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Lost on the river / Hank Williams 1949

 

Lost on the river, dark is the night
Just like the blind, praying for sight
Drifting alone, heart filled with strife
I'm lost on the river, the river of life

Once, dear, I thought I knew the way
That was before old sad yesterday
Words that you say cut like knife
I'm lost on the river, the river of life

Out on this river where sorrow creeps
Thinking of you, and how my heart weeps
Tomorrow you'll be another man's wife
And I'm lost on the river, the river of life

 

川に迷ってしまった まっ暗な夜さ
まるで盲のように 光を請い求めている
さみしく漂い 心は葛藤に満ちている
おれは川に迷ってしまった 人生という川に

かつては、愛しい人よ、自分の道は分かっていると思っていた
あの悲しい昨日がくるまでは
きみのことばがナイフのように断ち
おれは川に迷ってしまった 人生という川に

悲しみのまといつくこの川を抜け出て
きみのことを想う この心の嘆きはいかほどか
明日になったら きみは別の男の妻になってしまう
そしておれは川に迷ってしまった 人生という川に

(まれびと訳)

 

 古い時代の歌というのは、どうしてこんなにも心に沁みるのだろう。まるで夏の日の草いきれのように、まっすぐに入ってきて、心の襞を顫わせる。失恋した男の話だ。さして目新しいものでもない。この曲を耳にしている自分がいま、おなじ状況にあるわけでもない。かつてはこんな歌ばかりだったけれど。それなのにこの歌、たった三つのコードしかない素朴な歌の何かが、自分の心をとらえて離れない。作り手もそうかも知れない。この歌をつくったハンク・ウィリアムスという男が、この曲に歌われているような体験をしたわけではなかったかも知れない。だがここにあるリアルな感情、それは真実だった。それこそが、かれにとって大事なものだった。つまり孤独で、傷つき、あてもなく何かを求めて、暗い夜の中を果てしなく漂っている、そんな感情だ。歌は地上の軛(くびき)をはなれ、夜の粒子に溶け込み、時代を超えてぼくらのもとへ届く。ずっと昔にひとりの男が、自らの胸から取り出し皿に盛って眺めた心臓を、ぼくらも共有する。この歌の底に流れているのは深い、どうしようもないほどの喪失感だ。そして己が失ったことを知っている人間は、それを知らずにいる人間よりきっと強く、優しくなれる。自分が何を求めているのか、ほんとうは心の奥底で分かっている。ハンク・ウィリアムスはこの歌で、たぶんそんなことを言っている。

 ところでぼくがいま聞いているのは、かれのオリジナルの演奏ではない。あるオムニバスのアルバムの中で、マーク・ノップラーがエミルー・ハリスのコーラスやガイ・フレッチャーのギターなどをバックに淡々と、まるで仏の前で詠嘆する僧侶の低い読経のように歌うバージョンのものだ。何故だか分からないが、今宵はこの歌が心に、腹に沁みる。つれあいと赤ん坊の眠った深夜に、そっとギターをつま弾いて、ひとり口ずんでいる。ハンク・ウィリアムスの亡霊のような、何か自分でも分からない感情に突き動かされて。ときには、そんな夜もある。

2001.11.9

 

*

 

 最近購入したアルバムを二枚、紹介したい。ジャンルで言えばどちらもアメリカのカントリー・ミュージックに属するもので、またどちらも古くて新しい音楽だ。

 先月発売された Timeless / Hank Williams (ユニバーサル UICM1016) は、ハンク・ウィリアムスの音楽を敬愛するミュージシャンたちが集ったトリビュート盤で、顔ぶれもかなり豪華な一枚。有名どころではディランの他、シェリル・クロウ、ベック、マーク・ノップラー、エミルー・ハリス、トム・ペティ、キース・リチャーズ、そしてジョニー・キャッシュなど。前述したマーク・ノップラーの Lost on the river でのいぶし銀の演奏のように、コマーシャルな派手さはないが、どの曲もひたひたと後から波のような余韻が寄せてくるような味わいがある。それぞれが自分の根っこを掘り下げて、もういちど音楽の原点と邂逅したような、そんな朴訥とした魅力に満ちあふれている。個人的には先のノップラーと共に、アルバムの最後を締めくくる御大ジョニー・キャッシュの、ほとんどが詩の朗読のような I Dreamed About Mama Last Night の演奏が、枯淡の境地で実に忘れがたい。いまアフガニスタンで狂気に取り憑かれたような蛮行を繰り返しているアメリカとは違った、ハックル・ベリィフィンやホイットマンの世界のアメリカの姿がここにある。

 もう一枚の How Great Thou Art / Willie Nelson & Bobbie Nelson (Finer Arts Records FA9605-2) は輸入盤で、これも確か前に少しだけ触れたが、ウィリー・ネルソンがゴスペルのスタンダード曲をカバーした素朴な、美しいアルバムである。バックは自身のアコースティック・ギターとピアノ、それにベースだけのシンプルな編成。クラプトンもかつてカバーした定番曲の Sweet Low, Sweet Chariot や、ヴァン・モリスンが大作 Hymns To The Silence で取り上げていた感動的な Just A Closer Walk With Thee などもある。ウィリー・ネルソンは昔から、あの独特の鼻にかかった高音がどこか馴染めずにいた部分もあるのだけれど、このアルバムはそれが少しも気にならない。イエスが産まれた馬小屋で藁屑にまみれた農夫が賛美歌を歌っているような、素朴な美しさと、敬虔でつましい感情に満ちていて、ほんとうに感動的だ。1996年のクレジットがあるが、彼がこんなアルバムを作っていたことなど私はちっとも知らなかった。宗教は、オウム真理教の事件や地球規模での対立や争いのように人間の自我を歪め肥大化させる危険も孕んでいるが、このように人の精神をほんの少しだけ高みへ持ち上げてもくれる。そう、聖アッシジが野で小鳥たちと会話したようなつましさで。

2001.11.10

 

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 ふだんは見ないのだけれどテレビの「知ってるつもり」で、たまたま山田風太郎をやっていたのを見る。「列外」を最後まで貫いた者を、列に並んでいた者たちがこぞって羨む。「軽妙洒脱」だけ面白がって、その「絶対の孤独」は遂に見ない。ランチのデザートのようにちょっとだけ囓って、またいそいそと列に戻って並ぶ。これもまた懐かしい「世間虚仮」の風景だ。「人生は余録」がかれの経で、戒名は「風々院風々風々居士」、と。余録の人生が、逆説的だが、真の人生であった。

 赤ん坊は風呂の中で笑いすぎて粗相をした。

2001.11.11

 

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 だいぶ以前に録り置きしていたビデオで、「ゴッホの遺言」と題されたNHKの番組を、夜更けにひとり見る。日本人のある画家がかれの死 (ピストル自殺) に至るまでの軌跡を追い最後に、同じ構図の庭を描いた二枚の作品にたどり着く。売れない画家の兄を金銭的に援助し続けてきたけなげな弟一家は生活に喘いでいた。兄はそれを目の当たりにする。ゴッホは自らの画家としての生活が弟テオの仕送りによってのみ成立していることを、身をもって痛感していた。同時に自分はこの地上で、絵を描くことより他に術のない不器用な人間であることも知り抜いていた。だからかれは身を引くことにしたのだ。死の床でゴッホはテオに「悲しまなくてもいい。ぼくはみんなのためにと思ってしたのだから」と言ったという。庭を描いた二枚の作品には家族の三人分のテーブル、テオ夫婦と幼いこどもの三人分の。そのやや下の方に、ゴッホは自らを黒い猫として描いている。そして二枚目の同じ絵では、猫は足跡だけを残して描かれていない。実におだやかな色調の作品だ。これがゴッホの最後の作品だろう、と日本人の画家は推理している。狂気に潰えた画家のイメージより、この方がずっとゴッホにふさわしい、とそう私も思う。

 と、これを書いていたらふいと、襖越しに赤ん坊の愉快な寝言が聞こえてきた。そっと襖の端を開けて覗き見る。つましい三人分のテーブルは、ゴッホが私たちのために描き遺してくれた。

2001.11.12

 

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 髪の伸びてきた紫乃さんは最近、つれあいが前髪をカットしてちょっとイメージが変わった。小さな子供のいない人には分からないだろうけど、NHKの教育テレビで現在放送している「あつまれ じゃんけんぽん」という人形劇に出てくるマッシュというキノコのキャラクターに似てきて、わが家では最近赤ん坊に「マッシュ」と呼びかけたりしている。ちなみにマッシュは鉢植えに植えられたキノコなので自分では歩くことができず、いつもともだちに背負ってもらって学校へ通う。頭にたくさんの胞子を生やしていて、それを飛ばすと、自分の大切な思い出を空に写し出して、みんなを幸福な気持ちにさせてくれるのだ。だからともだちは、みんなマッシュを大事にして可愛がってくれる。

 

 今日は新聞にこんな記事が載っていた。秋田県のある小学校で33歳の女性教師が授業の一環として、近くの県立農業高校からもらった食用鶏の「比内鶏」をこどもたちに飼育させた後に (こどもたちの目の前で) 解体処理して昼食のカレー用の肉にしてこどもたちに食べさせようとしたところ、予め趣旨を伝えていた一部の保護者から直前に匿名の抗議がきて、結局町の教育委員会によってストップをかけられた、というものである。こういう馬鹿な親と、それにすぐびびってしまう役人根性の大人たちがいるから、こんなマンガみたいな滑稽な騒ぎが起こる。飼育した鶏を殺して食うのが残酷なら、ふだんあんたらがこどもの食事のために日々スーパーで買ってくる豚や牛や鶏や魚たちを食うことは残酷じゃないっていうのか。生物は生きるために他の生物の命を奪わなくてはならない。おんなじことじゃないか。そんなことをしているから命の感覚が薄まって、平気で浮浪者を襲ったり、老人を「汚い」などと言ったりする子供に育っちまうんだよ。自分で生き物を殺して食うということは、今の世の中、これほど貴重で得難い経験もない。私は秋田のその女性教師を心から応援したい。これにめげずに、こんどは教育委員会の間抜けや馬鹿親どもも揃えてぜひ、校庭で牛の丸焼きバーベキュー・パーティなど企画してもらいたいものだ。上っ面だけの動物愛護精神などは、企業のCMの「地球にやさしい」とおなじくらい、食えないものだ。こんなことをしてたら、こどもたちの心を育む良い教師なんて、ちっとも育ちゃあしないね。文部大臣さん、何か言ったれよ。

2001.11.13

 

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 悄然として公園を歩いていたら、殻の割れたドングリを見つけた。なかから白い実が痛々しく覗いている。ちぇ、弱っちょろい野郎だ、踏み潰してしまえ。落ち葉に首まで埋もれて横たわり、死んだ者たちのことを考えた。昔『瀬降り物語』という映画の中で、共同体の禁忌に触れたサンカの少女が罰のために一週間、地面に掘った深い穴に埋められ首だけを地表に出して過ごすという場面があった。あの視線から眺めたら、虫たちが蠢く地表のすれすれには、無数の死者たちの魂がうようよと漂っているのが見えるのかも知れない。怖ろしいくらいに単純な生と死の実相が見える。落ち葉が汚らしく腐って微生物どもに分解されていく様が見える。飛び散った雨の泥水が地面に吸い込まれていく様が見える。おれは何をしにこの地上へ生まれ出たのか。手にしているものはほんとうに大事なものなのか。

 今夜は強いのが欲しい。いつもの焼酎に七味唐辛子をふりかけて呷ろうか。ジャニス・ジョップリンが彼女の最後のヒット曲の中で歌っている。Freedom's just another world for nothing left to lose. その歌、Me And Bobby McGee をヘッドホンで聴く。自由とはこれ以上何も失うもののない状態をいうのだ。失うものが何もないのだから、どこへ行こうと何をしようと自由だ。それが自由だ。ジャニスはそう言っている。

2001.11.14

 

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 ウンチの付いた赤ん坊のオムツを夜の風呂場で、まるで高貴な労働のように黙然と洗う。実際、私にはそれ以上の行為など存在しないのだ。

 深夜に赤ん坊の寝顔を眺めていると、実にたくさんのことが思われる。それがあまりにたくさんなので、私の残された一生をそれだけで使い切ってしまいそうなくらいだ。ともかく、簡潔に云って、私はもはや己ひとりのために生きているだけでないことを思い知らされる。幸も不幸もひとりではない、ひとりにはなれない、ということを。

 Van Morrison の Irish Heartbeat という歌がある。「世界はあまりにも冷たいから、きみの魂のことなど構ってやくれない。だからもう少しだけいっしょにいて欲しい。どこかへ行ってしまわないで欲しい」という歌だ。もう10年以上も昔に、私は数少ない友人らと東京の貸しスタジオでこの歌を演奏したものだ。今夜はそれを赤ん坊の子守唄に口ずさむ。

 

きみのドアの向こうに立っている人は
きみの親友かも知れない
きみの兄弟かも知れない
なのにきみは気づかない

(Van Morrison / Irish Heartbeat)

 

2001.11.18

 

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 ボイラー技士の試験で兵庫県の加古川まで行って来た。普段あちら方面には滅多に行くことがないので、ちょっとした小旅行気分だ。明石大橋を望む海辺で、ああ、いつかバイクでここから淡路島へ船で渡ったなあ、などと思い出す。それから例の、花火大会で悲惨な事故があった歩道橋も間近に見た。妙にリアルで生々しかった。加古川の駅前で昼食に讃岐うどんを食べて、それからバスで試験場へ向かった。

 

 友人が置いていった司馬遼太郎の『坂の上の雲』、文庫で全七巻を少しづつ読み継いでいる。今宵、読み終えたのが巻の二。この時代、日本はイギリスと手を組み、ロシアはドイツと組んで、それにフランスやイタリアなどヨーロッパ諸国が連なって疲弊した中国大陸をハイエナのごとく食い物にしている。当時日本の最大の脅威であり、中国 (清) と朝鮮半島を虎視眈々と狙っているそのロシアにしたって、ほんの少し歴史を下れば大モンゴル帝国の支配を受けまだろくな国の体裁もなかった。もちろんその頃にはアメリカなど影も形もない。やがて日本はアメリカに原爆を落とされて帝国主義に幕を下ろし、いまはそのアメリカの尻を追いかけてひょいひょいと中東くんだりまで軍艦を派遣している。長い歴史の目から見たらそんな国家のあれこれは、すべて儚くむなしい影絵劇のようにも思える。

 

 ナジーラは頭が割れ、脳が飛び出していた。賢くて可愛くて自慢の娘だった。遺体があまりに痛んでいたのでだれも棺を見なかった。

 

 今朝新聞をひらいたら、アメリカの空爆で5歳になる娘を失ったというアフガニスタン男性の言葉が載っていた。タリバンが逃げカブールが解放されたなどと報道されているが、いったい取り返しのつかないこの理不尽な悲しみはどこへ向けたらいいのか。「ナジーラ」は何のために死んだのか。ただの無駄死にではないのか。テロ撲滅とアメリカの正義のためには仕方のない死であったのか。

 「目的のためなら手段を選ばない、罪のない人間の多少の犠牲も致し方ない」というのがテロリストの論理であるなら、いまやアメリカもビルラディンの一派と同じく確実にテロリストである。正義の多国籍軍を集結して、こんどはアメリカを空爆しなくてはならない。いまこそ日本のイージス艦をワシントンへ向けて派遣してやれ。

 歴史は、こんな物言わぬ死者たちの無数の屍で累々としている。人間は何も変わらない。正義だとか経済だとか政治だとか馬鹿なことを偉そうに喋っている大人たちの後ろで、ナジーラのような罪のない幼いこどもたちが頭を割られ脳味噌を飛び出させて物言わず死んでいく。おれはもうこんな世界はうんざりだ。

2001.11.20

 

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I'm so lonesome I could cry / Hank Williams 1949

 

Hear the lonesome whippoorwill
He sounds to blue to fly
The midnight train is whining low
I'm so lonesome I could cry

I've never seen a night so long
When time goes crawling by
The moon just went behind the clouds
To hide its face and cry

Have you ever seen a robin weep
When leaves began to die
That means he's lost the will to live
I'm so lonesome I could cry

The silence of a falling star
Lights up a purple sky
And as I wonder where you are
I'm so lonesome I could cry

 

(と)び難き 愁いに満ちたる
夜鷹のさえずり
夜行列車の低き嗚咽
涙落つるほどのさみしさよ

ゆるゆると 刻(とき)の下りゆく
かつてなき夜
月まさに雲間に入りて
わが悲嘆を隠したり

落葉の季節
駒鳥のすすり泣きは
生きる力を失くせし証
涙落つるほどのさみしさよ

音もなく流れる星が
紫紺の空を照らすとき
君はいずこにと想う
涙落つるほどのさみしさよ

(まれびと訳)

 

 稚拙な訳だが、あるいは蕪村か良寛あたりがこんな詩をうたってもおかしくはない、と思う。この“さみしさ”は極上だ。秋の夜長に森々と沁みわたる。

2001.11.22

 

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 祝日。秋晴れの佳き日。四日市から来た友人の車に家族三人同乗して、エリコさんの働いている奈良市郊外のレストランへランチを食べに行く。実はしばらく前にエリコさんが紫乃さんにと店で焼いている天然酵母のパンをたくさん送ってくれて、それがとてもおいしかったので近いうちに食べに行こうと二人で話していたのである。友人はおすすめランチ、つれあいはグラタンのセット、私はソーセージのポトフを注文。はじめてお会いするエリコさんもテーブルに来てくれて、しばらく歓談。もちろん紫乃さんも私たちの「おこぼれ」と、それに大好きなメロン・パンを別に買ってきて食べた。午後からは香芝の方にある、最近出来た大型のリサイクル店まで友人に寄って貰う。つれあいが満載の押入を整理して引っ張り出した衣類やバックの他、紫乃さんの不要になったオモチャなどを山のように持っていって、売値は全部でわずか450円。6万円で買った洋服もあったとがっかりするつれあいを、まあこんなもんさ、捨てるよりまし、と慰める。夜は私の手製のパスタ。友人の車にセットしてあったCDより、椎名林檎の「勝訴ストリップ」をMacのMP3ソフト iTunes に入れさせてもらう。友人が帰ってから紫乃さんを風呂に入れて寝かせた後、つれあいが毎週楽しみに見ているテレビ・ドラマ「恋を何年休んでますか」を途中から、つれあいの熱心な解説付きでいっしょに見た。そんな一日。

2001.11.23

 

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 夜、NHKテレビで妻がアルツハイマー症に罹った夫婦のドラマをつれあいと見る。松阪慶子演じる妻は命の洗濯をしに若い恋人とネパールへ旅立つのだが、こんなふうにテレビなどであれらの土地が映るとき、20代の頃に行ったあのインドでの旅がときおり鮮烈に蘇ってくる。路上の匂いさえも。

 鈴木清順の映画『陽炎座』で、怪しげな社会主義の活動家を演じる原田芳雄が戯作者の松田優作をある秘密の会合へと誘う場面がある。酔っぱらった松田優作が原田に勧められて、並んだ素焼きの人形をひっくりかえし望遠鏡のように穿たれた穴を覗き見ると、そこには男女の和合の像がくるくると可笑しく哀しく動き回っている。「あんたも見ちゃったんだねえ、女の“うらがえし”を」と原田が松田優作の肩をぽんっと叩く。しとどに酔っぱらった松田優作は人形を手に思わずよろめく。

 私にとってあのインドの旅は、あるいはそのようなものかも知れない。私があそこで見て感じ嘔吐したものたちは、この平和で小綺麗な国の“うらがえし”なのだ。以来、私はこの国で失格者となった。ネジがひとつ、抜け落ちてしまった。何もかもが揃っているように見えるのに何かが足りない、いのちが薄い。ふわふわと、うすら寒く、生きている実感が得られない。病理学ではときにそれを離人症と診断するらしい。

 地上の失格者たるこの哀れな患者は、それでときおり深夜に素焼きの人形を片手に“うらがえし”を覗いては己を慰めるのだ。すると、見えてくる。カルカッタの公園で一日衣服のノミとりにいそしんでいた男や、シリケシュの寺院の石段で私の瞳をじっと覗き込み去っていったヒンドゥーの僧侶や、バラナーシのガート(沐浴場)で焼かれていた死体や、アーグラーの川岸に漂着した肉袋のような赤ん坊の死体などが。

2001.11.24

 

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 つれあいがもう穿かなくなった、というかほとんど穿いていない自分のパンツをリサイクルして赤ん坊のズボンを作るというので、協力して赤ん坊を外へ連れ出すことにした。アイロンやミシンを使うので危ないのだ。午前中は近くの公園へ連れて行って、砂場や芝生の上で遊ばせる。昼に戻って玉葱と人参とセロリ入りのうどんをつくって食べてから、午後は図書館へ。赤ん坊の絵本をいくつか借り、帰りに別の公園の大きな池の前のベンチに座って持ってきたセンベイを食べさせながら、赤ん坊ときらきら光る水面や風で揺れる柳などをぼうっと眺めている。それから赤ん坊を地面に降ろし、足下の枯れ葉をかき集めて宙に飛ばしてあそぶ。現像を頼んでいた写真を取りにサティへ寄ったついでにワラビ餅を買い、熱い玉露の茶を淹れて三人で食べてから、夕食まで赤ん坊と寄り添って眠る。夕食に得意の鶏肉の照り焼き丼と春雨と人参と椎茸の吸い物を拵えた頃に、赤ん坊のズボンが完成した。裾の折り返し部分とお尻のポケットのワンポイントに私の古いハンカチを使ってある。

 

 昨日遊びに来た友人が、かねがね言っていたことなのだが、ついに会社を辞めることを決めたという。しばらくは失業保険で食いつなぎながら、かねてからのかれの希望だった林業関係の職を探す。友人は理科系の優秀な大学を大学院まで出て、足かけ十数年をある化学製品の会社で働いてきた。もちろん給料は激減するだろうし、これからは年金や健康保険も自前で払っていかなくてはならないし、将来の安定も失う。ある意味では独り身だから、家族に対する責任がないからできるわけでね、と友人は言う。なぜ林業なのか。つまりは怪しげな化学製品をつくっているよりもっと“まっとう”な仕事をしたい、それもできるなら人間以外の生命のささやかな役に立つような仕事をして生きていきたい、ということなのだろうと私は理解している。小学生の頃、二人でよく上野の博物館へ行って、恐竜の骨格やミイラや零戦や月の石などを見て回った。地下の休憩所でおにぎりの弁当を食べて、それからいっしょに売店で箱にはいった鉱物の標本を買ったりした。なぜかそんなことを懐かしく思い出す。

 友人に、私の好きなソローの次のことばを贈ろう。

 

原始林の中に住むあなたの子供となり
生徒となるほうが
他の場所で人間たちの王者となり
身分こそ高かれ心労の奴隷となるよりも好ましいのです。
あなたと暁の瞬間をたのしむほうが
都会でよるべなく一生を過ごすよりよいのです。
ぼくに静かな仕事を与えてください。
ただそれがあなたの身近のものでありますように

ソロー・自然

 

2001.11.25

 

*

 

 タリバンが敗退し、アメリカ軍の支援を受けた北部同盟がアフガニスタンの領土にひろがっていく。メディアは「自由への解放」を演出する。だが、ほんとうにそうなのだろうか。「解放」後に人々によって語られるタリバン支配下での圧制や陰惨な虐殺などは、たしかにあったのだろうと思う。だが今回アフガニスタンを「解放」した北部同盟にしたってかつては互いに醜い勢力争いを演じ、その政治下では略奪やレイプや民族間での殺し合いなどが横行していた。敬虔な神学生たちによるタリバンの活動がひろがっていったのはちょうどその頃だ。人々はかれらの内に清廉さやイスラムによる古き良き秩序の再生を夢見て、それに期待した。少なくとも初期のタリバンとはそのような存在であった、と思う。水戸黄門が長寿番組になっているせいでもないだろうが、日本人はもともと分かりやすい勧善懲悪のストーリーが好きだ。だが現実はそれほど単純なものではない。評論家の加藤周一氏が新聞のエッセイでこんな引用をしていた。

 

 インドの女性作家、アルンダティ・ロイ氏 (Arundhati Roy) は「戦争は平和である」という論文の中で (インドの週刊誌 OUTLOOK,29th Oct.2001 掲載) 、アフガニスタン爆撃を発表した時にブッシュ大統領の言った「われわれは平和な国民である」という言葉と、「人気高いアメリカの大使で、英国の首相も兼ねる」ブレア氏の「われわれは平和な人民である」という言葉を引用している。彼女はその後につづけて、「これでよく解った。豚は馬である、少女は少年である、戦争は平和である」と書いた。

(朝日新聞 20001.11.22 夕刊 夕陽妄語)

 

 かりに「国連主導の民主的な政府」がアフガニスタンに成立し、アメリカがお尋ね者ビンラディンの首を手にしたとしても、テロリズムの根が断たれるわけでは無論ない。「ビンラディン」というのは暗い地下茎より連綿と吹き出してくる、ひとつのイメージのようなものだ。イメージはそれを生成する根が存続する限り死なない。

 評論家の内橋克人氏はあるインタビューに答えて、今回のテロが世界を変えたわけではないが、テロによって世界の構造があぶり出されたとは言える、と語っている。それは「冷戦構造の崩壊後、世界が市場によって一元的に支配された構造」だ、と。そして、それを主導するアメリカ的価値観、「世界をおおう金融システムに乗って、自己増殖しながら疾走する」マネー資本主義=グローバリズムに対抗する思想がイスラム社会にあることを指摘している。

 

 イスラムでは労働の対価以外の報酬を受け取ってはならない。人もカネも神が与えたものであり、イスラムの金融機関は利子、利息の概念そのものを禁じている。預金にも利子はつきません。ゼロコストの資金を集め、自ら生産設備をあがなって起業家に提供しています。リスクも成果も事業家と共有する。基本にあるのは喜捨の考えです。利が利を生むマネー資本主義に対するアンチテーゼがイスラムにある。

 イスラム銀行はすでに世界20カ国に広まっています。マネー資本主義とは異なる価値観であり、いま、世界に台頭している地域通貨などの思想とも通底するところがあります。世界市場化への対抗思潮として、その対極にあるものにとっては根元的な脅威と映るでしょう。(イスラムが資本主義に)とってかわるのではなく、市場経済をより健全なものにする上で価値の高い対抗思潮だと思います。

(朝日新聞 20001.11.24 テロは世界を変えたか)

 

 以前に紹介した宮田律氏の「現代イスラムの潮流」(集英社新書) には、西欧文明的な価値観や市場原理の進出によって蹂躙されプライドを失い疲弊した、かつての誇り高き遊牧民族たちの悲しい歴史的経緯が描かれている。テロリズムを含むイスラム世界の運動にはじつは意識の深い部分で、内橋氏の言うような、アメリカ的マネー資本主義にノンと言い、自分たちのプライドを自分たちのやり方によって取り戻したい、人間的な生活を取り戻したいという切なる思いがあり、それをテロリストたちが巧みに吸い上げていく構造があるのではないかと私には思われるのだ。

 ところで作家の池澤夏樹氏が、最近のかれのメールマガジンで次のようなことを記していた。少し長いが引用する。

 

 .....この流星群が感動的だったのは、単に派手な珍しい見物だったからではありません。

 それは人間が仕掛けたイベントではなかった。何かのコマーシャルでもなかった。宇宙が勝手にやっていることを見せてもらっただけ。

 そんなことはあたりまえと言う前に、今、先進国の人々がどれほどコマーシャル・メッセージに包まれて暮らしているか、自分の周囲を見なおしてみてください。

 テレビはCMと抱き合わせ、新聞雑誌の紙面の半分近くは広告、町を歩けば無数の看板とポスターが、買ってくださいと訴えている。電話が鳴るから取ってみれば、一方的な電話セールスの声。

 社会ぜんたいが、あらゆる心理的詐術を駆使して、あなたにものを買うことを強要しています。

 今や人は夫や妻、父や母、日本人、ある職業に就く者、一つの思想の持ち主、などなどである前に、まずもって消費者です。

 子供はものごころつくのも待たずに、キャラクター攻勢で消費者に仕立てられます。子供には充分な判断力がない。だから売り込みやすい。

 要約すれば、いかなる消費者であるかが、あなたという人を定義している、ということになります。

 どのブランドを着ているか、どの会社のケータイを持っているか、どの外食店で昼食をとるか、どんな家に住み、どの車に乗っているか……そういうことが、あなたが誰であるかを決める。

 もう10年以上前の車のテレビ・コマーシャルで、「彼はシーマに乗っている。彼はそういう人だ」というのがありました。

 あの頃から、人は身に着けたもの、つまり買ったもので、評価される傾向がいよいよ強まった。

***

 これを社会の側から見れば、みなが商品をどんどん買うと、つまり消費の優等生になってくれると、景気が向上してみながうるおうということです。

 消費の動向が社会の雰囲気を決める。ものがよく売れるのはよい社会である。

 これが表から見た図です。裏に回れば、ものが売れるほど資源が使われ、温室効果ガスや環境ホルモンなどが放出され、放射性廃棄物の蓄積が増える。途上国を踏み台にして先進国ばかりがうるおう。

 大量消費にはその分だけ負の要素がついてまわります。そして、コマーシャル・メッセージは決してそのことを言わない。

 最も深刻な影響は、人間がお互いを消費者としてしか評価しなくなることです。

 友だち同士が、お互い何を着ているか、何を買ったか、いくらで買ったか、次は何を買おうとしているか、そういうことでそれぞれ人としての値打ちを決める。それを基準に友だちを選ぶ。いわばお互いを買い合う。

 倫理的な判断までを広告代理店に任せる。

 今はそういう時代です。

( 新世紀へようこそ 053 )

 

 私たちの誰もが、今回のテロ事件にはすでにたっぷりその身を浸らせている。

2001.11.27

 

*

 

 元ビートルズのジョージ・ハリスンが死んだ。皇太子妃が出産準備のために宮内庁病院に入院した。国内で三頭目の狂牛病の牛が確認された。追いつめられたタリバン兵士たちはゲリラ戦の身支度をしている。そんな年末の夜。つれあいの風邪をうつされた私はストーブの前に寝転がって司馬遼太郎の『坂の上の雲』のなかで、旅順の二〇三高地に於いて無数のこの国の若者たちが無益に死んでいく光景をめくっている。

2001.12.1

 

*

 

 日清・日露という明治のふたつの戦争を舞台にした『坂の上の雲』を読んでいて、東郷平八郎が乗船していた当時の連合艦隊の旗艦・三笠を、中学生の頃に三笠を保存/展示してある横須賀まで見に行ったことを懐かしく思い出した。

 その頃の私は、実に無邪気な「軍国少年」だったのだ。小学5,6年の頃に太平洋戦争での日本の撃墜王と呼ばれた零戦パイロットの自伝『大空に翔るサムライ』を愛読したのがハシリだったろうか。それからは軍艦に興味が移ったらしく、当時は結構はやっていたのだがウォーター・ライン・シリーズという軍艦模型を集めて部屋中に飾っていたし、月刊「丸」なんていう軍事雑誌も毎月購読していた。雑誌に載っている設計図を元に、プラモデルの空母赤城を竣工当時の姿(空母と戦艦のアイノコのような奇妙な形をしていた)に改変したい、なんて思うくらい凝っていた。それから、豊田某という作家の太平洋戦争の海戦もの小説も文庫で揃えて、おやつの煎餅を囓りながら何遍も読んだものだ。友人を誘って横須賀まで三笠を見に行ったのも、そんな頃だ。船内で映画の日本海海戦のワン・シーンを見て、おみやげに帝国海軍の旗を買って自室の壁に貼っていたのを覚えている。

 そんな中学生の頃、学校の美術の時間に似顔絵を描くという授業があった。たいていは隣の友達の顔を描いたりしていたのだが、私は海軍の司令長官・山本五十六の顔を鉛筆画で描いて提出したのである。ちょうど阿川弘之の伝記小説『山本五十六』を愛読していた頃で、我ながら巧く描けたと思っていた。しかしそれを見せたとたん、美術の教師は「○○(私の名)、戦争っていうのはなあ、人間を殺すことなんだぞ!!」と急に声を荒らげて私を怒鳴りつけたのである。こちらが一瞬唖然とするくらい、その教師は真顔で怒っていた。だが私も当時は生意気盛りであったので(いまもそうかも知れないが)、山本五十六は日米開戦には最後まで反対だったのです、先生はそれをご存じないでしょう、なぞと偉そうに講釈を垂れて反論したのだった(それも担任の教師を挟んで改めて呼び出された職員室の真ん中で)。『坂の上の雲』から、そんな些細な思い出までふと懐かしく蘇ってくる。いまから思えばあの美術の教師はとてもいい先生だった、と思う。

2001.12.1 夜

 

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 皇太子妃が女の子を出産した。が、私は特別に何も思うこともない。母親が赤ん坊を産むなど日常茶飯事のことだし、アフガニスタンにだって爆弾の下で今日もひとりの赤子が高らかな産声をあげたかも知れない。私の母親は共産党員のくせに皇室アルバムは好きでよく見ている。つれあいもわりと好きな方だが、彼女に言わせると皇后やマサコさんたちのファッションに興味があるだけ、という。テレビでは街頭インタビューが盛んに映る。若い夫婦が「私たちも今年産んだばかりだからとっても嬉しいです。ホントにおめでとうございます」なぞとと本気のへらへら上気顔で喋っているのを見ていると、お前らにとって天皇って何なんだよ、洗剤のコマーシャルみたいな明るさでそんなこと言っちまっていいのか、と私はいつものごとくぶつぶつと、負け試合を見ているタイガース・ファンの親父のようにテレビの前でぼやいている。

 私ははっきり言って天皇制には反対である。これは以前に「差別あるいは差異化についての覚書き」と大層な表題をつけた小論のなかで書いた。部落差別が下への差別であるなら、天皇制は上への差別であり、それらは構造的な歪みを吸収するシステムとして分かちがたく結びついている。小学生が考えたって解ることだが、人間には特別な人間とかそうでない人間とかいうものは存在しない。ところが人間というものは弱い存在なので、自分の中の〈悪 / 穢れ〉を仮託できる生贄を常に欲する。それがたとえばこの国の部落差別であり、ヒットラーにとってのユダヤ人などである。何か悪いことがあると「それは特別なあいつらのせいだ」と血祭りにあげることで一時的に気持ちがすっきりする。それと同じメカニズムで、自分の中の〈善 / 聖性〉を仮託して安心するのがイエス・キリストだったり、王様だったり、あるいはバブル前の日本では会社というものであったりした。こちらはいわば責任や自己判断や汚されたくない大事なものを銀行の分厚い金庫に預けて、自分の代わりに銀行が強盗から守ってくれる、と安心するようなものだ。それらは二つでワン・セットなのである。だから私は、下への差別を無くすためには上への差別も無くさなくてはいけない、そんな特別などというアイマイなものに寄りかかっていてはいけない、と考えている。そのような(簡単な)理由で、私は天皇制には反対なのである。

 といっても私は別に血気にはやった青臭い過激派の類ではないので、何も天皇の一族を血祭りにして首を撥ねたらいいなぞと思っているわけではない。私は別に〈あの人たち〉には何の恨みもないし、〈あの人たち〉だって言ってみたらごくフツーの日本人だろう。ただ〈あの人たち〉を利用しようと企む周囲の腹黒い手合いを嫌悪するのだ。作家の宮内勝典氏だったかが以前どこかで言っていたことだが、天皇家はフツーの一般市民に戻って京都にでも住み、日本の古い文化やしきたりや儀式を守っている家柄として暮らしてもらう、それがいちばん良いように思う。

 坂口安吾も直裁に言っている。

 

 人間の値打ちというものは、実質的なものだ。....天皇というものに、実際の尊厳のあるべきイワレはないのである。日本に残る一番古い家柄、そして過去に日本を支配した名門である、ということの外に意味はなく、古い家柄といっても系譜的に辿りうるというだけで、人間誰しも、ただ系図をもたないだけで、類人猿からこのかた、みんな同じだけ古い家柄であることは論をまたない。

(天皇陛下にささぐる言葉・風雪1948年1月)

 

 けれども安吾はまた別のところで、しかし我々がいくらこんな理屈を並べたところで〈天皇さん〉を敬う近所の婆さんたちの「土着」はびくともしない、と洩らしている。結局、人間は古いしがらみをなかなか容易には捨てきれないのだ。だから天皇制は無くならない。だから部落差別やいじめは無くならないだろう。これはノストラダムスより確実な私の預言である。

2001.12.2

 

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 妻子の寝静まった深夜にひとり、焼酎のお湯割りを啜りながらヘッドホンでキンクスの I'm Not Like Everybody Else のライブ・バージョンを聴いている。このサウンドがあれば大丈夫だ、いまのおれはマイク・タイソンにだって勝てる。ロックってのはそもそもそんな単純でイカレた野郎どもの音楽なのさ。それほど高級なものじゃないし、せいぜい百貨店の屋上に回っている観覧車の上であんまり気分がよくて小便を飛ばす程度のものかも知れない。おれのこのどうにも救いがたい哀れなハートのように。だが、それでいいのさ。あんたの尻の穴を舐めてまで上にあがりたいとは思わない。テレビとセックスとドラッグに魂を搦めとられちまってるわけでもない。満員電車の中でくたびれた顔をして夕刊フジを握りしめているわけでもない。少なくともおれはあんたよりはラッキーで、百貨店の屋上に回っている観覧車の上で小便を飛ばすくらいの自由はあるというわけだ。だからおれは今夜キンクスを聴きながら、おれのしがない夢想を暗い波間にこっそり浮かべてみる。デイヴ・デイヴィスのギターが深海からそいつを不思議な力で持ち上げてくれる。

2001.12.2 深夜

 

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 赤ん坊のリハビリが先週から、これまでの週二回より一回に減らされた。リハビリ室の隅には大きなおもちゃ箱が三つほどあり、それらで遊ばせながらリハビリを進めていくのだが、紫乃さんはひとつのオモチャを手にしたと思ったらもう次のオモチャに目移りがしたり、また他のリハビリ患者が気になったりして、一向に集中力がない。遊び方が幼い、普通は1歳になったらもう少しひとつのオモチャに集中して遊ぶものです、これは6ヶ月頃の遊び方ですね、と担当のM先生は言うのである。それで先生の方針で、この状態では週に二回来てもらっても無駄になるだけだから一回に減らして様子を見ましょう、ということになった。(実際リハビリは赤ん坊にもストレスになってきたようで、前回行ったときにはベビー・カーからリハビリ室の床へ降りるのを嫌がったという)

 それからつれあいは図書館で大量の育児の本を借りてきて読んだり、保険センターに相談したり、やっぱり障害があるということで手をかけすぎていた部分もあるのかも知れないと二人で反省したり、食事に集中させるためにテレビのニュースを消したり、遊び方を変えてみたりと、いろいろ模索が始まった。他のこどもと接するのも刺激になるだろうからと、プールとおなじ場所でやっている体操のコースも始めたり、町の集会所で月二回やっている母子の交流会のようなものにも参加することにした。体操の見学から帰ってきたつれあいは、帰ってくるなり私にこう言って笑った。「まあ、○○さん。紫乃さんも手がかかると思っていたけど、他の子はもっとすごいよ。この子なんて本当に動きがスローで、まるでそこだけ時間が止まっているみたいなんだから」

 育児経験のある身内や知り合いに訊くと、たいていは「そんな育児書のとおりにはいかないわよ。ひとりひとり違うものなんだから、心配することはない」と言ってくれる。週一回に減らされる前は、あんまりリハビリに行くたびにM先生から幼い幼いと言われっぱなしであったので、私もつれあいも、まるでわが子の精神年齢が劣っているか知恵遅れとでも言われているような気分で、はなはだ気を害していた。たとえばM先生は、他の子が遊んでいるオモチャを横から奪いに行くくらいでなくてはいけない、と言う。私は、そんなのは性格もあるのではないか、と疑う。平和主義者だっていいじゃないか、とぼやく。私は育児に関しては何の方針も指針も持たずテキトーで、いわば「親がなくとも子は育つ」的な観念しか持ち合わせておらず、今回の件もふつうの状態であったら「なに、正岡子規だって3歳まで言葉を喋らなかったそうだ」と言って気にもしないのだが、やはり大事なリハビリの機会を減らされてしまうという現実があるために、悠長に構えていられない部分がある。

 二分脊椎の手術を受けたときに、脳神経外科のY先生からつれあいは、障害があるということで親御さんはそちらにばかり気をとられてしまい、通常の育児がおろそかになってしまうケースがよくあるので注意するように、と言われたらしい。また私もつれあいも、二ヶ月間という長期の閉鎖的な入院生活も、多くのものから刺激を受けて吸収していく大事な成長期のこどもにとっては、やはりそれなりのハンデになっていたのではないか、と話し合ったりもしている。まあそんなこんなで、最近は子育てのことがちょっとばかし重みを帯びてくるようにもなった。本人はそんなごたごたは一向に知りもせず、家では相変わらずマイペースの活躍ぶりなのだけれど。

 赤ん坊のことでもうひとつ。先月の脳外科での定期診断で、前に撮った手術後のMRの画像を詳しく検討してみたという執刀医のY先生が紫乃さんの脊髄付近に残った脂肪を指して、私としてはもう少し切除したと思っていたんですが、と洩らした。たまたま数日前に、私たちの後から入ってきて二分脊椎の手術を受けたこどもが後日脂肪が再増殖して二度目の手術を受けたという話を病室で聞いていたつれあいが、「それは先生、もしかしたら脂肪が増えているってことですか?」とY先生に訊ねたところ、その可能性もあるかも知れませんね、と言われたという。それで念のため二ヶ月後にもう一度MRの画像を撮り、脂肪腫が増えていないかを確認することになった。脂肪腫が増えていたら、もういちど入院をして手術をしなくてはならない。

 つれあいは、もうここまで来たら何度でもやってもらってちゃんと治して欲しい、と言う。それはそれで解るのだが、また手術というのはあまりに赤ん坊が可哀相で、私はできることならしなくても済むようになってくれたら、と願わずにいられない。いつもお風呂に入れるたびに背中の傷を見て、ああ少しづつ癒えてきたなあ、と心中呟いている私には。あの白くてちいさな体は、もう充分過ぎるほどの試練を与えられたろう。

2001.12.4

 

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 数日来続いていた鼻風邪がいよいよ本格的になってきて、ゆうべ熱を測ったら38度近くあったので、遅くまでやっている近所の内科へ行くことにした。時間帯のせいか病院はがらがらで、すぐに廊下の長椅子で待たされた。奥の診察室から書類を書きとめているらしい老医師の鼻をすする音がときおり聞こえてくる。私は茶色の革張りの長椅子にちょこんと腰かけ、何やら山中の尾根沿いに据えた炭焼き窯の前にひとりいるような楽しい心持ちになった。やがて問診を受け、聴診器をあてられ、喉がだいぶ赤いですね、熱があるから頓服を出して置きましょう、と言われて廊下へ出ようとすると看護婦さんから、注射を打つのでこちらへ、と声をかけられ渋々引き返した。注射といえば小学生の頃に学校でやった集団予防接種は嫌だった。列に並んでいるうちに恐怖が増大してくるのである。一度は家へ逃げ帰り、一度はクラスの女の子たちに羽交い締めにされた。だがそこの看護婦さんは注射が上手で、奥さんはお元気ですか、あ、はい、などと言っているうちに済んでしまった。逃げる間もなかった。

 友人から借りていた司馬遼太郎の『坂の上の雲』(文春文庫・全8巻)を読了する。日清・日露の二大戦争を経験した明治の日本を舞台に、陸軍に本格的な騎兵部隊を創設した秋山好古と、東郷平八郎麾下で連合艦隊の頭脳となった弟の真之の兄弟、そして真之と親しかった同郷の俳人・正岡子規の三人の生き様をからめてこの長大な物語は語られる。準備時間に5年、執筆時間に4年と3ヶ月、40代のほとんどをこの小説に費やしたという著者はすべてを書き終えたとき「夜中の数時間ぼう然としてしまった。頭の中の夜の闇が深く遠く、その中を蒸気機関車が黒い無数の貨車の列をひきずりつつ轟々と通りすぎて行ったような感じだった」とあとがきに記している。さもありなん、と思う。明治という様々な意味で特殊なこの時代のおもしろさは、その荒波の如き時代の中で試される人間の巨大な実験室のようなもので、そこでひときわ輝くのは秩序が安定し固まってしまった時代においてはおそらく忌避されるであろう独創的な登場人物たちである。明治を描いた小説のおもしろさはそれに尽きると思う。作家はかの時代に跋扈した有名無名の無数の人々の生き様をまるで緻密な解剖図を細筆一本で模写するようにして、明治という不思議な肉体を見事に描ききった。お涙頂戴の「プロジェクトX」なぞに感動するより、この作品を読む方が余程得るものがある。

 ところで11月25日の項で書いた林業を目指す友人のくだりについて、本人より一部記述を訂正して欲しい旨のメールが届いたので、ここに紹介しておく。

 

 中に、「怪しげな」という行がありましたが、何か誤解を与えそうな表現ですので是非あらためて欲しいです。私は、作っているものよりもその廃棄物の多さが問題だと思います。我が社(一応社員なので)は、廃棄物を法律(規制)に則って処理していることは言うまでもありませんが、その法律は信頼できない官僚と国会議員によって作られたのです。

 研究所にいる頃はわからなかったのですが、工場に来てその廃棄物の多さを実感させられました。海外に工場を移すと言うことは、これら廃棄物も一緒に移ることを意味します。海外移転の最大の理由に人件費が安いことが挙げられますが、廃棄物は輸出できないので先進国内では規制が厳しく結構お金がかかります。法律が未整備の発展途上国でわざわざお金をかけて安全に処理する企業があるとは私には思えません。

 企業の存在意義は利益を最大にすることにあるからです。私も企業に属する限り、最大利益を追求する義務を負います。ですから、規制されてない物質だからこっそり流せる、なんてことも考えてしまうわけです。

 

2001.12.6

 

*

 

 内田百間(本当は門に月だがフォントがないのでこれで間に合わせる)の『第一阿房列車』(福武文庫 @600) を読み始めた。阿房列車はあほう列車と読む。「何にも用事がないけれど」とにかく列車に乗ってでかけていく。行きは一等車で、帰りは三等車にする。なぜなら行きは用事がないという「いい境涯」を味わえるが、帰りは帰るという用事があるからもはや三等でよい。翁はさっそく旅費の工面にでかける。あんまり用のない金だから貸す方も気がラクであろう、と考える。借金のいちばんいけないのは、必要な金を借りようとすることである。「借りられなければ困るし、貸さなければ腹が立つ」 だが自分のは、借りられなかったら旅行をよすだけのことだし、行く先で誰が待っているわけでもなく、「もともとなんにもない用事に支障が起こる筈もない」 こちらが思いつめていない分、先方も気がラクで「何となく貸してくれる気がする」 金策は無事、成った。

 

 お金が出来ていよいよ空想が実現する形勢である。このお金は私が春永に返した時に初めて私のお金であった事を実証するので、今は私のお金ではない。いくら私が浪費者であっても、若しそれだけのお金を自分の懐に持っていたとすれば、それを出して、はたいて、丸で意味のない汽車旅行につかい果たす事は思い立たないであろう。私の金でなければ人の金かと云うに、そうでもない。貸してくれる方からは既に出発しているのでその人のお金でもない。丁度私の手で私の旅行に消費する様になっている宙に浮かんだお金である。これをふところにして、威風堂々と出かけようと思う。

 

 元来動悸持ちで結滞屋の翁は「長い間一人でいると胸先が苦しくなり、手の平に一ぱい冷汗が出て来る」ので、ヒマラヤ山系とかれが呼ぶ知人の国鉄職員を「年は若いし邪魔にもならぬから、と云っては山系先生に失礼であるが」旅の共に選ぶ。さて乗り込んだ列車の中で翁は、漫然と煙草を吹かし、無口なヒマラヤ山系君と酒を飲む。線路の切れ目を刻む音を懐中時計で数えて列車の速度を測ってみる。デッキに出て隧道の壁にコウモリを探す。車内の売り子の水菓子(バナナ)を買おうか買うまいかとあれこれ思案する。混雑した車内から「少少おろして下さい」と降りていくおばさんの声を聞き、「少少おろして貰って、後の残りはどうするのだろう」なぞと考える。「おろして下さい、でなく、おろさせて下さいならいいかと考えて見る。矢張りおかしい。それでは自分の手に持っている物をおろす様にさせろと云う事で、電車の中から自分がおりると云う事にはならない。つまり自動詞と他動詞の混用でこんな事になると考えたが、こんな事になると云っても、実はどんな事にもなってはいない。それで立派に通用している」

 御殿場線では乗り換えの列車に乗り遅れた。走れば間に合ったのだが、「接続する列車が、前の遅れた分を無視して発車すると云う法があるものか」と意固地になり、早足で歩いて乗り損ねた。誰が間に合ってやるものか、と思ったものの列車の去ったベンチに腰を下ろしていると「段段に不愉快がはっきりして」きて、駅長室へ文句を言いに行く。だが「あらかじめ自分の頭の中で独り喧嘩が済んでいるのだから、それから更めて出掛けて行って談じて見ても、花が咲くわけがない」 そうして次の列車が来る二時間の間、二人してじっとベンチに腰かけている。

 

「そこの、右の窓口に何と書いてある」
「遺失物取扱所です」
「何をする所だろう」
「遺失物を取り扱うのです」
「遺失物と云うのは、落として、なくなった物だろう。なくなった物が取り扱えるかい」
「拾って届けて来たのを預かっておくのでしょう」
「拾ったら拾得物だ。それなら実体がある。拾得物取扱所の間違いかね」
ヒマラヤ山系はだまっている。相手にならぬつもりらしい。

 

 こうして二時間近くの間、雨垂れの水が足許へじゃあじゃあ落ちて来るベンチで、いい加減のおやじと、薹の立った若い者がじっとしている。する事がないから、ぼんやりしている迄の事で、こちらは別に変わった事もないが、大体人が見たら、気違いが養生していると思うだろう。二人並んで、同じ方に向いて、いつ迄も黙っているのは、少しおかしい。そう云うのは二人共おかしいのだが、或は隣りを刺激すると後が悪いから、もう一人の方がつき合って、黙ってじっとしているのかも知れない。その気違いは私の方かと思ったが、そうではないとは云わないけれど、年頃から云うと山系の方が気違いに適している。

 

 百間翁の随筆を支えているのはすべてこうした珍妙な理屈で、その理屈はしかしいつも、どこかちょっぴりの愛嬌と恥じらいと、泰然としたユーモアと皮肉が呆け顔で混じり合っている。無用の用、とでもいうべきこれらの文章を辿るのは、このせちがらい世の中にあって頗(すこぶ)る心の健康に好い。

2001.12.7

 

*

 

 他人を批判することは如何にたやすいことか。おのれがされてみてはじめて解る。しかり、私は極悪人の罪人だろう。だがこの世で罪人でない者が果たしているだろうか。この罪深きろくでなしはおのれの罪状くらいはいつも諳んじている、と虚勢を張った私のエゴが云う。

 こどもより親が大事と思いたい、と太宰は書いた。天秤の片方に、親よりこどもが大事、という世間が重く乗っかっていて、それだけではバランスの取りようがないからもう一方にそっと、こどもより親が大事、と乗せて背を向けた。ゆらゆらと揺れているのが見えるようで、それはそれで哀しいのだ。

2001.12.7 深夜

 

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 先日、用事があってある人の携帯に電話を入れたところ、非通知でかけてくるのは相手に対して失礼になる、と言われた。数年前にNTTから、先方にこちらの電話番号を表示する「ナンバー・ディスプレイ」サービスの伺いが来たとき、わが家では無闇に個人情報を垂れ流すのは良くないと判断して非通知 (正確には「回線ごと非通知」)の設定にしている。その人の携帯はふだんは、そうした非通知や公衆電話からの電話は受け付けないよう設定しているのだそうだ。なるほど、そういうものか、と言われたそのときは納得して、今日になってNTTに設定を変えてもらおうかと思い、ふと考えてみた。

 確かに「ナンバー・ディスプレイ」のサービスは、受話器を取る前に相手を識別するという意味において、無用のセールスなどの電話やいたずら電話を防いだり、出たくない相手からかかってきた電話を取らずに済ませてしまうことができたりして便利である。それにもともと電話とは長いこと、受話器を取ってみてはじめて相手が判明するものであったのだが、そういう状態(ナンバー・ディスプレイ)に馴れてしまうと今度は逆に、受話器を取る前に相手が識別できないと不安な気持ちになってくるのかも知れない。最近は「非通知の電話は受けません」というメッセージに出くわすこともときおりある。だがほんとうに、非通知で電話をかけることは失礼になるのだろうか。

 便利さの裏には害も潜んでいる。そもそもサービス開始にあたってのNTTのやり方も不思議であった。毎月の電話料金請求書に添えて「電話番号の非通知方法に関するご希望承り書」という簡便なチラシを同封し、これを返送しなければ自動的に「通知」(正確には「通話ごと非通知」だが、この用語もはなはだ解りにくく、たとえば70歳のばあさんに理解できるのかと思う・私も当初三べん読み返してやっと解った)の扱いになってしまうというものであった。まあ多数の人が「通知」してくれないと折角始めたナンバー・ディスプレイが無意味になってしまうし、当時の「週刊プレイボーイ」の記事も指摘しているように、「このサービスはNTTの大顧客であるビジネスユーザーのためと言ってるようなもの」という意図はやはり露骨に見える。

 つまりナンバー・ディスプレイの機能は、それを友人・知人間で使用する分には便利なものかも知れないが、電話というのはその他にも、たとえば通販の商品を取り寄せたり役所やメーカーに問い合わせをしたりとあらゆる見知らぬ先へもかける。「通知」の設定にしていると、そのすべてに「うちの電話番号はこれこれでっせ、よう覚えとってせいぜいあくどく利用したってな」と言って回っているようなものなのである。もちろん、番号の前に「184」をつけて一時的に「非通知」にするという対処法も用意されているのだが、しかしこれだっていちいちメンドーで、いざとなったらお座なりになってしまうのが多分であろう。もうひとつ、やはり当時の読売新聞のこんな記事を紹介しておく。

 

 NTTは最近、「ナンバー・ディスプレイとコンピューターを連動させ、個人情報データーベースとして活用すれば新しいビジネスチャンスが広がる」と企業向けに盛んに宣伝中だ。紀藤(弁護士)さんは「この辺に、NTTのサービス導入の本音が見え隠れする」と話す。

 すでに、電話話機の販売店などでは、かかってきた相手の番号をパソコンの画面に表示させ、個人データーベースを作るパソコンソフトが4万円弱で売られている。このソフトを電話帳の内容がCD(コンパクトデスク)に収められている電子電話帳と組み合わせて使えば、電話をかけてきた相手の名前と住所を瞬時に知ることができる。

 月刊誌「ラジオライフ」の諏訪英世編集長は、「電話をかけると、自動的に自分の番号を相手に知らせると言う意味で、ナンバー・ディスプレイはこれまでの電話の常識を大きく変えた。しかし、その意味を多くの人が理解してないうちに、サービスが先行した。きちんとした個人情報保護の法律が無いだけに、今後何が起きるのか予想もつかない」と心配する。

 

 さてここで、もういちどはじめの問いに戻る。ほんとうに、非通知で電話をかけることは失礼になるのだろうか。そこには、いまや携帯電話がこれだけ普及している情勢にあってナンバー・ディスプレイでの電話番号の通知は常識である、それを知らずにいるか、あるいは知っていて参加しないのはいけないことだ、という(安易な多数による)無言の圧力がないだろうか。たとえばいまだにダイヤル式の古い黒電話を使っているばあさんや、公衆電話からしかかけられないフィリピンの出稼ぎ姉ちゃんはどうなるのだ。たとえば携帯がこれだけ普及したために、採算のとれない田舎や町中の公衆電話が次々と撤去されてしまった。これはべつにナンバー・ディスプレイと直接には関係ないが内実は似ている。つまりそこにはある知識なりシステムなりそれを取り入れた機器なりを持っている者と持たざる者との間の格差が一層広がり、それが社会的な常識の分野にまで浸透して、そこからはみ出した者を容赦なく差別化 / 差異化する危ない雰囲気が実はあるのではないか、と私は思うのだ。そしてこれからますますその傾向は強まっていくのではないか、と私は睨んでいるのだ。電話番号垂れ流し放題の多数の潮流に乗っかって、公衆電話や非通知の電話を受け付けない設定にするというのは、この流行に乗らなきゃ相手にしてやらないよ、と言っているようなものではないのだろうか。そんな傲慢が透けて見えないか。

 これ以上書くといろいろ角が立つかも知れないのでやめておく。とりあえず私はそう思い、通知を必要としている友人・知人にはなるべく「186」の非通知から通知変更番号を利用するよう配慮することにして、設定の方はこれまでどおり「非通知」(回線ごと非通知)のままにしておくことにした。やれやれ。

2001.12.8

  

 

 

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