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以前に書き溜めた書評の過去ログ

 

 

 

山下洋輔・元永定正・中辻悦子「もけら もけら」

五木寛之「日本人のこころ1 宗教都市・大阪 / 前衛都市・京都」

正高信男「子どもはことばをからだで覚える」

岩合日出子「アフリカ ポレポレ 親と子のセレンゲティ・ライフ」

絲屋壽雄「大石誠之助 大逆事件の犠牲者」

猪瀬直樹「ピカレスク 太宰治伝」

橋本治「宗教なんかこわくない!」

藤田真一「蕪村」

筑波昭「惨殺! 昭和十三年津山三十人殺しの真相」

赤坂憲雄「東西/南北考 いくつもの日本へ」

武田百合子「ことばの食卓」

村上龍「希望の国のエクソダス」

市川捷護「回想 日本の放浪芸」

網野善彦「古文書返却の旅」

植島啓司「聖地の想像力 なぜ人は聖地をめざすのか」

宮内勝典「善悪の彼岸へ」

大山史朗「山谷崖っぷち日記」

吉見良三「空ニモ書カン 保田與重郎の生涯」

橋本克彦「森に訊け」

横田睦「お骨のゆくえ」

村上義雄「ルポ いじめ社会」

村松友規「百合子さんは何色」

飯沢耕太郎「荒木 ! 「天才」アラーキーの軌跡」

石坂啓「赤ちゃんが来た」

木村哲人「テロ爆弾の系譜」

佐野眞一「宮本常一が見た日本」 

重栖隆「木の国熊野からの発信」

高杉一郎「シベリアに眠る日本人」

船戸与一「国家と犯罪」

森茉莉「恋人たちの森」

鵜飼正樹・北村皆雄・上島敏昭編著「見世物小屋の文化誌」

J. K. ローリング「ハリー・ポッターと賢者の石」

猪瀬直樹「天皇の影法師」

板東眞砂子「死国」

山折哲雄「死の民俗学」

勝目梓「鬼よ野に棲み時を刻め」

横田庄一郎「〈草枕〉変奏曲 夏目漱石とグレン・グールド」

福岡哲司「深沢七郎ラプソディ」

山川健一「ブルースマンの恋」

青木雄二・宮崎学「土壇場の人間学」

レオ・レオニ「あおくんときいろちゃん」

阿部謹也「中世の星の下で」

乾武俊「民俗文化の深層」

堀田あきお&佳代「本多勝一のこんなものを食べてきた!」

西野榴美子「エルクラノはなぜ殺されたのか」

大塚公子「死刑囚の最後の瞬間」

永六輔・辛淑玉「日本人対朝鮮人」

鎌田慧「神道用語の基礎知識」

青木慧「やったぜ!わが家を自力建築」

週刊金曜日別冊ブックレット「買ってはいけない」

宮内勝典・高橋英利「日本社会がオウムを生んだ」

N.カザンツァキ「アシジの貧者」

斉藤俊輔「釜ヶ崎風土記」

長倉洋海「鳥のように川のように (森の哲人アユトンとの旅)」

吉野孝雄「宮武外骨」

馳星周「不夜城」

赤坂憲雄「遠野/物語考」

 

 

 

 

 

■「もけら もけら」山下洋輔・ぶん 元永定正・え 中辻悦子・構成 (福音館書店 @1200)

 

 

 ジャズ・ピアニストである山下洋輔の魅惑のハナモゲラ・サウンドが絵本になった。どこかクレー的で愉快な元永氏の絵も見事に調和して、実にイカしてる。こどものために買った本だが、読み聞かせるにはこちらもちょいとコツが要る。言語の規制や見栄や外見を打ち捨てて、髪を振り乱し鍵盤を叩くアナーキストの如く、ぐわしゃらぐわしゃらと全身で読まねばなるまい。ひとの言葉もこんなだったら、きっと、もっと暮らしやすい社会になったろうに。

 

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■「日本人のこころ1 宗教都市・大阪 / 前衛都市・京都」五木寛之 (講談社 @1500)

 

 こどもが入院している病室からすぐ前方に、高層ビル群に囲まれた大阪城が見える。夜になると天守閣がライトアップされるのだが、私はこどもを寝かしつけてからときおり窓際に立って、青白い光りを放つその難波のヘソをひとり眺める。二度の難波宮の遷都 (病院の東に宮跡公園が隣接している) を経て数世紀、室町期にはこの大阪は「虎狼のすみかなり」と記されるほどの寂しい場所であった。そこへ晩年の蓮如が小さな坊舎を建て、やがて門徒をはじめ、大工や石工、庭師、物売り、芸人たちなどが集まり、宗教を軸とした自治都市=寺内町が形成されていった。後に信長との執拗な合戦の時期を経て石山本願寺は灰燼に帰してしまい、信長の後を継いだ秀吉がその上に大阪城を築城した。つまり、大阪城の下には真宗門徒の聖地が眠っているのである。

 「日本史の深層へ下降する」としたシリーズの第一巻。続刊として「2 隠れ念仏の九州と隠し念仏の東北」「3 日没する大和と知られざる共和国・金沢」「4 大陸へのまなざしと宗教・芸能の島・沖縄」「5 日本列島を漂泊していた流民たちの豊穣なせかい」「6 取材ノート」のタイトルが並ぶ。著者はあとがきで、自らの足で歩き想像を膨らませた、「史実」というより「史想」のシリーズ、と言う。この作家のエッセイや小説を読んでいつも感じるのは、いわば非定住民イコール「よそ者・流れ者」の視線だ。語り口は平明で易しいが、得難い金脈があちこちに埋もれている。

 「通俗でいく」というこの作家の態度を私は案外嫌いではないが、つけ加えるならば週刊誌の連載のようなわりとあっさり読み進んでしまう文章は新書あたりが相応しく、貧乏人の私には1,500円はちょっと割高かな、という気もしました。また「日本人のこころ」というタイトルと、池田大作の著書のような装丁も野暮ったく、もう少し考えて欲しかったな。たぶん続刊も買ってしまうだろうけど。

 

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■「子どもはことばをからだで覚える メロディから意味の世界へ」正高信男 (中公新書 @680)

 

 一般的なお母さんのご多分に漏れず、つれあいはもうじき一歳になるわが家の赤ん坊を見てときどき、いまがいちばん可愛い、ずっとこんな年齢のまま、ちいさいままだったらいいのに、なぞと仰る。私はひとつだけ不満に残る点がある。赤ん坊がまだ言語を解さないという点である。私はことばの発生の現場に立ち会いたいのだ。そしてことばというものを獲得していくこどもと無邪気に戯れながら、たとえば動物園に行って「お父さん、ほら、シマクマ」「あれはシマウマだよ」「ふーん」なんてやりとりをしてみたい(これは倉多江美のマンガに出てくる場面)。

 おのろけはそのへんにして。『0歳児がことばを獲得するとき』などの著書がある著者は、長年のアイデアに富むさまざまな実験から得た貴重な知見を、この本の中で惜しげもなく披露してくれる。たとえば、歌を口ずさんであやすというシンプルな人類共通の子育ての起源。絵本の読み聞かせの意味。単音から複雑な発声を獲得していく過程。赤ん坊を前にして大人がつい発してしまう「赤ちゃん語」の理由。笑いや指さしの意味。「行く」と「来る」の使い分け、等。著者は、赤ん坊の身体運動が言語の習得に際して重要な役割を果たしている、という。ことばは精神と肉体の衣をまとって生まれ出てくるのだ。たとえば先天性の聴覚障害をもつこどもは外部からの音情報を受け取ることができないために発声による習得の機会を奪われるわけだが、その代わりに健聴なこどもに見られない複雑な手や指の動きが出現する、その動きが基本的な手話の表現パターンに酷使している話なども面白かった。

 そして巻末の「少し長いあとがき」でさらりと触れられたくだり。「身体全体を巻き込んだ営みである言語がいったん獲得されてしまうと、主知的なロゴス至上主義・テキスト偏重主義に支配され、身体性を排除するようになる。実は音楽とは、それを補完するための文化だったのではないか」という著者独自の仮説は、まだ仮説の域を出ないひとつのイメージだが、実に刺激的な示唆を含んでいるように思う。

 

「ことばを持った動物」たるヒトは、「テキストとしての言語を所有する動物」にはとうていなりきれないのだと私は思う。ゆえに、身体性を表面的には消し去ることに成功したとしても、決して抑圧することはできないのだろう。ただ、形を変えて、姿を現すだけなのではないか。そして、それこそ音楽というものの本質ではないかと、私には思えるのだ。それゆえ、およそ音楽は、歩行のリズム・和声・韻律・手の動きといった、ことばの習得に重要な役割を果たすにもかかわらず、言語がテキスト化するなかで排除された要素によって構成されているのではないだろうか?

 

 ちまたに氾濫したお間抜け英才教育の子育て本などと明らかに一線を画す、これはいわば薄っぺらなことばに肉体性を取り戻すための大人たちへの檄文なのだ。そら、急峻な岩場にへばりついて、ことばを彫刻してこよう。

 

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■「アフリカ ポレポレ 親と子のセレンゲティ・ライフ」 岩合日出子 (新潮文庫 @400)

 
マサイの子にならないかい?

 

 写真家・岩合光昭氏が取材のために家族を連れて約一年半、東アフリカ・タンザニアのセレンゲティで暮らした日々を、妻の日出子さんが書き綴ったもの。馴れない異国でのさまざまな生活のどたばたを女性の視点で描いたくだりも愉しめるのだが、何よりこの本の主人公は5歳になる一人娘の薫ちゃんだ。快活で、お喋りで、物怖じせず、おしゃまさんで、いらいらする両親を気遣い、さみしいときはヌイグルミの「ひよちゃん」を抱いて眠り、小さな胸をいっぱいに膨らませ、ときには奔放に、ときにはシリアスに、アフリカの大地を呼吸して駆け回っている。

 

「ママ、ヌーの子供は死んじゃったよ。私もおなかがすいた」
「食べられたヌーの子供が、かわいそうだと思わないの?」
「かわいそうだよ。ほんとうに、かわいそうだと思う。だから見ているの」

 シマウマの子供は死んでいます。死ぬと....、骨になります。そして土になります。それが.....、自然のきまりです.....

 野生動物は、みんな、美しいね。光りかがやいているよ。死んだものは、美しくないね。それは楽しく暮らしているときに、いきなりいのちを奪われるからだよ。花だって、人間だって、いのちのあるものは、みんなそうだよ。

 

 このあどけない、だがタフな魂に寄り添いながら私は、いくどか頬をゆるめ、いくどか胸を打たれた。薫ちゃんはきっと素敵なニンゲンに成長することだろう。いわばこの本はアフリカの大地におけるすぐれた子育てと成長の記録であり、巻末で作家の村上龍が記しているように、日本の「幼児・子供を持つ母達に、また日頃家庭について考えることのない父達に、この本をぜひ読んで欲しい」と私も思う。

 

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■「大石誠之助 大逆事件の犠牲者」 絲屋壽雄 (濤書房 @780)

 

 こどもの入院に際して先日、二週間だけ大阪のウィークリー・マンションの一室を借りた。環状線の桃谷、というのは大阪ではおそらく下町にあたるのだろう。駅の出口からアーケードの商店街が、大阪らしいうねうねとした形でどこまでも伸びていて、連れ歩いた私の妹は「何だかむかしの亀有の商店街に似ている」と愉しそうに言う。亀有というのは私たち兄妹が住んでいた東京の、やはり下町にある駅名だ。そうか、私が大阪の古びた商店街に感じる親しみの感覚は、そんな懐かしさだったのかも知れないと気づく。再開発の小綺麗さでない、ひとや生活の匂いがする懐かしさだ。

 商店街をすこし入った古本屋で一冊の書を買い、病室で読んだ。大石誠之助は紀州・新宮の町医者で、若い頃は洋行もし、貧乏人からは診察料を取らず代わりに金持ちからは余分にふんだくる、あるいは瓦版に体制を揶揄した滑稽・皮肉な時評を書きまくる、そんな変わり者のドクトルであったが、本人いわく「冗談から駒」の成り行きで時の大逆事件に連座し、幸徳秋水らとともに刑場の露と消えた。かれは信仰者ではなかったが、キリスト者である故郷の友人に宛てて、獄中より新約聖書を読んだ感想をしたため送っている。特にかれの心をとらえたのはイエスが磔にされる前夜、ひとりゲッセマネの園で己の運命に苦しむ祈りの場面であったようだ。「主よ、もしできることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかしわたしの思いのままではなく、みこころのままになさってください」(マタイ伝26章) 書簡の終わり頃に、大石は次のようにそっと記す。

 

 畢竟我々が自由の意志によって為すといふ事と運命によって為させられるといふ事と、その差別は何でせうか。その境目は何処でせうか。少なくとも今の私にも解りません。

 

 ここにもひとつの時代にさらわれ生きた、ひとの体温や吐息の確かな懐かしさがある。何もイエスや大石に限らず、受け容れ難いものを受け容れなくてはならぬとき、ひとはおなじような問いを繰り返すものだ。大石誠之助はいま、かの中上健次とおなじ新宮の南谷墓地に眠っている。

 

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■「ピカレスク 太宰治伝」 猪瀬直樹 (小学館 @1600)

 

 中学・高校と太宰の作品を愛読し授業をさぼって桜桃忌まで行った私には、滅法おもしろい読み物だった。作品が虚構か、生活が虚構なのか。太宰はその生涯において破廉恥ともいえる心中・自殺未遂事件をいくどもくり返した。「だが僕は死のうとする太宰治ではなく、生きようとする太宰治を描きたかった」(本書・あとがき) 著者は一連の事件を巧妙に計算された演出、生きるためのぎりぎりの狂言であった、と言う。

 

 「めしを食べなければならぬ」が、そのために生きているのではないと『人間失格』で主張したように、日常生活が混乱の極みに達していても、それより至上の価値があればよい、と太宰は考えた。だが日常性を否定したわけではない。「涙の谷」もまた尊いのである。

 日常生活のみが目的化されれば、見過ぎ世過ぎ、である。「家庭の幸福」に対抗するためには、自分はいつでも死ねる、という一言を持ち込む。すると世界はがらりと変わる。日常性に埋没しそうな卑小な自分を超えられる。

 

 晩年の、志賀直哉を代表する文壇・世間を批判した「如是我聞」で、太宰は次のように書いた。「所詮、彼らの神は何だろう。私は、やっとこの頃それを知った。/家庭である。/家庭のエゴイズムである」 この言葉は、私に宮沢賢治が書簡に残した「私は一人一人についての特別な愛情といふやうなものは持ちませんし持ちたくもありません。さふいう愛を持つものは結局じぶんの子どもだけが大切といふあたり前のことになりますから」という言葉を思い出させる。

 太宰はモラリストの作家であった、と私はずっと思い続けてきたし、それは本書を読んだいまも変わらない。かれは日常生活に時折垣間見られる幸福や悲しみの尊さというものも充分に知っていたし、そのささやかな日常性に埋没してしまうことの欺瞞も同時にまた悉知していた。「家庭の幸福がいちばん」と「家庭の幸福こそ諸悪の本」「子供より親が大事、と思いたい」のはざまの“のっぴきならない”場所で、太宰は一枚のチサの葉のようなモラルを探そうとしていた。その危うい綱渡りを常に見失わないために、なかば演出された死との戯れはかれにとって欠かすことのできない手段であった。それは危うい、終わりのないゲームのようなものだ。いつかは向こう側へはみ出す....

 私は太宰のような生き方を肯定はしないし、真似したいとも思わないが、作品に残されたその「砂上の足跡」を愛している。どちらにしろ私たちはみな、引き裂かれた二律背反から逃れることはできないのだし、太宰の場合はその振動の幅がサーカスのピエロのように大きく振れすぎた、ということに過ぎない。作品が虚構か、生活が虚構なのか。私は、太宰にとっては、作品も生活もおなじように真実であったと思っている。

 

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■「宗教なんかこわくない!」 橋本治 (ちくま文庫 @680)

 

 橋本治の文章はいつも目から鱗どころか鼻からイボ、足から水虫までがはがれ落ちる。この人の唯一無二の「明快な論理」はいつもながらすっきりしたものだが、題材がこと宗教に至ってはここまですっきり「解説」してしまっていいものかと初めはしこりのような違和感を感じていた。私の頭もどうやら多分に古い思想の残り滓を引きずっているようだ。そして人は、実は怪しげな訳の分からぬものが好きなのである。訳の分からぬ曖昧なものをそのままそっとしておいて欲しいという気持ちがどこかにあるらしい。橋本治の文章は、その曖昧地帯へ「ホントはメンドーくさいんだけど、ちょっと説明させてね」と明るく入り込んでくる。

 オウム真理教事件を材に「宗教とはなんなのか?」という単純で難解な問いに正面から向き合いエンエン300ページ近く喋りつづけた一冊。いわば橋本治の「宗教総括の書」といってもよい。当初感じていた違和感も、オウムのヘッドギアってあれって結局ウォークマンと同じじゃん、あれが洗脳っていうんなら今の日本の教育こそが洗脳じゃないの、といった件から次第に共感へと変わっていった。著者は宗教とは「まだ自分の頭でものを考えることが出来ない人間が思想を人格化したもの」だと言い、それは昔は必要だったかも知れれないけどいまは自分の頭で考えていいんだよ、と言う。宗教ってさ、遠い記憶のなかに浮かぶ子供の時に聞いた大事な“おとぎ話”みたいなものなんだよ。大人になったら別のものが必要なんだけど、いまはそれが見当たらないから困ってる。つまり「宗教は、捨てられるものではなくて、人間たちによって解体され再吸収されることを必要としている」 

 信仰を持つ人には不快かも知れないけど、私はこういう言い方があってもいいんじゃないと思うし、正直言うと私の考えている感じに実はけっこう近かったりする。とくにオウム事件の後もロクな意見も言えず相変わらず旧態依然のしがらみのなかで安穏としている宗教関係者は、こんな純度100%の天然水で一度腐った脳みそをよく洗浄した方がよいと思うのだ。ほんとうに「宗教」ってなんなのさ。あんたの信仰してるものって、ほとんにあんたに必要なものなの。いっそ、そういう根本的なところから考え直すくらいがいい。

 

 人間の中には、いつでも子供の部分が残っている-----それはそれで全然かまわない。だから普通の人は、「宗教が存在していたってかまわない」と思う。私だって、実はそのように思っている。

 思っているのだが、ここでただ一つ、困ったことがある。それは、記憶というものをたどれば、「子供時代の自分がこうして大人になったんだな....」ということは確認できても、宗教に関しては、歴史をたどってもそういうことができないからである。「あの時代の“神様”という概念が、結局は現代のこういうことになったんだな...」という確認はできない。「神は死んでしまった」とか、「宗教はもう古い」という、そんな切り捨てだけが歴史の中にあって、「宗教を信じていた人間の心が、やがて成長して、こういうものになりました」という後づけができないのである。宗教は切り捨てられ、“神様”とか“仏様”という概念も成長することがなくて、ただ“切り捨てられてある”のである。

 必要なのは、「宗教はもう美しいものを作り出す力を失った。今では○○が宗教にかわって美しいものを作り出している」であるはずなのである。ところが困ったことに、我々はこの○○の中に、うまい答えを入れられないのである。なぜか? それは、我々が「美しいものを作り出してきたもの」を、歴史の中から切って捨ててしまったからである。それは、「自分の中から子供時代の美しい記憶を切って捨ててしまったら、その後には索漠とした現在しか残らない」というのに似ている。

 

 宗教なんていまどきナンセンスだ、と単純に「切って捨てる」だけでない。ちゃんとこういうところまで考えていて、そしてまた著者は「宗教というものは“人に語りかける愛情”であることを忘れてはいけない」とも言う。私はまたまたオサムちゃんに惚れ直してしまった。実際、この本は日頃「宗教なんてカンケーないもんね」と思っている人が読んでも面白い。「カンケーないもんね」と言いながら、正月にはこぞって初詣に行き死んだら坊さんの世話になる日本人のいびつな宗教観を見事に説明してくれる。騙されたと思って読みなされ。目から鱗どころか鼻からイボ、足から水虫までがはがれ落ちるという現象は一見宗教がかっているが、実は落ちる時期に落ちたに過ぎない。橋本治はかように健康的な“真理の人”なのである。

 

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■「蕪村」 藤田真一 (岩波新書 @660)

 

 蕪村といえば郷愁の詩人で、たとえば朔太郎の記したごとく“それは時間の遠い彼岸に実在してゐる、彼の魂の故郷に対する「郷愁」であり、昔々しきりに思ふ、子守唄の哀切な思慕であった”というような、どこか田圃の畦に咲いた薊のような可憐なイメージをひたすら思い描いていた。ところが本書では二重三重もの機知(遊び心)に富んだかれの俳諧や俳画、和漢の古典への細やかな造詣、壮大なスケールに満ちた天翔けめぐるごとしのイマジネーション、京を中心とした多彩なその交遊関係や刷り物の企画・出版など、新しい蕪村を見る視点が次々と飛び出してきて飽きさせない。たとえば有名な「菜の花や月は東に日は西に」の句の裏側に、当時の「庶民の夜を明るくした」菜種油の大量生産に伴う菜の花の大栽培の時代的風景があるという件など。著者のその蕪村に対する思いは最終章の「春風馬堤曲の世界」で真骨頂を迎える構図だが、いわば蕪村のもう一面とは、類い希なる全方位の才能に満ちた時代の最先端を走る名プロデューサーのごとき多彩な姿である。そしてそれは前述の朔太郎のいう天真無垢の郷愁=ポエジィを裏切るものでもない。終章で著者は、たとえばこのように書く。

 

 文学は文(あや)の芸である。蕪村のばあい、ことばの文にも加えて、趣向という江戸特有の文があった。そうした趣向をめぐらす匠みというものが、蕪村の真骨頂であった。それを味わいつくすところにこそ、蕪村文芸のたのしみがあるというものだ。

 幾重にも重ねられた、趣向という味付けをたのしむところにこそ、この特異な文芸を読む愉悦があるといってもよい。作者のこころのうめきを知りえたからといって、それが詩を読む悦びに直結するものではない。「うめき」というには、あまりにも不似合いなほど、堤上、春の空はあかるく晴れ上がっていた。作者の胸のうちも、また明朗そのものだったにちがいない。

 

 羨ましいほどに、蕪村という人は人生を楽しみ味わい尽くした人だったに違いないと信じる。蕪村の姿がまたひとつ、夏の空にむくむくと湧き出る入道雲のように大きくなった。

 

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■「惨殺! 昭和十三年津山三十人殺しの真相」 筑波昭 (旺文社文庫 @460)

 

 新緑のまばゆい季節に我ながら鬱陶しい読書かと思うのだが、その奇妙な揺らぎの感覚が不思議とぴったりきたりする。ふわふわと飛んでいってしまいそうな日常を鉛の重しでどっかと沈められるような心地、とでもいったらいいだろうか。連休前に近所の古本屋で手に入れて、連休明けに通勤の満員電車の中や昼食後の公園のベンチの上で読んだ。いわずと知れたあの映画「八墓村」のモデルになった、戦前の岡山県の鄙びた山村で起こった他に例を見ない大量殺戮の犯人(当時22歳の青年だった都井睦雄)に焦点を当てたノンフィクションものである。事件当時の様々な記録や、作家が取材した犯人の生い立ち、それにかれが衝撃を受けたという阿部定事件の調書や、都井が村の子どもたちに読み聞かせていたという冒険浪漫の草稿などを読むと、宮沢賢治からあの熱い迸るような宗教的信念が抜け落ちてその底知れぬ空洞へ負のエネルギーがなだれ込んだならこんなことが起きうるのかも知れない、なぞとふと空想した。いわばもうひとつ支えのようなものがあったなら、ひょっとしたら賢治のような人間であれたかも知れないという悲しい空想である。人間という存在の底知れぬ心の闇の果てしなき冥(くら)さよ。僅か2時間の間に30人もの顔見知りの村人を殺し尽くし、最期に山中で自ら果てたかれの胸にそのとき去来した風景はいったいどんなものであったか。こんな人間が確かにかつて存在し、呼吸し、女を抱き、己を悲しみ恨み、死んでいった。巻頭に載せられた実物のモノクロ写真のその瞳の奥をじっと見つめてみる。死んだ者はもはや何も喋らないが。

 

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■「東西/南北考 いくつもの日本へ」 赤坂憲雄 (岩波新書 @660)

 

 赤坂憲雄との出会いはその著書「異人論序説」が最初で、それは私が平地の呪符から逃れて修験の山道をかきわけ河原に佇み夢想してきたさまざまな連なりを「差異化」というひとつの〈問い〉に総括した貴重な忘れがたい一冊であった。私はしばらく文庫版のその本を聖書のように持ち歩き、頁はアンダーラインで埋め尽くされた。次に著者が「排除の現象学」において、その理論を用いて現代のいじめや差別、少年による浮浪者殺害、イエスの方舟事件などを鮮やかに読み解いていったとき、あたらしく真摯な民俗学者のスタイルを垣間見たように思った。それ以後、著者のまなざしと発言は、ある種の共時的な共感をもって常に注目し続けている。

 この本は東京生まれながら東北に居を構え根を下ろし始めた著者の「日本」解体論のささやかな序説とでもいうべきものである。その序章において著者は、畿内より発生した「日本」国とその辺境の蛮地であった北と南の端を、天皇を中心とした丸い土俵の上で繰り広げられる相撲と、四角いリングで戦われる異種格闘技の比喩に対比させている。あらかじめ予定調和のシステムを孕んだ相撲(たとえば関ヶ原の合戦)に対して、南北の異種格闘技(たとえば沖縄やアイヌ)ではそこから逸脱した深い裂け目が現出する。それが著者のこれまでの東西軸から南北軸への視座の誘いであり、歴史的に語られてきた「ひとつの日本」から多様性に満ちた「いくつもの日本」への挑戦であり、そうした近代の呪縛から逃れんための誠実な知の営みである。箕作りや方言、土器様式、墓地、アイヌ語といったものの裏側から、現代に確実につながる様々な事件、いじめ、差別といった問題が透けて見えてくる。そういう意味で、ふだん歴史や民俗学に興味のない人にもぜひ読んでみてもらいたい一冊だ。

 この小さな書物が出た同じ頃に、新聞に寄せたエッセイのはじめに著者はこんなことを記している。

 

 折に触れて思い出し、励ましを受けてきた言葉がある。汝の立つところを深く掘れ、そこに泉あり。この言葉を、伊波普猷は座右の銘にした、という。伊波は沖縄学のいしずえを築いた人である。シマチャビ(孤島苦)を宿命のように背負い、固有と普遍のはざまに引き裂かれながら、あらたな沖縄のアイデンティティを求めつづけた、その孤高の戦いを、この言葉が支えていたのである。

 

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■「ことばの食卓」 武田百合子 (ちくま文庫 @621)

 

 たとえば冒頭、「枇杷」と題されたのほんの三頁ほどの短い文章。亡き夫と向かい合って枇杷を食べている何気ない記述から、ふっとまぼろしの時間がすべり落ちて、眠っていた夢見心地のような裏側の顔が目を開けて、こんなことばを呟く。

 

 向かい合って食べていた人は、見ることも聴くことも触ることも出来ない「物」となって消え失せ、私だけ残って食べ続けているのですが-----納得がいかず、ふと、あたりを見まわしてしまう。

 ひょっとしたらあのとき、枇杷を食べていたのだけれど、あの人の指と手も食べてしまったのかな。-----そんな気がしてきます。

 

 百合子さんの書く文章には、そんなモノの気配が色濃くある。それを感じているのは子供のまま大人になったような人の稀有な感性で、こどもの無垢と気まぐれ、繊細さと残酷さが不思議なバランスを保って同居している。牛乳、おでん、キャラメル、シャーベット、オムレツ、おせんべい、海老フライ。料亭のお座敷の勿体ぶった重厚さでない、下町の幾分悲哀のまじった軽やかさのようなもので、けれどその哀しみの芯に触れかけるとふっと体をかわす。あとには何やら愛おしい、淡い陰影のかけらのようなものがぷかぷかと浮いている。中学生の下校時に夕暮れの商店街で買い食いした、コッペパンの味を思い出した。

 

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■「希望の国のエクソダス」 村上龍 (文藝春秋 @1571)

 

 はじめて念願のインドの地に降り立ったときのことは、いまも忘れ難い。20代のはじめの頃、ちょうど大学を卒業して入社まで間のあった友人を誘って行った約一月の旅で、二人とも海外はそれがはじめてだった。土埃に照射されたデリーの路上に立ったとき、正直足がすくんだ。目の前のボロ切れのような有象無象の人々が行き交う風景に、何かこれまで見たことも接したこともない強烈なエネルギーの塊を感じて、圧倒されたのだった。そこに入っていくには勇気が必要だったが、一日中そこに立ち尽くしているわけにもいかなかった。思わず後ずさりしそうな心を奮い立たせて、よし、行こう、と二人とも無言で歩き出した。それから一週間は身も心もぼろぼろになるまでインドという国に揉まれた。帰国して、成田空港から都心へ入っていくバスの中で外の景色を眺めながら、どこか見知らぬ国の景色を見ているような奇妙な錯覚を感じた。漂白剤で洗われた無生物のような、のっぺらとしてつかみどころのない景色。もう一度インドを再訪したとき、カルカッタに夜遅く着いた便だったが、窓を開けたタクシーの中で思わず、ああ、この空気だ、懐かしい、おれは帰ってきたんだ、と思った。以来、その二つの感覚は私の脳裏にこびりついて離れたことがない。

 CNNのニュースに流れたパキスタンで銃を構えて地雷処理をしている謎の日本の少年の映像をきっかけに組織された日本全国の不登校の中学生たちのパソコン上のネットワークの代表で、それらのネットワークを利用してさまざまな企業を興し、国会で全世界へ演説し、やがて日本を「脱出」して北海道へ集団移住して独自の地域通貨などを発行する“ポンちゃん”は、それを「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望だけがない」と表現した。そしてまたフリーのライターである主人公の同僚の年若い後藤は、ペルーについてこんな話を主人公にする。

 

 関口さん、ペルーは貧しいしリマのスラムは不潔だし軍隊は威張っているし教育水準は低いし住むのは本当に大変だけど、何て言うか、あの空気なんですよ、空気。乾いていて、朝とか寒さがピンと張りつめていて、青臭いことを言うようだけど自分のからだと世界の境界がはっきりするような気がするんです。

 日本にいるととても過ごしやすいです。何となく暖かいし、自分と世界の境界が何となくぼんやりとしていて、楽です。12歳のゲリラにライフルで撃たれることもない。でもときどき自分が本当にここにいるのかどうかってことが曖昧になってしまうことがあるんです。

 自分のからだと、外側の世界の境界がはっきりしない。自分のからだを確認できないような感じがするときがあるんです。外側というか、自分のからだ以外のものと自分がどこかで接しているという実感がないと、自分のことを確認できないんじゃないですかね。

 

 著者が近年ご執心の経済理論と、不登校に代表される少年問題をかけあわせ、そこに「希望」という名のローレルの葉を一枚投げ入れて、作家の想像力の鍋で煮込んだらこんな料理ができあがった。「あとがき」に著者は、そんなことは初めてのことだが「この小説は、著者校正をしながら、自分で面白いと思った」と記している。実際、料理はなかなか美味しかった。ただ美味しいだけでなく、食べ終えてから舌にひりひりとくる。それは温室のやわらかな空気なかで育てられた白い肌が、強烈な砂漠の太陽に晒されて焼けつくような、そんな苦い痛みのような感覚だ。

 日本人の自我はいまだ個として成り立つにはひ弱すぎる。「しかし日本人の場合は自我の輪郭は自然や共同体と滲みあってぼやけており、自我のありかたが西洋ほど明確でない。私はそれで良いのだろうと思ってきた」と、前掲の「善悪の彼岸へ」の中で宮内氏は記す。私個人は、本書の中で繰り広げられる弱肉強食のマネー・ゲームの中で生きのびていくための個というそもそもの設定自体にささやかな疑問を感じなくもないが、だが現実にそれらの強固なシステムは存在しているわけで、それはそれで「大人の考え方」というものだろうと認めざるを得ない。つまり音楽でいえばブライアン・ウィルソンの柔らかすぎる In My Room に対する、ストーンズのタフでクールな I Can't Get No Satisfaction のようなもので、それは多分に作家の資質に呼応している。

 だがともかく「あたらしい理想を語ることが困難な」この時代に、著者はこの国の中学生という世代の可能性に託して、ひとつのこの国の「希望への脱出」の形を示した。それは実に刺激的なことであるように思う。蛇足だが、本書の中で私がいちばん気に入ったセリフは「12歳の少年でも銃は撃てるし、実際に12歳の少年が撃った弾でも人を殺すことができる」というものだ。つまり少年のそのリアルな弾丸は、私が成田空港からの帰りのバスの中から見た、のっぺらぼうのようなこの国の風景に照準が合わされている。その感覚において、私はもっともこの小説に共鳴した。

 

 最後に、しばらく前に新聞の夕刊に載った著者の「20世紀の終わりに」と題したエッセイの一部を紹介しておこう。

 

 価値観が共有されていない時代、不安を感じていない人はいない。不安があることを不安に思う必要はない。健全だからこそ子どもたちは不安を持っているのだ。

 近い将来には、高度成長を支えたシステム・文脈は消滅するだろう。最初に訪れるのは財政の破綻かも知れないし、金融システムのクラッシュかも知れない。いずれにしろすでに破壊にはたいした意味がない。システムが勝手に自壊するからだ。

 タイトルに使った「エクソダス」だが、旧来の文脈から個人的に脱出するという意味を持たせたつもりだった。わたしはもうしばらく「脱出の物語」を書き続けるだろうと思う。

 

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■「回想 日本の放浪芸 小沢昭一さんと模索した日々 市川捷護 (平凡社新書 @700)

 

 日本が高度成長期を謳歌していた1970年代、当時某レコード会社のディレクターであった著者は俳優・小沢昭一の著書「私は河原乞食・考」と出会い、まさに高度成長の波に逆行するかのように、その頃日本各地から消えつつあった放浪芸をドキュメントとしてレコードに記録する仕事を企てた。天王寺で香具師たちの口上を収録したのを手はじめに、万歳、春駒、節談説教、でろれん祭文、のぞきからくり、花見の流し、人形遣い、猿まわし、門付け、見せ物小屋、あげくは一条さゆりのストリップに至るまで、ありとあらゆる路上の芸能を訪ね歩いた、本書はその回想記である。芸能とは差別から生まれた。かつてこの国の路上にはそんな影を背負った異形の者たちが、まさにのぞきからくりの節穴のように怪しくも絢爛たる花々を咲かせていた。いまこの国の路上には何もない。店員の笑顔まで規格化されたファースト・フード店の前でたむろする若者たち。あるいはせいぜい、郷ひろみがゲリラ・ライブをやって騒がれるくらいのものだ。暗い血統を湛えた聖なる放浪者たちは白アリのごとく駆逐された。それからこの国はどこかおかしくなり始めた。

 後半はビデオ時代の到来とともに、韓国の放浪芸集団ナムサダンやムーダン、インドの路上パフォーマンス、バリのガムラン、中国の少数民族たちといったアジアの放浪芸へと展開していく取材を記す。巻末近くで著者はこう記す。

 

 ミャンマー国境にほど近い町で、喜納昌吉の「花」が若者たちにカラオケで歌われていたのを思い出す。これは日本の歌だといっても、すぐには信じてくれなかった。中国の曲だと思っている人が多かったのだが、「花」のメロディはそれほど人々に、そして風景に馴染んでいた。インドネシアやタイでも愛唱されているし、アジア全土で歌われている。沖縄のメロディを聴くと、自然に東南アジアとのつながりのなかで沖縄を考えてしまうし、アイヌの宗教儀式などは極東アジア、シベリアとのつながりしか考えられない。

 日本列島の芸能は単独に見るよりも、ユーラシア大陸、極東、シベリアから東南アジアまでつながった文脈の中で見るほうが豊かに見えてくる。

 

 著者はレコード・ディレクターという学者でない一素人の立場から、その語り口は平明で分かりやすく謙虚でさえある。これらの多様な芸能の姿に接する機会のなかった者たちにとって、本書は格好の入門書として相応しい。そこから宝石のような豊かな文化の形がとめどなく拡がっていく、佳きテキストとして。私個人としては、これまで微かな噂程度は耳に入っていたが、小沢昭一という特異な存在に改めて刮目させられたことが大きかった。

 

 なお「日本の放浪芸」シリーズは30年ぶりにCD化されて再発された。詳細はビクター・エンターティメントのCD映像版のサイトをそれぞれ参照されたし。こういう地味な仕事が再評価されるのは実に良いことです。私も金に余裕があったら買いたいよお。

 

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■「古文書返却の旅 戦後史学史の一齣 網野善彦 (中公新書 @660)

 

 著者はまえがきに“日本常民文化研究所の創始者・渋沢敬三氏は「失敗史は書けぬものか」という短文を書いているが、本書はまさしく「失敗史」そのものといってよい”と自ら記している。

 戦後の混乱期に水産庁の委託により、東京月島の東海区水産研究所内に日本常民文化研究所の分室が設置される。「漁業制度改革を内実あらしめるため、という名目で、全国各地の漁村の古文書を借用、寄贈などの方法で蒐集、整理、刊行する仕事を推進し、本格的な資料館、文書館を設立してそれを永続的なものにしようとするのが、その目標であった」 ところが数年後に委託予算は打ち切られ、大量の文書が「東京女子大の講堂の裏の倉庫に、リンゴ箱に入れられたまま山積みにされた」まま残された。その後、日本常民文化研究所が神奈川大学に引き取られたのをきっかけに同大学へ招致された著者は以来20年、足かけ40年もの歳月をかけてこれらの文書を再調査し、返却を果たす。

 とにかくいろいろ大変だ。持ち主から催促やときには「盗人よばわり」されたり、別の資料に紛れ込んでいたり、転居等で持ち主が判明しなかったり、調査を共にした故人の自宅からまた別の文書が見つかったり、中には酷い虫食い状態で原本が失われてしまった文書もある。ある家では返却をきっかけに「禍転じて福と」なり新資料の発見に結びついたり、また別の地方ではかつて豊かな自然と共存していた海民文化が疲弊しさびれ果てている風景に思わず嘆息する。著者はそうした「苦い旅」の顛末をひとつずつ、40年というこの国に流れた時を振り返りつつ、正直に書き記していく。そこから見えてくるのは「常民文化」の多様な豊かさ、それらを受け継ぐことの困難と大切さ、そしてそれらに育まれてきた著者自身の独自の歴史観の経緯、である。

 ふだん我々が目にする、新聞の紙面を飾る新発見のニュースのような派手さはどこにもない。襖張りの古文書を丹念にヘラで少しずつ剥がしていくような、そんな味わいに似た地味な一冊である。だが読み終えて、深い皺の刻まれたごつごつした大きな手を握った感触のような、不思議に爽やかな読後感が残った。

 

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■「聖地の想像力 なぜ人は聖地をめざすのか 植島啓司 (集英社新書 @680)

 

 なぜか聖地を巡るのが好きである。20代の頃にバイクであちこちを旅したときも、聖地はひとつの指標であった。青森の恐山、御柱を祀る諏訪大社、能登の気比神社、鳥取の大山、出雲大社、四国の石鎚山、そして熊野.... 幾時代の世も聖地はそのままである。いわばもっとも古い記憶なのだ。とにかくそこに立ってみる。身体が何かを覚えていく。この国のはるかな根茎。感覚が研ぎ澄まされるような心持ち。そんな感じが好きだった。ローソンやマクドナルドで染められた町並みを過ぎながら、さながら古代のハイウェイ、中世の巡礼路を旅しているような気持ちだった。穏やかな平地の地殻が裂け、太古の地層がせりあがってくるようなまぼろし。

 この本でも引用されているが、60年代後半にアメリカでベストセラーになったカルロス・カスタネダの「ドン・ファンの教え」の中に、こんな場面が出てくる。人類学者であるカスタネダがメキシコのインディアンの呪術師に弟子入りする際、まず「自分の場所」を見つけるように、と師から言われる。

 

 彼は、わたしが床に座って疲れているようだから、疲れずに座れるような床のうえの「場所」(Sitio) を見つけることが先決だと言った。わたしはそれまでひざを胸につけ、すねを抱いて座っていた。彼にそう言われて、わたしは背中が痛み、ひどくへたばっていることに気づいた。

 

 そこでカスタネダは、特に考えもなく師の近くへ少しだけ場所を移動する。ところが彼は「ある場所というのは人が自然に幸福で力強く感じるところだ」とたしなめられるのである。さあ、それからが大変。カスタネダはあっちへ座ったり、こっちへ仰向けになってみたりと、狭い床の上を何と6時間もころがりまわり、すっかりくたびれ果てて「他の場所で感じた恐怖からのがれようと」ふとある場所にもたれて眠りかけたとき、師の笑い声が聞こえた。「見つけたな」とドン・ファンが言ったのである。

 まあ、この喩えは何やら禅問答に似てなくもないが、いわゆる「場所の持つ力」というものを、私は結構信じている。それはそこでなくてはいけない、といったようなものだ。そして手近なところでは飛鳥でも高野山でも、古い社や寺が立っている場所を訪れるたびに、うまい場所を選んだものだなあ、と関心することがしばしばある。いま流行の風水とか何とかいう以前に、昔の人々はそうした場所の持つ力に、現在の我々よりももっと鋭敏な嗅覚を備えていたと思うのだ。

 それからもうひとつ、聖地というものは多重的なものである。たとえば熊野権現を祀る本宮大社で、仏教徒である一遍が啓示を授かったりする。あるいは最近ではダム建設で移築した川上村(奈良)の古社の旧社地から縄文時代の遺跡が発掘された。またこの本でも触れているが、ヨーロッパのキリスト教の聖地の下には、ローマ時代やさらに古い時代の祭祀跡が眠っている。つまり聖地というものは、そうしたさまざまな時代の記憶が集積して保存されている場所であるともいえ、私はそれらの場所を訪れて、連綿と受け継がれてきた自然に対する畏怖や祈りといった人々の心の有り様を我が身に写実するのが好きなのかも知れない。

 エルサレムの岩のドーム、巨大な石塊上にそそり立つフランスのサン・ミシェル・デギュイユ教会、古代ギリシャの神託地・デルフォイ、アメリカ・インディアンの聖地・サーペントマウンド、春日大社の磐座や法隆寺の夢殿、そして天河など、著者は世界各地のさまざまな聖地を訪ね歩き、以下のような聖地の定義を唱えてみる。

 

01 聖地はわずか一センチたりとも場所を移動しない。
02 聖地はきわめてシンプルな石組みをメルクマールとする。
03 聖地は「この世に存在しない場所」である。
04 聖地は光の記憶をたどる場所である。
05 聖地は「もうひとつのネットワーク」を形成する。
06 聖地には世界軸 axis mundi が貫通しており、一種のメモリーバンク(記憶装置)として機能する。
07 聖地は母体回帰願望と結びつく。
08 聖地とは夢見の場所である。
09 聖地では感覚の再編成が行われる。

 

 注目すべき点は、著者は決してこれらのものを「古き歴史の解読」として弄んでいるのではなく、「これからランダムに多元的に変化していく未来」への手がかりとして、この聖地の孕む機能を対峙させているところにある。その意味で個人的に私は大いに励まされたし、各章ごとに実に刺激に富んださまざまな示唆を発見するスリルを覚えた。これはあくまで投げかけられた試論、はじまりの一歩に過ぎない。

 

 われわれは「惰性」を「快適」と勘違いしている。いつも同じようにすべてがうまく運ぶことが必ずしも好ましいことではない。聖地では普段まったく気づかなかったさまざまな現象に目を向けることができる。われわれは風のそよぎや自然の物音、空気の暖かさ、冷たさを実感しつつ、それらをとおして通常の感覚のはたらきがいかに限られたものであるかを思い知るのである。

 聖地が容易にわれわれの意識を変容させるように、われわれ自身の存在もまた「場所」の意味を次々と変化させうるのである。いつ、どのようにして、そこを訪れたかということ-----すなわち、移動の記憶こそが、聖地には長い年月にわたって折り重なるように堆積しているのである。そして、それを読み解く行為は、そのまま自分自身について知るということにもなるのである。

 

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■「善悪の彼岸へ」 宮内勝典 (集英社 @1,900)

 

 世の中には宗教や心理学・文学・哲学などといった分野にはこれっぽっちの興味がなくてもヘイキで生きている人たちが無数にいる。なぜか私は気がつけばそうしたものにいたく興味を示してしまう人間になっていたわけだが、それらの欲求が何によって形成され、どこから到来したものなのか、あるいはいつの時点からなのかと問われたら、私は明確な答えを持ち合わせていない。おそらくそれは「死の認識」から始まった、と思う。自分は何者なのか。どこからやって来て、どこへ去っていくのか。世界とは何だろう。目に見えるものがすべてなのか、それともその先にも何かが存在しているのか。そうした一見馬鹿げたような問いを間断なく持ち続けているのは、私が己と世界に対して常に感じてやまない、あのささくれのような「違和感」のせいだとも思う。「これじゃない。何かもっとべつのものがあるはずだ」といったような鬱屈した思い。

 父親はただのしがない鞄職人であったが、本を読むのが好きな人間で、とくに仏教書には親しみ、よく禅語録などの書物を捲っていた。高校を卒業して何をするでもなく茫洋としていた私が、「とりあえず」といういつもの刹那的な気分であったにせよ、ある通信大学の仏教学科なぞというところを選んだのも、あるいはどこかに父の影響があったかも知れない。いまではそれは素直に、父が私に手渡してくれた大事なバトンのひとつだと私は思っている。ゆるやかな円環のなかで自らの意思でなく、用意された胚芽というものは、やはりあるものだ。

 ご多分に漏れず、私もこの歳になるまでさまざまな雑食を経てきた。仏典や聖書、グルジェフ、ラジニーシ、クリシュナ・ムルティ、シュタイナー、スウェデンボルグ、フリーメーソン、ビートニク、インド哲学、ヨガ、タントラ、錬金術、ニューサイエンス、トランスパーソナル.... ピラミッドは宇宙人が造ったなどといった手合いの本も好んで読んだし、日本の神道的な神秘思想や新興宗教の類も囓った。マクロビオテックの影響で玄米食を始めたこともあった。ヨガも習った。座禅道場や教会も通った。ヒーリングと称する怪しげな集まりや、ネットワークがなんたら言う善意の人たちの市民運動も覗いた。インドへものこのこでかけた。ネイティブ・アメリカンの言葉に惹かれて、かれらに会いに行きたいとも思った。しかし私は元来が怠け者で飽きっぽい性質なので、しばらくの間は熱中するものの、やがてじきに冷めてしまうのである。たとえどんな悪食であろうと、大部分は自然とウンコになって出てしまうもので、私の身体が吸収したものはそのうちのごく僅かといえる。たいてい、そんなものだ。人は味覚を愉しむためにも食べるわけであり、またウンコが出ていかなければ死んでしまう。

 精神的に常に不安定で、歓楽街をうろつく淋しいサラリーマンのようにキレイなお姉ちゃんに声をかけられたら「三千円ポッキリね」などと言われてついふらふらと店に入ってしまうタイプの私が、これまでどんな宗教にも集団にも属することなく過ごしてこれたのは、思うにいくつかの理由が考えつく。そのうちの大きな理由として、まず私は「群れる」ということが昔から嫌いなのだ。これは理屈や信念でなくごくごく感覚的なもので、たとえばかの深沢七郎翁の記す「私が気がついたことは、勿論悪人たちの集団に入っていることはできないのだが、私は善人たちの仲間入りもできないのである。どんな善意の集合へも入っていられないのである。私はひとりだけがいいのだ。ずーっといままで、私はそうだったのだ。(生態を変える記)」といった言葉に、私は心から共鳴してしまうのである。「群れたいのだけど、群れきれない」 あるいはそんな感じかも知れない。ゆえに仏典のスッタニパータにあるブッダのことば「犀の角のようにただひとり歩め」という一節は、十代の思春期の頃から現在に至るまで、ずっと私のひそやかな聖句であり続けている。これは私の、おそらく生涯変わらないであろうスタンスである。

 中学から高校に至るやわらかな自己形成の季節、私がとくに熱中して読み耽った文学は太宰治と大江健三郎、それに北杜夫の三人であった。前者の二人はともかく、北杜夫について私はこれまで特別語ることもしなかったけれど、この作家の存在はどんな哲学・思想よりも私の中で大きなものだったように思う。というのもかれの「マンボウもの」を通じて、私は自らの内にある種のユーモアの感覚を育てていったと思うからである。「笑い」というのは、(自分も含めて)物事を相対化するバランス感覚なのだ。かれの「マンボウもの」より発した系は私の中で、後のクレイジー・キャッツやマルクス・ブラザーズといったものへ繋がっていった。それともうひとつ大事なもの、ロック・ミュージックの存在がある。だいたい思うのだが、レノンやディラン、ニール・ヤングらの音楽を本気で聴いていたら、怪しげな新興宗教の類などに簡単に取り込められるはずがない。そういう感じ、分かります? ロック・ミュージックの持つある種のクールなかっこよさもまた、私の中で大事なバランス感覚のひとつして機能しているような気がする。

 人それぞれ、たぶん好みや相性というものもあるのだと思うが、その皮膚感覚において、ユングという思想家は私の感ずる (あるいは“感じたい”と希っている) 人生の手触りのようなものに多分に近しい。そういう意味でユングとの出会いもまた、私の人生において重要な巡り会いのひとつであったように思う。かれが様々な神話や聖書や錬金術や石の象徴をテキストとして人の心の下降や上昇、信じられないようなその深み、魂といういわく説明しがたいものの躍動と劇的な物語をわれわれの前に提示するとき、私は死に損ないのようになっていたじぶんの心がはっきりと蘇生し動き始めるのを感じ取れる。そうした「リアルなもの」を私の魂は求めてきたし、これからも求めていくのだろう。私は目に見えないものの存在を否定はしないが、それに埋没もしない。一方で現実の世界をそのまま呑み込むこともできない。どちらにも傾くことのない危うい宙吊りの場所に、しかもたったひとりで不器用に立っていたい。不遜だが、そう願っている。だがもしも、これまで述べてきた私を「個」にひきとめる助力者たちとの出会いがなかったとしたら、私がもっと勤勉で実直で一途な性格であったとしたら、ひょっとしたら私は地下鉄でサリンを撒いていたかも知れない。いや、きっと撒いていた筈だ。そのような思いで本書を読んだ。

 

 宮内さん見てくださいよ、この日本を。町に出れば金とセックスと食い物だけじゃないですか。エロ本が氾濫し、みんな出世と銭金のことしか考えていない。こんな社会で、自分の精神や魂をどうやって高めればいいんですか。

 

 著者が青山のオウム本部を訪ねた折に、ある信徒の若者に言われたということばである。おそらく始まりは、そのような「純粋なひたむきさ」であった。こうしたことばを「青臭い」とせせら笑う人には、著者が巻末の付記に記している次のような一節を示したい。

 

 もちろんマインド・コントロールは解かねばならない。だがテレビの識者たちが正義感に溢れて言うように、単純に社会復帰すればよいというものではない。我々の社会はそれほど立派なものだろうか。

 この社会のありように失望して出家していった若者たちに、適当に遊んで、うまい物を食べて、なによりも金と出世のことを第一に考える、そういう社会に戻れということなのか。子供が帰ってくるのを待っている家族は別として、この社会には受け皿がない。それが悲劇の発端だった。リハビリや社会復帰といった正義を振りかざすほどに、私たちも、我々の社会も立派ではない。

(本書巻末の付録・金とセックスと食い物だけの日本に絶望した若者たちへ)

 

 著者はかつてある文芸誌に、インドのグル(導師)が築いた王国に強制捜査が入り内部が武装化に向かうという小説を連載した。その三ヶ月後にオウム真理教の事件が起きた。その後、渦中のオウム本部を訪ねて幹部と面会をしたり、脱退信者の青年をはじめ様々なメディア・識者らと対話を繰り返してきた著者は、ここでカウンター・カルチャーの60年代にアメリカで過ごしたみずからの青春を語り、インドをはじめとする放浪の体験を語り、また人民寺院などの集団自殺したアメリカのカルト教団、仏教・ヒンドゥー教の教義、教祖の説法を含むオウム真理教の内部資料などを手がかりにして、実に真摯な思弁を、みずからの深部と自問を繰り返すようなひたむきさで書き連ねている。それは「町の一等地の時価数億円もの寺はがらがらではないか。あの広い境内に立って、若者たちに語りかける心ある僧はいないのか」(本書・巻末)という著者自身の叫びに駆り立てられたようなひたむきさ、である。そうして著者が辿り着いた風景は、意識の喫水線がぎりぎりまで来ている先進国の深い病理、世界に拡散する不気味な明るい闇の似姿であった。

 

 オウムは、先進国の意味の不在という問いを残した。ポストモダンふうに言えば、意味など初めからないのかもしれない。だが意味への渇きが、オウムという未曾有の怪物を生みだしたのだ。

 これから先、どこへ向かえばいいのか途方に暮れたまま、私たちは宙吊りになっている。だが、先進国の恩恵を享受している以上、しばらくはこの宙吊り状態に耐えるしかない。安易な希望など、だれにも語れない。語ればオウムのように嘘になってしまう。大切なのは回答ではなく、問いそのものだろう。まず、私たちの脳裏になんらかの問いが浮上してくること。それがすべてなのだ。問いが現れた以上、意識はかならず、それに対応していく。きたるべき理念も、夢も、まず私たちの脳裏に浮上してくる。その浮上した共有の思いが、強度をそなえているならば、それはやがて形になっていくだろう。

(本書・終章の結び)

 

 引用したい箇所、もっと語りたいこと、語り尽くせぬことはたくさんある。オウムの事件に少しでも衝撃を受けた人なら、ぜひ本書の一読をすすめたい。たくさんの人に読んでもらいたい。そして一人一人が、その心の深部から浮かび上がってくる問いを静かに見つめて欲しい。私たちはこのおなじ世界を共有している、大きな意識のつらなりのひとつひとつなのだ。

 

 なお、あとがきに自身のホームページ「海亀通信」を公開した著者は、本書の刊行を契機とする多くの心ない中傷・誹謗に辟易してとうとう掲示板へのリンクの一時閉鎖を余儀なくされたことを最後に記しておく。

*サイト内関連リンク・宮内勝典・高橋英利「日本社会がオウムを生んだ」の書評

 

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■「山谷崖っぷち日記」 大山史朗 (TBSブリタニカ @1,300)

 

 岡林信康の「山谷ブルース」(これは歌だが)を始め、これまで山谷や釜ケ崎に関するレポートは多少目にしたが、そのほとんどは外部の目から見た評論的なもの、あるいはせいぜいホンの数年ドヤ街に潜入して得た「一時的な体験記」のようなものであった。つまりかれらには「帰って表現する場所」があるのだ。

 このすでに初老に近い著者は、「集団生活に対する深刻な忌避感と恐怖感から」40歳の頃より山谷に住み続け、現在に至るまで主に雑役の日雇い仕事を続け暮らしてきた。そしてあるとき「宝くじや馬券を買うつもりで」応募した原稿が、第9回の開高健賞を受賞してしまった。

 

 自分は人生に向いていないという深い確信があった。この確信を振り払うように、ある時期までは社会への過剰な適応努力を続けたこともあったわけだが、結局その努力も生理的に限界があったことが分かり、むしろホッとした気分になった。そうなのだ、あんなところ(会社や社会)が私の生きる場所であるわけはないのだと、深く納得するところがあった。釜ケ崎や山谷というというような社会的場所がなければ私はどうなっていただろうと思うとゾッとする(つまり逆に言うと、釜ケ崎や山谷での生活は私にはゾッとするものとしては感じられない)。

 世の中にプラス100とマイナス100との間の選択肢などが存在しているわけがない。現実的な選択肢はマイナス2とマイナス5との間にあるのであり、そのいずれがマイナス2でいずれがマイナス5かの判定さえつかないといったものであるに決まっている。

 私が真のホームレスとなることは、どう考えても避けがたいことだと思われるのだが、私はこの予測にせきたてられるでもなく、ドヤのベッドの上で悠然と本を読み、イヤホーンでテレビを試聴している。避け難い災厄はできる限り平静に受け入れた方がよい。たかが衣食住の必要のために、どこかの飯場にもぐり込み、若い職人や経営者に追い回されながら、かいごろしのような生活を送るよりも、真のホームレスとして食べ物を漁るだけで、一日の大半を図書館で読書三昧で過ごせるのだとすれば、私にはこの方がはるかにマシな生活だと感じられる。私はすでに、この局面における選択を下している。

 私の人生の判定基準はおそらく客観的には極めて低いので、精神病院にも送られず、家族に扶養される準禁治産者にもならず、成人してからの人生において自分の身体ひとつの処分に心を費やせばいいという生活を送ることができたというだけで、まあまあ少なくとも最悪の人生ではなかった、と思うことができる。これ以上の、あるいはこれ以外の人生を生きられたはずだという実感が存在していないから、客観的には十分に悲惨だった自分の人生と、私はかなり容易に折り合いをつけることができるのであった。深夜、天空に咆哮する元過激派K氏のような心情は、少なくとも意識の表層においては、私のどこをさがしても見出すことのできぬ心情なのだ。

 つまるところ私は、長い山谷生活において平生から自らのエゴを最小限に縮めることをもって、傷つけられたエゴ修復の必要性を少しでも減少させようとしてきたのだと思う。人々の視線の中の自分が本来の自分なのだ。人々に思われているような自分に内心の自分を近づけていくことが、山谷での私の生活術であり続けてきたが、山谷でさらに年齢を加えていかなければならぬ私にとって、この生活術に磨きをかけていく以外に生きる方策が残っているわけはないのである。生活の必要性が思想を呼び寄せる。

 

 つい長々と引用したが、引きたい箇所はまだまだある。

 著者はあとがきの最後に「可能な限り淡く薄い関心とともにこの生活記録が読まれ、可能な限り早く忘れ去られることを願っている」と記している。つまりこの書は真に表現することばも場もそして意欲さえ持たない者の、本来なら路上の暗がりやドヤの薄いカーテンの奥で呟かれ消えてしまう運命であったことばが、一種の気まぐれによってこうして出版物として刻され陽の目を見た稀有な例だといえる。こうしたことばを読めたことは、少なくとも私にとっては幸運なことであった。

 こうした、勝利感とは一切無縁のささやかな(だがしぶとい)別の論理もあり、それが知らず常識たる「社会」の価値観を逆照射している。

 

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■「空ニモ書カン 保田與重郎の生涯 吉見良三 (淡交社 @3,000)

 

 保田與重郎(1910-81)は奈良県桜井市出身。戦前、日本の古典を重んじる「日本浪漫派」の一人として戦意高揚に協力したとされ、戦後は文壇から追放状態と陥り生家に帰農、不如意な生活を余儀なくされた。やがて「日本を祈る」で沈黙を破るや精力的に執筆を再開。征服者の論理に偏る近代文明こそが戦争の現況とみなし、水田耕作による農業主体の生活に理想の平和像を見出す「絶対平和論」などで自説を論じ、戦後世相に鋭い批判を加えた。(奈良新聞)

 

 保田與重郎という名前をはじめて見たのは十代の終わりの頃、当時愛読していた詩人・立原道造を論じた書物のなかで、夭折した詩人がその晩年に與重郎の思想に感化されたことに触れてその著名な評論家は「戦時中の右翼の国粋主義者たる保田ごときに心酔したのは詩人の気の迷いであった」といったニュアンスの物言いをしていた。私は保田與重郎という人物をそんなイメージでぼんやりと受け取り、それっきりほとんど忘却しかけていた。

 再会したのはある日、明日香の藍染織館のW氏より届いた一通の案内であった。開館5周年の記念企画として、延べ五夜に渡って保田與重郎の人物像を語る“夜咄の会”を開くというものである。但し書きにいわく「その存在があまりに大きすぎたがゆえに計りかねているといったら間違いだろうか。大和とよばれる地と臍帯した保田與重郎を地平に沈む日で逆照射し、あらためてその風貌を刻してみたい」 この催しは奈良新聞や朝日新聞にも紹介されたので、あるいは記憶されている方もいるかも知れない。残念ながら、初日こそ仕事が終わってからバイクで明日香まで馳せ参じ「手伝い」として参加したものの、ちょうど仕事が忙しい時期で後は逃してしまった。それからしばらくして、つい先だって久しぶりに訪ねた染織館でW氏よりプレゼントされたのが“夜咄の会”のきっかけともなった本書である。

 これを読むと「戦時中の右翼の国粋主義者」という巷のレッテルもその実は、天皇賛美の衣を纏いながらも「近代化」を批判する與重郎の思想に当時の軍部の一部が警戒心を抱いて自宅を監視していた事などが出てくる。何より印象に残るのは、当時を回想するゆかりの人々が語る與重郎の独得な人間的魅力、そして佐藤春夫、萩原朔太郎、川端康成、檀一雄、伊東静雄、折口信夫、亀井勝一郎、棟方志功、岡潔といったかれの周囲を彩る知人たちとの興味深い交友風景である。右とか左とかいったすでに色褪せたちゃちな物差しは捨てて、「日本の古の精神」にこだわり続けたこの作家の仕事をあたらしく見つめ直す時が来ているのかも知れない。まさに「大きすぎたがゆえに計りかねている」さびしくまっすぐな人である、と思った。

 最後に亡き中上健次のこんな言葉を紹介しておこう。

 

 京都の太泰の家に保田與重郎氏を訪ねたことがあった。やくたいもなく私の故郷熊野と保田與重郎氏の大和のいずれが強力なのか、と問うと、保田與重郎氏は、若い頃、熊野を歩き廻った、熊野の玉置山の大杉を見たかと問い返された。保田與重郎氏のその時の言葉は、ことごとく謎として今もある。古典に殉じる程の書物の人が歩いているのである、熊野を。

 

 なお保田與重郎の著作は、昨年より京都の新学社(TEL 075-581-6111)なる出版社から「保田與重郎文庫 全24冊」として刊行されている。

 

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■「森に訊け」 橋本克彦 (講談社文庫 @740)

 

 かつて著書「欲望の迷宮」で新宿歌舞伎町に繰り広げられるニンゲンの欲望を描いた作者が、この本では全地球規模で進行する森林破壊というさらに壮大で暗澹たる欲望を追いつつ、日本の各地からブラジル・ドイツ・マレーシアと精力的に足を運び詳細な取材をした。たとえば日本はマレーシアのサラワク州の森を「一日に野球場370個分ずつ呑み込んでいる」という事実。その根源にある病巣について著者は「十分に採算の合う伐採事業でもなお、安い資金を手に入れようとする企業と、それに対して融資が可能な政府機関の運営。この構造こそが、モンスターの抜きがたい性格であると認識する必要がある」と書く。

 

 向かうところ敵なしの状態で増殖してきたヒトは、これまでは星の限界容量を考えなくても良かった。しかし、これからは星の大きさを意識しなければならない。増えよ、とセットされた種の方向を、はたしてヒト自身がコントロールできるかどうか、この本の取材中しきりにそれを考えたのである。

 それはひどく困難な問題のように思えて、正直にいえば、うんざりすることになる。

 そんなとき、日本で取材したときの木曽のカモシカの瞳を思い浮かべる。「よく見て、考えろ」と奴は言い続けている。「そうだ、そうだ」と私は答え、へとへとに疲れたうえのうんざりに耐えた。

 

 以前にどこかでも記したが、かつてこの国では道は山にあった。それは森(自然)とヒトとの蜜月の時代であり、やがて人々は山を下り、自然から収奪することを覚えていく。それに従ってかれらは山と里とを分け、深い森を抱いた山は異界へと変貌していく。つまり山=森とは、この国の精神の古層なのである。私はそのように考えている。その森が無惨にも破壊されるということは、環境とか経済の問題というより以前に、人間の精神にとっての死ではないか。

 最後に、酸性雨によって枯死しつつある豊かな森を看取るドイツの心優しきある森林保安官が著者に語った話を、ひとつ引いておきたい。

 

 手を切り落としたきこりの話をしてやろうか。

 そのきこりは切り口に楔を打ち込もうとして手を挟んだ。木を伐るときには楔を打ち込んで、のこぎりの歯がすべるようにするからね。狼の出る季節だった。手をひきぬこうにもどうにもならん。やがて日が暮れた。狼の遠吠えが聞こえだした。そのままそこにいれば狼の餌食だ。挟まれた手を切り落とせば逃げることができる。だが、手を切るには勇気が要る。痛いし、腕は大事だしね。きこりは迷った。なんとか、うまく切り抜けられるかもしれん。痛い目に遭わずに逃げられるかもしれん。狼が近づいてくる。まだなんとかなりやしないか。狼が近づいてくる。はっきり姿が見えてから、きこりはやっと腕を切り落とした。しかし、狼の姿を見てから逃げられた人間なんていないのさ。つまり遅かった。きこりは狼に喰われちまったとさ。

 いまの時代の便利さというのは、このきこりの挟まれた手じゃないかと思うのだよ。なれれば困るよ。だけどそいつに執着して、狼から逃げ遅れたりすれば命を失う。まだ大丈夫っていうのは、危ないごまかしじゃないのか。

 

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■「お骨のゆくえ 火葬大国ニッポンの技術 横田睦 (平凡社新書 @700)

 

 誰でもいくどかは遭遇しているのに、その内実については案外知らないもののひとつに葬式にまつわるあれこれがある。この本の特色はそうした誰もが身近で遭遇し、最後には自身も世話になることになる「葬送の技術」を、「お骨のゆくえ」を辿りながら、工学の視点より論じた点にあるといえよう。

 たとえば世界でも火葬率トップを走る火葬大国ニッポンの技術と火葬場の歴史的変遷。あるいは墓地の成り立ちと、欧米を模した郊外型の公営霊園の出現(ちなみにわが家の墓地も、この大正時代に「東京市墓地並施設設計計画案」として立案された「郊外型公園墓地」の一角に在る)。はたまた死に化粧たるエンバーミングのテクニックから霊柩車等の脇役たち。そして狭い日本ならではの立体墓地の紹介や、核家族化による集団納骨堂の現状レポートなど。どれもふむふむと読ませるものがある。

 もうひとつ、この本の面白いところは、最近トミに叫ばれている葬儀の個性化・脱集団化・生前葬・散骨(自然葬)等々の「死後の自己決定権」あるいは「葬送の自由」といった一見響きの良い「個の権利」の大合唱に対して、著者が控えめに、だがしたたかに疑問を投げかけていることである。葬式とは本来共同体による共同体自らのための弔いの儀式ではなかったか、核家族化による墓地の無縁化や葬式の形骸化といった問題以前に、そうした死という異物を内部に取り込み意味づける共同体そのものが壊れ始めている、そちらの問題の方が重大ではないのか、と著者は呟いているのである。

 私個人でいえば、ものものしい葬儀の類は一切無用、亡骸は好きな山岳の奥深くへ撒くか、いっそ野に放置して鳥にでも喰わして貰えばよいと思っているが、そうした個人的な嗜好を置いた社会的な見地からいえば、著者の提言はまたべつの意味で共感できる部分もある。「葬儀の技術」を辿ることによって、あたりまえのことと受け入れていたあれこれを改めて見つめ直すことによって、死とは何ぞや、死を送るとは何ぞや、というこれまたあたりまえで本源的な問いが私たちの前に、ふたたび茫洋と立ち現れてくるように思われる。

 

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■「ルポ いじめ社会 あえぐ子どもたち 村上義雄 (朝日文庫 @500)

 

 さっきから話している、因果論的に構築されている現代社会では、人間が危険に挑戦したいという情念をおさえつけられていて、出口の見つからない状態になります。今日では、冒険心を発露させようとしたら、反社会的なかたちでしか出せない。20世紀に入ってからのパトス的人間というと、ギャングしかいない。彼らが人間として持っているチャレンジ精神は、反社会行為としてしか発揮できない。社会に反しないかたちでの冒険心の発露が不可能だからです。社会のワクにとどまれば、お行儀のいい市民になる道しかない。できるだけ周囲に適応し、できるだけいい機能をはたし、しかし特別大きなよろこびもなく、特別大きな苦労もない。冒険も危険性もない。大企業に勤めるひとりひとりの社員は、機能をはたさなければいけない。冒険をしたいなどと、思ってはならない。

 

 はじめはエンデさんの「遺言」から。ふだんはこの種のレポート、あえてはずして読むこともないのだが、古本屋の百円均一の棚で見つけて、何となしに手に取った。そして何とも息がつまった。私が現代の「17歳」だったとしたら、人の二人や三人くらい殺しているよ、こりゃ。押しつぶされて惨めな「自死」へ追いやられたくなかったら、人を殺すしかない。

 

 「違い」を認めない社会。上意下達式の教育システム。個を抹殺される子ども。

 「人並み」、「みんなと同じ」、「現状適応」、「異端の排除」。大人社会に深く根を張ったこれら無言のプレッシャーとワンセットとなった競争原理。

 それらすべてが、子どもが「自分自身であること」を侵害し、抹殺していく。

 

 これは巻末・落合恵子の解説から。この本に出てくる無数の例は、わざわざ引くまでもない、日頃私たちが新聞や週刊誌などでさんざ目にしている「無限地獄」の光景だ。そのパターンは、どれもどこか似ている。大人たちの異常な管理教育に倦み、こどもが引きこもる。だが教師や学校と同じ社会のシステムを共有している親は、こどもの側より学校の側に立って社会の「ワク」から脱落しかけた我が子にパニックを起こし、無理解のまま強引にこどもを学校へ連れ戻そうとする。かれらにはどこにも出口がない。

 だから陰鬱な報告の中で、最後にこどもが救われた少数の例はみな同じだ。それはかれらの親が、苦悩の末に社会の「ワク」をいったん己の頭から捨て去り、こどもの側に立って考え始めること、社会に対し「ノー」と宣言することである。登校拒否になったこどもといっしょに学校と闘いはじめた親。またある母親は著者にこう語る。「家にいてみようか。あのとき、そう勧めたのがよかったんだと思う。みんな、本当に辛くなったら“お疲れ休み”しちゃえばいいんですよ。そして、疲れがとれてまた行きたくなったらそうすればいい」

 フリー・スクールだっていい。親といっしょに家で理科の実験をしたっていい。働きながら定時制へ行ったっていい。サーカス団へ入ったっていい。自分が自分でいられない場所にいることはない。ときには「ノー」と言って逃げだし、自分の責任で、自分のいられる場所を懸命に探せばいい。私は生まれてくる自分のこどもに、たったひとつの崖っぷちの「ワク」ではなく、望むならそこからはみ出した無数の生き方があるのだと教えてやりたい。むしろ「はみ出す」ことこそ、ニンゲン的である、と。「はみ出しちゃった」としょげていたら、「それもいい」と言ってやりたい。落ちることや止まることや負けることもときには大切なのだと教えてやりたい。

 そして、エンデさんの「遺言」は、こんなふうに続く。

 

 でも、人間が自分のなかの力を認識するきっかけとなるのは、冒険をしてみることでしかありません。こんなことをして、あとはどうなるかわからない、それほどの危険にいどんでみてはじめて、以前には自分でも知らなかった力に気づく。そしてその力を生かすようになれる。それは、リスクをおかすことでしか到達しえない認識です。ほかに道はありません。

 

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■「百合子さんは何色」 村松友(ちくま文庫 @560)

 

 武田泰淳の小説は、かつて「ひかりごけ」という初期の代表作をひとつだけ読んだことがある。確か野上弥生子氏も同じ題材で書いていたと記憶しているが、難破した船を舞台に起こった実際の人肉事件に材をとった作品で、ほんの短い戯曲形式の中編だがニンゲンのぎりぎりの状況下での実存、醜さと崇高さという二律背反を見事に書ききった傑作だといまも思っている。

 ここでいう「百合子さん」というのは、その泰淳の夫人であった武田百合子さんのことである。作家の死後、彼女は夫や一人娘と過ごした富士山麓の山荘での日々を纏めた「富士日記」を発表して評判となり、その後いくつかの随筆を残した。その「富士日記」を、HPの掲示板で知り合ったMさんにすすめられ読んでみた。「富士日記」が表であるなら、本書は裏のいわば「楽屋もの」である。といってもこの「楽屋もの」、筆者はふらふらとあちこちを出たり入ったりして、なかなか楽屋の扉まで行き着かない。

 文庫本で全三巻にも及ぶ「富士日記」の上巻をたまたま古本屋で見つけて読み出した当初、実はそれほど乗り気でなかった。○月○日にコンビーフと味噌汁を食べて、今日は庭に霜柱がたって水道管が凍りついたなどという日常の記述にそのうち飽き飽きするのではないかと危惧していたのだがさにあらず、30頁も読まないうちに、その不可思議独得な筆致にすっかり魅了されている自分を見た。「富士日記」という作品、いや百合子さんという存在は、何と言うべきか、拾ってきた溶岩や、凹んだ車のバンパーや、農家の差し入れのきゅうりや粕漬けでもって、ニンゲンという名の詩をこっそりとさりげなく語る。

 ひとつだけ、埴谷雄高氏の言を引こう。

 百合子さんは本来、全肯定なんだから。あらゆるものすべてよし、と。百合子さんという人は生まれつきの大天才でね、本当いえばお筆先か何かになって百合子教というものをつくればいちばんよかった。天理教や大本教よりも、もっと立派な全肯定の宗教ができたと思いますね。

 

 律儀なまでに食べ物や買い物・献立をまめに書き連ねる百合子さんを見ていたらその昔、寺山修司のエッセイで読んだ、減量中に「枝豆、納豆、冷や奴、おいしかったです。すいとん、五目炒め、焼きそば、おいしかったです....」といった「遺書」を残して自殺したオリンピックのマラソン選手のことを思い出した。そう。百合子さんがたとえば「夜 / パン、とりスープ、コンビーフとじゃがいも、サラダ」と書くだけで、そんな一抹の悲しみが裏側からそっと滲んでくる。

 お転婆で、負けず嫌いで、ときには子供のようで、ときには度胸がすわっていて、気分屋で、さみしがりやで、快活で、クールで、しなやかで、おおっぴらで、秘密めいていて..... つまり「百合子さんって何色?」と問うた筆者自身が「分からない」と答えて、それで満足している。すべての色であるか無色透明であるかで、どちらもおんなじことだ。確実に言えるのは、レーザー・プリンタなどではけっして出せないような、そんな微妙な色だ。

 百合子さんのような叔母さんがいたらとても素敵で、間違いなく大好きな叔母さんになっていたろうなあ、と思うのである。

 

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■「荒木 ! 「天才」アラーキーの軌跡」 飯沢耕太郎 (小学館文庫 @600)

 

 小学生の頃に、近所の知り合いのお姉さんがいっしょに公園で遊んでくれた。子供の私がひとりきりだったこともあったろうが、お姉さんは勇ましくもジャングル・ジムに登っていった。そのとき、白い下着が見上げた私の目に焼きついて長いこと忘れられなかった。ほんとうを言うと、黄色いシミが付いていたのだ。アラーキーの写真は、あのとき見たお姉さんの下着に似ている。胸がざわついて、どこか後ろめたく、奇妙になつかしい。

 初期の有名な「オマンコラージュ」という作品がある。女性性器の輪郭の中に様々な写真を切り貼りして埋め込んだコラージュ作品である。女陰の中に世界の森羅万象が猥雑にうごめいている。写真家は女陰を撮りながらついには手にしたカメラが女陰そのものとなり、世界のもろもろの事象を貪欲に呑み込み、吐き出していく。女陰と成った写真機は必然的に「エロトス(荒木の造語   エロス+タナトス)」を内包する。母の死に際してかれは言う。「あの乳首を、そして恥毛を、撮りたかった」 愛妻のヨーコが死んだときにはその死に顔を撮り、同時代の篠山記信の批判を浴びる。

 

篠山 そんな不遜な写真集なんか僕は見たくないね。本当のことをいうとこれは最悪だと思うよ。

荒木 一回妻の死に出会えばそうなる。

篠山 ならないよ。女房が死んだ奴なんていっぱいいるよ。

荒木 でも何かを出した奴はいない。

篠山 そんなもの出さなくていいんだよ。あなたの妻の死なんて、はっきりいってしまえば他人には関係ないよ。

荒木 だからこれは俺自身のためのものなの。なんといっても第一の読者というのは自分なんだから。

 

 「論理」は篠山に理があるが、荒木の写真にはその「論理」さえ呑み込みうごめいていく何かがある。それはきっと言葉にはならぬ、純白ではない、あの黄色いシミの部分だ。火葬され骨になった母を前にかれは記す。「あれは、絶対に撮っておきたかった。それは、写真家としての打算である。母の死は、卑小な写真家である私を、批判し、糧となった」 写真家としての欲望を「打算である」と言うとき、かれの女陰写真機はますます透明になっていく。そうして吐き出された作品は、死の匂いをたっぷりと吸った、それでいて不思議な静けさと安らぎに満ちている。おそらくかれは、円環のなかにいる。きっと己が死んだ後には、自らの骨さえ撮るのであろう。

 命の見えなくなっている若い世代にアラーキーの写真群を見て貰いたい。かれの写真には猥雑で強靱で沁みいるようにやさしい、〈いのち〉が満ちているから。同時に下町江戸っ子の軽快さとしたたかさも。

 

三脚つけて絞りこんでスローシャッターだと、たとえば走り去る少女とゆー〈幸福〉が、ブレたり消えたりしてしまうのです。それに凝視しつづけると、新しい街が廃墟になってしまったのです。やはり、〈幸福〉って動体にあったのです。すばやく撮らなくちゃ、生を写さなくっちゃねえ。

 

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■「赤ちゃんが来た」 石坂啓 (朝日文庫 @440)

 

 赤ん坊が来るとなると、どこか目線も変わるらしい。これまで見えなかったものに目がとまる。いや、見ていたはずなのだが、視神経から発信された信号が脳に送られる途中で「必要のない情報」として自動的にふり落とされていた。きっと私たちはそのように、いつも、自分にとって都合の良い世界だけを見ているのかも知れない。

 たとえば、ふだん歩きなれた近所の道沿いに「託児所」の看板を見つける。へえ、こんなものがあったんだ。いつも通っているのに全然気がつかなかった、とか。街の人通りもいつの間にやら赤ん坊や妊婦でいっぱいである。別にそれらが急増したわけでなくて、こちらの目線が変わっただけなのだが。そんなわけで、ふだん行きつけの古本屋の棚を眺めていても、ついこんなタイトルを拾ってしまうというわけだ。

 石坂啓の漫画はその目線が昔から好きで、「キスより簡単」や「マネー・ムーン」「マンチャラ小日向くん」など、主要な作品はたいてい読んできた。同性愛者や風俗嬢や受験戦争の落ちこぼれなど常に社会の少数者を、決して暗くはならずむしろコミカルに明るく問題提議してきた作風の著者が、はじめて出産と育児を経験する。そんな著者の、これはルーズで伸びやかで愛情たっぷりの赤ん坊をめぐるエッセイ。

 私のつれあいと同じく「絶対にフリルの似合う可愛い女の子」と決めていたものの、いざ男の子が産まれてくるとたちまちぞっこんになり、ついには「よォし、どうせなら立派なマザコンにしちゃえ。女はママだけでいいよネーと言いきかせながら、乳を押しつける。世間に出さなきゃ人にも迷惑かけないわけだから、手もとに置いておこう」となり、あげくにかわいさ余って「チビチンコ」をしゃぶってみて「グミキャンディーみたいで極上」と言ってのける。男の私から見るとちょっとヤバイ気もするが、そもそも子育てなんてものは、こんな大らかさが実は一番なのかも知れない。

 

 コドモがハイハイしたり歩くようになったりしたら、コドモの目の高さからも、もう一度世界を眺めてみたい。

 

 赤ん坊が生まれる前は、これから先ずーっと赤ん坊がいるってことが不思議な気がしてた。絶対に、途中でリタイアできないのだ。夫婦の気の向いたときだけ赤ん坊がいるんじゃなくて、五年先も十年先もその後もずーっとずーっと、コドモがいるのだ。うっとうしくならないだろうか。

 しかし、産んでみてそれが大きな間違いだったことがわかる。もうこれから先、ずっとずっとずーっと、いてくれなきゃ困るって思った。もうリクオのいない状態ってのが考えられないって感じになってしまったのだ。これは初めてわかった感触だった。そうだったのかァ。家族にしろ家族でないにしろ、人がひとり誕生するってのは、そういうことだったのか.....

 

 ちなみに私の買ってきたこの本は、つれあいが一足先にさっさと読んでしまった。面白く、かなり共感できた様子。実際リアルで直裁で、下手な育児書より余程いい。はじめてお母さんやお父さんになる人にもお薦めしたい。

 

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■「テロ爆弾の系譜 バクダン製造者の告白」 木村哲人 (三一書房 @1800)

 

 昭和20年代、関東地方の一学生だった著者は、あるとき共産党シンパの友人から「球根栽培法」と題された奇妙な冊子を見せられる。それは後に「爆弾製法の聖典」ともいわれるようになる、「日本共産党が昭和26年に、武力闘争を決定するに当たって、党員に配布した武器製造の秘密教科書」であった。

 電気工学科の学生で、もともとモノづくり   特に武器や薬品に強い興味を抱いて著者は、かならず翌日には返すから、と渋る友人からなかば強引に冊子をとりあげ家に持ち帰り、さて、胸躍らせてページを開いていくと、手投弾、時限爆弾、火炎瓶、タイヤパンク針、手製拳銃、速燃紙とものものしく列挙されたそのどれもが、およそ非科学的で製造不可能なまがいものか、子供だましの玩具のごとき幼稚な、「武器製造の教科書どころか、田舎の少年すら失笑するしろものだった」

 このことがきっかけで、若干19歳の著者は地区の軍事委員会から要請され、爆弾製造へと深入りしていくことになるのだが、それはそのまま「テロ爆弾の系譜」を辿り直すような風景である。帝政ロシアの皇帝を倒したキバリチッチの着発式手投弾を夢見、明治の加波山事件で用いられた鯉沼九八郎発明の爆裂弾を試し、幸徳秋水らが連座した大逆事件での爆裂弾を再現して「ただの玩具花火」であったと唖然とする。

 結局のところ著者は、党内に潜入した老練なスパイによって監禁され、服毒自殺を図るが一命をとりとめる。その間、共産党内部では武力革命からの方針転換を唱える勢力が主導権を握り、いっさいの軍事組織が否定、あるいは除名されていた。後に録音技師となった著者は、20年後に仕事のために訪れたパリでテロ爆弾の専門家と密会し、念願のキバリチッチの手投げ弾の設計図を入手する。そうして著者がたどり着いた結論は、武器教本「球根栽培法」とは、当時のアメリカの諜報機関と旧日本陸軍・中野学校出身者たちの合作による謀略本だったというものであった。

 色褪せた革命の理念や込み入った政治の話などは一切出てこない。著者の興味はただひたすら、テロ爆弾なるものの技術的な製法一点に向けられている。革命の理念などではなく、ただバクダンというモノ自体の魔に魅せられた人、なのだろう。それが逆に、ある意味ですっきりと面白く読めた。そしてまた著者が体験した製造の現場から、テロ爆弾に関わってきた、日の下であまり語られることのない無数の人間たちの息づかいが透けてくる。

 つまるところテロ爆弾の魅力とは、権力が管理している暴力を自らの手中に奪い返すことの法悦感のようなものだろうか。残念ながら私には想像の域を越えるものだけれど。

 映画監督の大島渚氏が序文を献じている。

 

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■「宮本常一が見た日本」 佐野眞一 (日本放送出版協会・NHK人間講座テキスト @560)

 

 ノンフィクション・ライターである著者は以前に、この国のゴミ問題についての分厚い報告書を読んだことがある。丹念な取材とデータに裏打ちされたレポートは、きわめて的確に消費社会の来し方と終末的な行く末を描き出していた。その著者が、NHKの人間講座の番組で、在野の民俗学者・宮本常一の足跡を辿る旅に出るという。残念ながら初めの数回の放送は見逃したが、すぐに書店でテキストを買ってくるほどに魅了された。

 宮本常一の方も、それほど熱心な読者だったわけではない。はじめて読んだのは岩波文庫に収録されている「忘れられた日本人」で、かつてこの国の山中に“かったい道”といわれる、業病を背負った者たちが人目を忍び通行した道があったという記述を読み、何やら臓腑をえぐられるような衝撃を受けた。その後も、朝日ジャーナルの“部落差別”を論じた企画に野間宏や安岡章太郎らに招かれ、先入観のない素朴な視線から、旅先で出会った被差別民たちとの交流をトツトツと語る姿勢に触れ、その汲めども尽きぬ幅広い実体験に支えられた見聞と独得の捉え方とともに、この人はきっとやわらかな体温の持ち主なのだろう、と思い好感を抱いた。

 「道の人」である。道を歩くとは、盲(めしい)が巨象の体躯を撫でるように地形をなぞることであり、それは同時に偽りのないヒフ感覚で、この国のモノと人の流れとを写し取る作業でもあるだろう。そのように、リュックに食糧代わりの乾パンをつめ、足にはゲートルを巻き、一夜の宿に預かり、ときには野宿も厭わず、「日本列島の白地図の上に、かれの足跡を赤インクで印していったら、日本列島は真っ赤になる」と言われたくらいに、全国の村々を精力的に経巡り、古老の話に耳を傾け、村の古文書を写し取り、また何気ない溜池ひとつに田へひく水の分配をめぐる農家の人間の意志を読みとり、あるいは民家の裏に吊されたツギハギだらけの洗濯物や、海岸に漂着した木材の上に置かれた石や、野積みされた杉の皮や、裸足で遊ぶ離島の子供たちの足下など、ふつう人々が目を向けないようなものに目を留め、記録し、歩き続けた。

 またかれは生涯、在野の学者でもあった。かなり後年になるまで民俗学者としての安定した収入も地位もなく、旅から旅の無私の貧乏暮らしであった。小学校や中学校の教員として勤める一方、渋沢敬三の主催する民俗文化研究に参加し、終戦後は府の委託の農業指導員となり、離島振興に尽力し、猿回しなどの地域芸能の復興や村おこしに若者たちを駆り立てた。「民俗学者」という小さな器には収まりきらない人物だった。同じように生涯在野を通した博覧強記の南方熊楠とは別の肌合いで、〈全方位的〉人間であったように思える。その底には常に「ふつうのひとびと」への変わらぬ愛情が溢れていた。その意味でも著者の言う、今後の宮本常一像の新たな見直しというのも、意義深いことであるに違いない。

 宮本と親交のあった劇作家の木下順二は宮本の死に際して「何とかして宮本さんの脳を残せないものだろうか。かれの頭の中には日本がぎっしりつまっていた」と詠嘆したという。「道の人」とは、いわば来し方をなぞり、行く末を願う人であった。われわれはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。離島や過疎の山村の振興に尽力を惜しまなかったこの旅人は後年、変貌する資本主義の国・日本の姿に、ある一抹の不安を覚えるようになる。後年にかれが記したつぎのような言葉は、戦前から戦後の長きにかけてこの国の「ふつうのひとびと」を凝視し続けてきた人の、ため息にも似て、どこかさびしく重い。おそらく、このバトンを受け取り、かれの踏みしめた道をふたたびたどり直すのは、後に残された者たちの役割であろう。

 

 資本主義的な思想のおそろしさというようなものを近頃しみじみ思う。しかもそれが国民全体のひとつの思想になりつつあるのではなかろうか。(日本の離島・あとがき)

 いったい進歩というのは何であろうか。発展というのは何であろうかということであった。....失われるものがすべて不要であり、時代おくれのものであったのだろうか。進歩に対する迷信が退歩しつつあるものをも進歩と誤解し、ときにはそれが人間だけでなく生きとし生けるものを絶滅にさえ向かわしめつつあるのではないかと思うことがある。(民俗学の旅・末尾)

 

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■「木の国熊野からの発信 「森林交付税構想」の波紋」 重栖隆 (中公新書 @700)

 

 関東からこの奈良の地へ移り住んだのは、ひとつには当時和歌山に住んでいて長距離恋愛をしていたつれあいのためであり、もうひとつは、もともと熊野を中心とした紀伊半島の豊かな自然と歴史に惹かれていたためであった。20代の頃に、友人と二人で寝袋・テントを背負い、新宮から熊野川沿いを徒歩で北上する紀伊半島縦断の旅。つづいて翌年には、やはりおなじ友人と大峰の修験道奥駆けをたどった。その山行きの前夜、山麓の宿で仰いだ山影に肝をつかまれた。それはユングのいう地下茎   根茎を顫わすような圧倒的な存在感で、しばし呆然と立ち尽くした。

 何も高い山行きばかりでない。古墳の近くの雑木林や、丘陵の古刹へ至るかつての巡礼の古道へふらっとでかけるのも好きだ。そんなときは必ず道を外れて、杣道やけものみちへと入り込んでしまう。あるとき、そんな人跡の絶えた谷筋の斜面にぽつねんと腰掛けていて、ふと、死ぬならこんなところで死にたいなあ、と思った。新芽を膨らませた枝、倒木を解体する菌類たち、降り積もった落ち葉の上をカサコソと動き回る鳥の足音や、風でしなりこすり合う枝の響き、それらに埋もれていると、死は当たり前のものなのだ、静かに受け入れて、自分もこれらの一部となって朽ちよう、そんな穏やかな心持ちになる。

 ところが、いまや日本の森は危機に瀕している。自然保護の対象となる天然林はいわんや、戦後の未曾有の大植林で造られた人工林が弱肉強食の経済の論理によって蹂躙され、打ち捨てられている。安価な外材の輸入による非採算性と人手不足。50年、100年というサイクルで育てられた木が、市場のシステムにそぐわないからという理由で、まるで豊作のためにブルドーザーで踏み潰される白菜のように遺棄され、重労働で賃金も安く将来も見えない林業を継ぐ者も減り、間伐などの手入れもされないまま放置された無数の木々が、やがて来る森の崩壊を静かに待っている。過疎化によって年々疲弊していく山里には、もはやこの巨大な病を自力で癒す体力も術もない。

 もともと50年、100年という長いサイクルで育てられる木を、市場経済の量りに掛けようということ自体が無理な話なのだ。そして、それらの不合理な悪循環を貧しい地方自治体が一身に背負わなくてはならないことに矛盾がある。山が死ねば、川も大地も死に、やがて町も死ぬ。山はみんなで守っていくものなのだ。なぜなら山の価値とは、金銭で換算できるものだけではないから。そのような観点に立って熊野の一山村から提示され、全国に波紋を投げかけた素案が本書のサブ・タイトルとなっている。林業労働者に町のサラーリーマン並の待遇を与え、人工林を健全に保ち、天然林の復活にさえ投資できるその額、国民一人頭に換算して年間2,500円。「さてこの2,500円、あなたには果たして高いか安いか.......」

 1章では「木の国」といわれた神代の頃からの熊野の歴史が物語られ、2章では戦後に廃村となった本宮町内の野竹集落を取材し、3章で森林交付税構想旗上げまでの経緯とその後の運動、そして終章では I ターンで炭焼きや林業を始める若者たちなどを通して山村復興のささやかな試みが紹介される。

 往古には道は平地にではなく、さながら天のハイウェイのように、この国の山中を経巡っていた。縄文の遺跡は平野ではなく、山上に営まれた。つまり山の文化そして森とは、この国の古層を孕む。山は、畑や工場のように材木を生産する場である以前に、雨水を蓄え浄化し、洪水や土砂崩れを防ぎ、酸素を生み出し、気候を調節し、生物を育み、微生物や細菌などの遺伝子を保全する地球的なシステムの重要な担い手であることは言を待たないが、それ以上に、効率やスピード、絶え間ない進化や競争といったもろもろの平地の価値観に席巻されながらもかろうじて保持してきた、この国の大らかな精神の心根が息づいている最期の牙城であるに違いない。私たちは、いまそれらを完全に失おうとしているのではないか。そのような意味で私は、この本の著者の言う次のような言葉に激しく共鳴する。

 ...ある人はそれを熊野がもつ「癒し」の機能だといい、またある人は「復活のエロス」だといい、別の人は「循環の思想」だという。いずれにしてもそれらは現代が見落としていたゼニカネに換算できない価値であり、色合いは違えそれらはすべて、縄文以来形成され受け継がれてきた森や自然と共生する暮らしと、その中で人々が取り組んだ山村社会の自治、そしてそこで成立した世界観を土壌に形作られた熊野の歴史的相貌に、発見の糸口を辿ることができるものだ。その土壌には、熊野が豊かにそして頑固に育て守ってきた、森や自然への素朴な畏敬の念と感謝の思いが確かな核として孕まれている。一言でいうならば、それこそが「森の思想」というものなのかも知れない。

 

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■「シベリアに眠る日本人」 高杉一郎 (岩波書店・同時代ライブラリー @800)

 

 当時新聞紙上を賑わせていたバルト三国の紛争のあおりを受けて叔父が予約していたツアーが中止となったのは、あれは'80年代のいつ頃だったろう。いまこそあれらの国々を見るべきなのに誠にケシカラン ! と憤慨する叔父に何気なく、じゃシベリア鉄道でも乗ってきたら... と言った私の一言から話がトントンと進み、叔父のサポート役として私も同行することとなって二人でシベリアの地へ飛んだのは、おりしもかのソビエト連邦が瓦解する直前のことだった。

 極東のハバロフスクからまる3日間寝台車に揺られて、世界一の透明度を誇るバイカル湖畔の街イルクーツクへ。ある日、その郊外の広大な白樺の森の中にある日本人墓地に私たちは案内された。林の一画を切り開いた下草だけの平坦な地面に、長方形の棺の形をした真っ白なセメント枠がいくつも並んでいた。枠の上部にはめられたプレートの名前をひとつづつ丁寧に見ていった。日本語だが、日本語ではない。おそらく日本語を知らないロシア人が、見よう見まねで書き写したのだろう。なかには存在しない奇妙な漢字もいくつかあり、こんな異国の厳寒の森の中に己の氏名さえも間違われたままさびしく葬られている、そんな歴史の風景に得も言われぬ哀れを覚えた。

 およそ1600年代に原住民から毛皮税を徴収するためにコサックの一隊によって築かれた冬営地から発展したイルクーツクの街は、やがてシベリアの一大中継地・前進基地として栄え、古くは伊勢の漂流民・大黒屋光太夫がたどりつき、皇帝(ツアーリ)に対する叛乱を企てたデカブリストたちが流され、あるいは「ある革命家の手記」を記したクロポトキンがその思想を醸し、晩年のチェーホフがある決意を胸に苦難の旅をした。

 冬には氷点下50度にも下がる極寒(マロード)の地・シベリアは、長くロシアの歴史においてこの世の果ての流刑地であった。そこにおよそ60万ともいわれる日本人捕虜が敗戦後10年以上もの長きに渡って抑留され、冬の極寒、夏のブヨという悪環境のもとで鉄道建設などの重労働に酷使され、1割の6万人が死亡したといわれている。イルクーツク市内にも当時の捕虜たちが従事した建物がいまも立派に残されており、私たちも町中で、これは日本人が建てたものだ、というガイドの説明を幾度か耳にした。

 終章近くで自らも抑留体験をもつ著者は、かれらは「国家に見捨てられた棄民だ」とその呻きにも似た断腸の思いを記している。上官から「お前たちは一銭五厘(昔の郵便はがき一枚の値段)の消耗品だ」と言われつづけ、茶番に終わった戦争末期におけるソ連との和平交渉の要綱には「海外にある軍隊は(中略)当分その若干を現地に残留せしむることに同意する。/ 賠償として一部の労力を提供することに同意する」との条文が記されていた。

 国家は民を守るためにあるのではない。国家は国という権力機構をまもるためにあるのだということを、極寒の白樺の林にいまもひっそりと眠る墓標のひとつひとつが無言のまま物語っている。

 

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■「国家と犯罪」 船戸与一 (小学館 @1800)

 

 キューバ革命の雄 チェ・ゲバラに「ゲリラ戦争・武装闘争の戦術」と題した著作がある。サブ・タイトルにある通り、具体的なゲリラ戦での戦略や組織編成について記されたこの一冊は、私の処世の書でもあった。たとえば、こんなくだり。

 

 “ヒット・エンド・ラン(撃っては逃げる)   ある人たちはこうしたやり方を軽蔑するがこのことばは正確である。撃っては逃げ、時期を待ち、待ちぶせをやり、ふたたび撃っては逃げる。

 

 少なくとも青白い顔をした浅田彰の「逃走論」よりは、私の胸に沁みた。私がこの、キューバでの革命を成し、新国家で与えられた大臣の座をなげうってふたたび戦場に舞い戻り、惨めな異国の地で処刑された革命家に興味を抱いた頃は、すでに「革命」という言葉自体がアナクロニズムになっていたから、かれの本はそのほとんどが絶版であった。私は古本屋で丹念に探し回って、その日記や伝記などを手に入れたものである。

 ゲリラ兵士とは“既成の悪しき価値観に抗う者”だと、私は認識している。何も現実に銃を手にするだけがゲリラ兵士なのではない。ある意味では、ゴッホは絵筆を手にした一兵士であり、ジョン・レノンは音楽を武器とした一兵士であったのだ。そしてかくいうこの徒手空拳の私も、握るものといったら哀れな自分の逸物ぐらいしかないが、大いなる誤解と救いがたい単純さによって、ゲバラの志を引き継ぐゲリラ兵士のひとりなのだと思っている。理想といったら“なるべくラクしてのらりくらりと生きたい”といった程度の、テーゼも主義も組織も持たない、しがない一兵卒である。

 船戸与一は以前にかれ原作のハードボイルドな漫画を一冊、古本屋で買ったくらいしか知らないのだが、きっと私好みの作家だろうと思っていた。犬の嗅覚は、同類を嗅ぎ分ける。序文からして、すでに交尾の体勢に入っていた。

 

 ほとんどが曖昧なままに突き進んでいるのだが、スピードだけはますますあがっていく。結果として眼前に残されるのはどこにでも貼りつく液晶文字や膨大な量のプラスティック製品や巨大ビルディング群だけとなった。息づかいや汗の匂いはしだいに希薄となり、いまや断固たる異議は一種のコメディに等しい。酒場の片隅でひそひそと交わされる会話も消費主義の守備範囲から一歩も踏み外すことができないし、筋肉はもっぱら肉体的な健康維持のために使われているのだ。個的な夢も苦悩もほぼ一切が数値化された。それをもとにシュミレーションが行われる。これには暗がりのなかでかろうじて息づく意思は一般には考慮されず、突発事態が生じれば、手早く数値の変更が試みられるだけなのだ。わたしたちはそういう時代に生きている。

 

 この本は、そうした打算な消費主義と情報の渦のなかで消失しかけているがいまこの瞬間にも現実に存在し、血の匂いも汗の匂いも涙も鼻水もたっぷりある、辺境からの真摯なレポートである。超大国アメリカによる経済封鎖が続くキューバ・カストロの孤独な闘い。新自由主義と名づけられた弱肉強食の市場経済を拒み、メキシコのジャングルで先住民のための闘争を続けるサパティスタ民族解放軍。「五族共和」の膨張主義のもとに抑圧されてきた中国の少数民族たち。ラサの暴動からひとりインドへ逃れてきて、大きくなったら何になりたい? と筆者に訊かれ、殺すよ、銃を取って中国人を殺してやる、と答えた10歳のチベットの少年。前近代的な族長主義のために各国の思惑と政治に利用され殺戮されてきた流浪の民・クルド人たち。

 辺境であるが、片隅ではない。「ルワンダの平原に横たわる半ば白骨化した大量の死体は一国内で生じた単なる個別の悪夢ではありえず、カフカスの山中で行われている銃撃戦ですらがニューヨーク・ウォール街の株価の動向に左右されるのだ。世界の矛盾はなかんずく、辺境にこそ集約される」 辺境こそが中心であり、そこに繰り広げられている眩暈を覚えるような風景こそがそのまま、私たちの一見平穏な日常を射抜く陰画の自画像となる。

 著者は終章にさりげなく、「硝煙が立ちこめ血溜まりの拡がる匪賊(プリガツタンジオ)」の伝説をまとったナポリの獄中に在るひとりの没落した“ゴッド・ファーザー”の物語を配置している。それはイタリアのビリー・ザ・キッド、いわば暴力と経済が複雑にそして巧みに絡み合ったこの世界における、消失しつつある古き良き物語への挽歌とあがないのようだ。

 

 成熟の名のもとに失われるものは何か? あえて言おう。欠落していったのはわかりやすい言葉である。単純明快な因果応報の論理である。日常の営為のなかに同伴する血や汗の匂いに包まれたものがたり性である。ナポリとその近郊の人びとがカモッラのなかに見ようとしているものは社会的成熟という流れのなかで消えていくそういうものなのだとわたしには思えてならない。新編成カモッラや新ファミリーの現実がどうであれ、ナポリではミラノやフィレンツェといった北イタリア諸都市が無味乾燥なコンピュータの二進法のなかに窒息させていったそういうものがまだ求められているのである。

 

 このしがない一兵卒は、したり顔をした現代の強者よりも、負け犬になりさがる寸前でこらえ不敵に牙を剥くかれらと共同前線を張りたい。おのおのの自由な武器を手にしたこころの共同前線、である。“撃っては逃げる” 私のふやけた筋肉は、その瞬間にこそ真に躍動する。戦闘機が買える程度のはした金を積まれたくらいじゃ、容易にやめはしない。

 

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■「恋人たちの森」 森茉莉 (新潮文庫 @438)

 

 掲示板で知り合った“まりあさん”のお好きな作家と聞いて、図書館のなかから短編をひとつ読んでみた。かの鴎外の長女だそうだが、勉強不足の私はその存在すら恥ずかしながら知らなかった。もともと女流作家には昔から何故かあまり食指が動かない性質で、その理由をいま改まって考えてみると、そもそも言語というもの自体が男性社会において発達してきたもので女性の表現には適していない、なぞという怪しげな屁理屈が浮かぶ。つまり女流作家とは、その男の(おそらくひどく不完全な)道具を用いて働いている男女(おとこおんな)のような存在なのだ。その代わりに私は、たとえばリヒャルト・シュトラウスの歌曲を歌うソプラノ歌手にほとんど恍惚となり、あるいはアレサ・フランクリンのボーカルに魂を搦め取られてしまう。言葉は、女性の秘密を語るにはあまりに粗雑で貧しい。

 前置きが長くなった。トーマス・マンの有名な「ベニスに死す」は美少年の虜となって破滅していく老いた芸術家の“滑稽と悲惨”の物語だが、森茉莉のこの作品にも抵触するものがあるかも知れない。大学教授でフランス人とのハーフであるギドウと、雨に濡れた若い灌木のような19才の美少年パウロ。二人のひそやかな男色関係を軸に、まるで古代ギリシャの禁断の木の実か中世ヨーロッパのロマネスクの華にも似た物憂くも美しい性愛が、温室の鉢々をめぐる羽虫のような足取りで綴られていく。

 いったいこの作家の感性は日本の風土からこぼれた別の空間から生まれ出たようだ。透明で、硬質で、オスカー・ワイルドが描くサロメのような淫靡さと狂おしさを合わせ持ち、私はきっとこの人は現代に生まれていたら (明治生まれ、というのも驚くが) 極めて質の高い少女漫画の書き手になっていたかも知れないなどとも空想するのだが、わざわざ画に起こさなくとも、文章は独特で味わい深い。ストオリィよりもその行間に滲み出る魔性の樹液にひたひたと浸るのが本意といった風情で、小説を読む愉しみを満たしてくれる。しずかな光芒をたたえた異才、とお見受けした。

 

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■「見世物小屋の文化誌」 鵜飼正樹・北村皆雄・上島敏昭編著 (新宿書房 @3000)

 

 1998年5月に早稲田大学内にて行われた同名のシンポジウムの報告書として編まれた一冊。ホンの気晴らしのつもりで何気なく手にとったわりには、内容も豊富でつい引き込まれた。周辺ガイドとして中国やインドの大道芸、ヨーロッパのフリーク・ショーに関するレポートや、見世物と歌舞伎・浄瑠璃についての歴史的考察、小屋掛けストリップに関する聞き取り、見世物絵看板師の列伝、そして障害者プロレスに取材した示唆的な論考なども添えられているが、やはり本書におけるメインは蛸女や山鳩娘、ビクバラシなどを擁した安田興行社の「人間ポンプ一座」を主とする、かつての祭りなどのハレの場を支えてきた裏の芸能史ともいえる見世物小屋のくだりである。

 客の足を止め、気持ちをそそる物語を聞かせ、一気に小屋の中へ引き入れる話術としてのタンカのさまざまな技巧から、客の回転率をあげるための「中は全部連続でやっております」というタンカに象徴される芸の構成と、見流しといわれるその独特の空間的な仕掛け。そして客の想像力を喚起することによって客自身を微妙な共犯者に仕立て、「だまし」「だまされ」の危うい関係のもとに成立する巧妙な装置としての小屋。

 「人間ポンプ一座」の主人・安田氏は白子のためにこの道に入り、その妻の春子さんは長崎の被爆者で、ビクバラシ(晒し首)のカズさんは知的障害、牛娘のナミさんは障害者の小人で、蛸娘のフクちゃんは紡績工場から逃げルンペンをしているところを拾われた。いわば日常世界から〈異物〉として排除された者たちが家族のように共同体を成し、列島の各地のハレの場にささやかな異界への通路を穿ちつつ経巡っていく。巻末に附された映像ドキュメンタリー『見世物小屋 〜旅の芸人 人間ポンプ一座』(北村皆雄監督・1977年・ヴィジュアルフォークロア制作)からの採録シナリオが、そんなかれらの容易には還元され得ない素顔を垣間見せてくれる。

 本書の出版された'99年現在、見世物小屋はさらに減って全国でわずか二団体のみという。時代の移り変わりと後継者難、そして人権擁護の立場からの社会的非難と圧力が存続をさらに厳しいものにしているようだが、心なしか淋しい風景のようにも思われる。もちろん私は“古き良き時代”とすべてを手放しで賞賛するつもりはないが、前述のドキュメンタリー作品で語りを担当した舞踏家・麿赤兒の次のような言葉は、はるかに深い。

 

 何が救う? 宗教も救えない、法律も救えない。病院の医者も救えない者を、見世物が救う。

 

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■「ハリー・ポッターと賢者の石」 J. K. ローリング/松岡佑子訳 (静山社 @1900)

 

 あちこらこちらで絶賛を浴びているこの物語。その誰もが語るようにおもしろい。

 夜空に輝く天の川、はたまた華やかに飾りつけられたクリスマス・ツリーのようなイメージだ。登場人物、またその一場面一場面が、まるで映画かアニメを見ているように鮮やかに浮かび上がってくる。冒険に次ぐ冒険の上、どんでん返しと、はらはら、どきどき、わくわくのし通しで、読者を飽きさせない技巧は見事だ。

 ストーリーは、両親を亡くしおじおばに引き取られた少年が実は魔法使いで、ある日突然、魔法学校に入学するというもの。その学校での寮生活のなかで親友を得、友と一緒にいくつもの冒険を重ねていく。おじおばにはいつも邪険に扱われ、その子や友人たちにも常にいじめられる日々が続くが、そこに惨めさや暗さはまったく感じられず、少年は少々暢気ともいえる性格なのか、どんな目にあっても暗く落ち込むということはない。やせっぽっちで、たぼだぼよれよれの服を着、テープで張り合わせた眼鏡をかけて、いつも同級生にからかわれていた冴えない少年。そんな少年が魔法学校に入ったとたん、あらゆるところで大活躍をし、ヒーローとなっていく。

 簡単に述べればこんなストーリーだ。よくある話ともいえる。ただ舞台が魔法の世界であることに、大人も子供も夢を誘われ惹かれる。イリュージョン、まさに幻影の世界だがそれゆえに、その幻影も読み終えたあとに消えてしまい、ただ面白かった、痛快だったという思いだけが残り、それ以外に心に残るようなものは感じられない。娯楽映画的な感が強い。表面的ともいえる。

 作者はイギリス人であることから、イギリス古典文学にみられる伝統的で知的なものを期待し読み始めたのだが、そういう要素は悲しいかな、感じ取れなかった。少年は最初から良い子で、かれ自身の成長も感じ取りにくく、あるとすれば後半にややその伏線となる部分が見え隠れするところである。これはシリーズの第一巻で、全七巻で完結となる。作者は全巻を通して少年の成長の過程を描くつもりであるのかも知れない。まずは次巻を期待したい。いまの段階では、なんともいえないというのが感想である。

(この項・まれびと妻)

 

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■「天皇の影法師」 猪瀬直樹 (新潮文庫 @440)

 

 ふだん元号というものは使わないので、まれに役所の書類の類などを書き込むとき、あれ、今年は平成何年だったか.... と逡巡する。構わず西暦年で記したものを、平成で記入してください、と返されたこともあった。西欧文化を中心としたキリスト教暦の西暦も似たようなものだが、まだ年号よりはマシかも知れないと思う。いっそのこと縄文暦か地球暦などというものに変えたいが、誰も使っているものがいない。

 猪瀬直樹の大著『ミカドの肖像』は青年期に、現代の底深い怪談話として読んだ。〈天皇制〉という怪談である。大いに刺激を受け、この国の“空虚な中心”に気づかされたノンフィクション大作であったが、その『ミカドの肖像』に先んじて書かれたこの一冊も、まるで松本清張の下手な推理小説を読むよりもずっと面白い。私にとっては10年後の続編、である。

 大正天皇崩御という時代背景を舞台に、年号をめぐって描かれる奇妙な風景としての点と、それらを結ぶあえかな線。天皇崩御の間際に東京日日新聞が「次なる新しい元号は“光文”」と誤報したスキャンダルの内幕。敗戦後の8月24日に松江で決起された知られざる「最後のクーデター」事件の顛末。またかの森鴎外が、晩年に最後の仕事として執着した『元号考』を読み解く一章。

 東京・三鷹の太宰治の墓と向かい合って建つ鴎外の墓は、「墓ハ森林太郎墓ノ外一字モホル可(ベカ)ラス」という本人の遺言により位階勲等も戒名もないが、唯一「大正11年7月9日歿」と側面に彫られた没年に著者は、「鴎外は“大正”という年号を拒否していたのではないかという疑問」を抱く。

 

 鴎外がこの神話を信じていないのは当然である。彼自身は“万世一系”が虚構であることを世代的に知る立場であったからだ。

 国家を支えるために誠実に生きる一方で、死に臨み、その自分では信じていない国家(元号)を拒否すること、国家が与えた位階勲等を拒否するのも、別の誠実さであった。

 

 また「棺をかつぐ」と題した章では、往古より天皇の棺をかつぐ伝統をもち鬼の子孫ともいわれる、京都・大原に近い山里の集落・八瀬童子の歴史が語られる。大正天皇崩御の一報を聞くやいなや村長は上京して拝命を待ち、村人をあげて葬列に従事した。その一方で、召集を受けた一人息子に会うために夫婦で毎日のように比叡山を越えて堅田の師団へ面会に行くが断れ続け、最後に名前の入った木片のみの骨壺を受け取ったという話を語る、明治と大正の二人の天皇の棺をかついだ村の老人に、著者は思わず「天皇の死と自分の息子の死の扱いをなぜ較べてみないのか」と訊ねる。「どうやったこうやったは昔のことやさかい、忘れてしもた」というのが返ってきた答えであった。

 巻末の解説で作家の久世光彦は、この国の面妖で空漠とした「空虚な中心」たる天皇制を、頭は猿、胴体は狸、尾は蛇で手足は虎に似るという伝説上の巨大な鵺(ぬえ)に喩える。せめて私も自分の墓石には、この奇妙な記号の二文字を拒否したいと思っている。

 

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■「死国」 板東眞砂子 (角川文庫 @540)

 

 いわゆる伝奇小説というものは昔から好きで、古くは半村良から高橋克彦まで、お堅い本で硬直した脳神経を解きほぐすつもりで、その合間合間に愛読してきた。特に土俗的な、日本の歴史の暗部をえぐるような題材が好きで、山窩といわれたこの国の幻の漂泊民に材をとった五木寛之の『風の王国』などにも胸を躍らせたものだ。今回のこの本も、だいぶ以前からそちこちで目に止まり、うっすらと気になっていた一冊。

 八十八カ所の遍路巡りと古事記の神話を掛け合わせたような読み物だが、人知れぬ杣道ならぬ遍路道が縦横に張りめぐらされた四国を「死国」と読み、死者の魂を聖なる霊峰・石鎚山と架空の村の禁忌の谷とに分けた仕掛けなどは、民俗学でいうところの日本人の祖霊観を巧みに使っていて面白い。私はエーコの記号論的博覧強記の小説も好きで、そのような文献的な要素も期待していたのだが、理詰めよりも心理描写が多くあっさりしているのは、おそらく著者も主人公も女性であるせいだろう。

 読了後に、かつて日本人が大事に育んできた死者へ寄り添う気持ちのようなものが、うっすらと滲み出てくる郷愁にも似た感情が心地よかった。そう、死はけっして忌避されるものでなく、その境界はあるかなしかのあえかなもので、生者は死者の記憶をはるかな頂や路傍の野仏を、見上げたり見やったりしながら肌に触れ、共に生きていくものだから。子供時代を懐かしむ、夏の呆けた一日に読むのがいいかも。

 古本屋の一冊100円の棚で見つけたものだが、缶コーヒー一杯よりは充分楽しめた。

 

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■「死の民俗学 日本人の死生観と葬送儀礼」 山折哲雄 (岩波書店 @2400)

 

 表題は冒頭に中原中也の詩「骨」(ホラホラ、これが僕の骨だ...)が置かれ、日本人の遺骨に対する信仰をめぐった死の歴史的諸相。インドの河畔焼却(burning)やアメリカの死化粧(embalming)、沖縄の洗骨慣習、あるいは中世ヨーロッパの死骸趣味などの例を交え、縄文から古墳時代まではむしろ遺体よりも死のひきおこす霊的存在領域を主な眼目としていたものが、仏教の伝来における火葬と納骨の慣習の広まりとともに死の観念が次第に変貌を遂げ、おそらく仏教の舎利崇拝を下敷きにして、中世に至って貴族層に浸透し始めた遺骨尊重がその後、高野山への納髪・納骨の風習を定着させ、やがて諸国を遊行した高野聖たちの活動によって庶民の間にも広まっていった風景を描き出している。「骨」の象徴性とはここでは「穢れに満ちた死骸から霊を移し替える」ための装置であり、著者は日本人の死生観を霊・肉・骨の三元的な立体構成においてとらえることを示唆している。

 次章の「神話に現れた世界像」は、記紀神話の記述に古代における世界像の生成と変成を読み説いたもの。とりわけ天孫歴代の遷都およびその死と埋葬の在りように着目し、かつては山や丘に囲まれた盆地的世界において日常とゆるやかに共存していた死の領域が、その「円還的な構造を打ち破って外部へと流出し」(大和盆地内にあった陵墓が、河内や和泉へと移動した)、山と平野の間に穿たれたくさびが死を穢れた存在として日常の外部へと引き裂いてしまったと解くくだりには興味をそそられた。

 続く「大嘗祭と王位継承」「浄穢の中の王権」の二章は、大嘗祭における天皇の秘儀と死した王の亡骸を一定期間安置する殯(もがり)の風習を通じて、重層的な古代祭祀の記憶と古代の死の観念領域へと探針を下ろした王権論で、ここでも王位継承のシステムとして分離された「浄穢」の二元論が語られ、また大嘗祭儀のうちに鎮魂と天皇の死と再生の儀礼を見る折口信夫の「大嘗祭の本義」などを先達として語られる「天皇霊」に付着したマナ的な霊性とそのとらえがたい神権のシステムは、最終章「二つの肉体 -チベットにおける王位継承と転生思想-」のダライ・ラマの転生へと結ばれる。

 そしてすべての論述に底流しているのは、やはりここでも「死」を穢れとして忌避し疎外する二元的な境界観念と、そこに深々と穿たれた暗いくさびだ。前述した死と生がゆるやかに共存を営む、かつての予定調和の円還世界を郷愁する。

 

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■「鬼よ野に棲み時を刻め」 勝目梓 (徳間文庫 @480)

 

 最愛の人間がもし、もはや殺されるしか他に途はないという状況に立ち会ったとしたら、他人によって殺されるのを見ているか、あるいはいっそ自分の手で殺した方が良いと思うだろうか。果たして自分にそれができるだろうか。ときおり、そんなことを考える。愛する者を自らの手で殺したあとに到来する感情はどのようなものか。脱け殻になって、自分も死んでしまいたいと願うだろうか。それとも鬼になって、闘いつづけるか。

 勝目梓のストーリーは、いつも同じ様なものだ。無駄な描写がひとつもなく、いたずらな観念もなく、タフで、切ない。殺し屋稼業から足を洗い、愛おしい女房と二人で小さな飲み屋を営んでいた男のもとに、ふたたび「組織」から仕事の依頼が舞い込んでくる。女房を人質にとられ仕事を強要されるが、男も女もふたたび手を汚してしまえば、二人のささやかな生活が内側から壊れてしまうことを知っている。男が選んだ道は、「組織」を敵に回して闘うことだった。最愛の女房は獣のような男たちによって嬲られた末に殺され、男は鬼となりきって残忍な復讐に駆られ、最後に黒幕の一人を始末したあとで、女の死体を抱いたまま断崖から飛び降りる。

 

 うるみを吸った。いとしさは胸に溢れていた。それを現しつくすことばのないことを、吉岡は知っていた。それができるのは性愛だけだった。

 やがて吉岡はそこに顔を伏せ、溢れている熱いうるみを吸った。圭子がふるえるような細い声を洩らした。吉岡は圭子のすべてを吸いつくしてやりたい気持ちにかられていた。

 全身をそうやって清めた。性器を清めてやりながら、吉岡はこみあげてくるものを咬み殺した。涙はこぼれなかった。唸るような声が出ただけだった。清めた性器に、吉岡は唇をつけ、頬ずりをした。冷たかった。はずみは失せていた。

 圭子の死体をそっと草の上に立たせた。腕の下に腕をさし入れて、胸を重ねて抱いた。花の香が鼻先に漂った。圭子の匂いだと思うことにした。圭子を抱いたまま、吉岡は足を踏み出した。七歩目で足は宙を踏んでいた。

 

 ふやけた心にカンフル剤を打つために、そしていま在るいとしさを噛みしめるために、ぼくはときおり思い出したように、勝目梓の狂おしいストーリーをたどる。

 

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〈草枕〉変奏曲 夏目漱石とグレン・グールド」 横田庄一郎 (朔北社 @1900)

 

 1982年の10月4日、カナダ出身の「20世紀で最もユニークな天才ピアニスト」であるグレン・グールドが亡くなった。満50歳の誕生日を迎えた二日後のことであった。死後、寝室の枕元から両親より贈られた聖書とともに、あちこちに書き込みのされた英語版の漱石の『草枕』が見つかった。この著書は、死に至るまでの15年間、稀有な天才ピアニストが愛読し続けた『草枕』を中心に、日本の明治の文豪と北米の孤独なアーティストの心像風景をめぐった「一冊の変奏曲」である。

 ことグールドに関する本なのだから、興味深いエピソードには事欠かない。カナダを旅する列車の中で偶然もたらされた『草枕』との出会いから始まり、ラジオ番組でのグールド自身による『草枕』の朗読、水中を死して漂うオフェーリアに象徴される女性観「魂がくらげの様に浮いている」、楽譜のように数字で区切られた『草枕』への書き込み、モノトーンに配された『北の理念』、少年の頃の教会での安息「主よ、俗世が与うること叶わぬ安らぎをわれらに給わらんことを」、あるいはグールドが安部公房原作の映画『砂の女』を「百何十回も」見たこと、俳句らしきものを書いていたらしいこと、東洋の文化への興味と関心...

 

「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい」

 

 日本人なら誰もが一度は耳にしたこの一節で始まる、漱石の抽象的な観念論・芸術論ともいえる奇妙な作品を、グールドは「20世紀の小説の最高傑作の一つ」として愛読した。華々しいデビューを飾った才気溢れる初期の「ゴールドベルク変奏曲」の録音を、晩年に「このレコードを作った人間の精神というものを見極め、その精神と一体となることがどうしてもできなかった」「テンポが早すぎてくつろげない」と唯一録音し直した。かれの生涯はまさにこの「ゴールドベルク変奏曲」で始まり、閉じる。その二つの異なる「ゴールドベルク変奏曲」の間に漱石の『草枕』が在る、と著者は言う。

 

「住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、難有(ありがた)い世界をまのあたりに写すのが詩である、画である。あるいは音楽と彫刻である。」

「四角な世界から常識と名のつく、一角を磨滅して、三角のうちに住むのを芸術家と呼んでもよかろう」

 

 漱石もグールドも、共に鋭敏すぎるほどの感受性と洞察力を持ち、そのために世間との摩擦に倦み孤独に苦しんだ。「淵明、王維の詩境を直接に自然から吸収して、すこしの間でも非人情の天地に逍遥したいからの願」と記された『草枕』は、いわば漱石の理想の桃源郷であったろう。それに時代も国も異なる、変わり者の天才ピアニストと目されていたグールドの魂が呼応した。「非人情」とは「情がない」ことではない。漱石によれば「人情から超越して、それに煩わされないようにすること」だという。漱石の『草枕』とグールドの晩年の音楽は、子宮のような、この世で唯一許された安らぎの場所であったのかも知れない。

 グールドの初期の「ゴールドベルク変奏曲」は、テンポもずっと早く、機知と才気に富み、刺激的だが、どこか無機質な印象も受ける。だが晩年の「ゴールドベルク変奏曲」では何かが変貌している。研ぎすまされ抑制された高度な理性と精神の裏側から、どこか奇妙に切ないぬくもりが、帳の向こうの遠い肉体のように透けて見える。「あの演奏はつらくて聴けません。今でもです。特にあの最後のアリアはだめです。グールドが別れを告げているのがわかりますから。長々と続く痛々しさが、あの別れにはあります。あそこにいるのは、審美的にも情緒的にも自分の感性を聴き手に強いようとした人物です。グールドは“さようなら”と言っているんです。非常に美しい言い方で」

 いつか、漱石の『草枕』も読み通してみたくなった。

 

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「深沢七郎ラプソディ」 福岡哲司 (TBSブリタニカ @1400)

 

 手元に深沢七郎のサイン本が数冊と、作家自ら奏したギター曲集のテープがある。ヘーゲルを信奉する叔父が寄贈してくれたもので、叔父は税務署に勤めていた現役時代に深沢七郎の担当となり、幾ばくかのつきあいがあったという。叔父も深沢七郎に負けず劣らずの偏屈もので大酒飲みだから、きっと馬が合ったのだろう。埼玉で作家が開いていた今川焼きの店に連れていってくれるという話もあったのだが、しばらくして残念なことに七郎翁は大往生を遂げてしまった。

 いわずと知れた、あの姥捨山に材を取った作品『楢山節考』の著者である。山梨の石和に生まれ、病のため青年時代は仕送りで悠々自適の生活を送り、40過ぎまでは日劇のミュージック・ホール(ストリップ)で伴奏のギタリストとして活躍していた。前述のデビュー作が三島由紀夫・武田泰淳らの絶賛のもと中央公論の新人賞に選ばれたのち、革命による天皇の斬首を描いた夢物語『風流夢譚』が右翼少年による殺人事件を引き起こし、日本各地へ流浪の旅を余儀なくされる。

 ふたたび関東に戻ってからは埼玉の自称「ラブミー農場」に居を構え、元ボクサーのボディ・ガードことヒグマ氏や、後に養子に迎えられる元トンカツ屋の主人・ヤギさんらとの男所帯の奇妙な同居生活を始める。百姓を志願し、農閑期にはギターのリサイタルや執筆。かたわら味噌作りや、今川焼きの店「夢屋」を開店し、1987年の夏に「お気に入りの床屋の椅子に座ってぼんやり」したまま、眠るように「こときれていた」。

 

 屁をひるということは悪事を働いたのではないけれど、下劣な行為のように思われるらしい。が、私はそれ程タイしたことでもないと思っている。(中略) 人間は誰でも屁と同じように生まれたのだと思う。生まれたことなどタイしたことではないと思っている。(自伝ところどころ)

 ひとりだけの世界に生きていた者は生態がどんなに変わっても変化しないのである。(中略) 私が気がついたことは、勿論悪人たちの集団に入っていることはできないのだが、私は善人たちの仲間入りもできないのである。どんな善意の集合へも入っていられないのである。私はひとりだけがいいのだ。ずーっといままで、私はそうだったのだ。(生態を変える記)

 

 叔父も参列したという葬儀の模様もこの本に出てくる。香典も花も一切お断り。大音響で大好きだったエルビス・プレスリーの曲をバックに自ら読経した「般若心経」が流れ、最後に「今日は、お暑い中をありがとう。ボクは暑いのは苦手だ。お別れに歌を聞いて下さい」と、故人の弾き語りで「楢山節」が流された。

 麦藁帽をかむり畑で土いじりをしている写真を見たことがある。まるで土の中から産まれてきた存在のように見えた。「今まで人間たちが思い込んできた他の動物たちよりすぐれているという考えを滅亡させる」〈人間滅亡教教祖〉などと揶揄された、世間を騒がせた奇行の数々もすべては裏返し。その実は大地の中に蠢くミミズや虫けらのように「真っ当」で、ランボーのような無機質の見者の眼を備え、義理堅く己に厳しく、多感で情多き素朴な「あたりまえ」の〈個〉の人であったように思う。

 

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「ブルースマンの恋」 山川健一 (東京書籍 @2200)

 

 著者は作家にしてバンド・プレイヤー。その小説も演奏も聴いたことはないが、この本を手に取ったのはタイトルどおり、アメリカの黒人音楽の雄・ブルース音楽の担い手たちへの熱いラブ・レターだからであった。

 登場する強者どもは9名。マディ・ウォータース、エルモア・ジェイムス、サン・ハウス、ロバート・ジョンソン、ハウリン・ウルフ、サニー・ボーイ、ロバート・ナイトホーク、ジミー・リード、ボー・ディドリー。それらブルースに取り憑かれた、煮ても焼いても食えない男どもの生涯と音楽が、著者自身の青春と重ね合わせて平明に語られる。

 もともとこれらの文章は、『NESPA』という「若いシングルの女性達が読む」雑誌に連載されたものらしい。著者いわく、そうした若い女性達にブルースのことを知って貰いたかったというのだが、そのため初心者の者が読むにも分かりやすく丁寧に書いてある。

 もうひとつこの本には嬉しい特典があって、巻末に著者おすすめの、前記の9人のアーティストたちの演奏がそれぞれ一曲づつ収録されたCD が付いているのである。これをひとつづつ、章をめくりながら聞いて行くと、どんな文章よりもブルースが腹にくい込んでくる。そうしてレコード屋へ走りたくなってくる。

 私が特に聴きたくなった一枚は、'65年に当時63歳のサン・ハウスによってリリースされた「Father Of Folk Blues」。荒くれ者の友人の妻に道ならぬ恋をしたブルースマンが、失意のうちに演奏活動から完全に姿をくらまし、20年後に「発見」される。長い年月を経たあとにも、男はまだかつての女への想いを歌う。

 

 もちろん、このアルバムは悲しみに溢れている。だが、その悲しみを突き破ろうとする、老ブルースマンの不屈の生命力と闘争心を感じさせる。

 ぼくには、最早ジュークやパーティや、録音のために演奏することのなかったサン・ハウスが、誰かのために人前でプレイするのではなく、自分自身の悲しみを癒すためにひそかにギターを抱えている姿が鮮やかに見えるような気がするのだ。

 仕事から帰ってくると、サン・ハウスは、愛情と憎しみが分かちがたく交差した気持ちを抱きながら、ミシシッピーでの日々を思い出したにちがいない。そんなときには、一人でボトル・ネック・ギターを抱えて、ブルースを歌うしかなかったのだろう。

 

 そう、ブルースとはあの映画「東京物語」での笠智衆のように、己と向き合い、どうにもならぬ内に秘めた感情とたったひとりで闘うための勇気なのだ。生きるということ自体が、ある大きな埋めがたい欠落のようなものなのかも知れず、ブルースもまたそれに似ている。

 老後にブルースをどうぞ。

 

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「土壇場の人間学」 青木雄二・宮崎学 (幻冬社アウトロー文庫 @571)

 

 毎日が土壇場なので読んでみた。

 いまが旬の個性派アウトローお二人。片やグリコ事件のニセ「キツネ目の男」であり一連の『突破者』シリーズの著者・宮崎学と、片やベストセラー漫画『ナニワ金融道』の著者・青木雄二による対談。実は私、まだどちらの著書もまともに読んだことがない。ただうちで購読している新聞紙上で以前に、青木による現代版資本論の短期連載のようなものがあって、以来面白い存在だなあと気になっていた。

 文庫の帯の宣伝句   社会の本当のカラクリを教えたる。いわく、最悪の事態を楽しめ。カネに縛られるな。借金は踏み倒せ。女を見る目を磨け。真の友にこそ迷惑をかけろ。京都のヤクザの息子として生まれ、地上げ屋でしのいできた宮崎が言う   「ローンというのも“欲望はまずかなえたい。決済は先送りにしたい”という理屈から生まれた、きわめていかがわしいものである。私のモットーは“モノは現金で買え。カネがないなら買わなきゃいい”である」 過激なキャッチ・フレーズの裏からは、実はこんな極めて健全な感覚が透けてくる。狂っているのは、どちらか。

 巻末に付された青木による講演記録も面白い。全編ゴリゴリの岩のようなマルクス論。「意識が存在を規定するのではなく、存在が意識を規定する」を持ち出し、黒板に「唯物論」と大書し、自民党を罵倒し、資本主義の尻の穴を拡げ、「国民を変えたらなあかん」と労働者の覚醒を促して、来るべき日本の共産化を預言する。この人にはソ連の崩壊も「資本主義の勝利」も全然関係ないのだ。そこが〈個〉に徹してきた奥崎謙三のように面白い。私は唯物論もすべてのイズムも好きではないが、こんな奇妙なオッサンにならしがない一票を捧げてもいい。

 土壇場からの脱出を書いた本かと思ったら、「生きるということは、あんさん、毎日が土壇場なんでっせ」という、しごく真っ当な本なのであった。

 

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「あおくんときいろちゃん」 レオ・レオニ (藤田圭雄訳 至光社 @1000)

 

 こどものときはどんないろをしていた? こころのなかで、きいろやみどりやあかやしろが、おどったりはねたり、ふくらんだりちぢんだり。どれもじゆうで、どれもたんじゅんで、どれもちょぴりかなしくて、どれもちょっぴりうれしくて。

 おとなになったら、はいいろやおうどいろばかりでつまんない。あんまりたくさんのいろをかかえすぎて、おもたくて、いきぐるしくて、いっぱいあるのに、いろがいろでない。ぬりすぎたいろは、もうとんだり、はねたりしない。

 あおくんときいろちゃんは、うれしくてうれしくて、うれしくてうれしくて、みどりになって…  こんなきもち、だれもがいつかあったよね。

Leo Leonni

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「中世の星の下で」 阿部謹也 (ちくま文庫 @780)

 

 想像力の翼をひろげて中世社会を旅するのは愉しい。

 キー・ワードは“涙と死、旅、石・星・橋・暦・鐘、そして騾馬・犬・狼、さらにビール、カテドラル、オーケストリオン、シューベルト等々” それら庶民生活の香りと響きに導かれて立ち現れるのは、兄弟団、煙突掃除人、人間狼、賤民、ユダヤ人、遍歴職人、道化者のオイレンシュピーゲルたちのさまざまな面々...

 たとえば「中世ヨーロッパのビールづくり」と題された項。

 中世ではビールはたんに日常の疲れを癒す飲料であるだけでなく、生活に根ざしたひとつの“霊的な”象徴でもあった。ホップがまだ一般的でなかった時代、グルートと呼ばれる数種の草を混合して風味をつけていたが、その混合の仕方が秘伝であったため、ビールの醸造には様々な霊の働きが関与していると信じられていた。またビールには穀物の霊力が秘められているとされ、若返りや長生きの秘薬でもあった。

 ヨハネ祭の夜にはあたためたビールを飲み「老魔女よ来い、火の中に」と呼びかけ、婚姻の席では花嫁が父親の頭にビールをかけ、また埋葬の際にはビールを死者の頭、胸、足に注いで供養した。ほかにも盟約や祝い事、裁判の後などで必ずビールが飲まれたのも、その飲料の持つ不可思議な力のゆえであった。

 またビールは身近な自然界の比喩としても語られた。

 

 空に雲がもくもくと湧き起ってくると、人々はそれを醸造用の釜とみなし、降り注ぐ雨は雷神トールが醸造するビールだと語っていた。あるいは巨人が雲の釜でビールをつくっているといわれたのである。

 

 中世社会とは、そうした物の二面的な価値観が、近代の啓蒙思想によって徐々に一元化されていった変化の時代でもあった。長年、民衆史を中心に据え、歴史の中で抑圧され、賤しめられてきた人々をその底辺よりすくい取ってきた著者は、ここで「物を媒介とする、目に見えない人と人との関係」に思いを馳せている。

 中世の人々にとって、物はただ消費するのみでなく、宇宙の万物を物語り、それを通して精神的な交流を人と人、人と世界の間にもたらす多様な存在でもあった。物からそうした豊かな象徴が奪われ、物を無限に消費しゴミの山を築いていく現代の人間たちは、そうした中世の人々に比べると、ひどく貧しい姿に思える。

 中世社会は現在のわれわれを写し出す鏡のようなものである。

 

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「民俗文化の深層 被差別部落の伝承を訪ねて」 乾武俊 (解放出版社 @2500)

 

 純粋に、民俗学の著作として読んだ。そして忘れられぬ感慨深い一冊となった。

 あとがきの冒頭をひく   

 

 1989年元旦、私は伊勢の神島にいた。夜明け前、太陽をかたどった大きな輪がかつぎ出され、“アワ”と呼ばれるその輪に無数の竹が突きさされた。“ゲーター”という祭である。“天皇の死”は、このくにの文化の闇の深さを思わせた。ここ十年ほど、そうした闇の深さと重ね合わせながら、各地被差別部落の伝承を訪ね歩いた。この書物は、そのときどきの記録である...

 

 著者は和歌山出身の詩人で、大阪の中学へ教師として赴任していた折のある事件を契機に、被差別部落の伝承文化への関心を深めていったという。被差別部落には、差別という閉鎖された歴史性故に、逆にこの国の文化の祖形のようなものがいまだ息づいている。著者は主に各地のそうした部落に伝わる祭の風景を丹念に辿り、詩人らしい〈見者〉の眼と繊細なことばでもって、踊りの節や身振りや歌詞の奥に秘められた〈意味〉に寄り添おうとする。

 たとえば「“遍路の死”を迎え入れたムラ」と題する一章。“業病”に侵された姫がうつぼ舟に乗って漂着したという言い伝えの残る四国のある部落で、見捨てられた行き倒れの遍路を、戸板に乗せて村へ運び入れ弔ったという古老の話を聞く。著者はここで、盆に迎え祭る精霊を限定的な「家の祖霊」とみる柳田国男の説に異を唱え、「外精霊(ほかじょうりょう)」として柳田がその「常民」の聖域より排除した「穢れ」としての〈荒忌(あらいみ)の霊(みたま)〉をも受け入れる被差別部落の祖霊観に、豊かな文化の古層を見る。「穢れとは境界線上にあると考えている」と記す著者は、おそらくここで、共同体の内部/外部を分けるその文化のスタイルこそが、差別の根元であると気づいているだろう。

 また講演を元にした別の章では、天王寺から堺を経て紀伊へ至る熊野古道   “くまのみち”を“けものみち”でもあると言い、賤民やハンセン病者たちが人目を忍んで往来したそれらの道の記憶が、「私たちの文化の基本になっている」、それを忘れてはいけない、と語る。一方で、新潟の佐渡島に伝わる「春駒」とよばれる貴重な伝承芸能が、「ホイトの芸など習って何になる。やめとけ」といった、いまだ根強い差別観によって消滅しかけている事実を報告する。

 歴史の悪意によって貶められてきたネガティブな者たちこそ、あるいはそれ故に、逆に現在の私たちが失ってきたポジティブな豊かさを持ち合わせているのだという思いを、いっそう深くした。

 

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本多勝一のこんなものを食べてきた! (小学生の頃)」 堀田あきお&佳代 / 原案:本多勝一 (朝日新聞社 @1600)

 

 信州・伊那谷生まれの本多勝一の少年期を舞台に、96年末より2年間「週刊金曜日」誌上で連載された漫画の単行本化。コンビニがなくとも、かつての豊かな山村の自然は人々、特に山野で遊ぶ子供たちに、四季折々の多様な味覚を提供してくれた。

 それにしても都会育ちの私にはびっくりするような“珍味”が次々と、出てくるわ出てくるわ。カミキリの幼虫・ゴトウムシ、カイコのさなぎ、カエデの葉、蜂の子ご飯、桑の実、沢ガニ、かきもち、ウコギの葉、アカツメクサの花蜜、ボケの実、スノキの葉、オトシブミの卵、柿の皮、ナンテンハギのおひたし、サルナシの実....。

 ほとんどはついぞ口にしたことのないものばかりで、正直食べてみたいものもあるし、遠慮したいようなものもあるのだが、「ほんのり甘くて、わずかに酸っぱい」というヤマツツジの花弁は、今度試してみようかな(花を小枝に重ねて突き刺して、トウモロコシを食うスタイルでモシャモシャとやる、そうだ)。

 これらの対極にあるのが、画一化されたマクドナルドなどの“貧しき食”の風景だろう。食べ物を巡る風景を通して、失われてしまったこの国の、かつて自然とともに息づいていた豊かな心が見えてくる。

 

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「エルクラノはなぜ殺されたのか 日系ブラジル人少年・集団リンチ殺人事件」 西野榴美子 (明石書店 @1800)

 

 1997年10月、愛知の小牧市で14歳のブラジル人少年・エルクラノ君が、鉄パイプや木刀/ナイフ等を手にした20数名の日本人の少年たちに凄惨なリンチを受け殺された。事件は別の不良ブラジル人への復讐が伏線としてあったが、結果として、集団的な異常心理における無差別な「ガイジン狩り」の様相だった。

 助けを求められた駅の職員は冷淡にエルクラノ君を追い払い、通りかかったジョギング中の数名も知らぬ顔で通り過ぎ、早く犯人を捕まえて欲しいという両親に対して小牧警察は「よくある普通の事件だ」と素っ気なかった。病院に運ばれたエルクラノ君は、頭/顔/全身が激しい殴打のため皮下出血を起こし、全身血まみれ。背中の筋挫滅がひどく、前歯は折れ、頭蓋冠および眼窩は骨折、殴打による肺水腫さえきたし、三日後に息をひきとった。

 両親はワゴンの車体に馴れない日本語をペンキで刻み、裁判の請求と命の大切さを訴え、エルクラノ君の好きだったX Japanの“Tears”を流しながら、各地を回った(まるで『行き行きて神軍』の、あの奥崎謙三のように)。そうして、出稼ぎの日系ブラジル人という〈他者〉の目を通して写ったこの国の姿は、物質的には恵まれているが、ただただ殺伐とした空虚なかたまりだ。

 ちなみに人種差別に触れたくだりで、次のような短いレポートがあった。小牧市内のスーパーであるブラジル人が店に入ったところ「ただいま外国人が店内に入ってきましたので気をつけてください」という店内放送が流れたり、また浜松市でも、あるブラジル人女性がバスに乗ったところ「みなさん、鞄に気をつけてください。外国人が乗っています」という車内放送が流れたという。そんな話が本当なら、小松左京のSFじゃないが、もうこの日本という国はいっそ沈没してしまった方がいいのかも知れない。

 帰国後の母親から著者に届いたという手紙の一節が、すべてを語り、同時に私たち日本人ひとりひとりの胸に突き刺さらずにはいないだろう。

 

 私たちの息子を殺した犯人のことを思い出すと、気分まで悪くなります。彼らは私たちを見かけた時、笑ったのです。からかっている表情で。なぜ、そんなに残酷になれるのでしょうか。(中略) ....私たちは日本にいた最後の一年間に、小野先生をはじめ多くのいい人に出会いました。でもその一方で、日本には多くの不公平も存在してました。愛に飢え、中身が空っぽの人たちがいる国です...

 

*関連ホームページ「Herculano Reiko Lukosevicius」(ブラジル語版ですが、英語/日本語版を準備中のようです)

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「死刑囚の最後の瞬間」 大塚公子 (角川文庫 @420)

 

 執行の言い渡しをされ、思わず床にへたりこんだ連続暴行殺人犯・大久保清。百キロの巨漢をもって刑場で最後の大乱闘を演じた女子高生殺しの佐藤虎実。戦後初の女性死刑執行者として、素朴な老女のごとく逝ったホテル日本閣殺人事件の“毒婦”小林カウ。おかやん、おかやん、助けてくれよ、と呻き死刑台へあがっていった雑貨商一家4人殺しの菊池正。死刑囚になって生まれ変わりました、喜んで死にます、と刑台に臨んだ強盗放火殺人の中島一夫。短歌に心の糧を見いだした吉展ちゃん誘拐殺人の小原保。法華経を腹に巻き静かに散った強盗母子殺しの堀越喜代八。ロープが切れ、神さまが「きみはいま死んだことにして助けてあげよう。別の世界に行ってもう一度やりなおしてごらん」と言う夢を見た少年ライフル魔の片桐操。刑場の立ち会いの人々に、菩薩のようにさえ見えたという女性連続毒殺魔の杉村サダメ。権力による処刑を拒否し、獄中闘争の果てに自らの死刑台を実地検分した洋服商夫妻殺しの孫斗八。

 文庫本の手軽な分量ながら、読みつぐにはひたすら重い、いのちの履歴。死刑制度についても改めて考えさせられる。だが何より、思った。つまるところわれわれも、彼らと同じように罪を重ね、獄中で「その瞬間」をひたすら待ち続ける“死刑囚”なのではないか、と。

 

誰でも肉体を脱ぎ捨てるとき
心で憶念している状態に必ず移る
クンティーの息子よ、これが自然の法則
常に思っていることが死時に心に浮かぶ

(バガヴァッド・ギータ)

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「日本人対朝鮮人」 永六輔・辛淑玉 (光文社 @1200)

 

 韓国では茶碗を持って食べるのは行儀が悪いことなのだそうだ。ある時、韓国のジャーナリストと食事中の永六輔が訊く「あなた、私の食べ方を不作法だと思っているでしょ?」「ええ」「じゃあ、はっきり言うけど、あなたのように置いた器に口を近づけて食べるのを日本では“犬食い”といってとても行儀の悪いことなんだ」

 そうして彼は言う「お互いがどうしてこんな食べ方をするのかということを理解し合わないと、飯も食えないじゃないか。飯を食えなきゃ、話もできないじゃないか」「つまり、ここから語られた日韓論はないと思うんですよ」もともと相互リンクの頁でも紹介している飄々庵さんのHPで書評を見て、面白そうなので読んでみたのだが、やっぱり面白くて一気に読み終えてしまった。

 生粋の江戸っ子である永氏と、在日の“歯に衣着せぬ”パワフル・ウーマン辛淑玉女史の二人が、浅草/御徒町/麻布/青山墓地/新宿と、都内のコリアン風景を辿りながら対話する。その二人の会話が、気風(きっぷ)がよくて、松阪くんの快速ストレートのようで、時には深く、あけすけで、時には笑いが出るほど痛快で気持ちがいい。そうだ、日韓の問題とはこのように語られるべきなのだ。

 かつて日本海は海でなく道だった。国の線引きもなく、相互にその道を行き来していた、ぼくらは親類のようなものだった。そうしてキムチをつくる唐辛子は日本から韓国へ渡り、桜の木は韓国から日本へ伝播した。しかし現在、朝鮮半島はいまだ「近くて遠い国」。食事の席からしてままならない。ホントに色々なことを改めて考えさせられる「最初の一歩」に最適な本です、これは。

 ニューヨークもミラノもシドニーもいいけどさ、やっぱり“お隣さん”を抜かしちゃ、何も始まらないよ。というわけで、とりあえずキムチの漬け方でも習おうかな。

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「神道用語の基礎知識」 鎌田東二 編著 (角川選書 @1600)

 

 『記紀』が「いつとも知れぬ古くからの口承・伝承の名残」を孕んでいるように、神道もまた、天皇制や国家神道といった幾重もの政治的/歴史的なフィルターを剥がしていけば、おそらく縄文から連続する私たちの精神の古層のかけらと出会うだろう。

 神道とは何か。仏教のように経典があるわけではない。キリスト教のように絶対者たる神が世界を創造したわけではない。この国の神々は、たとえば植物や岩や泥、あるいは反吐や糞尿といった自然界の諸々の事象から奔放にほとばしり出た。白昼の精液のようにあっけらかんと種は散らばり、神々は踊り哄笑し、やがて石や樹や剣や髪に宿った。

 天の岩戸に隠れたアマテラスを誘い出すために、アメノウズメは笹葉やカズラといった植物(の霊力)を身にまとい、豊満な乳房や陰部を露わにして「あはれ、あなおもしろ、あなたのし、あなさやけ、おけ」と謡い乱舞する。

 「あはれ」は太陽の復活をいう「天晴れ」の意で、「おもしろ」はその光を受けて集まった神々の面が白く輝くことをいい、ために身も魂も自ずと手が伸び躍動するのが「たのし(手伸し)」、そして植物がそれに合わせて騒ぎ、そよぐ様が「あなさやけ、おけ」だという。

 産霊(むすび)について著者は言う。

 

 産霊とは、大地の根底から、あるいは天空から何かが出現する、生み出されてくる、生成してくる力を表している。つまり自然、万物の中から新たな生命が、形態が創造され、生成されてくる。その中に、人々は産霊の威力を感得し、畏怖と感謝の念をもった。

 

 そうした自然の“不思議”に充たされ、身も心も躍動し、植物や岩や水といった万物と共鳴し、悦びに乱舞するのがアメノウズメの場面であり、それは同時にあらゆる芸能や祭の原初の姿でもあった。

 仮にこう言い換えてみよう。神道とは自然や万物の背後に隠された、ある根元的な生命への畏怖と讃歌の感情(センス・オブ・ワンダー)であり、神社とはそうした生命の営みの源泉に触れ、立ち返るための場所とその記憶である、と。そのような言葉であるなら、不信心な私にも充分に共感できる。謎めいた教義でも神秘でもなくごくあたりまえのことで、ごくあたりまえのことがおそらく神道の根幹のありようなのだろうと思う。

 

 ...とすれば、神道を尊ぶとは、端的に言えば、一本一本の木を大切にすることであるといえよう。木は生命の森を形づくる。それはいのちの源であり、生命循環の象徴でもある。/ 山川草木に神宿ると思うのが「神道の感覚」であり、自然と生命への畏怖、畏敬の念である。

 

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「やったぜ! わが家を自力建築」 青木慧 (汐文社 @1600)

 

 いつか新聞にリストラで解雇されたために家のローンを払えなくなり、自分に賭けた生命保険を当てに自殺した中高年の記事が載っていた。一抹の悲哀を感じる。かねがね莫大な借金を背負い込み、生涯をそのために費やさなくてはならない〈家〉とは何だろう、と疑問を感じていた。暴論のようだが、縄文時代なら自分の住む場所くらい自分で建てていたじゃないか。

 ところが長年日本の大企業を取材・批判してきたフリーのジャーナリストであるこの本の著者は、齢60にして、パソコンの入力作業で傷めた不自由な片手ながら、丹波の山奥の荒れた棚田の上に建築資金500万円+自分の汗で立派な、著者曰く“創作住宅”を建ててしまったのだ。

 ただ単にはやりのお気軽なログ・ハウスや「田舎暮らし」の類ではない。そこには薬漬けされた外材や「疑わしき物資」は一切使わない、大型の機材は排して人の五体をフルに活用し、疲弊した国内の森林回復のために地元の間伐材を多用する、外に対して“開かれた家”のための土間の復権などの「哲学」有り、見学に来るプロの業者たちも感心するような“シロウト”ならではの創意工夫を重ね、最終的に建築の全過程、出来上がった〈家〉の存在そのものが現在の歪んだ経済・流通システム、文化、自然認識等を根底から鋭く射抜く文明批評となって底流している。

 

 一センチや二センチの狂いがなんだ、根本の狂いの方が怖いと思っている。そして人間の住まいの基本を問い直した実物見本のこの創作住宅は、逆立ちした住宅産業を正常化させるための実力行使のつもりだった。

 

 反骨のジャーナリストに相応しいまさに体を張った生のリポートで、喝采を送りたい。この本を読んでかくいう私も、いつか資金を貯めて自分の手で自分たちの家を建てたろか、という気にかなり本気でなっている。嗤う者は笑え。家のローンのために自殺なんかしたくないよ、俺は。

 ちなみに著者は自宅にて「山猿塾」なるものを開いて自然を学び自給自足の暮らしを公開し、希望者には当の“創作住宅”の見学も受け入れている。連絡先は〒669-4302 兵庫県氷上郡市島町中竹田2760 山猿塾 青木慧 エ0795-86-1286 まで。

 また山猿塾の活動/通信はニフティ・サーブのフォーラム「農と食のフォーラム(FAGRI)」の会議室「いっしょにやろうよ/長期企画グループ活動」内で読むことが出来ます。

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週刊金曜日・別冊ブックレット「買ってはいけない」(@1000)

 

 筑紫哲也・本多勝一ら編集の硬派雑誌の連載をまとめた増刊号。

 “パンの王様がつくる添加物の塊”ヤマザキ・クリームパン、“世界の食文化を侵す白いインベーダー”味の素、“健康も環境も破壊するファストフード”ハンバーガー、“コンビニの長時間陳列を可能にする保存料”おにぎり、“ファイトも出ないスタミナ・ドリンク剤”リポビタンD、“遺伝子組み替え推進企業がつくる”キリンラガービール、“お肌荒らしの合成洗顔剤”naive洗顔フォーム、“毒物でお口クチュクチュ”モンダミン、“カゼよりこわいカゼ薬”新ルル-A錠、“毒をもって毒を制する”虫除けスプレー....。

 いかに我々の日常がインチキなニセモノで溢れているか。環境だとか健康云々以前に、腹が立ってきた。ライオン奥様サロンなる催しでライオンの社長が出席者から自宅でも自分の会社の合成洗剤を使っているかと質され、もちろん家でも愛用していますと答えたすがら、夫人が袖をひっぱり「あれは危ないからというのでみんな石鹸に変えたじゃないですか」とやったという逸話。おなじようにヤマザキパンや某ハムメーカーの社員は自社のそれぞれ商品を食べないという話。自分で食えないものを何で売るのか。

 そして消費者たる呑気な我々といえば、垂れ流しのCMによってそんな「毒物」を買わされ平気でいる。行政は企業と政治家だけに顔を向け、マスコミはスポンサー付きのために企業批判を出来ない。みのもんた、お前のくだらない奥様向けワイドショーで特集を組んだらどうだ。企業は添加物等の危険な化学物質を使ってコストを削減して生産効率をあげ、その分の浮いた金でニセモノCMを大量に流しシェアを拡大していく。

 いつからこの国はそんなふうになってしまったのだろうか。そうして日常には危険な商品で満ち満ちているのに、ちまたでは健康ブームで、体にやさしいとか地球にやさしいとかオーガニックだとか.... ああ、ちゃんちゃらおかしいや。いつかこの国はこれらの「亡国商品」で滅ぶだろう。ミシガン湖の魚のように化学物質を体内に蓄積した未来のガキどもがキチガイになって踊り回るだろう。

 消費者の我々にも、こうした事実を直視することにある種の拒否反応があるようだ。それに例えばもし私がヤマザキパンの社員だったら、自分が食べられないようなものを人に売りたくないと言って会社を辞められるだろうか。子供の学費もいるし、家のローンもあるし...。結局突き詰めていくと足元の様々なしがらみを、リスクを負って振り払えるかどうかということになるのかな。そういうところに直結していくのだ。

 ちなみにこの増刊号は売れているらしい。私の近所の小さな本屋でも、ふだん週刊金曜日など置いていないのに最近「買ってはいけない・入荷しました」と張り紙を出していた。最低でも不必要なものには消費者たる我々がきっちりNO!と言うことだろう。売れなければ作らないのだから。そして騙されてばかりでは、ここまでおちょくられたら、何とも腹立たしいではないか。

 最後に週刊金曜日のWebサイトと、我が家でも最近合成洗剤に変えて使うようにしたその関連としてシャボン玉石けんのサイトを参考まで。

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「日本社会がオウムを生んだ」 宮内勝典+高橋英利 (河出書房新社 @1800)

 

 世界中を放浪し最先端科学から先住民文化まで真摯な発言を続けてきたニューヨーク在住の作家と元オウム信徒の青年の対話は、のっけから高度な宇宙論で始まる。

 オウムの事件は、衝撃だった。(個人的にはほぼ同世代である)彼らはなぜあのような集団に変貌したのか。いったい何を夢見たのか。この二人の会話は、その疑問のかなり底辺まですくい取っているように思える。

 決して愚かなだけであったわけではない。「かれ」の自己分析は的確だし、やや観念的過ぎるきらいはあるけれど思考力、そして対象を見据える知力もかなり高い。正直言って、共感する部分がかなりあった。違いといったら私についてはまず組織・団体といったものが嫌いなことと、飽きやすい怠惰な性質、ときどき手抜きをするルーズさ、だろうか。

 「この国には金と快楽以外に何があるんだ?」と叫んだというある別の信徒の話。ある意味で多くの「かれ」のような若い信徒たちの始まりは真摯で純粋だった。それ故に免疫に欠け、選択を誤った。麻原という巨大なカオスの塊・真空のブラックホールたる存在がかれらを吸い込み膨らんでいった。「意識や精神の営みに、なんらかの意味をあらしめようとしても、この社会には受け皿がない」それが大きな、この国の抱える深刻な「貧しさ」より生じた要因であった。簡単に言うなら、そんな感じだろうか。だがそれでも言い切れない。

 あとがきにあった作家の言をひく

 

...かれは、クェーサーからの電波を使って測地天文学の研究をしている学徒であった。クェーサーとは中心部から強い電波を発している銀河で、ものすごい速さでわたしたちから遠ざかりつつある。ある日かれは、モニターで観察している電波の波形のずれが赤色偏移で起こること、つまりビッグバン以来、宇宙がいまも膨張しつづけている証拠であることを教えられた。そして宇宙がいままさに動いていること、ここに自分がいることをまざまざと実感して“ほんとうに鳥肌が立つような”感動を体験した。

 対話の冒頭で、かれは熱をこめて、その日の体験を語っている。ぜひ、そこを読んで欲しい。かれはそのとき人類が見ることのできる最も遠いものを見つめていたのだ。大げさに言えば、人類の脳が認識しうるぎりぎりの深淵と向きあっていたはずなのだ。そのかれが、26歳のとき“出家”して天文台を去り、麻原彰晃の弟子になったのである。

 

 ボディ・ブローのようにじわじわと効いてくるような対話だ。幾度でも読み返したい。オウムと私は無関係ではなく、直結しているから。

 

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「アシジの貧者」 N.カザンツァキ(清水茂訳) (みすず書房 @3000)

 

 改めて、小説の想像力、ということを想った。

 著者のカザンツァキは、フランチェスコに影のように付き従い辛い旅路を共にする、平凡で人間的な兄弟レオーネという実在しない語り部を設定することによって、彼をフランチェスコの孤独な精神的遍歴の神に許された稀有な証言者たらしめ、またそれ故に、作家はフランチェスコを想像力の能う限り世界の果てへ、精神の孤高な深みへと押し沈め、神との凄絶な対話を、そして同じように優しい鳥や獣や自然との対話を描ききっている。いわばこの作品は、作家の内なるフランチェスコ、すべての人間的なるものの神秘の繭と作家との合作ともいえる。

 詩人でもある著者のシンプルな言葉の錬金術は、鳥や女性、自然の万象を愛した聖人の生涯を語るにふさわしい。こんなくだりがあった。

 

 実際、聖者はある種の匂いを発し、その匂いは幾つもの山や森を越えて、人びとの家のなかに滲み込んでゆくものなのだ。そのために、人びとは驚き、情熱や恐怖に掴まれ、彼らの罪や怠惰や卑劣さ、また、魂の弱さといった、普段は忘れられ、時効になったと思いこんでいたすべてが、彼らの心に蘇ってくるのである。ふいに、彼らの足元に、地獄が大きな口を開く。そこで、彼らは目醒め、嗅ぎまわり、匂いの来る方向に顔をむけ、ふるえながら歩きはじめる。

 

 ここに宗教の価値、迫害と癒しと孤独とつつましさのすべてが書かれている。

 この物語を読む者はフランチェスコと、また兄弟レオーネと、至福と絶望の入り交じった長い旅路を共に歩み、生の神秘の奥深さに驚きの声を上げ、それ以上に死の意味をかき抱き、最後に、世界中に満ちた奇蹟の数々に目を開かされることだろう。そのとき、わたしたちはこの小さき神の僕(しもべ)、愛すべき“小さな貧者”を、胸の奥の小部屋にそっとしまい、自らの魂と共に住まわせることだろう。

 

 兄弟レオーネ。目を上げ、耳を傾けると、いつでも目や耳は奇蹟に充たされるね。石をどけてごらん。その下には、主に仕えてじっと動かぬ生命が、蝶になって太陽のなかを飛ぶための羽を育てる懸命の努力をしているみすぼらしい虫けらが見えるだろう。人間だって、この地上で同じことではないか?

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「釜ヶ崎風土記」 齊藤俊輔 (葉文館出版 @1800)

 

 釜ヶ崎の名をはじめて強烈に記憶にとどめたのは、まだ関東にいる頃だから、おそらく1990年に起こった釜ヶ崎暴動のときだろう。テレビの画面に映ったコントンとした映像を見て、この国のどこかで内戦でも起きたのかと思い、どこかうきうきした気分になったのを覚えている。

 それから縁あって関西に居を移し、やはりいちばん刺激を受け、妙に親しみを感じたのも、天王寺駅から通天閣-ジャンジャン横町-西成のあいりん地区-鶴見橋商店街の長いアーケードを抜けて西成公園まで至るルートだった。

 釜ヶ崎の歴史は、豊臣秀吉の大阪城築城の折りに集められた労働者がいまの日本橋辺りに使い捨てられたのが発端で、その後明治の時代に博覧会が新世界で開催されたのを機に大阪都心部のスラムを強制移転させたのが現在の地。その今宮村近辺は古地図によると刑場・非人部落などが多いもともと差別的な土地であったという。ここはいまなお、高度資本主義たる日本の陰画の縮図のような街である。著者は一年間この町のドヤ(アパート)に家族と共に移り住み、釜ヶ崎の住人として暮らした。

 私が釜ヶ崎に感じるのは、かつて旅したインドの雑踏に感じるのと近い気持ちかも知れない。嫌悪と懐かしさが混濁と同居している。三角公園の焚き火に遠い原風景を幻視し、路上に並べられた売り物のガラクタのひとつひとつに時として百貨店の売場より近しい感覚を覚える。釜ヶ崎についてはいつか何かの形で書いてみたい。

 とりあえず本書の中で心に残ったふたつの言葉を紹介する。ひとつは著者の言

 

「スラム釜ヶ崎は永久になくならないであろう。敢えて言う。なくならぬ方がよいのだ。この町がなくなると困る人が出る。この町でしか生きていけぬ人が多すぎる」

 

 それから昭和初期からの古老の言

 

「われわれ貧乏人が一番良かった時代は終戦直後の頃や。日本中が貧乏やったから、みんな一緒やった」

 

 また最後に釜ヶ崎で生まれた短歌をふたつ。

 

「死ぬことも生きる事をも考えた生きるときめて地下足袋をはく」

「パチンコに負けて便所で故郷のかあちゃん想いセンズリをかく」

 

 他にもさまざまなエピソードに溢れている。またあのアナーキーな街を久しぶりにぶらつき歩いてきたくなった。

 

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「鳥のように、川のように 〜森の哲人アユトンとの旅」 長倉洋海 (徳間書店 @1600)

 

 かつて中東等の幾多の紛争地を駆けめぐってきたフォト・ジャーナリストが、ブラジル・インディオの若き語り部とアマゾンの村々を旅し、対話を重ねたその記録。

 アユトンの生き方を変えたという、ある長老の見た夢の啓示   「森が健康になれば、あなたたちも幸福になれます」 ここには疲弊した現代文明を射抜く「記憶の宝」(辺見庸)が、確かにある。すなおな言葉がすなおに胸に降り、咀嚼すればするほど毒消しの効用となる。

 著者の豊富なカラー写真に加え、森のスピリットや神話を描いたアユトンの絵もまた素晴らしい。たくさんのひとに読んでもらいたい一冊。

 

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「宮武外骨」 吉野孝雄 (河出文庫)

 

 明治・大正・昭和にわたり「面白半分」「滑稽新聞」「スコブル」「ザツクバラン」等、120余に及ぶ雑誌・書籍を発行し、不敬罪などの筆禍で入獄4回4年・罰金/発禁29回を数えた、反骨反権力のジャーナリストの生涯を甥が記した評伝。

 諧謔味溢れる権力とのやりとりもさりながら、今回印象的だったのは彼の私生活における記述。

 外骨62歳のときに当時34歳だった妻が不義を犯し果てに服毒自殺をする。「我一生の不覚」と外骨は深い後悔に沈むが、「煩悶排除策、心機一転策、且つはテレ隠しの必要上、性的生活の必要上、家政整理の必要上、予は真の妻たる後継者の物色を急いだ」 結果、一週間後には新しい妻を迎える。

 やはり、怪物だ。

 

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「不夜城」 馳星周 (角川書店)

 

 ひさびさに歯ごたえのあるハードボイルド / 暗黒小説の雄。読み応え、内容の充溢さは前作を容易に凌ぐ。圧巻。

 逃れようのない冷徹な魂の彷徨。自らの手で殺した友人の妻に恋い焦がれ、はじめて交わったわずか数行の簡潔な描写にはひさしぶりにオナニーをしたくなるくらいの狂おしい欲望を覚えた。そしてラストシーンでは胸骨が悲しく軋んだ。

 この本を読んでから何故かアジアの歌姫・故テレサ・テンの歌が沁みるようになった。

 

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「遠野/物語考」 赤坂憲雄 (ちくま学芸文庫 @1200)

 

 柳田国男によって文学テクストとして修飾された「閉ざされた遠野物語」を解体し、生きられた伝承としての遠野/物語を、豊饒にして深々と昏い闇を孕んだ時間/空間のひろがりへと投げ返してやること、と著者は言う。

 オシラサマ/境界/色彩等のキーワードを経巡ったその序章ともいえるささやかな試み。

 なかでも餅=白=水=水田稲作民/雑穀・根菜=赤=火=焼畑民という構図を引用して、原遠野物語の古層に横たわる遙か縄文の赤を夢想するくだりには著者同様、ささやかな興奮を覚えた。

 

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