■日々是ゴム消し Log9 もどる

 

 

 

 

 先日、例のガレージの八百屋でつれあいが買い物をするのを赤ん坊を抱いて待っていたとき、店のおやじさんからひん曲がった小さな青首大根をひとつ貰った。はじめて作ってみたんだが形が悪くて売れねえ、下ろしにすると甘くておいしいよ、と言うのである。今日は昼に、その青首大根を半分使って「下ろし蕎麦」にして食べた。皮を剥いても中まで緑色で、鮮やかな「春の色」であった。夜はおなじ八百屋で買った菜の花で、以前にも作った菜の花と豚肉の炒め煮と、豆腐のステーキ、それにスーパーの見切り品の棚に並んでいた既製品のシュウマイが夕食。最近また少しづつ台所に立つようになった。彼女がこどもと共に実家へ行っている独りの間は、スーパーの半額の弁当やインスタント食品ばかり食べていたのである。やはり料理というもの、自分以外に食べてくれる人がいてこそ作る気にもなれるものだと思う。

 

 

 昨日の日曜の新聞であったか、作曲家の高橋悠治がインドネシアの舞踏家と組んだ「縄文ジャワ」なる新作のレポートが載っていた。出演者はインドネシアの舞踏家三人と、ガムランの作曲家・演奏家、日本から三絃と箏の奏者たち。「楽譜も決まり事もいっさいない」 これはいわば高橋が長年試みてきた、西欧的な知のシステムから音楽と人間を解き放つための新しい関係性の模索だ。互いに異質な伝統に根を持つ演奏者たちは、緊迫した集中のなかで内なる音を奏でながら、それが他の奏者の音と混じり合いときには反撥し合うのを聴く。そして最終的に「音を発する行為がひとつの空間を浸食し合うのではなく、ゆるやかに共存していること」

 

 音楽を生み出す人と人との関係は、いつでもどこでも社会の写し絵だった。オーケストラの階層組織は産業革命以降の欧米の社会システムを、バリ島の芸能ケチャは村の共同体組織をそのまま、仕組みとして取り組んでいる。としたら、音楽を紡ぐ人たちの関係を変えることで、何かを社会へ投げ返すことができるかも知れない。

(友情と平和の未来迎える儀式・朝日新聞・白石美雪)

 

 バリ島の音楽・ガムランについては、最近 Books でとりあげた「回想 日本の放浪芸」のなかでも著者が分かりやすく記している。「一人一人のパートはシンプルなものだが、全体として音が合わさると、青銅の楽器などのわずかな音色の相違や響きの微妙なずれが共鳴して独得の世界をつくりあげる。このことは、クラッシックのオーケストラが練達の個人の集合体を前提とした組織であることと対照的であり、興味深い」 つまりそれは近代化以降のわれわれが自明のものと思っている個人主義的な価値観、あるいは弱肉強食の経済システムとはまったく別の土壌を照射しているのだ。

 おなじような風景を、たとえばかの藤原新也はあるエッセイの中で、やはりこれもバリ島で聴いた深夜のカエルの大合唱についてこんなふうに記している。騒音とも思えたカエルの大音響が、あるとき急に耳障りなものでなくなった。そして一見ばらばらな音の塊に感じていた何万というカエルの鳴き声のなかに、かれは「ある一定のリズムがある」のを聞く。「ちょうどあるいくつかの集団と集団が異なったパートを受け持っているように音の強弱が微妙なリズムで交差しながら、なにかそれが音楽の一形式であるかのようなウェイブを描きはじめた」(藤原悪魔・文藝春秋) かれはそれがバリ島のケチャとそっくりであることに気づき、その妙なる音楽を自我が消滅した自然の民だけが聞き分けることが出来る「混沌の中の律動」であり、西欧の音楽形式でいうところの指揮者を森羅万象の自然の営み、水や樹木や動物たちのなかに存在するアートマン(真我)になぞらえそれを、神のタクト、と書いている。何も遠いバリ島のことだけではない。それはかつて私たちも持っていて、文明の「進歩」と豊かな物質と引き替えに売り払ってしまったものの名前である。

 

 

 今夜はドニー・ハサウェイの The Ghetto をヘッドホンで聴く。こんな薄っぺらな銀円盤に、こんなに熱いソウルが詰まっていることを不思議に思う。堰き止められた私の魂が溢れ、捻れ、うねりを増し、排水口を砕かんばかりにどっと流れ込む。

 

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 現代音楽の作曲家・クセナキスが死んだ。カオス的な「音の雲」とも形容されたかれの音の洪水を、20代の頃によく高橋悠治の卓越したピアノ演奏で聴いたものだが、偉大なる20世紀の“捨て石”という気がする。西欧の知の原点とも言うべきギリシャ生まれのこの音楽家が目指していたのは、皮肉にも「西洋近代が生みだしてきた音楽文化の殻を内側から破ろうとする」間断なき試みであった。クセナキス、ジョン・ケージ、メシアン、寅さん。これで植木等が死にでもしたら、いよいよ私の中の20世紀も本格的に幕を閉じることになろうか、なぞと感慨に耽ることしばし。昨夜は高橋悠治のことを書いたと思ったら、これも奇妙な偶然かも知れない。

 今日は朝から大阪の職安。昼食におにぎりでもと彼女に頼んでいたのに、今日は寒いから○○さんの好きな王将で何か温かいものでも食べたら、とご飯を炊かなかった。それでいったん駅前に戻って、Mの平日半額のバーガーをひとつ、天王寺公園のゲートの下で雨宿りをしながら頬張った。いままで気づかなかったが、植え込みのところに浮浪者の人たちの「ホーム」が随分と建設されている。ダンボールではなくちゃんとした板張りの住居で、ドアや小さな窓もあり、曇りガラスの向こうに並んだ調味料らしきものの影がぼんやりと透けて見える。いや、なかなか立派なものだなあ、となかば関心しながら眺めていた。

 「よく浮浪者の人なんかに、おまえもちゃんと働けよなんて説教する奴がいるけど、あれって大きなお世話なんだよな」 かつてブルーハーツのヒロトがそんなことを言っていて共感した。では武満徹との対談集に載っていたジョン・ケージのこんな言葉はどうだろう。「そう、日本は恵まれている。でも先程のオーケストラの音楽家たちじゃないけれど、やりたくもないことをするために雇われるくらいなら、失業していた方が、むしろ、ましだろう」 これはべつに、自己弁護の意味で言ってるんじゃないんです(^^) これはつまり、ディランの Maggie's Farm だ。みんなが“No !!”といえば革命が起こる。実際にケージのような人なら、ほんとうに森で採ったキノコだけを食べて生活してしまうに違いない。かれらの音楽は日常の革命なのだ。自明だと思っているものを、ひっくり返してしまう子供のような企み。突拍子もない悪戯のような音楽から、思いもかけない景色が覗けて見えてくる。

 当時、かれの音楽的日課といえば、イリノイのコンピューター・センターに毎朝、インプットするプログラムを運んでいく、そして夕方、またそのアウト・プットをとりに出かける、というものだった。そしてかれは言う「自分はまるで日本の水車守りのようだ。水車はひとりで働いて米を搗いている。自分は何もせずにぽかんとして待っている。ビューティフル(素敵)だと思わない?」

 ある人がケージについて、こう評していた。ぼくはこのシンプルで的確な駄洒落が好きだ。

 

 かれはあらゆる手段を使って私たちに、無垢の、幸福な新しい耳 A Happy New Ears(耳) の所在を知らしめる。

 

 A Happy New Ears ! と、ぼくは遅ればせながらの21世紀への挨拶をぼく自身と植え込みの「ホーム」に向かって、バーガーの最後のひとかけらを喉の奥に呑み込んでから、そっと呟いたのだった。

 

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 もうかなりの日本昔話だが、はじめて紀伊半島の地を訪れ寝袋を背負って新宮から奈良まで熊野川沿いの徒歩旅行を企てた翌年、おなじ友人と修験のメッカ・大峰山を縦走した。東京から熊野市を経てバスで池原ダムのほとりで一泊し翌朝、鬼の子孫の村と伝わる前鬼から暗い大日岳の斜面へとっついた。折しも台風が接近しつつある不気味な静寂のなかで、しとしとと合羽に貼りつく冷たい小雨が煙り、密集した熊笹がおいでおいでと魑魅魍魎のせかいへ誘っていた。その日は山伏たちが勧請を行う聖なる深仙の宿の無人の山小屋にて泊した。岩の合間から伝い落ちる湧き水が旨かった。二日目。雨風がますます激しくなる尾根道で、友人がへたばった。せめて弥山の山小屋までは行きたかったのだが、もうこれ以上は歩けないと憔悴し切った友人のために、途中の半壊した山小屋にとどまることにした。半壊というのは、屋根が半分朽ちてなくなっているのである。ほんとうはいけないことなのだろうが、あまりの寒さに小屋の壁の内側の板をはがして火を焚いて身体を温めた。夜は吹き込む雨を防ぐために、テントを袋のようにかぶって寝た。肌に密着したテント地を叩く雨音が五月蠅くて、なかなか眠りにつけない。まったく死にたくなるような惨めで長い夜だった。三日目にして僅か数時間でようやく弥山の有人の大きな山小屋に辿り着いた。だだっ広い二階の畳敷きの部屋で薄い毛布にくるまり、インド土産の葉っぱで巻かれたあまり旨くもない煙草を吸った。管理人は無線で、山上ヶ岳から行者環岳を目指していた中高年の登山グループが遭難しかけているという情報を受けて、救出に向かうところだった。麓の天川村ではキャンプに来ていた子供たちが浅瀬に取り残されているという話だった。台風は見事に紀伊半島のど真ん中を直撃していて、いにしえの奥駆け道を蹂躙していた。しばし休息をとってからとても立っていられない酷い雨風の中、山小屋の裏手にある弥山の山頂、天河弁財天の奥の宮を見に行った。翌朝は、台風一過のあの天の奇蹟のような晴れだった。昨日までの鬱々とした気の滅入る景色がまるで幻のように、雨に濡れた葉がきらきらと輝いていた。歩いているうちに、私はなぜか分からず気持ちが昂揚してきて、天川村へ下る尾根道をいつの間にか気狂いのように走り出していた。まだ疲れのとれていない友人を後ろに残していたが、なに、ここからは迷う心配のない単純な一本道だった。転げ落ちるように奔りながら、私は気がつくとわけの分からない絶叫を知らず発していた。身体中に生命が漲り充溢して、そのままでは破裂しそうだったから、わあっ---と叫びながら駆けた。抜けるような空の青と雨に濡れて生き生きと輝く樹木の緑のはざまで、天の道を駆け続けた。孤独だが、ひとりではなかった。

 

 あのときの信じ難い脈動は、いまもこの身体の一部が覚えている。そしてあれが生きているということ、ほんとうに生きているという実感で、あの感覚をふたたび得るために自分は存在しているのだと、いまも私は確信している。それが人生の目的だと、得心さえしている。それ以外のことなど、本当にどうでもよい。使用済みのコンドームのごとく、いつでも惜しみなく捨てられる。

 

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 今日は昼はチャーハン。ニンニクと葱と玉葱、人参、ベーコン、さつまいも、そして卵。冷蔵庫に残っていた大根の葉も使おうと思っていたのだが、うっかり忘れた。同じ玉葱、人参、さつまいもで簡単な中華スープも作った。

 昼頃につれあいの実家から冷凍のまぐろやひじきなどを詰めたクール宅急便が着いたので、夜はまぐろの刺身に大根のケン、玉葱と小芋の味噌汁に、つれあいがひじきと揚げと人参を炊いてくれた。

 赤ん坊は食事時になるといつも決まったようにぐずって、結局私と彼女のどちらかが膝に抱えて不自由な食事をすることになる。抱かれるとテーブルの上を眺め、箸やスプーンが行き交う皿の中身を興味津々でじっと見つめている。私は食べながらメニューをひとつひとつ説明してやる。赤ん坊はテーブルの端に顎をちょこんと乗せて、たいてい涎を垂らしている。テーブルの端を、囓らんばかりの勢いではぐはぐと噛んでいるときもある。

 

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 あのヘンゼルとグレーテルの兄妹のように、こどもというのはきっと、汚れなき純心無垢と抱き合わさった、大人にはない決然とした運命を切り拓く力を持ち合わせているに違いない、と思う。だから私たちは己のこども時代の思い出を、和紙にくるんだ小さな貝殻のように引き出しの奥にそっと閉じこめておく。かれらが勇敢なのは、みすぼらしい体験というものがまだ何もないに等しいからだ。白紙の心は何ものにも縛られず、自由で、怖れを知らない。

 ユージーン・スミスという写真家をご存じか。かれは日本で水俣病患者の過酷な現実、モノトーンの非情で美しい、ニンゲンの愚かさと気高さの凝縮された写真を幾枚も撮った。あるとき細君から、そんな暗い写真ばかり撮っていないでたまには明るい写真も撮ったら、と言われて何気なく、まだ幼い自分のこどもの姿をカメラに納めた。兄がそっと幼い妹の手をとり、森の小径を光の方へ誘っていく。まるで小さな二人のキリストのようだ。タイトルの The Heirs というのは、「継ぐべきものたち」とでも訳したらいいだろうか。光の先にはおずおずとした足取りの、だが確かに揺るぎない「希望の決意」がある。

 今日は一日、ずっと昔に新聞記事から切り取ってノートに貼ってあった、その写真をただ見つめて過ごした。

 

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 ときどき、夜の湿った空気のなかで、微かな声が聞こえる。あまりに微細な囁きで、何を伝えたいのかは分からない。ただ、もっとこちらへ、もうすこし耳を寄せて、と言っているのだけが、いつもかろうじて聞き取れる。

 

 今日は昼は焼きそばをつくった。かたわらで寝かせている赤ん坊が無邪気に声をあげているのを見て彼女が、この子を見ていると涙が出てくる、と言って泣いた。それからじっと赤ん坊を見つめながら、こう言った。この子がいるために悲しい気持ちにもなるし、この子がいるから逆に気持ちが救われるときもある、矛盾していることだけど、うまく言えない.....

 

 なぜだかいまは誰にも会いたくないし話したくない、そんな気持ちになれない、と彼女は言う。そして、変な話だけれど○○さんがこうして失業して毎日家にいるために、家族三人で八百屋さんに買い物に行ったり図書館に行ったりする時間がとても愉しくて嬉しいことに思えてくる、と言う。誰にも会いたくないけれど、三人だけでずっとこうしていたい。

 

 いつであったか、二人がまだ籍を入れないまま暮らしはじめた頃、彼女は精神的にとても不安定で、ときどき小さな諍いからよく発作を起こした。そんなふうに悲しい夜を過ごしたある朝、ちょうど白々と日が昇る早朝に、おそらく一晩中眠れずに起きていたのだろう、ベランダから呼ぶ声に目を覚ました。ほら、来て。いまにも咲きそうなの。二人で頬を寄せ合い、息をつめて見つめている間に、鉢植えの桔梗の蕾が音もなくするすると花弁を開いていった。まさに一瞬の朝の神秘劇だった。まるで愛おしい赤子を見るように、疲れた額をきらきらと輝かせながら黙ってそれを見つめている彼女の顔を横目で見ながら、不思議な人だ、と私は思っていた。

 

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 午前中、いつものように赤ん坊を抱いて、三人で歩いて買い物に行く。ガレージの八百屋で、ジャガイモを5キロに、人参一袋、菜の花一束、それに赤ん坊に飲ませる果汁用にキウイを三つ買って、おばさんは320円にしとくわと言う。すぐ近くのスーパーで菜の花は298円、キウイは一個50円(サティでは98円)している。いったいどんな計算なのかなあ、とあとで二人で話す。今日はお昼にこの菜の花を使って「菜の花のいり豆腐」という一品を私がつくった。あっさりしてほろ苦い春の味、である。

 春といえば、いまふと思い出した。小学生の頃に国語の授業で詩を書かされたのである。私は大得意で隣の席の女の子の代筆までしたのだが、提出した私の作品に教師は少しばかりクレームをつけた。春の土手をさみしい憂鬱な気持ちで歩いていく、たしかそんな感じの詩だったと記憶しているが、教師は私に、春だろ、希望の季節じゃないか、もっと明るい気分にならなきゃ、と言った。春イコール希望に膨らむ季節。私はこの陳腐な押しつけがましい定型にうんざりして、以来その教師を侮った。だいたい大人というものは、自分のチンケな頭の中の常識を子供に押しつけすぎる。何やら最近この国の国会で唐突に語られている「奉仕活動」なぞというもののきな臭さにも似ている。奉仕活動やボランティアなんてものは、あれは本来隠れてこそこそやる恥ずかしいものだろ。ましてや人に言われてやるようなものでもない。どうせそのうち、いつものやんわりした手口で「奉仕」を「徴兵」に変えていこうと思っているのかも知れないが。そうそう、マリー・シェイファーだったか、ある現代音楽の作曲家が学校の授業についてこんなことを言っていた。「はじめは教師が馬鹿で、次に生徒が馬鹿になる」

 

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 たとえば私がアメリカ国籍を取得してかの国に帰化したとする。私は当然、アメリカ人である。またネイティブのアメリカ大陸の先住民たちは、かつて暴力によって無理矢理に「アメリカ人」にされた。縄文時代に朝鮮半島から渡ってきた人は「日本人」であり、昭和になって強制移住させられた者は「在日朝鮮人」である。つまり「国」というのは一種の便宜上の区分であり、さらに正確に言うならば「○○人」というのは、その便宜上の区分である「国」の法制下にある人々である、ということに過ぎない。

 では「日本」(という国号・呼び方)はいつできたのだろう。現在では学者の意見はおおよそのところで一致していて、7世紀から8世紀。対外的には702年に中国大陸に渡ったヤマトの使者が周の則天武后に、それまでの「倭国」から「日本国」への国名の変更を明言したのが史実に残された最初の記録であるという。つまり前述の定義をここであてはめるなら、それ以前には「日本」も「日本人」も存在しなかった、ということになる。

 そればかりか、この7,8世紀に成立した「日本」という国を現在の「国境」の線引きにあてはめるのも浅はかなイメージで、実際、当時の「日本」の基盤となっていたのはヤマトを中心とした本州西部・四国・北部九州の地域で、中部以東・関東・東北南部はいわゆる異族たちを武力によって侵略・服従させたものであり、東北最北部は12世紀まで「日本」の侵略に抵抗を示し、沖縄には19世紀まで「日本」とは別個の琉球国が存在し、北海道のアイヌの人々もまた明治以前までは「日本」の外にあって、その豊かな文化を育んでいた。

 付け加えれば「日本」が古来より閉鎖的な島国であったというのも近代の誤った歴史観であり、最近の研究でははるかに遡る縄文時代よりこの列島に暮らす人々は、海という便利なルートを通じて極東のシベリヤや朝鮮半島を含む中国大陸、あるいは東南アジアの島々と深い交流があったことが次第に解明されつつる。つまり「国家」なぞというチンケな線引きにとらわれない、もっと大きなスケールで人やモノが海の道を活発に行き交いし、様々な文化が多層的にゆるやかに共存していたのである。そのような風景こそが、まさに事実に相応しい。

 というわけで、本日は「建国記念日」であるそうな。「日本」ははるかな神代の時代より存在してきた「神の国」であり、その「神代」の時代の神話的存在である「神武天皇」が即位した戦前の紀元節の2月11日という日を祝って制定された。神武天皇が即位したという橿原神宮なんて、明治以前には大和の何にもないただの辺鄙な土地だったのだよ、実際は。テレビでは東京の明治神宮で「建国記念日をもっと国をあげて堂々と祝える日にしよう」なんて集会が催され、また国会では相変わらずノータリンの首相が「日本固有の文化をさらに大事にしていきたい」なんて話していた。

 私は味噌汁も納豆も米も大好きだが、小学生より劣る貧しい知識しか持ち得ない背広を着た偉そうな大人に「日本固有の文化」なんて言われ方を押しつけられると、肛門の周りがむずむずとしてきて思わず爪を立てて引っ掻きたくなってくる(最近ちょっと痔瘻気味なのだ)。学校の授業ではおそらくこんなことは教えないんだろうし、現にうちの近くの近鉄の駅には今日一日「日の丸」が掲げられていたし、こういうアナクロニズムの偏見に満ちた雑な認識が結局は世間に通ってしまうのだろう。「縄文時代にも日本人がいた」なんて新聞記事の書き方はおかしいのだと指摘するのは鋭敏すぎると言われるかも知れないが、実は日常のなんでもないと思われる些事が、以外と深く暗い根を降ろしている。

 お節介かも知れないが、日本共産党も党名に何気なくつけた「日本」の意味をいったいこんなふうに考えたことがあるんだろうか。というのもノータリンの首相だけでなく、たとえば先の国旗・国家制定法に反対した野党の政治家や、今日の記念日に反対の集会を開いていた労組や教職員組合といった人たちも、そうしたことを果たして深く考えたことがあるんだろうかと思ってしまうからである。「国」というのは最大の幻想であるが、最大の幻想であるが故に容易にひもとき難いやっかいな幻想でもある。

 最後に、ここで披露した知識はすべて歴史学者の網野善彦氏の一連の著作に拠っている。最近刊行された、講談社「日本の歴史」シリーズの「「日本」とは何か」と題する著書で、たとえば著者が一歴史家として果敢にも次のように明言する件に、私は共鳴するものである。

 

 このように虚偽に立脚した国家を象徴し、讃えることを法の名の下で定めたのが、この国旗・国家法であり、虚偽の国を「愛する」ことなど私には不可能である。それゆえ、私はこの法に従うことを固く拒否する。

 

 法もまた、言ってみれば国のチンケな線引きに過ぎない。悪法ならば破っても仕方がないし、最後にはあなた自身がどう思うかということだ。つまり(当HPの表紙に掲げている)ディランの "But to live outside the law, you must be honest" (法の外で生きるには、誠実でなくてはならない) というのは、そういうことだ。他の誰にも委ねない自分自身の価値観を持つということ。本当に必要ならば「日の丸」くらい、いくらでも燃やすよ。

 

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 つれあいの和歌山の博物館時代の同僚で、私たち二人の共通の友人でもある Chie ちゃんがひさしぶりに来宅。同僚といってもつれあいや私より若いまだ花の独身女性である。和歌山の博物館を辞めてから、大阪南部の地元に新しくできた博物館で働いていたが、最近そこを辞めて、いまは派遣のアルバイトをしている。赤ん坊のお祝いに布でつくられた「ふかふか えほん」のセット、北海道みやげの地酒、それにいつものように手作りのおいしいケーキを持ってきてくれた。 Chie ちゃんのケーキは玄人顔負けの絶品である。今回はパイ生地に厚いチョコレートを伸ばし、その上にバナナを敷き詰めて焼いたもの。お金を貯めて将来は喫茶店を開きたい、とか。愛車のラシーン(だったか)で昼前にやってきて、昼は私が鶏肉と玉葱の入ったおろしそばをつくり、夜は先週、つれあいの実家が魚といっしょに送ってくれた牛肉があったのでしゃぶしゃぶをして食べ、私が赤ん坊を風呂に入れるのを見届けてから、夜の9時頃に帰っていった。赤ん坊はお祝いに対する返礼の祝砲のつもりか、湯舟にじぶんの握りこぶし大の大便二ケを浮かべて私をのけぞらせた。

 

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 赤ん坊が二日続けて風呂で粗相をした。どうも父親の私に似て尻の穴がゆるいのか、今日はややゆるめで量も大量だったため、またたく間に湯舟は糞風呂である。うわっとのけぞったら、背後に浮遊していたブツを背中で押し潰してしまった。昨日もあまりウンコが出てなくて、今日も直前まで股の間にはさむ程度に出かかっていたので内心嫌な予感もしていたのだけれど。糞まみれになった身体を二人ともシャワーで洗い流して、出かけに、紫乃さん、ほらよく見ておきなさい、お風呂でウンコをしたらこうなっちゃうんだよ、と一面緑の排泄物で埋まった浴槽を両脇を抱えて覗かせてやると、やはり尋常でない雰囲気を感じとったのだろうか、しばらく見つめていた赤ん坊はやがて激しく泣き出した。少し可哀相に思ったが、そのまま泣きじゃくる赤ん坊に見ることを強いた。楽しいことだけではない。これからきっとこんなふうに、教えなくてはいけないことも多々出てくるのだろうなと思った。風呂からあがると緊張が緩んだのかすぐに寝てしまい、目が覚めて風呂の一件はすっかり忘れてしまったように甘えてきたが。

 

 昨日、つれあいの実家のお父さんから郵パックで求人雑誌が送られてきた。こちらの本屋でも売られているごく一般的な雑誌で、あちこちの頁に折り込みがつけてあり、お父さんが選んだ求人部分にそれぞれマジックの赤丸がつけてある。普通、このようなことをされたら、ひねこびた私の性格としてあまりいい気分にならないのだが、寡黙で朴訥としたお父さんの人柄を知っているだけに、逆に素直に、これだけ心配してくれてるんだなぁと心苦しく思う。きっと一日中炬燵にくるまって老眼鏡越しに、馴れない項目に隅から隅まで目を通していたのだろう。実家のお父さんやお母さんたちは私がパソコンという自分たちにとっては未知の機器に精通しているものと思っているので、Webデザイナーやプログラマー、CADやDTPなぞといったおよそ途方もない職種まで数多く選んでいる。こんなもんできるんだったら、苦労しませんがな。お父さんのブックマークは付いていなかったが、明日香村の近くで墓石や石の仏像彫刻をつくっている会社の求人が目に留まった。向こうに工場も持っているらしく、熟練になると年に数回のインド出張もあると。やや興味をひかれて、とりあえず履歴書だけ送ってみることにした。

 

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 C.W ニコルさんの処女作「ティキシィ」は、20代の頃の私の、心に秘めた一冊であった。心酔、というよりそれは限りなく骨肉に近い。透明で過酷な極北の大地を舞台にして、イヌイットと白人であること、またニンゲンと動物、彼岸と此岸のはざまで狂おしくも旋回する純粋な魂の彷徨。作家はこの作品に20年がかりで取り組み、最後には絶望してひとりカナディアン・ロッキーの山中に籠もり、死後に残す遺書のつもりで十日間で書き上げた、という。

 主人公の青年がある事故で記憶喪失となり、たったひとりでニンゲンのいない純白の極北の大地をさまよう場面がある。私はその部分がなぜかとても好きだった。かれはそこで、まるで原初の存在・何者かであるかのように叫ぶのだ。

 

 「おれは、海の者たちの兄弟、ティキシィだぞ」しかしそう名乗った時、英語の「アイ」という単語の性質が気になった。意味のない言葉だ。そこで「アイ」を抜いて、もっと感じのいい名乗りに改めて、くり返した。
 「海の者たちの兄弟、ティキシィがここにいるぞ。

 「たしかに」と彼は考えた、「ティキシィは無に違いない。人間の中の魂だけだ。人間との結びつきが一切ないのだから。ティキシィは独りだ」彼はまた考えてみて、独り言をつぶやいた、「おれはほかの人間がこわい」
 彼の記憶喪失は無差別な忘れ方ではなかった。知識は残ったが、極北での経験以前の、人の顔や、感情だけは失われたのである。彼は眩暈を感じて、坐りこんだ。心を静めなければならぬ、心に自身を責めさせないようにしなければならぬ。

 

 今日はテレビ(NHK)で、年末に閉店した奈良そごうの最後の数日間を追った番組をつれあいと二人で見た。クローズ・アップされていた二人の若き課長は奇しくも私と同い年であった。会社に残ることを希望して関東への転勤を前提とした再試験に望みを託すもの。己を燃え尽かさんばかりに閉店の最終日まで奮闘するもの。

 私自身は、資本がないから他人に雇われるより他に術がないのであり、ただ食うためにやむを得なく己の貴重な時間を切り売りしている。だから経営困難のために己を容易に切り捨て、すでに潰れると分かっている会社のために残業までして奮闘するという感覚は、確かに情熱的であり自らの一種の「美学」あるいは己のための「筋」であるのかも知れないが、残念ながら私には最後まで理解できない性質のものであった。それはもしかしたら、これまで私がそのように入れ込むに値するほどの仕事を持ったことがないことに由来しているのかも知れず、またそのような不遜な考え自体がそもそも私を採用する経営者の少ないことの理由であるのかも知れない、なぞとなかば自虐的な苦笑も誘われる。

 もうひとつ、ニコルさんが書いていた、かれが極北で実際に経験したこんな話を紹介しよう。(記憶をもとに書くので、これはニコルさんの文章そのままではない)

 

 かれは一人のイヌイットの老人とアザラシ狩りに出かける。
 かれはカヤックを漕いでいた。
 大きなワタリガラスが一羽、かれらの真上を飛び交い、ちょうどかれの頭上で鐘のように響き渡る澄んだ、深い声で鳴き、去っていった。
 「あいつは、お前が兄弟だと言ったのさ」
 イヌイットの老人が微笑んで言う。
 そして老人はかれに、カラスがかれのトーテムであること、だから決してカラスを傷つけてはいけないこと、もしカラスのいない土地に長くいると病気になってしまうこと、そのときかれの「心の主」(魂)は、他に自分の同胞を見つけるために跳び去ってしまう、そうするとかれは死んでしまうこと、などを教えてくれた。

 

 もしかしたら、ある種の人々にとって会社・仕事とはこの「心の主」のようなものなのかも知れない、と世間知らずの私は試みに想像してみたりする。それならば、あのテレビに出ていた者たちの感情も少しは得心がゆく。私にとって生きる目的とはそのようなものであり、私は私自身のワタリガラスを探し求めている。それはこの疲弊した経済システムの中には存在しないと割り切っている。それじゃあいったいそんなものどこにあるんだ、とせせら笑う方もいるやも知れない。

 では、これからちょっとそれを探してくる。

 

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 意外とじぶんは姑息なところで生きているのかも知れない、と思う。浴びるほど酒を飲んで自制心をほどいたら、やっと自分のほんとうの顔がすこしだけ露わになるのかも知れないと思う。ずっとむかし、冬の間中、誰もいない山の中をひとり歩きまわって過ごした。滝が落ちるのを眺めながら、考えた。自分と共に落ちていくものにしがみついても何にもならない。考え方をすっかり変えてしまおう、とディランは歌った。自分というものに価値はない。自分の考えることなど、およそ泡沫に過ぎない。だがそれでいいんだよ。誰も、誰ひとり裁かれることのない場所がある。落ち葉の厚く堆積した斜面をかさこそと忍び足であるいた。裸の樹々が枝を広げて、薄曇りの空にしずかに突き刺していた。ときどき自分は、幻の上に立っているのではないかと思う。幻の上に立っているのだから、あるものはなくて、ないものはもとよりない。そうしてすれ違って、自分はひとと言葉が通じなくなる。だがそれもいい。ニガヨモギから醸造したアブサンを呷って、硬質な夢に溺れるのも時にはいい。ああこうして、悪魔にも似たこの頭を休ませてやるんだよ。なぜなら「狂った人間だけが頭で考える。われわれは心で考える」とあの風の民が言っていた。知っていたか。ぼくらはみんな掌に風の通い路を持っている。そこでぼくらは本物の〈呼吸〉をする。だからさみしいひとはときおり背中をまるめて、一生懸命じぶんの掌に息を吹き込もうとしている。それが“さみしい”ということのほんとうの形だ。冬の枯れた地面は暖かい。よく見ればそこかしこの落ち葉の下に、何かほんわりしたものが埋もれている。堅い樹皮もその下に、無邪気な春の企みを隠している。イエイツが書いていた。「大きな記憶 自然そのものに具わる記憶」 人も植物もひょっとしたら、地下茎ではおなじ眠りを貪っているのかも知れない。足元の枯れた小枝をぽきっと折る音は、さみしい人間の心に近しいからぼくはきっとそう思う。素直な心で空に浮かべたシーツは、きっといちばん自然に近い形そのままで地面に舞い降りる。

 

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 例の水産高校の実習船が沈没した事故で、アメリカ側がこれ以上の捜索は無駄であると捜索の打ち切りを発表したのに対して日本の遺族たちが猛烈に反撥してアメリカ側もなかばしぶしぶ捜索を続行することになった経緯について、やはり死生観というか、ある意味で彼我の文化の違いを感じさせられる。あれだけ日数が経った後ではもうさすがに駄目だろうと実際のところ誰もが心の奥で諦念しているはずなのだが、その一方で無理と分かっていても続けて欲しいという情緒的な心情にも共鳴してしまう。遺体を有しているかも知れない船の引き揚げに対する執念もまた同じく。南洋の島々に戦後何十年も経っても太平洋戦争のときの遺骨を収集する遺族たちの訪問団を例にとるまでもなく、この国の人々はやはり遺骨というものに対してどこか特別な感慨・執着があるようだ。髑髏(どくろ)、しゃれこうべ、などといった言葉には、どこか死体や遺骨を単なる死後のパーツ・組成物と断じるには体温がある。

 実習船の沈没事故とは関係ないが、だいぶ昔に新聞で目にした、こんな短い話を思い出した。ノートに貼り付けた朝日新聞の色褪せた「天声人語」の切り抜きで、そのまま一部を引用する。

 

 だいぶ前に海外で飛行機事故が起き、多数の死者が出た。日本人の乗客もいた。その時に聞いた話が忘れられない。

 家族がかけつけて次々に遺体の確認をする。最後まで特定できない遺体が三体残った。歯形の照合も難しい。火災で遺体の炭化がひどいのだ。関係者は途方にくれた。その時、家族の中から一人の日本人女性が立ち上がった。

 「失礼します」と、遺体の頭を両手で丁寧にはさむと、目をつむり、頭蓋骨の形を確かめた。一体ずつ、その動作を繰り返す。最後に、その中の一体に戻った。改めて、頭を手で柔らかく包む。と顔を上げ、静かに、決然と「これが夫です」と言ったそうだ。

 

 

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 木曜。赤ん坊を連れて、つれあいが町の保健センターへ離乳食の研修に行った。およそ一時間半のあいだ、赤ん坊は別室で預かってもらったのだが、うちの子供だけずっと火のついたように泣き続けていたらしい。職安の帰りにレンタカーを借りた私が迎えに行き、そのまま直接、和歌山の彼女の実家へ走ったのだが、向こうへ着いて二日間は何かに怯えたように、私か彼女の姿が見えないと泣いて手がつけられなかった。思うに託児室で泣き続けていた一時間半、赤ん坊ははじめて〈他者〉の視線に晒されていたのだと思う。その記憶が恐怖として蘇ってくるのだろう。だから私は、無条件に赤ん坊を抱きしめて慈しむ。誰でも一人くらい、そのように愛してくれる者が必要だから。

 

 和歌山ではハローワーク主催の企業の説明会を覗いてきた。つれあいのお父さんはお母さんに、私が難しそうな本をあんなにたくさん読んでいるのに仕事に結びつくような勉強はしてないのだろうか、役に立つ資格をたくさん持っていておかしくないように見えるのだが、とある時そっと洩らしたという。残念でした、と私は苦笑いをして力なく首を振るより他ない。私が読み散らかしている本は、およそこの世で生きていくには何の役にも立たないものばかりか、むしろこの世のシステムを憎み、そこからドロップ・アウトする憧れをひそやかに支えるためのものばかりだ。ときどき私は本気で思うのだが、私がもし企業の経営者であったとしたら、採用のためにおそらく私は自分を選ばないだろう。これは多分に正当な判断であり、つたない最後の矜持だ。

 

 そういえば、今日の新聞の連載で吉本隆明がこんなことを言っていた。

 

 一見すると明日健康そうであっても、実は病的なことがまかり通ることが、多すぎるのだ。NEWS23が幸福論シリーズというのをやっていた。ボランティアで引きこもり気味の若者を引き出し、デート役を世話する「生きたホスピスグループ」があることを知り、薄気味悪く啓蒙された。わたしだったら逆に、大いに引きこもれ、と言いたい。この世に引きこもらないで専門的になり得るような職業は何一つ存在しないからだ。

 

 一見善意のボランティアを薄気味悪く感じる感覚を、私はしごく正当なものだと思い、そしてそんな意見のあることに少しだけほっとする。

 

 今日はベルギー出身のジャコ・パン・ドルマルという監督の「トト・ザ・ヒーロー」という映画をNHKのテレビで見た。どこか切なく愛おしい老人の回想だが、これは「男の子」の物語だ。日本の大林宣彦の甘酸っぱく切ない童心に、ヨーロッパ風の軽妙なウィットを加味した感じ、だろうか。いまだ「男の子」の私にとって、死んだ姉アリスの面影を宿した人妻エヴリーヌはひどく魅力的で、また交錯する過去と現在のつなげ方が上手い。そして何より映画の持つあの「魔法の力」を軽やかに湛えている。人生よりもまぽろしのスクリーンの上にこそ真実がある、みたいな。「気狂いピエロ」のつかみどころのない自由奔放なアンナ・カリーナに恋していた少年の頃を思い出した。

 

 そうそう、和歌山ではまたいつものように湯浅の施無畏寺の裏手に聳える、明恵の庵跡の岩肌に立って蕩々たる海を眺めてきた。ここで思うのはいつも、この場所で修行中に己の耳を切ったという明恵の逸話だ。いまも京都の高山寺に残る仏眼仏母像にはそのときの血痕とともに、「モロトモニ、アハレトヲホセ、ミ仏ヨ、キミヨリホカニ、シルヒトモナシ」という自筆の讃がかすかな徴をとどめている。おなじように耳を切った、あの魂の求道師・ゴッホのことが思われるのだ。己を傷つけることによって己の魂を救おうとした東西の二人の悲しみの人の姿が。

 それから明恵の残した「阿留辺畿夜宇和・あるべきようわ」という聖句をつぶやいてみる。「あるべきようわ」とは、そのたびごとの自然のあるべき形をいう。それはひとつ場所に安住することのない、瞬間ごとの厳しい自問であるに違いない。たとえば親鸞は「自然・じねん」をこんなふうに説明する。

 

 自然(じねん)といふは、自はおのづからといふ、行者のはからひにあらず、しからしむといふことばなり。

 然といふは、しからしむといふことば、行者のはからひにあらず、如来のちかひにてあるがゆえに。

(自然法爾章)

 

 こころを鎮めるというのは、浮かび上がってくる己の「自然・あるべきようわ」と向き合うことであるやも知れず、私はいつも時にはしらふで時には酔っ払って、それを見つめたいと己の暗闇で目を凝らし、ふっと息をとめる。

 

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 夕食の後、赤ん坊と風呂にはいるのが日課である。身体を洗ってから湯舟で温まり、このごろは私が高々とかかげた手桶から流れ落ちるお湯を見るのが好きだ。ときには手を伸ばしてきて、手の平に当たる感触をじっと確かめている。霊妙なる水の不思議を学んでいるのだろう。ちいさな彼女にとって、毎日が新鮮な驚きの連続だ。

 水の不思議といえば、画家の名前は何といったか、水面に沈む神秘的なオフェーリアを描いた絵が好きだ。水にはたしかに彼岸と此岸を隔てながらも融合させてしまう不思議な感覚がある。みずのなかをおよぐひとはいつも月の光をもとめている、と歌ったのは、あれは朔太郎であったかしら。

 

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 山好きだった父親に連れられて、こどもの頃、よく都心に近い丹沢の峰々を歩いた。窪んだ轍のような山道で遭遇した野生の鹿や、山小屋の薄暗いラムプの灯りなどは、いまでもよく憶えている。それはいまも私の心を惑わせる。いつの頃からか山は、妖しくも懐かしい存在であった。遠野物語に出てくる真っ赤な顔をした山人の姿は、山がこの国の忘れ難い古層を孕んでいることを物語っている。ふたつの異なる顔があって、一方が一方を見つめると怖ろしさのあまり心臓が停止してしまうようなもの。青い海の風が吹き抜ける高所の山もいいが、どちらかというと私は山と里が交わる、そんな低地の鄙びた場所を好んだ。抜け殻のようでいた20代のある一時期、そんなさびしい場所にひとり佇み、熊笹の藪から飛び出してきた山の民(サンカ)の少女が私を彼らの国へ連れて行ってくれるまぼろしを夢想した。河原ではるかな石の記憶をつたい、夕闇にしずかに焚き火をするときには、私はいつも誰かと共にいるような気がしていたし、眠くなりそうな日溜まりの端で草むらがわさわさと風に揺れるときには、思わず息をとめ凝視した。またこんな夢も見た。私には蝦夷の血が流れていると言う老人に山深い館に誘われ、そこで大勢の山人が平地の人間と闘うための砦を築いていることを知らされる。あるいはそこに巫女のようなひとりの女性がいて、魂が救われるような慰めを憶えた。夢はまぼろしのようであってまた別次元の現実なのであり、私の死んだ父親は野生の鹿と出会ったあの丹沢の山道のへりで仰向けに横たわり、はらはらと舞う落ち葉に埋もれて消えていった。どこか神秘的な静けさと啓示に満たされていた。大破した車の中で内臓を潰されて血を流している父より、私にはその風景の方がどこか懐かしく現実であるように思える。河原というのはある種の象徴的な避難場所〈アジール〉であり、山と里との間には兄が血のつながった妹と交わるようないわく言い難い冥い裂け目が、ぽっかりと真昼の夢のように口をひろげている。私は里に居ながら滅びた山の価値観を有しているのであり、そのような裂け目をいまも探している。私のひそやかな企みはそうした間隙に爆薬を仕掛けて、あらゆるこの世の境界をもとの芳しき混沌に帰せしめることだ。

 

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 昨日は四日市から友人が車で来宅し、一ヶ月以上停止していた我が家のMacをハードディスクを交換して修復してくれた。友人がネットのオークションで安く手に入れたハードディスクを譲ってくれたのだが、ちょうど転勤に伴う友人の引っ越しがあったり、我が家が私の実家へ職探しの旅へ出たりしていてすれ違いもあり、予想以上に時間を食ってしまったという訳なのである。パソコンのない元の静かな(?)生活というのも、それはそれでなかなかよいものだった。自己満足のホームページの更新というやつもどこか一種強迫観念的な病気に近い部分があるのかも知れない、なぞと。ともかくこの一ヶ月の間、私はWebやメールのことはすっかり忘れて暮らしていた。我が家の初期のG3青白Macはハードディスクの交換や増設に際してトラブルが多いらしいのだが、友人の持参したブツはどうやらうまく噛み合ったらしい。容量も6ギガから3倍以上の20ギガとなり、友人の助言でパーテーションを利用してハードディスクを四つの区画に分けて使用し、ついでにOSも8.5から9へバージョンアップして話題のアップル提供無料MP3ソフトiTunesも使えるようになり、音も格段に静かになった。そんなわけでMacの件が意外とすんなりと片づいたので、私の手製のパスタの昼食を食べてから友人の車のトランクにベビー・カーを積んで近くの公園へ花見に行き、夜には奈良市にある小麦粉料理の店に夕食を食べに行って、友人は夜の9時過ぎにひとり四日市へと帰って行かれました。深謝。

 

 明けて日曜の今日は近所の親類宅で草取りの手伝いの一日。庭に生えていたつくしに、三つ葉、雪の下の葉(テンプラ用)、そして山椒を一枝貰ってきたので、夕食は冷凍してあった鰻で鰻丼にして山椒の葉を添え、素麺と三つ葉のおすまし、「男のレシピ」に書いたつくしの卵とじをつくって春三昧の晩餐となった。

 

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 ひさしぶりに訪ねた北の土地は黒い湿泥のさびれた塊だった。もとより私の根があるわけでもない。独居の母に請われて庭の芝生に敷石を詰め、門のペンキを塗り替えた。レンタカー屋で借りた車を走らせひとり、棄てた記憶をなぞるような奇妙なとまどいのなかで古いテープを聴いた。昔録った自演の拙い演奏だが恥も外聞もなく、私には沁みた。いくぶんテンポの速いディランのタンバリン楽士や荒廃通りがあり、モリスンの「山をのぼり谷を下ったら沈黙が心を癒すだろう」という歌や、嗄れ声のプレスリーの好きにならずにいられないやリチャード・マニュエルのさみしいスージー、ブルーハーツの魂のナビゲーターやトレイン・トレインがあった。最後は終わりのないモリスンのいつも神の光が輝く、だった。あのころの私はそうだった。音楽は吊し首の前に目隠しを拒否するような最後の意思表示だった。ただ自分で自分を救うためのささやかな手段だった。たいていはカフカのいうように、それは涙も吐息も絶えた場所でひそやかに語られた。母は市議選の渦中だった。共産党の二議席を守るのだと連日朝早くからでかけて、宣伝カーで声を嗄らし、夜には疲れた顔で初孫に頬ずりしていた。古本屋でディックの悲しい黙示録を買った。「出発するよ」「どこへ行くんだい?」「わからない。ここから出ていけば、〈神〉が導いてくれるさ」「ぼくも連れていってくれよ。安息所へ行く道を教えてくれ」 渓流沿いの暗がりでモリスンが歌っていた。おれはヴィーダン・フリースを探している。ヴィーダン・フリースとは何だろう? いつもの滝の落下口に立っていた。冷たい驚きの中で石と水と樹木が人界を隔てて囁きを交わす場所だ。そこではおよそ語られるものなど何もない。ビジョン・クエストとはもともとスー族のハンブレチェヤで、夢幻を求めて泣く意だという。ニール・ヤングの乗った暴れ馬もきっとそうして泣くのだろう。「空間的につながっていない複数の系は互いに密に結ばれている」 滝に至る荒れた山道は杉の倒木や崩れ落ちた岩があちこちに横臥していた。ギアをセコンドに入れて巧みに擦り抜けてきた。帰り道はキンクスの I'm Not Like Everybody Else を知らず口ずさんでいた。ライブ盤のあの鮮烈なギター・プレイが、見送る者もなく夜更けに出航する船が見据える闇のように頭の中を駆けめぐっていた。赤や緑や黄色より、いっそシンプルな黒の方がいい。だからこの話はこれで終わりだ。いまはパソコンのMP3ファイルに変換したディランの Born In Time のライブ・テイクを聴きながらこれを書いている。ひとは誰もがふさわしいときにふさわしい贈り物を受け取るのであり、そしてきっと誰もが間に合って生まれてくる。

 

闇の恐怖は去った
ひとつのことを考えた
いちばん重要なこと
この世を照らす朝日を迎えることだ

(神聖な夜明けを迎えるイヌイットの言葉)

 

 

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 晴天。朝から一日がかりで和歌山の職安を覗いてきた。数日前はまるで夏のような暑い日が続いたが、雨の日をはさんで今日は風が少し冷たい。まあ、4月の初めならこんなものか。電車賃をけちってだが、バイクで片道およそ100キロを往復して夜7時頃家へ帰るとさすがに疲れた。数年前まではこのくらいへっちゃらだったのだが、やはり歳を感じる。そういえばこのごろ腹も出てきたのだよ。おいおい腹の突き出たロッカーなんて様にならないぜ。仕事が決まったらボクシングのジムにでも通おうかな。そしてしまらない30代を正しく全うしよう。いつのまにか沿道の桜もすっかり散ってしまっていた。でも私は花が散った後の新緑の葉が萌え出でた桜の木も好きだ。そう、桜が散ってくれなきゃ、あの素敵な夏もやってこない。散りゆく桜を眺めてめそめそと諸行無常に思いを馳せるのがニホンの心だなんていったい誰が決めたんだい。散った桜の花びらは、かき集めてジャムにでもして食ってしまおう。紀ノ川沿いのオーソドックスな国道はあまりに飽きたので、よせばいいのに行きも帰りも高野山の山懐を抜けるうねうねとした山道を選んだ。春の遅い山間の村はまだ桜は散っていない。谷間に抱かれるように点在する家々は休息していた。休耕田に名の知らぬ黄色い花とレンゲが一面、夢の景色のように咲いていた。そんなのどかな川を横切る橋のたもとに、見事な桜の老樹が満開の花びらを湛えてすっくと立っていた。瞬間、場面が静止して、生まれてくる以前の遠い記憶か、自分は幼いときからずっとこの風景を見て育ったのだ、となぜか夢想した。息をつめて、その橋を走りすぎた。ひとが生きるというのは本来、きっとあの山間の村の景色のようにシンプルなものであるのに違いない。

 

 日曜。前日の新聞で土日の二日間に限って斑鳩の藤ノ木古墳の石室が一般公開されると知り、バイクで見に行ってきた。斑鳩は隣町なのでバイクでものの10分ほどの近所なのである。10時開店のサティで特売の98円の卵などを買ってから出かけたのだが、さて斑鳩町の役場にバイクを止め歩いていくとすでに長蛇の列で、挙げ句4時間の待ち時間だと言われあっさり諦めて帰ってきた。昼にはホウレンソウとマッシュルームのパスタを作らにゃあいかんし、子供とも遊びたいし、さすがに4時間を案山子のごとく無為に立ち続けるほどの熱烈な考古学的情熱は私にはなかったのであるよ。当日は近くの法隆寺で聖徳太子を偲ぶ10年に一度とかいう盛大な法要が営まれていて、ために周辺の道路もあちこちひどく混雑していたのだが、こうした催しもどこか私はそれほど興が沸かない。どこか吉野のさびれた山奥で、悲劇の南朝の遺子を偲んで村人たちの間でほそぼそと営まれる舞を冷たい雨の中にそっと覗きに行くような、そんな風情がいい。

 斑鳩の古墳といえば、藤ノ木古墳のような華やかな存在ではないが、好きな古墳がひとつある。法隆寺の背後、松尾山のなだらかな丘陵が幾筋もの谷を成して落ち着くひなびた田畑の中にぽつねんとある、仏塚古墳である。南北16m、東西18mの空堀をもつ方墳で、後世の盗掘のために南側の斜面が削りとられ、横穴式の暗い石室の内部がぽっかりと口を開けている。この古墳の面白い点は石室内から発見された遺物が6世紀後半の古墳築造期と、飛鳥-平安期の追葬期、そして夥しい仏具の出土を含む鎌倉-室町期と、三期に渡って重層していることである。つまり古墳が盗掘された後に古墳の石室が“護摩堂的厳窟として利用”され、捨て聖(ひじり)などによって近在の民衆教化の拠点として活用されたらしい。また出土遺物からは火葬骨の断片などもいくつか見つかり、ある時期には一般の民衆が竹筒や紙に骨片を入れ納骨堂として利用していたのではないかという推測もある。私はそこに、ある種の落ちこぼれ的な捨て聖がぼろを纏い、骨片や欠けた椀の転がる暗い石室の地面を臥処(ふしど)とし、民衆のわずかな喜捨を糧としながら、仏を呪い、仏をもとめてむせび泣き、やがてある日忽然としてここから姿を消した、そんなありもしない空想を抱いてみる。このやわらかな土の上にそのような風景が、きっと存った。ひなびた古墳の端に立ち、夏の予感に満ちた濃い草いきれをひとり嗅いでいる。

 

 

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