重要作「John Wesley
Harding」につづくバイク事故からの復帰二作目は、いつになく穏やかで、シンプルで、幸福そうで、そしてハート・ウォームなディラン。まるで、空気の澄んだ小春日和の午前に田舎道をぶらつきながら、12色の素朴なクレヨンで橋や水車小屋や藁葺き屋根なんかを描いてみたような感じ。そのくせ、まだ川の水をすくえばひんやりと冷たいように、どこかすがすがしい緊張感のようなものも心地よく流れている。
このアルバムでまず誰もが口にするのは、そのメロウな正統派カントリー・サウンドやシンプルな歌詞もさながら、トレードマークともいえるだみ声が消えてディランらしからぬ「美声」に変わっていることではないでしょうか。本人は当時、煙草をやめたらこんな声になったと言っていたそうですが、まぁほんとうにヒバリの囀りのようなハイトーンで滑らかな喉を披露しています。歌い方もちょっと鼻にかかったような感じで。
ボブ・ディランという人は、巨大な海綿体のようなアーティストだと思うのです。さまざまな音楽を貪欲に吸い込み、自分のスタイルに取り込んでいく。ディランについては「変化」という言葉が常についてまわりますが、ウディ・ガスリーと時代の影響下にリアルなメッセージを発信していったフォーク・シンガー、豪快なロック・サウンドのシュールな現代詩人、そしてバイク事故後の謎めいた予言者といったイメージの変化は、決して「変節」なのではなく、かれが自分の置かれた状況でその時々の自分を最大限に振り絞ってきた、その結果のようなものだと思うのです。
その間、かれは外部より貼られたレッテルに己を縛られることなく、またそこに色褪せた積み木を重ねて自ら満足することなく、ただ自分の行きたいところへ行って、やりたいことをやり続けた。そのかれが通り過ぎた道の端々に、様々な色や形をしたボブ・ディランというカケラのひとつひとつがこぼれ落ちていった。それがディランの大きな魅力のひとつだと、私は思っています。そして、もともと人は変わり続けていくものだと思えば、ディランの「変化」とは、実はしごく当たり前のことだと。
映画「ドント・ルック・バック」の楽屋裏の場面で、ディランはハンク・ウィリアムスの曲を幾度か口ずさんでいます。カントリー・ソングというものはアメリカ音楽の重要な肥やしのひとつであり、ディラン自身の中でも“古びることのない”大切な一部であったようです。そしてディランは、かれ自身を今回はその肥沃な大地に委ねて、“古びることのない”素敵なアルバムを作ってくれました。
発売当時のインタビューで、ディランは「今度の新しいアルバムは、歌詞ではなくサウンドを聞いて欲しい」と言っています。奇しくも20年後の「Time
Out Of
Mind」と同じコメントですが、やはり「心で感じとって欲しい」ということなのでしょう。伝統的なカントリー・ソングの定型句にそった歌詞は一見単純そうですが滋味があり、その内容や新味さより私は、語り伝えられる民話のような朴訥としたものを感じます。それはディランのカントリー音楽に対する敬意の姿勢であり、つまりこのアルバムは、ディランによるカントリー・ソングの健やかなエッセンスのようなものなのです。私はこのアルバムを聞くたびに、気持ちがほどよくほぐれていくような心地よさを覚えます。
このアルバムをレコーディングしていた頃、ディランはカントリーの大御所ジョニー・キャッシュと、ビートルズのジョージ・ハリスンの二人と深い交流を持ち、それぞれセッションを交わしていました。その様子は海賊盤で聞くことが出来、ハリスンとの録音では二人の共作曲の他、何とディランがヨタった
Yesterday
を歌っていたりしています。キャッシュの方は、途中からディランとのジョイント・アルバムを制作する企画も持ち上がったものの結局お流れとなり、その時に録音されたテイクがこのアルバムの粋な
Girl From The North Country のデュエットであり、他には One
Too Many Mornings
や、キャッシュの持ち歌、トラディショナル・ナンバーなど十数曲を録音していて、こうしたセッションでの交流もまた、このアルバムに影響を与えているような気がします。
最後ですが、シングル・カットされた
Lay, Lady, Lay
は、もともと映画「真夜中のカウボーイ」の主題歌として予定されていた曲だったのですが、締め切りに間に合わずフレッド・ニールの
Everybody's Talkin' に差し替えられたのは有名な話です。