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 私は死ぬまえに、私のなかにあって、私がまだ言ったことがない本質的なこと-------愛、憎しみ、同情、あるいは軽蔑ではなくて、非人間的なものの巨大さと恐ろしい非熱情的な力を人間の生活にもたらす、遠くからやってくる、荒々しい、他ならぬ生の息吹------を語るなんらかの方法を見つけなければならない。

バートランド・ラッセル

 

 古代アイルランドの「夢や妖精と英雄と超自然的存在の夢の世界」を謳い続けたイェイツは晩年に、それらを“代理の現実”として自嘲するようになる。晩年の詩「サーカスの生き物の逃走」のなかで、かれは自らの想像力を現実逃避のための梯子になぞらえて、次のようにうたっている。

じぶんの梯子がなくなったからには、
梯子という梯子がみな立っていても、このわたしは、
その場に這いつくばっているほかはない。
心という悪臭のする屑屋の店で。

 

 結局のところイェイツは、みずからの内なる体験をついに心の奥底から信じることができなかった。しかしユングは違う。この、最後まで己の科学者としての立場と葛藤をつづけた孤独な思索家は、晩年になるにつれてますますその“内なる真理”の確信を、深くしずかに強めていった。かれは記している。

 

 われわれは、自分自身で夢や霊感をつくらないことを知っている。それとおなじように、われわれは、未知で、異質ななにかがわが身に起こることを知っている。

カール・G・ユング

 

 68歳のとき、ユングは「はげしい心臓発作に襲われ」「病院で酸素とカンフル注射で生き続け」、一種の臨死体験を経験した。

 

 この状態でユングは、生と死の間をさまよった人々によってしばしば述べられてきた幻影のようなものを経験したらしい。その第一は、約千マイルの上空から見られ、青い光に侵された海と陸地のある地球の幻影だった。かれは、赤味を帯びた黄色のアラビアの砂漠や雪でおおわれたヒマラヤ山脈を見分けることができた。つぎにそのそばに、かれは隕石のような巨大な石の塊を見た。しかしそれは、かれがインドで見たことがある、ある寺院のようにくり抜かれていた。その入り口の近くに、一人のヒンズー教徒が結跏趺坐の姿勢で坐っていた。ユングはこう言っている。近づくにつれて、「私は、あらゆるものがはがされて行くかのような感じがした。私が目指したか、欲したか、あるいは考えたあらゆるものや、走馬灯のような地上のすべての光景が、消え去るか、私からはぎとれられて行った。それはこの上ない苦痛な過程だった」。そのヒンズー教徒によって、灯心が一杯ともっている寺院の内部に案内されたとき、「私の真の仲間であるすべての人々」にまさに会おうとしているのだという確信と、じぶんの生命の意義とじぶんがこの世に送られてきた理由が突然分かるだろうという確信をもった。

「ユング 地下の大王」(コリン・ウィルソン・河出文庫)

 

2003.8.29

 

*

 

 早朝、つれあいが突然倒れた。右半身の自由がきかず、舌もろれつが回らず、私の名前さえ思い浮かばない状態で、まだ寝ていた私の枕元へ必死で這ってきた。急いでチビを起こして支度をさせ、会社に連絡を入れ、おぶって車まで運び市内の病院へ走った。CTスキャンをとったが異常は見られず、脳内の血流を促進する点滴を打ち、念のため一週間ほど入院をして週明けにあらためてMRI等の詳しい検査を行うこととなった。脳外科の医師の話では症状からみて血栓症の可能性がいちばん考えられるが、という。現在は症状もだいぶ回復して、話しもふつうにでき、両腕も通常程度に動かせるようになったが、歩行がまだ多少おぼつかないらしい(右足の感覚の麻痺が若干続いている)。夜にチビを連れて見に行ったときには、ベッドで図書館で借りた本を読んでいた。

 明日からまた仕事なので、和歌山の義母に急遽きてもらった。チビは彼女なりに不安なのだろう。いつものようにおぱあちゃんと風呂に入り、テレビでターザンのアニメを熱心に見て、それからおぱあちゃんといっしょに寝ると居間に敷いた義母の布団に入ったのだが、しばらくして「お父さんのところで寝る」とひとり寝室にやってきて、私の横でじきにすやすやと寝入ってしまった。

2003.8.30

 

*

 

 夜、仕事帰りに病院へ寄った。つれあいは足の感覚はだいぶまともに戻ってきたという。ただ昨夜は手の痺れで何度か目が覚めた。夕方、脳外科の医師が来て、脳梗塞であるならふつう少しづつ病状も進むのだが、つれあいの場合は波があるのでそれには当たらないかも知れない、とか。MRIは明日の昼頃に撮ることになった。今日も血流を促進する点滴を打ってもらったら、ここ数日ひどかった肩こりがすっかりよくなった。明日は新聞のおまけで付けて貰っている英字新聞を持ってきてくれ、と言う。

 今日は昼頃に、和歌山からつれあいの妹さん夫婦が車で見舞いに来てくれた。JRの駅前まで出て、偶然に通りかかった豆パン屋アポロでパンを買ってきてくれたらしい。

 チビの昼間の名言。「おばあちゃん。ずっとこのお家にいてね」と言ってから、「お父さんが帰ってきたら、帰っていいよ」。

 

 実家の母からの電話で思い出した。今日は父の17回忌だった。

2003.8.31

 

*

 

 月曜。仕事帰りに病院へ寄り、医師から検査の結果を聞いた。脳内と頸部の詳細かつ膨大なMRI画像、レントゲン、心電図、脳波などの検査の結果、何も異常は見当たらなかったという。脳内出血も脳梗塞の兆しもなく、血管も神経も(見た限りでは)みなきれいな状態である。脳波も異常はない。最後まで残っていた片足の違和感も睡眠中の手の痺れもなくなりすっかり元の健康な状態に戻ったので、医師は、木曜に念のためにと脊髄のMRI検査を予定していたがそれは外来でも済ませられるので、よかったら今夜にも退院してもらっても構わないと言う。何が原因であったのかは分からないが、とりあえず最も心配していた脳梗塞や脳内の出血は見当たらず、現状では病状の進行/再発の可能性も低いようなので、これ以上の入院の必要はないと判断したらしい。何らかの原因で一時的に血の巡りが悪くなって引き起こされたものかも知れないが、もしもういちど起きるようなことがあったらそのときはさらに念入りに調べることにして、今回はとりあえず退院してもらってしばらく様子を見ましょう、とのことであった。そんなわけでなかば狐に包まれた気もしなくはないが、医師の説明も(原因の特定は別として)それなりに納得のいくもので、何よりつれあいがぴんぴんとしているので、急いで車を取ってきて、慌ただしく手続き等を済まし、退院の運びとなった。火曜は退院祝いだと、義父母が近くの海鮮料理の店で夕飯の膳を用意してくれた。念のためもうしばらく義母にいてもらって、つれあいには休養をとらせることにした。

 月曜から三日間、京都の競輪場での仕事だった。交通費を浮かせるために毎朝6時に起きて、1時間半の道のりをバイクで通った。競馬も競輪もしたことのない私には、まあ何というかある種の別世界だね。紙屑や痰や唾が散らばり放題の場内で、酒臭いおっちゃんたちに便所や両替の場所を教えたり、儲けた札束を見せつけられたり腹いせに悪態をつかれたり、もめ事に首を突っ込んだり、即席で覚えた二枠復だの三連単だのボックスだのといった投票券の書き方を説明したり、面白いことはそれなりに面白いのだが、なんだか心が殺伐としてくるような感じもする。客として行ったなら、たぶん嫌な場所でもないんだろうけれども。

 今日は帰ってきたら東京の友人から、Dylanの最新盤「Masked and Anonymous」のサントラと、「不世出の歌人・嘉手苅林晶のカディカル節の絶唱を捉えた貴重音源」CD3枚組の「Before/After」が届いていた。

 明日はつれあいはふたたびMRIの検査。私はチビを連れて朝から大阪の病院へ、半年に一度の整形外科のレントゲン検査と脳外科にてリハビリ再開の相談などをしてくる。

 最後に今回のつれあいの入院に際して寄せられた、少なくはない真摯な言葉の数々にこの場を借りて感謝と御礼を。

2003.9.3

 

*

 

 チビと二人で電車で大阪の病院。整形外科にて両脚のレントゲンを撮り、半年に一度の診察。左右のバランスがよく、体重がきれいに乗るようになってきた。これからどんどん足が大きくなってくる。骨の成長が安定するまでに「骨成の変化」をいかに最小限でとめられるか。体重が増すに従ってもう少し頑丈な金属製の装具の使用が必要となり、その後、小学校をあがる頃に筋肉を入れ換える手術をしてその結果、装具なしでどこまで歩行ができるようになるか。歩行時に腰が振れるのはお尻の筋肉が弱いためで、プールのばた足などは効果的。山道でも平坦でも階段でも歩かせるのは、本人が希望する限りどんどんやらせたらよい。三輪車などのペダル運動は足の滑らかな動きを養うのに最適で、ペダルの上に滑り止めのマットなどを貼ったらよい。全体的に順調に来ている、との話であった。ついで脳外科を経てリハビリ科のI先生とリハビリ再開についての相談。前回は最終回を残して担当のM医師より「本人にやる気がない」と言われて中止になってしまったわけだが、I先生いわく、チビの場合はとりあえず歩行という最低限のラインは達成できているので、あとはそれを如何に滑らかにできるか等といった上のレベルの問題であり、それはある程度本人が必要と思わなければ「やる気」も起きないのではないか。弱い筋肉の部分を補強するのは後になっても可能である。変形の矯正に関しては装具と家庭でのマッサージ等で充分に賄えるので、今回はとりあえず再開してみるが、万が一途中で中止になってもガッカリすることはない、との意見であった。ちなみにI先生もチビの歩行を見て、以前に比べたらだいぶ歩き方も安定してきた、と言ってくれた。リハビリ室の受付のSさんに「シノちゃんのお父さんって椎名桔平に似てますね。声までそっくり」などと世辞(?)を言われたが、まあそんなことはどうでもよろし。朝8時の電車に乗って、帰ってきたのは4時頃であった。手術のときに同室だったKくん母子に会った。当時赤ちゃんだったKくんもすっかり男の子らしくなっていた。

 つれあいは至って元気である。じぶんなりに今回のことを身体を見つめ直すよい機会にしようと思ったらしく、とりあえず水分の摂取や早朝散歩などの日課を始めている。MRIの検査予定は医師の勘違いで、今日ではなく明日であったようだ。

 

 深夜、酔っぱらった某悪友より電話。じぶんが感じているイタイ部分を他人から言われることほど嫌なものはないが、友人の有り難さというものはそういうものかも知れないとも思う。読経のようなジェリー・ガルシアの Senor を聴いている。

2003.9.4

 

*

 

 

 洪水が血に変わる幻影を見た直後、ユングはあがくのを止め、空想に完全に身を委ねようという重大な決意をした。かれはこう書いている。1913年12月に、じぶんは怖れについて考えながら------すなわち、ペシミズムとパニックの高まる潮に抵抗しながら------机に向かって坐っていた。「それから、私はうとうとした。突然地面が私の足元で文字通り崩れ落ちたかのようだった。そして私は暗黒の深みに落ちた。私はパニックをおさえることができなかった。しかしその後、突然あまり深くはないところで、やわらかく、ねばねばする塊の上に足がついた。私は完全な暗闇の中にいたとはいえ、大いにほっとした。しばらくしてから、私の目は暗闇に慣れた。しかしこの暗闇は、どちらかというと、濃い薄明かりのようであった」。かれは、じぶんが洞窟の入口に面していることを知った。洞窟の入口では、革のような皮膚の小人が番をしていた。かれは冷たい水をはねかしながら、洞窟の遠い端まで進んだ。ここには輝いている赤い水晶が見えた。かれはそれを持ち上げた。するとその下に、空洞があるのを発見した。そこには水が流れていた。頭に傷のある金髪の若者の死体が浮いていた。この後に、巨大な黒いコガネ虫-----再生の象徴-----が流れてき、その次に新しく生まれた赤い太陽が水のなかから昇ってきた。かれが石を元にもどそうとすると、血が入口からほとばしり出た。

 6日後、ユングは別の「夢」を見た。かれは褐色の皮膚をした未開人と一緒に、山の多い田舎に行った。二人はライフルをもって待ち伏せをした。ジークフリートが人骨の戦車を駆って山頂にあらわれた。二人はかれを狙った。かれは落ちて死んだ。ユングは英雄を殺したために、深い後悔の念をもった。それから土砂降りの雨が降り始め、血を洗い流した。

 ユングは目が覚めてすぐに、その夢を理解するのがきわめて重要だと思った。心のなかの声は、「もしおまえがそれを理解できないなら、おまえはじぶん自身を撃たねばならない」とかれに告げた。引き出しのなかには弾丸を込めたピストルが入っていた。

 

 私はひとりベランダに出て煙草をくゆらせている。網戸の向こう側、台所の奥の居間につれあいと義母とチビの三人がいて、なにかのんびりと談笑をしているのだが、それがひどく遠い景色のように感じている。かれらはとてもまっとうで健やかでふつうの心を持っているのに、この私だけが何か大きな欠損があるか、あるいは拭いがたい余計なマイナス因子を抱えた白子なのだという奇妙な確信。

 

 「これらの空想を理解するために、私はしばしば急勾配の下降を想像した。私は底の底まで行く試みを数回したことさえある。初回には私は、あたかも約千フィートの深いところに達したかのようであった。その次の回には、私は宇宙の深淵の端にいた。それは月への旅行のようであるか、あるいは空虚な空間のなかを下降して行くようであった。まず月面のクレーターのイメージがあらわれ、私は死者の国にいる感じがした。その雰囲気は、なにか他の世界の雰囲気だった。ひとつの岩のけわしい斜面の近くで、私は二つの人影をとらえた。それは、白いひげの老人と美しい少女だった。私はかれらが現実の人間だと思ったので、勇気を奮い起こしてかれらに近づき、かれらが私に話すことに耳を傾けた。老人はじぶんはエリヤ[イスラエルの予言者]だと説明した。これは私に、ショックを与えた。しかし少女は私をさらにびっくりさせた。というのは、彼女はじぶんはサロメ[母にそそのかされてヨハネの首を王に所望した女性]と名のったからだ ! 彼女は盲目だった。サロメとエリヤ、なんという奇妙なカップルだろうか。しかしエリヤは、じぶんとサロメは永遠に一緒にいるのだと私に断言したので、私はまったく肝をつぶしてしまった。かれらは一匹の黒いヘビと一緒に暮らしていた」

以上「ユング 地下の大王」(コリン・ウィルソン・河出文庫) *「」内はユング自身のことば

 

 チビがベランダにいる私を見つけてやってきて網戸越しに「おとうさん、だっこ」と言う。私は、もう一人の狂った私がふいと彼女をベランダから放り落とすのではないかという恐怖にびくつきながら、チビを抱え上げて、きつく抱きしめる。

2003.9.5

 

*

 

 

霊の世界は閉ざされていない。
汝の耳目がふさがれ、汝の心が死んでいるのだ。

ゲーテ・ファウスト第一部

 

 私の空想のなかのフィレモン(老賢者)と他の像は、つぎの決定的な洞察を私に与えた。すなわち、心のなかには、私が作らなくて、じぶんたち自身で生まれ、じぶんたち自身の生命をもっているものがあるという洞察である。フィレモンは私自身のものでないひとつの力を示していた。私は空想のなかで、かれと会話をかわした。そしてかれは、私が意識では思ってもみなかったことを言った。というのは、しゃべっているのは私ではなく、フィレモンであることをはっきりと観察したからである。かれは言った。「あなたはあなた自身が思想を生み出したかのようにそれを扱っていますが、私の考えによると、思想は森の中の動物のようなものです」

ユング

 

わたしが裸になり跪く前のことで覚えているのは
汽車いっぱいの愚か者が磁場にはまりこんでいたこと
そして破れた旗を持ち きらめく指輪をしたジプシーがこう言った
「いいかい、これはもう夢ではない ほんとうのことだ」

Bob Dylan・Senor (Tales Of Yankee Power) 1978

 

 

 暗い大きな影のような彫像に向かって私は、他の誰も知らない私の証文を静かに読みあげる。

2003.9.6

 

*

 

 真昼の住宅展示場。抜けるような夏の青空。デコレーション・ケーキのような明るいのっぺらとした家々が建ち並び、その軒先を幸福そうな家族たちの姿が行き交う。だがこれらの家々の真下にはおそらく誰も気づかないが、見捨てられた、暗く湿った洞窟のような地下室が在る。ある和風住宅の地下では青白い顔をした男がみずから縊(くび)た幼女の亡骸を弄び、またべつのレンガ造り風の家の地下では一人の孤独な少年がやはりみずからが狩った幼子の首を奇怪な神に捧げている。私にはそんな風景が見える。仄かな臭気さえ匂ってくる。そこで私が夢想するのは、この地上と地下とを突き抜けてそそり立つ縄文の巨大な石柱のような存在だ。うだるような暑さのなかで束の間、そんな幻影を夢見た。

 

 Yさんよりメール。大阪の事務所近くの空きスペースを利用して「世界各国のことば、音楽、踊りなど、様々な文化を楽しもうとする集まり」を企画中とのこと。二胡やモンゴル語教室、ベリーダンスなど。興味のある方はうつぼ地球くらぶのサイトをご覧あれ。

 

 19世紀の主要な「アウトサイダー」の大半は同じ危機------すなわち、世界に対してただ一人だという感じ------を経験した。ヘルダーリンやヴァン・ゴッホのように緊張で破壊された人もいるし、シラーやニーチェのように新しい総合を達成した人もいる。ユングの課題は、ただ一人で立つことを学ぶことであった。

「ユング 地下の大王」(コリン・ウィルソン・河出文庫)

 

 明日からまた競輪場での仕事。

2003.9.7

 

*

 

 前歯が欠けても歯医者へ行く金がない。つれあいの少なくはない入院費は彼女の実家が立て替えてくれた。バイクのライトの調子が悪いので仕事帰りにバイク屋へ寄ったところ、タイヤが摩耗していて高速走行ではバースト(破裂)する危険がある、と言われた。ベアリングもエンジンもブレーキもがたがただし、8万キロとはずいぶん乗りましたね、いい加減に買い換えの時期でしょうとバイク屋のアンちゃんは言うのだが、買い換えはおろかタイヤを交換する金さえない。金、金、金、金だ。じぶんはじぶんなりに毎日一生懸命働いているつもりなのだがどうしてこんなに金が足りないのかと思ったらひどく疲れた気分になってしまい、今日は和歌山から義父も来ていたのだが、不機嫌に押し黙ったまま食事を済ませひとり奥の真っ暗な部屋へ行って横になっているうちに眠ってしまった。目が覚めたらチビが足元で指を吸っていた。おじいちゃんやおばあちゃんやつれあいのいる部屋を抜けて、ここで私が起きるのを待っていたのだ。「おとうさん、おきたね」と目を輝かせた。二人でベランダに出た。「まんまるいお月さまだね。お星さまとなかよくならんでるね」 それからぎゅっと抱きついて、黙って私の頬にキスをしてきた。

 長年連れ添ったバイクがもう寿命だと宣告されたのもショックだったのかも知れない。お気に入りの競走馬が年老いて処分されるときも、あるいはこんな気持ちなのかも知れない。

 今日は夕方、いっとき空が荒れて嵐のような雨風が吹いた。つれあいの話では春日大社の森に雷が落ちて樹が焼けたそうだ。

2003.9.8

 

*

 

 チビの障害がおそらく私のせいであるように(彼女が母の胎内にいたときに、私は彼女の母親に多大な精神的負担をかけ続けた)、今回のつれあいの入院も私のせいだろうと思っている。そして私はそれらの事実にひどく冷淡で、まるで他人事のように振る舞っている。いつも、じぶんだけが大事なのだ。私は無慈悲で愚かでひどく心の冷たい人間だ。かつていっしょに暮らしていた祖母が呆けて寝たきりになったとき、私は彼女から小遣い銭だけはふんだくりながら、そんな彼女にいつも冷淡で、何の世話も愛情のかけらも注がなかった。母と妹だけが懸命に下の世話をしたり、廊下に散らばった大便の始末をしたり、床ずれの手当をし続けた。父が死んだときもそうだった。かれが死ぬ前の晩、夕飯の席で父から何かの話を振られて不機嫌に「そんなこと知らねえよ」とぶっきらぼうに答えた、それがこの世で最後の会話になった。私は、いつもそんなふうに生きてきた。そしてこれからもそんなふうに、勝手なわが身可愛さだけで生きていくのだろう。私のような人間は私の母が言ったように、家族など持つべきではなかったのかも知れない。ひとりで生きて、ひとりでのたれ死んだ方が相応しかったのかも知れない。だが私は私の家族を愛している。もし彼女たちがいなかったならば、私はとっくに死んでいたことだろう。

 ストーンズに、Fools To Cry という曲があった。

2003.9.8 深夜

 

*

 

 月・火は奈良の競輪場で場外。今日から三日間は岸和田競輪場で本場。カネとひまがあったら遊びにきてくれ。

 昨夜、チビが言った。「シノちゃんね、おとうさんのバイクを直してくださいって、おとうさんに手紙をかいてあげる」 つれあいはそれを聞いて思わず泣き笑いの顔になった。

 はるさん日記(2003.9.10)にリルケの素敵な詩を紹介していた。

 

一行の詩のためには、
あまたの都市、
あまたの人々、
あまたの書物を見なければならぬ。
あまたの禽獣を知らねばならぬ。
空飛ぶ鳥の翼を感じなければならぬし、
朝開く小さな草花のうなだれた羞らい(はじらい)を究めねばな らぬ。
まだ知らぬ国々の道、
思いがけぬ邂逅。
遠くから近づいて来るのが見える別離。――
まだその意味がつかねずに残されている少年の日の思い出。
喜びをわざわざもたらしてくれたのに、
それがよくわからぬため、
むごく心を悲しませてしまった両親のこと……。
さまざまの深い重大な変化をもって不思議な発作を見せる
少年時代の病気。
静かなしんしんとした部屋で過ごした一日。
海べりの朝。
海そのものの姿
あすこの海、
ここの海。
空にきらめく星くずとともにはかなく消え去った旅寝の夜々。
それらに詩人は思いめぐらすことができなければならぬ。
いや、ただすべてを思い出すだけなら、
実はまだなんでもないのだ。
一夜一夜が、
少しも前の夜に似ぬ夜毎のねやの営み。
産婦のさけぶ叫び。
白衣の中にぐったりと眠りに落ちて、
ひたすら肉体の回復を待つ産後の女。
詩人はそれを思い出にもたねばならぬ。
死んでいく人々の枕もとに付いていなければならぬし、
開け放した窓が風にかたことと鳴る部屋で
死人のお通夜もしなければならぬ。
しかも、こうした追憶を持つだけなら。
一向なんの足しにもならぬのだ。
追憶が多くなれば、
次にはそれを忘却することができねばならぬだろう。
そして、
再び思い出が帰るのを待つ大きな忍耐がいるのだ。
思い出だけならなんの足しにもなりはせぬ。
追憶が僕らの血となり、目となり、表情となり、
名まえのわからぬものとなり、
もはや僕ら自身と区別することができなくなって、
初めてふとした偶然に、
一編の詩の最初の言葉は、
それら思い出の真ん中に思い出の陰からぽっかり生れてくるだ。

            リルケ「マルテの手記」より(*はるさんの日記より転載)

 

2003.9.10

 

*

 

 岸和田競輪場の最終日。競輪場という場所。最初はちょっとしたカルチャー・ショック(?)で殺伐とした気分にもなったが、馴れてくると案外、都心の洒落たブティックなんかよりスナオな空間なんじゃないかと思ったり。それにしてもいろんな人間がいるね。いろんな顔がある。考えようによっちゃテレビに出てくる明るい漂白されたような顔より、インドやネパールあたりの路地裏に棲んでいる人々のような日に焼けた食えない顔たち。哲学者のような予想屋の兄ちゃんや、ヨガの行者のような拾い屋や、それにガンジスの端でいまにも事切れそうな奴もいる。なんだ、これは前にも見た光景じゃないか。まあ、面白いよ。世界ってやつは。少なくともどこぞのオフィス街で気取ったネクタイ締めてマーケッティングだとかなんとか思案しているより、私には居心地がいいかも知れない。

 

 「シノちゃん、寝るの楽しくない」とチビは言う。先日は朝起きていきなり「あ--あ。せっかく寝たのに、また夜がくる」と宣ったそうだ。よほど毎日が楽しくて仕方ない連続なのだろう。私たちはそんな心持ちをいつの間にか忘れてしまった。

 

 私は若いころ、宇宙を、物理学の方程式のことばで印刷された広げられた本とみなした。ところが今、それは私には、目に見えないインキで書かれたテキストのように思われる。われわれはそのうちの一つの小さな断片を、めったにない恩寵の瞬間に解読することができる。

アーサー・ケストラー

 

 ロマン主義者とはそのように「宇宙の秘密とはともかく目には見えない著作のなかに書かれている」と直観し、その「目には見えないテキスト」を解読せんと欲する者たちである。同時にかれらはこの地上において、かつてケルアックが言ったように「永遠に損失を受け入れなくてはならない」。

 

 Dixie というトラディショナル曲のなかでディランが颯爽と歌っている。「綿の国に戻りたい。そこではまだ昔が生きている。ディキシーランドに戻れたら、もうどこにも行かない。ディキシーで生き、そして死ぬだろう」 

 

 私は、近づきたい。人は遠くへ行くのではなく、はるかな旅路をたどりながら不思議だが円の中心へと還っていく。旅路をたどればたどるほど、円周は縮まってゆく。

2003.9.12

 

*

 

 チビは掃除機のスイッチをじぶんで入れて、“おばあちゃん、にげて”“おじいちゃん、にげて”と家中の人間を居間から追い出してふすまを閉め、時折“おかあさん、ハンドバック締めてね”などと訳の分からない言葉をふすまの間から投げ、ひとり部屋の中で嬉々として掃除機を操っている。朝のテレビで、パーキンソン病で寝たきりの妻を抱えた老肖像画師ボランティアで100歳のお年寄りに肖像画を描いて贈り続けているという番組をやっていた。浄土真宗の信仰篤い義母は「人のこともみな、じぶんのためと思ってしろと言うしなぁ」と呟き、つれあいは「じぶん以外の大切な誰かのためだからこそ頑張らなくちゃという気持ちを続けられる」と言う。ときどき仕事先の現場で「おとうさあん」という幼子の声にはっとふり返る。じぶんがメキシコの灼熱の太陽の下で奇妙な夢を見たディランの歌の中の人物のような気がする。仕事帰り、幾分湿気を含んだ夜の堤防沿いの道を走っていて突然思い出した。ほんとうの記憶は肉体が覚えている。だから私はバイクで走るのが好きなのだ。あまた駆け抜けた場所場所の雨や草木や夜の匂いも、刺すような冷気も、息のような風も、底なし沼のような闇の深さもそこへぬらぬらと触手を伸ばす植物たちの呼気も、すべてこの肉体に刻まれている。肉に刻まれていない記憶など糞のようなものだとさえ思う。〈歴史〉というものも、そういうものだろう。〈歴史〉というものこそ、肉に刻まれるべきものだろう。5人の幼女を殺害したMは日本がアメリカと戦争をしたことさえ記憶していなかった。神戸の少年Aの母親は息子とヒトラーのビデオを見て「やっぱり人の上に立つ人間は違うね」と話し合った。人も歴史も同じだ。肉にとどまらなければ、ずるりと表皮が剥け、歪み、忽ち悪臭を放つ。私はネットでセックスをすることはできない。清志郎が歌うように、彼女の匂いは「他の女とは区別がつくさ」 私たちはみな灰とダイアモンドだ。そして彼女の肌はダイアモンドのようだ。コリン・ウィルソンはユングを論じた文章の中で次のように記している「人間の進化は、精神の力を発達させて、精神的な“握力”を強化しようという人間の長く、ゆるやかな試みであった。それゆえ、人間は自分の現実を選ぶことが可能であり、現在の瞬間が選んで自分に押しつけるどんなものをも飲み込む必要はない」 1980年のディランはイエスとモーゼの時代を生きていた。ディックは小説VALISの中で登場人物の一人に言わせている「初期キリスト教徒たちはあらゆる時代にいるのだ」。「出発するよ」「どこへ行くんだ?」「わからない。ここから出ていけば〈神〉が導いてくれるさ」「ぼくも連れていってくれよ。安息所へ行く道を教えてくれ」 痛みは雨のように降ってくる。そして雨は人それぞれに降る。真心ブラサーズの日本語版 My Back Pages を聴いていると、ずっと昔にこの曲をはじめて聴いたときのあの鮮やかなフィーリングが蘇ってくるような気がする。「白か黒しかこの世にはないと思っていたよ。誰よりもはやくいい席でいい景色が見たかったんだ。ぼくを好きだと言ってくれた女たちもどこかへ消えた。ああ、あの頃のぼくより、いまのほうがずっと若いさ」 私たちの機械的な心はいつもちっぽけな〈現在〉にしがみついてしまう。弾みかけた心は失速して、風景はたちどころに色褪せてしまう。ファウストは自殺を試みようとしたとき復活祭の鐘の音によって思いとどまり、みずからの子ども時代を思い起こす。「なにかわからぬ甘美な憧憬に溢れて / おれは森や野原をさまよい歩いた / 特別なひとつの世界が生まれるような感じがして / おれは思わず熱い涙を流した」 こっぴどく叱れてさんざ泣いたチビが「おとうさん、おとうさん」と懲りもせずまた近寄ってくる。全幅の信頼を置いているのだ。その無邪気さに、つい微笑んでしまう。神さまに恋していたフランチェスコもきっとこのようだったのだろう。

2003.9.15

 

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 子どもの頃、ぼくらはみな、だれかが後ろに立っていて、じぶんをつかまえてくれると思って、後ろ向きに倒れるという遊びをたいていしたものだ。うちのチビもそうだった。危ない危ないと大人たちに言われながら、けらけらと笑いながら何度も後ろ向きに倒れては受け止められた。大人になった私たちの不幸は、ひょっとしたらそんな遊びができなくなったことかも知れない。後ろ向きに倒れても、私たちはじぶんをつかまえてくれる存在などありはしないと思っている。

2003.9.16

 

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 昨日は一日職場の資格試験に向けた事前講習。今日は奈良競輪。仕事が終わってから二上山の麓まで走って面接。経営再建のために新しい血を入れたいという、県内に数店舗を持つ書店の「店長・幹部候補」の求人。来週に社長みずからの二次面接の予定。夜、東京のUより電話。琵琶湖周遊の家族旅行がてら、こんどの土曜にわが家へ立ち寄るとの由。うちのチビと同い年の娘がいるのだが、かれに会うのはじつに数年ぶりだ。障害者手帳の対象になる病名が法改正によって変わりチビの膀胱直腸障害が認められたため、チビの手帳のランクが3級から2級にあがるらしい。2級になると本人が65歳まですべての医療費が免除されたり、高速代や交通費も同伴者共に半額になったり、税金が一部免除になったり、急に該当項目が増えるのだが、その一方でなにやら複雑な心境にもなる。このごろずっと休みがなくて、仕事から帰ってきても疲れてすぐに横になってしまったりでなかなか遊んでもらえないので、最近チビは私が帰ってくると抱っこを要求して、コアラのように抱きついたまま離れようとしない。まるで赤ん坊に戻ってしまったようだ。昨日はつれあいがこしらえた巾着袋の中に私が小物を隠し、チビが片手を突っ込んで触感だけでそれが何かを当てるという遊びを二人でした。すぐに夜がきて、チビが寝てしまうとさみしく思う。一日仕事をして、次の一日はまるまるチビと遊べるという暮らしができたらいいのになと思う。そんなことを考えるからダメなのか。

2003.9.17

 

*

 

 夜、泊まりに来ている義母とテレビで美空ひばりの2時間番組を見る。闘病生活を経て復帰をかけた「みだれ髪」のレコーディング風景。オーケストラとの本番一発録り。しかもスタジオには大勢のマスコミを招いて、カメラのフラッシュを浴びながら歌う。私は彼女の生きざまをそれほど詳しくは知らないが、この人はきっとこんなふうに、いつもじぶんを崖っぷちに立たせ、己を奮い起こさせながら生きてきたのだろう、と思った。それは勇気であると同時に、ある意味で、またひとつの哀しい不器用さなのではないかとも思った。「みだれ髪」は船村徹の曲も星野哲郎の詞もそれぞれ格調高いが、なにより彼女の歌唱は宝石のように硬質なブルースを聴いたときのそれと似ている。私の魂を顫わせる何かが、ある。義母は中学生の頃、伊勢から大阪へと立ち寄り、難波駅から14軒目にあった親類の家に一週間泊まったときに、毎朝小遣いをもらって実劇(今でいうコンサートや芝居)や美空ひばりの映画を見に出かけたのが愉しい思い出だったそうだ。そのとき伊勢で本人の知らぬ間に「親同士の見合い」をさせられていたのがいまの義父であった。

美空ひばり公式サイト http://www.misorahibari.com/

 

 仕事の行き帰り、バイクを走らせながら今日も真心ブラザーズの My Back Pages を口ずさむ。秘められた最後の感覚さえ失わなければ、堆積するもろもろの塵芥を吹き抜けて、人は永遠に昨日よりも若くなり続けることができるのだとぼくは信じる。それはすでに記されたことばをつねに追い越していく、風の中のことばのようなものだ。今日がどんなに最悪であったとしても、昨日を懐かしみはしまい。

 

 風呂の中でランボーの詩を読み返す。

 

空は天使のようにきれいだ
青空と波とは一体となる
ぼくは出かける 光がぼくを傷つけたなら
苔のうえで息絶えよう

ランボー・五月の旗

 

2003.9.19

 

*

 

 土曜。東京から友人のUが家族と遊びに来た。夜、私が仕事から帰ると、玄関先にふたつの小さなニコニコ顔が立ち並び、いつまでもけらけらと笑い合っていた。雨に濡れた服を着替えてUの車で近所のラーメン屋へ食事に行った。ラーメン屋でも二匹のまるで同じ種に出会えて嬉しくて仕方ないといった小動物のように食事もそこそこに、店中を駆けずり回り、小雨の中を踊り回っていた。Uとは中学時代からの付き合いで、サイクリングに始まり、寝袋・テントを担いで熊野を経巡り、バイクで山陰・四国も走り、インドも旅した。奇遇だが私と同じように“主ある花”に恋し、同じ頃に結婚し、同じ頃にこどもができた。お互いに子どもができてからは何かと忙しかったので、かれと会うのはもう4,5年ぶりだろうか。ラーメン屋でも、食後に戻った家の中でも、話題は子どものことばかりで、馬鹿親父二人がそれぞれカメラを構えての撮影会だった。二匹の小動物たちはすっかりうち解けて、いっしょにブロック遊びをしたり、奇妙な会話をしたり、ビーズの小片を積みあげてはけらけらと笑い合っている。そんな光景を満足げに眺めているUを見て、少しオッサン臭くなったかな、なぞと思う。私もきっと似たような顔をしているのだろう。耳の奥がこそばゆいような、何とも奇妙な感じだ。思わず二匹の片われをまじまじと覗き込んで「そうか。きみがUの子か」と呟いた。深夜の11時頃、Uと家族は東京へ向けて帰っていった。わずか3時間余のひとときだった。

 日曜。チビの三歳の誕生日。つれあいが昼間、バナナと胡桃のケーキを焼き、夜は義父母たちが国道沿いの海鮮料理の店でお祝いをしてくれた。最近義父母たちが気に入っている店で、誕生日には鯛の活け作りを一匹サービスしてくれるのである。私はせめて心ばかりでも娘にプレゼントを買ってやりたくて仕事の帰り、京都の駅ビルにそそくさと立ち寄り、京土産の民芸展で兎の模様のついた和風のティッシュ・ケースを買って帰った。電車の中であらためて“3歳の子どもにはどうだったかな”と危ぶんだが、夕食の席で包みを開けたチビはプレゼントを見るなり「わあ、きれーい」とスナオに喜んでくれた。誕生日、おめでとう。

 月曜。2週間ぶりの休日。病後のつれあいの手伝いのために3週間余も滞在してくれた義母が義父と帰ることになったので(義父は土日のたびに泊まりに来ていた)、車で和歌山まで送っていった。行きは紀ノ川沿いの道をのんびり走り、途中五條の栄山寺へ立ち寄った。境内のかたわらに半ば倒れかけた古い墓石のわきの石仏をチビが覗いて、泣いているような顔だと言う。どうして泣いてるのかなと問うと、仏様のお母さんを呼んでいるんだよ、と言う。夕方、実家に着いて、寿司をご馳走になり、帰りは高速を飛ばして9時頃に帰ってきた。

 火曜。祝日。京都の住宅展示場にて仕事。天気が持ちそうだったのでバイクで行く。イベントでホットドック屋の車が駐車場の隅に店を開いている。平日は高校の用務員をしている67歳のKさんが、「おれもサラリーマンより、夫婦であんな車で日本中を回るような生活の方が合っていたのかも知れないな」と呟く。酒好きで車に轢かれて死んだ親父さんの話や、伊勢で農協に貸している田畑の土地の話などを聞く。つれあいとチビは城下町のフリーマーケットに行って、竹と籐で編んだ籠や古本の絵本を買い、金魚すくいをしてきた。

 今日。雨の中、朝から車で書店の面接へ。過去の職歴とその経緯をあれこれと質問される。妻子がいるのに何をしているのかと諭される。過去によって現在も未来も否定されるが、それも仕方あるまい。面接のたびにひどく重たい気分になり、そのままずぶずぶと沈んでしまいそうになり、それを追い払うのに苦労する。じぶんがどれほどいい加減な生き方をしてきたかは誰よりもこのじぶんが一番よく知っているが、私が欲しいのはただチサの葉一枚の明日の希望なのだ。午後、雨の中、夕方まで団地の駐車場に停めた車の中にひとり籠もって明日と明後日に控えた「常駐警備2級」の資格試験の勉強をする。夜、チビといっしょにお風呂に入り、図書館で借りてきた「ハチ公ものがたり」と「そらまめくんとメダカの子」と「さるかに合戦」の絵本を読む。

2003.9.24

 

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 市内のホームセンターでの一人勤務。夕方、休憩をとっていた近くの公園で、ベンチの上の藤棚に乗っかった子どものオモチャを肩車をしてとらせてやる。お巡りさんなのかと訊かれる。ベンチの上で熊野の山中をさまよう落ち武者を描いた中上健次の短編をひとつ読む。

 夜、チビが米櫃で「砂遊び」をしながら、これはお墓なの、と言う。お墓の中には何があるのかな? と訊くと、ほとけさまだよ、と答える。

 またディランが歌う Carrying A Torch を深夜に独り聴いている。むかし愛誦した富永太郎の小品を思い出している。

 

ありがたい静かなこの夕べ、
何とて我が心は波うつ。 

いざ今宵一夜は
われととり出でたこの心の臓を
窓ぎはの白き皿に載せ、
心静かに眺めあかさう。

月も間もなく出るだらう

富永太郎・無題(ありがたい静かなこの夕べ) 1921

 

 この詩のように、ありがたい静かな夕べのひとときだ。生も死も掌に透けて見える。

2003.9.27

 

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 夜、沖縄戦を描いたTBSテレビのドラマ「さとうきび畑の唄」を家族三人で見る。つれあいは終始泣きどおしで、チビは人が死ぬたびに「いや。いや」と怯えた。実際はもっと地獄絵だったろう。きれい過ぎるような部分もあったけれど、テレビ・ドラマにしては上出来な方か。明石家さんまもなかなかいい味を出していた。歴史の記憶。語り継ぐべきもの。いま、この国の大きな曲がり角にあって無数の死者たちの顔が私たちの背中を無言で見つめている。生き死にのなかに本物の命がある。狂気と暴力のなかで、私はいったいどんな行動がとれるだろうかと己に問うた。歴史は過去ではなく、いま私たちが現に生きている「実時間」のなかに在る。ほんとうの勇気が試される場所。ちゃちな流行りものの風景など放っておけ。足元の大地が吸い続けた夥しい血を思え。生き死にのなかに本物の命がある。ゆめゆめそれを間違うな。いまだ実際には見たことのないさとうきび畑が風に騒ぐ。日が撥ね、草いきれが噎せ返る。干涸らびた地面から涙がごぼごぼと噴き出してくる。

2003.9.28

 

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 休日。というか、正確には仕事のない日。

 例の書店の求人の件で、どんな酔狂からかもういちど面接要請の電話があり、昼に車を飛ばして行ってきた。今回は○○店総店長なる肩書きをもつ人物との面談。社長が他の地方の書店主らと手を組んで本屋の側から読者の声を吸い上げて本屋が作家を発掘し育てていくという運動を始めている、という。その手始めに、子供たちの情操教育のために日本昔話のオリジナルの復刻を計画している。売り上げは勿論大切だが、売れなくても良い本を置き続けるような店作りをしたい。流行におもねる多数決の民主主義ではなく、みずから主義主張を持って価値観を提供していくような本屋を目指している。そのために店を引っぱっていくような人材、斬新な発想ができるような人材、自己改革ができる人材、そして店のアルバイトたちにやる気を起こさせるような人材を求めている、という。話題はチビの障害のことからオウム事件や神戸の少年Aのことまで及び、一時間以上を話し込んだ。面接後、ふたたび電話があって、もういちど社長と話を詰めたいので数日後に来て欲しいとのこと。さて、どうなることやら。

 午後は自転車の修理。昼につれあいがチビを“幼稚園”へ乗せていった際、ポンッという大きな音を出して後輪のチューブが破裂してしまったのだった。もともとが貰い物でタイヤもチューブもひどく痛んでいたので、ホームセンターで買ってきた新品に交換することにした。電動自転車の仕様で車輪を外すのに少々手間取ったが、日が暮れるまでに何とか終えた。その間、いっしょに連れてきたチビは私の周りで手伝いの真似事をしていた。じぶんが乗っている自転車だったから嬉しかったのだろう。「おとうさん、ありがとう!!」と何度か言っていた。

 明日も仕事がないので、チビをプールに連れて行く予定。

2003.9.29

 

*

 

 チビをプールに連れて行く。車の中でチビといっしょに「さとうきび畑」のリフレインを歌っていたら、空いた国道の高架をふわっとのぼりつめ空が高くなった瞬間、不覚にも涙がこぼれてきてしまいそうになった。無数の死者たちの瞳を覗いたのだ。生きていることがあまりにも美しすぎた。

 

ざわわ ざわわ ざわわ 広い さとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ 風が 通りぬけるだけ
今日も 見わたすかぎりに 緑の波が うねる
夏の ひざしの中で

ざわわ ざわわ ざわわ 広い さとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ 風が 通りぬけるだけ
むかし 海の向こうから いくさが やってきた
夏の ひざしの中で

ざわわ ざわわ ざわわ 広い さとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ 風が 通りぬけるだけ
あの日 鉄の雨にうたれ 父は 死んでいった
夏の ひざしの中で

ざわわ ざわわ ざわわ 広い さとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ 風が 通りぬけるだけ
そして 私の生れた日に いくさの 終わりがきた
夏の ひざしの中で

ざわわ ざわわ ざわわ 広い さとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ 風が 通りぬけるだけ
風の音に とぎれて消える 母の 子守の歌
夏の ひざしの中で

ざわわ ざわわ ざわわ 広い さとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ 風が 通りぬけるだけ
知らないはずの 父の手に だかれた夢を 見た
夏の ひざしの中で

ざわわ ざわわ ざわわ 広い さとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ 風が 通りぬけるだけ
父の声を 探しながら たどる 畑の道
夏の ひざしの中で

ざわわ ざわわ ざわわ 広い さとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ 風が 通りぬけるだけ
お父さんと 呼んでみたい お父さん どこにいるの
このまま 緑の波に おぼれてしまいそう
夏の ひざしの中で

ざわわ ざわわ ざわわ けれど さとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ 風が 通りぬけるだけ
今日も 見わたすかぎりに 緑の波が うねる
夏の ひざしの中で

ざわわ ざわわ ざわわ 忘れられない 悲しみが
ざわわ ざわわ ざわわ 波のように 押し寄せる
風よ 悲しみの歌を 海に返してほしい
夏の ひざしの中で

ざわわ ざわわ ざわわ 広い さとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ この悲しみは 消えない

作詞/作曲:寺島尚彦

2003.9.30

 

*

 

 朝、新聞を開いたら、池田小の児童殺傷事件の宅間死刑囚が控訴の取り下げに当たって記した自筆の手紙というのが紹介されていた。死刑の早期執行を訴えていると内容だいう。いきがっちゃいるが、結局こいつはじぶんの死を見据える勇気がないんだな。最後まで甘ったれた野郎だ、と思った。今日はチビの幼稚園の面接だった。集まった子どもの名前が「きら」だとか「さり」だとかつれあいが教えてくれて、「きら」は「きらきらになるように」と付けた名前だと聞いてきたそうで、思わず絶句した。何だか親もますます低脳化してるんじゃないの。「さり」はさしずめサリンの「さり」か。宅間死刑囚のような奴はこれからもどんどん増えるだろう。教育なんてものはこの国じゃとっくの昔に崩壊している。狂った親どもが狂った子どもらを再生産しているのだ。まことに正しい光景だ。言ってみたら奴は「正しい反応」をした。それは何人も否定できないと思うぜ。誰も奴を、ほんとうの意味で裁くことなどできはしない。おれたちはいったいどこで道を踏み誤ったのだろうか。「わたしたちは何を待っているのかおしえてくれませんか セニョール ?」

 

できるものなら
わたしをも ひとをもころしてしまって
あるひは 哀切に
あるひは うつくしく
にんげんらしいものよ 生
(は)えいでよ

八木重吉・不死鳥 1924

2003.10.1

 

*

 

 日が撥ね、草木が騒ぐ。だだっ広いさとうきび畑の上を風が息のように吹き抜けていく。わたしはここにいるのだが、じぶんの身体をつかむことができない。輪郭というものがわたしにはないのだ。強い日差しがこの世のあらゆるものを明確に縁取る。わたしの身体はこの風と、風になびく草木だ。わたしはもう気が遠くなるほど長い時間、ここでこうしている。きっと永遠にこうしているのだろう。声が聴こえる。人を慕うかすかな幼子の声だ。わたしの薄れかけた仄暗い記憶の底でなにかが揺らぐ。胸を裂くような痛みが走る。あれはだれか。だれを呼んでいるのか。だが何も思い出せない。なぜか無性に哀しく、無性にいとおしい。応えようとするのだが、わたしに声はない。そっと抱き寄せようとするのだが、わたしに腕はない。わたしの身体----風が狂おしく身もだえして、さとうきび畑の上を駆けめぐる。草葉のすみずみを嬲るように疾る。日が撥ね、草木が騒ぐ。

 

 昨日今日と京都の競輪場での仕事だった。選手の管理センター周辺の警備だったが場外発売のため行き交う人も少なく、日だまりの中の蝉の抜け殻のごとくぽつねんと丸椅子の上にすわり続けた。視界の一角に蒼くなだらかな山並みが見え、抜けるような青空に溶けた氷のかけらのような半月がぽっかりと浮かんでいた。ひねもす「さとうきび畑」のリフレインを口ずさんで、ポケットに忍ばせた投票カードの裏にこんな言葉を書き綴った。

2003.10.3

 

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 今日は午後2時から深夜10時まで某レンタル店での勤務だったので、午前中に自転車でチビと二人、城下町にある外堀緑地公園へ行って来た。堀の鯉を眺めていたチビに通りがかりの年輩の夫婦がパンを呉れてそれをちぎって投げたり、水飲み場で水遊びをしたりで小一時間ほど遊んでから、チビが「お腹がすいた」と言うので豆パン屋アポロへ立ち寄った。赤ワインのドーナツとはちみつとレモンのジュースを注文して、しばらく店の主人や奥さんとシュタイナー教育や天川の渓流や矢田の民俗資料館のことなどを話し、それに店の二階で計画している絵本作りにお誘いを頂いた。帰ってからチビが早速つれあいに言うことにゃ、「豆パン屋さんに行ってきて、お父さんったらずうっとお話ばっかりでさ」だってさ。そんな具合で午前中にチビとの短いデートを満喫したので、今日は午後から仕事へ行くのがひどく憂鬱だった。モードの切り替えがうまく行かないんだな。10時半頃家へ帰ったらチビはもう食事も風呂も済ませて寝るところで、せがまれて絵本を一冊枕元で読んで聴かせた。私は彼女と二人でどこかへ出かけるのが好きだ。これまで恋をしたどんな女性よりもいっしょにいることが愉しい。それはきっと彼女が“神さま”に近いからだろう。ほんの小さな水の飛沫、ほんの小さな日だまり、ほんの小さなパンのかけらで世界と純心に戯れ、世界を肯定できる強さが彼女にはある。幸福な simpicity (単純さ) がある。私は彼女によって「洗われる」のだ。そして実際の世界が彼女の simpicity とまるで正反対である現実に私は憂鬱になるのだ。それは熱い水蒸気の中で逆さに吊された鉄の腕のようなものだ。いつまでたっても私はそれに馴染めない。ほんの小さな水の飛沫、ほんの小さな日だまり、ほんの小さなパンのかけらによって、私は幸福でありたい。私は彼女の魂を模倣する。そうすると、ほんのすこしだけ“神さま”に近づいたような心持ちになる。誰がそれを邪魔できるものか。

 

こどもがよくて
おとなが わるいことは
まりをつけばよくわかる

   ○

ぽくぽく
ぽくぽく
まりつきをやるきもちで
あのひとたちにものをいひたい

八木重吉・鞠とぶりきの独楽(こま)・1924

2003.10.4

 

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 今日も午後からのレンタル店勤務。午前中、チビと団地の前の草ぼうぼうの公園へ行く。藤棚の蔦が生え放題でトンネルのようになったベンチで中上健次の短編集「化粧」を読んでいると、滑り台で遊んでいたチビがじぶんより背の高い雑草をかき分けやってきて私の隣にちょこんとすわり、足元の石ころを拾ったり周囲の草や花を摘んだりして遊び始めた。ひんやりとした心地よい空気の中で、二人で何を話したのだったか。トンボや蝶が何を食べるのかとか、石はなぜ食べてもおいしくないのかとか。それから野花を束ねて結び、チビの装具のベルトに挟んでやった。

 新聞を広げるとイスラエルで大規模なテロ。イラクで米軍による終わりのない殺戮。暗澹とした気分になる。

 夕食は現場の店の下にある半地下の倉庫のような穴ぐらの奥まったところでひとりで弁当を広げる。入り口のすぐに電灯のスイッチがあるのだが、こちらがいることに気がつかない従業員たちが出しなに電灯を消していってしまう。そのたんびに入り口まで行ってスイッチを押してくるのだが、二度三度と続くと、もういいやという気になる。電気もない暗がりの中で黙って弁当を食う。口をもぐもぐと動かしながら、ひとり闇の中をじっと見据えている。ふたたび出ていって、譲り合う気持ちのかけらさえない馬鹿どもの車を誘導する。止めた車にぺこぺこと頭を下げる。

 中上健次をはじめて読んだのはいつであったか。当時はサリンジャーや村上春樹の羊シリーズも好きだったが、私は中上の方向性を選んだ。私にないものを感じたのだ。ぎらぎらとした熊野の土着と被差別部落の出自と複雑な家庭環境と、それらが神話のように渾然とした強靭な世界を。私にあるのは平凡な根無し草のような東京下町の育ちだった。中上のような根茎に憧れて友人と寝袋・テントを背負って熊野川を遡行したり熊野奥駆けの行者道をさまよったりした。熊野の端にある母方のルーツに己を重ねてもみた。私という存在の深い根っこに語るべきものが果たしてあるだろうか。書くに価するものを有しているのか。だが私は覚えている。熊野奥駆けを登る前日、宿をとった池原ダム近くの夜中にふらふらとさまよい出た路上で、ふと見あげた山の影がのしかかるように私の根茎を顫わせたことを。その圧倒的な存在感の前で、私の存在は心地よかった。どこにいても、私はそこにいる。

 「あしたははやく帰れるよ」とチビに言った。「シノちゃんね、お父さんがはやく帰ってくるように“はやく真っ暗になって”ってお願いしてるね」とチビが答えた。仕事が終わる二時間も前からお父さんもはやくきみに会いたいと思っているんだよ。

2003.10.5

 

*

 

 月曜は奈良競輪で、火曜から今日まで三日間は岸和田競輪場。岸和田は当初は火水二日間の予定だったのだが隊長氏から最終日も来てくれないかと言われて8日ぶりの休日がまた5日ほど伸び、本日予約を入れていたチビの七五三の写真撮影も参加できなくなったが仕方がない。和歌山から義父母も迎えた撮影、チビは着物と黄色いドレスを着てつれあい曰く「親バカかも知れないけど、それはもう信じられないくらい可愛かった」そうな。仕上がりは月末とのこと。ところで例の書店の求人の件、今日帰ったら履歴書が返送されていた。三度も人を呼びだしてもういちど社長と話をつめるからと言っておきながら何のこっちゃと思ったが、要らぬなら要らぬでこちらも未練はないさ。その代わりと言っては何だが件の資格試験の方は無事合格。今日詰め所で休憩をしていたら突然名前入りで「...常駐警備二級に合格しました」と連絡放送が流れ恥ずかしかった。知多半島みやげのエビ煎餅を囓りながら不合格でもおなじように放送するんだろうかとみなで笑い合った。その三日間の同僚の一人、27歳のFさんは何と少年少女向けのファンタジー小説家を目指していて現在15万ヒットのHPにて自作を公開しているとのこと。PCの話題などいろいろ話し合って愉しかった。夕食後、つれあいが薬師寺で万灯籠のイベントをやっていると言うので義父母に見せるために車を出したら門は閉まり寺はひっそりとしていた。つれあいらしい顛末。しばらくライトアップの塔を眺め、ついでだからと猿沢池まで足を伸ばしてみなで夜の散歩。興福寺五重塔の下でこの塔を建てた宮大工だという安っぽいビニールのバックを肩に掛けた一人の男が寺社建築のうんちくを話しかけてきた。私一人熱心に聞いていたら先に行ったつれあいが手招きをして「怪しいよ、あの人。ウソだよ」と言う。義父母はこのまま火曜まで滞在の予定で(土曜にチビのゲスト参加の運動会がある)、その翌週あたりは私の愚母と妹夫婦がチビ見たさにやってきそうな気配で油断ならない。最近読んだ中上健次の言葉と事物論とシュタイナーの色彩論の近似についても書きたいのだが、連続勤務で疲れがたまっていて何やら込み入った話を書く精神的時間的な余裕がない。期待している人も少ないだろうが、そのうち書きたい。岸和田競輪場、今日は7レースで三連単100万円というのが出た。カネってなんだろね。秋晴れのおだやかないい日和だった。

2003.10.9

 

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 奈良競輪。仕事から帰った夕食の席で、義父母が私の靴を買いに行こうと言い出した。毎日せっせと働いてくれてるのだし、それにこんどの試験の合格のお祝いだというのだ。数年前に買ったホーキンスの革靴は靴底に穴が空いてもう随分前から雨の日には靴下が濡れてしまう状態で、仕事で履いているくたくたの十数年前の安物ビジネス・シューズはやはり靴底が摩耗して剥がれかけてくるのをボンドで貼りながら使っていた。私は、そんなの勿体ないからいい、チビの七五三の写真代も出してもらったのだし、まだまだ靴は履けるから、と言うのだが、いいからいいからと義母はとりあわず、バイクは買ってやれないけれどと義父は笑って応える。そんなときの私は嬉しいやら照れ臭いやらでひとりで黙ってベランダで煙草を吸いながらぐずぐずしているのを、さっさと支度をした義父母やつれあいたちはさあ行くよと玄関に並び始める。それで結局、近くの国道筋の靴の大型店へみんなで行き、普段用の革靴と仕事用の靴をそれぞれ買ってもらったのだった。その間チビはじぶんは一度も新しい靴など買ってもらったことなどないのにおなじ店内に並んだ可愛らしい子ども用の靴には目もくれず、私の革靴をあちこちから持ってきて、これはどうか、これを履いてみろ、と忙しく動き回っていた。つれあいは義父母たちのうしろでしずかに微笑んでいる。そんなすべてが私を一瞬、泣かせてしまいそうになる。罪深い殺生を重ねてきた悪人が一人の僧の前で胸を衝かれたようなそんな心持ちになる。

2003.10.10

 

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 来年入る幼稚園の運動会、チビは駆けっこでゲスト参加。義父母が親類から借りてきたビデオカメラで写してきた映像を、夕食の後で見た。ポニーテールの黄色い姿が母に背をつつかれて駆け出す。やはり足が悪いからいちばんビリっ尻だったけれど、いっしょうけんめい弾むように駆けてゴールに置かれた折り紙セットのおみやげを拾い、もう終わったのかつまらないといった顔つきで戻ってくるまでの一分足らずの映像。眩しいくらいだったよ。

2003.10.11

 

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 親類からチビの七五三祝いを貰い、ちょうどビデオデッキがずっと壊れっぱなしだったのでその金でビデオ&DVD一体型のデッキを購入した。チビは久しぶりの「セロ弾きのゴーシュ」を食い入るように見ていた。夜、義父母たちと古い映画の話になって、私が所有している小津の「東京物語」をみんなで見た。チビは誰にも遊んでもらえずひとりで絵本をめくったり畳の上に並べたりしているうちに眠ってしまった。

2003.10.12

 

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 奈良競輪場外、広島共同通信社杯の最終日。休憩の合間にロシアの民族学者が1960年代にシベリアの狩猟民たちを調査した旅の記録を読む (ユーリ・シムチェンコ「極北の人たち」岩波新書)。一人の老人がタイガで言う。「いったいどうしたんですか、まったく知恵をなくしたんじゃないですか。もしここに犬がいて、そばに薪があれば、誰もがいつでも、犬は生きていて、薪は生きていないというでしょう。それは区別ができて、生きた石と死んだ石とはどうして区別できないんですか? さてはあなたもシャーマンにやられたんですね」 夕方、家に帰って夕食。義父母たちは今日は薬師寺を見てきたらしい。チビは百貨店で遊んだ5歳の女の子に1円玉をもらった。新聞を開けば今日もまたバクダッドで爆弾テロの見出し。弟と従兄を殺されて自爆テロをした若いパレスチナ人女性の記事が載っている。夜、昨夜につづいてみんなで小津の「麦秋」を見る。数年前、つれあいと訪ねた若狭・一滴文庫でお会いした画家の渡辺淳さん(ゴムログ4参照)から思わぬメールが届いた。「ふと、したことから〜消しゴム。読ませて頂きました。何年か前、一滴文庫に来て頂いた事思い出して懐かしくてかきこみました。一滴文庫はあれから2年余り休館しておりましたが、今年の5月からNPO組織になり、若い人達がやってくれています。展示も一新しましたし、一滴の里、で検索して頂ければホームページも御座います。毎日、日記も写真いりで付けているようです。クリックすると写真、広大になります。ホームページ、是非一度覗いてやって下さい。お邪魔しました。」 若狭の海と一滴文庫の竹林をわたる風の匂いを思い出した。友人にもらったCDで元ちとせが歌う Sweet Jane を聴いている。「心ある者たちの誰ひとりとしてそれを非難し破壊しなかった。役を演じた誰ひとりとしてそれを非難し憎まなかった」 明日は二週間ぶりの休日。朝から車でチビのリハビリへ行き、その足で義父母たちを和歌山まで送っていく。

2003.10.13

 

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 朝から車で生駒山を越えて大阪の病院へ。泌尿器科の尿検査では相変わらず軽い尿感染が出て、現在別の病院へ検査に出しているさらに詳しい検査結果が来週出るので、それによって薬を処方してくれることになった。なるべく水分を摂らせるようにとのこと。三ヶ月ぶりのリハビリは、前回は最終回を残して「本人にやる気なし」とリタイアになったために今回はつれあいと二人で必死だった。前から言われていたことだが、座った姿勢の時に悪い左足の方が不安定で右側に体重をかける癖がある。重心をかけるバランスが悪く長期的には背骨の変形を招く危険もあるので、椅子の右半分にタオルなどを敷いて左側へ体重を移動させるようにし向けること。また左の足指が内側へそっていて足裏の不自然な部分に体重がかかりそれが不安定な要因にもなっているので、なるべく足指が軸になるように装具を外しているときには以前に付けていた足の親指と人差し指の間を開かせる布製のアテを継続して付けるようにすること。同じ観点から装具の同じ部分に付けている突起をもう少し太くしてもらうよう義足のメーカーにて修繕すること。あとでつれあいと、もうそろそろリハビリの時にオモチャ等で気をそらす一時しのぎはやめて、年齢的にこれからはこうしたリハビリがどうして必要なのかということを本人にも自覚してもらえるよう説明していくように努力しなくてはいけないかも知れない、と話し合った。

 診療を終え、谷町筋から天王寺で25号線を経由したあたりで回転寿司の昼食をとり、松原付近から阪和道へ乗って夕方、和歌山の実家へ着いた。私は2時間ほど仮眠をして、夕食を食べ、ふたたび高速を走って夜の11時頃に帰宅。近所のつれあいの従妹の家で要らなくなったビクターのMD付きCD三連奏&ダブルラジカセのコンポを頂戴してきた。DVDに続きMDが加わり、わが家のハードも一気に近代化してきた。

 帰ったら前述の淳さんより再度メールの返事が届いていた。

 

思わぬ懐かしい便り、嬉しく拝読しました。一滴文庫裏の田圃をわたる風の匂いを思い出しました。私は相変わらず迷走中で、現在は警備のアルバイトなどをしながら何とか食いつないでいます。そして時折、郵便配達をしながら絵を画きつづけた淳さんのことを思い出すこともありました。あれから娘が生まれ、障害のために足が少々悪いのですが、彼女は私たち夫婦の宝です。いつか若狭にも連れていきたいと思っています。そういえば淳さんの絵をまだまとめて見たことがありません。関西で何か催しがありましたらいつか教えて頂けませんか。また若狭湾のあの海の色を見たくなりました。どうぞお身体、ご自愛ください。末筆ながら返礼まで。@まれびと

 

お便り、有り難う御座いました。子供さんが身障で足が悪いとのこと、私の絵の教室にも脳障害の子供、下半身障害の子供が来ていますが、それぞれ個性のあるいい絵をかいています。子供は仰るように宝です。優しく見守ってあげて下さい。この春京都の寺町のギャラリーで頼まれて(水上先生かかわり)やりましたが、11月1ヶ月福井の小さな画廊喫茶でやります。画廊喫茶サライ で検索してみてください。11月になれば作品も出ると思います。山椒庵日記 渡辺淳 も探して見て下さい。本田成親氏のアサヒ コム マセマティック放浪記 の挿絵も連載しています。いろいろ書きましたが懐かしくて…………お元気で奥さんによろしく…………渡辺 淳

2003.10.14

 

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 休日。関東から来た愚母と妹夫婦に和歌山の義父母が合流して春日大社へ七五三のお詣り。祈祷は5千円もするというので一般の参拝だけで済ます。平日とあって他に七五三姿のこどももなく、つれあいが子どもの頃に着たお古の着物に身を包んで参道をしずしずと歩くチビにたまたま居合わせた外国の団体客らが微笑みながら揃ってカメラを構え、忽ち大勢の人垣ができてしまった。白人の女性が「写真を撮ってもいいか?」と私に尋ね、イスラム風のスカーフで頭を包んだすらりと背の高い女性がチビの頬を撫でたり、インド人風のふくよかな顔立ちの女性がチビといっしょに並んで連れに写真を撮ってもらったり。あとでガイド役の日本人女性に訊くとあちこちの国から集まった団体だそうで、思いがけず可愛い七五三姿が見られて皆とても喜んでいた、と言っていた。もっとも輪の中心にいてチビは少々びっくりしたような顔をしていたけれども。まあ、春日大社中の人気をかっさらっていたことは確かだね。お賽銭を投げ、人形の紙の形代でお祓いをしてから帰るとき「シノちゃんが帰っちゃったら、カミサマはきっとさびしくなるね」とチビが耳元で囁いた。

2003.10.20

 

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 硝子窓に貼り付いた雨粒がまるで顕微鏡のなかの精子のように尾を引いてのたくり乍ら滑り落ちていく。虚ろな眼でそんなものを眺め乍ら、そういえばあの山の頂で雨乞いをした女は読み書きすら知らなかった、と考えた。雨はついに降らなかった。村人たちに乞食や癩者の如く石もて追われた女は、だがブルースを知っていた。女の歌をはじめて聴いたときじぶんのなかのどす黒い何かが暴かれるような恐怖と顫えを感じた。女の叢に分け入ったときこれがその裂け目かと舌でねぶった。女は咽を割かれた猿のような声を上げ男のふくらはぎを激しく噛んだ。女の尻を乱暴に持ち上げ、狂ったように後ろから突き、爆ぜた。あの痴れものの女はあれからどこへ流れていったか。大方また余所の村で野卑な男たちの慰み物になっているだろうが男には何の感情もなかった。ただ女のあの歌をもういちどだけ聴きたい、と思った。降りしきる雨を見遣った。俺は意味がない、とひとりごちた。あの女がいなければ生きていても何の意味もない。男は途方に暮れておろおろと涙を流した。女は読み書きすら知らなかった。乞食や癩者の如く石もて追われた。その女が噛んだふくらはぎの傷跡が巨大な南国の花のようにぱっくりと口を開いて死人のような男の頭を一息に呑み込んだ。

2003.10.21

 

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 夕食後、チビと二人で車に乗って国道沿いの本屋へ行った。赤坂憲雄と吉本隆明の対談「天皇制の基層」(講談社学術文庫)を買って帰った。

2003.10.22

 

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 夜勤業務から帰った午後、昼寝をして、買い物に出かけたチビやつれあいの帰りを待ちながらひとり寝ころがってディランの30周年コンサートのビデオでクラプトンが Don't Think Twice, It's All Right を歌うのを眺めていたら突然、10代の頃にさんざん聴いたこのオールド・ソングを訳したくなった。あの頃の気持ちが少しばかり蘇ってきた。つたない最後の矜持のようなもの。この曲はお気軽なラブ・ソングでも失恋の歌でもない。そういう体裁をとってはいるが、そうではない。これはいわば〈対他の歌〉だ。つまり世界への通路を裂かれ無惨に失敗し、その多くは自らの内に非があるのだと知ってはいるのだが、それでも最後の場所でそんな行き場のないじぶんを肯定しようとする・死なせまいと抗う、そんな必死の歌だ。この曲のなかの語り手が“Don't think twice, It's all right”と呟くとき、そこには痛みがあり、それらを乗り越え一歩を踏み出そうとする意志の力がある。そのことをディラン自身が40年前のアルバム The Freewheelin' Bob Dylan のライナー・ノーツの中で、もっと上手く語っている。

 

 ディランは Don't Think Twice, It's All Right を他のシティ・シンガーズとはまるっきり違った歌い方をする。「連中のほとんどは」とかれは言う。「これをラブ・ソングのように歌ってしまう-----ゆっくりした気楽なものにね。だけどこれはラブ・ソングではないんだ。これはたとえば、あなたならあなたがじぶんの気持ちを落ち着かせようと言い聞かせる歌だ。じぶん自身に向かって語りかけているんだよ。これはとても難しい歌だ。ぼくも時には上手く歌うこともできるが、まだ充分じゃない。ぼくはビッグ・ジョー・ウィリアムズ、ウディ・ガスリー、レッドベリー、そしてライトニン・ホプキンスが振る舞ったようにはまだ振る舞えないんだ。いつかはぼくもそうなりたいと思っているけど、かれらはいろいろな経験を経ている人たちだからね。時にはぼくもかれらのように歌うことできるんだが、そういうときはいつも意識していないものなんだ。こういった昔の歌手の人たちにとって、あの頃の音楽はある大事な糧だった------人生をさらに豊かにするため、そして辛いときにはみずからを慰めるひとつの道具だった」

 

 そのように私は生き長らえてきたのだし、“まるで天国のドアをノックしているようだ”と歌い続けたディラン自身もそのように生き延びてきた。おれたちの生き様はときにひどく惨めなものだったかも知れないが、それほど捨てたものでもなかったはずだ。そしてこれらの歌が自らの内に呼び覚ますある種の強烈な感情を、おれたちはカネや黄金よりも信じてきた。

2003.10.25

 

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 いちにちつかれたつまらぬかおをして、ふろからあがってきたら、ゆびをくわえたままさきにねむってしまったわがこのかおがきれいなのぼとけのようにみえた。がっしょうするようなこころもちで、しばしだまってみつめた。

 

わが子を
右のわきにかかへ
ちさき妻を
ひだりにかかへ、
さむげに
おごそかに しろくかがやく木のうへをこえて、
その木はふゆがれのごとく
いたづらにていていとたかく
葉はあらずして
いちめんにかがやくものをつけ、
億劫のこころする
ひるなれどよるのごときこの山をこえ、
ゆうべ
夢にそらをとんだ

八木重吉 1924

 

 わたしは、かのじょのためにいきていくのだ。わたしはかのじょのためならば、どんなどろのなかでもあるいていく。

2003.10.27

 

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 奈良から京都へ流れる木津川沿いの土手道の上の猫の礫死体はもう4日も前からそのまんまだ。飛び出した内蔵の赤ん坊の頬のようにうっすらとピンクに染まったその色艶もそのままだ。人間の生き死によりもそんな小動物の何気ない死の風景にいのちのリアルな触感を感じてしまうことはないか。昨日は競輪場のスタンド前の通路のアスファルトの上で一匹のカマキリを見つけた。こんなところに獲物なぞいやしないだろうにと苦笑しながら、首を立たせてすらりとカマを揃えたその姿にどこか凛々しい崇高な精神を感じた。待機(休憩)をはさんで次のレース開始時に戻ってくると、カマキリは誰かに上半身をむしられ死んでいた。指先で軽くつまみとったような首とカマがアスファルトの上に捨てられ、そのそばに残りの下半身が生きていたときのままの姿で立っていた。つまらぬ暇つぶしに興じた見知らぬ人間を憎んだ。

2003.10.30

 

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 映画「Masked And Anonymous」の最後のシーンで、ボブ・ディラン演じる“ジャック・フェイト”は次のようなセリフを喋る。

 

 ぼくはいつもシンガーであり、おそらくそれ以上のものではなかった。ときには物事の意味を知るだけでは充分と言えない。ときには物事が意味しないことも知らなければならない。たとえば愛する人のできることを知らないことが何を意味するのかといったことだ。すべてのものは崩壊した。とくに法や規則がつくる秩序は崩壊した。世界をどう見るかでぼくたちが何者であるかが決まる。祭の遊園地から見れば何もかもが楽しく見える。高地にのぼれば略奪と殺人が見える。真実と美は、それを見る者の目に宿る。ぼくはもうずっと前に、答えを探すことをやめてしまった。

 

 おなじ映画のサントラの冒頭、真心ブラザーズの My Back Pages の前にラジオ説教師が次のように説く。

 

 人は神の心を持っているが、その身体は塵にすぎない。すべての人類は奴隷の種族であり、始まりからそうであった。神は苦しみ悩みはしない。痛みを感じはしない。勇気のある神とか勇気のない神とかはいない。人には勇気ある者もいるし、臆病な者もいる。こうした資質は神とは関係がない。人は地球を破壊して生きてきた。それは運命なのか? それぞれが己に問うがいい。あなたがたは神の前で謙虚でいられるか?

 

 あの路上の礫死体の猫のような不様な晒しものにはなりたくない。

2003.10.31

 

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 私にとってはじめてのバイクであり、ともに長い旅をしてきたわが愛車 SPADA の最期について少々書いておきたい。もう以前からあちこちにガタがきていて、軽視できないその不良箇所(例えばブレーキディスク、ベアリング、回転計、タイヤ、電気系統等々)をすべて修理・交換するとそれだけで上等な中古車が一台買えてしまうといったほとんど瀕死に近い状態であった S は、数日前の晩、京都の競輪場から私を乗せていつものように一時間半の道のりを走り、買い物に立ち寄った近所のスーパーに駐車したところで、メイン・キーがまったく作動しなくなってしまった。長年働き続けた忠実な農耕馬が遂に力尽きて迎える、静かであっけない死のようだった。私は重たいかれの身体を汗だくになって押して歩きながら、まるで大切な友人を失くしたようなひどく哀しい気持ちになった。11年の歳月、述べ8万キロを超える行程。その間私たちは無数の風景を共有してきた。風の匂いを嗅ぎ、雨に打たれ、夜の暗がりに佇んだ。それは私と S だけしか知らない無数の小さな宝石たちだ。そんな言い方をするのは可笑しいと思われるかも知れないが、夫が長年タンカー船の機関長として働いてきた義母は、老巧船がアジアの余所の国に売られていくときはまるで我が子を見送るようで涙が出た、だからあんたの気持ちはよく分かるよ、とあとで私に言った。つれあいは S が自賠責保険の期限切れを月末に控えいいタイミングだからとちょうど買い換えを話し合っていた矢先であったから、まるで私たちの話を聞いていたみたいだ、ひょっとしたらほんとうに聞いていたのかも知れない、と言った。それから二三日は、どこかじぶんの中の一部が死んでしまったような落ち込んだ気分だった。

 中型二輪の免許を取って、はじめてバイクに乗ったのは20代も後半の秋だった。当時、車の免許さえなかった私にとって、バイクは新しい世界だった。自転車より速く遠くへいけるというだけじゃない。ひょっとしたら小学6年生のときにビートルズの音楽に出会って以来の革新的な出来事であったかも知れない。世界が拡がったような気がした。風や鳥や獣になれるような心地がした。このバイクさえあれば、ほんの一抱えの荷物だけ背負って、どんな世界の果てへでも流れ着いてそこで暮らせるような気がした。そして実際、見知らぬ土地の海辺や河原や街角や、家からほど近い何気ない山あいを走っているときでさえも、私はずっとそんな気分でいたのだ。

 通勤の必要上から新しいバイクをなるべく早く見つけなければならなかった。何とか最低限の金を工面して、どうしても足りない分はある人の厚意にすがって一時用立ててもらうことにした。かねてから次にバイクを買うとしたら小型のオフロードを、と思っていた。毎晩のようにWebで中古バイクのサイトを漁ったが思うような物件がなかなか見つからず、結局、近所の中古バイク専門店の某チェーン店の在庫検索より私が選んだのが、スズキのジェベルという名の125cc、4サイクル・エンジンのオフロード・バイクである。燃費が良く、タンク容量が大きく、明るめのライト。そして何よりこれがいちばん肝心なのだが、オフロードにしては足つきが良い(といっても私の短足ではやや爪先立ち気味になるのだが)。このバイクを伴侶に世界中を旅したという人のWebページを見つけたのも何やら気に入った。

 125ccのクラスにしたのは維持費が250ccよりさらに安くなるためである。高速道路は走れず、スピードも実質80〜90キロくらいが精一杯だろうが、いまの私にはそれで充分だ。スピードも馬力も出ない代わりに、こんどは熊野の山々のすみずみまで、河原でも杣道でも毛細血管のように入っていくことができる。そしていままでよりもう少しスピードを落として、周囲の風景をもっとゆっくり見られるようになりたい。

 車体価格、約17万。それに整備代、登録代、自賠責保険等の諸費用、サービス価格のバッテリー交換とエンジン・オイルのボトルキープなどのオプションを付け、さらに SPADA の引き取りと処分・廃車手続きなどの費用をサービスしてもらい、しめて約22万円。当初考えていた予算を越えて思わぬ高い買い物になった。

 手付け金を払ってきた帰り道、車の中で私の心はすこしばかり浮かれていた。昔子どもの頃、はじめて自転車を買ってもらった、あのときとおなじざわめきだ。私はきっと、バイクがとても好きなのだろう。

 ジェベル125 はもうじきわが家にやってくる。

2003.11.4

 

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 昨日今日の二日間、京都の市民防災センターにて防災センター要員の資格講習を受けてきた。防災センターというのは、たとえば大規模店などの火災報知器とかモニターとか非常用エレベーターの管理とかさまざまな機械警備が集中した施設内の情報基地のようなものである。先だって取得した常駐警備の資格のからみなのだが、まあその話は機会があったらまた後ほど。昼休みに施設内のある体験コーナーにチビの付けているような装具が置いてあったのを見て受付に体験依頼をしたところ、午前中に燃焼についての講義をしてくれた講師が「ずいぶんご熱心ですなあ」とやってきて、やけにいびつな形の足の装具に不自然な角度で首を固定するギブスのようなものを付けられ、これが身体の弱ってきたお年寄りが体験する日常なのだとその格好のまま階段を上らされたり便所や風呂に入らされたり部屋の敷居でつまづきそうになったりしたのであった。しかしこの防災センター、他にも3Dの地震体験や強風体験、消防士のゲーム機や、人形を使った人工呼吸の指導など、下手な遊園地なんかに行くより家族で半日くらいタダで遊べて勉強にもなって結構いいんじゃないかと思ったりしたのだった。

 家に帰ると他府県の店舗にて展示されていたジェベルが搬送されてきたと連絡があったというのでさっそく見に行った。バイク屋がわが家からちょうど反対車線側にあるので近くの交差点角のホームセンター駐車場に車を入れてそこから歩いていったところ、ちょうど目の前で左折車と原付バイクの接触事故が起きて、しばらく車のタイヤに踏んづけられたバイクを起こして車体を点検したり、左足を痛めて屈み込んでいるバイクの青年に肩を貸して安全な舗道に移動させたりした。やがて救急車がやってきたが、その間チビはつれあいにしがみついて少しばかり怯えているようだった。わがジェベル125は思っていたよりきれいで、状態もかなり良さそうだった。走行距離は8千キロだが、ほとんど通勤用か町乗りにしか使っていなかったようで、店員によるとラフな林道を走ったような形跡がないと言う。駐車場内を少し試し乗りさせてもらった。軽い前傾の SPADA と違い直立姿勢といった感じで足のステップも前方に付いているので何やら奇妙な感覚だが、これはじきに馴れるだろう。ブロロンッといった感じのエンジン音の軽やかさは 250cc に比べるとまるでエンジン付きの自転車のようだ。ただ車体はジェベルの 250cc とおなじものなので見た目はわりと大きく見える。これからナンバー登録などをして、土曜か日曜には納車できるそうだ。

 チビは今日はプールで、年長のクラスに進級してはじめて母親と離れてひとりで入った。はじめの半時間は泣き続けたそうだが、後半は馴れてきたようでつれあいもひと安心といったところ。「泣いている最中でもね、この子、先生が“はい、バタ足始め”って言うと泣きながらちゃんと足は動かしてるの」と、つれあいはときおり可笑しそうに思い出してはくすくすと笑った。

 「天皇制の基層」を読み終え、豆パン屋アポロで借してくれた「ミュンヘンの小学生 娘が学んだシュタイナー学校」(子安美知子・中公新書) を京都行きの電車の中で読み始めた。風呂の中ではむかし古本で買った「スタンダップ・コメディの勉強」(高平哲郎・晶文社) を読んでいる。

 「ミュンヘンの小学生 娘が学んだシュタイナー学校」の冒頭で、家族でドイツへ短期移住した著者夫婦は6歳の娘を通わせる学校について思い悩む。あるときドイツ人の知人からシュタイナー学校のことを聞き、町で買ってきたシュタイナー教育についての本の中に次のような学校の基本理念を記したことばを見つける。

 

「戦争や窮乏が人間をよくすることはありえない。
 だが、経済の高度成長や、富もまた人間をよくしえない。
 道徳的なお題目は、どこからくるものであっても、けっして人間をよくしない」

 この三項を読んだ夫が、はたと手をたたいて言った。
「よし、この学校だ。すぐいってみよう」

 

2003.11.5

 

 

 

 

 

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