■日々是ゴム消し Log54 もどる

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「お父さん。わたし、お話があるんだけど・・」 10日ほど前。夜勤明けで帰った土曜の昼。ベランダで煙草をくわえていたわたしの足下に、子がいつになく神妙な面もちでやってきた。「なんだい?」と聞けば、子は「わたしね、ヴァイオリンをやめたいの」と言う。「へえ、そりゃどうして?」「わたし、エジソンみたいな実験をたくさんしたいの。だからヴァイオリンをやっている時間がないの」 父は思わず台所にいる母に救援の視線を投げた。

 子は図書館で借りてきたエジソンの伝記を読んで夢中になったらしい。エジソンが如何に風変わりでおかしな子どもだったか、目を輝かせて話してくれる。蓄音機とはどんなものか、モールス信号とは何か、音はどうやって伝わるのか。そんな調べものを子と二人でしながらYは、こんな時間も大切かも知れないとふと思った。

 親の欲目を差し引いても、子はヴァイオリンのセンスはそこそこはあるのではないかと思う。実際、おなじ教室の他の子どもらと比べても上達のスピードは速いし、先生はいちばん難しい曲をいつも子にあてがう。だが7歳の子どもにとって、モーツァルトやシューベルトなどの古典音楽を弾くことの意味は何だろうか。家で毎日繰り返される練習はすんなりとはいかないし、ときにはすわりこみ、うごかなくなる。次から次へとテキストに沿った楽曲をこなしていって、その先になにがある? 音楽の喜びは見えるだろうか? 「そんなに練習が嫌なら、もうやめなさい」「お前が愚図っている姿はもう見飽きた。ヴァイオリンを捨ててくるから渡しなさい」「いやだ!」 そんな光景が幾度もくりかえされた。

 実際に、時間はいつも足りない。平日は夕方に学校から帰ってから宿題、通信の教材、ときに近所の教室のソロバンと習字に通う(それらはどれも好きらしい)。それにヴァイオリンの練習を加えたら、あとは夕食を食べて、お風呂に入って、明日の時間割を揃えて、寝るだけだ。父親のわたしから見ても、何と余裕のないスケジュールだろうと思う。そのハード・スケジュールのわずかな合間に、子は本を読み、ノートに長い物語を書く。読書の量は途方もない。十数冊借りてきた図書館の本を一週間で容易に読み切ってしまう。いくつかのノートに常に別々の物語を書き継いでいて、あまりにも長いので親がそのすべてを読むのさえ追いつかない。読むことと、書くこと。おそらく子はいまいちばんそれが好きなのだろうと思う。

 二年間、子はヴァイオリンをやりたいと言い続けて、二年間、子はヴァイオリンをやり続けた。モーツァルトのソナタさえ弾けるまで上達して、いまやめたらモッタイナイという思いが残るが、そのモッタイナイは「子のモッタイナイ」ではなくて、「親のモッタイナイ」ではないか。そんな話をYとした。継続することは必要だろう。だが、すでに本人にやる気がないものを無理強いしても仕方ない。もともとじぶんからやりたいと言って始めたものだし、それにやめる理由が「エジソンのようになりたいから」では親も二の句の継げようがないではないか。

 Yとも相談し、子に告げたこと。

 1. この次に何か習い事をやりたいと言っても、父と母は容易にはOKを出さないだろうこと。
 2. 次の教室(先生の都合でその週は一回休みだった)までよく考え、じぶんで先生に言い、先生の意見も聞くこと。
 3. 辞めるにしても今月一杯は変わりなく練習は毎日続けること。

 翌日の朝、わたしがヴァイオリン教室の先生に電話をして、以上のことを伝えた。そして、子がじぶんで言い出すまで知らなかった振りをして欲しいとお願いした。

 

 それからわたしは子の心中を見守ることにし、ヴァイオリンの話は出さないようにした。Yは「この部屋にヴァイオリンの音が聞こえないことを思うとさびしい」と言ったり、「もうふっきれた」と携帯メールを送ってきたり、いろいろ揺れているようだった。ピアノをやっているKちゃんの家に遊びに行ったとき、Kちゃんのお母さんがあるクラシック曲をKちゃんと合奏できるようになって欲しいと子に提案しても、「そんなこと言って、わたしにヴァイオリンを続けさせようと思っているんじゃないの?」と子の答えはにべもなかった。

 約束どおり、日々の練習は続いた。辞めることを表明して気が楽になったのか、練習はスムースになり、音もよくなった。ジブリ作品の「耳をすませば」に出てくるカントリー・ロードをヴァイオリンで弾きたいと言うのでネットで楽譜を購入したが、カントリー・ロードと大好きなもののけ姫のテーマ曲を数回弾いただけで、簡単すぎるのか、不思議なことに教室のテキストの曲にすぐ移ってしまう。「なんか、このまま(ヴァイオリンを)続けそうな感じだよ」 Yがそっと耳打ちをする。「さあ、どうだろうね」 わたしが答える。

 その間、子はエジソンに続いて、リンカーンの伝記を借りてきて読み、キュリー夫人を読み、いまはワシントンを読んでいる最中だ。南北戦争やスペイン戦争やポーランドの歴史について質問をしてくる。

 先の日曜。以前から予約していた奈良フィルハーモニー(ヴァイオリンの先生が所属している)のコンサートが城ホールにてあり、子はYに連れられて聴いてきた。受付で頼んでいたチケットを受け取ると、封筒の中に先生からの手紙が入っていた。

 

 しのちゃんへ

 こんにちわ。おんがくかいへようこそ。

 さいしょのヴァイオリン・コンツェルトは、とてもおとのながれがきれいで、全楽章(ぜんがくしょう)ほとんどきれずにつづきます。ヴァイオリニストはかならずおべんきょうするさくひんです。とpてもしあわせなおとがするので、耳をすませてきいてください。

 グリーグのピアノ・コンツェルトは、北欧(ほくおう)のふかい森のおくにあるたくさんのみずうみのよこにたって、そのつめたい水やくうきがかんじられます。

 コントラバス・コンツェルトは、とても大きいがっきですが、とてもむずかしい、こまかいメロディがたくさんあるので、すべてのおとをききとれるといいですね。げんもヴァイオリンのGせんよりふといです。だから、おゆびがとてもしっかりしているので、目をこらして見てください。

 さいごのピアノ・コンツェルトは、、色のうつりかわりや、テンポ(ゆっくり、あるいたり、おどったり、はねたり)のうごきがとてもおもしろいです。

 どのさくひんもうつくしいメロディがたくさんあるので、目をつぶって、ものがたりをつくったり、えをかいたり、おどったりしてみてください。

 すてきなじかんになりますように。

 

 子がどんな気持ちでこの手紙を読み、コンサート席に座ったかは訊いていない。そんな次第で今日の夕方、エジソン事件からはじめてのヴァイオリン教室の日。

2007.10.23

 

*

 

 ヴァイオリン教室は何事もなく終わった。というか水面下でしずかな了解が行われただけで、(あえて)誰もそのことに触れなかったのだった。子はじぶんの希望でカントリー・ロードの楽譜を出して、テキストの復習をしたあとで、その愉しい練習は行われた。もうひとつ、Kちゃんのお母さんから貰ってきた合奏曲の楽譜のコピーを出したところ、この楽譜は次の新しいテキストに載っているからそれを見てやろうか? と先生が言い、子は「うん」とうなずいた。「新しいテキストを買ったら、それを全部練習しなくちゃいけないんだよ」とあわてて母が問えば、子は「うん」とうなずいた。それで決まりだった。帰りの車の中で子が「ぼくちん、がんばる」とぼそっと呟いたのは照れ隠しであったのだろう。顔が笑っていた。父はやれやれと思うと同時に、これでやっぱり新しいヴァイオリンを買わなきゃいかんぞ、と覚悟した。

 今日は朝から車で大阪の病院へ。整形外科のH先生の診察。待ち時間の間、子は受付に置いてあった子どもたちの詩を編んだ「小さな目 3ねん・4ねん―ぼくらの詩集」(朝日新聞社)を読み、Yはドリス・レッシングの「夕映えの道」(集英社)を読み、わたしは「シュタイナーの死者の書」(ちくま学芸文文庫)を読む。「いま、おまえは感覚と頭脳の外で思考を体験している」 そんなものがもしほんとうに体験できるとしたらそれは本物に違いない、と思いながらわたしはその件にボールペンでラインを引く。期待していた装具の解除は言われなかった。寝るときと学校ではこれまでどおり、装具を付け続けなくてはいけない。「しのさんが、もうすこし“おひめさま”になれたらだな」とH先生は言う。「おしとやかになれたらってことだよ」わたしが解説する。ベッドに座り、左足の足首をもちあげようと試みる。わずかだが足指が反り、甲の筋肉が盛り上がる。もともと足裏にあって移植した筋肉が、もう甲を引っ張る役割として頭の中で書き換えられている証拠、と先生は言う。ビデオの他人の足の動きを見ながらリハビリをしたポリオの患者が三ヶ月で足が動くようになった話をし、イメージが大切だ、と言う。イメージがニュートロンをつなげ、脳の書き換えを促進する。隣の装具室で装具の微調整をし、泌尿器科の診察を終え、売店の弁当やパンをテラスで食べて昼食を済ませ、急いで車に乗り込む。今日は5時間目から体育館でかわせみ座の人形芝居があるのだ。開演10分前に校門に車を乗り付け、養護学級のトイレでおしっこをさせ、子と体育館まで走る。入口から何年生かの先生が誘導してくれる。担任のT先生が気がついて子の手を引きにくる。しのちゃん、しのちゃんとクラスの友だちが招き呼ぶ声を聞いて車に戻ってきた。

2007.10.25

 

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 みすぼらしい天幕張りのサーカス小屋、熊女や蛇娘などの「畸人」の見せ物、覗きからくり、猿芝居、銭亀や二十日鼠やヒヨコを売る店、バナナ売りの啖呵売(たんかばい)、ガマの膏売り、射的屋・輪投げ・玉転がし、カルメ焼き・飴細工・綿菓子・しん粉細工、「けばけばしい極彩色の絵看板と、木戸口でがなりたてる呼び込み、あちこちから響く鳴り物」・・ 沖浦氏が「旅芸人のいた風景」(文春新書)で記す自身の幼い頃に見た祭りの風景には、ねばねばとした湿度を含んだ闇のあやかしがある。わたしはその見知らぬあやかしに胸をときめかせる。

 わたしの子どもの頃、あやかしはすでに消えかけていた。祭りといえば近所の神社の境内で行われたその風景がいまも懐かしいが、ほとんどはいまもよくある露天ばかりだった。狛犬の台座で友人らと、固いガムのような板の切れ込み細工を針をつついて切り抜いていたのを思い出す。最後まできれいに切り抜けたら景品がもらえるのだが、いつも細い部分が折れてしまうのだ。あやかしといえば、輪投げでみんなが狙っていたヌード写真の付いたライターくらいだろうか。テキ屋の兄ちゃんと仲良くなって「ちょっと抜けるから見ててくれないか」と店を任されたことがあった。友人らを客にして何やら誇らしげな気分だった。一時間ほどしてからテキ屋の兄ちゃんは彼女らしい女性ともどってきて、別の露天の焼きそばをご馳走してくれた。

 「あやかし」といえば上野公園の入り口にいた傷痍軍人の一団も幼いわたしには「異形の者」たちだった。小学生の頃には、まだそんな人たちがいた。母親に手を引かれながら「あの人たちはなに?」と訊くと、「戦争で怪我をして働けない人たちだ」と教えてくれた。騙りではないかと怪しむようになったのはずっと後年のことだ。手や足のない人が白衣や包帯に身を包み、アコーディオンやギターやハーモニカで演奏していた。通りゆく人が木戸銭を投げると、そのうちの一人が黙ってお辞儀をした。曲はもの悲しい音色だった。子供心にもわたしは、かれらはどこから来てどこへ帰ってゆくのだろうと不思議だった。その「異形なる者たち」のはたで、よくいつまでもかれらの演奏に耳を傾けているのが好きだった。

 かつて被差別部落の人々は、正月になると家々の門に立ち、めでたい門付芸をして小銭を稼いだ。ハレの日に寿を述べる〈祝言人〈ほかいぴと〉〉として訪れたかれらは、日常のヶにもどれば〈乞食人〈ほかいぴと〉〉として賤視の対象となったのである。

 

 近世の「穢多」「非人」制は、身分制度上で最も厳しい差別制度だった。厳格に決められた身分社会下で、遊芸民はその最下層から出た者が多かった。

 しかし初春のハレの日だけは、その身分につきまとっていた価値観がほんの一時だけ逆転する時であった。すなわち、常日ごろは〈穢れ〉のラベルを貼られて俗界と隔離されていた賤民身分が、〈聖なるもの〉を象った異装で神人に変身して、俗界の人びとに祝寿を垂れることができたのだ。

 そして、初春の季節が終わって再びヶの日がやってくると、またもや賤民として差別される「日常」の世界に引き戻された。初春や五節句などの歳時儀礼の間だけ、賤民が神々の代理人として門付けをすることができた。

沖浦和光「旅芸人のいた風景」(文春新書)

 

 このニンゲンの心の不思議を思う。わたしはここに、差別や賤視といったものの重大な謎とヒントが隠されているように思う。

 ところでわたしがいま勤めているショッピング・センターでも、祭りの露天もどきのイベントをときおり開く。派遣会社から来た若いアルバイトたちがヨーヨー釣りや吸盤付きダートの前に配置され、子どもたちが賑わうのだが、無論そこにはあやかしの残像は微塵も見あたらない。すべては拍子抜けするほど明るく、その明るさが、逆に陰湿な闇に深い地下茎で直結しているような気がしてわたしにはならない。

2007.10.26

 

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 子と二人でデートの日は前日から心踊る。日曜、昼。子の漢字検定(10級)のため訪れた近鉄奈良駅は人でごった返していた。女子トイレの前はおばちゃんたちで大行列。そうか、昨日から正倉院展が始まったんだな。登大路をわたって会場の奈良女子大までの鄙びた東向北通りは、閉店した食堂のメニューがアルミの蓋をしたまま置かれていたり、格子や古い器販売の看板があったりして風情がある。大学の正門近くの明治建築風の無人交番もよい。「お父さんだったら塗り直してチャーイの店でもするかな」「だれも来ないよ」 子とそんな与太話をしながらあれこれ見て歩く。正門の警備員に受験票を提示して入る。漢字検定はYが子に持ちかけたら「やりたい」と言うので、わたしが本屋で申込用紙をもらってきた。そのへんのところ、わたしは「子が面白ければいいんじゃない」程度の関心しかない。10分前に教室の扉が開いて親(ほとんど母親だが父親も少々)も子といっしょにぞろぞろと入っていくのだが、みんな凄いね。席を探して子を呼び寄せ、筆箱や下敷きをカバンから取り出して並べ、「いい? 始まるまでは試験用紙にはぜったいに触っちゃダメよ」「落ち着いて考えて、何度も見直すのよ。分かった?」 くどいほど子に訓辞を与える。ウィキペディアの解説では「漢字検定を単位認定や入学優遇に使用する高校・短大・大学が増えてきたことにより、最近では広く知られるようになってきた。また、漢字検定を重要視している企業もある」といったくだりもあるので、案外、そんなお受験の教育ママ・パパが多いのかも知れないな。それにしてもチト子に手をかけすぎじゃないんかね。わたしなぞ「じぶんで席さがせよ。分からないことがあったら監督のセンセイに訊けよ。終わったら階段下りてさっきの入り口のとこでお父さんは待ってるけど、いないこともあるかも知れないから、そのときは入り口で待ってろよ」と言っただけで、さっさと喫煙所を探しに出ていき、それから自販機で120円のレギュラー・コーヒーを買って池の端のベンチにすわり、沖浦氏の「「悪所」の民俗誌」の続きを読み出す。遊女の聖性についてのくだりを読む。そばの仮設の舞台で女の子たちが、おそらく文化祭の寸劇なんだろう練習をしている。ジャズ風のチューバと語りの入ったトーキングソングのようなBGMがなかなか面白い。隣のベンチでは男子学生(女子大だけど男もいるのか?)が二人、大きな声で肉まんについての議論をしている。積もった落ち葉が陽にほくほくと暖められて、地面の下に焼き芋を隠しているような気がする。試験は40分ほど。終了時間が近づくと親たちはめいめい子どもの教室の前で待機するのだが、わたしは人混みが嫌いのなので入り口前の植栽のふちに腰かけ本を読んで待つ。吐き出される群の終わり頃に子が一人で出てくる。「どうだった?」「ぜんぶできたよ」「そうか。あのさ、さっき言ってた王様の宝物(正倉院展のこと)を似せてつくったのがここにあるんだって。せっかくだからちょっと見ていこうよ」 「正倉院模造宝物展」というのが大学の記念館で無料展示していた。この記念館というのがやはり明治の頃の建築物でなかなかよい雰囲気だ。その中の古びた教室で洒落た碁石や厨子や絵盆や花形皿などを子と見た。入り口に座っている女性は、さっき試験会場の公衆電話で「あなた、言ってること分からない。新聞の31面、左はしよ。あなた、何見てます!」とたどたどしい日本語で何やら怒っていた人だ。女子大を出て若草山の方向へ、てきとうに路地をぬけていく。Yが喜びそうな小洒落た雑貨屋がある。古本屋を兼ねたアジア風喫茶の店があり「シークヮーサーうどん」の看板が出ている。1メートルもの自然木をそのまま扉の取っ手にした粋なデザインの扉がある。ふだん歩かない道を歩くのは愉しい。依水園・寧楽美術館の横を抜ける。長屋風の古い二階建ての木造家屋の玄関の格子の向こうに寝そべっている犬を子が見つける(子がじっと見つめていると犬は尻尾をふり寄ってくる。格子越しの交感をわたしは眺める)。石積みの水路の下に鹿がいるのを見つける。東大寺の参道を抜けて奈良公園の広々とした芝生のはたに新聞紙を敷いてYの用意してくれたベーコン巻きのお弁当をひろげる。何かのイベントなのか、広場の北のはしでトラックをつけたロック・バンドが演奏をしている。「うるさいなあ、これは。もうやめてくれよ」と子が不満げに言う。わたしも同意。こういうのはどうなんだろうね。自然の静けさを求めてみんな来るんだろうから、鳥の声や風の音で充分じゃないのか。Deep Purple の Smoke On The Water やチューリップの「心の旅」なんかもやっていたけど、まあ、大した演奏でもない。シタールや三味線なら合うかも知れないな。さて、昼食を終えたら子の待望の「鹿の餌やり」だ。屋台で買ってきた鹿センベイ一束8枚入りを、さらにじぶんで十カケラくらいに小さくちぎって、ちょびちょびとやる。小さな子が怖がって放り出していったセンベイを「一枚ゲット!」なぞと拾って来てまた大事にちぎりもする。わたしは桜の木の根元に腰かけ、鹿と戯れる子を眺めている。ときどき子がセンベイの補給に戻ってくる。「あの子はちょっと臆病ね」「あの子には○○って名前を付けたの」などと報告して、また走っていく。いちどだけ危ない場面があった。センベイに群がってきた鹿を恐れて背を見せて逃げ出しかけた子を若い雄鹿がはじき、そのまま地面にうつぶせで倒れた子の背中を踏んづけていったのだった。あっという間のことだった。薄情な父は思わず笑いながら、まず散らばったセンベイを拾い上げた。それから子の身体を引き起こした。「大丈夫か?」「うん、何ともない。5、6頭がわたしを踏んづけていったね」「いや1頭だけだったよ」 ちょうど芝生が掘り起こされた濡れた土のところだったから、子の服の前面は泥だらけだ。「これでおまえも鹿の怖さが分かったろう。人間に馴れてはいるけど、やっぱり野生の動物だから、注意して接しなくちゃいけない。餌を無理強いしたり、追いかけたり、それから今みたいに逃げようとして背中を見せちゃダメだ。背中を見せたら、鹿は「こいつは弱い」と思って飛びかかってくるからな」 たっぷり二時間は鹿と遊んでから、公園を出て駅へ向かう。そろそろ夕方だが、博物館の前は正倉院展の待ち列がまだ途切れない。「これはなあに?」 興福寺の阿修羅像のポスターの前で子は足を止める。「仏様の教えを守らない悪い人を退治する仏様の弟子の一人だよ」「どうしてこんなにたくさんの手があるの?」「たくさんの手でたくさんの苦しんでいる人をすくい上げてくれるんだよ。この世には苦しんでいる人があんまり多くて、二本の腕じゃとても足りないんだろうな、きっと」 帰る前にもうひとつ、子の「待望」が残っている。ソフトクリームだ。人でぎっしりの東向通りの商店街を抜けて、餅飯殿通りのすぐを折れた路地の先に看板を見つけた。笹餅飯・箱屋本店と書かれたその小さな店には人の気配もない。覗き込んでいると声をかけてきたのは、いま過ぎてきた路地の壁際に立てた竹箒を前にして座り込んでいたフランケンシュタインのような大柄な若い男性で、それがこの店の店主なのであった。「ソフトクリーム、じぶんでやってみる?」 そう言うと、機械をくるりと回して子にカップを手渡す。わたしはあわてて子に手を添えて、二人して捻り出されるクリームをカップで受けた。よほど暇を持て余していたのか生来の話好きなのか(おそらく後者だろう)、「この傘ね」とやおら店頭の傘立てから一本を取り出し「買って三日目にトンと地面を突いたらポキッと柄の部分が斜めに折れちゃったんですよ。仕方ないからアロンアルファでくっつけたんです」「こっちの傘はね」もう一本を出して開き「この骨の部分が壊れているんだけど、これはぼくには治せません」 そんな話をしていたかと思うと「“びっくり人間”って、もうみんな忘れちゃったんですかねえ。ほら、爪を1メートル伸ばしている人とか」なぞと、もう次の話題に移っている。シャッターを20センチほど下ろしてぶらさげ「暖簾代わり」とかひとり呟く。そして「子どもの頃は天井についたとか喜んでたけど、いまは何とも思わないんですよねえ。でもシャッターも簡単に下ろせるから便利でしょ」なぞと言う。そんな調子で延々と続くものだから、子はソフトクリームを舐めながらもう大笑いである(わたしはちょっとかれのテンションについていくのが困難であった)。店頭に朝日新聞・奈良版で連載していた「匠・アリ!」の記事の切り抜きが、古代米を笹でくるんで蒸した餅飯はかつての携帯食であった云々といった解説版と並べて置かれている。一度この餅飯を買いにきた中年の女性客がいたが「蒸すのに7〜10分かかります」と店主に言われると「あ。じゃ、いいです」と帰っていった。品書きを訊けば、この餅飯とにゅうめんだけという。「何てったって店主がぼくですからねえ。あんまり流行ってないんですよ」なぞと言う。この面妙なる笹餅飯・箱屋本店、こんどはぜひYも連れて餅飯を食してみたい。笹餅飯は分からないが、店主はおすすめ?

財団法人 日本漢字能力検定協会 http://www.kanken.or.jp/index.html

笹餅飯・箱屋本店 http://www.hakoya.info/

asahi.com奈良「匠アリ!」 http://mytown.asahi.com/nara/news.php?k_id=30000140704040001

2007.10.29

 

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 Yに図書館で川端康成の「伊豆の踊子」を借りてきて貰い、またローマ法王庁が出した「ニューエイジについてのキリスト教的考察」(カトリック中央協議会)の取り寄せを依頼して貰う。前者は沖浦氏が、旅芸人の様子をよく描いている作品と評していたため。川端康成はあまり読んだことがない。女々しいその死に方が嫌いだった。夜勤の仮眠ベッドの上で読んだ。30ページほどの美しい小品。川端が旅芸人の踊り子に託した「叙情」は、かつてわたしが「サンカ」の少女に抱いたそれとおなじ質のものではないかと思ったが、そうでないのかも知れない。後者は新聞の紹介記事で知った、教会離れに危機感を抱く教会による「自己批判としてのニューエイジ批判」の書。

 LEVON HELM / DIRT FARMER (VANGUARD) が届く。カードで購入するつもりでいたのだが、気を利かせたタワレコ店長氏が持参したのでY君に二千円を借りて代金を支払う。MP3プレイヤーに入れて深夜に聴いている。わたしの前に立ち現れるのは雄壮な、美しい夕陽のような風景だ。かつて The Night They Drove Old Dixie Down を歌った声が、老いぼれて、ひしゃがれて、この地上に残すべきわずかな曲を奏でようとしている。たとえば素朴なフィドルの伴奏だけで歌われる Anna Lee のこの喩えようのない美しさと敬虔さはどうだろう。砂利や炭のかけらで濾過した貴重な泥水を呑んだようにこころに沁みる。わたしはこの道を行きたい。

 リビングで風呂あがりのYと子が並んで座り、足首のイメージ・トレーニングをしている。ぴくりとも動かない左足に堪えかねて、子はその足首をひっぱり、言うことを聞かない農耕馬に対する心ない飼い主のようになんども叩く。しの、ゆっくりでいいんだよ。ゆっくりと、いろんなものがきっといつか動くようになる。

 

朝日新聞>「ニューエイジ」に警戒強めるバチカンの報告書邦訳 http://book.asahi.com/clip/TKY200710090078.html

2007.10.30

 

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 アマゾンで子のヴァイオリンのテキストを購入する。「新しいヴァイオリン教本3」の楽譜版CD版。これだけで6千円少々。ついでにヘンリク・シェリングの「:無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ全曲(バッハ)」のCD千円もおまけで。有名なシャコンヌが入っている名盤だが、さすがに1968年録音はちと古色蒼然だったかな。現代のバッハ演奏に馴れている耳にはさいしょ、あれっと思う。だが響きが良い、凛とした精神と品格がある。やっぱり名盤だ。テキストを一時中断の子は、やはりネットで買った楽譜「ヴァイオリンでスタジオジブリ」から大好きなカントリーロードを練習しているのだが、「ポジションの移動」でちょっと苦労しているようだ。

 職場の拾得物の警察届けの際にホームセンターへ寄っていよいよ水平器を購入する。アカツキ製作所(KOD), L-270-380。2270円、結構いい値段だ。でも、眺めているだけで嬉しい。

2007.10.31

 

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 白川静氏の『字通』によれば「遊」の原義は「神霊の宿る旗を押し立てて歩き回る意」であり、もともと「シャーマニズムに発した言葉」であった。遊芸民・遊女・遊行者----かれらは「大自然に坐す神々や精霊とじかに交信し、その力によって託宣・予言を行い、人々の願いを叶え」る者であり、「そしてカタル・マウ・オドル・ウタウなどの所作によって神霊を招き寄せた。その極致が「クルウ」だったが、それは神霊が憑依した瞬間だった」。古代に「遊部(あそびべ)」なる職業部があり、かれらの祖は「アマテラスの岩屋戸隠りの際に、陰(ほと)を丸出しにして踊って、アマテラスを岩屋の外に招き出した」アマノウズメとされている。それは「古びた秩序を侵犯し、こじあけ、新たな光をもたらす裂け目」であった(ゴムログ27・2002.10.7)。縄文土偶のふくよかな「地母神」にもつらなる、狂おしいほどのカオスから噴き出す豊穣な「聖性」は、しかしやがて律令制の時代に中国大陸から儒教的な男性優位思想が導入されると国家秩序の枠外へとはじき出されていった。〈聖〉は〈穢〉へと貶められたのである。いやカオスが〈聖〉と〈穢〉とに隔てられたというべきか。裏表を喪失したのっぺらとした月がさむざむと昇った。

 平安末期から鎌倉幕府創設に至る「武者(むさ)の世」の激動期に生きた後白河院は異能の天皇であった。卑賤の「声わざ」とされた下層民衆の芸能を愛し、遊女・傀儡子(くぐつ)・巫女など遍歴する遊芸民の歌謡を集めた「梁塵秘抄」を編纂し、側近から「暗王」「愚物」と囁かれた。かれは遊女を後宮に入れて女房とし、また70歳を越えた老齢の傀儡女から「今様」の歌謡を習った。この傀儡女が死ぬと後白河院は「毎晩阿弥陀経を誦んで冥福を祈った。それから一年間は、千部の法華経を誦んで菩提を弔った」。あるとき遊女出の女房が里で死んだ傀儡女の夢を見た。その傀儡女が夢でかれの歌を褒めていたと聞き、毎年の忌日に歌で傀儡女を弔ったという。〈聖〉であり〈浄〉であった天皇が、〈賤〉であり〈穢〉とされた遊女・傀儡子を深く愛したという歴史の変成を、わたしたちはもっと知っておいた方がいい。

 江戸期になると、国家権力による統制はさらに強まっていった。「アルキ筋」と呼ばれた道の者は「制外者」という秩序外の刻印を穿たれ差別された。「穢多」「非人」と呼ばれた多種多様な賤民たちはそれぞれ穢多頭・非人頭の制度化に組み込まれた。歌舞伎役者は「狂言芝居野郎共」と呼ばれ、また遊郭は「色香に溺れ国を滅ぼす」という意の「傾城屋」と名付けられ、それぞれ賤民と同様、定められた区域に住まわされて一般の町人たちとの自由な交流さえ制限された。堀や柵で囲まれたそれらの地は、やがてカオスを秘めた「悪所」へと発展していったのである。「悪所」の特質を、沖浦氏は次のようにまとめている。

 

1. 地縁的な共同体関係とは無縁な、匿名性が高い非日常的な空間。

2. これまでになかった新しい文化情報の発信と収集の機能をそなえた「場」。

3. 身分の上下を越えて、アウト・ローを含めて誰でも出入りできる特異な「場」。

4. 境界性・周縁性を帯びた地域なので、「混沌(カオス)」性が無限に増殖していく「場」。

5. 遊女が、理想型としてあこがれの的になる人倫秩序の転倒した「場」。

6. 「漂泊する神人」の影が漂い、役者が身に潜めた呪力を表現する「場」。

 

 沖浦氏はまた、江戸という新興都市は、神仏の坐す「聖なる場所」、人びとが集住する「俗なる場所」、さまざまの禁忌(タブー)をはらんだ「卑賤で穢れた場所」の分節化によってその都市空間が構想された、と記している。「卑賤で穢れた場所」とは「芸」の芝居町であり、「性」の色町であり、「穢」の被差別民たちが住まう地域であった。明治になって新しい興行街として整備された大阪・千日前は、かつて広大な刑場と火葬場のあった墓場であった。カオスは封じ込められ、だがそこから井原西鶴や近松門左衛門のような反秩序の色濃いアウトロー的文化が花開いていったのである。そのこともわたしたちは記憶しておいた方がいい。

 

 〈聖・俗・穢)がまだはっきり分化されていない混沌の時代の神々は、和魂(にぎたま)であるとともに荒魂(あらたま)でもあった。〈聖なるもの〉も〈穢れ〉も、神秘的な大自然の威力のプラスとマイナスのそれぞれの側面の表象だった。〈聖なるもの〉は、ヒトが生きていく糧をもたらす大自然の無限の力の表象だった。そして 〈穢れ〉の持つ危険で恐ろしい力もまた、計り知れない根滞的自然の表れとしてとらえられていた。

 人間が築いた文化の進展と共に、大自然に坐す神々は、社会の表面では、しだいにその姿が見えなくなる。だが、依然として「混沌」に内在していたのである。

 国家を形成しその権力を握った支配者は、文化を制度化することによって「秩序」を作り出していったが、絶えずその足元を脅かしたのは、カオスの力を潜めていた周縁の部分だった。中世の勧進興行や門付芸を担った遊芸民は、まさにそのカオスの領域から立ち現れ、このはかない浮世の行く末について「モノ・カタリ」したのであった。

 近世に入っても、中世の遊芸民の残像が「役者」の芸に色濃く投影されていた。そのような系譜に連なる「役者」は、カオスの側からの挑発的なパワーを身に潜めていたのである。

 時代とともに、「さすらいびと」「まれびと」への畏敬の念は薄らいできたが、それでもなお民衆は、歌舞伎の舞台で「漂泊する神人」の面影を幻想することができたのであった。

沖浦和光「「悪所」の民俗誌―色町・芝居町のトポロジー」(文春新書)

 

 いまの日本に真の「悪所」はあるだろうか。アマノウズメの末裔たちはどこへ消えたのか。従順で、清潔で、明るいだけの、うすっぺらなニセモノ野郎共などみな蹴散らしてやれ。

2007.11.1

 

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□ ピースケのさんぽ (およめたち)

 

 ピースケは、ある日、はじめて外に出ました。「ピースケ王子、あんまり外にいちゃだめよ。すぐ、かえってくるのよ。」 リーナ王女がちゅういします。「父さんがよんだらすぐかえってくるんだぞ。こないとたっぷりしかってやる。」とライク王がいいました。「ハチとカメムシとワシとふくろうとウサギには気をつけてね。」とイナラ姫がいいました。「わかったよ。かあさん、とうさん。兄さんによろしく。」とピースケはいって、すからとび出しました。

 森の中のお花ばたけを見ながら、ゆっくりとんでいたピースケは、かすかなひめいをききました。「たすけて! たすけて!」 なきごえのするほうへ、ピースケがとんでいくと、うつくしい子とりがワシにおそわれているとわかりました。「そこの女の子! すぐにぼくがたすけるよ!」 ピースケは子とりだったけれど、ゆうきはあったのです。ピースケは、まえに、じぶんをたべようとしてやってきたワシのむれをのこらずやっつけて、のこったのは、ワシの王さまでして、ピースケはそれもたいじしたのです。なので、すぐ、このこのワシもふっとばしてしまいました。

 「ありがとう。あたし、、メルナ・リンコよ。」と女の子はいいました。「ううん、こんなのかんたんだよ。ぼく、エイク・ピースケ。」と、ピースケもいいました。「でもねえ、きみ、どうしてこんなとこにいるの? おうち、ないの? ついぞ、みかけたことない子だけど。」とピースケがきくと、女の子は、さみしそうに「おうちはあるけど・・・」といいました。「どうしたの? まいごなの?」とピースケがきくと、「うん、そうなの。まいごなの。おしろからそとに出たとたんに、なんにもわかんなくなっちゃったのよ。」と、女の子はこたえました。「どこからそとに出たって?」ピースケはききました。「おしろからよ」 女の子は声をひそめていいました。「きみはだれ?」 ピースケは気になってききました。「お姫さまよ。」 女の子はもっと声をひそめてこたえました。「お姫さまだって!!」 ピースケは小声でさけびました。「そうよ。そうなの。」 女の子はいいました。「たいへんな大じけんだ! ママに知らせなくっちゃ!」 ピースケはむがむちゅうでさけびました。そして、じぶんではメルナ・リンコとなのるリンコをうしろにひきつれて、いえまでいっしょうけんめいとびました。そしていえにつくとリーナ王女にいままでのこと、リンコのことをはなしました。

 「この子はね、じぶんでいえにかえれないとおもう。だって、ハチとかカメムシとかふくろうとかワシとかウサギだとかっていうものにおそわれるし、だいいいち、この子はみちがわからないって、そういってるんだもの。ね、いかせて。じゃないとぼく、よる、かわいそうでねむれないよ。ねえ、おねがい。ね、ね。」とピースケはリーナ王女にたのみました。「わかったわ。で、その子のなまえはなんていうの」とリーナ王女はいいました。「メルナ・リンコともうします。いつもはメリンとよばれていますが。」 リンコはおとなしくいいました。「じゃ、メリン。あなたはまず、からだをあらってあさごはんをたべなさい。それから、けずくろいをして。そのあと、にもつをまとめなさい。でも、あんまりつめこみすぎないほうがいいわ。かるいほうがたびにはいいわ。じゃあ、やってらっしゃい。メリン」 メリンはおとなしくうなずいて、おふろのあるばしょに行きました。ピースケはにもつをまとめに行きました。

 やがて、二人はじゅんびができて、しゅっぱつしました。でもすぐ、人間のどなり声がきこえました。「あそこにとりがいるぞ。」「きれいなとりだ。」「つかまえて金をもらうぞ。」 ピースケはどきりとし、メリンはふるえあがりました。 けれどピースケは、テントのようになっているしげみがあるのを見つけると、きゅうにおちついていいました。「ごらん。あそこにしげみがある。あそこにいそいでもぐりこむんだ。いいかい、一ときも、一びょうも、立ちつくしちゃだめだ。わかったかい。それ!」 ピースケがさけんだとたんに、メリンはくさむらにとびこみました。ピースケはかくごをきめてメリンをだきかかえてじっとしています。人間はのんきにこんなことをいっています。「おっかしいなあ。」「ここに、とりどもがとんでいたんだがなあ。」「とにかく、ひきあげよう」 人間は、さっていきました。そして、メリンとピースケがあんしんしてとんでいくと、一けんの家がありました。そこにはこんなはりがみがしてありました。

 

ココロノヤサシイオニノウチデス。ドナタサマデモオコシクダサイ。オイシイオカシガオアリデス。オイシイオチャモワカシテゴザイマス。ニンゲンノミナサマ、ココノオニハコワクアリマセン。ココロノマジメナオニデアリマス。ニンゲンノミナサマ、ダレサマデモ、オコシクダサイ。

ニンゲンノミナサマ

アカオニ

 

 とぐちのまえに、こんな立てふだがしていたのです。「キャー! オニー!」 メリンは小声でひめいをあげました。「し、しずかに! 人間にかんづかれるよ! でなけりゃ、オニにかんづかれるよ! しいっ、しずかにおしいっ!」 ピースケもむちゅうでさけびました。おちついてから、ピースケはいいました。「とにかくゆっくりかんがえなきゃ。オニってもんは、わるくてこわいものなんだよ。」 メリンもあんしんしていいました。「こわいものなのに、ヤサシイってかいてあるんですものね。それだけじゃないわ。ココロノってかいてあるんですものね。」 ピースケもすこしかんがえこんでからいいました。「うん、そのとおりだ。それに、よくよんでごらん。オチャモワカシテイマス。オカシモアリマス。だって。とっおってもまじめなきもちでかいたんだろうなあ。ココロノマジメナ、ってかいてある。でも、ニンゲンってかいてあるから、ぼくたち、はいれないかもしれないよ。それに、じめんにはスキップしたあとがある。たてふだで、くるってきもちをおさえられなかったんだね。でも、いや、ちょっとまてよ、これだけでヤサシイオニだとは・・・」

 そのとき、ガラリとマドがあき、青いオニと赤いオニとみどりのオニがかおをだしました。「ああ、きたな。」と青オニ。「おいしそうなとりめだ。」と赤オニ。「とりにくにしてくってやろうか。」とみどりのオニ。二ひきはびっくり。あわててにげだしました。やっとこさっとこにげて、しげみのおくふかくにもぐりこんで、やっとあんしんしました。「これじゃあ、おしろにいけやしない。」とピースケがいいました。「おしろにはとおいのよ。それにあたし、つばさにけがをしちゃったの。これじゃあとてもおしろにつくまでもちゃしないわ。」 ピースケがメリンのゆびさしたところを見ると、ちがたきのようにながれ出ていました。「にげるとちゅうで、ハマナスのとげにささったの。いたいわ。」 メリンはかなしそうにいいました。「いまも?」 ピースケはたずねました。メリンはうなずきました。ピースケはいそいではっぱとわらをあつめ、二、三日、やすませてやりました。

 メリンがある日、いいました。「ピースケ。あそこに、カシワの木があるでしょ。あそこが、わたしのメルラ国なの。」 そこで二わはそこにとんでゆきました。すると「おお、ピースケどのよ。よくきてくれた。」 王さまはおくにあいずをしました。すると、王女さまが出てきて、「まあ、ピースケさま、むすめは。」 ピースケがメリンを見せると「まあ、メリン。」「おお、むすめよ。」とよろこびました。そしてピースケに「そのほうとは、よるの八じに、わしのへやへきてもらうことにしよう。はなしておきたいことがあるのだ。めしつかいをやるから。」といって、王女とメリンといっしょにつぎのへやにいってしまいました。

 そのよる、八じに、ピースケはよばれました。「おまえは、メリンをまもるかくごはあるか?」 王さまはきかれました。「いままでのことがそれです。」 ピースケはこたえました。「では、むすめがすきか?」 王さまはききました。「はい。せかいじゅうの中でも。」 ピースケはこたえました。「よろしい。では、おまえにむすめをやろう。いいかね?」 王さまはいいました。「さようでありますか?」 ピースケはききかえしました。「さようだ。いいかね?」 「さようではいと。」 ピースケはどうどうとこたえました。「でも、あなたは・・」 「わたしは、むすめにすこしでもわらってもらいたいとおもっている。だから、姫にやさしくしているのだ。たいていしかるが。あの子はがまんづよいたちなのだ。けっこんしてくだされ。」 王さまはかなしそうにいいました、「わかりました。できるだけのことはしてまいりましょう。」 ピースケは、メリンとけっこんしました。名前も、エミール・ピースケ王ニせい、エミール・メリン王女二せい、また、その子どもがエミール・リリールと名づけられ、まい日、しあわせな日日をおくっていきました。ピースケとメリンは、せかいじゅうで、一ばんしあわせものでした。しあわせものでした。とうとうしあわせがきた、はじめのころのおはなしです。(おわり)

 

かいせつ(あとがき)

わたしの家では、ピースケという子とりをかっていました。そして、その子にしあわせがきたらとおもうと、むねがいっぱいになり、つい、このおはなしをかいてしまったのです。これは、わたしが、ジュールのあそびというおはなしや、しずくの耳をすませばのおはなしよりももっと先にかいたものです。ぜひ、ゆうめいな本になってほしいとおもいます。どうかみなさん、やさしいみなさん、このあわれなピースケを、このふじゆうなピースケを、このやさしい、おもいやりのあるこころのピースケを、めぐりあえるように、ねがってらっしゃいませ。ピースケのしあわせをいのってください。

 

○○紫乃

(かなしみあふれる本)

2007.11.3

 

*

 

 

 長い時間をかけて形成された「言葉」は、その歴史を凝縮したような濃密な意味を含んでいる。それだけではなくて、強いイメージ喚起力を持っている。「悪所」もその一つである。今日では猥雑で背徳的な「場(トポス)」というほどの平俗な言葉として通用しているが、文化史の深層を掘り下げてみると、実に深い意味が集積されていることが分かる。

 色町と芝居町がセットになって「悪所」と呼ばれ、近世の重要な文化記号(コード)の一つとして用いられていたのだが、幕府の統治理念からすれば、風紀を乱し良俗を侵す「場」であった。遊女と役者を共に「制外者(にんがいもの)」と呼んで、溝や塀で町域から隔離された領域に閉じ込めたのである。

 しかし権力の意向とは裏腹に、この「悪所」が江戸文化の二大発信源になった。そしてそこに潜められた〈悪〉)の意味作用が、既成の秩序(コスモス)を破壊する混沌(カオス)のエネルギーにしだいに反転していったのである。

 そのように歴史をたどると、数多くの重要な問題群が伏在していることが分かってくる。

 例えば中世の遊女である。彼女らの「性愛(エロス)」には、巫女の系譜に連なる一種の〈聖〉性が宿っているとみられていた。その身に、アニミズム時代の神々の霊力を潜めていたのである。そして江口・神崎の遊女や白拍子・傀儡女たちは、後白河や後鳥羽など天皇史の上でも傑出した院に愛されて、その子を産んだ。

〈中略〉

 〈悪)という言葉の裏側には、だれきった日常性を破壊するデモーニッシユな力が潜んでいた。「呪力」という言葉は、そのような混沌の底知れぬ力を象徴していた。その呪力を胎内に秘めていたのが、遊女と遊芸民であって、両者を通底するキーワードは〈遊〉と〈色〉と〈賤〉であった。

 遊里と芝居町が一体化して新しい文化コードになってくると、〈悪〉〈遊〉〈色〉〈賤〉が渾然一体となって、周縁部で蓄積されたエネルギーは絶えず増殖していった。「悪所」に潜む呪力が、時代思潮を変える一つの原動力になった。

 そして、あろうことか、徳川幕藩体制という「秩序」を食い破る下からのメッセージの発信源となった。まさに支配権力が全く想定できなかった新事能へと展開していったのである。

 身分制の秩序は、実はさまざまの差異が巧みに組織された体系に他ならない。〈貴・賤〉という身分や〈浄・穢〉の観念によって、人間集団の序列や居住空間の配置も決められる。もちろん〈男・女〉という性差も、その枠組みの中に組み込まれて、ガチガチの男中心社会となっていった。

 さまざまな法規制によって支配体制が硬直化してくると、社会の下郡でエントロピーが増大してくることは目に見えていた。噴出してくる不平憤懣をそらすために、いろんな捌け口が用意される。「悪所」もそのために公認されたのだが、そのような幕府が設定した文化的仕掛けが、結局は儒教倫理を基抽とした人倫の体系が切り崩されていく糸口となった。

 その最初の波は、17世紀末の延宝から元禄にかけての時代にやってきた。底辺の社会に生さる人間を主人公として、この「憂き世」の実相を活写した井原西鶴と近松門左衛門。そして歴史の闇の中に埋没していた「色道」に光を当てて、そこに激動する時代の新しい気配を感じた藤本箕山と柳沢淇園----彼らが前衛的旗手となって、第一次の文化革命としての元禄ルネサンスが現前した。

 次の大波は、その百年後にやってくる。歌麿の遊女絵と写楽の役者絵を世に出し、大田南畝・山東京伝・曲亭馬琴・十返舎一九などの文人ネットワークを組織した蔦屋重三郎。さらに四世鶴屋南北を頂点とした化政期の劇界----この新潮流が第二次文化革命であって、名もなき民衆がオモテ舞台に出てくる大衆化社会の予兆となった。

沖浦和光「「悪所」の民俗誌―色町・芝居町のトポロジー」(文春新書) あとがき

 

 

「やあ、こんなところにレストランがあるぞ。“注文の多い料理店”のようで何だか怖いけど、ちょっと覗いてみようか。ご免下さい」
「はい、いらっしゃいませ」
「ここはレストランですか?」
「はい、お菓子と、レストランもやっています」
「ちょうどいい。山道を歩いてきてお腹がぺこぺこだ。ご馳走になろう」
「お一人、5ドルになります」

「いや、とってもおいしい料理でした。それにしてもこんな山の中でお客さんはくるんですか」
「はい。日曜日は600人ほど」
「へえ、そんなに。平日はどうですか?」
「そうですねえ、2〜3人くらいですかね。あまり来ないです」
「それであなたは一人でここをやってらっしゃるのですか?」
「ええ、ふだんは木や木の実や葉っぱでおもちゃや家具をつくって、村に売りにいきます。」
「お父さんやお母さんはいないんですか?」
「父は自転車で駅まで行って、そこから電車に乗って工場に働きに行っています」
「それでお母さんは?」
「母はいま竹を切りに行ってます。おもちゃの材料になるんです」
「それにしても、ここはいいところですね」
「はい、わたしもこのお店が大好きなんです」

 

 日曜日。今日も子と二人、お弁当をもって矢田山へいく。Yも誘ったのだが家でアイロンと読書をしていると仰る。昼前に車に乗り込み、わたしはカーステでリヴォン・ヘルムの Drit Farmer をかける。子は後部座席で手塚治虫編「世界の科学者」(中央公論社・ガリレオ・ニュートン・エジソン・キュリー夫人・アインシュタインの生涯を描いたマンガ)を読んでいる。いつもの矢田山遊びの森。このごろ学校でよくやるというドッジボールの「特訓」を小一時間みっちりやり、シートをひろげてお弁当を食べてから、山中の散策コースを散歩。見晴台のベンチで恒例「山のレストランごっこ」をやって夕方に帰ってきた。最近お腹の出てきた父さんにはいい運動になりました、はい。

2007.11.4

 

*

 

 学校から帰った夕方、子は母親と城ホールへウィーンフィルの団員の演奏を聴きに行く。「親子でクラシックを楽しむ会」と題された企画は、日本の子どもに良質の音楽をというウィーンフィル楽団員の好意で入場料はワン・コイン、わずか500円。曲目はクライスラーやシュトラウスの小曲など小一時間。シューベルトのピアノ五重奏曲「鱒」では、「お母さん、鱒が跳ねているみたいな音だね」と子は母の耳元に囁いた。わたしも仕事でなかったら聴きに行きたかったな。

 帰ってからヴァイオリンの練習で急に、音色が軽くなり、よくなった。ちょっと今日見た人の弾き方を真似てみた、と子が答えたとか。

2007.11.5

 

*

 

 十数年前に買った冬のスーツのズボンが入らなくなったので、Yとならファミリーへ買いに行く。20代には70センチだったウエストが、いまでは80センチを超える。時というのは残酷なものだ。「どんなお色をお持ちですか?」と訊かれても夏・冬の一着づつしか持っていないし、「これはイタリアの○○○という生地を使っているもので」と言われてもさっぱり分からん。それで「んー、何か、デビュー当時のローリング・ストーンズみたいですな」と答えた。さて、残酷対象のズボンを試着すれば、じつにジャスト・フィットで、これなら気兼ねなくバイキングでもどこでもいけそうだ。「いかがですか?」「いやあ、ぴったりで、とてもいいです。裾は忠臣蔵の殿様みたいですが」 他にテーブルに敷く子のランチョンマット処分品300円なぞを買い、Yの百貨店検分にしばらくつきあってから、レストラン街のとんかつ屋で昼を食べる。無事ゆったりのスーツも買ったので、安心してご飯としじみ汁とキャベツをお代わりする。帰りに電気屋へ寄って、居間に置くホットカーペットを購入する。長いこと店員が見つからずむっすりしていたら、いっしょに買ったDVDのメディア50枚をサービスしてくれた。学校に寄って下校の子を拾う。先日、先生があんまり子の作文(日記)を褒めるので、いい気になった親馬鹿の父は子の書いた物語をふたつほどプリントして子に持って行かせたのである。今日、その「ピースケのさんぽ」を先生はみんなの前で読んでくれた。子は恥ずかしさのあまりずっと耳をふさいでいた、と先生の話。 

2007.11.6

 

*

 

 奈良に来てわたしがはじめて就いた仕事は、職安の求職票で見つけた酒造手伝いであった。そこを辞してから染め物の小さな工場で数年働き、葬儀屋の下請けの花屋で数年働き、いまの警備会社に勤めてかれこれ4、5年が経つ。藍染の発色を良くするために人骨を使ったという話が柳田国男の『毛坊主考』に出てくるそうだ。沖浦氏に言わせれば紺屋は「職人の中でも賤民に近い」存在であった。死という穢れに最も間近に接する葬送---キヨメ役を課せられていたのも、中世では検非違使の管理下にあった河原者・犬神人・三昧聖といった賤民たちだった。村々の境界や街道筋に居住させられた、いわゆる被差別部落の人々には警固や刑吏の役が課せられた。一方、わたしの父は若い頃からカバンなどをつくる革職人であったが、「かわた」などと呼ばれたこの生業は古来より被差別部落の人々の主産業であった。わたしの祖父は後年は消防署に勤めて定年を迎えたが、もともとは「こまい」と呼ばれた壁の下地に用いる縦横に組んだ竹や細木の細工の職人をしていた。竹細工もまた、諸国を漂泊する川の民の主たる生業である。こうしてみるとわたしの家系は親子孫の三代にわたって、ときが身分制社会であったら、見事に賤民の系譜を継承していることになる。そのことをわたしは、先祖がどこぞの殿様であったり名だたる名家の出であったりするよりも、いっそ誇らしく思うのだ。ちなみに母方の系譜はといえば、熊野の山村に暮らしていた曾祖父は山から伐り出した木材を筏にして新宮へ運ぶ筏師の頭領であった。その山中深い集落は古来より大台修験の宿もしており、山伏が還俗して住み着いた例もあると聞く。つまり山の民と異界を経巡る非慈利であり、農本社会から逸脱したやくざか香具師のようなものだ。ふつふつと、勇気が湧いてくるではないか。

2007.11.7

 

*

 

 沖浦和光氏の著作。「竹の民俗誌」「「悪所」の民俗誌」「旅芸人のいた風景」(以上新書)「幻の漂泊民・サンカ」「日本民衆文化の原郷」「天皇の国・賤民の国」(以上文庫)といった新書・文庫で出ているものはだいたい読み尽くした。単行本では五木寛之との対談「辺界の輝き」が一冊。単行本は値段が張るので月に一冊づつか、ネットで安い古書を見つけて買っていこうと思う。「陰陽師の原像―民衆文化の辺界を歩く 」「佐渡の風土と被差別民―歴史・芸能・信仰・金銀山を辿る」「アジアの聖と賎―被差別民の歴史と文化」「ハンセン病―排除・差別・隔離の歴史」「インドネシアの寅さん―熱帯の民俗誌」「日本文化の源流を探る」 宮田 登との対談「ケガレ―差別思想の深層」  三国連太郎との対談「「芸能と差別」の深層」 これらの著作はすべて読んでみたいが、「瀬戸内の民俗誌―海民史の深層をたずねて」(岩波新書)のようにすでに絶版で高い値が付いているものもある。野間宏との対談の「日本の聖と賤」(四部作)は20代の頃、図書館で借りて読んだ記憶があるが、これもいつかは揃えたい。すでに読了した著作も、気がつけばふたたび頁をめくり、制度や秩序からはずれてしぶとく生き、歴史の闇に消えていった名もなき無数の人々の在りし日の姿を追っている。ジェシー・ジェイムズビリー・ザ・キッドのようなアウトローを探しているのだ。いわば沖浦氏の著作に登場する制外者(にんがいもの)たちは、わたしにとって"But to live outside the law, you must be honest" というような者たちだ。痛ましく、黒く、ずぶとい。「「部落史」論争を読み解く----戦後思想の流れの中で」(解放出版社)の古書を500円で見つけ、注文した。

 

 ザ・バンドのアルバム「Stage Fright」(1970)に入っている All La Glory という曲が、ひそかに好きだった。リヴォンのボーカル曲だが、頼りなげな、教会の懺悔室に入った少年の告解のようなその声は、あまりリヴォンらしくない。今回の新譜 Drit Farmer は、どこかそんな手触りに似ている。ザ・バンド以外のリヴォン・ヘルムの演奏といえば、ウッドストックに御大マディー・ウォーターズを迎えた The Muddy Waters Woodstock Album と、ドクター・ジョンやMG’S らと組んだ Levon Helm & the RCO All Stars を持っているが、ザ・バンドを離れたリヴォンの曲はどれもリズム・アンド・ブルーズを基調としたもので、かれの伸びのあるアメリカ的なシャウトと相まって、どこか単調になりやすいきらいがあったことは否めない。ところが今回のアルバムは装いが異なり、まるで別人の作品のようだ。収録された全13曲はどれも相当に古いトラディショナルな曲か、それに準ずるものだ。エレクトリックな楽器はほとんどない。アコギとマンドリン、フィドル----そのほとんどをかつてディランのバック・バンドにいたラリー・キャンベルが担当している。このアルバムにおけるかれの貢献度は大きい----オルガン、ピアノ、それに娘のエイミー・ヘルムを加えた二人の女性シンガーがリヴォンの声をサポートしている。リチャードやリック・ダンコとザ・バンドを再結成した頃はまだザ・バンドの影を追っていた。だがリチャードもリックもこの世を去り、一人残されたかれはとうとうザ・バンドの影を拭い去った。喉頭癌で一時は二度と歌えないかと思われた声は、内なるルーツに帰還する。以前のような張りを失った、かすれがちなその声は、皮肉のようだが、その帰還に相応しい。声の制限が深度に作用したのだ。わたしにはそう思える。何よりこのアルバムに収められたすべての作品には、深い敬虔な感情と、豊かな音楽の息遣いと、家族的な親密さからしか生まれ出ないある種の力強い愛情が脈打っている。よくなめした皮製品や手入れの行き届いた100年前の古い家屋のような味わいがある。そうしてよく耳をすませば、これらの作品のふとした瞬間に、わたしたちはあの雄壮な The Night They Drove Old Dixie Down や、自由な麦畑の Ain't No More Cane の原液を嗅いだような酩酊を覚えるのである。忘れてはいけない。リヴォン・ヘルムは、ザ・バンドの“聖なる三つの声”の残された最後の一人なのだ。その声はいま、いくつもの川筋をたどって、大いなる音楽の源流にいる。

 

 トイレの便座に腰かけると、11月のカレンダーのメモ欄のこんな書き置きが目に飛び込んでくる。

 

11月のめあて
おはなし・ものがたりをつくってかこう

おかあさん(うまぐも)
おとうさん(ねぼすけビーミー)
しの(ナルトラのつくりばなし)

これをつくって、かきおわった人はつぎをつくってかきましょう。そしてよみましょう。がんばってね。

(天のほしたち) どんなはなしをしているかな?
(うそつきバドン)
(きれいなほし)

しめきり日・11月30日まで

 

 子は今朝、足の痛みを訴えて、学校を遅刻して近所の皮膚科を受診した。右の親指の付け根あたりの裏側が押さえると「ちくちくと痛む」と言う。子の証言と医者の診察から、昨日の休み時間にやったブランコの立ち漕ぎの際に痛めたものだろうという結論になった。ブランコを漕ぐ際に力のはいる足裏に装具が当たる。ふつうであれば痛みを感じるときには自然、無意識に足が姿勢を変えて当たっていた部分を避けるのだが、子の場合は神経が鈍いのでそれができない。当たったままの姿勢が継続し、炎症を起こすというわけだ。幸いに傷にまでは至ってなかったので、しばらくブランコを控えていたら腫れは引くだろうとのこと。「ええっ〜、せっかく立ち漕ぎができるようになったのに!」と子は思わず悲鳴のような声をあげた。「座って乗ったらいいじゃない」と医者が諭せば、「(それは)もう何年もやってきたの!」と子は怒った。

 

 ところで数日前、子は学校の宿題である日記にこんな文章を書いた。

 

11月1にち (もくようび)

 きょう、ドッジボールたい会がありました。
 だい一かいせんは、二くみと三くみがしょうぶをすることになりました。二くみがボールをなげました。
 三くみは、なかなかてごわいてきでした。
 そうまさんか、せきさんか、よしださんがなげたボールをまえの子がうけとめて、人ごみの中にボールをとばすからです。
 むこうもこっちも、ボールをなげられたときは、なげられるところにポッカリと(わたしはそうおもえたのです)あながあけられるのです。というか、男の子と女の子のあいだが、あるのでした。
 一かい、わたしはあてられました。でもすぐ、二かいせんがはじまったので、ずっとガイヤになっていないでよかったのですが、ながいことにげまわっていなければならなかったのでたいへんでした。
 それから、てんすうがきめられました。
「こんどのドッジボールたいかいでの一とうは。」女の子がいいました。わたしは、とびこんできたそのことばをにがさないように、しっかりとおさえてよくかんがえました。このまま、こいつをおさえていて、なにになるだろうか。いっそ、にがしてしまおうか。こころきめて、わたしはそっとつつみをひらきました。そのとたん、しめった空気がわたしのこころをぬらして、
「二くみです!」
ということばがありました。うれしくて、うれしくて、なみだがでそうでした。
 一とうしょうになって、うれしかったです。
 うれしくて、うれしくて、ほんとうにしあわせです。しあわせです。

 

 わたしが声を出して読み終えると、横でYがそっと目頭をぬぐっている。「おい、どうしたんだよ。泣くような話か」と問えば、「紫乃は体育でなかなか一等にはなれないから、だからほんとうに、嬉しくてたまらなかったんでしょう」と彼女はしずかに答えた。

2007.11.8

 

*

 

 朝から子は「頭ががんがんする」と言って学校を休む。「頭ががんがんする」と言ったわりには枕元のぐるりに本の半円をつくって読み耽っているが、午後から熱が上がってきて「目まいがする」と言い出し、夕方にYが医者へ連れて行く。

 数日前、山田洋次監督の「武士の一分」をYと見た。う〜ん、いいですな。「一分」を忘れている人間が昨今、多くはござんせんかと亡き寅さんからのメッセージと受けとめたが、でも別にキムタクじゃなくてもよかったんじゃないかしらん。「股旅」のショーケンみたいな一見情けない奴がどん底まで落ちて修羅となるような設定だったら、もっと深みが出た。昨日は子が寝てから三谷幸喜原作・脚本「笑の大学」を見たが、まあまあかな。もっと笑わせてくれるかと期待したんだが、これは舞台向きかも。その後Yが寝てしまい、一人ギャオ「サイン・オブ・ゴッド」というドイツの、タイムトラベラーが撮影したイエスのビデオをめぐる活劇冒険ものを見たけど、これはもうヘボ映画でした。ブニュエルが見たくなった。

 アマゾンでへたってきたビデオ・カメラのバッテリー(非メーカー純正品)を注文する。この頃、あまりビデオ・カメラを回さなくなった。ビデオ・カメラを回していると「他者」になって、体験を共有できなくなる。ロストしてしまう。それが嫌で、あまり持ち回らなくなった。けれどYが「この頃ビデオを撮らなくなったねえ。(子が)動いている可愛い姿も撮って欲しいな」と言うもので。

 森本哲郎「神の旅人・パウロの道を行く」(新潮社)を読み始める。「わたしはじぶんが死ぬって考えたとき、死んだ後もじぶんがシノやあなたのまわりにいて眺めている、そんな風景が自然に見えてくるの。だから死んだらそうなるんだと思ってる。」 「そう思うのなら、それはきっとほんとうなんだろうな。でもじぶんは無神論者だから、そう思いたいけど思えない。いまのじぶんは死んだら無だとしか思えない。」 そんな会話をいつかの夜、Yと交わした。

2007.11.9

 

*

 

 掲示板で寮美千子氏が子の作文についてコメントしてくれているので、記念に転載しておく。子の返事は途中まで、「カナ入力」の設定にしたPCに向かい、じぶんで打った。

 

□ 山のレストラン 投稿者:寮美千子 投稿日:2007年11月 7日(水)00時21分18秒

しのちゃん経営の「山のレストラン」のすてきなこと!
写真を見ているだけで、一冊の絵本を読んだような満たされた気持ちになりました。
ほんとに、かわいいね。

 

□ 寮さん 投稿者:まれびと 投稿日:2007年11月 9日(金)17時08分38秒

この間、風呂の中で寮さんの「星兎」のラスト、少年とうさぎの会話全編を暗誦してくれましたよ。
あのうさぎの「分からないんだ・・」を繰り返すときの、うさぎになりきった、不思議そうな顔は寮さんに見て欲しかったなあ、じつに!

>「山のレストラン」
女の子の「・・ごっこ」というのは、ちと男には辛いときがあります。じつは。

 

□ しめった空気がわたしのこころを 投稿者:寮美千子 投稿日:2007年11月 9日(金)21時20分27秒

>うさぎになりきった、不思議そうな顔
見たかった!

>暗誦してくれました
しかも暗唱! 作者冥利に尽きます。

それにしても、しのちゃんの作文の表現の豊かさは、どこからくるのでしょう。
とても小学校1年生の女の子とは思えません。
あの大量の読書が効いているのでしょうか。
何度も何度も、読み返してしまいます。
生憎、年齢のせいで物忘れがひどくなったわたしの頭じゃ、とても暗唱はできないけれど。
でも、何度読んでも、すてき! 特に、以下の部分など。
「しめった空気がわたしのこころをぬらして」なんて、わたしにも書けない。

>わたしは、とびこんできたそのことばをにがさないように、しっかりとおさえてよくかんがえました。このまま、こいつをおさえていて、なにになるだろうか。いっそ、にがしてしまおうか。こころきめて、わたしはそっとつつみをひらきました。そのとたん、しめった空気がわたしのこころをぬらして、
「二くみです!」
ということばがありました。うれしくて、うれしくて、なみだがでそうでした。

 

□ りょうさんへ 投稿者:しの 投稿日:2007年11月10日(土)12時13分0秒

ありがとう。また、よんでね。
しめった空気がほんとうにわたしのこころをぬらして立ちさったので、こころがすっとしました。
そこでわたしはかんたんに言おうと思ったのです。

いまは(ものがたり)ぴーすけのくらしをかいています。

りょうさん、りょうさんがいままでかいてきたおはなしは、どうやってかんがえたのですか?
わたしにはとうてい、「ほしうさぎ」のようなおはなしは思いつけません。

わたしは、いまからそちらへとんでいって、おはなしをならおうかと思っているくらいです。
こんどいくときには、かんぜんにおそわりたいと思います。

あの「ほしうさぎ」のものがたりは、とってもよかったです。
わたしなんて、黄色い空、青い空、赤いすな、白いすななんて、ぜったいに思いつけません。
わたしはきっと、青い空、白いすな、だけしか書かないでしょう。
うさぎがしゃべれるなんて、思いつかなかったら、何もおはなしははじまらないんですから。
きっとわたしは、思いついたって、どうしてもお姫さまのはなしを書くでしょう。
これからはもっとしんけんに、おはなしを考えることにします。

□ しのちゃんへ 投稿者:寮美千子 投稿日:2007年11月11日(日)18時48分27秒

しのちゃん
お手紙ありがとう。

>りょうさんがいままでかいてきたおはなしは、どうやってかんがえたのですか?
いろいろです。

「星兎」のときは、真夜中のドーナツやさんで、ドーナツを食べ、コーヒーを飲んでいたら
(横浜の伊勢崎町のショッピングモールでした)
まっくらな商店街を、ぴょこんぴょこんと兎がはねていったような気がしたのが最初でした。
なんだか、ほんとうにそんな兎がいるような気がして、兎のことばかり考えていたら、
あんなお話が生まれました。

でもね、思いついてから書きはじめるまで、とても時間がかかったのです。
15年ぐらいかかったかな。
その間、他に書きたいことや、書かなくちゃならないことがたくさんあって、
「うさぎ」の話は、なかなか書き始めませんでした。

そしたらいつも「うさぎ」が物陰から顔を出すのです。
新しい物語を書こうとすると、扉の隙間からこっちをのぞいて
「なあんだ、また違う話だ。ぼくのじゃないんだ」って悲しそうな顔をして行ってしまうのです。

いつか「うさぎ」の話を書いてやらなきゃなあって、ずっとずっと思っていました。
書き始めたら、2週間くらいで書き上げてしまいました。
なにしろ、ずっと頭のなかにあったからね。
「うさぎ」はすごくうれしそうだった。

でもね、お話のなかで「うさぎ」とお別れしなくちゃならなかったので、
わたしは書きながら、ぼろぼろ泣いてしまいました。

「うさぎ」のお話を書き終わったら、うさぎはもう、あんまり顔を出さなくなりました。
でも、きっと、みんなのところに顔を出しているのだと思うのです。
本になったので、みんなが読むたびに「うさぎ」がぴょこんと顔を出す。
しのちゃんちにも、行ったでしょう。
お風呂の中で「しのちゃんうさぎ」も現れたしね!

わたしのお話はひとつずつ、どんな風に生まれたかっていう物語を持っています。
ひとつずつが、みんな違うのです。
いつかゆっくり、しのちゃんに聞かせてあげたいなあ。

>わたしは、いまからそちらへとんでいって、おはなしをならおうかと思っているくらいです。
>こんどいくときには、かんぜんにおそわりたいと思います。

お話には、いろいろな生まれ方や、いろいろな書き方があるので、
いっぺんで「かんぜんに」お話しするのはむずかしいと思います。
だから、たくさん遊びに来てね。
たくさん、しのちゃんの顔が見たいな。

しのちゃんのお話や作文を読むのを、楽しみにしています。
しのちゃんのお手紙を、掲示板に書いてくれたおとうさんにもよろしくね!
ありがとうって伝えてください。

 

寮美千子ホームページ ハルモニア http://ryomichico.net/

アマゾン>「星兎」

2007.11.11

 

*

 

 日曜は学校の日曜参観だった。夜勤明けで帰宅し、小一時間ほど仮眠をしてから自転車で学校へ向かった。店を抜けて来た豆パン屋の主人と教室のうしろに並んで見学する。子どもの話、それに、最近行ってきたという熊野の海の話などをこそこそと訊く。図書館へ寄ってくると先に出たYは、授業が始まってから遅れてやってきた。授業は国語。漢字の成り立ちなど。たんなる象形文字ではなく、白川静氏のいう「ことばの呪術的な成り立ち」を子ども向けにアレンジして紹介できないかと考えたりする。子どもは大人よりも柔軟に、スナオに、そうしたものを吸収する。いや、もともとそんな土壌をアプリオリに用意している、というべきか。恰もじぶんたちが発生したその胚芽を知るように。ことばははじめ、まほうであった。それは「大いなるもの」に捧げた祈りであったり、ときには人を呪う道具であったりもした。また「千と千尋の神隠し」に出てくる名前を失くした者たち。わたしが教師だったら、そんな話を子どもたちにしたい。さまざまな漢字を含んだ絵を見て文章をつくるという課題で、子はせっかく先生が指名してくれたのに、遠慮をしたのか面倒だったのか、ほんとうは長々と書いていた文章の最後「大きな空がひろがっています」しか発表しない。

 その夜、夕食とお風呂を済ませ、親子三人で陳凱歌監督の「北京ヴァイオリン」を見た。わたしはじつは、「紅いコーリャン」の監督と勘違いしていたのだが、じっさいは張芸謀はこの「北京ヴァイオリン」の監督の作品でカメラマンを担当している。貧しいが才能あるヴァイオリン弾きの少年をとりまく群像は、スターを仕立て上げる敏腕プロヂューサーの音楽教授であったり、失恋の痛手で堕落した生活に甘んじているお雇い教師であったり、男に騙されてばかりの心さみしい美女であったり。仕掛けは悪くはないのだけど、脚本がこなれていないし、どこか小綺麗なハリウッド臭がする。そして決定的なのは「紅いコーリャン」のような中国の大地 = 地の霊が微塵も感じられないことだ。唯一秀でているものがあるとしたら、駅の雑踏で見つけた捨て子を実子として育て、子の将来を有望な音楽教授に委ねて立ち去ろうとする、最後までいい意味での小市民役をつらぬく父親の自然体の演技だろうな。これが、結構泣ける。日本語版吹き替えにして、子は最後まで熱心に見続けた。

 

 火曜も休日。午前中にYとならファミリーへ先日のわたしのスーツを取りにいく。Yはじぶんのバッグや服をあれこれと見た末に子のジーパンをひとつ買い、わたしは本屋で新書を二冊----「バチカン・ローマ法王庁は、いま」(郷富佐子・岩波新書)「ネットカフェ難民・ドキュメント「最底辺生活」」(川崎昌平・幻冬舎新書)を「買ってもらう」。夕方、子のヴァイオリン教室に同行し、給料日のささやかな祝いに回転寿司屋で夕食をして帰宅する。

2007.11.13

 

*

 

 まるで黄ばんだ週刊誌の頁をめくるように、川崎昌平「ネットカフェ難民」(幻冬舎新書)をすいすいと読了する。サブタイトルに「ドキュメント「最底辺生活」」と冠し、帯は「これこそが、現代の貧困だ!」と宣言するが、ホントかね。東京芸術大学の大学院課程を修め、「ひきこもり兼ニート生活」を送っていた著者は、知り合いの会社社長の小学生の娘に半日絵の指導をして得た5万円を手に高級レストランで一人舌鼓を打った夜に泊まった漫画喫茶のエレベーターの中で、「おそらく、ろくに風呂も入れず、漫画喫茶に寝泊まり」し続けているのだろう悪臭を放つ若い女性に出会い、「せめて、あれぐらいのにおいを放てるようになるまでは、がんばってみても、おもしろくなくはないかもしれない」と「何となく」、「ネットカフェ難民」の生活に身を投じる。そして東京都内及び近郊のネットカフェを泊まり歩き、金が尽きそうになれば携帯に登録したアルバイトで日銭を稼ぎ、コンサート会場と選挙開票所の撤去作業の仕事を終えたきっかり30日目に、実家のある町へ向かうバスにこれまた「何となく」乗って帰っていくところでこの本は終わる。どうにも「おもろいレポート書くのに、ちょっと流行りの「ネットカフェ難民」とやらを一ヶ月限定で体験してきました」的な印象は否めない。かく言うわたしもかつて実家で「怠惰な騾馬のように」ひきこもっていた時期があったから、随所で吐露される著者の下降感覚や、あるいは上野を中心とした都内を金もなく無為に歩き回る光景などは近しいものを感じる。だがどうも、どこか違うんだな。じぶんは所詮役立たずで、何の希望も、将来の夢も、意志も持たず、欲望でさえ消え去ってしまったという著者は、それでも結構、「ネットカフェ難民」はかくあるべきだと持論を展開し、またときに「ネットカフェ難民」は「上手にパンを買えない人間ではなく、世の中にパンよりも意義のある何かがあることを知り、あるいは求めている人種である」と言ってみたり、「合理主義に抗う」や「生産はしないが思考している」みたいなことを呟いたりする。公園で遊ぶ家族の姿やネットカフェの仕切りの向こうで衣擦れの音を立てるアベックに心を揺らし、バイト代を奮発したファミレスの料理や冷たいビールに「胃が幸せの悲鳴を上げている」と満足する。のっぺらとあてどなく海上に漂うクラゲのように、矛盾があってもひらりと身をかわし、無限の「いま」をとりあえず消費するだけ。「難民」と称してみたって、結局金に困ればあっさりと親の元へ帰っていくわけだ。つまりは甘えているだけなんじゃないの。少なくともわたしの場合は、違った。もっとどろどろとしたルサンチマンのようなものが常に渦巻いていた。最後には己を刺すか他人を刺すか、そんなのっぴきならない場所にいつもいた。渇いていた。渇きで、死にそうだった。これが現代に蔓延する「ネットカフェ難民」の実像だとは思わないし、ほんとうの「ネットカフェ難民」はもっと別の場所にいるのだろう。そしてそんな人たちはきっと、こんな本を書いたりはしないのだろう。少なくともわたしは、例えじぶんが「ネットカフェ難民」になったとしても、777円でこの本を買って読むよりその金でレバニラ炒めを食べた方がずっとマシだと思うだろうな。ただ、この本の低層に流れている「あらゆる対象とぶつかりあうことのない漫然とした浮遊感」のようなものは案外、時代に共通した気分なのかも知れない。

2007.11.15

 

*

 

 休日。子は学校。Yは午前中は美容院へ行き、午後から子の友だちの家で母親同士集い、子どもらも合流する。そのあと子はソロバン教室へ直行で、わたしは仲間はずれだ。「お父さんも、○○ちゃんちに来たらいいのに」「嫌だよ。女ばかりでいじめられそうだし」「“あんたも女だったらよかったのにね”って、もののけ姫のタタラ場の女も言ってたね」 わたしは、苦笑するしかない。

 午前中、Yが出かけてから、だいぶ以前に実家の母がBSで録画して送ってくれたビデオ「チェ・ゲバラ 遙かな旅」を見る。作家の戸井十月氏がボリビアでのゲバラの死をめぐる風景に、当時立ち会った人々の証言を交えて思いをはせる番組。病院のはずれにある洗濯台に乗せられ晒しものにされたチェの遺体を「あたしの国の兵隊さんを殺した男を見に来たんだよ」とやってきた村の女が、一目見るなり「これは何てことだい。イエスさまそっくりじゃないか」と絶句したという。チェはこのとき、39歳。わたしはすでにその年齢を超えた。荒涼としたバジェグランデの埋葬地。最後の地:イゲラ村ののどかな山並み。いつか、訪ねてみたい。

 午後はかつて harp さんが子につくってくれた十字架のネックレスを入れる木の小箱制作をベランダで少し。南紀の海岸で拾った檜の流木をスライスして、5センチ四方の大きさに手鋸でアバウトに落とし、少しだけナイフで角を削った。材が思ったより硬いので、結構手間がかかりそうだ。

 昨夜はネットで銑(せん)を探した。銑というのは両側に柄がついている鉈のような特殊刃物で、丸太を削ったり皮を剥いだり、曲線刃のものは桶の製造などにも使われるものだ。あれこれ調べて河合のこぎり店というところで1万円の値で販売されているのを見つけた。居間の本棚に使う丸太をそのまま磨いた丸太のままで使うか、あるいはこの銑で全体に粗彫りをして手彫り風味を出そうかと悩んでいるのだが、どちらにしろ1万円じゃすぐに購入というわけにはいかないな。そのあとヤフー・オークションで中古の大工道具をあれこれ物色したり、天然木のページで栗の一枚板を3500円迄入札して諦めたり。最後は和洋交えたナイフの検索。ガーバーLSTモデルあたりをひとつ欲しいな。

 夜、風呂の中で子にゲバラの生涯を語る。

 

越境者通信(戸井十月公式ホームページ) http://www.office-ju.com/

bolivianitaさんの旅行記 >> チェ ゲバラの足跡を辿る旅 - goo 旅行 http://guide.travel.goo.ne.jp/e/goo/traveler/bolivianita/album/10186759/

2007.11.16

 

*

 

 深夜、家に帰って暗い玄関をくぐりぬけ、湯舟に浸かって「バチカン・ローマ法王庁は、いま」(郷富佐子・岩波新書)を読み、眠っている子のオシッコをカテーテルで摂りながら腹部を抑えたその掌に子の温もりを感じる。

 わたしは神を信じぬ異教徒で、傲慢なオナニストで、みずからの死を最も恐れる。だが休日の朝、ママチャリにランドセルを背負った子を乗せて田圃道を走りながら、ふと、この子とあと十数年を共に過ごすことができたなら、そんな祝福と引き替えになら、「死」と取引をする価値は案外、充分にあるのかも知れない、と思った。永遠の虚無がわたしを抱きとめたとしても、わたしは寛容な心でそれを受け入れることができるかもしれない、と。

 ママチャリにランドセルを背負った子を乗せて、風の冷たい鄙びた田圃道を走る。

2007.11.17

 

*

 

  

「ふゆ」 しの

ぼくがそとを見ると、かぜがあれくるっていたよ。木はもうさむいとふるえていて、ははふるえながらおちていった。かぜはまどに体をたたきつけてドンドン音をたてていた。きれいなはっぱが、ぱらぱらダンスをしていた。さむかったけど、すてきなふゆの日だったよ。さようなら。

 

2007.11.18

 

*

 

 休日。子は学校へ。Yはどこぞの大学教授の子育てに関する講演を聴きにとある小学校へ。

 朝食を済ませ、ベランダで少しばかり小箱の制作。ルーターにベアリングのトリマー・ガイドを取り付け、12mmのストレート・ビットで蓋部の周囲を幅・深さ共に6mmほど削る。ガイドがビットの中心に来るので、ちょうど径の半分の幅になるわけだ。なんせ材が小さいのでクランプも使えず、作業台の上に押しつけ、手に持って回しながら削っていくのだが1万回転の勢いに負けて何度か材がすべったり吹っ飛んでしまったり。そのため一部に微妙な段差が生じてしまったが、これも素人故の愛嬌と許してもらおう。その後、箱部と合わせて鉛筆でラインを取り、こんどは蓋部のでっぱりが収まる収納部分を彫刻刀で縁取りし、ドリルやノミで彫り込んでいく。

 10時頃、いったん作業を止めて、自転車で出かける。JR駅近くの本屋の5円コピーでAに借りていたCDの歌詞をコピーする。スキャナでPCに取り込むこともできるのだが、どうも面倒だし、それにやっぱりオヤジ世代としてはモニタ画面で歌詞を見るというのに抵抗があるんだな。小説なんかも然り。やっぱり紙に印刷されたものがいい。ジョニー・キャッシュ「At San Quentin」、ウラジーミル・ヴィソツキー「大地の歌」、登川誠仁「ベスト・オブ」、ダン・ペン「Do Right Man」などを合計60枚ほど。そういえば昔はこんなふうに、レンタル屋で借りたLPの歌詞カードをしょっちゅうコピーしていたなあ、なぞと思った。

 コピーを終えて、時計を見る。ちょうどいい時間だ。子の学校へ向かう。グランドで大勢の子どもたちが弧を描いて駆け回っている。先日から2週間の予定で「全校駆け足」と称して、中休みの時間に子どもたちが運動場を何周か駆ける。高学年は外側の円周、低学年は内側の円周。あらかじめ先生と相談して、子は同級生よりさらに内側の中心部を一人で走り、好きなときに休憩ができるように段取りをしていた。その方がぶつかってころんだりする心配もない。中程に担任のT先生がわりと早いペースで走ってくる姿が見えた。子どもたちがその後ろをついて駆け抜ける。1年生とはいえ、だいぶのスピードだ。健常者であったらこれだけ早く走れるものなんだなあと思う。しばらく探していると、ぽっかりと開いた円の中心部に装具を付けた足で懸命に走っている子の姿がやっと見つかる。たったひとりで、しかし愉しんでいる、涼しげな顔だ。それを見て、すこし安心する。子は半周を回ると先にいたもう一人の子とおなじように先生の足下にへたりこむ。笑いながら三人で何か話している。やがて先生はその二人を両脇に抱え込むようにして校舎の方へ入っていく。子は先生に体を押しつけながら、向こうにいる誰かに手をふっている。校舎に三人の姿が吸い込まれ、わたしはそっと自転車に乗って正門を出る。

 近鉄の駅前の耳鼻科で花粉症の薬を一ヶ月半分もらう。花粉症に関しては、真冬の短い季節を除いてほとんど薬漬けだ。いまはブタクサの季節らしい。山に行くと案外、何ともないのが不思議なんだが。帰りに路地裏のたこ焼き屋でいつものおばあちゃんから二舟を買う。400円。「お昼にたこ焼き、買ったよ」とYに携帯メールを打つ。

 家に戻ってしばらくするとYも帰ってくる。二人でたこ焼きを食べる。講演会は西欧から誤って移植された「個人主義」が親子関係を歪めてしまったといった内容であったとか。小箱の制作の続きをやり、2時から子を学校へ迎えに行く。ママチャリの後ろに乗った子に「しの、今日は気持ちよさそうに走ってたな。お父さん、見に行ったんだぞ」と言えば、子は「わたしね、ヤマイヌに乗ったつもりで走ったの。そうしたら身体が軽くなったような気がした」と答える。「もののけ姫」に出てくる山犬のことだ。

2007.11.20

 

*

 

 昨夜、風呂の中で子にふと言ったものだ。「おまえもみんなといっしょに走りたいだろうな」と。子は黙ってうなずいた。「そうだろうな。でも、おまえはビョウキだから、我慢しなくちゃいけないな」 すると子は言ったものだ。「だからね、わたし、そんなときは走りながらぶつぶつとじぶんに話をしているの」 「どんな話を?」 子はネーゲルという本と音楽が得意なリスの話をすらすらと喋る。わたしは子がいま考えた話ではないかと訝り、そんな混乱もあって話の細部を聞き漏らしてしまう。ネーゲルはともかく何かで失敗をしてしまうのだ。「それでね、そんなネーゲルに“なにをやってるんだい”って言いたくなって、それを力にしてわたしは走っていけるの」 そんな不思議なことを子は言うのだ。「いつもそんなふうにじぶんに話しているの?」 「ときどきね」 「たとえば、どんなときに?」 子はしばらく考えて「たとえばある男の子が、わたしが7周走ったって言ったときに、“そんなの全然すごくなんかないよ”って言うようなときにね」 

 それからたとえば、トイレのドアが開いて子がわたしが小便をするのを覗き込む。「こらこら、何を見てるんだ」 子はにやにやして「へえ」とか言いながらじっと見つめている。「面白いのか」 「チョクセツ出てくるなんてね。だって、わたしはいつも管を使ってるから」 「身体から直接出るのが面白いのか」 わたしは呟きながら、そうか、そういうものか、と得心する。

 そんなちいさなこと。ちいさな、いつものこと。

2007.11.21

 

*

 

 

□ 万能細胞 成果喜び課題も見据え

 人の皮膚細胞から、さまざまな細胞や組織に育つ新型の「万能細胞」をつくることに、京都大などが成功した。医療の世界に大きな可能性を開く画期的な成果といえる。

 万能細胞としては、胚(はい)性幹細胞(ES細胞)がよく知られている。卵子を使うのが特色だ。受精卵を壊さないと用いられないため、倫理的に問題が多い。

 未受精卵に体細胞の核を入れる「クローンES細胞」が有力視されてきた。韓国・ソウル大の教授らが人の細胞でつくることに成功と発表したが、うそと分かっている。

 今回は、卵細胞ではなく皮膚細胞を使い、京大の山中伸弥教授らと米ウィスコンシン大のチームがそれぞれ成功した。京大では、大人の皮膚細胞に特殊なウイルスを使って4種類の遺伝子を組み込んで培養し、ES細胞に似た性質の幹細胞をつくっている。

 昨年、マウスで成功していた。人の細胞でも、世界に先駆けて成果を挙げたことを高く評価したい。

 意義の一つは、人の卵子を使わなくてすむことだ。倫理問題を回避できる。

 もう一つは、拒絶反応問題をクリアしたことだ。通常のES細胞では、他人に移植した場合拒絶反応を起こす恐れがある。拒絶反応の心配がないというクローンES細胞も、人ではできていない。

 この結果、万能細胞の研究は、クローンES細胞よりも、京大のような皮膚細胞などの利用を中心に展開することも考えられる。

 世界初の体細胞クローン動物、羊のドリーを誕生させた英国のウィルムット博士は、人のクローン胚研究を断念する方針を決めたと英紙が伝えた。山中教授らの手法が万能細胞づくりには有望と判断したため、とされる。

 万能細胞は、再生医療に大きく道を開く。障害を受けた組織や臓器の機能回復につなげたい。

 今回の成果を生かして病気の人の細胞から万能細胞をつくれば、病気のメカニズム解明や、新薬開発には早期に利用可能とみられる。

 課題も残されている。一つは安全性だ。遺伝子を組み込むのに使ったウイルスが発がんの危険を高める可能性があるため、臨床応用が難しい。化学物質にさらすなど安全な方法の開発に期待したい。

 倫理面では、卵子利用とは別の問題が出てくる。研究が進めば、皮膚細胞から、子どもをつくれる精子や卵子ができる可能性がある。ES細胞研究に対するようなルールづくりが、新方式の研究については遅れている。規制の是非や範囲などについて検討を急ぐべきだ。

信濃毎日新聞 11月22日(木)

 

 

□[解説]皮膚から「万能細胞」 : ニュース : 医療と介護 : YOMIURI  http://www.yomiuri.co.jp/iryou/news/iryou_news/20060811ik02.htm

□再生医療 ES細胞、幹細胞、万能細胞について http://homepage1.nifty.com/NewSphere/EP/b/bio_ES.html

□万能細胞ってどういうもの? http://gtc.gtca.kumamoto-u.ac.jp/news/Open/DNAmtanaka2.html

2007.11.21

 

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 「バチカン・ローマ法王庁は、いま」(郷富佐子・岩波新書)を深夜の湯舟で読了する。わたしとほぼ同年代の新聞記者である女性が書いたバチカン・レポートは、やや深みには欠けるが、コンパクトで手堅いバチカン・ガイドと言えるかも知れない。イエスが現代に蘇って(いや、こんな表現はキリスト信徒には失礼かも知れないけれど)これらの組織を見たら、あるいはブッダがいまの仏教教団を見たら----わたしは確たる根拠もなく固く信じるのだが-----二人して「これらはわたしの教えとは違う!」と悲鳴に似た声をあげることだろう。人の心は弱く、卑怯なもので、その弱さや卑怯さが、壮麗な教会の建築物や巨大な大仏を生んだのである。信仰が富を生み、権力を生み、腐敗した組織を生むとしたら、それは人々がおのれの弱さ故にそれらを欲したからにほかならない。人々の欲望があったから(あるいは欲望に支えられて)、たとえば教会は過去の歴史上において免罪符などというものを売り捌き、仏教教団は恐ろしい差別戒名を石に刻んできた。宗教の名において、信仰の名において。わたしはイエスやブッダと、キリスト教会と仏教教団とは、まったくの別物だと思っている。そう、思っておいた方が分かりいい。そうでないと思うことがそもそもの混乱のもとなのだ。

 違いますか?

2007.11.22

 

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 23日、金曜。午後、Yに誘われ図書館の学習室にて「わが町郡山」云々といった地元在住の作家氏の講演を聴く。古本屋の百円均一の棚に積まれている色褪せた歴史雑学のチープ本とでも喩えたらいいか。石子詰め亀の瀬治水対策の話は初耳だったけどね。帰りに西友でサーモンとカツオのたたきを夕食に買って、けんちん汁をつくる。

 24日、土曜。職場のK氏より借りた「日本人になった祖先たち・DNAが解明するその多元的構造」(篠田謙一・NHKブックス)を読み始める。

 25日、日曜。タワレコの店長氏が頼んでいた Mavis Staple の新譜 We'll Never Turn Back を持ってきてくれる。ライ・クーダーのプロデュースだ。黒く、深く、重い。

 明日から一泊で、職場の同僚4人と車で淡路島へ。わたしの愉しみのひとつは人形浄瑠璃の公演

2007.11.25

 

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 幕があがり、拍子木が鳴る。主遣い、左手遣い、足遣いの三人の黒子たちにともなわれ人形が舞台に現れる。ヒトガタとはかつて、人間の霊を入れる容器であった。傀儡師たちはその業を競った。大阪四天王寺で舞楽を奉納していた楽人たちが、やがて兵庫西宮神社の散所の傀儡師らに人形の繰り方を教えられ、この淡路島へたどりついたのが淡路人形浄瑠璃の由来と伝わる。いわば、かれらは古代遊芸民の末裔である。霊を注ぎ込まれたヒトガタはその指遣い、カシラ遣い、あるいは身体全体の微妙な動きで人の業や欲、色、哀しみを物語る。舞台右手の太夫席には語り手たる太夫と、伴奏役の三味線弾きの女性が座る。その曲節をつけてうたわれる語りの音色はどこか奇妙に懐かしく、語りに絡んでふるえ、ときにうねるような三味線はまるでディープなブルース・ギターのようだ。何よりわたしは、その空間にひどく魅せられた。あの鈴木清順の映画「陽炎座」で戯作者の松田優作がふらりと入った田舎町の芝居小屋のようなあやかしに浸った。また沖浦氏の「日本民衆文化の原郷」の世界-----ヒトガタを収めた重たい木箱を背負い、次の興行地へむけて雪深い田舎道をとぼとぼと歩いていく人々の姿に思いを馳せた。終幕には舞台の背景となっている襖絵が上下左右から次々と入れ替わり、遠近法を利用して奥行きが深まっていくという鮮やかな仕掛けを見せてくれた。これは江戸時代の一時期に流行った、幕間に行われていた舞台転換のテクニックで、「道具返し」や「ふすまからくり」などと呼ばれるものだという。これをアメリカ前衛人形劇のアーティストが電子音楽などを交えて構成した舞台の公演が現在、日本を縦断中とも聞いた。

 もうひとつ、今回の淡路島の旅で印象的だったのは立川水仙郷内のナゾの施設で出会ったからくり土人形。一見ふつうの人形をひっくりかえすと、裏に男女の営みが形造られているもの。これもじつは「陽炎座」に登場する小道具で、アナーキストの原田芳雄に連れられ人形師のもとを訪ねた松田優作が「博多人形裏返しの世界」を覗き見るという場面がある。施設のおっちゃんに訊ねるとこれらは「田舎の蔵から出てきたりしたもの」だという。実物を見るのは初めてで、わたしもひとつ欲しくなったぞ。サテ、こうした土人形を何と称するのか。帰ってからWebであれこれ調べてみたのだが、あまりめぼしい資料にヒットしない。「陽炎座」の解説では「博多人形裏返し」と称しているのだが、あるいは「明治初頭まで伏見稲荷の参道の土産物屋や人形屋で販売されていた」という「わらいもの」がそれに該当するのかとも思ったりする。情報を求む。ちなみにナゾの施設自体は結構笑えたけれど、性の奥義を究めたかったら展示なども「も少し勉強してね」という感じでしたな。

 その他、料理民宿で出た新鮮なヒラメの刺身やアワビ、鯛の宝楽焼き、昼食に食べた穴子の棒寿司や照り焼き丼など、淡路の食をたっぷり堪能してきた。ぬるぬるの温泉も、温泉場を出てから鼻腔をくすぐる牛糞の匂いもよかった。

 帰宅した晩、子に人形浄瑠璃の話をすると興味があるようなのでWebで見つけた「傾城阿波鳴門・順礼歌の段」を見せると熱心に見ている。風呂場で「して、親御さんの名は何と申す?」とわたしがふれば、「あーいー。ととさんの名は阿波の十郎兵衛、かかさんの名はお弓と申します〜」と答えてくれるまでになった。いつか子にも見せてやりたい。

 

淡路人形浄瑠璃館 http://awajipt.tm.land.to/

三原町商工会・淡路人形浄瑠璃(動画) http://www.s-mihara.or.jp/ningyo/movie.htm

兵庫県三原町立小学校 http://www.minamiawaji.ed.jp/ichi_es/hp2/index.htm

みんぞう 〜民俗芸能の映像〜 http://cannon26.exblog.jp/

映像でみる鳥取県の民俗行事 http://www.z-tic.or.jp/site/page/museum/digital/eizoudemiru/geinou/

バジル・ツイスト(Basil Twist) http://www.basiltwist.com/

2007.11.28

 

*

 

 休日。午前中、Yは教会へ聖書の勉強会。わたしは図書館で文楽のビジュアル・ガイド本、廣瀬久也「人形浄瑠璃の歴史」(戎光祥出版)、「俺の心は大地とひとつだ・インディアンが語るナチュラル・ウィズダム」(めるくまーる)などを借りる。教会でYを拾い、いつもの薬局で子の大量の紙オムツ・マスキン水などを積み、いつものおばちゃんのたこ焼きを買って帰る。

 子はこのところ便が軟らかで、学校で二回ほど粗相をした。一回目は担任のT先生がパンツを洗ってくれた。二回目は紙オムツで防げた。体調が悪いのか、気候のせいか。体質が変わってきたのなら、少々やっかいだが。今日はYが朝から浣腸して念入りに便を掻き出し、以前にプールで使っていたアナグ・プラグを装着して学校へ行った。

 深夜。図書館で見つけた「近世の民衆と芸能 」(京都部落史研究所編・阿吽社)「異端の民俗学・差別と境界をめぐって 」(礫川全次・河出書房新社)の古書をネットで注文。送料を入れても半額以下で買えるのが嬉しい。

 

2007.11.29

 

*

 

 子は学校でマラソン大会だった。1年生は運動場のトラックを6周走る。「どのくらい走らせたらいいかって先生に訊かれたんだけど」 Yに尋ねられ「みんなが走り終わった頃合いでいいんじゃないか」とわたしは返事をしていた。1週目、装具を付けている子は早くもビリッカスだ。3週目であらかたの子が走り終わり、4週目で走っているのは数人だけだった。5週目の途中から、広いグランドで走っているのは子がひとりきり。それでもう終わりだろうと母が思っていたら、子は6週目もそのまま走り続けた。その間、参観に来ていた保護者の間からもずっと拍手が鳴りやまなかった。泣いているお母さんもいたという。子と伴走してくれた担任のT先生も泣いていたらしい。「お母さんね、紫乃が6周走ったのも偉いと思ったけど、それよりたった一人で走ったことがもっと偉いと思ったよ」 帰りに母がそう言うと「恥ずかしいし、嫌だなあと思ったけど、走れるから走ろうと思った」と子は答えた。

 そんな話を職場の携帯電話で聞いた父は、山犬の背に乗って走っている子の姿を思わず想起した。深い樹木に覆われた山肌を、子を乗せた山犬はふわりと跳躍する。

2007.11.30

 

*

 

 

 日曜、休日。

 午前。子がリンカーンのもっと詳しい本を読みたいと言うのでアマゾンで吉野 源三郎「エイブ・リンカーン ・この人を見よ」(童話屋)を見つけ購入する。先日から泊まりに来ている義母が、わたしが買ってあげるよ、と金を出す。また併せて、図書館で借りてなかなか返却できない手塚治虫 編集「世界の科学者―ガリレイ・ニュートン・エジソン・キュリー夫人・アインシュタイン」(中央公論社)も中古で発注する。

 毎年恒例の義父母宅の年賀状を印刷する。せっかくの日曜日だから、七五三のお参り紅葉見がてらに近場の神社にでも繰り出そうかと言っていたのだが、子はどこにもでかけたくない、家で少年時代のニュートンがつくったような風車をつくりたいと言う。プリンタが印刷作業をしている間、ネットで風車の工作を調べる。ペットボトル利用の仕様なら簡単そうだしあれこれヒットするのだが、子は木で作りたいと言う。

 義母から少女時代に小学校へ来た淡路の人形芝居の話などを聞く。昼のおでんを食べて、ソファーで廣瀬久也「人形浄瑠璃の歴史」(戎光祥出版)を読みながらうたた寝する。

 お八つを食べてから、Yと義父母とで買い物へ行くという。義母は子にブーツを買いに行こう、工作の釘を買いに行こう、お菓子を買いに行こう、とあの手この手で誘い出そうとするのだが、子は何も欲しいものはないと容易に首を縦にふらない。三人が出かけてから、子と二人で風車つくりを始める。台座はわたし、羽はお前がじぶんで考えてつくってみろと子に言う。昔ホームセンターで買った一束百円の端材を四角く切り、その台座に山で拾った枝を固定する。子は竹串と折り紙で羽を四枚つくる。輪切りにした枝に羽を差し、中央にゆるめの穴を開けて釘で本体につなげて完成。

 義父母宅の近所の訃報が入る。子が小さい頃に通った集落で最後の駄菓子屋のおばちゃんだ。わたしが子を連れて菓子を買いに行くと、いつもけっしてお金を受け取ってくれなかった。そればかりか、あとでまたアイスやお菓子をたくさん袋に入れてわざわざ持ってきてくれた。1年前に店をたたむときは、わたしが最後に店の写真を撮りたいなぞと言っていたのだが都合がつかず間に合わなかった。あとで、わたしがカメラを持ってくるのを愉しみに待っていたよ、と義母から聞いた。今年の夏頃に倒れたときには癌があちこちに転移していた。最近は見舞いに行くと、いつも布団の中から「何かうまいものを食わせてくれ」と言うのが口癖であったという。

 そんなわけで義父母は明日の朝、慌ただしく帰ることになった。夕食後、子がシールを欲しいと言うのに便乗してみなで百円均一の店と靴屋に寄り、義母はやっと子にブーツを買ってやることができた。

2007.12.2

 

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 「クラスター爆弾を製造する世界の大手6企業に対し、日本を含む13カ国の金融機関が過去3年間で、約140億ドル(1兆6800億円)を投・融資していると28日、ベルギーの非政府機関(NGO)「ネットワーク・フランデレン」が発表した」「発表によると、日本の銀行としては▽三菱東京UFJ▽三井住友▽みずほ----の3行が、テクストロンなど5企業に対し、それぞれ約6000万〜1億ドルを融資している」(毎日新聞 2007年2月28日)

 一方「ベルギー議会は2日、世界各地の紛争で使われ、不発弾による深刻な人道的被害をもたらすクラスター(集束)弾の使用禁止を促進するため、製造企業への資金提供を禁止する法案を全会一致で可決した。同国の非政府組織(NGO)「ネットワーク・フランデレン」(NV)によると、この種の法律は世界初という」(共同通信 2007年03月02日)

 わたしたちが銀行や郵便局に預けているはした金がよせ集められ、知らぬうちにイラクやアフガンなどの国々の子どもたちの頭をぶち割ったり手足をもいだりしている。

 ところで自衛隊がこのクラスター爆弾を保有しているのは知っていたが、日本の企業にもクラスター爆弾を製造しているところがあると知ったのは最近の新聞記事の何気ない一節だった。地雷廃絶日本キャンペーン(JCBL)のホームページによると「国内3社」となっている。ネット検索で調べたところ石川製作所小松製作所の2社までは分かったけれど、こういう会社名はふだんあんまり出て来ないね。しかも後者にあってはクラスター爆弾を製造しながら、他方で「地雷除去プロジェクト室」なんてのを設けて対人地雷除去機も生産しているというのだから(日本共産党新座市委員会)これはもう漫画だな。まさに「揺りかごから墓場まで」、完璧だね。

 「現在、コマツの建設機械シェアは世界No.2。企業の信頼性や品質レベルでは十分な評価を得ており、そのブランドイメージをさらに高める一環として取り組んでいるのが「アフガニスタン向け対人地雷除去機」の開発だ。経済産業省や新エネルギー・産業技術総合開発機構による助成金事業を活用して開発を行い、外務省や日本国際協力システムによるプロジェクトで、アフガニスタンで実証試験を実施した。今後はアフガニスタン以外にも、カンボジアなど、戦後も残留地雷のため不安な生活を強いられている政府機関、NGOおよび国連機関へ、その有効性を説明していく。大量生産や利益が目的の製品ではない。コマツの技術力を、国境を越えた社会貢献に生かすのが目的だ」(キャリア転職サイト[@type]

 こういうものたちがしたり顔で大手をふって歩いている世界というのは怖ろしくないか。わたしは、反吐が出る。かつてディランが World Gone Wrong のライナーに「利息のために金を貸すなんてむかむかしてぞっとする」と書いた、その同じ皮膚感覚で。

2007.12.7

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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