072. 奈良・天理商店街 Art-Space TARN  「安藤榮作・長谷川浩子 二人展」

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■072. 奈良・天理商店街 Art-Space TARN  「安藤榮作・長谷川浩子 二人展」 (2019.1.17)

 




 FB友の貞末さんがプロデュースした映画「ゴンドラ」のなかで、不安定な世界に生きる少女は孤独な部屋の中でたびたび音叉を鳴らす。その反響はまるで世 界の「純音」を取り戻したいと望む彼女のこころの渇きを埋めるようにひびく。基本周波数の整数倍の周波数成分(倍音)を一切持たない「純音」は、じつは自 然界には存在しない音だという。であれば「純音」は彼岸、ほとけの世界の音だろうか。しかし、狂った弦を整えるために音叉を鳴らすように、人は狂った世界 にあって「純音」をもとめる。これは以前にも書いたことだけれど、安藤さんの作品展で垂直に屹立するいくつもの作品群を見たときに、わたしは巨大な音叉の 群れがこの世界に「純音」を鳴り響かせているのだと思ったのだった。「純音」は目には見えない。しかしその見えない音は未来や過去に反響し、あるいは宇宙 の果てに電波を飛ばして未知の生命体とこの惑星の行く末について語り合っているのかも知れない。だからのどかな小春日和の休日につれあいと山の辺の道をあ るき下って天理商店街の Art-Space TARN で「安藤榮作・長谷川浩子 二人展」を覗いたときにも、わたしは「空気の狭間」と題したあの映画「2001年宇宙の旅」で猿人が首をひねって対峙するモノ リスのような作品の前に長居した。わたしは言語を持たない猿人のようにあらゆる角度からそれを凝視する。そして今回見えてきたのは、かつて樹木であった材 の刻まれた薄さであり、木屑として削ぎ落とされた消失した存在であった。「手」が母の胎内で形成される際に指と指の間の細胞が自死することによって「手」 があらわれる。そんなことを思い出した。「自死」したものは「雑音」だろうか。ひとの世は所詮、さまざまな煩悩に染まったノイズで成り立っている。作家の ふりおろした手斧によって刻まれ弾け飛んだそれら木端がわれわれの日常なのだ。細胞の自死によって「手」が形成されるように、われわれの日常を削り飛ばし たあとに出現したものがこの「空気の狭間」であり、「純音」を発する音叉だ。それはわたしたちに聴こえない音を聴かせ、見えない風景を見せてくれる。

2019.1.17

 

 

 

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