぎしと顫わせてひとり泡を吹いている。こいつはどうにもちんまい糞ころがしだ。おのれの大量すぎる糞にじつにユーモラスな悲鳴をあげている。

2006.2.1

 

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 先週の木曜のことだ。わが家で共同購入している生協(市民生活協同組合ならコープ)に、Yが牛乳に関する問い合わせの電話をした。飼育肥料の遺伝子組み替え作物使用の有無についてである。「今日はもう夕方で担当者がいないので明日、連絡をします」とのことで翌日の晩、担当の配達ドライバー氏から電話がきて「うちでは“遺伝子組み替えの牛”は使っていません」って、いやこれは冗談みたいなオマケ話だけれど(“遺伝子組み替えの牛”を使ってたらコワイだろ)、いったいどうなってんの? とこんどはわたしが直接電話でオペレーターのおばちゃんに質して、結局、返答の出来る担当者が出張で出ているとか何とかで月曜の晩にやっとその担当氏から電話を頂いたんだが、担当氏の説明は「ご質問の牛乳に関して調べたら、全部で6箇所の生産者のうち1箇所だけ“トウモロコシについては遺伝子組み替えは使用していない”との申告があり、他の5箇所は不明だが、私どもとしては安全性は保たれていると考えている。また他の牛乳製品、それに卵や鶏肉等に関しては、今回のご質問の範疇でないと思ったので調べていないが、ご希望であればこちらも調べて返答する」というものであった。おいおい、大丈夫なんかよ、生協さん。わたしは直接電話には出なかったのだけど、「詳細が不明」なのに何で「安全性が保たれている」と判断できるの? おたくのHPで謳っている「安心・安全・信頼の基本理念」って、その程度のものなんかい。「生協っていうのは、ふつうのスーパーよりはそうした安全性に気を配っていると加入のときの説明でも聞いたし、そんなイメージを持っていたけど...」と、今回の件でYも怪訝そうである。その後、もういちど担当氏より電話を頂き、説明を受けた。要約すれば、飼育肥料に関しては直接口に入るモノではないので、人体に影響はない(少ない?)と考え、遺伝子組み替え作物の使用非使用は把握していない。飼育肥料まで管理することはコストがかかり過ぎ現状では難しい、どうかご理解を頂きたい、というものである。把握をしていない理由について一方で「人体への影響はない」と言い、一方で「コスト面で難しい」と言い、はなはだ矛盾しているわけだけれど、あとはこちら側の判断ということだろう。奈良県内では他にこの市民生活協同組合ならコープから分派したらしいコープ自然派奈良と「ウィル・コープなら」(0745-75-6545)という生協があって、こちらの食材はもうすこし安全基準のハードルが高い(たとえば牛乳でもnon-GMOという遺伝子組み替え非使用表示の商品を扱っている)。もちろんその分、値段もいいわけだが、現在Yはこれらの生協の資料も取り寄せ近所のお母さんたちと共同購入を比較・検討している。

 ところで今回の件でいろいろ調べていたら 市民団体「遺伝子組み換え食品いらない!キャンペーン」事務局長などを歴任した安田節子氏のこんなサイトや、シュタイナーと食と育児のこんなブログを見つけた。参考まで。

 

市民生活協同組合ならコープ http://www.naracoop.or.jp/index.html

コープ自然派奈良 http://aea.to/shizenha-nara/

遺伝子組み換え食品いらない!キャンペーン http://www.no-gmo.org/

安田節子ドットコム http://www.yasudasetsuko.com/index.html

のんびり自然育児・・ 絵本と木のおもちゃとシュタイナー・・ http://sayah-yuzu.seesaa.net/category/209525.html

 

 

 もうひとつ。近所でわが家もよく買い物に行く某ショッピング・センターで昨年、幼児に対する暴行事件があったらしい。6歳の女の子が男にトイレに連れ込まれ、性器から出血するほどの暴力を受けた。その前にも未遂事件がいちどあったらしく、現在も犯人は捕まっていない。これはわたしの職場を通じて知った情報で、本来であれば守秘義務というものがあるのだけれど、Yが訊いたところ幼稚園のよそのお母さんも知っていた話なのでこのくらいなら記してもいいだろうと思う。奈良県には現在、県教育委員会のサイトが載せている不審者情報や、県警察のサイトが載せている不審者情報マップ子どもに不安を与える事案といった情報ページがあるのだが、この事件に関しては何も記述がない。またわたしがネット検索した限りだが、報道記事の類も一切見つけられなかった。考えるに、店側はイメージ・ダウンを恐れて隠そうとするだろうし(じっさい、前述のお母さんの家ではその店に行かなくなった)、被害者側がもうそっとしておいて欲しいということで(泣き寝入りの強姦事件のように)被害届を出さなければ警察は動けない部分もあるのかも知れず、報道側にしても殺人ならともかく軽傷では紙面を割くまでには至らないのかも知れず、また被害者の心情やプライベートを考慮するといろいろと難しい部分があるのかも知れない。しかしだね、ちょっと声をかけられたとか、おっさんがチンチンをひろげたとかいう事案はたくさん載っていて、女児が強姦された事件が載っていない不審者情報ってどれだけの価値があるのか、わたしは首を傾げてしまうんだな。子供の安全対策のための情報ったってまるっきり骨抜きなわけで、住民は近くでそんな事件が起きても何も知らされない。そのへん、どうにかならないのか。

 

奈良県教育委員会 http://www.pref.nara.jp/kyoiku/ > 不審者情報 http://www.nara-c.ed.jp/seishi/hushinsha-joho01.htm

奈良県警察 http://www.police.pref.nara.jp/ > 不審者情報マップ http://www.police.pref.nara.jp/fusinshamap2/fusinshamap.htm・子どもに不安を与える事案 http://www.police.pref.nara.jp/fusinshamap/kodomo-fuan-jian.htm

2006.2.2

 

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 木曜。休日。午前中、Yは聖書の勉強会で、みなが使っている共同訳の新しい聖書を購入した。わたしは行きつけのホームセンターで、スコヤ(直角定規)と墨壷を購入した。墨壷はけっこう使い方が難しそうだ。

 夕方、幼稚園から帰ってきた子を連れて、職場のYくん宅へYくんが不要になったWindowsマシンと外付けのDVDドライブ、キーボード、コードレス・マウス、USBハブ、14インチ・モニタ、スピーカーの一式をもらってきた。「不要になった」といってもPCおたくのYくんが自前で組み立てたもので、CPUはわがMacの倍以上、メモリは数倍、ハードディスクは10倍くらい、それにゲーム好きのYくんが選んだ強力なビデオ・カードを備えたスグレモノである。これにわが家が出費・依頼してビデオ・キャプチャー・ボードを搭載してもらった。つまりPCでテレビを受信・録画でき、デジタル・ビデオ・カメラの動画などをDVDに焼くことが可能になる。要はこいつを居間に置いてブラウン管テレビをなくしてしまおうという目論見である。わがMacはDVD機能もそれに充分な処理能力もなかったのでその代用にもなる。インターネット、スキャナ、プリンタはMacに接続しているが、USBでファイルのやりとりは出来る。加えて専用のラックも作らなくてはならなくなったわけだが。Yくん宅近くの洒落た居酒屋で夕飯をお礼に奢った。子はYくんがすっかり気に入って、父親よりもYくんの隣の席に座る始末である。

 網野善彦「蒙古襲来」(小学館文庫)と岩田準一「志摩の海女」を読了。長田弘「詩は友人を数える方法」(講談社)を読み始める。

2006.2.3

 

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 (伝え聞いた)幼稚園での会話。

 子「マザー・テレサって、知ってる?」
 Mちゃん「え?」
 子「みんなのお世話をするひとだよ」
 Mちゃん「ああ、知ってる、知ってる!」

2006.2.5

 

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「あの木たちが、天にむかって、どんなふうにのびているか、見てごらん」と、おじいちゃんは言いました。
「のびて、のびて、雲やお月さまや、お星さまにまで届きそうに、のびているよね。
 でも、天国までは届かないんだ。天国に届くのは、お祈りだけなんだよ」
 

ダグラス・ウッド「おじいちゃんと森へ」(平凡社)

 

 森を散歩しながら、お祈りについて訊かれたおじいちゃんが幼い“ぼく”におしえる。おじいちゃんが死んで、青年になった“ぼく”はもういちど森を訪ねる。Yが図書館で借りてきたこんな本を、寝床で子に読み聞かせた。C.W.ニコルさんがあとがきを寄せている。とても美しい一冊。

 その前の晩に、わたしはアメリカの田舎町を経巡るある詩人の本のなかで偶然、こんな一節を読んでいた。

 

 詩とはどんなものかということを、子どものとき、先生が教えてくれたと、いつか若いアメリカの詩人が書いていたのを覚えている。その詩の定義ほど、北アメリカの詩の秘密を簡潔に語るものはないとおもう。先生はそのとき、まだ詩がどんなものか知らなかった未来の詩人に、第一次大戦で戦死したなにより森を愛した一人の詩人の言葉を引いて、こういったのだ-----詩は私のような愚か者によってつくられる、木をつくれるのは神だけれども。

長田弘「詩は友人を数える方法」(講談社)

 

 子の本とわたしの本。奇妙にリンクしている。

2006.2.6

 

*

 

 相変わらず、寸暇を惜しんで机の製作。いよいよ佳境だ。抽斗のレール部分(枠)をダボ穴で接着し、クランプで固定する。抽斗が滑る繊細な部分だからなるべく誤差が少ないようにと、どこもかしこもクランプだらけだ。新たに120センチの長尺のクランプ(@2千円)も2本、購入した。数が要るから百円均一ショップのクランプも役立つ。木工ボンドがつくので古新聞をひろげて床に敷く。先日の日曜版だ。最近はゆっくり新聞を読む間もないな。真ん中の半分の紙面がひらりと落ちたので、ふいと拾い、畳んで食器棚の上に置いた。作業を終え、汚れた古新聞を押し入れにしまい、換気扇の下で一服しているとき、何気なく「ゴータマ・ブッダ」という文字が目に飛び込んできた。さっき拾いのけた半分の紙面だ。日曜の書評欄の一部。初期の仏典から韻文、散文、語形の変化などを手がかりに徹底的な批判を加え「最古層以前の“歴史的ブッダ”」の姿を洗い出した一冊、という。並川孝儀「ゴータマ・ブッダ考」(大蔵出版・@2940)。この本がわたしに読めと言っている。

2006.2.8

 

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 連休。東京から友人のAが泊まりに来ている。夕食にみなで餃子をつくり、友人はいま子と風呂に入っている(子のリクエストで)。明日は車で友人とわたしと子と三人、わたしの職場のK氏宅へ遊びに行き、近くの千早赤坂城址(楠正成の山城)など登ってくる予定。

2006.2.10

 

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 土曜。子を連れて、東京からきた友人のAと車で職場のKさん宅へ伺う。二上山の麓、竹ノ内街道を越えて、聖徳太子の墓の前を過ぎて。Kさんが鶏飯(けいはん)という沖縄料理を昼食に馳走してくれる。江戸時代の頃に薩摩藩の役人を振る舞うために考え出された料理だという。鶏ガラを4時間煮出して漉し、塩と味醂と醤油で整えたスープを、ご飯の上に椎茸・玉子焼き・鶏のササミを乗せた丼にかけて食べる。午後からみなで千早赤坂城址を見にいく。小さな村営の郷土資料館を覗いてから、赤坂城へ登る。尾根筋の、狭い切り通しの径。頂上の本丸址でKさんが子に、倒木の中からクワガタの幼虫を見つけてくれる。それから、どんぐりをぶつけたり、カクレンボをしたりして遊ぶ。悪党と呼ばれた正成一党はわずか数百人、ここで鎌倉の幕府軍数万騎を相手に戦った。ときに煮えたぎった糞尿を浴びせたりして、最後は城に火を放ち自害と見せかけて尾根筋をさらに奥へ、金剛山へさっさとトンズラした。まさに「何でもあり」のゲリラ戦法で、形式を嘲笑うようなその自由闊達さが小気味よい。翌日、昼にAを「いごっそう」へ案内し、西大寺駅へ送り届けるがてら平城宮の遺構館などに立ち寄る。帰ってから子と二人で、ペットボトルにホームセンターで買ってきたおがくずを詰めてクワガタの幼虫を入れてやる。幼虫はしばらくごそごそと動き回っていたが、やがて穴を掘って身をひそめた。二日間、はしゃぎすぎたか山で寒かったか、明けて今日、子は熱を出して幼稚園を休んだ。

 

 

 25時間勤務明けに、風呂の中でひとりこんなアメリカの詩をよむ。おがくずに埋もれた蛹のように、わたしはその詩のことばをひっそりと噛みしめる。

 

ここに愚かさがある。愚かさはランプのようなものだ。
それで言葉が集まってきたのだ、二本の松のあいだから
古い家のそばに、夢とおなじように、

煮つまった心の問題が、不意に
口をつくのだ。

それが何を意味するのか、知らない。私は問う。
だから、愚かさを、正しく差しださなくてはいけない。
すこしも明確でなく選り抜かれたのでもない言い草が
他の人にぴたりとくるなどということが
あるかどうか、私は問う。

あるいは、ただ形式にたよる。それも
別のやりかただが、それは断じて
心にはたらきかける事態をつくりだすことではない。
言葉は、愛ではない。

言葉を愛することは、言葉を欺すことでありうるのだ。
私はなおもいいたい。ここに愚かさがある。
受け入れるべきは、愚かさだ。
愚かさを、人は活用すべきだ。
愛は愚かさだ。愚かさが愛をもとめる。愚かさは
意味の方向に逆らう。愚かさはランプのようなものだ。

チャールズ・オルソン「新しい詩」(長田弘訳)

 

2006.2.13

 

*

 

 雨が降っている。雨は皮膚の内側に心地よい粘り気をもってまとわりつく。鼻腔の奥に湿った、さまざまなものの匂いが沈殿する。雨の中で出逢ったものたちの体臭だ。部屋の窓から眺めた雨。列車の窓から眺めた雨。バイクのヘルメット越しに眺めた雨。ひろげた傘の下で眺めた雨。びしょ濡れになって全身で浴びた雨。山小屋でじっと耳をすましていた雨。夜の田舎のバス停で闇に溶けていた雨。部屋の中でふたり、目を閉ざして聞いていた雨。雨が降ると、土や草が匂い立つ。とくに春先はそうだ。噎せるような匂いの中で、奇妙に胸がざわめく。雨の少ない土地に住む義父母が、雨が降らないと畑が困ると言うから、子は雨が降るといつも、よかったねえ、畑がうれしがるねえ、と喜ぶ。傘を持ってくるくるとまわる。朝、団地の街路樹の枝々がシャンデリアのように光っているのを見つけて、あれはなに、クリスマス・ツリーみたいにきれいなのはと悲鳴をあげる。雨が降ると街もこじんまりとして見える。だれもがどこかでひっそりと息づいている。たがいの温もりを確かめ合う。人にはこんなサイズがいいのだと思えてくる。

 深夜、Bob Dylan の Sign on the cross を聴きながら。

2006.2.15

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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