■日々是ゴム消し Log48 もどる
あと1週間に迫った子のヴァイオリン発表会のためのドレスを購入した。買い物に行った近くのショッピング・センターで「レンタル着物・ドレスの処分市」なる催事をやっていて、わたしが見繕ったのを子が気に入ったのだった。前にも同じ場所のテナントで試着などしたのだが、子は「顔が合わない」と却下していた。よくあるピンクなどの“こどもこどもした”ふわふわのドレスではなくて、シンプルな白を基調とした大人っぽい雰囲気がよかったのだろう。約4千円。ぴったりのサイズなのでたぶん来年は着れないだろうが、なにしろデビュー舞台なのだから奮発だ。家に帰ってから、演奏に支障がないかいっぺんじっさいに着て弾いてみることになったその姿を、わたしは専属のカメラマンよろしくカメラのメディアがいっぱいになるまでシャッターを切り続けたのだった。いやもうわが子とは思えないくらい、かわいくてかわいくて。
夏ばてなのか、体調がいまいち。土曜は午後からひどい頭痛がして、パーテーションの後ろで少し休ませてもらった。交通隊Jさんが「脳腫瘍じゃないか」と言うのでネットで検索して“悪性の場合、生存率6パーセント”、で「短い間でしたがお世話になりました」とか言うくらいの余裕はあったのだが、事務所のMさんが肩を揉んでくれたところ「がちがちに凝ってますよ」と。いままで腰痛も肩こりも自覚したことはなかったのだが、やはり齢40を超えるとぼちぼちいろんなことが出てくるものか。同僚のYさんが肩こりにいいというストレッチを教えてくれたりして、あらためて身体管理のことなどをチトまじめに考えたのだった。
というわけで予定では、日曜深夜の勤務上がりにそのまま同僚数名と車で和歌山マリーナ・シティまで走り、防波堤で朝まで釣りをして、翌日マリーナ内の黒潮温泉に浸かり、和歌山ラーメンを食べて帰ってくるはずだったのだが、「お父さん、無理しない方がいいよ」という愛娘の一言で残念ながらキャンセルして、8時上がりのYさんに残りの時間を交替してもらい、ちょっと早引けでまっすぐ家に帰ってきたのだった。月曜は一日休みなので、家でのんびりするつもり。
夜、寝静まった家人の隣で枕元のスタンドをつけてアウグスティヌスの「告白」を読む。まだアウグスティヌスが自身の幼年期を語るはじめのくだりだが、1600年前のかれの記す言葉が何の隔たりもなくわが身にすんなりと入ってきて、いまさらながら人間は大して変わっちゃいないのだと思わせる。
明け方。夢に清志郎が出てきた。喉頭癌になった清志郎はいま全国の病気をかかえた子どもたちのもとを訪ねていて、わが家にもやってきたのである。わたしが家に入ると清志郎はすでに子と遊びながらそれをビデオに撮っていて、わたしは清志郎からその画像を見せてもらったのだった。
2006.8.21
* 昨夜は子と虫取りに行った。毎年、Yの実家でおじいちゃんがキリギリスをくれる。夏の夜、台所できれいな鳴き声を聴かせてくれる。そのキリギリスを公園に放してやりたいと言ったのは、お盆におじいちゃんが畑でつかまえたカブトムシとクワガタを連れてきたこともあるかも知れない。「ジーはお嫁さんを探したいんだよ」と言う。「世話が大変だから」とも言っていた。夕方にジーを公園の草むらに放した。「飛ぶのよ。さあ、元気に飛ぶのよ」と子はさかんにけしかけるが、キリギリスは雑草になかば埋もれたベンチ伝いにこそっと茂みの中へもぐってしまった。「夕べねえ、ジーが公園で鳴いてたよ。」と、数日して子は言った。「お嫁さんを探すのもヒトクロウだよって言ってた」 それからしばらくしてカブトムシが逃げ出した。ゆるんでいた虫かごの入り口を押し開けて逃走したのだ。何せ大きなカブトムシだった。「おとうさん、カブトムシをつかまえにいきたいよ」と子がちょっぴり泣きそうな顔で言った。
かぶと虫を探しに行こう! http://kabutouch.hp.infoseek.co.jp/KABUTO/kabuto.htm
夕食を済ませて出かけた。「おとうさん、二人してリュックを背負って、こんな夜にどこへいくんだろうってみんな思うだろうね」「探検に行くんだよ」 車に乗り込んで奈良公園へ向かう。ネットで調べたら矢田丘陵あたりは最適だったが、あんまり真っ暗でも子が怖がるだろうし、「子どもの森」へ行く道は狭いので夜間はちょっと危険かも知れない。奈良公園なら鹿もいるしね。いつもの県新公会堂のわきに車を停めて、春日大社参道へ続く真っ暗な道からさらに暗い雑木林の中へ分け入った。一本の樹の根元に枝や洗濯バサミや石ころを利用してシーツで幕を張って、その下に電池式のランタンを置いた。昆虫ゼリーもいくつか置いた。灯火採取法ってやつだ。雑木林の中は真の暗闇だ。うっすらと視界が利くのはランタンの光が届くわずかな周囲だけ。闇の向こうでかさこそと落ち葉を踏む音がする。ときおりピーッと闇を突き刺すような鹿の鳴き声が響く。子はかたわらで、そんな闇を見すえて立ちすくんでいる。「怖いか?」「ちょっと怖い。でもおとうさんといっしょだからだいじょうぶ」「バンビもレオもこんなところで寝てるんだぜ。怖いわけはないさ。心の中で悪いことを考えている人だけが、真っ暗な中でお化けを見たりするんだ」 しかけの設営を終えてから、公園へ戻ってしばらく散歩をした。メスのクワガタが外灯の下でさかさに転がっていたのを虫かごに入れた。蝉が子の腕に飛び込んできてじりじりと鳴き、子を大層驚かせた。楠の老樹に大きなゴキブリが這っていた。いくつかの鹿の群も、芝生のそちこちで草を食んでいた。道沿いに停めた数台の車のそばへも餌を期待して数頭が寄っていく。車から若い女の子が降りてきて鹿と写真を撮っている。「おとうさん、しかけのところへもどろうか」 遠くの雑木林の中のしかけの灯りがオレンジ色に浮かび、風ではためいている。「あれ、今日はお祭りがあるのかもしれないなって、あの灯りを見て虫たちは思っているかもよ」「うん。きっとたくさん集まっているよ」 30分はちょっと短かったかも知れないね。虫は一匹も集まっていなかった。でも子は暗闇がもう怖くなってきたようだ。外灯の下で拾ったクワガタでもう満足だと言う。「じゃあ、帰ろうか」 シーツを畳みながら「来年キャンプに行ったらさ、これをもう一回やってみよう。食事の前にしかけて、寝る前に見に行ったらきっといっぱい集まってるよ、あの山なら」 「おかあさんはカブトムシをつかまえてくると思っているのに、あらクワガタなの?ってびっくりするよ、きっと」走り出した車の助手席で、子はくすっと笑う。途中のスーパーでアイスを買って車の中で食べた。わたしだけ外へ出て煙草を吸った。隣のエンジンをかけっぱなしの車の運転席で中年の女が身体をななめに崩しバックミラーを見て、さっきからずっと熱心に化粧をしている。こちらではアイスを頬張りご満悦の子がわたしに笑みを送ってくる。まるで別の生物のようだ。帰ってからいっしょに風呂に入り、布団の上で図書館で借りてきた「大泥棒ホッツェンプロッツ」を読んだ。子どもの頃のわたしの愛読書だ。
2006.8.22
* 新聞の特集で8月15日を「靖国神社」に集う若者たちの記事を読む。(朝日新聞・よりどころ求める若年層・2006年8月22日) かれらはネットで出会い、オフ会で知り合い、週末に喫茶店で「愛国」について熱く語り合う。
なぜ、国を思うのか。
「人間は一人だけでは生きていけないから、国は必要。日本に生まれた以上、日本に尽くすのは当然でしょう」
「国は家族と同じ。父親である国が病気で弱っているから、私たち20代は愛国心を呼び起こされているのでは」
「自分たちイコール国だから。あえて言うほどのことじゃないでしょう」
かれらから透けてくるのは、現状への強い不安といらだち、その中で「何者でもないじぶん」をどこかにつなげていたい、という焦燥だ。つまりコイズミとヤスクニは、あのアサハラとオウムの構造に心理的に酷似している。
20代の頃、わたしがずっと胸に秘めていたのはブッダの次のようなことばだ。
音声に驚かない獅子のように、網にとらえられない風のように、水に汚されない蓮のように、犀の角のようにただ独り歩め。
(スッタニパータ・中村元訳・岩波文庫)
これと良質なロックンロールがあればコイズミとヤスクニには行き着かない。
おれはじぶんがどんなに不様でも、ちんけなものにしがみついたりはしないぜ。
2006.8.22
* 子の読書量が並大抵でない。図書館から毎週のように小学3〜4年生程度の本を借りてきては次から次へと読破している。簡単な漢字ならもうかなり知っている。
みなさん、「大どろぼうホッツェンプロッツ」のお話は、いかがでしたか?
みなさんは、きっと、この本を読み出したら、たちまちそのとりこになって、おかあさんから「ごはんですよ!」とよばれても、「もういいかげんにして、あとは、勉強がすんでからになさい!」といわれても、もうすこし、もうすこしと、とうとうおしまいまで、ひといきに読んでしまったにちがいありません。
訳者のあとがきのこんなことばがまさにぴったりで、家族三人で思わず大笑いしてしまったくらいだ。幼稚園の頃のわたしは、これほど本好きではなかったように思う。病院のベッドや待合室や、どこでも好きなところから始められる簡便さが合ったのだろうか。
実家の物置に残っている蔵書から、基本として漢字にるびのふっている、子の読めそうな本をいくつか送ってもらうことにした。わたしの小学生の頃の愛読書で、多くは先年、風呂場で死んだ伯父の家から流れてきた。
ムーミン・シリーズ 5冊
ドリトル先生シリーズ 10数冊(井伏鱒二の名訳)
りんごの木の上のおばあさん
見えなくなった首飾り
海へ行った赤ん坊大将
がわっぱ
ゆかいなホーマーくん
きつねものがたり
学研マンガ・シリーズ 「星と星座のひみつ」「宇宙のひみつ」来年(信じられないが)、子は小学校だ。もう2、3年したら、エンデさんの素敵に長い迷宮のような物語を夢中で読み耽っている子の姿が見られるかも知れない。
さてぼちぼち、あたらしい本棚なぞ考えなくてはなるまいて。
2006.8.23
* 「ポアンカレ予想」なる幾何学の超難問をロシアの数学者が解いたそうだ。数学者にとって最高の名誉といわれるフィールズ賞に選ばれたが、当人は「じぶんの証明が正しければ賞は必要ない」と受賞を辞退、「有名人になることへの嫌悪」から数学者も「引退」してしまった。40歳のかのペレルマン氏は現在無職、貯金と元数学教師だった母親の年金だけで暮らし「(授賞式会場の)スペインまで行く旅費もない」とほざいたとか。そんな世の喧噪もどこへやら、ロシアの国営テレビはペレルマン氏が現在、サンクトペテルブルク郊外へキノコ狩りへ行っていると報じた。こんなエピソードは好きだな。森深いあのドストエフスキーの国にはまだ、こんなピュアで痛快な魂が残っているのかも知れない。
「バイオポリティクス 人体を管理するとはどういうことか」米本昇平(中公新書・@840)なる、やや小難しい本を少しづつ読みついでいる。「バイオポリティクス」はフーコーの言葉で、「1976年の『性の歴史 第1部 知への意志』の中で、彼は、人間の身体機能の利用に関する支配(解剖学的政治学)と対をなすものとして、生物学的な「種」の側面に介入し、これを管理しようとする権力の働きを、バイオ=ポリティクスと呼んだ」(前掲書) 簡略に言えば、わたしたちがこれまで科学の対象としてきたのは「外なる自然」であった。ところが生命科学の進歩により、それらは人体という「内なる自然」へと移り変わってきた。脳死問題や遺伝子操作、臓器移植、万能細胞、ヒトゲノム計画などといったものがそれである。冷戦後、アメリカは国益となる研究投資の軸足を核兵器や宇宙開発といった巨大物理科学から生命科学へとシフトさせた。いまや国立衛生研究所の予算は国防研究費の七割にまで達するまでになった。様々な企業がバイオ産業に参入し、あるいはゲノム解読を足がかりに臨床応用に役立つビッグ・ビジネスのチャンスを伺っている。同時に「外なる自然」から「内なる自然」へ科学(もしくはビジネス)の対象が変わったということは、共通のモラルが問われているということを意味する。キリスト教徒が研究のための受精卵破壊を批判するのは、受精が生命の始まりとするローマ法王庁の教義を根拠とする。つまり、生命のモラルとは、倫理的な価値観であり、それらがいま有史以来の深度でもって足下から問われている(晒されている)というわけだ。それ故に「個人主義」「自由主義」を掲げるアメリカでは次のような「価値の逆転」が起こる。
だが、人体の処分権を個人に認め、自己決定と自己責任の原理に委ねたアメリカは、他の先進国と比べて、人体組織の商品化が格段に進んでしまった。また、ヒトゲノム研究が進んだ結果、さまざまに可能性が広がった遺伝子検査が特許の対象となり、人生設計に必要な情報を提供するサービス産業として成長している。ベンチャー企業には、時期尚早と思われる段階から商品化してしまう傾向があり、アメリカの科学界はこれを批判してきた。
欧州社会は暗黙のうちに、このようなアメリカの状況を反面教師とみなしてきている。欧州におけるバイオポリティクスは、個々人は、とくに危機的状況では誤った決定を行う恐れがあると考え、生命倫理的課題に対して法律や共通ルールを策定する方向にある。むろん欧州社会も自由と多元的価値を社会的原理として掲げる。しかし、同等に公序も重視するのである。
「バイオポリティクス」米本昇平(中公新書)より
公序、共通のモラル。細胞や遺伝子レベルまで深度を拡大し、それらを異なる宗教や身体的感覚とすり合わせながら再構築する必要に、いまわたしたちの時代は迫られている。まさに切迫した問題だ。
今日は夜勤明けだった。昼前に帰宅してシャワーを浴び、Yが用意しておいてくれた手鍋のだし汁に鶏肉ととき卵を入れた丼で昼食を済ませ、すこし寝た。夕方、電車で子と大阪の病院へ行ったYから電話が来た。今日は整形外科と脳外科の定期検査だった。「診察を終えて天王寺駅まで来たら、紫乃がプラド美術館展のポスターを見て“これが見たい!”と言うので、これから美術館へ寄ってきます」との由。
子が目にしたポスターはムリーリョの「貝殻の子供たち」で、館内では静物画・風景画などには目もくれず、宗教画ばかりを熱心に見てまわったとか。ゴヤの「トビアスと大天使ラファエル」のレリーフ・カード(裏からこすって絵を浮かび上がらせるもの)を買ってきたが、ほんとうは大天使のガラスの文鎮が欲しかったんだそうだ(値段と、Yが大天使の顔が気に入らないのとで却下された)。
2006.8.24
* ------ある人に
お返事、嬉しく拝読。
いやナニ、○○○を巡るBBSあたりでご機嫌を損ねたかなとか、ちょっぴり気になっていたりしたもので・・・
わたしはときにひどく鈍感な部分があるので、知らぬ間に人を不快にさせてしまうことが多々あります。
ま、それはサテおき。先日、webで知り合った山梨に住むある画家氏が1年ぶりに神戸で個展を開き、ひさしぶりに再会して食事をしながらあれこれとフカイ話をしました。
その中で画家氏の母堂も何かの病気でずっと入院生活をしていて、体重が30キロくらい、ほとんど骨と皮ばかりの状態でいながら頭脳だけはひどく明晰で、それはそれであまりにも残酷だという話を伺ったのでした。
わたしの父方の祖母はわたしの父が事故で死んでから急に呆けてしまい、妹は親身に看病していたものですが、わたしはわりと冷淡で、じぶんがそれだけ冷淡な人間であるということをいまも忘れていません。○○さんは何のご縁かもう何度かお会いして、最近では引っ越しで余ったテレビを、ちょうどわが家のが壊れたと聞いて進呈してくれました。紫乃と二人で奈良町の、まだダンボールが溢れている新居に取りにお邪魔しました。
○○さんと○○さんが揃ったらあまりにすごすぎる気もしますが、奈良で揃い踏みの際はぜひお声をかけてください。かけつけます。明日は紫乃がバイオリンの発表会があります。
もちろんわたしは休みを取ってスタンバイです。
子の成長を見るにつけ、おのれの死が強く意識されます。そして身内やあらゆる生命に自然、思いが巡ります。祖母の老いに冷淡であったわたしが、そんなことを考えたりします。「半病人」でも、とりあえず安心しました。
どうぞ、ご自愛ください。まれびと
2006.8.26
* バイオリン発表会。子はトップ・バッター。手堅くいった。終わってから「おとうさんの言ったとおりだったよ。(客席を)カボチャだと思ったら、何ともなかった」
関東からわたしの母、妹、和歌山からYの両親が集結して夜更けまでにぎやかで大はりきりの一日。
2006.8.27
* 午後から外出。義母のリクエストで奈良町へ。猿沢池のはたに車を停めて、魚佐旅館の横手から奈良町通を南へ下れば、やがて元興寺の裏手へ至る。義母がテレビで見たという透かし彫り陶燈をネットで探してたどり着いたのが赤膚焼の「寧屋工房」だ。格子戸をくぐった作業場を兼ねた店の中で、大小さまざまな“陶火器”に蝋燭をともして見せてくれた。桜や竹、蓮の花、唐草文様などを配された陶器から影絵のような火影が壁に床にまた大皿のような器にゆらめき映える。蝋燭の高さによっても影は伸びたり縮んだり、焦点が合ったりぼやけたり、さまざまな表情を見せる。子が引きこまれるように放心して、すごい、とつぶやく。もともとは茶会で使う蝋燭の灯り用にと20年前に考案したこの透かし彫り“陶火器”だが、実際にモノができて灯りをともしてみないと「火影のデザイン」が定まらないため、なんども試作を重ねてやっとひとつの柄が定着するのだという。「この大皿に水を張って、そこへ浮かべてもきれいでしょうね」 わたしが言うと、説明をしてくれた店の若い女性は「そうなんです。水底に映った影が、水の中できらきらと光ってそれもきれいなんです」と応じてくれた。いちばん小さなもので8千円。その上はもう何万円もするような値段のものばかりだが、わたしはこのごろ、それらが「高い」と思わなくなった。むしろわたしたちがふだん買っている「心のこもっていない」モノの方が「高い」のではないか。義母はそこで8千円の、桜の透かし彫りがされた“陶火器”をひとつ買った。子の手をつないで、店のあてっこの続きをしながら古びた町屋の路地をあるいてもどった。この“陶火器”には蝋燭と、火影を映し出す空間、それも実際の空間と心のなかの空間が必要なのだった。いやむしろ、後者に映えるのだろう。「奈良はやっぱり、いいねえ。寮さんが引っ越してくるのも分かる。ああいう店がひっそりとある奈良は、やっぱりいいなあ」車の中でYとそんなことばを交わした。それからまた義母のリクエストで奈良ファミリーへ移動。義父母とYが義母の服選びに同行している間、子はわたしと百貨店の文具売り場へ行き、わたしの母がくれた誕生祝いのお金で念願の星座付きの地球儀を買ったのだった。地球儀って結構いい値段するもんだね。帰って机に置いた地球儀を子がくるくると回しているので「こら、そんなふうに遊ぶもんじゃないぞ」と言えば、「こうやって回してグウゼン止まったところの名前を読んですこしづつ覚えていくのよ」とおっしゃる。
もの創りの心と手 http://www.kcn.ne.jp/netpress/mono/025/tokusyu2_25.html
唐草図鑑(唐草文様の植物文化誌) http://bymn.pro.tok2.com/karakusa/index.html
2006.8.28
* まるでポサダの骸骨のようなしゃれこうべが、ゆれながら、ため息をつきながら、たちどまり、あてどなくあるきまわり、月の光や頭の中をかけめぐるネズミや見果てぬ夢を物語っているかのようだ。ときにそいつはがたがたの田舎道を荷馬車に揺られているように見える。ときにそいつは夜明けの路地裏に石ころのようにころがっているように思える。ときにそいつは砂丘の上から死にたえた町を見下ろしている。漂う難破船の甲板で雨にさらされている。花の甘い香りのなかにまどろんでいる。滝の上からぶらさがって舌をふるわせている。ときにトーンが歪み、ことばがつかえ、しゃがれて、よたれがちなのは、この世の重力に逆らわずに喋ろうとしたらそんな話し方しかできないと言っているかのようだ。あばら骨はあちらでぎいぎいと吠えている。大腿骨は石畳でワルツを踊っている。上腕骨は恋人の肩に。そして哀れで不屈の魂は、教会のさびれた墓地をさまよい永遠を見すえている。
ミスター・タンブリンマン。おれはあんたのパレードについていくよ。
JOSE GUADALUPE POSADA http://elibrary.unm.edu/posada/
2006.8.30
* ひさしぶりに彼女を抱いた。彼女の身体は花弁のように甘く、やわらかだった。幸福とは時間だろうか。このままずっと彼女を抱いていることはできないが、信じられるのはいまだけだ。古い人たちはみな知っていた。いのちには限りがあり、いつかだれもが花びらのように天へ舞い戻っていくことを。難しい話はしたくないな。理屈や小賢しい定理などたくさんだ。たくさんのものが陳列棚に並んでいるけれど、心にずしんとくるものだけがいつも本物だ。黄金の重みは手にしてみなければ分からない。きみの涙は弁証法ではたどれない。さいしょはざらざらとしていて、やがてぴったりと馴染んでくるものがそれだ。きみの眠っていた大事な記憶を掘り起こしてくれるものがそれだ。音楽であれ、絵画であれ、一行の詩であれ、どれもきみがもともとなにひとつ欠けていなかったことを思い出させてくれる。きみの内にあるものは、はじめからきみに授けられていたものばかりだ。なみだが出るじゃないか。そんな美しすぎるメロディで、きみにそんな歌い方をされたらぼくは泣いてしまいそうになる。子どもの頃に公園の暗がりに置いてきた何か大切なものを思い出す。何気ないことで笑っていた古いアルバムの中のじぶんを思い出す。この世で人のなみだに還元するに値するものとは何だろうか。きみの背骨をつらぬく信仰に値するものとは何だろうか。雨で濡れた石畳をきみがあるいていく。ぼくはいつもきみに追いつけれたらと願っている。ともだちのぜんぶがこのぼくを見捨てたとしても、きみだけはそばにいてくれるとぼくには分かっている。そしていつの日か、二人して花びらのように天へ舞い戻っていけるはずだ。遅れることもなく、早すぎることもなく。そのときにぼくらは二人とも、さいごにのこった雪のひとかけらをてのひらに捧げ持っていくことだろう。
(深夜、酔っ払ってディランの“Workingman's Blues #2”を聴きながら)
2006.9.1
* 日曜は先週の子のヴァイオリン発表会に続いて、おなじ幼稚園に行っている近所のJちゃんのマリンバの発表会だった。発表会といっても松本真理子氏というマリンバの先生とその弟子たちの(何でもことし40回目の)コンサートといった体裁で、チケットは千円ながら有料だ。チケットはJちゃんの家で3枚用意してくれた。わたしは「まあ、寝にいくか」程度の気持ちで同行。松本真理子氏は、全国的な知名度はどうか知らないが、関西のマリンバ界ではだいぶ著名な人らしい。アーティストというより育成者として名高いのかな。以前に子ども向けのクリスマス・コンサートなどでもちらと拝顔したが、パワフルでユーモアのあるおばちゃんだ。マリンバを小学生が発表会で叩く楽器なぞとあなどるなかれ。なんせラベルの「マ・メール・ロワ」を6本の腕と12本のマレット(ばち)を自在に駆使し、精妙で美しいピアニシモを保ちながらしっとり聴かせてしまうのだ。ミニマル・ミュージックを思わせるスクエアダンス(吉岡孝悦)も爽快だったし、大江加奈子氏がソロで弾いたアグスティン・バリオスの「大聖堂」も叩くというより、まるで神秘の庭で植物たちの呼気がくぐもって沸き立つかのような響きで魅了された。つまり「無料の千円」では勿体ないくらいのひとときを、思いがけず堪能させてもらったのだった。(途中で何度か寝たけどね)
Mariko Marimba Studio http://www.marikomarimba.com/
数日前であったか、風呂に行く支度をせかされながら子が思わず言った。「まったく、いやんなっちゃうなあ。このおしっこのビョウキはいったいいつになったらなおるんだい」 もっぱら軽い、いつもの映画や本の主人公のセリフを真似た調子で、だれに言うともなく。だがわたしもYも思わず息を呑み、押し黙ってしまった。何も言い出せなかった。子と風呂に入り、しばらく湯船で遊んでから話し聞かせた。「紫乃、よく聞きなさい。おまえの病気はいまはだれも治す方法を知らないんだ。でもたくさんのお医者さんが一生懸命探してくれているから、いつか見つかるかも知れない。だからそのときまでは、おまえはじぶんの病気やおしっこの道具と仲良くしなくちゃいけないんだよ」 子はまじめな顔で、わかった、とうなずいて見せた。それから何もなかったみたいに風呂の玩具で人形ごっこの続きを始めた。事実を誤魔化すような安易なことを子に言いたくはなかった。いつも物分かりがよくて、わたしは涙が出そうになる。
「最後まで破綻がなく」なんて言葉を、たとえば文学新人賞の批評やクラッシック・コンサートの音楽評などで目にする。そういう意味ではロックやブルースなんてのはある意味、破綻だらけの音楽だな。いやむしろ、破綻こそがブルースという形式の神髄なのかも知れない。今日、休憩時間にMP3プレイヤーでディランの新曲のブルース曲を聴きながら、そんなことを思った。コルトレーンなどのフリー・ジャズもそうかも知れない。破綻の継ぎ接ぎだらけ。破綻のなかで音楽が宙ぶらりんになり、いくども破綻を繰り返し、ほつれた魂を繕いながらすすんでいく。すべてのブルースは、ひょっとしてそんな形式なのかも知れない。文学でも音楽でも、そんな危うい破綻を抱えているものが好きだ。
今夜もディランの美しすぎる“Workingman's Blues #2”を聴く。ここには確かに、まっとうな魂の息づかいがある。よろめきながら、あきらめかけ、つまづきそうになりながら。
2006.9.4
* わたしの夢。夜の山道へはいっていく上り坂のとば口で、トラックの脇をすり抜けようとして転倒、バイクが壊れた。やれやれと見上げると、道から高台になっている住宅の裏庭の樹上に子どもの影が見える。「針金とか、そんなものはないかなあ」 声をかけるとどこに隠れていたのか、数人の小学生くらいの男の子たちがこちらへ降りてきて、黙っていろんな部品を手渡してくれる。バイクは直り、男の子たちに礼を言って走り出す。とたんにかれらはみな、この場所で車に轢かれて死んだ犠牲者たちだと分かる。おそろしくなって、逃げるように暗い山道を駆け上っていく。
子の夢。町の中のちいさな「木の家」に友だちのJちゃんといる。子は「たくさんはしゃべれない魔法」をかけられている。やっと魔法をかけられたことを短いことばで伝え、Jちゃんが「えー」と驚いたところで目が覚めた。
2006.9.5 朝
* 今日は夜勤。朝、子を幼稚園のバス停まで送り、生協の荷物を受け取ってから、Yと車で市役所へいく。障害者サービスのいくつかの手続きのほか、教育委員会の窓口にて来年の小学校入学の相談。幼稚園経由で来る調査書に記入し提出、11月頃に園へ本人の状況視察に来られ、それから教育委員会・学校関係者・保護者をまじえて話し合いをもつ、とのこと。通学距離や通院の利便性、施設を含めた学校側の受け入れ体制、あるいは雰囲気などもろもろ。
2006.9.6
* 何にもする気にならないが、どうせ何でもないことばかりだ。放っておくさ。MP3プレイヤーでディランの“Workingman's Blues #2”を聴きながら、眠っている子の隣にすべりこんでいつまでも寝顔を眺めている。わたしの世界はたったこれだけ。
ねえ、おとうさん。“リンゴさんのタコのにわ”をうたってよ。ほんのしばらくまえ、「エルマーと16匹のりゅう」を読んでから、きみは眠そうな目をこすりながらそうわたしに言った。ビートルズの Octopus's Garden をうろ覚えの歌詞で歌っているうちに、やがてきみは眠ってしまった。
深い海の底の Octopus's Garden できみとふたりだけ。
2006.9.7
* 子はお芋掘り遠足。バスで当麻へ行った。Yは昼過ぎまで幼稚園でバザーの支度。わたしひとり手持ち無沙汰で、なにもする気が起こらない。子ども3人を車に乗せて、自転車で後からJちゃんのお母さんとやってくるYの指定した駐車場所が朝のラッシュのまっただ中で、おまけに通学の高校生らが群をなして通るはたの車内で子のおしっこを摂らなければならないことにも腹を立てて、朝からYに当たり散らした。帰ってからバザーに出す幼児椅子をつくるつもりだったのが、端材を部屋の床にいくつか並べたらもう気が霧散した。居間のソファに寝転がって、同僚のNさんから長いこと借りっぱなしだった「妖怪大戦争」のDVDを見た。清志郎が日和見の妖怪に扮していて笑えたが、まあそれだけのものだ。つづいてモリスンのスピリチュアルなライブ映像を見たが心が反応しない。神の免罪符も今日はご用済みのようだ。途中でビデオを停めて、納豆と生卵を丼飯にかけた昼食を早めに済ませてまた惰眠をむさぼった。目が覚めたら夕方で、身体がだるい。やがてYが汗だくで子と帰ってきた。面妖な形の大きなサツマイモが三つ。装具を外して履いた長靴は先生が足の甲にハンカチをはさんでくれて脱げなかったようだ。「“ふたかみやま”は分かったか?」「うん、N先生が教えてくれた」「“ちゅうじょうひめ”の話は?」「訊かなかった」 Yのリクエストで夕食に茄子とピーマンのパスタをつくった。Jちゃんがお母さんのつくったチヂミを持ってきてくれていっしょに食べた。クーラーの利いたソファーの上で子と戯れているうちにまた眠ってしまった。いつの間にかYと子は灯りの消した寝室で、わたしだけまんじりともせずひとり畳の上にすわっている。数日前、カンボジアに行ってきたというAのメールが届いた。密林の中のアンコールワットを見て、ベトナムの戦争博物館でティック・クアン・ドゥック師の写真も見たとあった。おれはジャングルの中のゲリラ兵士たちと合流した方がいいかも知れない。まるで熟れて腐り始めた温室の果実のように仕様もない。
2006.9.8
* はたらいて くって ねむる
そして また つぎのひも
はたらいて くって ねむるうんどうじょうのすみで しょうねんが てくびを きっても
どこか みしらぬくにで うまれたばかりのあかんぼうが ばくだんで ふきとばされても
はたらいて くって ねむるはたらいて かねをかせぐのは いきるため
くうのは はらを みたすため
ねむるのは それらすべてを わすれるためむかし ネイティブ・アメリカンのひとたちの せいなるコーンミールは
はらを みたすいじょうに
こころを みたしたてばなさなければ みえてこないものが ある
どりょくとは える ことでなく てばなす ことだ2006.9.9
* 1964年西ベルリンで ヘルマン・シェルマンに
シェーンベルクのピアノ曲を弾いてきかせたことがあった
プロイセンのこの精密さは全世界を征服した
と シェルマンは言った
のがれられない文明の呪縛
転換ギアはどこだ ベンヤミンさん
あるいは絨毯の模様の一点のほころび
籠の編み残された魂の出入口
バッハの曲のどれかを鍵盤の上でためしてみる
完成されたものとしてではなく
発明された過去としてではなく
未完のものとして
発見のプロセスとして
確信にみちたテンポや なめらかなフレーズを捨てて
バッハにカツラを投げつけられたオルガン弾きのように
たどたどしく まがりくねって
きみは靴屋にでもなったほうがいい
その通りです マエストロ
そして この音楽と現代社会とのかかわりについて
さらに 日々の生に その苦しみにこたえる音楽をもたず
過去の夢に酔うことしかできないこの世界の不幸について
瞑想してみよ高橋悠治・音の静寂 静寂の音 (平凡社)
2006.9.10
* 秋めいた軽やかな朝の空気。歩き出した一歩がすこしばかり浮力を得たような。薄い錫色の雲がちょうどいい塩梅に夏の名残の陽差しをさえぎっている。装具をつけた子の靴は重たそうだ。獲物を抱えた蟻のように、えっちらおっちらと朝の光の中を歩いていく。手にはクワガタの虫かごがピンク色の紐の下で揺れている。幼稚園へもっていくのだ。道ばたの花壇の植物がいくつか青い実をつけている。花を咲かせて実を結ぶ。あたりまえのうつくしいことが、人間には容易でない。砂利道で子の手をひき、低い生け垣を抜けて駐車場へ出る。コンクリートの車止めをまたいだ拍子に子が何気なく言う。「おとうさん。虫のタマシイって、あるよね」 わたしも何気なく答える。「うん、あるだろうな。虫のタマシイは」 団地の階段下に陽炎のように一人の老婆が座りこんでいて、わたしはなぜとなくそちらへ目を向ける。「タマシイは、見えないね」子はなお言う。「うん、見えない。死んだら見えるのかな」「身体からほわっと出ていくのかも知れないよ」「どこへいくんだろう」と、わたしは誰にともなく訊ねる。「天国だよ」と子は答える。そしてえっちらおっちらと重たそうな靴をひきずって朝の光の中を歩いていく。わたしは、そうか、そうだな、とつぶやいてアスファルトの上の二人の影を見ている。ふりむくと、さっきの老婆はまだ同じ場所に座っている。あたりまえのことなのだが、どこか奇妙に不思議な心持ちがする。バスが来てるよ、Jちゃんたちもいるよと先にいく子につられて歩き出すと、見えない空気のほころびに一瞬入り込んだような感覚をおぼえる。ひそやかな気配の中で雲間から差し出した薄日があたりまえのようにきらきらと煌めいている。わたしたちが魂の影なのかも知れないとも思う。日につつまれた空気はわたしの皮膚の上、わたしたちの薄い境界線上をすべりおちる。
2006.9.11
* 今日はね、ヴァイオリン教室が終わって帰ってきて、薬局でもらってきた紙おむつがたくさんあったから車を家の前につけて、紫乃だけさきに階段をあがったの。わたしが玄関に入ったら座って待っててね、タオルを差し出して「おかあさん、どうぞこれで汗をふいてください」って(笑)。居間にいくと部屋の電気の紐が届かなかったのね、じぶんの机のスタンドを点けて上に向けて、「おかあさん、ほら、すごくきれいでしょう」って。ベランダの窓の硝子に反射するのか、窓際の植物の影がおもしろいみたいにいろんなかたちに居間中に映っていてね。あんまりきれいだから、そのままの灯りのなかで、二人で居間のソファーにすわってご飯を食べたの。紫乃が「おかあさん、ここで食べようよ」って言うもんだから。そうしたら、不思議なのよ。部屋が暗いと、窓際のジャスミンの花の香りがとってもよく分かるの。すごくいい匂いだねえってさわぎながら、二人でおいしいジャスミンのご飯を頂いたの。
気をつけてほとんど音にならない響
樹からはなれた実
途切れないしらべのなかの
森の深いしずけさとマンデリシュタームは書いた
人のいない森で木の実が落ちる
音はするか しないか音が聞こえる そこには人はいない なぜなら 人がいる というのは外側から見ていることで
音が聞こえるのは 内部空間だから
人も 樹も森も 絵にすることができる
でも この響 それを包む途切れないしらべには かたちがない
響はそっとすべりこみ 気づかれないように消える草原の小動物が気配を感じて後ろ足で立つ そのとき草の海から急にひきはなされた展望
聞こえる というのは そうした存在の不安 それにもかかわらず自分の足で立ち あやういバランスをたもちながら ひたすら遠くに耳をこらす そんな状態
はるかな響の海 かすかに感じられる呼吸 音もなく脈打つ鼓動 そこには内も外もない
こどもの頃 寝ていると川の音がきこえた
鼓動とまざりあい 呼吸はゆるやかになって 眠りにひきこまれる見るという行為が対象の視覚化による所有のまえぶれであるとしたら、薄闇によってそれらがさえぎられ、代わりに匂いや音の感覚が鋭敏になるのかも知れない。そして匂いや音の感覚は、なにかを所有するのではなく、所有しようとする“じぶん”を包む薄い皮膜をうらがえして内へ外へとひろがっていくそのとば口を持って扉の前にしずかに立っているのかも知れない。孤独は、それをとらえようとする。
ひたすらきくこと なにかをきこうとせずに
なぜなら われわれの日常は外の物事を追いかけることに費やされている
見ることが中心にあり 他の感覚は視覚化されている心の内側で起こることを見ようとすると 瞳は一瞬錯乱する
ところが 視野の端でうごくものがあれば わずかなうごきでもおのずから目に入ってくる ということは 目が特定のものに気をとらわれていないからだろう
このように きくときも 目立つ音を追うのではなく 響の前後だけでなく それを包む静寂をきこうとする 耳に入るすべてをきこうとする とおいかすかな響をきこうとする あるいは逆にからだの内側に耳をそばだてる こういったさまざまな戦術によって 響く空間の全体が姿をあらわす
それは多様な音の粒子が おたがいのかかわりのなかであらわれては消える とらえどころのないひろがり 実体もなく時間もない空間
それを前にしては あらゆる表現は不可能だ
これが原初の 鳴り響く沈黙
十字架の聖ヨハネのうたった 密やかな音楽 響く孤独引用はすべて、高橋悠治「音の静寂 静寂の音」(平凡社)から
水牛>高橋悠治 http://www.suigyu.com/yuji/Yuji_Takahashi_ja.html
水牛>高橋悠治>保存文書 http://www.suigyu.com/yuji/ja-archive.html
2006.9.13
* 深夜、amazon で「ブレヒト詩集」長谷川四郎訳(みすず書房 @1680)と「知識人とは何か」エドワード・W. サイード(平凡社 @882)を注文。
2006.9.16
* 台風一過の敬老の日。義父母のリクエストで近江八幡の水郷巡りへ。9時に出発して、京奈和道・京磁バイパスを経由、石山から湖岸の景色ををながめつつ走る。「滋賀県にはなにがありますか」「日本一おおきなみずうみです」 琵琶湖は、空が大きい。11時に近江八幡着。手漕ぎの和船、一隻貸切で約9千円也。
はじめて舟に乗る子を乗せて、和船は橋のたもとの狭い水路をそろそろと進む。船頭のMさんはまだ50歳代だろうか。髭面の一見野性味ある顔立ちだが、目がやさしい。「70歳以上の人たちはもう小さい頃から舟を操っているんです。私らの年齢の者は途中から習い始めた新米です」 数年前に和船に乗って舟を自在に操る船頭の姿に魅せられ、何度も頼み込んでやっと弟子入りが許された、と言う。狭い水路を抜けて、やがて舟は湖沼の広いよしの群生地へ出る。「広い場所は風がきついんで操縦が難しいんです。ちょっと話をとめて専念させてください」 水面のホテイオアイに今朝見つけたという紫の花が咲いている。滋賀の県鳥であるかいつむりの親鳥が茂みから顔を覗かせている。浮かんでいるペットボトルは鰻の仕掛けの目印だという。天然ものなので、数日水の中で泥を吐かせる。舟はふたたび鄙びた水路へ入る。土手沿いの桜並木。化粧板をつけた小さな橋の下。畑の上の案山子。アケビの実。幼少の頃から乗物酔いが酷くて、今回もなかば清水の舞台を飛び降りる気で乗船を共にしたわたしだが、案外なんともない。エンジンでない手漕ぎの揺れはわたしには合っているのかも知れない、とも思う。ときおり子と二人で寝そべって、ゆらりゆらりとしたその夢見心地のようなリズムを味わう。たしかにこの風情は贅沢だ。川面を渡る風は心地よく、なかば開いた目の上を雲が揺らいで流れていく。ときによしの葉ががさがさと舟に当たる、その音も心地よい。だがインドでリクシャ(人力車)に乗ったときのような一抹の後ろめたさが拭いきれないわたしは、所詮殿様にはなりきれないのかも知れない。台風みやげの南風と格闘する船頭のMさんはもう汗まみれだ。すでに後からやってきたベテランの船頭氏の舟に先を越されてしまった。「ベテランの人たちは一回の時間も早いから休憩もゆっくりとれる。私らのような下手糞はのろのろ走って、着いたらまた休む間もなく順番がきてしまう」 今回も昼の弁当を半分食べたところで「それ、行ってこい」と尻を叩かれた。「弁当を半分しか食べてないので馬力が出ない」と苦笑するMさんは、しかしどこか憎めない。「私らはゆっくり行ってくれて得した気分ですよ」と義母がねぎらいに声をかけるが、それも何やらおかしな具合だ。小一時間も走って、元の狭い水路に帰ってきたあたりで、戻る舟とこれから出る舟とがつまり気味に交錯して、ぶつかりそうになる。「危ないじゃないか。舟の横腹を見せちゃ絶対にだめだ」 気の短そうな太っちょのベテラン船頭氏がすれ違い様にMさんに大きな声で怒鳴る。すんません、すんません、とMさんは平身低頭、ひたすら恐縮するばかりだ。続いて先ほど抜かしていった別のベテランの船頭氏が太っちょのあとから、まあ気にするな、といった笑顔で通り過ぎる。橋の下の陰に舟を寄せてMさんは一息をつく。わたしたちはみな息を呑んで見守るばかりだ。櫂を竹の櫓に変えて舟をターンさせてバックで船着き場へ入っていく。「櫓はまだ馴れてないんで難しいんです」とMさんが苦しい息の間から説明してくれる。幾度か向きを立て直して、やっと走り出す。「櫂何年、櫓何年っていうものな」と義母がそっと言う。およそ1時間10分の水郷巡りが終わった。「もう何年かしたらもう少しうまくなってますんで、また来てやってください」 汗でびっしょりのMさんはそう言って笑った。縁台を並べた待合いの奥の船頭さんたちの薄暗い休憩所を覗くと、車座に茶を呑んで談笑しているベテラン船頭たちから離れた隅の方でMさんがひとりぽつねんと座っているのが見えた。「何年か後にはあの人もきっと、あの車座に加わっているさ」とわたしはYに言った。
昼食はYのリクエストで、八幡宮に近い浜ぐらという昔の土蔵を改装した店で郷土料理の定食や近江牛の丼、名物である赤コンニャクの田楽など。しずかな八幡堀でしばらく遊び、行きしなに琵琶湖畔で見かけた果樹園で梨を買い、草津の道の駅に寄って、ふたたび高速道路を経て6時半頃に奈良に帰ってきた。
いつもの家の近所の回転寿司屋で生ビールを飲み、一日運転に疲れたわたしは帰るなりごろりと畳の上に横になってそのまま眠ってしまった。MP3プレイヤーを耳にかけながら寝てしまったのだが、半覚醒の意識のどこかで聞いていたのだろう。MP3プレイヤーはいつしかジョニー・キャッシュがある刑務所の囚人たちを前にした60年代のライブを流していて、わたしは夢の中でその The Green, Green Grass Of Home を聴きながら、死んだ父親の遺体を前にして胸がしめつけられるような息苦しさで思わずふいと目が覚めた。すでに夜半で家中の者はみな眠っていて、わたしは一人起きて半覚醒のまま風呂の湯を浴びたのだった。
元祖近江八幡水郷巡り http://www.suigou-meguri.com/
茶寮浜ぐら http://www.shigaplaza.or.jp/uchide/vol35/shop/index.html
八幡堀 http://www.rmc.ne.jp/medialub/hachiman/default.html
2006.9.18
* 連休の二日目は終日、幼稚園のバザーに出品する子ども用の椅子づくり。これまで数日を費やして、やっと日が暮れる頃に完成してあとはオイルを塗るばかりだが、「いくらバザーとはいえ、これだけ手間をかけて500円とかじゃ俺はナットクできないな」とYにぼやく。材料はこれまでの作品で余った端材を使用、背もたれの部分に南紀で拾ってきた流木を用いてくさびを打っている。いくら低所得者の私でも費やした時間を日当に換算したら一万・二万はいってるだろう。せめて1500円くらいは付けて欲しいな、バザー委員のお母さま方。千円以下なら、いっそじぶんで買い戻すわ。
福島に住む友人のO 氏から子の誕生日祝いに本が届く。富安陽子・広瀬弦「空へつづく神話」(偕成社)と斉藤孝・はたこうしろう「馬の耳に念仏」(ほるぷ出版)。私の注文した「ブレヒト詩集」と「知識人とは何か」もいっしょに到着。
夜は義父母が親類宅からもらってきた猪肉で水炊き。旨かった。
2006.9.19
* 深夜帰宅。明日は子の6歳の誕生日だ。職場からYに電話をすると、もういろんな人にプレゼントをもらっているからこれ以上なにも買わなくてもいい、プレゼントがだいじなのではないから、と言う。ケーキは明日、Yが焼く。わたしは明日も早朝から深夜まで仕事だ。
義母の隣でねむっている子のはたをしのび足で過ぎ、子の机の上から色鉛筆の束をとってくる。B5のコピー用紙に書いた祝いの手紙に、シュタイナーの本にあった「夜のお祈り」という詩をたくさんの色を使って書き添えて、机の上にそっと置いた。
しのへ。
6さいのたんじょうび、おめでとう。
おとうさんから、かみさまのうたをひとつおくります。頭から足まで、
私は神さまの姿です。
胸から手まで、
私は神さまの息吹を感じます。
口を動かして話すとき、
私は神さまの意志に従います。
お母さんも、お父さんも、
すべての愛する人たちも、
動物も、花も、
木も、石も、私のまわりにあるものはすべて
神さまだということがわかるとき、
もう、何もこわいものはありません。
私が感じるのは、まわりにあるすべてのものへの愛だけです。2006.9.20
* ボブ・ディランの Modern Times は、まるでじきに死にゆく者の最後の親しき者への手紙のようだ。ミシン台の上にナイフと落ち葉が同衾しているような歌だ。もっとよい世界の姿をぼくらは思い浮かべることができるだろうか。人は誰しもやがていつかは落ち葉のように舞い落ちるものだと知っていれば、ぼくらは憎しみ合ったり殺し合ったりすることもないだろう。だれもがまるで鋼鉄の命を持っているかのように振る舞う。かつてあなたは陽気なタンブリン男や哀しいボー・ジャングルに歌いかけたけれど、いまではぼくらがあなたの歌をそんなふうに聴いてあなたに語りかけたい。あなたの歌は確かに、この世を過ぎ去りゆく者の歌だ。
2006.9.21
* 秋分の日。
朝からバイクの修理と点検。フロントフォークのカバーの交換、オイル交換、フィルター交換等々。バイクを店に置いて、近所の古本屋やホームセンターを見て回る。MP3プレーヤーでニール・ヤングの Living With War を聴きながら、午前の国道沿いに立つ。交差点をわたる。こうして歩いて移動をするのがひさしぶりで、なにやら新鮮な感じがする。古本屋で子に「赤毛のアン」と「秘密の花園」の2冊を各105円で買う。ホームセンターでLED仕様のキャンプ用ヘッドライトを買う。昼をすぎて、まだ終わりそうにないので携帯で自宅に電話をする。Mで合流。
いごっそのラーメンを食べに行くつもりだったのだが朝、子が「ニュースでやっていた黄色くて細長いものが食べたい」と言い出した。Mのフライドポテトのことで、子はテレビに映るものはみなニュースだと思っている。職場でたまに100円のシェイクを買ってきたりすることはあるが、家族でMは何年ぶりかだ。別段うまいとも思わないのでふだん行くことがない。休日の昼時でMは賑わっている。ひさしぶりでメニューがよく分からず、レジの前で逡巡する。レジの女の子がいらだちを抑えているが、メニューがレジに並ばなければ見れないのだから仕方ないね。他のレジに並んだ家族は手慣れたようにオーダーしているが、ええっとハッピーMには照り焼きはなくて、じゃあ子のミルクはこっちのセットに組み入れようか、とかあれこれ。注文を終えてやっと席につく。子がハッピーMについてくるオモチャを開けると、キティちゃんの胴体からプラスティックの櫛や髪留めが出てくる。「あれえ、アメじゃない」 「おめかしセット」をYが「アメ菓子セット」と読み違えたのだ。冗談のようだがほんとうだ。子は安っぽい櫛や髪留めをテーブルの上で転がして「タイクツだなあ、こんなの」と呟いている。パンケーキを食べ、ポテトをすこしつまんだら、もう飽きた、と言う。「おうちのサツマイモの天ぷらの方がおいしいだろ。オモチャだって、こんなのは子供だましのがらくただよ。こんどはいごっそのおじさんのおいしいラーメンを食べに行こうな」とわたしが言う。
車で帰るYと子を見送って、バイク屋へもどる。バッテリーは多少へたっていたんで充電してくれた。タイヤの窒素ガスも充填。1年間の定期点検代も含めてしめて2万円なり。フロントフォークを外す工賃がちょっと高いので仕方ない。家に帰って、ソファーですこし昼寝をする。
夕方からまた車に乗って、矢田の民俗博物館のある公園の雑木林へどんぐりを拾いにいく。秋の幼稚園のバザーに出品しなければならないノルマが各家庭2品プラスバザー委員1品。Yは親子バックをつくり、わたしは椅子をつくり、子がじぶんもなにかつくりたいと言うので、Yはどんぐりを並べた飾りフレーム(?)をつくろうかと子に提案した。それで家族で一品づつ。せいぜい2種類くらいかと思っていたが、樹の根元を目を凝らしてあるきまわればどんぐりでもけっこういろんな形のものがある。家族3人でそれぞれビニール袋を片手に、道のない林の中をめぐる。どんぐりだけでなく、松ぼっくりや木の枝やカリンの実なども拾う。子はこんな場所にくるとひどく嬉しそうだ。Mでちびたパンケーキを囓っている子よりずっといい。あちこち飛び回って、虫を見つけたり、葉っぱを手にしたり、いろんな質問をしたり、しゃべったりしている。暗くなる前にどんぐりは充分に集まった。あとで素麺の箱をばらしてわたしがフレームをつくり、それに子が木工ボンドでどんぐりを並べていく。
帰りに近所のショッピングセンターに寄って夕飯のおかずを買う。サーモンの刺身と、子は蛸の唐揚げと。食事を済まし、風呂に入り、歩き疲れたのか、寝床で本をしばらく読むと子はじきに眠ってしまった。ソファーの前に子のチャーチ・チェアをテーブル代わりにして、ワインを開け、カマンベールのチーズをつまみながら、ひさしぶりに夫婦水入らずでテレビを見る。「しばらくテレビも見ていないと(出ているタレントは)知らない顔ばっかりだなあ」とわたしが言う。「日本人が選ぶ美女100人」とかの番組で、キュリー夫人とかクレオパトラとか岡田有希子とか夏目雅子とかがあれこれ出てきて、そのショートストーリーに視聴者は悲喜こもごも、つぎの瞬間にはもう忘れてる。まあともかくそんなのをしばらく眺めて、あとはヒミツじゃ。
2006.9.23
* 日曜。交通隊で車の誘導。いちおう館内の(名前だけの)責任者なのだが、外で車を捌くのも好きなので趣味で月に一度くらい、交通隊長のTさんに頼んで入れてもらう。駐車場の状況に応じて分岐点で振り分ける。「7割スロープで」とか無線で指示が入る。無理な誘導をすると「行きたくないところへ行かされた」なぞとクレームが入るので、基本的に行きたい人は好きな方へ行かせて、それ以外のどっちでもいい人をうまく誘って調整するわけだ。車に乗ってくる人は分からないかも知れないけれど、この時間にこっちを埋めておいて帰りが詰まらないようにするとか、出庫のピークのときは導線が重ならないようにこっちを閉鎖してあすこの入口に来る車を別の入り口へ流してとか、結構綿密に考えているのだよ。陽差しがまだ強い。一日立っていたら、鼻のあたりが日焼けした。交通隊は夜の7時あがりなので、帰ってまだ起きている子どもの顔を見れるのも魅力だ。
フードコートのある店でトラブルがあった。そこは渡される熱い鉄板のトレイ上でしばらく肉を焼いてから食べるスタイルなのだが、ある子ども連れの父親が「こんな焼けてない肉を食わすのか」と店に詰め寄った。待っている他の客にも「こんな店のものなど食わずに帰れ」と言い、「おまえこそ帰れ」と言い返されてもみ合いになった。後方で店長や関係者から説明を受けたがナットクがいかず、「どんなひどいものか病院で証明してやるから救急車を呼べ」と言い出し、救急車が要請された。男性はもう冷めかけている鉄板のトレイを持ってひとり救急車へ乗り込んだ。小さな子どもを抱えた奥さんはその間ずっと、他人の振りをしていたらしい。その後、男性は病院で胃腸薬をもらって帰されたそうだ。料理の方は事務所の某氏がタクシーで鄭重にお持ち帰りあそばせ、ゴミ庫で処分された。
2006.9.24
* 「身体障害者」ということばのひびきは、やっぱりどこか嫌だな。「ハンディ・キャップ」というのも馴染めない。わたしがふだん人に子のことを説明するときは「病気があるんで」とか言う。障害とかハンディとか劣性とかいうのは、ほんとにそうなんかな。雄と雌の交配によってときに遺伝子はさまざまな戯れを繰り返してきた。あるとき劣性であった生物が環境の変化によって優勢となる。あるいはコピー上のちょっとしたミステイクが危うい種の存続につながることもあった。母の体内で身体組織を形成する過程で、何らかのトラブルによってできるはずのない場所に脂肪のかたまりができて神経を巻き込んだ。その影響で排泄のコントロールができない、うまく足を動かすことができない。それは確かに身体的には正常でないのかも知れないけれど、存在としても「正常ではない」か。逆にいうなら「健常」とは何だろうね。身体的に正常であることが、即ち存在としても正常であることなのだろうか。「存在的障害者」というのも、(ことばはヘンかも知れないけれど、世の中には)じつはいるんじゃないのかな。階段の昇降に手すりが必要だったり道尿の道具が必要だったりというのはあるけれど、それはあくまで身体的な補助のわけで存在として劣っているわけではないのに、それが何やらごっちゃにされているような気もする。「身体障害者」ということばのひびきが嫌なのは、そこに「存在的障害者」という微かな匂いもいっしょに紛れ込んでいるような気がするからかも知れない。
とりわけ、健常であるということと暴力の関係。ぼくの経験に照らしても、健常幻想は暴力を誘引するか暴力に誘引されやすい。倒れてからは暴力の発生源には自己の健常幻想があるのではないかと考えたりしました。いまのぼくは誰かに殴られそうになっても、暴力で対抗するどころか相手の拳を避けることも走って逃げることもできない躰になってしまいました。小学生にでも突き倒されるような躰にね。倒れる以前は、少々の喧嘩ならだれであれ簡単に負ける気がしなかったものですが。そんな身体的な自信・・・過信ですね・・・がものの考え方にも大なり小なり影響していたようです。ぼくはポレミクというよりかなり暴力的だったし、事実暴力にどこか惹かれてもいました。いまでも拳措のどこかにややその名残がありますが・・・。でも、実際の話、この躰ではミニチュア・ダックフントにでも、いや、ハムスターにさえ喧嘩したら負けそうです。この否応ない劣性の自覚は大きい。大袈裟にいえば、いままで生きていて最も大きい思想的(あるいは詩的)変化が起きているともいえます。それがどんな変化かはうまくいえませんが、多分、悪い変化ではないと思います。他者を制するということを、たとえどんな形であれ前提としなくなりましたから。制したい、制することができる、と思わないのは断然よいことのような気がします。
辺見庸「自分自身への審問」(毎日新聞社)
かつてドサ回りのボクサーのような油断ならぬ目つきで山谷のドヤ街を歩き回っていた不屈の作家が脳卒中で倒れ、儘ならぬ身体を病院のベッドに横たえて反芻することばの連なりは、まるで都市の暗渠にへばりついた山椒魚の思想のようにどこか不思議な仄暗さと輝きの両方を放っているように思える。「この否応ない劣性の自覚」と記す作家のことばに接したとき、わたしはあたらしいことばを聴いたように思ったのだった。辺見庸の「自分自身への審問」はどこかディランの Modern Times のサウンドの持つ、のっぴきならなさと温もりに似ているなあ。
寮さんから子に本が数冊届いた。コリーン・キャロル「子どものための美術入門シリーズ」(くもん出版)から「水や光」「風や雪」「働く人」の3冊、児島なおみ「アルファベット絵本」(偕成社)、ながたはるみ「植物あそび」(福音館書店)、ピーター・コリントン「トゥース・フェアリー」(BL出版)。いつも、たくさん頂いてばかりで恐縮する。寝床でさっそく子と「トゥース・フェアリー」を眺めて(というのも字のない絵本なので)、そういえば子どもの頃たしかに乳歯を家の屋根に投げたことがあったと思い出した。で、こんなサイトも眺めたり。
世界の歯の話 http://www.mypress.jp/v2_writers/hirosan/story/?story_id=1250156
日本の歯の話 http://www2u.biglobe.ne.jp/~kanban/hanasi.html#hanasi
奈良女児殺害事件の小林薫被告に死刑判決。
2006.9.26
* 夜勤明けに千円カットの散髪屋に寄った。職場の同僚に倣って1ミリの刈り上げにしてもらった。剃髪の僧、というには気品がない。何やら悩めるオウム信徒の残党か生殺しの死刑囚のごとき風貌になった。いまは愛する娘オンリーでどんな美女が目の前を通っても関心なしだから、髪型など今更どんなでもよいのだよ。手間のかからぬのがよい。そういえば実家にこもっていた20代のある時期、深夜に酔っ払ってハサミでじぶんの髪を出鱈目に切り落としたことがあった。翌朝、部屋の戸を開けた母が見て、とうとう気が触れたかと悲しんだ。意識のどこか深い部分で、もう誰にも見られたくないという思いがあって、そんなことをさせたのかも知れない。散髪屋の鏡の前で涼しくなった頭を撫でながら、ふいとそんな昔のことを思い出した。「落髪」という行為は、どこか「脱落」と重なっているのかも知れないな。
Yのバザーの手伝いでちまちまと忙しい。エクセルやワードの手ほどきをして、貼り付けるイラスト画像を用意して、メール送信のあれこれを教え、子とYとで制作予定のどんぐりの飾りフレームをやっと仕上げた。仕切り板を交差させる嵌め込みの溝のカットで思案の末、ルーターを作業台に逆さに固定して4ミリのストレートビットを用いたのだが、案外うまくいった。そのうち自作のルーター台でも制作しようか。Yも連日の打ち合わせで疲れが溜まっているようだ。わたしも昼夜のリズムの逆転で些少とも短気になっていて、疲れているYに要らぬ追い打ちをかけたりする。
昨日は夜勤明けで昼に帰って、サテ飯を喰って寝ようかというときに幼稚園から電話が入った。子に発熱あり迎えに来て欲しいと。いつもの小児科が休診でたまたま行った病院の医師が二分脊椎に詳しい先生で、尿検査をしてくれ、尿中の白血球が多い、軽い尿感染を起こしているのかも知れないと薬を処方してくれた。最近、3時間毎の道尿でも間に合わず、ときおり尿漏れをしてしまうのはそれと関係しているのかも知れないなぞとYと話す。
夜。食欲がないからというYを置いて子と二人、車で近所の回転寿司屋へ夕食を喰いに行く。カーステで子がジブリ映画のサントラをかける。加藤登紀子の「時には昔の話を」が流れる。口ずさむわたしを「おとうさん、黙って聴いていて」と子が制する。中間のストリングスの間奏。「ここは“がんばらなきゃ”って感じのとこだね」と子が言う。わたしはハンドルを握りながら思わず子の顔を見返す。
子がいなかったらいまごろわたしは何をしているだろうか。何もしていない。
2006.9.29
* 最近、Catwalk さんにおしえていただいたこの歌は、まぼろしについて歌っている。どんなまぼろしかというと、ひとはいつも追放する側にいるが、いつでも追放される側に容易に転落しうるというまぼろしだ。それらがすべてまぼろしであると気づいたときに、ひとはほんとうの意味でのじぶんになれる。はじめてじぶんの足で歩き出す。これはそんなまぼろしについての、優しさに溢れた歌だ。
誰もいないでこぼこ道を歩いてく
空の水筒もこんなに重いと思うのに
俺の背中にこだまする
人々のあの歌が
喜びの歌じゃない
追放のあの歌昨日は俺も一緒に歌ってた
俺の背中にこだまする
人々のあの歌が
喜びの歌じゃない
追放のあの歌昨日は俺も一緒に歌ってた
こんなに暗く長い道の真ん中で
開けてしまった缶詰をまた眺め
救われたと信じても
煙草のけむりが教えてる
休みの国はまだ遠い
静けさなんて無いんだとまた聞こえてる 遠い追放の歌
「追放の歌」休みの国
休みの国 公式サイト http://www.yasuminokuni.com/index.html
◇(Catwalk さんのサイト)
ねこのクラフトとアクセサリー http://www.ric.hi-ho.ne.jp/cat-harp/
Sentimental Journey http://www.ric.hi-ho.ne.jp/cat-harp/others2/0414.html
2006.10.1
* 1. ○○せんせいへ ○○せんせい、○○せんせいがいなくなってかなしいけど、いつもうんどうかいのれんしゅう、がんばってるよ。ねんちょうさんのおどりは、「ソーランブシ」だよ。わたしのかかりはね。えーとね。このてがみをつづけたらきっとわかるよ。○○せんせい、どんな人とけっこんするの? しなもんはすき? ○○せんせいはどんなどうぶつがすきなの? じゃてがみをつづけるね。
2. ○○せんせい、わたしのかかりは「まいくほうそう」だよ。わたしがゆうのは「プログラム14ばん ねんしょうぐみの[おやこきょうぎ][はっしゃおーらい]です。おうちのひとと、きしゃになってはしります。みんなでおうえんしてください」だよ。ここからインタビュー。○○せんせいのすきなたべものはなあに? すきないしはなあに? すきなどうぶつはなあに? すきなむしはなあに? すきなテレビはなあに? じゃあねまたね。(ー☆ しのより ☆ー)
3. ○○せんせい うんどうかいきてね。◇◇せんせいも、つれてきてね。ぽいってしちゃだめよ。ちゃんとおててつないできてね。ほらこのうたあるじゃん。ゆうやけこやけで日がくれてー やーまのおてらのかねがなーる おーててつないでみなかえろー からすといっしょにかえりましょーってうた、しってるでしょ。ちゃんとおててつないで からすといっしょにきてね。からすがこなくてもいいから、ちゃんとぽいってしないでおててつないできてね。
2006.10.2
* Festival Express。カナダの大地を経巡る横断列車のなかで、死んだリック・ダンコが The Basement Tape の中の古い伝承曲 Ain't No More Cane を酔っぱらい(そして明らかにハイになり)、ひどく間延びした幸福なリズムで歌っていた。(こどものようなくすくす笑いのなかで) その横で同じくらい酩酊したジャニス・ジョプリンがコーラスのパートを唱和し、二人はまるで草むらの中に隠れた姉弟が性的な悪戯を愉しんでいるようにも見えた。Ain't no more cane on the Brazos. Oh, oh, oh, oh... It's all been ground down to molasses. Oh, oh- oh, oh- oh... 深夜、廃墟のテクノポリスのような人気ない高速道路のインター沿い。仕事帰りの疾走するバイクの上でそのフレーズを大声で歌ってみたら、何やら名状しがたい巨大な感情の波が襲ってきた。リック・ダンコもジャニスもそしてこのぼくも、まるで死んだ子どもの幽霊が歌っているようだ。
晩年のつつましくも美しい、ある短い詩の中でブレヒトはツグミの歌について記している。
慈善病院の白い病室で私が
朝ちかく目をさまし、ツグミのなくのを
聞いて、まえよりもよくそれがわかった
すでに久しく私に死の恐怖はなかった
私自身がいなくなったとしたところで私には
なにものもなくなりはしないだろうから
今、私には出来た
私のいないあとのツグミの歌をも
ことごとくよろこぶことがブレヒト「慈善病院の白い病室で私が」(長谷川四郎訳)
今朝、新聞を開くと、小学校の教室の天井に自転車の荷台用の紐をかけ首を吊って死んだ12歳の女の子の遺書が載っていた。
学校のみんなへ。
この手紙を読んでいるということは私が死んだと言うことでしょう。私は、この学校や生とのことがとてもいやになりました。それは、3年生のころからです。なぜか私の周りにだけ人がいないんです。5年生になって人から「キモイ」と言われてとてもつらくなりました。
6年生になって私がチクリだったのか差べつされるようになりました。それがだんだんエスカレートしました。一時はおさまったのですが、周りの人が私をさけているような冷たいような気がしました。何度か自殺も考えました。
でもこわくてできませんでした。
でも今私はけっしんしました。(朝日新聞 2006年10月3日付)
どちらも、じぶんがいなくなったのちの世界に思いを巡らせているが、ふたつの言葉のこのあまりに大きすぎる隔たりを埋める言葉は、いったいどこにあるか。
リック・ダンコもジャニスもそしてこのぼくも、まるで死んだ子どもの幽霊が歌っているようだ。名状しがたい大波に溺れかけ錐揉みしながら、それを忘れたようなふりをして間延びした幸福なリズムで歌うのだ。
2006.10.3
* 早朝5時。目覚めのコーヒーを呑み終えて、某所へ自転車をもらいにいく。防犯登録もなく、長期の放置で回収されて一年間経ったものだ。ナショナルのオーソドックなタイプで、見た目は新品同様だ。ほとんど錆も見当たらないのはアルミ製のフレームのせいか。そんなふうに何十台と溜まった自転車をときおり、処分業者に持っていってもらう。処分代、1台1500円。自転車なんて乗り捨てなんだな。いまでは格安で売っているから、また新しいのを買い換えたらいいさ。だから少年たちは友だちの後ろにまたがりやってきて、駐輪場で適当なブツを物色して持ち帰っていく。処分された自転車はアジアかアフリカのどこかの国へでも行って、貧しさの中で精一杯働いているごつごつした手を持つ人たちの尻を乗せて走るのかな。前に持っていた自転車は酒造りの手伝いをしていたとき、山陰から来た杜氏の親父さんが近くのゴミ捨て場から拾ってきたのを譲り受けたものだ。駅前の駐輪禁止区画に停めていたのを撤去されて、引き取り代が3千円というのでもらいに行かなかった。後部座席と助手席をすこし倒したら、何とか車に積めた。明るくなり始めた京奈和道の上を自転車を積んで疾走する。二上山や矢田丘陵が遠く雨にうっすらと煙っている。まるで熊野の山々を駆けめぐる天上のハイウエイのようだ。カーステからディランの“Workingman's Blues #2”が流れてくる。この曲は「かつてのまっとうな世界をすこしばかり思い起こしてみようよ」といった歌だ。そんな歌詞はないのかも知れないが、そんな感情を歌っている。車やバイクは速すぎるのかも知れない。世界中を駆けめぐる情報のすべてを手にしようなんて無理な話だし、お腹をこわしてしまう。
2006.10.6
* やけに風の強かった月曜のあの朝、私はいったい何にたまげたのだろう。十年後のいまでも時折反芻するのは、糸の切れたマリオネットのように、ゆっくりと通路に崩れ落ちるサリン被害者たちのむごい姿では必ずしもない。倒れた人々を助けるでなく、まるで線路の枕木でも跨ぐようにしながら、一分でも職場に遅れまいと無表情で改札口を目指す圧倒的多数の通勤者たち。目蓋に焼きついているのは、彼ら彼女たちの異様なまでの「生真面目さ」なのである。
偶然あの日、地下鉄日比谷線神谷町駅構内の現場に居合わせた辺見庸は、10年前に間近で見た光景を思い起こしながら次のように書く。
・・・だが、誓っていう。当初の現場にはマスコミが報じたような「パニック」などなかったのだ。不可思議な「秩序」のみが存在したのである。通勤者も、駅員も、遅れて駆けつけた記者らも、じつに生真面目だった。ただし、それぞれの職分のみに。
その後、サリン事件公判を幾たびか傍聴して、つらつら思った。語るだに恐ろしいけれども、あの朝の生真面目さの隊列には、通勤者や記者らとともに、じつのところサリン製造者や散布者らも象徴的には連なるのではないか。加害者たちは決して尋常ならざる「反逆者」だったのではなく、大方の通勤者、記者、警察官同様に、心優しき「服従者」にすぎなかったのではないか。あるいは、指示者に忠実な「被指示者」たちだっただけだ。そこには言葉の優れた意味で自由な「私」は一人としていなかったのである。
辺見庸「自分自身への審問」(「鬼畜」対「良民」だったのか---サリン現場十年目の回顧)毎日新聞社
病者が病んだ世界を描けば、それは「まっとうな」文脈になるのだろう。わずかに訝んだ猜疑も予め誂えられたそのテキストの中で補正される。わたしたちはそれをテレビで見る。「鬼畜」と「良民」の光景として。であるならば、この国であの事件をまっとうに論じられる者はほとんど皆無だということになる。
“言葉の優れた意味で自由な「私」” わたしたちひとりひとりが、胸に手を当てて問うてみるしかあるまい。“言葉の優れた意味で自由な「私」”はわたしたちの内に存在するか。わたしたちは「良民」なのか「鬼畜」なのか。あるいは、そのどちらでもあるのか。
2006.10.9
* 運動会。紙をまるめた“メロンパン”をラケットに乗せて走る親子リレー。子は走りかけては“メロンパン”をこぼし、走りかけては“メロンパン”をこぼし、いくども懸命にそれを拾い、また走りかけては“メロンパン”をこぼした。二巡目にしてはやくも大差がついた。おなじ水色の鉢巻きを頭に巻いてラインの上で彼女を待つわたしは呆然と立ち続けた。喉から悲鳴が飛び出しそうだった。観覧席でYもわたしの妹も泣いていた。それから帰り道で店の駐車場からめくらのようにバックで飛び出してきた車とあやうくぶつかりかけ、わたしは車を飛び出していって運転席の気の弱そうなおばちゃんをぼろ糞に怒鳴りつけた。それからYとつまらない諍いをして自室のふすまを閉め不貞寝をした。暗闇のなかで目をあけて、MP3プレイヤーの音楽を聴いているうちに眠ってしまった。
・・逆に日々の生活のなかで これは夢だ とくりかえしじぶんにいいきかせる チベット仏教の技法がある
この夢のなかで眠れば 夢のなかの夢では 手をみつめることによって それが夢であることを確認し 手のうごきを現実のものとすることができるようになる と言われている高橋悠治・音の静寂 静寂の音 (平凡社)
1968年1月、カリフォルニア州にある州立フォルサム刑務所でジョニー・キャッシュの歌う Green, Green Grass Of Home を聴いた死刑囚の思い描いた“故郷”とは、そのようなものだったかも知れない。
2006.10.14
* 日曜。仕事。アマゾンから神坂次郎「藤原定家の熊野御幸」 (角川文庫)が届く。
月曜。職場の4人で天川のログハウスを借りて日帰りのバーベキュー。TさんとYさん、二人で日本酒二升を空け泥酔昏睡する。温泉に浸り、夜中に帰ってくる。
火曜。朝からスタンドで洗車とオイル交換。頂戴した自転車の鍵をベランダで壊す。義父と駅へ帰りの切符の購入。夕方、近くの土手の上の道で子の自転車の練習につきあう。
水曜。仕事。運動会より泊まっていた義父母、帰る。
木曜。朝から車で大阪の病院。整形外科の診察。脳神経外科Y先生に校区外申請のための診断書を書き直して頂く。平城京跡でおにぎりを食べ、そのまま某大学付属小学校にて願書の提出。夕方、土手の上で子の自転車の練習。
2006.10.19
* 運動会の開会式が終わり、勢揃いした子供たちは軽やかな音楽にのってスキップをしながら運動場を駆けめぐる。少しづつ遅れていった子はいつか年下のクラスのなかに混じり、立ち止まり、苦しそうな息を吐いて顔をゆがめ、手の甲で額の汗を拭った。靴はギブスのときにつくった重たいものだ。おまけに手術後のいまの装具は踵が固定されている。重しをつけて走るようなものだ。そのあとしばらくして車の中で導尿をしたとき、子は母に「みんなが見ている前で、走るのが遅いから嫌だ」と言った。母は泣きながら戻ってきた。それから例の親子競技があった。不自由な足で走ることだけでも神経を使うのに、同時にラケットを平行に保ちながら走るなど土台無理な話だ。紙でまるめた偽物のメロンパンは、まるでそれが使命であるかのように何度も転がり落ちた。たまりかねてバスの運転手のKさんが子に手を添えて走ってくれた。わたしはじぶんの順番が終わってからも、親たちの列から離れて子のそばにいた。「気にするな。それ、走っている他の子を応援しろ」と発破をかけた。年少や年中のときはそれほど目立たなかった。年長にもなるとそろそろ差異が露わになってくる。跳び箱はまったく跳べない。平均台もそばについている役員のお母さんに手を添えてもらう。黒の半被にたすきをかけたソーラン節の踊りは長いポニーテールがいかしていた。懸命に踊った。マイク放送の係の前に担任のO先生が子を探していた。車の中で導尿をしていた子を抱えて本部席まで走った。最後の馬上立ちの頃にはいつもの笑顔を取り戻していた。この競技のときだけは下で踏まれる子の負担を考えて装具を外し、みなとおなじ上履きを履いた。いちどだけ脱げたけれど、落ち着いて履き直した。体操のY先生がうまく合図を遅らせてくれた。先生の手に添えられて三人と二人の頂にも無事のぼった。その日は撮ったビデオも見たくないと言った。でも二日後の夜にはおばあちゃんの膝の上で愉しそうに見た。
いつか子と二人だけで回転寿司屋へ夕食を食べに行ったとき、出てきた店の片隅で駆けっこの練習をしたいと子が言った。10メートルもないアスファルトの上を子は幾度も懸命に走った。わたしのカウントはどんどん少なくなっていった。もちろん少しづつ遅らせていったのだけれども。どんどん早くなるね、と子は愉しげに叫んだ。すぐそばの夜の国道沿いを車が風のように通り過ぎていった。そんな夜の光景は無惨にもうち砕かれてしまった。運動会の合間に幼稚園の先生たちは子に「遅いとか早いとかは関係ないんだよ。愉しく走ればいいんだよ」と声をかけた。一方で「遅い早いは関係ない」と言いながら、一方で順位を決めるのは詐欺ではないかと運動会当日の夜にわたしは思ったものだが、おそらくはそういうことではないのだろう。要は子がこれから現実をいかに受け入れて、できないことがすべてではないと踏ん切り、誇りをもてるじぶんの居場所を見つけ出すこと。そのために親が子にどれだけ心を砕いてきたか、つねにじぶんの味方であったと子が知り、理解してくれるような親であること。結果ではなく、共に悩み、歩んできたその経過に。
運動会から数日後。子は自転車の練習をしたいと言い出した。近所のJチャンから「コマ(補助輪)なしで乗れる」と自慢されたのが癪にさわったのだ。だいぶ昔に義父母が買ってくれた補助輪付きの自転車はほとんど乗らないまま埃をかぶっていた。ペダルの上を足が滑って容易に回せなかったのだ。思えばそんなこともあって、わたしもYも無意識にか、戸外の運動より家で本を読んだり絵を描いたり工作をしたりすることを選ばせていたのかも知れない。駐輪場の奥から何ヶ月ぶりかで自転車を引っ張り出して、Yが汚れを拭き取り、わたしが空気を入れ直した。夕方、近くの土手の上で練習をした。ブレーキの使い方や、足の置き方、回し方、ほんとうの初歩から改めて教えて子はたちまち、そこそこまで走れるようになった。風が当たってとても気持ちがいい、と言って愉しげに何度も走る。わたしは携帯で家に電話をかける。「北のベランダから土手の上を見てご覧よ」 夕飯の支度をしていたYと義母がベランダに小さな頭を出して「すごいじゃない」と受話器の向こうで喚声をあげている。薄暮の迫る土手の上。川面をコウモリが飛び交っている。このままこうしていつまでも、比較のない世界でわたしと子と二人だけで、ずっといられたらいいのに。
2006.10.21
* ある心ある人より膨大なディランの海賊音源を頂いた。1967年、Basement Tapes の Outtakes。Spanish Is The Loving Tongue をディランは幾度か歌っている。公式アルバム「ディラン」に収められたそつのない演奏。同じ頃のソロ・ピアノだけのひどくさみしげな演奏。70年代、ローリング・サンダーのライブでも軽快なアコースティックの弾き語りで歌っている。けれどデビュー前のザ・バンドの面々と偉大な地下室“ビッグ・ピンク”にこもって演奏されたこのゆったりとしたリズムを刻むテイクが、この曲の持つコアな魅力に迫っていていちばん秀逸だ。こういう理由のない、それでいて得も言われぬ“さみしさ”というのは、あるんだな。存在本来の“さみしさ”とでも言おうか。咽喉の奥にぞくぞくと迫ってきて、思わずすべてを吐き出して消滅してしまいそうになる。これもまた心ある別の人より頂いたクアン・ドゥック師の焼身供養のフィルムを家人の眠っている今夜こそ見ようかと思ったが、そのまま夜の果てへ飛び出していきかねないとも思い、Spanish Is The Loving Tongue を阿呆のようにひたすら聴き続けている。だが歌の先に炎に包まれた僧侶の躯体がゆっくりと崩れ去る光景が見えてくるのだ。
2006.10.21 深夜
* 藤原定家が見たという、中世の補陀洛山寺のほの暗い本堂の隅の、大輪の蓮華も半ば落剥した難破した渡海舟の舟板の残滓を見てみたい。柳田国男が「山の人生」で記していた、餓えから救うためにわが子の首を鉈で切り落とした山人の見た暗く美しい夕陽を見てみたい。炎に包まれて崩れ落ちる僧侶のまなじりが最後にとらえたこの世の景色を覗いてみたい。
2006.10.22
* 今日は夜勤。朝、子をバス停で送り、Jちゃんちのママ・チャリがパンクしたらしいと言うので、10時に駅で待ち合わせをしているJちゃんのお母さんにわたしの自転車を貸して、駐輪場でバケツや修理キットを並べた。チューブに異常はなく、空気を入れ直した。Yは昼過ぎまでバザーの打ち合わせだ。家に戻って居間でNHKの「映像の世紀 第9集 ベトナムの衝撃」を見た。クアン・ドゥック師の映像はすぐに現れた。ほんの一瞬だ。ぼくらの生が大海の砂のひと粒であるように。結跏趺坐した黒焦げの上半身が、炎のなかでか細い両の腕をあげていた。まるでこれから大空へ飛翔するかのようだ。燃えながら万歳をしているようだ。やがて上半身はぐらりと左へ傾いだ。映像はそこで終わった。それからぼくはベトナム戦争終結までの長い憂鬱な映像を眺め続けた。むかし小学生の頃に、近くの出張所の図書室にあった歴史の本が天井まで積まれた狭く薄暗い小部屋で感じた、息のつまるような精神の重たさとそれは似ていた。受けとめることだけで精一杯で、身体の奥に流れ込んだ酸のような液体が内部をじわじわと溶かしていくのをじっと耐えているしかできないようなことがある。
黒こげの焼死体から、うっすらと湯気がたち昇っていく。血や、体液が気化しかかっているのだ。今朝いよいよ発つという、まぎわまで読みつづけていた法花経も、万巻の書物も、父母も、友も、幼なじみも、自分らしさを裏づけするはずの日々の記憶も、あっけなく消えていくだけなのか。燃えあがる図書館のようにすべてが滅び、炭酸カルシウムが残るだけか。蜜と灰か。ほんとうに、それだけなのかと私はまた、性懲りもなく自問する。脳裡に浮上した思いや、これだけは疑いようもなく、ぎりぎりあると思える意識のさざ波が、いつか人類の阿頼耶識(アラヤーシキ)となりうるのか。
宮内勝典「焼身」集英社
2006.10.23
* 夢を見た。わたしは狭苦しい書棚に挟まれた部屋の中にいる。すわって、じぶんが編んだ小冊子の原稿をぱらぱらとめくりながら「ここに○○さんの詩が加わったらなあ」と呟いている。○○というのは、高名な朝鮮の亡命詩人だ。「○○ならおれが知っている。何とか話をつけてやろう」とかたわらにいた一人の男が、原稿を覗き込みながら言う。髪はざんばらで、くたびれた着物を着て、「陽炎座」に出てくる原田芳雄のようだ。場面は変わって、わたしは○○の隠れ家であるぼろアパートの二階の一室にいる。○○はさきほどわたしといっしょにいた男であった。いままで素性を隠していたのだ。部屋は家具もほとんどない殺風景な6畳ほどの和室で、二面に大きな窓があり、○○ともう一人の小柄な連れの男がときおり窓下を覗いている。擦り切れた畳の上に日溜まりが落ちている。ちょうど昼時で、○○はちゃぶ台の上の大きな皿に盛った茹でたてのそばを喰っていけ、とわたしに勧めてくれる。わたしは(潜伏中の)乏しいかれらの食料を食べるのは申し訳ないと思い、鄭重にそれを断る。そうか、とわたしの気遣いを喜んだように○○と連れの男は遠慮なく皿のそばを頬張り始める。部屋にはもうひとり、質素な服を着た中学生くらいの痩せた女の子がもの静かに座っている。○○の子なのか別の同志から預かっている子どもなのかは分からない。わたしはその子にご馳走するつもりで、二人でどこかへ食べに行こうか、と誘う。○○が「大きなデパートなどは危険だから行かない方がいい」と言う。「この近くのごみごみとした下町の店が安全だ」と連れの男も言う。わたしはじぶんが反体制の側にいるのだとはじめて気づき、軽い緊張を覚える。
2006.10.25
* 休日。豆パン屋で買った昼食をもって明日香村稲渕へ棚田の案山子を見にいく。もっと賑わっているかと思ったら、拍子抜けするほど人の姿はなかった。雲がかかりうっすらと肌寒かったけれど、刈り入れを終えた鄙びた田圃道を奇抜な案山子たちを眺めながら歩き、畦にシートを敷いてお昼を食べた。地元のお婆さんから人参葉や漬け物などを買って帰った。案山子は11月19日まで。
かかしロード http://www.asukamura.jp/topics/kakashi/index.html
2006.10.28
* 新聞で雇用問題の記事をよく見かけるようになった。景気は回復してきたが不安定な雇用が一向に減らない、というものだ。ある記事によれば一家の大黒柱の3人に1人は正社員ではないらしい。現在、2006年10月○○日の午前4時41分。夜勤の現場でこれを書いているわたしもその「3人に1人」の内に含まれる。試みに、この愚かな「パート大黒柱」の雇用状況を(お恥ずかしい内容だが)披露しよう。まず勤務時間。24時間の常駐施設警備員として働いているわたしと同僚たちは5つのパターンによって働いている。日勤が3種、夜勤が2種で、前者は12〜14.5時間、後者は13乃至13.5時間の、それぞれ長時間労働だ。これらのピースをだいたい月半ば頃からみなで話し合い、組み合わせて翌月の出勤予定パズルをつくる。じぶんたちで自由に組めるというのは、かなりいい。こどもの運動会や法事や町内会の行事や競馬の人気レース日など、たいてい希望する日に休みがとれる。もちろん他の人と調整し合ってだが、年に一度くらいなら1週間の休みだって組める。時給は850円(夜勤も同じで、残業手当等はない)。これは3年前から変わらないし、今後も上がる可能性は少ない。クライアントとの契約が時間単価1300円だから、会社の取り分も結構ぎりぎりだろうというのが現場のわたしたちの哀しい共通認識である。警備業界は低価格のバナナの投げ売り競争だ。賞与はない。寸志さえない。その代わりといっては何だが、有給は労働基準法の規定どおり取得し、フルに使っている。ちなみにこれはうちの会社ではわたしたちのいる現場だけで、クライアントの評価を背に上役に直訴・交渉してみなで勝ち取ったものだ。(おそらく)たいていの警備員は労働基準法などとは無縁の状況下で働いている。契約もこれまで1年毎の更新だったが(たいていの現場はそうだ。トラブルがあればすぐにも契約は破棄される)、おなじ理由から今年から自動更新にしてもらえた。責任者の手当ても、当初は何もなかったのだが、しばらく前から1日700円を付けてもらえるようになった。これも営業所長の独自の判断で他の現場には恐らくないだろうと思うが、館内と交通隊の各隊長・副隊長(500円)に支給されている。他に手当ての類はない。交通費は実費支給。わたしの場合は電車・バスの公共機関で申請を出し、実際はバイクで通っているからいくらかは浮く(多くの人がそうしている)。わたしの場合、一ヶ月の労働時間は平均で275時間くらいだろうか。週に69時間。週5日で割れば1日平均14時間の労働。これに850円を掛けて、前述の手当てと交通費、それに有給を1日ほど放り込んで、およそ27万円。健康保険と厚生年金(これは途中から社会保険に入れてもらっている)・雇用保険を差し引いて24万円弱くらい(所得税はわが家の場合、子の障害者手帳とのからみがあるのでここでは省く)。長時間勤務の現場だからこそ何とかこれだけになるが、1日8時間勤務であったらとても生活はできない。先日、荷捌き場で常駐のゴミ処理業者のYさんから聞いた話では、「ここに搬入に来ている数トン・クラスのトラックの運ちゃんらはみな、基本給16〜17万円、それに残業をして何とか二十数万といったところだ」と言う。かくいうYさん自身も、正社員だが基本給はおなじくらいで皆勤手当が4万円、年に二度の半月分の賞与を合算すれば、それでわたしたちと同じくらいだろう。これが多い額なのか少ない額なのか、正直に言うとわたしにはよく分からない。私と同世代のサラリーマンの平均年収が461万円(平均年齢42.9歳・国税庁調査)というデータがあるそうだから、それに比べればやはり、だいぶ少ないのだろう。しかし、たとえばドイツの建設現場で時給750円で働くポーランド・東欧系の派遣労働者、時給780円のパートで健康保険制度もないアメリカ・スラム街の低所得層の人々、さらに言うなら1日120円以下の稼ぎで先進国メーカーのスポーツ・ウェアを縫ったり電化製品を組み立てている「後進国」の人々(その数、世界で12億人!)はどうだろうか。年収461万円は果たして「平均」か。自慢にもならないのだが、わたしはこれまでの生涯で「ボーナス」というものをいまだかつて一度ももらったことがない。そうした「正規」の職には残念ながら就いてこなかった。20歳くらいの頃、当時バイトをしていたレコード店の社長から「20万(給料を)出すから社員にならないか」と請われたときは、「(じぶんが)そんなに貰えるものなのか」と思ったものだ。同じ頃、卒業後も懇意にしてもらっていた高校時代の担任の社会の教師から「じぶんを安売りしてはいけない」とも忠告された。わたしにはお金の価値というものが、イマイチよく分からない。わたしの妻は、それはもうすこしわたしの稼ぎが多かったらいいだろうと思っていることだろう。上等な服のひとつも買えて、一戸建ての家に住めたらいいとも思っているだろう。だが一日三食、腹いっぱい食える。家族三人が身体を寄せ合う寝床もある。テレビも冷蔵庫もパソコンもあるし、車もバイクも自転車も持っている。ときどきわたしは、まだ真新しい車を運転しているじぶんが何やらじぶんでないような奇妙な違和感を覚えることがある。ひどく贅沢なことをしているような心持ちになる。そうして費やしているものすべてがないとほんとうに生きていけないかというと、案外そうでもないないものがまだまだ結構あるような気もする。なければないで、どうにかなるのではないかという気もする。少なくともゴミの山を漁ったりなかば戦場に近い瓦礫に埋もれたような町で死と背中合わせで生きている人々に比べたら、わたしとわたしの家族は罰当たりなほどに恵まれていて幸福だ。それが、この愚かな「パート大黒柱」のひとり勝手な実感である。
Oxfam http://www.oxfam.jp/
2006.10.29
* 深夜11時過ぎに帰宅する。台所で弁当箱を洗い、ゴキブリを一匹始末する。風呂でレコード・コレクターズの The Basement Tapes 特集を読む。寝ている子のおしっこを摂り、両足に装具を付ける。発泡酒を飲みながら、ネット・ショップで子のバイオリンの練習に使うソニーのICレコーダーを注文する。はや12時半。明日もまた仕事で6時半の起床だが、こころが定まらない。要は溶けいるような詩の一編でも読んで、じぶんを取り戻してからでないと眠りに就けないのだ。
2006.10.31
* 深夜11時半に帰宅。風呂でレコード・コレクターズのボブ・ディラン特集を読む。ジョニー・キャッシュのゴスペル・アルバムが聴きたい。スタンレー・ブラザーズを聴きたい。古い素朴な裸の聖句を人が唱えるのを聴きたい。ネット・ショップでフランチェスコ会の十字架のネックレスでも買ってぶらさげてみようか。ほんとうにほんとうにぼくらはどこからやってきてどこへかえっていくのだろうか。「燃えあがる図書館のようにすべてが滅び、炭酸カルシウムが残るだけ」なのか。隣室で子が装具のマジックバンドを剥がすべりべりという音が聞こえてくる。寝ぼけまなこでわたしの手をとらえ、鼻先に運び離さない。彼女の匂いは、甘い蜜のようだ。おとといの夜は「ドリトル先生」を一章読んでから、寝床で話をした。「お父さんはたくさんの話を持っているけど、何がいい?」 彼女が選んだのは「東北のバイク旅」の話だ。恐山のイタコに死者がのりうつる話をすると「わたしは死んだおじいちゃん(わたしの父)に会いたい」と言う。湯治客の老婆たちと混浴した話を聞かせる。「そのお風呂はまだあるの?」「わたしの足も治るかなあ」と言う。埴谷雄高の「死霊」には、生まれてすぐに餓死したアフガニスタンの赤ん坊や爆弾で頭を吹き飛ばされて死んだイラクの少女たちの独白が加えられるべきだな。ああわたしたちのはかない命はほんとうに大海の砂の一粒だ。一粒の砂がそれぞれの夢を見てゆらゆらとたゆとうている。砂粒は寄り添い、また離れていく。暗い海の波間を運ばれていく。いつかの世に、わたしはまた妻や子と出逢うことができるだろうか。
2006.11.1
* 明け方、まだ外も暗い頃、玄関で着替えを済ませたYと子が話しているのが見える。何か行事でもあったか、とぼんやり思っているうちにまた眠ってしまった。しばらくして目を覚まし、朝食を食べにリビングへ行くと子が「日の出を見てきたんだよ」と言う。ラルゴというヴァイオリンの練習曲について先生が「朝日が昇ってくるときの感じ」と言ったので、早起きをして見てきたという。「こんなに真っ赤だったよ」とYのナイト・ガウンを指して言う。
さて、今日は祝日で、近くの城跡で「親子祭り」なる催しがあった。休みをとっていたのに、不覚にも風邪をひいたらしい。わたしが寝ている間、Yと子はレンタル屋で借りてきた白黒の古いヘレン・ケラーの映画を見た。(字幕だったのでYが解説をして)
深夜。眠れぬ布団の中。寝ている子の手を握りながら古謝美佐子の「黒い雨」を六度、聴く。この子の脳味噌が爆弾で割られたら、わたしはどうなるだろうかと想像してみる。古謝美佐子が米軍のトラックに轢かれ即死した父の思い出を語る「黒い雨」のライブ演奏を六度、聴く。涙がすべり落ちる。わたしが大事にしているものは小さい。ここから、撃つものがあるはずだ。
2006.11.3
* 子のおしっこを摂り終え布団に並んだYに、MP3プレイヤーのイヤホンの片方を差し出して二人で、「黒い雨」を聴いた。これを聴いていると、戦争で子を殺され親を殺されなければならなかった無数の人たちの声が、まるで地面からゆらゆらとたちのぼる瘴気のように聞こえてくるような気がして堪らなくなる。それからわたしは子の安らかな、あどけない寝顔を見る。この子が今日も一日、無事でいてくれたことが奇跡のように有り難く思う。明日もまた無事でいてくれるようにと願わずにはいられない。そう、わたしはYに言った。
2006.11.4
* 台所のテーブルの上。深夜、帰宅するとYのメモが置いてある。ひとつは「おしっことったよ」。もうひとつは「おしっことってね」。今夜は前者だった。風邪をおしての世間の三連休が終わった。明日からわたしの二連休は少しのんびりして、溜まった子の写真の整理などをしよう。湯舟の中で辺見庸の「自分自身への審問」の最終章を読む。いまのわたしには多少重たい。エンデさんの希望を語ることばを読みたいな。骨と肉が寸断されたままでなおも動こうとしている奇怪な身体がわたしたちだ。生活が信仰であり、学びが生きる術であり、真の勇気が試され、魂がすべてのものに置き換えられるような生を取り戻したい。勇気が目隠しをされ、信仰が狂信を生み、豚が平和で、魂が銀行へ消えていくような世界ではなく。わたしにできるのは深夜にYの置いたメモを読むこと。暗がりの中で子のはだけた布団をかけなおすこと。明日、子としてみたい愉しいことを考えること。ウィリー・ネルソンの歌う Just A Closer Walk With Thee を聴く。モリスンもディランもジョニー・キャッシュもこの曲を歌っていた。わたしも下手なギターを弾いてときおり歌ってみるのだ。つんのめりそうなほどに遅いテンポで、ときに背(せな)を押す何かに抗うように。
・・・つまり、すべては結局まったく無意味だとも十分主張できます。おなじように、すべてに大きな意味があるばかりか、そのような全体の意味、そのような意味の全体がもはや捉えきれないほど、「世界は超意味をもつ」[世界は意味を超えている]としかいえないほど意味があるのだとも主張できるでしょう。(中略) まったくの無意味か、すべてが有意味かという決断は、論理的に考えると、根拠のない決断です。その決断には根拠はなにもありません。いい換えると、根拠がなにもないということが、決断の根拠になるのです。この決断を下すとき、私たちは、無の深淵にさしかけられて宙吊りになっています。けれども、この決断を下すと同時に、私たちは超意味の[意味を超えた]地平にいるのです。人間は、もう論理的な法則からこの決断を下すことができません。ただ自分自身の存在の深みから、その決断を下すことができるのです。
ヴィクトール・エミール・フランクル
2006.11.5
* 1
むこうから一人の婆さんやって来た2
くうパンのない婆さんだった3
パンは軍隊がくってしまった4
婆さんドブにころげおちドブは冷たかった5
もう空腹もなくなった
6
しかるに森の小鳥ら沈黙守り
なべての枝々に静けさあり
なべての山の頂きに
さゆらぐ息づかいの気配とてなし
7
そこへやってきた検屍官の医者8
見たとおりのガンコばばあだと医者が言った9
ひとびと空腹老女を土葬に付した10
うんともすんとも婆さん言わなくなった11
医者が婆さんを笑っただけよ
12
さりながら森の小鳥ら沈黙守り
なべての枝々に静けさあり
なべての山の頂きに
さゆらぐ息づかいの気配とてなし
13
さてまた一人こっきりの男やってきた14
てんで現行法にセンスのない男15
どこか狂っとるわと男は思った16
いうなれば男は婆さんの友人だった17
人間は食うこと出来んといかん、どうかねと男は言った
18
さもあらばあれ森の小鳥ら沈黙守り
なべての枝々に静けさあり
なべての山の頂きに
さゆらぐ息づかいの気配とてなし
19
いきなり警官やってきた20
おともに棍棒くっついて21
男の後頭部ぶちのめした22
そこでこの男もまたうんともすんとも言わなくなった23
ポカリと音がしたぜと警官が言いおった
24
さるにても森の小鳥ら沈黙守り
なべての枝々に静けさあり
なべての山の頂きに
さゆらぐ息づかいの気配とてなし
25
そこへ三人のヒゲ男やって来た26
一個人の問題でこれはないのだと彼らは言った27
そう彼らは言いつづけ、とうとうズドンと銃声がした28
ウジ虫が彼らの肉をくいやぶり脚の中へ這いずりこんだ29
ヒゲ男らもまたうんともすんとも言わなくなった
30
かくても森の小鳥ら沈黙守り
なべての枝々に静けさあり
なべての山の頂きに
さゆらぐ息づかいの気配とてなし
31
おりしも男たち大勢やってきた32
軍隊に話があったからだが33
うちまくる機関銃で軍隊は話をつけた34
男たち全員うんともすんとも言わなくなった35
だけど彼らの額にはまだ一本の皺がきざまれていた
36
さもあれ森の小鳥ら沈黙守り
なべての枝々に静けさあり
なべての山の頂きに
さゆらぐ息づかいの気配とてなし
37
さてそこへでっかい赤熊やって来た38
土地の仕来りごぞんじなくて熊だもの知らなくて平気だった39
でも青二才でなくてドジもチャンもふまなかった40
森の小鳥をとってはくい、とってはくった
41
ここにおいてか小鳥らさえずりだし
なべての枝々に不安おののき
なべての山の頂きに今や
きみは感ず息づかいの気配を
ブレヒト「息づかいの礼拝式」(長谷川四郎訳・みすず書房)
2006.11.6
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